投稿者 AIN 日時 2001 年 2 月 26 日 05:48:17:
回答先: Re: 生命と宇宙の基本講座 中級編 投稿者 AIN 日時 2001 年 2 月 26 日 05:36:10:
生きるとは、飢えて苦しみ、
もだえて動くのみである。
たとえそれが宇宙の
「どこの誰」であっても
結論から言えば、結局のところは《生存の為》に我々の自我が発達し、
生存の為に思考が発達し、生存の為に善悪が存在し、生存のために宗教的口実があり、
社会や国家の生存のための自殺がある。
自我、思考、倫理、宇宙、思想、文明、これらはことごとく生存の為にある。
これらは、生存というたったひとつの命令の中で生まれた多種の手段である。
だから、これらは、唯一「生存の為にのみ貢献」する。
したがって、もしも生存という目的が消し去られてしまうと、
自我、思考、善悪、思想、文明、本能、
これらはその一切の存在価値を失う。
だから生存を目的として生まれ出るものは、宇宙のいたる次元で、
どこにでも無数に存在する。
ところが、世界には[死の為の何かをやる]というものは公然とは存在しない。
・・・・・・・・・
では、我々の最も根底であるこの「生存」とは一体なんであるのか??
「生まれたことは素晴らしい、生きることは素晴らしい、
生み出すことは素晴らしい」などと人々は言う(よく考えもせずにだが)。
では、「生きるとは、それはいかなる事であるか定義しなさい」という質問には、
あなたは一体どう答えるつもりだろうか???
あなたは、いつの間にか生まれ、いつの間にか生きてしまっている。
いつの間にか教育をされ、いつの間にか自分の好みの価値観だけを寄せ集め、
いつの間にか、「死ぬまでは生きていなければならない」などと思い込むに至った。
人間は、泣きもすれば、笑いもする。苦痛もあるが時には快楽もあるために、
あなたは、生きている事は「まんざら悪くはない」と思いがちだ。
また、極端な場合には、生き延びることこそ唯一の善であるなどと錯覚もする。
この中には、むろん、自然や他者との共存やボランティアなどという
これまた「生存行為」も含まれることは言うまでもない事だ。
しかし、生きて動くことという、この最も根底にあるものを、
あなたは、あまりにも、うっかり見落としている。
・・・・・・・・・
生存行為とは、実のところは、生物の特権でもなく、人間の偉大な目的でもなく、
生きるということは、単に『苦痛の回避という行為』だけであるのだ。
・・・・・・・・・
たとえば、我々の基本的な生存である「衣食住」、
これらは一体何の為に行われるのか??。言うまでもなく、
衣類は[苦痛]を感じないための保温のためであり、
食事は、空腹という[苦痛]を感じないためであり、
住居は、保温や外傷の[苦痛]から身を守るためである。
さまざまな文明や娯楽の発達以前に、そもそも生物の生活の最も根底にある、
この衣食住が、もともとは、それらの行為自体を「楽しむためにではなく」、
単に肉体の[苦痛を避けるために行われている]という事実にこそ注目すべきである。
すなわち、人々が「生きることは素晴らしい」と言うのであれば、彼は
「苦痛を回避しようとして[もがく]行為は素晴らしい」と言っているのと同義なので
ある。
「あなたは何の為に生きているか??」に対する最も明確なる論理的回答は、
『苦痛を回避するために生きている』という事なのである。
これが生きるとは何であるかの答えだ。
そして、厳密に言うならば、それは決して死の回避ではない。
死そのものには苦痛はあり得ないからだ。
問題の多くは死の「プロセス」に向かう途上にある[苦痛]への恐怖にすぎない。
・・・・・・・・・
さて、ここで人々は言うだろう。「人はパンのみにて生きるにあらず」と。
ところが、人間は、そのパンのみではないものが、
実は「それもまたパンに過ぎない」という事実を決して洞察しない。
パンのみの為ではない人間の活動とは、いわゆる科学、文化、娯楽、芸術、哲学、
そして宗教信仰などを「漠然と」指さして言っているようだ。
しかし、科学はもともとは「効率よくパンを手にするため」に発達したものだ。
宗教は、その多くは「結果的にパンが手元にきやすいように」善行とやらを積むことに
費やされる。
また哲学とは、精神安定剤の代用物としての「観念のパン」の事だ。
「いや、パンのためではなく人間の本質の探求や、宇宙の法則の解明とその利用のため、
そして幸福と愛と知恵の拡張のための宗教なのだ」という『わめき声』が、
さっそく人類から聞こえてきそうだが、そこであなたたちに言っておこう。
あなたが、もしも幸福感を求めるとしたら、
それはあなたが幸福感に[飢えている]という事実だ。違うかね??
