投稿者 AIN 日時 2001 年 2 月 26 日 05:27:05:
善悪基準は
生死の分別から発生している
社会、あるいは人間の「善悪基準」とは、一体何なのであろうか?。
何かが「いけない」と誰かから言われたり、
何かを見聞きしたときに「なんとなく」それがいけないことだと、
ついつい「反射的に思ってしまう癖」が人間にはあるものだ。
よく考えてもみないで、ただ「いけないと教え込まれた」ために、いけないと思ったり、
あるいは、外見が「いかにも良くないように見える」から感情で悪いと判断する物事が
我々の生活の中で実に多くある。
しかし、人間が日ごろ、生活の中で、あるいは宗教や寺などで実に軽はずみに
「いけない」とか「いい」と言っているものは、よくよく洞察してみれば、
それはすべて『ある単純な問題』に集束しているのである。
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例えば、「いじめ」はなぜ、いけないか?。ためしに逆に、仮定してみよう。
もしも、いじめられた者が、気分が楽しく、そして健康になるとしたら、
いじめは悪いとは言えなくなってしまう。つまり我々の社会では、
いじめられた者は落ち込んでしまい、活動しなくなりやがては「不活性」になってゆく。
そして最後には自殺するケースもある。つまり『死』がそこに見えるのだ。
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「戦争」はなぜ悪いのか?。それは殺される者がいるからだ。つまり『死』だ。
しかし、「勝って生き延びた側」には、それはまぎれもなく『善』なのだ。
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「学習」をしないとどうしていけないのか?。
それは生きて行くのに、情報に適応できなくて、不便になるとか、
あるいは、何かと知識を知っていたほうが、生き延びるのに有利だからだ。
すなわち、無学だと、『死ぬ』可能性が多くなるとでも思い込んでいる。
だが、実際には、下手に物事を知ったために死ぬケースすら多いのだが・・・。
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また、どうして、「病気」は悪いことと決めつけるのだろうか?。
それは生きて行くのに不便であり、病が進行した場合には『死』があるからだ。しかし、
病気をすると、そのあとは以前よりも何倍も健康になる・・・などという事が医学的に
証明でもされたら、一体どうなるだろうか?。
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なぜ、挨拶をしなかったり、「無愛想」だといけないと言われるのか?。
他人とのそうした(軽薄な)接触がなくなると、いざ困ったときに、誰も助けないので、
生存に不利なのである。
ゆくゆくは『死』か、あるいは「生きるのに不便になるであろう」というわけだ。
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女性が容貌やスタイル、すなわち美容に異常なほど執着するのは男性からは単なる愚行
としか見えない事だろう。だが、女性にとって、社会的に美しいか醜いかという問題は、
その根底にあるものは、彼女たちの死活問題であるのだ。
女性は美しければ(というよりも、美しいとその時代の多数決で決まれば)、
少なくとも醜いと呼ばれるよりは結婚可能な確率が増える。
また社会進出をしたところで、結局は男性社会が支配的であるこの時代では、
美しいとされる女性には商業的な商品価値もそこに加わり、
彼女たちの収入が増加する可能性があったのである。
つまり、男性中心の基準の実力社会で、経済的に女性が自立するのが困難である
この20世紀の女性にとって、美容とは即サバイバル問題そのものなのであった。
このように、我々が、日ごろ、口癖のように「良いこと、悪いこと」と言っているもの
は、実のところ『生存に有利なもの』あるいは、ゆくゆくは、
生き延びるのに有利になるであろうものは「良い」という事になっており、
生存に不利になるものは『死』につながるので「悪い」という事にされているのだ。
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たとえば「元気がないように見える」のは、なぜいけないなどと言われるのだろうか?。
それは元気がないと、活動が静まり、やがては動かなくなり、
最後には『死ぬ』という「勝手なイメージの連想」が人間たちの中にあるからだ。
しかし、実際問題でいえば、じっとしていた者が死んだケースはほとんどなく、
下手に動き過ぎたのが原因で死ぬ者の方が圧倒的に多いのは皮肉なものだ。
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また、「精神病」は、なぜ悪いと言われるのだろうか?。
もしも社会に適応しなくても一生暮らす分の財産があって生きてゆけるならば、
そして誰にも迷惑をかけない隔離された環境にある精神病だったらば、
そこにはどんな悪も存在しないはずだ。
それが悪いと言われるのは常に「集団社会には不利だから」という理由である。
山下清が、もしも有能な画家でなかったら彼は単なる「迷惑な者」にされただろう。
実際には一種の精神病である彼を、変に評価しているのは、彼の作品が原因である。
彼の作品は、彼の生存にはなんら利害関係がなくとも、それを手にする他者にとっては、
生きるのに有利な「価格」がつくからだ。・・・たったそれだけのことだ。
つまり、他者の「生存に有利な物を生産する狂人」ならば、社会は受け入れるのだ。
