http://www.asyura2.com/acpn/k/ko/koa/koaQ7Jey/100513.html
255. 中川隆[-16160] koaQ7Jey 2021年10月02日 22:22:11 : u8uuqDZBrs : WEpjMlNBaVNvL1E=[24]
旭川市豊岡のレストランで会計したのは誰か!?レジ店員が覚えていて判明!!廣瀬爽彩さん失踪翌日
2021/10/02
【旭川市女子凍死事件】 14歳被害者の新目撃証言現る!!【現地調査】被害者は誰かと一緒にいた!?
2021/09/04
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/598.html#c255
1. 中川隆[-16159] koaQ7Jey 2021年10月03日 05:41:11 : La1MHT2NOM : S3Z1enY4dHRtUXc=[1]
共産主義というのは階級を無くす運動だ。
帝国主義というのは、自国に階級ができたら国民が食べていけなくなって大不況になるから、搾取する対象を海外にまで広げようという政策だ。
マルクス経済学もそういう理解が正しい
リベラリズムは人口の0.01%の大資本家が金を独占するシステムで、99.99%の人間が食べていけなくなるから、保守・右翼は共産主義者になるんだ。
資本主義はすぐに階級社会になって行き詰まる。
資本主義は自国だけでは階級ができた段階で内需が壊滅し恐慌になって行き詰る。
それで需要を求めて植民地を作り、植民地人から搾取して生き延びるしかなくなる。
シュワブは資本主義のリセットをすると言っているのだが、資本主義はすでに行き詰まっている。一国ではすぐに行き詰まり、早い段階で国外での略奪に活路を求めた。これが帝国主義だが、侵略を「グローバル化」しても早晩行き詰まる。1970年代から金融操作で誤魔化してきたが、21世紀へ入った頃には限界。新たなシステムを築かなければならないくなっている。そこでのリセットだ。
▲△▽▼
人口100人の青い目の人達の村 _ 資本主義村があった。
4人の資本家に支配された労働者庶民96人が住んでいた。
資本家の年俸は2億円、残りの庶民は年俸200万円
全体で9億9200万円の紙幣が循環していた。
資本主義村 では、自動車は6〜7台しか売れず、他の者は自転車だった。
暴動や略奪や薬物中毒・犯罪が頻繁に起こっていて
ズタズタなスラム社会になった。
その村の隣に、共産主義村という人口100人の島国があった。
20人の知恵者をリーダーとした職人庶民80人いた
リーダーの年俸は1440万円、残りの職人は年俸500万円
全体で 資本主義村 より少しすくない6億8800万円の紙幣が循環していた。
その村では、自動車は100台売れた。 自転車も売れた。
あらゆる産業が学問が医療が社会福祉が発展し
インフラが整備されていき、すばらしい街を形成していった。
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/647.html#c1
共産主義というのは階級を無くす運動だ。
帝国主義というのは、自国に階級ができたら国民が食べていけなくなって大不況になるから、搾取する対象を海外にまで広げようという政策だ。
マルクス経済学もそういう理解が正しい
リベラリズムは世界の0.01%の大資本家が金や財産を独占するシステムで、99.99%の人間が食べていけなくなるから、保守・右翼は共産主義者になるんだ。
資本主義はすぐに階級社会になって行き詰まる。
資本主義は自国だけでは階級ができた段階で内需が壊滅し恐慌になって行き詰る。
それで需要を求めて植民地を作り、植民地人から搾取して生き延びるしかなくなる。
シュワブは資本主義のリセットをすると言っているのだが、資本主義はすでに行き詰まっている。一国ではすぐに行き詰まり、早い段階で国外での略奪に活路を求めた。これが帝国主義だが、侵略を「グローバル化」しても早晩行き詰まる。1970年代から金融操作で誤魔化してきたが、21世紀へ入った頃には限界。新たなシステムを築かなければならないくなっている。そこでのリセットだ。
▲△▽▼
人口100人の青い目の人達の村 _ 資本主義村があった。
4人の資本家に支配された労働者庶民96人が住んでいた。
資本家の年俸は2億円、残りの庶民は年俸200万円
全体で9億9200万円の紙幣が循環していた。
資本主義村 では、自動車は6〜7台しか売れず、他の者は自転車だった。
暴動や略奪や薬物中毒・犯罪が頻繁に起こっていて
ズタズタなスラム社会になった。
その村の隣に、共産主義村という人口100人の島国があった。
20人の知恵者をリーダーとした職人庶民80人いた
リーダーの年俸は1440万円、残りの職人は年俸500万円
全体で 資本主義村 より少しすくない6億8800万円の紙幣が循環していた。
その村では、自動車は100台売れた。 自転車も売れた。
あらゆる産業が学問が医療が社会福祉が発展し
インフラが整備されていき、すばらしい街を形成していった。
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/861.html
1. 中川隆[-16158] koaQ7Jey 2021年10月03日 05:45:04 : La1MHT2NOM : S3Z1enY4dHRtUXc=[2]
共産主義というのは階級を無くす運動だ。
帝国主義というのは、自国に階級ができたら国民が食べていけなくなって大不況になるから、搾取する対象を海外にまで広げようという政策だ。
マルクス経済学もそういう理解が正しい
リベラリズムは世界の0.01%の大資本家が金や資産を独占するシステムで、99.99%の人間が食べていけなくなるから、保守・右翼は共産主義者になるんだ。
資本主義はすぐに階級社会になって行き詰まる。
資本主義は自国だけでは階級ができた段階で内需が壊滅し恐慌になって行き詰る。
それで需要を求めて植民地を作り、植民地人から搾取して生き延びるしかなくなる。
シュワブは資本主義のリセットをすると言っているのだが、資本主義はすでに行き詰まっている。一国ではすぐに行き詰まり、早い段階で国外での略奪に活路を求めた。これが帝国主義だが、侵略を「グローバル化」しても早晩行き詰まる。1970年代から金融操作で誤魔化してきたが、21世紀へ入った頃には限界。新たなシステムを築かなければならないくなっている。そこでのリセットだ。
▲△▽▼
人口100人の青い目の人達の村 _ 資本主義村があった。
4人の資本家に支配された労働者庶民96人が住んでいた。
資本家の年俸は2億円、残りの庶民は年俸200万円
全体で9億9200万円の紙幣が循環していた。
資本主義村 では、自動車は6〜7台しか売れず、他の者は自転車だった。
暴動や略奪や薬物中毒・犯罪が頻繁に起こっていて
ズタズタなスラム社会になった。
その村の隣に、共産主義村という人口100人の島国があった。
20人の知恵者をリーダーとした職人庶民80人いた
リーダーの年俸は1440万円、残りの職人は年俸500万円
全体で 資本主義村 より少しすくない6億8800万円の紙幣が循環していた。
その村では、自動車は100台売れた。 自転車も売れた。
あらゆる産業が学問が医療が社会福祉が発展し
インフラが整備されていき、すばらしい街を形成していった。
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/861.html#c1
2. 中川隆[-16157] koaQ7Jey 2021年10月03日 06:08:56 : La1MHT2NOM : S3Z1enY4dHRtUXc=[3]
共産主義というのは階級を無くす運動だ。
帝国主義・グローバリズム・ファシズムというのは、自国に階級ができたら国民が食べていけなくなって大不況になるから、搾取する対象を海外にまで広げようという政策だ。
マルクス経済学もそういう理解が正しい
リベラリズム・新自由主義・新保守主義というのは世界の0.01%の大資本家が金や資産を独占するシステムで、99.99%の人間が食べていけなくなるから、保守・右翼は共産主義者になるんだ。チャンネル桜も経済政策は元中核派の山本太郎と全く同じだろ。
資本主義はすぐに階級社会になって行き詰まる。
資本主義は自国だけでは階級ができた段階で内需が壊滅し恐慌になって行き詰る。
それで需要を求めて植民地を作り、植民地人から搾取して生き延びるしかなくなる。
シュワブは資本主義のリセットをすると言っているのだが、資本主義はすでに行き詰まっている。一国ではすぐに行き詰まり、早い段階で国外での略奪に活路を求めた。これが帝国主義だが、侵略を「グローバル化」しても早晩行き詰まる。1970年代から金融操作で誤魔化してきたが、21世紀へ入った頃には限界。新たなシステムを築かなければならないくなっている。そこでのリセットだ。
▲△▽▼
人口100人の青い目の人達の村 _ 資本主義村があった。
4人の資本家に支配された労働者庶民96人が住んでいた。
資本家の年俸は2億円、残りの庶民は年俸200万円
全体で9億9200万円の紙幣が循環していた。
資本主義村 では、自動車は6〜7台しか売れず、他の者は自転車だった。
暴動や略奪や薬物中毒・犯罪が頻繁に起こっていて
ズタズタなスラム社会になった。
その村の隣に、共産主義村という人口100人の島国があった。
20人の知恵者をリーダーとした職人庶民80人いた
リーダーの年俸は1440万円、残りの職人は年俸500万円
全体で 資本主義村 より少しすくない6億8800万円の紙幣が循環していた。
その村では、自動車は100台売れた。 自転車も売れた。
あらゆる産業が学問が医療が社会福祉が発展し
インフラが整備されていき、すばらしい街を形成していった。
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/861.html#c2
リゲティ・ジェルジュ(Ligeti György Sándor 1923 - 2006)
アトモスフェール(1961年)
ピアノ協奏曲 (1985-88年)
ヴァイオリン協奏曲 (1992年)
弦楽四重奏曲第1番(1953-54年)
弦楽四重奏曲第2番(1968年)
ピアノのための練習曲 第一巻(1985年)、第二巻(1988-94年)、第三巻(1995-2001年)
3.5点
第3集まである。現代のピアノ曲においてとても著名なもの。現代作曲家らしい感受性の強さ、音響やリズムや旋律における斬新な響きや音使いによる現代性など、古いピアノ曲にないものがたくさんあって愉しめる。曲が短くて各曲の個性の色付けが明確で調性感があるため、1985年以降の新しい音楽といっても誰でも即時に曲の良さを理解できて価値も分かると思う。作曲者にとっては気楽に書いた小品集のようにも聴こえるが、その肩肘張らない親しみやすさが魅力。練習曲らしいピアニスティックさと音数が産む複雑さももちろん良い。第3集は若々しさが無くなってしまい少し物足りない。
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E6%9D%B1%E6%AC%A7
リゲティ・ジェルジュ・シャーンドル(Ligeti György Sándor [ˈligɛti ˌɟørɟ ˌʃɑ̈ːndor]、1923年5月28日 - 2006年6月12日)は、ハンガリー系オーストリア人の現代音楽作曲家。クラシック音楽で実験的な作品を多く残したほか、スタンリー・キューブリック監督作「2001年宇宙の旅」や「シャイニング」などに音楽が使用されたことでも知られる。ジェルジ・リゲティとも表記される。
ルーマニア王国トランシルヴァニア中南部のトゥルナヴェニにて、ユダヤ系ハンガリー人の家に生まれる。第二次世界大戦の折には、家族はバラバラに強制収容所に入れられ、父はアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で、弟はマウトハウゼン強制収容所で命を落とした[1]。
終戦後リゲティは、ブダペスト[2]でコダーイ・ゾルターンやカドシャ・パール、ヴェレシュ・シャーンドル、ファルカシュ・フェレンツらのもとで音楽を学んだ。しかし、ハンガリー動乱がソ連軍に鎮圧された2ヵ月後の1956年12月にオーストリアのウィーンへ亡命[3]し、1968年に同国の市民権を取得。ウィーン音楽院に学び、その後、西ドイツのケルンでカールハインツ・シュトックハウゼンらの現代音楽の手法に触れ、前衛的な手法を身に付けていった。その代表的なものに「トーン・クラスター」など[4]がある。
1973年から1989年までは、ハンブルク音楽演劇大学の教授[5]も務め、多くの弟子を輩出した。
2006年、ウィーンで死去[6]。
作品
オペラ
ル・グラン・マカブル(英語版)(1977年)
管弦楽曲
アトモスフェール(1961年)
ロンターノ(1967年)
アパリシオン(1959年)
13人の器楽奏者のための室内協奏曲(1970年)
メロディーエン(1971年)
サンフランシスコ・ポリフォニー(1974年)
協奏曲
チェロ協奏曲(1969年)
フルートとオーボエのための協奏曲(1972年)
ピアノ協奏曲 (1985-88年)
ヴァイオリン協奏曲 (1992年)
ハンブルク協奏曲(1999年)
室内楽曲
無伴奏チェロソナタ(1968年)
木管五重奏のための6つのバガテル(1953年)
弦楽四重奏曲第1番(1953-54年)
弦楽四重奏曲第2番(1968年)
木管五重奏のための10の小品(1968年)
ヴァイオリン、ホルン、ピアノのための三重奏曲(1982年)
無伴奏ヴィオラソナタ(1991–94年)
声楽曲
ルクス・エテルナ(1966年)
アヴァンチュール(1962年)
レクイエム(1965年)
夏(1989年)
電子音楽
グリッサンディ(1957年)
アルティクラツィオーン(1958年)
ピアノ曲
ムジカ・リチェルカータ(1953年)
ピアノのための練習曲
ピアノのための練習曲 第一巻(1985年)
ピアノのための練習曲 第二巻(1988-94年)
ピアノのための練習曲 第三巻(1995-2001年)
その他
ポエム・サンフォニック - 100台の機械式メトロノームのための。
ヴォルーミナ(1961/62)モダン・オルガン独奏
コンティヌウム(1968年)モダン・チェンバロ独奏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%B2%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A5
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/735.html
リゲティ・ジェルジュ 『ピアノのための練習曲』
Ligeti - Études for Piano (Hell, 2012) COMPLETE [HQ]
Piano – Thomas Hell
Premier Livre
1 Étude 1, Désordre 00:00
2 Étude 2, Cordes À Vide 2:39
3 Étude 3, Touches Bloquées 6:00
4 Étude 4, Fanfares 8:05
5 Étude 5, Arc-en-ciel 11:55
6 Étude 6, Automne À Varsovie 15:30
Deuxième Livre
7 Étude 7, Galamb Borong 20:04
8 Étude 8, Fém 22:53
9 Étude 9, Vertige 25:53
10 Étude 10, Der Zauberlehrling 28:55
11 Étude 11, En Suspens 31:32
12 Étude 12, Entrelacs 34:15
13 Étude 13, L'Escalier Du Diable 37:24
14 Étude 14, Columna Infinita 42:33
Troisième Livre
15 Étude 15, White On White 44:33
16 Étude 16, Pour Irina 48:18
17 Étude 17, À Bout De Souffle 52:08
18 Étude 18, Canon 54:47
György Ligeti - Études for Piano (1985-2001, audio+score)
Performer: Fredrik Ullén
00:02 1: Désordre
02:15 2: Cordes à vide
05:21 3: Touches bloquées
07:11 4: Fanfares
10:29 5: Arc-en-ciel
13:54 6: Automne à Varsovie
17:57 7: Galamb Borong
20:19 8: Fém
22:55 9: Vertige
25:12 10: Der Zauberlehrling
27:27 11: En Suspens
29:55 12: Entrelacs
32:37 13: L'escalier du diable
37:41 14: Coloana infinită
39:04 15: White on White
42:08 16: Pour Irina
45:02 17: À bout de souffle
47:07 18: Canon
▲△▽▼
『ピアノのための練習曲』(Études pour piano)は、ハンガリーの作曲家、リゲティ・ジェルジュが1985年から2001年にかけて作曲した、18曲からなるピアノのための練習曲。本作は作曲者のキャリア後期における主要な作品のひとつに数えられ、20世紀で最も重要なピアノの練習曲のひとつである。ヴィルトゥオーゾ的な技術的課題を表現内容と結び付け、ショパン、リスト、ドビュッシー、スクリャービンらの練習曲の系譜に連なるものとしつつも1950年代以降のリゲティの他作品における発想の集大成として新たな技術上の着想が扱われている。ピアニストのジェレミー・デンクはこれらの練習曲が「彼のキャリアとピアノ音楽の頂点を成す偉業である。まだ新しい曲集であるにもかかわらず、既に古典である。」と記している[1]。
作品の意図
18曲の練習曲が3つの巻(Livres)に分かれている。第1巻には6曲(1985年)、第2巻には8曲(1988年-1994年)、第3巻第一葉[2] には4曲(1995年-2001年)が収められている。リゲティの初期構想ではドビュッシーの練習曲を範とし、2つの巻に6曲ずつの計12曲のみを作るつもりであった。しかし、彼自身が作品の作曲に大きな愉しみを見出したことにより楽曲の範囲は拡大していった[3]。第3巻の4曲は連作の締めくくりとして満足できるものとなっているものの、実のところ第3巻は未完で第一葉のみでありリゲティはさらに書き足す意向であった[4]。しかしこれは晩年、病のために創作力が著しく衰えたために果たされることはなかった。第3巻は第1巻、第2巻と比較して概して穏やかでより単純、そして洗練の度を増している。
表題
各曲の表題は専門用語と詩的な表現を織り交ぜたものとなっている。リゲティは表題の候補リストを作成しており、それぞれの曲の初期段階はから出版までの間にしばしば変更された。曲を完成するまで表題を付さないこともしばしばあった[5]。
18曲の練習曲
第一巻のみ、メトロノーム記号が初版(自筆譜稿)[6]から変更された。以下は改定後の表示である。
第1巻
「無秩序」(Désordre) Molto vivace, vigoroso, molto ritmico, whole note = 63
鍵盤を上がり下がりする急速なポリリズムの練習曲。右手が白鍵のみを弾く一方で左手は黒鍵のみに制限される。これによって手は2つのピッチクラスの領域に切り離されることになる。すなわち右手の音楽が全音階で左手が五音音階である。この楽曲はピエール・ブーレーズに献呈されている[7]。
「開放弦」(Cordes à vide) Andantino rubato, molto tenero, eighth note = 96
単純でほとんどサティ風の和音が徐々に複雑化していく。これらの和音は基本的に5度音程で構成されており、開放弦を思わせることから曲の表題が付けられた[1]。この楽曲もブーレーズへと献呈されている[7]。
「妨げられた打鍵」(Touches bloquées) Vivacissimo, sempre molto ritmico – Feroce, impetuoso, molto meno vivace – Feroce, estrepitoso – Tempo I
2つの異なるリズムパターンが組み合わされる。片方の手が急速かつ一様な旋律パターンを弾き、他方の手が一部の鍵盤を無音の状態で押さえることによりそれを「妨げ」る。この曲がブーレーズに献呈された最後の曲となった[7]。
「ファンファーレ」(Fanfares) Vivacissimo, molto ritmico, whole note = 63, con alegria e slancio
旋律と伴奏が頻繁に入れ替わるこの練習曲はアクサクに影響を受けたリズムと8分の8拍子のオスティナートを特徴としており、8つの8分音符が3+2+3に分割される。このオスティナートリズムはヴァイオリン、ホルン、ピアノのための三重奏曲にも用いられている[8]。この曲はフォルカー・バンフィールドへと献呈されている[7]。
「虹」(Arc-en-ciel) Andante con eleganza, with swing, sixteenth note ca. 84
音が弧を描きつつ上がり下がりする様が虹を思い起こさせる。この曲はルイーズ・シブールに献呈された[7]。
「ワルシャワの秋」(Automne à Varsovie) Presto cantabile, molto ritmico e flessibile, quarter note = 132
この曲の表題は、毎年開催される現代音楽の音楽祭であるワルシャワの秋のことを指している。リゲティ自身はこの練習曲について"tempo fugue"(フーガのテンポで)と述べている[9]。複数のテンポの練習曲であり、はじめの下降音型が絶えず変容することで構成される - リゲティによれば"lamento motif"(嘆きのモチーフ)であるという[9]。3、4、5、6、7、8のグループが重なり合い、最後には鍵盤の最低音に辿り着く。この曲はリゲティのポーランドの友人たちへと捧げられた[7]。
第2巻
「悲しい鳩」(Galamb Borong) Vivacissimo luminoso, legato possible, half note = 40 or faster – semplice, da lontano
ジャワ語のように響く表題はこの曲が受けたガムランからの影響を反映したものであるが、実際にはどちらの単語もハンガリー語である。「無秩序」の際と同様に2つの手で相補的な音階を奏するが、この曲の場合はそれぞれが2つの全音音階のうちのひとつを演奏する。この曲はウルリヒ・エックハルトに献呈された。
「金属」(Fém) Vivace risoluto, con vigore, whole note = 30 (quarter note = 180, quarter note = 120)
表題は金属を表すハンガリー語である。空虚五度の和音の響きに乗り、短く、不規則かつ非対称的にまとめられた旋律の断片がそれぞれ奏されていく。この練習曲もフォルカー・バンフィールドへ献呈された。
「眩暈」(Vertige) Prestissimo sempre molto legato, whole note = 48
遠く隔てられた両手が半音階を奏でることにより、終わりなく落ち続ける動きを生み出す。この曲は作曲家のマウリシオ・カーゲルへと捧げられた。本作の完成後、リゲティは3年の間次の練習曲を作曲しなかった[10]。
「魔法使いの弟子」(Der Zauberlehrling) Prestissimo, staccatissimo, leggierissimo
舞踏的な旋律線が不規則に散りばめられたスタッカートのアクセントによる無窮動的な動きの中で保たれる。この曲はピアニストのピエール=ローラン・エマールに献呈された。
「不安定なままに」(En Suspens) Andante con moto, quarter note = 98
右手は1小節に6拍、左手は4拍で奏し、両方の不規則なフレーズの長さとアクセントが希薄でむしろジャズに近いともいえる和音の綾を織りなす。この曲は作曲家のクルターグ・ジェルジュへ献呈された。
「組み合わせ模様」(Entrelacs) Vivacissimo molto ritmico, quarter note = 100 (quarter note = 65)
直角に交わったリズムパターンが鍵盤を左から右へ横断する間に音量を増していき、7つの異なる韻律の重なりを生み出す。この曲はピアニストのピエール=ローラン・エマールに献呈された。
「悪魔の階段」(L'escalier du diable) Presto legato, ma leggiero, whole note = 30
精力的なトッカータが複数のリズムにより鍵盤上で上がり下がりを行い、それが異なる音程と周期の鐘が鳴っているような印象に変化する。演奏に5分以上を要し、これは曲集中で最長となっている。ピアニストのフォルカー・バンフィールドへ献呈された。
「無限の円柱」(Coloana infinită) Presto possible, tempestoso con fuoco, half note = 105
コンスタンティン・ブランクーシの「無限柱」
この練習曲はコンスタンティン・ブランクーシの同名の彫刻の名前を取って名付けられた。彫刻は拡大と縮小を繰り返すピラミッド状の形から成る。曲は大音量で上行する和音の連なりを特徴としており、重なり合うことで絶え間なく上昇をしているかのような印象を与える。この曲はヴァンサン・マイエル(Vincent Meyer)へと献呈された。この作品は後に14A番として出版された「Coloana fara sfârşit」の改訂版である。
第3巻
「白の上の白」(White on White) Andante con tenerezza, half note = 52
最後の個所を除き白鍵の練習曲となっている。静かなカノンで開始し、中間部では素早く動き回る。この曲はエティエンヌ・クーランに捧げられた。
「イリーナのために」(Pour Irina) Andante con espressione, rubato, molto legato, quarter note = 72 – Allegro con moto, sempre legato, quarter note = 152 – Allegro vivace – Molto vivace
この曲も穏やかに開始するが、次第に音価の短い音や新しい音高が追加されることにより熱狂の度を増してくる。この作品はイリーナ・カタエヴァに献呈された。
「À bout de souffle」 Presto con bravura
気の狂ったような2声のカノンが緩やかなピアニッシモの和音で不意に終わりを迎える。この作品は数学者のハインツ=オットー・パイトゲン(英語版)に献呈された。
「カノン」(Canon) Vivace poco rubato – Prestissimo
両手による短いカノンが、はじめvivaceで、次いでpresto impossibileで奏され、最後は静かで緩やかな和声的カノンで閉じられる。この曲はファビエンヌ・ウィレル(Fabienne Wyler)に献呈された。
関連作品
練習曲第14A番: 「Coloana fara sfârşit」(終わりのない柱)
本作は練習曲第14番の初期稿であったが生身の奏者にはあまりにも過酷であると判断され、リゲティはそれぞれの手の音数を減らして和声構造を変更、曲を作り変えた。その後、この原曲はユルゲン・ホッカーにより別途自動ピアノ用に編曲されたが、この作品を演奏したピアニストもいる[11][12][13][14][15]。
単独のピアノ作品「L'arrache-coeur」(心臓抜き, 1994年)は明らかに練習曲第11番とすべく作られた曲であるが、曲集に組み入れられることはなかった[16]。録音されて音源も販売されているが、ショット社は一般への楽譜の公開に応じていない
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%B4%E7%BF%92%E6%9B%B2_(%E3%83%AA%E3%82%B2%E3%83%86%E3%82%A3)
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/736.html
コダーイ・ゾルターン(Kodály Zoltán,1882-1967)
ガランタ舞曲 Galántai táncok
交響曲ハ長調
3点
民族的な味付けが面白い。交響曲らしいシリアスさと総合性があり楽しめる。しかし、79歳の作品ということで少し枯れている感があるのと、時代にしては古臭い音楽なのは残念なところ。
無伴奏チェロソナタ 作品8(1915年)
4点
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E6%9D%B1%E6%AC%A7
コダーイ・ゾルターン(Kodály Zoltán, 1882年12月16日 - 1967年3月6日)は、ハンガリーの作曲家、民俗音楽学者、教育家、言語学者、哲学者。
人物・来歴
ケチケメートに生まれ、幼少時代の多くをガラーンタとナジソンバト(現在のスロバキアのトルナヴァ)で過ごす。父親は熱心なアマチュア音楽家で、コダーイは子供の頃からヴァイオリンの学習を始める。聖歌隊で歌い、また曲を書いたこともあったが、系統的な音楽教育を受けることはほとんどなかった。
1900年、コダーイはブダペスト大学のハンガリー語・ドイツ語学科に入学し、同時にブダペストのハンガリー王立音楽院(現在のリスト・フェレンツ音楽大学)で音楽を学び始める。そこでコダーイはハンス・ケスラーに作曲について学ぶ。ドイツ人のケスラーは、マックス・レーガーの従兄で、ブラームスの音楽を信奉する保守的な作曲家であった。
民謡について真剣に取り組んだ初期の研究者として、コダーイは民俗音楽学の分野における重要人物のひとりとなる。1905年から人里離れた村を訪れて曲を集め、1906年にはハンガリー民謡に関する論文「ハンガリー民謡の詩節構造」(A Magyar népdal strófaszerkezete) を書く。この頃、コダーイは後に妻となるシャーンドル・エンマと出会っている。さらにエンマを通じて生涯の僚友となるバルトーク・ベーラに会い、彼にハンガリー民謡の手ほどきをした。2人は共に民謡集の出版を手がけた。また、自らの作品にも民謡の影響が現れていた。
哲学と言語学において博士号を授かると、コダーイはパリへ行き、シャルル=マリー・ヴィドールに師事。そこでクロード・ドビュッシーの音楽に出会い、その影響を受ける。1907年にブダペストに戻り、ブダペスト音楽院教授となる。コダーイは第一次世界大戦中も休みなく民謡収集の旅へ出かけた。1910年には19歳年上のエンマと結婚した。なお、エンマは作曲家・ピアニストとしてエルンスト・フォン・ドホナーニに師事しており、コダーイがバルトークと出会ったのもエンマの師ドホナーニとバルトークが同窓であったという縁によるものである。
コダーイはこの間にも作曲を行い、2曲の弦楽四重奏、「チェロとピアノのためのソナタ」と「ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲」を発表する。これらはすぐには成功を収めなかったが、1923年にブダ・ペスト合併50周年記念の演奏会で「ハンガリー詩篇」が初演され、大成功を収める。この後、コダーイは自作の指揮でヨーロッパ中を巡る事になる。
1925年の児童向け合唱曲 「ごらん、ジプシーがチーズを食べている」の作曲をきっかけに、コダーイは音楽教育の問題に大きな興味を持つようになる。教育用の曲を多数書き、同様に書物も出版する。この分野におけるコダーイの研究はハンガリー内外を問わず音楽教育に重大な影響を与えた。評論家らはこの手法を「コダーイ・メソッド」と呼んだが、実際にはコダーイは包括的な手法を作り出したわけではなく、むしろ音楽教育を理解するための原理を定めたという点から、誤った呼び名であるとされる。
コダーイはまた、プロの合唱団のための曲と共に、「マロシュセーク舞曲」「ガランタ舞曲」「『孔雀』による変奏曲」「ミサ・ブレヴィス」といった作品を作曲する。オペラ「ハーリ・ヤーノシュ」の組曲も、オペラそのものの上演は少なかったものの、有名となった。
このような作曲活動と平行して、1920年代にも引き続き、ハンガリーの村々を回り、民謡を収集・録音する作業を続け、民俗音楽における多数の論文を執筆し、また民謡に基づく合唱を作曲していった。
1930年にはブダペスト大学の哲学科で学生に講義を行い、その中の討論で民俗音楽の歴史と意義についての議論を深めていった。
コダーイは第二次世界大戦中もブダペストに残り、1942年に教職から退いた。戦争中は「いくさ歌」や「神の奇跡」などペテーフィ・シャーンドルの愛国・革命の詞に対して数曲の作曲をしている。戦闘がブダペストで始まると、修道院に待避し、そこでオルガン曲のミサ・ブレヴィスを合唱・独唱・オーケストラ用に編曲した。
戦争が終わった1945年にはハンガリー国民芸術会議の議長となり、1962年にはハンガリー人民共和国の勲位を受ける。コダーイはその他に国際民族音楽評議会会長、国際音楽教育協会名誉会長の職についた。1956年のハンガリー動乱の際にはナジ・イムレの支持者から大統領候補に推される向きもあった。
1958年に妻エンマが亡くなるが、翌年12月には当時19歳でリスト・フェレンツ音楽院の学生だったピーツェリー・サロルタと再婚した。その後、1960年から66年にかけては毎年、海外に長期旅行し、様々な講演や会議への出席をこなした。
コダーイは1967年に亡くなり、ブダペストのファルカシュレート墓地に埋葬された[1]。84歳没。両親ともハンガリー人で、ほぼ全生涯をハンガリーで送った作曲家であり、ハンガリー人の芸術家として最も尊敬され、よく知られたうちのひとりであった。
1966年、逝去の前年に、コダーイの名を冠した弦楽四重奏団「コダーイ弦楽四重奏団(英語版)」が結成される。
主要な作品
現在知られているコダーイの作品は、1897年の原稿から1966年の斉唱曲・合唱曲(ハンガリー・ミサ曲 Magyar mise、オルガン讃歌 Laudes organi)まで多岐・長期にわたるが、中でも際だって合唱曲が多く、また他の同時期の作曲家と比べて、児童混声の合唱曲が多いのが特徴である。コダーイの合唱作品はマジャル語の作品の中でも特に知られており、日本で取り組む合唱団は数多い。管弦楽曲の大部分は1930年代に作曲されている。
歌劇
ハーリ・ヤーノシュ Háry János 作品15(1925年 - 1926年)
全4幕。パウリニ・ベーラとハルシャーニ・ジョルトの台本による。組曲版も知られている。
セーケイ地方の紡ぎ部屋 Székely fonó (台本は伝承劇)
ツィンカ・パンナ Czinka Panna (1946年 - 1948年)
管弦楽作品
夏の夕べ Nyári este (1906年/1929年 - 1930年改訂)
1906年に最初の版が作られ、イシュトヴァーン・ケルナーの指揮、ハンガリー国立歌劇場管弦楽団の演奏で初演された。1929年にアルトゥーロ・トスカニーニの勧めにより改訂され、翌年トスカニーニ指揮ニューヨーク・フィルハーモニックにより演奏された。
ハンガリー風ロンド(古いハンガリーの兵士の歌) Régi magyar katonadalok (1917年)
舞踏音楽(英語:Ballet Music )(1925年)
劇場序曲 Szinházi nyitány (1927年)
もともとは歌劇『ハーリ・ヤーノシュ』の序曲であり、『ハーリ・ヤーノシュ』から組曲が編まれる際、独立した楽曲となった。
マロシュセーク舞曲 Marosszéki táncok (1930年)
もともとピアノ曲だったのをバレエ用に管弦楽に編曲。
ガランタ舞曲 Galántai táncok (1933年)
ブダペスト・フィルハーモニー協会創立80周年を記念して作曲。コダーイはここで、ほとんど忘れられていた古いマジャール人の新兵募集の踊り「ヴェルブンコシュ」(Verbunkos)を復活させた。
ハンガリー民謡「孔雀は飛んだ」による変奏曲(英語:Variations on a Hungarian Folksong "Felszállott a páva") (1939年)
アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団創立50周年記念の委嘱作品。1939年11月23日にウィレム・メンゲルベルクの指揮で初演。古くにハンガリーを支配したオスマン帝国やオーストリア帝国からの解放を願う民謡に基づく楽曲であり、俗に「ファシストに対する抵抗の楽曲」とも言われる。平易な楽曲ではないものの、日本においては、特に1990年代より吹奏楽編曲版が高等学校や中学校の吹奏楽部を中心に、コンクールや演奏会等で取り上げられている。
管弦楽のための協奏曲(1939年)
シカゴ交響楽団の創立50周年記念のために作曲。フレデリック・ストックの指揮により初演された。
交響曲 ハ長調(1961年)
最初の楽想は、思いついた時に乗っていた路面電車の切符に書き留めた。その後、長らく放置されていたが、1957年のトスカニーニの死を受けて、それに捧げる作品として完成された。「アルトゥーロ・トスカニーニの思い出のために」という副題がつく時もある。1961年8月16日ルツェルン音楽祭にて、ブダペスト音楽院時代の弟子フェレンツ・フリッチャイ指揮、ルツェルン祝祭管弦楽団によって初演された。
合唱曲
奉献唱 Offertorium (1901年 管弦楽伴奏付き)
ミゼレーレ Miserere (1903年 混声二重合唱)
夕べ Este (1904年 混声合唱、 詞:P.ジュライ)
ハンガリー詩篇 Psalmus Hungaricus 作品13(1923年)
ブダペスト50周年記念祭用に依頼された。16世紀の詩人 ケチケメーティ・ヴェーグ・ミハーイ (Kecskeméti Vég Mihály) による詩篇55番のハンガリー語訳に作曲したもので、児童合唱(ad Libitum)が含まれている。この曲はハンガリー革命の後の反革命の際、革命に協力したコダーイが不如意な状態に置かれた経験を詩篇55番の歌詞に投影させている。
ジプシーがチーズを食べている Túrót eszik a cigány (1925年 高声合唱版/1950年 混声合唱)
コダーイが児童用合唱を書くきっかけとなった曲。ブダペストの少年学校の教師ボルス・エンドレ(Borus Endre)の紹介でハンガリー詩篇の児童合唱部の練習を見学したコダーイが、その練習風景に刺激されて2-3週間で書き上げたと言われる。1950年に編曲。
わら人形 Villő(1925年 高声合唱)
聖霊降臨節の巡礼 Pünkösdölő (1929年 高声合唱)
新年の祝い歌 Új esztendőt köszöntő (1931年 高声合唱)
マートラの風景 Mátrai képek (1931年 混声合唱)
ナジサロンタの祝い歌 Nagyszalontai Köszöntő (1931年 高声・混声合唱)
ナジサロンタ地方(第一次大戦後は一時期を除き、ルーマニア領サロンタ)で収集された民謡に基づいて作曲された合唱曲。誕生日や母の日、聖名祝日に相手の名前を冠して歌われた民謡だと言われる。
セーケイの嘆き歌 Székely keserves (1934年 混声合唱)
ホラティウス《歌賞》 II.10 Horatii Carmen II.10 (1934年 混声合唱)
老人たち Öregek(1933年 混声合唱、詞:ヴェレッシュ・シャーンドル(Weöress Sándor))
イエスと商人たち Jézus és a kufárok (1934年 混声合唱)
新約聖書の中の「幼いイエスが祈りの場である教会で商売をしていた商人を追い出した」というエピソードに曲をつけたもの。ただしこの曲は宗教曲ではない。
いつも遅れる者たち Akik mindig elkésnek (1934年 混声合唱、 詞:アディ・エンドレ(Ady Endre))
ブダ城のテ・デウム Budavári Te deum(1936年 管弦楽伴奏)
フランツ・リスト賛歌 Liszt Ferenchez (1936年、詞:M.ヴェレシュマルティ)
孔雀は飛んだ Fölszállott a páva (1936年 男声合唱、詞:アディ・エンドレ)
モルナール・アンナ Molnár Anna (1936年 混声合唱)
ハンガリーの民へ(忠誠の歌) A Magyarokhoz (1936年 混声合唱、詞:D.ベルジェニ)
聖イシュトヴァーンへの讃歌 Ének Szent István királyhoz (1937年 男声無伴奏/1938年 混声器楽伴奏・無伴奏混声・無伴奏少年混声)
エジェテム・ベジェテム(飛んだり跳ねたり)Egyetem, begyetem (1938年 高声合唱)
聖ヤーノシュの祝日の祝い歌 János köszöntő (1939年 少年混声合唱)
ノルウェーの娘たち Norvég lányok (1940年 混声合唱 詞:ヴェレッシュ・シャーンドル)
初聖体拝領 Első áldozás (1942年 混声合唱、詞:セデー・デーネシュ(Szedő Dénes))
バラッシ・バーリントの忘れられた歌 Balassi Bálint elfelejtett éneke (1942年 混声合唱、詞:ガズダグ・エルジ(GAZDAG Erzsi))
ミサ・ブレヴィス(1942年 - 1944年 オルガン伴奏版/1950年 管弦楽伴奏版)
"Ite missa est"が作曲されているが、中世からルネサンス初期にいくつか作曲された以外余り例を見ない。
心からの嘆願 Szép könyörgés (1943年 混声合唱、詞:バラッシ・バーリント)
ジュネーブ詩篇121 A 121. genfi zsoltár (1943年 混声合唱)
いくさ歌 Csatadal (1943年 混声二重合唱、詞:ペテーフィ・シャーンドル)
囚われの国の息子 Rabhazának fia (1944年 男声合唱、詞:ペテーフィ・シャーンドル)
神の奇跡 Isten csodája (1944年 男声合唱、詞 ペテーフィ・シャーンドル)
マジャル民族 A magyar nemzet(1947年 混声合唱、詞 ペテーフィ・シャーンドル)
哀歌 Sirató ének (1947年 混声合唱、詞:ボドゥログ・パール(Bodrogh Pál))
ズリーニの訴え Zrínyi szózata(1954年 混声合唱、詞:M. Zrínyi Bar)
ハンガリーの医師ズリーニがハンガリーの伝承(何者かが国王を暗殺しようとした際に口のきけない王子が声を上げて制止した)を引き合いに出し、ハンガリー国民に蜂起を訴えた内容を作曲したもの。バリトン独唱で始まり、次第に合唱パートが多くなる様は、あたかもズリーニの訴えに対して多くの国民が賛同し、結集するようである。
モハーチ Mohács(1965年 混声合唱、詞:キシュファルディ(Kisfaludy))
オルガン讃歌 Laudes organi (1966年 器楽伴奏)
器楽作品
チェロソナタ 嬰ヘ短調 作品4(1909年 - 1910年)
ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲 作品7(1914年)
ニ調を基調とする。
無伴奏チェロソナタ 作品8(1915年)
チェロの低音側の2弦(C線とG線)を通常よりも半音下げて調弦する(すなわちそれぞれHとFisとなる)変則的調弦法(スコルダトゥーラ)を採用した無伴奏作品。3楽章構成をもつ。使用される音域が5オクターヴにも及ぶ高度に技巧的な作品であると同時に、ハンガリーの民謡に基づいた旋律は豊かな情感に満ちている。ハンガリー出身の名チェロ奏者ヤーノシュ・シュタルケルの歴史的録音が有名である。1918年5月7日ブダペストにてケルペリが初演。
ピアノ曲「7つの小品」 作品11(1917年 - 1918年)
マロシュセーク舞曲 Marosszéki táncok (1927年 ピアノ版)
主な著書
トランシルヴァニアのハンガリー人―民謡(Erdélyi magyarság: népdalok) バルトークと共著(ブダペスト、1923年)
ナジサロンタの民謡集(Nagyszalontai gyűjtés, 1924年)
アラニ・ヤーノシュの民謡集(Arany János népdalgyűjteménye) アーゴシュト・ジュライ(Ágost Gyulai)と共著(ブダペスト、1953年)
ハンガリーの民俗音楽(A magyar népzene, ブダペスト 1937年)
日本語訳:関鼎(音楽之友社 1971年)
コダーイ・ゾルターンの教育思想と実践――生きた音楽の共有をめざして(中川弘一郎編・訳、全音楽譜出版社 1980年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%BE%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%B3
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/737.html
コダーイ・ゾルターン 無伴奏チェロ・ソナタ 作品8
Janos Starker - Kodály Solo Sonata op. 8 live 1982
Kodály: Sonata for Solo - Cello, Op. 8
Cassado: Prelude
Bach: Sarabande
Great Hall Liszt Academy Budapest June 2nd 1982
live recording © Bartok Radio
Kodály Cello Sonata Op.8 - János Starker
János Starker cello
1970
Kodály - Cello sonata - Starker 1957
I. Allegro maestoso ma appassionato 0:00
II. Adagio (con grand'espressione) 8:36
III. Allegro molto vivace 18:10
János Starker
Studio recording, London, 4.X.1957
Kodaly; Sonata for Unaccompanied Cello, Op. 8, Janos Starker, recordes in 1950.
Janos Starker
1950
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ゾルターン・コダーイの無伴奏チェロ・ソナタ(仏語: Sonate pour violoncelle seul )作品8は、1915年に作曲され、1918年5月7日に初演を果たしたチェリストのイェネー・ケルペイに献呈された無伴奏チェロ曲である(ウニヴェルザール出版社の楽譜上では、フランス語の献辞で“A Eugène de Kerpely”と記されている)。
作品全体を通して調号は明記されていないがロ短調を主調とし、3つの楽章から成る古典的なソナタの構成に従っている。第2ページの冒頭に、フランス語と楽譜によって、G線とC線を半音下げて調弦するよう(本来C-G-d-aに対しH¹-Ges-d-a)に指示されており、しばしばスコルダトゥーラを用いた作品の例として言及される。
また、左手のピッツィカートや重音奏法、急速なトレモロなどの超絶技巧を駆使した難曲として知られているが、これらは単に演奏技巧を誇示するにとどまらない。チェロを通常の擦弦楽器としてだけでなく、撥弦楽器や打弦楽器としても利用することで、華麗で斬新な効果と交響的な印象をもたらし、結果的にチェロという楽器から音色のかつてない広がりを引き出すことに成功している。チェロはまた、ハープやバグパイプ、太鼓、ターロガトー、ツィンバロンといった民族楽器を模倣しており、作品は民族舞曲ヴェルブンコシュの様式を踏まえている。
楽曲構成
アレグロ・マエストーソ・マ・アパッシオナート Allegro maestoso ma appassionato
アダージョ(コン・グランデスプレッシオーネ) Adagio (con grand'espressione)
アレグロ・モルト・ヴィヴァーチェ Allegro molto vivace
主要な演奏者
ヤーノシュ・シュタルケル(十八番としてたびたび録音を重ねてきたが、中でもピーター・バルトーク制作による2度目の録音が歴史的名盤として名高い。)
ピエール・フルニエ
ミクローシュ・ペレーニ
ユーリ・トゥロフスキー(en)
マリア・クリーゲル
ヨーヨー・マ - 日本では、第1楽章がサントリーローヤルのCM曲として使用された。
長谷川陽子 - 「文化庁芸術作品賞」「日本プロ音楽録音賞」受賞録音。
藤森亮一
ルイス・クラレ(en)
ジャン=ギアン・ケラス(en)
クサヴィエ・フィリップス(en)
タマーシュ・ヴァルガ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E4%BC%B4%E5%A5%8F%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%AD%E3%82%BD%E3%83%8A%E3%82%BF_(%E3%82%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%A4)
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/738.html
カロル・シマノフスキ(Karol Maciej Szymanowski, 1882 - 1937)
ポーランド
交響曲
交響曲第1番 ヘ短調 op.15 (1906年)
2.5点
ぐちゃぐちゃな和音や音の動きのうねりを延々と続ける曲。楽譜がどうなっているのか少し興味は湧く複雑さだが、鑑賞するには向いておらず楽しめない。はっきりしない不明確な音の動きばかりであり、いわば実験的な音楽だと思う。
交響曲第2番 変ロ長調 op.19 (1910年)
2.8点
1番をもっと成長させた音楽という印象である。明確な構築性に乏しくぐちゃぐちゃであり、過去の音楽と被らないように書かれており。マイナー音楽らしい華のなさと私は感じた。後期ロマン派をさらに腐る程に熟させたらこうなると言えるだろうか。リヒャルト・シュトラウスの方向性をさらに進めた音楽なのは分かる。豪華な管弦楽の使い方も含めて影響を感じるが、私の好きでない部分まで受け継いでいる。過渡期の音楽であり、この時代だけしかシマノフスキが音楽を残さなかったならば、現在はかなり知名度の低い作曲家だっただろう。
交響曲第3番『夜の歌』 op.27 (1914-16年)
3.0点
カンタータ的様式の神秘主義の音楽。社会派のようなスケール感や闇を抉り出す感じ、野蛮で野太い感じもある。管弦楽の使い方もそうだし、意欲的でありさまざまな要素が渾然となっていて、ポーランドというクラシック音楽の中では中立的であることによる色のなさが、目新しい価値を産んでいる。聴く価値はある曲である。
交響曲第4番 (協奏交響曲) op.60 (1932年)
3.0点
ピアノ協奏曲のような形式。独奏ピアノは大活躍するが、華やかな活躍そのものは目的化されておらずあくまで本格性を求める交響曲の音楽的な目的を果たすために使われているように聴こえる。音楽的な楽想の豊富さと適度なシリアスさは楽しい気分にさせられる。そのため軽い協奏曲よりも聞き応えのある曲になっている。とはいえ、一流作曲家の割り切りの良さが足らず器用貧乏のようになっている気もする。
管弦楽曲
演奏会用序曲 op.12 (1905年)
バレエ音楽「ハルナシェ」op.55 (1923-31年)
協奏曲
ヴァイオリン協奏曲第1番 op.35 (1916年)
ヴァイオリン協奏曲第2番 op.61 (1932-33年)
室内楽曲
ヴァイオリン・ソナタ ニ短調 op.9 (1904年)
神話−3つの詩 op.30 (1915年)
弦楽四重奏曲第1番 ハ長調 op.37 (1917年)
弦楽四重奏曲第2番 op.56 (1927年)
ピアノ曲
ピアノ・ソナタ第1番 ハ短調 op.8 (1903-04年)
3.0点
後期ロマン派らしい豪華さをもったピアノソナタである。4つの楽章は巨大な立派な規模をもっており、それがちゃんとピアノソナタ的発想で構築されており、この時代ならではのソナタとして一定の価値と存在感がある。和声は半音階的でやや複雑だが後期ロマン派的で明確であり後年の作品と比較して非常に聴きやすい。個性の確立した一流作曲家の作品と呼ぶにはまだ物足りない発展途上さはある。
ピアノ・ソナタ第2番 op.21 (1911年)
2.5点
非常に音数が多くて技巧的な作品。グロテスクで割り切れない音の動きが多くて、その音の生理的な感覚が個人的には全然に精神のツボを突いてくれない。気持ちよくないまま漫然と音の塊を聴き続けるような気分になる。スクリャービンのようなグロテスクさなのだが、こちらはどうにも理解困難である。場面が変わっても楽章が変わってもその分からなさが続く。技巧的な音数であることしか理解できない。
ピアノ・ソナタ第3番 op.36 (1917年)
3.5点
スクリャービンの影響が顕著である。浮遊感や神秘的な雰囲気とグロテスクさなどを継承しつつも、スクリャービンよりも構築的であり、バランスと構成をきちんと計算して作られたより本格的な作品という印象が強い。私としてはスクリャービンのクレイジーすぎて断片的で物足らないのを補う完成作品として、長年求めていたものを見つけた気分になった。20世紀のピアノソナタとして重要作品だと思われる。
4つの練習曲 op.4 (1900-02年)
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E6%9D%B1%E6%AC%A7
カロル・マチエイ・シマノフスキ(ポーランド語: Karol Maciej Szymanowski, 1882年10月3日[1]または10月6日[2] - 1937年3月29日[1][2])は、ポーランドの作曲家。激動する時代に合わすかのようにその作風を何度か変えながら4つの交響曲、2つのヴァイオリン協奏曲、2つの弦楽四重奏曲、2つのオペラ、ピアノ曲や歌曲を残した。
生涯
学習期
18世紀のポーランド分割によって19世紀当時はポーランドからロシアに割譲されており現在はウクライナに属するキエフ県チギリン郡(英語版)ティモショフカ(英語版)[注釈 1]で、シュラフタ(ポーランド貴族)の家に生まれた。
父親のスタニスワフ・シマノフスキはポーランド人の裕福な大地主、母アンナはポーランドにやってきたスウェーデン系の移民で、カロルは3番目の子供であった。両親は音楽を愛し、家は芸術家が集まる一種のサロンのようになっていた。こうした環境からか、彼の4人の兄姉妹はいずれも音楽家、画家、詩人といった芸術の道に進んでいる。カロルは、4歳の時、脚に大怪我を負い一時期は歩けないほどであったため、学校へは行かず家庭内で初等教育を受けた。最初にピアノを教えたのも彼の父親であった。10歳になると、父スタニスワフの従姉妹マリアの夫にあたるグスタフ・ネイガウス(ロシア語版)(グスタフ・ノイハウス。息子はゲンリフ・ネイガウス)がエリザベトグラード(キロヴォグラード、現在のクロプィウヌィーツィクィイ)で開いていた音楽学校に入学した。
1901年、より専門的な音楽の教育を受けるためにシマノフスキはワルシャワに行き、和声学をマレク・ザヴィルスキ[注釈 2]、作曲と対位法をジグムント・ノスコフスキに師事している。ここで彼は音楽グループ「若きポーランド(英語版)」のメンバーとなる5人の音楽家と出会った。それは、アルトゥール・ルービンシュタイン(ピアニスト)、パヴェウ・コハィンスキ(ヴァイオリニスト)、グジェゴシュ・フィテルベルク(指揮者)、ルドミル・ルジツキ(作曲家)、アポリナリ・シェルト(英語版)(作曲家)であった。彼らが旗揚げした「若きポーランド」はポーランドの若い音楽家の作品を出版、プロモートすることを目的とする音楽集団であった。1904年にワルシャワの音楽学校を卒業した後、シマノフスキはベルリンやライプツィヒで多くの時間を過ごしている。
創作第一期
シマノフスキの音楽教育の環境を考えれば至極当然であるが、創作初期には、ショパン、ワーグナー、スクリャービン、リヒャルト・シュトラウス、マックス・レーガーらの影響が明らかな後期ロマン派の作風の作品を創作した。
創作第二期
1914年、シマノフスキはローマ、シチリア、アルジェ、チュニスあるいはパリやロンドンを旅した。またその途中ロンドンでストラヴィンスキーと会っている。第一次世界大戦の勃発によりティモシュフカに帰ったが、そこでも古代ギリシアや初期のキリスト教、イスラムやオリエントの勉強に没頭した。その成果が1916年に完成した交響曲第3番「夜の歌」である。この作品にはドビュッシーを初めとする印象主義音楽と13世紀のペルシア人神秘主義詩人ジャラール・ウッディーン・ルーミーのテキストが見事にブレンドされている。こうした作風がシマノフスキの創作第二期の特徴であり、この交響曲は第二期の代表作である。
創作第三期
1917年の秋、ボリシェヴィキの一団がシマノフスキ家を急襲し、美術品は略奪され、カロルのピアノはおもしろ半分に池に投げ込まれてしまった。この事件はシマノフスキ一家を経済的、精神的に叩きのめした。カロルはショックのあまり音楽から遠ざかり、小説『エフェボス』を創作している(1939年の火事で焼失し現存しない)。
1918年にポーランドが独立を遂げると、その翌年にシマノフスキはカイロの音楽院からの招聘を断り、一家でワルシャワに移住した。この頃から彼は祖国の音楽に興味を持ち始めていたのだが、それを決定づけたのは、1921年パリでストラヴィンスキーと再会した時に彼がピアノで演奏した『結婚』に受けた衝撃であった。以降、シマノフスキはポーランド、特に南部のタトラ山地の民俗音楽に傾倒して行く。ここから彼の創作期は第三期に入る。彼は1922年以降ザコパネに別荘を借り、この地をたびたび訪れている。
1927年にシマノフスキはワルシャワ音楽院(1930年にワルシャワ音楽アカデミーとなる)の院長となった。彼は若い才能のある音楽家を育てるためにポーランドの音楽教育を根底から見直し、改革を行おうとするが守旧派と対立し、フラストレーションにさいなまれながら5年間を過ごした後、1932年辞任に追い込まれた。辞任後は収入を得るためにコンサート活動を行なった。1932年の交響曲第4番は自身を独奏者にすることを想定したピアノ独奏を有する交響曲となっている。しかし、コンサート・ピアニストとしては技術不足で、コンサートの回数は年々減ってゆき、それにつれ経済状態は困窮の度を増していった。それに追い打ちをかけるように肺結核が悪化し、転地療養のためにダボス、グラース、カンヌと各地を転々とし、最期は1937年3月29日にローザンヌで息を引き取った。
棺はポーランドに運ばれ、古都クラクフの「大天使ミカエルと聖スタニスワフの教会」の地下聖堂に安置された。この地下聖堂は1480年に他界した年代記作者ヤン・ドゥゴシュから2004年に他界したノーベル文学賞受賞者チェスワフ・ミウォシュまでポーランド歴代の芸術家や文人の棺が置かれており、誰でも見学・参拝できる。
タトラ地方の民謡
演奏するグラル人たち
ショパンやパデレフスキが主にポーラなど北部低地地方の民謡に取材したのに対し、シマノフスキが影響を受けたのはポーランド南部のタトラ山地の民謡の中でも特に、グラル人(Górale)と呼ばれる、牧畜を主体とする農民に伝わるものであった。それは、リディア旋法や、即興的にビブラートを加えるリディゾヴァニエと呼ばれる歌唱法、不規則なフレーズが突然挿入されたりする特徴を持つオフビートのリズムが支配的な快活な舞曲である。中には「山賊踊り」と呼ばれる荒々しい仕草とフレーズをもつ楽しい踊りもある。
彼は木造の民家の隅で、農民たちが活き活きと汗をとばしながら踊る姿を見つめ、床を踏みならす音をきいて楽しんだという。エッセイの中でシマノフスキは「ポーランドの農民は芸術家に匹敵する」と語っている。彼は19世紀にこれらの民謡を紹介した編曲が荒々しさを矯め、短調の感傷的な音楽にしてしまったことを嘆いている。自身の作品では神経質なほど精密に不協するリズムセクションを再現し、音楽の荒々しいパワーを損なわないよう配慮している。こうした姿勢は「20のマズルカ集 op.50」に顕著で、リズムのエネルギー、バグパイプを模した5度の単純な持続音や反復音、不規則なフレージング、大胆な複調などがためらいなく用いられている。
主な作品
交響曲
交響曲第1番 ヘ短調 op.15 (1906年)
ワーグナーに影響を受けており、作曲者はこれを和声の怪物と呼んだ。
交響曲第2番 変ロ長調 op.19 (1910年)
第1期を代表する作品で、リヒャルト・シュトラウスやワーグナーあるいはスクリャービンの影響が明らかに見られる。1911年ワルシャワでの初演は冷淡な反応であったが、その後に行われたベルリン、ライプツィヒ、ウィーンの演奏会では大成功を収め、シマノフスキの名をヨーロッパ中に知らしめた。
交響曲第3番『夜の歌』 op.27 (1914-16年)
第2期を代表する作品。13世紀ペルシアの神秘主義者ジャラール・ウッディーン・ルーミーの「夜の歌」のテキストによっており、テノール独唱と混声合唱が加わる。オリエンタリズムとドビュッシーらの印象主義の音楽が融合昇華した作品である。
交響曲第4番 (協奏交響曲) op.60 (1932年)
第3期に属する作品。独奏ピアノが主役になる場面が多く、ほとんど協奏曲的な性格の作品である。終楽章は荒々しい舞曲風の音楽でフィナーレはマズルカも聞こえる民俗音楽の影響が明らかな作品となっている。
管弦楽曲
演奏会用序曲 op.12 (1905年)
シマノフスキ、初期の成功作である。ここでもリヒャルト・シュトラウスの影響は明らかだが、和声やオーケストレーションの才能は目を見張るべきものがある。
バレエ音楽「ハルナシェ」op.55 (1923-31年)
愛国者の農夫を主人公にした3幕のバレエ-パントマイムへの付随音楽で作曲者とイェズィ・ミェチスワフ・ルィタルド(Jerzy Mieczyslaw Rytard)の台本による。テノール独唱と混声合唱がオーケストラに加わる。タトラ地方の民俗音楽が盛り込まれた第3期に属する作品。
協奏曲
ヴァイオリン協奏曲第1番 op.35 (1916年)
盟友コハィンスキのために作曲したが、1917年2月にサンクトペテルブルクで予定されていた初演はロシア革命の混乱で延期となり、同年11月にワルシャワでエミール・ムリナルスキによって初演された。三管編成のオーケストラに、チェレスタ、ピアノ、2台のハープを要する壮麗な単一楽章の作品。濃厚な官能性とオリエンタリズムが特徴の第2期の代表作の一つ。タドイ・ミチンスキーの詩「5月の夜」にインスパイアされたとも言われる。
ヴァイオリン協奏曲第2番 op.61 (1932-33年)
シマノフスキの最後の大作である。単一楽章の作品で、ロンドのリズミカルなリフレインはgóralの影響を思わせる。作曲者に助言を与えカデンツァを作曲したコハィンスキはこの曲の初演の3ヶ月後に亡くなった。
室内楽曲
ヴァイオリン・ソナタ ニ短調 op.9 (1904年)
第1期の作品。リヒャルト・シュトラウスやブラームスの影響を感じさせる。
神話−3つの詩 op.30 (1915年)
第2期、ヴァイオリンとピアノのための作品。前記コハィンスキの助言を受けながら完成させた。ギリシア神話に題材を求め、以下の3曲により構成されている。
アレトゥーザの泉(ポコ・アレグロ)
ナルシス(モルト・ソステヌート)
ドリアデスと牧神(ポコ・アニマート)
弦楽四重奏曲第1番 ハ長調 op.37 (1917年)
第2期の掉尾を飾る作品。第2楽章に「カンツォーネ風に (In modo d'una canzone)」の指示があり、イタリア旅行の影響を感じさせる。1922年のポーランド文化賞コンクールに出品し1位を受賞した。最終楽章は各楽器の調性が異なる、典型的な多調性によっている。
弦楽四重奏曲第2番 op.56 (1927年)
フィラデルフィア音楽財団主催のコンクール参加作品。同じコンクールに出品され、入賞した作品がバルトークの弦楽四重奏曲第3番である。ピアノのためのマズルカ集、スタバト・マーテルに次いで書かれた作品で、第3期を代表する作品の一つ。
ピアノ曲
ピアノ・ソナタ第1番 ハ短調 op.8 (1903-04年)
ショパンとスクリャービンの影響が顕著な作品。1910年にショパン生誕100年記念コンクールに応募し、一位を獲得した。4つの楽章からなるが第1楽章の主題を循環主題風に扱うなど後期ロマン派の手法を踏襲している。
ピアノ・ソナタ第2番 op.21 (1911年)
交響曲第2番と同時期の作品で、ともに第1期の代表作である。作曲者自身「悪魔的に難しい」と語る技巧的な作品。バラキレフ「イスラメイ」を思わせるソナタ形式の第1楽章、主題と変奏の第2楽章からなり第2楽章の終結部はフーガになっている。
ピアノ・ソナタ第3番 op.36 (1917年)
通常のソナタの4つの楽章をアタッカでつなげた単一楽章の作品。シマノフスキのピアノ曲中で最も前衛的・難解といわれ、難易度も非常に高い。曲の構成やフーガ主題などに、フランツ・リスト「ピアノ・ソナタ ロ短調」の影響が見られる。
4つの練習曲 op.4 (1900-02年)
T. 変ホ短調 / U. 変ト長調 / V. 変ロ短調 / W. ハ長調。ショパンやブラームスの影響が明らかな初期作品であるが、この練習曲集の第3曲目 変ロ短調は、パデレフスキが「この若さで" 第9 "を作曲してしまうとは、何と不幸なことか!」と絶賛し愛奏したことで、シマノフスキのピアノ曲中最も有名な作品となっている。
仮面劇 op.34 (1915-16年) 【1. シェエラザード / 2. 道化師タントリス / 3. ドン・ファンのセレナーデ】
タイトルは、「マスク」や「仮面」と記される事が多い。各曲の標題からも推測されるとおり、オリエンタリズムと印象派が詰まった第2期作品である。この曲に取りかかる前年1914年にシマノフスキは、アルトゥル・ルービンシュタインの紹介でドビュッシーとラヴェルに会っている。この作品は彼らへのオマージュとも言われている。
マズルカ集(全5巻20曲) op.50 (1924-25年)
第3期の、そしてシマノフスキのピアノ作品の代表作であるが、ショパンのマズルカ集に比べ演奏回数は極端に少ない。既述のタトラ地方の民謡の特徴が活かされた野趣あふれる作品でありながら、同国以外への普遍性をも兼ね備えた作品である。4曲を1巻として、5回に分かれて出版された。第2巻の最初の2曲(20曲のうちの第5と第6曲目)は、兄のフェリクス・シマノフスキに献呈された。
2つのマズルカ op.62 (1933-34)
シマノフスキの絶筆となった作品。フランスのマックス・エシーグ社から出版された。
変奏曲
オペラ
ロゲル王 (ロジェ王) op.46 (1918-24年)
初代シチリア王ルッジェーロ2世をモデルとする3幕のオペラ。1990年代に入り再評価が進んだ作品。中世シチリア王国を舞台にキリスト教徒と異教徒との確執を描き、官能性と民俗性が高いレベルで融合した傑作。
宗教曲
スターバト・マーテル op.53 (1924-26年)
テキストは通常のラテン語によらず、ポーランド語訳を用いている。伝統的な形式美の中に作曲者の個性をほどよく加味し、魅力的な作品に仕上げている。
声楽曲
ハーフィズの恋愛歌曲集 第1集 op.24、第2集 op.26 (1911年、1914年)
アラビアの詩に基づきハンス・ベートゲが創作したパラフレーズに付曲した作品。第1集はピアノ伴奏で6曲からなり、第2集はオーケストラ伴奏で8曲からなる。ただし、うち3曲は伴奏部分を編曲した同一のもの。いずれも創作第2期に属する作品である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AD%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%9E%E3%83%8E%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/739.html
カロル・シマノフスキ ピアノ・ソナタ 第3番 Op.36
Piano Sonata No. 3, Op. 36 · Sviatoslav Richter
Szymanowski: 100th Birthday Concerts
Sviatoslav Richter plays Szymanowski Sonata No. 3
Live performance, 1982
Piano Sonata No. 3, Op. 36 (Live) · Sviatoslav Richter
Sviatoslav Richter. SZYMANOWSKI. Sonata No 3, Op 36.
ピアノ・ソナタ第3番 op.36 (1917年)
通常のソナタの4つの楽章をアタッカでつなげた単一楽章の作品。シマノフスキのピアノ曲中で最も前衛的・難解といわれ、難易度も非常に高い。曲の構成やフーガ主題などに、フランツ・リスト「ピアノ・ソナタ ロ短調」の影響が見られる。
ドホナーニ・エルネー(Dohnányi Ernő, 1877 - 1960)
交響曲
交響曲1番
3点
作品番号1にしてはすでに非常に完成度が高い曲。なかなかよい。作曲者が「優秀」だと感じる。
交響曲2番
2.5点
50分の大作であり力作である。技量は高いのだが、これはと思わせるような印象がない。
協奏曲
ピアノ協奏曲
2点
ブラームスの2番のような重厚なオーケストラでありピアノ書法が重ための曲。交響曲と同様に、充実しているのに印象が薄い。
室内楽
弦楽四重奏曲1番
弦楽四重奏曲2番
3.5点
どの楽章もかなり素晴らしい充実した内容を持っていて驚いた。作曲技術の高さと充実感を楽しめる曲。20世紀の室内楽の中でも傑作の部類ではないだろうか。
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E6%9D%B1%E6%AC%A7
ドホナーニ・エルネー(Dohnányi Ernő [ˈdohnaːɲi ˈɛrnøː] 1877年7月27日ポジョニ(スロヴァキア語名ブラチスラヴァ) - 1960年2月9日ニューヨーク市)は、ハンガリー人のピアニスト、作曲家、指揮者[1]。本人が生涯にわたって作品を発表する際に名乗っていたドイツ語名エルンスト・フォン・ドホナーニ(Ernst von Dohnányi)でも知られる。指揮者・ピアニスト・音楽教師・学校管理者として多忙の合間を縫って、数々の作品を残した作曲家。音楽学校ではバルトークと同窓生に当たるが、ドホナーニ自身はブラームスの流れを汲む、19世紀ロマン主義音楽の伝統に忠実であり続けた。
家族
2番目の妻エルザ・ガラフレはバレリーナで、ヴァイオリニストのブロニスラフ・フーベルマンの前妻であったが、エルザをめぐってフーベルマンとドホナーニは喧嘩騒ぎを起こしたことがあった[2]。また、エルザはハンガリー語を話せなかった[2]。
2人の息子のうち、長男ハンス・フォン・ドホナーニ博士はヴァイマル共和国で高名な法学者となり、その後ドイツ第三帝国において、義兄ディートリヒ・ボンヘッファーとならぶ反ナチ・レジスタンスの自己犠牲的な闘士として、ドイツ政治史に名を残すこととなる。ハンスの長男クラウス・フォン・ドホナーニは政界入りし、ハンブルク市長を務めた。ハンスの次男クリストフ・フォン・ドホナーニは世界的な指揮者の一人であり、祖父であるドホナーニ・エルネーが教鞭を執るフロリダ州に学んだ。クリストフの息子ユストゥス(1960年 - )は、ドイツの俳優である。
ドホナーニは、子孫が著名人になっただけでなく、その門下からも、アニー・フィッシャーやゲザ・アンダ、ミッシャ・レヴィツキなどの往年の名ピアニストや、フリッチャイやショルティらの国際的な指揮者を輩出した。
生涯
オーストリア=ハンガリー二重帝国の教育者の家庭に生まれる。生家は1697年に貴族の称号と紋章を与えられた家系であった。父親は地元ポジョニ(当時はドイツ語名でプレスブルク)のギムナジウムの数学教師で、チェロ演奏の心得もあった。この父親より音楽の手ほどきを受け、その後ブダペスト音楽アカデミーに進んで、地元の教会オルガニスト、カール・フォルストナーにピアノと作曲を学ぶ。1894年にピアノ科でイシュトヴァン・トマーンの講座と、作曲科でハンス・ケスラーの講座を履修した。ハンス・ケスラーはレーガーの従兄にあたる作曲家で、ブラームスに傾倒してその作曲技法を門下に熱心に指導した。最初の出版作品≪ピアノ五重奏曲 第1番 ハ短調≫作品1は、ブラームスその人により称賛され、その尽力でウィーンでも演奏される運びとなった。
1897年、オイゲン・ダルベールより数回のレッスンを受けた後、ベルリンでピアニストとしてデビューを果たし、すぐさま芸術家として傑出した能力を評価された。その後のウィーン・デビューでも同様の成功を収めてから、ヨーロッパ各地で楽旅を続け、成功を収めた。ロンドン・デビューでは、ハンス・リヒターの指揮でベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番を演奏している。その後の公演活動では、訪米して名声をうち立てた。同時代のピアニストが、ソロ・リサイタルや協奏曲の演奏に活動を限っていたのに対して、ドホナーニは室内楽ピアニストとしても活躍している。
ヨーゼフ・ヨアヒムに招かれて、1905年から1915年までベルリン高等音楽学校で教鞭を執る。その後ブダペストに戻り、毎年100回以上の演奏会を催した。1919年にブダペスト音楽アカデミー院長に任命されるが、政治的圧力によって同年のうちに解任された。その後はブダペスト・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督に就任し、バルトークやコダーイなどのハンガリー人作曲家の作品を普及するのに尽力したが、自作はさほど上演しなかった。1920年にはピアニストとして、ベートーヴェンのピアノ曲の全曲演奏を実現した。
1934年から再度ブダペスト音楽アカデミー院長に就任し、在任中にモーツァルトのピアノ協奏曲全27曲の演奏を達成するが、政治情勢から1941年に院長職を維持することがままならなくなり、ブダペスト・フィルハーモニー管弦楽団も解散せざるを得なくなる。
第二次世界大戦勃発後、2人の息子がナチス・ドイツと戦っていたが、ドホナーニ自身はホルティ独裁下のハンガリー王国に留まり続け、非政治的姿勢を貫き通しながらも、その半面で自らの発言力を駆使して、ユダヤ系の音楽家を庇い続けた。ソ連軍がブダペストを包囲した1944年に武装親衛隊に護衛される形でドホナーニは妻と共に出国し、オーストリア、アルゼンチン、メキシコを経てアメリカ合衆国へ亡命した。1955年には市民権を取得している。
アメリカでコンサート・ピアニストとしての経歴を取り戻すことはかなわなかったが、作曲活動は続け、その間、フロリダ州タラハシーのフロリダ州立大学音楽科で10年に渡って教鞭を執った。同大学では、2002年にエルンスト・フォン・ドホナーニ記念祭が催された。
ドホナーニは1960年にニューヨーク市で肺炎のため亡くなり、タラハシーのローズローン墓地に埋葬された。82歳没。
教育活動
ゲオルグ・ショルティ、アニー・フィッシャー、ゲザ・アンダらを指導した[3]。ドホナーニは「何か書けたら、いつでも電話をくれたまえ」「何か(ピアノの演奏が)仕上がったら、いつでもきたまえ」というスタンスであり、ピアノのレッスンの際は、すぐに学生をどかせて、自分で演奏した[3]。ショルティはこれに対して「教師としては致命的な間違い」と評しており、フィッシャーやアンダのような、手本から学ぶ能力のある学生にとっては有意義であったが、才能のない学生にとっては不毛であったと述べている[3]。
ピアノのテクニックについての教則本も遺しており、これは諸外国で翻訳された[4]。
評価
ドホナーニの弟子の1人ゲオルグ・ショルティは、ドホナーニについて「素晴らしいピアニストであった」「彼の弾くベートーヴェンはきわめて自由であると同時に、フレージングと様式にたいする鋭い感覚にあふれていた」と評している[3]。ただし、練習をあまりしていなかったゆえ、演奏中に曲を忘れることもしばしばあり、その時は即興演奏で乗り切っていたとも述べている[3]。なお、ドホナーニ自身、あまり練習をしてはいけないと弟子に言っており「1日3時間の練習でひとつの曲をものにできないなら、いくらやっても無駄ということだ」と語った[2][3]。
演奏と録音
ドホナーニはピアニストや指揮者として、演奏だけでなく、録音にも意欲的に取り組み、ピアニストとしてはヨーロッパ時代から最晩年のアメリカ時代(最後の録音は肺炎で亡くなる10日前である)まで録音を残している。自作自演よりも、古典的なレパートリー、とりわけモーツァルトやベートーヴェン、シューマンを得意とした。いくつかの録音は現在CDにも復刻されている。ピアニストとしては、正確無比の演奏技巧と、独自の解釈によって知られ、近年イギリスや日本で復刻が行われている。指揮者としては、バルトークの『舞踏組曲』などの世界初演者として名を残した。
作曲様式と作品
作風は折衷的である。ハンガリーのさまざまな民族音楽の要素を取り入れているが、コダーイやバルトークのような愛国的な作曲家とは看做されていない。ドホナーニの創作姿勢は、ヨーロッパのクラシック音楽の強力な伝統に、より深く根ざしており、とりわけブラームスの痕跡が歴然としている。いくつかの作品ではブラームス作品からフレーズを引用し、先輩作曲家への敬意を明らかに示しており、また有名なピアノ曲『演奏会用練習曲集』作品28は、ショパンの練習曲よりもむしろブラームスのカプリッチョやインテルメッツォを模範としている。
しかしながら、他にもさまざまな影響を吸収し、成熟期の作風は、R.シュトラウスやマーラーの華麗なオーケストレーションや、レーガーの複雑な対位法様式も採り入れている。渡米後の作品、たとえば最後の管弦楽曲となった『アメリカ狂詩曲』では、古いアメリカ民謡や、ジャズへの関心を窺がわせている。
『演奏会用練習曲』はゴドフスキやラフマニノフによってしばしば演奏・録音され、早くから有名であった。戦後のハンガリー政府は、初期の政権発足時に弾圧したにもかかわらず、共産党独裁体制の末期に近づいてから、ブダペストの音楽出版社よりドホナーニのピアノ曲集を刊行した。
ドホナーニは編曲も多く手掛けており、シューベルトの「高雅なワルツ」、ブラームスのワルツ集、「ジプシー風ロンド」、ヨハン・シュトラウス2世のワルツなどのピアノ独奏用編曲を残している。
主要作品一覧
管弦楽曲
交響曲 第1番ニ短調 作品9 (1900 - 01年)
交響曲第2番 ホ長調 作品40 (1943 - 44年作曲、1953 - 56年改訂)
女ピエロのヴェール Der Schleier der Pierrette 作品18 (1910年)
組曲嬰ヘ短調 作品19 (1908〜09年)
ハンガリア牧歌 作品32b (1924年)
交響的瞬間 作品36 (1933年)
アメリカ狂詩曲 作品47 (1953年)
協奏曲・協奏的作品
ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 作品5 (1897 - 98年)
ピアノ協奏曲 第2番 ロ短調 作品42 (1946 - 47年)
ピアノと管弦楽のための童謡主題による変奏曲 ハ長調 作品25 (1914年)
ヴァイオリン協奏曲 第1番 ニ短調 作品27 (1914 - 15年)
ヴァイオリン協奏曲 第2番 ハ短調 作品43 (1949 - 50年)
チェロと管弦楽のためのコンチェルトシュテュック ニ長調 作品12 (1903〜04年)
ハープ小協奏曲 作品45 (1952)
室内楽曲
ピアノ、クラリネット、ホルン、弦楽のための 六重奏曲 ハ長調 作品37 (1935年)
ピアノ五重奏曲 第1番 ハ短調 作品1 (1895年)
ピアノ五重奏曲 第2番 変ホ短調 作品26 (1914年)
弦楽四重奏曲 第1番 イ長調 作品7 (1899年)
弦楽四重奏曲 第2番 変ニ長調 作品15 (1906年)
弦楽四重奏曲 第3番 イ短調 作品33 (1926年)
弦楽三重奏のための セレナーデ ハ長調 作品10 (1902年)
チェロ・ソナタ 変ロ短調 作品8 (1899年)
ヴァイオリン・ソナタ 嬰ハ短調 作品21 (1912年)
フルートのための2つの小品 作品48(1958-59年)…最後に出版された作品。
アリア(フルートとピアノのための)
パッサカリア(無伴奏フルートのための)
ピアノ曲
4つのピアノ小品 作品2 (1896〜97年)
4つの狂詩曲 作品11 (1902〜03年)
冬のロンド 作品13 (1905年)
組曲形式によるユーモレスク 作品17 (1907年)
古い様式による組曲 作品24 (1913年)
6つの演奏会用練習曲 作品28 (1916年)
ハンガリア牧歌 作品32a (1923〜24年)
6つのピアノ小品 作品41 (1945年)
3つのピアノ小品 作品44 (1951年)
教則本:毎日の指の練習 全3巻 (1960年)
歌劇
1幕の喜歌劇≪シモーナおばさんTante Simona ≫ 作品20 (1913年)
ヴォイヴォドの塔A vajvoda tornya 作品30 (1922年)
喜歌劇≪テナー歌手A Tenor ≫ 作品34 (1929年)
宗教曲
セゲドのミサ曲 作品35 (1930年)
カンタータ≪生命の唄Cantus vitae ≫ 作品38 (1939〜41年)
聖母哀傷 作品46 (1952〜53年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%9B%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%8B
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/741.html
ドホナーニ・エルネー 弦楽四重奏曲 第2番 変ニ長調 Op.15
Ernő Dohnányi: String Quartet in D Flat Major no. 2 op.15
A glorious performance by the Kodaly Quartet at the 2016 Indian Summer in Levoca Festival
I. Andante- allegro
II. Presto acciaccato
III. Molto adagio-Animato-Adagio-Andante-Allegro.
Ernő Dohnányi - String Quartet No. 2 in D-Flat Major, Op. 15
Performed by the Fine Arts Quartet
Movement One: Andante-Allegro - 0:00
Movement Two: Presto acciacato - 9:05
Movement Three: Molto adagio - 14:07
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/742.html
ヨセフ・スク(Josef Suk, 1874 - 1935)(ヨゼフ・スーク)
あまり聴けていないが、バランスが良く内容の詰まった、しっかりとした曲が多いようだ。飛びぬけた個性がなくやや地味だからか知名度は低いが、地力が高い実力派の作曲家である。
交響曲
交響曲 第1番 ホ長調 作品14
アスラエル交響曲 作品27(1906年)
3.3点
深遠さのある巨大な交響曲。多くの想いが詰め込まれており、マーラーあたりと比較しても場面展開が複雑に聴こえる。私は聴き込みが足らない。おそらく聴きこまなければスクの想いを掴んだつもりになれないだろう。メジャー曲になりきれない地味な分かりにくさはあるものの、聞き応え十分な20世紀初頭の交響曲を聴きたいなら、お勧めできる。プライベートの相次ぐ不幸をプライベート感のある曲でなく壮大な芸術に昇華させたものとして、感無量に近い感情を抱いた。
交響詩
交響詩《エピローグ》作品37(1929年)
交響詩《プラハ》作品26
交響詩《夏物語》作品29(1909年)
2.8点
大作の交響詩。後期ロマン派の響きの範疇であり、ドヴォルザークのような運動性を持ちつつも、地味であり明快さの足りない音楽が続く。夏の熱気や汗の感じをそこはかと響きから感じさせる力量は良いと思う。しかし交響曲のような長さを充実感で埋めるだけのものがなく、いろいろやってはいるが薄い印章が否めない。
交響詩《人生の実り》作品34(1917年)
管弦楽曲
弦楽セレナード 作品6(1892年)
管弦楽組曲《おとぎ話》作品16(1900年)
管弦楽組曲《りんごの木の下で》作品20
ヴァイオリンと管弦楽のための幻想曲 ト短調 作品24
室内楽
ピアノ四重奏曲 イ短調 作品1
ピアノ三重奏曲 ハ短調 作品2
ピアノ三重奏のための《悲歌》 作品23
弦楽四重奏曲 第2番 作品31
ピアノ曲
ピアノ小曲集 作品7
ピアノ曲集《春》作品22a
ピアノ曲集《夏の印象》作品22a
ピアノ曲集「母について」作品28(1909年)
ピアノ曲集《命と夢》作品30(1909年)
ピアノ曲集《子守唄》作品33
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E6%9D%B1%E6%AC%A7
ヨセフ・スク(Josef Suk, 日本では一般的にヨゼフ・スーク 1874年1月4日 - 1935年5月29日) は、チェコの作曲家・ヴァイオリニスト。同名の孫は世界的なヴァイオリニストの一人である。
生涯
プラハの南30kmほどのクレチョヴィーチェ村に生まれる。1885年から1892年までプラハ音楽院でドヴォルザークに学ぶ(1898年にドヴォルザークの娘オティーリエと結婚)。同級生と共にボヘミア四重奏団(後に、チェコ四重奏団に改名)を結成し、第2ヴァイオリン奏者を勤めた。 1922年から母校プラハ音楽院で教鞭を執り、ボフスラフ・マルティヌーらを指導した。ベネショフにて逝去。
作風
スクの初期作品は、ドヴォルザークとブラームスの影響を示しているが、その半面、のちの作品では、拡張された和声と用いて、より個性的で複雑な様式を生み出している。成熟期の管弦楽曲は、マーラーやリヒャルト・シュトラウス、ドビュッシー等からの影響を示唆している。多くの同郷人とは異なり、チェコの民族音楽の要素を強調する傾向は少ない。第一次世界大戦に前後して、教育活動に忙殺されるようになると創作のペースが落ちたが、半音階的な書法が複雑になり、複調を導入したり、無調に近い部分もあるなど、全体としてむつかしい響きになっている。
近代オリンピックで「芸術競技」というものがあった時代、1932年のロサンゼルスオリンピックにて、「祖国新生に向けて(ソコル祭典行進曲)作品35c」で「音楽全般」部門の銀メダルを獲得している。
主要作品一覧
ピアノ四重奏曲 イ短調 作品1
ピアノ三重奏曲 ハ短調 作品2
弦楽セレナード 作品6(1892年)
ピアノ曲《愛の歌》作品7-1(作品7は《ピアノ小曲集》)
劇付随音楽《ラドゥースとマフレナ》作品13(1898年)
交響曲 第1番 ホ長調 作品14
管弦楽組曲《おとぎ話》作品16(1900年)
管弦楽組曲《りんごの木の下で》作品20
ピアノ曲集《春》作品22a
ピアノ曲集《夏の印象》作品22a
ピアノ三重奏のための《悲歌》 作品23(原曲はハープつき九重奏のための劇付随音楽)
ヴァイオリンと管弦楽のための幻想曲 ト短調 作品24
幻想的スケルツォ 作品25
交響詩《プラハ》作品26
アスラエル交響曲 作品27(1906年)
ピアノ曲集「母について」作品28(1909年)
交響詩《夏物語》作品29(1909年)
ピアノ曲集《命と夢》作品30(1909年)
弦楽四重奏曲 第2番 作品31
ピアノ曲集《子守唄》作品33
交響詩《人生の実り》作品34(1917年)
愛国的三部作 作品35
コラール「聖ヴァーツラフ」の主題による瞑想曲 op.35a (1914年、弦楽四重奏版が8月に書かれ、9月に弦楽合奏版が作られた)
大管弦楽のための伝説曲 op.35b (1919-20年)
祖国新生に向けて(ソコル祭典行進曲) op.35c (1919-20年) *チェコスロバキア共和国の成立と関連した作品である。
交響詩《エピローグ》作品37(1929年、合唱つき)
ヨセフ・スク アスラエル交響曲 作品27
Suk: Asrael Symphony, Talich & CzechPO (1952) スク アスラエル交響曲 ターリヒ
(00:00) 1. Andante sostenuto
(15:22) 2. Andante
(23:42) 3. Vivace (Scherzo)
(35:29) 4. Adagio
(46:46) 5. Adagio e maestoso
Václav Talich (1883-1961), Conductor
Czech Philharmonic Orchestra
Rec. 22-28 May 1952, at Dvořák Hall Rudolfinum, in Prague
指揮:ヴァーツラフ・ターリヒ
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1952年5月22〜28日 ドヴォルザーク・ホール、ルドルフィヌム (プラハ)
アスラエルとは、死を司る天使の名を示している。
アズラーイール(アズリエル、アズラエル、イズラーイールとも)は、イスラム教において死を司る天使(告死天使とも)とされる。
師父ドヴォルザークの死を契機に作曲が始められ、作曲中にドヴォルザークの娘でもある妻オティリエまでもが亡くなり、完成時に「アスラエル」と命名された。
▲△▽▼
アスラエル交響曲(チェコ語: Asrael Symfonie)作品27は、チェコの作曲家、ヨセフ・スクが作曲した交響曲。アスラエルとは、死を司る天使の名を示している。
作曲家として順風満帆の歩みを見せていたスクは、若き日には師のドヴォジャークの影響の下、幸福感に溢れる作品を書いていたが、1904年にドヴォジャークが亡くなると強い衝撃を受け、亡き師に捧げる交響曲の作曲を決意した。しかし、作曲中の1905年、第4楽章の作曲を始めたころに今度はドヴォジャークの娘であるスクの妻オティリエが若くして世を去った。交響曲は1906年10月に完成し、「アスラエル」の名はこの完成の際に付けられたものである。翌1907年2月3日、プラハにて、カレル・コヴァジョヴィツの指揮で初演された。
構成
ハ短調を主調とし、全体で5つの楽章からなっており、第3楽章までを「第一部」、第4楽章以降を「第二部」としてわけられる。演奏時間は約60分
第1楽章:アンダンテ・ソステヌート
第2楽章:アンダンテ
第3楽章:ヴィヴァーチェ(スケルツォ)
第4楽章:アダージョ
第5楽章:アダージョ・エ・マエストーソ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%82%A8%E3%83%AB%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2
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エドゥアルド・トゥビン (Eduard Tubin, 1905-1982)
エストニアの作曲家。マイナー交響曲の世界では有名でファンも多いようだ。
交響曲
交響曲1番(1931–1934)
交響曲2番"Legendary" (1937)
3.3点
全部の楽章が1つに繋がっている。1楽章の茫洋とし世界が曖昧に見えたり消えたりしながら、野蛮さとなんとも言えない広大さを持って姿を表して行くのが心地いい。3楽章では、力強い軍隊的な闘争的な楽章になって、これは文句なしに気持ちいい。後半のピアノソロからのヴァイオリンの不思議な力強い嘆きとも叫びとも付かないソロはなかなか痺れた。独自の我が道を行く、適度に変態でありながらとてもカッコ良い音楽は、ツボに入る人ならかなり気にいるだろう。
交響曲3番"Heroic" (1940–1942, revised 1968)
3.3点
闘争的な1楽章はかなりカッコいい。2楽章はかなりいい塩梅を突いた浮遊感と不思議さのある楽章で、夢幻的で楽しい。3楽章はかなり軽快で明るくて聴きやすい楽章。もちろんトゥビンらしさはキープされており新鮮さはある。2楽章と3楽章が続けて明るい楽しい楽章なため、全体としてそういう印象が強い曲になっている。
交響曲4番"Lyrical" (1943, revised 1978)
3.3点
1楽章も2楽章も、力を溜めながら進展する音楽である。もったいぶりながら進む、現代的な音感覚を持ちながらも聴きやすい音楽はなかなか楽しい。しなやかな叙情性もあり、スケールは大きいし、大いなるモノの周りを巡っているワクワク感がある。3楽章はその延長で盛り上げて行く。統一感がかなりあり、後で改定されているからか成熟した曲である。
交響曲5番(1946)
3.3点
ひねりのある音使いで浮遊感のある雰囲気が支配している。かっこよさをやや強調している。魂よりもやや技巧的な作曲技法の披露に偏っている気もして物足りなく聞いていたが、3楽章中間で突然止まった場面の衝撃にやられた。その後の勢いの復活の仕方も非常に痺れさせられるもの。
交響曲6番1953–1954, revised 1956)
3.3点
1楽章はファイナルファンタジーのラスボスの音楽のような異世界の巨大な異生物を表現しているかのような不思議な音楽。同じリズムを執拗に繰り返して、野生的な音楽を鳴らす2楽章。20世紀にはよくある音楽かもしれないが、打楽器の活躍などかっこよさで満足させてくれる。
交響曲7番(1955–1958)
交響曲8番(1965–1966)
交響曲9番"Sinfonia semplice" (1969)
交響曲10番(1973)
交響曲11番(incomplete)
エドゥアルド・トゥビン(Eduard Tubin, 1905年6月18日 - 1982年11月17日)はエストニア出身の作曲家・指揮者。
経歴
カラステ出身。1944年にエストニアがソ連に占領されるとスウェーデンに亡命し、亡くなるまでストックホルムで活動を続けた。
指揮者としてはフィラデルフィア管弦楽団やイギリス室内管弦楽団とも共演している。同僚だった指揮者に、ネーメ・ヤルヴィのほか、エドゥアルド・マータやエンリケ・バティス、アンタル・ドラティらがいる。
音楽について
完成した10曲の交響曲と、断片に終わった「交響曲第11番」で知られるほか、出世作となったバレエ音楽「クラット(悪鬼)」で知られる。また他に「弦楽合奏のための音楽」、2つのヴァイオリン協奏曲、バラライカ協奏曲、コントラバス協奏曲、2つのオペラ、「斃れた兵士たちへの鎮魂歌」から幅広いジャンルで作品を残した。
トゥビンは、「エストニアの動機によるシンフォニエッタ」などに見られるように、初期作品においてはエストニアの民俗音楽に影響されていた。しかしソ連によって母国が奪われ、亡命生活に入ってからは、あまり国民楽派的でなくなり、より国際的で怒りに満ちた作曲様式に切り替わった。
トゥビンの作曲様式の変化は、「交響曲 第6番」の頃に起こり、和声的により鋭角的な作風となった。「交響曲 第7番」の終楽章は、調的であるとはいえ、12音による主題を大幅に用いている。副題つきの交響曲としては、「交響曲 第2番 <伝説的>」と「交響曲 第4番 <叙情的交響曲> Sinfonia lirica 」、「交響曲 第9番 <単純な交響曲> Sinfonia semplice 」がある。
トゥビンがあまり有名とはいえないのは、このような変遷のためである。エストニアが自国最大の作曲家と訴えているにもかかわらず、生涯を通じて創作活動の大半はスウェーデンで行われており、しかも大家にふさわしい注目を集めてはこなかった。
トゥビン作品は多くが録音されており(交響曲全集に至っては、ネーメ・ヤルヴィ指揮のものとアルヴォ・ヴォルメル指揮によるものとがある)、2005年6月にはタリン市において、トゥビン生誕100周年の記念音楽祭が催され、交響曲のほか、ピアノ曲や室内楽曲の多くが演奏された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%82%A5%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%93%E3%83%B3
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エドゥアルド・トゥビン 交響曲 第6番
Eduard Tubin SYMPHONY No.6
Swedish Radio Symphony Orchestra
Neeme Järvi (conductor)
Bengt Forsberg (piano), Jorgen Petterson (saxaphone)
Released on: 1985-01-01
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ネーメ・ヤルヴィとエドゥアルド・トゥビン
エストニア出身の名匠「ネーメ・ヤルヴィ(Neeme Järvi)は同郷の作曲家、指揮者でもあった「エドゥアルド・トゥビン(Eduard Tubin/1905〜1982)」と親交を持ち彼の交響曲全集(未完の「第11番」を除く)も録音、「トゥビン」の作品を世界的に広めた指揮者である。
「トゥビン」は祖国「エストニア」が1944年「ソ連」に占領後「スウェーデン」に亡命、「ストックホルム」を中心に活躍した。 彼の作品は完成した10曲の交響曲のほか「舞踊音楽」「協奏曲」「器楽曲」等々数多くのジャンルに渡り作曲を手掛けている。
近年、日本でも彼の作品がコンサートで紹介されるようになり少しずつではあるが注目を集めつつある。 今回紹介するLPレコードは世界初録音とされる「交響曲第9番<単純な>(Semplice)」・「エストニア舞踊組曲」・「トッカ―タ」が収録された1枚である。
演奏はネーメ・ヤルヴィが指揮する「イェ―テボリ交響楽団(Göteborgs Symfoniker)」によるコンサート・ライヴ録音で聴衆の拍手も収録されている。 ちなみに演奏会場はいずれもこの楽団の本拠地「イェ―テボリ・コンサート・ホール」、録音年月日は交響曲-1981年9月4日、舞踊組曲-1984年1月26日、トッカータ-1984年2月2日となっている。
「第9番」は1969年作曲の2楽章構成演奏時間22分余りの音の透明感も感じる美しい作品、LP第2面に収録された「舞踊組曲」はエストニアの民俗音楽をテーマにした3つの舞踊音楽で1938年の作品、「トッカ−タ」はその前年1937年に作曲された小品である。
このLPは1984年スウェーデンBISレーベル、独テルデック(TELDEC)のダイレクト・メタル・マスタリング盤でである(写真1 トゥビン「交響曲第9番ほか」ネーメ・ヤルヴィ&イェーテボリ響、LP-264ジャケット)。 写真2はLPジャケット裏面、ネーメ・ヤルヴィのサインは2014年4月N響定期客演の際に入れてもらったもの、写真3はLPレーベル面である。
http://gewandhaus.sakura.ne.jp/wp/karajan/%e3%83%8d%e3%83%bc%e3%83%a1%e3%83%bb%e3%83%a4%e3%83%ab%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%81%a8%e3%82%a8%e3%83%89%e3%82%a5%e3%82%a2%e3%83%ab%e3%83%89%e3%83%bb%e3%83%88%e3%82%a5%e3%83%93%e3%83%b3/
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「間接民主制」の起源
自民党は総裁選挙の「党員・党友投票」を廃止せよ 2021-10-03
今回の総裁選挙で「ゾッ」としたのは、自民党総裁選挙が、事実上の「首相公選制」になりかけている事実です。
野党の支持率が伸びないため、自民党の総裁=日本国の内閣総理大臣、という可能性が現在は極めて高いわけです。
無論、建前上は「総理大臣は、国会議員の投票で選ばれる」ことにはなっています。とはいえ、現実には「自民党の総裁=内閣総理大臣」なのです。
そして、自民党総裁選挙では、党員・党友が投票できる。
無論、党員・投票が影響を与えるのは、半分の投票数には過ぎない。今回の河野太郎・新広報本部長が獲得した党員・党友票は44%でした。が、これが90%だったら?
自民党国会議員の多くが、「次の選挙に勝つための顔」ということで、河野氏に票を投じたのではないでしょうか?
あるいは、それ以前の話として、圧倒的な党員・党友票が故に、河野氏が一回目投票で過半数を占める可能性もあった。
となると、事実上、党員・党友という「普通の日本国民」が総理大臣を決定することになる。すなわち、首相公選制です。
首相公選制(的な制度)の何が問題なのかと言えば、我々日本国民の多くは普段は政治に興味がなく、「誰が、どういう人柄で、どういう政策を訴え、どういう実績がある」といったことは知らない、という点です。
となると、投票用紙が送られてきたとして、「とりあえず、知っている人に入れる」というのは合理的行動です。
かつてのように、中間組織が健在で、一般の国民、あるいは党員・党友が直接、国会議員と話し、「どの政治家が、どんな人物」といったことを「議論」したならば話は別です。とはいえ、グローバリズムにより中間組織が破壊され、多くの日本国民は「マスコミ」を通じて「政治家を知る」ことしかできない。
となれば、「テレビでよく見かける」政治家に票を入れるのは、自然な心情です。例えば、「それっぽい改革」を熱烈に訴え、マスコミに「視聴率になる」と判断され、やたらTVに登場する政治家の「支持率」が上がる。
今にして思えば、コロナ禍が始まって以降、東京都の小池都知事や大阪の吉村府知事が、ひたすら「TVに出ようとした」理由が分かります。いわゆる「スタンドプレー」ですが、彼らは単に、「自分を知って欲しい」と考えたのです。理由は、ほとんどの国民は、そもそも政治に興味がなく、政治家を「知らない」ためです。
TVに出るためには、「その政策が国民ため」といった経世済民はどうでもよく、とにかく派手で、話題になればいい。そうすることで、自分を知ってもらえる。すると、次の選挙で「知られている自分と、知られていない競合相手」との戦いになり、圧倒的に勝利できる。
しかも、自民党総裁選挙は、公示日直後に投票用紙が送られる。公示後の「政策論争」は関係ないのです。
自民党の党員・党友の方々にしても、日常的に政治的な議論をしているわけではない。そのための「場」は、次々に破壊されていっている。
となると、マスコミを通じて「知っている政治家」に、その後の政治論争は気にせずに票を投じてしまう。事実上の、直接民主主義になりかねない。
三橋が直接民主主義を否定する理由は、二つあります。
1.我々有権者は、それほど頭がよくなく、しかも政治について関心を持たず、知識もない
2.結果的に、マスコミに頻繁に登場する政治家を、「知っている」というだけの理由で、支持してしまう
古代ギリシャから、この種の直接民主制の弊害は明らかでした。
だからこそ、イギリスの名誉革命以降、人類は「間接民主制」という制度を発展させたのです。
間接民主制の国は、議会で議員たちが、それぞれの「利益団体」の利益を追求し、喧々諤々の議論になるため、なかなか物事が決まりません。
それで、良かったのです。何しろ、特定の誰か(例:レント・シーカー、竹中平蔵、デービッド・アトキンソンなど)の利益を最大化する政策もまた、なかなか決まらないためです。かつての日本は「決められない政治」と批判されていましたが、今にしては「誉め言葉」のように思えます。
90年代後半の政治改革以降、小選挙区制導入、政党助成金制度、そして内閣人事局設置と、日本は次第に「決められる政治」になってきました。結果、レント・シーカー、政商が望む政策が決められるようになった。
成長戦略会議を初めとする「首相の諮問会議」に入り込んだ民間人が、自分の利益を最高する政策を首相に吹き込み、そのまま閣議決定。「特定の誰かの利益」のための政策が「首相指示」として国会に降ろされ、小選挙区制(の公認権)や政党助成金により縛られた(自民党の)国会議員たちは、そのまま通してしまう。
最後の砦たる官僚も、人事権を握られているため、どうにも反抗のしようがない。
これが、現在の日本の政治です。特定の誰かの利益最大化を目的とする政策が次々に決まる。議会は役に立たない。これを、「発展途上国型政治」あるいは「収奪型政治制度」と呼ぶのです。
総裁選において、河野氏は自民党の部会での議論について「ぎゃーぎゃーやっている」との表現で批判しました。つまりは、議会や部会での議論が「邪魔」という話です。
新自由主義者であり、小さな政府主義者でもある河野氏が、自民党での「議論」を否定したくなる気持ちは、良く分かります。
とはいえ、自民党の部会での「ぎゃーぎゃー」が無くなった場合、単に「自分の利益を最大化したい特定の誰か」が望む政策が、速やかに推進されるようになるだけの話です。
グローバリズムとしては、総理大臣が「間接民主制」で決まるという「迂遠さ」もまた、我慢がならないのでしょう。だからこそ、首相公選制などと言い出す。
今回の総裁選挙を通じ、直接民主制の危険性が露呈しました。自民党は総裁選挙における党員・党友投票を廃止するべきでしょう。何しろ、「政治家を知らない」有権者は、「マスコミに頻繁に登場するから知っている」候補者に票を投じるだけです。
同時に、岸田内閣には、成長戦略会議に代表される首相の諮問機関も、全て廃止して欲しい。同じ機能を持たせた「国会議員の会議」を作れば済む話です。
今回の自民党総裁選挙は、直接民主制の危険性や、「議論」「議会」の重要性を改めて知らしめてくれたという点においても、価値があったと思うのです。
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1705.html
4. 中川隆[-16156] koaQ7Jey 2021年10月03日 11:14:53 : La1MHT2NOM : S3Z1enY4dHRtUXc=[6]
【ゆっくり解説】整形手術で命を落とした有名人4選をゆっくり解説
2021/10/02
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1116.html#c4
【糖尿病】絶対放置してはいけない初期症状5選
2021/04/11
ウィリアム・シューマン(William Howard Schuman, 1910 – 1992)
交響曲
交響曲第3番 (1941年)
3.3点
温かみよりも鋭角的な切れ味を楽しむ曲。とはいえ、現代音楽的な音の不協和音のきつさとか、即物主義の気持ち悪さは少なく、あくまで包み込むような温もりを徹底的に排除して作った感じなのが良い。難解な音楽であると感じるが理解不能ではない落とし所も好きだ。なかなか洗練されていて都会的でカッコいい曲であり、新しい音楽を聴いた衝撃を得られる。しかし、衝撃だけで終わってしまい良い音楽を聴いたというような感想も残らないとも思った。30分とコンパクトで良いが、刺激ばかりで深い追求が足りない感じである。作者の中では他の交響曲と比較して本格的な構成でバランスが良く濃密であり、おそらく代表作だろう。
交響曲第4番(1942年)
弦楽のための交響曲 (交響曲第5番)(1943年)
3.3点
弦楽のための交響曲。ナイフで石を切り刻んで形を作っていくかのような鋭利な音使いが印象的な1楽章。2楽章はしなやかそうでありながらも、切れ味を感じさせる電子楽器的ともいえるデジタルな音の動きを重ねていく。中間のカオス感を作っていく感じと、そのあとの不思議な異次元空間に存在するかのような感じは面白い。3楽章のピチカートを活用した動きの感じは、かなり斬新な音の世界と感じて楽しめた。都会的な斬新さを弦楽の曲だけに純粋に楽しみやすい。
交響曲第6番(1948年)
交響曲第7番(1960年)
3.3点
3楽章までは暗いエレジーのような曲調で驚く。4楽章が面白い。プロコフィエフのピアノソナタ7番3楽章を思い起こすような変則リズムの組み合わせ。あれよりはマッタリであるが。2つのモールス信号の打鍵が組み合わされたようにも聞こえる。ある意味でポップな雰囲気に浸って楽しい気分のまま最後まで聞ける。
交響曲第8番(1962年)
交響曲第9番『アルデアティーネの洞窟』(1968年)
3.0点
戦争をテーマにした副題がついているだけに、抽象的で空気感や映像性に乏しい作曲者の曲の中では、ある程度テーマの明確さを感じて聴きやすい。とはいえ音の動きはらしいものがあり、基本的に抽象性は高い。銃撃を模しているような場面から、犠牲者を鎮魂する音楽への大きなストーリーは分かりやすい。細かいストーリーが分かりにくくて淡々と場面が進んでいるように感じるのが難点。しかし、作者の強い思いと衝動がわかる曲。
交響曲第10番『アメリカのミューズ』(1976年)
管弦楽曲・吹奏楽曲
アメリカ祝典序曲(American Festival Overture, 1939年)
協奏曲
ピアノ協奏曲(1943年)
ヴァイオリン協奏曲(1947年/1959年改訂)
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB
ウィリアム・ハワード・シューマン(William Howard Schuman, 1910年8月4日 – 1992年2月15日)は、アメリカ合衆国の作曲家。音楽機関の長を長く務めた。
略歴
ニューヨーク市のブロンクス出身。アメリカ大統領のウィリアム・ハワード・タフトにちなんで名づけられた。少年時代からヴァイオリンやバンジョーを弾き始めるが、当初は野球に情熱が注がれた。ハイスクール時代にダンス・バンドを結成し、自らはベース奏者として結婚式などで演奏した。
1928年にニューヨーク大学商学部に入学すると同時に、広告業界で働き始める。この頃は、親しい友人のE.B.マークス・ジュニアらの作詞家とともに、ポピュラー音楽の作曲に手を染めている。
1930年4月4日に実姉オードリーとともにカーネギー・ホールにおいて、アルトゥーロ・トスカニーニ指揮によるニューヨーク・フィルハーモニックの演奏会を聴いて深い感銘を受けるとともに、職業作曲家への転身を決意する。大学を中退し、個人教師について作曲を学び始める。指導者の一人にロイ・ハリスがおり、その引き合わせでセルゲイ・クーセヴィツキーの知遇を得る。クーセヴィツキーは後にウィリアム・シューマンの庇護者となった。
1935年から1945年まで、サラ・ローレンス大学で作曲を指導。1943年に、ウォルト・ホイットマンの詩集『草の葉』に基づくカンタータ『自由の歌』(A Free Song )によって、ピューリッツァー音楽賞の最初の受賞者に選ばれる。1946年にジュリアード音楽学校校長に就任してジュリアード弦楽四重奏団を創設する。1961年にリンカーン・センターに音楽監督として転出。
作品
8つの交響曲を筆頭に作曲家としてかなりの量の作品を残している。これは作曲者自身によって、「第3番から第10番までの8曲しかない。最初の2曲は撤収された」と述べられている。
ヴァイオリン協奏曲(1947年/改訂1959年)は、シューマンのすべての管弦楽曲の中で、最も力強い作品の一つと称賛された。
その他の作品に、ウィリアム・ビリングス(英語版)の旋律に基づく「ニューイングランド三部作」(1956年)や、「アメリカ祝典序曲」(1939年)、マーサ・グラハムのためのバレエ音楽「ジュディス」(1949年)などのほか、2曲のオペラがある。
チャールズ・アイヴズのオルガン曲「アメリカの主題による変奏曲」を1963年に管弦楽用に編曲したものは、原曲以上に有名になった。吹奏楽曲「ジョージ・ワシントン・ブリッジ」(1950年)も人気が高い。
歌劇
マイティ・ケイシー(1953年) - 「野球オペラ」として知られる
交響曲
交響曲第3番 (1941年)
交響曲第4番(1942年)
弦楽のための交響曲 (交響曲第5番)(1943年)
交響曲第6番(1948年)
交響曲第7番(1960年)
交響曲第8番(1962年)
交響曲第9番『アルデアティーネの洞窟』(1968年)
交響曲第10番『アメリカのミューズ』(1976年)
管弦楽曲・吹奏楽曲
アメリカ祝典序曲(American Festival Overture, 1939年)
バレエ音楽『ジュディス』(Judith, 1949年)
ニューイングランド三部作(New England Triptych, 1956年) - 各曲を自身が吹奏楽編曲している
喜びあれ、アメリカ(Be Glad then America )
イエス涙を流したもう時(When Jesus Wept )
チェスター(Chester )
ジョージ・ワシントン・ブリッジ(George Washington Bridge, 1950年)
協奏曲
ピアノ協奏曲(1943年)
ヴァイオリン協奏曲(1947年/1959年改訂)
オルフェウスの歌(チェロと管弦楽)(A Song of Orpheus, 1962年)
室内楽曲
弦楽四重奏曲第2番(1937年)
弦楽四重奏曲第3番(1939年)
弦楽四重奏曲第4番(1950年)
弦楽四重奏曲第5番(1987年)
アマリリス(弦楽三重奏のための変奏曲)(1964年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3
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ウィリアム・シューマン 交響曲第3番
William Schuman Symphony 3 / Leonard Bernstein (1970/2018)
New York Philharmonic
Part I: Passacaglia and Fugue
Part II: Chorale and Toccata
▲△▽▼
交響曲第3番は、ウィリアム・シューマンが1941年に作曲した交響曲。
初演は1941年にクーセヴィツキーにより行われ、同年ニューヨーク批評家連盟賞を受賞した。内容自体は師であるロイ・ハリスとバロック音楽に影響されているが、後者については作風そのものの回帰ではなくアイディアのみに留まっている。また、コープランドは内容が難解なために一般聴衆からは受け入れられないことを指摘している[1]。
楽器編成
フルート2、ピッコロ、クラリネット3、バスクラリネット、ファゴット2、ホルン4、トランペット4、トロンボーン4、チューバ、、ティンパニ、小太鼓、大太鼓、トライアングル、シンバル、シロフォン、ピアノ、弦五部[2]
楽曲構成
第1部 Passacaglia and Fugue
ヴィオラによる短いパッサカリア主題が提示された後、7小節毎に他の楽器が反復しながらカノンを形成し、5つの変奏を経てホルンと弦により提示されるフーガに移行する。なおここでもパッサカリア同様カノンを形成するが、その後は複雑な対位法を伴うフガートが現れる[1]。
第2部 Chorale and Toccata
作曲曰く「魂を表現したもの」と語っており、まず緩徐楽章に相当するコラール主題が木管に現れた後、小太鼓と木管がトッカータ主題を提示しながらフーガを形成し、堂々と幕を下ろす[1]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC3%E7%95%AA_(%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3)
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/748.html
アーロン・コープランド(Aaron Copland, 1900 - 1990)
交響曲・管弦楽作品
交響曲第1番(1928年)
交響曲第2番『短い交響曲』(1934年)
交響曲第3番(1946年)
3点
グローフェと似たアメリカらしいおおらかな開放感、圧倒的な壮大な国土と大自然を感じさせる曲想が交響曲の形でそれなりに構築的に造形されている力作。
エル・サロン・メヒコ(1936年)
3.5点
静かな都会(クワイエット・シティ)(1941年、劇音楽1939年)
4点
アパラチアの春
3.5点
叙景音楽。コープランドでこの表題となれば期待するとおりの音楽であり、出来の良さである。
市民のためのファンファーレ(庶民のためのファンファーレ)(1942年)
協奏曲
ピアノ協奏曲(1926年)
クラリネット協奏曲(1950年) ベニー・グッドマンの依頼による。
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB
アーロン・コープランド(Aaron Copland, 1900年11月14日 - 1990年12月2日)は、20世紀アメリカを代表する作曲家のひとり。アメリカの古謡を取り入れた、親しみやすく明快な曲調で「アメリカ音楽」を作り上げた作曲家として知られる。指揮や著述、音楽評論にも実績を残した。
略歴
ニューヨーク州ブルックリンにおいて、ユダヤ系ロシア移民の息子として生まれた。14歳で本格的にピアノを習い始め、作曲家を志したのは15歳のときという。16歳からルービン・ゴールドマーク(オーストリアの作曲家カール・ゴルトマルクの甥)に作曲を師事する。
1921年、21歳のときにパリに留学、個人的にナディア・ブーランジェの弟子となる。パリ留学中にはジャズの要素を取り入れた曲を多く書いていたが、次第に一般大衆と現代音楽の隔たりを意識するようになる。
1924年に帰国すると、「アメリカ的」音楽を模索、アメリカ民謡を取材・研究し、これを取り入れた簡明な作風を打ち立てる。出世作『エル・サロン・メヒコ』(1936年)を経て発表された、『ビリー・ザ・キッド』(1938年)、『ロデオ』(1942年)、『アパラチアの春』(1944年)などのバレエ音楽が、コープランドのスタイルとして確立された作品といえる。
その後、再び純音楽的作品に戻り、十二音技法を用いるなど曲折の後、晩年は非常な寡作となった。このようなコープランドの音楽スタイルの変遷は、そのままアメリカの音楽文化の形成過程を象徴しているとも指摘されている。
主要作品
舞台音楽
歌劇『入札地』(1954年)
バレエ音楽『ビリー・ザ・キッド』(1938年)
バレエ音楽『ロデオ』(1942年)
バレエ音楽『アパラチアの春』(1944年)
映画音楽
廿日鼠と人間(1939年)
我等の町(1940年)
赤い仔馬(1948年)
女相続人(1949年)
交響曲・管弦楽作品
オルガンと管弦楽のための交響曲(1924年)
舞踏交響曲(1922年 - 1925年、改1929年)
交響曲第1番(1928年)
交響曲第2番『短い交響曲』(1934年)
交響曲第3番(1946年)
劇場のための音楽(1925年)
交響的頌歌(1927年 - 1928年、改1955年)
エル・サロン・メヒコ(1936年)
野外序曲(戸外の序曲)(1937年、吹奏楽編曲1941年)
吹奏楽の分野では後者の訳が、それ以外では前者の訳が用いられることが多い。
静かな都会(クワイエット・シティ)(1941年、劇音楽1939年)
市民のためのファンファーレ(庶民のためのファンファーレ)(1942年)
リンカーンの肖像(1943年)
管弦楽にリンカーン大統領の演説をナレーションとして配した作品。
協奏曲
ピアノ協奏曲(1926年)
クラリネット協奏曲(1950年)
ベニー・グッドマンの依頼による。
室内楽作品
六重奏曲(1937年)
ヴァイオリン・ソナタ(1943年)
ピアノ四重奏曲(1950年)
ピアノ曲
3つのソネット(1918年)
ピアノソナタ(1941年)
4つのピアノ・ブルース(1948年ごろ)
ピアノ幻想曲(1957年)
声楽曲
エミリー・ディキンソンの12の詩(1948-50年)
アメリカの古い歌 第1集(1950年)
アメリカの古い歌 第2集(1952年)
受賞歴
アカデミー賞
受賞
1950年 アカデミードラマ・コメディ音楽賞:『女相続人』
ノミネート
1940年 アカデミー音楽賞、アカデミー作曲賞:『廿日鼠と人間』
1941年 アカデミー音楽賞、アカデミー作曲賞:『我等の町』
1944年 アカデミードラマ音楽賞:『電撃作戦』
著書
『音楽とイマジネーション』(塚谷晃弘訳/昭森社/1962)
『作曲家から聴衆へ――音楽入門』(塚谷晃弘訳/音楽之友社/1965)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89
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アーロン・コープランド 静かな都会(クワイエット・シティ)
Copland: Quiet City
Philip Smith · Thomas Stacy
New York Philharmonic Orchestra
Leonard Bernstein
℗ 1986 Deutsche Grammophon GmbH, Berlin
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ジョージ・ガーシュウィン(George Gershwin、1898 - 1937)
管弦楽曲・協奏曲
ラプソディ・イン・ブルー
アイ・ガット・リズム変奏曲
パリのアメリカ人
ラプソディ第2番
キューバ序曲
交響組曲「キャットフィッシュ・ロウ」(『ポーギーとべス』の音楽を演奏会用組曲に編曲した作品)
ピアノ協奏曲ヘ調
ピアノ曲
3つの前奏曲
ソング・ブック
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ジョージ・ガーシュウィン(George Gershwin、1898年9月26日 - 1937年7月11日)は、アメリカの作曲家。本名、ジェイコブ・ガーショヴィッツ(Jacob Gershowitz)。ポピュラー音楽・クラシック音楽の両面で活躍しアメリカ音楽を作り上げた作曲家として知られる[1]。
337曲は作詞家である兄のアイラ・ガーシュウィンとの共同制作である[1]。
略歴
ユダヤ系ロシアの移民の息子として、ニューヨークのブルックリンに生まれた(もとの姓はゲルショヴィツ Gershowitz)[2]。
初めてクラシック音楽に触れたのは小学生のときに聴いたドヴォルザークの「ユーモレスク」だという。父親は、ジョージが12歳の時、兄のアイラ・ガーシュウィンに音楽を学ばせようとピアノを買ってやったが、文学者肌のアイラはピアノを弾かず、代わってジョージがピアノに親しむことになり、13歳の時にピアノ、和声を習った[3][4]。
出世作となったのは、作詞家アーヴィング・シーザーとの共作になる1919年の歌曲「スワニー」で、人気歌手アル・ジョルソンに気に入られて彼が繰り返し歌ったことからヒットし、人気ソングライターとなる[5]。
1920年代以降は、作詞家となった兄アイラ・ガーシュウィンと組んで、レビューやミュージカル向けに多くのポピュラー・ソングを送り出した。ガーシュウィン兄弟によって作られ、後年までスタンダード・ナンバーとして歌われている歌曲は『私の彼氏(The Man I Love)』『バット・ノット・フォー・ミー』『アイ・ガット・リズム』などをはじめ、おびただしい数に上る[6]。
クラシックにも取り組み、1924年には『ラプソディ・イン・ブルー』(Rhapsody in Blue)を発表。当時ガーシュウィンにとって管弦楽法は未知領域だったためファーディ・グローフェの協力を得て、ジャズとクラシックを融合させたこの作品は「シンフォニック・ジャズ」の代表的な成功例として世界的に評価された[7]。
その後独学でオーケストレーションを学び、いくつかの管弦楽作品を残した。そのひとつ『パリのアメリカ人』(An American in Paris、1928年)もよく知られている。因みに、オーケストレーションを学びたいがためにイーゴリ・ストラヴィンスキーの元に訪れたら、クラシック作曲家としては異例の高収入で知られていたことから、逆に「如何すれば其処まで収入を上げられるのかこちらが教えてほしい」と言われたというエピソードが流布している(ストラヴィンスキーは晩年のインタビューでこれを事実無根だと否定しているが、「でも、そういうことがあったら、楽しかっただろうなあ」とも語っている[8])。また、モーリス・ラヴェルにも教えを請うたが、ラヴェルからは「あなたは既に一流のガーシュウィンなのだから、二流のラヴェルになる必要はないでしょう」と言われたという。さらにラヴェルはナディア・ブーランジェへの紹介状を書いたが、彼女は「ガーシュウィンには生まれながらの音楽的才能があり、その邪魔をしたくない」と弟子とすることを断ったという[9]。
兄・アイラと作家デュボース・ヘイワードとの協力によって書かれ、黒人コミュニティの風俗をリアルに描いたフォーク・オペラ『ポーギーとベス』(Porgy and Bess)は1935年にオール黒人キャストという意欲的な企画で初演されたが、初演時は反響は得られなかった。のちに評価が高まり、現在ではアメリカ音楽の古典となっている。劇中で歌われる『サマータイム』(Summertime)はポピュラーソングのスタンダードナンバーとして広く親しまれている[1]。
1937年7月9日に脳腫瘍のため昏睡状態となり、10日に手術を行ったが、11日に急逝した[10]。38歳没。1920年代初頭から腹痛発作と頑固な便秘にしばしば悩まされ、自ら「作曲家の胃袋(composer's stomach)」と呼んでいた。また、1936年の暮れごろからすでに彼はうつ状態になったり、いらいらしたりしていたが、超過密スケジュールをこなす有名人特有の「ハリウッド病」が出てきただけと思われていた。1937年2月には指揮のリハーサル中に指揮台の上で突然よろけたが、ちょっとバランスをはずしただけと言っていた。その晩、突然ゴムの焼けるような異様な臭いが感じられ、その直後、約10秒間ほど意識消失があった。この異臭に引き続き起こった意識障害発作は、きわめて典型的な鈎回(uncal gyrus)発作、すなわち側頭葉前端内側部に発作焦点を有するてんかん発作と思われるが、この時この発作の意味するところに気付かなかった。4月に床屋の椅子の上で、再び同じ発作があった。これ以降同様の発作が繰り返し起こるようになり、その頻度が増してくると同時に明け方になると起こる強い頭痛も加わってきた。またこの頭痛に、めまいと吐き気が伴うようになってきた。このため6月には受診している。毎日のように意識障害発作を生じており、発作直前にはいつも異臭を感じるようになっていた。これらが彼の最後の病に関係しているものかどうかについては、はっきりしたことはわからない。7月に入院した際にカール・ランド博士とハワード・ナフツィガー博士は脳室撮影を行った。頭蓋に開けた小孔から脳室内に空気を注入してX線撮影を行い、脳室を造影するこの検査法は、ダンディー博士(Walter Edward Dandy)によって始められた検査法であり、X線CTスキャンが実用化されるまでの数十年間にわたって脳腫瘍の検査に不可欠な検査であった。できあがったフィルムには右側側脳室が圧迫されており、右側頭葉の腫瘍と思われる。開頭手術の結果、右側頭葉は嚢胞を伴う大きな腫瘍がみつかり、5時間に及ぶ手術にできる限りの手を尽くした。大きな腫瘍は摘出されたが、術後もガーシュウィンの意識は戻らず、7月11日の朝に死去した。手術された脳腫標本によると、多形膠芽腫とされている[11]。
舞台作品の数は50曲にのぼり、その中でオペラは2曲、ミュージカルが50曲、映画音楽は4曲しか残されていない。管弦楽曲は7曲を作曲している。室内楽曲は2曲のみ。ピアノ曲は10曲。歌曲は500曲も残されている。
また、ジョージは多調や十二音技法にも関心を持っており、「2つの調による即興曲」では多調を試みている。アルバン・ベルクとアルノルト・シェーンベルクとは親交を持ち、アメリカへ渡ったシェーンベルクとはテニスを楽しんだり、肖像画を描いて送ったエピソードが知られている。
主要作品
舞台作品
オペラ
135番街 135th Street(1923)
全1幕のアフロ・アメリカン風オペラ。1925年初演。グローフェによる再管弦楽版のタイトルは「ブルー・マンデー・ブルース(Blue Monday Blues)」
ポーギーとベス Porgy and Bess(1934-35)
全3幕9場のオペラ。有名なアリア『サマータイム』を含む。
ミュージカル
8時半 Half Past Eight(1918)
1918年のヒッチー=クー Hitchy-Koo of 1918(1918)
危険なメイド A Dangerous Maid(1921)
お願いだから For Goodness Sake(1922)
虹 The Rainbow(1923)
プリムローズ(さくら草) Primrose(1924)
レディー・ビー・グッド Lady be Good(1924)
邦題は「淑女よ善良なれ」。同年12月1日初演
ティップ・トー Tip-toes(1925)
トレジャー・ガール Treasure Girl(1928)
ロザリー Rosalie(1928)
ショー・ガール Show Girl(1929)
ストライク・アップ・ザ・バンド Strike up the Band(1930)
ガール・クレイジー Girl Crazy(1930)
オブ・ジー・アイ・シング Of Thee I Sing(1931)
レットエム・イート・ケーク Let 'em eat cake(1933)
ショー・イズ・オン The Show is On(1936)
映画音楽
デリシャス Delicious(1931)
デイヴィッド・バトラー監督の映画のための
踊らん哉(1937)
マーク・サンドリッチ監督の映画のための。原題は「Shall We Dance」
踊る騎士 A Damsel In Distress(1937)
ジョージ・スティーヴンス監督の映画のための
ゴールドウィン・フォリーズ The Goldwyn Follies(1937)
ジョージ・マシャール監督の映画のための
管弦楽曲・協奏曲
ラプソディ・イン・ブルー Rhapsody in Blue(1924)
ピアノ協奏曲 ヘ調(1925)
指揮者ウォルター・ダムロッシュからの委嘱による唯一のピアノ協奏曲
パリのアメリカ人 An American in Paris(1928)
ラプソディ第2番 Rhapsody No.2(1931)
映画『デリシャス』の音楽として作曲
キューバ序曲 Cuban overture(1932)
アイ・ガット・リズム変奏曲 Variations on a original theme "I got rhythm"(1934)
ミュージカル『ガール・クレイジー』の劇中曲より。主題と6つの変奏からなる
交響組曲『キャットフィッシュ・ロウ』 Catfish Row(1936)
オペラ『ポーギーとベス』の音楽を演奏会用組曲に編曲した作品。全5曲。タイトルは「なまず横丁」を意味する。ロバート・ラッセル・ベネット編曲による「交響的絵画」も有名。
室内楽曲
子守歌(1919)
弦楽四重奏のための作品。弦楽合奏でも演奏される。1968年に出版
ピアノ曲
タンゴ(1914)
リアルトのさざ波 - ラグ Rialto Ripples Rag(1917)
ウィル・ドナルドソン(Will Donaldson)との共作
3つの前奏曲(1926)
サミュエル・ドゥシュキンやヤッシャ・ハイフェッツによるヴァイオリンとピアノ用の編曲版以外に、多様な楽器のために編曲されている
ソング・ブック(1932)
既存のミュージカルの楽曲から18曲選出したもの。『スワニー』も含まれる
プロムナード(1937)
映画『踊らん哉』から「犬と歩けば」より編曲したもの
2つの調のための即興曲(1929)
多調を試みた作品
歌曲
大半はミュージカルの楽曲から独立したものである
シンス・アイ・ファウンド・ユー Since I found you(1913)
ホエン・ユー・ウォント・エム、ユー・キャント・ゲット・エム When you want'em, you can't get 'em(1916)
ザ・リアル・アメリカン・フォーク・ソング The real American folk song(1918)
ミュージカル『レディース・ファースト』より
香港 Hong Kong(1918)
ミュージカル『8時半』より
ドーナッツ Doughnuts(1919)
ミュージカル『モリス・ジェストの深夜の騒ぎ』より
スワニー Swanee(1919)
『キャピトル・レヴュー』より
ヤンキー Yan-Kee(1920)
ミュージカル『モリス・ジェストの深夜の騒ぎ』より
バックホーム Back home(1920)
ミュージカル『Dere Mable』より
サムワン Someone(1922)
『巴里のアメリカ人』より
サムワン・トゥ・ウォッチ・オーヴァー・ミー Someone To Watch Over Me(1926)
邦題は「やさしい伴侶を」。ミュージカル『Oh, Kay!』より
アイル・ビルド・ア・ステアウェイ・トゥ・パラダイス I'll Build A Stairway To Paradise(1928)
ミュージカル『For Goodness Sake』より
アイ・ガット・リズム I got rhythm(1930)
作詞は兄のアイラ。
ジャスト・アナザー・ルンバ Just another rhumba(1938)
ガーシュウィン作品を扱ったミュージカル映画
『踊る騎士』(A Damsel in Distress、1937年 アメリカ、RKO製作)
フレッド・アステア主演のミュージカル映画。ハリウッドに招かれたジョージが楽曲を書き下ろした。アステアが歌ったメインタイトルの「霧深き日」は後にスタンダードナンバーとなった。
『華麗なるミュージカル』(The Goldwyn Follies、1938年 アメリカ、サミュエル・ゴールドウィン製作)
ジョージの遺作となった作品。3色テクニカラーを採用し、オペラ歌手から腹話術師まで多彩な芸人を揃えたフォリーズで、この年最高のヒット作となった。「わが愛はここに」を書き上げた後にジョージが亡くなったため、未完の「スプリング・アゲイン」はヴァーノン・デュークが書き足している。日本未公開。
『アメリカ交響楽』(Rhapsody in Blue、1945年 アメリカ)
ジョージの伝記映画として著名な作品で、1940年代にしばしば作られた音楽家伝記物の中でも最も成功した例。全編に渡ってガーシュウィン・ナンバーが流れる。ジョージ役はロバート・アルダ。日本では1946年に劇場公開され、第二次世界大戦後初めて劇場公開されたアメリカ映画でもある。この作品中には、ジョージと近しかった人々が多数実名で出演している(ジョージの親友だったピアニストのオスカー・レヴァントは、この映画がきっかけで映画界入りした)。この作品は現在パブリックドメインとして扱われているため、日本国内でも容易に入手可能である。
『巴里のアメリカ人』(An American In Paris、1951年 アメリカ、メトロ・ゴールドウィン・メイヤー製作)
ジョージの作品を題材としたミュージカル映画。ジーン・ケリーが主演し、MGMミュージカルの中でも特に華やかな作品として知られる。アカデミー作品賞を受賞している。この作品は現在パブリックドメインとして扱われているため、日本国内でも容易に入手可能である。
『ポーギーとベス』(Porgy and Bess、1959年 アメリカ、MGM製作)
フォーク・オペラの古典として有名なジョージ作品をサミュエル・ゴールドウィンがプロデュースして映画化したもので、この作品の知名度を高めた。主人公・ポーギーにはシドニー・ポワチエが扮したが、敵役の伊達男スポーティング・ライフを演じたサミー・デイヴィスJr.は当たり役として有名。舞台からの改変が多かったためのジョージの関係者の意向でほとんどのプリントが回収され、一般で視聴するのは非常に困難。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/751.html
ジョージ・ガーシュウィン 『ラプソディ・イン・ブルー』
Gershwin: Rhapsody In Blue (Live)
Leonard Bernstein
Los Angeles Philharmonic
℗ 1983 Deutsche Grammophon GmbH, Berlin
(Bernstein, Piano & Conduct) Gershwin - Rhapsody in Blue / New York Phil / 1976 /
Piano and Conduct : Bernstein
New York Philharmonic.
Recorded at the Royal Albert Hall, London in 1976.
