投稿者 AIN 日時 2001 年 2 月 26 日 05:36:10:
回答先: 生命と宇宙の基本講座 初級編 投稿者 AIN 日時 2001 年 2 月 26 日 05:27:05:
生き物は、生き続けるべきだ・・・
などというデタラメな事を
一体誰が決めたのか??。
世間を見ると、地球の人間たちは、よく次のような事を口に出して言うようだ。
「私は世のため人のためになる事をしているのだ」と。ならば問うが、
その人類全体は、はたして人類以外の生物や自然の為になっているのだろうか??。
寄生虫のように資源を食い荒らしながら繁殖する人類は、
大小便と二酸化炭素を吐き出す以外には、自然に返したものは、ほとんど何もない。
先進国では、死人の肉や骨さえも、土に返さない始末だ。
やれ世のため人のため、あるいは愛する人や家族のためとか、信仰や理念の為に、
そして地球環境や宇宙の『ために』とか、自分の趣味と楽しい人生『の為に』あれこれ
と奮闘して生きるのは、まったくもってして、実に結構なことだが・・・
しかし、そもそも、人間や宇宙や宗教の神、その他、あなたが生きがいとしている、
その「対象物そのもの」には、はたしてそれらは、そこに存在しているほどの価値があ
るのかどうかを問う事が、「先決問題」なのであるまいか??。
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最低限の衣食住の生産に従事する人々、例えば農業や建築にかかわる仕事の人々は、
自分のしていることは、人類の生存には「不可欠な産業だ」などという自負があるかも
しれない。
しかし、「人類そのもの」は自然にとっては、必要不可欠な生物ではないのであるから、
そんな人類の生存と繁殖に貢献するような食物や住居を作ること自体の是非を我々は問
い正すべきだろう。
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また、医療に携わる者たちは言う。
「私は大切(?)な人の命を守っているのだ」と。
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また、よく料理人は言うものだ。
「私の作った物をおいしいと喜んでくれるのが私の喜びだ」と。
しかし医者に直された者や、その美味しい料理を食った客は、その晩には、
元気ハツラツとした一人の殺人者となるかもしれないのである。
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また芸術家たちは言う。「私の作った作品に感動してくれるのが喜びだ」と。
だが、それで感動する人間たちは、そもそも感動を与えるに値するような生物なのだろ
うか??。
そもそも人間たちが経験する喜びやそして感動的興奮や、
愛などというもの、そして宗教的歓喜や悟り、宇宙全体から見たら、
一体どれほどの商品価値あるいは存在価値があると言うつもりなのだろうか??。
こうした、「他人が喜んでくれればいいのです」あるいは「自分が楽しんでいる」など
と言いながら行われる無数の創造行為や趣味や研究や娯楽、
そしてとりわけ偽善的宗教活動も、『地球の自然そのもの』にとっては、
「単なる迷惑なガン細胞」にすぎないのではあるまいか??。
我々は、むやみやたらと進化だの、愛だの、自然環境の為だの、
自分の趣味や好奇心や、研究の為だのと、そうした『何かの為』に生きる前に、
まず人類や生物や、神や宇宙やら異次元世界だの、人生の楽しみやら、
そして何よりも「あなた本人」が、そもそも、そこに存在している意味などが本当にあ
るのかどうかを、その根底から、とことん考え直してみるべきであろう。
・・・・・・・・・
さて、ならば結局のところ、人間は生の経験の中で、
一体何を求めていると言うのだろうか??。
人は、よく『楽をしたい』と言う。
「私は永久に苦しみたい」と嘘ではなく本気で言う者などは、この世には存在しないか
らだ。「一時的なら苦しんでも、その代償として後で楽になりたい」などという打算的
な事ならば、すぐに「ずるい人間たち」が言いそうなことだ。
しかし、それはあくまでも自我の『取引』だ。
「我に七難八苦を与えたまえ」なんぞと、偉そうに言う聖者がいたとしても、
「我に永久の七難八苦を与えよ」とだけは、彼にも言えないからだ。
しかも七難八苦のあげく、またはその自己犠牲の結果に、自分も他人も、
誰一人も救われない「ただの徒労」になる事が「確実」だとされたら、
それでも彼は自分に苦を浴びせるだろうか??・・・否である。
だから、凡人も、聖者も、動物も人も皆、空腹の苦や、縄張り争いや病の苦や、
生存競争の苦や、自分の死の苦を嫌うのが、生の世界というものである。
