★阿修羅♪ > 中川隆 koaQ7Jey > 100514
 
g検索 koaQ7Jey   g検索 3bF/xW6Ehzs4I
 前へ
中川隆 koaQ7Jey コメント履歴 No: 100514
http://www.asyura2.com/acpn/k/ko/koa/koaQ7Jey/100514.html
[近代史6] イグナツィ・パデレフスキ(Ignacy Jan Paderewski, 1860 - 1941) 中川隆
1. 中川隆[-16133] koaQ7Jey 2021年10月05日 19:23:31 : 0sTOkIKxFw : QjgzTzYuTDlwT0U=[18]
イグナツィ・ヤン・パデレフスキ (1860年11月18日 - 1941年6月29日) _ 才能はともかくオーラだけは凄い
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/432.html
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/802.html#c1
[近代史6] イグナツィ・パデレフスキ メヌエット
イグナツィ・パデレフスキ メヌエット


Paderewski plays his Minuet in G (from 'Moonlight Sonata', 1936)



Ignacy Jan Paderewski (1860-1941) plays his Minuet in G, filmed at Denham Film Studios, Buckinghamshire, England, in September 1936 for the movie 'Moonlight Sonata', directed by Lothar Mendes. Also in this beautiful vignette (featuring children dancing a charming minuet to Paderewski's playing), seated beside the piano, is the singer and actress Dame Marie Tempest (1864-1942) who studied with Manuel Garcia (brother of La Malibran and Pauline Viardot and teacher of Jenny Lind).



Paderewski plays "Menuet" in G - 1937 movie




Rachmaninov plays Paderewski Minuet in G



Sergei Rachmaninoff, piano



パデレフスキ 演奏会用ユモレスク Op.14-第1曲メヌエット(編曲:フリッツ・クライスラー)



Fritz Kreisler(Violin)
Josef A. Pasternack(Conductor)
Studio orchestra
16 July 1917




http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/803.html

[近代史5] おいしい味噌汁の作り方
おいしい味噌汁の作り方


みそ汁は沸騰させてはダメ
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1182.html

1000円/kg 以下の安物の味噌は買ってはいけない
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/336.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1149.html

[近代史5] めんつゆの作り方
めんつゆの作り方
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1322.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1150.html
[近代史5] 照り焼きソースの作り方
照り焼きソースの作り方
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1318.html

すき焼き 割り下の簡単な作り方
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1319.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1151.html

[近代史5] 照り焼きソースの作り方 中川隆
1. 中川隆[-16131] koaQ7Jey 2021年10月05日 20:17:05 : 0sTOkIKxFw : QjgzTzYuTDlwT0U=[20]
和風ステーキにピッタリの玉ねぎしょうゆソースの作り方
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1296.html

焼肉屋の秘伝のタレ作り方
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1281.html

焼き鳥のタレの作り方
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1282.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1151.html#c1

[近代史5] 肉じゃがの作り方
肉じゃがの作り方
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1246.html

ドイツに留学中どうしても肉じゃがが食べたくなった…(海外の反応)
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/747.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1152.html

[近代史5] 簡単!便利!じゃがいもの皮むき
簡単!便利!じゃがいもの皮むき
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1251.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1154.html
[近代史4] 最高の塩むすびの握り方 中川隆
4. 中川隆[-16127] koaQ7Jey 2021年10月06日 04:06:11 : ysUaxmWtj8 : SXFLbnFMU3E1ZGc=[4]
おにぎり型の使い方は、とっても簡単!
商品によって微妙に異なりますが、多くのおにぎり型は次のような手順で使います。

1. 全体をさっと水にくぐらせ、水気をきる。(※ご飯が型にくっつくのを防ぐため)

2. 型本体に適量のご飯を入れ、ふたをして全体をギュッと押す。(※ふたがないタイプは、しゃもじで上からギュッと押さえる)

3. ラップの上に取り出し、そのまま包む。
中に具を入れたいときは、2で半量ほどご飯を入れ、真ん中を軽くくぼませて具をのせ、その上から半量のご飯をのせて作りましょう。塩で味つけしたいときは、できあがったおにぎりに塩を振るか、あらかじめご飯に塩を適量混ぜておきましょう。
https://mamagirl.jp/0000195529
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1271.html#c4

[近代史5] 最高の塩むすびの握り方 中川隆
2. 中川隆[-16126] koaQ7Jey 2021年10月06日 04:07:12 : ysUaxmWtj8 : SXFLbnFMU3E1ZGc=[5]
おにぎり型の使い方は、とっても簡単!
商品によって微妙に異なりますが、多くのおにぎり型は次のような手順で使います。

1. 全体をさっと水にくぐらせ、水気をきる。(※ご飯が型にくっつくのを防ぐため)

2. 型本体に適量のご飯を入れ、ふたをして全体をギュッと押す。(※ふたがないタイプは、しゃもじで上からギュッと押さえる)

3. ラップの上に取り出し、そのまま包む。

中に具を入れたいときは、2で半量ほどご飯を入れ、真ん中を軽くくぼませて具をのせ、その上から半量のご飯をのせて作りましょう。塩で味つけしたいときは、できあがったおにぎりに塩を振るか、あらかじめご飯に塩を適量混ぜておきましょう。
https://mamagirl.jp/0000195529
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1147.html#c2

[近代史5] 毛沢東の大躍進政策
毛沢東の大躍進政策


【Front Japan 桜】中国のエネルギー改革は、第二の大躍進じゃないか?[桜R3/10/5]



キャスター:渡邉哲也・福島香織

http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1155.html

[近代史5] 毛沢東の大躍進政策 中川隆
1. 中川隆[-16124] koaQ7Jey 2021年10月06日 04:58:19 : ysUaxmWtj8 : SXFLbnFMU3E1ZGc=[8]
中国最後の皇帝 毛沢東 _ 共産革命とは一体何であったのか?
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/537.html

毛沢東はセッ○ス狂
http://www.asyura2.com/11/hasan72/msg/760.html

独裁者列伝 _ 毛沢東
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/805.html

中国は共産主義国ではなく古来からの皇帝が支配する儒教国家
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/567.html

中国では、法律は、皇帝の命令である。だから、皇帝は、法律に従わなくていい。
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/615.html

中華人民共和国で唯一の共産主義者だった周恩来
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1597.html

独裁者列伝 _ 習近平
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/806.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1155.html#c1

[近代史6] バルトーク・ベーラ(Bartók Béla Viktor János 1881 - 1945)
バルトーク・ベーラ(Bartók Béla Viktor János 1881 - 1945)


管弦楽曲

交響詩『コシュート』 (1903年) Sz.21
3.5点
まだバルトークらしい前衛的な音楽ではなく、Rシュトラウスや、さらにいえばチャイコフスキーみたいに感じる部分もある。でもなかなかの力作でいい曲。22歳でこんなに本格的な曲を書けたバルトークはやはり天才作曲家だった。

管弦楽のための組曲第1番 (1905年、1920年改訂) Op.3 Sz.31
2.8点
まだ初期の作品で音楽的にはほぼ完全に19世紀末のロマン派の内容であり、たまに変な音の使い方が出てくるがほんの一瞬であり、前衛的な世界は殆ど無い。洗練されていない土泥臭さや牧歌的なユルさを感じる所が魅力。たまに出てくる運動会みたいなノリも楽しい。長い曲であり、個々の場面は悪くないのだが、やや散漫で冗長なので全体として長さに見合った効果を挙げているとは思えない。晩年の管弦楽のための協奏曲と類似する所がある。

小管弦楽のための組曲第2番 (1905年-1907年、1943年改訂) Op.4 Sz.34

『舞踏組曲』(1923年)Sz.77
3.5点
舞踏的ということで、民族的なフレーズやワイルドさも聴きやすくまとめられており、なかなか良い。

弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽 (1936年) Sz.106
3.8点
バルトークの作曲技術の高さや、不思議な東洋的神秘などの民族的要素や前衛など多くの要素を取り込んだ、作品としてがっちりと構築され、交響曲のような規模の作品として結実している。メロディーや和声は分かりやすいので十分に聞きやすく、しかし平明過ぎず刺激的であり、曲の長さも適切で楽しみやすい。

弦楽のためのディヴェルティメント (1939年) Sz.113
3.0点
1楽章と3楽章は調性が明確で楽しく分かりやすい音楽。2楽章は晦渋でバルトークらしさを記憶に残す。バルトーク入門には良いかもしれないが、明快過ぎて特段の素晴らしさがなく、あまり面白くない。

管弦楽のための協奏曲 (1943年) Sz.116
3.0点
一般的な曲のような平明な聴きやすいフレーズと不思議な雰囲気をバラエティー多く用意し、各楽器に活躍をさせる曲ということで、バルトークの中では人気のある曲になっているのだろうか。正直なところ、単純化のせいでバルトークの特長が消えており、普通の曲として聴くと別にそれ程魅力的な音楽というわけでもない。音楽の密度も低いし、高い評価は出来ない。恐らくバレエ音楽のような聞き方をするのが正解。

協奏曲

ピアノと管弦楽のためのラプソディー (1904年) Op.1 Sz.27
3.0点
まだ前衛的になる前の作品。ピアノのためのラプソディーSz.26の編曲。音楽的には平明ではあるがメロディーが全然印象に残らず心に響かないため、平凡な作品だと思う。しかしながらピアノ書法が素晴らしい。非常に華やかに活躍しており重すぎず軽すぎず使われる技巧も的確で見事である。ピアニストとしても一流だったので、ピアノの機能と特徴を知り尽くしていたのだろうなと思う。個人的にはピアノ独奏版の方が印象的。

ピアノと管弦楽のためのスケルツォ(ブルレスク)(1904年) Op.2 Sz.28
2.3点
初期の作品であり後期ロマン派の語法の範疇で書かれている。しかし、内容に冒険が少なくて個性の発揮も少なく、ありきたりと感じる場面が多い。ピアノも地味であまり活躍しない。大作にしてはあまり面白くない。駄作一歩手前と思う。

ヴァイオリン協奏曲第1番 (1907年-1908年) Sz.36
2.8点
2楽章しかない。死後に発見された曲。1楽章は悲嘆の感情をゆったりと歌っており、しんみりとさせられる。2楽章も叙情的でテンポが遅い場面が多く、1楽章と割と近い雰囲気。終わりの方はちゃんと盛り上げて終わるが。聴きやすい曲ではあるが総合性が足りない。

ピアノ協奏曲第1番 (1926年) Sz.83
3.3点
1楽章は明快でピアノが全面に出ている。2楽章は民族音楽的な要素が非常に強く、ほとんど完全にアジア音楽の世界である。3楽章はバルトークらしい前衛性を持っているが、基本的に快速で明快で軽やかな気持ちいい音楽。

ピアノ協奏曲第2番 (1930年-1931年) Sz.95
3.8点
1楽章は弦楽が使われていないせいか、多面的で多層的な印象であり、ピアノの技術的に特殊な箇所が何カ所も出てきて驚かされる。ピアノが全面に出て活躍する。2楽章は亜空間のような不思議な神秘的な雰囲気。高速な中間部分のピアノがかっこいい。3楽章はワイルドで力強く、ピアノもオケもとても格好いいしセンスが良い。

ヴァイオリン協奏曲第2番 (1937年-1938年) Sz.112
3.0点
調がはっきりしている分かりやすい音楽になったり、無調になったり、雑多な音楽がどっさりと混ざっていて、どのような曲なのか把握しにくいと感じる。ヴァイオリンを様々なやり方で歌わせる事に長けたバルトークの良さは独奏において出せているとともに、大作に見合った内容の豊富さはあるかもしれないとは思う。しかし録音で聴くせいだからか各場面の印象が弱く、そこそこの魅力の音楽が繋げられているだけのように聞こえる。正直に言うとあまり面白いと感じない。

ピアノ協奏曲第3番 (1945年) Sz.119
3.3点
1楽章は強い捻りが随所に大量に入ってあるとはいえ、アメリカ的気分を感じるロマン派協奏曲で驚く。2楽章も都会的な所が20世紀のアメリカ的なロマン派協奏曲。3楽章はほとんどガーシュインの世界である。全体的にロマン派の音楽に近すぎるが、アメリカ的なので陳腐すぎず楽しめるといったところか。

ヴィオラ協奏曲 (1945年) Sz.120
3.3点
ヴィオラの落ち着いた艶めかしい音を楽しむ曲。この曲において引き出されている中音域を主体とし幅広い音域で魅せられるヴィオラの魅力はなかりのものであり、じっくりと堪能できる。ただし、メロディーは耳につかないので、なんとなくいいなあと思いながら聴く曲ではある。管弦楽は本人作でなく控え目なのでなおさらヴィオラが大活躍である。

舞台作品

バレエ音楽『かかし王子』1914年-1917年、Op.13 Sz.60 BB.74
3.8点
色彩感の豊さに驚かされる。リヒャルト・シュトラウスを彷彿とさせる豪華なオーケストレーションであり、その中で鋭角的なメロディーセンスを披露しているところがバルトークらしい。おとぎ話のような可愛らしい曲調であり、その雰囲気だけでも楽しいが、場面の移り変わりや、踊れるバレエ音楽らしさもあるところがさらに良い。エンターテインメント音楽として、かなりの出来だと思う。

パントマイム『中国の不思議な役人』(1918年-1924年、1931年改訂) Op.19 Sz.73
4点
バルトークらしいワイルドさと、管弦楽の色彩の豊かさ、リズムの多彩さ、テンポと楽想の表情の豊かさが合わさっている。明らかに影響を受けているストラヴィンスキーの有名バレエ音楽に匹敵する素晴らしい出来映えである。抽象的で思弁的なバルトーク作品の中で、例外的に華やかで情景を音を描くような作品なので、聴いていてとても楽しい。


室内楽曲

弦楽四重奏曲第1番 (1908年-1909年) Op.7 Sz.40
4.0点
まだ1908年の作品とは思えないほど前衛的で異様に緊張感の高い響き。1作目から既に完成度が高く、まさに新たな表現の地平を切り開いて20世紀の弦楽四重奏の礎となった感が強い。鋭い不協和音や、対等な四つの楽器がうねってぶつかり合う、テンションの上げ下げ、音の間の活用、独奏と合奏やユニゾンの対比など、弦楽四重奏ならではの柔軟な表現力や手法を効果的に使っている。

弦楽四重奏曲第2番 (1915年-1917年) Op.17 Sz.67
4.0点
2楽章の終わり近くの高速部分はかっこいい!1楽章は悪く言えば民族的音楽と無調の折衷的音楽にも聞こえてしまう曲で、中間の展開部の力強さ以外はまあまあという感じである。2楽章で段々ボルテージを上げて極限に達し、そのあとに3楽章の汚れた浄化と呼びたいような、荒廃した静寂世界へのつなげ方が非常に秀逸で見事である。

ヴァイオリン・ソナタ第1番 (Vn.&Pf) (1921年) Sz.75
4.0点
無調的な凄い作品。1楽章は研ぎ澄まされた鋭利な刃物で構えているような、異常な緊張感で貫かれている。2楽章のアダージョも同様の緊張感で、さらに本当に人を襲おうとしているかのような狂気と恐怖感を感じる。3楽章は速度を上げる。相変わらずの緊張感でテンションが上がり凄いが、ヴァイオリンソナタの限界かバルトークがやりすぎを抑えたのか、異常を維持出来ない箇所が所々あると感じる。

ヴァイオリン・ソナタ第2番 (Vn.&Pf) (1922年) Sz.76
3.3点
ヴァイオリンソナタ1番と同じ系統の無調的で音の鋭利さを主な特徴とする音楽である。しかし1番で見せた圧倒的な緊張感や異常性は薄れ、切れ味がやや鈍り、所々でまとまりが悪く中途半端な印象を持ってしまう。勝手な印象だが1番のソナタとの内容の重複を避けた結果のように感じた。

弦楽四重奏曲第3番 (1927年) Sz.85
4.0点
バルトークの弦楽四重奏曲で一番短い。単一楽章だが部分の区切りは割と明確である。無調的だが、聞きにくく無い。簡素だが緊密で無駄が無く、特殊奏法の使い方、音の重ね方、音響やフレーズなど、前衛的だが非常に高いセンスと閃きの良さに感心する。

ヴァイオリンとピアノのためのラプソディー 第1番 (1928年) Sz.86
2.8点
尖った民族性ともいうような、少しきつめの雰囲気。あと一押しの雰囲気だけでない何かがほしい。

チェロとピアノのためのラプソディー 第1番 (1928年) Sz.88

ヴァイオリンとピアノのためのラプソディー 第2番 (1928年、1944年改訂) Sz.89
3.0点
1番と雰囲気も感想も同じだが、後半パートの野蛮性が好きな感じなので少し評価は上。

弦楽四重奏曲第4番 (1928年) Sz.91
3.5点
特殊奏法が多く登場する。簡素な3番とは1年しか違わないが、かなり異なる曲。音自体の面白さを楽しめる点では素晴らしいが、音世界を尖鋭化し過ぎてやり過ぎになり、精神的には少し殺伐とし過ぎていると感じた。アーチ型ではあるが、曲のストーリーが追いにくいと思う。

44のヴァイオリン二重奏曲 (1931-32年)Sz.98 Op.104
3.3点
民族音楽を素材にしている。渋みとコクのある断片的な小品の曲集。教材として書かれた名曲があるわけではないし、本格的な曲もない。ヴァイオリンは音数が少なく簡素の書法である。しかし、気楽に聴けるのと、低音のない地に足の着かない響きのせいか、不思議な民謡の魔力を秘めたかのような魅力が心を捉える。

弦楽四重奏曲第5番 (1934年) Sz.102
4.0点
最初の方はあまり緊張感が高く無いのだが、後半になるに従い緊密度を増して先鋭的になり、おぞましい恐怖の世界を構築していく。最終楽章は魑魅魍魎の飛び交う世界のようである。耳に刺さるような音の痛さは少ないが、まさに天才が狂気をさらけ出した音楽。

2台のピアノと打楽器のためのソナタ (1937年) Sz.110
4.3点
全3楽章。特殊編成であるが、バルトークの良さを引き出すのに実に適切と感じる。神秘的で東洋的な雰囲気を出す打楽器、2台のピアノは分厚く、豊富な音数を使って自由な表現を実現している。先鋭的な音使い、充実したリズム、夜の歌など様々なバルトークらしい要素がよくまとめられており、音楽的に充実しているとともに詩的な情緒の面でも充実している。聴きやすさもあり、代表作の一つとして楽しめる作品。

弦楽四重奏曲第6番 1939年 Sz.114
3.5点
内省的な印象が強くなり、尖鋭性や強烈さは抑えられている。悲しみの主題が曲を覆い、時代背景を象徴しているのだが、分かりやすいエレジーの類ではない。古典的な印象があり、割と正気を保っており毒の少ない内容は、やや物足りない感じがする。

無伴奏ヴァイオリン・ソナタ 1944年 Sz.117
3.3点
バルトークらしい強烈な緊張感をベースにヴァイオリンの音に強い意味と存在感を持たせる音楽は、無伴奏ヴァイオリンに向いているのだろう。しかし、無伴奏なので音の繋がりを簡単に把握出来ないため、難解な音楽であり、4楽章以外は簡単には聴けない。すごい何かを聞いた気分にはなれるが、それが何なのか分かりそうにないもどかしさがある。

ピアノ曲

ピアノのためのラプソディー (1904年) Op.1 Sz.26
3.3点
24分の大作でものすごい力作である。ハンガリー風の動機をふんだんに活用しながら自由に音楽が展開していく。曲としては、力作ぶりに圧倒されるものの、分かりやすくないし感動する感じではない。しかしながらピアノ書法が見事である。技術を駆使して華やかで幅広いピアノの能力を引き出しており、その点でピアノ音楽が好きな人なら、上位にランキングされるだろう。

アレグロ・バルバロ (1911年) Sz.49
3.5点
まさに野蛮なアレグロである。ゴツゴツした無機質で異質な音の岩の塊を並べたような曲。ごくみじかい曲だが、密度が濃すぎてもっと長く感じる。

ソナチネ (1915年) Sz.55
3.5点
3楽章合計4分の短い曲。ソナタ形式が使われておらず、どちらかというと3曲の小品集に近い。ただ、民謡が使ったこの曲はインパクトがあり出来も良いため、アピールの観点ではソナチネという命名は正しい気もする。

ピアノのための組曲 (1916年) Op.14b Sz.62
3.5点
小さな小品4曲。演奏会用の曲なので華々しい技巧が使われている。バルトークが民族音楽の研究の結果を自分の中で消化して生まれた本格的で意欲的な作品であり、かなり聴き映えがする。前衛性はほどほどであり、適度に耳を突き刺す音の痛さが心地よい。

戸外にて (1926年) Sz. 81
3.5点
全5曲。この時期に書かれたにしては調が明確で曲想もわかりやすく聴きやすい。激しいのは最後の曲だけであり静寂を主体としている。ドビュッシーの後継者と呼びたい程の詩情がある。

ピアノ・ソナタ (1926年) Sz.80
3.3点
ピアノを打楽器的に扱う語法が目立ち、ゴツゴツして野蛮な印象で迫力がある。バルトークらしい異質で鋭角的で前衛的な音楽を本格的に聴かせるピアノ曲として貴重な存在。しかし、ソナチネと呼んでもよいような小さな規模であり、総合性の観点では少し物足りない。

ミクロコスモス (1926年から1939年)
N/A
教育用の小曲の集まり。抜粋して少し聴いた印象だと、教育用の大部分は鑑賞するにはつまらないが、後半の難易度が高い曲になると鑑賞に耐える曲になる。

6つのハンガリア舞曲
3.0点
ミクロコスモスの最後の6曲。短くてかなり軽い。ごく短いピアノ曲。

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF


バルトーク・ベーラ・ヴィクトル・ヤーノシュ(Bartók Béla Viktor János [ˈbɒrtoːkˌbe̝ːlɒˈviktorˌjɑ̈ːnoʃ], 1881年3月25日 - 1945年9月26日)は、ハンガリー王国のバーンシャーグ地方のナジセントミクローシュに生まれ、ニューヨークで没したクラシック音楽の作曲家、ピアニスト、民俗音楽研究家。

作曲以外にも、学問分野としての民俗音楽学の祖の1人として、東ヨーロッパの民俗音楽を収集・分析し、アフリカのアルジェリアまで足を伸ばすなどの精力的な活動を行った。またフランツ・リストの弟子トマーン・イシュトバーン(英語版)(1862年11月4日 - 1940年9月22日)から教えを受けた、ドイツ・オーストリア音楽の伝統を受け継ぐピアニストでもあり、コンサートピアニストやピアノ教師として活動した。ドメニコ・スカルラッティ、J・S・バッハらの作品の校訂なども行っている。


生涯

幼少期
1881年、ナジセントミクローシュ(現在のルーマニア、ティミシュ県のスンニコラウ・マレ(英語版))に農学校校長で同名の父バルトーク・ベーラ(1855年-1888年)とピアノ教師でドイツ系の母パウラ・ヴォイト(1857年 - 1939年。スロヴァキアのマルチン出身)の間に生まれる。父は町に音楽協会を設立するほどの熱心な音楽愛好家でもあり、自身でもピアノやチェロをたしなむ人物であった。母のパウラによれば、バルトークは病弱だったが、きちんと言葉をしゃべる前から母のピアノ演奏のダンスのリズムを区別し、3歳くらいから母のピアノ演奏に合わせて太鼓を叩き、4歳では自己流で40曲のピアノ曲を弾くなど音楽的素養を見せていた。そこで彼女は娘を出産した後の5歳頃から息子に正式なピアノ教育を始める。

7歳の時に父が病気(アジソン病だったと言われている)のため32歳で急死、ピアノ教師として一家を支えることとなった母の仕事の都合でナージセレーシュ(現在のウクライナ、ヴィノフラージウ(英語版))に転居、その後各地を転々とする。9歳前後から習作的なピアノ曲も書き始め、10歳の時にはピアニストとしての初舞台を踏むが、彼女は息子を天才少年ピアニストとして売り出す気はなく、まずは普通に教育を受けることになる。1893年に音楽活動の活発だったポジョニ(現在のスロヴァキアの首都、ブラチスラヴァ)に母と赴いた際、作曲家エルケル・ラスローに指導してもらう機会を得る。翌年、母がポジョニに仕事を得たため同地へ引っ越し、当地のギムナジウムに入学。エルンスト・フォン・ドホナーニと知り合い友人となる。

音楽家への道と民謡との出会い
学内でもピアニストやオルガニストとして活動し、ヨハネス・ブラームスの影響を受けた作曲活動にも取り組んでいたバルトークは、1898年にはウィーン音楽院に入学を許可される。しかし国際色豊かなウィーンよりもハンガリーの作曲家としての自分を意識すべきだというドホナーニの薦めに従い、翌年ブダペシュト王立音楽院(後のリスト音楽院)に入学。作曲をハンス・ケスラー、ピアノをトマーン・イシュトヴァーンに指導を受ける。ここではワグネリアンの学長からリヒャルト・ワーグナーの洗礼を受けるが、既にブラームスの影響を脱して先に進もうとしていた彼に、ワーグナーは答えをくれなかったと回想している。

1902年、21歳の時にリヒャルト・シュトラウスの《ツァラトゥストラはこう語った》に強烈な衝撃を受け、交響詩《コシュート》を作曲。1848年のハンガリー独立運動の英雄コシュート・ラヨシュへの賛歌であった為、当時ハプスブルク帝政の支配下にあったブダペシュトの世論を騒がせた。1904年にはゲルリーツェプスタ(現在スロヴァキア領)で初めてトランシルヴァニア出身者の歌うマジャル民謡に触れる。

1905年、パリのルビンシュタイン音楽コンクールにピアノ部門と作曲部門で出場。作曲部門では入賞せず奨励賞の第2席、ピアノ部門では2位であった(優勝者はヴィルヘルム・バックハウス)。自分の人生をピアニストとして描いていたため、優勝を果たせずかなり落胆したようであるが、それ以上に作曲部門での結果の方がショックだったようである。しかし、ハンガリーでは知られていなかったクロード・ドビュッシーの音楽を知るという収穫を得た。また民謡について科学的アプローチを始めていたコダーイ・ゾルターンと出会い、多大な影響を受ける。

1906年からコダーイやその他の研究者達と共にハンガリー各地の農民音楽の採集を始める。1913年にアルジェリアへ赴いた他は、専ら当時のハンガリー国内で民族音楽を採集していた。

1907年、26歳でブダペシュト音楽院ピアノ科教授となる[2]。ピアニストとして各地を旅するのではなく、ハンガリーに留まったことで、更なる民謡の採集が進み、民謡の編曲なども行う。この時点でも、彼の大規模な管弦楽作品はまだブラームスやリヒャルト・シュトラウス、さらにはドビュッシーの影響を感じさせるものであるが、ピアノ小品や親しかった女性ヴァイオリン奏者シュテフィ・ゲイエルに贈ったヴァイオリン協奏曲第1番(ゲイエルの死後発表)の2楽章などでははっきりと民謡採集の影響が表れている。1908年の弦楽四重奏曲第1番にも民謡風要素が含まれている。またトマーンの紹介で知己を得ていたレオポルド・ゴドフスキー、バルトークの作品を評価したフェルッチョ・ブゾーニの推挙も得て、ピアニストとしてだけではなく作曲家としての名も次第に浸透し始める。

スタイル確立と第一次世界大戦
1909年、ツィーグレル・マールタ(Ziegler Márta)と結婚。翌1910年には長男ベーラ(バルトーク・ジュニア)が生まれる。この年、フレデリック・ディーリアスと知り合い、彼の作品の影響も受ける。

1911年、ただ1つのオペラとなった《青ひげ公の城》を書き、ハンガリー芸術委員会賞のために提出したが、演奏不可能という事で拒絶された。結局この曲は1918年まで演奏されなかった。当時バルトークは、政治的見解から台本の作家バラージュ・ベーラの名を伏せるように政府より圧力をかけられていたが、これを拒否し、同時に自身の作品がなかなか顧みられない現状に疲れてしまい、ピアノ科教授以外の公的な立場から身を引いた。その後の人生でバルトークは民謡への愛着は別として、ハンガリー政府や組織とは深く関わらないようにしている。芸術委員会賞に失望した後2、3年の間、作曲をせず、民謡の収集と整理に集中していた。

1914年、第一次世界大戦の勃発により、民謡の収集活動が難しくなったため作曲活動に戻り、1914年から16年にかけてバレエ音楽《かかし王子》、1915年から17年には《弦楽四重奏曲第2番》を書いている(採集活動自体は1918年まで行っている)。1918年には《かかし王子》の初演が成功し、ある程度国際的な名声を得た。引き続き《青ひげ公の城》が初演される。同年、レンジェル・メニヘールトの台本によるパントマイム《中国の不思議な役人》の作曲を開始する。1919年に成立したハンガリー評議会共和国では、教育人民委員から任命を受けた4人から構成される音楽生活指導部に参加した[3]。しかし第1次世界大戦で敗戦国となったハンガリーはトリアノン条約による国土の大幅な縮小、更にハンガリー評議会共和国に関わったことでその後の政治の混乱に巻き込まれ、ピアニストや民俗音楽の研究家としての名声が高まるのとは裏腹に、本人としては不本意な時期が続く。

1921年から22年にかけてヴァイオリンのためのソナタを2つ書き、イェリー・ダラーニのヴァイオリンと自らのピアノで初演。更に彼女に同行してイギリスやフランスで演奏旅行を行う(この際、モーリス・ラヴェルやストラヴィンスキーと会っている)。これはそれまでに作曲した中で和声上、構成上最も複雑な作品である。また民謡的要素を自分の作品の中で生かすということに自信を深めたのか、それまで編曲作品と自作を区別するために付けていた作品番号を、ソナタ第1番の出版譜からは付けなくなった。

様々な活躍と、第二次世界大戦
1923年、ツィーグレル・マールタと離婚し、ピアノの生徒であったパーストリ・ディッタ(Pásztory Ditta)と結婚。翌1924年には次男ペーテル(バルトーク・ペーテル、Bartók Péter)が誕生している(ペーテルは後年アメリカで録音技師として活躍し、父親の作品を中心に優秀な録音を世に出した。また楽譜の校訂にも大きな功績がある。)。

同じ1923年には、政府からの委嘱により、ブダペシュト市政50年祭のために《舞踏組曲》を提出。この後、1926年にピアノ・ソナタやピアノ協奏曲第1番などを発表するまで3年ほど作品を発表せず、民俗音楽の研究や演奏会活動にやや力を入れるが、1927年から翌年にかけて、彼の弦楽四重奏曲としてもっとも高い評価を受けている第3番と第4番を作曲した。またピアノ協奏曲第1番をヴィルヘルム・フルトヴェングラーの指揮と自らのピアノで初演する。その後も演奏家として1929年から30年にはアメリカやソヴィエトへの演奏旅行を行い、ヨゼフ・シゲティやパブロ・カザルスらと共演している。

1934年には音楽院ピアノ科教授の任から離れ、科学アカデミーの民俗音楽研究員となった。彼は長年作曲とピアニストとしての活動以外の時間を、自分や後進の研究者達が収集したコレクションの整理に取り組める環境を求めていたが[注釈 1]、遂にそれを得て研究活動に没頭するようになった。作曲家としても1936年には、バーゼル室内管弦楽団を率いていたパウル・ザッハーの委嘱で彼の代表作として知られる《弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽》を作曲。翌年ザッハーの手で初演が行われた。

1939年には《弦楽四重奏曲第6番》を作曲したが、第二次世界大戦が勃発し、民俗音楽の研究を出来る環境を求めており、またその文化政策などからナチス嫌いでもあったバルトークは、同年の母の死を機にヨーロッパを去ることを考え始めていたことをうかがわせる作品となった。この頃、反ユダヤ主義者との対話の中で、自らの祖父ヤーノシュがユダヤ人だったことを示唆しているが、ヤーノシュはマジャル人の父とクロアチア人の母の間に生まれ、ユダヤ人ではなかった(ただし、ディッタ夫人はユダヤ系の血をひいている)。

アメリカ移住と死
母親の死以前から、バルトークは政治的に硬化していくハンガリーを去り、自身のライフワークである民俗音楽の研究に打ち込める環境を求めて他国へ移住することも検討し始めていた。はじめはトルコのアンカラへの移住を検討するが環境が整わないことから断念した。最終的には1940年春にアメリカ合衆国への演奏旅行の際、友人達にアメリカへ移住の可能性を打診、彼らの協力でコロンビア大学の客員研究員として南スラブの民俗音楽の研究に取り組む手はずを整えると一旦帰国。10月8日にブダペストのリスト音楽院の大ホールで告別コンサートを開き、ハンガリー国鉄の技術者になっていた長男、そしてコダーイに後を託し、ザッハーやかつての恋人・ゲイエルなど友人達の助力を受け、妻と膨大な研究資料や自作資料と共にアメリカ合衆国へ移住した。なお、次男ペーテルは全寮制の学校に在学中のためハンガリーに残ったが1年後単身アメリカに渡り、その後アメリカ海軍の招集に応じた。

少々自己中心的でなかなか他人と打ち解けないタイプであったバルトークにとって、アメリカは決して居心地は良くなかったし、研究や講演以外はピアニストとして生計を立てるつもりだったとはいえ、作曲する気にもならなかったようで、演奏会活動を行う以外は、先のコロンビア大学での研究の他、ヨーロッパから持ち込んだ民俗音楽の研究に没頭していた。しかし1940年ごろから右肩周辺に痛みを感じるなどの不調があった健康状態は次第に悪化、1942年になると断続的に発熱を繰り返すようになった。1943年初頭にはついに入院してそれまでの活動を全て中断する。

フリッツ・ライナーなどアメリカ在住のバルトークの友人たちは、戦争で印税収入が滞るなど収入源の無くなってしまった彼を支援するため「作曲者・著作者・出版者の為のアメリカ協会 (the American Society for Composers, Authors, and Publishers) 」に医療費を負担させるよう働きかけ、更に当時ボストン交響楽団を率いていた指揮者セルゲイ・クーセヴィツキーに、彼の財団と夫人の思い出のための作品をバルトークに依頼させる。すると驚異的なスピードで《管弦楽のための協奏曲》を完成。この依頼があって作曲への意欲が引き起こされたようで、ヴァイオリン・ソナタを演奏会で取り上げる際にアドヴァイスを求めに来て親しくなったユーディ・メニューインの依頼で《無伴奏ヴァイオリンソナタ》にも着手し、1944年には両曲の初演にそれぞれ立ち会う。出版社との新しい契約で収入面の不安もやや改善され、健康状態も小康を取り戻して民俗音楽の研究も再開した。しかし、その病は白血病だった。

1945年、《子供のために》や《管弦楽のための協奏曲》の改訂をする傍ら、妻の誕生日プレゼントにしようと軽やかで新古典派的な《ピアノ協奏曲第3番》、ウィリアム・プリムローズから依頼された《ヴィオラ協奏曲》に着手するが、ともに完成させることができずに、9月26日、ニューヨークのブルックリン病院で死去(満64歳没)。前者はほとんどできあがっており(オーケストレーションが17小節残された)、草稿段階にとどまった後者とともに、友人でハンガリー系の作曲家シェルイ・ティボール(Sérly Tibór)によって補筆完成された。

遺体は「ナチスドイツや共産主義ソ連の名前が残っている内は祖国に埋葬しない」との遺言に基づき、ニューヨーク州ハーツデイル(英語版)のファーンクリフ墓地に埋葬されたが[1]、ハンガリー社会主義労働者党が一党独裁放棄を決めるなど民主化が進んだことから、ハンガリー在住の長男ベーラとアメリカ合衆国在住の次男のぺーテル、そして指揮者ゲオルク・ショルティらの尽力で亡骸が1988年7月7日ハンガリーに移送され、国葬によりブダペシュトのファルカシュレーティ墓地(英語版)に埋葬された[2]。現在ファーンクリフには記念碑が残されている。


作風
本人が「若い頃の私にとって、美の理想はベートーヴェンだった」と回想しているようにドイツ・オーストリア音楽の強い影響から出発したが、ハンガリー民族やハンガリー王国内の少数民族の民謡をはじめとした民俗音楽の収集とそれらについての科学的分析から、その語法を自分のものにしていった(同様の活動を行った先人にチェコのヤナーチェクがいる)側面と、同時期の音楽の影響を受けた側面のバランスの中で作品を生み出す、という独自の道を歩んだ。ただし、彼の楽曲は民俗音楽の旋律やリズムだけではなく構造面も分析したうえで、なおかつソナタ形式など西洋の音楽技法の発展系を同時に取り入れて成立していることや、過去の音楽に目を向けて新しい音楽を生み出そうとした点など、音楽史的には新古典主義の流れの1人と位置付けても間違いではないだろう。

作品の変遷は大まかに以下のように区分できる。

〜1905年
ヨハネス・ブラームスやリヒャルト・シュトラウスの影響が強い、後期ロマン主義的な作風。ハンガリー民族としての意識を曲で表現しようとする作品もあったが、まだ先人達同様にジプシー音楽的な要素を取り入れる形であった。
1906年〜1923年頃
盟友のコダーイ・ゾルターンと共に、当時のハンガリー王国の各地から民謡収集を行い、一方では民謡を編曲したピアノ曲などを作り、他方では民謡の語法を科学的に分析した形で自身の作品に活かし出した時期。また自身の作品には、民謡以外にもクロード・ドビュッシーやイーゴリ・ストラヴィンスキー、新ウィーン楽派など当時の最先端の音楽の影響も強く反映されている。
この末期には民謡の語法を消化し、独自のスタイルをほぼ確立する。
1926年〜1930年頃
特に室内楽作品において尖鋭的な和声と荒々しいまでの強烈な推進力を持ちながら、緻密な構造を持つ数々の作品を生み出した。「無調的」ともいわれるが、本人は無調音楽は存在しないとの立場をとっており、この時期の作品でも調的中心は存在している。またバロック音楽や古典派の影響を如実に感じさせるなど、新古典主義の流れに乗っている面も見られる。
1930年〜1940年
その前の時代と同様に緻密な楽曲構造を持ちながら、もう少し和声的にも明快で、より新古典的なスタイルを打ち出した時期。数々の傑作を発表している。
1943年〜1945年
アメリカ時代。傾向としてはその前の時代の末期の延長線上にあり、細かい動機よりも旋律的な要素を重視する傾向がある。より明快、明朗に大衆に受ける方向へ変化したとも言われるが、曲によってはそれ以前の厳しい顔をのぞかせる。
なお彼はアメリカ移住前に手紙で吐露しているように「作曲は教えるものではないし、私には不可能です」という考えの持ち主で、その生涯で作曲を教える立場に立ったことがない(先述のシェルイを「弟子」とする記述も多いが、それは正しくない)。作曲の理論的な面についても自身ではほとんど明らかにしておらず、手紙で自身の音楽語法がハンガリー、ルーマニア、スロヴァキアの民俗音楽に強く影響をされていると書いている程度である。

そのため、彼の理論については様々な音楽学者たちが研究を行っており、ハンガリーの音楽学者レンドヴァイ・エルネーは、バルトークは機能和声の代理和音を拡張することで12半音階を等質に扱う「中心軸システム」(ジャズの「コルトレーン・チェンジズ」と背景の理論はほとんど同じである)や、作品の構成(楽式)から和音の構成に至るまで黄金分割を基礎に置き、そのためにフィボナッチ数列を活用したとの論文を発表している。ただし、前者はともかく後者については当てはまらない作品がかなりあり、この説の妥当性を支持するスケッチの書き込みや計算メモ等が見当たらない[注釈 2]ため、現在ではハンガリー国内・国外いずれにおいても、専門の研究者でこの説を支持する人はあまり多くない。

ピアニストとして
身長165センチ程度と体格的には決して大柄ではなかったが、手はかなり大きかった。そしてヴィルトゥオーゾとして自身の未来を思い描くほどの実力を持つリスト直系の弟子であり、晩年までピアニストとしての活動も行った。手紙などでは伴奏家としての腕前も自負していたようで、多くのソリストとの共演歴もある。自作自演やシゲティとの共演などの録音も残しているため、彼の演奏はCDなどで聴くことが出来る。

ドイツ・オーストリア音楽をレパートリーとしていたが、スカルラッティの編纂を行って自ら演奏したり、自らに多大な影響を与えたドビュッシーの作品も多く取り上げていた。自作のピアノ曲も自身が演奏会に取り上げるために書かれたものが少なくない。

また作曲は教えなかったが、ピアノ教育には熱心だった。自作でも教育のための作品は重要な位置を占めており、リスト音楽院ではピアノの教授として多くの弟子を育てた。シャーンドル・ジェルジやリリー・クラウス、ゲザ・アンダなどのピアニストを直接指導したほか、指揮者のアンタル・ドラティや、作曲家でバルトークの民俗音楽研究の助手も務めたヴェレッシュ・シャーンドルなどがピアノの弟子である。また、指揮者ゲオルク・ショルティは直接の弟子ではなかったが、指導教授の代役として一時バルトークのピアノのレッスンを受けたことがあったことを回想している。


年譜
1881年 3月25日、ナジセントミクローシュに生まれる。母によれば、子供のころから音楽への才能を見せていたという。
1885年(4歳) 7月11日に妹、エルザ(- 1955年9月11日)が生まれる。
1888年(7歳) 8月4日に父が死亡。
1894年(13歳) ポジョニへ引っ越し、当地でギムナジウムに通う。
1899年(18歳) ブダペスト王立音楽院に入学。
1902年(21歳) 交響詩《コシュート》を作曲。世論を騒がせる。
1903年(22歳) 4月13日に故郷ナジセントミクローシュで初の公開リサイタルを行う。プログラムはシューマンのピアノソナタ第3番や自作など。12月にベルリンでデビューリサイタルを行い、ブゾーニやゴドフスキーから称賛される。
1904年(23歳) 初めてマジャール民謡に触れる。11月に妹が結婚。
1905年(24歳) 妹夫婦の住んでいたヴェーステーで民謡採集を行う。ルビンシュタイン音楽コンクールにピアノ部門と作曲部門で出場、ピアノ部門2位。秋にコダーイ・ゾルターンと知り合う。
1906年(25歳) コダーイと連名で組織的民謡研究の必要性を説くアピールを発表。夏から彼や他の研究者と共にハンガリー各地の農民音楽を採集し始める。
1907年(26歳) トマーンの後任としてブダペスト音楽院ピアノ科教授に就任。教育者として働く傍ら、長期休暇時に民謡の採集を進める。
1908年(27歳) ピアノ曲『14のバガテル』や弦楽四重奏曲第1番を作曲。前者は自筆譜を見せに行ったブゾーニから高い評価を受ける。
1909年(28歳) ツィーグレル・マールタ(Ziegler Mártá 1893年 - 1967年5月14日)と結婚。
1910年(29歳) 8月22日、長男ベーラJr(- 1994年6月17日)誕生。
1911年(30歳) ハンガリー芸術委員会賞のために《青ひげ公の城》を作曲するも演奏を拒否される。公的な立場から身を引き、民謡の収集と整理に集中。
1913年(32歳)ハンガリー以外に、6月にはアルジェリアにて民謡採集。
1914年(33歳) 第1次世界大戦勃発。作曲活動に戻り、《かかし王子》の作曲にとりかかる。
1917年(36歳)ユニテリアン教会の信徒となる。5月12日にバレエ《かかし王子》がブダペスト歌劇場で初演され大成功。
1918年(37歳)オーストリアのウニヴェルザール出版社と楽譜出版契約を結ぶ。《青ひげ公の城》初演。《中国の不思議な役人》作曲開始。
1919年(38歳)クン・ベーラらによるハンガリー革命に際し音楽監理委員会に参加。その後のホルティ・ミクローシュによる反革命によりハンガリーは混乱する。
1920年(39歳)ハンガリーの混乱から移住を検討、2月から5月まで音楽院から休暇をもらい比較音楽学の盛んだったベルリンに赴くが断念する。アメリカからハンガリー民謡についての論文の依頼を受け執筆し、これを書籍にまとめることを企図する。
1921年-1922年 (40歳-41歳)古い知り合いだったイェリー・ダラーニと再会。彼女と共演するために《ヴァイオリンソナタ第1番》を書きあげ、イギリスやフランスで演奏旅行を行う。
1923年(42歳) 6月にマールタと離婚。遅くとも8月には生徒のパーストリ・ディッタ(Pásztory Ditta 1903年10月31日-1982年11月21日)と結婚。《ヴァイオリンソナタ第2番》《舞踏組曲》。
1924年(43歳) 2月に国際現代音楽協会のチューリヒの音楽祭に審査員として参加。7月31日に次男ペーテル誕生。「ハンガリー民謡」がハンガリーで出版。翌年にドイツ語版出版。10月24日にブカレストでヴァイオリニスト・作曲家のジョルジェ・エネスクと自作の『ヴァイオリンソナタ第2番』で共演。
1925年(44歳) 作曲家としては作品を発表せず、ピアニストとしてイタリアやオランダで演奏会を行う。
1926年(45歳) 夏から作曲活動を再開。ピアノソナタ、ピアノ協奏曲第1番などを手がける。中国の不思議な役人のケルンでの世界初演に立ち会うが、大スキャンダルになる。
1927年(46歳) ピアノ協奏曲第1番をフルトヴェングラーの指揮で初演。弦楽四重奏曲第3番を作曲。
1928年(47歳)前年末から2月末まで演奏旅行で初めてアメリカを訪れる。弦楽四重奏曲第4番、2曲の《ヴァイオリンとピアノのためのラプソディ》作曲。
1929年-1930年(48歳-49歳) ソヴィエトへ演奏旅行。ヨゼフ・シゲティやパブロ・カザルスらと共演。帰国後ピアノ協奏曲第2番を作曲。
1931年(50歳) 1月にスペイン旅行。夏は国際連盟の国際知的協力委員会の委員に選ばれてジュネーブの会議に参加し、モントゼーで行われた夏期講習会でピアノ講師を行うかたわら旧作ピアノ曲のオーケストラ編曲を行う。ヴァイオリン教育家エーリヒ・ドフレインの求めに応じて44のヴァイオリン二重奏曲を作曲。「ハンガリー民謡」英語版出版。
1932年(51歳)パウル・ヒンデミットらと共にカイロで行われたアラビア音楽会議に参加。後に<<ミクロコスモス>>となるピアノ練習曲集の構想を初めて公に語る。
1933年(52歳)1月23日にピアノ協奏曲第2番の初演をフランクフルトで行う。これがドイツでの最後の公開演奏だった。
1934年(53歳) 4月にストックホルムに演奏旅行。夏に《弦楽四重奏曲第5番》作曲。9月から音楽院を去り、科学アカデミーの民俗音楽研究員就任。
1936年(55歳) 5月2日にヴァイオリニストのザトゥレツキー・エデと共に故郷に近いティミショアラで演奏会を行うが、生前最後の帰郷となった。《弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽》作曲。11月にはトルコへの演奏旅行と講演、民俗音楽採集を行う。
1937年(56歳) 1月に『弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽』の初演に立ち会うためスイス旅行。
1938年(57歳) オーストリア併合に際し、ウニヴェルザール出版社との契約をあきらめ、同社のロンドン代理店業務を担当していたイギリスのブージー・アンド・ホークスと契約を結ぶ。
1939年(58歳) アフメト・アドナン・サイグンを通してトルコのアンカラへ移住する可能性を探るが、思うような返事は得られず。《弦楽のためのディヴェルティメント》《弦楽四重奏曲第6番》作曲。母没。
1940年(59歳) 5月から6月にかけてアメリカ合衆国で演奏会。10月には夫妻でリスボン経由で同国へ移住。コロンビア大学から民俗音楽研究についての名誉博士号を授与され、客員教授として民俗音楽の研究を開始。
1943年(62歳) ハーバード大学での連続講演期間中に白血病により入院。《管弦楽のための協奏曲》を完成。《無伴奏ヴァイオリンソナタ》にも着手。
1944年(63歳) 《無伴奏ヴァイオリンソナタ》・《管弦楽のための協奏曲》初演。
1945年(64歳) 9月26日、ニューヨークにて没。完成寸前のピアノ協奏曲第3番、スケッチのみのヴィオラ協奏曲を遺す(いずれもシェルイ・ティボールにより補筆完成)
1967年 アメリカまで持ち込んで死の直前に完成させた『ルーマニア民俗音楽』の刊行開始(1975年に完結。全5巻)。
1988年7月7日 ハンガリー国葬。ゲオルク・ショルティにより遺骨が母国へ持ち帰られる。


作品
バルトークは「作品番号」を習作の時点からつけており、「Op.1」と付記されている作品は3つある。その3つめである1904年の『ピアノのためのラプソディ』以降はオリジナルの作品には作品番号を付け、民謡からの編曲作品には付けないというルール付けを行った。しかし前述のようにヴァイオリン・ソナタ第1番の出版の際からこれを止める。このような事情から後年学者達が習作なども含めて分類した番号が付けられることも多く、少なくとも3種類の体系がある。ここではハンガリーの作曲家セールレーシ・アンドラーシュ が作成した「バルトークの音楽作品と音楽学論文の目録」での付番「Sz.」を付記する。


交響曲

交響曲変ホ長調 1902年-1903年 Sz.16 ※未完で楽譜自体紛失。スケルツォ楽章のみ現存(Sz.17)

管弦楽曲
交響詩『コシュート』 (1903年) Sz.21
管弦楽のための組曲第1番 (1905年、1920年改訂) Op.3 Sz.31
小管弦楽のための組曲第2番 (1905年-1907年、1943年改訂) Op.4 Sz.34
管弦楽のための2つの肖像 (1907年-1911年) Op.5 Sz.37
第1曲はヴァイオリン協奏曲第1番の第1楽章を流用。第2曲はピアノ曲『14のバガテル』最終曲の編曲
管弦楽のための2つの映像 (1910年) Op.10 Sz.46
ルーマニア舞曲 (1910年) Sz.47a
『2つのルーマニア舞曲』の第1曲を編曲
4つの小品 (作曲1912年、管弦楽化1921年) Op.12 Sz.51
ルーマニア民俗舞曲 (1917年) Sz.68
ピアノ版(Sz.56)の編曲
舞踏組曲 (1923年) Sz.77
トランシルヴァニア舞曲 (1931年) Sz.96
ピアノ曲『ソナチネ』の編曲
ハンガリーの風景 (1931年) Sz.97
ピアノ曲集の『10のやさしい小品』『3つのブルレスク』『4つの挽歌』『子供のために』より5曲を抜粋して編曲
9つのハンガリーの農民歌 (1933年) Sz.100
ピアノ曲『15のハンガリー農民歌』の後半9曲を編曲
弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽 (1936年) Sz.106
弦楽のためのディヴェルティメント (1939年) Sz.113
管弦楽のための協奏曲 (1943年) Sz.116


協奏曲
協奏曲に類するものも含む。

ピアノと管弦楽のためのラプソディー (1904年) Op.1 Sz.27
『ピアノのためのラプソディー』の編曲
ピアノと管弦楽のためのスケルツォ(ブルレスク)(1904年) Op.2 Sz.28
ヴァイオリン協奏曲第1番 (1907年-1908年) Sz.36
ピアノ協奏曲第1番 (1926年) Sz.83
ヴァイオリンとオーケストラのためのラプソディー 第1番 (1928年) Sz.87
『ヴァイオリンとピアノのためのラプソディー 第1番』の編曲
ヴァイオリンとオーケストラのためのラプソディー 第2番 (1928年、1944年改訂) Sz.90
『ヴァイオリンとピアノのためのラプソディー 第2番』の編曲
ピアノ協奏曲第2番 (1930年-1931年) Sz.95
ヴァイオリン協奏曲第2番 (1937年-1938年) Sz.112
2台のピアノと打楽器のための協奏曲1940年 Sz.115
『2台のピアノと打楽器のためのソナタ』の編曲
ピアノ協奏曲第3番 (1945年) Sz.119
残り17小節の管弦楽についてのみティボール・シェルイが補筆
ヴィオラ協奏曲 (1945年) Sz.120
未完。ティボール・シェルイによって完成。他にも複数のバージョンがある。


舞台作品
オペラ『青ひげ公の城』 (1911年) Op.11 Sz.48
バレエ『かかし王子』 (1914年-1916年、1931年改訂) Op.13 Sz.60
改訂時に一部を抜粋した演奏会版を作成している
パントマイム『中国の不思議な役人』(1918年-1924年、1931年改訂) Op.19 Sz.73
一部をカットした演奏会版がある。


室内楽曲
弦楽四重奏曲第1番 (1908年-1909年) Op.7 Sz.40
弦楽四重奏曲第2番 (1915年-1917年) Op.17 Sz.67
ヴァイオリン・ソナタ第1番 (Vn.&Pf) (1921年) Sz.75
初演時のプログラムにはOp.21とあったが、出版時に削除。
ヴァイオリン・ソナタ第2番 (Vn.&Pf) (1922年) Sz.76
弦楽四重奏曲第3番 (1927年) Sz.85
ヴァイオリンとピアノのためのラプソディー 第1番 (1928年) Sz.86
ヨゼフ・シゲティに献呈
チェロとピアノのためのラプソディー 第1番 (1928年) Sz.88
演奏会で共演したパブロ・カザルスのためにヴァイオリンからチェロ用に編曲
ヴァイオリンとピアノのためのラプソディー 第2番 (1928年、1944年改訂) Sz.89
ゾルターン・セーケイに献呈
弦楽四重奏曲第4番 (1928年) Sz.91
44のヴァイオリン二重奏曲 1931年 Sz.98
弦楽四重奏曲第5番 (1934年) Sz.102
2台のピアノと打楽器のためのソナタ (1937年) Sz.110
ヴァイオリンとクラリネットとピアノの為のコントラスツ 1938年 Sz.111
シゲティとベニー・グッドマンに献呈
弦楽四重奏曲第6番 1939年 Sz.114
無伴奏ヴァイオリン・ソナタ 1944年 Sz.117
ユーディ・メニューインに献呈


ピアノ曲
ピアニストで教育者でもあったバルトークは、ここに挙げた以外にも多数の作品(教則本含む)がある

ピアノのためのラプソディー (1904年) Op.1 Sz.26
14のバガテル (1908年) Op.6 Sz.38
10のやさしい小品 (1908年) Sz.39
2つのエレジー (1908年) Sz.41
子供のために (1908年-1909年) Sz.42
民謡の影響が濃厚な子供の教育用教本。死の1945年まで何度も改訂している。
2つのルーマニア舞曲 (1910年) Op.8a Sz.43
4つの挽歌 (1910年) Op.9a Sz.45
3つのブルレスク (1911年) Op.8c Sz.47
アレグロ・バルバロ (1911年) Sz.49
題名はフランスの新聞にバルトークとコダーイの作品の演奏会時に「ハンガリーの若き2人の野蛮人」と書かれたことに対する皮肉。
ピアノの初歩 (1913年) Sz.53
ソナチネ (1915年) Sz.55
ルーマニア民俗舞曲 (1914年) Sz.56
ルーマニアのクリスマス・キャロル (1915年) Sz.57
ピアノのための組曲 (1916年) Op.14 Sz.62
15のハンガリーの農民の歌 (1918年) Sz.71
ハンガリー民謡による8つの即興曲 (1920年) Op.20 Sz.74
ピアノ・ソナタ (1926年) Sz.80
組曲『戸外にて』 (1926年) Sz.81
9つのピアノ小品 (1926年) Sz.82
8曲目に「タンバリン」という曲があるが、バルトークがスペインを訪れた際の印象を元にしたものとも言われている。
ミクロコスモス (1926年-1939年) Sz.107


声楽曲
ここに挙げた以外にも多数。

民謡様式による3つの歌 (1904年) Sz.24
ハンガリー民謡 (1906年-1907年) Sz.33
5つの歌曲 (1915年) Sz.61
エンドレ・アディの詞による5つの歌曲 (1915年) Sz.62
8つのハンガリー民謡 (1908年-1916年) Sz.64
村の情景 (1924年) Sz.78
室内管弦楽と女声合唱のための『3つの村の情景』 (1926年) Sz.79
『村の情景』より3曲を抜粋し、伴奏を管弦楽化したもの
4つのハンガリー民謡 (1930年) Sz.93
カンタータ・プロファーナ 1930年 Sz.94
声とオーケストラのための5つのハンガリー民謡 (1933年) Sz.101


著作・手紙ほか
『バルトーク音楽論集』 (岩城肇 訳 / 御茶の水書房 / 1992年8月 / ISBN 4275014774 / 旧版・同[あごら叢書]、1988年)
元版 『バルトークの世界 自伝・民俗音楽・現代音楽論』(岩城肇 訳/ 講談社 / 1976年)
『ある芸術家の人間像 バルトークの手紙と記録』 (羽仁協子 編訳 / 冨山房 / 1970年)
『資料と写真で見る バルトークの生涯』 (フェレンツ・ボーニシュ編・著 / 国際文化出版社 / ISBN 4875460007、1981年)
『バルトーク・ベーラ ハンガリー民謡』 (間宮芳生・伊東信宏 歌詞対訳 / 全音楽譜出版社 / 1995年 / ISBN 4116050822)
『バルトーク音楽論選』(伊東信宏・太田峰夫 訳 / ちくま学芸文庫 / 2018年)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%A9
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/804.html

[近代史6] バルトーク・ベーラ(Bartók Béla Viktor János 1881 - 1945) 中川隆
1. 中川隆[-16123] koaQ7Jey 2021年10月06日 06:31:02 : ysUaxmWtj8 : SXFLbnFMU3E1ZGc=[9]
バルトークの家系と出自 _ バルトークは作品ごとにマジャール人、スラヴ人、ルーマニア人、ジプシーが顔を出す
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/807.html  

最美の音楽は何か? _ バルトーク『青ひげ公の城 作品11 Sz.48』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/402.html

最美の音楽は何か? _ バルトーク『中国の不思議な役人 作品19 Sz.73』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/401.html

最美の音楽は何か? _ バルトーク『弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽 Sz.106 BB 114』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/400.html

最美の音楽は何か? _ バルトーク『管弦楽のための協奏曲 BB.123 Sz.116』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/399.html

最美の音楽は何か? _ バルトーク『ピアノ協奏曲第2番 Sz.95 BB101』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/395.html

最美の音楽は何か? _ バルトーク『ピアノ協奏曲第3番』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/211.html

最美の音楽は何か? _ バルトーク『ヴァイオリン協奏曲 第2番 Sz.112』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/396.html

最美の音楽は何か? _ バルトーク『2台のピアノと打楽器のための協奏曲 Sz.115 BB 121』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/397.html

最美の音楽は何か? _ バルトーク『2台のピアノと打楽器のためのソナタ Sz.110 BB 115』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/398.html

最美の音楽は何か? _ バルトーク『弦楽四重奏曲第3番 BB 93 Sz.85』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/406.html

最美の音楽は何か? _ バルトーク『弦楽四重奏曲第4番 BB 95 Sz.91』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/405.html

最美の音楽は何か? _ バルトーク『弦楽四重奏曲第5番 BB 110 Sz.102』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/404.html

最美の音楽は何か? _ バルトーク『弦楽四重奏曲第6番 Sz. 114, BB 119』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/403.html

最美の音楽は何か? _ バルトーク『ヴァイオリンソナタ第1番 Sz.75 BB 84』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/409.html

最美の音楽は何か? _ バルトーク『ヴァイオリンソナタ第2番 Sz. 76 BB. 85』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/408.html

最美の音楽は何か? _ バルトーク『コントラスツ Sz.111 BB 116』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/407.html

最美の音楽は何か? _ バルトーク『ピアノ・ソナタ Sz80 BB88』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/411.html

最美の音楽は何か? _ バルトーク『アレグロ・バルバロ BB 63 Sz. 49』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/410.html
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/804.html#c1

[近代史4] バルトーク 中川隆
2. 中川隆[-16122] koaQ7Jey 2021年10月06日 06:31:31 : ysUaxmWtj8 : SXFLbnFMU3E1ZGc=[10]
バルトークの家系と出自 _ バルトークは作品ごとにマジャール人、スラヴ人、ルーマニア人、ジプシーが顔を出す
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/807.html  

最美の音楽は何か? _ バルトーク『青ひげ公の城 作品11 Sz.48』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/402.html

最美の音楽は何か? _ バルトーク『中国の不思議な役人 作品19 Sz.73』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/401.html

最美の音楽は何か? _ バルトーク『弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽 Sz.106 BB 114』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/400.html

最美の音楽は何か? _ バルトーク『管弦楽のための協奏曲 BB.123 Sz.116』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/399.html

最美の音楽は何か? _ バルトーク『ピアノ協奏曲第2番 Sz.95 BB101』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/395.html

最美の音楽は何か? _ バルトーク『ピアノ協奏曲第3番』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/211.html

最美の音楽は何か? _ バルトーク『ヴァイオリン協奏曲 第2番 Sz.112』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/396.html

最美の音楽は何か? _ バルトーク『2台のピアノと打楽器のための協奏曲 Sz.115 BB 121』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/397.html

最美の音楽は何か? _ バルトーク『2台のピアノと打楽器のためのソナタ Sz.110 BB 115』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/398.html

最美の音楽は何か? _ バルトーク『弦楽四重奏曲第3番 BB 93 Sz.85』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/406.html

最美の音楽は何か? _ バルトーク『弦楽四重奏曲第4番 BB 95 Sz.91』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/405.html

最美の音楽は何か? _ バルトーク『弦楽四重奏曲第5番 BB 110 Sz.102』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/404.html

最美の音楽は何か? _ バルトーク『弦楽四重奏曲第6番 Sz. 114, BB 119』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/403.html

最美の音楽は何か? _ バルトーク『ヴァイオリンソナタ第1番 Sz.75 BB 84』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/409.html

最美の音楽は何か? _ バルトーク『ヴァイオリンソナタ第2番 Sz. 76 BB. 85』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/408.html

最美の音楽は何か? _ バルトーク『コントラスツ Sz.111 BB 116』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/407.html

最美の音楽は何か? _ バルトーク『ピアノ・ソナタ Sz80 BB88』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/411.html

最美の音楽は何か? _ バルトーク『アレグロ・バルバロ BB 63 Sz. 49』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/410.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/154.html#c2

[近代史6] バルトーク・ベーラ(Bartók Béla Viktor János 1881 - 1945) 中川隆
2. 中川隆[-16121] koaQ7Jey 2021年10月06日 06:33:34 : ysUaxmWtj8 : SXFLbnFMU3E1ZGc=[11]
バルトーク自作自演

バルトーク・ベーラ(Bartók Béla, 1881年3月25日 - 1945年9月26日)


Béla Bartók at the piano Allegro Barbaro






Béla Bartók plays Bartók "For Children"




For Children, BB 53 (excerpts)

Vol. 1: No. 3. Quasi adagio – No. 4. Pillow Dance – No. 6. Study for the Left Hand – No. 10. Children’s Dance – No. 12. Allegro - No. 13. Ballade – No. 15. Allegro moderato – No. 18. Soldier’s Song – No. 19. Allegretto – No. 21. Allegro robusto
Vol. 2: No. 26. Moderato – No. 34. Allegretto – No. 35. Con moto – No. 31. Andante tranquillo – No. 30. Jeering Song

rec. 1945

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/804.html#c2
[近代史6] ドミートリイ・ショスタコーヴィチ( Dmitrii Dmitrievich Shostakovich, 1906 - 1975)
ドミートリイ・ショスタコーヴィチ( Dmitrii Dmitrievich Shostakovich, 1906 - 1975)

20世紀生まれの唯一のメジャーな大作曲家。
戦中戦後のロシアの悲劇を連想させる現代的な社会性を音楽芸術として昇華させつつ、古典的な形式であり、和声も歪んではいるがとっつき易いのが人気の所以か。
スケールが大きく深刻でシリアスな本格的なところが魅力である。一方で軽妙でシニカルさが魅力の曲も多い。
ただ個人的には、頭の中だけで書いたような機械的な書法に感じたり、わざとらしい作り物の盛り上げ方が気になる時がある。


交響曲

交響曲第1番 ヘ短調 作品10 (1925年)
3.5点
19歳の作品で、音に純朴さはあるがセンス抜群で非常によい。後年のひねくれたセンスや国家的なものとの戦いの要素がまだなく、精神的深さは無いものの彼の音感が原石として現れており、それが素晴らしい。

交響曲第2番 ロ長調 作品14 「十月革命に捧ぐ」 (1927年)
3.5点
前衛的な一楽章もの。短くて聴きやすい。ウルトラ対位法の部分はもの凄く面白い。だが最後の暑苦しい合唱はいやになる。1番ほどの感動は無いが、音楽としての充実と楽しさは上である。

交響曲第3番 変ホ長調 作品20 「メーデー」 (1929年)
3.5点
後年のショスタコらしさがかなり現れている。後年に見られる同じ音型を一定時間繰り返すことをせず、きびきびと次に展開していくのが非常に好印象でかなり良い。内容が濃い。

交響曲第4番 ハ短調 作品43 (1936年)
3.5点
1楽章はマーラー的なスケールの巨大な音楽。展開部の超高速のフーガは狂気にも程がある。マーラーのようなオーケストラの酷使と、ゴツゴツした荒さと、素材の乱暴な扱いによる取っつきにくさが魅力。2楽章もスケルツォも3楽章も同様の印象である。5番以降のように器用に整理されておらず、生々しい、未整理の"音のるつぼ"であるのが大きな魅力であると同時に、聞きにくく分かりにくい欠点にもなっている。

交響曲第5番 ニ短調 作品47 (1937年)
5.5点
純音楽的に優れているという点ではショスタコーヴィチの最高傑作だと思う。特に1楽章と3楽章は非常に出来がよい。他の交響曲の深い精神世界を知ってしまったファンは、この曲を浅く感じるので最高傑作と呼ばないかもしれないが、初心者にはやはり真っ先にお勧めしたい。

交響曲第6番 ロ短調 作品54 (1939年)
4.0点
1楽章はマーラーのようなゆったりした時間の流れで、大河的な巨大なスケールで叙情的に沈鬱な表情で世界の悲劇を嘆くような、非常に秀逸な楽章。2楽章は1楽章を受けた軽くて気分転換できる良い曲。3楽章は表面的な音楽でいまいちなように感じられるが、裏に皮肉や偽善を隠しているのに着目すると天才的と感じる曲。

交響曲第7番 ハ長調 作品60 (1941年)
4.5点
派手にドンチャン騒ぎする曲。確かに浅いから「壮大な愚作」という評価はしっくりくるものであるが、とはいえ大河的、国家的な壮大さを表現できており、やはりよい曲といえると思う。特に1楽章の中間の部分や3楽章は優れていると思う。

交響曲第8番 ハ短調 作品65 (1943年)
4.0点
純音楽的にはすこし冗長さが感じられたり響きの多様性や発想力が5番より劣る気がするが、精神的な深さとドラマ性では上回る。

交響曲第9番 変ホ長調 作品70 (1945年)
3.0点
この曲は第九なのにスケールが小さく肩すかしを食わせた曲として有名だ。自分は率直に言ってどう聴いたら良いのかよく判らない。いつもの精神的重さが無いが、それを代替する何かがあるかというと、センスが特別に良いとは思わないし、思い当たらない。交響曲と呼ぶのに必要なものが足りない気がする。交響的な組曲を聴く位の気分で気軽に接するのが正解だろうか。一応後半は何故かいつもの交響曲らしさを少しみせたりするが。

交響曲第10番 ホ短調 作品93 (1953年)
4.0点
古典的な均整の取れた4楽章制であり、内容も正統派の力作。古典性を備えた交響曲としては最後の作品集。8年経ち久しぶりの交響曲として気分一新で書いた事が伺える。スターリン時代の人々の苦悩や暴力が国家的なスケール感をもって見事に描かれているし、表面的な表情の裏では別のことを考えていそうな多義性もある。ただ、ショスタコーヴィチが狙っているその通りに音楽が進みすぎるような、作り物っぽさをどこかに感じる。

交響曲第11番 ト短調 作品103 「1905年」 (1957年)
3.5点
キリキリと音楽のテンションを高めたり沈鬱な音を鳴らして精神的なものを表現する感じが薄い、描写的な音楽。映画に使えそう。描写的なので音楽として楽しく聴ける。異常なテンションの高さが現れないので長い曲だが聴いていて疲れずまったり楽しめてよい。

交響曲第12番 ニ短調 作品112 「1917年」 (1961年)
2.5点
13番と共通するエグい音が散見される。あまり精神的な深い世界を描いていない描写的な交響曲だが、同じように扱われる11番ほど音の密度が濃くなく説得力がない。音だけではよく分からず曲の世界にのめり込めない。

交響曲第13番 変ロ短調 作品113 (1962年)
3.8点
全5楽章。バスの独唱と合唱のみであり、特に読経しているかのような単一声部の男声が暑苦しくも凄い迫力で印象的。大河的で圧倒的に巨大で骨太な音楽であり、歴史の闇を生々しく描き真正面から告発するような内容である。オーケストラは低音を使いドーンとかグワーンと鳴らされるのが、読経のような合唱とあいまって東洋的に感じる。異様な迫力と生々しさと巨大さは4番と並ぶ。最大限に深刻な1時間の音楽を緩みなく作りきった精神力は感服するが、純粋に音楽として評価すると、曲の雰囲気があまり変わらず、楽想のバラエティーの豊さはショスタコービチの交響曲の中で一番少ないと思うため、力作だが名曲というには少し足りない。

交響曲第14番 ト短調 作品135 (1969年)
3.5点
全11楽章の歌曲の交響曲。晩年の不思議な美しさが顔を見せている。13番同様に力作である。マーラーの大地の歌同様に体裁は交響曲ではないが内容の充実と有機的なテーマの関連性とつながりがあるので交響曲と呼ばれることに違和感は無い。久しぶりに歴史や国家から離れて個人の世界がテーマになった曲。バラエティーと変化に富むので聴きやすい。

交響曲第15番 イ長調 作品141 (1971年)
3.0点
様々な楽曲の引用で彩られたショスタコ流の人生回顧曲。ここでも歴史や国家のテーマは感じられない。曲の不思議な明るさと無邪気さには童心回帰を感じる。後半は音が薄く虚無感がある。謎めいた夢の中に帰るような終わり方は素晴らしい。しかし全体としては名曲とかの類ではないと思う。

弦楽四重奏曲

弦楽四重奏曲第1番 ハ長調 作品49 (1938年)
3.0点
明朗で爽やかな印象が強く分かりやすい。とはいえ諧謔などショスタコらしい要素は詰まっている。ちゃんとした音楽を充実した内容で書くという自信を感じる。

弦楽四重奏曲第2番 イ長調 作品68 (1944年)
2.5点
2次大戦中の曲で、大作。一楽章は少し変わった雰囲気でショスタコじゃないみたい。二楽章以降はなかなか本格的で重い。精神的にもなかなか深いものを表現している。ただ音楽の素材は彼の中の一級品は使ってないと思う。

弦楽四重奏曲第3番 ヘ長調 作品73 (1946年)
3.5点
交響曲8番と共通する悲劇的で深い世界を表現している。中期の交響曲群に匹敵する重さと響きの質の高さを持った作品。

弦楽四重奏曲第4番 ニ長調 作品83 (1949年)
2.5点
悪くはなく所々いい場面があるのだが強い印象は無く地味。曲の素材が一級品でなく二軍を使ってる。

弦楽四重奏曲第5番 変ロ長調 作品92 (1952年)
3.0点
アダージヨが美しい名作で心惹かれた。その流れで三楽章も楽しめた。最後の場面はショスタコ得意のパターンとはいえ美しい。

弦楽四重奏曲第6番 ト長調 作品101 (1956年)
2.5点
ショスタコの四重奏にしては全体が快活な雰囲気でまとめられており聴きやすい。

弦楽四重奏曲第7番 嬰ヘ短調 作品108 (1960年)
2.5点
短い作品で、ショスタコ節を鳴らして終わる普通の曲。

弦楽四重奏曲第8番 ハ短調 作品110 (1960年)
3.5点
激情にかられて一気に書いたという逸話に納得の内容。彼の熱い思いがみなぎるテンションに圧倒される。

弦楽四重奏曲第9番 変ホ長調 作品117 (1964年)
3.0点
ショシタコらしい音がして、バラエティー豊かで内容は豊富でバランスが取れているという点で聴きやすい。

弦楽四重奏曲第10番 変イ長調 作品118 (1964年)
3.0点
交響曲のような発想が所々あり、力強い楽章などそれなりに聞き応えがある。

弦楽四重奏曲第11番 ヘ短調 作品122 (1966年)
3.0点
ダークで殺伐とした静かな後期の世界が展開される。複雑怪奇なフレーズは少ない。夜の闇の静けさの中で事象が発生しはるか遠くに消えていくかのようである。

弦楽四重奏曲第12番 変ニ長調 作品133 (1968年)
3.5点
歯止めの利かないクレイジーさはベートーベン後期のようだ。二楽章はしつこく繰り返される動機が妙に印象に残り、その間を自由で即興的で異様な内容の音楽がつないでいく。やけに即物的な音楽であるが、それがいい。後期四重奏の魅力を強く感じられる。

弦楽四重奏曲第13番 変ロ短調 作品138 (1970年)
3点
リズムがなく、もはや観客の視点も無い。暗闇の中で何かが唸っているような、自然の中の何かの現象が発生しているような曲。構成感も希薄で現代音楽のよう。雅楽のような虚無の使い方。ショスタコにしてはやり過ぎではないかとも思うが、割り切って聴けば悪くない気もする。
弦楽四重奏曲第14番 嬰ヘ長調 作品142 (1973年)
3点
1楽章はヘンテコで正直どう感じればいいのか分からない。二楽章はやたら分かりやすい、そして分かり易いと自然と感情移入できるというのを実感する。三楽章も自由だが割と音楽になっており理解は可能。

弦楽四重奏曲第15番 変ホ短調 作品144 (1974年)
3点
全編アダージョの長い曲だが、音楽的に充実していて飽きることなく最後まで聴ける。後期の四重奏の中で一番聴きやすい。ヴィオラソナタのように最晩年らしい特別な感情や世界が展開されてる感じではなく、ただただ叙情の世界である。

弦楽のためのレクィエム 作品144bis(原曲は第15番)


管弦楽曲・吹奏楽曲

タヒチ・トロット (1928年)
3.5点
ヒットソングの編曲で、45分でオーケストレーションしたらしい。なかなか洒落ていて色彩的で愉しい編曲で面白い。何しろ原曲が秀逸である。

ジャズ・オーケストラのための第1組曲 (1934年)
3.5点
いわゆるジャズに分類される音楽ではないが、今でも耳にする事があるようか古いバンド向けお洒落音楽ではある。線を繋げて構成するショスタコーヴィチの柔軟さが生かされている。洗練度は微妙だが、クラシック専門作曲家にしてはセンスがよい。奔放な発想力が凄い。

ジャズ・オーケストラのための第2組曲 (1938年)
2.5点
ブラスバンド用もしくはディズニーランドで流れているような音楽のよう。ごくありきたりの音楽であり、悪い曲ではないがショスタコーヴィチ作曲である附加価値は何も無い。なお、いわゆるジャズ的な音楽ではない。この曲の本来の題名は舞台管弦楽のための組曲であり、誤って「第2番」として知られてしまっているのだそうだ。

荘厳な行進曲 (1941年)

バレエ組曲第1番 (1949)
3.5点
非常に軽妙な舞台音楽の再編集による組曲。よくある音楽にショスタコーヴィチらしい味付けがされており、作曲者の個性がちゃんと発揮されている。センスがかなり良いし表情豊かで1曲ごとにちゃんと個性があるので、心底楽しい気分で聴ける。いつもの深刻なショスタコーヴィチとは全然違う一面がみれる。この曲集は1曲が非常に短いので聴きやすい。

バレエ組曲第2番 (1951)
3.8点
2曲目に独奏チェロを使用した7分程度のアダージョがあるのが特徴。アダージョといっても軽くて楽しい気分で聴けるものである。そのような楽しい曲を書けたショスタコーヴィチのセンスに驚く。その他の曲は1番と基本的に似ていて、同様に楽しめる。4曲目のトランペットの独奏によるロマンスは昭和の歌謡曲のようで面白い。そして非常にいい曲。

バレエ組曲第3番 (1952)
3.0点
この曲集もやはり個性豊かで聴いていて楽しい曲の集合である。しかしながら、曲にありきたりな感が増している印象をうけた。はっとするような感動や感心してしまうような場面が少なくて、よくある音楽にわずかな一捻りを入れただけの曲ばかりと思ってしまった。

バレエ組曲第4番 (1953)
2.8点
3曲しかなくて1曲が3から5分程度と長いのが特徴。どれも普通の曲であり、あまり特徴が無いので面白いと感じなかった。他のバレエ組曲同様に軽快ではあるが、軽やかさが少ない。

祝典序曲 (1954年)
2.5点
ファンファーレ吹きまくりのノリノリの曲である。生で聴いたら楽しそうだが、CDで鑑賞する場合にはそれほどいい曲ではない。

交響詩「十月革命」 (1967年)
2.0点
耳に残るものがなくつまらない。交響曲の中の一つの楽章だと評価が変わるかもしれないが、単品の曲としては評価できない。

交響的哀悼前奏曲 (1967年)

「緑の工場」のための序曲

ソヴィエト民警の行進曲(1970年)
2.0
吹奏楽曲。普通のマーチ。少しだけショスタコ風ひねりがある程度。

ロマンス『春よ、春よ』Op128
2.0
断片的な歌曲。歌詞も分からないのにわざわざ聞くほどのものでない。

協奏曲

ピアノ協奏曲第1番 ハ短調 作品35 (1933年)
3.5点
弦楽合奏のピアノ協奏曲だけでなく、所々にトランペットの効果的な彩りが入っているのが楽しい。重音が少なく軽快に駆け巡るピアノ書法と伴奏が良くマッチしている。軽くて楽しい曲だが適度にシニカルさが混入して表情豊かになり、聴き映えのある仕上がりになっている。

ピアノ協奏曲第2番 ヘ長調 作品102 (1957年)
3.0点
1番以上に軽快な曲であまり深い内容はありそうにない。聴く側も気楽に娯楽音楽を聴く気分で接すると良さそう。駆け巡るようなピアノ書法や2楽章の叙情性は楽しい。

ヴァイオリン協奏曲第1番 イ短調 作品77(99) (1948年)
3点
交響曲以上に暗くて分厚くずっしりと重たい感じのする曲。本格派だが、暗すぎて気分が乗らないと聞いていて滅入ってしまう。しかも一楽章と三楽章が両方そう。カデンツァ長すぎ。アップテンポの楽章も耳に心地よくない。

ヴァイオリン協奏曲第2番 嬰ハ短調 作品129 (1967年)
2.0点
どの楽章も魅力や光るものが無いと思う。美しさや感動もなく、耳に痛いギシギシとしたヴァイオリンが続く。

チェロ協奏曲第1番 変ホ長調 作品107 (1959年)
3.0点
1楽章は同じ音型を繰り返すだけの行進曲で前奏曲のようなイメージ。二楽章は長くて叙情的でなかなか美しい音楽。三楽章は二楽章の続きでまるまる楽章全部がカデンツァ。四楽章はコンパクトな締めの楽章で悪くない。早い楽章は小品で、緩徐楽章がメインの曲。

チェロ協奏曲第2番 ト短調 作品126 (1966年)
3.0点
アダージョで始まる。長大で内省的にせつなく歌い続けるのはチェロの魅力を生かしてる。二楽章は短く活動的で、三楽章は長大で中庸なスピードや内容だが、重くないサウンドで飽きずに楽しめる。最後が交響曲15番と似たような終わり方なのが面白い。


室内楽曲

弦楽八重奏のための2つの小品 作品11 (1927年)
3.5点
二曲とも豊富な声部を面白く活用して興味深い音楽を作っている。聞き応えあり。

チェロ・ソナタ ニ短調 作品40 (1934年)
2.5点
静かで叙情的な1楽章と3楽章が長大で曲の中心になっている。分かりやすい歌うような部分は多いが、すぐに皮肉な捻りが入り落ち着かない。暗いような明るいようなはっきりしない場面が続く。2楽章と4楽章は割とはっきりしており聞きやすい。全体に心への響きが弱い。

ピアノ五重奏曲 ト短調 作品57 (1940年)
4.5点
交響曲5番と同様に、観念的な精神性にも娯楽性にも偏らず、正統的で純粋な音楽的内容の豊富さとレベルの高さと密度の濃さが特徴。交響曲以上の内容の豊富さであり、大変に聴き応えがある。しかも真実味に溢れ、交響曲のように余計なエンターテイメント性に気を使う必要も無く内容に注力出来ている。ショスタコーヴィチの最高傑作候補の一つ。

ピアノ三重奏曲第1番 ハ短調 作品8 (1923年)

ピアノ三重奏曲第2番 ホ短調 作品67 (1944年)
3.0点
1楽章と3楽章の追悼音楽の雰囲気が印象的。全体にとっつきにくく、心地よさを拒絶しているような内容で、メロディーがはっきりせず耳に残らない。4楽章は夜の墓場のようなおどろおどろしい雰囲気は悪くないが、曲が長すぎる。

ヴァイオリン・ソナタ ト長調 作品134 (1968年)
3.0点
1楽章は4度を主体にした虚無的な音楽がひたすら続きよく分からない。2楽章はかなり激しいピアノとヴァイオリンの絡み合いで、分かりやすさはある。3楽章は無調に近い響きでバルトーク的な狂気の世界の変奏曲。この曲はいろいろとやり過ぎで、力作ではあるが聴くのがしんどい。

ヴィオラ・ソナタ ハ長調 作品147 (1975年)
4点
最後の作品。静謐さと絶望をたたえている。世界が凍っていくような不思議な感覚は胸に迫るものがある

弦楽四重奏のための2つの小品 (1931年)
3.0点
1曲目はなかなかいいけど2曲目はいまいち。

ヴァイオリン・ソナタ(1945年に着手したが未完)
4.5点
最後の作品。静謐さと絶望をたたえている。世界が凍っていくような不思議な感覚は胸に迫るものがある。催眠にかけられて深遠の暗闇に引き込まれるような不思議な感覚を覚える。そんな両端楽章にあって、2楽章のスケルツォも骸骨の踊りのようであり、刺激の点で効果的に機能している。3楽章の月光ソナタのオマージュ部分はあまりにも儚く美しく、最後はベートーヴェンを使ったという事実に想いを馳せると胸を打たれる。

3つのヴァイオリン二重奏曲
2.5点
自分で演奏したら楽しそうなオーソドックスで分かりやすい小品。

合唱曲

オラトリオ「森の歌」 (1949年)
3.0点
ショスタコーヴィチにしては単純で分かりやすすぎると共に、演出が豪華で派手な合唱曲である。骨太で大地のような巨大なスケールであり聴き映えはする。本人の意図に反した保身目的の曲という歴史的興味を引く曲であるが、内容が表面的でありいつものエグさがないので物足りない。

カンタータ『我が祖国に太陽は輝く』
3.5点
少年合唱は使い方をはじめ、いかにもという感じのコテコテのプロパガンダ曲で、そういう音楽としては楽しめる。

バラード「ステパン・ラージンの処刑」(1964年)
3.5点
迫力満点。目の前で歴史的な事件が起きているかのような臨場感である。ショスタコがこのような政治や国家の関係する劇的な叙事曲を書かせたら圧倒的に凄いと再認識。交響曲に匹敵する重量感。

バレエ音楽

黄金時代 (1930年)
3.5点
黄金時代の組曲で聴いた。ショスタコ節がすでに確立しかかっている。

ボルト (1931年)

明るい小川 (1935年)

お嬢さんとならず者 (1962年)

ピアノ曲

5つの前奏曲(1921年)

3つの幻想的な舞曲(1925年)
3.0点
1分程度の小曲が3曲。すぐにサティーを思い出すような、フワフワしてアンニュイで幻想的な曲。

2台のピアノのための組曲嬰ヘ短調(1925年)
3.0点
初期の曲であり、まだロシア的なロマン派の香りが漂い和声に歪みが少ないが、新しい20世紀らしい音楽へと踏み出してもいる。輝かしい神秘的な響きが多いのが目新しく感じる。スケール感があり音が分厚く発想は豊かであり、2台のピアノ用組曲としては聴き応えのあるものである。

箴言
3.0点
古代からの不思議な伝承物を連想させるような謎めいた音楽。何かの暗号のようだ。即物的に聞こえる瞬間も多い。嫌いではないが、どちらかというと実験音楽のたぐいだろう。

ピアノ・ソナタ第1番(1926年)
3点
前衛的であり2番とは大きく異なる世界の曲である。

ピアノ・ソナタ第2番(1943年)
3点
多楽章のピアノ・ソナタとしては唯一の作品である。ソナタ形式の得意なショスタコーヴィチにしては残念である。この曲はショスタコーヴィチならばこれ位書けそうという予想の範囲を超えるものが無く、曲としてはまとまっていて規模も大きいのだが、形式にはまりすぎであり驚きの無い作品である。

24の前奏曲(1933年)
2.0点
1曲の長さは短い。24の前奏曲とフーガと同様の24曲の曲集ではあるが、こちらはかなり地味で各々の曲の特徴も薄く、聴いているとどんな曲か把握出来ないままに次の曲に移ってしまう感じである。よく聴くとショスタコーヴィチらしい風味がある音楽ではあるのが分かるものの、地味すぎて楽しめないというのが率直な感想である。

24の前奏曲とフーガ(1952年)
4.5点
1曲目が大変素晴らしくて、一般化された精神の深みをバッハのように音楽で体現し、心をノックアウトする音楽。
2曲目はパラパラとしたバッハの影響が強い雰囲気
3曲目はフーガがかなりバッハっぽく、前奏曲はショスタコーヴィチによくある雰囲気。
4曲目は悲しくエモーショナルで心を動かされる。
5曲目は前奏曲はエモーショナルでフーガは個性的な主題と、どちらも面白くて良い曲。
6曲目は暗い情熱が素敵。フーガはやや長すぎる。
7曲目は分散和音をテーマにしているのが面白い。
8曲目は虚空をさ迷うような前奏曲はいいが、長すぎるテーマのフーガはアイデア倒れ。
9曲目はユニゾンの曲でショスタコーヴィチ節全開すぎるし、フーガの押せ押せは面白いが刹那的すぎる。
10曲目は前奏曲も悪くないし、ロマンチック的情緒のフーガが割と良い。
11曲目は間奏的な軽いスケルツォの前奏曲と、軽くてあまり印象に残らないフーガ。
12曲目は、オクターブの重厚な低音が悲劇的な前奏曲も、耳を突き刺すようなフーガもともに力作。
13曲目は前の曲の流れをうけて静寂と平和を静かに望むような雰囲気が良い。
14曲目は前奏曲はムソルグスキーを彷彿とさせるグロテスクさ。フーガは普通。
15曲目はシニカルな前奏曲も良いが、前衛的で複雑な押しのフーガが圧倒的。
16曲目は黙示録のようなフーガがすごい。捕らえ所のないテーマが延々と薄い音とボソボソとした独白で続けられる。
17曲目は様々な色の絵の具を混ぜたような、複雑で何にも帰属できない雰囲気が面白い。
18曲目は普通だが、フーガのテーマに泣きが少し入ってる。
19曲目は謎めいたフーガが印象に残る。前奏曲も捉えにくさがある。
20曲目は静謐な曲で特にフーガの途中からは印象が弱い。
21曲目は軽快で気分転換できるが、だんだんひねくれてしまう。
22曲目は曙光のような薄暗さの中にいるような曲で雰囲気は好き。
23曲目は曲集の終わりに近付いた清々しさを表現した曲で心地よい。
24曲目は壮大に曲集を締めていて、十分な出来になっている。

全体にショスタコーヴィチにマッチした形式であり、ピアノ作品の代表作である。彼の音楽の類い希な普遍性が非常に良い形で現れている良作。24曲の表情は様々であり、多様な表現を見せている。

2台のピアノのための小協奏曲(1954年)
3.3点
多くの部分が伴奏とソロに別れており、協奏曲として楽しめる。ピアノ協奏曲としては他の曲と同様に軽い駆け巡るピアノが楽しめる曲になっている。

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81


ドミートリイ・ドミートリエヴィチ・ショスタコーヴィチ(ロシア語: Ru-Dmitri Dmitrievich Shostakovich.ogg Дмитрий Дмитриевич Шостакович[ヘルプ/ファイル] ドミートリイ・ドミートリイェヴィチ・シャスタコーヴィチ; ラテン文字転写の例: Dmitrii Dmitrievich Shostakovich, 1906年9月25日(ロシア暦9月12日) - 1975年8月9日)は、ソビエト連邦時代の作曲家。交響曲や弦楽四重奏曲が有名である。

シベリウス、プロコフィエフと共に、マーラー以降の最大の交響曲作曲家としての評価がほぼ確立され、世界的にも特に交響曲の大家と認知されている。また、弦楽四重奏曲においても秀逸な曲を残し、芸術音楽における20世紀最大の作曲家の一人である。ショスタコーヴィチの音楽には暗く重い雰囲気のものが多いが、その一方でポピュラー音楽も愛し、ジャズ風の軽妙な作品も少なからず残している。

当初、体制に迎合したソ連のプロパガンダ作曲家というイメージで語られていたが、『ショスタコーヴィチの証言』[1]が出版されて以後、ショスタコーヴィチには皮肉や反体制、「自らが求める音楽と体制が求める音楽との乖離に葛藤した、悲劇の作曲家」というイメージも加わった。


生涯

略歴

伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。人物の伝記は流れのあるまとまった文章で記述し、年譜は補助的な使用にとどめてください。(2015年12月)

1974年当時(一番右の人物)
1906年 9月25日、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクに生まれる。
1915年 春、両親に連れられて初めて劇場を訪れ、オペラ(リムスキー=コルサコフの《サルタン王の物語》)を観る。夏には母親から初めてのピアノのレッスンを受ける。秋、シドルフスカヤ商業学校に入学。作曲も始める。
1916年 グリャッセール音楽学校に入学。
1917年 2月、街路上で同年配の少年が警官に殺害されるのを眼前で見る。同月、グリャッセールのところへ通う興味を失ってしまう。
1918年 秋、ローザノヴァにピアノを師事。(1917年とも)
1919年 第108労働学校が閉鎖。ユストニナ校に転校。秋、ペテルブルク音楽院に入学。グラズノフに師事する。
1921年 ユストニナ校を中退。
1922年 父が死去。
1923年 音楽院のピアノ科を修了。夏休みを利用した結核療養のために訪れたクリミアで、初のピアノ・リサイタルを開く。
1924年 11月、映画館「スヴェトラーヤ・フィリム」でピアノ伴奏のアルバイトを始める
1925年 作曲科の修了にともない、音楽院を卒業。修了制作として交響曲第1番を作曲。
1926年 5月16日、交響曲第1番初演。秋、音楽院の大学院課程に進学。
1927年 1月、第1回ショパン国際ピアノコンクールに出場。
1928年 メイエルホリド劇場の音楽部長として1月から3月まで務める。
1930年 バレエ音楽「黄金時代」完成し、レニングラードで初演。失敗する。
1931年 バレエ音楽「ボルト」完成し、レニングラードで初演。同じく失敗する。
1932年 科学者ニーナ・ヴァルザルと結婚。婚約記念として書き始められた歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」を彼女に献呈。8月、作曲家同盟レニングラード支部の運営委員に選出。
1933年 軽音楽に関するレニングラード市の委員会の委員になる。ピアノ協奏曲第1番初演。
1934年 レニングラード市アクチャーブリ区の区議会議員に選出される。
1936年 歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」(1月)とバレエ「明るい小川」(2月)に対するプラウダ批判。5月30日、長女ガリーナ生誕。
1937年 春(一説には1月)、レニングラード音楽院に講師として勤務(後に教授)。交響曲第5番初演(11月21日)。この成功により名誉を回復。
1938年 5月10日、長男マクシム生誕。
1939年 ムソルグスキー生誕100周年記念祭の準備委員会の委員長となる。音楽院で教授に就任。
1940年 5月、労働赤旗勲章受章。ピアノ五重奏曲がスターリン賞を受賞。
1941年 交響曲第7番を作曲。翌年の初演は成功を収め、同年アメリカでも演奏された。レニングラード音楽院教授を辞任。
1942年 1月、交響曲第7番がスターリン賞第1席受賞。ロシア共和国功労芸術家の称号を授与。
1943年 3月、モスクワ音楽院教授に就任。国歌コンクールに参加。
1946年 ピアノ三重奏曲第2番がスターリン賞第2席を受賞。12月、レーニン勲章受章。
1947年 2月、レニングラード音楽院教授に復職。同月、作曲家同盟レニングラード支部の支部長に選出。10月、ロシア共和国人民芸術家の称号を授与。ロシア共和国最高議会代議員に選出。
1948年 ジダーノフ批判。9月、レニングラード音楽院、モスクワ音楽院ともに教授の職を解任。
1948年 3月、世界平和文化科学会議出席のため渡米(ニューヨーク)。
1949年 オラトリオ「森の歌」作曲・初演。
1950年 「森の歌」がスターリン賞第1席を受賞。10月、ソヴィエト平和擁護委員会の委員となる。11月、世界平和会議出席のためワルシャワ入り。
1952年 「革命詩人の詩による10の詩曲」がスターリン賞第2席を受賞。12月、世界平和会議出席のためウィーンへ。
1953年 交響曲第10番作曲、初演(12月17日)。6月、文化代表団の一員としてオーストリアに派遣される。
1954年 交響曲第10番に関する討議会(いわゆる第10論争)が作曲家同盟で開かれる。8月、ソ連人民芸術家の称号を授与。9月、国際平和賞受賞。12月、妻ニーナ死去。同月、スウェーデン王立音楽アカデミーの名誉会員に選出される。
1955年 東ドイツ芸術アカデミーの準会員に選出される。11月、母ソーフィヤ死去。
1956年 1月、サンタ・チェチーリア芸術アカデミーの名誉会員に選出される。9月、レーニン勲章受章。
1957年 春に開かれた第2回作曲家同盟大会において作曲家同盟初委員長となる。交響曲第11番がレーニン賞受賞。
1958年 オックスフォード大学より名誉博士の学位を授与、イギリス王立音楽アカデミー会員に選出。国際シベリウス記念賞受賞。9月、右手の麻痺(後に脊椎性小児麻痺であることが判明)で入院。
1959年 9月、米国務省主催による文化交流プログラムでワシントンで開催されたソヴィエト祭に、ソヴィエト代表団の一員として派遣される。メキシコ音楽院名誉教授の称号を受ける。
1960年 2月、再び右手の治療のため入院。10月、息子マクシムの結婚式で転倒、右足を骨折、入院。作曲家同盟第1書記に任命。
1961年 9月、ソビエト共産党員となる。12月、入党と引き替えにレニングラード音楽院大学院での教育活動に復帰する。交響曲第4番初演(12月30日)。
1962年 交響曲第13番作曲、初演。ソヴィエト連邦最高会議代議員に選出される。第2回チャイコフスキー国際コンクールの組織委員会委員長に任命される。6月、右手の治療のため三度入院。 月、イリーナ・スピーンスカヤと再婚。11月、ゴーリキー市で行われたコンサートで「祝典序曲」を指揮。
1963年 ユネスコ国際音楽評議会名誉会員に選出。
1964年 バシキール自治共和国人民芸術家の称号を受ける。
1965年 心臓病の悪化で入院。ソヴィエト芸術学名誉博士の学位を授与。
1966年 5月、生誕60周年記念演奏会出演後、心筋梗塞を起こし入院。第3回チャイコフスキー国際コンクールの組織委員会委員長に任命される。8月、イギリス・ロイヤル・フィルハーモニック協会金賞受賞。10月、レーニン勲章受章。社会主義労働英雄の称号を授与。
1967年 3月、オーストリア共和国名誉銀記章授与。9月、右足骨折で入院。
1968年 5月、シャルル・クロ記念フランス・レコード協会1等賞受賞。ロシア共和国作曲家同盟理事に選出。《ステパン・ラージンの処刑》がグリンカ賞受賞。世界平和擁護委員会の委員に選出。
1969年 交響曲第14番作曲、初演。ウィーン・モーツァルト協会がモーツァルト記念メダルを授与。
1970年 クルガンのサナトリウムで8月まで療養生活を送る。ベートーヴェン生誕200年祭のソヴィエト連邦実行委員会委員長に就任。8月、治療のため再入院。11月、《ソヴィエト民警の行進》がソヴィエト文学・芸術コンクール1等賞受賞。フィンランド作曲家協会名誉会員に任命。
1971年 3月、第24回共産党大会代議員を務める。9月、2回目の心筋梗塞で入院。10月革命勲章受章。
1972年 5月、東ドイツ友好の星金賞受賞。7月、聖トリニティー大学より名誉音楽博士の学位を授与される。スクリャービン生誕100周年祭実行委員会委員長に選出。
1973年 デンマーク・ゾンニング基金名誉賞受賞。6月、ノース・ウェスタン大学より芸術名誉博士の学位を授与。8月、サハロフ非難書簡に署名。姉マリア死去。ラフマニノフ生誕100周年祭実行委員会委員長に選出。
1974年 男声合唱曲《忠誠》、弦楽四重奏曲第14番がグリンカ賞受賞。ソ連邦最高会議民族ソヴィエト〈国民教育・科学・文化委員会〉委員長を務める。
1975年 4月、フランス芸術アカデミーの名誉会員となる。最後の作品「ヴィオラソナタ作品147」完成。7月、体の不調を訴え入院。8月4日に再入院の後、8月9日、ソ連の首都モスクワの病院にて肺がんで逝去。8月14日、ノヴォジェヴィチ墓地に埋葬される。
詳細
1919年ペテルブルク音楽院(後にペトログラード音楽院、レニングラード音楽院)に入学。専攻は作曲とピアノ。1925年に、同音楽院作曲科の卒業作品として作曲した交響曲第1番において国際的に注目された。1920年代後半から1930年代前半にかけては、アルバン・ベルクやダリウス・ミヨーなど西欧の革新的な音楽技法を吸収し、舞台音楽を中心に多くの楽曲を作曲。特にピアノ協奏曲第1番ではジャズに、歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』ではベルクの歌劇『ヴォツェック』などに触発された内容となっている。しかし、1936年に歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』とバレエ『明るい小川』が、ソヴィエト共産党機関紙『プラウダ』で批判(プラウダ批判)を受け、自己批判を余儀なくされる。そのような状況下、批判前に作曲し、オーケストラでリハーサルまでしていた交響曲第4番の初演を撤回。批判後、新たに作曲された交響曲第5番以降は、それまでの作風から一転し、政府が自国の音楽に求めた「社会主義リアリズム」-「形式において民族的、内容において社会主義的」 - の路線に沿う作風の作品を発表し続けることとなる。

1930年代後半から1940年代前半にかけては、交響曲や室内楽曲を多く作曲。中でも、スターリン賞を受賞したピアノ五重奏曲や、友人の突然の死を悼んだピアノ三重奏曲第2番、独ソ開戦直後から書き始められた交響曲第7番「レニングラード」が有名である。

1948年、ソビエトの作曲家のほとんどが「形式主義者」として共産党により批判(「ジダーノフ批判」と呼ばれる。)されると、オラトリオ『森の歌』や映画音楽『ベルリン陥落』、カンタータ『我が祖国に太陽は輝く』など、あからさまに当局に迎合した共産党賛美の作品を多数作り、名誉の回復を勝ち得た。一方、ヴァイオリン協奏曲第1番(1948年)や『ユダヤの民族詩から』(1948年)、弦楽四重奏曲第4番(1949年)など、この頃書かれた作品のうち、何曲かは公表が控えられ、多くはスターリンの死後に発表された。

1953年にスターリンが死ぬと、第9番以降、ジダーノフ批判以後は書かれていなかった交響曲(第10番)を約8年ぶりに発表。曲の内容の暗さと「社会主義リアリズム」との関係において、大論争(いわゆる第10論争)を巻き起こし、国外でも大きく報道された。

1950年代後半から晩年にかけては、交響曲、協奏曲、室内楽曲、さらには声楽曲で傑作を多数残した。特に、当局の締め付けが和らいだスターリン死後から1960年代前半までのいわゆる「雪解け」の時期には、演奏が禁止されていた作品の名誉回復(『ムツェンスク郡のマクベス夫人』でさえ、中規模程度の改訂の後、1963年に復活上演された)、交響曲第4番やヴァイオリン協奏曲第1番といった公表が控えられていた作品の発表、「社会主義リアリズム」の概念にとらわれない近代的で斬新な作風の作品(弦楽四重奏曲第7番や『サーシャ・チョールヌィの5つの詩』、映画音楽『ハムレット』など)の発表が相次いだ。特にこの時期を代表する作品が弦楽四重奏曲第8番と交響曲第13番の2曲である。弦楽四重奏曲第8番(1960年)では、曲の大半で自作の引用を大々的に行うほか、ドイツ音名の自分のイニシャル「DSCH」の音列を中心主題の素材として用い、自身へのレクイエムとした。また、交響曲第13番(1963年)は、ナチによるユダヤ人の大虐殺を、ウクライナの谷底バビ・ヤールで起こった実際の事件を取り上げて告発。共産党によりテクストとして用いた詩の書き換えを要求されるなどの事件もあったが、1930年代、1940年代のような厳しい批判にはほとんど晒されることもなく、音楽には一切手が加えられず現在でもショスタコーヴィチの代表作として聴かれている。また、60代を過ぎた1960年代半ば以降は、透明で熟達した技法の深化がみられる『ミケランジェロ組曲』やヴァイオリンソナタ、ヴィオラソナタなどのほか、十二音技法やトーン・クラスターを導入した『A・ブロークの詩による7つの歌曲』や交響曲第14番などで前衛的な作風へのアプローチを再び試みるなど、死の直前まで意欲的に作曲を続けた。ショスタコーヴィチの最晩年を代表する作品には、ロッシーニの『ウィリアム・テル』序曲や、ワーグナーの楽劇『ワルキューレ』の運命の動機など他作曲家の作品の引用を大胆に行い(自作の交響曲第4番の引用もある)、自身の音楽的回想とした交響曲第15番(1972年)、すべての楽章をアダージョとし、ベートーヴェンのピアノソナタ第14番『月光』からの引用もみられる弦楽四重奏曲第15番(1974年)、死の1か月前に完成し、ショスタコーヴィチの「白鳥の歌」とも呼ばれる、作曲者自身聴くことの出来なかった遺作ヴィオラソナタ(1975年)などがある。

ショスタコーヴィチはピアニストとしても活躍した。卓越したテクニックを有し、音楽院を卒業してからは作曲家になるかピアニストになるか真剣に悩んでいたほどである。第1回ショパン国際ピアノコンクールにソヴィエト代表の一人として選出され出場・入選したほか、2曲のピアノ協奏曲や『24の前奏曲とフーガ』など、自作の初演・録音も多数行なった。しかし、後年は脊椎性小児麻痺の影響で右手が不自由となり、ピアノを弾くことが出来なくなった。また大のサッカー好きで、地元のサッカークラブのスコアをメモ帳に書き記すなどの熱狂的サッカーファンだった。サッカーの審判の資格も持っていた。

作風
ショスタコーヴィチの作品には、J.S.バッハのフーガ、ベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲、マーラーの交響曲、ベルクの和声語法や引用法などの影響が見られ、オーケストレーションはあまり楽器の音色を混ぜない原色配置である。原則としてショスタコーヴィチの音楽は調性音楽の範囲内にあるが、無調的な主題を用いることも多く、最晩年には十二音技法を自分なりに消化した独自の音列技法やトーンクラスター等の前衛技法を用いたりしている。戦争や生死などをテーマとした重い作品が多い一方、交響曲第9番やジャズ組曲のような軽妙な作品も多く作曲している。


一般に作風の変化の境界点は、以下の項目に分けられる。

初期・前衛的な作品群
作品1 - 作品46(1919年 - 1936年) 少年期から音楽院入学以前の極初期は除き、ショスタコーヴィチの作風は、前衛的な音楽から出発したといってよい。例えば、交響曲第1番の冒頭では、グラズノフに和声の変更を指摘されていた。「前衛的」と最もはっきりとわかる初期の作品としては、『弦楽八重奏のための2つの小品』(作品11)、ピアノソナタ第1番(作品12)、格言集(作品13)、そして交響曲第2番(作品14)がある。しかし、『タヒチ・トロット』(作品16)や映画音楽『新バビロン』(作品18)以降は、ジャズやボードビル、キャバレー・ソングなど、軽音楽の影響も受けることとなる。この分野の傑作としてはバレエ『黄金時代』(作品22)、劇音楽『条件付の死者』(作品31)、ピアノ協奏曲第1番(作品35)などがあるが、枚挙に暇がない。交響曲第4番(作品43)の第3楽章の中間部は、明らかに軽音楽の影響が濃厚である。ショスタコーヴィチの、新ウィーン楽派に影響を受けたという意味での「前衛音楽」としての最後の作品は、管弦楽のための『5つの断章』(作品42)である。この作品は、交響曲第4番同様発表が控えられ、初演が行われたのは1965年になってからである。ゴーゴリの短編に取材したオペラ『鼻』(作品15)は、彼自身交流のあったメイエルホリドの斬新な舞台演出の影響を受け、古典形式を基本としながらも、ベルク、クルシェネクら同時期の作品を参考にしたきわめて前衛的な作風で発表当時から賛否両論を巻き起こす問題作となり、次作のオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』(作品29)とともに彼の初期作品のピークとなる。初期はロシア音楽の伝統を受け継ぎながら最新の音楽を取り上げるなど機智と独創性に富んだ作風であったが、『ムツェンスク郡のマクベス夫人』がスターリンの怒りを買い、折からの粛清が絶頂期にあることも鑑み、前衛色は失われていった。

社会主義リアリズム
作品47 - 作品92(1936年 - 1953年) 第4番のような前衛性を控えた交響曲第5番(作品47)は初演後に「社会主義リアリズムのもっとも高尚な理想を示す好例」と評価された[3]。この時期のショスタコーヴィチが音楽を担当した映画は「社会主義リアリズム」に基づいたテーマのものばかりで、ロシア革命を主題としたものが多い。例えば、ノンポリの学生が革命の理念に目覚め、社会主義的に成長する姿を描いた『マクシム三部作』(『マクシムの青春時代』作品41、『マクシムの帰還』作品45、『ヴィヴォルグ地区』作品50)、ロシア革命の英雄チャパーエフの活躍を描いた『ヴォロチャーエフ砦の日々』、暗殺されたキーロフを髣髴とさせる人物が主人公の『偉大な市民』2部作(作品52、55)、ロシア革命におけるレーニンとスターリンの活躍を描いた『銃を取る人』(作品55)、ロシア革命後の赤軍と白軍との内戦を描いた『忘れがたき1919年』(1952年、作品89)である。第二次世界大戦の勃発後はピアノ五重奏曲(作品57)や交響曲第8番(作品65)、ピアノ三重奏曲第2番(作品67)などこの路線から離れた作品もいくつか残している。しかし、1948年に「ジダーノフ批判」が出てからは、オラトリオ『森の歌』(作品81)や映画音楽『ベルリン陥落』(作品82)、『革命詩人の詩による10の詩曲』そしてカンタータ『我が祖国に太陽は輝く』など、再び意識したように「社会主義リアリズム」色濃い作風の作品を残している。この時期の作品としては交響曲第8番などの他に、歌劇『賭博師』や、ヴァイオリン協奏曲第1番なども、社会主義リアリズムの路線からは離れた作風であると評価されることが多い。

ユダヤ音楽への傾倒
ショスタコーヴィチの作曲家としての「ユダヤの音楽」への関心が明らかな最初の作品は ピアノ三重奏曲第2番 (1944年)といわれていた[4][5]。もちろんショスタコーヴィチはユダヤ人ではなかったが、マーラーへの興味をはじめとし、1936年には、プラウダ批判によって、自分の悲運をユダヤ人のそれに沿って象徴するものと考えるようになった[6]。1937年の交響曲第5番第3楽章にはユダヤ音楽の要素が表れ、それは交響曲第3番(1929年)からのユダヤ教会での典礼の詠唱の旋律の引用でもある[7]。また交響曲第7番(1941年)第1楽章のクライマックスなどにはクレズマー旋律が使われている[8]。音楽院の愛弟子でレニングラード攻防戦で戦死したユダヤ人、ヴェニアミーン・フレーイシュマンの未完のオペラ『ロスチャイルドのヴァイオリン』の補作(1944)を行ったこともある。作品にユダヤ音楽の主題が使われているのは歌曲集『ユダヤの民族詩から』(1948年)、 ヴァイオリン協奏曲第1番(1948年)、弦楽四重奏曲第4番(1949年)、24の前奏曲とフーガ(1951年)、プーシキンの詩による4つのモノローグ(1952年)である[9]。 ピアノ協奏曲第2番(1957年)第2楽章や交響曲第9番(1945年)フィナーレの後半には、ユダヤ人には「それ」としてハッキリ分かる形でユダヤ音楽が引用されているという。弦楽四重奏曲第8番(1960年)には、ピアノ三重奏曲第2番最終楽章のユダヤ旋律が明瞭に引用されている。その他の作品では交響曲第13番 (1962年)、また 交響曲第15番 (1971年)最終楽章での交響曲第7番の引用にユダヤ音楽のテーマを見出せる[10]。 ショスタコーヴィチの周りには、例えば親しい友人に作曲家のミェチスワフ・ヴァインベルク、俳優ソロモン・ミホエルスなどユダヤ人は多かったし、このほかオーケストラの団員にもユダヤ系は多かった。

スターリン死後
作品93 - (1953年 - ) 1953年3月5日、スターリンが死んだ。独裁者の死は、ソビエトの社会に一時の混乱をもたらした。1956年、フルシチョフによって行われた「スターリン批判」により、スターリンの独裁体制は名実ともに崩れ去った。スターリンの死に合わせたように、ショスタコーヴィチは、第9番を最後に中断していた交響曲を書き始め、すぐに発表する。前衛的な作風ではないものの、終始音楽に悲劇的な重さが付きまとう音楽で、自身のイニシャルをドイツ音名にした「DSCH」の音列も頻出する、自伝的な作品である。この作品以降、ショスタコーヴィチの曲には「DSCH」の音列が頻繁に使われるようになる。1950年代も終わり近くになると、ソヴィエトの社会主義体制も次第に軟化しはじめ、アメリカとも協調姿勢をとるようになってゆく。「雪どけ」といわれるこの時期、ショスタコーヴィチが発表を控えていた交響曲第4番などの作品が数十年ぶりに「初演」された。戦前、ショスタコーヴィチが個人批判される元凶となった歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』はそのままの形での上演は絶望的だったものの、ある程度改訂された『カテリーナ・イズマイロヴァ』(作品114)は再上演が許される状態にまでなった。しかし、交響曲第13番の歌詞問題が表面化した頃、キューバへのミサイル配備計画がアメリカに非難されたのをきっかけに「雪どけ」体制は解体され、冷戦の時代に突入する。

「雪どけ」後
ブレジネフ時代になり、国内では締め付けが強まるが、ショスタコーヴィチ自身の生活は安定し数々の栄誉に包まれるなど、音楽活動を続ける環境はスターリン時代と比べ格段と恵まれていた。相変わらず体制に迎合した作品もあるが、作風は芸術性が高まり、七楽章の弦楽四重奏曲第11番(1966年)・マーラーの『大地の歌』の影響を受けた声楽つきの交響曲第14番(1969年)。豊かな響きと緊張感漂う映画音楽『リア王』(1970年)などの意欲作を相次いで発表した。とくに『ブロークの詩による七つの歌曲』(1967年)と弦楽四重奏曲第12番(1968年)においては十二音技法に挑戦するなど、その研究心は衰えなかった。

最晩年になると、作風も哲学風で研ぎ澄まされた独特の透明感が支配的となる。交響曲第15番(1971年)、弦楽四重奏曲第14番(1973年)・弦楽四重奏曲第15番(1974年)では過去の作品からの引用が顕著になるが、そこにはすでに健康の衰えを感じ、死を意識した作曲者の思いが見え隠れする。それは政治に翻弄された波瀾万丈の人生を振り返り、達観したかのような感を受ける。また「ミケランジェロの詩による組曲」(1974年)では、自身の芸術の総括をルネサンスの芸術家に譬えたものとして評価されている。

作品
ショスタコーヴィチの創作の中心は、交響曲と弦楽四重奏曲にあった。これらのなかでも特に有名なのが、交響曲第5番、第7番、第10番と弦楽四重奏曲第8番である。また歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』 は古今のオペラの傑作の一つとされる。

交響曲

交響曲第1番 ヘ短調 作品10(1925年)
交響曲第2番 ロ長調 作品14「十月革命に捧ぐ」(1927年)
交響曲第3番 変ホ長調 作品20「メーデー」(1929年)
交響曲第4番 ハ短調 作品43(1936年)
交響曲第5番 ニ短調 作品47(1937年)
交響曲第6番 ロ短調 作品54(1939年)
交響曲第7番 ハ長調 作品60「レニングラード」(1941年)
交響曲第8番 ハ短調 作品65(1943年)
交響曲第9番 変ホ長調 作品70(1945年)
交響曲第10番 ホ短調 作品93(1953年)
交響曲第11番 ト短調 作品103「1905年」(1957年)
交響曲第12番 ニ短調 作品112「1917年」(1961年)
交響曲第13番 変ロ短調 作品113(1962年)
交響曲第14番 ト短調 作品135(1969年)
交響曲第15番 イ長調 作品141(1971年)


弦楽四重奏曲

弦楽四重奏曲第1番 ハ長調 作品49(1938年)
弦楽四重奏曲第2番 イ長調 作品68(1944年)
弦楽四重奏曲第3番 ヘ長調 作品73(1946年)
弦楽四重奏曲第4番 ニ長調 作品83(1949年)
弦楽四重奏曲第5番 変ロ長調 作品92(1952年)
弦楽四重奏曲第6番 ト長調 作品101(1956年)
弦楽四重奏曲第7番 嬰ヘ短調 作品108(1960年)
弦楽四重奏曲第8番 ハ短調 作品110(1960年)
弦楽四重奏曲第9番 変ホ長調 作品117(1964年)
弦楽四重奏曲第10番 変イ長調 作品118(1964年)
弦楽四重奏曲第11番 ヘ短調 作品122(1966年)
弦楽四重奏曲第12番 変ニ長調 作品133(1968年)
弦楽四重奏曲第13番 変ロ短調 作品138(1970年)
弦楽四重奏曲第14番 嬰ヘ長調 作品142(1973年)
弦楽四重奏曲第15番 変ホ短調 作品144(1974年)
弦楽のためのレクィエム 作品144bis(原曲は第15番)


管弦楽曲・吹奏楽曲

スケルツォ第1番 嬰ヘ短調 作品1(1919年)
主題と変奏 変ロ長調(1922年)
スケルツォ第2番 変ホ長調(1924年)
タヒチ・トロット(1928年)
E・ドレッセルの歌劇『コロンブス』のための2つの小品(1929年)
ジャズ・オーケストラのための第1組曲(1934年)
5つの断章(1935年)
ジャズ・オーケストラのための第2組曲(1938年)
荘厳な行進曲(1941年)
バレエ組曲第1 - 4番(1950年 - 53年)
祝典序曲(1954年)
ノヴォロシースクの鐘(1960年)
ロシアとキルギスの主題による序曲(1963年)
交響詩「十月革命」(1967年)
交響的哀悼前奏曲(1967年)
ソヴィエト民警の行進曲(1970年)
インターヴィジョン(1971年)
「緑の工場」のための序曲
2つの前奏曲(アルフレート・シュニトケ編曲)


協奏曲

ピアノ協奏曲第1番 ハ短調 作品35(1933年)
ピアノ協奏曲第2番 ヘ長調 作品102(1957年)
ヴァイオリン協奏曲第1番 イ短調 作品77(99)(1948年)
ヴァイオリン協奏曲第2番 嬰ハ短調 作品129(1967年)
チェロ協奏曲第1番 変ホ長調 作品107(1959年)
チェロ協奏曲第2番 ト短調 作品126(1966年)


室内楽曲

弦楽八重奏のための2つの小品 作品11(1927年)
チェロ・ソナタ ニ短調 作品40(1934年)
ピアノ五重奏曲 ト短調 作品57(1940年)
ピアノ三重奏曲第1番 ハ短調 作品8(1923年)
ピアノ三重奏曲第2番 ホ短調 作品67(1944年)
ヴァイオリン・ソナタ ト長調 作品134(1968年)
ヴィオラ・ソナタ ハ長調 作品147(1975年)
弦楽四重奏のための2つの小品(1931年)
ヴァイオリン・ソナタ(1945年に着手したが未完)
チェロとピアノのためのモデラート
3つのヴァイオリン二重奏曲
ハープ二重奏のためのポルカ 嬰ヘ長調
3つの小品


オペラ

鼻(1928年)
大きな稲妻
オランゴ(1932年)
ムツェンスク郡のマクベス夫人(1934年)Op.29
賭博師(1941年)
カテリーナ・イズマイロヴァ(1963年) - 「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の改訂版。Op.114


オペレッタ
モスクワ・チェリョームシキ(1958年)Op.105


合唱曲
オラトリオ「森の歌」(1949年)
カンタータ「わが祖国に太陽は輝く」(1952年)
混声合唱のための無伴奏合唱曲十の詩曲(1951年)
バラード「ステパン・ラージンの処刑」(1964年)
反形式主義的ラヨーク


声楽曲
日本の詩人の詞による6つの歌 作品21(1928年) オーケストラ伴奏版あり
プーシキンの詩による4つのロマンス 作品46 オーケストラ伴奏版あり
歌曲集「ユダヤの民族詩より」 作品79 オーケストラ伴奏版あり
レールモントフの詩による2つのロマンス 作品84
エフゲニー・ドルマトーフスキーの詩による4つの歌曲 作品86
プーシキンの詩による4つのモノローグ 作品91
エフゲニー・ドルマトーフスキーの詩による5つのロマンス 作品98
スペインの歌 作品100(1956年)
風刺 作品109(1960年)
自作全集への序文とその序文についての短い考察 作品123
アレクサンドル・ブロークの詩による7つの歌曲 作品127
マリーナ・ツヴェタエワの詩による6つの歌曲 作品143 オーケストラ伴奏版あり
ミケランジェロの詩による組曲 作品145 オーケストラ伴奏版あり


バレエ音楽
黄金時代(1930年)
ボルト(1931年)
明るい小川(1935年)
お嬢さんとならず者(1962年)


映画音楽

新バビロン 作品18(1929年)
女一人 作品26(1931年)
黄金の丘 作品30(1931年)
呼応計画 作品33(1932年)
司祭とその下男バルダの物語 作品36(1935年)
愛と憎しみ 作品38(1934年)
マクシムの青年時代 作品41(1935年)
女友達(1935年)
マクシムの帰還(1937年)
ヴォロチャーエフの日々(1937年)
ヴィボルグ地区(1938年)
友人たち(1938年)
偉大なる市民第1部(1937年)
銃を取る人 作品50(1938年)
偉大なる市民第2部 作品55(1939年)
おろかな子ねずみ 作品56(1939年)
コルジンキナの冒険 作品59(1940年)
ゾーヤ 作品64(1944年)
素朴な人々(1945年)
若き親衛隊 作品75(1948年)
ピロゴーフ(1947年)
ミチューリン 作品78(1948年)
エルベ河の邂逅 作品80(1948年)
ベルリン陥落 作品82(1949年)
ベリンスキー(1950年)
忘れがたき1919年(1951年)
偉大な川の歌・ユニティ 作品95(1954年)
馬あぶ 作品97(1955年)
第1軍用列車(1956年)
5昼夜 作品111(1960年)
ハムレット 作品116(1964年)
生涯のような1年(1965年)
ソフィア・ペロフスカヤ 作品132(1967年)
リア王 作品137(1970年)
永遠の使者
戦艦ポチョムキン(この映画のために曲が作られたわけではなく、1976年の復刻時に既存の交響曲が使用された)
チェリョームシキ


劇付随音楽
全10作品

南京虫 作品19(1929年)
射撃 作品24(1929年)
ルーレ・ブリタニア 作品28(1931年)
ハムレット 作品32(1932年)
スペインにサリュー 作品44(1936年)
人間喜劇 作品37(1933年 - 1934年)
リア王 作品58a(1941年)
母国 作品63(1942年)
ロシアの川 作品66(1944年)
勝利の春 作品72(1946年)


ピアノ曲

5つの前奏曲(1921年)
3つの幻想的な舞曲(1925年)
2台のピアノのための組曲嬰ヘ短調(1925年)
ピアノ・ソナタ第1番(1926年)
10の格言集(1927年)
ピアノ・ソナタ第2番(1943年)
24の前奏曲(1933年)
子供のノート(1944年)
陽気な行進曲(1949年)
24の前奏曲とフーガ(1952年)
2台のピアノのための小協奏曲(1954年)
グリンカの主題による変奏曲(1957年)


編曲作品
編曲でありながら自身の作品として作品番号を与えているものもある。

ドメニコ・スカルラッティの2つの小品 作品17
ムソルグスキー 歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」の管弦楽編曲 作品58
ムソルグスキー 歌劇「ホヴァーンシチナ」の管弦楽編曲 作品106
ムソルグスキー 歌曲集「死の歌と踊り」の管弦楽編曲
A.ダヴィデンゴの2つの合唱曲の管弦楽編曲 作品124
ロベルト・シューマン チェロ協奏曲 イ短調の編曲 作品125
ストラヴィンスキー 詩篇交響曲の4手ピアノ用編曲
リムスキー・コルサコフ 私はほら穴で君を待っていたの管弦楽編曲
チシチェンコ チェロ協奏曲第1番の再オーケストレーション
ヨハン・シュトラウス2世 「ウィーン気質」の編曲
ヨハン・シュトラウス2世 「観光列車」の編曲
オネゲル 交響曲第3番 典礼風の4手ピアノ用編曲
ベートーヴェン 蚤の歌の管弦楽伴奏用編曲
ベートーヴェン ピアノソナタ第8番 悲愴の第2楽章の管弦楽編曲
ベートーヴェン ピアノソナタ第32番の第1楽章の管弦楽編曲
マーラー 交響曲第10番の4手ピアノ用編曲
シューベルト 軍隊行進曲の管弦楽編曲
ロシア民謡「ヴォルガの舟歌」のオーケストレーション


自作の編曲

歌劇「鼻」のピアノ編曲
交響曲第3番のピアノと声楽用編曲
バレエ「明るい小川」よりモデラート
主題と変奏 作品3のピアノ用編曲
交響曲第4番の2台ピアノ用編曲
交響曲第10番の2台ピアノ用編曲


その他の作品

兵士(1917年頃)
森の中にて
自由の讃歌
ソヴィエト讃歌
国歌(ソヴィエト連邦)
赤軍の歌(アラム・ハチャトゥリアンとの共作)
ポルカ
4つのワルツ
平和の鳥
儀式用行進曲
2つのマズルカ
我が祖国の栄光を歌う
創作ジャンルは宗教音楽以外のほぼ全てにわたる。労働歌で1917年から1944年の間ソヴィエト連邦国歌でもあった『インターナショナル』の管弦楽編曲もある。

著作
本人の著書と称されているものが、日本では2冊出版されている。ソロモン・ヴォルコフによる『ショスタコーヴィチの証言』(水野忠夫訳 中央公論社、1980年)と、レフ・グリゴーリエフとヤーコフ・プラデークの手による『ショスタコーヴィチ自伝――時代と自身を語る』(ラドガ出版社訳 ラドガ出版社〔発売:ナウカ〕、1983年)である。前者は、はじめは1979年にアメリカ、ドイツで出版されたもので、ショスタコーヴィチの評価をめぐって論議を巻き起こした。発表された当初からソビエト作曲家同盟などのほかローレル・フェイのような西側の音楽学者からも偽書である疑いが投げかけられ真贋については議論があった[1]。詳細は「ショスタコーヴィチの証言」を参照。

後者は1980年にソ連で刊行された。「自伝」とあるが、正確には、ショスタコーヴィチが生前にさまざまな媒体に発表した文章などを年代順にまとめたものである。ヴォルコフやマクシム・ショスタコーヴィチは、「実際には、別人が書いていたのだ」と主張している。すべての記事はソビエト体制下では公式見解として発表されたものである。

ショスタコーヴィチはさまざまな人物と頻繁に手紙をやりとりしており、数冊が出版されている。邦訳書は2006年現在、存在しない。とりわけ有名なのは、音楽学者イサーク・グリークマンと行われた書簡集である。1993年にロシアで出版されたもので、英訳されている (Story of a Friendship, trans. by Anthony Phillips, London: Faver/Ithaca, N.Y. : Cornell University Press, 2001.)。

2006年9月25日、ショスタコーヴィチ生誕100周年を記念し、ショスタコーヴィチと公私共に親友だったイワン・ソレルチンスキーとの往復書簡が出版されている。これは、イワンの息子であり音楽学者のドミトリーが編纂した書籍。ショスタコーヴィチとソレルチンスキーが知り合った1927年から、ソレルチンスキーが急逝した1942年までにやりとりされた、現存するほぼすべての書簡が掲載されている。

なお子息2人(ガリーナとマクシム)による、多くの写真を交えた回想証言『わが父ショスタコーヴィチ』(田中泰子訳、音楽之友社、2003年)が出版されている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/805.html

[近代史6] ドミートリイ・ショスタコーヴィチ『弦楽四重奏曲第8番 ハ短調 作品110』

最美の音楽は何か? _ ショスタコーヴィチ『弦楽四重奏曲第8番 ハ短調 作品110』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/422.html
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/806.html

[近代史6] ドミートリイ・ショスタコーヴィチ( Dmitrii Dmitrievich Shostakovich, 1906 - 1975) 中川隆
1. 中川隆[-16120] koaQ7Jey 2021年10月06日 07:05:02 : ysUaxmWtj8 : SXFLbnFMU3E1ZGc=[13]
誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html

最美の音楽は何か? _ ショスタコーヴィチ『交響曲第8番 ハ短調 作品65』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/500.html

最美の音楽は何か? _ ショスタコーヴィチ『弦楽四重奏曲第8番 ハ短調 作品110』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/422.html
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/805.html#c1

