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すみちゃん、みんな、待たせたな。
今までの人生や「阿修羅」で学んできたことも全部含めて、俺の現在の考えを書くことにする。整理し切れてないが、俺の率直な想いだ。一つ言っておく。長いぜ。
それじゃ、始めよう。
●俺の求める世界【抽象篇】
俺が求める世界は、俺が本当に“楽しい”と感じる世界だ。
日々様々な出来事に刺激を受けて、笑ったり泣いたり怒ったりできる生活。千変万化しながらも常にそのときそのときの状況において、自分にとって一番正しいと思える思考・選択・行動のできる暮らしだ。ハッキリ言っちまえば、これ自体は何も『奴ら』と直接の関係がない。もちろん『奴ら』はそういう気楽な人生を許そうとはしないだろうが、俺がよほどの影響力を持って世の中を動かさない限り、特に手出しはしないだろう。わざわざ手出ししなくても、「世間」というシステムが自動的にそういうヤツらを追いつめる仕組みになっていることを承知してるからな。もしそのシステムから上手く脱け出せたのなら、それはそれであえて手出しする必要も無い。そういう連中が寄り集まって組織集団となって強力化してから改めて「侵略」すればいい。基本的には『奴ら』は何も慌てる必要がない(ハズだ)。だから、単純に俺が自分の人生を勝手気ままに生きようと思い、それに相応しいだけの才能を持っているならば、この「世界」においてある意味で『奴ら』と“共生”していくことも出来るかも知れない。お互いに干渉せず、上手くやっていくことがな。
しかし、それが出来たとしても困ったことに意味が無いんだ。俺は、『奴ら』に囚われてその一員になってしまった連中とも「遊びたい」と思っちまうんだ、どうしてもな。性分だから仕方ねえ。それが出来ないと俺の「望み」が果たされない。それでも我慢して少ない仲間と暮らしてても、だんだんと“摩り減って”っちまう。みんなに「疲れ」が溜まっていき、ケンカばかりの毎日になるだろう。そんなのは楽しくねえ。なおも腹に溜め込み続けたら、最後はキレて殺し合いすらしかねない。かつての村社会において、旅人が「まれびと(まろうど)」として歓迎(珍重)された理由がよく分かるね。ずっと“閉じた”ままじゃ、息苦しくなって窒息しちまうんだ。たまには空気を入れ替えねえとな。 (当然、これは昨今の閉塞した社会状況にも通じるものがある。) しかし、その「まれびと」はどっから来る? 『奴ら』の支配が確固としていけばいくほど、たとえば食糧なんかは完全な管理の下に置かれることになるだろうし、自給できる環境からは一般人はぐんぐん遠ざけられていくだろう。「支配」の要諦は「生殺与奪の権」を握ることだからな。土地から離れることが「自由」と喧伝された理由が、改めて実感できるね。そうした状況下で作れる自給自足コミュニティーはせいぜい10人規模。衛星軌道上からの監視があるから、実際どこまでやっていけるのかも分からない。結局この路線は八方塞がりなのさ。そもそもホントに“楽しく”ないし、いつ『奴ら』が襲ってくるかとビクビク暮らすことになる。それがまた一層“つまらなさ”に拍車をかける。最悪だ。
てなワケで、俺は絶対に『奴ら』の“邪魔”をしなけりゃならない「宿命」なのさ。もちろん、今から『奴ら』に忠誠を誓って“そこそこ”を楽しむ道もあるかも知れない。でもなあ、それもやっぱり“面白く”ないんだ。俺には無理なのさ、テンから。忠誠を誓ってみせても、すぐに化けの皮が剥がれて上のヤツをぶん殴っちまう。唯一の例外として「陛下」の「勅命」があればどうにかなるかも知れんが、それもやっぱムリだな。わざわざ「京都」まで俺を呼びつけて直々に「命」をお授けになる・・・? 俺がよっぽど凄いヤツならあり得るかも知れんが、フツーは牢屋にぶち込むなり、「処理」するなりで終わりだ。それでもホントに「勅命」を受けたら・・・? う〜む、我ながらもの凄い「葛藤」が期待できそうだ。しかし、答えは決まっている。そんときは、みんなゴメン。 (こういう路線もちょっとアリかな〜?)