Gershwin: Rhapsody in Blue, Bernstein & ColumbiaSO (1959) ガーシュウィン ラプソディー・イン・ブルー バーンスタイン
Leonard Bernstein (1918-1990), Piano & Conductor
Columbia Symphony Orchestra
Rec. 23 June 1959, in New York [Columbia]
ジョージ・ガーシュウィン (編曲:ファーディ・グローフェ)
ラプソディー・イン・ブルー
ピアノ・指揮:レナード・バーンスタイン
コロンビア交響楽団
録音:1959年6月23日 セント・ジョージ・ホテル (ニューヨーク) [コロンビア]
▲△▽▼
『ラプソディ・イン・ブルー』(Rhapsody in Blue)は、アメリカの作曲家ジョージ・ガーシュウィンが作曲、ファーディ・グローフェが編曲したピアノ独奏と管弦楽のための音楽作品である。
『ラプソディ・イン・ブルー』というタイトルは「ジャズの語法によるラプソディ」といった程度の意味がある。ラプソディ(狂詩曲)には、「民族音楽風で叙事詩的な、特に形式がなく自由奔放なファンタジー風の楽曲」という意味があるので、このタイトルから、ガーシュウィンはジャズをアメリカにおけるある種の「民族音楽」と捉えていたことが窺える。実際この曲は、アメリカ的な芸術音楽の代表格とみなされている。
「この曲は青い」という言葉が題名の由来。元は『アメリカン・ラプソディ』という題名だったが、兄のアイラ・ガーシュウィンが現在の題名を提案して変更した。
アメリカ合衆国の著作権法では1978年以前の出版物の著作権は発表から95年と定められており、『ラプソディー・イン・ブルー』は2020年にパブリック・ドメインに入った[1]。
目次
1 作曲の経緯・初演
2 日本人による演奏
3 曲の構成
4 各稿とその編成[3]
4.1 1924年オリジナル・ジャズ・バンド稿
4.2 1924年2台ピアノ稿
4.3 1926年オーケストラ稿
4.4 1927年ピアノ・ソロ稿
4.5 1938年オーケストラ稿
4.6 1942年オーケストラ稿
5 使用例
5.1 日本における例
5.1.1 CM曲
6 脚注
7 外部リンク
作曲の経緯・初演
ポール・ホワイトマンの提案を受け、1924年、ニューヨークのエオリアンホールで開かれた「新しい音楽の試み」と題されたコンサートに向けて作曲し、そこで初演された(同年2月12日)。
この曲が作られることになった発端は、1924年1月3日、他の仕事で多忙だったガーシュウィンが兄のアイラとビリヤード場に息抜きに行った際、新聞で「ホワイトマンがガーシュウィンに曲を発注した」という記事を見つけたことだった。翌日、抗議のためガーシュウィンはホワイトマンに電話をかけるも、実はこの記事はホワイトマンがガーシュウィンを呼びつけるために作った偽記事だったらしく、「新聞記事になってしまったから作ってくれ」とホワイトマンに押し切られた。
カデンツァの部分は、仕事でボストンに向かう際に乗った列車の走行音から着想を得たとされる。
ガーシュウィンは、この曲を約2週間で一気に書き上げた。ただ、当時のガーシュウィンはまだオーケストレーションに精通しているとはいえなかった上に、作曲の期間が限定されているという事情も加わり、代わってファーディ・グローフェがオーケストレーションを行なった。グローフェは当時、ホワイトマン楽団のピアニストであるとともに専属の編曲者を務めていた。ガーシュウィンが2台のピアノを想定しながら作曲し、それを即座にグローフェがオーケストラ用に編曲していき、結局はガーシュウィン自身が弾くピアノと小編成のジャズバンド向けの版が完成された。その後もいくつかの版が作られたが、1926年にグローフェが再編曲したオーケストラ版と、ガーシュウィンの死後の1942年にフランク・キャンベル=ワトソンがグローフェ編曲版に加筆修正を加えた版がよく知られている。その後は主に1942年版が演奏されている。
ピアノ独奏が入るため、一種のピアノ協奏曲風な雰囲気もある。ヨーロッパのクラシック音楽とアメリカのジャズを融合させたシンフォニックジャズとして高く評価された。
初演が行なわれた「新しい音楽の試み(現代音楽の実験)」には、ヤッシャ・ハイフェッツ、フリッツ・クライスラー、セルゲイ・ラフマニノフ、レオポルド・ストコフスキー、ゴドフスキー、イーゴリ・ストラヴィンスキーらが立ち会ったという[2]。
日本人による演奏
日本においては、1955年9月11日に日比谷公会堂にて、近衛秀麿の指揮、アメリカ人ピアニストのセイモア・バーンスタインにより初演された。その後、小曽根真などジャズピアニストがニューヨーク・フィルハーモニックなどのオーケストラと、アジアを中心に各地で公演したことでさらに広く知られる。
曲の構成
最初はクラリネットの、低音からのグリッサンドで始まる。当初はグリッサンドでなく、17音の上昇音階で記されていたが、ホワイトマン・バンドのクラリネット奏者がふざけてグリッサンドで演奏したところ、ガーシュウィンが気に入り書き改められたと伝えられる。曲風はジャズの要素を多く含んでいる。
各稿とその編成[3]
1924年オリジナル・ジャズ・バンド稿
前述の通り、ガーシュウィンが2台のピアノ用に作曲したものを、グローフェがジャズ・バンド用にオーケストレーションしている。この版はグローフェがホワイトマン楽団での演奏専用に編曲したものであるため、木管楽器に頻繁な持ち替えが規定されるなど、特異なアレンジがなされている。そのため公式の出版はなされず、グローフェの手書きの楽譜のみが残されている。
この稿は1976年に、マイケル・ティルソン・トーマスがガーシュウィンの遺したピアノロール(後述)からオーケストラ・パートを削除しソロ・パート部分のみにしたものをソロに用い、コロンビア・ジャズ・バンドを指揮してレコーディングを行い、その後世界的に知られるようになった。
木管楽器(奏者3):サクソフォーン、クラリネット、オーボエ、ファゴットを持ち替え
金管楽器:ホルン2、トランペット2、トロンボーン2、チューバ1
打楽器・その他:チェレスタ、ピアノ(独奏とは別)、独奏ピアノ
弦楽器:ヴァイオリン(奏者8)、バンジョー
[疑問点 – ノート]
1924年2台ピアノ稿
オリジナル・ジャズ・バンド稿の初演の成功の後、ガーシュウィン自身が2台のピアノのために完成させた稿。なお、ガーシュウィンはピアノロールを用いてソロパートとオーケストラパートを2重記録(1台のピアノを連弾)したものを遺している。
1926年オーケストラ稿
この曲の成功を受けて、グローフェがオーケストラ用に再編曲した稿。
木管楽器:フルート2、オーボエ2、クラリネット2、バスクラリネット1、ファゴット2、サクソフォーン3(アルト2、テナー1)
金管楽器:ホルン3、トランペット3、トロンボーン3、チューバ1
打楽器・その他:ティンパニ、ベル、銅鑼、スネアドラム、シンバル、トライアングル、独奏ピアノ
弦楽器:第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、バンジョー、ギター
1927年ピアノ・ソロ稿
1924年の2台ピアノ版に続き、ガーシュウィン自身が完成させた稿。
1937年7月にガーシュウィンは死去しているため、この稿が作曲者の関与した最後のものである。
1938年オーケストラ稿
グローフェの再々編曲。ピアノ・ソロ部分までもオーケストレーションし、ピアノがなくても演奏可能としたところに特徴がある。
なお、グローフェは同様にピアノなしで演奏可能にした吹奏楽のための編曲も残している(1937年)。
1942年オーケストラ稿
1926年のグローフェ稿を基本としつつ、フランク・キャンベル=ワトソン(ガーシュウィン作品の出版社の編集者)が改訂した稿。現在、オーケストラでの演奏にあたってはこの稿が使用されることが多い。
木管楽器:フルート2、オーボエ2、クラリネット2、バスクラリネット1、ファゴット2、サクソフォーン3(アルト2、テナー1)
金管楽器:ホルン3、トランペット3、トロンボーン3、チューバ1
打楽器・その他:ティンパニ、ベル、銅鑼、小太鼓、シンバル、トライアングル、独奏ピアノ
弦楽器:第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、バンジョー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%97%E3%82%BD%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BC
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/752.html
武満 徹(たけみつ とおる、1930 - 1996)
日本人作曲家の中ではダントツに有名。現代音楽だが、聴きやすいため普通のクラシックファンでも良さはすぐに分かると思う。海外の現代音楽よりも日本人の感性によく合っていて、音からイメージされるものが明確というのもあり、すぐに入り込めると思う。
管弦楽曲
弦楽のためのレクイエム 1957 弦楽
黒い絵画 レオノーレ・フィニによせて 1958 Orch
樹の曲 1961 Orch
環礁 1962 S,Orch
弦楽器のためのコロナII 1962 弦楽
地平線のドーリア 1964 Orch
グリーン 1967 Orch
冬 1971 Orch
マージナリア 1976 Orch
鳥は星形の庭に降りる 1977 Orch
ア・ウェイ・ア・ローンII 1981 弦楽
夢の時 1981 Orch
雨ぞふる 1982 Orch
星・島(スター・アイル) 1982 Orch
夢窓 1985 Orch
トゥイル・バイ・トワイライト ―モートン・フェルドマンの追憶に― 1988 Orch
トゥリー・ライン 1988 Orch
ヴィジョンズ(I神秘 II閉じた眼) 1990 Orch
マイ・ウェイ・オブ・ライフ ―マイケル・ヴァイナーの追憶に― 1990 Br,cho,Orch
ハウ・スロー・ザ・ウィンド 1991 Orch
系図 ―若い人たちのための音楽詩― 1992 ナレーター,Orch
群島S. 1993 Orch
精霊の庭 1994 Orch
協奏的作品
シーン 1959 vc,弦楽
弧(アーク) 1963-76 pf,Orch
テクスチュアズ 1964 pf,Orch
ノヴェンバー・ステップス 1967 琵琶,尺八,Orch
アステリズム 1968 pf,Orch
クロッシング 1969 cho,gt,hp,vib,pf,Orch
ユーカリプスI 1970 fl,ob,hp,弦楽
カシオペア 1971 perc,Orch
ジェモー 1971-86 ob,tbe,Orch
秋 1973 琵琶,尺八,Orch
ジティマルヤ 1974 mar,Orch
カトレーン 1975 cl,vn,vc,pf,Orch
遠い呼び声の彼方へ! 1980 vn,Orch
海へII 1981 fl,hp,弦楽
夢の縁へ 1983 gt,Orch
虹へ向かって、パルマ 1984 ob-d'amore,gt,Orch
オリオンとプレアデス(犂と昴) 1984 vc,Orch
リヴァラン 1984 pf,Orch
ウォーター・ドリーミング 1987 fl,Orch
ノスタルジア ―アンドレイ・タルコフスキーの追憶に― 1987 vn,弦楽
ア・ストリング・アラウンド・オータム 1989 va,Orch
フロム・ミー・フローズ・ホワット・ユー・コール・タイム 1990 perc,Orch
ファンタズマ/カントス 1991 cl,Orch
夢の引用 ―Say sea,take me!― 1991 2pf,Orch
セレモニアル ―An Autumn Ode― 1992 笙,Orch
ファンタズマ/カントスII 1994 tbe,Orch
スペクトラル・カンティクル 1995 vn,gt,Orch
邦楽曲
蝕(エクリプス) 琵琶,尺八 1966
室内楽曲
弦楽四重奏のための作品
ランドスケープ 1960 SQ
ア・ウェイ・ア・ローン 1980 SQ
その他
オリオン(犂) 1984 vc,pf
そして、それが風であることを知った 1992 fl,hp,va
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC
武満 徹(たけみつ とおる、1930年〈昭和5年〉10月8日 - 1996年〈平成8年〉2月20日)は、日本の作曲家、音楽プロデューサー。
ほとんど独学で音楽を学んだが、若手芸術家集団「実験工房」に所属し、映画やテレビなどで幅広く前衛的な音楽活動を展開。和楽器を取り入れた「ノヴェンバー・ステップス」によって、日本を代表する現代音楽家となった。
人物・来歴
デビューまで
1930年10月8日に東京市本郷区駒込曙町(現:文京区本駒込一丁目)で生まれる。父は鹿児島県川内市(現:薩摩川内市)隈之城町出身で帝国海上保険勤務、祖父の武満義雄は政友会の鹿児島県幹事長を務め、第7回衆議院議員総選挙から第12回衆議院議員総選挙まで衆議院議員を連続6期15年務めた[1]。
生後1ヶ月で、父の勤務先である満洲の大連に渡る。1937年、小学校入学のために単身帰国し、東京市本郷区の富士前尋常小学校に入学[2]、7年間にわたって叔父の家に寄留する。叔母は生田流箏曲の師匠であり、初期の習作的な作品「二つの小品」(1949年、未完)には箏の奏法の影響が見られる[3][4]。この頃に従兄弟からレコードで聴かされたベートーヴェンやメンデルスゾーンなどのクラシック音楽には興味を示さなかったが[5]、その一方で1948年に行われた「新作曲派協会」第2回作品発表会に足を運び、後に作曲を師事する清瀬保二の「ヴァイオリンソナタ第1番」のような、当時としては新しい音楽に感動していたとされる[6]。
1943年、旧制の私立京華中学校に入学。額から頭にかけての格好が飛行船に似ていたため、当時の渾名は「ツェッペリン」であった[7]。軍事教練では教官の手塚金之助少尉からしごきを受け、野外演習で入浴中に「あの金坊の野郎、ただじゃおかねえからな」と叫んだところ、真ん前に手塚がいたため「この野郎」と殴られたこともある[7]。在学中の1945年に埼玉県の陸軍食糧基地に勤労動員される。軍の宿舎において、同室の下士官が隠れて聞いていた[8]リュシエンヌ・ボワイエが歌うシャンソン「聴かせてよ、愛のことばを」(Parlez-moi d'amour)[9]を耳にして衝撃を受ける。現代音楽の研究者である楢崎洋子は、後年の「鳥は星型の庭に降りる」、「遠い呼び声の彼方へ!」など、いくつかの作品モチーフに、このシャンソンの旋律線との類似点があることを指摘している[10]。戦争中は予科練を受験[7]。戦争末期には「日本は敗けるそうだ」と語った級友を殴り飛ばした軍国少年であった[11]。
終戦後に進駐軍のラジオ放送を通して、フランクやドビュッシーなど、近代フランスの作曲家の作品に親しむ一方で、横浜のアメリカ軍キャンプで働きジャズに接した。やがて音楽家になる決意を固め、清瀬保二に作曲を師事するが、ほとんど独学であった。京華中学校卒業後、1949年に東京音楽学校(この年の5月から東京芸術大学)作曲科を受験。科目演奏には最も簡単なショパンの「プレリュード」を選び、妹の下駄を突っかけて試験会場に出向いたが、控室で網走から来た熊田という天才少年(後に自殺)と意気投合し、「作曲をするのに学校だの教育だの無関係だろう」との結論に達し[12]、2日目の試験を欠席し、上野の松坂シネマで『二重生活』を観て過ごした[13]。この時期の作品としては清瀬保二に献呈された「ロマンス」(1949年、作曲者死後の1998年に初演)のほか、遺品から発見された「二つのメロディ」(1948年、第1曲のみ完成)などのピアノ曲が存在する[14]。
デビュー以前はピアノを買う金がなく、本郷から日暮里にかけて街を歩いていてピアノの音が聞こえると、そこへ出向いてピアノを弾かせてもらっていたという[15]。武満は「1軒もことわられなかったから、よほど運がよかったのだ」と言っているが、ときどき同行した友人の福島和夫によると、最初は確かに貸してくれたが、何度も続くと必ず「もう来ないで下さい」と断られたという[15]。のち、芥川也寸志を介してそれを知った黛敏郎は、武満と面識はなかったにもかかわらず、妻のピアノをプレゼントした[15]。
デビュー、前衛作曲家への道
1950年に、作曲の師である清瀬保二らが開催した「新作曲派協会」第7回作品発表会において、ピアノ曲「2つのレント」を発表して作曲家デビューするが、当時の音楽評論家の山根銀二に「音楽以前である」と新聞紙上で酷評された[16]。傷ついた武満は映画館の暗闇の中で泣いていたという[17]。この頃、詩人の瀧口修造と知り合い、「2つのレント」の次作となるヴァイオリンとピアノのための作品「妖精の距離」(1951年)のタイトルを彼の同名の詩からとった。同年、瀧口の下に多方面の芸術家が参集して結成された芸術集団「実験工房」の結成メンバーとして、作曲家の湯浅譲二らとともに参加、バレエ「生きる悦び」で音楽(鈴木博義と共作)と指揮を担当したほか、ピアノ曲「遮られない休息I」(1952年)などの作品を発表した。この最初期の作風はメシアンとベルクに強い影響を受けている。「実験工房」内での同人活動として、上述の湯浅譲二や鈴木博義、佐藤慶次郎、福島和夫、ピアニストの園田高弘らと共に、メシアンの研究と電子音楽(広義の意。主にテープ音楽)を手がけた。また武満はテープ音楽(ミュジーク・コンクレート)として、「ヴォーカリズムA.I」(1956年)、「木・空・鳥」(同年)などを製作し、これらを通して音楽を楽音のみならず具体音からなる要素として捉える意識を身につけていった。
「実験工房」に参加した頃より、映画、舞台、ラジオ、テレビなど幅広いジャンルにおいて創作活動を開始。映画『北斎』の音楽(1952年、映画自体が制作中止となる)、日活映画『狂った果実』の音楽(1956年、佐藤勝との共作)、橘バレエ団のためのバレエ音楽『銀河鉄道の旅』(1953年)、劇団文学座のための劇音楽『夏と煙』(1954年)、劇団四季のための『野性の女』(1955年)、森永チョコレートのコマーシャル(1954年)などを手がけた。これらの作品のいくつかには、ミュジーク・コンクレートの手法が生かされているほか、実験的な楽器の組み合わせが試みられている。また作風においても、前衛的な手法から、ポップなもの、後に『うた』としてシリーズ化される「さようなら」(1954年)、「うたうだけ」(1958年)のような分かりやすいものまで幅が広がっている。また、1953年には北海道美幌町に疎開していた音楽評論家の藁科雅美[18]が病状悪化の早坂文雄を介して委嘱した「美幌町町歌」を作曲している。
この間、私生活においては「2つのレント」を発表した際にチケットをプレゼントした若山浅香(劇団四季女優)と1954年に結婚した。病に苦しんでいた武満夫妻に團伊玖磨は鎌倉市の自宅を提供して横須賀市に移住した。
1957年、早坂文雄(1955年没)に献呈された[19]「弦楽のためのレクイエム」を発表。日本の作曲家はこの作品を黙殺したが、この作品のテープを、1959年に来日していたストラヴィンスキーが偶然NHKで聴き、絶賛し、後の世界的評価の契機となる[20]。
1958年に行われた「20世紀音楽研究所」(吉田秀和所長、柴田南雄、入野義朗、諸井誠らのグループ)の作曲コンクールにおいて8つの弦楽器のための「ソン・カリグラフィI」(1958年)が入賞したことがきっかけとなり、1959年に同研究所に参加。2本のフルートのための「マスク」(1959年)、オーケストラのための「リング」(1961年)などを発表する。大阪御堂会館で行われた「リング」の初演で指揮を務めた小澤征爾とは、以後生涯にわたって親しく付き合うことになる[21]。この時期の作品では、ほかに日本フィルハーモニー交響楽団からの委嘱作品「樹の曲」(1961年、「日フィルシリーズ」第6回委嘱作品)、NHK交響楽団からの委嘱作品「テクスチュアズ」(1964年、東京オリンピック芸術展示公演)などがある。この「テクスチュアズ」で日本人作曲家として初めてユネスコ国際作曲家会議でグランプリを受賞。武満の名声は一気に跳ね上がった。
世界のタケミツ
1960年代には小林正樹監督の『切腹』(1962年、第17回毎日映画コンクール音楽賞受賞)、羽仁進監督の『不良少年』(1961年、第16回毎日映画コンクール音楽賞受賞)、勅使河原宏監督の『砂の女』(1964年、第19回毎日映画コンクール音楽賞受賞)、『他人の顔』(1966年、第21回毎日映画コンクール音楽賞受賞)などの映画音楽を手がけ、いずれも高い評価を得ている。武満自身は、若い頃から映画を深く愛し、年間に数百本の映画を新たに見ることもあった。スペインの映画監督ヴィクトル・エリセの映画『エル・スール』を父親の視点から絶賛しているほか、ロシア(ソ連)の映画監督アンドレイ・タルコフスキーに深く傾倒し、タルコフスキーが1987年に他界すると、その死を悼んで弦楽合奏曲「ノスタルジア」を作曲している。
1962年にNHK教育テレビ『日本の文様』のために作曲した音楽は、ミュジーク・コンクレートの手法で変調された筑前琵琶と箏の音を使用しており、武満にとっては伝統的な邦楽器を使用した初の作品となった。その後、前述の映画『切腹』では筑前琵琶と薩摩琵琶が西洋の弦楽器とともに使用され、1964年の映画『暗殺』(監督:篠田正浩)、『怪談』(監督:小林正樹)では琵琶と尺八が、1965年の映画『四谷怪談』(監督:豊田四郎)では竜笛、同年のテレビドラマ『源氏物語』(毎日放送)では十七絃箏とともに鉦鼓、鞨鼓など、雅楽の楽器も使用された[22]。1966年のNHK大河ドラマ『源義経』の音楽においては邦楽器はオーケストラと組み合わされている。これらの映画や映像のための音楽での試行実験を踏まえ、純音楽においても邦楽器による作品を手がけるようになった。その最初の作品である「エクリプス」(1966年)は琵琶と尺八という、伝統的な邦楽ではありえない楽器の組み合わせによる二重奏曲である。この「エクリプス」はアメリカで活動中の小澤征爾を通じてニューヨーク・フィル音楽監督レナード・バーンスタインに伝えられ、このことから、同団の125周年記念の作品が委嘱されることとなった。こうしてできあがった曲が、琵琶と尺八とオーケストラによる「ノヴェンバー・ステップス」(1967年)である。この作品を契機として武満作品はアメリカ、カナダを中心に海外で多く取り上げられるようになった[23]。
1970年には、日本万国博覧会で鉄鋼館の音楽監督を務め、このための作品として「クロッシング」、「四季」(初の打楽器アンサンブルのための作品)、テープ音楽「Years of Ear」を作曲、翌1971年には札幌オリンピックのためにIOCからの委嘱によってオーケストラ曲「冬」を作曲した。1973年からは「今日の音楽」のプロデュースを手がけ、世界の演奏家を招いて新しい音楽を積極的に紹介した。1975年にエフエム東京の委嘱によって作曲された「カトレーン」は同年に文化庁芸術祭大賞、翌年に第24回尾高賞を受賞するなど、日本で高い評価を得た[24]。また「ノヴェンバー・ステップス」以後は、世界からの注目も高まり、1968年と69年には「キャンベラ・スプリング・フェスティバル」のテーマ作曲家、1975年にはイェール大学客員教授、1976年と77年にトロントで開催された「ニューミュージック・コンサーツ」ではゲスト作曲家として招かれた。
1980年代以降から死まで
1980年に作曲されたヴァイオリンとオーケストラのための「遠い呼び声の彼方へ!」は、前衛的な音響が影を潜め、和声的な響きと「歌」を志向する晩年の作風への転換を印象続ける作品となった[25]。この時期にショット社へ移籍し、作品の演奏の機会は以前よりも急激に増えることになる。以前、自身の作曲が日本で正当に評価されていなかったことを嘆き、「今日の音楽・作曲賞」では武満たった一人が審査を務め、武満自身の手で国際作曲賞を授与することに決めた。この作曲賞から多くの日本の若手や世界各国の若手が巣立った。
1980年代はすでに前衛は流行らなくなっており、武満も今日の音楽では積極的に海外の潮流を紹介したが、武満本人の興味はそれとはもう関わりが薄くなっていた。作品はますます調性的になり、オーケストラとの相性が良いのでひっきりなしにオーケストラ曲の委嘱に応えていた。全編が調性音楽である「系図」には、かつての不協和音は完全に影を潜めた。この時期になると世界各国からの反応も、良いものばかりではなくなり始めた。ショット社はドイツにあるにもかかわらず、ドイツの新聞で「シェーンベルク以前の音楽」「バスタブの中の河」(リヴァーランのドイツ初演評)などと酷評を受けるようになる。
晩年、それまで手をつけていなかったオペラに取り組もうと意欲を見せるが、作品は完成の日の目を見ることはなかった。タイトルは「マドルガーダ」(邦題は「夜明け前」)となる予定であった。台本はすでに完成されており、2005年、野平一郎によって作曲された[26]。1995年、膀胱、および首のリンパ腺にがんが発見され、また、間質性肺炎を患っていた武満は数ヶ月に渡る長期の入院生活を送ることになる[27]。小康を得ての一時退院中、完成された最後の作品となる「森のなかで」、「エア」を作曲。死後、冒頭6小節分オーケストラスコアとして書き始められた、フルート、ハープ、オーケストラのための「ミロの彫刻のように」の未完の譜面が仕事場で見つかる(第一曲〈la lune(月)〉第二曲〈le soleil(太陽)〉と二部編成にする予定であった)。1996年2月20日、虎の門病院にて死去した。65歳没[28][29]。墓所は、東京都文京区小日向にある曹洞宗日輪寺の境内墓地。
葬儀の際には、黛敏郎が『MI・YO・TA』のメロディを何度も繰り返し歌った。この曲は、武満がかつて黛の下で映画音楽のアシスタントをしていたとき書いたものであった。しかし、映画音楽に使われることはなく、メロディは黛の記憶にしまわれていた。その後、谷川俊太郎が詞をつけ、出来上がったのが『MI・YO・TA』である[30]。
政治的姿勢
政治にも関心が深く、1960年代の安保闘争の折には「若い日本の会」や草月会館で開かれた「民主主義を守る音楽家の集い」などに加わり、武満自身もデモ活動に参加していた(ただし体調が悪くなっていたのですぐ帰っていたらしい[31])。1970年代には、スト権ストを支持したことがある。また、湾岸戦争(1991年)の際には、報道番組における音楽の使われ方に対して警鐘を鳴らし、報道番組は、音楽を使うべきではないと論じた。一方で、音楽による政治参画については否定的であったとされ、1970年代には自身も参加した音楽グループ「トランソニック」の季刊誌『トランソニック』で見解を示した[32]。
実用音楽
武満は多くの映画音楽を手がけているが、それらの仕事の中で普段は使い慣れない楽器や音響技術などを実験・試行する場としている。武満自身、無類の映画好きであることもよく知られ、映画に限らず演劇、テレビ番組の音楽も手がけた。
琵琶と尺八の組み合わせで彼は純音楽として代表作『ノヴェンバー・ステップス』をはじめ『エクリプス(蝕)』、『秋』、三面の琵琶のための『旅』などを書いているが、最初に琵琶を用いた作品は映画『切腹』およびテレビ(NHK大河ドラマ)『源義経』であり、尺八は映画『暗殺』でプリペアド・ピアノやテープの変調技術とともに用いた。さらに映画『怪談』(監督:小林正樹)では、琵琶、尺八のほかに胡弓(日本のもの)、三味線、プリペアド・ピアノも、それぞれテープ変調とともに用いている。この『怪談』の音楽は、ヤニス・クセナキスがテープ音楽として絶賛した。これらの作品の録音において、琵琶の鶴田錦史、尺八の横山勝也との共同作業を繰り返した経験が、後の『ノヴェンバー・ステップス』その他に繋がった。
2台のハープを微分音で調律してそのずれを活かすという書法は、純音楽としては『ブライス』などに見られ、またハープ独奏としては『スタンザII』が挙げられるが、このための実験としては、映画『沈黙』『美しさと哀しみと』『はなれ瞽女おりん』(すべて監督:篠田正浩)などが挙げられる。『はなれ瞽女おりん』は後に演奏会用組曲『2つのシネ・パストラル』としてもまとめている。
他にテレビの音楽としてはNHKの歴史ドキュメンタリー番組「未来への遺産」においてオンド・マルトノを用いていることも特筆される。純音楽ではこの楽器は用いなかった。
黒澤明とは、『どですかでん』で初めてその音楽を担当して以来の関係であったが、1985年の映画『乱』で黒澤と対立し「これ以後あなたの作品に関わるつもりはない」と言った。武満は黒澤にマーラー風の音楽を求められたことに不満を述べている[33]。
短編ドキュメンタリー映画『ホゼー・トレス』でのジャズの語法をはじめ、1960-70年代当時の日本の歌謡曲の語法など、武満自らが趣味として多く接した娯楽音楽の分野へのアプローチを試みたのも、これら映画音楽やテレビの音楽である。
その他の娯楽音楽として、晩年、それまでに作曲した合唱曲、映画音楽の主題や挿入歌などをポピュラー音楽として再編し石川セリが歌ったポピュラーソングのCDアルバムを発表した。これについては武満の死後、武満の葬儀の席上で黛敏郎が思い出として披露した、未発表の短い映画音楽用の旋律[34]を基に、もう一枚のリメイク・ヴァージョンのアルバムが出ている。森山良子、小室等、沢知恵らもこれらの歌をレパートリーとしている。
影響
晩年監修を務め、武満の死後完成した東京オペラシティのコンサートホールはタケミツ・メモリアルの名が冠せられた。東京オペラシティのオープニングコンサートの中で、作曲家でピアニストの高橋悠治は武満のために「閉じた眼II」を弾いた[35]。また、「武満徹作曲賞」の演奏会も毎度、このホールにて行われている。
武満の劇音楽の仕事は多忙を極めたこともあり、アシスタントを雇っていたことが知られているが、これは同時にまだデビュー間もない新人の発掘・育成にも繋がっていった。アシスタント経験者には池辺晋一郎や八村義夫、川井学、毛利蔵人、菅野由弘がいる。高橋悠治もデビュー初期に武満の仕事を手伝っており、『おとし穴』(監督:勅使河原宏)などでは演奏にも参加している。また、クラシック出身者以外にもマジカル・パワー・マコや鈴木昭男といった独自の楽器音響を追求する後輩たちとも交流を持ち、劇音楽の仕事を通してコラボレーションを行っている。
武満の著書には彼自身の自筆譜が多く掲載されていることで知られていたが、そのほとんどはフルスコアではなく、コンデンススコアである。コンデンススコアでまず作曲し、思いついた奏法や楽器名をその上に記し、アシスタントがフルスコアに直すことで多くのオーケストラ曲は完成されていた。多忙ではなくなった時期からは、自らフルスコアを書いている。
保守的なことで知られるウィーン・フィルによってもその作品は演奏され、その死は、多くの演奏家から惜しまれた。ショット社の公表では、没後武満の作品の演奏回数は1年で1000回を越えた。(出典:日本の作曲20世紀)映画音楽で有名なジョン・ウィリアムズも、武満を高く評価しており、『ジュラシック・パーク』では尺八を取り入れた。
著作(文章)
武満自身、音楽作品以外に文章でも多数の著書を発表、また新聞や雑誌でも音楽評論を盛んに執筆した。
著作集
『武満徹著作集』(全5巻)新潮社、2000年
編纂委員は友人の谷川俊太郎と船山隆。
さまざまな媒体に発表した文章の大半を、『音、沈黙と測りあえるほどに』などの単著を軸に収録されている。しかし厳密には、武満徹の残した文章のすべてではない。
単著(日本語)
『武満徹←1930……∞』私家版、1964年
『音、沈黙と測りあえるほどに』新潮社、1971年(著作集第1巻)
『骨月−あるいは a honey moon』私家版、限定200部、1973年12月(『草月 ikebana sogetsu』83号、1972年8月に発表。『遠い呼び声の彼方へ』に所収)、小説
『樹の鏡、草原の鏡』新潮社、1975年(著作集第1巻)
『音楽の余白から』新潮社、1980年(著作集第2巻)
『夢の引用 映画随想』岩波書店、1984年(著作集第5巻)
『音楽を呼びさますもの』新潮社、1985年(著作集第2巻)
『夢と数』リブロポート、1987年(著作集第5巻)、自らの音楽語法について直接述べた著作
『遠い呼び声の彼方へ』新潮社、1992年(著作集第3巻)
『時間の園丁』新潮社、1996年(著作集第3巻)、1996年に点字資料版が日本点字図書館で刊行
単著(再編本、英語版)
『サイレント・ガーデン』新潮社、1999年(闘病日記、病床で描いた絵入り料理レシピ)
『私たちの耳は聞こえているか』「人生のエッセイ9」日本図書センター、2000年(既刊書に収録された回想エッセイを再編した著作)
『武満徹|Visions in Time』エスクァイアマガジン・ジャパン、2006年
『武満徹エッセイ選 言葉の海へ』小沼純一編、ちくま学芸文庫、2008年
Confronting Silence: Selected Writings. trans. and ed. by Yoshiko Kakudo and Glenn Glasow. Berkeley, Calif: Fallen Leaf Press, 1995.
『映像から音を削る 武満徹映画エッセイ集』清流出版、2011年
共著
『ひとつの音に世界を聴く――武満徹対談集』晶文社、1975年、新装版1996年
『武満徹対談集――創造の周辺』芸術現代社(上・下)、1976年→新版(芸術現代選書・全1巻)、1997年
『音・ことば・人間』川田順造との往復書簡、岩波書店、1980年→岩波同時代ライブラリー(改訂版)、1992年→(著作集第4巻)
『音楽』小澤征爾との対話、新潮社、1981年→新潮文庫、1984年
『音楽の庭――武満徹対談集』新潮社、1981年
『シネマの快楽』蓮實重彦との対話、リブロポート、1986年→河出文庫、2001年
『すべての因襲から逃れるために――武満徹対談集』音楽之友社、1987年
『オペラをつくる』大江健三郎との対話、岩波新書、1990年→(著作集第4巻)
『歌の翼、言葉の杖――武満徹対談集』TBSブリタニカ、1993年→(著作集第5巻)
『シネ・ミュージック講座/映画音楽の100年を聴く』秋山邦晴と、フィルムアート社、1998年
『武満徹対談選 仕事の夢・夢の仕事』小沼純一編、ちくま学芸文庫、2008年
『武満徹 自らを語る』聞き手安芸光男、青土社、2010年
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E6%BA%80%E5%BE%B9
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/753.html
1. 中川隆[-16155] koaQ7Jey 2021年10月03日 16:26:56 : La1MHT2NOM : S3Z1enY4dHRtUXc=[8]
最美の音楽は何か? _ 武満 徹『弦楽のためのレクイエム 』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/215.html
武満徹と映画、音と音楽
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/717.html
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/753.html#c1
矢代 秋雄(やしろ あきお、1929 - 1976)
寡作の天才であり、日本を代表する作品を多く作った作曲家とされている。確かに切れ味が鋭く、精神性が高く、時間をかけて磨き上げられた感じがする。そして、日本人にありがちな、音楽的なある種の平板さや予想の範囲内という感じがこの人にはあまりない。自分は以前は寡作の作曲家の悪い面を持っていると思っていたが、今は日本を代表する素晴らしい作曲家と考えている。
弦楽四重奏曲(1955年)
交響曲(1958年)
3.3点
4楽章作品であるだけでなく、主張の感じられる音の使い方であることが、交響曲らしさをみせている。しかしながら、基本的に音が薄く、楽器を分厚く重ねていなくてオーケストラの能力をフル活用していない点ではあまり一般的な交響曲のイメージと合わない。場面は刻々と移っていき、その推移を愉しめるが、構築的とかストーリー展開の印象ではない。3楽章の和風な打楽器の使い方の醸し出す虚無感とか空白の利用による日本的な美の表現にはしびれた。安易に勢いに頼らないで、調性音楽でありながら武満徹のような音空間を構築し、音感センスで表現する彼ならではの作品。だが、交響曲としては少しパワーが無さすぎで期待値に届いておらず、物足りない。一応最終楽章ではショスタコーヴィチのようなテンションを見せるけれども。
チェロ協奏曲(1960年)
ピアノ・ソナタ(1961年)
ピアノ協奏曲(1967年)
3.5点
日本人の作曲した曲においていつも気になる、ある種の平板さがこの曲にはない。ピアノパートは超絶技巧が要求されているとともに非常に音感が優れており、あるべき場所に音がある納得感がある。アイデア豊富で、立体的である。音の厚みではなく、センスで音の世界を作っている。通俗的ではないし、音の主義主張がはっきりしているわけではないが、聞きやすさはある。これは世界にも通用するレベルの協奏曲だと思う。
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC
矢代 秋雄(やしろ あきお、1929年9月10日 - 1976年4月9日)は、日本の作曲家。
若い頃より英才として将来を期待され、東京音楽学校作曲科、東京藝術大学研究科を卒業した後、パリ国立高等音楽院に留学。和声法で一等賞を得る等、優秀な成績を修めて卒業。晩年は、作曲家として活動する一方、東京藝術大学音楽学部作曲科の主任教授として、後進の指導にあたった。門下より、野田暉行、池辺晋一郎、西村朗、荻久保和明、糀場富美子など現在の日本を代表する作曲家を輩出している。
生涯
少年時代
矢代秋雄は、1929年9月10日、東京の大森で西洋美術、美術史を専門とする評論家、矢代幸雄の長男として生まれた。母文は田中規矩士にピアノを学んだことがある。また、母方の祖父は横浜第一中学校(現:神奈川県立希望ヶ丘高等学校)の校長を務めた教師であり、西洋音楽への理解があった。家には母の嫁入道具であるヤマハ製のピアノがあり、父のたくさんのクラシックのレコードがあった。
秋雄は、7歳で原尋常小学校に入学したが、それ以前より、自発的にピアノの演奏や作曲を始めていたという。好んで聴いたレコードは、ベートーヴェンをはじめとして、ショパン、ブラームス、少し年齢が進んでワーグナー、チャイコフスキーだった。誰に強要されるのでもなく、非常に早い時期より作曲家を志していた、と後年の著書で述べている。10歳頃には、独学ながら管弦楽や室内楽の作品を書き始めていた。
父の幸雄は、作曲や指揮などの音楽の専門家に紹介した。作曲家の諸井三郎、ドイツ人指揮者のフェルマーなど。フェルマーからは指揮の勉強を勧められたが、結局、秋雄は、諸井に就いて14歳までの約3年間、ドイツ式の和声法と楽式について学ぶこととなる。諸井は、その作品の他に「機能和声法」の名著があり、ドイツ音楽の理論家としても名高い。 13歳で暁星中学校に入学。フランス語の授業があり、後年の留学への端緒の一つとなった。この頃、父の幸雄は、秋雄の将来について諸井に相談をしている。幸雄は、秋雄がもしこのまま音楽を続けさせるのならば、やはり東京音楽学校へ入学させるしかないと考えていたのである。それを受けて諸井は、当時上野の東京音楽学校で教鞭を執っていた橋本國彦を紹介。翌年の14歳より、秋雄は橋本に作曲理論を師事することとなった。
ドイツの音楽語法を教えた諸井に対して、橋本はドビュッシーやラヴェルに代表されるフランスを軸とした、ワーグナー以後のより近代的な音楽に目を向けさせた。この頃に創作した楽曲は、ドビュッシーを模倣する作品ばかりだったという。
東京音楽学校時代
太平洋戦争末期の1945年4月、秋雄は16歳で東京音楽学校作曲科に入学した。同学年には日本の前衛音楽の旗手、黛敏郎がいた。しかし激しい戦禍の中、授業はほとんど行われなかった。半年後、日本は敗戦を迎えた。戦時中に国威発揚の音楽に携わった橋本は戦争責任を問われ、細川碧などと共に東京音楽学校の教壇から追われてしまう。秋雄は後任の池内友次郎、伊福部昭に就いて、新たに作曲理論の勉強を開始することとなる。
池内はパリ高等音楽院でポール・フォーシェ、アンリ・ビュッセルに学び、当時の日本ではフランス流の作曲技法の第一人者であった。音楽の範として伊福部に強く共鳴する黛に対して、矢代は池内からその多くを吸収した。特に池内は「音楽を整然と美しく仕上げる」ことを矢代に教え込んだ。これは、諸井から学んだ書式とともに、矢代の作風を決定付ける要素の一つである。この時期の作品の多くは矢代自身によって後に破棄されているが、以下のものは残っている。
ピアノのためのソナチネ - 藤井澄子に献呈。1945年3月10日(第1稿作曲)、5月12日(第2稿作曲)(15歳)。
24のプレリュード - 1945年5月(15歳)作曲。
ピアノのためのノクチュルヌ - 井上二葉に献呈。1947年(18歳)作曲。
ピアノ協奏曲 - 園田高弘に献呈。
ピアノ三重奏曲 - 1949年(20歳)作曲。卒業作品。橋本國彦に献呈。
ピアノ協奏曲は、現在しばしば演奏されるものとは異なる。この作品は、1948年に金子登指揮、東京音楽学校管弦楽部により初演された。卒業作品の「ピアノ三重奏曲」では、1949年2月の演奏会では自身でピアノ・パートを担当した。そしてこの作品はかつての師、橋本國彦に献呈された。在学中、矢代は黛とともに、極めて優秀な成績で「我が校始まって以来の俊秀」として将来を嘱望された。2人でお互いに作品を批評し合い、また芸術論を戦わせたという。
1949年3月、矢代は東京音楽学校本科を卒業、4月には東京音楽学校研究科へ進学した。研究科に在学時の作品は以下のものがある。
ヴァイオリンとピアノのためのセレナーデ - 1949年(20歳)作曲。
ピアノ四手のための古典組曲 - 1949年(20歳)作曲。ヴェルレーヌの「エピグラフ」に依るという。
交響的小品 - 1950年(21歳)作曲。
「交響的小品」は、東京藝術大学管弦楽団により初演された。1951年3月、矢代は東京藝術大学研究科を卒業した。
フランス留学時代および帰国後
1951年8月、22歳で矢代は、第2回フランス政府給費留学生として、黛らと共にパリ国立高等音楽院に入学した。和声法をジャック・ドゥ・ラ・プレール、アンリ・シャランに、対位法とフーガをノエル・ギャロンに、作曲と管弦楽法をトニー・オーバンに、ピアノ伴奏法をナディア・ブーランジェにそれぞれ師事した。オリヴィエ・メシアンの作曲と管弦楽法の授業も時折聴講したという。当時の音楽院では、ドイツの古典の他にサン=サーンス、フランクなどの作品が範とされた。矢代は「フランクこそは自分の出発点」と後年の著書で述べているように、ちょうど彼の創作志向に合った学風だったといえる。対して、黛は「もう学ぶものはない」として1年で帰国している。また、この時期には同じくパリ音楽院に留学してきた三善晃と親交を深めている。卒業作品として「弦楽四重奏曲」を作曲(妹の訃報に接し、それを念頭に創作された)。1956年(27歳)8月に帰国。
帰国から約4か月後の12月14日、フランスで書かれた「弦楽四重奏曲」日本初演。また、この作品で毎日音楽賞の一等賞を受賞。1958年、日本フィルハーモニー交響楽団の委嘱により「交響曲」を作曲。1960年(30歳)、NHK交響楽団の委嘱により「チェロ協奏曲」を作曲。1965年(35歳)、「対位法」を出版。1968年(38歳)「ピアノ協奏曲」が第16回尾高賞・文部省芸術祭奨励賞を受賞。同年、東京藝術大学助教授に就任。1974年、東京藝術大学教授となる。そのほかにも、いくつかの高校の校歌も作曲しており、最後の校歌としては、三重県立名張桔梗丘高等学校の校歌を作っている。
ヴァイオリン協奏曲を作曲中の1976年、心不全により急逝。墓所は、神奈川県横浜市東神奈川にある浄土宗成仏寺の墓地にある。
死後
若くして亡くなったため、現存している(または出版されている)作品は少ない。現在知られているピアノ協奏曲とは別の、園田高弘のためのピアノ協奏曲も生前には出版されなかった。
あまりにも早すぎた死により、没後すぐに個人全集が企画・出版されるなど、異例の待遇で評価された。
團伊玖磨はその著書「重ねて・パイプのけむり」(朝日新聞社・昭和55年(1980年)1月30日第1刷発行)の「雲の行列」(同書58〜63ページ)で、矢代秋雄との出会い(矢代が小学生、團が中学生の時)や、その後の交流、そして矢代秋雄の死の報に接した際の光景を綴っている。團は矢代の死を翌日第1回日中文化交流協会音楽家代表団の一員(団長)として滞在中の北京で偶然知り、死因が作曲を続けながら芸大主任教授を務めていたことによる疲労であったこと、また、同じく代表団で同席していた武満徹が松村禎三に対し、「松村君、芸大なぞは辞めなさい。作曲だけをしよう」と鋭く言ったこと等を記している。矢代が死去した当時の日本の作曲家の衝撃を語る記録である。武満徹は矢代から芸大講師に就任を打診されたこともあるが、終生音楽学校での教鞭を執ることがなかった。
人物
係累
ギリシャ美術史研究者の平山東子は長女。
その他
森下小太郎によると、矢代は麻生 保(あそう やすし)の筆名でSM雑誌『奇譚クラブ』に投稿していたという[1][2]。沼正三によると、麻生保はマゾ派の熱心な投稿者で、筆名もマゾッホのもじりであるという[3]。
代表作
ピアノのためのソナチネ(1945年)
ヴァイオリン・ソナタ(1946年)
ピアノのためのノクチュルヌ(1947年)
ピアノ三重奏曲(1948年)
ヴィオラとピアノのためのソナタ(1949年)
ヴァイオリンとピアノのためのセレナーデ(1949年)
ピアノ連弾のための古典組曲(1951年)
弦楽四重奏曲(1955年)
交響曲(1958年)
2本のフルートとピアノのためのソナタ(1958年)
チェロ協奏曲(1960年)
ピアノ・ソナタ(1961年)
ピアノ協奏曲(1967年)
札幌オリンピックのための『式典序曲』(『白銀の祭典』とも、1972年)
ヴァイオリン協奏曲(未完。冒頭の37小節のみ)
著作
音楽留学生(吉田秀和編、音楽之友社、1957年)-「留学とは」を収録。
和声学とその応用(ヤマハ音楽振興会、1970年)- 竹内剛との共著
ハーモニーのしくみ(音楽之友社、1971年)- 菅野真子との共著
音楽論集 オルフェオの死(深夜叢書社、1977年/音楽之友社「音楽選書」、1996年)
バッハ平均律の研究1(ムジカノーヴァ、1982年)- 小林仁との共著。全2巻で、第2巻は伊達純と小林仁の手による。
矢代秋雄和声集成(全3巻)(全音楽譜出版社、1982-83年)
対談集 音楽の世界(音楽之友社編、1997年)
エッセイ集 音楽における郷愁(音楽之友社、1998年)
翻訳
ノエル=ギャロン、マルセル・ビッチュ『対位法』(音楽之友社、1965年、新版1989年)
日仏演劇協会編『今日のフランス演劇 第4』(白水社、1967年)- 安藤信也との共訳によるポール・クローデル『火刑台上のジャーヌ・ダルク』を収録。
校訂・増補
テオドール・デュボワ『和声学 理論篇』(平尾貴四男訳 音楽之友社、1978年)
テオドール・デュボワ『和声学 実施編』(平尾貴四男訳 音楽之友社、1978年)
セルゲイ・ラフマニノフ『ピアノ協奏曲第2番』二台ピアノ版(全音楽譜出版社[1])
ラフマニノフの版権を所有しているブージー&ホークスとの契約により出版され、日本人でも演奏が可能なように運指や奏法の提案がなされている。しかし、自社版の出版を優先したブージー&ホークスが契約を解除し、本書はラフマニノフの著作権が切れる2004年まで絶版となっていた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E4%BB%A3%E7%A7%8B%E9%9B%84
矢代 秋雄 ピアノ協奏曲
Akio Yashiro [矢代秋雄]: Piano Concerto (1967) / Izumi Tateno, Kotaro Sato & Tokyo Metropolitan Sym.
00:00 1st mov. Allegro animato
13:02 2nd mov. Adagio misterioso
20:42 3rd mov. Allegro - Andante - Vivace, molto capriccioso
Izumi Tateno, piano
Tokyo Metropolitan Symphony Orchestra
Kotaro Sato, conducting
Recorded: January 25, 1991 Live at Tokyo Bunka Kaikan (Tokyo Culture Hall)
Akio Yashiro [矢代 秋雄]: Piano Concerto (Hiromi Okada, Yuasa, Ulster Orchestra)
Allegro animato • 12:24
Adagio misterioso • 19:52
Allegro - Andante - Vivace molto capriccioso
矢代秋雄/ピアノ協奏曲/中村紘子(Pf)
Big beautiful life
初演は中村紘子だったけれど、いつも中村紘子だったので、それが不満だった。この音楽は、もっともっと、意味深い音楽に聴こえる。矢代秋雄と言う作曲家を、低めているように感じていた。藤原由紀乃が海外で弾いた時良い曲だと感じた。岡田博美のCDが出た時、曲の凄さが分かる気がした。中村が弾くと、弾いて見せたと、矢代の前に中村が立つ気がする。岡田とは技術の底が異なり過ぎる。
▲△▽▼
ピアノ協奏曲は、日本の作曲家矢代秋雄による2作目のピアノ協奏曲である。第22回(昭和42年度)芸術祭放送部門で芸術奨励賞、第16回尾高賞を受賞した。
経緯
NHKが、文部省(当時)芸術祭のために作曲者に委嘱した[1]。第1楽章は1964年から1966年夏にかけて、第2、第3楽章は1966年から1967年5月にかけて作曲された。1947年にピアノ協奏曲の未公開作品があったにもかかわらず、これに第二番とは銘打たれなかった。
初演
1967年7月10日と11日に、NHK放送センターにおいて放送のためのレコーディングが行われ、同年11月5日に放送初演された。この時の演奏は、若杉弘指揮NHK交響楽団、ピアノ独奏中村紘子であった。公開初演は約3週間後の11月29日に東京文化会館で行われたNHK交響楽団臨時演奏会にて、独奏者には放送初演と同じく中村紘子、森正指揮により行われた。
楽器編成
フルート2、ピッコロ1、オーボエ2、クラリネット2(2奏者はバスクラリネット持ち替え)、ファゴット2
ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、チューバ1
ティンパニ
ヴィブラフォン
打楽器2名(シンバル、タムタム、鈴、ウッドブロック、チューブラーベル)
独奏ピアノ
弦五部、
演奏時間
約27分。
楽曲構成
第1楽章 アレグロ・アニマート
自由なソナタ形式。冒頭ピアノソロによって提示される変拍子を含んだ第1主題とフルートによって奏でられる息の長い第2主題による。 所々にリストが愛用したというコロラトゥーラ風のカデンツァが挿入される。通例のソナタ形式と比べると提示部が長く、再現部は展開部の中にあって、展開部の一部のように聞こえる[2]。
第2楽章 アダージョ・ミステリオーソ
全曲を通してC音がオスティナートとして奏でられる。作曲者自身によれば「幼いころ見た夢の記憶」。
第3楽章 アレグロ - アンダンテ -ヴィヴァーチェ・モルト・カプリッチョーソ
自由なロンド形式。途中第1楽章の回想をはさみながら、目まぐるしく楽想が展開される。
作曲中「ピアニストは2本の手を持っているのではなく10本の指を持っているのだ」という先達の言葉を意識したとの矢代の言葉通り、全曲を通してピアノパートには高度な名人芸が要求される。
比較的日本では演奏の機会が多く、岡田博美[3]などによっても演奏されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E5%8D%94%E5%A5%8F%E6%9B%B2_(%E7%9F%A2%E4%BB%A3%E7%A7%8B%E9%9B%84)
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/755.html
黛 敏郎(まゆずみ としろう、1929 - 1997)
2曲の交響曲は、現代音楽を利用した強靭な創造性が心を打つ傑作。聴いている間、天才的な作品という賛辞が頭を離れなかった。
涅槃交響曲(1958)
3.3点
仏教をテーマにし、読経のような男性ボーカルを使った見事な音空間を造詣している。鐘の音を分析したそうで、どのように生かされているのか興味深く聴いた。この造形力はかなりのもので、天才的と言っていいと思う。
曼荼羅交響曲(1960)
3.5点
涅槃交響曲の半分の長さの姉妹編であるが、自分にはずっと深化した強烈な世界を造形することに成功した驚くべき傑作に聞こえた。超常的なエネルギーが渦巻く彼方の世界を圧倒的な量感で描いている。現代音楽でありメロディーは無いが、これなら問題なし。なお余談だが、スクリャービンがあと20年生きたらこんな音楽を書いていたかもしれないと感じた。法悦の詩に似ている。
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC
黛 敏郎(まゆずみ としろう、1929年2月20日 - 1997年4月10日)は、日本の作曲家。戦後のクラシック音楽、現代音楽界を代表する音楽家の一人。東京藝術大学作曲科講師として後進の育成にもあたった。
来歴
1954年
神奈川県横浜市生まれ。旧制横浜一中(現:神奈川県立希望ヶ丘高等学校)から1945年東京音楽学校(現東京藝術大学)に入学して、橋本國彦、池内友次郎、伊福部昭に師事した。在学中はブルーコーツ等のジャズバンドでピアニストとして活動した他、既に映画音楽も多く手がけている。1949年卒業、《ルンバ・ラプソディ》を作曲。《ディヴェルティメント》が卒業作品として演奏された。研究科進学。1951年研究科卒業。同年最初の国産カラーフイルムによる総天然色映画『カルメン故郷に帰る』で、ブギ調での同名の主題歌作曲を担当する。同年、映画「帰郷」で毎日映画コンクール音楽賞を受賞。
同年8月、フランス政府受け入れの留学生として、音楽学校同級生の矢代秋雄、別宮貞雄と共にパリ国立高等音楽院に入学して、トニー・オーバンのクラスで学ぶが、教育内容への反発から、1年で退学し帰国した。1951年には《スフェノグラム》が国際現代音楽協会 (ISCM) 音楽祭に入選。1953年、芥川也寸志、團伊玖磨と共に「3人の会」を結成する。以後作曲家として活動を始める。
デビュー当初はドビュッシーやガーシュイン、ミヨー、ラヴェル、ストラヴィンスキーまたガムランなどの南方音楽やモダン・ジャズからの影響を受けていた。フランス留学後はミュジーク・コンクレート、電子音楽、ヴァレーズの音楽様式、ケージの偶然性の音楽やプリペアド・ピアノなど、最新の前衛音楽様式を次々と日本に紹介する存在となった。それらの西洋前衛音楽へのアプローチは、構造的な理論より音響への興味を優先させたものであった。なかでも電子音楽、ミュージック・コンクレートを、いち早く日本の音楽界に導入した。
映画音楽の一部では別名中川洋一(作詞者として)、六条隆(挿入歌の作曲者として)を使用している。
元女優の桂木洋子は妻。演出家の黛りんたろうは長男。長男の嫁は平淑恵。弟に朝日新聞学芸部編集委員だった黛哲郎がいる。
1954年、1月28日、ラジオドラマ《戦争と平和(広島)》(武田泰淳台本)ラジオ東京 (TBS) にて放送。
同年11月21日、放送劇《ボクシング》(三島由紀夫台本)文化放送にて放送。同作品で芸術祭奨励賞。
1955年、11月27日、同年創設されたばかりのNHK電子音楽スタジオで日本最初の電子音楽による習作、《素数比の系列による正弦波の音楽》、《素数比の系列による変調波の音楽》、《矩形波と鋸歯状波のインヴェンション》を製作発表。
1956年、4月、クラヴィオリンやミュージカル・ソウを大胆に使用した映画『赤線地帯』(監督溝口健二)について、映画評論家津村秀夫に『週刊朝日』誌上で「音楽の失敗がひびく」と酷評され反論し、論争になる(赤線地帯論争)。
4月23日から18日間、カンヌ映画祭に参加。4月24日に『青銅の基督』(音楽黛敏郎)が上映された。
6月3-10日、ストックホルムへ。第30回ISCMに入選した《エクトプラスム》演奏に立会う。セッションズから賞賛される。
1957年、3月20日、音楽評論家・吉田秀和を所長に二十世紀音楽研究所を結成。
1958年、石原慎太郎、江藤淳、大江健三郎、谷川俊太郎、寺山修司、永六輔、福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保改定反対運動に参加した[1]。
1958年2月、『気違い部落』(1957年)、『幕末太陽伝』(1957年)によって第12回毎日映画コンクール音楽賞受賞。
1958年4月2日、黛の代表作となった『涅槃交響曲』を「3人の会」にて初演した。鐘の音をNHK電子音楽スタジオで音響スペクトル解析した上、三分割して配置されたオーケストラと、男声合唱(声明を模し部分もあり)で再現した。自らが「カンパノロジー・エフェクト」と呼んだこのアイデアは、奇しくも現在フランスの現代音楽シーンの主流を占めるスペクトル楽派の一人ミュライユの管弦楽曲『ゴンドワナ』を約20年先取りするものであった。
その後、黛はこのカンパノロジー・エフェクトをテープ音楽などでいくつか試みたが、その関心は次第に音響的なアプローチではなく、それら音響の源泉となった「東洋・日本的な」素材・歴史・伝統・思想へ拡がっていった。
現代音楽などクラシック関係以外の音楽では『赤線地帯』『豚と軍艦』『天地創造』『黒部の太陽』など、多くの映画音楽を手がけた他、日本テレビの『NNNニュース』のテーマ曲などを作曲している。また、同じく日本テレビのスポーツ番組のテーマ曲である『スポーツ行進曲』(別名『NTVスポーツのテーマ』)[2]は、日本でも珍しいオーケストラ用行進曲の名作である。その他にも関東UHF局の『朝日フラッシュニュース』のオープニングテーマソングである『朝日ニューストップタイトルのための音楽』や仏教諸宗派のためにカンタータなどの作曲を手掛けるなど、現代の音楽の作曲家としても活動した。
1964年、同年放送開始のクラシック音楽番組『題名のない音楽会』の司会を務めた。
1965年、3月、映画『東京オリンピック』(音楽監督:黛敏郎)。映画『天地創造』の音楽作曲のためにローマ滞在。3月に依頼の電話が入り、何度か打ち合わせにローマへ。4月、5月中旬から8月。9月に10日ほど帰国。10月7日から黛作曲部分の録音が開始、11月末まで作曲と録音が続いた。
5月15日、『君も出世ができる』で第12回アジア映画祭音楽部門賞受賞。5月28日、《打楽器協奏曲》をローマにて完成。同曲は7月11日アメリカで初演。
1967年2月16日、《BUGAKU》が第15回尾高賞受賞。
4月10日、映画『天地創造』でアカデミー作曲賞(第39回)にノミネート[3]。それに先立つ2月15日には、ゴールデングローブ賞 作曲賞(第24回)にノミネート[4]。
1968年、『題名のない音楽会』と『NNNワイドニュース』の司会に対して、第5回ギャラクシー賞を受賞[5]。
1970年、日本万国博覧会のテーマ館サブプロデューサーを含め、パビリオンの音楽、お祭り広場の音楽、開会、閉会式の音楽他を担当した。
1970年代前後[6]に、楽壇では珍しく保守派文化人となり、1970年代後半に結成され論憲・改憲を提唱する「日本を守る国民会議」議長を務めた。だが、このような保守的政治運動のために左派色が強い楽壇からは事実上排斥され、後期の作品は生活のために書いた上記の宗教音楽や実用音楽などが主となり、2曲の歌劇(『金閣寺』と『古事記』)などを除き、純音楽の創作は極端に少なくなった。
1977年夏に、保守派の活動を通じ親交があった中川一郎(当時自民党国民運動本部長)の要請を受けて、新たに創設された党友組織自由社会を守る国民会議(自由国民会議)の初代代表に就任し終身務めた。
1992年夏に「国民会議」議長として、宮澤内閣官房長官であった加藤紘一らが中心に進めた天皇(明仁)・皇后(美智子)の訪中反対国民運動の先頭に立ち、中川や自身の共通の親友石原慎太郎や、中川の長男中川昭一、平沼赳夫(中川の秘書でもあった)らと共闘した。
1982年、4月22日、オラトリオ「日蓮聖人」初演。
10月18日、サントリー作曲家の個展「黛敏郎」で《涅槃交響曲》と演奏会形式でのオペラ《金閣寺》日本初演[7]。
1983年、5月4日、阿含宗委嘱による《大佛讃歌》初演。
1986年、4月16日、バレエ《The KABUKI》初演。同作品はパリ・オペラ座、ミラノ・スカラ座、ウィーン国立歌劇場、ベルリン国立歌劇場、ボリショイ劇場、マリインスキー劇場等海外の劇場でも喝采を受け、世界中で150回以上の上演回数、22万人が鑑賞している。
1991年、3月8日、舞台形式によるオペラ《金閣寺》日本初演[8]。
1993年、7月16日、オペラ《古事記》完成。7月31日、バレエ《M》初演。
1996年、2月20日、武満徹の葬儀の際には、『MI・YO・TA』のメロディを何度も繰り返し歌った。この曲は、武満がかつて黛の下で映画音楽のアシスタントをしていたとき書いたものであった。しかし、映画音楽に使われることはなく、メロディは黛の記憶にしまわれていた。その後、谷川俊太郎が詞をつけ、出来上がったのが『MI・YO・TA』である[9]。
1997年4月10日、肺を原発巣とする転移性肝腫瘍による肝不全のため入院中の神奈川県川崎市内の総合新川橋病院で死去、68歳没。墓所は、神奈川県にある曹洞宗大本山總持寺の境内墓地。戒名は「威徳院優嶽叡敏居士」。5月末に「日本を守る国民会議」と「日本を守る会」が合同して結成された日本会議の初代会長に就任予定だった。
1997年11月27日、29日 大阪音楽大学の「ザ・カレッジ・オペラハウス」でオペラ『金閣寺』上演[10]。黛敏郎の追悼公演となった。
1998年7月2日、「黛敏郎追悼演奏会」で『シンフォニック・ムード』『トーン・プレロマス55』『呪(しゅ)』『涅槃交響曲』を演奏。岩城宏之指揮、東京混声合唱団、東京交響楽団。
1998年8月31日、未完絶筆作品『パッサカリア』初演(完成部分まで、演奏時間4分、続けて2度上演)。岩城宏之指揮、オーケストラ・アンサンブル金沢第67回定期公演。
代表作
管弦楽
ルンバ・ラプソディ(1948年)- 恩師の伊福部昭(2006年死去)の晩年にあたる2004年に、伊福部の自宅から黛の楽譜が発見され、蘇演された。
シンフォニック・ムード(1950年)- 原題は交響的気分「スフィンクス」
饗宴(1954年)
フォノロジー・サンフォニック(1957年)
カンパノロジー(1957年)
涅槃交響曲(1958年・第7回尾高賞受賞作品)
曼荼羅交響曲(1960年)
交響詩「輪廻」(1962年)
音楽の誕生(1964年)
木琴小協奏曲(1965年)
交響詩「立山」(1971年)
G線上のアリア(1978年)
21世紀へのラプソディ(1991年)
パッサカリア(1997年/絶筆・未完)
オペラ
金閣寺(1976年)- 三島由紀夫の小説「金閣寺」による
KOJIKI(1996年)
MINOKO(1964年・未完)- 三島由紀夫の書き下ろし台本による(日生劇場のこけら落としのために小澤征爾指揮で初演予定だった)
バレエ音楽
思い出を売る男(1953年)加藤道夫の戯曲「思い出を売る男」によるシャンソンバレエ。
BUGAKU(1962年・第15回尾高賞受賞作品)
ザ・カブキ(1986年・オーケストレーションは鈴木行一、南聡ら門下がアシスタントをした[11]。主題は忠臣蔵に基づく)
M(1993年)
吹奏楽・管楽合奏
トーンプレロマス55(Tonepleromas 55, 1955年)
彫刻の音楽(Music with Sculpture, 1961年)
テクスチュア(Texture, for wind orchestra, 1962年)
花火(Fireworks, 1963年)
打楽器とウィンドオーケストラの為の協奏曲(Concerto for Percussion and Wind Orchestra, 1965年)
行進曲「黎明」(1981年)- 防衛大学校のために作曲された行進曲。
行進曲「祖国」(1981年)- 陸上自衛隊中央音楽隊の創隊30周年のために書き下ろされた楽曲。
栄誉礼冠譜〜祖国〜(1986年)- 政府関係者、自衛隊の高官、訪日した外国要人への儀礼用に作曲
室内楽・器楽
ヴァイオリンとピアノのためのソナタ(1946年)
10楽器のためのディベルティメント(1948年)
スフェノグラム(1950年)
プリペアド・ピアノと弦楽のための小品(1957年)
阿吽 3つ和楽器のための(1957年)
BUNRAKU チェロ独奏のための(1960年)
弦楽四重奏のためのプレリュード(1961年)
昭和天平楽(1970年) - 現代雅楽の項を参照
ROKUDAN ハープのための(1989年)
ピアノ曲
12の前奏曲(1945-46年)
オールデウーヴル(1947年)ドラム伴奏を伴う
バレエ「かぐや姫」のスケッチ(1950)石の花瓶の踊り、金の枝の踊り、鳳凰の踊り
映画「天地創造」(1965年)
声楽
天台声明による始段唄・散華(1959年)
カンタータ「祝婚歌」(1959年)[12]
カンタータ「悔過」(1963年)
カンタータ「般若心経」(1976年)[13]
カンタータ「憲法はなぜ改正されなければならないか」(1981年)
オラトリオ「日蓮聖人」(1981年)
大佛讃歌(1983年)
オラトリオ「京都1200年 伝統と創生」(1994年)
テープ音楽
ミュージックコンクレートのための作品X・Y・Z(1953年)
3つの電子音楽作品(1955年)
素数比の系列よる正弦波の音楽
素数比の系列による変調波の音楽
矩形波と鋸歯状波のインヴェンション
まんだら(1955年)
葵の上(1957年)(湯浅譲二の同名のテープ音楽とは別の作品)
オリンピック・カンパノロジー(1964年)東京オリンピック開会式で上演。
映画音楽
カルメン故郷に帰る(松竹大船、木下惠介監督、1950年)- 木下忠司と共に担当。
帰郷(松竹、中村登監督、1951年)
我が家は楽し(松竹大船、中村登監督、1951年)
純白の夜(松竹、大庭秀雄監督、1951年)
足にさわった女(東宝、市川崑監督、1952年)
カルメン純情す(松竹大船、木下惠介監督、1952年)
夏子の冒険(松竹大船、中村登監督、1953年)
プーサン(東宝、市川崑監督、1953年)- 出演もしている。
青色革命(東宝、市川崑監督、1953年)
天晴れ一番手柄 青春銭形平次(東宝、市川崑監督、1953年)
真実一路(松竹、川島雄三監督、1954年)
噂の女(大映、溝口健二監督)、1954年)
潮騒(東宝、谷口千吉監督、1954年)
女の一生(松竹大船、中村登監督、1955年)
青銅の基督(松竹、渋谷実監督、1955年)
赤線地帯(大映、溝口健二監督)、1956年)
顔(松竹、大曽根辰夫監督、1957年)
幕末太陽傳(日活、川島雄三監督、1957年)
美徳のよろめき(日活、中平康監督、1957年)
気違い部落(松竹大船、渋谷実監督、1957年)
張込み(松竹、野村芳太郎監督、1958年)
日日の背信(松竹、中村登監督、1958年)
盗まれた欲情(日活、今村昌平監督、1958年)
西銀座前(日活、今村昌平監督、1958年)
炎上(大映、市川崑監督、1958年)
裸の大将(東宝、堀川弘通監督、1958年)
続 夫婦百景(日活、井上梅次監督、1958年)
悪女の季節(松竹大船、渋谷実監督、1958年)
不道徳教育講座(日活、西河克己監督、1959年)
野獣死すべし(東宝、須川栄三監督、1959年)
にあんちゃん(日活、今村昌平監督、1959年)
お早よう(松竹大船、小津安二郎監督、1959年)
女が階段を上る時(東宝、成瀬巳喜男監督、1960年)
いとはにほへと(松竹大船、中村登監督、1960年)
豚と軍艦(日活、今村昌平監督、1961年)
好人好日(松竹、渋谷実監督、1961年)
あいつと私(日活、中平康監督、1961年)
小早川家の秋(東宝、小津安二郎監督、1961年)
黒蜥蜴(大映、井上梅次監督、1962年)
キューポラのある街(日活、浦山桐郎監督、1962年)
憎いあンちくしょう(日活、蔵原惟繕監督、1962年)
泥だらけの純情(日活、中平康監督、1963年)
にっぽん実話時代(東宝、福田純監督、1963年)
みれん(東宝、千葉泰樹監督、1963年)
武士道残酷物語(東映京都、今井正監督、1963年)
残菊物語(松竹、大庭秀雄監督、1963年)
にっぽん昆虫記(日活、今村昌平監督、1963年)
猟人日記(日活、中平康監督、1964年)
君も出世ができる(東宝、須川栄三監督、1964年)
赤い殺意(日活、今村昌平監督、1964年)
悪の紋章(宝塚映画、堀川弘通監督、1964年)
月曜日のユカ(日活、中平康監督、1964年)
仇討(東映、今井正監督、1964年)
執炎(日活、蔵原惟繕監督、1964年)
大根と人参(松竹、渋谷実監督、1965年)
城取り(日活、舛田利雄監督、1965年)
東京オリンピック(東京オリンピック映画協会、市川崑監督、1965年)
天地創造(アメリカ・イタリア、ジョン・ヒューストン監督、1966年)
「エロ事師たち」より 人類学入門(日活、今村昌平監督、1966年)
愛と死の記録(日活、蔵原惟繕監督、1966年)
愛の渇き(日活、蔵原惟繕監督、1967年)
禁じられた情事の森(アメリカ映画 ワーナー・ブラザース=セヴン・アーツ、ジョン・ヒューストン監督、1967年)
非行少年 陽の出の叫び(日活、藤田繁矢監督、1968年)
黒部の太陽(日活、熊井啓監督、1968年)
神々の深き欲望(日活、今村昌平監督、1968年)
栄光への5000キロ(松竹、蔵原惟繕監督、1969年)
私が棄てた女(日活、浦山桐郎監督、1969年)
富士山頂(東宝、村野鐵太郎監督、1970年)
日本の首領(東映、中島貞夫監督、1977年)
徳川一族の崩壊(東映、山下耕作監督、1980年)
序の舞(東映、中島貞夫監督、1984年)
大病人(1993年)本編BGMは本多俊之だが、劇中で「カンタータ般若心経」が全曲演奏されている
メフィストの誘い(1995年)本編BGMとして「弦楽四重奏のための前奏曲」が使われている(ストラヴィンスキーやグバイドゥーリナなどとともに使用)。
テーマ音楽
「スポーツ行進曲」- 日本テレビ・スポーツのテーマ(1953年)
朝日新聞ニューストップタイトルのための音楽(1953年)- 日本テレビでの「朝日TVニュース」開始に併せてそのオープニングテーマソングとして使われたもの
EXPO'70 太陽の塔内・生命の樹テーマ曲「生命の讃歌」(1970年)
「NNNニュースのテーマ」日本テレビ系列ニュース番組のために書かれた、全編3分ほどもある小曲[14](1973年)
阿含の星まつり・序曲
東海道新幹線車内のオルゴールチャイム(1968 - 72年に使用)[15]
「新宿小田急百貨店の時報音楽」(1968年)[16]
校歌・団体歌
北海道苫小牧南高等学校(1978年)
新潟産業大学
福島県富岡高等学校内分校
大阪府立金岡高等学校(1974年頃)
滋賀県立彦根南高等学校(滋賀県立彦根翔西館高等学校に統合。現在は黛敏郎の校歌は使用されていない模様)
東大阪市立上四条小学校
東大阪市立玉美小学校
埼玉県立志木高等学校
新島学園中学校・高等学校
千葉県八千代市立村上東中学校(1976年頃)
千葉県東金市 市民歌 行進曲(1984年)
聖徳学園想園歌「青春の風は胸に鳴る」
横浜隼人高等学校
横浜市立東中田小学校
横浜明倫高等学校明倫賛歌
静岡県牧之原市立相良小学校
名古屋市立上社中学校[1]
福井工業大学附属福井中学校
滋賀県立伊吹高等学校
徳島文理大学
福岡県嘉穂郡嘉穂町立宮野小学校
持田製薬世界企業へ躍進の歌
われらのヤオハン
北沢バルブ 社歌「空に海に」(1979年)
集英社社歌
新川橋病院の歌
臨済宗南禅寺宗歌
著作
『私の茶道入門 これぞ芸術の極み』(光文社カッパ・ホームズ、1976年)
『題名のない音楽会』(角川書店、1977年/角川文庫、1981年)
『日本のこころ』(筥崎宮、1979年)。ブックレット
『題名のない独白』(サンケイ出版、1984年)。「正論」での連載コラム
共著など
『現代音楽に関する3人の意見』(團伊玖磨、芥川也寸志と共著、中央公論社、1959年)
『“君が代”はなぜ歌われない 黛敏郎の対談』(浪曼、1974年)。編集担当は宮崎正弘
岡倉天心 『茶の本 現代語で読む』(訳・解説、三笠書房、1983年)。オンデマンド版2003年
『日本国新憲法制定宣言』(徳間書店、1994年)
出演番組
題名のない音楽会(1964年8月 - 1997年3月)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%9B%E6%95%8F%E9%83%8E
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/756.html
黛 敏郎 曼荼羅交響曲
黛敏郎 − 涅槃交響曲 曼荼羅交響曲 外山雄三 山田一雄 NHK交響楽団
指揮:外山雄三(涅槃交響曲) 山田一雄(曼荼羅交響曲)
NHK交響楽団
日本プロ合唱団連合(合唱指揮:田中信昭)←涅槃交響曲
1978年2月4日(涅槃交響曲) 1976年10月13日(曼荼羅交響曲)
NHKホール
ライブ録音
涅槃交響曲
1 カンパノロジーT 0:00
2 首楞厳神咒(しゅうれんねんじんしゅう)
カンパノロジーU 8:51
3 摩訶梵(まかぼん)
カンパノロジーV 21:56
4 終曲[一心敬礼] 29:00
曼荼羅交響曲
1 金剛界曼荼羅 34:13
2 胎蔵界曼荼羅 42:12
Toshirō Mayuzumi: Mandala Symphony (1960)
I.Tempo non équilibré
II. Extrêmement lent
The NHK Symphony Orchestra diretta da Hiroyuki Iwaki.
https://www.youtube.com/watch?v=x-aO1YZ1tgo
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/757.html
1. 中川隆[-16154] koaQ7Jey 2021年10月03日 17:17:43 : La1MHT2NOM : S3Z1enY4dHRtUXc=[9]
曼荼羅交響曲(まんだらこうきょうきょく)は、黛敏郎が作曲した交響曲。涅槃交響曲の兄弟作品に当たる。初演は1960年3月27日、第4回三人の会の発表会にて、岩城宏之が指揮したNHK交響楽団により行われている。
音による曼荼羅の再現を目指した黛は、涅槃交響曲で採用した「カンパノロジー・エフェクト」を発展拡大させ、日本各地の鐘の音を分析した結果得られたという2つの「陽旋法」を素材として用いている[1]。また、経典などの具体的な素材は用いずにオーケストラのみで抽象的な表現を目指した。なお、後のスペクトル楽派とは異なり、全て12音で曲は書かれている。
楽器編成
フルート2(ピッコロ1)、オーボエ、イングリッシュ・ホルン、クラリネット2(E♭管クラリネット1)、バスクラリネット、ファゴット、ホルン2、トランペット2、トロンボーン2、チューバ、ティンパニ、シロフォン、グロッケンシュピール、ヴィブラフォーン、トライアングル、サスペンデッド・シンバル、中国の小さなドラ、キン、タムタム、チェレスタ、チューブラーベル、ハープ、ピアノ、弦5部(左右均等に分割する)
演奏時間
約15分。
構成
第1楽章 - 金剛界曼荼羅
「不安定なテンポで」と指定され、流動的なリズムからなる第1・3部と、『春の祭典』さながらに拍子が変わりながらシンコペーションが刻まれる中間部よりなる[2]。全体としては個々の楽器の音が際立つように書かれている。「カンパノロジー・エフェクト」の響きにより終結する。
第2楽章 - 胎蔵界曼荼羅
「非常にゆっくりと」と指定され、「カンパノロジー・エフェクト」の響きが一貫して用いられている。「きわめて幅広く」と指定された中間部ではチェレスタ以外の楽器によるユニゾンの主題が奏でられる[2]。第1楽章同様、「カンパノロジー・エフェクト」の音により終結する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BC%E8%8D%BC%E7%BE%85%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/757.html#c1
團 伊玖磨(だん いくま、1924 - 2001)
交響曲1番
2.5点
23分の単一楽章。聴きやすくて、様々な音の印象の移り変わりをそれなりに楽しめる。しかし、多くの作曲家の影響が見え隠れするし、大胆に自分ならではのオリジナリティの世界に踏み込みきれていない感じを受けるので、聴後感が物足りない。
交響曲2番
2.5点
3楽章構成の力作であり、交響曲らしさを目指して努力していることが伝わってくる。様々な所に作意や意志を感じる。音楽としてはスケール感もあり聴きやすい。しかし、いかにも20世紀のマイナー交響曲といいたくなってしまう、オケの表現能力に頼っただけの精神的な密度の薄さが気になる。自然界を表現したとすれば、いささか矮小だ。1番より進歩しているが、努力された跡が分かるという程度と思う。
交響曲3番
2.8点
前衛を取り入れた音作りにより、作曲者が自分の芸術に確信を持っているのがわかる。聴き映えの良さが上がっている。二楽章形式のためもあり、鋭くある断片を切り取ったような印象がある。芸術的な深みを指向している点では交響曲として受け止められる。しかし、素材の数が少なすぎて繰り返しばかりであり、聴いているうちに飽きてきてしまう。突いている所は良いのだが、広がりが足りない。
交響曲4番
2.8点
3番と作曲時期が近いため音楽は似ている。4楽章あるため、3番よりも総合性を持っている。音の聴き映えはよい。しかしながら、作り上げた音の世界が主張や精神性を持つに至らず、音のまま終わってしまう。終わった後にもう一度聴きたい何かを生み出せていないと思う。楽章の長さが短いためなおさらそう感じる。
交響曲5番
3.3点
非常に進歩しており、巨匠らしい音楽的な説得力と精神性を持った充実した交響曲となっている。聴いていて魅力に引き込まれる場面がかなりある。前衛的ではあるが、無理なく聴ける分かりやすさとバランスがあることが良い。日本を代表する作曲家のひとりと呼ぶに相応しい作品。
交響曲6番
3.0点
長尺を生かした時間の使い方で書かれている。前衛性が後退し、密度がやや薄いためもあり、歳をとったことを感じてしまう。内容的には「達筆」という言葉を連想する。音のぶつかり合いや雅楽的な要素を柔軟に活用しつつ、機能和声の音楽の範囲で書かれている。刹那的な流れは縦横無尽で優れているが、全体的な構築感が薄くて物足りない。歌は短い時間であり、あくまで一時的な効果に留まっている。
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC
團 伊玖磨(だん いくま、1924年〈大正13年〉4月7日 - 2001年〈平成13年〉5月17日)は、日本の作曲家、エッセイスト[1]。作曲家としてはオペラ、交響曲、歌曲などのいわゆるクラシック音楽のほか、童謡、映画音楽、放送音楽と幅広いジャンルの作曲を手がけた。「團伊玖麿」、「團伊玖摩」は誤表記。
人物・来歴
生い立ち
1924年(大正13年)、実業家、学者、政治家であった男爵・團伊能の子として、東京・四谷の慶應義塾大学病院で生まれ、原宿(現:渋谷区神宮前)で育つ。
7歳となった1931年(昭和6年)、青山師範学校附属小学校に入学し、ピアノを学び始めた。翌年3月、祖父・團琢磨が暗殺された(血盟団事件)ことで、幼心に物質的な栄達への疑問を抱くようになり、後に芸術を志す動機の一つとなった。当時、團という一字姓のため、しばしば「朝鮮人」「シナ人」と罵られたという(700年前の祖先の團将監は宋人だったと伝わる)[2] [3]。
1937年(昭和12年)、13歳で青山学院中学部に入学。また、同年には東京市麻布区材木町(現:港区六本木)に転居した。
1942年(昭和17年)、東京音楽学校(現:東京芸術大学音楽学部)作曲部に入学。学校では下総皖一に和声学と対位法、橋本國彦に近代和声学と管弦楽法、細川碧に楽式論を学んだ。また、学外では山田耕筰に指導を受けた。
20歳になった1944年(昭和19年)、音楽学校に在籍のまま陸軍戸山学校軍楽隊に入隊した。軍楽隊ではバスドラムを担当し、芥川也寸志とともに編曲も担当した。
翌年には復員して東京音楽学校を卒業し、諸井三郎に対位法、楽曲分析を学んだ。歌曲集『六つの子供の歌』、管弦楽付き独唱曲二つの抒情詩『村の歌』『小諸なる古城のほとり』を作曲した。
作曲家およびエッセイストとして
1946年(昭和21年) - 近衛秀麿に管弦楽法、指揮法を学ぶ。この年、『二つの抒情詩』(管弦楽付き独唱曲)で日本音楽連盟委嘱コンクールに入選。歌曲集『五つの断章』(北原白秋詩)を作曲。
1947年(昭和22年) - 歌曲『花の街』(江間章子詩)を作曲。
1948年(昭和23年) - NHK専属作曲家となる。
1949年(昭和24年) - 木下順二作品の民話劇『夕鶴』の演劇付帯音楽を作曲。
1950年(昭和25年) - 『交響曲第1番イ調』を作曲。NHK創立25年記念管弦楽曲募集コンクールにて特選入賞。歌曲集『美濃びとに』(北原白秋詩)を作曲。
1952年(昭和27年) - オペラ『夕鶴』大阪で初演[4]。北海道美幌農業高等学校校歌を作曲。
1953年(昭和28年) - 芥川也寸志、黛敏郎と「三人の会」を結成。
1954年(昭和29年) - 東宝映画専属音楽監督。
1955年(昭和30年) - オペラ『聴耳頭巾』大阪で初演[5]。
1958年(昭和33年) - オペラ『楊貴妃』(大佛次郎台本)初演(藤原歌劇団創立25周年記念東京公演)[6]。また慶應義塾創立百周年記念式典のために混声合唱と管弦楽のための「慶應義塾式典曲」(作詞:堀口大學)を作曲、NHK交響楽団を指揮初演(1968年再演)。
1959年(昭和34年) - 皇太子明仁親王と正田美智子の成婚を記念して『祝典行進曲』を作曲。
1964年(昭和39年) - 東京オリンピック開会式にて『オリンピック序曲』、『祝典行進曲』、閉会式にて『祝典行進曲』を演奏。エッセイ『パイプのけむり』の連載を雑誌「アサヒグラフ」にて始める。
1965年(昭和40年) - 『交響曲第5番』を作曲。
1966年(昭和41年) - 日本芸術院賞を受賞[7]。
1968年(昭和43年) - 『パイプのけむり』、『続パイプのけむり』で第19回読売文学賞(随筆・紀行)を受賞。『混声合唱組曲「筑後川」』を作曲。10月23日の告示により、鳥取県民歌制定委員会作詞、團伊玖磨作曲の鳥取県民歌「わきあがる力」が制定される。
1972年(昭和47年) - オペラ『ひかりごけ』(武田泰淳原作)初演(第15回大阪国際フェスティバル)[8]。
1973年(昭和48年) - 日本芸術院会員に就任する。
1975年(昭和50年) - オペラ『ちゃんちき』(水木洋子台本)東京で初演[9]。
1976年(昭和51年) - ソプラノ・ソロと管弦楽のための『長良川』(江間章子詩)を作曲。
1978年(昭和53年) - 合唱組曲『大阿蘇』(丸山豊詩)を作曲。
1982年(昭和57年) - 横須賀市制75周年記念事業の一環として、合唱と管弦楽のための組曲『横須賀』(栗原一登詩)を委嘱され作曲。
1983年(昭和58年) - ピアノ組曲『3つのノヴェレッテ』、合唱組曲『唐津』、独唱・混声合唱・オーボエ・ピアノのための組曲『木曽路』、子供の歌アルバム『道の子の歌』、ヴァイオリンとピアノのための『幻想曲第2番』等を作曲。
1985年(昭和60年) - 『交響曲第6番「HIROSHIMA」』を広島平和コンサートで初演。
1994年(平成6年) - オペラ『素戔嗚』初演(神奈川芸術フェスティバル)[10]。
1997年(平成9年)9月3日 - 急性心筋梗塞を起こし、約1か月間入院する[11]。オペラ『建・TAKERU』初演(東京・新国立劇場杮落し公演)[12]。
1999年(平成11年) - 文化功労者に列せられる。
2000年(平成12年)4月6日 - 妻の和子が急性心筋梗塞で急死[13]。「DAN YEAR 2000」開催。
2001年(平成13年)5月17日 - 日本中国文化交流協会主催の親善旅行で中国旅行中に心不全を起こし、江蘇省蘇州市の病院で死去した。77歳没。戒名は「鳳響院殿常楽伊玖磨大居士」。
逸話
伊玖磨が12歳の時、作曲を志す息子の将来を案じた父伊能が伊玖磨を伴い山田耕筰を訪れ、耕筰に作曲の道が険しいことを説いてもらって断念させようとした。ところが、耕筰は、「やり給え、そして、やるからには、最も正統的な勉強を積んで、最も本格的にやり給え」と激励した[14]。このことで、伊玖磨は作曲の道で生きていく決意を固めた。また、生涯耕筰を師と仰ぐことになった。
商業主義に伴う宣伝を激しく嫌っていた。特にダイレクトメールは新字体による「団伊玖磨」の宛名書きで来る場合が多く、この表記による郵便物を(ダイレクトメールに限らず)一切開封せずに捨てていた[15]。また、後年「僕の名前は團であって団ではないのだから、他人宛ての手紙は読んでは悪かろうと遠慮するからである」と捨てる理由を説明している[16]。
たびたび訪中したが、團という字に中国語で卑猥な意味があるため[要出典]、北京では「檀か段に直してください。團では困る」「あなたの名刺は、女の人には見せられません」と言われた。中国で野間宏の『真空地帯』が映画化された際にも、「音楽 段伊玖磨」と直された。
先天色覚異常を持っており、小学生の頃に写生の時間に赤い花を緑に描いて教師から激しく叱責されたことがある[17]。また東京音楽学校の入試に際して、担当の校医が美術学校の入試をも受け持っていたため、色覚異常の故に危うく落とされそうになったが、團の懇願で入学が許されたこともある。色覚異常者への差別に憤り、日本色盲協会の結成を考えたとも述べている。
大のイヌ嫌いであり、無駄に吠えるイヌには、それがたとえ友人の飼い犬でも容赦せず体罰を加えた。タロとジロを題材としたラジオドラマの音楽の仕事を断った旨を『パイプのけむり』で言及している。好きな動物はヘビで、自宅で飼育していた大蛇が息子の喉に咬みついて大怪我をさせたこともある。[要出典]
戦後まもなく、太宰治の作品を愛読していたため、友人の北山冬一郎(詩人)の紹介で太宰に会う話が持ち上がった。しかし、ダンという苗字から檀一雄を連想した太宰が「ダンという名前なら大酒飲みだろう」と言ったところ、北山が「いや、実は一滴も飲めないんです」と答えたため、太宰が「酒も飲めない奴なんかに用はない」と断った。そのため、とうとう太宰に会うことができなかった。[要出典]
エッセイ「パイプのけむり」は1964年に『アサヒグラフ』で連載を始め、2000年に同誌が休刊するまで連載を続けていた。最終回では「自分が死ぬのが先か雑誌が休刊するのが先か」どっちなのだろうと予想していたと書いている。結局、雑誌休刊の翌年に死去する。
團は生前九州を愛したのだが、それは父が福岡の民放KBCの会長を務め、妹がブリヂストンの創業者一族に嫁いだこととも関係する。実はどちらも久留米市で産声を上げた企業であり、そのことが『筑後川』作曲につながっていったとも考えられる。2007年1月20日、團死亡の地・蘇州で、七回忌記念『筑後川』コンサートが開かれ、日本から参加したアマチュア合唱団員200人が、『筑後川』を歌い上げた。
愛煙家で、パイプを好んだ。1950年代、イギリスに留学していた團は、英語の勉強のために、当時ベストセラーだった「野生のエルザ」をはじめ、いくつかの書物の翻訳をしていた。その中には、パイプの修理に立ち寄ったダンヒル本店で見つけた、アルフレッド・H・ダンヒルの“The gentle art of smoking"(日本語タイトル「ダンヒルたばこ紳士」)がある。
小説も著したことがある。「日向村物語」は映画「馬鹿が戦車でやって来る」などの「馬鹿シリーズ」の原案となり、この作品では團自身が原作者としてクレジットされる他にも劇伴音楽を担当している。
オペラ「聴耳頭巾」の自筆総譜は、一旦紛失したが、1978年2月に発見された。総譜の書かれた五線紙は、山田耕筰のネーム入りで、晩年の山田から團が譲り受けたものであった[18]。
1992年5月4日に関勉が発見した小惑星17509番は、発見者によって「Ikumadan」と命名されている。
北海道美幌町に疎開していた音楽評論家の藁科雅美(毎日放送の音楽ディレクター、訳書「バーンスタイン物語」)が鎌倉市に移住して、すぐ近所に住んでいた團に「美幌農業高校校歌」作曲を依頼した。その後、團は、東京で病に苦しんでいた武満徹(1953年「美幌町町歌」作曲)に自宅を提供して横須賀市に移住した。
1963年に八丈島に仕事場を建て[19]、しばしば作曲のために長期滞在したが、そこでの趣味は京野菜の栽培。テレビでのインタビューでは「京野菜が栽培できる南限を探っている」と応えた。
自身作曲の童謡『ぞうさん』が低俗な歌詞をもって歌わされていたことに腹を立てていた[20]。
家族・親族
祖父の團琢磨は三井合名会社理事長、男爵[21]。父の團伊能も男爵であり、東京帝国大学文学部美術史学科助教授、参議院議員、プリンス自動車工業(現:日産自動車)社長、九州朝日放送会長を歴任[21]。母の美智子は宮内省大膳頭を務めた上野季三郎の五女[22][23]。妹の朗子はブリヂストンタイヤ(現:ブリヂストン)会長石橋幹一郎に嫁いだ[21](元内閣総理大臣の鳩山一郎・鳩山由紀夫も遠縁の親戚となった)。最初の妻桑原瑛子(ソプラノ歌手)との間に生まれた長男團名保紀は西洋美術史家で群馬大学教授[21]。二番目の妻藤枝和子(ピアニスト)との間に生まれた二男團紀彦は建築家[21]。叔父の團勝磨はウニの発生研究を大成した発生学者で、元東京都立大学 (1949-2011)総長[21]。孫の團遥香は女優・タレント[24][25]。
作品
ここでは主要作品のみにとどめる。括弧内の人物は特に断りのない限り、作詞者を示す。
歌劇
「夕鶴」(全幕/作:木下順二)
「聴耳頭巾」(3幕/作:木下順二)
「楊貴妃」(3幕5場/原作:大佛次郎)
「ひかりごけ」(2幕/原作:武田泰淳)
「ちゃんちき」(2幕4場/脚本:水木洋子) (第16回佐川吉男音楽賞を受賞)
「素戔嗚」(3幕4場/原作:古事記・日本書紀、脚本:團伊玖磨)
「建・TAKERU」(3幕/原作:古事記・日本書紀、脚本:團伊玖磨・小田健也)
交響曲
交響曲第1番 イ調
交響曲第2番 変ロ調
交響曲第3番
交響曲第4番
交響曲第5番
交響曲第6番「HIROSHIMA」(エドマンド・チャールズ・ブランデン)
交響曲第7番「邪宗門」(未完)
北原白秋の「邪宗門」をテキストに用いて作曲を開始したが、2001年に團が蘇州で急死したのに伴い未完に終わった。構想では2管編成で各楽章に声楽が入り、團が存命であれば2002年の秋に初演するはずであった。
管弦楽作品
交響詩「平和来」(後に「挽歌」と改名)
ブルレスケ風交響曲
管弦楽組曲「シルクロード」
交響組曲「アラビア紀行」
序曲「東京オリンピック」
管弦楽のための「祝典序曲」
「日本からの手紙第1番」
「日本からの手紙第2番」
「日本からの手紙第3番」
「シンフォニエッタ」(小交響曲)
ヴァイオリンと管弦楽のためのファンタジア第1番
管弦楽のための「高梁川」
管弦楽のための「夜」
ヴァイオリンと管弦楽のためのファンタジア第2番
交響幻想曲「万里長城」
管弦楽のための「飛天」
管弦楽のための「祝典曲」
管弦楽のための「飛天繚乱」
室内楽曲
弦楽合奏曲「合奏協奏曲」
ヴァイオリンとピアノのためのファンタジア第1番
フルート三重奏曲
ベルリン・シンフォニーの12人のセロのための「夜」
ピアノ組曲「3つのノヴェレッテ」
ヴァイオリンとピアノのためのファンタジア第2番
12本のフルートのための「夕鶴」幻想曲
ヴァイオリンとピアノのためのファンタジア第3番
フルートとピアノのための「ソナタ」
2つのソロ・ヴァイオリンと弦楽合奏のための「古雅なるファンタジア」
フルート・オーケストラのための「NOCTURNE ET DANCE」
4本のファゴットのための「ソナタ」
ヴァイオリンとピアノのためのソナタ
フルートとハープのための「羽衣」
篠笛とチェロのための「夜の対話」
ヴァイオリン・デュエット「Conguratulations for Mr. & Mrs. Toshiya Etoh」
ヴァイオリンとチェロのための対話
無伴奏チェロ・ソナタ
無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番
無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番
トロンボーンとハープのための「Three Letters」
ソロ・ヴァイオリンとカルテットのための2章「黒」と「黄」(遺作)
歌曲
六つの子供のうた(北原白秋)
五つの断章(北原白秋)
花の街(江間章子)
わがうた(北山冬一郎)
萩原朔太郎に依る四つの詩
美濃びとに(北原白秋)
旅上(萩原朔太郎)
はる(谷川俊太郎)
抒情歌(大木実)
三つの小唄(北原白秋)
ジャン・コクトーに依る八つの詩(堀口大學訳)
マレー乙女の歌へる(イヴァン・ゴル;堀口大學訳)
合唱曲
作曲年については、外部リンク先「團伊玖磨ノート」、「團伊玖磨全仕事」、雑誌「ハーモニー」(全日本合唱連盟)108号(1999年春号)所収「團伊玖磨 作品リスト」それぞれで異なっていることがある。その場合、原則的には「ハーモニー」のリストに従っている。
混声合唱「わすれなぐさ」(1945年 ヴィルヘルム・アレント;上田敏訳)
二隊の女声合唱と小管弦楽のための「詩篇歌」(1950年)
混声合唱曲「二つの碑銘」(1952年 原民喜、西田幾太郎)
混声合唱曲「岬の墓」(1963年 堀田善衛)
合唱組曲「風に生きる」(1957年/1964年 石浜恒夫)
混声合唱組曲「筑後川」(1968年 丸山豊)
混声合唱のための「ディヴェルティメント」(1968年 谷川俊太郎)
管弦楽と合唱のための「西海讃歌」(1969年 藤浦洸)
混声合唱「海を探しに行こう」(1969年 辻井喬)
合唱と管弦楽のための「日本新頌」(1970年 堀口大學)
混声合唱組曲「海上の道」(1973年 丸山豊)
合唱と管弦楽のための交響詩「ながさき」(1974年 江間章子)
浄土宗「音楽法要連頌」(1974年 藪田義雄)
混声合唱と打楽器とピアノのための「原體剣舞連」(1975年 宮沢賢治)
天理教交声曲「元の理」(1975年)
混声合唱「西海ラプソディー」(1977年 堀口大學)
合唱と管弦楽のための「北九州」(1977年 栗原一登、一般的に「合唱組曲『北九州』」と呼ばれることが多い)
混声合唱組曲「大阿蘇」(1978年 丸山豊)
合唱と管弦楽による交響詩「伊万里」(1978年 片岡繁雄)
混声合唱組曲「北の大地」(1979年 小野寺与吉)
慮遮邦仏(大佛)賛歌(1980年 堀口大學)
合唱と管弦楽のための「横須賀」(1982年 栗原一登)
合唱と管弦楽のための「唐津」(1982年 栗原一登)
女声合唱とハープ5台のための「奈良・壺坂寺印度渡来大観音開眼音楽」(1983年 常磐勝憲)
独唱、混声合唱、オーボエ、ピアノのための組曲「木曽路」(1983年 辻井喬)
混声合唱組曲「玄海」(1984年 丸山豊)
独唱・混声合唱・クラリネット・ピアノのための組曲「紀州路」(1984年 辻井喬)
女声合唱とピアノのための「燕の歌」(1985年 ガブリエーレ・ダヌンツィオ;上田敏訳)
天理教交声曲「ひながたの道」(1985年 中山もと)
独唱・混声合唱・フルート・ピアノのための組曲「長崎街道」(1986年 辻井喬)
合唱と管弦楽のための「東洋大学創立百年記念楽曲“讃えんかな東洋大学”」(1987年 栗原一登)
ソプラノ・ソロ、女声合唱、2台のピアノのための「巴里小曲集」(1987年 西條八十)
混声合唱組曲「筑後風土記」(1989年 栗原一登)
合唱と吹奏楽のための「東京歯科大学創立百周年記念讃歌“築かん明日を”」(1990年 栗原一登)
混声合唱組曲「川のほとりで」(1990年 江間章子)
吹奏楽
ブリヂストン・マーチ(1955年)
祝典行進曲(1959年)
行進曲「ビア・フェスティバル」(1962年)
オリンピック序曲(1964年)
キスカ・マーチ〜東宝映画「太平洋奇跡の作戦 キスカ」より(1965年)
行進曲「青年」〜東宝映画「戦場にながれる歌」より(1965年)
JASDF March <航空自衛隊行進曲>(1968年)
若楠国体行進曲[序曲付き]〜第31回国民体育大会佐賀県実行委員会制定(1974年)
行進曲「伸び行く佐賀」(1974年)
吹奏楽のための「奏鳴曲(ソナタ)」(1976年)
行進曲「べっぷ」〜別大毎日マラソン25回記念 <マラソン行進曲>(1976年)
ブラスオーケストラのための組曲「行列幻想」(1977年)
行進曲「海の若者(わこうど)」(1978年)
行進曲「京都府の歌」(1984年)
行進曲「マツダ」(1984年)
行進曲「希望」〜全日本吹奏楽連盟創立50周年記念曲(1987年)
パシフィック・フリート <太平洋艦隊>(1988年)
福岡国体行進曲(1990年)
新・祝典行進曲(1993年)
組曲「わが街に」より“前奏曲”(1994年)
機動隊行進曲「希望のあしおと」(1998年)
March Tanabata(2000年)
March “YOKOSUKA”
映画音楽・放送音楽
ラジオ体操第2(3代目)(NHK)
大仏開眼(衣笠貞之助監督)
夫婦善哉(豊田四郎監督)
雪国(豊田四郎監督)
ここに泉あり(今井正監督)
潜水艦イ-57降伏せず(松林宗恵監督)
ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐(松林宗恵監督)
太平洋の翼(松林宗恵監督)
世界大戦争(松林宗恵監督)
台所太平記(豊田四郎監督)
太平洋奇跡の作戦 キスカ(丸山誠治監督)
馬鹿が戦車でやって来る(原作および音楽、山田洋次監督)
童謡
おつかいありさん(関根栄一)
ぞうさん(まど・みちお)
やぎさんゆうびん(まど・みちお)
カタツムリ(文部省唱歌)
校歌・学歌・その他
「團伊玖磨の楽曲一覧#校歌・自治体歌」を参照
著作
現代音楽に関する3人の意見(中央公論社 1956年)
朝の国 夜の国 世界音楽紀行(中央公論社 1957年)
エスカルゴの歌(文化服装学院出版局 1964年)
不心得12楽章 ぼくの女性へのアドバイス(文化服装学院出版局 1964年)
パイプのけむり(朝日新聞社(1965年 - 2001年、全27巻)
ダンヒルたばこ紳士 (The Gentle Art of Smoking)(翻訳書、アルフレッド・H・ダンヒル著 朝日新聞社 1967年)
かんう゜ぁせいしょん・たいむ 團伊玖磨音楽的対話集 (音楽之友社 1969年)
大佛次郎、石田博英、新珠三千代、横山隆一、黒柳徹子、池田弥三郎、藤間紫、海老原喜之助、藤山愛一郎、加山雄三、村山未知、岡本太郎、安達瞳子、朝倉攝、有吉佐和子、三笠宮崇仁親王、渡辺紳一郎、堀田善衛
九つの空(朝日新聞社 1971年)
毒ヘビは急がない(対談集 読売新聞社 1973年)
遠藤周作、桐島洋子、羽仁五郎、岸恵子、檀一雄、渥美清、水谷八重子、田辺茂一、栗原小巻、河原崎長十郎、宮沢俊一、開高健、大沢市助、森英恵、田中真紀子、横井庄一、山口瞳、奥野英樹、黒柳徹子、今日出海、淡島千景
さしたる用事はなけれども (対談集 読売新聞社 1973年)
高峰三枝子、武蔵川喜偉、宮本正、金田一春彦、丸谷金保、畑正憲、大竹省二、鰐淵晴子、武田泰淳、芥川也寸志、酒井美意子、小山内宏、浅利慶太、河野洋平、ディック・ミネ、大町北造、サトウサンペイ、井上ひさし、小笠原英法
僕のハロー・グッドバイ(朝日新聞社 1973年)
團さんの談話室 もっと自由でなくちゃ(集英社 1974年)
日本音楽の再発見(講談社現代新書 1976年)
舌の上の散歩道(朝日新聞社 1976年)
朝日小事典 オーケストラ(朝日新聞社 1977年)
好きな歌・嫌いな歌(読売新聞社 1977年)
音楽の小径(読売新聞社 1978年)
八丈多与里(朝日新聞社 1979年)
宴のおもいで(対談集 講談社 1983年)
松山善三/山脇・馬・ヘレン、堀口大學/高橋すみれ子、楊為夫/陳文シ、中里恒子/堤清二、飯田深雪/土井勝/飯田倫子、近藤啓太郎/壇ふみ、佐久間良子/大空真弓、朝倉摂/朝倉響子、武満徹/園田高弘、庄司薫/中村紘子
ひととしごととたべものと 團伊玖磨と語る17人(味の素マイファミリーBooks 1983年)
大塚末子、石毛直道、酒井佐和子、末廣恭雄、越路吹雪、中川志郎、斎藤輝子、落合靖一、早川良雄、森山サチ子、向田邦子、中村喜三雄、大山のぶ代、佐伯義勝、宮平初子、笠原信松、湯沢きよみ
音楽の旅はるか(全3巻 日本交通公社 1983年、1984年、1986年)
追跡 ムソルグスキー『展覧会の絵』(日本放送出版協会 1992年)
NHK人間大学 日本人と西洋音楽−異文化との出会い−(日本放送出版協会 1997年)
私の日本音楽史(NHKライブラリー 1999年)
講演CD「音楽と生活」(収録1989年 NHK 2000年)
青空の音を聞いた 團伊玖磨自伝(日本経済新聞社 2002年)
日向村物語
陸軍軍楽隊始末記
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%98%E4%BC%8A%E7%8E%96%E7%A3%A8
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/758.html
團 伊玖磨 交響曲 第5番
Ikuma Dan: Symphony No. 5, "Suruga" (1965)
I. Andante sostenuto - Allegro moderato 16:17
II. Scherzo (Allegro vivo) 9:06
III. Ten Variations on an Old-Fashioned Theme 15:00
Vienna Symphony Orchestra
Ikuma Dan, conducting
Recorded: June, 1988
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團伊玖磨の交響曲第5番は、作曲者の番号付き交響曲のうち5番目の作品。交響曲第4番と作曲期間が重なっており、初演もほぼ同時期に行われている。
作曲の経緯
1965年1月に着手。同年9月25日、葉山にて完成。
初演
1965年10月19日。團伊玖磨指揮、読売日本交響楽団。沼津市公会堂に於いて。
楽器編成
ピッコロ、フルート2、オーボエ2、イングリッシュ・ホルン、クラリネット2、バス・クラリネット、ファゴット2、コントラファゴット、ホルン6、トランペット3、トロンボーン4、テューバ、ティンパニ、トライアングル、タンバリン、小太鼓、シンバル、大太鼓、チューブラーベル、グロッケンシュピール、ハープ、弦五部(第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス)
構成
演奏時間は約40分。
第1楽章 アンダンテ・ソステヌート ― アレグロ・モデラート
自由なソナタ形式。ユニークな序奏は、弦楽四重奏と弦楽合奏との対話によって進められる。
第2楽章 スケルツォ(アレグロ・ヴィーヴォ)
ゲネラルパウゼが効果的に使用されている。
第3楽章 古風な主題による10の変奏曲
主題はアンダンテ・カンタービレで、16小節にわたってクラリネット(一部オーボエに受け継がれる)により奏される。第7変奏では第1楽章冒頭を思わせる弦楽四重奏により前半が奏される。第10変奏で拍子を激変させ、そのままクライマックスを築く。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC5%E7%95%AA_(%E5%9C%98%E4%BC%8A%E7%8E%96%E7%A3%A8)
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/759.html
橋本 國彦(はしもと くにひこ、1904 - 1949)
交響曲第1番ニ調(1940年)
2.5点
2楽章が面白い。うーんと引き込まれる。他の楽章もわかりやすさの中に凡庸を拒否しており、はしばしにセンスの良さを感じる。
交響曲第2番ヘ調(1947年)
3.3点
2楽章制。1楽章はかなり気に入った。淀みなく進行する音楽がなんとも気持ちいい。品格があり、シベリウスのような豊かな自然と戦争が終わった人類の過去の歴史と未来を思料するような大いなる気分が混ざっていて、胸がいっぱいになるものがある。旋律の一つ一つは平凡だが、交響曲として複雑に組み上げられた結果として意味のあるパーツになっている。20分の大曲だが、もっと聴いていたいくらいだ。2楽章は残念ながらあまりいい曲とは思えない。ピンとこないまま曲が終わってしまう。1楽章がリバイバルするような最後の場面だけ気に入った。
3つの和讃
2.8点
和の心と祈りを多分に含みつつ、マーラー的なしなやかな情感を持った曲。切れ味がよくないのは気になるものの、真摯さと明確な作曲意図があり好意的に聴ける。しかし、一流の音楽というには平凡であることも否めない。
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC
橋本 國彦(はしもと くにひこ、Qunihico Hashimoto、1904年9月14日 - 1949年5月6日)は、日本の作曲家、ヴァイオリニスト、指揮者、音楽教育者[1]。
経歴
東京都本郷生まれ。ヴァイオリンを辻吉之助に師事。北野中学校(現:大阪府立北野高等学校)を経て、1923年(大正12年)東京音楽学校(現:東京芸術大学)入学。安藤幸とヨゼフ・ケーニヒにヴァイオリンを、チャーレス・ラウトロプに指揮法を学ぶ[2]。作曲は信時潔に指導を受けるもほとんど独学であったが、同校研究科で作曲を学ぶ。歌曲『お菓子と娘』『黴』などで作曲家としての名声を獲得。斬新な曲を作る一方ではポピュラーなCM曲や歌謡曲にも手を染めた。なお、この頃ヴァイオリンを教えた弟子に朝比奈隆がいる。
こうして日本の有望な若手作曲家となった橋本は、文部省の命により1934年(昭和9年)から1937年(昭和12年)の間、ウィーンに留学する。エゴン・ヴェレスに師事。アルバン・ベルクの歌劇『ヴォツェック』上演に接したり、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーやブルーノ・ワルターの演奏を聞く。帰国途中に寄ったロサンゼルスではアルノルト・シェーンベルクに師事するなど、積極的に新しい音楽を学んだ。帰国後は日本洋楽界きってのモダニストとして、作曲家・編曲家として活躍。教師としても優れており、1933年(昭和8年)母校の教授に就任。門下には、矢代秋雄を筆頭に芥川也寸志、團伊玖磨、黛敏郎らがいる。1940年代前半には、『学徒進軍歌』『勝ち抜く僕等少国民』などの軍国歌謡や、皇紀2600年奉祝曲の「交響曲第1番ニ調」を作曲した。また十二音技法による創作を試みたりした。
戦後は戦時下の行動の責任を取って母校を辞し、『朝はどこから』などの歌謡曲や、戦火に倒れた人々を追悼するために独唱と管弦楽のための『三つの和讃』、日本国憲法の公布を祝う『交響曲第2番』などを発表した。1949年、胃癌のため44歳で鎌倉にて逝去した。
レコード録音
日本ビクターの専属アーティストとして、自作を指揮した自作自演録音や、ヴァイオリン奏者としてのソロ・伴奏録音を大量に遺している。1943年5月13日、日本人として初めてベートーヴェンの第九(第四楽章のみ)を指揮して商業録音した。尾崎喜八による日本語訳詞で、同年11月新譜として10月に《歓喜の頌》と銘打って発売され、年末のラジオ放送でも使用された。指揮者以外のメンバーは、香山淑子(ソプラノ)、四家文子(アルト)、木下保(テノール)、藤井典明(バス)、国立音楽学校合唱団、玉川学園合唱団、東京交響楽団(現:東京フィルハーモニー交響楽団)である。
他に、日本コロムビアに東京音楽学校のオケ・合唱団を指揮した自作のカンタータ『皇太子殿下御誕生奉祝歌』と、皇紀2600年奉祝曲としてハンガリーのヴェレッシュ・シャーンドルが日本に捧げた交響曲第1番(オケは紀元二千六百年奉祝交響楽団)を指揮して録音している。
代表作
管弦楽曲
交響曲第1番ニ調(1940年)
交響曲第2番ヘ調(1947年)
バレエ音楽『香の踊』(1925年)
スケルツォ(1926年)
バレエ音楽『ヒドランゲヤ・オタクサ』(1927年)
バレエ音楽『幻術師ヤーヤ』(1927年)
感傷的諧謔(1928年)
バレエ音楽『吉田御殿』(1931年)
バレエ音楽『天女と漁夫』(1932年)
満洲大行進曲(1942年)
吹奏楽曲
行進曲『若人よ!』(1937年)
行進曲『興亜』(1943年以前)
室内楽曲
ヴァイオリンとチェロのための『四分音による習作』(1930年)
ピアノ曲
『おばあさん』(1925年)
『行進曲ヘ調』(1927年)
『タンスマニズム』(1933年)
『三枚繪』(『雨の道』『踊り子の稽古帰り』『夜曲』の3曲)(1934年)
『をどり』(1934年)
NHKラジオ体操第3(1946年、2代目)
合唱曲
カンタータ『皇太子殿下御生誕奉祝歌』(1934年)
音楽詩曲『光華門』(1939年、詩:中勘助)
交声曲『英霊讃歌』(1943年、詩:乗杉嘉壽)
歌曲
『垣の壊れ』(1925年、詩:北原白秋)
『なやましき晩夏の日に』(1925年、詩:北原白秋)
『巴里の雪』(1925年、詩:西條八十)
『薊の花』(1928年、詩:北原白秋)
『お菓子と娘』(1928年、詩:西條八十)
『城ヶ島の雨』(1928年、詩:北原白秋)
『斑猫(はんみょう)』(1928年、詩:深尾須磨子)
『黴(かび)』(1928年、詩:深尾須磨子)
『笛吹き女』(1928年、詩:深尾須磨子)
『あぶくなら』(1929年、詩:浜田広介)
『親芋子芋』(1929年、詩:浜田広介)
『お六娘』(1929年、詩:林柳波)
『旅役者』(1929年、詩:北原白秋)
『百姓唄』(1929年、詩:北原白秋)
『富士山見たら』(1929年、詩:久保田宵二)
『舞』(1929年、詩:深尾須磨子)
『田植唄』(1930年、詩:林柳波)
『幌馬車』(1931年、詩:西條八十)
『スキーの歌』(1932年、詩:林柳波、新訂尋常小学唱歌)
『ぼろぼろな駝鳥』(1933年、詩:高村光太郎)
『羽衣』(1941年、詩:林柳波)
『四季の組曲』(1945年、詩:深尾須磨子)
『三つの和讃』(1948年)
歌謡曲など
『ラヂオ小唄』(1930年、詩:西條八十)
『日活オンパレードの歌』(1931年、詩:柴山晴美)
『廟行鎮決死隊の歌』(1932年、詩:佐伯孝夫)
『大大阪地下鉄行進曲』(1933年、詩:平塚米次郎)
『チェリオ!』(1934年、詩:佐伯孝夫)
『母の歌』(1937年、詩:板谷節子)
『大日本の歌』(1938年、詩:芳賀秀次郎)
『國民協和の歌』(1941年、詩:大政翼賛会)
『大東亜戦争海軍の歌』(1942年、詩:河西新太郎)
『学徒進軍歌』(1944年、詩:西條八十)
『戦ふ花』(1944年、詩:深尾須磨子)
『勝ち抜く僕等少国民』(1945年、詩:上村数馬)
『朝はどこから』(1946年、詩:森まさる、NHKラジオ歌謡)
『アカシヤの花』(1948年、詩:松阪直美、NHKラジオ歌謡、遺作)
弟子
芥川也寸志
朝比奈隆
岩井直溥
大中恩
奥村一
河辺浩市
清水脩
高橋悠治
團伊玖磨
畑中良輔
黛敏郎
矢代秋雄
吉田隆子
その他
日本人作曲家としてはめずらしく広辞苑にも記載されている。
高倉健の1965年の大ヒット曲『網走番外地』は、橋本がペンネームの足利龍之助で作曲した1931年公開の日活映画『レビューの踊子』の主題歌が原曲とされる[3]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E6%9C%AC%E5%9C%8B%E5%BD%A6
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/760.html
橋本 國彦 交響曲第2番
Kunihiko Hashimoto: Symphony No 2 in F "Celebration Symphony" (1947)
Conductor: Takuo Yuasa
Orchestra: Tokyo Geidai Philharmonia
I. Allegro Moderato (0:00)
II. Finale (15:08)
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交響曲第2番は、1947年に橋本國彦が新憲法施行記念祝賀会のために作曲した2楽章から成る交響曲。別名「祝典交響曲(ヘ長調)」[1]。
作曲の経緯
1946年、母校東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)教授の職を辞した橋本が、同年発足した憲法普及会の委嘱を受けて書いた。普及会は日本国憲法施行を記念する音楽の作成を委嘱するに当たって「終戦後低迷を続けている音楽界に対し初めて本格的な管弦楽曲創作の動機を提供するという文化的意義と共に、日本現代音楽の水準を世界に示すという国際的な役割をも果たすことになる」[2]との認識に立っていた。普及会は橋本のほか、小宮豊隆(東京音楽学校校長)、信時潔(同校作曲科講師)、長谷川良夫(同教授、橋本の後任)と協議し、交響曲を橋本が、カンタータ(「偉おおいなる朝」)を長谷川が、国民歌(「われらの日本」)を信時が作ることとした。
自筆譜によると1947年3月4日から4月16日にかけての短期間に、鎌倉極楽寺の自邸で作曲された。草稿が少なくとも3種あり、戦中にさかのぼる構想をこの機会にまとめたものとみられる。草稿からはスケッチの後にピアノ譜を作り、オーケストレーションを行うという手順をとったことが分かるという[3]。
初演と録音
本作品は、1947年5月3日15時から東京・帝国劇場で開かれた「新憲法施行記念祝賀会」における最初の演目として、橋本自らが指揮し東宝交響楽団(現在の東京交響楽団)により初演された。この模様はラジオで全国に中継放送されたほか、NBCがアメリカ向け放送の番組に選んだ。本作品はその後数回演奏された後、長く忘れられることとなった。
2001年ごろ名古屋フィルハーモニー交響楽団(名フィル)のコントラバス奏者・岡崎隆が東京の日本近代音楽館で自筆譜のマイクロフィルムを見つけ、名フィルに来る指揮者たちに本作品を紹介した[4][5]。その中に湯浅卓雄がおり、湯浅の指揮による藝大フィルハーモニアの演奏でCDが発売されることとなった。2011年2月東京芸術大学奏楽堂で録音され、同年11月に発売された(Naxos Japan『日本作曲家選輯 橋本國彦:交響曲第2番/三つの和讃/感傷的諧謔』8.572869J)。世界初CD化を謳い、2011年度文化庁芸術祭に参加した。
楽曲
橋本は新憲法施行祝賀会プログラムで「この曲は平和の喜びの歌と舞踏と行進を、ソナタ形式と變奏形式とによって表現されてゐる。樂曲は各樂章に一貫した同一主題が使用されて居り行進の最後の頂點に於て、動機による平和の鐘が打鳴らされ、歡喜の中に結ばれる」[1]と解説している。
楽器編成
ピッコロ1、フルート3、オーボエ2、イングリッシュ・ホルン1、クラリネット3、バス・クラリネット1、ファゴット2、コントラファゴット1、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、テューバ1、ティンパニ1、打楽器(シンバル、小太鼓、大太鼓、トライアングル、チューブラベル)、ハープ、弦楽5部(6–5–4–4–3プルト)
楽曲構成
二つの楽章から成る。演奏時間は34分ほど。
第1楽章
アレグロ・モデラート ヘ長調 3/4拍子。全551小節。
ソナタ形式
第2楽章
アッラ・マルチア ヘ長調 4/4拍子。全374小節。
変奏形式
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC2%E7%95%AA_(%E6%A9%8B%E6%9C%AC%E5%9C%8B%E5%BD%A6)
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冥王星の発見から91年。科学者の想像をかき立てた幻の「第9惑星」が準惑星に転じるまで
2021.10.03
https://www.gizmodo.jp/2021/10/how-pluto-became-a-dwarf-planet.html
author Isaac Schultz - Gizmodo US[原文]( 山田ちとら )
幻の第9惑星に魅せられて。
かつて、太陽系の惑星は6つしかないと考えられていました。土星みたいな巨大ガス惑星は、夜空にひときわ明るく輝くので肉眼でも見られます。でも土星軌道より外側にそんな明るい星は見当たらないどころか、地球からあまりにも遠く離れているので、科学の力に頼るほか発見の手段はありませんでした。
9番目の惑星
人類が望遠鏡で見つけた最初の惑星は天王星でした。1781年、イギリスの天文家・ハーシェルが自作の反射望遠鏡を使って発見し、太陽系の領域をぐっと押し広げました。さらに興味深いことに、天王星の観測された位置が軌道計算から予想される位置とズレていたため、天王星の軌道に影響を及ぼしている未知の惑星の存在が期待されるようになりました。
この期待どおりに海王星が発見されたのは1846年のこと。そして、海王星よりさらに遠くに冥王星が発見されたのは1930年のことでした。
惑星から準惑星へ
若干24歳だったアメリカの天文学者・トンボーが発見した冥王星は、太陽系の9番目の惑星と認定されました。しかし、後に質量が地球のたった0.2%しかないことがわかり、さらには同じぐらいの質量を持った太陽系外縁天体がどんどん見つかるにつれ、惑星としての立ち位置が危ぶまれていきます。そしてついには2006年国際天文学連合で「準惑星(dwarf planet)」に降格され、第9惑星の座を奪われることとなりました。
でも、惑星かどうかなんて知ったこっちゃないってぐらいに、冥王星は人々の好奇心と想像力をかき立ててきました。
ハッブルが捉えたおぼろげな姿
なにしろ地球から冥王星までの距離は最短でもざっと42億キロメートル。そんなに遠くから月より小さな天体の姿を捉えるのは容易ではありません。
こちらは1998年にハッブル宇宙望遠鏡の微光天体カメラが捉えた冥王星の姿(左上)ですが、モザイクがかけられたみたいにボヤけて見えます。中央のつるんとした球体は画像処理を施したイメージ図で、それぞれ冥王星の半球を捉えています。
衛星の存在が明らかに
こちらは同じくハッブル宇宙望遠鏡が2005年に捉えた画像です。右下に輝いているのは衛星の中で一番大きいカロンで、直径は冥王星の半分ほど。冥王星が発見されてから40年も経った1978年に発見されました。
そして、衛星カロンから少し離れて小さく輝いているのが衛星ニクスと衛星ヒドラです。この画像と前後して発見されたばかりだったニクスとヒドラは、 NASAによれば冥王星より5,000倍ほど暗く、冥王星までの距離もカロンに比べて3倍以上。どうりでなかなか見つからなかったわけです。なお、この時点ではまだ衛星スティクスと衛星ケルベロスは発見されていませんでした。
太陽系に残された最後のフロンティア
冥王星は、一体どんな姿をしてるんだろう?
遠すぎておぼろげにしか見えない天体の様子を、人々は科学的データを頼りにあれこれ想像してきました。
こちらの2009年のイメージ画には、隕石が衝突した痕と思われれるクレーターが無数に描かれているほか、大気の様子も表現されています。冥王星に大気の存在が確認されたのは1998年のこと。非常に薄いながらも太陽に近づくにつれて凍っていたガスが昇華し、膨らむことがわかっています。
地平線近くに見えているのは衛星カロン。地球の月と同じように、公転と自転の周期が一致しているのでいつも同じ面を冥王星に向けています。冷たい光を反射しているのは、メタンの氷塊です。冥王星の表面は主に氷と岩石からできていて、温度はマイナス220℃。気圧は地球の1000万分の1しかありません。
荒涼とした世界
こちらは2015年に描かれたもの。空にうっすらと浮かんでいるのが衛星カロンで、そのはるかかなたに太陽が覗いています。
それまでのハッブル宇宙望遠鏡の観測から、冥王星の表面には窒素、一酸化炭素とメタンの氷があることがわかっていました。また、3,000メートル級の山々が連なっているとも考えられていました。
こちらも同じく2015年に描かれたイメージ画。隕石の衝突によって表面に無数の凸凹ができています。左上に見えているのが衛星カロンです。
冥王星の探査
奇しくも、この年にNASAの探査機ニュー・ホライズンズが冥王星に到達し、至近距離からの観測に成功しました。これまでは想像の世界でしか表現できなかった冥王星の地形や色彩が、一気にディテールを帯びて私たちの目に迫ってきたのです。
こちらがリアル冥王星の姿。ニュー・ホライズンズがフライバイ時に撮影した画像です。
霜が降りたように細かく粒だって見えるのは、「ペニテンテ」と呼ばれる巨大な氷の塔。高層ビル並みの高さを誇り、最長で500メートルもあるそうです。数百万年前に冥王星の表面で凍ったメタンが高度が高いところから少しずつ気化していった結果、今のようなかたちに風化したと考えられるのだとか。冥王星の表面は変化に富んでいることから、地質活動があるとも考えられているそうです。
こちらは冥王星の表面からおよそ3万4000キロメートルの高度から北極圏を捉えた画像で、見やすいように着色されています。ところどころに深い谷が刻まれているのは、地質活動の名残りでしょうか。
直径70キロメートル、深さ4キロメートルにも及ぶクレーターが無数に散らばっていますが、これらは隕石の衝突によるものとも、地下の氷が溶けたことによる地表の陥没とも解釈できるとNASAは説明しています。
冥王星のもっとも有名なイメージといえば、これ。ニュー・ホライズンズ探査機がおよそ7万7000キロメートルの距離から撮影したもので、ハート型の模様が特徴的です。
この写真を地球に送ってから、ニュー・ホライズンズは冥王星にさらに接近し、大気の成分や表面の様子などを観測しました。そしてスイングバイ終了後は、さらに太陽から離れたエッジワース・カイパーベルト天体を目指して今も旅を続けています。
ニュー・ホライズンズが接近時に捉えた冥王星の姿が、こちらです。
また、ニュー・ホライズンズは衛星カロンの姿も克明に捉えていました。こちらの画像は2015年7月に撮影されたものです。
地球と月と、冥王星とカロン。大きさは違えど、このふたつのペアの関係性は類似しています。月が地球の盾となっているのと同様に、衛星カロンも冥王星を守っているのでしょうか。ふたつはかつて同じ天体だったのでしょうか。
カロンに刻まれた深い谷やクレーターは、激動の過去を物語っているようにも見えます。
冥王星の過去、そして今
冥王星が発見されて今年で91年。その間、人類の観測技術がこと足りなかったせいで、長らく詳しいことはわからずじまいでした。
NASAの探査機が初めて接近し、観測に成功したことで、冥王星がどんな天体であるのかが詳細に解明されつつあります。そしてトンボーが発見した当時から映像で改めて振り返ってみると、冥王星がただのボヤけた球体だった頃からはずいぶんと理解が進んできていることを実感できます。
発見から91年経った今も、軌道の半分すら周りきれていないぐらい大きな大きな弧を描いて太陽をめぐっている冥王星。惑星であれ、準惑星であれ、太陽系の中で最も手の届きにくい、もっとも謎めいた天体であることは確かです。
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ヘンリク・ミコワイ・グレツキ(1933年12月6日 - 2010年11月12日)
ヘンリク・ミコワイ・グレツキ(ポーランド語: Henryk Mikołaj Górecki, 1933年12月6日 - 2010年11月12日)は、ポーランドの現代音楽の作曲家。
略歴
ポーランド南部チェルニツァ(ポーランド語版)(当時はドイツ領)生まれ。カトヴィツェに移る20歳になるまで、彼は勤勉な勉強家ではなかった。その後、パリで研鑚を積む間に、当時ポーランド政府の弾圧により聴くことの出来なかったアントン・ヴェーベルンやオリヴィエ・メシアン、カールハインツ・シュトックハウゼンの作品と出会う。やがてグレツキはカトヴィツェで音楽教授となるが、1970年代後期にヨハネ・パウロ2世のカトヴィツェ市訪問をポーランド政府が許可しなかったため、それに抗議して教授職を辞任する。
作風
第1期
デビュー時の彼の作品はピエール・ブーレーズを始めとするミュジックセリエルの作曲家らと同じく前衛的な様式に基づくものであり、ルイジ・ノーノが「INCONTRI」と題した作品を発表すると「SCONTRI」という題名の曲で切って返すほどの挑発的な存在であった。第一次ポーランド楽派の最優等生として評価され、ミヒャエル・ギーレンや甲斐説宗に絶賛された。「Genesis III」で見られる音によるアナキーズムへの挑戦、交響曲第1番のグロテスクなモノディー、「Scontri」の鉱物的なクラスターの響きは、正に当時の前衛そのものであった。
セリーを用いた作曲に於いても、断定的な沈黙が多く見られる。「単音と沈黙」の対比から徐々に「瞬間的な音響と沈黙」へと傾斜し、作風が変化した第2期や第3期でもこの傾向は顕著である。1960年代前半からノイズ音響を解禁し、単なる半音階クラスターや複雑な和声よりも大きな効果を引き出している。なおかつリズム的なソルフェージュは前衛世代よりも容易に行える為、多くの模倣者がグレツキの後に続いた。その後、突如として宗教性を打ち出して第2期へ歩んでゆく。
第2期
この時期以降は調性的側面への傾倒や巨大なモノフォニーなどを追求し、結果的に理解されやすい作風となったとも言える。まず初めに1963年作の弦楽合奏のための「古風な様式による三つの小品」が来る。この曲はドリア旋法で演奏が容易なのでしばしば初心者の弦楽オーケストラによって演奏されるが、交響曲第三番の下地になったのは言うまでもない。「交響曲第2番」以降のグレツキの音楽は、16世紀以前のカノン技法から現代にいたる音楽様式を参照しているものの、ペンタトニックの試験的仕様の後に、単純な三和音やオクターブを用いる傾向がある。彼の音楽はholy minimalismと称され、しばしばミニマリズム(minimalism)と比較される。同じく度々比較されるアルヴォ・ペルトの様に、グレツキの作品に宗教的信仰を反映するものが多いのは、カトリック教徒ゆえの信仰心からきている。
交響曲第2番「コペルニクス」や「MUZYCA IV」では平易なメロディーラインに巨大な音響を付随させるといった策で、前衛以後の潮流に乗ろうとするが、すでにいくつかの瞬間で単純な和音の反復や宗教性を徐々に帯び始めている。1970年代後半には、ついに全音階主義に立ち返った。
第2期を締めくくった交響曲第3番「悲歌のシンフォニー」は全作品中とりわけ有名である。この作品は1976年に作曲され、翌年ドイツのSWRで初演された。この交響曲はオーケストラとソプラノ独唱のために書かれ、3楽章形式を採用している。第1楽章では15世紀に書かれた哀歌、第2楽章ではザコパネに在るゲシュタポ収容所の独房の壁で発見された言葉、そして第3楽章では民謡からそれぞれ歌詞が使われている。延長されたカノンが延々と弦楽器群によって歌われる第1楽章(全演奏時間の約半分を占める)を持つこの作品は、全体にわたりスローテンポに徹し、同時に極めて沈思的である。1993年にノンサッチ社から発売されたデイヴィッド・ジンマン指揮、ロンドン・シンフォニエッタ、ドーン・アップショウ(ソプラノ)による録音はベストセラーとなった。これはベストセラーになることを当初全く予期しておらず、単なるグレツキのロンドン・デビュー以上のものではなかったと伝えられている。実際はとある放送の番組内でテーマ音楽としてこの曲の第2楽章を取り上げ繰り返し放送したことが、イギリスの人口に膾炙した原因である。間もなく、翌1994年にナクソスからもアントニ・ヴィト指揮によるCDが発売された。その後もこの作品のCD録音は増え続けている。この音楽は1980年代初期に有名になる前に旧作「古風な様式による三つの小品」と共に嶋津武仁がすでに日本に持ち込み、ボグスワフ・シェッフェルの1976年の著作の「作曲への誘い」の日本語訳と平行して、スコアが手に入らなかったので音だけでアナリーゼが試みられた。
第3期
1990年代はこの作品のヒットによってholy minimalismの潮流に乗る作曲家が次々と紹介され、グレツキはその生みの親のように認識されるようになった。グレツキはこの作品のおかげで世界中で講演を行った。クロノス・クァルテットとのコラボレーションで知られる「弦楽四重奏曲第2番」あたりからは、死を暗示する沈黙の使用が目立ってくるが、この沈黙もブロック構造の中に取り込まれているので、特に厭世的には聞こえない。この時期から彼は体調不良を訴えることが増え、創作数が激減する。その後も特に目立った作風の変更はなく、同路線での作曲活動を細々と続けた。
死
2010年11月12日、カトヴィツェの病院にて死去[1]。76歳没。
エピソード
1978年にはミコワイ・グレツキと名づけた息子が生まれ、現在はミコワイも作曲家として世界中で活躍中である。
グレツキ門下の最優等生であったアンジェイ・クシャノフスキを1993年に亡くした後は、創作ペースが極めて落ち込むようになった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%83%84%E3%82%AD
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ヘンリク・ミコワイ・グレツキ 交響曲第3番「悲歌のシンフォニー」
Henryk Górecki Symphony no. 3 - Dawn Upshaw (soprano); David Zinman & London Sinfonietta
the London Sinfonietta
Dawn Upshaw, soprano
David Zinman
Movement One: Lento-Sostenuto tranquillo ma cantabile - 0:00
Movement Two: Lento e largo-Tranquillissimo - 26:42
Movement Three: Lento-Cantabile-semplice -
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交響曲第3番『悲歌の交響曲』(ポーランド語:Symfonia pieśni żałosnych)作品36は、ヘンリク・グレツキの代表作のひとつであり、20世紀後半において最も成功した交響曲のひとつでもある。
背景
共産主義政権下では、現代芸術は当局からしばしば「形式主義」と批判され、好意的とはいえない政治的環境の下に置かれていたが、1956年に現代音楽祭「ワルシャワの秋」が始まったことで戦後ポーランドの作曲家たちは、前例のないほどの創作の自由を享受することができた[1]。グレツキは前衛的作曲家たちの間で、初期の実験的な不協和音やセリエル音楽的作品で広く知られるようになっていた。1960年のワルシャワの秋で好評を博した「Scontri」や、1961年のパリ青年ビエンナーレで第1位を受賞した交響曲第1番のような現代的作品を通して、グレツキは国際的な音楽シーンに登場した[2]。1960年代を通して、グレツキは、ピエール・ブーレーズやカールハインツ・シュトックハウゼンら、実験的作曲家やセリエル音楽の作曲家たちとの交流を続けた。
1970年代に入ると、グレツキは、初期の作品に見られたセリエル音楽や極端な不協和音などの要素から、徐々に離れ始め、交響曲第3番では、その少し前に発表された合唱曲「euntes ibant et flebant」(作品32、1972年)や「Amen」(作品35、1975年)と同様に、以前用いていた技法を完全に放棄している。グレツキの交響曲第3番における変奏の欠落と、繰り返しへの依存は、後年の作品に見られる和声的ミニマリズムと一層単純化されたテクスチュアへとグレツキが進んでいった過程における、ひとつの段階を示すものであった[3]。テクスチュアの単純化は彼の初期からの特徴であったが、これに三和音とオクターブを加えたのである。
この時期のグレツキの作品がもっている宗教的性格から、批評家も音楽学者も、しばしばグレツキを、根源的に単純化された音楽のテクスチュア、調性、旋律を追求し始めた、また、宗教的意味を帯びた作品を作るようになった、他の現代作曲家と結びつけようとした。同様の考えをもっていた、アルヴォ・ペルトやジョン・タヴナーのような作曲家たちは、しばしばグレツキと一緒に、ホーリー・ミニマリズム(英語版)という用語でまとめられたが、そのように括られた作曲家たちは、何らかの共通の影響があったとは誰も認めなかった。
作曲、初演
作曲時期:1976年
初演:1977年4月4日、フランスのロワイヤンで開催されたロワイヤン国際現代芸術祭(フランス語版)において、エルネスト・ブール指揮、南西ドイツ放送交響楽団、ステファニア・ヴォイトヴィチ(ソプラノ)により初演された[4]。
初演後しばらくの間は、まだこの交響曲は謎に包まれた作品であったが、80年代頃から日本の作曲科の授業でアナリーゼ用に研究され始められた。
演奏時間:54分。
出版はチェスター社とPWMが行っている。もともとはPWMのみの販売のはずなのに、チェスターはこの作品の人気のために契約に走ったと物議をかもした。
編成
この交響曲は、管弦楽とソプラノ独唱のための交響曲である。 フルート 4 (うち2本はピッコロ持ち替え)、クラリネット 4、ファゴット 2、コントラファゴット 2、ホルン 4、トロンボーン 4、ハープ、ピアノ、ソプラノ独唱、弦五部
曲の構成
3つの楽章から構成される。全楽章を通じて非常にテンポはゆっくりである。形式的には、古典的な「交響曲」の形式からは大きく逸脱している。
第1楽章 Lento
第1楽章の歌詞は15世紀のラメントに取材されている。中央を頂点とする3部旋法性で作られたカノン形式。
第2楽章 Lento e largo - Molto lento
第2楽章の歌詞は、ゲシュタポ収容所の壁に書かれた言葉に取材されている。
第3楽章 Lento - Lento e largo - Molto lento - Largo ben tenuto
第3楽章の歌詞は民謡からとられている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC3%E7%95%AA_(%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%83%84%E3%82%AD)
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/764.html
2. 中川隆[-16153] koaQ7Jey 2021年10月04日 04:31:44 : HNQh6kvMDI : aE12RU5RYUJ5ZmM=[2]
グレツキ 交響曲第3番 「悲歌のシンフォニー」
Górecki: Symphony No.3 "Symphony of Sorrowful Songs"
デイヴィッド・ジンマン指揮 ロンドン・シンフォニエッタ 1991年
David Zinman
London Sinfonietta
ソプラノ:ドーン・アップショウ Dawn Upshaw
切なくて泣きそう
録音状態は良い。1992年頃、ロンドンのラジオ曲で繰り返して流されたことから、大ヒットになったCDである。
グレツキの交響曲第3番は、「悲歌のシンフォニー」とも「悲しみの歌の交響曲」とも呼ばれている。
1933年に生まれた作曲家 グレツキさんの代表作で、「ゲンダイオンガク」というカテゴリーにはなるのだろうけど、ワケのわからん無機質的な曲ではなく、古典的なフレーズで、とっつきやすい聞きやすい曲である。
このジンマン盤は、1992年頃、ロンドンのラジオ曲で繰り返して流されたことから、流行ったCDである。
流行ったと言うには、う〜ん。曲の背景にあるモノの悲しみが深すぎて、大きすぎて〜
ちょっと言葉に詰まってしまうし、気が引けるのだが・・・。
グレツキの生誕地はポーランド、そして、アウシュヴィッツ収容所のあった場所である。
この交響曲は、そんな大虐殺が行われた時空間を超えて、悲しみを超えて、なんとも言えない祈りが詰まっているような気がする。交響曲3つの楽章に分かれているが、まず1楽章では、15世紀頃の哀歌を元にしたフレーズ。2楽章では、ソプラノ独唱が入ってくるが、この歌詞は、アウシュヴィッツ収容所の壁に残っていた言葉だという。
1楽章
冒頭は、かなり暗く、コントラバスだけが、ゆったりと、フレーズを繰り返す。
このコントラバスに、低弦のチェロ、ビオラって感じに、段々と膨らんでいくのだ。決まったフレーズを、カエルの歌が 聞こえてくるよ〜 の輪唱のように、ずれながら〜 旋律が、だんだんと高い音域の楽器に引き継がれていく。
実際、最初のコントラバスの音はとりづらく、チェロが入ってきて、ようやく人の声に近くなって、音の形が見えてくる。ホント、最初は音が聞き取りづらく、えっ なにモゾモゾ言っているんだろ〜って感じである。
「らぁらどし〜 らそふぁ〜 みそふぁ〜 みふぁそ どれし」
「れ〜れふぁみ〜 れどし〜 らどし〜」
いろんな楽器が集まってきて、段々と膨らんで来るところが、すごく、じわじわ〜っと迫ってくる。
短いフレーズが綾なす深みが、う〜ん。繰り返されることで、浮き上がり、そして沈む。
ヴァイオリンの高音域が重なってくると、なんとも美しい世界になって、これが浄化されるということなんだろうか、なんて感じたりして、、、。
旋律はシンプル 古典的なカノンで、ここまで美しく歌えるなんて、気持ちをひっぱって来るなんて〜
途切れないフレーズに埋もれ、知らぬ間に鷲づかみされて、締め付けられる。
最後は消え入るように、「らぁらどし〜 らそふぁ〜 らそふぁ〜」
「ふぁ〜 ふぁ〜 ふぁ〜」という、静かな鐘のようなピアノの音が入って、ソプラノのソロが入ってくる。
2楽章は、「ふぁら〜そぉ〜 ふぁら〜 そぉ〜」という柔らかい音から始まる。
アップショウさんの声が一段と大きくなって〜
ゲシュタポ収容所の壁に書かれた言葉に取材されているという、お母さま、どうか泣かないでください〜と歌われているそうである。さっぱり言語はわからないのだけど、身につまされる歌声で。ぐっすっ。
3楽章は、戦争で子供を亡くした母親の歌であるとのことだ。
オケの音は、これも繰り返し繰り返し〜 フレーズには抑揚が少なく、音の動きも狭い。
こんなところで比較するもの憚れるが〜 マーラーの6番悲劇的のような、ドスン、ドヒャン、だだだっぁ〜 なんていう大袈裟な強烈な音楽ではない。
それなのに、なんで、こんなに妙にじわ〜っと来るんだろ。明るい光が入ってくるような。これが祈りでしょうかねえ・・・。厳粛さと共に泣かせられる。
ジンマン盤は、録音状態はすこぶる良いとは言えないが、息づかいが適度に深めで、音質に温かみがあって、人肌の暖かさを感じる演奏だ。
厳粛さもあり、繰り返し、揺らぎのなかで構成された音楽。大変、ゆったりとしたテンポが特徴で、繰り返し繰り返し、じわじわ〜っと迫ってきては、すーっと目の前を通り過ぎていくような楽曲で。
しんみり、じんわり〜 気がついたら、目頭が熱くなって、ぐすんっ。なのである。
この曲の背景には、全く救いが存在しないのだが、聴いていると救いが生まれてくるいう不思議な感覚に陥ってしまう。この曲を聴いていると、単なる癒しでは、収まりきれない世界が広がっている。
しかし、救いのない世界に、癒されている気分になって、どーもイカン。
救いって、どーいうことなんだろ。っと改めて感じないわけにはいかず・・・。かといって、やるせないような気分になり、無気力感にも襲われてしまう。
ワタシは、まだ、ぐるぐるマワル旋律に目眩を感じながら、はぁ〜っと、この楽曲のなかで歌われる母性に 溜息をついている。
録音状態は良いが、少し温かみのある、太めの線で奏でられている。それが、また、大きな母性的な響きとなっているかもしれない。救いや祈り、そのなかでも母性愛的な〜と感じさせられるモノは、う〜ん。
やっぱり、永遠なモノなのだ〜と思いながらCDを聴いている。
カジミェシュ・コルド ワルシャワ・フィル 1993年
Kazimierz Kord
Warsaw Philharmonic Orchestra
ソプラノ:ヨアンア・コショウスカ Joanna Kozlowska
昇天しちゃいました
録音状態は極めて良い。ホール感のある、透明度の高い演奏だし、低音の響きが、じわじわ〜っとうねり、漂い、見通しよく鳴り出して来る。
グレツキの第3番「悲歌のシンフォニー」は、ジンマン指揮のロンドン・シンフォニエッタ盤が有名だが、このワルシャワ・フィル盤は、録音状態が良い。
声楽の方は、ポーランド語なので〜なにせさっぱり言語が解らないのだが、これは、やっぱりオクニモノとしてワルシャワ・フィル盤の方が良いかもしれないし、演奏も、弦のカノンで、ずーっと続く1楽章の弦の重なりが、すばらしく明瞭で、均一化していて、静かに大きく揺らぐ様が見えてくるようである。
最初の恐ろしく低い弦のフレーズも、見事に聞こえる。
「らぁらどし〜 らそふぁ〜 みそふぁ〜 みふぁそ どれし」 というフレーズを、輪唱状態で追いかけつつ、旋律がうねり出すのだが、このコルド盤は、透き通った風通しの良さを感じる。
最初は、弦のパート数も少ないのだが、最高で10声部というから、う〜ん。頭のなかでゴチャゴチャになりそうになりがちがだが、それが絡まないのだ。
ワタシの耳はお粗末なので、全てを聞き取れる耳ではないのだが・・・。
まあ、主旋律主体というのではなく、それぞれの声部が、寄り添いながら、奏でられているという感じがして、見通しの良さと共に、適度な重さで、うねるのである。重すぎず〜 イヤミなく鳴ってくる。
コルド盤は、静かに、密やかに、目を閉じて、じーっくりと聴きたい曲だ。
チェロの音質が、しっとりと、適度な距離で流れてきて、妙にワタシの心にマッチする。
なんて言うか、この演奏は、ホント適度な距離感を感じる。
前半はチェロが、そして後半の方はヴァイオリンが、しっかりと旋律の芯として機能し、さりげなく、高い弦の音は、空で音が舞うような感じで、音が漂っている。
そして、高音域に入ってくると、空中で音が鳴っているような、ふわっ と一瞬にして、音が高く、うえに舞ったような感じに思えるのだ。収録しているホールは、天井が高いのだろうか。ここが、一瞬、教会のような感じがする。
ワルシャワ・フィルの本拠地であるコンサートホールだろうが、思わず、ここが、カテドラルではないかという錯覚に陥った。まるで、パルテノン神殿のように、天井に穴があいているかのように〜
2楽章
ソプラノのヨアンア・コショウスカ さんの声は、録音の良さもあいまって、中庸の美というか、甘くもなく、悲しみ深すぎず、かといって、情緒もあり〜 この演奏と合っている。妙な感情移入が無いというか、それを超えているというか。
なんだか、ワタシ的には、谷間の流れ出てくる清水のような〜 湧き水が流れてくるところの、活き活きとした瑞々しい、黄緑色をした苔のような〜 岩肌を滑って流れてくる清らかな水のように感じる。
お母さま、どうか泣かないでください〜と歌われている筈なのに、どーして、こんなイメージが湧いてくるのだろうか。はあ。ワタシには、メチャ悲しすぎる。
3楽章
このコルド盤は、かなり、ゆったりと歌われる。戦争で子供を亡くした母親の歌であるとのことだが。
「そぉら そぉら そぉら そぉら〜」というフレーズが、底流に流れて、この透明度が高いので、悲痛さはあまり感じないのだが、じわじわ〜っと染み入って来る。
静かに眠りにつきたいが、眠れないような感じがする。
「しら そら しら そら〜 そぉら そぉら」と繰り返され、段々と大きくなって、「しら れど しら しら れどしら そら れど しら れど〜」と、オルガンの和音のような響きに繋がって、大きく包まれていく。
う〜ん。この曲に関しては、あまり多くの言葉が要らない感じがする。
ジンマン盤は有名な盤だが、録音状態はコルド盤の方が良い。弦の線の太さ、見通しの良さはワタシ的にはコルド盤の方が好きだが、まあ、この曲ばかりは、聴く時の感性によるところが大きいかもしれない。
http://www3.kcn.ne.jp/~mamama/01-symphony/gorecki-sym3.htm
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/764.html#c2
最美の音楽は何か? _ 武満 徹『弦楽のためのレクイエム』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/215.html
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/765.html
旭川のイジメ加害者だと思われている少年・少女もこれからまともに生きれば「旧悪が露見する」事はなくなる。
旧悪は露見するか?