さて、これほどまでに、全生命に嫌われる「苦」であるのに、
どうして、「苦」などが我々や生き物にあるのだろうか??。
それとも我々は未熟な魂なので、生を苦だと「勘違い」をしているのだろうか??。
だが、そんな、誰かの都合のいいような論理には人間は断固賛同できない。
「苦しむのは、魂が未熟な、お前ら人間の誤解と成長不足による」などという、
そんな勝手な言い分をする仏や神や宗教など、人間は絶対に信じるべきではない。
また「苦があるから、それを超える意識に到達できる」などという導師やら、
チャネラーたちのくだらない言い分も、人類は断固として信じるべきではない。
なぜならば実際問題として、我々人類は、何万年も成長もしていなければ、
そんな意識にも到達していないし、その兆候すらないからだ。
そんな理屈では我々が、この自分の生の苦を容認できる説得力になどならない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さて、もしも、我々が死と無からだけ逃げるようにプログラムされていたら、
それほど「道」は困難ではなかっただろう。もしも、そうだったら、
ひたすらに、生きる事に向かえば我々の苦はなくなるはずだからだ。
ところが、その生きてゆく事に対してすらも、我々は苦を感じてしまう。
そして我々は逆にこれこそ救いになると思った「絶対の静寂」に向かっても、
苦を感じてしまうのである。
生物は、実に中途半端に作られたものなのだ。
人は、自分の許容量を超えるほどの『動き』についてゆくのに苦を感じ、
人は、自分の許容量を超える『静寂』に馴染むのにも苦を感じてしまうものだ。
たとえれば、それはまるで惑星や衛星や電子のようなものだ。
惑星は、止まることは許されない。また惑星は、その中心の恒星と一体化することもで
きない。かといって惑星は、一定の軌道の外にも自由に出る事はできない。
それは、ただ、奴隷のように、同じ軌道を回り続けるだけだ。
まるで、それは宇宙的な規模での『社会適応』とさえ言える。
「枠の外へは出るな、他のみんなより動きすぎるな。
しかし止まりすぎることも駄目だ」というわけだ。
しかし、どうしてそんなふうに動き続けたりせねばならないのかとか、
枠を
出てはいけないかの「その理由」を、誰も説明をしてくれないのだ。
そして、その『宇宙に適応して生きて行かねばならない理由の説明』を求めると、
決まって『神とやら』が言うことはこうだ。
『そうしないと、生命と存在の万物が困るのだ。
第一、おまえは、その生の恩恵を受けているくせに何を言うのか?』と。・・・・
だが私は「そいつ」に言ったものだ。
『そんな事をされたら、この会社はつぶれるのだ、と言い張って、
毎日毎日社員を働かせる会社があるとしよう。
では、そもそも
「その会社がつぶれてはいけない理由」を、明確に説明したまえ????。
それともうひとつ。私は存在に恩恵などは受けていない。受けているとしたら、
すぐにでも解約してもらいたいものだ。
その代償として永久の死がやって来ても構わん。』
これが、人間社会の会社ならば、こうした口論の結末は、
「そんな事を言うなら、出て行け」・・『ああ、出て行ってやる』で事は済む。
しかし、宇宙では、出て行くところなどあるまい。
すべての生き物は宇宙の奴隷として働き続けるだけだ。
たとえば、養鶏所のブロイラーには、自分の生命を自由に生きる権利などない。
「君は、偉大な人間たちに食べられて、役に立つのだよ」などと、
どんなに慰められたところで、ブロイラーたちが、ただ毎日、薬品入りの餌を食って、
人間の為に肥えて、最後には、ただ食肉にされるという自分たちの立場を、
一体どう「ポジティブに思え」と言うつもりなのだろうか??。
ちょうど人間たちが、「神様や仏様に食べられる(一体化できる)ならば、本望だわ」、
などとつまらぬ幻想を見ているのと同じように、
鳥たちも自分が、ただ食べられるために生まれて来て、毎日毎日、ただそのために、餌
(快の信号)に首をつっこんで、暗い檻(存在)の中で生活(生存)している事に、
自分たちが生きる意味の美化や感謝でも、しているとでも言うつもりだろうか??。
しかし、「人間様たちに食べられるのは、私たちの一番の幸せなのね」などと言うその
「鳥たちの信仰と自己犠牲」の精神に反して、
それを食べた肝心の、その人間たちが、かくも『不幸』であるのは、全くの『皮肉』と
しか言いようがない。
全く同じように、おそらくは、
宗教的信仰心のある人間たちの心のエネルギーを、いくら食ったところで、
肝心の当の神が、依然として、毎日不幸な日々を送っている事だろう。
その証拠に、もしも神が本当に幸福だったら、
とっくに宇宙そのものが「廃業」しているはずだからだ。