まあ例外は例外として、要するに俺は最終的に『奴ら』を“救う”ことを目指す。“倒す”ことじゃない。そんなんじゃ所詮“封じる”だけでしかなく、いつか“解き放たれて”再び同じことを繰り返すだろう。俺は昔から「対処療法」よりも「根本療法」が好きだった。たとえば、「蚊」に刺されてから膏薬を塗るよりも、始めから寄せ付けない線香を焚き、次いであまり肌を出さない服装を心がけるようになり、やがてその「痒み」も1時間程度で消えることに気付いてからは、「それでお前らが何日か生き延びれるってんなら、まあ仕方無いさ。お手柔らかに頼むよ。」という心の余裕が生まれてしまった。こいつらも「ゴキブリ」と同じ。人に縋って“救い”を乞うのさ。 ・・・何の話だっけ? ああそうそう、だから目先のやり過ごしではなく、根源的な解決として『奴ら』を「浄化」してやる必要があるんだ。何だ、同じ話じゃないか。まあ、『奴ら』についての詳しい話は後に譲ろう。
●俺の求める世界【具体篇】
さて、ようやく具体的な話に入る。
『奴ら』を“救う”ためにどうしようかと悩んでも埒はあかない。俺の最終目標もそこじゃねえしな。大事なのは、『奴ら』のいなくなった後の世界をどう“楽しむ”かだ。これがわかってりゃ、何も迷い悩む必要は無い。それをさっそく「今」から始めりゃいいってことだからな。きちんと確信を持って「未来」が“そうであるべきように”、「今」を生きる。それだけで、“そう”なる。実際のところ「戦争」が頻発してきたのは、“殺す”ことで「決着」をつけようと考えたヤツらがいたからだ。もちろん今もいる。そういえば「八百万の神々」を含めた「地球の監督者たち」(「天使」とか「仏」とか「神々」とか)もそう考えていたらしいな。だからあんなムリなやり方で強行し、そんで失敗、自分たち「神々」自身が大きな「傷」を負っちまった。ったく、可愛いヤツらだぜ。それでも、ま〜だその路線を遂行しようと頑張ってるヤツ(「神々」)もいるみたいだな。総スカン食らってるようだが。ダメダメ、日本人にはもう「戦争」はムリだっての。つーか、お前らみたいなアマちゃんにはマジな「殺し合い」はハナっから合わねえって。ヨソとは違うんだから。とっとと腹を決めて「愛」に生きな。 ・・・あれ、何の話? そうそう、とにかく『奴ら』の「力」ってのは所詮「小手先の技」なのよ。大勢の「力」を上手く利用するだけ。もちろん洗練されて“美しい”までになってるがね。ただ、俺に言わせりゃまだまだだ。俺なら、もっとこう・・・ムリだな。楽しくねえ。「支配」して何がオモシロイんだか。いや、分かるよ。分かるけどね〜。やっぱ“燃え”ねえ。『奴ら』がたかが「地球支配」に手間取ってる(「予定」では前世紀中にもう少しカタチが整ってたらしい。)のは、他ごとに気をとられ過ぎてたからだよ。要するに「悪魔的残虐行為」な。これがなきゃ楽しくないってのも分かるが、結局何がしたいんだか。ホント、『ガキ』だねえ。まあ、宇宙のほかの「高等霊体」からの介入・干渉も多かったらしいし、それでいろいろ狂ったのかな? いやいや、『奴ら』については後でいいんだ。いかんな〜、すぐ脱線しちまう。