五輪開会式にかかわったクリエーターの二人が、民族差別といじめについての「過去の言動」を掘り返されて職を解かれた。こんなふうに簡単に昔のことを掘り出して炎上させることができる時代になると、誰でもがプライバシーを侵害されるリスクがある。
僕の行ってきたイジメや名誉棄損的な発言を批判したいなら、僕の過去のコメントのうちから何であれ「名誉棄損的」な発言を取り出して、批判することは理論的には可能である。ただその場合に、その人はとりあえず手に入る限りの僕のコメントを通読し、かつ過去十年分のコメントすべてを読まなければならない。
たぶんすべてを探せば「名誉棄損的な発言と解釈できなくもない」コメントは見つかるとは思う。だが、私のコメントからそれを探しだすのは「干し草の山から針を探す」作業に近い。おそらく数週間にわたり、朝から晩まで私のコメントを読み続ける(場合によって、その挙句「何も見つからなかった」ということもあり得る)という地獄のようなタスクをこなさなければならない。
どれほどの苦役であろう。
だから、「ネットで検索すれば簡単に旧悪がばれる」という考えそのものに僕は同意しない。「ネットで検索すれば簡単に旧悪がばれる」人がいたとしたら、それはその人にとって「旧悪」ではなく、頻繁に更新され、上書きされてきた「新悪」だからである。今もなお「いかにもそういうことを言いそうな人間」だから、過去のテクストをサルベージしたら「すぐ」にお目当てのものが出てくるのである。
二十年前に「言わない方がいいこと」を言ってしまい、それを消去する手立てがないという場合には、それから後「そういうことを言いそうもない人」たるべく自己陶冶するはずである。
ジャン・バルジャンだって、別に「旧悪が露見した」わけではない。起業して成功し、人望篤い市長になっていたのである。彼の旧悪が明らかになったのは彼が無実の罪を着せられた人を救おうとしたためである。ふつう、心を入れ替えて「よい人」になろうと思って日々努力している人の身には「旧悪が露見する」ということは起こらない。もしかしたら、こいつ「ろくでもないやつ」じゃないのか・・・という疑惑を周囲に抱かせるからこそ「旧悪」を調べるようという気になるのである。
だから「ネット時代になれば、誰でも過去の失言を咎められるリスクがある」というのは事実ではない。仮に過去に恥ずべき失言をなしたことがあったとしても、その後反省して、「そういうことを言いそうもない人」なるべく努力を重ねていれば、その人について「恥ずべき過去があるに違いない。いくら時間がかかっても構わない。徹底的に調べてやろう」という人は出てこない。
ネットというテクノロジーを駆使するのは生身の人間である。生身の人間においてある人物の「旧悪」を探す意欲がむらむらと湧き上がることがなければ、仮に恥ずべき過去があったとしても、それはいずれ忘れられる。それでいいと思う。
旭川のイジメ加害者だと思われている少年・少女に関しても全く同じである。
イジメが事実だったのか、単に被害者の覚醒剤障害による被害妄想だったのかは今となってはもう判断できない。
そもそも被害者が自殺したのはイジメ事件の2年も後なのだから、因果関係すら疑わしい。
少なくともイジメ加害者だと思われている少年・少女がこれからまともに生きれば「旧悪が露見する」事はなくなる。
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/862.html
1. 中川隆[-16152] koaQ7Jey 2021年10月04日 05:46:53 : HNQh6kvMDI : aE12RU5RYUJ5ZmM=[4]
旭川イジメ事件で加害者と言われている少年・少女やイジメを隠蔽したと言われている教育者には責任は全く無い
旭川の教育の荒廃は内地との経済格差と日本政府の北海道無人化政策から生まれた
底辺の子供ばかりの旭川の公立学校では既にドラッグ、レイプ、強制売春が蔓延している
日本政府は札幌以外の北海道全土の無人化を押し進めており、旭川人は仕事を失って食べていけなくなっている。底辺に落ちた旭川人の子供たちはその影響から逃れることができない。
経済格差が広がると、教育もまた崩壊していく。最初にそれが指摘されたのはアメリカだった。アメリカではレーガン大統領時代に入ってからレーガノミクスという今で言うところの「新自由主義」「市場原理主義」を取り入れた。
その結果、国民の間で格差が急激に広がり、金持ちの子供は私立に、貧困層の子供は公立に通うという分離が出来上がり、貧困層が集まる公立校が急激に荒んでいった。暴力が蔓延し、学級崩壊し、いじめも急激に増加した。
それを嫌って金持ち層がますます公立校を避けて私立に向かうようになり、教師も逃げ出したので、さらに公立校が荒廃していった。そして生まれたのが「暴力教室」の出現である。
学校内で、ドラッグ、レイプ、銃撃戦が行われるようになり、授業が成立しなくなった。しかし、そうだと分かっていても、貧困層は公立の学校に子供を通わせるしかない。市立では学費が払えない以上、選択肢はないのだ。
教育が所得で分離し、教育の荒廃がアメリカに大きな影を落とすようになった。経済格差が子供たちの学力の差となり、それが子供たちの人生に大きく悪影響を及ぼすようになったのだ。
経済格差と教育の劣化は比例して起きる現象だ。経済格差が大きい国であればあるほど教育の劣化は大きくなる。親の資産によって子供たちが通う学校が分離し、底辺の子供たちは学級崩壊しやすい環境になるからだ。
貧困層の子供たちは親が教育熱心ではなく、子供の面倒をきちんと見ないこともある。その結果、子供たちは荒れていく。それがそのまま学校の荒廃につながる。貧困層の子供たちが通う学校が学びの場でなくなっていく。
特に、誰でも受け入れなければならない公立校で事態は深刻化する。とすれば、貧困層が特に多い旭川もまた公立校は暴力にまみれていくことになるというのが分かるはずだ。
また、体罰も禁止された。体罰については賛否両論も強いが、それが厳格に禁止されると、秩序を乱す生徒がいても教師は最後の手段が取れない。
口で言っても言うことを聞かない子供は、どこにでも一定数はいる。そういった暴力傾向の強い子供たちを放置するのは学校を無法地帯にするのと同様だ。だから、生徒を退学させることのできない公立校が暴力教室へと変貌していく。
そういった環境での教育は質の低下が著しいので、最終的に教育は破綻する。教育を満足に受けさせるためには私立校の進学が必須になるが、私立校こそが教育費の増大に拍車をかけるものだ。
その結果、中流以下の家庭は荒廃した公立校に向かい、質の悪い教育しか受けられなくなる。それは子供たちの知的レベルの低下につながるので、ますます経済格差は固定化されるという現象と化す。
旭川はすでにその悪循環にはまっている。旭川のどん底《ボトム》の若者たちは、ほとんどが良質な教育を受けられなかった人たちであるが、コロナ禍が終わったらますますどん底《ボトム》の若者たちは増えるのだ。
しっかりとした教育が受けられなかった人、あるいは経済的な事情で低学歴のまま社会に出た若者ができるのは、その多くが非正規・肉体労働・単純労働だけである。これらの労働環境では豊かになるのは難しい。
当然、自暴自棄に落ちる若者も出てくる。一瞬の怒りで引き起こされる暴力や短絡的な事件も加速度的に増えていく。社会のどん底で暴力が渦巻くようになるのは、どこの国でも同じだ。
貧困社会の次は暴力社会がやってくることをよく認識すべきだ。教育がなければ成り上がることもできない。単純労働ではその日暮らしが精一杯だ。
必死で働いたところで、教育がない以上、もはや手遅れであることだけは分かっている。そんな環境に置かれたとき、人間がどのように変質していくかを今から研究しておくべきだろう。
間違いなくどん底《ボトム》で暴力が台頭していくのである。
これは、誰にとっても他人事ではない。教育と常識を学ぶことができず、自暴自棄に陥った人間がまわりに溢れるからである。旭川の社会がそういう子供たちを大量に生み出すことになる。
将来に希望が持てない人間は、鬱々とした不安や、絶え間ない失意や挫折感でいっぱいになる。そして、毎日そのような挫折感と折り合って生活しなければならない。そこに芽生えてくるのが自暴自棄な感情と、反社会的な破壊欲求だ。
今後は旭川の底辺層は想像以上に増えていき、それが旭川の標準的な光景になっていく。そんな中、未来がない状態で生きることになる若者たちの心理は、不満と破壊衝動でいっぱいになっても仕方がない。女は身を持ち崩して売春や風俗へと向かっていく。
▲△▽▼
1996年12月にも、女子中学生を中学校内で集団goukanし、被害者が先生に助けを三回も求めていたにもかかわらず『校内の性行為は自由』という『思想』のため、集団 rape を黙認した事件が旭川であったことを知っていますか?
初めのうちはクラスのマドンナ的存在であった女子生徒に対する、スカートめくりなどの軽度の性暴力から始まったと言われる。男子生徒10人は、女子生徒が1年生の時から胸や尻を触る等を繰り返した。女子生徒が誰にも訴えなかった為、その後行為はエスカレ−ト、中学2年生の夏に男子生徒の一人の家に連れ込まれるようになった。
男子生徒たちは公園や橋の下などで毎朝、kouin をさせた後「今日もおいしい牛乳を有難うございました。」という屈辱的な言葉を言わせていた。
中学3年の5月からは、下着の着用と自由な haiben を禁止した上、公園内のトイレにて kanchou 器具を用いてhaisetuを強要していた。
事件は1994年秋から1996年の冬にかけ2年間にわたって続きました。クラスのアイドル的存在だった真面目な女子中学生が被害者です。舞台となったのは当時の北海道旭川市立北都中学校でした。
犯行に及んだのは地元でも有名だった10人の不良グループです。彼らは学校の廊下をバイクで乗り回すような手のつけられない暴れ者達でした。
被害者女子中学生が不良グループの一人からの告白を袖にしたことがきっかけでした。それから不良グループによる性的暴行が始まりました。
女子中学生は不良グループに性的暴行のために特別教室に連れ込まれそうになった際、通りかかった女性教師に助けを求めています。それを聞いて反応しかかった女性講師は不良達に「帰れ」と一括され、その場を立ち去り何の対処もしていません。
まだ不良達の嫌がらせが初期段階の時、女子中学生は勇気をふるって担任の教師に体を触られることを訴えています。ところが担任は訴えから2〜3日後のクラス会で軽く注意する発言をしただけでした。不良達の暴行はこれを境に一気に凶暴化しており、担任の対応のまずさが浮き彫りになっています。
不良グループ達はいわゆる地元の札付きで、教師達には見て見ぬふりが当たり前という一種の空気感があり、毅然とした姿勢を示せなかったと思われます。
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教員 「だってどうしようもないじゃないですか。止めろと言って止めてくれる生徒なら何回でも言いますよ。でもそうじゃない生徒だっているんです。手を上げて無理やり止めさせれば良かったんですか?」
教員 「手を上げたら体罰。懲戒。変にクビを突っ込めば職を失うんですよ?こんなご時世でどうしろって言うんですか?教員だって人間です。自分の生活を第一にして何が悪いんですか!」
教員 「下手に不良生徒から恨みを買って刺されでもしたらどうするんですか。彼らは悪魔みたいな笑い方をするんですよ。他人を殴っておいて。報復が怖くてもいいじゃないですか。なんでそこまで教員にあれこれ求めるんですか!」
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/718.html#c1
グスターヴ・ホルスト(Gustav Holst, 1874 - 1934)
組曲『惑星』 (1914-17)
火星、戦争をもたらす者
4.5点
5拍子の叩きつけるようなワイルドなリズムや、メロディーも和声もすごくかっこいい。軍神マーズをまさに想起する。
金星、平和をもたらす者
3.5点
優しく美しい。いい曲だが、他の曲と比較しても金星というタイトルのかもし出すイメージがプラスに働いていると思う。
水星、翼のある使者
4.0点
複調の生み出す絶妙の響きと小気味よいリズムとフレーズはかなりセンスが良くて楽しい。
木星、快楽をもたらす者
5点
第一主題も叙情的で有名な中間部のメロディーも、まさに宇宙のように壮大であり、その異次元の巨大さに想いを馳せてしまう。
土星、老いをもたらす者
3.0点
ホルスト本人は一番気に入っていたらしいが、「惑星」に豪快で華やかなものを求める自分としては、長いわりに地味とどうしても思ってしまう。
天王星、魔術師
3.0点
魔術師が魔法を見せるような雰囲気が動機の繰り返しでうまく表現されていて、面白い。
海王星、神秘主義者
3.5点
静かで神秘的な、異世界で白くて冷たい霧に包まれたよう感覚になるような曲。
宗教曲
讃歌『イエス讃歌』
3.3点
惑星と音楽はそっくり。キラキラした宇宙的スケールと神秘的な叙情の融合を見せており、それが宗教曲として活用されて独特の雰囲気を作っている。惑星が好きな人が次に聞いても全く違和感なく、期待通りのものを得られるだろう。
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9
グスターヴ・ホルスト(Gustav Holst / Gustavus Theodore von Holst, 1874年9月21日 - 1934年5月25日)は、イギリスの作曲家。最も知られた作品は、管弦楽のための組曲『惑星』であるが、全般的に合唱のための曲を多く遺している。イングランド各地の民謡や東洋的な題材を用いた作品、また、吹奏楽曲などでも知られる。
人物・来歴
イングランド、グロスターシャー州チェルトナムでスウェーデン・バルト系移民の家系に生まれ、10代のころからすでに作曲を試みていた。1893年、ロンドンの王立音楽院に入学してパリーやスタンフォードの下に音楽を学んだ[1]。王立音楽院ではトロンボーンも学び、卒業後はオーケストラ奏者として生計を立てていたこともある。この学生時代にヴォーン・ウィリアムズと知り合い、とくに故郷を同じくグロスターシャーとすることもあり、親交を深めた。
ホルストはウィリアム・モリスのハマースミス社会主義者協会に参加し[2]、1896年に協会の合唱団の指揮者に招かれた。1901年には合唱団のメンバーであったイソベル・ハリソンと結婚している[1]。1900年に作曲された『コッツウォルズ交響曲』の第2楽章はモリスに捧げる哀歌である[2]。
1895年ごろから[2]ホルストはインド文学に傾倒し、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンでサンスクリットを学んだ。20世紀の最初の10年ほどの間に、交響詩『インドラ』、オペラ『シーター』および『サーヴィトリー』、カーリダーサ『メーガ・ドゥータ』にもとづく合唱曲『雲の使者』、およびリグ・ヴェーダの讃歌にもとづく多数の合唱曲や歌曲を発表している。中でも1913年に初演された大曲の『雲の使者』は自信作であったが成功せず、ホルストはひどく意気消沈している[3]。
ホルストは1898年に王立音楽院を去っていったんカール・ローザ・オペラのトロンボーン奏者および声楽教師の職を得るが[1]、その後は教職につき、1905年から没するまでロンドン近郊のハマースミスにあるセント・ポール女学校(英語版)の音楽教師の仕事の傍ら作曲活動を行った。
1905年に初演された『神秘的なトランペット吹き』にはワーグナーからの強い影響が見えるが、その後はより単純なイギリス民謡に引かれるようになっていった[4]。1910年代にはテューダー朝時代のマドリガルや、バード・パーセルなどの古いイギリスの音楽も好んだ[5]。
『雲の使者』や、アルジェリアの民族音楽に影響を受けて書かれた管弦楽組曲『ベニ・モラ』などの失敗でふさぎこんでいたホルストは、作曲家アーノルド・バックスの弟のクリフォード・バックスとスペインを旅行し、このときにクリフォード・バックスから占星術の知識を得た[6]。おそらくこのことがきっかけとなって、ホルストは組曲『惑星』を作曲した。ホルストの名声は1920年に初演されたこの曲によって一気に高まった。やはり1920年に初演された『イエス讃歌』も大成功であった[5]。ホルストはその後も多くの作品を発表したが、『惑星』以上に名声を博す作品を遺すことはなかった。
1934年、出血性胃潰瘍のためロンドンにて逝去。59歳没。エドワード・エルガーとフレデリック・ディーリアスも同じ年に没している。
エピソード等
小惑星 (3590) のホルストは、グスターヴ・ホルストにちなんで命名された。
家族
妻:イゾベル(Isobel)
子:イモージェン(Imogen、1907年 - 1984年) - 妻イゾベルとの間に生まれた娘のイモージェンもまた作曲家であり、指揮者、音楽学者としても知られる。
主な作品
ホルストはオペラや歌曲・ピアノ曲なども多数作っているが、主に管弦楽曲や吹奏楽曲、弦楽合奏曲が広く知られる。
組曲『惑星』 作品32(管弦楽曲) - 7楽章から成る大編成の管弦楽のために書かれた組曲で、最後の「海王星」では舞台裏に配置された女声合唱が使われる。占星術から着想を得て書かれた作品である。
サマセット狂詩曲(管弦楽曲) - 後にクレア・グランドマンによって吹奏楽用に編曲された。
セントポール組曲(弦楽合奏曲、オプションで木管楽器も追加)
吹奏楽のための第1組曲・第2組曲(吹奏楽曲) - 吹奏楽の分野における古典的な演奏会用作品の一つとして、極めて重要な位置を占める楽曲。
ムーアサイド組曲(ブラスバンド曲、弦楽合奏曲にも編曲) - 他の作編曲家によって管弦楽用、吹奏楽用にも編曲された。
『ハマースミス』(吹奏楽曲、のちに管弦楽曲)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%88
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/766.html
グスターヴ・ホルスト 大管弦楽のための組曲『惑星』作品32
HOLST The Planets Boult - London Philharmonic Orchestra
Sir Adrian Boult, conductor
London Philharmonic Orchestra
Ladies of Geoffrey Mitchell Choir
00:00 I.Mars, the Bringer of War
08:00 II.Venus, the Bringer of Peace
15:29 III.Mercury, the Winged Messenger
19:17 IV.Jupiter, the Bringer of Jollity
27:15 V.Saturn, the Bringer of Old Age
35:40 VI.Uranus, the Magician
42:05 VII.Neptune, the Mystic
Recorded: 12, 30 May 4 June 31 July, 1978, Kingsway Hall & No.1 Studio, Abbey Road, London
Holst: "The Planets", Sir Adrian Boult/New Philharmonia Orchestra, rec 1966 restored
Adrian Boult
New Philharmonia Orchestra
rec 1966 restored
0:09 Mars, the Bringer of War
7:29 Venus, the Bringer of Peace
16:23 Mercury, the Winged Messenger
20:28 Jupiter, the Bringer of Jollity
28:28 Saturn, the Bringer of Old Age
37:41 Uranus, the Magician
44:11 Neptune, the Mystic, The Ambrosian Singers
Holst: The Planets, Boult & LPO (1953) ホルスト 組曲「惑星」ボールト
(00:05) 1. 火星、戦争をもたらす者
(06:50) 2. 金星、平和をもたらす者
(15:10) 3. 水星、翼のある使者
(18:53) 4. 木星、快楽をもたらす者
(26:43) 5. 土星、老いをもたらす者
(35:40) 6. 天王星、魔術師
(41:22) 7. 海王星、神秘主義者
指揮:サー・エイドリアン・セドリック・ボールト
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団&合唱団
(ロンドン・フィルハーモニック・プロムナード管弦楽団などと表記する資料もある)
録音:1953年9月10〜14日 ウォルサムストウ・タウン・ホール (ロンドン) [ニクサ]
Holst: The Planets, Boult & BBCso (1945) ホルスト 組曲「惑星」ボールト
(00:05) 1. 火星、戦争をもたらす者
(07:22) 2. 金星、平和をもたらす者
(15:22) 3. 水星、翼のある使者
(19:06) 4. 木星、快楽をもたらす者
(26:56) 5. 土星、老いをもたらす者
(35:12) 6. 天王星、魔術師
(41:00) 7. 海王星、神秘主義者
指揮:サー・エイドリアン・セドリック・ボールト
BBC交響楽団
Recorded: 2-5 January 1945, Corn Exchange, Bedford
▲△▽▼
大管弦楽のための組曲『惑星』(The Planets)作品32は、イギリスの作曲家グスターヴ・ホルストの作曲した代表的な管弦楽曲である。この組曲は7つの楽章から成り、それぞれにローマ神話に登場する神々にも相当する惑星の名が付けられている。「木星」中間部の旋律は、イギリスの愛国歌、またイングランド国教会の聖歌となっている。
ホルストの代表曲として、ホルスト自身の名前以上に知られており、近代管弦楽曲の中で最も人気のある曲の1つである。イギリスの管弦楽曲を代表する曲であるとも言えるが、むしろイギリス音楽とは意識されず、その枠を超えて親しまれている曲である。ただし、特殊楽器の多用や女声合唱の使用などが実演の障壁になることも多く、全曲を通しての演奏の機会は必ずしも多いとはいえない。
この作品は惑星を題材としているが、天文学ではなく占星術から着想を得たものである。地球が含まれないのはこのためである。西欧ではヘレニズム期より惑星は神々と結び付けられ、この思想はルネサンス期に錬金術と結びついて、宇宙と自然の対応を説く自然哲学へと発展した。この作品は、日本語では「惑星」と訳されてはいるが、実際の意味合いは「運星」に近い。それぞれの曲の副題は、かつては「…の神」と訳されていたが、近年では本来の意味に則して「…をもたらす者」という表記が広まりつつある。かねてよりホルストは、作曲家アーノルド・バックスの兄弟で著述家のクリフォードから占星術の手解きを受けており、この作品の構想にあたり、占星術における惑星とローマ神話の対応を研究している。
作曲の経緯・初演
作曲
作曲時期は1914年から1916年。当初は『惑星』としてではなく『7つの管弦楽曲』として作曲が開始された。これはアルノルト・シェーンベルクの『5つの管弦楽曲』に着想を得たものといわれている。
まず「海王星」以外の6曲はピアノ・デュオのために、「海王星」はオルガンのために作曲された。 1914年に「火星」(8月以前)、「金星」(秋)、「木星」(年末)が作曲され、 1915年には「土星」(夏)、「天王星」(8月頃)、「海王星」(秋)が、そして1916年初頭に「水星」が作曲された。その後、日本人舞踏家伊藤道郎の依頼を受け、『惑星』の作曲を一時中断して『日本組曲』を完成している。
1917年になって、オルガンや声楽を含む大管弦楽のためにオーケストレーションされた。しかし、生涯ホルストを苦しめた腕の神経炎の再発のため、オーケストレーションにおけるホルスト自身の関与は後述する「水星」、ピアノスコアへの楽器の指定、口述などにとどまった(しかし全オーケストレーションの構想はホルスト自身で完成されていたようである)。フルスコア作成の補助のため、ホルストが勤めていたセント・ポール女学校音楽科の同僚ノラ・デイとヴァリ・ラスカー、学生のジェーン・ジョセフと筆記者としての契約を交わしている。オーケストレーションは創造的かつ色彩的であり、英国の作曲家よりもストラヴィンスキーら大陸の作曲家からの影響が強く見られる。
管弦楽法的には複雑ではないものの、ソロとトゥッティ(複数人で同じ旋律を奏でること)を使い分けて音の厚みを変化させたり、同一楽器で和音を奏する(例えば、フルート3本で和音を構成する)など大編成にも関わらず繊細で独特な音色、音響的効果が引き出されている。また声部は基本的に旋律、和音、ベース音など明確に分けられており、大編成のわりに曲の構造はわかりやすい。
「火星」の5拍子など民族的なリズムや、「海王星」などで現れる神秘的な和音など、作曲当時のある種、流行を取り入れているが、その親しみやすさのおかげで20世紀の音楽としては珍しく日常的に聞く機会に恵まれた曲になったといえる。
初演
ロイヤル・アルバート・ホール:1918年に初演が行われた
1918年の9月29日にロンドンのクイーンズ・ホールにおいて、エイドリアン・ボールトの指揮するニュー・クイーンズ・ホール管弦楽団により非公式の初演が行われている。正式な初演は、1920年10月10日にバーミンガムにて行われている。
組曲『惑星』は大編成の管弦楽のために書かれており、オルガンや、最後の「海王星」では舞台の外に配置された歌詞のない女声合唱が使われる。初演に立ち会った聴衆は斬新な響きに驚き、この組曲はたちまち成功を収めた。
『惑星』はホルストの最も知られた作品ではあるが、作曲者自身はこれを佳作の1つとして数えてはおらず、他の作品がことごとくその影に隠れてしまうことに不満を洩らしていた、といわれている。ただ、自身でも何度かこの作品を指揮し、録音も残しており、「土星」は気に入っていたという。
再評価
初演当初は好評をもって迎え入れられたが、同時代の作曲家の意欲的な作品(たとえばドビュッシーの『海』やストラヴィンスキーの『春の祭典』など)と比較してやや低水準と見なされた本作品は、ホルストの名とともに急速に忘れられる道をたどることになり、一時は英国内の一作曲家のヒット作という程度の知名度に甘んじるようになった。今日のような知名度を獲得するのは、1961年頃にヘルベルト・フォン・カラヤンがウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会で紹介したことがきっかけである。カラヤンは続いて同じオーケストラでレコードを発売、鮮明な録音もあって大ヒットとなり、この曲は一躍有名になった。それ以後、近代管弦楽曲で最も人気のある作品の一つとして知られるようになった。また、初演者であるエイドリアン・ボールトにとっては名刺代わりのような曲であり、1945年から1974年までの間に5回の録音を行っている。
構成
作曲当時太陽系の惑星として知られていた8つの天体のうち、地球を除いた7つの天体(すなわち水星、金星、火星、木星、土星、天王星、海王星)に、曲を1曲ずつ割り当てた、全7曲で構成される組曲である。全曲を通した演奏時間は約50分(作曲者が指揮した録音では約42分)である。
「火星」と「水星」の位置が入れ替わっていることを例外として、各惑星は軌道長半径上で太陽から近い順番に配列されている。「火星」と「水星」の位置が入れ替わっているのは、最初の4曲を交響曲の「急、緩、舞、急」のような配列にするためだと言われる。もう1つの説明として、黄道12宮の守護惑星に基づくという説がある。黄道12宮を白羊宮(おひつじ座)から始まる伝統的な順番に並べるとその守護惑星は、重複と月・太陽を無視すれば楽章の順序に一致する。そのため、冥王星は水星と木星の間に来るべきだとする意見もある。
火星、戦争(戦い)をもたらす者
原題:Mars, the Bringer of War
Allegro
日本では「木星」に次いでよく知られている曲である。この曲について第一次世界大戦の影響を指摘されることもあるが、作曲者自身は否定している[1]。ニを主音とするが調号はなく、無調的。再現部の第2主題と第3主題の順序が入れかわったソナタ形式に相当する。
上記の5拍子のリズムは曲中でさまざまな楽器により演奏され、全体のモチーフになっている。提示部第3主題でのテナーチューバ(ユーフォニアムで演奏されることが多い)のソロが、オーケストラにおけるこの楽器の秀逸な用例としてしばしば言及される。全185小節。
金星、平和をもたらす者
原題:Venus, the Bringer of Peace
Adagio - Andante - Animato - Largo - Animato - Largo - Animato - Largo - Adagio - morendo - Tempo I
緩徐楽章に相当する。主に三部形式。主に、中間部は3拍子、他は4拍子である。主調は変ホ長調だが、途中複数の調を経由する。中間部にはヴァイオリンやチェロのソロもある。全141小節。
水星、翼のある使者
原題:Mercury, the Winged Messenger
Vivace
スケルツォに相当する曲である。組曲中で最も短い。ホ長調と変ロ長調の複調が用いられている。主に二部形式。ホルスト自身がフルスコアを書いたのはこの曲のみで、この曲を「心の象徴」と述べている。全296小節。
木星、快楽をもたらす者
原題:Jupiter, the Bringer of Jollity
Allegro giocoso - Andante maestoso - Tempo I - Maestoso - Lento maestoso - Presto
組曲中、最もよく知られている。特に中間部Andante maestosoの旋律が非常に有名である(後述)。大きな三部形式であり、主調はハ長調、中間部は変ホ長調、終盤で中間部の旋律が戻ってくるときにはロ長調である。全409小節。
土星、老いをもたらす者
原題:Saturn, the Bringer of Old Age
Adagio - Poco animato - Tempo I - Animato - Andante
組曲中で最も長い。ハ長調ではあるものの、第3音にフラットが付くなど調性は不安定である。ハ音上の付加六の和音や七度の和音が多用される。ホルスト自身この曲が最も気に入っていたといわれ、組曲中でも中核をなす曲と考えられる。全155小節。
天王星、魔術師
原題:Uranus, the Magician
Allegro - Lento - Allegro - Largo
スケルツォに近い曲。主に6拍子で、デュカスの『魔法使いの弟子』に影響を受けたといわれる。また、冒頭の印象的な4音(下譜面を参照。G, Es, A, H)は、ホルストの名前(Gustav Holst)を表していると言われ[誰によって?]、曲中にも執拗なまでに取り入れられている。
全250小節。
海王星、神秘主義者
原題:Neptune, the Mystic
Andante - Allegretto
ホ短調と嬰ト短調の複調。3+2の5拍子。静かなこの曲では[2]56小節目からは女声合唱[3]も演奏に加わり、最後の1小節には女声合唱のみとなる。そこには反復記号が記され、音がなくなるまで繰り返すように指示されている。全101小節。
編曲
この曲はオーケストラのための曲ではあるが、しばしば吹奏楽やブラス・バンドのために編曲される他、冨田勲によるシンセサイザー編曲、諸井誠によるオルガンと打楽器のための編曲などがある。
編曲の制約
ホルストは、この曲に関して非常に厳格な制約を設けていた。楽器編成の厳守(アマチュア団体の演奏に限り編成の縮小を認めた)から抜粋演奏の禁止まで提示しており、死後も遺族によって守られてきた[5]。
しかし1976年、冨田勲によるシンセサイザー版『惑星』が許可されて以降、この制約は絶対的なものではなくなっていく。1986年にはエマーソン・レイク・アンド・パウエルの同名アルバムにプログレッシブ・ロックにアレンジされた「火星」が収録され、ついにクラシック音楽の枠からも逸脱した(なお、キング・クリムゾンはデビュー当時からステージで火星を演奏していたが、1970年に発表されたキング・クリムゾンのアルバム「ポセイドンのめざめ」への収録は許可されなかった。そのため火星をモチーフとした"The Devil's Triangle"という楽曲として収録している[6])。
現在では、人気のある「木星」と「火星」のみを抜粋して演奏されることがめずらしくない。また、バスオーボエ(バリトンオーボエ)のような普及率がきわめて低い特殊楽器は、他の楽器に代替して演奏されることもある。
「木星」の第4主題
「木星」の第4主題は作者自身によって管弦楽付きコラールに改作編曲されている。イギリスの愛国的な賛歌として広く歌われている「我は汝に誓う、我が祖国よ」(I vow to thee, my country)がそれであり、作品番号 (Op) はないが、H148がふられている。1918年にイギリスの外交官セシル・スプリング・ライス(Cecil Spring Rice, 1859年 - 1918年)が作った詩に、1918年(1921年説も)に「木星」の第4主題、Andante maestoso の旋律が付けられた歌である。歌詞が第一次世界大戦のさなかに作られ、作品の発表も1926年の第一次世界大戦休戦協定記念式典であったために、11月11日のリメンブランス・デーに歌唱されることが多い。
1926年にホルストの友人レイフ・ヴォーン・ウィリアムズが監修した賛歌集『ソングス・オブ・プライズ』でウィリアムズがホルストの「木星」を基にした作品を、彼が暮らした街の名にちなんで「サクステッド」(Thaxted)と呼んで以来、「木星」の第4主題を基にした作品は「サクステッド」とカテゴライズされるようになった。
1991年、ラグビーワールドカップのテーマソングとして新たな歌詞が付けられ、「ワールド・イン・ユニオン」(World In Union)として発表される。原曲は「サクステッド」としており、4分の3拍子を4分の4拍子に変えている。「ワールド・イン・ユニオン」は大会ごとにアレンジされている。
1997年にはオルガンに編曲されたものが、ダイアナ妃の葬儀において教会で演奏された。
イギリスをはじめ英語圏を中心に夥しい数の賛美歌などが作られているが、これらは原曲を「我は汝に誓う、我が祖国よ」「サクステッド」としている場合が多く(題名の下に (I vow to thee) あるいは (Thaxted) と付される)、『惑星』あるいは「木星」からとするものは少ない。以下の日本の作品もその点は判然としない。
2003年5月21日リリースの本田美奈子.のアルバム『AVE MARIA』の1曲として岩谷時子の歌詞によるものが収められている。それに先がけて遊佐未森が1999年に発表したアルバム「庭 (niwa)」にも「A little bird told me」の題で遊佐自身の詩による曲が収められている。
音楽プロデューサー浅倉大介は自身の参加ユニットであるaccessの「DELICATE PLANET」ツアー(1994年)において、この旋律を浅倉独自のシンセサイザーアレンジで演奏している。
平原綾香のデビュー曲は、吉元由美により第4主題に新たな歌詞が付けられたもので、2003年12月17日にシングル盤『Jupiter』としてリリースされた。
ハワード=ブレイクリー(Ken Howard & Alan Blaikley)作曲、ザ・ハニカムズ (The Honeycombs)歌唱・演奏の「Once You Know」も、この旋律に触発された曲の1つである。
また、木星を舞台としたSEGAのアーケードゲーム「電脳戦機バーチャロン フォース」のエンディングにもこの旋律が流れる。
世界陸上大阪大会の開会式でサラ・ブライトマンが歌った曲「Running」もこの旋律を基にしている。ほか、三菱・ギャランフォルティスのCMソングにも用いられている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%91%E6%98%9F_(%E7%B5%84%E6%9B%B2)
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ヴィルヘルム・ステーンハンマル(Carl Wilhelm Eugen Stenhammar, 1871 - 1927)
北欧の作曲家として、グリーグとシベリウスに次ぐ存在だそうだ。自分はまだほとんど聞けていないが、イメージはバランスの良い実力派という感じである。
管弦楽曲
交響曲 第1番 ヘ長調 (1902年 - 1903年)
4.0点
馥郁とした豊かで柔らかい響きの巨匠的な品格ただよう1楽章はなかなかの名品。3楽章もロマン派交響曲の屈指の中間楽章と呼びたいほどの美旋律と自然を感じさせる豊穣な音楽世界が大変に秀逸である。オーケストレーションがかなり良いように聴こえる。ロマン派の発見した良さを交響曲の楽章として最高度に結晶させている。他の楽章もなかなかの力作で十分に曲の価値をキープして楽しませてくれる。感動的なフィナーレは見事な盛り上げ方であり、いいものを聴いたと胸が一杯になる。作曲家の独自性は2番の方があるが、1番も大変な傑作である。
交響曲 第2番 ト短調 作品34(1911年 - 1915年)
4.0点
北欧の厳しさを伴った大自然を感じさせるところはシベリウスに似ていて、ゾクゾクする素晴らしさがある。音使いが室内楽のように簡素でポリフォニックな印象が強いが、それでもオケとしての十分な演奏効果を上げている。壮大な世界の広がりと凍てつく空気と氷の大地を感じさせる1楽章はかなり良い。他の楽章も素晴らしい。没入感があり良い音楽を堪能させてもらえて幸せな時間を過ごせる名作である。時々音の密度感の不足に物足りなさを感じるときがあるものの、全体としてはこれは難解で晦渋なシベリウスの交響曲よりも優れているかもしれない。マイナーなのが驚きの名曲。
交響曲 第3番 ハ長調(1918年か1919年、断片的なスケッチ)
セレナード ヘ長調 作品31(1908年 - 1913年、1919年 改訂)
4.0点
見事な管弦楽法でセレナーデらしい愉しませつつ、高度で密度が高く品位も高い音楽を実現している。この曲にはマイナー曲に何かしらある物足りなさがほとんど感じられない。まさに大作曲家の作品らしい隙のなさと磨き上げられた完成度である。完成度で比較するなら交響曲よりも上であろう。もし人口に膾炙するようなメロディーを一つでも産み出して取り込めていたら、有名曲になれた作品である。北欧らしさがありつつも交響曲より色は薄めであり、かなりドイツ的である。ドイツならではの重厚などっしりとした手ごたえ感があるが、しかし北欧らしい情景の要素や、品のよい遊び心のあるセンスとふわっとした軽やかさがあるのが楽しい。
演奏会序曲「高みを目ざして(Excelsior!)」作品13(1896年)
ピアノ協奏曲 第1番 変ロ短調 作品1(1893年)
2.8点
1楽章はたいした特徴もなく地味で面白くない。2楽章は軽やかな詩情が楽しめる。楽しい気分で最後まで聴ける。3楽章は天才的な場面がごく短い間だけ存在するが他は凡庸である。4楽章も凡庸である。全体として2楽章だけがオススメできるが他はあまり面白くないのと、4楽章通すと長すぎるため我慢の時間が長すぎてあまり評価できない。作曲者がピアノ協奏曲に向いていない印象である。
ピアノ協奏曲 第2番 ニ短調 作品23(1904年 - 1907年)
3.0点
それなりに立派に書かれた曲である。しかし、ピアノ協奏曲というフォーマットを使って独自の表現世界を作ろうとするアイデアが足りないように思えてしまう。なんともしっくりこない。独奏の場面が多いのは特徴と思う。オケにピアノの伴奏をさせて、ピアノを活躍させて、逆にピアノにオケの伴奏をさせることによって産まれる美や情感や情景に入り込めない。しかしこの不満が2楽章の後半から改善して良くなる。3楽章と華やかで高揚感があり愉しませるものがある。
(ヴァイオリンと管弦楽のための)2つの感傷的なロマンス 作品28(1910年)
室内楽曲
弦楽四重奏曲 第1番 ハ長調 作品2(1894年)
3.5点
音が薄めの管弦楽曲で個人的に想像していたとおり、とても弦楽四重奏はマッチしているようだ。この曲は多くの素材により複雑に作り込まれた充実感が素晴らしい。巨匠的な響きや音使いの品格と隙のない充実感がある。これで、パッと分かるよいメロディーや雰囲気作りがあれば完璧なのだが、4楽章はそれに近いものがある耳に残る憂いのあるメロディーを持っている。達人ドヴォルザークのセンスには負けるかもしれないが、かなりのレベルで弦楽四重奏をマスターしている。
弦楽四重奏曲 第2番 ハ短調 作品14(1896年)
弦楽四重奏曲 第3番 ヘ長調 作品18(1900年)
弦楽四重奏曲 第4番 イ短調 作品25(1909年)
3.3点
短調の曲である。特に陰鬱さが強調されているわけでもないのに、全体にやたらと浮かない気分にさせられるのは何故だろう。密度感や構成や素材の充実感はあるのだが、聴いていて暗い気分になるせいでなんだか楽しめない。おそらくは非力になり重力に負けて身体を横たえながら魂が抜けながら脱力していく感じが気力の喪失を感じさせて、それが精神にダメージを与えるのだろう。あまり記憶のない不思議な感覚だと思った。また、充実感があるにも関わらず「これは良い」とすぐ分かる明快なメロディーやフレーズの良さに欠けるのも欠点である。
弦楽四重奏曲 第5番 ハ長調 作品29(1910年)
3.5点
わりと短い曲なのだが、非常に多くのものを内包した作品である。深淵にして自由闊達なところは、ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲をかなり連想させる。あれほどの高みと深淵は全然ないにしても、通常では到底到達しないかなりの独自の境地に居る音楽と感じる。達観したような感じだろうか。音が薄いのだが、不思議なバランスと自由さで駆け回っていき、それが妙に多くのものを限界も自由さの臨界点も裏も表も全て見切ったか心境に感じるのだ。不思議な作品である。
弦楽四重奏曲 第6番 ニ短調 作品35(1916年)
3.5点
人生の終焉に向かって総決算をしていくような心境がやりすぎな位に赤裸々に描かれている。晩年らしい作品に作品である。祈りの気持ちが前面に出たり感傷的になる場面もある。かなり感動的な曲なのだが、それまでの作品と比較して、あまりに曲のトーンが一面的に偏っている気はする。感動的な場面が多数の赤裸々なこの曲は、ベートーヴェンやブラームス後期に匹敵すると感激する人も居るだろう。
ヴァイオリン・ソナタ イ短調 作品19(1899年または1900年)
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E5%8C%97%E6%AC%A7
カール・ヴィルヘルム・エウフェーン・ステーンハンマル(ステンハンマルとも、Carl Wilhelm Eugen Stenhammar, 1871年2月7日 - 1927年11月20日)は スウェーデンの作曲家、ピアニスト、指揮者。
生涯
1887年から1892年までストックホルムでピアノ・オルガン・作曲を学び、1892年春にピアニストとしてデビュー。同年秋から翌年まで、ベルリンにピアノ留学。この頃からステーンハンマルは、コンサート・ピアニストとして、熱心かつ積極的に活動を行う。とりわけ、作曲家・ヴァイオリニストトール・アウリンとのデュオや、アウリン弦楽四重奏団との共演に熱意を寄せた。
1897年秋に、初めて指揮者として公開演奏に乗り出し、これ以降、作曲活動を別とすれば、指揮が生涯の長きにわたって活動の中心を占めた。1900年か1901年にストックホルム王室歌劇場の楽長に就任。1906年または1907年から 1922年までの間、エーテボリ交響楽団(スウェーデン初のプロの常勤オーケストラ)の首席指揮者を務め、多くの同時代のスカンジナヴィアの音楽を上演した。1923年から1925年まで、再びストックホルム王室歌劇場の楽長に復帰。
1909年に短期間、ウプサラ大学の音楽監督を務めたが、翌年この職務をアルヴェーンに引き継いでいる。
ステーンハンマルは生涯を通して、スカンジナヴィアの音楽界で高い尊敬を勝ち得、多くの名声ある同僚たちと親交を保った。1916年にイェーテボリ大学より名誉博士の学位を受けた。
作風
ステーンハンマルは、スウェーデンの最も重要な作曲家の一人である。同世代のアルヴェーンとともに、ベルワルド以降の最も重要な交響曲作家でもある。
ステーンハンマルは、様式的に見て後期ロマン派音楽の作曲家である。当初は、完全にベートーヴェン、ワーグナー、ブルックナー、ブラームスらに影響されて、力強さと激しい情感を伝える重厚な作品を書いた。しかしながら、友人のニールセンやシベリウスの手引きで、そのような美学を疑うようになり、新ドイツ楽派から徐々に背を向けた。
1910年を境にステーンハンマルは、新しい理想を成熟させ、それ以降は、「北欧風」の抑揚を目標に掲げ、効果なしでも成り立つような、「透明で飾り気ない」音楽を作曲しようとした。この頃からステーンハンマルの作品は、民謡の旋律法にしたがって形成され、教会旋法の活用や、ある種の真に簡潔な表現によって、紛うことなき「スカンジナヴィア風」の抑揚が展開されている。それにもかかわらず、高度な作曲技法は、わけても明白なポリフォニーが表現に加味されることによっても明らかである。この新しい様式の典型的な作品が、ドーリア旋法を用いた『交響曲第2番』にほかならない。
作品
歌劇
『ソールハウグの宴』 作品6(1893年)
『ティルフィング』 作品15(1898年)
管弦楽曲
交響曲第1番ヘ長調 (1902年 - 1903年、撤回)
交響曲第2番ト短調作品34(1911年 - 1915年)
交響曲第3番ハ長調(1918年か1919年、断片的なスケッチ)
セレナード ヘ長調 作品31(1908年 - 1913年、1919年 改訂)
演奏会用序曲『エクセルシオール!』[注 1]作品13(1896年)
ピアノ協奏曲第1番変ロ短調 作品1(1893年)
ピアノ協奏曲第2番ニ短調作品23(1904年 - 1907年)
(ヴァイオリンと管弦楽のための)2つの感傷的なロマンス 作品28(1910年)
声楽曲
カンタータ『一つの民族』 作品22(1905年)
カンタータ『歌』 op.44(1921年)
合唱曲、約60曲の歌曲
室内楽曲
弦楽四重奏曲第1番ハ長調 作品2(1894年)
弦楽四重奏曲第2番ハ短調 作品14(1896年)
弦楽四重奏曲第3番ヘ長調 作品18(1900年)
弦楽四重奏曲第4番イ短調 作品25(1909年)
弦楽四重奏曲第5番ハ長調 作品29(1910年)
弦楽四重奏曲第6番ニ短調 作品35(1916年)
ヴァイオリンソナタイ短調 作品19(1899年または1900年)
ピアノ曲
ピアノソナタ ハ長調(第1番)(1880年)
ピアノソナタ ハ短調(第2番)(1881年)
ピアノソナタ 変イ長調(第3番)(1885年)
ピアノソナタ ト短調(第4番)(1890年)
ピアノソナタ 変イ長調 作品12 (1895年)
3つの幻想的小曲集 作品11 (1895年)
5つの小品『晩夏の夜』作品33 (1914年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%AB
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ヴィルヘルム・ステーンハンマル 交響曲 第2番ト短調 作品34
Wilhelm Stenhammar : Symphony No. 2 in G minor Op. 34 (1911-15)
I. Allegro energico
II. Andante
III. Scherzo. Allegro, ma non troppo presto
IV. Finale. Sostenuto-Allegro vivace.
the Gothenburg Symphony Orchestra
Neeme Järvi
▲△▽▼
交響曲第2番ト短調 作品34は、ヴィルヘルム・ステーンハンマルが作曲した交響曲。
セレナードなどと並んで、ステーンハンマルの代表的な管弦楽作品と見なされている。 主調は「ト短調」となっているが、正しくは「Gを開始音とするドリア調」である。 また、ステーンハンマルが1909年頃から着手した500ページに及ぶ対位法研究の成果も顕著に表れている。
ステーンハンマルの作曲した2番目の交響曲であるが、以前に作曲した交響曲第1番は作曲家自身によって撤回された為、作曲家自身は決して「第2番」と呼ぶことは無く、単に「交響曲、作品34」と呼んでいた(出版された総譜にも「第2番」の記載が無い版が存在する)。 ステーンハンマル自身はこの交響曲について、「華美とは無縁の、謹厳実直な音楽」とコメントしている。
作曲の経緯
1910年にニールセンの交響曲第1番(この曲もト短調である)を指揮した事がきっかけとなり、新しい交響曲の構想を始める。
1911年にイタリアに旅行した際、ローマのボルゲーゼ荘において第1楽章の最初のスケッチに着手し、1915年に完成した[1]。
初演
1915年4月22日、エーテボリ・コンサートホールにおいて開催された、エーテボリ交響楽協会(Gothenburg Orchestral Society)創立10周年を祝う音楽祭の中で、作曲者の指揮、エーテボリ交響楽団により初演された[1]。
献呈
「我が親愛なる友人達、エーテボリ交響楽団の団員達へ」のコメントと共にエーテボリ交響楽団に献呈されている[1]。
楽器編成
編成表
木管 金管 打 弦
Fl. 2 Hr. 4 Timp. ● Vn.1 ●
Ob. 2 Trp. 2 他 Vn.2 ●
Cl. 2 Trb. 3 Va. ●
Fg. 2 他 Vc. ●
他 Cb. ●
ほぼ標準的な2管編成である。
演奏時間
約42分から47分。
楽曲構成
第1楽章 Allegro energico
第1楽章冒頭部の第1主題
ソナタ形式。弦楽器のユニゾンによって古い舞曲のような第1主題が提示され、すぐにフルートが応えると厚みを増しながら展開されてゆき、最初のクライマックスを形成すると静かになり、ややテンポを落として弦楽器の旋律の上に木管楽器やホルンによって雄大で悲しげな第2主題が現れる。 弦楽器にもう一度この主題が現れ、オーボエ・ソロとなり、やがて木管に第1主題が戻って来て展開部に入り、主に第2主題を扱ってゆく。 そのまま再現部に突入し後半に入ると弦楽器などで第2主題がゆったりと奏され、木管の主導でコーダに入り、最後の盛り上がりの頂点でト長調主和音上に終止する。
第2楽章 Andante
この交響曲では唯一ドイツ的な雰囲気を感じる音楽となっている。 弦楽器のコラール風の音楽に始まる。この旋律は哀歌風の響きを持ったり、賛歌風に長調で現れたりしながら様々な楽器に受け渡され、木管の下降音形で閉じられる。
第3楽章 Scherzo: Allegro, ma non troppo presto
弦楽器の下降する旋律で始まる、北欧の香りの強いスケルツォ。トリオはややテンポを落とし、ステーンハンマルお得意の木管によるエレジー。スケルツォ主部が回帰し、木管のひっそりとした音形で終わる。
第4楽章 Finale: Sostenuto - Allegro vivace alla breve
2つの主題(譜例1・譜例2)を元にした複雑なフーガがこの楽章の大部分を占めており、 この2つの主題はあらゆる場面で登場する。 この交響曲では最も長い楽章だが、大まかに7つの部分に分ける事ができる。
Sostenuto
Introduktion
この最初の序奏では、弦楽器の下降音形の上にホルンが第2主題から派生した旋律(譜例2A)を奏し、それに対してオーボエやフルートが同じ旋律で応答する。
この旋律がトランペットに引き継がれて最大の盛り上がりを見せた後にディミヌエンドをして音楽は一旦静まる。
Allegro vivace
ここから最初のフーガに入る。
低弦に第1主題(譜例1)が登場し、それに他の弦楽器が加わった後、フルートやオーボエ、クラリネットも応唱を開始する。
この主題が様々に展開しホルンやトランペットも加わり盛り上がりを見せた後、一旦音楽は静まる。
Tranquillamente
クラリネットによって第2主題(譜例2)が提示され、第2のフーガが始まる。このフーガは最初のフーガとは違い、殆ど木管楽器のみがフーガを演奏し、最初のフーガよりもかなり短い。
終始静かな雰囲気を保ち、盛り上がりは見せない。
Allegro ma non troppo, poco a poco animando.
弦楽器のピッツィカートが第2主題の変奏B(譜例2B)を用いて再びフーガを展開し始める。
途中からクラリネットによって第1主題の変奏A(譜例1A)も加わる。
一旦第1主題の変奏Aが主導的になるが、その後チェロとコントラバスに導かれてあらわれる第2主題の変奏Cによる旋律が主導権を握る。
しかしその裏では第1主題の変奏A(譜例1A)が中心となった非常に複雑な伴奏がうごめいている。
そしてそのまま勢いを失わずに次のPassionateに突入する。
Passionate
ここでヴァイオリンが第1主題の変奏C(譜例1C)による旋律を奏し始める。
この旋律は次々に別の楽器に受け渡されていく。
Vivace
クラリネットとファゴットを始めとする楽器が第2主題の変奏D(譜例2D)を奏する中で、
今度はチェロとコントラバスにトロンボーンとファゴットを加えた低音グループを始めとして第2主題の変奏C(譜例2C)による旋律が再び奏されて受け渡されていく。
この2つが交互にあらわれ、盛り上がりを迎えた後、ティンパニによって奏される第2主題の変奏Dを元にしたリズム(譜例2E)と共に曲は再び静まりかえる。
Coda. Poco sostenuto. Solenne
コーダではホルンとティンパニの刻むリズムに迎えられた後、ヴァイオリンが再び第1主題の変奏C(譜例1C)を奏する。
その旋律を、チェロやファゴットをはじめとする低音楽器が非常に拡大された第2主題の変奏Cで支え続ける。
そしてトランペットとトロンボーンが木管楽器とティンパニの刻むリズムにささえられ第1主題の変奏C(譜例1C)を奏した後、
最後にはト長調の主和音を強奏して終結する。
録音
主な録音(録音年・レーベル名)
シクステン・エッケルベリ指揮エーテボリ交響楽団(1947年・Radiotjänst)
トール・マン指揮ストックホルムフィルハーモニー管弦楽団(1959年・RCA及びSwedish Society)
スティグ・ヴェステルベリ指揮ストックホルムフィルハーモニー管弦楽団(1978年・CAPRICE)
ネーメ・ヤルヴィ指揮エーテボリ交響楽団(1983年・BIS)
ネーメ・ヤルヴィ指揮エーテボリ交響楽団(1993年・DGG)
ペッテル・スンドクヴィスト指揮ロイヤル・スコティッシュ・ナショナル管弦楽団(1996年・NAXOS)
パーヴォ・ヤルヴィ指揮ロイヤル・ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団(1996年・Virgin)
ニール・トムソン指揮マルメ音楽大学交響楽団(2009年・Daphne)
備考
後の1923年に作曲され、ステーンハンマルに献呈されたシベリウスの交響曲第6番も、この曲と同様にドリア旋法が用いられている。
第4楽章にベートーヴェンの大フーガの影響を指摘する意見もある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC2%E7%95%AA_(%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%AB)
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/769.html
オットリーノ・レスピーギ(Ottorino Respighi, 1879 – 1936)
ローマの噴水 Fontane di Roma (1915 – 16年)
ローマの松 Pini di Roma (1923 – 24年)
ローマの祭り Feste Romane (1928年)
ピアノ協奏曲
2.5点
まるでグリーグの協奏曲のように、やたらとロマンティックな曲である。オケが薄い気がするし、音楽のつくりの線が細くて断片の集合のように聞こえる。おおっと思う部分もあるが、全体的にはいまいち。
ヴァイオリンソナタ
3.3点
ブラームスの重厚で濃厚な雰囲気と、リヒャルト・シュトラウスの爛熟感をベースに、もう少し近代的な音感覚で書いた作品というイメージ。巨匠的な名作感とか、完成度に驚くようなものはないのだが、曲の存在感があるため記憶には残る作品になっている。曲の幻想的で儚い憧れを秘めた濃密な感情に強く揺さぶられる楽しみがある。
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2
オットリーノ・レスピーギ(Ottorino Respighi, 1879年7月9日 – 1936年4月18日)は、イタリアの作曲家・音楽学者・指揮者。ボローニャ出身で、1913年からはローマに出て教育者としても活動した。1908年までは演奏家、とりわけヴァイオリン奏者やヴィオラ奏者として活動したが、その後は作曲に転向した。近代イタリア音楽における器楽曲の指導的な開拓者の一人としてつとに名高く、「ローマ三部作」と呼ばれる一連の交響詩(《ローマの噴水(イタリア語: Fontane di Roma)》、《ローマの松(イタリア語: Pini di Roma)》、《ローマの祭り(イタリア語: Feste Romane)》)が広く知られる。16世紀から18世紀の音楽に対する関心から、古楽に基づく作品も遺した。
略歴
ボローニャに生まれ、地元の音楽教師だった父親からピアノとヴァイオリンの指導を受ける。1891年から1899年までボローニャ高等音楽学校においてヴァイオリンとヴィオラをフェデリコ・サルティに、作曲をジュゼッペ・マルトゥッチに、音楽史を、古楽の専門家ルイージ・トルキに師事。1899年にヴァイオリン演奏でディプロマを取得すると、1900年から1901年までと、1902年から1903年までの2度のシーズンにわたってロシア帝国劇場管弦楽団の首席ヴィオラ奏者としてペテルブルクに赴任し、イタリア・オペラの上演に携わった。ペテルブルクではニコライ・リムスキー=コルサコフと出逢って5ヶ月におよぶ指導を受け、その精緻な管弦楽法に強い影響を受けた。多くの資料では、さらに1902年にベルリンで短期間マックス・ブルッフの薫陶を受けたとされているが、エルザ未亡人はこの説を事実ではないとして否定している[1]。その後ボローニャに戻り、作曲で2つめの学位を取得した。1908年までムジェッリーニ五重奏団より第1ヴァイオリン奏者に迎えられている。1908年から1909年までベルリンに滞在し、演奏家や、声楽教室のピアノ伴奏者として稼ぎながら音楽的な知見を広げ、イタリア人以外の作曲家にも開眼した。
ようやく帰国すると作曲に没頭し、自作のカンタータ《アレトゥーザ(イタリア語: Aretusa)》(1911年)のピアノ伴奏版の作成に熱心に打ち込む。
ボローニャ高等音楽学校に定職が得られることを要望するも果たせず、やっと1913年にサンタ・チェチーリア国立アカデミア作曲科教授に任命されてローマに移住し、以後最晩年まで同地にて暮らした。1917年に交響詩《ローマの噴水》をローマで初演するが成功せず、自信を喪失するが、1918年、アルトゥーロ・トスカニーニによるミラノでの再演が大成功をおさめ、作曲家としての突破口を切り開くことができた。1919年に、1915年からの門弟で、声楽家でもあったエルザ・オリヴィエリ=サンジャコモと結婚する。
1923年にはサンタ・チェチーリア国立アカデミアの院長に就任し、1926年にも再び院長に任命されたため、十分な時間を作曲に充てることができなくなった。それでも1935年まで教職に就き、1925年にセバスティアーノ・アルトゥーロ・ルチアーニと共著で初歩的な教則本『オルフェウス(ラテン語: Orpheus)』を上梓した。1932年にはイタリア王国学士院の会員に任命された。
晩年は国内外で自作の上演のため何度も演奏旅行に出ており、指揮者を務めたり、ピアニストとして声楽家であるエルザ夫人の伴奏を務めたりなどした。レスピーギの作品はファシスト党政権にも非常に好評であったが、レスピーギ自身はまだファシズムに深入りしてはいなかった。後半生はベニート・ムッソリーニのファシスト党とぎこちない関係を続けた。それでもトスカニーニのような明け透けな党の批判者の支持も得て、批判者が自作を上演することを認めた[2]。《ローマの祭り》の初演は1929年にトスカニーニの指揮するニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団によって行われた。初録音は1942年にフィラデルフィア管弦楽団、再録音は1949年にNBC交響楽団によって行われ、いずれもトスカニーニの指揮であった。
レスピーギの作品はアメリカ合衆国でかなりの成功を収めた。ピアノと管弦楽のための《トッカータ》は1928年11月にカーネギーホールにおいて、作曲者自身のピアノ独奏とウィレム・メンゲルベルクの指揮、ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団によって初演されている。大規模な変奏曲《メタモルフォーゼ(Metamorphoseon)》はボストン交響楽団創立50周年記念の依嘱作品であった。
1936年1月までは作曲を続けていたが、その後は次第に病に蝕まれ、もはや新作を完成させることができなかった。同年4月18日に心臓病のため亡くなり、ローマに埋葬されたが、翌1937年には亡骸が郷里のボローニャに移葬された。
作風
初期の擬古典主義的な習作の後、ロシア滞在を経てレスピーギの音楽語法は変化を遂げた。自由な形式、拡張された和声法、振幅の大きい表現が、それ以後の作品を左右する要素となっている。さらにレスピーギ作品を代表しているのが、イタリア国内のヴェリズモからの離反である。イルデブランド・ピッツェッティやジャン・フランチェスコ・マリピエロ、アルフレード・カゼッラとともに、ヨーロッパ全土からの影響を咀嚼して、現代的な音楽文化を成立させた。当のレスピーギは作品中において複調的な傾向を見せており、管弦楽曲はとりわけフランス印象主義音楽(特にクロード・ドビュッシー、モーリス・ラヴェル)の影響を感じさせるものの、鋭角的なオーケストラの色彩感覚は両者のそれと全く異なるものである。
また、レスピーギはイタリアにおける古楽復興の旗手でもあり、17世紀とその前後のイタリア音楽に対する熱心な研究・調査から、クラウディオ・モンテヴェルディやアントニオ・ヴィヴァルディの作品のほか、ベネデット・マルチェッロの《ディドーネ(イタリア語: Didone)》を校訂して出版した。過去の作曲家や古い様式への傾倒から、レスピーギを新古典主義音楽の作曲家と位置付けすることもできるが、実のところ古楽に基づくレスピーギの作品群は、「新ルネサンス様式」「新バロック様式」と呼ぶのが正確だろう。レスピーギは、古典派音楽以前の旋律様式や(舞踊組曲などの)音楽形式を、近代的な和声法やテクスチュアと好んで融合させている。方やフランスで六人組が、「新しい単純性」を、中でもウィーン古典派の軽やかさへの回帰を標榜したのに対し、レスピーギは、イタリア古楽の復興、そして古楽の再創造・構成のために古い音楽を利用したのであった。
ロシア時代に作曲された《ピアノ協奏曲 イ短調》などの初期作品では、師事したリムスキー=コルサコフと共に、親交を結んでいたセルゲイ・ラフマニノフの影響を見ることができる。
主要作品
声楽曲・合唱曲
独唱と合唱、管弦楽のための聖書によるカンタータ《キリスト(ラテン語: Christus)》(1898年 – 99年、自作詩による)
メゾソプラノと管弦楽のためのカンタータ《アレトゥーザ(Aretusa)》(1910年 – 11年、原詩:シェリー)
メゾソプラノと管弦楽のためのカンタータ《オジギソウ(La Sensitiva)》(1914年、原詩:シェリー)
メゾソプラノと弦楽四重奏(または弦楽合奏)のための連作歌曲《黄昏(Il Tramonto)》(1914年、原詩:シェリー)
ソプラノと小オーケストラのための連作歌曲《森の神(Dietà silvane)》(1917年、原詩:アントニオ・ルビノ)
独唱と合唱、管弦楽のための抒情詩《春(La Primavera)》(1922年、原詩:Constant Zarian)
独唱と混成合唱、室内アンサンブルのためのカンタータ《降誕祭のためのラウダ(Lauda per la Natività del Signore)》(1930年作曲、原詩:ヤコポーネ・ダ・トーディ?)
歌劇
3幕の喜歌劇《エンツォ王(Rè Enzo)》(台本:アルベルト・ドニーニ、1905年作曲、初演:1905年3月、ボローニャ・デル・コルソー劇場)
《(Al mulino)》(1908年、未完の断片)
3幕の悲歌劇《セミラーマ(Semirâma. Poema tragico)》(台本:アレッサンドロ・チェレ、1910年作曲、初演:1910年、ボローニャ・コムナーレ劇場)
4幕5場の歌劇《マリー・ヴィクトワール(フランス語: Marie Victoire)》(原作:エドモン・ギローの同名の戯曲、1912年 – 14年作曲、世界初演:2004年1月27日、ローマ・オペラ座、ドイツ初演:2009年4月9日、ベルリン・ドイツ・オペラ)
メルヒェン・オペラ《眠れる森の美女(La bella addormentata nel bosco (La bella dormente nel bosco). Fiaba musicale)》(原作:ペロー童話集、台本:ジャン・ビストルフィ、1916年 – 21年作曲、初演:1922年、ローマ・オデスカルキ劇場)
序幕と2幕、終幕からなる抒情喜劇《ベルファゴール(Belfagor. Commedia lirica Prolog, 2 Akte und Epilog.》(原作:エルコーレ・ルイージ・モルセッリ、台本:クラウディオ・グヮスタッラ、1921年 – 22年作曲、初演:1923年、ミラノ・スカラ座)
4幕の歌劇《沈める鐘(La campana sommersa)》(原作:ゲルハルト・ハウプトマン、独語版台本:ヴェルナー・ヴォルフ、伊語台本:クラウディオ・グヮスタッラ、1925年 – 26年作曲。独語版初演:1927年11月18日、ハンブルク国立歌劇場。伊語版初演:1929年4月、ローマ・オペラ座)
1幕と2つの終幕からなる神秘劇《エジプトのマリア(Maria egiziaca)》(台本:クラウディオ・グヮスタッラ、初演:1932年、ヴェネツィアおよびニューヨーク)
3幕4景のメロドラマ《炎(La fiamma. Melodramma)》(原作:ハンス・ヴィエルス=イェンゼン、台本:クラウディオ・グヮスタッラ、1933年作曲、初演:1934年、ローマ・オペラ座)
1幕3景の史劇《ルクレツィア(Lucrezia. Istoria)》(台本:クラウディオ・グヮスタッラ、1935年か1936年に着手された遺稿の断片をエルザ未亡人が補筆、初演:1937年、ミラノ・スカラ座)
バレエ音楽
ロッシーニの主題によるバレエ《風変わりな店(フランス語: La boutique fantasque)》(1918年作曲、初演:1919年、ロンドン・アルハンブラ劇場)
舞踊付き喜劇《ヴェネツィアの遊戯(Scherzo veneziano. Commedia coreografica)》(台本:イレアナ・レオニドフ、作曲:1920年、初演:1920年、ローマ・コスタンツィ劇場)
17世紀と18世紀のフランス音楽の主題によるバレエ《(フランス語: Sèvres de la vieille France)》(1920年作曲、初演:1920年、ローマ・コスタンツィ劇場)
ロシア民謡の主題による《(La pentola magica. Azione coreografica)》(1920年作曲、初演:1920年、ローマ・コスタンツィ劇場)
17世紀と18世紀のフランス音楽の主題によるバレエ《鳥(Gli uccelli)》(1928年作曲、初演:1933年、サンレモ市民会舘)
5幕のバレエ《シバの女王ベルキス(Belkis, regina di Saba)》(台本:クラウディオ・グヮスタッラ、初演:1931年、ミラノ・スカラ座)
Le astuzie de Columbina
管弦楽曲
交響的変奏曲 (1900年)
前奏曲、コラールとフーガ Preludio, corale e fuga (1901年)
組曲ホ長調(シンフォニア)(1901年、1903年改訂)
序曲《謝肉祭》 Ouverture carnevalesca (1913年)
劇的交響曲 Sinfonia Drammatica (1913 – 14年)
「ローマ三部作」 Trilogia Romana
ローマの噴水 Fontane di Roma (1915 – 16年)
I. 夜明けのジュリアの谷の噴水 La fontana di Valle Giulia all'alba
II. 朝のトリトンの噴水 La fontana di Tritone alla mattina
III. 昼のトレヴィの噴水 La fontana di Trevi al pomeriggio
IV. たそがれのメディチ荘の噴水 La fontana di Villa Medici al tramonto
ローマの松 Pini di Roma (1923 – 24年)
I. ボルゲーゼ荘の松 l pini di Villa Borghese
II. カタコンバ付近の松 Pini presso una catacomba
III. ジャニコロの松 l pini del Gianicolo
IV. アッピア街道の松 l pini della Via Appia
ローマの祭り Feste Romane (1928年)
I. チルチェンセス Circenses
II. 五十年祭 Il giubileo
III. 十月祭 L'Ottobrata
IV. 主顕祭 La Befana
リュートのための古風な舞曲とアリア
組曲 第1番 (1917年)
シモーネ・モリナーロとヴィンチェンツォ・ガリレイおよび作者不明のリュート作品に基づく
組曲 第2番 (1924年)
ファブリツィオ・カローゾやジャン=バティスト・ベサールおよび作者不明がリュートやテオルボ、ヴィオールのために作曲した小品に基づく。また、マラン・メルセンヌ作曲とされる歌曲も利用されている
組曲 第3番 (1932年)
先行する2曲と異なり、弦楽合奏曲として構想され、全般的に憂愁を湛えている。ベサール作曲のエール・ド・クールや、ルドヴィコ・ロンカッリのギター曲、サンティーノ・ガルシ・ダ・パルマのリュート曲のほか、作者不明の作品が利用されている
こびとの踊り Ballata delle Gnomidi (1920年) クラウディオ・クラウゼッティの詩に基づく
管弦楽組曲《ロッシニアーナ》 Rossiniana (1925年)
ロッシーニのバガテル(フランス語: Les petits riens)《老いのあやまち》の自由な編曲
教会のステンドグラス Vetrate di chiesa (1925年)
全4楽章のうち3楽章は、ピアノ曲集《グレゴリオ聖歌による3つの前奏曲(Tre Preludi sopra melodie gregoriane)》(1919年)が原曲
鳥 Gli Uccelli (1927年)
鳥を模倣したバロック音楽、なかでもクラヴサン曲を編曲したもの。同名のバレエ音楽の原曲
I. 前奏曲 Preludio
II. 鳩 La colomba
III. めんどり La gallina
IV. 夜鴬 L'usignoulo
V.かっこう Il cuccu
ボッティチェッリの3枚の絵 Trittico Botticelliano (1927年)
I. 春 La Primavera (Allegro vivace)
II. 東方博士の礼拝 L'Adorazione dei Magi (Andante lento-Poco più mosso)
III. ヴィーナスの誕生 La nascita di Venere (Allegro moderato)
ブラジルの印象 Brazilian Impressions (1928年)
I. 熱帯の夜 Notte tropicale
II. ブタンタン Butantan
III. 歌と踊り Canzone e danza
主題と変奏《第12旋法によるメタモルフォーゼ》 Metamorphoseon. Modi XII: Tema e Variazioni (1930年)
パッサカリアとフーガ ハ短調 BWV582(バッハのオルガン曲の管弦楽編曲)※他にもバッハ作品の編曲を数多く行っている。
5つの《音の絵》(ラフマニノフのピアノ曲の管弦楽編曲)
協奏的作品
ピアノ協奏曲 イ短調 (1902年)
ピアノと管弦楽のための《スラヴ幻想曲(Fantasia Slava)》(1903年)
ヴァイオリン協奏曲 イ長調(1903年、未完)…サルヴァトーレ・ディ・ヴィットリオ(英語版)により補筆、2010年に世界初演。
ピアノと管弦楽のための《ブルレスケ(Burlesca)》 (1906年)
ピアノと管弦楽のための《ミクソリディア旋法の協奏曲(Concerto in modo misolidio)》(1925年)
ピアノと管弦楽のための《トッカータ》(1928年)
ヴァイオリンと弦楽合奏のための《パストラーレ(Pastorale)》(1908年)
ヴァイオリンと管弦楽のための《古風な協奏曲(Concerto all'antica) イ短調》 (1908年)
ヴァイオリンと管弦楽のための協奏曲《グレゴリオ聖歌風(Concerto Gregoriano)》(1921年)
ヴァイオリンと管弦楽のための《秋の詩(Poema Autunnale)》(1920-25年)
チェロと管弦楽のための《アダージョと変奏(Adagio con variazioni)》 (1920年)
オーボエとトランペット、ヴィオラ・ダ・モーレ、コントラバス、ピアノと弦楽合奏のための《5声の協奏曲(Concerto a cinque)》(1933年)
室内楽曲
オルガンと弦楽合奏のための《組曲 ト長調》 (1905年)
複四重奏曲 ニ短調 (1901年?)
ピアノ五重奏曲 ヘ短調 (1902年?)
弦楽五重奏曲 (年代・日付の記入なし)
単一楽章の弦楽四重奏曲 ニ短調 (年代・日付の記入なし)
ヴィオラ四重奏曲 ニ長調 (1906年?)
弦楽四重奏曲 第1番 ニ長調 (1892年 – 98年?、未出版の習作)
弦楽四重奏曲 第2番 変ロ長調 (1898年?、未出版の習作)
弦楽四重奏曲 ニ長調 (1907年)
弦楽四重奏曲 ニ短調 (1909年、"ドイツ語: Ernst is das Leben, heiter ist die Kunst"との銘が掲げられている)
ドリア旋法による弦楽四重奏曲(Quartetto Dorico, 1924年)
その他の器楽曲
ヴァイオリンとピアノのための6つの小品 (1901 – 06年)
ヴァイオリン・ソナタ ロ短調 (1916-17) - Sonata per violino e piano
ピアノ曲《グレゴリオ聖歌による3つの前奏曲(Tre Preludi sopra melodie gregoriane)》 (1919年)
ギターのための《変奏曲(Variazioni)》
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%AE
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/770.html
オットリーノ・レスピーギ ヴァイオリン・ソナタ ロ短調
Respighi sonate violin Kyung Wha Chung-Krystian Zimerman
I: Moderato - 0:02
II: Andante Espressivo - 8:57
III: Passacaglia. Allegro Moderato ma energico - 16:36
Kyung Wha Chung
アルベルト・ヒナステラ(Alberto Evaristo Ginastera,1916 - 1983)
アルゼンチンの大作曲家。どの分野にも、独自のエキゾチックな魅力をクラシックに融合させつつ、一つの作品としての存在感を備えた名作を書いている。南米にとどまらない世界における20世紀の大作曲家の一人だと思っている。
バレエ
バレエ『パナンビ(Panambi)』 作品1 (1934年及び1936年、組曲版あり)
3.8点
18歳や20歳の作品としては非常に完成度が高いと思う。後年のエスタンシアに通じる、ダイナミックで精神を下から突き動かすような衝動に満ちており、血が湧くような感覚になる。年齢を考えると天才的な作品だと思う。シンプルさはあるが、決して古臭いクラシック音楽の真似事はない。アルゼンチンらしさも含めて、オリジナリティを十分に感じる。もっとバレエ音楽を描いて欲しかった。なんというエンターテイメント性だろう。エスタンシアには完成度が若干及ばないが。
バレエ『エスタンシア(Estancia)』 作品8 (1941年、組曲版あり)
4.0点
ヒナステラの代表作。聴き始めると、冒頭のノリのよさに一瞬にして魅了されてしまう。その後も農村の生活の活力にあふれた豊富なニュアンスに彩られた描写は大変に楽しめる。息もつかせぬ展開をみせて最後は大円団で終わり、聞き終わってお腹一杯になり、本当に愉しい時間を過ごせたという満足感に浸れる。ミュージカル音楽のようでもあり、明るくてエンターテインメント性が高い。
管弦楽曲
クリオールのファウスト序曲 Obertura para el "Fausto" Criollo 作品9 (1943年)
2.3点
とても普通で切れ味が鈍く、全然面白くない。こんな曲も書いたのかと思った。ヒナステラである価値を感じられない。
交響的三部作「オジャンタイ(またはオランタイ)」 Ollantay 作品17(1947年)
3.3点
映画音楽のようだ。イギリス音楽のような端正さとかドリーミーさがあるのが魅力。その中にも打楽器の活躍などダイナミックさがある。前衛性はほぼない。軽い娯楽曲として気軽に楽しめる。
交響的変奏曲 Variaciones Concertantes 作品23(1953年)
2.8点
おおらかな交響詩のような音楽であり、壮大さが売りのようである。そして、ソロが活躍して長時間旋律を演奏する場面が多いのが特徴。ソロが何かの動物の個別の生と生涯を表象しているように聴こえたのが面白い。しかし、音楽の密度が薄くて芸術性があまり高い感じもしないため、あまりお勧めはできない。
パンペアーナ(Pampeana) 第3番「交響的パストラール」 作品24 (1954年)
3.3点
交響詩のような曲。大自然の森の匂いや太陽を浴びて水蒸気を含んだ大気を感じさせるゆったりとした場面が多くて、その場面もそれはそれで南米的要素が目新しくて魅力はある。しかし、やはり間に何回か登場するダイナミックなアップテンポの部分の心躍る躍動の素晴らしさがあってこそ価値が高まっているとも思う。20世紀にしては画期的なものがないが、個性の力で陳腐さを回避することには成功していると思うため、スケールの大きさに心を委ねて愉しめる曲だと思う。
協奏曲
ハープ協奏曲 作品25 (1956年)
3.8点
曲の全体とはいわないが、部分的にはかなりいい曲と感じた。エキゾチックさをうまく活用している。
アルゼンチン風協奏曲 Concierto argentinos(ピアノと管弦楽のための) 作品番号なし (1937年)
ピアノ協奏曲 第1番 作品28 (1961年)
3.0点
2番と同様に、自由な交響詩のような曲想でピアノを含む音楽が展開されている。ピアノの書法は洗練されているように聴こえる。芸術的な創発性を重視して、衝動的なものを音にしている感がある。クラスター的な音の塊や不思議な謎のモヤモヤした和音は出てこない。そのため、緊密で鋭角な印象がある。高みに昇った感はないが、一つの20世紀的な協奏曲のあり方として、アルゼンチン風味の面白さも含めて、自由さを楽しめる。3楽章はイマイチで4楽章の野蛮さが楽しい。
ピアノ協奏曲 第2番 作品39 (1972年)
3.3点
現代音楽的な音の塊をぶつけるピアノや、モヤモヤとした伴奏などが使われているものの、調性は多くの場面で明確であり、作曲者のやりたい音楽の雰囲気も明確であるため分かりやすく聴きやすい。一流らしい高みに昇ったものは感じないのだが聞いていて楽しい。急にラヴェルのようになったり、アジア的な土俗の神秘的音楽になったり、雰囲気が自由にコロコロと変わる。その中でピアノは明確に効果的に活躍している。暗さがなく、斬新で面白い協奏曲。ありきたりさが全然ない別世界であり、一聴の価値がある。
ヴァイオリン協奏曲 作品30 (1963年)
3.0点
冒頭が激烈で長いカデンツァで始まり驚く。そのまま刺激が強めの音楽が続いていく。ヴァイオリンを厳しい音として使っている。音感の良さを活かしており悪くない。2楽章は雰囲気が1楽章に似たところがあるせいで、よい音世界を作れているのに心にグッとくるものが少ないのが、他の曲でも感じるの弱点だと個人的には思う。3楽章はパガニーニの引用で耳を惹きつつ、打楽器の多用でバレエ音楽のようなダイナミックさを作り上げつつ、そのなかでヴァイオリンが盛り上げていくように弾かれる。ここはヒナステラならではの魅力的な場面である。
チェロ協奏曲 第1番 作品36 (1968年)
2.8点
チェロ協奏曲らしい面白さがない。まず、ソロの活躍度合いが地味。チェロらしい渋いかっこよさが足りない。自由な音楽の展開がヒナステラの持ち味だが、チェロの運動能力の低さが足を引っ張っているのか、雰囲気の変化が足りない。似た感じの場面ばかりである。旋律のバラエティにも限界を感じてしまう。ヒナステラらしい音世界の楽しさはこの曲にもあって楽しむことはできる。
チェロ協奏曲 第2番 作品50 (1980年)
2.8点
1番と同じ運動能力の弱点は感じるが、低くて渋い音色の産みだす独自の詠唱や唸りの魅力が活用されている。バレエ的な楽しみにオブリガード的に味付けしながら協奏するのも楽しい。しかし、やはりチェロ協奏曲としての楽しみや、ヒナステラの他の曲との比較の観点で、あまり上位にくる感じではない。物足りなさやもどかしさ、弾けない寂しさを常に感じながら聴いてしまった。
ピアノ独奏曲
アルゼンチン舞曲集 Danzas argentinas 作品2 (1937年)
4.0点
1曲目はアルゼンチン風ラヴェルとも呼びたいキレのよい格好いい曲。2曲目は憂愁のメロディーが素敵な曲。そして3曲目が白眉である。複雑なリズムと音使いが生み出すパッションと格好良さは相当な高レベルである。ピアノ書法が素晴らしい。見事な小品であり、生で聴いた事はないが非常に演奏効果が高いだろうと思うのでいつか聴いてみたい。
ミロンガ Milonga (『2つの歌曲』 作品3の第1曲目を作者自身が編曲。1938年)
3.8点
短い小品である。南米的な旋律もピアノ編曲も完璧で、磨かれた玉のように美しい名曲であり、曲が始まった最初から息を止めて聴きたくなるような音楽である。
3つの小品 Tres piezas 作品6 (1940年)
3.3点
ヒナステラの後の作品と比べると、かなりシンプルで個性が十分に現れていない。ドビュッシーのような3曲で、彼のルーツを垣間見える。よいピアノ曲である。特に3曲目が場面展開もあって楽しいなかなかの佳作。
マランボ Malambo 作品7 (1940年)
3.3点
最初は同じフレーズを繰り返してつまらないが、それが驚くような野生的な変容をみせていくのがとても面白い。
12のアメリカ大陸風前奏曲集 Doce Preludios americanos 作品12 (1944年)
3.5点
ヒナステラ一流のピアノ作曲センスがいかんなく発揮された作品だろう。短時間でコロコロと変わっていく曲は、曲に浸ることを許さない代わりに、センスの塊のような音世界が次々と登場することの驚異に打ちのめされる。
組曲『クレオール舞曲集』 Suite de danzas criollas 作品15 (1946年)
3.5点
短い作品が集まっている。シンプルな書法で技巧的にも難易度が低そうだ。それでも、心をとらえるものがある佳作が集まっていて、なかなか魅力がある。とても素敵だなあと何度も関心した。郷愁をさそうような雰囲気など。よいピアノ曲作者は音が少なくてもいい曲を書くものだと関心した。
アルゼンチン童謡の主題による『ロンド』 Rondo sobre temas infantiles argentinos 作品19 (1947年)
ピアノ・ソナタ 第1番 作品22 (1952年)
4.3点
20世紀のピアノソナタの中でも発想の豊かさと強烈さで屈指の曲。民族性あふれる強烈で野蛮なリズムと和声で一度聴いたら忘れられない強い印象を残す1楽章。高音と低音を対比させて、身体の内側からゾクゾクするような艶めかしい情熱を出す2楽章。プロコフィエフのような即物的な少しニヒルな響きの音が少ない緩徐楽章の3楽章。音を敷き詰めて、アクセントで民族的な強烈さと野蛮さを演出する格好いい4楽章。どの楽章も本当に素晴らしい。
ピアノ・ソナタ 第2番 作品53 (1981年)
3.3点
1番の古典性を備えているほどの名作感はない。1楽章も3楽章も非常にごつごつした音の塊が野蛮に鳴らされる曲で、激しさは楽しめるが、うるさいほどである。この2つの楽章が似ているのも欠点である。1楽章の方がソナタの総合性はあるが、激しい場面のゴツゴツ感が似てる。2楽章はかなりセンスが良い緩徐楽章で、音のつくる空気感の良さを楽しめる。印象派のような繊細さが素敵だ。
ピアノ・ソナタ 第3番 作品54 (1982年)
3.3点
激しい音が、岩がぶつかり合うかのように鳴り響く曲。休憩のない単一楽章。ガツンとぶつかり砕けるような音の轟音がこれでもかというくらいに響き渡る。やりすぎと思うほど。短い曲だが、これに「ピアノソナタ」を名付けたのはやはり作曲者の自身の現れだろう。違和感はない。
器楽曲、室内楽作品
パンペアーナ 第1番(ヴァイオリンとピアノ) 作品16 (1947年)
2.8点
即興的でワイルドさのある曲。それなりにカッコいいのだが、あまりに即興的すぎて曲としての統一感や構成感を感じられないため感動できない。曲想も散漫で巨匠らしい集中がない。
パンペアーナ 第2番(チェロとピアノ) 作品21 (1950年)
3.5点
約9分。全体に渋くて格好いい。いくつかの部分を繋げて書かれており、どの場面も聴き映えがする。民族的な和声やメロディーやリズムの効果が、チェロやピアノの低音の渋さに見事にフィットしており、聴いていてゾクゾクする仕上がりになっている。
二重奏曲 (フルートとオーボエ) (1945年)
2.8点
編成の限界があるにしても、あまり面白いとは思えなかった。2楽章の記憶の彼方を呼ぶような郷愁は少し心を捉えた。
ピアノ五重奏曲 作品29 (1963年)
2.5点
前衛的でリズム感に乏しくて音が薄い。中間に曲の半分くらいの長さの全くピアノが登場しないで弦がシニカルな音を奏で続ける場面がある。全くの個人的思いとして、ヒナステラのピアノ五重奏曲に求めたいのはコレジャナイという感が半端なかった。あまりいい曲とは思えない。
ギター・ソナタ 作品47 (1976年)
2.8点
あまりギター曲として偉大な感じがしなかった。大作曲家が書いた貴重なギターソナタのはずではあり、音感の鋭さは随所に見せているが、ギターらしい良さが少し足りないのと、音楽的にもいまいち共感を得られずに終わった。最後の楽章の野蛮さは素敵だが、その他の3つの楽章のバランスが悪い。
チェロ・ソナタ(チェロとピアノ) 作品49 (1979年)
2.8点
チェロ協奏曲と同様の物足りなさを感じる。ピアノのキレは良い。チェロもカッコいい瞬間はよくあるのだが、ダイナミックさがヒナステラの一番の売りだとよく分かる。渋くて独特のエキゾチックな味がある現代的な音の動きの魅力は良いのだが、片手落ちである。
弦楽四重奏曲 第1番 作品20(1948年)
3.3点
ヒナステラの音楽性の良さがよく出ている曲。緊密で無駄が少なく、各楽章が対等の完成度。弦楽四重奏の一丸となった活発さとか自由さを活用しており、アルゼンチンらしい南米の郷土的な音世界も現代性や芸術性と融合させながら見事に表現されている。南米の弦楽四重奏の名手のヴィラ=ロボスに一歩も引けを取らない。
弦楽四重奏曲 第2番 作品26(1958年)
3.5点
1番に続きよい作品。ほんのわずかだけ切れ味が鈍くなった気もしたが、規模が大きくてスケールが大きく、鬼気迫るものもある。活発で自由な弦楽四重奏のメリットを活かしている。リズミカルになったり、不安を煽ったり、いろいろな表現の可能性を掘り出していて、ヒナステラの個性がよい方向に発露している。芸術性もなかなか高い。すごい力作。
弦楽四重奏曲 第3番 作品40(1973年)
2.5点
女声ボーカル入り。歌詞が分からないから、正直にいって音楽の幅を著しく狭めており、変化も乏しく他の弦楽四重奏の力作ぶりと比べて面白くない。雰囲気は悪くなくて、シェーンベルクの月に憑かれたピエロを連想した。でも、それだけという印象。内容の充実感もない。
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%92%E3%83%8A%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%A9
アルベルト・エバリスト・ヒナステラ(Alberto Evaristo Ginastera,1916年4月11日 - 1983年6月25日)は、アルゼンチンのクラシックの作曲家。ヒナステーラとも呼ばれる。ブラジルのヴィラ=ロボス、メキシコのチャベスやポンセらと並び、ラテンアメリカでもっとも重要なクラシック作曲家の一人である。ヒナステラとはスペイン語読みであるが、イタリア系アルゼンチン人である彼の苗字はジナステラと読むのが正しく、彼自身もそう発音されることを望んでいた。
人物
ブエノスアイレス生まれ。1938年、ブエノスアイレス音楽院を卒業。1945年から1947年にかけてアメリカ合衆国を訪れ、アーロン・コープランドにタングルウッド音楽センターで学んだ。その後ブエノスアイレスに帰り、そこで作曲家協会を共同で設立した。数々の指導の後、1968年からアメリカへ戻り、1970年からヨーロッパに移住。ジュネーヴで67年の生涯を終えた。
作品には数種のオペラ、ピアノ協奏曲2曲、チェロ協奏曲2曲、ヴァイオリン協奏曲1曲、ハープ協奏曲1曲を含む。特に「ハープ協奏曲 作品25」は数少ないハープのための協奏曲として時折演奏される。他にバレエ音楽、室内楽及びピアノのための多くの作品がある。
アルゼンチン音楽の影響下に、オスティナート語法をふんだんに用いた明快な作風で知られる。その後は次第に原始主義的・無調的な作風に移行し、最終的には十二音技法や微分音も用いた。これに関してヒナステラ本人は、彼の音楽を3つの時期に分類している。1期目は「客観的愛国心」(この時期の作品はアルゼンチン民謡をじかに用いた曲が多い)、2期目は「主観的愛国心」(1948年〜、このころには、民謡を直接的には使っていないが、はっきりとアルゼンチンの個性が残っている)、そして3期目は「新表現主義」(1958年〜 、民謡の要素は連続の技法を使用し、より近代的な作風になっている)である。
アストル・ピアソラは彼の最初期の弟子である。
プログレッシブ・ロックのEL&Pの『恐怖の頭脳改革』に、ヒナステラのピアノ協奏曲第1番を元にした曲(「トッカータ」)が収録されている。編曲の許可を貰いに来たキース・エマーソンに対して、ヒナステラはその出来映えを絶賛したという。
堤俊作が1978年のジュネーブ国際音楽コンクール指揮部門で最高位を受賞したときの審査員がヒナステラだった。堤は後に『エスタンシア』の日本初演を手掛けた。
主な作品
バレエ
バレエ『パナンビ(Panambi)』 作品1 (1934年及び1936年、組曲版あり)
バレエ『エスタンシア(Estancia)』 作品8 (1941年、組曲版あり)
管弦楽曲
クリオールのファウスト序曲 Obertura para el "Fausto" Criollo 作品9 (1943年)
交響的三部作「オジャンタイ(またはオランタイ)」 Ollantay 作品17(1947年)
交響的変奏曲 Variaciones Concertantes 作品23(1953年)
パンペアーナ(Pampeana) 第3番「交響的パストラール」 作品24 (1954年)
協奏曲
ハープ協奏曲 作品25 (1956年)
アルゼンチン風協奏曲 Concierto argentinos(ピアノと管弦楽のための) 作品番号なし (1937年)
ピアノ協奏曲 第1番 作品28 (1961年)
ピアノ協奏曲 第2番 作品39 (1972年)
ヴァイオリン協奏曲 作品30 (1963年)
チェロ協奏曲 第1番 作品36 (1968年)
チェロ協奏曲 第2番 作品50 (1980年)
ピアノ独奏曲
童謡小品集(子どものための小品集) Piezas infantiles 作品番号なし (1934年)
アルゼンチン舞曲集 Danzas argentinas 作品2 (1937年)
ミロンガ Milonga (『2つの歌曲』 作品3の第1曲目を作者自身がピアノ独奏用に編曲した作品。1938年)
3つの小品 Tres piezas 作品6 (1940年)
マランボ Malambo 作品7 (1940年)
12のアメリカ大陸風前奏曲集 Doce Preludios americanos 作品12 (1944年)
組曲『クレオール舞曲集』 Suite de danzas criollas 作品15 (1946年)
アルゼンチン童謡の主題による『ロンド』 Rondo sobre temas infantiles argentinos 作品19 (1947年)
「我が子アレックスとヘオルヒーナに捧げる」と記されている。
ピアノ・ソナタ 第1番 作品22 (1952年)
ピアノ・ソナタ 第2番 作品53 (1981年)
ピアノ・ソナタ 第3番 作品54 (1982年) - ヒナステラ最後の作品。単一楽章からなる。
子どもたちのためのアルゼンチン舞曲集 Danzas argentinas Para los ninos 作品番号なし
器楽曲、室内楽作品
パンペアーナ 第1番(ヴァイオリンとピアノ) 作品16 (1947年)
パンペアーナ 第2番(チェロとピアノ) 作品21 (1950年)
二重奏曲 (フルートとオーボエ) (1945年)
ピアノ五重奏曲 作品29 (1963年)
ギター・ソナタ 作品47 (1976年)
チェロ・ソナタ(チェロとピアノ) 作品49 (1979年)
弦楽四重奏曲 第1番 作品20(1948年)
弦楽四重奏曲 第2番 作品26(1958年)
弦楽四重奏曲 第3番 作品40(1973年)
声楽をともなう作品
2つの歌曲 Dos canciones (歌とピアノ) 作品3 (1938年)
第1曲目の「忘却の木の歌」は、ヒナステラの歌曲の中でも特に知られており、演奏会などでも取り上げられる機会が多い作品である。なおピアノ曲「Milonga」は、作者自身がこの歌曲を独奏用に編曲した作品である。
トゥクマンの歌 (歌、フルート、ヴァイオリン、ハープと2つの打楽器) Cantos del tucuman 作品4 (1938年)
アルゼンチン民謡による5つの歌曲集 Cinco canciones populares argentinas (歌とピアノ) 作品10 (1943年)
ある農園での一日 Las horas de una estancia (歌とピアノ) 作品11 (1943年)
魔法のアメリカ大陸に寄せるカンタータ Cantata para america magia(ソプラノと打楽器群のための)作品27(1960年)
カンタータ『ボマルツォ』(Bomarzo) 作品32 (1964年) - 作品34のオペラとは全く別の作品。
奪われたキスの歌 Cancion del beso robado (歌とピアノ) - 作曲年代不明。偽作?
オペラ
オペラ『ドン・ロドリーゴ』(Don Rodrigo) 作品31 (1964年)
オペラ『ボマルツォ』(Bomarzo) 作品34 (1966年及び1967年) - 1972年までアルゼンチンでの演奏が禁止された。
オペラ『ベアトリクス・センシ』(Beatrix Cenci) 作品38 (1971年)
編曲作品
ドメニコ・ツィポーリのオルガン曲「トッカータ ニ短調」のピアノ独奏用の編曲(1970年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%8A%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%A9
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/772.html
アルベルト・ヒナステラ ピアノ・ソナタ 第1番 作品22
Ginastera - Piano Sonata No. 1, Op. 22; David Bean, piano
I. Allegro marcato 0:01
II. Presto misterioso 3:59
III. Adagio molto appassionato 6:22
IV. Ruvido ed ostinato 12:25
David Bean, piano
Released in 1969.
Horacio Lavandera (Piano) "Sonata Nº 1 - OP 22 " de Alberto Ginastera
1 - ALLEGRO MARCATO
2 - PRESTO MISTERIOSO
3 - ADAGIO MOLTO APPASSIONATO
4 - RUVIDO ED OSTINATO
Alberto Ginastera - ALL PIANO SONATAS (GSARCI BIRTHDAY PRESENT)
(15:33) second piano sonata
(28:35) the Piano Sonata No. 3 (1982)
(Performance by: Fernando Viani)
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/773.html
ベンジャミン・ブリテン(Benjamin Britten) 1913 - 1976)
主要曲はどの曲も独自の世界感をもった力作である。独特の音世界を持ちつつも、シリアスで深みがあり芸術性が高い。オペラが得意だったようだが、器楽曲作曲家としても20世紀を代表する大作曲家である。
歌劇
「ピーター・グライムズ」作品33 Peter Grimes(1944〜45)
3.5点
前半だけ聴いたが、なかなかファンタジックで現代的な曲。音だけでも強く主張があるのでそこそこ楽しめる。
合唱曲
キャロルの典礼 作品 28「A Ceremony of Carols」(1942)
3.0点
美しい合唱曲。独特のブリテンらしい音使いと感動的な合唱の編曲の融合は効果的。
春の交響曲 作品44 Spring Symphony(1949)
3.0点
12の歌曲からなる作品。オラトリオに近いが構成としてまとまりと展開があり交響曲という命名に違和感はない。やや晦渋であるが、スケールに巨大感があり、厳かで不思議な大いなる雰囲気を充満させて、独特の世界を強靭なイマジネーション力で展開しており、合唱曲作家としての力量をみせている。とはいえ、天才的な発想の妙というレベルには達していないと思う。
戦争レクイエム 作品66 War Requiem(1960〜61)
3.8点
声楽の大作曲家であるブリテンの全霊を傾けた作品だけあり、かなりの凄みをもった作品になっている。暗くて重いだけのレクイエムではなく、独特の音空間の美の中で、場面により鎮魂的な雰囲気に沈み、歴史性や社会性をみせることもある。大作であり、多くのインスピレーションを注ぎ込んだ多くの場面は、映画のような移り変わりを見せる。戦争の悲劇性を芸術家として芸術に昇華させつつも、生々しさももたせて強く訴えている。世界の闇と悲劇のモニュメントを作ろうという意思を感じる。
管弦楽曲、協奏曲
シンフォニエッタ 作品1(1932)
2.8点
18歳の作品とのことだが、すでに完全にブリテンらしい音の使い方が全体を支配している。まとまりを産む音楽のコントロール力とか表現の奥深さは欠けているように思われて、作曲者が何をしたいのか掴めない。最後まで理解できないまま曲が終わってしまった。だからあまり感動するものではないが、とにかく18歳でこの世界を産み出したことには驚かされる。
シンプル・シンフォニー 作品4 Simple Symphony(1933〜34)
3.3点
弦楽合奏か弦楽四重奏の曲。シンプルで明快で爽やかだが、単なる単純な曲ではない。分かりやすい捻りではなくブリテンらしい独特の新鮮な感覚が発露していることにより、未聴感を感じさせる。この曲の感性そのものを刺激するような新鮮な感覚は面白い。作曲者の感覚の鋭さが為せる技だろうか。とはいえ、若書きであり深みはないため物足りないところはあるし、全体的にみて感動するほどの名作ではない。
ソワレ・ミュージカル 作品9(1936)
3.0点
ロッシーニの曲を使って書いた軽妙で明るい娯楽的な音楽。ブリテンらしからぬ底抜けの明るさで爽やかで聞いていて気分は良いが、単にそれだけであり他の作曲家でも書けそうなレベルである。
フランク・ブリッジの主題による変奏曲 作品10 Variations on a Theme by Frank Bridge(1937)
3.3点
弦楽合奏。26分。10の変奏曲は工夫が凝らされてバラエティーに富んでおり、弦楽合奏によるブリテンの語法での曲として可能な限りの全力を注いでいるのが分かる。主題はあまり印象深くないが、この曲の場合は関係ない。音楽のバラエティーと複雑さに感心するとともに、シニカルな陰影を持っていて精神的深みもそれなりにあり聴いていて飽きない。弦楽合奏の自由さがよい方向の結果に繋がっている。
ピアノ協奏曲 作品13(1938/45)
3.9点
1楽章は色彩的で機動性の高いオーケストラと、軽快にパラパラとフレーズを弾く雰囲気がラヴェルを連想する。2楽章も明確な個性がある曲。3楽章は3番に似ている場面があり曲の雰囲気もプロコフィエフを連想した。4楽章は再びラヴェル風ブリテンという感じ。全体的な作品としての大きなレベルでのまとまりに欠けているので聴き終わるとがっかりするのだが、個別の部分においてはピアノも華やかだし、はっとするような耳を捉える部分は多い曲。
ヴァイオリン協奏曲 作品15(1939/58)
2.8点
あまり面白くない。運動性に難のあるブリテンの音楽性が明らかにマイナスに働いている。協奏曲らしい醍醐味がなく、ソロが有効に機能していない場面が多い。音楽性の観点でもブリテンにしてはあまり高くないと感じた。2楽章だけはそれなりに楽しめたが、他は残念に感じた。チェロ交響曲をさらに物足りなくしたイメージ。
シンフォニア・ダ・レクイエム 作品20 Sinfonia da requiem(1940)
3.8点
全3楽章。声楽はなし20分。1楽章は沈鬱な鎮魂の雰囲気でまさにレクイエムのような曲。2楽章の怒りの日は、音の乱舞の仕方がなかなか秀逸である。激しくてもやりすぎにならず、落ち着いた間の取り方があるのがブリテン。3楽章は平和の祈りだが、地に足の着いた霊が天上に舞い上がっていくような音楽で、非現実的な理想ではなく妙な実在感のある世界平和が表現されていると思う。素晴らしい。オネゲルと比較したくなる20世紀的な交響曲であり内容充実の名作である。ただ、皇紀2600年奉祝曲として日本から委嘱された曲だが演奏されなかったそうだが、確かに全くそぐわないのは笑える。
左手のためのディヴァージョンズ(主題と変奏) 作品21 Diversions on a Theme for Piano (Left Hand) and Orchestra(1940/54)
3.5点
左手だけのピアノというのがブリテンによく合っている。片手ゆえに音が厚ぼったくならず、美的センスで聴かせる音楽性がよく出ている。軽快で心地よいピアノとバリエーション豊かで多彩な音楽は、次を聴きたい衝動を最後まで引っ張って続けることに成功している。ラヴェルのような旋律の美しさやエモーショナルさは無いのと変奏曲ゆえの軽さがあるが、楽しんで聴ける。
4つの海の間奏曲 作品33a 4 Sea Interludes(「ピーター・グライムズ」より 1944)
3.8点
4曲とも近代的な管弦楽らしい豊富な表現力を活用した音楽的なイメージ表出力が素晴らしい。SF的もしくはファンタジー的な超常的世界をイメージする。優れたインスピレーションが4曲とも発揮されており楽しめる。
パッサカリア 作品33b Passacaglia(「ピーター・グライムズ」より 1944)
3.0点
ブリテン流の不思議さとブライトな響きでパッサカリアを料理するとこうなる、という音楽。同じ低音の継続とその他の楽器の音の流れの違和感の落ち着かなさを愉しむ音楽だが、期待以上ではなく予想の範囲内である。
青少年のための管弦楽入門(パーセルの主題による変奏曲とフーガ) 作品34 The Young Person's Guide to the Orchestra - Variations and Fugue on a Theme of Henry Purcell(1946)
3.0点
パーセルによる主題は印象的なのだが、その後の変奏は、コミカルでファンタジックではあるが、幻想的で変幻自在すぎてついていくのが大変である。その点で、典型的な入門曲という感じより、ブリテン独特の世界の中の楽器入門になっている。決して分かりやすくないし、とり立てて音楽が優れている感じはしない。
チェロ交響曲 作品68 Symphony for Cello and Orchestra(1963)
3.0点
分厚い管弦楽で交響曲の名にふさわしい堂々たる大曲である。だが、全体を分厚い雲のように覆う陰鬱な気分には滅入りそうになる。最後の楽章で少し雲の隙間から光が差す瞬間があるだけである。チェロは活躍するが管弦楽は溶け込んで、ブラームスの協奏曲以上に一緒に音楽を作る。空間は壮大さはあるのだが、そのごく一部に存在する自分がテーマになっているようでもあり、その狭さと雰囲気の変化の少なさが物足りなさになっている。
室内楽曲
弦楽四重奏曲第1番ニ長調 作品25(1941年)
3.8点
室内楽というより弦楽合奏のような音の使い方である。だが、そんな細かい事はどうでもよいと思うくらい素晴らしい内容である。精神的な深み、瞑想的な雰囲気、ダイナミックな音の使い方と場面転換は、強い力で精神のドラマの世界に誘ってくれる。精神世界でたゆたう自分の魂が心地いい。しかし、美音的な良さもあり、鋭角的なバルトークやショスタコーヴィチとは別の切り口で同じくらい深い世界に到達している。素晴らしい。
弦楽四重奏曲第2番ハ長調 作品36(1945年)
3.5点
1番ほど分かりやすくない。何しろ3楽章は長大で静謐な世界で、自己疎外された魂の浮遊した遍歴を楽しめる。聴くのは少し大変だが、重すぎるわけでないのでウンザリしないため辛くはない。他の楽章もはじけるほどにはならず、曖昧な靄の中の音楽である。1楽章も2楽章も表面は全然違うが根底の精神性は3楽章と近いと思う。ある意味で一貫性がありすぎるように思われるのが欠点か。ブリテンらしい美しさは全開で、かなりの聞き応えはあるのだが。室内楽らしさが少ないのは1番と同じ。
弦楽四重奏曲第3番 作品94(1976年)
3.5点
老人の人生懐古の曲ということで良いのだろうか。老人になった自分、という存在を強く意識した孤独の独白の曲に聞こえる。もちろんブリテンらしさの中での表現である。もっとも亡くなる年の作品とはいえ63歳だから老人というほどではないか。おそらく評価の分かれる作品だろう。自分は最初は精気の無さがイマイチと思ったが、聞いているうちに強く惹かれるようになった。死の予感の虚無感と、絶対的な無に至る感覚が感じられて、感動してしまった。
チェロソナタ ハ長調 作品65 (1960年)
2.8点
一言でいうと少し変な曲だと思う。通俗的なサービス精神はない。やりたい音を好きに作った音楽である。モノクロームな色彩感の薄い音楽であり、地味だが渋くてかっこいいところがある。自由に精神的な彷徨をするような印象でありわなかなか趣味的である。たまたま気にいる人はいるだろうが、ツボにハマらない人にとってはあまり楽しめない音楽だろう。
ラクリメ―ダウランドの歌曲の投影 作品48 (1950年)
2.5点
ヴィオラとピアノのための作品。14分あり規模が割と大きい。複数の部分をつなげて書かれており、古い時代のものと思われる旋律が静かで不思議な雰囲気を醸し出している。しかしながら、音楽が心にすっと入り込まない。曲の長さに見合うものがない。
器楽曲
無伴奏チェロ組曲第1番 作品72(1964)
3.3点
詠唱のような場面が多いが、それ以外も様々な場面がある。神秘的であるとともに退廃的。孤独の精神的探索を楽しめる深さがある。チェロ1本であり短い曲ではないが充分に豊富さが取り入れられており、飽きずに楽しめる。リズミカルさが少ないのが難点と思う。全体に暗い陰があるが、そこにブリテンらしい美が添えられており、うんざりすることはない。
無伴奏チェロ組曲第2番 作品80(1967)
3.3点
1番ほど根暗ではない。代わりに無機質で疎外された違和感がコンセプトになっているように聴こえる。リズムがある程度ある曲が多いところが良い。心に染みる感じは少ないが、なんとなく日常のふとした瞬間に無意識に感じているであろう間隙と裏側の違和感が音楽化されているように思う。
無伴奏チェロ組曲第3番 作品87(1972)
2.8点
短い曲が連続で繋がっている構成。一つずつが断片的すぎて、内容が浅い。感動ポイントが少なく、イマイチだと感じたまま次の曲になり、それもイマイチというのが続く。他の2曲よりワンランク落ちると思う。
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%86%E3%83%B3
ブリテン男爵エドワード・ベンジャミン・ブリテン(Edward Benjamin Britten, Baron Britten OM CH, 1913年11月22日 - 1976年12月4日 )は、イギリスの作曲家・指揮者・ピアニスト。姓はブリトン、ブリトゥンと表記されることがあるが、実際の発音はブリトゥンの表記が原音に一番近い。
代表作としては オペラ『ピーター・グライムズ』や『シンプル・シンフォニー』、『戦争レクイエム』、バロック期の作曲家ヘンリー・パーセルの劇音楽『アブデラザール』(Abdelazar) からの主題を引用した 『青少年のための管弦楽入門』 が知られている。
生涯
出生と幼少期
1913年11月22日、イングランドのサフォーク州にある海港ローストフト(英語版)にて、歯科医の父ロバート・ビクター・ブリテン(Robert Victor Britten, 1878年 - 1934年)とアマチュアのソプラノ歌手の母イーディス・ローダ(Edith Rhoda, 1874年 - 1937年)との間に生まれる。
幼少期のブリテンは、2歳になる頃にピアノに対して興味を抱き、ピアノを7歳から習い始めている。また母の勧めでヴィオラも習っている。わずか5歳で歌曲、7歳でピアノ曲を作曲、そして9歳の時には最初の弦楽四重奏曲を完成させるなど、この時期から音楽の才能を示していた。彼が持っていた音楽的素質は母方から受け継いだものと言えるが、母は地元の合唱団の幹事も務めていたほどの音楽好きであったという。
1924年10月、ノーフォークとノリッジで開催されていた音楽祭において、当時10歳のブリテンはこの音楽祭で演奏されていたフランク・ブリッジの交響組曲『海』(1911年作)を聴いて感銘を受け、演奏後にブリッジ本人と初めて対面した。ブリッジは少年ブリテンの音楽的才能を認め、自ら本格的な指導を買って出たという。指導は数年後の1928年にロンドンにあるブリッジの自宅まで、時には休暇を利用しながら通い、彼の許で音楽の基礎となる理論や和声法・対位法を厳しく学んだ。この厳格な個人指導は本人にとって大きな影響を与えたといわれる。
後に1937年に作曲され、出世作となった『フランク・ブリッジの主題による変奏曲』で師に対する感謝の念を表している。
青年期と作曲家としての活動
1930年、奨学金を得てロンドンの王立音楽大学(RCM)に入学し、大学ではジョン・アイアランド(作曲法)とアーサー・ベンジャミン(ピアノ)にそれぞれ師事した。なおブリテンはアイアランドに対してほとんど顧みなかったという。在学中は数多くの習作を書いていたが、『シンフォニエッタ』(作品1、1932年)、『幻想四重奏曲』(作品2、1932年)、『シンプル・シンフォニー』(作品4、1933年-1934年)などを生み出している。この『シンプル・シンフォニー』は以前の習作を素材に改作した作品である。またモーツァルトやシューベルトとともにマーラーやシェーンベルク、ベルク、ストラヴィンスキー、ショスタコーヴィチらの作曲家に興味を示し、同時に影響を受けている。とくに後者のベルクに関しては、当時台頭しつつあった前衛的な作風にその志向を持ち、彼に師事することを考え、弟子入りを志願していたという。しかし師のブリッジや両親らに反対され、その上1935年にベルクの急死もあって結果的に実現はしなかった(自身でも「私はアルバン・ベルクに弟子入りしたいと願っていた。でもベルクの急死で果たせなかった」とコメントを残している)。
1934年に音楽大学を卒業すると、前年(1933年)に父ロバートが没したこともあり自活のため1935年にGPOフィルム・ユニット社(イギリス郵政局映画部)に入社し、翌1936年まで勤務した。ここでは主にドキュメンタリー映画や記録映画のための伴奏音楽を作曲する仕事が主であった(1935年の1年間に担当した映画音楽は13作で、36年は8作という多さで、好評を博した作品もある)。スタジオでは多くの友人と親交したが、その中の一人に台本を担当していた詩人のウィスタン・ヒュー・オーデンと知り合っている。オーデンとは映画『石炭の表情』と『夜の郵便』を共同で取り組んだり、『私たちの狩りをする先祖たち』(作品8、1936年)や『英雄のバラード』(作品14、1939年)など彼の詩による作品を作曲している。
1937年に『フランク・ブリッジの主題による変奏曲』を作曲し、同年の8月25日にザルツブルク音楽祭でボイド・ニール合奏団によって初演され、国際的な名声を得るとともに出世作となった。同年にテノール歌手ピーター・ピアーズと知り合い、ピアーズとは生涯にわたり盟友として関係を築く。また母イーディスが死去。
この時期の作品には『ピアノ協奏曲』(作品13、1938年)などが挙げられる。
中期の活動と戦後
1939年、4月のドイツのポーランド不可侵条約の破棄や第二次世界大戦の勃発に伴うイギリスの参戦など当時の世界情勢に危機感を抱いたブリテンは、これを避けるため(兵役拒否の意味合いとして)6月にピアーズと共にアメリカへ向かった(オーデンは彼より先にアメリカへ行って移住している)。アメリカでは1942年3月まで2年半にわたって滞在し、主にニューヨークに住みながら創作活動を継続した。この1939年の有名な作品として、『ヴァイオリン協奏曲』(作品15、1950年改訂)やアルチュール・ランボーの詩による歌曲『イリュミナシオン』(作品18)などが挙げられる。
1940年に日本政府の企画する皇紀2600年奉祝曲としてイギリス文化振興会から作品委嘱を受け、『シンフォニア・ダ・レクイエム』(作品20)を作曲する。しかし曲の内容が祝典に相応しくないとして政府側が拒否し、演奏されることはなかった。作品は翌1941年の3月29日にニューヨーク・フィルハーモニックの定期演奏会でジョン・バルビローリの指揮によって行われている。
イギリスに帰国した1942年の春、ブリテンは良心的な理由から兵役を拒否することを公的に認められ、サフォーク州のオールドバラに住んで、創作に専念する。この専念していた頃にテノール、ホルンと弦楽のための『セレナード』(作品31、1943年)やオペラ『ピーター・グライムズ』(作品33、1944年-1945年)などが作曲され、後者の『ピーター・グライムズ』はセルゲイ・クーセヴィツキーの勧めで着手され、1945年の初演では大きな反響を呼び、パーセル以来の本格的なイギリス・オペラの再興とまで謳われた。
1945年の『ピーター・グライムズ』の成功により、戦後のブリテンは創作力に恵まれ、かつ最も充実した時期でもあった。ヘンリー・パーセルの『アブデラザール』の音楽を主題に用いた『青少年のための管弦楽入門』(作品34、1946年)やオペラ『アルバート・ヘリング』(作品39、1946年-1947年)、『春の交響曲』(作品44、1949年)など一連の作品が作曲されたのもこの時期にあたる。
3作目のオペラとなる『ルクレティアの凌辱』(作品37、1945年-1946年)は前作とは異なった小編成の室内オペラで、1946年にグラインドボーン音楽祭で初演されたが、この経験に基づいて彼は室内オペラのジャンルに志向し、後の1947年に「イギリス・オペラ・グループ」の結成へと繋がった。1948年にはオールドバラ音楽祭を創設。音楽祭では自作の初演のみならず歌曲のリサイタルも行い、演奏活動に力を注いだ。
1956年2月、日本を訪れ、NHK交響楽団を指揮して自作を演奏した。また2週間滞在中に伝統芸能の能楽「隅田川」を鑑賞、深い感銘を受けて教会上演用の寓話『カーリュー・リヴァー』を生み出すことになる。
1960年から1961年にかけて作曲された『戦争レクイエム』(作品66)は、空襲で破壊されたコヴェントリー大聖堂の再建の献堂式のために書かれたもので、1962年に初演された。
1960年9月、チェリストのムスティスラフ・ロストロポーヴィチと初めて出会う。親交を結び、彼のために『チェロソナタ』(作品65、1961年)と『チェロ交響曲』(作品68、1963年)を作曲する。この2作はいずれもロストロポーヴィチが初演時にチェロを担当した。
晩年
晩年の1970年代には、創作の筆を落とすことなく最後のオペラ『ヴェニスに死す』(作品88、1973年)や弦楽四重奏曲第3番(作品94、1975年)などこの時期を代表する作品を生み出す一方で、健康の悪化にも悩まされていた。心臓を悪くしていた彼は1973年に手術をしており、以降は車椅子を使いながら生活を送るようになる。1976年には終身上院議員(貴族)に叙せられ、「ロード」の称号を授与された。なお音楽家としてこの栄誉を受けたのはブリテンが初である。
1976年12月4日、オールドバラにある棲家レッド・ハウスにてうっ血性心不全のため死去。63歳没。3日後の12月7日に葬儀が行われ、オールドバラの聖ペテロ聖パウロ教会の墓地に埋葬された。後にブリテンの墓の隣には公私のパートナーであったピーター・ピアーズ、後ろにはグスターヴ・ホルストの娘であるイモージェン・ホルストの墓も建てられている。
2003年に、彫刻家マギ・ハンブリング(英語版)によってオールドバラの海岸にブリテンを記念した彫刻"The Scallop"が作られた。女王エリザベス2世によって叙爵された時の称号も、この地に因んで Lord (Baron) Britten of Auldeburgh となっている。
人物
テノール歌手のピーター・ピアーズは盟友として知られ、『ピーター・グライムズ』や『戦争レクイエム』等ほとんどの歌劇・声楽曲は彼の演奏を前提に書かれており、彼が初演を担当した。ブリテンはピアニストでもあり、ピアーズの歌曲演奏では伴奏を担当することが多かった。またピアーズは演奏のみならず、作曲の段階においても関わった。しかし両者の死後、彼らが仕事の面のみならず私生活においても同性愛のパートナーであったことが公然と論じられるようになり、大きなスキャンダルとなったが、同世代の他の音楽家と比べて遅れて爵位を得た背景にはこのことも関係している、ともされる。
小惑星 (4079) のブリテンは、彼にちなんで命名された[1]。
作風
1910年代生まれの音楽家は、ジョン・ケージのような例外を除いて前衛の時代に馴染めず、また同世代が戦禍の犠牲になるなど不遇の者が多い。そのような状況下でブリテンは、イギリスの保守性を上手く活用し、機能和声語法を突き詰めることに成功した。ブリテンのせいでイギリスの音楽事情は世界から後退したというのは事実であるが、同時にイギリス人の音楽観をこれほど世界中に広めた人物も皆無である。
また先述のように彼本人はベルクへの弟子入りを計画するなど当時の前衛音楽にも関心を示し、自身の作品の中で無調的であったり、機能和声とは逸脱したパッセージを時折覗かせるなど当時の流行にも無関心ではなかった。そういった意味ではブリテンは新古典主義の潮流に近い作曲家と言えるであろう。
演奏家としてのブリテン
ブリテンは指揮者としても有能であった。比較的早いときから指揮者活動をしており、のちにイギリス室内管弦楽団を手兵として指揮活動を続けた。レパートリーも自作自演(ほとんどの作品について良好な音質・オーケストラで自作自演の録音を残した点ではレナード・バーンスタインと双璧)のほかにはハイドンやモーツァルト、バッハ、そしてイギリス作品などを得意にしていた。また、クリフォード・カーゾンやジュリアス・カッチェンといった名ピアニストとも共演を重ねている。早い時期から指揮活動をしていたせいであろうか、若い頃のある時、ブリテンはエイドリアン・ボールトの指揮ぶりを軽い乗りで批判したことがあった。これにボールトは激怒し、以後ブリテンの作品を完全に無視してしまった。
またピアニストとしても、ピアーズやロストロポーヴィチの伴奏やモーツァルトのピアノ協奏曲の指揮兼独奏などの録音がある。
2006年には日本で、デッカ(ユニバーサルミュージック)から没後30年を記念して、ブリテンの主要な録音がリリースされた。その中には、日本初お目見えのものも数点含まれていた。また2013年に生誕100年を迎えている。
日本との関係
1940年の皇紀2600年奉祝曲の企画に際してブリテンにも委嘱がなされ、『シンフォニア・ダ・レクイエム』を作曲したが、キリスト教的で「皇紀」に相応しくない、「レクイエム」は「奉祝」に相応しくない、などの議論がおき、結局演奏されなかった。その後1956年に2週間来日し、NHK交響楽団を指揮して同曲の日本初演を行っている。また、2月9日にピアーズとともにNHKホール(内幸町)で行った演奏は映像が残されている。また、1964年に発表された『カーリュー・リヴァー』は滞在時に鑑賞した隅田川(能楽)の印象を基にしている。
日本では、2006年11月22日に『日本ブリテン協会』が発足した。
主な作品
歌劇
「ポール・バニヤン」作品17 Paul Bunyan(1941)
「ピーター・グライムズ」作品33 Peter Grimes(1944〜45)
「ルクレティアの凌辱(英語版)」作品37 The Rape of Lucretia(1945〜46)
「アルバート・ヘリング(英語版)」作品39 Albert Herring(1947)
「乞食オペラ」作品43 The Beggar's Opera(1948)
「オペラを作ろう(小さな煙突掃除)」作品45 Let's Make an Opera(The Little Sweep)(1949)
「ビリー・バッド(英語版)」作品50 Billy Budd(1951/60)
「グロリアーナ(英語版)」作品53 Gloriana(1953)
「ねじの回転(英語版)」作品54 The Turn of the Screw(1954)
「ノアの洪水」作品59 Noye's Fludde(1957)
「夏の夜の夢」作品64 A Midsummer Night's Dream(1960)
「カーリュー・リヴァー」作品71 Curlew River(1964)
「燃える炉」作品77 The Burning Fiery Furnace 神秘劇(1966)
「放蕩息子(英語版)」作品81 The Prodigal Son(1968)
「オーウェン・ウィングレイヴ(英語版)」作品85 Owen Wingrave(1970)
「ヴェニスに死す(英語版)」作品88 Death in Venice(1973)
バレエ
「プリマスの町」 Plymouth town(1931)
「パゴダの王子」作品57 The Prince of the Pagodas(1956)
合唱曲
みどり児はお生まれになった 作品3 A Boy Was Born(1932-33/55)
聖母讃歌 A Hymn to the Virgin(1930/34)
大いなる神の栄光に Ad majorem Dei gloriam(1939)
キャロルの祭典 作品28 A Ceremony of Carols(1942)
婚礼のアンセム A Wedding Anthem(1949)
春の交響曲 作品44 Spring Symphony(1949)
戦争レクイエム 作品66 War Requiem(1960〜61)
聖コロンバ讃歌 A Hymn of St. Colomba(1962)
ウィールデン・トリオ A Wealden Trio(1929/67)
管弦楽曲
シンフォニエッタ 作品1(1932)
シンプル・シンフォニー 作品4 Simple Symphony(1933〜34)
ソワレ・ミュージカル 作品9(1936)
フランク・ブリッジの主題による変奏曲 作品10 Variations on a Theme by Frank Bridge(1937)
マチネ・ミュージカル作品24 (1941)
前奏曲とフーガ(18声の弦楽オーケストラのための)作品29 Prelude and Fugue(1943)
ピアノ協奏曲 作品13(1938/45)
ヴァイオリン協奏曲 作品15(1939/58)
シンフォニア・ダ・レクイエム 作品20 Sinfonia da requiem(1940、元々は皇紀2600年奉祝曲として、日本政府から委嘱を受けたものだが、内容がふさわしくないという理由で演奏されなかった)
左手のためのディヴァージョンズ(主題と変奏) 作品21 Diversions on a Theme for Piano (Left Hand) and Orchestra(1940/54)
4つの海の間奏曲 作品33a 4 Sea Interludes(「ピーター・グライムズ」より 1944)
パッサカリア 作品33b Passacaglia(「ピーター・グライムズ」より 1944)
青少年のための管弦楽入門(パーセルの主題による変奏曲とフーガ) 作品34 The Young Person's Guide to the Orchestra - Variations and Fugue on a Theme of Henry Purcell(1946)
チェロ交響曲 作品68 Symphony for Cello and Orchestra(1963)
室内楽曲
弦楽四重奏曲第1番ニ長調 作品25(1941年)
弦楽四重奏曲第2番ハ長調 作品36(1945年)
弦楽四重奏曲第3番 作品94(1976年)
チェロソナタ ハ長調 作品65 (1960)
器楽曲
無伴奏チェロ組曲第1番 作品72(1964)
無伴奏チェロ組曲第2番 作品80(1967)
無伴奏チェロ組曲第3番 作品87(1972)
チェロ交響曲を含む一連のチェロ作品はチェロの名手ロストロポーヴィチとの出会いに触発されたものである。
ラクリメ―ダウランドの歌曲の投影 作品48 Lachrymae - Reflections on a Song of John Dowland(1950)
ヴィオラとピアノのための作品で、作曲者自身による弦楽合奏伴奏の編曲が存在する。
ピアノ曲
12の変奏曲(1931)
組曲「休日の日記」 作品5(1934)
ソナティナ・ロマンティカ(1940)
ノットゥルノ(1963)
歌曲
この島国で 作品11 On This Island(1937)
ソプラノまたはテナーと弦楽のための「イリュミナシオン」作品18 Les Illuminations(1939)
ミケランジェロの7つのソネット 作品22 7 Sonnets of Michelangelo(1940)
テノール、ホルンと弦楽のためのセレナード 作品31 Serenade(1943)
テノール、ホルンとピアノのための「深紅の花弁は眠りにつき」 Now sleeps crimson petal (1943) テニスンの詩による。元々はセレナード作品31の中の1曲として作曲されたもので、1986年に発見された。
声楽曲
カンティクル 第1番《愛する人は私のもの》作品40 Canticle I: My Beloved Is Mine(1947)
カンティクル 第2番《アブラハムとイサク》作品51 Canticle II: Abraham and Isaac(1952)
カンティクル 第3番《なおも雨は降る》作品55 Canticle III: Still Falls the Rain(1954)
カンティクル 第4番《東方の博士の旅》作品86 Canticle IV: The Journey of the Magi(1971)
カンティクル 第5番《聖ナルキッソスの死》作品89 Canticle V: The Death of St. Narcissus(1975)
他多数
劇付随音楽
アテネのタイモン Timon of Athens
復活祭1916 Easter 1916
アガメムノン Agamemnon
F6登攀 The Ascent of F. 6
暗い谷 The Dark Valley
双頭の鷲 The Eagle Has Two Heads
アーサー王 King Arthur
支配者 The Dynasts
任命 Appointment
Out of the picture
映画音楽
王の切手 The King's Stamps(1935)
電報 Telegrams(1935)
トッカー(1935)
正餐の時間 Dinner Hour
編曲
「鱒」(原曲:フランツ・シューベルト。管弦楽伴奏)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%86%E3%83%B3
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/774.html
ベンジャミン・ブリテン 弦楽四重奏曲 第1番 ニ長調 作品25
String Quartet No. 1 in D Major, Op. 25
Britten Quartet
Benjamin Britten: String Quartets - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=OLAK5uy_nksxarGgUI22TDDie7IqoXnlWqM-DRf_8
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/775.html
サミュエル・バーバー(Samuel Barber、1910 - 1981)
交響曲
交響曲 第1番 ホ短調 Op.9 (1935〜36/1943改訂)
3.0点
明確な和声と構築感は19世紀的だが、それに安住するわけではなく、ロマン派的な感性にプラスして20世紀的な新鮮な叙情性がある。初期の作品なのでまだ個性の確立が足りない感じがあり、素晴らしいという程の場面は少ない。単一楽章といっても、楽章の区切りは割と明確に感じられるので、聞きやすい。
交響曲 第2番 Op.19 (1944/1947改訂)
3.0点
複雑で前衛的な響き、バーバリズム、オスティナートなど、意欲的な作品。激しさに圧倒される場面もある。しかし、まとまりと交響曲らしい総合性にどうにも欠けるので、聞き終わった後に物足りなさが残る。バーバーらしい洗練された知性は楽しめる。
管弦楽曲
序曲『悪口学校』 Op.5 (1932)
3.0点
バーバーらしい切れ味の良さと現代的な管弦楽の機能のさせ方を楽しむ曲だと思う。旋律に魅力はないし、強く印象に残る場面もないが、管弦楽でここまでできるのかという20世紀のスピード感に合わせた音楽の機動力には驚く。
弦楽のためのアダージョ Op.11 (1937)
3.8点
悲劇的なドキュメンタリー番組のバックグラウンド音楽のような曲。これが一番有名というのも作曲者には可哀想な話だ。とはいえ、非常に分かりやすいメロディーの流れの中に、純音楽としての和声等の工夫が忍ばせてあり、決してつまらない曲ではない。たまに聴きたくなる。
オーケストラのためのエッセイ第1番 Op.12
3.0点
2番や3番と違い、悲劇的で重厚な曲。断片的な切り取り方の感じは共通だが、この重さはエッセイという響きには合わない気もする。
オーケストラのためのエッセイ第2番 Op.17 (1937)
2.5点
ライトな音楽であり、映画音楽に聴こえる。軽快で、電車から見る自然の風景のような感じの雰囲気は悪くないが、心にぐっとくるものはない。
夜間飛行 Op.19a (1964)
3.0点
テーマが明確な音楽で、夜間飛行の小説のことは知らないが、場面とシチュエーションが目に浮かぶようである。この場面の作り方はカッコいいし、徹底的であるとともにキレが良いと思う。音楽としては渋いのだが、渋さが目的になっていないのがよい。渋いのにワクワクゾクゾクするような所がある。
オーケストラのためのエッセイ第3番 Op.47 (1942)
2.8点
映画音楽のような軽さのある曲。軽いテーマで書いた、断片的な情景の描写の曲と考えると、エッセイという命名はなるほどと思う。2番よりは内容がある。
クリスマスに Op.37 (1960)
協奏曲
ヴァイオリン協奏曲 Op.14 (1939〜40)
3.3点
抒情的であるとともに、アメリカ的なすっきりとした開放感と現代性があり楽しめる。技術をひけらかさず、高音も少なく耳に優しくて、歌わせる場面が多いのも好感度が高い。凡庸さはほぼなく、突き抜けた感じを楽しめる。2楽章の冒頭の旋律はなかなか良い。洗練された垢抜けた感じと抒情というバーバーの美点が活かされた好作。
カプリコーン協奏曲 Op.21 (1944)
2.5点
カプリコーンという楽器があるわけではなく、曲の愛称のようなものである。フルート、オーボエ、トランペットと弦楽合奏。全3楽章14分。協奏曲という感じは少ない。即物的で新古典主義のような音であり、ストラビンスキーを連想する。音としては面白いものが続くが、よく理解出来ないまま次々と雰囲気を変える。他のバーバーの曲と大きく異なる雰囲気。
チェロ協奏曲 イ短調 Op.22 (1945)
2.3点
1楽章はかなり難易度が高そうなのは分かるが、曲が全然頭に入ってこない。前衛的ではないのに理解できない。2楽章も3楽章も同様であり、凡庸を拒否していることは分かるが、あまりに心に刺さるものが少なくて、まとまりのようなものも表現したい対象に対する意思も感じられず、楽しめない。
ピアノ協奏曲 Op.38 (1961〜1962)
3.5点
1楽章はプロコフィエフを彷彿とさせる切れ味鋭いモダニズムを混ぜた技巧的な楽章。2楽章はラヴェルのピアノ協奏曲を思い出す素朴で透明感のある曲。切ない後半部分には強く胸を締め付けられる。3楽章は野蛮な速いテンポの5拍子の曲で凄くカッコイい。
オーボエと弦楽のためのカンツォネッタ Op.48 (1977〜78)(オーボエ協奏曲の緩徐楽章として計画。未完。オーケストレーションはチャールズ・ターナーが補筆。)
室内楽曲・器楽曲
弦楽のためのセレナード Op.1 (1929/1944弦楽オーケストラ編)
2.5点
やけに悲劇的なセレナーデである。何をしたいのか掴みどころがなく、なんとなく曲が進んで終わる。新奇性も感じられず、習作の感が強い。
弦楽四重奏曲第1番 ロ短調 Op.11(1936/後に第2楽章を編曲(弦楽のためのアダージョOp.11))
3.3点
1楽章はなかなか切れ味があって、そこそこ楽しめる。2楽章は弦楽のためのアダージョ。各楽器が1台だと音の厚みが足りないから、合奏版の方が良いと思う。孤独感のあるチェロの旋律部分はいいかもしれない。3楽章は静と動の対比がすごい。締めもかっこよくてなかなかしびれる。2楽章と3楽章は優秀。
弦楽四重奏曲第2番 (1948)
夏の音楽 Op.31 (1956)
3.0点
管楽器の自由な音の絡みの幻想性が楽しい。思ったより長く続く。各楽器がバラバラに動くようでいて、統一されて、またバラバラになるのを繰り返す。それに翻弄されながら変化についていくのを楽しむ曲とも思った。
ヴァイオリン・ソナタ (1931)
チェロ・ソナタ Op.6 (1932)
3.0点
チェロの響きの活かし方のバランスが良い。曲は1楽章に関してはかなりロマン派に近く聞きやすく、なかなかのチェロ作品。ところが3楽章はモダンな響きが強くなり、なんだか掴み所のないよく分からない変な曲になってしまう。
ピアノ曲
ピアノ・ソナタ 変ホ短調 Op.26 (1949)
4.0点
ラフマニノフやスクリャービンを消化した現代的な洗練されたピアニズムと超絶技巧。無調的なモダニズム的な感覚と、その基盤となるバーバー的なロマンチシズム。どの楽章もカッコ良くてキレが良くて、センスも良い。1楽章と4楽章のかっこよさは特に凄い。間違いなく第二次大戦後を代表するピアノ曲。
バラード Op.46
2.5点
スクリャービンの影響で書いたのは一聴で明らか。より知的で都会的だが、ドロドロしたものが無く、何より単純に音数が足りない。
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC
サミュエル・バーバー(英語: Samuel Barber、1910年3月9日 - 1981年1月23日)は、米国の作曲家。特に《弦楽のためのアダージョ》が有名。
生涯・作風
ペンシルベニア州ウェストチェスター出身。外科医の父とアマチュアピアニストの母の間に生まれる。19世紀のアメリカ東部で名声を博したオペラ歌手、ルイーズ・ホーマーの甥に当たる。その夫シドニーは19世紀のニューイングランドなどで人気の歌曲作曲家であった。
フィラデルフィアのカーティス音楽学校でロザリオ・スカレロに作曲を学ぶ他、ピアノ・声楽を専攻。また、フリッツ・ライナーに指揮も学ぶ。最優等を得て卒業した後、1935年に、ローマのアメリカ学士院より奨学金を得て、翌年よりイタリア留学を果たす。同地で《弦楽四重奏曲第1番ロ短調》を作曲、この第2楽章が後に弦楽合奏用に編曲され、《弦楽のためのアダージョ》として広く親しまれるに至った。
同世代のパリに留学したアメリカ人作曲家、たとえばコープランドやカーターなどとは違ってモダニズムや実験的姿勢に走らず、和声法や楽式において、かなり伝統に従っている。バーバー作品は豊かで華麗な旋律が特徴的で、新ロマン主義音楽の作曲家に分類されている。同じくイタリア留学組のハワード・ハンソンと並んで、「最後のロマンティスト」と評されるゆえんである。とはいえ、いくつかの作品、たとえば《ヴァイオリン協奏曲》のフィナーレにおける無調、《ピアノ・ソナタ》の中間楽章における12音、《ピアノ協奏曲》におけるプロコフィエフばりの打鍵主義など、現代的な要素が皆無というわけではない。
ピアノ伴奏ないしは管弦楽伴奏の歌曲集は、とりわけ英語圏出身の歌手にとっては不可欠の、20世紀の古典的レパートリーとなっている。初版では弦楽四重奏とバリトンのための《ドーヴァー・ビーチ》、中世アイルランド無名作家による詩に基づいた《隠者の唄》、ソプラノと管弦楽伴奏のための《ノックスヴィル、1915年夏》などは特に有名である。《この輝ける夜にSure on this Shining Night 》作品13-3は、エリー・アーメリングなどのレパートリーにも入った人気の歌曲で、後にオーケストラ伴奏版も作成された。バーバー自身は優れたバリトン歌手であり、声楽の訓練も受けたことがあった。声楽家兼作曲家としてカーティス四重奏団と共に自作の演奏旅行をしたり、《ドーヴァー・ビーチ》などの自作の録音を残し、レコードが発売されたこともある。ただし、バーバーの声楽家としての録音点数は少ない。大規模な合唱曲として、《キルケゴールの祈り》(1954年)と《恋人たち》(1971年)がある。また、《弦楽のためのアダージョ》にラテン語の典礼文を載せた《アニュス・デイ》といった秘曲もある。
バーバーはまた優れたピアニストでもあり、人前で舞台に立つことこそなかったが、1日の仕事を始める前に、バッハの《平均律クラヴィーア曲集》などを弾く習慣があり、とりわけスクリャービンやラフマニノフのピアノ曲に傾倒したと言われる。また、ラフマニノフの使っていたピアノを所有していた。《ピアノ・ソナタ》は1949年に作曲され、ホロヴィッツによって初演された。それゆえこの作品は、国際的に有名な演奏家によって公式に初演された、最初のアメリカ人作曲家によるピアノ曲と見なされている。またこの作品は、リチャード・ロジャーズとアーヴィング・バーリンが創設した楽譜出版社から出版されている。
その他の器楽曲のうち、純粋な管弦楽作品としては、弦楽合奏のためのセレナーデ、2つの交響曲(《第1番ホ短調》(1936年)、《第2番》1944年)、演奏会用序曲《悪口学校》(1932年)、《シェリーによる一景のための音楽》、3つの《管弦楽のためのエッセイ》(順に1938年、1942年、1978年)がある。
ほかに協奏曲では、《ヴァイオリン協奏曲 ト長調》、《チェロ協奏曲》、《ピアノ協奏曲》(1962年9月24日にジョン・ブラウニングとボストン交響楽団によりニューヨークで初演)がある。晩年にニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団からオーボエ協奏曲の作曲を依頼されたが、他界する前に緩徐楽章を遺すにとどまった。この作品は後に第三者(チャールズ・ターナー)によってオーボエと弦楽合奏のための《カンツォネッタ》として編曲されている。バーバーの没後の初演では、当初から予定されていたオーボエ奏者ハロルド・ゴンバーグが引退した直後であったが、特にその演奏のために独奏者として一回だけ復帰し、ズビン・メータ指揮で演奏された。また《カプリコーン協奏曲》は、いくつかの独奏楽器と弦楽合奏のための、近代化された一種のコンチェルト・グロッソである。
バーバーにはいくつかの歌劇があり、40年余りの間私生活のパートナーだったジャン・カルロ・メノッティの台本による《ヴァネッサ》は、ニューヨークにおいてメトロポリタン歌劇場において初演され、評論家筋や聴衆から圧倒的支持を受けて成功を収め、バーバーにピューリッツァー賞が授与された。しかしながらヨーロッパ初演では冷遇され、その後も国際的な檜舞台に上るまでには至っていない。1966年の《アントニウスとクレオパトラ》は、フランコ・ゼフィレッリの台本によるが、失敗。その後、ジャン=カルロ・メノッティの改訂が加わり、再演された。マーサ・グラハムのために作曲されたバレエ音楽《メデアの瞑想と復讐の踊り》は、印象主義的な部分と表現主義的な部分の交錯する晦渋な作風をとり、近年では一種の交響詩(あるいは舞踊詩)として演奏されるようになりつつある。
1981年、リンパ腺癌によりニューヨーク市内の自宅にて死去。
主な作品リスト
舞台作品
歌劇 バラの一日
劇付随音楽 春の1日(紛失)(1935)
歌劇 ヴァネッサ(英語版) Op.32 (1957)
歌劇 ブリッジ遊び Op.35 (1959)
歌劇 アントニーとクレオパトラ(英語版) Op.40 (1965〜66)
バレエ音楽 メデア Op.23 (1945/1946組曲/1947改訂)
バレエ音楽 青いばら (1953)
交響曲
交響曲 第1番 ホ短調 Op.9 (1935〜36/1943改訂)
交響曲 第2番 Op.19 (1944/1947改訂)
1964年に撤回されるが、死後にパート譜が一揃い発見され、再び演奏されるようになっている。
管弦楽曲
序曲『悪口学校』 Op.5 (1932)
弦楽のためのアダージョ Op.11 (1937)
オーケストラのためのエッセイ第1番 Op.12 (1938)
オーケストラのためのエッセイ第2番 Op.17 (1942)
夜間飛行 Op.19a (1964)
撤回した交響曲第2番の第2楽章を改訂し、出版したもの。
オーケストラのためのエッセイ第3番 Op.47 (1942)
クリスマスに Op.37 (1960)
吹奏楽曲
コマンド・マーチ (1943)
協奏曲
ヴァイオリン協奏曲 Op.14 (1939〜40)
カプリコーン協奏曲 Op.21 (1944)
チェロ協奏曲 イ短調 Op.22 (1945)
ピアノ協奏曲 Op.38 (1961〜1962)
オーボエと弦楽のためのカンツォネッタ Op.48 (1977〜78)(オーボエ協奏曲の緩徐楽章として計画。未完。オーケストレーションはチャールズ・ターナーが補筆。)
室内楽曲・器楽曲
弦楽のためのセレナード Op.1 (1929/1944弦楽オーケストラ編)
弦楽四重奏曲第1番 ロ短調 Op.11(1936/後に第2楽章を編曲(弦楽のためのアダージョOp.11))
弦楽四重奏曲第2番 (1948)
夏の音楽 Op.31 (1956)
ヴァイオリン・ソナタ (1931)
チェロ・ソナタ Op.6 (1932)
弦楽四重奏曲(第2楽章のみ)(1949)
ピアノ曲
ピアノ・ソナタ 変ホ短調 Op.26 (1949)
夜想曲 Op.33 (1959)
組曲 思い出 Op.28 (1951)
メロディ (1917)
ラルゴ (1918)
子守歌 (1919)
メイン・ストリート (1926頃)
ファンタジー (1924)
カリヨンのための組曲 (1924)
2声-3声のフーガ (1927)
遠足 (1942〜44)
オルガン曲
前奏曲とフーガ (1927)
「素晴らしい愛」による変奏曲 Op.34 (1959)
祝典トッカータ Op.36(1960)
合唱曲
2つの合唱曲 Op.8 (1935〜36)
アニュス・デイ(Op.11)(1967 弦楽のためのアダージョ Op.11の編曲)
ストップウォッチと軍用地図 Op.15 (1940)
生まれ変わり Op.16 (1937〜40)
恋人たち Op.43 (1971初演)
神の威厳 (1938)
クリスマス・イヴ (1924)
アヴェ・マリア (1940)
管弦楽と声楽のための作品
ドーヴァー・ビーチ Op.3 (1931)
ノックスヴィル、1915年夏 Op.24 (1947)
キルケゴールの祈り Op.30 (1954)
アンドロマケの別れ Op.39 (1962)
歌曲
3つの歌 Op.2 (1927〜34)
3つの歌 Op.10 (1935〜36)
4つの歌 Op.13 (1937〜1940)
2つの歌 Op.18 (1942〜43)
ヌヴォレッタ Op.25 (1947)
過ぎ行きしものの歌 Op.27 (1951)
隠者の歌 Op.29 (1952〜53)
歌曲集 恨みと沈黙 Op.41 (1968)
3つの歌 Op.45 (1972)
Sometime
なぜ?