[近代史6] ドミートリイ・ショスタコーヴィチ 『交響曲第8番 ハ短調 作品65』
最美の音楽は何か? _ ショスタコーヴィチ『交響曲第8番 ハ短調 作品65』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/500.html
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/807.html
[近代史6] セルゲイ・プロコフィエフ(Sergei Sergeevich Prokofiev、1891 - 1953)
セルゲイ・プロコフィエフ(Sergei Sergeevich Prokofiev、1891 - 1953)

機知に富んだ切れ味のよい作風。未開拓の新奇な可能性と美しさを多く発見した20世紀の最重要作曲家の一人。


交響曲
個人的にプロコの交響曲は苦手である。機知に富んだ作風の良さが生きないジャンルだと思う。

交響曲 ホ短調(1908年)

古典交響曲 ニ長調(交響曲第1番) op.25(1917年)
3.5点
ピリッと辛いスパイス入りの古典的な交響曲。ハイドン風の洗練と簡潔がありながらも、現代的感性で書かれており、新鮮で興味深い。

交響曲第2番 ニ短調 op.40(1925年、op.136として改訂の予定であった)
3.0点
鉄と鋼のような押せ押せの音楽は個人的にかなり好きな世界である。プーランクが拍手していたという逸話があるが、彼の感性と近い音楽の気がして納得出来る。ただそれを長い交響曲の全部でやられているので、さすがに食傷してしまう。

交響曲第3番 ハ短調 op.44(1928年)
2点
本人は自信作らしいが、変な曲としか…

交響曲第4番 ハ長調 op.47(第1版:1930年)、op.112(第2版:1947年)
2.5点
改作版の方で聞いた。全体として交響曲の体裁になってはいるし、悪い音楽ではないのだが、内容にまとまりがないと感じた。全体を通して何がしたかったのか、見えてこない。

交響曲第5番 変ロ長調 op.100(1944年)
3点
プロコフィエフの交響曲で1番有名な曲である。交響曲らしい力作なのはわかるのだが、自分は中途半端に感じてしまい感動はしない。

交響曲第6番 変ホ短調 op.111(1947年)
3.0点
ある程度難解で複雑であり、多少の思想性や統一感があり20世紀の交響曲らしい作品になっている。交響曲らしい音楽語法が使われている。

交響曲第7番 嬰ハ短調(「青春」) op.131(1952年)
3.5点
一楽章はかなり好き。シンプルで簡素な晩年の世界であり刺激的では無いが、割といい曲だと素直に思う。

劇場音楽からの組曲

スキタイ組曲(「アラとロリー」) op.20(1914年)
3.3点
キレが良く、活き活きとした描写力で、最初のバレエ音楽にしてプロコフィエフのバレエ音楽への適性がよく発揮されている曲。

バレエ組曲「道化師」 op.21bis(1922年)
3.3点
活き活きとした場面描写が優秀なバレエ音楽であり、耳を楽しませるものではある。清新なセンスが発揮はされているが、前衛的な響きは少なく聞きやすい。しかし、バレエ音楽なので音だけで楽しむには長いので、気楽にくつろいで聴く曲と思う。後の代表作と比較するとまだありきたりの音楽の感がある。

「三つのオレンジへの恋」組曲 op.33bis(1924年)
3.5点
曲にパンチが効いていて、自在に扱われるオーケストラが印象深さを生み出している。前2作と似た系統だが進歩が見られる。

「鋼鉄の歩み」組曲 op.41bis(1926年)
3.0点
現代工業化をテーマにした音楽であり、標題音楽に近い。もっとプロコフィエフらしく無機的にガンガン押せ押せの音楽かと思ったら、ある程度はそうなのだが案外おとなしい。期待以下であり、それ以外は標題的な描写性の強すぎる音楽であって深みが足りず物足りなかった。曲が短いのも浅く感じる原因。

「放蕩息子」組曲 op.46bis(1929年)
3.3点
モノラル音源でよく分からなかったところはあるが、非常に勢いをもった充実感のある楽想が次々と矢継ぎ早に繰り出される気力の充実した曲のようだ。短期間に書かれたとのことで頭の中から溢れるように音楽が湧いてきたのではと想像できるものだ。なかなかの音楽に思えるのにマイナーなのは、やはり大衆性の不足だろうか。

歌劇「賭博者」からの四つのポートレートおよび終結部 op.49(1931年)
3.5点
前衛的な音の不協和音や気持ち悪さが、オペラの舞台性でストーリーと背景を持つことで意義のあるものになっている。かなりダイナミックに音が動く音楽であり、そのスリリングさには圧倒されそうになる。絶対音楽とは違うが、楽曲として抽出された結果、そこまで物語の具象的な音楽でもなくなっており、その塩梅がとてもよい感じである。不協和音や気持ち悪い旋律の重ね合わせがとても心地よく感じてしまう。

「ドニェプルのほとりで」組曲 op.51bis(1933年)
3.0点
まったりした普通の管弦楽曲である。シューベルトから受け継いだ意外な転調などの捻り、雰囲気が良いだけでかなり効果の低い曲になるところだったと思う。4曲目は編曲の面白さも音楽のエキゾチックな楽しさもあり、なかなかの名作である。まあ他も大地を感じさせたり郷愁を感じさせたり雰囲気はいいと思う。

交響組曲「キジェー中尉」 op.60(1934年)
3.0点
コミカルな雰囲気。プロコフィエフの本気はあまり感じられない。

組曲「エジプトの夜」 op.61(1934年)
3.3点
とてもエキゾチックで幻想的で面白い。この題名にしてこの音楽というのは見事である。すぐにはプロコフィエフと気付けないくらいに面白い。しかし、音の密度が薄いまったりした曲であり、本気の曲でないのも明らかである。そもそもプロコフィエフ作曲でなければ聴く機会のない曲で評価することもないだろうという気はする。それを高く評価してよいか迷うが、キワモノ的な耳を楽しませる面白さは個人的には否定しがたい。

「ロメオとジュリエット」第1組曲 op.64bis(1936年)
3.3点
作曲者の気力が漲っている。しかし耳につくメロディーはなくて、親しみやすさもほどほどであるため、評価の仕方に困るところがる。7曲の組曲はバレエ音楽の大家らしい充実ぶりではある。無機的な前衛派が大衆に分かりやすいながらも内容を膨らまして書いた努力の結実がバレエ音楽の作曲家として知名度を獲得するのに結びついたのが伝わってくる。6曲目はかなり感動的。

「ロメオとジュリエット」第2組曲 op.64ter(1936年)
3.0点
第一組曲とはだいぶ雰囲気が違う。小ぶりで親しみやすく心が温まるような感じで、まるでグリーグの音楽のようだと思った。第一組曲は壮大さに力点を置いた力作というのがよく分かる。どちらが好きかは好みによるだろうか。個人的には第二組曲は刺激不足であり後半は飽きてくる。しかし、1曲目が有名な曲であり、まさに掴みはOKである。これが大きいのだが、そのあとはリカバリーしないまま期待はずれで最後まで続くが、最後の曲でようやく面白くなる。

「セミョーン・コトコ」組曲 op.81bis(1941年-1943年)
3.8点
これはなかなか好きだ。オペラから作った組曲だが、オペラの場面話の筋書きが目に浮かぶようだ。音に主張と物語があり、ドラマに想いを馳せるように聴ける。かなり劇的な物語なのだろうな。登場人物たちの熱い想いと、悲劇のドラマ性が伝わってきて、ぜひ実際の舞台を見てみたいと思った。しかも長い組曲の全般がそんな感じでアツい。

「ロメオとジュリエット」第3組曲 op.101(1944年)
3.5点
最後のジュリエットの死は感動する。爛熟した美の沼にはまるようだ。他の曲も演奏がよいせいか、強く情感に訴えたり、響きや音使いが適度に新奇な面白さがあるなど、見所が多くある曲に聞こえた。3曲目のジュリエットの曲もかなり好きだ。作曲年代から残り物を集めた組曲かと予想していたが、思ったよりよい。

「シンデレラ」第1組曲 op.107(1946年)
3.0点
刺激が少なく古典的な柔らかさと踊りやすそうな舞曲性があるとともに、おとぎ話のような夢幻的な雰囲気も少しある。良い作品ではありバレエで観れば楽しめるのかもしれないが、音楽単体で聴く組曲としては刺激がなくて物足りない。売りになるような主張がないと思った。

「シンデレラ」第2組曲 op.108(1946年)
3.0点
シンデレラが王宮に入る一つのクライマックスの場面の音楽は素敵だ。しかし、それ以外はあまり凄い部分がない。第一組曲と似た世界であり、一つの世界観と音世界を構築している。シンプルや古典性や舞踏性とプロコフィエフらしさの融合は癖になりそうだが、似たような音の使い方が多くて飽きそうにもなる。

「シンデレラ」第3組曲 op.109(1946年)
3.3点
この組曲は静と動の対比がかなり強く出されている。組曲単品で聴くにはやはりその方が楽しいと思う。単調さが気にならなくなることで、夢幻的な音楽は世界の創造性もより価値が明快に分かるようになっている。このため良作だとは思うが、とはいっても圧倒されるようなものはない。

管弦楽のための組曲「ワルツ集」 op.110(1946年)
3.0点
そこそこの長さのあるワルツが6曲も集まっている。旋律に力は入っていないが、さまざまなワルツがありボリュームは楽しめるかもしれない。音楽を進める手際が良くて皮相的な音使いも楽しめるプロコフィエフの良さはよく出ている。中間の2曲がありきたりでなくて良いと思う。

プーシキン・ワルツ op.120(1949年)
3.3点
2曲ある。1曲目はまったりした19世紀のような古典的な雰囲気のあるワルツ。2曲目は少しテンポが早くなり、旋律にプロコフィエフらしい現代性が少しずつ現れるものの、多くの場面でかなり古典的な懐古趣味を出している。この現代と19世紀の組み合わせ方は愉しめるものであり、2曲目は展開がなかなか大掛かりでワクワク感がある。

交響組曲「夏の夜」 op.123(1950年、歌劇「修道院での婚約」による)
3.0点
オペラの素材をまとめたもの。簡明で簡潔な書法は、晩年の特徴がよく出ている。舞台で聴くならば雰囲気を十分に楽しめる事が容易に想像出来る。3曲目は明るくハッピー。4曲目の夢の中の世界は楽しい。

結婚組曲 op.126 (1951年、バレエ音楽「石の花」による)
3.3点
晩年のプロコフィエフらしい平明な音数を減らした世界が展開されている。その世界とバレエ音楽の融合した大作からの抜粋というように聴く分には興味深い。過去を振り返ってしまう感傷的な心の弱さや涙もろさみたいなものを基底に持っているのが魅力であり心になにか響くものがある。それとともに少年に回帰したような純粋な心を取り戻したかのような透明感もある。晩年のプロコフィエフが好きなら気にいるだろう。凄い曲という感じではないけれども。

ジプシー幻想曲 op.127 (1951年、バレエ音楽「石の花」による)
3.0点
前半は運動会の音楽のようなのが面白い。幻想曲の題名らしい雰囲気が急にコロコロ変わる曲である。面白いといえば面白いが、各部分はそこまで感動しない。プロコフィエフにしては特殊な曲として楽しめるくらいである。

ウラル狂詩曲 op.128 (1951年、バレエ音楽「石の花」による)

その他の管弦楽曲

シンフォニエッタ イ長調 op.5(第1版:1909年、第2版:1914年)、op.48(第3版:1929年)
3.0点
全5楽章。明るく軽やかで平明である事、シンフォニエッタの名称に相応しい小ぶりで可愛らしい楽章の集合体である事が特徴。夢見るようなメルヘンチックさを感じる。分かりやすい曲としてはそれなりに楽しめるが、捻りは控え目だし、驚きや類似する古典交響曲に感じる天才的な発想力が見られない。悪くない曲のままでなんとなく5楽章が過ぎてしまい、後に残るものがない。

交響的絵画「夢」 op.6(1910年)
2.5点
19歳の管弦楽曲。ワーグナーやドビュッシーやロシアの諸先輩の影響が見え隠れする。もやもやした夢と現実の狭間のような雰囲気だけの曲であり内容が薄い。個性も前半はほとんど感じないが、後半は少しプロコフィエフらしくなる。

交響的スケッチ「秋」 op.8(1910年)
2.5点
ラフマニノフのような壮大なロシアの大地とドロドロとした情念を感じさせる曲。はっきりしないもやもやの中で場面が少しずつ移り変わっていく。題名にあまり意味が無いらしいが、実際日本人のイメージする秋とは程遠い雰囲気である。雰囲気だけであり切れ味が良くない。

ヘブライの主題による序曲 ハ長調 op.34bis(1934年)
3.3点
室内楽版と比較して素朴でエキゾチックな『こくのある』感じが落ちている。色彩的で空間的な広がりが出ているのは必ずしも良い方に結果になっていない。好みの問題かもしれないが。

アメリカ序曲(または室内管弦楽のための序曲) 変ロ長調 op.42(1926年)
3.0点
プロコフィエフには珍しいアメリカ的な楽天性と開放感があり目新しさを感じて聴ける。華やかさもあり、場面転換もいい感じ。雰囲気はかなり映画音楽っぽい。

ディヴェルティメント op.43(1929年)
2.5点
くつろいだ雰囲気はディベルティメントの名に相応しい。プロコフィエフらしいユーモアも活用されている。しかし、もう少し光る何かが欲しいところ。

交響的な歌 op.57(1933年)
2.0点
ヘンテコな曲。変化に乏しく、やっつけ仕事感がひどい。

小管弦楽のための子供の組曲「夏の一日」 op.65bis(1941年)
3.5点
子供のためということで、素朴な構成になっており込み入った複雑さが排除さらている。短い7曲の構成。夏休みの思い出を再構成したかのような郷愁と子供時代の思い出を想起させる音楽である。懐かしいなあとしみじみとした想いに浸りながら聴いた。無邪気に新しい発見に満ちた日々を送ったあの頃に一度また戻ってみたいとも思った。

交響的物語「ピーターと狼」 op.67(1936年)
4.5点
親しみやすいテーマのオンパレードで子供向けとはいえ大人もかなり楽しめる作品。ストーリーもあるので、コミカルで面白い。このような一般向けの曲で素晴らしい作品を書けたプロコフィエフの才能に驚く。

ロシア序曲 op.72(第1版:1936年、第2版:1937年)
2.8点
13分の長さがり場面展開が激しい曲である。多くの発想が詰め込まれているからそれなりに力を入れて書かれたと思われるのだが、どの場面をとっても旋律に魅力がない。やはり展開だけでは音楽は楽しめないと思ってしまう。

交響組曲「1941年」 op.90(1941年)
3.3点
叙情的かつ叙事的な曲。しなやかでスケールが大きい、ロシアの広大さを思わせる曲。特に2曲目と3曲目。

行進曲 変ロ長調 op.99(1944年) [吹奏楽]
3.0点
アンコールに使えそうなブラスバンド用の急速な行進曲。面白い。

戦争終結に寄せる頌歌 op.105 (1945年)
2.8点
管弦楽なのか室内楽なのか分からないハープ8台、ピアノ4台、管楽器、打楽器、チェンバロという超特殊編成の曲。13分。第二次大戦の終結を祝うための曲らしいが、祝典的な印象は最後の3分であり、それまではどちらかというと今までの耐え忍んだ苦労を回想し分かち合うための曲という気がする。ピアノとハープの分厚さとブラスバンドの組み合わせは聴いたことの無い音響で面白い。曲としては、まあ手抜きでは無いが仕事で書いた曲だという印象。

祝典詩曲「30年」 op.113(1947年)
3.0点
祝典音楽の2作品のうちの一つ。舞台音楽のような軽快さをもつ場面が多い。単なる祝典性だけでなく、場面転換が多く音楽に活力と表情の豊さがあり、そこそこ聴き応えがある。

組曲「冬のかがり火」(朗読、児童合唱およびオーケストラのための) op.122(1949年-1950年)
3.3点
子供の情景を描写した平明な曲。朗読入り。おとぎ話のような包むような暖かさと純朴な美しさと詩情は聴いていてほっこりした気分になれる。平明すぎるものの、案外感動するため聴いて損のないと個人的には思う。毎回朗読が入るのも聴くのには少し支障があるが、待ちがあるため音楽の場面では逆に集中しやすいかも。少年合唱は天使のように美しくて秀逸であるが出番が少ない。

祝典詩曲「ヴォルガとドンの邂逅」 op.130(1951年)
2.0点
祝典的な金管楽器の活躍する序曲。元気ではあるが、メロディーその他、特に魅力を感じない。

ピアノ協奏曲

ピアノ協奏曲第1番 変ニ長調 op.10(1912年)
4.3点
短くコンパクトな中にプロコフィエフのピアノ協奏曲の魅力のほとんどが詰まっている。前面で大活躍するテクニカルなピアノは、この楽器の新しい魅力を引き出している。前衛的な新奇さはあるが、それだけに留まらない音楽性の高さを楽しめる。メロディーが良いため、素直に名曲としてお勧め出来る。

ピアノ協奏曲第2番 ト短調 op.16(1913年)(ロシア革命時に紛失、1923年に改作)
4.0点
1番をパワーアップしたような初期プロコのキレの良さが最高に楽しい。3番が、聴きやすいが媚びとまとまりのよさのための妥協を感じるのと対照的に、2番は妥協なしの壮大で濃厚な野心作である。音の尖っている場面の強烈さは凄いが、とがり方が突き抜けているため爽快な心地よさをも感じる。叙情的な場面も多い。その濃厚さ巨大さからプロコフィエフのピアノ協奏曲の最高傑作に推したい一方で、1番3番ほどの強烈な印象が残る場面が少ないのも事実。

ピアノ協奏曲第3番 ハ長調 op.26(1921年)
4.5点
豪快でノリノリのスポーツ的爽快さが何とも楽しい。特に3楽章の後半の猪突猛進がこの曲の最大の魅力だろう。特殊奏法の箇所は非常に華麗でかっこよくて好きであり、早くその箇所に来てほしいと待ち焦がれてしまう。1楽章の自由さや快活さと、切り替えが多い複雑なバランスも良い。2楽章もプロコフィエフによくある神秘的な曲で良いのだが、押しが弱いため印象が薄い。3楽章の中間部が同じメロディーをひたする繰り返しばかりで飽きるのが玉に瑕である。

ピアノ協奏曲第4番 変ロ長調(左手のための) op.53(1931年)
2.3点
左手だけの作品というだけで面白いのだが、聴いたあとは物足りなさが残る。使われている素材が良くない。良い素材は出さずに、ありあわせのもので間に合わせた印象である。力を入れて書いた作品と思えない。左手だけの薄い音で演奏されるプロコフィエフ節の魅力はあるが、正直言ってそれしか良さがない曲である。

ピアノ協奏曲第5番 ト長調 op.55(1932年)
2.5点
詰め込み過ぎでまとまりが無い。初演時に作曲者自身が暗譜に苦労したという逸話が証明している。しっちゃかめっちゃかで、まとまりが全然ない。全編それが徹底しているので、曲のコンセプトなのだろう。無理やり誉めるならば、バラエティーに富んでいてイメージ豊か、バレエ音楽の達人らしさを活かしているという事になる。しかし聴く側には理解困難な変わった曲という以上のものは、あまり得られない。ただ、4楽章はなかなか美しくて聞き入る曲である。

ヴァイオリン協奏曲

ヴァイオリン協奏曲第1番 ニ長調 op.19(1917年)
3.8点
夢幻的な独特の美しさに満ちている1楽章、新奇なおもしろさの2楽章、再び夢幻的な3楽章とどの楽章も素晴らしい。プロコフィエフにしか書けない白昼夢のような不思議さとはこの世の現実と隔絶したかのような美しさである。美的感覚の鋭さと音感の良さによる芸術的センスの良さにより、ヴァラエティに富む20世紀のヴァイオリン協奏曲の中で代表的な作品になっていると思う。

ヴァイオリン協奏曲第2番 ト短調 op.63(1935年)
2.5点
一楽章はモヤモヤ、ウダウダのまま終わる。二楽章はファンタジックな伴奏の音楽で才気を発揮。三楽章はカスタネットも登場する南欧的情熱を感じる音楽。

チェロ協奏曲

チェロ協奏曲第1番ホ短調 op.58(1938年)
2.8点
後年に改作された作品だが、こちらの方が壮年期の力強い響きがするし、曲も8分ほど短いため好きかもしれない。とはいえ、どうも焦点が定まっていないようで捉えにくく、なんとなく雰囲気は良いがあまり印象に残らない曲である。ヴァイオリン協奏曲よりは落ちるという印象である。

チェロと管弦楽のための交響的協奏曲ホ短調(チェロ協奏曲第2番)op.125(1951年)
2.8点
第1番の改作。ショスタコーヴィチのようにどこか素直でないながらも軽妙でコミカルだったり、映画音楽のように柔らかく描写的だったり。晩年らしいシンプルさと、映画音楽のように響きは軽いが表情豊かな管弦楽の充実と、軽妙でコミカルなチェロのソロが魅力。いろいろな楽想が詰まったている。とはいえ、構成に芯がなくてまとまりないし、音が軽すぎる割には大作過ぎるし、いまいちである。

弦楽四重奏曲

弦楽四重奏曲第1番 ロ短調 op.50(1930年)
3.5点
意外性のあるモダンを志向した音楽であるがマイルドであり、割と明るくて情緒的で聴きやすい。あまり弦楽四重奏的ではなく弦楽合奏的な曲という気もするが、音楽的内容が充実している。どの楽章も豊富な材料を使って念入りに書かれていて心に訴えるものがあり、作曲者の実力をいかんなく発揮している。

弦楽四重奏曲第2番 ヘ長調(カバルダの主題による) op.92(1941年)
3.5点
1楽章は東南アジアの音楽のように、四重奏曲と思えないほど音を次々と分厚く積み重ねて素晴らしい音響効果を作り上げたりする。エキゾチックな主題を使うモダンな曲。2楽章は民族的なメロディーが心地よく、民族楽器を模した伴奏も楽しい。風光明媚な旅先を楽しむような雰囲気もある。不思議でセンスが高い曲。3楽章はやはり民族的で、展開の大胆さが楽しい。全体に1番より四重奏の扱いが巧み。

ヴァイオリンソナタ

ヴァイオリンソナタ第1番 ヘ短調 op.80(1946年)
3.5点
1楽章の憂鬱な深刻さ、2楽章の尖ったスケルツォと情熱的なメロディー、3楽章の夢幻的な世界、4楽章のポジティブさや激しさ。プロコフィエフの作品の中でも暗い情熱と本格的な精神性を志向している曲の一つ。

ヴァイオリンソナタ第2番 ニ長調 op.94bis(1944年)
3.8点
フルートソナタ op.94 の改作。なまめかしく情熱的で表現力に幅があるヴァイオリンの良さが生きており、奥行きのある曲に仕上がっている。改作は成功しており、元のフルートソナタより良くなったと思う。

2つのヴァイオリンのためのソナタ ハ長調 op.56(1932年)
3.0点
1楽章はバルトークのように前衛的で鋭角的で緊張感の高い音楽で期待感が高まるが、楽章が進んで耳が慣れていくにつれて奇妙な音楽と判明していき、わけがわからなくなってくる。16分で4楽章とコンパクトなので聴きやすいが、聴き終わると頭上に?マークが残る。

無伴奏ヴァイオリンソナタ ニ長調 op.115(1947年)
1.5点
全体にシンプルで、ユニゾンの合奏の方が良さそうに聞こえる。不思議な力強さがあるとは思うが、意味が全然理解出来ない音楽である。和声感がないし、音の動きも何がしたいか分からない。

その他の室内楽曲

ヘブライの主題による序曲 ハ短調 op.34(1919年) [クラリネット、弦楽四重奏、ピアノ]
3.5点
ピアノ五重奏にクラリネット付きでかなり重厚な響きである。民族的な憂いとおどけた感じを両立した主題が魅力的。クラリネットの陰影のある億色がメロディーとマッチして非常に効果的である。この時代にしては前衛的な響きでは全然なく、後期ロマン派の範疇に入っている音楽である。構成もしっかりしていて聴きやすく、胸に迫るものがある良作である。良い素材を活かして長くて自由に展開されて、最後に主題に戻る過程も秀逸で楽しめる。

ヴァイオリンとピアノのための5つのメロディー op.35bis(1925年)
3.8点
5つの歌詞のない歌op.35の編曲。暗く情熱的な小品集。おおっと驚く独特の美しさが全ての曲に登場して痺れるような感動を体験できる。特に3曲目は素晴らしい。これは掘り出し物。

五重奏曲 ト長調 op.39(1924年) [オーボエ、クラリネット、ヴァイオリン、ヴィオラ、コントラバス]
3.0点
バレエ音楽から編まれた曲というのは内容面からすぐ納得出来る。即物的な雰囲気が強いモダンな内容で、精神的な内容はあまりない。また、音に棘がなく、柔らかい雰囲気。アンサンブルと音を楽しむ分にはなかなかよい。

フルートソナタ ニ長調 op.94(1943年)
3.5点
どの楽章も軽快なフットワークと明るさが支配的であり、聞いていてかなり楽しい気分になれる。

チェロソナタ ハ長調 op.119(1949年)
3.0点
音感とセンスの良さは発揮されているものの、全体的な焦点がいまいちはっきりせずメロディーも耳に残らず、捉えにくい曲だと思う。チェロは運動的であり、ヴァイオリンとは全く違う楽器という把握のされかたでない印象がある。

無伴奏チェロソナタ 嬰ハ短調 op.134(1952年、未完)
3.3点
チェロ独奏独特の悲しげなモノローグが続く。響きが軽い印象があるプロコフィエフのチェロ曲の中で、この曲は重みがある。未完成なのが残念。

ピアノ・ソナタ

プロコフィエフのピアノ・ソナタは内容が充実した、たくさんの素材を惜しげも無く投入しような大変な力作揃いであると思う。

ピアノ・ソナタ第1番 ヘ短調 op.1(1909年)
3.5点
独特の疾走感が満載で、それ程長くない単一楽章の曲だが豊富な内容でもっと大作に感じる。スクリャービンのようなロマンの香りの部分がおおくあり素敵。

ピアノ・ソナタ第2番 ニ短調 op.14(1912年)
3.5点
1楽章こそ冴えないが、アップテンポの2,4楽章の切れがよく発想もよいといういい曲で、二楽章も悪くないので楽しく聴ける。まとまりが良い。

ピアノ・ソナタ第3番 イ短調 op.28「古い手帳から」(1917年)
3.5点
単一楽章でコンパクトにまとまっており初期プロコのめまぐるしいピアニズムと切れ味の鋭いスッキリ爽快な部分を楽しめる。しかし、爽快なだけでなく、なかなか多くの場面展開がある充実作品である。

ピアノ・ソナタ第4番 ハ短調 op.29「古い手帳から」(1917年)
3.8点
1楽章は前奏曲のような内容。2楽章は非常に強く心を捉えて頭からメロディーが離れなくなるような名作である。即物的な前衛主義とロマン派的センチメンタリズムの見事な融合であり、20世紀的な感情表現は出色の出来であり、なかなか他では聞けない名作であると思う。3楽章はアレグロでぐるぐるとジェットコースターのように突き進むようなダイナミックな作品であり、プロコフィエフの得意技を満喫できる。

ピアノ・ソナタ第5番 ハ長調 op.38(第1版:1923年)、op.135(第2版:1953年)
3.8点
柔らかくてシュールなぬくもりを感じる佳作。1楽章はアンニュイなようであるが、展開部のオスティナートのテンションの高まりはかなり聴き映えがする。2楽章は、浮遊感とシュールさとセンチメンタリズムを融合させた霊感に満ちた曲である。3楽章は最終楽章にしてはやや大人しいのが物足りない点ではあるが、この曲の全体的な浮遊感による統一感のためにはこれが適切という気もする。後半には激しいテンションも見せてくれる。

ピアノ・ソナタ第6番 イ長調 op.82(1940年)
4.0点
1楽章は重戦車がゴリゴリと地面のものを踏み潰して進むような曲。私は長年、1楽章の冒頭の重々しさと不協和音の不快さのせいで聴くのがしんどくて、わざと不快感を強調した作品と感じて身体が受け付けなかった。しかし、久しぶりに聴いたところ、平気で聴けるようになった。個性的で古典的な均衡と密度の濃さと4楽章作品ならではガッチリとした構築性と総合性とスケール感を持った傑作だとわかった。7番と8番は偏った作品であるため、6番こそがプロコフィエフの代表作と思うようになった。

ピアノ・ソナタ第7番 変ロ長調 op.83(1942年)
3.5点
無調であり、シュールで鋭角的で無駄をそぎ落とした1楽章。その緊密性の高さは評価できるが、強く心に響くものがあるとも言えないと思う。2楽章は間奏的なものあり、悪くないが特段の思い入れはない。7拍子で重音を重ねながら高速に一気呵成に進む短い3楽章は、一度聴いたら忘れられない名作である。

ピアノ・ソナタ第8番 変ロ長調 op.84(1944年)
3.8点
鋭角的な6番と7番と比較すると、8番は角が取れている。一番長い大作のソナタであり、曲の長さを活かした瞑想的な深さと構成感が好き。1楽章の瞑想的でありリズムの推進力が希薄。戦争末期のニヒルな絶望感を感じる。2楽章は少しインテンポなリズム感が出てくるのがよい。3楽章は高速で緊張感がありかっこいいが、それまでの楽章のニヒルな深さもスポイルしていない。そして中間や最後の爆走は気持ちいい。

ピアノ・ソナタ第9番 ハ長調 op.103(1947年)
3.3点
後期らしい簡潔さが現れている。聴きがいはあるが、これまでのソナタと比較すると簡素さのために圧倒的な充実感には到達していないところはある。とはいえ、プロコフィエフらしい発想の豊かさは十分に現れている。

その他のピアノ曲

4つの練習曲 op.2(1909年)
3.0点
初期プロコフィエフらしい新奇で切れ味鋭い音楽やピアノ書法と練習曲らしいパッセージの融合という点で、聴く前の期待は十分に満たしてくれた。名作というほどではないが、楽しむことは出来る。

4つの小品 op.3(全4曲)(1907年-1911年)
2.3点
1曲目こそ2分あるが2曲目以降は1分以内のごく短い曲。短すぎてよく分からない。ほとんど印象に残らないまま4曲が終わってしまう。

4つの小品 op.4(全4曲)(1908年)
3.3点
ピアノソナタのように、ずっしりとした音の重さと本格性があり、4曲のつながりが考えられて構成されている。暗黒の深遠を覗くような世界は、戦争ソナタを予感させるものである。作品2や作品3のピアノ小品群より重要と思う。

トッカータ op.11(1912年)
3.5点
演奏効果が高い。初期プロコフィエフらしい野蛮で叙情性を排した鋼鉄のような凄い曲。演奏効果が高くて一度聴くだけで忘れられないほど印象に強く残る。

10つの小品 op.12(全4曲)(1906年-1913年)
3.0点
軽快な小品集。大バレエ音楽作曲家らしいリズム感の良さと、華々しさと、音の軽やかさ、繊細な愛らしさ、変幻自在さなどが特徴。バラエティーが豊かだし基本的に明るい曲ばかりなので割と楽しんで聴ける。有名な曲はないが、気軽に楽しむ感じの曲集として、なかなか良いと思う。

サルカズム(風刺) op.17(全5曲)(1914年)
3.0点
短い曲の集まりであり、独特の無機質な音の塊だが、詩的な表現力も裏に見えて面白い。

束の間の幻影 op.22(全20曲)(1917年)
3.8点
ごく短い曲を集めている。この手の1分前後の曲を集めた曲集の中ではかなり優れていると思う。ピアニスティックな大人の音楽であり、どの曲もかなり聴き応えがある。新鮮な発見に満ちており、驚くようなセンスと霊感を発揮した曲が並んでいる。

年とった祖母の物語 op.31(全4曲)(1918年)
3.5点
題名が秀逸。まさにこの題名の通りの昔懐かしい物語の記憶を呼び起こすような曲。

4つの小品 op.32(1918年)
2.5点
まったりした曲調にプロコフィエフらしい新奇さを表現したという印象の4曲。プロコフィエフとしてはありきたりの曲ばかり。

物自体 op.45(全2曲)(1928年)
3点
題名に納得。シュールな現代美術的な世界だが、現代音楽と違い音楽として楽しめる。

2つのソナチネ op.54(1931年-1932年)
2.5点
第1番 ホ短調は変なフレーズや和声の構成でつなげられた無機質で前衛的な曲である。ソナタの総合性のある世界とはだいぶ違うソナチネらしい極小的な実験的世界を楽しめる。第2番 ト長調も1番と同様に無機質で前衛的な世界であり、曲の印象は似ている。和音が少なく響きが軽いのが独自世界を作るのに一役買っている。

3つの小品 op.59(1933年-1934年)
2.8点
散歩、風景、田園風ソナチネ
1曲目は前衛的な印象という程度。2曲目はパラパラパラとピアノの軽快に動くのが印象的。3曲目は確かに田園的な響きがして親密さも感じるのだが、和声の捻りが入っており、全然落ち着かないので、普通の田園的な曲とは大きく異なる。

思考 op.62(1933年-1934年)
アダージョ・ペンシエローソとモデラート、レント、アンダンテ

子供の音楽 op.65(全12曲)(1935年)
3.3点
プロコフィエフらしいきびきびとした音の動きと新鮮な響きは、子供向けの少ない音数のごく短い曲でも十分に発揮されている。

バレエ「ロメオとジュリエット」からの10の小品 op.75(1937年)
3点
ピアノ編曲版として、オケ版とは別にピアノ編曲が好きな人なら楽しめる。

合唱曲

カンタータ『彼らは7人』(1917-18年)
3.3点
耳を突き刺し心を突き刺すような先鋭的な激しさが強烈な曲。プロコフィエフが本気でリアリズムによる批判的な音楽を書いた曲。これはショスタコーヴィチ以上にエグい。

カンタータ「アレクサンドル・ネフスキー」 op.78(1939年)
2.5点
暑苦しいばかりであまり楽しめなかった。戦闘ものの映画音楽の改作。同等以上の映画音楽はたくさんあると思われるため、いくらプロコフィエフ作曲だからと言ってこれを特別視する必要はないと思った。壮大なカンタータ風音楽ではあるが、あまりにわざとらしくて成功には聴こえない。

オラトリオ「平和の守り」 op.124(1950年)
3.0点
本格的なカンタータ。大げさすぎず不協和音が全然ない平明さながらも懐の深さをもって音楽が進んでいく。平和をテーマにしながらも力が入りすぎず辛気臭くもならず、いい塩梅である。しかし心を強く捉えるたり、強く感心するものもない。10曲もあるのにスケール感があまりない。

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A8%E3%83%95

セルゲイ・セルゲーエヴィチ・プロコフィエフ(ロシア語: Сергей Сергеевич Прокофьев シェルギェーイ・シェルギェーイェヴィチュ・プラコーフィイェフ;ラテン文字転写の例:Sergei Sergeevich Prokofiev、1891年4月27日[注 1] - 1953年3月5日)は、ロシアの作曲家、ピアニスト、指揮者。数多くの形式の音楽に傑作を残したことで知られており、20世紀の大作曲家のひとりであると認知されている。

作品には『三つのオレンジへの恋』の行進曲、組曲『キージェ中尉』、バレエ音楽『ロメオとジュリエット』、『ピーターと狼』といったような広く聴かれる楽曲がある。

確立された型や様式の中で取り組み生み出された作品には、習作を除くと7つのオペラ、7つの交響曲、8つのバレエ音楽、5つのピアノ協奏曲、2つのヴァイオリン協奏曲、1つのチェロ協奏曲とチェロと管弦楽のための交響的協奏曲、そして9つのピアノソナタがある。

帝政期のロシアに生を受け、13歳でサンクトペテルブルク音楽院で作曲・ピアノを学ぶ[2]。音楽院を卒業したプロコフィエフは、当初因習を打ち破る作曲家兼ピアニストとして名を上げた。最初の2曲のピアノ協奏曲のように、不協和音と超絶技巧に獰猛さを見せる作品群を自分の楽器であるピアノのために書いて悪名を高めたのである。1915年、管弦楽のための『スキタイ組曲』により一般的な作曲家兼ピアニストの枠組みから明確に抜け出す。これは元々バレエ・リュスのセルゲイ・ディアギレフの委嘱により作曲されたバレエ音楽から編みなおされた作品だった。ディアギレフはさらに3作のバレエ音楽、『道化師』、『鋼鉄の歩み』、『放蕩息子』をプロコフィエフに委嘱しており、その全てが初演時に評論家と同業者にセンセーションを巻き起こした。しかしプロコフィエフが最も関心を注いだのはオペラであり、『賭博者』や『炎の天使』など数作品を作曲した。『三つのオレンジへの恋』はシカゴ・オペラ協会のために書かれた後に10年以上にわたりヨーロッパとロシアで上演され、彼の生前のオペラでの成功作のひとつとなった。

1917年のロシア革命以後は、ソビエトの大臣であったアナトリー・ルナチャルスキーの公認を得てロシアを後にし、アメリカ合衆国、ドイツ、パリと居住地を移しながら作曲家、ピアニスト、指揮者として生計を立てた。この頃にスペイン出身の歌手であったカロリナ・コディナと結婚、2人の息子を儲けた。1930年代のはじめには世界恐慌によりアメリカや西ヨーロッパでプロコフィエフのバレエやオペラの上演機会が減少する。自らを第一に作曲家であると看做していた彼はピアニストとして演奏旅行をしなければならないこの時に憤慨し、新作の委嘱のためにソビエト連邦へ向かうことが多くなっていく。そして1936年にはついに家族を連れて祖国へ戻ることになった。祖国では、特に『キージェ中尉』、『ピーターと狼』、『ロメオとジュリエット』、そしてとりわけ『アレクサンドル・ネフスキー』がいくらかの成功を収めた。

ナチスによるソ連侵攻に鼓舞されたプロコフィエフは、最大の野心作としてレフ・トルストイの『戦争と平和』のオペラ化を行う。1948年に「非民主的形式主義」との批判を受けた。にもかかわらず、ロシアの新しい世代の演奏家であるスヴャトスラフ・リヒテル、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチらから個人的に、また芸術家としての支援を受け、リヒテルにはピアノソナタ第9番、ロストロポーヴィチには交響的協奏曲を書いている。

生涯

幼少期と最初の作曲

プロコフィエフに最初に作曲の指導を施した作曲家のレインゴリト・グリエール
1891年にロシア帝国、エカテリノスラフ県バフムート郡のソンツォフカ(Сонцовка;ラテン文字転写の例:Sontsovka、現在のウクライナ、ドネツィク州、ソンツィフカ)に生を受けた[3]。父のセルゲイ・アレクセイヴィチ・プロコフィエフ(1846年 - 1910年)は農業技術者で貴族の農場の管理人をしていた。母のマリヤ・グリゴリエヴナ・プロコフィエヴァ(旧姓ジトコヴァ、1855年 - 1924年)はかつてシェレメテフ家(英語版)に支配されていた農奴の家系の出で、その領主の庇護により農奴の子らは若くから舞台と芸術について教えを受けていた[4][5][6][7]。プロコフィエフに最初に作曲を教えたレインゴリト・グリエールが記すところでは、彼女は「美しく聡明な目をした長身の女性(中略)自身がいかにすれば温かく純真な雰囲気を作り出せるかを心得ていた[8]。」1877年に結婚した後、一家はスモレンスク県にある小さな地所に移り住んだ。やがてセルゲイ・アレクセイヴィチは土壌技術者の職を得て、学生時代に一緒だったドミトリ・ソンツォフに雇われることになる。一家が引っ越したのはウクライナのステップの中にある彼の地所だったのである[9]。

既に2人の娘を失っていたマリヤは、プロコフィエフが生まれるまで音楽に人生を捧げていた。まだ息子が幼い頃にはピアノのレッスンを受けるためにモスクワもしくはサンクトペテルブルクで2か月を過ごしていた[10]。主としてショパンやベートーヴェンの作品を夕方に練習していた母のピアノの音色に触発されたセルゲイは、5歳で初めてのピアノ曲を作曲している。『インドのギャロップ』というこの作品は母が譜面に起こしたもので、幼いプロコフィエフが「黒鍵に取り組む気が起きなかった」という理由でヘ長リディア旋法で書かれている[11]。7歳までにはチェスの指し方も覚えた[12]。チェスへの情熱は燃え続け、チェスの世界王者であるホセ・ラウル・カパブランカと知り合いになり、1914年に行われた多面指しの模擬戦では勝利を収めている。ミハイル・ボトヴィニクとも面識があり、1930年代に幾度か対戦が行われた[13][注 2]。9歳になると最初のオペラ『巨人』や[注 3]、序曲、他の様々な小品を作曲していた。

正式な教育と議論を呼んだ初期作品
1902年、母がモスクワ音楽院の学長を務めていたセルゲイ・タネーエフに出会い、当初アレクサンドル・ゴリデンヴェイゼルの下でプロコフィエフへのピアノと作曲の指導を開始すべきであると助言を受けた[15]。これは実現せず[16]、タネーエフは代わりに1902年の夏に作曲家でピアニストのレインゴリト・グリエールをソンツォフカに向かわせてプロコフィエフを指導する手はずを整えた[16]。最初の講義が最終段階に至り、11歳の本人の強い希望により新米作曲家プロコフィエフは初めて交響曲の作曲に取り組んだ[17]。翌年の夏にもグリエールはソンツォフカを訪ねて更なる指導を行っている[18]。数十年が経過してグリエールとのレッスンについて記した際、プロコフィエフは師の思いやりのある教授法に当然の称賛を送りつつも、授けられたものが後になって頭から消し去らねばならなかった「四角四面の」フレーズ構造と因習的な転調だったことには不平を漏らしていた[19]。それでもなお、必要であった理論という道具を備えたプロコフィエフは、不協和な和声や一般的でない拍子の実験を開始している。それを行うにあたっては彼が「小歌曲」と呼んだ短いピアノ曲を用い[注 4]、これが彼独自の音楽形式の基礎を形成していった[20]。


息子の才能が開花していく一方で、プロコフィエフの両親はこれほど幼いうちから子どもを音楽の道に進ませてよいものか躊躇っており、モスクワの優良な高校へ通わせる可能性について考えていた[21]。1904年までに母はモスクワではなくサンクトペテルブルクにすることを心に決めており、プロコフィエフと2人でこの当時の首都を訪ねて教育のために移り住めるのかを探った[22]。2人はサンクトペテルブルク音楽院の教授だったアレクサンドル・グラズノフに紹介され、プロコフィエフに会ってその音楽を見てみたいと請われる。プロコフィエフはこの時さらに2つのオペラ『無人島で』と『ペスト流行期の酒宴』を完成させており、4作目の『水の精』に取り組んでいた[23]。グラズノフはいたく感銘を受け、プロコフィエフの母へ息子に音楽院の入学試験を受けさせるよう強く勧めた[24]。プロコフィエフは試験に合格、この年に入学を果たす[25]。

クラスメイトの大半に比べて数年も年少のプロコフィエフは風変りで傲慢な人物と見られており、多数の同級生の間違いを記録につけて彼らを苛立たせた[26]。この時期にはピアノをアレクサンドル・ウィンクラーに[27]、和声と対位法をアナトーリ・リャードフに、指揮法をニコライ・チェレプニンに、管弦楽法をニコライ・リムスキー=コルサコフに学ぶなどした[注 5][28]。授業では作曲家のボリス・アサフィエフやニコライ・ミャスコフスキーと一緒になっており、後者とは比較的親密となり生涯にわたる親交を育んだ[29]。

サンクトペテルブルクの楽壇の一員として、自らピアノを演奏して披露した自作曲により称賛を受ける傍ら、音楽の反逆者として名声を高めた[30][31]。1909年には特筆すべきことのない成績で作曲のクラスを卒業している。音楽院には籍を置いたままとし、アンナ・エシポワにピアノの指導を受け、チェレプニンの指揮のレッスンで研鑽を続けた[32]。

1910年に父が他界して財政的支援が滞った[33]。幸運にも音楽院の外部で作曲家、ピアニストとして名を馳せ始めており、サンクトペテルブルクの『現代音楽の夕べ』にも顔を出していた。その場においては冒険的な自作のピアノ作品を複数披露しており、そうした中に非常に半音階的で不協和な練習曲集 作品2(1909年)があった。この作品の演奏が『夕べ』の主催者らに強い感銘を与え、プロコフィエフは彼らの誘いでアルノルト・シェーンベルクの3つのピアノ小品 作品11のロシア初演を手掛けることになった[34]。和声の実験はピアノのための『サルカズム(風刺)』 作品17(1912年)でも続いており、ここでは多調の使用が推し進められている[35]。最初の2作のピアノ協奏曲が書かれたのはこの頃で、そのうちピアノ協奏曲第2番は1913年8月23日、パヴロフスクでの初演の際にスキャンダルを巻き起こした。ある人物は次のように絶叫して会場を後にしたと記述している。「こんな未来派の音楽なんかくそくらえだ!屋根の上の猫ですらましな音楽を奏でるぞ!」一方でモダニストらは魅入られていた[36]。

1911年にロシアの高名な音楽学者で音楽評論家のアレクサンドル・オッソフスキーから支援がもたらされる。彼が音楽出版社のユルゲンソンにプロコフィエフに協力的な手紙を送り、これによって彼のもとに連絡が届いたのである[37]。プロコフィエフは1913年に初の国外旅行に出てパリとロンドンを巡り、その中ではじめてセルゲイ・ディアギレフのバレエ・リュスに出会うことになる[38]。

初期バレエ
1914年、プロコフィエフは音楽院の課程を「ピアノ勝負」への参加で締めくくる。これはピアノの成績上位5名がシュレーダーのグランドピアノをかけて競う大会であった。プロコフィエフは自作のピアノ協奏曲第1番を演奏して優勝を手にした[39]。

その後まもなく、ロンドンへ赴いたプロコフィエフは興行主のセルゲイ・ディアギレフに連絡を取った。ディアギレフはプロコフィエフにとって初めてとなるバレエ『アラとロリー』を委嘱する。しかし、1915年にプロコフィエフがイタリアにいたディアギレフに作品を持っていくと、「ロシア的でない」として拒絶されてしまう[40]。「国家的な性格の音楽」を書くように強く促した彼は[41]、次いでバレエ『道化師』を委嘱した[注 6]。ディアギレフの指導に従い、プロコフィエフは民俗誌学者のアレクサンドル・アファナーシェフの民話集から題材を選定し[42]、ストーリーはある道化師と度重なる信用詐欺にまつわるものとなった。これは以前にディアギレフがイーゴリ・ストラヴィンスキーにバレエになり得る題材として提案していたもので、プロコフィエフがこれをバレエのシナリオへと落とし込むにあたってはディアギレフと彼の振付師レオニード・マシーンが力を貸した[43]。バレエの経験の少ないプロコフィエフは、ディアギレフの仔細にわたる批評に基づいて1920年代に作品に大幅な改訂を加えることになり[注 7]、そうしてやっと初演にこぎつけたのであった[45]。

1921年5月17日のバレエの初演は大きな成功を収め、観客からの賛辞に迎えられた。その中にはジャン・コクトー、ストラヴィンスキー、モーリス・ラヴェルらの姿もあった。ストラヴィンスキーは本作を「楽しく聴くことができるただひとつの現代音楽作品」と評し、ラヴェルは「天才の作品」と述べた[46]。

第一次世界大戦と革命
第一次世界大戦の最中、プロコフィエフは音楽院に復学してオルガンを学ぶことで徴兵を逃れた。フョードル・ドストエフスキーの小説『賭博者』を題材にオペラ『賭博者』を作曲したが、リハーサルは問題に悩まされ続け、1917年に予定されていた初演は2月革命の勃発により中止を余儀なくされてしまった。同年の夏には交響曲第1番『古典』が書き上げられた。副題はプロコフィエフ自身によって付けられており、作曲者曰くハイドンがもし同じ時代に生きていたとしたら用いたであろう様式の音楽となっている[47]。この作品は様式的には多かれ少なかれ古典的であるが、当時の音楽の要素が多分に盛り込まれている。

交響曲第1番と時を同じくして生まれたのがヴァイオリン協奏曲第1番であった。1917年11月の初演が計画されていたが、どちらの作品も延期となり、それぞれ1918年4月21日、1923年10月18日まで待たねばならなくなった。プロコフィエフはコーカサス地方のキスロヴォツクにて、一時母と過ごしていた。

管弦楽と合唱のための「カルデアの祈祷」とされたカンタータ『彼らは7人』の総譜完成後[48]、プロコフィエフは「何もすることがなく、宙に浮いた時間が重く自分の両手の上にある」状態に陥った。ロシアが「いま音楽を必要としていない」と考え、祖国の騒乱が過ぎ去るまでの間をアメリカ合衆国に運命をかけることを決断した[49]。1918年3月にモスクワとペテルブルクへと向かい、財政面を整えてパスポートの手配を行った。5月には米国へと旅立つことになるが、教育人民委員であったアナトリー・ルナチャルスキーから公式に許可を得てのことだった。ルナチャルスキーはこう述べていた。「君は音楽の革命家、我々は人生の革命家だ。私たちは一緒になって働かねばならない。だが、君がアメリカに行くことを望むのなら、私は君の道に立ち塞がるような真似はすまい[50]。」

日本滞在
1918年、『古典』交響曲の初演を果たした直後、プロコフィエフはアメリカへの亡命を決意した。5月7日、シベリア鉄道にてモスクワを発つ。31日、敦賀港に上陸し、6月1日に東京に到着した。冬シーズン中の南米行きの船便を探すが出航した直後で、次便ではシーズン終了後になることから、8月になるまで日本に滞在してから北米へ向かうことにする。11日までは東京、横浜周辺、12から18日には京都に滞在し、琵琶湖疏水や祇園などを散策した。13日に大阪を訪れた後、19から28日にかけて奈良に留まって奈良ホテルに宿泊、奈良公園周辺を散策している。この奈良滞在中に、ピアノ協奏曲第3番等の原型となった『白鍵四重奏曲』の構想が練られた。29日に東京に戻り、以後離日まで東京、横浜周辺に滞在するが、7月19-21日には軽井沢を、28日には箱根を訪れている。更に7月6日、7日に東京、9日には横浜で自作を含むピアノ・リサイタルを開催した。8月2日にアメリカへ向けて出国した。このプロコフィエフの日本滞在は西洋の大作曲家の最初の日本訪問と言うことができ、評論家大田黒元雄や徳川頼貞などとの交流により、日本の音楽界に少なからず影響を与えたといわれる。

国外生活
エンジェル島(英語版)の入国管理官の審査から解放されて、1918年8月11日にサンフランシスコに到着すると[51]、プロコフィエフは間もなくセルゲイ・ラフマニノフら、著名なロシアからの亡命者と比較されるようになる。デビューを飾ったニューヨークでのソロ・コンサートはいくつかの契約に結び付いた。またシカゴオペラ協会(英語版)の音楽監督であったクレオフォンテ・カンパニーニ(英語版)との間に、新作オペラ『3つのオレンジへの恋』の上演を行うという契約を結んだ[52]。しかしカンパニーニが病に倒れて他界し、初演は延期となる[53]。この延期もオペラにまつわるプロコフィエフの不運のひとつであった。このオペラには多くの時間と労力が注がれていたため、この失敗は彼のソリストとしてのキャリアも犠牲にした。気づけばたちまち経済的困窮に陥っており、1920年4月には失敗してロシアに戻りたくないと、パリへ向かって旅立っていた[54]。

パリではディアギレフのバレエ・リュスとの間で契約を再確認した[55]。また、ピアノ協奏曲第3番などの未完成のままになっていた旧作を完成させた[56]。『3つのオレンジへの恋』は最終的に1921年12月30日にシカゴで作曲者自身の指揮により初演されることになった[57]。ディアギレフはこのオペラに興味を示し、1922年6月にプロコフィエフにピアノ伴奏版を演奏するように依頼する。この時には2人とも『道化師』再演のためにパリにいたため、プロコフィエフは上演の可能性について考えられるようになった[58]。しかし、オーディションの場にいたストラヴィンスキーは1幕より後を聴くのを拒否してしまった[58]。「オペラを作曲して時間を浪費している」という彼の非難に対し、プロコフィエフはストラヴィンスキーは「自身が誤りに対する耐性がないのだから、芸術の常道を主張できる立場にない」とやり返した[59]。プロコフィエフによればストラヴィンスキーは「怒り心頭に発し[注 8]」て「殴り合いに発展しそうだった我々は辛くも離れることができた」という[59]。その結果、「我々の関係は張りつめたものとなり、数年間にわたってストラヴィンスキーは私に批判的な態度を取った[58]。」

1922年3月には母とともにバイエルンのアルプス山あいにある小村エッタル(英語版)に移り住み[60][61]、1年以上の期間を費やしワレリー・ブリューソフの同名の小説(英語版)に基づくオペラ『炎の天使』に集中した。この頃になるとプロコフィエフの音楽はロシア国内にファンを獲得しており、帰国の誘いも受けるようになっていたが、彼はヨーロッパ残留を決意する。1923年にはスペイン人の歌手であるカロリナ・コディナ(1897年-1989年、Lina Lluberaとして活動)と結婚[62]、その後パリへと戻った[63]。

パリでは交響曲第2番などの複数の作品が演奏されたが反応は熱のこもらないもので、プロコフィエフは自分が「どうやらもはや大きな評判にはならない」と感じ取るようになる[64]。それでもこの交響曲を耳にしたことでディアギレフはバレエ『鋼鉄の歩み』を委嘱することになったとみられる。ソ連の工業化を描写することを意図したモダニストのバレエ作品であった本作は、パリの聴衆と評論家から熱狂的に迎えられることとなった[65]。

1924年頃、プロコフィエフはクリスチャン・サイエンスに招かれた[66]。彼は健康と気性の荒さに役に立つと信じてその教えを実践するようになった[67]。伝記作家のサイモン・モリソンによれば、その後生涯を通じて教えに忠実であり続けたという[68]。

プロコフィエフとストラヴィンスキーは友好関係を回復する。しかし、プロコフィエフは当時の新作であった八重奏曲やピアノと管楽器のための協奏曲にみられるようにストラヴィンスキーが「バッハを様式化すること」を特に毛嫌いしていた[69][注 9]。ストラヴィンスキーの側では、プロコフィエフを現代最高のロシアの作曲家であり、自分に続く者であると評していた[71]。

初めてのソビエト訪問
1927年には初となるソ連への演奏旅行を実施した[72]。2か月を超える期間をモスクワとレニングラード(改称されたサンクトペテルブルク)で過ごし、キーロフ劇場(現在のマリインスキー劇場)では『3つのオレンジへの恋』の上演で大きな成功を収めた[73]。1928年には上演されないままとなっていたオペラ『炎の天使』から広く題材を採る形で交響曲第3番を完成させた。指揮者のセルゲイ・クーセヴィツキーは第3番を「チャイコフスキーの6番以来の最も偉大な交響曲」と評した[74]。

しかし、その間にクリスチャン・サイエンスの影響下にあったプロコフィエフは印象主義的様式、並びに『炎の天使』の素材に背を向けるようになっていた[注 10]。彼は今や自身が「新しい単純性」と呼ぶものを好んでおり、1920年代の現代音楽の多くを占めた「工夫と複雑性」よりも強く心からこれを信じていた[76][注 11]。1928年から1929年にかけて、ディアギレフのためとしては最後となるバレエ『放蕩息子』を作曲する。1929年5月21日にパリで行われた初演は、ジョージ・バランシンの振り付けでセルジュ・リファールがタイトル・ロールを踊った。聴衆と評論家は、最後に放蕩息子が父に迎え入れられるために膝をついて舞台中を引きずり歩く場面に衝撃を受けた[78]。このシーンに付された音楽について、ディアギレフはプロコフィエフが「かつてないほど清澄、簡素、旋律的、そして柔和」であったことを認めている[79]。このわずか数か月後にディアギレフはこの世を去った[80]。

その夏にプロコフィエフは1925年に着手していたディヴェルティメント 作品43を完成させ、音楽院時代の作品であるシンフォニエッタ 作品5/48の改訂を終えた[81][注 12]。同年10月に、休暇からパリに戻るために家族を乗せて運転する途中で事故に見舞われる。車は横転し、プロコフィエフは左手の筋肉の一部を痛めてしまった[82]。これにより事故のすぐ後に行われた演奏旅行で訪れたモスクワでの公演は中止せざるを得なくなったものの[83]、客席から自作曲の演奏を楽しむことができた[84]。また、このことがかえって新しいソビエト音楽を数多く聴き、数年ぶりにロシアの音楽家たちとの交流をするきっかけとなって母国への帰郷に導く役割を果たした[85]。ボリショイ劇場ではバレエ『鋼鉄の歩み』のオーディションに加わり、ロシア・プロレタリア音楽家同盟(RAPM)のメンバーから作品について尋問を受けた。彼が受けた質問は次のようなものである。描かれている工場は「労働者が奴隷である資本主義者の工場なのか、労働者が主人であるソビエトの工場なのか。もしこれがソビエトの工場であるなら、プロコフィエフはいつ、どこでこれを取材したのか。1918年から現在に至るまで海外暮らしを続けており、最初にこちらに赴いたのは1927年の2週間であろう?」プロコフィエフはこう回答した。「それは音楽ではなく政治にかかわることですので、お答えいたしません。」RAPMはこのバレエを「平板で低俗な反ソビエト的逸話、ファシズムに近接した革命に反する楽曲」と断罪した。ボリショイ劇場はこのバレエを拒絶するしかなかった[86]。

左手が回復したプロコフィエフは、その頃のヨーロッパでの成功にも支えられて1930年代の初頭に米国ツアーを成功裏に終えた[87]。この年に、パリ国立オペラで主席バレエダンサーとなっていたセルジュ・リファールの委嘱に応えて、初めてディアギレフとのかかわりがないバレエ『ドニエプルの岸辺で』 作品51の作曲に取り掛かった[88]。1931年と1932年にはピアノ協奏曲第4番とピアノ協奏曲第5番を完成させている。次の年には交響的な歌 作品57が完成される。友人のミャスコフスキーは、ソ連の中でこの作品を聴くことになる人々のことを念頭に、プロコフィエフに次のように語っている。「(この楽曲は)我々にとってはいまひとつです(中略)ここにはモニュメンタリズムにより我々が意図するものが欠けています - それは貴方が自家薬籠中のものとするよく知られた単純性と広い輪郭ですが、一時的に注意深く避けているのです[89]。」

1930年代初期までにはヨーロッパとアメリカは世界恐慌に苦しめられており、新作のオペラやバレエの上演は難しくなっていた。しかし、ピアニストとしてのプロコフィエフを聴きに来る聴衆の数は、少なくともヨーロッパでは減少を見せなかった[90]。それでも、自らをなによりもまず作曲家であると考えていたプロコフィエフは、ピアニストとしての出番のために失われる作曲の時間の量に怒りを募らせていった[91]。一時ホームシックに罹ったこともあり、ソ連との間に太い関係性を築き始めたのであった。

RAPMが1932年に解散すると、プロコフィエフは祖国とヨーロッパの間で音楽大使として活動するようになっていき[92]、作品の初演と委嘱に関してはソ連からの賛助を得ることが多くなっていった。例えば、『キージェ中尉』はソ連の同名の映画(英語版)のための音楽として委嘱された作品である[93]。

他にも、レニングラードのキーロフ劇場からはバレエ『ロメオとジュリエット』の委嘱が入った。この作品はアドリアン・ピオトロフスキー(英語版)とセルゲイ・ラドロフによって「ドラムバレエ」(drambalet、ドラマ化されたバレエ)という発想で創作されたシナリオに曲を付けたものだった[注 13][94]。ラドロフが1934年にキーロフ劇場に辞表を叩きつけるという事件が起こり、モスクワのボリショイ劇場と新しい契約への署名が行われたが、これはピオトロフスキーが関係を維持するとの申し合わせの上でのことだった[95]。しかし、シェイクスピアの原作とは異なってバレエに用意されたハッピー・エンドを巡ってソビエトの文化に関わる役人の間に論争が巻き起こり[96]、芸術委員会の議長を務めていたプラトン・ケルジェンツェフ(英語版)の命によりボリショイ劇場のスタッフの見直しが行われる間、上演は無期限延期となってしまった[97]。親友のミャスコフスキーは何通もの書簡の中でどれだけプロコフィエフにロシアにいて欲しいと思っているかを綴っている[98]。

ロシアへの帰国
4年にわたってモスクワとパリの間を行きつ戻りつした後の1936年、プロコフィエフはモスクワに居を構えることにした[99][100]。同年には彼の全作品中でも指折りの知名度を誇る『ピーターと狼』が、ナターリャ・サーツ(英語版)の中央児童劇場(英語版)のために作曲された[101]。サーツはさらにプロコフィエフに2曲の子ども用歌曲「Sweet Song」と「Chatterbox」を書くよう説得し[102]、これらに「The Little Pigs」を加えて最終的に『3つの子供の歌』 作品68として出版された[103]。プロコフィエフはさらに巨大な『十月革命20周年記念のためのカンタータ』を作曲し、記念の年中の初演を目指した。しかし、これは芸術委員会を前にしたオーディションを要求したケルジェンツェフによって巧みに阻止されてしまう。「何をしているつもりかね、セルゲイ・セルゲーエヴィチ、人民ものもであるテクストを取り上げて、そこへこのような理解不能な音楽とつけるとは[104]。」このカンタータが部分的な初演を迎えるのは1966年4月5日、作曲者の死からさらに13年の時間を待たねばならなかった[105]。

新たな環境に内心不安を感じつつも順応を強いられたプロコフィエフは、公式に承認されたソビエトの詩を歌詞として用いてミサ曲(作品66、79、89)を作曲した。1938年、セルゲイ・エイゼンシュテインと歴史叙事詩による映画『アレクサンドル・ネフスキー』を共同制作し、プロコフィエフ作品でも有数の独創的かつ劇的な音楽を書き上げた。映画の方は非常に粗末な録音状態となったが、彼はこの劇判をメゾソプラノ、合唱と管弦楽のためのカンタータ『アレクサンドル・ネフスキー』へと改作、多くの演奏と録音に恵まれた。『アレクサンドル・ネフスキー』の成功に続き、初となるソビエトを題材にしたオペラ『セミョーン・カトコ』を書き上げる。これはフセヴォロド・メイエルホリドの演出による上演を目指したものだったが、メイエルホリドが1939年6月20日にスターリン秘密警察組織であった内務人民委員部に逮捕され、1940年2月2日に銃殺されたために初演は延期となった[106]。メイエルホリドの死からわずか数か月後に、プロコフィエフは「招待」を受けてスターリンの60歳の誕生日を祝うカンタータ『スターリンへの祝詞』 作品85を作曲している[107]。

1939年の暮れ、今日では「戦争ソナタ」として広く知られるピアノソナタ第6番、第7番、第8番が作曲された。初演はそれぞれ、第6番がプロコフィエフ自身によって1940年4月8日に[108]、第7番がスヴャトスラフ・リヒテルによって1943年1月18日にモスクワで、第8番がエミール・ギレリスによって1944年12月30日にモスクワで行われた[109]。その後はとりわけリヒテルがこれらの作品を擁護した。伝記作家のダニエル・ヤッフェ(Daniel Jaffé)はプロコフィエフが「無理をして至福のスターリンを喜ばしく喚起させる楽曲を作ったが、自分がその役割を演じていたのだということ」そして、後の3つのソナタでは「自らの真の心情を表現したのだと人々に信じてもらいかった」のであろうと論じている[110]。その証拠として、ヤッフェはピアノソナタ第7番の中間楽章でロベルト・シューマンの『リーダークライス』から「悲しみ」(Wehmut)の主題が引用されていることを挙げている。その歌詞は次のような内容である。「私は時に嬉しいかのように歌い、人知れず涙を流すことで心を解き放っている。ナイチンゲールは(中略)牢の深みから脱することを切に願って歌をさえずる(中略)人々は喜び、その痛み、歌に込められた深い悲しみを知ることはない[111]。」皮肉にも(彼の引喩に気づく者はなかったとみられ)、第7番のソナタはスターリン賞の第2席、第8番は第1席を獲得した[109]。

その間、ようやく1940年1月11日になって『ロメオとジュリエット』がレオニード・ラヴロフスキー(英語版)の振付けによってキーロフ・バレエで上演を迎えた[112]。居合わせた者が皆驚いたことに、踊り手たちは楽曲のシンコペーションのリズムへの対処に苦労して公演をボイコットしかかっていたにもかかわらず、バレエはたちまち成功を収め[113]、ソビエトの劇的バレエの頂点に君臨する偉業と看做されるようになったのであった[114]。

戦時中
プロコフィエフはレフ・トルストイの叙事的小説『戦争と平和』を題材としたオペラの構想を温めており、1941年6月22日にバルバロッサ作戦におけるドイツ国のソ連への進行開始の報せでこの主題が一層時宜を得たものに思われるようになった。彼は2年をかけて自分自身の手による『戦争と平和』を書き上げた。戦禍を逃れるため他の多くの芸術家らとともにまずコーカサスへと疎開し、そこで弦楽四重奏曲第2番を作曲している。1939年に出会っていた[115]リブレット作者のミーラ・メンデリソンとの関係が元で、この頃までにプロコフィエフと妻のリーナはついに別離に至っていた。喧嘩別れとなっていたにもかかわらず、プロコフィエフはリーナと息子たちにモスクワを出る避難民として一緒にいこうと説得したが、リーナは留まることを選択した[116]。

戦時中は作曲家らに課せられた「社会主義リアリズム」の様式で書かねばならないという制約は弱まっており、プロコフィエフは概して自らのやり方で作曲を行うことができていた。ヴァイオリンソナタ第1番 作品80、交響組曲『1941年』 作品90、カンタータ『名もない少年のバラード』 作品93は全てこの時期に生まれている。1943年にはカザフスタン最大の都市であるアマル・アタでエイゼンシュテインと合流し、映画音楽『イワン雷帝』、そして彼の作品中でも指折りの旋律美で称賛を集めるバレエ『シンデレラ』の制作を行った。この年のはじめには『戦争と平和』からの抜粋をボリショイ劇場共同体の面々に演奏したが[117]、ソビエト政府の意見によりこのオペラは何度も改訂されることとなった[注 14]。1944年にはモスクワ郊外にある作曲家たちの居留地にて交響曲第5番 作品100が書き上げられた。1945年1月13日の初演では彼自身が指揮棒を握った。これは1944年12月30日のピアノソナタ第8番と、同じ日の『イワン雷帝』第1部の初演が大きな成功を収めてわずか2週間後のことだった。

『ピーターと狼』及び『古典』交響曲(ニコライ・アノーソフ指揮)と一緒にプログラムに並んだ第5交響曲の初演により、プロコフィエフはソビエト連邦の主導的作曲家として名声の頂点に達したかのように思われた[119]。その後まもなく慢性高血圧により転倒し、以降脳震盪に苦しむようになる[120]。この症状の完全な快復がおとずれることはなく、医師の助言により作曲活動に制約を課されることになってしまったのであった[121]。

戦後
戦後の作品となる交響曲第6番やピアノソナタ第9番を作曲する時間を持つことができたプロコフィエフは、「ジダーノフ批判」に晒されることになる。1948年のはじめ、アンドレイ・ジダーノフの招集により開かれたソビエトの作曲家の会合に続き、政治局は作曲家らを非難する決議を行った。「形式主義」の罪の対象となったのはプロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、ポポーフ、ミャスコフスキー、ハチャトゥリアンであり、「音楽を不快な音響へと変質しさせる」ような「混濁し、神経に触る」響きを選んだことによる「古典音楽の基本原理の放棄」であるとされた[122]。プロコフィエフの作品では『1941年』、『戦争終結に寄せる頌歌』、祝典詩曲『30年』、『花咲け、偉大な国土よ』、『名もない少年のバラード』、ピアノ小品集『思想』、そしてピアノソナタ第6、第8番が演奏禁止となった[123]。作品を禁止されるということの裏に認められる脅威により、検閲を逃れた楽曲すらももはや演奏されなくなっていた[124]。1948年8月までにプロコフィエフは過酷な財政的困窮に陥り、個人で抱えた借金は18万ルーブルにのぼった[123]。

1947年11月22日、プロコフィエフは疎遠となっていた妻に対する離婚手続きの開始を裁判所に申請する。5日後に出された裁判所の裁定は、婚姻はヴァイマル共和国で行われたものであるから法的根拠がなく、ソビエトの役所へとの届け出もなされていない、従って法的効力がなく無効であるというものだった。2人目の裁判官が評決を支持し、彼は1948年1月13日にパートナーのミラと結婚した[125][126]。最初の妻であるリーナは、スペインにいる母に送金しようとしたとして逮捕されてスパイ容疑で告発された。9か月にわたる取り調べが行われ[127]、ソ連最高裁(英語版)により20年の重労働の判決が下った[128]。8年後の1956年6月30日に釈放された彼女は[129]、1974年にソビエトを後にしている[130]。


文化に関わる要人を必死に懐柔しようと試みた『真の男の物語』を含む、プロコフィエフ後期のオペラの計画群は瞬く間にキーロフ劇場にキャンセルされてしまう[131]。すげない拒絶と衰え行く健康が相まって、プロコフィエフは次第に表舞台から身を引いていった。様々な活動からの引退は愛してやまなかったチェスにまで及び、徐々に自分自身のための仕事に専念していった[132][133]。1949年に生じた深刻な再発を受け、主治医らは彼に作曲する時間を1日1時間に制限するよう要請した[134]。

1949年の春、22歳のムスティスラフ・ロストロポーヴィチのためにチェロソナタ ハ長調 作品119を作曲、1950年にロストロポーヴィチとリヒテルによって初演された[135]。ロストロポーヴィチに向けてはチェロ協奏曲第1番に大幅に手を加えてチェロと管弦楽のための交響的協奏曲へと改作しており、今日ではチェロと管弦楽のための記念碑的作品となっている[136]。プロコフィエフが最後に公開演奏に姿を現したのは1952年10月11日に行われた交響曲第7番の初演だった。これが完成させることが出来た最後の大作となる[137]。この交響曲は青少年のラジオ局のために書かれたものだった[138]。

最期
プロコフィエフは1953年3月5日に61歳でこの世を去った。スターリン逝去と同年同月同日、その3時間前であった[139][140]。プロコフィエフが住んでいたのは赤の広場近くであり、スターリンの死を悼む群衆が3日間にわたって詰めかけたためにソビエト連邦作曲家同盟本部でプロコフィエフの葬儀を行うことはできなかった。彼の自宅周辺では霊柩車の使用が認められなかったため、棺は人の手により裏道を抜けてスターリンの亡骸へ訪れる人々の群れとは反対の方向へ運んでいかねばならなかった。約30人が葬儀に出席し、ショスタコーヴィチも参列した。ショスタコーヴィチは顔を合わせた時には馬が合わなかったようであったが、その後の年月で関係性は友好的なものへと変わっており、プロコフィエフに次のように手紙を送っている。「私は貴方に少なくともあと百年は生きて創作してもらいたいと願っています。貴方の第7交響曲のような作品を聴くことで、生きることはもっと容易で、喜ばしいものとなるのです[141]。」遺体はモスクワのノヴォデヴィチ墓地に埋葬された[142]。

ソビエトの主要な音楽定期報ではプロコフィエフの死を116ページに小見出しとして掲載しており[143]、そこまでの115ページはスターリンの死亡記事に割かれている[143]。プロコフィエフの死因は脳内出血であるとされるのが一般的である。彼は最後の8年間を慢性疾患に悩まされていたのである[144]。

妻のミーラ・メンデリソンは、2人で暮らした同じモスクワの自宅で晩年を過ごした[145]。夫の書類を整理し、彼の音楽の普及に努め、自身の回顧録を記した。回顧録執筆はプロコフィエフによって強く勧められてのことだった。回顧録の仕事は彼女にとって困難なものとなり、未完成のまま生涯を終えることになった[146]。メンデリソンは1968年にモスクワで心臓発作を起こして他界、夫に先立たれてから15年が経過していた[147]。彼女の財布には1950年2月の日付と、プロコフィエフ、メンデリソン両名の署名が入ったメッセージが遺されていた。そこには「私たちは隣り合わせに葬られることを望む」という簡潔な指示が書かれていた。2人はノヴォデヴィチ墓地で一緒に眠りについている[148]。

リーナ・プロコフィエフはプロコフィエフの死後も長く生き続け、1989年にロンドンで息を引き取った。元夫の音楽からもたらされる印税は多少の収入となっいた。彼女は『ピーターと狼』の語り手を引き受けたこともあり、ネーメ・ヤルヴィ指揮、ロイヤル・スコティッシュ管弦楽団演奏の録音がシャンドスから頒布されている[149]。2人の間に生まれた息子のスヴャトスラフ(1924年-2010年)は建築家、オレグ(1928年-1998年)は画家、彫刻家、詩人となり、2人とも生涯の多くを父の人生と作品の普及のために費やした[150][151]。

死後の名声
アルテュール・オネゲルはプロコフィエフが「我々にとって現代音楽最大の人物であり続けるだろう」と明言しており[152]、アメリカの学者であるリチャード・タラスキンはプロコフィエフの「他にない全音階による旋律を書く才能は、20世紀の作曲家の中では事実上並ぶ者のない」ものであると認識している[153]。一方、西側諸国におけるプロコフィエフの名声は一時期冷戦に伴う反発感情に苦しめられ[154]、彼の音楽は、続く世代の音楽家により大きな影響を与えたとされるイーゴリ・ストラヴィンスキーやアルノルト・シェーンベルクが受けているような尊敬を、西側の学者や評論家から勝ち得るに至っていない[155]。

今日では、プロコフィエフは20世紀の音楽の中でも最も人気のある作曲家であると言っても差し支えない[157]。彼のオペラ、バレエ、室内楽曲、ピアノ曲は世界中の主要なコンサートホールで日頃より取り上げられており、管弦楽曲ひとつをとってもアメリカではリヒャルト・シュトラウスを除く過去100年のどの作曲家の作品より頻繁に演奏されているのである[158]。


作風
プロコフィエフは自身の作品を構成する要素として「古典的な要素」「近代的な要素」「トッカータ、もしくは "モーター" の要素」「叙情的な部分」「グロテスク」の5つを上げている[160]。初期には急進的な作風を取る一方、長期の海外生活中の作品は次第に新古典主義的で晦渋なものとなったが、ソヴィエト連邦への帰国後は社会主義リアリズムの路線に沿った作風へ転換し、現代的感覚と豊かな叙情性を併せ持つ独自の境地へ到り、多くの傑作を生んだ。

快活なリズム感、斬新な管弦楽法は、ティシチェンコやシチェドリンなど後代のロシアの作曲家に影響を与えた。

録音
プロコフィエフは1932年6月に、自作のピアノ協奏曲第3番の世界初録音をピエロ・コッポラの指揮でロンドン交響楽団とHis Master's Voiceに遺している。また一部ピアノ独奏曲の録音も1935年2月にパリのHMVで行っており、PearlとナクソスからCDが刊行されている[161]。1938年にはモスクワ・フィルハーモニー管弦楽団を指揮してバレエ音楽『ロメオとジュリエット』第2組曲を録音し、LPとCDで販売された[162]。この他のモスクワ・フィルハーモニー管弦楽団との録音としてはダヴィッド・オイストラフをソリストに迎えたヴァイオリン協奏曲第1番がエヴェレスト・レコードからLPで販売された。記載の情報とは異なり、指揮者はアレクサンドル・ガウクであった。プロコフィエフがオペラ『戦争と平和』から数曲を演奏し、その音楽について解説する短い映像フィルムが発見されている[163]。

小説家として
プロコフィエフは海外にいた1918年ごろにいくつかの短編小説を書いている。2003年にロシアで刊行され彼の新たな才能が知られるようになった。作品の多くが当時のモダニズム文学の流れを汲むもので、「エッフェル塔が歩き出す」といった奇想天外な内容である。しかし彼の「作家活動」は3年程度で終わり音楽活動に専念することになる。

日本語訳版は2009年に群像社より刊行された[164]。

主な作品
プロコフィエフはたびたび過去の自作を大幅に改訂し、それらに新しい作品番号を与えることがあった。またバレエ作品などを組曲とすることもあり、それらにも新しい作品番号を与えている。


交響曲
交響曲 ホ短調(1908年)
交響曲第1番 ニ長調 作品25『古典』(1917年)
交響曲第2番 ニ短調 作品40(第1版:1925年)、作品136(第2版:1953年に起案したが未完)
交響曲第3番 ハ短調 作品44(1928年)
交響曲第4番 ハ長調 作品47(第1版:1930年)、作品112(第2版:1947年)
交響曲第5番 変ロ長調 作品100(1944年)
交響曲第6番 変ホ短調 作品111(1947年)
交響曲第7番 嬰ハ短調 作品131(『青春』)(1952年 後に終結部に加筆)


オペラ
『マッダレーナ』 作品13(1911年)
『賭博師』 作品24(1916年)
『三つのオレンジへの恋』 作品33(1919年)
『炎の天使』 作品37(1927年)
『セミョーン・カトコ』 作品81(1939年)
『修道院での婚約』 作品86(1940年)
『戦争と平和』 作品91(第1版:1943年、第2版:1946年、第3版:1947年、第4版:1950年、第5版:1952年)
『真の男の物語』 作品117(1948年)
『遠い海』(1948年、未完)


バレエ音楽
『道化師』 作品21(1920年)
『鋼鉄の歩み』 作品41(1925年)
『放蕩息子』 作品46(1928年)
『ボリステーヌの岸辺で』 作品51(1930年)
『ロメオとジュリエット』 作品64(1936年)
『シンデレラ』 作品87(1944年)
『石の花』 作品118(1949年)


劇付随音楽
『エジプトの夜』(1933年)
『ボリス・ゴドゥノフ』 作品70bis(1936年)
『エフゲニー・オネーギン』 作品71(1936年)
『ハムレット』 作品77(1938年)


映画音楽
『キージェ中尉』(1933年)
『スペードの女王』作品70(1936年)
『アレクサンドル・ネフスキー』(1938年)
『レールモントフ』(1941年)
『コトフスキー』(1942年)
『ウクライナ草原のパルチザンたち』(1942年)
『トーニャ』(1942年)
『イワン雷帝』(第1部、第2部) 作品116(1945年)


その他の管弦楽曲
シンフォニエッタ イ長調 作品5(第1版:1909年、第2版:1914年)、作品48(第3版:1929年)
交響的物語『ピーターと狼』 作品67(1936年)
組曲『冬のかがり火』(朗読、児童合唱およびオーケストラのための) 作品122(1949年-1950年)


協奏曲
ピアノ協奏曲第1番 変ニ長調 作品10(1912年)
ピアノ協奏曲第2番 ト短調 作品16(1913年)
ピアノ協奏曲第3番 ハ長調 作品26(1921年)
ピアノ協奏曲第4番 変ロ長調(左手のための) 作品53(1931年)
ピアノ協奏曲第5番 ト長調 作品55(1932年)
ピアノ協奏曲第6番(2台のピアノと弦楽合奏のための) 作品133(1952年、未完)
ヴァイオリン協奏曲第1番 ニ長調 作品19(1917年)
ヴァイオリン協奏曲第2番 ト短調 作品63(1935年)
チェロ協奏曲第1番 ホ短調 作品58(1938年)
チェロと管弦楽のための交響的協奏曲(チェロ協奏曲第2番)ホ短調 作品125(1951年)


室内楽曲
弦楽四重奏曲第1番 ロ短調 作品50(1930年)
弦楽四重奏曲第2番 ヘ長調(カバルダの主題による) 作品92(1941年)
ヴァイオリンソナタ第1番 ヘ短調 作品80(1946年)
ヴァイオリンソナタ第2番 ニ長調 作品94bis(1944年)
2つのヴァイオリンのためのソナタ ハ長調 作品56(1932年)
無伴奏ヴァイオリンソナタ ニ長調 作品115(1947年)
ヘブライの主題による序曲 ハ短調 作品34(1919年) [クラリネット、弦楽四重奏、ピアノ]
五重奏曲 ト長調 作品39(1924年) [オーボエ、クラリネット、ヴァイオリン、ヴィオラ、コントラバス]
フルートソナタ ニ長調 作品94(1943年)
チェロソナタ ハ長調 作品119(1949年)


ピアノ曲
ピアノソナタ第1番 ヘ短調 作品1(1909年)
ピアノソナタ第2番 ニ短調 作品14(1912年)
ピアノソナタ第3番 イ短調 作品28『古い手帳から』(1917年)
ピアノソナタ第4番 ハ短調 作品29『古い手帳から』(1917年)
ピアノソナタ第5番 ハ長調 作品38(第1版:1923年)、作品135(第2版:1953年)
ピアノソナタ第6番 イ長調 作品82(1940年)
ピアノソナタ第7番 変ロ長調 作品83(1942年)
ピアノソナタ第8番 変ロ長調 作品84(1944年)
ピアノソナタ第9番 ハ長調 作品103(1947年)
ピアノソナタ第10番 ホ短調 作品137(1953年、未完)
トッカータ ニ短調 作品11(1912年)
サルカズム(風刺) 作品17(全5曲)(1914年)
束の間の幻影 作品22(全20曲)(1917年)


合唱曲
カンタータ『アレクサンドル・ネフスキー』 作品78(1939年)
オラトリオ『平和の守り』 作品124(1950年)


歌曲
『みにくいあひるの子』 作品18(1914年)

著書
『プロコフィエフ自伝・評論』(園部四郎、西牟田久雄共訳/音楽之友社/1964年)
『プロコフィエフ: 自伝/随想集』(田代薫訳/音楽之友社/2010年)
『プロコフィエフ短編集』(サブリナ・エレオノーラ、豊田菜穂子訳/群像社ライブラリー/2010年)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%82%B2%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A8%E3%83%95
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/808.html

[近代史6] セルゲイ・プロコフィエフ 『束の間の幻影 作品22』
セルゲイ・プロコフィエフ『束の間の幻影 作品22』
Olli Mustonen






















Prokofiev: Visions fugitives, Op.22 - 1. Largamente · Olli Mustonen
℗ 1996 Decca Music Group Limited



『束の間の幻影』(フランス語: Visions Fugitives )作品22は、セルゲイ・プロコフィエフが1915年から1917年に作曲したピアノ曲集。1918年4月15日に作曲者自身によって、ソビエト連邦のペトログラード(現ロシア、サンクトペテルブルク)において初演された。日本での初演は、同年7月7日に東京において、同じく作曲者自身によって行われている。


フランス語の題名は、コンスタンチン・バリモントの詩行(「あらゆる刹那の瞬間に私は世界を見る、虹色にちらつく光に満たされた世界を……」)から取られている。


楽曲構成
以下の20曲から成り、いずれも微小な楽曲ばかりである。どの曲も無調からは程遠いものの、不協和さという特徴においては同時期に作曲されたシェーンベルクやスクリャービンの作品に通じる面がある。それでも調性やリズムという点では、非常に独創的である。「絵のように美しく」との発想記号を持つ第7曲は、「ハープ」という愛称で知られるop.12「10の小品」の7曲目の変奏曲としての表情も持ち、「アルパ」(民俗学的な意味でのハープの意)として新たな表情を見せている。演奏時間は22分。


Lentamente
Andante
Allegretto
Animato
Molto giocoso
Con eleganza
Pittoresco (Arpa)
Commodo
Allegro tranquillo
Ridicolosamente
Con vivacità
Assai moderato
Allegretto
Feroce
Inquieto
Dolente
Poetico
Con una dolce lentezza
Presto agitatissimo e molto accentuato
Lento irrealmente


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%9F%E3%81%AE%E9%96%93%E3%81%AE%E5%B9%BB%E5%BD%B1  

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/809.html

[近代史6] 最美の音楽は何か? _ セルゲイ・プロコフィエフ『束の間の幻影 作品22』 中川隆
1. 中川隆[-16119] koaQ7Jey 2021年10月06日 07:57:52 : ysUaxmWtj8 : SXFLbnFMU3E1ZGc=[14]

セルゲイ・プロコフィエフ『束の間の幻影 作品22』
Olli Mustonen
















http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/415.html#c1
[近代史6] 最美の音楽は何か? _ セルゲイ・プロコフィエフ『束の間の幻影 作品22』 中川隆
2. 中川隆[-16118] koaQ7Jey 2021年10月06日 07:58:53 : ysUaxmWtj8 : SXFLbnFMU3E1ZGc=[15]
ムストネン




















http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/415.html#c2
[近代史6] 最美の音楽は何か? _ セルゲイ・プロコフィエフ『束の間の幻影 作品22』 中川隆
3. 中川隆[-16117] koaQ7Jey 2021年10月06日 07:59:18 : ysUaxmWtj8 : SXFLbnFMU3E1ZGc=[16]
ムストネン










Prokofiev: Visions fugitives, Op.22 - 1. Largamente · Olli Mustonen
℗ 1996 Decca Music Group Limited



http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/415.html#c3
[近代史6] アレクサンドル・スクリャービン(1872 - 1915)
アレクサンドル・スクリャービン(1872 - 1915)

大作である交響曲、協奏曲、ピアノソナタはいずれも充実した傑作である。また、大半がピアノ曲の作曲家であると共に、1〜3分の短いピアノ小品をたくさん残した。ピアノ音楽史上最重要な作曲家の一人である。小品群は前期と後期はハズレがなく、概ねどの作品もはっとさせられる美しさを持っているが、中期は面白くない曲が多いと私は思う。


管弦楽曲・協奏曲

ピアノ協奏曲 嬰ヘ短調 作品20
4.0点
ショパンのピアノ協奏曲に魅力が似ている。若い時だけのセンチメンタルでウブな純情をオーケストラの伴奏に乗ってピアノの独奏で吐露していくような、感情に浸って聴く音楽である。特に2楽章はそうであり、瑞々しく恥ずかしくなるほどに生々しいセンチメンタルな美しさは、クラシック史上稀にみるものであり特筆に値する。聴き映えがするのはやはり3楽章であり、高揚感を保ち進む音楽に心がウキウキする中で感動的に現れる美しい第2主題が心を奪う。ショパン同様に若書きの未熟さが感情面の演出の一つの要素となっている。同時代ではラフマニノフのピアノ協奏曲ほどの総合性を備えてはいないものの、非常に魅力があり私は中毒になった。もっと頻繁に演奏されて良い曲である。

交響曲第1番 ホ長調 作品26
3.3点
聴き方が難しい…大仕掛けの多彩な楽章で最後は独唱と合唱が登場する全6楽章。夢のような1楽章など、美しい曲もあれば、スクリャービンの線の細さの欠点が露呈している箇所も多い。後期ロマン派らしい和声やオーケストレーションで、知らずに聴いたらスクリャービン作曲と当てられない人は多いだろう。途中の部分はあまりまとまりが良いとは思えない。独唱と合唱による、最初はプッチーニ似かとおもいきや、だんだんマーラーに似ていく壮大でメルヘンチックでもあり、感動的な最終楽章だけでも聞く価値はある。

交響曲第2番 ハ短調 作品29
3.5点
交響曲1番の軽さとまとまりの悪さを克服している。重厚さと力感にあふれた、どっしりとした腰の重さが印象に残る。それでもロシア臭があまりしない洗練されている所がよい。陳腐さも少ない。全5楽章で50分近い大作。内面的な情熱の強さもある種の悪魔的な感覚が上昇する音形の多用により表現されている。ただ、雰囲気の統一感はあるが多様性が少なく、大作のわりに同じ雰囲気が続き、総合性に欠けるのがかなりマイナス。
最終楽章は、締めの音楽として割と分かりやすく演出されているが、1番の素晴らしさはない。

交響曲第3番「神聖な詩」ハ短調 作品43
3.3点
中期の作品であり、初期ほどに明快なロマン派音楽ではなく曖昧で神秘的な世界を垣間見せるのだが、調性は明確である。曲が長く楽章に切れ目がない。ピアノ曲では表現しきれない管弦楽ならではの壮大さとスクリャービンらしいロマンを楽しむことが出来るため、長さを気にせずに聴けるならば、音に浸ってなかなか幸せな時間を過ごせる。ピアノ曲はどうしてもせわしなく音楽が展開していくものであるが、スクリャービンにとって必ずしも必須だったわけではないようだ。以前はここに成功作とは思えないと書いていたが誤りだった。とはいえ、このようなお腹が一杯になる大曲は基本的には彼の持ち味を活かすものではなく、この1曲だけだから良いという気もする。

交響曲第4番「法悦の詩」ハ長調 作品54
3.5点
交響曲と交響詩の中間のような曲だと思う。神秘和音の響きと、何度も繰り返される動機の醸し出す雰囲気と、何度も繰り返されるエクスタシーの高潮を楽しむ曲。

交響曲第5番「焔の詩 -- プロメテ」作品60
3.5点
6番以降の後期のソナタの直前に書かれている。一種のピアノ協奏曲といっても良いピアノ独奏入りの交響曲。神秘和音を中心とする音の作りもピアノ書法も後期ソナタ同様の世界であるが、管弦楽があるため色彩的であり雰囲気のイメージがつかみやすく、少し調性的にも感じられるため聴きやすい。スクリャービンの頭の中のイメージがよく分かるため、彼の後期の音楽の入門に良いかもしれない。曲想は神秘性を中心に超常的なイメージが広がり展開していく感じであり、イメージの多彩さを楽みながら聴ける。

ピアノ曲

ピアノソナタ
第1番 ヘ短調 作品6
2.5点
4楽章の大作。激情的な表現の一楽章と葬送的な4楽章がまあまあ。しかし、あまり霊感の強さを感じず、スクリャービンとしては傑作の範疇に入らないと思う。

第2番「幻想ソナタ」嬰ト短調 作品19
2.8点
1楽章の中の光の幻影が波を打っているかのような幻想的な夢のようなはかない部分が大変美しい。二楽章の無窮動曲は平凡だが。

第3番(「心理状態」)嬰ヘ短調 作品23
2.8点
3楽章ノクターンから暗い情熱を湛えた4楽章への流れはショパンのソナタ3番みたいだ。がっちりとしたソナタを書こうとしたのは分かるが、何だかもの足らない感じが聴いている間ずっと付きまとう。

第4番 嬰ヘ長調 作品30
4.0点
神秘的なスクリャービンらしい斬新さが現れ始めているが、まだロマン派の聞きやすさを残していてバランスが良い。ジャズに少し似た複雑な和音を使っている。2楽章の光の粒のようなキラキラした音が飛び跳ねるさまが独特であり、躍動感と推進力を保ちながら、たった4分の中で次々と新しい雰囲気を見せる極めて内容豊富な音楽である点で、ピアノ音楽史上で稀に見る傑作であると思う。最後は和音連打で光の速さで空の果てまで飛んでいくような雰囲気になるのがかっこいい。

第5番 (ロ長調〜変ホ長調)作品53
3.5点
4番とは違いドロドロとした雰囲気が現れ始めている。しかしまだ壊れきっておらず、ロマン派らしさも残っている。とにかく静と動の対比が徹底しており、力強さと豪快さがあって聴き栄えがするのと、過渡的に適度なドロドロ感を持っていて初期の綺麗すぎる音楽よりもインパクトが強いのが、人気の理由だろう。特に最後の盛り上がりの部分の高揚感は何度聞いてもスカっとするような満足感がある。一方で、たった6日間程度で書かれただけあって、勢いに任せて半ば即興的に書かれた印象があり、緊密な内容豊富さを楽しむことはできない点で自分は4番よりも物足りなな感じる。

第6番 作品62
3.5点
この曲はかなりとっつきにくい。ドロドロとした場面が延々と続く中で、7番のような分かりやすく理解できるような旋律や盛り上がりがない。しかし、後期の後半ほどは旋律の絡みの複雑怪奇さがないが、和声は徹底した妥協のない追求がされており、精神的な集中度は7番と並び素晴らしい。。グロテスクな響きが延々と続いていきながら音楽が進行する様は、慣れてくると妙に気持ち良さすら感じるようになる。

第7番「白ミサ」作品64
3.8点
6番以降では最初に完成。非常に鋭角的な鋭い響きがする曲である。神秘的で荘厳な儀式が行われるような雰囲気を明確に感じられるし、とにかく素材もその料理の仕方も内容豊富で構成が複雑で非常に多くの場面が詰め込まれた、非常に重量感のある大変な力作のソナタである。冒頭から非常に印象的で悪魔的な響きが強く心に突き刺さるし、第二主題の深遠さも素晴らしい。後半の爆発的な部分の衝撃的な圧倒性も素晴らしい。

第8番 作品66
3.3点
最後に完成されたソナタ。6番に似ているとっつきにくい世界であるが、こちらは複数の動機を組み合わせながら、神秘性な雰囲気が色彩感の豊かさを持って変容していくさまが、とにかく恐ろしく複雑怪奇な音の絡みで表現された究極的な世界を楽しむことができる。薄明かりの中で超常的な神秘的な現象が少しずつ変容しながら発生している様を楽しむ曲と思われる。他の後期ソナタと違い、大きく盛り上がる場面がないため、曲を聴きながら感じる欲求不満がずっと解消されないため、気分が乗らないと聞く気ならない。

第9番「黒ミサ」作品68
3.5点
7番と同じく荘厳で悪魔的なイメージが分かりやすい。曲が短く、後半に向けて段々早くなっていき最大の盛り上がりを作ったところで静かに終わる、というシンプルな構造であるため、構成が把握しやすい。しかしその代償として、後期の濃厚で何度聞いても理解しきれない複雑さが足りない。曲の短さもあって悪魔性をとことん極限まで突き詰めて心がお腹いっぱいになる感を覚えられない。そのた、後期ソナタの中では、入門に最適な分かりやすさと聴きやすさはあるのだが、慣れてくるとこの曲だけ物足りなさを感じる。

第10番「トリル・ソナタ」作品70
3.5点
執拗なトリルの繰り返しが顕著な、趣向的な曲である。しかしながら、後期ソナタの中でもっとも晴れやかであり、太陽に照らされた大地の壮大さを感じさせる力作である。後期ソナタの中では悪魔的な感じは少ない。展開部最後のトレモロによる盛り上がり部分は、ピアノの限界を見せる名場面であり、大自然の中で大きく息を吸い込んで自然の恵みに感謝するような気分になる。何度聞いても胸が一杯になる場面である。

幻想ソナタ 嬰ト短調
2.0点
14歳の作品だそうで、ものすごくショパンぽい。スクリャービンの出発地が分かる。曲の出来は天才少年だと感じさせるが、完全な亜流だから出来たことなのかもしれない。


ソナタ形式によるピアノ曲

ポロネーズ 変ロ短調 作品21
2.5点
唯一のポロネーズ。7分。洗練された透明感を魅せながらも泥臭く勇壮なポロネーズだが、曲がどちらに進みたいのか把握しにくい。さまようような印象。

幻想曲ロ短調 作品28
4.0点
雄渾で壮大で中身の詰まった大変な力作である。第二主題が素晴らしいメロディーである。初期の曲の中ではピアノソナタと比較してよりよくまとまっている。荘重な悲劇的な雰囲気で始まり、曲の中間に第2主題の感動を爆発させるように再現させる辺りは、ショパンのバラード1番と同じような構成である。実際、10分の時間で多くのテーマを使いながら緊密で濃密なドラマをピアニステックに展開させている点において、ショパンのバラードやスケルツォと完全に同レベルにある数少ない作品の一つである。

悲劇的詩曲 変ロ長調 作品34
3.0点
かなり激しい和音の連打で非常に演奏が難しそう。明るく分かりやすいメロディーがあるのに、伴奏が激しすぎて聞こえにくいほどである。悲劇的な感じではないのに何故悲劇的という題名なのだろうか。

悪魔的詩曲 ハ長調 作品36
2.8点
ピアニスティックな激しさがあり、まさに悪魔的な感覚が表現されている。規模の大きな詩曲。後期への入り口に入り込んだような音の使い方がある。後半はかなり激しい。

ポエム・ノクチュルヌ 作品61
3.0点
後期のソナタ以外の長い曲の一つである。夜というよりは夜明けの薄明の中ようなイメージである。同じフレーズを繰り返しながら少しずつ雰囲気を盛り上げていくのだが、ソナタのような総合性はなく、投入されている素材は多くない。時間の長い小品というイメージであるが、時間が長い分、よい雰囲気があっという間に終わってしまわないのがよい。


練習曲

12の練習曲 作品8
作品8-11 5.0点
その他 4.0点
作品8-11は悲愴という副題で呼ばれることもある。史上最も情熱的なピアノ曲のひとつであり素晴らしい名曲。他の曲はかなりショパンに似ており、ショパンの曲だと言って知らない人に聴かせたら信じてしまいそうだ。やや芸風の幅が狭いこと、所々にロシアの香りがほんのり漂う所が違うくらいか。ショパンに似すぎとはいえ、耳に残る名曲ばかりで、練習曲集としてかなりの名作だと思う。

8つの練習曲 作品42
作品42-5 5.0点
その他 3.0点
作品42-5は情熱がほとばしるような美しい主題を素晴らしいピアノ書法で歌わせている。センスのよさと完成度の高さで彼の代表作といえる小品である。その他の曲は、作曲技法の洗練度の高さはすぐに分かるものの、耳を捉えるメロディーが無く鑑賞用の曲としては微妙である。

3つの練習曲 作品65
3.8点
後期らしい神秘和音の世界であるにも関わらず、練習曲であるため聞きやすいのがいいところである。1曲目はとても神秘的なキラキラした音がする、他に類を見ないような斬新で画期的な音世界である。コインがチャリンチャリンと鳴っているようでもある。9度の練習曲という特異な練習曲の特徴をこれ以上ないくらい活かしている。穏やかな2曲目を経て、圧巻の3曲目。地獄の業火のようでめちゃめちゃカッコいい。後期が苦手な人にも試しに聴くように薦めたい。


マズルカ

10のマズルカ 作品3
3.3点
学生時代の作品であり、基本的にショパンの亜流であるが、その中に新しいピアノ書法やスクリャービンらしい繊細な個性が多少は入っている。
10曲のバラエティーは豊かであり、結構いい曲が多い。マズルカ独特の憂いが素敵。ショパンのマズルカが好きな人は楽しめるだろう。最後の曲は長いうえに面白くなくて頂けないが。

9つのマズルカ 作品25
2.8点
作品3と違い、ショパンの亜流ではなく明確なスクリャービンの個性は出ているが、マズルカとしては残り香が漂う程度であり普通の小品に近くなっている。洗練されたスクリャービンらしい小品集だが、憂いや粘りのような濃厚さがなくなり、その代わりに精妙で詩情はあるが線が細く旋律の魅力があまり多くない曲になってしまった。素敵な部分も散見されるが、魅力は全体としては落ちていると言わざるを得ない。

2つのマズルカ 作品40
3.0点
この2曲はどちらも濃厚で晩年のショパンのマズルカのような切なさや人生を邂逅するような趣もあって、なかなか印象的な小品である。


詩曲

2つの詩曲 作品32
3.8点
1曲目の半音階的な進行により微妙なゆらぎのようなものを表現した柔らかく絶妙で詩情豊かな世界は、達人の技である。この曲は多くの人に広まるべきである。かなりの名曲だと思う。2曲目は激しくて中期らしい複雑さがあり、普通のメロディーのようでありながら耳に残るものがあるものの、1番に比べれば普通の曲。

詩曲 変ニ長調 作品41
2.8点
左手の音数が多くて、3分と大きめの規模である。左手の和声から大きく外れたテンションコードの音を徘徊するような旋律は印象である。しかし、いい曲と感じるほどではない。

2つの詩曲 作品44
2.8点
1曲目はラフマニノフのように茫洋とした雰囲気の中でなんとなくメランコリック気味な旋律が蠢く音楽である。2曲目はショパンのような旋律であり、時代を考慮すると単なる普通の曲である。

2つの詩曲 作品63
3.3点
1曲目は静かな曲で捉えにくいが、スクリャービン らしい詩魂が込められた霊感に満ちた独自世界は面白い。2曲目は、キラキラした珍しく音数の多い作品であり、旋律が1度で覚えられるような印象的なもののため楽しめる曲である。

2つの詩曲 作品69

2つの詩曲 作品71
3.0点
1曲目はミニ版ソナタ8番とも呼びたい。旋律が似ており光や風の揺らめきが表現されていて雰囲気がよい。2曲目はこれといった特徴がなく面白くない。

詩曲『焔に向かって』作品72
3.3点
なんともヤバい曲である。同じ動機を繰り返しながら少しずつ音の高さをずらして、音の数を増やしながら、じわじわと音楽が進行する。高音で神秘和音をカンカンと鳴らして、二重トリルで表現される焔が不気味なゆらぎを少しずつ大きくしていく。世紀末的な世界を焼き尽くす焔が少しずつ大きくなっていく様を描いているようだ。最後の作品の一つにふさわしい、スクリャービンの後期の特徴がもっとも純化された曲である。


即興曲

2つのマズルカ風即興曲 作品7
2.8点
マズルカのテイストの美しさと心情的な陰影の深さをうまく活用しており、どちらも耳に残るものがある小品。

2つの即興曲 作品10
3.0点
どちらも透明感があり洗練された美しさが耳に残る曲である。控え目なショパン風味も効果的。

2つの即興曲 作品12
3.0点
1曲目は軽やかな三拍子で華やかさがあり楽しい。2曲目は重々しくて悲劇的でラフマニノフを連想するが、中間は夢をみるような美しさ。どちらも楽しめる。

2つの即興曲 作品14
3.0点
1曲目は静かななかで右手が自由に想いを述べるようなメロディーを弾く。2曲目の雰囲気は舟歌のようであり、陰影に富んだ情感的でかつ情景を浮かび上がらせるような美しい作品。

前奏曲

24の前奏曲 作品11
6つの前奏曲 作品13
2つの即興曲 作品14
5つの前奏曲 作品15
5つの前奏曲 作品16
7つの前奏曲 作品17
4つの前奏曲 作品22
2つの前奏曲 作品27
4つの前奏曲 作品31
3.3点
1曲目はショパンの初期ノクターンに似た世界であり、親しみやすく美しいメロディーを素直に楽しめる。他はごく短い曲であり、断片的な前奏曲である。

4つの前奏曲 作品33
2.5点
作品31と異なり、核になる曲がなくて全曲が短い断片である。はっとする部分も見当たらず、あまり聴いて楽しめるような曲集ではない。

3つの前奏曲 作品35
2.8点
1曲目はかなりショパンに近い高速の前奏曲。2曲目は同じ調子が続くレティタティーボで長いのだが、変化が少なくて面白くない。3曲目は悪くないが、まあ普通の出来のショパン時代にも生まれていておかしくない前奏曲である。

4つの前奏曲 作品37
2.5点
2分の曲が2つあり、前奏曲としては短くはないのだが印象に残る曲がない。面白くない。初期から変貌するにも同等の代替的な魅力を見つけられていない感じだ。

4つの前奏曲 作品39
2.5点
この曲集も耳に残るものがなく面白くない。

4つの前奏曲 作品48
3.0点
2曲目の静謐な浮遊感と透明感が心を捉えるものがある。他の曲は短いのだが、2曲目がよいためそれを引き立てる曲のように聴ける。

2つの前奏曲 作品67
3.3点
1曲目は単音の右手の音の動きと和音を伸ばす左手という構成はシンプルだが、変化のつけ方や和声は良く出来ていて、きちんと力を入れて書いた作品として楽しめる。次の曲に繋がるように終わるのもよい。2曲目はプレストで右手と左手のグロテスクな音のぶつかりが早めのフレーズの中で連続するのがゾワゾワとさせられて楽しめる。

5つの前奏曲 作品74
3.3
1分程度の断片的な短い前奏曲が並ぶ。後期ならではの音使いで醸し出される独特の詩情は、どれも他では聴けないはっとさせるものがある。なかなか言葉では伝えにくい、ソナタでは出来ない魅力を小品作曲家として見事に見せている。


小品

3つの小品 作品2

3つの小品 作品45
3.0点
1曲目はショパンのマズルカのような旋律であり耳に残る。2曲目はごく短いが後期のような響きが目新しい。3曲目は和声がいつまでも解決しないまま最後までなんとなく音の動きが続く曲であり、実験の曲という印象である。

3つの小品 作品49
2.8点
3曲ともごく短い。後期に向けて音楽が壊れていく過程をそのまま切り出したようなものであり、3曲とも独立した作品としての面白さは感じない。

4つの小品 作品51
2.5点
わたしには4曲とも特段良いところが見当たらず、面白くない曲集である。後期の世界の模索がスタートしたばかりの習作では、と思ってしまう。

3つの小品 作品52
2.8点
3曲とも音の響きは後期になっていないが、曲想は後期そのものである。やりたい事を実現する方法を模索しているのがよく分かる。しかし曲としては面白くない。

4つの小品 作品56
2.8点
曲名がプレリュードではなく題名が付いているおかげか、少し耳に残る曲が集まっている。たいした作品ではないのだが、後期を模索するだけでない霊感を多少は感じる。とはいえ習作レベルと思われる。

2つの小品 作品57
3.0点
どちらも1分の小さな作品でありアンニュイな雰囲気が強い。後期の世界に変貌しつつもまだ中期の香りを残す過渡期作品として楽しめる。まさに脱皮中という感じだ。

2つの小品 作品59
2.8点
1曲目は中期から後期への変貌の過程として面白い。作品57からさらに和声が後期寄りになっている。2曲目はソナタ6番に似ている。力強さがあり、一つの和音にこだわっているように聞こえる。どちらも面白いが観賞用としては旋律の楽しみが少ない気がする。

その他ピアノ曲

ワルツ ヘ短調 作品1


アレグロ・アパッショナート 作品4
2.8点
11分の大作。若書きのソナタの1楽章からの改作。テクスチャーの細かさが印象的。幻想的な雰囲気。初期にしてはショパンに似ていない。モヤモヤとした雰囲気が続き、主題の明確な効果に欠ける。

2つの夜想曲 作品5
2.5点
10代の曲で2曲目に至ってはなんと12歳。年齢の割には雰囲気の作り方が凄いと思ったが、印象がモヤモヤしているのも若い時からなのかと思った。

左手のための2つの小品 作品9
3.0点
浮遊感のある作風は片手の作品と相性がよい。メロディーが明確の浮き上がっていて、むしろ両手より聞きやすい。知らずに聴いたら片手の曲とは気付かないかもしれないくらい音は充実している。2曲目は盛り上がりもある。

ワルツ 変イ長調 作品38
3.5点
夢を見るような素敵な旋律と場面展開が楽しい曲である。スクリャービンらしい詩情があり、ショパンをあまり感じないないのもよい。中期の名作の一つだと思う。

スケルツォ 作品46
3.0点
この曲は中期らしい和声とスケルツォの取り合わせの妙があり独立した面白さがあり、短い曲のわりに内容豊富で聞く価値のある内容である。

ワルツ風に ヘ長調 作品47
3.0点
テンションコードの音に飛ぶワルツということで、なかなか不思議な雰囲気を出していて短い曲だが面白い。

アルバムの一葉 作品58
2.8点
これは断片的なフレーズの集積であり、後期の響きが過渡的でなく完成されているように聴こえる。独立した作品という感じではなく、新しい響きを模索したスケッチに聴こえる。

2つの舞曲 作品73
3.3点
ダンスと名付けられているが、後期のドロドロした神秘的な世界であり、とてもではないが踊れるような曲ではない。だがこの2曲は3分と2分で小品の中では規模の大きな曲であり、その分の聞き応えがある。1曲目は洞窟の奥に人知れず輝く神秘の秘宝を音にしたような、とても印象的な曲。2曲目は特徴が少なくて、神秘和音の小さなフレーズを積み重ねて貯めた力を少しずつ解放していき、爆発には至らず終わる曲。

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%93%E3%83%B3


アレクサンドル・ニコラエヴィチ・スクリャービン(ロシア語: Александр Николаевич Скрябин, 1872年1月6日 - 1915年4月27日)は、ロシアの作曲家、ピアニスト。作曲者自身はフランス語風に Alexandre Scriàbine(もしくは Scriabine)と綴ることを好んだ。英語では Alexander Scriabin, ドイツ語では Alexander Skrjabin となる。


生涯

生い立ちと学生時代
モスクワの小貴族(軍人貴族)の家系に生まれる。祖先はタタール系であるとされる。父親は中近東の言語や政情に通暁した外交官として国内外を飛び回って家庭を顧みず、母のリュボーフィ・ペトロヴナはスクリャービンを生んでまもなく産褥熱で急死した。このため叔母リューバの監督下で育つ。ちなみにスクリャービンの亡母はモスクワ音楽院に学び、テオドル・レシェティツキにも師事してアントン・ルビンシテインに祝福されたピアニストであった。イギリスのロシア正教会スールジ主教区の府主教アンソニー・ブルームは母方の甥である。

幼児期からピアノを始める。10歳で自ら望んで陸軍兵学校に進むが[1]、小柄で虚弱なことと学業が優秀なこと、そして楽才が顕著なことから、特別にモスクワ音楽院への通学が認められ、14歳から院長タネーエフに作曲と音楽理論を、ズヴェーレフにピアノを師事。もともと即興演奏を好む少年だったが、この頃から作曲したものを五線譜に残すことを習慣付けるようになる。1888年から周囲の勧めで、正式にモスクワ音楽院に転学、ピアノ科でサフォーノフに、作曲科でアレンスキーに師事する。同級生にラフマニノフがいた。気難しく扱いにくい性格のあったスクリャービンにアレンスキーは手を焼いた。結局スクリャービンは作曲科を修了することが出来ず、ピアノ科のみで単位を取得した。このころ作曲家としてはラフマニノフが、ピアニストとしてはスクリャービンが有望視されていた。ピアノ卒業試験においては、ラフマニノフが1位、スクリャービンが2位であった。

作曲家スクリャービンの誕生
手の大きかったラフマニノフに比べ、10度音程が掴めない程度の手の持ち主だったにもかかわらず、学生時代の同級生ヨゼフ・レヴィーンらと、超絶技巧の難曲の制覇数をめぐって熾烈な競争を無理に続け、ついに右手首を故障するに至った。回復するまでの間に、左手を特訓するとともに、ピアニストとしての挫折感から作曲にも力を注ぐようになる。右手以上の運動量を要求され、広い音域を駆け巡ることから「左手のコサック」と呼ばれる独自のピアノ書法をそなえた、作曲家スクリャービンの誕生であった。《左手のための2つの小品》作品9(前奏曲と夜想曲からなる)は、当時を代表する作品の一つである。

1891年頃、ミトロファン・ベリャーエフのサークルの同人となり、リムスキー=コルサコフの知遇を得て、生涯に渡る親交を結ぶ。またベリャーエフ出版社から、定期的に作品の出版が開始される。1897年に衝動的に改宗ユダヤ人女性と結婚するが、これは庇護者ベリャーエフの意向に沿わず、年金がカットされたために、翌1898年から母校モスクワ音楽院のピアノ科教授に就任。教育者としての評価が下されることは少ないが、学生の間では誠実で忍耐強く、学生の意欲を尊重する教師として評判がよく、ウィーン国立音楽大学のピアノ科からスカウトされたほどだった。

変化と発展
1900年ごろからニーチェ哲学に心酔し、とりわけ超人思想に共鳴する。その後は神智学にも傾倒し、この二つから音楽思想や作曲に影響を受ける。1902年に作曲に専念するとしてモスクワ音楽院を辞職するが、すでに門人タチヤナ・ド・シュリョーツェルと愛人関係を結んでいた。1904年に家庭を捨ててタチヤナとともにスイスに出奔、西欧各地を転々とする。この頃からロマン派の影響を脱し個性的かつ神秘主義的な作風へと向かう。露暦でのクリスマス生まれだったことも、スクリャービンの神秘主義や、救世主きどりに拍車をかけた。1909年から1910年までブリュッセルに住み、デルヴィルらのベルギー象徴主義絵画や共感覚に興味を寄せつつ、マダム・ブラヴァツキーの著作にいっそう親しんだ。これにより、自らの芸術を神智学思想を表現するためのものとして考えるようになり、後期の神秘和音を特徴とする作品を残す。それとともに前衛的作曲家として国際的に認められるようになった。

終焉
1910年帰国。このころに、アコースティック録音とピアノロールに自作の録音を残し、クーセヴィツキーやラフマニノフの指揮で自作の協奏曲や《プロメテ》を演奏。作曲のかたわら国内外で精力的に演奏活動にとり組む。虚弱体質の反動から生涯にわたり健康を気にしすぎる気味があったが、皮肉なことに唇への虫刺されが炎症を起こし、膿瘍による敗血症がもとでモスクワで1915年に43歳の若さで急逝した。

後世への影響
スクリャービンは、《法悦の詩》において調性音楽から離脱したが、これはドビュッシーが《前奏曲集 第1巻》においてフランス印象主義音楽の音楽語法を完成させ、またシェーンベルクが《弦楽四重奏曲 第2番》においてドイツ表現主義音楽の開拓に突入したのとほぼ同時期のことであった。この点をもってスクリャービンは、現代音楽の先駆者の一人と認められている[誰によって?]。

永らくスクリャービンは一過性の存在であり、音楽史上に何ら影響を与えなかったと看做されてきた。初期において濃厚な影響を受けたストラヴィンスキーでさえ、後にスクリャービンを「単なる妄想狂」と切り捨てている。しかしながら現在では、スクリャービンの影響がロシアやソ連の国境を越え、国際的な広がりを持っていることが近年になって明らかにされてきた。スクリャービンの支持者は、フェルッチョ・ブゾーニやアルバン・ベルクがおり、信奉者はカロル・シマノフスキや山田耕筰、チャールズ・グリフス、ルース・クロフォード=シーガーなどがいる。スイス時代のスクリャービンにピアノを学んだカナダ人女性は、シカゴで音楽教師として立ち、結果的にジャズ・ピアニストの育成に貢献したとされる。

スクリャービンの音楽美に対する研究はロシア・アヴァンギャルドを含む次世代のロシアの作曲家たちに強い影響を与えた。比較的スクリャービンに近い作曲家はニコライ・オブーホフであり、独自の記譜法とクロワ・ソノールと呼ばれる十字架の形をした楽器の開発で知られる。イワン・ヴィシネグラツキーもスクリャービンの模倣から出発したものの、やがて微分音を含む一オクターブ内に十数個の音から成る和音の共鳴に惹かれていき、オブーホフ同様に新しい楽器の開発にたずさわった。しかしながら、調性を超えた音楽の先に神秘的な力を視るというイメージは、明らかにスクリャービンの規範なしにはありえなかったといってよい。ちなみにオブーホフはラヴェルに愛され、ヴィシネグラツキーはメシアンから敬慕の念を受けていた。オブーホフの、長々と宗教的な題名をつける傾向は、メシアンの場合と共通点が認められる。

スクリャービン演奏で知られるピアニスト

ホロヴィッツは、特にラフマニノフとの関係も有名であるが、スクリャービンとも関係がある。ホロヴィッツがピアノを始めたばかりの頃、スクリャービンの前で演奏させてもらえる機会があったという。その時、スクリャービンはその場では将来必ずしも成功するとは語らずも、このピアニストの才能を見抜き、ホロヴィッツの母親に、早く本格的なピアノの教育をするように助言したと言う。そのような「繋がり」もあってか、ホロヴィッツは、スクリャービン音楽が反倫理的であると否定的に解された時代にあっても、自分のレパートリーに必ずスクリャービン作品を入れていた。

ウラディーミル・ソフロニツキー
スクリャービンの娘婿である。旧ソ連時代、旧ソ連内では、ホロヴィッツを上回る評価を得て、リヒテルなどに「あなたは神です」と呼ばれたという。彼を崇拝する信者も多数いた。西側諸国でも「伝説のピアニスト」と位置づけられていた。『伝説のスクリャービン・リサイタル』などのCDが存在する。コントラストの強烈な演奏。

ウラディーミル・アシュケナージ
ラフマニノフ演奏で有名なアシュケナージであるが、モスクワ音楽院時代は、スクリャービンの音楽にも熱中していたという。スクリャービンのピアノソナタ全集、指揮者として交響曲全集を録音している。解釈はオーソドックス。

ジョン・オグドン
EMIからスクリャービンのピアノソナタ全集を発表している。自身が作曲家だったこともあり理知的で見通しの良い演奏。特に複雑な後期作品の名解釈で知られる。

ロベルト・シドン(英語版)
1941年ブラジル生まれのピアニスト。ドイツ・グラモフォンレーベルから自身の補筆によるピアノソナタ変ホ短調を含む初の完全なピアノソナタ全集を発表した(1968 - 71年録音)。熱狂的なダイナミックレンジなどが個性的で、名演の一つとされる[2]。

マルク=アンドレ・アムラン
類稀なテクニックで知られる。スクリャービンのピアノソナタ全集を1996年に英Hyperionレコードから出しており、評判も高い。ただし、ロシア楽派直伝の解釈ではない(彼もそれを認めている)。

ルース・ラレード
女性による初のピアノソナタ全集の録音に成功。ボールドウィンを使用した唯一の録音である。

マイケル・ポンティ
ヴォックス社はポンティを指名し「スクリャービン全集」の録音を強行軍で完成させた。世界初のピアノ曲全集。強行軍で行ったため、演奏は勢いでまとめてしまったものもあるが、全体としては安定しており、正統的で丁寧な演奏(ただし「アップライトピアノで演奏されている」という話が生まれるほどヴォックス社の録音状態は酷いものとなってしまっている)。

ホーカン・アウストボ
1948年生まれのノルウェーのピアニスト。スタイリッシュで丁寧、なおかつ独特な煌めきをたたえた演奏。スクリャービンの「色光ピアノ(クラヴィエ・ア・リュミエール)」を実現させるプロジェクトを組織し、監督している。

マリア・レットベリ
ラトヴィア共和国に生まれ、サンクトペテルブルク音楽院で学んだスウェーデン国籍のピアニスト。ポンティに続く「スクリャービン全集」(2004年)を完成させた。録音、演奏の質共に評価が高い。

作品
スクリャービンは自身が卓越したピアニストであったことから、自然とピアノ曲を数多く作曲した。「本質的にミニアチュール(小品)作家であった」と言われるように、小品のほとんどは3分程度にも満たない。これはラフマニノフら同世代のロシアの作曲家に比べて分かるように、スクリャービンは優れた旋律家ではあったものの、息の長い旋律を続けざまに書くという発想がなく、古典的な楽節構造を好んでいたこととも関連する。このことは、まったくといっていいほど声楽曲を手がけていないこととも関連していよう。

スクリャービンは少年時代からショパンやリストを敬愛したため、ピアノ書法や旋律の発想において、この両者から大きな影響を受けている。しかしながら左手の特訓の結果、右手に匹敵するほど柔軟な運動力を身につけたことから、この両者と異なる独自のポリフォニックな発想も顕著である。ショパンの影響は、練習曲や前奏曲、マズルカといった楽種だけでなく、初期の作風(1900年ごろまで)にも明らかに残っている。この時期の有名曲としてはショパンを意識した12の練習曲Op.8の跳躍が特徴的な第12番悲愴がある。

一方、リストやワーグナーに影響された中期(1902年から1905年ごろまで)の代表的作品として、練習曲(Op.42、1903年)があり、独自の音楽語法を形成した後期の代表的な作品に、ピアノのための詩曲「焔に向かって」(Op.72、1914年)が挙げられる。

またスクリャービンの特徴として、'神秘和音'を独自に生み出し、彼自身の作品でも多用されている。

四度音程を六個堆積した和音で、合成和音(Synthetic chord)とも呼ばれている。(但し、V.デルノワの『スクリャービンの和声』以来、一般的に、属九の和音の第5音を下行変質し、付加第6音を加えた和音と解釈されている。)

独特の響きがもたらされ、文字通り神秘的な雰囲気をかもし出す。また、彼独特のクロスリズムも多く用いられている。

ピアノ曲以外で主要な分野は管弦楽曲(後述)のみである。室内楽曲は数曲、歌曲は1曲、ほかにオペラのスケッチが残されたに留まる。

ピアノ・ソナタ
同時代のグラズノフの交響曲やラフマニノフの協奏曲が、それぞれの分野において19世紀ロシア音楽の金字塔を打ち立てているとすれば、スクリャービンはピアノ曲の分野で同様の業績をピアノ・ソナタで残している。

スクリャービンは、ベートーヴェン以降における独自の世界のピアノ・ソナタの重要な開拓者である。第一に、初期の未発表曲も含めて11曲という量のピアノ・ソナタを残していること(少年時代の《幻想ソナタ》は実質的に夜想曲で、構成面においてソナタとは呼べない)、第二に、ベートーヴェン以降に開発された、あらゆる演奏技巧やピアノ書法を巧みに用い、表現の多様性と自在さにおいて、19世紀の西欧におけるピアノ・ソナタの前例を遥かにしのいでいること、第三に、ソナタというジャンル以外の小品においてもソナタ形式やソナチネ形式を用いて、ソナタ形式の可能性を探究していること(後年のソナタにおいて単一楽章を採る姿勢にも通底)、そして最後に、質・量ともに、ロシアにおいて前代未聞のピアノ・ソナタを連作し、メトネルやプロコフィエフに先鞭をつけたことである。

第4番までのソナタは、ベートーヴェンの立体的な動機労作や論理的な楽曲構成、ショパンの抒情的な表現や和声感覚、そしてリストの演奏技巧を組み合わせ、なおかつ独自の境地を開くことに成功している。たとえば《第2番「幻想ソナタ」》は、ベートーヴェンの《月光ソナタ》の延長上にあり、第1楽章はソナタ形式を使ったショパン風の夜想曲、第2楽章はロンド・ソナタ形式によるシュトゥルム・ウント・ドラング風のフィナーレと解釈することができる。第4番は、前奏曲とロンド・ソナタという風変わりな構成だが、スクリャービンのソナタでは例外的に、第5番とともに長調で作曲され、明るい響きに満たされている。

第5番以降のソナタはとりわけ個性的で、普通では使用されないような和声や構成が大胆に使われている。6番以降の作品には調号が無く、調性が機能していないため、実質的に無調で作曲されている。7番「白ミサ」(Op.64、1912)と9番「黒ミサ」(Op.68、1913)は、作曲者晩年の神秘主義への傾倒を物語る作品として有名。

第1番に先立つ《ピアノ・ソナタ変ホ短調》とその第1楽章を拡張した《アレグロ・アパッショナート》Op.4のほか、《ポロネーズ》と《幻想曲》、《悪魔的な詩曲》においてソナタ形式が使われており、《悲劇的前奏曲》や《練習曲 嬰ハ短調》Op.42-5はソナチネ形式か、またはそれに準ずる構成が採られている。


管弦楽
スクリャービンの管弦楽曲はそれほど多くなく、ピアノ協奏曲(Op.20、1898)と5つの交響曲のほかに、交響曲作曲の習作といった側面をもつ、前奏曲《夢》がある。スクリャービンは、シューマンやフランクにも前例があるように、鍵盤楽器の発想をそのままオーケストラに持ち込んだため、ピアニスティックなパッセージがしばしば目立ち、時として管弦楽法への未熟ぶりを浮かび上がらせることがある。それでもなお、豊かな音色のパレットを備えた管弦楽曲作家であり、木管楽器と弦楽器の柔らかな色彩と、金管楽器の鋭い響きとの対比や、独奏ヴァイオリンの艶やかな響きへの好みという点において、フランクやショーソンとの類似が見出される。

最初の交響曲はフィナーレに声楽が導入されているが、声楽パートの旋律は声楽的というより器楽的である。第2番は、すべての楽章がソナタ形式あるいはソナタ形式に準ずる形式が使われており、5楽章で作曲されているが、第1楽章と第2楽章、第4楽章と終楽章が連結されている。第3番《神聖なる詩》は作曲者の存命中にフランスで上演された標題交響曲で、三つの楽章すべてに付された副題が、ニーチェの超人哲学に触発されたことをほのめかしている。

後期の代表作である交響曲「法悦の詩」(Op.54、1908)と「プロメテ - 火の詩」(Op.60、1910)はどちらも単一楽章で作曲されている。かつては自由な形式の交響詩と看做されていたが、現在では、内部構造が自由に拡張されたソナタ形式で作曲されていることが確認されている。

「プロメテ - 火の詩」では鍵盤を押すとそれに応じて色の付いた光(彼自身の共感覚に基づくとの説もある)が放射されるピアノを用いて聴覚と視覚との統合芸術を目指したが、「神秘劇」と題された最後の未完作品では、さらに五感全てに訴えるマルチメディア的芸術を企図したと言われる。そのスケッチを元に、ロシアの作曲家アレクサンドル・ネムティン(1936-1999)が大オーケストラとピアノ、合唱からなる三部構成の「神秘劇序幕」を26年の歳月をかけて完成させた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%93%E3%83%B3

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/810.html

[近代史6] アレクサンドル・スクリャービン 『焔に向かって』
アレクサンドル・スクリャービン 『焔に向かって』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/873.html  
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/811.html
[近代史5] 全羅南道の任那日本府の倭人を葬る新徳古墳が30年間も報告書を出さず、出土品の展示もなかった理由
全羅南道の任那日本府の倭人を葬る新徳古墳が30年間も報告書を出さず、出土品の展示もなかった理由

全羅道屈指の国宝級古墳、被葬者は倭人?百済人?
2021-10-05
http://japan.hani.co.kr/arti/culture/41289.html


全羅南道の咸平礼徳里にある新徳古墳の1990年代の調査当時の姿。前方が四角で後方が丸い古代日本特有の前方後円墳(長鼓型墳墓)を示している。墳墓の各部分に割れた石を敷きつめた跡(葺石)が見え、墓の周囲を溝で囲むのも倭式の前方後円墳の特徴だ//ハンギョレ新聞社
 「調査に行った墓が盗掘されていました!」