実のところ、俺は『その後』の世界に関して今と大して変わらないのを望んでいる。もちろん、大柄の外面(そとづら)においての話な。これまで「アセンション」だとかなんとか言ってきたんだが、やっぱり俺はそれにほとんど魅力を感じないんだ。俺が「アセンション」・・・「2012年12月に起こる(ハズの)大変動」に強く興味をそそられたのは、俺が「尊敬に値する」と思ってる二人のうちの一人である「デーヴィッド・アイク」が楽しげに著書の中で語っていたからだ。素直に「へえ〜、楽しそうだな。」と感じた。しかしその後、日本語のサイトを見回るうちにあんまり面白そうに思えなくなった。ただ、「ふうん。」てなだけ。それに、何が起ころうが起こらなかろうが俺はもう自分の生き方を決めちまったからな。どうであれ、“楽しく”やってくだけさ。別に“期待”するこたないか、ってね。そうそう一応注意しとくけど、俺が書いてるトンデモ系のことはほとんど、本とかどっかのサイトから仕入れてきたものを「直感」の“フィルター”を通して「いい」とか「正しい」とか判断してるだけだ。“ちゃねりんぐ”とかはまったく出来ないしする気も無い。霊感も特に強いワケじゃない。能力的には「平凡」だし、それで満足している。せいぜい「直感」が強い、というよりも「自分の直感」への「信頼」が強いってとこかな。別にそれで金儲けできたわけでもないが、っつーか根本的に金儲けしたいと思ってないからだろうな。ともかく、俺が頻発させる「神々」の様子なんかは全部「妄想」だ。ただ、間違いなくそうだろうと俺が信じてるだけ。だから誰にも押し付ける気は無い。あんたがたも自分の「直観」で俺の文章を判断してくれ。
・・・で、俺はこの「石油文明」を早急(さっきゅう)にどうにかしようとは考えていない。「資本主義経済」もな。俺は何一つ“壊し”たくないんだ。建物だろうが道路だろうが、造ったからには活用するしかあるめえよ。もちろん、今後新しいものを造るのは控えるにしても、「全て」を上手く使って生きたいと考えている。まあよほど危険な代物(原発とか各種兵器とか)なら慎重に解体していくのもいいけど、それ以外は出来るだけ今のまま残したい。その一方で生態系の回復は急ぐべきだ。山、川、森、海。生命豊かな自然を生き返らせよう。電気・水道・ガスや通信設備などを含めてのインフラ全般は使えるうちは使っていき、老朽化やより効率性・実用性・安全性などの高い代替システムが洗練されてから交換していく。俺が気になるのは交流電源の周波数だな。あれはどうもカラダに悪い気がする。上手く日本を分断するように設定されてるのも気になるな。砂漠化とか何とかある以上、『奴ら』とは違う本当の意味での全地球的な協力関係は絶対に必要だ。
俺が一番大事に想う点は、「60億の人間が誰一人脱落することなく『幸福』を達成する。」というものだ。もちろん、今も死人は出続けている。今後もどんどん死ぬんだろう。しかし俺は、よく何かの「予言」にあるような「人類の3分の2が死ぬ。」とかいう「未来」は認めない。絶対に認めない。確かに多いとは思う。地球の定員をはるかにオーバーしているだろうとは思う。しかし、それでも俺は「地球」になんとか頑張ってもらいたいと想ってる。せっかくいるんだ。せっかく生まれてきたんだ。魂のレベルであらかじめ「その時点での死」を「予定」しているヤツもいるだろう。しかし、俺はそれでも認めたくない。本気で死ぬつもりなら、その前に俺に会いに来て欲しい。せめて俺の「涙」を受け取って欲しい。最期は、せめて「幸せな記憶」を持って、宇宙に還って欲しいんだ。みんなここに来たんだ。“ここ”にいるんだ。「予定」なんざ、くそっくらえだ。大丈夫だ。なんとかなる。俺がなんとかする。生き残れ。命をかけて、生き残るんだ。そうだ。俺は“死んでも”生き残る。どれだけ死の淵を彷徨おうとも、必ず生き残る。俺は誰も殺しはしない。誰一人殺させはしない。絶対に、誰にも殺されはしない。“みんな”で生き残ろう。そして“みんな”で、腹の底から笑うんだ。