祈り
古い歌
狩の歌
メヌエット
夜
男性
月
日没
夜にさまよう者
セレナード
Peace
Farewill
Ask me to rest
我が祖国
物乞いの歌
マドンナの子守歌
あなたの愛
天と地を結ぶ弦
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/776.html
サミュエル・バーバー『弦楽のためのアダージョ』
Barber - Adagio for Strings - Toscanini, NBCSO (1938) (world premiere performance)
NBC Symphony Orchestra
Arturo Toscanini
Broadcast live on 5th November, 1938, NBC Studio 8H, New York
Barber Adagio for Strings (rec1940)
date 1940
orch NBC Symphony Orchestra
cond Arturo Toscanini
Barber Adagio for Strings (rec1942)
date 1942
orch NBC Symphony Orchestra
cond Arturo Toscanini
▲△▽▼
『弦楽のためのアダージョ』(Adagio for Strings)は、サミュエル・バーバーが作曲した弦楽合奏のための作品である。作曲者の名前をとって『バーバーのアダージョ』ないし『バーバーのアダージオ』とも呼ばれる。
元は、自身が作曲した『弦楽四重奏曲 ロ短調 作品11』の第2楽章を弦楽合奏用に編曲したものであり、また『アニュス・デイ』(英: Agnus Dei、神の子羊)という無伴奏混声合唱曲にも編曲された。
すすり泣くような旋律、中間部終わりの激しく突き上げる慟哭のようなクライマックスで知られる。なお、タイトルの『アダージョ』とは、楽曲に付けられた速度記号である。演奏時間は10分程度。
初演は1938年11月5日に、アルトゥーロ・トスカニーニ指揮、NBC交響楽団によって行われた。
また、DJのティエストによって編曲・アレンジが加えられた同名の曲も存在する[1]。
この曲を使用した例
アメリカでは、この曲が有名になったのは、ジョン・F・ケネディの葬儀で使用されてからである。そのため個人の訃報や葬送、惨事の慰霊祭などで定番曲として使われるようになったが、バーバー自身は生前「葬式のために作った曲ではない」と不満を述べていた。
日本においては、昭和天皇の崩御の際に、NHK交響楽団の演奏を放映した(他の曲目:バッハ「アリア」、ブラームス「交響曲第4番」)[2]。
機会音楽としての使用例
第二次世界大戦後のGHQ占領下の日本での最初のラジオ放送
ジョン・F・ケネディの葬儀
アメリカ同時多発テロから1年後に行われたニューヨーク市でのニューヨーク世界貿易センタービル跡地での慰霊祭
東北地方太平洋沖地震に起因する東日本大震災後の、仙台フィルハーモニー管弦楽団による復興コンサート(第1回 2011年3月26日、仙台市内の寺院にて)での演奏
映画
『プラトーン』
『エレファント・マン』
『ロレンツォのオイル/命の詩』
『アメリ』
『恋に落ちる確率』
『ヒミズ』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A6%E6%A5%BD%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A7
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/777.html
日銀金融緩和で、消費者物価は下がっているが、生活必需品の価格は上がっていた
需給で大事なのは生活必需品の需給だけ、不要品や高級品まで入れたすべての商品の需給に意味は無い
労働生産性、GDP、需要・供給とか消費者物価指数は経済指標としては使えない
労働生産性というのは賃金額の事だよ、地方の生産性が低いというのは地方の賃金が安いというだけの事だ。
GDPというのは企業や金持ちの所得の事だ、労働者の所得とはあまり関係しない。
やっても やらなくてもいい仕事ばかりの需要・供給は生活必需品の需要・供給とはあまり関係しない。
消費者物価指数というのは高級酒や高級車や贅沢品の価格を反映する物価で、生活必需品の価格とはあまり関係しない。
従って、労働生産性、GDP、需要・供給とか消費者物価指数は経済指標としては使えないのです。
金利が上がらないのは日本だけでなく世界中で起きている現象で、階級社会が完成して内需が壊滅したのが原因です。
奥の院は今 資本主義をグレートリセットして地球人口を3億人まで減らそうとしています。
これから起きるのは共産革命か?、グレートリセットか?
資本主義というのは投資してその利子や配当で稼ぐシステムですが、今は世界中ゼロ金利になっているので、投資では稼げない、つまり資本主義システム自体が世界中で既に破綻しています。
理由は明らかで、国債には利子が付いていて、その金はすべて資本家の所に行くので、格差が開いてマルクスが預言した階級社会になってしまったのです。そうすると内需が壊滅して、新規事業しても稼げないので銀行から金を借りる人が居なくなる、それで金利がゼロなる。
これからは世界中で共産革命の嵐が吹き荒れる時代になります。今世界の支配層が取り組んでいるグレートリセットというのは、共産革命を起こしそうな人間をすべてデジタル管理して、反体制活動を始めたらすぐに抹殺するシステムです。
今は世界中が階級社会になってしまって内需が壊滅したので資本主義の時代はもう終わったと言われています。
銀行から金を借りて新規事業をやっても儲からないですからね。
それで資本主義のグレートリセットをやらないといけないという結論になったのです。
▲△▽▼
人口100人の青い目の人達の村 _ 資本主義村があった。
4人の資本家に支配された労働者庶民96人が住んでいた。
資本家の年俸は2億円、残りの庶民は年俸200万円
全体で9億9200万円の紙幣が循環していた。
資本主義村 では、自動車は6〜7台しか売れず、他の者は自転車だった。
暴動や略奪や薬物中毒・犯罪が頻繁に起こっていて
ズタズタなスラム社会になった。
その村の隣に、共産主義村という人口100人の島国があった。
20人の知恵者をリーダーとした職人庶民80人いた
リーダーの年俸は1440万円、残りの職人は年俸500万円
全体で 資本主義村 より少しすくない6億8800万円の紙幣が循環していた。
その村では、自動車は100台売れた。 自転車も売れた。
あらゆる産業が学問が医療が社会福祉が発展し
インフラが整備されていき、すばらしい街を形成していった。
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民間銀行は自己資金ゼロでも、顧客に借用書を書いてもらって、融資金額を顧客の銀行預金として記帳するだけでお金が無から生まれると思っているアホが多過ぎる。
そもそも民間銀行が自己資金も持っていないのに顧客に融資したとしたら、顧客が自分が借りた金を日銀券(円紙幣)で引き出したいと言った時に、全く金を持っていない民間銀行が顧客に日銀券を渡せる訳がないですね。
小学生でもわかる道理です。
民間銀行の信用創造というのは民間銀行が自分の持っている日銀当座預金口座の日銀当座預金を日銀券に変えるという意味です。日銀当座預金口座は政府と民間銀行しか作れないので、民間銀行に借金しないと日銀券を発行してもらえないのです。
それが、借金でお金を作る、という意味です。
ゼロからお金を作るのではなく、日銀当座預金を日銀券に変えているだけです。 銀行が顧客に金を貸せるのは、貸す金額と同額の日銀当座預金を持っている場合だけです。
融資が焦げ付いた場合、預金などの他人資本に手を付けるわけにはいかないので、銀行には一定水準以上の自己資本を持つことが義務付けられています。
国際的な業務を営む銀行の場合、自己資本比率=自己資本÷融資額(リスクアセット)×100 の下限は8%、
国内業務に限っている場合には4%
という「自己資本比率規制」があり、これを維持することがBIS(国際決済銀行)によって義務付けられています。
預貸率 : 銀行の預金に対する貸出金の比率
日銀によると、2020年5月の国内銀行の預貸率は63.7%で、2カ月連続で過去最低を更新した。新型コロナウイルスの感染拡大を受け、政府が多額の給付金を支給したり企業が手元資金を厚くしたりしたため、預金が急増した。銀行も貸し出しを増やすが、預金の増加幅を下回る。5月の国内銀行の預金平均残高は前年同月比6.2%増の772兆535億円だった。
日銀金融緩和で、消費者物価は下がっているが、生活必需品の価格は上がっていた
https://www.youtube.com/watch?v=20L9UD0qtwc
中国の元高為替操作によるコストプッシュ インフレが始まった
日本にも悪性の物価上昇が迫っている!
https://www.youtube.com/watch?v=ZhTgq_eGaI4
MMT論者も大西つねきを少し位見習ったら
大西つねきがやろうとしていること
https://www.youtube.com/watch?v=pcifNIAlVG0
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/863.html
1. 中川隆[-16151] koaQ7Jey 2021年10月04日 12:46:49 : HNQh6kvMDI : aE12RU5RYUJ5ZmM=[7]
量的緩和・財政出動や企業支援金がデフレを生む _ 貧困層には援助しなければいけないが、企業救済はしてはいけない
一般的には量的緩和は紙幣を無制限に印刷するためインフレを生むのではないかと言われている。しかし実際には逆である。
量的緩和は短期的には良いことだと言えるかもしれない。だが長期的には債務には新陳代謝が必要だ。ゾンビ企業、非効率な企業を退場させる必要がある。だが、緩和のお陰でそれが起こらない。
これはデフレの一因だと言える。供給が過剰なのだから理屈が通るだろう。
市場経済では消費者の望む商品を作らない企業は淘汰される。しかしそれを政府が人為的に妨げると、消費者の望まないものを作り続けるゾンビ企業がどんどん増えることになる。
経済学では価格は需要と供給の兼ね合いで決まり、ゾンビ企業を生かすということは経済の供給(しかも不要な供給)を増やし続けるということである。供給の増加は当然ながら価格を押し下げる。つまりデフレになるのである。
デフレがインフレになる瞬間
しかし現在アメリカで懸念されているのはインフレであり、デフレではない。アメリカではコロナ禍で大量の現金給付を行なった結果、物価が上昇している。デフレが問題だったはずがいつの間にかインフレになっている。
それは何故か? 量的緩和を長年続けるとデフレと低成長が実現する。消費者の望まないものを作り続ける企業が増え続けるのだから当然である。インフレになる前に緩和は終了し、それで問題がないと人々は考える。
しかしそこにコロナショックのような衝撃が加わり深刻な景気後退に陥ると、インフレを引き起こす規模の刺激策なしには経済成長を支えられなくなる。インフレが起こると分かっていても緩和で経済を支えなければならなくなる状況に陥るのである。
これほどの現金をばら撒いた場合、消費がデフレ圧力に打ち勝ってしまう。
この状況に陥った経済は急激なデフレと急激なインフレを行き来する非常に不安定な状態となる。緩和を止めれば急激なデフレになり、緩和をすれば急激なインフレになるからである。
まさにこれが現在のアメリカ経済の状況である。アメリカでは3回行われた現金給付が今年3月を最後に途絶えると、アメリカ経済は途端にデフレに向かい始めている。
もうアメリカには選択肢が2つしかない。緩和を続けて物価高騰を受け入れるか、緩和を止めて不況を受け入れるかである。
この状況は短期的にはコロナだが、長期的には量的緩和が作り出したものである。量的緩和によるデフレと低成長がなければ、コロナ禍も経済的にはこれほど酷くはならなかっただろうからである。
量的緩和政策のそもそもの原因
そもそも何故量的緩和政策が行われたのだろうか? 量的緩和政策とは基本的に貸し手より借り手に有利な政策である。金利を押し下げることで莫大な借金を背負っている借り手は利払い義務が軽減される。
一方で貸し手はお金を貸しても金利が得られない状況に陥る。得られないどころか、銀行にお金を預けるとむしろ手数料を取られるというのが貸し手が置かれている状況である。
ここで考えてみてほしいのだが、経済における最大の借り手とは誰だろうか? 政府である。そして貸し手とは誰だろうか? 国民なのである。
つまり、量的緩和政策とは経済最大の借り手である政府が、貸し手である国民を犠牲にして自分を利する政策なのである。こうすることで政府は莫大な借金を背負っても、東京オリンピックやGO TOトラベルなどの政策で自分の支援者に金をばら撒くことが出来る。
そして奇妙なことにチャンネル桜の自称経済評論家や経済がわからない保守・右翼は無邪気にもそれを支持しているのである。人々が自分の置かれた状況についてどれだけ何も知らないかである。
量的緩和危機と中国恒大集団
非効率なビジネスを生かし続けた結果が、いま中国でGDP2%分の負債を抱えて破綻しかけている恒大集団である。
中国もまた消費者の望まないものを作り続ける企業を長い間野放しにしてきた。しかし報道によれば中国共産党は恒大集団を救済しない可能性が高いらしい。中国共産党傘下の環球時報は次のように主張している。
恒大集団は『大きすぎて潰せない』の原則に基づく政府による救済を期待すべきではない。
これは中国共産党がアメリカとは違う方向に舵を切ったことを意味する。不況か物価高騰か選べと言われたら、米国政府は迷わず物価高騰を選ぶだろう。
しかし少なくとも現状では中国共産党はゾンビ企業の末路を市場経済に委ねたように見える。一方で、どの企業が生き残るべきかを消費者ではなく政府が決定する量的緩和は共産主義の定義そのものである。
中国共産党は恒大集団の様なゾンビ企業の始末を市場に委ねようとしている。この意味では中国共産党は量的緩和を推進する日本の自民党よりよほど資本主義的である。
一方で、日本を含め多くの先進国の政治家は票田にばら撒くための政府予算にしがみつくためだけに緩和政策に執着して増税と量的緩和という社会主義政策を推し進めている。
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量的緩和は政府債務を支えるために行われている。金利を低く抑えられなければ政府は膨大な借金の利払いで他の支出が出来なくなる。他の支出が出来なくなれば何故困るのか。政府予算に依存して利益を得ている人々が利益を得られなくなるからである。だからばら撒き政策は既得権益層をますます裕福にし、その恩恵は中間層には返ってくることはない。
大きな政府と小さな政府
増税と財政出動を組み合わせ、国民から大きく吸い取り大きく吐き出す政府のことを大きな政府と言うが、予算の大きな政府の政治家達が資金を吐き出す時には当然ながら彼らの利益となる場所に資金吐き出すことになる。
日本政府が消費増税を行いオリンピックやGO TOトラベルを強行する理由は何か。一般国民から吸い取って自分の票田である宿泊業界や大手メディア、広告代理店などに吐き出すためである。保守派とは伝統的にこうした政府の利権を認めず政府の予算を縮小しようとする立場のことを言うので、自民党は保守ではない。大半の日本人にはこれが分からないらしい。
MMT論者も大西つねきを少し位見習ったら
大西つねきがやろうとしていること
https://www.youtube.com/watch?v=pcifNIAlVG0
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/848.html#c1
レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ(Ralph Vaughan Williams, 1872-1958)
交響曲
海の交響曲(A Sea Symphony、交響曲第1番) 管弦楽、ソプラノ、バリトン、合唱
3.5点
交響曲というよりは完全にオラトリオである。交響曲と称されているのは4楽章構成であるからというだけに聞こえる。華やかで立派だし初期らしいネチッこさのない純朴な爽やかさが心地いい。大規模さも音楽にうまく生かして非常に壮大になっており、音楽てんこ盛りのゴージャス感が楽しい気分になる。逆にいえばRVWらしさには欠けるとも言える。近代イギリスのオラトリオは素晴らしい。
ロンドン交響曲(A London Symphony、交響曲第2番)
2.5点
幻想的な音の雰囲気は好きだ。しかしながら、曲の長さと比較して、どう考えても密度も内容も薄い。ロンドンという題名であるが、都会を感じられない音楽で昔旅行したあの街と全くイメージが重ならない。現代の映画音楽らしい雰囲気だが、密度さえも映画音楽レベルになってしまい、BGM的だと思う。
田園交響曲(A Pastral Symphony、交響曲第3番) ソプラノ
3.0点
田園をあまり連想しない。神秘的な深い森といったところか。5音階や低音の持続音が印象的。後半の一部を除いて、静けさに包まれて瞑想的。聴きやすいし、この雰囲気に浸るのは楽しいが、前半はドラマが少なく交響曲としては物足りない。しかし後半になり鎮魂の雰囲気から大いなる感情の高まりのドラマが展開されて満足できる。とはいえ、いい音楽なのに何かが物足りない、名曲になりきれない曲というのが全体の印象。
交響曲第4番ヘ短調(Symphony No.4 in F minor)
2.5点
この曲だけ聴いてしまうと、とても20世紀を代表する作曲家とは感じられないレベルの曲と感じた。不協和音を使った刺激的な短調の1楽章なのだが、かなり不自然さを感じる。2楽章以降は何をしたいのかよく分からない、何を感じてほしいのか伝わらない曲だと思った。それでいて、心地よさや幻想性といった美点はスポイルされてしまっている。失敗作だと思う。
交響曲第5番ニ長調(Symphony No.5 in D major)
3.8点
全4楽章。冬の薄明のような透き通った空気と幻想的な世界の美しさを堪能出来る。近代管弦楽の壮麗さとRVW一流の流麗さや作曲技術が合わさり、どっぷりと世界観に浸れる音楽になっている。踊りの要素が殆どなく、生身の感覚が非常に少ない代わりに、超越的で大自然と宇宙を音にしたようである。この曲は9曲の交響曲の中で、バランスが良くて表題に縛られず本格的で充実しており楽しみやすい。
交響曲第6番ホ短調(Symphony No.6 in E minor)
2.5点
戦争交響曲とも呼ばれる、不協和音が使われた激しい作品とされているようだが、それはあくまで本人の曲の中での比較。現代の耳で聞くと激しい曲と感想を持つ人は少ないだろう。まさにSF系の映画音楽そのもののような曲であり、現代の耳で聴くと、音の目新しさに欠けており、構成も弱いように感じてあまり面白くない。ただ、映画の中では動きの多い場面に合いそうだとはいえる。
南極交響曲(Sinfonia Antartica、交響曲第7番) ソプラノ、合唱
3.3点
映画音楽を再構成して作った交響曲。映画音楽としての純粋な楽しさがある。かなり古い曲にも関わらずやや古い映画音楽にそっくりで現代的とすら感じるのは、むしろ現代が彼の音楽の真似をしているのだろうか。自分の耳には目新しくは感じない。随所に工夫が見られる幻想的で冒険的な雰囲気に、未知の世界への好奇心をかき立てられながら聴ける。
交響曲第8番ニ短調(Symphony No.8 in D minor)
2.8点
小規模な交響曲。編成も小さくて、軽快さが目立つ。その中にも、卓越した技術を生かした詩情が込められている。はっとするような美しさとか、強い印象みたいなものはないのだが、マイナー交響曲としてのそれなりの魅力はある。でも、何度も聴きたいほどではない。
交響曲第9番ホ短調(Symphony No.9 in E minor)
3.3点
最後の交響曲ということで、作曲者もそれに少し気付いていたかのような切ない場面が多い。一方で大衆音楽の影響を受けたかのような軽快な場面もある。8番同様にコンパクトな作品だが、聴き応えはこちらの方がずっとある。名作とまではいかないが、交響曲では超然としていた作風の作曲者が最後に作曲者がたどり着いた境地として、私的な感情を盛り込んだ曲として感慨深い。
管弦楽曲
グリーンスリーヴスによる幻想曲(Fantasia on Greensleeves)
3.5点
美しいオーケストレーションによるグリーンスリーブスの編曲。RVW一流の美点が最大級に活かされている。中間のオリジナル部分も雰囲気を壊さず悪くない。
合奏協奏曲(Concerto Grosso)
3.0点
弦楽器だけなので、協奏曲らしい華やかさとは違うものがあり、想像していたもの違ってがっかりした。しかし、彼の独特の音像を弦楽器をたくさん重ねて音を動かして表現するさまは、案外と独創性が高いものであり、刺激も強い。それが理解できたら楽しめた。一級品の作品ではないと思うが。
イギリス民謡組曲(English Folk Song Suite)
3.0点
小さな曲集。現代ではNHKスペシャルなどのバックミュージックに聞こえてしまう。規模が小さすぎるし、旋律が特段優れているわけでもない。だが、軽快で楽しく聞くことはできる。
弦楽合奏曲
トマス・タリスの主題による幻想曲(Fantasia on a Theme by Thomas Tallis)
3.3点
3つの事なる規模の弦楽の組み合わせの響きは神秘的で教会的でもあるとともに、近代的でイギリス的な端正かつ端麗な弦楽の使い方を楽しめる曲。
協奏曲
ピアノ協奏曲ハ長調(Piano concerto in C)
3.0点
彼らしい音響空間と音像でピアノ協奏曲を書いたらどうなるかという予想の範疇にはある。ただ、ピアノは重音が多くて重おもしく、野蛮さも感じさせるところは驚いた。現代的なピアノ協奏曲の一つの解としての聴く楽しみはある。ただ、やや平板でリズムやフレーズのダイナミックさに欠ける欠点はここにもあり、協奏曲の華やかさを活用しても交響曲と同様という結果になってしまっている。凄いというほどではないが、楽しめる曲だと思う。
2台のピアノのための協奏曲 ハ長調(Concerto for Two Pianos and Orchestra)
3.3点
1台のピアノ協奏曲からの改作。楽器の使われ方としてはこの方が適切な感じがする。ピアノの音の厚さと管弦楽とのバランスが良くなっている。ピアノの音数もより増えて、迫力が増しているし、無理に酷使されず、表情も増えている。そうなると、曲としてより魅力的に聞こえてくる。2楽章なんてなかなか素敵に聴こえる。
揚げひばり(The Lark Ascending)
4.5点
前半部分の5音階に近い音階による夕映えの中の大空を飛ぶひばりのような雰囲気は大変に美しい。中間部分の活気のある部分もまた美しい。強烈な郷愁を誘い、幼い時に感じていた大自然の美しさを呼び起こしてくれる。大変に美しく感動的であり、通俗性は気になるのだが、それを吹き飛ばす圧倒的に強烈な印象を残してくれる。
バス・テューバと管弦楽のための協奏曲(Concerto for bass tuba and orchestra、テューバ協奏曲)
3.3点
まあ普通の曲ではあり個性的という感じではないが、チューバの楽しさを満喫できる。とくに前半は素直な音楽であり、チャーミングでもあり、とても楽しくチューバの魅力に酔える。作曲者の音楽性ととてもマッチしている。コンパクトで聴きやすいのも良い。後半すこしひねりが入って魅力が落ちてくると思った。
オーボエと弦楽合奏のための協奏曲イ短調(Concerto in A Minor for Oboe and Strings)
2.5点
オーボエらしい魅力も協奏曲の魅力も足りない。なんというか、ずっとオーボエが鳴っている管弦楽という印象しかない。これは期待はずれである。
室内楽曲
幻想五重奏曲 (Phantasy Quintet)
3.0点
前半はあまり創意を感じなかった。彼としてはありきたりの音楽と思う。後半の郷愁の強い念を音にしたような音楽は心をぐいっと掴むものがある。この場面ではが無ければかなりつまらない曲になっていたところ。しかしすぐ終わってしまう。展開としめくくりは予想の範疇を大きく出ない。
弦楽四重奏曲第1番ト短調 (String Quartet No.1 in G minor)
3.8点
1楽章は浮遊感や抽象画のような曖昧な色使いと形状の分かりにくさのなかに身をまかせるのが心地よい。室内楽の響きに適合していて素晴らしい出来だと思う。2楽章のエキゾチックな音形はメヌエットと言われると不思議だが、印象派を受け継いだような響きと思うとスッキリした。面白くてかなり楽しめる楽章。3楽章は感動した。灰色の孤独さの中で、不安な妄想が広がっていき、それが自由空間をあてもなく動いて旅をするような、パーソナルな精神世界の曲。4楽章もこれまでの流れと同じでよいし、最後の終わり方は鳥肌が立った。
弦楽四重奏曲第2番イ短調「ジーンの誕生日に」 (String Quartet No.2 in A minor "For Jean on her birthday")
4.0点
1楽章は強烈なパンチを喰らわせられる。前衛的なぐしゃぐしゃとした音楽で打ちのめされる。2楽章は、雨の中の孤独とでも呼びたい。人間が生活していて、人は周りにいても、心が繋がらないまま、傘をさして歩くような気分を連想した。これは音が動くようになっていくにつれ、雨は止むが環境音も消える。そこでは違和感と疎外の音楽になる。3楽章はエキゾチックな音楽で、心を疎外から動かして展開させる。4楽章は未来への希望が見えた感動的なアンダンテで始まる。ジワジワと押し引きを繰り返し、感動を強く呼ぶ。弦楽四重奏は1番もよかったが2番はさらに芸術性が高く驚異的な作品である。交響曲より好きだ。
レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ(Ralph Vaughan Williams OM, 1872年10月12日-1958年8月26日) は、イギリスの作曲家。Vaughan Williams が姓であり、RVW または VW と略される。Ralph は通常「ラルフ」と読むが、本人が古風な発音の「レイフ」にこだわったという経緯から「レイフ」が用いられる。民謡の採集や教会音楽の研究を通して独特の作風を確立し、イギリス人による音楽の復興の礎を築いた。
年譜
1872年10月12日にグロスターシャー州ダウンアンプニーに生まれる。父は牧師であったが、RVWが3歳の時に他界。
6歳頃から叔母に音楽を学ぶ。7歳からヴァイオリンを習う。
1890年 王立音楽大学に入学。
1892年 王立音楽大学を休学し、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学して音楽と歴史を専攻[1]。
1894年 ケンブリッジ大学で学士(音楽)を取得[1]。
1895年 ケンブリッジ大学で学士(文学)を取得[1]。
1897年 アデリーン・フィッシャーと結婚。翌年よりロンドンに居を構える。
1907年 評論家ミシェル・ディミトリー・カルヴォコレッシから作曲家モーリス・ラヴェルを紹介され、作曲とオーケストレーションのレッスンを受ける。
1910年 「タリスの主題による幻想曲」、「海の交響曲」(交響曲第1番)初演。
1919年 王立音楽大学の作曲科教授に就任。
1934年 親友の作曲家グスターヴ・ホルストが死去。
1935年 メリット勲章を受章。
1951年 妻のアデリーンが死去。
1953年 アーシュラ・ウッドと再婚。
1958年 交響曲第9番初演。8月26日にロンドンにて心臓発作のため死去。85歳没。
生涯
初期
ヴォーン・ウィリアムズは1872年10月12日、グロスタシャーのダウン・アンプニー(英語版)に生まれた。父のアーサー・ヴォーン・ウィリアムズ(Arthur- 1834年-1875年)は、この地で聖公会の教区主管者代理者を務めていた。ヴォーン・ウィリアムズ姓は、ウェールズに起源を持つハイフン無しの二重姓(英語版)である。父が1875年に死去すると、ヴォーン・ウィリアムズは母のマーガレット・スーザン(Margaret Susan 旧姓ウェッジウッド Wedgewood 1842年-1937年)に連れられてサリーへ向かった。母の曾祖父は陶器職人のジョサイア・ウェッジウッドであり、ウェッジウッド家(英語版)の実家で暮らすために、サリーの景勝地にあるレイス・ヒル・プレイス(Leith Hill Place)に引っ越したのである。このことからも分かる通り、ヴォーン・ウィリアムズはジョサイア・ウェッジウッドの玄孫にあたる。また、ダーウィン家も親戚であり、チャールズ・ダーウィンは彼の大おじである。知的な上位中産の特権階級に生まれながらもヴォーン・ウィリアムズはそれに甘んじることなく、生涯を通して自らの信念であった民主、平等主義の理想のために活動した[2]。
ダーウィン=ウェッジウッド=ガルトン家の家系図。ヴォーン・ウィリアムズとダーウィンやウェッジウッドとの関係が記されている。
6歳の時、ヴォーン・ウィリアムズはおばのソフィ・ウェッジウッド(Sophy-)からピアノと作曲の手ほどきを受けるようになった。7歳になるとヴァイオリンの演奏を開始している。彼が14歳の1887年1月、音楽表現を奨励していた当時にあっては数少ない学校のひとつであるチャーターハウス校に通った[3]。チャーターハウスを出ると、次は王立音楽大学においてスタンフォードの薫陶を受けている。彼はケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジで歴史学と音楽を専攻し[4]、大学時代の同年代としては哲学者のジョージ・エドワード・ムーアやバートランド・ラッセルを挙げることができる。王立音楽大学に戻ったヴォーン・ウィリアムズはパリーの下で作曲を学び、彼とは親交を築いた。王立音楽大学時代の仲間には、1896年に共にウォルター・パラットからオルガンを学んだレオポルド・ストコフスキーがいる。ストコフスキーは後にヴォーン・ウィリアムズの6つの交響曲を演奏してアメリカの聴衆へ紹介し、1949年にはニューヨーク・フィルハーモニックと彼の「交響曲第6番」の初録音を実施、また1958年にカーネギー・ホールにおいて「交響曲第9番」のアメリカ初演を行っている。
王立音楽大学時代にヴォーン・ウィリアムズが作曲家となるにあたって重要な影響を与えた友人として、1895年に知り合った学生仲間のホルストがいる。この時以降、2人は互いが作曲中の作品を読みあって建設的な批評を行う「演習日」を幾度か共に過ごした[5]。
ヴォーン・ウィリアムズは作曲家として遅咲きであり、最初の出版作品である歌曲「Linden Lea」が世に出た時には彼は30歳になっていた。彼は作曲の他に指揮や講義を持つなどの活動も行っていた。また、音楽の収集、編纂も行っており、パーセルの作品や英国の讃美歌での業績は名高い。既に1897年にベルリンにてブルッフの指導を受けていた彼であったが、1907年から1908年にかけての間にパリで3か月間ラヴェルに師事したことで、彼の管弦楽の扱いは長足の進歩を遂げた[6]。
1904年、ヴォーン・ウィリアムズはイングランドの各地方に根付いていた民謡やキャロルが、地方での識字率向上や印刷楽譜の普及に伴って口頭伝承の影が薄くなっているために、急速に失われつつあることを見出した。彼は自ら田舎を訪ねて歩き、その多くを編曲して保存した。後年、彼はそういった音楽の美しさや普通の人々の日常の中で培われた名もない歴史に魅了され、自作の楽曲に歌曲や旋律の一部を取り入れている。彼の功績により、イングランドの伝統的な民謡や旋律はより高い評価を受けることになった。彼は後に英国民族舞踊民謡協会の会長を務めており、協会はこの分野における彼の早くからの重要な業績を称えて、彼の名を冠したヴォーン・ウィリアムズ記念図書館を有している。
1905年、ヴォーン・ウィリアムズはドーキング(英語版)で新たに開催されることになった、レイス・ヒル音楽祭の第1回演奏会を指揮した。彼は1953年までここでの指揮者を務め、ウィリアム・コールに指揮棒を託した[7]。
1909年、ヴォーン・ウィリアムズはケンブリッジ大学でアリストパネスの喜劇「蜂」が上演されるのに合わせて、劇の付随音楽を作曲した。翌年、「トマス・タリスの主題による幻想曲」[注 2]と合唱交響曲である「海の交響曲」(交響曲第1番)の初演を指揮した彼は、自身にとって初めてとなる大きな成功を収めた。さらに1914年にジェフリー・トイの指揮で「ロンドン交響曲」(交響曲第2番)が披露されると、彼はさらに大きな成功を手にすることになった。
2つの世界大戦
ドーキングにあるレイフ・ヴォーン・ウィリアムズの像
第一次世界大戦開戦時、ヴォーン・ウィリアムズは41歳になっていた。彼は兵役を完全に逃れることができたものの、自ら軍部に志願して王立陸軍医療軍団(英語版)に義勇兵として入隊した。フランスおよびマケドニア前線(英語版)において担架卒として悲惨な日々を過ごした後[8]、彼は1917年12月24日に王立砲兵守備隊[注 3]の少尉に任命される[9]。彼は、ある時には耐えがたい病に苦しみつつ、地を這いながらも任された砲台の指揮を執った[10]。砲火の爆音に長期にわたって晒されたことが、彼が老いると深刻になっていった難聴のきっかけとなった[2]。1918年、陸軍の音楽監督に任ぜられたことにより、彼は音楽活動を再開できるようになった。
戦後、しばらくの間ヴォーン・ウィリアムズが取り組んでいたのは、ヴィオラ独奏と小規模のオーケストラ、歌詞のない合唱のための幾分神秘的な「野の花」である。もう1曲は「田園交響曲」(交響曲第3番)で、この曲の第2楽章で聴かれるトランペットのカデンツァは、彼が義勇兵として衛生隊にいた頃にラッパ手が間違って7度の音程を繰り返し吹いていたのを聴いた記憶を元に、交響曲にそれとなく引用したものである。曲は1922年1月26日にロンドンでエイドリアン・ボールトの指揮の下、初演された。1924年からは彼の音楽は新たな段階に入り、生き生きとしたクロスリズム(英語版)と鋭い和声が特徴となる。この時期を彩るのは「行進曲風トッカータ」、バレエ「老いたコール王」、「ピアノ協奏曲」、オラトリオ「聖なる市民」(自作の合唱作品の中でも作曲者のお気に入りだった)、そしてバレエ「ヨブ:舞踏のための仮面劇」である。これは聖書のヨブ記に依るのではなくウィリアム・ブレイクのヨブ記への挿絵[注 4]が元になったものである。また、彼はコスモ・ゴードン・ラング(英語版)のカンタベリー大主教への就任式のためにト長調の「テ・デウム」を作曲している。この時期における彼の音楽は、1935年にBBC交響楽団によって初演された「交響曲第4番」で頂点を極めた。この交響曲は、彼の作風から連想される『田園風』の管弦楽曲とは大きく趣を異にするにするものである。事実、初演以来その和らげられることのない緊張、ドラマと不協和音が聴衆の度肝を抜いてきている。第4交響曲が変わった曲であることを認めたうえで、ヴォーン・ウィリアムズはこう述べている。「自分自身でも気に入っているかどうかはわからないが、曲は私の意図した通りのものである。」2年後、彼は自身唯一の商業音源となる歴史的な録音を、初演の楽団とこの曲を演奏してHMVに遺している。この時期に、彼はアメリカやイングランドを公演して回り、またバッハ合唱団(英語版)を指揮している。過去にはナイト叙勲を拒んだ彼であったが[2]、1935年にはメリット勲章を受けている[11]。さらに、彼はロンドンで私的に音楽を教えており、弟子の中にはアイルランドの作曲家アイナ・ボイルらがいた[12]。
ヴォーン・ウィリアムズは生涯を通して、イギリスの有名なピアニストであるハリエット・コーエンと友情を育んだ。彼が彼女に宛てた書簡は、大抵が彼女への数限りない口づけの想い出を語るような内容であり、2人の間の秘められた関係をうかがわせる。1931年に初のアメリカツアーに発つコーエンに対し、彼はこう書き送っている。「君がアメリカ人からあまりにも強く愛されてしまい、帰ってこられなくなることを恐れているよ[13]。」彼は日頃から彼女の家に通い、しばしばホームパーティに出席していた。彼女は「讃美歌前奏曲」の献呈を受け、1930年にこれを初演するとともに、その後演奏旅行の間にヨーロッパ中にこの曲を紹介した。1933年には彼の「ピアノ協奏曲」の初演も行っており、この曲もまたコーエンに捧げられた。この時期、コーエンは協奏曲の演奏を独占する権利を与えられていた。コーエンはヨーロッパ、ソ連、アメリカ中でヴォーン・ウィリアムズの作品を取り上げ、その普及に一役買ったのであった。
彼の音楽は成熟した抒情的な段階へと入り、「5つのテューダー朝の肖像」や「音楽へのセレナード[注 5]」といった作品が生み出された。そして1943年のプロムスで作曲者自身が指揮をした「交響曲第5番」もこの時期の作品である。ヴォーン・ウィリアムズはこの時70歳なっており、多くの人がこの曲を彼の白鳥の歌[注 6]になるものと考えた。しかし、彼は再び作風を一新して、実験的な和声と楽器法を伴う新たな創作期に入っていく。1946年の「交響曲第6番」は大きな成功を収め、初年度だけで100回も演奏された。この曲は彼を支持する者にも批判的な者にも驚きをもって迎えられた。なぜなら、多くの人にはこの交響曲(特に終楽章)が核戦争後の陰惨な情景ではないかと思われたからである。作曲者自身はいつもの通り、作品の背景に特定の筋書きが存在することを否定していた。
ヴォーン・ウィリアムズは第6交響曲から作曲家のロイ・ダグラスの仕事上で付き合うようになり、これは彼の生涯にわたって続いた。ダグラスの役割は音楽の助手および筆記者であった。彼はヴォーン・ウィリアムズの楽譜の判読可能な写譜を作成し、その過程では作曲者のしばしば難解な手稿譜を解読して未解決の管弦楽法の問題点を洗い出しては、作曲者に対して様々な改善提案を行った。ヴォーン・ウィリアムズは彼からの提案をほとんど受け入れていた[14]。ダグラスは「ヴォーン・ウィリアムズの音楽家としての技術を知る、最も重要な存命の目撃者」と評されていた[15]。
晩年
ドーキングの教区教会に掲げられたヴォーン・ウィリアムズの銘板。彼はこの地で1905年にレイス・ヒル音楽祭を立ち上げ、生涯にわたって関わり続けた。
ヴォーン・ウィリアムズは1958年にこの世を去るまでに、さらに3つの交響曲を完成している。7曲目の「南極交響曲」は1948年の映画「南極のスコット(英語版)」への音楽に基づいており、彼が楽器法と音響に対して新たな興味を抱いていたことが窺われる。「交響曲第8番」は1956年の初演で、1956年から1957年にかけてより重々しい「交響曲第9番」が続く。この最後の交響曲が初演されたのは1958年、作曲者の死のわずか3か月前のことであったが、当初はどっちつかずの評価を得るにとどまった。しかし、現在ではこの暗く謎に満ちた作品が、彼の交響曲の系譜を締めくくるにふさわしい楽曲であるとみなされている[16]。
また、ヴォーン・ウィリアムズは多くの器楽曲や合唱曲を仕上げている。「チューバ協奏曲」、マシュー・アーノルドの詩による「オックスフォード悲歌」、クリスマス・カンタータの「オディエ」などである。また、エリザベス女王の戴冠式のために「古い詩篇100のふし」を編曲している。「チェロ協奏曲」、オペラ「トーマス・ザ・ライマー」、クリスマス劇「最初のノエル」は彼の死後、未完のまま残されており、筆記者のロイ・ダグラスによって補筆完成された。
彼は教会音楽に少なからず関わっており、また多くの作品中には宗教的な題材が見出されるにもかかわらず、彼の2番目の妻は夫をこう評していた。「無神論者で(中略)後になって楽しげな不可知論に転向していった[17]。」彼がオペラ「天路歴程(英語版)」において、主人公の名前を原作者のジョン・バニヤンが付けた『クリスチャン』から『ピルグリム』へと改変したことは注目に値する。彼はバニヤンの讃美歌「Who would true valour see」に対しても、サセックスの伝統的な音楽である「Monk's Gate」を当てている。教会に通うものにとって、最も親しみ深い彼の楽曲はウィリアム・ウォルシャム・ハウ(英語版)の「For All the Saints」に書かれた讃美歌「Sine nomine」であろう。彼が中世の讃美歌「Discendi, Amor santo[注 7]」に作曲した楽曲は、自らの生地を称えて「ダウン・アンペイ」と名付けられた。
彼はバークベック・カレッジの教員としても働いた[18]。
1950年代に、ヴォーン・ウィリアムズはエイドリアン・ボールト指揮、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団がデッカ・レコードに行った交響曲集の録音に際し、第9番を除く全作品を監修した[19]。謎めいた第6交響曲の最後のセッションで、彼は短いスピーチを行ってボールトとオーケストラの「これ以上なく心のこもった」演奏への感謝を述べた。デッカは、後のLP音源にこれを収録している[20]。彼はボールトによる第9交響曲の初録音(エヴェレスト・レコード(英語版)へのものだった)にも立ち会う予定であったが、録音セッション開始前夜の1958年8月26日にこの世を去った。ボールトは楽団員に対し、今回の演奏が作曲者を追悼するものになるだろうと告知した[21]。これらの演奏と作曲者やボールトのスピーチは、全てデッカからCD音源として再発売されている。
ヴォーン・ウィリアムズは多くの若い作曲家や指揮者らに指導や公演を行って、また交友関係を築くことで、イギリスの音楽の中心人物であった。彼はあらゆる人に対し、どれだけ簡単なものでも本当に自らで考えたのであれば、自分自身の音楽を作ろうとしばしば繰り返していた。そうした考えなどを綴った彼の音楽に関する著書は、今もって示唆に富むものである。ヴォーン・ウィリアムズはウェストミンスター寺院に眠っている。
結婚生活
ヴォーン・ウィリアムズは2回の結婚を経験している。最初の結婚相手はアデリーン・フィッシャー(Adeline Fisher[注 8])で、1896年のことだった。アデリーンはルース・フィッシャー・デ・ロップの従姉妹で[22]、ルースは生化学者のロバート・ロップ(英語版)の母であった。ロバートの父はヨーロッパの貧窮した貴族で、息子の高校以降の学費を賄うことができなかった。そこで、ヴォーン・ウィリアムズ夫妻が助け舟を出してロバートを南ケンジントンにある王立科学大学(英語版)に通わせ、そこで生物学を専攻したロバートは博士号を取得した。ロバートはそのまま研究の道で成功して科学者となり、ヒトの潜在能力に関するよく知られた書物を著した[23]。アデリーンは長年にわたって手足の自由が利かなくなる関節炎に苦しんだ後、1951年に夫に先立った。
ヴォーン・ウィリアムズは、1938年から既婚の詩人であるアーシュラ・ウッドと不倫関係にあった。1942年に夫を亡くしたウッドは、ヴォーン・ウィリアムズの文学面での助言者、個人的な助手となってサリーの彼の自宅に移り住んだ。これは明らかにアデリーンの暗黙の了解の下で行われたことで、ウッドは1951年にアデリーンが死去するまで介助者として彼女に尽くした[24]。ウッドは合唱作品「光の御子たち」の台本を記しており、また「天路歴程」や「オディエ」の台本にも力を貸した[25]。ウッドとヴォーン・ウィリアムズは1953年に結婚し、ロンドンに移り住んだ。2人はヴォーン・ウィリアムズがこの世を去るまでの5年間、リージェンツ・パーク、ハノヴァー・テラス(Hanover Terrace)の10で暮らした。1964年、ウッドは「RVW: レイフ・ヴォーン・ウィリアムズの伝記」を出版した。彼女は2007年に亡くなるまで、レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ協会の名誉会長を務めた。
作風
イギリスの田園風景を彷彿とさせる牧歌的な作風は、広くイギリス国民に愛されている。日本では『惑星』で知られるホルストに比べて知名度が低いが、欧米ではホルストより高く評価されている。生涯に9つの交響曲を遺し、また、イングランドの民謡を題材にした作品も多い。
ヴォーン・ウィリアムズの音楽は、しばしばホルスト、ディーリアス、バターワース、ウォルトンらの音楽と同様にイングランドの特徴を備えているといわれる[26]。ピーター・アクロイド(英語版)は著作「Albion: The Origins of the English Imagination」の中でこう記している。「もしそのイングランドらしさというものが言葉では完全に言い表せるものだとすれば、その言葉とは次のようなものになるだろう。表向きはよくある普通の音楽だが、抒情的、旋律的、憂鬱で郷愁を誘い、さらに時を超越しているばかりでなく、深遠かつ神秘的でもある。」アクロイドは、1911年以前にニューグローヴ世界音楽大事典の第2版の編集に関わったことで知られる音楽評論家のジョン・メイトランド(英語版)の言葉を引用している。メイトランドの考えでは、ヴォーン・ウィリアムズの作風は「聴いていて非常に古い音楽なのか非常に新しい音楽なのか分からなくなる」ようなものだった。
ヴォーン・ウィリアムズが民謡に魅了されて、深い造詣を獲得していることは作品から窺い知れる。その変容の様は、聴衆を地上にいる状態(彼自身は日々常にそうあろうとしていた)から天上へと誘い得るものである。同時に彼の音楽は、イングランドへの愛国心をわずかながらも垣間見せるが、それは古き風景と、人がその中で小さくとも完全には無視してしまうことのできない居場所を占めているという感覚から生まれるものである[2]。彼の初期作品は時おり、1908年のパリで3か月間指導を受けたラヴェルの影響を見せる。ラヴェルはヴォーン・ウィリアムズについて、自らの弟子の中で唯一ラヴェル風の音楽を書かなかった人物だと評した[26]。
生涯にわたってシベリウスを尊敬していたといわれ、第5交響曲はシベリウスに献呈されている。
主要作品
交響曲
彼は、ベートーヴェンと同じく9曲の交響曲を遺している。中でも『海の交響曲』は大規模なもので、構成的にはカンタータと見なせるようなものである。また、『田園交響曲』や『南極交響曲』でも声楽を取り入れているが、これには歌詞がなく一つの楽器として扱われている。
海の交響曲(A Sea Symphony、交響曲第1番) 管弦楽、ソプラノ、バリトン、合唱
ロンドン交響曲(A London Symphony、交響曲第2番)
田園交響曲(A Pastral Symphony、交響曲第3番) 管弦楽、ソプラノ
交響曲第4番ヘ短調(Symphony No.4 in F minor)
交響曲第5番ニ長調(Symphony No.5 in D major)
交響曲第6番ホ短調(Symphony No.6 in E minor)
南極交響曲(Sinfonia Antartica、交響曲第7番) 管弦楽、ソプラノ、合唱
この作品は、もともとは 映画 『南極のスコット』 のために作曲された音楽を交響曲の形に改作したものである。
交響曲第8番ニ短調(Symphony No.8 in D minor)
交響曲第9番ホ短調(Symphony No.9 in E minor)
管弦楽曲
グリーンスリーヴスによる幻想曲(Fantasia on Greensleeves)
1928年に完成した歌劇『恋するサー・ジョン』(Sir John in Love) の間奏曲(イングランド民謡「グリーンスリーヴズ」に基づく)をラルフ・グリーヴズが編曲したもの。
弦楽合奏曲
トマス・タリスの主題による幻想曲(Fantasia on a Theme by Thomas Tallis)
16世紀イギリスの作曲家トマス・タリスの『大主教パーカーのための詩編曲』の旋律を題材とした作品。
協奏曲
ピアノ協奏曲ハ長調(Piano concerto in C)
RVWの作品としては珍しくバルトークの影響が強い作品。あまりに演奏困難なため、2台のピアノのための協奏曲に改作している。
バス・テューバと管弦楽のための協奏曲(Concerto for bass tuba and orchestra、テューバ協奏曲)
これはロンドン交響楽団に捧げられた曲で、RVWの協奏曲作品としては今日、最も演奏の機会に恵まれている1つである。テューバのための協奏曲としては最も有名な作品の1つで、多くの著名な奏者が舞台上や録音でその技巧を披露している。第2楽章(ロマンツァ、Romanza)はチェロやファゴットでも演奏される。
揚げひばり(The Lark Ascending)
ヴァイオリン独奏と管弦楽のための協奏曲的な作品である。
吹奏楽曲
イギリス民謡組曲(English Folk Song Suite)
他者の編曲による複数の管弦楽版(特にゴードン・ジェイコブの編曲)も知られている。
行進曲「海の歌」(Sea Songs - March)
「プリンセス・ロイヤル」「ベンボウ提督」「ポーツマス」の3曲の民謡による演奏時間4分弱の小品。元々は「イギリス民謡組曲」の第2曲として作曲され、後に独立した曲として出版された。かつて短波で放送されていたBBC日本語放送のテーマ曲に中間部の「ベンボウ提督」の管弦楽編曲版が使用されていた、とされているが、実際は、トリオの「ポーツマス」のメロディが使用されていた。
室内楽曲
幻想的五重奏曲 (Phantasy Quintet)
ヴァイオリン2本、ヴィオラ2本、チェロによる編成の室内楽曲。
弦楽四重奏曲第1番ト短調 (String Quartet No.1 in G minor)
ラヴェル師事直後の作品で、印象派の影響も匂わせつつ、民謡風の旋律を織り込んだ作曲者自身の作風の確立において重要な作品。
弦楽四重奏曲第2番イ短調「ジーンの誕生日に」 (String Quartet No.2 in A minor "For Jean on her birthday")
戦中、マンジェス四重奏団 (Manges Quartet) のヴァイオリン奏者ジーン・スチュアートに捧げられた曲。ヴォーン・ウィリアムズの室内楽中最後の作品。
録音史
ヴォーン・ウィリアムズの楽曲は膨大な録音遺産に恵まれている。初期には各交響曲がヘンリー・ウッド(ロンドン交響曲)、ジョン・バルビローリ(第5番)、エイドリアン・ボールトとレオポルド・ストコフスキー(共に第6番)によって録音され、作曲者自身による第4番の録音も行われた。この後、数種類の交響曲全集が生まれることになる。ストコフスキーが1943年にNBC交響楽団と行った第4番の放送演奏や、1964年のBBCプロムスにおけるBBC交響楽団との第8番の公演もCDで発売されている。ユージン・グーセンスは1941年に、シンシナティ交響楽団と「ロンドン交響曲」の1920年版をRCAビクターへ録音したが、これはこの版による唯一の音源となっている。ボールトは初となる交響曲全集に取り組み、1950年代初頭のデッカへの第1番から第8番までと、1958年のエヴェレスト・レコードへの第9番によってこれを完成させた。彼は1967年から1972年にかけて、EMIへ2度目となる交響曲全集を録音している。他にも交響曲全集の録音ではアンドレ・プレヴィン、ベルナルト・ハイティンク、ブライデン・トムソン、ヴァーノン・ハンドリー、レナード・スラトキン、リチャード・ヒコックス(急逝により南極交響曲、第9番が未完)らが続いている。
他にも、他国の指揮者らもヴォーン・ウィリアムズの交響曲録音に取り組んでいる。ディミトリ・ミトロプーロスとレナード・バーンスタインは、ともに第4交響曲をニューヨーク・フィルハーモニック管弦楽団と録音しており、同楽団とはレオポルト・ストコフスキが1949年に第6番の初録音を行っている。第6番は、1966年にモーリス・アブラヴァネルとユタ交響楽団も録音を遺している。パーヴォ・ベルグルンドも第4番、第6番を録音した。他にもCD音源は存在し、第9番のポルトガル初演となったペドロ・デ・フレイタス・ブランコとポルトガル国立管弦楽団の演奏も発売されている。同様に、第9番のアメリカ初演となった1958年、カーネギー・ホールにおけるストコフスキの「ヴォーン・ウィリアムズ追悼演奏会」の様子も、カラ・レコード(Cala Records)より発売されている。
ヴォーン・ウィリアムズ自身による1952年の交響曲第5番の録音が、イギリスで近年になって初めて公式にサム・レコーディングズ(Somm Recordings)よりリリースされた。
デイヴィッド・ウィルコックス(英語版)は1960年代から1970年代にかけて、EMIに多くの合唱作品を録音した。弦楽四重奏曲ではナクソスの録音が賞を獲得し、ハイペリオン・レコードやシャンドスとともにこれまで顧みられなかった楽曲に光を当てている。そうした楽曲の中には、ブラスバンドのための作品ほとんど上演されないオペラなどがある。
EMIからは、ヴォーン・ウィリアムズの全作品をほぼ網羅し、同曲異演も含むCD30枚組(34時間以上)の廉価セットが発売されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%82%BA
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/778.html
1. 中川隆[-16150] koaQ7Jey 2021年10月04日 13:05:14 : HNQh6kvMDI : aE12RU5RYUJ5ZmM=[8]
ヴォーン・ウィリアムズ 『グリーンスリーヴスによる幻想曲』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/949.html
ヴォーン・ウィリアムズ トマス・タリスの主題による幻想曲
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/947.html
ヴォーン・ウィリアムズ 『揚げひばり』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/948.html
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/778.html#c1
1. 中川隆[-16149] koaQ7Jey 2021年10月04日 15:39:56 : HNQh6kvMDI : aE12RU5RYUJ5ZmM=[12]
大東亜戦争は昭和天皇が策謀した八百長戦争だった! が正しい:
真珠湾攻撃は昭和天皇がみんなの反対を押し切って独断で決断したというのが学界の定説です
昭和天皇の侍従の話では、昭和天皇は、強力な独裁制の主唱者として登場してきたという。
彼は、卓越した知性の持ち主とも言われている。
どの話の中でも、彼は常に大臣の構想に遅れを取らずに助言を与え、
そして、彼が受け入れられるような推奨案へと舵取りしていたことが次々と語られている。
また、時には、反対する見解をも採用し、少数意見も受け入れ、あるいは、
ひとつの推薦案を丸々無視したとすらも認められていた。
裕仁天皇は、米国との戦争の布告に署名をしていた。それは、彼の意思にはそわずにされたものと言われていたが、戦争開始数ヶ月後の、近衛首相の退陣までに作成された記録には、そうした記述は残されていない。また、もし彼が戦争を差し止めようとしたならば、暗殺されたかもしれないとも言われている。しかし、こうした主張は、こじつけのようである。というのは、兵士も将校もすべて、天皇のために死ぬ備えをしており、彼を暗殺するほどにかけ離れた日本人は、戦争に反対の西洋化した銀行家や外交官だけであったからである。
裕仁天皇は、1937年、軍隊を華北へ送る命令に判を押した。これも後に、意思にそわずに行われたものと言われ、また、その二ヵ月後には、華中、華南へ出兵する命令にも判を押した。
彼は参謀本部の躊躇した「軍国主義者」の忠告に従い、華南の命令の執行を不本意に延期した。彼は、戦局を自ら掌握できるよう、皇居のなかに、大本営を設置した。
当時の首相が天皇のあまりな傾倒に苦言を呈しているように、彼は戦争計画に没頭するようになった。
そして遂に、彼の伯父は、中国の首都、南京攻撃の命令を引き受け、南京のあるホテルに居を移し、彼の軍隊が、10万人を超える無防備の軍民双方の捕虜を殺しているのを傍観していた。それは、第二次大戦でおこなわれた最初の集団虐殺で、この伯父が東京に戻った時、裕仁は、自らでかけて、伯父への名誉の勲章を与えた。
それをさかのぼる1931年から32年、裕仁は、満州領有に許可を与えた。これも後になって、不承々々のものとされたが、彼は、自らが代表する天皇の統帥機関により生じた企ての全的責任を負うことに躊躇していた、と当時の記録は明確に記録している。そしてふたたび、この領有が完了した時、彼はその実行者たちに勲章をあたえ、その大将を自分の侍従武官兼軍事輔弼〔ほひつ:天皇への助言者〕の主席にさせている。
こうした明白な諸事実より、天皇裕仁の行為と、後年、彼について語られた言葉との間には、大きな食い違いがあると結論付けうる。
私は、資料文献を読みながら書き留めたノートのすべてを見直しかつ再考察し、日本の近世の歴史は、第二次大戦以来提起されているように、一部、参謀本部の逆諜報専門家や、一部、皇室取巻きの上層部によって、戦争末期に捏造された幻想に巧に由来している、と確信するようになった。
こうした日本の表向きの物語は、何度も、すでに生じていたことがその結果にように引き合いに出され、論理的に逆転している。偶然な出来事や自然発生した大衆行動が、高官レベルで、それに先立つ数ヶ月あるいは数年前に、実際に議論されていたことを、その時々の資料は、一度となく示している。天皇の主席政治輔弼、内大臣(訳注)は、慣例のように次期首相を任命し、現職首相の職が危ういような政府の危機の際には、それに先立つ数週間ないし数ヶ月間は、「彼の特務期間」と呼ばれた。そのやり取りは記録として残されてもおり、その中で内大臣は、続く二代の政府の組閣構成やその成果を、正確に見通している。
終戦時、オーストラリア、ニュージーランドそして中国の高官はすべて、裕仁天皇は日本の君主であり、日本の戦争責任者のリストの先頭におかれるべきであることに同意していたことを、キャンベラの書庫で発見して、私には心をやわらげられるものがあった。彼らは、その後、マッカーサー将軍の決定――天皇を国際法の下の戦争犯罪人とするより日本の復興のために用いる――(私自身、これは賢明な決定と思う)に従った。
私の調べた確証から浮かび上がる天皇の姿は、公式の伝記にあらわれる姿とは、まるで写真のネガとポジのように異なっていた。
私の見方では、裕仁は、献身的で、衰えを知らず、利巧かつ細心で、そして忍耐力を備えた、卓越した戦争指導者だった。
彼は、アジアから白人を追放するというその使命を、大祖父から引き継いでいた。だが、国民は無関心かつ後進的であったので、人々をそうした役務にかりだすため、戦争の20年前から、心理的、軍事的に準備を重ね、巧みにあやつっていった。
公式の人物像は、これとは逆に、裕仁を、魅力に乏しいところの多い、文化的な隠居した生物学者で、自らの公務は将官や総督にゆだね、そのすべてのエネルギーをおだやかに、きのこや小さな海洋生物につぎこむ人、と描いていた。
その年の一月、私の調査が終わろうとしていた時、原書房という東京の小さな出版社が、戦時中の陸軍参謀総長、杉山元〔はじめ〕大将が1940年から44年に書きとめた備忘録〔『杉山メモ』〕を出版した。これは、日本国家の最高位の軍事将校による歴然たる手書き資料である。杉山は日本が降伏した1945年に自殺しており、彼の記録を装飾する機会はなかった。記録のほとんどは、無味乾燥な軍事的詳細か、さらに単調な軍事用語で満たされていた。しかし、そのうちのいくつかは、裕仁との会話の言葉どおりの記述である。
それらは、裕仁が、真珠湾攻撃の数ヶ月前、軍事的、経済的計画について、詳細な質問をしていることを記していた。
それは、マッカーサー将軍が語ったという、裕仁が戦後将軍に告白した――1941年にはすべての軍事的、経済的事柄については無知であった――という発言と真っ向から食い違っていた。
最も驚くべきことは、1941年1月、対米戦勃発の11ヶ月前、裕仁が独自に、真珠湾への奇襲攻撃のフィジビリティー調査を命じていることを、『杉山メモ』が記録していることである。
それ以前では、欧米の歴史家は、少なくとも1941年11月までは、裕仁は真珠湾奇襲攻撃計画については何も知らなかった、と信じていた。1941年当時の侍従長、鈴木貫太郎は、戦後、裕仁は真珠湾攻撃計画については、それが実行されるまでは知らなかった、とはばかることすらなく記している。
『杉山メモ』はまた、裕仁は、真珠湾計画に、彼の公式軍事輔弼がそれを告知される丸六ヶ月前の段階で、参加していたことを明らかにしている。極東国際軍事法廷の連合軍判事たちに提示され、また、宣誓のもとでの目撃証言や緻密な調査によって検証された証拠は、裕仁を戦争にまで引きずり込んだとされる「軍国主義者」の誰もが、1941年8月まで、真珠湾計画を知らなかったと結論ずけている。
国際軍事法廷は、日本人指導者に「侵略戦争への陰謀」との判決を下し、1928年
1945年、連合軍がドイツを制圧した際、何百万ページもの国家文書が発見された。これに対し、連合軍が取り決められた日本の占領を始めた時、戦争終結からまだ2週間しかたっていないにもかかわらず、アメリカ人の手に入ったもので、何らかの重要性をもつ文書は、日本人によって自発的に提供されたものであった。
1937年より1945年まで皇居において天皇が議長を勤めて行なわれた天皇本部の会議議事録は、すべて焼却されたと言われている。陸軍参謀本部、海軍参謀本部、特高警察のファイル類の大半も、同様であった。
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3. 中川隆[-16148] koaQ7Jey 2021年10月04日 15:41:14 : HNQh6kvMDI : aE12RU5RYUJ5ZmM=[13]
大東亜戦争は昭和天皇が策謀した八百長戦争だった! が正しい:
アメリカでも昭和天皇が策謀した八百長戦争の実態を暴くと大学を追われる。
ディビットバーガーミニの間違いを指摘した研究者は一人もいない。というより他に昭和天皇の研究をした歴史学者自体が存在しないんだ。
ライスシャワーみたいな御用学者が貶めていただけだ:
天皇の戦争責任を暴いたバーガミニをアメリカが抹殺した理由は?
バーガミニの本がアメリカで出たら、凄い大ベストセラーになって色々な人が非常に高く評価した書評を書いたりしてるんです。ところが! 83年の新版に驚くべきことが書いてあります。
「天皇の陰謀が物書きとしての私の経歴をお終いにしてしまった」
この本が出た1971年以来、大ベストセラーになったんです。良く調べると、なんとこのバーガミニという人はアメリカの大学を出た後、ローズ奨学生になってオックスフォードに入学してます。ローズ奨学生のオックスフォード卒業生ですよ。これは欧米ではとてつもないエリートです。インサイダーの候補です。そういう人が、自分は日本に非常に縁が深いので昭和天皇の歴史を中心とした日本史を書いてみようという訳で、アメリカの有力な権力層から日本の多くのインサイダーへの紹介状を貰って、インタビューしたりして、本もたくさん買って、京都に住んで、京都の学生・卒業生とかを助手にして、非常に詳しい調査をして、日本のインサイダー、元将軍、元なんとかという人たちのインタビューをしたりして書いた本ですよ。これは凄い本だということで前途洋々かと思うと、とんでもない。この本を出したおかげで、自分の物書きとしての経歴がおしまいになったって言ってるんです。
内輪に見積もっても200万〜500万ドル。今のドルではなくて1970年代だからもう少し価値があったんじゃないでしょうか。200万〜500万ドルが、私を押さえつけておく賄賂ないしは監視料として使われたって言うんですよ。
「とりわけエドウィン・O・ライシャワーが、私を押しつぶす大きな蝿叩きを作るために手を貸した」って言うんですよ。ライシャワーは、気の赴くままに合衆国の大学に与える贈り物を持っていたし、日本での訓練期間中に彼に借りを作ったCIAの手の者達の中核の献身を受けていたって言うんです。つまり、ライシャワーを中心とする、アメリカのまさしく権力エリートが、バーガーミニを著述家として葬り去るために全力を尽くしたわけです。賄賂ないし監視料というのは、バーガーミニの著述家としての活動の全てに渡って完全に抹殺するように米国の権力が総力を挙げて襲いかかったんですよ。
本を5冊書いたけどね、出版社に持って行くと、すかさずその出版社に手がまわって、その賄賂ってわけで、これだけ金をやるからバーガーミニの本は出すな、どうのこうのって訳ですよ。アメリカの日本問題専門家は全部ライシャワーの息がかかってますからね。ライシャワーが命令して「あいつはもう一切相手にするな」って言うわけです。
そんな風にして、彼はあっという間に物書きから転落していくわけですよ。そうしてね、いまの私はマイクロコンピューターを売ったり、コンピューターのプログラムを作ったりすることで身を立てておりますって言うことになっちゃった。そして、彼は「私の愛国心は幻滅に帰した」、つまり、アメリカは自分の祖国と思っていたがとんでもない、自分が1冊の本を書いたが為に、アメリカという国家は自分に襲いかかって、自分を叩き潰そうと、もう叩き潰してしまった。愛国心ってのものは無くなったと、そう言ってます。
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大正天皇は精神を病んでいたといわれるが、西園寺は自分が仕えた4代(孝明〜昭和)の中で最も知性に優れていたと語っている。大正天皇はナポレオン、アレクサンダー大王を理想として日本を改造したかった。議会は廃止して天皇独裁にしたいと思っていた。日露戦争で莫大な外債を抱えていた。議会が予算を承認しないと困る。陸軍・海軍を増強して「帝国」にしたいのに障害になる。その天皇の考えに山県有朋は衝突した。
裕仁は大正天皇が不発に終わったクーデタを実行しようとした。立花隆の『天皇と東大』によると、上杉憲法学は議会の撲滅を主張していた。議会を大政翼賛会とし、日本を破壊するための軍国主義体制を整えるように「宮中」から指示をしていたのが裕仁である。日本を戦争に導くため、戦争反対派(皇道派)を一掃する「きっかけ」として利用されたのが二・二六事件だった。
絶対的天皇主義。それが完成したのが二・二六の後。二・二六事件までは陸軍の圧倒的多数は中国大陸での戦争に反対していた。中国に100万の軍隊を展開しながら、太平洋でアメリカと戦うのは、自滅の戦争であることが子供でもわかる状態だった。だが、それに反対するのは、天皇が許さない。そういった仕組みが二・二六で完成した。
中国への戦争に反対していた真崎大将を二・二六事件の「黒幕」だとして刑務所に閉じ込めている間に、統制派は中国との戦争に火をつけた(1937年の盧溝橋事件)。
二・二六事件の「蹶起趣意書」については、侍従武官長も、陸軍大将も、他の軍事参議官も、将官クラスも、ごく少数の非常に突拍子もないへんてこりんな軍人以外の、当時の日本の軍人・将校のほとんどが、この蹶起趣意書にすごく共感したわけです。
当時の日本の人口の6〜7割は農民ですけど、その農民は、第一次大戦後の軍が入ってきて、それから昭和4年(1929年)の世界経済大恐慌の前後からずっと続いてる、日本の経済恐慌の結果、農村は生きることも、死ぬこともできない様な塗炭の苦しみを味わってるわけですよ。兵隊はそういうところから出てくるんですから、将校はそれをひしひしと感じてるわけですよ。だから、多かれ少なかれ趣意書に書かれていることは、天皇の重臣などを殺したというのは、私利私欲、私的目的の為ではなく、こういう趣旨を掲げて、何とか変えてもらいたいと決起した志を酌むべきではないか、少なくとも天皇はその志を酌んで名誉を与えてもらいたいというのが、当時の(海軍は別ですけど)陸軍の首脳層のほぼ全員一致の考えです。
それでも、裕仁は全然問題にしないわけです。全然別の考えなんです。
バーガミニは、二・二六が起きた後、裕仁は単身、厳密に言えば一人じゃないですね、裕仁のそばにいた木戸幸一は、そのころ内大臣府秘書官長だった。二・二六で内大臣の斉藤実が殺されたでしょう。そのあと(1940年から)木戸幸一が内大臣になった。しかし木戸幸一1人じゃない。裕仁(昭和天皇)の摂政時代から、「十一会」という私的な結社を主宰してるんですよ、昭和天皇の顧問団。しかし、バーガーミニは、昭和天皇は単独で自分の考えを強行突破して、あらゆる反対、異論を押し潰して、いくつもの政治決戦に最終的に勝利したと評価してます。
近年になって公開された米国政府文書により、アメリカがわざと真珠湾攻撃に日本を誘い出したことは明かになっている。開戦時、日本側では、内大臣の木戸幸一が中国からの撤兵反対、米国との対戦を主張して、米国の謀略に合わせていた。
だが、木戸というより裕仁だ。近衛はその逆だった。終戦の半年前の昭和19年2月には「近衛上奏文」で戦争に導いてきた軍人たちの一掃を勧めているが、裕仁はこれを無視し、特攻隊、本土空襲、原爆投下をまねいている。
裕仁の売国奴ぶりは終戦後も続く。吉田茂は、日米講和条約が成立すれば米軍は撤退するものだと思っていた。ところが、吉田茂の知らないところで昭和天皇が裏取引し、ダレス(ロックフェラー財団の有力者)と秘密交渉、米軍が無期限に日本に駐留することにさせた。沖縄は半永久的に米国の領土として認めるといったことをダレスに言っている。
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フランシス・プーランク(Francis Poulenc, 1899-1963)
フランス六人組周辺のおしゃれな音楽の入門はこの人が良いと思う。フランス流エスプリの利いた軽妙洒脱で粋な都会的音楽。メロディーに溢れていて分かりやすく、まためまぐるしく雰囲気が変わるので飽きない。管楽器のソナタなどが素敵である。
管弦楽曲
バレエ音楽『牝鹿』
3.0点
組曲版で聴いた。スッキリとした軽やかなオーケストレーションと爽やかで瑞々しい詩情のある音楽である。しかし、メロディーの魅力がいま一歩と思うし、都会的な魅力もない。従って、それなりに良いのだが、あくまで若書き作品であり、もっと他に良い曲があると思って聴いてしまう。
『フランス組曲』(管楽器、打楽器、チェンバロ、ハープ)
3.5点
弦楽器が無くてチェンバロが入るという楽器編成が、古風な音の軽さを演出しており、非常に良い。ピアノ版と同様に楽しいし、管楽器の合奏の古風な楽しさはピアノ版には無いものである。
シンフォニエッタ
3.0点
メロディーに溢れていて軽妙であり、つまらなくはない。しかしニュアンスは平板で同じような雰囲気の上であれこれメロディーを流しているだけに感じられる。また、音楽が軽すぎて娯楽映画の音楽のようだし、管弦楽なので機敏さに欠ける。
協奏曲
クラヴサンと管弦楽のための田園のコンセール(田園協奏曲)(1927-1928)
3.0
近代のチェンバロ協奏曲という目新しい響きの音楽であることから、好奇心を満たしてくれる。やりたい放題と言いたくなるほど奔放な構成で、めまぐるしく変わる場面についていく楽しさはある。4分の1くらいの場面は確かに田園をイメージする。しかし、心に響くようないい音楽という感じは無い。あくまで好奇心のための音楽と思う。
2台のピアノと管弦楽のための協奏曲 ニ短調(1932)
3.3点
2台のピアノの豊富な音数が産み出す華麗さ楽しさはなかなかのもの。プーランクらしいめまぐるしさも有効に機能して、聴き映えの良さを増している。
ピアノ協奏曲 嬰ハ短調(1949)
3.3点
軽快な聴く人を楽しませるピアノの使い方は流石で、プーランクのピアノ協奏曲への適性の高さを感じるのだが、逆に予想外の凄さがない。彼ならやりそうな事をそのままやっている。そのため、いい曲ではあるが物足りなさが残る。
オルガン、弦楽とティンパニのための協奏曲 ト短調(1938)
3.0点
軽快さが売りのプーランクも、この曲はオルガンの音圧を活用した重たい音楽にしている。場面の転換は頻繁だが、変化の劇的さがあまり無い。でも作曲者らしいセンスの良さは感じる。この雰囲気は独特であるので、聴いてみて損は無い。
室内楽曲
六重奏曲(ピアノ、フルート、オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴット)
3.3点
軽妙さやメランコリーをうまくミックスしたプーランクの良さが出ている曲。管楽器とピアノの扱いの上手さが、この曲でも目立つ。集大成的な作品としての作者の意気込みを感じる。しかしながら、音の厚さや楽器の多彩さが思ったほど効果を挙げていない気がする。
ホルン、トランペット、トロンボーンのためのソナタ
3.0点
珍しい構成であるが、音や音楽はそれほど意外性がない。アンニュイな雰囲気や金管らしい合奏を楽しめる。それ以上の良さはあまりない。
ピアノ、オーボエ、ファゴットのための三重奏曲
2.3点
おどけたりメランコリックになったり、フリーダムな曲。掛け合いも即興的。自由すぎて聴いていて落ち着かない。オーボエもファゴットもプーランクに合っており良さが生きているので、この編成ならばもっといい曲が書けたのではと残念に思う。
ヴァイオリンソナタ
2.5点
諧謔的な雰囲気が強い。ヴァイオリンが狭い範囲の使い方しかされていない印象があり、あまり楽器の良さを生かせてない。メロディーもいまいちで、プーランクの良さもあまり出ていない。とはいえ軽妙さなど、一定の特質を生かせてはいる。
チェロソナタ
2.5点
それなりに楽しめるのだが、チェロとしては軽快すぎる音使いで、高音の明朗さの不足がそのまま弱点になってしまっている。深々とした渋い響きを楽しめる他の作曲家のチェロソナタやプーランクの管楽器のソナタの素晴らしさと比較するとイマイチ。
フルートソナタ
3.5点
アンニュイな1楽章。寂寥感あるメロディーが捻った形で出てきて微妙なニュアンスを表現する2楽章。独特の捻りとメロディーの横溢によるニュアンスの変化が面白い3楽章。
オーボエソナタ
4.5点
夜の都会の洒落たセンスの中に人生の苦楽を潜ませた1楽章。ドビュッシーのように始まりおどけた後、中間部は切なく叙情的ながらも都会的で美しい2楽章。悲しく始まり、夢の中に溶けて現実に引き戻されて終わる3楽章。ニュアンスに満ちていて強く引き込まれる最晩年の傑作。
2本のクラリネットのためのソナタ
3.0点
同質の楽器2つという限定された条件での面白いアンサンブルを楽しむ曲。アンニュイでまったりした雰囲気が面白い。
クラリネットソナタ
3.0点
憂鬱アンニュイとおどけた道化というクラリネットの2つの面を軸にした曲の作りで、得意の目まぐるしい雰囲気の変化がある。お洒落メランコリーの部分は曲の雰囲気に浸れてなかなか優秀。
クラリネットとファゴットのためのソナタ
3.5点
2つの管楽器という限定された条件だが、変化に富み和声も豊かで素晴らしい。ファゴットは主に伴奏だが非常にうまく活用されていると思った。
器楽曲
ピアノ連弾または2台のピアノのためのソナタ
3.0
もとは若い時の作品で、ドビュッシーやサティーの影響を感じるが、十分にプーランクの個性も発揮されており、音感やセンスの良さはさすが。短い曲だし楽しんで聴ける。
2台のピアノのためのソナタ
3.3点
2台用だが、静寂さを感じる場面が多い。アンニュイでメランコリックな繊細な精神を体験出来る場面が多いので、その楽しさで聴ける。
3つのノヴェレッテ(ピアノ)
3.5点
1曲目は穏やかな叙情性と中間の小気味良さが素晴らしい。2曲目は少し活発で小気味よい雰囲気と音使いが楽しい。3曲目は美しい夢と現実の狭間のようで感傷的。3曲ともコンパクトでいい曲。
フランス組曲
3.5点
ピアノ版を聴いた。冒頭からウキウキするような楽しい曲。どの曲も明るい中にエスプリが効いていて、親しみやすく誰でも楽しめるような作品。
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%97%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF
フランシス・ジャン・マルセル・プーランク(プランク、Francis Jean Marcel Poulenc フランス語: [fʁɑ̃sis ʒɑ̃ maʁsɛl pulɛ̃k] 発音例,1899年1月7日 - 1963年1月30日)は、フランスの作曲家。「フランス6人組」の一人。声楽、室内楽曲、宗教的楽劇、オペラ、バレエ音楽、オーケストラ音楽を含むあらゆる主要な音楽ジャンルの楽曲を作曲している。その作風の広さは「修道僧と悪童が同居している」と形容される[1][注 1]。
来歴・人物
1899年にパリ8区マドレーヌ地区の裕福な家庭に生まれる。両親は敬虔なカトリック教徒であった(父エミールは、叔父のカミーユと共に製薬会社プーラン社の創設者)。5歳の頃から母親からピアノの手ほどきを受け、1914年(15歳)からはスペイン出身の名ピアニスト、リカルド・ビニェス(ドビュッシーやラヴェルのピアノ曲の初演を数多く手がけた)にピアノを師事し、多大な影響を受ける。
バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)による『春の祭典』(1913年)、『パラード』(1917年、台本:ジャン・コクトー、音楽:エリック・サティ、美術:パブロ・ピカソ)の初演を見て感嘆する。
1917年頃ビニェスの紹介により、後のフランス6人組のメンバーであり同い年のジョルジュ・オーリックや、『パラード』の作曲者サティ、ポール・デュカス、モーリス・ラヴェル、声楽家のジャーヌ・バトリといった音楽家と出会う。中でもバトリとの出会いは重要で、プーランクは当時バトリの自宅に毎週のように集まる音楽家の一員となった。彼はそこでアンドレ・カプレやアルテュール・オネゲルとも出会う。当時、バトリは渡米したヴィユ・コロンビエ劇場の支配人の代理として劇場の運営を任されており、1917年12月には同劇場でジェルメーヌ・タイユフェール、オーリック、ルイ・デュレ、オネゲル、ダリウス・ミヨーの作品とともに、プーランクの『黒人の狂詩曲(FP 3)』の初演が行われた。プーランクは後に「これがその後の6人組の出発点となった」と語っている[2]。また、詩人ジャン・コクトーらのサロンに出入りするようになった。当時18歳だったプーランクは作曲を本格的に学習したいと考えたが、実業家であった父の反対によりパリ音楽院には進学せず、3年間の兵役についた。
この間、1920年に『コメディア』誌上に批評家のアンリ・コレが掲載した論文「ロシア5人組、フランス6人組、そしてエリック・サティ」によって「6人組」の名が広まった。
除隊後の1921年から1924年にかけて、ダリウス・ミヨーのすすめもありシャルル・ケクランについて本格的に作曲を学ぶ。1922年にはミヨーなどと共にウィーンのアルマ・マーラー宅を訪れ、そこでアルノルト・シェーンベルク、アントン・ヴェーベルン、アルバン・ベルクと会う。この年にはパリを訪れたバルトーク・ベーラとも会う。1923年にパリで行われたイーゴリ・ストラヴィンスキーの『結婚』初演の際の4人のピアニストの内の1人に予定されていたが、プーランクは病気となり初演には関われなかった(ストラヴィンスキーとは1916年にパリの楽譜店で出会って以来の友人であった)。
1923年、ミヨーとともにイタリア旅行中であった24歳のプーランクは、バレエ・リュスを主宰するセルゲイ・ディアギレフからの委嘱によってバレエ『牝鹿(FP 36)』を作曲し、翌1924年にモンテカルロにおいてバレエ・リュスによって初演された。脚本はコクトー、舞台と衣装はマリー・ローランサン、振付・主演はブロニスラヴァ・ニジンスカによるという豪華なものだった。
以来、軽妙洒脱で親しみやすいその作風は大衆に喜んで受け入れられたが、作曲活動だけでなく、バリトン歌手ピエール・ベルナックとによる自作歌曲のピアノ伴奏をはじめとして積極的に演奏活動もし、録音も残されている。
1927年、トゥレーヌ地方トゥール近郊ノワゼ (fr) に Le Grand Coteau を購入し、創作活動の場合ここに籠もり『ナゼルの夜会(FP 84)』などを完成させた。
初のオペラ作品『ティレジアスの乳房(FP 125)』は1948年に初演され、第2作の『カルメル派修道女の対話(FP 159)』(1957年1月ミラノ・スカラ座で世界初演、6月パリ・オペラ座でフランス初演)は、「ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』、ベルクの『ヴォツェック』に続く作品」と絶賛された[3]。
晩年には様々な楽器とピアノのためのソナタに取り組む。1962年には『クラリネットソナタ(FP 184)』、『オーボエソナタ(FP 185)』を作曲したが、1963年1月30日に心臓麻痺のためパリで死去した。
私生活では同性愛者とされ[注 2]、リシャール・シャンレール[5]、レイモン・デトゥッシュ[6]、リュシアン・マリウス・ウジェーヌ・ルベール[7]、ルイ・ゴーティエ[8]が交際相手として知られている。プーランクが好んだのは、中流以下のインテリではない男性であった[6]。
また、フランス滞在時のロシアの作曲家プロコフィエフとは、ピアノやブリッジを通じて親交が篤かった[9]。唯一のピアノの弟子としてカンヌ生まれフランスのピアニスト、ガブリエル・タッキーノを教えた。
音楽観など
1953年に行われたスイス・ロマンド・ラジオ放送のインタビューで、プーランクは自己の来歴や音楽観について語っている。その中で、若い頃に影響を受けた作曲家として、シャブリエ、サティ、ラヴェル、ストラヴィンスキーの4人を、音楽家のベスト5(無人島に持っていきたい音楽)として、モーツァルト、シューベルト、ショパン、ドビュッシー、ストラヴィンスキーを、生理的に受け付けない作曲家としてフォーレ、ルーセルの名を挙げている[10]。
プーランクはインタビューの中で「音楽でモーツァルトに勝るものはない」[11]と言いきっているが、これは幼少時の彼にピアノを手ほどきした母親の影響である。また、ストラヴィンスキーについては『春の祭典』ではなく、『プルチネルラ』、『妖精の接吻』、『カルタ遊び』などの「ヨーロッパ的」な作品に影響を受けたと語っている[12]。
プーランクの音楽体験はピアノから始まっているために作品にはピアノ曲が多いが、10歳の頃にシューベルトの歌曲に熱中したことがあり、このことが数多くの歌曲を生むきっかけとなった[13]。
ピアノ以外の楽器については、弦楽器よりも管楽器の音色を好んだ[14]ため、管弦楽曲では管楽器が重要な役割を演じることが多く、室内楽曲においても管楽器のための作品が多い。なお、プーランクはさまざまな楽器の組み合わせで室内楽曲を作曲しているが、その中に同一の組み合わせのものはない。
プーランクは生粋のパリっ子であり都会人であった。彼が作る曲は軽快、軽妙で趣味がよく[13]、ユーモアとアイロニーと知性があり「エスプリの作曲家」と言われる[14]が、敬虔なカトリック教徒であった両親の影響を受け、宗教曲や合唱曲も手掛けている。自身はこの分野について、「わたし自身の最良の部分、何よりも本来の自分に属するものをそこに注ぎ込んだつもりです。(略)わたしが何か新しいものをもたらしたとするならば、それはまさにこの分野の仕事ではないかと思います」と述べている[15]。
無調音楽が主流となった戦後も単純明快な作風の調性音楽を書き続けたプーランクであったが、一方でピエール・ブーレーズの主催する現代音楽アンサンブル「ドメーヌ・ミュジカル」の演奏会には常連として足繁く通うなど、前衛的な現代音楽にも理解を見せた。
作品の特徴
軽快で旋律に富むという面が、若き日の大家に見られた作風と共通するところから「モーツァルトの再来」と表現する者[誰?]もいた。また、音楽の従来のあり方が多様化し旋律が崩壊した後の時代と比較され「メロディーを持つ20世紀最後の作曲家」と呼ばれたこともあった(その後、従来のような旋律の振る舞いを復活させる新しい動きが20世紀内にも起こったため、その表現は実際に正しくはなくなった)。当時のストラヴィンスキーが好んだ大胆で鮮やかな複調の響きを彼も特に好んで取り込み、旋律同士や和音同士をその手法によって重ねることが多く見られる。
作品
管楽器やピアノのための室内楽曲、宗教曲に優れた作品が多い。
オペラ
『ティレジアスの乳房』
『カルメル派修道女の対話』
『人間の声』
管弦楽曲
バレエ音楽『エッフェル塔の花嫁花婿』(合作)
バレエ音楽『牝鹿』
バレエ音楽『模範的動物たち』
『フランス組曲』(管楽器、打楽器、チェンバロ、ハープ)
『2つの行進曲と間奏曲』(室内管弦楽)
シンフォニエッタ
マルグリット・ロンの名による変奏曲(合作)
協奏曲
クラヴサンと管弦楽のための田園のコンセール(田園協奏曲)
ピアノと18の楽器のための舞踊協奏曲『オーバード』
2台のピアノと管弦楽のための協奏曲 ニ短調
オルガン、弦楽とティンパニのための協奏曲 ト短調
ピアノ協奏曲 嬰ハ短調
室内楽曲
六重奏曲(ピアノ、フルート、オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴット)
ホルン、トランペット、トロンボーンのためのソナタ
ピアノ、オーボエ、ファゴットのための三重奏曲
ヴァイオリンソナタ
チェロソナタ(英語版)
フルートソナタ
オーボエソナタ
2本のクラリネットのためのソナタ
クラリネットソナタ
クラリネットとファゴットのためのソナタ
バガテル(ヴァイオリンとピアノ)
エレジー(悲歌)(ホルンとピアノ)
付随音楽「城館への招待」〜クラリネット、ヴァイオリン、ピアノのための三重奏曲
器楽曲
2台のピアノのためのソナタ
シテールへの船出(2台ピアノ)
主題と変奏 変イ長調
四手のためのピアノソナタ
3つのノヴェレッテ(ピアノ)
ナゼールの夜会(ピアノ)
15の即興曲(ピアノ)
第12番『シューベルトを讃えて』と第15番『エディット・ピアフを讃えて』が有名。
合唱曲
アヴェ・ヴェルム・コルプス Ave verum corpus (1952)
酒の唄 Chanson à boire (1922)
フランスの歌 Chansons Françaises (1945)
エクサルティ・デオ Exultate Deo (1941)
カンタータ『人間の顔』 Figure humaine (1943、P. エリュアール)
グローリア Gloria (1959)
パドヴァの聖アントニオの讃歌 Laudes de Saint Antione de Padoue (1959)
ロカマドゥールの黒い聖母への連檮 Litanies à la Vierge Noire (Notre-Dame de Rocamadour) (1936)
ミサ曲 ト長調 Messe en Sol Majeur (1937)
小さな声 Petites Voix (1936)
クリスマスのための4つのモテット Quatre motets pour le temps de noël (1952)
悔悛のための4つのモテット Quatre motets pour un temps de pénitence (1938/39)
『悔悟節のための』や『悔悟の時のための』と訳される場合もある。
アッシジの聖フランチェスコの4つの小さな祈り Quatre petites prières de Saint François d'Assise (1948)
サルヴェ・レジーナ Salve Regina (1941)
7つの歌 Sept Chansons (1936)
テネブレの7つの応唱 Sept Repons des Téneèbres (1961)
カンタータ『枯渇』 Sécheresses (1937、E. ジェイムス)
スターバト・マーテル Stabat Mater (1950)
小カンタータ『ある雪の夕暮れ』 Un soir de neige (1944、P. エリュアール)
歌曲(多数)
朗読とピアノ
小象ババールの物語
日本語にも翻訳されているジャン・ド・ブリュノフの絵本による音楽物語。
著書
『プーランクは語る――音楽家と詩人たち』 ステファヌ・オーデル編、千葉文夫訳、筑摩書房、1994年。ISBN 4-480-87244-2
Journal de mes Mélodies. Paris: Cicero, 1993.
Correspondance 1910-1963. éd. Myriam Chimènes, Paris: Fayard, 1994.
