投稿者 SP' 日時 2000 年 11 月 16 日 15:21:29:
『日本政府はUFOを知っていた』(太田東孝著、KKベストセラーズ)全4章中1〜3章より。
1章−自衛隊機はUFOと交戦していた
UFOを正しく理解するには?
アメリカ政府は長年、UFOに関する情報を隠し続けてきた。まさか? と言う人がいるかもしれない。何をいまさら……と言う人も多いだろう。
しかしこれは、いまや周知の事実としておおやけに知れ渡っている。
ではなぜ、これが事実なのか? UFOがそもそも存在しないなら、何も隠す必要などない。ましてUFOという単語が未確認の飛行物体(星、気球、鳥やその他の自然現象)のすべてを指しているのではなく、地球外起源と推定される航空物体を指し示すということを知ってしまうと、その謎は自ずと解けてくるではないか?
そして、この基本原則とも言える事実を踏まえたうえでなければ、UFOを正しく理解することはできないであろう。
とかくUFOにまつわる話には、オカルト的なものが多い。
たとえば、「私は○○星人とコンタクトしている」「秘密兵器として地球製UFOを開発している」「宇宙人とアメリカ政府は密約している」等々と、あげていったらきりがない。
これらをSFとして楽しむのならよいだろうが、事実か否かを判断するには証拠があまりにも少なく、さらに話をすべて混ぜ合わしてしまったら、何がなんだかわからなくなってしまう。
そこで本書では、証拠として足りうる情報のみを取り扱い、日本政府がUFO情報をどのように取り扱ってきたのかを提示していこうと思う。
アメリカ政府は事実を隠蔽してきた
なぜ、アメリカ政府がUFO情報を“隠していた”ことがバレてしまったのか?
この事実は、一九七八年一二月一四日に明らかにされた。
それ以前、アメリカ政府が行なってきたUFOに関する一般向けの発表とは、「UFOは星などの見まちがいがほとんどだ」「UFOは安全保障の脅威とはならない」「UFOが地球外起源の乗り物である証拠は存在しない」というものであった。USAF(米空軍)は一九六九年にUFO否定の発表を行ない、今後UFOの調査はしないと宣言していた。
しかし、UFOを研究する民間の研究団体は、この発表に納得していなかった。
そこで、GSW(地上円盤観測機構)という研究団体の代表を務めるビル・スポールディングと弁護士のピーター・ガーステンは、一九七八年七月にCIAを相手取り、UFO情報の公開を求めて訴訟を起こした。
幸いと言うべきかアメリカには、ニクソン元大統領のスキャンダルとして有名なウォーターゲート事件のおかげで、“国民の要求に応じて、必要な情報は公開されなければならない”という趣旨の法律『情報の自由公開法(FOIA)』が一九七四年に施行されていた。
スポールディングらはこのFOIAを利用し、初めてUFO情報の公開を求めての裁判を起こし、その年の一二月に勝訴した。
約千ページにもおよぶUFOに関連する公文書(政府機関内で取り扱われる文書)は、こうした経緯を経て初めて大衆の前に姿を現わしたのである。
また、突破口を開いたGSWの動きに同調するように、そのほかの研究団体もFOIAの利用によって、USAF、FBI(連邦捜査局)、NSA(国家安全保障局)等から、次々とUFO情報を引き出すことに成功した。
こうして公開された膨大な量の公文書は、種々の機密保持という理由からその多くがスミで黒く塗りつぶされていたが、判読できる部分を取りあげてみても、それまでの政府の見解がまったくの嘘であったことをはっきりと証明していた。
特に重要な部分は、以下の三点だろう。
●一九六九年以降もUFOの調査は継続されてきた
●UFOは現実に存在する
●UFOは地球外起源の乗り物であると推測される
これらの内容は「UFOは現実に存在しないので興味はなく、調査も打ち切る」という発表を否定するばかりではなく、UFOが政治・軍事のうえで非常に重要な位置を占めていたことまで表わしていた。
ちなみにこの公文書は、現在ワシントンDCにある国立公文書館には保管されておらず、閲覧するためにはFOIAを利用して情報の公開を求めるしかない。そのため、たとえば日本の一般の人たちには、このことが新聞やテレビのニュースで報道されないためになかなか知られていないのだ。
以上のことを踏まえると、UFOは云々……という話は一つの方向性のもとに話ができるのではないだろうか?
すなわち、裏付けのできないSFチックなUFO情報はひとまず置いておいて、少なくとも一国の政府が、UFOをどのようにとらえてきたのかという事実だけは“現実のUFO情報”として処理できるだろう。
米空軍に日本のUFO事件が記録されていた
先に示したアメリカ政府が公開した公文書には、米国内でUFOと軍隊が接触し交戦状態に陥っていたことが数多く記されている。
では、日本の自衛隊に関することは出ていないのだろうか?