あなたが、もしも愛を求めるとしたら、
それは愛にまぎれもなく[飢えている]という事実だ。違うかね??
あなたが、一般的な学問や、あるいは神秘的な法則の解明を求めるとしたら、
あなたは、情報と知識にまぎれもなく[飢えている]という事実だ。違うかね??
あなたが、芸術やゲームを求めるとしたら、
あなたは、まぎれもなく刺激に[飢えている]ということだ。違うかね??
あなたが、誰かの為に活動したり、協力をしたりするなら、
あなたは、他人からの賛成や共感の声にまぎれもなく[飢えている]か、もしくは、
自分の落ち着きのなさを何かにぶつけて発散させる事に[飢えている]かだ。
違うかね??
ここに共通するものが何か、お解りのはずだ。
それはあなたの『飢え』だ。
膨大な時間と財産があっても、あなたはじっとしていられず、
退屈のあまり、何かを始めてしまう。
これらは、すべて[飢え]すなわち、『何かが足りないという不足感』以外の原因では
起こり得ない。
ただ、じっとしていて『満足』していることがあなたにできるならば、
あなたには、動いたり、何かを見聞きしたり、学んだり、誰かに会いに行ったり、
テレビを見たり、余計な創作物を作り出す必要など何一つないからだ。
また、あなたが単にじっとしていられるならば、あなたはリラックスのために瞑想など
したりする必要すらないはずだ。
ところが、あなたは、衣食住が満たされていても、じっとしている事すらできない。
これらは、すべて『飢え=すなわち[不足感]』から発生する。
そして[不足感]とは、実はこれまた[苦痛]と同義である。
・・・・・・・・・
このように、衣食住の確保安定という生存の基本行為や科学に関しても、
その発端は『苦痛からの回避』であり、
信仰、芸術、創造行為に関しても、その発端は、つまるところは
『心理的な不足感』という『苦痛からの回避』である。
してみれば、我々のあら
ゆる生存行為、そのための科学、文化、信仰も、すべては、
生存のため(正確には『苦痛の回避』)を目的として発生していることは明白だ。
そして、苦痛の定義とは、それは、[あなたが『落ち着けない』という状態]だ。
このように生命とは絶え間無い『苦痛』をまずその根底としている。
さて、これに異論を唱える者など、果たしているだろうか??
・・・・・・・・・
しかし、どうしてこのような[苦痛]などが生き物に必要なのだろうか??