しかし、誰かの「生存に貢献しない狂人」は、ただ幽閉されるか、ただ単に殺されるの
である。このように、人間には、非常に外面的で、漠然としたあいまいでいいかげんな
『何でもかんでも生死分別に分けるイメージ回路』というものがある。
だから、人は、静かな状態や、物事の停止や不活性状態、そして病気などを
見ると、そこに最後にやってくるであろう『死』を、うっかり連想してしまう。
(実際には、それらは、死とは直接には全く関係ないにもかかわらずだ)
しかし、人が死ぬという事は、生命の楽しみも失うが、
まったく同時に、生の苦しみも失うのであるから、本来ならば、
死というものの価値は、良くも悪くもない中道であるべきものだ。
ところが、死は「とにかく悪いのだ」という固定的なイメージが人間にはある。
死、あるいは、ゆくゆくは死ぬ事になるであろう兆候は悪いとする傾向がある。
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たとえば、「誰かを殴る」ことが悪いと言われるのは、なぜなのか??。
それは殴られた者がケガをしたら、その痛みで「動くのに不便」になり、
動くのが不便である事は、これまた「生存に不利になる」というわけだ。
だから、逆に、もしも、殴れば殴るほど、殴られた肉体は元気に丈夫になるとでも医学
が証明したら、殴ることはその日から悪ではなくなるだろう。
また、たとえ殴ってもケガをしなかったような場合でも、なぐられると「苦痛」がある
のでそれは『悪い事』と呼ばれるようになる。
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さて、では、どうして「苦痛」がいけない事なのかと
言うと、
苦痛を感じている間は、人は、「生存するための行為が出来なくなる」というのがその
理由だ。苦痛のときは、生き物は、一時的に動かなくなる。
そして、これがすぐにまたもや「動かないことは死につながる」というイメージに連動
するのだ。
また、逆に苦痛に耐え兼ねて「暴れる」という(つまり余計に動く)場合もあるが、
これまた「生存に不利な動き」をしているから悪いというイメージがあるのだ。
たとえば、狂人が暴れるとする。それは、「元気に動いていて」、
むしろ生き生きと活動しているから、「良い」はずなのだが、それは、今度は
「他者の生存や身体を脅かす」という理由で悪いとされるのだ。
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一方、全く社会には、なんの生産性もなく、生存問題にも関係ないオリンピックである
のに「速く走れる者」がなぜ『良い』などと評価されて言われるのだろうか??
つまり速く走れると動物の世界ならば、いざというときに、逃げられて、助かるからだ。
少なくとも遅いよりは獲物を捕獲するにも有利だ、というような見方が人間にあるので
ある。
(まぁー、それだけではなくオリンピックというものがテレビの視聴率競争や、
スポーツ用品メーカーの市場である面が大きいわけで、
どこかの企業や政治家の「生存に有利だから開催される」という点では基本的には
それらは『生き延びる材料』である事には変わるまい。)
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速く走ることの価値、ということで思い出したが、
ある本の中で誰かが、こんな事を言ったことがある。
『この世界の価値基準は、すべて死からの距離で計られている』と。
すなわち、死からより遠くへ逃げられる者に『点数』が与えられるのである。
たとえば、財産があれば、飢えて死ぬ「確率」が減って、
死から少しは遠く離れられると「思い込んでいる」わけである。
(確率的に遠くへ行けるというだけで、死から逃げ切れるわけでもないのだが)
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また、性格や、人当たりが他人に不快感を与えないとか、さらには、
他人を愉快にする振る舞いをすると、
「こいつは、私に害がある者ではない」などと相手が勝手に思い込み、
それによって、さまざまな交渉が成立しやすくなり、
それが結果として「生存に有利」になるのである。
これまた、根本的な魂胆にあるのは、結局は『生存に有利か不利か』なのだ。
他人の前で明るくすれば、生に関係する報酬がいつかやってきて、
他人の前で暗くすれば、いつかは、死が近づくとでも思い込んでいるわけだ。
だから、こうした、社会や親や教師たちや、聖職者どもが、
しょっちゅう口癖のように言う、「良い」とか、「悪い」という安易な決めつけの、
その「本当の根拠を」よく考えてみるがいい。
「なぜ、いけないと言うのか??」。
「どうして、いけないと言うのか??」・・・と。
すると、必ず、そこには、
「死ぬような結果になる方向のものは悪いものだ。
生きる結果になる方向は良いのだ」という、
実に『軽薄な基準』がある事に気が付くはずだ。
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・・・では、どうして、そうまでして、生きて死んで、
その間に、自分の夢などを実現しようとしたり、個人的な趣味に没頭したり
はたまた、修行などをしたり、幸福を求めたり、そんな事までして、
『一体そもそも、なぜ我々は、宇宙に生存などしていなければならないのか??』
これこそが、問われるべき、唯一の問題なのだ。
だから、次に、その事について考えてみようではないか。
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