いままで私たちは、自衛隊がUFOと戦闘しているという話なんて、まさかあるわけがないと思ってきた。が、しかし、おおやけに伝えられる以外のところから記録が出てきたのだ。
この証拠とは、当の日本のモノではなく、米空軍の発行している『ヒストリカル・レポート(HISTORICAL REPORT)』に公式記録として記載されている。
ちなみに、米空軍のUFO報告書といえば、有名なものとしてプロジェクト・ブルーブックのレポート(プロジェクトの調査記録)がある。七五万ページあまりもあるこのブルーブック・レポートにも、日本のUFO事件が掲載されている。
そして、「プロジェクト・ブルーブック」(一九六九年一二月閉鎖)とは、かつて米空軍が公式に設置した“UFO調査のための機関”である。
アメリカの公式UFOプロジェクトの歴史は、一九四八年に初めて設置された「プロジェクト・サイン」にまでさかのぼることができる。
当初、プロジェクトが作られた理由は、たびかさなるUFO目撃事件に対処するためであったものが、閉鎖・再開を繰り返しながら時を経るうちに、名称も「プロジェクト・グラッジ」「プロジェクト・ブルーブック」と変更され、目的もUFOの存在を否定するものに変わっていった。だからとも言えるが、ブルーブック・レポートには注意が必要だ。
そもそもアメリカには「国家安全保障に関わる恐れのあるUFO報告は、JANAP146(陸・海・空軍のすべてに共通する公布)もしくは空軍操典55−11の手順に従い、ブルーブック・システムには含まれない」(一九六九年一〇月二〇日付、アメリカ国防総省空軍開発副部長通達)という重
要な指示がある。
このため、ブルーブックには差しさわりのないUFO事件しか掲載されておらず、重要なUFO報告は、このヒストリカル・レポートのほうに掲載されているということになる。
こうして、ブルーブックよりはるかに重要なこのヒストリカル・レポートには、米空軍に所属する各飛行中隊の、一カ月ごとの軍事行動が記録されており、実際に遭遇した重要な事件についてこと細かに報告されている。
このなかに、日本の防空領域での事件がなぜ載っているのかについては、だいたい察しがつくと思うが、要するに自衛隊が遭遇したUFO事件は、米軍に報告する義務があるためだ。
そして、自衛隊とUFOの戦闘に関する確固たる証拠といえる記述は、レポートの一九五二年版と一九六〇年版に記載されているので、順を追って見ていくことにしよう。
航空自衛隊にはUFO報告用の規則がある
一九七四年に機密解除されたレポートである一九五二年版には、四カ月の間にたびたびUFOが肉眼とレーダーで捕捉されているとある。
このなかでは、UFO(Unidentified Flying Objects=未確認飛行物体)をUO(Unidentified Objects=未確認物体)として記述しているが、どうも日本の自衛隊内部では、未確認物体という言いまわしをよく使うらしい。
つい最近、ある現役の海上自衛官にインタビューしたところ、彼もまた内部では未確認物体と呼んでいると証言してくれた。
彼のインタビューは後述するとして、早速、問題のレポートを見てみよう。
『一九五二年五月 第850飛行中隊記録より』(一九七四年九月二五日機密解除) 未確認航跡と警戒について 今月は三回の空襲警報である“アクチュアル・イエロー”と、一回の警戒警報である“テスト・レッド”が、南部防空地区であった。 再度“空飛ぶ円盤”の出現 過去四カ月にわたって報告され続けたUO(未確認物体)が、五月二六日にも三回目の報告がなされた。 |
この報告のなかで言われているUFOとは、いわゆる未確認の物体を総称しているのではない。UFOと見まちがえやすい気球、天体、鳥、自然現象などを省いたうえで、現在知られている航空機やミサイルとことなる異常な飛行性能を持つ飛行物体を指し示している。
その理由の一つに、UFOの名付け親である米空軍が、UFOの報告について定めた規定『AFR200−2』がある。
この空軍規定(Air Force Regulation)は、一九五四年に米空軍が発行したもので、そのなかに先の飛行物体としてのUFOの定義がはっきり書かれている。
そしてまた、ヒストリカル・レポートに『航空自衛隊規定200−4A』が出ているということは、これがまさに、航空自衛隊がUFOを報告するときに使用する規定だったわけだ。
ただし、現在の防衛庁にこの規定を問い合わせてみると、「アメリカのヒストリカル・レポートに載っているなら確かなことなのでしょうが、現在、航空自衛隊規定200−4Aなるものは、まったく見当たりません」と、お決まりの回答しか返ってこなかった。
さすがに証拠を提示しただけあって、防衛庁は下手な言い訳をしないで、この規定の存在について否定も肯定もしなかったが、冷静に考えれば一応の納得はいく。こうしたUFO報告の現状や内部機密に近い航空規定などをやみくもに公開すれば、UFOの存在をことさら強調することになり、社会秩序や大衆心理にかなりの影響を及ぼしかねないからだろう。
自衛隊輸送機が“伸び縮みするUFO”を報告した
もう一つ、ヒストリカル・レポートの一九六〇年版も興味深い。
このレポートは全文が公開されてはおらず、途中、一部が欠落している。そのため記録の意味を推測する必要があるが、どうもこの報告では“UFOはソ連の宇宙船ではない”ということを言っているようである。
では、短いがレポートを見てみよう。
第57航空迎撃部隊記録 (欠落) ソ連の宇宙船に関するいかなる情報や、この宇宙船(Space Vehicles)との交戦記録はないし、当部隊に対する前記リストに関連した、特殊任務の情報は受けたことがない。 |
この記録に出てくる航空基地の名前について、防衛庁に問い合わせてみたところ、イタヅケ航空基地とは現在の福岡空港のことであった。
しかし、ナリシメ航空基地については不明で、そもそもこのレポートの文字がかすれていたため、Naritime(ナリシメ)かHaritime(ハリシメ)か、判然としない。
ちなみに、C−47型機のCとはCargoを表わし、この航空機が輸送機であったことを示している。
自衛隊の戦闘機がUFOを追跡していた
一九七〇年代に入っても、自衛隊の関与するUFO事件は漏れ伝わってきている。
アメリカ人の通信社記者リチャード・ドレイパーは、アメリカで発行されていた『UFO REPORT』誌(一九七八年三月号)に、次のような記事を掲載している。
