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一般貨幣は、増殖するウイルスである
「貨幣は帝王とならん」(11世紀、法王インノケンティウス(イノセンス)三世)
貨幣が帝王となった世界に立ち、以下の問題を簡単に取り扱います。 最初にお断りしますが、わりとありふれた内容だと思います。
貨幣とは何なのか?
一般貨幣はなぜ増殖し、人間を奴隷化するのか?
一般貨幣の害毒を抑制するための原理はあるのか?。
(取引の3形態)
昔読んだカール・ポランニーの経済人類学で、取引を3形態に分けていました。 通用性の高い原論だと思いました(「経済と文明」「大転換」)。
○ 互酬 ○ 再分配 ○ 市場取引
互酬というのは、通常貨幣を介さずに、共同体(ムラ)の成員が労役や贈り物を提供し合うプロセスだそうです。
再分配は、王がムラから税金を取り立て、それをムラに再分配するというプロセスです。
市場取引は、普通の一般貨幣による取引です。
縄文時代などは、おそらく互酬が大部分あるいは全部だったでしょう。
弥生時代には再分配が膨張したと思われます。
いわゆる「近代」は、市場取引が膨張した時代です。 しかし、これと共に近代国家による再分配を膨張させた時代でもあります。 近代においては、互酬は原則的に駆逐されています。
(古代貨幣は呪術品である)
一般的に「誰でも」「市場にあるものは何でも」買える貨幣、つまり一般交換性を有する一般貨幣は、特定の時代および地域にしか出現していないというのが、経済人類学のテーゼでした。
互酬、再分配を基礎とする社会−古代、中世社会においては、「身分貨幣」、つまりムラの中での権威を象徴する貨幣が一般的であったようです。
「貨幣」の「幣」という漢字は、明らかに宗教的権威を表しています。 それは穢れを払うものです。 この観念は「支払い」という言葉にも残っています。
共同体を育み、共同体の生存を保証する「モノ」の聖体示現−それが貨幣であったということですね。
ですから古代貨幣を調査すると、貨幣が、水−海−セックスと深い関係を持つことが明らかなようです。
貝殻が貨幣となるのはこういう連想です(アワビはもうよろしいですね。 マテ貝、アゲマキ貝という貝も恥ずかしい形をしています)。
縄文時代の出土品−土偶を見ますと、女陰、そして生命の誕生のイメージに満ちあふれています。 恥ずかしいですね。
古代にさかのぼるほど、貨幣の中央に孔が開いていることが多いのですが、これも同様の連想と思われます。
共同体の生存−その象徴が貨幣でした。 それは土偶と同様に呪術的な意味を持っていたわけです。
それは、聖体示現するモノとして、大脳から特定神経系(A10ともいわれている)を伝わり、脳幹にまで達し、神経伝達物質を放出させる作用を持っているはずです(誰か研究した人いるかな)。
(古代貨幣は身分貨幣である)
これは呪術品ですから、使用者が限定されているはずです。
共同体の中で、カミに通ずる人と成員に認められた人しか使用できないはず。
従って「身分貨幣」となります。
夏目漱石の「我が輩は猫である」の中で、「貨幣を色付きにして、全うな金と成り金のあぶく銭とを別しろ」という主張が出てきますが、これは明治時代(金色夜叉の時代)の話。 人類社会では区別されているのが普通だったようです。
(一般貨幣は古代貨幣とは異質である)
これは明らかですね。
一般貨幣は市場取引に対応する制度。
(市場取引は、共同体への外部からの侵入である)
善悪は別として、歴史現象的にはこれが正しいようです。
アリストテレスは、都市国家アテネの郊外の居留地に、異人が居住し、アテネ市民と交易する様子に着目しました(「アリストテレスが経済を発見した」ポランニー)。 フェニキア人だったのでしょうか。
異人は、共同体(このケースでは都市国家)の中には入れません。 そして特定交易のみ許されています。 中東からの産品をアテネーの商人に卸すためにやってきているのです。
経済人類学では、これを共同体の外部における市場取引の萌芽と見ているようです。
(市場経済は複数の共同体間に成長した異物である)
つまり市場−一般貨幣は、共同体内部における生産−消費とは異質な、起源をことにするものという見方です。
他の共同体における消費を満たすための生産−そして交易に対応するのが一般貨幣であり、市場は共同体間に成長したという見方ですね。
この見方には説得力を感じました。
