小泉首相と広告代理店

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投稿者 Foulier 日時 2001 年 10 月 07 日 05:56:46:

以下の分析、もう過ぎてしまった参院選の分析なのだが、とくにCMの分析が秀逸で、
なおかつそれから引き出される結論はWTCテロ事件後における目下の小泉首相の挙動
を計らずも予測しえているように思う。

そこで、思い出して長文ですがデジタルテキストに落としてみました。

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自民党がいいねと君が言ったから29日はシシロー記念日

許月珍

ー 当選を示した「シシロー」シール ー

自民党の本部に掲げられた候補者名簿に奇妙なライオンの着ぐるみのキャラクター
シールが次々貼られていく。シシローというのだそうだ。日本の国政選挙における風
物詩ともいえる当選者を示す赤いバラの造花に代わって小泉純一郎首相が自らを模し
たキャラクターシールを使って見せたこの光景は、今回の参議院選挙の本質を正確に
物語る「儀式」であるようにぼくには思えた。つまり今回の選挙は政治家がいかに
キャラクター化するかということをめぐる奇怪な闘争であり、勝者にあたえられた
「着ぐるみのライオンのキャラクター」はだから当選議員たちが政治家として勝った
のではなく、小泉首相の関連キャラクター商品として支持されたことをいわば「版権
元」としての首相が再確認していく手続きであるかに見える。むろん多くの議員たち
はそれが屈辱であることに気づいてはいるだろうが、しかし「虎の威」ならぬ「キャ
ラクターの威」を借りることでしか自民党の勝利はあり得なかったわけだから、今は
耐えるしかないのだろう。

しかしぼくが一方で危惧するのは、今回の選挙で各政党が採用した政治家である自ら
のキャラクター商品化という戦術に対する彼ら自身の異常ともいえる積極性である。
それはワイドショー内閣と発足直後から揶揄され、扇千景大臣などは平然と「支持
率」を「視聴率」といい間違えてもだれもそのことを指摘しないこの熱狂の中に、不
意に現れたものでは決してないのだ。少なくともそれは90年代半ば以降に段階的に現
れ、小泉内閣で頂点に達したものである。その現象を言論あるいは政治そのものの
キャラクター商品化、とぼくはひとまず形容してみる。それはただ小泉首相のキャラ
クターグッズが大量の売上を記録したということにとどまらず、政治家ないしは言論
人自らが積極的に「キャラクター化」することを欲望してしまうということに何より
事態の本質がある。

それは今回の選挙でも一応は話題を集めたタレント候補の乱立とはまったく異質の局
面である。確かに今回もまた多くのタレント、著名人たちがメディア上の彼らの名声
を利用し(あるいは利用され)て立候補し、その一部は当選した。こういった現象も
ワイドショー政治の一部と見られがちだが、タレント候補そのものは従来から存在
し、また、舛添要一や大橋巨泉や田嶋陽子が当選し、野坂昭如や青島幸夫や田秀夫が
落選する、というように同タイプのタレント候補の中でも「旬」によって新陳代謝は
自然に進んでいる。小泉内閣の現役閣僚である扇千景がワイドショーへの露出度とい
う点では候補者の中では突出していたはずなのに、保守党としてかろうじて一議席を
確保したに過ぎないことを見れば、ワイドショー的人気が即、有権者として彼らを投
票所に導かないことがわかる。有権者たちはテレビの前で視聴者としてチャンネルを
合わせはしたが、しかし、同時に有権者としては行動しなかった。つまり、投票行動
をとらずに視聴者にとどまるものが圧倒的に多かったことは、今回の熱狂とは裏腹の
きわめて低い投票率が端的に物語っている。各マスコミの世論調査で「投票に行く」
と答えた人々の割合と実質の投票率とのギャップを考えても「世論調査」への回答と
いういわばメディアへの参加と「投票」という政治への参加はまったく別のものと化
しているとさえ考えられる。その意味ではワイドショーでただ名を売っておけば政治
家としての成功に結びつくほどには今回の選挙は単純ではなかった、といえる。