家畜としての動物たちには、もう少し辛抱してもらう必要があるかも知れない。しかし、決してこれまで通りじゃない。本当に「愛」し、本当に「感謝」して、「命」をもらうんだ。「今」からでも始めよう。「いただきます」とは、何て“美しい”言葉か。「ごちそうさま」とは何て“清らか”な言葉なのか。「人間」が、“喰わなくてもいいカラダ”になるべきだとはまったく思わない。「食べる」のは「喜び」だ。「食べられる」のは「輝き」だ。食べたいときに食べたいだけ食べる。それが「定め」なら、それを“生かそう”。そこに本当の「楽しみ」を。「愛」を。そうだ。そのためだ。そのためにこそ、人は“独り”では「生きられない」。俺はわがままだ。俺は「全ての人」を。「全て」を“愛したい”。そうして、「みんな」に“愛されたい”。何一つ“壊し”はしない。“生かす”んだ、「全て」を。
・・・どうしても「詩」になっちまうな。え〜と、あと俺が重要視したいのは「経済」と「金融」の問題だ。俺はそう「金(カネ)」に対する執着はないんだが、それでいてスゴクありがたいものだと思ってる。これはまさに「社会の血液」、栄養をカラダのすみずみに送って元気を出させることのできる「人類の叡智」、「文明の利器」だ。金貨のような稀少物でないただの紙切れならばある意味で「幻惑性」が強いとは言えるが、それならなおのこと上手く行ってることが「奇跡」だとも言える。この「奇跡」を本当に正しく使いたい。まあ、『その後』においては「黄金生成」も科学的に実用化できるようになるだろうし、そもそも「金(カネ)」が生活に占める割合もそれほど大きくは無いだろうけど。ともかく、「社会の循環系」としての「経済」には何の文句も無い。ただし、「資本主義経済」を“あえて”壊そうとしないにしても、それはすぐに瓦解していくだろう。それは本源的な「商い(“空き”無い)」の極意に立ちかえったものになっていく。つまり、「富の偏在」ではなく「富の遍在」だ。それこそが、「流通」において天才的才能を発揮した「ユダヤ人」などの「交易民族」を本当に“生かす”ことが出来る桧舞台だ。彼らに感謝しよう。たとえ『奴ら』の多くが彼らの中にあったとしても、それはいつか世界をつなぐための壮大な仕掛けだったと想える日が来る。
そして「金融」においてもしかり、だ。俺は「借金」は大好きだが、「利子」は嫌いだ。当たり前だなんて笑わないでくれよ。別に「元金の返済」そのものはそれほど嫌いじゃないんだから。「利子」こそが、この世界を狂わす「魔術(妖術)」であると俺は思っている。汗水垂らさずに手に入れる利益。もちろん、それが世界をつなぐことを加速度的に早めたのは認めよう。しかし、そう認めるのはそれを乗り越えてからだ。上手く活用できた後で、それは実に素晴らしい「道具」であったと受け入れるんだ。今はその「道具」が“暴走”している。さっさと止めないといけない。今の「政府」が頼れないのは百も承知だが、出来るなら「利息加算停止法」を全世界的に出して欲しいもんだ。何も借金帳消しの「徳政令」を出せってんじゃない。これまでの利息加算自体は有効のままでいいんだ。今後の加増さえなけりゃどうとでもなる(と思う)。この辺りの細かい話はアイクじゃない方の「尊敬に値する」人に頼らざるを得ないが、どうだろう。『奴ら』はこれでも怒り狂うかな。つーか、そんな虎の尾を踏むようなこと、今の「政府」にできるわけ無いんだが・・・