また、この活動自体が示唆しているのは、彼ら神たちも常に
「何かのエネルギーを食わねば苦がやってくる」という証拠でもある。
もしも、神が存在に本当に満足していたら、宇宙は存在などしていない。
と言うのも、原則として満足の中では、何も生産する必要がないからだ。
すべての生産行為は、常に何かへの『必要性』からくるのが原則だからだ。
では、その『必要性』とやらは、一体何であるのか???。
いつだって、それは誰かが『生存するため』に決まっているのだ。
このように、食われるものを「食う者たち(神々)」を、もしも
「単なる大馬鹿者の集団」、に見える視点に立ったらば、もはや、自分のこの生、
そして繰り返される輪廻で受ける苦には、どんな慰めも成立しない。
では、人はこの生の中を、どうやって、かろうじて、生きているのだろうか??。
空腹の時に、ご飯を食っては「うまい」と思って生き、恋愛をしては幸せだなどと、
思い込んで生きてゆき、精神世界の本を読んでは「おもしろい」などと思って生き、
霊的世界を夢想したり、研究したり、瞑想や修行をして、
「ここで修行すれば、そのうちになんとかなる」などと、勝手に思い込んで、
なんとかかんとか自分の生きる気力を持ちこたえて生きてゆくのである。
すなわち、宇宙が実は、絶望的な苦の連鎖にすぎない事を「ごまかす口実」を、
自分や他人にふりまいて、我々は、幻想の慰めによって生きて行くのである。
しかも幻想は長続きせず、また退屈がやってくるために、
常に新しく作り替える必要が出てくる。
全く、生命とは苦労の絶えない、終わりなき徒労なのである。
・・・・・・・・・
しかし結局は、こんな創造行為で一体宇宙の誰が利益を手にするのだろうか??。
それがすなわち、『動き(宇宙の陰陽の活動)』というものなのである。
もしも生物に「苦」がなければ動きは完全に停止してしまうからだ。
つまり生物の「飢えの苦」とは、宇宙に「動き」を作り出す『重要な』手段として宇宙
では必要になったわけである。
(生かされている我々にとっては、ちっとも『重要』ではないのだが。)
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たとえば、惑星とその生物を設計するとしたら、
食事を必要としないように
作るだろう。また仮に食事が必要だとしても昆虫から哺乳類に至るすべての生物が、
泥や雨水を飲むだけで、生涯を生きてゆけるようにすればいいはずだ。
ところが、地球を見てみるがいい。
どうして、なんの必要もない弱肉強食などがあるのだろうか??。
なぜ食物連鎖が、かくも複雑に『連結』していなければならないのか??。
この原因は、ひとつには、弱肉強食の複雑な食物連鎖によって、
生き物たちが絶えず緊張状態と活動を繰り返すからである。
また、食物連鎖によってエネルギーや情報なども運ばれるからだ。
人間に暴力的な知恵を与えて他の生物を制圧して、雑食をするようにプログラムをした
のは、人間の中で食物を通じて行われる情報の「ゴタ混ぜ合成」を地球の生物飼育管理
者たちが実験したかったことも理由の一つだった。つまり人類の脳は、
情報のミキサーのごとき機械として機能している。
しかし、いずれにしても、人がどのような生き方と死に方をしたところで、
人の死の最後の出口にはその調理の結果としての料理(=生命情報と生命燃料)を食う
『グルメ』または『生存中毒患者』が存在するという事は確かだ。
利用される事のないエネルギーや物質形態は決して生産されないのが、
『産業』や『創造行為』というものの基本だからである。
だから、どんなに巨大な全宇宙も、結局つまるところは、
人間たちや、宇宙の高次元知性体が毎日ここでやっているような、
この愚かな生活や企業と「全く同じこと」をしているまでの事である。
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『とにかく存在しなければならないのだ』という強迫観念によって作られる、
無数の「無駄な生物」とその動きとその連鎖システム、その共存システム、そしてその<
br>為の口実、つまり神の創造の『不始末』への「言いわけじみた宗教教義」・・・
これが全宇宙の活動の根拠の実態だ。
だが、時には探求者の一問が、宇宙意識そのものを絶句させる時がある。
真の哲学者は問う。
哲学者『宇宙の活動や、その企画の偉大さの理屈をダラダラと言う前に、
まず「君(宇宙)そのものの存在理由」を明らかにしたまえ』と。
すると、神は「嫌な顔」をして、こう言うだろう
神「その理由を君たち生物に探求してもらっているんじゃないか」。
だが、それに対して知恵ある探求者たちは、こう言うのである・・・・
哲学者
『そんな、くだらない仕事は降りる」