ー 参院選CMはいかに作られたか ー

それではここでぼくが少し問題とする「政治家のキャラクター化」について今回の参
議院選挙を例に検証しておく。そこで材料とするのは今回の参議院選挙用に各政党が
作ったTVCMである。実をいうとぼくはこのエッセイを書くために編集部を通じて
各政党の広報からこれらのTVCMのビデオテープを改めて借りた。入手したのは、
具体的には自民、公明、保守、民主、社民、共産、自由の各政党である。すると不思
議なことにこちらが求めたわけでもないのにCMが収録されたテープのいくつかに
「メイキング」の映像が収録されていたのである。「メイキング」とは映像作品の政
策風景をドキュメント風に再構成したものである。たとえば、アイドル映画やミュー
ジシャンのプロモーションビデオ、人気アニメ作品などのビデオやDVDに「映像特
典」と称してしばしば本編とは別に収録されているのがこの「メイキング」である。
人気作品の場合はこの「メイキング」だけでも単独の商品として成り立つほどで、い
わばキャラクター商品に付き物といえる映像の形式である。ちなみに「メイキング」
が収録されていたのは自民、公明、自由の三党のCMのテープであり、それがいかな
る意図を持ってつくられたのか ー たとえばCM制作を受注した広告代理店のクラ
イアントである政党へのサービスなのか、あるいは政党のほうから求めて作られたも
のなのかー はぼくにはわからない。だが「メイキング」の映像の存在は政治家自ら
がキャラクター商品化していくことへの無防備さの象徴として興味深いだけでなく、
それがいかにして作られるかを結果として垣間見せてしまっている。

たとえば自民党のCMの「メイキング」では小泉首相が鏡の前でメイク担当の女性に
ドーランを塗られる様子、そして、絵コンテを前にディレクターと打ち合わせをする
様子が映し出されている。絵コンテというのは映画のカット割ごとに出演者の台詞や
構図、演出を記入したもので、映像作品の設計図に当たる。そして、この光景を見せ
られたとき、ぼくは改めてあおの自民党CMの中の「政策は小泉と国民の約束です。
できないような約束は小泉は最初からしない」であるとか、「もう一度、この国が自
信を取り戻すためにここにいる」といった小泉首相の台詞は広告代理店の優れたコ
ピーライターによって用意され、絵コンテの中にあらかじめあった広告コピーである
ことに気づく。むろんそれらの広告コピーはクライアントたる自民党との綿密な打ち
合わせの上に決められたものではあるのだろう。だがいかにも小泉首相が「自分の言
葉」で切々と語りかけているかに感じられたあのCMのことばは、コピーライターの
手が入ったものであることは事実であり、しかも当然だが、首相は演出家の「声を抑
えて」云々といった指示に従ってあの切々とした口調を作り出している。小泉内閣を
支持する理由として有権者が挙げる理由の一つに「自分のことで喋っているのがい
い」というものが決り文句のようにあったが、この「メイキング」は小泉首相の「自
分のことば」がいかに作られたかを正確に伝えてくれる。

その意味できわめて興味深いのは「メイキング」のラストで小泉首相が「なんてっ
たって小泉、なんてったって自民党」と歌う声が収録されていることだ。アイドルが
自らアイドルであることに自己言及した小泉今日子のヒット曲「なんてったってアイ
ドル」は彼女がアイドルであることに確信犯たらしめようとしたスタッフの戦略ゆえ
に80年代アイドルポップスの名作の一つとなった。「なんてったって小泉」と首相が
歌うシーンはこの「メイキング」とは別に何かの会見かコメントの場面で一度テレビ
で見た記憶がある。その時はただ彼が自分のアイドル的人気に調子に乗っているだけ
かと思ったが、「メイキング」を見ると、これこそが小泉というアイドルを売り出す
広告代理店の戦略だったことに気づく。