(市場による共同体の解体−一般貨幣による身分貨幣の駆逐)
これが近代の歴史プロセスです。 簡単ですね。
共同体に属していた人間は、個人として再編されています。
個人は、一般貨幣を通じて市場に連結され、これによって生存を許されています。 私たちはこのプロセスの末端におります。
近代国家による再分配プロセスの膨張は別の話となります。
(人間の生存条件−市場への依存)
古代共同体においては、貨幣は、おそらく共同体の背後に広がる闇の領域−自然を象徴するものだったと思います。
人間がそこから生まれ、それとの取引(トランザクション)によって生存し、そしてそこに帰っていく−そういう領域。
私たちは市場取引によって生存しています。 日常と自然とは大きく切り離されています。
(一般貨幣のウイルス的増殖の必然性)
市場が共同体への外部からの侵入であるとすれば、多数の共同体を横断する一般貨幣(一般言語)はウイルスです。
一般貨幣は、一般交換性を本質としていますが、これと別に価値蓄蔵性を持っており、いくぶんかの象徴性を残しているようです。
一般交換性とは、財−一般貨幣−財という循環を媒介する媒介者としての性質です(サービスは省略)。
ここで、第一段階の交換(財−一般貨幣)で交換プロセスを中断し、次の(一般貨幣−財)というプロセスの実行を遅延させることができます。
この遅延が価値蓄蔵性の源泉です。
価値蓄蔵性それ自体は問題ありません。 次の(一般貨幣−財」の後段プロセスの実施時期が遅れるだけだからです。
しかし、この時点で、一般貨幣は、交換からかけ離れた動きを見せます。
それが複利と重層的信用創造であり、これによって貨幣は等比級数的に増殖(または減少)します。 これが増殖すると社会的災厄をもたらします−インフレーション。 等比級数の比率が−となることがあり、この場合には致命的な収縮をもたらします−恐慌。
このような一般貨幣の増殖プロセスには、人間性に基づく必然性が感じられます。
この点については「探求」(柄谷行人)が説得的です。
この著作では、市場交換のルールが「事後的」であることを執拗に追求しています。 前もって明確なルールが保証されているわけではなく、個別具体的な(単独の)取引が実行された結果、事後的に市場(ルール)の存在が確認されるのだということを、驚くほど執拗に追求した著作です。
物を売る人間が、物を市場に投入し、実際に貨幣を手にするに到るまでの「深淵上の跳躍」がいかに深いかを追求しています。
してみると、このような深淵上の跳躍を度々強いられた人間が、交換プロセスを途中で断ち切り、「売る立場(財−一般貨幣)」からの逃走を図ることは当然です。
なぜなら、彼(彼女)と「自然的生存」とを連結するものは、共同体でも身分そのものでもなく、一般貨幣であるからです。
深淵上の跳躍から逃れたいという欲望が、一般貨幣の数理的性質と結合したとき、重層的信用創造と複利による際限なき貨幣膨張が始まります。
この貨幣膨張プロセスの貪欲さには、別の要素も感じ取れます。
それは失われた闇の領域の代替物と化しているという要素です。
金−オンナ−賭博−宗教循環。 古代貨幣の象徴性はひずんだ形で再噴出を求めているかのように見えます。
ここに共同体性の排除、駆逐がとても高くついたことが判明します。
しかし、私たちはムラ(古代社会)に戻れるわけではありません。
(一般貨幣に関する展望)
交換途中における貨幣の退蔵はともかく、そのウイルス的増殖を止めることは必要であり、利益となるように思います。 少なくとも歯止めをかけることは必須です。
(地域通貨に関する展望)
地域性のある財、サービスは、労働証書という形で交換することは論理的だと思います。
貨幣蓄蔵性はあっても良いが、一定期間ごとに100%(過激か)減価することによって、浪費を促すことが好ましいです。
一定期間ごとにみんなでお祭りをして金を残らず使ってしまうことが好ましいと考えます。
ただ地域共同体を望ましいと思う人は、現在どれだけいるのかな。 女の子にはあまりいないみたいな気もしますね。 実際問題として。 ここにはあまり自信を持てないですね。
地域という形でなくとも良いのかもしれません。
しかし一般貨幣制度における人間性の欠落は、別種の通貨によって埋め合わせることが望ましいと考えます。 一般貨幣はやはり人間性とは反する部分があるようです。
別種の通貨とは、すなわち、別種の人間「関係」のことですね。
なんだろう。
今日はここまで。