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馬場さん、レス有り難うございました。
A少年は、実に神秘的ですね。
まだその「来るべき書物」なるものの存在を聞かないという事は、未だ天才A少年からも、世に出されていないという事なのでしょう。馬場さん、やり甲斐がありますね!
>コミュニケーションとディスコミュニケーションはコインの両面です.
そのとうりです。いずれにしろ確かに、同じコインに属するものですね。
私もあれからよくよく考えてみたら、やはりコミュニケ−ションというのは、人間にとって本来欲求するものであるのだろうという気がしてきた所でした。
だた、それだからと言って、カミュのいう「人間は、社会/共同体を必要とする、という本性の生き物では無い」という事の否定にはならない気がしています。
というのは、コミュニケ−ションは必要だけれどもでは、どのようなコミュニケ−ションか?という観点においてです。
コミュニケ−ションというのは実にバラエティに富んでおり、社会的なレベルでは、馬場さんのおっしゃられる政治や経済、テロを含む戦争等もそうでしょうし、又、個人的レベルであれば、最近では携帯電話や電子メ−ルによる所の、他者との頻繁に行われるコミュニケ−ションから、インドのヨガ行者が何十年も山奥で一人行う自己の内にある所の真理というものへ通じる為に行うのであろうもの(コミュニケ−ション)もありと様々です。
私は、コミュニケ−ションの究極は(何も山奥に一人篭もる必要などないと思いますが)自己の内にある所の真理というものへと繋がる事ではないかと思っています。
そういう意味において、カミュは人間の本性は社会/共同体を必要としない、といっているのかもしれないと考えています。(前の稿で、その事イコ−ル、コミュニケ−ションは必要ないのかも、とよく考えもせずに思って定義してしまった事は誤りであったな、と思っております。)
『「彼らとの差異」が「霊性の問題」にあるのではないか?』というコメントについては、今回のご説明でよく分かったような気が致しました。
>生は非条理であるとし,実存的にしか実存できないというテーゼを認めたとして,
>その中核に残るものがあるとしたら,それは仏典でいう「金剛心」に似たものではないか?
>という気もします.私はその王水によっても溶解不能であるようなダイアモンドが
>コミュニケーションの発振子ではないか?とも思うのですが...
この馬場さんがおっしゃる所の「金剛心」というのを「真理」と置き換えて考えてみると、コミュニケ−ションは「真理」を引き出す為の手段、又は言い換えると「真理」へ到達する為の手段という事になるのかもしれない、と思いました。
そしてそう置き換えて考えさせて頂くと、それは何の為に?なぜこの「真理」へと到達せねばならぬのかを考えると、それは「真の幸福」を得る為ではなかろうかと思いました。
では、「真の幸福」とは何だろうか?それは、内なる平和、平常心、確固たる強さといったような揺るぎ無いものなのではないだうか、と思っています。
そしてその真理への探求は、社会におけるもの(社会レベルのもの)と個々人において成されるもの(個人レベルのもの)の両方であり、それは相互関係にあって、互いに影響を及ぼすものではないか、という気がしてきました。
馬場さんのおっしゃられる「金剛心」と私の言う「真理」すなわち真の幸福を得る為という事に関して、まず個人レベルでいうと、子供やまだ未熟で若い時分には、大人になった時よりもっと幸せだと感じた事が多いのではないか、それはそう感じる気持ちには違いはないが、幸せの質が、何かあればすぐに崩れてしまうような、いわば偽りの幸せ、インチキ幸福であった。
それが、大人になる過程で、人生に揉まれ悪を知る所となり、挫折や不信感、、、うんぬんのネガティブを経験し、誰かを傷つけもし、又傷つけられる。
賢者や人格者のように揺るぎ無い平常心を保ち、いつでも慈悲深く、前向きに愛をもって強くいられる様になるには(真の幸福を得る為には)数々のこれまでの経験した苦悩などの悪縁(ネガティブ)を教訓として活かし、それを善い事(ポジティブ)として捉え、全てのネガティブを手放して仏教のいう所の苦悩から解き放たれて解脱する境地へ到達するという事ではないだろうかと思います。
そしてその為の手段は、自己の内にある所の真理というものへと繋がる事(コミュニケ−ション)によるのではないだろうかと思っています。