もう一度、CMを思い出してみよう。小泉首相は自分のことを「コイズミ」と呼んで
いる。普段は首相は自分のことを「コイズミ」などとは言わない。しかしCMの一人
称が「コイズミ」であるのは首相の名をアピールするという表向きの利用だけでは多
分ない。80年代のアイドルファンたちであれば、小泉今日子が自分のことを「コイズ
ミ」と呼んでいたことを懐かしく思い出すだろう。つまり、小泉首相が気づいている
かは否かは別にして、この一人称は小泉今日子からの「引用」として確信犯的になさ
れている。おそらく発端は小泉という姓の一致なのだろうが、賭けてもいいが広告代
理店の会議では「今回の小泉首相のCMは小泉今日子のコンセプトの引用である」と
いった発言がなされているはずである。そしてその証拠を敢えて残す代理店の人々の
いわば犯行声明がこの「メイキング」の最後に不意に挿入された「なんてったって小
泉」の音声であり、しかも同じフレーズを首相がそれこそ調子に乗って公の場でもう
一度呟くことで「アイドルであることに自己言及する小泉今日子」の「引用」として
の「アイドルであることに自己言及する小泉首相」像という彼らのプロモーション戦
略の完成を見るのである。

こうして見るとこの自民党のCMはきわめて水準が高い。政治家のキャラクター化の
技術においては他のCMを圧倒しているとさえいえる。「作品」に自分たちの署名を
巧妙に残すところなどいかにも仕事のできる広告代理店の人っぽく鼻持ちならない
が、政策CMがこの水準のマーケティング戦略で作られていることにしかし感心ばか
りもしていられない事態ではある。

ー サブカルチャーからの引用 ー

さて、それでは小泉首相のCMが小泉今日子の引用であったのに対して他党のCMは
どうか。すると小泉CMほど巧妙ではないがやはりサブカルチャーからの「引用」あ
るいは「パロディ」が同じように繰り返されていることに気づく。

公明党のCMでは「強い日本」の象徴としてゴジラの映像が使われる(ちなみにこれ
は映画用フィルムの流用ではなく、CM用にわざわざ撮り直したものであることが
「メイキング」からわかる)。同じように公明党の「そうはいかんざき」CMは時代
劇のヒーローのいささかベタなパロディであるのだろう。保守党の「保守、保守、保
守ピタル」なる歌をバックに白衣の扇千景が医局員を引き連れて歩くCMは、「白い
巨塔」が出典で、しかもダメ押しのように「わたしにも治せます」とフジカラーフィ
ルムのCMの「わたしにも撮せます」の「引用」を口走りもする。自由党のCMでは
小沢一郎はSFXを駆使した映像で巨大ロボットを倒す。「メイキング」にはロボッ
トに体当たりする場面の演技を小沢一郎が一人スタジオの壁に向かって黙々と練習す
る光景が収録されていて、それは小泉首相の「メイキング」の浮かれぶりと対照的で
あった。あるいは民主党の会議室で鳩山由紀夫代表以下の「プロジェクトチーム」が
活発な討論をするシーンはいっそ缶コーヒーのCMよろしく「明日があるさ」のメロ
ディーを流せばもっとしっくりくるような作りである。さすがに日本共産党だけは、
と思っていたら、友人のおたく評論家によれば志位和夫委員長がベルトを引き締め、
ウェストが極端に細くなるシーンは「60年代に日本でオンエアされたアメリカのア
ニメ「マイティー・ハーキュリー」からの引用に違いない」のだそうだ。それはさす
がにだれもわからないと思うが、こうして見るとサブカルチャーからの「引用」をC
Mで行わなかったのは、その内容が他党の中傷に当たるとしてテレビ局から放映を拒
否された社民党のCMだけ、ということになってしまう。

このように与野党問わず政党CMがその水準の差異はあれ、サブカルチャーからの
「引用」あるいは「パロディ」であるのは政治家のキャラクター化という現象と表裏
一体であるのはいうまでもない。つまり既にあるものの「パロディ」こそが、ある人
物をキャラクター化するのにもっとも手っとり早い手法なのである。それはバラエ
ティー番組でアイドルやお笑いタレントたちが演じる「キャラクター」を連想すれば
明らかである。古くは「仮面ノリダー」や「タケちゃんマン」といった例がわかりや
すいと思う。そしてこういったタレントの演じる「キャラクター」は「慎吾ママ」が
象徴的なように彼らの別人格、独立した存在として認知される傾向が強いことが新し
い現象である。

2,3年前、ぼくはアメリカのプロレス番組で三種類のキャラクターを持つレスラー
が、一つの試合で人格ごとに三度登場し、一度負けても別人格で出てくるので、負け
は帳消しになっているというシチュエーションを目撃したことがあるが、これはレス
ラーの固有の人格と演じられるキャラクターを別々に消費する、という態度が観客に
成立して初めて可能となる。