一九七四年六月九日。茨城県の航空自衛隊百里基地。ナカムラ・トシオ二等空佐の操縦するF−4EJファントム戦闘機は、夜間の東京空域に現われた赤みがかったオレンジ色をした円盤型航空物体の迎撃のため、緊急発進した。 ナカムラ二等空佐は、物体を撃墜するために二〇ミリ・キャノンを準備したところ、物体は高度、一万フィート(約三〇四八メートル)に急上昇し、急激な方向転換をしてファントム戦闘機の攻撃を避けようとした。 その後、UFOとファントム戦闘機は衝突したらしく、ファントム戦闘機は制御を失って炎をあげながらきりもみ状態で墜落した。 パイロットはエジェクション・シートで脱出したが、ナカムラ二等空佐のパラシュートは炎上し死亡。コ・パイロットのクボタ・シロウ三等空佐は生還した。 クボタ三等空佐の後述によると「追跡中、この物体は非常に知識の進んだ生物によって操縦されているに違いない」と確認していたという。 航空自衛隊は、その後四年間の調査をした結果、このF−4EJ戦闘機、製造番号17−8307は「航空機」または「未知の物体」と衝突したと発表した。 |
今回、この記事を掲載するため、念のために防衛庁に事件についての確認を行なってみた。
初めに航空自衛隊で使用しているすべてのファントム戦闘機のシリアル・ナンバー(製造番号)の提出を求めたところ、すべては見せることができないとして、市販されている航空専門誌に掲載されているもののコピーを出してきた。
そのナンバー表にはすべてではないが、一九七一年から現在まで使用中のファントム戦闘機のナンバーが表記されていた。
ここで、航空自衛隊のシリアル・ナンバーについて説明しておこう。
17−8307を例にとってみると、次のような表示内容になっている。
1…領収(納品)年号。この場合、一九七一年の末尾の1を示す。
7…登録順位。この場合、F−4EJを示す。
−…ダッシュ記号。
8…機種。この場合、戦闘機を示す。
307…製造順。この場合、F−4EJの7番機を示す。
つまり、このUFO事件の機体は、まちがいなく一九七一年に領収されたF−4EJ戦闘機の7番機であるはずだ。
渡されたナンバー表を順に追っていくと、17−8301と17−8302は、飛行開発実験団の使用として明記されていた。しかし、17−8303からはナンバーが欠けており、次は27−8303へととんでしまっていた。
該当するナンバーこそないが、17−8307というナンバーはF−4EJファントム戦闘機のナンバー表記の仕方としてケタ数等は不自然ではないし、五つ前のナンバーまでが明記されているだけでも、確かな収穫と言えるだろう。
次に事件そのものの有無を確認したところ、応対に当たった防衛庁航空幕僚幹部、総務課広報室のI・A三等空佐はこう答えた。
「自衛隊はUFOの存在を信じていません。UFOに関係するもの、UFOそのものも、見たことも聞いたこともまったくないのです。さらにファントム戦闘機が、スクランブルで墜落したなんて、私の知りうるかぎり一度も起きていないはずです」
あまりにも徹底的に否定する回答だったので、少し質問の矛先を変えてみた。
米軍の資料には、UFOの報告様式もはっきり記されているので、航空自衛隊にも同じようなものがあるはずであり、そのスクランブルの報告の内容・手順について質問してみたところ、明らかにI・A三等空佐の回答はぶっきらぼうなものになった。
「それらはすべて機密事項なので答えられません。報告の流れは、指示系統にしたがったものだとしか言えません」
やはりラチがあかないので、最後に、自衛官が最も嫌がると言われているコミント(COMINT)について質問をした。
コミントとは、NSA(国家安全保障局)で使われる通信情報のことだが、そもそもNSAという情報セクションは、世界最大の情報収集能力を誇る諜報機関で、別名「アメリカの耳」と言われている。
このNSAが、人工衛星も含むさまざまな通信機器・施設で傍受した“情報”を、通常コミント報告と呼び、その報告の大半は機密情報となっている。
われわれ一般人にも、わかりやすいコミント報告が行なわれた事例として、一九八三年九月、大韓航空機が旧ソ連の戦闘機に撃墜された事件があったが、この情報はアメリカから日本の防衛庁に、コミント報告として伝わっていたのである。
さらに、アメリカで行なわれたNSAのUFO情報の公開に際しても、「原告に引き渡せないコミント報告は、海外で傍受された通信情報に基づくものです」という理由で、政府は公開を拒否し、UFO情報はコミント報告として扱っているものもあることを認めている。
ちなみに防衛庁関係者は、幹部候補生にしかコミント報告については教えられていないため、まさか民間人がコミントを知っているとは思っていない。
話が若干それたが、コミントのなかにUFO情報があるということを知ったうえで、この質問を投げかけてみたところ、案の定、I・A三等空佐は、こちらがコミントの質問を言い終わらないうちに締めくくった。
「そんな重要な機密事項については、なおさら絶対にお答えできません!」
以上のように、自衛隊に正面切ってUFOの質問をすると、たいていこのような押し問答にしかならない。
しかし、情報とは一方向だけから入ってくるわけではない。まして、知り合いに自衛官がいると、また違ったコメントが聞けたりもする。“匿名で”という条件で、ある自衛官はこの百里基地のファントム戦闘機の事件についてひと言漏らした。
「いまでは、自衛隊のなかでこの事件の話をすること自体タブーなん
です……」
UFOに対して自衛隊機がスクランブルをかけた
防衛庁航空幕僚幹部広報課は、「UFOに対するスクランブルなどない」と言い張っていたが、実際の事件がほかにも存在していた。
事件とは、一九七八年(昭和五三年)八月一七日に北海道で起きたもので、これは全国の新聞各社が一斉に報道している。
そのなかの日本経済新聞(夕刊)の記事を取りあげてみよう。
『レーダーにUFO? すは“有事”自衛隊機発進』(北海道) 十七日深夜、北海道上空に識別不明の未確認飛行物体(UFO)が現れた。 |
この事件を検証するに当たって、現職の航空自衛官のT一等空佐が、レーダーの性能について説明してくれた。
これによると、航空自衛隊で使用しているレーダーに関して、「レーダー波が向けられている領空では、そこを横切るカラス一羽でさえも識別できる」そうだ。
この事実を踏まえると、気球やアドバルーン、鳥に対してファントムがスクランブルしたとは考えられない。さらに自衛隊側が「飛行機などではない」と言っているのだから、この未確認飛行物体はやはりUFOだったのではないだろうか?
事件の結末は、いつものように防衛庁からこれ以上の見解は発表されることなく終わった。
UFOの存在を認めた現役自衛官の証言
では、いま現在の自衛隊では、UFOに対してどういった認識をして、ことに対処しているのだろうか?
