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(回答先: 息ぬきもかねて軽い反論 投稿者 楽観派 日時 2002 年 6 月 01 日 19:34:55)
楽観派さん、こんばんわ。
● 自由について
人は本源的に自由ではないというのは、誕生から生存維持まで、自己以外の他者(自然)に依存しているという意味です。死の選択は、自由度が高いものだと思っています。
そうでありながら、欲求とか、気持ちいいとか、楽しいといった行動動機や価値判断は、個人的自由の領域だと考えられがちです。
しかし、腹が減ったから食いたいという欲求やセックスをしたいという欲求も、冷静に考えれば、“社会規制”的なものです。腹が減ったという“不満”は生物的感覚ですが、食いたいという欲求は、なんからの食イメージを伴うものですから、意識していようがいまいが歴史的社会的に規制されたものになります。(どういうセックスをしたいのか、どういうセックスに気持ちよさを感じるかも、極めて個人的なものと思われがちですが、強い歴史的社会的規制を受けたものです)
人=個人は、他の動物に較べてひと(通常親)からの生存的庇護を長く受け、その過程で、他者との関係性や言語=概念=思考=価値判断の基礎などを修得します。その基礎をベースに、学校・メディア・職場などでの活動を通じて、それらの変容を続けていきます。
ここでは、人は、生物的には個体から始まるが、人的には他者との関係性から個を形成(意識)するものということにとどめます。
このような話を持ち出したのは、“近代社会”が、このような認識を人々にあまりさせないような仕組みで成り立っていると考えているからです。
結論的に言えば、全面的な貨幣経済が、個人が自由であると思える(信じられる)現実意識を支えているということです。
お金があれば、食いたいものを食べ、欲しいものを手に入れ、行きたい場所に行け、心地いいセックスや好ましい相手を手に入れる?ことさえ可能だという現実が、「人は自由である」という錯覚を支えていると考えています。
この意識は、平均的な所得水準が高い「先進国」でいっそう顕著なものになっていると思っています。
様々な欲求実現に力を発揮する貨幣と個人が結びつくことで、個人が自由であると信じることを許容する世界が出現します。
貨幣と商品(サービス)の関係性が社会生活の全面を覆うことで、商品(サービス)に注ぎ込まれた人々の活動力が見えにくくなっています。さらに言えば、商品(サービス)を供給する側も、その目的が貨幣を稼ぐことなので、いっそうそのような意識状況を深めます。
“近代社会”は、「貨幣が神となった世界」と言えるのかも知れません。
貨幣は“全能の神”の分身ですから、少ない量であればそれなりの御利益しか享受できませんが、膨大な量の分身を手に入れれば、それこそ“全能の神”を手に入れたと思える御利益を享受できます。
ほとんどの活動が“全能の神”の分身である貨幣を手に入れる目的になってしまったのが“近代社会”です。
そして、ほとんどの人は、それなりの御利益しか享受できない貨幣を手に入れられるだけです。(そういう現実は、能力不足・努力不足・自己責任の結果として甘受するような価値観が育まれています)
ほとんどの人が享受しているような生活条件であれば、近代収奪システムが築き上げた生産力の“おかげ”で、週に3日も働ければ得られるような条件が生まれていると考えています。
これは誰もが高級車を持ち贅沢ができるという意味ではありません。自然的存在である人は生存においても自由ではなく他の自然から制約を受けているのですから、その制約を免れることはできません。
しかし、貨幣を稼ぐためにもがき苦しむという日々からは解放され、他者との関係性も現在よりは心地よいものになり、非生産的活動(今風に言えばお金を稼がない行為)を楽しむ時間も多く持てるようになります。
「世界同時大不況」の現出により、そのような価値観の現実化を目指す勢力とこれまでの強欲者の収奪システムを維持しようとする勢力の熾烈なせめぎ合いが始まると考えています。
(人の意識=価値観はそれほど変わりやすいものではなく、目に見えないものより、それほど良いとは思わないものでも目に見えるものに信を置きたくなるものですから、強欲者の側が一時的に勝利すると思っています)