実は、苦痛というものは、生物を[動かすため]に絶対に不可欠な要素なのだ。
たとえば、衣食住が満足された人間をさらに動かすためには、
彼の中に、刺激を求めて動くための[苦痛]を与える必要がある。
これが「退屈感」という苦痛である。
また、刺激を得ても、満足させないで、まだ動かそうとするならば、
彼の中に万物や自己の根源、あるいは全体との一体化を求めて動くための[苦痛]を与
える必要がある。これがすなわち「孤独感」あるいは、
探求心という名の「支配欲」または「依存欲」だ。
アメーバですら、食を求めて絶え間無く、動いている。
したがって、飢えるという基本的な苦痛は生物が動くためには必要不可欠なものだ。
・・・・・・・・・
また、あなたは全く気がつかないでいるが、人間が利用しているあらゆる物理法則は、
『原子レベルでの苦痛』が存在するから応用ができるのである。
「原子や電子に苦痛などあるはずもない」とあなたは思っているだろう。
だが、苦痛がなければ動きというものは決して存在しないという原則がある。
原子レベルでの苦痛、それは時空間の[歪み]として経験されている。
原子の中の苦痛、それは人間が感じるような苦痛ではないとあなたは思っている。
しかし、それは実は人間が感じる苦痛の感覚と全く同じなのだ。
プラスとマイナスが出会えば、それは必ずスパークする。
しかし、どうしてそうならねばならないのだろう??
それは、もともと一つであったものを2極に分割した場合には、
その分割がそれぞれの極に苦痛を生み、その苦痛を回避しようとして、
おのおのが「元のひとつに戻ろうとする動き」を生み出すからだ。
あなたたち人間の世界で言えば、それは男女の分離だ。
これと同じことが、全万物の根底である原子、素粒子、
そして各次元空間を構成する因子にも絶えず起きている。
・・・・・・・・・
これゆえに、ひとことに言えば、存在物すなわち、
動いているものすべては、苦痛を感じているのである。
そして、その苦痛の回避のために「もがく」こと、
それが『生きる』ということである。
生きているのは、オケラや、アメンボばかりではない。
エイズウィルスも、核燃料も、コンセントの中の電気も、電波も、あらゆるものが、
生きている。
すなわち、あらゆるものが分割の苦痛を回避しようとしている。
そして、生物においては、あらゆるものが、それぞれの飢えを回避しようとしている。
肉体の飢えの苦、感情の飢えの苦、知性の飢えの苦、
そしてもともと一つだったものが、宇宙的なレベルで分解してしまった、
魂の一体化への飢えの苦を回避しようとしている。
・・・・・・・・・
生きるとは何か??・・・
生きるとは、ひっきょう『苦痛の回避作業』だ。
苦痛とは何か??・・・
苦痛とは、つまるところ『落ち着けないこと』だ。
落ち着けないこととは何か??・・・
それは『停止できないことだ』
停止とは何か??・・・
それは、『完全なる消滅死』のことだ。
すなわち、完全な絶対の虚無こそ、
我々が唯一、苦を回避できる場なのである。
それ以外のいかなる次元も[生きている]かぎりは、動いており、
[動く]かぎりは、そこにはその根底に[飢え]の[苦痛]がある。
これこそが、東西の賢者たちが、
森羅万象の一切は苦であり、
この世界は不完全なる宇宙であると看破した
その『根底の洞察』なのである。
だから、たとえ「絶対の自由を得たい」などとあなたが大袈裟に立派な事を言ったところで、
それもまた、結局は、あなたは自由の境地に
「飢えている」にすぎない生物であるだけだ。
たとえば東洋で言われているような悟りが、
もしも根源との一体化だとしたら、
あなたはやはり、単に、電子や原子のように、あるいは、母親の母乳に飢えている子供
のように、単に「飢えの苦しみの中」にいるにすぎない。
生きることとは何か????
その答えは、何かに「飢えて苦しむこと」であり、
「その飢えを回避しようとして動き続けること」なのである。
・・・・・・・・・
そこで賢者たちが見い出した、唯一の抜け道は、
存在をしないこと、すなわち『非在』へと消え去る事だったのである。
したがって、「賢者の石の智恵」とは、
他の諸説紛々たる宗教の説く万物や神との一体化でもなく、
高次元への転生やら光への回帰でもなければ、
さまざまな次元世界を意識として旅をして、学習を続けることでもなく、
霊的階層世界への参入でもない。
まったくそんなものではない。
賢者の石、
すなわち絶対の「智恵の結実」とは、
『宇宙から[おさらば]する』ということなのである。