投稿者 YM 日時 2001 年 5 月 02 日 00:24:36:
回答先: 扶桑社中学社会歴史(申請本)より「第2時世界大戦の時代:日中戦争突入」 投稿者 YM 日時 2001 年 5 月 02 日 00:12:03:
P282〜
大東亜戦争
……
暗転する戦局
1942(昭和17)年6月,ミッドウェー海戦で,日本の連合艦隊はアメリカ海軍に敗北した。
ここから米軍の反攻が始まった。8月,ガダルカナル島(ソロモン諸島)に米軍が上陸。死闘の末,翌年2月に日本軍は撤退した。アリューシャン列島のアッツ島では,わずか2000名の日本軍守備隊が2万の米軍を相手に一歩も引かず,弾丸も米も補給が途絶え,ついに残った300名ほどの負傷した兵が,ボロボロの服で足を引きずりながら,日本刀をもってゆっくりと米軍に,にじり寄るようにして玉砕していった。こうして,南太平洋からニューギニアをへて中部太平洋のマリアナ諸島の島々で,日本軍は降伏することなく,次々と玉砕していったのである。1944(昭和19)年秋には,フィリピンが米軍の手に落ちた。マリアナ諸島の一つのサイパン島から,爆撃機B29が日本本土への空襲を開始した。同年10月,ついに日本軍は全世界を驚愕させる作戦を敢行した。レイテ沖海戦で,「神風特別攻撃隊」(特攻)がアメリカ海軍艦船に組織的な体当たり攻撃を行ったのである。追いつめられた日本軍はここからあと,飛行機や潜行艇で,敵艦に死を覚悟した特攻をくり返していく。米軍の将兵はこれをスイサイド・アタック(自殺攻撃)といってパニックに近いおそれを感じ,のちに尊敬の念すらいだいた。
特攻は「統率の外道」(道に外れた指揮の仕方)といわれ,作戦としてはやってはならぬものであった。多くの若者たちとて,本心から望んで特攻を志願した者などいないだろう。しかしながら故郷の家族を守るため,この日本のために犠牲になることをあえていとわなかったのである。
19歳で沖縄で戦死した宮崎勝という特攻隊員が,故郷で生まれた自分の妹に残した手紙がある。
「ヤスコチャン,トッコウタイノニイサンハ シラナイダロウ。ニイサンモ ヤスコチャンハ シラナイヨ。マイニチ クウシュウデ コワイグロウ。ニイサンガ カタキヲ ウッテヤルカラ デカイボカンニ タイアタリスルヨ。 ソノトキハ フミコチャント ゴウチンゴウチンヲウタッテ ニイサンヲ ヨロコバセテヨ」
1945(昭和20)年4月には,沖縄本島でアメリカ軍とのはげしい戦闘が始まった。日本軍は戦艦大和をくり出し,最後の海上特攻隊を出撃させたが,猛攻を受け,大和は沖縄に到達できず撃沈された。沖縄では,鉄血勤皇隊の少年やひめゆり部隊の少女たちまでが勇敢に戦って,10万の島民が生命を失い,日本軍の戦死者も11万を数えたといわれている。
戦争は悲劇である。しかし,戦争に善悪はつけがたい。どちらかが正義でどちらかが不正という話ではない。国と国とが国益のぶつかりあいの果てに,政治では決着がつかず,最終手段として行うのが戦争である。アメリカ軍と戦わずして敗北することを,当時の日本人は選ばなかったのである。
*STRONG強調は本でゴシックになっているところです