日本のバラエティー番組もこういうキャラクター消費の水準にはとうに達している
が、今回の政党CMがめざしていたのはまさにこの意味でのキャラクター化である。
すなわち、各政党の党首たちにいかに消費されやすいキャラクターを与えるかを各広
告代理店は競ったのである。

ぼくがテレビで見たアメリカのプロレス団体は、他団体では無名に等しいレスラーを
移籍させてその都度個性的な「キャラクター」を放送作家が与えることで全米のプロ
レス市場をとうとう独占してしまったが、そこではもはや観客はレスリングの試合よ
りも「スキット」と呼ばれるレスラー同士のトークを楽しむようになってしまった。
このプロレス団体のあり方は「キャラクター」の圧倒的な力と、一度キャラクター消
費の対象が移ったとき、プロレスから試合さえも不要になってしまう ーつまり政治
家に置き換えられれば政策さえも不要になってしまう、というキャラクター消費のあ
り方をきわめて分かりやすく示している。こうしたプロレスにおけるキャラクターを
「ギミック」と呼ぶが、このプロレス団体は「ギミック」が「ギミック」であること
にレスラーや団体関係者たちが小泉今日子の如く自己言及している点で、他のプロレ
ス団体と異なっていた。その内幕をドキュメンタリーの映画として公開することさえ
許している。

その意味で今回の政党CMを見る限り、政治家のキャラクター作りがプロレスの「ギ
ミック」の水準に達しているのはやはり自民党の小泉CM、ということになる。作り
手の虚構性に対する距離感が決定的に違うのである。

だからといってぼくのエッセイは彼らの仕事ぶりを絶賛するためのものではない。そ
うではなく政治や言論のキャラクター化という現象こそが小泉グッズの売上が二億八
千万円に達してしまったことの背景にあることを指摘しておきたいのである。二億八
千万円のキャラクターグッズが売れた、ということはそれだけセールスを可能にする
キャラクターが小泉首相に付与されたことを意味し、そしてこれまで見たようにその
カリスマはただ彼の内から自然に発生したのではないのである。CM一つとってもそ
れがいかに作られたか、ということがはっきりと見てとれる。

7月14日付「日刊スポーツ」によれば小泉グッズの中でもっとも売れたポスターは
七十一万枚、また携帯ストラップは十六万八千本売れたという。キャラクター商品市
場で一つのアイテムが数十万の単位で売れるのはそれこそ「セーラームーン」など社
会現象化した作品に限られ、アニメショップで売られているアニメのキャラクター商
品は通常@アイテムあたり数千の製作数である。その意味で小泉首相はキャラクター
ビジネスとしては圧倒的な成功を収めており、その経済波及効果だけが彼の「具体
的」な経済政策であったとさえいえるだろう。

ー 「ゴーマニズム宣言」と小渕首相 ー

ところでぼくはこういった事態が今に始まったことではなく90年代半ば以降を通じ
て用意されたものた、と記した。そのことを手短に論じておく。ぼくが政治や言論の
キャラクター化を最初に感じたのは小林よしのりの「ゴーマニズム宣言」においてで
ある。彼が自分の論敵の顔をきわめて醜悪に描くのは知られているが、しかし、風刺
的なコミックにおいて政治家や有名人が醜悪に描かれるのは全く普通である。むしろ
興味深かったのは、彼にとって好意的な人物が目のくりくりした可愛らしい人物とし
て描かれている点である。この「風刺」とは逆のベクトルの存在こそが彼の政治コ
ミックの特徴である。しかもそこでピカチュウの如く可愛らしく描かれるのが例えば
西尾幹二であったりするのだ。おそらく、「国民の歴史」の読者の何割かは西尾幹二
の名とともにあのキュートなキャラクターを連想してしまうのではないか。小林よし
のりは彼のコミックにおける圧倒的なキャラクター製作能力を言論の場に持ち込み、
言論人や言論そのものを彼のコミックの関連キャラクターグッズと化してしまった。
だから、「ゴーマニズム宣言」の現在の発行元が「ポケモン」のキャラクター商品の
版元の一つである小学館という事実は偶然の一致とは必ずしもいえない。