プーランク オーボエとピアノのためのソナタ FP185
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/924.html
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/780.html
アルテュール・オネゲル(Arthur Honegger,1892 - 1955)
フランス六人組の一人といってもスイス人であり、交響曲などかなり深刻で構築性がある。室内楽や協奏曲はそれぞれ雰囲気が違う。
管弦楽曲
交響詩『夏の牧歌』(1920年)
3点
よくありがちな典型的な交響詩。いい曲ではあるがあまりにノーマル過ぎてちょっと。。。
交響的黙劇『勝利のオラース』(1920年)
3.5点
オネゲルらしい、音の響きが渋くて象のようなゆったりとした歩みの中に壮大さと歌心をこめてドラマを作るという特徴がよく出ている作品。劇的であり、ローマ建国という歴史物に必要な古代感と威厳もよく出ていて、人間くささや物語性と背景描写を兼ねることができている。作風と作品のマッチングがうまくいった成功作だと感じる。
『テンペスト』のための前奏曲(1923年)
交響的断章(運動)第1番『パシフィック231』(1923年)
4.0点
蒸気機関車が徐々に動き出していく最初の場面は描写的で楽器の使い方がとても面白い。その後高速で走っている場面の力感の作り方もとても面白く、停車して曲が終わってしまうとがっかりする。本当に面白い曲。
交響的断章(運動)第2番『ラグビー』(1928年)
3.8点
ラグビーにしては玉がビュンビュンと飛び交うスピード感ある曲で、ハリーポッターのクィディッチのようである。この圧倒的な躍動感に身を委ねるのはかなり快感である。
交響的断章(運動)第3番(1933年)
2.8点
まさに断章(運動)という感じであり、音楽としてつまらなくはないが、まとまった作品としての出来の良さのようなものを感じない。
交響曲第1番(1930年)
3.3点
ラヴェルのように響きが軽やかで色彩的。ストラヴィンスキーのようにリズムが生き生きとしている。交響曲らしい重さは他の交響曲と比較すると少ないが、多少は感じられるし、最後の感動的なコーダで満足して聴き終えられる。
交響曲第2番(1941年)
4.0点
大戦中に書かれた、沈鬱な表情に支配された曲。人類の犯した間違いと悲劇に対する悲しみと絶望に満たされた音楽はかなりの重量感。フランス音楽では珍しい。戦闘の後の最後はトランペットの明るい未来を確信するような響きに感動。
交響曲第3番『典礼風』(1946年)
4.0点
深刻で、フランス版ショスタコーヴィチの交響曲という感じがある。しかしオネゲル風のサウンドも楽しめるし、ロシアのしつこさや野蛮さとは違い洗練されているところがある。がっちりとした重厚さがあって聞き応えを感じる。
交響曲第4番『バーゼルの喜び』(1946年)
3.8点
新古典派的な曲と呼ばれるだけあって割と明快で分かりやすい部分が多いが、とはいえ随所にオネゲルらしい独特のサウンドを楽しめる。深刻な箇所は少ないが薄っぺらいという事はなく、交響曲らしい一般性は十分。ただ、最後のあっけない軽い終わり方には驚く。
交響曲第5番『三つのレ』(1950年)
2.5点
暗くてはっきりしないモヤモヤが続く時間が長くて、あまり楽しめない。
協奏曲
ピアノ小協奏曲(1924年)
3.0点
とても軽いふわっとした雰囲気で同じフレーズを繰り返す場面で始まり、後半はかなり完全にジャズになって終わる。精神的な重さがほとんどない、イージーリスニングに近くて、エスプリの効いた筆致のオシャレな音楽。
チェロ協奏曲(1929年)
3.3点
映画音楽のような場面が続く。映画音楽としては、なかなかの雰囲気でいい曲ではないか。と思っているとカデンツァが入ってクラシックの協奏曲というのを思い出す。田舎のような素朴さの中に、チェロの包容力と郷愁を誘うような魅力をうまく活用している。
室内協奏曲(フルート、コーラングレと弦楽合奏のための)(1948年)
3.5点
コーラングレとフルートの夢見るような詩情や郷愁が印象的。2本の管楽器が絶妙に絡み合い、音楽的な複雑さと表情豊さを見せている。オネゲルのふわふわした感じや、渋いおしゃれ感覚と管弦楽曲で見せる音の説得力と楽器構成がマッチしている。
室内楽・器楽曲
ヴァイオリン・ソナタ第1番 嬰ハ短調(1918年)
3.5点
1楽章は、印象派的ともいえる静寂さに包まれた深々とした音楽。夢幻的だったり流麗さもありかなり素敵。中華的な音の雰囲気も時々感じられて面白い。2楽章はジェットコースターのようにめまぐるしい高速な両端部分と、中間部の夢幻的な美しいメロディーの対比が素敵。3楽章は沈鬱な序奏は良いが、その後の激しく情熱的な部分があまり面白くない。最後にまた沈鬱な音楽に戻る。
ヴァイオリン・ソナタ第2番 ロ長調(1919年)
2.5点
旋法や音階に頼って雰囲気を作っている印象である。1楽章と2楽章は根暗な陰鬱さがわざとらしく聞こえてしまう。3楽章で気分的に解決されるので全体に一応作品として納得はする。
ヴィオラ・ソナタ(1920年)
2.0点
4度を多用し、印象派の室内楽に似ている事が印象に残る程度で、音楽的に空疎で内容が無い。ヴィオラの良さも全然活かされていない。
チェロ・ソナタ ニ短調(1920年)
2.5点
ふわふわとした浮遊感のある楽想。チェロもはっきりしない中を低音をとりとめもなく演奏するような趣である。渋さを楽しめる。
ヴァイオリンとチェロのためのソナチネ(1932年)
2.8点
オネゲルの室内楽は、精神的に孤独であり独白のような趣である。静謐でどこかグロテスク。その雰囲気はこの構成だとうまくマッチしている。音は豊かで2台とは思えないほど。
クラリネットとピアノのためのソナチネ(1922年)
3.0点
オネゲルらしい繊細なお洒落さとグロテスクさが混ざった音感を頼りに書かれたようなソナチネ。3楽章全部で6分とコンパクトで聴きやすい。ソナチネといっても気の利いた小品に近いイメージであり、すごい曲という感じではないが、オネゲルに対する期待値を裏切らないレベルにはある。
無伴奏ヴァイオリン・ソナタ(1940年)
2.8点
バッハの影響を強く感じる。バッハ同様に音の一つ一つの価値が高く、真摯さと気高い精神性を感じさせる。最後の楽章のプレストでの締めくり方など、影響が強いどころか、バッハの作品を近代の語法でそのまま再現してみせたと言ってもいいかもしれない。従って、音楽的にはそれなりに優れているが、独創性などの観点で物足りなく感じる。
弦楽四重奏曲第1番 ハ短調 (1916-17)
3.8点
かなり本格派の作品。いきなり激しく始まる1楽章。12分の長さで切々と歌う2楽章はなかなか感動的であるとともに、感動一辺倒ではなくオネゲルらしい音の捻りが効果的で聴き映えもする。深刻であり人生と世界の深遠を垣間見せる3楽章は素晴らしく、特に遥か遠くを見つめながら平和を祈念するような最後の終わり方には感動する。ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲と同程度に広く聞かれるべき作品。
弦楽四重奏曲第2番 ニ長調 (1934-36)
3.5点
1楽章はやや地味である。しかし2楽章は非常に強烈な印象を残す圧倒的な曲。中間に向けて迫力を増して最高潮に達してからまた落ち着く形だが、世界を底の方でえぐり取るような痛烈さにびっくりする。3楽章は前半は不協和音が鋭いが、後半は鎮静化する。全体に恐ろしい音楽だが、端正なスマートさも忘れない所があり、それがまた良い。
弦楽四重奏曲第3番 ホ長調 (1936-37)
3.3点
全体にかなり晦渋な曲。1番と2番のような明快なドラマ性が少ない。1楽章と3楽章の強烈な不協和音には驚く。苦々しいフレーズを積み重ねる曲であり、音のインパクトや聴き応えは十分にあるが、聴後に残る印象は1番2番より落ちる。
ピアノ曲
3つの小品 H23
3.0点
ピアノ独奏の小品
1曲目 少し即物的で、悲劇的な気分
2曲目 ドビュッシーのような曲
3曲目 この曲もテンポが早いドビュッシーの曲に似ているが、曖昧模糊な雰囲気が少なくて聴きやすい。
舞台作品・合唱作品
交響的詩篇『ダヴィデ王』(1921年第1版、1923年第2版)
劇的オラトリオ『火刑台上のジャンヌ・ダルク』(1935年)
4.0点
歌詞やストーリーが分からなくても、音楽だけでものすごく面白い!舞台が目に浮かぶような効果的なフレーズが目白押し。
クリスマス・カンタータ(1953年)
4.0点
作曲者最後の作品。作曲者の技術の粋を尽くして書き上げた天才的にして感動的な作品。ひとつの世界の創造の域に達している。
歌劇 ユーディット(Judith)
3.0点
この人はジャンルにより音楽の雰囲気がかなり異なる。舞台系作品は独特の説得力がありかなりよい。この曲もしかり。
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%82%AA%E3%83%8D%E3%82%B2%E3%83%AB
アルテュール・オネゲル(フランス語: Arthur Honegger、1892年3月10日 - 1955年11月27日)は、スイスとフランスの二重国籍を持ち[1]、主にフランスで活躍した作曲家である。フランス6人組のメンバーの一人。
生涯
1892年の3月12日にスイス人の両親の元、ルアーブルに生まれる。本来「オスカル=アルテュール・オネゲル(Oscar-Arthur Honegger)」という名前であったが、「オスカル」の部分は使われることはなかった。父アルテュール・オネゲル=ユルリックはコーヒーの輸入商社の支配人を務めていた人物で、母と同じく音楽の愛好家でもあった。音楽好きでピアノも得意だった母ジュリー・ユルリックから音楽の手ほどきを受け、最初ヴァイオリンを習うが、作曲の試みがこの最初の頃から行われていたとオネゲル自身が語っている[2]。また1904年頃には詩や小説の創作を試みたりしている。
1905年、教会のオルガニストを経て、ソートゥルィユに和声法と対位法の音楽理論の手ほどきを受けた。チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団の創設者でチューリッヒ音楽院の院長でもあったフリードリヒ・ヘーガー(1841年 - 1927年)に勧められ作曲家を志す。1910年に故郷のルアーブルで最初の作品である『ピアノのための3つの小品』が出版される。1911年パリ音楽院に入学。ダリウス・ミヨーは同窓生で、以後生涯にわたって特別の親友となる。
第一次世界大戦の際はスイス軍に従軍し、一時国境警備などにも就くが、まもなくパリに戻り、以降生涯のほとんどをパリで暮らした。
1913年に生涯の伴侶となる妻アンドレ・ヴォラブールと出会い、数年後に結婚した。
フランス近代の作曲家と考えられるようになったのはこうした経歴と、コクトーのグループに属し、フランス6人組という形で世に出たことも影響している。しかし自身はプロテスタントで、チューリッヒに籍を持ち続け、ドイツ語圏のワーグナーなどに強い共感を持っていた。この点で反ワーグナーを標榜していた6人組の他のメンバーとは一定の距離を持っていた。
1921年に発表した『ダヴィデ王』によって、6人組ではなく独立した作曲家として高い評価を受け、1925年にパリでクーセヴィツキーによって初演された交響的断章(運動)第1番『パシフィック231』が大評判となり、一躍時代の寵児となった。
1934年から1935年にかけて、イダ・ルビンシュタインを想定し、ポール・クローデルの協力で生み出された劇的オラトリオ『火刑台上のジャンヌ・ダルク』が作曲・完成され、初演は熱狂的な大成功を収める。
1945年以降はあらゆる領域で新たな地平を発見する目的で、ドイツ、ベルギー、イギリス、オランダ、ポーランド、チェコスロヴァキア、イタリア、スペイン、ギリシャなどヨーロッパの主要な国へ旅行する。
1947年夏にアメリカへ自作の指揮と講演を行うために来訪していたが、ニューヨークで狭心症(心疾患)を患って倒れ、少しずつではあったが4ヶ月後に回復した。回復後もこの疾患はオネゲルの身体に大きな打撃を与え、帰国後はドイツやスイスに転地して療養し、治療の一環として食事療法を行った。この過酷な時期に作曲した最後の作品は『クリスマス・カンタータ』である。
1955年11月27日、パリのモンマルトルの自宅で医師の来診を待っていたオネゲルは、ベッドから起き上がろうとした途端、妻の腕の中で意識を失い、そのまま帰らぬ人となり、63年の生涯を閉じた。死因は血栓症であった。
遺体はモンマルトルの古い教会の近くにあるサン・ピエール小墓地に埋葬された。
作風・その他
『ダヴィデ王』の他にも『火刑台上のジャンヌ・ダルク』など、聖書や歴史上の人物を主題とした劇場作品や声楽入り作品を数多く残した他、全5曲の交響曲、室内楽から映画音楽まで、幅広く作品を残している。映画音楽でも1927年の長編無声映画『ナポレオン(英語版)』の音楽や『うたかたの恋』『魔の山』など50以上の映画に音楽を作曲しており、無声映画時代からトーキーまで長いキャリアを誇る。
著書に『わたしは作曲家である』がある。その中でオネゲルは、作曲家という仕事の報われなさや音楽の将来への悲観的意見を、西欧文明の未来への悲観と重ね合わせて語っている。
なおスイスでは、オネゲルは一般にスイス人として認知されている。母語はフランス語とスイス・ドイツ語(正確にはチューリッヒ・ドイツ語)であった。またその肖像は、1996年10月から発行されている、現行の第8次のスイス・フラン紙幣の20フラン紙幣に描かれている。
自作録音
1929年から1947年にかけてデッカ・レコードを含む複数のレーベルに自作の10作品をSP録音を行っている。『パシフィック231』や『ラグビー』、交響曲第3番『典礼風』を指揮して残している(ただし、オーケストラは「交響楽団」としか明記されていない)。また歌曲集も録音しており、オネゲルはピアノの伴奏を担当している。
エピソード
オネゲルがワーグナーの音楽に対して非常に心酔していた事実は周知の通りである。ある友人はワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』が嫌いであるとはっきり言ったが、それに対してオネゲルは「それでは、あなたは恋愛をした経験がないのか」と言い返したという。
まだ母親から音楽の手ほどきを受けていた頃は、音楽を習うよりもむしろ港に行って船を眺めることが好きであったという。
若い頃はタバコのパイプを集めることが趣味であった。
1946年に作曲した映画音楽『幽霊』(H.188)には、オネゲル自身も出演している。
後年は若手作曲家のための国際マスタークラスを開講し、アラン・ペッタション、カレル・フサ、シメオン・テン・ホルトなど多くの人材を輩出したものの、「この男には才能などない」と一言で切って捨てられたのが若き日のヤニス・クセナキスであった。
主要作品
オペラ
フィリッパ(1903年)
聖女アルメンヌの死(1918年)
ユーディット(1925年 - 1926年)
アンティゴーヌ(英語版)(1924年 - 1927年)
鷲の子(1953年)
バレエ
真実と虚偽(1920年)
金属のばら(1928年) 一部分のみ現存、残りは消失
山の呼び声(1943年 - 1945年)
管弦楽曲
ニガモンの歌(1917年)
交響詩『夏の牧歌』(1920年)
交響的黙劇『勝利のオラース』(1920年)
喜びの歌(1923年)
『テンペスト』のための前奏曲(1923年)
交響的断章(運動)第1番『パシフィック231』(1923年)
交響的断章(運動)第2番『ラグビー』(1928年)
交響的断章(運動)第3番(1933年)
交響曲第1番(1930年)
交響曲第2番(1941年)
交響曲第3番『典礼風』(1946年)
交響曲第4番『バーゼルの喜び』(1946年)
交響曲第5番『三つのレ』(1950年)
協奏曲
ピアノ小協奏曲(1924年)
チェロ協奏曲(1929年)
室内協奏曲(フルート、コーラングレと弦楽合奏のための)(1948年)
室内楽・器楽曲
ヴァイオリンソナタ第1番 嬰ハ短調(1918年)
ヴァイオリンソナタ第2番 ロ長調(1919年)
ヴィオラソナタ(1920年)
チェロソナタ ニ短調(1920年)
ヴァイオリンとチェロのためのソナチネ(1932年)
クラリネットとピアノのためのソナチネ(1922年)
無伴奏ヴァイオリンソナタ(1940年)
牝山羊の踊り(無伴奏フルートのための)(1919年)
ロマンドの音楽帳(1923年)
呪文(オンド・マルトノのための)(1946年)
その他舞台作品・合唱作品
交響的詩篇『ダヴィデ王』(1921年第1版、1923年第2版)
劇的オラトリオ『火刑台上のジャンヌ・ダルク』(1935年)
死の踊り(独唱・合唱・管弦楽のための)(1938年)
クリスマス・カンタータ(1953年)
映画音楽
ナポレオン(フランス語版)(1927年)
レ・ミゼラブル(1933年)
うたかたの恋(1936年)
ピグマリオン(1938年)
著作(日本語訳)
『わたしは作曲家である』(吉田秀和訳 創元社 1953年 → 音楽之友社 1970年)
『音楽論』(塚谷晃弘訳 昭森社 1961年)
『化石への呪文』(塚谷晃弘訳 カワイ楽譜 1971年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%86%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%8D%E3%82%B2%E3%83%AB
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/781.html
アルテュール・オネゲル クリスマス・カンタータ
Arthur Honegger: A Christmas Cantata (Une cantate de Noël)
1996/12 NHK Symphony Orchestra
Charles Dutoit
▲△▽▼
クリスマス・カンタータ(Une Cantate de Noël)は、スイスの作曲家アルテュール・オネゲルの最後の作品である。
作曲の経緯
元々この曲は、1945年頃に着想した受難劇であったようだが、受難劇という形では完成されなかった。そして、既に心疾患を患っていたオネゲルは自らの死を目前にした1953年、この作品を予定の期日を大幅に遅れて完成させ、1955年に永眠した。
初演
1953年12月18日、パウル・ザッハー指揮、バーゼル室内管弦楽団、デリック・オルセン(バリトン)、バーゼル室内合唱団によりバーゼルにて初演された。
編成
バリトン独唱、児童合唱(ただしユニゾン)、混声合唱、フルート2(うちピッコロ持ち替え1)オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、ハープ、弦楽五部、オルガン。なお、独唱・合唱・管弦楽・オルガンを全て含めての完全な全合奏で響く部分は一度も無い。管弦楽のみの全合奏は、終結部にわずかにみられる。
作品の概要
テキストは、スイス人のオネゲルらしくフランス語・ドイツ語・ラテン語が用いられている。
全体は大きく3つに分かれ、「暗黒の時代」「キリスト生誕」「賛歌」のように考えられる。しかし、これは時代背景に置き換えると「戦乱」「平和」「人間賛歌」のように考えられないことも無い。
冒頭、オルガンがどっしりと不協和音を響かせる。チェロが断片的に動き、合唱におどろおどろしいヴォカリーズが現れる。この部分は変ホ短調と考えられる。木管楽器が絡み合う中、男声が厳かに「デ・プロフンディス(深き淵より)」を歌い、女声に受け渡される。しかし再びヴォカリーズとなり、やや速度を速めてファンファーレを伴って盛り上がる。頂点で速度を落とし「おお、来たれよ!」と悲痛に叫ぶと、児童合唱が変イ長調の穏やかで童謡風の旋律を歌う。この応答が繰り返されるとバリトン・ソロとなり、やがて児童合唱に賛美歌『エッサイの根より』が現れ、合唱が『神の子は生まれ給えり』と応じる明るい部分となる。この部分はホ長調である。この応答もしばらく続き、変イ長調のやや舞曲風の部分となる。速度を落とし、ロ長調に転じて4分の6拍子と8分の18拍子が同時に響く複雑を極める部分となり、賛美歌『きよしこの夜』が響いてくる。この部分はドイツ語とフランス語が交錯する。バリトン独唱に続いて、児童合唱の中の1人が「天使の声」を演じる。バリトンが『グローリア』を歌い、速度を速めてハ長調で合唱が「主をほめたたえよ!」と高らかに歌う。この部分ではバッハがカンタータ140番『目覚めよ、と呼ぶ声あり』に使用したフィリップ・ニコライ(Philipp Nicolai )のコラールが対旋律として用いられている。合唱が歌い収めるとオルガンとトランペットが壮大に響き渡り、徐々に静まってゆく。そして、今まで出てきた旋律の断片を回想しつつ、オルガンが冒頭の和音を逆に辿り静かに消えてゆく。
主な録音
録音年 指揮 オーケストラ&主な合唱団 バリトン オルガン 発売レーベル
1954 ジョルジュ・ツィピーヌ パリ音楽院管弦楽団&エリザベート・ブラッスール合唱団 ピエール・モレ モーリス・デュリュフレ EMI
1954 パウル・ザッハー ラムルー管弦楽団&エリザベート・ブラッスール合唱団 ミシェル・ルー モーリス・デュリュフレ フィリップス
1961 エルネスト・アンセルメ スイス・ロマンド管弦楽団&ローザンヌ放送合唱団 ピエール・モレ (表記なし) デッカ
1966 セルジュ・ボド プラハ交響楽団&チェコ合唱団 インドジフ・インドラーク ヤロスラフ・トヴルスキー スプラフォン
1971 ジャン・マルティノン フランス国立放送管弦楽団&合唱団 カミーユ・モラーヌ アンリエット・ピュイグ=ロジェ EMI
1982 リボール・ペシェク チェコ・フィルハーモニー管弦楽団&合唱団 ヴァーツラフ・ジーテク ヤロスラフ・トヴルスキー スプラフォン
1987 マーティン・ニアリー イギリス室内管弦楽団&ウィンチェスター大聖堂聖歌隊 ドナルド・スウィーニー ティモシー・バイラム=ウィグフィールド EMI
1989 ミシェル・コルボ グルベンキアン管弦楽団&合唱団 ジル・カシュマイユ ニコラス・マクネア エラート
2007 ティエリー・フィッシャー BBCウェールズ・ナショナル管弦楽団&合唱団 ジェームズ・ラザフォード ロバート・コート ハイペリオン
2009 ウラディーミル・ユロフスキ ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団&合唱団 クリストファー・モルトマン (表記なし) LPO
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%BF
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ダリウス・ミヨー(Darius Milhaud, 1892 - 1974)
時代に即したフランスらしい機知を感じさせつつ、留学して吸収したブラジル的情熱も持っているところが個性となっている。悪くない曲を量産しているが分かりやすい代表作が無い。何から聴いたらいいのか分かりにくい。ほとんどの作品はバランスと総合性を兼ねた魅力作というレベルに達しておらず微妙な出来である。その点でやはり一流感が足りない。
管弦楽曲
Le Carnaval de Londres, op. 172 (1937)
ロンドンの謝肉祭:「乞食オペラ」の旋律による組曲
3.5点
平明で明るくて叙情的。ロンドンといっても、もっと田舎街の穏やかな盛り上がりを連想させる。陽光の眩しさが目に痛いほどの風景。祭りの楽しさに心がウキウキする。メロディーが分かりやすくて無駄な捻りがなく、素直に愉しい気分で聴ける。また聴きたくなる。演奏や録音がよいからかも。
バレエ音楽
屋根の上の牡牛 Op.58
3.3点
愉しい音楽だが、まだ初期で成長途上である感が強い。バレー音楽でのミヨーの美点との相性の良さ発既に強く感じられる。彼の南欧的な明るさやリズム感の良さやブラジル風や複調の活用や含む多くの要素が作品として結実してスタイルを確立している点で、重要な作品であるのが分かる。多彩で豊富な楽想のてんこ盛り感がよい。代表作と呼ぶに相応しい作品である。しかし、創作の頂点はまだこれからという感じである。
世界の創造
3.5点
黒人の音楽らしさは、ガーシュインやラヴェルほど分かりやすくないし、徹底的でもない。音の動きにエッセンスのようなものが時々登場する感じだ。とはいえ、このジャズをいち早く取り入れて世界の創造を表現する音楽を作るという創造性は高く評価したい。楽器編成が小さくて、室内楽的な楽しみもあり、各楽器が個別に躍動するのがまた良い。単純ではないが適度に聴きやすく分かりやすい。
青列車
3.0点
なんだろう。平明すぎてありきたりな場面が多すぎる。フットワークの軽さがない気もする。一流作曲家ならではの領域には届いていない気がする。とはいえ、バレー音楽におけるミヨーのスタイルは確立していて十分に楽しめるものではあるが、これなら他の作曲家でも書けそうな気がする。そこが物足りない。
吹奏楽
フランス組曲
3.3点
平明で聞きやすいとは思うが、ちょっと平明すぎて複雑さとか聞き応えのようなものが足りない。変化はあって楽しめる曲でありおそらく生演奏で聴くと感動できそうに思うが、音源で聴くとそれほど感動しない。とはいえ凡作ではなく、所々に聴きどころが用意されている。
交響曲
交響曲第1番 Op.210 (1939/1940年初演)
3.3点
優美で田舎的な中にオサレが混じったような感じ。短いし、堅苦しくなくて分かりやすく聴きやすい。交響曲らしい力の入った感じというよりリラックスした曲と思ったが、楽章の構成や内容は割とすんなり交響曲として受け入れられた。わりと重厚で鋭角的なところと、舞台音楽的な派手さを併せ持つオリジナリティがある。後半が良い。田園的で舞台音楽のような活気と描写的な雰囲気のある1楽章。スケルツォに相当する映画音楽のようでヘンテコ要素がいい感じに入っていて面白い2楽章。3楽章の緩叙楽章も2楽章もオーケストラの使い方がよく、メロディーも楽しめてなかなか良い。4楽章は冒頭で派手にやったあと、バレエか映画音楽のような曲。通俗的だが、耳を楽しませる意味ではなかなか良い。
交響曲第2番 Op.247 (1944/1946年初演)
2.5点
全然交響曲に聞こえない。組曲くらいにしておくべきでは。一般性や構築性がないし、楽章間の関連も感じられない。そして曲として何がしたいのか、という意思が自分には分からなかった。漫然と音が鳴っているように聴こえる。
交響曲第3番「テ・デウム」 Op.271 (1946/1947年初演)(合唱付き)
3.3点
鋭角的で壮大で重厚で神秘的。時間の流れもゆったりしている。ブルックナーのテ・デウムを強く連想した。歌曲の部分は特に非常に神秘的で驚く。近代的な管弦楽の響きであり、かなりイギリス音楽ふうなのだが、どこかフランス的な要素も入っている。いつもの楽天的な南欧風はない。
交響曲第4番 Op.281 (1947/1948年初演)
2.5点
映画音楽なみ、もしくはそれ以上に安易なドンチャン騒ぎで盛り上がる場面が異常に多い。ハイドンなら祝典交響曲と呼ぶべき内容かもしれない。小太鼓は軍隊的な印象を与える。しかし、ちょっとかなり内容が浅いし、響きが少し面白い複雑さを見せている以外は全然ダメだと思う。
交響曲第5番 Op.322 (1953/1955年初演)
3.0点
じわじわと雰囲気を変えていく詠唱の積み重ねが最初は延々と続く。ショスタコーヴィチなら歴史と人民の悲劇を表現する音楽になるところだが、ミヨーにとってこれが何を意味しているのかは耳だけでは判断できない。2楽章のテンポを速めたバッハの影響を感じる骨太さと四角くて対位法的な音の線の構成もまさにショスタコーヴィチそのもの。3楽章の低音の動きを使った躍動感と耳に刺さる高音も。全体に序破急形式のパロディーに近い曲だが、どちらかというと真似して真剣に書いているように聴こえる。驚いた。
交響曲第6番 Op.343 (1953/1955年初演)
2.8点
まるで北欧の音楽かと思うような、伸ばした音のなかに冷たさと明るさの柔らかさが混じった音楽が続く。大自然のような大きな世界である。そのなかにもミヨーらしい響きは入っているが、陽光の強さを感じない。面白いと最初は感心するが延々といつまでも続いて飽きてしまう。最後はその流れを受け継いだ妙な盛り上がりをみせるが、よく分からない音楽である。
交響曲第7番 Op.344 (1955/1956年初演)
2.5点
ミヨーの弦楽四重奏などに通じる独特の音使いで交響曲を仕立て上げた、という点では典型的に思える。ただ、やはり本人の音のフェチが主な素材になっており、これは万人向けでないどころか、強く好むのはかなり少ないようには思われる。刺激を受ける部分はあるものの、やはりオススメするには辛くて一回聴けばよい類の曲に思える。これはすべての楽章に言える。
交響曲第8番「ローヌ河」 Op.362 (1957)
2.5点
うーん、二流作曲家のマイナー交響曲のオーラしか感じない。巨匠的なものがなく、響きを少し捻っただけの面白くない曲と思う。ミヨーが南欧風の活力を失って北欧風の普通の交響曲を書いた感じで、気力が足りない。ただ、雰囲気に浸るとどこか心地よく感じられる場面はあって、途中で聴くのをやめたくはならなかった。後半は活動的で彼の得意分野になっている。楽章の対比が鋭くて昔ながらの交響曲の体をなしているのも良い。
交響曲第9番 Op.380 (1959/1960年初演)
2.8点
ミヨーらしい活力のある音楽で、変な音の使い方ながらも楽しめる。特に最後の楽章はバレエ音楽的でなかなかよい。しかし、マイナー交響曲らしいニッチなイマイチ感もぷんぷんと匂いを放っている。
交響曲第10番 Op.382 (1960/1961年初演)
3.0点
ミヨーらしい変な音使いは相変わらずなのだが、この曲では肥大化したロマン派末期や近代の管弦楽の機能を活かした音楽の世界になっており、なかなか派手で耳を楽しませるものがある。だから、親しみを感じるとともに、場面の転換の大胆で曲の雰囲気にバリエーションが豊かで多くを詰め込まれていることを愉しんで聴ける。ちょっと良いかもしれない。
交響曲第11番「ロマンティック」 Op.384 (1960)
3.0点
1楽章はいつもの感じ。2楽章の夜明け前の自然の森のような神秘性と美しさをもつロマンティックな音楽がなかなか気に入った。3楽章の舞台音楽的で不思議世界のお話のような音楽も面白い。
交響曲第12番「田舎風」 Op.390 (1961/1962年初演)
2.8点
最後の交響曲という先入観もあるが、気力がないように聴こえてしまう。なんだか躍動感と押しの強さがなく、ふわっとした音像の場面ばかりである。ミヨーらしい語法の扱いはなかなか楽しめる込み入ったものになっている。しかし、やはり気力不足で物足りない気分になる。
協奏曲
スカラムーシュ
3.8点
通俗的な名曲。1曲目は華やかで諧謔的でチャーミングで愉しい主要メロディー。2曲目はフランス的な美観を遺憾なく発揮した美しい詩情のある曲。3曲目は南国風の楽園的な雰囲気がとても愉しい。全体に、サックスの能力を発揮できているのかよく分からないが、とにかく愉しい。しかし、2台ピアノ版の方がもっと愉しいと思う。
エクスの謝肉祭
3.0点
カーニバル的な雑多な要素が集積して登場しては消えていく。ウキウキするような祭りの楽しさがある。南欧らしい明るい楽しさがここにもある。しかし、ピアノ協奏曲形式は本来なら華やかであるのだが、この曲の場合はオーケストラの多彩さとぶつかっていて、打ち消しあっているような気がする。だから、なぜか不思議と自分の心には刺さらなかった。演奏や録音のせいかもしれないが。
ピアノ協奏曲第1番 Op.127
ピアノ協奏曲第2番 Op.225
3.3点
コンパクトな中に明るい活気と叙情が詰め込まれてなかなかに魅力的。特に2楽章はラヴェルのような繊細な叙情がかなり心を強く捉えるものがある。心がキュンとなる。しかし、陳腐さは全くなく、かといって捻り過ぎでもない。最終楽章のお祭りも素敵だ。
ピアノ協奏曲第3番 Op.270
2.8点
2番より長いうえに曲の特徴が不明瞭であまり魅力を感じられないまま終わった。どの楽章も発想が鈍いと思う。
ピアノ協奏曲第4番 Op.295
ピアノ協奏曲第5番 Op.346
3.0点
2番に近い発想であるが、あれほど単純明快ではない。豪華な曲想の転換を愉しむことができる。2楽章も美しさとひねった展開の両方を楽しめて、旋律としては名作とは言えないが楽しめる度合いとしては悪くない。3楽章はまた祭の楽しさで、バレエ音楽にかなり近い。協奏曲の娯楽性を楽しめる。
室内楽曲
弦楽四重奏曲
弦楽四重奏曲第1番 Op.5(1912)
2.8点
明るい陽光の下のような世界であり気持ちいい。カルテット書きとしてのセンスは感じるが、書法はシンプルであり、声部を生かし切っている感じではない。そして全般に悪くはないのだが、いろいろな部分が少しずつ名作レベルに届いていないという微妙で中途半端な感じがもどかしい。
弦楽四重奏曲第2番 Op.16(1914〜15)
2.3点
四つの楽器の絡ませ方は割と上手いし、複調?のような響きは面白い。しかし、曲に締まりがなく、結局響きの面白さに頼ってウダウダやっているだけともいえる。ヴィラ=ロボスの弦楽四重奏曲の劣化版の印象。
弦楽四重奏曲第3番 Op.32(1916)
3.0点
遅いテンポで慟哭をあわすような楽想でありながら、それほど暗くなく独特の音響が作り出す不思議な浮遊感もあり、なかなか面白い曲。しかしながら10分を過ぎるとだんだん飽きてくる。14分でようやく終わる。その後に女声独唱付きの曲が始まるが、テンポも雰囲気もかなり似ていて、同じ曲が続いているかのようである。神秘的で不思議な雰囲気は悪くない。最後まで遅いテンポのまま消えるように終わる。
弦楽四重奏曲第4番 Op.46(1918)
2.5点
3番と同様にヴィラ=ロボスを連想する曲。11分の短い曲なのにどことなく冗長なのは力量不足かも。断片を繋げた曲という印象である。優れている箇所もある。艶めかしくて内面にブラジル的な情熱を内包している点はよい。明るさが足りなくて中途半端な浮遊感が続くが、最後の楽章は活発に楽しく締める。
弦楽四重奏曲第5番 Op.64(1920〜21)
2.8点
1楽章の執拗な対位法的な音の重層的積み重ねで現代音楽的な効果を上げる手法はなかなかのアイデア。少ししつこいが。2楽章も各声部が複調で自在に動くので1楽章との連続性がある。3楽章は緩徐楽章だが、音楽の作りは前を踏襲している。中間は悪くないショスタコーヴイチのような悲劇性も表現されていてなかなかである。4楽章も同趣向で悪くはないが飽きる。
弦楽四重奏曲第6番 Op.77(1922)
2.3点
9分の短い曲。前半2つの楽章は元気の無い微妙な音楽が続く。3楽章は活発で気分転換出来るが内容は微妙。凡作の印象。
弦楽四重奏曲第7番 Op.87(1925)
2.3点
11分。どの楽章もビミョーであり凡作の印象は拭えないが、微かに艶めかしさや開放感などの気分が感じられて、多少は楽しめる。
弦楽四重奏曲第8番 Op.121(1932)
1.5点
1楽章は意味不明に近い駄作。2楽章も思わせぶりなだけで内容がない駄作。3楽章もミヨーの弦楽四重奏の常道で早いテンポで活発に音が飛び回るような曲だが、この曲に関してはめちゃくちゃである。
弦楽四重奏曲第9番 Op.140(1935)
2.5点
変な音の使い方が、ちょっと面白くて「いいかも?!」と思った瞬間に登場し、それがたいして効果的でなく、でも全くダメでもない中途半端さ。文字通り変な音であるという効果だけの場合も多い。そしてまた新しい場面に突入して、魅力をみせて期待を高めては変な音になるを繰り返して聞き手を翻弄するという、典型的なミヨーの弦楽四重奏曲。駄曲の分類するべきかもしれないが、面白いので嫌いではない。
弦楽四重奏曲第10番 Op.218(1940)
2.3点
2楽章のピチカートの多用は新鮮。3楽章のジャカジャカジヤーンの不協和音と辛辣さがショスタコ風。4楽章の音の重ね方の激しさは悪くない。全体としてまとまりはないし、2楽章以外はあまり新鮮でない。
弦楽四重奏曲第11番 Op.232(1942)
2.5点
最後の楽章以外はまったりしなやかで、温かみのある音楽。変な音は控えめに使われており、聞き手の頭を一杯にする感じではない。田舎的なのどかで自然にあふれた世界を感じる。
弦楽四重奏曲第12番 Op.252(1945)
3.0点
ところどころに意図不明な複調などの捻りはあるものの、わりと正統派の意図が分かりやすくてよい曲に聞こえる。田園風景的な風光明媚さもある前半と、音が躍動する後半。音世界に入り込んで、コンパクトで室内楽らしさを楽しめる。
弦楽四重奏曲第13番 Op.268(1946)
2.8点
自由闊達に書かれていて、自由に動く音の楽しみと南国の要素のある明るさとエネルギッシュさがある。とはいえ、どの楽章も音楽の構成要素の作品化度合いは微妙であり、悪くないが微妙なものをくっつけて構成した曲であるため、よい曲とまではいえない。
弦楽八重奏曲 Op.291(1948〜49)(弦楽四重奏曲第14番、第15番を合わせて演奏する)
弦楽四重奏曲第14番 Op.291-1
弦楽四重奏曲第15番 Op.291-2
2.5点
合体させた弦楽8重奏しか聴いていないので面白さは理解出来ていないが、合体版を聞く限りはぜんぜん面白くない笑。違う曲を重ねただけあって、声部が多すぎて音がゴチャッと重なりすぎでぼんやりしている、ただそれだけと言っても過言でないシロモノである。弦楽四重奏の切れ味の良さはない。個別の14番と15番がどれくらい違う曲に聴こえるのだろうか。興味がある。
弦楽四重奏曲第16番 Op.303(1950)
2.5点
1楽章の弛緩した感じ。そのあとも冗長で意味の薄く支離滅裂感のあるフレーズを延々と続けるところに老いと衰えを感じてしまう。だから、聴いていてちょっと気持ちが沈んでしまった。コンパクトさが足りないから残念さが増えている。
弦楽四重奏曲第17番 Op.307(1950)
2.8点
1楽章はモヤモヤしたものをモヤモヤしたまま描いている。変な音の絡みが若干の痛々しさを感じるのはそのせい。2楽章は叙情的でこれは良いという美しい場面が所々にある。3楽章と4楽章は複調の活動的な曲で、いつも通りの微妙さだが内容はそれなりにある気がする。楽しんで聴けるところがある。
弦楽四重奏曲第18番 Op.308(1951)
3.0点
1楽章はショスタコーヴィチ風ミヨーと呼びたい孤独と悲哀の詠唱である。最後の曲に相応しいかもしれない。ミヨーにしては長大。2楽章は微妙だが、カオス感がいちおう楽しめる。3楽章はちょっと面白い。中庸な雰囲気が詩情を作っている。4楽章が再び詠唱的な曲であり、心が重力を与えられたかのようなずっしりとした重みがある。この楽章はこころに沁みるものがある。変な音の使い方は相変わらずだが、最後に相応しい佳作である。
ピアノ曲
スカラムーシュ Op.165b(2台ピアノ)
3.8点
協奏曲のところにも書いたが、2台ピアノ版は素晴らしい出来であり、サクソフォーン協奏曲よりも楽しいと思う。
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A8%E3%83%BC
ダリウス・ミヨー(Darius Milhaud [daʁjys mijo], 1892年9月4日 - 1974年6月22日)は、フランス人の作曲家。名はダリユス、ダリュスとも表記される。ピアニストや指揮者としても活躍し、自作の録音を残している。フランス6人組の一人。
南フランス、プロヴァンス地方のエクス=アン=プロヴァンスに生まれ、スイスのジュネーヴで没した[1]。第二次世界大戦期以降はアメリカでも活動した。
生まれつき小児麻痺を患っていたため、車椅子を使う機会が多かった。1920年代以降はリウマチにも悩んでいた。
作曲意欲は旺盛で、様々な楽器編成を試みたり、タンゴやジャズにも影響を受けたりした。また映画音楽にも筆を染め、創作活動は亡くなるまでその衰えを見せなかった。
生涯
i
1892年に、南フランスプロヴァンス地方のエクス=アン=プロヴァンスにおいて、アーモンド取引で財をなした富裕なユダヤ人の家庭に生まれる。父は商館をとりしきるかたわら地元の音楽協会の中心人物を務め、母はかつてパリで声楽を学んでいた[2]。このような環境の中、7歳で地元の音楽家レオ・ブルギエにヴァイオリンを学び、1904年からはブルギエの四重奏団で第2ヴァイオリン奏者となる[3]。この頃にクロード・ドビュッシーの弦楽四重奏曲を勉強し、1902年に初演されたばかりの『ペレアスとメリザンド』の楽譜を入手する。また同じ頃、地元の軍楽隊の音楽隊長から和声法を学びつつ作曲を始めるが、学んだ和声法は生かされず、独自の和声進行によるヴァイオリンソナタを書いた[4]。
1909年にパリ音楽院に入学。パリでは頻繁に演奏会に通い、モーリス・ラヴェルの『夜のガスパール』初演や、発足まもないバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)の公演などに刺激を受け、ドビュッシー、モデスト・ムソルグスキーに傾倒する。その一方でリヒャルト・ワーグナーの作品には嫌悪感を覚え、生涯「反ワーグナー」の姿勢をとることになる[5]。
本来はヴァイオリンを学ぶための入学であったが、次第に作曲を本格的に学ぶようになる。音楽院ではポール・デュカスに管弦楽、ザビエル・ルルーに和声を師事するが、ミヨーは和声の成績がすこぶる悪かった。ある日ミヨーがルルーに自作のヴァイオリンソナタを見せたところ、ルルーは「君は私のクラスで何をしているのかね? 君は既に自分の和声語法を持っているのに、さらに因習的な和声を習おうとしているのか。クラスを去りたまえ」と言った[6]。ルルーのクラスを去った後、アンドレ・ジェダルジュに対位法、シャルル=マリー・ヴィドルに作曲を師事。ジェダルジュのクラスでは、ジャック・イベール、アルチュール・オネゲルと同期であり、ヴィドルのクラスではジェルメーヌ・タイユフェール、ジョルジュ・オーリックと知り合う。
この頃、音楽を学ぶ一方でフランシス・ジャム、ポール・クローデルら文学者と親交を深め、彼らの作品をテキストとした歌劇や歌曲を作曲した。特に外交官でもあった詩人クローデルとの友情は生涯を通じて続いた。
ii
1914年に第一次世界大戦が始まると、健康上の理由で従軍は免れたが、戦争に関わる仕事を求めて「フランス・ベルギー親善協会」[7]に勤務する。同協会に務めていたミシア・ゴデブスキを通じて、ラヴェルの他、リカルド・ビニェス、エリック・サティ、レオン=ポール・ファルグなどが出入りしていたシーパ・ゴデブスキのサロンに顔を出すようになる。
1915年、バッハの小さな二重奏のカノンに異なる2つの調が同時に存在することを見出し、これをきっかけに複調性や多調性について根本的な研究にとりくむ[8]。この成果は「和声の変奏曲」の副題を持つ『コエフォール』となって現れた。以後、複調性、多調性に基づくポリフォニーはミヨーの作風において重要な要素の一つとなる。
同年、フランス・ベルギー親善協会をやめ「新聞の家」で働き、新聞会館で再会したクローデルに誘われて外交官秘書となる。その後、ブラジル大使となったクローデルに随行し、1917年から1918年末までブラジルで生活する。クローデルとミヨーは1917年2月、カーニヴァル只中のリオデジャネイロに到着し、ミヨーはブラジル民謡特有のシンコペーションのリズムに強く惹きつけられた。ブラジル音楽の影響は、滞在中に作曲された『男とその欲望』や、帰国後の『ブラジルへの郷愁』、『屋根の上の牛』に現れている。1918年末、連合国経済使節団のフランス代表となったクローデルに従ってアメリカまで同行し、そのままニューヨークを経由して1919年にフランスに帰国。途中立ち寄ったプエルト・リコではギロを購入。後の『屋根の上の牛』などで活用した。
ミヨーがブラジルに滞在していた間、パリではバレエ・リュスの『パラード』の初演(1917年5月)がスキャンダルを引き起こし、ミヨーと既知のオネゲル、タイユフェール、オーリックなど若手作曲家は、エリック・サティ、ジャン・コクトーを中心として結集しつつあった。ブラジルから帰国したミヨーもその一員となり、彼らは毎週土曜日にミヨーの自宅に集まって友情を育んでいった。彼らの作品には共通の作風は見られなかったが、歌手ジャーヌ・バトリが主宰するヴィユ・コロンビエ劇場や、モンパルナスの画家のアトリエを改造した「ユイガンス・ホール」(サル・ユイガンス)などで連続的に取り上げられ、1920年1月26日の『コメディア』紙におけるアンリ・コレの記事「ロシア5人組、フランス6人組、そしてエリック・サティ」をきっかけに、デュレ、オネゲル、ミヨー、タイユフェール、プーランク、オーリックは「フランス6人組」として知られるようになった。
1919年、ブラジルの思い出から『屋根の上の牛』を作曲するが、ジャン・コクトーによる前衛的な演出を加えて上演(1920年2月)されたため、ミヨーは聴衆や批評家から「滑稽な作品を書く作曲者」というレッテルを貼られた。同年10月24日、12種類の調性が同時に鳴る部分を含む『交響組曲第2番』(付随音楽『プロテー』に基づく)がガブリエル・ピエルネ指揮コンセール・コロンヌによって初演されるが、聴衆の猛反発を招き、混乱した会場に警察や市警備隊が介入、新聞に「コンセール・コロンヌのスキャンダル」として報じられる事態となった。しかし、ミヨーは「熱狂でなくても強い抗議は作品によって刺激されている証拠[9]」であるとして自信を深めた。
ミヨーの音楽は当時一世を風靡していたバレエ・リュスの主催者セルゲイ・ディアギレフには好まれず、『男とその欲望』もディアギレフの食指を動かすには至らなかった[10]。このため、このバレエはバレエ・スエドワ(スウェーデン・バレエ団)によって1921年6月6日に初演された。翌年、バレエ・スエドワは、デュレを除くフランス6人組の合作によるバレエ『エッフェル塔の花嫁花婿』を上演した。
iii
1920年に『屋根の上の牛』を指揮するためにロンドンに渡ったミヨーは、ここでビリー・アーノルド楽団が演奏する、「ダンス音楽」にとどまらない本格的なジャズに触れ、その魅力に目覚めた[11]。1922年に自作の曲の公演の為にアメリカ合衆国を訪問した際にはハーレムのジャズや黒人音楽を研究し、そのリズムや音色を活かした室内楽曲を作ろうと考えた。その成果が、アルト・サクソフォンを含む17人の奏者による『世界の創造』(1923年、バレエ・スエドワによって初演)であり、ジャズのイディオムを用いた作品としてはジョージ・ガーシュウィンの『ラプソディー・イン・ブルー』(1924年)よりも早いものであり、このジャンルの成功例となった[12]。
1922年には合衆国への演奏旅行に引き続き、第一次世界大戦で途絶えていたオーストリアの音楽家たちとの交流を目的として、プーランクとともにウィーンのアルマ・マーラー宅を訪問。ここでアルノルト・シェーンベルク、アントン・ウェーベルン、アルバン・ベルクらと会う。アルマ・マーラー夫人の提案によりシェーンベルクとミヨーがそれぞれ『月に憑かれたピエロ』を指揮し、2通りの演奏の聴き比べが行われた[13]。
1920年代後半から1930年代にはリウマチの進行に苦しみながらも創作が続けられた。この時期には劇音楽に加えて映画音楽も担当[14]、また、イダ・ジャンケレヴィッチとマルセル・メイエールのために作曲した『スカラムーシュ』(1937年)は人気作品となり、その楽譜は異例の売れ行きを示した[15]。
iv
1940年、ユダヤ人であったミヨーは、前年に始まった第二次世界大戦を避けるためにアメリカ合衆国に逃れる。合衆国では、カリフォルニア州のミルス・カレッジで作曲を教えつつ[16]、サンフランシスコ交響楽団、シカゴ交響楽団、ニューヨーク・フィルハーモニック、ボストン交響楽団などで客演指揮を行った。この中には、シカゴ交響楽団創立50周年のための委嘱作品『交響曲第1番』(1940年)や、クーセヴィツキー夫人ナタリーを追悼するためクーセヴィツキー財団による委嘱作品『交響曲第2番』(1944年)の初演が含まれる。また、楽譜出版社からの依頼により、吹奏楽のための『フランス組曲』(1945年)が作曲された。1945年には歌劇『ボリヴァール』(シュペルヴィエル台本)を作曲。これまでに作曲していた歌劇『クリストフ・コロンブ』(1928年、クローデル台本)、歌劇『マクシミリアン』(1930年、ヴェルフェル他)と合わせ、「中南米三部作」と呼ばれる。
戦後、フランスに戻り、アンリ・ビュッセルの後任としてパリ音楽院の作曲家教授に任命されるが、ミルス・カレッジには1971年まで在職し、1年おきにフランスとアメリカを頻繁に行き来する生活を送った。
戦後の作品には、同時に演奏すると弦楽8重奏になる「弦楽四重奏曲第14番」と「第15番」(1948年-49年、ブダペスト弦楽四重奏団は同時録音を使って8重奏を初演した)、ミュージック・コンクレートによる『詩的練習曲』(1954年)、合唱、管弦楽に雑音を用いたカンタータ『紙とステロ板との結婚』(1956年)、奏者の自由な演奏による偶然性を狙った朗読と7つの楽器のための『4行詩の組曲』(1962年)などの新たな試みが見られる。
1956年、長年の友人であったオネゲルの死にショックを受け、追悼のために「弦楽五重奏曲第4番」(1.「死を悼む」2.「若き日の思い出」3.「長い友情の甘さ」4.「称賛の歌」)を作曲。また、オネゲルが務めていたフランス・ディスク・アカデミーの会長の後任となる[17]。
1971年にミルス・カレッジを辞し(後任はルチアーノ・ベリオ)、あらたな創作の場としてジュネーブに暮らす。80歳を超えても創作意欲は衰えなかったが、1974年6月22日、ジュネーヴで没する。81歳。前年に作曲された木管五重奏曲が最後の作品となり、その作品番号は443であった。故郷エクス=アン=プロヴァンスのサンピエール墓地に埋葬されている。
作品
弦楽四重奏曲18曲[18]、交響曲13曲、室内交響曲6曲、ピアノ協奏曲5曲、ヴァイオリン協奏曲3曲、その他膨大な作品がある。
吹奏楽の分野では「フランス組曲」が有名である。学生吹奏楽団での演奏を想定して書かれており、親しみやすく技術的な難易度も高くはない。
舞台作品
歌劇
迷える羊 Op.4(1910〜15/1923年初演)(3幕)
オルフェの不幸 Op.85(1925/1926年5月7日初演)(3幕)
カルパントラのエステル Op.89(1925)(2幕)
哀れな水夫(英語版)(1926)
短編オペラ エウロペの略奪 Op.94(1927)
短編オペラ 見捨てられたアリアーヌ(英語版) Op.98(1927)
短編オペラ 解放されたテセウス Op.99(1927)
クリストフ・コロンブ(英語版) Op.102(1928/1930年初演)(2部27景)
マクシミリアン Op.110(1930/同年初演)(3幕9景)
メデ Op.191(1938/1939年初演)(1幕)
ボリヴァール(フランス語版) Op.236(1943/1950年初演)(3幕)
ダヴィデ(フランス語版) Op.320(1954/同年演奏会形式で初演/1955年舞台初演)(5幕8場)
饗宴 Op.370(1958/同年初演)(1幕)
罪ある母(英語版) Op.412(1964/1966年初演)(3幕)
フランスの王、聖ルイ Op.434(1970〜71/1971年初演)(2部)
バレエ音楽
男とその欲望 Op.48
屋根の上の牡牛 Op.58
エッフェル塔の花嫁花婿 Op.70(合作)
世界の創造 Op.81
サラダ Op.83
青列車 Op.84
ジャンヌの扇 Op.95(合作、ポルカのみ作曲)
最愛の女 Op.101
夢 Op.124
花咲ける中世 Op.152
アメリカ作品2 Op.219
春の戯れ Op.243
鐘 Op.259
鏡の中のアダム Op.283
レモンの摘み取り Op.298b
葡萄の収穫 Op.317
風の薔薇 Op.367
鳥たちの枝 Op.374
劇付随音楽
アガメムノン Op.14(アイスキュロスのオレスティア第1部)
プロテー Op.17
コエフォール Op.24(アイスキュロスのオレスティア第2部)
ユメニード Op.41(アイスキュロスのオレスティア第3部,全編歌われる実質的な歌劇)
マリアへのお告げ Op.117
教皇の館 Op.120
Se plaire sur la Meme Fleur Op.131
創造の循環 Op.139
ほら吹き Op.145
ボリヴァール Op.148
天の狂女 Op.149
Tu ne m'echapperas jamais Op.151
ベルトラン・ト・ボルン Op.152
セビーリャのいかさま師 Op.152e
7月14日(合作)(1936)
征服者 Op.154
アマル、または王の手紙 Op.156
荷物を持たない旅行者 Op.157a
ジュリアス・シーザー Op.158
ダルマフィ侯爵夫人 Op.160
ロメオとジュリエット Op.161a
自由 Op.163(合作、序曲と序奏のみ)
空飛ぶお医者さん Op.165a
Naissance d'une Cite Op.173(合作、2曲のみ)
マクベス Op.175
エキュブ Op.177
プルートゥス Op.186
三色旗 Op.190
泥棒たちの舞踏会 Op.192
最初の家庭 Op.193
ハムレット Op.200
つまらなぬ小天使 Op.215
マリアへのお告げ Op.231
リドアール Op.264
ベルナルダ・アルバの家 Op.280(1947)(フェデリコ・ガルシーア・ロルカの劇のため)
シェエラザード Op.285
ロバンとマリオンの戯れ Op.288
冬の物語 Op.306
クリストファ・コロンブ Op.318
サウル Op.334a(1954)
ジュアニート Op.349
Mere Courage Op.379
ジュディット Op.392
カルパントラスのイェルサレム Op.419
トビーとサラの物語 Op.426
映画音楽
人でなしの女(1924)(楽譜は消失)
アクチュアリテ(ニュース映画) Op.104
リリーちゃん Op.107
ハロー・エヴリボディ Op.126
ボヴァリー夫人 Op.128
海馬 Op.137
タラスコンのタルタラン Op.138
幼時の声 Op.146
愛すべき放蕩者 Op.150
モルナール Op.174
沈黙の城砦 Op.176
大火 Op.182
天の征服 Op.184
皇帝の悲劇 Op.187
人質 Op.196
アイスランド Op.198
希望 Op.202
愛の騎馬旅行 Op.204
メキシコ湾流 Op.208
The private-affairs of Bel Ami Op.272
Man Ray Swquence of dreames that money can buy Op.273
ゴーギャン Op.299
人生は明日始まる Op.304
彼らはみんな志願兵 Op.336
いなかった女 Op.364
ビルマ・ロード Op.375
テレビ音楽
ペロンとエヴィータ Op.372(1958)
ポール・クローデル Op.427(1968)
その他の舞台作品
シャブリエのオペレッタ「受けそこなった教育」のためのレチタティーヴォ Op.82
音楽祭 Op.159
薮から棒 Op.118
ちょっと音楽を Op.119
少し練習を Op.133
序曲、マーチ、勝利の祭り Op.254
L'ours et la lune (1918)
「乞食オペラ」への歌 Op.171
プロメテ Op.341
アガメムノン(1938)
夢の国への旅 Op.203
聖書 Op.282
世界の終わり Op.297
7日目の休息 Op.301
サマエル Op.321
Le Dibbouk Op.328
詩的エテュード Op.333
交響曲
交響曲第1番 Op.210 (1939/1940年初演)
交響曲第2番 Op.247 (1944/1946年初演)
交響曲第3番「テ・デウム」 Op.271 (1946/1947年初演)(合唱付き)
交響曲第4番 Op.281 (1947/1948年初演)
交響曲第5番 Op.322 (1953/1955年初演)
交響曲第6番 Op.343 (1953/1955年初演)
交響曲第7番 Op.344 (1955/1956年初演)
交響曲第8番「ローヌ河」 Op.362 (1957)
交響曲第9番 Op.380 (1959/1960年初演)
交響曲第10番 Op.382 (1960/1961年初演)
交響曲第11番「ロマンティック」 Op.384 (1960)
交響曲第12番「田舎風」 Op.390 (1961/1962年初演)
クローデル的宇宙のための交響曲 Op.427 (1968)
室内交響曲
室内交響曲第1番「春」 Op.43(1917)
室内交響曲第2番「パストラール」 Op.49(1918)
室内交響曲第3番「セレナード」 Op.71(1921)
室内交響曲第4番 Op.74(1921)
室内交響曲第5番 Op.75(1922)
室内交響曲第6番 Op.79(1923/1926年出版)
管弦楽曲、吹奏楽曲
交響組曲第1番 Op.12
交響組曲第2番 Op.57
ブラジルの郷愁 Op.67b(全13曲)
プロヴァンス組曲 Op.152b
鳥 Op.181
フランス組曲 Op.248(吹奏楽/管弦楽に編曲)
組曲「パリ」 Op.284b
シンフォニエッタ(小交響曲) Op.363
劇場の音楽 Op.334b(劇音楽「サウル」より編曲)(吹奏楽)
協奏曲
ピアノ協奏曲
ピアノ協奏曲第1番 Op.127
ピアノ協奏曲第2番 Op.225
ピアノ協奏曲第3番 Op.270
ピアノ協奏曲第4番 Op.295
ピアノ協奏曲第5番 Op.346
カマグルの雅歌による詩曲 Op.13
バラード Op.61
5つの練習曲 Op.63
エクスの謝肉祭 Op.83b
田園の幻想曲 Op.188
協奏的組曲 Op.278a
2台のピアノのための協奏曲 Op.228
2台のピアノと管弦楽のための組曲 Op.300
ヴァイオリン協奏曲
ヴァイオリン協奏曲第1番 Op.93
ヴァイオリン協奏曲第2番 Op.263
ヴァイオリン協奏曲第3番「国王のコンセール」 Op.373
シネマ・ファンタジー Op.58b
春のコンチェルティーノ Op.135
3部の組曲 Op.234b
ヴィオラ協奏曲
ヴィオラ協奏曲第1番 Op.108
ヴィオラ協奏曲第2番 Op.340
ソナタのアリア Op.242
夏のコンチェルティーノ Op.311
チェロ協奏曲
チェロ協奏曲第1番 Op.136
チェロ協奏曲第2番 Op.225
ピエモンテ地方の民謡による北イタリア組曲 Op.332
その他の協奏曲
打楽器と小管弦楽のための協奏曲 Op.109
フルート、ヴァイオリンと管弦楽のための協奏曲 Op.197
クラリネット協奏曲 Op.230
マリンバ、ヴァイブラフォーンと管弦楽のための協奏曲 Op.278
ハープ協奏曲 Op.323
オーボエ協奏曲 Op.365
協奏交響曲 Op.376
クラヴサン協奏曲 Op.407
秋のコンチェルティーノ Op.309
ボストン市のための音楽 Op.414
スカラムーシュ Op.165c(サックスと管弦楽)
スカラムーシュ Op.165d(クラリネットと管弦楽)
イギリス組曲 Op.234
冬のコンチェルティーノ Op.327(トロンボーンと管弦楽)
スタンフォード・セレナード Op.430
室内楽曲
弦楽四重奏曲
弦楽四重奏曲第1番 Op.5(1912)
弦楽四重奏曲第2番 Op.16(1914〜15)
弦楽四重奏曲第3番 Op.32(1916)
弦楽四重奏曲第4番 Op.46(1918)
弦楽四重奏曲第5番 Op.64(1920〜21)
弦楽四重奏曲第6番 Op.77(1922)
弦楽四重奏曲第7番 Op.87(1925)
弦楽四重奏曲第8番 Op.121(1932)
弦楽四重奏曲第9番 Op.140(1935)
弦楽四重奏曲第10番 Op.218(1940)
弦楽四重奏曲第11番 Op.232(1942)
弦楽四重奏曲第12番 Op.252(1945)
弦楽四重奏曲第13番 Op.268(1946)
弦楽八重奏曲 Op.291(1948〜49)(弦楽四重奏曲第14番、第15番を合わせて演奏する)
弦楽四重奏曲第14番 Op.291-1
弦楽四重奏曲第15番 Op.291-2
弦楽四重奏曲第16番 Op.303(1950)
弦楽四重奏曲第17番 Op.307(1950)
弦楽四重奏曲第18番 Op.308(1951)
シバの女王 Op.207
イーゴル・ストラヴィンスキーの追悼 Op.435
エテュード Op.442
その他の室内楽曲
ヴァイオリン・ソナタ第1番 Op.3
ヴァイオリン・ソナタ第2番 Op.40
ヤコブの夢 Op.294(オーボエ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス)
フルート、オーボエ、クラリネットとピアノのためのソナタ Op.47
ピアノ、ヴァイオリンとクラリネットのための組曲 Op.157b
組曲「ルネ王の暖炉」 Op.205(木管五重奏)
フルートとピアノのためのソナチネ Op.76
クラリネットとピアノのためのソナチネ Op.100
春 Op.18(ヴァイオリン)
エレジー Op.251(ヴィオラ)
四つの顔 Op.238(ヴィオラ)
即興曲 Op.91
セコビアーナ Op.366(ギター)
2つのヴァイオリンとピアノの為のソナタ
ピアノ曲
ピアノ・ソナタ第1番 Op.33
ピアノ・ソナタ第2番 Op.293
組曲「春」第1集 Op.25
組曲「春」第2集 Op.66
瞑想 Op.277
世界観光旅行者 Op.358
人生の喜び − ワトーを讃えて Op.360
スカラムーシュ Op.165b(2台ピアノ)
やわらかいキャラメル Op.68
オルガン曲
オルガン・ソナタ Op.112(1931)
パストラール Op.229(1941)
9つのプレリュード Op.231b(1942)
小組曲 Op.348(1955)(全3曲)
声楽を伴う管弦楽曲、合唱曲
カンタータ
放蕩息子の帰宅 Op.42(1917)
主をたたえるカンタータ Op.103(1928)
パンとシリンクス Op.130(1934)
人間博物館の落成式のためのカンタータ Op.164(1937)
平和のカンタータ Op.166(1937)
結婚カンタータ Op.168(1937/同年初演)
子供と母のカンタータ Op.185(1938)
四元素 Op.189b(1938)
栄光の冠 Op.211(1940)
戦争カンタータ Op.213(1940)
格言カンタータ Op.310(1951)
焔の城 Op.338(1954)
紙とステロ板との結婚 Op.357(1956)
慈悲の十字架のカンタータ Op.381(作曲年不明)
チョーサーのテキストによるカンタータ Op.386(1960)
成人式のカンタータ Op.388(1960)
天使ラファエルへの祈願 Op.395(1962)
ソネット組曲 Op.401(1963)
カロルス Op.402(1963)
アディユ Op.410(1964)
ヨブ記からのカンタータ Op.413(1965)
コメニウス讃 Op.421(1966)
詩篇カンタータ Op.425(1967)
アニ・マーミン、見つけられた歌 Op.441(作曲年不明)
その他
ガードナーの2つの詩 Op.35(1916〜17)
農機具 Op.56(1919)
アダージョ Op.120b(1932)
呪文 Op.201(1939)
航海 Op.393(1961)
地には平和 Op.404(1963/1963年初演)
アダム Op.411(1964)
歌曲
「フランシス・ジャムの詩」第1集 Op.1(1910〜12)
「フランシス・ジャムの詩」第2集 Op.1(1910〜12)
「フランシス・ジャムの詩」第3集 Op.6(1912)
レオ・ラティルの3つの詩 Op.2(1910〜16)
東方の認識からの7つの詩 Op.7(1912〜13)
「ロマン派詩人の3つの詩」第1集 Op.11(1913〜14)
アリッサ Op.9(1913/1931改訂)
「ロマン派詩人の3つの詩」第2集 Op.19(1914)
城 Op.21(1914)
ユージェニー・ド・ゲランの未刊のノートより Op.27(1915)
逍遥歌 Op.44(1917)
体温表 Op.65(1920〜21)
即興劇 Op.90(1926)
発声練習 Op.105(1928)
4行詩 Op.106(1928)
4行詩 Op.143(1935)
四元素 Op.189(1938)
猫 Op.356(1956)
愛は歌う Op.409(1964)
著書
ダリウス・ミヨー、クロード・ロスタン『音楽家の自画像』別宮貞雄訳、東京創元社、1957年
『ダリウス・ミヨー――幸福だった私の一生』別宮貞雄訳、音楽之友社、1993年
原語版 «Ma Vie heureuse» Darius Milhaud, Édition Zurfluh, 1998. ISBN 2-87750-083-7 (originalement: Édition Pierre Belfond, 1987)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%A8%E3%83%BC
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/783.html
ダリウス・ミヨー スカラムーシュ Op.165b(2台ピアノ)
Milhaud. Scaramouche - Martha Argerich & Evgeny Kissin
I. Vif
II. Moderé 2:27
III. Brasileira 6:13
Live 2001, July 26. Salle Médran, Verbier.
Martha Argerich & Evgeny Kissin.
Martha Argerich & Cristina Marton playing Milhaud Scaramouche at Tonhalle Zürich
Piano Duo Martha Argerich & Cristina Marton playing Milhaud Scaramouche at Tonhalle Zürich 23rd December 2014
Scaramouche, Op. 165b
Artist: Martha Argerich
Artist: Gabriele Baldocci
Released on: 2013-07-30
Martha Argerich and Akiko Ebi - Milhaud - Scaramouche Suite
Martha Argerich and Akiko Ebi, pianos
October 23rd, 2008
Lyon - France
Live
モーリス・ラヴェル(Maurice Ravel 1875 - 1937)
精密で色彩感豊かな管弦楽法、機械的な精密さ、繊細で感傷的な感情、スペインの民族的な情熱、ジャズなど新しい音楽の要素など、多くの面を持った作曲家。
管弦楽作品
スペイン狂詩曲(Rapsodie espagnole,1907年)
3.5点
F-E-D-Cisの音形が印象的。それが効果的に扱われている夜の前奏曲が特に不思議さや色彩感が強くて印象に残る曲になっている。循環的に音形が現れるのが楽しい。数少ない管弦楽用のオリジナル曲として楽しめる曲。
マ・メール・ロワ(組曲:ピアノ曲からの編曲、1912年)
3.5点
詩情あふれる小品集。どの曲も短くてラヴェルにしては簡潔で聴きやすく、楽しめる。
『シェエラザード』序曲(Ouverture 'Shéhérazade')
バレエ音楽
ボレロ(Boléro, 1928年)
5.0点
有名曲。同じメロディーを楽器を変えながら繰り返しているだけである。しかし、メロディーが非常に秀逸であるとともに、ほんの少しずつ盛り上げていくオーケストレーションの巧みさのため、飽きないどころか次の展開をドキドキワクワクしながら聴ける。
ダフニスとクロエ(Daphnis et Chloé, 1909年-1912年)
4.0点
管弦楽曲として最大の大作であり、音楽的には初期より磨きがかかっている。不思議な効果をかもし出す合唱が入るなどスケールも大きい。
ラ・ヴァルス(La Valse, Poème choréographique, 1919年-1920年)
4.0点
艶かしく情熱的で、かつ技巧的である。高雅さもあり間違いなくワルツではあるが、いろいろな要素が混ざっている複雑な大作で、聴いていて不思議な感覚を覚える。ラヴェル独特の高みに達している。
協奏曲
ピアノ協奏曲ト長調
5.0点
色彩感豊かで活き活きとしていて、ガラスの玉のような繊細な美しさも楽しめるなど、ラヴェルの良さが詰まった逸品。ムチの一発で始まるのは楽しいアイデア。玉手箱のように新しいアイデアが出てきてワクワクする。自由ながらも1楽章、2楽章、3楽章の使い分けは古典的であるところが聴きやすい。
左手のためのピアノ協奏曲
5.0点
東洋的な奥ゆかしさと美メロが印象的な前半と後半も、ラグタイム風の心が踊るような愉しい中間部分も、どちらも好きだ。片手で弾いているとは思えないピアノ書法はすごいし、まさに魔術師のような色彩的なオーケストレシーションの魅力も最高である。両手の協奏曲とは作りも雰囲気も全く違うのだが、甲乙付け難い名曲になっているのがすごい。
室内楽曲
弦楽四重奏曲ヘ長調
3.5点
表題のない純音楽ではラヴェルの中で大作。カルテットの扱いがなかなか優秀で、色彩感もあり刺激的で、バランスが良く、カルテットに適合した音楽になっている。精巧。ただしキャッチーではない。
序奏とアレグロ(Introduction et allegro)
3.0点
優雅な音楽向けの編成と実際に優雅な音楽。ハープが大活躍。印象派らしい聴きやすさがある。
ピアノ三重奏曲イ短調
3.5点
ラヴェルの大作。様々な要素を取り入れてまとめられてはおり、内容が豊富。他の室内楽と同様に渋くて愛嬌が少ないのだが充実の傑作と言える。3つの楽器の使い方やバランスもよく考えられていて、ピアノ三重奏にありがちなバランスの悪さは少なく、豊かな音楽になっている。
フォーレの名による子守歌(Berceuse sur le nom de Gabriel Fauré)
演奏会用狂詩曲『ツィガーヌ』(Tzigane)
3.0点
ラヴェル主要作品で内容は最下位かもしれない。それでも情熱的で刺激的な内容は十分に聴く価値がある。
ヴァイオリンとピアノ・リュテアル(またはピアノ)のための作品。
ヴァイオリン・ソナタ
4.0点
一楽章は濃厚な印象派的音楽。二楽章はジャズやブルースの影響が大きい。三楽章は無窮動で情熱的な汗と印象派的な音使いを両立した曲。作曲に四年もかけただけあって、どの楽章も密度が濃い傑作。
ヴァイオリンとチェロのためのソナタ
3.5点
他の室内楽と違い、かなり奇妙な音楽で意図的にとっつきにくくしている感じ。しかし、たった二声が絡み合って作られた世界は他の室内楽同様に非常に濃厚で、慣れると聴くのが快感になってくる。どの楽章も内容豊富で磨き作り込まれており素晴らしい。
編曲
展覧会の絵(Tableaux d'une exposition; ムソルグスキーのピアノ曲を管弦楽編曲)
3.5点
グロテスクで野蛮で力強いムソグルスキーのピアノの原曲と、色彩感豊かなラヴェルの編曲版は少し雰囲気が違う。普通の人は音色を楽しめるラヴェル版がいいだろうが、個人的にはオリジナルの原曲の方が好きだ。
ピアノ作品
グロテスクなセレナード(Sérénade grotesque, 1893年頃)
3.0点
刺激的なフレーズを交えて、グロテスクな伴奏や音の動きを組み合わせて音楽を組み立てているところは、後年のスカルボを彷彿とさせるところがある。単品としてはたいした曲でないと思うが、初期にこのような曲を書いていたことが興味深い。
耳で聞く風景(Les sites auriculaires)
ハバネラ(Habanera)
3.0点
盛りあがって爆発するかと思ってもしないのを何度か繰り返す、聴いていてもどかしい曲。ハバネラらしさは楽しいのだが、やはり完成作品としては欲求不満が溜まる。
口絵(Frontispice)
古風なメヌエット(Menuet antique, 1895年)
4.0点
初期の曲だが、主題も中間部も素晴らしい内容。和声の進行など全然古風ではない。
亡き王女のためのパヴァーヌ(Pavane pour une infante défunte, 1899年)
4.0点
いとおしさと美しさを併せ持ったメロディーが秀逸な曲。美化された世界。全体の構成はラヴェルにしては秀逸な方と思わないが。
水の戯れ(Jeux D’Eau, 1901年)
3.5点
他の水を表した曲と比較して、この曲は抽象的な水という物質そのものの運動を音楽化した曲。描写音楽として素晴らしい出来であり美学的感性は刺激されるが、人間の心は登場しない。
ソナチネ(Sonatine, 1903年〜1905年)
5.0点
ラヴェルの魅力、ソナチネの魅力にあふれた佳品。精密機械のような細かい部分までゼンマイがぴったり噛み合っているような精巧さがある。そして、愛らしく幻想的で美しくせつないというラヴェルのメロディーメーカーの才能も発揮されている。構成的には古典的な3つの楽章であり、理想的に手際よく短くコンパクトにまとめられている中に、ラヴェルの魅力を多くを盛り込んでいる。密度が濃くて形式的に整っていながらも聞きやすく親しみやすい名曲。
鏡(組曲)(Miroirs, 1904年〜1905年)
全体に複雑で印象派の色彩が濃い。
蛾(Noctuelles)
3.0点
音の積み重ねで蝶のひらひらとした羽ばたきや可憐さを演出。
悲しい鳥(Oiseaux tristes)
3.0点
悲しげな感じがアンニュイ。
海原の小舟(Une barque sur l'ocean)
3.5点
波の感じや小舟の揺れる感じがよく描写されている
道化師の朝の歌(Alborada del gracioso)
3.5点
この曲に関してはタイトルに縛られず、ラヴェルらしい情熱や活発さ、また若干の諧謔性、それと印象派的な音楽の融合に成功した作品と捉えるべき。
鐘の谷(La vallée des cloches)
3.5点
夢幻的な世界でドビュッシーみたいな曲。美しい。
夜のガスパール(Gaspard de la Nuit,1908年)
オンディーヌ(Ondine)
3.5点
絞首台(Le Gibet)
3.5点
スカルボ(Scarbo)
4.0点
超絶的に難しいので有名な曲。長くて音が多く、グロテスクで全体に靄がかかったようにはっきりしない場面が多く地味なので慣れるのが大変。理解できると驚異的な内容の豊かさに感激する。
マ・メール・ロワ(組曲)(Ma Mère l'Oye,1908年〜1910年)
【眠りの森の美女のパヴァーヌ、親指小僧、パゴダの女王レドロネット、美女と野獣の対話、妖精の園】
4点
ラヴェルらしい歌心あふれるいい曲。
ハイドンの名によるメヌエット(Menuet sur le nom d'HAYDN, 1909年)
3.5点
上品で端正な美しさがある曲
高雅で感傷的なワルツ(Valses nobles et sentimentales, 1911年)
3点
短いワルツの曲集。印象派の音楽の良さを活用して、上品でし聴き映えのする曲に仕上げている。
ボロディン風に(A la manière de Borodine, 1913年)
3.5点
詩的で柔らかく美しい小品
シャブリエ風に(A la manière de Emannuel Chabrier, 1913年)
3.0点
大人しい短い曲
前奏曲 イ短調(Prélude, 1913年)
3.0点
断片的な曲
クープランの墓(Le Tombeau de Couperin, 1914年〜1917年)
【前奏曲(Prélude)、フーガ(Fugue)、フォルラーヌ(Forlane)、リゴドン(Rigaudon)、メヌエット(menuet)、トッカータ(toccata)】
3.5点
乾いた音で構成されたピアノ曲という印象。どの曲も同レベルであり、曲集として統一感がある。
パレード(Le parade, 1896年)
メヌエット嬰ハ短調(Menuet en ut dièse, 1904年)
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AB
ジョゼフ・モーリス(モリス)・ラヴェル(Joseph Maurice Ravel フランス語: [ʒɔzɛf mɔʁis ʁavɛl] 発音例, 1875年3月7日 - 1937年12月28日)は、フランスの作曲家。バスク系フランス人であり、『スペイン狂詩曲』やバレエ音楽『ダフニスとクロエ』『ボレロ』の作曲、『展覧会の絵』のオーケストレーションで知られる。
生涯
1875年3月にフランス南西部、スペインにほど近いバスク地方のシブールで生まれる[1]。生家は、オランダの建築家により17世紀に建てられたもので、アムステルダムの運河に面する建物さながらの完全なオランダ様式を呈しており、現存している(写真)。母マリー(1840〜1917)はバスク人、父ジョゼフ(1832〜1908)はスイス出身の発明家兼実業家だった。同年6月に家族がパリへ移住したあと、弟エドゥアール(1878〜1960)が生まれた。ラヴェル自身が生後3カ月しか滞在しておらず、後の25年間戻ることがなかったことから、バスク地方の表現への直接的な影響については議論があった。だが、作家アービー・オレンシュタインによって書かれた伝記によれば、母親に非常に親しみを感じ、その存在を通じてバスクの文化的な遺産を学び、最初の思い出は母親が彼に歌ったバスク民謡だったという(成人後になると、定期的にサン=ジャン=ド=リュズに戻り、休日を過ごしたり仕事をしたりした)。
出生地の対岸で写真におさまるラヴェル。
父親が音楽好きで幼少のころからピアノや作曲を学び、ラヴェルが音楽の道へ進むことを激励した。
幼い頃からわたしはあらゆる種類の音楽に敏感でした。わたしの父はおおくのファンよりもはるかに音楽に精通しており、わたしの趣味をどう発達させ、手ばやく情熱を刺激するかを知っていました (ラヴェル、Esquisse autobiographique、1928)
やがて両親はパリ音楽院へ送り出した。音楽院に在籍した14年のあいだ、ガブリエル・フォーレやエミール・ペサールらのもとで学んだラヴェルは、当時のパリの国際的で実験的な空気を背景に、若く革新的な芸術家と行動を共にし、強い影響と薫陶を受ける[2]。
1898年3月5日の国民音楽協会第266回演奏会から公式デビューを果たしたラヴェルは[3]あくる20世紀にさきんじて作曲家として認められ、その作品は議論の対象となった。いっぽうで作曲の大胆さと自身が「解放者」と目すシャブリエとサティへの賞賛は、伝統主義が支配的なサークル内でおおくの反目を買った。
1901年、ラヴェルの個性が確立された「水の戯れ(Jeux d’eau)」が書かれ、曲は当時の音楽的流行から自立したものとなった。表現的慎ましさ、謙虚さ、エキゾチックでファンタジックな好み、形式的な完璧さに対するほとんど強迫観念とも言える探求により1901年から1908年のあいだにおおくの作品がうみだされた。 ソナチネ(Sonatine、1903年)、序奏とアレグロ(Introducción et allegro(1906))、スペイン狂詩曲(Rapsodie espagnole、1907年)、マ・メール・ロワ(組曲)(Ma Mère l'Oye、1908年)、夜のガスパール(Gaspard de la Nuit、1908年)は、アロイジウス・ベルトランの詩に触発されて書かれた。
前衛作曲家エリック・サティ。ラヴェルは伝統主義に抗って、サティを称賛、擁護した。
1900年から5回にわたって、有名なローマ大賞を勝ち取ろうと試みる。1901年、2回目の挑戦ではカンタータ『ミルラ』で3位に入賞したものの、大賞は獲得できなかった[4]。1902年、1903年は本選において入賞を逃し[5]、1904年はエントリーを見送った。翌1905年は、年齢制限によりラヴェルにとって最後の挑戦となったが、大賞どころか予選段階で落選してしまった。すでに『亡き王女のためのパヴァーヌ』『水の戯れ』などの作品を発表していたラヴェルが予選落ちしたことは大スキャンダルとなり、この「ラヴェル事件」により、パリ音楽院院長のテオドール・デュボワは辞職に追い込まれ、後任院長となったフォーレがパリ音楽院のカリキュラム改革に乗り出す結果となった[6]。
1907年、歌曲集『博物誌』の初演後、エドゥアール・ラロの息子ピエール・ラロはこの作品をドビュッシーの盗作として非難し、論争が起こった。しかし、『スペイン狂詩曲』が高い評価で受け入れられると批判はおさまった。そしてラヴェルは、バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)の主宰者セルゲイ・ディアギレフからの委嘱により『ダフニスとクロエ』を作曲した。
1909年4月、ロンドンで初めての海外ツアーに参加し、自身が海峡のむこうで高く評価されていることを知る。1910年、保守的な「国民音楽協会」と決別、シャルル・ケックランらと現代的な音楽を促進、新しい音楽の創造を目指す団体「独立音楽協会」を旗揚げし、創立者のひとりとして名を連ねた。1911年、詩人フラン=ノアンによって台本の書かれたオペラ「L'Heure espagnole(スペインの時)」の初演が催されたが、大衆、とりわけ批評家から「ポルノ」呼ばわりされ、不評裡に終わった。当時は台本のユーモアも、ラヴェルの大胆なオーケストラもほとんど理解されなかった。
第一次世界大戦。トラック輸送兵として参戦したラヴェルは終戦後、以前のような旺盛な創作欲を発揮することはなくなってしまう。
第一次世界大戦勃発後、パイロットとして志願したが、体重が規定に「2キロ」満たなかったことからその希望は叶わなかった。1915年3月にトラック輸送兵として兵籍登録された[7]。ラヴェルの任務は砲弾の下をかいくぐって資材を輸送するような危険なものであり[8]、当時の前線ヴェルダン 付近まで到達した。道中、腹膜炎となり手術を受けた。結局、終生戦争の傷から回復することはなかった。
大戦中の1917年1月15日、最愛の母親が76歳でこの世を去る。生涯最大の悲しみに直面したラヴェルの創作意欲は極度に衰え、1914年にある程度作曲されていた組曲『クープランの墓』[9]を完成(1917年11月)させた以外は、3年間にわたって実質的な新曲を生み出せず、1920年の『ラ・ヴァルス』以降も創作ペースは極端に落ちてしまった[10]。母の死から3年経とうとした1919年末にラヴェルがイダ・ゴデブスカに宛てた手紙には、「日ごとに絶望が深くなっていく」と、痛切な心情が綴られている[11]。
こうしてラヴェルの「偉大な時代」は終わりを告げる。かわって、慎重に計算された愛情と優雅さの背後に隠された、自発的に冷たく控えめな男―「ダンディな男ラヴェル」のイメージが一般に広まるようになった。
1920年1月、レジオンドヌール勲章叙勲者にノミネートされたが、これを拒否したために物議を醸し、結果的に4月に公教育大臣と大統領によってラヴェルへの叙勲は撤回された。
1920年代のフランスでは、エリック・サティを祖とするより前衛的な「フランス6人組」の登場や、複調・無調・アメリカのジャズなど新しい音楽のイディオムの広まりによって、ラヴェルの音楽は時代の最先端ではなくなった。さかんに演奏旅行を行う一方、ラヴェルの創作活動は低調になり、1923年には『ヴァイオリンソナタ』のスケッチしか残せていない[12]。
1928年、初めてアメリカに渡り、4か月に及ぶ演奏旅行を行なった。ニューヨークでは満員の聴衆のスタンディングオベーションを受ける一方、黒人霊歌やジャズ、摩天楼の立ち並ぶ町並みに大きな感銘を受けた。この演奏旅行の成功により、ラヴェルは世界的に有名になった。同年、オックスフォード大学の名誉博士号を授与される。
オペラ「ジャンヌ・ダルク」。病気に冒されたラヴェルの叶わぬ夢となった。 「だがこのオペラを完成させることはできないだろう。僕の頭の中ではもう完成しているし音も聴こえているが、今の僕はそれを書くことができないからね...」と供述している。
アメリカからの帰国後、ラヴェルが生涯に残せた楽曲は、『ボレロ』(1928年)、『左手のためのピアノ協奏曲』(1930年)、『ピアノ協奏曲 ト長調』(1931年)、『ドゥルシネア姫に心を寄せるドン・キホーテ』(1933年)の、わずか4曲である。
1927年ごろから軽度の記憶障害や言語症に悩まされていたが、1932年、パリでタクシーに乗っているときに交通事故に遭い、これを機に症状が徐々に進行していった。タクシー事故に遭った同年に、最後の楽曲『ドルシネア姫に想いを寄せるドン・キホーテ』の作曲に取りかかるが、楽譜や署名で頻繁にスペルミスをするようになり、完成が長引いている。字を書くときに文字が震え、筆記体は活字体になり、わずか50語程度の手紙を1通仕上げるのに辞書を使って1週間も費やした。動作が次第に緩慢になり、手足をうまく動かせなくなり、それまで得意だった水泳ができなくなった。言葉もスムーズに出なくなったことからたびたび癇癪を起した。また渡されたナイフの刃を握ろうとして周囲を慌てさせたが、自身の曲の練習に立ち会った際には演奏者のミスを明確に指摘している(どんな病気にかかっていたか、またその原因が交通事故によるものなのかどうかは諸説ある[13])。
1933年11月、パリで最後のコンサートを行い、代表作『ボレロ』などを指揮するが、このころには手本がないと自分のサインも満足にできない状態にまで病状が悪化していた。コンサート終了後、ファンからサインを求められたラヴェルは、「サインができないので、後日弟にサインさせて送る」と告げたという。1934年には周囲の勧めでスイスのモンペルランで保養に入ったが一向に回復せず、病状は悪化の一途をたどった。1936年になると、周囲との接触を避けるようになり、小さな家の庭で一日中椅子に座ってぼんやりしていることが多くなった。たまにコンサートなどで外出しても、無感動な反応に終始するか、突発的に癇癪を爆発させるなど、周囲を困惑させた。
病床にあって彼はオペラ『ジャンヌ・ダルク』などいくつかの曲の着想を得、それを書き留めようとしたがついに一文字も書き進めることができなくなったと伝えられる。あるときは友人に泣きながら「私の頭の中にはたくさんの音楽が豊かに流れている。それをもっとみんなに聴かせたいのに、もう一文字も曲が書けなくなってしまった」と呟き、また別の友人には『ジャンヌ・ダルク』の構想を語ったあと、「だがこのオペラを完成させることはできないだろう。僕の頭の中ではもう完成しているし音も聴こえているが、今の僕はそれを書くことができないからね」とも述べたという。
同時期、失語症などの権威だった神経学者テオフィル・アラジョアニヌの診察を受けるが、博士は失語症や理解障害、観念運動失行[14]など脳神経学的な症状であると判断した。しかし脳内出血などを疑っていたラヴェルの弟のエドゥアールや友人たちはその診断に納得せず、1937年12月17日に血腫や脳腫瘍などの治療の専門家として名高かった脳外科医クロヴィス・ヴァンサンの執刀のもとで手術を受けた。しかし腫瘍も出血も発見されず、脳の一部に若干の委縮が見られただけだった。もともと万が一の可能性に賭けて手術という決断をしたヴァンサンは、ラヴェルが水頭症を発症していないことを確かめると萎縮した脳を膨らまそうとして生理食塩水を注入した。手術後は一時的に容体が改善したが、まもなく昏睡状態に陥り、意識が戻らぬまま12月28日に死去 (満62歳没) 。会葬にはダリウス・ミヨー、フランシス・プーランク、イーゴリ・ストラヴィンスキーらが立ち会い、遺体はルヴァロワ=ペレ(パリ西北郊)に埋葬された。
晩年を過ごしたイヴリーヌ県モンフォール=ラモーリーにあるラヴェルの最後の家は、現在ラヴェル博物館(Musée Maurice Ravel)となっている。浮世絵を含む絵画や玩具のコレクション、作曲に用いられたピアノなどが展示されている。
ラヴェルは一生独身を貫き、弟のエドゥワールも晩婚で子どもをもうけなかったため、ラヴェル家の血筋はエドゥワールの死(1960年)をもって途絶えた。
作風
オーケストレーションの天才、管弦楽の魔術師と言われる卓越した管弦楽法とスイスの時計職人(ストラヴィンスキー談)と評された精緻な書法が特徴。入念な完璧さへの腐心と同時に人間的豊かさを併せ持った表現力は「知性の最も微妙なゲームと心の深く隠された領域に沁み入る」とされた(ディクシオネール・ル・ロベール)。
母方の血筋であるスペインへの関心はさまざまな楽曲に見出だされ、『ヴァイオリン・ソナタ』『左手のためのピアノ協奏曲』『ピアノ協奏曲 ト長調』などにはジャズの語法の影響も見られる。常に新しい音楽的刺激を追い求めジプシー音楽にも熱狂し、それが『ツィガーヌ』(1924年)へと繋がった。
ラヴェルはドビュッシーとともに印象派(印象主義)の作曲家に分類されることが多い。しかし、その作品はより強く古典的な曲形式に立脚しており、ドビュッシーとは一線を画すと同時にラヴェル本人も印象派か否かという問題は意に介さなかった。ただし自身への影響を否定はしながらも、ドビュッシーを尊敬・評価し、1902年には対面も果たしている。また、ドビュッシーもラヴェルの弦楽四重奏曲ヘ長調を高く評価するコメントを発表している。
ラヴェル自身はモーツァルトおよびフランソワ・クープランからはるかに強く影響を受けていると主張した。また彼はエマニュエル・シャブリエ、エリック・サティの影響を自ら挙げており、「エドヴァルド・グリーグの影響を受けてない音符を書いたことがありません」とも述べている。さらに先述のようにスペイン音楽・ジャズに加え、アジアの音楽およびフォークソング(民謡)を含む世界各地の音楽に強い影響を受けていた。アジアの音楽については、パリ音楽院に入学した14歳の春に、パリ万国博覧会で出会ったカンボジアの寺院、タヒチ島の人々の踊り、インドネシアのガムランなどに大きな影響を受けている。
また、リヒャルト・ワーグナーの楽曲に代表されるような宗教的テーマを表現することを好まず、その代わりにインスピレーション重視の古典的神話に題を取ることを好んだ。
『ピアノ協奏曲ト長調』について、モーツァルトおよびサン=サーンスの協奏曲がそのモデルとして役立ったと語っている。1906年ごろに協奏曲『Zazpiak Bat』(「バスク風のピアノ協奏曲」(直訳では「7集まって1となる」というバスク人のスローガン)を書くつもりだったが、結局それが完成されることはなかった。ノートの残存や断片から、バスクの音楽から強い影響下にあることが確認される。ラヴェルはこの作品を放棄したが、かわりにピアノ協奏曲などほかの作品のいくつかの部分で、そのテーマとリズムを使用している。
ラヴェルは「作曲家で音楽理論家アンドレ・ジュダルジュ(André Gedalge)[15]がわたしの作曲技術の開発において非常に重要な人でした」とコメントしている(ジュダルジュは対位法教程を残した最初期の作曲家でもある)。
また、ラヴェルは自身の創作姿勢については以下のように説明している。
「わたしは単純に芸術家の意識の錯乱を拒否します。 わたしたちは良い労働者であるべきです。 わたしの目標は「技術的な完成度」です。 そこにはけして到達できないと確信しているため、無限に到達しようと試みることができます。 重要なことは常に近づいていくことです。 まちがいなく芸術(作品)は作者以上の影響力を持っていますが、私の意見では、そこに別の目的を差し挟んではいけません」 (ラヴェル、Esquisse autobiographique、1928)
当時、一部の批評家はラヴェルの音楽を冷たく、空虚で人工的と評した。 芸術とメカニズムへの愛をけして否定しなかったラヴェルは、作家エドガー・アラン・ポーを引用し「感性と知性の中間点」と言う有名なフレーズで此れに反駁した。
「それにしても、人々は私が「自然に人工的」であるということを理解できないのだろうか?[16]」
後世への影響
「作曲家は創作に際して個人と国民意識、つまり民族性の両方を意識する必要がある」というのがラヴェルの考え方だった。1928年、アメリカとカナダの25都市の大きなコンサートホールでピアノ公演を行うために渡米した際も、アメリカの作曲家たちに「ヨーロッパの模倣ではなく、民族主義スタイルの音楽としてのジャズとブルースを意識した作品を作るべきだ」と述べており、一説によればオーケストレーションの教えを乞うたジョージ・ガーシュウィンに対して「あなたはすでに一流のガーシュウィンなのだから、二流のラヴェルになる必要などない」と言ったといわれている。
彼の曲を得意とするピアニストはマルグリット・ロンや彼女の弟子のサンソン・フランソワなどがいるが、特にラヴェル本人から楽曲について細かいアドヴァイスを受ける機会があったヴラド・ペルルミュテールは、ラヴェルの意図を忠実に再現したラヴェル弾きと言われる。
代表的な作品
※括弧内の西暦は作曲年
ピアノ作品
グロテスクなセレナード(Sérénade grotesque、1893年ごろ)
自筆譜では単に「セレナード」という題である。
耳で聴く風景(Les sites auriculaires)
ハバネラ(Habanera)
ドビュッシーが『グラナダの夕べ』に盗作したのではないかと物議を醸した作品。のちにオーケストレーションして『スペイン狂詩曲』の第3曲に使われている。
鐘の鳴るなかで(Entre cloches)
口絵(Frontispice)
古風なメヌエット(Menuet antique、1895年)
亡き王女のためのパヴァーヌ(Pavane pour une infante défunte、1899年)
水の戯れ(Jeux D’Eau、1901年)
ソナチネ(Sonatine、1903年 - 1905年)
中庸の速さで(Modéré)
メヌエットの速さで(Mouvement de menuet)
生き生きと(Animé)
メヌエット嬰ハ短調(Menuet en ut dièse、1904年)
鏡(組曲)(Miroirs、1904年 - 1905年)
蛾(Noctuelles)
悲しい鳥(Oiseaux tristes)
海原の小舟(Une barque sur l'ocean)
道化師の朝の歌(Alborada del gracioso)
鐘の谷(La vallée des cloches)
夜のガスパール(Gaspard de la Nuit、1908年)
オンディーヌ(Ondine)
絞首台(Le Gibet)
スカルボ(Scarbo)
マ・メール・ロワ(組曲)(Ma Mère l'Oye、1908年 - 1910年)
眠りの森の美女のパヴァーヌ(Pavane de la belle au bois dormant)
親指小僧(Petit Poucet)
パゴダの女王レドロネット(Laideronnette, Impératrice des Pagodes)
美女と野獣の対話(Les Entretiens de la Belle et de la Bête)
妖精の園(Le Jardin Féerique)
ハイドンの名によるメヌエット(Menuet sur le nom d'HAYDN、1909年)
高雅で感傷的なワルツ(Valses nobles et sentimentales、1911年)
モデレ(Modéré - Très franc)
アッセ・ラン(Assez lent)
モデレ(Modéré)
アッセ・ザニメ(Assez animé)
プレスク・ラン(Presque lent)
アッセ・ヴィフ(Assez vif)
モワン・ヴィフ(Moins vif)
エピローグ、ラン(Épilogue: Lent)
ボロディン風に(A la manière de Borodine、1913年)
シャブリエ風に(A la manière de Emannuel Chabrier、1913年)
前奏曲 イ短調(Prélude、1913年)
クープランの墓(Le Tombeau de Couperin、1914年 - 1917年)
前奏曲(Prélude)
フーガ(Fugue)
フォルラーヌ(Forlane)
リゴドン(Rigaudon)
メヌエット(menuet)
トッカータ(toccata)
パレード(Le parade, 1896年)
協奏曲
ピアノ協奏曲ト長調(Concerto pour piano et orchestre, sol majeur)
アレグラメンテ(allegramente)
アダージョ・アッサイ(adagio assai)
プレスト(presto)
もともとはバスク風協奏曲として計画されていたもの。
左手のためのピアノ協奏曲(Concerto pour la main gauche)
第一次世界大戦で右手を失ったピアニスト、パウル・ウィトゲンシュタイン(哲学者として知られるウィトゲンシュタインの兄)の依頼によるもの。ジャズの影響が色濃い。
管弦楽作品
スペイン狂詩曲(Rapsodie espagnole、1907年)
夜への前奏曲(Prélude à la nuit)
マラゲーニャ(Malagueña)
ハバネラ(Habanera)
祭り(Feria)
マ・メール・ロワ(組曲:ピアノ曲からの編曲、1912年)
クープランの墓(組曲:ピアノ曲からの抜粋編曲、1919年)
前奏曲(Prélude)
フォルラーヌ(Forlane)
メヌエット(Menuet)
リゴードン(Rigaudon)
亡き王女のためのパヴァーヌ(ピアノ曲からの編曲、1910年)
古風なメヌエット(ピアノ曲からの編曲、1928年)
『シェエラザード』序曲(Ouverture 'Shéhérazade')
海原の小舟(Une barque sur l'océan)(「鏡」第3曲からの編曲)
道化師の朝の歌(Alborada del gracioso)(「鏡」第4曲からの編曲)
オペラ
スペインの時(L'heure espagnole)
1幕のオペラ。時計屋の女房に言い寄る男たちをコミカルに扱った歌劇。
子供と魔法(L'enfant et les sortilèges)
『子供と呪文』という場合もある。2幕のオペラ。
バレエ音楽
ボレロ(Boléro、1928年)
ラヴェルの作品の中でもっとも有名な曲である。
ダフニスとクロエ(Daphnis et Chloé、1909年 - 1912年)
合唱付きの全曲版、および合唱のない全曲版から抜粋した第1組曲、第2組曲がある。
ラ・ヴァルス(La Valse, Poème choréographique、1919年 - 1920年)
マ・メール・ロワ(全曲版)
ジャック・ルーシェの依頼によるバレエのための編曲。組曲版とは順番が違い、前奏曲と間奏曲が付加され、全体が続けて演奏される。1912年に初演。
前奏曲(Prélude)
第1場: 紡ぎ車の踊りと情景(Danse du rouet et scène)
第2場: 眠りの森の美女のパヴァーヌ(Pavane de la belle au bois dormant)
第3場: 美女と野獣の対話(Les entretiens de la Belle et de la Bête)
第4場: 親指小僧(Petit poucet)
第5場: パゴダの女王レドロネット(Laideronnette, impératrice des Pagodes)
アポテオーズ: 妖精の国(Le jardin Féerique)
高雅で感傷的なワルツ(アデライド、または花言葉)(ピアノ曲からの編曲、1912年)
室内楽曲
ヴァイオリンソナタ(遺作)(1897年作曲、単一楽章)
弦楽四重奏曲ヘ長調
序奏とアレグロ(Introduction et allegro)
ピアノ三重奏曲イ短調
フォーレの名による子守歌(Berceuse sur le nom de Gabriel Fauré)
演奏会用狂詩曲『ツィガーヌ』(Tzigane)
ヴァイオリンとピアノ・リュテアル(またはピアノ)のための作品。ヴァイオリンと管弦楽にも編曲された。
ヴァイオリン・ソナタ
ヴァイオリンとチェロのためのソナタ
ドビュッシーの墓(トンボー)(Le tombeau de Claude Debussy) - ヴァイオリンとチェロのためのソナタの第1楽章となった。
声楽曲
暗く果てしない眠り
聖女(Sainte)
クレマン・マロのエピグラム(2 Épigrammes de Clément Marot)
クレマン・マロの2つの風物詩とも。
私に雪を投げるアンヌへの(D'Anne qui me jecta de la neige)
スピネットを弾くアンヌへの(D'Anne jouant de l'epinette)
シェエラザード(Shéhérazade)
アジア(Asie)
魔法の笛(La flûte enchantée)
つれない人(L'indifférent)
おもちゃのクリスマス(Le Noël des jouets)
5つのギリシア民謡(5 Mélodies populaires grecques)
博物誌(Histories naturelles)
くじゃく(Le paon)
こおろぎ(Le grillon)
白鳥(Le cygne)
かわせみ(Le martin-pêcheur)
ほろほろ鳥(La pintade)
ハバネラ形式のヴォカリーズ(Vocalise - étude en forme de habanera)
草の上で(Sur l'herbe)
トリパトス(Tripatos)
民謡集(4曲; Chants populaires)
スコットランドの歌(Chanson écossaise)
ステファヌ・マラルメの3つの詩(3 Poèmes de Stéphane Mallarmé)
ため息(Soupir)
むなしい願い(Placet futile)
壷のなかから一飛びに躍り出た(Surge de la croupe et du bond)
ドビュッシーが同時期に、第1曲、第2曲と同じ詩に作曲している。
無伴奏混声合唱のための3つの歌(3 Chansons)
ニコレット(Nicolette)
3羽の美しい極楽鳥(3 Beaux oiseaux du paradis)
ロンド(Ronde)
2つのヘブライの歌(2 Mélodies hébraïques)
カディッシュ(Kaddish)
永遠の謎(L'énigme éternelle)
マダガスカル島民の歌(Chansons madécasses)
ナアンドーヴ(Nahandove)
おーい(呼び声)(Aoua !)
休息-それは甘く(Repos - Il est doux)
ドゥルシネア姫に思いを寄せるドン・キホーテ(Don Quichotte à Dulcinée)
ロマンティックな歌(Chanson romanesque)
勇士の歌(Chanson épique)
乾杯の歌(Chanson à boire)
もともと映画「ドン・キホーテ」の劇中歌として作られたが、映画では使用されなかった(イベールの曲が採用された)。
アリッサ(Alyssa、1903年)
アルシオーヌ(Alcyone、1902年)
合作
ジャンヌの扇(L'éventail de Jeanne)
ジャック・イベール、アレクシス・ロラン=マニュエル、アルベール・ルーセル、ダリウス・ミヨー、フランシス・プーランク、ジョルジュ・オーリック、フロラン・シュミット、マルセル・ドラノワ、ピエール・フェルーとの合作。そのうち1曲目のファンファーレを担当。
編曲
展覧会の絵(Tableaux d'une exposition、ムソルグスキーのピアノ曲を管弦楽編曲)
謝肉祭(1914年にヴァーツラフ・ニジンスキーの委嘱によりシューマンのピアノ曲を管弦楽編曲。ただし現在楽譜が残されているのは、「前口上」「ドイツ風ワルツ―パガニーニ」「ペリシテ人と闘うダヴィッド同盟の行進曲」のみ)
夜想曲(ドビュッシーのオーケストラと女声合唱のための曲を2台のピアノのために編曲。着手は1901年だが、完成は遅く1909年。同年に出版された[17])
牧神の午後への前奏曲(ドビュッシーのオーケストラ作品を連弾用に1910年に編曲[17])
サラバンド(ドビュッシーのピアノ曲を管弦楽編曲)
舞曲(スティリー風タランテラ)(同上。1922年編曲[17])
華やかなメヌエット(シャブリエのピアノ曲を管弦楽編曲)
私家作品(未完、断片など)
フーガ(紛失)
マズルカ(1ページの断片)
交響曲のスケッチ
モーヌ大将(構想のみで現存はしないが、作曲はしたという説あり)
スケート滑り(断片)
組曲(第1ピアノ部分欠落)
「室内」のための前奏曲(オペラ「室内」の未完原稿)
グリーグの主題による変奏曲
カリロエ(現存せず)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AB
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/785.html
1. 中川隆[-16147] koaQ7Jey 2021年10月04日 18:10:17 : HNQh6kvMDI : aE12RU5RYUJ5ZmM=[14]
モーリス・ラヴェル 『亡き王女のためのパヴァーヌ』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/897.html
ラヴェル 自作自演
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/703.html
ラヴェル 組曲「鏡」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/976.html
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/785.html#c1
エイトル・ヴィラ=ロボス(Heitor Villa-Lobos, 1887 - 1959)
ブラジル風バッハ
第1番: 1930年。8本のチェロのための作品。
3.3点
チェロ8本の合奏という特殊編成。3つの楽章に分かれている。チェロの情熱的で艶めかしくも渋い特性が見事に活かされた作品であり、音楽の新しい可能性を切り開いている。ショーロスを全て書いた後にこのシリーズは作り始められるわけだが、この曲はメロディーに通俗性がなく、マニアックであり決して分かりやすい曲ではない。標題のとおり確かにバッハ的な歌心や魂と骨太な力強さを感じるが、非常に奥深い部分でのインスパイアの成果物であり、表面的にパッと分かるものではない。そこがいいと思う。低音ばかりだが暗くはなく、独特の華があり、インスピレーションに溢れた曲。生で聞いたら感動しそう。
第2番: 1933年。オーケストラのための作品。
3.3点
特殊編成でないことによる面白みの少なさはあるものの、1番と同じくらい曲は良いと思う。バッハの微かなインスパイアをもとに、バスを効かせる威厳のパワーを情熱や深遠さに転換する独特の詩情を見せつつ、単一楽章の中で多くの場面をつなげていく。通俗性に墜ちずに、独創的な場面を続ける気力には感服する。不思議な魅力がある。
第3番: 1934年。ピアノとオーケストラのための作品。
3.5点
ショーロス11番よりもピアノ協奏曲としてはるかに成功している。かなりセンスが良くてカッコいい。ピアノの使い方にセンスがある。ブラジル風バッハらしいかっこよさを存分に活かしている。スケール感が良い方向に使われている。4つの楽章で33分にも及ぶ大作だが、自分はかなりゾクゾクしっぱなしで聴いた。ピアノ協奏曲でありながら、それに縛られしぎていないで楽想を豊かに提示しているのが見事だ。
第4番: 1930-41年。ピアノ独奏曲。1941年にはオーケストラ作品に編曲されている。
2.5点
あまりにも古典主義的すぎる。調性が明確すぎ、メロディーが分かりやすすぎ。それに見合う感動があるかというと、平凡すぎて感動も足りないと思う。あと、1曲目の前奏曲が長すぎてバランスも悪い。元がピアノ曲として構想されていたからか、声部が足りないのが原因かもしれない。
第5番: 1938年(1945年に改訂)。ソプラノ独唱と8台のチェロのための作品。のちにソプラノとギターのためにも編曲されている。
3.5点
女声の独唱の艶めかしい情熱の表現は、流麗な前半も、妖艶な後半も印象的でゾクゾクするような魅力がある。冒頭のヴォカリーズは有名だそうだ。一般的な名旋律というものではないにしても、何か不思議と心を捉えて記憶が上書きされない魅惑的なものがある。ブラジル風バッハの一連の作品はある程度連作としての雰囲気も含めた類似性があるが、その中で魅力的という点で成功していると感じる。コンパクトなのも良い。
第6番: 1938年。フルートとファゴットのための作品。
3.3点
軽妙な管楽器の二重奏が愉しい。ブラジル風でありバッハの香りもほのかに感じる。ごく気楽に楽しむ曲。ブラジル風バッハの音楽の素の部分が明確になる分かりやすい曲。情熱的なメロディーと対位法的な扱いの妙や、リズムの扱いが面白い。
第7番: 1942年。オーケストラのための作品。
2.8点
新古典主義的どころか、映画音楽的な軽さとおおらかさが多くの部分を占めている。あまりバッハ風を感じない。ある種のダイナミックさを楽しめるとは言えるが、これでは他の作曲家でも書けそうだ。かなり平明な音楽だ。せめて同じ平明でももう少し濃厚さがないと物足りなく感じる。生で聞けばそれなりに楽しめるであろう娯楽性はある。
第8番: 1944年。オーケストラのための作品。
2.5点
7番に似た印象である。少しリズミカルで複雑さは高いが、なんだがNHK大河ドラマの音楽のようにも聞こえてしまう安易なノリの良さやコブシの聞き方と壮大さだと感じてしまう。音の密度が薄い。生で一度聴く分には楽しめるかもしれないが、それ以上の価値を感じない。
第9番: 1945年。無伴奏合唱、または弦楽合奏のための作品。
2.8点
弦楽合奏版で聴いた。情熱的なねちっこいフレーズをとにかく対位法的にひたすら重ねて繰り返す曲。7番8番があっさりしているのとは対照的だが、あまりにもコブシが効いていてしつこくて、うんざりしてしまう。タイトル通りちゃんとバッハ風であるのは良いことだと思う。しかし、何度も聴きたいという感じの曲ではない。
ショーロス
ギターとオーケストラのためのショーロスへの序奏: 1929年。
第1番: 1920年。ギター独奏曲。
4.0点
ギター独奏の4分の小品で、この後のショーロス作品群とは大きく構成が違う。それにしても、非常に素敵な名曲だと思う。ギターの魅力を最大限に発揮しており、素敵なメロディーで何度も聴きたくなる。渋くて哀愁のあるメロディー。
第2番: 1921年。フルートとクラリネットのための作品。
3.3点
2分台の短い曲。音が幻想的に飛び跳ねて2本の管楽器が絡んで、面白いと思ったらすぐに終わる。特に統一感がないので、ちょっとしたスケッチくらいの即興曲に聴こえる。とはいえ、ブラジル風味が新鮮さを感じさせてけっこう楽しめる。
第3番「きつつき」: 1925年。編成は、男声合唱、クラリネット、サクソフォン、ファゴット、ホルン 3、トロンボーン。
3.3点
独特のリズミカルでエキゾチックな伴奏を管楽器と合唱で行って、そこに別の粘り気のあるメロディーをやはり管楽器と合唱で被せていく。何かの儀式でも執り行われている現場のようだ。とても奇妙な面白い曲。土俗的なようでいて洗練されている。
第4番: 1926年。ホルン 3、トロンボーンのための作品。
3.3点
エキゾチックな不思議な音楽。やはり愉しい。ホルンとトロンボーンということで機動力に欠けるのだが、その代わりにおおらかな包容力とコミカルさがあって、それがまた楽しい。最後に分かりやすいメロディーになって締めるのが可愛い。
第5番「ブラジルの魂」: 1926年。ピアノ独奏曲。
3.5点
前半は普通の曲である。最初はかなり暗く始まり、エキゾチックさもなくて、ショーロスを連続で聴いているとちょっとガッカリする。中間は爆発して面白くなる。その後にまたメロディーに戻るとこの哀愁にしみじみと浸れるようになり、通俗的だがかなりいい曲かも、も思えるようになる。もしショパンやラヴェルが作曲者なら有名になっていたのではないか。
第6番: 1926年。オーケストラ作品。1928年にヴァイオリンとチェロによる補遺が作曲されている。
3.3点
5番までと違い、フルオーケストラで演奏時間も長い。長いのは、沢山の場面に分かれているからで、統一感がある構築物という感じではない。ディズニーシーの出し物の音楽に使えそうな、ドリーミーで素直で明るく楽しい音楽であり、ヴィラロボス風味は薄い。通俗的な場面も多いが、バラエティーの豊かさと、次々と繰り出されるメロディーの楽しさが素直にエンターテイメントとして楽しめるものであるのも事実である。
第7番: 1924年。フルート、オーボエ、クラリネット、サクソフォン、ファゴット、ヴァイオリン、チェロ。
3.0点
薄い音の重ね方で、エキゾチックな音世界を作るいつもの手法だが、音はいつも通り面白い。音型や楽器の重ねかた、メロディーは即興的に変化し続ける。ストラヴィンスキーのような野蛮主義的なリズムも登場する。実に多くのアイデアが詰まってはいるのだが、おおまかな印象があまり変わらないままなのが、統一感はあるものの、飽きてしまいイマイチと思った。
第8番: 1925年。2台のピアノとオーケストラ。
2.8点
フリーダムで野蛮主義的なリズムの上で、各楽器がフリーに演奏する趣の曲。雰囲気は深夜のジャングル奥地の動物の宴のようで面白い。しかし、自分の好みとしては、ちょっと統制がなさすぎて面白くない。あちこちから新しい音が鳴ってかき乱し、カオスになりかけることが続く。一部分だけならよいのだが、ずっと安定しない状態が続いてメロディーもないので、疲れる。
第9番: 1929年。オーケストラ作品。
3.3点
6番同様にフルオーケストラを使った25分程度の曲であり、様々な場面をつなげたものだが、もっとヴィラロボスらしい情熱、ブラジルの熱気をダイレクトに表現した場面が多くて、通俗的な場面はない。リズムが強烈な場面は長いが、全然リズムが無くなる箇所もあり、実にバラエティーに富んでいる。リズムがメインの場面が多いためバレエ音楽みたいに聴こえる。残念ながら、長すぎて後半は飽きてきてしまう。
第10番「愛情の破れ」: 1925年。合唱とオーケストラ。
3.3点
かなり強烈な曲だ。前半のオーケストラだけの時から、情熱的なフレーズが主体だ。まさに副題の「愛の破れ」がしっくりくる雰囲気の音楽。中間に合唱が入ってからがすごい。強烈な野蛮な音の塊を合唱で執拗に繰り返す迫力に圧倒される。恐ろしいエネルギーで恐怖を感じるくらいだ。そのままボルテージを上げて終了する。
第11番: 1928年。ピアノとオーケストラ。
2.8点
ピアノ協奏曲で合計なんと1時間もある。同じタイトルなのに1番や2番となんと規模がかけ離れていることか。ピアノ協奏曲という形式のせいか、リズムの愉しさが足りないため、ショーロスの中ではあまり面白くない気がする。そきて何より、あまりに長過ぎる。様々な場面が展開しており、彼の音感の良さは楽しめるし、ときどき魅力的な場面はある。しかし、全体的なイメージとしては、やや凡庸な場面が多い気がする。ピアノ協奏曲はやはり表現の幅の限定度合いが大きい。オケのみのパートの方が好きだ。
第12番: 1929年。オーケストラ作品。
2.8点
映画音楽のように聴こえる。やや切れ味が鈍い感じがする代わりに通俗的なエンターテイメント曲という印象だ。長い演奏時間で多くの場面をつなげているし、面白いことをやっている箇所も多いのは、9番以降と同じなのだが、この曲は何かが物足らない。やたら重低音が効いていたり、低音の持続音があったり、壮大すぎたり、スペクタクルすぎたり、安心感がありすぎたり。とにかく映画音楽的なムードの場面が多すぎる気がする。細かな違いではあるのだが、他のショーロスより好みでなかった。
第13番: 1929年。2つのオーケストラと吹奏楽。
楽譜紛失。
第14番: 1928年。合唱、オーケストラと吹奏楽の作品。
楽譜紛失。
補遺: 1928年。ヴァイオリンとチェロ。
交響曲
第1番「知られざるもの」: 1916年。
3.0点
映画音楽にかなり近い。娯楽性が高い享楽的な音楽である。しかし、そのなかにも時々シリアスな匂いを漂わせること、多楽章の切れ目を使って構築されたところが交響曲らしいといえる箇所か。未知の大いなるものへの畏怖や巨大さや翻弄される感じの気分が全体を覆っており、その雰囲気を楽しめる曲であるが、逆に一本調子なところもある。
第2番:
3.0点
まさに古い映画音楽そのものという場面が大半である。そして、クライマックス場面や盛り上がる重要場面のようなテンションの箇所がものすごく多い。情熱と発想の尽きない豊かさには感服するものの、さすがにうんざりしてしまう。1時間近くもあり長すぎでもある。とはいえ、4楽章に分かれた映画音楽と思って軽い気持ちでバックグラウンド音楽のように聴く分には、それなりに楽しめて、つまらなくはない。交響曲という感じでは全然ない。
第3番:
2.8点
少し交響曲らしい抽象性や構成感が出た気もする。しかし、3楽章は古い映画音楽にかなり近い。4楽章は宇宙モノの映画音楽のようで大胆に躍動する壮大な輝かしさはなかなかの聞きものである。心に刺さる場面は少ないが、3楽章後半と4楽章後半はそれなりに良いなと思わせる。特に4楽章のド派手すぎる面白さと輝かしさはそれまでの楽章の不満を打ち消すものがある。ラマルセイエーズが使われている。
第4番「勝利」: 1919年。
3.0点
連作である3番と比較して、奥ゆかしい難解さや神秘性をもった曲であり、ずっと好みである。凄みはないものの、軽薄さや物足りなさにイライラすることはなく、音世界に十分に浸ることができる。もちろん南米らしい開放感や情熱を基調にしたエンターテイメント的なものではあり、ドイツ的な硬くて生真面目なものとは全然違うのだが、この音世界ならばヴィラ=ロボスならではの交響曲として受け入れやすいと感じた。最後の盛り上げ方もよい。
第5番: 紛失
第6番:
2.5点
ところどころに感心する瞬間はある。しかし、全般に流れるB級音楽の雰囲気はどうしようもない。とても一般的な交響曲のように作曲者が力を入れて書いた曲とは思えない。思いつくがままに筆を進めたのではないかと想像する。感動しないし使われている素材が悪く、大作曲家の曲というオーラは少ない。
第7番:
第8番: 1950年。
2.5
少し耳に引っかかる良さのある場面はあるものの、全体には気力と創作力の減退を感じてしまうような、何をしたいのかよく分からない惰性で進む音楽が続くように思われる。音はいろいろ鳴っているのだが、若いギラギラと情熱が少し衰えたのに代わる何らかの良さが足りない。心は若いまま身体が歳を取った感じである。
第9番:
2.8点
近代管弦楽法で、華やかに鳴らし続ける曲。この曲までは曲を追うごとに長さが短くなり続ける。コンパクトなのと手際の良さと派手さで、とりあえずそこそこ楽しめる。聴き惚れる部分は少しあるものの、曲に込められた意義深さのようなものはほぼ無いと思う。
第10番: 1955年。
3.3点
この曲は大作で1時間近くであり、合唱や独唱も入っている。最初の方はオケが多いが、歌が始まってしばらく経ってからは歌唱が主役になりオラトリオに近い。強烈な刺激的な歌が多くて、次々と新しい場面に変わるたびに新たな気分で楽しめる。長尺な時間を活用した自由さを活かした才気活発さとスケールの大きさと表情の豊かさはかなり素晴らしい。ヴィラロボスにしか書けない世界の一つがここにある。
第11番: 1955年。
3.0点
微妙な違いであり何となくであるが、この曲は珍しく思索的であり、つまり享楽的に音の流れに身を任せるだけでない気がする。その点で交響曲らしいと感じるため、それを楽しめた。老齢に達して心境の変化があったのだろうか?と想像しながら聴いた。短くてコンパクトな曲であり、曲調の面白さと多少の変化だけでも飽きずに楽しめる。ただ、後半は勢いに任せる感じが強くなってくるが、それでも何かもったいぶりつつ、何かを考えさせるものを内包している気がする。
第12番: 1957年。
2.8点
この最後の交響曲は、なぜか評価を一言に総括しにくいものを感じる。全体としてはB級の曲であることは間違いないのだが。冒頭楽章はもう爺さんなのになんという音の畳み掛けだろうと辟易する。スケルツォが妙にいかにもスケルツォらしいとか、雑感だけが浮かびながらなんとなく聴くしかない曲という気がする。その散漫なような首尾一貫しているような捕らえどころのないのが、ある意味でヴィラ=ロボスらしい曲とも思える。
管弦楽曲
ニューヨーク・スカイライン・メロディ (New York Skyline Melody):1939年。図形楽譜の手法で作曲された作品。
浸食−アマゾン川の水源 (Erosion - The origin of the Amazon River):1951年。
序曲「熱帯林の夜明け」 (Overture "Dawn in Tropical forest):1954年。
協奏曲
ピアノと管弦楽のための組曲:1913年
ピアノ協奏曲第1番:1945年
ギター協奏曲:1951年
3.0点
ギターらしい音のセンスの良さはかなり感じる。さすがだと感心はする。しかしながら音楽としてはとりとめもない感じのままうつろう雰囲気を楽しむ程度であり、明確な表現の可能性への強い意志を感じない。だから、協奏曲としての強い印象を受けないまま曲が終わってしまう。最初は協奏的幻想曲として構想されたというのはなるほどと思った。
ハープ協奏曲:1953年
3.0点
ハープを控え目にせずギンギンに鳴らしていく印象。内的情熱エネルギーに満ちた音楽にハープも乗せてしまっている。ハープらしい優雅さに欠けている気がしなくもない。長いカデンツァだけがやたらと優雅なのは笑った。浅い音楽で旋律の魅力も少ないが、ハープの前面に立った活躍度合いの高さと通常の楽器のイメージとのギャップを愉しむ曲と思った。
ハーモニカ協奏曲:1955年
3.3点
郷愁や子供時代の回想のような雰囲気がずっと続く。ハーモニカは鳴り始めてからはずっと前面に出続ける。楽章が違っても楽器の限界からかさほど根本的な雰囲気の違いはない。3楽章の踊るようなパッセージが最高で、幼稚園の純粋で素朴な心に戻れるかのようで、心の琴線をギュッと掴んで弾かれたような気分になった。また聴きたい。
室内楽曲
弦楽四重奏曲
第1番(1915 )
3.5点
テンポが早い訳ではないのだが、南米らしい情熱とむんむんとした熱気を感じさせて楽しい。六楽章もあるのでバラエティーに富んでおり、組曲のようで聴きやすい。音楽は調性的でメロディアスであり、かなり分かりやすい。
第2番(1915 )
3.3点
1番とはかなり雰囲気が異なり、近代フランス音楽のような流麗で色彩的な音楽である。音楽の輪郭がいい意味でやや曖昧になっていて雰囲気がある。
第3番(1916 )
3.5点
2番と同系統の音楽だが、弦楽四重奏の扱いが非常に巧みになった印象があり、楽器の使い方や音の重ね方だけでも楽しめる。
第4番(1917
3.3点
1楽章はいまいち。2楽章の郷愁と熱気をはらんだ美観の描写はかなり美しい。3、4楽章はいい音楽だがヴィラロボスの弦楽四重奏曲としては標準的で特別展な感動はない。
第5番(1931 )
3.0点
短い曲。作曲技巧が凝らされた複雑で現代的な響き。リズミカルさやゴージャスさなど、演出は良い。ただ、初期の作品のような素直に素晴らしいと思える感じに欠ける。
第6番(1938 )
3.3点
リズミカルにザクザクやるより、おおらかで広大な空間の広がりを各楽章で感じるのが特徴。3楽章が美しい。4楽章も面白い。近代フランスのような響きにブラジル風味を加味した音楽ベースなのは変わらない。
第7番(1942 )
3.3点
この曲はかなり長い。曲の中の時間の流れもゆったりである。そして非常に官能的。1、2楽章は艶めかしい感覚が非常に強い。3、4楽章はそれは弱くなる。4楽章は冗長一歩手前の壮大さであり、次々と繰り出す楽想で冗長にならず最後まで乗り切っている。
第8番(1944 )
2.5点
行くあてのはっきりしない、どこに行けば分からず彷徨うような楽想が全楽章を支配しており、すっきりしない。正直少しイライラする。近代的な響きもそれ程効果的に機能していないと思う。
第9番(1945 )
3.0点
1楽章ははっきりしないようでいて、一応構成感があり安心する。2楽章はヴィラロボス節でいつもながら素敵。3楽章はふらふらしているだけでイマイチ。4楽章は早くなく中庸のテンポであり、何か大きなものにつき動かされるような感情がある。最終楽章にもってくるアイデアが面白いし感動する。
第10番(1946 )
3.0点
1楽章はくつろいだ気分がする。2楽章以降は密度も緊張度が高く、不協和音で人間の精神の奥深い部分をえぐるショスタコーヴィチを彷彿とさせる場面が多く登場する。それでもブラジルらしい精神があるので、ショスタコーヴィチほど根暗にはならない。
第11番(1947 )
2.5点
全体に大味で感心出来ない印象が強く、あまり良作とは思えない。フレーズを大雑把に組み合わせているだけと感じる部分が多いと思った。
第12番(1950 )
2.5点
雰囲気は悪くないのだが、茫洋として掴みどころがなく、なんとなく時間が経過していってしまう。いろいろな事をやっているようでありながら、どうにも印象に残らない。
第13番(1951 )
3.5点
この時期の他の弦楽四重奏曲と同様に相変わらずカルテット書きとしてのセンスだけで曲を書いていて、行き当たりばったりだと聞いていたら、9分ある3楽章が非常に素晴らしくて驚いた。艶めかしく、神秘的で、ぞわぞわと胸の内側を地味に刺激するような、皮膚の裏側からじわっと熱くなるような、とても不思議で魅力的な音楽。4楽章な不思議なエネルギーがあり、3楽章の続きとしては悪くない。
第14番(1953 )
2.5点
所々ブラジル的な空気にはっとするような場面はある。2楽章など対位法的な場面も気になる。しかし、全体としては突き抜ける感じが無く、近い番号の他の曲と同様に物足りない。
第15番(1954 )
2.8点
現代音楽の手法を取り入れたと思われる箇所が印象的だが、一方で明快な分かりやすさが復活している場面も多い。そのふれ幅の大きさゆえに、14番までより少し面白さを増している。晩年の影を感じる。
第16番(1955 )
3.0点
15番より晩年らしさを増しており、人生の終焉の予感を感じさせる悲しい音楽になってきている。単純化の方向も15番より進んでいる。不思議と心に刺さる音楽。
第17番(1957 )
3.0点
最後の弦楽四重奏曲は、さらにシンプルになりフランス近代に戻ったかのような雰囲気。2楽章の寂寥感はぐっとくる。シンプルでほっとするとともに、作曲者の活力の衰えの結果なのかと想像する悲しくもある。シンプルなので曲に入り込みやすい。
その他の室内楽曲
神秘的な六重奏曲:1917年。フルート、クラリネット、サクソフォン、チェレスタ、ハープ、ギター
3.5点
まさに神秘的な響きである。洞窟の奥で見つけた光っている誰も見たことのない宝石のような印象である。特殊編成と音の使い方が生み出す神秘的な響きは、揺らぎながらもその雰囲気を最後まで保っている。楽章がない曲なのが残念なくらい、編成が成功している。なかなか面白い曲である。
五重奏曲:1928年。フルート、オーボエ、イングリッシュ・ホルン、クラリネット、ファゴット。
ソナタ・ファンタジア第1番:1912年。ヴァイオリン、ピアノ。ソナタ・ファンタジアは全4曲。
花の分類:フルートとギター。
ギター曲
ヴィラロボスのギター独奏曲は全部でCD1枚分しかないが、全てが名作である。ここには書いていないが、ショーロス1番もギター独奏曲である。
ブラジル民謡組曲
4.0点
ギター独奏の組曲。全5曲。内容的にはポピュラー音楽に近くてクラシックの芸術音楽という感じは少ないのだが、とにかく5曲ともエキゾチックでギターらしい魅力がいっぱいで素晴らしい。特に最初の2曲はあまりに良くて感動しながら聞きほれてしまう。
ギターのための12の練習曲
3.5点
練習曲らしいテクニックに重点が置かれた短い曲の曲集。観賞用としても多彩でブラジルらしさもあり十分に楽しめる。
ギターのための5つの練習曲
3.5点
12の練習曲と比較して、まったりとしていて風情を重視する曲となっている。いかにも練習曲という感じではない。どの曲も良作であり観賞用として楽しめる。
ピアノ曲
オーケストラや室内楽の作曲家と思いきや、ピアノ曲はかなりテクニカルである。
花の組曲Op.97:1916-18年。【1.夏の牧歌/2.歌う村娘/3.庭園での喜び】
赤ちゃんの一族 第1集「赤ちゃんの家族」:1918年。
3.5点
いい曲が多くて、20世紀のピアノ曲集の中でなかなかなのレベルにある。
子供の謝肉祭:1920年。
赤ちゃんの一族 第2集「小さい動物たち」:1921年。
ブラジルの詩:1936年
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%A9%EF%BC%9D%E3%83%AD%E3%83%9C%E3%82%B9
エイトル・ヴィラ=ロボス(Heitor Villa-Lobos 1887年3月5日 - 1959年11月17日)はブラジル出身の作曲家。独学で作曲を勉強し、クラシックの技法にブラジル独自の音楽を取り込んだ作風で知られる。ヴィラ=ロボスは、南米のみならず、20世紀を代表する作曲家の一人である。また、多作家としても知られ、その夥しい作品数は20世紀最大とも言われる。
1986年から発行されていたブラジルの旧500クルザード紙幣に肖像が使用されていた[1]。また、切手にも肖像が使用されていた。
生涯
ヴィラ=ロボスは1887年、リオ・デ・ジャネイロに生まれた。彼に音楽の手ほどきをしたのは、アマチュア音楽家であった父親(スペイン系)と叔母であった。特に叔母はJ.S.バッハの平均律クラヴィーア曲集を好んで弾いたと伝えられており、エイトルのその後の音楽に大きな影響を与えた。こうした家庭で、ピアノ、クラリネット、チェロを演奏することを学んだ彼は、1899年の父の死後、10代でカフェでチェロを弾いて生計を立てることとなった。1905年にはブラジル北部に民謡の収集に出かけた。この後、彼はリオ・デ・ジャネイロの音楽院で学ぶが、アカデミックな態度とは常に一線を画していた。
1912年に再びブラジル奥地に出かけた後、リオ・デ・ジャネイロに戻った彼は1915年11月13日に新作のコンサートを開き、これを契機に、1922年にはサンパウロの近代音楽週間に招かれることとなった。こうした活動が認められ、政府の奨学金を得て、1923年にパリへ留学した。彼は1930年までパリで暮らすが、この間にアルトゥール・ルービンシュタインからエドガー・ヴァレーズにいたる幅広い音楽家・芸術家の喝采を得た。
1930年に帰国後は、リオ・デ・ジャネイロの音楽院の院長に就任した。音楽院の教育課程を見直すと同時に、ブラジル音楽の真価を知らしめるべく、ブラジルの民俗音楽に根ざした作品を創作し、世界各地で演奏を行った。その音楽はパリをはじめ各地で大成功を収め、彼は20世紀を代表する作曲家の一人となったのであった。1959年、故郷リオ・デ・ジャネイロで72年の輝かしい人生を閉じた。
創作期は3つに分けられる。ブラジルの民族的モダニズム音楽を模索したパリ留学までが第1期、パリ留学時代とそれ以後の音楽教師の第2期が1940年代前半まで、それ以後ブラジルの代表的作曲家との国際的評価を得てからの安定した創作期が第3期である。
主要作品
12曲の交響曲、17曲の弦楽四重奏曲といった古典的な形式によった作品から9曲の「ブラジル風バッハ」のような実験的な性格を持つ作品まで、実に1,000曲近くに及ぶ膨大な作品を遺した作曲家であり、その全貌を捉えることは容易なことではない。以下、主な作品を列記する。
ブラジル風バッハ
原題は“Bachianas Brasileiras”。終生J.S.バッハを深く敬愛していたヴィラ=ロボスは、ブラジルの民俗音楽を素材にバッハが書いたような組曲を創作しようと試み、9曲の「ブラジル風バッハ」のシリーズを作曲した。その名の通り、ブラジルの民俗音楽素材に基づき変奏や対位法的処理が行われる充実した作品となっている。9曲は楽器編成が異なっているため、通して演奏されることは希であるが、ヴィラ=ロボスを代表する作品として、いずれも著名な作品である。
第1番: 1930年。8本のチェロのための作品。ただし各パートを複数で演奏することも可としている。
第2番: 1933年。オーケストラのための作品。第4楽章の「カイピラの小さな汽車」という表題を持つトッカータは、単独でも演奏されるヴィラ=ロボスの管弦楽作品中最も有名な作品の一つ。
第3番: 1934年。ピアノとオーケストラのための作品。
第4番: 1930-41年。ピアノ独奏曲。1941年にはオーケストラ作品に編曲されている。
第5番: 1938年(1945年に改訂)。ソプラノ独唱と8台のチェロのための作品。のちにソプラノとギターのためにも編曲されている。第1楽章アリアの冒頭でソプラノのヴォカリーズで歌われる旋律は特に有名で様々な編曲で演奏されている。
第6番: 1938年。フルートとファゴットのための作品。
第7番: 1942年。オーケストラのための作品。
第8番: 1944年。オーケストラのための作品。
第9番: 1945年。無伴奏合唱、または弦楽合奏のための作品。
ショーロス
ショーロス (Chôros) は、都会化された民俗舞曲に基づく、ブラジル風のセレナードとも言うべき音楽である。ヴィラ=ロボスは、第14番まで+2曲のショーロスを遺している(ただし、第13番と第14番は楽譜紛失のため演奏不可能)。このシリーズも作品ごとに楽器編成が異なっており、時には都会風の洗練されたダンス・ミュージック、時には荒々しい音型を大胆に使いエネルギッシュな舞踏と、さまざまな表情を見せる。
ギターとオーケストラのためのショーロスへの序奏: 1929年。
第1番: 1920年。ギター独奏曲。
第2番: 1921年。フルートとクラリネットのための作品。
第3番「きつつき」: 1925年。編成は、男声合唱、クラリネット、サクソフォン、ファゴット、ホルン 3、トロンボーン。
第4番: 1926年。ホルン 3、トロンボーンのための作品。
第5番「ブラジルの魂」: 1926年。ピアノ独奏曲。
第6番: 1926年。オーケストラ作品。1928年にヴァイオリンとチェロによる補遺が作曲されている。
第7番: 1924年。フルート、オーボエ、クラリネット、サクソフォン、ファゴット、ヴァイオリン、チェロ。
第8番: 1925年。2台のピアノとオーケストラ。
第9番: 1929年。オーケストラ作品。
第10番「愛情の破れ」: 1925年。合唱とオーケストラ。
第11番: 1928年。ピアノとオーケストラ。
第12番: 1929年。オーケストラ作品。
第13番: 1929年。2つのオーケストラと吹奏楽。楽譜紛失。
第14番: 1928年。合唱、オーケストラと吹奏楽の作品。楽譜紛失。
補遺: 1928年。ヴァイオリンとチェロ。
交響曲
ヴィラ=ロボスは12曲の交響曲を作曲したが、その古典的形式という制約が彼の音楽のテンペラメントと必ずしも一致せず、彼の作品中では第二義的な作品群にとどまっており、耳にする機会は希である。
第1番「知られざるもの」: 1916年。
第2番「昇天」: 1917年。
第3番「戦争」: 1919年。
第4番「勝利」: 1919年。
第5番「平和」: 1920年。楽譜紛失。
(第3番から第5番の3曲は第一次世界大戦終結を記念してブラジル政府から委嘱された3部作となっている)
第6番「ブラジルの山の稜線」: 1944年。
第7番: 1945年。
第8番: 1950年。
第9番: 1951年。
第10番「アメリンディア」: 1952年。
第11番: 1955年。
第12番: 1957年。
映画音楽
ブラジルの発見 (Descobrimento do Brasil): 1937年。後に改編された4曲からなる組曲でも知られる。
緑の館 (Green Mansion): 1958年。同年、自身が作曲した部分を取り出しアマゾンの森 (Floresta do Amazonas)として改作
バレエ音楽
アマゾナス (Amazonas): 1917年。
ウイラプルー (Uirapurú): 1917年。
大地の踊り (Dança da terra): 1939年。合唱と打楽器で演奏される。
マンドゥ=サララ (Mandú-Çarárá): 1948年。2台のピアノと打楽器、合唱、児童合唱による。
管弦楽曲
ニューヨーク・スカイライン・メロディ (New York Skyline Melody):1939年。図形楽譜の手法で作曲された作品。
浸食−アマゾン川の水源 (Erosion - The origin of the Amazon River):1951年。
序曲「熱帯林の夜明け」 (Overture "Dawn in Tropical forest):1954年。
協奏曲
ヴィルトゥオーソではなかったヴィラ=ロボスは自身の演奏活動に協奏曲は必要とせず、モダニズムの模索の過程で作曲した第1期と、名声を得て演奏家からの依頼に応えて作曲した第3期に協奏曲を作曲しており、第2期にはこの分野の作品はほとんど見られない。
ピアノと管弦楽のための組曲:1913年。同年に結婚した妻、ピアニストのルチリアのために書かれた。
ピアノ協奏曲第1番:1945年。番号付きのピアノ協奏曲は全5曲でいずれも創作第三期の作品である。
ギター協奏曲:1951年。最初は協奏的幻想曲として構想された。時に「コパカバーナ」の愛称で呼ばれる。ギターリストにとってロドリーゴやカステルヌオーヴォ=テデスコの作品と並んで重要な作品である。
ハープ協奏曲:1953年。
ハーモニカ協奏曲:1955年
室内楽曲
弦楽四重奏曲
ヴィラ=ロボスは全部で17曲の弦楽四重奏曲を作曲した。死の直前に第18番に着手したが、完成させることなく亡くなった。第1番から第4番までが初期の1915-17年に作曲され、14年のブランクを経て第5番が書かれ、さらに7年の空白期の後、1938年の第6番以降1957年の第17番までをコンスタントなペースで書き上げた。民謡風な魅力はあるものの、交響曲の項でも述べたように古典的な形式という枠組みが足かせとなって、才気の飛翔を妨げている憾みがある。
弦楽四重奏曲第6番:1938年。時に『ブラジル』の愛称で呼ばれることがある。第1楽章にsertãoというブラジル北東部の民謡のリズムを用いている。また終楽章ではポリリズムの活発な音楽となっている。フォークロアな魅力で、彼の弦楽四重奏曲の中では比較的よく知られた作品である。
その他の室内楽曲
神秘的な六重奏曲:1917年。フルート、オーボエ、サクソフォン、チェレスタ、ハープ、ギターという変わった編成の曲。
五重奏曲:1928年。フルート、オーボエ、イングリッシュ・ホルン、クラリネット、ファゴット。
ソナタ・ファンタジア第1番:1912年。ヴァイオリン、ピアノ。ソナタ・ファンタジアは全4曲。
花の分類:フルートとギター。
器楽曲
ピアノ曲
ピアノ曲は、ヴィラ=ロボスの作品の中でも演奏、録音される機会が多い作品群である。また、長年教育に携わった作曲者らしく、初心者向けの作品、子供の小さな手を意識した作品や、子供を題材にした作品が多いのも特徴である。
花の組曲Op.97:1916-18年。【1.夏の牧歌/2.歌う村娘/3.庭園での喜び】
赤ちゃんの一族 第1集「赤ちゃんの家族」:1918年。【1.色白の娘(陶器の人形)/2.小麦色の娘(紙の人形)/3.カボークロの娘(粘土の人形)/4.ムラートの娘(ゴムの人形)/5.黒人の娘(木の人形)/6.貧乏な娘(ボロ布の人形)/7.道化師/8.魔法使い(布の人形)】
子供の謝肉祭:1920年。【1.ピエロの子馬/2.小さな悪魔の鞭/3.ピエロの朝/4.かわいいお坊さんの鈴/5.小さな乞食の大事件/6.かわいい仮装のいたずらっ子/7.おませな子の幻想的な笛/8.子供たちのフォリア】
赤ちゃんの一族 第2集「小さい動物たち」:1921年。【1.紙のカブトムシ/2.厚紙の子猫/3.モスリンのネズミ/4.ゴムの子犬/5.木の子馬/6.鉛の牡牛/7.布の小鳥/8.ぬいぐるみの小熊/9.ガラスの小さな狼】
ブラジルの詩:1936年。【1.カボークロの苗植え/2.吟遊詩人の印象/3.奥地の祭り/4.白人インディオの踊り】
ギター曲
ギター作品の数は、ヴィラ=ロボスの膨大な作品数から言えば、決して多くはなく、先述のショーロス第1番を含めてもCD1枚に全作品が収まってしまうほどだが、そのいずれもがギターリストにとっては重要なレパートリーとなっている。
ブラジル民謡組曲:1908-12年。【1.マズルカ・ショーロ/2.エコセーズ・ショーロ/3.ワルツ・ショーロ/4.ガヴォット・ショーロ/5.小ショーロ】
12の練習曲:1928年。
5つの前奏曲:1940年。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%A9%EF%BC%9D%E3%83%AD%E3%83%9C%E3%82%B9
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/786.html
エイトル・ヴィラ=ロボス ショーロス 第1番
Villa-Lobos / Gaó - Choros No.1 (Anna Stella Schic, piano)
Villa-Lobos - Choro No.1
Choros No. 1
Released on: 2003-07-09
Artist: Sonia Rubinsky
John Williams ショーロス1番 Choros No.1 ヴィラ=ロボス Villa=Lobos
ジョン・ウイリアムズ
Choros No. 1 • Villa-Lobos • Julian Bream
Julian Bream, guitar
Five Faces of the Guitar, produced by BBC Two
🇬🇧 London, 1974
David Russell Heitor Villa-Lobos Choro No.1
3. 中川隆[-16146] koaQ7Jey 2021年10月04日 21:10:53 : HNQh6kvMDI : aE12RU5RYUJ5ZmM=[15]
GDPが増えても国民は豊かにならない
GDP が増えると賃金が増えないまま物価だけ上がるので、労働者が貧しくなりマルクスが預言した階級社会が完成する
日本を始めとして世界中で”親世代より貧しい子供世代”に入っていて、韓国もご多分に漏れず子供世代が貧しい。
先進国で初めてこうなったのはおそらく1980年代以降のアメリカで、マイホームが買えなくなった。
アメリカは1950年代が絶頂期で(裕福な白人家庭は)7リッターの大型車を乗り回し、芝生やプール付きの家を所有していた。
当然未来のアメリカはもっと豊かになると想像していたが、子供や孫の世代になるほど貧困化している。
アメリカは60年代、70年代、80年代と不況が続き、やっと好景気になった90年代は以前とは違っていた。
前の好景気では労働者の所得が増え、自動車工場の従業員は自分が作った車を買うことが出来た。
だが90年代以降の好景気では労働者の給料はあまり増えず、資産価値だけが増加しました。
つまりお父さんの給料は30万円で変わらないのに、株価や地価やビットコインだけが値上がりしました。
値上がりした株やビットコインでGDPは上昇するので、物価も資産上昇につれて上昇しました。
だが物価が上昇してもお父さんの給料は30万円のままなので、労働者家庭はどんどん貧困化しました。
統計によるとアメリカの中産階級は1980年代から貧困化していて、中産階級から貧困階級に転がり落ちる人が多い。
こうした例を日本に当てはめるまでも無く、労働者の所得は減り資産だけが増え日本人は『貧困民族』になりました。
資産価値上昇が日本人を貧困にしている。
個人資産が1500兆円とか2000兆円という数字を聞いたことがあると思いますが、アレが増えれば増えるほど日本人は貧困になります。
なぜなら汗を流して働いた人の給料は減り続け、働かずに土地や株を所有する人の収入が増え続けるからです。
多分あなたは週5日以上、一日8時間以上働いているが、収入は増えていないのではないでしょうか?
ところが資産を保有している人は1年に1日も働いていないのに、資産が倍になったりしています。
資産価値が上昇した分日本のGDPが増えたことになり物価が少し上がるので、労働者は毎年貧しくなります。
これが安倍、小泉や自民党政権が20年やった事だが、自民党のせいというほど話は単純ではない。
欧米や中韓ロですらそうなっていて、労働者の給料は実質減り続けて、不労者である資産階級だけが収入を増やしている。
この原因が資産価値の上昇で、マネー経済ともバブル経済とも言います。
労働価値は変わらないのに株やビットコインや地価だけが上昇する社会は労働者にとって地獄の世界になります。
そして世界中が地獄化しているのです。
MMT論者も少し位は見習ったら
大西つねきがやろうとしていること
https://www.youtube.com/watch?v=Z0aesmYcl0U
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/846.html#c3
1. 中川隆[-16145] koaQ7Jey 2021年10月05日 08:51:38 : 0sTOkIKxFw : QjgzTzYuTDlwT0U=[1]
利子付き国債を発行すると、その利子を返す為に新規国債を次々に発行しないといけなくなるので、ネズミ講と同じです。 失業云々とは関係ありません。完全雇用になっても国債の利子を返す為に、新規に国債を発行しなければいけないというのが現在の状況です。 だから財務省は財政破綻、財政破綻と大騒ぎしているのです。
貨幣のプール論は正しい。
三橋さんは完全に誤解していますが、本来の貨幣のプール論というのは
税金で徴収した以上の金を政府が使うと、その分はインフレ税という形で通常の税額に加えて後から追加徴収する事になる
という意味です。何処の国でも国債発行でマネーストックを増やして意図的にインフレにしています。つまり、国民が気付かない様にこっそり金を取って政府資金を増やしているのです。
サルの朝三暮四の話と同じ騙しの手口ですね。 三橋信者みたいな 右翼・保守はアホだから簡単に騙せるんです。
日本政府が使える金は税金で徴収する金額だけ
日本政府が国債を発行すると日本国内で流通する貨幣が増えるので貨幣価値が下がります。
円の貨幣価値が下がると
・日銀の借用証である日銀紙幣の実質価値が下がる。
・政府の借用証である日本国債の実質価値が下がる。
・銀行預金額の実質価値が下がる。
・労働者の賃金の実質価値が下がる。
従って、日本政府が公共事業をやる為に国債を発行すると、労働者の持って居る金の一部を日本政府に取られた事になります。
つまり、日本政府が財政支出する元金は税金の他に、貨幣価値が減少した為に労働者から日本政府に移転した金額も含まれます。
政府が財政出動しなければ税金だけで政府支出を賄っていたのが、余計な公共事業をやった為に貨幣価値の減少した分(所謂インフレ税)も加算されます。
即ち、政府が使える金額は (税金 +インフレ税) で徴収した金額 になります。
つまり貨幣のプール論は正しいのです。
▲△▽▼
GDPとは国内総生産、つまり国内で産み出された付加価値の総額です。
それが3割減したのに株価が V字回復する不思議。
以下は金価格。
このように実は昨年の7月頃からずーっと上がりっぱなし。
https://golden-tamatama.com/wp-content/uploads/2020/09/WS20200707AZCLOPUY000786.jpg
で、以下が金価格に換算した日経平均です。
実は、昨年9月から下がりっぱなし。
https://golden-tamatama.com/wp-content/uploads/2020/09/WS20200707AZCLOPUY000788.jpg
日経平均はゴールド何グラム?
と言う訳で、庶民が気づかないうちに通貨は紙屑化しつつある。
たった今、ステルス紙屑化が進行中なのでした。
で、富裕層はせっせと現金を物に変えつつある。
多分ですが、富裕層の換金ならぬ換物が済んでから、
バーチャルリアリティ市場を崩壊させるのでしょう。
https://golden-tamatama.com/blog-entry-dow-800-down.html
因みに、金、原油、穀物価格, 商品相場は何でも大体同じ値動きです、ゴールド価格のデータが一番入手し易いのでゴールドを使っただけです。:
世界最大のヘッジファンド: 量的緩和で人々はリッチになったような気がする
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10616
世界最大のヘッジファンド: 紙幣の刷り過ぎでドルが暴落するとき
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/11685
世界最大のヘッジファンド: ドルは既に紙くずになっている
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10645
インフレ相場で個人投資家でもコモディティに投資する方法
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/12900
量的緩和で上がらなかった物価が現金給付で高騰する理由
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/13296
▲△▽▼
本当の貨幣のプール論というのは
税金で徴収した以上の金を政府が使うと、その分はインフレ税として徴収する事になる
という意味なんですね。
正規の税金以上は払いたくなければ国債発行はNGという事。
国債発行すると貨幣価値が下がって銀行預金と実質賃金は目減りします。
更に、国債発行で増えた金は、たとえ公共事業に使ったとしても、最終的にはすべて資本家のものになります。
つまり、国債発行すると貧富の差が拡大、実質賃金が下がり、内需が減ってデフレが深刻化します。
「放漫財政」で日本は今危機的な状況にあります。 プラザ合意以降に日本が「放漫財政」に変わった経緯は大西つねきさんが何時も指摘しています:
民間銀行はもうこの世に必要ない(Live配信2021/1/12)
https://www.youtube.com/watch?v=a3y34SLGKlo
大西さんが何度も繰り返し説明している様に、プラザ合意後は民間人が民間銀行から借りる金の量が頭打ちになったので、日本政府が、国債金利でマネーストックが増える分の金、を出すしかなくなったのです。
政府の緊縮財政というのはマネーストックの増加分を政府がすべて負担出来なくなったという事です。
MMT論者も大西つねきを少し位は見習ったら
大西つねきがやろうとしていること
https://www.youtube.com/watch?v=pcifNIAlVG0
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/418.html#c1
利子付き国債を発行すると、その利子を返す為に新規国債を次々に発行しないといけなくなるので、ネズミ講と同じです。 失業云々とは関係ありません。完全雇用になっても国債の利子を返す為に、新規に国債を発行しなければいけないというのが現在の状況です。 だから財務省は財政破綻、財政破綻と大騒ぎしているのです。
貨幣のプール論は正しい。
三橋さんは完全に誤解していますが、本来の貨幣のプール論というのは
税金で徴収した以上の金を政府が使うと、その分はインフレ税という形で通常の税額に加えて後から追加徴収する事になる
という意味です。何処の国でも国債発行でマネーストックを増やして意図的にインフレにしています。つまり、国民が気付かない様にこっそり金を取って政府資金を増やしているのです。
サルの朝三暮四の話と同じ騙しの手口ですね。 三橋信者みたいな 右翼・保守はアホだから簡単に騙せるんです。
日本政府が使える金は税金で徴収する金額だけ
日本政府が国債を発行すると日本国内で流通する貨幣が増えるので貨幣価値が下がります。
円の貨幣価値が下がると
・日銀の借用証である日銀紙幣の実質価値が下がる。
・政府の借用証である日本国債の実質価値が下がる。
・銀行預金額の実質価値が下がる。
・労働者の賃金の実質価値が下がる。
従って、日本政府が公共事業をやる為に国債を発行すると、労働者の持って居る金の一部を日本政府に取られた事になります。
つまり、日本政府が財政支出する元金は税金の他に、貨幣価値が減少した為に労働者から日本政府に移転した金額も含まれます。
政府が財政出動しなければ税金だけで政府支出を賄っていたのが、余計な公共事業をやった為に貨幣価値の減少した分(所謂インフレ税)も加算されます。
即ち、政府が使える金額は (税金 +インフレ税) で徴収した金額 になります。
つまり貨幣のプール論は正しいのです。
▲△▽▼
GDPとは国内総生産、つまり国内で産み出された付加価値の総額です。
それが3割減したのに株価が V字回復する不思議。
以下は金価格。
このように実は昨年の7月頃からずーっと上がりっぱなし。
https://golden-tamatama.com/wp-content/uploads/2020/09/WS20200707AZCLOPUY000786.jpg
で、以下が金価格に換算した日経平均です。
実は、昨年9月から下がりっぱなし。
https://golden-tamatama.com/wp-content/uploads/2020/09/WS20200707AZCLOPUY000788.jpg
日経平均はゴールド何グラム?
と言う訳で、庶民が気づかないうちに通貨は紙屑化しつつある。
たった今、ステルス紙屑化が進行中なのでした。
で、富裕層はせっせと現金を物に変えつつある。
多分ですが、富裕層の換金ならぬ換物が済んでから、
バーチャルリアリティ市場を崩壊させるのでしょう。
https://golden-tamatama.com/blog-entry-dow-800-down.html
因みに、金、原油、穀物価格, 商品相場は何でも大体同じ値動きです、ゴールド価格のデータが一番入手し易いのでゴールドを使っただけです。:
世界最大のヘッジファンド: 量的緩和で人々はリッチになったような気がする
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10616
世界最大のヘッジファンド: 紙幣の刷り過ぎでドルが暴落するとき
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/11685
世界最大のヘッジファンド: ドルは既に紙くずになっている
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10645
インフレ相場で個人投資家でもコモディティに投資する方法
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/12900
量的緩和で上がらなかった物価が現金給付で高騰する理由
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/13296
▲△▽▼
本当の貨幣のプール論というのは
税金で徴収した以上の金を政府が使うと、その分はインフレ税として徴収する事になる
という意味なんですね。
正規の税金以上は払いたくなければ国債発行はNGという事。
国債発行すると貨幣価値が下がって銀行預金と実質賃金は目減りします。
更に、国債発行で増えた金は、たとえ公共事業に使ったとしても、最終的にはすべて資本家のものになります。
つまり、国債発行すると貧富の差が拡大、実質賃金が下がり、内需が減ってデフレが深刻化します。
「放漫財政」で日本は今危機的な状況にあります。 プラザ合意以降に日本が「放漫財政」に変わった経緯は大西つねきさんが何時も指摘しています:
民間銀行はもうこの世に必要ない(Live配信2021/1/12)
https://www.youtube.com/watch?v=a3y34SLGKlo
大西さんが何度も繰り返し説明している様に、プラザ合意後は民間人が民間銀行から借りる金の量が頭打ちになったので、日本政府が、国債金利でマネーストックが増える分の金、を出すしかなくなったのです。
政府の緊縮財政というのはマネーストックの増加分を政府がすべて負担出来なくなったという事です。
MMT論者も大西つねきを少し位は見習ったら
大西つねきがやろうとしていること
https://www.youtube.com/watch?v=pcifNIAlVG0
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/864.html
1. 中川隆[-16144] koaQ7Jey 2021年10月05日 08:58:01 : 0sTOkIKxFw : QjgzTzYuTDlwT0U=[2]
利子付き国債を発行すると、その利子を返す為に新規国債を次々に発行しないといけなくなるので、ネズミ講と同じです。 失業云々とは関係ありません。完全雇用になっても国債の利子を返す為に、新規に国債を発行しなければいけないというのが現在の状況です。 だから財務省は財政破綻、財政破綻と大騒ぎしているのです。
貨幣のプール論は正しい。本来の貨幣のプール論というのは
税金で徴収した以上の金を政府が使うと、その分はインフレ税という形で通常の税額に加えて後から追加徴収する事になる
という意味です。何処の国でも国債発行でマネーストックを増やして意図的にインフレにしています。つまり、国民が気付かない様にこっそり金を取って政府資金を増やしているのです。
サルの朝三暮四の話と同じ騙しの手口ですね。 三橋信者みたいな 右翼・保守はアホだから簡単に騙せるんです。
日本政府が使える金は税金で徴収する金額だけ
日本政府が国債を発行すると日本国内で流通する貨幣が増えるので貨幣価値が下がります。
円の貨幣価値が下がると
・日銀の借用証である日銀紙幣の実質価値が下がる。
・政府の借用証である日本国債の実質価値が下がる。
・銀行預金額の実質価値が下がる。
・労働者の賃金の実質価値が下がる。
従って、日本政府が公共事業をやる為に国債を発行すると、労働者の持って居る金の一部を日本政府に取られた事になります。
つまり、日本政府が財政支出する元金は税金の他に、貨幣価値が減少した為に労働者から日本政府に移転した金額も含まれます。
政府が財政出動しなければ税金だけで政府支出を賄っていたのが、余計な公共事業をやった為に貨幣価値の減少した分(所謂インフレ税)も加算されます。
即ち、政府が使える金額は (税金 +インフレ税) で徴収した金額 になります。
つまり貨幣のプール論は正しいのです。
▲△▽▼
GDPとは国内総生産、つまり国内で産み出された付加価値の総額です。
それが3割減したのに株価が V字回復する不思議。
以下は金価格。
このように実は昨年の7月頃からずーっと上がりっぱなし。
https://golden-tamatama.com/wp-content/uploads/2020/09/WS20200707AZCLOPUY000786.jpg
で、以下が金価格に換算した日経平均です。
実は、昨年9月から下がりっぱなし。
https://golden-tamatama.com/wp-content/uploads/2020/09/WS20200707AZCLOPUY000788.jpg
日経平均はゴールド何グラム?