 学芸員のソン・ナクチュン氏は青ざめて電話をとり報告した。彼の頭の中は、少し前に目撃した、古代の墳墓の片側に開けられた盗掘の穴の惨状でいっぱいだった。30年前の1991年3月26日午後、ソン氏を始めとする国立光州(クァンジュ)博物館の職員たちは、全羅南道の咸平礼徳里(ハムピョン・イェドクリ)の丘にある6世紀初めの大型墳墓を測量するために向かった。7年前の1984年に発見された新徳古墳1号墳だった。古代日本特有の前方後円墳、つまり前方は四角で後方は丸い、鍵穴あるいは長鼓型の墳墓形式であり、その年の朝鮮半島における前方後円墳の最初の発見事例として報告された海南長鼓峰古墳とあわせて、学界の特別な注目を集めた。しかし、7年が経過しても実測さえ行われずに放置され、学界では正体をめぐる噂だけが広がった。事情を知る博物館の人々が溜まった宿題をするかのように実測を行うために向かうと、数日前に暴かれた盗掘の穴を見つけたのだ。


1990年代に新徳古墳1号墳の内部を調査した際に床で発見された木棺の材料。日本産と見られるコウヤマキだ。墓の内部にコウヤマキ製の木棺があるのは武寧王陵や益山双陵など百済高位層の葬法であり、被葬者が現地人や百済系の人物であることを示す根拠となる遺物だ//ハンギョレ新聞社

 墓の中は悲惨だった。盗掘犯は石室の南西側の壁を突き破っていた。内部の遺物をむやみに動かし、金属付きの工芸品や大きな土器類などのみを持ち出し、残りは放り投げてあった。その弾みで石室の壁が損なわれ、床の遺物は踏まれて砕けていた。遺体を収めていた木棺の棺材などと頭骨や歯などの遺骨は混じりあい、盗掘の穴の近くには、鉄器片や陶磁片が散らばっていた。副葬品は尋常ではなかった。つぶれはしていたが、冠帯に木の葉の装飾が珠の荘厳とともに付いていた金銅冠の破片は孤高だった。環頭大刀や緑色や黄色のガラス板を重ねて付けていた外国産の練理紋の珠などは、公州(コンジュ)の武寧王陵を思いださせるほどの東南アジア産の高級品だった。石室の入口の羨道(墓道)の床からは、祭祀で使われた真鯉の骨が入った壺や様々な供え物を入れたふた付きの皿(蓋杯)も大量に発見された。全羅道屈指の国宝級古墳が盗掘されたという急報は政府を驚かせた。国立中央博物館のハン・ビョンサム館長(当時)から直接の報告を受けたイ・オリョン初代文化部長官は、検察総長にすぐ電話をかけて緊急捜査を要請した。


新徳古墳1号墳の石室から出た金銅冠の破片。六角形の模様の中に花模様が刻まれた細長い土台の上に木の枝の形の装飾を付けた構造で、九州や畿内地域の高級古墳から出土する冠とほとんど同じだ。被葬者が倭人とする説の有力な根拠の一つだ//ハンギョレ新聞社
 このような内容が報道されると、怖気づいた盗掘犯たちは、旧朝鮮総督府の建物にあった国立中央博物館の東門に盗掘した鉄器類の箱を預けて去っていった。回収した箱の中にあった遺物は、鉄器の刀の柄だった。墓の内部に残っていた刀の刃と合わせてみるとぴたりと合い、副葬品だと確認された。犯人は1993年9月に捕まった。土器や兜など65点の「百済の遺物」を持ち去っていたことが明らかになった。

 新徳古墳には、朝鮮半島の前方後円墳のなかでは最も多くの副葬品が残っていた。博物館も盗掘後の9年間に体系的な調査を行い、相当な研究成果を確保した。しかし、30年間も報告書を出さず、出土品の展示もなかった。理由はいわゆる「倭色」のためだ。二つの山の形の模様を立てる土台を着せた金銅冠や環頭大刀、三角形の鉄帽など、韓国と日本の学界ですぐに倭系だと同意する遺物が続々と明らかになると、4〜6世紀に日本を統一したヤマト政権が任那日本府を設置し朝鮮半島南部を支配したとする植民地史観の歴史家や日本の極右の主張の根拠として悪用されるだろうという懸念が生じた。朝鮮半島の前方後円墳の研究も不十分な状況であり、公開した場合、日本の学界と論戦する相手になるのは難しいという心配もあった。


新徳1号墳の石室から出た環頭大刀(一番上)。鉄棒の上に銀を被せてより合わせて作った輪で刀先を飾ったこの刀は、朝鮮半島にはなく日本列島の支配層の墓からのみ出土する最高級の遺物だ。金銅冠と共に新徳古墳の被葬者が倭人とする説を裏付ける根拠となる遺物だ//ハンギョレ新聞社
 そのような事情を考えると、7月19日から国立光州博物館で行われている新徳古墳特別展「秘密の空間、隠された鍵」(24日まで)と一歩遅れての報告書の発刊は、時すでに遅しだが、嬉しい知らせだ。朝鮮半島の前方後円墳についての初の企画展を設け、出土品を学界に全面公開する場まで用意したのは、考古学史上、意義深い事件だ。学界の研究能力が成熟したことを教えてくれるものだ。

 日本に4000基以上残っている前方後円墳は、歴史的な誇りが込められたシンボルだ。3世紀中頃から7世紀初めまでの古墳時代に、現在の大阪一帯の近畿地域に拠点を置いたヤマト政権が、各地の首長と連合して統一国家を建てた歴史的な指標だとされている。近畿から始まった前方後円墳が九州や関東など全国各地で広がっていく過程が、列島統一の過程を端的に示しているというのが定説だ。


奈良にある6世紀中頃の丸山古墳。日本の古墳時代末期の最後の前方後円墳といわれている//ハンギョレ新聞社
 そのような前方後円墳が、全羅道の西南海岸で現在までに14基確認されており、中心格である新徳古墳から、なぜ倭系の金銅冠や最高級品の刀が中心的な副葬品として出てきたのかについては、論争になっている。数が少なく期間も5世紀末から6世紀初めの50年に過ぎないが、被葬者が倭系の実力者だと解釈する余地が大きい。日本の学界で、ヤマト政権が朝鮮半島に影響を行使したという推論に飛躍されることもありうる。廃棄された任那日本府説をあえて提起する学者はいないが、長鼓型墳墓の研究成果の公開は、日本の学界との解釈の摩擦を呼ぶ可能性が高い。韓国内の学界も墓被葬者をめぐり、倭人説と現地人説、百済人説が交錯している。墳墓の形と構造、中心的な副葬品は倭系だが、もう一つの手がかりであるコウヤマキ製の木棺の遺物は、百済高位層の葬法だからだ。

 博物館の展示は、もっと積極的な解釈と説明の場を設けられなかった限界も示している。金銅冠と刀と大量の土器、棺材をずらりと並べて置いている遺物報告の形式に留まっているという話だ。前方後円墳については、韓国と日本の学界での議論がなぜ大きくなったのか、任那日本府が及ぼした影響は何であるのかなどについて、歴史的な経緯を詳細に解き明かし説明していない点がぎこちない。史料不足もあるが、長期的に落ち着いてファクトを蓄積し論議していくには、大衆に前方後円墳の歴史的実情を十分に伝え、被葬者の議論を進めていくべきではないだろうか。近代の民族感情による制約を受ける韓国と日本の学界は、今後互いに交流し、共同理解を探る求同存異の姿勢で会うしかない。

http://japan.hani.co.kr/arti/culture/41289.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1156.html

[近代史6] イーゴリ・ストラヴィンスキー(Igor Fyodorovitch Stravinsky、1882 - 1971)
イーゴリ・ストラヴィンスキー(Igor Fyodorovitch Stravinsky、1882 - 1971)

バレエ音楽

『火の鳥』(L'Oiseau de feu, 1910年)
4.0点
たった1年の違いであるが、ペトルーシュカと比較すると刺激が少なくて、かなりノーマルな曲である。地味で物足りないと初めて聴いたときは思ったが、よく聞くとやはり面白いフレーズがたくさんある。超絶的ではないにしても、かなり刺激的な音楽である。それとともに、音の使い方のセンスの良さに立脚した、かなり発想が斬新ながらもいい音楽がそこかしこで現れており、いい曲だなと純粋に感じられる場面がかなり多い。自由でファンタジー的で、幻想的な映像を見ているかのようである。

『ペトルーシュカ』(Petrushka, 1911年)
4.5点
春の祭典の高みの一歩手前とは思うが、この作品も匹敵するくらい非常に素晴らしい。様々なイメージが奔流のように湧き出てくる。刺激的な音が次々に飛び出して、息もつかせない。とにかく面白くてたまらない。圧倒的な面白さという点ではクラシック音楽でも屈指だろう。意外な音が出て愉しい気分になったら、また全然違う音が飛び出す。おもちゃ箱のような曲だ。

『春の祭典』(Le sacre du printemps, 1913年)
5.0点
センセーショナルさを現代でも失わず、それでいて古典的な完成度である。鮮やかなリズムと和声、印象的なメロディー、野生の匂いをぷんぷんと漂わす音楽は、強烈な魅力を放っている。音楽の複雑さが絶妙であり、最大級の効果を発揮している。聴く前から心躍るし、聴きながらもずっと楽しく音楽に酔うことが出来る。

『プルチネルラ』(Pulcinella, 1920年)
3.0点
組曲版で聴いた。不協和音がなく平明ながらも現代性のある音楽というのは斬新なものだとは思う。この独特な世界はなぜか印象と記憶に強く残る。一方で、純粋にいい曲と思うかというと、あまり思わないのが偽らざる感想である。新古典主義に入ったという音楽史的な意義の大きさに匹敵するような感慨は得られないと思う。編成が小さくて、アイデアも豊富ではないように感じる。初期の三部作が圧倒的すぎるせいかもしれないが。

『結婚』(Les Noces, 1923年)
3.3点
野蛮で原始的な響きに支配された、声楽主体のバレエ音楽。聴いた感じのインパクトはかなり強い。しかし、声楽主体で声楽の使い方は似たものが続くため、音の多様性が少なくなっており、よく理解できない。リズムやピアノの使い方などに圧倒される楽しさと、ストラヴィンスキーらしい音のセンスの良さを愉しむことは出来る。

『ミューズを率いるアポロ』(Apollon Musagète, 1928年;改訂1947年)
3.3点
弦楽器だけの合奏のため、どうしても刺激が少なくて地味になっている。ただ、芳醇な弦の響きと音の動きの滑らかさ柔らかさが魅力になっていて、これはストラヴィンスキーのバレエ音楽の中で特徴的な魅力になっている。新古典主義ということで、この曲も不協和音や前衛性はないが飽きにくいものになっている。ただ、弦楽合奏の機動力の低さのためか、聴いていてだんだん物足りなくなっていく。新古典主義の表現の限界も感じる。

『妖精の接吻』(Le Baiser de la fée, 1928年;改訂1950年)
3.5点
まさにチャイコフスキーの音楽にインスピレーションを得たバレエ音楽である。音の取り扱いにおける、華やかさとダイナミックさ、動きの舞台的で、心を踊らせて、人の身体をも踊らせようとするような内在的なパワーを、そして時に愛らしい愛嬌や幻想的で魅惑的な魅力をこの曲も持っている。しかし勿論、深いレベルのインスピレーションの結晶であり、全然表面的な真似ではない。高く評価してよいか迷うがなかなか楽しめるのは間違いない。

『カルタ遊び』(Jeu de Cartes, 1936年)
3.5点
新古典主義らしい不協和音はないが、19世紀らしい制約のない自由な新しい響きの楽しさを存分に味わえる。バレエ音楽らしい音の活力と物理的にフワフワとした感じも良く出ている。圧倒的な何かこそないが、プルチネルラよりはずっと良い。エンターテイメント的な楽しみで、音楽に浸れる。

『バレエの情景』(仏:Scènes de ballet, 1944年)
3.3点
新古典主義の滑らかで穏やかな音楽が心地よい。情景というタイトルはかなり適切かもしれない。少しチャイコフスキーのような饒舌で音が踊り躍動する感じがあるが、冷静にみていつものストラヴィンスキーという気もする。練達の音の魔術を発揮した曲で、さすがと唸ってしまう。

『オルフェウス』(Orpheus, 1947年)
3.3点
密度が薄い。映画のバックミュージックのように雰囲気を一定のまま少しずつ変遷させていくだけの音楽である。とはいえ、単体で聴くぶんにも、個別部分のセンスは感じるためエンターテイメントとしては楽しめる。新古典主義的だが平明すぎず、ある意味で円熟した技術と精神の熟成感ともいうべき良さがあると思う。

『アゴン』(Agon, 1957年)
2.8点
晩年の音が薄く枯れた感じが印象的。老人になったストラヴィンスキーはさすがにインスピレーションが衰えているのを感じる。場面は刻々と移っていき、バラエティは豊かだが内容があまり豊富という印象がない。新しい音世界を75歳になっても作り続けたことはすごい。しかし、音や楽想のつながりの有機性が足りない。

バレエ以外の舞台作品

『兵士の物語』(L'Histoire du soldat, 1918年)
3.0点
基本的には特殊編成による軽妙な新古典主義作品に聴こえる。かなりコミカルなところが面白い。また、まだ純数に単純化された新古典主義音楽になりきっていないところが魅力か。土臭いところが残っていて、親しみやすさを感じた。全曲盤は語りの時間が半分以上を占めていたからあまりお勧めできない。


交響曲

交響曲第1番変ホ長調 Op.1
2.5点
これをストラヴィンスキー作曲と当てられる人は少ないだろう。驚くほどロマン派の先達の模範に則った音楽であり、新奇性が少ない。それどころか、ストラヴィンスキーらしさすら私には見つけ難かった。開放的であり、機能的な近代管弦楽法が使われている。19世紀の様々な作曲家の要素が現れているのが分かるのが面白い。華やかさはあるものの平凡でオリジナリティーが少ない、のちの天才を感じにくい曲だと思う。

詩篇交響曲(Symphonie de psaumes)
3.5点
全3楽章。合唱付きでヴァイオリンとヴィオラなし。1楽章は前奏曲ということで、最初の盛り上がりを作る単純な曲。2楽章は神秘的な管楽器の合奏で始まり、合唱も神秘性と荘厳な宗教性を帯びている。3楽章は一番長い。辛気くさい宗教性を感じさせてから、場面転換をしながらじわじわと盛り上げていく。どちらかというと宗教曲にいが、本格的な精神性や、構成が透徹していて作り込みを感じるので、交響曲としてもあまり不満はない。響きに明快さと複雑さがあり、よくまとめられておりバランスがよい。ヴァイオリンが無いことでオケがくすんだ響きになり合唱を浮かびあがらせ、奥の深さを演出している。良くできた作品である。

交響曲ハ調
2.3点
全4楽章30分。正直なところ新古典主義らしい明確でシンプルな音の構成であり、ハ長調らしい素朴さがあるなあ、くらいの感想しか持てず、鳴っている音の意味を感じ取ることが出来なかった。耳をそれなりに楽しませるストラヴィンスキー独特の管弦楽の扱いと内部の複雑さがあることで、辛うじて聴き通せる。交響曲らしさも希薄。

3楽章の交響曲(Symphony in 3 Movements)
3.0点
1楽章は二次大戦の事件を連想させる強烈さもあるが、映画音楽のような軽さとジャズの要素もある多彩な曲。ピアノ独奏の活躍はかなり控え目。
2楽章はハープが活躍し、多少社会的な深刻さを醸し出しながらも、流麗な多彩さがある。3楽章も多彩な楽しい曲。全体に、交響曲を名乗るだけの普遍性と構成感は一応あり、ストラヴィンスキーにしては重さもあるのだが、とはいえバレエ音楽に近い雰囲気であり一般的な交響曲とは違う異色の作品。


協奏曲

ピアノと管楽器のための協奏曲
3.5点
管楽器だけだが、吹奏楽のようではなく、オーケストラ風である。弦がないため音のキレが良く乾いており、湿っぽさがない。1楽章は複雑で前衛的な切れ味鋭い系統のピアノソロが続く。音が絨毯爆撃のようにガンガンと演奏されるとともに、リズムの複雑さで楽しませる。なかなかの迫力である。2楽章は一転してラヴェルの協奏曲のような叙情性だが、そのあとは期待通りに捻りの入った展開をみせる。3楽章は押せ押せで気持ちいいし面白い。とても聴き映えのする曲で内容豊富。名作というほどではないが、なかなか楽しめる。

カプリッチョ(Capriccio) - ピアノと管弦楽のための
3.0点
全3楽章17分。ピアノのテクニックはあまり超絶技巧という感じはしないが、音数が多く十分に派手である。新古典主義時代の音楽とピアノ協奏曲の相性がよく、スリリングで新しい事が次々と起こるような作品となっていて耳を楽しませる。初期の原始主義的な音楽の雰囲気が出ている感あり、冷静で客観的すぎる新古典主義の曲の中では聞きやすい。

ヴァイオリン協奏曲ニ調
2.8点
1楽章はトッカータの名の通りの曲調。多くの楽器が軽快に刺激的に活躍する楽しい曲。2楽章はアリアといいつつ、前半は割と活動的で、管楽器が活躍したりする。後半は泣きの入ったフレーズも登場し、アリアらしくなる。3楽章は軽快なフレーズを執拗に積み重ねる曲。全体に軽快で楽器が多彩に音を重ねながら扱われて耳を楽しませるし、独特の音使いによる独奏も面白い。しかし、構成や雰囲気が軽すぎるし即興的に感じて、腹に落ちる感じがない。

協奏曲『ダンバートン・オークス』(Dumbarton Oaks Concerto)
3.0点
全3楽章14分。小編成の合奏協奏曲。この時代にしては割と親しみやすい。メロディーは断片的で分かりにくいが、くつろいだ落ち着いた雰囲気で、楽器数も15人と少なく音の複雑さを楽しみやすい。

エボニー協奏曲(Ebony Concerto)
2.5点
クラリネットとジャズバンドの曲。3楽章11分。ストラビンスキーのジャズの影響を端的に味わえる曲として面白いのだが、曲自体は評価やコメントが困難だと感じた。

弦楽のための協奏曲ニ調(バーゼル協奏曲)(Concerto in D for String Orchestra (Basle Concerto))
2.8点
全3楽章12分。バーゼル協奏曲とも呼ばれる。弦楽だけなので音のバラエティーが少ないが、その代わりにまったり感が強くて、2楽章の優美さなどの目新しさが出ているし、声部が少ないので、良くも悪くも難解さが少ない。


室内楽曲

エレジー
2.8点
無伴奏ヴィオラ用の曲。ルネサンスの宗教曲のような雰囲気のコラールであり、人の声に近いヴィオラの特徴が活かされている。面白い。

八重奏曲
3.5点
様々な管楽器の軽快な扱いと新古典主義の作風が非常にうまく合致していて、よく出来た作品に聴こえる。夢に出てきた編成で書いた曲とのことだが、編成として成功している。おもちゃが跳ねて踊って遊ぶようなイメージであり、諧謔的で可愛らしくて軽くて愉しい。楽章に分かれているわりには雰囲気は変わらないが愉しさに浸れるため気にならない。

七重奏曲
3.3点
12音技法らしいが調性感がある。編成はピアノが入っているのがよい。ピアノの使い方がうるさくなくてセンスがいい。1楽章はセンスがよくて、明るい旋律もよくてなかなかの名曲と思う。しかし2楽章以降はあまり面白くない。レベルが落ちてしまう。

弦楽四重奏のための3つの小品
3.0点
バグパイプ風だったり、特殊な現代音楽風だったり。3曲目は魔法のような神秘性がある。断片的ともいえる曲が3つ並んだ合計7分の小品で、好奇心のような刺激を受ける。


ピアノ曲

『ペトルーシュカ』からの3楽章
3.5点
超難しいことでコアなピアノ曲ファンには有名。ペトルーシュカのエッセンスが詰まっていて楽しいし、無茶なフレーズをあっさり弾きこなすプロの技も楽しめる。

ピアノ・ソナタ(1924年)
3.8点
1楽章は硬く前衛的で、即物主義的でもある。かなりのセンスを感じる。2楽章は不協和音を使ったやはり前衛的な曲で、音のセンスがかなり良いと思う。3楽章は無窮動ではじまり両手の2声が蠢めく。全般にプロコフィエフを連想するのだが、非常にセンスが良く、彼の一連のソナタ勝るとも劣らない名作だと思う。


https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC

イーゴリ・フョードロヴィチ・ストラヴィンスキー(ロシア語: И́горь Фёдорович Страви́нский[1]、1882年6月17日 - 1971年4月6日)は、ロシアの作曲家。

同じくロシアの芸術プロデューサーであるディアギレフから委嘱を受け作曲した初期の3作品(『火の鳥』、『ペトルーシュカ』、『春の祭典』)で知られるほか、指揮者、ピアニストとしても活動した。20世紀を代表する作曲家の1人として知られ、20世紀の芸術に広く影響を及ぼした音楽家の1人である。


人物・来歴

第一次世界大戦まで
1882年6月17日(当時ロシアで使用されていたユリウス暦では6月5日)[2]、サンクトペテルブルク近郊のオラニエンバウム(現・ロモノソフ)に生まれ、首都のサンクトペテルブルクで育った[3]。ストラヴィンスキー家は16世紀末にさかのぼるポーランド系小貴族で、伝統的にその領地はリトアニア大公国の中にあったが、徐々に没落していった[4]。父のフョードルは三男だったために財産を受け継ぐことはなかったが[5]、マリインスキー劇場づきの、当時のロシアを代表するバス歌手として有名だった[6]。

両親の希望で官吏の道を目ざして、イーゴリは現在のサンクトペテルブルク大学法学部へ1901年に入学したが[7][8]、その一方で週に一度音楽理論を学んだ[9]。法学部で知りあったリムスキー=コルサコフの末子であるウラディーミルの勧めによって、1902年夏にリムスキー=コルサコフと会い、個人授業が受けられることになった[10]。同年11月に父が没した。

リムスキー=コルサコフの授業は最初は不定期だったようだが、1905年秋ごろから定期的なレッスンを受けるようになった[11]。大学は1906年4月に学位を取得した(1905年に卒業したが、血の日曜日事件以降の大学の混乱で学位取得が1年遅れた[12])。

初期の管弦楽作品としては『幻想的スケルツォ』(1908)と『花火』(1909)が優れているが、リムスキー=コルサコフは1908年6月に没し、これらの曲の初演を聞くことはできなかった。自伝によればバレエ・リュスの主宰者セルゲイ・ディアギレフはこの2曲を聞いてからストラヴィンスキーと親密な関係を持つようになったというが[13]、実際のところはよくわからない[14]。ディアギレフから最初に頼まれた仕事はバレエ『レ・シルフィード』のためにショパンのピアノ曲を管弦楽用に編曲することだった。

1910年にはバレエ・リュスのために作曲した『火の鳥』がパリのオペラ座で初演され、大成功を収める。翌1911年には、第2作『ペトルーシュカ』が初演され、これも成功を収める。さらに1913年、第3作『春の祭典』がパリで初演された。この上演は楽壇をセンセーショナルな賛否両論の渦に巻き込み、初演においては観客の怒号が演奏をかき消すほどであったと伝えられているが、その後すぐに評価は急上昇し、これも大成功を収めることとなった[15][16]。これら3作によってストラヴィンスキーは若手の革命児として名を刻まれる事になった。

ストラヴィンスキーはそれまでも夏をウスティルーフ(現ウクライナ)、冬をスイスで過ごしていたが、1914年、第一次世界大戦が勃発するとウスティルーフには帰れなくなり、スイスに居を定めた[17]。1917年に起きたロシア十月革命により故国の土地は革命政府に没収され、ロシアからの収入も得られなくなり、またバレエ・リュスの公演も戦争に妨げられて思うにまかせず、ストラヴィンスキーの生活は苦境に陥った[18]。このころ作曲された曲はロシアの民衆詩や寓話による土俗的な『きつね』、『結婚』、『兵士の物語』などがあり、ストラヴィンスキーの新しい局面を示す。ほとんどの曲は戦時中には上演する機会がなかったものの、次の新古典主義の作風を準備するものとなった[7]。

両大戦間
戦後の1920年にパリで初演された『プルチネルラ』はまだスイスに住んでいた時に作曲された曲だが、18世紀の音楽の旋律と形式をそのまま使いながら、新しい管弦楽法で音楽に新しい命を吹き込んだもので、1921年以降フランスに落ち着いてから作られるようになる新古典主義音楽のはしりだった。ストラヴィンスキーの新古典主義時代は1951年のオペラ『放蕩者のなりゆき』まで続く。

1920年からフランスに住んだが、住所はカランテック(ブルターニュ地方)、ギャルシュ(パリ近郊)、アングレットおよびビアリッツ(南西フランス、1921-1924)、ニース(1924-1931)、ヴォレップ(英語版)(グルノーブル近郊、1931-1934)と、一定しなかった。

ディアギレフとの関係は続いたが、戦前よりも疎遠になり、1923年に初演された『結婚』がバレエ・リュスのために書いた最後の曲になった。ストラヴィンスキーはまたキリスト教に傾倒するようになり、1926年にはロシア正教会に回帰した。1920年代に作曲された主要な曲には『八重奏曲』『エディプス王』『ミューズを率いるアポロ』などがある。この時代、ストラヴィンスキーはピアニストとしてもデビューし、ピアノ用に『ピアノと管楽器のための協奏曲』『カプリッチョ』『ピアノソナタ』『イ調のセレナーデ』などを作曲している。

1929年にディアギレフが没した後は、ヴァイオリニストのサミュエル・ドゥシュキンのために書いた曲や、アメリカ合衆国からの注文で書いた曲が主になる。『詩篇交響曲』『カルタ遊び』『ダンバートン・オークス協奏曲』はいずれもアメリカからの依頼で書いたものである。

1934年にフランス市民権を得て[19]パリに住むが、1938年に長女を結核で失い、翌年には妻と母を失う[20]。当時ナチス政府は前衛的なストラヴィンスキーを快く思っておらず、1938年には退廃音楽として誹謗された。またフランス人はストラヴィンスキーの新作に興味を持たなくなっていた。


アメリカ時代
ストラヴィンスキーは1925年にはじめてアメリカ合衆国を訪れ、1935年と1937年にも渡米している。第二次世界大戦開戦直後の1939年9月にハーバード大学からの依頼によって渡米して音楽に関する6回の講義(のちに『音楽の詩学』の題で出版)を行うが、そのまま米国にとどまり、ハリウッドに住んだ[21]。フランスで書きはじめられた『交響曲ハ調』はアメリカで完成することになった。1945年にはアメリカ合衆国の市民権を得た[22]。『3楽章の交響曲』、バレエ『オルフェウス』、『ミサ曲』、オペラ『放蕩者のなりゆき』などがこの時代の代表作である。

アルノルト・シェーンベルクが没した1951年頃より、これまで否定的だった十二音技法を少しずつ採用して新たな創作の可能性を開く。70歳近くになってからの作風の変貌は世間を驚かせた[7][23]。その後も1966年までの約15年に20曲ほどを作曲している。この時代の作品には『七重奏曲』、『カンティクム・サクルム』『アゴン』『トレニ』『アブラハムとイサク』『J.F.ケネディへの哀歌』などがある。

1959年、来日し、日比谷公会堂、フェスティバルホールで演奏会を行う。また日本の若手作曲家の武満徹を見出して世界に紹介する。これはのちにバーンスタインが、ニューヨーク・フィル125周年記念の曲を武満に委嘱するきっかけになった。

1962年、キューバ危機のさなかに80歳のストラヴィンスキーはソ連を訪問する[24]。1914年に祖国を離れて以来、最初にして最後の帰郷であった。

長期にわたって作曲を続けてきたストラヴィンスキーも、やがて健康上の理由によって音楽活動の中止を余儀なくされるようになった。1966年、84歳を最後として新しい曲は作曲されず[25]、1967年以降は指揮も行わなくなった[26]。1968年には最後の編曲を完成させたが、それ以後も完成こそしなかったもののいくつかの曲の編曲には手を付けていた[27]。1967年後半は胃潰瘍と血栓症で長期間入院した。最晩年はロバート・クラフトの勧めでレコードを聞いて過ごした。作曲家から鑑賞者への立場の変化に不満を持ちつつも、とくにベートーヴェンを好んだ[28]。

1969年、ニューヨークのエセックスハウスに転居し、1971年4月6日に88歳で没した[29]。ディアギレフの眠るヴェネツィアのサン・ミケーレ島に埋葬された。のちに、妻ヴェラ(1889〜1982)もイーゴリの隣に埋葬されている。

死後、革命により失われたと思われていた『ピアノソナタ嬰ヘ短調』などの初期作品がレニングラード州立図書館から発見され、刊行された。2015年にはリムスキー=コルサコフ追悼のために書いた『葬送の歌』作品5が発見されている[30] 。本作はストラヴィンスキーが生前に『火の鳥』以前に書かれた作品では最高の作品だと述べており、紛失を悔やんでいたものだった[31]。


妻子と女性関係
ストラヴィンスキーは大学を卒業した翌年の1906年に、幼なじみで従姉のエカテリーナ・ノセンコ(カーチャ)と結婚した。翌年には息子テオドール(1907〜89)、翌々年に娘リュドミラ(1908〜38)を授かった。1910年には後に作曲家・ピアニストになったスリマが生まれた。1914年には娘のマリア・ミレナ(1914〜2013)が生まれている[32]。しかし夫人は長く結核を患い、1938年に長女リュドミラが感染して死亡、翌1939年はじめに夫人自身も死亡した[33]。

一方、ストラヴィンスキーはしばしば他の女性と不倫関係を持ったことが知られている。1916年にアメリカ公演から帰ったバレエ・リュスがマドリードにいる時、バレエ・リュスの踊り手であるリディア・ロポコワと恋愛関係を結んだのが知られるかぎり最初の浮気である[34]。

ココ・シャネルとも一時恋愛関係にあったことが知られている。1920年にパリで家を探すのに困っていたストラヴィンスキーにココ・シャネルは自分の家を提供したり、マシーンによる『春の祭典』復活上演のために莫大な資金を提供したりしているが、恋愛関係にあったのは短い間に過ぎなかったようだ[35]。2009年の映画『シャネル&ストラヴィンスキー』は『春の祭典』初演後から再演前までにおける両者の不倫を題材にしているが、これはあくまで創作である。

1921年には蝙蝠劇場というロシア系のキャバレーでジェーナ・ニキティナと一時的に恋愛関係を持った。ほかにも不倫の対象はいたかもしれない[36]。

セルゲイ・スデイキンとその妻のヴェラにはじめて会ったのはおそらく1920年にパリでプルチネルラを公演したときで[37]、おそらく翌年夏にストラヴィンスキーはヴェラと恋仲になり、バレエ・リュスではふたりの関係は公然と語られた。スデイキンとストラヴィンスキーは険悪な関係になり、1922年にヴェラはスデイキンと離婚している[38]。その後ストラヴィンスキーは南フランスで家族と、パリでヴェラとの二重生活を送った。夫人の没後、1939年にアメリカに移ると、ヴェラを呼び寄せて1940年に再婚している[7][39]。

作風
生涯に、原始主義、新古典主義、セリー主義と、作風を次々に変え続けたことで知られ、「カメレオン」と形容されたこともあった。

さまざまな分野で多くの作品を残しているが、その中でも初期に作曲された3つのバレエ音楽(『火の鳥』、『ペトルーシュカ』、『春の祭典』)は知名度が高く、大編成のオーケストラの斬新な響きや複雑なリズムを使ったロシア民謡風でエネルギッシュな音楽は、ヨーロッパの音楽界に大きなセンセーションを巻き起こた[7]。特に原始主義時代の代表作『春の祭典』は、世界中のオーケストラによって好んで演奏される作品として定着し[16]、20世紀音楽のもっとも重要な作品の一つに数えられる[40]。

また、オーケストラ作品ではリムスキー=コルサコフ仕込みの管弦楽法が遺憾なく発揮され、さらにそこから一歩踏み込んだ表現力を実現することに成功している。これらの作品によって、ベルリオーズやラヴェル、師のリムスキー=コルサコフなどと並び称される色彩派のオーケストレーションの巨匠としても知られる。

松平頼暁は著書『現代音楽のパサージュ』の中で「20世紀音楽のほとんどのイディオムはすべて彼の発案」と述べている。

原始主義時代
ストラヴィンスキーはデビュー当初は原始主義を標榜していないが、有名な作品を残し始めた頃から原始主義の傾向が見られる。主な作品として、3つのバレエ音楽(『火の鳥』、『ペトルーシュカ』、『春の祭典』)が挙げられる[41]。複調、変拍子、リズム主題の援用などが特徴である。『結婚』を最後にこの傾向は終息する。

新古典主義時代
バレエ音楽『プルチネルラ』の発表は新古典主義音楽の開幕を告げるものであり[42]、これ以降はストラヴィンスキーの新古典主義の時代とよばれる。この時期はバロック音楽や古典派のような簡素な作風に傾倒した。和声の響きは初期に比べてかなり簡明になった。1939年から1940年に行われた講義の内容を基にした著作『音楽の詩学』がこの時代の音楽観をよく表している。その一方で、新古典主義時代ながら『詩篇交響曲』ではセリー的操作を用いていることが後の研究で明らかにされた。ストラヴィンスキーが他の楽派の音楽語法も常に見張っていたことが良くわかる。

セリー主義(十二音技法)時代
第二次世界大戦後は、それまで敵対関係であったシェーンベルクらの十二音技法を取り入れ、またヴェーベルンの音楽を「音楽における真正なるもの」などと賞賛するようになった。これには同じくアメリカに亡命していたクシェネクの教科書からの影響もある。ストラヴィンスキー自身は、「私のセリーの音程は調性によって導かれており、ある意味、調性的に作曲している」と語っている。各楽器をソロイスティックに用いる傾向が一段と強まり、室内楽的な響きが多くのセクションで優先されている。

主要作品

バレエ音楽
『火の鳥』(1910年; 初演 1910年6月末 オペラ座)
『ペトルーシュカ』(1911年; 初演1911年オペラ座)
『春の祭典』(1913年; 初演 1913年5月29日 シャンゼリゼ劇場)
『プルチネルラ』(1920年; 初演 1920年)
『結婚』(1923年; 初演1923年)
『ミューズを率いるアポロ』(1928年; 初演1928年、改訂1947年)
『妖精の接吻』(1928年; 初演1928年、改訂1950年)
『カルタ遊び』(1936年; 初演1937年)
『オルフェウス』(1947年; 初演1948年)
『アゴン』(1957年; 初演1957年)

バレエ以外の舞台作品
『夜鳴きうぐいす』(1907年-1914年; 初演1914年オペラ座) - 後の1917年に同作の主題を用いた交響詩が書かれている。
『兵士の物語』(1918年; 初演1918年)
『エディプス王』(1927年; 初演1927年、改訂1948年) - ジャン・コクトーの台本によるオペラ・オラトリオ。
『放蕩者のなりゆき』(1951年; 初演1951年)

交響曲
交響曲第1番変ホ長調 Op.1(1905年-1907年)
詩篇交響曲(1930年)
交響曲ハ調(1938年-1940年)
3楽章の交響曲(1942年-1945年)

協奏曲
ピアノと管楽器のための協奏曲(1923年-1924年)
カプリッチョ - ピアノと管弦楽のための (1928年-1929年)
ヴァイオリン協奏曲ニ調
協奏曲『ダンバートン・オークス』(1937年-1938年)
エボニー協奏曲(1945年)
弦楽のための協奏曲ニ調(バーゼル協奏曲)(1946年)
ピアノと管弦楽のためのムーヴメンツ(1958年-1959年)

管弦楽曲
幻想的スケルツォ Op.3(1907年-1908年)
交響的幻想曲『花火』Op.4(1908年)
交響詩『ナイチンゲールの歌』(初演1919年) - オペラ「夜鳴きうぐいす」の交響詩への編曲
管楽器のための交響曲(1920年)
サーカス・ポルカ(1942年)
ロシア風スケルツォ(1944年)
バレエの情景(1944年)
4つのノルウェーの情緒(1942年)

ピアノ曲
ピアノソナタ 嬰ヘ短調(1903年-1904年)
『ペトルーシュカ』からの3楽章
ピアノ・ラグ・ミュージック(1919年)
5本の指で(1920年-1921年)
ピアノソナタ ハ調(1924年)
イ調のセレナーデ(1925年)
タンゴ(1940年)

室内楽曲
11楽器のためのラグタイム(1918年)
八重奏曲(1922年-1923年)
七重奏曲(1952年-1953年)
弦楽四重奏のための3つの小品(1914年)
弦楽四重奏のためのコンチェルティーノ(1920年)
弦楽四重奏のための二重カノン (ラウル・デュフィ追悼のための)(1959年)
ヴァイオリンとピアノのための協奏的二重奏曲(1931年-1932年)

合唱曲
カンタータ『星の王』(1911年-1912年)
4つのロシア農民の歌(1914年-1917年)
ミサ曲(1944年-1947年)
トレニ−預言者エレミアの哀歌(1957年-1958年)
説教、説話、祈り(1960年-1961年)
イントロイトゥス

歌曲
パストラール(1907年)
日本の3つの抒情詩(1912年-1913年)
プリバウトキ(1914年)
猫の子守唄(1915年-1916年)
ふくろうと猫(1965年-1966年)

著作
ストラヴィンスキー 『音楽の詩学』(笠羽映子訳、転換期を読む:未來社、2012年8月)
旧版『音楽とは何か』(佐藤浩訳、ダヴィッド社、1955年) 
※大学での講義をまとめたもので、原題 Poétique musicale(音楽の詩学)。
『私の人生の年代記 ストラヴィンスキー自伝』(笠羽映子訳、転換期を読む:未來社、2013年3月)
旧版『ストラヴィンスキー自伝』(塚谷晃弘訳、全音楽譜出版社、1981年)
ストラヴィンスキー談 『118の質問に答える』(ロバート・クラフト編、吉田秀和訳、音楽之友社、1960年)


演奏家としてのストラヴィンスキー
ストラヴィンスキーは作曲家であるとともに、指揮者、ピアニストとしても知られていた。彼が初めて指揮者として舞台に立ったのは、1915年のジュネーブとパリにおける公演とされている[45]。また、ピアニストとして初めて舞台に立ったのは1924年のピアノと管楽器のための協奏曲である[46]。特に、1950年代から60年代にかけて、コロンビア交響楽団やカナダのCBC交響楽団を指揮して主要な自作のほとんどを録音している(CDにして22枚分)。こうした演奏旅行は、1967年に彼が病に倒れるまで続いた[47]。「自作自演」の録音を、彼ほど大量に残した作曲家は絶無である。彼の自作自演盤は、指揮の精度やオーケストラの技術については専門の指揮者による録音に一歩譲るものの、作者自身が想定していた自作のイメージを伝える貴重な遺産となっている。

ストラヴィンスキーは、かつてのドイツやロシアの管弦楽に見られるような不明瞭なアーティキュレーションによる残響を毛嫌いした。『火の鳥』1945年版組曲の最終部の自身の演奏に、その特徴が顕著に現れている。


日本訪問
ストラヴィンスキー夫妻は、ロバート・クラフトとともに、大阪国際フェスティバルの招待により1959年の4月から翌月にかけて日本を訪問した[48]。本来は文化自由会議(CIAがひそかに後援する反共音楽団体)のニコラス・ナボコフの立案による東京世界音楽祭に参加するのが目的だったが、音楽祭は1961年に延期された[49]。

4月5日:来日(同行:ロバート・クラフト他)
4月6日:鎌倉で大仏を見物
4月8日:歌舞伎座で「勧進帳」を鑑賞
4月9日:箱根へ
4月10日:ホテルのテレビにて皇太子御成婚パレードを見る
4月12日:京都に移動
4月13日:三十三間堂見学。ついで大阪国際フェスティバルでの「ドン・ジョヴァンニ」上演(出演:ウィーン国立歌劇場メンバー他)鑑賞
4月14日:龍安寺と石山寺へ
4月15日:修学院離宮と高山寺へ
4月16日:桂離宮、三宝院、平等院へ
4月17日:二条城と南禅寺へ
4月19日:大阪で能を鑑賞
4月20日:大阪で文楽を鑑賞
4月21日:神戸へ
4月22日:奈良へ
4月23日:東京に戻り、N響とリハーサル開始
5月1日:大阪国際フェスティバル公演。演奏曲目は『夜鶯の歌』・『ペトルーシュカ』抜粋、(休憩を挟んで)『花火』・『火の鳥』(1945年版)
5月3日:東京公演(於・日比谷公会堂)
5月4日:皇居で雅楽を鑑賞
5月7日:東京公演
5月8日:離日

この来日の際、NHKで武満徹の「弦楽のためのレクイエム」(武満の作品は、過去に評論家の山根銀二らに「音楽以前」などと酷評されていた[50])のテープを聴き、武満を絶賛する。ストラヴィンスキーに認められたことで、武満の評価は国内外で上昇の一途を辿る[51]。

一方、日本の様々な伝統芸術に触れると同時に、特に興味を示したのが、様々な大衆音楽の猥雑な混合である「チンドン屋」であったと伝えられている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/812.html

[近代史6] イーゴリ・ストラヴィンスキー(Igor Fyodorovitch Stravinsky、1882 - 1971) 中川隆
1. 中川隆[-16116] koaQ7Jey 2021年10月06日 09:19:34 : ysUaxmWtj8 : SXFLbnFMU3E1ZGc=[17]
20世紀の音楽を切り開いたストラヴィンスキー「春の祭典」の衝撃
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/818.html

ストラヴィンスキー バレエ音楽 『ペトルーシュカ』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/821.html

ストラヴィンスキー バレエ音楽 『火の鳥』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/822.html

ストラヴィンスキー バレエ音楽『オルフェウス』・3楽章の交響曲
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/823.html

ストラヴィンスキー 自作自演
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/701.html
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/812.html#c1

[近代史3] 20世紀の音楽を切り開いたストラヴィンスキー「春の祭典」の衝撃 中川隆
10. 中川隆[-16115] koaQ7Jey 2021年10月06日 09:21:13 : ysUaxmWtj8 : SXFLbnFMU3E1ZGc=[18]
ストラヴィンスキー『バレエ音楽 春の祭典』


Stravinsky "Rite of spring" - Pierre Boulez (1969, from LP)




Pierre Boules / Cleveland Orchestra

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/818.html#c10
[近代史5] グレートリセットで地球温暖化を防ぐ _ 世界人口を 3億人に減らすだけでなく、気候操作にも手を出すビル・ゲーツ 中川隆
10. 中川隆[-16114] koaQ7Jey 2021年10月06日 11:23:18 : ysUaxmWtj8 : SXFLbnFMU3E1ZGc=[22]
カネ儲けだけでなく、社会の収容所化し、デジタル・パスポートで人間の管理を徹底、人口を削減し、最終的にはコンピュータの端末にしようと目論んでいる。こうした計画を彼らは隠していない。

 ​2010年2月にTEDで行った講演​でビル・ゲーツは新ワクチンの開発、健康管理、医療サービスで人口を10〜15%減らせると語っているが、彼より過激な意見を口にしているのがCNNのテッド・ターナー。彼が1996年に「理想的」だとした数値は95%削減した2億2500万人から3億人。2008年にはテンプル大学で、世界の人口を20億人、現在の約3割まで減らすと語っていた。そうした考え方の根底にはトーマス・マルサスの人口論がある。

 この人口論とセットになっているのが優生学。南部アフリカでダイヤモンド取引に乗り出して大儲けしたセシル・ローズはアングロ・サクソンを最も高貴な人種だと考えていたが、1877年に彼が書いた『信仰告白』によると、優秀なアングロ・サクソンが支配地域を広げることは義務だという。

 人間の大量殺戮は「新約聖書」の「黙示録」でも正当化されている。第9章第15節に「四人の天使が、人類の三分の一を殺すために、解き放たれた」(田川健三訳、作品社、2018年)と書かれている。

 額の上に印をつけられた者は救われることになっているそうで、第7章第4節によると、「私は、印をつけられた者の数が十四万四千人である、と聞いた。これはイスラエルの各支族の中から印をつけられた者である。」(前掲書)

 1980年代の支配システムを調査していたジャーナリストは支配者たちが「ギリシャの神」になろうとしていると語っていた。「ワクチン」推進派はカルトの領域に入っている。その仲間が日本にも少なくない。
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/566.html#c10

[番外地9] 日本では法人税を下げて国際的競争力を、などという議論も見られるが、日本の法人税が多少下がろうとも、タックスヘイブンを下回らないかぎりグローバル企業の行動は変わらない。
法人税を増税しても日本から企業が逃げてゆく事は有り得ない。
グローバルビジネスの当事者がどのように動くかを全く理解できていない。法人税を40%程度まで上げたとしても、事業が海外に流出することはないだろう。しかし、海外の高機能人材が日本に何を望むのかという点を全く理解できていない政治家が殆どである。

日本では法人税を下げて国際的競争力を、などという議論も見られるが、日本の法人税が多少下がろうとも、タックスヘイブンを下回らないかぎりグローバル企業の行動は変わらない。

タックスヘイブンと言われるのは課税ゼロの国々、ケイマン諸島、英領ヴァージン諸島、バミューダなど。
グローバルビジネスにおいては、こうした国々は従業員が必要とならない法的主体を登記する場合に使われる。典型的な例はファンドである。

例えばヘッジファンドを設立する場合、ファンドそのものと、そのファンドを運営する法人の2つの法的主体を作ることが一般的である。このうちファンドとは投資家が集まって資金を置いておくためだけの法的主体であり、ファンドマネージャーやアナリストら、そしてオフィスなどの固定資産は運営側の法人に属することになる。

したがって、ファンドそのものは何処の国にあろうとも良いということになり、求められるのは利益に法人税等の税金が掛からないこと、規制が必要十分であること、そして法がしっかりと整備されていることである。国によって情報開示規制、監査、株主の権利などが異なるため、登記にあたっては目的に適した国を選んでゆくこととなる。

国際的な起業家がどの国で起業するのかを考えるときに重視されるのは、法人税とキャピタルゲイン課税の両方、そして起業家にとっての住みやすさである。電力供給などの公共インフラが信頼されているのも条件になる。停電が頻繁に起こるような国にはデータセンターを置くことは出来ないからである。

日本は非常に清潔であり、交通機関は時間に正確で、犯罪率が低く、コンサートやオペラなどヨーロッパの知的人材が好むものが多くあり、英語が分かれば日常生活には困らず、また知的人材同士の交流にも事欠かない。実際に人が働く法人を考える時には、そうした要素が重要になるのである。

グローバル企業が日本でビジネスを始めようとする時にはどうするか? 日本法人の設立を極力避けるのである。
先ず第一に、税金の掛からない(あるいは税率の低い)法人が既にあるのだから、わざわざ日本法人を作ってそこに利益を移し、法人税を払うインセンティブは本来ない。だから既存のタックスヘイブン法人のままでビジネスが出来るのであれば、それに越したことはない。

しかしながら、日本で人を雇い、オフィスを構えて商売をする場合には、海外法人でも日本の税法で居住者と判定される可能性があり、日本での納税義務が生じる。それが避けられないのであれば日本法人を作ってしまった方が色々と簡単に済む場合もあり、したがってこうした国におけるグローバル企業の一般的な行動は、可能であればタックスヘイブン法人のまま、不可能ならば日本で法人を建ててビジネスをするというものである。

グローバル企業は状況に応じて課税のないタックスヘイブン、税率の低い先進国のタックスヘイブン、そしてビジネスをする国での登記を使い分けることとなる。

日本では法人税を下げて国際的競争力を、などという議論も見られるが、日本の法人税が多少下がろうとも、タックスヘイブンを下回らないかぎりグローバル企業の行動は変わらない。

どうせ日本はタックスヘイブンにはなれないのだから、そのようなことよりも世界随一の治安や清潔さ、国民の礼儀正しさ、インフラの信頼性などを意識し、税制ではない面で高機能人材の誘致を図るべきだろう。
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/866.html

[近代史5] 手巻き寿司の作り方
手巻き寿司の作り方
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1273.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1157.html
[番外地9] 日本の右翼・保守はみんな共産主義者だったんだよ 中川隆
4. 中川隆[-16113] koaQ7Jey 2021年10月06日 13:49:58 : ysUaxmWtj8 : SXFLbnFMU3E1ZGc=[23]
日本では明治以降ずっと 右翼・国粋主義=共産主義 だった。
日本では明治時代から一貫して、天皇・保守政治家・官僚はグローバリスト、愛国者・国粋主義者・反米勢力は共産主義者。戦前の陸軍や226事件の青年は殆どが共産主義のシンパで反資本主義だったから、共産革命を起こさない様に憲法第九条を作って軍隊を持てない様にしたんだよ。
現在でも保守・反動・愛国政党は日本共産党一つだけで、皇族や官僚・自民党は新自由主義・グローバリストですが、それは戦前からの伝統です:
1923年9月に起こった関東大震災の復興資金をJPモルガンに頼って以来、日本はアメリカの巨大金融資本の強い影響下に入った。 ウォール街の住人たちは反ルーズベルト政権のクーデター計画でも金本位制への復帰を強く求めていたが、日本政府に対しても同じことを要求、受け入れられた。JPモルガンに言われるまま、浜口雄幸政権は緊縮財政も推進する。その時に大蔵大臣を務めていたのが井上準之助だ。
 この結果、不況はますます深刻化し、東北地方では娘の身売りが増えて大きな社会問題になっている。こうした経済政策を推進した浜口首相は1930年11月に東京駅で銃撃されて翌年の8月に死亡、32年2月には井上が本郷追分の駒本小学校で射殺されている。

 1932年に駐日大使として日本へやってきたジョセフ・グルーはJPモルガンと極めて緊密な関係にある。グルーの従兄弟がジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥と結婚していたのである。しかも、グルーの妻の曾祖父の弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーだ。


 グルーは秩父宮、松平恒雄、徳川家達、樺山愛輔、牧野伸顕、吉田茂、岸信介などと昵懇にしていたが、中でも親しかったのは松岡洋右。戦争が始まり、離日する直前にグルーが岸とゴルフしたことも有名な逸話だ。安倍晋三の祖父は大戦前からアメリカの支配層と親しかったのである。敗戦後に「転向」したわけではない。


 戦前の天皇制官僚システムはウォール街の影響下にあった。ところが1933年から45年4月にルーズベルト大統領が急死するまでそのウォール街はホワイトハウスで主導権をニューディール派に奪われていた。ルーズベルトの死で日米主従関係は本来の姿に戻ったと言える。ウォール街が天皇制を存続させようとしたのは当然だ。その体制によって彼らは日本を支配していたからだ。それを攪乱させたのが血盟団や二・二六事件の将校たちだった。

西洋諸国は世界恐慌を受けて保護主義的に動いた。結果として日本の輸出は半減することとなり、日本経済は壊滅的な打撃を受けた。日本はこのタイミング(1930年)で金本位制への復帰を試みるが、貿易赤字を垂れ流している状態で通貨と金を結びつけたため海外に金が大量に流出、翌年には金本位制を再び停止する運びとなった。

こういう状況で国家は金の流出か為替レートの暴落か、どちらかを選ばなければならないということである。

景気後退による極右と極左の台頭


こうした経済状況の深刻化と貧富の差の拡大は政治的には右派と左派の対立に繋がった。

世界各国が政治的に不安定となったが、日本も例外ではなかった。1932年には海軍の青年将校らによって当時の犬養首相が暗殺される五・一五事件が発生し、その後の首相に海軍大将(海軍の中では穏健派だったと言われる)斉藤氏が就任することになった。軍が首相を殺して身内を新首相に据えるという現在では考えられない事態が起こった。


軍事侵攻によって必要な資源を確保するという道は、日本にとっては最良の選択肢だったということは言えるかもしれない。普通の貿易と経済活動では日本は必要なものを調達することが出来なかっただろうからである。

軍国主義化した日本

どちらにしてもこの事件を契機に正式に軍国化した日本は、海軍関係者を首相に据え、ここから外側に向かって猛烈に駆け上がることとなる。

日本は1931年に満州を侵略し、その後中国とアジアで勢力を拡大して原油や石炭、ゴムなどの天然資源や強制労働などの人的資源を確保しようとした。

一方で、アメリカはまだヨーロッパとアジアの戦争に対する姿勢を決めかねていた。1940年にはルーズベルト氏が戦争とは関わらないことを公約に3期目の当選を決めたが、中国の蒋介石政権に戦闘機を提供するなど、米国は海外の情勢に一切関わっていないわけではなかった。

実際にルーズベルト大統領はその後も戦争との関わりを拡大してゆく。1940年には日本への鉄の禁輸を決め、日本が必要な物資を入手できなくなることで既に進出したエリアからの撤退を強いられるように手配した。

1941年にはレンドリース法の制定によりイギリス、ソ連、中国に対する大規模な軍需物資の提供を決め、ダリオ氏は「このレンドリース法は、実際の宣戦布告ではないとしても、米国の中立性を終わらせた」と書いているが、それはもっと早くに失われていただろう。

日本の領土拡大は米国の太平洋における目論見に対する脅威となり、日本との対立は激化していった。1941年にはルーズベルト大統領は米国にあるすべての日本の資産の凍結を行い、日本の船舶がパナマ運河を通行できないようにし、日本に対するエネルギー資源の輸出を禁止した。

結果として日本は貿易の4分の3と原油の80%を失うこととなった。日本は2年で原油備蓄が底をつくことを計算していた。このことにより、日本は自壊するか米国を攻撃するかのどちらかを選ばなければならなくなった。

そして1941年の真珠湾攻撃に繋がってゆくのである。
 日本では戦後も天皇制が存続、内務官僚、思想検察、特別高等警察といった治安体制の中枢は戦後も要職に就いた。「国体」は護持されたのだ。護持したのはウォール街である。
__

関東軍の中枢は共産主義者の巣窟であった。

参謀本部はアカだらけ - 電脳 大本営
http://daihonnei.wpblog.jp/chiefs-of-staff-is-riddled-with-communists

近衛上奏文
このままでは日本陸軍における容共分子などによる革命が起きるかもしれない。

東条内閣打倒を図った近衛文麿は、1945(昭和20)年2月天皇に奉呈し、敗戦必至との認識のもとに、恐ろしいのは敗戦よりもそれに伴う共産革命であり、政府は国体護持(天皇制擁護)を絶対の課題とすべきであると主張した。それが近衛上奏文である。関東軍第三方面軍情報参謀・少佐・志位正二はKGBのスパイ。日本共産党委員長の志位和夫は甥である。また瀬島龍三中佐、朝枝繫晴中佐、種村佐孝大佐、松村知勝少将、池田純友少佐、橋本欣五郎(参謀本部ロシア班長・中佐)あげたらきりがないが「赤い軍人」「クレムリンの犬」がうごめいていたのです。
帝国陸軍の社会主義化・共産主義化はひどく、敗戦で軍が解体されるやこれら陸軍のエリート将校が大挙して日本共産党に入党している。
戦争中、軍部に協力し反米を鼓吹した人間が戦後たちまち革命を唱え、あるいは日本の国家観念の破壊をくわだててきた。
日本赤軍派の重信房子ってのは、戦前の大物≪右翼≫の娘だよ。父親(重信末夫)は鹿児島県出身であり、戦前の右翼の血盟団のメンバーであり、四元義隆とは同郷の同志である。

ホイットニー文書【以下がヒロヒトの発言記録(1946・4〜6)】
@ 天皇は「日本人の心にはいまだに封建制の残澤がたくさん残っている。それも根こそぎにするには長い時間がかかるから占領は短かすぎない方がいい」といった。
A「神道を奉じる分子とその同調書は反米的だから警戒を要する」といった、というものである。

昭和天皇がマッカーサーに依頼して憲法第九条を作らせたのは、陸軍軍人が反米共産主義者ばかりで何時革命を起こすかわからなかったからなのです。
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/860.html#c4

[番外地9] 日本陸軍将校が批判していたのはリベラリズム・新自由主義・帝国主義だった
日本陸軍将校が批判していたのはリベラリズム・新自由主義・帝国主義だった
JPモルガンやロックフェラーの様な国際金融資本が日本陸軍将校の敵だった:
昭和天皇は戦後の学生運動と戦前の2・26事件を全く同じものだと見做していた
大学生を青年将校と重ね合わせる昭和天皇
昭和25年7月10日の拝謁では、昭和天皇が「共産党の大学生ニ 動機の純眞なるものがあるとの議論ニ非常ニあぶないので 永田鉄山問題でも動機云々(うんぬん)を口実ニ 刑ニハ処しても 甚しく軽きに失し 又他の場合ニハ動機のよきを口実ニ不問に附した事もあり かゝる風が遂に大平洋戦争(原文ママ)を起す事となつた事故 青年将校と大学生との差だけであつて 危険ハ同じ事だ」と述べたと記され、学生運動に参加する大学生を戦前の青年将校と重ね合わせていたことがうかがえます。

「私は実ニ心配しているのだが…」
また、昭和26年12月9日の拝謁では「所謂(いわゆる)反米思想が一般ニある程度あるは已(や)むを得ぬも それニ乗じて共産のものが共産主義の為に美名を平和とか戦争反対とかいつて色々やるのは困つたものだ、これハ丁度(ちょうど)戦前ニ軍閥者が 忠君愛国といふやうな当時ニあつては一寸 文句のいへぬ事を看板ニして戦争へと かりたてたのと同じであつて誠に困つた事だ」と語ったと記されています。

また、サンフランシスコ平和条約が発効し独立を回復する10日前、昭和27年4月18日の拝謁では、昭和天皇は「私は実ニ心配しているのだが 戦争前の状況といふか、大正末期から昭和の始めへかけての社会の有様と最近ハ非常に似てると思ふ。国会は矢張り其頃と実際少しも変りなく、国家社会より党の事を考へたやうな様子でその言論や実勢力を行ひ、政府側の答弁も責任逃れのやうな事ばかりで慨(なげか)ハしい有様ハ 先つ(さっ)きいつた頃と少しも違いない」と述べ、政治家が党利党略で動き国会で責任逃れの答弁する状況も戦前に似ているという認識を示したことが記されています。

そして、「あの頃ハ 血気ニはやる青年将校を此等の事情が刺戟(しげき)して 段々さはぎを大きくしたが、今はこれがソ連の手ニのせられて共産的ニなるか、又は反動として右翼的の戦前と同じ様なものが出現するか、世相ハ誠ニ私ニは憂慮すべきもので、その前徴は歴々あらはれてると私は思ふ」と語ったと記されています。

そのうえで、「蟻の穴から堤が切れるとか、塵もつもれば山といふ諺がある。今私ハその徴候を充分認める。これは過去の過ちを再びせぬと限らぬ徴候だ。まだ徴候の内ニ手を打たなければ、そして重病ニなつては名医も及ばぬ 今の内ニ警告して何とかすればどうかなると思ふが 時機を失しては駄目だ」と危機感をあらわにしたと記されています。
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/867.html

[近代史6] アルバン・ベルク(Alban Maria Johannes Berg, 1885 - 1935)
アルバン・ベルク(Alban Maria Johannes Berg, 1885 - 1935)

シェーベルクよりも「いい曲」であり「また聴きたい」と素直に感じる作品が多い。無調の作曲家ではあるが強く心に訴えるものがある。


ピアノ・ソナタ Op.1
4点
この曲は好きだ。独特のロマン派的感動エネルギーを内包しながらも。無調の世界を時折予感させるような不安定な調性。センス良く多重的に音の積み重ね続けて構築された世界は個性的な精神世界を生み出しており、ピアノの美しさを引き出している。ロマン的な世界など、断片的に一瞬だけ古い音楽を見せるのが効果的。聴後感がよいため、また聴きたくなる。

弦楽四重奏曲 Op.3
3.5点
無調のカオスが渦巻いたり、虚無的な音が鳴り響いて精神的な闇の底を露わにしたり。ピアノソナタ程の美しさと天才性はないと思うが、無調性の音楽の初期の時代の作品としてはよい作品。ピアノソナタと同様に、1曲しか無いのが残念である。

管弦楽の為の3つの小品 Op.6 (1914年 - 1915年/1929年改訂)
3.0点
独自のニュアンスに満ちた曲である。現実的な何かを連想できない前衛的で思弁的な哲学的な曲のため、難解であり聴き方が難しい。とはいえ、骨太のスケール感や、様々なものが強引にごった煮のように混ぜられたカオスや、そのなかに姿を見せるベルク独特の叙情は楽しめる。3曲で20分程度だが、長さ的には密度を保ち聴き手として楽しめる限界と感じた。

歌劇「ヴォツェック」 OP.7 (1925年初演)
4.0点
舞台を見ないで音楽だけ聴いても、相当に優秀な音楽であることがよく分かる。無調らしい不条理の表現が大成功しており、音楽の緊密さも高い。そして、音楽が劇的な物語表現と役者の表現行為への音楽の貢献が素晴らしい。器楽曲だけではなかなか分からないベルクの音楽が持つエモーションの力の強さに驚愕する。音楽の新しい表現世界を切り開いており、これ一曲でもベルクの名前は音楽史に残っただろう。

室内協奏曲 (1923年 - 1925年)
3.8点
音感の良さが感動的なレベルにある。無調であるのに、音があるべき所にあるため、なんとも素晴らしい心地よさである。ベルクらしい見事な表現の力を発揮しており、情熱的な精神と、高雅で高貴でありかつ厳しさを併せ持ったものが表現されている。特殊構成の曲であるが、ここ音のバランスがまた絶妙だ。管楽器が邪魔せずに控えめな柔らかさが対比されてよい雰囲気を作っている。ヴァイオリンとピアノの鋭さをうまく適度に中和している。かなり感心した。

抒情組曲 (1925年 - 1926年)
3.3点
これが抒情的かというと、音楽だけから内容を読み取るのには苦労が伴う。しかし、うまく感じ取ることに成功すると、情熱や甘酸っぱい思い出や悲哀や不条理を感じ取ることは可能だろう。強く感動するほどではないが、無調独特の灰色の世界と、同色の音色である弦楽四重奏で表現される抒情的音楽に、それなりの感慨を感じる。

4つの小品 Op.5
3.8点
クラリネットとピアノの曲。4つの曲だがごく短くて、あっという間に終わる。内容が非常に示唆的であり未来的とも言える。感性を強く刺激することではかなりのインパクトがある。音感の良さとセンスに感服する。空白が活かされており、日本的なわびさびに通じるものある。この曲は個人的には、かなり好みでありツボである。

ヴァイオリン協奏曲 (1935年)
3.3点
自分と曲との相性が悪いのか、聴いた演奏のせいか分からないが、自分にはベルクの代表作とされているほどのものを感じない。ヴァイオリン協奏曲としてのフットワークの良さや協奏の楽しみや、場面の変化による構成の楽しみが足りないからかもしれない。ベルクらしい無調であるが調性的な中心感がある音楽はここでも健在である。無調というよりむしろ、予想を外すことが多い調性曲という趣の場面も多い。無調が持つ独特のはかなさや超常的な透明感と美しさ、緊張感をうまく活かした曲調である。ヴァイオリンが出ずっぱりの活躍である。最後の完成作品として到達した完成度の高さはよく分かる。

ルル組曲 (1928年 - )
3.0点
オペラの一部分を組曲にしたもので、短い時間だけであるが歌も入る。オペラ的、もしくは映画音楽的という印象である。あまり管弦楽曲としての純度は高くない。無調的な映画音楽と考えて聴けば面白いけれども、密度が高くないのはやはり物足りないと感じる。音楽だけを聞く限りは、あまりストーリーも感じられない。

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF

アルバン・マリーア・ヨハネス・ベルク(Alban Maria Johannes Berg, 1885年2月9日 - 1935年12月24日)は、オーストリアの作曲家。 アルノルト・シェーンベルクに師事し、アントン・ヴェーベルンと共に、無調音楽を経て十二音技法による作品を残した。十二音技法の中に調性を織り込んだ作風で知られる。


経歴
ベルクはウィーンで富裕な商家の子供として生まれた。幼い時から音楽や文学に興味を抱き早熟な少年時代を送る。15歳の時、父が没した頃から独学で作曲を試みるようになる。この時の現存する多数の歌曲は1980年まで封印されていた[1]。

1902年にはベルク家の別荘で働いていた女中、マリー・ショイヒルとの間の私生児(娘)の父となり、翌年にはギムナジウムの卒業試験に失敗して自殺を図るなど10代後半の私生活は波瀾に彩られたものだった。

1904年、ベルクの兄が弟の作品をシェーンベルクのもとに持ち込み、シェーンベルクや同門のヴェーベルンとの交友が始まる。ベルクはギムナジウム卒業後、公務員となるが作曲活動に打ち込むためわずか2年で辞職し、ウィーン国立音楽院へ。

1907年、「4つの歌曲」Op.2などの曲で本格的な作曲家デビューを飾る。

1908年7月23日、宿痾の病となる喘息を発病、この時23歳だったベルクは「23」という数字を自己の運命の数と決め、この数は以後の作品の構成を彩る事になる。

1911年、声楽を学んでいたヘレーネ・ナホフスキーと結婚。ヘレーネの母アンナはオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の愛人として知られ、ヘレーネは皇帝の庶子とも言われており、ベルクの周辺では気位の高い女性として知られていた。

1912年、「アルテンベルク歌曲集」Op.4を完成するも師シェーンベルクの反応は色よいものではなく、この歌曲集の完全初演はベルクの死の17年後まで持ち越される。

1914年、ゲオルク・ビューヒナーの戯曲「ヴォイツェック」の上演に接したベルクはこの戯曲を基にした無調音楽のオペラの作曲を始めたが、この年に第一次世界大戦が勃発、翌年から兵役に服する事になり作曲が不可能になったが、1917年になって休暇を与えられ、歌劇「ヴォツェック」 OP.7の作曲再開に踏み切った。「ヴォツェック」の完成はその5年後の事である。

「ヴォツェック」完成後、シェーンベルク50歳の誕生日に献呈するべく、ピアノ・ヴァイオリン・13管楽器のための室内協奏曲に取り組むも50歳の誕生日には間に合わず、1925年に完成する。

その同じ年に歌劇「ヴォツェック」がベルリン国立歌劇場でエーリヒ・クライバーの指揮によって初演された。初演にあたって34回ものオーケストラ練習と14回のアンサンブル練習が行われ、分奏を含めると総計150回の練習が行われたという。ベルクと指揮者は激しい批判に晒されるが、この作品によってベルクの作曲家としての名声は揺るがぬものとなった。この年、プラハ訪問中に知り合ったハンナ・フックス=ローベッティーンとの不倫関係が始まり、この関係から「抒情組曲」という音楽的果実が実る事になった。

1928年、フランク・ヴェーデキントの戯曲「地霊」および「パンドラの箱」に基づく歌劇「ルル」の作曲に取り掛かるも、翌年には「ルル」の作曲を一時中断、演奏会用アリア「ワイン」を作曲した。

「ヴォツェック」の成功によって順調であるかに見えたベルクの作曲家人生は、1933年のナチス・ドイツ政権発足によって暗転する。師シェーンベルクと共に(ベルクはユダヤ人ではないが)ベルクの音楽も「退廃音楽」のレッテルが貼られ、ドイツでの演奏が不可能になる。

1935年、アルマ・マーラーと彼女の2番目の夫ヴァルター・グロピウスとの娘でベルクも可愛がっていた、マノン・グロピウスの訃報に接し、「ルル」作曲の筆を再び置いて、ベルクとしては異例の速筆でヴァイオリン協奏曲(「ある天使の想い出に」)を書き上げる。しかし、協奏曲完成の直前に虫刺されが原因で腫瘍ができ、これが悪化、手術を受けるも敗血症を併発しこの年の12月24日に50年の生涯を閉じた。

未完のまま遺された「ルル」は完成していた2幕までと「ルル組曲」の抜粋という形で初演されたが、未亡人ヘレーネは補筆を禁じ、3幕の形での「ルル」(フリードリヒ・ツェルハ補筆版)初演はヘレーネ没後の1979年にパリのオペラ座にて行われた(パトリス・シェロー演出、ピエール・ブーレーズ指揮)。ヘレーネがここまで頑なになったのは、第二次世界大戦後にショイヒルの子と会ったこと、ベルクとハンナとの不倫を知ったことによる夫への反感から情報をコントロールしようとしたことが原因とされる[2]。

主要作品

7つの初期の歌曲
ピアノ・ソナタ op. 1
弦楽四重奏曲 op. 3
アルテンベルク歌曲集 op. 4
管弦楽の為の3つの小品 op. 6 (1914年 - 1915年/1929年改訂)
歌劇『ヴォツェック』 op. 7 (1925年初演)
室内協奏曲 (1923年 - 1925年)
抒情組曲 (1925年 - 1926年)
ヴァイオリン協奏曲 (1935年)
歌曲集「私の両眼を閉じてください」
管弦楽伴奏歌曲「ワイン」
歌劇『ルル』(1928年 - /未完成)


編曲
フランツ・シュレーカーの歌劇《はるかなる響き》のヴォーカルスコア(1911年)
アルノルト・シェーンベルクの《グレの歌》のヴォーカルスコア(1912年)
シェーンベルクの《弦楽四重奏曲第2番》の後半2楽章(同上)
ヨハン・シュトラウス2世のワルツ《酒、女、歌》(1921年)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/813.html

[近代史6] アルバン・ベルク『ヴァイオリン協奏曲 ある天使の思い出に』
最美の音楽は何か? _ アルバン・ベルク『ヴァイオリン協奏曲 ある天使の思い出に』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/332.html

ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/814.html

[近代史6] アルバン・ベルク(Alban Maria Johannes Berg, 1885 - 1935) 中川隆
1. 中川隆[-16112] koaQ7Jey 2021年10月06日 14:29:49 : ysUaxmWtj8 : SXFLbnFMU3E1ZGc=[24]
ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/813.html#c1
[近代史6] アントン・ヴェーベルン(Anton Webern, 1883年12月3日 - 1945年9月15日)
アントン・フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ヴェーベルン(Anton Friedrich Wilhelm von Webern, 1883年12月3日 - 1945年9月15日)


アントン・フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ヴェーベルン(Anton Friedrich Wilhelm von Webern, 1883年12月3日 - 1945年9月15日)は、オーストリアの作曲家、指揮者、音楽学者。ウェーベルンとも書かれる。

シェーンベルクやベルクと並んで新ウィーン楽派の中核メンバーであり、なおかつ20世紀前半の作曲家として最も前衛的な作風を展開した。このため、生前は顧られる機会がほとんどなかったが、戦後の前衛音楽勃興の中で再評価され、世界的に多くの作曲家に影響を与えた。


生涯
オーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンに生まれる。ヴェーベルン家はクロアチアなどに領地を所有する貴族の家庭で、正式の名はアントン・フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ヴェーベルン(Anton Friedrich Wilhelm von Webern)であるが、作曲者自身はミドルネームを公式には使わず、1918年には(おそらく厭戦的な気分やオーストリア帝国崩壊を受けて)、貴族のみに許された"von"を姓から外した。

父親は成功した鉱山技師として、オーストリア帝国各地を転々としており、このためヴェーベルンは少年時代をグラーツやクラーゲンフルトなどに過ごす。音楽を愛好する家庭環境に育ち、1902年よりウィーン大学でグイード・アドラーに音楽学を師事し、ハインリヒ・イザークの《コラリス・コンスタンティヌス》に関する論文を提出して学位を得た。古楽のポリフォニー様式への関心が、後のヴェーベルン自身の作風に大きな影響を与えていよう。

1904年からシェーンベルクに師事して作曲修行を続け、1908年に《パッサカリア ニ短調》作品1によって独立を許された。シェーンベルク門下のベルクは、その後のヴェーベルンの音楽活動において影響を及ぼしている。音楽家として独立してからは、イシュルやテプリツ、ダンツィヒ、シュテッティーン、プラハなどで指揮者として活動し、それからウィーンに戻った。第一次世界大戦後は、シェーンベルクを輔佐して私的演奏協会を設立。1922年から1934年までウィーン労働者交響楽団の指揮者を務め、BBC交響楽団にも定期的に客演を続けた。盟友ベルクが1935年に急逝すると、遺された《ヴァイオリン協奏曲》のイギリス初演で指揮を執った。その模様は、初演のヴァイオリニストルイス・クラスナーにより録音され、2度にわたってCDに復刻されている。

1938年にナチス・ドイツによりオーストリアが吸収合併されると、ヴェーベルンの音楽は「頽廃音楽」「文化的ボルシェヴィズム」の烙印を押され、演奏活動で生計を立てることは困難になった。このため、契約先であるウニヴェルザール出版社の編集人や校閲係を引き受けざるを得なかった。1945年に、終戦後に作曲活動を再開する思惑から、ウィーンを去ってザルツブルク近郊のミッタージルの娘の家に避難。しかし、娘婿が元ナチ親衛隊で、当時は闇取引に関与していたのが落とし穴となる。同年9月15日、喫煙のためにベランダに出てタバコに火をつけたところを、オーストリア占領軍の米兵により、闇取引の合図と誤解され、その場で射殺されたのである。


作風
ヴェーベルンは寡作家であり、生前に出版された作品は、わずか31曲しかない。ピエール・ブーレーズが監修・指揮したヴェーベルン全集のCDは、作品番号のない作品を含めてさえ、ディスク6枚分で間に合っている[1]。しかしながらヴェーベルンの後進への影響は大きく、とりわけ戦後の前衛音楽への影響は濃厚であった。後期作品は十二音技法が使われ、密度の薄い音響体と冷たい情感が特徴的だが、緻密に構成され、凝縮され、それでいて明晰な構造を持ち、音高以外の要素も組織的に扱おうとする傾向が見られるなど、トータル・セリエリズムの前兆とみなすこともできる。これがブーレーズやシュトックハウゼンなどに影響を与えている。一方、ケージは、ヴェーベルンの独自な時間感覚やリズム構成をとらえて、「音楽の神髄とは間合いと呼吸にあることを教えた作曲家である」という趣旨の発言をしている。ストラヴィンスキーは、シェーンベルクと互いの作曲姿勢に反発し合ったにもかかわらず、秘書で指揮者のロバート・クラフトの手引きで十二音技法に精通するようになってからは、ヴェーベルンへの傾倒のもとに自らの晩年様式を開花させていった。

ある程度の長い経歴を持つ作曲家がそうであるように、ヴェーベルンは時期ごとに音楽を変化させていった。それでもなお、次のような特徴を挙げることができる。


あらゆる音符が明晰に聞き分けられるほど、非常に簡素な響きのテクスチュア
念入りに選び出された音色
実に事細かな演奏者への指示
特殊奏法の頻繁な利用(管楽器のフラッタータンギングや弦楽器のコル・レーニョ奏法など)
しばしば長7度音程を越える旋律の跳躍
作品の極度の短さ (2分にも満たないチェロ・ソナタや、10分程度の交響曲など)
作品名の簡潔さ、そしてそのほとんどは副題を持たない

シェーンベルクに入門してから完成させた最初の作品が、管弦楽のための《パッサカリア ニ短調》作品1(1908年)である。構成的には、ブラームスの《交響曲第4番》フィナーレの前例に倣っているが、和声的に見ると進歩的で、オーケストレーションは尊敬していたブルックナーやマーラーの影響が認められるものの、個性的になっている。また、変奏される主題には、お互いに逆行形の反行形を成している部分があり、この主題が弦のピツィカートによって途切れ途切れに提示されるなど、後期作品を彷彿とさせるものがある。パッサカリアは古い音楽形式のひとつであり、後にヴェーベルンが見せた古い音楽形式への関心(たとえば《交響曲》や《弦楽三重奏曲》にみられるカノンの利用)の萌芽が見出される。

作品3の《5つの歌曲》(1909年)以降の作品でヴェーベルンは無調を用いている。無調期の作品では、《弦楽四重奏のための5つの楽章》作品5(1909年)や、《管弦楽曲のための6つの小品》作品6(1910年)などが比較的よく演奏される。《管弦楽のための5つの小品》作品10(1913年)などによって極限にまで短く凝縮された音楽は、《4つの管弦楽歌曲》作品13(1918年)あたりからさらに複雑さを極めてゆくようになる。十二音技法を用いた最初の例は、《3つの宗教的民謡Drei geistliche Volkslieder 》作品17(1925年)で、これ以降の作品はすべて十二音技法で作曲された。器楽曲でその最初の例は、《弦楽三重奏曲》作品20(1927年)である。つまり《弦楽三重奏曲》は、12音技法に伝統的な楽式を融和させようとした最初の試みといってよい。《交響曲》作品21(1928年)に至って作風に変化が現れ、《弦楽三重奏曲》までの極度の複雑さに変わり、簡素な明瞭さが現れるようになる。

ヴェーベルンの音列技法は、しばしば非常に手が込んでおり、12の音列のうち4音ずつのグループが形作られ、3つのグループが互いに互いの変形であるかのように関連づけられている。ヴェーベルン作品の統一感はそこにあるが、しばしば音列の旋律線は、より細かく分断されて、一つ一つの音が別々の楽器の音色をまとわされている。

ヴェーベルンの最後の作品群は、作曲様式における新たな発展の可能性を暗示している。たとえば、親交を結んでいた女性詩人ヒルデガルト・ヨーネ(ドイツ語版)の詞による2つのカンタータは、以前の作品よりも大きなアンサンブルを採用しており、所要時間が長くなり(第1番は9分、第2番は16分)、響きの密度はいくぶん濃密である(ヴェーベルンの晩年の声楽作品は全て彼女の詞による(他には作品23、25、26がある))。音列作法はより単純で、盛期作品に認められる音列の内的な動機的連関は見いだされない。突然の不幸な事故死により、ヴェーベルンが《カンタータ第2番》作品31(1943年)の後に、新しい方向に沿ってどこに辿り着こうしていたのかを見定めることは、誰にもできなくなった。図形による作曲も考案していたと伝えられるが、証拠は残っていない。


エピソード
フィラデルフィアでの《交響曲》作品21の初演で演奏が終わった後、聴衆は反応に困って笑い出して作曲者の泣き声を覆い隠してしまった[2]。

ベルクの《ヴァイオリン協奏曲》では、バルセロナにおける世界初演を指揮することになっていたが、リハーサルの最中に神経が高ぶって逐電し、ヘルマン・シェルヘンと交代を望むと言ってスペインを後にした。亡き友のことを思い出し、練習できるような状態ではなかったのであった[3]。

新ウィーン楽派の中心3人のうちで、唯一のカトリック[4]。しかも熱心な信仰者で神秘主義者でもあり、作品のいくつかは霊的な動機や霊感から作曲されている。

ナチス政権への親近感から、弾圧されながらも亡命の道を選ばなかった。「自分ならば、ヒトラーに十二音音楽の意義を納得させることができる」とすら考えていたらしい。晩年は親しい神父に、「子供がコンパスと定規を使って作曲する日が来るのも、決して遠いことではない」と語って驚かれた。

主要作品

シェーンベルクに入門する前後に独力で書かれた初期作品は、後期ロマン主義音楽の様式を採っている。これらは生前には出版されず、そのため作品番号さえ付けられなかった。それにもかかわらず、研究者ハンス・モルデンハウアー(1906年 - 1987年)によって公開され、出版されると、現在しばしば演奏・録音されるヴェーベルン作品となった。大管弦楽のための牧歌《夏の風の中で Im Sommerwind 》(1904年)や《弦楽四重奏のための緩徐楽章》(1905年)がその代表であり、後者にはブラームスの影響が見られる。

作品番号つきの作品
管弦楽のための《パッサカリア》作品1 (1908年)
弦楽四重奏のための《5つの断章》作品5 (1909年)
管弦楽のための《6つの小品》作品6 (初版:1909-10年、改訂版:1928年)
管弦楽のための《5つの小品》 作品10 (1911-13年)
ピアノとチェロのための3つの小品, 作品11 (1914年)
交響曲 作品21 (1928年)
ピアノのための変奏曲 作品27 (1936年)
管弦楽のための変奏曲 作品30 (1940年)

作品番号なしの作品
《管弦楽のための牧歌『夏風の中で』》 Bruno Willeの詩による大オーケストラのための作品(1904)
弦楽四重奏のための《緩徐楽章(Langsamer Satz)》(1905)

編曲作品
バッハ:『音楽の捧げもの』BWV1079から「6声のリチェルカーレ」(オーケストラ編曲)
F.シューベルト『ドイツ舞曲』(1932):1824年作曲の同名のシューベルトの作品のオーケストラ編曲[5]

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%B3
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/815.html

[近代史6] アントン・ヴェーベルン(Anton Webern, 1883年12月3日 - 1945年9月15日) 中川隆
1. 中川隆[-16111] koaQ7Jey 2021年10月06日 14:38:40 : ysUaxmWtj8 : SXFLbnFMU3E1ZGc=[25]
最美の音楽は何か? _ アントン・ヴェーベルン『パッサカリア 作品1』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/420.html

最美の音楽は何か? _ アントン・ヴェーベルン『バッハ 6声のリチェルカーレ オーケストラ編曲』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/421.html

ピエール・ブーレーズ 「シェーンベルクは死んだ。ウェーベルン万歳」 _ 100年も前の作曲家 ウェーベルンが何故今でも現代音楽なのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/711.html  

名指揮者 アントン・ウェーベルン、 ベルク ヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出に」を指揮する
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/702.html
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/815.html#c1

[近代史6] アルノルト・シェーンベルク (Arnold Schönberg, 1874 - 1951)
アルノルト・シェーンベルク (Arnold Schönberg, 1874 - 1951)

12音技法の開発者。目新しい語法や音感を楽しむ刺激ありきの音楽ではあるだが、古典的な感性は保持しており、奥にはしっかりとした根を張っている。


管弦楽曲

交響詩「ペレアスとメリザンド」 op.5(1903/1913、1918改訂)
3.0点
初期のシェーンベルクに共通するように、ドロドロとして蠢く複雑な音のうねりが、精神の基底部分を表現しているように感じられる。40分もある大作であるが、その長さの必然性は理解できなかった。輝かしい場面はなく、ひたすらに音深夜の暗黒の中で寝付けずにうなされているかのように、動き続ける。最初からこんな作品を書くとは、シェーンベルクは他の人とは違う志向を生まれつき持っていたのだろう。

室内交響曲第1番 op.9(1906/1923改訂/1914、1935管弦楽版)
2.5点
単一楽章。15人の奏者で管楽器が弦楽器の倍の人数。従ってハルモニームジークに近い響きであり、軽やかで叙情的なしつこさがない。まだ無調ではないが、時代が近いマーラー晩年の作品を連想するような、調がやや曖昧で小節の区切りも分かりにくく、各声部が線となりそれがもつれ合うような書き方である。いい曲とは思えないが、興味深さはある。

室内交響曲第2番 op.38(1906-1916、1939-1040)
3.3点
楽章は2つ。調性が明確。1楽章は叙情的で悲劇性のあるアダージョ。純音楽としての美しさがあり、聴き応えのある曲。
2楽章は切迫感を基調として持ちながらも、多彩な楽想を盛り込んでバランス良く非常に巧みに曲が構成されており、なかなか素晴らしい。

5つの管弦楽曲 op.16(1909/1922改訂/1949小管弦楽版)
3.5点
これは優れた作品で、大作曲家ならではの領域に到達していると思う。斬新さだけでなく、技術と精神の両方を高レベルで作品として結晶させることに成功している。作品としても、個別には短い曲で、それが順番を意図して並んでいるのが聴きやすい。様々な技法の展示のようにも楽しめる。

浄められた夜 op.4 (1917、1943弦楽合奏版)
3.5点
マーラーの爛熟感をさらに推し進めて、とめどない表現の限界を探っている。ロマンチックで調性の枠内にあるが、音楽の崩壊を予兆させる部分は大いにある。パンドラの匣を開けたかのような、やりすぎの情緒性とか官能性が渦巻く曲。非常に美しいのだが、自分は精神の規範意識とかバランス感覚が許容できる限界を半ば超えており、聴いていてしんどい。すごい曲ではあるのは認めるが、バランスは大事でやりすぎは良くないと思ってしまう。「トリスタンとイゾルデ」を拡大した曲ともいえる。

管弦楽のための変奏曲 op.31(1926-1928)
3.3点
色彩感が豊かな管弦楽が美しい。12音技法の初めての大作とのことで、作曲者が全霊を傾けて書いただろうことは伝わってくる。調性感がない音楽はまさに前衛的な抽象絵画を観るようであるが、長い曲であり変奏を積み重ねていくうちに場面が次々と変化していく映像を見ている気分になる。やはり管弦楽であることの価値が高くて、色彩感と運動感を愉しめるのが大きいと思うから、12音技法の音楽にしては聴きやすい。映像化したものがあったら見てみたい。

映画の一場面への伴奏音楽 op.33(1929-1930)
3.3点
中間の盛り上がる場面のカオスで派手なやり方が気に入った。これがあるから前後のコントラストを楽しめるし、終わり方の不穏さもかっこいいと感じられる。映画音楽だけあって、エンターテイメント性が高い楽しませる曲である。

組曲ト長調(弦楽合奏)(1934)

主題と変奏 op.43a(吹奏楽版:1943)/op.43b(管弦楽版:1944)
3.0点
随分とオーケストラの機能をフルに活かそうとしている意図が感じられる。聴き映えを明確に意識している。だから、12音技法とはいえ、かなり普通の曲に近いように聴こえる部分もある。ただし、変奏曲としての魅力はあまりない。なんとなく場面が移っているだけに聴こえる。


協奏曲

ヴァイオリン協奏曲 op.36(1934-1936)
3.3点
かなり長い作品。1楽章は無調の音のごった煮の中で、キーキーと耳につくヴァイオリンのソロが続くイメージ。ピアノ協奏曲ほどバランスが良くない。2楽章はドロドロとした秘めた情熱性が出ていて、なかなか引き込まれるものがある。このような音楽がシェーンベルクはうまい。3楽章は最初の方は2楽章の続きで心を突き動かすものがあり良いと思ったが、後半はいまいちだ。

ピアノ協奏曲 op.42(1942)
3.3点
情緒的な曲であるが、強い抑揚はない。ピアノの使い方や管弦楽とのバランスなど、よく出来た協奏曲ではある。12音技法の協奏曲としての興味と期待を満たしてくれる。しかし、ソロの技術的な大活躍はないし、全体を通し期待を越えた何かを見せてくれる印象はない。あくまで、センスの良さと職人的な技法的洗練を楽しむ作品に留まっていると思う。


室内楽曲

浄められた夜 op.4(弦楽六重奏版:1899)

弦楽四重奏曲第1番 ニ短調 op.7(1905)
3.0点
異常に長大な単一楽章の曲。初期のシェーンベルクらしいモヤモヤして陰鬱でドロドロした暗い曲。聴き通すのにかなりの苦痛を強いられる。これはひどい。浄められた夜の世界をより進めたものとは言える。対位法的な音の使い方が耳につくのだが、その音の重なりがまた鬱陶しい(笑)ということで、表現力の高さにおいて芸術的価値はある曲だと思うが、聴く人をかなり選ぶと思う。1900年代の同時期のマーラーに似ているが外面的な派手さがなく内面的な感情の噴出の生々しさを増した感じである。

弦楽四重奏曲第2番 嬰ヘ短調 op.10(1907-1908/1929弦楽合奏版)
3.3点
1楽章も2楽章も1番よりもはるかに明確で精神的にも成熟した音楽であり、満足感が大きい。ドイツ的な骨格の太い音楽である。巨匠的な品格がある。3楽章からは歌曲との融合になるが、これも雰囲気だけでない多様性と鋭角的な表現の強さがあり、聴いていて心地よい。4楽章は無調とのことだが、あまり強く感じられない。ひたすら不安定で不安感を煽る短調の音楽という印象の場面が多い。

弦楽四重奏曲第3番 op.30(1927)
2.8点
まったりとした典型的な無調音楽に聴こえる。悪くはないが、弦楽四重奏の機能を十分に使い切っている感じもないし、意外性もない。予想通り以上ではない印象である。となると、無調の平板さのデメリットが目立ってしまう。シェーンベルクの作曲能力からして当然書ける以上のものがないから、面白くない曲になってしまっている。特に2回連続で聴いた2回目は全然面白くなかった。

弦楽四重奏曲第4番 op.37
3.0点
前半は交響的な雄大さが志向されており、明確な曲想を感じる。後半の特に4楽章は舞台的なドラマ性がある。やりたい事が分かりやすいため聴きやすく、楽しみながら聴ける。無調の限界は同じようにあるのだが、不平不満がたまるほどではない。音に力があるから、心を動かすものがある。3番よりも明らかに上だと思う。楽しいと思う瞬間は沢山ある。無調にしては、だが。

弦楽三重奏曲 op.45(1946)
2.5点
表現力がすごい。自由自在に音を動かして、弦楽三重奏があまり多声的ではないのを逆用して豊かな前衛的表現の器として活用してる気がする。しかし、良さはそれだけであり、音楽が心に響くような場面はほぼ無かった。

鉄の旅団(1916)

セレナード op.24(1920-1923)
3.0点
マンドリンとギターが入っているのが面白い特殊編成の室内楽。中間で突然声楽入りの楽章があるが、唐突である。現代音楽的な無調もしくは無調的音楽による娯楽作品という面白さはある。しかし、現代の耳では凄みは感じられず、みんなが好き勝手に弾いているように聴こえるだけの、ありがちな現代音楽のように思えてしまった。

クリスマスの音楽(1921)
3.5点
心温まる素敵な曲だ。前衛性はなにもないが、多声的な要素のため、つまらなくは感じない。室内楽の柔らかい温かみの魅力に包まれて、浸って感動できる。

管楽五重奏曲 op.26(1923-24)
2.5点
管楽合奏はシェーンベルクの無調音楽との相性があまりよくないと思う。内部にエモーショナル内部にものがなく、無作為にランダムに音を並べただけの実験音楽にしか聴こえない。しかもやたらと長い。最初は管楽器の明瞭さを楽しめたが、同じ調子でいつまでもダラダラと音楽が続くのでだんだんウンザリしてくる。

7楽器の組曲 op.29(1924-1926)
2点
長い曲だが似たような音響が続いて退屈。30分の曲だが「5分にまとめればいいじゃん」と思った。短時間なら聞いてみる価値はある曲だが。特殊構成なので実際の演奏会を成立させるために曲の長さが必要だったのかもしれないが。

ヴァイオリンのためのピアノ独奏付き幻想曲 op.47(1949)
3.0点
無調でリズム感にも乏しく無機質であり、完全に現代音楽である。面白いが現代の耳で聴くとこの構成で想定される範囲内であり特筆するべきものはない。


ピアノ曲

3つのピアノ曲 op.11(1909)
3.5点
無調に向かうシェーンベルクの作品の発展のダイナミズムの中にある作品らしいエネルギーと創作性が楽しい。音感の良さと、表現の意思の強さが、感動的なものを曲に与えている。グロテスクさもありつつ、なんとも言えない独自の世界観が表現されている。それがなぜか心地いい。世界の狭間から地上の割れ目に落ちたかのような特殊な深みを感じる。そして音の使い方のセンスが良い。システマチックでないし和製的だから平板な単調さがない。

6つのピアノ小品 op.19(1911)
3.3点
あまりにも断片的な小曲の集まり。さすがに感想を持ちにくい。音のセンスがあってとても素敵と思うが、曲に酔う前に終わってしまう。静物絵のような静謐な世界観と、人形が動き出すような童話のような非現実性と愛らしさの音楽と思う。もう少し曲が長ければよかった。

5つのピアノ曲 op.23(1920-1923)
3.0点
なんだか新鮮さがなくなった。悪くはないのだが、テクニックで書かれていて驚異的で代替不可能なものがなくなった気がする。強く心を掴むものがない。バランスが良く尖っていない優等生になっている。

ピアノ組曲 op.25(1921-1923)
3.0点
最後の曲が技巧的だったり、いろいろと頑張って音楽の幅を広げようとしているのは分かる。しかし、本質的なピアノという楽器の魅力を引き出しているとは感じにくい。音を敷き詰めて曲らしい形に仕立て上げているだけに聞こえてしまう。新鮮な驚きに乏しい。

ピアノ曲 op.33a(1928)
ピアノ曲 op.33b(1931)
3.3点
12音技法の生の音をそのまま感じられる点でなかなか興味深く聴けた。無調の音を敷き詰めているだけでないある種の艶かしい生理的なものに届く音楽になっていると感じる。曲がそれなりの長さであり、世界に入り込みやすいのもあるかもしれない。どこにも安定しないで狭間の世界に入り込むような浮遊感と孤独な静寂感がなかなか楽しめる。

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF

アルノルト・シェーンベルク(Arnold Schönberg, 1874年9月13日 - 1951年7月13日)は、オーストリアの作曲家、指揮者、教育者。 調性音楽を脱し無調に入り、十二音技法を創始したことで知られる[1]。アメリカに帰化してから1934年以降は、「アメリカの習慣を尊重して」[2]"ö"(o-ウムラウト)を"oe"と表記したSchoenbergという綴り[3]を自ら用いた。アメリカでは「アーノルド・ショーンバーグ[4]」と呼ばれた。


経歴と音楽

出生と宗教の遍歴
父シャームエル・シェーンベルク(Sámuel Schönberg 1838年 - 1889年 [1])は代々ハンガリーのノーグラード県セーチェーニに住むユダヤ人で、靴屋を営んでいた。母パウリーネ・ナーホト(Pauline Náchod 1848年 - 1921年)もボヘミア(現・チェコ)プラハ出身のユダヤ人であった。

ウィーンにて生誕。初めはウィーン人らしくカトリックのキリスト教徒として育てられる。8歳よりヴァイオリンを習い始める。その後チェロを独学で学ぶ。15歳の時、父が亡くなり、経済的に立ち行かなくなった彼は、地元の私立銀行に勤め始め、夜間に音楽の勉強を続けていた。その後作品を発表し始めたころに彼の余りにも前衛的な態度のため、激怒した聴衆によってウィーンを追い出され、ベルリン芸術大学の教授に任命される時、プロテスタントに改宗、その後ナチスのユダヤ政策に反対して1933年、ユダヤ教に再改宗している。

無調への試み
若い頃の彼はブラームスに傾倒していたが、のちツェムリンスキーに師事し、師の影響でヴァーグナーの音楽にも目覚め、また、ツェムリンスキーとともにマーラーの家に出入りして音楽論をたたかわせたり、彼の交響曲について好意的な論文を記述したこともある。ブラームスとヴァーグナーという異なる傾向を結びつけるような音楽を書いた点はツェムリンスキーと共通している。

初期は『ペレアスとメリザンド』や『浄められた夜』など、後期ロマン主義の作品を書いていたが、その著しい半音階主義からやがて調性の枠を超えた新しい方法論を模索するようになる。『室内交響曲第1番』は後期ロマン派の大規模な管弦楽編成からあえて室内オーケストラを選び、4度を基本とした和声を主軸とした高度なポリフォニーによる作品となっている。これ以降、彼の実験は更に深められ、次第に調性の放棄=無調による作品を志向するようになっていく。1900年から書き始められ1911年に完成した『グレの歌』は、巨大な編成と長大な演奏時間をもち、カンタータ、オペラ、連作歌曲集などの要素が融合した大作である。しかし、基本的な構想は1901年までに書かれているため、音楽的には『ペレアスとメリザンド』などと同様後期ロマン派の様式となっており、ある意味、後期ロマン派音楽の集大成であり頂点であるともいえる。しかし、楽器法などには中期のスタイルがみられる。

1908年、弦楽四重奏曲第2番(1907年〜1908年)のソプラノ独唱付きの終楽章と、歌曲集『架空庭園の書』(1908年〜1909年)で初めて無調に到達した、とされることも多い。 1909年に書かれた『3つのピアノ曲』op. 11や『5つの管弦楽のための小品』op. 16、モノドラマ『期待』op. 17では、多少調性の香りを残していたが、無調の様々な可能性が試みれられた。『6つの小さなピアノ曲』op. 19(1911年)で、調性をほぼ完全に放棄するに至った、とする見解もある。これらの実験から傑作歌曲集『月に憑かれたピエロ』(ピエロ・リュネール)が生まれる。


『月に憑かれたピエロ』は『期待』の成果を更に推し進めて生み出されたと言ってよいかも知れないが、着想などは更にユニークである。ラヴェルやストラヴィンスキーに影響を与え、前者が『マラルメによる3つの歌』を、そして後者が紀貫之の短歌等による『日本の3つの抒情詩』を作るきっかけとなった。そして後のブーレーズらにも影響を与えた傑作である。物語の朗唱を室内楽で伴奏をするという方法が、かつてなかったとは言えないまでも、これほどにまで高められた作品は皆無で、またかつて無い効果をあげた伴奏の書法も全くユニークな傑作であった。

ただ、時代は無調の音楽に対する準備が出来ていたとは言えなかった。ストラヴィンスキーの『春の祭典』で大騒ぎとなるような時代で、無調の音楽は一部のサークルの中だけのことであった。ウィーンの私的演奏会で聴衆が怒り出してパニックになったり帰る人が続出したのは当然であった。しかし、指揮者のシェルヘンなどが積極的にこれらの音楽を後押しし、演奏してまわったことで、シェーンベルクなどの音楽が受け入れられるようになっていく。

同じ頃、弟子のアルバン・ベルクは『クラリネットとピアノのための5つの小品』op. 5や『管弦楽のための3つの小品』op. 6などで、無調(あるいは拡大された半音階主義)の作品を発表し、アントン・ヴェーベルンも師シェーンベルクにならって『6つの小品』op. 6を書いているが、シェーンベルクはバランス感覚に優れ、ベルクはより劇的で標題性を持ち、ヴェーベルンは官能的なまでの音色の豊穣さに特徴があり、明確な個性の違いがあるのは興味深い。

12音音楽の確立
1910年代後半、シェーンベルクは大作『ヤコブの梯子』に挑むが、第一次世界大戦で召集されたためにその他の多くの作品と共に未完のままに終わった。同じ頃、弟子のベルクは歌劇『ヴォツェック』Op.7を完成する。シェーンベルクらと始めた無調主義による傑作オペラの登場である。無調主義が次第に市民権を持ちはじめると共に、無調という方法に、調性に代わる方法論の確立の必要性を考えるようになっていった。それが12音音楽であった。

12の音を1つずつ使って並べた音列を、半音ずつ変えていって12個の基本音列を得る。次にその反行形(音程関係を上下逆にしたもの)を作り同様に12個の音列を得る。更にそれぞれを逆から読んだ逆行を作り、基本音列の逆行形から12個の音列を、そして反行形の逆行形から12個の音列を得ることで計48個の音列を作り、それを基にメロディーや伴奏を作るのが12音音楽である。一つの音楽に使われる基本となる音列は一つであり、別の音列が混ざることは原則としてない。したがって、この12音音楽は基本となる音列が、調性に代わるものであり、またテーマとなる。そして音列で作っている限り、音楽としての統一性を自然と得られる仕組みとなっている。

この手法でシェーンベルクが最初に書いたのが、全曲12音技法で書かれた『ピアノ組曲』op.25(1921年〜1923年)の「プレリュード」(1921年7月完成)である。作品番号では『5つのピアノ曲』op.23(1920年〜1923年)が先立っているが、12音技法による第5曲「ワルツ」は1923年2月の完成とされている。ヴェーベルンも1924年、『子どものための小品』の中で12音音列を使った作品を書き、ベルクもすぐにその技法を部分的にとり入れた。

ただし、12音の音列による作曲法はシェーンベルクの独創とは言えない。ウィーンの同僚であったヨーゼフ・マティアス・ハウアーが、シェーンベルクより2年ほど前にトローペと言われる12音の音列による作曲法を考案している。1919年にハウアーが作曲した『ノモス』は、最初の12音音楽と見なされている。この年、シェーンベルクはこの作品を自身の演奏会で紹介しているが、ハウアーが12音音楽の創始者であることに固執したこともあり、シェーンベルクと、その理解者でベルクの弟子でもある哲学者・音楽学者のテオドール・アドルノの2人から酷評される。また、1930年代のナチスの台頭により退廃音楽家として排斥され、戦後に再評価されるまで全く忘却されてしまったこともあり、ハウアーが1920年代に果たした役割が過小評価されていることは否めない。

弟子のヴェーベルンが音楽をパラメータごとに分解してトータル・セリエリズムへの道を開き、形式上の繰り返しを否定し変容を強調したのに対し、シェーンベルクは無調ながらもソナタや舞曲など従来の形式を踏襲している。また初期の無調音楽は部分的には機能和声で説明できるものが多く、マーラーやツェムリンスキーなど高度に複雑化した和声により調性があいまいになっていた後期ロマン派音楽の伝統と歴史の延長線上に位置する。

厳格でアカデミックな(ただしかなり偏った解釈でもあった)教育方針は古典作品の徹底的なアナリーゼを基礎としていた。12音技法の開拓後はリズム、形式面で古典回帰が顕著で、彼自身も新古典主義との係わりを避けることは出来なかった。

美術をはじめとする芸術一般にも興味を持ち相互に影響した。シェーンベルクの描いた表現主義的な『自画像』は(メンデルスゾーンなどと同じく)画家としての才能も示している。ロシアの画家カンディンスキーはシェーンベルクのピアノ曲演奏風景をそのまま『印象・コンサート(1911年)』という作品にしている。

亡命と晩年
ナチス・ドイツから逃れて1934年にアメリカに移住する。移住後も南カリフォルニア大学(USC)とカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)にて教育活動を精力的に行い、弟子にはジョン・ケージ、ルー・ハリソンなど、アメリカ現代音楽を代表する作曲家も含まれる。(アメリカでの教育活動は、アメリカの音楽教育に大きな革新をもたらしたが、反対にある種「後遺症」ともいうべき偏ったアカデミズムが長く根付くこととなった。) USCには彼の名をちなんだリサイタルホールを擁する「アーノルド・シェーンバーグ研究所」(Arnold Schoenberg Institute)があり、UCLAには彼の生前の功績をたたえ、記念講堂が建造されているが、実際のアメリカのシェーンベルクの家財道具などにアメリカでは管理費などの寄付が全く集まらず、母国のオーストリアがすべて輸入して引き取り、現在ウィーン市にシェーンベルク・センターとして情報の公開に多大の寄与をしている。

移住後は、『室内交響曲第2番』『主題と変奏』などの調性を用いた先祖帰りの作品も作曲しているが、大半が旧作の完成か、アメリカの大学の委嘱などで学生でも演奏ができるように書いた作品である。

また、他界する直前まで合唱曲『現代詩篇』を作曲していたが、未完に終った。戦後始まった第1回ダルムシュタット夏季現代音楽講習会からも講師として招待されたが、重い病気のためキャンセルした。

1951年7月13日、喘息発作のために、ロサンゼルスにて死去した。76歳没。故郷ウィーン中央墓地の区に葬られており、墓石は直方体を斜めに傾けた形状である。

主な作品

歌劇
期待 op.17(1909)
幸福な手 op.18(1908-1913)
今日から明日まで op.32(1928-1929)
モーゼとアロン (1930-1932、未完)

管弦楽曲
交響詩「ペレアスとメリザンド」 op.5(1903/1913、1918改訂)
室内交響曲第1番 op.9(1906/1923改訂/1914、1935管弦楽版)
室内交響曲第2番 op.38(1906-1916、1939-1040)
5つの管弦楽曲 op.16(1909/1922改訂/1949小管弦楽版)
浄められた夜 op.4 (1917、1943弦楽合奏版)
管弦楽のための変奏曲 op.31(1926-1928)
映画の一場面への伴奏音楽 op.34(1929-1930)
組曲ト長調(弦楽合奏)(1934)
主題と変奏 op.43a(吹奏楽版:1943)/op.43b(管弦楽版:1944)

協奏曲
ヴァイオリン協奏曲 op.36(1934-1936)
ピアノ協奏曲 op.42(1942)

室内楽曲
浄められた夜 op.4(弦楽六重奏版:1899)
弦楽四重奏曲第1番 ニ短調 op.7(1905)
弦楽四重奏曲第2番 嬰ヘ短調 op.10(1907-1908/1929弦楽合奏版) ※ソプラノ独唱付き、調性から無調への過渡期の作品
弦楽四重奏曲第3番 op.30(1927)
弦楽四重奏曲第4番 op.37(1936)
弦楽四重奏曲第5番(断片)
弦楽四重奏、五重奏、七重奏、三重奏の数々の断片
弦楽三重奏曲 op.45(1946)
鉄の旅団(1916)
セレナード op.24(1920-1923)
クリスマスの音楽(1921)
管楽五重奏曲 op.26(1923-24)
7楽器の組曲 op.29(1924-1926)
ヴァイオリンのためのピアノ独奏付き幻想曲 op.47(1949)

ピアノ曲
3つのピアノ曲 op.11(1909)
6つのピアノ小品 op.19(1911)
5つのピアノ曲 op.23(1920-1923)※無調から12音への過渡期の作品
ピアノ組曲 op.25(1921-1923)
ピアノ曲 op.33a(1928)
ピアノ曲 op.33b(1931)

独唱曲
2つの歌 op. 1 (1898)
4つの歌曲 op. 2 (1899-1900)
キャバレーソング (Brettl-Lieder) (1901)
6つの歌曲 op. 3 (1899–1903)
8つの歌曲 op. 6 (1903–05)
2つのバラード op.12(1906-1907)
2つの歌曲 op. 14(1907-1908)
架空庭園の書 op. 15(1908-1909)
心のしげみ op. 20(1911)
月に憑かれたピエロ(ピエロ・リュネール) op. 21(1912)
4つのオーケストラ歌曲 op. 22(1913-1916)
3つの歌曲 op. 48 (1933)
ナポレオンへの頌歌 op. 41(1942)

合唱曲
地上の平和 op.13(1907)
グレの歌 (1900-1911)
ヤコブの梯子(1917-1922、未完)
4つの混声合唱曲 op.27(1925)
3つの風刺 op.28(1925)
6つの無伴奏男声合唱曲 op.35(1929-1930)
コル・ニドレ op.39(1938)
ワルシャワの生き残り op.46(1947)
千年を三たび op.50a(1949)
深き淵より op.50b(1950)

編曲
マティアス・ゲオルク・モン:チェロ協奏曲ト短調の校訂およびピアノ伴奏編曲(1912)
チェロ協奏曲ニ長調(マティアス・ゲオルク・モンのチェンバロ協奏曲ニ長調に基づく)(1932-1933)
弦楽四重奏と管弦楽のための協奏曲(ヘンデルの合奏協奏曲op.6-7による)(1933)
バッハ:コラール前奏曲BWV631の管弦楽編曲(1922)
バッハ:コラール前奏曲BWV654の管弦楽編曲(1922)
ヨハン・シュトラウス2世:皇帝円舞曲の室内楽編曲(1925)
バッハ:前奏曲とフーガ変ホ長調BWV552「聖アン」の管弦楽編曲(1928)
ブラームス:ピアノ四重奏曲第1番の管弦楽編曲(1937)
ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲の室内楽編曲(10人編成)


著作
ここでは日本で出版されたものを紹介する。

『和声学 第1巻』(山根銀二訳、「読者の為の翻訳」社、1929) 第2巻が出版されたかは不明。
『作曲法入門』(中村太郎訳、カワイ楽譜、1966)
『和声法』(上田昭訳、音楽之友社、1968、新版1982)
『作曲の基礎技法』(G.ストラング、L.スタイン編、山県茂太郎、鴫原真一訳、音楽之友社、1971)
『音楽の様式と思想』(上田昭訳、三一書房、1973) 1950年にアメリカで出版されたStyle and Ideaからの抄訳。
『対位法入門』(山県茂太郎、鴫原真一訳、音楽之友社、1978)
カンディンスキーと共著『出会い――書簡・写真・絵画・記録』(J.ハール=コッホ編、土肥美夫訳、みすず書房、1985)
『シェーンベルク音楽論選 様式と思想』(上田昭訳、ちくま学芸文庫、2019)


その他
カンディンスキーのすすめにより、彼とフランツ・マルクが創刊した芸術誌『青騎士』に参加し、音楽と歌詞との関係について寄稿している。
『レ・ミゼラブル』『ミス・サイゴン』などのミュージカル音楽の作曲で知られるクロード=ミシェル・シェーンベルクは、弟の孫である[5]。
カリフォルニアでの亡命仲間であったトーマス・マンは、シェーンベルクをモデルとして小説『ファウストゥス博士』を著した[6]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/816.html

[近代史6] アルノルト・シェーンベルク (Arnold Schönberg, 1874 - 1951) 中川隆
1. 中川隆[-16110] koaQ7Jey 2021年10月06日 14:58:14 : ysUaxmWtj8 : SXFLbnFMU3E1ZGc=[26]
アルノルト・シェーンベルク _ 最初期の『浄められた夜』は素晴らしかったのに何であんな風になっちゃったの?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/714.html  
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/816.html#c1
[近代史6] セルゲイ・ラフマニノフ(Sergei Vasil'evich Rachmaninov1873 - 1943)
セルゲイ・ラフマニノフ(Sergei Vasil'evich Rachmaninov1873 - 1943)

メランコリックな曲の大家。独特の感情的な力学に基づいた曲の構成が素晴らしい。大ピアニストでもあり、ピアノ協奏曲が何より素晴らしい。
しかし、協奏曲とピアノの独奏曲のレベルの差が大きい。長い曲で感情のうねりや浮き沈みを表現するのに長けているので、小品では良さが生きないのだろう。


交響曲

第1番 ニ短調 作品13(1895年)
3.3点
全4楽章。この曲はラフマニノフらしいメランコリーも聴き手を喜ばせるサービス精神も無い。聞き手を突き放すような媚びない難解さがあり、攻略が難しい。特に1楽章から3楽章はラフマニノフ作曲と当てるのに苦労するほど異質である。その代わり、通俗性が低く、芸術的な真剣さや響きの質のよさはかなりのものである。分かりやすいメロディーは無いし、客観的にみて名曲の範疇とは思えないが、しかし19世紀の国民楽派の独自の新しい世界を切り開いていること、ラフマニノフの根っこにある詩魂を生々しく発揮している点、何よりあのラフマニノフがこんな曲を書いたのだという点で重要で興味深い作品である。

第2番 ホ短調 作品27(1907年)
3楽章 5.0点
その他3.8点
雄渾なロシア情緒満載の曲であり、他の2曲の交響曲と違い非常に分かりやすい。メランコリックな感情の力学的な起伏など、ピアノ協奏曲と似たような情緒と構成を持っているためラフマニノフ初心者にも聞きやすい。1時間の大作であり、3楽章以外は冗長だが音楽の流れに身を任せるようにして聴けば良い。他の楽章もなかなか良いのだが、この曲は3楽章が非常に素晴らしい。素晴らしかった思い出を回想する気分をそのまま音にしたような音楽である。中間部の盛り上がりの後に、ひとつずつの楽器が順番にテーマを演奏する場面は、まさに様々な思いが湧いては消えていく様をそのまま楽器で表現している。ヒューマンドラマ系の超上質な映画音楽のようであり、その系統の音楽の元祖の一つなのかもしれない。音だけで楽しめるドラマとも言えよう。

第3番 イ短調 作品44(1936年)
3.0点
アメリカに移住してからのラフマニノフらしい作風。ロシア的なねちっこさが減り、響きが近代的になったが、メロディーの魅力は減った。
1楽章は、第2主題こそ分かりやすい映画音楽のようだが、他は決して分かりやすい曲ではなく名作とも思えない。2楽章はスケルツォと緩徐楽章が合わせられたようで一番面白い楽章。3楽章は2番の4楽章を楽天的すぎず奥ゆかしく表情豊かにした感じで、2番より改善されている。
全体に交響曲としての楽章構成や長時間の大きな流れに身を任せられる楽しみはあるが、晩年の作品群の中では交響的舞曲やパガニーニの主題による狂詩曲ほどの名作ではないと思う。

管弦楽曲

交響的幻想曲「岩」作品7(1893年)
2.0点
基本的に渋い。所々チャイコフスキー的な劇的表現が垣間見れる。若書き感あり。

ジプシー狂詩曲 作品12(1894年)
2.5点
後年の管弦曲の萌芽がおおく感じられるので面白いし。いい曲という程ではないがファンなら聴いて損はない。

交響詩「死の島」作品29(1909年)
3.0点
メロディーがほとんど無い。低音が響き続けて重苦しく、厳然とした自然の厳しさのような雰囲気の音楽が延々と続き、情報量が少ない。客観的に見ると冗長な失敗作のようにも思うが、一方でこの厳しさと雰囲気が心地よくて一種の快感になり、また聴きたくなるという面もある。

交響的舞曲 作品45(1940年)
3.5点
晩年の作品だがところどころ魅せる箇所があるのでそれなりに聴き映えする。つまらない箇所も多いが。

ピアノ協奏曲・協奏的作品

第1番 嬰ヘ短調 作品1(初稿:1891年、改訂稿:1917年)
3.5点
マイナーだが、1917年に改訂されているため、なかなか優れた作品。特に一楽章は正統派であり充実している。ただ、盛期ロマン派のまとまり感が強く、2番以降の後期ロマン派らしい自由さと華やかさが不足しているのが物足りないところ。ちなみに、作曲者本人の演奏が凄い。1楽章のカデンツァの豪快さは見事。

第2番 ハ短調 作品18(1901年)
6.0点
自分がクラシックを聴くきっかけになった曲。全編にわたりメロディーが情熱的で濃密で叙情的であり強く心を動かされる。とにかく圧倒的にメロディーが良い。それに加えてピアノの音の透明な美しさと表情の豊かさと沢山の音数による楽しさ、後期ロマン派らしく肥大化して構成が自由になっていること、深く強く心を動かすロマン的感情、オーケストラの重厚さ、ピアノとオケの絡み方など、多くの点で非常に完成度が高く内容が充実しており19世紀の協奏曲を凌駕している。ラフマニノフの他の作品と比較してこの作品はずば抜けて構成が緊密であり無駄がなく、ほぼ完璧であると思う。ピアノ協奏曲を代表する逸品である。

第3番 ニ短調 作品30(1908年)
4.5点
ピアノがオーケストラを従えて前面に出て大活躍する曲。難曲として有名であり、ピアノの機能と楽器としての「器」の大きさの限界が引き出された曲。スケールの大きさやレンジの大きさ、音の多さや派手な活躍度など、1台のピアノが活躍できる限界に到達したという点でピアノ音楽の頂点の一つと言える。そのため、完成度が高くメロディーが秀逸だが綺麗にまとまり過ぎている2番とは違い、3番は何度聴いても受け止めきれないパワーがあって飽きない。1楽章と2楽章は良いのだがやや冗長な部分がある。圧倒的な超絶テクニックを存分に堪能できて冗長な場面がほぼない3楽章がこの曲の聞きどころである。

第4番 ト短調 作品40(初稿:1926年、最終決定稿:1941年)
1.5点
残念ながら他の協奏曲と比較してかなりの駄作である。聴いていて良いと思える部分がかなり少ない。メロディーに冴えがほとんどない。

パガニーニの主題による狂詩曲 作品43(1934年)
第18変奏 5.0点
その他 4.0点
第18変奏に関しては有名なだけあって本当に珠玉のように美しくて輝かしいメロディーである。その他の変奏も全般的にかなりの力作でありピアノ派手に活躍しつつ様々なやり方でオケと絡みバリエーションの豊富さがあるため聞き飽きない。前半も正統派な変奏曲も十分に楽しめるが、18変奏以降の自由で華やかな展開が聞きどころと思う。ピアノ協奏曲として歴代でも上位に入る出来の名作だと思うし、鑑賞して楽しい変奏曲という点では、大変秀逸だと思う。


室内楽曲

チェロとピアノのためのロマンス ヘ短調(1890年)
2.5点
ごく短い曲だが、チェロのもつ渋い悲哀やロシア的情緒の表現力の発揮に既に成功している。ピアノ伴奏の貧弱さに、作曲年代の若さが感じられるが、チェロについてはメロディーセンスが良くて、もっと後の作品でもおかしくないくらいだと思う。

チェロとピアノのための2つの小品 作品2(1892年)
1.5点
1曲目は柔らかい曲だがたいした特徴はない。2曲目は民謡のような民族的な旋法が耳につく。

ヴァイオリンとピアノのための2つの小品 作品6(1893年)
2.5点
唯一のヴァイオリン曲だが、どちらもわりとよくて、特に2曲目がなかなか面白くていい曲。ラフマニノフにヴァイオリンソナタを書いてほしかったと思った。

悲しみの三重奏曲第1番 ト短調(1892年)
2.0
「悲しみの」をつけているだけあり、まさに悲痛を感じる曲なのだが、ピアノ三重奏の良さを生かしている感じでないし、メロディーもさえない。生前未出版なのも当然か。

悲しみの三重奏曲第2番 ニ短調作品9(1893年)
1.0点
1楽章は無駄に長くてひどい駄曲。2楽章は少しましだがいい曲ではないし、やはり無駄に長い。3楽章もダメ。ラフマニノフ最大の駄作だと思う。聴く価値なし。

チェロ・ソナタト短調 作品19(1901年)
3.5点
わかりやすいラフマニノフ節と、管弦楽向け以外の曲ではあまり聴けない雄大なスケールが発揮されており、ラフマニノフらしさが十分に発揮されていて、聴く人の期待に応える作品。


ピアノ連弾、2台のピアノのための作品

組曲第1番「幻想的絵画」作品5(1893年)

舟歌 ト短調
3.0点
二台ピアノが舟の波のような効果を倍にひきたてている。

夜−愛 ニ長調
3.0点
親愛さをはらんだ感動を厚い音に乗せて表現している

涙 ト短調
3.5点
同一動機の繰り返しを二台ピアノが増幅して慟哭を表現し、強い印象を心に残す。

復活祭 ト短調
3.0点
同一動機をひたすら繰り返し神秘的な輝きを放っている。


4手のピアノのための6つの小品作品11(1894年)

舟歌
3.5点
穏やかな波の上を漂う小舟の情景を非常に鮮やかに描写している。

スケルツォ
3.5点
ムソルグスキーを彷彿とさせる、おどけた面白さと土臭い粘っこさを併せ持った曲。

ロシアの歌
3.0点
素朴なロシアの民謡風の曲。シンプルな書法で書かれており、間奏曲のような位置付け。

ワルツ
3.5点
エキゾチックな雰囲気満載のワルツ。音の運動や、ロシア臭とフランスのサロン風の融合が面白い。

ロマンス
2.5点
他の曲が良いのでこの曲も良い気分で聞けてあまり悪く感じないが、単体でみるとラフマニノフによくある哀愁の雰囲気だけの曲。

栄光
3.0点
メロディーの良さはあまりないものの、曲集の締めくくりとして、書法の優秀さで楽しんで聴ける曲。それほど野暮さを感じないのが良い。


組曲第2番作品17(1901年)

序奏 ハ長調
2.5点
ノーマルな曲で、音は分厚いが二台が相乗効果は発揮していない印象

ワルツ ト長調
2.5点
音が多くて充実しているが、曲として魅力は不十分。

ロマンス 変イ長調
2.5点
二曲目と同様で、音は多くて響きは充実しているが曲として魅力が足りない。

タランテラ ハ短調
2.5点
タランテラの魅力や二台の共演の楽しさはあるものの、いい曲だと感じるような曲ではない。


その他の作品

2台のピアノのための「ロシアの主題による狂詩曲」(作品番号なし、1891年)
2.5点
若書きなのが聴いていて分かる。多くのものが詰め込まれた意欲的な作品ではあるが、まとまりがない。


ピアノ独奏曲

4つの小品(1887年?)
3.5点
【ロマンス 嬰ヘ短調、前奏曲 変ホ短調、メロディー ホ長調、ガヴォット ニ長調】
ラフマニノフ初期の作品でスクリャービン初期と同様にショパンの影響を感じるも、ラフマニノフらしい情緒や鐘の響きも出現する。何より未成熟だが力作で聞き応えあって驚いた。自身の手で当初は作品1と番号がつけられていただけのことはある。


幻想的小品集 作品3(1892年、第3曲と第5曲は1940年に改稿)

悲歌 変ホ短調 3.5点
前奏曲 嬰ハ短調 4.0点
メロディ ホ長調 2.5点
道化役者 嬰ヘ短調 2.5点
セレナード 変ロ短調 3.0点
前奏曲はラフマニノフの小品の最高傑作。一曲目の悲歌もいい曲だが、曲集の後半は内容が落ちる。


サロン的小品集 作品10(1894年、第5曲のみ1940年に改稿)

夜想曲 イ短調 2.5点 
やりたい事は分かるがもったりすぎ

円舞曲 イ長調 2.5点
いかにもサロン風の曲。中間の技巧は面白い

舟唄 ト短調 2.5点
最後どんどん技巧的になるのが面白い

メロディ ホ短調 2.0点
雰囲気だけのラフマニノフの典型的ダメ小品

ユーモレスク ト長調 1.5点
おもしろくない

ロマンス ヘ短調 1.5点
いいところが特にない。

マズルカ 変ニ長調 2.0点
ラフマニノフ流大作マズルカだが曲のサイズとタイトルから期待するほどでない


楽興の時 作品16(1896年、第2曲のみ1940年に改稿)

1曲目 2.5点
短いフレーズを即興的につないで感情が連綿と息長く続く曲にした感じ。長いが小品のような内容
2曲目 2.0点
技巧的で聴き映えはする。フレーズは息が長い。
3曲目 2.5点
ラフマニノフらしい悲痛感をたたえた情熱が現れた曲
4曲目 3.0点
技巧と情熱的な旋律の組み合わせがスケールの大きさを持って表現されている
5曲目 2.5点
激情の余韻を表したような曲
6曲目 2.5点
ピアノをスケール大きく鳴らす曲


10の前奏曲集 作品23(1901年 - 1903年)

1 嬰ヘ短調 2.5点
夢の中のような曖昧でもやもやした曲。

2 変ロ長調 3.0点
滝のように轟々と水が流れるような曲

3 ニ短調 1.5点
あまり面白くないのにわざわざ三部形式

4 ニ長調 2.5点
ショパンのノクターン8番のような夢見るような曲。雰囲気はいいが平板。

5 ト短調 4.0点
軍隊的な力強いマーチは非常に印象的。叙情的な中間との対比も鮮やか。

6 変ホ長調 3.0点
ふわふわとした浮遊感のある叙情的な曲。

7 ハ短調 2.0点
よくある暗めの雰囲気で右手が早めのパッセージ。

8 変イ長調 2.0点
右手が早めのパッセージのもやもやした曲。

9 変ホ短調 2.5点
ショパンの練習曲のようなパッセージと雰囲気

10 変ト長調 2.0点
もやもやとしてはっきりしないまま霧の中に消えていくような曲

13の前奏曲集 作品32(1910年)

1 ハ長調 2.5点
力強く開始を告げる技巧的な曲

2 変ロ短調 2.0点
短い動機を執拗に繰り返す曲

3 ホ長調 2.5点
音を畳みかけるように積み重ねて盛り上げる中間が少しよい

4 ホ短調 2.5点
音の絵に含まれていそうな技巧的で映像的な要素のある曲。

5ト長調 3.0点
黄色い夕焼けのような美しい情景が描かれている曲。

6 ヘ短調 2.5点
華々しい技巧を見せてすぐにあっさり終わる

7 ヘ長調 2.5点
遠くの方で事象が起きているかのような儚い曲

8 イ短調 2.5点
憂鬱を基調とするテクニカル曲

9 イ長調 2.5点
最初はもやもやとしているが、それが輪郭をつくりながら大きなスケールに至る。

10 ロ短調 3.0点
荒涼とした岩の世界を思い浮かべる映像的な曲。冗長だがラフマニノフが管弦楽で得意な暗闇のような渋い雰囲気がある。

11 ロ長調 3.0点
何か愛おしさを感じる音の動きが前の曲とのつながりも良くて、耳をひく。

12 嬰ト短調 4.0点
ロシア的な憂鬱さと霧の街のような情景が合わさった情緒が見事に表現された素晴らしい曲。

13 変ニ長調 2.0点
曲集の締めの曲らしい情緒は表現されていて感動的ではあるが冗漫すぎる。

練習曲集『音の絵』作品33(1910年)

1 ヘ短調 3.0点
ゴツゴツした岩のような曲。叙情的に締める。

2 ハ長調 3.5点
憂鬱さを帯びた、夕焼けのあと夜の帳が降りるような曲。

3 ハ短調 3.0点
力強い感動を秘めたレティタティーボから静かで叙情的なメロディーに移行。

4(削除、改作して作品39-6に)

5 ニ短調 3.0点
舞曲的要素を持つ力強い曲。

6 変ホ短調 3.0点
かなり難しそうな練習曲

7 変ホ長調(「市場の情景」) 2.5点
ファンファーレが鳴る賑やかな曲

8 ト短調 2.5点
憂鬱なレティタティーボ。

9 嬰ハ短調 3.0点
轟々と響きわたる音が印象的。左手の低音の使い方が印象的。

練習曲集『音の絵』作品39(1916年 - 1917年)

1 ハ短調 3.0点
多くのパッセージががっつり詰め込まれた意欲的な作品。

2 イ短調(「海とかもめ」) 3.5点
冬の海のような冷たさと重たさを詩情として潜ませている。キラキラとした水面のようなフレーズが印象的。

3 嬰ヘ短調 3.5点
前曲に続き冬の大自然のような厳しさを感じさせる。

4 ロ短調 3.5点
同音連打が印象的。おとぎ話的な雰囲気、エキゾチックさ、厳しさを感じさせる面白くていい曲。

5 変ホ短調 3.5点
荘重な悲劇性を持った主題から展開されるスケールの大きな曲。鐘のような効果も活用されている。

6 イ短調(「赤ずきんちゃんと狼」) 3.0点
ユーモアがあるイントロの後の、テクニカルにたたみかけるところはいい感じで面白い。

7 ハ短調(「葬送の行進」) 2.0点
この曲集で唯一いまいちな曲。重いレティタティーボ。長い。

8 ニ短調 3.0点
美しい冬をまたしても感じさせる曲。

9 ニ長調(「東洋風行進曲」) 2.5点
唯一の長調だが、単純な曲ではなく、展開はめまぐるしい。華々しく終わる所はかっこいい。

大曲

ショパンの主題による変奏曲 作品22(1903年)
3.5点
前半部分4.0点
前奏曲20番の主題。この重々しい曲を主題に選ぶのが彼らしい。大作で内容が濃密で素晴らしく独奏曲の中では最高傑作の一つだと思う。特に最初の7分位はパガニーニ狂詩曲の前半部分のように霊感にあふれているかなりいい曲。何気にラフマニノフは変奏曲の才能が凄い。しかし曲全体はとしては長すぎて内容はいいのだが集中力が続かない。