参考情報として、現役の海上自衛官が匿名という条件で証言してくれた。
彼は潜水艦の乗組員で、ソーナ(水中音波探査)係につく一等海士である。所属部隊等は明らかにできないが、“自衛隊の内部ではUFOの存在を認めている”と言い切る、勇気ある自衛官であった。
以下は、彼の証言を要約したものである。
「まず、自分が教育隊に入ってからの話なんですが、上の情報課の人と知り合いになりまして、その人の話のなかで興味をひいたのは、“本庁(防衛庁)には、UFO情報を分析・処理する専門の部署が存在する”ということでした」
「この部署は、陸・海・空のすべての自衛隊から集められた目撃報告などのUFO情報を取り扱い、特に航空からの(UFOに対してスクランブルした)情報は重要なものだそうです」
「そもそもすべての自衛隊の内部ではUFOの存在を認めています。報告義務もあります。もちろんUFOとは、既存の航空機や天体、人工衛星、気球、鳥等とは違うものとして、はっきり区別したものを指しています」
「私が所属する海上自衛隊では、UFOを目視した場合CIC(コンバット・インフォメーション・センター)という部署に報告します。ここはレーダーを使用している部署ですので、CICでもUFOを捕捉している場合もあります」
「私は、演習中に月に一回の割合でUFOを目撃していますが、そうした艦内でのUFO情報は、CICが一度まとめて、解析・処理したデータを併せて報告書を作り、艦長に提出すると、艦長が上(本庁)にあげるという流れになっています」
「また米軍との合同演習では、海軍の米兵から、米軍がUFO識別のために使用しているマニュアルの類を何回も見せてもらっていますから、米軍にとっても、自衛隊にとっても、UFOがいることは当たり前の事実なのです……」
自衛隊施設上空にUFOが出現した
本書が出版される時点で、最近の自衛隊に関連したUFO事件を報告して、この章のまとめとしよう。
その意図はわからないが、UFOの出現は、なぜか軍事施設やエネルギー関連施設に多発している。一九九二年(平成四年)八月に起きたUFO事件もまた、そうであった。
事件は宮崎県えびの市、海上自衛隊VLF施設(潜水艦に対しての通信施設)の上空で起きた。時刻は午後九時頃、えびの市を流れる川内川の旧加久藤橋地区で開催されていた恒例の花火大会の空に、二個の発光体が横一線に飛んできた。
事件を目撃した同市役所広報担当の坂本謙太郎氏(三八歳)は、花火大会を撮影しようとして三脚に固定されたカメラ(アサヒペンタックスMEsuper)で、発光体の撮影に成功した。
撮影データとして、装着していたレンズは28〜50ミリのズームレンズで、ズームを28ミリ、絞りはF8にして、露光時間を三秒ないし五秒で行なった。
坂本氏の証言によると、UFOは通常の飛行機よりも速いと感じた速度で横一線に飛んできて、花火を過ぎてから止まり、ジグザグに下へ降りてきた。坂本氏が撮影後顔を上げると、どこへ行ったのかわからなくなったという。
写真を現像したところ、肉眼では気づかなかった光の帯(アルファベットのXとYの字に見える)が、UFOに浮かび上がっていた。
補足資料として、同日同時刻に自衛隊施設から照明弾を打ち上げた記録や、自衛隊機による作戦行動はなかった。
こうした“UFO騒ぎ”は、自衛隊のVLF施設が建設された二年前の時点から、えびの市と隣の人吉市で頻繁に発生し始めたという。
UFO出現と自衛隊基地には、因果関係があると考えざるを得ないだろう。
2章−米空軍の指示で防衛庁は動いていた
日本はUFO政策に乗り遅れている?
第二次世界大戦後、UFO問題を議会や政府機関で扱ってきた国々は驚くほど多い。
国名をあげるとアメリカ、イギリス、フランス、旧ソ連、カナダ、オーストラリア、アルゼンチン、ブラジル、スウェーデン、ニュージーランド、インドネシアなどである。
先進諸国の一員と言われながら、UFOを公式に政治・軍事の問題として扱ってこなかったのは、日本とドイツだけだった。
これは、戦後の立て直し政策に努力を傾けるあまり、「空飛ぶ円盤などという非現実的なモノ」に、気をとられる暇などなかったためなのかもしれないし、調査するだけの予算が確保されなかったのかもしれない。
いずれにしても、UFO問題に寄せる政治的関心が、日本の場合相当低かったことだけは事実だろう。
こうした事情を察知してか、昭和三一年に当時イギリス公使であった黄田多喜夫氏(元外務省顧問)は、当時の自衛隊の上村健太郎幕僚長へ直接書簡を託している。
他国に比べUFO問題の討議が一歩も二歩も遅れている日本政府に対して、真剣に行なうべきだと警告を発していたのだ。
アメリカは防衛庁にUFO事件を説明していた
敗戦国とは言え、戦後の日本は日米安全保障条約を交わしているように、基本的にアメリカ側の同盟国として取り扱われていた。さらに一九七七年からは、UK−USA協定(旧連合国から構成される共有の軍事機密情報網)にも、正式に参画できる立場となった。
こうした背景をもとに、アメリカ側から日本に向け、徐々にUFO問題のブリーフィング(状況説明)が行なわれていたのだ。
その証拠として、貴重な資料が一つある。
一九八二年九月九日付の書簡(手紙)なのだが、自民党の香川県連青年部副部長(当時)の日下昭氏のもとへ、防衛庁の長官官房広報課のT氏から送られたものだ。
この手紙が、どういった経緯でやりとりされたものなのかについて説明が必要だろう。
まず、手紙の宛先が香川県の日下氏になってはいるが、この人物は代理人で、本当の受取人は向井浩という人物だ。
香川県に在住する向井氏は、現在民間のUFO同好会(香川県UFO愛好会)を主催してはいるが、その経歴をたどると意外な人脈が浮かびあがってくるなど、不思議な側面を持っている。
自民党の代議士や自衛隊関係者と交遊があり、現在の防衛庁長官の宮下創平氏は、向井氏が旧日本陸軍兵学校時代の二年後輩にあたり、以前航空自衛隊の幕僚長を務めていた石川貫之氏は、六年先輩になるという。
また、あのアダムスキー(故人、アダムスキー型UFO等で有名)に直接会ったことのある、数少ない日本人の一人でもある。
では、なぜ向井氏が地元の自民党の日下氏を通じて、防衛庁にUFOの情報請求を行なったのか?
