投稿者 倉田佳典 日時 2001 年 12 月 01 日 19:26:15:
(回答先: 捕虜収容所で数百人殺害「調査必要」 国連弁務官〔朝日新聞〕 投稿者 FP親衛隊国家保安本部 日時 2001 年 12 月 01 日 13:33:21)
12/01 17:18 渦巻く寝返りや陰謀、混乱 陥落のクンドゥズ 外信43
共同
アフガニスタン北部で、タリバンが米軍の支援を受けた「北部同
盟」による攻勢に最後まで抵抗を続けたクンドゥズに入り、タリバ
ン投降のもようを目撃した日本人フリージャーナリスト、Q・サカ
マキさん(本名・坂巻久次郎、ニューヨーク在住)がドゥシャンベ
から共同通信に報告を寄せた。
× × ×
アフガニスタンでの対テロ戦争は終わりに近づいているが、平和
が訪れるとは限らない。十一月二十六日のクンドゥズ陥落は、その
ことを端的に示していた。
クンドゥズでは寝返り、抱き込み、陰謀、混乱が渦巻いていた。
陥落の最大要因は、千五百人以上のタリバン兵の寝返りだった。
武器を携えたまま、北部同盟の戦列に加わったのだ。投降するタリ
バン兵を北部同盟の地元ダウード派とカダムシャ派が温かく歓迎し
ていた。握手を交わし、抱き合う兵士もいた。
ダウード派のナディール司令官(30)は「タリバンも同じアフ
ガン。しかも彼らは同じ街の出身だ。和平を望むなら仲間だ」と述
べた。
前日まで殺し合いをしていた北部同盟がタリバンを受け入れた理
由は、これだけでは説明し切れない。
一つ、はっきりしていることがある。北部同盟各派はタリバン後
をにらんで権力争いを始めている。そのための兵力増強なのだ。
ダウード派とカダムシャ派は、どちらがどれだけタリバン兵士を
迎え入れるかで銃口を向け合い、まさに一触即発だった。ドスタム
派はクンドゥズには関知しないと言いながら、副司令官を送り込ん
でタリバンを自派に引き入れていた。
クンドゥズの制圧自体、どうとらえたらいいのか。これは本当の
「解放」だったのだろうか。
タリバン外国人部隊の待ち伏せによる交戦を除けば、最前線のハ
ナバードもクンドゥズも、比較的たやすく陥落した。中心部に掲げ
られていたタリバンの白旗に代わり、北部同盟の緑、白、黒の旗が
翻った。
「街は解放された。北部同盟を恐れる必要はない。警察が治安維
持に当たるようになる」という声明がスピーカーから流れた。
だが、パシュトゥン系が六割を占める住民は、希望より不安に満
ちていた。果物店経営のハズラトさん(28)=パシュトゥン人=
は「これで戦争が終わるならうれしいよ。でもタリバンのときは商
売もうまくいっていた」と語った。
この一言は、タリバン出現後の内戦が民族の衝突だったことを示
唆している。タリバンはパシュトゥン人の武装集団だ。今後も民族
間の対立は続く可能性がある。事実、クンドゥズ郊外のジンザイ村
では、北部同盟の進攻を前に多くのパシュトゥン人が逃げ出してい
た。
制圧後のクンドゥズでは、捕まったタリバン外国人部隊が暴行を
受けていた。あるパキスタン人兵士は銃で何度も殴られ、地面に倒
れ込んだ後は顔をけられて引きずり回されていた。だれも止める者
はいなかった。彼らはその後、虐殺された可能性もある。
戦いも完全に終わったわけではない。山間部では敗走したタリバ
ン兵の抵抗が続いている。タリバンが散り散りになったため、治安
も一層悪くなっている。タリバンがいなくなり、武装強盗集団が復
活したのだ。
十一月二十七日夜、筆者のいたタロカンで、四人組の強盗がスウ
ェーデン人の記者団を襲い、一人を射殺、数千ドルの現金を奪った
。今のところ、こうした犯罪を防ぐ手だてはない。タロカンの当局
者は、今後記者の安全は保証できないとの声明を出さざるを得なか
った。そのため、翌日ほぼ全員の記者がタロカンを引き揚げ、アフ
ガニスタンを出た。
通訳のルジー(25)は言った。「タリバンが出現する前の混乱
の時代に戻り始めている」
(了) 011201 1717
[2001-12-01-17:18]