ピアノ・ソナタ第1番 ニ短調 作品28(1907年)
3.5点
2番と比べてマイナー。長くて音数が多いし退屈な部分もあるので聴くのは大変。しかし外面的効果狙いを感じる2番と比較してファウストを題材にした1番は芸術的な真摯さを感じる充実した力作である。とはいえ、1楽章などはモヤモヤした雰囲気が時間とともに変容していくだけで音楽が進んでいく、良くないラフマニノフ作品の典型例かもしれない。3楽章は交響曲のようなスケールと雄大さとメロディーの充実感においてラフマニノフの大作ピアノ曲の中の最高峰だろう。3楽章の途中に現れる手を交叉させて演奏される神秘的で魔術的なメロディーが大変印象的である。

ピアノ・ソナタ第2番 変ロ短調 作品36(1913年、改訂1931年)
3.5点
この曲は作曲者による2つの版があるが、私はオリジナル版は冗長であり、改訂版は逆に削り過ぎで良さが失われていると考えている。このため間をとったホロヴィッツ版はちょうど良いと思う。基本的には派手な演奏効果を楽しむ曲であり外面的で深さが足りないのだが、所々に十分に美しい箇所はあるため侮れない。

コレルリの主題による変奏曲 作品42(1931年)
3.0点
ショパンの主題の方と比較すると壮大さや傑作感はやや劣ると思うが、変幻自在で分厚い重みもあり聞き応え十分な変奏曲。

その他

前奏曲 ニ短調(作品番号なし、1917年)

オリエンタル・スケッチ(作品番号なし、1917年)
2.5点
前奏曲的なスケッチ作品。

声楽曲

「ヴォカリーズ」作品34の14(1915年)
5.0点
ヴォカリーズとは、歌詞がなく母音のみで歌われる歌曲。非常に分かりやすい旋律美で多く楽器で演奏して親しまれている。美しくて陰影のある小品であり、どの楽器で演奏しても楽しめる曲としてかなり魅力的である。

合唱交響曲『鐘』作品35(1913年)
3.5点
3人の独唱者・合唱・管弦楽のための作品。充実の力作で聴き応えがある。

聖金口イオアン聖体礼儀作品31(1910年)
3.8点
荘重で、キリスト教の儀式の音楽らしい神秘的な超越的雰囲気に満ちている。無伴奏合唱だが、伴奏があるかのように音は充実している。様々なイメージが現れるので、長い曲だが飽きる事はない。
徹夜禱ほどの感動的な衝撃は無かったが、この曲もラフマニノフとは思えないほどの本格性があり、天才的な霊感に満ちていて大変素晴らしい。

徹夜禱作品37(1914年 - 1915年)
4.3点
ラフマニノフの無伴奏合唱の宗教曲。1時間の大作。大半の人にとっては期待を完全に上回る素晴らしさに驚くだろう。ロシアの民族性や、ロマンティックな感情コントロールや、質量の大きい骨太さなど、ラフマニノフの才能が見事に結晶している。全く飽きないし、次々と魅力的な場面が登場してゾクゾクする。ときどき神秘的な輝きと内容の素晴らしさにヴィクトリアを思い出す。ラフマニノフに頻出の安易さが全くない。

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%8E%E3%83%95

セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフ(Серге́й Васи́льевич Рахма́ниновロシア語: [sʲɪrˈɡʲej vɐˈsʲilʲjɪvʲɪt͡ɕ rɐxˈmanʲɪnəf]、ラテン文字転写例: Sergei Vasil'evich Rachmaninov[注釈 1]、1873年4月1日(当時ロシアで用いられていたユリウス暦では3月20日) - 1943年3月28日)は、ロシア帝国出身の作曲家、ピアニスト、指揮者。


生涯

生い立ち
1873年4月1日(ユリウス暦では3月20日)、タタールの血を引く父ヴァシーリイ・アルカージエヴィチと、母リュボーフィ・ペトローヴナの第3子としてノヴゴロド州セミョノヴォに生まれ[注釈 2]、幼少期を同州オネグで過ごした。父母ともに裕福な貴族の家系の出身で、父方の祖父はジョン・フィールドに師事したこともあるアマチュアのピアニスト、母方の祖父は著名な軍人だった。父親は音楽の素養のある人物だった[注釈 3]が、受け継いだ領地を維持していくだけの経営の資質には欠けていたようで、セルゲイが生まれたころには一家はすでにかなり没落していたという。ノヴゴロド近郊のオネグは豊かな自然に恵まれた地域で子ども時代を過ごした。

4歳のとき、姉たちのために雇われた家庭教師がセルゲイの音楽の才能に気がついたことがきっかけで、彼のためにペテルブルクからピアノ教師としてアンナ・オルナーツカヤが呼び寄せられ、そのレッスンを受けた。9歳のとき、ついに一家は破産し、オネグの所領は競売にかけられ、ペテルブルクに移住した。まもなく両親は離婚し、父は家族の元を去っていった。セルゲイは音楽の才能を認められ、奨学金を得てペテルブルク音楽院の幼年クラスに入学することができた。

しかし彼は、12歳のときにすべての学科の試験で落第するという事態に陥った。悩んだ母は、セルゲイにとって従兄にあたるピアニストのアレクサンドル・ジロティに相談し、彼の勧めでセルゲイはモスクワ音楽院に転入し[2]、ニコライ・ズヴェーレフの家に寄宿しながらピアノを学ぶことになった。

音楽家としての出発
ズヴェーレフは厳格な指導で知られるピアノ教師で、ラフマニノフにピアノ演奏の基礎を叩き込んだ。ズヴェーレフ邸には多くの著名な音楽家が訪れ、特に彼はピョートル・チャイコフスキーに才能を認められ、目をかけられた。モスクワ音楽院ではアントン・アレンスキーに和声を、セルゲイ・タネーエフに対位法を学んだ。のちにはジロティにもピアノを学んだ。同級にはアレクサンドル・スクリャービンがいた。ステパン・スモレンスキイの正教会聖歌についての講義も受け、後年の正教会聖歌作曲の素地を築いた。

ズヴェーレフは弟子たちにピアノ演奏以外のことに興味を持つことを禁じていたが、作曲への衝動を抑えきれなかったラフマニノフはやがて師と対立し、ズヴェーレフ邸を出ることになった。彼は父方の伯母の嫁ぎ先にあたるサーチン家に身を寄せ、そこで未来の妻となるナターリヤと出会った。このあと、彼は毎年夏にタンボフ州イワノフカにあるサーチン家の別荘を訪れて快適な日々を過ごすのが恒例となった。

1891年、18歳でモスクワ音楽院ピアノ科を大金メダルを得て卒業した。金メダルは通例、首席卒業生に与えられたが、当時双璧をなしていたラフマニノフとスクリャービンは、どちらも飛び抜けて優秀であったことから、金メダルをそれぞれ首席、次席として分け合った(スクリャービンは小金メダル)。同年ピアノ協奏曲第1番を完成させた。

1892年、同院作曲科を卒業、卒業制作として歌劇『アレコ』をわずか数日のうちに書き上げ、金メダルを授けられた。同年10月8日(ユリウス暦では9月26日)にモスクワ電気博覧会で前奏曲嬰ハ短調を初演した。この曲は熱狂的な人気を獲得し、ラフマニノフの代名詞的な存在になった。

翌1893年5月9日(ユリウス暦では4月27日)、『アレコ』がボリショイ劇場で上演された。同年11月6日、チャイコフスキーが亡くなると、追悼のために悲しみの三重奏曲第2番を作曲した。

挫折
ラフマニノフは1895年に交響曲第1番を完成させ、2年後の1897年にはアレクサンドル・グラズノフの指揮によりペテルブルクで初演されたが、これは記録的な大失敗に終わった。特にツェーザリ・キュイが「エジプトの七つの苦悩」に例えて容赦なくこき下ろしたのはよく知られている。この曲はラフマニノフの存命中は二度と演奏されることはなかった。失敗の原因として、グラズノフの指揮が放漫でオーケストラをまとめ切れていなかった可能性[注釈 4]や、ペテルブルクがラフマニノフの属したモスクワ楽派とは対立関係にあった国民楽派の拠点だったことの影響などが指摘されている。

この失敗によりラフマニノフは神経衰弱ならびに完全な自信喪失となり、ほとんど作曲ができない状態に陥った。この間、彼はサーヴァ・マモントフの主宰する私設オペラの第二指揮者に就任し、おもに演奏活動にいそしんだ。マモントフ・オペラではフョードル・シャリアピンと知り合い、生涯の友情を結んだ。シャリアピンの結婚式では介添人の1人として立ち会った。


1898年にはシャリャーピンと連れ立っての演奏旅行で訪れたヤルタでアントン・チェーホフと出会い、親交を結んだ。チェーホフはラフマニノフの人柄と才能を称賛し、大きな励ましを与えた。

一方、彼の落胆を心配した知人の仲介により、1899年にレフ・トルストイと会見する機会にも恵まれた。ラフマニノフはシャリャーピンを伴ってトルストイの自宅を訪ね、交響曲第1番の初演以降に作曲した数少ない作品のひとつである歌曲『運命』(のちに作品21の1として出版された)を披露した。しかしこのベートーヴェンの交響曲第5番に基づく作品は老作家の不興を買い[注釈 5]、ラフマニノフはさらに深く傷つくことになった。

作曲家としての成功
つい最近までは、ラフマニノフの作曲家としての成功に決定的に寄与したのが、彼を心配した周囲の人たちの紹介で出会った精神科医のニコライ・ダーリだったということになっていた。しかし実際には数回の診療を受けただけで、現在ではその暗示療法の効果が疑問視されている。事実、難航していたピアノ協奏曲第2番第1楽章が完成したのは、治療に通った時期から1年以上経過している。

やがて創作への意欲を回復した彼は1900年から翌年にかけて、2台のピアノのための組曲第2番とピアノ協奏曲第2番という2つの大作を完成させた。特にダーリに献呈されたピアノ協奏曲第2番は、作曲者自身のピアノとジロティの指揮により初演され、大成功を収めた。この作品によってラフマニノフはグリンカ賞を受賞し、作曲家としての名声を確立した。

1902年、従姉のナターリヤ・サーチナと結婚した。当時、従姉妹との結婚には皇帝の許可証が必要だったが、伯母の奔走により無事許可を得ることができた。結婚式の行われた4月に作曲した『12の歌曲集』作品21には妻に捧げた『ここは素晴らしい』(第7曲)や、のちに自身でピアノ独奏曲にも編曲した『ライラック』(第5曲)といった作品が含まれている。

1904年から1906年初めまで、ボリショイ劇場の指揮者を務めた。神経を集中して指揮に取り組んでいたため、楽員には気難しくやかましい指揮者と恐れられた。1906年1月には自作のオペラ『けちな騎士』と『フランチェスカ・ダ・リミニ』を初演した。

同年秋から1909年にかけて、家族とともにドレスデンに滞在した。このドレスデン滞在中の1907年に完成させた交響曲第2番は翌1908年の1月にペテルブルクで、2月にモスクワで作曲者自身の指揮により初演され、熱狂的な称賛をもって迎えられた。この作品によりラフマニノフは2度目のグリンカ賞を受賞した。1908年にはアムステルダムでウィレム・メンゲルベルクとの共演でピアノ協奏曲第2番を演奏した[4]。

1909年春、スイスの画家、アルノルト・ベックリンの同名絵画の複製画に着想を得た交響詩『死の島』を作曲した。同年夏にはイワノフカの別荘で、秋に予定されていたアメリカへの演奏旅行のためにピアノ協奏曲第3番を作曲した。同年11月にニューヨークで自身ピアニストとして初演(この作品は、当時まだでき上がったばかりだったらしい。‘The Classic Collection’第80号より)し、翌年1月にはグスタフ・マーラーとの共演でこの作品を演奏した。


このころ、ラフマニノフは女流文学者のマリエッタ・シャギニャンと文通で意見を交わすようになり、1912年には彼女の選んだ詩による歌曲集作品34を作曲した。またこの曲集には終曲としてソプラノ歌手のアントニーナ・ネジダーノヴァのために作曲された『ヴォカリーズ』が収められている。

1913年の1月から4月にかけてはローマに滞在した。スペイン広場の近く、かつてチャイコフスキーが滞在し創作に励んだのと同じ家を借りて住み、そこでエドガー・アラン・ポーの詩のコンスタンチン・バリモントによる翻訳に基づく合唱交響曲『鐘』を作曲した。1915年1月には正教会の奉神礼音楽の大作『徹夜禱』を作曲した。1917年の秋には十月革命の進行する中、ピアノ協奏曲第1番の大がかりな改訂作業を行った。

母国を離れて
1917年12月、ラフマニノフは十月革命が成就しボリシェヴィキが政権を掌握したロシアを家族とともに後にし、スカンディナヴィア諸国への演奏旅行に出かけた。そのまま彼は二度とロシアの地を踏むことはなかった(1930年6月の『ミュージカル・タイムズ』のインタビュー記事にラフマニノフ自身の「僕に唯一門戸を閉ざしているのが、他ならぬ我が祖国ロシアである」という言葉が引用されていたという。‘The Classic Collection’第80号より)。

しばらくはデンマークを拠点に演奏活動を行ったあと、1918年の秋にアメリカに渡り、以後はおもにコンサート・ピアニストとして活動するようになった。それまでラフマニノフのピアニストとしてのレパートリーは自作がほとんどだったが、アメリカ移住を機にベートーヴェンからショパンまで幅広いレパートリーを誇る、きわめて活動的なコンサート・ピアニストへと変貌を遂げたのである。1925年以降はヨーロッパでの演奏活動も再開した。

この時期には同様の境遇にあったベンノ・モイセイヴィチやウラディミール・ホロヴィッツと親交を結んだ。フリッツ・クライスラーとの共演による演奏、録音もたびたび行った。またピアノ制作者のスタインウェイと緊密な関係を保ち、楽器の提供を受けた。

ロシア出国後は作曲活動はきわめて低調になった。これは多忙な演奏活動のために作曲にかける時間を確保できなかったのみならず、故郷を喪失したことにより作曲への意欲自体が衰えてしまったためでもあった。同じロシアの作曲家、ピアニストとして旧知の仲であるニコライ・メトネルになぜ作曲をしないのかと尋ねられると、「もう何年もライ麦のささやきも白樺のざわめきも聞いてない」ことを理由に挙げたという[1]。それでも1926年にはロシア出国後初の作品となるピアノ協奏曲第4番を作曲した。

1931年、スイスのルツェルン湖畔にセナールと呼ばれる別荘を建て、ヨーロッパでの生活の拠点とした。「セナール (Senar) 」とは、セルゲイ (Sergei) 、ナターリヤ (Natalia) 、ラフマニノフ (Rachmaninov) の頭文字を取ったものである。パガニーニの主題による狂詩曲と交響曲第3番はここで作曲された。1939年8月、ルツェルン音楽祭に出演し、エルネスト・アンセルメとの共演でベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番と自作の狂詩曲を演奏した[5]。


やがてナチスが勢力を拡大するとスイスにも滞在することができなくなった。最後の作品となる交響的舞曲を作曲したのはロングアイランドでのことだった。1942年には家族とともにカリフォルニア州のビバリーヒルズに移り住んだ。左手小指の関節痛に悩まされながらも、演奏活動は亡くなる直前まで続けられた。

1943年3月28日、70歳の誕生日を目前にして癌のためビバリーヒルズの自宅で死去した。ラフマニノフ自身はモスクワのノヴォデヴィチ墓地に埋葬されることを望んでいたが戦争中のことでもあり実現できず、6月1日にニューヨーク州ヴァルハラのケンシコ墓地に埋葬された。


音楽

作曲家として

作風
チャイコフスキーの薫陶を受け、モスクワ音楽院でタネーエフに学んだことから、モスクワ楽派(音楽院派、西欧楽派などとも呼ばれる)の流れを汲んでおり、西欧の音楽理論に立脚した堅固な書法を特徴とした。一方で、作曲を志した時期には五人組に代表される国民楽派とモスクワ楽派との対立が次第に緩和されつつあったため、親交のあったリムスキー=コルサコフの影響や民族音楽の語法をも取り入れて、独自の作風を築いた[1]。ロシアのロマン派音楽を代表する作曲家の1人に位置づけられる[6]。

作品に特徴的に見られる重厚な和音は、幼いころからノヴゴロドやモスクワで耳にした聖堂の鐘の響きを模したものといわれる。半音階的な動きを交えた息の長い叙情的な旋律には、正教会聖歌やロシアの民謡などの影響が指摘される。グレゴリオ聖歌の『怒りの日』を好んで用いたことでも知られ、主要な作品の多くにこの旋律を聴くことができる。

すべての作品は伝統的な調性音楽の枠内で書かれており、ロマン派的な語法から大きく外れることはなかった。この姿勢はロシアを出国した以後の作品でも貫かれた。モスクワ音楽院の同窓で1歳年長のスクリャービンが革新的な作曲語法を追求し、後の調性崩壊に至る道筋に先鞭をつけたのとはこの点で対照的だった。

ラフマニノフ自身は1941年の『The Etude』誌のインタビューにおいて、自らの創作における姿勢について次のように述べていた。

私は作曲する際に、独創的であろうとか、ロマンティックであろうとか、民族的であろうとか、その他そういったことについて意識的な努力をしたことはありません。私はただ、自分の中で聴こえている音楽をできるだけ自然に紙の上に書きつけるだけです。…私が自らの創作において心がけているのは、作曲している時に自分の心の中にあるものを簡潔に、そして直截に語るということなのです。

自身が優れたピアニストだったこともあり、ピアノ曲については特に従来から高く評価されてきた。ロシア的旋律に共通する息の長い旋律を、減衰曲線しか描かないピアノの音で表現するという相反する要素を、夥しい数の音符を用いて書き切った作風はロマン派的な意味での「歌う楽器」としてのピアノ書法の完成者といえる。ただし作曲者は卓越した技巧と大きな手を持っていたため、一般の弾き手にとっては困難な運指や和音が多く存在する。ピアノ協奏曲の第2番や第3番、前奏曲や音の絵などのピアノ独奏曲は今日のピアノ音楽における重要なレパートリーとなっている。

メロディには第2拍から始まるものが、ほかの作曲家と比べてかなり大きな割合を占めている(2分の2拍子の場合だと半拍遅れ)。


評価
甘美でロマンティックな叙情を湛えた作品の数々は一般的な聴衆からは熱狂的に支持された一方、批評家や一部の演奏家からはその前衛に背を向けた作風を保守的で没個性的とみなされ、酷評されることが多かった。ロシアに在住していたころから、ヴャチェスラフ・カラトィギンやレオニード・サバネーエフといった批評家からの徹底した批難の対象だった。この傾向は没後も続き、『グローヴ音楽辞典』の1954年版では、「単調なテクスチュア」「つくりものめいた大げさな旋律」と一蹴され、「彼の存命中にいくつかの作品が享受した圧倒的な人気は長くは続かないだろうし、音楽家によって支持されたことはかつてなかった」と切り捨てられた。

ハロルド・C・ショーンバーグはこうした風潮を非道なまでのスノビズムだとして批判し、「作曲家に関して重要なのは、いかに個性を発揮したか、いかによく自己を表現したか、着想がどれほど強固か、であり、これらの点でラフマニノフは大半の作曲家よりも優れている」と主張した[7]。デリック・クックが「演奏家や聴衆からの熱狂的な支持ゆえに、プッチーニとラフマニノフは否定的な評論の集中砲火にもかかわらず我々の音楽体験の中に生き続けている」と述べた[8]ように、『グローヴ音楽辞典』1954年版の予言は現実のものとならなかった。『ニュー・グローヴ音楽大辞典』の1980年版においては、彼の音楽の特性は「顕著な叙情性、表現の幅広さ、構成における独創性、オーケストラの豊かで特徴的な色彩のパレット」と記述された。近年はそれまで演奏される機会の多くなかった作品にも光が当たるようになってきており、熱烈な愛好家もその数を増している[1]。

2014年5月20日、ロンドンのサザビーズにて、ラフマニノフ本人による直筆の楽譜が出品、120万ポンドで落札された。楽譜は、交響曲第2番で320ページに及ぶもの[9]。

演奏家として

ピアノ演奏
ラフマニノフはピアノ演奏史上有数のヴィルトゥオーソであり、作曲とピアノ演奏の両面で大きな成功を収めた音楽家としてフランツ・リストと並び称される存在である[6]。彼は身長2メートルに達する体躯と巨大な手の持ち主で、12度の音程を左手で押さえることができたと言われている(小指でドの音を押しながら、親指で1オクターブ半上のソの音を鳴らすことができた)。また指の関節も異常なほど柔軟であり、右手の人指し指、中指、薬指でドミソを押さえ、小指で1オクターブ上のドを押さえ、さらに余った親指をその下に潜らせてミの音を鳴らせたという。恵まれたこの手はマルファン症候群によるものとする説もある[10]。

ロンドンで彼のピアノ演奏にたびたび接した音楽評論家の野村光一は「彼のオクターヴは普通の人が6度を弾くときぐらいの格好」になったと証言している。野村はさらに続けて次のように述べている[6]。

ラフマニノフの音はまことに重厚であって、あのようなごつい音を持っているピアニストを私はかつて聴いたことがありません。重たくて、光沢があって、力強くて、鐘がなるみたいに、燻銀がかったような音で、それが鳴り響くのです。まったく理想的に男性的な音でした。それにもかかわらず、音楽はロマンティックな情緒に富んでいましたから、彼が自作を弾いているところは、イタリアのベルカントな歌手が纏綿たるカンタービレの旋律を歌っているような情調になりました。そのうえにあの剛直な和音が加わるのだから、旋律感、和声感ともにこれほど充実したものはないのです。

ラフマニノフは楽譜を恣意的に取り扱う傾向という点においても19世紀以来のヴィルトゥオーソの伝統を受け継ぐピアニストであり、彼の楽曲解釈は当時から物議を醸すことがあった。アメリカの音楽評論家、ウィリアム・ジェイムズ・ヘンダーソンがラフマニノフによるショパンのピアノソナタ第2番の演奏について述べた次のような言葉[5]からも、そうした機微を窺うことができる。

彼は作曲家であるばかりではなく、本物のピアニストである—コンポーザー・ピアニストではなく。この日の三つめの曲目はショパンの変ロ短調のソナタだった。この傑出した名人は、この曲を全く独自のやり方で演奏した。彼は全ての旧習を投げ捨て、作曲者の指示を翻案さえした。ここに示されたのはラフマニノフによる原作の翻訳だった。それも素晴らしい訳文だった…。

この変ロ短調ソナタの解釈は—葬送行進曲さえも違った弾き方だった—、権威ある論証に裏付けられ、聴き手に議論の余地を与えなかった。その論理はつけ入る隙がなく、計画は論破できないもので、宣言は威厳に満ちていた。われわれはラフマニノフと同じ時代に生き、彼の神々しいまでの天賦の才能がこの名作を再創造するのを聴くことができるという運命のめぐり合わせに、ただただ感謝するほかはない。それは天才が天才を理解した一日だった。このような場には滅多に立ち会うことができるものではない。そして忘れてならないのは、そこに偶像破壊者の関与はなかったということだ。ショパンはショパンのままだったのである。


指揮
ピアニスト、作曲家としての業績の大きさゆえに今日一般に見過ごされがちだが、ラフマニノフは指揮者としても大きな足跡を残している。マモントフ・オペラやボリショイ劇場で、彼は優秀なオペラ指揮者として信頼を置かれていた。演奏会においても自作のみならずチャイコフスキーやボロディン、リムスキー=コルサコフの作品などで、音楽評論家のユーリイ・エンゲルからアルトゥル・ニキシュやグスタフ・マーラー、エドゥアール・コロンヌにも比肩し得る「生まれながらの天才的指揮者」と評された[1]。ロシアを出国後、1918年にアメリカに渡ったのも、結局受諾しなかったもののボストン交響楽団から演奏会の申し出を受けたのがひとつのきっかけだった。ロシア出国後にピアニストとしての活動に重点を置くようになってからも指揮活動を行っており、自作の交響曲第3番などの録音も残している。


録音
ラフマニノフが演奏活動を行ったのはすでに録音技術が実用化されていた時期のことで、現在でも録音によってその演奏に接することができる。決して数は多くないものの、その録音は資料的価値のみならず、演奏としても非常に貴重なものである。彼はまず1910年代にエジソンレコード社の「ダイヤモンド・ディスク」レコードと契約し、録音を行った。彼は自分が承認した演奏の録音だけが販売されることを望んだが、おそらく単純な不注意のためエジソンレコードは未承認の録音を販売してしまい、ラフマニノフの怒りを買った。これを機に彼はエジソンレコードを去り、以後はビクタートーキングマシン社(のちのRCAビクター社)と契約を結び、多くのレコードを生み出した。

RCAからCDで発売された『ラフマニノフ全集』(10枚組、日本盤発売1992年、再発売1997年)は、エジソン社とRCAに残されたすべてのラフマニノフの演奏による音源を復刻したもので、4曲の協奏曲、交響曲第3番、交響詩『死の島』、多くのピアノ作品、歌曲を含む。フリッツ・クライスラーとの共演によるグリーグのヴァイオリンソナタ第3番などの室内楽曲の録音、自作以外のピアノ作品の演奏も含まれている。これらのいくつかは、ナクソスその他のレーベルでも復刻されている。

これらアコースティック録音のほかに、ピアノロールにも演奏の記録が残されている。はじめは1本の穿孔された紙で正確な演奏を再現できることが信じられなかったラフマニノフだが、1919年にアムピコ社の最初の録音のマスターロールを聞いて、「みなさま、私はたった今、私自身が演奏するのを聞きました!」と述べたと伝えられる。アムピコのための録音は、1929年ごろまで続いた。

人物
生真面目で寡黙な性格だったとされる。彼の人格形成には、幼いころの一家の破産や両親の離婚、姉との死別[注釈 7]などが影響したと指摘される。敬愛したチャイコフスキーの急逝も彼の性格に影を落とした。決定的だったのは交響曲第1番の初演の失敗で、友人に宛てた手紙には「ペテルブルクから帰るときに自分は別人になった」とまで書いている。特にロシアを出国してからは限られた人にしか心を開かなくなり、イーゴリ・ストラヴィンスキーからは「6フィート半のしかめ面」と評された[11]。その一方でシャリアピンの持ち寄るアネクドートにはいつも腹を抱えて笑っていたとも伝えられる。


1902年に作曲した歌曲『ライラック』作品21の5は広く愛され、ラフマニノフのロマンスを象徴する存在となり、ライラックの花は彼の存在と深く結びつけられるようになった。彼の愛したイワノフカの別荘の庭にもライラックは咲き乱れていた。匿名の熱烈な崇拝者からコンサート会場など彼の行く先々に白いライラックの花が届けられるという謎めいた現象が生じたこともあった[注釈 8]。

『聖金口イオアン聖体礼儀』(1910年)と『徹夜禱』(1915年)という正教会の奉神礼音楽の大作を作曲しているが、決して熱心な正教徒というわけではなかったとされる。その彼がこうした宗教音楽の大作を創作したことは同時代人には驚きをもって受け止められたという。ただし『聖金口イオアン聖体礼儀』や『交響的舞曲』の手稿には彼自身の手で「完成、神に光栄」と書きつけられている。

気前のよさでも知られ、ロシア出国後にピアニストとして成功し豊かな収入を得るようになると、革命後の混乱の中で困窮する芸術家や団体を金銭的に支援することを惜しまなかった。彼の援助を受けた団体には、マリインスキー劇場の合唱団や、ロシアに在住していたころから縁のあったモスクワ芸術座などが含まれる。またソビエト連邦がナチスの侵攻を受けて窮地に立たされた際には、ソ連政府を支援するためのチャリティー・コンサートを開催した。

貴族の出身で革命後は国外での生活を選択したラフマニノフだが、革命前の1905年には「自由芸術家宣言」に署名して帝政ロシア当局から目をつけられたという一面もある。この年はボリショイ劇場で不穏な動きがあり、指揮者を務めていたラフマニノフも危険人物の1人とみなされた。ロシアを出国したあとは、亡命ロシア人たちのグループによる政治的な活動からは距離を置いていた。晩年にはヨシフ・スターリンが帰国を迎え入れようとする計画もあったと言われる[12]。

一時期、レフコという名の愛犬を飼っていた。

最先端の機械に興味があり、開発者を助けるためにヘリコプターで有名なシコルスキー社に5,000ドル(今日の約10万ドル)の投資をした。また自動車が好きで、1912年には妻のために初期のガソリンエンジン車(Leigh Company製)を購入した。本人も運転がうまく高速で走ることを好んでいた。当時のロシアにはほとんど車はなかったが、メルセデスやブガッティなど、速度の出るスポーツ車を購入して自ら高速ドライブを楽しんだ。

交友関係

作曲家
チャイコフスキーを熱烈に崇拝していたことはよく知られる。チャイコフスキーから『アレコ』や幻想曲『岩』作品7を称賛されたことを生涯誇りとした。2台のピアノのための組曲第1番『幻想的絵画』作品5はチャイコフスキーに献呈された。1893年にチャイコフスキーが急逝すると、追悼のために悲しみの三重奏曲第2番を作曲した。これはかつてチャイコフスキーがニコライ・ルビンシテインを偲んでピアノ三重奏曲を作曲したのに倣ったものである。

交響曲第1番の初演を指揮したアレクサンドル・グラズノフとはその後も交流が続いた。初演の翌年の1898年にはグラズノフの交響曲第6番を四手のピアノのために編曲している。

モスクワ音楽院で同窓だったスクリャービンとは作風が対照的で、ラフマニノフには彼がせっかくの才能を浪費しているようにしか考えられなかったといわれるが、それでも音楽家として互いに信頼し尊敬し合う仲だった。1915年にスクリャービンが亡くなるとラフマニノフは追悼演奏会を開催した。彼はスクリャービンの前衛的な作品をもプログラムに含めることを厭わなかったが、この2人はピアニストとしての奏法も対照的で、楽曲解釈をめぐってはスクリャービンの支持者から反発を受けた[注釈 9]。ラフマニノフが残したスクリャービン作品の録音は『前奏曲 嬰ヘ短調』作品11-8のみである。ただし、最晩年のピアノ協奏曲第4番ではスクリャービンの影響が指摘されている。

スクリャービンと同じく当時のロシアを代表するピアニスト、作曲家だったメトネルとも親しい間柄だった。ラフマニノフはピアノ協奏曲第4番をメトネルに、メトネルも自身のピアノ協奏曲第2番をラフマニノフに、それぞれ献呈した。メトネルはラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の第1楽章第1主題を聴くと「ゆるやかな鐘の音とともに、ロシアがそのおおきな体いっぱいに立ち上がるような気が」すると述べた[1]。ラフマニノフはメトネルのおとぎ話ホ短調作品14の2「騎士の行進」を「奇跡」と評した[13]。


演奏家
従兄のジロティはモスクワ音楽院入学のきっかけを作ったのみならず、その後も生涯を通じてラフマニノフと深く関わり続けた。ナターリヤとの結婚式ではジロティが花婿の介添人を務めた。ピアノ協奏曲第1番と『10の前奏曲』作品23はジロティに献呈され、ピアノ協奏曲第2番の初演はラフマニノフのピアノとジロティの指揮により行われた。

モスクワ音楽院時代からの演奏家の友人にはユーリ・コニュスやアナトーリー・ブランドゥコーフ、パーヴェル・パプスト、アレクサンドル・ゴリデンヴェイゼルなどがいる。ラフマニノフはそれぞれと演奏家として共演したり、作品を献呈したりしている。のちにラフマニノフの次女はコニュスの息子と結婚した。

シャリアピンとはマモントフ・オペラで出会って以来、終生の友情を結んだ。カンタータ『春』のバリトン独唱パートやオペラ『けちな騎士』、『フランチェスカ・ダ・リミニ』の主役はシャリアピンを想定して作曲されたものである。

ロシアを出国後に親交を結ぶようになったピアニストとしてベンノ・モイセイヴィチがいる。1919年のモイセイヴィチのアメリカ・デビュー・コンサートにラフマニノフが聴衆の1人として立ち会ったことから両者の交流が始まった。ラフマニノフはモイセイヴィチによるピアノ協奏曲第2番などの演奏を自分よりも優れていると称賛した[14]。

アメリカでラフマニノフと親交を結んだもう1人のピアニストがウラディミール・ホロヴィッツである。ホロヴィッツは1928年のアメリカ・デビュー・コンサートの4日前にラフマニノフと初対面を果たし、ピアノ協奏曲第3番を2台のピアノのための版で演奏した(ホロヴィッツがソロを弾き、ラフマニノフが伴奏パートを受け持った)[15]。のちにラフマニノフはこの曲の演奏をホロヴィッツなどより若い世代のピアニストに委ね、自分では演奏を避けるようになったという[16]。


その他の芸術家
ラフマニノフがチャイコフスキーと並んで崇拝した芸術家がチェーホフだった[注釈 10]。ラフマニノフは1893年にチェーホフの短篇小説『旅中』に着想を得た幻想曲『岩』作品7を作曲した。1898年にはシャリャーピンとの演奏旅行で訪れたヤルタでチェーホフと出会い、直接の親交を結んだ。初対面の際にチェーホフがかけた「あなたは大物になります」という言葉を、彼は生涯の宝物とした。チェーホフの没後の1906年には戯曲『ワーニャ伯父さん』のセリフを元に歌曲「わたしたち一息つけるわ」作品26の3を作曲した。

マリエッタ・シャギニャンとは、彼女が “Re” というペンネームでラフマニノフに手紙を送ったことから交際が始まった。彼女はその後もしばらくは匿名で手紙を交わしたが、のちに彼女の正体はラフマニノフの知るところとなり、両者は直接会うようにもなった。ラフマニノフの自宅でメトネル夫妻を交えて会食したこともあった。1912年には彼女の選んだ詩を元に歌曲集作品34を作曲し、第1曲『ミューズ』をシャギニャンに献呈した。

文学者としてはこのほかにマクシム・ゴーリキーやアレクサンドル・ブローク、イヴァン・ブーニンと親交があった。ゴーリキーはラフマニノフの作品を聴いて、「彼は静寂を聴くことができるんですな」と感嘆したと伝えられる[5]。

コンスタンチン・スタニスラフスキーをはじめとするモスクワ芸術座のメンバーとも交流があった。1908年に開催されたモスクワ芸術座の10周年記念行事では、当時ドレスデンに滞在中で参加できなかったラフマニノフがスタニスラフスキーに宛てた手紙形式の祝辞を歌曲に仕立て上げ、それをシャリアピンが歌うという一幕があった。

女優のヴェラ・コミサルジェフスカヤとも親しかった。1910年に彼女が天然痘のために急逝すると、ラフマニノフは追悼のために歌曲『そんなことはない』作品34の7を作曲した。

作品

作品番号で45の作品が残されているが、そのうちの作品39までがロシア革命(1917年)前に書かれている。完成された作品として3曲の交響曲、4曲のピアノ協奏曲、2曲のピアノソナタを含む多数のピアノ曲、管弦楽曲、合唱曲、歌曲、オペラがある。すべての作品はイギリスの楽譜出版社、ブージー・アンド・ホークスが版権を持っている。ラフマニノフの完全な全集を作る試みがロシア本国で始まった[18]が、中断中である。

調性としては短調が非常に多く、特にニ短調を好んで用いた。また、前述のとおり「怒りの日」がしばしば使われている。

管弦楽作品

交響曲ニ短調 (1891年)
単一楽章。第1楽章だけで、あとは未完。「ユース・シンフォニー」と通称される。
交響曲第1番ニ短調作品13(1895年)
交響曲第2番ホ短調作品27(1906年 - 1907年)
第3楽章の甘美なメロディーは広く知られる。
交響曲第3番イ短調作品44(1936年)
遠くロシアを離れながら、祖国を思う感情が濃厚である。自作自演による録音も存在する。
幻想曲『岩』作品7(1893年)
ジプシーの主題による綺想曲作品12(1894年)
交響詩『死の島』作品29(1909年)
アルノルト・ベックリンの絵画「死の島」のモノクロの複製画に着想を得て作曲した作品。何度も改訂されている。
交響的舞曲作品45(1941年)


ピアノと管弦楽のための作品

ピアノ協奏曲第1番嬰ヘ短調作品1(1890年 - 1891年、初稿と改訂稿がある。)
ピアノ協奏曲第2番ハ短調作品18(1900年 - 1901年)
その美しさでラフマニノフを代表する作品であり、クラシック音楽のなかでももっともポピュラーな作品のひとつ。映画『逢びき』『旅愁』『七年目の浮気』などで使用されたことでも知られる。
ピアノ協奏曲第3番ニ短調作品30(1909年)
第2番に知名度では劣るものの、高度な演奏技術を要求されるピアノ協奏曲。技術的・音楽的要求においてピアノ協奏曲の中で最難関のひとつとも言われている。
ピアノ協奏曲第4番ト短調作品40(1927年、初稿と改訂稿がある。)
パガニーニの主題による狂詩曲作品43(1934年)
変奏曲の形態を取った狂詩曲。第18変奏は反行形で作曲され、ラフマニノフならではの叙情性に溢れており特に有名。


室内楽曲
悲しみの三重奏曲第1番(ピアノ三重奏曲)ト短調(1892年)
悲しみの三重奏曲第2番(ピアノ三重奏曲)ニ短調作品9(1893年)
チェロ・ソナタト短調作品19(1901年)


ピアノ曲
ラフマニノフのピアノ独奏作品の演奏は極めて難しく、2020年の現在をもってしても全ピアノ作品の録音に成功したピアニストは、マイケル・ポンティ、ルース・ラレード、ウラディミール・アシュケナージ、ハワード・シェリー、イディル・ビレット、セルジオ・フィオレンティーノ[19]、アルトゥール・ピサロの7人しかいない。

ピアノ・ソナタ第1番ニ短調作品28(1907年、初稿と改訂稿があるものの、出版されているのは改訂稿のみ。)
ピアノ・ソナタ第2番変ロ短調作品36(1913年、初稿と改訂稿があり、どちらも出版されている。)
楽興の時作品16(1896年)
前奏曲嬰ハ短調作品3の2(1892年)
1893年に出版されたピアノ曲集『幻想的ピアノ小曲集』作品3の第2曲。初演以来熱狂的な人気を獲得し、ラフマニノフの代名詞的な存在となった作品。
前奏曲集作品23(1901年 - 1903年)、作品32(1910年)
前奏曲ト短調作品23の5(1901年)
練習曲集『音の絵』作品33(1911年)、作品39(1916年 - 1917年)
レスピーギが5曲を抜粋して管弦楽に編曲している。
組曲第1番『幻想的絵画』作品5(1893年)
組曲第2番作品17(1901年)
組曲第1番・第2番はともに2台のピアノのための作品。
ショパンの主題による変奏曲作品22(1902年 - 1903年)
ショパンの前奏曲ハ短調作品28の20のコラール風の主題による変奏曲。
コレルリの主題による変奏曲作品42(1931年)


声楽曲
「ヴォカリーズ」作品34の14(1915年)
ヴォカリーズとは、歌詞がなく、母音のみで歌われる歌曲のこと。さまざまな編成に編曲され親しまれている。
合唱交響曲『鐘』作品35(1913年)
3人の独唱者・合唱・管弦楽のための作品。エドガー・アラン・ポーの詩のコンスタンチン・バリモントによるロシア語訳に基づく。
聖金口イオアン聖体礼儀作品31(1910年)
徹夜禱作品37(1914年 - 1915年)
以上2曲は正教会のための奉神礼音楽。


歌劇
『アレコ』(1892年)
『けちな騎士(英語版)』作品24(1903年)
『フランチェスカ・ダ・リミニ(英語版) 』作品25(1904年)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%82%B2%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%8E%E3%83%95
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/817.html

[近代史6] セルゲイ・ラフマニノフ(Sergei Vasil'evich Rachmaninov1873 - 1943) 中川隆
1. 中川隆[-16109] koaQ7Jey 2021年10月06日 15:17:11 : ysUaxmWtj8 : SXFLbnFMU3E1ZGc=[27]
最美の音楽は何か? _ ラフマニノフ『ピアノ協奏曲第2番 ハ短調 作品18』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/338.html

ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/989.html

ラフマニノフ ピアノ協奏曲第3番
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/943.html    
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/817.html#c1

[近代史6] リヒャルト・シュトラウス(Richard Georg Strauss, 1864 - 1949)
リヒャルト・シュトラウス(Richard Georg Strauss, 1864 - 1949)

交響詩は、まだ存命だったブラームスとは時代の違うドイツの代表的な近代的な管弦楽法と、マーラーやブルックナーのように長大でなく気軽に楽しめる点で演奏頻度が高い人気曲が多い。
他のジャンルも優秀な作品を残しており、自分はほとんど聞いたことがないがオペラ作曲家として特に評価が高い。後期ロマン派の中ではバランスと総合性があり優秀な作曲家。


交響詩

『ドン・ファン』1888年
3.3点
交響詩というより交響的な舞台物語を見せてくれる感じである。正直なところ音楽が心に響く場面は無い。その意味では凡庸な曲だが、実に達者な管弦楽の扱い方を見せるので、しきりと感心してしまう。

『マクベス』1890年
2.5点
リヒャルト・シュトラウスの良さは部分的には現れているが、主題の魅力や音楽的な展開の自由で達者な筆致が足りず、まだ高みに登ることが出来ていない作品であり、努力を感じるが物足りないまま終わる。

『死と変容』1889年
3.3点
儚く美しい生の思い出と死を描いた曲。情緒的で浄化された美しさがあり、活発な部分もリヒャルト・シュトラウスにしてはロマン派的な分かりやすい曲になっている。しかし、展開はあるものの緩やかであり生への執着を描写するにしても25分はさすがに冗長である。死をテーマにしているため、マーラー晩年の曲に似ている。

『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』op.281895年
3.3点
管弦楽によるユーモラスな冒険活劇。描写的な音楽であり、ナレーションが欲しいほどである。巧みな管弦楽法とユーモラスなフレーズを楽しむ曲。

『ツァラトゥストラはこう語った』1896年
3.5点
有名な冒頭場面は心踊る。それ以降は大規模管弦楽を活用した場面表現力の卓抜さが際立つ。自然世界と人間の精神世界を行き来するような不思議な感覚の音楽が続く。心には響かないが興味深く音楽を追う事が出来る。一番長い後半の舞踏の部分とその後の終結部分は楽しい。

『ドン・キホーテ』(Don Quixote)1897年
3.5点
明るい曲だが、それほどユーモラスな印象はなく、むしろかなり叙情的である。独奏チェロと独奏ヴィオラの活躍もあるためかなり聴きやすい曲である。様々な場面展開が楽しめるし、変奏曲と銘うっていることもあり、リヒャルト・シュトラウスには珍しい落ち着いて聴ける居心地のよさがある。しなやかな叙情性と旋律の豊さは素晴らしい。

『英雄の生涯』(Ein Heldenleben)1898年
3.3点
歌のないオペラと呼びたいほど物語的な内容である。大規模な管弦楽の機能をフル活用して壮大かつ劇的に音楽が展開していく様は聞き物である。前半はあまり心に響かず、曲に思い入れを持ちにくい。後半は情緒的で聴きやすい。


交響曲

家庭交響曲(Sinfonia domestica) 1903年
3.0点
交響曲と命名されているが、表題性があり、内容は交響詩とにたようなものと思う。交響曲らしい総合性は少ししか感じられない。逆にいうと、楽章構成の中に少しは感じる。マーラーのようなゴージャスな管楽器の活躍する管弦楽の使い方が楽しい。演奏はいかにも難しそうだ。メロディーにはそれほど魅力がないが、派手だが艶めかしく幻想的で柔らかさもある雰囲気は悪くない。ただ正直にいって、こんな派手で大仕掛けの音楽は『家庭』を連想しないけれど。

アルプス交響曲(Eine Alpensinfonie) 1915年
4.0点
リヒャルト・シュトラウスはメロディーが分かりにくくて、とっつきにくい曲が多いが、この曲は表題的で非常にわかりやすい。まさに、彼の管弦楽曲の大作としての総決算と思う。交響詩の世界の広さを拡大して、精神的に成熟させて力みをなくしている。さらに、具体性を持たせて、親しみやすくさせたものに感じる。マーラーに近いが、マーラーと比較して哲学的なものが無い表題音楽であり、そこが良い。エンターテインメント音楽であり、余計な事を考えずに楽しめる。管弦楽法はやはりゴージャスで楽しめる。これほどのワクワク感やドキドキ感は彼の他の管弦楽曲では感じない。ロマン的心情を素直に表現しているからかもしれない。


管弦楽曲

交響的幻想曲『イタリアから』 1886年
3.3点
交響詩を書き始める前に書かれた4楽章の大規模作品。後期ロマン派らしいロマンティックで濃厚である。オーケストラを存分に壮大に歌わせており、ワーグナーに似ている。耳を楽しませるという点では、交響詩群に勝るとも劣らないと思う。何と言っても分かりやすいため、交響詩が苦手な人にもお勧めできる。しかし、精神的な成熟感や作曲者のオリジナリティやオーケストラの機能のフル活用という点では、少し落ちると思う。まだ技術が発展途上という印象であり、それにしては交響曲の長さであるため聴くのが大変。最終楽章よフニクリ・フニクラを使った楽章はウキウキ感とイタリアらしい陽気さがあってとても愉しい。


協奏曲

ヴァイオリン協奏曲ニ短調 作品8 1882年

ブルレスケ ニ短調(ピアノと管弦楽) 1885年
2.8点
まだ最初の交響詩を書いていない初期の単一楽章ピアノ協奏曲。明確な和声と若干腰が重く重厚な中で醸し出すロマンチックな雰囲気、ピアノと管弦楽の交響的な協奏など、ブラームスの影響を強く感じる。
ピアノがかなり前面に出て華々しく活躍し、オーケストラも派手である点で聴きやすい曲なのだが、長くて捕らえ所が分からず聴いた後に残るものがない。

ホルン協奏曲第1番変ホ長調 作品11 1883年
2.8点
作曲者18才の時の作品であり、シューマンやメンデルスゾーンのような音楽で、後期ロマン派らしさは殆どない。ホルン協奏曲として貴重なレパートリーなのだろうし、聴きやすい曲ではあるが、あまり面白いという印象はない。リヒャルト・シュトラウスのルーツが分かる点では面白いが。

ホルン協奏曲第2番変ホ長調 1942年
2.5点
前作から60年を経た作品。長生きぶりが分かる。作品としては、1942年にしてはかなり古典的であり調性が明確だが、彼らしいヌルヌルとした滑らかさと転調の妙は生きている。独奏は出ずっぱりで大活躍であるが、楽想はかなり掴みにくい。切れ目なくなんとなく微妙に雰囲気が変遷していく。独奏も何かを言いたいのか、よく分からない。3楽章は音楽が一度切れてから盛り上がるから、分かりやすくなる。全体に、創造性に関して意志の明確さを欠いているように感じられる。いい曲とは言えないと思う。

オーボエ協奏曲 1945年
2.5点
1楽章は明快で流麗なオーボエが全面にでている。しかし、それ以上のものが何もない。2楽章は憂いのある少し美しい音楽。かなり古典的な内容。3楽章は、ユーモアもある美しく流れるような活発さで、一番優れた楽章である。ただし冗長なので後半は飽きてくる。

二重小協奏曲(クラリネット、ファゴット、ハープ、弦楽合奏)1947年
3.0点
2種類の管楽器による協奏曲は珍しいと思うが、ここでは成功している。オペラの伴奏の上で2人が歌っているような曲の雰囲気である。管楽器の協奏曲は、和音が出せないこともあり、どうしても一本調子になりがちである。この曲は違う2本の独奏のため、ずっと変化が多くなっている。それを楽しむ曲。このような構成の曲がもっと多ければよかったのにと思う。曲想としてはシンプルなもので特筆するべきものはないと思う。


室内楽

チェロ・ソナタ 1883年
3.0点
まだ18歳の作品であり、古風なロマン派の定跡の範囲内で書かれている。強い個性は感じられない。耳当たりの良さと、ある意味で上品で踏み外していないところが、とても聴きやすい曲という印象を与える。知らずに聞けばメンデルスゾーンと同世代の作曲家の曲に聞こえるだろう。精神的にはまだ大人になっていなくて定跡通りで面白くない部分は気になるが、華がありゴージャスで聞き映えのするソナタとして案外楽しめる。

ヴァイオリン・ソナタ 1888年
3.3点
1楽章はゴージャス感のある、交響的なスケール感のある曲。まだロマン派の真っ只中のような雰囲気。感情の変遷が楽しいとともに、曲の巨大さが心地よい。3楽章も似たところが多分にある。2楽章はロマン派らしい魅力。全体にヴァイオリンソナタとして存在感のある曲。ただし、スケール感の代償ではあるが音楽の密度の濃さが足りないと思う。

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%B9


リヒャルト・ゲオルク・シュトラウス(Richard Georg Strauss、1864年6月11日 - 1949年9月8日)は、ドイツの後期ロマン派を代表する作曲家のひとり。交響詩とオペラの作曲で知られ、また、指揮者としても活躍した。ウィーンのヨハン・シュトラウス一族とは血縁関係はない。


シュトラウスの生涯

出生とその成長
シュトラウスは、1864年6月11日にバイエルン王国のミュンヘンでミュンヘン宮廷歌劇場の首席ホルン奏者であったフランツ・シュトラウス(Franz Strauss, 1822年-1905年)の子として生まれた。 母親はミュンヘンの有名なビール醸造業者(プショール醸造所)の娘だった。シュトラウスは幼いときから父親によって徹底した、しかし保守的な音楽教育を受け、非常に早い時期から作曲を始めた。1882年にミュンヘン大学に入学するが、1年後にベルリンに移った。そこでシュトラウスは短期間学んだ後、ハンス・フォン・ビューローの補助指揮者の地位を得て、1885年にビューローがミュンヘンで辞任するとその後を継いだ。

音楽の変化と発展 
この頃までのシュトラウスの作品は父親の教育に忠実で、シューマンやメンデルスゾーン風のかなり保守的なものであった。モーツァルトを崇敬しており、「ジュピター交響曲は私が聴いた音楽の中で最も偉大なものである。終曲のフーガを聞いたとき、私は天国にいる思いがした」[1]と語ったという。なおシュトラウスは1926年に自身の指揮でこの曲を録音している。

シュトラウスが当時の新しい音楽に興味を持つきっかけとなったのは、優れたヴァイオリン奏者で、ワーグナーの姪の1人と結婚したアレクサンダー・リッターと出会ったときからである。シュトラウスが革新的音楽に真剣に向き合うようになったのは、リッターによるところが大きい。この革新的傾向はシュトラウスに決定的な影響を与え、1889年に初演され、シュトラウスの出世作として最初に成功した作品、交響詩『ドン・ファン』(Don Juan)が生まれた。この作品に対して聴衆の半数は喝采し、残り半数は野次を浴びせた。シュトラウスは彼の内なる音楽の声を聞いたことを知って、「多数の仲間から狂人扱いされていない芸術家など誰もいなかったことを十分に意識すれば、私は今や私が辿りたいと思う道を進みつつあると知って満足している」として、交響詩の作曲を続けた。その中には『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』(Till Eulenspiegels lustige Streiche, 1895年)、シュトラウスの死後に映画『2001年宇宙の旅』で使われ有名になった『ツァラトゥストラはかく語りき』(Also sprach Zarathustra, 1896年)がある。

1894年、シュトラウスはバイロイト音楽祭で『タンホイザー』を指揮する。シュトラウスはこの時、エリーザベトを歌っていたソプラノ歌手のパウリーネ・デ・アーナ(ドイツ語版)とたちまち恋に落ち結婚した。シュトラウス夫人となったパウリーネはその激しい性格により、恐妻家シュトラウスの妻として幾つかの逸話を残している。代表的なものはマーラーが妻アルマに送った1907年1月の手紙であり、そこでマーラーはベルリンに住んでいたシュトラウスの家を訪ねた際のことを書き残している。 (以下マーラーの文章)「パウリーネは私を出迎えると自分の部屋に私を引っ張り込み、ありとあらゆるつまらぬ話を豪雨のように浴びせかけ、私に質問の矢を放つのだが、私に口を出す暇を与えないのだ。それから疲れて寝ているシュトラウスの部屋へ、私を両手で掴んで有無を言わせず引っ張って行き、金切り声で“起きてちょうだい、グスタフが来たのよ!”。シュトラウスは受難者めいた顔つきで苦笑しながら起きると、今度は3人で先程の話の蒸し返し。それからお茶を飲み、パウリーネに土曜日の昼食を一緒にすることを約束させられて、2人に宿泊先のホテルまで送ってもらった。」[2] しかし、彼女が「主婦として、よくシュトラウスに尽くしていた」ことも指摘されている[3]。なおパウリーネとの家庭生活に想を得た作品として、歌劇『インテルメッツォ』と『家庭交響曲』があり、『影のない女』の染物師の妻もパウリーネがモデルとされる。

1898年、最後の交響詩『英雄の生涯』(Ein Heldenleben)を書き上げたシュトラウスは、関心をオペラに向けるようになった。このジャンルでの最初の試みである『グントラム』(1894年作曲)は主に自作の稚拙な台本のせいで酷評され失敗に終った。続く『火の危機』(1901年作曲)もミュンヘン方言のオペラということもあり、一定の評価を収めたにとどまった。1903年には以前から成功していた管弦楽曲の分野に戻り『家庭交響曲』を完成させる。しかし、1905年にオスカー・ワイルドの戯曲のドイツ語訳に作曲した『サロメ』(Salome)を初演すると、空前の反響を呼んだ。ただし、聖書を題材にしていることや、エロティックな内容が反社会的とされ、ウィーンを始め上演禁止になったところも多い。ニューヨークのメトロポリタン歌劇場がこの作品を上演した時などは、終演後の聴衆の怒号の余りの激しさにたった1回で公演中止になったほどであった。マーラーら、当時の作曲家達はその前衛的な内容に深く共感し、シュトラウスはオペラ作曲家としての輝かしい第一歩を踏み出した。シュトラウスの次のオペラは1908年に完成した『エレクトラ』 (Elektra) で、前衛的手法をさらに徹底的に推し進めた。多調、不協和音の躊躇なき使用などを行い、調性音楽の限界を超えて無調音楽の一歩手前までに迫った。この作品はシュトラウスが詩人フーゴ・フォン・ホーフマンスタールと協力した最初のオペラでもある。このコンビはホーフマンスタールが死去するまで、音楽史上稀に見る実り豊かな共作を続けていくことになる。

そのホフマンスタールとの共同作業第2作目になる『ばらの騎士』(Der Rosenkavalier, 1910年)で、大成功をおさめ作曲家としての地歩を固める。シュトラウスは『ばらの騎士』を境に前衛的手法の追求を控え、当時興隆しつつあった新ウィーン楽派や新古典主義音楽などとは一線を画して後期ロマン主義音楽の様式に留まり続けたため、結果的に穏健派の立場に立つこととなる。1915年に『アルプス交響曲』を完成させた後も、最後のオペラ作品となる『カプリッチョ』(1941年)に至るまで精力的にオペラを作曲した。

後期の作品は先進派からの評価は低いが、今日では時代の先端であった前期の作品を中心に多く演奏されている。最後の10年間は創作ペースが落ちたものの『カプリッチョ』『4つの最後の歌』(1948年)などの重要な作品があり、『ドン・ファン』から数えると、代表作を生み出した期間が60年におよんでいる。管弦楽作品とオペラの両方に多くの代表作を残したという点では、モーツァルト以来の存在とする見解もある。

ナチスへの協力
1930年代以降のナチス政権下のドイツにおいて、シュトラウスと政治との関わりをめぐっては今に至るも多くの議論がある。一方は、シュトラウスが第三帝国の帝国音楽院総裁の地位についていたこと、ナチ当局の要請に応じて音楽活動を行った事実を指摘し、この時代のシュトラウスを親ナチスの作曲家として非難する見解である。もう一方は、シュトラウスの息子フランツ・シュトラウス(1897–1980)の妻がユダヤ人であり、その結果シュトラウスの孫もユダヤ人の血統ということになるために、自分の家族を守るためにナチスと良好な関係を維持せねばならなかった事情を考慮して擁護する見解である。事実、シュトラウスはオペラ『無口な女』の初演のポスターから、ユダヤ人台本作家シュテファン・ツヴァイクの名前を外すことを拒否するという危険を犯し、自身の公的な地位を使って、ユダヤ人の友人や同僚達を救おうとしたとする見解もある。さらにはシュトラウスもナチスに利用された被害者だったとする意見もある。

シュトラウスは第二次世界大戦終結後、ナチスに協力したかどで連合国の非ナチ化裁判にかけられたが、最終的に無罪となった。なお、1940年(昭和15年、皇紀2600年)にはナチスの求めに応じて、日独伊防共協定を結んだ日本のために「日本の皇紀二千六百年に寄せる祝典曲」を書いている(当該項目を参照)。

終戦後とその死
終戦後、シュトラウスは裁判の被告となったこともあり、表だった活動は控えていたが、周囲からのすすめもあり、ロンドン公演を実施している。イギリス人にとってもはやシュトラウスは“過去の人”であったが、自ら指揮棒を持ち健在ぶりをアピールしている。このときの演目は『家庭交響曲』(シュトラウス本人は『アルプス交響曲』を希望したが、当日に別の演奏会があったためにオーケストラ人員が確保できなかった)。なおこの時、ロンドンの行く先々で「あなたがあの『美しく青きドナウ』の作曲者ですか?」と、尋ねられたという逸話が残されている(英国は非ドイツ語圏で最大のヨハン・シュトラウス協会を持つウィンナワルツ愛好国である)。

1948年、時間をもてあましていたシュトラウスは家族に薦められて最後の作品のひとつである『4つの最後の歌』を作曲した(出版はシュトラウスの死後。実際にはその後もいくつかの歌曲が書かれた)。シュトラウスは生涯を通じて数多くの歌曲を書いたが、これは恐らくシュトラウスの歌曲の中でもっとも有名なものの1つであろう。すでにシュトックハウゼン、ブーレーズ、ノーノ、ケージといった前衛作曲家達が登場し始めていた時代にあって、シュトラウスの作品はあまりにも古風で時代遅れであった。シュトラウス自身も戦後すぐの放送インタビューで「私はもう過去の作曲家であり、私が今まで長生きしていることは偶然に過ぎない」と語った。にも関わらず、この歌曲集は聴衆からも演奏家からも高い人気を誇っている。他の作品においても、同時代の評価は年数が経過するごとに見えにくくなり、彼の名も忘れ去られるどころか今なお20世紀の作曲家としては最も演奏機会の多い1人となっている。

晩年のシュトラウスは庭の花を観てよく「私がいなくなっても、花は咲き続けるよ」と呟いたという。シュトラウスの最後の作品は歌曲「あおい」であった。

シュトラウスは1949年9月8日、ドイツのガルミッシュ=パルテンキルヒェンで死去した。遺言により、葬儀では『ばらの騎士』第3幕の三重唱が演奏された。


指揮者シュトラウス
親交のあったマーラーと同様に、シュトラウスも又作曲家としてのみならず指揮者としても著名であり、生前は自作も含め数多くのオペラやコンサートを演奏した。指揮者としてのシュトラウスは、トップクラスの歌劇場であるミュンヘン、ベルリン及びウィーンの歌劇場で要職をも務めたほどである。(ただし後には自作の初演も他の指揮者に委ねるようになった)。

指揮の師はハンス・フォン・ビューローであり、彼のもとで指揮法の訓練を受けた。

若い頃のシュトラウスはフランスの作家ロマン・ロランに「気違いだ!」と評されるほど激しい身振りを身上とするダイナミックな指揮スタイルであった。しかし後年は、弟子のカール・ベームやジョージ・セルらから想像がつくように、簡潔で誇張の少ない抑制されたものになった。


またベームの証言によれば、『影のない女』を指揮した際、指揮姿を撮影していたカメラマンが「左手を出して、立って指揮をしてくれませんか?」と懇願したところ、「私は以前から指揮するときはいつもこうと決めている。今後もずっと、左手を出さずに座って指揮をする!」と怒り出したという。ところが、ある日クライマックスでつい熱が入ってしまい、思わず左手を出して立ち上がって指揮をしたことがあった。公演終了後、ベームは「先生は、常日頃から自分の指揮法について『これは絶対に守らなければならない!』とおっしゃっていました。しかし今日ばっかりは先生自らその戒めを破ってしまいましたね?」とからかうと、シュトラウスはむっつりしたまま逃げ去るように帰っていったという。また別の逸話では「ギャラを二倍にしてくれるなら両手で指揮してもいいよ」と、語ったともいわれる。

指揮者としての心構えをベームに対して「右手で拍子をとるのは外面的なことで、楽員が自らの場所を見失わないようにするためである。その他は全て精神的なものから来る。指揮者の表情は曲の抒情的な部分や劇的な部分で変化すべきであるし、作品に現われる愛や憎悪を共に体験しなければならないのだ」と語ったという。

もっとも、セルの証言によればシュトラウスは演奏よりもトランプゲームの「スカート」を好んでいたらしく、ある時、オペラ『フィデリオ』の指揮中に懐中時計を見たところ、このままではトランプの時間に間に合わないことに気づき、いきなり猛スピードで指揮をしたという。

シュトラウスの演奏は自作自演も含め、数多くの録音が残されており、その姿は写真のみならず幾つかのフィルムで偲ぶことができる。

シュトラウスの作品
年は作曲完了年(作曲年月日)【台本作家】

オペラ/舞台作品

『トーリードのイフィジェニー』AV186 1890年(1890.9ヴァイマル)独語版改作 --- 原曲:グルック
『グントラム』op.25 1892年(1892.11.24)【作曲家自身】― 初演失敗、オペラ作曲を一度は諦める
『火の危機(英語版)』(火の消えた町)op.50 1901年 (1901.5.21)【エルンスト・フォン・ヴォルツォーゲン】
『サロメ』op.54 1905年(1905.6.20(サロメ舞曲なし)、1905.8月下旬;サロメ舞曲)【オスカー・ワイルド/H.ラハマン】
『エレクトラ』op.58 1908年(1908. 9.22ガルミッシュ)【ホーフマンスタール】
『ばらの騎士』op.59 1910年(1910.9.26ガルミッシュ)【ホーフマンスタール】
『ナクソス島のアリアドネ』op.60(I) 1912年(1910. 7.22)(モリエールの戯曲「町人貴族」をホーフマンスタールが改作、シュトラウスの音楽つきで上演したさいに劇中で上演された)【ホーフマンスタール】― 初演失敗
『ナクソス島のアリアドネ』op.60(II) 1916年(1916. 6.19)(改訂版;町人貴族なし)【ホーフマンスタール】― 現在一般に上演されている版
『影のない女』op.65 1917年(1917.6.24)【ホーフマンスタール】
喜劇『町人貴族』op.60(III) (1917.10.11)【モリエール/ホーフマンスタール】
『インテルメッツォ』op.72 1923年(1923.8.21ブエノスアイレス)【作曲家自身】
劇音楽『アテネの廃墟』AV190 1924年 ガルミッシュ ― ベートーヴェン原曲【ホーフマンスタール】
映画音楽『薔薇の騎士』op.112 1925年(1925.10.18ガルミッシュ)【ホーフマンスタール】
『エジプトのヘレナ』op.75 1927年(第1稿;1927.10.8ガルミッシュ)【ホーフマンスタール】― 初演失敗
『イドメネオ』o.op.117/AV191 1930年(1930.9.28ガルミッシュ)― モーツァルト原曲【L.ヴァラーシュタイン、作曲家】
『アラベラ』op.79 1932年(1932.10.12)【1幕;ホーフマンスタール、2,3幕はホーフマンスタール死去のため作曲家による自由な改変】
『エジプトのヘレナ(英語版)』op.75 1933年(1933. 1.15ガルミッシュ;ウィーン改訂稿)― 現代最もポピュラーな版
『無口な女』op.80 1935年(1935.1.17ガルミッシュ)【シュテファン・ツヴァイク】
『平和の日(英語版)』op.81 1936年(1936. 6.16ガルミッシュ)【シュテファン・ツヴァイク(原案)、ヨーゼフ・グレゴール(英語版)】
『ダフネ』op.82 1937年(1937.12.24タオルミナ)【ヨーゼフ・グレゴール】
『ダナエの愛(英語版)』op.83 1940年(1940.6.28ガルミッシュ)【ヨーゼフ・グレゴール】
『カプリッチョ』op.85 1941年(1941.8.3ガルミッシュ)【クレメンス・クラウスと作曲家自身】
『ロバの影』AV300 1948年(未完・オペレッタ・スイス;カールハウスナーによる管弦楽補完)【ハンス・アドラー】


バレエ音楽
バレエ音楽『ヨゼフ伝説(英語版)』作品63 1914年(1914.2.2ベルリン)【H.G.ケスラー、ホーフマンスタール】
バレエ音楽『泡雪クリーム(英語版)』作品70 1922年 (1922.9.16ガルミッシュ)【作曲家自身】


歌曲
『子守歌』1878年
『奉納(献呈)』作品10-1 1882年-1883年
『万霊節』作品10-8 1883年
『セレナーデ』作品17-2 1887年
『ツェツィーリエ(英語版)』作品27-2 1894年
『ひそやかな誘い』作品27-3 1894年
『あした』作品27-4 1894年
『黄昏の夢』作品29-1 1895年
『子守歌』作品41-1 1899年
『商人の鑑(英語版)』作品66 1918年
『4つの最後の歌』Vier Letzte Lieder 1948年
第1曲『春(Frühling)』1948.7.18
第2曲『九月(September)』1948.9.20
第3曲『眠りにつくとき(Beim Schlafengehen)』1948.8.4
第4曲『夕映えの中で(Im Abendrot)』1948.5.6
『あおい』(遺作)1948年


合唱曲
『さすらい人の嵐の歌』作品14(混声合唱と管弦楽)
『2つの歌』 作品34(無伴奏混声合唱)
夕 Der Abend
讃歌 Hymne
『オリンピック讃歌』(混声合唱と管弦楽) - オリンピックの開会式と閉会式などで必ず演奏されるサマラス作曲の『オリンピック賛歌』とは別の曲。
『タイユフェ』作品52(ソプラノ・テナー・バス独唱・混声合唱と6管編成の管弦楽のためのバラード)
『ドイツモテット』 作品62(無伴奏混声合唱)
『リュッケルトによる3つの男声合唱曲』(無伴奏男声合唱)


交響詩
『ドン・ファン』1888年
『マクベス』1890年
『死と変容』1889年
『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』op.281895年
『ツァラトゥストラはこう語った』1896年
『ドン・キホーテ』(Don Quixote)1897年(チェロとヴィオラの協奏的作品)
『英雄の生涯』(Ein Heldenleben)1898年


交響曲
交響曲(第1番)ニ短調 1880年
交響曲第2番ヘ短調 作品12 1884年
家庭交響曲(Sinfonia domestica) 1903年
アルプス交響曲(Eine Alpensinfonie) 1915年


協奏曲
ヴァイオリン協奏曲ニ短調 作品8 1882年
ブルレスケ ニ短調(ピアノと管弦楽) 1885年
家庭交響曲余録 作品73(左手ピアノと管弦楽)
パンアテネの大祭 作品74(左手ピアノと管弦楽)
ロマンツェ ヘ長調(チェロと管弦楽)
ホルン協奏曲第1番変ホ長調 作品11 1883年
ホルン協奏曲第2番変ホ長調 1942年11月28日
オーボエ協奏曲 1945年10月25日
二重小協奏曲(クラリネット、ファゴット、ハープ、弦楽合奏)1947年12月16日


その他の管弦楽曲
交響的幻想曲『イタリアから』作品16 1886年
組曲『町人貴族』作品60 1917年(劇音楽から抜粋)
祝典前奏曲 作品61 1913年
日本の皇紀二千六百年に寄せる祝典曲 作品84 1940年
『メタモルフォーゼン』(Metamorphosen)1945年(弦楽合奏)


管楽合奏曲
13管楽器のためのセレナード 作品7 1881年
13管楽器のための組曲 作品4 1884年
ウィーン・フィルハーモニーのためのファンファーレ(金管とティンパニ)
ウィーン市民のためのファンファーレ(金管とティンパニ)
ヨハネ騎士修道会の荘重な入場(金管とティンパニ)
16管楽器のためのソナチネ第1番「傷病兵の仕事場から」
16管楽器のためのソナチネ第2番「楽しい仕事場」


室内楽曲
チェロ・ソナタ ヘ長調 作品6 1883年
ヴァイオリン・ソナタ 作品18 1888年
『イノック・アーデン』作品38(ピアノと朗読) ― アルフレッド・テニソンの詩による
弦楽四重奏曲 イ長調 作品2 1880年
ピアノ四重奏曲 ハ短調 作品13 1885年


著作
ヘルタ=ブラウコップ編『マーラーとシュトラウス ― ある世紀末の対話 往復書簡集1888〜1911』(塚越敏訳/音楽之友社/1982年)
大野誠監修『オペラ「薔薇の騎士」誕生の秘密 ― R・シュトラウス/ホフマンスタール往復書簡集』(堀内美江訳/河出書房新社/1999年)
ヴィリー・シュー編『リヒャルト・シュトラウス ホーフマンスタール 往復書簡全集』(中島悠爾訳/音楽之友社、2001年)
エクトール・ベルリオーズ、リヒャルト・シュトラウス『管弦楽法』(小鍛冶邦隆監修、広瀬大介訳/音楽之友社/2006年)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%B9

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/818.html

[近代史6] リヒャルト・シュトラウス(Richard Georg Strauss, 1864 - 1949) 中川隆
1. 中川隆[-16108] koaQ7Jey 2021年10月06日 16:20:00 : ysUaxmWtj8 : SXFLbnFMU3E1ZGc=[28]
指揮者 リヒャルト・シュトラウス (1864年6月11日 - 1949年9月8日)_ 大作曲家が名指揮者だった時代
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/700.html

リヒャルト・シュトラウス 『薔薇の騎士』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/881.html

最美の音楽は何か? _ リヒャルト・シュトラウス『オペラ 薔薇の騎士 作品59』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/389.html

最美の音楽は何か? _ リヒャルト・シュトラウス『サロメ 作品54』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/622.html

最美の音楽は何か? _ リヒャルト・シュトラウス『サロメ 7つのヴェールの踊り』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/623.html

最美の音楽は何か? _ リヒャルト・シュトラウス『影のない女 作品65』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/655.html

最美の音楽は何か? _ リヒャルト・シュトラウス『交響的幻想曲 影のない女』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/656.html

最美の音楽は何か? _ リヒャルト・シュトラウス『オペラ エレクトラ 作品58』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/654.html

最美の音楽は何か? _ リヒャルト・シュトラウス『オペラ ダフネ 作品82』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/653.html

最美の音楽は何か? _ リヒャルト・シュトラウス『オペラ ナクソス島のアリアドネ 作品60』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/652.html

最美の音楽は何か? _ リヒャルト・シュトラウス『オペラ アラベラ 作品79』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/651.html

最美の音楽は何か? _ リヒャルト・シュトラウス『オペラ カプリッチョ』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/650.html

最美の音楽は何か? _ リヒャルト・シュトラウス『ドン・ファン 作品20』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/624.html

最美の音楽は何か? _ リヒャルト・シュトラウス『死と変容 作品24』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/417.html

最美の音楽は何か? _ リヒャルト・シュトラウス『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら 作品28』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/625.html

最美の音楽は何か? _ リヒャルト・シュトラウス『ツァラトゥストラはかく語りき 作品30』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/414.html

最美の音楽は何か? _ リヒャルト・シュトラウス『英雄の生涯 作品40』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/649.html

最美の音楽は何か? _ リヒャルト・シュトラウス『家庭交響曲 作品53』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/627.html

最美の音楽は何か? _ リヒャルト・シュトラウス『アルプス交響曲 作品64』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/416.html


最美の音楽は何か? _ リヒャルト・シュトラウス『メタモルフォーゼン〜23の独奏弦楽器のための習作』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/626.html

最美の音楽は何か? _ リヒャルト・シュトラウス『4つの最後の歌』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/210.html

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/818.html#c1

[近代史6] グスタフ・マーラー(Gustav Mahler, 1860 - 1911)
グスタフ・マーラー(Gustav Mahler, 1860 - 1911)

厭世的、世紀末的で、独特の時間感覚を感じる巨大な交響曲と、独特の絹の肌触りのような滑らかな音使いが特徴の歌曲を書いた。あまり品がいい音楽では無いし冗長さや支離滅裂さもあるが、音楽の可能性を遥かに大きく広げた。


交響曲・管弦楽曲

交響曲第1番ニ長調「巨人」
3.5点
1楽章の冒頭のフラジオレットが印象的。自然の描写など、メロディーや楽想に新鮮な魅力がある。2楽章は非常に分かりやすく、個性は発揮しているもののまだ普通の作曲家らしい印象。3楽章は有名な民謡を使い素朴な味を演出する曲。後のマーラーからは聞けない世界。4楽章は後年の多層性を連想する複雑な音の使い方など、多くの要素を盛り込み詰め込んだ野心的な力作。最後のトランペットによる英雄的なフレーズは心踊る。
全体に聞きやすく分かりやすく、メロディーがかなり魅力的。若々しい新鮮さも魅力。曲が短いので聞くのが楽など、いい点が沢山ある。まだ成熟しきっていない音の薄さやまとまりがあるが、むしろそれが青年らしい魅力になっている。冗長な部分はあるが、曲が長くないので苦にならず、集中力をもって聞ける。ただ、この次作からのお腹いっぱいになる感じはこの曲の場合は薄い。

交響曲第2番ハ短調「復活」- 独唱(ソプラノ、コントラルト)、合唱付
4.0点
単純で明快な和声と分かりやすい構成で、後年の複雑な音楽とはかなり異なる。叙情的でスケールの大きな音の絵巻物にゆったりと安心して浸れる。一方で単純ゆえの音楽の刺激の少なさや、4楽章の作り物っぽいわざとらしい大仕掛けには、まだ未熟という印象を持ってしまう面もある。とはいえ、瑞々しく下品でない叙情性と物語性と声楽の優秀さと最後の感動は大きな魅力がある。曲は長いが他の普通のロマン派に近い聞き方が出来る。

交響曲第3番ニ短調 - 独唱(コントラルト)、合唱、少年合唱付
4.0点
1楽章は30分オーバーの大作で、ブルックナー的な壮大さによる自由な自然賛歌。明るくて大らかで夢のように幻想的な、多くの素材がごった返す愉しい曲である。長いが聴きやすい。2楽章は1楽章と雰囲気が似ており、よりメルヘンチックで柔らかい。3楽章は薄暗くなった夜の精が戯れるのを連想させる遅めの曲。曲想は良いが間延びし過ぎ。4楽章はしっとりした歌曲で雰囲気がよい。5楽章はクリスマスみたいな小品。6楽章の前半の弦楽合奏は感動的でかなりの聞き物で非常に素晴らしい。後半はオルガン的な持続音の効果で感動的に盛り上げて締めくくる。非常に長い曲だが気力が充実している時に聴けばかなり楽しめる。全体に2番よりも精神も技術も成熟しており、明るい曲調なので気楽に聴ける。ただ、ここまで長いと1度に集中して聞くのはやはり困難。

交響曲第4番ト長調 - 独唱(ソプラノ)付
3.5点
1楽章は牧歌的でメルヘンチック。簡素な書法でたまに多義性を垣間見せるものの、全般に聞きやすい。2楽章のスケルツォは雰囲気は悪くないがインパクトに欠けるのであまり印象に残らない。3楽章の緩徐楽章は、美しくしなやかで、ゆったりした時間の流れの中で刻々と雰囲気が移り変わっていく様子が楽しい。夕焼けから夜に移っていく大自然のようなゆっくりとした時間である。4楽章は天上的な世界の不思議な雰囲気だが、交響曲の締めくくりとしてはあまり効果的でない気がする。全体に、楽曲の規模の小ささに比例ではなくそれ以下の小さな世界が構築されており、聞きやすいしインパクトに欠ける。前後の巨大な交響曲群は1つの映画のような規模感だが、この曲は映画をクライマックスを削除して半分位にまとめたイメージ。美しさなどこの曲独特の価値はあるのだが、3楽章以外は真骨頂が現れていると言いにくい。

交響曲第5番嬰ハ短調
4.0点
1楽章はマーラーには珍しい少ない動機の徹底的な展開でかなり分かりやすい。動機の提示もトランペットの独奏で分かりやすくて印象的。2楽章は1楽章をもう少し複雑でカオス的で闘争的な方向に持っていった曲で、複雑過ぎて印象はやや薄まるが、内容はかなり濃い。
3楽章はお得意のメルヘンチックな音楽で始まるが、刻々と雰囲気を変えていき、2楽章同様にやはりかなり内容が濃い。しかし冗長なので後半は聞いていて疲れてくる。4楽章のアダージェットは有名だが、世界が凍ったようにゆったりした時間と透明な水色のような透き通った世界は非常に素敵。このような世紀末的な破滅をはらんだ美しさをたたえた曲はそれまで無かったのではと思う。5楽章の牧歌的に始まり、対位法的な活気のある明るい陽のあたるような世界も素晴らしい。喜ばしい気分は心地よいものだが、長さのバランスを取るためか冗長な部分がある。
全体に、チャイコフスキーなどを連想するような、普通の後期ロマン派らしい音による説得方法を見せており、偏りが少なくバランスが良い。また、闘争から勝利へのテーマと流れが分かりやすい。肥大化した音楽ではあるが、まとまりは良い。多層性は、まだここぞという場面のみで出るため、効果的に使われている。聞きやすく内容も濃いので高く評価出来るが、一方で正統派過ぎるゆえに、他の大作曲家と比較して密度や偏りの点である種の物足りなさがある。また、隙間を埋めているだけのような冗長さを感じる場面があるのが残念。


交響曲第6番イ短調「悲劇的」
3.5点
1楽章は長いが緊密である。悲劇的で大仰な激しい起伏を楽しむ曲。2楽章のスケルツォ(3楽章と逆の場合も)は、トリオが聞きやすいのに不安定で、主部は1楽章同様に騒々しい。3楽章は牧歌的であり、中間の夜の世界や最後の盛り上がりは素敵。2楽章までの疲れを癒せる。4楽章は初めは素晴らしいのだが、段々わけの分からないカオスになる。全編の半分以上は混乱したカオスである。とはいえこの楽章が一番優れているだろう。最後はまさに悲劇的。全体に打楽器が活躍し、管楽器の使い方が激しくて、大変に騒々しい。音に説得力があり過ぎで疲れるし、気合いが入りすぎで大人げない。ただ、豊富な楽器数と大仰な劇的さを大作を通して貫いた創作意欲は敬服する。既存の管弦楽の限界を突き破ってる。間延びした部分は少なく、ギッシリと音を詰め込んでいる。音楽の多義的で多層的な音作りは7番ほどのやり過ぎにはまだ至っていないので、聞きにくくは無い。

交響曲第7番ホ短調「夜の歌」
3.0点
1楽章はヒステリックな高音の弦楽やドンチャン騒ぎが耳につく。劇的な効果を狙っていると思われるが、不自然であり病的に聞こえる。2楽章も猥雑な音楽であり、マーラーが後期に向かって音楽の複雑性を増していく過渡的な作品との印象。3楽章は落ち着かないグロテスクで悪魔的なスケルツォ。間奏的な価値の曲。4楽章は室内楽的な響きの薄さで愛嬌がある。5楽章は突然の凱歌となり驚く。ノリが良く分かりやすい曲だが冗長。全体としては、まとまりが悪く気まぐれで猥雑であり、多層的で多義的な世界を突き進み過ぎである。良いメロディーや素晴らしい楽想は少なく、一つの作品としての完成度は低いと思う。

交響曲第8番変ホ長調「千人の交響曲」 - 独唱(八声部)、2群の合唱、少年合唱付
3.5点
舞台一杯に並んだ大合唱団と巨大オケによる作品。1楽章は非常に分かりやすい曲。分かりやすいメロディーの大合唱とオーケストラで圧倒する曲。2楽章は非常に長く構成が複雑で、耳につくような分かりやすいメロディーがなく、1楽章との関連も分かりにくい難解な音楽となっている。


交響曲第9番ニ長調
5点
1楽章は冒頭から大変魅力的で素晴らしい。マーラーの管弦楽法や作曲技法の粋を尽くしている。多くの素材を交錯させて、繊細な織物のように作り上げたよる世にも美しい作品。たっぷりと時間を使って切々と別離と人生の邂逅や死を歌う、はかなく悲しく美しい曲。2楽章は、楽しいレントラーであり、悲しさを裏に秘めつつも、初期のマーラーに戻ったかのような素朴な美しさが良い。3楽章は多声的な落ち着かないスケルツォ。この名曲の中にあってはあまり完成度も高い感じではなく、ピリッとしたスパイスとなる間奏という印象。中間に突然泣けるフレーズが来るところがよいが。4楽章は長大なアダージョで、緊密に書かれており無駄は少ない。別離の悲しみに浸りきる事が出来る。
この曲は遅いテンポの1楽章と4楽章は主であり、どちらも別離の感情と死の予感に満ちているので、そのまま曲全体の印象となっている。崇高な特別感がある。特に1楽章が特別な名作である。6番7番での実験を通過して音楽が昇化し浄化され、シンプルな世界に戻っており無駄も少ないので、代表作らしい完成度に至ったと思う。初演されないままとなり、推敲を経なかったのが非常に残念である。


交響曲第10番嬰ヘ長調(未完成。デリック・クックらによる補作あり)
3.3点
長い1楽章は音が薄く、音楽の密度もあまり濃い印象が無い。退廃的で刹那的な雰囲気は好きだし美しさもあるが、1楽章についても演奏できるレベルに達しているというだけで完成作とは言えないと思う。


交響曲「大地の歌」イ短調 - 独唱(テノール、コントラルトまたはバリトン)
5.5点
1楽章は冒頭から激しく、かっこよくてノックアウトされる。ボーカルの激しさに心を揺さぶられる。2楽章のはかなさもよいが、3楽章がメルヘンチックでありながらアンニュイさがある絶妙さ。そして、なによりも最後の第6楽章の「告別」が大変素晴らしい。30分間という独唱曲としては大変な長編だが、別れの気分をゆったりと存分に歌を堪能してお腹一杯になれるという点では、クラシック音楽全体でも屈指だろう。この楽章はバーンスタイン指揮のフィッシャー・ディースカウが好きだ。何回聴いたことか。
1時間の大作だが、交響曲の中では唯一、全体を通して無駄が全く無い曲であり、完成度はもっとも高いと思う。

歌曲

カンタータ『嘆きの歌』 (Das klagende Lied,1878-80)
3.0点
マーラーの原点ともいえる作品だが、のちに何度も改作されている。あまり強く耳を捉えるような魅力は無いと思った。交響曲や歌曲の作品と比べると、編曲こそ立派だが、メロディーや楽想に個性が確立されていないし薄味で面白くない。40分とそこそこ長いわりには、内容が盛り沢山という感がない。ところどころにマーラーらしさの萌芽はあり、コアなファンならそれを楽しむことが出来るかもしれない。


歌曲集『若き日の歌』 (Lieder und Gesänge,1880-91) - 全3集14曲
歌曲集『さすらう若者の歌』 (Lieder eines fahrenden Gesellen,1883-85) - 全4曲
4.0点
4曲全てが描写力に優れた名曲である。マーラーの歌曲では大地の歌に並ぶのではと思われる。心を強く打つ旋律の良さと分かりやすさがあり、管弦楽の上に乗って独特の旋律で歌うマーラーの魅力が発揮されている。曲が短いため自由すぎない聴きやすさがある。一曲目の最初の切な旋律の場面がまず魅力的でそれが最後まで魅力を保ち続ける。何度でも聴きたくなる曲。

歌曲集『少年の魔法の角笛』 (Des Knaben Wunderhorn,1892-98) - 全12曲
3.0点
この曲集はマーラー独特の魔法がかかっていない。バラエティには飛んでいるし、オケはゴージャスではあるが、曲の魅力としてはごく普通である。耳は楽しませるが、心が動かない。安っぽくて下品という自分の苦手なマーラーになっている場面が大半の場面を占めている。このボリュームで期待させるものがあったのに残念だ。マーラーとしてはこちらも本線の一つなのかもしれないが。

リュッケルトの詩による5つの歌 (Rückert-Lieder,1901-03) - 全5曲
3.8点
3曲は短く小品レベルである。とはいえマーラーの世界が全開でとても楽しい。どの曲も魅力的でどっぷり浸かれるマーラー歌曲の世界。私はマーラーが得意ではないが、歌曲は文句なしによい。壮大さと、感情的な揺れ動きの揺さぶられる感じと、何か大きなものに包み込まれている感じがとにかく心地よい。心を曲に任せていられる。そして聴き終わったら、感動にまた聴きたくなってしまう。小品も中程度の長さの曲も変わらずそれぞれに魅力的。

歌曲集『亡き子をしのぶ歌』 (Kindertotenlieder,1901-04) - 全5曲
3.8点
濃密で爛熟感の強いロマン的曲集。悲しみの感情が大規模のオーケストラによる包み込むような伴奏と、たゆたうような歌唱が存分に表現している。5曲目までもなかなか高いレベルだが、最後の曲はかなり感動的である。不安に心を揺さぶったあとに、大交響曲の終わりに匹敵するするじわっとした感動とその余韻に包まれて終わり、もう一度聴きたくなる。

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC

グスタフ・マーラー(Gustav Mahler, 1860年7月7日 - 1911年5月18日)は、主にオーストリアのウィーンで活躍した作曲家、指揮者。交響曲と歌曲の大家として知られる。


生涯

出生
1860年 7月7日、父ベルンハルト・マーラー(Bernhard Mahler, 1827年 - 1889年)と母マリー・ヘルマン(Marie Hermann, 1837年 - 1889年)の間の第2子として、オーストリア帝国に属するボヘミア王国のイーグラウ(Iglau、現チェコのイフラヴァ Jihlava)近郊のカリシュト村(Kalischt、現チェコのカリシュチェ Kaliště)に生まれた。

夫妻の間には14人の子供が産まれている[注釈 1]。しかし半数の7名は幼少時に様々な病気で死亡し[1][注釈 2]第一子(長男)のイージドールも早世しており、グスタフはいわば長男として育てられた。そのなか心臓水腫に長期間苦しんだ弟エルンストは、少年期のグスタフにとって悲しい体験となった。グスタフは盲目のエルンストを愛し、彼が死去するまで数ヶ月間ベッドから離れずに世話をしたという[2]。

父ベルンハルトは強く精力的な人物だった。当初は荷馬車での運搬業(行商)を仕事にしており、馬車に乗りながらあらゆる本を読んでいたため「御者台の学者」というあだ名で呼ばれていた[3]。独力で酒類製造業を開始し、ベルンハルトの蒸留所を家族は冗談で「工場」と呼んでいた。ユダヤ人に転居の自由が許されてから一家はイーグラウに移住し、そこでも同じ商売を始める。当時のイーグラウにはキリスト教ドイツ人も多く住んでおり、民族的な対立は少なかった。事業を成功させたベルンハルトは「ユダヤ人会」の役員を務めるとともに、イーグラウ・ユダヤ人の「プチ・ブルジョワ」としてドイツ人と広く交流を持った。グスタフをはじめとする子供たちへも同様に教育を施し、幼いグスタフはドイツ語を話し、地元キリスト教教会の少年合唱団員としてキリスト教の合唱音楽を歌っていた[4]。息子グスタフの音楽的才能をいち早く信じ、より良い音楽教育を受けられるよう尽力したのもベルンハルトである。彼は強い出世欲を持ち、子供たちにもその夢を託した[5]。

母マリーもユダヤ人で、石鹸製造業者の娘だった。ベルンハルトとは20歳の時に結婚している。家柄は良かったが心臓が悪く生まれつき片足が不自由であり、自分の望む結婚はできなかったという。アルマ・マーラーは「あきらめの心境でベルンハルトと愛のない結婚をし、結婚生活は初日から不幸であった[6]」と書き記している。その結婚自体は理想的な形で実現したとは言えないものの、夫妻の間には前述の通り多くの子供が生まれている。ただし身体の不自由なマリーは、教育熱心な夫ベルンハルトと違い母親としての理想的な教育を子供たちに施すことができなかった。グスタフは生涯この母親に対し「固定観念と言えるほど強い愛情」を持ち続けた[7]。

ベルンハルトの母(グスタフの祖母)も、行商を生業とする剛毅な人間だった。18歳の頃から大きな籠を背に売り歩いていた。晩年には、行商を規制したある法律に触れる事件を起こし、重刑を言い渡されたが、刑に服する気はなく、ただちにウィーンへ赴き皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に直訴する。皇帝は彼女の体力と80歳という高齢に感動し、特赦した。グスタフ・マーラーの一徹な性格はこの祖母譲りだとアルマは語っている[8]。

成長と音楽家への歩み
本人の回想によれば、グスタフは4歳の頃、アコーディオンを巧みに演奏したとされる[9]。5歳の頃、母方の祖父母の家を訪問した際、姿を消し長時間捜索されるが、見つかった彼は屋根裏でピアノをいじっていた。その時に父ベルンハルトはグスタフが音楽家に向いていることを確信したという[10]。1869年(9歳)にイーグラウのギムナジウムに入学。10歳となった1870年10月13日には、イーグラウ市立劇場での音楽会にピアニストとして出演した。ただし曲目は不明である[11]。1871年(11歳)にはプラハのギムナジウムに移り[注釈 3]、この時期様々な文学にも親しんだ。1872年(12歳)、イーグラウに帰郷。ギムナジウムの式典ホールでピアノ演奏を行った[12][注釈 4]。

1875年(15歳)、ウィーン楽友協会音楽院(現ウィーン国立音楽大学)に入学。ピアノをユリウス・エプシュタインに、和声学をロベルト・フックスに、対位法と作曲をフランツ・クレンに学んだ[13]。この年に弟エルンストが死去する。1876年(16歳)にはピアノ四重奏曲を作曲。またウィーン楽友協会音楽院でフランツ・シューベルトのピアノ・ソナタ演奏によりピアノ演奏部門一等賞を、ピアノ曲で作曲部門一等賞を受賞した[14]。1877年(17歳)、ウィーン大学にてアントン・ブルックナーの和声学の講義を受け、2人の間に深い交流が始まる。1878年(18歳)、作曲賞を受け、7月11日に卒業。1883年9月(23歳)、カッセル王立劇場の楽長(カペルマイスター)となる。1884年(23歳)、ハンス・フォン・ビューローに弟子入りを希望したが受け入れられなかった。しかし6月、音楽祭でルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの『第9交響曲』とフェリックス・メンデルスゾーンの『聖パウロ』を指揮して、指揮者として成功を果たす。1885年1月(24歳)、『さすらう若者の歌』を完成。プラハのドイツ劇場の楽長に就任。しかしこの年、生活は窮乏を極めた。1886年8月(26歳)、ライプツィヒ歌劇場で楽長となる。この年『子供の不思議な角笛』作曲。

指揮者・交響曲作曲家としての活躍
1888年(28歳)、『交響曲第1番ニ長調』の第1稿が完成。10月、ブダペスト王立歌劇場の芸術監督となる。1889年1月(28歳)、リヒャルト・ワーグナーの『ラインの黄金』と『ワルキューレ』のカットのない初演をして模範的演奏として高い評価を得た。しかしこの年、2月に父を、10月に母と、続けざまに両親を失っている。1891年4月(30歳)、ハンブルク歌劇場の第一楽長となる。1892年1月19日(31歳)、ハンブルク市立劇場で行われたピョートル・チャイコフスキーのオペラ『エフゲニー・オネーギン』のドイツ初演を指揮。

1894年12月18日(34歳)、『交響曲第2番ハ短調』が完成。1895年2月6日(34歳)、弟オットーが21歳で自殺。12月13日(35歳)、『交響曲第2番ハ短調』全曲初演。1896年(36歳)、シュタインバッハ(ザルツカンマーグートのアッター湖近く)にて『交響曲第3番ニ短調』を書く。

1897年春(36歳)、結婚などのためにユダヤ教からローマ・カトリックに改宗。5月、ウィーン宮廷歌劇場(現在のウィーン国立歌劇場)第一楽長に任命され、10月(37歳)に芸術監督となった。1898年(38歳)にはウィーン・フィルハーモニーの指揮者となる。1899年、南オーストリア・ヴェルター湖岸のマイアーニック(ドイツ語版)(Maiernigg)に作曲のための山荘(別荘)を建て『交響曲第4番ト長調』に着手(翌年に完成)。

1901年4月(40歳)、ウィーンの聴衆や評論家との折り合いが悪化し、ウィーン・フィルの指揮者を辞任(ウィーン宮廷歌劇場の職は継続)。

12月(41歳)、「私の音楽を君自身の音楽と考えることは不可能でしょうか。二人の作曲家の結婚をどう考えますか[15]」と結婚前のアルマ・シントラーに作曲をやめるように申し出、彼女はその後作曲の筆を折った。なお、アルマはアレクサンダー・フォン・ツェムリンスキーに作曲を習い14曲の歌曲を残しており、これはウニヴェルザール出版社より出版されている。1902年3月(41歳)、当時23歳のアルマと結婚。2人とも初婚だった。

夏にマイアーニックの山荘で『交響曲第5番嬰ハ短調』が完成。10月(42歳)、長女マリア・アンナ(愛称プッツィ)が誕生する。1903年には、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から第三等鉄十字勲章を授与された。この年、次女アンナ・ユスティーネ(愛称グッキー)も生まれた。1904年4月、シェーンベルクとツェムリンスキーはウィーンに「創造的音楽家協会」を設立しマーラーを名誉会長とした。夏にマイアーニックの山荘で『交響曲第6番イ短調』を書き上げ、『交響曲第7番ホ短調』の2つの「夜曲」を作曲。1905年夏(45歳)にはマイアーニックの作曲小屋で残りの第1楽章・第3楽章・第5楽章を作曲して7番も完成に至った。

晩年と死
1907年(47歳)、長女マリア・アンナがジフテリアで亡くなり、マーラー自身も心臓病と診断された。12月、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場から招かれ渡米し、『交響曲第8番変ホ長調』を完成。しかし翌1908年5月にはウィーンへ戻る。トーブラッハ(当時オーストリア領・現在のドロミテ・アルプス北ドッビアーコ)にて『大地の歌』を仕上げる。秋に再度渡米。 1909年(49歳)、ニューヨーク・フィルハーモニックの指揮者となる。春、ヨーロッパに帰る。夏にトーブラッハで『交響曲第9番ニ長調』に着手し、約2カ月で完成させた。10月、再び渡米。

1910年4月(49歳)、ヨーロッパに帰る。この際クロード・ドビュッシーやポール・デュカスと会う。8月(50歳)、自ら精神分析医ジークムント・フロイトの診察を受ける。18歳年下の妻が自分のそばにいることを一晩中確認せざるを得ない強迫症状と、崇高な旋律を作曲している最中に通俗的な音楽が浮かび、心が掻き乱されるという神経症状に悩まされていたが、フロイトによりそれが幼児体験によるものであるとの診断を受け、劇的な改善をみた。ここへきてようやく、アルマへ彼女の作品出版を勧める。

9月12日にはミュンヘンで『交響曲第8番』を自らの指揮で初演し、成功を収めた。1911年2月(50歳)、アメリカで感染性心内膜炎と診断され、病躯をおしてウィーンに戻る。5月18日、51歳の誕生日の6週間前に敗血症で死去。暴風雨の夜だった。最期の言葉は「モーツァルトル(Mozarterl)![16][注釈 5]」だった。長女マリア・アンナと同じ、ウィーンのグリンツィング墓地に埋葬された。「私の墓を訪ねてくれる人なら、私が何者だったのか知っているはずだし、そうでない連中にそれを知ってもらう必要はない」というマーラー自身の考えを反映し、墓石には「GUSTAV MAHLER」という文字以外、生没年を含め何も刻まれていない[17][18]。


人物
出自に関して、後年マーラーは「私は三重の意味で故郷がない人間だ。オーストリア人の間ではボヘミア人、ドイツ人の間ではオーストリア人、そして全世界の国民の間ではユダヤ人として」と語っている[19][注釈 6]。マーラーは指揮者として高い地位を築いたにもかかわらず、作曲家としてはウィーンで評価されず[注釈 7]、その(完成された)交響曲は10曲中7曲(第1番を現存版で考えると8曲)が、オーストリア人にとっては既に外国となっていたドイツで初演されている。マーラーにとって「アウトサイダー(部外者)」としての意識は生涯消えなかったとされ、最晩年には、ニューヨークでドイツ人ジャーナリストに「なに人か」と問われ、そのジャーナリストの期待する答えである「ドイツ人」とは全く別に「私はボヘミアンです(Ich bin ein Böhme.)」と答えている[20][21][注釈 8]。

酒造業者の息子として育ったマーラーは、「シュパーテンブロイ」という銘柄の黒ビールが好物だった[22]。しかし本人はあまり酒に強くなかった[23]。

アマチュアリズムを大いに好んだとされ、チャールズ・アイヴズの交響曲第3番を褒めちぎったのは、「彼もアマチュアだから」という理由が主なものだったと言われている。

マーラーは自身と同じユダヤ系の音楽家であるブルーノ・ワルター、オットー・クレンペラーらに大きな影響を与えている。特にワルターはマーラーに心酔し、音楽面だけでなく友人としてもマーラーを積極的に補佐した。クレンペラーはマーラーの推薦により指揮者としてのキャリアを開始でき[24][25]、そのことについて後年までマーラーに感謝していた[26][注釈 9]。そのほか、オスカー・フリートやウィレム・メンゲルベルクなど当時の一流指揮者もマーラーと交流し、強い影響を受けている。なかでも非ユダヤ系のメンゲルベルクは、マーラーから「私の作品を安心して任せられるほど信用できる人間は他にいない」との言葉を得るほど高く評価されていた。メンゲルベルクはマーラーの死後、遺された作品の紹介に努めており、1920年の5月には6日から21日にかけてマーラーの管弦楽作品の全曲を演奏した[27]。

一方、マーラーはその一徹な性格から周囲の反発を買うことも多かった。楽団員からはマーラーの高圧的な態度(リハーサルで我慢できなくなったときに床を足で踏み鳴らす、音程の悪い団員やアインザッツが揃わない時、当人に向かって指揮棒を突き出す、など)が嫌われた。当時の反ユダヤ主義の隆盛とともにマーラーに対する態度は日々硬化しており、ある日、ヴァイオリン奏者の一人が「マーラーがなぜあんなに怒っているのか全く理解できない。ハンス・リヒターもひどいものだがね」と言ったところ、別の者が「そうだね。だけどリヒターは同じ仲間だ[注釈 10]。マーラーには仕返ししてやるぜ」と言った[28]。当時のウィーンの音楽ジャーナリズムからも反ユダヤ主義にもとづく不当な攻撃を受けており、これらはマーラーがヨーロッパを脱出した大きな要因である。

なおマーラーの「敵を作りやすい性格」については、クレンペラーがブダペスト放送での談話(1948年11月2日)にて以下の通り擁護している[29]。

“マーラーは大変に活動的な、明るい天性を持っていました。自分の責務を果たさない人間に対してのみ、激怒せざるを得ませんでした。マーラーは暴君ではなく、むしろ非常に親切でした。若く貧しい芸術家やウィーン宮廷歌劇場への様々な寄付がそれを証明しています”
加えてクレンペラーは1951年にも「朗らかでエネルギッシュであったマーラーは、無名の人間には極めて寛大であり助けを惜しまなかったが、思い上がった人間には冷淡だった」「マーラーは真っ暗闇でも、その存在で周囲を明るく照らした」と述べ[30]、マーラーの死後に広まった一面的マーラー観(死の恐れに取り憑かれ、世界の苦を一身に背負い…など)を否定している。

マーラーの死後、評論家たちはマーラーのヨーロッパ脱出を「文化の悲劇」と呼んだ[31]。

しばしば引き合いに出される「やがて私の時代が来る」というマーラーの言葉は、1902年2月のアルマ宛書簡で、リヒャルト・シュトラウスのことに触れた際に登場している。以下がその一文である[32][33]。

“彼の時代は終わり、私の時代が来るのです。それまで私が君のそばで生きていられたらよいが!だが君は、私の光よ!君はきっと生きてその日にめぐりあえるでしょう!”
指揮者として

マーラーは、当時の楽壇の頂点に登り詰めたトップ指揮者だった。音楽性以上に徹底した完全主義、緩急自在なテンポ変化、激しい身振りと小節線に囚われない草書的な指揮法は、カリカチュア化されるほどの強い衝撃を当時の人々に与えている。その代表的なカリカチュアである『超モダンな指揮者』(Ein hypermoderner Dirigent)には、1901年ウィーン初期の頃の、激しい運動を伴ったマーラーの指揮姿が描かれている。なおその指揮ぶりは次第に穏やかなものとなり、晩年、医師から心臓疾患を宣告されてからは「ほとんど不気味で静かな絵画のようだった」(ワルターによる証言)と変化した[34]。

マーラーの指揮者としての名声は早くから高まっており、1890年12月にブダペストで上演された『ドン・ジョヴァンニ』を聴いたヨハネス・ブラームスは、「本物のドン・ジョヴァンニを聴くにはブダペストに行かねばならない」と語ったといわれ[35]、1892年1月にハンブルクでオペラ『エフゲニー・オネーギン』のドイツ初演を指揮した際は、同席した作曲者チャイコフスキーが友人への手紙で指揮者マーラーの才能を称賛している。

マーラーは演奏する曲に対して譜面に手を入れることが多く、アルトゥーロ・トスカニーニはマーラーがメトロポリタン歌劇場を去ったのち、手書き修正が入ったこれら譜面を見て「マーラーの奴、恥を知れ!(Shame on a man like Mahler!)」と、憤慨したという逸話が残っている[36][注釈 11]。もっとも、ロベルト・シューマンの『交響曲第2番』『交響曲第3番』の演奏では、トスカニーニはマーラーによるオーケストレーションの変更を多く採用している。

オーケストラ演奏の録音は技術が未発達の時代であり残っていないが、交響曲第4番・5番や歌曲を自ら弾いたピアノロール(最近はスコアの強弱の処理も可能で原典に近い形に復刻されている)、および唯一ピアノ曲の録音(信憑性に問題がある)が残されている。

指揮についてマーラーの言葉が、いくつか残されている[37]。

“全ての音の長さが正確に出せるなら、そのテンポは正しい”
“音が前後互いに重なり、フレーズが理解できなくなるとしたら、そのテンポは速過ぎる”
“識別できる極限のところがプレストの正しいテンポである。それを超えたらもはや無意味である”
“聴衆がアダージョについてこられない時は、テンポを速くするのではなく、逆に遅くせよ”
マーラーは指揮者として多くの改革を実行し、それは現代にも引き継がれている。ブダペスト王立歌劇場時代、マーラーは聴衆の理解のため、ハンガリー語で統一したワーグナーを上演した[38]。当時、オペラ歌手は容貌(舞台映え)がなにより重視されており、上演時にはそれら外部のスター歌手が起用されていた。そのためそれらスターが歌うことの出来る言語が優先され、ひとつのオペラ公演時に複数の言語が混じることすらあった。マーラーは聴衆の理解と歌手の実力を重視し、既存のスターではなく若い歌手を次々起用し歌劇場を活性化させている。ウィーン宮廷歌劇場では、マーラーはさくらを廃止し、ワーグナー・オペラを完全な形で上演した[39]。当時は劇場から雇われた人間が客席に陣取り、やらせの拍手やブラヴォーをし、長大なワーグナー作品はカットされることが常だったのである。

ブルックナーとの関係
ウィーンを中心に活動した交響曲作曲家の先輩として36歳年上のアントン・ブルックナーがおり、マーラーはブルックナーとも深く交流を持っている。

17歳でウィーン大学に籍を置いたマーラーは、ブルックナーによる和声学の講義を受けている(前出)。同年マーラーは『ブルックナーの交響曲第3番』(第2稿)の初演を聴き、感動の言葉をブルックナーに伝えた(なお演奏会自体は失敗だった)。その言葉に感激したブルックナーは、この曲の4手ピアノ版への編曲をわずか17歳のマーラーに依頼した。これはのちに出版されている[40]。

ブルックナーとマーラーは、その作曲哲学や思想、また年齢にも大きな隔たりがあり、マーラー自身も「私はブルックナーの弟子だったことはない」と述懐しているが[41]、その友好関係は途絶えていない。アルマは「マーラーのブルックナーに対する敬愛の念は、生涯変わらなかった」と記している[42]。ブルックナーの死後でありマーラー自身の最晩年でもある1910年には、ブルックナーの交響曲を出版しようとしたウニヴェルザール出版社のためにマーラーがその費用を肩代わりし、自身に支払われるはずだった多額の印税を放棄している[43]。

シェーンベルクとの関係
マーラーは14歳年下であるアルノルト・シェーンベルクの才能を高く評価し、また深い友好関係を築いた。

彼の『弦楽四重奏曲第1番』と『室内交響曲第1番ホ長調』の初演にマーラーは共に出向いている。前者の演奏会では最前列で野次を飛ばすひとりの男に向かい「野次っている奴のツラを拝ませてもらうぞ!」と言った。この際は相手から殴りつけられそうになったものの、マーラーに同行していたカール・モル(英語版)が男を押さえ込んだ[注釈 12]。男は「マーラーの時にも野次ってやるからな!」と捨て台詞を吐いた[44][45]。後者の演奏会では、演奏中これ見よがしに音を立てながら席を立つ聴衆を「静かにしろ!」と一喝し、演奏が終わってのブーイングの中、ほかの聴衆がいなくなるまで決然と拍手をし続けた。この演奏会から帰宅したマーラーは、アルマに対しこう語った[46][47][48]。「私はシェーンベルクの音楽が分からない。しかし彼は若い。彼のほうが正しいのだろう。私は老いぼれで、彼の音楽についていけないのだろう」

シェーンベルクの側でも、当初はマーラーの音楽を嫌っていたものの、のちに意見を変え「マーラーの徒」と自らを称している[49]。1910年8月には、かつて反発していたことを謝罪し、マーラーのウィーン楽壇復帰を熱望する内容の書簡を連続して送っている[50]。

ある夜、マーラーがシェーンベルクとツェムリンスキーを自宅に招いたとき、音楽論を戦わせているうち口論となった。反発するシェーンベルクに怒ったマーラーは「こんな生意気な小僧は二度と呼ぶな!」とアルマに言い、シェーンベルクとツェムリンスキーはマーラー宅を「もうこんな家に来るものか!」と出て行った。だが、数週間後にマーラーは「あのアイゼレとバイゼレ(二人のあだ名)は、なぜ顔を見せないのだろう?」とアルマに尋ねるのだった[51]。

作風
マーラーは、ポリフォニーについて独自の考えを持っていた。以下は、マーラー自身による結論である[52]。

“諸主題というものは、全く異なる方向から出現しなければならない。そしてこれらの主題は、リズムの性格も旋律の性格も全く違ったものでなければならない。音楽のポリフォニーと自然のポリフォニーとの唯一の違いは、芸術家がそれらに秩序と統一を与えて、ひとつの調和に満ちた全体を造り上げることだ”

マーラーの交響曲は大規模なものが多く、声楽パートを伴うことが多い。第1番には、歌曲集『さすらう若人の歌』と『嘆きの歌』、第2番は歌曲集『少年の魔法の角笛』と『嘆きの歌』の素材が使用されている。第3番は『若き日の歌』から、第4番は歌詞が『少年の魔法の角笛』から音楽の素材は第3番から来ている。また、『嘆きの歌』は交響的であるが交響曲の記載がなく『大地の歌』は大規模な管弦楽伴奏歌曲だが、作曲者により交響曲と題されていても、出版されたスコアにはその記載がない。

楽器に関し、マーラーはカウベル、鞭、チェレスタ、マンドリン、鉄琴や木琴など、当時としては使用されることが珍しかったものを多く採用した。中でも交響曲第6番で採用した大型のハンマーは、人々の度肝を抜いた[53]。1907年1月に描かれたカリカチュア『悲劇的交響曲(Tragische Sinfonie)』では、奇妙な楽器群の前で頭を抱えたマーラーが描かれている。「しまった、警笛を忘れていた!しかしこれで交響曲をもうひとつ書けるぞ!」(英語版参照)

歌曲も、管弦楽伴奏を伴うものが多いことが特徴となっているが、この作曲家においては交響曲と歌曲の境がはっきりしないのも特徴である。なお現代作曲家のルチアーノ・ベリオは、ピアノ伴奏のままの『若き日の歌』のオーケストレーション化を試みている。

多くの作品において、調性的統一よりも曲の経過と共に調性を変化させて最終的に遠隔調へ至らせる手法(発展的調性または徘徊性調性:5番・7番・9番など)が見られる。また、晩年になるにつれ次第に多調・無調的要素が大きくなっていった。作品の演奏が頻繁に行われるようになったのは1970年代からだが、これは現代音楽において「新ロマン主義」とも呼ばれる調性復権の流れが現れた時期であり[54]、前衛の停滞とともに「多層的」な音響構造の先駆者としてマーラーやアイヴズ、ベルクなどが再評価された[55]。

現在、マーラーの交響曲作品はその規模の大きさや複雑さにも関わらず世界中のオーケストラにより頻繁に演奏される。その理由について、ゲオルク・ショルティはこう述べている[56]。

“マーラーが偶像視されるようになったのは偶然ではない。演奏の質に関わらず、マーラーの交響曲ならコンサートホールは必ず満員になる。現代の聴衆をこれほど惹きつけるのは、その音楽に不安、愛、苦悩、恐れ、混沌といった現代社会の特徴が現れているからだろう”


主要作品

交響曲・管弦楽曲

交響曲第1番ニ長調(1884-88) - ジャン・パウルの小説に由来する副題『巨人』は、最終的にマーラー自身により削除されている。
交響曲第2番ハ短調(1888-94) - 独唱(ソプラノ、アルト)と合唱を伴う。広く知られる副題『復活』は、マーラーによって付けられたものではない。
交響曲第3番ニ短調(1893-96) - 独唱(コントラルト)、合唱と少年合唱を伴う。
交響曲第4番ト長調(1899-1900) - 独唱(ソプラノ)付。独唱は終曲である第4楽章で歌われる。
交響曲第5番嬰ハ短調(1901-02) - マーラー絶頂期の作品。
交響曲第6番イ短調(1903-04) - 広く知られる副題『悲劇的』は、マーラーによって付けられたものか不明。中間楽章の配置(演奏順)には、今なお議論がある。
交響曲第7番ホ短調(1904-05) - 第2、第4楽章『夜曲(Nachtmusik)』に由来する『夜の歌(Lied der Nacht)』という通称は、後世のものであり、マーラーおよび作品には無関係である[57]。
交響曲第8番変ホ長調(1906) - 独唱(各8声部)、2群の合唱、少年合唱付と大オーケストラのための。『千人の交響曲』という名でも知られるが、これは初演時の興行主であるエミール・グートマンが話題づくりのために付けたものであり、マーラー自身はこの呼び名を認めていない[58]。
交響曲イ短調『大地の歌』(1908) - 独唱(テノール、コントラルトまたはバリトン)付、最後の歌曲としての分類もある。
交響曲第9番ニ長調(1909)
交響曲第10番嬰ヘ長調(1910) - 未完成。デリック・クックらによる補作(完成版)あり。


声楽曲
カンタータ『嘆きの歌』(Das klagende Lied, 1878-80)
歌曲集『若き日の歌』(Lieder und Gesänge, 1880-91) - 全3集14曲
歌曲集『さすらう若者の歌』(Lieder eines fahrenden Gesellen, 1883-85) - 全4曲
歌曲集『少年の魔法の角笛』(Des Knaben Wunderhorn, 1892-98) - 全12曲
リュッケルトの詩による5つの歌(Rückert-Lieder, 1901-03) - 全5曲
歌曲集『亡き子をしのぶ歌』(Kindertotenlieder, 1901-04) - 全5曲


その他の作品
ピアノ四重奏曲断章 イ短調(1876) - ウィーン音楽院に在籍していた頃の室内楽曲。1973年に再発見されている。
交響的前奏曲ハ短調(1876頃) - 偽作とみなされることが多い。ブルックナーの管弦楽曲・吹奏楽曲も参照のこと。
交響詩『葬礼』(Todtenfeier, 1891) - 本来、交響曲第2番の第1楽章の初稿である。
花の章(Blumine, 1884-88) - 本来、交響曲第1番の第2楽章として作曲されたが、1896年の改訂で削除された。


オペラ
以下の3曲のオペラはいずれも完成されず、そのまま破棄(もしくは紛失)している。

『シュヴァーベン侯エルンスト』(Herzog Ernst von Schwaben, 1875-78)
『アルゴー船の人々』(Die Argonauten, 1878-80)
『リューベツァール』(Rübezahl, 1879-83)


編曲作品
ウェーバー:オペラ『3人のピント』の補筆
原曲は1820年から21年にかけて作曲されたが未完成に終わったため、作曲者の孫にあたるカール・フォン・ウェーバーがマーラー(当時26歳)に補筆を依頼し、1887年に完成された。補筆版の初演は1888年にライプツィヒの市立歌劇場でマーラーの指揮により行われている。
ブルックナー:交響曲第3番 ニ短調『ワーグナー』
1878年に原曲を4手ピアノ用に編曲したもの。
ベートーヴェン:交響曲第3番 変ホ長調 作品55『英雄』・第5番 ハ短調 作品67『運命』・第7番 イ長調 作品92・第9番 ニ短調 作品125『合唱付き』
交響曲第9番の第1楽章や第3楽章にトロンボーンを取り入れている。
ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第11番『セリオーソ』
原曲を弦楽合奏版にしたもの。
シューベルト:交響曲第8番ハ長調『ザ・グレート』 D944
シューベルト:弦楽四重奏曲第14番『死と乙女』
原曲を弦楽合奏版にしたもの。
シューマン:交響曲全曲
近年ではリッカルド・シャイーがこの編曲版を全曲録音している。
J.S.バッハ:管弦楽組曲(1909年)
原曲の第2番と第3番のなかから5曲を選び、新しい組曲の形式へと編曲したもの。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/819.html

[近代史4] マーラー 中川隆
4. 中川隆[-16107] koaQ7Jey 2021年10月06日 17:00:42 : ysUaxmWtj8 : SXFLbnFMU3E1ZGc=[31]
グスタフ・マーラー(Gustav Mahler, 1860 - 1911)
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/819.html

最美の音楽は何か? _ グスタフ・マーラー 『アダージェット』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/190.html

グスタフ・マーラー 『アダージェット』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/882.html

グスタフ・マーラー 『大地の歌』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/887.html

グスタフ・マーラー 交響曲第9番
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/885.html

グスタフ・マーラー 交響曲第10番
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/892.html

マーラー ピアノロールで自作自演
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/699.html

最美の音楽は何か? _ グスタフ・マーラー 『交響曲 第1番 ニ長調 巨人』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/607.html

最美の音楽は何か? _ グスタフ・マーラー『交響曲 第2番 ハ短調 復活』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/605.html

最美の音楽は何か? _ グスタフ・マーラー『交響曲 第4番 ト長調』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/604.html

最美の音楽は何か? _ グスタフ・マーラー『交響曲第6番 イ短調』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/603.html

最美の音楽は何か? _ グスタフ・マーラー『フリードリヒ・リュッケルトによる5つの歌曲』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/610.html

最美の音楽は何か? _ グスタフ・マーラー『さすらう若人の歌』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/609.html

最美の音楽は何か? _ グスタフ・マーラー『亡き子をしのぶ歌』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/608.html


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/163.html#c4

[近代史6] 20世紀の作曲家 中川隆
1. 中川隆[-16106] koaQ7Jey 2021年10月06日 17:08:42 : ysUaxmWtj8 : SXFLbnFMU3E1ZGc=[33]
世紀末のヨーロッパは芸術も文学も思想も爛熟し絶頂に達した時代
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/632.html

20世紀初めはこういう時代だった
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/612.html

クラシックの作曲家はアル中、 ジャズ・ロックのミュージシャンは全員麻薬中毒
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/917.html

まともな人間は音楽家になれない
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/177.html

音楽の時代は終わった _ 音楽大学卒業生の悲惨な就職事情…オーケストラ、1名の求人に200名以上殺到も
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/176.html

アメリカ人には音楽は理解できない _ ジャズなんか音楽じゃない
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/440.html

日本人が西洋音楽をやっても物真似しかできない理由
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/682.html

なぜクラシックオーケストラは、「ドレミ」を使わない?ビールも音楽もドイツからの輸入モノ
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/470.html

ドイツの音とは何か?
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/447.html

ドイツの音楽、ドイツの音、そして世界の音
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/433.html

音楽は脳にどのような影響を及ぼすか _ ストレスを軽減させ、作業効率を高めるBGMの脳科学
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/934.html

言葉の解読は左脳の聴覚皮質で行われ、歌や音楽の旋律は右脳で処理される
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/521.html

聴覚は幼少期に体験した聴覚手掛かりから発達する
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/991.html

音楽家とオーディオマニアは音楽の聴き方が違うか?
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1009.html

錯聴 (auditory illusion) _ 音の錯覚
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/756.html

左対右〜利き手大研究〜
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1082.html

盲目の演奏家 _ 音楽を理解するためには楽譜が読めなくても構わない
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1083.html

片山杜秀 「クラシックの核心」
http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/135.html

ダメダメ家庭の目次録
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/895.html

音楽はこういう部屋で聴きたい
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/655.html

コンサートホールの音響ランキング
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1089.html

原音とは何か?
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/890.html

ラジカセでクラシックを聴いている清貧の音楽ファンには音楽はわからない
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/435.html
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/678.html#c1

[近代史6] 20世紀の作曲家 中川隆
3. 中川隆[-16104] koaQ7Jey 2021年10月06日 17:16:53 : ysUaxmWtj8 : SXFLbnFMU3E1ZGc=[35]
youtube を DAコンバーター無しでパソコンからアンプに直接繋いで聴くならこのケーブル
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/467.html

YouTube・ニコニコ動画の動画を安全にダウンロードする方法
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/466.html
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/678.html#c3

[近代史4] (和食の基本)プロが教える大根の煮物
【和食の基本】プロが教える大根の煮物【永久保存版】



「これは知らないと損だね」と、料理初心者の友人にベタ惚れされた大根の煮物の作り方の紹介動画です。
切って煮るだけの簡単おつまみですので、是非ともお試しくださいませ。


【材料】
・大根
〜合わせ調味料〜
・出汁10:醤油1:味醂1で合わせたもの


【作り方】
・大根を厚さ約4ー5cmに切り、皮を剥き、面取りをし、隠し包丁を入れる。
・米糠を入れた水に大根を入れ、火にかけ、85度以上で15分ほど下茹でする。
・その後、合わせ出汁の中に大根を入れ、60分ほど煮る(30分ぐらいだと、より大根の味を楽しめます)
・盛り付けたら完成。


言わずもがな、コスパも最高なので、もしよろしければお試しくださいませ^ ^


【和食の基本】板前が教える出汁の引き方【味噌汁が絶品に】


「鰹節と昆布でとった出汁で作る味噌汁ほど最高のものはないですね」とはお客さんの言葉。最高の出汁の引き方について京都大学の研究を参照に解説しています。一部オリジナルな部分もありますが、味噌汁を作るのには最高の出汁のひき方だと思いますので、是非ともお試しくださいませ。


【材料】
・水 500ml
・昆布 5g
・鰹節 15g
・味噌 適量
・万能ネギ 適量

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1706.html

[近代史4] (和食の基本)プロが教える大根の煮物 中川隆
1. 中川隆[-16103] koaQ7Jey 2021年10月06日 17:48:45 : ysUaxmWtj8 : SXFLbnFMU3E1ZGc=[36]
【鶏肉とお野菜の煮物】和食のプロに教わる 煮物を作るコツ!




初心者向けに和食の基本、「煮物」を弘稀君が簡単にご紹介しております! ぜひ、挑戦してみて下さい。
オーナー関さんからの、さらに美味しくなるポイントも!


こんにちは! 和食店を5店舗経営しております 関 斉寛 (せき なりひろ)でございます。
1.和食の文化を伝える 2.経営者としての目線 3.私のプライベート 4.お料理教室 等...
動画を通じてお伝えしていきます!

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1706.html#c1
[近代史5] 大根の煮物の作り方
(和食の基本)プロが教える大根の煮物
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1706.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1158.html
[近代史4] みそ汁は沸騰させてはダメ 中川隆
13. 中川隆[-16102] koaQ7Jey 2021年10月06日 17:57:25 : ysUaxmWtj8 : SXFLbnFMU3E1ZGc=[37]
【和食の基本】板前が教える出汁の引き方【味噌汁が絶品に】




「鰹節と昆布でとった出汁で作る味噌汁ほど最高のものはないですね」とはお客さんの言葉。最高の出汁の引き方について京都大学の研究を参照に解説しています。一部オリジナルな部分もありますが、味噌汁を作るのには最高の出汁のひき方だと思いますので、是非ともお試しくださいませ。


【材料】
・水 500ml
・昆布 5g
・鰹節 15g
・味噌 適量
・万能ネギ 適量




京都大学の研究をベースに出汁を引いて味噌汁作りました。
ゆーたろー(和の料理人)
2021年1月10日
https://note.com/yutaro13m/n/n969e8f8859b1


「出汁でコケたらその日の味全部コケる」

という事を修行していた日本料理屋で大将が煮方の人に言っていたのをふと思い出しました。

こんにちは、ゆーたろー です。

というわけで今回は「コケたら(失敗したら)終わり」の出汁を、昔見た京都の大学と料理人さんが作った研究データをベースに温度と量を測りながら作る方法について紹介していこうと思います。

初めに
用意する食材はこちら。


・水 500ml
・かつお節 15g
・昆布 5g
・味噌 適量
・万能ネギ 適量
注意点としましては、水は軟水のものがオススメ。水道水だと変な匂いがありますし、硬水だとかつおや昆布の旨味成分が溶け出しにくいためです。

鰹節と昆布に関しては、出汁用のものであればとりあえずOK。お好み焼きにかける用の鰹節はあまりお勧めできません(おいしいけど)。

味噌は「出汁入り」と書かれたものや「添加物(アミノ酸等)」があまりないものが良いですが、とりあえず家にあるものでも大丈夫です。余談ですが「出汁入り」のものだとセブンイレブンのものが好きです。

それでは、調理に入っていきます。

調理編
まず初めに「昆布って前日から水につけておいた方が良いの?」という問題がありますが、正直、どちらでも良いです。

京都大学の研究による昆布出汁の最高の取り方は60度で1時間温めるというものですし、水につけた場合においても30分つけた場合と6時間のつけた場合の差はあまりないです。

ただ「あ、昆布水に浸けておくの忘れた!」という事を防ぐという意味では大事なので、うっかりさんは前日からつけておくのをオススメします(僕はそうしてます)。



また「今すぐ昆布出汁が欲しい!」という方は昆布に切り込みを入れる事で気持ち早く出汁を引くことができますので、いざという時にはそう言った対処法もあります(ごめんなさい、こっちの方法の方がよく使っている気がしてきました)。

というわけで、昆布を温めていきます。



「60度なんてわからんわ」という方は、鍋淵の気泡を見てあげるとわかりやすいです。大体70度付近になると鍋淵に気泡が見えてくるので、そこまでいきそうになったら火を弱めるなどしてあげると、目分量でもある程度ですが、温度のコントロールはできます。

全然関係ないですが、温度に対しても目分「量」って使えるんですかね?

そのようにしてざっくりと温度をコントロールしながら、味見をしながら、昆布出汁の味を見て、味がでてきたら昆布を取り外します。

昆布は70度を超えるとアルギン酸というエグミの元となる成分がでてくるので、そこだけは注意です。



昆布を取り出したら、そのまま昆布出汁を温めていきます。

京都大学の研究によりますと、ベストな鰹出汁の引き方は「85度」。なので、鰹節を入れると温度が下がるという事を加味すると、87度ぐらいで鰹節を入れるのが良いです。

なので、よくある出汁の引き方のポイントでもある「沸騰した昆布出汁におたま一杯の水を入れると温度がちょうど良い」と言う考えにそってやれば、良い感じに出汁がひけます。先人の知恵は偉大ですね。

通常の一番出汁ですと、軽くおたまでアクをとり、1分ぐらい鰹節をおいた後に静かに濾して、完成です。



ただ、今回はあくまで「味噌汁用」の出汁をひいているので、鰹節さんにはギリギリまで頑張ってもらいます。

95度以上まであげると香りが飛ぶ鳥のごとく消えていくので、とろ火にして5分ほど煮て、その後、鰹節が沈むまで待って、ザルで濾します。



鰹節の雑味はお吸い物などにする時にはあまり好まれませんが、味噌汁や煮物に使う分には奥深さになると思うので、しっかりと絞ります。

ここら辺、日本酒でいうところの「雑味」と考え方が近いような気がします。「綺麗な口当たり」の反語が「米らしい味わい」なのと同じように「澄んだ出汁」の反語が「奥深い味わい」なのと同じ感じです。わかりにくいですね。

ただ、めっちゃ熱いのでやけどにだけは注意です。



これで、味噌汁用の出汁が引けました。



あとはこちらを沸騰しないぐらいまで温めます。ここまでせっかく香りを残してきたのに、ここでグツグツさせてしまったら台無しです。

十分に温まったら、味噌を溶き、ネギを散らしたら、完成です。



見た目はこの上ないほどに地味ですが、出汁の良さを存分に楽しめる味噌汁です。

もちろん、色々な煮物料理やお浸しにも使えます。


「日本人は出汁の香りを嗅ぐと自律神経が整う」とも言われているぐらいに、出汁とともに生活してきました。ちょっと面倒かもしれませんが、もしよろしければお試しくださいませ。

https://note.com/yutaro13m/n/n969e8f8859b1

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1182.html#c13
[近代史5] GDPでは国民所得はわからない _ 日本人の平均月収は15万円以下 中川隆
10. 中川隆[-16101] koaQ7Jey 2021年10月06日 21:12:55 : ysUaxmWtj8 : SXFLbnFMU3E1ZGc=[39]

2021年10月06日
日本の賃金が韓国より低くなったという嘘を撒き散らす人に注意

韓国の賃金はアメリカより高いんでしょうか?