この疑問については、直接本人に語ってもらった。
──向井氏は現在でも、コンタクティー(異星人と接触している?人)やUFOを研究なさっていて、UFOに興味を持ち続けておられるようですが、いまから一〇年も前、UFOの認識が世間でも薄いときに、なぜいきなり防衛庁にUFOの資料を求めたのですか?
「あの当時は、地元香川県出身の大平首相が、日本に情報の自由公開法を作ろうと動いていたのです。ただ、そうした動きにもどかしさを感じてというわけではないのですが、そんな法律がなくても、ふつうにUFO情報を引き出せるはずだと思って実行してみただけなのです。
案の定、防衛庁からは確実性のある情報が引き出せました。しかしいままで、このことは世間に広く知れ渡っていませんね……」
向井氏が引き出した貴重なUFO情報とは、ある意味でショッキングな証拠ともいえる情報だ。それが彼の協力のもとに、一〇年の歳月を経て、ようやくこの場で公開されることとなった。
それでは、向井氏の質問・記1から記5については判然としないが(記2の「ふじ」について関連した事件を後述する)、問題の書簡を追っていくことにしよう。
一九八二年九月九日付 書簡 拝啓 台風15号が本土をかすめて遠ざかるとともに、秋の冷気が日本を包み始めました。小生、防衛庁長官官房広報課の総括部員を務めておりますTと申しますが、去る7月末に、日下様から防衛庁長官に対して依頼のありました「UFO情報提供についてのお願い」に関しまして、その後調査いたしました結果をお知らせするものであります。 記1について (ロ)について (ハ)について 山口新聞(52・3・12)、長崎新聞(52・1・21)の記事ファイルは、いずれも当庁において保存されておりません。直接、両新聞社にお問い合わせください。 記2について また、昭和五四年一月二三日付朝日新聞の記事はつぎのとおりです。 お尋ねの乗組員によるUFO写真はないようですが、いずれにしても乗組員が個人的に撮影した写真であれば、個々にあたっていただくことが必要であると考えます。 記3について 記4について 記5について 以上、御依頼の内容について、御説明申し上げました。 敬具 防衛庁長官官房広報課 T 追伸 新聞記事を同封しておきました。 |
以上が、向井氏の質問に対して防衛庁が公式に回答した文面である。
これだけを読み進めていると、防衛庁はUFOに関して何も知らないような感じを受けるかもしれない。しかし、この手紙の添付資料として、理由は不明だがなぜかそえられていた“二枚のメモ書き”こそが、実はたいへんなシロモノだったのだ。
防衛庁は墜落したUFOを知っていた
向井氏宛の手紙に同封されていた二枚のメモは、ほとんど走り書きに近いものだった。
ただし、書かれてある内容を注意深く見ると、防衛庁側が一般的に行なうUFOに対する公式回答とは、ほど遠いものだということがわかる。
〈メモ1〉54、 5/1 OSI Mr.Yamada 一時CIAからの申し入れで中止されていた、米空軍によるUFO情報・資料の収集が再開された。 これは国連の宇宙科学委員会の要請に基づくものとされているが、実際は、最近(4/26?)メキシコとの国境付近で、原型に近い、(アダムスキー型)UFOの墜落?物が発見されたためである。 航自ではUFOを専門に取扱うSectionはないのか。 恐らく近い内に大きな問題となると思われるので今のうちから関心を拂(払?)っておいた方が良いと思う。 |
このメモがとられた際の状況について説明すると、米空軍OSI(この組織については後述)のミスター・ヤマダなる人物が、昭和五四年(一九七九年)の五月一日に当時の防衛庁の幕僚幹部らに対して、ブリーフィング(状況説明)したものを誰かが書き留めておいたメモということで、この間の会話は、すべて英語で進められていたことが関係者の証言から判明している。
それにしても、この文面のままではあまりにも一般の人には理解しにくいので、ポイント別に文面を区切り、わかりやすく解説していこう。
●ポイント1
「CIAからの申し入れで中止されていた、米空軍のUFO情報収集活動が再開された」
この文では“CIAからの申し入れで”という部分に注意したい。
そもそも、米空軍がUFO調査のため行なっていたプロジェクト・ブルーブックが、一九六九年に閉鎖されたときの理由は、次のように発表されていた。
「空軍によって報告・調査・分析されたいかなるUFOも国家安全保障上の脅威となる兆候を示さなかった」
「UFOが現代の科学知識の範疇を超えた科学技術の進歩や原理を示すといういかなる証拠も発見されなかった」
「UFOが地球外起源の乗り物であるといういかなる証拠も存在しなかった」
しかしメモによると、この声明が一般大衆向けのものであったことがわかる。
本当のプロジェクト閉鎖の理由は、CIAからの申し入れがあったからということで、しかもメモが書かれた時点では、再びUFOの情報収集が開始されていると言っている。
●ポイント2
「国連の要請に基づくとされているが、実際は、最近UFOの墜落が発見されたためである」
ここでは、UFO情報の収集活動を再開するきっかけの“表向きの理由(=国連の宇宙科学委員会の要請)”と、“本当の理由(=アメリカとメキシコの国境近くで、UFOがほとんど無傷の状態で見つかったため)”について説明している。
●ポイント3
「航空自衛隊では、UFOを取り扱う部門はないのか?(ない)しかし、近いうちに大きな問題になるので関心を払う必要がある」
これは決定的なところだ。要するにOSIは防衛庁に対して、UFOを取り扱う専門部署がないのなら、いまのうちから対応しなさいと進言しているのだ。
防衛庁が参考にしたエイリアン情報
〈メモ1〉と筆跡が同じものと思われる次の〈メモ2〉には、エイリアンのことまで記されていた。
このメモの意味するところは、前述の〈メモ1〉を補足する情報ということだろう。
〈メモ2〉参考情報 ケープカナベラルのMissile発射場施設のうち、宇宙飛行士関係施設で現在使用されていない建物に、半壊状態のアダムスキー型UFOと、ガラスケースに人工生存させられている意識不明状態のエイリアンが居り、研究対象にされている。 これは目撃者の証言で日本人も一緒であったとのことである。(TV4で特集放映された。) この情報は、OSIの情報と重なり、当該物件が4/26メキシコとの国境で収容されたものである可能性が強い。(一説では、当該物件は数年前からあるとも言われている。) ※TV4によれば、エイリアンは人類Typeで、1m10cmくらいで「白人」。頭髪はなく、人工生存装置によって、体液の強制じゅんかん処置が操られており、ガラス・ケース内は、空気ではないと思われた。 との事であった。 |
ここで言われているTV4とは、日本のテレビ放送局の4チャンネル(日本テレビ)のことである。そこで放映された番組中(番組名は定かではない)に、アメリカのケープカナベラルの施設に「墜落したUFOと人工的に生存させられているエイリアン」が存在するという情報があり、これはOSIから受けた情報と一致していると言っている。
私たちは、テレビのUFO番組というと、嘘か本当かわからないものとして軽く考えてみてしまいがちだが、まさか防衛庁が、こういった番組まで参考にしていたとは思いもよらなかったのではないか?
