はじめまして、いつも、広範で真摯な見識とご意見で興味深くテキストを拝読させていただいています。
私も未熟な見識ですが、あっしらさんのご意見に同意することが多く、大変勉強になっています。
多くのテキストをあらわしながら首尾一貫したスタンスをもつことは難しいことだと思い、凄いなあと思う事が多いです。
しかしながら、今回(以下の投稿文)のご意見に関しては珍しく限りなく主体性の薄い文章のように思え、お伺いしたいと思います。
------------------------------------------------------
Re: 「南京大虐殺」も生存者がいるうちに徹底的に検証すべきです
投稿者 あっしら 日時 2002 年 2 月 23 日 23:55:27:
「南京大虐殺」は、日本政府が残っている資料をすべて公開するとともに、生き乗っている日本軍関係者から事情聴取を早急に行うべきです。
それなくして、「なかった」だの「あった」だのの水掛け論を交わしていても意味のないことです。
日本人は、歴史も顧みなければ将来のこともまじめに考えない“刹那人種”になっていると思われます。
この不況期でも、「なんとかなるだろう」とか「とりあえず今日はしのいでいる」と思っているが、一日経つごとに、一人二人と「もうしのげなくなった。家族の面倒が見れないから家出でもするか」とか「もう生きていても仕方がない」と考える人を生み出し続けています。
どうしてここまで長期の不況が続いているのか、これから先の日本をどうしていけばいいのかを、統治者すら真摯に考えていないのです。
このまま進んでいけば、「今日はしのいでいる人」が、じりじりではあれ「もうしのげない人」になっていきます。
政府は、それはそれで社会政策コストが抑えられていいことだという構えです。
主要メディアも、それなりの高額所得者が記事をコントロールしているので、ほとんどそういう現状を報道しません。
政府は、「不良債権処理」はああだこうだと言っても、「デフレ対策」の一つが、そういう人たちを少なくすることだとも考えないのです。
「南京大虐殺」問題すら誠意を持って解決していこうとしない日本が困難に陥り、それを知った中国が手を差し延べないとしても、恨みや非難は投げかけられません。
-----------------------------------------------------------------------
あっしらさんは日本人ではないのですか?日本人でない場合以下の質問は不毛かも知れません。
もし仮に、日本人だと仮定した場合上記の意見はあっしらさん自らの状態もインクルードした状態を示しているということだと私は考えます。
また、過去にあっしらさんは以下のような発言をしていらっしゃいました。
-----------------------------------------------------------------------
Re: 印象と勝手な思いですが...
投稿者 あっしら 日時 2002 年 2 月 01 日 18:02:54:
・・・・・・・・・・・・・・(略)・・・・・・・・・・・・・
“障害者”という言葉は好きではありませんが、ある行為をするときに、厄介な目に合う人とすんなり出来る人がいます。
厄介な目に合う人をかわいそうだとは思いません。
共同体や社会(国家)は、厄介な目に合う度合いを減らす措置をすすめる努力をすべきだと思います。(道路横断の手段として横断陸橋がこんなにある社会は日本以外には見られません)
目が見えない人は、私には見えないものが見えているかも知れません。
歩けない人が、私より広い世界を知っているかも知れません。
楽しくても、辛くても、一人一人で生きて死んでいくしかないとも思っています。
何を幸せと思い、何を不幸だと思うかは、人それぞれです。
・・・・・・・・・・・・・・(略)・・・・・・・・・。
-----------------------------------------------------------------------
これを読んだとき、ほとんど私も同意見でした。そして、「それでも人は目の前の困っている非健常者に手を貸したり、貸されたりとコミュニケーションをとり、寄りよく生きるように努力しなければなぁ。」と勝手に考えておりました。
しかし、よくよく二つのご意見を総合して考えると日本人であるあっしらさんは「日本がダメになろうが、日本人がダメになろうが、辛くても、一人一人で生きて死んでいくしかない、歴史も顧みない将来のこともまじめに考えられない刹那的人間である」と結論付けたくなってしまいます。
じゃあ、何のためにこんな投稿をしているのだろうと思ってしまう。
揚げ足取りのようですが、前段の投稿文にはやはり、あっしらさん自身が主語になる文章が欠けているのではないでしょうか?
自分自身を内包する事項に関する発言には、意思表示をはっきりすべきだと私は考えます。
これまでのすばらしい発言を多少の食い違いはあるものの私は指示したいと思います。しかし多くの評論家のように主体的な意思表示に欠ければそれは、有益なものと言うより、害となってしまう恐れを感じます。意地の悪い意見だと思いながらも、これについて質してみたいと思います。
さて私の意志はというと、知恵も知識も未熟なので、明言を残念ながら避けざるおえません。ただし、心情的に疑問に思ったことは出来るだけ疑問符でもいいから、誰かに投げかけることはしています。また身近な場所での問題提起と解決の施策を日夜働きかける事はしています。最良の方法ではないと思いながらグローバル・シンキング&ローカル・アクトというスタンスです。