なお俺は、「金持ち」及び「権勢家」の存在を必ずしも否定しない。そういう連中はある種の「センター」として働くことが出来るはずだ。村の「庄屋」とか「名主」みたいな役割を持つようになって欲しい。特に何の「権力」を持ってるわけでもないが、ある種の「調整役」として動く。見返りは、「楽しいこと」だな。それが引き合うか引き合わないかは村の、その「センター」の「力」が及ぶ範囲の住人たちにかかっている。こんな感じで「役所」や「庁」、「国家政府」、引いては「世界政府」もまた何ら実効的な「権力」はないが、ともかく「話し合いのテーブル」を用意し、共同体構成員の代表者たち(あるいは全構成員)に対し、「徹底的な言論の自由」を保証する。それでいて、他に何一つの「強制力」はもたない。実質的に「法」は無いものと考えてもいいかも知れない。その頃には「宇宙のより正しい姿」、具体的には「輪廻転生」・「霊魂不滅」などの概念が「一つの考え方」として普遍化し、「因果応報」、または「人が人を裁くことの傲慢」が理解されてるだろう。『奴ら』がいなくなったからといってこの世から「不幸」がなくなるワケでもないが、そのときはみんな「不幸」の一つ一つに対して真正面から体と心を全開にしてぶつかっていけると思う。安易な「裁き」で済むほど、俺たちはタンジュンに出来ちゃいないのさ。
ところで、「今あるものを活用する」とは言うものの、現在の「選挙システム」をどう有効に使っていけばいいのかはよく分からない。「政府」というもの自体が根本的に『奴ら』の造形物(ガラクタ)なので、まあせいぜい地方行政をなんとかするぐらいかなあ。この点に関していい提案があればぜひ拝聴したい。(副島隆彦はそれでも頑張ってるが、果たしてどこまでやれるのか。一応応援しとくけどさ。)
もしかしたらいずれ「宇宙人」との交流も行われるようになるかも知れない。しかしそうなっても、何もやることは変わらない。俺はそいつらとも「遊びたい」ね。太陽が二つになったり、月がなくなっちまったり。ホントに起こらないとは言い切れないさ。俺たちがすべきことは、それが起こって欲しいのか。起こったときにどうするのか。そのときどうやって“楽しむ”のか。さあ、“みんな”で考えよう!
●『奴ら』とは誰か
一言で言えば、『奴ら』とは「侵略者」のことだ。
徹底的に説明しておきたい。俺が『奴ら』という言葉を使うとき、それは文脈によって多様に変化する。狭義の『奴ら』は、「国際金融資本」とか「世界支配層」、「イルミナティ」、「バビロニアン・ブラザーフッド」、「新世界秩序」、「黒い貴族」などとして表現される「陰謀の主体」のことだ。俺は、それを単純な「人間集団」のみならず、その「主(The Lord)」である「悪性霊的存在」(「悪魔」)も含めて考えている。そいつらは様々な目的を持っているらしいが、それらをひっくるめて単純化すれば「地球の完全支配」となる。俺はアイクが言ったような「アヌンナキ・レプティリアン」という存在を鵜呑みにしてはいないのだが、「レプティリアン(爬虫類人)」というのは単なる象徴にしても『奴ら』に相応しいと思う。
なお、日本語のオカルト系サイトをいろいろ回ったところ、「アヌンナキ」と「レプティリアン」は別種の存在だそうだ。そしてかつて「地球人類」を「奴隷種族」として直接“造り出した”のが「アヌンナキ」なる種族で、太陽の周りを細長い楕円を描いて飛ぶ「惑星ニビル」に住み、地球の「陰謀秘密結社」を遠隔操作していたそうだ。しかし、前世紀の95年頃に突如「悪性陣営」を脱け出し、「善玉」になったと言う。詳しくは小松英星氏の主宰する「ガイア・アセンション」シリーズ(http://www21.0038.net/~gaia-as1/)などを読んでもらいたい。しかし実のところ、こういう人たちがどこから情報を得ているのかどうもよく分からない。“ちゃねりんぐ”だというのならそれでいいし、「直感」ならば俺にはよほど信憑性を感じる。まあ、たとえ何であれ、俺にはそれらがあまり“面白い”とは感じない。少なくとも、アイクの二冊の邦訳を読んでいたときの高揚感からは程遠い。別に、間違ってる、と強く思うわけでもない。多分、ただ単に俺には合わないというだけだろう。だから俺の言ってることが理解できにくい人や、嫌な感じを受ける人も好きにして欲しい。参考にしてくれるだけで十分だ。合わないか、まだ早いか、とっくに過ぎたことか。何にしても「縛られる」必要は無い。
