投稿者 YM 日時 2001 年 5 月 02 日 00:12:03:
回答先: Re: 小林よしのりインタビュー:教科書「わしの執筆部分」と「採択戦略」(週刊ポスト5/4) 投稿者 付箋 日時 2001 年 4 月 23 日 01:01:04:
株式会社扶桑社 中学社会 歴史(申請本)
P266〜
第2節 第2時世界大戦の時代
協調外交の挫折と軍部の台頭
しめ出される日本商品
第一次世界大戦のあと世界一の経済大国となったアメリカで,1929年10月,株価が大暴落し恐慌がおこった。アメリカは自国産業の保護のため,外国から輸入される商品に極端に高い関税をかけたので,1年半の間に貿易は半減し,世界恐慌に発展した。このころのアメリカには,自国の政策によって世界の経済が左右されるという自覚が乏しかった。
これによって,アメリカヘの輸出に頼る日本経済は大きな打撃を受け,大量の失業者が街にあふれた(昭和恐慌)。農村でもアメリカ向け生糸の輸出額が激減し,その上,1931年には東北地方を凶作がおそった。そのため,昼食の弁当を持参しない欠食児童が出たり,親の借金の身代わりに幼い娘を都会に働きに出すようなことがおこった。
アメリカに対抗して,イギリスやフランスは,本国・植民地間の関税をさげて物資を流通させる一方,他国の商品には高い関税をかけてこれを排除する,ブロック経済を採用した。世界の自由貿易体制は崩壊した。日本の安価な工業製品は,世界各地の市場で特に不当な扱いを受け,次々にしめ出されていった。
このような仕打ちによって,日本も自給自足のため独自の経済圏をもたねばならないという考えが生まれた。そこで注目を集めるようになったのが,中国の東北部に位置する満州だった。
中国の排日運動
清朝滅亡後の中国では,各地に私兵をかかえた軍閥(軍事力を背景にした政治的勢力)が群雄割拠していた。
中国国民党の指導者蒋介石は,各地の軍閥と戦い国内統一を目指した。1928年,蒋介石は北京をおさえて新政府を樹立したので,その勢力は満州にもおよぶようになった。
中国の国内統一が進行する中で,中国に権益をもつ外国勢力を排撃する動きが高まった。日本商品をボイコットし,日本人を襲撃する排日運動も活発になった。それは中国のナショナリズムのあらわれであったが,同時に,暴力によって革命を実現したソ連の共産主義思想の影響を受け,実際にもコミンテルンの指示を受けていたので過激な破壊活動の性格を帯びるようになった。
協調外交の行き詰まり
大正末から昭和のはじめにかけて,議会で多数を占めた政党による政党内閣の政治が定着していた。このころ,2期にわたって外務大臣をつとめた幣原喜重郎は,英米と協力してワシントン体制を守り,中国のナショナリズムにも同情をもって対応する協調外交を推進した。
1927年,南京でおこった外国人襲撃事件でも,日本は中国に対してもっとも寛大な態度をとった。ところが中国は,かえって排日運動を激化させたので,日本国内では,幣原の外交を軟弱外交として批判する声が強くなった。
一方,蒋介石は,1928年,日本との不平等条約の無効を一方的に通告し,これを革命外交と称した。日本もかつて欧米列強との不平等条約の改正を課題としたが,日本は近代的法秩序の確立に努力した上で,あくまで相手国との正規の交渉によって目的を達成していた。蒋介石の態度は,これとは正反対だった。日本は,九か国条約の保証人の立場にあったアメリカに,国民党政権は不当だと訴えたが,アメリカ政府は,日本に対抗するため国民党政権に肩入れして,日本の訴えを無視した。日本ではアメリカに対する失望が広がり,国際協調の精神で中国に対処するのは難しくなっていった。
高まる軍部への期待
1930年,ロンドンで補助艦の制限を議題とする海軍軍縮会議が開催された(ロンドン軍縮会議)。日本の海軍は英米10に対し7の補助艦比率を強く望んだが,政府は英米との協調に努めて,結局は10対6.975の比率を受け入れた。一部の軍人や,それに同調した野党政治家は,比率が要求を下回ったため,明治憲法に定められた天皇の統帥権をおかしたとして政府をはげしく攻撃した(統帥権干犯問題)。浜口雄幸首相は暴漢におそわれて重傷をおった。軍人が政治に介入することは明治憲法に違反し,軍人勅諭(1882年、明治天皇が軍人に与えた教え)でも戒められていた。しかし,経済不況による社会不安を背景に,中国における排日運動と満州権益への脅威に対処できない政党政治に対する強い不満から,政府とは別に,軍の中に独自に政策を論じ実行しようとする考えをもった中堅将校のグループが形成された。軍部の政治的発言権が強まり,国民もしだいに軍部に期待を寄せるようになった。