また、アメリカのOSIなる機関は、なぜ防衛庁にUFO情報をもたらしているのだろうか? いろいろな疑問が生じてくるのを整理するために、まずここで、聞きなれない『OSI』について話を進めていこう。
浮かびあがる謎の機関OSI
まず初めに、アメリカの情報部として一般的に言われているOSIには二つあることを知っておかなければならない。一つは、CIA(中央情報局)にあるOSI。もう一つは、空軍にあるOSI(AFOSI=空軍特別調査部)という機関がある。
では、日本の防衛庁にUFO情報をもたらしているOSIとは、どちらを指しているのだろうか?
このことについても、実は前述した四国に住む向井氏が、直接防衛庁に問い合わせ、調査をしていた。
そこで、向井氏の質問に対する航空自衛隊の元幕僚長の返書を参考に、OSIとは何であるか検証していこう。
〈書簡1〉昭和五七年(一九八二年)九月二八日付、石川元幕僚長から向井氏宛の返書 ※前文省略※ |
石川元幕僚長はこの書簡のなかで、OSIとは本部がワシントンにある「海外情報部」のことで、日本に駐在しているのは「第四六地区東京派遣隊」だとしている。
しかし、この書簡から約二週間後に送られてきた第二の書簡にはさらに詳しいことがわかったとして、次のように述べられている。
〈書簡2〉昭和五七年一〇月一四日付、石川元幕僚長から向井氏宛の返書 十月九日のお便り拝受。私自身UFO自体については全く知りませんが、その後の調査では左記の通りです。 1、OSIはCIAとは全く異なり、CIAは国家的情報部門。OSIは軍事的情報部門で、機能的にも組織的にも全く異なり、相互の関係はありません。 ┏━内局 |
〈書簡1〉では石川氏の勘違いであったのか、正確な回答ではなかったのだが、〈書簡2〉においてようやく、OSIは軍事的情報部門でありCIAとは関係がないという事実が現われた。
このOSIは、米空軍のOSIを指していた
のだ。
さらに念のため、アメリカ大使館筋に問い合わせてみると、「第四六地区東京派遣隊」内部のOSI職員は、空軍特別調査部のOSI(Office of Special Investigation)であるという回答が返ってきた。
これから先は誤解を避けるため、空軍のOSIを『AFOSI』として表記して、その組織を説明していこう。
AFOSIは、ワシントンDCのボリング空軍基地に本部を置いており、その名は数年前ある事件で有名になった。
それは、MJ−12なる怪しげな機密文書が出回った事件のことなのだが、MJ−12文書の真偽はさておいて、この文書をばらまいた張本人が、米カートランド空軍基地の第一七地区AFOSIに所属していた、リチャード・ドゥーティーという人物だった。
この事件によって、AFOSIがUFO問題に強く関わっていることが、最近関係者の間で言われていた。
また、アメリカのAFOSIの地区ナンバーが一七であり、日本のAFOSIが四六ということは、世界中のAFOSIが連番でつながっていることを示している。このことは、日本の軍事研究家の間でもあまり知られていないのではないだろうか?