ところで、アイクの『大いなる秘密』(原題:THE BIGGEST SECRET)が出たのは99年だから、上のが正しければずいぶん古い情報だということになる。アイク自身も“ちゃねりんぐ”が出来るようなことを言ってたが、どうなんだろう。まあ、俺は「宇宙の歴史」もそれ自体「誰かの物語」であり、一つの「幻想」であると考えてるから、実際どうでもいいと思ってる。仮に『奴ら』の「最奥(さいおう)」の正体が判明しても、多分その知識・情報は今の俺たちには何の役にも立たないガラクタだろう。結局、俺のやることは何一つ変わらない。
ふー。どうも“冷めちまう”んだよな〜、こういう話は。でも俺の考えてることに深く関わることであるのは確かなんだから、避けて通るワケにもいかねえ。まあ、『奴ら』がどうであっても俺は俺、やりたいことをやっていくさ。ってのが最重要点だ。ただし、『奴ら』が常識からかけ離れたトンデモねえヤツらだってことは、あらかじめ考えておく必要もあるだろうね。(実際に「悪魔」なんぞ、いなかったとしてもだ。)
広義の『奴ら』は、「侵略者」。即ち「心や体に負った『傷』が魂(あるいは『意識の深淵』)にまで及んで“ねじくれ”、『自分で自分を救うこと』を“あきらめた”存在」だ。人間であれ、動物などの“低級”な「霊的存在」であれ、「悪魔」のような“高等”な「霊的存在」であれ、さらに「国家」のような「社会的個体」であれ、そうなって「他者からエネルギーを略奪する」ようになれば、もう立派な「侵略者」だ。この意味で、日々家畜や野菜を何の「感謝」もせずに喰い散らかすだけの「一般人」でも俺にとっては『奴ら』と言えるし、現在の「日本」を始めとした諸大国も『奴ら』になる。もちろん俺自身もそうだったから、反省してなんとかしようとしたよ。とりあえず、「いただきます」からだったね。それら「侵略者」を全てひっくるめて使うことが往々にしてあったから、けっこう混乱した人もいたかも知れない。
そんなワケだから、俺が『奴ら』に対して嫌悪を抱きつつ、やがて深く同情し、「抱きしめてやりたい。」とまで言い出した理由も分かるだろう。また、『奴ら』を“倒し”ても「意味」が無いように言う理由も。『奴ら』は、この「世界」の『傷』の結晶なんだ。それは“俺たちみんな”に通じる哀しい「痛み」なんだ。それを根っこから“癒し”、“慰め”、「愛」することで「美しい想い出」へと“昇華”させる。“浄化”させるんだ。そうすれば“俺たち”はその『傷』を顧みるたびに「喜び」を取り戻し、「前」へと進む「勇気」が湧いてくる。いつか必ず辿りつく場所へと、一歩踏み出す「元気」の源になるんだ。
“俺たち”はいつか必ず「決着」をつけなければならない。そして、そのときは「今」だ。全てが“褪せ”ようとしている「今」だからこそ、一歩踏み出す勇気が要るんだ。“俺たち”は「幸せ」になりたい。そうだ。“俺たちはみんな”「幸せ」になりたいんだ。“俺たちの「心」は一つ”。こんな「幸せ」なことはない。
全身全霊、存在の全てをかけて。「知恵」を振り絞り、「筋肉」を駆使して。「力」いっぱい“楽しもう”。
掴むんだ。
あの、「輝き」を。