と言う訳で、庶民が気づかないうちに通貨は紙屑化しつつある。
たった今、ステルス紙屑化が進行中なのでした。
で、富裕層はせっせと現金を物に変えつつある。
多分ですが、富裕層の換金ならぬ換物が済んでから、
バーチャルリアリティ市場を崩壊させるのでしょう。
https://golden-tamatama.com/blog-entry-dow-800-down.html
因みに、金、原油、穀物価格, 商品相場は何でも大体同じ値動きです、ゴールド価格のデータが一番入手し易いのでゴールドを使っただけです。:
世界最大のヘッジファンド: 量的緩和で人々はリッチになったような気がする
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10616
世界最大のヘッジファンド: 紙幣の刷り過ぎでドルが暴落するとき
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/11685
世界最大のヘッジファンド: ドルは既に紙くずになっている
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10645
インフレ相場で個人投資家でもコモディティに投資する方法
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/12900
量的緩和で上がらなかった物価が現金給付で高騰する理由
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/13296
▲△▽▼
本当の貨幣のプール論というのは
税金で徴収した以上の金を政府が使うと、その分はインフレ税として徴収する事になる
という意味なんですね。
正規の税金以上は払いたくなければ国債発行はNGという事。
国債発行すると貨幣価値が下がって銀行預金と実質賃金は目減りします。
更に、国債発行で増えた金は、たとえ公共事業に使ったとしても、最終的にはすべて資本家のものになります。
つまり、国債発行すると貧富の差が拡大、実質賃金が下がり、内需が減ってデフレが深刻化します。
「放漫財政」で日本は今危機的な状況にあります。 プラザ合意以降に日本が「放漫財政」に変わった経緯は大西つねきさんが何時も指摘しています:
民間銀行はもうこの世に必要ない(Live配信2021/1/12)
https://www.youtube.com/watch?v=a3y34SLGKlo
大西さんが何度も繰り返し説明している様に、プラザ合意後は民間人が民間銀行から借りる金の量が頭打ちになったので、日本政府が、国債金利でマネーストックが増える分の金、を出すしかなくなったのです。
政府の緊縮財政というのはマネーストックの増加分を政府がすべて負担出来なくなったという事です。
MMT論者も大西つねきを少し位は見習ったら
大西つねきがやろうとしていること
https://www.youtube.com/watch?v=Z0aesmYcl0U
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/864.html#c1
2. 中川隆[-16143] koaQ7Jey 2021年10月05日 08:59:01 : 0sTOkIKxFw : QjgzTzYuTDlwT0U=[3]
量的緩和・財政出動や企業支援金がデフレを生む _ 貧困層には援助しなければいけないが、企業救済はしてはいけない
一般的には量的緩和は紙幣を無制限に印刷するためインフレを生むのではないかと言われている。しかし実際には逆である。
量的緩和は短期的には良いことだと言えるかもしれない。だが長期的には債務には新陳代謝が必要だ。ゾンビ企業、非効率な企業を退場させる必要がある。だが、緩和のお陰でそれが起こらない。
これはデフレの一因だと言える。供給が過剰なのだから理屈が通るだろう。
市場経済では消費者の望む商品を作らない企業は淘汰される。しかしそれを政府が人為的に妨げると、消費者の望まないものを作り続けるゾンビ企業がどんどん増えることになる。
経済学では価格は需要と供給の兼ね合いで決まり、ゾンビ企業を生かすということは経済の供給(しかも不要な供給)を増やし続けるということである。供給の増加は当然ながら価格を押し下げる。つまりデフレになるのである。
デフレがインフレになる瞬間
しかし現在アメリカで懸念されているのはインフレであり、デフレではない。アメリカではコロナ禍で大量の現金給付を行なった結果、物価が上昇している。デフレが問題だったはずがいつの間にかインフレになっている。
それは何故か? 量的緩和を長年続けるとデフレと低成長が実現する。消費者の望まないものを作り続ける企業が増え続けるのだから当然である。インフレになる前に緩和は終了し、それで問題がないと人々は考える。
しかしそこにコロナショックのような衝撃が加わり深刻な景気後退に陥ると、インフレを引き起こす規模の刺激策なしには経済成長を支えられなくなる。インフレが起こると分かっていても緩和で経済を支えなければならなくなる状況に陥るのである。
これほどの現金をばら撒いた場合、消費がデフレ圧力に打ち勝ってしまう。
この状況に陥った経済は急激なデフレと急激なインフレを行き来する非常に不安定な状態となる。緩和を止めれば急激なデフレになり、緩和をすれば急激なインフレになるからである。
まさにこれが現在のアメリカ経済の状況である。アメリカでは3回行われた現金給付が今年3月を最後に途絶えると、アメリカ経済は途端にデフレに向かい始めている。
もうアメリカには選択肢が2つしかない。緩和を続けて物価高騰を受け入れるか、緩和を止めて不況を受け入れるかである。
この状況は短期的にはコロナだが、長期的には量的緩和が作り出したものである。量的緩和によるデフレと低成長がなければ、コロナ禍も経済的にはこれほど酷くはならなかっただろうからである。
量的緩和政策のそもそもの原因
そもそも何故量的緩和政策が行われたのだろうか? 量的緩和政策とは基本的に貸し手より借り手に有利な政策である。金利を押し下げることで莫大な借金を背負っている借り手は利払い義務が軽減される。
一方で貸し手はお金を貸しても金利が得られない状況に陥る。得られないどころか、銀行にお金を預けるとむしろ手数料を取られるというのが貸し手が置かれている状況である。
ここで考えてみてほしいのだが、経済における最大の借り手とは誰だろうか? 政府である。そして貸し手とは誰だろうか? 国民なのである。
つまり、量的緩和政策とは経済最大の借り手である政府が、貸し手である国民を犠牲にして自分を利する政策なのである。こうすることで政府は莫大な借金を背負っても、東京オリンピックやGO TOトラベルなどの政策で自分の支援者に金をばら撒くことが出来る。
そして奇妙なことにチャンネル桜の自称経済評論家や経済がわからない保守・右翼は無邪気にもそれを支持しているのである。人々が自分の置かれた状況についてどれだけ何も知らないかである。
量的緩和危機と中国恒大集団
非効率なビジネスを生かし続けた結果が、いま中国でGDP2%分の負債を抱えて破綻しかけている恒大集団である。
中国もまた消費者の望まないものを作り続ける企業を長い間野放しにしてきた。しかし報道によれば中国共産党は恒大集団を救済しない可能性が高いらしい。中国共産党傘下の環球時報は次のように主張している。
恒大集団は『大きすぎて潰せない』の原則に基づく政府による救済を期待すべきではない。
これは中国共産党がアメリカとは違う方向に舵を切ったことを意味する。不況か物価高騰か選べと言われたら、米国政府は迷わず物価高騰を選ぶだろう。
しかし少なくとも現状では中国共産党はゾンビ企業の末路を市場経済に委ねたように見える。一方で、どの企業が生き残るべきかを消費者ではなく政府が決定する量的緩和は共産主義の定義そのものである。
中国共産党は恒大集団の様なゾンビ企業の始末を市場に委ねようとしている。この意味では中国共産党は量的緩和を推進する日本の自民党よりよほど資本主義的である。
一方で、日本を含め多くの先進国の政治家は票田にばら撒くための政府予算にしがみつくためだけに緩和政策に執着して増税と量的緩和という社会主義政策を推し進めている。
▲△▽▼
量的緩和は政府債務を支えるために行われている。金利を低く抑えられなければ政府は膨大な借金の利払いで他の支出が出来なくなる。他の支出が出来なくなれば何故困るのか。政府予算に依存して利益を得ている人々が利益を得られなくなるからである。だからばら撒き政策は既得権益層をますます裕福にし、その恩恵は中間層には返ってくることはない。
大きな政府と小さな政府
増税と財政出動を組み合わせ、国民から大きく吸い取り大きく吐き出す政府のことを大きな政府と言うが、予算の大きな政府の政治家達が資金を吐き出す時には当然ながら彼らの利益となる場所に資金吐き出すことになる。
日本政府が消費増税を行いオリンピックやGO TOトラベルを強行する理由は何か。一般国民から吸い取って自分の票田である宿泊業界や大手メディア、広告代理店などに吐き出すためである。保守派とは伝統的にこうした政府の利権を認めず政府の予算を縮小しようとする立場のことを言うので、自民党は保守ではない。大半の日本人にはこれが分からないらしい。
MMT論者も大西つねきを少し位は見習ったら
大西つねきがやろうとしていること
https://www.youtube.com/watch?v=Z0aesmYcl0U
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/848.html#c2
1. 中川隆[-16142] koaQ7Jey 2021年10月05日 09:01:30 : 0sTOkIKxFw : QjgzTzYuTDlwT0U=[4]
日銀金融緩和で、消費者物価は下がっているが、生活必需品の価格は上がっていた
需給で大事なのは生活必需品の需給だけ、不要品や高級品まで入れたすべての商品の需給に意味は無い
労働生産性、GDP、需要・供給とか消費者物価指数は経済指標としては使えない
労働生産性というのは賃金額の事だよ、地方の生産性が低いというのは地方の賃金が安いというだけの事だ。
GDPというのは企業や金持ちの所得の事だ、労働者の所得とはあまり関係しない。
やっても やらなくてもいい仕事ばかりの需要・供給は生活必需品の需要・供給とはあまり関係しない。
消費者物価指数というのは高級酒や高級車や贅沢品の価格を反映する物価で、生活必需品の価格とはあまり関係しない。
従って、労働生産性、GDP、需要・供給とか消費者物価指数は経済指標としては使えないのです。
金利が上がらないのは日本だけでなく世界中で起きている現象で、階級社会が完成して内需が壊滅したのが原因です。
奥の院は今 資本主義をグレートリセットして地球人口を3億人まで減らそうとしています。
これから起きるのは共産革命か?、グレートリセットか?
資本主義というのは投資してその利子や配当で稼ぐシステムですが、今は世界中ゼロ金利になっているので、投資では稼げない、つまり資本主義システム自体が世界中で既に破綻しています。
理由は明らかで、国債には利子が付いていて、その金はすべて資本家の所に行くので、格差が開いてマルクスが預言した階級社会になってしまったのです。そうすると内需が壊滅して、新規事業しても稼げないので銀行から金を借りる人が居なくなる、それで金利がゼロなる。
これからは世界中で共産革命の嵐が吹き荒れる時代になります。今世界の支配層が取り組んでいるグレートリセットというのは、共産革命を起こしそうな人間をすべてデジタル管理して、反体制活動を始めたらすぐに抹殺するシステムです。
今は世界中が階級社会になってしまって内需が壊滅したので資本主義の時代はもう終わったと言われています。
銀行から金を借りて新規事業をやっても儲からないですからね。
それで資本主義のグレートリセットをやらないといけないという結論になったのです。
▲△▽▼
人口100人の青い目の人達の村 _ 資本主義村があった。
4人の資本家に支配された労働者庶民96人が住んでいた。
資本家の年俸は2億円、残りの庶民は年俸200万円
全体で9億9200万円の紙幣が循環していた。
資本主義村 では、自動車は6〜7台しか売れず、他の者は自転車だった。
暴動や略奪や薬物中毒・犯罪が頻繁に起こっていて
ズタズタなスラム社会になった。
その村の隣に、共産主義村という人口100人の島国があった。
20人の知恵者をリーダーとした職人庶民80人いた
リーダーの年俸は1440万円、残りの職人は年俸500万円
全体で 資本主義村 より少しすくない6億8800万円の紙幣が循環していた。
その村では、自動車は100台売れた。 自転車も売れた。
あらゆる産業が学問が医療が社会福祉が発展し
インフラが整備されていき、すばらしい街を形成していった。
▲△▽▼
民間銀行は自己資金ゼロでも、顧客に借用書を書いてもらって、融資金額を顧客の銀行預金として記帳するだけでお金が無から生まれると思っているアホが多過ぎる。
そもそも民間銀行が自己資金も持っていないのに顧客に融資したとしたら、顧客が自分が借りた金を日銀券(円紙幣)で引き出したいと言った時に、全く金を持っていない民間銀行が顧客に日銀券を渡せる訳がないですね。
小学生でもわかる道理です。
民間銀行の信用創造というのは民間銀行が自分の持っている日銀当座預金口座の日銀当座預金を日銀券に変えるという意味です。日銀当座預金口座は政府と民間銀行しか作れないので、民間銀行に借金しないと日銀券を発行してもらえないのです。
それが、借金でお金を作る、という意味です。
ゼロからお金を作るのではなく、日銀当座預金を日銀券に変えているだけです。 銀行が顧客に金を貸せるのは、貸す金額と同額の日銀当座預金を持っている場合だけです。
融資が焦げ付いた場合、預金などの他人資本に手を付けるわけにはいかないので、銀行には一定水準以上の自己資本を持つことが義務付けられています。
国際的な業務を営む銀行の場合、自己資本比率=自己資本÷融資額(リスクアセット)×100 の下限は8%、
国内業務に限っている場合には4%
という「自己資本比率規制」があり、これを維持することがBIS(国際決済銀行)によって義務付けられています。
預貸率 : 銀行の預金に対する貸出金の比率
日銀によると、2020年5月の国内銀行の預貸率は63.7%で、2カ月連続で過去最低を更新した。新型コロナウイルスの感染拡大を受け、政府が多額の給付金を支給したり企業が手元資金を厚くしたりしたため、預金が急増した。銀行も貸し出しを増やすが、預金の増加幅を下回る。5月の国内銀行の預金平均残高は前年同月比6.2%増の772兆535億円だった。
日銀金融緩和で、消費者物価は下がっているが、生活必需品の価格は上がっていた
https://www.youtube.com/watch?v=20L9UD0qtwc
中国の元高為替操作によるコストプッシュ インフレが始まった
日本にも悪性の物価上昇が迫っている!
https://www.youtube.com/watch?v=ZhTgq_eGaI4
MMT論者も少し位は見習ったら
大西つねきがやろうとしていること
https://www.youtube.com/watch?v=Z0aesmYcl0U
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/863.html#c1
2. 中川隆[-16141] koaQ7Jey 2021年10月05日 09:35:11 : 0sTOkIKxFw : QjgzTzYuTDlwT0U=[7]
「闇の銀行」 ブラックロック、バンガード、ステート・ストリート
これらは金融業者なのだが、銀行のような規制は受けない。1970年代から始まった金融規制の大幅な緩和によって誕生した。この3社が大株主になっている会社はアメリカの主要500社の9割に近いという。
JPモルガンやゴールドマン・サックスの時代ではなくなっている。
2021.10.05
オフショア市場の支配者を金主とする団体がオフショア市場の実態を暴けるのか?
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202110050000/
ICIJ(国際調査報道ジャーナリスト連合)が「パンドラ文書」なるものを公表した。世界の有力者がオフショア市場を利用して課税を逃れている実態を明らかにしているという。世界の有力者が資産をオフショア市場に隠していることは確かだが、肝心の大物が登場しない。ところが、ジョー・バイデン大統領の息子、ハンターの疑惑を取り上げた新著を無視した有力メディアは「パンドラ文書」に飛びついた。
昔から権力者は資産を隠す仕組みを持っていた。古くはスイス、ルクセンブルグ、オランダ、オーストリア、ベルギー、モナコなど。第1次世界大戦で略奪の危険性が高まり、「タックス・ヘイブン(税金避難地)」は増えたと言われている。
しかし、金融の自由化で投機市場が肥大化しはじめた1970年代から状況は変わる。ロンドンの金融街(シティ)を中心とし、かつての大英帝国をつなぐネットワークが整備されたのだ。
そのネットワークは信託の仕組みが取り入れられ、ジャージー島、ガーンジー島、マン島、ケイマン諸島、バミューダ、英領バージン諸島、タークス・アンド・カイコス諸島、ジブラルタル、バハマ、香港、シンガポール、ドバイ、アイルランドなどが含まれた。ネットワークに資金が入ると、管理人以外はその所有者を知ることができなくなる。
その後、資産隠しの中心はアメリカへ移動する。ロスチャイルド家の金融持株会社であるロスチャイルド社のアンドリュー・ペニーが2015年9月、サンフランシスコ湾を望むある法律事務所で税金を避ける手段について講演したが、その際、税金を払いたくない富豪に対して財産をアメリカへ移すように顧客へアドバイスするべきだと語った。
アメリカこそが最善のタックス・ヘイブンだというわけである。ペニーはアメリカのネバダ、ワイオミング、サウスダコタなどへ銀行口座を移動させるべきだと主張、ロスチャイルドはネバダのレノへ移しているという。
アメリカの大企業は課税から逃れるためにデラウェア州を利用する。この州選出の上院議員を1973年1月から2009年1月まで務めた人物がジョー・バイデンにほかならない。上院議員になった当時、彼に助言していたW・アベレル・ハリマンはエール大学でスカル・アンド・ボーンズという学生の秘密結社に入っていた。ジョージ・W・ブッシュ、ジョージ・H・W・ブッシュ、プレスコット・ブッシュも同じ結社のメンバーだった。
プレスコット・ブッシュは義父のジョージ・ハーバート・ウォーカーの下でブラウン・ブラザーズ・ハリマンやユニオン・バンキング・コーポレーションの重役を務めていた。同僚としてW・アベレル・ハリマンも働いていたが、ふたりの金融機関はウォール街からナチへ資金を流す主要ルートに含まれていたと言われている。
デラウェア州を拠点にしている企業の中にブラックロック、バンガード、ステート・ストリートといった「闇の銀行」も含まれている。これらは金融業者なのだが、銀行のような規制は受けない。1970年代から始まった金融規制の大幅な緩和によって誕生した。この3社が大株主になっている会社はアメリカの主要500社の9割に近いという。JPモルガンやゴールドマン・サックスの時代ではなくなっている。
これまで資産隠しに関係したリークが何度かあった。例えばパナマ文書、ルクセンブルク文書、バハマ文書、パラダイス文書、そしてパンドラ文書だが、肝心の大物が出てこない。シティを中心とするネットワークやアメリカを拠点とする仕組みに触れられていないからだ。ICIJが資産隠しのシステムに切り込んだのなら、多国籍企業や世界の富豪が名を連ねていなければならない。
ICIJは「60ミニッツ」のプロデューサーだったチャールズ・ルイスが1997年にCPI(公共誠実センター)のプロジェクトとして創設、スポンサーとしてジョージ・ソロスのオープン・ソサエティ財団、ロックフェラー兄弟基金、ロックフェラー・ファミリー基金、カーネギー社、フォード財団、投資信託のフィデリティ・ブローカレージなどが名を連ねている。これがICIJの正体。ロスチャイルドは基本的に姿を現さないことで知られ、ここでも名前が出てこないのだが、ソロスとの関係が緊密だということは本ブログでも書いてきた。こうしたことを理解した上で、ICIJが公表する文書を読む必要がある。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202110050000/
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1118.html#c2
税金を上げて日本の輸出企業・多国籍企業をアメリカに追い出そう
アメリカはタックスヘイブン 富裕層は税金払わず
富裕層の税率は1%から3%で中間層は10%以上
しかも富裕層に相続税は無い
アメリカはタックスヘイブンだった
資産10兆円のwバフェットは以前、「私より使用人のほうが納税額が多い」と言っていました。
それだけアメリカの富裕層は納税しておらず、富裕層に増税するべきだという趣旨でした。
その後も富裕層増税は行われずバフェットだけが自主的に納税した話も聞かないので、相変わらず特権を甘受している。
バフェットは2016年にトランプとの論争で納税額を公表しているので、その時の数字を書いてみたい。
バフェットの2015年の総所得は1156万ドルで547万ドルの税控除を受け、184万ドル(約1.9億円)の連邦所得税を支払った。
この時トランプは過去の事業損失を利用し最大18年間連邦所得税を支払っていなかったと報じられていた。
バフェットは真面目に払っているようだがおかしな点があり、年収11億円で資産10兆円になるには1000年もかかる。
バフェットの資産の多くは株や土地や権利に化けていて、それらの増加にはおそらく所得税がかかっていない。
2015年はチャイナショックがあったがアメリカは好景気だったので、バフェットの年収はこの10倍以上ないとおかしい。
アメリカの富裕層は相続税も払っておらず、資産数兆円ともなると相続税を払わなくてもいい仕組みがある。
ビルゲイツは資産13兆円で、2017年頃に「資産全額を寄付する。もうお金に興味が無い」と言って世界を驚かせた。
これには裏がありビルゲイツはゲイツ財団をつくり資産を寄付したが、財団は営利事業をして出資者に配当金を出す。
富裕層ならアメリカが断然有利
ゲイツが100%出して財団が年1000億円の利益を上げたとすると、1000億円がゲイツに支払われる。
娘や息子を財団役員にすると配当は子供に支払われ、事実上相続税なしで13兆円を子供に渡すことが出来る。
つまりアメリカの富裕層は年収の1%も税金を払っておらず、相続税は1ドルも払っていない(払おうとすれば払える)
アメリカの資産家は事実上非課税なので、政府に邪魔されずいくらでも資産を増やし事実上のタックスヘイブンになっている。
パナマ諸島は非課税のタックスヘイブンで知られているが、実は世界最大のタックスヘイブンはアメリカでした。
アメリカは1980年代からGDPが数倍になったが、豊かになったのは富裕層だけで中間層以下は貧しくなった。
先日アメリカの非営利報道機関がアマゾン創業者ベゾスら富裕層のの納税額を調査し発表していました。
上位25人の合計資産価値は2014年から18年に約4010億ドル(約43兆円)増えたが、払った所得税は136億ドルだった。
つまり資産にかけられた税率は3.3%で、消費した金額もある筈なので税率はもっと低い。
結論として非営利の米報道機関プロパブリカは「米国の富裕層は税金を払っていない」としている。
アメリカでは大統領選や議会選挙の寄付のほとんどを富裕層が出しているので、富裕層優遇を改める政治家はいない。
わたしも富裕層だったらアメリカに住みたいと思います
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ICIJ(国際調査報道ジャーナリスト連合)が「パンドラ文書」なるものを公表した。世界の有力者がオフショア市場を利用して課税を逃れている実態を明らかにしているという。世界の有力者が資産をオフショア市場に隠していることは確かだが、肝心の大物が登場しない。ところが、ジョー・バイデン大統領の息子、ハンターの疑惑を取り上げた新著を無視した有力メディアは「パンドラ文書」に飛びついた。
昔から権力者は資産を隠す仕組みを持っていた。古くはスイス、ルクセンブルグ、オランダ、オーストリア、ベルギー、モナコなど。第1次世界大戦で略奪の危険性が高まり、「タックス・ヘイブン(税金避難地)」は増えたと言われている。
しかし、金融の自由化で投機市場が肥大化しはじめた1970年代から状況は変わる。ロンドンの金融街(シティ)を中心とし、かつての大英帝国をつなぐネットワークが整備されたのだ。
そのネットワークは信託の仕組みが取り入れられ、ジャージー島、ガーンジー島、マン島、ケイマン諸島、バミューダ、英領バージン諸島、タークス・アンド・カイコス諸島、ジブラルタル、バハマ、香港、シンガポール、ドバイ、アイルランドなどが含まれた。ネットワークに資金が入ると、管理人以外はその所有者を知ることができなくなる。
その後、資産隠しの中心はアメリカへ移動する。ロスチャイルド家の金融持株会社であるロスチャイルド社のアンドリュー・ペニーが2015年9月、サンフランシスコ湾を望むある法律事務所で税金を避ける手段について講演したが、その際、税金を払いたくない富豪に対して財産をアメリカへ移すように顧客へアドバイスするべきだと語った。
アメリカこそが最善のタックス・ヘイブンだというわけである。ペニーはアメリカのネバダ、ワイオミング、サウスダコタなどへ銀行口座を移動させるべきだと主張、ロスチャイルドはネバダのレノへ移しているという。
アメリカの大企業は課税から逃れるためにデラウェア州を利用する。この州選出の上院議員を1973年1月から2009年1月まで務めた人物がジョー・バイデンにほかならない。上院議員になった当時、彼に助言していたW・アベレル・ハリマンはエール大学でスカル・アンド・ボーンズという学生の秘密結社に入っていた。ジョージ・W・ブッシュ、ジョージ・H・W・ブッシュ、プレスコット・ブッシュも同じ結社のメンバーだった。
プレスコット・ブッシュは義父のジョージ・ハーバート・ウォーカーの下でブラウン・ブラザーズ・ハリマンやユニオン・バンキング・コーポレーションの重役を務めていた。同僚としてW・アベレル・ハリマンも働いていたが、ふたりの金融機関はウォール街からナチへ資金を流す主要ルートに含まれていたと言われている。
デラウェア州を拠点にしている企業の中にブラックロック、バンガード、ステート・ストリートといった「闇の銀行」も含まれている。これらは金融業者なのだが、銀行のような規制は受けない。1970年代から始まった金融規制の大幅な緩和によって誕生した。この3社が大株主になっている会社はアメリカの主要500社の9割に近いという。JPモルガンやゴールドマン・サックスの時代ではなくなっている。
これまで資産隠しに関係したリークが何度かあった。例えばパナマ文書、ルクセンブルク文書、バハマ文書、パラダイス文書、そしてパンドラ文書だが、肝心の大物が出てこない。シティを中心とするネットワークやアメリカを拠点とする仕組みに触れられていないからだ。ICIJが資産隠しのシステムに切り込んだのなら、多国籍企業や世界の富豪が名を連ねていなければならない。
ICIJは「60ミニッツ」のプロデューサーだったチャールズ・ルイスが1997年にCPI(公共誠実センター)のプロジェクトとして創設、スポンサーとしてジョージ・ソロスのオープン・ソサエティ財団、ロックフェラー兄弟基金、ロックフェラー・ファミリー基金、カーネギー社、フォード財団、投資信託のフィデリティ・ブローカレージなどが名を連ねている。これがICIJの正体。ロスチャイルドは基本的に姿を現さないことで知られ、ここでも名前が出てこないのだが、ソロスとの関係が緊密だ
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/865.html
エリック・サティ(Erik Alfred Leslie Satie、1866 - 1925)
いま聴いても新鮮な独自世界を築いた人。浮遊感とか浮世離れした神秘性など、21世紀っぽい感性を持っていると思う。
3つのジムノペディ - 1888年
グノシエンヌ(6曲) - 1890年
ヴェクサシオン(嫌がらせ) - 1893-1895年
ジュ・トゥ・ヴー
エリック・アルフレッド・レスリ・サティ(Érik Alfred Leslie Satie フランス語: [eʁik sati]、1866年5月17日 - 1925年7月1日)は、フランスの作曲家。音楽界の異端児、音楽界の変わり者などと称され、ドビュッシー、ラヴェルにも影響を与えた。
ノルマンディーのオンフルール生まれ。サティの若年期に亡くなった母親はスコットランド系。イギリス国教会で育った。幼少期から家族は、オンフルールとパリとの間を往き来していた。
パリ音楽院在学中、指導教授から才能が無いと否定され、1885年に2年半あまりで除籍になった。その間、1884年に処女作のピアノ小品『アレグロ (fr) 』を作曲した。その他、『オジーヴ』、『ジムノペディ』、『グノシエンヌ』などを発表。
1887年からモンマルトルに居住し、1890年からコルト通り(Rue Cortot) 6番地に居住。モンマルトルのカフェ・コンセール『黒猫』に集う芸術家の1人となり、クロード・ドビュッシー、さらにコクトーやピカソらと交流(のちにカフェ・コンセール『オーベルジュ・デュ・クル』に移る)。バレエ・リュスのために『パラード』を作曲。またカフェ・コンセールのためのいくつかの声楽曲を書く。よく知られる『ジュ・トゥ・ヴー』はこの時の作品。薔薇十字教団と関係し、いくつかの小品を書く。同一音形を繰り返す手法を用いた『ヴェクサシオン』『家具の音楽』なども書いた。
なお『家具の音楽』というのは彼が自分の作品全体の傾向を称してもそう呼んだとされ、主として酒場で演奏活動をしていた彼にとって、客の邪魔にならない演奏・家具のように存在している音楽というのは重要な要素だった。そのことから彼は現在のイージーリスニングのルーツのような存在であるともいえる。また『官僚的なソナチネ』『犬のためのぶよぶよとした前奏曲』『冷たい小品』『梨の形をした3つの小品』『胎児の干物』『裸の子供たち』のように、作品に奇妙な題名をつけたことでも知られる。
1893年以降、画家シュザンヌ・ヴァラドンと近しくなる。
1898年からパリの3qほど南部近郊アルクイユに居住。フランス社会党及びフランス共産党にも党籍を置いていた(当初は社会党に入党していたが、共産党結党と同時に移籍)。
1919年になるとダダイズムのトリスタン・ツァラ等と知り合い、フランシス・ピカビア、アンドレ・ドラン、マルセル・デュシャン、マン・レイなどを紹介された。最初の出会い時にツァラからレディ・メイドを贈られた。ツァラとアンドレ・ブルトンとの紛争にもツァラ側に立って仲を取り持った。
アルコール中毒が原因で、1925年7月1日にパリ14区のサン=ジョゼフ病院 (fr) で亡くなった。
作風
それまでの調性音楽のあり方が膨張していた時代に、彼は様々な西洋音楽の伝統に問題意識を持って作曲し続け、革新的な技法を盛り込んでいった。たとえば、若い頃に教会に入り浸っていた影響もあり、教会旋法を自作品に採り込んだのは、彼の業績の一つである。そこでは調性は放棄され、和声進行の伝統も無視され、並行音程・並行和音などの対位法における違反進行もが書かれた。
後にドビュッシーやラヴェルも、旋法を扱うことによって、既存の音楽にはなかった新しい雰囲気を醸し出すことに成功しているが、この大きな潮流は、サティに発するものである。
生涯サティへの敬意について公言し続けたラヴェルは、ドビュッシーこそが並行和音を多く用いた作曲家だと世間が見なしたことに不満を呈しており、その処女作『グロテスクなセレナード』において既にドビュッシーよりも自分が先に並行和音を駆使したと述べ、それがサティから影響を受けた技法であることにも触れている。
また、彼の音楽は厳密な調性からはずれた自由な作風のため、調号の表記も後に捨てられた。したがって、臨時記号は1音符ごとに有効なものとして振られることになった。拍子についても自由に書き、拍子記号・小節線・縦線・終止線も後に廃止された。調号を書かずとも、もしそこの音の中に調性があればそれが現実であり、拍子記号や小節線などを書かずとも、もしそこの音の中に拍子感があればそれが現実であるとみなしていたため、実際には、それらが書かれていないからといって、調性や拍子が必ずしも完全に存在しないわけではなかった。散文的に、拍節が気紛れに変動するような作品も多く存在し、調性とはほど遠い楽句や作品も多く生み出されている。これらは、どんな場合にも完全に放棄されたわけでなく、最晩年の『ノクターン』や『家具の音楽』のように、読譜上の便宜面からの配慮によって、拍子記号・調性記号・小節線を採用した作品がまれにある。
拍子のあり方についての新しい形は、特にストラヴィンスキーがそれを受け継ぎ、大きく発展させ、後のメシアンへと続くことになった革新の発端と見なされている。また、記譜法についての問題提起は、後の現代音楽における多くの試みの発端とされ、図形楽譜などにまでつながる潮流の源流になっている。
調性崩壊のひとつの現象として、トリスタン和音が西洋音楽史上の記念碑と見なされているが、それが依然として3度集積による和声だったのに対し、サティは3度集積でない自由で複雑な和音を彼の耳によって組み込んだ。これは、解決されないアッチャカトゥーラや3度集積によらない和音を書いたドメニコ・スカルラッティ以降はじめての和声的な革新とされている。この影響によって、印象主義からの音楽においては、自由な和声法による広い表現が探求されることになった。
また、音楽美学的見地においても彼は多くのあり方を導入したとされ、鑑賞するだけの芸術作品ではない音楽のあり方をも示した。『家具の音楽』に縮約されているように、ただそこにあるだけの音楽という新しいあり方は、ブライアン・イーノやジョン・ケージたちによる環境音楽に影響を与えた[1]。また、『ヴェクサシオン』における840回の繰り返し・『古い金貨と古い鎧』第3曲結尾部における267回の繰り返し・『スポーツと気晴らし』第16曲「タンゴ」や映画『幕間』のための音楽における永遠の繰り返しは、スティーヴ・ライヒたちによるミニマル・ミュージックの先駆けとされている[2]。
サティが始めた多くの革新は、過去の音楽や、他の民族音楽などの中に全くないものではなかったものの、ほとんどが彼独自のアイデアにもとづいたものであるため、現代音楽の祖として評価は高く、多くの作曲家がサティによる開眼を公言している。
最後の作品となったバレエ『本日休演』では、幕間に上映された映画『幕間』のための音楽も担当した。またその映画の中でフランシス・ピカビアと共にカメオ出演もしており、最晩年の姿を見ることができる。
生涯
1866年 - 5月17日オンフルールにて誕生。聖公会で洗礼をうける。
1870年 - 父アルフレッド・サティが海運業をやめ、パリに移住。
1872年 - スコットランド人の母ジェイン死亡。オンフルールに住む父方の祖父母に預けられ、カトリックとして再度洗礼。教会のパイプオルガンに魅せられ入り浸る。
1874年 - 祖父ジュール・サティがエリックにヴィーノのもとで音楽を学ばせる。
1878年 - 祖母ユラーリがオンフルールの浜辺で溺死体で発見される。サティは父のいるパリへ再度移住。
1879年 - パリ音楽院に入学。父アルフレッドがピアノ教師だったユージェニ・バルネシュと再婚。
1886年 - 音楽院が退屈すぎ退学する。
1887年 - シャンソン酒場のピアノ弾きになる。
1889年 - パリ万博で日本の歌謡にふれる。
1890年 - 薔薇十字教団創始者ジョセファン・ペラダンと出会う。
1891年 - 聖杯の薔薇十字教団聖歌隊長に任命される。
1893年 - シュザンヌ・ヴァラドンと交際を始め、彼女に300通を超える手紙を書く。6ヵ月後に絶交。
1904年 - スコラ・カントルム入学。
1905年 - シュヴィヤール演奏会の会場で雨傘で決闘し、警察に留置される。
1908年 - スコラ・カントルム卒業。パリ郊外アルクイユの急進社会主義委員会に入党。
1914年 - 詩人ジャン・コクトーと知り合う。
1919年 - パリのダダの芸術家たちと交流し、自身もメンバーとなる。
1925年 - 7月1日聖ジョセフ病院にて肝硬変のため死去。アルクイユの公共墓地に埋葬。
作品
舞台作品
あやつり人形劇『ブラバンのジュヴィエーヴ』- 1899年
喜歌劇『思春期』(別名「愛の芽生え」「いとしい奴」とも)
劇付随音楽『星たちの息子』(フルート・ハープによる原曲は消失)- 1891年
バレエ音楽『ユスピュ』- 1892年
喜歌劇『メドゥーサの罠』- 1913年
バレエ音楽『パラード』- 1917年
劇付随音楽『ソクラテス』- 1920年
グノーの歌劇『にわか医師』のためのレチタティーヴォ - 1923年
パントマイム『びっくり箱』- 1929年(編曲)
バレエ音楽『メルキュール』- 1924年
バレエ音楽『本日休演(ルラーシュ)』- 1924年
バレエ幕間に上映された「映画『幕間』のための音楽」を含む
「救いの旗」のための頌歌
ナザレ人
天国の英雄的な門への前奏曲
夢見る魚
サーカス劇『5つのしかめっ面』- 1914年
ピアノ曲(作曲年代順)
アレグロ
ワルツ=バレエ - 1885年
幻想ワルツ - 1885年
4つのオジーヴ(尖弓形)- 1886年
3つのサラバンド - 1887年
3つのジムノペディ - 1888年
グノシエンヌ(6曲)- 1890年
薔薇十字教団の最初の思想 - 1891年
「星たちの息子」への3つの前奏曲 - 1891年
バラ十字教団のファンファーレ - 1892年
ナザレ人の前奏曲I、II - 1892年
エジナールの前奏曲 - 1892年?
祈り - 1893年から1895年(断片)
ヴェクサシオン(嫌がらせ) - 1893年から1895年
ゴシック舞曲(副題「我が魂の大いなる静けさと堅固な平安のための9日間の祈祷崇拝と聖歌隊的協賛」)- 1893年
天国への英雄的な門への前奏曲 - 1894年
冷たい小品 - 1897年
舞踏への小序曲 - 1900年
貧しき者の夢想(Robert Cabyによる校訂)- 1900年
世俗的で豪華な唱句 - 1900年
愛撫 - 1897年
ジュ・トゥ・ヴー - 1900年
エンパイア劇場のプリマドンナ
金の粉
ピカデリー
夢見る魚
ビックリ箱 - 1899年
壁紙的な前奏曲 - 1906年
パッサカリア - 1906年
12の小コラール - 1906年
2つの夜の夢 - 1911年
新・冷たい小品 - 1906年?
〈犬のための〉ぶよぶよした前奏曲 - 1912年
〈犬のための〉ぶよぶよした本当の前奏曲 - 1912年
自動記述法 - 1913年
干からびた胎児 - 1913年
あらゆる意味にでっちあげられた数章 - 1913年
でぶっちょ木製人形へのスケッチとからかい - 1913年
古い金貨と古い鎧 - 1913年
子供の音楽集 - 1913年
童話音楽の献立表
絵に描いたような子供らしさ
はた迷惑な微罪
新・子供の音楽集 - 1913年
メドゥーサの罠
踊る操り人形
5つのしかめっ面
世紀的な時間と瞬間的な時間 - 1914年
嫌らしい気取り屋の3つの高雅なワルツ - 1914年
最後から2番目の思想 - 1915年
スポーツと気晴らし(全21曲)- 1914年
ラグ・タイム・パラード
官僚的なソナチネ(全3楽章)- 1917年
5つの夜想曲(3つの夜想曲 + 第4と第5の夜想曲)- 1919年
パンダグリュエルの幼年時代の夢 - 1919年
最初のメヌエット - 1920年
シネマ
梨の形をした3つの小品(4手連弾)- 1903年
不愉快な概要(4手連弾)- 1908年から1912年
馬の装具で(4手連弾)- 1911年
パラード
組み立てられた3つの小品(4手連弾と小管弦楽団)
風変わりな女(管弦楽曲、または4手連弾) - 1920年
ハンガリーの歌(未完)
「ヒザンティン帝国の王子」前奏曲(消失)
クリスマス(消失)
詩篇(消失)
バレエのための物語(消失)
アリーヌ・ポルカ
2つの物
バスクのメヌエット
不思議なコント作家
ピエロの夕食
シャツ
フーガ・ワルツ
「思い出」のライトモティーフ
野蛮な歌
皿の上の夢
薔薇の指への夜明け
若い令嬢のためにノルマンディの騎士によって催された祝宴
そのほかの器楽曲
右や左に見えるもの〜眼鏡無しで(全3曲、ヴァイオリンとピアノ)- 1914年から1915年
いつも片目を開けて眠るよく肥った猿の王様を目覚めさせる為のファンファーレ(2トランペット)- 1921年
2つの弦楽四重奏曲 - 作曲年不詳
再発見された像の娯楽(オルガンとトランペット)
シテール島への船出(ヴァイオリンとピアノ)
家具の音楽 - 1920年
宗教曲
貧者のミサ
信仰のミサ(オルガン曲)(消失)
歌曲
3つの歌曲
花
シャンソン
やさしく
こんにちは、ビキ
エリゼ宮の晩餐会
男寡
魔女
ピカドールは死んだ
子供の殉教
空気の幽霊
オックスフォード帝国(歌詞散逸)
歌詞のない3つの歌曲
いいともショショット
中世の歌
3つの恋愛詩
4つのささやかなメロディ
潜水人形
十代の合唱
神の赤い信条
ベストを着た肖像
おーい! おーい!
医者の家で
戦いの前日
ポールとヴィルジニー
大きな島の王様
ロクサーヌ(消失)
乗り合いバス
カリフォルニアの伝説
語録
「肝心なのはレジオン・ドヌール勲章を拒絶することではないんだよ。なんとしても勲章など受けるような仕事をしないでいることが必要なんだ」(ジャン・コクトーに対して)
「皆自分たちのしたいことをちょっとやりすぎると、君は思わないかい」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%86%E3%82%A3
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/788.html
エリック・サティ 『ジムノペディ 第1番』
Erik Satie - Gymnopédies, 1. Lent et douloureux (01)
Daniel Varsano, Philippe Entremont - Erik Satie: Piano Works
Erik Satie - Gymnopédies No. 1 and 3 | Symfonieorkest Vlaanderen
Symfonieorkest Vlaanderen / Flanders Symphony Orchestra
Jan Latham-Koenig, conductor
Nathalie Gaudefroy, solist
Recorded 18.05.2014 at deSingel Antwerpen
▲△▽▼
『ジムノペディ』 (Gymnopédies) は、エリック・サティが1888年に作曲したピアノ独奏曲。
第1番から第3番までの3曲で構成され、それぞれに指示があり、
第1番「ゆっくりと苦しみをもって」 (Lent et douloureux)
第2番「ゆっくりと悲しさをこめて」 (Lent et triste)
第3番「ゆっくりと厳粛に」 (Lent et grave)
となっている。
3/4拍子のゆったりとしたテンポ、装飾を排した簡素な曲調、独特の愁いを帯びた旋律が特徴として挙げられ、特に第1番がサティの代表的な作品として、タイトルとともに知られるようになった。
『ジムノペディ』という名称は、大勢の青少年が古代ギリシアのアポロンやバッカスなどの神々をたたえる祭典「ギュムノパイディア(英語版)」(古代ギリシア語: Γυμνοπαιδίαι)に由来しており、サティはこの祭りの様子を描いた古代の壺を見て曲想を得たといわれる。
何日間もアポロンの神々を讃えて裸身の若者達が神々の像の前で踊り、合唱し、詩を朗唱する儀式である。
また、一説には彼が愛読してやまなかったギュスターヴ・フローベールの小説『サランボー』からインスピレーションを得て作曲したとも言われている[2]。
あまり表舞台に出たがらないサティのために、友人であったクロード・ドビュッシーによって1897年に、ピアノ曲からより大きな規模による演奏形態である管弦楽曲に編曲された(第1番と第3番)。「なぜ第2番を編曲しなかったのか?」という問いに、ドビュッシーは「第2番まで編曲して聞かせるには少し退屈だから」と答えたといわれる。また編曲の際、ドビュッシーの意図により元の第1番は第3番として、第3番は第1番として番号をひっくり返している。
日本での普及
日本では、戦前に早坂文雄と共にサティ作品の演奏・紹介に努めていた伊福部昭が、1951年に著した『音楽入門―音楽鑑賞の立場』において「人類が生みえたことを神に誇ってもよいほどの傑作」と絶賛していたが、当時は曲自体ほとんど知られることはなかった。
1963年公開のフランス映画『鬼火』(ルイ・マル監督、モーリス・ロネ主演)がこの曲をフィーチャーしたことにより、一躍世界的に知られるようになった。その後、1975年に東京都豊島区池袋に開館した西武美術館において、それまでタブーとされていた美術館内での環境音楽として使用され、日本でもこの曲が広く知られるようになった。
この曲には気分を落ち着かせるヒーリング効果もあるとされ、例えば病院における血圧測定中に心身の緊張をほぐすBGMとして流されたり、精神科などでは音楽療法の治療の一環として使用されることもある。また、演劇やTV番組の静かな場面でのBGMとして流されることも多い。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A0%E3%83%8E%E3%83%9A%E3%83%87%E3%82%A3
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1. 中川隆[-16140] koaQ7Jey 2021年10月05日 11:37:50 : 0sTOkIKxFw : QjgzTzYuTDlwT0U=[9]
サティ ピアノ曲全集1
Satie: Complete Piano Works Vol.1
The Tracklist you can find below:
00:00:00 Sarabandes (1887): 1ère
00:05:09 Sarabandes (1887): 2ème
00:09:39 Sarabandes (1887): 3ème
00:14:50 Gymnopédies (1888): 1ère
00:18:12 Gymnopédies (1888): 2ème
00:20:56 Gymnopédies (1888): 3ème
00:23:30 Trois Gnossiennes 1890 (1889-1893): 1 (1891?)
00:27:12 Trois Gnossiennes 1890 (1889-1893): 2 (1893)
00:29:12 Trois Gnossiennes 1890 (1889-1893): 3 (1890)
00:32:04 4ème Gnossienne (1891)
00:35:42 5ème Gnossienne (1889)
00:39:10 6ème Gnossienne (1897)
00:40:48 7ème Gnossienne (1891)
00:44:54 Pièces froides (1897): Airs à faire fuir I
00:46:39 Pièces froides (1897): Airs à faire fuir II
00:48:10 Pièces froides (1897): Airs à faire fuir III
00:50:35 Pièces froides (1897): Danses de travers I
00:53:29 Pièces froides (1897): Danses de travers II
00:54:39 Pièces froides (1897): Danses de travers III
00:57:40 Nouvelles Pièces froides (1907): Sur un mur
01:00:02 Nouvelles Pièces froides (1907): Sur un arbre
01:02:12 Nouvelles Pièces froides (1907): Sur un pont
01:04:36 Fête donnée par des chevaliers normands en l’ honneur d’une jeune demoiselle (Xième siècle) (1887?)
01:08:38 Ogives (1886 - 1889?): I.
01:10:55 Ogives (1886 - 1889?): II.
01:14:14 Ogives (1886 - 1889?): III.
01:16:34 Ogives (1886 - 1889?): IV.
01:19:57 Leit-motiv du “Panthée” (1891)
01:21:09 Première Pensée Rose Croix (1891)
01:22:42 Sonneries de la Rose Croix (1892): Air de l’Ordre
01:27:32 Sonneries de la Rose Croix (1892): Air du Grand Maître
01:33:45 Sonneries de la Rose Croix (1892): Air du Grand Prieur
01:37:28 Danses gothiques (1893): 1. À l’occasion d’une grande peine
01:40:47 Danses gothiques (1893): 2. Dans laquelle les Pères de la très véritabel et très sainte Église sont invoques
01:41:35 Danses gothiques (1893): 3. En faveur d’un malheureux
01:41:53 Danses gothiques (1893): 4. À propos de Saint Bernard et de Sainte Lucie
01:42:34 Danses gothiques (1893): 5. Pour les pauvres Trépassés
01:45:21 Danses gothiques (1893): 6. Où il est question du perdon des injures reçues
01:46:17 Danses gothiques (1893): 7. Par pitié pour les ivrognes, honteux, débauchés, imparfaits, désagréables et aussaires en tous genres
01:46:51 Danses gothiques (1893): 8. En le haut honneur du vénéré Saint Michel, le gracieux archange
01:47:37 Danses gothiques (1893): 9. Après avoir obtenu la remise de ses fautes
01:48:24 Modéré (1893)
01:49:39 Douze petits Chorals (1906-1908): I.
01:50:46 Douze petits Chorals (1906-1908): II.
01:51:21 Douze petits Chorals (1906-1908): III.
01:52:06 Douze petits Chorals (1906-1908): IV.
01:52:44 Douze petits Chorals (1906-1908): V.
01:53:16 Douze petits Chorals (1906-1908): VI.
01:54:19 Douze petits Chorals (1906-1908): VII.
01:54:40 Douze petits Chorals (1906-1908): VIII.
01:55:14 Douze petits Chorals (1906-1908): IX.
01:55:47 Douze petits Chorals (1906-1908): X.
01:56:46 Douze petits Chorals (1906-1908): XI.
01:57:38 Douze petits Chorals (1906-1908): XII.
01:58:32 Verset laîque & somptueux (1900)
01:59:59 The Dreamy Fish ou Le Poisson rêveur (1901)
02:07:25 Préludes flasques pour un chien (1912): 1. Voix d’ intérieur
02:08:13 Préludes flasques pour un chien (1912): 2. Idylle cynique
02:09:16 Préludes flasques pour un chien (1912): 3. Chanson canine
02:10:56 Préludes flasques pour un chien (1912): 4. Sous la Futaille
02:12:31 Véritables Préludes flasques pour un chien (1912): 1. Sévère Reprimande
02:13:34 Véritables Préludes flasques pour un chien (1912): 2. Seul à la maison
02:14:45 Véritables Préludes flasques pour un chien (1912): 3. On joue
02:15:42 Descriptions automatiques (1913): 1. Sur un Vaisseau
02:17:39 Descriptions automatiques (1913): 2. Sur une Lanterne
02:19:36 Descriptions automatiques (1913): 3. Sur un Casque
02:20:46 Embryons desséchés (1913): I. d’Holothurie
02:23:03 Embryons desséchés (1913): II. d’Édriophtalma
02:25:56 Embryons desséchés (1913): III. de Podophtalma
02:27:46 Croquis & agaceries d’un gros bonhomme en bois (1913): I. Tyrolienne turque
02:29:25 Croquis & agaceries d’un gros bonhomme en bois (1913): II. Danse maigre (à la manière de ces messieurs)
02:31:29 Croquis & agaceries d’un gros bonhomme en bois (1913): III. Españaña
02:33:21 Chapitres tournés en tous sens (1913): I. Celle qui parle trop
02:34:22 Chapitres tournés en tous sens (1913): II. Le Porteur de grosses pierres
02:36:46 Chapitres tournés en tous sens (1913): III. Regrets des enfermés (Jonas et Latude)
02:38:57 Vieux Sequins & Vieilles Cuirasses (1913): I. Chez le Marchand d’or (Venise, XIIIe siècle)
02:41:11 Vieux Sequins & Vieilles Cuirasses (1913): II. Danse cuirassée (période grecque)
02:42:20 Vieux Sequins & Vieilles Cuirasses (1913): III. La Défaite des Cimbres (cauchemar)
02:44:29 Heures séculaires & instantanées (1914): I. Obstacles venimeux
02:46:16 Heures séculaires & instantanées (1914): II. Crépuscule matinal (de midi)
02:47:22 Heures séculaires & instantanées (1914): III. Affolements granitiques
02:48:23 Les trois Valses distinguées DU précieux dégoûté (1914): I. Sa Taille
02:49:26 Les trois Valses distinguées DU précieux dégoûté (1914): II. Son Binocle
02:50:45 Les trois Valses distinguées DU précieux dégoûté (1914): III. Ses Jambes
02:51:39 Avant-dernières Pensées (1915): I. Idylle
02:52:53 Avant-dernières Pensées (1915): II. Aubade
02:54:39 Avant-dernières Pensées (1915): III. Méditation
02:55:35 Sonatine bureaucratique (1917): I. Allegro
02:56:54 Sonatine bureaucratique (1917): II. Andante
02:58:22 Sonatine bureaucratique (1917): III. Vivace
03:00:09 Allegro (1884)
03:00:42 Valse-Ballet (1887)
03:02:48 Fantaisie-Valse (1887)
03:05:09 Petite Ouverture à danser
03:07:04 Poudre d’or (1902)
03:12:53 Je te veux (1897- 1904)
03:18:53 Le “Piccadilly” (1904)
03:20:51 Passacaille (1906)
03:23:49 Trois nouvelles Enfantines (1913): I. Le vilain petit Vaurien
03:24:15 Trois nouvelles Enfantines (1913): II. (Berceuse)
03:25:22 Trois nouvelles Enfantines (1913): III. La gentille toute petite Fille
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/789.html#c1
2. 中川隆[-16139] koaQ7Jey 2021年10月05日 11:39:45 : 0sTOkIKxFw : QjgzTzYuTDlwT0U=[10]
サティ ピアノ曲全集2
Satie Complete Piano Works Vol.2
Tracklist:
00:00:00 L’ Enfance de Ko-Quo (1913): I. Ne bois pas ton chocolat avec tes doigts
00:00:53 L’ Enfance de Ko-Quo (1913): II. Ne souffle pas dans tes oreilles
00:01:30 L’ Enfance de Ko-Quo (1913): III. Ne mets pas ta tête sous ton bras
00:02:14 Menus Propos enfantins (1913): I. Le Chant guerrier du Roi des Haricots
00:03:11 Menus Propos enfantins (1913): II. Ce que dit la Princesse des Tulipes
00:03:44 Menus Propos enfantins (1913): III. Valse du chocolat aux amandes
00:04:53 Enfantillages pittoresques (1913): I. Petit Prélude à la journée
00:06:00 Enfantillages pittoresques (1913): II. Berceuse
00:07:17 Enfantillages pittoresques (1913): III. Marche du grand escalier
00:08:35 Peccadilles importunes (1913): I. Être jaloux de son camarade qui a une grosse tête
00:09:15 Peccadilles importunes (1913): II. Lui manger sa tartine
00:10:14 Peccadilles importunes (1913): III. Profiter de ce qu’il a des cors aux pieds pour lui prendre son cerceau
00:10:50 Sports & divertissements (1914): Choral inappétissant
00:11:47 Sports & divertissements (1914): La Balançoire
00:12:43 Sports & divertissements (1914): La Chasse
00:13:06 Sports & divertissements (1914): La Comédie italienne
00:13:54 Sports & divertissements (1914): Le Réveil de la Mariée
00:14:24 Sports & divertissements (1914): Colin-Maillard
00:15:18 Sports & divertissements (1914): La Pêche
00:16:06 Sports & divertissements (1914): Le Yachting
00:17:08 Sports & divertissements (1914): Le Bain de mer
00:17:48 Sports & divertissements (1914): Le Carnaval
00:18:26 Sports & divertissements (1914): Le Golf
00:19:08 Sports & divertissements (1914): La Pieuvre
00:19:40 Sports & divertissements (1914): Les Courses
00:20:05 Sports & divertissements (1914): Les Quatre-coins
00:20:59 Sports & divertissements (1914): Le Pique-nique
00:21:34 Sports & divertissements (1914): Le Water-chute
00:22:15 Sports & divertissements (1914): Le Tango perpétuel
00:23:49 Sports & divertissements (1914): Le Traîneau
00:24:26 Sports & divertissements (1914): Le Flirt
00:25:04 Sports & divertissements (1914): Le Feu d’artifice
00:25:38 Sports & divertissements (1914): Le Tennis
00:26:20 Premier Menuet (1920)
00:28:32 Rêverie (1920-1921)
00:30:36 Préludes du “Fils des Étoiles” (1891): I. La Vocation
00:34:45 Préludes du “Fils des Étoiles” (1891): II. L’ Initiation
00:38:11 Préludes du “Fils des Étoiles” (1891): III. L’ Incantation
00:42:35 Prélude du “Nazaréen”: 1er Prélude
00:49:43 Prélude du “Nazaréen”: 2ème Prélude
00:54:11 Prélude du “Nazaréen”: Prélude d’ ”Éginhard” (1892?)
00:56:31 Prélude de “La Porte héroïque du Ciel” (1894)
01:01:27 Prélude en tapisserie (1906)
01:03:58 Jack in the Box (1899): Prélude
01:06:34 Jack in the Box (1899): Entr’acte
01:08:44 Jack in the Box (1899): Finale
01:11:23 Sept toutes petites Danses pour “Le Piège de Méduse” (1913): 1. Quadrille
01:12:10 Sept toutes petites Danses pour “Le Piège de Méduse” (1913): 2. Valse
01:13:01 Sept toutes petites Danses pour “Le Piège de Méduse” (1913): 3. Pas vite
01:13:45 Sept toutes petites Danses pour “Le Piège de Méduse” (1913): 4. Mazurka
01:14:23 Sept toutes petites Danses pour “Le Piège de Méduse” (1913): 5. Un peu vif
01:14:39 Sept toutes petites Danses pour “Le Piège de Méduse” (1913): 6. Polka
01:15:16 Sept toutes petites Danses pour “Le Piège de Méduse” (1913): 7. Quadrille
01:15:36 Les Pantins dansent (1913)
01:17:14 La belle Excentrique (1920-1924): I. Marche franco-lunaire
01:19:10 La belle Excentrique (1920-1924): II. Valse du “Mystérieux baiser dans l’ oeil”
01:21:41 Six Nocturnes (1919): Trois Nocturnes: n° 1
01:24:54 Six Nocturnes (1919): Trois Nocturnes: n° 2
01:27:22 Six Nocturnes (1919): Trois Nocturnes: n° 3
01:30:43 Six Nocturnes (1919): 4ème Nocturne
01:33:41 Six Nocturnes (1919): 5ème Nocturne
01:36:15 Six Nocturnes (1919): 6ème Nocturne
01:38:16 Vexations: I.
01:40:05 Vexations: II.
01:41:54 Vexations: III.
01:43:43 Vexations: IV.
01:45:30 Vexations: V.
01:47:18 Vexations: VI.
01:49:01 Vexations: VII.
01:50:47 Vexations: VIII.
01:52:31 Vexations: IX.
01:54:14 Vexations: X.
01:56:00 Vexations: XI.
01:57:45 Vexations: XII.
01:59:31 Vexations: XIII.
02:01:14 Vexations: XIV.
02:03:00 Vexations: XV.
02:04:56 Vexations: XVI.
02:06:35 Vexations: XVII.
02:08:24 Vexations: XVIII.
02:10:11 Vexations: XIX.
02:12:00 Vexations: XX.
02:13:47 Vexations: XXI.
02:15:35 Vexations: XXII.
02:17:18 Vexations: XIII.
02:19:03 Vexations: XXIV.
02:20:48 Vexations: XXV.
02:22:31 Vexations: XXVI.
02:24:16 Vexations: XXVII.
02:26:02 Vexations: XXVIII.
02:27:51 Vexations: XXIX.
02:29:35 Vexations: XXX.
02:31:19 Vexations: XXXI.
02:33:07 Vexations: XXXII.
02:34:55 Vexations: XXXIII.
02:36:40 Vexations: XXXIV.
02:26:27 Vexations: XXXV.
02:40:09 Vexations: XXXVI.
02:41:54 Vexations: XXXVII.
02:43:43 Vexations: XXXVIII.
02:45:31 Vexations: XXXIX.
02:47:18 Vexations: XL.
02:49:07 Vexations: XLI.
02:50:54 Vexations: XLII.
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/789.html#c2
クロード・ドビュッシー(Claude Achille Debussy, 1862 - 1918)
機能和声の枠を越えて新しい音楽を開拓し、印象派の名前のとおり曖昧で繊細な感覚的音楽を書いた。
音楽による詩情の表出力は天才的であり、詩のような小品において特に力を発揮した。
しかし、大規模な作品の場合も小規模の作品と同様の手法で書かれており、壮大さや力強さや構築的な展開に欠けるため物足りなく感じる。
バレエ音楽
カンマ 1911-12
3.0点
強い特徴は感じられないが、わりと聴きやすい。
遊戯 1912-13
3.0点
鑑賞用の曲としてどうこうというより、音楽的に非常に現代音楽の管弦楽曲に近いのが面白い。調声感の稀薄さと秩序に乏しい音の動き。
おもちゃ箱 1913
3.0点
わりと長いので全曲聴く価値があるかというと微妙だが、バレエ音楽として普通に楽しめる。
管弦楽作品
ドビュッシーの管弦楽曲はとらえどころがない曖昧な雰囲気に慣れる必要がある。
夜想曲 1897-99 Op91
1曲目 3.5点
穏やかな曲調の中に一つひとつのフレーズに詩情に満ちた夜の世界が表現されている。
2曲目 3.5点
夜想曲なのに祭典的な雰囲気の曲というのも面白い。なかなか充実感のある曲
3曲目 3.5点
女性コーラスの神秘的な海の精の表現が素晴らしい。
管弦楽のための『映像』 1905-12 映像第3集 Op122
1曲目 3.0点
特に強く映像的なものや想像力を喚起する印象はないが、管弦楽曲として純粋に楽しめる。
2-1曲目 3.0点
活き活きとしたスペイン情緒が愉しい。ドビュッシーにしては分かりやすく楽しめる管弦楽曲。
2-2曲目 3.5点
これと分かりやすく楽しめる。夜がテーマだが、いつもの静寂さではなく情熱の余韻が残っている。
2-3曲目 3.5点
この曲もスペイン情緒満載で街中のような活気もあり愉しい。
3曲目 3.0点
活気があり、珍しくウキウキしそうになるような感情を秘めている気がする。
その他の管弦楽曲
管弦楽組曲(第1番) 1883 Op50
交響組曲『春』 1886-87 Op61
2.5点
悪い曲ではないが若書きの感じが強く、個性もそれなりに出ているが確立していない。
3つの黄昏の情景 1892-93 Op83
牧神の午後への前奏曲 1892-1894 Op86
4.0点
パンの笛の冒頭が印象的。神話のような夢幻的で霧の中のように儚い叙情性の音世界に浸れるようになれば、大変に楽しめる曲。
交響詩『海』-3つの交響的スケッチ 1903-05 Op109
3点
海をテーマにここまで多彩な情景を表出できる強靭な想像力と描写力には驚くが、喜怒哀楽などの人間的な感情をほとんど感じない音楽なので、この長さの曲は自分は聴き通せない。
スコットランド風行進曲
3.0点
バグパイプ風の音が鳴る。行進曲といってもドビュッシーなのでノリノリでは無い。とはいえ他の管弦楽曲よりはリズムが多少充実。
協奏曲
間奏曲 1882 チェロ Op27
ピアノと管弦楽のための幻想曲 1889-92 ピアノ Op73
2.0点
ピアノ協奏曲の一種。普通の協奏曲にややドビュッシーらしい味付けをしたような感じで中途半端。ピアノもそれ程効果的ではないし、内容的にいまいちで失敗作だと思う。
サクソフォンと管弦楽のための狂詩曲 1901-11 サックス Op98
3.0点
古代の神秘の音楽と、くぐもった音のサックスのソロを取り合わせたのが面白い。しかし曲の中に使われている動機にやや平凡さが感じられる。
神聖な舞曲と世俗的な舞曲 1904 ハープ Op103
3.5点
この構成の曲と聞いてドヴュッシーが期待させる通りの内容。ハープをドビュッシーらしい和声に載せた美しい調べで見事に活用している。ハープの美しさを堪能出来る。明るくリズム感もあり、なかなか良い。
クラリネットと管弦楽のための第1狂詩曲 1909-10 クラリネットOp116
3.0点
とりとめのない感じがある。クラリネットの音の甘さや諧謔性やロマンティックさなど、特徴をうまく活用して、ドビュッシーの語法と合体させることに成功している。
室内楽曲
ピアノ三重奏曲 ト長調 1879?/80 Op3
夜想曲とスケルツォ 1880,82 チェロとピアノ Op26
弦楽四重奏曲 ト短調 1892-93 Op85
2.0点
ドビュッシーならもっといい弦楽四重奏を書けそうだけどなあ、と残念に思う。楽章ごとの音楽の違いもはっきりしないし、正直なところ四楽章がなんとなくピンとくる位であり、よく分からない。
クラリネットとピアノのための小品 1910 Op120
シランクス 1912 フルート独奏 Op129
3.0点
フルートの独奏。古代ギリシャを想起するのような音色で神秘的で面白い。いい曲
チェロソナタ ニ短調 1915 Op135
2.0点
渋い中に作曲技巧が凝らされているのかもしれないが、観賞して楽しむ対象としては、チェロソナタとしてもドヴュッシーの作品としても、あまり優れた曲とは感じられないのは自分だけ?短いから聞くのは苦にならないが。
フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ 1915 Op137
ヴァイオリンソナタ 1916-17 Op140
3.5点
最後の作品。ヴァイオリンの機能や音色をうまく生かして内容のある音楽にきっちり仕立て上げられていると思う。あまり最晩年の作品という感じがしない。
ピアノ曲、連弾曲
前奏曲第1巻 1909-10 全12曲 Op117
1曲目 2.5点
前奏曲集の前奏曲という感じ。静かに終わる。
2曲目 4.0点
神秘的世界から沸き立つ詩情が強すぎて、匂いが漂ってきそうに感じる位すごい。
3曲目 3.5点
野の放つ蒸気が混ざったふわふわとした風が青空と陽に照らされて舞っているかのよう
4曲目 3.0点
神秘的な響きと静寂の活用の曲だが、少し特徴が弱い。
5曲目 3.5点
野の中で風に吹かれるような心地よさ
6曲目 2.5点
静かすぎて分かりにくい
7曲目 3.0点
力強くピアニスティックな中間以降が面白い
8曲目 3.5点
分かりやすい旋律で、この曲集では異色。人間より人形を描いたかのよう。
9曲目 2.5点
特徴が弱くあまりインスピレーションをかき立てられない
10曲目 3.0点
神秘的な夜の帳が落ちていく中のような風情があるが、珍しく静物的な重量感もある。
11曲目 3.0点
妖精の踊りのようということで、躍動感はあるが力強くはなくふわっとしてる。
12曲目 3.0点
即興的に展開する雰囲気を楽しむ曲
前奏曲第2巻 1911-13 全12曲 Op123
1曲目 2.5点
前奏曲の前奏曲という感じ
2曲目 2.5点
後期に多くある和音の響きと時々のパッセージだけの曲
3曲目 3.0点
低音の響きとアラビア風の音階が印象的。
4曲目 3.0点
運動的な音の流れがまさに妖精の踊り子
5曲目 3.0点
曲集の中では割と輪郭がはっきりしている。
6曲目 3.0点
ユーモラスな強面の将軍を想起
7曲目 3.0点
曲集の中ではかなり分かりやすい曲
8曲目 3.0点
超常現象が発生しているかのよう。
9曲目 2.5点
重たさや運動的な場面など即興的
10曲目 2.0点
ほぼ和音進行だけのような印象
11曲目 3.0点
運動的で面白い
12曲目 3.5点
華々しい花火の描写の曲で面白い
ベルガマスク組曲 1890 全4曲。1905年改訂 Op75
1曲目 4.0点
初期ドヴュッシーの典型的な和声や音使い。清新な雰囲気で楽しめる。
2曲目 4.0点
内容も充実の可愛らしさのあるいい曲。
3曲目 4.0点
有名な曲。湖に映る月が鮮やかに浮かぶような映像的な曲。
4曲目 4.0点
組曲の中では活発な曲。やはり叙情性が優れていて、中間に登場するメロディーも効果的。
忘れられた映像 1894 pf 全3曲 Op87
1曲目 3.0点
美しい音階と和音の並行移動を楽しめる曲。
2曲目 3.0点
静かな曲だが、音に主張と力強さがあり悲しさを内に秘めている。
3曲目 3.0点
運動的だが激しくなく、鮮やかさがある。
映像第1集 1901-05 Op110
完全に印象主義絵画のような世界になり、聞きやすくないし、曲の内容を掴みにくい。
1曲目 3.0点
有名な水系の曲の中で特に傑作の方とは思わないが、それなりに美しい。
2曲目 2.5点
この曲のどこがラモーなのか分かってないのだが、曲は静かに和音を重ねるだけなので聴くのがつらい。
3曲目 3.5点
ピアニスティックで抽象的な音の運動が愉しい。
版画 1903 Op100
版画は映像のように完全に輪郭のない印象主義絵画のような世界に突入しておらず、まだ輪郭を残しており聴きやすい。
1曲目 3.0点
闇夜に光を発しているような幻想的な世界。
2曲目 3.5点
穏やかな美しいスペインを見事に表現していて見事。
3曲目 3.5点
雨がしとしとふる情景をこんなに情緒的に美しくて表せるのかと驚く。
映像第2集 1907 Op111
1曲目 3.0点
非常に美しく印象主義的な雰囲気と音楽的な内容を両立してバランスを取ることに成功している。
2曲目 3.0点
この曲もメロディーが少なく和音の動きによる印象主義的な曲で、深い夜の中に沈む月や荒廃した寺といったイメージの世界を極めて抽象的に描いている。
3曲目 3.0点
三曲の中では一番運動的。やはり抽象的で内容は充実している。この曲を華やかな金粉や漆器の音化と解説するというのは、かなり抽象的で難解なことだと思う。
その他
ボヘミア風舞曲 1880 Op9
3.5点
書法がシンプルであるため自分で弾いたら物足らないのかもしれないが、耳で聴く限りはかなり魅力的でショパンに匹敵するような優れた小品。ボヘミア風が愉しい。
管弦楽組曲(第1番) 1883 4手pf 全4曲 Op50
ディヴェルティスマン 1884頃 4手 Op36
2つのアラベスク 1888,91 Op66
1曲目 4.5点
夢のように大変美しくて、キラキラと輝かしく可愛らしい傑作小品。初期を代表するピアノ曲。
2曲目 3.0点
こちらは普通の小品。やはり可愛らしさやキラキラした感じがよい。
マズルカ 1890?/91 Op67
3.8点
初期ドビュッシーらしい幻想的な音遣いで、あの粘り気たっぷりのマズルカが書かれており、とても面白い。聴く前はイメージが湧いていなかったが、聴けば納得の曲。
夢 1890 Op68
3.0点
初期らしい明確な和声に乗せたメランコリーと美しさは分かりやすくて良いが、曲としての全体の完成度や独創性は初期の中で高い方ではないと思う。
舞曲 1890 Op69
3.5点
当初『スティリー風タランテラ』とされていた。将来に前奏曲に入りそうな曲調。やや成熟しきっていない初期らしさはありながらも、かなり親しみやすく快活さがあるので楽しい。
バラード 1890 Op70
3.5点
メロディーの魅力が少な目である。その代わりに、バラードらしい自由な物語性を、初期らしい美しさと透明感の魅力で表現している点で、十分すぎるくらいに感動的に仕上げられている。
ロマンティックなワルツ 1890 Op71
3.0点
初期の曲の中では魅力が少ない方だと思う。エキゾチックな雰囲気を持つメロディーを活用した曲であるのは面白い。ワルツらしいのはごく一部のみ。曲の方向性が分かりにくいと思う。
スコットランド風行進曲 1891 4手 Op77
ノクテュルヌ(夜想曲) 1892 Op82
3.0点
ノクターンという題名の期待値に比べると物足りない。中間からの場面は美しくて素敵だが、冒頭からしばらくが面白くない。もっと夜の世界を突き詰めて欲しかった。
ピアノのために 1894-1901 Op95
リンダラハ 1901 2台 Op97
仮面 1903-1904 Op105
2.5点
ベルガマスク組曲に入る予定だったそうだが、渋すぎて親しみやすい良さに欠けるし、耳につくメロディーもないのでベルガマスク組曲の各曲よりワンランク以上劣ると思う。
喜びの島 1903-1904 Op106
3.5点
ピアニスティックで曲が長くて、ラヴェルの夜のガスパールを思い出す。交響的な響きの充実がある。
スケッチブックより 1904 Op99
3.0点
タイトルがないぶん自由に聴ける。中期ドビュッシーらしい美しさをたたえた小品。
コンクールのための小品 1904 Op108
子供の領分 1906-08 Op113
3.5点
練習曲に挑戦する子というテーマと練習曲風の冒頭が面白い1曲目と、ケークウォークの可愛い六曲目が耳につく。他もアイデアがあるいい曲ばかり。
小さな黒ん坊 1909 Op114
3.0点
ケークウォークに独自の捻りを入れている感じはあまりないが、聴きやすいといえば聴きやすい。
ハイドンを讃えて 1909 Op115
3.0点
前奏曲に入ってそうな小品。どこがハイドンなのかはよく分からない。
レントより遅く 1910 Op121
2.5点
ふわふわとした取り留めのないワルツ。
6つの古代墓碑銘 1914 4手 Op131
3.5点
完成が後期の曲にしてはかなり分かりやすく聴きやすい。前奏曲集1頃の作品に聞こえる。はるか古代へ想いを馳せるような雰囲気はドビュッシー頻出のものの一つだが、それを6曲存分に味わえる。
英雄的な子守歌 1914 pf Op132
2.8点
子守唄という可愛らしい題名だが、動きに力を欠きグロテスクな音の動きが支配的名ピアノ曲である。葬送行進曲に近いイメージすら抱いてしまう。
慈善団体「負傷者の衣」のために 1915 Op133
白と黒で 1915 2台 Op134
12の練習曲 1915 全2巻 Op136
2.5点
12曲もあり、ドビュッシーの音楽の語法を活用しているものの、どちらかというと普通に練習曲としての性格が強く、鑑賞用の曲としては他の小品集ほど楽しめない。
見出された練習曲 1915
3.5点
本家の12の練習曲より内容が充実している。いい曲。
エレジー 1915 Op138
2.5点
晩年の小品だが、特に着目するほどの特徴やメロディーはないと思う
燃える炭火に照らされた夕べ 1917
合唱曲
カンタータ『選ばれし乙女』(La demoiselle élue)
3.3点
もやっとした神秘的な雰囲気の中で、合唱も神秘的に進む。ドビュッシーとしてはありきたりにも感じるが、オーケストラだけでないために聴きやすいのが良い。短くない曲だが、ふんわりと大きな音楽の変化なく進み、ある意味では耳に優しくて、一歩間違えればムードだけの音楽になりそうなくらいだ。しかし、独特な印象派らしい世界観の構築のもとに作られた美しい音楽であるため、飽きない。途中で一瞬だけプッチーニを連想する場面があり、面白い。
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%89%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%BC
クロード・アシル・ドビュッシー(Claude Achille Debussy フランス語: [klod aʃil dəbysi], 1862年8月22日 - 1918年3月25日)は、フランスの作曲家。長音階・短音階以外の旋法と、機能和声にとらわれることのない自由な和声法などを用いて作曲し、その伝統から外れた音階と和声の用い方から19世紀後半から20世紀初頭にかけて最も影響力を持った作曲家の一人である[1]。
ドビュッシーの音楽は、代表作『海』や『夜想曲』などにみられる特徴的な作曲技法から、「印象主義音楽(印象派)」と称されることもある。しかし、本人は印象主義音楽という概念に対して否定的であり、テクスト(詞)やテーマの選択は象徴派(象徴主義)からの影響が色濃い。
なお、名前は生後1890年(28歳)まで「アシル=クロード」、1890年(28歳)から「クロード=アシル」である。
生涯
幼少期
1862年8月22日午前4時半、イヴリーヌ県サン=ジェルマン=アン=レーのパン通り38番地に「アシル=クロード・ドビュッシー」として生まれた(この建物は現在ドビュッシー博物館となっている)[2]。父親のマニュエル・アシル・ドビュッシーは陶器店を経営し、母親のヴィクトリーヌ・マヌリ・ドビュッシーは裁縫師であった。5人兄弟の長男として生まれているが、彼が2歳(1864年7月31日)になってから洗礼を受けている。その年に一家は経営難のためサン=ジェルマン=アン=レーを離れ、母方の実家(クリシー)に同居する。
1870年、カンヌに住む伯母クレメンティーヌ(父の姉に当たる)のもと、彼女の肝煎りでイタリアのヴァイオリニスト、ジャン・チェルッティ(Jean Cerutti)にピアノを習う(期間は不明)[3]。このカンヌでの滞在は1回だけであったが、後年ドビュッシーは鮮烈な印象を残したと手紙の中で語っている。
1871年、詩人ヴェルレーヌの義母アントワネット・モテ・ド・フルールヴィル夫人に基礎的な音楽の手ほどきを受ける。これは、偶然にも父親の知人であったヴェルレーヌの義兄でオペレッタ作曲家のシャルル・ド・シヴリー (Charles de Sivry) と出会い、シヴリーが少年のドビュッシーを自分の母親のフルールヴィル夫人に引き合わせたとされる。夫人はドビュッシーの才能を見抜き、親身に彼を教えたという。
幼少期のドビュッシーについては、後年本人が語ろうとしなかったため、どのように過ごしたのかは不明である。ただしこの時期からピアノの手ほどきを受けていたことは確かである。
音楽院入学とローマ賞
1872年10月22日、10歳でパリ音楽院に入学する。この時の合格者はドビュッシーを含むわずか33名であった。1年後、エルネスト・ギロー(作曲)、オーギュスト・バジュ(ピアノ伴奏法)、アントワーヌ・マルモンテル(ピアノ)、エミール・デュラン(作曲)、アルベール・ラヴィニャック(ソルフェージュ)らに学ぶ。元々ピアニストになるつもりで、1873年の1月29日にJ.S.バッハの『トッカータ』(BWV915) を弾いた際、「魅力的な素質」と評価されて自信を持ち、ピアニストへの道に進むことを決めたという。1874年に学内のコンクールにおいてショパンのピアノ協奏曲第2番の第1楽章を弾いて第2次席賞を獲得。翌1875年にショパンの『バラード第1番』で第1次席賞を得るが、1876年には獲得できなかった[4]。1877年にはシューマンの『ピアノソナタ第2番』(第1楽章)で再び第2次席賞を獲るが、1878年と1879年は2年続けて賞が取れずに失敗し、これによってピアニストになることを諦める決心をした。そして結局ピアノで賞を得ることができず(1位入賞を目標にしていたため)、その年にピアノ科を去り、10月にバジュ(バズィーユ)のピアノ伴奏法のクラスに入る。
一方でドビュッシーは作曲にも挑戦している。1878年にピアノ曲『フーガ』(L番号なし)を作曲し、これは現存するドビュッシーの最古の作品とされている。1879年に歌曲『月に寄せるバラード』(L.1、紛失)と『マドリード』(L.2、近年発見[5])を作曲する。
1880年7月、18歳のドビュッシーはチャイコフスキーのパトロンであったフォン・メック夫人の長期旅行にピアニストとして同伴し、『ピアノ三重奏曲』(L.3) や『交響曲 ロ短調』(L.10) の断片を作曲した。また、『ボヘミア舞曲』(L.9) という小品を夫人の計らいでチャイコフスキーへ送るが、酷評を受けた(出版はドビュッシーの死後)。メック夫人を通して、チャイコフスキーの当時の最新作であった交響曲第4番(1877年)などのロシアの作品も勉強しており、この経験が元でチャイコフスキーやロシア5人組に影響を受ける。また貴族趣味も芽生えた。
パリに戻ったのち、この年の12月24日にギローのクラスに入る(当初マスネに師事するつもりでいた)。またセザール・フランクのオルガンのクラスに顔を出しているが、オルガンにおける「執拗な灰色の色調」に嫌気が差したため、わずか半年でクラスから逃げるように立ち去っている[6]。
1882年に歌曲『星の輝く夜』(L.4) を出版する。また10作以上の歌曲を作曲する。この年の5月にローマ賞に挑戦するも、予選落ちに終わる。
1884年の肖像画
(画)マルセル・バシェ
1883年5月、2回目となるローマ賞に挑戦し、『祈り』(L.40) で予選を通過。カンタータ『剣闘士』(L.41) 本選の第2等賞を獲得する。
1884年に3回目となるローマ賞に挑戦し、カンタータ『春』(L.56) で予選を通過、カンタータ『放蕩息子』(L.57) でローマ大賞を受賞する[7]。審査員の中にはグノーやサン=サーンスもいた。翌1885年から1887年にかけてイタリアのローマへと留学したものの、あまりイタリアの雰囲気には馴染めず、ローマ大賞受賞者に与えられる期間を繰り上げてパリに戻った。これにはヴァニエ夫人という意中の人がいたためともいわれる。このヴァニエ夫人のために書かれたいくつかの歌曲のうちポール・ヴェルレーヌの「艶なる宴」に基づくものは後に『艶なる宴』(全2集)としてまとめられた。またローマに留学していた頃に生み出された作品は、いくつかの歌曲や交響組曲『春』、合唱と管弦楽のための『ツライマ(ズレイマ)』(L.59、後に破棄されて現存しない)である(なおローマからパリへ帰郷してから作られた作品はカンタータ『選ばれた乙女』や『ピアノと管弦楽のための幻想曲』)。
1888年の夏、銀行家のエティエンヌ・デュパンの支援によって念願であったバイロイトへ初めて行き、同地で『ニュルンベルクのマイスタージンガー』と『パルジファル』を聴く。
中期
1889年は27歳のドビュッシーにとって大きな転機の年となる。1月には国民音楽協会に入会してエルネスト・ショーソンらと知り合い、新たな人脈と発表の場を得た。6月にパリ万国博覧会でジャワ音楽(ガムラン)を耳にしたことは、その後の彼の音楽に大きな影響を与えた。その後2度目に訪れたバイロイト音楽祭ではワグネリズムの限界を感じ、これを境にアンチ・ワグネリアンを標榜することになる。またこの頃、詩人ステファヌ・マラルメの自宅サロン「火曜会」に唯一の音楽家として出席するようになり、この時の体験はのちにマラルメの詩による歌曲(『ステファヌ・マラルメによる3つの詩』)や、『牧神の午後への前奏曲』への作曲へとつながっていく。
1890年の28歳のとき、名前を「アシル=クロード」から「クロード=アシル」に変えた。
1893年4月、『選ばれし乙女』が国民音楽協会の演奏会で初演され、その後同協会の運営委員にも選出された。また12月29日に『弦楽四重奏曲』がイザイ弦楽四重奏団によって初演されている。
1894年3月、テレーズ・ロジェ (Thérèse Roger) と婚約するが、ドビュッシーの恋人だったガブリエル・デュポン(愛称ギャビー)の知るところとなり破談。この出来事でショーソンと疎遠になり、ショーソンが1899年6月に事故で没したときにも葬儀に参列しなかった。12月22日に『牧神の午後への前奏曲』が初演。リリー・テクシエと最初の結婚をする。
1900年代に入ると、『ビリティスの歌』(1900年)、『夜想曲』(1900年)、『版画』(1904年)などが初演された。また、オペラ『ペレアスとメリザンド』が完成し、1902年に初演され大きな成功を収めた。これらの一連の作品で成功したドビュッシーは、作曲家としてのキャリアを確実なものとした。1903年にはレジオン・ドヌール五等勲章を受勲している。
1905年には交響詩『海』、ピアノ曲集『映像 第1集』を発表し、新たな境地を見せる。同時にこの年、エンマ・バルダックと同棲する。のちにリリーと正式に離婚し、エンマと2度目の結婚をした。エンマとの間には娘クロード=エンマ(愛称シュシュ)が誕生する。
1910年には『前奏曲集 第1巻』を発表し、ピアノ曲において作曲家のキャリアを不動のものとした。一方、この時期にエドガー・アラン・ポーの小説『アッシャー家の崩壊』に基づくオペラを作曲していたが、完成せず放棄された。もう一つの大作劇音楽『聖セバスティアンの殉教』(1911年)は、長すぎる原作戯曲の上演の失敗などがあって顧みられず、弟子のアンドレ・カプレによる『交響的断章』としての演奏会形式の編曲によりかろうじてレパートリーとして生き延びているに過ぎない。
1913年、バレエ音楽『遊戯』が完成し、同年にピエール・モントゥーによって初演され、これはバレエ・リュスの上演によって成功を収めた。しかしその2週間後に同じ演奏陣によってストラヴィンスキーの『春の祭典』が上演され、そのスキャンダルの陰に隠れてしまう。夏に『おもちゃ箱』の作曲に着手する(管弦楽化はアンドレ・カプレと協力)。12月、モスクワとペテルブルクに演奏旅行に行く(クーセヴィツキーとジロティの要請による)。
晩年
1914年、第一次世界大戦が勃発してエンマの息子(ドビュッシーにとっては連れ子)のウラルが兵士として動員されたことなどを受けて、戦争を恐れるようになっていたドビュッシーは、9月に家族とともにアンジェに避難したが、1か月後にパリへと戻る。この時すでにドビュッシーの身体は病に侵されており、大腸癌を発病していた。この頃から「様々な楽器のための6つのソナタ」に着手するも、完成したのは3曲のみであった。
1915年、『12の練習曲』や『6つの古代碑銘』などを生み出す。3月23日に母が死去、同じ頃にエンマの母もこの世を去っている。
1916年は『ヴァイオリンソナタ』の構想や、未完に終わったオペラ『アッシャー家の崩壊』の台本(決定稿)の作成に取りかかる。またこの年には2台ピアノのための『白と黒で』や『チェロソナタ』などを含む4つの作品が初演されている。私生活では、離婚した元妻のリリー(マリ・ロザリー・テクシエ)に対する月手当ての支払いが1910年以来ため、裁判所から3万フランの供託金の支払いを命令されている。
1917年7月、一家はスペイン国境付近のサン=ジャン=ド=リュズに3か月滞在する。この地は保養地として有名であったため、多くの著名人が訪れている。ドビュッシーは同地で自作の『ヴァイオリンソナタ』を演奏しているが、これが生涯最後の公開演奏となった。この時期に計画していた残りのソナタとピアノ協奏曲の作曲を想起していたが、これらの作品はいずれも実現せずに終わっている。
1918年初旬、直腸癌により床から離れなくなり、3月25日の夕方に息を引き取った。55歳。1905年から死去する1918年にかけて居住したパリ16区スクアール・ド・ラヴニュ=フォッシュ (Square de l'Avenue-Foch) 24番地の自宅だった。葬儀は29日に行われ、遺体はパッシー墓地に埋葬された(埋葬は翌年のことで、前年は仮に安置されていた)。またドビュッシーが没した翌年の1919年に娘クロード=エマがジフテリアによる髄膜炎によって夭逝、妻エンマは16年後の1934年に世を去った。
年譜
1862年 - 8月22日 誕生。
1871年 - この年から3年ほど、モーテ・ド・フルールヴィル夫人にピアノのレッスンを受ける。
1872年 - パリ音楽院入学。以後12年在籍。ピアノをマルモンテル、ソルフェージュをラヴィニャック、和声学をデュラン、作曲法をギローに師事。
1880年 - チャイコフスキーのパトロンであったフォン・メック夫人の長期旅行にピアニストとして同伴。
1884年 - ローマ大賞を受賞。
1885年 - ローマに滞在。
1887年 - パリに戻る。
1888年 - 1度目のバイロイト行き。
1889年 - パリ万国博覧会で東洋芸術に接触、2度目のバイロイト行き。
1890年 - 名前を「アシル=クロード」から「クロード=アシル」に変える。『ベルガマスク組曲』。
1891年 -『2つのアラベスク』。この頃、初期のピアノ小品や歌曲を多く手がける。
1893年 - メーテルリンクの戯曲「ペレアスとメリザンド」に出会う。
1894年 - 『牧神の午後への前奏曲』。
1899年 - リリー・テクシエと最初の結婚。
1902年 - 『ペレアスとメリザンド』初演。
1905年 - 『海』、エンマ・バルダックと同棲。長女クロード=エンマ(シュウシュウ)誕生。
1910年 - 『前奏曲集 第1集』。
1911年 - 舞台音楽劇『聖セバスティアンの殉教』。
1913年 - バレエ音楽『遊戯』。バレエ・リュスのために作曲。
1914年 - 第一次世界大戦勃発、大腸癌を発病。「様々な楽器のための6つのソナタ」着手(完成は3曲)。
1918年 - 3月25日夕方 死去。
1919年 - 娘クロード=エマ死去。
家族
父親:マニュエル=アシル・ドビュッシー(Manuel-Achille Debussy, 1836年 - 1910年)
モンルージュ(パリの南郊)で生まれ、陶器商を経営していた。
母親:ヴィクトリーヌ・マヌリ・ドビュッシー(Victorine Manoury Debussy, 1836年 - 1915年)
車大工の父親と料理人の母親との間に生まれる。
伯母:クレマンティーヌ・ドビュッシー(Clémentine Debussy, 1835年 - 1874年)
マニュエル=アシルの姉。クロードが洗礼の際、代母として名付けを担当した。
第1弟:エマニュエル・ドビュッシー(Emmanuel Debussy, 1867年 - 1937年)
第2弟:アルフレッド・ドビュッシー(Alfred Debussy, 1870年 - ?)
第3弟:ウジェーヌ=オクターヴ・ドビュッシー(Eugène-Octave Debussy, 1873年 - 1877年)
末弟だが髄膜炎のため4歳で夭逝。
第1妹:アデール・ドビュッシー(Adèle Debussy, 1863年 - 1952年)
弟妹の中では長く生きた人物。
1番目の妻:リリー・テクシエ (Lily Texier)
2番目の妻:エンマ・バルダック(Emma Baldac, 1862年 - 1934年)
元々は銀行家バルダックの妻だった。息子のラウル、娘のエレーヌ(愛称ドリー)がいる。エレーヌはフォーレに溺愛され、一説にはフォーレとエンマの子であるともいわれた。フォーレは『ドリー組曲』を作曲している。
娘:クロード=エンマ・ドビュッシー(Claude-Emma Debussy, 1905年 - 1919年)
愛称シュシュ。父親の死の翌年に14歳で夭折。クロード=エンマが父親の死に際して異父の兄ラウルに宛てた手紙がドビュッシー博物館に展示されている。
3人の弟については資料の少なさゆえに詳細は不明であるが、妹アデールは2つの世界大戦を生き抜いた唯一の人物である。
サンジェルマン=アン=レーのドビュッシー博物館には、現代に至るまでのドビュッシー家の家系図が展示されている。
人物
気難しい性格で、内向的かつ非社交的であった。音楽院に入学してからは伝統を破壊しかねない言動(不平不満や文句)をしていたため、ギローなど担当教師らを困らせていた。また、女性関係においてのトラブルも絶えなかった。元々18歳より弁護士の人妻マリー=ブランシュ・ヴァニエ夫人 (Marie-Blanche Vasnier) と8年間の情事のあと別れ、1889年から (Rue Gustave Doré) にて同棲を続けていたガブリエル・デュポン(愛称ギャビー)とは、自殺未遂騒動の末に1898年に破局を迎えた。同じ頃、ソプラノ歌手のテレーズ・ロジェ (Thérèse Roger) とも情通している。翌年にはギャビーの友人であるマリ・ロザリー・テクシエ(愛称リリー)と結婚するが、1904年頃から、教え子の母親、銀行家の人妻であるエンマ・バルダックと不倫関係になり、リリーはコンコルド広場で胸を銃で撃ち自殺未遂となり、離婚する(1905年)。この事件がもとで、ドビュッシーはすでに彼の子を身ごもっていたエンマとともに一時イギリスに逃避行することとなり、友人の多くを失うこととなる。長女クロード=エンマ(愛称シュシュ)の出産に際しパリに戻り、エンマと同棲した(1908年に結婚)。シュシュはドビュッシーに溺愛され、『子供の領分』を献呈された。
同じ印象派の作曲家とされることが多いモーリス・ラヴェルは、父親がドビュッシーとかつて交友関係にあった[8]。1898年にラヴェルが2台ピアノのための『耳で聞く風景』で作曲家としてのデビューを果たした時には、ドビュッシーはその中の1曲「ハバネラ」(1895年作曲。後に『スペイン狂詩曲』第3曲に編入)に関心を持ち、ラヴェルに自筆譜の写しを貸してくれるよう頼み、ラヴェルの方でも『ペレアスとメリザンド』に対して、自らが所属するグループ「アパッシュ」のメンバーとともに積極的に支持するなど、両者は互いの作品を評価し合い、親密な交友が続いた。だが1904年初演の『版画』の第2曲「グラナダの夕暮れ」を聴いたラヴェルは、前述の自作「ハバネラ」と類似しているとしてドビュッシーに反発。以後両者の関係は疎遠となった。しかし、20世紀初頭の作品である『水の戯れ』や弦楽四重奏曲などの作品ではドビュッシーの影響が見受けられ[9]、本人もドビュッシーの管弦楽曲をピアノ曲へと編曲し、またはピアノ曲を管弦楽曲へと編曲している。
作品と表現
初期の作品であるカンタータ『選ばれし乙女』(1888年)や『ボードレールの5つの詩』(1889年)まではワーグナーの影響を見ることができる。しかしこの辺りの作品、特にヴェルレーヌと出会って以降の3つの歌曲、『忘れられたアリエッタ』、『華やかな饗宴』第1集などでは、より明確に独自の書法へと変化していった。弦楽四重奏曲ト短調(1893年)においてはフリギア旋法だけではなく、様々な教会旋法を使用している。なかでも『牧神の午後への前奏曲』(1894年)、メーテルリンクの戯曲によるオペラ『ペレアスとメリザンド』(1893年頃着手、完成は1902年)など同時代の作品から現れた全音音階の使用は、その後の独特のハーモニーの基盤ともなっている。また、これらの作品は規則的な律動にとらわれない書法の先駆けでもあり、それまでの西洋音楽の概念からは異色ともいえるものだった。
印象主義音楽
ドビュッシーの音楽は印象主義音楽と俗に呼ばれている。印象派(ないし印象主義)という表現はもともと、1874年に最初の展覧会を開催した新進画家グループ(モネ、ドガ、セザンヌら)に共通していた表現様式に対する揶揄表現が定着したものであり、音楽における《印象主義》も、若手作曲家の作品への揶揄の意味合いを込めて用いられた表現である。ドビュッシー自身も、出版社のデュランに宛てた書簡(1908年3月)の中で、この用語に対して否定的な見解を示した。
後世への影響
ドビュッシーは20世紀で最も影響力のある作曲家の一人としてしばし見なされており、西洋音楽からジャズ、ミニマル・ミュージック、ポップスに至るまで幅広く多様多種な音楽の部類に影響を与えている。
西洋音楽においては、バルトーク・ベーラ、イーゴリ・ストラヴィンスキー[10]、初期作品の時期のラヴェル[9]、フランシス・プーランク、ダリウス・ミヨー、アルベール・ルーセル、ジョージ・ガーシュウィン[11]、ピエール・ブーレーズ[12]、オリヴィエ・メシアン[13]、アンリ・デュティーユ[14]、レオ・オーンスタイン[15]、アレクサンドル・スクリャービン、カロル・シマノフスキ、ミニマル・ミュージックにおいてはスティーブ・ライヒ[16]に対して影響力を有している。日本の作曲家では武満徹がドビュッシーからの影響を公言している。
ジャズにおいては、ガーシュウィン、ジャンゴ・ラインハルト、デューク・エリントン[17]、バド・パウエル、マイルス・デイヴィス(彼の盟友であるギル・エヴァンスによると、マイルスの自作曲である「So What」はドビュッシーの前奏曲集第一巻に収録されているヴェールVoilesを下敷きにして作曲されたとのことである)[18]、ビル・エヴァンス、ハービー・ハンコック、アントニオ・カルロス・ジョビン、アンドリュー・ヒル、ビックス・バイダーベックなど。またビバップの和声法はドビュッシーとアルノルト・シェーンベルクからの影響が大きい[19]。
ポップスではプログレッシブ・ロックの括りで語られるバンドは従来の和声進行から外れたドビュッシーの音楽に影響を受けており[20]、その他にはポップ・グループ、ビョーク[21]、Anna Calviもドビュッシーからの影響を受けている。日本においてはパスピエがドビュッシーの影響を受けている(バンド名もドビュッシーの曲名を引用している)。
電子音楽では冨田勲がドビュッシーの作品を多数取り上げ、編曲したことによって影響がもたらされている。
主な作品
ピアノ曲
フーガ(16歳の時に作曲された現存する最初の作品。1999年ウィーンの国立図書館で発見) - 1878年
ボヘミア舞曲 (Danse bohémienne)(18歳の時の作品。フォン・メック夫人のはからいでチャイコフスキーに送ったが、未熟だと酷評された。死後発見) - 1880年
2つのアラベスク (2 Arabesques) - 1888年~1891年
舞曲(スティリー風タランテラ)(Danse, Tarantelle styrienne)(後にラヴェルが管弦楽に編曲)- 1890年
夢想 (Rêverie) - 1890年
ロマンティックなワルツ (Valse romantique) - 1890年
マズルカ (Mazurka) - 1890年
バラード (Ballade) - 1890年
ベルガマスク組曲 (Suite Bergamasque) - 1890年
前奏曲 (Préludes)
メヌエット (Menuet)
月の光 (Clair de lune)(ドビュッシーの曲の中で最もポピュラーな曲の一つ)
パスピエ (Passepied)
忘れられた映像 (Images oubliées)(死後発見、標題はドビュッシーが付けたものではない) - 1894年
レント(憂うつに、そしてやさしく) (Lent (mélancolique et doux))
ルーヴルの思い出 (Souvenir du Louvre)(後に『ピアノのために』第2曲「サラバンド」に改作)
「もう森には行かない」の諸相 (Quelques aspects de "Nous n'irons plus au bois")(『版画』第3曲「雨の庭」の前身。「(いやな天気だから)もう森へは行かない」はフランスの童謡。ドビュッシーはこの「諸相」、「雨の庭」、歌曲「眠りの森の美女」、「管弦楽のための映像・第3曲『春のロンド』」の合計4曲でこの童謡を用いている)
ピアノのために (Pour le piano) - 1896年、1896年 - 1901年
前奏曲 (Prélude)
サラバンド (Sarabande)
トッカータ (Toccata)
版画 (Estampes) - 1903年
塔 (Pagodes)(「パゴダ」は仏教の宝塔を指す)
グラナダの夕暮れ (La soirée dans Grenade)
雨の庭 (Jardins sous la pluie)
喜びの島 (L'Isle Joyeuse)(作曲者監修のもと、イタリアの指揮者ベルナルディーノ・モリナーリ(Bernardino Molinari)により管弦楽用に編曲されている) - 1904年
仮面 (Masques) - 1904年
映像 第1集 (Images) - 1905年
水の反映(水に映る影)(Reflets dans l'eau)
ラモー礼讃(「ラモーをたたえて」とも) (Hommage à Rameau)
運動 (Mouvement)
映像 第2集 - 1907年
葉ずえを渡る鐘 (Cloches à travers les feuilles)
荒れた寺にかかる月 (Et la lune descend sur le temple qui fut)
金色の魚 (Poissons d'or)
子供の領分 (Children's Corner - Petite suite pour piano seul)(娘のクロード・エマのために作曲されたもの) - 1906年 - 1908年
グラドゥス・アド・パルナッスム博士 (Doctor Gradus ad Parnassum)
象の子守唄 (Jimbo's lullaby)
人形へのセレナード (Serenade of the doll)
雪が踊っている (The snow is dancing)
小さな羊飼い (The little shepherd)
ゴリウォーグのケークウォーク (Golliwogg's Cake-Walk)
小さな黒ん坊 (Le petit Nègre) - 1909年
レントより遅く (La plus que lente (Valse)) - 1910年
2つの前奏曲集
前奏曲集 第1巻 (Préludes 1) - 1909年 - 1910年
以下の曲名は一般の曲の曲名とは違い、各曲の最後に小さく記されている。
デルフィの舞姫 (...Danseuses de Delphes)
ヴェール (...Voiles)(「帆」とも訳される)
野を渡る風 (...Le vent dans la plaine)
音と香りは夕暮れの大気に漂う (...Les sons et les parfums tournent dans l'air du soir)
アナカプリの丘 (...Les collines d'Anacapri)
雪の上の足跡 (...Des pas sur la neige)
西風の見たもの (...Ce qu'a vu le vent d'ouest)
亜麻色の髪の乙女 (...La fille aux cheveux de lin)
とだえたセレナード (...La sérénade interrompue)
沈める寺 (...La cathédrale engloutie)
パックの踊り (...La danse de Puck)
ミンストレルズ (...Minstrels)
前奏曲集 第2巻 (Préludes 2) - 1910年 - 1913年
霧 (...Brouillards)
枯葉 (...Feuilles mortes)
ヴィーノの門 (...La Puerta del Vino)
妖精たちはあでやかな踊り子 (...Les fées sont d'exquises danseuses)
ヒースの荒野 (...Bruyères)
風変わりなラヴィーヌ将軍 (...Général Lavine - excentric)
月の光が降り注ぐテラス (...La terrasse des audiences du clair de lune)
水の精 (...Ondine)
ピクウィック殿をたたえて (...Hommage à S. Pickwwick Esq. P.P.M.P.C.)
カノープ (...Canope)
交代する三度 (...Les tierces alternées)
花火 (...Feux d'artifice)
英雄的な子守歌 (Berceuse heroïque pour rendre hommage à S.M. le Roi Albert Ier de Belgique et à ses soldats) - 1914年(同年12月に管弦楽曲に編曲)
第一次世界大戦時、侵攻したドイツ軍に対して抵抗したベルギーの国王アルベール1世に献呈。
12の練習曲 (12 Études) 作曲者による運指がないことで知られる - 1913年 - 1915年
五本の指のための、ツェルニー氏による (Pour les cinq doigts, après M. Czerny)
三度のための (Pour les tièrces)
四度のための (Pour les quartes)
六度のための (Pour les sixtes)
オクターブのための (Pour les octaves)
八本の指のための (Pour les huit doigts)
半音階のための (Pour les degrés chromatiques)
装飾音のための (Pour les agréments)
反復音のための (Pour les notes répétées)
対比的な響きのための (Pour les sonorités opposées)
組み合わされたアルペジオのための (Pour les arpeges composés)
別版あり。
和音のための (Pour les accords)
負傷者の服のための小品 (Pièce pour le vêtement du blessé) - 1915年
1933年、「アルバムのページ (Page d'album)」の名で出版。
エレジー (Élégie) - 1915年
燃える炭火に照らされた夕べ (Les soirs illuminés par l'ardeur du charbon) - 1917年
遺作。表題はボードレールの『悪の華』の「露台」(Le Balcon) の一節。第一次世界大戦による物資不足の中で石炭を送ってくれた石炭商に頼まれて作曲。2001年に発見。
2台ピアノ・4手連弾のための曲
交響曲 ロ短調(少年期の習作。第1楽章の4手連弾のみ現存、ヘンレ社からも出版。) - 1880年 - 1881年
小組曲 (Petite suite) 4手連弾。ビュッセルによる管弦楽編曲版で有名。ヘンレ社からも出版。- 1886年 - 1889年
小舟にて (En Bateau)
行列 (Cortège)
メヌエット (Menuet)
バレエ (Ballet)
スコットランド風行進曲 (Marche écossaise sur un thème populaire) - 1891年(1908年に管弦楽版に編曲、ヘンレ社からも出版。)
6つの古代の墓碑銘 (6 Epigraphes antiques) 4手連弾。『ビリティスの歌』の1, 7, 3, 10, 8, 12曲目より編曲。独奏版もあり。アンセルメによる管弦楽編曲版もある。ヘンレ社からも出版。 - 1914年
夏の風の神、パンに祈るために (Pour invoquer Pan, dieu du vent d'été)
無名の墓のために (Pour un tombeau sans nom)
夜が幸いであるために (Pour que la nuit soit propice)
カスタネットを持つ舞姫のために (Pour la danseuse aux crotales)
エジプト女のために (Pour l'Égyptienne)
朝の雨に感謝するために (Pour remercier la pluie au matin)
リンダラハ (Lindaraja) 2台ピアノ。ヘンレ社からも出版。 - 1901年
白と黒で (En blanc et noir) 2台ピアノ。ヘンレ社からも出版。 - 1915年
情熱に駆られて (Avec emportement)
緩やかにそして控えめに (Lent et sombre)
スケルツァンド (Scherzando)
牧神の午後への前奏曲[22] -(作曲者による2台ピアノ版、ヘンレ社からも出版。)
管弦楽のための第一組曲 - (遺作としてピアノ連弾版が発見されデュランより出版されたが、原曲は不明。デュラン社から。)
交響組曲『春』 - (作曲者による2台ピアノのためのオリジナル版。デュラン社から。)
海 - (作曲者によるピアノ連弾版。デュラン社から。)
神聖な舞曲と世俗的な舞曲 - (作曲者による2台ピアノ版。デュラン社から。)
管弦楽曲
交響組曲『春』 (Suite symphonique 'Printemps') - 1886年 - 1887年
最初の版には女声合唱があったが火事で焼失した。1913年にビュッセルによって再度オーケストレーション(管弦楽のみ)が行われる。
牧神の午後への前奏曲 (Prélude à l'Après-midi d'un faune) - 1892年 - 1894年
夜想曲 (Nocturnes) - 1897年 - 1899年
雲 (Nuages)
祭 (Fêtes)
シレーヌ (Sirènes)
:第3曲には女性コーラス(歌詞なし)が入る
交響詩『海』 (La Mer) - 1903年 - 1905年
海上の夜明けから正午まで (De l'aube à midi sur la mer)
波の戯れ (Jeux de vagues)
風と海との対話 (Dialogue du vent et de la mer)
管弦楽のための映像 (Images pour orchestre) - 1905年 - 1912年
ジーグ (Gigues)
イベリア (Ibéria)
街の道から田舎の道から (Par les rues et par les chemins)
夜の薫り (Les parfums de la nuit)
祭りの日の朝 (Le matin d'un jour de fête)
春のロンド (Rondes de printemps)
独奏と管弦楽のための協奏的作品
ピアノと管弦楽のための幻想曲 (Fantaisie pour piano et orchestre) - 1889年 - 1891年
作曲者がリハーサルの段階で楽譜を差し止めたため、死後初演。
神聖な舞曲と世俗的な舞曲 (Danse sacrée et danse profane) - 1904年
独奏ハープと弦楽合奏のための作品。
サクソフォーンと管弦楽のための狂詩曲 (Rhapsodie pour orchestre et saxophone) - 1901年 - 1908年
作曲者の死後の1919年にロジェ=デュカスによって管弦楽編曲が行われた。
クラリネットと管弦楽のための第1狂詩曲 (Ier Rhapsodie pour orchestre avec clarinette principale) - 1909年 - 1910年
「クラリネットとピアノのための第1狂詩曲」を編曲。
室内楽曲
ピアノ三重奏曲(18歳の時、フォン・メック夫人の元で書かれた曲) - 1879年 - 1880年
弦楽四重奏曲 - 1893年
活気をもって、決然と (Animé et très décidé)
十分生き生きと、きわめてリズミカルに (Assez vif et bien rythmé)
アンダンティーノ、おだやかに、表情豊かに (Andantino, doucement expressif)
非常にゆっくりと (Très modéré - Très mouvementé - Très animé)
クラリネットとピアノのための小品 (Petite pièce pour clarinette et piano) - 1910年
ビリティスの歌 (Chansons de Bilitis) - 1900年 - 1901年
パントマイムと詩の朗読のための付随音楽。編成は2フルート、2ハープ、チェレスタ。
フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ (Sonate pour flûte, alto et harpe) - 1915年
チェロ・ソナタ (Sonate pour violoncelle et piano) - 1915年
ヴァイオリン・ソナタ (Sonate pour violon et piano) - 1916年 - 1917年
バレエ音楽
遊戯 (Jeux) - 1912年 - 1913年
1幕。ニジンスキー台本。
カンマ (Khamma) - 1912年
3幕。ピアノ譜のみ。オーケストレーションはシャルル・ケクランによる。
おもちゃ箱 (La boîte à joujoux) - 1913年
4場の子供用バレエ。ピアノ譜のみ。オーケストレーションはアンドレ・カプレによる。
プロローグ - おもちゃ箱 - 戦場 - 売られる羊小屋 - お金持ちになってから - エピローグ
沈黙の宮殿 (Le palais du silence) - 1914年
1幕。前奏曲と第1場の初めの草稿のみ現存。のちに「ノ・ジャ・リ」と変更した。ドビュッシーはこの作品を期日までに仕上げることができなかった。
歌曲(カッコ内は詩人)
麦の花(Fleur des blés アンドレ・ジロー) - 1878年
美しい夕暮れ(英語版)(Beau soir ポール・ブールジェ) - 1880年
星の夜(Nuits d'étoiles テオドール・ド・バンヴィル) - 1880年
中国風のロンデル(Rondel chinois 作者不詳) - 1880年
西風(Zéphyr テオドール・ド・バンヴィル) - 1881年
ピエロ(Pierrot テオドール・ド・バンヴィル) - 1881年
愛し合い、そして眠ろう(Aimons-nous et dormons テオドール・ド・バンヴィル) - 1881年
ジャヌ(ジェイン)(Jane ルコント・ド・リール) - 1881年
マンドリン(Mandoline ポール・ヴェルレーヌ) - 1882年
華やかな宴(Fête galante テオドール・ド・バンヴィル) - 1882年(メロディは後に『小組曲』の「メヌエット」に流用)
ロンドー(Rondeau アルフレッド・ド・ミュッセ) - 1882年
パントマイム(Pantomime ポール・ヴェルレーヌ) - 1882年
月の光(Clair de lune ポール・ヴェルレーヌ) - 1882年。「艶なる宴 第1集」第3曲の初稿。
今はもう春(Voici que le printemps ポール・ブルジェ) - 1883年
感傷的な風景(Paysage sentimental ポール・ブルジェ) - 1883年
スペインの歌 (Chanson espagnole) - 1883年。失われたとされてきたが、近年自筆譜が発見された。
顕現(Apparition ステファヌ・マラルメ) - 1884年
声をひそめて(En sourdine ポール・ヴェルレーヌ) - 「艶なる宴 第1集」第1曲の初稿。
忘れられたアリエッタ(Ariettes oubiées ポール・ヴェルレーヌ) - 1886年 - 1888年
忘れられた小歌 という場合もあり
やるせなく夢見る思い (Ariettes oubiées I 'C'est l'extase langoureuse')
われの心に涙降る(Ariettes oubiées II 'Il pleure dans mon cœur' 巷に雨の降るごとく)
露包む川面の木々の影 (Ariettes oubiées III 'L'ombre des arbres')
ベルギーの風景「木馬」 (Paysages belges 'Chevaux de bois')
水彩画1「グリーン」 (Aquarelles I 'Green')
水彩画2「スプリーン(憂鬱)」 (Aquarelles II 'Spleen')
ボードレールの5つの詩 (5 Poèmes de Charles Baudelaire) - 1887年 - 1889年
バルコニー (Le balcon)
夕暮れの調べ (Harmonie du soir)
噴水 (Le jet d'eau)
黙想 (Recueillement)
恋人たちの死 (La mort des amants)
眠りの森の美女(La belle au bois dormant ヴァンサン・イスパ(フランス語版)) - 1890年
2つのロマンス(2 Romances ポール・ブルジェ) - 1891年
そぞろな悩める心 (L'âme évaporée et souffrante)
鐘 (Les cloches)
3つの歌曲(3 Mélodies ポール・ヴェルレーヌ) - 1891年
海は美しい (La mer est plus belle)
角笛の音は (Le son du cor s'affige)
羊の群れと立ち並ぶ生垣は(L'échelonnement des haies)
艶なる宴 第1集(Fêtes galantes 1 ポール・ヴェルレーヌ) - 1891年
声をひそめて(En sourdine)
操り人形 (Fantoches)
月の光 (Clair de lune)
庭の中(Dans le jardin ポール・グラフォレ) - 1891年
お告げの鐘 (Les Angélus)(グレゴワール・ル・ロワ) - 1892年
叙情的散文(Proses lyriques 作曲者自身) - 1892 - 1893年
夢 (De rêve)
砂浜 (De grève)
花 (De fleurs)
夕暮れ (De soir)
ビリティスの3つの歌(3 Chansons de Bilitis ピエール・ルイス) - 1897年 - 1898年
パンの笛 (La flûte de Pan)
髪 (La chevelure)
水の精の墓 (Le tombeau des naïades)
眠れぬ夜 (Nuits blanches 作曲家自身) - 1899年 - 1902年。全5曲を構想していたが未完に終わった。
終わりなき夜 (Nuit sans fin)
彼女がいる時に (Lorsqu'elle est entrée)
艶なる宴 第2集(Fêtes galantes 2 ポール・ヴェルレーヌ) - 1904年
無邪気な人たち (Les ingénus)
半獣神 (Le faune)
感傷的な対話 (Colloque sentimental)
3つのフランスの歌(Chansons de France シャルル・ドルレアン、トリスタン・レルミット) - 1904年
ロンデル - 時は脱いだよ、そのマント(Rondel – Le temps a laissié son manteau)
洞窟 (La Grotte) - 「二人の恋人の散歩道」第1曲に再収録。
ロンデル - 喜びが死んでしまったから(Rondel – Pour ce que plaisance est morte)
二人の恋人の散歩道(フランス語版)(Le promenoir des deux amants トリスタン・レルミット) - 1904,1910年
この暗い洞窟のほとり (Auprès de cette grotte sombre)
愛するクリメーヌよ、私の言うとおりにしておくれ (Crois mon conseil,chère Climène)
私は震える (Je tremble en voyant ton visage)
フランソワ・ヴィヨンの3つのバラード(フランス語版) (3 Ballades de François Villon) - 1910年
恋人に与えるバラード (Ballade de Villon à s'amye)
聖母に祈るために母の要請で作られたヴィヨンのバラード (Ballade que feit Villon à la requeste de sa mère pour prier Nostre-Dame)
パリジェンヌのバラード (Ballade des femmes de Paris)
ステファヌ・マラルメの3つの詩(フランス語版) (3 Poèmes de Stèphane Mallarmé) - 1913年
ため息 (Soupir)
取るに足らない願い (Placet futile)
扇 (Éventail)
もう家がない子供たちのクリスマス(フランス語版)(Noël des enfants qui n'ont plus de maison 作曲者自身) - 1915年
オペラ、カンタータ、劇付随音楽
『ペレアスとメリザンド』 (Pelléas et Mélisande) - 1893年 - 1895年、1901年 - 1902年
5幕15場のオペラ。メーテルランクの戯曲『ペレアスとメリザンド』をそのまま台本にしたもの。ワグネリズムの対極にある作品。完成したオペラはこの1作品のみ。
音楽劇『聖セバスティアンの殉教』 (Le martyr de St. Sébastien ガブリエーレ・ダンヌンツィオ) - 1911年
全曲は5幕の神秘劇。非常に大きなもので、編曲したものが演奏されることが多い。オーケストレーションにアンドレ・カプレの協力を得て完成。
『拳闘士』 (Cantate 'Le gladiateur') - 1883年
カンタータ。ローマ大賞二席受賞曲。
『放蕩息子』 (L'Enfant Prodigue) - 1884年、1906年 - 1908年改訂
カンタータ。ローマ大賞受賞曲。
『リア王』 (King Lear) - 1904年
劇付随音楽。本来は7部からなるものであったが、作曲されたものは2曲のみである。
ファンファーレ (Fanfare)
リア王の眠り (Le sommeil de Lear)
『森のディアヌ』 (Diane au bois) - 1884年 - 1886年
カンタータ。破棄され、一部のみ現存。ローマ大賞応募曲。
『ロドリーグとシメーヌ(英語版)(Rodrigue et Chimène)』 - 1890年 - 1893年
未完のオペラ。エル・シッド伝説を題材としたカチュール・マンデスの4幕5場の台本による。作曲は第1幕・第3幕のショート・スコアと第2幕のピアノ伴奏譜が残る[23]。リチャード・ランガム・スミス (Richard Langham Smith) による補筆をエディソン・デニソフが管弦楽化、1993年にリヨン歌劇場で初演。
『鐘楼の悪魔(英語版)』(Le diable dans le beffroi) - 1902年 - 1903年
未完のオペラ。エドガー・アラン・ポーの同名小説により作曲者が2幕3場の台本を作成したが、作曲は1幕分のスケッチのみ。一部が『ムジカ』誌の作曲者当ての匿名コンクールに掲載された『コンクールのための小品』に転用。
『アッシャー家の崩壊』 (La chute de la maison Usher) - 1908年 - 1918年
未完のオペラ。エドガー・アラン・ポーの同名小説をもとにしたもの。作者自身による2幕の台本は完成したが、作曲は全曲の半分ほどに終わる(楽譜は作曲者の死後、妻が関係者に配ったため散逸)。フアン・アジェンデ=ブリン(英語版)が補完して、1977年に上演。その後、散逸していたスケッチを元にロバート・オーリッジ(英語版)が復元・補筆し、2006年にブレゲンツ音楽祭で上演。
その他の楽曲
シャルル・ドルレアンの3つの歌 (Trois chansons de Charles d'Orléans) - 1898年および1908年
唯一の無伴奏混声合唱曲。2曲目はアルト独唱を伴う(後述の録音では、独唱パートは合唱で歌われている)。
神よ、なんと彼女を美しく見せ給うことか (Dieu! qu'il la fait bon regarder!)