画像引用:https://news.yahoo.co.jp/articles/e5b7ef14fc437465bccaeff8f45c0b6c784ea358 「アベノミクスの継承か、修正か」 自民党総裁選、4候補の経済対策を検証(ABEMA TIMES) - Yahoo!ニュース


その統計が怪しい

前に「韓国の平均賃金が日本より多い」という韓国の主張を虚偽だと指摘しましたが、有名な評論家などが韓国の意見に賛同している。

それも「どうだ日本人、ざまあみろ!」的な論調で劣等感を煽り、列島民族日本人と優秀な韓国人という論調だから恐れ入る

左翼マスコミがこれに加担あるいは首謀し、いつものように日本や日本人を貶める活動をしている。

これに保証を与えたのがOECD(経済協力開発機構)で、「日本の賃金は韓国よりずっと低い」と明言している。

ところがこのOECDの統計は辻褄があっておらず、よく見ると嘘だという事が分かります。

OECD統計によると日本の平均賃金は3万8515ドルで22位、韓国は19位で4万1960ドルでした。


アメリカは6万9391ドル、ドイツ5万3745ドル、フランスが4万5581ドル、イギリスが4万7147ドルですがこれらの数字すべてがおかしい。

各国の1人当たりGDPはアメリカ6.3万ドル、ドイツ4万5000ドル、イギリス4万ドル、日本4万ドル、フランス3万9900ドル、韓国3万1000ドルでした。(GDPはIMF発表)

GDPは個人と企業などの国の所得の合計で、各国の人々の収入はこれに比例している筈です。


ビルゲイツのように1人10兆円の資産家がいたり、企業が利益を独占し給料を払わない国では1人当たりGDPより賃金が遥かに低い事はありえる。

だが日本の平均賃金は1人当たりGDPとほぼ同額で、フランスとイギリスは少し高く、ドイツ、韓国だけが飛びぬけて多い。

ドイツの1人当たりGDPは4万5000ドルで平均賃金は5万3745ドル、韓国の1人当たりGDPは3万1000ドルで平均賃金4万1960ドルになっています。

購買力平価を隠して引用する有名評論家とマスコミ

労働者の平均賃金がその国の1人当たりGDPより35%(韓国)も多いなんてあり得ないと自分は思いました。

で、調べた結果判明したのはOECDの『賃金』は購買力平価換算で、現実の『賃金』と無関係だという事でした。

購買力平価は物価を考慮するので、例えば韓国の物価が日本より5割低く賃金が3割安いと、韓国の平均賃金が日本より4割高い事になります。


OECDは購買力平価ではなく単純な名目値も発表しているが、それだと「当たり前の順位」になるので左翼の人たちは喜ばない。

購買力平価なら例えば北京の物価が東京の3割で賃金は日本の4割なら、北京のほうが東京より高賃金になるから面白いのです。

アフリカの物価が日本の1割で賃金が日本の2割だったら、アフリカの人は日本の2倍の賃金になります。


もうばかばかしくて書く気にならないが、「日本の賃金は韓国より低くなった」と言っている人が居たら、この人は”その筋の人”と思った方が良い

最近話題になっている最低賃金では日本はOECD30国中の14位で真ん中で、韓国は少し下です。

OECDは賃金の他に平均給与(年収)も発表していて、日本の平均給与は4万384ドルで、韓国は3万5906ドル(2019年)でした。


平均給与はアメリカ6万5000ドル、ドイツ4万7000ドル、イギリス同じ、フランス4万3000ドル、ついでにイタリア3万3000ドルでした。

これも怪しいが平均賃金と比べて1人当たりGDPとの乖離は小さく、「名目」つまり購買力平価ではないと書かれています。

さてOECDの調査は調査方法や調査人数が書かれていないが、日本の場合「正社員の平均手取り給与が4万ドル(440万円)」なら実感と一致するのではないでしょうか。


正社員という分かりやすい制度は世界で日本にしかなく、アメリカや韓国や欧州は各国で違います。

調査範囲を広げてバイトやニートを含む全労働者にすると数字は低くなり、調査範囲を狭めるほど数字は大きくできます。

韓国は労働者の中で自営業の割合が世界一高く、非正規は労働統計に含めていません。


これだと平均賃金や平均年収がかさ上げされるので、上げ底した数値を発表し「日本を抜いた」と言っています。

現実の韓国人全員の収入は日本の1/2から2/3で、カウントされない失業者が非常に多いです。

韓国の失業率は常に3%台ですが、これは「1か月に1秒でも働き1ウォンでも収入を得た人」を除外しているからです

https://www.thutmosev.com/archives/86885036.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/697.html#c10

[近代史5] 1時間おきに「お白湯」をすすって胃を温かく保とう
1時間おきに「お白湯」をすすって胃を温かく保とう


鼻炎・蓄膿症(副鼻腔炎)の大敵である冷えにお白湯飲み
http://hanatooru.com/archives/80.html

鼻炎(鼻水・鼻づまり)や蓄膿症(慢性副鼻腔炎)の人の多くは体が冷えて、免疫力が落ちていますので、基本的な冷え解消法として取り入れて欲しい簡単な習慣があります。 

それは「お白湯」をすすることです。
 

お白湯の効能

お白湯は胃を常に温かく保つことで全身を温かく保つことができます。 


胃が温かいことはアーユルヴェーダ的に言うと毒素を消化する力を保ち、免疫力の維持に貢献します(ただし空腹時です)。


お白湯を飲む量はほんとちょっとすする程度です。胃を温かく保つ程度で結構です。 
1時間おきくらいにすすると良いでしょう。 


これを続けることによって代謝が上がります。 これだけでダイエットに成功する人もいます。


お白湯を飲むだけですから、鼻炎や蓄膿症(慢性副鼻腔炎)の人には是非、取り入れて欲しいと思います。


飲む量が増えると効果がさらに高くなるかというと返って落ちていきます。 


また、食後1時間以内に飲むと消化するための胃液が薄くなりますから、注意してください。

お白湯の作り方

お白湯の作り方は、やかんに火をかけ、沸騰してきたら蓋を取り、弱火で10分から15分、沸騰させます。


できれば電気ポットよりも、ガスの火によって10分以上、沸騰させたものが良いです。 


というのは「水」に「火」の質を入れることによって、その火という性質をお白湯を通して体に取り入れるというアーユルヴェーダ独特の考えがあるからです。


でも、時間がない方は電気ポットでも結構です。 


お白湯は携帯ポットに入れて、いつでも飲めるようにされるとよいでしょう。


それから、基本的なことですが、鼻炎や蓄膿症の人は冷たいものの飲食は極力避けてください。
 

関連記事:

体が冷えていると蓄膿症が治りにくいという訳とは
http://hanatooru.com/archives/66.html

「蓄膿症の97%の人が犯す間違った改善法とは!」(ガイドブックPDF版)
http://breath.holy.jp/guidebook.pdf


人づき合いの席でどうしても冷たいものを口にする場合は、その後で、お白湯を飲んでください。

http://hanatooru.com/archives/80.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1159.html

[近代史6] 1時間おきに「お白湯」をすすって胃を温かく保とう
1時間おきに「お白湯」をすすって胃を温かく保とう


鼻炎・蓄膿症(副鼻腔炎)の大敵である冷えにお白湯飲み
http://hanatooru.com/archives/80.html

鼻炎(鼻水・鼻づまり)や蓄膿症(慢性副鼻腔炎)の人の多くは体が冷えて、免疫力が落ちていますので、基本的な冷え解消法として取り入れて欲しい簡単な習慣があります。 

それは「お白湯」をすすることです。
 

お白湯の効能

お白湯は胃を常に温かく保つことで全身を温かく保つことができます。 


胃が温かいことはアーユルヴェーダ的に言うと毒素を消化する力を保ち、免疫力の維持に貢献します(ただし空腹時です)。


お白湯を飲む量はほんとちょっとすする程度です。胃を温かく保つ程度で結構です。 
1時間おきくらいにすすると良いでしょう。 


これを続けることによって代謝が上がります。 これだけでダイエットに成功する人もいます。


お白湯を飲むだけですから、鼻炎や蓄膿症(慢性副鼻腔炎)の人には是非、取り入れて欲しいと思います。


飲む量が増えると効果がさらに高くなるかというと返って落ちていきます。 


また、食後1時間以内に飲むと消化するための胃液が薄くなりますから、注意してください。

お白湯の作り方

お白湯の作り方は、やかんに火をかけ、沸騰してきたら蓋を取り、弱火で10分から15分、沸騰させます。


できれば電気ポットよりも、ガスの火によって10分以上、沸騰させたものが良いです。 


というのは「水」に「火」の質を入れることによって、その火という性質をお白湯を通して体に取り入れるというアーユルヴェーダ独特の考えがあるからです。


でも、時間がない方は電気ポットでも結構です。 


お白湯は携帯ポットに入れて、いつでも飲めるようにされるとよいでしょう。


それから、基本的なことですが、鼻炎や蓄膿症の人は冷たいものの飲食は極力避けてください。
 

関連記事:

体が冷えていると蓄膿症が治りにくいという訳とは
http://hanatooru.com/archives/66.html

「蓄膿症の97%の人が犯す間違った改善法とは!」(ガイドブックPDF版)
http://breath.holy.jp/guidebook.pdf


人づき合いの席でどうしても冷たいものを口にする場合は、その後で、お白湯を飲んでください。

http://hanatooru.com/archives/80.html
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/820.html

[近代史6] フリードリヒ・ニーチェ(独: Friedrich Wilhelm Nietzsche、1844 - 1900)
フリードリヒ・ニーチェ(独: Friedrich Wilhelm Nietzsche、1844 - 1900)

あの有名な哲学者ニーチェは、アマチュア作曲家としてもなかなかの腕前である。鋭い感受性、世紀末的な感覚は音楽でも発揮されている。世紀末的なドロドロした感性は聴いていてスクリャービンを連想することが多々あり、スクリャービンのファンなら一聴してみることを大いにお勧めする。ドイツの後期ロマン派はオーケストラ曲が中心なので、ニーチェのピアノ曲はユニークな存在感があると思う。


マンフレッド瞑想曲(1972)
3.0点
自信をもってハンス・フォン・ビューローに送付するも酷評を受けたそうだ。小品ではなく割と長い曲で、ダークな感性とピアノ書法の良さは一聴に値すると思う。

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%281859%E5%B9%B4%E3%81%BE%E3%81%A7%29


作曲家 ニーチェ
ニーチェは、専門的な音楽教育を受けたわけではなかったが、13歳頃から20歳頃にかけて歌曲やピアノ曲などを作曲した。その後、作曲することはなくなったが、ヴァーグナーとの出会いを通して刺激を受け、バーゼル時代にもいくつかの曲を残している。作風は前期ロマン派的であり、シューベルトやシューマンを思わせる。彼が後にまったく作曲をしなくなったのは、本業で忙しくなったという理由のほかに、自信作であった『マンフレッド瞑想曲』をハンス・フォン・ビューローに酷評されたことが理由として考えられる。

現在に至るまで、ニーチェが作曲家として認識されたことはほとんどないが、著名な哲学者の作曲した作品ということで、一部の演奏家が録音で取り上げるようになり、徐々に彼の「作曲もする哲学者」としての側面が明らかになっている。

彼の作品は、すべて歌曲かピアノ曲のどちらかであるが、四手連弾の作品の中には『マンフレッド瞑想曲』交響詩『エルマナリヒ』など、オーケストラを念頭に置いて書かれたであろう作品も存在する。

また、オペラのスケッチを残しており、2007年にジークフリート・マトゥスがそのスケッチを骨子としてオペラ『コジマ』を作曲した。


フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(独: Friedrich Wilhelm Nietzsche, 1844年10月15日 - 1900年8月25日)は、ドイツ・プロイセン王国出身の哲学者、古典文献学者。現代では実存主義の代表的な思想家の一人として知られる。古典文献学者フリードリヒ・ヴィルヘルム・リッチュル(英語版、ドイツ語版)に才能を見出され、スイスのバーゼル大学古典文献学教授となって以降はプロイセン国籍を離脱して無国籍者であった[1][2]。辞職した後は在野の哲学者として一生を過ごした。随所にアフォリズムを用いた、巧みな散文的表現による試みには、文学的価値も認められる。

なお、ドイツ語では、「ニーチェ」(フリードリヒ [ˈfriːdrɪç] ヴィルヘルム [ˈvɪlhɛlm] ニーチェ [ˈniːtʃə])のみならず「ニーツシェ」[ˈniːtsʃə]とも発音される[3]。

生涯

少年時代
ニーチェは、1844年10月15日火曜日にプロイセン王国領プロヴィンツ・ザクセン(Provinz Sachsen - 現在はザクセン=アンハルト州など)、ライプツィヒ近郊の小村レッツェン・バイ・リュッケンに、父カール・ルートヴィヒと母フランツィスカの間に生まれた。父カールは、ルター派の裕福な牧師で元教師であった。同じ日に49回目の誕生日を迎えた当時のプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世にちなんで、「フリードリヒ・ヴィルヘルム」と名付けられた。なお、ニーチェは後にミドルネーム「ヴィルヘルム」を捨てている。

1846年には妹エリーザベトが、1848年には弟ルートヴィヒ・ヨーゼフが生まれている。しかし、ニーチェが4歳の時(1848年)8月、父カール・ルートヴィヒは近眼が原因で足元にいた小犬に気付かず、つまづき玄関先の石段を転げ落ちて頭を強く打ち付けた。ニーチェ5歳の時1849年4月30日にこの時の怪我が原因で死去した。また、それを追うように、1850年には2歳の弟ヨーゼフが歯が原因とされる、けいれんによって病死。[4]また、父の死の日付に関しては、ニーチェ自身は、7月27日と語り、弟の死に関しては、1850年1月末の出来事と語る。[5][注 1]

男手を失い、家計を保つ必要性があったことから、父方の祖母とその兄クラウゼ牧師を頼って故郷レッケンを去りナウムブルクに移住する。また、二人の伯母も家事や食事などに協力した。計6人でのナウムブルクでの生活が始まった。

その後ニーチェは、6歳になる前に、ナウムブルクの市立小学校に入学する。翌年、ウェーベル(ウェーバー)氏の私塾(予備校)に入った。数年そこで学び、1854年にナウムブルクのギムナジウムに入学する。[6]

なお、私塾では、ギリシア語ラテン語の初歩教育を受け、ただ勉強を受けるだけではなく、外へ遠足へ出かけることもあり楽しかったとニーチェは語る。[7]

ニーチェは、父が死ぬ前の幼い時代を幸せだったこと、しかしその後父や弟が死んだ時の悲しみをギムナジウム時代に書いた自伝集で綴っている。また伯母や祖母の死もあったこと、そして、その他のいろんな困難を自分が乗り越えて来た事を語る。そして、それには神の導きのお陰があったと信じていた。[8]神に関しては、この時代はまだ信仰していた事がわかる。

ある雨の日の話
市立小学校時代のニーチェの性格をうかがわせるものとして、多くの解説書で語られる有名なエピソードがある。

まだニーチェが市立小学校に通っていた頃、帰りににわか雨が降って来た。他の子供たちは傘がなく走って帰って来た。にも拘わらずニーチェは一人雨の中を頭にハンカチを載せて歩いて帰って来たという。心配して途中まで来ていた母が「何故、走ってこないのか」と怒ったところ、ニーチェは「校則に帰りは走らず静かに帰れと書いてあるから」と、述べたという。このエピソードは、よくニーチェという人物の生真面目さと結び付けられて語られている。

エリーザベトの兄への思い
エリーザベトが残した文からエリーザベトが兄への尊敬の念を持っていたことも分かっている。その理由は、兄の人格が誠実で嘘を憎むからであり、さらには活発で抑えのきかない自分に自制の心を教えてくれたからだという。

さらに、エリーザベトは6歳の頃から、兄の書いた文を集めていたことがわかっている。エリーザベトは、ニーチェ文庫を創設しており、彼女が集めた文書は兄の研究に大きく貢献した。一方で彼女は、兄の遺稿をめちゃくちゃに編集したり、ナチスに宣伝したりした。その理由は、自身の名誉のためという説が強いが、こうした、エリーザベトの兄への思いも考慮して、兄への尊敬の念が行き過ぎてしまっただけなのだという見方をする者もいる。[9]

青年時代
ニーチェは、1854年からナウムブルクのギムナジウムへ通った。

ギムナジウムでは音楽と国語の優れた才能を認められていた。プフォルター学院に移る少し前、一人の伯母の死とそれに相次ぐ、祖母の死をきっかけにニーチェの母は移住することを決める。ニーチェの母は友達の牧師に家を借りる。ニーチェは勉強やスポーツに励み、友人であるピンデル(ピンダー)やクルークとの交流のおかげもあって芸術や作曲に長けていた。

その噂を聞いたドイツ屈指の名門校プフォルタ学院(ドイツ語版、英語版)の校長から給費生としての転学の誘いが届く。ドイツ屈指の名門校プフォルタ学院に[注 2]ニーチェは、母や妹とのしばしの別れを惜しみながらも入学する事を決心した。このとき、生まれて初めて、田舎の保守的なキリスト教精神から離れて暮らすこととなる。

1858年から1864年までは、古代ギリシアやローマの古典・哲学・文学等を全寮制・個別指導で鍛えあげられ、模範的な成績を残す。また、詩の執筆や作曲を手がけてみたり、パウル・ドイッセン(Paul Deussen)と友人になったりした。

またニーチェは、プフォルター学院時代に、詩や音楽を自作し互いに評価しあうグループ「ゲルマニア」を結成し、その中心人物として活動した。

大学生時代
1864年にプフォルター学院を卒業すると、ニーチェはボン大学へ進んで、神学部と哲学部に籍を置く。神学部に籍を置いたのは、母がニーチェに父の後をついで牧師になる事を願っていたための配慮だったと指摘される。しかし、ニーチェは徐々に哲学部での古典文献学の研究に強い興味を持っていく。

そして、最初の学期を終える頃には、信仰を放棄して神学の勉強も止めたことを母に告げ、大喧嘩をしている(当時のドイツの田舎で、牧師の息子が信仰を放棄するというのは、大変珍しい事で、ましてや、夫を亡くした母にとっては、一家の一大事と考えた事も予測できる)。ニーチェのこの決断に大きな影響を及ぼしたのは、ダーヴィト・シュトラウスの著書『イエスの生涯』である。

ニーチェは、大学在学中に、友人ドイッセンとともに「フランコニア」というブルシェンシャフト(学生運動団体)に加わったが、最初の頃は楽しんでいたものの、徐々にニーチェはその騒がしさや野蛮さに嫌悪を抱いていったようである。その事は、友人ゲルスドルフに宛てた手紙から確認されている。[10]

また、ボン大学では、古典文献学の研究で実証的・批判的なすぐれた研究を行ったフリードリヒ・ヴィルヘルム・リッチュル(英語版)と出会い、師事する。リッチュルは、当時大学1年生であったニーチェの類い稀な知性をいち早く見抜き、ただニーチェに受賞させるためだけに、懸賞論文の公募を行なうよう大学当局へもちかけている。

ニーチェは、このリッチュルのもとで文献学を修得している。そして、リッチュルがボン大学からライプツィヒ大学へ転属となったのに合わせて、自分もライプツィヒ大学へ転学する。このライプツィヒ大学では、ギリシア宗教史家エルヴィン・ローデ(英語版)と知り合い親友となる。彼は、後にイェーナ大学やハイデルベルク大学などで教鞭を執ることになる。また、1867年には、一年志願兵として砲兵師団へ入隊するが、1868年3月に落馬事故で大怪我をしたため除隊する。それから、再び学問へ没頭することになる。

ライプツィヒ大学在学中、ニーチェの思想を形成する上で大きな影響があったと指摘される出会いが、2つあった。ひとつは、1865年に古本屋の離れに下宿していたニーチェが、その店でショーペンハウエルの『意志と表象としての世界』を偶然購入し、この書の虜となったことである。もうひとつは、1868年11月、リッチュルの紹介で、当時ライプツィヒに滞在していたリヒャルト・ヴァーグナーと面識を得られたことである。ローデ宛ての手紙の中で、ショーペンハウエルについてヴァーグナーと論じ合ったことや、「音楽と哲学について語り合おう」と自宅へ招待されたことなどを興奮気味に伝えている。

バーゼル大学教授時代
1869年のニーチェは24歳で、博士号も教員資格も取得していなかったが、リッチュルの「長い教授生活の中で彼ほど優秀な人材は見たことがない」という強い推挙もあり、バーゼル大学から古典文献学の教授として招聘された。バーゼルへ赴任するにあたり、ニーチェはスイス国籍の取得を考え、プロイセン国籍を放棄する(実際にスイス国籍を取得してはいない。これ以後、ニーチェは終生無国籍者として生きることとなる[1][2][注 3])。

本人は哲学の担当を希望したが受け入れられず、古代ギリシアに関する古典文献学を専門とすることとなる。講義は就任講演「ホメロスと古典文献学」に始まるが、自分にも学生にも厳しい講義のスタイルは当時話題となった。研究者としては、古代の詩における基本単位は音節の長さだけであり、近代のようなアクセントに基づく基本単位とは異なるということを発見した。終生の友人となる神学教授フランツ・オーヴァーベック(Franz Overbeck)と出会ったほか、古代ギリシアやルネサンス時代の文化史を講じていたヤーコプ・ブルクハルトとの親交が始まり、その講義に出席するなどして深い影響を受けたのもバーゼル大学でのことである。

1872年、ニーチェは第一作『音楽の精神からのギリシア悲劇の誕生』(再版以降は『悲劇の誕生』と改題)を出版した。

しかしリッチュルや同僚をはじめとする文献学者の中には、厳密な古典文献学的手法を用いず哲学的な推論に頼ったこの本への賛意を表すものは一人とてなかった。特にウルリヒ・フォン・ヴィラモーヴィッツ=メレンドルフは『未来の文献学』と題した(ヴァーグナーが自分の音楽を「未来の音楽」と称していたことにあてつけた題である)強烈な批判論文を発表し、まったくの主観性に彩られた『悲劇の誕生』は文献学という学問に対する裏切りであるとしてこの本を全否定した。好意をもってこの本を受け取ったのは、献辞を捧げられたヴァーグナーの他にはボン大学以来の友人ローデ(当時はキール大学教授)のみである。こうした悪評が響いたため同年冬学期のニーチェの講義からは古典文献学専攻の学生がすべて姿を消し、聴講者はわずかに2名(いずれも他学部)となってしまう。大学の学科内で完全に孤立したニーチェは哲学科への異動を希望するが認められなかった。

ヴァーグナーへの心酔と決別
生涯を通じて音楽に強い関心をもっていたニーチェは学生時代から熱烈なヴァーグナーのファンであり、1868年にはすでにライプツィヒでヴァーグナーとの対面を果たしている。やがてヴァーグナーの妻コジマとも知遇を得て夫妻への賛美の念を深めたニーチェは、バーゼルへ移住してからというもの、同じくスイスのルツェルン市トリプシェンに住んでいたヴァーグナーの邸宅へ何度も足を運んだ(23回も通ったことが記録されている)。ヴァーグナーは31歳も年の離れたニーチェを親しい友人たちの集まりへ誘い入れ、バイロイト祝祭劇場の建設計画を語り聞かせてニーチェを感激させ、一方ニーチェは1870年のコジマの誕生日に『悲劇の誕生』の原型となった論文の手稿をプレゼントするなど、二人は年齢差を越えて親交を深めた。

近代ドイツの美学思想には、古代ギリシアを「宗教的共同体に基づき、美的かつ政治的に高度な達成をなした理想的世界」として構想するという、美術史家ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン以来の伝統があった。当時はまだそれほど影響力をもっていなかった音楽家であると同時に、ドイツ3月革命に参加した革命家でもあるヴァーグナーもまたこの系譜に属している。『芸術と革命』をはじめとする彼の論文では、この滅び去った古代ギリシアの文化(とりわけギリシア悲劇)を復興する芸術革命によってのみ人類は近代文明社会の頽落を超克して再び自由と美と高貴さを獲得しうる、とのロマン主義的思想が述べられている。そしてニーチェにとって(またヴァーグナー本人にとっても)、この革命を成し遂げる偉大な革命家こそヴァーグナーその人に他ならなかった。

ヴァーグナーに対するニーチェの心酔ぶりは、第一作『悲劇の誕生』(1872年)において古典文献学的手法をあえて踏み外しながらもヴァーグナーを(同業者から全否定されるまでに)きわめて好意的に取りあげ、ヴァーグナー自身を狂喜させるほどであったが、その後はヴァーグナー訪問も次第に形式的なものになっていった。

1876年、ついに落成したバイロイト祝祭劇場での第1回バイロイト音楽祭および主演目『ニーベルングの指環』初演を観に行くが、パトロンのバイエルン王ルートヴィヒ2世やドイツ皇帝ヴィルヘルム1世といった各国の国王や貴族に囲まれて得意の絶頂にあるヴァーグナーその人と自身とのあいだに著しい隔たりを感じたニーチェは、そこにいるのが市民社会の道徳や宗教といった既成概念を突き破り、芸術によって世界を救済せんとするかつての革命家ヴァーグナーでないこと、そこにあるのは古代ギリシア精神の高貴さではなくブルジョア社会の卑俗さにすぎないことなどを確信する。また肝心の『ニーベルングの指環』自体も出来が悪く(事実、新聞等で報じられた舞台評も散々なものであったためヴァーグナー自身ノイローゼに陥っている)、ニーチェは失望のあまり上演の途中で抜け出し、ついにヴァーグナーから離れていった。祝祭劇場から離れる際、ニーチェは妹のエリーザベトに対し、「これがバイロイトだったのだよ」と言った。

この一件と前後して書かれた『バイロイトにおけるヴァーグナー』ではまだ抑えられているが、ヴァーグナーへの懐疑や失望の念は深まってゆき、二人が顔を合わせるのはこの年が最後のこととなった。1878年、ニーチェはヴァーグナーから『パルジファル』の台本を贈られるが、ニーチェからみれば通俗的なおとぎ話にすぎない『聖杯伝説』を題材としたこの作品の構想を得意げに語るヴァーグナーへの反感はいよいよ募り、この年に書かれた『人間的な、あまりにも人間的な』でついに決別の意を明らかにし、公然とヴァーグナー批判を始めることとなる。ヴァーグナーからも反論を受けたこの書をもって両者は決別し、再会することはなかった。

しかし晩年、ニーチェは、ヴァーグナーとの話を好んでし、最後に必ず「私はヴァーグナーを愛していた」と付け加えていたという。また同じく発狂後、ヴァーグナー夫人コジマに宛てて「アリアドネ、余は御身を愛す、ディオニュソス」と謎めいた愛の手紙を送っていることから、コジマへの横恋慕がヴァーグナーとの決裂に関係していたと見る向きもある。一方のコジマは、ニーチェを夫ヴァーグナーを侮辱した男と見ており、マイゼンブーグ充ての書簡では「あれほど惨めな男は見たことがありません。初めて会った時から、ニーチェは病に苦しむ病人でした」と書いている。


1873年から1876年にかけて、ニーチェは4本の長い評論を発表した。『ダーヴィト・シュトラウス、告白者と著述家』(1873年)、『生に対する歴史の利害』(1874年)、『教育者としてのショーペンハウアー』(1874年)、『バイロイトにおけるヴァーグナー』(1876年)である。これらの4本(のちに『反時代的考察』(1876年)の標題のもとに一冊にまとめられる)はいずれも発展途上にあるドイツ文化に挑みかかる文明批評であり、その志向性はショーペンハウエルとヴァーグナーの思想を下敷きにしている。死後に『ギリシア人の悲劇時代における哲学』として刊行される草稿をまとめはじめたのも1873年以降のことである。

またこの間にヴァーグナー宅での集まりにおいてマルヴィーダ・フォン・マイゼンブークという女性解放運動に携わるリベラルな女性(ニーチェやレーにルー・ザロメ(後述)を紹介したのも彼女である)やコジマ・ヴァーグナーの前夫である音楽家ハンス・フォン・ビューロー、またパウル・レーらとの交友を深めている。特に1876年の冬にはマイゼンブークやレーともにイタリアのソレントにあるマイゼンブークの別荘まで旅行に行き、哲学的な議論を交わしたりなどしている(ここでの議論をもとに書かれたレーの著書『道徳的感覚の起源』をニーチェは高く評価していた。またソレント滞在中には偶然近くのホテルに宿泊していたヴァーグナーと邂逅しており、これが二人があいまみえた最後の機会となる)。レーとの交友やその思想への共感は、初期の著作に見られたショーペンハウエルに由来するペシミズムからの脱却に大きな影響を与えている。

1878年、『人間的な、あまりにも人間的な』出版。形而上学から道徳まで、あるいは宗教から性までの多彩な主題を含むこのアフォリズム集において、ついにヴァーグナーおよびショーペンハウエルからの離反の意を明らかにしたため、この書はニーチェの思想における初期から中期への分岐点とみなされる。また、初期ニーチェのよき理解者であったドイッセンやローデとの交友もこのころから途絶えがちになっている。

翌1879年、激しい頭痛を伴う病によって体調を崩す。ニーチェは極度の近眼で発作的に何も見えなくなったり、偏頭痛や激しい胃痛に苦しめられるなど、子供のころからさまざまな健康上の問題を抱えており、その上1868年の落馬事故や1870年に患ったジフテリアなどの悪影響もこれに加わっていたのである。バーゼル大学での勤務中もこれらの症状は治まることがなく、仕事に支障をきたすまでになったため、10年目にして大学を辞職せざるをえず、以後は執筆活動に専念することとなった。ニーチェの哲学的著作の多くは、教壇を降りたのちに書かれたものである。

在野の哲学者として
ニーチェは、病気の療養のために気候のよい土地を求めて、1889年までさまざまな都市を旅しながら、在野の哲学者として生活した。夏はスイスのグラウビュンデン州サンモリッツ近郊の村シルス・マリアで、冬はイタリアのジェノヴァ、ラパッロ、トリノ、あるいはフランスのニースといった都市で過ごした。

時折、ナウムブルクの家族のもとへも顔を出したが、エリーザベトとの間で衝突を繰り返すことが多かった。ニーチェは、バーゼル大学からの年金で生活していたが、友人から財政支援を受けることがあった。かつての生徒である音楽家ペーター・ガスト(本名はHeinrich Köselitzで、ペーター・ガストというペンネームは、ニーチェが与えたものである)が、ニーチェの秘書として勤めるようになっていた。ガストとオーヴァーベックは、ニーチェの生涯を通じて、誠実な友人であり続けた。

また、マルヴィーダ・フォン・マイゼンブークも、ニーチェがヴァーグナーのサークルを抜け出た後もニーチェに対して、母性的なパトロンでありつづけた。その他にも、音楽評論家のカール・フックスとも連絡を取り合うようになり、それなりの交友関係がまだニーチェには残されていた。そして、このころからニーチェの最も生産的な時期がはじまる。

1878年に『人間的な、あまりに人間的な』を刊行した。そして、それを皮切りにして、ニーチェは1888年まで毎年1冊の著作(ないしその主要部分)を出版することになる。特に、執筆生活最後となる1888年には、5冊もの著作を書き上げるという多産ぶりであった。1879年には、『人間的な』と同様のアフォリズム形式による『さまざまな意見と箴言』を、翌1880年には『漂泊者とその影』を出版した。これらは、いずれも『人間的な』の第2部として組み込まれるようになった。

ルー・ザロメとの交友
ニーチェは1881年に『曙光:道徳的先入観についての感想』を、翌1882年には『悦ばしき知識』の第1部を発表した。『力への意志』として知られる著作の構想が芽生えたのもこの時期と言われる(草稿類の残っているのは84年頃から)。またこの年の春、マルヴィーダ・フォン・マイゼンブークとパウル・レーを通じてルー・ザロメと知り合った。

ニーチェは(しばしば付き添いとしてエリーザベトを伴いながら)5月にはスイスのルツェルンで、夏にはテューリンゲン州のタウテンブルクでザロメやレーとともに夏を過ごした。ルツェルンではレーとニーチェが馬車を牽き、ザロメが鞭を振り回すという悪趣味な写真をニーチェの発案で撮影している。ニーチェにとってザロメは対等なパートナーというよりは、自分の思想を語り聞かせ、理解しあえるかもしれない聡明な生徒であった。彼はザロメと恋に落ち、共通の友人であるレーをさしおいてザロメの後を追い回した。そしてついにはザロメに求婚するが、返ってきた返事はつれないものだった。

レーも同じころザロメに結婚を申し入れて同様に振られている。その後も続いたニーチェとレーとザロメの三角関係は1882年から翌年にかけての冬をもって破綻するが、これにはザロメに嫉妬してニーチェ・レー・ザロメの三角関係を不道徳なものとみなしたエリーザベトが、ニーチェとザロメの仲を引き裂くために密かに企てた策略も一役買っている。後年、自分に都合のよい虚偽に満ちたニーチェの伝記を執筆するエリーザベトは、この件に関しても兄の書簡を破棄あるいは偽造したりザロメのことを中傷したりなどして、均衡していた三角関係をかき乱したのである。結果として、ザロメとレーの二人はニーチェを置いてベルリンへ去り、同棲生活を始めることとなった。

失恋による傷心、病気による発作の再発、ザロメをめぐって母や妹と不和になったための孤独、自殺願望にとりつかれた苦悩などの一切から解放されるため、ニーチェはイタリアのラパッロへ逃れ、そこでわずか10日間のうちに『ツァラトゥストラはかく語りき』の第1部を書き上げる。

ショーペンハウアーとの哲学的つながりもヴァーグナーとの社会的つながりも断ち切ったあとでは、ニーチェにはごくわずかな友人しか残っていなかった。ニーチェはこの事態を甘受し、みずからの孤高の立場を堅持した。一時は詩人になろうかとも考えたがすぐにあきらめ、自分の著作がまったくといってよいほど売れないという悩みに煩わされることとなった。1885年には『ツァラトゥストラ』の第4部を上梓するが、これはわずか40部を印刷して、その内7冊を親しい友人へ献本する [11]だけにとどめた。

1886年にニーチェは『善悪の彼岸』を自費出版した。この本と、1886年から1887年にかけて再刊したそれまでの著作(『悲劇の誕生』『人間的な、あまりに人間的な』『曙光』『悦ばしき知識』)の第2版が出揃ったのを見て、ニーチェはまもなく読者層が伸びてくるだろうと期待した。事実、ニーチェの思想に対する関心はこのころから(本人には気づかれないほど遅々としたものではあったが)高まりはじめていた。

メータ・フォン・ザーリス(ドイツ語版)やカール・シュピッテラー[注 4]、ゴットフリート・ケラー[注 5]と知り合ったのはこのころである。

1886年、妹のエリーザベトが反ユダヤ主義者のベルンハルト・フェルスターと結婚し、パラグアイに「ドイツ的」コロニーを設立するのだという(ニーチェにとっては噴飯物の)計画を立てて旅立った。書簡の往来を通じて兄妹の関係は対立と和解のあいだを揺れ動いたが、ニーチェの精神が崩壊するまで2人が顔を合わせることはなかった。

病気の発作が激しさと頻度を増したため、ニーチェは長い時間をかけて仕事をすることが不可能になったが、1887年には『道徳の系譜』を一息に書き上げた。同じ年、ニーチェはドストエフスキーの著作(『悪霊』『死の家の記録』など)を読み、その思想に共鳴している。

また、イポリット・テーヌ[注 6]やゲーオア・ブランデス[注 7]とも文通を始めている。ブランデスはニーチェとキェルケゴールを最も早くから評価していた人物の一人であり、1870年代からコペンハーゲン大学でキェルケゴール哲学を講義していたが、1888年には同大学でニーチェに関するものとしては最も早い講義を行い、ニーチェの名を世に知らしめるのに一役買った批評家である。

ブランデスはニーチェにキェルケゴールを読んでみてはどうかとの手紙を書き送り、ニーチェは薦めにしたがってみようと返事をしている[注 8]。

ニーチェは1888年に5冊の著作を書き上げた(著作一覧参照)。健康状態も改善の兆しを見せ、夏は快適に過ごすことができた。この年の秋ごろから、彼は著作や書簡においてみずからの地位と「運命」に重きを置くようになり、自分の著書(なかんずく『ヴァーグナーの場合』)に対する世評について増加の一途をたどっていると過大評価するようにまでなった。

ニーチェは、44歳の誕生日に、自伝『この人を見よ』の執筆を開始した。『偶像の黄昏』と『アンチクリスト』を脱稿して間もない頃であった。序文には「私の言葉を聞きたまえ!私はここに書かれているがごとき人間なのだから。そして何より、私を他の誰かと間違えてはならない」と、各章題には「なぜ私はかくも素晴らしい本を書くのか」「なぜ私は一つの運命であるのか」とまで書き記す。12月、ニーチェはストリンドベリとの文通を始める。また、このころのニーチェは国際的な評価を求め、過去の著作の版権を出版社から買い戻して外国語訳させようとも考えた。さらに『ニーチェ対ヴァーグナー』と『ディオニュソス賛歌』の合本を出版しようとの計画も立てた。また『力への意志』も精力的に加筆や推敲を重ねたが、結局これを完成させられないままニーチェの執筆歴は突如として終わりを告げる。

狂気と死
1889年1月3日、ニーチェはトリノ市の往来で騒動を引き起し、二人の警察官の厄介になった。

数日後、ニーチェはコジマ・ヴァーグナーやブルクハルトほか何人かの友人に以下のような手紙を送っている。ブルクハルト宛の手紙では


「私はカイアファを拘束させてしまいました。昨年には私自身もドイツの医師たちによって延々と磔にされました。ヴィルヘルムとビスマルク、全ての反ユダヤ主義者は罷免されよ!」


と書き、またコジマ・ヴァーグナー宛の手紙では、


「私が人間であるというのは偏見です。…私はインドでは仏陀であったし、ギリシアではディオニュソス。…アレクサンダーとシーザーは私の化身、ヴォルテールとナポレオンでもあったし、…ヴァーグナーだったことがあるような気もしないではありません。…十字架にかけられたのも私です。…今は勝利に輝くディオニュソスとしてやってきたのです…そして、天は私の出現を歓喜して迎えている…愛しのアリアドネへ、ディオニュソスより」


というものであった。

1月6日、ブルクハルトはニーチェから届いた手紙をオーヴァーベックに見せたが、翌日にはオーヴァーベックのもとにも同様の手紙が届いた。友人の手でニーチェをバーゼルへ連れ戻す必要があると確信したオーヴァーベックはトリノへ駆けつけ、ニーチェをバーゼルの精神病院へ入院させた。ニーチェの母フランツィスカはイェーナの病院で精神科医オットー・ビンスワンガー(Otto Binswanger)に診てもらうことに決めた。

1889年11月から1890年2月まで、医者のやり方では治療効果がないと主張したユリウス・ラングベーン(Julius Langbehn)が治療に当たった。彼はニーチェの扱いについて大きな影響力をもったが、やがてその秘密主義によって信頼を失った。フランツィスカは1890年3月にニーチェを退院させて5月にはナウムブルクの実家に彼を連れ戻した。


この間にオーヴァーベックとガストはニーチェの未発表作品の扱いについて相談しあった。1889年1月にはすでに印刷・製本されていた『偶像の黄昏』を刊行、2月には『ニーチェ対ヴァーグナー』の私家版50部を注文する(ただし版元の社長C・G・ナウマンはひそかに100部印刷していた)。またオーヴァーベックとガストはその過激な内容のために『アンチクリスト』と『この人を見よ』の出版を見合わせた。

エリーザベトと『力への意志』
1893年、エリーザベトが帰国した。夫がパラグアイで「ドイツ的」コロニー経営に失敗し自殺したためであった。彼女は兄の著作を読み、かつ研究して徐々に原稿そのものや出版に関して支配力を揮うようになった。その結果オーヴァーベックは追い払われ、ガストはエリーザベトに従うことを選んだ。

1897年に母フランツィスカが亡くなったのち、兄妹はヴァイマールへ移り住み、エリーザベトは兄の面倒をみながら、訪ねてくる人々(その中にはルドルフ・シュタイナーもいた)に、もはや意思の疎通ができない兄と面会する許可を与えていた。

1900年8月25日、ニーチェは肺炎を患って55歳で亡くなった。エリーザベトの希望で、遺体は故郷レッケンの教会で父の隣に埋葬された。ニーチェは「私の葬儀には数少ない友人以外呼ばないで欲しい」との遺言を残していたが、エリーザベトは兄の友人に参列を許さず、葬儀は皮肉にも軍関係者および知識人層により壮大に行なわれた。ガストは弔辞でこう述べている。


―「未来のすべての世代にとって、あなたの名前が神聖なものであらんことを!」[注 9]


エリーザベトは兄の死後、遺稿を編纂して『力への意志』を刊行した。エリーザベトの恣意的な編集はのちに「ニーチェの思想はナチズムに通じるものだ」との誤解を生む原因となった(次節参照)。決定版全集ともいわれる『グロイター版ニーチェ全集』の編集者マッツィーノ・モンティナーリ(英語版)は「贋作」と言っている。

思想
ニーチェはソクラテス以前の哲学者も含むギリシア哲学やアルトゥル・ショーペンハウアーなどから強く影響を受け、その幅広い読書に支えられた鋭い批評眼で西洋文明を革新的に解釈した。実存主義の先駆者、または生の哲学の哲学者とされる。先行の哲学者マックス・シュティルナーとの間に思想的類似点(ニーチェによる「超人」とシュティルナーによる「唯一者」との思想的類似点等々)を見出され、シュティルナーからの影響がしばしば指摘されるが、ニーチェによる明確な言及はない。そのことはフリードリヒ・ニーチェとマックス・シュティルナーとの関係性の記事に詳しい。

ニーチェは、神、真理、理性、価値、権力、自我などの既存の概念を逆説とも思える強靭な論理で解釈しなおし、悲劇的認識、デカダンス、ニヒリズム、ルサンチマン、超人、永劫回帰、力への意志などの独自の概念によって新たな思想を生みだした。

永劫回帰
有名な永劫回帰(永遠回帰)説は、古代ギリシアの回帰的時間概念を借用して、世界は何か目標に向かって動くことはなく、現在と同じ世界を何度も繰り返すという世界観をさす。これは、生存することの不快や苦悩を来世の解決に委ねてしまうクリスチャニズムの悪癖を否定し、無限に繰り返し、意味のない、どのような人生であっても無限に繰り返し生き抜くという超人思想につながる概念である。

彼は、ソクラテス以前のギリシャに終生憧れ、『ツァラトゥストラ』などの著作の中で「神は死んだ」と宣言し、西洋文明が始まって以来、特にソクラテス以降の哲学・道徳・科学を背後で支え続けた思想の死を告げた。

超人
それまで世界や理性を探求するだけであった哲学を改革し、現にここで生きている人間それ自身の探求に切り替えた。自己との社会・世界・超越者との関係について考察し、人間は理性的生物でなく、キリスト教的弱者にあっては恨みという負の感情(ルサンチマン)によって突き動かされていること、そのルサンチマンこそが苦悩の原因であり、それを超越した人間が強者であるとした。ニーチェ思想において力の貴族主義思想を廃することはできない。さらには絶対的原理を廃し、次々と生まれ出る真理の中で、それに戯れ遊ぶ人間を超人とした。

すなわちニーチェは、クリスチャニズム、ルサンチマンに満たされた人間の持つ価値、及び長らく西洋思想を支配してきた形而上学的価値といったものは、現にここにある生から人間を遠ざけるものであるとする。そして人間は、合理的な基礎を持つ普遍的な価値を手に入れることができない、流転する価値、生存の前提となる価値を、承認し続けなければならない悲劇的な存在(喜劇的な存在でもある)であるとするのである。だが一方で、そういった悲劇的認識に達することは、既存の価値から離れ自由なる精神を獲得したことであるとする。その流転する世界の中、流転する真理を直視することは全て「力への意志」と言い換えられる。いわばニーチェの思想は、自身の中に(その瞬間では全世界の中に)自身の生存の前提となる価値を持ち、その世界の意志によるすべての結果を受け入れ続けることによって、現にここにある生を肯定し続けていくことを目指したものであり、そういった生の理想的なあり方として提示されたものが「超人」であると言える。

古代インド思想
ニーチェは『ヴェーダ』『ウパニシャッド』『マヌ法典』『スッタニパータ』などの古代インド思想に傾倒、ゴータマ・シッダールタを尊敬していた。度々、忌み嫌う西洋キリスト教文明と対比する形で仏教等の古代インド思想を礼賛し、「ヨーロッパはまだ仏教を受け入れるまでに成熟していない」と語っている[12]。

それ以後の哲学・思想への影響
ニーチェの哲学がそれ以後の文学・哲学に与えた影響は多大なものがあり、影響を受けた人物をあげるだけでも相当な数になるが、彼から特に影響を受けた哲学者、思想家としてはハイデガー、ユンガー、バタイユ、フーコー、ドゥルーズ、デリダらがいる。1968年のフランス五月革命の民主化運動も、思想背景はニーチェだった。

個々の著作の概要

『悲劇の誕生』
初期の著作には、『音楽の精神からの悲劇の誕生』(なお、1886年の新版以降は『悲劇の誕生、あるいはギリシア精神とペシミズム』と改題されている)がある。これは、哲学書ではなく、古典文献学の本である。

ニーチェにしてみれば、厭世的と見られていた当時の古典ギリシア時代の常識を覆し、アポロン的―ディオニュソス的という斬新な概念を導入して、当時の世界観を説いた野心作であった。しかし、このような独断的な内容は、厳密に古典文献を精読するという当時の古典文献学の手法からすれば、暴挙に近いものだった。そのため、周囲からは学問的厳密さを欠く著作として受け取られ、ヴァーグナーや友人のローデを除いて、学界からは完全に黙殺された。

また、師匠のリッチュルも、単にヴァーグナーの音楽を賛美するために古典文献学を利用したと思い、「才気を失った酔っ払い」の書と酷評したため、リッチュルとの関係が悪化した。この書の評判が響いて、発表した1872年の冬学期のニーチェの講義を聞くものは、わずかに2名であった(古典文献学専攻の学生は皆無)。満を持してこの本を出版したニーチェは、大きなショックを受けた。

古典文献学者の中でほぼ唯一、ニーチェの考えを積極的に受容したのがイギリスのケンブリッジ儀礼学派の祖ジェーン・エレン・ハリソンであった。ハリソンは1903年の著書『Prolegomena to the Study of Greek Religion』において、ディオニュソスとオルフェウス教の密儀によって古代ギリシア人のオリンポスの神々への信仰が「宗教」と呼べるものに転換していったと主張した[13]。

そして、ニーチェは、自身の著作が受け容れられないのは、現代のキリスト教的価値観に囚われたままで古典を読解するという当時の古典文献学の方法にあると考え、やがて激しい古典文献学批判を行なう。そして、『悲劇の誕生』で説いたような、悲劇の精神から遊離し、生というものを見ず、俗物的日常性に埋没し、単に教養することに自己満足して、その教養を自身の生にまったく活用しようとしない、当時のドイツに蔓延していた風潮を、「教養俗物」(Bildungsphilister)と名づけ、それに対する辛辣な批判を後の『反時代的考察』で展開していくことになる。

『反時代的考察』
これは、ヨーロッパ、特にドイツの文化の現状に関して、1873年から1876年にかけて執筆された4編(当初は13編のものとして構想された)からなる評論集である。

「ダーヴィト・シュトラウス、告白者と著述家」(1873年):これは、当時のドイツ思想を代表していたダーフィト・シュトラウスの『古き信仰と新しき信仰: 告白』(1871年)への論駁である。ニーチェは、科学的に、すなわち歴史の進歩に基づく決然とした普遍的技法によって、シュトラウスの言う「新しい信仰」なるものが文化の頽廃にしか寄与しない低俗な概念に過ぎないことを喝破したばかりか、シュトラウス本人をも俗物と呼んで攻撃した。
「生に対する歴史の利害」(1874年):ここでは、単なる歴史に関する知識の蓄積をもってことが足りるとする従来の考え方を退け、「生」を主要な概念として、新たな歴史の読み方を提示し、さらにはそれが社会の健全さを高めもするであろうことを説明する。
「教育者としてのショーペンハウアー」(1874年):アルトゥル・ショーペンハウアーの天才的な哲学がドイツ文化の復興をもたらすであろうことが述べられる。ニーチェは、ショーペンハウアーの個人主義や誠実さ、不動の意志だけでなく、ペシミズムによって、この有名な哲学者の陽気さに注目している。
「バイロイトにおけるリヒャルト・ワーグナー」(1876年):この論文では、リヒャルト・ワーグナーの心理学を探求している。当時のニーチェの心の中では、ワーグナーへの心酔と疑念が入り混じっていたため、対象となっている人物との親密さのわりには、追従めいたところがない。そのため、ニーチェはしばらく出版をためらっていたが、結局はワーグナーに対して批判的な文言の控えめな状態の原稿を出版した。にもかかわらず、この評論はやがて訪れる二人の決裂の兆しを見せている。
『人間的な、あまりにも人間的な』
1878年に初版を刊行、1886年の第2版からは『さまざまな意見と箴言』(1879年)と『漂泊者とその影』(1880年)をそれぞれ第2巻第1部および第2部として増補、題名も『人間的な、あまりに人間的な ―― 自由精神のための書』と改めた。本書はニーチェの中期を代表する著作であり、ドイツ・ロマン主義およびワーグナーとの決別や明瞭な実証主義的傾向が見て取られる。

また、本書の形式にも注目する必要がある。体系的な哲学の構築を避け、短いものは1行、長いものでも1、2ページからなるアフォリズム数百篇によって構成するという中期以降のスタイルは、本書をもって嚆矢とする。この本では、ニーチェの思想の根本要素が垣間見られるとはいえ、何かを解釈するというよりは、真偽の定かでない前提の暴露を盛り合わせたものである。ニーチェは、「パースペクティヴィズム」と「力への意志」という概念を用いている。

『曙光』
『曙光』(1881年)において、ニーチェは、動因としての快楽主義の役割を斥けて「力の感覚」を強調する。また、道徳と文化の双方における相対主義とキリスト教批判が完成の域に達した。この明晰で穏やかで個人的な文体のアフォリズム集の中で、ニーチェが求めているのは、自分の見解に対する読者の理解よりも、自らが特殊な体験を得ることであるようにも見られる。この本でもまた、後年の思想の萌芽が散見される。

『悦ばしき知識』
『悦ばしき知識』(1882年)は、ニーチェの中期の著作の中では最も大部かつ包括的なものであり、引き続きアフォリズム形式をとりながら、他の諸作よりも多くの思索を含んでいる。中心となるテーマは、「悦ばしい生の肯定」と「生から美的な歓喜を引き出す気楽な学識への没頭」である(タイトルは思索法を表すプロヴァンス語からつけられたもの)。

たとえば、ニーチェは、有名な永劫回帰説を本書で提示する。これは、世界とその中で生きる人間の生は一回限りのものではなく、いま生きているのと同じ生、いま過ぎて行くのと同じ瞬間が未来永劫繰り返されるという世界観である。これは、来世での報酬のために現世での幸福を犠牲にすることを強いるキリスト教的世界観と真っ向から対立するものである。

永劫回帰説もさることながら、『悦ばしき知識』を最も有名にしたのは、伝統的宗教からの自然主義的・美学的離別を決定づける「神は死んだ」という主張である。


『ツァラトゥストラはかく語りき』
『ツァラトゥストラはかく語りき』は、ニーチェの主著であるとされており、またリヒャルト・シュトラウスに、同名の交響詩を作曲させるきっかけとなった。なお、ツァラトゥストラとは、ゾロアスター教(拝火教)の開祖ザラスシュトラの名前のドイツ語形の一つであるが、歴史上の人物とは直接関係のない文脈で思想表現の器として利用されるにとどまっている。

その他

『善悪の彼岸』
『道徳の系譜』
『偶像の黄昏』
『ヴァーグナーの場合』
『アンチクリスト』(『反キリスト者』;独語Der Antichrist)
『この人を見よ』
『ニーチェ対ヴァーグナー』
『力への意志』(ニーチェの死後、遺稿を元にエリーザベトが編集出版したもの。長らくニーチェの主著と見なされていた。)

著作

『音楽の精神からのギリシア悲劇の誕生』(『悲劇の誕生』)(Die Geburt der Tragödie aus dem Geiste der Musik,1872)
『反時代的考察』(以下の論文所収)(Unzeitgemässe Betrachtungen, 1876)
「ダーヴィト・シュトラウス、告白者と著述家」(David Strauss: der Bekenner und der Schriftsteller, 1873)
「生に対する歴史の利害」(Vom Nutzen und Nachteil der Historie für das Leben, 1874)
「教育者としてのショーペンハウアー」(Schopenhauer als Erzieher, 1874)
「バイロイトにおけるヴァーグナー」(Richard Wagner in Bayreuth, 1876)
『人間的な、あまりにも人間的な』(Menschliches, Allzumenschliches, 1878)
『曙光』(Morgenröte, 1881)
『悦ばしき知識』(Die fröhliche Wissenschaft,1882)
『ツァラトゥストラはかく語りき』(Also sprach Zarathustra, 1885)
『善悪の彼岸』(Jenseits von Gut und Böse, 1886)
『道徳の系譜』(Zur Genealogie der Moral, 1887)
『ヴァーグナーの場合』(Der Fall Wagner, 1888)
『ニーチェ対ヴァーグナー』(Nietzsche contra Wagner, 1888)
『偶像の黄昏』(Götzen-Dämmerung, 1888)
『アンチクリスト』(あるいは『反キリスト者』)(Der Antichrist, 1888)
『この人を見よ』(Ecce homo, 1888)


遺稿集には

『力への意志』(遺稿。妹が編纂)(Wille zur Macht, 1901)
『生成の無垢』(遺稿。アルフレート・ボイムラー編)(Die Unshuld des Werdens, Alfred Kröner Verlag in Stuttgart, 1956)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/821.html

[近代史6] フリードリヒ・ニーチェ『マンフレッド瞑想曲』
フリードリヒ・ニーチェ『マンフレッド瞑想曲』


Nietzsche: Manfred-Meditation for Piano duet



Nietzsche: Manfred-Meditation for Piano duet · Dietrich Fischer-Dieskau · Prof.Dr. Elmar Budde
℗ 1995 Universal International Music B.V.



Friedrich Nietzsche - Manfred-Meditation (1872)



Piano: Dúo pianístico Tena Manrique.




Friedrich NIETZSCHE. Manfred Meditation. Piano Duo Tena Manrique





Dúo pianístico Tena Manrique
12 de febrero de 2013



Manfred Meditation




http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/822.html

[近代史6] フリードリヒ・ニーチェ ヴァイオリンソナタ『大晦日』
フリードリヒ・ニーチェ ヴァイオリンソナタ『大晦日』


Friedrich Nietzsche - Eine Sylvesternacht, for violin and piano (1863)



An early work for violin and piano by the famous German philosopher, poet, philologist and composer Friedrich Nietzsche (1844-1900), composed while he was studying at the Pforta school near Naumberg.


Violin: Sven Meier
Piano: Lauretta Altman



Friedrich Nietzsche - Eine Sylvesternacht (1864)



Piano: Lauretta Altma
Violin: Sven Meier




Eine Sylvesternacht



Eine Sylvesternacht · Peter Schubert · Friedrich Nietzsche · Lauretta Altman · Sven Meier
℗ 2006 Albany Records




Nietzsche: Nachklang einer Sylvesternacht for Piano duet



Nietzsche: Nachklang einer Sylvesternacht for Piano duet ·
Dietrich Fischer-Dieskau · Prof.Dr. Elmar Budde
℗ 1995 Universal International Music B.V.



http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/823.html

[近代史6] フリードリヒ・ニーチェ(独: Friedrich Wilhelm Nietzsche、1844 - 1900) 中川隆
1. 中川隆[-16100] koaQ7Jey 2021年10月06日 23:12:50 : ysUaxmWtj8 : SXFLbnFMU3E1ZGc=[40]
フリードリッヒ・ニーチェ...音楽家としての顔
2016-10-15
https://blog.goo.ne.jp/kyouchuuzenkutsu/e/ca261581950a120279de96693ab744cc

10月15日は哲学者フリードリッヒ・ニーチェの誕生日です。ニーチェは1844年の今日、プロイセンのザクセン州、ライプツィッヒ近郊の小村レッケン・バイ・リュッツェンで生まれました。


ニーチェが亡くなったのは、西暦1900年(明治33年)8月25日の正午です。専門家でもたまに間違えるのですが、西暦1900年というのは、20世紀ではないのです。20世紀が始まるのは、1901年からなのです。


新しい時代の「曙光(Morgenroete)」を遠望しながら、狂気の淵に沈んでいったニーチェは、まさしく19世紀の最後の年にその生を終わりました...
ニーチェは、最後の著作『この人を見よ(Ecce Homo)』を執筆中に発狂するのですが、その後ほぼ15年間、沈黙のうちに狂気の中に生きました...
音楽通であったニーチェは、自身でも作品を残しています。
ワーグナーとの愛憎劇は、とても有名です...
これは、ニーチェの残したピアノ曲の一つ...



フリードリッヒ・ニーチェ:『ヘルデンクラーゲ』



『ヘルデンクラーゲ』というのは、『英雄の嘆き』という意味ですね。綺麗な曲です...

もう一曲...こんどは、歌曲(リート)です。



フリードリッヒ・ニーチェ:『魔法』


*****


命あるものがすべて安らぎに沈む夜に、月の光が穏やかに墓石の上に差し込むとき、

その時に、安らぎのうちにあった墓たちがいっせいに開くというのが、本当ならば、レイラよ、僕は君に呼びかけよう...

*****

神秘的で、ロマンティックなリートです...
悪口を言えば、典型的な世紀末後期ロマン主義の典型...

しかし、イタリア的な透明感と晴朗、そして明瞭さをこよなく愛したはずのニーチェが、こんな作品を残すというのも、とても面白いのです...
ロマン主義的なニーチェのこうした部分は、ワーグナー崇拝にも繋がる要素です...

次は、室内楽作品から...これも、とても綺麗な曲です...


フリードリッヒ・ニーチェ:ヴァイオリンとピアノのための『大晦日の夜に』...




ニーチェ19歳の頃、シュール・プフォルタ(プフォルタ学院)でギリシア語の勉強に没頭している頃の作品です。
これを聴いても、ニーチェの音楽好きは、並のものではないことがわかります...

次は、ニーチェが激しく攻撃したキリスト教的な作品から、



フリードリッヒ・ニーチェ:『ミゼレレ』(5声のための合唱曲)



『ミゼレレ』...『(主よ)我を憐れみ給え』です。後の『アンチクリスト』の著者、ニーチェさんからは想像もできない作品です...

もっとも、ニーチェ自身は牧師の息子ですし、若い頃は敬虔なキリスト教徒そのものでしたから、わからなくはないのです。
ちなみに、『アンチクリスト』というのは、直訳すれば『反キリスト者』つまり「キリスト教徒」に「反対」しているのです。キリストその人に反対しているのではないのですね。 もしも、「キリスト」そのものに反対するのであれば、標題は『アンチクリストゥス』になるはずなのです。要するに、ドイツ語だとキリストは「クリストゥス」で、キリスト教徒が「クリスト」になるのです。
細かいことのようですが、ここのところは、とても大切なことなのです。ニーチェは「キリスト教批判」で有名ですが、キリスト教を批判すると言っても、「キリスト」そのものを批判したのか、「キリスト教徒」を批判したのか...
このあたりは、とてもデリケートな問題なのです。
「本当のキリスト教徒は、一人だけいた。その人は、十字架の上で死んだのだ...」などと、過激なことをニーチェは言っていますが、この言葉の真意は、どこにあるのか...
ともあれ、とても美しい作品です。

次も、声楽作品...


フリードリッヒ・ニーチェ:合唱と管弦楽団のための『生への賛歌』...




確かこの曲、歌詞を書いたのが、ニーチェの恋人だった、ルー・ザロメだったと思います。
ニーチェは思想的にはロマン主義的なものを乗り越えていこうとしていたのですが、この作品もそうですが、実はとてもロマン主義的な感覚の人です。ルー・ザロメと言えば、有名な写真があります...



『三位一体』と名付けられたこの写真は、とても有名です。右から、ニーチェ、友人の哲学者パウル・レー(パウル・ルートヴィヒ・カール・ハインリヒ・レー(Paul Ludwig Carl Heinrich Rée:1849-1901)、そしてルー・ザロメ...

ルー・アンドレアス・ザロメ(Lou Andreas-Salomé:1861-1937)は、時代を代表する才女です。ニーチェは、この女性に求婚までしていますし、後にザロメは詩人ライナー・マリア・リルケの求婚も断っています。写真の三人はとてもきわどい三角関係になり、ルーが原因となってニーチェとパウル・レーは仲違いしてしまいます。後にパウル・レーは、哲学を断念して、医者になります。

ニーチェの主著『ツァラトゥストラはこう語った』のなかに、『老いた女と若い女』という章があります。その中に、

女のところへ行くなら、鞭を忘れなさるな!

という有名なくだりがあります。ここは、しばしばニーチェの女性蔑視の思想が現れた場所だとされ、マッチョなニーチェ像の形成の原因ともなっているのですが、まず第一にこの言葉はツァラトゥストラの言葉ではなく、「老女」が語った言葉なのです。そして第二に、その意味は、上の写真の中にあらわされているのです。つまり、鞭を持っているのは男ではなく女なのであり、「鞭を忘れるな」というのは、女性は鞭を持っているからそのことを忘れるな、という男に対する警告なのです。



脱線ついでに、ニーチェと音楽といえば、ニーチェの作曲家、ペーター・ガストのことを忘れることはできません。



ペーター・ガスト:『ヴェニスのライオン』...



ペーター・ガスト(本名:ハインリッヒ・ケーゼリッツ)は、1854年に生まれ、1918年に亡くなったドイツの作家・作曲家です。二十代の後半でニーチェと知り合い、最後まで親しい関係を維持した人です。ニーチェの最後の著作、『エッケ・ホモ(この人を見よ)』は崩壊する精神の中で書かれたもので、テクストには様々な問題があるのですが、妹や母親に対する激しい攻撃を含む、最も決定的なものとされる原稿は、ガストの遺品から発見されています。それだけニーチェと親しい関係にあり、信頼をされていたということでしょう。そもそも、ペーター・ガスト(ピエトロ・ガスティ)という名前も、ニーチェがつけたというのです。



このクリップの作品からはたいしたことは解りませんが、ニーチェはワーグナーに対抗してガストを持ち上げ、「主に向かって新しき歌を歌え...」と著作の中でガストに呼びかけたりしていますが、明らかに音楽史上屈指の天才であるワーグナーとは較べるまでもありません。ガストの作風が本当にニーチェの音楽の好みに合っていたかも、解らないのです。


さて、ずいぶん脱線しましたが、締めくくりに...ワーグナーの作品を、参考のために。


ニーチェが完全にワーグナーと訣別したのが、この作品...


ワーグナー:『パルシファル』第一幕への前奏曲...




全体の前奏曲の部分です。
この作品は、題材もスペインのモンサルヴァート城の聖杯騎士団と、キリストの「聖杯」をめぐる物語ですし、台本も、音楽も、とてもキリスト教的です。

ちなみに、この「聖杯」というのは、イエスの十字架上の死にさいして、獄卒がイエスの脇腹を槍で突きます。その時に流れ出たイエスの血を受けたものなのです。これと、脇腹を突いた「聖槍」がもつ聖なる力がテーマです。
けれども、ニーチェが嫌ったことは、それにとどまらず、この作品、「歌劇(オペラ)」でも「楽劇(ムズィークドラマ)」でもなく、「舞台神聖祭典劇(ビューネンヴァイーフェストスピーレ)」とされているのです...要するに、この作品の上演は、宗教的な儀式になっているのですね。ですから、戦前のある時期までは、この作品はバイロイト以外の場所での上演が禁止されていたほどなのです。


ともあれ、とても美しい作品ですね。そして、ニーチェの音楽世界と、とても近いものを感じます。



追記:2017年8月25日

ニーチェの作品については、このブログを参考にしてください...

Keikoyamamoto.com:『ニーチェと音楽』:音楽作品一覧...
http://keikoyamamoto.com/nietzsche1-2.htm


https://blog.goo.ne.jp/kyouchuuzenkutsu/e/ca261581950a120279de96693ab744cc

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/821.html#c1
[近代史4] ニーチェの世界 中川隆
9. 中川隆[-16099] koaQ7Jey 2021年10月06日 23:15:02 : ysUaxmWtj8 : SXFLbnFMU3E1ZGc=[41]
フリードリヒ・ニーチェ(独: Friedrich Wilhelm Nietzsche、1844 - 1900)
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/821.htm

フリードリヒ・ニーチェ『マンフレッド瞑想曲』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/822.html

フリードリヒ・ニーチェ ヴァイオリンソナタ『大晦日』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/823.html


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/335.html#c9

[近代史5] ニイチェ ツァラトゥストラ 中川隆
1. 中川隆[-16098] koaQ7Jey 2021年10月06日 23:16:02 : ysUaxmWtj8 : SXFLbnFMU3E1ZGc=[42]
フリードリヒ・ニーチェ(独: Friedrich Wilhelm Nietzsche、1844 - 1900)
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/821.htm

フリードリヒ・ニーチェ『マンフレッド瞑想曲』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/822.html

フリードリヒ・ニーチェ ヴァイオリンソナタ『大晦日』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/823.html

http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/899.html#c1

[近代史6] マックス・ブルッフ(Max Christian Friedrich Bruch, 1838 - 1920)
マックス・ブルッフ(Max Christian Friedrich Bruch, 1838 - 1920)

交響曲

交響曲第1番変ホ長調 作品28

交響曲第2番ヘ短調 作品36

交響曲第3番ホ長調 作品51

協奏的作品(独奏と管弦楽のための作品)

クラリネット、ヴィオラと管弦楽のための協奏曲ホ短調 作品88

2台のピアノと管弦楽のための協奏曲変イ長調 作品88a

ヴァイオリン協奏曲第1番ト短調 作品26
3.5点
4大協奏曲に迫るロマン派協奏曲の優秀作の一つ。ドイツらしい重厚さと叙情性を兼ね備えた作品でヴァイオリンの甘さと美しさを存分に味わえるが、優等生すぎるもどかしさがある。

ヴァイオリン協奏曲第2番ニ短調 作品44

スコットランド幻想曲 作品46(1880年)
3.8点
メロディーが良く、ヴァイオリンのソロによって張りがあり、楽しんで聞ける。ロマン派の三大ヴァイオリン協奏曲のような深みは無いのだが、聞く楽しさでは同じ位のレベルかもしれない。

ヴァイオリン協奏曲第3番ニ短調 作品58

『コル・ニドライ』 作品47
2.8点
チェロの協奏曲。甘い思い出を切なく歌うような曲だが、狙いが分かりやす過ぎていまいち。一歩引いて聞いてしまう。

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%281859%E5%B9%B4%E3%81%BE%E3%81%A7%29


マックス・クリスティアン・フリードリヒ・ブルッフ(Max Christian Friedrich Bruch, 1838年1月6日 - 1920年10月2日)は、ケルンに生まれベルリンで没したドイツの作曲家、指揮者、教育者。

教師で有名な歌手であった母親から教育を受け、音楽、特に作曲に早くから才能を示した。ヴァイオリン協奏曲第1番ト短調が、ロマン派の協奏曲として特に有名でよく演奏される。他にもヴァイオリンと管弦楽のための『スコットランド幻想曲』や、チェロと管弦楽のための『コル・ニドライ』がしばしば演奏される。近年では、『クラリネットとヴィオラのための二重協奏曲』も人気を得て来ている。


来歴

1853年(15歳) - フェルディナント・ヒラーとカール・ライネッケに作曲を学ぶ。
1865年(27歳) - コブレンツの音楽監督に就任する。
1867年(29歳) - ゾンダースハウゼン(ドイツ語版、英語版)の宮廷楽長を務める。
1880年(42歳) - イギリスに渡り、リヴァプール・フィルハーモニー協会の首席指揮者を務める。
1881年(43歳) - ソプラノ歌手クララ・トゥチェック (Clara Tuczek) と結婚する。クララとは後に4人の子供をもうける。
1883年(45歳) - ブレスラウ演奏協会長に就任する。
1891年(53歳) - プロイセン芸術アカデミー作曲部長、ベルリン高等音楽院教授に就任する。
1893年(55歳) - ケンブリッジ大学から名誉博士号を贈られる[1]。
1907年(69歳) - 芸術アカデミーの副総裁に就任する。
1910年(72歳) - 芸術アカデミーの職を退く。
1918年(80歳) - ベルリン大学から神学と哲学の名誉博士号を贈られる。
1920年(82歳) - ベルリンのフリーデナウ(ドイツ語版)で没する。


作風
ブルッフの作品を第一に特徴づけているのはその旋律性である。ブルッフは魅力的な旋律を生み出すことに長けており、それはほぼ全ての作品を覆い、親しみやすいものにしている。ヴァイオリン作品を多く書く理由についても「ヴァイオリンはピアノより旋律を良く歌うことができるし、旋律は音楽の魂だからだ」と語っている[2]。

もう一つの特徴は、民族音楽への興味である。ブルッフは「歌というものに対して不親切な時代における、ひとつの光明」として、ヨーロッパの様々なうたに興味を持ち、《スコットランド幻想曲》や《コル・ニドライ》をはじめとする複数の作品で民俗的な要素を取り入れている。当時の音楽界では、ブラームスの《ハンガリー舞曲集》やアントニン・ドヴォルザークの《スラヴ舞曲集》のヒット(ブルッフも同様に出版社ジムロックに依頼されて《スウェーデン舞曲集》作品63を書いている)からも分かるように民俗的な題材への興味が高く、ブルッフがその分野に関わったことは彼の名声を高めた理由の一つでもあった。

語法の一貫性も特筆される。ブルッフの音楽的理想はその活動の最初期に確立され、20世紀に入り第一次世界大戦を経験する最晩年までその態度を変化させることはなかった。彼はロマン派音楽の中でも古典的な理想を掲げており、フェリックス・メンデルスゾーンやロベルト・シューマン、友人でありライバルでもあったヨハネス・ブラームスへの尊敬は終生変わることがなかった。それに対しフランツ・リストやリヒャルト・ワーグナーら「新ドイツ楽派」へは明らかな敵意を持っていた。

生前のブルッフは合唱音楽の分野を中心に精力的に活動を行い人気を博したが、後年前述した少数の作品を除いて急速に忘れ去られ、今に至るまで復権はなされていない。その理由の一つは、彼のスタイルが晩年には完全に時代遅れになっていたことであり、リヒャルト・シュトラウスやマックス・レーガーら新しい世代には激しい攻撃を加えたことも、反動家としての彼の評判を広めることになった。また、ユダヤの題材を用いた作品で成功を収めたためにユダヤ人の血を引くのではないかと疑われ、1935年にナチス政府によって上演禁止となっていることも、彼の作品の演奏機会を少なくする理由であった。なお、ブルッフの祖先がユダヤ人だったという説はブルッフ本人や複数の家族が否定しており、確かな証拠は何もない。


主な作品

交響曲

交響曲第1番 変ホ長調 作品28
交響曲第2番 ヘ短調 作品36
交響曲第3番 ホ長調 作品51


協奏的作品(独奏と管弦楽のための作品)

ヴァイオリン協奏曲第1番 ト短調 作品26
ロマンス イ短調 作品42
ヴァイオリン協奏曲第2番 ニ短調 作品44
スコットランド幻想曲 作品46(1880年)
コル・ニドライ(チェロと管弦楽のための) 作品47
ヴァイオリン協奏曲第3番 ニ短調 作品58
ヴァイオリンと管弦楽のためのセレナード 作品75
ロマンス ヘ長調 作品85(ヴィオラと管弦楽のための)
クラリネット、ヴィオラと管弦楽のための協奏曲 ホ短調 作品88
2台のピアノと管弦楽のための協奏曲 変イ短調 作品88a
組曲第3番 作品88b(オルガンと管弦楽のための)


室内楽曲

七重奏曲 変ホ長調(クラリネット、バスーン、ホルン、2つのヴァイオリン、チェロ、コントラバスのための)(1849年)
ピアノ三重奏曲第1番(1849年)
ピアノ三重奏曲第2番(1852年)
ピアノ五重奏曲(1852年)
ピアノ三重奏曲第3番(1855年)
ピアノ三重奏曲 作品5(1857年)
弦楽四重奏曲第1番 ハ短調 作品9(1859年)
弦楽四重奏曲第2番 ホ長調 作品10(1860年)
ピアノ五重奏曲ト短調(1886年)
8つの小品 作品83(クラリネット、ピアノ、ヴィオラまたはチェロのための)(1910年)
弦楽五重奏曲 イ短調(1918年)
弦楽五重奏曲 変ホ長調(1918年)
弦楽八重奏曲 変ロ長調(1920年)


合唱曲
『ユビラーテ・アーメン』作品3(1858年)
『フリトヨフ』作品23(1864年)
『美しきエレン』 作品24(1867年)
『オデュッセウス』 作品41(1872年)
『アルミニウス』作品43(1875年、77年改訂)
『鐘の歌』 作品45(1879年)
『モーゼ』作品67(1895)
『グスタフ・アドルフ』作品73(1898年)
『歌の力』作品87(1912年)


オペラ
『戯れと悪口と復讐』作品1(1858年)
『ローレライ』作品16(1863年)
『ヘルミオーネ』作品40(1871年)


弟子
山田耕筰
レイフ・ヴォーン=ウィリアムズ
オスカー・シュトラウス
オットリーノ・レスピーギ (異論も存在する)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%83%E3%83%95
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/824.html

[近代史6] マックス・ブルッフ『スコットランド幻想曲』
ブルッフ 『スコットランド幻想曲』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/935.html  
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/825.html
[近代史6] ヨーゼフ・ヨアヒム・ラフ(Joseph Joachim Raff, 1822 - 1882)
ヨーゼフ・ヨアヒム・ラフ(Joseph Joachim Raff, 1822 - 1882)

交響曲

大交響曲 イ短調 WoO.18 (1854)

第1番 ニ長調 Op.96, "祖国に寄せる An das Vaterland" (1859-61)
2.8点
前半の楽章群は音の作りがシンプルすぎて、何を想っているのか伝わらないし、全然面白くない。習作レベルだろう。全然ダメかとおもったが、後半はワーグナー的もしくはブルックナー的な広がり感とドラマ性を持った享楽的な音楽になる。後半だけならばそれなりに聴いて愉しむことが出来る曲になる。全部で1時間以上の5楽章は実力と比較して無駄に頑張りすぎだろう。他では聴けない独自の天才性も弱いため、努力して書いたように聴こえてしまう。

第2番 ハ長調 Op.140 (1869)
3.5点
1番とは全く違う巨匠的な響きに満たされたベートーヴェン交響曲に似た交響曲らしい愉しみに満たされた音楽である。有名作曲家ほどの強烈な確立された個性の輝きこそ弱いものの、一流の音楽であることは一聴すれば分かる。堂々とした力強さと4つの楽章のバランスと音に込められた力感と音を豊かになり響かせる感じは、中期のベートーヴェンを彷彿とさせる。生命感の漲る感じがとにかく素敵だ。

-第3番 ヘ長調 Op.153 "森にて Im Walde" (1869)
3.3点
1楽章は曖昧な雰囲気であり好みが分かれるところであり、個人的にはあまり良くないと思った。後半はチャイコフスキーやドヴォルザークを彷彿とさせる躍動感の強い音楽であり面白い。2番とはかなり違う音楽であり、芸の広さを感じさせる。個人的には2番の方が好みだが、3番の後半の特に巨大な最終楽章のスリリングさはまさかスイスの作曲家で聴けると思わなかったものであり、なかなかゾクゾクするものだ。

-第4番 ト短調 Op.167 (1871)
3.3点
この曲は再びベートーヴェンのようなシンプルでロマン派のネチっこさを抑えた曲である。約30分と短く、冗長さがないのはよい。最終楽章では対位法を取り入れて素敵な高揚感を演出している。過去の大作に似ないようにしつつ、巨匠的な品位を保ったオリジナルな作品を作ろうとする努力が見える。はっとするよい場面も多くあるのだが、マイナー曲らしいパッとしない地味さも残念ながら全体としては多い。個人的には好感度は高いのだが名作とまでは言えない。

第5番 ホ長調 Op.177 "レノーレ Lenore" (1872)
3.8点
この曲はラフの代表作とされていて、交響曲5番らしい力のある入った作品である。1時間近い巨大さであり、ワーグナーにも匹敵するようなロマン派の壮大なスケール感を持った世界の広がりの世界のとたっぷりと、夢のような豪華な時間をロマンに浸って過ごす楽しみを味わえる。しかし、肥大化してバランスを崩した感じではなく、あくまでドイツ系交響曲の正統派の範囲内で音楽世界を拡張しているのが素晴らしい。類例が少ない非常に存在感と希少価値のある作品である。劇的な展開を備えており、最後の場面はニーベルングの指環にも匹敵するほど圧倒的に作者の力の限りを尽くして世界を構築しきって限界にたどり着いた充実した作品という満足感を与えられる。あえて言えば、さすがに作者の底や限界も同時に見えてしまうのが逆に欠点かもしれない。

-第6番 ニ短調 Op.189 (1873)
3.5点
リズムや音の使い方が単調で素朴すぎる。あと短調の響かせ方が平凡と感じるのは欠点。素朴さについては、もしかしたらロマンの限りを尽くした5番のあとなので古典派の交響曲の世界で意図的に勝負してみた曲なのではと想像する。5番のあとに聴いた時はひどく劣るように聴こえてしまったが、聴き直すと独自の明朗な良さや快活さがありなかなか愉しめる曲であることが分かった。ただ勝負の結果はラフが音感やリズムのセンスのようなもので微妙にトップレベルの天才からは落ちるのが如実になるものになった気がする。どこかに滲む地味さにそれが現れている。

第7番 変ロ短調 Op.201 "アルプスにて In den Alpen" (1875)
3.3点
副題も似ているが、実際リヒャルト・シュトラウスのアルプス交響曲を連想した。なめらかな音の流れと、自然の巨大さを連想する開放感と、自然の持つ底知れないパワーを力強く表現している。描写的ではない。後期ロマン派のようち端的さを失った感じが個人的にはラフの良さをスポイルしている気がするのと、後期ロマン派と比較すると過渡期のような未熟さと中途半端さを感じてしまう。特色があって面白いが、全体に「いい!」といえる瞬間には乏しく物足りないのが正直なところである。快活な最終楽章はなかなかの魅力がある。

第8番 イ長調 Op.205 "春の響き Frühlingsklänge" (1876)
3.5点
自分の感性の問題かもしれないし、日本との気候の違いのためかもしれないが、それほど春らしい気分が強いとは思わなかった。曲としては相変わらずの卓越した交響曲作曲技法であり、何よりここまでの各曲の強い特色に比べてこの曲は非常に正統派でノーマルなのが特色になっている。最初は物足りなく思ったが、聴き直すと正統派の聴き応えがかなり心地よい。メンデルスゾーンやシューマンやブラームスよりも、古典派の交響曲を受け継いだ正統派を堪能できる。といいつつ2楽章は遊び心があり、3楽章は春の気分を愉しめる。残念ながら最終楽章はあまり面白くない。

第9番 ホ短調 Op.208 "夏に Im Sommer" (1878)
3.0点
8番に続く正統派。しかし、なぜか8番よりも地味に感じる。聴いていてテンションが上がらず輝くものがなく、全体的に地味な印象が強い。交響曲であるからには旋律もフレーズも、作曲者がいつでも繰り出せる以上のものがほしいのだが、それがない。ダメな曲とまでは言わないが、他の交響曲よりも価値が低いと思う。

第10番 ヘ短調 Op.213 "秋の時に Zur Herbstzeit" (1879)
3.5点
1楽章は地味。3楽章は珍しくスラブ的な憂愁を感じさせるのが心をとらえる。薄明のような雰囲気を醸しながら控えめながらも心に染み入る憂愁はかなり感動する。じわじわと気分を盛り上げていくところなど、別の作曲家のようだ。4楽章もかなりセンスの良い軽快さと運動性と味わいを兼ね備えた良い曲である。変化も面白く、珍しく天才的と呼べる楽章である。

第11番 イ短調 Op.214 "冬 Der Winter" (1876)
3.3点
どの楽章も10番に続いて、絶妙な柔らかさと芳醇さを持ち合わせている。ラフが新たな境地に到達したことを感じさせる。しかし、順番に聴いてそう感じただけであり、前提なしに単品で聴いたらどう聴こえるかは分からないが。密かに潜ませる陰影の味があって、さっぱりした正統派の交響曲との取り合わせは良い。まさに良質の佳作という感じ。この曲で終わりなのが残念で、さらに晩年風の交響曲をぜひ聴きたかった。

協奏的作品(独奏と管弦楽のための作品)

ヴァイオリン協奏曲 第1番 ロ短調 Op.161 (1870-71)

ヴァイオリン協奏曲 第2番 イ短調 Op.206 (1877)

ピアノ協奏曲 ハ短調 Op.185 (1873)
2.5点
交響曲作家が試しに書いてみた協奏曲という印象。ピアノはもちろん前面に立ってはいるが、音数の多い派手さ華やかさに欠けている。交響曲らしいわけでもなく、特に作曲者ならではの協奏曲らしい「ピアノ協奏曲でこれがやりたかった」という独自の表現の境地に達している感じがしない。自分の中で音世界を試行錯誤しながら練って十分に構築しきれたという確信のないうちに書いてしまった曲という印象である。

チェロ協奏曲 第1番 ニ短調 Op.193 (1874)

チェロ協奏曲 第2番 ト長調 WoO.45 (1876)

組曲(ヴァイオリンと管弦楽のための) Op.180 (1873)

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%281859%E5%B9%B4%E3%81%BE%E3%81%A7%29

ヨーゼフ・ヨアヒム・ラフ(Joseph Joachim Raff, 1822年5月27日 - 1882年6月24日/25日)は、スイスの作曲家、ピアニスト。


人物・経歴
チューリッヒ湖畔の小さな町ラッヘン(英語版、ドイツ語版)で生まれた。学校の教師をしながら、日曜コンサートなどに出演していたが、1845年、バーゼルにやってきたリストのコンサートを聞き、そのままリストの演奏旅行についてドイツへ行く。ドイツではメンデルスゾーンや生涯の友となったハンス・フォン・ビューロー等と知り合うが、一時スイスへ戻る。

1849年、ラフはヴァイマルのリストの助手として雇われドイツに移った。リストの少なからぬ作品のオーケストレーションを手がけるなどしてその力量を証明したラフは、1851年に歌劇「アルフレート王」を完成させてワイマールで発表する。しかし、この作品は一定の評価を得るも成功とまではいえない程度だった。1856年にリストの元から独立し、ヴィースバーデンに移ったラフは、1857年にピアノと管弦楽のための「春への頌歌」を完成させ、友人のビューローの独奏によって初演される。これが成功し、作曲家としての足がかりを得た。1859年ヴィースバーデンで結婚。この年発表したヴァイオリンとピアノのための6つの小品の中の「カヴァティーナ」が人気となる。

この翌年、交響曲第1番「祖国に寄す」が完成し、ウィーン楽友協会の主催するコンクールで第一位をとる。ラフ41歳の時のことである。作曲家としてはいささか遅咲きであったが、彼はこの後全部で11曲の交響曲をはじめ、室内楽、歌劇と膨大な作品を残した。

1877年にフランクフルトのホッホ音楽院の院長に招かれる。そこで彼はクララ・シューマンを招聘するなど音楽院の水準を著しく向上させたが、そのために作曲の筆はいささか鈍ることとなった。彼の注目すべき作品の多くは1857年からの20年の間に書かれたのである。著名な弟子にはエドワード・マクダウェルなどがいる。1882年に同地で死去した。

作風
代表作としては交響曲第5番「レノーレ」がまずあげられる。リストやヴォルフなど、ロマン派の作曲家たちに度々とりあげられた詩人ゴットフリート・アウグスト・ビュルガー(英語版、ドイツ語版)のバラードを交響曲にしたものである。また1873年に書いたシンフォニエッタは管楽アンサンブルのための小交響曲として書かれ、グノーやリヒャルト・シュトラウスなどに影響を与え、この分野の開拓者としても名を残した。交響曲の第8番から第11番の4部作は春、夏、秋、冬という標題が付けられている。

長い間、その全体像を知ることが難しい忘れられた作曲家であったが、近年、再評価の機運も高まり、マルコ・ポーロ、チューダー、cpo、シャンドスなどから交響曲全集がCD化され、室内楽作品のCD化も進んでいる。

主要作品

交響曲

大交響曲 ホ長調 WoO.18 (1854)
第1番 ニ長調 作品96, "祖国に寄す An das Vaterland" (1859-61)
第2番 ハ長調 作品140 (1866)
1866年に作曲され、ザクセン=コーブルク=ゴータ公エルンスト2世に献呈された。初演は1867年にヴァイマルにて行われ、2年後にマインツで出版された。その後ゲヴァントハウスにて作曲者の指揮で再演された。
第3番 ヘ長調 作品153 "森にて Im Walde" (1869)
第4番 ト短調 作品167 (1871)
第1楽章ではベートーヴェンの交響曲第5番から運命の動機が引用されている。第4楽章では交響曲第9番の第4楽章が引用されている。
第5番 ホ長調 作品177 "レノーレ Lenore" (1872)
第6番 ニ短調 作品189 (1873)
初演時には"「生きる−抗争−戦い−受難−死−再生」 Gelebt:Gestrebt,Gelitten,Gestritten-Gestorben-Umworben"という表題が与えられていたが出版時に削除された。
第7番 変ロ短調 作品201 "アルプスにて In den Alpen" (1875)
第8番 イ長調 作品205 "春の響き Frühlingsklänge" (1876)
第9番 ホ短調 作品208 "夏に Im Sommer" (1878)
第10番 ヘ短調 作品213 "秋の時に Zur Herbstzeit" (1879)
第11番 イ短調 作品214 "冬 Der Winter" (1876)
未完。作曲者の死後、マックス・エルトマンスデルファーにより補筆完成された。


協奏曲

ヴァイオリン協奏曲 第1番 ロ短調 作品161 (1870-71)
ヴァイオリン協奏曲 第2番 イ短調 作品206 (1877)
ピアノ協奏曲 ハ短調 作品185 (1873)
チェロ協奏曲 第1番 ニ短調 作品193 (1874)
チェロ協奏曲 第2番 ト長調 WoO.45 (1876)
組曲(ヴァイオリンと管弦楽のための) 作品180 (1873)
組曲(ピアノと管弦楽のための)変ホ長調 作品200 (1875)
愛の妖精(ヴァイオリンと管弦楽のための)(La Fée d'amour)作品67 (1854年)
春への頌歌(ピアノと管弦楽のための)(Ode au Printemps)作品76 (1857年)


室内楽

弦楽四重奏曲 第1番 ニ短調 作品77
弦楽四重奏曲 第2番 イ長調 作品90
弦楽四重奏曲 第3番 ホ短調 作品136
弦楽四重奏曲 第4番 イ短調 作品137
弦楽四重奏曲 第5番 ト長調 作品138
弦楽四重奏曲 第6番 ハ短調 作品192-1 "古い様式の組曲"
弦楽四重奏曲 第7番 ニ長調 作品192-2 "美しい水車小屋の娘"
弦楽四重奏曲 第8番 ハ長調 作品192-3 "カノンの形式による組曲"
ヴァイオリンとピアノのための6つの小品 作品85 (1859)
カヴァティーナ 作品85-3


ピアノ曲
フーガによるピアノソナタ 変ホ短調 作品14 (1844)
1881年に改訂し、『大ソナタ』と改題。
幻想的ソナタ 作品168
創作主題による変奏曲 作品179

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%A2%E3%83%92%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%95
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/826.html

[近代史6] ヨーゼフ・ヨアヒム・ラフ 交響曲 第5番 ホ長調 作品177 "レノーレ Lenore"
ヨーゼフ・ヨアヒム・ラフ 交響曲 第5番 ホ長調 作品177 "レノーレ Lenore"


Joachim Raff - Symphony no. 5 "Lenore" Op. 177 (1870) (+sheet music)





Bernard Herrmann
the London Philharmonic Orchestra (1970)


Movements:
Part 1: Love's happiness
1st: 0:05
2nd: 15:04


Part 2: Parting
3rd: 29:04


Part 4: Reunited in Death
4th: 41:43

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/827.html

[近代史6] ハンス・エーリヒ・プフィッツナー(Hans Erich Pfitzner 1869年5月5日 – 1949年5月22日)
ハンス・エーリヒ・プフィッツナー(Hans Erich Pfitzner 1869年5月5日 – 1949年5月22日)


ハンス・エーリヒ・プフィッツナー(Hans Erich Pfitzner, *1869年5月5日 モスクワ – †1949年5月22日 ザルツブルク)は、ドイツの作曲家・指揮者。


略歴

生い立ち
ロシア帝国に生まれ、オーケストラ団員でヴァイオリン奏者の父親から早期の音楽教育を受ける。1872年に家族に連れられフランクフルト・アム・マインに移住する。早くも11歳で処女作を手懸けているが、現存する最初の作品は1884年に作曲した歌曲集である。1886年から1890年までフランクフルト・ホーホ音楽院において、作曲をイヴァン・クノルに、ピアノをジェームス・クヴァストに師事した。1892年から1893年までコブレンツ音楽院に学び、1894年にはマインツ市営劇場で無給の指揮者見習いを務めた。翌1895年にはマインツで、最初の2つの大作、オペラ《あわれなハインリヒ(Der arme Heinrich)》と、イプセンの戯曲のための付随音楽《ソールハウグの宴(Das Fest auf Solhaug)》とが初演された。1897年にベルリンのシュテルン音楽院に教師として赴任し、1898年に恩師クヴァストの娘ミミと結婚する。1903年にベルリン西部劇場の初代楽長に就任。同年には長男パウルも生まれた。

第一次世界大戦まで
1905年にグスタフ・マーラー配下のウィーン宮廷歌劇場において、2作目のオペラ《愛の園のバラ(Die Rose vom Liebesgarten)》が上演される。1906年には次男ペーターが、1908年には一女アグネスが生まれた。1908年に家族連れでシュトラースブルク(ストラスブール)に移り、シュトラースブルク・フィルハーモニー管弦楽団の交響楽演奏会と、シュトラースブルク市立音楽院を監督した。1910年にはシュトラースブルク歌劇場の音楽監督も引き受け、演出家としても活動した。1913年には首尾よく教授に任命されている。

《パレストリーナ》
1917年にミュンヘン摂政宮劇場においてブルーノ・ワルターの指揮により、今なおプフィッツナーの代表作として知られる、音楽的伝説《パレストリーナ》が初演された。波瀾万丈の戯曲の頂点において、芸術作品および芸術家の自律と社会的要請との緊張関係が、ルネサンス時代を舞台に繰り広げられる。

パレストリーナは、対立する聖職者の一団を和解させるためにミサ曲を作曲しなければならなくなる。パレストリーナはそれを拒んだために、異端審問所による迫害を覚悟せざるを得ず、自殺も考える。孤立無援でいたところに、突然の霊感が閃き、パレストリーナはミサ曲の筆を執る。もはや注文のためでなく、自分自身のために。
トーマス・マンは、1917年10月に発表した短い随想『パレストリーナ(Palestrina)』の中でこのオペラの価値を認め、後に自著『非政治的人間の考察(Betrachtungen eines Unpolitischen)』の中でも敷衍して取り上げている。

好戦的な評論家
プフィッツナーは第一次世界大戦前後のモダニズムを徹底して嫌い、政治的にも文化的にも保守主義者を押し通そうとした。そのため、ブゾーニの新古典主義やヒンデミットの新即物主義、新ウィーン楽派の表現主義音楽や無調、シュレーカーのフランス印象主義音楽への接近を、いずれも破壊主義として忌憚なく攻撃し、ドイツ音楽の凋落と糾弾した。

1917年にプフィッツナーは、ブゾーニの『新音楽美学論(Entwurf einer neuen Ästhetik der Tonkunst)』に当てつけて、『未来主義者の危険(Futuristengefahr)』を公表する。音楽における進歩(ある作品が進歩的な手法であればそれだけますます高く評価されうるという意味での進歩)という抽象概念をプフィッツナーは撥ね付けた上で、ブゾーニへの傍注としてシェーンベルクやヒンデミットにも目配りしつつ、未来の音楽というものがどのように構成されるのかをめぐる思索と対峙する。

「 「ブゾーニは、西洋音楽への希望を未来に託し、現在と過去はよろめきがちな始まりとして、また準備段階として理解する。しかし、もしそうでなかったとしたらどうだろう? 今こそ我々が頂点を極めていることや、あるいは頂点を刻々と制しつつあるということを悟るなら?」 」
1920年には、『音楽的不能の新美学〜腐敗の徴候?(Die neue Ästhetik der musikalischen Impotenz: Ein Verwesungssymptom?)』を上梓した。プフィッツナーは同書において、「新音楽(de:Neue Musik)」という概念を創り出したパウル・ベッカーを攻撃し、逆にショーペンハウアー以来想定されてきた「着想(ある作品の出発点や特性となる独創的な着想)の美学」という持論を開陳してみせた。本書でもそうだが、プフィッツナーの理論的な著作においては、自身の芸術活動に裏付けられた根本となる動機が、ほとんど例外なく、非合理的、排外主義的で反ユダヤ主義的な論争に塗り込められるのがわかる(「非ドイツ的(undeutsch)」とか「国際ユダヤ主義(internationales Judentum)」といった言い回しが向けられるのは相変わらずである)。

最後にして最大の著作となった『創作と演奏(Werk und Wiedergabe)』(1929年)においては、テクストと音楽から厳密に生ずるオペラの舞台演出について、実践的な提言をした。

戦間期
1918年に他の芸術家と共同で「ハンス・プフィッツナー・ドイツ音楽協会( Hans-Pfitzner-Verein für deutsche Tonkunst)」を創設する。

第一次世界大戦後にエルザス=ロートリンゲンがフランスに割譲されたことにより、プフィッツナー家は1919年にシュトラースブルクを去ってアマー湖付近のウンターショーンドルフに引っ越した。1919年および1920年はミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を務め、やはり1920年には、プロイセン芸術アカデミー作曲科のマスタークラスを主宰した。ヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフの詩によるロマン主義的カンタータ《ドイツ魂について(Von deutscher Seele)》(1921年)に加えて、《ピアノ協奏曲 変ホ長調》(1922年)や《ヴァイオリン協奏曲 ロ短調》(1923年)、および《弦楽四重奏曲 嬰ハ短調》(1925年、《交響曲 嬰ハ短調》(1932年)の原曲)といった最も重要な器楽曲がこの時期に完成された。いずれの作品も強烈な表現意欲によって、伝統的な和声法の極限までが追究されている。1926年にミミ夫人に先立たれてから作曲した合唱幻想曲《冥土(Das dunkle Reich)》(1930年)にも同じことは当てはまる(《冥土》はミケランジェロやゲーテ、コンラート・フェルディナント・マイヤーおよびリヒャルト・デーメルの詩による哀悼音楽である)。

晩節
1929年には還暦を記念して、大々的に公式の祝賀会が行われた。1930年に住所をミュンヘンに移し、翌1931年、最後のオペラ《こころ(Das Herz)》を作曲する。1934年にミュンヘン市立音楽院を退職して年金生活に入り、その際にプロイセン州首相ヘルマン・ゲーリングと意見交換をしている。

1936年に長男パウルに先立たれ、翌年には次男ペーターや長女アグネスと不和になる。1939年にマリ・シュトル(Mali Stoll)と再婚した。生誕70周年の祝賀行事は、10年前よりも精彩を欠いた。娘アグネスは1939年に自ら命を絶ち、次男ペーターは1944年にソ連にいた。1942年にプフィッツナーは、ニュルンベルク付近の爆撃によって、移動中に乗っていた寝台車が完全に破壊されたにもかかわらず、夫妻ともども難を逃れた。1943年には爆弾がミュンヘンの自宅を直撃したため、ウィーンのロダウン地区に引っ越しを余儀なくされた。1945年にガルミッシュ=パルテンキルヒェンに避難して難民収容所に入れられた後、ミュンヘン=ラーマースドルフの養老院に移っている。1948年には、ナチス党員追放の枠組みの中で、ミュンヘン非ナチ化審査機関により、「法律と関係ない」と格付けされた。1949年にザルツブルク訪問の折に2度目の脳卒中を起こして亡くなった。亡骸はウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によってウィーン中央墓地の14C区に埋葬されている。


政治的立場と社会的言動
ハンス・プフィッツナーは、没後半世紀を過ぎた今日でも評価が定まっていない。同時代の影響に心を閉ざして後期ロマン派音楽様式で作曲したからではなく、人間嫌いの傾向や、とりわけ数々の政治的な表明のためである。プフィッツナーは愛国主義者であることを自認して、第三帝国が終焉してからもなお、「国際ユダヤ主義」こそが「人間のあらゆる問題の中で一番の重大事」であると言い、いずれ解決すべきであるとした。

ヴァイマル共和国を糾弾し、さらにユダヤ人が同国において各界の指導層に進出することを「国際主義」のレッテルのもとに非難したことが、ゆくゆくはヒトラーやナチスに利用される遠因となった。プフィッツナーがアドルフ・ヒトラーに解決させようと試みたのは、なかんずく「猛烈な図々しさ」だった。反対者はプフィッツナーのうちに国粋主義や反モダニズムを認め、ナチスの権力掌握へのプフィッツナーの加担を批判する。早くも1933年4月にプフィッツナーは、トーマス・マンが講演会や論文『リヒャルト・ワーグナーの苦悩と偉大さ(Leiden und Größe Richard Wagners)』の中で、ワーグナーのさまざまないかがわしいイメージには、国家主義者の大ブルジョワジーが刻印されていると論ずると、それに反対する「リヒャルト・ワーグナーの都ミュンヘンの抗議(„Protest der Richard-Wagner-Stadt München“)」の提唱者に名を連ねている。翌1934年には、ドイツ国大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクの死後に、大統領職と首相職の一元化をめぐる「国民投票」に対して、「文化人の声明」に署名した[1]。1944年5月には、第二次世界大戦中にもかかわらず、ヒトラーより5万ライヒスマルク以上の贈与金を受けていた[1]。同年8月には、「天才名簿(„Gottbegnadeten-Liste“)」に掲載されただけでなく、ヒトラーによって作成された特別リストにも最も重要な他の音楽家3人とともに「天賦の才あり」として掲載され、戦時債務を完全に免除されている[1]。

批判者は、プフィッツナーが親しいポーランド総督ハンス・フランクへの表敬作品として1944年に作曲した《クラカウの歓迎(Krakauer Begrüßung)》作品54をとりわけ激しく非難する。この作品は、仰々しいファンファーレ主題が憂鬱なポロネーズと結合された器楽曲である。プフィッツナーはこの作品が出版を予定されたり企画されることのないように、総譜を出版社の所有物とし、《祝祭の挨拶(Feierliche Begrüßung)》と改称することによってナチスとの結び付きを引き剥がそうとした。フランクがクラクフでの初演の後で、最も上出来なのはイ短調の葬送行進曲の部分だと述べると、当時75歳のプフィッツナーはそれに答えて、ト短調の部分は、赤軍がポーランドで決起するところだと返した。それにもかかわらず、霊感崇拝者にしてポスト・ロマン主義者によるこの作品は、作曲面で最も優れた特質を示しており、しかもモダンな音楽語法の考え込まずにおけないような煩わしさとも、たぶん作曲者が考えた以上に深く関わり合っている。

1945年以降のプフィッツナーは、第三帝国における自分の立場を理想への努力であった(曰く、「古臭いヒロイズムを本気で守ろうとした(den alten Heroismus treu bewahren)」)として、些細なことに見せかけようと努めた(この点については、特に1946年7月11日付の、かつての門人フェリックス・ヴォルフェス宛ての私信[2] を参照)。戦後の1947年10月13日、プフィッツナーはナチスの活動に加担した一級戦犯として起訴された。しかし、ナチス党員ではなかったことなどが認められて無罪判決が下されたにもかかわらず、プフィッツナー自身は世間から顧みられることなく、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団からの援助を必要とするほど貧困に喘いでいた。

ベルリン・ドイツ交響楽団の首席指揮者インゴ・メッツマッハーは、2007年の東西ドイツ統一記念日に、プフィッツナーのロマン主義的カンタータ《ドイツ魂について》をプログラムに載せたことにより、ユダヤ人中央協議会から非難を浴びた。同協議会副総裁のディーター・グラウマンは「指揮者のインゴ・メッツマッハーは、ハンス・プフィッツナーの《ドイツ魂について》をドイツ統一の日にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会で上演したことによって、人騒がせな方法で国家社会主義への共感を復権させ、反ユダヤ主義者であることを白状した」との声明を発した。つまるところ《ドイツ魂について》の上演と再評価は、後日の突発的な出来事なしには済まないというわけである。しかし、アイヒェンドルフの詩によるこの作品は、内容的にナチズムとは一切関係をもたない。


逸話
1888年の《チェロ協奏曲イ短調》を初演してもらおうとしてマックス・ブルッフに総譜を送ったところ、切手が不足していたためブルッフが受け取りを拒否し、未開封のまま譜面が送り返されてきた。その後、プフィッツナーは自筆の総譜は失われたものと思い込み、「記憶に基づいて」同じ調性の《チェロ協奏曲》を晩年になって作曲した。結局1888年の協奏曲は、1975年になってウィーンの遺稿の中から再発見された。
プフィッツナーは、ナチス系音楽企業での成功を求めて奮闘していた頃に、作曲家仲間であるゲオルク・フォラートゥーンとパウル・グレーナーについて冷やかしの戯れ歌を創った。 [3]
プフィッツナーは、シェイクスピアの『夏の夜の夢』のために新たに劇付随音楽を作曲することを拒否した。メンデルスゾーンの作品を凌駕することなど誰にもできないから、という理由であった(依頼された楽曲は、結局1939年にカール・オルフが1917年の古い草稿に基づいて書き上げている)[3]。
バルドゥール・フォン・シーラッハ(Baldur von Schirach)のヒトラー青年団出身の新進作曲家の作品を指してプフィッツナーは、„Eine Pimpfonie in Bal-dur“と呼んだ[4](「長調(ドゥア)の交響曲(シンフォニー)」ではなくて「バルドゥアのところの洟垂れ小僧の音楽(ピンプフォニー)」だ、という意味の駄洒落。また、Pimpfという単語には、ヒトラー少年団という意味もある)。
空襲の際にプフィッツナーの自宅に爆弾が命中した。炎上した家が崩れ落ちる時、思わずこう漏らしたという。「もう私が失うものは何もない、と人々は言うんだろう[3]。」


作品一覧
プフィッツナーは、しばしば最後のロマン主義者の一人に数えられるように、時流に抗い保守的な作風で創作を続けた。創作技術という側面から楽曲を分析的に解釈する風潮を毛嫌いし、作曲の根源は霊感(または着想)にあると唱えて不可知論的な姿勢を採った。成熟期のいくつかの作品では、「調性の浮遊」や「不協和音の解放」、「全音音階の活用」など、新ウィーン楽派初期の作風に接近した作例も見受けられるが、それを推し進めて調性を完全に破壊するところまでは至らず、20世紀の半ばまで、19世紀ロマン派音楽様式の伝統を守り通した。とりわけシューマンとワーグナーに私淑したが、いくつかの初期作品では、シューベルトやメンデルスゾーン、ブラームスの影響も見られる。同世代のリヒャルト・シュトラウスやシェーンベルクとは異なり、ジャンルの越境や形式の実験を試みてはいない。また、歌劇や歌曲、各種の器楽曲を手懸けてはいるが、交響詩には取り組まなかった(ただし、そのように分類しうる楽曲がないという意味ではない)。学生時代からピアニストとしても活躍できるだけの演奏技術を持っており、いくつかの自作は手ずからピアノを弾いて初演したにもかかわらず、意外なほどピアノ曲が数少ない。

プフィッツナー作品の特色は、明晰な形式感、複雑だが洗練された半音階的和声、そして先ず何よりも、魅力的な旋律の探究にある。その点においてもプフィッツナーは第一にリート作家だったのであり、必然的に声楽曲がプフィッツナーの創作の中心となった。多楽章制の器楽曲でも、しばしば緩徐な歌謡楽章が作品全体の白眉となり、時に他の楽章に比べてアンバランスなほど長大な演奏時間を要求されることがある(たとえば《ピアノ三重奏曲》作品8の第2楽章や《ピアノ五重奏曲》の第3楽章)。


舞台音楽

オペラ
3幕の楽劇《あわれなハインリヒ(Der arme Heinrich. Musikdrama in 3 Akten)》WoO 15 (作曲:1891年 - 1893年、原作:ハルトマン・フォン・アウエの同名の物語詩、台本:ジェームス・グルン、初演:1895年4月2日於マインツ国立劇場、献呈:パウル・ニコラウス・コスマン)
前奏曲と終曲つきの2幕のロマンティック・オペラ《愛の園のばら(Die Rose vom Liebesgarten. Romantische Oper in einem Vorspiel, 2 Akten und einem Nachspiel)》WoO 16 (作曲:1897年 - 1900年、台本、ジェームス・グルン、初演:1901年11月9日エルバーフェルト国立劇場、献呈:エルンスト・クラウス)
クリスマスの妖精(Das Christ-Elflein)
初稿:聖夜のメルヘン《クリスマスの妖精(Das Christ-Elflein. Weihnachtsmärchen)》 作品20 (作曲:1906年、台本:イルゼ・フォン・シュターハ、初演:1906年12月11日ミュンヘン宮廷歌劇場(指揮はフェリックス・モットル))
第2稿:2幕のシュピールオーパー《クリスマスの妖精(Das Christ-Elflein. Spieloper in 2 Akten)》 作品20 (作曲:1917年、台本:フォン・シュターハおよび作曲者自身、初演:1917年12月11日ドレスデン宮廷歌劇場(指揮はフリッツ・ライナー)、改訂版:1944年?)
3幕の音楽的伝説《パレストリーナ(Palestrina. Musikalische Legende in 3 Akten)》WoO 17 (作曲:1909年 - 1915年、自作台本、初演:1917年6月12日ミュンヘン摂政宮劇場(ブルーノ・ワルター指揮)、献呈:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1949年))
3幕4景の楽劇《こころ(Das Herz. Drama für Musik in 3 Akten (4 Bildern))》 作品39(作曲:1930年 - 1931年、台本:ハンス・マーナー=モンス、初演:1931年11月12日、ベルリン・ウンター・デン・リンデン国立歌劇場(ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮。バイエルン国立歌劇場におけるミュンヘン初演はハンス・クナッパーツブッシュ指揮)


劇付随音楽
ヘンリク・イプセンの『ソールハウグの宴』の付随音楽(Musik zu Das Fest auf Solhaug von Henrik Ibsen) WoO 18(作曲:1889年 - 1890年、初演:1895年11月28日マインツ、献呈:両親に)
ハインリヒ・フォン・クライストの『ハイルブロンの娘ケート』の付随音楽(Musik zu Das Käthchen von Heilbronn von Heinrich von Kleist) 作品17(作曲;1905年、初演:序曲のみ1905年10月19日ベルリン・ドイツ劇場 ; weitere Nummern wurden sukzessive in die Inszenierung aufgenommen、献辞:(Dem unvergänglichen Dichter als geringe Huldigung))


声楽曲

管弦楽伴奏歌曲

バリトンと管弦楽のためのバラード《オールフ氏(Herr Oluf. Ballade für Bariton und Orchester)》作品12(原詩:ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー、作曲:1891年、初演:1893年5月4日ベルリン、献呈:カール・シャイデマンテル
バッソ・プロフォンドと管弦楽のための《座敷童子(Die Heinzelmännchen für tiefen Bass und Orchester)》作品14(原詩:アウグスト・コピーシュ、作曲:1902年〜1903年、初演:1904年6月1日フランクフルト・アム・マイン、献呈:パウル・クニュープファー)
バリトンと管弦楽のための《冥府の川(Lethe für Bariton und Orchester)》作品37(原詩:コンラート・フェルディナント・マイヤー、作曲:1926年、初演:1926年11月14日、ミュンヘン)


ピアノ伴奏歌曲(集)

高声とピアノのための《若き日の6つの歌曲(Sechs Jugendlieder für hohe Singstimme und Klavier)》(作品番号なし、作曲:1884年〜1887年、原詩:ユリウス・シュトルム、メアリー・グラーフ=バーソロミュー、ルートヴィヒ・ウーラント、オスカル・フォン・レートヴィッツ、エドゥアルト・メーリケ、ロベルト・ライニック、献呈:ギーゼラ・デールプシュ)
声とピアノのための《7つの歌曲(Sieben Lieder für Singstimme und Klavier)》作品2(1888年〜89年、原詩:リヒャルト・フォン・フォルクマン、ヘルマン・リング、詠み人知らず、アドルフ・ベットガー、アレクサンダー・カウフマン、初演:第2曲は1889年5月31日フランクフルト、第4曲は1890年3月7日フランクフルト、献呈:ヘレーネ:リーバン=グロービヒ)
中声とピアノのための《3つの歌曲(Drei Lieder für mittlere Singstimme und Klavier)》作品3(作曲:1888年〜89年、原詩:フリードリヒ・リュッケルト、フリードリヒ・フォン・ザレット、エマヌエル・ガイベル、献呈:マティルデ・フォン・エルランガー)
中声とピアノのための《4つの歌曲(Vier Lieder für mittlere Singstimme und Klavier)》作品4(1888年〜89年、原詩:ハインリヒ・ハイネ、献呈:マティルデ・フォン・エルランガー)
ソプラノとピアノのための《3つの歌曲(Drei Lieder für Sopran und Klavier)》作品5(1888年〜89年、原詩:ジェームズ・グルン、ヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフ、献呈:ラーフェンシュタイン夫妻)
バリトンとピアノのための《5つの歌曲(Sechs Lieder für hohen Bariton und Klavier)》作品6(1888年〜89年、原詩:詠み人知らず、ハイネ、グルン、パウル・ニコラウス・コスマン、初演:第1曲は1890年3月7日フランクフルト、献呈:ゲオルク・ハイネの追憶に)
声とピアノのための《5つの歌曲(Fünf Lieder für Singstimme und Klavier)》作品7(作曲:1888年〜1900年、原詩:ヴォルフガング・ミュラー・フォン・ケーニヒスヴィンター、アイヒェンドルフ、パウル・ハイゼ、グルン、献呈:マックス・シュタイニッツァー
声とピアノのための《5つの歌曲(Fünf Lieder für Singstimme und Klavier)》作品9(1894年〜95年、原詩:アイヒェンドルフ、初演:1896年5月15日フランクフルト、献呈:アントン・ジスターマンス)
中声とピアノのための《3つの歌曲(Drei Lieder für mittlere Singstimme und Klavier )》作品10(1889年〜1901年、原詩:デトレフ・フォン・リリエンクローン、アイヒェンドルフ、献呈:エゴン・フォン・ニーダーヘファー)
声とピアノのための《5つの歌曲(Fünf Lieder für Singstimme und Klavier)》作品11(1901年、原詩:フリードリヒ・ヘッベル、ルートヴィヒ・ヤコボースキ、アイヒェンドルフ, リヒャルト・デーメル、カール・ブッセ、初演:第5曲のみ1901年12月18日ベルリン、それ以外は1901年ミュンヘン、献呈:順に、ミミ・プフィッツナー、イルゼ・フォン・シュターハ、エルンスト・クラウス、グレーテ・クラウス、エミリー・ヘルツォーク)
不実さと慰め(Untreu und Trost für mittlere Singstimme und Klavier)(作品番号なし、作曲:1903年、原詩:詠み人知らず)
声とピアノのための《四つの歌曲(Vier Lieder für Singstimme und Klavier)》作品15(作曲:1904年、原詩:ブッセ、アイヒェンドルフ、イルゼ・フォン・シュターハ、献呈:第1曲はヴィリー・レヴィーンに、第2曲はヘルマン・ガウシェに、第3曲と第4曲はヨハンナ・クニュプファー=エグリに)
声とピアノのための《月に寄す(An den Mond für Singstimme und Klavier)》 作品18(作曲:1906年、原詩:ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ)
中声とピアノのための《二つの歌曲(Zwei Lieder für mittlere Singstimme und Klavier)》作品19(作曲:1905年、原詩:カール・ブッセ、献呈:オッティーリエ・メッツガー=フロイツハイム(またはオッティーリエ・メッツガー=ラターマン))
声とピアノのための《2つの歌曲(Zwei Lieder für hohe Singstimme und Klavier)》作品21(作曲:1907年、原詩:ヘッベル、アイヒェンドルフ、献呈:順に、グレーテ・エレッサー、ナタリー・レヴィーン)
声とピアノのための《5つの歌曲(Fünf Lieder für Singstimme und Klavier)》作品22(作曲:1907年、原詩:アイヒェンドルフ、アーデルベルト・フォン・シャミッソー、ビュルガー献呈:第1曲と第2曲はヨハネス・メスヒェルトに、第3曲はルドルフ・メストに、第4曲はフリッツ・ファインハルスに、第5曲はヘレーネ・シュテーゲマンに)
声とピアノのための《4つの歌曲(Vier Lieder für Singstimme und Klavier)》作品24(作曲:1909年、原詩:ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ、ペトラルカ(カール・アウグスト・フェルスター独訳)、フリードリヒ・リーンハルト、献呈:アルトゥール・エレッサー)
声とピアノのための《5つの歌曲(Fünf Lieder für Singstimme und Klavier)》作品26(作曲:1916年、原詩:ヘッベル、アイヒェンドルフ、ビュルガー、ゲーテ、初演:1916年11月10日シュトラースブルク、献呈:ミーンチェ・ランプベヒト・ファン・ラメン)
声とピアノのための《4つの歌曲(Vier Lieder 作品29(作曲:1921) für Singstimme und Klavier (Widmungsträger: Mimi Pfitzner [1879–1926], Paul Pfitzner [1903–1936], Peter Pfitzner [1906–1944], Agnes Pfitzner [1908–1939]). 原詩:フリードリヒ・ヘルダーリン、リュッケルト、ゲーテ、デーメル
声とピアノのための《4つの歌曲(Vier Lieder für Singstimme und Klavier)》作品30(作曲:1922) 原詩:ニコラウス・レーナウ、エドゥアルト・メーリケ、デーメル、献呈:フリッツ・マイヤー)
バリトンまたはバスとピアノのための《4つの歌曲(Vier Lieder für Singstimme (Bariton oder Bass) und Klavier)》作品32(作曲:1923年、原詩:コンラート・フェルディナント・マイヤー、初演:1923年9月7日ミュンヘン、献呈:第1曲と第2曲はパウル・ベンダーに、第3曲と第4曲はハインリヒ・レーケンパーに)
声とピアノのための《古い歌(Alte Weisen für Singstimme und Klavier)》作品33(作曲:1923年、原詩:ゴットフリート・ケラー、初演:1923年10月3日ミュンヘン、献呈:カール・エルプとマリア・イーヴォギューン)
女声とピアノのための《6つの愛の歌(Sechs Liebeslieder für Frauenstimme und Klavier)》作品35(作曲:1924年、原詩:リカルダ・フーフ。初演:1924年12月14日ベルリン)
中声とピアノのための《6つの歌曲(Sechs Lieder für mittlere Singstimme und Klavier)》作品40(作曲:1931年、原詩:ヤコボースキ、アドルフ・バルテルス、フーフ、マルティン・グライフ、ゲーテ、アイヒェンドルフ、初演:1932年2月15日ミュンヘン)
男声とピアノのための《三つのソネット(Drei Sonette für Männerstimme und Klavier)》作品41(作曲:1931年、原詩:フランチェスコ・ペトラルカ(ゴットフリート・アウグスト・ビュルガー独訳)、初演:1932年2月15日ミュンヘン)


ピアノ伴奏歌曲の管弦楽伴奏版

だから春の空はこんなに青いの?(Ist der Himmel darum im Lenz so blau)作品2-2 (原詩:リヒャルト・レアンダー)
鳥の呼び声が聞こえる(Ich hör ein Vöglein locken)作品2-5 (原詩:アドルフ・ベットガー
わがまどろみはいよいよ深く(Immer leiser wird mein Schlummer)作品2-6 (原詩:ヘルマン・リング)
裏切り(Verrat)作品2-7 (原詩:アレクサンダー・カウフマン)
秋の歌(Herbstlied)作品3-2 (原詩:フリードリヒ・フォン・サレ ザレット)
私の心は宵闇のように(Mein Herz ist wie die dunkle Nacht)作品3-3 (原詩:エマヌエル・ガイベル)
ハイネ歌曲集 作品4
平和(Frieden)作品5-1 (原詩:ジェームス・グルン)
もうすぐ(Über ein Stündlein)作品7-3 (原詩:パウル・ハイゼ)
母なるウェヌス(Venus mater)作品11-4 (原詩:リヒャルト・デーメル)
グレーテル(Gretel)作品11-5 (原詩:カール・ヘルマン・ブッセ)
不実さと慰め(Untreu und Trost) (原詩:詠み人知らず)
怒り(Zorn)作品15-2 (原詩:ヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフ)
辺境にて(An die Mark)作品15-3 (原詩:イルゼ・フォン・シュターハ)
(Sonst)作品15-4 (原詩:アイヒェンドルフ)
月に寄す(An den Mond)作品18 (原詩:ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
菩提樹の木の下で(Unter der Linden)作品24-1 (原詩:ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ
夜(Nachts)作品26-2 (原詩:アイヒェンドルフ)
悲しみのしじま(Trauerstille)作品26-4 (原詩:ゴットフリート・アウグスト・ビュルガー)
出逢いと別れ(Willkommen und Abschied)作品29-3 (原詩:ゲーテ)
さすらい人の夜の歌(Wanderers Nachtlied)作品40-5 (原詩:ゲーテ)


管弦楽伴奏合唱曲

アルト独唱と女声合唱、管弦楽のための《花々の復讐》(Der Blumen Rache für Alt-Solo, Frauenchor und Orchester) (原詩:フェルディナント・フライリグラート、作曲:1888年、初演:1911年12月6日シュトラースブルク)
ハインリヒ・フォン・クライストの『ヘルマンの戦い』から男声合唱と6つのホルン、4つのヴァイオリンと4つのチェロのための《吟遊詩人の歌》(Gesang der Barden aus Die Hermannsschlacht von Heinrich von Kleist, für Männerchor, 6 Hörner, 4 Violen und 4 Violoncelli) WoO 19 (作曲:1906年)
バリトン、任意の男声合唱および管弦楽のための《2つのドイツの歌》(Zwei deutsche Gesänge für Bariton, Männerchor (ad libitum) und Orchester)作品25(作曲:1915年〜16年、献呈:アルフレート・フォン・ティルピッツ)
1. 喇叭手(Der Trompeter) (原詩:アウグスト・コーピシュ、初演:1916年3月14日シュトラースブルク)
2. 嘆き(Klage) (原詩:アイヒェンドルフ、初演:1915年3月22日ミュンヘン)
独唱と合唱、管弦楽、オルガンのためのロマン主義的カンタータ《ドイツ精神について》(Von deutscher Seele. Eine romantische Kantate für Solostimmen, Chor, Orchester und Orgel) 作品28(作曲:1921年、原詩:アイヒェンドルフ、初演:1922年1月27日ベルリン、献呈:「親愛なるエヴァ・クヴァスト嬢の追憶に」
管弦楽、オルガン、ソプラノ独唱およびバリトン独唱を伴う合唱幻想曲《冥土》(Das dunkle Reich. Chorphantasie mit Orchester, Orgel, Sopran- und Baritonsolo)作品38(作曲:1929年〜1930年). 原詩:ミケランジェロ, ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ, コンラート・フェルディナント・マイヤー, リヒャルト・デーメル。初演:1930年10月21日ケルン)
起床喇叭(Der Weckruf)作品40-6 (同名のピアノ伴奏つき独唱歌曲からの編曲、原詩:アイヒェンドルフ)
混声合唱と管弦楽とオルガンのための《健康の泉》(Fons salutifer für Chor, Orchester und Orgel) 作品48(作曲:1941年、原詩:エルヴィーン・グィード・コルベンホイヤーの「カールスバート(Fons Carolinus)」(出典は『闘いの泉(Kämpfender Quell)』[1929年])、初演:1942年4月30日もしくは5月1日カールスバート
フルート、ホルンとソプラノ独唱を伴う《2つの男声合唱曲(Zwei Männerchöre mit Flöte, Horn und Sopran-Solo)》作品49(作曲:1941年、初演:1942年4月26日ケルン、献呈:ケルン男声合唱協会)
1. (Wir gehn dahin) (原詩:ハンス・フランク)
2. (Das Schifflein) (原詩:ルートヴィヒ・ウーラント)
男声合唱と小オーケストラのための《3つの歌》(Drei Gesänge für Männerchor und kleines Orchester)作品53(作曲:1944年、原詩:ヴェルナー・フンダートマルクの1943年の詩集『そして穀物畑と芥子畑に草刈り鎌が入るとき(Und als durch Korn und Mohn die Sense strich. Gedichte)』より、初演:1944年ウィーン
1. 心地好い夏の日(Seliger Sommer')'
2. 変化(Wandlung)
3. 兵の歌(Soldatenlied)
独唱、合唱、管弦楽とオルガンのためのカンタータ《原初のことば、謎》(Urworte. Orphisch. Kantate für Solostimmen, Chor, Orchester und Orgel)作品57(作曲:1948年〜49年、ロベルト・レーハン補筆による未完の断章、原詩:ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ、初演:1952年7月17日ミュンヘン・ドイツ博物館議事堂ホール(バス独唱:ハンス・ホッター、バイエルン放送交響楽団および附属合唱団、指揮:オイゲン・ヨッフム))


ピアノ伴奏合唱曲

バリトン独唱と混声合唱、ピアノのための《1901年、新年の祝賀の輪唱》(Rundgesang zum Neujahrsfest 1901 für Bariton, gemischten Chor und Klavier)(作曲:1900年、原詩:エルンスト・フォン・ヴォールツォーゲン
8声の無伴奏混声合唱のための《コロンブス》(Columbus für 8-stimmigen gemischten Chor a cappella)作品16(作曲:1905年、原詩:フリードリヒ・シラー、初演:1911年12月6日シュトラースブルク、献呈:「シラーの没後100周年を記念して(zum 100. Todestag von Friedrich Schiller)」)
ハインリヒ・フォン・クライストの『ヘルマンの戦い』から《吟遊詩人の歌》(Gesang der Barden aus Die Hermannsschlacht von Heinrich von Kleist) (作曲:1906年)


交響曲

交響曲 嬰ハ短調 (Sinfonie cis-moll) 作品36a (作曲:1932年、ただし《弦楽四重奏曲 嬰ハ短調》作品36(1925)の管弦楽用編曲である。初演:1933年3月23日ミュンヘン・トーンハレ)
小交響曲 ト長調 (Kleine Sinfonie G-Dur) 作品44 (作曲:1939年、初演:1939年11月17日ベルリン)
交響曲 ハ長調 (Sinfonie C-Dur) 作品46 (作曲:1940年、初演:1940年10月11日フランクフルト、献呈:「友情に寄せて(An die Freunde)」)


協奏曲

ヴァイオリン、チェロ、小オーケストラのための二重奏曲(Duo für Violine, Violoncello und kleines Orchester)作品43(作曲:1937年、初演:1937年12月3日フランクフルト、献呈:マックス・シュトループとルートヴィヒ・ヘルシャー)
チェロ協奏曲 イ短調 (Cellokonzert a-moll) (作品番号なし、1888年作曲、1977年初演(チェロ独奏:エステル・ニッフェンエッガー))
単一楽章のチェロ協奏曲 ト長調 (Konzert G-Dur in einem Satz für Violoncello und Orchester) 作品42 (作曲:1935年、1942年9月27日フランクフルト初演、献呈:ガスパル・カサド)
チェロ協奏曲 イ短調 (Cellokonzert a-moll) 作品52(1944年、初演:1944年3月23日ゾーリンゲン、献呈:ルートヴィヒ・ヘルシャー)
ピアノ協奏曲 変ホ長調 (Klavierkonzert Es-Dur) 作品31(作曲:1922年、初演:1923年3月16日ドレスデン(ピアノ独奏:ワルター・ギーゼキング、指揮:フリッツ・ブッシュ)、献呈:フリッツ・ブッシュ)
ヴァイオリン協奏曲 ロ短調 (Violinkonzert h-moll) 作品34 (作曲:1923年、1924年6月4日ニュルンベルク(ヴァイオリン独奏:アルマ・モーディ)、献呈:アルマ・ムーディ)


管弦楽曲

スケルツォ ハ短調 (Scherzo c-moll) (作曲:1887年、初演:1888年6月23日フランクフルト、献呈:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)
悲歌と輪舞(Elegie und Reigen) 作品45(作曲:1940年、初演:1941年4月29日ザルツブルク)
クラカウの歓迎(Krakauer Begrüßung) 作品54 (作曲:1944年、初演:1944年12月(1日もしくは2日?)(ハンス・スワロフスキー指揮クラカウ総督府フィルハーモニー管弦楽団、献呈:ハンス・フランク)
幻想曲 イ短調 (Fantasie a-moll) 作品56 (1947年、初演:1947年4月23日ニュルンベルク、献呈:ロルフ・アゴップ)


室内楽曲

クラリネットとヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、ピアノのための六重奏曲 ト短調(Sextett g-moll für Klarinette, Violine, Viola, Violoncello, Kontrabass und Klavier)作品55(1945年、初演:1946年4月19日ベルリン)
ピアノ五重奏曲 ハ長調(Klavierquintett C-Dur) 作品23(1908年、初演:1908年11月17日ベルリン、献呈:ブルーノ・ワルター)
弦楽四重奏曲(第1番)ニ短調(Streichquartett [Nr. 1] d-moll) (作曲:1886年)
弦楽四重奏曲(第2番)ニ長調(Streichquartett [Nr. 2] D-Dur) 作品13 (作曲:1902年〜03年、初演、1903年1月13日ウィーン、献呈:アルマ・マーラー)
弦楽四重奏曲(第3番)嬰ハ短調(Streichquartett [Nr. 3] cis-moll) 作品36(作曲:1925年、初演:1925年11月6日、献呈:マックス・フォン・シリングス)
弦楽四重奏曲(第4番)ハ短調(Streichquartett [Nr. 4] c-moll) 作品50(作曲:1942年、初演:1942年6月5日ベルリン、献呈:マックス・シュトループ)
弦楽四重奏のための崩れたフガート(Unorthographisches Fugato für Streichquartett) (作曲:1943年)
ピアノ三重奏曲 変ロ長調 (Klaviertrio B-Dur) (作品番号なし、1886年)
ピアノ三重奏曲 ヘ長調(Klaviertrio F-Dur) 作品8 (作曲:1895年〜96年、初演:1896年12月14日フランクフルト、献呈:アレクサンダー・フリードリヒ・フォン・ヘッセン)
チェロ・ソナタ嬰ヘ短調(Sonate fis-moll für Violoncello und Klavier, „Das Lied soll schauern und beben…“)作品1(作曲:1890年、1891年1月21日フランクフルト初演、献呈:ハインリヒ・キーファー)
ヴァイオリン・ソナタ ホ短調(Sonate e-moll für Violine und Klavier) 作品27 (作曲:1918年、初演:1918年9月25日ミュンヘン、献呈:王立スウェーデン音楽院)


ピアノ曲

演奏会用ワルツ イ短調(Konzertwalzer a-moll) (作曲:1892年、散逸)
5つの小品(Fünf Stücke für Klavier)作品47 (作曲:1941年、初演:1941年ベルリン、献呈:ワルター・ギーゼキング)
最後の反抗 (Letztes Aufbäumen)
はしゃぎ回って (Ausgelassenheit)
神聖文字 (Hieroglyphe)
こんがらかって (Zerrissenheit)
旋律 (Melodie)
6つの練習曲(Sechs Studien für das Pianoforte)作品51(作曲:1943年、初演:1943年5月10日ウィーン、献呈:フリードリヒ・ヴューラー)


主要な門人

セム・ドレスデン (1881年–1957年)
ハンス・マーナー=モンス (1883年–1956年、「ハンス・ポッセンドルフ」という別名でも活動)
アルベルト・ビング (1884年–?年、クルト・ヴァイルの指導教授)
テューレ・ラングストレム (1884年–1947年)
オットー・クレンペラー (1885年–1973年)
ハンス・ヴィルトベルガー (1887年–1970年)
イルゼ・フロム=ミヒャエルス (1888年–1986年)
ハインリヒ・ヤコビ (1889年–1964年)
ハインリヒ・ベル (1890年–1947年、ケルン・バッハ協会の指導者)
チェスワフ・マレク (1891年–1985年)
シャルル・ミュンシュ (1891年–1968年)
ヘルムート・ツェアパー (1892年–1915年)
フェリックス・ヴォルフェス (1892年–1971年)
カール・ダマー (1894年–1977年)
パウル・ヴィンター (1894年–1970年)
カール・オルフ (1895年–1982年)
オットー・シュトラウプ (1895年–1931年)
フリードリヒ・メーラー (1896年–1981年)
ヘルマン・アンブロジウス (1897年–1983年)
ハンスマリア・ドンブロフスキ (1897年–19??年)
カール・ゲルハルト (1900年–1945年)
カール・マリア・ツヴィッスラー (1900年–1984年、GMD in Mainz, Leiter einer Dirigierklasse in Frankfurt)
ロベルト・レーハン (1901年–1987年)
ロッテ・バッケス (1901年–1990年)
ローター・ヴィツケ (1903年–1998年)
オイゲン・ボーダルト (1905年–1981年)
ゲルハルト・フロメル (1906年–1984年)
リロ・マルティン (1908年–1986年)
ハインリヒ・ズーターマイスター (1910年–1995年)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%84%E3%83%8A%E3%83%BC
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/828.html

[近代史6] ハンス・エーリヒ・プフィッツナー『パレストリーナ WoO.17 第1幕前奏曲』

最美の音楽は何か? _ ハンス・プフィッツナー『パレストリーナ WoO.17 第1幕前奏曲』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/432.html
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/829.html

[近代史6] カール・ライネッケ(Carl Heinrich Carsten Reinecke, 1824 - 1910)
カール・ライネッケ(Carl Heinrich Carsten Reinecke, 1824 - 1910)

交響曲

交響曲第1番 イ長調 Op.79 (1858年)
3.5点
1楽章は平凡なよくあるロマン派ドイツ交響曲の域を出ていない。2楽章はしなやかな感傷的な叙情で感情のうねりを重ねて徐々に大波を作っていくような音楽でかなりよい。慈愛の音楽はベートーヴェンの傑作緩徐楽章の出来に迫っており、深く音楽の感動的世界に入り込める。3楽章はベートーヴェンを引き継いだ正統派であり悪くない。最後の終わり方は気に入った。4楽章は軽妙で控え目であり、もっと愉しませて欲しいという欲求不満が残った。全体に2楽章の素晴らしさ以外は、あともう一息の感があるものの、なかなかの作品である。

交響曲第2番 ハ短調 Op.134 (1874年)
3.5点
柔らかさと詩情に裏打ちされた骨組みのきちんとした音楽であり、シューマンやブラームスのように癖があってゴテゴテしておらず、スマートでベートーヴェンを受け継ぐ正統派のドイツのロマン派交響曲という点で存在価値が高いと思う。メンデルスゾーンのような標題音楽的に感じるところもない。成熟したよい曲であるが、旋律などやはり少し地味である。そして1番の2楽章のような強い魅力のある楽章がない。地味に感じるのは精神の健常なバランス感覚を保っている正常性からのような気がする。稠密に念入りに構築された音楽は何度も聴くと良さがよく見えてくる。どの場面もよく考えて効果をきちんと計算して書かれている。魂の破天荒さはない。

交響曲第3番 ト短調 Op.227 (1895年)
3.5点
どの楽章もなかなか立派で充実しており、感心して聴ける。しかし、どこかに才能の輝きが足らない地味さがある。その中で最終楽章の高揚感はなかなか心が躍る。ドイツ交響曲らしい音の作りによる盛り上がりは、畳み掛けて新しいパッセージを次々に産む音楽の奔流を作り出せている。正統派で成熟した交響曲として、骨格の立派さと丁寧に書かれた充実を楽しむ曲としてはよく出来ている。一つ一つの場面がしっかりと描かれている。ただ、隔絶した天才の輝きが足らないだけである。

協奏曲

ハープ協奏曲 ホ短調 Op.182 (1884年)

ピアノ協奏曲第1番 嬰ヘ短調 Op.72 (1860年)
3.3点
ショパンやシューマンといかにも同時代の協奏曲であり、まだ形式感がしっかりとある。かなりお上品な曲と思う。その柔らかくて上品なところと、形式的な安心感を楽しむ曲と思う。なかなか楽しめるのだが、やはりこの後の歴史により切り開かれた音楽の可能性の世界と比べると、いかにも世界が狭い。しかしベートーヴェンを少しロマン派にしたような安心感に包まれながら協奏曲を聴く楽しみは、これがかなりおつなものであり、思いの外幸せな時間を過ごせたのは発見であった。

ピアノ協奏曲第2番 ホ短調 Op.120 (1872年)
3.3点
しなやかで柔らかくて優美。刺々しいとか爆発的のようなものはない。悪魔的だったり激しい熱情もない。壮大さもない。しかし、とても瑞々しい感情の表現をするピアノとそれをサポートするオケの素敵さには、なかなか心に染み渡るものがある。メロディーなどに決定的な名作性はないものの、メジャーどころの押しの強さは無いながらもなかなかいい世界を味わえる。

ピアノ協奏曲第3番 ハ長調 Op.144 (1877年)

ピアノ協奏曲第4番 ロ短調 Op.254 (1901年)
3.0点
きちんと丁寧に書かれた正統派の曲である。20世紀の作品としてはかなり古臭い。巨匠的な品格の高さは楽しい。教科書的なお行儀の良さがあり独自の価値には乏しいものの、ちゃんとした曲が好きな人には聴く価値が充分にあるとお勧めできる。

チェロ協奏曲 ニ短調 Op.82 (1864年)

ヴァイオリン協奏曲 ト短調 Op.141 (1876年)
3.3点
1楽章はいまいち志が感じられない、職人的に作られているだけで訴えかけるものが足りない曲である。2楽章はかなりの美旋律を切々と歌い続ける感動的な楽章。名曲と呼ぶに足る作品である。ブラームスの協奏曲の2楽章を上回るかもしれない。3楽章はおおいなるエンディングに向けて爆発しそうな力を貯めたまま延々とエネルギーを解放しないというテンションをキープし続ける曲。このようなキープの仕方は特殊だと思う。爆発しなすぎて欲求不満がたまってしまう。この曲は2楽章だけがずば抜けて素晴らしいといえよう。

フルート協奏曲 ニ長調 Op.283 (1908年)
3.8点
貴重なフルート協奏曲。1楽章はライネッケによくある形式の枠の制約が強すぎて心に訴えるものの少ない曲。この楽章は我慢が必要。一転して2楽章はロマンの限りを尽くしており、切々と訴える憂愁のメロディーは最高に美しい。モーツァルトが書いたうちの最高級の緩徐楽章に勝るとも劣らない。3楽章もなかなか優雅で移ろうニュアンスの変化も常に美しい。力を貯めて爆発させないライネッケ流がフルート協奏曲の場合は非常にマッチしている。1楽章はいまいちだが2楽章と3楽章はとても優れていると思う。

室内楽曲、器楽曲

フルートソナタ ホ短調 「ウンディーネ」 Op.167(1881年)

弦楽三重奏曲 ハ短調 Op.249

左手のためのピアノソナタ
3.0点
かなり本格志向のソナタである。美しい旋律はなくてそれほど面白くはないが、ピアニスティックで効果的なパッセージを積み重ねてソナタを作っている。感動するほどではないが、きちんと本格的に書かれている左手のためのソナタとしてロマン派ソナタらしさをしっかりと持っている本作は重要な価値がありそうだ。ただ、低音が薄すぎる気はする。もう少し重さもバランスとしてほしかった。

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%281859%E5%B9%B4%E3%81%BE%E3%81%A7%29

カール・ライネッケ(カール・ハインリヒ・カーステン・ライネッケ Carl Heinrich Carsten Reinecke, 1824年6月23日 アルトナ - 1910年3月10日 ライプツィヒ)は、ドイツロマン派の作曲家、ピアニスト、指揮者、教育者[1]。


略歴
音楽理論や音楽教育書の著作を出していた高名な音楽教育者の父親ルドルフ(ヨハン・ペーター・ルドルフ・ライネッケ Johann Peter Rudolph Reinecke, 1795年11月22日 ハンブルク - 1883年8月14日 ゼーゲベルク(英語版))に学ぶ[1]。

7歳までに作曲を始め、12歳でピアニストとして初めて公開演奏を行う。
1843年(19歳) 北欧に演奏旅行を行い、引き続きライプツィヒでメンデルスゾーンやシューマンに師事[2]。
1846年(22歳) デンマークにて宮廷ピアニスト。
1851年(27歳) フランツ・リストの娘達、ブランディーネとコジマにピアノのレッスンをする。のち、作曲家のフェルディナント・ヒラーに乞われてケルン音楽院で教える[3]。
1860年(36歳) ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の楽長、音楽院の教授に就任。
1869年 ブラームスの「ドイツ・レクイエム」を、この年の2月18日にライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団を指揮して初演する。
1875年 王立プロイセン芸術アカデミーの会員となる[1]。
1897年 ライプツィヒ音楽院の院長に就任[1]。
1902年 公職から引退する[1]。

ライプツィヒ音楽院での門下生に、ブルッフ、グリーグ、スヴェンセン、シンディング、サリヴァン、ヤナーチェク、アルベニス、ワインガルトナー、リーマンらがいる[1]。

19世紀の音楽家としては長寿に恵まれたため、晩年になってピアノロールに自作自演を含む吹込みを残した。特に、モーツァルトの「戴冠式」の第2楽章が有名である。現在ではCD化もされている(Archiphon ARC-106など)。

作品
初期にはメンデルスゾーンやシューマン、ショパンの影響が顕著であったが、のちにはブラームス作品のもつ綿密さや堅固な構成力が加わった[注 1]。公職から引退後も死の間際まで作曲活動を続けていたため、創作数は出版作品だけで300曲を超え、未出版の作品を数えると千曲以上ともいわれる。様々な分野の曲を書いているが、魅力的な旋律と創意に富む数多くのピアノ曲で殊に有名であった。また、室内楽曲も優れており、フルートソナタ「ウンディーネ」は彼の作品中最も頻繁に演奏される曲である。一方で、「マンフレッド王 (König Manfred)」などのオペラでは成功しなかった[1]。

保守的な音楽観を持ち[1]、名人芸もほとんど用いなかった為、死後は多くの作品が演奏家のレパートリーから消えることとなった。

教育目的で書かれた作品には「ミニチュアソナタ」や「左手の為のピアノソナタ」、「バッハの主題による変奏曲」など創意工夫に富んだ物が多く、今日の教育に於いても使用可能である。

彼が師事したシューマンの作品で合唱曲として名高い「流浪の民」のフルオーケストラ版編曲も手がけた。こちらも長らく埋もれていたが、2010年10月13日、ライプツィヒ大学入学式に於いて同大学管弦楽団・合唱団によって現ゲヴァントハウス大ホールにて蘇演がなされた。


交響曲
交響曲第1番 イ長調 Op.79 (1858年)
交響曲第2番 ハ短調 Op.134 (1874年)
交響曲第3番 ト短調 Op.227 (1895年)
子どもの交響曲(おもちゃの交響曲)ハ長調 Op.239 (1895年)

協奏曲
ハープ協奏曲 ホ短調 Op.182 (1884年)
ピアノ協奏曲第1番 嬰ヘ短調 Op.72 (1860年)
ピアノ協奏曲第2番 ホ短調 Op.120 (1872年)
ピアノ協奏曲第3番 ハ長調 Op.144 (1877年)
ピアノ協奏曲第4番 ロ短調 Op.254 (1901年)
チェロ協奏曲 ニ短調 Op.82 (1864年)
ヴァイオリン協奏曲 ト短調 Op.141 (1876年)
フルート協奏曲 ニ長調 Op.283 (1908年)

その他管弦楽曲
弦楽セレナーデ ト短調 Op.242

室内楽曲
3つの易しいピアノ三重奏曲(ハ長調、ホ短調、ヘ長調) Op.159
フルートソナタ ホ短調 「ウンディーネ」 Op.167(1881年)
オーボエ、ホルンとピアノのための三重奏曲 イ短調 Op.188
弦楽三重奏曲 ハ短調 Op.249

ピアノ曲
アンダンテと変奏曲(2台) 変ホ長調 Op.6 (1844年)
3つのソナチネ Op.47 (1854年)
ゆりかごから墓場まで Op.202 (1888年)
左手のためのピアノソナタ ハ短調 Op.179 (1884年)


著作
Was sollen wir spielen? - Briefe an eine Freundin, Leipzig 1886
Zur Wiederbelebung der Mozart’schen Clavier-Concerte – Ein Wort der Anregung an die clavierspielende Welt., Leipzig 1891
Die Beethoven’schen Clavier-Sonaten – Briefe an eine Freundin. 1895, 3. stark vermehrte Auflg. Leipzig 1897
(日本語訳:『ベートーフェンのピアノ・ソナタその解釈と演奏法』馬場二郎訳、中央美術社、1923年5月刊)

Und manche liebe Schatten steigen auf, Leipzig 1900
Meister der Tonkunst, Berlin/Stuttgart 1903
Aus dem Reich der Töne – Worte der Meister, Leipzig 1907
Erlebnisse und Bekenntnisse – Autobiographie eines Gewandhauskapellmeisters, Doris Mundus (編集), 2005


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%8D%E3%83%83%E3%82%B1
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/830.html

[近代史3] ベートーヴェン 『交響曲第3番』 中川隆
22. 中川隆[-16097] koaQ7Jey 2021年10月07日 04:43:33 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[1]
プフィッツナー

Symphony No. 3, conducted by Hans Pfitzner with the Berliner Philharmoniker Orchestra. Composed by Ludwig van Beethoven










Recording from 1929.

