投稿者 YM 日時 2001 年 6 月 05 日 00:44:33:
回答先: Re: 扶桑社新しい歴史教科書(市販本)「第2時世界大戦の時代:大東亜戦争」より 投稿者 YM 日時 2001 年 6 月 05 日 00:43:01:
P306〜
コラム 昭和天皇一国民とともに歩まれた生涯
[崩御の日]
昭和天皇(1901〜1989,第124代)が崩御された1989(昭和64)年1月7日朝,知らせを聞いて,多数の国民が皇居前に集まった。広島で被爆して東京に住む68歳のある老婦人は,「ずうっとね,昭和天皇と一緒に苦労してきた,という気持ちがあるんですよ」と語った。この婦人をはじめ,皇居前では,さらに全国各地では,若者,老人,主婦,サラリーマンなどさまざまな人々が,昭和天皇の時代のもつ意味に静かに思いをめぐらせた。
[お人がら]
昭和天皇は,1901(明治34)年4月29日,ときの皇太子(のちの大正天皇)の第一子として誕生し,御名は廸宮裕仁。幼少のころから,きわめて真面目で誠実な人がらであった。即位ののち,1931(昭和6)年11月,九州の鹿児島から軍艦に乗って帰京されるとき,天皇が夜になって暗くなった海に向かって一人挙手の礼をされているのを,お付きの者が見つけ不思議に思った。そこで海の方を見ると,遠く暗い薩摩半島の海岸に,天皇の軍艦をお見送りするために住民たちが焚いたと思われるかがり火の列が見えた。天皇はそれに向けて答礼をされていたのである。お付きの者は感銘し,さっそく,軍艦からサーチライトが点灯され海岸を照らし出した。
[昭和天皇とその時代]
昭和天皇が即位された時期は,日本が大きな危機を迎えようとしていた。天皇は各国との友好と親善を願っていたが,時代はそれと異なる方向に進んでいった。しかし,天皇は立憲君主として,政府や軍の指導者が決定したことに介入すべきではないとの考えから,意に反して,それらを認められる場合もあった。
ただ,天皇がご自身の考えを強く表明し,事態をおさめたことが2度あった。一つは,1936(昭和11)年の二・二六事件のときであった。事件で政府や軍は混乱状態におちいった。そうした中,天皇は反乱を断固として鎮圧すべきであると主張し,事件は急速に解決に向かった。もう一つは,1945(昭和20)年8月,終戦のときであった。ポツダム宣言を受諾するか否かで,政府や軍の首脳の間で意見が分かれ,聖断(天皇がくだす判断)を求められた天皇は,「これ以上戦争を続けることはできないと思う。たとえ自分の身がどうなっても,ポツダム宣言を受諾すべきである」と述べ,戦争は終結した。このときの天皇のお気持ちをよまれた御製(天皇がよまれた歌)がある。
爆撃にたふれゆく民の上をおもひいくさとめけり身はいかならむとも
君主としての責任を,ひしと身に感じていたことがうかがわれる。
このような昭和天皇の人間性に感動したマッカーサーは,天皇との初めての会見について次のように述べている。「私は天皇が,戦争犯罪者として起訴されないよう,自分の立場を訴えはじめるのではないか,という不安を感じた。しかし,この不安は根拠のないものだった。『私は,国民が戦争遂行にあたって行ったすべての決定と行動に対する全責任をおう者として,私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした』。私は大きい感動にゆすぶられた。死をもともなうほどの責任,明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする,この勇気に満ちた態度は,私の骨の髄までもゆり動かした」(『マッカーサー回想記』より抜粋)
敗戦後,天皇は日本各地を巡幸され,復興にはげむ人々と親しく言葉をかわされ,はげまされた。このときの天皇のお言葉は「あっ,そう」という簡単な一語だけということが多かったが,素朴な応対の中に人々は天皇の真心を感じ,あるときなどは,群衆の間から自然に「天皇陛下万歳1」の叫びがおこり,やむことがなかった。このように昭和天皇は,激動する昭和という時代の中で,生涯をとおして国民とともに歩まれたのであった。