タンバリンが鳴り渡る時 (Quant j'ai ouy le tambourin)
冬よ、お前は嫌なやつだ (Yver, vous n'estes qu'un villain)
シランクス (Syrinx) - 1912年
無伴奏フルート独奏曲。ムーレイの戯曲「プシュケ」のために作られたもの)
サティ:「ジムノペディ」第1番、第3番(管弦楽用の編曲) - 1897年
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%BC
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/790.html
1. 中川隆[-16138] koaQ7Jey 2021年10月05日 12:14:32 : 0sTOkIKxFw : QjgzTzYuTDlwT0U=[11]
最美の音楽は何か? _ ドビュッシー『ベルガマスク組曲 月の光』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/191.html
ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」をもって現代音楽が始まった
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ドビュッシー 歌劇「ペレアスとメリザンド」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/819.html
ドビュッシー自作自演
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http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/790.html#c1
フレデリック・ディーリアス(Frederick Theodore Albert Delius CH 1862 - 1934)
交響曲・協奏的作品
チェロ協奏曲(1921年)
管弦楽曲
管弦楽組曲『フロリダ』(Suite "Florida", 1886年 - 1887年)
夜想曲『パリ』(管弦楽曲)(Paris: The Song of a Great City, 1898年)
古い黒人奴隷の歌による変奏曲『アパラチア』(合唱つき)(Appalachia: Variations on an old slave song, 1902年)
イギリス狂詩曲『ブリッグの定期市』(Brigg Fair, 1907年)
3.3点
凡庸でない独特の美しさのある田園的な序奏と主題の変奏。息の長い変容と、少しの違和感をうまく使いこなす音使いと、しなやかで流麗なオーケストレーションのディーリアスの特長が端的に楽しめる。民謡的でありながら浮遊感と密かな陰影を持つ主題がよく作風とマッチしているし、変奏曲の聴きやすさもあって楽しめる。
幻想曲『夏の庭で』(In a summer garden, 1908年)
高い丘の歌(ヴォカリーズの合唱つき)(The Song of the High Hills, 1911年)
3.0点
大作であるがゆえに密度がうすくなり、スケールの大きさがプラスに働いていないと感じた。時間の流れの悠然としたのが物足りなく感じる。時間の流れは違うものの、小品を引き伸ばしたようなイメージである。ただし聴き込めばもっとよい曲と感じられる予感はある。
小オーケストラのための2つの小品 (2 Pieces for small orchestra)
春初めてのカッコウの声を聴いて (On hearing the first cuckoo in spring, 1911年 - 1912年)
3.5点
カッコーの鳴き声が何度も出てくるところが聴きやすい。4分の小品で独特の息の長い音楽を紡ぎ出す明るい光に包まれたような流麗さと自然の美しさの表現や音の使い方を堪能できる。ディーリアス入門にちょうど良い。なかなかの名品だと思う。
楽園への道 (The walk to the paradise garden, 1911年 - 1912年)(歌劇『村のロメオとジュリエット』 の中の間奏曲)
3.0点
美しいが、重さがなくて軽いバックミュージックの映画音楽のようである。クラシック音楽としてはあまり楽しめなかった。
(管弦楽組曲)『北国のスケッチ』(North Country Sketches, 1913年 - 1914年)
夏の歌(A Song of Summer, 1931年)
3.5点
かなり美しい交響詩。独特の幻想的な風景が、空気感と光彩と匂いを伴って、ヒースの生い茂る崖に腰掛けて海を見渡している場に本当にいるかのように感じさせるほど見事に表現している。没入感を感じさせる管弦楽の音色と使い方のうまさに感心する。音の流れを重ねていきながら積み重ねて息の長い大きな時間の流れを作るのに身を委ねるのが楽しい。
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9
フレデリック・シーオドア・アルバート・ディーリアス(Frederick Theodore Albert Delius CH 1862年1月29日 - 1934年6月10日)は、イギリスの作曲家。本名はフリッツ・シーオドア・アルバート・ディーリアス(Fritz-)である。かつて日本語では「デリアス」と表記されることが多かったが、三浦淳史の解説などを通して、より原音に近い「ディーリアス」が一般的となった。
イングランド北部の裕福な商人の家庭の生まれであったが、ディーリアスは商売の道に進みたがらなかった。1884年にはオレンジのプランテーションを運営するためにアメリカのフロリダ州に送られるものの、仕事を放棄した彼は黒人音楽に感化されて作曲を行うようになる。1886年からしばらくはドイツで正式な音楽教育を受け、パリに移って職業作曲家としてのキャリアを開始した。その後、遠く離れないグレ=シュル=ロワンに居を構え、その地で妻のイェルカ・ローゼンと共に大戦時を除く生涯を過ごした。
ディーリアスが最初に成功を手にしたドイツでは、1890年代終盤からハンス・ハイムをはじめとする指揮者が彼の作品を紹介していた。祖国のイギリスにおいては、トーマス・ビーチャムが作品を取り上げた1907年より、彼の音楽は演奏会のプログラムの常連となった。ビーチャムの貢献は1909年のロンドンにおける「人生のミサ」の前全曲初演(彼は1908年にドイツで第2部の初演も行っている)、1910年のロイヤル・オペラ・ハウスにおけるオペラ「村のロメオとジュリエット」の上演、1929年の6日間にわたるディーリアス音楽祭の開催、また多くのディーリアス作品の蓄音機録音などがある。ディーリアスはパリ時代の初期に梅毒に感染し、1918年からはこの病に苦しめられることになる。彼は身体が麻痺すると共に視力を失ったが、代筆者のエリック・フェンビーの助けを借りて1928年から1932年の後期作品の作曲を行った。
ディーリアスの初期作品に見られる叙情性には、彼がアメリカで耳にした音楽と、リヒャルト・ワーグナーや彼と親交があったエドヴァルド・グリーグなどのヨーロッパの作曲家の影響が見られる。その後、彼は自らの技法を確立していき、オーケストレーションや半音階的和声法に特徴付けられる独自の様式を築き上げるに至った。ディーリアスの音楽の人気には上がり下がりがあり、しばしば批判の的にもなっている。1962年に彼の熱心な支持者らが設立したディーリアス協会は、ディーリアスの生涯と作品に関する周知活動を続けており、毎年若手音楽家に授与されるディーリアス賞のスポンサーにもなっている。
生涯
幼少期
ヨークシャー、ブラッドフォードのヴィクトリア朝の市庁舎。ディーリアスはこの町で育った。
ディーリアスは、ロンドンの北北西約250kmに位置するヨークシャーのブラッドフォードに生まれた。洗礼名はフリッツ・シーオドア・アルバート・ディーリアスで[1]、彼は40歳になる頃まで使用していた[2]。両親はユリウス・デリウス(Julius Delius; 1822年-1901年)とエリーゼ・パウリーネ(Elise Pauline 旧姓クレーニッヒ Krönig; 1838年-1929年)で、フレデリックは4男10女の兄妹の次男、4番目であった[3]。彼の両親の生まれはドイツ、ヴェストファーレンのビーレフェルトで、オランダ系の血筋であったが[注 1]、ドイツ国内のライン川の近くの土地に定着して数世代を経ていた。ユリウスの父のエルンスト・フリードリヒ・デリウス(Ernst Friedrich-)は、ナポレオン戦争時にブリュッヘル元帥の指揮下で従軍していた[5]。ユリウスがイングランドに移り住んだのは羊毛商人として一旗上げるためであり、1850年に帰化してイギリス国籍を取得していた。エリーゼとの結婚は1856年のことである[2]。
ディーリアス家は音楽一家であり、当時の有名な音楽家であるヨーゼフ・ヨアヒムやカルロ・アルフレード・ピアッティなどが来客として訪れ、演奏を披露したこともあった[2]。ドイツの家系に生まれながらも、幼いディーリアスはドイツ=オーストリア系のモーツァルトやベートーヴェンではなく、ショパンやグリーグらの音楽により強く惹かれており、この好みは生涯にわたって続くこととなった[3]。ディーリアスが受けた最初の音楽教育は、ハレ管弦楽団のバウアーケラー(Bauerkeller)によるヴァイオリンの指導であり、その後リーズのジョージ・ハドック(George Haddock)の下でさらに発展的な教育を施された[6]。彼は後年ヴァイオリンの教師として仕事が出来るほどにヴァイオリンの腕を上げていたが、最も楽しみを見出していたのはピアノに向かって即興演奏をすることであり、彼が初めて音楽で我を忘れる体験をしたのはショパンのワルツであった[5][注 2]。1874年から1878年にかけて、ディーリアスはブラッドフォード・グラマー・スクール(英語版)[注 3]で学んでおり、やや年長の学生にはテノール歌手のジョン・コーテス(英語版)がいた[7]。その後、彼は1878年から1880年の間にアイザルワース[注 4]のインターナショナル・カレッジで学んだ。学生としてのディーリアスは利口でも勤勉でもなく[5]、カレッジがロンドンにほどよく近かったためにコンサートやオペラに足を運んでいた[8]。
父のユリウスはフレデリックが家業の羊毛業でひとかどの活躍ができるものと考え、続く3年間は彼に仕事をさせようと必死の説得を試みた。ディーリアスの最初の仕事はグロスタシャー、ストラウド(英語版)にある商社の代表で、ここで彼はほどよく仕事をこなした。同じくケムニッツの会社の代表として送られてからの彼は職務を放棄して、音楽の中心であったドイツに向かってハンス・ジットの下で音楽を学ぶことを選んでしまう[8]。そこで父は彼をスウェーデンへと向かわせるが、ここでも彼は商売より芸術に興味を向け、ノルウェーの劇作家であるヘンリック・イプセンやグンナー・ヘイベルグ[注 5]の影響を受けることになる。因習的な価値観に反旗を翻したイプセンに感化され、ディーリアスはますます商売の道とは疎遠になっていった[2]。次に彼が送られたのはフランスの会社であったが、彼は頻繁に仕事を休んではコート・ダジュールへ出かけていた[8]。ここまでくると、父のユリウスも息子が一家の家業を継ぐ見込みはないことを悟ったが、それでも彼は息子を音楽の道に進ませることには反対の立場であった。彼は代わりにオレンジのプランテーションを運営させるべく、息子をアメリカへと送り出したのである[8]。
フロリダ時代
ソラノ・グローヴに程近いフロリダのセントジョンズ川。ディーリアスはここの農園の音楽から霊感を受け、いくつかの初期作品を作曲した。
アメリカ行きというアイデアが、ユリウスのものだったのかフレデリック本人のものだったのかは明らかではない[注 6]。フロリダの大きな不動産会社は、ブラッドフォードなど英国内にも支社を持っていた。そこで、当時のフロリダで書かれたディーリアスに関する論文において、ウィリアム・ランデル(William Randel)が推測するところでは、父のユリウスがブラッドフォードの事務所を訪れてわがまま息子をオレンジ栽培のために送り出すことを思いついたか、フレデリック本人が実家の羊毛業から逃れる方策にこの案を父に進言したか、両方の可能性が考えられるとしている[10]。ディーリアスがフロリダに滞在していたのは1884年の春から1885年の秋までの期間で、ジャクソンビルに近いセントジョンズ川岸のソラノ・グローヴ(Solano Grove)のプランテーション農場に寝泊りしていた。ここでもやはり彼は音楽に夢中なままで、ジャクソンヴィルで出会ったオルガン奏者のトーマス・ウォード(Thomas Ward)から対位法と作曲などの音楽理論の指導を受けるようになった。後年、ディーリアスは自分が受けた教えの中で有用だったものは、ウォードのものだけだったと述べている[11]。
ディーリアスは後になって、ソラノ・グローヴでの住まいを「掘っ立て小屋」と表現するのを好んだが、建物は4部屋を有する大きなコテージであり、彼が来客をもてなすのに十分な空間があった[注 7]。ウォードをはじめ、ブラッドフォードからの旧友のチャールズ・ダグラス(Charles Douglas)や兄弟のエルンスト(Ernst)も時おりここに滞在した。川から吹き込む風とオークの木で出来る木陰のおかげで度を超した夏の暑さから守られ、この家は住み心地のいいものであった。ディーリアスはオレンジの栽培という仕事にはほとんど目もくれず、音楽へ寄せる興味を探求し続けた。ジャクソンヴィルにはヨーロッパ出身の者にとっては豊かであると思われるような、一風変わった音楽が根付いていた。ランデルが記すところによると、地元のホテルではアフリカ系アメリカ人の給仕たちが歌手を兼業しており、日常的にパトロンのために、また通行人相手に歌を披露していた。これらがディーリアスが黒人霊歌に触れるきっかけとなった。加えて、船舶の所有者は甲板員らに仕事中に歌を歌うことを奨励していた。「昼夜を問わず、蒸気船が近くを通ると水面を越えてソラノ・グローヴの彼のベランダに届く、芳醇で透き通った歌声。ディーリアスは聞こえてくるそれを決して忘れることはなかった。これ以上の環境は想像しがたい。それほどまでに作曲に適した、そしてオレンジの栽培に不向きな環境であった[10]。」
フロリダ在住中にディーリアスは最初の作品を出版している。「Zum Carnival」と呼ばれるピアノのためのポルカである[10]。1885年の暮れ、ソラノ・グローヴで任されていた管理人の職を離れ、バージニア州のダンヴィルへと引っ越した。それからは彼は完全に音楽のみに打ち込むことになる。地元の新聞の広告にこういう文言が掲載された。「フリッツ・ディーリアスがまもなくピアノ、ヴァイオリン、音楽理論、作曲の指導を開始します。授業は生徒の家庭で行う予定です。期間は常識的範囲[10]。」ディーリアスはフランス人やドイツ人にもレッスンの呼びかけを行っていた。ダンビルは音楽が栄えた町であり、彼の初期作品もそこで公開演奏されるなどしたのである[10]。
ライプツィヒ、パリ時代
エドヴァルド・グリーグ 彼はディーリアスの初期作品に大きな影響を与えた
1886年になり、父親のユリウスもようやく音楽の道に進みたいという息子の希望に応え、ディーリアスが正式な音楽教育を受けられるよう学費を出した。ダンビルを離れたディーリアスはいくつかレッスンを行うためにしばらくニューヨークに留まった後、ヨーロッパへと戻った[2]。ドイツへ向かった彼はライプツィヒ音楽院へと入学する。音楽の中心都市ライプツィヒでは、ニキシュやマーラーが歌劇場で指揮をし、ブラームスやチャイコフスキーがゲヴァントハウスで自作を披露していた[5]。音楽院でライネッケの下でピアノを学んだものの、あまり進歩のなかったディーリアスであったが、ザーロモン・ヤーダスゾーンは彼の勤勉さと対位法の理解を称賛していた。また、ディーリアスはハンス・ジットからの指導も再び受け始めていた[2]。ディーリアスの早くからの伝記作家であった作曲家のパトリック・ハドリーは、ディーリアスの円熟期の音楽には「一部の弱々しいパッセージを除いて」このようなアカデミックな教育を受けた痕跡は見当たらないと述べている[3]。ディーリアスの成長にとってはるかに重要だったのは、ライプツィヒでグリーグに出会ったことであった。グリーグは先のウォードと同様に、ディーリアスの潜在能力を見抜いていた。1888年春、ジットは3人の聴衆のためにディーリアスの「フロリダ組曲」を演奏した。3人とはグリーグ、シンディング、作曲者自身である[注 8]。グリーグとシンディングは熱狂し、ディーリアスを親身に支えるようになった。1888年4月のロンドンでの会食の席で、グリーグはユリウスに対しディーリアスが将来音楽で地位を築くと納得させたのである[3]。
1888年にライプツィヒを後にしたディーリアスは、おじのテオドア(Theodore)のいるパリへと移った。おじは彼を招き入れて社会的、金銭的な面倒を見た[2]。以降の8年間でディーリアスはストリンドベリ、ムンク、ゴーギャンといった多くの作家や画家と親交を築いた。フローラン・シュミットがディーリアスのオペラの最初の2作品「イルメリン」と「魔法の泉」をピアノ用に編曲しているものの、彼にはフランスの音楽家との交流はほとんどなかった[2]。(後にはラヴェルもディーリアスのヴェリズモ・オペラである「赤毛のマルゴー」を同様に編曲した[5]。)その結果、彼の音楽がフランスで知られることはなかった[注 9]。ディーリアスの伝記作家のダイアナ・マクヴェイ(Diana McVeagh)が述べるところでは、この数年の間ディーリアスは「魅力的で、心優しく、自然体、そして好色な人物と知られていた。」一般的に、彼が後に健康の崩壊に繋がる梅毒に感染したのは、この時期のことであると信じられている[2][15]。
ディーリアスのパリ時代は音楽的には多作な時期であった。交響詩「頂にて」は1891年にクリスチャニア(現オスロ)で、1894年にモンテカルロで演奏された。グンナー・ヘイベルグは1897年に自作の演劇「フォルケラーデット」への付随音楽を彼に委嘱している。また2作目のオペラ「魔法の泉」をプラハで上演できることになったものの、公演はどういうわけか実現せずに終わった[16]。この時期の作品には他に幻想序曲「丘を越えて遥かに」(1895年-1897年)と、管弦楽のための変奏曲「アパラチア」(1896年;1904年に声楽と管弦楽のための曲に改作)がある[8]。
最初の成功
フォンテーヌブローの森で犬を散歩させる画家 1882年 ルノワール画
1897年、ディーリアスはドイツ人の画家であるイェルカ・ローゼンと出会った。彼女は後に彼の妻となる人物である。プロの絵描きであったイェルカはオーギュスト・ロダンとも親交があり、パリで開催される美術展のアンデパンダン展でも常連であった[2]。彼女はすぐさま若き作曲家の作品への称賛を明らかにし[17]、ドイツの哲学者ニーチェやグリーグの音楽への情熱を共有する2人は惹かれ合っていった[2]。イェルカはパリから64キロ、フォンテーヌブローとの境に地点に位置するグレ=シュル=ロワン村に家を購入した[2]。ディーリアスは彼女を訪ねてその地に向かい、一時フロリダへと戻った後は移り住んで彼女と暮らすようになった。2人は1903年に結婚し、ディーリアスはその後第一次世界大戦中にドイツ兵が進軍してくる危険に見舞われた一時期を除き、生涯をグレで過ごした[2]。ディーリアスはこの頃から英国式にフレデリックと名乗るようになった。彼らの結婚生活は一般的なものではなかった。当初、夫婦の主な収入はイェルカの稼ぎであり、2人には子どもがおらず、さらにディーリアスは夫として信頼の置ける人物ではなかった。イェルカは夫の愛人関係にしばしば頭を悩ませていながらも、その献身的な態度が揺らぐことはなかった[2]。
同年、ディーリアスは自作を支援してくれるドイツ人の庇護者と巡りあうことができた。エルバーフェルトの指揮者であるハンス・ハイム、フリッツ・カッシーラー、アルフレート・ヘルツとデュッセルドルフのユリウス・ブーツである[3]。ハイムは1897年11月3日に彼の「丘を越えて遥かに」をドイツ語のタイトル(Über die Berge in die Ferne)で指揮しており、これがドイツ国内におけるディーリアス作品の最初の演奏であったと考えられている[18]。1899年にはヘルツがロンドンのセント・ジェームズ・ホール(英語版)でディーリアスの楽曲による演奏会を催し、そこでは「丘を越えて遥かに」、合唱曲「ツァラトゥストラの夜の歌」とオペラ「コアンガ(英語版)」からの抜粋が演奏された。ロンドンでのオーケストラコンサートがまだ珍しかった当時にあって、この出来事は名の知られていない作曲家にとっては類い稀な機会であった[19]。演奏会評は前向きなものであったが、再びディーリアスの作品が英国のコンサートホールで聴かれるのは1907年になってからのことである[18]。
管弦楽曲「パリ:大都会の歌」が1899年に完成し、ハイムに捧げられた。ハイムはこれを1901年12月14日、エルバーフェルトにて初演している。この公演について地元の新聞がいくらか批判的な評価を寄せている。この評によると、ディーリアスは聴衆をバスに乗せてパリの夜の名所へ次々と連れ回すものの「彼は我々が大通りのカフェで豊かなジプシーの音楽を聴くことを許してはくれない。常にシンバルとタンバリンが、大体2つのキャバレーから同時に聞こえてきてしまうのである[18]。」この作品はその後一年経たぬうちに、ベルリンでフェルッチョ・ブゾーニの指揮によって再演されている[18]。
この時期に行われたディーリアスの作品の初演は、大半がハイムもしくはその仲間のドイツ人指揮者らによって行われた。1904年にはカッシーラーが「コアンガ」を初演、同年にはエルバーフェルトで「ピアノ協奏曲 ハ短調」が初演され、デュッセルドルフでは管弦楽曲「生命の踊り」が初演された。デュッセルドルフでは翌年にも「アパラチア」(フロリダで採集したかつての奴隷の歌に基づく、合唱と管弦楽のための変奏曲)の初演が続いた。合唱曲「海流(英語版)」は1906年のエッセン、オペラ「村のロメオとジュリエット」は1907年のドイツで初演を迎えた[2]。ディーリアスの名声は第一次世界大戦まで衰えることはなかった。1910年には狂詩曲「ブリッグの定期市」が、ドイツの36の異なるオーケストラによって演奏されている[3]。
名声の高まり
1907年までには、ドイツ各地で作品が取り上げられたことによって、ディーリアスはビーチャムの言葉を借りるならば「年が進むにつれてかさが増す繁栄の波の上に、危なげなく浮かんでいた[20]。」ヘンリー・ウッドは同年に、「ピアノ協奏曲」の改訂版の初演を行っている。また、この年にはフリッツ・カッシーラーがロンドンで指揮台に登っており、ある演奏会ではビーチャムのニュー・シンフォニー・オーケストラを指揮して「アパラチア」を披露している。この時までディーリアス作品を耳にしたことがなかったビーチャムだったが、これに驚愕してその後の生涯にわたってディーリアスの音楽に心酔することになった[21]。数週間後の1908年1月11日、リヴァプールにおいてビーチャムは管弦楽のための夜想曲「パリ: 大都会の歌」のイギリス初演を行った[22]。その年の暮れには。ビーチャムは「ブリッグの定期市」をロンドンの聴衆に紹介し[23]、フェルナンデス・アルボスが「生命の踊り」を取り上げた[24]。
1909年、ビーチャムは4人のソリストと2群の合唱、大オーケストラのために書かれた、ディーリアスの演奏会楽曲でも最大規模で最も野心的な「人生のミサ」を、初めて全曲演奏した[2]。この曲はリヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラはこう語った」と同じニーチェの作品に基づいていたが、シュトラウスの作品を完全な失敗作とみなしていたディーリアスは、彼の作品とは距離を置いていた[18]。一方のシュトラウスもエルガーを称賛しながらディーリアスを認めようとはせず、ディーリアスに対し夜想曲「パリ」を指揮したくないと伝えていた。「私には交響的発展が乏しすぎるように見受けられ、さらにシャルパンティエの真似事のように思われる[25]。」
20世紀初頭に作曲されたディーリアスの楽曲には、彼の作品の中でも最も人気を獲得した作品が含まれる。「ブリッグの定期市」(1907年)、「夏の庭で」(1908年、1911年改定)、「川面の夏の夜」(1911年)、「春初めてのカッコウの声を聴いて」(1912年)などである。これらに関してマクヴェイはこう述べている。「これらの見事な牧歌を聴けばほとんどの場合、作曲者がドイツの血筋を持ちフランスに居住した人物であるにもかかわらず、『イングランド』という言葉が思い浮かぶ[2]。」1910年に、ビーチャムはロンドンのロイヤル・オペラ・ハウスでオペラシーズンを催した。彼は自らの一家の巨額の資金を背景に、採算を度外視して集客の見込みが薄い演目もいくつか取り上げた。「村のロメオとジュリエット[注 10]」などである。演奏会評はおおむね穏健なものであったが、タイムズ紙は曲の管弦楽的側面を称賛しつつこう批評した。「ディーリアス氏には、声楽のために劇的な曲を書く感覚が極めて乏しいようである[27]。」曲には非常に美しい瞬間があるものの、楽劇としては効果的に書かれていないという点については、他の批評家たちも賛同している[28]。
戦中、戦後
第一次世界大戦の最中には、ディーリアスとイェルカは敵襲を避けるためグレを離れた。2人はイングランド南部に仮住まいを設け、ディーリアスはそこで作曲を続けていた。1915年発行のミュージカル・タイムズ誌には、ディーリアスを称賛する作曲家ピーター・ウォーロックのコメントが掲載された。それは以下のようなものである。
彼はこの国(イギリスのこと)では音楽家として公的な職には何も就いていない。彼は音楽院等で教鞭を執るということもなければ、音楽教授や博士の名誉に与ってすらいない。彼は演奏会を開きもしないし、自分の音楽を宣伝することはない。オーケストラの指揮もしなければ、公に楽器を演奏することもないのである。(ベルリオーズですらタンバリンを演奏したというのに!)[9]
ウォーロックは、ディーリアスを一心に自作へ集中する作曲家であると記述している。「ディーリアスの音楽には外面的な視点が存在しない。自らの存在の奥底で彼の音楽に彼の音楽を感じるか、または何も感じないか、このどちらかしかない。ビーチャム氏の指揮する場合を除き、彼の作品の超一流の演奏に出会うことが滅多にないのは、一部にはこうした理由もあると思われる[9][注 11]。」
ディーリアスの戦時中の主要作品のひとつである「レクイエム」は、「戦争に散った全ての若き芸術家の思い出に」捧げられている。この作品は伝統的なキリスト教の典礼には全く則っておらず、死後の生命や祝祭といった概念を避ける代わりに汎神論的な自然の再生を謳っている。1922年のロンドンにおいて指揮者のアルバート・コーツがこの曲を演奏した際には、無信仰な内容が一部の信心深い人々の反感を買った[注 12]。こうした批判的姿勢はディーリアスの死後もくすぶり続け、イギリスで「レクイエム」が次に演目にのぼったのは1965年になってからのことで、1980年までに世界中でもわずか7回しか演奏されなかった。ディーリアス作品が日常的に取り上げられていたドイツでは、大戦の勃発と共に演奏されることはなくなり、元に戻ることはなかった[30]。にもかかわらず、ヨーロッパ大陸の作曲家には変わらず彼を支持する者もいた。ビーチャムが残した記録によれば、バルトークやコダーイはディーリアスを称賛しており、特に前者は自作をディーリアスに送って意見を求めると同時に、ハンガリーやルーマニアの大衆音楽に興味を持たせようとすることが習慣となっていたという[31]。
ビーチャム
終戦までに、ディーリアスとイェルカはグレに戻ってきていた。彼には1880年代に感染したと思われる梅毒の症状が現れ始めており、1910年には第3期と診断されていた。彼はヨーロッパ中の医師を訪ねて治療を受けたが、1922年までには2本の杖で歩行するようになり、1928年には全身麻痺を起こしてついに失明してしまう。その間の1923年には、イェルカの手助けにより「ヴァイオリン・ソナタ第2番」を作曲している。彼に戦前のような栄華が再び訪れることはなかった。治療にかかる費用は追加の出費となり、視力を失った彼にとって困難となった創作活動は中断を余儀なくされていた。また、大陸では彼の作品が演奏されなくなっていたため、著作権収入も減少していた。ビーチャムは彼らにそっと財政的援助を行っており、また音楽家の後援をしていた作曲家のヘンリー・バルフォア・ガーディナーがグレに家を購入し、ディーリアスとイェルカが賃料を払わず暮らせるようにした[2]。
ビーチャムは1920年から1923年にかけて、一時コンサートやオペラの舞台から退いていたが、1920年にはコーツが「高い丘の歌」を初演、ヘンリー・ウッドとハミルトン・ハーティがクイーンズ・ホール(英語版)やハレ管弦楽団の演奏会にディーリアスの音楽を取り上げた[3]。ウッドは1920年に「ヴァイオリンとチェロのための協奏曲」、1923年には「夜明け前の歌」と「ダンス・ラプソディ第2番」のイギリス初演を手がけている[32]。ジェームズ・エルロイ・フレッカー(英語版)の戯曲「ハッサン」(1923年)への付随音楽がハー・マジェスティーズ・シアターで281回の上演回数を数え、これによってディーリアスは金銭的、芸術的に成功を収めた[8]。その後ビーチャムが復帰したことにより、ハドリーの言によればディーリアスは「彼の最も熱心な支持者たちも思い描いたこともなかったような人物、つまり真に大衆的な成功者」となった。ハドリーは特に、ビーチャムが総監督となって1929年にクイーンズ・ホールで行われた、6日間に及ぶディーリアス音楽祭を引き合いに出している。これには作曲者自身も車椅子(bath chair)で出席していた。「独唱や合唱が含まれていようがいまいが、彼の管弦楽表現の粋」が奏でられ、ホールは満員となった[3]。ウォーロックが6つの演奏会のうち3つについて詳細なプログラムを作成し、ビーチャムの音楽祭の運営を補佐した[29][33]。音楽祭では室内楽曲や歌曲をはじめ、「村のロメオとジュリエット」からの抜粋、ピアノ協奏曲やヴァイオリン協奏曲が取り上げられ、声楽曲「シナーラ」と「去り行くつばめ」の初演が行われ、「人生のミサ」で閉幕となった[8]。マンチェスター・ガーディアン紙の音楽批評家ネヴィル・カーダス(英語版)は、音楽祭の期間中にディーリアスとあっている。彼は作曲者の身体が蝕まれていることを記しつつも「彼には惨めなことなど何もなかった(中略)彼の表情は力に満ち尊大で、そこに刻まれたあらゆる皺は彼の大胆不敵な生き様を物語っていた。」としている。カーダスによれば、ディーリアスは明らかなヨークシャー地方のアクセントで、「自分達の心の中(feelin's)を恐れる」ような人々が書いたイギリス音楽の大半は、2度と聴くべきではない薄っぺらな音楽として忘れてしまったと語ったという[34]。
晩年
イギリスの若いディーリアスファンであったエリック・フェンビーは、ディーリアスがイェルカに口述することで作曲をしようとしていることを知り、無償の筆記者として彼に奉仕することにした。1928年からの5年間、彼はディーリアスの下で働き、ディーリアスが口で伝える新曲を書き留めるとともに、以前の作品の校訂作業も手伝った。彼らが2人で製作したのは「シナーラ」(詩:アーネスト・ダウスン)、「去り行くつばめ」(詩:ウィリアム・アーネスト・ヘンリー(英語版))、「夏の歌」、「ヴァイオリンソナタ第3番」、歌劇「イルメリン」への前奏曲と、30年前に作曲された短いオペラ「赤毛のマルゴー」の曲を再利用した「田園詩曲」(1932年)などである。マクヴェイは、イェルカに捧げられている、ウォルト・ホイットマンの詩を基にした管弦楽伴奏合唱曲「告別の歌」を、両者の最大の共同制作に位置づけている[2]。この時期に生み出されたほかの曲には、イギリスの著名なチェリストであるベアトリス・ハリスンのために書かれた「カプリースとエレジー」、ディーリアスがフェンビーに捧げた小規模な管弦楽曲「幻想的舞曲」がある[35]。不可解な旋律で開始されるヴァイオリンソナタ第3番は、彼らの仕事のやり方がまだ出来上がる前にディーリアスがフェンビーに口述しようとしたものだった。フェンビーは当初旋律を拾い上げることが出来ず、ディーリアスは彼に対して「(この)坊やはよろしくない(中略)単純なメロディーすら書き取ることが出来ないのか。」と思ったのだった[36][注 13]。フェンビーは後年、ディーリアスと共に働いた経験を本にまとめている。そこで語られている詳細のひとつに、ディーリアスがクリケット愛好家だったという話がある。2人はオーストラリアのクリケットチームがイギリスを訪れて現地のチームと対戦した際には、高い関心を持ってこれを見守り、また子どもの頃に試合で活躍した話をしては虚ろな状態だったイェルカを楽しませた[37]。
有名作曲家の楽曲で、公開演奏がなされる前に録音によってまず聴かれることになった初めての例は、ディーリアスの「歌と踊り」であった。この曲は1915年に作曲されたが、演奏の機会に恵まれなかった。1929年にウォーロックがビーチャムを説得し、5月7日に録音が行われたが、初演されたのは10月16日になってから、ロンドンのエオリアン・ホール(英語版)でのことだった[38]
彼ら2人が死去する前年の1933年、自作の「ヴァイオリン協奏曲」を指揮するため空路パリに向かったエルガーが、グレのディーリアスの元を訪れた。ディーリアスは概してエルガーの音楽を称賛してはいなかったが[注 14]、お互いを気に入った2人の間には、1934年2月にエルガーがこの世を去るまで温かい書簡のやり取りが交わされる[8]。エルガーはディーリアスについて「詩人であり、空想家である」と記している[39]。
ディーリアスは梅毒による脊髄瘻に苦しみ、1934年6月10日、72歳でグレに没した。彼は自宅の庭に埋葬して欲しいと願ったが、フランスの当局の許可はおりなかった。代わりに彼が希望したのは、無神論者でありながらも「イングランドの南のどこかの町の教会の敷地で、人々が野生の花を摘んで供えられるところ」への埋葬であった[8]。この時イェルカは容態が悪く、イギリス海峡を渡っての旅に耐えられそうになかったため、ディーリアスは一時的にグレの地方墓地に葬られることになった。
1935年5月、イェルカはイングランドへの旅を行い再埋葬に出席できるだけの体力を回復したと感じていた。ロンドンから約30km南に位置するサリー、リンプスフィールド(英語版)のセント・ピーター教会が選ばれた。旅の途上でイェルカは病に罹り、到着後すぐドーバーの病院に収容、次にロンドンのケンジントンにある病院へと搬送されることになり、5月26日に行われた再埋葬に立ち会うことが出来なかった。深夜に執り行われた式典について、サンデー・ディスパッチ紙(Sunday Dispatch)は見出しで「揺らめく灯りの下、サリーの教会墓地に60人が集う」と報じた[40]。教区主管代理の祈りの言葉は次のようなものであった。「神の慈愛の中旅立たれる魂が平和の中で休まれんことを[41]。」イェルカは2日後の5月28日にディーリアスの後を追った。彼女も夫と同じ墓の中で眠っている[2]。
ビーチャムはもともと1961年にサリーの別の場所に埋葬されたが、1991年にディーリアス夫妻の墓地より程近い場所に再埋葬された[22]。
音楽
影響を与えた人物
1929年のロンドンでの音楽祭の後、タイムズ紙の音楽批評家がディーリアスについてこう記している。「(ディーリアスは)どの楽派にも属さず、いかなる伝統も継承せず、音楽の形式や内容、様式的には他のどの作曲家とも異なっている[42]。」しかしながら、この「際立って独立的で個性的な語法[43]」は、彼が多くからの影響を吸収してきた長い修行期間の賜物なのである。ディーリアスが後に断言したところによると、彼の芸術が築き上げられる過程において最初の重要な経験となったのは、ソラノ・グローヴで河を下って彼の耳に届くプランテーションの歌だった。これらの歌がまずはじめに自分を音楽での自己表現へと駆り立てたのだと、彼はフェンビーに語っている[44]。フェンビーはこれを受けて、ディーリアスの初期作品の多くが「黒人霊歌やフォークソングをしのばせる」ものであり、「管弦楽によってはそれ以前には聞かれることのなかった、また以後も滅多に聞かれない」音であると記述している[45]。ディーリアスは、アメリカ滞在以前から「黒人」音楽に親しんでいた可能性がある。1870年代にテネシー州、ナッシュビルの歌手グループであるフィスク・ジュビリー・シンガーズがイギリスやヨーロッパに演奏旅行に訪れており、ブラッドフォードで催したいくつかの演奏会も非常に好評を博していたからである。ディーリアスが1933年にエルガー宛てにしたためた手紙には、黒人の農場労働者の「美しい4声の和音」と書かれており、彼は無意識にフィクス団が歌った霊歌について書いていたのかもしれない[46]。
ディーリアスはライプツィヒでワーグナーの熱心な信奉者となり、ワーグナーの無限旋律の技法を習得しようとしていた。ディーリアス学者のクリストファー・パーマー(英語版)によれば、息の長い旋律を作り上げるディーリアスの能力は、彼がずっとワーグナーから借り受けていたものであった。ワーグナーからは半音階的和声法による「果てなく増していく音の官能性」の知識も習得していた[47]。しかし、ディーリアスに他の誰よりも最も大きな影響を与えたのはグリーグであった。このノルウェーの作曲家はディーリアス同様に自然および民謡から着想を得る人物であり、ディーリアスの初期作品を少なからず特徴付けるノルウェー風の味付けは、グリーグに触発されてのことであった[48]。音楽ライターのアンソニー・ペインはこう考えている。グリーグの「軽やかで非発展的な半音階の用法から、(ディーリアスは)ワーグナーの重荷を下ろす方法を見出した[8]。」ディーリアスは最初期にはショパンから影響を受けており、その後は同時代のラヴェルやリヒャルト・シュトラウスから[49]、そして「ブリッグの定期市」にディーリアスが注目するきっかけを作った、ずっと年少のグレインジャーが着想の源となった。
パーマーによると、ディーリアスが方向性を見定めるに当たって、フランスの同時代人であるドビュッシーを参考にしたか否かは、議論の余地の残るところである[50]。パーマーは両者の間に美的感覚の類似点を見出しており、また両者が性格面、熱意面のいくつかの点で共通することを指摘している。2人とも初期にはグリーグの影響を受けており、ショパンを称賛していた。また、海を音楽で描写したということ、歌詞を持たない声楽の使用ということでも繋がりを見せる。パーマーによれば「ブリッグの定期市」の開始部分は「ディーリアスの中でも最もドビュッシー的な瞬間」である[51]。ドビュッシー自身は、1901年3月16日のディーリアスのソプラノと管弦楽のための「2つのデンマークの歌」の演奏会評として、こう記している。「曲は非常に甘美で淡い。裕福な隣人が病から脱しようとする時にいたわるような音楽である[52]。」一方のディーリアスはドビュッシーの管弦楽法を称賛しつつも、彼の作品は旋律を欠いていると考えていた[51]。後者のような意見はディーリアス自身の音楽にも頻繁に向けられるものである[53][54]。しかしながら、フェンビーはディーリアスが大衆の好みを軽視していたことを認めつつも、心地よい楽曲の形で「大衆に望みのものを提供する」ような[55]、ディーリアスの「旋律的で詩的な散文」に注目を促している[56]。
様式の変遷
ペインの述べるところによれば、ディーリアスは初期の因習的なスタイルから出発し、創造的なキャリアを経て、容易に見分けられる「他の誰の作品とも違う」スタイルへとたどり着いた[8]。彼は次第に自分らしい音を見出していき、意欲的な未熟期に作り上げた方法論を、ペインの認識するところの「それ自体が対照性や発展性という巧妙な意味を有し、ますます豊かになる和声構造[53]」を伴う円熟の作法に置き換えていった。1920年代から1930年代にかけてオックスフォード大学出版の音楽編集者だったヒューバート・フォス(英語版)は以下のように書いている。ディーリアスは楽器の既知の性能から音楽を創るのではなく、むしろ「響きを第一に考え」た上で、そうした特定の音響を生み出すような方法を探ったのである[57]。ディーリアスが様式的に完成に至ったのは1907年頃であり、この時期に彼は名声をものにした一連の主要作品に着手している[53]。フォスはディーリアスがソナタ形式や協奏曲形式などの伝統的な形式を拒絶していったことに、彼の更なる成熟を認めている。フォスはディーリアスの音楽が「建築ではないのは確かであり、絵画、特に点描で描かれたものにより近い。」と述べている[57]。絵画との類似性についてはネヴィル・カーダス(英語版)も同様に論じている[54]。
名声を得るまで
ディーリアスの最初期のの管弦楽作品は、クリストファー・パーマーの言によれば「仮に魅力的だとしても、生気のない水彩画家」の作品であった[58]。組曲「フロリダ」(1887年作、1889年改定)は「グリーグとアフリカ系アメリカ人の、腕利きによる組み合わせ」であるが[59]、最初のオペラである「イルメリン」(1890年-1892年)にはディーリアス作品だとわかるような箇所がひとつもない。和声や転調は因習的で、ワーグナーとグリーグからの影響が色濃く見られる。ペインは1895年以前に書かれた楽曲に、長く興味をそそるような作品は全くないと言い切っている。最初に様式感の進歩が明らかとなるのはオペラ「コアンガ(英語版)」(1895年-1897年)であり、そこでは豊かさを増した和声がより素早い変化を見せる。これによりディーリアスの「まもなく鉱脈を掘り当てるのが確実な方向へ向かっている感覚」を知ることが出来る[53]。「パリ:大都会の歌」(1899年)ではリヒャルト・シュトラウスの管弦楽法に倣っているが、ペインは経過句が静かな美しさを湛えながらも、後の作品のような深い個人的没入には欠けるとしている。ディーリアスの駆け出し期の最後の作品となった「パリ」は、フォスの記すところでは「ディーリアスの音楽絵画の中で、最高でないにしても最も完成された作品のひとつ」である[57]。
「村のロメオとジュリエット」の基になったゴットフリート・ケラーの原作に添えられた木版画(1919年)に描かれた若い恋人たち
「パリ」の後に書かれた各主要作品において、ディーリアスは管弦楽と声楽を合わせて用いている。そうした楽曲の中で最初のものは「村のロメオとジュリエット」である。これは幕と場からなる一般的なオペラの形態からは離れて、絵画的描写の移り変わりの中で悲劇的な愛の話を語る音楽劇である。音楽的には、修練期に書かれた初期オペラ作品からの著しい様式的進歩が見られる。「楽園への道」として知られる幕間曲について、ウォーロックは「死すべき運命のあらゆる悲劇的な美しさが(中略)圧倒的で、ほとんど耐えがたい辛辣さを持った音楽へと集められ、注がれる」様を表すと記した[9]。この作品において、ディーリアスはこれ以降の彼の作品の全てを特徴付ける音の綾を実現し始めた[53]。ディーリアスの音楽はしばしば形式と旋律を持たないと考えられている。カーダスは、第一の要素になっていないにしても旋律は豊富にあり「移りゆく和声の中を漂い旋律自身を紡いでいる」と論じた。カーダスはこの特徴について、他にはドビュッシーのみが有するものだと考えている[54]。
ディーリアスの次なる作品「アパラチア」では、後年の作品で繰り返し現れる更なる特性が盛り込まれた。それは歌詞のない声楽の器楽的な使用であり、この曲の場合はソラノ・グローヴでディーリアスに霊感を与えた、遠くの農場の歌を表現している[53]。ペインは「アパラチア」には技法上限られた進歩しか見られないと論じているが、フェンビーはある管弦楽のパッセージがディーリアスの「大自然に見られるすべての命あるものの儚さ」という考えを初めて表現したものだと特定してる。この作品以降は、単にパッセージに留まらず各作品全体がこの考え方によって形作られていくことになる[60]。ディーリアスのキャリアの転換期は、次の3つの声楽作品で終わりを迎える。「海流(英語版)」(1903年)、「人生のミサ」(1904年-1905年)、「日没の歌」(1906年-1907年)の3作である。ペインはこれらがそれぞれ、ディーリアスの様式が完全に成熟した形で姿を現そうともがいている傑作であると敬意を表した[53]。フェンビーは「人生のミサ」がディーリアス作品の一般的な系譜からは外れたところに位置しており、他のどの曲とも異なる「広大な幕間」であるが、それでも彼の発展においては不可欠な要素であると記している[61]。
完全なる開花
「ブリッグの定期市」(1907年)はディーリアスのスタイルの完成を知らせる作品である。ここでは彼が音の詩人でるという事実を確固たるものにする小規模なオーケストラが初めて使用されており、ワーグナーやグリーグからの影響はほとんど完全に消え去っている[53]。数年のうちに続く作品は「夏の庭で」(1908年)、「生命の踊り」(1911年)、「川面の夏の夜」(1911年)、「春初めてのカッコウの声を聴いて」(1912年)である。批評家のR.W.S.メンドル(Mendl)はこれらの作品について、以前の型どおりの音詩には欠けていた統合性と形態を有する「見事な自然観察」であると記述した[62]。これらの作品はイギリスの演奏会では常連の演目となり、そこに通うイギリスの聴衆の頭にディーリアスの音楽の性格を確立する助けとなった。しかし、アーネスト・ニューマン(英語版)によると、これらの作品に注目が集まり彼のより幅広い作品群が無視される結果になったことで、ディーリアスにとっては利益となったのと同等に打撃にもなったという[63]。これらの作品では、10以上のパートに分割された弦楽器に対して木管楽器の旋律や装飾が合いの手を入れるという、ディーリアスの成熟した管弦楽の典型的な響きが聞かれる[53]。「北国のスケッチ」(1913年-1914年)では、ディーリアスは弦楽合奏を12パートに分けており、ハープ、ホルン、クラリネット、ファゴットが生命の途絶えた冬の情景を喚起させる[64]。ペインの見方ではこの「北国のスケッチ」がディーリアスの作曲技法の頂点を築くものであるが[53]、フェンビーはさらに後の交響詩「おとぎ話」(1917年)にその栄誉を譲ると考えている[65]。
この時期のディーリアスは、純粋な管弦楽曲だけを作曲していたわけではない。彼は最後となるオペラ「フェニモアとゲルダ(英語版)」(1908年-1910年)を書いている。この曲は「村のロメオとジュリエット」同様に絵画的な形式となっており、彼の円熟したスタイルを示している。この時期の合唱曲には有名な「アラベスク」(1911年)と「高い丘の歌」(1911年)があり、これらは関係のない和音を並置するという方法で書かれており、ディーリアス作品の中でも最も急進的なものとなっている[8]。後者は完全に歌詞のない歌曲となっており、ウォーロックによれば現存する合唱曲の中でも最難曲に含まれるという[9]。1915年以降、ディーリアスの興味は修練期以来ほとんど手をつけていなかったソナタ、室内楽、協奏曲という伝統的形式に向かうことになる。これらの作品の中から、ペインは2つの作品に焦点を当てている。不慣れなジャンルにおいても、ディーリアスがいかに自らのスタイルに忠実であり続けたかを示す「ヴァイオリン協奏曲」(1916年)と、慣れ親しんだ管弦楽の味わいを用いずに、メロディーによって成功を収めた「チェロソナタ」(1917年)である[53]。しかし、カーダスはディーリアスの室内楽曲や協奏曲は大部分が失敗作であるとの評価を下している[54]。ペインによれば、1917年以降は病魔に蝕まれたことでディーリアスの創作は全体的に量、質ともに低下していく。しかし、ペインは付随音楽「ハッサン」(1920年-1923年)を非難の的から外し、この作品にはディーリアスの最高の仕事が含まれると考えている[8][53]。
最終期
1929年からの4年間、フェンビーの助けを得たディーリアスは2つの主要作品を生み出し、しばしば若い頃に書いて未出版のままになっていた作品を掘り起こすなどして、いくつかの小品を書き上げた。主要作品のうち1作目は、彼が以前に「人生と愛の詩」という題で収集していたスケッチに基づく管弦楽曲「夏の歌」である[66]。この作品の新たな開始部を口述するにあたって、ディーリアスはフェンビーに「想像してくれたまえ。ヒースの生い茂る崖に腰掛けて海を見渡しているところを」と問いかけた[67]。これは口述の過程が穏やかで余裕に満ちたものだったという意味ではない、とフェンビーは言う。雰囲気は大抵荒々しく、神経がおかしくなるようなものだった[68]。もうひとつの主要作品は、ウォルト・ホイットマンの詩に付した「告別の歌」と題する楽曲である。こちらはフェンビーにとってさらに驚くべき展望を持つ作品であった。「実に様々な方面への複雑な思考が、しばしば一度にやってきた。オーケストラと声楽のバランスの問題、より広い範囲の誤解の可能性(後略)」が組み合わさることによって、各部分が終わるごとにディーリアスと助っ人は疲れ果ててしまった。それでも、両作品は1932年には演奏可能な状態に出来上がったのだった[35]。この最後の合唱作品の音楽について、ビーチャムは「強靭で、雄々しい生気、『人生のミサ』の偉大な合唱部の名残である雰囲気や性格」があると書き残している[69]。ペインはこの作品が「ほとんどホルストのような明快さの中に位置づけられ、活力を持って勝ち誇った」楽曲であると記述した[53]。
受容
ディーリアスが認知されるようになるには時間がかかった。1899年、彼はすでに37歳となっていたが、彼の作品の大半は未出版であり、大衆には知られていなかった。1894年2月25日にモンテカルロにおいて、イギリスの作曲家の作品による演奏会が開かれてディーリアスの交響詩「頂にて」が演奏された際、ミュージカル・タイムズ紙は次のように作曲者に序列をつけた。「(略)バルフ、マッケンジー、オークリー(Oakeley)、サリヴァン(中略)そしてディーリアスという者だが、彼のことはどうでもいい[70]。」モンテカルロでの公演は好評を博し、ディーリアスにはモナコ大公妃アリス・ヘインから祝福の手紙が贈られたものの、これによってこの交響詩や彼の他の作品の演奏依頼が来ることにはならなかった[71]。ディーリアスは歌曲を60曲以上作曲しており、そのような歌曲が時おり個々に声楽リサイタルで取り上げられていた。タイムズ紙の批評家はそれらを「フリッツ・ディーリアスの奇妙な歌」と呼んで、次のような懸念を表明している。「この作曲家が疑いなく有する力量は、誰か他の有能な音楽家の矯正を受けてより良いものになったり、また適切に発展するようなことがあったりしてはならないものだ[72]。」
グレ=シュル=ロワンのディーリアス記念プレート
1899年5月にロンドンのセント・ジェームズ・ホール(英語版)で行われたコンサートについて、ミュージカル・タイムズ紙の評論家は一部の音楽の未熟さを指摘したものの、「注意を引きつけて離さなかった発想の大胆と男らしい力強さ」を讃えた[73]。しかしながら、ここで「しかと評判を見せつけ」て、このイベントがかつてなかったと思われる程にディーリアス作品のその後の演奏へと弾みをつけたにもかかわらず、以後何年にもわたってディーリアス作品がイングランドで聴かれることはなかったと、ビーチャムは書き残している[74]。ディーリアスがより高く評価されていたのはドイツであり、彼の作品が次々演奏されて成功を収める様は、ビーチャムがディーリアスの人気を「唯一リヒャルト・シュトラウスに次ぐ」と記したほどであった[75]。
イングランドでは、1907年10月22日に「ピアノ協奏曲」がクイーンズ・ホールで初演され、ソリストのTheodor Szántoの華麗さと、曲自体が持つ力に称賛が集まった[76]。この時を境としてディーリアスの音楽はイギリスとヨーロッパ大陸の両方で次第に知られるようになっていき、彼の作品の演奏機会も増えていった。ビーチャムは1909年6月にクイーンズ・ホールで、「人生のミサ」の公演を行った。これはエルバーフェルトから聴きにいていたハンス・ハイムの心を捕らえることこそなかったものの[18]、ビーチャムの述べるところでは多くのプロ、アマチュアを問わぬ音楽家たちがこの曲を「ここ50年間に同ジャンルで書かれた曲の中で、最も深い感銘を与え、独自性のある業績」であると考えたという[20]。にもかかわらず、批評家の中にはディーリアスの音楽が一般聴衆に対し、魅力的に聞こえるかどうかに疑問を呈する者もおり、また一部にはよりはっきりと敵意を示す者もいた[注 15]。
1910年からは、ディーリアス作品はアメリカでも演奏されるようになった。「ブリッグの定期市」や「夏の庭で」は、1910年から1911年にウォルター・ダムロッシュ指揮によるニューヨーク・フィルハーモニック管弦楽団の演奏で取り上げられた。1915年11月には再びニューヨーク・フィルハーモニックの演奏で、グレインジャーが「ピアノ協奏曲」のアメリカ初演を行っている。ニューヨーク・タイムズ紙の評論家は、この作品には釣り合いが取れていないと記した。それは和声的には豊かだが、色彩と美しさは「ひどく未熟で醜いと言ってよい程の」演奏効果と組み合わされているという内容であった[79]。
ディーリアスの有名作品群は、その後彼の生涯を通じてイギリス国内外で演奏されたが、そうした演奏会はしばしばビーチャムの後援によるものであった。ビーチャムは、1929年10月と11月のディーリアス音楽祭でも主催者を務めている。タイムズ紙の批評家はこの音楽祭を振り返って、開場が満席であったことや「これまで別段人気が出るわけでもなく楽しまれてきた音楽」に対して、一見熱狂が起こっているかのようであると記している。しかし同時に、このような新しい需要に確固たる基盤があるのかどうか疑問を呈してもいる[42]。ビーチャムはディーリアスの死後も彼の作品の普及活動を続け、第2回の音楽祭が1946年に、第3回がブラッドフォードで1962年に(これはビーチャム亡き後のことだった)、ディーリアスの生誕を祝うために開催された。これらの演奏会が直面したのは、彼の音楽に対する一般聴衆の無関心であった[80]。音楽学者のデリック・クックは1962年のディーリアス生誕100年祭の折り、以下のように意見している。「自分の名誉を貶めてしまうという意味において、病み付きのディーリアスファンだと宣言することは、コカインやマリファナの中毒だと認めるのとあまり変わらない[81]。」
ビーチャムは1961年にこの世を去った。彼は、フェンビーが「そのとき、ディーリアスの音楽が消えてなくなってしまうのを、もはや何物も救うことが出来ないと、多くの人が思った」と記したほどに、ディーリアス音楽に特別に精通していた[12]。しかしながら、他の多くの指揮者らもディーリアス音楽を支持してきており、またディーリアス生誕100周年からはディーリアス協会が「ディーリアスの生涯と作品に関する、より広い知識を築き上げる」という目標を推し進めている[82]。とはいうものの、彼の音楽が流行となったことはかつてなく、それは支持者や批評家もしばしば認めるところである[注 16]。ディーリアスの音楽は「しばらくしないと良さがわからないもの」ではないかという意見に対し、フェンビーはこう答えている。「ディーリアスの音楽は後になれば良さがわかるというものではない。ある人は初めて聴いた時から気に入るだろうし、またある人には最初から最後まで受け付けられないものだ。それは決して多くの人に訴えかけるわけではないが、一部の人からはどんな時も、心から愛されるような芸術なのである[85]。」2004年のディーリアス没後70周年に際して、ガーディアン紙のジャーナリストであるマーティン・ケトル(Martin Kettle)は、1934年にカーダスが論じた、ディーリアスが技法的にも感情的にも特異な作曲家であるという意見を取り上げている。ディーリアスは古典的な形式を回避しているものの、彼を単なる「音色家、印象主義者、または筋書きのある音楽を作る人物」とみなすのは間違いであると、カーダスは信じていた。カーダスは次のようにも書いている。ディーリアスの音楽の変わらぬ特長は「静けさの中に情熱を想起させることだ(中略)ディーリアスはいかなる時も、美とは物事を熟考することで生まれるのだと、思い出させてくれるのである[86]。」
記念遺産
「ディーリアスへの四つ葉」 アンバー・ヒスコット(Amber Hiscott)作。この作品はディーリアスを讃えてブラッドフォード、イクスチェンジ広場に作られたものであり、1993年11月23日に除幕された。
ディーリアスは死の直前、将来自分の作品が演奏されることで得られる著作権料は、若い作曲家の作品を紹介する年次演奏会のために使われること、という内容の補足を遺書に書き加えていた。ディーリアスはこの追加条項が法的効力を発揮する以前にこの世を去った。フェンビーによると、これに伴ってビーチャムが未亡人のイェルカを説得し、演奏会の案を破棄して著作権料をディーリアスの主要作品の編纂と録音に充てるよう、彼女自身の遺書に書かせたのだという[87]。1935年のイェルカの死後に設立されたディーリアス基金は、この業務を監督するためのものであった。イェルカの遺言で定められたとおり、基金の運営はその大部分をビーチャムが行った。1961年にビーチャムが死去すると基金の役員を補助するための相談役が任命され、1979年からは音楽家慈善基金[注 17]に運営が引き継がれた。基金の活動目標は当初より拡大されており、長年にわたりディーリアスと同時代の他の作曲家の音楽も推進できるようになっている[88]。基金は2010年のロイヤル・フィルハーモニック協会の若手音楽家作曲賞の、共同出資者となっている[89]。
1962年、ブラッドフォードで開催されたディーリアス生誕100年祭に参加した、ディーリアスの熱狂的なファンがディーリアス協会を設立し、フェンビーが初代代表となった[12]。協会は約400人の会員を擁し、基金とは独立してはいるものの近い形で活動を行っている。協会のおおよその目的は、ディーリアスの生涯と作品に関する知識構築を増進し、作品の演奏や録音を奨励することである[82]。2004年には若い音楽家がディーリアスの音楽を学び、演奏することを促すために、協会は毎年のディーリアス賞大会を設立して一等には賞金1,000ポンドを贈っている[90]。1984年にはディーリアス基金がスポンサーとなり、リーズのグランド・シアター[注 18]においてディーリアス没後50周年を記念した「村のロメオとジュリエット」の記念碑的上演が、オペラ・ノース(英語版)によって行われた[91]。
1968年にBBCテレビでケン・ラッセル監督の映画「Song of Summer」が放映され、イギリスにおいては一般の人々の間にもディーリアスの生涯への関心が高まった。映画はディーリアスとフェンビーが協力関係にあった時期を題材としており、フェンビーも脚本の執筆に加わった。マックス・アドリアン(英語版)がディーリアス役、クリストファー・ゲイブルがフェンビー役、そしてモーリーン・プライアー(英語版)がイェルカ役をそれぞれ演じた[92][93]。
アメリカでは、ソラノ・グローヴに小さなディーリアス記念碑が建てられている[94]。フロリダのディーリアス組合は、長年にわたってジャクソンビルで彼の誕生日を祝う祭りを毎年開催している。ジャクソンビル大学では、音楽科が毎年ディーリアス作曲賞を選定している[12]。2012年2月にイギリスの国有郵便会社ロイヤルメールが発行した、「傑出したイギリス人たち」の切手セットでは、ディーリアスが10人の中の1人として選ばれた[95]。
ビーチャムは、ディーリアスの革新者としての役割を強調している。「ディーリアスの最良の点が、彼が古典的伝統を無視して独自の形式を創造した楽曲群において見出されることは、疑いようがない[96]。」フェンビーもこれに続いて、次のように述べている。「真に重要な人物というのは、我々の生命をより美しくするような、新たな方法を発見する人である。フレデリック・ディーリアスはそのような人物だった[92]。」パーマーの記すところでは、ディーリアスの本当の遺産は聴衆に創造的な衝動を催させ、生命の奇跡に対する気付きを与える彼の音楽の能力である。パーマーはジョージ・エリオットの詩「The Choir Invisible」を引き合いに出しつつ、こう結論付けている。「フレデリック・ディーリアス(中略)は、その人生と作品によって世界を住みよい場所に変える、そして文字通りの意味で間違いなく『目に見えぬ音楽隊 'The Choir Invisible'/その者の音楽は世界の喜びである』として作られた、本当の芸術家の仲間の一員である[97]。」
録音史
ディーリアス作品の最初の録音は、1927年にビーチャムが指揮をしてコロムビア・レコードに行ったものである。曲目は「村のロメオとジュリエット」の間奏曲である「楽園への道」、「春初めてのカッコウを聴いて」で、演奏はロイヤル・フィルハーモニック協会管弦楽団であった。これがその後ビーチャムの生涯にわたって続く、彼の一連のディーリアス録音の始まりとなる[98]。しかし、彼だけが録音を行っていたのではない。1929年から1930年にかけては、ジェフリー・トイが「ブリッグの定期市」、「夏の庭で」、「川面の夏の夜」そして「楽園への道」を録音している。フェンビーは、彼が初めてグレの家を訪れた際、イェルカがビーチャム指揮の「春初めてのカッコウを聴いて」の録音をかけていたと述懐している[99]。1934年、死期が迫るディーリアスにフェンビーはトイが指揮する「夏の庭で」の録音をかけて聴かせた。これがディーリアスが耳にした最後の音楽だったと、フェンビーは述べている[100]。1930年代の終わりまでに、ビーチャムは大半の主要な管弦楽曲と合唱曲の、コロムビアへの録音を出していた。ソプラノのドーラ・ラベット(英語版)によるいくつかの歌曲の録音では、彼はピアノ伴奏を受け持った[98]。1936年までには、コロムビアとHMVが「ヴァイオリンソナタ第1番」、「同第2番」、「エレジーとカプリース」とより規模の小さい小品の一部を発売した[101]。
オペラの全曲録音は、第二次世界大戦後まで手に入らなかった。ここでもビーチャムが、今度はHMVと組み、先陣を切って1948年にロイヤル・フィルハーモニック管弦楽団、合唱団と「村のロメオとジュリエット」の録音を行った[98]。この曲はその後、1971年にメレディス・デイヴィスがEMIへ[102]、1989年にチャールズ・マッケラスがArgoへ録音しており[103]、1995年にはクラウスペーター・ザイベルがドイツ語版の録音を行った[104]。かつてビーチャムの弟子であったノーマン・デル・マーは、1985年にBBCデジタルへ「イルメリン」の全曲録音を行っている[105]。「フェニモアとゲルダ」に関しては1997年にEMIがメレディス・デイヴィスの録音を再発売しており[106]、同年にはリチャード・ヒコックスがシャンドスでドイツ語版を録った[107]。全主要作品と多くの歌曲の録音は、第二次世界大戦以降、一定間隔をあけて再版を重ねている。これらの録音の再発売の多くは、ディーリアス協会との連携によって行われているものである。協会はディーリアス作品の録音に関して、様々なディスコグラフィーを作成している[注 19]。
主な作品
ディーリアスは、交響曲と宗教曲を除くすべてのジャンルを作曲しているが、一般的によく知られているのは自由な形式の管弦楽曲である(ただしイギリス国内ではいくつかの大作の合唱曲も親しまれている)。中でも有名なのは、「春初めてのカッコウの声を聴いて」、「ブリッグの定期市」、「楽園への道」などであろう。このうち「楽園への道」は、厳密に言えば歌劇『村のロメオとジュリエット』の間奏曲を、指揮者トマス・ビーチャムが編曲したものである。その他のジャンルの器楽曲は、上演や録音に恵まれていない。
ディーリアスは、出身地であるイギリスにおいて特に高い評価を得ているが、それは指揮者トーマス・ビーチャムに依るところが大きいと考えられている。ビーチャムはディーリアスの作品を率先して評価し、演奏に取り上げており、1961年に亡くなるまでその姿勢を変えることはなかった。
交響曲・協奏的作品
ヴァイオリンと管弦楽のための『組曲』(1888年)
ヴァイオリンと管弦楽のための『伝説』(Légende, 1895年)
ピアノ協奏曲 ハ短調(初稿:1897年/決定稿:1907年)
ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲(1915年 - 1916年)
ヴァイオリン協奏曲(1916年)
チェロ協奏曲(1921年)
演奏会用序曲
幻想的序曲『丘を越えて遥かに』(1895年 - 1897年)
管弦楽曲
管弦楽組曲『フロリダ』(Suite "Florida", 1886年 - 1887年)
イプセンによる交響詩『頂にて』(Paa Viderne (Sur les cimes), 初稿:1888年, 第2稿:1890年 - 1892年)
夜想曲『パリ:大都会の歌』(管弦楽曲)(Paris: The Song of a Great City, 1898年)
古い黒人奴隷の歌による変奏曲『アパラチア』(合唱つき)(Appalachia: Variations on an old slave song, 1902年)
イギリス狂詩曲『ブリッグの定期市』(Brigg Fair, 1907年)
交響詩『生命の踊り』(Lebenstanz, 1908年ごろ。初稿の名は「輪舞は続く La ronde se déroule」, 1899年)
幻想曲『夏の庭で』(In a summer garden, 1908年)
高い丘の歌(ヴォカリーズの合唱つき)(The Song of the High Hills, 1911年)
小オーケストラのための2つの小品 (2 Pieces for small orchestra)
春初めてのカッコウの声を聴いて (On hearing the first cuckoo in spring, 1911年 - 1912年)
川面の夏の夜 (Summer night on the river, 1911年 - 1912年)
楽園への道 (The walk to the paradise garden, 1911年 - 1912年)(歌劇『村のロメオとジュリエット』の中の間奏曲)
(管弦楽組曲)『北国のスケッチ』(North Country Sketches, 1913年 - 1914年)
音詩『おとぎ話(昔ある時)』(Eventyr)
夏の歌(A Song of Summer, 1931年)
室内楽曲・独奏曲
弦楽四重奏曲(未完成、1888年、散逸?)
ヴァイオリンとピアノのためのロマンス(1889年)
ヴァイオリンとピアノのためのソナタ ロ長調(1892年)
弦楽四重奏曲(1893年、散逸?)
チェロとピアノのためのロマンス(1896年)
ヴァイオリンとピアノのためのソナタ第1番(1914年)
チェロとピアノのためのソナタ(1916年)
弦楽四重奏曲ト長調(1916年):一般的に「ディーリアスの弦楽四重奏」として知られる成熟期の作品。
ヴァイオリンとピアノのためのソナタ第2番(1923年)
ヴァイオリンとピアノのためのソナタ第3番(1930年)
ハープシコードのためのダンス イ短調(1919)
劇付随音楽
ハッサン (Hassan, 1920年 - 1923年)
歌劇
イルメリン(Irmelin, 1890年 - 1892年)
魔法の泉(The magic fountain, 1894年 - 1895年)
コアンガ(Koanga, 1895年 - 1897年)
村のロメオとジュリエット (Romeo und Julia auf dem Dorfe, 1901年)
フェニモアとゲルダ (Fennimore and Gerda, 1911年)
声楽曲(歌曲・合唱曲など)
シャクンタラ (テノール独唱と管弦楽)(Sakuntara, 1889年)
モード(テノール独唱と管弦楽)(Maud, 1891年)
海流(バリトン、合唱、管弦楽)(Sea Drift, 1903年 - 1904年)
人生のミサ(4人の独唱、合唱、管弦楽)(Eine Messe des Lebens, 1904年 - 1905年)
日没の歌(2人の独唱、合唱、管弦楽)(Songs of Sunset, 1906年 - 1907年)
シナーラ(バリトン独唱と管弦楽)(Cynara, 1907年)
アラベスク(Arabesk, 1911年)
レクイエム(1913年 - 1914年)
水の上の夏の夜に歌うこと(テノール独唱、合唱、管弦楽)(To be Sung of a Summer Night on the Water, 1917年)
ゆっくり、しかしだれずに (Slow,but not dragging)
陽気に、しかし速くなく(Gaily,but not quick)
田園詩曲(私はかつて人の多い都会を通って)(Idyll - Once I Passed through a Populous City, 1930 - 1932年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%82%B9
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/791.html
フレデリック・ディーリアス イギリス狂詩曲『ブリッグの定期市』
ディーリアス ブリッグの定期市
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/946.html
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/792.html
カール・ニールセン(Carl August Nielsen, 1865 - 1931)
交響曲作曲家としてはかなりメジャーな存在。一般的には知らない人のほうが遥かに多いにも関わらず、あまり大きくないお店にもたいていCDが置いてあるという微妙な知名度の交響曲作曲家は彼しかいない。彼の音楽が独特の論理に基づいており、聞きやすそうでいて決して分かりやすくはないと思う。自分はまだコツを掴めておらず、楽しめていない。
交響曲
交響曲第1番 ト短調 (1891-92,op.7,FS.16)
交響曲第2番 ロ短調 『四つの気質』 (1901-02,op.16,FS.29)
交響曲第3番 ニ短調 『広がりの交響曲』 (1910-11,op.27,FS.60)
交響曲第4番 『滅ぼし得ざるもの(不滅)』 (1914-16,op.29,FS.76)
交響曲第5番 (1921-22,op.50,FS.97)
交響曲第6番 『素朴な交響曲(シンフォニア・センプリーチェ)』 (1924-25,FS.116)
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E5%8C%97%E6%AC%A7
カール・ニールセン(またはニルセン、ニルスン[1]、 Carl August Nielsen デンマーク語発音: [kʰɑːl ˈnelsn̩], 1865年6月9日 - 1931年10月3日)は、デンマークの作曲家。デンマークでは最も有名な作曲家であり、同国を代表するにとどまらず北欧の重要な作曲家として知られている。
経歴
フュン島の貧しいながらも音楽的才能の豊かな家庭に育ち、早くから音楽的能力を示した。はじめは軍楽バンドで演奏したが、その後の1884年から1886年12月にかけてコペンハーゲンのデンマーク音楽アカデミーに通った。作品1となる弦楽合奏のための小組曲が初演されたのは1888年、作曲者が23歳の時であった。翌年から16年間にわたりヨハン・スヴェンセンが指揮者を務めるデンマーク王立管弦楽団で第2ヴァイオリンを務め、この間にジュゼッペ・ヴェルディの『ファルスタッフ』と『オテロ』のデンマーク初演を演奏している。1916年にデンマーク音楽アカデミーで教員のポストに就き、以降没するまでその職にとどまった。
今でこそ彼の交響曲、協奏曲、合唱曲は国際的に高く評価されているが、ニールセンのキャリアと私生活は多くの困難を抱えており、それらはしばしば音楽にも表われている。1897年から1904年の間に書かれた作品は彼の「心理」期の作品であるとされることもあり、主に彫刻家のアネ・マリーイとの荒れた結婚の結果生まれたものである。ニールセンはとりわけ6曲の交響曲、木管五重奏曲、ヴァイオリン協奏曲、フルート協奏曲、クラリネット協奏曲が著名である。デンマークではオペラ『仮面舞踏会』や多くの歌曲が欠くことのできない国の財産となっている。初期にはブラームスやグリーグといった作曲家に触発される形で音楽を書いていたが間もなく自身独自の様式を発展させ、まず発展的調性(英語版)の実験を行い、後には当時まだ一般的だった標準的作曲法に比べると遥かに急進的な道を選んでいった。最後の交響曲となる交響曲第6番は1924年から1925年にかけて作曲された。その6年後に心臓発作でこの世を去り、亡骸はコペンハーゲンのヴェストレ墓地(英語版)に埋葬された。
生前のニールセンの評価は国内と国外の両方で傍流の音楽どまりであった。1960年代以降にレナード・バーンスタインらを通じて人気の高まりを見せ、ようやく彼の作品は国際的なレパートリー入りを果たすことになる。デンマークでは2006年に文化省が国の最も偉大な音楽12曲を選定した際に、ニールセンの作品から3曲が選ばれて彼の名声は折り紙付きのものとなった。彼が残した大衆向けの歌曲や合唱曲はデンマークの学校や家庭などに広く普及し、今日でも歌われている。デンマークの100クローネ紙幣には長年にわたり彼の肖像画が描かれていた。オーデンセのカール・ニールセン博物館には彼と彼の妻の生涯が記録として残されている。1994年から2009年の間にデンマーク政府の資金援助を受けたデンマーク王立図書館が『カール・ニールセン・エディション』を完成した。これによりそれ以前には出版されたことのなかった多くの作品を含む、ニールセンの全作品の背景情報と楽譜がオンライン上で無料で入手できるようになった。
同国の作曲家にルドルフ・ニールセン(1876年1月29日 - 1939年10月16日)がいるが、縁戚関係はない。同年生まれの北欧の作曲家に、フィンランドのジャン・シベリウスがいる。
年譜
1865年 フュン島のノーレ・リュンデルセに生まれる。
1871年 この頃から、父の楽団に入りヴァイオリンを弾くようになった。
1879年 オーデンセの軍楽隊に欠員が出たため応募し、1ヶ月の練習で合格した。
1884年 デンマーク音楽アカデミーをヴァイオリンで受験したが不合格。ニルス・ゲーゼに作品を見せると作曲科に合格が許された。
1888年 卒業後に弦楽四重奏曲第1番、弦楽五重奏曲、「弦楽のための《小組曲》」などの作品を発表する。
1889年 王立劇場オーケストラのヴァイオリン奏者となり、ヨハン・スヴェンセンの下でオーケストラの活動を開始。
1891年 パリでアネ・マリーイと出会い、結婚。
1892年 交響曲第1番を完成。
1901年 4幕からなる歌劇『サウルとダヴィデ』を完成。
1902年 交響曲第2番『四つの気質』を発表。
1903年 ギリシャを旅し、エーゲ海の日の出に感激して序曲『ヘリオス』を作曲。
1906年 2作目の歌劇『仮面舞踏会』、弦楽四重奏曲第4番を発表。
1908年 スヴェンセンが王立劇場楽長を引退し、その後を引き継いだ。
1911年 交響曲第3番『ひろがりの交響曲』 、ヴァイオリン協奏曲を完成。
1914年 第一次世界大戦のため王立劇場楽長を辞任。
1915年 デンマーク音楽アカデミーの理事に就任。音楽協会で指揮者として活動した。
1916年 交響曲第4番『不滅(滅ぼし得ざるもの)』を完成。ピアノ曲『シャコンヌ』、『主題と変奏』を発表。
1922年 交響曲第5番、管楽五重奏曲を完成。このころより作風が変化し、より難解で内向的なものになっていく。
1925年 交響曲第6番『素朴な交響曲』を完成。
1931年 オルガン曲『コンモツィオ』完成。デンマーク音楽アカデミーの院長に就任。逝去。
生涯
若年期
ニールセンは1865年6月9日、貧しい百姓の一家で12人きょうだいの7番目として生を受けた。一家はノーレ・リュンデルセ(デンマーク語版)に程近いSortelungに暮らしていた。フュン島、オーデンセの南に位置する村である[2]。父のニルス・ヨアンセンはペンキ職人をしながら伝統音楽の音楽家として活動しており、そのフィドルやコルネットの腕前から地元の祝典に引っ張りだこであった。ニールセンは自伝『フューン島の少年時代(英語版)』に幼少期のことを記している。母は裕福な船乗りの家庭の出身で、幼い頃に民謡を歌ってくれたことを覚えているという[3]。おじのうち[注 1]、ハンス・アナスン(Andersen 1837年-1881年)は才能ある音楽家だった[4][5]。
ニールセンは音楽との出会いを次のように説明している。「以前に音楽を聴いたこと、父が演奏するヴァイオリンやコルネットを聴いたこと、母が歌うのを聴いたこと、そして麻疹で寝ていた時、小さなヴァイオリンに乗せて自分を外へ連れ出そうとしたこと[6]。」彼は6歳の時に母からその楽器を与えられていた[7]。幼少期にはヴァイオリンとピアノを学び、最初の作曲をしたのは8歳か9歳の頃だった。彼はそれがポルカと、今は失われた子守歌であったと自伝で述べている。両親は息子に音楽家としての将来性があるとは思わなかったため、彼が14歳の時に近くの村の商店主のところへ丁稚に出した。店は真夏になるのを待たずに倒産し、ニールセンは家に帰らざるを得なかった。金管楽器の演奏を学び、1879年11月1日に第16次オーデンセ大隊の軍楽隊でビューグルとアルトトロンボーン奏者に抜擢された[8]。
大隊所属中もヴァイオリンを諦めることがなかったニールセンは、ダンスの場で父と演奏するために家に帰った際には決まってヴァイオリンを弾いた[8]。軍は2年半の間、5日ごとに3クローネ45オーレの賃金とパンを1斤支給した。その後少々の昇給があり、これにより彼はバーンダンスでの演奏に必要だった市民服を買えるようになった[7]。
学習と初期キャリア
バンドのパレード衣装に身を包み、2つの金管を手にしたニールセン少年の写真。
14歳ごろのニールセン、オーデンセにて。
1881年、ヴァイオリン演奏により真剣に取り組み始めたニールセンは、聖クヌーズ修道院(英語版)の会堂管理人であったカール・ラースン(Carl Larsen)の下で私的に学ぶようになる。この時期にどれくらいの作品が作曲されたのかはわかっていないが、彼の自伝からは金管楽器のための三重奏曲、四重奏曲などが書かれていたこと、また金管楽器が異なるキーに調整されている関係で苦労していたということが推測できる。コペンハーゲンのデンマーク音楽アカデミーで学長を務めていたニルス・ゲーゼに紹介されたニールセンは高い評価を受け、その後すぐさま軍楽バンドを除隊できることになると[8]、1884年の年初からアカデミーで学び始めた[9]。
傑出した学生というわけではなく作曲も少ししかしなかったが、ニールセンはヴァルデマー・トフテ(1832年-1907年)の下でヴァイオリンの技術をしっかり習得した。カール・ローセンホフ(1844年-1905年)からは確かな音楽理論の基礎を受け継ぎ、さらにプロの作曲家として駆け出しの頃には価値ある助言を授かった[9]。さらに作曲に関してはゲーゼの指導も仰いでいたが、ゲーゼを友人としては好んだものの彼の音楽は好みに合わなかった。学生仲間やコペンハーゲンの教養の高い家庭との交流からはその後生涯にわたる友人となる者もおり、同様に重要であった。お国柄に由来するむらのある教育はニールセンに美術、哲学、美学に対する貪欲な好奇心をもたらした。しかし音楽学者のデイヴィッド・ファニングの見解では、そうした教育が彼に「それらの主題に対する非常に個人的な、一般人としての見方」を残したのだという[10]。音楽院時代にはヴァイオリン・ソナタ、弦楽四重奏曲などの習作を手がけた。全教科において抜群とはいかぬまでも優秀な成績を収めて卒業、1886年にアカデミーを後にする。まだ自立できるような役職についていなかったニールセンは、引退した商人のイェンス・ギーオウ・ニールセン(1820年-1901年)とその妻が住むSlagelsegadeの集合住宅へと身を寄せた[11]。ここにいる間に、彼は夫妻の娘である当時14歳のイミーリェ・ディーマント・ハット(英語版)と恋に落ちる[12]。恋人関係はその後3年間にわたって続くことになる[13]。
1887年9月17日、ニールセンは自作の弦楽合奏のための『Andante tranquillo e Scherzo』の初演に際してチボリ公園コンサートホールでヴァイオリンを演奏した。その後まもない1888年1月25日には、Privat Kammermusikforening(私的室内楽協会)の私的演奏のひとつとして弦楽四重奏曲 ヘ長調が演奏された[14]。ニールセン自身はこの弦楽四重奏曲をプロの作曲家としての公式デビュー作品にするつもりであったが、『小組曲』の方が遥かに大きな印象を与えることになった。1888年9月8日にチボリ公園で演奏されたこの作品にニールセンの作品番号1が与えられたのである[15]。翌年にかけて交響曲に挑戦するも挫折し、その第1楽章を『交響的ラプソディ』へと転用した。
ヴァイオリンの腕前を十分に磨いていたニールセンは、1889年9月に名誉あるデンマーク王立管弦楽団の第2ヴァイオリンとして加入することになった。この楽団はコペンハーゲンの王立劇場で演奏しており、当時はヨハン・スヴェンセンが率いていた。この職を務める間にジュゼッペ・ヴェルディの『ファルスタッフ』と『オテロ』のデンマーク初演を経験することになる。ここでの仕事は時に強いストレスとなったが、1905年まで演奏を続けた。1906年にスヴェンセンが引退すると次第にニールセンが指揮者を務める回数が増えて行き、1910年には公式に副指揮者として任用される[12][16]。音楽院卒業から楽団での職を得るまでの間はヴァイオリンの個人レッスンによりわずかながらの収入を得ていた。また支援者にも恵まれ、イェンス・ギーオウ・ニールセンだけでなく、いずれもオーデンセで工場を営むアルバト・サクス(Albert Sachs 1846年生)とハンス・ディーマント(Hans Demant 1827年-1897年)も彼のパトロンであった[17]。王立劇場の仕事に就いて1年も経たぬうちニールセンは1,800クローネの奨学金を獲得し、これによって数か月に及ぶヨーロッパを旅行に出ることができるようになった[15]。
結婚と子ども
旅行中にはリヒャルト・ワーグナーの楽劇に出会い否定的な立場をとるようになる。数多くのヨーロッパを代表する管弦楽団やソリストの演奏に触れ、音楽並びに視覚芸術に対する自身の見解を研ぎ澄ませていった。バッハとモーツァルトの音楽を崇敬していたものの、19世紀の音楽に対する態度は定まっていなかった。1891年にライプツィヒで作曲家兼ピアニストのフェルッチョ・ブゾーニと出会っており、その後30年以上にわたって書簡を交し合う間柄となる[18]。1891年3月初旬にパリに到着したニールセンは、やはり奨学金で旅をしていたデンマークの彫刻家アネ・マリーイに出会った。2人は共にイタリアへと旅を続け、デンマークへの帰国前の1891年5月10日にフィレンツェにあるイングランド国教会系のサンマルク教会(英語版)で結婚した[19]。ファニングによると彼らの関係性は「恋愛結婚」というにとどまらず「意思の合致」であったという。アネ・マリーイは才能ある芸術家でありかつ「意思が強く現代的な考え方を持つ女性で、自分のキャリアを築き上げることを決意していた[20]。」この決意がニールセン家の結婚生活に無理をきたすことになる。というのもアネ・マリーイが1890年代、1900年代に数か月の間カールを残して家を留守にすることになるからであり、彼は作曲をしつつ王立劇場の仕事をこなし、なおかつ3人の子供の面倒をみなければならなかった。またニールセンは他の女性との関係に流されやすかった[21]。
ニールセンは結婚生活にかかわる怒りと欲求不満を数多くの音楽作品に昇華させた。特に顕著なのが1897年から1904年にかけての期間で、彼自身はこの時期を「心理」期と呼ぶこともあった[20]。ファニングは次のように記している。「この時期に彼が抱いた人の個性に潜む原動力に対する興味はオペラ『サウルとダヴィデ』、第2交響曲 (四つの気質)、カンタータ『愛の賛歌』、『眠り』に結実している[20]。」カールは1905年3月に離婚を提案し、心機一転ドイツへの移住を検討していたが[22]、幾度かの長期間にわたる別離がありはしたもののニールセン夫妻は彼の生涯にわたる婚姻関係を保ち続けたのであった[21]。
ニールセンには5人の子どもがいたが、うち2人は非嫡出子であった。最初の子どもは1888年、アネ・マリーイに出会う前に生まれた息子のカール・アウゴスト・ニールセン(Carl August -)である。1912年生まれの2人目も婚外子となる娘のラーケル・スィークマン(Rachel Siegmann)で、アネ・マリーイは生涯その存在を知らされなかった[21]。ニールセンは妻との間に1男2女を儲けた。長女のイアメリーン(Irmelin)は父から音楽理論を学び、1919年12月にエガト・ムラ(Eggert Møller 1893年-1978年)と結婚した。彼は医師であり、コペンハーゲン大学の教授、デンマーク国立病院(英語版)の総合病院院長になった人物である。次女のアネ・マリーイ・テルマーニーはデンマーク王立美術院を卒業し、1918年にハンガリーのヴァイオリニストであったテルマーニー・エミルと結婚した。彼はヴァイオリニスト、指揮者としてニールセン音楽の普及に貢献した。息子のハンス・ボーウ(Hans Børge)は髄膜炎の後遺症で障害を抱えており、生涯の大半を家族とは別に暮らすことになった。彼は1956年にコリング近くで生涯を終えた[23]。
円熟の作曲家として
カール・ニールセンと彼の4人の家族の写真。
ニールセンと彼の家族、フールサングのマナー・ハウスにて、1915年頃。
当初、ニールセン作品の認知度は十分とは言えず彼の自立は困難であった。1894年3月14日に彼の交響曲第1番が初演されたコンサートでは、スヴェンセンが指揮をしてニールセンは第2ヴァイオリンを演奏した。この交響曲は1896年にベルリンで演奏された際に大きな成功を収め、彼の名声に大きく貢献した。次第に劇場用の付随音楽や特別な行事のためのカンタータの依頼が増えると、いずれもありがたい追加収入になった。ファニングは彼の標題作品と交響的作品の間に発展した関係性について次のように述べている。「時おり、彼は自らの純管弦楽と思われる音楽に舞台向きの発想を見出すことになる。時おり、テクストやシナリオによって生き生きとした音楽像を発明することを強いられていた彼は、後にそれらをより観念的な使用法へと転化させることができるようになるのである[20]。」
独唱者、合唱と管弦楽のためのカンタータ『愛の賛歌』は1897年4月27日にコペンハーゲンの音楽協会で初演された。この作品はニールセンが1891年にイタリアへの新婚旅行で目にしていたティツィアーノ・ヴェチェッリオの絵画『嫉妬深い夫の奇跡(英語版)』に霊感を受けて書かれている。写譜のひとつに彼はこう記した。「私のマリーイへ!これら愛を賛美する音色は現実に比べれば何物でもない[24][25]。」
1901年よりニールセンはヴァイオリニストとしての給与に加えて国から多少の年金を受給するようになった。はじめは年800クローネであったが1927年には7,500クローネへと増額されている。これにより個人的な弟子を取る必要がなくなり、より多くの時間を作曲に充てられるようになった。また1903年以降は最も懇意にしていた出版社であるヴィルヘルム・ハンセンから年次依頼料が受け取れるようになっていた。1905年から1914年にかけては王立劇場で副指揮者を務めていた。1911年には娘婿のテルマーニー・エミルにヴァイオリン協奏曲 作品33を作曲している。1914年から1926年の間は音楽協会管弦楽団を指揮した。1916年にデンマーク音楽アカデミーで教員のポストに就き、その後生涯この職に留まった[25]。
2つのキャリアによる負担と妻が近くにいない状態が続いたことにより、彼の結婚生活は長期の不和に見舞われた。両名は1916年に別離のための訴訟手続きに入り、1919年に双方の同意に基づく別離が認められた。1916年から1922年の時期には、ニールセンはしばしばフュン島のダムゴーやフールサングの地所に引きこもるか、ヨーテボリで指揮者として働きながら暮らした[21]。第一次世界大戦とも重なったこの時期はニールセンの創作上の危機に数えられ、ファニングが述べるところのおそらく彼の最高傑作である交響曲第4番(1914年-1916年)や交響曲第5番(1921年-1922年)にも大きな影響を与えた[26]。1920年代には長い付き合いであったデンマークの出版者ヴィルヘルム・ハンセンが、付随音楽『アラジン』や交響詩『パンとシランクス』の出版を引き受けられなくなったことに特に気を揉んだ[27]。
6番目で最後となる交響曲第6番は1924年から1925年にかけて作曲された。1925年に重い心臓発作を患い活動を大幅に切り詰めることを余儀なくされるものの、この世を去るまで作曲は継続した。多くの祝いが寄せられた1925年の65歳の誕生日には、スウェーデン政府から勲章が贈られ、コペンハーゲンではガラ・コンサートとレセプションが催された。しかし彼は陰気な気分であった。1925年11月9日にデンマークの大衆紙『ポリティケン(英語版)』への寄稿文で次のように述べている。
もし人生をやり直せるのであれば、私は頭の中からあらゆる芸術的思考を追い払って、商人の見習いになるか最後には結果が目に見えるような何らかの有用な取引きに従事するだろう。(中略)全世界が私を認めたとして、しかしそれが早々に立ち去ってしまった後に私が作品と共にポツンと残され、すべてが壊れ果て、私は恥に思い至る、自分が愚かな空想家として生き、働けば働くほど、この身を我が作品に尽くせば尽くすほどよりよい地位に到達できると信じていたのだと。それが私にとって何の役に立つというのか。否、芸術家になることは羨ましがられるような運命ではないのだ[28]。
晩年と最期
ニールセンの最後の大規模管弦楽作品はフルート協奏曲(1926年)とクラリネット協奏曲(1928年)である。ロバート・レイトンは後者について次のように記している。「もし他の惑星から来た音楽というものがあったとしたら、間違いなくこれがそうである。響きはまばらで単色、その空気は純化され張りつめている[16]。」ニールセンの最後の音楽作品は、作曲者没後の1931年に初演されたオルガンのための『コンモツィオ』である[29]。
晩年、ニールセンは随筆集『生きている音楽』(1925年)、続いて自叙伝『フューン島の少年時代』(1927年)を発表している。1926年の日記には次のように書かれている。「我が家の土が長い口づけのように強く強く私を引き留める。最後はフュン島の土に還って眠らねばならないということなのだろうか。然らばそれは私が生まれた土地、Frydenlands教区Sortelungであるはずだ[30]。」
これはかなわなかった。心臓発作が繰り返された後の1931年10月1日、ニールセンはコペンハーゲンの国立病院に入院した。10月3日深夜0時10分、家族に囲まれながら彼は同病院で息を引き取った。彼が最期に家族にかけた言葉は「君たちはここに立ってまるで何かを待っているかのようだな」だった[31]。
遺体はコペンハーゲンのヴェストレ墓地(英語版)に埋葬された。葬儀で演奏された音楽は讃美歌も含め全てが彼自身の作品だった[32]。没後、彼の妻へとコペンハーゲンの市の中心に建てる彫刻モニュメントの制作依頼が行われた。彼女はこう書いている。「私は詩歌の永遠の象徴である翼を持った馬を用い、その背にひとりの音楽家を置きたかったのです。彼は急ぎたつ翼の間に腰掛けてコペンハーゲンへめがけて葦の笛を吹いているはずでした。」彼女のデザインに対する論争と資金の不足によりモニュメントの建設は遅延し、ついにはアネ・マリーイ自身が助成金を出すことになってしまった。カール・ニールセン・モニュメントは1939年になってようやく除幕を迎えることができた[33]。
音楽
デンマーク王立図書館が2015年にオンラインで『カール・ニールセン作品目録』(Catalogue of Carl Nielsen's Works; CNW)を公表しており、ニールセンの作品はこの目録に基づきCNW番号で呼ばれることもある。CNW目録は1965年にダン・フォウとトーベン・スコウスボーが編纂した目録(FS番号)を置き換えるためのものである[34]。
音楽様式
音楽評論家のハロルド・ショーンバーグは著書『大作曲家の生涯』の中でニールセンの作品の幅広さ、力強いリズム、惜しみない管弦楽法、そして彼の個性を強調している。ジャン・シベリウスと比較しつつ、ショーンバーグはニールセンには「同じだけの発展性、遥かに大きな力、そしてより普遍的なメッセージ」が備わっていると考えている[35]。オックスフォード大学音楽科教授のダニエル・M・グリムリーはニールセンを「20世紀の音楽でも指折りの陽気で、人生肯定的、そして不器用な声」であるとし、その理由が彼の作品の「旋律の豊かさと和声の活力」のおかげであると述べている[36]。『Carl Nielsen's Voice: His Songs in Context』の著者であるアン=マリー・レイノルズは「彼の音楽の全ては声楽を発祥と」しており、歌曲を書き続けたことがニールセンの作曲家としての発展に強く影響を与えた、というロバート・シンプソンの見方を引用している[37]。
デンマークの社会学者であるベネディクデ・ブリンガ(Benedikte Brincker)は、母国におけるニールセンと彼の音楽に対する認識が国際的な評価とはかなり異なっていると見ている。彼の民謡への興味と背景知識はデンマーク人に特別共鳴するのである。さらにこの傾向は1930年代の愛国運動期、及び第二次世界大戦中に高められた。同時期にはデンマーク人にとって歌うことが敵のドイツ人たちと自分たちを識別する重要な根拠だったのである[38]。ニールセンの歌曲はデンマークと文化と教育の中で引き続き重要な位置を占めている。音楽学者のニールス・クラッベは、デンマークの作家ハンス・クリスチャン・アンデルセンの寓話に関連づけ、デンマークにおける大衆のニールセン像は「みにくいアヒルの子症候群」のようだと表現する。すなわち「貧しい少年が(中略)逆境と倹約を経験し(中略)コペンハーゲンへと乗り込み(中略)無冠の王者の地位を獲得するに至るのだ。」このため、デンマーク国外でのニールセンは主として管弦楽作品とオペラ『仮面舞踏会』の作曲家である一方、国内ではそれ以上に国民の象徴なのである。2006年にデンマーク文化省が12曲の最も偉大なデンマークの音楽作品を発表した際には、これらの2つの側面が公式にひとつにまとめられた;選ばれたのは『仮面舞踏会』、交響曲第4番、そして2つのデンマークの歌だったのである[39]。クラッベは修辞的な問いかけを行う。「ニールセンの中の『国民性』は特定の主題、和声、音響、形式その他の音楽の中に表出され得るものなのだろうか、それともそれは純粋に受容史から形作られるものなのだろうか[40]。」
ニールセン本人は後期ロマン派のドイツ音楽や音楽における愛国心に対して曖昧な態度を取っていた。1909年にオランダの作曲家であるユリウス・レントゲンに宛ててこう綴っている。「近頃のドイツ人の技術面での技量には驚かされています。複雑化をこうして嬉々として行っていますが、全てそのもの自身の疲弊をもたらすに違いないと思わずにはいられません。私は純粋に古風な美徳に則った全く新しい芸術の到来を予見しています。ユニゾンで歌われる歌についてどう思われますか。我々は立ち戻らねばなりません(中略)純粋さ、清澄さへと[41]。」一方で、1925年には次のように記している。「愛国心ほどに音楽を破壊するものはない(中略)それに頼みに応じて愛国的音楽を生み出すことなど出来ようがない[38]。」
ニールセンはルネサンスのポリフォニーを詳細に研究しており、彼の音楽に含まれる旋律と和声にはこれによって説明できるものもある。3つのモテット 作品55がこの興味を表す好例である[42]。デンマーク国外の批評家にとっては、ニールセンの音楽は当初新古典主義的な響きを持っていたものの、彼が独自の取り組みを発展させるに従い次第に現代的になっていった。それは作家で作曲家のロバート・シンプソンが言うところの発展的調性、すなわちある調から別の調への移行である。概してニールセンの音楽は開始の調とは異なる調性で終結する可能性を有するものであるが、時にそれは交響曲においてなされたのと同じく苦心の結果なのである[43]。一方、彼の民謡での活動がどれほどそうした要素に負うところがあるのかについては論争となっている。一部の評論家は彼のリズム、アッチャッカトゥーラやアッポッジャトゥーラ、もしくは作品中で頻用される短七度、短三度を指してデンマークの典型であると述べている[44][45]。作曲者本人は次のように記した。「私が思うに、まず音楽へのより深い関心を呼び起こすものは音程である。(中略)春にカッコーの声を聞く我々に驚きと喜びをもたらすものはその音程なのである。もし鳴き声がひとつの音だけでできていたとしたら魅力は減じていたことだろう[46]。」
音楽様式に対するニールセンの哲学は、おそらく1907年に作曲家のクヌーズ・ハーダ宛の書簡に書かれた助言に要約されている。「あなたには(中略)流麗さがあり、いまのところはとても素晴らしいものです。しかし、親愛なるハーダ氏、私はあなたに何度でも助言します。『調性、明晰さ、力強さ』です[47]。」
交響曲
デンマーク国外では、ニールセンと聞いて最も強く連想されるのはおそらく1892年から1925年にかけて作曲された6曲の交響曲だろう。交響曲には多くの共通点がある。全て演奏時間がちょうど30分強、オーケストレーションの要は金管楽器が握っており、どの作品も珍しい調性変化をみせ、それが劇的な緊張感を高めている[48]。交響曲第1番(作品7 1890年-1892年)はグリーグやブラームスの影響を示す一方で、冒頭数小節からニールセンの個性が発揮されている。唐突かつ頻繁な転調を伴う独特な和声進行や半音階的な旋律を用い、主調がト短調であるにも関わらず第1楽章の第1主題冒頭と第4楽章最後の和音はハ長調である。交響曲第2番(作品16 1901年-1902年)では人間の性格を展開させることに乗り出している。その着想は宿屋にあった四体液説を表す絵画から得たものだった[49]。4つの楽章にはそれぞれ四気質に基づく発想記号が記され、この曲が標題音楽であるか否かが議論になる。同時期に作曲されたオペラ『サウルとダヴィデ』と作曲手法や表現の点で共通点が見られる。
イングランドの作曲家であるロバート・シンプソンは、交響曲第3番の表題である『広がり』(作品27 1910年-1911年)を「外側へ向かう心的領域の拡大」として理解している。この作品では2つの調性を同時に対比させるというニールセンの技法が遺憾なく発揮されており、穏やかな場面でソプラノとバリトンが歌詞を載せずに歌う部分がある[48]。ロバート・シンプソンは第1楽章を「競技的な3拍子」と評した。第一次世界大戦中に書かれた交響曲第4番『滅ぼし得ざるもの』(作品29 1914年-1916年)は、数ある交響曲の中でも演奏頻度で最上位に位置する。終楽章では舞台の端と端に置かれた2つのティンパニが一種の音楽的戦いを演じる。ニールセンはこの交響曲を「生の力、生きんとする消すことのできぬ意志」と表現した[50]。
同じく頻繁に演奏機会のある交響曲第5番(作品50 1921年-1922年)では、秩序と混乱の間のもう一つの戦いが提示された。小太鼓奏者は拍子を無視してアドリブにより音楽を破壊するかの如く管弦楽に割り込む役割を課される。1950年のエディンバラ国際フェスティバルでエリク・トゥクセンが指揮するDR放送交響楽団によって演奏された際にはセンセーションを引き起こし、スカンジナビア外でのニールセン音楽に対する関心の火付け役となった[48][51]。1924年から1925年にかけて書かれた交響曲第6番(作品番号なし)は『素朴な交響曲』と題されている。調性の語法はニールセンの他の交響曲に類似しているものの、曲は連続するカメオ、いくらかの悲しみ、いくらかの怪奇、いくらかの諧謔へと発展していく[48][52]。
オペラ、カンタータ
ニールセンの2つのオペラは様式の点で大きく異なっている。1902年に書かれた4幕構成の『サウルとダヴィデ』はアイナ・クレスチャンスン(英語版)のリブレットに基づき、サウルの若いダビデへの嫉妬という聖書の説話を物語る。一方、『仮面舞踏会』はルズヴィ・ホルベアの喜劇を下敷きにヴィルヘルム・アナスン(英語版)が著したデンマーク語のリブレットを基に、1906年に作曲された3幕形式のコミック・オペラである。『サウルとダヴィデ』は1902年11月の初演で否定的な評価を受け、1904年の再演時にも良くなることはなかった。対照的に1906年11月の『仮面舞踏会』は目覚ましい成功となり、最初の4か月の間に25回の追加公演が行われた[53][54]。デンマークの国民的オペラと看做されるようになった本作の成功と人気は母国で長く続いており、その成功の源は多くの有節歌曲形式の歌、踊り、そして通底する「古きコペンハーゲン」の空気にある[55]。
ニールセンは数多くの合唱作品を作曲しているが、それらの大半は特定の行事のために書かれたものであり滅多に再演されることはない。しかし、3曲のしっかり作られた独唱者、合唱と管弦楽のためのカンタータはレパートリーに定着している。初期の多声的合唱様式を学んだ後には『愛の賛歌』 作品12(1897年)を作曲した。ナナ・リプマン(Nanna Liebmann)は『Dannebrog』紙上でこの作品がニールセンの「決定的な勝利」であると評し、『Nationaltidende』紙のアングル・ハメレク(Angul Hammerich)は進歩した清澄さと純粋さを歓迎した。しかし『Berlingske Tidende』紙の批評家H.W.シュデ(Schytte)はニールセンが見栄を張ってデンマーク語ではなくラテン語の歌詞を用いたのではないかと考えた[56]。『眠り』 作品18はニールセンの2番目に知られた合唱作品であり、睡眠の様々な段階に音楽を付した作品である。悪夢も中央の曲として含まれており、通常聞かれないような不協和音を含むこの部分は1905年3月の初演時には評論家に衝撃を与えた[57]。1922年に完成された『フューンの春』 作品42はフューン島の田舎の美しさを称揚していることから、ニールセンの全作品の中で最もデンマークらしいと言及されている[58]。
協奏曲
ニールセンは3作品の協奏曲を作曲している。1911年、中期の作品にあたるヴァイオリン協奏曲 作品33はヨーロッパのクラシック音楽の伝統の枠組みの中に位置づけられる。対して、後期作品となる1926年のフルート協奏曲(作品番号なし)と続く1928年のクラリネット協奏曲 作品57は1920年代のモダニズムの影響を受けており、デンマークの音楽学者であるヘアバト・ローセンベア(Herbert Rosenberg)の言によれば「いかにして必要ではないものを避けるかを心得た、極めて経験豊富な作曲家」の作品である[59]。以降のニールセン作品とは異なり、ヴァイオリン協奏曲は明確な、旋律指向性の新古典的構造を持っている。全2楽章のフルート協奏曲はニールセンの木管五重奏曲(1922年)を初演したコペンハーゲン木管五重奏団に所属していたフルート奏者のホルゲル・ギルベルト=イェスペルセンのために書かれた[60]。ヴァイオリン協奏曲のかなり伝統的な様式に比べると、フルート協奏曲は当時のモダニズムの潮流を反映したものとなっている。例えば、第1楽章はニ短調、変ホ短調、ヘ長調の間を移り変わった後、フルートがホ長調のカンタービレの主題によって前面に出てくる[61]。クラリネット協奏曲もコペンハーゲン木管五重奏団メンバーであったオーウ・オクスンヴァズのために作曲された。ニールセンは楽器と奏者の可能性を最大まで使い尽くしている。単1楽章制のこの作品には独奏者と管弦楽の間、そしてヘ長調とホ長調という2つの主要調性の間での争いがある[62]。コペンハーゲン管楽五重奏団のメンバー全員のために5つの協奏曲を書くことも計画されていたが、作曲者の死によりフルート協奏曲とクラリネット協奏曲の2曲で終わっている。
木管協奏曲にはニールセンが「対象化」(objektivering)と呼んだものの多くの用例が見られる。彼がこの用語により意味したのは、楽譜により拘束される範疇において楽器奏者に解釈と演奏の自由を与えるということだった[63]。
管弦楽作品
オーケストラ用として書かれたニールセンの最初期の楽曲は瞬く間に成功した弦楽合奏のための組曲(1888年)であった。この作品はグリーグやスヴェンセンが表現したようなスカンディナビアのロマンを呼び起こす楽曲である[64]。この楽曲は初めての真の成功作であったばかりでなく、1か月後のオーデンセでの再演時に彼自身が初めて指揮した自作でもあり、ニールセンのキャリアにおける重大事件となった[65]。
序曲『ヘリオス』 作品17(1903年)はアテネへの滞在時に受けた霊感によって書かれた、エーゲ海から昇り沈む太陽を描写した作品である[66]。譜面は管弦楽の手本であり、この作品はニールセンの楽曲の中でも有数の人気曲となっている[67]。『サガの夢』 作品39(1907年-1908年)は、アイスランドの『ニャールのサガ』に題材を採った管弦楽のための交響詩である。ニールセンは次のように述べている[68]。
特に、それぞれ並行して非常に自由に進んでいくオーボエ、クラリネット、ファゴット、フルートのためのカデンツァがあり、和声的繋がりもないですし私は拍子を指定していません。それらはまるでちょうど4つの思考の流れのようで、各々のやり方で進んでいき - 演奏ごとにランダムに異なって - 休止の箇所で出会うのです。まるで合流地点の水門に流れ込むかのように。
弦楽オーケストラのための『若き芸術家の棺の傍らで』は1910年1月にデンマークの画家オーロフ・ハートマン(英語版)の葬儀のために作曲され、ニールセン自身の葬式においても演奏された[69]。『パンとシランクス』はオウィディウスの『変身物語』に触発されて書かれた9分の活発な交響詩であり、1911年に初演された[70]。狂詩曲風序曲『フェロー諸島への幻視旅行』はフェロー諸島の民謡を基に作られているが自由に作曲された箇所も含まれている[71]。
舞台用管弦楽曲には『アラジン』(1919年)と『母』 作品41(1920年)がある。『アラジン』はコペンハーゲンでのエーダム・ウーレンスレーヤ(英語版)のおとぎ話の上演に合わせて作曲された。楽曲全体は演奏時間80分を超え、オペラを除くとニールセン最長の作品であるが、「東洋的行進曲」、「ヒンドゥーの踊り」、「黒人の踊り」からなる短い管弦楽組曲版がしばしば演奏される[72]。『母』は南ユトランドのデンマーク再編入を祝して書かれ、1921年に初演された。曲はその際に生まれた愛国的な韻文に対して作曲されている[73]。
室内楽曲
ニールセンは数曲の室内楽曲を作曲しており、一部の曲は世界的なレパートリーの中で高い地位を保っている。1922年に特にコペンハーゲン木管五重奏団のためとして書かれた木管五重奏曲は彼の作品の中でも有名なもののひとつである。ニールセンの木管楽器に対する愛着は彼の自然に対する愛情と密接に関係しているのだと説くシンプソンは、次のように記している。「彼は人間の性質にも強い関心を抱いており、意図的に5人の友人に当て書きされた木管五重奏曲ではそれぞれのパートが各奏者の個性に合うように抜け目なくしつらえられているのである[74]。」
ニールセンは弦楽四重奏曲を4曲作曲している。第1番 作品13(1889年作曲、1900年改訂)の終楽章には「概要」(Résumé)と題された部分が付されており、第1、第3、第4楽章の主題がまとめて奏される[75]。第2番 作品5は1890年、第3番 作品14は1898年に発表された。音楽史家のヤン・スマツニー(Jan Smaczny)が唱えるには、この作品では「テクスチュアは自信に満ちて、過去の作品よりもはるかに独創性が出ており(中略)[この四重奏曲からは]ニールセンが(中略)後期交響曲の発展と並ぶような形で当ジャンルを追求しなかったことがこの上なく悔やまれる[76]。」第4番(1904年)の当初の評判は賛否の入り混じったもので、評論家にはこの作品のよそよそしい様式をどう捉えてよいか分からなかった。曲は数回の改訂を経ており、1919年に最終版へ作品44が与えられた[77]。
ニールセンは彼自身の楽器であったヴァイオリンを用いて4曲の大規模な室内楽曲を作曲した。ヴァイオリンソナタ第1番 作品9(1895年)では頻繁に表れる突然の転調やそっけない主題など、一般的な方法論からの乖離が初演時にデンマークの評論家を当惑させた。ヴァイオリンソナタ第2番は過去に彼のヴァイオリン協奏曲を初演していたピーザ・ムラのために1912年に書かれた。この作品の第1楽章と終楽章はト短調であるとされているにもかかわらず異なる調で終止しており、ニールセンの発展的調性を示す一例となっている。評論家のイミーリウス・バンギアトはアクセル・ゲーゼによって行われた初演について次のように書いている。「美しく、万全な線 - 音の流れ - に初めの部分で特に素晴らしい第2主題、そして後半部の純粋で高潔な領域が捉えられている、といった全体的な印象であった。」他の2作品は独奏ヴァイオリンのための作品である。『前奏曲、主題と変奏』 作品48(1923年)はテルマーニー・エミルのために書かれ、シャコンヌ 作品32と同様にヨハン・ゼバスティアン・バッハの音楽に触発されたものである。『前奏曲とプレスト』 作品52(1928年)は作曲家のフィニ・ヘンリクスの60回目となる誕生日の贈り物として作曲された[78]。
鍵盤楽曲
主にピアノに向かって作曲するようになったニールセンであったが、40年の歳月の中でも直接的なピアノのための楽曲は時おり作曲する程度であった。そうした楽曲は独特なスタイルであることが多く、そのために国際的に受け入れられるのに時間がかかった[79]。ニールセンのピアノの腕前はというと、おそらくオーフスの国立公文書館に「カール・ニールセン」と記されて3つの蝋管に保存されていたものから判断するに、平凡だったようである[80]。ピアニストのジョン・オグドンが1961年に行った録音への論評として、ジョン・ホートンは初期作品について「ニールセンの技巧の引き出しは彼の構想の壮大さにほとんど見合っていない」と言及している。一方で後期作品は「彼の交響作品に比肩し得る主要作品群」であると看做していた[81]。非ロマン的な『交響的組曲』 作品8(1894年)は後世の評論家によって「確立されたあらゆる音楽的慣習を前に、まっすぐ固く握りしめられた拳に他ならない」と評されている[82]。ニールセン自身の言によれば『シャコンヌ』 作品32(1917年)は「真に大きな作品であり、効果的であると思っている[83]。」この作品はバッハ、特に独奏ヴァイオリンのためのシャコンヌのみならず、ロベルト・シューマン、ヨハネス・ブラームス、フェルッチョ・ブゾーニらによるピアノのためのバッハ作品のヴィルトゥオーゾ編曲にも触発されている[84]。同年にはやはり規模の大きな『主題と変奏』 作品41が書かれている。評論家はこの作品にブラームスとマックス・レーガーの影響を認めているが、ニールセンは友人に宛てた手紙の中で次のように述べている。「大衆はレーガー作品を全く理解することができなくなるように思われますが、それでも私は彼の労作群に強い同情を覚えるのです(中略)リヒャルト・シュトラウスに対するよりもずっと[85]。」
オルガン曲は全て後期作品である。デンマークのオルガニストであるフィン・ヴィーザウーはニールセンがオルガン運動(Orgelbewegung)、並びにハンブルクの聖ヤコビ教会(英語版)に建造されたアルプ・シュニットガー製のオルガンの前面パイプが、1928年から1930年にかけて刷新されたことに興味を掻き立てられたのだと唱えている[86]。ニールセン最後の主要作品となった『コンモツィオ』 作品58は演奏に22分を要するオルガン作品で、彼の死のわずか数か月前にあたる1930年6月から1931年2月にかけて作曲された[87]。
歌曲と聖歌
長年にわたりニールセンは290を超える歌曲や聖歌を作曲した。それらの大半はよく知られたデンマークの著作家であるN.F.S.グロントヴィ、ベアンハート・スィヴェリーン・インゲマン(英語版)、ポウル・マルティン・ムラ(英語版)、エーダム・ウーレンスレーヤ、イェベ・オーケーア(英語版)らの韻文や詩文を用いたものである[88]。デンマークではこれらの作品の多くが今日でも大人と子どもの両方に依然として人気である[89]。「国を一番に代表する作曲家の作品のうち最も代表的な要素」であると看做されているのである[90]。1906年、ニールセンはそうした歌曲が自国民に重要であることを説明している。
ある種の旋律の抑揚に対し、我々デンマーク人は避けがたく、例えばインゲマン、クレスチャン・ヴィンダ(英語版)、もしくはドラクマン(英語版)の詩を想う。そして、我々はしばしば歌や音楽の中にデンマークの風景の香りや田舎の映像を感じ取るようなのである。しかし我々の田園風景、我々の画家、我々の詩人を知らないか、もしくは我々の歴史を我々と同じような身近さで知らない外国人には、我々に共感的理解を伴って聞こえ、震えをもたらすそれが何であるのか理解することはまったくもって不可能なのだ[91]。
非常に重要なのは1922年の『高校民謡歌曲集』(Folkehøjskolens Melodibog)への参加で、ニールセンはトオマス・ラウプ、オーロフ・レング、トーヴァル・オーゴーと共同で編者のひとりとして加わった。この本には編者が作曲した約200曲を含む計600曲あまりの旋律が収められ、デンマーク民謡文化に不可欠な歌の集いのレパートリーとすべく編まれた。歌曲集は絶大な人気を博し、デンマークの教育カリキュラムにも盛り込まれた。第二次世界大戦中のドイツ占領下ではこれらの旋律による大規模な歌の集いがデンマークの「精神的再武装」の一端を担い、1945年の終戦後にはある作家によりニールセンの貢献は「我々の愛国的歌曲の宝箱にしまわれた宝石を輝かせた」と評された。このことは今なおデンマークにおける彼の評価の重要な要素であり続けている[92]。
作品エディション
1994年から2009年の間に4000万クローネ以上の費用を投じ、デンマーク政府よりニールセン作品の新訂全集『カール・ニールセン・エディション』が委嘱された[93]。オペラ『仮面舞踏会』や『サウルとダヴィデ』、そして『アラジン』の完全版など、以前は手稿譜の写しが演奏に用いられていた多くの作品にとってはこれが初めての印刷譜の出版となった[94]。現在、楽譜は全てデンマーク王立図書館のウェブサイトから無料で入手可能である[95]。同図書館はニールセンの草稿の大半も収蔵している。
受容
フィンランドの同時代人、ジャン・シベリウスとは異なり、ニールセンの国外での評価は第二次世界大戦後になってから上がり始めた。しばらくの間は世界の興味は専ら彼の交響曲へと向けられており、デンマークで人気の高い楽曲が多く含まれる他の作品については近年になって世界的なレパートリーとなり始めたところである[96]。デンマーク国内ですら彼の作品の多くが印象を残せずにいる。彼が評論家たちの支持を取り付けることができたのはようやく1897年の『愛の賛歌』初演後のことであり[24]、1906年の『仮面舞踏会』を熱狂的に受け入れた彼らは大いに支持を固いものとしたのであった[97]。
1912年2月28日にコペンハーゲンのOdd Fellowsコンサートホールで初演が成功して2か月のうちに、交響曲第3番はアムステルダムのロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏曲目入りし、1913年までにはシュトゥットガルト、ストックホルム、ヘルシンキで演奏された。この交響曲はニールセンの生前に彼の全作品の中で最大の人気を勝ち得た楽曲で、ベルリン、ハンブルク、ロンドン、ヨーテボリでも演奏されている[98][99]。他の作品はデンマーク国内ですら、ある種の不確実さを生んだ。交響曲第1番(1922年)の初演後にある評論家は次のように書いた「デンマークの交響曲の宝とカール・ニールセンの自作は奇妙かつ独創性の高い作品で豊かになった。」しかし別の評論家は同じ作品を「疑いを持たない俗物である聴衆の眼前で握られた血濡れの拳」と評し、同時に「溝から出てきた汚らわしい音楽」であると断じた[27]。
1940年代にはニールセンの主要な伝記が2作品デンマーク語で発表され[100]、数十年間にわたってこの作曲家の生涯と作品に関する見解を支配した[101]。ロバート・シンプソンの著書『Carl Nielsen, Symphonist』(1952年初版)は初となる英語での大規模研究となった[102]。
国際的な躍進は1962年にレナード・バーンスタインが交響曲第5番をニューヨーク・フィルハーモニックと共にCBSのために録音したことに端を発する。同曲の名演のひとつに数えらるこの録音に助けられ、ニールセン音楽は母国の外で称賛されるようになっていく[103][104]。ニールセン生誕100周年となった1965年は録音、出版の両面から盛大に祝われ、バーンスタインは第3交響曲の録音によりレオニー・ソニング音楽賞を受賞した[105]。1988年にニールセンの日記とアネ・マリーイへの彼の書簡が出版され、これらと1991年にヤアアン・イェンスン(Jørgen Jensen)が新たな材料を基に上梓した伝記により、この作曲家の人間性についてそれまでとは異なる客観的な評価がなされるようになった[106]。ニールセン生誕125周年に寄せて音楽評論家のアンドルー・ピンカスが『ニューヨーク・タイムズ』に記したところによると、バーンスタインは25年前に世界がジャン・シベリウスに並び立つ人物としてこのデンマーク人を受容できるようになっていると信じており、「彼の荒々しい魅力、彼の音律、彼の迫力、彼のリズムの驚き、彼の和声と調整の関係性の奇妙な力 - そしてとりわけ彼の変わらぬ予測のできなさ[注 2]」について語っていたという[107]。1990年代に英語で書かれた伝記や研究はニールセンの地位が世界的に確立されるのを助け[108][109]、彼の音楽が西欧諸国で行われるコンサートのプログラムの常連になるまでとなった[110]。
アメリカの音楽評論家アレックス・ロスは2008年に『ザ・ニューヨーカー』誌でニールセンの交響曲の「狂暴な力強さ」をベートーヴェンの交響曲第3番(英雄)や交響曲第5番(運命)になぞらえ、今になってやっとアメリカ人がゆっくりとこのデンマーク人作曲家を評価し始めているのだと説明を加えた。特に、彼はニールセンの交響曲の理解と解釈の点でアラン・ギルバートを称賛している[111]。
ニールセンは自作の録音を行わなかった[112]。しかし、彼と共に働いた同年代の3人の年少の作曲家たち、トーマス・イェンセン、ラウニ・グレンダール、エリク・トゥクセンが1946年から1952年にかけてDR放送交響楽団と交響曲や他の管弦楽作品を録音している。イェンセンはさらに1954年に第5交響曲の初めてのLPレコード録音を行った[113]。近年出版された完全版『カール・ニールセン・エディション』の業績により、これらの録音で用いられた楽譜が作曲者の元来の意図とは異なっていることが判明しており、従来想定されていたような録音の信頼性には現在疑問符がついている[114]。
現在はニールセンの主要作品には数多くの録音があり、交響曲全集にはコリン・デイヴィス、ヘルベルト・ブロムシュテット、サカリ・オラモら他の指揮による録音が存在する。管楽五重奏曲には50を超える録音が行われている[115]。
後世への影響
ニールセンは1916年からデンマーク音楽アカデミーで教鞭を執り、死の直前である1931年に学長に就任した。また彼はそれ以前の時期には生活の足しにするため私的に弟子を取っていた。教育活動の結果、ニールセンはデンマークのクラシック音楽に多大な影響を及ぼすことになった[116]。成功を収めた彼の門下生には歌曲で知られるトーヴァル・オーゴー、指揮者であり管弦楽作曲家でもあったハーラル・エーヤスナプ、主に自らの民俗音楽学校(Københavns Folkemusikskole)のために合唱曲や室内楽曲を作曲したヤアアン・ベンソンらがいる。その他の門弟には音楽学者のクヌート・イェッペセン、ピアニストのヘアマン・ダーヴィド・コッペル、アカデミーの教授で交響曲作曲家だったポウル・シアベク、ロスキレ大聖堂でオルガニストを務めたイミーリウス・バンギアト、ニールセンが私的に取った弟子のひとりで『アラジン』のオーケストレーションを手助けしたナンスィ・ダルベアがいる。また、ニールセンはバロック音楽の解釈で知られる指揮者、合唱指揮者のモーゲンス・ヴェルディケ、ニールセンの没後に後任としてアカデミーの学長となったピアニスト兼作曲家のルドルフ・シモンセンにも指導を行った[117]。
カール・ニールセン協会は地域ごとに分類してニールセン作品の演奏記録をつけており、そこからは彼の音楽が世界中で定期的に演奏されていることがわかる[注 3][118]。協奏曲や交響曲はこれらのリストに頻繁に登場する。カール・ニールセン国際音楽コンクールはオーデンセ交響楽団の協賛で1970年代に始まった。1980年から4年ごとのヴァイオリンの大会が開かれている。フルートとクラリネットの大会も後から追加されたが、現在は実施を休止している。オーデンセ市によって設立された国際オルガンコンクールが2009年からニールセンコンクールと共催されていたが、2015年からはオーデンセ大聖堂で別個に組織されることになった[119]。
彼の祖国、オーデンセにはニールセンと妻のアネ・マリーイのためのカール・ニールセン博物館がある[120]。1997年から2010年の間にはデンマーク国立銀行が発行する100デンマーク・クローネ紙幣にはニールセンの肖像が描かれていた[121]。選定理由は『仮面舞踏会』、『広がり』の交響曲(第3番)、そして『Danmark, nu blunder den lyse nat』など多くの歌曲によってデンマークの音楽に貢献した功績のため、だった[122]。
2015年6月9日の前後には、ニールセン生誕150周年を記念するイベントが複数開催された。デンマークでの多くの演奏のほか、ロンドン、ライプツィヒ、クラクフ、ヨーテボリ、ヘルシンキ、ウィーンなどのヨーロッパの各都市、そして遠く日本、エジプト、ニューヨークのコンサートでプログラムにあがった[123]。ニールセンの誕生日である6月9日にはDR放送交響楽団がコペンハーゲンのDRコンサートホールにて、ヨーロッパ、アメリカ中に放送すべく『愛の賛歌』、『クラリネット協奏曲』、交響曲第4番をプログラムとして組んだ[124][125]。王立劇場は『仮面舞踏会』[126]、並びに新演出による『サウルとダヴィデ』を取り上げた[注 4][127]。2015年の間にデンマーク四重奏団はデンマーク、イスラエル、ドイツ、ノルウェイ、イギリスの各国でニールセンの弦楽四重奏曲の演奏を企画した[128]。イギリスではBBCフィルハーモニックが6月9日よりマンチェスターでニールセンのコンサートシリーズを行った[129]。この年のロンドンで行われたBBCプロムス開幕日の夜の最初の演目は『仮面舞踏会』序曲であり、プロムスでは他の5つのコンサートでも彼の楽曲が取り上げられた[130]。ニールセンと強いつながりのあるオーデンセ市は、この記念の年に広範囲にわたるコンサートプログラムや文化的催しを企画した[131]。
著作
Levende musik(生きている音楽) - 随筆集、1925年出版。
Min fynske barndom(フューン島の少年時代) - 自伝、1927年出版。
『カール・ニールセン自伝 フューン島の少年時代 デンマークの国民的作曲家』長島要一訳、彩流社、2015年
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%B3
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/793.html
カール・ニールセン 交響曲第4番 作品29 FS 76『不滅』
Nielsen “Symphony No 4 ‘The Inextinguishable’” Karajan & BPO, 1981
指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
ベルリンフィルハーモニー管弦楽団
1981年2月21日〜23日
ベルリン フィルハーモニーホール
1 Part T:Allegro - Poco allegretto 0:00
2 Part U:Poco adagio quasi andante - Allegro 17:55
▲△▽▼
交響曲第4番 作品29, FS 76 は、カール・ニールセンが1914年から1916年にかけ作曲した交響曲である。作曲者自身によって『不滅』(または滅ぼし得ざるもの、デンマーク語: Det Uudslukkelige、英語:The Inextinguishable)という副題が与えられている。
4つの楽章の要素が移行していくという構成になっており、しばしば4楽章や2楽章の曲と誤解されるが、単一楽章の作品であり、2群のティンパニによる競演を特徴とし、ニールセンが手がけた交響曲の中でも特に劇的な作品と目されている。
副題
作曲者自身はデンマーク語で "Det Uudslukkeligge" という副題を与えたが、これは日本語で「消し去り難いもの」や「滅ぼし得ぬもの」といった意味であり、日本では簡潔に『不滅』の副題で親しまれている。また、ドイツ語により "Das Unauslöschliche" と表記されることがままあり、原題が用いられることは比較的稀である。
楽曲
ニールセンの交響曲は、この第4番以降の作品において多調性を採用しており、『交響曲第6番』までの3つの交響曲については基本となる調が記されていない。これは古典的な交響曲のような、基本となる調を設定し、他の調との対比により構成する、という概念を排す意図からである。この第4番はニ短調の全奏部で始まり、クラリネットによるイ長調、間奏となる気楽な田舎風の曲想の第2部(ト長調)を経て、伝統的な緩徐楽章の役割は悲劇的な曲想の第3部に譲られる。第4部では2群のティンパニが活躍し、結末においてホ長調となって締め括られる。
ニールセンの作品では最も演奏・録音の機会に恵まれているが、解釈に特有の問題があり、作曲家のロバート・シンプソンは著書において、主にテンポ設定に関してページ数を割いている。
楽器編成
フルート3(3番はピッコロ持ち替え)、オーボエ3、クラリネット3、ファゴット3(3番はコントラファゴット持ち替え)、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ2人、弦楽5部
演奏時間
約35分。
初演
1916年2月1日、コペンハーゲンにて作曲者ニールセンの指揮により行われた。
日本での初演は1968年6月30日に秋山和慶指揮東京交響楽団により行われた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC4%E7%95%AA_(%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%B3)
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/794.html
ジャン・シベリウス(Jean Sibelius, 1865 - 1957)
20世紀を代表する作曲家の一人。冷たく厳しい冬を連想させるような曲が多い。
交響曲作家のイメージが強いが、交響詩の方が分かくて印象的な曲が多いのでお勧めである。
交響曲
クレルヴォ交響曲 ホ短調 op.7
3.8点
5楽章80分近い長大さで独唱と合唱付きという初期の大作。長いが、初期らしい輪郭が明確で力強い骨太の音楽であり、流れに身を任せて楽しく聴ける非常に魅力的な作品。緊密ではない代わりに、広大な大地を旅するような開放的な大きな音楽に胸が膨らむ。伝説的叙事詩の物語の中に一緒に入って体験出来るような感覚になれる。そんな独自な曲だが、シベリウスらしさはバッチリ。
交響曲第1番 ホ短調 op.39
4.0点
既に重要な交響詩を完成してからの作品なので、1番にしてなかなかの完成度と魅力である。1楽章の熱血、2楽章の厳冬期のような壮大な氷の世界、3楽章は動物達が大地で活動しているような野性味、4楽章はさらに壮大。いずれも印象的で素晴らしい。
交響曲第2番 ニ長調 op.43
3.5点
1番より晦渋。野太くて熱い血潮を感じるが、茫洋とした感じも強い。成熟に向かう過渡期的な作品であり、4楽章は確かに分かりやすいが、この曲がシベリウスの交響曲の中で一般的に一番メジャーなのはあまり納得できない。もちろんいい曲ではあるが。
交響曲第3番 ハ長調 op.52
3.5点
2番と似たような感じだが、純度の高い後期に移行し始めていて、2番の熱血が控えめになり後期の純美の世界がたまに顔を覗かせる。2楽章が聴きやすい。全体には茫洋としていて分かりやすくないが、交響詩のような描写的な場面も時々あるので、ずっとよく分からないまま曲が続くことにはならない。
交響曲第4番 イ短調 op.63
3.5点
描写的な場面がほぼ無い。晦渋な心理的描写が続く。従って親しみやすさは全然無いのだが、荘厳さや大自然の厳しさなどのシベリウス音楽の特質の上に立った心理描写なので、音の世界に浸る楽しみがある。雰囲気は暗いのだが、陰鬱ではなく、薄い光の中をさ迷う感じ。
交響曲第5番 変ホ長調 op.82
4.0点
明るく平明な雰囲気は前作とは大きく異なる。50歳記念の祝典の為の曲であり祝典的だが、シベリウスの曲はそれ程明るくは無いが。1楽章は溜めに溜めて爆発的明るさ持っていくような曲。3楽章は眩しい陽光を浴びて、草木も育っていき、心が晴れ晴れとするような感じ。
交響曲第6番 ニ短調 op.104
4.0点
宗教的な奥深い精神性や教会的な響きとそれまでのシベリウスが培った大自然の描写力や骨太さが合わさった曲。前半は分かりやすくないが聴きごたえがすごい。後半は耳につくフレーズが増えて分かりやすくなるし、充実感は前半同様にある。
交響曲第7番 ハ長調 op.105
4.0点
長尺の1楽章制ならではの陶酔や儀式的な雰囲気はこの曲ならでは。純粋さや宗教的な雰囲気が推し進められている。素敵な体験を提供する曲だが、ただし、曲が終わった後に曲のメロディーを思い出そうとしても何も思い出せない不思議な曲でもある。
交響詩
レンミンカイネン組曲(4つの伝説曲) op.22
交響詩『レンミンカイネンとサーリの乙女たち』 op.22-1
3.3点
伝説の雰囲気がカッコいい。曲が18分と長すぎて冗長であり段々飽きてくる。とはいえ、素敵な格好良さに浸りながら聴けるので、聴いた後の印象は良い。
交響詩『トゥオネラのレンミンカイネン』 op.22-2
3.0点
非常にカッコ良くて長めであるにも関わらず飽きないが、メロディーに主張がなく雰囲気だけで曲が成り立っており、まるで映画音楽のようである。
交響詩『トゥオネラの白鳥』 op.22-3
4.0点
川を渡る白鳥を表した曲。イングリッシュホルンのメロディーは透明感がすごい。命の儚さと輝きに満ちておりあまりにも美しい。ロマンティックの極みであり、心を虜にされてしまう。
交響詩『レンミンカイネンの帰郷』 op.22-4
3.0点
躍動感があって格好良いが、曲の展開は平板に感じた。とはいえ、短く引き締まった曲なので締めの曲としては聞きやすい。
その他
交響詩『エン・サガ』 op.9
3.8点
18分程度という長さながら、充実した低音域の演出するゾクゾク感と、古代の伝説に想いを馳せるようなロマンティックなメロディーにうっとりとしているとあっという間である。かなり楽しめる。
交響詩『森の精』 op.15
3.3点
初期らしい骨太さと描写力が魅力の交響詩。中間部から終わりまでの展開は、SF映画のように不思議な世界を冒険しているような感覚で聴けてゾクゾクする。やや洗練度が低い感じはあるものの、マイナー曲にしては魅力的な力作。
交響詩『春の歌』 op.16
3.0点
喜ばしい春が訪れた大自然の壮大さが現されている。しかし音楽に洗練度が足りず発展途上の印象。メロディーの魅力がそこそこであり、管弦楽にも関わらずあまりにも多声的でなくずっと伸ばした音で伴奏をしているのが気になった。
交響詩『フィンランディア』 op.26
3.5点
シベリウスで一番有名な曲との事だが、シベリウスっぽくない。愛国心を鼓舞する熱気につつまれた音楽であり、高揚感と愛国心が見事に表現されたフィンランディア讃歌のメロディーもあり、聴き映えはするものの、極寒の厳しさなどの特色は出ていない。
交響詩『森の精』 op.45-1
3.0点
前半は断片的なフレーズで神秘的な情景を描いた曲。それが段々とリズムを持ってきて、独特の神秘的な舞踏性を帯びて、また元に戻る曲。複数部分のつなぎ方が面白い。
舞踏的間奏曲 op.45-2
2.8点
間奏曲として、コンパクトにまとめられている。シベリウス独特の、奥ゆかしさのある舞踏曲の愉しみがあるものの、やや平凡だと思う。
交響幻想曲『ポホヨラの娘』 op.49
3.0点
伝説をテーマにしておりストーリーがある力作ではあるが、起伏が激しく無骨な感じで甘さに浸れないため、音楽についていくのが大変である。
交響詩『夜の騎行と日の出』 op.55
3.0点
前半の執拗な動機の繰り返しはあまり面白くない。後半のメロディーは魅力があるが、他の交響詩のように伝説をテーマにしなかった代替となるほどの何かを感じない。
交響詩『吟遊詩人』 op.64
3.8点
前半はずっと静謐であり、ハープの悲しい調べが素敵。後半にぱっと世界が広がるが、やはり前半の雰囲気を引きずっており、元に戻って終わる。ロマンティックで甘美の情念の世界に浸れる。
交響詩『ルオンノタル』 op.70 ※ソプラノ独唱付き
3.3点
女声の独唱が入った交響詩。伴奏はいかにも交響詩であるため、歌が入っていても分類として違和感はない。力強い独特の歌のメロディーは面白いし、伴奏は伝説的な雰囲気で他の交響詩と同様の魅力がある。
交響詩『大洋の女神(波の娘)』 op.73
3.5点
古代ギリシャを想起させること、音によるイメージの詩的表現でありパンチが効いた場面はなく柔らかい表現が続く点で、ドビュッシーを連想する。海と女神のイメージが美しく見事に表現されている。
交響詩『タピオラ』 op.112
3.5点
緻密な構成の最後の交響詩で、交響曲の最高傑作ともいわれる。しかし、深い神秘的なもやのかかったような曲であり、かなり難解に感じる。交響曲7番とよく並べて語られるが実際印象は似ている。自分が深く理解力できるのはまだ先になりそうだ。
劇音楽
『カレリア』序曲 op.10
『カレリア』組曲 op.11
3.5点
劇音楽からの抜粋。ワーグナーの影響を感じる。普通に良い曲だが、独創的という感じはしない。3曲目は行進曲風の楽しい気分になれる小品でなかなか良い。
組曲『歴史的情景』第1番 op.25
3.5点
3曲あるが、どれも英雄的な勢いがあり気持ちよいし、表情の明確さと、シベリウス独特の伝説的な響きがあり、楽しめるものになっている。名曲というほどではないにしても、構成は充実しており一本調子ではなく、聴いてよかった、楽しかったという満足感や充実感がキッチリとある。
『悲しきワルツ』 op.44-1
4.0点
劇音楽《クオレマ》の中の1曲。死の病床の場面で夢の中の踊り子と踊る曲だそうだが、上品で複雑な和声を使った陰影や静と動のバランスが絶妙である。短調で悲しみ一辺倒の曲ではない。非常にセンスの良い小品。
『鶴のいる情景』 op.44-2
3.0点
大自然の厳しさを感じさせるワンシーンという感じの短い曲。中間の何度も繰り返される複雑な和音が印象的。
『カンツォネッタ』 op.62a
3.8点
伝説的物語のような響きによる、物悲しい哀愁がたまらない。似たメロディーが例えばチャイコフスキーなら甘くなってしまい、ドボルザークならボヘミア的田舎臭を発するところ、シベリウスが書くと極寒により厳しい環境のなかに生命の息吹を宿すことで洗練されて、ロマンティックで素敵になるから面白い。
『ロマンティックなワルツ』 op.62b
3.3点
シベリウスのワルツには独特の味がある。決して分かりやすく明るくパッと心が開放されないまま、心の中にそっと楽しさを残しておくようなワルツ。雰囲気は良い。
その他管弦楽曲
組曲『歴史的情景』第2番 op.66
3.0点
素晴らしい描写的な作品群の中にあって、この曲はやや地味で描写力や主張が弱いと感じる。あまり感動的ではなかった。しかし、彼の管弦楽曲のファンならば聴いて損がない程度には楽しめると思う。
協奏曲
ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 op.47
4.5点
1楽章が素晴らしい。厳しくカッコいいヴァイオリン独奏が自由奔放に暴れまわるような趣でありながら、緊密で交響的であるという困難な事を実現している独創的な楽章。壮大で極寒の世界を想像させる音楽も凄い。曲の真ん中にあるカデンツァも効果的。2楽章は柔らかくいメロディーが美しくて感動する。3楽章は雪の中で行われる宴のよう。ノリが良くて楽しい。
ピアノ曲
6つの即興曲 op.5
ピアノ・ソナタ ヘ長調 op.12
3.0点
初期シベリウスの骨太で民族的な魅力、シベリウスの多楽章の曲の魅力を十分に持っていて案外楽しめる。聞いた感じではピアノ書法は確かにあまり洗練されていないようだが、聴きにくい訳ではないため、メロディーや和声の雰囲気を楽しむ分にはあまり問題ない。
3つのソナチネ op.67
2.3点
最初は全く理解出来なかったが、ロマンティックなシベリウスの管弦楽の響きを頭で補完しながら聴いてみたら少し良さが分かった気がした。とはいえ、正直なところ管弦楽曲のような素晴らしさはあまり感じない。独特の音楽世界の片鱗を楽しめるのみである。
10の小品 op.58
3.0点
シベリウスらしい、交響詩で存分に見せているロマンティックな伝説的な雰囲気を、ここでもピアノに翻訳して見せている。名曲というほどの作品はないが、瞬間的な美しさや素敵さはどの曲にもある。ただし、他の作品集にも共通するが、ピアノ書法がぎこちないので10曲も聴くと疲れてしまう。
5つの小品 op.85
3.0点
花の組曲と呼ばれていて、花の題名が各曲についている。1から2分の短い曲ばかり。聞きやすく可愛らしさのなかに小さな命の美しさを表していて詩的であり、シベリウスならではの儚い美しさでなかなか感動できる。
5の小品 op.101
3.0点
ロマンティックで明快ではあるが、壮年らしい鎮静の世界で懐の深さを持った小品が並んでいる。懐かしい気分になる場面が多いが、それだけでなく新しい事にチャレンジする精神を併せ持っている気がする。
5の小品 op.114
3.3点
シベリウス最後のピアノ作品集。独特の茫洋とした音の塊が生み出す美の世界は、分かりやすいロマンティックさとは違うが、心を掴む他にはない独特の魅力がある。北欧の極寒が心を鍛えるとこうなるのだろうか。ピアノ書法は最後まで十分な洗練には至らなかったが、この独自世界に到達したことは充分な業績だと思う。
室内楽曲
弦楽四重奏曲 変ロ長調 op.4(1890年)
弦楽四重奏曲 ニ短調「親しき声」 op.56(1909年)
3.3点
シベリウスらしい晦渋な難解さである。分かりやすいメロディーはほとんど登場しない。あまり室内楽っぽくなくて、交響的な響きの充実が志向されていると感じる。内容は盛りだくさんであり、切れ目なしに演奏される5つの楽章で扱われる楽想はダイナミックに展開し、聞き所を多く提供している。晦渋すぎて十分に理解できないと思いつつも、なんとなく心を惹かれるものがあるから、やはり魅力的な曲だと思う。交響曲に準じる大作と言っていいだろう。木管の柔らかい色彩がないため、骨太でモノクロの原石からシベリウスの魅力を削りだしたような音楽である。
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9
ジャン・シベリウス(スウェーデン語: Jean Sibelius, 1865年12月8日- 1957年9月20日)は、後期ロマン派から近代にかけて活躍したフィンランドの作曲家、ヴァイオリニスト。フィンランドの最も偉大な作曲家であると広く認められており、同国が帝政ロシアからの独立を勝ち得ようともがく最中、音楽を通じて国民意識の形成に寄与したと看做されることも多い。スウェーデン系であり、出生時の洗礼名はヨハン・ユリウス・クリスチャン (Johan Julius Christian)だった[注 1]。名前は「ヤン」と表記されることもあるが、フランス語固有の綴りの名前であるため本項では「ジャン」とする。親しい者からはヤンネ (Janne) と呼ばれていたが、貿易商であった叔父がフランス語風にジャンと自称したのに倣い、彼も学生時代以降はずっとジャンと名乗った。
作品の主軸をなすのは7曲の交響曲であり、それらは他の主要作品と同様に国内外で普段から演奏や録音の機会に恵まれている。その他によく知られた作品には、『フィンランディア』、『カレリア組曲』、『悲しきワルツ』、ヴァイオリン協奏曲、『クレルヴォ交響曲』、『トゥオネラの白鳥』(『レンミンカイネン組曲』より)などがある。これ以外の作品には自然、スカンジナビアの神話、フィンランドの民族叙事詩に触発された100曲以上に及ぶピアノ伴奏歌曲、多数の戯曲への付随音楽、オペラ『塔の乙女』、室内楽曲、ピアノ曲、フリーメイソンの儀式のための音楽[2]、21曲の合唱曲がある。
1920年代の半ばまでは多作な作曲家であったが交響曲第7番(1924年)、付随音楽『テンペスト』(1926年)そして交響詩『タピオラ』(1926年)の完成を境に残りの30年間は大規模作品の創作から遠のいてしまう。この驚くべき、謎めいた隠居生活は作曲者の住居の所在地をとって「ヤルヴェンパーの沈黙」と呼ばれる。彼が作曲を止めてしまったと言われることもあるが、完成に至らなかった交響曲第8番をはじめとして作曲の試みは継続していた。フリーメイソンのための音楽を書いたりそれまでの作品を手直しするなどしたシベリウスは、新しい音楽の発展に興味を持ち続けていたものの、それが常に前向きなものであるとは限らなかった。
フィンランドでは、2002年にユーロが導入されるまで100マルッカ紙幣にシベリウスの肖像が描かれていた[3]。同国では2011年以降、旗の日でありシベリウスの誕生日でもある12月8日を「フィンランド音楽の日」として祝っている[4]。シベリウス生誕150周年となった2015年には、ヘルシンキ市内を中心に数多くの特別演奏会やイベントが開催された[5]。
年譜