いずれにしてもAFOSIが、アメリカ、日本を問わずにUFO情報を動かしていることが、おぼろげながらつかめてきたとも言えるだろう。
日本でUFO情報を収集していた旧ソ連大使館員
米軍と防衛庁がUFO情報をやりとりしていた事実は判明した。
それについて、旧ソ連が興味を持っていたことは、約一〇年前に、日本でUFO情報を収集していたことから明らかになった。
情報収集者は、東京の五反田付近にあった旧ソ連大使館の広報部に勤務していた、バレリ・ネチポレンコ(Valeri Nechiporenko当時三三歳)三等書記官である。
この事実を調査したUFO研究家の高野誠鮮氏の証言によると、ネチポレンコ氏は当時『今日のソ連邦』という日本向けの広報誌の編集長を務めていた。
高野氏が彼と知り合うきっかけとなったのは、当時、国内の民間UFOグループの会合が代々木のオリンピック記念会館で開催されていて、そこに見かけぬ外国人が中国人もしくは北朝鮮人とおぼしき通訳と二人組で訪れていたので、何気なく興味を持ち名刺交換をしたのだという。彼らはしばらくの間、食事をしたり、ソ連でのUFOについて、いろいろな話を聞かせてもらったりしていたが、自ずと話は日本のUFO情報に流れていった。
ネチポレンコ氏は、当時の日本で発刊されていた『UFOと宇宙』という雑誌や、日本のUFO関連記事はすべて、モスクワへ定期的に送付していると言い、最大の関心事として“日本政府のUFO情報の処理方法と、UFO情報がどうやって集められ、最終的にどこへ行くのか?”という質問まで飛び出したそうである。
高野氏は、せっかくソ連の大使館員と出会ったのだから、以前から疑問に感じていた旧ソ連の中部ツングースで起きた謎の大爆発事件(通称ツングース事件)について、ぜひとも生の情報を聞いておきたいという興味から、話に熱が入っていった。
ツングース事件とは、一九〇八年六月三〇日の明け方に、旧ソ連邦シベリア大森林上空で大爆発が起こり、すさまじい閃光と轟音、爆風、熱、地震までもが観測され、爆心地から半径約三〇キロメートル周囲の樹木はことごとく倒れ、中心部は焼き払われたにもかかわらず、当初原因とされた「大隕石」の痕跡は、ひとかけらも見つからなかったと報じられていたものである。
このときの地震波は日本でも観測されており、破壊力は推定で四〇メガトン級の核爆弾に相当するものと発表されている。しかも、巨大な隕石の衝突であればクレーターの一つもできて当然なのだが、地面への衝突の痕跡はなく、広大な森林の「上空」で爆発が起きたらしい。
かつて、アメリカの極秘UFO調査プロジェクトであった「グラッジ計画」に参加していた有名な隕石研究家、リンカーン・ラ・パズ博士はこの事件について、「反物質で構成された円筒形の鉄隕石が、軸を垂直にして落下した」という当時としては大胆な説を発表し、地球外文明(UFO?)関与の可能性を示した。さらに、イギリスの科学雑誌『ネイチャー』には、アメリカのノーベル賞学者リビー博士が、ラ・パズ博士の説を支持する論文を掲載している。
では、問題のツングース事件やUFO情報について、高野氏とネチポレンコ氏の当時の会話を再現してみよう。
ツングース事件は葉巻型UFOの墜落事件だった
〈一九八一年一一月三日 東京都品川区にて〉
高野氏 古い話になりますが、ツングース事件に関してはソ連国内からの情報に乏しく、さまざまな憶測が飛び交っています。たとえば、あの原因は隕石だとか核爆発だったとか……。
本当のところ、ツングース事件の真相はどうなんですか。
ネチポレンコ氏 現在は、レニングラード大学が中心となって、毎年、科学者のグループが調査団をつくって事件の研究のため現地に出向いています。科学者、地質学者、物理学者らと学生が、一緒になって行くのです。
しかし、なかなか調査には困難な点が多いようです。NHKが今年(一九八一年)の夏に行なった科学番組コンクールには、ソ連からも二本のフィルムが出品されましたが、そのうちの一本がツングースにおけるツィオルコフスキー博士の研究でした。
高野氏 ツングースに落下したのは、隕石なんでしょう。
ネチポレンコ氏 それは違うと思います。目撃者は、(紙に円筒形の光る物体を描きながら)これが落ちたと言っています(図1)。これが落ちる直前に、このように三つに分かれたということです(図2)。
高野氏 実際に見たと主張する人がいたのですか。
ネチポレンコ氏 そうです。あそこはとても不思議なところです。いまでも木が生えてきませんしね(爆発した中心周辺を指している)。
調査団の発表ですが、現場の木の年輪を観察すると成長が早く、(木の年輪を描きながらその間隔をさして)ここが一メートルもあります(図3)。
高野氏 年輪の異常な成長から見て、これは核爆発ではなかったのですか。
ネチポレンコ氏 核爆発については現在調査中ですが、放射線の輻射反応があったのは事実です。
高野氏 この事件はソ連でのUFO墜落事件では? と囁かれていますが、事実はどうなんでしょう。
ネチポレンコ氏 UFO墜落事件は、最近ではソ連のヨーロッパ寄りのところで起きています。
高野氏 いつですか。
ネチポレンコ氏 去年(一九八〇年)です。
高野氏 回収された円盤には、ヒューマノイドが乗っていたので
すか。
ネチポレンコ氏 私には、それはわかりません。
高野氏 回収した円盤は、どのように処理されるのですか。
ネチポレンコ氏 ソ連国立諸科学大学(詳細不明、何度聞いてもこのように聞こえたそうだ)の研究員が、その研究に従事しています。
高野氏 その研究員は円盤のことを何と言っていますか。
ネチポレンコ氏 その関係者には忙しくて会えませんでした。だから詳しいことはわかりません。
高野氏 では、その大学に連絡すれば、内容がわかるということですね。
※こうした、たたみかけるような質問に対して、次第にネチポレンコ氏は日本語が理解できないといった様子を示し、先ほどまでのような流暢な日本語はどこかへ影をひそめてしまった。このあと、ソ連でのUFOに関する世論調査や、大学で行なわれているテレパシーや催眠実験について話が交わされた。テレパシーや超能力、UFOの研究が「ソ連の軍事に利用されているのでは?」という質問に移ったとき、突然、顔をこわばらせ強い口調になった※
ネチポレンコ氏 軍事とはまったく関係ありません! それは科学的な問題なのです。国防上の問題ではありません。まちがいです!
それでは、こんどは私が質問しますよ。
高野氏 かまいませんよ、どうぞ。
ネチポレンコ氏 日本の政府はいつからUFO研究を始めたのですか?
高野氏 いえ、政府はUFOに無関心のようです。ただ総理府関係に一部調査グループがあるとも言われていますが、不確かな情報ですし、防衛庁が研究しているかどうかも確かではありません。
※当時、防衛大学校では「超心理学研究」は行なわれていた※
たとえ研究していたとしても、卓越した科学者が参加しているとは思えません。日本に卓越した科学者がいるかどうかも疑わしいですが。たまりかねて、政府は創造科学を強調していますが、どうでしょうか。
また、一流の文化人といわれるような人たちにしても、吹けば飛ぶようなオリジナリティーしか持ち合わせていないですから。
ネチポレンコ氏 では、アマチュアのUFO研究団体はどうなっていますか。
高野氏 別に、研究団体が有機的に協力しているわけでもありませんし。それぞれの団体が任意で、それなりの財源でやっています……。
以上が、だいたいの話の内容である。
このような(諜報活動をしていた?)旧ソ連の大使館員までも、当時から日本政府のUFO情報は気になるところだった。
ただし、高野氏の語るところによると、ネチポレンコ氏の執拗なまでの、日本政府のUFO情報についての突っ込み方は、明らかに個人的な興味よりも、上からの命令による情報収集という感じが漂っていたということだ。
3章−日本政府はUFO情報を保有していた
(中略)
日本政府は何のためにUFO情報を収集しているのか?