ところで。こういった政治や言論のキャラクター商品化に最初に敏感に反応したの
は、実は故・小渕恵三首相であった。2000年に引っかけた二千円札や、沖縄サ
ミットのテーマソングのCDをリリースするといった彼の「政策」の意味は、その不
慮の死もあって充分に検証されていないが、一つの国の紙幣をキャラクター商品とし
て発行する態度の中に、政治家として彼が否応なく巻き込まれていったものが何で
あったか見てとるべきだろう。故人に向ける言葉としてはいささか配慮に欠けるかも
しれないが、彼は自分があの「平成」の額縁のキャラクター商品であることにどこか
自覚的だったのかもしれない。「ブッチホン」や「冷めたピザ」といった自らをキャ
ラクター化させる「ギミック」にきわめて敏感に反応していったことが思い起こされ
るが、しかし自らを模したキャラクターシールを当選のバラの替わりにできるほど小
渕は厚顔かつ確信犯たりえなかったのである。

参議院選挙では公明党の神埼武法代表は演説の前に「そうはいかんざきの神崎です」
と繰り返し、民主党は小泉キャラクターグッズに対抗して「ゆきおちゃん」なる鳩山
代表を模したキャラクターを発表した。選挙の後半戦では「宇宙人ユッキーです」と
鳩山代表自ら繰り返していた。彼らは作られたキャラクターに向かって自らの存在を
同一化しようとしており、それは「アイドルであること」に自己言及しうる小泉と比
したとき、「ギミック」の技術において一段劣る。キャラクターCMを唯一拒んだ社
民党の惨敗を含め、自民党の一人勝ちの上古湯はこのキャラクター管理術の優劣によ
る、とさえ思われる。

ー この後に来るもの ー

それにしても一国の首相のキャラクターグッズが三億円近く売れ、野党第一党が行っ
たことが新キャラクターのリリースであるというこの国の今の政治状況をいったいど
う理解すればいいのか。

この国の近代史を振り返るとき、実はキャラクター商品が大ブームを起こした時代が
二度、ある。一度は70年代半ば、ドルショック、オイルショック後の不況から立ち
直れなかった時代に「サンリオの奇跡」といわれたキャラクター商品のサンリオの急
成長があった。サンリオだけでなく、多くのキャラクター商品メーカーが70年代初
頭から半ばにかけて設立されている。そしてキャラクター商品の時代を経てやって来
たのが80年代末のバブルの時代であった。

もう一つのキャラクター商品ブームは昭和の初頭である。しばし小泉人気は戦前の浜
口雄幸や近衛文麿といった首相の時代に例えられるが、コミックや映画のヒットにと
どまらず、のらくろやベティちゃん、ミッキーマウスなどのキャラクター商品が大量
に作られたのが、この二人の首相の時代にはさまれた昭和の七、八年頃である。テレ
ビのお宝鑑定番組で高値のつくブリキのキャラクター玩具の多くはこの時期に作られ
ている。この時期はいうまでもなく「満州事変」をきっかけに日本が戦争とファシズ
ムへと向かう転換点となった時代である。

そして今日の不況下でも小泉グッズの人気とは別にキャラクター商業のみが活況を呈
していることはやはり思い起こされるべきだろう。この国はたった今、近代に入って
三度目のキャラクターブームにあるのだ。とすれば、今回のキャラクター商品ブーム
の後にやってくるのははたしていかなる時代なのか。

そんなふうに考えると放送を拒否されたあの社民党のCMが実はきわめて含蓄のある
ものであることに気づかされる。 


 ‐本当に怖いことは、最初、人気者の顔をしてやってくる。今しかない戦前へ走ら
ない道を。

そう語りかけようとした社民党のCMが来るべき時代を予兆しているのか、それとも
「なんてったってアイドル」とだれもが浮かれた80年代の狂騒がもう一度やってく
るのか。あるいは政治家や言論人さえもキャラクターとして消費されることを拒めな
い新しい時代は、この国の人々をもっと別の場所に連れていこうとしているのか。

小泉CMを作った広告代理店の会議ではそこまで話し合われていたかもしれない、と
さえ思う。


(中央公論2001年9月号 2001年8月10日発売)




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