投稿者 記事転載’ 日時 2000 年 10 月 04 日 00:51:54:
回答先: 慶応義塾大学教授 榊原 英資氏の IT革命解説 投稿者 記事転載’ 日時 2000 年 10 月 03 日 13:23:19:
IT革命は可能性驍゚た「海」
2000/8/5
ここに陸終わり、海始まる。
これは、ポルトガルの詩人カモンイスの叙事詩『ウズ・ルジアダス』(1572)の一節である。ポルトガル最西端ロカ岬に、この言葉を刻んだ碑がある。
16世紀のポルトガルにおいて、「海」は、無限の可能性を秘めるフロンティアを意味した。実際、この詩は、バスコ・ダ・ガマの偉業を称えたものである。
しかし、大西洋は、かつてはフロンティアでなく、世界の果てにしかつながらぬ、不毛の海であった。15世紀の終りまで、ヨーロッパにとって経済的に意味ある海は地中海であり、そこへの出口をもたないポルトガルは、ヨーロッパの後進国であった。つまり、その時代には、陸が終わるロカ岬は、人間の活動が終焉する地点であった。
これを変えたのは、「航海王」エンリケ王子の航路開拓努力であり、ガマ、コロンブス、マゼランなどの冒険的航海である。それによって、世界の果てであったロカ岬は、新しい世界への出発点になったのだ。
陸が終わり海が始まる地点は、従来型活動の終着地であるとともに、新しい活動の開始地でもある。ある地点が行きづまりなのか出発点なのかは、自然条件として所与なのではなく、人間の主体的な意志と行動によって決まるのである。
IT革命の始まりは、われわれがこれまで歩んできた陸が終わり、目の前に海が広がったことを意味する。われわれを待ち構えるのは、おそらく無限の可能性を秘めた新しい社会だろう。しかし、これまでの社会は、ここで終わるのだ。目の前に広がるのは、別の世界なのである。
IT時代においては、従来の経済活動を規定したルールが一変する。急速な技術進歩に対応して、意思決定にはスピードが要求される。その半面で、店舗も在庫も最小限に押さえられるので、大資本が不要になる。ルーチンワークを行うだけの単純労働力は不要になり、多くの中間管理者が失業する。生産者と消費者が直結するため、「中抜き」現象が進行し、流通経路が短縮化する。系列企業との固定的な関係は、重荷になる。従来のビジネスモデルの多くが陳腐化する。
このような大きな変化に足がすくんで、新しい社会を拒否する人がいる。しかし、それは、現在を陸の終わりとしか見ない人だ。その半面で、基本条件の大きな違いを認識しないまま、海に乗り出そうとする人もいる。しかし、陸を歩くつもりで踏み出せば、溺れてしまうだろう。
必要なのは、大洋を航海できる船(新しい企業組織)を建造すること、未知の海域で船をガイドする羅針盤(新しいビジネスモデル)を用意すること、そして、リスクに挑戦する船長を見出し、確かな操船技術と不屈の精神を持つ乗組員を養成することだ。このどれが欠けても、IT時代を切り拓くことはできない。それにもかかわらず、現在の日本においては、このいずれもが不十分だ。
■
「IT格差」は過渡期の現象
2000/9/9
「ディジタル・デバイド」の議論が盛んである。IT(情報通信技術)を使いこなせる人と、そうでない人との間に、大きな差が生じるという議論だ。
そうした問題があるのは、事実である。電子メールを使わない人は、自然と連絡網からはずされてゆく。事務連絡がメールで行なわれる組織では、取り残されるだろう。情報収集でも、差がツく。経済情報や海外情報は、インターネットで得られるものが多いので、仕事の能率に差がつくだろう。
しかし、この議論にあたっては、つぎの諸点に注意が必要だ。
第1に、この議論を、パソコン販路拡大の口実に使わせてはならない。「デバイド解消のために、全国の小中学校に、あるいは開発途上国に無料で配布しよう」という話になりかねない。しかし、パソコンを全国民に配ったところで、問題は解消されまい。メールを使えない理由は、多くの場合に、やる気のなさだからである(パソコンに免許は必要ない。自動車の運転より、はるかに簡単だ)。
第2に、学校の生徒に、インターネットでの情報収集を教える必要はない。なぜなら、ネットで得られるのは、細切れの断片情報だからだ。学校教育では、そうした断片情報を位置づけ、評価するための「知識」の体系を教える必要がある。だから、むしろネットからは遠ざけるべきだ(米国の学校では、理科や社会の宿題に、生徒がインターネットで探した情報をコピーしてくることが問題になっている)。家庭が貧しいためにパソコンを買えない子もいるだろうが、それによって学習上の差が生じるとは考えられないのである。「知識環境の格差是正」なら、図書館の充実のほうが、はるかに重要だ(教師の能力向上は、当然のこととして)。
第3に、これが最も重要なことだが、IT時代における本当の差は、IT以外のところでつく。
例えば、表計算ソフトの使い方で計算能力に大きな差が生じることはない(この点が、そろばんと違う)。差は、問題を定式化し、計算式を作るところで生じる。これは、パソコンにはできないことだ。
ITで差が生じるのは、過度的な現象である。IT社会になれば、ITでの差は消滅する。ディジタルでデバイドが生じないから、それ以外の場面での「デバイド」の重要性が増すのである。だから、「ITでできないこと」を探し、そこで差をつけることこそ重要である。
学者は、「いかに大量の情報を持っているか」ではなく、「いかに的確な判断ができるか」で評価されるだろう。大学は、カリキュラムの充実度よりは、キャンパスと建物の美しさで「デバイド」されるだろう。書籍は、装丁の見事さやインクの匂いで選ばれるだろう。商店は、ネット販売でできないことを見出し、そこで差を付けることに知恵を絞るだろう。
IT時代のデバイドとは、このようなものだ。
■
船橋洋一様や榊原様と大変良く似たお話しを説く方が他にもいらっしゃいました。
東大から大蔵官僚になられてエール大にも国費留学なされて船橋様と同じく朝日系メディアで活躍なされている野口悠紀雄様でございます。
IT革命をバスク航海術の公開一般化になぞらえるあたりはIT革命の戦士にして宣教師にして、フランス革命でバスティーユを攻撃した市民や共産革命で戦い散ったロシアの若きインテリゲンチアを正義の為の奉仕に向かわせた「崇高なる光に溢れる賢人達」を彷彿させるものがございます。
我が国の光明に満ちた将来の為に数多くの御方が報道や教育の先端でこのように創造的破壊を鼓舞されておりますのは、目を見張るばかりとしか言い様がありません。
ITデバイドに関する高説に到りましてはさすが我が国一の最高学府にて後進の養成に努める御方だけありまして、常人には考えも及ばぬデバイド論に感嘆する他ございません。
東京大学においても、これからはキャンパスと建物の美化に励まれ、日本一美しい大学としてIT時代の面目を保たれるものと確信しております
。