Movement 1: 0:00 Allegro con brio
Movement 2: 15:15 Marcia funebre: Adagio assai in C minor
Movement 3: 30:15 Scherzo: Allegro vivace
Movement 4: 34:04 Finale: Allegro molto





Hans Pfitzner / BPO - Beethoven : Symphony No.3 op.55 "Eroica" (1929) - 再復刻








Berlin Philharmonic Orch. recorded in 1929
transfer from Jpn POLYDOR 78s / 80020/1

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/843.html#c22
[近代史6] ハンス・エーリヒ・プフィッツナー(Hans Erich Pfitzner 1869年5月5日 – 1949年5月22日) 中川隆
1. 中川隆[-16096] koaQ7Jey 2021年10月07日 04:45:11 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[2]
プフィッツナーが指揮したベートーヴェン エロイカ交響曲の伝説の名盤

Symphony No. 3, conducted by Hans Pfitzner with the Berliner Philharmoniker Orchestra. Composed by Ludwig van Beethoven










Recording from 1929.

Movement 1: 0:00 Allegro con brio
Movement 2: 15:15 Marcia funebre: Adagio assai in C minor
Movement 3: 30:15 Scherzo: Allegro vivace
Movement 4: 34:04 Finale: Allegro molto





Hans Pfitzner / BPO - Beethoven : Symphony No.3 op.55 "Eroica" (1929) - 再復刻








Berlin Philharmonic Orch. recorded in 1929
transfer from Jpn POLYDOR 78s / 80020/1

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/828.html#c1
[番外地6] Pfitzner violin concerto opus 34 中川隆
5. 中川隆[-16095] koaQ7Jey 2021年10月07日 04:46:12 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[3]
プフィッツナー

Symphony No. 3, conducted by Hans Pfitzner with the Berliner Philharmoniker Orchestra. Composed by Ludwig van Beethoven










Recording from 1929.

Movement 1: 0:00 Allegro con brio
Movement 2: 15:15 Marcia funebre: Adagio assai in C minor
Movement 3: 30:15 Scherzo: Allegro vivace
Movement 4: 34:04 Finale: Allegro molto





Hans Pfitzner / BPO - Beethoven : Symphony No.3 op.55 "Eroica" (1929) - 再復刻








Berlin Philharmonic Orch. recorded in 1929
transfer from Jpn POLYDOR 78s / 80020/1

http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/417.html#c5
[近代史6] ハンス・エーリヒ・プフィッツナー 小交響曲 作品44
Hans PFITZNER "Kleine Sinfonie" Hermann Abendroth



1. Moderato
2. Allegro
3. Adagio [attacca]
4. Allegretto


Gewandhausorchester Leipzig
Hermann Abendroth, Conductor
Leipzig, 26. II.1945



プフィッツナーの秘曲、いや名曲です!!
政治と音楽の相克。


特にナチスと音楽(家)のせめぎ合いについては、音楽の裏面史として不幸な出来事になっています。


ナチに翻弄されたフルトヴェングラーやナチに追われたワルターの話などは言わずもがなですし、また、ヒトラーに利用されたワーグナーの楽曲はイスラエルでは現在も演奏はタブー視されているなど、挙げれば枚挙にいとまがありません。


ゲッペルスからヴァイオリンを贈与され、その責任を今になっても追及されていた諏訪根自子の不幸については、先日記したばかりでした。


そんな中での、麻生副総理のナチスを引き合いに出しての、またしてもの妄言には信じられぬ思いがあります。



私が多大な関心を抱く作曲家の一人に、ハンス・プフィッツナー(1969モスクワ〜1949ザルツブルク)がいます。保守的な作風で知られていますが、指揮者としても個性的な録音を残しています。


そのプフィッツナーもナチスへの加担を批判される作曲家です。近年の2007年にも、ベルリンで指揮者のインゴ・メッツマッハーはカンタータ『ドイツ魂について』をプログラムに載せ、ユダヤ人中央協議会から批判をうけています。


私が初めてプフィッツナーを知り、その音楽に親しんだのはもう40年近く前に購入したレコードがきっかけです。


◇プフィッツナー 小交響曲作品44
ペーター・シュヴァルツ指揮札幌交響楽団
TOSHIBA TA-9332


ベートーヴェンの『エロイカ』がメインのレコードですが、私が魅せられたのはB面後半に収録された、プフィッツナーの方でした。プフィッツナーの曲はやや地味で晦渋な面もあるのですが、この曲は叙情的で美しい旋律に富んでいます。


曲は1939年の作。全曲は弦を中心として、各2本の木管と1本のトランペットにしぼり、そしてハープとシンバルが加わるだけのシンプルな編成で、4楽章の交響曲ながら20分程度の小規模の曲です。4楽章はモデラート、スケルツォ、アダージョ、アレグレットの流れになっていますが、単楽章ふうに続けて演奏されます。


すでに70歳になってからの晩年の作ということもあって、全体に死を予感しているようなもの悲しい感がしきりですが、生のはかなさ澄み切った諦観の境地の美しさは格別で、私にとっては絶品の名曲になっています。


CD時代になって、cpoレーベルがプフィッツナーの作品をまとめて出していて、この曲を聴くことができるのですが、後に続く録音や演奏会の情報もなく、このまま忘れさられていくものと思っていました。


ところが先日、いやもう3月のことになりますが、この曲が児玉宏指揮大阪交響楽団によってNHK-FMで放送されるという、思いも寄らぬ出来事がありました。(実際の演奏日は、2012年11月29日 大阪、ザ・シンフォニーホールにて)


この指揮者とオケのコンビは最近、名曲秘曲を次々と発掘録音して注目を浴びていますが、この小交響曲の演奏は私にとって貴重な収穫になりました。


指揮者はプフィッツナーの楽譜に秘められた哀感の感情を深く読みとり、オケもロマン的な感情を美しく推移させていく、すばらしい好演を聴かせています。


cpo盤と比して、メリハリの効いた表現が活力を生み、個々の楽器もスッキリと浮き出てくるので、終始生気に溢れていて、曲のもつ魅力を最大限に発揮しているように思いました。特にアダージョのしっとりとした夢見るような美しさは、しみじみと聴き手の胸を打ちます。ちなみに、cpo盤の6分5秒のタイムに対して、7分3秒というテンポ設定からもそれが裏付けられているといえるでしょう。


是非とも、CD化されて多くの人にこの曲の魅力を味わってもらいたいと切望します。


ところで、この曲の初演は作曲同年にフルトヴェングラー指揮ベルリンフイルにより演奏されています。もし、録音が残されていたならば、聴いてみたい演奏の筆頭に挙げられるでしょう。


ただ、曲は違いますがフルトヴェングラーによる、歌劇『パレストリーナ』第一幕、第二幕、第三幕前奏曲の録音は容易に入手できます。(ヴィスバーデンコンサートとして有名です)フルトヴェングラーのこの作品に寄せる眼差しは尋常ではなく、凄絶で感動的な演奏を聴かせてくれます。


プフィッツナー、もっと聴かれてよい作曲家と思います。


http://hidechan521.blog.fc2.com/blog-entry-27.html

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/831.html

[近代史6] ハンス・エーリヒ・プフィッツナー独唱と合唱、管弦楽、オルガンのためのロマン主義的カンタータ《ドイツ精神について》 作品28


独唱と合唱、管弦楽、オルガンのためのロマン主義的カンタータ《ドイツ精神について》(Von deutscher Seele. Eine romantische Kantate für Solostimmen, Chor, Orchester und Orgel) 作品28
(作曲:1921年、原詩:アイヒェンドルフ、初演:1922年1月27日ベルリン、献呈:「親愛なるエヴァ・クヴァスト嬢の追憶に」



Hans PFITZNER "Von deutscher Seele" Hans Pfitzner 1941








I. Mensch und Natur
II. Leben und Singen
III. Liederteil


Erna Berger, Sopran / Elisabeth Höngen, Alt
August Seider, Tenor / Ludwig Weber, Baß
Gesamtchor des Deutschen Opernhauses
Großes Berliner Rundfunkorchester / Hans Pfitzner
Berlin, Philharmonie Bernburger Straße, 10. Februar 1941




http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/832.html

[近代史6] ハンス・エーリヒ・プフィッツナー独唱と合唱、管弦楽、オルガンのためのロマン主義的カンタータ《ドイツ精神について》 作品28 中川隆
1. 中川隆[-16094] koaQ7Jey 2021年10月07日 05:14:07 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[4]
ハンス・プフィッツナー:カンタータ「ドイツの精神」
第1部:人間と自然
第2部:生と歌

アイヒェンドルフの詩によるプフィッツナーの壮大なるカンタータです。1921年に作曲されその翌年初演、1937年に改作が施されています。彼自身は保守的であり、また自ら認める「反ユダヤ主義者」でもありました。当時世間を凋落していた「前衛音楽」は彼にとって憎むべきものであり、崇高なるドイツの精神を音楽として表すためにこのカンタータが書かれたと言われます。とはいえ、出来上がった音楽には全く政治的イデオロギーは反映されておらず、むしろ「ロマンティックなカンタータ」という副題が付されているほど、内容的には矛盾を孕んだ音楽ともいえそうです。


ハンス・プフィッツナー
カンタータ《ドイツの魂について》

推薦CD: Koch Schwann 314 027 K1


プフィッツナー(1869-1940)は、ドイツの作曲家だが、SP録音の復刻によって、指揮者としてよく認知している人が多くいるかもしれない。(事実、彼のベートーヴェンの交響曲第6番《田園》のレコードは、日本でも知名度の高かったものである。)

作曲家としては、リヒャルト・シュトラウスと覇を競ったといわれるが、メロディの美しさを身上としなかったため、現在ではかなり渋好みのする作曲家となってしまっている。

また、ブゾーニやシェーンベルクらのいわゆる「新時代」の音楽を批判し、古典への回帰を強く主張した為、プフィッツナーは音楽史的にも、ちょっと浮いた存在として捉えられることがある。

また、彼は保守的な立場からブゾーニらの新しい音楽美学を攻撃していたのだが、この新しい音楽美学の系譜上にユダヤ系の音楽家が多かった事から、「プフィッツナーは反ユダヤ主義者」という勘違いがおきてしまい、ナチスに利用されかけたことがある。ナチスに盲従せず、自分の流儀を通したプフィッツナーは、晩年貧窮を極め、ミュンヘンの老人ホームでひっそりと亡くなった。

このカンタータは、第一次世界大戦後の1921年に作曲され、その翌年に初演されたプフィッツナーの代表作のひとつ。

このカンタータは、ドイツ語の題名では《Von deutscher Seele》となっており、《ドイツ精神について》という日本語訳がしばしばなされるが、「精神」をドイツ語に直すと、「Geist」という言葉になる。「Seele」も、「精神」と訳されるわけだが、英語の「Soul」に対応する言葉なので、「魂」という訳を当てたほうが適切な気がするが、「Geist」ではなく「Seele」という言葉を選んだところに、プフィッツナーの深い意図があるような気がする。

彼は、「ドイツの魂」について、何らか一定の主張を展開しているわけではない。人間の精神の内省的なものや、心優しさ、英雄的な心情や浮かれたものといった諸相を、ヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフの詩をテキストにして綴りあわせることによって、人間の精神の複雑さをあらゆる方面から照らし出そうとしたのだろう。

彼の音楽は、モーツァルトのような耳をそばだてるメロディに乏しいため、飽きっぽい人には決して勧められるものではないが、音楽をじっくり味わいたい人には、深い思索が得られると思う。
http://www.jttk.zaq.ne.jp/baaix607/cde26_11.html
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/832.html#c1

[近代史6] ハンス・エーリヒ・プフィッツナー(Hans Erich Pfitzner 1869年5月5日 – 1949年5月22日) 中川隆
2. 中川隆[-16093] koaQ7Jey 2021年10月07日 05:20:26 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[5]
プフィッツナーが指揮したベートーヴェン 田園交響曲の伝説の名盤

Hans Pfitzner conducts Beethoven Symphony No. 6




Berlin State Opera Orchestra
1930, Berlin
Mechan. Copt. 1938 - Polydor 95378/83
matrices: 582 GO, 583 GO, 584 GO, 585 GO, 905 GS 8 D, 906 GS 8 D, 586 GO,587 GO, 588 GO, 589 GO, 590 GO




Hans Pfitzner - Beethoven : Symphony No.6 Op.68 (Pastoral) (1930) - 再復刻






Berlin State Opera Orch.
Hans Pfitzner (1869 - 1949), recorded in 1930
transfer from Jpn Polydor 78s -80040-42

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/828.html#c2
[近代史3] ベートーヴェン 『交響曲第6番 田園』 中川隆
21. 中川隆[-16092] koaQ7Jey 2021年10月07日 05:21:42 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[6]
プフィッツナー

Hans Pfitzner conducts Beethoven Symphony No. 6




Berlin State Opera Orchestra
1930, Berlin
Mechan. Copt. 1938 - Polydor 95378/83
matrices: 582 GO, 583 GO, 584 GO, 585 GO, 905 GS 8 D, 906 GS 8 D, 586 GO,587 GO, 588 GO, 589 GO, 590 GO




Hans Pfitzner - Beethoven : Symphony No.6 Op.68 (Pastoral) (1930) - 再復刻






Berlin State Opera Orch.
Hans Pfitzner (1869 - 1949), recorded in 1930
transfer from Jpn Polydor 78s -80040-42

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/846.html#c21
[近代史6] ハンス・エーリヒ・プフィッツナー ヴァイオリン協奏曲 ロ短調 作品34
ハンス・エーリヒ・プフィッツナー ヴァイオリン協奏曲 ロ短調 作品34


Pfitzner Violin Concerto in B Minor, Op. 34 (Live)





Rudolf Kempe and Gerhard Taschner (Live)
Rias Sinfonieorchester
℗ 2007 Archipel

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/833.html

[近代史6] ハンス・エーリヒ・プフィッツナー(Hans Erich Pfitzner 1869年5月5日 – 1949年5月22日) 中川隆
3. 中川隆[-16091] koaQ7Jey 2021年10月07日 06:06:01 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[7]
Hans Pfitzner conducts...

ハンス・プフィッツナー
ハインリヒ・フォン・クライストの『ハイルブロンの娘ケート』の付随音楽
(Musik zu Das Käthchen von Heilbronn von Heinrich von Kleist) 作品17




Hans Pfitzner
Overture to "Das Käthchen von Heilbronn"
Munich Philharmonic Orchestra
1944

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/828.html#c3
[近代史6] ハンス・エーリヒ・プフィッツナー ヴァイオリン協奏曲 ロ短調 作品34 中川隆
1. 中川隆[-16090] koaQ7Jey 2021年10月07日 06:20:38 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[8]
ハルトマン・ツィマーマン

Pfitzner, Hartmann & Zimmermann: Violin Concertos & String Quartets







℗ 1994 Vox Box
Artist: Susanne Lautenbacher
Conductor: Günther Wich
Orchestra: Philharmonia Hungarica


Pfitzner, Hartmann & Zimmermann: Violin Concertos & String Quartets - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=OLAK5uy_kTWLZF1pCGhl74cNSZwI0CWa_DQqCulOg

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/833.html#c1
[近代史6] ハンス・エーリヒ・プフィッツナー ヴァイオリンソナタ ホ短調 作品27
ハンス・エーリヒ・プフィッツナー ヴァイオリンソナタ ホ短調 作品27


Hans Pfitzner: Violin Sonata in E minor, Op. 27 (1918)



Performers: Benjamin Schmid (violin) Claudius Tanski (piano)


00:00 I. Movement: Bewegt, mit Empfindung – Allegro espressivo
11:48 II. Movement: Sehr breit und ausdrucksvoll – Adagio, quasi fantasia
20:48 III. Movement: Äußerst schwungvoll und feurig



Pfitzner: Complete Piano Works & Violin Sonata in E Minor, Op. 27





℗ 2002 CPO
Artist: Ulf Wallin
Artist: Roland Pöntinen



Pfitzner: Complete Piano Works & Violin Sonata in E Minor, Op. 27 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=OLAK5uy_l2Of0VUvoM0c0CMQb6v-0KNo3ouz504qw

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/834.html

[近代史6] ハンス・エーリヒ・プフィッツナー ヴァイオリンソナタ ホ短調 作品27 中川隆
1. 中川隆[-16089] koaQ7Jey 2021年10月07日 06:53:18 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[9]
プフィッツナーの室内楽作品

Pfitzner: Chamber Music [from US] [Import]

  もう一人、室内楽を比較的多く書いたドイツ後期ロマン派の作曲家を挙げるとすれば、ハンス・プフィッツナーということになるでしょうか。

彼の代表作はなんといってもオペラ『パレストリーナ』であり(あと大作としては、カンタータ『ドイツ精神について』というのもありますね)、それに次いで重要な作品としては(前にも触れた)数々の歌曲があげられるでしょう。

そして室内楽は、彼にとって歌曲と並んで質量共に重要なジャンルだった、という評価ができるように思われます*1。

レーガーはちょっと、という人でも、どこまでも「ロマン主義」にこだわった筋金入りの保守派、プフィッツナーの作品は問題なく聴けるのではないでしょうか。

理論的であることを拒否したこの人の作品からは、ブラームスが時にみせる自省と懐疑の響きはあまり感じられず、ロマン的な純粋さを保とうとする姿勢には、むしろシューマンを思わせるものがあります。

  彼の室内楽で筆頭にあげたいのは、分かりやすさと無駄のない美しさという点で傑出しているヴァイオリンソナタ ホ短調(op.27)。

冒頭の美しい主題がコーダで情熱的に高まる第1楽章、内側に向かって広がっていく全くロマンティックな第2楽章、そして、プフィッツナーとしては珍しいほどに、きらめく光をまばゆく反映した輝かしい終楽章が続きます。

プフィッツナーは彼のとった政治的姿勢によって、いまなお敬遠されているのかもしれませんが、この作品の音楽の出来だけを純粋にみれば、少なくとも偉大な同時代者、R・シュトラウスのヴァイオリンソナタと同じくらいの評価は受けてもいいのではないかと思うのですが。

  このCDには、その他にピアノ三重奏曲(op.8)が収録されています。こちらは屈折した(ヘ長調で始まり、ヘ短調に終わる)規模の大きい作品で、「ユーゲントシュティール」の複雑な植物模様を思い起こさせるような感じ。ヴァイオリンソナタ以上の内向的な暗さがあって、万人に好まれる・・・・・・とはいいかねますが、なかなかの味がある作品ではあります(私は好きです)。

もう一つ、このディスクで興味深いのは、使用しているピアノが1925年製のブリュートナーと明記されている点で、なるほど普通のピアノとちょっと違う音色です。

*1:管弦楽を用いた作品では、3曲ある『交響曲』は(うち1曲は、弦楽四重奏曲からの編曲)今一つ魅力に乏しく、その一方、協奏曲(ヴァイオリンやチェロ、ピアノのための)は個性ある作品です。
http://d.hatena.ne.jp/Scarbo/20060616/p1
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/834.html#c1

[近代史6] 最美の音楽は何か? _ ハンス・プフィッツナー『パレストリーナ WoO.17 第1幕前奏曲』 中川隆
1. 中川隆[-16088] koaQ7Jey 2021年10月07日 07:30:25 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[10]
フルトヴェングラー

Pfitzner "3 Act-Preludes to Palestrina" Wilhelm Furtwängler









1. Act "Ruhig (Andante)
2. Act "Mit Wucht und Wildheit"
3. Act "Langsam, sehr getragen

Berlin Philharmonic
Wilhelm Furtwängler, Conductor

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/432.html#c1
[近代史6] ハンス・エーリヒ・プフィッツナー オペラ 3幕の音楽的伝説《パレストリーナ》WoO 17
ハンス・エーリヒ・プフィッツナー オペラ 3幕の音楽的伝説《パレストリーナ》WoO 17


Pfitzner: Palestrina [Kubelik] Gedda, Fassbaender, Fisher-Dieskau, Prey



Act I : 00:00
Act II : 1:39:10
Act III : 2:52:00


Papst Pius IV: Karl Ridderbusch
4 Kardinäle - Cardinals:
♦ Giovanni Morone: Bernd Weikl
♦ Bernardo Novagerio: Heribert Steinbach
♦ Christoph Madruscht: Karl Ridderbusch
♦ Carlo Borromeo: Dietrich Fisher-Dieskau
Graf Luna: Hermann Prey
Giovanni Pierluigi Palestrina: Nicolai Gedda
Ighino, sein Sohn (his son): Helen Donath
Silla, sein Schüler (his pupil): Brigitte Fassbaender


Chor des Bayerischen Rundfunks /Bavarian Radio Chorus
Chorus Master: Josef Schmidhuber
Tölzer Knabenchor (chorus master: Gerard Schmidt-Gaden)


Symphonie-Orchester des Bayerischen Runfuks
Conducted by Rafael Kubelik
1973


▲△▽▼


『パレストリーナ』 (Palestrina) WoO.17は、ハンス・プフィッツナーが作曲した全3幕のオペラで、今日ではプフィッツナーの代表作の一つとして知られている。また各幕にそれぞれ置かれる3つの前奏曲は独立して(管弦楽組曲として)演奏されることもしばしばある。


作曲者自身によって『音楽的伝説』(Musikalische Legende)という副題が与えられている。


オーストリアの音楽学者で作曲家でもあったアウグスト・ヴィルヘルム・アンブロス(August Wilhelm Ambros,1816 - 1876)が編纂した『音楽史』(1878)の第4巻[1]を読んだプフィッツナーは、これをオペラ化にすることを思い立ち、早速プフィッツナーは自ら台本を執筆し、1910年から翌1911年まで書き上げた。作曲は1912年1月1日に着手され、3年後の1915年6月17日に完成させた。


初演は1917年6月12日に、ミュンヘンのプリンツレゲンテン劇場にてブルーノ・ワルターの指揮で行われ、大成功を収めた。ワルターは初演を行った際、この上演を一つの節目と看做しており、戦時下の1917年の11月に「宣伝巡業」と称して、スイス(バーゼル、チューリッヒ、ベルン)で上演している。また1919年にウィーンとベルリンでも上演され、第2次世界大戦が始まるまでにはドイツ国内で定期的に上演が行われていた。


小説家のトーマス・マンはこのオペラを絶賛しており、1917年10月に発表した短い随想『パレストリーナ』の中ではこの作品の価値を認めている。また著書『非政治的人間の考察』(Betrachtungen eines Unpolitischen,1918)の「美徳について」の中でも『パレストリーナ』について敷衍して取り上げている。また1918年にワルターらと共にハンス・プフィッツナー協会を設立している。


楽器編成
木管楽器:フルート4(第3・第4奏者はピッコロ持ち替え)、アルトフルート、オーボエ3(第3奏者はイングリッシュホルン持ち替え)、クラリネット3、バスクラリネット、ファゴット3、コントラファゴット
金管楽器:ホルン6、トランペット4、トロンボーン4、テューバ
打楽器:ティンパニ、複数の打楽器
その他:弦五部(マンドリン2、ヴィオラ・ダモーレを含む)、オルガン、チェレスタ、ハープ2、ギター
舞台上:ピッコロ、クラリネット、マンドリン、他


登場人物
人物名 声域 役


パレストリーナ テノール サンタ・マリア・マッジョーレ教会礼拝堂楽長
教皇ピウス4世 バス
ジョヴァンニ・モローネ バリトン 教皇特使枢機卿
ベルナルド・ノヴァジェーリオ テノール 教皇特使枢機卿
クリストフ・マドルシュト バス トリエント領主司教枢機卿
カルロ・ボロメーオ バリトン ローマの枢機卿
ロレーヌの枢機卿 バス
アブディーズ テノール アッシリアの総主教
アントン・ブルス・フォン・ミューグリツ バス プラハの大司教
ルーナ伯爵 バリトン スペイン王の特使
ブドーヤの司教 テノール イタリアの司教
イーモラの司教テオフィルス テノール イタリアの司教
カディスの司教アヴォスメディアーノ バス
(バリトン) スペインの司教
イギーノ ソプラノ パレストリーナの息子15歳
シッラ メゾソプラノ パレストリーナの弟子17歳
エルコレ・セルヴェロルス バス
(バリトン) トリエント公会議式部官
マッジョーレ教会礼拝堂歌手(5人) 2テノール
3バリトン
ルクレツィア アルト パレストリーナの妻、幻影
9人の大作曲家たちの幻影 3テノール
3バリトン
3バス
3人の天使の声 ソプラノ
教皇の大使2人 黙役
ライネス 黙役 イエズス会の総長
サルメロン 黙役 イエズス会の総長
マッサレッリ 黙役 テレーゼの司教、公会議書記官
ジュゼッペ 黙役 パレストリーナの老僕
その他:多数の従者、司教及び大司教たち、修道院長たち、修道会の長たち、聖俗諸侯の代理人たち、神学者たち、召使たち、市の護衛兵たち、通行人、天使たち(幻影)、全キリスト教国の学者たち


演奏時間
全幕:約3時間24分(各幕…第1幕:1時間40分、第2幕:74分、第3幕:30分)


あらすじ


時と場所:1563年11月から12月のトリエント公会議(第2幕)、ローマ(第1幕と第3幕)


第1幕と第2幕との間は約8日間が経過し、第2幕と第3幕の間はおよそ2週間が経過している。


第1幕 パレストリーナの家の一室


最初の前奏曲で幕が開く。夕暮れ時、弟子のシッラがヴァイオリンで自作の愛の歌を奏しながら師パレストリーナの古い書法からいずれ離れ、フィレンツェで起こった新たな作風でこれからやっていこうと語っている。そこに悲しげな面持ちで現れた息子のイギーノが、最近作曲意欲のない父の苦悩を語る。一方のパレストリーナは、愛妻のルクレツィアに先立たれ、それまで旺盛だった作曲の意欲を失っていた。


そこに密かに彼の家を訪ねてきた枢機卿ボロメオがやって来る。ボロメオは以前から新しいミサ曲をパレストリーナに頻りに求めていた。それはトレントの宗教会議でミサ曲が審議され、「グレゴリオ聖歌以外の教会音楽をすべて禁止する」といった内容で、これまで台頭していたポリフォニー音楽が今や存廃の矢面に立っていた。これを受けたボロメオは、「法王を感動させるような古い様式による新しいミサ曲を当代の作曲家が書いたものならば、この禁令の発布を阻止できる」という思惑で、傑出したミサ曲を御前で演奏させることを目論んでいた。ボロメオはこのような事情をパレストリーナに説明し、是非作曲を引き受けてもらいたいと(仰々しく)懇願する。しかしパレストリーナは、年齢と昔のような創作意欲が失われた以上、これは適任しないという理由でこれを断る。これに激昂し、憤然と立ち上がったボロメオは非難の言葉を投げつけて、落胆しつつそのまま家を去る。


一人になったパレストリーナは、全ての創作力の根源である愛妻のルクレツィアの肖像画を眺めながら、自身の無力感と喪失感に苛まれ、少しの間黙想をする。すると、ジョスカン・デ・プレなど過去の大作曲家たちの幻影が次第に出現し、パレストリーナをとり囲んでいく。大作曲家たちは様式化された威厳ある音楽で、虚無的な絶望に瀕しているパレストリーナに対して、まだこの世での課題は終わっていないと語り、それは彼の使命であると口々に励まし、彼にミサ曲を書くようすすめる。大作曲家たちの幻影が消えると今度は天使たちの幻影が現れ「キリエ・エレイゾン」と歌う。天使たちの声は口伝していたのである。するとパレストリーナは憑かれたようにペンを取り、霊感の絶頂に至り、妻の幻影を見る。歌い終わると天使たちの幻影が消えていき、遠くからローマの寺院の鐘の音が響く。既に夜明けとなり、彼は深い眠りに落ちていた。しばらくして朝の練習のために部屋に入って来た息子のイギーノと弟子のシッラは、床に散らばっていたミサ曲の楽譜を見て、既に完成されていることを知り、その素晴らしさに驚く。


第2幕 トリエントにあるマドルシュト枢機卿の宮廷の大広間


2つ目の前奏曲で始まる。8日後のトリエント。マドルシュトの宮廷にて公会議の準備が行われ、幹事たちは円滑に運営する手筈を整えている。そして次々に各国の出席者たちが登場する。ボロメオは法王の使節ノヴァジェーリオに向かって、ミサ曲を断られた件について語る。「芸術家など気狂いさ」とあしらわれるが、心の底ではパレストリーナに期待している。やがて各国の代表者らが参集するが、早くもイタリア派とスペイン派との反目で騒然とする。


僧正セヴェロルスの司会で会議が始まる。法王の使節モローネの報告が終えると論議がミサへと移る。ポリフォニー音楽を擁護する皇帝の意見を容れ、試験的なミサ曲が教皇宮廷で試みられることが決議される。しかし次第に論争が激化し、ついには従者たちを巻き込んだ乱闘騒ぎが起こり、マドルシュトは衛兵らに彼らを捉えさせ、発砲を命じると乱闘は止み、マドルシュトは拷問も辞さない態度を示す。そして彼は「これが聖なる会議の意味なのか」と呟く。


第3幕 パレストリーナの家


3つ目の前奏曲で始まる。会議から2週間後のパレストリーナの家。夕暮れ。パレストリーナは放心したように窓際に腰をかけている。一方法王の宮殿前で、歌手たちはミサ曲の結果と歌いに行った仲間たちの身を案じている。すると戸外から突然「パレストリーナ万歳」という声が聞こえ、「パレストリーナ、音楽の救い主!」という歓声が上がる。やがて教皇礼拝堂歌手たち、さらにピウス4世も現れてパレストリーナを祝福する。法王はパレストリーナに対して、「そのミサ曲が絶大な感銘を一同に与えた」と語り、彼をシスティーナ礼拝堂の楽長として直々に求めた。ピウス4世が退場すると、ボロメオが現れ、パレストリーナの足元に泣きながら跪き悔恨の情を示して和解する。


その夜、パレストリーナはオルガンに向かい、主への祈りをしたあと演奏する。オルガンのニ音の和音だけが残り、オペラは静かに閉じられる。



録音
代表作の一つであるが、上演時間が3時間半近くかかり、地味な内容であるため、録音には恵まれていない。1973年にラファエル・クーベリックの指揮による録音が最初である。この他ヨーゼフ・カイルベルトによる録音や、最近ではシモーネ・ヤングによる映像盤(2009年のライヴ)も残されている。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8A_(%E3%82%AA%E3%83%9A%E3%83%A9)

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/835.html

[近代史6] ハンス・エーリヒ・プフィッツナー オペラ 3幕の音楽的伝説《パレストリーナ》WoO 17 中川隆
1. 中川隆[-16087] koaQ7Jey 2021年10月07日 07:45:52 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[11]
スイトナー

Hans Pfitzner "Palestrina" Otmar Suitner - Peter Schreier Full Opera 1986




Palestrina: Peter Schreier
Erster Bischof: Fritz Heidan
Zweiter Bischof: Walter Naveau
Abdisu: Henno Garduhn
Avosmediano: Bernd Zettisch
Bischof von Budoja: Günter Kürth
Bischof von Feltre: Gerd Wolf
Bischof von Fiesole: Horst Gebhardt
Carlo Borromeo: Siegfried Lorenz
Doktor: Elvira Dreßen
Erste Engelstimme: Brigitte Eisenfeld
Zweite Engelstimme: Margot Stejskal
Dritte Engelstimme: Adelheid Vogel
Grossetto: Peter Bindszus
Ighino: Carola Nossek
Erster Kapellsänger: Olaf Bär
Zweiter Kapellsänger: Peter Bindszus
Dritter Kapellsänger: Peter Menzel
Vierter Kapellsänger: Heinz Reeh
Fünfter Kapellsänger: Dario Süß
Kardinal von Lothringen: Reiner Süss
Lukrezia: Uta Priew
Luna: Günter Leib
Madruscht: Fritz Hübner
Erster Meister: Olaf Bär
Zweiter Meister: Henno Garduhn
Dritter Meister: Horst Gebhardt
Vierter Meister: Günter Leib
Fünfter Meister: Hermann Christian Polster
Sechster Meister: Heinz Reeh
Siebter Meister: Andreas Schmidt
Achter Meister: Gerd Wolf
Neunter Meister: Bernd Zettisch
Morone: Hans-Joachim Ketelsen
Müglitz: Heinz Reeh
Novagerio: Peter Jürgen Schmidt
Papst Pius IV.: Hermann Christian Polster
Severolus: Ekkehard Wlaschiha
Silla: Rosemarie Lang
Spanischer Bischof: Roman Trekel
Theophilus: Joachim Arndt

Chor der Deutschen Staatsoper Berlin 1986;
Staatskapelle Berlin,
Dirigent: Otmar Suitner

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/835.html#c1
[近代史6] カール・ニールセン(Carl August Nielsen, 1865 - 1931) 中川隆
1. 中川隆[-16086] koaQ7Jey 2021年10月07日 07:57:44 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[12]
ニールセン:弦楽合奏のための小組曲,○ガラグリ指揮チボリ・コンサートホール管弦楽団(VOX),,古典的な小品で、作品番号1にしては手慣れているが、あまたある弦セレと較べ影響を受けてこそすれ与えるような要素は何もない。ガラグリだからガシガシと堅固なアンサンブルが組み上げられ生命力に満ちているが、アマオケ受けしそうな平易さがあるが、よほど真面目に取り組まないと裏目に出るかも。曲は無印だが○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,

ニールセン:交響曲第2番,ストコフスキ指揮デンマーク国営放送管弦楽団(DA:CD-R他)1967live,,演奏的には無難。最後、拍手は地味だけど徐々に盛り上がり最後は大喝采となるけど・・・お家楽団に対するものとストコのネームに対するものかな。ストコ特有の拡散的な音作りと職人的な無難なさばき、そこにやや力弱さを感じる楽団が、この「ちぐはぐ」な曲に対して、「何とかやりきった感」を与えてしまう。デンマークにとっては国民的作曲家、でもストコにとっては超幅広いレパートリーの一つにすぎない、そういった感じを受けてしまう。○にしてもいい演奏だとは思うけど、録音状態がとても勧められるものではない。,,いちおう循環形式というのかな・・・ニールセンは鬼門なんです。古い人でもあるので仕方ないんですが、初期シベリウス以上にロシア国民楽派色が強い。そこがどうも匂う。当時としては恐らく尖鋭な、擬古典的フレーズや、音色指向のフランクふう和声展開は清新で、しかし基本線はいわば「末期ミャスコフスキー」・・・ミャスコフスキーを知らない人にはよくわかんない比喩か。いや、ようはオーダメイドに近いというか、社会主義レアリズムの国にもうちょっと後に生まれたらきっと、フレンニコフより大物になっていたような作風だ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,

ニールセン:交響曲第2番「4つの気質」,○ガラグリ指揮チボリ・コンサートホール管弦楽団(VOX),,ニールセンは古臭い。ときどき古典からワグナーくらいまでの曲から「まんま」持ってきたりする。そのへんの擬古典的というか、変にしゃっちょこばった書法が苦手なのだ。ブラームスからフランツ・シュミットという流れにシベリウスを取り入れたかのような作風を総括してさらに個性的な清澄さがあるが、シベリウスほどの確信や閃きが感じられない。しかしガラグリは毅然とした態度で耳を切り裂くくらいに厳しく研ぎ澄まされた音でガツガツと押しまくる。情に流れることはなく、構造へ逃げることもなく、ドイツ的な力強さで、自身のルーツでもある北欧情緒を徒に煽らず、純粋に音楽として完成度の高いものを造ろうとしている。激しい楽章でそれが際立つのは道理か。曲の弱さから中間楽章はそれでも耳に残るものはなかったが、そもそもシベリウスでも7番より1、2番に適性を示した指揮者だから余り情緒的フレーズは向かないのだろう。録音優秀なステレオ。○。ニールセンで○はまれ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,

ニールセン:交響曲第5番,ホーレンシュタイン指揮ニュー・フィル(BBC,IMP)1971/2/26LIVE 何か得体の知れぬ予感めいたものを感じさせながら雄大に盛り上がり・・・一気にスカす。そんな印象がこの2楽章編成の曲にはあったのだが、こんかいホーレンシュタイン・ライヴ盤を聴いて、やっぱりそうだった、という感想。ホーレンシュタインがまた質実剛健でぎくしゃくした演奏を行う人なのだが、ここでは一層そのしゃっちょこばった解釈を固持し続けていて、好悪別れるだろう。これはほとんど前衛音楽の世界だ。ニールセンのシンフォニーにおける語法はけっこう古典を意識したところがあり、バロック時代の合奏協奏曲の延長上に、小太鼓に代表される打楽器要素や若干の不協和音(尤もシベリウスより古い感じがするが)を表現主義的な感覚で挿入して出来上がったような感じ。ホーレンシュタインの表現主義的なスタイルは決して曲の性向と異なるものではない。この盤では尖鋭な音が響く場面はひときわコントラストをつけられていて、ときどきびっくりする。1楽章に戻るなら無機的な独特の旋律が執拗に繰り返されるが、そのバックにひろがる静寂と、その中の細かく緻密で秘めやかな蠢きが細部までしっかり表現されている。シベリウスの4番あたりの感覚に近い(あれほど人好きする音楽ではないが)。だからあのあたりの音楽を好む人は、聞いても損はしないと思う。ニールセンは6番「素朴な交響曲」まで6曲という中途半端な数のシンフォニーを書いているが、だいたいどれも同じような素地を持っている。私は好まないが、好きな人は全部好き、そういう作曲家だと思います。ライナーによればホーレンシュタインはこの曲の初演の下振りを作曲家立ち会いのもと行ったそうである(本番はフルト先生だと)。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


ニールセン:交響曲第6番,○ストコフスキ指揮NYP(VIBRATO:CDーR)1965/9/13,,イマイチ掴みがたい作曲家ではあるのだがこのシンプル・シンフォニーとも呼ばれる確かに楽器数を絞った線的な曲ではあるていど同時代の比較的穏健な作曲家と似通った作風がみられそれなりに楽しめる。きほんシベリウスの響きと弦楽合奏書法からの影響からなっているがロマン性は維持されるものの不思議な打楽器アンサンブルや無調的フレーズと擬古典的フレーズの交錯のさま、非構造的な曲構成など、より現代的で新しい感じはする。後期ショスタコを思わせる骨ばった皮肉な音楽だがあれよりは甘さが残る。ストコはオケのせいもあってか勇ましく攻撃的な音楽を作り上げている。さすが新作珍作慣れしている。アメリカ同時代の交響曲に近似した作風ゆえオケも手慣れておりソロだらけなのを逆に強みとして力量を誇示している。完成度高い。拍手なし、放送用録音か。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,

ニールセン:交響曲第6番「シンプル・シンフォニー」,○ラインスドルフ指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)1965/12/14live,,ホワイトノイズが耳につくが音はまあまあ。こういう清澄なわりに入り組んだ曲は音がいいに越したことはない。4楽章制ではあるもののソロやパートを限定した異例な編成の楽章/パセージを織り交ぜ、終楽章はショスタコーヴィチを彷彿とさせる諧謔的な変奏曲となっており、腕のあるオケにとってはとても聴かせ所の多い大曲といっていいだろう。ラインスドルフにとってはうってつけの曲でありボストン響にとっても集中力を途切れさせない歯ごたえある難曲だ。新古典的でかつての作風を思わせる上品なロマンスから、いきなり打撃、暗い陰欝な世界より、ブラスの饗宴がヒンデミットかバルトーク晩年のようにシニカルかつ焦躁的な雰囲気をあおり、骨のような鉄琴の響にいざなわれながら楽想が変わっていき、パーカッションが活躍し、その中で中欧的なワルツが印象的に踊られる、マーラー10番のような印象を与えるが、それはラインスドルフ自身の特質も反映されたものでもあろう。アメリカ的なからっとしたところはあるが、とても中欧的だ。なかなか聞きごたえがあり、曲自体が少し尻切れなところがあるから最後はちょっと不可思議な感じになってしまうが、傾聴に値する演奏。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,

http://ryookabayashi.sakura.ne.jp/2019/naha.html
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/793.html#c1

[近代史6] サミュエル・バーバー(Samuel Barber、1910 - 1981) 中川隆
1. 中川隆[-16085] koaQ7Jey 2021年10月07日 08:06:09 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[13]
バーバー:ヴァイオリン協奏曲,○オリヴェイラ(VN)スラットキン指揮セント・ルイス交響楽団(EMI)1986/4やさしく語り掛けるようなヴァイオリン、時折現代的な厳しい側面をみせながらもあくまで夢のようなロマンスをうたうオケ。期待していなかっただけになかなか感動した。ヴァイオリニストはけっしてヴィルツオーソ系のバリバリ即物タイプではなく、柔らかく馴染み易い音色にときおり痙攣ヴィブラートを加えて親しみ深く表現しているところが共感が持てた。この曲はバーバーの中でもとりわけネオ・ロマンチシズムの傾向が強く、それだけに近年は演奏される機会も増えてきたようだ。コルンゴルドのそれくらいには演奏・録音されている。二楽章の痛切なうたに感涙。三楽章は無窮動的なソロの動きがヴォーン・ウィリアムズのヴァイオリン協奏曲終楽章に似るが、RVW独特の異次元世界とは隔絶しており、不協和な音響の中にもはっきりとしたリリシズムが感じられる。断ち切れるような終わりかたも新古典主義を経験したネオ・ロマンチシズムの作家ならでは。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


バーバー:ヴァイオリン協奏曲,◎カウフマン(Vn)ゲール指揮ルツェルン祝祭管弦楽団(ミュージカル・マスターピース交響楽団)(MUSIC&ARTS/MMS)1951・CD,,だんぜんレコードのほうが音がいい。◎にしたのは改めてLPで聴いてカウフマンの生めかしい音色に聴き惚れたからだ。前の時代の演奏様式(主としてボウイングとヴィブラートと微妙な音程操作、アーティキュレーションの付けかたにあらわれる)というのはロマンティックな曲想を最大限に生かすようにできているのであり、ロマン派回帰をうたったかのようなこの作品においてただ冷徹に音だけを表現するのは曲の価値自体を損ねることになりかねない。きわめて叙情的な旋律と流れよく効率のいい構成によって現代のロマン派協奏曲というものを(いくぶん古風になりすぎるところは新古典派の影響だろうが)表現しきっている。ウォルトンの作品とよく似た響きや構造的な部分があり(更に元ネタとなっているプロコの1番のほうを思い浮かべる向きのほうが多いだろうが)、3楽章などは尊敬していたヴォーン・ウィリアムズの「コンチェルト・アカデミコ」終楽章の世界を換骨奪胎したものとも思える。同時代性というのもあるのだろう。そしてカウフマンもまた「同時代の演奏家」なのである。しかも戦後モノラル期の演奏家というのは前時代の艶と現代の技術の共に兼ね備えた超人的な技巧家が多いわけで、カウフマンはその中でも非常にバランスのとれた技巧家であり、オイストラフの安定感とシゲティの表現性にフランチェスカッティの美音(あれは完全に奏法の勝利であり解釈の勝利ではあるが、音はよく似ている)がのったような演奏を時折していたようで、これはその範疇にある。つまりは、名演。よくわからない曲、という印象はきっと、こういうのめりこむような演奏に出会えていないということだと思います。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バーバー:ヴァイオリン協奏曲,○ゲルレ(Vn)ツェラー指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団(westminster)1963/6・LP,,ゲルレは雑味が多く技術的に不安で、音色的にも特筆すべきところは少ないのだが、のびやかな二楽章の歌いこみは甘く綺麗だ。この演奏で特筆すべきはバックオケで、シンフォニックな拡がりのあるなかなかの表現である。VSOOだからといってウィーン的な音楽ではないしそういう音色が目立つ箇所も少ないが、じゅうぶんに技巧的なメリットを備えたオケであり、録音はやや冴えないが、同曲のヨーロッパ的演奏としては貴重な面があるから聴いて損は無いだろう。ディーリアスとのカップリングというのもめずらしい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バーバー:ヴァイオリン協奏曲,○コーガン(Vn)P.コーガン指揮ウクライナ交響楽団(BRILLIANT)1981/12/15live・CD,,むっちゃ荒いな、ごまかすしというところだがソリストにマイクが近すぎて聞こえなくてもいいものまで聞こえてしまってるのは確か。さらに、開放弦を臆面もなく駆使するさまに、これこそロシアのやり方だった!と感動。適度に深くあまり揺れの無い音色はバーバーにあっている。安定した音のほうが古風な同曲にはあう。オケは素晴らしい。ニュートラルというか、バランスよく技巧的にも力感にも問題なし。弦も木管も美しい。ソリストを食ってる。二楽章中盤になってようやく余裕が出て高音に柔らかないい音が聴けるようになるのは、やはりコーガンといえどもやり慣れない曲では硬くなるということか。しかしバックオケも負けずに頑張るのでこのあたりは全体としてよい。コーガンの左手に不安は依然残るものの、三楽章は頑張るしかないといった所だ。ロシアのバリ弾き奏者特有の荒々しい右手もだんだんとのってきてコーガンらしさが感じられてくる。バーバーの録音としてかなり貴重な様式ではないか。バックオケの毒々しいくらいの色彩感にも圧倒される。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バーバー:ヴァイオリン協奏曲,○スポールディング(Vn)オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(WHRA)1941/2/7live・CD,,残っていたのが奇跡、公開初演の記録になる(世界初演ではない)。つまり原典版であり、全体に長ったらしく別の曲かと思うようなところもあり、また厚ぼったいが、三楽章はほぼ現行版に近い無窮動となっている。音は悪いが名手スポールディングによる名技的表現を楽しむにはギリギリokといったところか(個人的にはスポールディングの圧力のある音は好きではないが。。)。驚嘆の声を伴う拍手は曲に向けてのものというよりソリストに向けてのものかもしれないが、二度聴きたいとは思わないものの、改訂版にはない重厚で壮大な作品世界は、ロマン派好きにはアピールするだろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バーバー:ヴァイオリン協奏曲,○ポッセルト(Vn)クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(PASC/WHRA)1949/1/7改訂版初演live・CD,,pristine配信音源。すさまじいソリストの迫力とそれにひけをとらないオケの集中力に圧倒される。正直後年の同ソリストの録音よりもバックオケのぶん秀でている。とにかくこの曲は新古典で平易だからこそ表情付けがわざとらしくなってしまいがちで難しい。その点まったく心配なし。この時代の流行ともいえる押せ押せわっしょいの演奏様式のうちにありながらも、恐らく改訂版初演という理由もあるとは思うが厳しく緊張感が漲り、クーセヴィツキーって腕よかったんだ、と今さらながら気づかせるオケやピアノの操りぶり、ソリストとがっちり組み合って決して離れない、まさに協奏曲の醍醐味である。録音もよくレストアされている。心底からのブラヴォが飛ぶ、○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バーバー:ヴァイオリン協奏曲,○ポッセルト(Vn)バーギン指揮ボストン交響楽団(WHRA)1962/4/13live・CD,,夫婦共演である。だからといっては何だがわりとオケも前面に出て絡むこの曲では強みに働いていると思う、堅固なアンサンブルである。ちょっとブルッフ1番を思わせるところもある柔らかさとのちのち晦渋な重さを加えていく若き作曲家の志向があいまって、長い難産の甲斐もあり20世紀の名作協奏曲、しかもアメリカ産という特異な作品になったわけだが、初演期には(それほど技巧的な作品でもなく寧ろ簡素で基本に忠実な構成の作品ではあるのだが)技巧的側面がかなりクローズアップされ、非常に速いテンポと強いボウイングで、ロマンチシズムはあくまでビンビンに張った弓の隙間をぬって譜面から立ち上ってくるぶんでいい、みたいな感じのものが多かったようだ。,,"これも荒いソリストでいかにも戦後アメリカで活躍したふうの名技性と、音色で滑らかにロマンチシズムを奏でることとは皆無のある種の新古典性を発揮している。とにかく腕は凄まじく、女流的な細さはあるのだが、どんなに音が荒れようとも力ずくで押さえつけるやり方が随所にみられ、バーバーにあっているのかあってないのか、ちょっとロマンティックすぎる曲、とくに名技的な三楽章には向いているのかもしれない。結構盛大な拍手である。かといって二楽章も悪くは無い、何か「世界的には無名なヴァイオリン科教授の演奏」のようだ。ミュンシュの補完的立場で、またコンマスとしても働いていた指揮者はさすがボストン響を掌握しているというか、強い個性は決して出さず、弦中心のアンサンブルを効率よくまとめあげた。",,ポッセルトは同曲の初演者と記憶しているが異説も聞いた(部分初演がある模様。また現在の無駄の無い版は改訂版でありその初演ライヴはクーセヴィツキーとの共演がCD化している)。少なくとも録音を残したソリストとしては最初であろう。○。,-----,,,,,,,,,


バーバー:ヴァイオリン協奏曲,◎ボベスコ(Vn)ホーレンシュタイン指揮フランス国立放送管弦楽団(MUSIC&ARTS)1952/2/11LIVE平明な1楽章はどうってことないのだが、地味な2楽章が超名演なのである。盛り上がりどころで指揮台を踏み鳴らす音が聞こえるほど熱の入った深刻な感情が重量感をもって印象的に表現されており、ソリストも独特の音色が、この曲をレパートリーとする最近のソリストとは異質の暗く渦巻く情念を感じさせる。こ、こんなに深刻で、こんなに感動的な偉大な楽章だったのか。バーバーというとアダージオのためになんだかヤワで大衆迎合的なわかりやすい作曲家のイメージを持つ人もいるかもしれないが(とくにこの協奏曲においては)、これを聴いてみて欲しい。私は初めてこの曲で感動した。2、3楽章の内容深さに改めてバーバーの悲しみと怒りを感じることができた(この人はもともとそういう人だ)。充実した曲だ、ということをも再認識させてくれる演奏、決してスタンダードとは言わないが、紛れも無い名演である。ソリストの情念に個性、指揮者及びオケの熱情的で重厚な表現がスケールの大きな感動をもたらす。このボックスの白眉のひとつと呼ばせて欲しい。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


バーバー:ヴァイオリン協奏曲,カウフマン(Vn)ゲール指揮ルツェルン祝祭管弦楽団(MUSIC&ARTS)1951・CDバーバーのこの曲はリバイバルしてもう10年以上たつ。現代ヴァイオリニストの間にレパートリーとしてすっかり定着した作品と言っていいだろう。1楽章の親しみやすいメロディと19世紀的なくぐもり・・・たとえばブルッフの作品のような・・・に、ワサビのように効く重厚硬質の不協和音が入り込む感覚は非常に世紀末的である(勿論19世紀末)。現代作品が陥った特殊な超絶技巧の世界を敢えて無視したような、かなりやさしいソロパートはバーバーの反骨精神をもっともよく示したものと言えるかもしれない。バーバーはわかりやすい作曲家に見えるが、シンフォニー1番やカルテットにしても結構晦渋で焦燥感がある。そのイメージはこの協奏曲や歌曲によるところが大きいだろう。あ、もちろんトスカニーニも録音した「弦楽のためのアダージョ」(カルテット中間楽章の改作)もそのイメージを固定化した曲のひとつだ。オーマンディとスポルディングにより41年に初演されている。このCDはあまり録音がよくなく、録音の継ぎ目がかなり露骨に聞こえたり、カウフマンの甘い音色がイマイチはっきり響いてこないと欠点が多い。1楽章などこのヴァイオリニストお得意のロマンティックな音楽なのに、この不明瞭なCDではちょっとぱっとしない。無印としておく。まあ、モノラルだと映えない曲でもあります。ヴォーン・ウィリアムズ(ORIONでLP化した録音)とラーションとのカップリング。おそらくMMSで出ていたレコードと同じ音源と思われる(あちらはミュージカル・マスターピース交響楽団というレーベル名を冠した楽団の演奏ということになっている。指揮者はゲールで同じ)。改訂版と記述。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


バーバー:ヴァイオリン協奏曲,コーガン(Vn)パーヴェル・コーガン指揮ウクライナ交響楽団(ARLECCHINO)1981/5/9・CD作曲家の追悼に録音されたそうである。だがこれはもう固くて乱暴なコーガンの悪い所が出まくった演奏と言わざるをえない。無窮動的な3楽章ではとくに余りの力みぶりに音になってない箇所まである。とにかく力みすぎで雑だ。しっかりしたいい曲なのだが、どちらかといえば陽の気が多い曲なためにそのまんまヴィルツオーソ的に演奏すると正直聞いててついていけないしんどい演奏になる。バーバーは確かに明瞭で構築的な曲を書いたが、だからこそ緩急の緩の部分に柔らかな情感も盛り込んで欲しいものである。起伏があまりにデジタルだ。無印。ハイポジの音程が低く聞こえる場面が目立つのはオケとの音響バランスを考えてのことなのか、それとも単に失敗したのだろうか?,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


バーバー:カプリコーン協奏曲,作曲家指揮コロムビア交響楽団弦楽セクション、ユリウス・ベイカー(fl)ミッチ・ミラー(ob)ハリー・フライシュタット(tp)(SLS)1945/6/20CBS「音楽への招待」放送(スタジオ録音),,極めて悪い音だがレア音源ということで仕方ない。戦争末期の演奏ということもあるのか、楽曲のせいか重苦しくもしくはストラヴィンスキーの新古典主義のリズム音楽の影響を受けたような部分での、ささくれだった表現が目立つ。どことなくぎごちなく、こんなに棒、下手だったっけというような四角四面のところもある。曲的にバーバーらしさというのは緩徐部でのRVW的な美しい響きくらいで、むしろコープランドの人好きしないほうの作風に似る。これはバーバーがリズム感があまりよくなかったということでもあるか。ミッチ・ミラーをはじめソリストの音も楽しみたいところだがノイズがひどくて楽しめない。まあ、曲も私は好きではない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バーバー:キャプリコーン協奏曲,チェリビダッケ指揮ベルリン・フィル(AUDIOPHILE)1950フルート、オーボエ、ペットに弦楽合奏という小編成の曲。キャプリコーンは作曲家の山荘の名前だそうだ。バーバーは至極わかりやすい曲と晦渋な曲の両極端の作風を使い分けていたようだが、この曲はおおまかには晦渋。しかし僅かに夢見るような美しいメロディが織り交ざり、これだからバーバーはやめられない。アタマのいい人の作ったアタマでっかちな曲、と言った感じもしなくはないが、同時代の前衛作曲家に比べればましだろう。この演奏はとてもまとまっていて楽しめる。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


バーバー:キルケゴールの祈り,○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団&セシリア協会合唱団、レオンタイン・プライス(Sp)クラフト(Msp)ミュンロ(T)(WHRA)1954/12/3live・CD,,ミュンシュはバーバーを得意とした指揮者ではないがロマン性を色濃く残したバーバーの分厚い管弦楽を捌くに適した特性を備えていたと思う。この大規模な曲でも合唱団やソリストと一体となり巨大で力強い音楽をつき通し、あっという間に聞き通させる名人芸を見せている。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バーバー:クリスマスに,○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(WHRA)1960/12/23live・CD,,クリスマスへの前奏曲、という説明のとおり、クリスマスにまつわる童謡や賛美歌からの旋律が引用されメドレーのように管弦楽により綴られてゆく。いわば編曲作品だ。バーバーの職人的な仕事はかなりの技巧を要求する一筋縄ではいかないもので、そここそが聞き物である。バーバーはメロディストではあるが、このように聞き知ったメロディを使ったほうがその作曲手腕の見事さが明確になり、魅力的に感じる。ミュンシュは案外曲にあっている。勢いで突き進むだけでも曲になるわかりやすさゆえ、かもしれない。楽団の即物性が余計な色付けをしないのも聴きやすい。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バーバー:コマンド・マーチ,○クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(WHRA)1943/10/30live・CD,,快演・・・といわざるをえまい。戦争絡みの曲、演奏ではあるが、前向きで、歌詞でもついてそうな勇ましさ。クーセヴィツキーがまたよく軽快に響かせる。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バーバー:シェリーからの情景音楽,○ゴルシュマン指揮シンフォニー・オブ・ジ・エア(NBC交響楽団)(VANGUARD),,まさに映画音楽!暗い初期作品だが旋律の魅力と既に確立されたアカデミックな手法の清々しさで聴き通せる。見通しのいい演奏・録音もすばらしい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バーバー:シェリーによる一場面のための音楽,○セル指揮クリーヴランド管弦楽団(TCO)1956/10/25・CD,,セルの近現代はしばしばオケをまとめることに専念し過ぎて人工的でぎくしゃくしたものになることがあるが、この演奏はバーバーの西欧的で前時代的な、しかもいい意味で個性のない聴きやすいものであるがゆえ、成功していると言えるだろう。音場が狭いとはいえ何とステレオでこれまた聴きやすい。暗い音楽を暗いまま演奏してしまっているが、当時のこのオケがアメリカでも西欧的過ぎることで有名な重苦しいスタイルを持っていたこともあるし、また曲的にこれでいいのだろう。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バーバー:スキャンダル学園序曲,◎サバータ指揮ニューヨーク・フィル(NUOVA ERA)1950/3/18liveバーバー21歳の作品。耳馴染みがよく、適度にスペクタルである。管弦楽の充実ぶりにはウォルトンを思わせるところがある。この曲はシェリダンの喜劇のために書かれたものだが無論随所にアメリカ的なわかりやすい旋律や垢抜けた響きがきこえるものの、分厚い音響は西欧的でもあり、バーバーの作風を非常に象徴している。デ・サーバタの水際立った指揮は曲にマッチして、この滅多に演奏・録音されない、しかし魅力的な小品のよさをはっきりと伝える演奏になっている。晦渋なところは少しも無いから、ご興味があればぜひ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


バーバー:スキャンダル学園序曲,○シッパース指揮ニューヨーク・フィル(SONY)1965/1/26情熱的で息の長い旋律、ウォルトンのような華麗なオーケストレーション、いい曲だ。このように良い録音で聞くと、曲構造が透けて見えてわかりやすい。作品番号5、このころのバーバーはとりわけ前時代的でなかなか良い。ニューヨーク・フィルは巧い。さすがだ。いささか唐突な終わりかたはここでも若干違和感を感じる。ところで、私は意地でもこの曲の題名を「スキャンダル学園」としているが、じっさいは「悪口学校」という名で呼ばれるもの。でも、スキャンダル学園のほうが安手のドラマみたいでいいけどなー・・・,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


バーバー:スキャンダル学園序曲,カンテルリ指揮NBC交響楽団(ASdisc)1953/12/20liveデ・サーバタの演奏と比べるといくぶん落ちる。オケの統率力が弱いとまでは言わないけれど、いまひとつノリきれない。やや散漫な曲の弱点もくっきり浮かび上がっている。全体構造の把握がいまいちなのだ。推薦はできない。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


バーバー:ストップウォッチと軍用地図,○ゴルシュマン指揮シンフォニー・オブ・ジ・エア(NBC交響楽団)、ロバート・デコーミア合唱団(VANGUARD),,いかにも第二次大戦の惨状をかんじさせる暗い男声合唱曲で、バス領域の打楽器とブラスしか伴奏がないというのも鬱々とした情景を盛り下げる。元の詩がそうなのだが、比較対象もなく評価不能なので○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バーバー:チェロ・ソナタ,○G.リッチ(Vc)ミットマン(P)(stradivari records)LP,,ビル・エヴァンスやハンコックやらとやる畑違いの人になるとは思えないしっかりした骨太のクラシカルな演奏をする人で、音色が深くていい。ストラディヴァリ・レコーズ四重奏団に参加していたチェリスト(ルジェーロ・リッチと関係あったか?)がカルテットの裏面にいれたもの。ドビュッシーのソナタを彷彿とする枯れ葉のような哀しさをかもす音楽ではあるが、高潔で叙情的な第二主題はまさにバーバーならではの美しいメロディで、この曲、よく聞きこめば余り渋さは無い。響きはもちろん現代のものであるが、ディーリアスのあたりに近いかもしれない(もっと硬質だが)。しっかりした作曲技術に裏づけされた作品である。演奏は手堅さもあるにはあるもののバランスに優れていると言ったほうが適切だろう。技巧をひけらかすより素直に叙情的に弾いていくことに向いたさほど起伏のない作品である。ピアティゴルスキーだったかで聴いたときにはわけがわからない感じもあったのだが、この演奏では非常に理解しやすかった。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バーバー:チェロ・ソナタ,○ピアティゴルスキー(Vc)ベルコヴィッツ(P)(columbia,WHRA)1947/5/29・CD,,CDには初出とあるがLPで出ていたものと同じだろう(例の紫雲を燻らせているジャケだ)。芯のとおった音、ぶ厚い音を雄弁に奏でさせる曲、すなわちRVW的な音響の重さを持つバーバーにピアティゴルスキは向いていて、やはりフルトヴェングラーのピアティなんだと思わせる。ややわかりにくいが恐らく初録音であろう曲で、仕方なかろう。ピアノのソロも目立つがそちらも技巧的には素晴らしく、ソリストに沿って一本の音楽としている。ピアティがまだいけてた時代の技巧を味わえる。色彩的な演奏家ではないから色彩が暗く重いバーバーでは弱点がない。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------


バーバー:チェロ・ソナタ,ピアティゴルスキー(Vc)ベルコヴィッツ(P)(RCA),,渋い曲。作曲家22歳の若書きだが、既に「ドーヴァー・ビーチ」や「スキャンダル学園(悪口学校)序曲」といった代表作を仕上げている。晦渋な曲想の上にふと美しく煌くようなピアノの散発音が降り重なるところなどバーバーらしいロマンチシズムが感じられる。第一楽章の6分くらいのところで出てくる感傷的な旋律は出色。作曲家はこの曲の構想を欧州滞在中に9日間の休暇をとってアルプスを歩いたときに得たという。確かに冷たく澄み切った空気感があり、それまでの作品とはちょっと異質なところがある。ただ、チェロという楽器をあまり巧く使えていないようにも感じられる。技巧的なパッセージで音がよくひびいてこないのだ。ピアティゴルスキーがゴリゴリと気張って演奏してやっと伝わるくらいで、それこそ普通のソリストがやったらマイナー曲のしかもあまりうまくない曲という印象しか残らなかっただろう。まさにピアティゴルスキーの暴力的なテクニックの勝利。でもここに甘い陶酔はない(ピアティゴルスキーはそもそもそういう奏者だが)。無印。,,,M&A等の後継ボックスレーベルWHRAで「未発売録音」として2010年CD化した音源と同じか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,


バーバー:チェロ協奏曲,○ネルソヴァ(Vc)作曲家指揮ロンドン新交響楽団(decca)1950年代・CD,,ソリストは素晴らしい。オケがどうにも甘い。バーバーはこの名義のオケと他にも録音を残しているし、その指揮技術にも定評はあったが、さすがに協奏曲をさばく腕までは磨き上げられなかったか。曲はオネゲルやウォルトンを彷彿とさせるカイジュウさがあるが、技巧的な見せ場が多くバーバーらしい聴き易さもある、それをソリストは鋭敏に感じとってしっかり表現していてよい。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バーバー:チェロ協奏曲,○ベングトソン(Vc)ニコライ・マルコ指揮デンマーク国立放送交響楽団(danacord)1955/11/24live・CD,,オケがイマイチ。ライブだし曲もオケパートを剥き出しにして使うところが目立ち(冒頭の弦の強奏などリズム的に合わせるのが難しいだろうが)、仕方ないところもあるが、それにしても余り深みのない演奏を展開するソリストと重く引きずるようなオケの乖離はやや気になる。曲が悪いのは認める。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バーバー:ドーヴァー・ビーチ,○フィッシャー=ディースカウ(B)ジュリアード弦楽四重奏団(sony)1967/4/8・CD,,バーバーは本質的にロマンティストだ。アメリカ実験主義とは無縁な存在であり、コープランドでさえかれに比べれば前衛的といえる。アイヴズのことは大嫌い(”彼はアマチュア”)だった。古いLPにバーバーのインタビューが載っていたが、かれ自身そのことをかなり意識してロマンティストでいたようである。少なくとも、歌曲においては。(ちなみにその中でバーバーは「わたしはバイセクシュアルである、両刀だ」などとのたまっている。コープランドしかりバーンスタインしかり・・・アメリカって、まったく、もう。・・・いや、じつはこのインタビューには前後があり、バーバーは比喩表現で口にしたにすぎないのですがね。インタビュアーがイギリスの批評家の「バーバーの音楽の”中核”には”人間の声への理解”がある」という言をひいて、あなたは何を書くときもつねに人間の声を思い描いて書いていますか、ときいたところ、バーバーはそんなことはまったくない、どんな旋律も頭から直接出てくるし、声によって曲を書くことなど全くない。つねにそれぞれの曲の編成を思い描いて書く。管弦楽を書くときに人間の声を想定して書く必要があるなどと考えていたならば、作曲家としてかなり窮屈な感じを受けざるをえない、と言う。そこでインタビュアーが、アメリカには声楽を意識的に避けている作曲家もいます、というと、彼らはおそらくそうするのがまったく正しい。たとえばウォルター・ピストンのような作曲家はまったくぜんぜん叙情的ではない。ピストン、セッションズ、コープランドは、まあ後者ふたりは声楽やオペラも手がけてはいるが、本質的にインスツルメンタルの作曲家なのだ。「その意味では、わたしはバイセクシュアルである、両刀だ」・・・というわけでした。でも、そんなところに本心が露呈することって、あるような)ドーヴァー・ビーチは比較的若書きの作品だが、弦楽四重奏に独唱といういくぶん渋い色彩によってえがかれた一幅の絵画である。バーバーの歌曲にはいろいろな過去の作曲家の曲を想起するところがある。サティの「ソクラート」、ヴォーン・ウィリアムズの「ウェンロックの断崖にて」などなど(と書いておきがてら前記のインタビューを読んでいると、インタビュアーが「あなたはドーヴァー・ビーチを確実にRVWに見せたでしょう」、バーバー「もちろん」。RVWがレクチャーしているところに押し掛けていって、歌いながら聞かせたとのこと。RVWはとても喜んで祝福してくれ、「ワシも何度もこの詩集にはトライしたんじゃが、きみがそれをなしとげてくれた!」と言ったとのこと)。つねにリリカルであり、またときにはニヒリスティックであったり、ノスタルジックであったり。人間の素直な感情を表しており、ゲンダイオンガクが人間のオクソコにネムるフクザツなケイショウをドウサツして奇妙奇天烈な音のカタマリを産み出していた状況とはおよそ遠く離れたところにいる。かといって俗謡作家ではけっしてない。マシュー・アーノルドの、海の形象によせて無情をうたう詩につけた「ドーヴァー・ビーチ」、これを少しでも耳にしたならば、そのそこはかとなく哀しい歌に、俗謡からは与えられるべくもない深い心象をあたえられるだろう。ディースカウはかなり雄弁だが、ジュリアードの美しくも暗い色調にのって8分20秒を歌いきっている。さすが、表現に瑕疵はなく、しいていえばそのそつのないところが弱みなのかもしれない。繊細な味わいをもつ曲に、雄弁さは少し鼻に付くかも。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------


バーバー:ドーヴァー・ビーチ,○作曲家(B)カーティス弦楽四重奏団(原盤RCA/PEARL)1935/5/13古い録音だが渋い編成ゆえ余り音の古さが気にならない。最初この盤を見たときは目を疑ったが、どうやら若きゴホンニンが歌っているのに間違いないようである。たとえばディースカウのような深みはなく、25歳の若き作曲家は若き情感を痙攣的なヴィブラートにこめて、これまた古き良き味をもつカーティス四重奏団とのセッションをやりとげている。本人はセッション当時の自分の声について、あのころはプリティ・グッド・ヴォイスだったからね、と語っている。そうとうリハをやったようだがこのレコーディングの話しが来る前から私的にもずいぶん演奏していたらしい。くすんだ半音階的な伴奏はいくぶん無調的な晦渋も含んでいるが、カーティス団のポルタメントをきかせた艶めいた音がずいぶんとロマンティックな方向に曲を持っていっている。後半になると少し古典ふうの曲想もあらわれてくるが、他の楽想と有機的に繋がっていてそれと意識しなくても楽しめる。薄暗い天候で暗い気分のときには、この曲を持って海へ行こう。遠く乱舞する鴎を見ながら、灰色の海をみつめて。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


バーバー:ピアノ・ソナタ,ホロヴィッツ(P)(RCA)1950/5/15晦渋な曲である。聞き込めばいろいろと聞こえてきそうだが、ホロヴィッツも無機質と思えるくらいそつなく弾いており、どこが盛り上がりどころでどこが聴きどころなのか、いまいちはっきり聞こえてこない。旋律が浮き立たないのだ。アレグロ・ヴィバーチェはそれでも例外的に楽しめる面白い音楽だったけれども、それ以外は・・・うーん、私はまだまだ修行が足りない。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


バーバー:ピアノ協奏曲,○ブラウニング(P)セル指揮クリーヴランド管弦楽団(DA:CD-R)1965/6/24live,,中間楽章はラヴェルの両手やプロコフィエフを、両端楽章はジョリヴェを彷彿とさせるモダンな作品だが、緻密な書法とソリストに要求されるテクニックの高度さにかんしてはそれらを凌駕する部分がある。大して叙情的でもない中間楽章よりも、いきなりのソロからぐわんぐわんと拡がる一楽章、さまざまな楽想を取り込みながらけたたましく突っ走る三楽章に魅力がある(三楽章にはバーバーの好んだRVWの、ピーコンに類似した主題もある)。いずれテクニックがないと無理だ。初演者によるこの演奏は正規録音もある組み合わせだが、さすがのそつのなさで聞かせる。湿り気のなさが気にはなるがこの曲はそれでいいのかもしれない。オケはバックにてっしている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バーバー:ピアノ協奏曲,ジョン・ブラウニング(P)セル指揮クリーヴランド管弦楽団(SONY)1964/1一楽章、いきなり晦渋なピアノ・ソロから始まるが、オケが入ってくると若干ロマンティックな趣が加わる。バーバー独特の語法はわかりやすさと晦渋さの掛け離れたバランスをうまく保っているが、オケとソロのからみがそもそも少ないせいでもあろう。また全般やや冗長か。ちょっとウォルトンのチェロ・コンの雰囲気を思い出した。ピアノ・ソロはプロコフィエフのピーコンの打楽器的用法を彷彿とするところもある。セルはソリストを圧倒するほどうまくやっているが、初演者ブラウニングの汗の飛び散るような強靭なピアニズムもめげずにがんばっている。セル・・・ちとうるさいか。二楽章、一転して穏やかなアメリカの夜。一楽章もそうだったが、現代の映画/ドラマ音楽を思わせる雰囲気でもある。第一主題(?)はノスタルジックで美しい。いくぶん官能的でもある(弦の入る所)。現代フランスものっぽい繊細な不協和音の導入も曲の雰囲気を芸術的に高めている。三楽章、不協和音なバーバー全開!やや無調的な旋律やピアニズムは雰囲気的にはシマノフスキの中期(もしくはスクリアビンの後期)に近い。しっかし終始せわしない動きをするピアノ。疲れそう・・・,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


バーバー:メデアの瞑想と復讐の踊り,○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(ALTUS)1960/5/29live・CD,,来日公演の演目だが珍しかったろう。当時のこの組み合わせのレパートリーであった。その全記録中ではこれは録音がクリアで抜けがいいから聴く価値はある。バーバーというと重い響きだがここでは必要な音しか重ねず旋律的にもヨーロッパ的な古臭さは無い。演奏は達者だ。聞き応えあり。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バーバー:メデアの瞑想と復讐の踊り,○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(RCA/BMG)1957/4/10・CD,,なんだかんだいってアメリカ・アカデミズム一の才者であり、最も成功したネオロマンティストである。この鮮やかな手腕には無駄も隙もない。個性もないと言ったら語弊があるがクセのあるロマンティストなんてちょっとハンパなわけで、クセはないほうがいいのである。素晴らしいオーケストレイションの腕、音楽は踊る。あきらかにストラヴィンスキーを意識しているがRVWのように決して踏み外すことはなく、職人性という意味ではオネゲルを彷彿とさせる。ミュンシュもフランス的な一種耳馴染みよさを持った曲にはうってつけの指揮者だろう。○。,-----,,,,,,,,,,,,,


バーバー:悪口学校序曲,○ヤンッセン指揮ヤンッセン交響楽団(WHRA/victor)1942/3/11・CD,,明るく楽しげな様子で縦というかアタックは甘めだが達者な演奏だと思う。ヴァイオリンのポルタメントがなつかしい。バーバーは弦楽器が分厚くないと魅力が出ないが、SP音源にしては、音は割れるが、聴けるものとなっている。ヤンッセンはこの時代の音盤ではよく聞く名前。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バーバー:遠足〜1、2、4番,○ホロヴィッツ(P)(HALL OF FAME)1945LIVE煌くような音の魔力。他の演奏家のものとは比べ物にならない本質を突いた(からこそ楽しい)演奏だ。バーバーはときに晦渋だが、ホロヴィッツの手にかかるとすっきりとわかりやすい小品に仕立てられる。ダイナミクスの変化が俊敏な感覚によって激しくつけられ、しかしそれほどの外面的の変化にもかかわらずホロヴィッツの両手にはいささかの危なげな所も無く、これはソリストの物すごいテクによるものであることは明白、さすがホロヴィッツといえよう。初演かもしくはその直後の演奏と思われる。この盤、古い録音だらけだが今まで見なかったものも含む5枚組、それで2000円台だから超お買い得だ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


バーバー:過ぎゆきしものの歌,○ベルナック(B)プーランク(P)(原盤CBS)1952/2/15NYこれもびっくりした盤だけれども、リルケに材をとったフランス語のうた、全曲初演はこの組み合わせでダンバートン・オークスで行われたということで、不思議はないわけで。アメリカの作曲家がフランス語のうたをつくるのは不思議だが、プーランクの非常にセンスにあふれる洒落た伴奏できくと、まるでフランスやイギリスの近代抒情歌曲をきくようで、不協和音すら美しく儚く(いや、儚いがゆえに美しい)こころに響く。作曲家はリルケの詩をフランス語で歌うのは当然としている。プーランクのレコーディングについてバーバーは好意的に語っており、プーランクは「ダーリン・マン」だと言っている(ベルナックとプーランクとバーバーって三角関係?冗談)。彼が夢中になるのは彼の曲に対してだけで、自分の曲に夢中になったとは思えないが、と前置きしておいて、この曲を弾いて聞かせたところ、とても気には入ってくれた、とかたっている。伊達男プーランクについてもちょっぴり語っているが、かなり仲はよかったようだ。この曲はプーランクに献呈されている。短い曲だしベルナックは多少癖があるが、楽しめると思う。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


バーバー:管弦楽のためのエッセイ第1番,○オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(BIDDULPH/VICTOR)1940/8/20さすがアメリカの曲だけあってオケも指揮もノっている。フィラ管の分厚い音が重厚な作品の雰囲気を盛り上げている。バーバーらしい暗い曲だが、華やかな管弦楽のおりなす綾が美しい。ブラス陣の充実は言うに及ばず、速いパッセージではフィラ管の木管・弦楽器の鋭いアンサンブルが楽しめる。素晴らしく颯爽とした演奏だ。セルの演奏ではピンとこなかった私でも、これは面白いと思った。オーマンディの性向と曲の性向が一致したということなのだろう。ブリテンの管弦楽曲を彷彿とする佳作。録音は戦前のものとしてはいい方。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


バーバー:管弦楽のためのエッセイ第1番,○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(DA:CD-R)1939(38?)/11/5放送live,,放送エアチェックで恐らく38年の放送初演時のものだと思う(ラジオアナウンサーは38年11月5日と言っている、但しいっしょにアナウンスされた「弦楽のためのアダージオ」は収録されておらず、拍手の入り方からしてもアダージオ(記録上は同じ11月5日の放送で編曲版初演されたことになっている)が放送上カットされている可能性が高く、39年に再編集放送でもされた記録なのかもしれない)。トスカニーニはアメリカにわたった指揮者が半ば使命であるかのように新作初演を旺盛に行った渦中で、同じようにこういった新作の初演をほとんどヤケのように乱発していた時期があり、解釈的には引きしまったいつものトスカニーニ流儀で通しているのだがオケはかなりきつい演奏をしている場合もある。この異常に速い演奏にしてもさすがに少しバラケが混ざったり、余りに即物的な解釈のせいか余韻のない終わり方でばらけた拍手を呼んでしまったりする。もっとも曲自体が情に溺れすぎない男らしい抒情をかもす、新ロマン主義でもヨーロッパ指向の強いしっかりした作品であるため少しくらいのブレや解釈の素っ気無さ(いい言い方をすればスポーティ)によって揺らぐたぐいのものではなく、30年代昭和初期の時代においてこんなにモダンなアンサンブルがギチギチと生でこうじられていたことにちょっと驚かされる。ピアノの響きがかっこいい。○。メインプロは新世界だったようだ。別項に書く。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バーバー:管弦楽のためのエッセイ第1番,◎トスカニーニ指揮NBC交響楽団(DA:CD-R)1942/1/24放送用スタジオ録音,,正規でも出ていそうな音源。トスカニーニの中では素晴らしく録音がよく、演奏精度も極めて高い。わりと細かい動きでばらけるNBCオケの弦楽器が細部までぴっちり揃って圧倒的な技術を見せ付ける。ここまできちっと出来ていると逆に、楽曲の何も言わないうちに終わってしまうような、あっさりしすぎた感じ、きつく言えば底浅さに気づかされる思いだ。ブリテンのシンフォニア・ダ・レクイエムに似た曲ではあるが前提となる深慮も構成にも創意はあまり感じられず、技術的才能だけで作った感じが否めない。前半の重厚でロマンティックなメロディと後半のちょこまかした細かい動きのパセージがただくっついている、それが余りにあからさまにわかってしまう。演奏精度が高すぎると、曲が剥き出しになってぼろが出る見本のようなものだ。ただ、演奏者と録音に敬意を表して◎。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",-----,,,,,,,,,


バーバー:管弦楽のためのエッセイ第1番,○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(DA:CD-R)1942/1/24放送録音,,ライヴではないため演奏精度は非常に高い。プロコフィエフ張りのヴァイオリンの走句もブレなく揃い丁々発止のアンサンブルが繰り広げられる。ほとんど判で押したような演奏ぶりで他録と代わり映えのしないものではあるが(当時の演奏会やラジオ放送でのクラシック音楽の視聴状況を考えると、時代の特徴として生演奏であっても「素晴らしかった録音」と同じ演奏がむしろ求められることもあったわけで、社会的状況次第で責められないところもあるのだが、アメリカでは)、42年という時期を考えると録音もよく、細部まで引き締まった「まだまだ元気なトスカニーニ」が聴ける面で価値はあろう。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バーバー:管弦楽のためのエッセイ第1番,○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(WHRA)1938/11/5live・CD,,きびきびした動きがはっきりとらえられ、アダージョと同時録音とは思えない。これは食い気味で拍手入るわな、というみずみずしいアンサンブル、鍛え上げられた楽団の性能が発揮されている。曲もバーバーの代表作のひとつ、おすすめ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バーバー:管弦楽のためのエッセイ第1番,セル指揮ニューヨーク・フィル(NYP)1950/12/10放送LIVEセルはよくバーバーを取り上げたようだが、この曲ははっきり言って手堅い凡作といったところ。シェフとしてセルは最大限の努力をしているようだけれども、録音の悪さも災いして、記憶に残らない演奏になってしまっている。7分ジャスト。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


バーバー:管弦楽のためのエッセイ第2番,○ゴルシュマン指揮シンフォニー・オブ・ジ・エア(NBC交響楽団)(VANGUARD),,90年代のハリウッドの映画音楽といったらこういう曲を思い浮べる人が多いであろう、といういわばブーランジェ的アメリカ音楽を中欧指向の重厚確固たる構造の上に組み込んだ折衷的音楽のなかに、ドラマチックなロマンチシズムを展開させていったバーバーの「表の面」が巧みに発揮された起伏の激しい一曲で、ゴルシュマンもすっかりアメリカニズムを体言すべくこの上ないオケ相手に完璧にこの曲の理想的な姿を演じきっている。細部まで隙なく造りこまれた造形の見事さを明瞭なステレオで重すぎず暗すぎず聴きとおすことができる。詩的な側面が技巧的先鋭性、とくにベルクなどを目したような理知的な語法に反映させられ、編成の小さい曲だと露骨に現代性があらわれて非常にわかりにくくなることもあるが、よく整理され綺麗にまとめられた演奏、フランスでもゴリゴリのアメリカ・アカデミズムでもないバーバーの特異性と、異国人にとっての聴き易さを引き出した名演。ゴルシュマンてこんな人だったっけ?つか、このオケ凄いね。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バーバー:管弦楽のためのエッセイ第2番,○モートン・グールド指揮デトロイト交響楽団(DA:CD-R)1978live,,旋律らしい長さを持った旋律を使用していないにもかかわらずロマンティックな流れが終始保たれるネオ・ロマンチシズム。ワルターが好きそうな曲だ。コケオドシ的ともとれる映画音楽的表現によって聴かせ通すバーバー力づくの技が聴ける佳曲。正直いろんな作曲家のハイライトの寄せ集め感もあり、あれ低弦のピチカートに低音ブラスを重ねる印象的な方法はRVWだとか、弦とブラスを対位的に絡ませ派手にかます方法はヒンデミットだとか、この分散和音的フレーズはウォルトンがよく使う、とか、でも、そういう音楽が好きな向きにはたまらないんですよね。グールドは作曲家としても通俗小品の指揮者としても知られ長生したが、こういう曲ではさすが。オケが力ある明るいオケなだけにバーバーの暗さが陰鬱に落ちず直線的に聴けるのはうれしい。優秀ステレオ録音で環境雑音まで極めて明瞭。,,(参考)バーバーといえば「弦楽のためのアダージオ」ですが、編曲作品の多いバーバーにしてもあれは原曲編曲共にかなり簡素で、管弦楽を派手に鳴らす作曲家としてはもっと大規模作品のほうがわかりやすいし、室内楽以下もしくは歌曲ならちょっとブリテンを思わせる諦観を漂わせた抒情を持った曲が親しみ易い。ヴォーン・ウィリアムズに共感していたというとおり、その音楽には中欧的な重さが目立ちながらも常に透明感が維持されている。これは気鋭オールソップの指揮でエッセイ2曲に「ノックスヴィル〜1915年の夏」という連作歌曲の名作が聴けます。,"

バーバー:ノックスヴィル「1915年の夏」/オーケストラのためのエッセイ第2番"," 第3番 /他
オールソップ
Naxos

このアイテムの詳細を見る
それでも弦楽のためのアダージオが聴きたいならこれを聴いてしまえ。アメリでも観てなさい。
ベスト・シーン-クラシック・ミュージック・イン・シネマ-
オムニバス(クラシック)",中丸三千繪,ヘンドリックス(バーバラ),"ウィーン少年合唱団
EMIミュージック・ジャパン

",-----,,,-----,,,-----


バーバー:管弦楽のためのエッセイ第2番,○ワルター指揮NYP(WHRA)1942/4/16カーネギーホールlive・CD,,どうも弦楽器のキレが悪いのだが珍しい曲を少しマーラーチックに深みを持たせてロマンティックに流れさせていくさまはまあまあ面白い。トスカニーニがやっていれば、と思わずにおれないが。。楽団特有の鈍重さがバーバーの響きにはあっているかもしれない。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バーバー:弦楽のためのアダージォ,○オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(SCORA,ARTE)1958/5/30ロシアLIVEフィラ菅の弦の圧倒的な馬力が感じられる演奏。モノラルだがレンジ幅が比較的広いので、クライマックスの畳みかけるような表現と異様な音量、その頂点は凄絶でイヤがオウでも感動を呼びさます。ライヴならではの迫真性が感じられる録音。逆にライヴならではの綻びは皆無。凄すぎる。ブラボー飛びまくり。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バーバー:弦楽のためのアダージォ,○カンテルリ指揮NYP(ASdisc)1955/3/27LIVE・CDこれは印象的。カンテルリは重厚に演奏しており、表層だけをなぞったお涙頂戴演奏になることを避けている。純粋に音楽の力だけで感動できる演奏だ。バーバーの作品にしてはダントツでわかりやすいと同時にメタクラシック的になりやすい曲ではあるが、カンテルリの品位ある音楽作りは純度の高いクラシック音楽であることを宣言しているかのようだ。○。この盤では一番よかった。。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


バーバー:弦楽のためのアダージォ,◎クレツキ指揮フランス国立放送管弦楽団(KARNA:CD-R他)1952(1952/10/13live?1952/3?),,Amazonデジタルないしina配信から販売されている悲愴との組み合わせライヴ録音と同じと思われる(10/13表記)。forgotten recordsから出ている3月表記のものも同じではないか?何か尋常じゃない思い入れを力と祈りのかぎり音にして歌い尽くしたような、何とも言えない演奏。力強く分厚いオケはクレツキの精緻な操作によってその感情を説得力溢れる大きなうねりに変え、これは先の大戦を経験した者だけが持ちうる感情なのだろうか、何も言わせず、ただひたすら灰色の地の上より、届かぬ雲間の一条の光に向け腕を突き伸ばす。何も、それ以上も以下もなく、ここにはただ慟哭だけがある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バーバー:弦楽のためのアダージォ,○ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(DA/rare moth:CD-R)1969/10/6live,,これはちょっと緩やかさが無いハッキリした起伏のついた演奏になってしまっており、感情的でも客観的でもなく、ただヘンないわゆるストコフスキの悪い癖が出てしまった演奏に聴こえてしまった。特別な日の特別な曲だから演奏が悪くなるわけは決してないのだが、ちょっと違和感。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バーバー:弦楽のためのアダージォ,○チェリビダッケ指揮ミュンヒェン・フィル(EMI)1992/1/19、20LIVE・CDゆっくり荘重と思いきや、すっきり明るい演奏になっていて意外。かなり美しいが同曲の感傷性が抑えられ純音楽的に聞かせるものとなっている。かといって根底に流れる宗教性も余り引き出されていない。教会音楽的な響きの厚さも余り感じられないのだ。チェリにしては不思議というか意外でもある。それにしてもこの短い曲を切り貼りする必要はあったのかなあ・・・EMIのチェリ・エディションは切り貼りや補正が多すぎてライヴらしい一貫性が無いと感じさせるものもままあるが、これも正直その類のようにも思えた。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


バーバー:弦楽のためのアダージォ,○テンシュテット指揮フィラデルフィア管弦楽団(POA)1985/11/21放送LIVE感情的な演奏である。録音が若いためちょっとゴージャスな感じがしなくはないが(この曲にゴージャスは似つかわしくない)、フィラデルフィアの弦楽合奏の噎せ返るような音色と威力は印象的ではある。もっと深い思索が欲しい向きもあるかもしれないが、こういう演奏もアリだと思う。○ひとつ。終演後のブラヴォー拍手は盛大。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


バーバー:弦楽のためのアダージォ,○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(RCA,BMG)1942/3/19カーネギーホール・CD,,震える音色、ポルタメント、透明というより重厚な太い感情のうねり。曲を完全に自家薬籠中にしたトスカニーニのひたすらの「歌」。テンポ的には速く淀みないインテンポだけれども音量やデュナーミクや奏法にはかなり大きな変化がつけられており、歌い廻し的な起伏がダイナミックに付けられている一方、静かな場面では録音のせいか弦楽器の音ではなく最早人間の声、歌そのもののような響きがしていて心を揺さ振る。最後のまるでマーラー9番終楽章の末尾のような途切れ途切れの呟きは余りに切ない。トスカニーニの心底からの共感が伺えるし、新即物主義の権化としてのイメージから大きく外れた、ロマンティックな、しかし峻厳な演奏である。トスカニーニの提案により弦楽四重奏曲二楽章より改変された弦楽合奏曲である。早熟の天才バーバー若き頃の傑作擬古典的瞑想曲。 ,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------


バーバー:弦楽のためのアダージオ,○カンテルリ指揮NYPの弦楽セクション(DA:CD-R)1955/3/27live,,ややテンポが速すぎるが、求心力とブレのない直線的なテンポ、バランスの整えられた響きが見通しよく聞きやすい。パレーを思わせるところもある。ただ、録音は悪い。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バーバー:弦楽のためのアダージオ,○ストコフスキ指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(M&A)1958/5もしくは6live・CD,,弦楽合奏には定評あるストコのソビエト公演。最初のワンフレーズで既にテンポルバートしているのが違和感。音も生生しすぎてやや野暮だがオケがこれだから録音ではなく元々か。以後も物凄いルバートのかけかた、アーティキュレーションの豪快な付け方で殆どソリストの演奏のようだが、合奏は一糸とて乱れない。やや雑音が入るのはロシア録音のつねだから仕方ないだろう。非常に力強く、旋律のロマンティックな面を強く押し出した演奏振りは、ここまでくると感動を催さざるをえない。高音重視の音響バランスはクライマックスの絶唱に素晴らしく生きている。最後になって低弦が強く個性を主張して終わる。違和感しきりだが不思議な感銘を受ける演奏。モノラル。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バーバー:弦楽のためのアダージオ,◎トスカニーニ指揮NBC交響楽団(DA:CD-R)1938/11/5初演live,,日々湯水のように音楽を浴びる私でも心底感銘を受ける演奏に出会うのは半年に一度あればいいほうである。これは以前紹介した同じDAのライヴ音盤ではカットされていた曲目で、一緒に演奏されたエッセイ第1番のほうは既に書いた。だが、これが素晴らしい。初演というのは後世の演奏スタイルとの違和感を感じさせることが多くある。これも味付けが濃く分厚い音響に貫かれ、透明感の重視される後世の演奏とは違った、かなり「強い」調子の演奏ではあるのだが、トスカニーニの作り出す強靭な流れ、という他に特徴的な「ドライさ」が感じられない。まだせっかちな老年スタイルに至っていないせいもあるのかもしれないが(時期的には完全に即物スタイルだが)オケがひょっとすると「トスカニーニのカンタービレ」という枠を超えて、自国のこの上も無くロマンティックで悲痛な曲に対し濃厚なスタイルを指向した結果生まれた表現なのかもしれない。,,クライマックスの叫びはこの曲本来の(原曲の)「祈り」、という生易しい形式を越えて訴えかける人間の苦しみ悶え、だがそこから這い上がろうとする強い意思への共感に満ちている。実にアメリカ的だ。時代的にも実に示唆的。余りの素晴らしさにあっという間に聴き終わるが、一つ残念なのは2曲目が間髪入れず演奏され拍手も入れないところ。余韻に浸る隙がない(構成的にもクライマックス構築後は余韻を持たせずきっちり打ち切る)。最終音と次のエッセイ1番冒頭の共通した雰囲気からの意図だろうが、聴衆は2曲の差がわからないために静かなのか。現行版とやや違う気もするが元が編曲作品なので詮索は意味無いか。◎にします。トスカニーニ最良の演奏記録の一つだと思う。,,<同日の他曲目>,,前プロ・・・まだ書いてないだけ、マイナー曲,"中プロ・・・バーバー新作2曲;後半が管弦楽のためのエッセイ第1番","メインプログラム・・・新世界","アンコール・・・イベリア",,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",


バーバー:弦楽のためのアダージオ,○バーンスタイン指揮ロス・フィル(DG)1982/7・CD,,ねちっこくはなく、静謐で素直な演奏。クライマックスこそ粘るような表現はみられるものの、それ以外ではむしろ弱音過ぎるくらいの弱音で静かな重奏を聞かせている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バーバー:弦楽のためのアダージオ,○パレー指揮デトロイト交響楽団(DA:CD-R)1961/12/28live,,こんな歌謡的なアダージオは初めて聴いた。高音域中心で流麗に歌われる哀歌。響きも輝かしく美しいが、祈りの雰囲気はまったくなく、ただ悲劇の追憶にまなざしを遠くする。録音は余りよくないし、パレーはこの曲をほとんどやっていないが、個人的にはトスカニーニとは別種の感銘を受けた。ちっとも祈ってなんかいない、でも名演には違いない。いつもどおりあっさりと速いながらも、歌の流れに従い自由に細かい起伏がつけられそこはかとなく哀しい雰囲気を盛り立てる、これこそパレー節なのだと理解させられる。◎にしたいが正統ではなかろう、○にしておく。,,この演奏が非常にわかりやすいために気づいたようなものだが、クライマックスやその周辺のコード進行でふと、アイヴズの調性音楽を思い出した。これはわかりやすいところで言えば交響曲第4番の3楽章、それに第3番に似ている。アイヴズは宗教的作曲家であったが、バーバーもまたそういう地盤の上にいた。音楽的には対極でいながら同じ方向を向いている。クラシック音楽におけるアメリカニズムというものがしっかりこの時代に共通地盤として存在していた、ふと感慨深く思った。,,"↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ",,"TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング",,"(参考)この盤はアイヴズの弦楽四重奏曲も収録しており、その1番の緩徐楽章とバーバーの中間楽章(アダージョの原曲)を比較して聴いたりしてもいいかも。アイヴズの室内楽曲の多くは幼時の宗教的経験を背景にしている。
American Originals

Deutsche Grammophon

このアイテムの詳細を見る
ちなみにアイヴズについてwikiがやたら詳述化されているが時系列的に疑問なところや混乱もみられ(私的演奏会での交流が推測されるシェーンベルクによる評価は「時は流れ、称賛された」などというものではなく死後発覚したものにすぎない、カーターによる芸術上の父親殺し云々の記述も、引用と思われるが正面から言葉どおり捉えるには疑問がある、アイヴズは30年代に既に出版歌曲が評価され演奏機会を増やしており40年代からというのは適切ではないなどなど)、関連資料の継ぎ接ぎと思われる部分は原典を明示すべきだろう。あ、ここバーバーの項か。",-----,,,-----,,


バーバー:弦楽のためのアダージオ,○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(RCA/BMG)1957/4/3・CD,,もう濃厚なアダージオである。うねりまくるアダージオである。肉汁の垂れるようなアダージオである。独特だ。クセになるか、嫌になるかどっちかであろう。でも多分、ほんとうのアダージオはこんなじゃない。独特さを買って○。,-----,,,,,,,,,,,,,


バーバー:弦楽のためのアダージオ,○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団?(DA:CD-R)1958/12/26live,,感情的なうねりが激しくクライマックスでどんどんテンポが前に流れていってしまうのは気になる。だがミュンシュらしいと言えばミュンシュらしい。かなり速い演奏だが50年代まではこのくらいのテンポが普通だったのかもしれない。ミュンシュは正規でもライヴ含め二種ほどあったかと思う。お勧めはしないが○にするに不足は無い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バーバー:弦楽のためのアダージオ,○リットン指揮ロイヤル・フィル(放送)2011/8/16プロムスlive,,バックスの大曲あとチェロのソリストによるアンコールならびに休憩明けでしめやかに始まる。これまたアクがなく聴きやすい。過度の感情も冷たい純音楽志向もなく、何かしらの素直な祈りを感じさせる。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バーバー:弦楽のためのアダージオ,テンシュテット指揮フィラデルフィア管弦楽団(PO)1985/11/21放送live・CD,,弦楽のためのアダージョは戦争とは切り離せない。トスカニーニの依頼で編じられた(原型は弦楽四重奏曲第二楽章として聴ける)あと、第二次世界大戦中以降アメリカのかかわる戦争においては必ずと言っていいほど、演奏されてきた事実上のレクイエムである。敗戦後の日本で占領軍により最初に流されたラジオ放送は同曲だったと言われている。名旋律の常として歌詞を付けられてうたわれることも多く、本人が歌曲に編曲したものはケネディ暗殺後にも演奏されている。ベトナム戦争の惨果との関連性も「プラトーン」に象徴されるとおり深い(作曲家は近年まで存命であった)。テンシュテットは分厚いオケを相手に、丁寧な音楽つくりを行っている。これを激情に駆られてやるならばフィラデルフィアoの明るく圧倒的な表出力により陳腐な音楽に成り下がっていたであろう、響きに非常に配慮し、重層的構造を注意深く再現するさまはテンシュテットらしい。特徴の強い演奏ではないし心を強く揺さぶられるようなところもないが、その真摯さにはブラヴォも少し飛ぶ。放送収録であり新しい演奏にもかかわらず環境雑音がとても気になる。惜しい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バーバー:弦楽のためのアダージョ,◯テンシュテット指揮フィラデルフィア管弦楽団(don industriale:CD-R)1985/11live,,情に流されず荘重に過ぎず、注意深く、深淵を覗くような響きも交えてこの曲のもつレクイエム的側面を大人のさばき方で取り示している。印象につよく残る解釈ではないがブラヴォが飛んだ。そういう演奏。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バーバー:弦楽のためのアダージョ,○ゴルシュマン指揮コンサート・アーツ管弦楽団(Capitol)LP,,モノラルの「アメリカ現代音楽集」から。曇っているぶん充実した響きの「アダージォ」を聴くことができる。比較的中欧風の重心の低い音のするオケだが、締まった表現で自然に曲の起伏に従い盛り上がりを作っていく。トスカニーニ風の即物的な個性は無く、無駄な思い入れのようなものもなく、しかし曲自体の暗く重いロマンティシズムを程よく引き出しており、聴きやすい。透明感のようなものはなく祈りの音楽ではないが、分厚い合奏が時代を感じさせてそこもよい。ゴルシュマンのヨーロッパ的な側面の出た演奏。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バーバー:弦楽のためのアダージョ,○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(GUILD)1940/5/14LIVE・CD,,これぞトスカニーニの美である。人声の厚い響き。このバランスは明らかに歌唱であり、合唱である。弦楽合奏は精妙な重なりの彩により、とくに録音ではしばしばコーラスのようにきこえることがある。偶然の産物であることが大方だが、トスカニーニにかんして言えば、合唱を越えた合唱、というような響き合いを求めているように思える。人声そのものにはきこえないのだが、ハーモニーが厚みを増し単純で力強いアンサンブルを背に音量的に昇り詰めていく、時にはかなりデフォルメされた表現をまじえ一糸乱れぬ調子で真摯な祈りに結実させていく。この感情を歌と言わずして何と言おうか。ケレン味なき芸風に対し真実を伝えるレベルの録音に恵まれたとは言い難いトスカニーニには、私もそうだが響きの美しさやカンタービレの滑らかさよりも、明確なテンポとリズムの快楽的な即物性を求めがちである。だがこう単純でもしっかりと骨太の作品においては、録音が最悪であっても、トスカニーニが何より誇ったとされる歌謡的な美しさがやはり自ずと伝わってくる。数々ある録音でもこれは一際真に迫ったものを感じる。まさにプラトーンの映画の世界に近い、卑近でもずしっと響く解釈表現。録音のせいで○にはするが、トスカニーニの同曲録音でも白眉か。,-----,,,,,,,,,,,,,


バーバー:弦楽のためのアダージョ,○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(WHRA)1938/11/5live・CD,,言わずもがなのトスカニーニのアダージョだが、さすがに古く、音がくぐもってしまっている。演奏は感動的なので○はつけておくが。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バーバー:弦楽のためのアダージョ,○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(TAHRA)1956/9/21シャルトル聖堂live・CD,,見事なレストア・リマスタリングがなされているが原盤(テープ?)の傷はどうやっても補えないところがあり、音像が不安定に聴こえてしまう。だが、「ミュンシュの凄み」は伝わる。アメリカ的な合理性の行き届いた技術と、もともとの持ち味としてある中欧的な磐石な響きを持つボストン交響楽団弦楽セクションの、異様な大編成にしても張り詰めて一糸の乱れも無い表現は、米国での演奏とは違う緊張感に溢れ、一期一会の瞬間の記録を聴いているのだ、という感覚に囚われる。ミュンシュらしい前のめりのテンポと自由にうねる野太い流れ、ライヴ感溢れるもののライヴ的な雑味が無い、それが特徴的。クーセヴィツキーの作った「BSOの芸風」を取り戻し、プロフェッショナルなわざで進化させたミュンシュ。ここに聴かれるロマンティシズムは原曲の古典的で密やかな佇まいからは遠く離れたレクイエムのそれではあるが、肉のついたロマンではない、宗教的な祈りでもない、現代的な「音楽」である。戦争犠牲者への餞であっても、それは叫びでも嘆きでもないのだ。しかしこれは原盤そのままではとても聴けなかった代物だろう。リマスタリングでそこまで想像させることができる程になっている、盤としての評価は高いが、原盤状態の悪さから○一つにしておく。,-----,,,,,,,,,,,,,


バーバー:弦楽のためのアダージョ,オーマンディ指揮ボストン交響楽団(aulide:CD-R)1983/5/24live,,これほど何の思い入れも感じられない演奏は無かろう。ほぼスタジオ録音レベルの精度とほどほどの音質でありながら、非常に速いインテンポでさらさら流れていき、そのまま終わるのだ。オケがまた近年のボストンだから精緻さが薄味をかもし、ほんとに何をやりたいのかわからない。個性的だがこれでは、どうにも。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バーバー:弦楽のためのアダージョ,ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(SLS)1958/12/27live,,集中力の高い秀演。ブレることなく確かなテンポで遅くも速くもなり過ぎず大仰な見栄を切ることもない。トスカニーニの依頼により弦楽四重奏曲の中間楽章から編曲されたもので当初よりレクイエム的な捉え方をされ、実際アメリカの関わった数々の悲劇において演奏され、流された。戦後進駐軍が日本のラジオに初めて流したのはこれであったと聞く。のちに声楽編曲すらなしているためバーバー自身が原曲の純音楽性が損なわれるとして好まなかったという伝説は私は信じていない。やはりこの編曲は原曲と違う、しっかりとボリュームのある、起承転結のはっきりした単体で完結する祈りの歌となっている。プラトーンをはじめ数々の映画にも使用された。最初にかえってトスカニーニが熱心に演奏したこととミュンシュのこの直線的なスタイルは無関係でもないと思う。50年代のミュンシュのスタイルが剛進するような直線的な傾向を示していたのはそうなのだが、それでも情熱のあまり歌ったり力み声を入れることがない、それでいて演奏は非常に気合が漲っている、それはトスカニーニをあるていどは意識していたのではないか、と推測する。録音状態は悪くノイジーだがパワーはある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バーバー:弦楽のためのセレナーデ(もしくは弦楽四重奏のための),○ゴルシュマン指揮シンフォニー・オブ・ジ・エア(NBC交響楽団)(VANGUARD),,作品番号1、19才のときの作品で、擬古典的であきらかにカルテット向きの小品だが、ゴルシュマンは非常に引き締まったオケの技術を生かし、大編成で稀有壮大にやり放っている。三楽章制で中間に「弦楽のためのアダージオ」を予感させる緩徐楽章をはさみ、手法の古さは否めないがこの年の作品としてはきわめて完成されたものの感がある。というかおじいちゃんである。おじいちゃんが筆をすさばせたような擬ハイドンに山葵を僅かに挟んだような。まあ、特に・・・,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バーバー:弦楽四重奏曲,○カーティス四重奏団(WHRA)1938/3/14live・CD,,原典版、ということで現行版とは似ても似つかない曲になっている。もっとも二楽章はアダージョへの編曲元のまま、となっているが、両端楽章がまるで違う。一楽章冒頭の印象的な主題はそのままだが、大した変容もせず楽章内の両端を締めるのみで、三楽章では回想されず、いや、三楽章はまるで別の曲と差し替えなので当たり前だが、簡素で現代的な骨張った楽曲という印象はまるでなく、後期ロマン派のヤナーチェクあたりを想起させる楽曲としてまとめられているのである。,,バーバーの面目躍如たる機知に満ちた書法は随所にあらわれ、時にしっかり新しい音楽への志向を示しはしているのだが、ああ、このアダージョはこういう形で組み込まれていたのか、あの唐突感は改訂時に発生したものなのだ、という、結局新ロマン派の曲だったということをはっきりわからしめてくれる。テクニカルな完成度も既に素晴らしいものがあり、要求される技術レベルも相当なもの。カーティス四重奏団がこの精度の演奏をライブでやったというのは、時代的にも驚嘆すべきことである。非常に悪い音なので細部はわからないが、拍手の様子からも成功は聴いて取れる。カーティス四重奏団はけして個性を強く出しては来ないので、音色が単調だとか、表現が即物的でアダージョがききばえしない等々あるかもしれないが、贅沢というものだ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,


バーバー:弦楽四重奏曲,○ストラディヴァリ・レコーズ弦楽四重奏団(stradivari records)LP,,ストラディヴァリウス四重奏団とは違う模様。チェロのGEORGE RICCIはジャズやポップス畑で活躍。ドイツ的な演奏を行う非常に巧い団体である。この曲の演奏にも緊張感が満ちていて、山っ気のないマジメで真摯な態度が聞いてとれる。その意味で古いモノラル録音時代のものとしては貴重な記録とも言える。いつも聞いているのと違う曲かと聞きまごうほどである。有名なニ楽章はしかし結構テンポの起伏はつけていて、音色が渋く非常に安定しているため派手さがないだけで、実は結構感情的な演奏様式をとろうとしているのかもしれない。とにかく私は始めブダペスト四重奏団かと思ったくらい緊密で、弦楽四重奏という形態をよくわかった構造的な演奏ができる団体とみた。◎にしたいが録音が弱いので○。バーバーのカルテットの、ニ楽章以外にみられる現代的なごつごつした特質にかんしては、けして浮き彫りにしようとせず、丸めて聴きやすくしてくれているところが寧ろ特徴。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バーバー:交響曲第1番,○サバリッシュ指揮バイエルン国立管弦楽団(FARAO)2003/7/12live・CD,,高精度でライヴならではの緊張感をもった締まった演奏。ただ、この曲はもともと1.5流くらいの、時代性の強い作品ゆえ、近視眼的にロマン性を引き出しつつ基本客観的に整えていくだけのやり方では、連綿としているだけで、聴く側のモチベーションが持続しない。もちろん生来の技巧派バーバーだから非常によく書き込まれており、重量感に軋みをはっしない職人的なわざが冴え渡っている作品、しかしながら楽想が弱いことは否定しようがない。そこが原因となり構成感が明確でなく技に偏った、演奏家受けだけする作品に感じられてしまう・・・この頃アメリカや西欧に多かった。部分的にシベリウスの合奏法の影響がみられ新古典的な立体的な書法が織り込まれた緩徐楽章(形式上単一楽章ではあるが連続した4楽章制ととってよいだろう)に魅力があるが、終演部すらはっきりしない、これはクーセヴィツキーやミュンシュといった(整え方には問題があるが)強引に盛り上がりをつくっていく指揮者でないと活きて来ない曲である。SACDでわざわざ出すような演奏ではないと思うが、音のよい録音はこのバーバーの出世作には非常に少ないこと、しかもサバリッシュ80歳記念公演記録とあっては音楽外の理由もあろう。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------


バーバー:交響曲第1番(一楽章の交響曲),○ロジンスキ指揮NBC交響楽団(WHRA)1938/4/2live・CD,,原典版。バーバーの出世作だが、いまひとつわかりにくさがあるのは、スコアを整頓して即興に流れず山場を計算した演奏を提示する人が少ないということもあるのではないか。ロジンスキの素晴らしさはその点非常に計算された音楽を志向しきちんと緩急がつけられているから、ただの煩いネオロマンになりそこねた交響曲ではないことをわからせてくれるところだ。これはやっとこの曲に耳を向かせてくれた盤。録音マイナスで○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バーバー:交響曲第1番(一楽章の交響曲),ワルター指揮NYP(WHRA他)1944/3/12カーネギーホールlive・CD,,改訂版。ワルターはこの曲を評価していたという名指揮者の一人。有名な録音だが、ロジンスキと比べて聴けばわかるのだが、勘どころがつかめていないというか、近視眼的で、流れで聴いていてもどこが聴かせどころで、最終的にどこへ持って行きたいのかわからない。それほど乗った演奏というわけでもなく、ワルターがどうしたかったのか・・・録音も悪い。無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バーバー:交響曲第2番(1944/47),○クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(ASdisc/WHRA)1944/4/4原典版初演LIVE・CD,,この曲が有名になったのは空挺部隊への従軍経験をもとに作曲家がラジオ・ビーコンの音やプロペラ音などを採り入れて作り上げたといういささか珍奇な出自によるところが大きいと思うのだが、この初演ライヴを聞いても自作自演盤を聞いてもそれらの要素は殆ど目立ってこない。というかはっきり言ってこの演奏からはそういう表層的な効果を狙ったところが微塵も感じられず、純粋にバーバーのメロディメイカーとしての才能の輝きが(とくに1楽章の緩徐主題!!)、実に流れ良いクーセヴィツキーの棒に乗って深い抒情を歌い上げているところに惹かれる。47年の改訂前の演奏ということで尚更「作曲家自身によって弄繰り回されない、作曲当初の構想に忠実な楽像」が浮き彫りにされ、より真実味をもって迫ってくるのかもしれない。独特のコード進行、重厚な響きも鮮やかに描き出され、時折感じられる無理の有る展開も、ここではクーセヴィツキーの作り出した直線的な音楽の奔流に乗ってそうと感じさせない。この曲は1番にくらべ落ちると考えられているようだが、メロディの美しさや手慣れた管弦楽法にはたとえばウォルトンの2番に感じられるような円熟味が染み出して来ており、聞き込めばそれなりに感じる所もある楽曲ではある。これはクーセヴィツキーに敬意を表して○。冒頭の空虚な響きなど、コープランドらのアメリカ・アカデミズムに通じるところもあってそれはそれで面白く思った。録音はクーセヴィツキーのライヴにしてはとても良い。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------