以上が、日本の政府(外務省・文部省)から提出されたUFO関連資料だった。
「なんだ、これだけか。たいしたことないじゃないか」と感じる人もいるだろう。そう感じるのも仕方がないことだと思う。
その理由の一つに、政府側がUFOに対して「自主的に具体的な対応を示したものがない」という点があげられる。
たとえば、アメリカ政府が公開したUFO資料には、軍や政府側がUFOに対して行なった追跡や交戦、調査、探査といった対応や措置が詳しく記されているのに対し、日本の資料は、会議録や新聞のスクラップといった二次的な資料にとどまっているからだ。
新聞記事の収集に関しては、ある外務省関係者からの面白い証言がある。
「各国の大使館では、その国の情報収集だけを毎日続けている職員がいます。たとえばUFOならUFOの項目にかかわるすべての新聞記事等を、こつこつとスクラップするという結構つらい作業です。そうした情報は結果として外務省に集積されますが、それがどんな判断材料として、どの部署で活用されるのかは聞いていません……」
この証言からも、外務省が消極的にせよ国外のUFO情報を収集しているのは事実だろう。
ただし、国政調査権という手段で唯一引き出された、これらの新聞のスクラップを含む資料は、“極秘・機密扱い”を受けていない。と言うことは、スクラップ等の二次資料を活用し、日本独自のUFOへの対応、またはUFO政策がもしかしたら存在しているのかもしれない。それに関する資料は当然のごとく機密扱いにされ、めったに公開はされないのだろう。
いずれにしても、この点に明確な回答を与えてくれる外務省や防衛庁の関係者、または国会議員等は、いまのところ見当たらない。
ただUFO情報の収集という事実だけは、ようやく明らかになったと言えるだろう。
UFO問題を熟知していた海部前総理
ここまでは日本の防衛庁、自衛隊、外務省、文部省、米空軍などから、日本の政府にかかわるUFO情報を確かめてきた。
では、日本の国家元首である歴代の総理大臣は、UFO問題について、どの程度の認識を持っていたのだろうか?
その一つの例として、ここに興味深い一枚の原稿用紙がある。
「夢を信じたい」と題された、海部俊樹前総理のUFOに関心を寄せた原稿である。
海部前総理は、歴代の総理のなかでも明確にUFOに関する見解を示してきた、UFO問題に理解のある総理大臣として異色の存在だった。
なぜ、海部氏がUFOに興味を持ち始めたのかについては後述するが、まずその原稿を紹介しよう。
『夢を信じたい』 昭和五八年三月一七日付、 海部俊樹 「UFOの存在を信じるか」と問われると、「見たことは無いが信じたい。信じた方が夢があっていい」と僕は思っている。 |
この書簡は、当時、自民党の文教制度調査会長だった海部氏が、香川県高松市に住む自民党の県連関係者に宛てたものだ。
文中にあるように、海部氏が南極点でUFOを探したというくだりは、前章で取りあげた南極観測船「ふじ」の隊員が、昭和五四年(一九七九年)一月にUFOを目撃したことを受けているらしい。
では次に、海部氏がなぜUFOに(代議士という立場のうえで)興味を持ち始めたのかを、追っていくことにしよう。
外務省顧問の黄田多喜夫氏はUFOを理解していた
海部氏がUFOに関心を持ち出した事の起こりは、書簡の中でも触れているように、元外務次官(当時は退職して外務省顧問)の黄田多喜夫氏(2章の向井氏宛の防衛庁からの書簡にもその名前があった)との接触がきっかけであった。
現在、八四歳になる黄田氏によると、そのときの経緯は次のようであったという。
「私(黄田)が外務次官をしていた昭和四二年当時、ソ連の駐日大使で仲が良かった新関駐ソ公使が、自国の外務次官に就任したので、おめでとうを言いにモスクワへ出掛けました。
新関公使の晩餐に呼ばれたときに、初めて海部君と顔を合わせましたが、UFOの話をしたのは、その後のモスクワからチェコスロバキアに向かう飛行機のなかでです。
席が隣同士だったので、そのときに『他の国では、UFOは真剣に論議されている問題なのに、日本のUFOに対する認識は低すぎる』と話したのです」
海部氏に、諸外国の政府が、どのようにUFO問題を取り扱っているのか状況説明をした黄田氏は、日本政府に初めて「UFOとは緊急に研究すべき課題である」ということを示唆した、政府筋の有力者だった。
黄田氏の経歴を見ると、UFOと間接的なかかわりがあったことがわかる。
彼は、昭和二九年から三二年までイギリス公使を務めたのだが、そのときにUFO研究の先駆者でありイギリス上院議員であったクランカーティ氏や、ダウディング卿との深い親交があった。
ダウディング卿は、第二次世界大戦中に、イギリス上空においてUFOを目撃したことを、新聞発表した人物として知られ、また、ナチス・ドイツが最後のロンドン爆撃を行なった際に、エアー・チーフ・マーシャル(イギリス空軍の戦闘機パイロット)として出撃し、抜群の功績をあげた。彼を称えるために、当時のチャーチル首相が議会で演説したほどのイギリスの英雄である。
その彼が、ある演説会に資料を持ち込み、真剣にUFOの存在を説き始めたことがあった。
黄田氏はダウディング卿の演説に驚き、それがあまりに深刻な内容だったので、「これはエライことだ」として、日本にいる当時の自衛隊の航空幕僚長・上村健太郎氏に『空飛ぶ円盤は、日本で考えているほど軽々しい問題ではない。日本政府ももっと関心を払うべきだ』という内容の手紙を送っていた。
昭和三一年三月、黄田氏からの手紙を受け取った上村幕僚長は、早速UFOに関する情報収集を、航空自衛隊の幹部クラスの幕僚に指示することとなったのである。