民間でも,三権分立の明治憲法体制を否定して,国家改造と軍部独裁体制を実現しようとする北一輝らの理論活動も活発になっていった。また,国民の中にも,政党政治への不満が高まっていった。
(コラム)南京でおこった外国人襲撃事件
蒋介石による国内統一戦の途上,1927年3月,南京を占領した
国民党軍の兵士が,英・米・日各国の領事館とキリスト教会をおそ
い,居留民に暴行・掠奪をはたらき,死者を出した。英米両国は武
力で反撃したが,日本は幣原外相の方針で英国の出兵要請を拒絶
し,かたく無抵抗を守った。領事館に派遣された荒木亀雄海軍大尉
は,命令を守って無抵抗を貫いたが,釈放されてから,軍人として
の名誉が損なわれたとして割腹自殺をはかった。これを南京事件と
いう(1937年の同名の事件と区別して第一次南京事件とよぶこ
ともある)。日本が無抵抗であるのを見て,日本人への襲撃はかえ
ってますますはげしくなった。
日本の運命を変えた満州事変事変前夜の満州
日本は,日露戦争の勝利によってロシアの支配を排除した満州から自発的に撤兵した。満州南部の関東州で,日本はロシアから南満州鉄道(満鉄)の営業権をゆずり受け,中国の承認も得た。この日本の権益は,条約に基づくもので,日本の投資により経済が発展した。
ところが,満州では,1929年ごろから中国人による排日運動がひときわはげしくなった。列車妨害,日本人学童への暴行,日本商品ボイコット,日本軍人の殺害など,条約違反の違法行為は300件を超えた。しかし,日本政府は,これに対して毅然とした態度を取らず,解決の方針をもたなかった。
当時,満州には約23万人の日本人が住み,その保護と,関東州および満鉄を警備するため1万人の陸軍部隊(関東軍)が駐屯していた。日本の権益と日本人の生命がおびやかされ,北にはソ連の脅威があり,南からは国民党の力もおよんできた。こうした中で,石原莞爾ら関東軍の一部将校は,全満州を軍事占領して問題を解決する計画を練り始めた。
仕組まれた柳条湖事件
1931(昭和6)年9月18日午後10時20分ごろ,奉天(現在の洛陽)郊外の柳条湖で,満鉄の線路が爆破された。関東軍はこれを中国側のしわざだとして,ただちに満鉄沿線都市を占領した。しかし実際は,関東軍がみずから爆破したものだった(柳条湖事件)。これが満州事変の始まりである。満州事変は,日本政府の方針とは無関係に,日本陸軍の出先の部隊である関東軍がおこした戦争だった。政府と軍部中央は不拡大方針を取ったが,関東軍はこれを無視して戦線を拡大し,全満州を占領した。これは国家の秩序を破壊する行動だった。ところが,政府の弱腰に不満をつのらせていた国民は関東軍の行動を熱烈に支持し,陸軍には220万円の支援金が寄せられた。1932年,関東軍は満州国建国を宣言し,のちに清朝最後の皇帝であった博儀を満州国皇帝の地位につけた。
満州事変を世界はどう見たか
1932(昭和7)年,満州国の承認に消極的だった政友会の犬養投首相は,海軍将校の一団によって暗殺された(五・一五事件)。ここに8年間続いた政党内閣の時代は終わりを告げ,その後は世論の支持のもと,軍人や役人を中心とした内閣が任命されるようになった。
アメリカをはじめ各国は,満州事変をおこした日本を非難した。国際連盟は満州にイギリスのリットンを団長とするリットン調査団を派遣し,日本軍の撤兵と満州の国際管理を勧告した。日本政府はこれを拒否して満州国を承認し,1933年,国際連盟脱退を通告した。
中国の事情に通じた外国人の中には,日本の行動を中国側の破壊活動に対する自衛行為と認める者もいた。リットン調査団の報告書も日本に同情的な部分があり,満州における日本の権益が正当なものであることは認めていた。しかし,日本の立場は世界から十分に理解されることはなかった。
満州事変は,日中間の対立を深めたが,その後,停戦協定が結ばれ,両国の関係はやや改善された。満州国は,中国大陸において初めての近代的法治国家を目指した。五族協和,王道楽土建設をスローガンに,満州国は急速な経済成長を遂げた。人人の生活は向上し,中国人などの著しい人口の流入があった。