バーバー:交響曲第2番(1944/47),作曲家指揮ロンドン新交響楽団(EVEREST/PEARL/WHRA/DECCA)1950/12/13・CD,,〜かつてはこの曲、結構好きだった・・・この曲戦争末期に航空隊を称える主旨でつくられたらしいが、その後47年に改訂が加えられている。ウィンドマシーン等描写的な表情付けが特徴とされているがこの古い盤からは余り聞き取れない。そこはかとない哀感と悲痛な表情が入り乱れ、・・・混乱している。冒頭コープランドかとききまごうような中音域スカスカの高響き。以後も何かショスタコーヴィチなどに似た清新な響きが連なる。どこも何か他の作家を思い浮かべてしまう。バーバーの純管弦楽はヴァイオリン等旋律楽器の独特の跳躍(下降音形でも跳躍というのだろうか、それも含む)と、半音階的だが清らかな感傷を催す憂いに満ちた旋律に特質があるが、反面閃きに乏しく個性的な旋律や響きに欠けているところがある。この曲を聞いても1番を聞いてもそうだが、20世紀初頭前後の末流ロマン派作家たちの流れを固持し続けただけのようにさえ思えてしまう。突然ふっとわいたように浮き上がる美質が、余り長続きせずどこかへ流れ去っていってしまう様には、マーラーをふと思い浮かべる。バーバーの歌曲は良い。個性的ではないが、詩のよさとあいまって諦念やノスタルジーといったオンガクお得意の世界を、これでもかというくらいに(でも密やかに)提示する。小曲に魅力ある作家が交響曲のような大きい曲を書くとこうなるのだろうか?とも思ってしまう。無論曲を選べということもあるのだが。この曲がマイナーなのにはわけがあるようだ。ここでこの曲のききどころを唯一つ挙げる。それは1楽章第二主題だ。オーボエ・ソロによる夢見るようにたゆたう提示、次いで重層的にリフレインする弦楽器、山の木霊のように遠く儚くうつろう旋律は、それと判別できる部分は短いが(半音階的に変容してやがて消えてしまう)耳に残る。 CD化済み。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------

バーバー:交響曲第2番〜リハーサル,○作曲家指揮ボストン交響楽団(WHRA)1951/4/6-7live(6/23放送)・CD,,25分余りのリハーサルだが迫力のボストン響による本番を聴きたかったと思わせるだけのものはある。バーバーはメロディーが重要だが、綿密なリハの中でしばしば作曲家自身が歌って指示しているところ、バーバーの聴き方、というものが改めて提示される。一楽章。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バーバー:室内オペラ「ア・ハンド・オブ・ブリッジ」,○ゴルシュマン指揮シンフォニー・オブ・ジ・エア他(NBC交響楽団)(VANGUARD),,ピアノ独奏から始まる意表を突いた極めて短い室内オペラで、ゴルシュマンは弦を増強しゴージャス感を出している。古びたジャズ風のリズムにバーバーが時折見せる無調的なパセージ・・・ベルクを思わせる・・・が乗り、人好きしない表情になりがちなところを歌詞とゴルシュマンの派手な表現が救っている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,

http://ryookabayashi.sakura.ne.jp/2019/naha.html
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/776.html#c1

[近代史6] アラム・ハチャトゥリアン((Aram Il'ich Khachaturian), 1903 - 1978) 中川隆
1. 中川隆[-16084] koaQ7Jey 2021年10月07日 08:11:46 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[14]
ハチャトゥリアン:「仮面舞踏会」よりワルツ,○サモスード指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(VISTA VERA)1953/2/11live・CD,,奏者には苛烈なことを強いるハチャトゥリアンだがこの曲はまずもって旋律が素晴らしく聴く側はただその愉悦感に身をゆだねることができる。サモスードらしい「崩れ」が出てしまっているところもあるが(メカニカルなハチャが乱れないほうがいいのは言うまでも無い)、ライヴで会場も盛り上がってきたらこんなものだろう。○。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------


ハチャトゥリアン:ヴァイオリンとピアノのためのソング・ポエム(Ashugsを称えて),コーガン(Vn)ナウム・ワルター(P)(RUSSIAN DISC)1964/(Arlecchino)1963?録音時間がほぼ一致、恐らく同じ録音。録音年は前者が正しいと思われる。Ashugsはコーカサス地方の吟遊詩人や歌手たちをさすとのこと。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


ハチャトゥリアン:ヴァイオリン協奏曲,○コーガン(Vn)作曲家指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(Arlecchino)1951・CDちょっとウォルトンみたいな面白さがある曲だ。ハチャらしくエキゾチックな雰囲気もある(それほど新味はないが)。ハチャというとコンチェルト・ラプソディ、あちらは(ヴァイオリン版は)ちょっとわかりにくいところもあり、私も譜面を持っているのだが、弾いててもナニを弾いているのかわけがわからないところがある。こちらは何よりとにかく親しみやすい旋律だらけなのでとても聴き易い。アマチュアでこれにチャレンジする人がいるが、難しいとはいえ旋律の分かり易さが弾く上でもかなり助けになることは確か。ハチャの旋律を楽しみたい人はぜひ聞いて下さい。たぶん20世紀ロマン派好きにもかなりアピールする曲と思います。最後はベートーヴェン以上にしつこい終止音の連打で民族性を感じる。コーガンはけっこう余裕があるがテンションは高い。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


ハチャトゥリアン:ヴァイオリン協奏曲,D.オイストラフ(Vn)クーベリック指揮プラハ放送交響楽団(PRAGA)1947/5/15・CD,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


ハチャトゥリアン:ヴァイオリン協奏曲,D.オイストラフ(Vn)作曲家指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(RUSSIAN DISC)1965/8/3LIVE・CD,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


ハチャトゥリアン:ヴァイオリン協奏曲,ジョドリー(Vn)ミュンシュ指揮ORTF(ina)1954/6/19ストラスブール音楽祭live放送,,ムラヴィンスキーの代役で振ったものでヘンデルの合奏協奏曲のあとに新古典主義ということで插入された演目だろう。メインはシューベルト7番(一番力が入っていたことはミュンシュの芸風柄言うまでもない)。ina配信ではPHD89036415というナンバーになる。ジョドリーのアンコールにバッハの無伴奏から1曲入るがとてもメロメロで重音が無音になったりする。まあヘンデルのソリスト、技巧的なハチャトゥリアンのソロのあとなので仕方ない。曲はこの作曲家らしく外しはしないが今ひとつ焦点の定まらない長ったらしさを感じさせ、やはりメカニカルな技術の披露が中心で、いかにも20世紀中盤的な尖鋭さとロマンチシズムの折衷性が民族的な要素の消化吸収によって示されているものの、個性的なものは感じない。スポーティな三楽章が聞きものか。ソリストはあまり強くないがこれを弾きこなす位には力量がある。ミュンシュはオシゴト的な感じがするが、オケがよく反応しハチャトゥリアンの仕掛けを上手にこなして、結果大ブラヴォの終演となる。急な代役としてはミュンシュというかオケが素晴らしい。面白いことに放送ナレーションは演奏後に説明を繰り広げていくスタイル。演奏日はAmazonデジタル配信を参照したが正確性には注意。,-----,,,,,,,,,,,,,


ハチャトゥリアン:ヴァイオリン協奏曲,ジョドリー(Vn)ミュンシュ指揮ORTF(ina他)1954/6/19ストラスブール祭live,,Amazonデジタル配信とina.frは記載曲名が違うがまったく同じもの。ムラヴィンスキーのコンサートの代わりとして決まった割にはさすがミュンシュといった完成度で、ハチャトゥリアンがじつにやりやすく書いていて、ソリストも相当の腕前であることを念頭に置いても、聴き応えは満点だ。ミュンシュ向きの曲だし、ソリストも強靭に、荒々しくすべきところは音を掠らせて、冒頭から最後まで弾きっぱなし、単線的な細かい音符の数珠つなぎでオケを引っ張っていく。大ブラヴォが出てしかるべし、ハチャトゥリアンがソヴィエトにありながら個性をどう保ちアルメニア民謡をコダーイでもバルトークでもない古来ロシアのやり方でもない形で一般人に届く音楽に仕立てたのか、よくわかる。バッハの無伴奏がアンコール。こちらは何も届いてこない。ミスもひどい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


ハチャトゥリアン:エレヴァンの春,○作曲家(歌・P)(supraphon)1950/4/27プラハ・CD,,なかなかいい声でピアノはちょっと心もとないが楽しめる。おそらく新発見音源か。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


ハチャトゥリアン:ガヤネーより剣の舞,オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(MSC)1958/5/30・CD,,どうも推進力がなくまぬけな感じがする。発音がぼてっとしているせいか?,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


ハチャトゥリアン:コンチェルト・ラプソディ(チェロと管弦楽のための),○ロストロポーヴィチ(Vc)作曲家指揮ソヴィエト国立管弦楽団(IVC)1963LIVE・DVD,,まさに演奏技術と現代ふうの民族書法だけで出来上がっているハチャのハードなほうの作風によるもので、アルメニア人以外にはだいたいみんなおんなじに聞こえるたぐいの作品だろう。ショスタコがダメでハチャのこういう作品が○というのはまったくソヴィエトという怪奇現象の象徴そのものである。大学で初めて買った譜面がヴァイオリンのためのコンチェルト・ラプソディだったが、技巧以前にまったく理解できない、機械のような譜面に、奇妙にわかりやすい民謡ふうフレーズの織り込まれた、子供にとっては奇怪きわまりないものですぐに脇に置きかわりにストラヴィンスキーの火の鳥の王女のテーマ編曲(作曲家が金のために編曲しつづけた中の一つで、しかしなかなか一筋縄じゃいかない独特の特殊技術の盛り込みかたはさすが)を買ったものだ。今はアマチュアでもヴィニャエフスキに挑戦するいわゆるセミプロのたぐいはこれもやったりするが、技巧をひけらかすだけの曲では聴く側は堪らない。至極理知的であり、読み解いて理解しないと良さが出ない難解を内在させているのに、やはりロストロ先生もひたすら純音楽的に弾きこなし(やはり努力家カサルスを退け前世紀最大の天才チェリストなのだ)、けたたましい平板な曲想の輪から抜けていない。しかしこの激しいジプシー音楽(差別意識はありません)ふうラプソディの中に旋律の流れをとらえ歌えるところは完璧なボウイングでろうろうと歌う、まるでヴァイオリンのように軽がると指弓を運び流れるように繋げていくその「現代チェロ奏法の確立者」たる見事な演奏ぶりは見ていて引き込まれざるをえない。ライヴだし冒頭やや甘い発音から始めるしロストロ先生のけして一級の記録とは言えないが、本人も自分のためにこのソヴィエトのカリスマが書いてくれたことを喜びたちまち弾きこなした姿をまた作曲家が喜び、演奏会後目に涙をためていたというのはいいエピソードだ。ハチャはバレエもそうだがビジュアルがあるとないとじゃ違う。無いときつい。これはある。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


ハチャトゥリアン:チェロと管弦楽のためのコンチェルト・ラプソディ,ロストロポーヴィチ(Vc)作曲家指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(RUSSIAN DISC)1973/10/15LIVE,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


ハチャトゥリアン:バレエ音楽「ガイーヌ」抜粋,○ドラティ指揮ロンドン交響楽団(MERCURY)1960/6・CD,,じつに職人的な演奏。アルメニアらしさは余り無いがスペクタクルな良録音を楽しめる。剣の舞から始まる。わりとはっちゃけないなあとも思うが録音がいいので許せる。体臭が無いほうが好きなご婦人も多いだろう。二度目の再現で音場を拡げスペクタクルな盛り上がりをみせる。アイシェも音楽の体臭のみを忠実に再現し、オケの体臭を混ぜないようにしている。ロンドン響だからもともと楽団としての体臭は無いけれど。パーカッションで気を煽られる部分は大きいが音表現自体ではそれほど舞踏性を煽られない。ローゼンメイデン(違う?)ではひときわ体臭の無さが気になる。まるでクリスマスの映画音楽だ。リズムが切れていて、重さに失われがちな舞踏性を補っている。派手さと両刃の重さと、鋭いリズムという点はこの後のダンスも同様の印象。曲のせいかもしれないが、テンポが単調なため飽きるところもある。ララバイあたりはイギリスの職人楽団らしい臨機応変さが光る。やはり木管が素晴らしい。弦は巧いが凡庸か。 ボロディン的なかっこいいレズギンカではリズムのキレのよさがメリットになっている。パーカス任せの感もなきにしもあらずだが(録音操作だろうなあ)引き締まった表現。弦と対位的に重なるホルンの旋律はもっと崩して派手にやってほしい気もした。まあ、○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


ハチャトゥリアン:バレエ音楽「ガヤネー(ガイーヌ)」(原曲1939/42/52)〜アイシェの踊り,シャラバラ指揮チェコ・フィル(supraphon)ハチャトゥリアンは踊り大好き人間だなあ。ちょっとボロディンを思わせる曲想だ。ガヤネーは「剣の舞」ばかり有名だけど、こういう曲もある。ワルツ好きは聞きましょう。陰鬱な演奏で無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


ハチャトゥリアン:バレエ音楽「ガヤネー(ガイーヌ)」(原曲1939/42/52)〜アイシェの踊り、アダージオ、剣の舞(ハイフェッツ編(アダージオを除く)),○コーガン(Vn)ミトニク(P)(Arlecchino)1960 剣の舞は50年録音と称するものと同じ可能性あり(録音時間はほぼ一致。録音年はどちらのレーベルも信用できないがしいて言えばライナーがしっかり書いてあるrussian discのほうが正しいか。russian disc併録のソング・ポエムもこちらにも収録されているが、記載録音年は違うものの録音時間がほぼ一致するため同じと思われる)。そのためこちらの項では剣の舞を除く2曲について書いておく。アイシェの踊りはなかなかの情緒だ。元からこの編成で書かれていたかのように感じられる。憂愁の旋律は極めて民族舞踊的に展開していくが、コーガンは正確な重音表現と力強いボウイングでその情緒を倍加する。リキの篭りかたがいかにもコーガンで、好き嫌いはあると思うが、この曲は荒々しくまた緩急激しく演奏するのが正解。つづくアダージオはヴァイオリン独奏曲。個人的にあまりパっとしない曲の印象が有る(有名な第二(副?)主題、独特の民謡音階に基づく抒情旋律がさらっと出てくるところは鳥肌ものだが)。それはこの編成で聞いても同じ。コーガンの力感はあるがあまり個性的ではない音では晦渋な旋律はあまり耳を惹かない。後半音域が高くなる箇所では際立って美しい音が聞けるし、無伴奏の曲だからかもしれないがバッハを彷彿とさせるところもある。聞き込めばお気に入りになる可能性は否定しない。ついでに剣の舞はコーガンらしい技巧が駆使され、やっぱりこの3曲の中では印象的だ。慣れてくるとこのとんでもない編成でもそれなりに聞きごたえは感じる。激しい音量や音色の起伏がつけられ、とくに最弱音と最強音の交錯する自在な流れの作り方は特筆もの。ソリスティックな表現で原曲の雰囲気とは若干違うが見せどころではある。まあ巧いです。総じて○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


ハチャトゥリアン:バレエ音楽「ガヤネー(ガイーヌ)」(原曲1939/42/52)〜レズキンカ,○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立(放送?)交響楽団(LUCKY BALL:CD-R)1983/10/20LIVE オケ表記が放送響となっているが怪しい。ショスタコの「革命」のアンコール一曲目。派手です。録音が浅いので太鼓ばかり耳につきますが、やたら早く煽情的でこの人らしい。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


ハチャトゥリアン:バレエ音楽「ガヤネー(ガイーヌ)」(原曲1939/42/52)〜レズギンカ、剣の舞い,○ゴロワノフ指揮モスクワ放送交響楽団(MELODIYA/GRAND SLAM)1944・CD音は悪いが雑音レベルが高いぶん本来の音自体もクリアに聞こえてくる。ゴロワノフの腕の見せ所といった激しい楽曲だが、意外と仕掛けてこない。短い曲ということもあるが、テンポ的な揺れはほとんど無く、もっぱら解釈の中心は音量変化と楽器の響かせかたになる。厚ぼったく重量感があるがテンポは後ろ向きにならずしっかりノって刻んでいる。迫力の有る開放的な音響を指向していながらひとつひとつの音の輪郭をびっしり整えており、ゴロワノフのオケに対する絶対的な権力というものが行き渡ったさまを聴き取ることができる。民族的な舞曲のリズムに肩を揺らし、あっという間を楽しもう。サックスのヴィブラートに感涙。案外マトモです。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


ハチャトゥリアン:バレエ音楽「ガヤネー(ガイーヌ)」(原曲1939/42/52)〜剣の舞(作曲家によるヴァイオリンとピアノのための編曲版),○コーガン(Vn)ミトニク(P)(RUSSIAN DISC)1950き、きしょい。尾藤イサオの「剣の舞」とどっこいどっこいだ。乱暴なピチカートの挿入はハチャらしくてまだいいが、こんなにも恥ずかしい旋律だったのか、と思わせる剥き出しの主題の表現がこれまたなまめかしすぎる。ピアノとヴァイオリンのアンサンブルというところがまた無理がある。なんとなく不自然だ。ここではコーガンの技巧が惜しげも無く晒されるが、ポルタメントが色っぽすぎ。まあ奇盤のたぐいだろう。怖いもの聴きたさで。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


ハチャトゥリアン:バレエ音楽「ガヤネー(ガイーヌ)」(原曲1939/42/52)〜組曲,◎作曲家指揮ウィーン・フィル(DECCA) 1962/3 ソヴィエトの冷え冷えとした荒涼の中でボロディンの夢に引き戻してくれるかのような華麗な民族舞踊音楽、南アルメニアの綿花畠をバックに壮大な叙事詩を見る思いだ。3曲めなどボロディンのイーゴリ公を思い出さずにおれないが、自ずと知れた1曲め「剣の舞」をはじめとして打楽器の鋭い響きが魅力的な光彩を放つ。無論ボロディンの簡素な曲に比べて拍子の複雑さをはじめとする現代要素がふんだんにつぎ込まれている。和声の新しさは皆無だが(これも有名な4曲め「ガヤネーのアダージオ」ではバーバー風の晦渋な音響も織り交ざるが)、時代性や背景を抜きにして無心で聞くならば、決して「時代遅れ」などという言葉で蔑まれるほどヤワな音楽ではないことがわかる。名曲である。私は「ガイーヌ」全曲に触れたことはないが、一曲一曲が引き締まっており、他曲に時折見られる難解さも極力抑えられている。演奏はウィーンで交響曲とともに録音されたが、ハチャトゥリアン自身の指揮は巧いものだ。熱くなりすぎず集中力の高い演奏というのは指揮者の理想とするところだろう。リズム処理の巧さは血のなせるわざか。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


ハチャトゥリアン:バレエ音楽「ガヤネー(ガイーヌ)」(原曲1939/42/52)〜組曲,作曲家指揮ロンドン交響楽団(MELODIYA/EMI)1976 この盤、EMIからは発売されていたのだろうか?メロディヤとEMIの共同製作盤とのことである。かなり野蛮な演奏というか、土俗的な雰囲気満点に仕上がっており(メロディヤのリマスタリングのせいかもしれない)、ロンドンのスタジオ録音とは思えないほど熱気がある。ただ雑味が多いことも事実で、ウィーン・フィル盤に比べれば録音や演奏技術的な面も含め完成度は低いと言わざるを得ないが、そういうものとわかって聞けば楽しめる。それにしても本当にこれがロンドン響の演奏?ロシアオケの響きがする。。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


ハチャトゥリアン:バレエ音楽「ガヤネー(ガイーヌ)」(原曲1939/42/52)〜抜粋,○ハイキン指揮レニングラード国立歌劇場管弦楽団(MELODIYA他)やはりこの曲はハチャトゥリアンの代表作だ。どこにもスキのない民族的音詩、現代的なひびきも盛り込まれ、その調合具合が絶妙なのだ。あきらかにボロディンの延長上ではあるものの、旋律にはより肉感的な魅力があり、楽器の使い方もより複雑で構築的である。ここではハイキンの素晴らしく統制された音楽に耳を奪われる。オケ、とくに弦には若干不安があるがソヴィエト国立交響楽団くらいのレベルにはいっている(あくまで技術的な話し。パワーの優劣は別)。鮮やかな色彩感は民族的雰囲気を盛り立てるほうではなく、純音楽的に・・・フランス音楽のように・・・曲を盛り上げるほうに働いていて、聴き易い。鋭いリズム感というものはないし、圧倒的な迫力もないが、非常に適切なレベルでそれらを調合しているふうであり、総体的に不足は感じない。「剣の舞い」も迫力満点というわけではないが、単に音楽的に楽しい。管楽器群の味のある音色に心奪われる。後半はかなりブラスと打楽器の鋭い攻撃が派手に盛り上がるが、あっさり終わるのが潔い。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


ハチャトゥリアン:バレエ音楽「ガヤネー(ガイーヌ)」(原曲1939/42/52)〜抜粋,作曲家指揮ソヴィエト国立交響楽団(MELODIYA/BMG)1975LIVE,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


ハチャトゥリアン:バレエ音楽「ガヤネー」,ハイキン指揮キエフ歌劇場管弦楽団(CONCERT HALL SOCIETY)LP,,ガイーヌ全曲?4幕まであり、剣の舞で終わっている。CHSもそうだがロシア原盤西側焼きのLPの音は、やや遠くぼけていてロシア的な覇気漲る演奏がやや腑抜ける傾向がある。しかしこれは録音のせいだけではなく、演奏陣もロシアのトップオケに比べるとアンサンブルがバラけていてちょっと落ちる感じがする。迫力も足りず緊張感が薄い。ピットならこれでいいのかもしれないが、バレエの絵が無くて音だけだと何か締まらない。剣の舞を始めとする聞かせどころもそれほど際立った特徴はなく全曲の中に埋没している。平坦な演奏。ハイキンの引っ張っていこうという力は感じられるが。ハチャトゥリアンらしいパセージもカバレフスキーやプロコやストラヴィンスキーの二番煎じに聞こえてしまう。匂い立つ民族性が余り感じられない。無印。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------


ハチャトゥリアン:バレエ音楽「スパルタクス」,○ガウク指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(放送)1955/9/24live,,この日のプログラムのハイライトだろう、ハチャトゥリアンのわかりやすい世界がガウクにはあっているようだ。速い音楽での畳み掛け方はスヴェトラを彷彿とさせ拍手も飛び出る。抒情的な色もあっていい。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


ハチャトゥリアン:バレエ音楽「スパルタクス」〜3つの抜粋,作曲家指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(RUSSIAN DISC)1973/8/15・CD,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


ハチャトゥリアン:バレエ音楽「スパルタクス」〜抜粋,ガウク指揮モスクワ放送交響楽団,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


ハチャトゥリアン:バレエ組曲「ガヤネー(ガイーヌ)」,○作曲家指揮カルロヴィ・ヴァリ交響楽団(supraphon)1955/9/15live・CD,,オケは若干甘い。曲間にいちいち拍手が入るのも興をそぐ。おそらく新発見の音源だが通俗的にまで知られたガイーヌに求められるレベルを達成できているかどうか・・・ライヴなので仕方ないか。バラの乙女の踊り、子守唄、アイシェの踊り、ゴパーク、剣の舞、レズギンカ。興奮度が低いのだ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


ハチャトゥリアン:バレエ組曲「ガヤネー」,○スヴェトラーノフ指揮ボリショイ劇場管弦楽団(brilliant他)2000/1/3-6・CD,,ガイーヌといったらこの今や1000円しない盤を買っておけばいいというものだ。但し晩年のスヴェトラーノフに近年のボリショイということで音の個性や豪放磊落さというのは抜けていて、派手ではあるが万人受けするような節度がある。ソリストもとりわけ個性を発揮しはしないが全体の響きの中では調和してひびく。このロシアの巨人も西欧志向が強かったのではないかと思わせるニュートラルな響きが印象的だった。壮麗さは変わりは無い。弾けているわけではないが、むろん最近なされるたぐいの録音よりは気を煽る。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


ハチャトゥリアン:ピアノと管弦楽のためのコンチェルト・ラプソディ,ペトロフ(P)作曲家指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(RUSSIAN DISC)1973/10/15LIVE,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


ハチャトゥリアン:ピアノ協奏曲,○イェメリーク(P)クリマ指揮チェコ・フィル(supraphon)1960/11/7-9・CD,,演奏はやや地味目か。というか、曲が余りに古風で特徴に欠ける。すでに以前この曲について書いたとおりで、重ったるいロマンチシズムすら感じる。○にはしておく。ステレオ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


ハチャトゥリアン:ピアノ協奏曲,カペル(P)クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(SLS)1943/10/30live,,これは異常なノイズをまじえた録音状態をさしおいても、まずどこがいいのかわからない曲。バルトークから創意と魅力を抜いたような印象でとりたてて難曲でもなくカペルがやる意味も無い。そもそも解釈が悪いのかもしれないが通常のピアノ協奏曲に期待される形式的なものが伝わらず、え、この尻すぼみでお終い?という結部に拍手が始まると腰が砕けた。お好きならどうぞ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


ハチャトゥリアン:ピアノ協奏曲,フリエール(P)コンドラシン指揮モスクワ・フィル(BMG/MELODIYA)1963・CDプロコ的だが民族的要素が気恥ずかしいほど露骨に盛り込まれており、管弦楽法も単純で、野暮ったさ満天。1楽章や3楽章の終わりの方がちょっと晩年のシマノフスキぽくて洒落ているし、2楽章真ん中のヒュ〜ドロドロも気持ち悪いけど新奇で面白い。初めて聞くとびっくりするだろう。その後は旋律的でプロコ的だが、奇妙な音色効果を狙った挿句が面白い。3楽章は軽快な出だしがいい。ソリストはバリバリ鳴らしていくウ゛ィルツオーソタイプなのでこういうバリバリな曲にはうってつけ。やがて大時代がかったハリウッド的ロマンチシズムが歌われるが、どこかヘン。やがて独特のカデンツァが長々と鳴らされるが、民族やらジャズやらやりたい放題。あまり面白いフレーズはないがごっちゃな感じがハチャらしさだろう。せわしない主題が戻りわけのわからないうちに頂点へ。やや録音が悪く、オケの没入度も足りない感があるが、コンドラシンのきっぱりした解釈によりしっかり終わる。もう少し盛り上げてもいい感じがするので無印。同じ調子が続き、ただ冗長感が残った。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


ハチャトゥリアン:ピアノ協奏曲,ペトロフ(P)作曲家指揮ソヴィエト国立交響楽団(RUSSIAN DISC)1977/2/15LIVE・CD,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


ハチャトゥリアン:ピアノ協奏曲,ペルティカローリ(P)作曲家指揮イタリア・トリノ放送交響楽団(FONIT CETRA)1963/4/12LIVE・CD,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


ハチャトゥリアン:レーニン追悼のオード,○作曲家指揮ボリショイ劇場管弦楽団(RUSSIAN DISC)1957これ、プラハのと違うけどまあいいや。派手なオードですな。ロシアのボントロはやっぱ馬力があります。繰り返される泣き節の音形がわざとらしい曲だが、木管の使い方がちょっとマーラーっぽくていい。ミャスコフスキーぽくもある。暗いけれど、この派手な音響で聞くとそれなりに聞ける。○ひとつ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


ハチャトゥリアン:レーニン追悼のオード,作曲家指揮プラハ放送交響楽団(supraphon)暗い曲想だと元来和声的に新味のないハチャトゥリアンの作品はとたんに輝きを失ってしまう。レーニン追悼当時としてもいささか古い。記憶に残りにくい曲。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


ハチャトゥリアン:映画音楽「スターリングラードの戦い」,○作曲家指揮ソヴィエト国立放送管弦楽団(CLASSIC EDITIONS)ほんとにこの曲なのかな。あまりにショスタコっぽい。最初はかなり陳腐でうんざりしたが、戦闘的なリズムの交錯など結構かっこいいし、最後、冒頭旋律が帰ってきたときなど感動ものだ。ハチャトゥリアンは当たり外れが多い作曲家だが、これはしっかりした叙事詩になっていていい。最初は「やっぱ映画音楽だな」という感じだが、最後はそういう音楽だということを忘れてしまう。いいもの聞かせて貰いました。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


ハチャトゥリアン:仮面舞踏会組曲,ストコフスキ指揮ニューヨーク・フィル(CALA/COLUMBIA,SONY)1947/11/3,17・CD,,イケイケの派手さがあるものの浮き立つリズム感はなく、また穏やかな曲については今一つ深みが無く感じる。もちろん短く伸び縮みする解釈は健在で、曲の起伏を強調するやり方には一理あるが、ストコの起伏の付け方はどこか醒めていて、これもまた一種の表現主義と思わせるところがある。その証拠というか、オケの音が一様に明るく金属質で耳にきつい。このNYPでもフィラデルフィアの録音同様のことが言える。速い舞曲の勢いは買えるがどうにも曲自体の包蔵する魅力以上のものを提供できているかといえば疑問。それ以上の解釈を加えているのに、むしろマイナスしているような感触。無印。 ,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,


ハチャトゥリアン:歌劇「ガヤネー」〜レズキンカ,○ストコフスキ指揮フィラデルフィア管弦楽団(SCC:CD-R)1965/6/21live,,ハチャトゥリアンの舞曲のかもす「しつこさ」はまお氏の仮面舞踏会で周知のことと思うが、このボロディン的なアンコールピースは対位法的な書法が素晴らしくかっこよく、ストコ向きである。とはいえもっと引き締まったオケがやるともっとかっこいいが。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


ハチャトウリアン:歌劇「ガヤネー」より剣の舞(ピアノ編曲),○作曲家(P)(supraphon)1950/4/27プラハ・CD,,おそらく新発見音源だと思う。民謡民謡したリズム取りはなく直線的で、プロピアニストではない作曲家らしいテンポ取りリズム切れの甘さがなんとなく感じられる。面白い!というものではないが、資料的価値はあるだろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


ハチャトゥリアン:喜びのオード,作曲家指揮ソヴィエト国立放送交響楽団、合唱団他、オブラツオーワ(Msp)(RUSSIAN DISC)1973/10/15LIVE,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


ハチャトゥリアン:劇音楽「仮面舞踏会」組曲,ストコフスキ指揮NYP(artone他)1947・CD,,圧倒的迫力とキレキレのリズム、オケがニューヨーク・フィルでセッション録音だとここまでやれるのか、というストコフスキー全盛期を聴ける録音。むろんゆっくりめの曲よりイケイケの曲のほうがストコフスキの芸を味わうによろしいわけで、フィギュアスケートに使われたことで圧倒的人気を得たワルツなどシニカルな響きを伴うメロディを、オケをドライヴしまくって分厚く聴かせてくる。ハチャトゥリアンでもガイーヌよりも使えるメロディが多く、カバレフスキー的というかプロコフィエフとは違った親近感を感じさせる、ライトクラシックスレスレのところを狙ってきて、しかしそれはスレスレなんであって、ライトクラシックまんまではない。モノラルの古い音だがストコフスキーの力量を確かめられる集中力高い演奏。この曲はコンサートピースとして五曲からの組曲でしか演奏されない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


ハチャトゥリアン:劇付随音楽「仮面舞踏会」組曲,○サモスード指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(Arlecchino)1953・CDやっぱりいい曲です。録音が悪くしかも怪しいが(曲によって録音状態が違う)、旋律がとにかくいい。ハチャの憂愁をたっぷり味わえる。サモスードの演奏は出だしがやや雑。大味なところがあるが、聴き進むにつれ肩を揺らしている自分に気付く。曲の良さをわかっている人の演奏だ。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


ハチャトゥリアン:劇付随音楽「仮面舞踏会」組曲,◎作曲家指揮プラハ放送交響楽団(supraphon)いい曲、いい演奏だ。時代錯誤なところがいい。ラフマニノフの舞踏曲にショスタコーヴィチのジャズ風作品をかけあわせたような音楽。とても聞きやすいし、何より疾走する楽章〜冒頭のワルツ(かっこいいっ!凄くいい曲!)やマズルカ(懐かしい感じの曲、舞踏の時代を懐古するような曲)、最後のギャロップ(すさまじい律動の応酬、運動会にピッタリ!ガイーヌの剣の舞にちょっと似ている)〜の垢抜けたあっけらかんとしたところがいい。わかりやすくて何が悪い、体制迎合の何が悪い!そんな感じに聞こえるところがまた泣かせる。にしてもチェコの音楽水準って高かったんですね。。何この弦!何この管!アンサンブルの粋を見せる分厚いオケがすばらしいのだ。統率する作曲家の腕もあるかもしれないが、聞いて損はしませんのでお勧め(この盤がなければ新しい演奏で聞いてください)。但し、ここに新味を求めてはいけません!和声は何十年も前のものです(ラフマニノフのシンフォニックダンス参照)。楽器の用法もてんで新奇ではありません。でも、聞いてみてください!古きよき時代を思いながら。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


ハチャトゥリアン:劇付随音楽「仮面舞踏会」組曲,○作曲家指揮モスクワ放送交響楽団(RUSSIAN DISC)1969ハデハデ。どハデな演奏だ。オケも豪放磊落で、弦は気合に満ちた走句の数々を繰り出してくる。しっとり聞かせるところは感情込めてオーバーに弾くし、舞踏音楽(この曲のメインですね)ではケレン味たっぷりにうらぶれた旋律を聞かせる。前にも書いたがこの曲の舞踏音楽にはショスタコのジャズ組曲のような趣がふんだんにあり、意外と都会派なのだな、と思わせる。他の自演記録と比べてそんなに良くはないのだが、まあ、面白いです。かなり旋律的な曲の集合体なので、聴きすぎると完全に飽きてしまいます。ご注意を。ハチャ棒巧い。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


ハチャトゥリアン:劇付随音楽「仮面舞踏会」組曲,コンドラシン指揮RCAビクター交響楽団(RCA)1958/10/30古風だが愉快で楽しい楽曲である。ワルツ、夜想曲、マズルカ、ロマンス、ギャロップの5曲からなるが、この演奏で聞くと偶数曲番の緩徐楽章はあまり魅力的でない。こういうしっとりと「歌わせる」曲にかんしては余り得意でなかったコンドラシン。比較的若い頃の録音であり、ひときわ感情を排した演奏スタイルを持っていたせいもあろう。奇数曲番も感情的にならず、まるでラフマニノフのシンフォニック・ダンスを録音したときのスタイルと同様、懐かしい響きのする楽曲なのに、敢えてそんな感傷性を出さないようにして音楽自体に語らせようとする志向が顕著である。はつらつとした運動性は認めるが、もう少し遊びが欲しい。オケも少し技術的にきつい様子。そういった演奏。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


ハチャトゥリアン:劇付随音楽「道化師」組曲,コンドラシン指揮RCAビクター交響楽団(RCA)1958/10/30運動会に貢献した作曲家ハチャトゥリアン。とりわけ「道化師のギャロップ」はガヤネーの「剣の舞」と並んでポピュラーな楽曲だ。社会主義リアリズムの優等生と言われたハチャトゥリアン。この至極わかりやすい組曲を聴いていると、そうだろうなあ、という感じを強く持つ。プロコフィエフやショスタコーヴィチといったあたりの作曲家と共通する部分もあるが、表面的な部分だけであり、前者はウラに何かしらの考えがあることを感じさせるのに対して、ハチャトゥリアンは純粋にこの路線こそ自分の道と思い込んで作っている感じがする。この録音もオケがやや弱い。楽曲の魅力は十分に伝わってくる演奏だ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


ハチャトゥリアン:交響曲第1番,ガウク指揮モスクワ放送交響楽団(RUSSIAN DISC/MELODIYA他)1959・CD やっとこの曲がわかった!ガウクの解釈がわかりやすいせいだろう。1楽章の叙情的な旋律の感傷性だけでもうこの曲許す。フレンニコフ以上ショスタコ未満、といったところか。基本的に民族楽派の主題を用いながらもハーモニーやリズム、打楽器の用法に創意が組み込まれ、かなり洗練された音楽に聞こえるものとなっている。ショスタコほどの個性は無いが(とくにこの曲はハチャの中では個性がわりあい薄いと思う)晩年のラフマニノフくらいの才能は感じる。とにかく42分は長いのだが・・・とくに1楽章冒頭の「ツカミ」の部分があまりに晦渋なため長らくこの曲を聞く気が起きなかったのだが・・・ガウクの技で救われているか。録音はガウクにしては良い。ただ、ガウク独特のしまらなさのようなものが感じられる部分も無いわけではないが。1楽章18分がいちばんききどころ。2楽章12分3楽章11分とあきらかに尻すぼみ(内容的にもそう)。無印。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


ハチャトゥリアン:交響曲第2番,○作曲家指揮ソヴィエト国立交響楽団(russian disc)1977live・CDそれほど特徴的な旋律も個性的なハーモニーも無い曲なのだが、打楽器金管大爆発の派手な音響と民族情緒溢れる抒情的なパッセージには一部の人を熱狂させるものが確かにある。だが、なんでこの曲をウィーン・フィルとやったのだろう・・・。録音もハスキーだし派手さも中途半端で曲の魅力を正しく引き出したものとは言えない。弦楽器の艶な音色も不要な野蛮音楽だし、そもそも響きにちっともウィーンらしさがない。録音のせいだろうか。高い機能性は感じるが音楽としてのプラスアルファが無い。どうにも腑に落ちない気分で次にソヴィエト録音を聴いてはたと膝を打った。まるでぴったりしっくりくるのである。この曲はロシアオケを想定して書かれているのだ、あきらかに。派手な音響はロシアオケの豪放磊落なひびきを念頭にかかれたのだ。しかもここではスヴェトラーノフの育てた最もロシアロシアしたオケが使われているからさらに聴き易い。金管のひびき、木管の音色、弦楽器のポジティブな表現、全てが国民楽派の音楽を奏でるために必要なものを備えている。だからといってハチャがショスタコに並ぶソヴィエトの偉大な作曲家であると言うことは個人的好みから口が裂けても言えないが、アルメニアの国民性をクラシカル・ミュージックの語法の中で昇華させてみた、といったかんじの音楽、独特の旋律や面白いリズムに遊ぶことはできる、後者なら。ライヴならではの熱気は終楽章ではじける。この終楽章はちょっと面白い音楽で、比喩するならヴォーン・ウィリアムズ、独特の半音階的な動きを伴うスペクタクルな音楽に、後期シベリウス的な楽器法を施している。弦楽器のガシガシ刻む特徴的なリズムの上に朗々とブラスが歌うあたりはシベ5あたりの終楽章を思わせる。パワフルなソビ響の本領発揮である。15年をへて地につき円熟した作曲家の棒が冴え渡る。4楽章は最後に1楽章冒頭の暗い音楽を回想し、冒頭同様に印象的な鐘の音が鳴り響く。いささか骨張った音楽だが、スキモノはぴんとくるだろう。後者のみ○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


ハチャトゥリアン:交響曲第2番,○作曲家指揮ナショナル・フィル(COLOSSEUM)1953初版・LP,,,カッコいいなあー。でもロシアオケには違いないんだが正体不明だ。録音のクリアさのせいもあるが美しい透明感ある音で、ホルンあたりはイギリスオケみたいに聞こえる。アクが際立ってこないのですっきり聞き通せる。最初のドゥワージャージャージャージャーンから好悪をわかつロシアンバーバリズムだが所々に繊細な響きがあらわれ様々な同時代作品・・・ショスタコだけではなくプロコをもっとあく抜きしたような平明な表現からRVWの交響曲やホルストを彷彿とさせる清澄な響きの連続、20世紀交響曲好きにはわくわくさせられるような感じがある。いろいろな表情が万華鏡のように現れ人好きするものばかりではないが(随分とわかりやすいほうだが)三楽章の怒りの日の変容あたりからシベリウスをモダナイズしたような才気溢れるフィナーレの壮麗な盛り上がりにいたるまでの見事な大作ぶりったらない。指揮がまた引き締まって上手いのである。むろん弛緩はなくもないがオケの気合いはそうとうなもの。盤面が死んでいるので最高評価はやめておくがまずもって飽きない見事な大作なので、ミャスコフスキーに手を伸ばすならまずこちらから聞きましょう。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------


ハチャトゥリアン:交響曲第2番,作曲家指揮ウィーン・フィル(DECCA)1962/3・CD ソヴィエト国立盤評参照,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


ハチャトゥリアン:交響曲第3番「交響詩曲」,○コンドラシン指揮モスクワ・フィル、M.グロードベルグ(Org)他(MELODIYA他)1965,,一回CD化している。LPでは音揺れや突如モノラルになったりなど(曲の規模からしてチャンネルの切替がうまくいかないのは仕方無いが)少し聞きづらい。ステレオであるがゆえにかなり派手に聞こえるが、ブラス陣はおしなべて巧く耳が変になることはない(痛くなることはある)。ひたすら高らかに凱歌をかなでるブラス陣に対して非常に抒情的な(しかも古臭くない)旋律で魅了するのが弦楽セクション。弦にかんしてはモスクワ・フィルの実力が発揮されている、と言うに留めておく。だがムラヴィンスキーの初演盤に聞かれるような箱にきっちり収まった音楽にはならず奔放さが感じられるのはコンドラシンとしては意外で、凝縮力も録音のせいかいい方に開放されておりちょっと聞きそれとわからない感もある。とにかくこの曲はハチャによく見られる赤銅色の「焼き付き」がなく、派手でもスマートで聞きやすい入門用の楽曲とすら言えるだろう。オルガンが通奏する半音階的なうねうねした動きにハチャの悪所が出ているとも言えそうだが、そちらに余り傾聴しなくてもすぐわかりやすいセクションが動き出すので問題無し。盤としては○程度か。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


ハチャトゥリアン:交響曲第3番「交響詩曲」,○ストコフスキ指揮シカゴ交響楽団(DA:CDーR)1968/2/15LIVE,,アメリカのブラスは最強なのでファンファーレは鼓膜が破れる。金属的な強いステレオ録音で耳が辛いくらい派手な打音をぶちかますストコのやり方は苦笑しつつも正しい!とうなづかされる。指揮者オケ共にある特性としてどうしても民族色はなくなってしまうので、派手なだけのスペクタクルになっているのは仕方ないところだがそもそもそういう意図の即物的な曲なのだからこれは正解だ。ストコにしてはアーティキュレーションもしっかりつけられている。ただ凄絶な音の饗宴を楽しみましょう。史上最凶の演奏。オルガンまで入るとクラシックというよりプログレだ。民族音階もこの中ではまるで呪術的で、こりゃEL&Pです。ヴラヴォからファンファーレ付の指揮者のリコールまで収録。ショスタコの組曲に交響曲のあとこれを持ってこれるなんてシカゴだけ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


ハチャトゥリアン:交響曲第3番「交響詩曲」,○ムラヴィンスキー指揮ソヴィエト国立交響楽団(scora)1947/12LIVE・CD初演記録と推定されるとのこと。とにかくハデハデでけたたましくやかましい。ペット何本あるのかわからないくらいやかましい。オルガンが入ってくるとちょっとこれはクラシカル・ミュージックではない気がしてくる。これはプログレの世界だ。独特の民謡音階がまたちょっと宇宙的なレトロ怪奇な味をくわえ、ハチャの特異性を強調する。たしかにこの作曲家にはユニークな才能があったのだ。ペット何本あるかと調べてみたら15本だった。やかましいはずだ。録音はかなりハスキーで浅い。ペロペロになっているところもあるが、音量がバカでかすぎて録音がつぶれたのだろう。スターリンの影が消え文化に一気に現代化の波が押し寄せたこのころ、温厚なおじいちゃんになってしまったプロコフィエフのお鉢を継ぐこのような曲を書いたハチャに感動。これはまさしくプロコフィエフ・バーバリズムの正統な継承者としての音楽であり、ロシア音楽史上希に見るはっちゃけた交響曲(しかも単一楽章)として後々まで語り継がれることだろう。なんて今言っても遅いか。第二次大戦戦勝記念日のためにかかれたファンファーレを主軸とした交響詩的作品です。ムラヴィンスキーもオケが違うとハデだなー。録音かなりマイナスで○。モノラル、拍手カット(余韻までカット。ロシアではよくあること)。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


ハチャトゥリアン:祝杯,○作曲家(歌・P)(supraphon)1950/4/27プラハ・CD,,三曲連続で録音されたもののようである。おそらく未発売ではないか。エレヴァンの春同様、ピアノはまあ聴ける、歌は達者。そんなところか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


ハチャトゥリアン:組曲「仮面舞踏会」,○作曲家指揮プラハ放送交響楽団(supraphon)1955/9/21-22・CD,,LPで出ていたものと同じと思われる。やや演奏的には甘く楽器によっても出来不出来があるようにおもう。総じて管楽ソロは素晴らしい。ワルツ、夜想曲、マズルカ、ロマンス、ギャロップ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,

http://ryookabayashi.sakura.ne.jp/2019/naha.html
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/713.html#c1

[近代史6] バルトーク・ベーラ(Bartók Béla Viktor János 1881 - 1945) 中川隆
3. 中川隆[-16083] koaQ7Jey 2021年10月07日 08:22:56 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[15]
バルトーク:アレグロ・バルバロ,◎作曲家(P)(HMV/HUNGAROTON)1929/11ブダペスト・CD,,これが妙に録音がいい。びっくりするくらい音がいい。ロールにしては特有のひずみがないので、一応ちゃんとした録音なのだろうが・・・特有のよたるようなリズム感は民族性に基づくものであり下手なわけではない。模範的名演と言えようか、他民族には真似しにくい表現だろう。バーバリズムの流行に沿ったものとしてはいささか理知的にすぎ、ドビュッシーの影響下とはもはや言えない過激な力感に満ちた作品である。バルトークの確かに一つの特徴を決定付けた作品とは言えるだろう。モダンで洗練された野人。◎。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------


バルトーク:アレグロ・バルバロ,作曲家(P)(HUNGAROTON)1935/1/31ヒルバーサム・CD,,シリンダ録音らしく極端に音が悪い。だが貴重な記録としては聞ける。無印。,"",-----,,,,,,,,,,,,


バルトーク:ヴァイオリンと管弦楽のためのラプソディ第1番,○スターン(Vn)モントゥ指揮ボストン交響楽団?(DA:CD-R)1961/7/23live,,原曲はピアノ伴奏、ここまで豊穣なオケを背景にするとヴァイオリンが埋没し(スターンの安定したニュートラルな音・表現ならなおさらだ)協奏曲風の響きが失われ一つの管弦楽曲にきこえてしまう。ただ、魅力的な演奏になっていることも確かで、キョンファ・チョン以降日本でもよく聴かれるようになったこの曲の、民族的な部分を殊更に強調しない別の魅力を聴かせてくれる(管弦楽が余りに出すぎて違和感すら感じたのでいじっているのかも)。モントゥのさりげない捌きの技が光る。スターンは血を感じさせないがオケと音色的な統一感がとれていて聴きやすい。録音はいまいち。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:ヴァイオリンのための第一ラプソディ,◎シゲティ(Vn)作曲家(P)(COLUMBIA/HUNGAROTON)1940/5/2NY・CD,,ワシントン図書館のライヴと録音状態が違うだけだがこちらのほうが聞きやすいか。詳しくはあちらの寸評を。シゲティは凄い。◎。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------


バルトーク:ヴァイオリンのための第一ラプソディ,◎シゲティ(Vn)作曲家(P)(HUNGAROTON他)1940/4/13ワシントン図書館live・CD,,有名なライヴで録音状態もよく、シゲティ全盛期の素晴らしい音を聞くことができる。この人がかつて非常に感傷的な音を、非常に正確に表現することのできた稀有のヴァイオリニストであったことがわかる。後年は技術が衰え前者だけの演奏家になってしまった感もあるが、同年代には余りいなかった演奏家だろうことが改めて伺える。前時代のロマンチシズムと現代の技術力がここで融合していたのである。表現の正確さが音楽を殺していない、模範的な表現。バルトークは民族性がかなり強い作曲家だがそれ以上に民族的表現に長けた演奏家でもある。リズム表現の独特さは理解できていないと単なる下手に聴こえてしまう。独特のずらしがある。しかしシゲティは意に介さない。シゲティ自身もまたよく理解して表現をあわせているからである。作曲家は旧いライヴ録音で聴かせた土臭い演奏とは違い、ここでアメリカナイズされたと言ったほうがいいのか、こんにちの現代的なイメージとしてのバルトークを表現している。この演奏は凄い。この曲が改めて難しいとも感じた。理解していないと表現にならない、譜面づらのやさしさは見せ掛けだ。シゲティの装飾音の細部まで完璧に適切な音にしているさまは凄い。◎。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------


バルトーク:ヴァイオリンのための第一ラプソディ,ザスレッキ(Vn)作曲家(P)(HUNGAROTON)1939/11/4live・CD,,非常に状態が悪い。シリンダ録音らしく何度も途切れ独特のノイズが耳を打つ。ザスレッキはかなり前時代的な大見得を切るかっこうの演奏振りで、ちょっと違和感を覚えるが技術的にはまあまあちゃんとしているようだ。ピアノはよく聞こえない。前説や拍手がつき、ほんとのライヴのようだ。無印。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------


バルトーク:ヴィオラ協奏曲,◎プリムローズ(Va)ヨッフム指揮バイエルン放送交響楽団(green HILL)live・CD,,非常に音はいいし演奏自体も軽さすら感じさせるまでにこなれていて美しい。バルトークの情念的な部分の殆ど無い、ウォルトンのような表現というか、ウォルトンが真似たとも言えそうだが、ヴァイオリン的な音でそつなくこなすプリムローズだけに(そういう演奏ばかりではないがココではそのとおりである)尚更聴きやすく娯楽性が高い。ヨッフムがまたプリムローズと組み合ってありえないくらいの融合ぶりを発揮して、伴奏指揮者として巧い。◎。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------


バルトーク:コントラスト,○ギレー(Vn)他(concerthall),,クラリネットとヴァイオリンとピアノという編成のジャジーさをバルトークならではの抽象化作業によって硬質の楽曲に作り変えたバトルモード全開(コントラストというほどアンサンブルとしての衝突はせず単におのおのの主張が陳列されるようなところがあるけど)の曲。ピアノの粒だった音とクラのベニー・グッドマンをクラシカルにしたような骨太さにギレーの精力的な音表現は往年のアメリカ楽壇の力強さを表現している。とはいえ、楽曲的に甘さを捨てているわけではなく少なくとも弦楽四重奏曲のようなものに比べればぜんぜん叙情的な曲で、ストラヴィンスキー的ともいえ、ちゃんと弾けるソリストが三人集まってやってる演奏なら十分に楽しめる。東欧音楽が極端に苦手な私も。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:ソナチネ,ディッタ・バルトーク(P)(VIBRATO)1944ブルックリン博物館live,,大仰な打鍵から壊れかけのオルゴールのようなフランスの匂いもする美しい響き、まさにソナチネといった練習曲風の民族リズムの軽やかな動き、そのロンド的な交錯を楽しく聴いていく。こういうリズムは他所の人にはなかなか取りづらいのかもしれない。客観的に整えず、指の走るままにえんじる一方個性的な音響の羅列も目立ち、音数を詰め込まないバルトークにちょっとサティ的なものを感じることがあるが、この曲は音数は多いほうではあろう。録音が悪すぎてなかなかつらいが、冒頭の「ヴァイオリンとピアノのための第一ラプソディ」みたいな始まりは指が弱くよたる感じがするものの、その後はまずまずではないか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:ソナティナ,○作曲家(p-roll)(HUNGAROTON)1920?・CD,,ウィンダムヒルみたいな出だしからドビュッシーの影響を受けていた初期に通じるリリシズムが印象的。才気と香気のバランスがとれて秀逸な小品。ヴァイオリンのラプソディ第1番と似た粗野で民族的なリズムにのっていることすら忘れさせるような調子だが、短い。作曲家はブレなく、リズムのロール撚れはあるものの自身の確固とした表現をしていることはわかる。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:ディヴェルティメント,デゾルミエール指揮ORTF(ina/SLS)1950/7/18シャンゼリゼlive・CD,,音の汚れも厭わずひたすら強く発音させ、突き進む。起伏というかメリハリがないようにも感じたがモノラルで立体感のない録音のせいかもしれない。ライブなりの乱れも含めて気を煽るところはありブラヴォがとぶ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:バレエ音楽「中国の不思議な役人」,"",ライナー指揮NBC交響楽団(WHRA)1946/12/15・CD,,この録音では12分しかないが喧しくて十分だ(暴論)。近代オケの機能をフル活用してハルサイを「正しく」構築し直した結果、あまりに目が詰まった情報量の多い音楽となった感じ。洗練された技巧よりもドビュッシーからストラヴィンスキー、そこより己の晩年の作風に至るまでの過渡的な空気も感じる。つまり私は苦手。演奏はまさにこのオケの機能性を存分に発揮したかんじ。作曲家の親友であったライナーは同曲によくあるような機械的なさばきをせず力感あふれる「マスで押し切る」表現をとるが、それがちょっと裏目に出ているか。これはしかし青髭もそうだがテキスト(舞台)無しでは細かい仕掛けまで楽しむのは困難ではないか。バレエ音楽(ないし組曲)として企画されたものではないがここにはバレエ音楽と表記されているのに従った。ライナーのものはNYPとのライヴもある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------


バルトーク:バレエ音楽「中国の不思議な役人」,○プレヴィターリ指揮ロイヤル・フィル(HMV,EMI)LP,,引き締めるところは引き締め、派手に鳴らすところは派手にガシャンガシャン鳴らすプレヴィターリの音楽はこの曲によくあっている。野蛮主義的な側面のほうに耳をそそられる演奏で、ただ書法を抉り出すたぐいの演奏ではなくあくまで舞台演劇的なわかりやすさが通底しており、鋭いエッジの立った表現にも節度があるのはこの人らしいところだ。耳が痛くなった。もっと柔らかい演奏のほうが好きだけど、こういう音楽なのだろう、○。,-----,,,,,,,,,,,,


バルトーク:バレエ組曲「かかし王子」,○ブール指揮南西ドイツ放送交響楽団(DISCLOSURE:CD-R)LIVE無茶苦茶綺麗な曲。ドビュッシーの多大な影響下にありながらワグナーふうのどっしりしたたたずまいを持ち、民族的な主題も包含した非常に演奏効果の高い曲である。緻密で硬質な響きには後年の洗練された作風が既に予告されているし、何より後年の気難しさがないからとても親しみ易い。一番近いのはルーセルのバレエ音楽か。中国風のかかし王子の音形も無邪気な範囲からはみださないよう配慮が行き届いている。節度は時としてつまらなさの裏返しとなるが、ここではちょうど良い。ブールの気品ある棒も冴えている。録音に少し難があるので○にしておく。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


バルトーク:バレエ組曲「中国の不思議な役人」,○ドラティ指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(RCO)1958/1/30放送LIVEシャープで鋭い切り口の演奏。録音が悪いがさぞ目の覚めるような演奏だったことだろう。こんな不協和音だらけでリズムバシバシ・バーバリズムで、それでも娯楽的な感興をあたえるのだからじつによくできた演奏である。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


バルトーク:バレエ組曲「中国の不思議な役人」,○マルティノン指揮シカゴ交響楽団(RCA他)1967/4/26・CD,,マルティノンの演奏には覇気漲る演奏とまったく無い演奏があるがこれは前者。世界屈指の技巧的オケを相手にギリギリ締め上げてバルトークの音響を余すところなく引き出しており、録音的にも優秀なステレオで、万人に勧められる。オケコンなど耳馴染み良い曲ではないが室内楽ほど頭でっかちの精緻さも際立たず、騒音主義やオリエンタリズムを計算し直して正確なスコアに起こしたような音楽で、主題はどこへ行ったというウイットの無さは気になる人は気になるだろうが、ややもすると煩いだけの平板な印象になるところ、めくるめく管弦楽の色彩変化を変な色を加えず明瞭に示していて、抽象的に仕上げてなお魅力的であり、同じ盤のヴァレーズとの内容の質の落差がはからずも明確になっている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:バレエ組曲「中国の不思議な役人」,ドラティ指揮読売日響(tobu)1982/03/13live・CD,,モノトーンの破裂的演奏。雑味はあるし鈍重さも感じるが、同オケの特にソロの上手さにドラティのオケコントロールの熟達した技が聞きどころ。決してバラケはしない。フライング気味のブラヴォほどではない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:バレエ組曲「中国の不思議な役人」,ブリュック指揮ORTF(ina)1960/3/8live,,先鋭な大曲で力量を発揮するテクニシャンのイメージそのままで、マルティノンのように明快でいながらリズム処理には娯楽性がやどり、カラフルなバルトークという、ロザンタールがやりそうな芸風で魅せている。ロザンタールの芸風よりも前へ前へ突き進む感があるが強引さはない。暗く蠢くような音響表現は一切無いのでそれを野蛮主義的にどうなのかという話はあるかもしれないが、ストラヴィンスキー臭くは少なくともなく、書法的に偶然トリルを多用するといったところからかもしれないがむしろスクリアビンの肯定的な管弦楽曲に似たものを志向していると感じる。この諧謔的な曲でフランスでブラヴォが飛ぶのも(そんなに飛ばないが)珍しい。この一夜は特別な演奏会だったようである。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:ピアノと管弦楽のためのラプソディop.1,フォルデス(P)ロザンタール指揮ORTF(ina配信)1965/12/16放送live,,バルトークは長らくこの曲しか聴けなかった。フォルデスで、デゾルミエール伴奏のLPだったか(CD化された)。ロシア国民楽派にハマっていただけあって、チャイコフスキーにスクリアビンを少し振りかけて、長々しく単一楽章のロマン派協奏曲に仕立てた、といった今ならウンザリするような曲に親しみを抱いていた。いま聴くとやはり作品番号1だけあって、ロザンタールだからかもしれないが色彩感はあり特に末尾はドビュッシー的な繊細な響きが光りはするものの、殆ど先輩方の協奏作品のバリエーションであり、ラフマニノフですらこれより新しく、グラズノフくらいといったところか。グラズノフは堅固に簡単にまとめているが、バルトークらしさは構造へのこだわり、特に抽象化された民族リズムを上手く溶け込ませているところなど、ドロドロしたところがなく無駄は少ない。楽想は少ないが、フォルデスは師の作品だけあってそのわざと力に言うまでもなく(ここでも盛大なブラヴォがきかれ、フランスでこんな民族協奏曲で盛り上がるのはフォルデスの評価の高さを傍証するものである)、ロザンタールの伴奏スキルの高さもそうとうで、曲がけして協奏曲を名乗らず狂詩曲であることでもわかるとおりその管弦楽の垢抜けた明るさが情緒的な明るさに透明感をあたえ聴きやすくしている。雑味はあるし録音もあまり良い方ではないものの、かなりの喝采、と再度付け加えておこう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:ピアノと管弦楽のための狂詩曲op.1〜5つの抜粋,
作曲家(P)ドホナーニ指揮ハンガリー王立歌劇場管弦楽団(HUNGAROTON)1939/4/30live・CD

,"
音が悪く抜粋であるため確かめるものは余り無いのだが、ドホナーニ父との迫力あるコンサートセッションが聞ける意味では価値はあるか。作曲家もバリバリ弾く。ロシア国民楽派の影響色濃いこの曲が、やっぱりロシア国民楽派の影響下の曲だなあと思わせる演奏でもある。
",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


バルトーク:ピアノのための組曲,ディッタ・バルトーク(P)(VIBRATO)1944ブルックリン博物館live,,バルトーク生前の演奏であり録音はきわめて悪いが特筆しておくべきものだろう。VIBRATOはバルビローリのオケコンの埋め合わせのようにこのコンサート記録を入れているが既にフンガロトンかどこかから出ていたかもしれない。奥さんの演奏だからといって、もちろんミクロコスモスは有名な録音だが、バルトークの意図したとおりにやっているかどうかはわからない。1曲目はバルトークの野蛮主義と世俗的な雰囲気のあいまった個人的に一番好きな曲だが、これは自作自演もあるが、なかなかエッジがきいていて小粒な迫力はある。ただ指がそれほど強いわけではなく、通して聴いているとあれっ、と思うところもあるし、専門ピアニストとしてはそれほど上手いとは言えないだろう。歴史的記録としてどうぞ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:ピアノ協奏曲第1番,ロロフ(P)クリュイタンス指揮BPO(memories他)1952/9/5ベルリンlive・CD,,クリュイタンス初ベルリン・フィルのライヴ記録で音はこもり気味。それを押しても暴力的なバルトークの野蛮主義が冒頭から破裂し、ナチはもういないんだとばかりにバリバリ弾きまくるロロフ。しかしクリュイタンスは比較的透明感ある音を作り、少しヤワに聴こえる。もっとも民族的表現の昇華の過程でラヴェル的なところも結果として盛り込まれたバルトークはフランスのオケと相性がいいと感じることがある。クリュイタンスは響きの理知的な部分で訴える。まだ雑多な聞き心地のするバルトーク、どうもとっつきづらい一番ではあるが、ドキュメント以上の演奏にはなっている。が、バルトーク好き以外にはすすめない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:ピアノ協奏曲第2番(1938),◎リヒテル(P) スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(ASdisc他)1968/8ライヴリヒテルの透明感ある繊細な音色がバルトークの底に在る清々しいドビュッシズムを浮き彫りにして終始心地よく聞くことができる。これがライヴとは・・・。リヒテルにはいつもながら唖然とさせられる。この曲はまずはペット・ソロとティンパニが巧くなければお話にならないが(東欧の音楽って何故いつもブラスセクションの高音部を突出してえがくのだろうか?)、この演奏のバックは納得の表現力と熱意の篭った非常に腕の達者な演奏家のものだ。明るく外向的な曲の特性は、スヴェトラーノフの澄んだ抒情と尖鋭なひびきにマッチしており、これ以上のバックは望むべくも無いだろう。こういう演奏にはじめにふれておけば、この曲にもっと親しめたかも、と思う。余り悪口はいいたくないがDGのアンダ盤はバック・オケが鈍く、同曲の掛け合い的な面白味が失われグズグズになっており、独奏者含めけして調子の良い演奏とはいえないとおもう。泰流社刊グリフィス著「バルトーク」では冒頭のペットはストラヴィンスキー「火の鳥」終曲から「あつかましくも」とられたものとされているが、描く対象が異なる為かとりたてて耳につくことはない。ラヴェルの協奏曲を意識しているといわれ、1番の濁った奔放さが、より流麗な筆致で昇華されたさまは特に二楽章の精妙な音楽で堪能できる。バルトークお得意の「夜の音楽」が、聞きごたえのある断固たる音列の中に遥かに聞こえて来る。コダーイ張りの民謡主題が全く独自の新しいテクスチュアのなかにどっしりと腰を据え、あるいはがしがしと鞭を打つ。決して名曲揃いとはいえないバルトーク全作品中の最も良質な部分をきくことが出来、30年代の代表作とされることもある。但し民謡に抵抗感を覚える向きは終楽章など生臭くこけおどし的と感じるかもしれない。非常に目の詰まった音楽をかくわりに全体構成が不思議と錯綜してしまうバルトーク、じつは私はあまり得意でないのだが、これは割と聴きやすいかもしれない。でも通常は3番のほうが名曲と感じるだろう。逆にバルトークをあくまで”アレグロ・バルバロの作曲家”と考える向きは、この悪魔的な終楽章にカタルシスを得られるかもしれない。もっともこの演奏では終わり方に仰々しさが足りず、盛大な拍手も出だしが戸惑い気味のように聞こえた。でもそこまでの美しさと生き生きとした表現でまずは満点を出したい。この演奏は今は正規盤でもでていると思う。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


バルトーク:ピアノ協奏曲第2番〜5つの抜粋,
作曲家(P)アンセルメ指揮ブダペスト交響楽団(HUNGAROTON/king)1938live・CD

,"
硝子を弾くように透明で硬質、しかし空疎なSP音質できくとバルトークの音楽はいっそう独特のものに聞こえてくる。初めてバルトークを聴いたとき、聴いたことの無い音楽だと思った。それは珍奇だから聴いたことが無いのではなく、まったく異なる惑星のポピュラー音楽を聴いたような感じだった。冷たいのに熱狂的。今でもその新鮮さはかわらず(すべての曲ではけして無いけれども)この曲にも、またバルトーク自身の「冷徹な熱狂」をもたらすピアニズムにしてもそうなのだが、「これだけしか聴けなくなるとき」というのが私にはある。ブツ切れの抜粋なので評価はできないし、雑音が大きくオケなどほとんど聴けない。バルトークは指がもつれているのかあの特有のリズム感を表現しているのかわからない箇所がわずかに聴かれる他は機械のように音楽を奏でている。そこに透明で硬質のSP音がいかにも不思議な雰囲気を盛り立てる。参考になる演奏ではあると思うし、バルトークの大規模楽曲の自演ライヴとして価値はあろう。音量の盛り上がらない終盤から終演後の司会挨拶まで入る。。",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


バルトーク:ピアノ協奏曲第3番,○アントルモン(P)バーンスタイン指揮NYP(DA:CD-R)1967/1/21,,冒頭よりやたらと打鍵が柔らかく叙情的な流れを作り出そうとしているようだが曲がいくら平易とはいえ「バルトーク」なので鈍さのようなものを感じさせられざるを得ない。技術的にいささかの不安もないのに(この曲においてさえたいてい不安のある演奏が多い)物足りなさを感じる。バンスタは軽い旋律をメインに据えた薄い音楽を目しているという点でアントルモンと同じ傾向を示しており、個性は無い。旋律偏重・高音偏重という点ではいつものバンスタではあるのだが。綺麗なことは綺麗で、1,3楽章が2楽章と同じように美しく聴けるゆえ○にはしておくが、どうも腑に落ちなかった。篭った録音。,,↓の評価ボタンを押してランキングをチェック! ," ",,-----,,,-----,,,-----,,,-----


バルトーク:ピアノ協奏曲第3番,フォスター(p)コープランド指揮ボストン交響楽団(SLS)1965/4/9live,,後妻ディッタ夫人がアメリカ人相手に演奏し、数回でも稼ぐことができるよう最後まで頑張った作品である。ラプソディ以来ひさびさのロマン性が先に立ち打楽器的要素は少なく、独特の書法が簡素に(とくに和声的にはほとんど目立たず)忍び込まされ、戦前に流行った新古典主義ピアノ協奏曲のようなスカスカ感の否めない作品にはなったが、よく聴けば依然個性の刻印、熟達した管弦楽法の発露を聴き取ることはできるし、旋律やリズム要素には素直に一般に受け入れられそうなものがあり、全てのバルトークのピアノ協奏曲の中で最もアピールする要素を持っている(僅かに他者補筆あり)。簡素ということでこの演奏でも一楽章は冒頭よりピアニストが少ない音符に対して打鍵の強さを制御しづらいのか雑味が呼び込まれ、コープランドの指揮ということもあって全般に固さが目立つ。見通し良く響きに透明感は感じられ(録音はノイズ混じりのモノラルだがSLSではかなり良い方)、次第に噛み合ってきて、三楽章はソリストオケ共に高い技術を背景に純度を保ちつつ楽曲の要求する娯楽性もしっかり示してきており、力強いクライマックスで大喝采で終わる。ブラスの響きがアメリカっぽいのは作品に対して皮肉か(コープランドもあっけらかんとした表現をするのでシャーンドルがオーマンディのフィラデルフィア管弦楽団と録音したものとはまた違う印象がある)。ちなみに夫人は何度か録音しているというが、VSOとの衰えの目立つ録音以外知らない。何かの機会に一気に復刻されるとよいのだが。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:ピアノ協奏曲第3番,フランソワ(P)ジンマン指揮ORTF(ina配信)1969/10/19放送 live,,残響を極力使わない分、解像度が高く明晰ではあるが乾燥に過ぎるソリスト、ライブではコンディションが問題とされるが、ここでは2楽章は(いささか素っ気なくも)ウェット過ぎる原曲を透徹したまなざしで哲学的に仕上げて、オケの性向ともマッチして聴きどころにはなっているが、両端楽章は技術的なムラが顔を出し(ヘタなんではなく手を抜いたり二日酔いだったり色々)、オケはオケで大味で、ちゃんと付けてはいるがどこかオシゴト的。3楽章はスポーツ的感覚でスピーディーに仕上げて、暖かい拍手で終わりはするが、フランソワ嫌いには「内容空疎で上っ面鍵盤を鳴らしているだけ」に聴こえると思う。バルトークが聴衆(つまり奥さんの生活)のために敢えて平易に書いた作品で、数学的な技巧が影を潜めているぶん簡素に過ぎ、解釈上のロマンティックな要素が肝要となる。ここにはそれは無い。即興的と言うのも違うと思うくらい解釈は無い。弾けさえすれば自ずと出来上がるラヴェルをやるようにやっている。私はドビュッシーの幻想曲の酷さに比べれば余程良いと思うが、最晩年作から漂う(べきである)諦念を捉えられなかった。ついでに録音悪い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:ピアノ協奏曲第3番,ヘルファー(P)マデルナ指揮モンテ・カルロ国立管弦楽団(SLS)1969/11モナコ(スタジオ),,極めて良いステレオ録音で拍手もノイズもないため何らかのレーベルの正規録音であると思われるがソースは知らない。私は初見。ヘルファーは2楽章では重なる音の強弱のコントロールが細かいパセージにおいてうまくいかず不協和的に聞こえてしまうところがあり、また録音が良すぎるせいなのだがマデルナの派手ではあるが大雑把でしまりのない統率が1楽章では音楽をバラバラに聞こえさせてしまう。ただ、ドイツ的な構築性といおうか、テンポの揺れはなく、マデルナらしくもない四角張った組み立て方がやや弛緩した印象を与えているだけかもしれない。響きのカラフルさや透明感、鋭さはフランス的でマデルナの個性よりオケの個性が出ており、同時にバルトークの源流たるドビュッシーの存在に想い馳せさせる。2楽章はバルトークの郷愁を灰汁抜きして私には聴きやすかった。3楽章は元々絶筆で未完成の楽章ではあるから、なおさら慣れない様子のマデルナ(協奏曲伴奏が不得意なのか?)には難しいような感もある。構成が今ひとつピンとこないようなところはあるが、ただ、ソリストともども全曲中もっとも没頭できる演奏になっている。全般異質な感じのバル3だった。指も強くて回るし技術的に余裕があるはずなのになんで音が濁るんだろう。。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:ピアノ協奏曲第3番,リパッティ(p)ザッヒャー指揮南西ドイツ放送交響楽団(URANIA/TAHRA)1948/3(5?)/30放送live・CD,,TAHRAは五月としている。しょっぱなからオケがグダグダ・・・。最初イタリアのオケかと思った。録音も悪い(何とかしてくれハウリング音)。リパッティもイワユル落ち着き系の演奏振りで、私個人的にはもうちょっとスピード感が欲しい気がする。勢いが無く、音だけ綺麗に磨かれている、いかにも現代音楽演奏家の音楽に近い作り方がされている。1楽章イマイチ。,,2楽章は冒頭から美しく情感を込めて歌い上げられる。作曲家の白鳥の歌と言ってもいい清澄な悟りの音楽(望郷の音楽とも言われるが)、孤独でさみしげなリパッティの演奏ぶりもちょっと並ならぬ雰囲気がある。まだ作曲家が亡くなって3年しかたっていない。作曲家ゆかりの演奏家たちなだけに、ここは感傷を込めずにはいられなかったのだろう。一方繊細な響きがちょっとフランス風な感じもする。若い頃にドビュッシーの影響を強く受けたバルトークの本質の一端が引き出された形だ。中間部の明るい「目覚め」の音楽にもうちょっとテンポ的なコントラストを付けて欲しい気もしたが、そもそもそういう演奏解釈ではないのだろう。ここは落ち着いた音楽にてっしている。美感はそれなりに評価できる。プロコフィエフ的なくぐもりに落ち着く後半部も感情が入っている。冒頭部が蘇るところでのヴァイオリンの鋭い音色が美しい。,,3楽章。あいかわらず落ち着いた演奏ぶりに違和感。リパッティという俊敏そうな名前とは隔絶した遅速ぶりで、勘違いアマチュアピアニストなんて「もっと上手く弾けるわ」なんて思うかもしれない(しかし打鍵は正確確実で音質も純度が高く、危うさを感じさせるところが皆無なところにアマチュアとは全くレベルの違うものが確かに存在していることは言わずもがな)。オケも迫力に欠ける。打楽器系が弱いし木管ソロもつんのめりがち。オケは前へ行きたがっているのかもしれない。いずれ録音が悪すぎるので断言は避けるべきかもしれないが、強烈な個性を感じないことは確かだ。古典的なフーガが現れる場面などアンサンブルの面白さより響きの美しさを重視したような感じもする。どことなくタテの音楽ではなくヨコの音楽を志向している。最後の盛り上がり(絶筆部分前後)は録音がとらえきれてない。ぶちっと切れる。総じてム印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----


バルトーク:ピアノ協奏曲第3番(1945),△ニコラエワ(P)アノーソフ指揮ソヴィエト国営放送交響楽団(boheme)1956ばらつきがありお世辞にも巧いとはいえない演奏。スピードが遅く、一個一個フレーズを確かめるように進むやり方によって、曲の美質が損なわれている。ソリストもあまりのって弾いているとは思えない。強いて言えば2楽章中間部から3楽章にかけては比較的聴けるようになってきているが、ロジェストの親父さんアノーソフの指揮もプロコフィエフを振るときの集中力がほとんど発揮されていず、結果的に「流した」ような気がしてならない。あまりこういうことは言いたくないのだが、駄演だ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


バルトーク:ピアノ協奏曲第3番(1945),○ツェヒリン(P)ケーゲル指揮ライプツィヒ放送交響楽団(DEUTSCHE SCHALLPLATTEN,ETERNA)LP残響を抑えた弾き方が独特。1楽章はそれゆえ粒だった音が強調され面白い。ただあまり達者じゃないというか、遅めのノリでもつれるような発音がもどかしい。変にインテンポだ。バックもデュナーミクには面白みがあるがケーゲル独特の醒めた視点が感じられ煽情的な曲感を損ねている。ただソリスト共々3楽章は変化がつけられていて響きも充実している。オケに前向きのノリがないのが残念だが縦を重視した演奏ぶりはいかにもドイツ的でよい。ピアノも打鍵こそ弱いがしっかり仕上げている。 ,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:ピアノ協奏曲第3番(1945),○ディッタ・パーストリ・バルトーク(P)シェルイ指揮ウィーン交響楽団(MHS)LP,,夫人老年の演奏らしくかなり硬さが目立つ。指が堅いというか、しゃっちょこばったテンポがとくに一楽章では目立つ。ただ打鍵が凄く強く、かなり打楽器的な演奏を指向していることもわかる。細かい音符も一つとして逃さない。だから面白いといえば面白いのだ。未完のこの曲の最後の13小節を補筆した弟子シェルイの棒はすこぶる冴えていて、ソリストを圧倒すると言ったら言い過ぎかもしれないが、やんちゃなウィーン交響楽団を巧くドライヴしてスムーズでかつソリストの解釈との違和感を極力抑えた円熟したワザを見せている。2楽章が技巧的にも平易なせいかいちばん地に足のついた演奏になっていて、夫の望郷の念を、割合とドライにではあるが、美しく透明に描き出している。3楽章は聞き物。盛り上がる。スピードは期待できないし最後の追い込みの弱さが出てしまっているものの、私はアンダなどよりは余程興奮した。決してプロフェッショナルなピアニストとしての技は期待できない、でもバルトークが自分の死後異国に一人残されるディッタが食いっぱぐれないために演奏レパートリーとしてわざわざ平易に書いたこの作品、その思い入れを持って聞けばそれなりに感動はするだろう。録音はいい。ステレオ。シェルイの作品とのカップリング。おまけで○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:ピアノ協奏曲第3番(1945),○ファルナディ(P)シェルヒェン指揮ウィーン国立歌劇場o〜やはりハンガリー出身でバルトークの弟子、フバイ晩年の共演者としてアンサンブル・ピアノで名を挙げ、教職に就いて後50代で早世した女流ピアニスト。スタイルは力強く豪胆で、シャーンドルの快速軽妙とはやや趣を異にする。一面ヴィルトウオーソ的だ。シェルヒェンの意表を突く音造りが何といっても楽しめる。やはり「ウマい」指揮者だ。3楽章は秀逸。ミヨーを聞いているような分かりやすさがあり、飽きさせない。難点は2楽章、やや幻想味が足りない気がする。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


バルトーク:ピアノ協奏曲第3番(1945),○フィッシャー(P)フリッチャイ指揮ベルリン放送交響楽団(TOE:CD-R)1956/3LIVE客観的で重く切れ味の鋭いフリッチャイは決してバルトークのようなスピードとテクニックで出来上がった音楽にはあっていないと思うのだが、意外といけたのが2楽章である。ソリストもフリッチャイの重さに共鳴しているようで、選び抜かれた破音の散文に渾身の力を込めている。異様な迫力がありたんなる望郷の歌に留まらない何か芸術的に凄いものを聞かされている思いがする。他の楽章は比較的遅いので娯楽性は落ちるが、フリッチャイ好きにはアピールするだろう。録音はあまりよくない。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


バルトーク:ピアノ協奏曲第3番(1945),○ペナリオ(P)ゴルシュマン指揮セント・ルイス交響楽団(EMI)1953・CDバルトークのいちばんわかりやすい曲。この曲とプロコ3番を組み合わせたのはなかなか乙。この演奏は思ったよりも抒情的だ。無論バルトークならではのカラっとした打音はきちんと叩かれているが、望郷の念が篭っていると言われる静謐な2楽章などけっこう聞かせどころを踏まえている。この曲の他の演奏と比べてあまり派手なものはないが、十分楽しませてくれる。やや深みが足りない感もあるが、曲が単純だからそこまで求めるのは殺生だ。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


バルトーク:ピアノ協奏曲第3番(1945),アンダ(P)フリッチャイ指揮RIAS響〜表現意欲の強い演奏。曲に慣れる前に聴くと好悪わかれてしまうだろう。バルトークの数多い弟子の中で最も著名なフリッチャイは、その情熱において日本で局所的に評価された指揮者だが、やはり少し「濃」過ぎるか。アンダも少し呂律が回らないようなところがある。一時期もてはやされたが今は余り人気のない盤です。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


バルトーク:ピアノ協奏曲第3番(1945),シャーンドル(P)、◎オーマンディ指揮フィラデルフィアO(COLOMBIA/PEARL)/ギーレン指揮(VOX)/フィッシャー指揮ハンガリー国立O(SONY)CD〜柴田南雄氏の著作(「現代の作曲家」S33)でも取り上げられている、初演メンバーによるこの演奏。モノ時代の素晴らしいオーマンディが聞けますが,オケ以上にシャーンドルの存在感が圧倒的。超技巧派だが今ひとつメジャーでないこの人も、ことバルトークに関しては多数録音しています。ご存命です(確か)※。知る限り3つの録音があり、最近のものもぜんぜん衰えていないのにはびっくり。 有名なフィリップス盤(ギーレンとのステレオ録音、VOX廉価盤でCD化)はLP評で表層的に過ぎる*と酷評されたものですが、ストレートに弾き切るタイプ、往年のプロコフィエフやギレリスといったロシア系の鋼鉄技巧派ピアニストに通じるものもあり、そういった演奏を好む人間には至上の愉悦を感じさせてくれます。大袈裟な表情付けや重苦しさが似合わない類の曲ですから、ヴィルトウオーソ向けではないでしょう。リヒテルやフランソワなどには合わない。アメリカ風に垢抜けたシャーンドル*2の軽妙さとモノ末期の滴るようなフィラデルフィアの音がじつに見事に結晶したものです。2楽章のドビュッシー的な響も美しい。最新録音(1989ブダペスト、SONYclassical)フィッシャー指揮ハンガリー国立バックのものは、オケの透明さがシャーンドルの一風無機的な音とシンクロして、別の作曲家の作品か、もしくは「ミクロコスモス」の編曲をきいているのかと思うほどに「静謐」です。自らライナーも書いています。シャーンドルはコダーイにも学んでおり、その意味では民族派音楽家の王道といえるでしょう。この盤はパールでCD化しましたが、音質がイマイチです。*:私見だが、音楽の精神性や芸術性なるモノは、所詮一連の音の連なり、空気振動という物理現象にすぎない代物を、想像力豊かな独善者(音楽をきくものは皆そうだ)が勝手に決め付けているだけ、あくまで主観の産物だ。「これは駄目だ」と言う前にわれわれはつねに「私見だが」というひとことを付け加えるべきだと思う。私見だが。*2:バルトークの弟子。最新録音のジャケ写はシャーンドルとバルトークのツーショットですが、そもそも本盤がSP発売されたときの添付写真で、バルトークの衰えぶりに柴田氏がショックを受けたという話しが前著に記されています※2005年お亡くなりになりました,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


バルトーク:ピアノ協奏曲第3番〜U.,○リパッティ(P)ザッヒャー指揮バーデンバーデン南西ドイツ放送交響楽団(MEMORIES)1948/5/30live・CD,,最近は端切れのような非正規記録を詰め合わせ商法で売りつけてくるmemoriesだがこれも、いやらしいのはアンセルメとのリストとこの曲くらいしか私には価値がないことで、しょうじきリストだけでは買おうと思わないので、結局10分少々のために3000円以上の二枚組・・・うーん。演奏はザッヒャーらしさのほうが耳を惹いた。リパッティは少し重い。粒だっているがその粒が大きい。録音がかなり悪いので、ぼわんと音符がふやけることもあるのだが、この曲唯一深みを感じさせる楽章だけれども、ロマンティックな重さによって表現しようという部分が若干感じられ気になった。ラヴェルの両手のような透明感ある透明かつ硬質な表現のほうが向いているのではないか。くらべてザッヒャーはもともと透明で薄いバックオケを更に磨き上げ特有の叙情をかもしている。望郷の念を篭めたと言われる楽章だがそういうのとはまた違う抽象的な感傷を示すものになっている。客観的であるがゆえに曲そのものの簡潔さの美学が引立つ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:ピアノ協奏曲第3番〜U抜粋,カペル(P)ザッヒャー指揮SWF南西ドイツ放送交響楽団(memories)1948/5/30live・CD,,40年代ライヴということで録音的にはかなり厳しく耳を衝くようなノイズが痛い。楽章の性格上のこともあれオケが重苦しい。透明感あるカペルの音との乖離具合が逆にこの作曲家の作品群中における同曲の立ち位置を考えさせられる。とにかく短いのでこのくらいしか言えない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:ミクロコスモス組曲(シェルイ弦楽編曲),ディッタ・バルトーク(p)シェルイ指揮弦楽アンサンブル(vibrato)1944liveニューヨーク・ブルックリン博物館,,5曲からなる組曲で、ほぼ民族的な荒々しい曲からなる。シェルイはよくこういうことをしていた。ピアノ協奏曲第3番の末尾補筆もやったのではなかったか(うろ覚え)。これは録音が貧弱すぎる。ピアノだけならまだしも、民生SP録音機もしくはテープ録音機を素人が使っているのだろう、アンサンブル以上の規模になると音量も音程もバランスも狂ってくる(原盤はSPであるようだ)。特有のリズムと響き、それを支える安定した技巧がライヴで提示されている、そのくらいしか言えない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:ラプソディ第1番,○フリード(Vn)コンドラシン指揮クリーヴランド管弦楽団(harvest classics:CD-R)1979/10/9LIVE,,荒々しく重い演奏で、バルトークのわりと素直な民族舞曲にもかかわらず結構ずっしりした聞きごたえの演奏。シマノフスキやウォルトンらの世界に近い清澄な響きとストラヴィンスキー的にメカニカルな構造で一気に駆け抜ける曲だと思うが、この重さはソリストにつけたのだろうか。タッチが粗くてバルトークの隙の無い書法を余すところなく伝えるというわけにはいかない感じなものの、民族的な雰囲気があるのは確かで、盛大な拍手にはうなづける部分もある。ソリスト的にはけして最良ではないし録音も安定しないステレオで聞き辛いが、○にはできるか。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:ラプソディ第1番,オークレール(Vn)アンブロシーニ(P)(meloclassic)1960/9/23パリ放送スタジオ録音・CD ,,オークレールには向いた曲かもしれない。民族的な荒々しさの中にストラヴィンスキーを思わせる抒情的なフレーズが挟まれるなど分裂的な楽曲を、ちゃんと切り替えて巧みに弾きあげている。荒っぽい奏者ゆえ人によってはちゃんと弾いてくれと思うかもしれないが、独特の世界を形作っている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:ルーマニアの世俗的な舞曲,○チェリビダッケ指揮トリノ・イタリア放送交響楽団(ARKADIA)1962/1/9live・CD ,,そのまんまの5曲からなる組曲である。踊りに向いていないと想われるチェリだが、案外舞曲になっている。やはり力強く純粋な音だ。○。,-----,,,,,,,,,,,,,


バルトーク:ルーマニア民俗舞曲,"",アンゲルブレシュト指揮ORTF(ina配信他)1957/7/4live 7/11放送,,民族的表情は足りないものの(リズムがまともすぎ、装飾音がハマらないなど)一般的な民謡編曲イメージにて明瞭に演奏されており素晴らしく耳なじみの良い、「フランス風の」洗練された演奏になっている。ロザンタールなどがやるより格調高く(ロザンタールがやったかどうか知らないが)型式ばったところもなく、アンゲルブレシュトの演奏としては「さすが」の範疇にある。このあとダンディの「フランスの山人交響曲(GARTENLAUB(p))」、カントルーブの「オーベルニュの歌抜粋(THEVEN(sp))」、それにアンゲルブレシュトの歌曲Vezelay(CAUFFET(bar))が収録されている。モノラルだがノイズがなく聴きやすい。2016年10月1日Amazonデジタルミュージックでも配信開始されたが、6分ほど長いようである(曲目は同じと思われ差異不明)。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------


バルトーク:歌劇「青ひげ公の城」,○トマス・ステュアート(Br)イヴリン・リアー(S)マルティノン指揮シカゴ交響楽団(放送)1967/4/27,,夫婦共演の歌唱のほうは若々しく乗っているのだが全般に色が無く平凡な印象だ。楽曲自体のロマン性がマルティノンとうまく噛み合っていないのか、味気ない。録音状態も私の手元のものは悪く、ステレオの途中で右に寄ったり小さくなったり気をそぐ。53分程度でおそらくカットはあると思うのだが、まあ、オペラは守備範囲外、こういうロマン派オペラは大守備外ということで、○だけつけて放棄。英語による歌唱。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:管弦楽のための協奏曲,○D.オイストラフ指揮モスクワ・フィル(REVELATION)1972/2/25・CD,,メロディヤ音源か。モノラルで非常に籠もっているのが惜しい名演。オイストラフは少なくとも母国では指揮者としても活躍した背景があり、アベレージの演奏は提供できた才人だったが、ここではヴァイオリニスト指揮者としての弦楽アンサンブルの整理方法含め緊密で内圧の高い、しかも力強く圧倒的な演奏を提示している。曲の本質であるシニシズムや楽想の性格分けはそれほどはっきりしないが、素直に聴いて楽しめる(楽天的ではない)。◎にしてもいいくらい。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------


バルトーク:管弦楽のための協奏曲,○アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団(Lanne:CD-R)1950年代live,,ちょっと類をみない演奏である。押しの弱さ、一部演奏陣の技術的な弱さが感じられる反面、ロシアものでならしたアンセルメ特有のリズム表現の絶妙さが指揮者への信頼のもとに築かれた丁々発止のアンサンブルに反映され、透明感ある(土臭さのまったくない)音楽を感興的に描き出している。見通しがいいだけに違和感も感じさせるかもしれないし、バルトークにしては翳りがなさすぎるとも言えそうだが、フランス的演奏といってもいいこの表現がほぼ同時代になされていたことは注目に値する。海賊盤にしてはまあまあ音はいい。○。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------


バルトーク:管弦楽のための協奏曲,○アンセルメ指揮フィルハーモニア管弦楽団(BBC/IMG)1958/8/28・CD,,この精彩に欠ける新譜の中では格段に光っている。これがアンセルメの正体か!といった感動が既に一楽章から表われる。覇気、バレエを振っていたころの勢いがここにある。力強い!前のめりにはならないし速いわけでもないが、それでもこの曲にどすんと血肉を与えまくっている。アンセルメはこれだからあなどれない。スタジオ録音しかなかったら見えないところが(もちろん悪いところも)あるというのは知っておかないと正当な評価はできないもので、しかもほんとは実演で評価すべきなんだけど。。録音もまあまあ。これはさすが解釈的な技巧派のアンセルメの知られざる名盤。,-----,,,,,,,,,,,,,


バルトーク:管弦楽のための協奏曲,○カラヤン指揮ベルリン・フィル(SARDANA:CD-R)1982/1/24LIVE,,文句の付けようの無い名演中の名演である。こんなの生で聴かされたらフライングブラボーもやむ無しだ(こういう曲でフライングブラボーが何故いけないのか、世の中には神経質なやからが多いのだな)。,,カラヤンは何故これほどまで適性を示した20世紀音楽に積極的にならなかったのか、この人がゲンダイオンガクはともかく世紀末から20世紀音楽に積極的に取り組んでいたらエセ評論家の評価もまた格別に違っただろう。とにかく、生を聞けばわかる指揮者だというのに一度も聞けなかったのが惜しまれる。でも、ベートーヴェンなんかいらない。ワグナーなんかいらない。こういう切羽詰まったギリギリのアンサンブルを駆使した楽曲でこそこの人の恐ろしく研ぎ澄まされたゲイジュツが生きてくるのである。ただ、この録音、肝心?のインタルードの最後が何故かフェードアウトして切れている。これさえなければ、録音の悪さ(といってもAC盤に比べれば格段にいい)を加味しても◎だったのに。圧倒的です。たとえ私がSHUREのフォンに変えたせいもあるといっても。スピーカー?フォンのほうがよく聞こえるよ。,,◎的な○。とにかくこの時代のベルリン・フィルの技や迫力にも瞠目せよ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----


バルトーク:管弦楽のための協奏曲,○ガルデッリ指揮ハンガリー国立管弦楽団(eternities:CD-R)1988/5/20live,,これがまたまっとうな演奏で、オケは透明感を保ったまま高い精度で、かつライブらしい気概のようなものを感じさせる。ガルデッリらしいかといえばよくわからないがアンサンブルを鍛えるのに十分な腕、それに明るく色彩的な処理に長けているのは確かだ。やや最後が弾けない感がするのは録音の限界かもしれない。粘らないのがガルデッリだ。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:管弦楽のための協奏曲,○コンドラシン指揮ACO(aulide:CD-R)1977/11/17live,,バルトークは極めてファンの多い作曲家だが私には掴みどころのない作曲家に見える。ドビュッシーの影響下から始まり民族要素を前衛的手法によって換骨奪胎させた独自の書法を展開し、一時期はまったく人好きのしない演奏家好きしかしないような作品を生み出していたが、晩年渡米後は困窮の末その腕をいかした隙のない緻密な書法を売りとする娯楽作品を世に出した、くらいの文学部的な知識しかない。この作品は「国家的作曲家」ショスタコのレニングラード1楽章戦争の主題を揶揄した「中断された間奏曲」で知られるが、まあ、ショスタコの態度については賛否ありバルトークが批判する態度にも賛否あるだろう、そういうことは抜きにして、管弦楽によるアンサンブルというものの素晴らしさを改めて認識させるような名作であり、他曲とくらべそれほどぬきんでた旋律というものは無いものの、聴かせる力は十分にある。オケの力試しという側面も強いこの作品にあって、ショスタコを得意としたコンドラシンが振る、それだけでもちょっと面白いのだが、コンドラシンのギチギチの指揮は曲の性向とマッチしている。ただ、ブラスが弱い。録音バランスのせいかもしれないがいずれも高音が伸びず音が暗い。弦楽合奏と木管とパーカスだけでも楽しめる曲だが、そのバランスは気になった。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:管弦楽のための協奏曲,○ドラティ指揮フィラデルフィア管弦楽団(DA:CD-R)1974live,,比較的大きなスケールでガチガチの同曲をヒンデミット張りに盛り上げている。バルトークの曲としてはかなり日寄っているというかわかりやすく作られている作品を、少し鈍重なかんじもするがしっかり派手にまとめ上げている。皮肉も殺伐もなく聞きやすい。録音が不安定なステレオで一部聴きづらい箇所もあるがおおむね楽しめるだろう。ただ、ちょっと尻切れ蜻蛉的な表現ではある。○。,DAからは1975/4/20のNYライヴも出ていたが未聴。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------


バルトーク:管弦楽のための協奏曲,◎ベイヌム指揮ACO(LYS)1948/9/20・CD,,バルトークはちょっと・・・という人におすすめ!これいいです、わかりやすい!構造がわかりやすいというより、前近代的で、直観的に聞きやすいよう上手くまとめている。またベイヌムの適性をつよく感じる。きわめて巧緻な指揮技術が機械的にならず生き生き生かされている。しかもクーセヴィツキーを彷彿とさせそうでいて決してああいう改変の方向に行っているわけではない。オケ的にメリットはあるにせよ(ボストンもヨーロッパ的な弦を持ってるけど)面白いほど「一般におもねった晩年バルトーク」そのものを切り出すことに成功している。「中断された間奏曲」の「DSCHファシストのテーマ」のじつにイヤラシイ嘲笑ぶりにもうなづかされた。冷たい音に重みを加え透明感が失われている点も、好きずきだが私は好きだ。録音(板起こし)の悪さのマイナスも力強い表現の前に屈服する。◎。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:管弦楽のための協奏曲,クーベリック指揮ORTF(forgottenrecords)1955/2/10live,,おそらくエアチェックものでノイジー(最初不安定)、モノラルときてモノクロームに聴こえ飽きてくる楽章もあるが、指揮者によってコロコロ変わるこのオケが、クーベリックにあわせて緊張感溢れる演奏を繰り広げている。管楽器の素晴らしさ、内声で動く打楽器系の明晰さにまずは拍手を。その適度に明るい色彩感をプラスに働かせ、律動的な楽章を「蠢かせる」のではなく「羽ばたかせる」。間奏曲のショスタコーヴィチの揶揄とされる引用の派手さ、断ち切れ方はまさしく「揶揄」で、ショスタコーヴィチが聴いたら苦笑したろうやり方だ。しかしこの演奏の聞き所は両端楽章で、クーベリックがなぜ小フルトヴェングラーのように言われたのかわかる、集中力、その根底のロマン、しかも苛烈なアンサンブルが乱れないのはこのオケでは奇跡的としか思えない(バルトークの書法の素晴らしさとも言える)。中間部の新古典主義的な構造のうえで強く民族性を煽るという、このオケではありえないような技も壮年期クーベリックならではか。セッションでは生まれ得ない生々しさだ。録音は進むに連れ安定しノイズもさほど気にならなくなるので、情報量的にはかなり録れているものだから、好きな方はどうぞ。現代の目線からすると色々あるだろうし、ちょっとコケ脅しで叙情的過ぎて深みがないなどの好み的なところもあるかもしれないが、楽章によっては私は非常に楽しめた。クーベリックの棒の技術的にすぐれた、解釈のしっかりしたところが出ている。盛大な拍手に少しブラヴォが混ざる。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:管弦楽のための協奏曲,セル指揮クリーヴランド管弦楽団(eternities)1965/4/25live,,演奏以前に録音がこもって聞きにくい。セル、バルトークを聴くには不明瞭すぎるしボリュームも小さい。中断された間奏曲終わりで拍手が入りかけるという事態にも拍子抜け。終楽章のめくるめく色彩を振りまき駆け回る弦は拍手ものだし、ハープとのやりとりは素晴らしくみずみずしいが、冒頭テンポの遅い部分では弛緩を感じるし、終わり方も締まらない。他の楽章も勿論録音のせいが大きいだろうが伝わるものがない。どうもテンポ操作が人工的なところがある。パッとしない。一楽章の始めに謎の無音部分が入るのは録音タイミングの問題だけにしても興を削ぐ。うーん。良い録音でどうぞ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:管弦楽のための協奏曲,チェリビダッケ指揮ミュンヒェン・フィル(EMI)1995/3・CD,,客観性が勝り生気がない感じがしたのは私だけだろうか。録音状態もそんなによくはなく、結果として(それなりの精度はあるのだとは思うが)それほど厳しい感じのしない柔らかさが、ゆるいテンポとあいまって逆に半端な印象を残した。爆発もせず怜悧な光もはなたず、莫大な中にロマンティックなうねりがあるのはチェリの本質的なドイツ気質によるものだと思うがどっちつかずで終わっている。無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:管弦楽のための協奏曲,バルビローリ指揮ハンガリー放送管弦楽団(VIBRATO)録音日不明live,,バルビローリのバルトーク?!と思ったが、ハレ管弦楽団とやたら色んなものを録音していた時期の記憶を呼び覚ますような演奏だ。バルトークの鋭さや純粋さはない。しかしこの曲においても歌心を感じさせる「横の動き」に関しては、まったく受け付けない向きもあるだろうが、バルビローリが日寄らずなんとか自分を入れ込もうとした記録としては、すくなくともバルビマニアにはアピールするところはあるだろう。オケはとても上手い。これが二流どころだと惨事になることが予想される解釈だがしっかり力感と緊張感を保っている。バルビは決して職人的技術に欠けていたわけではないので、この曲を振るのに不足はない。過度な個性も持ち込んでおらず、しかしながらバルトークとしてはスリリングな音のやりとりを楽しむことはできないが、トータルして標準的なレベルの演奏ではないか。モノラル悪録音で最晩年の記録ではないだろう。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:管弦楽のための協奏曲,ホーレンシュタイン指揮ORTF(M&A)1961/12/19live放送・CD,,好き嫌いのハッキリする指揮者だと思う。曲や時期によってスタイルが変わる指揮者でもあり、莫大で欠伸の出るようなマーラーをやるかと思えば、このように思わず前のめりになるような力のある演奏もする。現代曲指揮者としての側面があり、マーラーにあっても理知的な構築性が背景に存在していて、バルトークではそれが足を引っ張ると思いきや、前進性も損なわれず、色彩は強調されないが間奏曲あたりはしっかり言わんとしていることを言わせていて、ホーレンシュタインの一寸聴わかりにくいスタンスが意外と良い方向に働いたものとして特筆できる。スケールの大きさはいつものこと、ここでは凝縮の余り勢いで終わらせてしまうのではなくたっぷり交響音楽として聞かせている。技術的にもこのオケにしてはよくできている。モノラルだが情報量はある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:管弦楽のための協奏曲,マルティノン指揮ORTF(ina配信)1974/5/15live,,驚くほど明快で軽く、フランス曲を聴いていると錯覚する。作曲家として晩年のバルトークと同時代者だったこともかんがみるとこの人がバルトークを振ることは(リヴァイヴァルの時期を現代指揮者として経験した人でもあるし)当たり前なのだが、録音自体はシカゴでのマンデリン以外知られていない。そもそも現代曲を振りたがる系の人なのに録音の仕事はドビュッシーだのラヴェルだのばかり、シカゴで初めて様々な作品に挑めた感もある。程なく仲違いしたのは不幸な事だが、復刻が進んだ今では認知されている、マルティノンの意欲的で「野蛮な」一面を伺い知れるのはシカゴ交響楽団との一連のセッション録音のおかげだ、、、が、この演奏を聴く限りはイメージは「ドビュッシー」である。バルトークがドビュッシーを尊敬していたのは言を待たないことだが、ドビュッシーに必要な響きに対する細心の配慮、けっして濁った音をゆるさず、そのためにはマスの力で押し切るやり方はせずに、内面の過激さを押し殺し、作曲家的態度で明確に構築し五線のあいだに風の通るようなアンサンブルを作り上げ、フランスオケとフランスふうの音楽作りをした感がある。技術的に磨き上げられ、このオケにしてはミスの聴かれない所も特筆すべき点だ。流れを重視し楽想ごとの描き分けを極端にすることがないので耳馴染みはすこぶる良く(ショスタコを揶揄したフレーズも流れに自然に組み込まれ揶揄に聴こえない)、細かく整理されているとすら感じさせない自然な表現は、プロコフィエフの演奏によく似ている。よくバルトークでこれができたものだ。厳し過ぎず、爽やかなオケコンです。次第にブラヴォが叫ばれる聴衆にも共感。きわめて良好なステレオ録音。ina.frからはマンデリン(注:2016/11現在確認できず)、青髭、協奏曲2番(シェリング)伴奏の放送音源も配信されている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:管弦楽のための協奏曲(1943),○カンテルリ指揮NBC交響楽団(TESTAMENT/MUSIC&ARTS)1951/1/1放送LIVE・CDオケコン久し振りに聞いたがけっこう面白い。カンテルリ向きだ。録音状態はとても最上とは言えないが、颯爽とさばきまくるカンテルリによってとても分かり易い楽曲に整えられている。バルトーク独特の人を寄せ付けない理知的な晦渋が見事に昇華され、オケの機能性を駆使した非常にドライヴ感に溢れる魅力的な演奏となっている。これは録音は悪いが何度聴くにも耐えうる盤だ。インテルメッツオあたりのテンポ感がいい。こういう演奏で聞くとショスタコのレニングラード1楽章を揶揄したと言われる挿句も、とくに違和感無く全体の楽想の中に溶け込んで聞こえる。聞きごたえあり。○。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


バルトーク:管弦楽のための協奏曲(1943),○フェレンチーク指揮ハンガリー国立管弦楽団(KING,SEVEN SEAS)お国モノです。しかし前提条件として・・・私はこの曲がよくわからないんですよ(泣)。バルトークは無調風で金属的な音楽とやけに生臭い民族的な音楽を掛け合わせずにただ交互に並置したりして、後者は非常に楽しめるのだが、前者はどうも・・・わけわかめ(死語)・・・。バルトークマニアは何やらいろいろと熱いことを言うけれども、たいてい子供が現代音楽をただ珍奇さゆえにかっこいいといってしゃべっているようなモノがほとんどで、ぜんぜん伝わってこない。革命的やら強烈やらいう埃をかぶった60年代的文句は要らない。そこまで入れあげるならちゃんと説得力のある薦め文句を言って欲しいものだ、この種のクラシック・ファンには。なーんて言いつつも、この演奏のように颯爽として各声部ががっしり噛み合った演奏で聞くと、4楽章から終楽章にかけてはじつにスポーツ的に楽しめる。とくに4楽章の中断された間奏曲、例の「レニングラード」1楽章の「戦争の主題」のパロディと言われる旋律など、ここではまるでペトルーシュカに出てくるようなサーカスめいた生ぬるい音楽になっていて、その暖かい響きは郷愁すら感じさせる。これはやはり従来言われているような「皮肉」ではないのではないかな、その証拠に、「戦争の主題」の終止形を原形どおりではなくただ下降音形の繰り返しにすることで戦前のヨーロッパ的な風俗音楽に変容させている。ここで旋律を中断する「嘲笑」とされているペット他の掛け声はそういったサーカス風景を彩るピエロの曲芸のように聞こえてくる。フェレンチークの実直さのせいかもしれない。他の演奏で聞けばあきらかにショスタコーヴィチをただバカにしたように聞こえるのかもしれないが、まあ近現代音楽はいろいろな解釈表現の余地があるものであり、私はどちらかといえばこの演奏のように暖かくやっているほうが好きです。ちょっと鈍重な面もあるが、この演奏はそれなりに楽しめるので○ひとつ(前半楽章は知りません)。録音クリア。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:管弦楽のための協奏曲(1943),○フリッチャイ指揮ベルリン放送交響楽団(DG)1957初出オケ・コンは苦手な曲だ。ちっとも面白いと思わないのだ。ただ、クーセヴィツキー盤を聴いて、わかりやすい解釈をほどこしているからであろうか、ちょっと興味を抱いた。そこから少し逡巡してみて、やはりうーん、印象に残る旋律もなければ、めざましいオーケストレーションも無い。民謡旋律だけが妙に生臭くて、硬質の響きの中でおかしなバランスを保っている。独特だが、クーセヴィツキーが手放しで誉めるほど一般的な支持を得る理由がわからない。そんなところで、弟子フリッチャイの名演と言われる同盤を手に入れた。オケのせいだろうか、音響に重量感があり、曲に不思議な深みが加わって、何も考えなくても自然にバルトーク・ワールドに引き込まれる、非常に希有な経験をした。じっさいには併録の弦チェレのほうが感動したのだが(爆)、これは聞ける盤、と思った。モノラル。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


バルトーク:管弦楽のための協奏曲(1943),○ライナー指揮ピッツバーグ交響楽団(history)1946/2/4,5ライナーはシャープな指揮者だ。しばしばスポーツ的な感覚をおぼえる。この録音は音が古すぎるけれども、現代的なきびきびした指揮ぶりやドライヴ感はバルトークの娯楽的側面を巧くとらえている。じっさいかなり長い曲だけれども、緊張感が途切れることなく最後まで聞かせる演奏である。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:管弦楽のための協奏曲(1943),カンテルリ指揮ニューヨーク・フィル(ASdisc)1953/3/8LIVE・CDカンテルリはバルトークに対しては慎重にやや遅いテンポをとり、縦がずれないように苦心している。結果としてちょっと重ったるい演奏になってしまっている感もあり、録音の悪さとあいまって余り感興を感じない。こういうある意味繊細な音楽はクリアな音質でないと面白くない。演奏レベルがそれなりに高いのは認めるが、印象に残らない演奏といった感だ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


バルトーク:管弦楽のための協奏曲(1943),クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(NAXOS Historical他)1944/12/30live・CD,,初演直後のライヴ記録で、フィナーレは初版(カット版)によっている。それでなくとも現行版と違う(譜面どおりなのか?クーセヴィツキーだからなあ)この演奏、”オケ・コン”に親しんでいた向きには、違和感は否めないだろう。私自身は余りこの曲に親しんではいないのだが、精妙な響きの交歓と複雑なリズムの面白さを追う類の華麗にして精巧な組曲、という印象があったのに対して、余りにロマンティックな構成感に基づく「勢い」と「ぶ厚い」響き、曲の”ききどころ”が「古い国民楽派」側にシフトしてしまい、同時期のヒンデミットの、しかも出来のよくない管弦楽曲(何の曲?なんて聞かないでくれー)、あるいはロマン派を固持し続けたマイナー作曲家のしかも「どマイナー曲」を聞いているような、耳痒い感覚を覚えた。暗い熱気を帯びた楽想のがちがちとした構造物、錯綜し、「起承転結」がハッキリせず、掴み所の無いまま狂乱する駄曲に聞こえてしまう。「起承転結」を創り出す演奏家には向かない曲なのか、そもそも。でも、クーセヴィツキーの棒のダイナミズムはとくに舞曲にて破裂せんが如く荒れ狂い、例の間奏曲「レニングラード(ショスタコーヴィチ)」の揶揄とされる唐突な旋律も凄みを帯びて轟きわたりとても揶揄とは聞こえない。寧ろそのへんがききどころで、「夜の歌」を聞くべき悲痛な緩徐楽章は余り魅力的ではない。そうそれが、問題。いや、録音が悪いので、この演奏が本当に「魅力的ではなかった」のかどうか、実際のところはわからない。このオケは、各パート、おしなべて巧い。アメリカ亡命後のハンガリーの作曲家、悲惨な状況。既に病深く、シゲティやライナーを初めとした「業界」の友人に、”注意深く”支えられながらも、聴衆に媚びを売ること無く、孤高でありつづけようとした作曲家のプライドは高く、結果ひたすらの貧困が襲いつづける。理解されないまま自作の演奏機会を失われた作曲家は、自身の演奏活動にしても体力が続かず、ライフワークである民謡研究すら困難となる。1943年には病の為ハーバードでの折角の講義を中途で終わらざるを得ず、傷心のまま入院。結局リヴァーデイルの自宅を退き、サラナクのサナトリウムに滞在することとなる。まもなく明け渡すことになるリヴァーデイルの宅に、5月、福音のように舞い込んだ手紙が、世界一二を争うボストン交響楽団の盟主クーセヴィツキーからの、管弦楽曲作曲依頼であった。内容は明確な報酬金額の提示と簡潔な主旨(故クーセヴィツキー夫人の想い出に捧げること及び財団での手稿保存)以外の何も記載されない簡潔なものだったが、 4年という長いブランクを経て大曲依属の機会を得たことは、金銭的なこと以上に作曲家をこのうえなく喜ばせたという。まもなくクーセヴィツキーはバルトークの病床を訪れ、本依属には一切の強制力がなく作曲期間の指定なども無い、作曲できるときに作曲してくれればいい、という言葉と小切手を強引に残して去っていった、とされている。無論この件クーセヴィツキーだけの意志ではなく、ライナーらの助言があったことは言うまでもない。サラナクで回復の兆しが見え出した8月、バルトークは早速この依属作品に取り掛かる。没頭すればするほど病は回復に向かっていった。サラナクを去り、ニューヨークで校正を終え計算すると、作曲期間は僅か55日だった。それが全5楽章の大曲「管弦楽の為の協奏曲」だったのである。メニューヒンからの「無伴奏」依属など、これを嚆矢に作曲依頼や演奏機会は目に見えて増え始めた。しかしまもなく再び病が深まり、無伴奏ヴァイオリン・ソナタ後にはプリムローズからの「無伴奏」依属、ならびに妻であるディッタさんが演奏するための、完全なる私的作品「ピアノ協奏曲第3番」だけを選ぶことになった(言うまでもなく遺作となった作品群である)。冬も近いころメニューヒンが無伴奏を初演。カーネギーには称賛の嵐が吹き荒れ、演奏共々舞台に上った作曲家を感激させた。その5日後、1944年12月1日に「オケ・コン」は初演された。バルトークは医師の忠告を退け、ボストンへ向かい臨席した。希に見る大成功であり、クーセヴィツキーは「過去五十年における最高の作品」と熱弁した。譜面にはクーセヴィツキー在籍20周年及び70歳の記念に、とも記されている。クーセヴィツキーと「オケ・コン」の関係はこういったところである。この録音の「存在」はどこかで聞いたことがあったのだが、まさかナクソス・ヒストリカルで復刻されるとはおもわなかった。展覧会の絵(1943/10/9)とのカップリング、安いですよ・・・。この調子でクーセヴィツキーゆかりの現代音楽の、放送録音を掘り起こしていって欲しい。ハンソンの「ロマンティック」とか、コープランドの3番交響曲とか、絶対残っているハズ!・・・話しがシフトしてしまいましたね。聞き方としては、フリッチャイ、ドラティの定番やセル、ショルティらの精巧な演奏で触れてからここ(クーセヴィツキー)に戻る方がいいと思います。あと、雑音だらけのモノラル録音に慣れない方には(この曲では嫌だという向きにも)決して薦められません。,,,,後注)初演記録と称する盤も出ていた(既書、stradivarius等)がこの録音と同一と確認されている。pristineから周到なレストアのされたものが出たので未聴なら検討されても良いかと。ちなみに文中コープランドの3番の存在可能性に触れたが、まさにpristineで発掘復刻された(既書)。,-----,,,-----,,,-----,,,-----


バルトーク:管弦楽のための協奏曲(1943),クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(STRADIVARIUS)1944/12/1初演LIVE?・CDこの自称初演盤とナクソス盤は冒頭客席の咳が一致、各楽章の演奏時間からも同じものと断定できる。音質はラジオ放送を受信して録音したような感じでナクソス盤に比べ落ちる。但しナクソス盤は音をいじっているようなので好悪はあるかもしれない。また、ナクソス盤は演奏時間に明白な誤記があるし、録音月日についてどちらが正しいのかは微妙。カップリングのブラ1はMUSIC&ARTSから全集盤で復刻されたものと同じ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


バルトーク:管弦楽のための協奏曲(1943),ライナー指揮シカゴ交響楽団(RCA)1955/10/22素晴らしく見通しの良い演奏なのだけれども、あまり残るものが無い。4楽章のショスタコ7番のカリカチュアもはっきり聞き取ることができたが、はあ、あれこれ取りざたされるような大した引用でもないな、と思った。経過句的に使われているだけだ。ライナーもバルトークに師事しアメリカ時代にはよく面倒をみていたようだが、その音楽にはハンガリーを思わせる体臭のようなものが感じられない。垢抜け、スマートになりすぎている。シカゴ響という楽器の特性かもしれないが。なぜか併録の「キージェ中尉」組曲のほうが名演という・・・(苦笑),,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


バルトーク:管弦楽のための舞踏組曲,ケルテス指揮フィラデルフィア管弦楽団(PO)1970/2/6live放送・CD,,フィラデルフィア管弦楽団自主制作ボックスの中の一曲だが、時期の割に雑な録音は置いておくとしても、面白くない。リリカルな部分の響きの美しさを除いて民族性をまったく灰汁抜きしてしまいクラシックの語法の中に昇華してしまったようなもので、バルトークならではの民族的素材にもとづく気を煽る響き、リズム、メロディの存在は確認できるが、どれに対しても距離をとって整えていて入り込めない。オケの自発性もかんじられず指揮者のおっしゃるままに、という感じすらした。コープランドの自作自演正規盤を聴いているようだ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:劇音楽「中国の不思議な役人」,○ストコフスキ指揮ASO(SCC:CD-R)1969/5/19live(2回分),,同日同プログラム二回公演というのが普通にあったのだが、これはその両方を収録したもの。但し録音状態に違いがあり、二つ目に収録されているほうがマイクが近く音が粗い。一つ目のほうがクリアで非常に聴き応えがあり、ともすると拡散的な響きでリズム性を損なうこともあるストコがトスカニーニ的な集中力をもってやり切っているさまが清清しい(共にブラヴォの嵐だが)。バルトークの描いた細かい音符の細部まで瑞々しい感性で引き立てており、小虫の這いずるような痙攣的トリルの応酬から打楽器群を駆使した大音響のオリエンタリズムまで、スペクタクル的なところにとどまらない感興をあたえる。東欧からロシアの作曲家の描くオーケストラの色彩は私にはしばしば七宝焼きの強い原色に感じられ敬遠しがちなのだが、この曲がそうということもあるしバルトークがそうということもあるけれどもフランス的な軽さがスクリアビン的な気持ち悪さを払拭した演奏として、好感をもった。もちろん正規録音でないという意味で◎にはしない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:弦、打、セレスタのための音楽,アンセルメ指揮NBC交響楽団(DA:CD-R)1949/1/8live,,アンセルメは速い楽章の動き出しが常に遅い。すぐに流れができるのだが、ザッツを数学的にあわせようとしすぎているような、国民楽派音楽ではスタジオ録音でさえ萎縮したようなものを感じることが多い。この音楽は精密機械指向の強いアンセルメ向きではあるが同時に即興的な動きというか感情的な動きを、ギチギチの弦楽アンサンブルで即物的に表したような部分も多く、2楽章(「マルコヴィッチの穴」で使われた)では実際はそれほどでもないにせよ相対的には異様に乱れたような冒頭の印象を持つ。オケにそれほど機能性が感じられず、もしくは相性が悪いのかもしれないがバンスタ常任時代のNYPのアバウトさを想起した。響きへの配慮は素晴らしいが、オケに染み渡っているとはいえないようにも思う。あと、録音が悪すぎる。もう殆ど鑑賞に値しない。貴重な時期の録音ではあるが、無印。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:弦、打楽器、チェレスタのための音楽,クーベリック指揮ACO(RCO)1959/10/20live・CD,,録音はモノラルで放送レベル。一楽章が弱音で大人しめだったのが、やはり二楽章にて重い響きで突進するような、ドイツ的堅牢さをもった小フルトヴェングラー的演奏により一気に盛りあげる。音色を含む起伏の付け方が明確で聴き応えある。コンセルトヘボウはかくもシェフによって力量の見せ付け方を違えてくる(ピアノの技量ふくめ細部はともかく)。クーベリックはバルトークの楽器の用法や響きの創意をしっかり汲み取って、その個性をより灰汁強く打ち出し、単なる勢いの音楽にはしていない。同じ血が流れているのではないかというほど寄り添った部分もある(きほん血気盛んな人なのでバルトークの繊細さは無いが)。デフォルメされた奇怪な音楽なので寝起きにはちょっと辛いが真実に触れている。悪い録音でも要点は押さえて聴こえるので良い。終楽章冒頭の弦のトリッキーなトゥッティが揃うかどうかで指揮者がバルトークにしっかり取り組んだかどうかがわかるが、ここはもう完璧に力強く合っている(ライヴでは珍しい)。薄くなるでもなくここまでできている、鮮やかだ。なかなかこう力強く民族舞曲を煽った演奏記録はない。オケの集中力も並ではない。太鼓の煽り方も丁々発止で凄まじい。緩徐部のうねるような半音階もハーモニーをしっかり重ね迫力を維持する。ACOの弦楽器はコンドラシンのライヴ記録もそうだったが時々こういうことをやるから看過できない。変な恣意的変化は付かないが楽想に沿って柔軟にデフォルメしクライマックスをしっかり作って終わるのも聴きやすい。拍手切り捨ては惜しい。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:弦楽、打楽器、チェレスタのための音楽,"コンドラシン指揮モスクワ・フィル(eternities)1969/2/26live",,これは素晴らしい。録音が良くなく一部ボロボロで、痩せた音に残響を加えたような(というかホール残響だろう)ところに音量が大きくなるとカットされて抑えられてしまう感じは、演奏そのものの印象を不当に貶めかねないが、耳をすませて聴いていてもこの分厚さにもかかわらず、それと認定しうるミスが無く、強い適性を感じる。モスクワ・フィルはブラスが無いとこんなに完成度の高い演奏ができるのか、と不穏なことすら口にしてしまう。三楽章の毒々しさも素晴らしい。終楽章冒頭の激しいピチカート(これはバルトークピチカートと呼ぶのか?)がびしっと揃っている時点で勝ちなのだが、もっともこのライヴ、やや疲れてきたっぽいところもあって、激しい動きで弦の若干のバラけも出てきてしまい、構成感が半端で最後断ち切れるように弱く終わるから、拍手も通りいっぺんの感じだが、まあ、ソ連の聴衆なんて他所の現代曲には冷たいもので、上手くいっても反応は同じだったのかもしれない。コンドラシンにはバルトークの録音が無いわけではなく、いずれ今風の精緻なものではないが(バルトークはミスを許さずひびきの精緻さを追求すべきという意見なら聴かないこと)、いかにこの時代の現代曲において聴衆との接点を保ちつつ、高度な技巧や発想をつぎこんだ意欲作で、他を寄せ付けない魅力的なものであったかは、クーセヴィツキーが振った数多あるアメリカ現代作品の録音と比べると一目瞭然、その時代のオケのスタイルを前提として書かれたとすると、コンドラシン・モスクワフィルのコンビはまさにその道を行っているから、むしろ正統と言っても過言では無いと思う。悪名高いクーセヴィツキー流の改変は無い、クーセヴィツキーに欠けている色彩感もすごいから、機会があれば聴いてみると楽しいと思います。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:弦楽、打楽器、チェレスタのための音楽,○コンドラシン指揮モスクワ・フィル(MELODIYA)1974・CD,,コンドラシンにこの曲では超ドライな演奏が期待されるがソヴィエト時代のものであることからしてオケにやや不利があり、ライヴのようなバランスの悪さがぼわっとしたロシア独特のいびつな音響となって曲のスリムで無駄のない構造を侵している。コンドラシンの求心力もムラヴィンほどではない、と感じる。コンドラシンはムラヴィンが振らない外国の曲の録音をたくさん強いられていたようだが、いずれもやや個性に欠ける感もあり、またイメージとは離れた感情的な演奏に仕上がっている場合もある。これもやや感情の起伏がオケの音にあらわれ、ドライさが失われている。○。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------


バルトーク:弦楽、打楽器、チェレスタのための音楽,シェルヒェン指揮スイス放送管弦楽団(tahra)1954/10/23live・CD,,三楽章の尖鋭な響きの交錯にシェルヘンの本領を聴いた。一楽章ははっきり言ってパッとせず、二楽章もシェルヘンにしてはキツイ表現もなくそれほどバラケもせず、良い意味でも悪い意味でも期待値を満たさなかったが、現代の目から見て技術的にはどうかわからないが、比較的よく音像が捉えられているせいもあってか、前衛的に美しく、説得力がある。四楽章はさすがに冒頭のもともと無理のある弦楽器はバラケ感を感じさせるが(シェルヘンらしい極端な表情付けによるバラケはこの後やっと出てくる)、同曲らしい激しさが増してくるとギリギリ縦のズレない程度にいつもの強い調子で、若干ドイツ臭く重厚なロマンチシズムも交えながら、もちろん今の演奏様式からすれば古風なんだろうが、当時としては斬新であったろう表現主義的な解釈のもと、きちんと構成感ある演奏に仕上がっている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:弦楽、打楽器、チェレスタのための音楽,バーンスタイン指揮バイエルン放送交響楽団(HUNGAROTON)1983/11/15ブダペストLIVE,,ユニセフのチャリティ名目で当時契約していたDGとの折り合いをつけ発売されたライヴ盤。バンスタの振る無調や12音の緩徐楽章はとても抒情的だ。どんな硬質なゲンダイ音楽もベルクのようにぬるまゆく響く。この曲の1楽章なんかでもそうで、冷え冷えとしたバルトークの荒涼が苦手な私はこの楽章すごく嫌いなのだが、例外的に楽しめた。管楽器を欠く打楽器と弦楽器だけのアンサンブルで革新的な響きを生み出したと賞賛する割に弦楽器の本来的な抒情を無視する演奏家の多い中、この演奏のレガートはマーラーを彷彿とするまでに音楽的だ。3楽章からの流れもよい。逆に2楽章のような音楽には甘さが感じられる。引き締まった筋肉質のアンサンブルのみが追求されているから、そこに解釈はいらない。弦楽器は抒情などいらない。機械的に組み合い、スポーツ的な快楽を与えられればそれでいい。だからバンスタにはやや不利である。勿論テンションの高さが売り物のオケだから、ライヴということもあり結構楽しめる演奏にはなっている。これでスピード感さえあれば、とさえ思った。とくにフィナーレ最後の落ち着きぶりはどうかと思った。女性のブラヴォが入るけど。無印。 ,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:弦楽、打楽器、チェレスタのための音楽,ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(DA)1957/7/27タングルウッド音楽祭live,,「マス」で押し切るタイプの演奏で、「組物」をスリリングに聴かせるタイプでは無い。オケ総体の異様な勢いで(もちろん最低限骨格は組み上げた上で)アンサンブルガーと言う口をつむらせてしまう、いつものミュンシュである。といっても始まる直前なのにオケが異常にさらっている音が聴こえてきて、この曲の難曲ぶり、さらに個々の奏者のレベルの高さもちょっぴり伺い知れる。バルトークは巧妙にマニアックで特殊な書法を隠すから前衛っぷりが見えにくいのだが、1楽章(ミュンシュは重い響きでいきなり聴かせにくる)みたいなロマン性を持たない緩徐楽章である3楽章では、弦のポルタメントやピアノや打楽器の散発的な音などクリアにひびき、バルトーク独特の抽象世界がちゃんと展開されている。四楽章は冒頭から少しテンポが遅めに感じる。厳しいアンサンブルを要求されるここではどうしても乱れが目立ってしまうが、もう押し切って盛大な拍手。,,残念なのは録音が悪いこと。ノイズ塗れなのはDAにはよくあったことだ(DAもSLSも「音が良い」と喧伝する向きには注意、これらは一般的な意味で音が良いとは言えず、ノイズ込みの「情報量が比較的多め」と言うべき代物だ)。一応ステレオであるものの分離は悪く(そも昔のステレオ放送なんて「単焦点」みたいな感じでしたね)、高音域が伸びず終始こもってそこに常に放送ノイズが乗り(エアチェックだろう)解像度が悪い。複数種類のノイズが不規則に重なっているため調整でどうにかできるものでもない。音源の希少性だけの価値と言っておく。音の情報量はこちらのほうが上にもかかわらず、聴きやすさではSLSの別録音のほうがましかもしれない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,


バルトーク:弦楽、打楽器、チェレスタのための音楽,ロザンタール指揮ORTF(ina配信)1969/3/26 放送live,,整えに走ってしまったか、という感じはする。それは二楽章の遅さに現れているが、ロザンタールは師匠ラヴェル作品のセッション録音を聴いても元々そういう解釈をするところはあり、響きが明るく軽く綺麗に整えられ抒情味すら醸す後半楽章には魅力を感じなくもない。曲自体の内包する要素を薄く延ばしてしまったような、構成が散漫な印象だが、四楽章は冒頭ピチカートよりバラケずしっかり構築されている点(編成が小さい可能性大)、聴き応えのある部分も。拍手はごく普通。録音が良好で特にピアニストは粒立って光っている。全楽章ある。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:弦楽、打楽器とチェレスタのための音楽,○コンドラシン指揮モスクワ・フィル(放送)1969/2/26live,,どうにも荒いのだが力感と推進力はさすがコンドラシン。録音のせいでよれる部分があるのは惜しい。この曲はコンドラシンにあっている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:弦楽、打楽器とチェレスタのための音楽,◎フリッチャイ指揮ベルリンRIAS交響楽団(DG)1954初出これはもう何も言うことがない。面白いし、名演だ。2楽章の引き締まった演奏。終楽章の一糸乱れぬ開始部から主部への流れよさ。古い演奏だと終楽章の冒頭が乱れてグダグダになっているものが多いが、このモノラル録音は違う。何がそうさせるのだろう、という気合いが感じられる。ドイツのオケにフリッチャイはすばらしい。とくに弦楽器の表現の豊かさに拍手だ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


バルトーク:弦楽、打楽器とチェレスタのための音楽,○ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(PRAGA)1967/5/24プラハLIVE・CDずいぶんと荒っぽく感じられるかもしれないが、マイクが演奏家に異常に近いため(しかも古いステレオ録音で各々の音場が極めてはっきり分離しているため)そう聞こえるのであり、意識して聞けば豪腕の演奏家たち、とくにヴァイオリンの張り詰めた緊張感を感じる事ができる。2楽章や終楽章など、対向配置のヴァイオリンパートの応酬が激しいステレオ効果をあげていてスリリングだ。バランスや音質的に問題があるので大推薦とまではいかないが、曲に慣れてきたらこういうのも面白いだろう。メロディヤ盤の完成度にはとても及ばないが、ライヴとしては上々。*ただし偽物の可能性もある。ムラヴィンスキーの録音はいろいろとマスタリング違いのものが出回っており、まるきり別物に聞こえることがある。PRAGAは札付きのレーベルで、MELODIYA盤の加工品をライヴ録音として出しているものがあるとのこと。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