又、社会レベルでいうと、今の世は政治、経済、教育、、、あらゆる面で悪いシステムがエスカレ−トしてきている末法の世であり、そしてそのネガティブが頂点に達しかけている。
それこそ今が、未熟者の若者から成熟した大人、賢者へと変わる時ではないか。
これまでの行き詰まった問題だらけの古いシステムを卒業し、その悪い所を教訓として現れる新しいシステムこそが、真の幸福へと導く手段(コミュニケ−ション?)となるのではないだろうかと思います。
社会が熟し、そのような揺るぎの無いシステムに変われば、人々の内面もそのように変わり、又逆に、人々の意識が良いように変われば、社会もそのように変わるという相互作用なのではないだろうかと思っています。
そういったネガティブを卒業してその経験から学んだ知恵をもって今は熟す時であり、その意味からしても、最悪の経験をした唯一の被爆国である日本は、それこそ一早く目覚め、賢者となるべく真の道へと他国を導く事が運命であり、我々の使命であるかもしれないと思えてきました。
今という時は、個人レベルでも、社会レベルでも共に悪(ネガティブ)を克服してそれを善に変え、揺るぎ無い真の平和、幸福をつかむ時期であるのだろうという気が致します。
最後に、悪縁を悪いままにせず、教訓として活かし、結果的に良いものに変えた実例を記して終わりにしたいと思います。
昔、テレビのドキュメンタリ−番組で見たのですが、南アフリカのアパルトヘイトの問題がまだ未解決で闘争の激しかった頃、ある黒人の青年が、事もあろうにアパルトヘイト反対の為のボランティア活動を行う為に南アに来ていたアメリカ人白人女性を殺害してしまった事件があった。
そして、娘の死に嘆いた両親はすぐにアメリカから南アへ飛んで駆けつけ、事の真相を聞く。
その頃は、黒人達の怒りも頂点に達しており、どこかしこでも白人と見ただけで暴力、殺害という雰囲気であった。
たまたま青年の住む村を一人で通りすがったその女性は、ただ白人というだけの理由でその青年に殺されてしまった。
加害者はどこにでもいるような、普段は気の優しい青年だと周りの、彼を知る者は語る。
若さ故にあまり物事を深く考えず、周りの雰囲気に呑まれていたというのが殺害の真相らしかった。
被害者のアメリカ人白人女性の両親は、アパルトヘイトに反対する、という娘の生前の強い意を無駄にしたくない、そして自分達も同じ思いであり、闘争ではなく平和を祈るという事で、その青年を赦し、青年に会い、又母子家庭である彼の家を訪れる。
とても印象深かったのは、青年の住む田舎の家に、素朴で人の良さそうな、どこにでもいそうなタイプの彼の母親が、落胆してうなだれ、自分が産んでしまった馬鹿息子が、とんでもない事をしでかしてしまった、といつまでも止まらぬ涙を流しながら、被害者の両親に謝り、どうしてよいか分からない、と丸くうつむいている体を、被害者の母親がその手をしっかり握りしめ、父親が背中を優しくさすって、しきりに慰めているのである。どちらが被害者の親かわからぬ、愛に満ち溢れた感動的な光景であった。
そして、娘の死を無駄にしない為にと、もう二度とこういった事が起こらぬようにと娘の意を継ぎ、(長年白人から虐げられてきた)アパルトヘイトの反対運動を加害者の青年を含め一緒になって進めて行く、というものであった。
始めはその加害者の青年は、白人に対しての憎悪から、殺人行為に対して悪い事をした、という意識が全くなかったという。
彼の周りの若者達も同様で、これまでの白人から受けてきた迫害の長い歴史という事を大義名分に、人種差別をされ続けてきた為に、自らも人種差別をし続け、白人であるという理由だけで、殺害が彼らの意識において正当化されていたようである。
がしかし、この被害者の両親であるアメリカ人夫婦の愛の行為により、青年をとり囲む社会が目覚め、報復による報復は解決にならぬ事であり、それは平和からはほど遠い事に気づいたのである。
出来事というものには、(一見、そう思えたとしても)良し悪しはないのかもしれない。
それを良くも悪しくもするのは、やはり我々次第であり、使いよう、捉えようによってどのようにでもなるのかもしれないと改めて思います。
馬場さん、全くお門違いな事を論じているかもしれない(という気もしますので、、、あまり飛躍しすぎて、、、)その時は失礼、どうぞ大目に見て下さい。
尚、本当に邪魔したくないので、その旨了解願います。