二・二六事件と天皇の決意
その後,政治に介入する軍部の動きはますますはげしくなった。1936(昭和11)年2月26日朝,陸軍の青年将校の一派が1400人余の兵士を率いて,首相官邸や警視庁などを襲撃した。彼らは大臣を殺害し,東京の永田町周辺を占拠した(二・二六事件)。事件の首謀者らは,天皇のもと軍部を中心にした政府を組織し,政党・財閥・重臣を打倒して昭和維新を断行することを要求した。しかし,昭和天皇は「朕みずから近衛師団を率い,これが鎮圧に当たらん」と,断固たる決意を示した。反乱ぱ3日間で鎮圧された。
二・二六事件は西南戦争以後,最大の軍事反乱事件だった。こののち,政治家は絶えずテロによる生命の危険にさらされることになり,陸軍が支持しない内閣の成立も困難となった。言論の自由も,しだいにせばめられていった。
日中戦争と翻弄される日本
盧溝橋における日中衝突
関東軍など,現地の日本軍は,満州国を維持するために,隣接する華北地域に親日政権をつくるなどして,中国側との緊張が高まっていた。また,日本は北京周辺に4000人の駐屯軍を配置していた。これは義和国事件のあと,他の列強諸国と同様に中国と結んだ条約に基づくものであった。1937(昭和12)年7月7日夜,北京郊外の盧溝橋で,演習していた日本軍に向けて何者かが発砲する事件がおこった。翌朝には,中国の国民党事との間で戦闘状態になった(盧溝橋事件)。現地解決がはかられたが,やがて日本側も大規模な派兵を命じ,国民党政府もただちに動員令を発した。以後8年間にわたって日中戦争が継続した。
同年8月,外国の権益が集中する上海で,二人の日本人将兵が射殺される事件がおこり,これをきっかけに日中間の全面戦争が始まった。日本軍は国民党政府の首都南京を落とせば蒋介石は降伏すると考え,12月,南京を占領した。ところが,蒋介石は重慶に首都を移し,戦争は長期化していった。
目的不明の泥沼戦争
戦争が長引くと,国を挙げて戦争を遂行する体制をつくるためとして,1938(昭和13)年,国家総動員法が成立した。これによって政府は,議会の同意なしに物資や労働力を動員できる権限を与えられた。生活必需品の配給制度や物価統制が行われた。
中国大陸での戦争は泥沼化し,いつ果てるとも知れなかった。国民党と手を結んだ中国共産党は,政権をうばう戦略として,日本との戦争の長期化を方針にしていた。日本も戦争目的を見失い,際限のない戦争に引きずり込まれていった。1940年,民政党の斎藤隆夫代議士は帝国議会で,「この戦争の目的は何か」と質
問したが,政府は十分に答えることができなかった。日本は平和解決を望み,1938年から41年まで,何回もさまざまなルートで中国側に和平提案を行ったが,実らなかった。
世界恐慌のあと,日本国内でも,ドイツやソ連のような国家体制のもとでの統制経済を理想とする風潮が広がった。1940年10月には,政党が解散して大政翼賛会にまとまった。これはドイツやソ連の一国一党制度を模倣しようとしたものだった。
悪化する日米関係
1938年,近衛文麿首相は東亜新秩序の建設を声明し,日本・満州・中国を統合した経済圏をつくることを示唆した。これはのちに東南アジアを含めた大東亜共栄圏というスローガンに発展した。
門戸開放,機会均等を唱えつつ,日本をおさえてきたアメリカは,日本が独自の経済圏をつくることを決して許そうとはしなかった。日中戦争で一応,中立を守っていたアメリカは,近衛声明に強く反発し,中国の蒋介石を公然と支援するようになった。日米戦争にいたる対立は,直接にはここから始まった。
1939年,アメリカはさらに日米通商航海条約の破棄を通告した。多くの物資をアメリカとの貿易に依存していた日本は,しだいに経済的に苦しくなっていった。日本の陸軍には,北方のロシアの脅威に対処する北進論の考え方が伝統的に強かったが,このころから,東南アジアに進出して資源を獲得しようとする,南進論の考えが強まっていった。しかし,日本が東南アジアに進出すれば,そこに植民地をもつイギリス,アメリカ,オランダ,フランスと衝突するのは必至だった。
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