バルトーク:弦楽、打楽器とチェレスタのための音楽,◎ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(RUSSIAN DISC)1970/10/12LIVE・CD,,物凄い演奏。モノラルだしあまりいい条件の録音ではないが(マイクがファーストヴァイオリンに近すぎる!)、だからこそ何か得体の知れぬ迫力があって凄い。猛獣のような力強さが極限まで凝縮され、さらにギリギリ締め上げられていく、その悲鳴、その軋みがピシピシ聞こえてくる。アンダンテとアダージオはやや粗く感じられるも、ふたつのアレグロ楽章の異常なまでにビシビシ決まるアンサンブルは聞きごたえがある。完璧だ。完璧を越えて暴力的にすら感じられる凄まじい走句の応酬、技術的にどーのこーの言う前にもうこれは紛れも無い「音楽」であり、有無を言わせない。終楽章で両翼展開したヴァイオリンがかけあいをやるところでは、ファーストが異様にでかく聞こえ、モノラルでも擬似ステレオ感覚が味わえる(ようはセコバが相対的に小さく聞こえるということ)。ムラヴィンスキーの厳しさが小気味良さとなってつたわる一枚。◎。,,*ロシアン・ディスクは周知の通りアバウトなレーベルで、ムラヴィンスキー夫人の怒りを買っていた(にもかかわらず公認と印している盤がある)。粗悪な未許可ライヴ盤を多く出しているが、データが誤っていることがしばしばある。オケ名を誤っていた事もある。メロディヤ等の粗雑な復刻モノも多いが、これでしか手に入らないCDも多いのも事実。,,,"→こちらはmelodiyaの有名な録音で、国内レーベルやscribendumからも復刻されたムラヴィンスキーの1965年ライヴ。平林直哉氏が原盤より状態の良いと思われるテープより復刻、周到なライナー付きで再発されるとのこと。私はこういうのはまったく興味が無いが、お好きならどうぞ>HMV",-----,,,-----,,,-----,,


バルトーク:弦楽、打楽器とチェレスタのための音楽,エネスコ指揮フランス国立管弦楽団、リパッティ(p)(TAHRA)ブザンソン音楽祭1951live古い録音のせいもあろうが余り器用な演奏とはいえない。オケの統率がいまいち。テンポも遅くとり「正確さ」をねらうあまり、民族的な色彩が消え面白味に欠けるところも。有名な2楽章や4楽章はオケのパワーを見せつける重要な部分だが、諸所に耳を惹くところはあるものの、、全般の印象・・・どうも古い録音にはいいものがない。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


バルトーク:弦楽、打楽器とチェレスタのための音楽,カンテルリ指揮NBC交響楽団(ASdisc/MUSIC&ARTS)1952/12/13LIVEこれもやはりやや遅いテンポで縦をそろえるのに精一杯という感じがする。NBCはいくぶん技術的余裕があるものの、ギリギリの緊張感を要求する場面ではテンポ感が若干おかしくなる。やはり重い。全般まあまあではあるが、推薦するまでには至っていない。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


バルトーク:弦楽、打楽器とチェレスタのための音楽,カンテルリ指揮ニューヨーク・フィル(stradivarius)1954/2/28liveカンテルリはじつにいろいろ振っている。何でも屋と言うのにはいささか躊躇するが(あまり成功していないと思われるものも少なからずある)、曲によってはぴたりとハマってとてもいい。このイタリア盤の演奏は精度の面では現代多々ある機能的にすぐれたオケ・指揮者のものには負けるが、曲が進むにつれどんどん熱気を帯びてきて、カンテルリの節度ある棒さばきのもとに華麗にまたは怜悧に表現するニューヨーク・フィルに感銘を受けた。録音がすこぶる悪く、とくに低音の分離が悪いのが致命的だが、おそらく実演は大成功だったのではないか。その残滓を聴きながらそう思った。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


バルトーク:弦楽、打楽器とチェレスタのための音楽,シェルヒェン指揮SUEDOISE RADIO O.(TAHRA)1954/12/23複雑精妙な機械仕掛けのハーモニーとアンサンブル、こういう曲はそういう機能的指揮者にやらすべきであって、勢いや独特の解釈で聞かせるたぐいのシェルヒェンはばらばらとばらける音響を無理から力で押し切っている。同曲、映画マルコヴィッチの穴でマペット人形の踊りに使われていたが、この演奏では使えまい。シェルヒェンの悪い所が出た演奏。もうちょっとパート間の音量を計算して響かせることに気をつけたらいいのに・・・とここまで書いて、オケの機能にゲンカイがあったのかもしれない、指揮者のせいだけではないかも、と思った。だって難曲も難曲なんだから!,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


バルトーク:弦楽、打楽器とチェレスタのための音楽,バーンスタイン指揮バイエルン放送交響楽団(SARDANA RECORDS:CD-R)この曲にしては鋭さが足りない感じは否めないが、静寂の表現の深さ、不協和音の豊穣なひびき、民族音楽的色彩の強調など、バンスタらしい長所が聞かれる。やはりバイエルンはちょっと技術に不安があるが、適度な集中力で聞かせる力は失っていない。もっとギチギチな演奏家によってかなでられるべき曲ではあるが、こんなロマン派心を持った演奏もたまにはいいかも。両翼展開したヴァイオリンが掛け合いをやる場面は面白い聴感だ。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


バルトーク:弦楽、打楽器とチェレスタのための音楽,マデルナ指揮フランス放送フィルハーモニック管弦楽団(ARKADIA)1971/4/9LIVEライブで専門指揮者じゃない作曲家の棒になるものとしては、こんなものが限界なのかもしれない。だらしない演奏になっているのはマデルナ・ライヴの常と言っていいし、むしろマデルナならではの面白さを汲み取って聞くべきだろう(そうでなければ、マデルナを聴くのはやめましょう)。アンダンテやアダージオの荘重で悲愴な音楽はバルトークらしからぬ情感を煽る。弦のひびきが美しい。対して有名な2つのアレグロ楽章では雑然としたまとまりのなさを露呈。それでもステレオ効果を狙ったヴァイオリンの対抗配置の妙は辛うじて聞き取れるし(ちなみに珍しくステレオ録音)それなりに聞ける。ただ、こういう音楽はやはり硬派な楽団に硬派な指揮者で聞くべきであり、高度にメカニカルなこの楽曲を忠実に再構成できるほどの機能性を誇る楽団がやるべきなのだろう。,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


バルトーク:弦楽、打楽器とチェレスタのための音楽,ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(MELODIYA/BMG/SCRIBENDUM/Grand Slam)1965LIVE・CD,,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,,


バルトーク:弦楽、打楽器とチェレスタのための音楽,ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(ORGANUM他)1962/2/10ブダペストlive,,ここに立ち返ると物凄く厳しい演奏で、息が詰まる。熱量の高く目の詰まった演奏ぶりは、目前にしたら唖然としたであろう激烈なアンサンブル、ピアノが出てくるとホッとするくらい弦楽が凄い。雑味もいとわない音が激しくて焦燥感しかない。もはや楽章間の対比がどうやら言うレベルではなく終始強烈な音が途切れず、息が詰まる。終楽章にてロシア式の呻くようなポルタメントを交えた表現が出てくると、音楽の高揚に逆行して滅滅としてくる。色彩感がなく、険しい不安な光景。ただ、これは元はラジオ放送されたもので、かなり不安定で穴もあるモノラル録音(ORGANUM盤は安定していると聞いたが未聴)。そのせいで実態が歪んで伝わっている可能性が高いのは、ムラヴィンスキーの実演に触れた人間のことばからも明らかだ。最盛期には録音に収まりきらないほどの情報量をぶつけてくるコンビだったようだ。ムラヴィンスキーに対する無用な不安感を抱かないために、最近プラガからドヴォルザークホール(スメタナホール)ライヴがリマスターSACD復刻されたので、ライヴならそちらを聴くほうが良いだろう。この放送ではブラ4、ライモンダなども録音されている。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:弦楽器、打楽器、セレスタのための音楽,○カンテルリ指揮NBC交響楽団(DA:CD-R)1949/1/29LIVE,,目の覚めるような演奏。ワザ師カンテルリ面目躍如で、鮮やかに構造をさばき整理しつつ求心的にぐいぐい引っ張っていくやり方が曲にぴたりとあっている。腕におぼえのある楽団もトリッキーな曲に向いている。民族性の匂いのない無機的なところもあるが、熱気は凄い。録音マイナスで○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽,ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(SLS)1958/3/14live,,二、四楽章など専門室内楽団ではないにもかかわらずなかなか見事な出来栄えで、技巧的にすぐれたオケと、指揮者自身の懐深さも感じさせる。むろんザッヒャーの楽団を筆頭とする精密器械的な鋭さには欠け、一楽章は鈍重にも感じさせる曇ったロマン性を浮き彫りにさせてしまうが、それも次の楽章で払拭される。ピアノをはじめとする打楽器ないし打楽器奏法の横溢交錯は聴き応えある。ただ筋肉質にとりまとめただけではない、ある程度はオケ自身の各パートのアンサンブル能力に任せて成功したのであろう。ちょっと意外な佳演だった。民族性にも溺れない。ブラヴォが一声飛ぶ。同曲はDAより別録音が出ていた。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:弦楽合奏のためのディヴェルティメント,◎タファネル・アンサンブル(ducretet thomson),,素晴らしい音なのである。この音はこの時代の演奏でしか聞けない。厚みのある、人の肌の温もりのある音。この太い音の艶だけでも飯一杯いける。弦楽合奏はこうでなくては。もちろんソリストが圧倒的な表現力を発揮しているがそれだけではない、合奏メンバー全員がその主張をあわせてスリリングな饗宴を繰り広げる。まさにディヴェルティメントだ。ぞっとする演奏というのがたまにはある。これはその一つだった。裏面のランドスキが目的だったのだが、この演奏でバルトークのローカリズムと前衛の融合という独特の世界が、けして我々の今生きている世界からかけはなれたものではないと感じた。面白い。◎。,"",-----,,,,,,,,,,,,


バルトーク:弦楽合奏のためのディヴェルティメント,○フリッチャイ指揮ケルン放送交響楽団(medici)1953/5/4・CD,,如何にもフリッチャイな四角四面さがあり、編成も大きく交響曲的な想定のもとに作られた演奏であるようだ。ディヴェルティメントの交錯する音のスリルが損なわれており、面白くない。今風の演奏といってもいい。音質は東欧的な金属の肌触りのもので、これも協奏的な部分を楽しむにはちょっと艶がない。無難さで○にしておくし、響きの純粋さは特筆できるが、どうなんだろう。,"",-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------


バルトーク:弦楽合奏のためのディヴェルティメント,○ルーカス・フォス指揮ジンブラー・シンフォニエッタ(TURNABOUT/UNICORN)LP,,こういう曲にジンブラーは合っている。神経質に細い音を絡み合わせていくような演奏ではなく、透明感を損なってでも音楽の力と魅力を押し出していく。だから精度という点では現代の観点からは少し劣るかもしれないが、引用旋律など強調され理解しやすい。曲に好き嫌いはあろうが、バルトークが苦手な向きには薦めやすい。○。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:弦楽四重奏曲第2番,○ブルガリア弦楽四重奏団(HARMONIA MUNDI),,苦手です、バルトーク。いきなりそれはないだろうと思われるかもしれないが、よその国の、しかもかなりアクの強い暗い民謡音楽を、無調的に再構築しなおしたような作品と言うのは、私にとってよその音楽でしかないんだなあ、と思った。無調を聞きたいときでも、この構造的に整合し演奏的に整然とした綺麗な音であっても聞きたいと思わないだろう。確かに弾けば面白いと思う。しかし・・・ショスタコ晩年より聞きづらい・・・ちょっとまだバルトークというよりは同時代の無調作品の香りがする。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:弦楽四重奏曲第4番,○ギレー四重奏団(concerthall),,ギレー団は巧いなあ。。惚れ惚れするような腕と力感、しかし中間楽章での硬質な印象派的情景の描き方もすさまじく繊細で巧い。録音が旧いのでちょっと小粒に聞こえるところもあるかもしれないが、アメリカ往年の室内楽がどのようなレベルだったかがしのばれる(今もそうかもしれないが)。よく20世紀最大のカルテット作家にショスタコを挙げるマニアがいるが、優劣はつけられないものの、影響範囲の広さ、技巧の開拓者としての功績を考えてもバルトークの位置は揺るがないように思う。人好きするかどうかとベートーヴェンぽくない、この二点だけでバルトークのカルテットは日本ではやや分が悪いかんじがする。でも、書法を分析するまでもなくこの作品あたりの緻密さ隙のなさは神がかっている。やはりドビュッシイストであったバルトークの過去がフランスふうの香気をはらむ要素はあるとはいえ、単なる民謡・舞曲編曲にしか行きえなかった国民楽派室内楽の、知性の側面で状況を打開できた唯一の例であると思う。アマチュアが立ち入ることを許されないリゲティ的な清澄さをあわせもつ特殊奏法の饗宴、書法のプロフェッショナルさを抜きにしてもアイヴズとまったく同傾向の新しさをはなつ和声にリズム、よく集中しないとよさがわからない可能性もあるが、しかしギレーは巧い。○。私はバルトーク苦手だけど。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:三つのルーマニア民族舞踊Sz.68,○ストコフスキ指揮CBS放送管弦楽団(SCC:CD-R)1954/2/7放送live,,短い民謡編曲でバルトークにあまたある無邪気な小品だが、ストコフスキにかかるとひときわ無個性にひびく。弦楽アンサンブルを操るのが上手い指揮者だが横の動きに縦が流されてしまう傾向はあり、アタックが弱くハーモニーのはっきりしたメリハリが聞き取れないところにも起因しているのだろう。ただ、とにかく聞きやすいことは確かだ。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:青ひげ公の城,トロヤノス(msp)ニムスゲルン(b)クーベリック指揮NYP(NYP)1981/3/27live・CD,,きわめてダイナミックな演奏でauditeのマーラーライヴが出るまでは生演奏を聴いたことのない人にとって「中庸」の印象であったクーベリックの、ニューヨーク・フィルという強力な軍兵を得ての演奏ぶりに驚かされるものであろう。録音が優秀なステレオであり正規音源らしい音質でこれもまた良い。ソリストはクーベリックのバックに負けることなく劇的な歌唱を繰り出しておりいささかウンザリする長さの曲とはいえ最後まで聴かせる力はある。前期的なドビュッシーふうのイマジネーションもあわせもつ曲で、その点で食い足りなさはなくはないが、バルトーク的な独特の民族様式が顔を出すところはしっかり聴き取れクーベリックのスタンスもわかる。この曲の演奏ではなかなかのもの。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:組曲 op.14,◎作曲家(P)(HMV,HUNGAROTON)1929/11・CD,,テストテイクも収録されている。私がバルトークでは一番好きな曲集でとくに一楽章はバーバリズム過ぎず、硬質な書法にもかかわらず叙情味を感じさせる妖しい和声展開や不協和音による打音のスマートな挿入がいい。ピアニストならではの技術的余裕を背景に、特有の民族性をスピーディで的確なタッチにより昇華させた表現にはすかっとするものがある。録音は悪いが聴く価値あり。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------


バルトーク:組曲「中国の不思議な役人」,マルティノン指揮ORTF(warner,icon,ina)1971/6/24シャンゼリゼ劇場live(1971/10/31放送)・CD,,これもina音源で、ina.fr配信のものと同じかもしれない。比較的新しい録音のためライヴであってもめくるめくドギツイ色彩とパラードのような至極諧謔的な雰囲気、ストラヴィンスキー火の鳥の遠いエコーのような(野蛮主義であってもハルサイからは遠い)、やはり劇音楽であったことを匂わせる筋書きめいたものに沿った不可思議な音楽がよく浮き彫りにされている。マルティノンのような人は新古典主義の音楽より、こういった複雑な音楽を鮮やかに捌き拡げるほうが向いているように思う。スクリアビンのように幻想的で、えげつなさすら感じさせる重層的な響きは、つねに焦燥感を抱えながらもどこかしら楽しませる要素があり、それはやっぱり鮮やかな指揮と録音によるところが大きいし、オケもよく演じきった、この明るく美麗な音色でやってくれると土俗的なくぐもりが払拭されてとてもいい。管楽器群がとにかく、よくやっている。客席からはブーのような声が聴こえるがこの曲なら仕方ない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,


バルトーク:第一ロンド,ディッタ・バルトーク(P)(VIBRATO)1944ブルックリン博物館live,,音数が多くなく平易な、両端部は子供の音楽の様相をていするが、中間部の重音の民族的というより呪術的な響きや、最後近くの速弾きはさりげなく全体の雰囲気の中に沈潜させるのがなかなかたいへんそうで、でもディッタはすこぶる上手い。楽しく聴ける。破綻のない演奏。録音は悪い。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:中国の不思議な役人,マデルナ指揮モンテ・カルロ国立歌劇場管弦楽団(SLS他),,恐らくSLSは正規セッション録音の焼き直しだが元レーベルを調べるのが面倒なので省略(舞踏組曲ならびに既出のマーラー7番との組み合わせ)。音はすこぶる良く現代のステレオ録音レベル、マデルナがそもそもそれほど古い人ではないことを再認識させる。セッションだけあって演奏精度は担保され、マデルナ的に崩したようなところはなく(これは面白さの意味では残念だが、作曲家マデルナはわりと現代音楽に近づくに連れまともな指揮をするようになる)、フランス的なカラフルな管弦楽と繊細な響きによりバルトークの野蛮主義がまだストラヴィンスキーの域へも自らの民族主義的作風へも達していないことを示している、そこをよく抉り取って、明確に力強く提示している。細かなところや知的な構成のみならず、迫力のある音響とシニカルな味わいをしっかり出している。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:田舎の午後,ディッタ・バルトーク(P)(VIBRATO)1944ブルックリン博物館live,,民謡を使った民族的作風だがバルトーク的な異化作用により、少ない音と鐘の音のような響きのかもす孤独で空疎なぽっかりした空間が演出され、メロディアスとも言い難い瞑想的世界が展開されている。ディッタはやや平板か、曲のせいか。録音悪し。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


バルトーク:二台のピアノのための組曲 OP.4B(1943),ディッタ・パーストリ・バルトーク(P)コメンソリ(2ndP)(HUNGAROTON),,管弦楽組曲第2番(1905-7,20改訂,43改訂)からの編曲。かなり長々しい曲だが、民族的で平易な曲想ゆえ硬派なバルトークが苦手な向きは寧ろ聴き易いだろう。ドビュッシーの影響が強かった初期バルトークの詩情が漂っている。私のLPは状態があまりよくないのでなかなか入り込めなかったし、ディッタ夫人のピアノもやや硬い(でも繊細なフレーズはとても美しくスマートに決まっている)。今はCDになっているのだろうか?無雑音のCDならきっともっと楽しめたろう。ここでは無印にしておく。ディッタ夫人のレコードはフンガロトンに沢山ある。ミクロコスモスなど比較的平易なものが多いのはディッタ夫人の技巧の限界ゆえかもしれない。この演奏を聞くかぎりでも余り器用とは言えないから。ステレオ。 ,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,


バルトーク:舞踏組曲,マデルナ指揮モンテ・カルロ国立歌劇場管弦楽団(SLS他),,恐らくSLSは正規セッション録音の焼き直しだが元レーベルを調べるのが面倒なので省略(中国の役人ならびに既出のマーラー7番との組み合わせ)。音はすこぶる良く現代のレベル。演奏はゴージャス感まで感じさせるフランス風のカラフルで爽やかなもので、バルトークがドビュッシーに影響されているのもそこはかとなく感じ取れる。しかし題名がそのまんまだが既に民族主義に立って民謡リズムや旋律構造をはっきり取り込んだ作品となっている。バルトークの腕もあるのだが、マデルナも民族的ロマン主義というような生臭い部分は構造の一部として抽象化し、あくまで音要素として理解し、強調した結果、ほとんど民族臭のしない清潔だが暴力的な舞踏に帰結、けっか余所者にも聴きやすく仕立てられている。わりと簡素な曲で、すぐに民族舞踏的な煙が立ちそうなものだが、終盤は少し手綱はゆるくなるところもあるものの、派手で効果的な音楽を押し進める手腕は作曲家の余技の範囲ではない。,-----,,,-----,,,-----,,,-----,,,--------,


http://ryookabayashi.sakura.ne.jp/2019/naha.html
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/804.html#c3

[近代史5] 音楽関係ブログ 中川隆
4. 中川隆[-16082] koaQ7Jey 2021年10月07日 09:44:24 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[16]
20世紀ウラ・クラシック!<本拠地>
http://20urakura.blog67.fc2.com/

このページは、主に19世紀末から20世紀の末流ロマン派クラシック音楽に焦点を当て、同時代の録音を中心に紹介しています。


20世紀ウラ・クラシック!:ヘッダー
https://ryookabayashi.sakura.ne.jp/2019/20urakura.html


湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)
過去記事検索用のページ
https://blog.goo.ne.jp/r_o_k/e/d805224da31d4f8afe46874ab085b7c8

アイウエオ順の全記事
http://ryookabayashi.sakura.ne.jp/2019/urakura.html


http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/399.html#c4

[近代史5] 20世紀ウラ・クラシック!
20世紀ウラ・クラシック!<本拠地>
http://20urakura.blog67.fc2.com/

このページは、主に19世紀末から20世紀の末流ロマン派クラシック音楽に焦点を当て、同時代の録音を中心に紹介しています。


20世紀ウラ・クラシック!:ヘッダー
https://ryookabayashi.sakura.ne.jp/2019/20urakura.html

湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)
過去記事検索用のページ
https://blog.goo.ne.jp/r_o_k/e/d805224da31d4f8afe46874ab085b7c8

アイウエオ順の全記事
http://ryookabayashi.sakura.ne.jp/2019/urakura.html


http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1160.html

[近代史5] クラシック音楽名曲集 中川隆
12. 中川隆[-16081] koaQ7Jey 2021年10月07日 09:46:44 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[17]
20世紀ウラ・クラシック!<本拠地>
http://20urakura.blog67.fc2.com/

このページは、主に19世紀末から20世紀の末流ロマン派クラシック音楽に焦点を当て、同時代の録音を中心に紹介しています。


20世紀ウラ・クラシック!:ヘッダー
https://ryookabayashi.sakura.ne.jp/2019/20urakura.html

湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)
過去記事検索用のページ
https://blog.goo.ne.jp/r_o_k/e/d805224da31d4f8afe46874ab085b7c8

アイウエオ順の全記事
http://ryookabayashi.sakura.ne.jp/2019/urakura.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/398.html#c12

[近代史5] クラシック音楽 _ 伝説の名演奏家 中川隆
39. 中川隆[-16080] koaQ7Jey 2021年10月07日 09:47:09 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[18]
20世紀ウラ・クラシック!<本拠地>
http://20urakura.blog67.fc2.com/

このページは、主に19世紀末から20世紀の末流ロマン派クラシック音楽に焦点を当て、同時代の録音を中心に紹介しています。


20世紀ウラ・クラシック!:ヘッダー
https://ryookabayashi.sakura.ne.jp/2019/20urakura.html

湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)
過去記事検索用のページ
https://blog.goo.ne.jp/r_o_k/e/d805224da31d4f8afe46874ab085b7c8

アイウエオ順の全記事
http://ryookabayashi.sakura.ne.jp/2019/urakura.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/401.html#c39

[近代史6] 20世紀の作曲家 中川隆
4. 中川隆[-16079] koaQ7Jey 2021年10月07日 09:47:50 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[19]
20世紀ウラ・クラシック!<本拠地>
http://20urakura.blog67.fc2.com/

このページは、主に19世紀末から20世紀の末流ロマン派クラシック音楽に焦点を当て、同時代の録音を中心に紹介しています。


20世紀ウラ・クラシック!:ヘッダー
https://ryookabayashi.sakura.ne.jp/2019/20urakura.html

湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)
過去記事検索用のページ
https://blog.goo.ne.jp/r_o_k/e/d805224da31d4f8afe46874ab085b7c8

アイウエオ順の全記事
http://ryookabayashi.sakura.ne.jp/2019/urakura.html
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/678.html#c4

[近代史6] マイナーな作曲家が書いた名曲 中川隆
1. 中川隆[-16078] koaQ7Jey 2021年10月07日 09:48:53 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[20]
20世紀ウラ・クラシック!<本拠地>
http://20urakura.blog67.fc2.com/

このページは、主に19世紀末から20世紀の末流ロマン派クラシック音楽に焦点を当て、同時代の録音を中心に紹介しています。


20世紀ウラ・クラシック!:ヘッダー
https://ryookabayashi.sakura.ne.jp/2019/20urakura.html

湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)
過去記事検索用のページ
https://blog.goo.ne.jp/r_o_k/e/d805224da31d4f8afe46874ab085b7c8

アイウエオ順の全記事
http://ryookabayashi.sakura.ne.jp/2019/urakura.html
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/679.html#c1

[近代史6] クラシック音楽 _ 伝説の名演奏家 中川隆
1. 中川隆[-16077] koaQ7Jey 2021年10月07日 09:49:35 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[21]
20世紀ウラ・クラシック!<本拠地>
http://20urakura.blog67.fc2.com/

このページは、主に19世紀末から20世紀の末流ロマン派クラシック音楽に焦点を当て、同時代の録音を中心に紹介しています。


20世紀ウラ・クラシック!:ヘッダー
https://ryookabayashi.sakura.ne.jp/2019/20urakura.html

湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)
過去記事検索用のページ
https://blog.goo.ne.jp/r_o_k/e/d805224da31d4f8afe46874ab085b7c8

アイウエオ順の全記事
http://ryookabayashi.sakura.ne.jp/2019/urakura.html
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/198.html#c1

[リバイバル3] 苗場スキー場の元高級リゾートマンションが遂に10万円になった 中川隆
612. 中川隆[-16076] koaQ7Jey 2021年10月07日 10:17:04 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[22]

2021年10月07日
極過疎地への古民家移住はほぼ失敗している

実際の移住先は東京から関東、大阪から近畿など近隣へが多い。
長野や北海道はアンケートの人気ランキングに過ぎない

画像引用:https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=68499?site=nli 2021年上半期・転入超過都道府県ランキング/神奈川県が社会純増トップエリアへ―新型コロナ人口動態解説(9) _ニッセイ基礎研究所


現実の田舎移住は近隣県

コロナの影響で都会はダメだという風潮になり、田舎に移住する人が増えている。

東京の人口は減り始め、替わりに長野や福岡や山梨などに移住したいという人が多い。

ふるさと回帰支援センターに移住相談した人の人数では、移住先人気1位は静岡県になっている。


2位が山梨県で3位が長野県、福岡、宮城、広島以下甲信越や北海道、和歌山県などが続いている。

実際に移住した人数を数えるのは困難で、何をもって田舎移住とするかを定義しにくい。

東京からの転出者が多いのは神奈川、千葉や北関東、山梨や群馬など近県が多いが、ただの引っ越しとも言える。


メディアでは長野や北海道や東北など、街から離れて自給自足するようなイメージがもてはやされている。

現実には多くの人は東京在住なら近隣県の地方都市に引っ越していて、現実的な移住をしている。

移住で最重要なのは職業と収入で、何の当てもなく北アルプスや知床半島に引っ越す人は普通は居ない。


東京から見て近県や群馬なら求人情報も見れるし引っ越し前に下見をしたり、準備することもできる。

メディアやネットでは過疎の村に引っ越すのが理想とされるが、そうした人のかなりは失敗して都会に戻っている。

福岡市や長野市なら適応できるとしても、5人くらいしか村人がいない場所で都会人は生きれません。

激安古民家は重大な欠点があるから安い

古民家というのがもてはやされ、10万円や無料で購入できる場合もあり、長所だけを考えて移住する人が居ます。

安いのには訳があり、まず崩壊カウントダウンの状態なので、全部ばらして組みなおす必要があります。

築50年は経っているので作りが衛生的ではなく、台所やトイレなども現代人には快適でない。


田舎には虫が多いが、都会から離れると古い家には戸締りしても家の中に虫が侵入してきます。

朝起きると寝室や廊下や家じゅうが虫だらけだったら、都会の人は精神的に参るでしょう。

古い家では雨漏りもする筈で、完全に治さない限り塞いでも塞いでも新たな雨漏りが発生します。


もっと大問題はインフラで、電気はあるとしてガス、水道、トイレ、車道はありません。

プロパンガスはあるが極過疎地は配達地域外なので、ガスも灯油も配達してくれません。

ゴミ収集もしてくれないので自分で処理場にもっていき、移動販売車も来ないし商店もありません。


その土地で生まれた人は物々交換で食べ物を得られるが、移住者はまずコミュニティに入れてもらえません。

トイレは汲み取りだが汲み取りの2トン車が入れなければ汲み取り出来ず、一体どうしていたのか謎です。

非常に安い古民家は自動車が入れない場所が多く、行ってみると物凄い急坂で未舗装の場合もあります。


水道はないので近くの川から水を引いたり、特別に貯水タンクなどを設置しています。

つまり「道路が無く通勤も買い物もできず、ゴミ収集や移動販売もなく、トイレの汲み取りもガス配達もない」場合があります。

アラスカやシベリアではそうした場所で誰の支援も受けず生活する人が居るが、日本人には無理です。


なんとなく「田舎でも都会のように快適な暮らしができる。ショッピングはAmazonですればいい」と考えている人はまず失敗するでしょう。

せいぜい緑が多く自然に近い地方都市で、マンション暮らしでも始めるのが良いのではないでしょうか

https://www.thutmosev.com/archives/86885402.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/565.html#c612

[番外地9] 日本が日清・日露戦争を戦わなければいけなかった理由 中川隆
1. 中川隆[-16075] koaQ7Jey 2021年10月07日 10:43:50 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[24]
日本では「防衛」を前提にした議論が続けられてきたが、実態は「侵略」である。「親米リベラル」を自称する人びとは否定したいようだが、19世紀から続くアングロ・サクソンの長期戦略はまだ生きている。
アメリカ、イギリス、オーストラリアのアングロ・サクソン系の国と日本やインドはユーラシア大陸の周辺部を支配し、内陸国を締め上げるというイギリスの長期戦略に組み込まれてきた。大陸を締め上げる「三日月帯」の西端がイギリス、東端が日本だ。

 日本は中国やロシアを封じ込めるために重要な位置にあるだけでなく、戦闘員の供給源でもある。アヘン戦争でも明らかなように、中国を制圧するだけの戦力をイギリスもアメリカも持っていない。アメリカ国防総省のシンクタンク、RANDコーポレーションは2016年に中国との戦争を想定した文書を作成したが、そこでも地上での戦闘は考えられていなかった。地上戦を行うなら日本人を使うしかない。

 かつて中国侵略を狙うイギリスとアメリカが日本列島と日本人に目をつけ、「明治維新」を支援、新体制になってからイギリスの外交官アーネスト・サトー、アメリカの厦門駐在領事だったチャールズ・ルジャンドルや駐日公使だったチャールズ・デロングは台湾や大陸を侵略するように焚きつけていた。そして明治政府は琉球併合、台湾派兵、江華島事件、日清戦争、日露戦争へと突き進む。

 この当時と基本的に同じことを現在の日本も求められている。沖縄はアメリカの軍事基地になっているが、沖縄諸島から先島諸島へと自衛隊は活動範囲を拡大させている。その先にある台湾は2016年から総統を務めている蔡英文がアメリカにすり寄り、中国を揺さぶる拠点になっている。
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/596.html#c1

[近代史4] カンボジアは「中国の属国」になった
カンボジアは「中国の属国」になった

カンボジアは中国にワクチンをもらい、競技場も作ってもらって侵略されるのか?
2021.10.07
https://blackasia.net/?p=26971


好奇心のまま薄暗い店内を見てみたが、そこに中国語の書籍が並んでいる。その中の一冊に、正確な題名は忘れたが『柬埔寨(チエン・トゥ・カイ=カンボジア)で金持ちになるには』というような中国語の題名の本もあった。それを見て、思わず「やっぱりだ」と声を上げそうになった。2000年の段階で、すでにそんな本がプノンペンで売られていたのだ。(鈴木傾城)


カンボジアのインフラは中国が掌握したようなものだ
カンボジアの独裁者であるフン・セン首相は完全に中国に取り込まれていて、もはやカンボジアは「中国の属国」と言っても良いような状況になってしまっている。(ブラックアジア:カンボジアで今後もフン・セン首相の独裁が続く理由とは?)

そのカンボジアでは、フン・セン首相が「中国べったり」のために皮肉にも東南アジアで最もワクチン接種が進んでいる。すでに1600万人の人口のうち、成人の95%を含む70%以上が1回目のワクチン接種を終え、2回目の接種を終えた割合は55%となっている。

まさに、中国のお陰であると言える。

カンボジアは中国にワクチンだけでなく、1億5000万ドルの競技場もタダで作ってもらい、ダムも作ってもらっている。ダムはさすがにタダというわけにはいかないが、建設も運用もすべて中国なので、カンボジアのインフラは中国が掌握したようなものだ。

こうやって何でもかんでも中国に依存しているうちに、カンボジアは完全に中国の領土となっていくだろう。

こうした中国の侵略についてはカンボジア国内でも憂慮する声は大きい。

しかし、フン・セン首相は「中国から政治的条件は一切付けられていない」と言っている。「今は」そうかもしれない。フン・セン一族は中国に賄賂をもらって大富豪になっているが、国土は中国に侵略されて奪われていく未来が待っている。

日本人は旅行ガイド。中国人はビジネス指南書を持つ
実は、私自身はすでに2000年前後にこの国に入った頃から、「この国は中国が支配することになるのだろう」と勘づいていた。

初めてカンボジアの首都プノンペンに入った時、私はモニウォン通りで中国資本のホテルと中国資本の夜総会《クラブ》と中華料理店の看板が林立する光景を見た。

カンボジア語の看板よりも目立つし、カンボジア語の看板よりも大きかった。英語もあったが、それは漢字を補佐する役目のように見えた。それを見た瞬間、「やはり、この国も中国が牛耳っているんだ」と即座に理解した。

プノンペン入りして十分後に、もうそれを悟るほどに中国語の看板が多かった。プノンペンのメインストリートがそんな状況だから、どんなに愚鈍な旅人でも私と同じことを考えたはずだ。

灼熱の首都で喉が乾いたので、コンビニになり損なったような店で飲み物を買おうと思ったのだが、そこで私が見たのは中国語の新聞と、中国語の書籍だった。すぐに中国人商人の店だというのが分かった。

好奇心のまま薄暗い店内を見てみたが、そこに中国語の書籍が並んでいる。その中の一冊に、正確な題名は忘れたが『柬埔寨(チエン・トゥ・カイ=カンボジア)で金持ちになるには』というような中国語の題名の本もあった。

それを見て、思わず「やっぱりだ」と声を上げそうになった。2000年の段階で、すでにそんな本がプノンペンで売られていたのだ。

(中国人は、この国を覆い尽くすつもりだ……)

日本人が持つのは旅行ガイドだが、中国人が持つのは「その国でいかに商売すればいいのか」を記した実践的ビジネス指南書なのである。

他にも大量の中国語の書籍が並んでいた。中国語でびっしりと埋まったその書籍の内容が私に分かるはずもなかったが、その他にもカンボジア語の語学書が並んでいて、中国人の執念が窺い知れた。

どこでも薄汚ないチャイナタウンがスタートだった
そもそも、国を離れて異国のカンボジアにまでやってきて「趣味」で語学なんかやる中国人はいない。「中国人はビジネスに本気だぞ」と、部外者の私が恐ろしく思うほどの怨念めいたものが漂っていた。

以後、私はカンボジアにどっぷりと浸っていくことになるのだが、当初は食事のほとんどは中華料理店で食べていた。

カンボジア人が食べる屋台での食事よりも中国人のレストランの方が何倍も味が良く、サービスも良く、食事の量も多く、種類も豊富だったからだ。私が欠かせない豆漿《ソヤビーン》という飲み物も中華料理店にしか置いてなかった。

当時のプノンペンはまだそれほど開発されていなかったし、高層ビルもひとつもなかった。今は多くのビルがプノンペンに建ち、ショッピングモールもある。言うまでもないが、これらはすべて「中国商人が建てたもの」である。

中国人はどこかの国に入り込み、小さくビジネスを始め、やがて通りを、町を、国を牛耳っていく。東南アジアの全国家は華僑(中国商人)にビジネスと政治を独占されていて、事実上の中華圏である。

フィリピンのアキノ一族、タイのタクシン一族もまた華僑資本である。ミャンマーの軍事政権も、マレーシアの土着資本も、インドネシアの政商も、華僑資本の影響下でないところがない。

インドネシアのカリマンタン島では広大なジャングルがどんどん切り拓かれているのだが、それも華僑資本がやっている。ジャングルの木材を中国に売って儲け、切り拓いたジャングルを焼いて広大なプランテーションを作って儲ける。

最初はどこでも薄汚い小さな店舗がスタートだったのだ
中国とはたびたび軍事衝突を起こして反中の人間が多いベトナムでさえ、ホーチミン市には中華街がある。チョロン地区だ。私はホーチミン市には行ったことがないが、一度は行ってみたいとは思っている。

フランス映画に『ラ・マン(愛人)』という映画があった。メコンデルタで貧困のどん底に落ちた若きフランスの少女(マルグリット・デュラス)が、ベトナムの華僑の愛人になる映画だ。

彼らが逢瀬を重ねた場所が、ごみごみとした喧騒の中にあるチョロンの一室だった。

東南アジアで中国人がいないところなど見たことがない。フィリピンは韓国人をよく見かけるので、もしかしたら韓国人がこの国を占拠したのではないかと言う人もあるが、それは完全に間違いだ。

依然としてフィリピンの中枢は華僑がしっかりと実権を握っている。フィリピンでもっとも信頼されているメトロバンクも華僑財閥のものである。フィリピンでもっとも信頼されているショッピングモールSMの創始者も華僑である。

そしてフィリピンでもっとも愛されているファーストフードであるジョリビーも華僑である。フィリピン航空は華僑のルシオ・タンが実権を握っているのではなかったか。世界最大のタバコ会社フィリップ・モリスはアジアではフィリピンを拠点にしている。

それは、ルシオ・タンがフィリピンのたばこ産業を牛耳っているのでビジネスがやりやすいからではなかったか。ルシオ・タンこそ、フィリピン屈指の華僑ビジネスマンである。

フィリピンのすべてが華僑につながっており、ほぼフィリピン全土を手中におさめたと断言してもいい。最初から圧倒的な資本力があってビジネスをしていたのではなく、彼らは長い時間をかけて土着して成り上がっていった。最初はどこでも薄汚い小さな店舗がスタートだったのだ。

カンボジアは乗っ取られた。先日、私は中華料理店で日本風にアレンジされた中華料理を食べていたが、従業員は中国人であった。出てきた料理を食べながら「中国人が次に侵略するのはどこなのだろう」とぼんやりと考えていたのだった。

カンボジアの書籍
『ブラックアジア・カンボジア編 売春地帯をさまよい歩いた日々(鈴木 傾城)』
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B095YC81JL/ref=as_li_qf_asin_il_tl?ie=UTF8&tag=blackbook2tok-22&creative=1211&linkCode=as2&creativeASIN=B095YC81JL&linkId=81c88ed97a5bbdf6dd42003f9fbf0114


https://blackasia.net/?p=26971

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1707.html

[近代史6] カール・ライネッケ フルート協奏曲 ニ長調 Op.283
カール・ライネッケ フルート協奏曲 ニ長調 Op.283


Jean-Pierre Rampal: Carl Reinecke - Flute Concerto in D major op. 283 (1967)



I. Allegro molto moderato (at 0:10)
II. Lento e mesto (at 7:47)
III. Moderato (at 15:27)


JEAN-PIERRE RAMPAL, flute


MONTE-CARLO NATIONAL OPERA ORCHESTRA
conducted by CLAUDIO SCIMONE


Recorded May 1967



Carl Reinecke Flute Concerto in D major Op.283, Jean-Pierre Rampal



1. Allegro molto moderato
2. Lento e mesto
3. Moderato


Jean-Pierre Rampal Flute
Bamberg Symphony Orchestra
Theodor Guschlbauer Conductor






Carl Reinecke - Flute Concerto, Op. 283 (1908)



1. Allegro molto moderato (0:00)
2. Lento e mesto (8:33)
3. Moderato – In tempo animato – Tempo I – Più mosso – Più lento maestoso (14:39)


Aurele Nicolet, flute
the Gewandhaus Orchestra
Kurt Masur

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/836.html

[近代史6] ヨハン・シュトラウス1世(Johann Strauß I(Vater)、1804 - 1849)
ヨハン・シュトラウス1世(Johann Strauß I(Vater)、1804 - 1849)

ラデツキー行進曲
5点
1世は息子より有名曲が少ないとはいえ、このような楽しい有名曲を1曲残しただけで十分凄い。

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%281859%E5%B9%B4%E3%81%BE%E3%81%A7%29

ヨハン・シュトラウス1世(Johann Strauss I. (Vater)、1804年3月14日 - 1849年9月25日[1])は、オーストリア帝国のウィーンを中心に活躍した作曲家、指揮者、ヴァイオリニスト。

ヨーゼフ・ランナーと「ワルツ合戦」と呼ばれる熾烈な競争を繰り広げたことで知られ、代表作には『ラデツキー行進曲』やワルツ『ローレライ=ラインの調べ』などがある。

生前は「ワルツ王」と呼ばれたが[2]、死後には長男ヨハン・シュトラウス2世にその名は継承され、代わりに「ワルツの父」と呼ばれるようになった。音楽一家としてのシュトラウス家の始祖であり、次男ヨーゼフ・シュトラウスや四男エドゥアルト・シュトラウス1世も音楽家になり、さらにはその子孫からも音楽家となる者が出た。


生涯

前半生
1804年3月14日、ウィーンのレオポルトシュタットのフロリアン通りで生まれる[3]。父フランツ・ボルギアスはここで居酒屋「聖フロリアン」を経営していた[3]。幼い頃からヨハンは、その風貌から「ムーア人顔」というあだ名で呼ばれていた[4]。ヨハンはこのあだ名をとても気に入っている様子だったという[4]。

4歳の頃に一家はワイントラウベン通りに転居し、新たに「良き羊飼い」という居酒屋を開いたが[5]、ヨハンが幼いころに倒産してしまった[6]。ナポレオン戦争とウィーン会議によってオーストリアの財政は逼迫し、社会は深刻な不景気に陥っていたのである[5]。母バーバラは過労によって病死し、父フランツ・ボルギアスは借金苦からドナウ川に投身自殺をしてしまう[7]。孤児となったヨハンは親戚に引き取られ、製本屋に丁稚奉公をするようになった[7][6]。

パーマー楽団に入団
ある日、ヨハンは奉公先を飛び出して、近所に住んでいたポリシャンスキーという人物からヴァイオリンの手ほどきを受け[5]、流しの楽士となった。19世紀初頭には演奏家という職業は存在していなかったが、酒場や料理店には「リンツのヴァイオリン弾き」と呼ばれた出稼ぎの楽士が多くおり、田舎風の素朴なワルツを弾いていた[8]。居酒屋の息子だったヨハンは、幼いころから自宅で楽士たちの姿を見て育ったのである。

家族がヨハン・シュトラウス1世の幼少期について知っていることが一つだけある。居酒屋の二部屋の中の大きい方で、店の楽士が演奏していたとき、少年ヨハンは、父親に見つからないよう聞くために、テーブルの下に隠れていたということである[5]。
— 四男・エドゥアルト・シュトラウス1世『回想』(1906年に出版された回顧録)
15歳となった1819年、ヨハンはミヒャエル・パーマーの楽団に入り、3歳年上の楽団員ヨーゼフ・ランナーと仲良くなる[9]。ふたりは正反対の性格であったがすぐに打ち解け、ともに下宿生活をするようになった[9]。ふたりは貧乏だった頃、ひとつのタキシードを共用して演奏会に行ったと伝えられる[10]ランナーはヴァイオリン奏者であり、楽団ではヨハンもまた彼と同様にヴァイオリンの担当となった。

ランナーと共に独立

両者の死後に描かれたシュトラウスとランナー。右上の中央でヴァイオリンを演奏しているのがランナー、その2つ左の奏者がヨハン(1906年)
楽団員への給料を自身の飲食代に使ってしまうなどの行為を繰り返す楽団長パーマーに我慢ならず、兄弟子ランナーは独立を決意する[9]。ランナーの勧誘に応じて、ヨハンもパーマーのもとを離れてランナーの楽団に入った[9]。パーマー楽団から独立したヨハンとランナーは、パーマーの楽曲を使えなくなったことから自分で作曲する必要に迫られ、そろって音楽理論を勉強した[9]。

やがてランナーの楽団は師パーマーの楽団を超える絶大な人気を獲得し、出演依頼に完全に応えることができなくなった[9]。そのためランナーは楽団を二つに分け、楽団の片方をシュトラウスに任せるようになった[11]。するとウィーン市民の人気は、ランナーではなくシュトラウスの楽団に集まるようになり、仲のよかった両者の間に暗雲が垂れ込め始めた[11]。

町はずれに住んでいたヨハンは、居酒屋の娘マリア・アンナ・シュトレイムと出会い、男女の仲になる。やがて恋人アンナは妊娠し、それを機に彼女と結婚する[6]。結婚のために昇給をランナーに願い出たが、拒否されてしまう[11]。ランナーとの仲は次第に険悪になっていった。またランナーはシュトラウスの作曲したワルツを買い取り、自分の作品として公刊した[11]。まったく根拠が無かったわけではないが、シュトラウスの曲をランナーが盗作したとの噂が立つようになった[12]。

ワルツ合戦
ランナーとの対立が決定的となったのは、1828年にウィーン郊外の舞踏場ボックで演奏を行った時である[11]。ランナーとシュトラウスは揃って演奏したが、どういうわけか激しい口喧嘩が始まり、やがてヴァイオリンの弓や譜面台や太鼓のばちが空中を飛び交うありさまとなった[11]。ふたりの関係は完全にこじれ、シュトラウスは自身の楽団を組織して自立した。こうして、世に「ワルツ合戦」と称される両者の激しい競合が始まった。(多くの伝記に書かれている出来事であるが、現場目撃者による記録は存在せず、実際には乱闘事件はなかったとみる向きもある。)

シュトラウスとランナーはウィーンで絶対的な人気を誇り、1829年にワルシャワからやって来たショパンは「ワルツ合戦」の影に隠れて注目を集めることができなかった[13]。最初の自作ワルツ『華麗なる大円舞曲』をウィーンで出版することを望んでいたショパンであったが、断念せざるを得なかった[13]。この際にショパンはこう嘆いた。

「 ウィーンでは太陽は登りたがらない。ランナーとシュトラウス、それに彼らのワルツが、すべてを陰らせてしまうのだ……[13]。 」
ヨハンとランナーは訣別から3年後の1831年に仲直りをしたが、かつてのような心を開きあった交際に戻ることはできなかった[14]。

ヨハンはヨーロッパ中の大都市に演奏旅行をするようになり、ワルツの人気はとりわけ西ヨーロッパを風靡した[15]。1838年、ヴィクトリア女王の戴冠式に合わせて、ワルツが冷遇されていたイギリスへの演奏旅行を行い、イギリスでもワルツを認めさせたことはヨハンの大きな功績のひとつである。1838年のシュトラウスについて、ベートーヴェンの弟子であったイグナーツ・モシェレスは、「まじめなロンドンの人々でさえも、ヨハン・シュトラウスの虜になっている」と記録している[16]。

息子ヨハンのデビュー

息子ヨハン・シュトラウス2世のデビューコンサート新聞告知(1844年)
1843年、ライバルだったランナーが世を去り、主な舞踏会やコンサートをヨハンが独占することとなった[2]。この時期からヨハンは、ウィーンの『劇場新聞』やベルリンの批評家などから「ワルツ王」と評されるようになった[2]。しかし、翌1844年には自身の息子であるヨハン・シュトラウス2世が音楽家としての活動を開始した。ヨハン2世は父の影響を大いに受けて音楽家になることを夢見ていたのだが、音楽家という職業が浮き草稼業であることを知っていたためにヨハンはそれに猛反対し、息子をむりやり総合技術専門学校(現ウィーン工科大学)に入学させた[17]。しかしヨハン2世は夢を諦めきれず、大学を中退して音楽の勉強をし始めたのであった。

今では息子のヨハンまでもが見よう見まねでワルツを作曲する気だ。まだ取っ掛かりをうまくつかんでいないようだが……。この分野ではお山の大将である私でさえ、なにか新味のあるものを作ろうとすると、やけに難しいというのに……[18]。
— ヨハン1世が言ったとされる言葉
ヨハンは息子の行動に驚き、そのデビューをあらゆる手段を使って妨害しようとした[19]。ウィーン中の名だたる飲食店に圧力をかけてコンサート会場を使わせないようにし、配下の楽団員には息子に味方することを固く禁じ、あげくのはてには新聞記者を買収して息子の中傷記事を書かせようとした[19]。この年、ヨハンは妻アンナと離婚した[17]。

ランナーが死んで「ワルツ合戦」は幕引きとなったが、その翌年から今度はシュトラウス親子の競合の時代が始まった。1846年から47年にかけてシュトラウス親子は、同じオペラに基づく楽曲3曲をそれぞれ作曲した[20]。これらはいずれもカドリーユであることから「カドリーユ対決」と呼ばれる[20]。

1848年革命、ラデツキー行進曲
1846年、ヨハンは宮廷舞踏会音楽監督に召し上げられた[21]。2年後の1848年、三月革命が勃発した。宮廷舞踏会での役職を持つ身でありながらヨハンは革命側に与し、『自由行進曲』『学生連隊行進曲』などを相次いで発表した。『自由行進曲』の初版ピアノ譜からは、それまで必ず自分の名前とともに併記した「宮廷舞踏会・音楽監督兼指揮者」の肩書を外してすらいる[22]。ヨハンは市民(ブルジョワジー)の一員として、宰相クレメンス・フォン・メッテルニヒの抑圧体制を打破しようとしたのであった。

しかし革命運動はしだいに先鋭化してきて、革命の推進主体が市民から労働者(プロレタリアート)へと変わっていった。彼らはメッテルニヒの抑圧体制を打破しようとするのみならず、君主制の打倒を目指していた。陸軍大臣テオドール・ラトゥール(ドイツ語版)伯爵が殺害されて街灯に吊り下げられるなど、ウィーンはフランス革命後さながらの恐怖政治が展開される一歩手前まで来ていた。この事態にヨハンら市民は恐怖を覚えた。

ヨハンはリベラルな体制を望んではいたが、君主制の打倒を望んでいたわけではなかった[22]。そのため、ヨハンはオーストリア帝国の英雄ヨーゼフ・ラデツキー将軍を讃える『ラデツキー行進曲』を作曲し、革命派からは裏切り者呼ばわりされることとなった[21]。この行進曲のおかげで政府軍の士気は大いに高揚し、「ウィーンを革命から救ったのは、ヨハン・シュトラウスである」とまで言われるようになった[23]。

晩年
1849年、前年の革命の影響で閑散としてしまったウィーンでは儲けが少なくなってしまったため、演奏旅行で10年ぶりにイギリスを訪れた。この際にヨハンは、1848年革命によって亡命に追い込まれていたメッテルニヒとロンドンで出会い、彼の前でワルツを指揮した[24]。ウィンナ・ワルツを聴いて懐かしさに感激したメッテルニヒは、ヨハンの手を取って涙ながらに感謝の言葉を述べたという[24]。このイギリスでの演奏旅行の時、ヨハンはしばしば体調不良を訴えた[24]。彼はかなり衰弱していたのである。

イギリスから帰ってきたヨハンは、愛人エミーリエ・トランプッシュのもとに帰った[24]。その時エミーリエに生ませた子のひとりが猩紅熱にかかっており、衰弱していたヨハンはすぐさま感染し、そのまま死んでしまった[24]。このときエミーリエはヨハンの遺体を置き去りにして、持ち運びできる財産をすべて持ったまま去った、という話がまことしやかに語られているが、長期にわたる資産調査でそのような事実は全くないと判明している[25]。

9月27日、ヨハンの棺はシュテファン大聖堂で聖別式を行ってから、「デブリング墓地」にあるランナーの墓のそばに埋葬された[25]。葬列には10万人ものウィーン市民が参列したという[26]。ヨハンの死後、シュトラウス楽団はヨハン2世が継承した。宮廷舞踏会音楽監督の役職はフィリップ・ファールバッハ1世が引き継いだが、やがて1863年にヨハン2世が、さらにその後を1872年に4男のエドゥアルトが引き継いだ。

ヨハン1世とランナーはのちに揃ってウィーン中央墓地に改葬され、元のように隣同士で眠っている。

年表
1804年:レオポルトシュタットで誕生
1819年:15歳のときにパーマー楽団に入団、ランナーと出会う
1825年:アンナと結婚、長男ヨハン誕生
1827年:次男ヨーゼフ誕生
1828年:ランナーと喧嘩し、独立する
1829年:「シュペール」の音楽監督に就任[27]
1831年:ランナーと仲直りする
1835年:四男エドゥアルト誕生
1844年:息子ヨハンが音楽家デビュー、アンナと離婚
1846年:宮廷舞踏会音楽監督に就任
1848年:1848年革命に加担、やがて離反し、ラデツキー行進曲を発表
1849年:イギリスへの演奏旅行、帰国後に死去


家族
妻マリア・アンナ・シュトレイムとのとの間に生まれた子女
長男 ヨハン(2世)
次男 ヨーゼフ
三男 フェルディナント
長女 テレーゼ
次女 アンナ
四男 エドゥアルト(1世)
愛人エミーリエ・トランプッシュとの間に生まれた子女
三女 エミーリエ・テレジア・ヨハンナ
五男 ヨハン・ヴィルヘルム
四女 クレメンティナ・エミリア・テレジア・エリーザベト
六男 カール・ヨーゼフ
七男 ヨーゼフ・モリッツ
五女 マリア・ウィルヘルミナ
六女 テレサ・カロリーナ
七女 ヴィルヘルミーネ

作品

ワルツ

小鳩のワルツ (Täuberln-Walzer) op.1
ウィーンの謝肉祭 (Wiener Karneval) op.3
ケッテンブリュッケン・ワルツ (Kettenbrücken-Walzer) op.4
パガニーニ風ワルツ (Walzer a la Paganini) op.11
クラップフェンの森 (Krapfen-Waldel) op.12
人生は踊り (Das Leben ein Tanz) op.49
宮廷舞踏会 (Hofball Tanze) op.51
インドの舞姫 (Bajaderen) op.53
エリーザベト・ワルツ (Elisabethen-Walzer) op.71
うぐいすのワルツ (Philomelen-Walzer) op.82
パリ (Paris) op.101
ヴィクトリア女王讃歌 (Huldigung der Ké'migin Victoria von Grossbritannien) op.103
ロンドン・シーズン・ワルツ (Londoner Saison-Walzer) op.112
ウィーン情緒 (Wiener Gemüts) op.116
ミルテのワルツ (Myrthen-walzer) op.118
ツェツィーリエ・ワルツ (Cäcilien-walzer) op.120
ベートーヴェンのクロイツェル・ソナタのモチーフによる
(テクスト無しの)ドナウ川の歌 (Donaulieder ohne Text) op.127
ローレライ=ラインの調べ (Loreley-Rhein-Klänge) op.154
オーストリアの歓呼の響き (Österreich jubel-klänge) op.179
真夏の夜の夢 (Sommernachts-Träume) op.180
つばめ (Die Schwalben) op.208
錬金術師 (Die Adepten) op.216
アンフィオンの調べ (Amphion-Klänge) op.224
天上の夢 (Aether-Träume) op.225
ゾルゲンブレッヒャー (Sorgenbrecher) op.230
さすらい人の別れ (Des Wanderers Lebewohl) op.237


ギャロップ

シャンペン (Champagne) op.8
ため息のギャロップ (Seufzer-Galoppe) op.9
中国人のギャロップ (Chineser-Galoppe) op.20
競馬ギャロップ (Wettrennen-Galoppe) op.29a
ヴィルヘルム・テル・ギャロップ (Wilhelm tell-Galoppe) op.29b
入場ギャロップ (Einzugs-Galopp) op.35
シュペール・ギャロップ (Sperl-Galopp) op.42
旅行ギャロップ (Reise-Galopp) op.85
舞踏会の夜のギャロップ (Ballnacht-Galopp) op.86
若人の情熱 (Jugendfeuer) op.90
カチューシャ・ギャロップ (Cachucha-Galopp) op.97
ヴェルサイユ・ギャロップ (Versailler Galopp) op.107
ジプシー・ギャロップ (Gitana-Galopp) op.108
インド人のギャロップ (Indianer-Galopp) op.111
リストのモチーフによる狂乱のギャロップ (Furioso-Galopp nach Liszt's Motiven) op.114


ポルカ

シュペール・ポルカ (Beliebte Sperl-Polka) op.133
アンネン・ポルカ (Annen-Polka) op.137
マリアンカ・ポルカ (Marianka-Polka) op.173
アイゼレとバイゼレ (Eisele und Beisele) op. 202
ピーフケとプーフケ (Piefke und Pufka) op.235
アリス・ポルカ (Alice-Polka) op.238
フレデリーカ・ポルカ (Frederica-Polka) op.239
エクゼター・ポルカ (Exeter-Polka) op.249


コティヨン
フラ・ディアボロ・コティヨン(Fra Diavolo-Cotillons)op.41

カドリーユ
祝典カドリーユ(Jubel-Quadrille)op.130

幻想曲
エルンストの思い出 またはベネチアの謝肉祭(Erinnerung an Ernst oder: Der Carneval in Venedig)op.126

行進曲
オーストリア国防軍行進曲 (Österreichischer-Nationalgarde-Marsch) op.221
学生連隊行進曲 (Marsch der Studentenlegion) op.223
自由行進曲 (Freiheits-marsch) op.226
ドイツ統一行進曲 (Marsch des einigen Deutschlands) op.227
ラデツキー行進曲(Radetzky-Marsch) op. 228

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%B91%E4%B8%96

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/837.html

[近代史6] ヨハン・シュトラウス1世『ラデツキー行進曲』作品228
ヨハン・シュトラウス1世『ラデツキー行進曲』作品228


J. Strauss I: Radetzky March, Krauss & VPO (1953)






指揮:クレメンス・クラウス
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団


録音:1953年12月18〜19日 ウィーン楽友協会大ホール



Radetzky March, Op. 228






New Year's Concert 1954


Vienna Philharmonic
Clemens Krauss



▲△▽▼


『ラデツキー行進曲』(Radetzky-Marsch)作品228は、ヨハン・シュトラウス1世が作曲した行進曲。


作曲者の最高作といわれ、クラシック音楽全体でみても有数の人気曲である。1848年革命の最中に、当時はオーストリア帝国領であった北イタリアの独立運動を鎮圧したヨーゼフ・ラデツキー将軍を称えて作曲された。


作曲の経緯


1848年革命への賛同
1848年2月、フランスで7月王政が倒れた。普通選挙を求める声を政府が弾圧したことがきっかけとなって2月革命が勃発し、国王ルイ・フィリップ1世が退位に追い込まれたのである。フランスに端を発した革命運動はたちまちヨーロッパ全土に波及し、3月革命となってオーストリア帝国にも押し寄せた。(これらを総称して1848年革命という)


当時ウィーンの宮廷舞踏会音楽監督を務めていた「ワルツ王」ヨハン・シュトラウス1世であったが、そんな彼でさえも革命運動に与してクレメンス・フォン・メッテルニヒ宰相の抑圧政治を打破しようとした。自由思想に共感を抱いたシュトラウスは、『学生軍団行進曲』(作品223)や『自由行進曲』(作品226)、『ドイツ統一行進曲』(作品227)などを作曲し、相次いで発表している[1]。


革命への危機感
ところが、革命運動は次第に先鋭化していき、カール・マルクスがウィーンにやって来るなど、「君主制の打倒」を唱える勢力に革命を推進する主体が移り変わっていった。よりリベラルな体制を望んでいただけで、ハプスブルク家を玉座から追い落とそうなどとは考えてもいなかった大多数の市民たちは、変質してしまった革命運動に困惑し、これと対立するようになった[1]。シュトラウスもこうした変質した革命運動に危機感を抱いた市民の一人であった。


息子ヨハン・シュトラウス2世は、この革命期が父に与えた影響についてこう書いている。


「 父は当時の雑音の中で落ち着きを失い……時代の問題から身を遠ざけ、未来が彼の芸術に好ましい時代に戻るよう望んでいた[2]。 」
陸軍大臣テオドール・ラトゥール(ドイツ語版)伯爵が労働者たちによって殺害され、そのうえ路上で吊るし首にされるという事件が起こった。この事件は特に善良な市民たちを戦慄させた。自由をめぐる政府と市民の対立は、いつの間にか政府および市民の大多数と、革命運動家および彼らに扇動された労働者との対立になっていた。


ラデツキー将軍の戦勝祝典


オーストリア史上もっとも卓越した軍人のひとりといわれるヨーゼフ・ラデツキー将軍
当時イタリア半島では民族統一運動が盛んで、オーストリア帝国領であった北イタリアでは「ドイツ民族からの独立」を目指して激しい闘争が繰り広げられていた。1848年7月、ヨーゼフ・ラデツキー将軍の率いるオーストリア陸軍がこれの鎮圧に成功した。この勝利を記念するために、「イタリアで戦った勇敢なる将兵の賞賛と傷病兵への募金を兼ね、寓意的、象徴的表現と格別な啓蒙を意図した大勝利感謝祭」が8月31日に開かれることとなった[2]。


シュトラウスはこの祝典のために新曲を依頼され、作曲に取りかかった。かつての楽団員ですでに独立していたフィリップ・ファールバッハ1世の協力を得て[3]、ウィーンの民謡を2つ採り入れて[3]、わずか2時間で完成したといわれる[3]。大変な好評を博したが、この行進曲によってシュトラウスは文句なしに君主制支持者のレッテルを張られることになった。以後シュトラウスのコンサート会場は、多くの士官と「国民自衛団」の市民で埋め尽くされたという[4]。この行進曲のおかげで政府軍の士気は大いに高揚し、のちに政府側の人々からこのように言われた。


「 ウィーンを革命から救ったのは、ヨハン・シュトラウスである[5]。 」
それまではワルツ『ローレライ=ラインの調べ』(作品154)がシュトラウスの代表作とみられていたが、この『ラデツキー行進曲』が初演後たちまちシュトラウスの既存のすべての作品の影を薄くしてしまった。


その後
この行進曲はやがてオーストリア帝国の愛国の象徴として扱われるようになり、息子ヨハン2世の『ハプスブルク万歳!』や、ヨハン2世とその弟ヨーゼフの合作による『祖国行進曲』など、ハプスブルク帝国を賛美するさまざまな楽曲にモチーフが採り入れられている。熱心な王党派として知られた作家ヨーゼフ・ロートは、この曲名を借用した『ラデツキー行進曲』という名高い小説を1932年に発表している。


帝政が廃止された現在のオーストリア共和国でも国家を象徴する曲であり、国家的な行事や式典でたびたび演奏されている。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によるニューイヤーコンサートでは、1958年以降は2005年を除いて、毎年プログラムのアンコールの最後の曲として、必ず演奏される曲として知られている[注釈 1]。曲中に観客の手拍子が入ることで有名だが、これはボスコフスキー時代に始まった慣習であり、作曲者自身の指示などがあるわけではない。


自筆譜は紛失したとみられていたが、1978年4月に破棄されて断裁される寸前だった楽譜の山の中から発見された[3]。1987年当時楽譜を所有していたロイス・ベック教授は、オリジナルの楽器編成のほうが「現行のそれより香り高く透明で、軍隊行進曲というよりもロッシーニの序曲のように聞こえる[3]」と発言している。ちなみに、このオリジナル版の『ラデツキー行進曲』は、2001年のニューイヤーコンサートの冒頭を飾る曲としてニコラウス・アーノンクールにより演奏されている。


現在演奏されているもののうちニューイヤーコンサートで使用されている楽譜は、レオポルド・ヴェニンガー(ドイツ語版)が1914年に編曲したものを底本として、その後長年にわたって手を加えられてきたものであり、原典版はおろかヴェニンガー版とも大きく楽器法や音の強弱などが変化している[6]。ヴェニンガー版のうち、ティンパニーとトライアングル、鉄琴のパート譜に関しては、ニューイヤーコンサートでは使用していなかった[7]。ところが、編曲したヴェニンガーが後年にナチの党員になった経歴が問題視されたため、非ナチ化の一環としてヴェニンガーの名前を除去する目的から、手を加えられてきた内容を追認する形で改めて「ウィーン・フィル版」として扱うこととし、2020年のニューイヤーコンサート(ドイツ語版)から使用することとなった[6]。なお朝日新聞の報道では「曲の聞こえ方に大きな変化はない」[6]とされていたが、実際にはイントロの小太鼓パートの削除や、オーケストレーションのさらなる変更が行われている[8]。


構成
主題にカドリーユが用いられている。オーストリア帝国の流れを汲むリズム(ダタダンダタダンダタダンダンダン と後ろの拍にアクセントが置かれている)およびその転回で曲が構成されている。


前奏→主題→展開部→中間部→前奏→主題→展開部の構成。ニ長調。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%87%E3%83%84%E3%82%AD%E3%83%BC%E8%A1%8C%E9%80%B2%E6%9B%B2

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/838.html

[近代史6] ミヒャエル・ハイドン(Johann Michael Haydn, 1737 - 1806)
ミヒャエル・ハイドン(Johann Michael Haydn, 1737 - 1806)

ハイドンの弟。レクイエムで有名。

レクイエム
3.5点
モーツァルトがレクイエム作曲で大いに参考にした作品なのは聴いてすぐに納得。力感に溢れていて悲痛の劇的な表現が優れており、スケールが大きく感動的。音楽的な内容の充実は大作曲家レベル。古典派の宗教音楽の傑作。

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%281859%E5%B9%B4%E3%81%BE%E3%81%A7%29


ヨハン・ミヒャエル・ハイドン(Johann Michael Haydn, 1737年9月14日 現ニーダーエスターライヒ州ローラウ(ドイツ語版) - 1806年8月10日 ザルツブルク)は、オーストリアの古典派の作曲家。フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの5歳下の弟。生誕地ローラウはウィーンの東約35kmにある。


年譜

1755年までウィーンのシュテファン大聖堂の聖歌隊で歌うかたわら、オルガン、ピアノ、ヴァイオリンを学ぶ。
1757年(20歳) - ハンガリーのグロースヴァルダイン司教の楽長となる。
1763年(26歳) - ザルツブルク大司教ジギスムント3世(Sigismund III. Graf von Schrattenbach, 1753年 - 1771年)の宮廷楽団の楽長に就任。
1771年(34歳) - ジギスムント大司教の死に際して『レクイエム ハ短調』(MH 155)を作曲。
1777年(40歳) - 聖三位一体教会のオルガニストとなる。
1781年(44歳) - モーツァルトの後任として宮廷及び大聖堂オルガニストとなる。
1800年(63歳) - ザルツブルクがフランス軍に占領され、財産や給料を奪われる。兄ヨーゼフが送金して助けている。また、マリア・テレジア皇后がミサ曲、後にレクイエムを委嘱した。アイゼンシュタットに兄ヨーゼフを訪ねた時、宮廷での第二楽長の職を提案されたが、ザルツブルクに留まる事を選んだ。
1804年(67歳) - 推薦されスウェーデン王立音楽アカデミーの会員になる。
1806年(69歳) - 8月10日にザルツブルクで死去。


弟子
カール・マリア・フォン・ウェーバーは最も有名な弟子である。また、弟子のアントニオ・ディアベリはミヒャエル・ハイドンのための葬送行進曲を作曲した。

作品
ミヒャエル・ハイドンの作品番号としては、チャールズ・H・シャーマン(Charles H. Sherman)とT・ドンリー・トーマス(T. Donley Thomas)による『MH番号』と、ローター・ペルガー(Lothar Perger)による『P番号[1]』が使用されている。

交響曲

交響曲第1番 ハ長調 MH 23, P 35(1758年?)
交響曲第1A番 ニ長調 MH 24(1758年?)
交響曲第1B番 ヘ長調 MH 25(1758年?)
交響曲第1C番 変ホ長調 MH 35, P 1(パルティータ)(1760年)
交響曲第2番 ハ長調 MH 37, P 2(1761年)
交響曲第3番 ト長調 MH 26(ディヴェルティメント)(1763年)
交響曲第4番 変ロ長調 MH 50, P 51(1763年)
交響曲第5番 イ長調 MH 63, P 3(1763年)
交響曲第6番 ハ長調 MH 64, P 4(1764年)
交響曲第7番 イ長調 MH 65, P 5(1764年)
交響曲第8番 ニ長調 MH 69, P 38(1764年)
交響曲第9番 ニ長調 MH 50, P 36(1760年?)
交響曲第10番 ヘ長調 MH 51, P 45(1764年?)
交響曲第11番 変ロ長調 MH 82, P 9(1766年)
交響曲第12番 ト長調 MH 108, P 7(1768年)
交響曲第13番 ニ長調 MH 132, P 37(1768年?)
交響曲第14番 ニ長調 MH 133, P 52(1771年)
交響曲第15番 ニ長調 MH 150, P 41(1771年)
交響曲第16番 イ長調 MH 152, P 6(1771年)
交響曲第17番 ホ長調 MH 151, P 44(1771年?)
交響曲第18番 ハ長調 MH 188, P 10(1773年)
交響曲第19番 ニ長調 MH 198, P 11(1774年)
交響曲第20番 ハ長調 MH 252, P 12(1777年)
交響曲第21番 ニ長調 MH 272, P 42(1778年)
交響曲第22番 ヘ長調 MH 284, P 14
交響曲第23番 ニ長調 MH 287, P 43
交響曲第24番 イ長調 MH 302, P 15

交響曲第25番 ト長調 MH 334, P 16(1783年)
第25番は、後にモーツァルトが第1楽章に序奏を追加して自分の演奏会で用いたために、長い間モーツァルトの『交響曲37番 ト長調 K. 444』として知られていた。

交響曲第26番 変ホ長調 MH 340, P 17(1783年)
交響曲第27番 変ロ長調 MH 358, P 18(1784年)
交響曲第28番 ハ長調 MH 384, P 19(1784年)
交響曲第29番 ニ短調 MH 393, P 20(1784年)
交響曲第30番 ニ長調 MH 399, P 21(1785年)
交響曲第31番 ヘ長調 MH 405, P 22(1785年)
交響曲第32番 ニ長調 MH 420, P 23(1786年)
交響曲第33番 変ロ長調 MH 425, P 24/82(1786年)
交響曲第34番 変ホ長調 MH 473, P 26(1788年)
交響曲第35番 ト長調 MH 474, P 27(1788年)
交響曲第36番 変ロ長調 MH 475, P 28(1788年)
交響曲第37番 ニ長調 MH 476, P 29(1788年)
交響曲第38番 ヘ長調 MH 477, P 30(1788年)
交響曲第39番 ハ長調 MH 478, P 31(1788年)
交響曲第40番 ヘ長調 MH 507, P 32(1789年)
交響曲第41番 イ長調 MH 508, P 33(1789年)
交響曲 ヘ長調 MH 118a, P 46


協奏曲

オルガンとヴィオラのための協奏曲 ハ長調 MH 41, P 55
フルート協奏曲第1番 ニ長調 MH 81, P 54
フルート協奏曲第2番 ニ長調 MH 105, P 56
ホルン協奏曲 ニ長調 MH 53
ホルン協奏曲 ニ長調 MH 134, P 134
トランペット協奏曲第1番 ニ長調 MH 104
当時の作品に例を見ない実音「3点A」を要求されることで知られる。
トランペット協奏曲第2番 ハ長調 MH 60
ヴァイオリン協奏曲 変ロ長調 MH 36, P 53
ヴァイオリン協奏曲 ト長調 MH 52
ヴァイオリン協奏曲 イ長調 MH 207


室内楽曲

弦楽四重奏曲
弦楽四重奏曲 イ長調 MH 299, P 121
弦楽四重奏曲 イ長調 MH 310, P 122
弦楽四重奏曲 変ロ長調 MH 209, P 123
弦楽四重奏曲 変ロ長調 MH 308, P 124
弦楽四重奏曲 変ロ長調 MH 316, P 125
弦楽四重奏曲 ハ長調 MH 313, P 116
弦楽四重奏曲 ニ長調 MH 314
弦楽四重奏曲 変ホ長調 MH 309, P 118
弦楽四重奏曲 ヘ長調 MH 312, P 119
弦楽四重奏曲 ト長調 MH 173a
弦楽四重奏曲 ト長調 MH 315
弦楽四重奏曲 ト長調 MH 172, P 104
弦楽四重奏曲 ト長調 MH 174, P 135
弦楽四重奏曲 ト短調 MH 311, P 120


弦楽五重奏曲
弦楽五重奏曲 変ロ長調 MH 412, P 105
弦楽五重奏曲 ハ長調 MH 187, P 108
弦楽五重奏曲 ヘ長調 MH 367, P 110
弦楽五重奏曲 ヘ長調 MH 411, P 112
弦楽五重奏曲 ト長調 MH 189, P 109


二重奏曲
ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲 ハ長調 MH 335, P 127
ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲 ニ長調 MH 336, P 128
ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲 ホ長調 MH 337, P 129
ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲 ヘ長調 MH 338, P 130

フルート四重奏曲 ニ長調 P 117
ディヴェルティメント ト長調 MH 406, P 94(1785年)


舞台音楽
ジングシュピール『アルプスの牧場の婚礼』MH 107/218(1768、1776年)
オペラ『アンドロメダとペルセオ』MH 438(1787年)
ジングシュピール『ティトゥス、不屈のキリスト教徒』[2][3][4](1774年、消失)
劇付随音楽『ザイール』MH 255, P 13(1777年)


宗教音楽
レクイエム(大司教ジギスムントのための追悼ミサ曲)ハ短調 MH 155(1771年)
レクイエム ハ短調 MH 559(1792〜1795年)
従来はミヒャエル・ハイドン作と見なされてきたが、後にオーストリアの作曲家ゲオルク・パステルヴィッツ(英語版、ドイツ語版)(1730年 - 1803年) の作品であることが明らかにされた[5]。
レクイエム 変ロ長調 MH 838(1806年、未完)
グンター・クロネッカーによる補作版がある[5]。
テ・デウム ニ長調 MH 829(1803年)

備考

宗教的ジングシュピール『第一戒律の責務』は、第1部がモーツァルト、第2部がミヒャエル・ハイドン、第3部がアードルガッサー(Anton Cajetan Adlgasser)による合作である。

ヒエロニムス・コロレド大司教(Hieronymus von Colloredo)から委嘱された6曲の『ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲』のうち、第5、6曲はモーツァルトが代作した。

ミヒャエル・ハイドンが作曲し、1770年に大学の修了式で上演されたラテン語の学生劇『キリスト教徒のゆるぎなさ(Pietas christiana)』(台本:フローリアン・ライヒスジーゲル(ドイツ語版))は、日本の戦国時代の人物である高山右近がテーマとなっており、『Cantate Domino laeta pueri cantica』と『Sicut servus ad fluenta crusitat』の2つの合唱曲が現存している。同劇は1774年にドイツ語に直されて『ティトゥス、不屈のキリスト教徒(Titus, der standhafte Christ)』の題で上演された[2][3][4][6][7]。なお、モーツァルトの『解放されたベトゥーリア』(1771、K.118)の最終曲の合唱曲は「Cantate Domino laeta pueri cantica」が元になっている[8]。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%92%E3%83%A3%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%B3
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/839.html

[近代史6] ミヒャエル・ハイドン 大司教ジギスムントのためのレクイエム ハ短調 MH 155
ミヒャエル・ハイドン 大司教ジギスムントのためのレクイエム ハ短調 MH 155


Michael Haydn – Requiem in C minor (Missa pro defuncto Archiepiscopo Sigismondo)





I. Requiem aeternam - Kyrie [0:00]
II. Dies irae [6:26]
III. Domine Jesu Christe [13:40]
IV. Quam olim Abrahae [16:05]
V. Hostias [17:19]
VI. Sanctus [20:04]
VII. Benedictus [21:54]
VIII. Agnus Dei [25:00]
IX. Cum sanctis tuis in aeternum [29:18]


Malin Christensson (soprano)
Marianne Crebassa (mezzo-soprano)
Julien Behr (tenor)
Andreas Wolf (bass)
Ensemble and choir Pygmalion
Raphaël Pichon (direction)




Michael Haydn - Requiem in C minor, MH 155 [Bolton, Mozarteum Orchester Saltzburg]



the Mozarteum Orchester Salzburg
Ivor Bolton
the Salzburger Bachchor as directed by Alois Glasßner.


mezzo-sopranos Iride Martinez and Anna Bonitatibus
tenor Christoph Strehl
bass Luca Pisaroni.


Recorded live at the Salzburg Festspiele 2004 in the Mozarteum's Großer Saal on August 8th 2004.



▲△▽▼


ミヒャエル・ハイドン作曲の大司教ジギスムントのためのレクイエム(Missa pro defuncto Archiepiscopo Sigismondo、或いは一般的にMissa pro Defunctis)ハ短調 MH 155 は、1771年12月のザルツブルク大司教ジギスムント・フォン・シュラッテンバッハ(英語版、ドイツ語版)の死去を受けて作曲された。M・ハイドンは"S[oli] D[eo] H[onor] et G[loria.] Salisburgi 31 Dicembre 1771"と署名して同年内に楽曲を完成させた。その年の始めの頃に、M・ハイドンの娘アロイジア・ヨーゼファが他界した[1]。歴史家は「M・ハイドン自身の個人的な死別」が作曲の動機となったと考えている[2]。本人直筆の楽譜を含めて現存している同時代の資料がベルリンで発見されており、M・ハイドンの手による大量の写筆楽譜がザルツブルクで、もう一組がアイゼンシュタットのエステルハージ城で、そしてザルツブルクの写筆家ニコラウス・ラングによって作成された楽譜がミュンヘンで見つかっている[3]。


この楽曲は独唱と混声四部合唱、2つのファゴット[4]、4つのトランペット、3つのトロンボーン、ティンパニと通奏低音を伴う弦楽合奏の為に作曲された。


"Requiem aeternam..." アダージョ、ハ短調、4/4拍子
Sequentia "Dies irae, ..." アンダンテ・マエストーゾ、ハ短調、3/4拍子
Offertorium Domine Jesu Christe, "Rex gloriae, ..." アンダンテ・モデラート、ト短調、4/4拍子
— "Quam olim Abrahae..." ヴィヴァーチェ、ト短調、アラ・ブレーヴェ(英語版)(2/2拍子)
"Hostias et preces..." アンダンテ、ト短調、4/4拍子
— "Quam olim Abrahae..." ヴィヴァーチェ・エ・ピウ・アレグロ、ト短調、アラ・ブレーヴェ
"Sanctus, Sanctus Dominus..." アンダンテ、ハ短調、3/4拍子
"Benedictus qui venit..." アレグレット、変ホ長調、3/4拍子
Agnus Dei et Communio "Agnus Dei, qui tollis peccata mundi..." アダージョ・コン・モート、ハ短調、4/4
— "Cum sanctis tuis..." アレグレット、ハ短調、アラ・ブレーヴェ
— "Requiem aeternam..." アダージョ、ハ短調、4/4拍子
— "Cum sanctis tuis..." アレグレット、ハ短調、アラ・ブレーヴェ
音楽学者チャールズ・シャーマンは「アニュス・デイ・エト・コンムニオ」において「アニュス・デイ」および「レクイエム・エテルナム」の8分音符が「クム・サンクティス・トゥイス」のフーガの2分音符と同じとなるテンポを推奨している[5]。シャーマンはまた「ディエス・イラエ」のアンダンテ・マエストーゾをquarter note=MM. 104と解釈することを推奨している[6]。レオポルト・モーツァルトは、「スタッカートは弦から弓を離すという指示であり」、アクセントの意味ではない、と指導している[7]。


レオポルト・モーツァルトとヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト父子が、1772年1月に開催された初演から第3演までの3回の演奏会に出席しており[8][9]、ヴォルフガングは自身のレクイエムを作曲する際に影響を受けた[10]。事実、M・ハイドンのレクイエムは「モーツァルトにとって重要な原型」となっており、またフランツ・クサーヴァー・ジュースマイヤーによるモーツァルト風の補筆が「いかなる点でもモーツァルトの構想から」出たものではないことを強く示唆している[11]。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%A0_(%E3%83%9F%E3%83%92%E3%83%A3%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%B3)

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/840.html

[近代史6] ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ(Wilhelm Friedemann Bach, 1710 - 1784)
ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ(Wilhelm Friedemann Bach, 1710 - 1784)

大バッハの長男。かなり才能ある音楽家であり、聴いてみる価値がある。評判通りバッハの息子たちの中では最高の才能を持っている人だと思った。他の息子たちに感じる才能不足をこの人にはあまり感じない。


シンフォニアニ単調F65
4.0点

シンフォニア二長調F64
3.0点

ハープシコードソナタ
3.0点

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%281859%E5%B9%B4%E3%81%BE%E3%81%A7%29


ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ(Wilhelm Friedemann Bach, 1710年11月22日 - 1784年7月1日)は、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの長男でドイツの作曲家、オルガニスト。別名「ハレのバッハ」、「ドレスデンのバッハ」。


生涯
1710年にヴァイマルに生まれた。父親のバッハに最も溺愛されており、1720年の《ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハのためのクラヴィーア小曲集(ドイツ語版) 》は、題名からも明らかなように、フリーデマンの音楽教育のために特に作曲されている。この曲集のうちいくつかは、後に《平均律クラヴィーア曲集》の素材として転用された。

ライプツィヒで教育を受け、1729年には父の友人のヨハン・ゲオルク・ピゼンデルの仲介によってピゼンデルの元弟子でメルゼブルクのコンサート・マスターを務めていたヨハン・ゴットリープ・グラウンに師事してヴァイオリンを習っている。1733年にドレスデンの聖ソフィア教会の、1746年にハレの聖母教会 (Marktkirche Unser Lieben Frauen) のオルガニストに就任。ハレに就職するにあたっては、父親が睨みを利かせたため、通常の演奏試験なしで採用されている。

1750年に父親が世を去り、フリーデマンの生活から父親の威光が失われると、ハレでの生活が不幸なものとなり、別の任地を求めて頻繁に各地を旅するようになる。1762年にダルムシュタットの宮廷楽長に任ぜられるが、ある理由からその地位に就任しなかった。2年後の1764年に、いきなりハレの地位を捨てる。自らハレの任務を辞しただけでなく、実際にはその後もどこでも公職に就くことができなかった。その後は最期の日を迎えるまで放浪の日々を続け、貧窮の末にベルリンで死去した。73歳没。

作品
膨大な作品数にもかかわらず、出版された量は少ない。ドレスデン時代にオルガン作品を出版しようとしたが、予約数が少なく1曲しか出版されなかった。作品のうち、教会カンタータと器楽曲が大半を占めており、なかでもフーガやポロネーズ、幻想曲といった鍵盤楽曲や、6つの無伴奏フルート二重奏曲が、大胆な幻想のほとばしりで名高い。いくつかの自筆譜がベルリン王室図書館に保存されている。

一般的に使われている整理番号の方式は、1913年にフリーデマン作品の一覧を公表した、マルティン・ファルクによるものである。この方式はファルク番号と呼ばれ、たとえば1765年に完成された名高い《12のポロネーズ》は、ファルク番号12であり、Falck 12 / F. 12 / FK 12 のいずれかのように表記される。1913年以降に再発見された作品は、数字の前に補遺を示すドイツ語の略号 nv (Nachlassverzeichnisの短縮形)を数字の前に副えることになっている。たとえばクラヴィーア曲《幻想曲ハ短調》の場合は、 Falck nv 2 という整理番号になっている。

ヴィルヘルム・フリーデマンは、弟カール・フィリップ・エマヌエルとともに、父バッハの最初の伝記作家であるヨハン・ニコラウス・フォルケルの有力な情報提供者であった。フォルケルは、ふたりから得られた情報を用いて、1802年にバッハ伝を出版したのである。しかしながらフリーデマンは、弟エマヌエルのように父親から遺産を相続したにもかかわらず、エマヌエルとは違って、父親の作品の管理人としては失格であった。フリーデマンは、相続分の父親の自筆譜の多くを、(困窮の余りに売却するなどして)数え切れないほど散逸させてしまっただけでなく、いくつかの場合には、父親の作品を自作だと偽ることさえやってのけた。たとえば父親の《オルガン協奏曲》BWV596の自筆譜に、フリーデマンが自署を書き入れたため、19世紀の出版譜は、誤って作者をフリーデマンとして伝えた。

いっぽう、1733年に作曲した《2台のチェンバロのための協奏曲 Concerto a duoi cembali concertati 》は、ヨハネス・ブラームスはこの作品を校訂して出版した際フリーデマンの作品としたにも拘わらず、大バッハの浄書譜によって伝承されたため、後に誤って父親の作品として発表されてしまったといういきさつがある。また、バッハの《管弦楽組曲第5番》と呼ばれてきた、管弦楽のためのト短調のフランス風序曲(BWV.1070)は、突然の感情の高まりと中絶という特色から、フリーデマンが真の作者ではなかったかと類推されている(ただし確証があるわけではない)。

フリーデマンは、不安定な生活基盤とだらしない性格から、父親や成功した弟たちとは違って、一生の間に着実に創作様式を発展させるということがなく、後期バロック音楽の様式を継承した(より厳格な)対位法的な初期の作品と、前古典派音楽の典型的な音楽様式を示す和声的で自由な晩年の作品というように、時期によって作風に大きな隔たりが認められる。そのことを、首尾一貫性のなさと批判する研究者もいる反面、さまざまな音楽様式を吸収して同化することのできた器用さと見る研究者もいる。あるいは近年では、霊感に導かれた自由奔放な感情表出をフリーデマン作品に共通する特徴と認めて、多感様式の代表的作曲家に数えようと再評価する動きも見られる。

《ニ短調のシンフォニア(または管弦楽のための前奏曲とフーガ)》F.65や、《フルートのための二重奏曲》など多くの作品では、父親とも弟カール・フィリップ・エマヌエルとも違ってしばしば劇的で壮大な表現を斥けており、繊細で翳りのある表情の明滅や、突然の感情の中断といった特徴が認められる。また、カール・フィリップ・エマヌエルがベルリンやハンブルクの進取的な音楽環境の中で、比較的早くから全音階的な音組織を用いるようになったのに対して、ヴィルヘルム・フリーデマンは、1760年代になっても依然として半音階技法に執着し、《12のポロネーズ》のいくつかにその有名な作例が指摘されている。

弟カール・フィリップ・エマヌエルやヨハン・クリスティアンに同じく、ヴィルヘルム・フリーデマンも鍵盤楽器演奏の大家であったが、弟たちとは違って、その上さらにヴァイオリン演奏も巧みであった。グラウンの指導で卓越した技術を身に着けた彼は、父親の作品《無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ》全曲を軽々と弾きこなす程であったという。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%8F

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/841.html

[近代史6] ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ シンフォニア ニ短調 F.65
ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ シンフォニア(または管弦楽のための前奏曲とフーガ)ニ短調 F.65


W. F. Bach - Sinfonia in D minor F 65



Jeune Orchestre Atlantique
Conductor & Leader
Stéphanie-Marie Degand


Valletta International Baroque Festival
Teatru Manoel


15th January 2013



W.F.Bach: Sinfonia in D Minor 'Adagio & Fugue', Fk. 65



Irish Baroque Orchestra, Monica Huggett


I. Adagio [00:00]
II. Allegro e forte [03:27]




Wilhelm Friedemann Bach-Sinfonia in D minor F.65



Sinfonia in D minor F.65: Adagio/Fugue.
Tafelmusik-Jeanne Lamon.

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/842.html

[近代史6] ギヨーム・ルクー(Guillaume Lekeu, 1870 - 1894)
ギヨーム・ルクー(Guillaume Lekeu, 1870 - 1894)

非常に早世してしまった作曲家。室内楽はかなり評価が高い。もったいなかった。

ヴァイオリンソナタ

弦楽四重奏曲

ピアノ三重奏曲

チェロソナタ

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%281889%E5%B9%B4%E3%81%BE%E3%81%A7%29

ギヨーム・ルクー(Guillaume Lekeu, 1870年1月20日 - 1894年1月21日)はベルギー生まれの作曲家。セザール・フランクの最後の弟子として将来を嘱望されたが、24歳で夭折した。 感受性豊かで情熱的な筆致が特徴。


生涯
ジャン=ジョゼフ=ニコラ=ギヨーム・ルクー(Jean Joseph Nicolas Guillaume Lekeu)は、1870年1月20日にベルギーのヴェルヴィエの近くにあるウズィ村(Heusy)で生まれた[1]。6歳からピアノとヴァイオリンを始め、後にチェロも学んだ。1879年、彼が9歳のときに両親とともにフランスのポワチエに移り住み、1885年に当地のリセに進学。リセの物理教師からバッハ、ベートーヴェンの後期作品とワーグナーの音楽を教えられ、彼らの作品に強く惹かれていたという。1888年にルクーは、さらに多くのことを学ぶためパリに移り住んだ[1]。1889年にルクーはバイロイトを訪れた[1]。翌1889年からセザール・フランクに作曲を師事。フランクが1890年に没した後はヴァンサン・ダンディに師事する。

1891年にルクーはダンディの勧めでローマ賞(フランス語版)コンクール[注釈 1]に参加することにした[1][2]。コンクール中に作曲したカンタータ『アンドロメダ』は審査員団により第二等次席に値すると評価されたが、ルクーは審査に不正があると感じて受賞を拒否した[2]。1892年2月18日にブリュッセルで演奏された『アンドロメダ』の抜粋編曲版を、ヴァイオリニストのウジェーヌ・イザイが聴く[2]。イザイはその日の晩に同作を指揮していたルクーに、ヴァイオリン・ソナタの作曲を依頼した[2]。ルクーはヴァイオリン・ソナタト長調として作品をイザイに献呈し、同作は1893年3月7にイザイにより初演された[2]。イザイはピアノ四重奏曲(フランス語版)の作曲もルクーに依頼した。

ルクーはチフス熱により1894年1月21日、彼の誕生日の翌日にアンジェの両親の家で亡くなった[2]。ルクーは1893年10月にパリで音楽仲間とともにレストランで食事をしている[2]。異説もあるが、このときに食べたシャーベットがチフス菌に汚染されていたと考えられている[2]。ルクーは生まれ故郷のウズィ村に葬られた[2]。満年齢で24歳だった。


作品
ルクーは15歳から作曲をはじめ、精力的に作品を量産した[1]。ルクーの残した作品は断片なども含めると100余りある。イザイから依頼を受けて作曲したヴァイオリンソナタが特によく知られる[1]。このほか、完成された第1楽章と未完の第2楽章(ダンディが補筆して完成)からなるピアノ四重奏曲、弦楽四重奏曲、ピアノ三重奏曲、チェロソナタなどの室内楽やルクー自身も歌詞を書いた多くの歌曲がある。


室内楽曲

弦楽四重奏のための《瞑想》 (1887年)【演奏例】
弦楽四重奏のための《モルト・アダージョ》 (1887年)【演奏例】
弦楽四重奏曲 ト長調 (1888年)【演奏例】
チェロ・ソナタ ヘ長調(フランス語版)(1888年)【演奏例】
ピアノ・ソナタ ト短調 (1891年)【演奏例】
ピアノ三重奏曲 ハ短調(フランス語版)(1890/91年)【演奏例】
ヴァイオリン・ソナタト長調(1892/93年)【演奏例】
ピアノ四重奏曲 ロ短調(フランス語版)(1892/93年、ダンディによって補筆完成)【演奏例】


声楽曲

《実家の窓》
《ひなげし》(1887年)
《小品》(アンダンテ・ソステヌート)
《濃くなる影》(1889年)
《古代の緩やかな舞曲》(1889年)
《三つの詩曲》(1892年)
《墓前で》
《ロンド》
《夜想曲》

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%BC

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/843.html

[近代史6] ギヨーム・ルクー ヴァイオリンソナタ ト長調
ギヨーム・ルクー ヴァイオリンソナタ ト長調


Guillaume Lekeu, Violin Sonata in G, Ferras, Violin







Christian Ferras
Pierre Barbizet
℗ 1966 Deutsche Grammophon GmbH, Berlin



▲△▽▼


ヴァイオリンソナタ ト長調は、ベルギーの作曲家、ギヨーム・ルクーが作曲した唯一のヴァイオリンソナタで、彼の最も有名な作品。


概要
ルクーは1891年にカンタータ『アンドロメダ』でローマ賞第2位に選ばれたが、ブリュッセルでその抜粋演奏を聴いた同国人の名ヴァイオリニスト、ウジェーヌ・イザイが感銘を受け、ルクーにヴァイオリンソナタの作曲を依頼した。作曲は1892年の春から夏にかけて行われ、翌1893年3月7日にブリュッセルでイザイにより初演されて彼に献呈された。なお、ルクーは初演から1年足らず後に24歳で夭逝した。


構成
曲は3楽章からなり、約30分を要する。ルクーはセザール・フランクに師事し、その影響を強く受けているが、この曲でもフランクやその弟子たち(フランキスト)が盛んに用いた循環形式が採用されている。


第1楽章 Très modéré - Vif et passionné
第2楽章 Très lent
8分の7拍子を中心に拍子が不規則に変化するが、これはルクーの故郷ベルギーのワロン地方の民謡に由来する。
第3楽章 Très animé


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%8A%E3%82%BF_(%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%BC)

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/844.html

[近代史6] エルネスト・ショーソン(ショソン、Ernest Chausson, 1855 - 1899)
エルネスト・ショーソン(ショソン、Ernest Chausson, 1855 - 1899)

交響曲 変ロ長調 (作品20)

詩曲 (作品25) ヴァイオリンと管弦楽

ピアノ三重奏曲
3.5点
初期の作品。情緒的な濃厚さがなんとも言えない精妙な奥ゆかしい味付けで響いている。奥ゆかしさは、裏を返せばはっきりしないもどかしさも感じるものだ。20世紀の洒脱なフランス音楽や、19世紀ドイツの構築的な世界も違う、19世紀フランスの濃厚さを室内楽で体現した名作。

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%281889%E5%B9%B4%E3%81%BE%E3%81%A7%29


アメデ=エルネスト・ショーソン(ショソン、Amédée-Ernest Chausson, 1855年1月20日 - 1899年6月10日)は、フランスの作曲家。交響曲、室内楽、歌曲、歌劇など幅広い分野での作曲を手がけた。

41歳(1896年)のときに作曲したヴァイオリンと管弦楽のための『詩曲』が群を抜いて有名だが、『交響曲 変ロ長調 』や『愛と海の詩』(Le Poème de l'amour et de la mer)、『ヴァイオリン、ピアノと弦楽四重奏のための協奏曲ニ長調』 (「コンセール」)も頻度は少ないものの演奏機会がある。

生涯
パリ出身。はじめは法律を学んでいたが、24歳でパリ音楽院に入り、マスネ、セザール・フランクに作曲を学ぶ。しかし一年で退学し、その後はフランクに師事する一方でバイロイトにしばしば行き、ワーグナーの影響を強く受ける。

1886年にサン=サーンスが組織したフランス国民音楽協会に参加したため作曲のペースは落ちたが、細々と作曲を続けた。パリ郊外のイヴリーヌ県リメーの別荘で自転車事故により44歳で死去し、ペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。彼の死により作曲中だった「弦楽四重奏曲」は全4楽章中3楽章の途中までの未完の絶筆となり、友人のヴァンサン・ダンディが補筆・出版した。

主な作品

7つの歌 (作品2) 歌曲
ピアノ三重奏曲ト短調(フランス語版)(作品3)
交響詩『ヴィヴィアーヌ(フランス語版) 』 (作品5)
4つの歌 (作品8) 歌曲
ヴェーダ讃歌 (作品9) 合唱曲
森の静けさ (作品10) 管弦楽
2つの二重唱曲 (作品11)
4つの歌 (作品13) 歌曲
隊商 (作品14) 歌曲
婚礼の歌 (作品15) 歌曲
ミアルカの歌 (作品17) 歌曲
愛と海の詩(作品19) 独唱と管弦楽
交響曲変ロ長調 (作品20)
ヴァイオリン、ピアノと弦楽四重奏のための協奏曲ニ長調 (作品21) - コンセールと通称されることもある
歌劇『アルテュス王』(アーサー王) (作品23)
温室(フランス語版) (作品24)
詩曲 (作品25) ヴァイオリンと管弦楽
いくつかの舞曲(フランス語版) (作品26) ピアノ
3つの歌 (作品27) 歌曲
シェイクスピアの歌 (作品28) 歌曲
ピアノ四重奏曲イ長調(フランス語版)(作品30)
交響詩『祭りの夕べ』 (作品32)
クリスマス・ツリーに (作品33) 歌曲
2つの詩 (作品34) 歌曲
弦楽四重奏曲ハ短調(英語版) (作品35) - 未完の絶筆。
2つの歌 (作品36) 歌曲
終わりなき歌 (果てしなき歌)(作品37) 歌曲
風景(フランス語版)(作品38) ピアノ
小品ハ長調 (作品39) チェロとピアノ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%B3

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/845.html

[近代史6] エルネスト・ショーソン ピアノ三重奏曲 ト短調 作品3
エルネスト・ショーソン ピアノ三重奏曲 ト短調 作品3


Chausson - Piano Trio op.3 (Trio Archipel).
ARCHIPEL TRIO



1. Pas trop lent - animé : 0:00
2. Vite : 10:20
3. Lent : 14:30
4. Animé : 23:59




Chausson - Piano Trio In G Minor, Opus 3
Trio Wanderer



I. Pas trop lent - Animé
II. Vite 10:42
III. Assez lent 14:29
IV. Animé 23:48



Chausson: Piano Quartet & Trio
Daniël Esser · Jet Röling · Kees Hülsmann · Richard Wolfe







Chausson: Piano Quartet & Trio - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=OLAK5uy_mnMwr7qpkJv0B9dNGI4673cIJydmF8704

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/846.html

[近代史6] ヴァンサン・ダンディ(Paul Marie Théodore Vincent d'Indy, 1851 – 1931)
ヴァンサン・ダンディ(Paul Marie Théodore Vincent d'Indy, 1851 – 1931)

フランスの山人の歌による交響曲(1886)
4.5点
この曲は個人的にかなり好きだ。親しみやすく、優雅では華やかで、フランスらしい詩情や洗練された上品さを高度に備えている。ピアノは協奏曲に近い程に大活躍するが、オーケストラと対地されておらず、一緒に盛り上げるパーツとして活用されている。至福の時を過ごせる曲であり、フランスの19世紀の管弦楽としてかなりの傑作であると思う。

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%281889%E5%B9%B4%E3%81%BE%E3%81%A7%29


ポール・マリ・テオドール・ヴァンサン・ダンディ(Paul Marie Théodore Vincent d'Indy フランス語: [vɛ̃sɑ̃ dɛ̃di], 1851年3月27日パリ – 1931年12月2日パリ)はフランスの作曲家・音楽教師、指揮者。フランスの古い貴族の家系に属する。


略歴
幼い頃からピアノを学ぶが、一族を喜ばせるために法学を学ぶ。しかしながら、音楽家になることを決心しており、1870年に普仏戦争に従軍するが翌年帰還し、1872年にパリ音楽院に入学し、セザール・フランクの献身的な門人となった。音楽院卒業後に従姉妹のイザベラと結婚し、三人の子供が生まれた。1894年に、シャルル・ボルドやアレクサンドル・ギルマンに協力して、パリにスコラ・カントルムを創設し、没するまで同校ならびにパリ音楽院で音楽を指導した。門下に、サティ、ルーセル、アルベリク・マニャール、(後にダンディの評伝を書いた)ジョゼフ・カントルーブ、ボフスラフ・マルティヌーがいる。またギヨーム・ルクーはフランクに学んでいたが、フランクが亡くなったため、この若き弟弟子はダンディの門下となった。さらにルクーが夭逝し、未完で残された彼のチェロ・ソナタをダンディは補筆した。「作曲学教程 Cours de composition musicale」(1903年)の執筆に参加したほか、フランクやベートーヴェンに関する研究書を書いた。

ダンディの作品は、今日さほど一定して演奏されていない。最も有名な作品はおそらく「フランスの山人の歌による交響曲 Symphonie sur un chant montagnard français」ことピアノと管弦楽のための「セヴェンヌ交響曲 Symphonie Cévenole」(1886年)や、交響的変奏曲「イスタール Istar」(1896年)であろう。その他に、管弦楽曲や室内楽曲、ピアノ曲、歌曲、たくさんのオペラ(たとえば、1897年の「フェルヴァール Fervaal」など)がある。ダンディの作品は、フランクと並んでワーグナーからの影響を見せている(ダンディは1876年にバイロイト祝祭劇場において、「ニーベルングの指環Der Ring des Nibelungen」の初演に出席している。)

ダンディは、当時はほとんど忘れ去られていた古楽の復権に尽力し、一例をあげると、モンテヴェルディのオペラ「ポッペアの戴冠 L'Incoronazione di Poppea」などの独自の校訂版を作成した。また、1905年12月には指揮者としてアメリカ合衆国へ演奏旅行も行い、ガブリエル・フォーレやクロード・ドビュッシーなどのフランス音楽を指揮した。

第一次世界大戦前に、長く連れ添った愛妻と死に別れてから、一時的に創作意欲が減退したものの、戦後に子供たちの反対を押し切って再婚してからは創作意欲を新たにした。セヴェンヌの城館を離れて、コート・ダジュールのアゲーに新妻とともに居を移し、作曲に専念した。その時期の作品には、「海岸の4つの詩」、「地中海2部作」、ピアノと室内アンサンブルのための協奏曲や、弦楽四重奏曲第3番などがある。「海岸の4つの詩」の第2楽章「深い青の喜び」の導入部は、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」の第2部の導入と酷似している。ラヴェルのほうは1912年、ダンディのほうが1919年から1921年に完成されていることを考えると、ダンディがなぜラヴェルを借用したのか、あるいはこの間の事情がどういうことであったのか、非常に興味深いものがある。

その他、1909年にはフランス国民音楽協会SIMの企画で「ハイドンの名によるメヌエット」という作品を書いている。これはラヴェルの同名の作品やドビュッシー、デュカスらと同じ企画中で書かれたものであるが、当時の契約出版社の違いから、上記三者のようにまとめて出版されるには至っておらず、ほとんど録音もない。

日本人の弟子に陸軍軍楽隊長となった大沼哲[1]などがおり、1938年(昭和13)には「歌と踊り」がNHKから放送されている。

1941年(昭和16)から1943年(昭和18)にかけて池内友次郎の翻訳により著書『作曲法講義』(5冊、古賀書店)が出版され[2]、1943年(昭和18)には詩人・冨士原清一の翻訳により著書『ベートーヴェン』(新太陽社)が出版されている。

主要作品一覧

歌劇(全6曲)
楡の木の下で私を待って(Attendez-moi sous l'orme)(オペレッタ) op.13
鐘の歌(Le chant de la cloche) op.18
フェルヴァール(英語版)(Fervaal) op.40
異邦人(スペイン語版) (L'Étranger)op.53
聖クリストフの伝説(La légende de Saint Christophe)op.67
シニイラの夢(Le rêve de Cinyras)op.80


交響曲
交響曲第1番イ短調『イタリア』(作品番号なし) Symphonie Italienne
フランスの山人の歌による交響曲 op.25 Symphonie sur un chant montagnard Français
交響曲第2番変ロ長調 op.57
交響曲第3番ニ長調『小シンフォニア「ガリアの戦い」』op. 70[3] Sinfonia brevis de bello gallico


管弦楽曲
交響的バラード『魔法にかけられた森』op.8 La Foret Enchantee
交響詩『ヴァレンシュタイン』op.12 Wallenstein
ヴィオラと管弦楽のための『歌』op.19 Lied
交響的伝説『サルビアの花』op.21 Saugefleurie
カラデック組曲 op.34 Karadec Suite
旅の画集 op.36 Tableaux de Voyage
交響的変奏曲『イスタール』op.42 Istar
劇音楽『メデー』op.47 Medee, Suite d'Orchestre
コラール変奏曲 op.55 Choral Varie
交響詩『山の夏の日』op.61 Jour d'ete a la Montagne
思い出 op. 62 Souvenirs
交響組曲『海辺の詩』(4曲)op.77 Poeme des Rivages
地中海の二部作 op.87 Diptyque Mediterraneen


協奏曲
ピアノ、フルート、チェロと弦楽のための協奏曲 ロ短調 op.89


室内楽曲
弦楽六重奏曲 変ロ長調 op.92
弦楽四重奏曲第1番 ニ長調 op.35
弦楽四重奏曲第2番 ホ長調 op.45
弦楽四重奏曲第3番 変ニ長調 op.96
ピアノ四重奏曲 イ短調 op.7
ピアノ五重奏曲 ト短調 op.81
ピアノ三重奏曲第1番 変ロ長調 op.29
ピアノ三重奏曲第2番 ト長調 op.98
クラリネット・チェロ・ピアノのための三重奏曲
歌と踊り(ディヴェルティメント)op.50 (フルート、オーボエ、2クラリネット、2ファゴット、ホルン)


ピアノ曲
山の詩 op.15
旅の画集 op.33
主題と変奏、フーガと歌 op.85
フランスの古い輪舞の歌による幻想曲 op.99


オルガン曲
小品(前奏曲)変ホ短調


合唱曲
鐘の歌 op.18(舞台版あり)
6つのフランス民謡 第1集 op.90
6つのフランス民謡 第2集 op.100


歌曲
首領の騎行 op.11
海の歌 op.43

教え子
小松耕輔[4]
大沼哲[1]
近衛秀麿[5]
高木東六[6]


邦訳著書
Cours de Composition Musicale (Durand, 1909-12)/『作曲法講義』(5冊、池内友次郎訳、古賀書店、1941-43年)
César Franck (Librairie Félix Alcan, 1906)/『〈音楽文庫〉セザール・フランク』(佐藤浩訳、音楽之友社、1953年)
Beethoven: Biographie Critique (Librairie Renouard, 1911) /『ベートーヴェン』(冨士原清一訳、新太陽社、1943年),『〈音楽文庫〉ベートーヴェン』(小松耕輔訳、音楽之友社、1954年)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/847.html

[近代史6] ヴァンサン・ダンディ《フランスの山人の歌による交響曲》作品25
ヴァンサン・ダンディ《フランスの山人の歌による交響曲》作品25


d'Indy: Symphony on a French Mountain Air, Cluytens & PCO (1953)



(00:05) 1. Assez lent - Modérément animé
(11:42) 2. Assez modéré, mais sans lenteur
(19:02) 3. Animé


Aldo Ciccolini (1925-2015), Piano
André Cluytens (1905-1967), Conductor
Paris Conservatoire Orchestra (Orchestre de la Société des Concerts du Conservatoire)


Rec. 16, 29 June 1953



d'Indy: Symphony on a French Mountain Air, R. Casadesus & Ormandy (1958)



(00:05) 1. Assez lent - Modérément animé
(10:45) 2. Assez modéré, mais sans lenteur
(17:01) 3. Animé


Robert Casadesus (1899-1972), Piano
Eugene Ormandy (1899-1985), Conductor
Philadelphia Orchestra


Rec. November 1958, at Broadwood Hotel, in Philadelphia




d'Indy: Symphony on a French Mountain Air, Munch & BSO (1958)



(00:05) 1. Assez lent - Modérément animé
(10:58) 2. Assez modéré, mais sans lenteur
(17:48) 3. Animé


Nicole Henriot-Schweitzer (1925-2001), Piano
Charles Munch (1891-1968), Conductor
Boston Symphony Orchestra


Rec. 24 March 1958, at Symphony Hall, in Boston



▲△▽▼


《フランスの山人の歌による交響曲(フランス語: Symphonie sur un chant montagnard français)》作品25は、ヴァンサン・ダンディが1886年に作曲した交響曲で、ダンディの数ある作品のうち、今日かろうじて演奏されるほとんど唯一の作品。題名に示されているように、主要な主題はセヴェンヌ地方で記録した民謡が充てられている(同地は山岳地帯であり、そのため「セヴェンヌ交響曲 Symphonie cévenole 」という別名も存在する)。交響曲としては異例なことに独奏ピアノの存在が目立っているが、交響曲の一種であるためか決して支配的であるわけではない(このパターンはファリャの『スペインの庭の夜』で他の例を認める事ができる)。ピアノはオーケストラに寄り添っているため、協奏交響曲に近い効果をもつ[1]。『ラルース世界音楽事典』では「この作品は熱烈な国民主義、自然とセヴェンヌ地方に寄せる愛着、交響曲形式と循環形式に対する嗜好という3つの面で作曲者の美意識をよく反映している。−中略−作品全体はひとつの主題《アルデシュ地方の羊飼いの歌》を基に構成されており、この主題は冒頭からコーラングレによって奏される。これにより、確固とした統一性と素晴らしい構築性を曲全体に与えている」と解説している[2]。


初演
1887年3月20日、パリにて作曲者指揮コンセール・ラムルー、マリー=レオンタイン・ボルド=ペーヌ(英語版)(本作の献呈先)のピアノ独奏で初演。


編成
木管楽器:フルート3(うち1はピッコロ持ち替え)、オーボエ3、(うち1はコーラングレ持ち替え)、クラリネット2、バスクラリネット、ファゴット3
金管楽器:ホルン4、トランペット2、コルネット2、トロンボーン3、チューバ
打楽器:ティンパニ、トライアングル、シンバル、大太鼓
その他:ピアノ、弦五部、ハープ


構成
以下の3つの楽章から成り、30分弱の長さである。循環形式で構成され、冒頭でコーラングレが奏する主題(譜例)が変形されながら全曲に現れる。


きわめて緩やかに - 中庸の速さで、生き生きと Assez lent - Modérément animé
きわめて穏やかに、しかし遅くなく Assez modéré, mais sans lenteur
活き活きと Animé


演奏時間
約25分


主な録音
年 ピアノ独奏 指揮者 管弦楽団 レーベル


1941 マキシム・シャピロ ピエール・モントゥー
サンフランシスコ交響楽団 CD: RCA
ASIN: B000003FLM
1953 アルド・チッコリーニ アンドレ・クリュイタンス
パリ音楽院管弦楽団 CD: Artemisia
ASIN: B01GC0E9JO
1958 ニコール・アンリオ=シュヴァイツァー シャルル・ミュンシュ
ボストン交響楽団 CD: RCA
ASIN: B000099636
1961 ロベール・カサドシュ ユージン・オーマンディ
フィラデルフィア管弦楽団 CD: Sony
ASIN: B00N23RG90
1966 安川加寿子 岩城宏之
NHK交響楽団 CD: KING INTERNATIONAL
ASIN: B06W5P3JLV
1972 マリー=フランソワーズ・ビュケ ポール・カポロンゴ
モンテカルロ国立歌劇場管弦楽団 CD: Philips
ASIN: B0000241JN
1976 アルド・チッコリーニ セルジュ・ボド
パリ管弦楽団 CD: EMI
ASIN: B000005GPL
1989 ジャン=イヴ・ティボーデ シャルル・デュトワ
モントリオール交響楽団 CD: DECCA
ASIN: B001RVIU1C
1991 カトリーヌ・コラール マレク・ヤノフスキ
フランス放送フィルハーモニー管弦楽団 CD: Erato
ASIN: B000005E8S
1993 フランソワ・ジョエル・ティオリエ アントニオ・デ・アルメイダ
アイルランド国立交響楽団 CD: Naxos
ASIN: B00005F49R
2010 マーティン・ヘルムヘン(英語版) マレク・ヤノフスキ
スイス・ロマンド管弦楽団 CD: Pentatone
ASIN: B005AFMI0K
2013 ルイ・ロルティ ラモン・ガンバ(英語版)
アイスランド交響楽団 CD: Chandos
ASIN: B00BK6HRYK


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%81%AE%E5%B1%B1%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%AD%8C%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/848.html

[近代史6] エドゥアール・ラロ(Victor Antoine Édouard Lalo, 1823 - 1892)
エドゥアール・ラロ(Victor Antoine Édouard Lalo, 1823 - 1892)


管弦楽作品
交響曲 ト短調


協奏的作品(独奏と管弦楽のための作品)

ヴァイオリン協奏曲第1番 ヘ長調 作品20

『スペイン交響曲』 ニ短調 作品21(ヴァイオリン協奏曲第2番)
3.5点
独奏ヴァイオリンがずっと大活躍であり、協奏曲の一種であまり交響曲に近くないと思うが、技巧的要素を強調していないしカデンツァも無い所が普通の協奏曲と違う。しなやかで情感豊かなヴァイオリンの歌わせ方と随所に現れるスペインの民族的な旋律が魅力的。長い曲でないが5楽章もあり、1つの楽章が短くて聴きやすい。最終楽章が楽しい。

『ロシア協奏曲』 ト短調 作品29(ヴァイオリン協奏曲)

『ノルウェー幻想曲』 イ長調(ヴァイオリン協奏曲)

チェロ協奏曲 ニ短調

ピアノ協奏曲 ヘ短調

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%281889%E5%B9%B4%E3%81%BE%E3%81%A7%29

ヴィクトール・アントワーヌ・エドゥアール・ラロ(Victor Antoine Édouard Lalo, 1823年1月27日 - 1892年4月22日)は、フランスの作曲家、ヴァイオリンおよびヴィオラ奏者。リール生まれ。

スペイン交響曲(ヴァイオリン協奏曲第2番に当たる)、チェロ協奏曲が有名。オペラ『イスの王様』は、今日ではまず全曲が上演されることはないが、その序曲は
フランス・オペラの序曲集といった盤などにも収められていることがある。


経歴
祖父の代まではスペイン人(バスク系)だった。
リール音楽院を経て1839年にパリへ出てパリ音楽院で学ぶ。ヴァイオリンをアブネックに、シュールホフらに作曲を師事

1845年から作曲を開始する。1848年から1849年に数曲の歌曲を出版するが失敗。室内楽も試みたが、これも同様だったため、しばらく作曲から遠ざかる。
1855年に仲間と弦楽四重奏団を結成し、ヴィオラの担当として活躍。
1865年にアルト歌手と結婚。そのことに元気づけられ、作曲の意欲が再燃。
1874年に『ヴァイオリン協奏曲第1番 ヘ長調』をパブロ・デ・サラサーテのヴァイオリンにより初演し、大成功する。
その後も『スペイン交響曲』や『ノルウェー幻想曲』などがサラサーテによって初演され、ラロの人気は高まる。

性格ははなはだまじめであり、室内楽に熱意を注いでいた。

主な作品

管弦楽作品
交響曲 ト短調
ディヴェルティスマン
ノルウェー狂詩曲

協奏的作品(独奏と管弦楽のための作品)
ヴァイオリン協奏曲第1番 ヘ長調 作品20
『スペイン交響曲』 ニ短調 作品21(ヴァイオリン協奏曲第2番)
『ロシア協奏曲』 ト短調 作品29(ヴァイオリン協奏曲第4番)
『ノルウェー幻想曲(英語版)』 イ長調(ヴァイオリン協奏曲第3番)
チェロ協奏曲 ニ短調
ピアノ協奏曲 ヘ短調

室内楽曲
ピアノ三重奏曲第1番 ハ短調 作品7
ピアノ三重奏曲第2番 ロ短調 
ピアノ三重奏曲第3番 イ短調 作品26
弦楽四重奏曲 変ホ長調 作品45
ヴァイオリンソナタ ニ長調 作品12
ギター ロ短調 作品28
2つの小品 作品14

オペラ
フィエスク(英語版)
イスの王様
ジャックリーの乱(英語版)(フランスでの農民反乱を題材とするオペラ、未完だがアルチュール・コカール(英語版)により補筆完成された。)

バレエ
ナムーナ

ピアノ曲
母と子

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%82%A5%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%AD
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/849.html

[番外地9] 外務省や小和田恒・雅子妃、今上天皇は中国のエージェント
天皇一族は全員創価学会員で中国の手先なんだよ。 反中政策が許される訳ないだろ:
外務省や小和田恒・雅子妃、今上天皇は中国のエージェント
【転載記事】やっぱり!! 正田家とGHQの癒着。2016-03-17
外務省内でも、愛国者は追われるか隅に押しやられ、GHQの意向通りに反日を貫く者が出世していた時です。雅子妃の実父小和田恒氏がその筆頭格ですね。雅子妃の背景を知るにつけ、なぜこのようなお方が入内を?
現在の両陛下、皇太子と皇太子妃殿下のありようは、皇室解体、日本国の国体の弱体化には、いたって都合のいいお方たちです。s ouk a 学会が東宮夫妻に肩入れし、秋篠宮ご夫妻に関わるデマを流していることからしても皇太子夫妻は反日勢力にとって都合よいのです。また利用しやすい存在であることは、反日kan国の要人潘基文(パン・ギムン)、韓 昇洙(ハン・スンス)らの皇太子への接触と交流で解ります。
皇太子も進んで彼らや小和田恒氏の喜ぶことをやります。
人民解放軍少将であり、習近平の妻である彭 麗媛(ほう れいえん、ポン・リーユアン)への接触。
s ouk a イベントへの出席。池田大作の息子との食事会など。
皇太子と反日潘基文を結びつけたのは小和田恒氏です。
今や雅子妃入内以来20年間の居座りで、小和田王朝完成。
天皇陛下にタイで「謝罪させた」のが小和田恒氏。
河野談話の影の人物、また「kan日」ワールド・カップの影の推進者でもあります。
そして河野談話発表に寄与した、時の外務事務次官は誰あろう小和田恒氏であることを、腹に叩き込んでください。天皇陛下訪中に寄与したことも。

池田大作の外遊に便宜をはかったことも。
その「反日左翼男」の娘がなぜ入内出来たのですか?

あの気色悪い売国怪物、小沢一郎がなぜ国連を愛していたのか。
大反日組織だからですよ。そことパイプのある小和田恒とは何者なのか。
国連には雅子妃の妹も噛んでいたはず。

*池田 礼子は、 国際機関職員であり、
皇太子徳仁親王妃雅子の実妹として知られる。

国際連合職員、国連ユニセフ駐日事務所(東京事務所)副代表などを歴任。
反日組織国連と国連大学に入り浸る皇太子とその妃。
次期大統領候補、超反日・潘基文がなぜ、皇太子と親密なのか。
皇太子妃の母親、小和田優美子氏と
日本ユニセフとの関わりも看過できません。
なにゆえ、池田大作と密着のアグネス・チャンを看板とする組織に皇太子妃の実母と妹がからむのか。


こちらにはまた半島利権の宮家高円宮家の承子さんが、就職して
ここでもまた、いかがわしいひとかたまりをなしています。

日本ユニセフは鳩山由紀夫の母方祖母が創設者です。
小和田家の関わるところ、c house n 中国の気配が色濃いのはなぜ。

大体 k an国と china に褒められるって、鳩山や村山富市と同列売国奴。
・・・・・あ、天皇陛下皇后陛下もk an国から絶賛なんでしたっけ。

雅子妃の父親 小和田恒氏の反日思想

「日本の外交は、東京裁判を背負っているハンディキャップ外交である」

外交に関しては「ひざまずき外交」と評されるように、中韓には膝を屈して接しなければならないとする、要は「日本は悪い国だ」を前提に、中国にも k an国にも対せよ、と。

このような思想を家長が持つ家の娘が、よくまあ宮中に招じ入れられたものだと、宮内庁の、と言っていいのかどうか、関わった人々の迂闊さに驚くばかりです。
通常ならあり得ないのです。はっきり言えば反日思想家の娘を皇室に入れるなどと。

おまけに母方は、極悪な企業犯罪会社、チッソに連なっているのですから、あり得ない環境のダブルです。いや、小和田氏の家系が当主金吉に至る、わずか3代前にしか遡れない不明朗な家系であるということを加えれば、トリプルに、お后候補には絶対に成り得ない条件が揃っています。

外務省の中 k an への、弱腰体質の基幹を作った小和田恒氏。
雅子妃の父・小和田恒氏が外務省時代に唱えていた主張。「ハンディキャップ国家論」ともいう。その定義については、論者によって微妙に評価が分かれるが、平和維持活動などに、軍事力を用いた、いわゆる「一人前の活動」をしてはいけない、という面では共通している。特定アジアへの「土下座外交」の基礎をなすものだとして、保守派の論者からは厳しく批判されている。

 中国の側に理があるという非常識を日本国民に植えつけてきたのは、田中内閣以後の親中派議員と外務官僚だ。中国に対する贖罪意識に加えて、日中条約締結後にはじめたODA援助がらみの利権が親中派議員を激増させた。

 一方で外務省主流も親中派に傾き、チャイナスクールが跳梁跋扈した。小和田恒元外務次官、元国連大使(現国際司法裁判事)が『日本ハンディキャップ論』を唱えたのは有名だ。日本はハンディを背負っているのだから一人前の行動や発言をしてはいけない、との暴論である。

 次官、駐米大使、外務省顧問を歴任した栗山尚一宮内庁参与は『日本は永遠に謝罪し続けなければならない』という主旨の大論文を月刊誌『外交フォーラム』に連載(2006年1・2月)した。
 栗山氏によれば、首相が靖国参拝をやめても、ガス田、尖閣諸島、国連安保理常任理事国などすべての懸案問題で中国の譲歩は期待できないが、それでも謝れという。そもそも何も得ることが期待できない方針を『政策』と呼べるのだろうか。
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/868.html

[近代史6] エドゥアール・ラロ『スペイン交響曲』 ニ短調 作品21
エドゥアール・ラロ『スペイン交響曲』 ニ短調 作品21


Bronislaw Huberman - Lalo : Symphonie Espagnole Op.21 (1934) 再復刻
Vienna Philharmonic Orch. cond. by George Szell








I. Allegro non troppo 0:00
II. Scherzo. Allegro molto 7:18
III.Andante 11:07
W. Rondo. Allegro 17:03


Bronisław Huberman(Violin)
George Szell(Conductor)
Wiener Philharmoniker
20,22 June 1934


▲△▽▼


ヴァイオリン協奏曲第2番《スペイン交響曲》(Symphonie espagnole )作品21は、エドゥアール・ラロが1874年に、パブロ・デ・サラサーテのために作曲した作品。ラロの代表作と見なされている。ニ短調をとる。1875年2月にパリで初演された。19世紀から20世紀前半までは、第3楽章「間奏曲」をカットする習慣が続いたが、20世紀後半にメニューインなどが全曲演奏および全曲録音に着手してから、現在ではカットなしの演奏が一般化している。


交響曲と題され、5楽章からなるものの、実質的には、ヴァイオリン独奏と管弦楽のために作曲された、交響的協奏曲にほかならない。随所にスペイン的な主題が使われ、フランスにおけるスペイン趣味の流行の前触れを告げた(本作の初演はビゼーの歌劇《カルメン》の初演に先立つこと実に1ヵ月であった)。また、チャイコフスキーがヴァイオリン協奏曲ニ長調(1878年)を書く際に、その民族色豊かな内容や音楽構造を研究し参考にしたと言われている。


ヴァイオリン協奏曲と公称されたラロの作品は《第1番 ヘ長調》作品20があり、交響曲と公称されたラロの作品はト短調の作品(作品番号なし)のみである。《スペイン交響曲》から13年後の、この《交響曲 ト短調》は独奏楽器を伴っておらず、トーマス・ビーチャムに愛されたものの、めったに上演も録音もされていない。


編成
独奏ヴァイオリン、ピッコロ、フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、ティンパニ、小太鼓、トライアングル、ハープ、弦五部


構成
以下の5楽章からなる。


第1楽章 アレグロ・ノン・トロッポ ニ短調 2分の2拍子 ソナタ形式
第2楽章 スケルツァンド アレグロ・モルト ト長調 8分の3拍子 三部形式
第3楽章 間奏曲 アレグロ・ノン・トロッポ イ短調 4分の2拍子 三部形式
第4楽章 アンダンテ ニ短調 4分の3拍子 三部形式
第5楽章 ロンド アレグロ ニ長調 8分の6拍子


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/850.html

[近代史6] エドゥアール・ラロ『スペイン交響曲』 ニ短調 作品21 中川隆
1. 中川隆[-16074] koaQ7Jey 2021年10月07日 19:27:12 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[27]
ティボー


Jacques Thibaud plays LALO Symphonie Espagnole, op.21 ( 1941. Ernest Ansermet)




I. Allergo non troppo (00:00)
II. Scherzando - Allegro molto (7:47)
III. Andante (12:30)
IV. Rondo - Allegro(20:02)

Jacoues Thibaud (1880-1953), French violinist
Ernest Ansermet
Suisse Romande Ochestra
Recorded in 1941. 11. 17




Lalo Symphonie espagnole,Op.21,スペイン交響曲(Thibaud,Stokowski NYP 1947)




00:00 1.Allegro non troppo
08:17 2.Scherzando: Allegro molto
12:59 4.Andante
20:00 5.Rondo: Allegro

Jacques Thibaud(Violin)
Leopold Stokowski(Conductor)
New York Philharmonic
5 January 1947





Lalo: Symphonie espagnole, Thibaud & Argenta (1951)









(00:05) 1. Allegro non troppo
(07:42) 2. Scherzando: Allegro molto
(−:−)(3. Intermezzo: Allegro non troppo) ... none
(12:21) 4. Andante
(19:28) 5. Rondo: Allegro

Jacques Thibaud (1880-1953), Violin
Ataúlfo Exuperio Martín de Argenta Maza (1913-1958), Conductor
Spanish National Orchestra (Orquesta Nacional de España)

Rec. 14 March 1951, in Paris

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/850.html#c1

   前へ

▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > 中川隆 koaQ7Jey > 100514  g検索 koaQ7Jey

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。