1865年12月8日にヘルシンキの北方約100kmのハメーンリンナに生まれる。父クリスチャンは医師であったが、シベリウス2歳の時に他界。姉リンダ、弟クリスチャンはそれぞれピアノ、チェロの演奏をした。
1875年、最初の作曲。ヴァイオリンとチェロのための『水滴』[1]。
1885年、ヘルシンキ音楽院で作曲などを学び始める。
1889年、ベルリンに留学。留学中にリヒャルト・シュトラウスの『ドン・ファン』の初演、ハンス・フォン・ビューローの演奏などに直接触れる。さらに、ウィーン音楽院においてカール・ゴルトマルクに師事した[1]。
1891年に『クレルヴォ交響曲』作品7を手がける。翌年春に初演。これは管弦楽に独唱・男声合唱の加わる大規模な曲である。初演は好評をもって受け入れられたが、その後は抜粋で3度演奏されるにとどまり、作曲者の生前に全曲が演奏されることはなかった。
1892年にアイノ・ヤルネフェルトと結婚。6女を儲けるも、1人は2歳で他界[1]。
1899年に『愛国記念劇』の音楽を発表。この曲の7曲目が改作されて交響詩『フィンランディア』作品26として独立、人気を博した[1]。
1904年にヘルシンキ郊外のヤルヴェンパーに自邸アイノラを建てる[1]。
1908年に喉の腫瘍を摘出する手術を受ける。
1915年、シベリウス50歳の誕生日。この記念行事のために交響曲第5番が作曲された[1]。
1915年頃には既にフリーメイソンのメンバーだった。
1923年の交響曲第6番作品104、1924年の交響曲第7番作品105、1925年の交響詩『タピオラ』作品112を頂点にして、以後重要な作品はほとんど発表されなくなった。
1957年にヤルヴェンパーで脳出血により逝去。91歳没。ヘルシンキ大聖堂で国葬が営まれ、棺はアイノラの庭に葬られた[1]。
その後彼の肖像は、ユーロ導入までのフィンランド100マルッカ紙幣に使用された。
生涯
幼少期
1865年12月8日、ロシア帝国の自治領であったフィンランド大公国のハメーンリンナに生を受けた。スウェーデン語話者の医師クリスティアン・グスタフ・シベリウスとマリア・カルロッタ・シベリウス(旧姓ボーリ Borg)の間に生まれた子であった。姓は父方の曽祖父が所有していた東ウーシマー県の地所シッベ(Sibbe)に由来している[6]。父は1868年7月に腸チフスによりこの世を去り、あとには多額の借金が遺された。そのため、当時妊娠していた母は所有していた不動産を売却し、同じくハメーンリンナで夫に先立たれて暮らしていた彼女の母親、カタリーナ・ボーリの家に一家で身を寄せねばならなかった[7]。こうしてシベリウスは完全な女性中心の環境に育つことになる。唯一、男性的な影響を与えたのはおじのペール・フェルディナンド・シベリウス(Pehr Ferdinand -)であり、彼は音楽、とりわけヴァイオリンに関心を持っていた。彼こそが10歳になった少年にヴァイオリンを与え、後に作曲への興味を持ち続けるよう激励した人物だった[8][9]。シベリウスにとって、おじのペールは父親代わりだったのみならず音楽上の助言者でもあったのである[10]。
幼少期からシベリウスは自然に強い関心を示し、家族で夏季をロヴィーサの海岸沿いで過ごしにやってくると頻繁に田舎を歩き回りに出かけていた。彼自身の言葉が残っている。「私にとってロヴィーサは太陽と幸福の象徴だった。ハメーンリンナは学校へ行く場所、ロヴィーサは自由な場所だった。」ハメーンリンナでは彼が7歳になるとおばのユリア(Julia)が家にあったアップライトピアノで彼にピアノを教えることになるが、間違った音符を弾くといつも拳をコツンと叩いた。シベリウスは即興演奏によって上達を見せたが、音楽を解釈する勉強も続けた[11]。後に転向することになるヴァイオリンの方が彼の好みにはあっていた。姉のリンダがピアノ、弟のクリスチャンがチェロを弾いて三重奏を行うこともあった[注 2][12]。さらに近所の家々を交えて四重奏を行うこともあり、これによって室内楽の経験を培った。この時期の彼の作品として三重奏が1曲、ピアノ四重奏が1曲、ヴァイオリンとピアノのための『組曲 ニ短調』の断片が現存している[13]。1881年頃、彼はヴァイオリンとチェロのための短いピッツィカートの楽曲『水滴』(Vattendroppar)を紙に書き残している。ただし、これは単に音楽の訓練であった可能性もある[10][14]。初めて自分が作曲していると言及しているのは1883年8月の手紙の中であり、そこでは三重奏を書き上げて他の曲に取り組んでいると述べている。「両方とも少々お粗末な出来ですが、雨の日々にもやることがあるのはよいことです[15]。」1881年に地元の楽長であったグスタフ・レヴァンダー(Gustaf Levander)からヴァイオリンの指導を受けるようになり、すぐさまこの楽器に強い関心を抱くようになる[16]。偉大なヴァイオリンのヴィルトゥオーソになると心に決め、たちまち腕利きの奏者として頭角を現した。1886年にフェルディナンド・ダヴィッドのホ短調の協奏曲を演奏、翌年にはヘルシンキでメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲から後半2楽章を演奏している。こうした器楽奏者としての成功にもかかわらず、彼は最終的に作曲家としての道を選ぶのである[17][18]。
母語はスウェーデン語であったが、シベリウスは1874年にルチナ・ハグマン(Lucina Hagman)のフィンランド語で学ぶ予科校に入学した。1876年にはフィンランド語によるハメーンリンナの学校への進学を許可された。数学と植物学の成績は非常に良かったものの、彼は幾分ぼんやりした学生だった[15]。留年しながらも1885年に学校の最終試験に合格し、これによって大学への入学資格を得た[19]。少年時代の彼はヨハンの口語体にあたるヤンネという名前で知られていた。しかし学生時代に船乗りのおじの名刺に触発されてフランス語風のジャンを名乗るようになる。以降、彼はジャン・シベリウスとして知られるようになる[20]。
キャリア初期
1885年の高校卒業後、ヘルシンキ大学に進学したシベリウスは法学を学び始めるが、音楽への興味の方が圧倒的に大きかったためすぐさまヘルシンキ音楽院(現シベリウス音楽院)に転入して1885年から1889年まで同校で学ぶ。彼の指導陣の中には音楽院の創設者のひとりで、フィンランドの教育の発展に大きく貢献したマルティン・ヴェゲリウスがいた。独学だったシベリウスにはじめて正式に作曲を教えたのは彼であった[21]。他に重要な影響を与えた人物はシベリウスを教えたピアニスト兼作曲家のフェルッチョ・ブゾーニであり、2人は生涯にわたる友情を育んだ[22]。彼の近しい友人の集まりにはピアニストで文筆家のアドルフ・パウル、指揮者となるアルマス・ヤルネフェルトもいた[注 3][10]。この時期の主要作品にはグリーグを想わせるところのあるヴァイオリンソナタ ヘ長調がある[23]。
シベリウスは続いてベルリンへ赴きアルベルト・ベッカーに(1889年-1890年)、さらにウィーンへ移ってロベルト・フックス、そしてカール・ゴルトマルクに師事して(1890年-1891年)研鑽を積んだ。ベルリンではリヒャルト・シュトラウスの交響詩『ドン・ファン』の初演をはじめとした多様な演奏会やオペラに足を運び音楽の見識を広める機会に恵まれた。またフィンランドの作曲家であるロベルト・カヤヌスが自作の交響詩『アイノ』を含むプログラムでベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮した演奏会を聴いているが、この愛国的な作品がきっかけとなり後年シベリウスが叙事詩『カレワラ』を題材として作曲することへ関心を持つに至ったという可能性もある[22][24]。ウィーン時代にはブルックナーの音楽にとりわけ強い関心を示し、一時は彼のことを「もっとも偉大な存命の作曲家」であるとみなしていた。一方で、ベートーヴェンやワーグナーの評価の固まった作品への興味も持ち続けていた。ウィーンにいた時期にはたびたび新しい友人たちとパーティーや賭け事に興じて過ごした。管弦楽曲の作曲に目を向けるようになったのもウィーンの頃であり、序曲 ホ長調や『バレエの情景』に取り組んだ。『カレワラ』に霊感を得た管弦楽作品『クレルヴォ交響曲』にも取り掛かる一方で体調を崩し、胆石の除去手術を受けて健康を回復している[25]。ヘルシンキへ戻ると間もなく、ポピュラーコンサートの場で自作の序曲と『バレエの情景』を自ら指揮できる機会に恵まれこれを満喫した[26]。『クレルヴォ交響曲』の仕事を続けることもできるようになり、次第に興味を発展させた彼はすべてをフィンランド語で書き上げたのであった。1892年4月28日にヘルシンキで迎えた初演は大成功で幕を閉じた[10]。
シベリウス 1891年
シベリウスが心に抱いてきたヴァイオリニストとなる希望をついに諦めたのはこの頃であった。
悲劇だったのは私が何を犠牲にしてでも名高いヴァイオリニストになりたいと思っていたことだった。15歳になって以来、朝から晩まで自分のヴァイオリンを弾いていたも同然だったのだ。ペンとインクなど大嫌いで - 不幸にも上品なヴァイオリンの弓をより好んだ。私のヴァイオリンへの愛情は非常に長く続き、ヴィルトゥオーゾという過酷なキャリアへの訓練としては始めるのが遅すぎたと認めざるを得ないと自覚するのは大変に辛いことだった[27]。
ウィーンとベルリンで勉学に費やした長い期間に加え(1889年-1891年)、1900年にはイタリアへ入って1年を家族とともに過ごした。スカンジナビアの国々、イギリス、フランス、ドイツで活発に作曲し、指揮をし、社交生活を送り、後にはアメリカ合衆国へも足を運んでいる[28]。
結婚と名声の高まり
シベリウスがヘルシンキで音楽を学んでいた1888年秋、音楽院の友人だったアルマス・ヤルネフェルトから自宅への招待を受けた。そこで彼は当時17歳のアイノと恋に落ちた。父はヴァーサの長官であったアレクサンデル・ヤルネフェルト大将、母はバルト諸国の貴族を出自とするエリザベト・クロット=フォン=ユルゲンスブルクである[18]。結婚式は1892年6月10日にマクスモ(英語版)で執り行われた。新婚旅行は『カレワラ』発祥の地であるカレリアで過ごした。この体験が交響詩『エン・サガ』、『レンミンカイネン組曲』、『カレリア』の着想を与えることになる[10]。1903年にはヤルヴェンパーのトゥースラ湖畔に2人の住まいであるアイノラが完成した。結婚生活の中で、2人は6人の娘を授かった。エーヴァ、ルート、キルスティ[注 4]、カタリーナ、マルガレータ、ヘイディである[30]。エーヴァは工場の跡取りで後にパロヘイモ社の最高経営責任者となるアルヴィ・パロヘイモ(Arvi Paloheimo)と結婚した。ルート・スネルマンは著名な女優となり、カタリーナ・イヴェスは銀行家と結婚、ヘイディ・ブロムシュテットは建築家のアウリス・ブロムシュテット(英語版)の妻となった。マルガレータの夫となったユッシ・ヤラスはアウリス・ブロムシュテットの兄弟である[31] 。
1892年、『クレルヴォ交響曲』ときっかけとしてシベリウスは管弦楽に意識を向けるようになる。この作品は作曲家のアクセル・トルヌッド(フィンランド語版)が「火山の噴火」と評し、合唱パートを歌ったユホ・ランタは「『フィンランド』の音楽だった」と述べている[32]。同年の暮れに祖母のカタリーナ・ボーリが他界、その葬儀に参列したシベリウスはハメーンリンナの家を訪れ、その後は家が古くなるまで立ち寄ることはなかった。1893年2月16日に『エン・サガ』の初版をヘルシンキで発表するも評判はさほど芳しくなく、評論家からは余計な部分を削除して切り詰めるべきだとの意見が出た[注 5]。3月に行われた3回にわたる『クレルヴォ交響曲』の再演はそれよりもずっと不評で、ある評論家は理解不能でありかつ生気が欠けていると看做した。長女のエーヴァが誕生した後の4月には合唱曲『ワイナミョイネンの船乗り』の初演が行われて大成功を収め、記者からの支持を得ることができた[33]。
1893年11月13日、ヴィープリのセウラフオネ(Seurahuone)で行われた学生団体主催のガラ・コンサートにおいて『カレリア』の全曲版が初演された。この公演には画家のアクセリ・ガッレン=カッレラと彫刻家のエミール・ヴィークストレーム(英語版)も舞台装置の設計のために招かれて協力していた。最初の演奏は聴衆の話声のために聴きづらいものとなってしまったが、11月18日の2度目の演奏はそれよりも上手くいった。さらに19日と23日にはヘルシンキに於いて、この作品から採られた長大な組曲が作曲者自身が指揮するフィルハーモニック協会管弦楽団の演奏で披露されている[34]。シベリウスの音楽がヘルシンキのコンサートホールで演奏される頻度は高くなっていた。1894年-1895年のシーズンには『エン・サガ』、『カレリア』、『春の歌』(1894年作曲)が、トゥルクは言うまでもなく、首都でも少なくとも16回の演奏会で取り上げられている[35]。1895年4月17日に改訂版の『春の歌』を聴いた作曲家のオスカル・メリカントは「シベリウスの管弦楽作品の中でも最も清らかな花である」と評してこれを歓迎した[36]。
長期にわたりシベリウスはオペラ『船の建造』に取り組んでいた。この作品も『カレワラ』を題材としている。彼は一定程度ワーグナーの影響を受けていたが、その後リストによる交響詩を作曲への創意の源とするようになった。未完に終わったオペラの素材を活用する形で生まれた『レンミンカイネン組曲』は、交響詩の形式で描かれた4つの伝説から構成されている[10]。組曲は1896年4月13日にヘルシンキにおいて満員の会場で初演された。メリカントが作品のフィンランドらしさに熱狂したのとは対照的に、批評家のカール・フロディンは「トゥオネラの白鳥」におけるコーラングレが「驚くべき長さと退屈さ」だとしている[37][33]。その一方でフロディンは第1の伝説「レンミンカイネンと島の乙女たち」についてシベリウスのそれまでの創作の中の頂点を成すものであると考えていた[38]。
生活のため、シベリウスは1892年から音楽院やカヤヌスの指揮学校で教鞭を執るが、これによって作曲のために割ける時間が足りなくなってしまう[39]。状況が大きく好転したのは1898年に多額の年次助成金が交付されるようになってからで、当初は10年間の有期であった助成期間は後に生涯の交付へと延長された。こうしてアドルフ・パウルの戯曲『クリスティアン2世』への付随音楽を完成させることができ、1898年2月24日に初演された作品は馴染みやすい音楽で大衆の心を掴んだ。戯曲中でも人気の高い4つの場面に付された楽曲はドイツで出版され、フィンランドで好調な売れ行きを見せた。1898年11月に管弦楽組曲の演奏がヘルシンキで成功を収めた際、シベリウスは次のようにコメントを残している。「音楽はよく鳴っており、速度は適切なようです。自分が何かを完成させることができたのはこれが初めてではないかと思います。」曲はストックホルムとライプツィヒでも演奏された[40]。
1899年、シベリウスは交響曲第1番の作曲に取り掛かる。この頃、ロシア皇帝ニコライ2世がフィンランド大公国に対してロシア化の試みを行っており、これによって彼の胸の内には愛国心が高まりつつあった[41]。曲が1899年4月26日にヘルシンキで初演されると各方面から好評を博した。しかし、この時の公演プログラムでそれよりも遥かに注目度が高かったのは、あけすけに愛国心を露わにした、少年、男声合唱のための『アテネ人の歌』であった。この合唱曲によりシベリウスは一躍国民的英雄の地位を手にすることになる[40][41]。11月4日に発表された次なる愛国的作品は『新聞の日を祝う音楽』として知られ、フィンランドの歴史を8つの挿話を描写する形で描いた作品であった。作曲を援助した新聞『Päivälehti』紙は、社説でロシアの規則を批判して一定期間の発刊停止処分中だった[42]。最後の楽曲「フィンランドは目覚める」はとりわけ高い人気を獲得した。これが幾度か細かい修正を施されたのち、広く知られる『フィンランディア』となる[43]。
1900年2月、シベリウス夫妻は娘のキルスティ(この時点では末娘)を失った悲しみに沈んでいた。しかしシベリウスは春になるとカヤヌス、並びに彼の管弦楽団とともに演奏旅行に繰り出し、13の都市を巡って交響曲第1番の改訂版などの最新作を披露して回った。訪れた都市はストックホルム、コペンハーゲン、ハンブルク、ベルリン、パリなどである。各都市は非常に好意的で、『Berliner Börsen-Courier』、『Berliner Fremdenblatt』、『Berliner Lokal Anzeiger』が熱狂的な論評を掲載したことにより彼は国際的に知られるようになる[44]。
1901年にイタリアのラパッロを一家で訪れたシベリウスは交響曲第2番の作曲に取り掛かる。その際モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』に登場するドン・ジョヴァンニの運命からも霊感を得ていた。曲は1902年の初頭に完成されて3月8日にヘルシンキ初演を迎える。この作品はフィンランドの人々の間に熱狂の渦を巻き起こした。メリカントは「曲はいかなる想定をも超えて大胆不敵であった」という感想を抱き、エーヴェルト・カティラ(フィンランド語版)は「紛うことなき傑作」と評価した[44]。フロディンもまた、「我々がこれまでに決して聴く機会を持つことのなかった類の」交響作品について書き残している[45]。
夏の間をハンコに程近いトヴァルミンネ(フィンランド語版)で過ごしたシベリウスは、同地で歌曲『それは夢か』作品37-4を作曲すると同時に『エン・サガ』の書き直しを行った。これが1902年11月にベルリンにおいてベルリン・フィルにより演奏されるとドイツでの作曲者の名声は揺るがぬものとなり、そのすぐ後の交響曲第1番の出版につながることとなる[44]。
1903年の大半をヘルシンキで過ごしたシベリウスは過度に飲み食いに耽り、飲食店で大金を支払っていた。しかしその一方で作曲も継続して行い、義理の弟にあたるアルヴィド・ヤルネフェルト(英語版)の著した戯曲『クオレマ』に付した6曲から成る付随音楽のうちのひとつ、『悲しきワルツ』が有数の成功作となった。資金難から彼は作品を廉価で売り渡してしまったが、たちまちフィンランド国内外で高い人気を博すようになった。シベリウスのヘルシンキ滞在中、妻のアイノは頻繁に手紙を書いては帰宅を懇願したが彼は応じなかった。4女のカタリーナが生まれ時すら彼は外に出たままだったのである。1904年のはじめにヴァイオリン協奏曲が完成して2月8日に初演を迎えたが、評判は芳しくなかった。このため改訂を経て凝縮度を高めた版が作製されて翌年にベルリンで披露されることになった[46]。
アイノラへの移住
1903年11月、シベリウスはヘルシンキからおよそ45キロメートル北へ離れたトゥースラ湖のほとりにアイノラ(アイノの居場所)と名付けた邸宅を建築し始める。建築費用を工面するため、彼は1904年の前半からヘルシンキ、トゥルク、ヴァーサ、その他タリンやエストニアで演奏会を開き、夏にはラトビアにも赴いた。一家は1904年9月24日にようやく新居に移ることができ、画家のエーロ・ヤルネフェルト、ペッカ・ハロネン、小説家のユハニ・アホら近所の芸術家のコミュニティーの中で交流を深めていった[46]。
1905年1月、シベリウスは再びベルリンを訪れて交響曲第2番を自ら指揮した。演奏会自体は成功裏に終了したが論評は賛美一色というわけではなく、非常に好意的な評もあった一方で『Allgemeine Zeitung』や『Berliner Tageblatt』などの評価はそれほど熱のこもったものではなかった。フィンランドに帰国したシベリウスは徐々に人気が出てきつつあった『ペレアスとメリザンド』を管弦楽組曲として仕立て直した。11月には初めてイギリスへと渡り、リヴァプールでヘンリー・ウッドと会っている。12月2日に交響曲第1番と『フィンランディア』を指揮した彼は、アイノに宛てて演奏会は大成功を収め大いに喝采を浴びたと手紙で伝えた[47]。
1906年、年の初めの短い期間をパリで特に何事もなく過ごしてから、続く数か月をアイノラで作曲に費やした。この時期の主要な作品はやはり『カレワラ』を題材に採った交響詩『ポホヨラの娘』である。その後、同年のうちに付随音楽『ベルシャザールの饗宴』も完成させ、管弦楽組曲版の制作も行っている。年の締めくくりは自ら指揮した演奏会シリーズで、中でも最大の成功を収めたのはサンクトペテルブルクのマリインスキー劇場で行った『ポホヨラの娘』の初となる公開演奏であった[47]。
浮き沈み
シベリウスは1907年の年初から再びヘルシンキにて暴飲暴食に耽るようになり、途方もない金額をシャンパンとロブスターに費やした。彼のこの生活習慣がアイノの健康状態に深刻な影響を与え、彼女を極端な疲労による療養施設入居に至らしめた。妻が不在の間にシベリウスは禁酒を決意し、かわりに交響曲第3番の作曲へと意識を集中させた。作品を完成させた彼は9月25日にヘルシンキでの初演に臨んだ[48]。古典的性格が増した作風は聴衆へ驚きを与えたが、フロディンは作品が「内面的に新しく、また革命的」であったと述べている[47]。
そのすぐ後、シベリウスはヘルシンキを訪れたグスタフ・マーラーと出会っている。2人は新しい交響曲を出すたびに過去の作品のファンであった人々を失ってしまう、という点で意見の一致を見た。1907年11月にサンクトペテルブルクで第3交響曲が演奏されると、まさにこれが現実となって否定的な論評を浴びることとなる。モスクワでの評判はまだ前向きなものであった[47]。
1907年、シベリウスは喉の癌の疑いにより大きな手術を受けおり、1908年のはじめは病院で過ごさねばならなくなった。喫煙、飲酒はいまや生命を脅かすものとなったのである。ローマ、ワルシャワそしてベルリンでのコンサートは中止しながらもロンドンの契約は守ったが、ここでも第3交響曲は評論家の関心を獲得するには至らなかった。5月にはシベリウスの体調はますます悪化し、彼は妻とともにベルリン入りして喉の腫瘍の除去手術を受けた。術後、彼は今後一切の煙草と酒を断つと誓いを立てたのであった[47]。こうして死を間近に体験した衝撃が交響詩『ルオンノタル』や交響曲第4番など、以降数年のうちに作曲された作品に着想を与えたといわれている[49]。
喜ばしい時間
1909年、喉の手術が成功したことによりシベリウスとアイノは自宅での幸福を新たなものにしていた。イギリスにおいても自らタクトを握って『エン・サガ』、『フィンランディア』、『悲しきワルツ』、『春の歌』を熱狂する聴衆に届けており、彼の体調は歓迎された。クロード・ドビュッシーとの出会いも大きな支えとなった。パリで静かに過ごした後でベルリンに向かった彼は、そこで喉の手術が完全に成功したという旨を聞かされて安堵する[50]。
交響曲第4番には1910年のはじめに着手していたものの、資金が乏しくなっていっていたため数多くの小規模な楽曲や歌曲も書かねばならなかった。10月にクリスチャニア(現オスロ)で開かれた演奏会では『森の精』と『追憶のために』を自分の手で初演する。『悲しきワルツ』や第2交響曲はとりわけ好評だった。それからベルリンに赴いて第4交響曲の仕事を続け、ヤルヴェンパーに戻ってから終楽章に取り組んだ[50]。
スウェーデンでの初めてのコンサートで1911年の初頭に指揮台に上り、交響曲第3番までもが評論家から好評を得た。4月には交響曲第4番が完成するが、彼自身も予想していたとおりヘルシンキでの初演においてはその内省的な作風があまり前向きに評価されず、賛否両論を巻き起こした。リヒャルト・シュトラウスの『サロメ』を楽しんだパリへの旅行を除き、同年の残りはほとんど何もなく終わった。1912年に入り『英雄的情景』第2番が完成する。この作品は3月に初演を迎えており、同じ演奏会では第4交響曲も演奏された。この演奏会はロベルト・カヤヌスをはじめとする熱狂的な評論家、そして聴衆へ向けて2回再演されることになった。第4交響曲は9月のバーミンガムでも好意的な評価を獲得した。同交響曲は1913年3月にニューヨークでも演奏されたものの大部分の聴衆が楽章間に演奏会場から出て行ってしまい、10月にカール・ムックが指揮した際には『ボストン・アメリカン』紙が「哀れな失敗作」の烙印を押した[50]。
1913年の最初の重要作品は交響詩『吟遊詩人』であり、シベリウスは3月にヘルシンキでこの作品を礼儀正しい聴衆に向けて指揮した。続く作品は『カレワラ』から詞を採ったソプラノと管弦楽のための『ルオンノタル』である。初演は1913年にイングランドのグロスターで開催されたスリー・クアイアズ・フェスティバルにおいてアイノ・アクテのフィンランド語による独唱で行われた[50][51][注 6]。1914年のはじめにひと月をベルリンで過ごしたシベリウスはとりわけシェーンベルクに惹きつけられた。フィンランド帰国後、アメリカの億万長者カール・ステッケルからノーフォーク室内楽音楽祭のためにと委嘱された『大洋の女神』の作曲を開始する。変ニ長調で書き始めたものの大規模な改訂を行った結果、ノーフォークへはニ長調の版が持ち込まれることになった。この作品は『フィンランディア』や『悲しきワルツ』同様の喝采を浴びることとなった。音楽批評家のヘンリー・エドワード・クレービールは『大洋の女神』がかつて海を題材に作曲された音楽の中で最も美しい作品であると看做し、『ニューヨーク・タイムズ』紙はシベリウスの音楽が音楽祭にとって最大の貢献となったと評した。シベリウスがアメリカでイェール大学から名誉博士号を授与されていたのとほぼ同じ頃、ヘルシンキ大学ではアイノが彼の代理として同じく名誉博士号の授与式に臨んでいた[50]。
第一次世界大戦
米国からの帰途、シベリウスは第一次世界大戦勃発の引き金となるサラエボ事件について耳にした。彼自身は戦地から遠くにあったものの、国外からの印税収入が滞るようになった。生計を立てるため、彼はフィンランド国内での出版向けに多量の小規模作品を作曲することを余儀なくされた。1915年3月に尋ねたスウェーデンのヨーテボリでは『大洋の女神』が非常に高い評価を受けた。彼は4月に交響曲第5番に取り組むさなか16羽の白鳥が飛んでいくのを目にし、これに触発されて終楽章を書いた。彼は「人生の中でも素晴らしい体験の一つだった!」との言葉を残している。交響曲に関する夏の間の進捗はわずかだったものの、50歳の誕生日を迎える12月8日までには曲を完成させることができた[52]。
誕生日の晩、シベリウスはヘルシンキ証券取引所(現:ナスダック・ヘルシンキ)のホールにて自らの指揮で交響曲第5番を初演した。カヤヌスの絶賛にもかかわらず作曲者自身は作品に満足しておらず、間もなくして改訂に取り掛かった。この頃、シベリウスはこれまでを遥かに上回る負債を抱えつつあった。歌手のイダ・エクマンが基金の立ち上げ事業に成功して借金の大部分を返済したが、その際に彼に贈られたグランドピアノは差し押さえられる寸前であった[52]。
1年後の1916年12月8日、シベリウスはトゥルクにて改訂版の第5交響曲を披露した。これは最初の2つの楽章を結合させ、終楽章を簡素化したものであった。1週間後のヘルシンキでの演奏ではカティラが非常に好意的だったのに対してワゼニウス(Wasenius)は変更に否定的であり、これによって彼は再度の改訂を行うことになった[52]。
1917年のはじめからシベリウスは飲酒を再開し、アイノとの間で口論となった。ロシア革命が勃発するとその興奮により2人の仲は改善する。同年の暮れまでにシベリウスは『フィンランド軽歩兵隊の行進曲』を作曲、1917年12月にフィンランド議会が上院のロシアからの独立宣言を承認すると曲はとりわけ人気を博した。『フィンランド軽歩兵隊の行進曲』の初演は1918年1月19日のことで、1月27日のフィンランド内戦の幕開けまでのわずかな間、ヘルシンキのエリート層を喜ばせた[52]。シベリウスは自然と白衛軍(英語版)の支援に回ったが、トルストイ運動家であったアイノは赤衛軍(英語版)にも幾ばくか共鳴するところがあった[53]。
2月、アイノラは2回にわたって武器を探す赤衛軍の地元部隊による捜索を受けた。開戦からの数週間の間にシベリウスの知人の中には暴力行為を受けて落命した者もおり、彼の弟で精神科医のクリスティアン・シベリウスは前線で戦争神経症を負った赤衛軍の兵士のために病床を確保しておくことを拒否したために逮捕された。ヘルシンキにいたシベリウスの友人たちは彼の身の安全を案じていた。ロベルト・カヤヌスが赤衛軍の総司令官エーロ・ハーパライネン(英語版)と交渉を行い、シベリウスがアイノラから首都まで安全に移動できる保証を取り付けた。2月20日、赤衛軍の兵士の一団が一家をヘルシンキまで護衛した。最終的には4月12日、13日にヘルシンキの戦い(英語版)でドイツ軍がヘルシンキを占領、赤衛軍の支配は終わりを告げた。1週間後、ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団がドイツの指揮官リューディガー・フォン・デア・ゴルツ(英語版)を称えるコンサートを開催、これはシベリウスの指揮による『フィンランド軽歩兵隊の行進曲』にて幕を閉じた[53]。
回復した運勢
1919年のはじめ、シベリウスは薄くなった頭を丸めて印象を変えようと躍起になっていた。6月には1915年以来はじめてフィンランドを離れてアイノとともにコペンハーゲンを訪れると、交響曲第2番を演奏して成功を収めた。11月に交響曲第5番の最終稿を指揮し、聴衆から幾度にもわたる喝采を浴びた。同年の暮れには彼は既に交響曲第6番の仕事を進めていた[52]。
1920年、手の震えが大きくなる中、ワインの力を借りつつスオメン・ラウル合唱団のために詩人のエイノ・レイノの詞を基にカンタータ『大地への賛歌』を作曲、また『抒情的なワルツ』を管弦楽編曲した。シベリウスは1920年12月の誕生日に63,000マルクの寄付を受け取った。この大金はテノールのワイネ・ソラ(フィンランド語版)がフィンランドでの事業により築き上げたものだった。資金の一部は借金の返済に使われたが、ヘルシンキで行われた過度な祝賀会は一週間に及んだ[54]。
1921年のはじめにはイングランドへの演奏旅行が大きな成功を収めた。シベリウスはイングランド国内の複数の都市で第4交響曲、第5交響曲、『大洋の女神』そしていつでも人気が高かった『フィンランディア』、『悲しきワルツ』を指揮して回った。そのすぐ後、今度はノルウェーで第2交響曲と『悲しきワルツ』を指揮している。彼は過労にあえぎ始めていたが評論家の意見は前向きなままだった。4月にフィンランドへ帰国すると、Nordic Music Daysにて『レンミンカイネンの帰郷』と第5交響曲を披露する[54]。
1922年の初頭に頭痛に苦しんだシベリウスは眼鏡をかけることを決意する。しかし彼はその後も写真撮影の際にはいつも眼鏡を外していた。7月に弟のクリスティアンが永眠し、シベリウスは悲しみに暮れた。8月にフィンランドのフリーメイソンに加入してその儀式のための音楽を作曲、1923年2月には交響曲第6番が初演される。エーヴェルト・カティラは「純粋な田園詩」だとしてこれを称賛した。年の暮れにはストックホルムとローマで演奏会の指揮台に上ったが、前者が大絶賛を浴びた一方で後者には様々な評価がついた。続いてヨーテボリに向かった彼が演奏会場に到着した時には暴飲暴食し放題で苦しい状態だったにもかかわらず、迎えた聴衆は恍惚となった。飲酒を続けてアイノを狼狽させながらも、シベリウスは1924年のはじめにはどうにか交響曲第7番の完成にこぎつけた。3月に『交響的幻想曲』という標題の下、ストックホルムで行われた第7交響曲の最初の公開演奏は好評を博した。同交響曲は9月の終わりにコペンハーゲンで開催されたコンサート・シリーズにおいてそれを遥かに上回る喝采を浴びた。シベリウスはダンネブロ勲章のナイトに叙される栄誉に与った[54]。
この頃の多忙な活動は彼の心臓と神経を痛めていたため、同年の残り大半を休暇に充てることにした。小規模な作品をいくつか作曲しつつ、彼は次第にアルコールに頼るようになっていく。1925年5月、デンマークの出版者のヴィルヘルム・ハンゼンとコペンハーゲンの王立劇場がシェイクスピアの『テンペスト』上演のための付随音楽を作曲しないかと声をかけた。シベリウスは1926年3月の初演に十分余裕をもって作品を書き上げた[54]。コペンハーゲンでの評判は上々だったが作曲者自身はその場に居合わせなかった[55]。
最後の大規模作品
1926年にはシベリウスの創作活動は急激に落ち込み上昇の気配を見せなかった。第7交響曲完成後、彼は残りの生涯のうちに規模の大きな楽曲はわずかな数しか生み出さなかったのである。そうした中の2つの最重要作品は間違いなく『テンペスト』と交響詩『タピオラ』である[56]。残りの人生30年間の大部分をシベリウスは自らの音楽について公に語ることすら避けながら過ごした[57]。
シベリウスが交響曲第8番に取り組んでいたことを示す数多くの証拠が残されている。彼は1931年及び1932年にセルゲイ・クーセヴィツキーに対してこの交響曲の初演を約束しており、ベイジル・キャメロン指揮による1933年のロンドンでの演奏は一般告知されすらした。この交響曲が存在したことを紙の状態で伝える具体的な証拠は、1933年に発行された第1楽章の浄書にかかった費用の請求書、並びに2011年に初めて出版、演奏された下書き段階の短い断片のみである[58][59][60][61]。シベリウスは常に厳しい自己批判をしていた。彼は近しい友人に「もし7番よりもよい交響曲を書くことができなかったら、7番を最後とせねばならない」と述べていた。草稿が現存しないことから、各種文献ではシベリウスが楽譜の痕跡のほとんどを破棄してしまったのだろうと考察されている。時期はおそらく、シベリウスが多量の書類を焼却したことが確実である1945年と考えられる[62]。妻のアイノは次のように回想している。
1940年代にアイノラで大規模なアウト・デ・フェが行われました。夫は洗濯かごの中に大量の原稿を集め、それらをダイニングの暖炉にくべて燃やしたのです。『カレリア組曲』の一部や - 後日、引きちぎられたページの破片も目にしています - その他多くのものが失われました。私にはそこに留まるだけの強さがなく、部屋を後にしました。ですので、彼が何を火の中へ投げ込んでいたのかはわかりません。ですが、夫はこのことがあって以来穏やかになり、次第に雰囲気も明るくなっていったのです[63]。
1939年1月1日、シベリウスは国内外向けのラジオ放送に出演し、その中で『アンダンテ・フェスティーヴォ』を自ら指揮した。放送音源として残されたこの演奏は後年CD化されている。これがおそらく唯一の現存するシベリウスの自作自演だろうと思われる[64]。
晩年と最期
1903年以降長年にわたってシベリウスは田舎に居を構えてきた。1939年から彼とアイノは再びヘルシンキに住まいを持っていたが、1941年からはアイノラへと戻って時おり街を訪れるだけとなった。戦後、彼がヘルシンキに姿を見せたのはわずか数回のみである。数え切れないほどの公式の客人や同僚に加え、彼の孫やひ孫が休暇をアイノラで過ごす中、いわゆる「ヤルヴェンパーの沈黙」は神話のようなものとなっていったのである[65]。
シベリウス本人は公に他の作曲家に関して発言をすることを避けていたが、エーリク・タヴァッシェルナやシベリウスの秘書だったサンテリ・レヴァス[66]の記録によると彼は私的な会話の中でリヒャルト・シュトラウスを賛美していた他、バルトーク・ベーラやドミートリイ・ショスタコーヴィチを若い世代の最も才能ある作曲家と考えていたという[67]。1950年代にはフィンランドの新鋭作曲家であったエイノユハニ・ラウタヴァーラの名前を広めようとしている[68]。
90歳の誕生日を迎えた1955年は盛大に祝われ、ユージン・オーマンディの指揮するフィラデルフィア管弦楽団、トーマス・ビーチャムの指揮するロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団の両楽団が彼の音楽による特別演奏を行った[69][70]。
タヴァッシェルナはシベリウスの死に関係する逸話を紹介している[71]。
[彼が]習慣にしている朝の散歩から帰ってきた。浮き立った様子の彼は妻のアイノにツルの群れが近づいてくるのを見たのだと話した。「来たんだよ、私の若いころの鳥たちが。」彼は声をあげた。突然、鳥たちの中から1羽が陣形を離れてアイノラ上空でいちど円を描いた。するとその鳥はまた群れに戻って旅を続けていったのである。
ヘルシンキでのシベリウスの葬儀 1957年
その2日後の1957年9月20日の夜、シベリウスはアイノラにて91年の生涯を閉じた。死因は脳内出血だった。彼が息を引き取ったその時、マルコム・サージェントの指揮による彼の交響曲第5番がヘルシンキからラジオ放送された。また時を同じくして開催されていた国連総会では、議長でニュージーランド代表のレスリー・マンロー(英語版)が黙祷を呼びかけ、こう語りかけた。「シベリウスはこの全世界の一部でした。音楽を通して彼は全人類の暮らしを豊かなものにしてくれたのです[72]。」同じ日にはやはり著名なフィンランドの作曲家だったヘイノ・カスキが永眠しているが、彼の死はシベリウスの訃報の陰に隠れてしまった。シベリウスは国葬によって葬られ、アイノラの庭へと埋葬された[73]。アイノ・シベリウスはその後12年間を同じ家で暮らし、1969年6月8日に97歳で夫の後を追った。彼女も夫の側に眠っている[74]。
音楽
シベリウスは交響曲と交響詩、中でも『フィンランディア』や『カレリア組曲』によって広く知られている。フィンランドにおけるその名声は1890年代に合唱交響曲『クレルヴォ交響曲』によって高まった。この作品はその後の多くの作品と同様に叙事詩『カレワラ』を描いたものである。交響曲第1番は1899年、フィンランドにナショナリズムが興っていた時期に初演され、聴衆の熱狂に迎えられた。これ以外の6曲の交響曲に加えて彼は付随音楽やその他の交響詩、とりわけ『エン・サガ』、『トゥオネラの白鳥』、『悲しきワルツ』によって国内外で人気を獲得していく[75]。また、ヴァイオリン協奏曲を含むヴァイオリンと管弦楽のための作品群、オペラ『塔の乙女』、小規模な管弦楽作品、室内楽曲、ヴァイオリンとピアノのための作品、合唱作品と数多くの歌曲を作曲した[76]。
1920年代半ば、交響曲第6番と第7番の完成後に、交響詩『タピオラ』と付随音楽『テンペスト』を書き上げた。これ以降、彼は1957年まで生きたものの特筆すべき作品は何ひとつ世に出さなかった。数年間取り組んでいた交響曲第8番は彼が自ら焼却してしまっている[77]。
音楽様式については、交響曲第1番やヴァイオリン協奏曲のような初期作品においてチャイコフスキーの影響が特に顕著である[78]。一方でとりわけオペラに取り組んでいた一時期についてはワーグナーの虜になっていた。これら以上に長期的な影響を与えたのはフェルッチョ・ブゾーニとアントン・ブルックナーであった。しかし交響詩に関してはなによりリストに触発されていた[33][79]。ブルックナーとの類似性は管弦楽曲で金管楽器の活躍が目立つことや、彼の音楽が概して遅いテンポを取ることに見出される[80][81]。
シベリウスは自作からソナタ形式の型として決まったものを取り除いていく形で進化を遂げ、複数の主題を対比するのではなく、小さな塊や断片的な主題が持続的に発展していき頂点において大きく提示されるという発想に目を向けた。彼の後期作品は主題を置換しつつ派生させていくという方法により進む、その途切れることのない展開の感覚という点で注目される。この合成過程が完璧であり有機的に感じられることから、シベリウスが最終的な主題提示から遡る形で作品を書いたのではないかと主張する者もいた。しかし、その逆に現実には3音もしくは4音から成る塊や旋律の断片が発展、拡大して大きな「主題」へと至ったのだということが分析により証明されている[82]。
この自己完結型の構造は交響曲の分野でシベリウスの第一の好敵手であったマーラーの交響曲の様式と著しい対照を成す[56]。両作曲家の作品では主題の変奏が主要な役割を果たすが、マーラーの方法論では不連続で急激に変化して対比を生み出す主題が用いられたのに対し、シベリウスは主題要素を時間をかけて変化させるよう努めた。1907年11月にマーラーがフィンランドへの演奏旅行を引き受け、この2人の作曲家は連れ立って長い散歩に出ることができた。シベリウスは次のようにコメントを残している。
私は[その交響曲の]様式の厳格さと論理の深遠さが全てのモチーフの間に内的な結びつきを生み出していることを称賛した(中略)マーラーの意見はちょうど正反対であった。「いえ、交響曲というものは世界でなくてはならないのです。ありとあらゆるものを内包していなくてはなりません[83]。」
交響曲
『クレルヴォ交響曲』を除いて、7曲の交響曲が1900年から1924年の間に作られている。初期(第1番、第2番)は当時の流行に沿ってチャイコフスキーやワーグナーの影響の下、大規模で後期ロマン派的な傾向を持つ作品が多いが、中・後期(第3番以降)には古典派や印象派の様式を取り入れ、より内省的で簡潔なスタイルへと移行した。1891年に作曲された『序曲 ホ長調』(JS 145)と『バレエの情景』(JS 163)は、当初は最初の交響曲(後の第1番とは別)の楽章として構想されたものであった。
シベリウスは1898年に交響曲第1番 ホ短調 作品39の作曲に取り掛かり、1899年の初頭、33歳でこれを完成させている。初演は1899年4月26日に作曲者自身の指揮によりヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団の演奏で行われて好評を博した。この時に演奏されたオリジナル版は現存してない。初演後にシベリウスはいくつかの改訂を加えており、これが今日演奏される版となっている。改訂は1900年の春から夏にかけて完了し、1900年7月18日、ベルリンでロベルト・カヤヌス指揮、ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団の演奏によって初演された[84]。この交響曲は控えめなティンパニを伴ったクラリネットの非常に独創的でやや侘しげな独奏で開始する[85]。
シベリウスの交響曲の中で最も人気が高く録音機会の多い交響曲第2番は、1902年3月8日に作曲者自身の指揮によりヘルシンキ・フィルハーモニック協会の演奏で初演された。開始部の上昇形の和音が作品全体のモチーフとなっている。フィナーレにおける3音からなる英雄的な主題は、最初に登場した際は木管楽器で奏されていたものがここではトランペットにより奏でられる。ロシア帝国による抑圧下にあって曲はシベリウスの名声を国民的英雄にまで高めた。彼は初演後にいくつかの改訂を施しており、改訂版は1903年11月10日にストックホルムにおいてアルマス・ヤルネフェルトの指揮により初演された[86]。
交響曲第3番は耳触りがよく、大団円で終結するが、そうとは見せず簡素な響きを持った作品である。初演は1907年9月25日、作曲者自身の指揮の下、ヘルシンキ・フィルハーモニック協会の演奏で行われた。作品のはじめに出てくる和音にはフィンランドの民謡から採られた主題がある。アイノラへ移り住んだすぐ後に書かれたこの作品では、フィナーレの行進曲的な曲調へと発展していく表現方法が明瞭に示されており、先の2曲の交響曲とは際立った対比を成している[75][87]。交響曲第4番は1911年4月3日、ヘルシンキにて作曲者の指揮、フィルハーモニア協会の演奏で初演された。曲が書かれた時期にシベリウスは喉からの腫瘍を除去するための数回の手術を経験していた。この曲の持つ凄味は禁酒の決意からくる反応と説明することも可能といえる。チェロ、コントラバス、ファゴットで開始するはじめの数小節では拍子に対して新たなアプローチが試みられている。その後はポー(Poe)の『The Raven』に付した憂鬱なスケッチに基づいて展開する。弱まっていくフィナーレは20年後にシベリウスが経験することになる沈黙の予感であるとも言いえる。同時代に一般的だった威勢の良いフィナーレとは対照的に、この作品は簡単に「重苦しく落ちる音」(leaden thud)により終結する[75]。
交響曲第5番は1915年12月8日、シベリウスの50回目の誕生日にヘルシンキで作曲者自身により初演されて大絶賛を浴びた。今日最も一般的に演奏されるのは1919年に発表された、全3楽章からなる最終稿である。第5番はシベリウスの交響曲の中で唯一全曲を通して長調をとる。ホルンによる柔らかい冒頭部に開始した曲は、様々な主題を大きく変化を加えつつ交代で繰り返しつつ展開し、終楽章でトランペットが奏する賛歌へと発展していく[75][88]。第5交響曲の時点で既にソナタ形式から離れる方向へと舵を切りはじめていたが、1923年に作曲者自身が初演した交響曲第6番ではさらに一層伝統的な規則を排することになった。エーリク・タヴァッシェルナは「[終楽章の]構造はよく知られた形式には従っていない」と述べている[89]。ドリア旋法で書かれたこの曲には、第5交響曲の作曲中に着想を得た主題群や抒情的なヴァイオリン協奏曲に用いられる予定だった素材などが転用されている。純化された方法論を取るにあたって、シベリウスは第5交響曲の重厚な金管楽器に変えてフルートと弦楽器を使用し、カクテルではなく「春の水」を提供しようとしたのである[90]。
交響曲第7番は交響曲の中では最後に出版された作品となった。1924年に完成されたこの作品は単一楽章形式であることが特筆される。「形式はまったく独創的でテンポの操作は緻密、調性の扱いは独特であり完全に有機的に発展する」と形容される[91]。またこの作品は「シベリウスが作曲した最も優れた偉業」とも言われる[92]。当初は『交響的幻想曲』と名付けられ、1924年3月にストックホルムでシベリウス自身の手で初演された。楽曲は彼が10年近く前にスケッチしていたアダージョの楽章に基づいている。弦楽器が主体となるが、トロンボーンによる特徴のある主題も聞かれる[93]。
音詩・交響詩
7曲の交響曲とヴァイオリン協奏曲に次いでシベリウスの13曲の交響詩は彼の最も重要な管弦楽作品であり、リヒャルト・シュトラウスの交響詩に並んでリストが創始したジャンルを代表する最重要の作品群を形成している。全体としてみると交響詩の創作はシベリウスの芸術家としてのキャリア全般に及んでおり[注 7]、彼がいかに自然とフィンランド神話、特に『カレワラ』に魅了されていたのかが窺い知れる。また、これらによって彼の作風が時とともに成熟していく様を余すことなくつぶさに知ることができる[94]。なお、このジャンルにおけるシベリウスの作品は多くが「音詩」(Tondichtung)と題されており、明確に「交響詩」(Sinfonische Dichtung)と銘打ってあるものは最後の作品となった『タピオラ』のみである。
『エン・サガ』(「おとぎ話」の意)はシベリウス自身の指揮で1893年に初演された。この単一楽章の交響詩はアイスランドの神話的作品である『エッダ』から影響を受けている可能性も考えられるが、作曲者本人は単に「[自分の]心の状態の表出」であると語っている。弦楽器による夢見るような主題に始まると木管楽器、次いで金管楽器とヴィオラと発展していき、シベリウスのオーケストラ操作能力が示される[95]。この作品は彼にとって初めての重要な管弦楽作品であり、ブゾーニの招きによりベルリンで自作を演奏することになった1902年に改訂されている。この時の成功に勇気づけられた彼はアイノに次のように書き送った。「私は熟達した『芸術家』として認められたよ[96]。」
『森の精』は管弦楽のための単一楽章の交響詩で、スウェーデンの詩人ヴィクトル・リュードベリ(英語版)の同名の作品に霊感を受けて1894年に作曲された。初演は1895年4月にヘルシンキにてシベリウス自身の指揮で行われた。構成的には4つの部分に分けることが可能であり、それぞれが詩の4つの節に対応してそこに描かれた物語の雰囲気を想起させる。一つ目が英雄の活力、二つ目が熱狂的な行動、三つ目は官能的な愛、四つ目が癒すことのできない悲しみである。音楽自体は美しい仕上がりであるが、多くの批評家はシベリウスが題材とした物語の構造に「過度に依存」していると非難している[97][98]。
『レンミンカイネン組曲』は1890年代初頭に書き上げられた。元々は神話に題材を採ったオペラ『船の建造』として、ワーグナーの楽劇に匹敵する規模の作品として構想された。しかしシベリウスは後に考えを改め、作品は4つの楽章から成る管弦楽作品となった。この組曲はフィンランドの民族叙事詩『カレワラ』の登場人物レンミンカイネンに基づいている。この作品は連作交響詩であると捉えることもできる。第2曲(発表時は第3曲)の『トゥオネラの白鳥』は単独でもしばしば演奏される[99]。
『フィンランディア』は非常に愛国的な作品であり、シベリウスの全作品の中でもおそらく最も人口に膾炙した楽曲である。初演が行われたのは1899年11月で、当初は新聞の日を祝うための一連の作品のうちのひとつだった。改訂版は1900年7月に初演されている[43]。現在の表題が出てきたのはさらに後のことで、最初はピアノ編曲版がそう呼ばれ、その後1901年にカヤヌスが管弦楽版を演奏した際に『フィンランディア』という名称を用いた。シベリウス自身は本来管弦楽曲であると強調していたが、特に賛歌としてのエピソードによりこの作品は合唱曲としても世界的な人気を獲得した。ついには作曲者自身も同意し1937年にフリーメイソンのために、1940年により一般的に使用できるよう賛歌として歌詞を加えることを認めた[100]。愛国的な感情を呼び覚ますとされ、当時支配を受けていたロシア当局の弾圧を受けた結果、別名で演奏されたこともある。
『大洋の女神』は1913年から1914年にかけて作曲された単一楽章の交響詩である。表題はギリシア神話において地中海に住むとされるオーケアニスのことを指している。初演は1914年6月4日にアメリカ合衆国、コネチカット州のノーフォーク(英語版)で催されたノーフォーク室内楽音楽祭においてシベリウス自身の指揮によって行われた。初演の際に「これまで音楽で行われた中で海を想起させる最良のもの」と称賛されたこの作品は[101]、厳格でない3つの部分で2つの主題が次第に展開されることによって進行する。第1の部分が穏やかな海、第2の部分が激しさを増す嵐、第3の部分が雷鳴のごとく打ち付ける波によるクライマックスである。嵐が静まり、最後の和音が海の巨大な力と限りない広がりを象徴するように響く[102]。
『タピオラ』は最後の主要な管弦楽作品となった楽曲である。ウォルター・ダムロッシュによりニューヨーク・フィルハーモニック協会のためにとして委嘱され、同管弦楽団により1926年12月26日に初演された。曲は『カレワラ』に登場する精霊であるタピオに着想を得ている。アメリカの音楽評論家アレックス・ロスの言葉を引用すると、この作品は「シベリウスの最も厳しく、濃縮された音楽表現となった[75]。」作曲家で伝記作家のセシル・グレイは一層強い調子で次のように断言している。「たとえシベリウスが他に何も作曲していなかったとしても、この作品ひとつのみで彼は史上最も偉大な巨匠のひとりに位置付けられただろう[103]。」
その他主要作品
『カレリア』はシベリウスの初期作品のひとつであり、ヴィープリの学生団体のために書かれ1893年11月13日に騒がしい聴衆へ向けて初演された。組曲版は11月23日の演奏会に序曲と3曲からなる形で登場し、作品11の『カレリア組曲』として出版された。この作品はシベリウスの楽曲でも指折りの人気作品であり続けている[104]。
『悲しきワルツ』は元来、シベリウスの義理の兄にあたるアルヴィド・ヤルネフェルト(英語版)による1903年の戯曲『クオレマ』のために書かれた付随音楽だった。現在では独立した演奏会用作品としてより広く知られている。シベリウスは1903年12月2日の『クオレマ』上演のために6つの楽曲を作曲した。ワルツが使われるのは女性が死の床から起き上がり幽霊と踊る場面である。1904年、シベリウスは4月25日のヘルシンキでの演奏のために手直しを行っており、その際に曲は『悲しきワルツ』と銘打たれた。瞬く間に成功を収めた本作は単独でも取り上げられるようになり、今もなおシベリウスの代表作としての地位を保っている[46][105]。
ヴァイオリン協奏曲 ニ短調はヴィクトル・ノヴァチェクの独奏で1904年2月8日に初演された。シベリウスが曲を完成させたのが初演間際であったためノヴァチェクは十分な練習時間を取ることができず、その結果初演は悲惨なものとなってしまった。大幅な改訂を経て、新たな版が1905年10月19日にリヒャルト・シュトラウスの指揮するベルリン王立宮廷楽団により初演されている。カレル・ハリーシュが管弦楽のコンサートマスターと独奏を兼務し、曲は大成功を収めた[106]。以降徐々に人気を獲得したこの作品は、現在では20世紀に作曲されたヴァイオリン協奏曲の中でも有数の録音頻度を誇るまでになっている[107]。
『クレルヴォ交響曲』もシベリウス初期作品のひとつで、合唱交響曲であるとされることも多いが交響詩風の5つの管弦楽曲から成る組曲とした方がより正確である[108]。『カレワラ』の登場人物であるクッレルヴォを題材としている。初演は1892年4月28日、エミー・アクテとアブラハム・オヤンペラ(フィンランド語版)を独唱者に据え、シベリウス自身が設立間もないヘルシンキ管弦楽協会のオーケストラと合唱を指揮して行われた。この作品はシベリウスの生前には5回しか演奏されることがなかったが、1990年代以降は演奏会と録音の両面で人気の高まりを見せている[109]。
フリーメイソン
ロシア統治下では禁止されていたフリーメイソンが復活を遂げると、シベリウスは1922年にスモイ・ロッジ1番の創立メンバーとなり、後にフィンランドのグランド・ロッジのグランド・オルガニストとなっている。1927年にはフィンランドで用いられる儀式用音楽(作品113)を作曲しており、1946年にも2曲を加えている。1948年の儀式用音楽の改訂新版は彼の最後の作品のひとつである[110]。
自然
シベリウスは自然を愛し、フィンランドの風景はしばしば彼の音楽の題材となった。彼は自らの交響曲第6番について「[曲は]いつも私に初雪のにおいを思い出させる」と語っていた。アイノラを囲む森が彼に『タピオラ』の霊感を与えたと言われることも多い。彼の伝記作家であるタヴァッシェルナは、シベリウスの自然との結びつきについて次のように記している。
北欧の基準で考えたとしても、シベリウスは自然がもたらす空気と四季の変化に対して例外的な熱意でもって応じていた。彼は双眼鏡を手に湖の氷の上を渡るガンを眺め、ツルの金切り声に耳を傾け、アイノラのすぐ下の湿地からこだましてくるシギの鳴き声を聞いていた。春の花を余すところなく味わうのは秋のにおいと色使いに対しても同じだった[111]。
評価
シベリウスは英語圏並びに北欧の国々において交響曲作曲家と音楽界に多大な影響を与えた。フィンランドの交響曲作曲家であったレーヴィ・マデトヤはシベリウスの弟子だった。イギリスではレイフ・ヴォーン・ウィリアムズが交響曲第5番、アーノルド・バックスも交響曲第5番と両名がともに交響曲第5番をシベリウスに献呈している。さらに、『タピオラ』の影響はバックスの交響曲第6番とアーネスト・ジョン・モーランの交響曲に色濃く表れている[112][113]。またウィリアム・ウォルトンの交響曲第1番からもシベリウスの作曲法の影響が強く感じられる[114]。これらやその他のイギリスの交響的作品が作曲されていた1930年代にはシベリウスの音楽は大流行しており、その裏にはトーマス・ビーチャムやジョン・バルビローリらのような指揮者による演奏会と録音の両面からの下支えがあった。ウォルトンの友人の作曲家コンスタント・ランバートはシベリウスが「頭の中で交響曲形式という意味で自然に思考できるベートーヴェン以来はじめての偉大な作曲家」であると言い切っていた[115]。それ以前にもグランヴィル・バントックがシベリウスを擁護している[注 8]。さらに最近では、ロバート・シンプソンが擁護した作曲家の中にシベリウスも入っていた。マルコム・アーノルドはシベリウスからの影響を認めており、アーサー・バターワースはシベリウスの音楽が自作の着想の源であると看做していた[116]。セシル・グレイはシベリウスを「ベートーヴェン以後最大のシンフォニスト」であると呼び、交響曲第4番について「無駄な音符が一つもない」と最大の賛辞を寄せた。
ユージン・オーマンディと、貢献度は下がるがフィラデルフィア管弦楽団で彼の前任者だったレオポルド・ストコフスキーは、シベリウスの作品を頻繁にプログラムに取り入れることによってその音楽がアメリカの聴衆へ届けられることを助けた。オーマンディはシベリウスと生涯を通じた親交を築いている。後半生においてシベリウスはアメリカの評論家オーリン・ダウンズからも擁護されており、ダウンズはシベリウスの伝記も著している[117]。
テオドール・アドルノは1938年に発表した批判的論評において、次のような非難を行ったことで悪名高い。「もしシベリウスがよいというのであれば、バッハからシェーンベルクまで連綿と受け継がれた音楽の特質は無効化されてしまうだろう。それは内的な繋がりの豊かさ、アーティキュレーション、多様性の中にある統一性、『単一性』の中にある『多面性』である[118]。」アドルノは当時『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン(英語版)』紙の音楽評論家を務めていたヴァージル・トムソンに自らの論評を送付している。トムソン自身もシベリウスに批判的であったにもかかわらず、彼は論評の情緒面に同意しつつもアドルノに対して「その論調がシベリウスに対してではない[アドルノへの]敵対心の方をより多く生み出し[た]」と明言している[63]。その後、この両者と指揮者のルネ・レイボヴィッツは1955年の小冊子の表題でシベリウスを「世界最低の作曲家」と書きすらした[119]。
シベリウスが評論家から称賛と怒りの両方を集めた理由のひとつには、彼が7曲の交響曲の各々において独特の個性的な方法によって形式、調性そして構造に関する基礎的な問題に挑んだということがあるのだろう。彼の交響曲(及び調性)の創造は新奇なものであったが故に、音楽は異なる道を辿っていくべきだと考える者もいたのである[120]。批判に対する彼の反応はそっけないものだった。「評論家の言うことに耳を貸してはならない。これまで評論家の彫像が建てられたことなどないのだから[75]。」
20世紀の終わり数十年までくると、シベリウスは一層好意的に取られられるようになってきた。作家のミラン・クンデラによるとシベリウスの取り組み方は状況の絶え間ない進展の外部に立脚した「アンチモダンなモダニズム」のそれであるという[63]。1990年には作曲家のシア・マスグレイヴはヘルシンキ・フィルハーモニック管弦楽団からシベリウスの生誕125周年を記念した作品の委嘱を受け、書き上げられた『Song of the Enchanter』が1991年2月14日に初演された[121]。1984年、アメリカの前衛作曲家モートン・フェルドマンはドイツのダルムシュタットで行った講義の中で「皆さんが急進的だと考える人物は実のところ保守的だということもあるかもしれませんし - 皆さんが保守的だと考える人物が実のところ急進的だということもあるかもしれません」と語ったところでシベリウスの第5交響曲を鼻歌で歌い始めた[63]。
ピューリッツァー賞を受賞した音楽評論家のティム・ペイジは1996年、次のように書いている。「シベリウスについてすぐさま言わねばならないことが2つある。ひとつは彼がひどく不均衡だということ(彼の室内楽曲、多数の歌曲、そして大量のピアノ音楽の多くが19世紀の2流のサロン作曲家に混ざる形で、午後の時間に時折演奏される程度だったのではなかろうか)。もうひとつは、最良の状態にあっても彼はしばしば奇妙であるということだ[122]。」シベリウスのピアノ音楽に対するペイジの査定を埋め合わせするのはピアニストのレイフ・オヴェ・アンスネスである。彼はこの作品群の出来がまちまちであることを認めつつも、批評の対象とされないことが常態化している現状は不当であると考えている。一部のピアノ作品を選んで演奏した際に彼が気付くのは、聴衆が「有名作曲家にこれほどまでに美しく、理解しやすいにもかかわらず知られていない音楽があろうとは、と驚く」ことである[123]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/795.html
2. 中川隆[-16137] koaQ7Jey 2021年10月05日 14:13:22 : 0sTOkIKxFw : QjgzTzYuTDlwT0U=[13]
PB黒字化は必要、政府の赤字=国民の黒字 は間違い
政府の赤字=資本家の黒字 =労働者の赤字 が正しいのです。
黒字になるのは国民ではなく赤字国債を買っている資本家だけです。
財政出動をやると家賃や生活必需品が暴騰し高所得者層以外はホームレスになる
米連銀は火に油を注ぎ続けるか?低所得者にインフレ直撃、フルタイム労働でもホームレスに
2021年7月20日
米国では物価上昇に賃金アップが追いつかず、明日の住居、明日の生活に脅える人々が急増している。このことは、大規模な政府の財政出動や中央銀行の金融緩和を負担しているのは、低中所得者層であることを強く示唆している。
米6月の消費者物価指数は前月比+0.9%、前年比+5.4%だった。コア指数は前月比+0.9%、前年比+4.5%だった。パンデミックからの需要の急回復に供給不足が重なり、前年比では、それぞれ約13年ぶり、約30年ぶりの伸び率だった。
半導体不足で自動車生産が滞り、中古車価格が19年比で+41%となるなど、国民に身近な品目も値上がりが続いている。
また、米4月のS&Pケース・シラー20都市住宅価格指数は、前月比+1.6%、前年比+14.9%だった。前年比では、1987年の統計開始以来の最高の伸び率を記録した。米5月の中古住宅販売価格中央値は、前年比23.6%の35万300ドルで、全米不動産協会が記録を取り始めた1999年以降で最大の上昇率となった。
そのため、レントも上がり、米国のどの州でも、どの郡でも、どの都市でも、フルタイムで週に40時間働く最低賃金労働者では、2ベッドルームの賃貸住宅の家賃が払えないことが、全米低所得者住宅連合の報告書でわかった。1ベッドルームの賃貸住宅でも、フルタイムの最低賃金労働者が家賃を払える郡は、全米で3,000以上ある郡の7%(218郡)だけとなった。
回復遅れる労働市場。パウエル議長の「燃料」投下は続く
一方、米連銀のパウエル議長は「米経済は資産購入の縮小を開始できるだけの進展をまだ見せていない」と強調。「インフレは一時的なもの」で、警戒感を持ちながらも緩和的な金融政策を続けるとした。
家賃高騰、週40時間労働でもホームレスに
ところが、米国にはインフレの鎮静化を相当期間も待てない人々がいる。
6月の住宅保護期限切れで、何百万人もの米国人が立ち退きに直面か、1,100万人以上の米国人たちが家賃を滞納している。そして、全国的な立ち退き強制禁止期間が期限切れとなる6月に、多くが自宅から追い出されるかも知れない。
フルタイムで週に40時間働いてもホームレスになるとすれば、条件の合わない求人に応じることはできない。
米連銀の金融緩和でますます住宅価格が上がるとすれば、これ以上の労働市場の改善はむしろ望み薄になってくる可能性がある。
物価上昇に苦しむ低所得者、報酬が上がり続けるCEO
S&P500企業のCEOの平均報酬は昨年、平均的な労働者の給与の299倍だったと、アメリカ労働総同盟・産業別組合会議が年次「役員報酬監視」報告書で発表した。
CEOたちは平均報酬総額1550万ドルを受け取った。過去10年間で毎年26万ドル以上の報酬増だった。その一方で、2020年の生産部門と非管理職の労働者の平均所得は4万3,512ドルで、過去10年間で毎年ほんの957ドルの上昇だった。
バイデン政権は大規模な財政出動の財源を賄うため、大企業や富裕層に増税を課すことはあっても、低中所得層に負担を強いることはないと公言してきた。しかし、賃金の上昇が物価の上昇に追いつかず、明日の住居、明日の生活に脅える人々が急増している。
このことは、大規模な政府の財政出動や中央銀行の金融緩和を「事実上」負担しているのは、低中所得者層であることを強く示唆している。
▲△▽▼
利子付き国債発行、公共事業や企業への援助では需要は増えない
家や車を買った金はすべて資本家の所に行くから、最終的には給料の安い介護士には何も残らないで、国債発行で増えた金はすべて資本家が独占する。 今欧米でリアルタイムで起きている事です:
コロナ禍の3ヶ月間で米国富裕層の資産62兆円増 背景に大規模金融緩和 2020年6月14日
新型コロナ危機が始まってからの約3カ月間、米国の富裕層が資産を約5650億j(62兆円)増やしていたことがわかった。
米国の進歩的な政策研究所(inequality.org)が統計データを集計し、4日に報告書を発表した。過去最大規模の金融緩和の恩恵を受ける1%の富裕層と、コロナ禍で生きる糧を奪われる99%との格差がかつてなく拡大している。
報告書によると、コロナ危機による世界経済の急激な停滞によって、3月18日からの約3カ月間で、新規失業手当を申請した米国人は4300万人(労働統計局)にのぼり、リーマン・ショック不況後に創出された雇用のほとんどが消滅した。これには自営業者として支援を申請した数百万人は含まれておらず、実態はさらに深刻だ。
同じ3カ月間に、富裕層の累計総資産は約5650億j増加した。現在、億万長者の資産総額は3・5兆j(385兆円)に達しており、新型コロナ流行の開始時に記録された最低水準から19・15%上昇している。一方、米国ではコロナ感染ですでに10万人以上が死亡しており、報告書のなかでは「パンデミックの最中、億万長者の富が急増していると同時に、何百万人もの人々が苦しみ、多くの困難や死に直面している。米国社会の不平等でグロテスクな現実だ」とのべている。
この間、資産を飛躍的に延ばした主な富裕層は以下の通り。IT大手や投資関連の大企業が目立っている。
ジェフ・ベゾス(アマゾンCEO)362億j増
マッケンジー・ベゾス(前妻)126億j増
マーク・ザッカーバーグ(フェイスブックCEO)300億j増
イーロン・マスク(テスラCEO)141億j増
セルゲイ・ブリン(グーグル共同創業者)139億j増
ラリー・ペイジ(グーグル元CEO)137億j増
スティーブ・バルマー(マイクロソフト元CEO)133億j増
ビル・ゲイツ(マイクロソフト創業者)118億j増
フィル・ナイト(ナイキ創業者)116億j増
ラリー・エリソン(オラクル会長)85億j増
ウォーレン・バフェット(バークシャー・ハサウェイCEO)77億j増
マイケル・デル(デル創業者)76億j増など。
富裕層の資産拡大の背景には、株式市場の異常な回復がある。連邦準備制度理事会(FRB)が緊急措置としてゼロ金利、無制限の債券買いとりなど、かつてない規模の金融緩和策を講じ、2月19日をピークに29%減まで急下降していたナスダック指数が史上最高値に迫るなど、株式市場は大幅に値上がりした。実体経済と乖離した市場の活況が富の移動をもたらし、格差拡大を加速させている。
国連は5月末、2020年の世界経済は少なくとも3・2%縮小し、3億人以上が失業し、米国だけで3900万人が失業すると予測したが、実態はそれを上回る。米国内の医療保険未加入者は3000万人をこえ、コロナ禍に見舞われながらも医療の恩恵を受けることができず、多くの死者を出している。米国の失業率は今後20%に達することが予測されており、リーマン・ショック恐慌を上回る深刻さをみせている。
報告書共著者であるチャック・コリンズ氏は「数百万人の苦しみと窮状と引き換えにもたらされた億万長者の富の急増は、私たちが今後数年で社会を回復するために必要な社会的連帯を損なう。これらの統計は、私たちがかつてなく経済的、人種的に分裂していることを示している」と声明でのべている。
________
財政出動で労働者が貰った金はすぐに使われて後には何も残らない。
最終的に資本家の所に集まった金は株と不動産を買うのに使われるから、今のアメリカみたいなバブル経済になる。労働者の賃金は上がらないで物価と株価と不動産価格だけが上がるから、労働者は更に貧困化する。
MMT論者も大西つねきを少し位は見習ったら
大西つねきがやろうとしていること
https://www.youtube.com/watch?v=Z0aesmYcl0U
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/844.html#c2
最高の塩むすびの握り方
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1271.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1147.html
かつおだし(だし汁)の取り方/作り方
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1242.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1148.html
52. 中川隆[-16136] koaQ7Jey 2021年10月05日 15:01:35 : 0sTOkIKxFw : QjgzTzYuTDlwT0U=[14]
ID非公開さん
2018/3/30 11:31
ASHIDAVOXについての質問です。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10188299275
私は自作などやった事の無いド素人なのですが、ASHIDAVOX 6P-HF1の音にヤラレてしまいました。
普段は現代的なB&OなどのスピーカーやGENELECなどのモニタースピーカーを使っているのですが、まさか自分がこの様なビンテージなスピーカーを良いと感じる等とは夢にも思いませんでした。
音楽はスペックじゃないと本当に痛感しています。
勿論ビンテージなスピーカーも高性能な現代のスピーカーと同じで全てが良いとは思いませんでした。
アルテックやシーメンスなどの中にもあんまり好きじゃないと思うのもあります。
アシダボックスはビンテージスピーカーというノスタルジックな中で良いと思った訳ではなく、純粋に現代の物と比べて私には素晴らしい音色だと感じたのです。
今あるPCオーディオのシステムから真空管アンプなどではなく、現代的なCHORDなどのDACやアンプからASHIDAVOXのスピーカーでの再生を考えています。
私が良いな〜と思ったのは6P-HF1で40リッターのバスレフボックスの物です。
こういうのを製作または組み付けやメンテナンスをしてくれるお店で良い所はありますか?
古いのでコーン紙など長く使っていくには不安な部分が多いんです。
また自作されている方のお話もお聞きしたいです。
よろしくお願い致します。
補足
質問の通りASHIDAVOX 6P-HF1の音質に惚れているのですが、同じフルレンジスピーカーで似た音質のユニットはありますか?
出来れば16cm以下、10cm、8cmなどで教えてください。
よろしくお願いします!
ベストアンサー
jun********さん
2018/4/3 9:46
ASHIDAVOX 6P-HF1は、50年以上前に50Lくらいのバスレフ(?)で使っていたことがあります
高域が不足気味なのが気になって、しばらく使って友人に譲ったような記憶があります
ところで
6P-HF1は特殊なコーン紙を使っていました
和紙で薄く軽いというだけでなく、コーンの周辺に行くほど厚さが薄くなります
コーンの辺縁はそのままエッジに移行しますので、エッジがないという方が正しいかもしれません
透かしてみると、コーンの周辺とエッジが非常に薄くなって、透けて見えるのが分かりました
こういうコーンとエッジを使っているスピーカーユニットは現在作られていません
エンクロージャーの小型化、アンプの大出力化により、重いコーン、ストロークの取れるハイコンプライアンスのエッジとダンパー、それを制動できる強力な磁気回路という方向ができてしまったためでしょう
従って、夢を壊すようですが、似た音質のユニットいうのは難しいと思います
エンクロージャーについては、fro********さんに譲ります
ナイス!
ID非公開さん
質問者2018/4/3 18:17
貴重なお話ありがとう御座います。
私自身、最近ハイレゾだなんだっていう音に飽きてきたのかわかりませんが、アシダボックスの音に心を奪われました。
仰る通り私が求めてる音はどうやら最近のフルレンジスピーカーには無いようです…。
いよいよビンテージスピーカーの世界に踏み入れる事になりそうです。
ビンテージスピーカーのフルレンジなら所謂フィックスドエッジの物がありますのでそれと軽いコーン紙の物が近いのかなと思って探しています。
しかしその様なスピーカーは試聴も難しいので質問させて頂いております。
1mぐらいのニアフィールドで小中音量で聴きたいんです。
そうなるとエンクロージャーは小さな物が良いので、背面開放の小型ボックスなんかも良いなと考えています。
現在のDACからデジアンを通してアシダボックスの様なビンテージスピーカーを鳴らすのはどうなんでしょうか?
真空管じゃないと合わないとか気をつける事はありますか?
jun********さん
2018/4/4 8:11
>背面開放の小型ボックス・・・
良いのではないですか
回答には昔使っていた箱がバスレフと書きましたが、背面開放だったかもしれません
>DACからデジアン・・・
一向に構わないと思います
低域の量感が足りない時は、細いスピーカーケーブルを使うのも一方です
真空管アンプはダンピングファクターが小さくて歪み率が高いことが特徴ですが、低出力の場合は歪み率は十分小さいのが普通です
デジタルアンプはダンピングファクターが大きいので、低域が締まります
でも、細くて抵抗があるケーブルを使うとダンピングファクターが小さいアンプと同じことになりますので、試してみてください
https://souzouno-yakata.com/2002/05/09/2144/
ID非公開さん
質問者2018/4/4 8:36
背面開放の質素なボックスを使って好みのユニットを入れ音楽を楽しむ…なんかハイスペックなオーディオの世界とは真逆な感じですが今の私には凄く魅力的にうつります。
この方法で試してみたいと思います。
アンプの件ありがとう御座います。
まさに私が知りたかった事を知れました。
スピーカーケーブルはトーンのチューニングに効くのですね。
アンプでは無くスピーカーケーブルを変るだけならコスト的にも良いですし、変化の原因がスピーカーケーブルだけなのでわかりやすくて楽しめそうです。
お話を聞いてますます楽しみになってきました。
ありがとう御座います!
jun********さん
2018/4/4 11:11
>ハイスペックなオーディオの世界・・・
ハイスペックが高音質とは限りません
好音質こそが高音質です
オーディオは一種の芸術ですから、良いとか好きとかいうのは、人間の感覚というよりは感情です
スペックで感情は語れません
ハイスペック=高音質 というのは、オーディオ産業が作り上げた構図です
オーディオ機器でも音源でも、改良=ハイスペック化ですので、ハイスペック=高音質でないと困るからです
周囲に流されないで、自分の好きな音で音楽を楽しむのが最高ですね
ID非公開さん
質問者2018/4/4 13:08
まさにその通りだと思います。
音楽は目に見えない芸術ですから、色々な情報に惑わされていたようです。
いつの間にか「音楽」ではなく「音」に執着してしまって音楽を楽しむ事を忘れていました。
>スペックで感情は語れません
>周囲に流されないで、自分の好きな音で音楽を楽しむのが最高ですね
本当にそうですね。
これからは自分が心地良い音で音楽を楽しんでいこうと思っています。
新しい順
fro********さん
2018/3/31 0:01
伝説のユニットですね。実はスペックが素晴らしいユニットで、振動版の重量がいまの新素材のスピーカーと比べても1/3くらい。それを手漉き和紙のコーンで実現しているので、その職人さんが他界してからは再生産できないそうです。
ネットで検索すれば、オーダーメイドでエンクロージャーを作ってくれるところはいくつも出てきます。「良い所」を推薦はできませんが、オーダーするにあたっての留意事項はお伝えできるかと思います。
まず箱の大きさですが、40リットルはこのユニットにしては小さいと考える人が多いでしょう。できれば100リットルは欲しいのではないでしょうか。そこはオーダーする際に、よくよく調べてみられることをお勧めします。部屋にどのように置くのかも、あらかじめ考えておかなくてはなりません。直接床に置くフロアタイプにするのか、置台やスタンドの上に置くかで、箱のプロポーションが変わって来ます。ユニットを保護するサランネットや格子などが必要かどうかも、決めておく必要があります。
いずれ大きい箱になるのであれば、なるべく運送会社に頼らないで、車で運搬できる地域でオーダーすることをお勧めします。送料の節約ということもありますが、スピーカーの運送はトラブルになりやすく、受け付けてもらえない場合もあるそうです。
材質はMDFが一番安価でしょうが、木質の粉を糊で固めたものなので、どうしても響きに劣ります。大きな箱を無垢板で作るのは大変なことなので、タモなど響きの良い木材の集成材がお勧めです。箱の組み方もピンキリで、自作なら木ネジと木工ボンドでハタガネを利かせるのが定番ですが、しっかり作るなら木組みをしてタイドボンドでしょう。
仕上げはウレタン塗装が一般的でしょうが、工房によって異なります。ピアノの塗装をしている業者に持ち込んでピアノフィニッシュにする人もいますが、それなりにかかります。節約するなら白木で納入してもらって、荏胡麻(えごま)油をすり込んでオイルフィニッシュにして、蜜蝋を塗るのが、見た目も良くてお勧めです。定期的に蜜蝋で手入れすることで、愛着もわいてきます。
入力端子(プラスチック板をはめるタイプはお勧めしません)や内部配線材(どうせならビンテージ、ウェスタンなどの単線がお勧め)、吸音材(グラスウールは安いだけが取り柄)など、何も注文をつけなければ、業者さんの手元にあるローコストなものが使われるでしょう。
このユニット用の箱を規格品で作っているところは、おそらくないと思います。どうしてもオーダー品になってしまうので、オーダーする前に仕様について考えておくことが必要かと思います。業者さんにお任せでも良いのかもしれませんが、「どうしますか?」と言われて答えられないようだと、お互いに困ってしまいます。
ナイス!
ID非公開さん
質問者2018/3/31 11:45
とても参考になるご回答頂きまして感謝しております。
色々調べると16cmのフルレンジスピーカーだとエンクロージャーに結構な容量が必要と考える人が多いと知りました。
私はたまたま40Lバスレフの物で良いと思ったのですが低音感などは容量が多い方が良さそうですね。
私は机の上もしくは後ろにスタンド設置させようと考えていました。
その用途では16cmだと大きくなりすぎますかね。。。
あの音が良かったので色々と考えているのですが、平面バッフルとか後面開放型、密閉型など、それぞれにメリット、デメリットがあるようで難しいですね。。。
ユニットを買って安いエンクロージャーで色々試行錯誤するのも手なんですが、私にできるかどうか不安です笑
ご回答ありがとう御座いました。
fro********さん
2018/3/31 17:31
おっしゃる通り、ユニットを手に入れて遊んでみてはいかがですか。ネットオークションやハードオフなどでジャンクの箱を手に入れて、合板に取りつけたユニットをウーファーの位置に固定すれば、一丁上がりです。ユニットはリセールバリューもあるでしょうから、煮ても焼いても食えないようだったら、オークションに出品してモトが取れるでしょう。楽しんでください!
ID非公開さん
質問者2018/3/31 18:15
実はHivi B3Nなんてあの値段と大きさでなかなかの音聞かすな〜とか思ってまして買って色々試してみようかと考えてました笑
エンクロージャーによってどう変わるのかやはり自分で経験したいです。
今は色々調べたり試聴したりして楽しくなってきました!
レコードやCDは何千枚も持っているのですが、自分がオーディオに嵌るとは思いませんでした。
モニター系ばかり聞いてきた私にビンテージのフルレンジスピーカーであるアシダボックスの音は本当に衝撃でした。
これが所謂オーディオの音なのかなって思ってます。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10188299275
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/956.html#c52
エンリケ・グラナドス(スペイン語Enrique Granados y Campiña, 1867 - 1916)
アルベニスと並ぶピアノ音楽の大家。
ゴイェスカス(1911)(全7曲)
2.3点
アルベニスの名作群と並び、スペインのピアノ音楽の名作として評価の高いゴイェスカスだが、自分はラローチャ大先生で何度も聴いても良さがほとんど理解出来なかった。心に引っかかるモノがほとんど無いまま曲が終わってしまった。将来いつかまた再挑戦しようと思うが、現時点の評価はとても低い。
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3
エンリケ・グラナドス・イ・カンピーニャ (グラナードスとも、スペイン語: Pantaleón Enrique Joaquín Granados y Campiña, カタルーニャ語: Pantalion Enric Joaquim Granados i Campiña エンリク・グラナドス・イ・カンピーニャ、1867年7月27日 – 1916年3月24日)は、スペイン近代音楽の作曲家、ピアニスト[1]。7歳年長のイサーク・アルベニス(1860年 – 1909年)とともに、スペイン国民楽派の旗手として並び立つ存在である。
日本では「グラナドス」または「エンリケ・グラナドス」の通称が一般的である。
生涯
前半生
グラナドスは1867年7月27日、カタルーニャ地方のリェイダ(カスティーリャ語表記ではレリダ)に生まれた[4][5]。 父親 Calixto Granados y Armenteros はキューバ出身の軍人、母親 Enriqueta Campiña de Herrera は北スペインのサンタンデールの出身だった[5]。
音楽好きな家庭で幼いころから楽才を現わしたグラナドスは、はじめ土地の軍楽隊指揮者から楽典一般を教わった[5]。 一家がバルセロナに引っ越すと、当地でホアン・バウティスタ・プホール(en:Joan Baptista Pujol, 1835年 – 1898年)にピアノを師事した[4][5]。 同じクラスには、後にグラナドスとたびたびデュオ・コンサートを催すことになるホアキン・マラッツ(ca:Joaquim Malats i Miarons, 1872年 - 1912年)がいた[4]。 グラナドスは16歳でリセウ高等音楽院(バルセロナ音楽院)のコンクールで首席を得た後、フェリペ・ペドレル(1841年 - 1922年)に師事する[5]。 ペドレルからは作曲を学び、とりわけ民族主義的な精神面で大きな影響を受けた[4][5]。
1887年、グラナドスはパリ音楽院で学ぶためにパリに出るが、折悪しくチフスにかかったために入学できなかった。しかし同音楽院の教授シャルル=ウィルフリッド・ド・ベリオ(en:Charles-Wilfrid de Bériot, 1833年 - 1914年)から2年間個人レッスンを受けることができた[4][5][3]。
デビュー以降
グラナドスは1889年にバルセロナに戻ると、グリーグのピアノ協奏曲でピアニストとしてデビューした[5]。 その後演奏活動とともに作曲にも注力し、1892年、25歳で全12曲の『スペイン舞曲集』に着手(1900年完成)、この曲集はグラナドスの出世作となり、広く注目を集めた。また、同1892年にアンパロ・ガルと恋愛の末結婚している[4][5]。
1898年、31歳でオペラ『マリア・デル・カルメン』をマドリードで上演、成功を納める[6][5][1]。 1904年にはマドリード音楽院が主催した音楽コンクールに『協奏的アレグロ』で応募して優勝した。ちなみにこのときマヌエル・デ・ファリャも同名曲で応募し、審査員賞を受賞している[4]。
ピアノ演奏
グラナドスはピアニストとして、ウジェーヌ・イザイ(1858年 - 1931年)、マチュー・クリックボーム(en:Mathieu Crickboom, 1871年 - 1947年)、ジャック・ティボー(1880年 - 1953年)らのヴァイオリニスト、カミーユ・サン=サーンス(1832年 - 1921年)、エドゥアール・リスラー(1873年 - 1929年)らのピアニストたちと共演した[1]。 とくに、1909年からはクリックボーム四重奏団(Vn. マチュー・クリックボーム、ホセ・ロカブルーナes:José Rocabruna、Va. ラファエル・ガルベス、Vc. パブロ・カザルス)とともに、スペイン各地を演奏して回っている[4]。[7]。
1914年にはサル・プレイエルで自作演奏会を催して絶賛を浴び、仏西文化交流に貢献したとしてレジオンドヌール勲章を受章した[5]。
教育活動
ピアノ演奏と作曲に加えて、グラナドスはリセウ高等音楽院(バルセロナ音楽院)での教育活動を並行してこなした[1]。
1901年には「アカデミア・グラナドス」を設立し、フランク・マーシャル(en:Frank Marshall (pianist), 1883年 - 1959年)らのピアニストや作曲家を育てた[4]。 マーシャルはグラナドスの死後にアカデミアを引き継ぎ、その門下からはアリシア・デ・ラローチャ(1923年 - 2009年)やローサ・サバテア(es:Rosa Sabater, 1929年 - 1983年)らの名手が輩出した[4][5]。
渡米と死
グラナドスは1911年に作曲したピアノ組曲『ゴイェスカス』を2幕もののオペラに改作し、パリで初演しようとした。しかし、第一次世界大戦の勃発によって断念する。そこへ、アメリカのメトロポリタン歌劇場からニューヨークでオペラ『ゴイェスカス』を初演したいとの申し出があり、夫妻での列席を求められた。船旅が嫌いなグラナドスはためらった末にこれを受け、1916年1月、ニューヨークでの初演は大成功となった[4][5][1]。
ウィルソン大統領の招きによりホワイトハウスで演奏会を開くことになったグラナドスは、予定していたスペインへの直行便をキャンセルしてアメリカ滞在を延長したが、これが結果的に運命を分けた[5]。 3月に入ってグラナドス夫妻は帰路につき、彼らが乗船したサセックスは、ロンドン経由で英仏海峡を渡航中、3月24日にドイツ潜水艦による魚雷攻撃を受け、夫妻はその犠牲となった[4][1]。 このとき、グラナドスはいったん救命ボートに救い上げられようとしたが、波間に沈もうとする妻アンパロの姿を見て再び海中に身を投じ、二人はもつれ合うように暗い波間に消えたという。48歳と8ヶ月だった[5]。
音楽
作風
グラナドスの音楽は、ロマン主義と民族主義の二つの側面を持っている[2]。 生来非常なロマンティストであったグラナドスは、シューマン、ショパン、グリーグらロマン主義の音楽に強い影響を受けている[2][1]。 また、印象派的な傾向ではドビュッシーからの影響も見られる[3]。
その一方でグラナドスの作品は、雰囲気と旋律の技術的な点で本質的にスペイン的である[6]。 その音楽がスペインのイメージを呼び覚ます点において、グラナドスはアルベニスに勝るとも劣らない繊細な色彩家である[1]。 ただし、この両者の比較でいえば、情熱的なアルベニスがグラナダに代表される「回教的スペイン」だとすれば、グラナドスの洗練された書法はより北方のマドリード、それも18世紀の粋で風刺精神旺盛なスペインということができる[4][1][3]。
アルベニスはグラナドスについて、次のように語っている[4]。
「グラナドスはカタルーニャ人にもかかわらず、他の誰もがまねすることができないほどに、アンダルシアの陰の魅力を表現した。」
— イサーク・アルベニス
このようなグラナドスの特徴は『スペイン舞曲集』など初期のピアノ作品からすでに見られ、ロマンティックな要素とスペイン的要素が微妙に織り交ぜられながら独特な香気を放っている[2]。 円熟期に至ると、これがさらに開花し[1]、歌曲集『トナディーリャス』(1912年)や代表作となった『ゴイェスカス』において、グラナドスはテーマ体系と民族的リズムの精神のみを用いながら、普遍的な響きを持つ表現に達している[1]。
作品
ピアノ曲
グラナドスが本領としたピアノ音楽では、初期の出世作『スペイン舞曲集』と後期の代表作『ゴイェスカス』がまず挙げられる[5]。 グラナドスの作風は民族色とロマンティシズムの色彩が相半ばしているが、『ゴイェスカス』以前の作品においてはこの二つの要素のどちらかが顕著に現れることが多い。例えば、『スペイン舞曲集』や『スペイン民謡による6つの小品』などは前者、『ロマンティックな情景』、『詩的なワルツ集』、『演奏会用アレグロ』などは後者に当たっている[5]。
『スペイン舞曲集』では、作曲者が持って生まれたスペイン的な感性と独創性とが鮮やかに両立している。民謡や舞曲を直接取り入れてはいないにもかかわらず、ほとんどすべての主題、すべてのフレーズがスペインを実感させる[5]。 特に第5曲「アンダルーサ」は演奏機会が多く、様々な編曲もされている[8]。 フランスの作曲家ジュール・マスネは、『スペイン舞曲集』の楽譜の写しをグラナドスから受け取った際、作曲者を「スペインのグリーグ」と呼んで称賛した[8]。
『ゴイェスカス』は、グラナドスの円熟期の最高傑作として名高い[9]。 ここでは旋律線が複雑かつ高度に組み合わされ、深い陰影と美観に彩られている。スペインの民族色とグラナドス固有の夢の色が絶妙に溶け合い、尽きぬ嘆息にも似た哀愁と陶酔感は他に類を見ない[5]。
なお、『詩的なワルツ集』や『ゆっくりした舞曲』は、グラナドス自身による演奏が自動ピアノへの録音として残されている[10][11][注釈 1]。
歌曲
グラナドスにとって歌曲はピアノ曲に次いで重要な分野となった。歌曲集『トナディーリャス』(全12曲、1912年)、『愛の歌曲集』(全7曲、1914年)の二つの連作は、ファリャと並んでスペイン歌曲の最高峰とされる[5]。
舞台音楽
ピアノ組曲からの編曲である『ゴイェスカス』のほか、中期の佳作『マリア・デル・カルメン』、カタルーニャ語の台本によるサルスエラ(抒情歌劇)があるが、これらは今日ほとんど顧みられておらず、再評価の機会が待たれる[5]。
管弦楽曲・室内楽曲
管弦楽曲としては交響詩『ダンテ』、室内楽曲にはピアノ三重奏曲やピアノ五重奏曲、友人ジャック・ティボーに献呈されたヴァイオリンソナタなどがあり、友人たちとの共演を好んだグラナドスの一面を偲ばせる[5]。
人物
グラナドスの弟子の一人でアンドレス・セゴビア(1893年 - 1987年)と結婚したパキータ・マドリゲーラは、師の容貌について「アラビア人と天使のあいのこ」と表現している。グラナドスは大きな目を半ば閉じ加減にして夢見るような抑揚で話した。口数は少なかったが、友人や家族など打ち解けた場ではよく軽口を叩いて笑わせたという[5]。
グラナドスは穏やかな性格だったが、船に乗ることが大嫌いだった[4]。 演奏会のためにマジョルカ島に船で渡った際、グラナドスは船室に閉じこもって時計を睨んで過ごし、バルセロナに戻ったときにはもう二度と船には乗らないと友人たちに宣言したという[4][5]。
グラナドスと妻アンパロとの間には男女3人ずつ6人の子供が生まれた[5]。 このうち、長男エドゥアルド(1894年 - 1928年)は作曲に才能を示し、23作のサルスエラを作曲したが、33歳で夭折した[6][5]。
グラナドス家の書生だったホセ・アルテートは、グラナドスが街でみすぼらしい人物から施しを乞われ、家族が向こう一週間食べていくための有り金をすべて渡してしまったというエピソードを紹介している。1956年に『グラナドス伝』を著わしたA・フェルナンデス=シッドに対して、アルテートは自身が孤児だったところをグラナドスの家に迎えられ、家族同様に扱われた体験を老齢になってもなお感動にほおを染めて語ったという[5]。
作曲時は、いったん霊感にとりつかれるとすべてを忘れて没頭した。外出してふと浮かんだ楽想を、着ていたシャツの左手の袖口に黒々と書き付けて帰宅したり、レッスン中に突然夢中になってピアノを弾き始め、生徒を驚かせたりした。グラナドスの高弟フランク・マーシャルによると、バルセロナで新作のピアノ曲を披露したとき、グラナドスの演奏が目の前の手書き譜と一致しなくなり、譜めくりを務めていたマーシャルは当惑して動きが取れなくなった。やがてグラナドスが書かれた音符に戻ってきたので、ようやくマーシャルはページをめくることができた。なにも知らない聴衆の盛んな拍手に送られて退場したグラナドスに、マーシャルが「いや、びっくりしました。」と告げたところ、グラナドスは「ほう、そうだったかね。」と他人事のように微笑したという[5]。
友人のチェリスト、パブロ・カザルス(1876年 - 1973年)はグラナドスについて次のように述べている。
「グラナドスこそ、もっとも本質的な創造者である。……一言でいえば、もっとも天才的で、もっとも細やかな詩情を備えた作曲家である。しかも彼は独学だった。彼は……私たちのシューベルトだ。」
— パブロ・カザルス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%82%B1%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%8A%E3%83%89%E3%82%B9
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/796.html
エンリケ・グラナドス スペイン舞曲集 2. オリエンタル Op.37-2
Granados plays Granados "Oriental" from Danzas españolas
Welte Mignon piano roll
12 Danzas españolas, Op. 37, No. 2: Oriental
Enrique Granados Plays Granados
Granados: Spanish Dance, Op.37, No.2 - "Oriental"
Alicia de Larrocha
℗ 1982 Decca Music Group Limited
Enrique Granados - Alicia de Larrocha- Danzas Españolas Op. 37 (1964)
0:00 Galante
2:52 Oriental
7:43 Fandango
11:40 Villanesca
17:11 Andaluza
21:23 Rondella aragonesa
25:04 Valenciana
29:46 Sardana
33:05 Romantica
37:51 Melancolica
41:59 Arabesca
47:24 Bolero
@Brian Andersen
Enrique Granados: Oriental - Spanish Dance No2 op.37 (1890) Duo Julian Bream & John Williams, guitar
0:00 A. Andante
1:53 B. Lento assai
3:04 A. Andante
(Arranged for Two Guitars by Julian Bream & John Williams) in B minor
Guitar: Julian Bream
Guitar: John Williams
RCA 1978
▲△▽▼
『12のスペイン舞曲』(スペイン語: Doce danzas españolas)または『スペイン舞曲集』(スペイン語: Danzas españolas)作品37は、エンリケ・グラナドスが1892年から1900年にかけて作曲したピアノ曲集である[1]。
第1番 ガランテ または メヌエット
第2番 オリエンタル
第3番 ファンダンゴ または ガリシア舞曲
第4番 ビリャネスカ
第5番 アンダルーサ または 祈り
第6番 ロンダーリャ・アラゴネーサ
第7番 ヴァレンシアーナ または カレセーラ
第8番 サルダーナ
第9番 マズルカ または ロマンティカ
第10番 悲しき舞曲 または メランコリカ
第11番 ザンブラ
第12番 アラベスカ
ギターなどピアノ以外の楽器でも演奏される。1983年のスペイン映画『エル・スール』で用いられた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/12%E3%81%AE%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3%E8%88%9E%E6%9B%B2
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/797.html
イサーク・アルベニス(Isaac Manuel Francisco Albéniz y Pascual, 1860 - 1909)
ピアノ音楽の大家。ピアノに適合したピアノ曲を書いたという点では、かなり上位の作曲家だと思う。
最初は親しみやすく難易度の低い作品を書いており、晩年になって難易度の高い傑作を書いた。
スペイン狂詩曲
3.3点
ピアノ協奏曲形式。かなり通俗的。わかりやすいメロディーはよいが18分もあるとさすがに気になる。ありきたりのメロディーの連続にも聞こえる。とはいえ、スペインらしさとピアノ協奏曲の華やかさを楽しめる。
ピアノ曲
古風な組曲
マズルカ
スペイン舞曲
舟歌
組曲「スペイン」
全6曲。第2曲「タンゴ」が有名。「タンゴ」は熱気を含んだいかにもスペインらしい気だるさが心地よい曲。非常にいい曲である。
組曲「イベリア」全12曲
4.0点
晩年の名作。派手なパッセージはないのだが、演奏が難しいそうだ。たしかに楽譜をみると音だらけである。音楽はイメージの奔流であり内容が豊富で霊感にあふれている名作揃いである。ただし、曲の個性はあまり強くない。そのため統一感はあるが。ピアノ的な書法が素晴らしい。分かりやすい曲が多いアルベニスだが、この曲は成熟した大人っぽい雰囲気で不協和音も多くて渋い。明快な多くの作品と違い、複雑であり、何度も聞いても主なメロディーと構成が頭に入らず、すっきりと理解出来ない。20世紀のピアノ曲の名作のひとつ。霞の中のような感じで、幻想的で抽象的な場面が主である中に、スペインらしい現実感がたまに顔を覗かせる。そのさじ加減がよい。
ピアノソナタ5番
3.8
隠れた名曲。1楽章や3楽章のしなやかな叙情性の美しさが大変素晴らしい。ショパンと同様にピアノの機能と完全に結びつき同化した音楽であり、書法が見事である。ドイツ的なソナタらしい構築性や対比はそれほど見られないが、それを補ってあまりある詩情である。スペインとはどれだけ美しい国なのだろうか、と想像が膨らむほどである。早い2楽章と4楽章は短いので、主要ではない。落ち着きと旋律のよさが耳につく素晴らしいソナタである。後期ロマン派時代の屈指のピアノソナタであり、なぜマイナーなのか分からないほどだ。
ラ・ベーガ
3.0点
15分の大曲。変奏曲のように同じ動機を細かく変容させながら繰り返す部分を、いくつか組み合わせて作っている曲。伝説のような幻想的な雰囲気を漂わせる。ピアニスティックな場面も多い。内面的に情熱を持ちつつも、あまり全面に押し出さず奥ゆかしい。幻想曲のようであり、構成は弱いと思う。
スペインの歌
アストゥリアス(伝説)
4.0点
ずっとギター曲だと思ってた。ピアノ版もギターを模して書かれている。渋くてカッコいい。髭の濃いイケメンのスペイン人をイメージしてしまう。
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3
イサーク・マヌエル・フランシスコ・アルベニス・イ・パスクアル(Isaac Manuel Francisco Albéniz y Pascual, カタルーニャ語: Isaac Albéniz i Pascual, 1860年5月29日 - 1909年5月18日)は、スペインの作曲家・ピアニストであり、スペイン民族音楽の影響を受けた作品で知られる。
人物・概要
カタルーニャのカンプロドン(スペイン語版)で生まれ、4歳の時にピアノ演奏をするほどの天才児だった。イサーク(イサク)という名前を根拠に、アルベニス自身は自らをユダヤ人と信じがちだったが、無二の親友だったヴァイオリニストのエンリケ・アルボスによるとアルベニスはユダヤ人ではなかったという[1]。
ライプツィヒの音楽院で短期間学んだ後、1876年にブリュッセル王立音楽院で学ぶ。1880年にブダペストに赴いてフランツ・リストに師事しようとしたが、当時リストはヴァイマルにいたため会えなかった。なお、少年時代については「7歳でパリ音楽院を受験し、一次試験には受かったが、鏡にボールをぶつけて割ってしまい、試験官に追い出された」、「10歳で家出して、演奏しながら国内を放浪した」、「12歳のときには1人で中南米に密航」[2]した、などと、これまで世界を股に翔けた冒険物語として伝記等で知られてきたが、これらはアルベニス自身の話を書き留めたものでほとんどが嘘であることが判明している[3]。
1883年、教師で作曲家のフェリペ・ペドレルに会い、『スペイン組曲 作品47』などのスペイン音楽の作曲を勧められる。また同年に生涯の伴侶となる妻のロジーナ・ホルダーナと結婚する。妻は元々弟子のひとりで、結婚後は一男二女をもうける。
1890年代にはロンドンとパリに住み、主として劇場作品を作曲した。近年になって英語による『マーリン』が録音された。
1900年、腎臓病(ブライト病)を患い、ピアノ曲の作曲に戻った。1905年から1909年の間に、最も良く知られた作品である、ピアノによる印象を描いた12曲からなる「イベリア」を書いた。これはスペイン音楽としてだけではなく、古今のピアノ作品の中でも傑作として演奏会でも取り上げられる機会の多い作品集である。なお、これらはギター用に編曲・演奏される機会が多い。
1903年に即興演奏を3テイク録音に残している。この録音は、ミルトン・ローファーによって採譜され、ヘンレ社からCD付き楽譜として出版されている。ちなみに2003年から2011年までマドリード市長を務めたアルベルト・ルイス=ガリャルドン(英語版)と、第6代フランス大統領ニコラ・サルコジの2度目の夫人であるセシリアはアルベニスの曾孫である。
1909年、フランスのピレネー山中のカンボ・レ・バンで亡くなり、バルセロナのモンジュイック墓地に埋葬された[4]。
作品
歌劇
魔法のオパール
サルスエラ「花盛りのサン・アントニオ」
ヘンリー・クリフォード(英語版)
マーリン(英語版)
ランスロット(未完)
ペピータ・ヒメネス(英語版)
管弦楽曲
狂詩曲「カタルーニャ」
協奏曲
ピアノ協奏曲イ短調 Op.78「「幻想的協奏曲」(1967年にスコア発見)
スペイン狂詩曲 Op.70(管弦楽パート紛失、ジョルジェ・エネスクらによる管弦楽補作あり)
ピアノ曲
古風な組曲
マズルカ
スペイン舞曲
舟歌
組曲「エスパーニャ」全6曲。第2曲「タンゴ」が有名。第3曲「マラゲーニャ」はギター編曲がしばしば演奏される。
組曲「イベリア」全12曲
ピアノソナタ(6?曲、一部紛失)
ラ・ベーガ
アスレホス(未完、グラナドス補筆完成)
ナバーラ(未完、セヴラック補筆完成。ウィリアム・ボルコムによる補筆版もあり)
スペインの歌 Op.232
スペイン組曲。全8曲だが、うち4曲はアルベニスの没後に他の作品から追加したもの。
アストゥリアス(伝説)
歌曲
6つのバラード
ベッケルの詩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%8B%E3%82%B9
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/798.html
1. 中川隆[-16135] koaQ7Jey 2021年10月05日 18:33:06 : 0sTOkIKxFw : QjgzTzYuTDlwT0U=[16]
イサーク・アルベニス 『アストゥリアス』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/875.html
イサーク・アルベニス 『マラゲーニャ』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/876.html
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/798.html#c1
ピエトロ・マスカーニ(Pietro Mascagni, 1863 - 1945)
カヴァレリア・ルスティカーナ 間奏曲
5.0点
イタリア美しい自然と、その中に息づく人間達の悲喜を見事に描く、珠玉のように美しい名曲である。
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2
ピエトロ・マスカーニ(Pietro Mascagni It-Pietro Mascagni.ogg 発音, 1863年12月7日 リヴォルノ - 1945年8月2日 ローマ)は、イタリアのオペラ作曲家、指揮者。
人物・来歴
パン屋の両親の元に生まれる。父はピエトロに法律を学ばせたが、彼は音楽に強い関心を持ち、伯父を味方につけて故郷の音楽院で本格的に音楽を学ぶ。20歳にならぬうちに交響曲、オペラ、カンタータなどを作曲し、その才能を認められる。そして後援者の後押しでミラノ音楽院に入り、アミルカレ・ポンキエッリに師事したが、途中で学校を飛び出し、指揮者として活動を始める。その後、チェリニョーラの音楽学校の教師となる。
1890年に、ローマの楽譜出版社ソンゾーニョ(Musicale Sonzogno)の一幕歌劇コンクール[1]に応募して当選した代表作『カヴァレリア・ルスティカーナ』によって驚異的な成功を収めるが、不幸にもこれがその後の多くの作品を霞めてしまった。それでも15曲のオペラと1曲のオペレッタ、いくつかの美しい管弦楽曲や声楽曲、歌曲、ピアノ曲を残した。1895年にはペーザロのロッシーニ音楽院院長に就任。
存命中は、オペラで驚くほどの成功をおさめ、同時に指揮者としても非常に成功を収めた。マスカーニの作風は、友人でライバルだったプッチーニとは大変に異なっている。おそらくそのために評論家筋からマスカーニ作品は過小評価されてきたのだろう。
ファシスト党政権が誕生すると、スカラ座監督の座を狙ってムッソリーニに接近。このため、第二次世界大戦でイタリアが降伏した後、全財産を没収され、ローマのホテルで寂しく生涯を閉じた。遺体はローマに葬られたが、1951年に故郷のリヴォルノに再埋葬され、それと共に名誉回復された。
マスカーニが残したいくつかの自作自演(『カヴァレリア・ルスティカーナ』、『友人フリッツ』など)は、現在もCDで入手することができるほど評価が高い。
主要作品
オペラ
ピノッタ Pinotta (作曲1880年、1932年3月23日サンレモ初演)
グリエルモ・ラトクリフ Guglielmo Ratcliff (作曲1880年代中頃〜1890年代初頭、1895年2月16日ミラノ初演) 台本: [1]
カヴァレリア・ルスティカーナ(田舎騎士道)Cavalleria Rusticana (1890年5月17日ローマ初演) 台本: [2], [3] - 間奏曲が特に広く知られる。単独で演奏されることも多い。
友人フリッツ L'amico Fritz (1891年10月31日ローマ初演) 台本: [4]
イリス Iris (1898年11月22日ローマ初演) 台本: [5]
仮面 Le Maschere (1901年1月17日ミラノ、トリノ、ジェノヴァ、ヴェネツィア、ヴェローナ、ローマで同時初演)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%8B
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/799.html
ピエトロ・マスカーニ オペラ『カヴァレリア・ルスティカーナ』
Mascagni "Cavalleria Rusticana" Karajan Teatro alla Scala 1968
「カヴァレリア・ルスティカーナ」カラヤン スカラ座
フィオレンツァ・コッソット(Ms:サントゥッツァ)
ジャン・フランコ・チェッケレ(T:トゥリッドゥ)
アドリアナ・マルティーノ(S:ローラ)
ジャン・ジャコモ・グェルフィ(Br:アルフィオ)
アンナ・ディ・スタジオ(Ms:ルチア)
ミラノ・スカラ座管弦楽団
ヘルベルト・フォン・カラヤン(指揮)
撮影:1968年5、6月、パラッツォ・ジャッキーオ、ミラノ
録音:1968年5、6月、スカラ座、ミラノ
0:00 Prelude
16:35 Il Cavallo Scalpita 馬が地を蹴り鈴が鳴り
27:29 Voi lo sapete 母さんも知るとおり
51:37 Intermezzo 間奏曲
1:06:02 Mamma, quel vino è generoso 母さん、このぶどう酒は強いね
Cavalleria Rusticana; Bergonzi, Cossotto, Guelfi & Karajan; 1966
Cast: Fiorenza Cossotto as Santuzza
Carlo Bergonzi as Turiddu
Mariagrazia Allegri as Lucia
Coro del Teatro alla Scala di Milano
Orchestra del Teatro alla Scala di Milano
Herbert von Karajan, conductor
Recorded at the Teatro alla Scala, Milan in 1965
▲△▽▼
『カヴァレリア・ルスティカーナ』(イタリア語: Cavalleria Rusticana)は、イタリアの小説家、ジョヴァンニ・ヴェルガによる小説(1880年出版)、同人による戯曲(1884年初演)、およびピエトロ・マスカーニが同戯曲に基づいて作曲した1幕物のオペラ(1890年初演)。題名は「田舎の騎士道」といった意味である。今日、特にイタリア語圏以外では最後のオペラ作品が有名となっており、本項でもオペラを中心に記述する。
ヴェルガの出身地シチリアの山間部を舞台として、貧しい人々の暮らし、三角関係のもつれから起きる決闘と殺人を描いたこの小説は、イタリアにおけるヴェリズモ(リアリズム文芸運動)の典型的作品とされている。
一方、マスカーニのオペラは1890年に完成し、楽譜出版社ソンゾーニョ社主催の1幕物オペラ・コンクールで圧倒的な支持を受けて優勝、マスカーニはたちまちオペラ界の寵児となった。また、このオペラはヴェリズモ・オペラ形式の端緒をなすものとされる。
小説
ジョヴァンニ・ヴェルガは文筆活動開始当初、洗練された表現を得意とする恋愛小説作家であったが、1870年代半ばより自らの出身地シチリアの風土と、そこで生きる一般の人々を強く意識した作品を著すようになった。小説『カヴァレリア・ルスティカーナ』もそのような一篇で、はじめ雑誌“Fanfulla della Domenica”誌1880年3月14日号に掲載され、同年出版された短編集『田舎の生活』(Vita dei Campi )にも再録された。この短編集中でも当初から『カヴァレリア・ルスティカーナ』は代表的な一篇と考えられていた。
物語は、兵役帰りの若く貧しい男トゥリッドゥと、彼の元許婚者であった人妻ローラとの男女関係の成行、そしてトゥリッドゥがローラの亭主アルフィオに決闘で殺されるまでを淡々とした筆致で描く。大まかなストーリー展開は後掲のオペラの粗筋と大差はないが、オペラでは主役的存在といっていいサントゥッツァが、小説の中では嫉妬心にかられて軽はずみな告げ口をする単なる一脇役として描かれている。
戯曲
ヴェルガは自分の小説を舞台劇化し、当時の大女優エレオノーラ・ドゥーゼを主演として上演することを計画し、その第1弾として『カヴァレリア・ルスティカーナ』を選んだ。プッチーニの多くのオペラ台本を作成したことで後に有名となるミラノの劇作家ジュゼッペ・ジャコーザの協力を得て、台本は1883年10月に完成、1884年1月、トリノのカリニャーノ劇場で初演、大成功を収めた。その後数年間、イタリア各都市でドゥーゼはこの舞台劇を演じた。
ヴェルガが大女優ドゥーゼに与えたのはサントゥッツァ役だった。小説では脇役的存在だった同キャラクターを、この戯曲では、トゥリッドゥといったんは相思相愛となりその子までを身ごもったにもかかわらず捨てられ、復讐として告げ口をし、やがて後悔に苛まれる、という演じ甲斐のある役回りに深化させている。
また、小説では血生臭い結末に至るまでリアルに描写されているトゥリッドゥとアルフィオの決闘シーンは、この戯曲では舞台裏で行われるように変更されている。
オペラ・基本データ
原語曲名:Cavalleria Rusticana(田舎の騎士道)
原作:ジョヴァンニ・ヴェルガ
脚本:ジョヴァンニ・タルジョーニ=トッツェッティ(イタリア語版)およびグィド・メナッシ(イタリア語版)。ヴェルガによる1883年の同名の舞台劇を主題材にとる
演奏時間:約70分
作曲時期:1888年に作曲に着手、1890年に完成
初演:1890年5月17日、ローマのコスタンツィ劇場にて、レオポルド・ムニョーネ(英語版)の指揮)による
初演までの経緯
題材選定まで
ソンゾーニョ社の一幕物オペラ・コンクール、ソンゾーニョ・コンクール(第2回)の募集要項は、同社の雑誌“Il Secolo”誌および“Il Teatro Illustrato”誌の1888年7月1日号に掲載された。1等3000リラ、仮に2等であっても2000リラの賞金は、イタリア南部チェリニョーラの低収入音楽教師の地位に甘んじていた当時25歳のマスカーニ(実際、彼はピアノを借りる金にも事欠いていた)にとってほぼ年収相当の金額を意味したし、ここで高評価を得れば彼がイタリア楽壇に再認識されるのも疑いなかった。
応募締切は翌年1889年5月31日、わずか11か月先であり、マスカーニは題材選択を急いだ。彼の既存作『グリエルモ・ラトクリフ』は4幕物でコンクールの要件を満たさなかったため、新たな台本を必要としていたのである。また、高名な台本作家たちは前金なしでは筆を進めないことも明らかだったので、彼はリヴォルノの同郷人で同年齢、幼少からの知己であり、教師を務めながら詩作の道を目指していたジョヴァンニ・タルジョーニ=トッツェッティ(イタリア語版)に題材選定と台本作成を依頼した。
『カヴァレリア』の作曲
マスカーニが戯曲版『カヴァレリア・ルスティカーナ』上演を音楽学校の学生時代、1884年にミラノで観ていたのは確実であるが、彼が最初からタルジョーニ=トッツェッティにそれを提案していたかどうかははっきりしない。ニコラ・ミサージの『夫と司祭』(Marito e sacerdote )も有力な候補だった。また題材が決定する前からマスカーニは、後に『カヴァレリア』の有名な間奏曲となる美しい旋律をピアノ譜の形で書き出しているが、それが何らかのオペラに使用することを念頭においてだったのかは明確でない。このピアノ版の楽譜は現在全音楽譜出版社からプッチーニらのピアノ曲とともに出版されている(ISBN 4111069517)。
いずれにしても、タルジョーニ=トッツェッティはリヴォルノで戯曲版を観劇して同作に心酔、2人は同作品のオペラ化に集中することになる。リヴォルノで執筆するタルジョーニ=トッツェッティは台本が出来た部分からチェリニョーラのマスカーニに郵送、マスカーニがそれに曲を付けるという作業は1889年1月4日から始まった。締切まであと5か月、時間的余裕の無さに不安を感じた2人は、やはりリヴォルノ在の23歳の詩人グィド・メナッシ(イタリア語版)を仲間に引き入れる。
戯曲版はすでに凝縮されたドラマとしての完成度が高く、2人の若い台本作家チームが行った改変は、村人の合唱シーンを創出すること、トゥリッドゥと人妻ローラの逢引シーンをほとんど削除、代わりにトゥリッドゥが決闘前に母に別れを告げるシーンを拡充すること、に留まり、筋書の展開には手を加えることはなかった。つまり、今日の我々が「小説とオペラとの差異」と考えるものの殆どは、小説と戯曲版との相違に由来している。オペラ台本の完成は1889年3月中旬頃とみられる。マスカーニはこの頃、叔母の支援金でようやくアップライト・ピアノを借り、1日18時間の作曲作業をこなして、同年5月中旬には全曲を完成、5月27日にはコンクール事務局に郵送した。
コンクール審査
ソンゾーニョ社は当初、第2回コンクールのローマでの一次選考(作曲者自身が審査員の面前で自作発表を行う)を1889年秋に行い、そこで舞台にのせる3作品を決定、12月には本選(舞台上演を行い、そこでの観客の反応も参考にして、審査員が優勝作品を選定)を行う予定だった。しかし予選参加作品は73作の多きにも及び(第1回は28作)、審査委員会は一次予選を1890年2月に延期するとの発表を行った。
マスカーニは彼の一次選考指定日、1890年2月25日に審査員の待つローマ・聖チェチーリア音楽院に赴いた。応募者には歌手や器楽奏者を同伴してのプレゼンテーションも認められていたが、資金に乏しいマスカーニは自分でピアノを弾き、主パートを自ら歌うだけだった。しかし発表が進むにつれ5人の審査員の関心は深まり、やがてその中の一人、作曲家フィリッポ・マルケッティが主パートと合唱部分を歌ってくれるまでになった。発表終了後の審査員の反応は非常に好意的であり、彼らが「一次審査の結果発表までローマを離れないでほしい」と念押しをしたことで、マスカーニは自作の成功を確信したという。
一日2作品の発表をこなす強行日程の一次選考の結果は3月5日に発表となり、マスカーニの予想通り『カヴァレリア・ルスティカーナ』は3作品の一つに選ばれた(他2作はニコラ・スピネッリの『ラビリア』とヴィンチェンツォ・フェローニ(イタリア語版)の『ルデッロ』、いずれも今日演奏されることはない)。
マスカーニはその後、細部の修正を行い、かつて学んだミラノにも赴き、恩師や友人(プッチーニなど)の意見も聞いている。またチェリニョーラへの帰路にはリヴォルノにも立ち寄り、台本作家2人とも会っている。メナッシとマスカーニとはこの時が初対面だった。
舞台初演
1890年5月2日、マスカーニは初演のため再びローマに赴いた。改稿された総譜をもとにコスタンツィ劇場ではすでにリハーサルが進行中だった。指揮者ムニョーネのアドヴァイスを受けて、更なる修正もなされた。またマスカーニにとって心強かったのは、ソンゾーニョ社はこの新作のために経験豊富なオペラ歌手夫妻、ロベルト・スターニョ(イタリア語版)(テノール)とジェンマ・ベッリンチョーニ(イタリア語版)(ソプラノ)をそれぞれ主役トゥリッドゥとサントゥッツァに配役してくれていたことだった。スターニョは50代半ばで声の盛りは過ぎていたものの、自信に溢れた舞台態度で、マスカーニと同世代、まだ26歳のベッリンチョーニは情熱的な演技とドラマティックな歌唱で、後にヴェリズモ・オペラの代表的ソプラノと評されることになる逸材だった。
最終審査を控えて、『カヴァレリア・ルスティカーナ』の前評判は他の2作品を圧していた。フェローニの『ルデッロ』は演奏上の難点がリハーサル段階で露呈していたし、『ラビリア』の作曲者スピネッリはマスカーニに「君の作品のリハーサルを聴いたよ。素晴らしい。それに比べれば自作は薄っぺらいものだ。自分は今、自作が君の作品より先に上演されることを知って神に感謝しているよ」と賛辞を贈る始末だった。
5月17日、コスタンツィ劇場での初演は(マルゲリータ王妃の臨席はあったが)それでも満席にはほど遠いものだったらしい。しかし居合わせた聴衆にとって、この短くもドラマティックな新作は衝撃的であり、公演後作曲者は演奏者と共に60回ものカーテン・コールを受けたという。第2夜からはチケットは完売となり、コンクール審査作品としては異例なことに、劇場は合計14回もの再演を行った。
コンクール審査委員会は全会一致で『カヴァレリア・ルスティカーナ』を最優秀作品に選出、またマスカーニはそれとは別途、ソンゾーニョ社と2年半で15000リラともいわれる条件の独占契約を締結した。初演後3年間のうちに、イタリアの66都市、イタリア国外の62都市で『カヴァレリア・ルスティカーナ』は上演された。ロッシーニ、ベッリーニ、ドニゼッティ、そしてヴェルディに続くオペラ大家の誕生を誰もがこの時点では確信していたのだった。
構成
1幕。途中に間奏曲が入るが場面転換はない。オペラとしては上演時間が短いので、同時代のヴェリズモ・オペラ作品、レオンカヴァルロの『道化師』などとともに上演されることがよくある。
編成
登場人物
サントゥッツァ(ソプラノ、近年はメゾソプラノが歌うことが多い)
トゥリッドゥ(テノール)
ルチア(アルト)
アルフィオ(バリトン)
ローラ(メゾソプラノ)
村人(混声合唱)
管弦楽
ピッコロ2、フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、チューバ、ティンパニ一対、大太鼓、小太鼓、シンバル、ハープ2、弦五部(ヴァイオリン2パート、ヴィオラ1パート、チェロ1パート 、コントラバス1パート)
舞台上の楽器
オルガン、ハープ、銅鑼、鐘
あらすじ
シチリア島のある村。復活祭の朝。トゥリッドゥはかつて美しい女ローラの恋人であったが、ローラは彼の兵役中に馬車屋のアルフィオと結婚してしまったのである。除隊後帰郷したトゥリッドゥは、いったんはローラを忘れるべく、村娘サントゥッツァ(サンタ)と婚約したが、結局は留守がちなアルフィオの目を盗んでローラと逢引を重ねる仲に戻ってしまった。これはサンタの知るところとなる。サンタは怒りのあまり、そのことをアルフィオに告げてしまう。アルフィオは激怒し復讐を誓い、サンタは事の重大な展開に後悔する。
ここで場を静めるかのように静かに間奏曲が流れる。
教会のミサが終わり、男たちはトゥリッドゥの母ルチアの酒場で乾杯する。アルフィオはトゥリッドゥの勧めた杯を断る。二人は決闘を申し合わせ、アルフィオはいったん去る。トゥリッドゥは酒に酔ったふりをしながら母に「もし自分が死んだらサンタを頼む」と歌う。トゥリッドゥが酒場を出て行きしばらくすると「トゥリッドゥさんが殺された」という女の悲鳴が2度響き、村人の驚きの声と共に、幕を閉じる。
著名なアリア等
前奏曲とシチリアーナ O Lola ch'ai di latti la cammisa (トゥリッドゥ)
オレンジの花は香り Gli aranci olezzano sul verdi margini (合唱)
ママも知るとおり Voi lo sapete, o mamma (サントゥッツァ)
間奏曲 (上述のようにマスカーニは『カヴァレリア・ルスティカーナ』に題材を決定する以前からこのメロディーを考え付いていた。今日では単独での演奏機会も多い)
乾杯の歌 Viva il vino spumeggiante (トゥリッドゥ)
お母さん、あの酒は強いね Mamma, quel vino è generoso (トゥリッドゥ)
逸話の数々
オペラ化許諾を巡って
マスカーニは著者ヴェルガのオペラ化許諾を得ないまま作曲を進めた。事後承諾を試みたとき、初めヴェルガは台本作家タルジョーニ=トッツェッティとメナッシが介在していることを嫌い、ヴェルガ自身の戯曲を一字一句に至るまで忠実に再現することを望んだが、マスカーニは「これはあなたの『カヴァレリア』を忠実に再現するものです」と返答して了承を得た。
コンクール応募前の1889年4月に両者は合意文書に署名した。しかしそこで交わされた覚書は「コンクール以後の上演については、ヴェルガは法律に規定された通りの権利を享受する」という紳士協定的なものに過ぎず、金銭面の具体性を全く欠いていた。これはオペラ作品が大成功を収めることをマスカーニもヴェルガも想像していなかったことの傍証ともなろう。
初演の成功後、コンクール主催者であり、いまやオペラ『カヴァレリア』の出版権者となったソンゾーニョ社はヴェルガに1000リラの提供を申し出た(これはコンクールの最優秀台本賞金額と同額)が、ヴェルガはこれを拒絶、訴訟を提起した。この裁判は1893年に、ソンゾーニョ社がヴェルガに当初提示額の150倍近く、14万3000リラを支払うことで和解成立となった。しかしオペラ化権を巡る争いはそれ以降も継続する。約10年後、今度はヴェルガがドメニコ・モンレオーネなる作曲家に『カヴァレリア』のオペラ化を新たに許諾してしまう。モンレオーネ版は1907年にオランダ・アムステルダムで初演され、そこそこの成功を収めた、と伝えられる。しかしソンゾーニョ社とマスカーニは同作品の上演停止を裁判所に訴え、今回は彼らの全面勝訴となり、モンレオーネ作品の以後の上演は(少なくともイタリア国内では)禁止となった。
「妻リーナが応募した」という逸話
「マスカーニは『カヴァレリア』の作曲を終えたところで自信喪失状態になり、コンクールには既成作『グリエルモ・ラトクリフ』の第4幕を一幕物に改変して送付しようとした。しかし妻リーナは夫の『カヴァレリア』が傑作であることを信じ、内緒で楽譜を小包で郵送、これが審査によって当選した」との逸話がしばしば伝えられている。しかしこの美談は事実ではない。マスカーニ自身が1889年5月27日に『カヴァレリア』楽譜を梱包し、チョリニョーラの自宅からミラノへ郵送したことは残存する書簡などからほぼ確実である。
シチリア方言の使用
『カヴァレリア・ルスティカーナ』に関して、小説、オペラとも「シチリア方言を多用してローカル色とリアリティを出している」とする誤解が根強いが、それは正確ではない。ヴェルガの小説でシチリア方言を明らかに用いているのはただ1箇所、戯曲はほぼ完全に標準イタリア語、オペラでは前奏曲直後に歌われるトゥリッドゥの「シチリアーナ」の部分だけが方言を使用している。小説はともかくとして、仮に戯曲やオペラのような舞台作品でシチリア方言を多用した場合、イタリアの他地域(特にミラノのような北部)では観客の内容理解はやや困難になったことだろう。なおオペラでの「シチリアーナ」の詩は両台本作家の作ではなく、チェリニョーラ在住の若い詩人ジャコミーノ・ディ・ゼルビ作の標準語による詩をシチリア方言に直したもの。曲調は典型的なシチリアーナというより、むしろナポリターナ的であると評されることもある。
エンディングの台詞
「トゥリッドゥさんが殺された」(“Hanno ammazzato compare Turiddu!”字義通りに訳せば「誰かがトゥリッドゥさんを殺した」)の台詞はヴェルガ作の戯曲版に初めて登場し、オペラではそれをそのまま用いている。マスカーニの当初案では最初は女声のソロ、2度目は女声合唱によってそれぞれ歌われるはずだった(gridando=叫ぶように、の指示付)が、初演直前のリハーサル中、指揮者ムニョーネの助言を受けて現行のような「2人の女がそれぞれ一度ずつ台詞として叫ぶ」形になった。しばしば同時に上演されるレオンカヴァッロ作『道化師』で、やはりエンディングが歌でなくカニオの台詞として語られるのと奇妙な一致をみせている。
自作自演盤
マスカーニは、本作の自作自演の録音を二つ残しており、共にCD化されている。
1938年11月7日にオランダ・ハーグのハーグ王立歌劇場でオランダ・イタリア・オペラ管弦楽団&合唱団を指揮して行われたライブ録音。配役は、リーナ・ブルーナ・ラーザ(サントゥッツァ)、アントニオ・メランドリ(トゥリッドゥ)、アフロ・ポーリ(アルフィオ)、リーナ・ガッロ=トスカーニ(ルチア)、マリア・メローニ(ローラ)ら。現在はGuildレーベルから入手可能。
作曲50周年記念として、1940年4月14日から20日にかけてミラノ・スカラ座管弦楽団を指揮して行われたスタジオ録音。配役はリーナ・ブルーナ・ラーザ(サントゥッツァ)、ベニャミーノ・ジーリ(トゥリッドゥ)、ジュリエッタ・シミオナート(ルチア)、マリア・マルクッチ(ローラ)、ジーノ・ベーキ(アルフィオ)ら。現在ではNaxosなどから入手可能。評価はこちらのほうが高い。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AC%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%8A
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マスカーニ − 歌劇《カヴァレリア・ルスティカーナ》から 交響的間奏曲 カラヤン ベルリンフィル
指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
ベルリンフィルハーモニー管弦楽団
1967年9月22・25日
ベルリン イエス・キリスト教会
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/800.html
ジャコモ・プッチーニ(Giacomo Antonio Domenico Michele Secondo Maria Puccini, 1858 - 1924)
甘く流麗なメロディーが魅力の20世紀を代表するオペラ作曲家。
蝶々婦人以外は断片しか知らないのだが、蝶々婦人の1幕最後の二重唱に関しては甘く切なくとろけそうな時間が延々と続いて最高に楽しくて大好きである。
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2
ジャコモ・アントニオ・ドメニコ・ミケーレ・セコンド・マリア・プッチーニ(伊: Giacomo Antonio Domenico Michele Secondo Maria Puccini、1858年12月22日 - 1924年11月29日)は、イタリアの作曲家。その作品である『トスカ』、『蝶々夫人』、『ラ・ボエーム』などのオペラは今日でも上演の機会が多いことで知られる。イタリアのルッカに生まれ、ベルギーのブリュッセルで没した。
生涯
プッチーニ家は、18世紀から連綿と続くルッカの宗教音楽家の家系であるが、中には器楽作曲家もいた。この中で唯一オペラ作曲家を目指し、なおかつ今日、唯一世界的音楽家として名声を残したのがジャコモ・プッチーニである。
1858年12月22日、イタリアのトスカーナ地方にあるルッカで生まれる。
わずか5歳のときに父親ミケーレが没したため、叔父フォルトゥナート・マージより、温情をもって教育を与えられる。最初は教会オルガニストの職を得るが、ジュゼッペ・ヴェルディのオペラ『アイーダ』の上演に接して、オペラ作曲家を志した。1880年『4声のミサ曲』(『グローリア・ミサ』の名で知られる)の完成をもって、初期の音楽修業と、家業である宗教音楽家の道に区切りをつける。この作品では、やがてミラノの舞台においてプッチーニが開花させることとなる劇的な表現力を、魅力的なまでにうかがわせている。実際、この作品の楽想は後に彼のオペラで転用されることとなる。
1880年から1883年までミラノ音楽院にてアミルカレ・ポンキエッリとアントニオ・バッジーニに師事。1882年には、出版社ソンゾーニョ社主催による1幕物オペラの作曲コンクールに参加、入賞することはできなかったが、提出作品『妖精ヴィッリ Le villi』は後に1884年に舞台化され、出版社リコルディ社主ジュリオ・リコルディに注目されるきっかけとなった。こうしてリコルディ社の依嘱によって作曲されたのが、1889年に完成された2作目のオペラ『エドガール』である。1891年には、トスカナ地方のトッレ・デル・ラーゴに別荘を購入し、終生にわたって仕事場兼自宅とした。プッチーニの亡骸が眠っているのもこの地である。
第3作の『マノン・レスコー』は大成功となったばかりか、優れた台本作家ルイージ・イッリカとジュゼッペ・ジャコーザの協力をももたらすきっかけとなった。この2人の協力のもとに、『ラ・ボエーム』と『トスカ』、『蝶々夫人』の3曲が書かれた。このうち『ラ・ボエーム』はプッチーニの最高傑作としてのみならず、それまでのプッチーニ作品の中では最もロマンティックなオペラの1つに数えられている。『トスカ』はその露骨な暴力描写、主役3人が舞台上で死ぬストーリー、そして扇情的な音楽などが話題となった。『蝶々夫人』は、初演時には敵意(そのほとんどはプッチーニのライヴァル達によって組織されたものであったが)をもって迎えられたが、後にかなり手直しされてからは、プッチーニの最も成功した作品のひとつになった。
それからは御難続きで作曲の筆が緩やかになる。1902年(または1903年)の2月下旬、珍しがりやの性格から、自動車を手に入れさっそく乗り回していたところ、交通事故を起こし、脚を骨折する。1906年にはジャコーザが他界。1909年には、プッチーニの妻エルヴィーラが、誤解から、プッチーニが女中と浮気していると責め立て、疑われた女中が服毒自殺、エルヴィーラが起訴されるというスキャンダル(ドーリア・マンフレーディ事件)に発展する。そして1912年には、恩人であったリコルディ社社主ジューリオが世を去る。
しかしながら1910年に会心の作品『西部の娘』を完成させ、1917年には『つばめ』を脱稿した。『つばめ』は、はじめオペレッタの作曲を試みながらも、自分の創作様式や能力が喜劇に不向きであると悟って、書き直された作品である。
<三部作>とよばれる1幕オペラの連作は、1918年に初演された。パリのグラン・ギニョール劇場の様式による恐ろしいエピソードの『外套』、感傷的な悲劇『修道女アンジェリカ』、喜劇というよりは笑劇の『ジャンニ・スキッキ』の3曲からなる。『ジャンニ・スキッキ』は、名高いアリアのためにこのうち最も人気があるのに対して、『外套』は不人気である。『ジャンニ・スキッキ』は、たとえばマスカーニの『カヴァレリア・ルスティカーナ』やレオンカヴァッロの『道化師』、ツェムリンスキーの『フィレンツェの悲劇』やコルンゴルトの『ヴィオランタ』などの、他の作曲家の1幕オペラと1夜の連続公演が行われている。
プッチーニはヘビースモーカーとして知られていたが、1923年末に喉頭癌であることが判明。翌1924年、治療のために滞在中のブリュッセルで、手術後に合併症を起こして急死した。最後のオペラ『トゥーランドット』は未完成のまま遺され、そのフィナーレは、彼の遺稿も参考にして友人フランコ・アルファーノが補筆することとなった。しかし、アルファーノ補作の大部分は世界初演時の指揮者トスカニーニが冗長と見なしてカットしたため、その短縮した版が今日一般には公演で用いられている(もっとも、1980年代からは「アルファーノ完全版」の使用も散見される)。その他、1991年にはアメリカの作曲家ジャネット・マクガイアによるプッチーニ遺稿のより厳密な資料批判を経た補筆版、2001年にはルチアーノ・ベリオの独自稿による補筆版なども作成されている。
遺体は一旦ミラノのプッチーニ家の墓に埋葬されたが、1926年になって息子アントニオの手によりトッレ・デル・ラーゴ(英語版、イタリア語版)の仕事場兼自宅に再埋葬された。
作品の特徴
プッチーニは、学生時代に書かれたいくつかの器楽曲(管弦楽曲数点と室内楽の小品1点)と宗教曲を別にして、オペラの作曲に余念がなく、現在ひんぱんに演奏されているのもオペラが中心である。音楽史上の位置付けは、ヴェルディ亡き後、19世紀末から20世紀初頭のイタリア・オペラにおいて最高の作曲家というものである。出世作の『マノン・レスコー』を皮切りに『ラ・ボエーム』と『トスカ』を次々に成功させて、オペラ作曲家としての地位を確立した。続く『蝶々夫人』では初演の評判は散々だったものの、徐々に評価を高め、今日ではプッチーニおよびイタリア・オペラの代表作とされている。
プッチーニの音楽は、イタリア・オペラの伝統にのっとり、劇的な展開と緻密な描写的表現、そのために繰り出される転調や印象主義音楽的な和声技巧、オーケストレーションの豊かさが特徴的だが、とりわけ旋律の忘れがたい美しさは特筆に価する。プッチーニの旋律は、しばしば息が長いにもかかわらず、覚えやすく、しかも口ずさみやすい。しかも、とってつけたようなぎこちなさがまったくなく、自然で滑らかに流れていく(オペラ作曲家としての訓練が比較的遅いことからしても、このような生来の旋律家ぶりが最大限に発揮された事実は驚異的ですらある)。このため、クラシック音楽やオペラの初心者にとっても、プッチーニ作品は親しみやすく魅力的である。
評価
同時代の作曲界や批評家は、その直感的な分かりやすさゆえに、大衆迎合的なお涙頂戴をプッチーニ作品の性格に見出し、必ずしも積極的な評価を与えようとはしなかった。しかし、カラヤンやショルティ、シノーポリのような老練なオペラ指揮者は、同時代のヴェリズモ・オペラからの影響力を考慮しつつも、プッチーニの優れた心理描写や高度に洗練された作曲技法に、徹底して光を当てることにより、プッチーニの奥深さや独創性をたくみに浮き彫りにしている。一方で、アバドは、ヴェリズモ・オペラとプッチーニを生涯で一切取り上げなかった指揮者として知られている。一定の広範なレパートリーを持つ大指揮者が同国人の大作曲家を拒絶する例は非常に珍しい(ただし、アバドは「音楽の友」2013年3月号インタビューでも触れているように、言葉の上ではプッチーニを賞賛し、いつか指揮してみたいと語っていた)。なお、イタリアの戦後世代を代表する大指揮者としてアバドと並び称される存在であるリッカルド・ムーティも、長いキャリアの中でプッチーニを数回しか取り上げていない。むしろ外国人であるカラヤンが、4作品に計7回の全曲録音を残し(これは彼としてはヴァーグナーとヴェルディに次ぎ、自国系のモーツァルトやリヒャルト・シュトラウスを上回る数字である)、2本のオペラ映画を製作するなど、強いこだわりを見せている。
ドビュッシーがプッチーニ人気を快く思っていなかったのに対し、ラヴェルは、プッチーニがシェーンベルクに理解があるとの事実だけをもってしても、十分評価に値する芸術家であると見なし、自国の同僚たちのむやみなプッチーニ非難をこそ不快であると感じていた。
実際にプッチーニはシェーンベルクの『月に憑かれたピエロ』を熱心に研究し、実際の演奏にも触れ、これを傑作と呼んでいた。『トゥーランドット』には、しばしば群集やタイトルロールの異常心理を強調するのに、調性感の薄いパッセージが多用されており、それらにシェーンベルク研究の痕跡を認める研究者は少なくない。一方でシェーンベルクの側もプッチーニを20世紀の重要なオペラ作曲家の1人に数えており、そればかりかプッチーニのオペラに対する尊敬や愛着を認めていた。シェーンベルクによるバッハ作品やブラームス作品のオーケストラ用編曲には、音色感覚において、プッチーニの色彩的なオーケストレーションとの親近性が感じられる。
主な作品
オペラ(初演年)
『妖精ヴィッリ』1884年
『エドガール』1889年
『マノン・レスコー』1893年
『ラ・ボエーム』1896年(アリア<冷たい手を><私の名はミミ>)
『トスカ』1900年(アリア<歌に生き、恋に生き><星は光りぬ>)
『蝶々夫人』1904年(アリア<ある晴れた日に>)
『西部の娘』1910年
『つばめ』1917年
「三部作」1918年
『外套』
『修道女アンジェリカ』
『ジャンニ・スキッキ』(アリア<私のお父さん>)
『トゥーランドット』1926年(1924年作曲者の死により未完をアルファーノが補筆完成)(アリア<お聞きください、王子様><泣くなリュー><誰も寝てはならぬ>)
管弦楽曲
『交響的前奏曲 イ長調』
『交響的奇想曲』
『アダージェット』
声楽曲
『グローリア・ミサ』1880年
『レクイエム』1905年
器楽曲
『菊の花』(弦楽四重奏)
『スケルツォ イ短調』
『弦楽四重奏曲 ニ長調』
『フーガ』
『失意の女』
『ピアノ三重奏曲』(一部分のみ)
プッチーニを扱った作品
映画『プッチーニの愛人』(2008年、イタリア、パオロ・ベンヴェヌーティ監督)
「ドーリア・マンフレーディ事件」を題材にしている。
1. 中川隆[-16134] koaQ7Jey 2021年10月05日 19:08:21 : 0sTOkIKxFw : QjgzTzYuTDlwT0U=[17]
プッチーニ オペラ『ラ・ボエーム』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/907.htm
プッチーニ オペラ『蝶々夫人』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/908.html
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/801.html#c1
イグナツィ・パデレフスキ(Ignacy Jan Paderewski, 1860 - 1941)
ピアノ協奏曲 イ短調 Op.17
ピアノソナタ 変ホ短調(3楽章)Op.21
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E6%9D%B1%E6%AC%A7
イグナツィ・ヤン・パデレフスキ(Ignacy Jan Paderewski, 1860年11月18日 - 1941年6月29日)は、ポーランドのピアニスト・作曲家・政治家・外交官。高名なピアニストである一方、ポーランドの首相を務めたことで知られる。
生涯
第1次世界大戦後に発足したポーランド第二共和国の第2代首相。氏名はフランス語式に簡略化して、Ignace Paderewskiと綴られることがある。日本ではパデレフスキーとも表記される。
幼少時
現在ウクライナ領となっているポドリア地方の寒村クルィウフカ Kuryłówka) に生まれる。父親はポーランド貴族(シュラフタ)で、自宅の屋敷で経済学者として働いていた。生母はパデレフスキを産んで数ヵ月後に逝去したため、パデレフスキは遠い親族によって育てられた。
パデレフスキは幼年期から音楽に興味を示し、初めは個人教師についてピアノを学んだ。1872年、12歳でワルシャワ音楽院に進学し、グスタフ・ログスキ(Gustaw Roguski)に和声学を[1]、ユリウシュ・ヤノータ(Juliusz Janotha)とヤン・スリウィンスキ(Jan Śliwiński)にピアノを習う[2][3][4](ただし、この時期は「あなたはピアノに向いていない」と言われるなどピアノ教師に恵まれなかったと後年自伝で述べている)[5]。1878年に卒業後、母校のピアノ科で教師になるよう依頼され、それを引き受ける。1880年にアントニナ・コルサクヴナ (Antonina Korsakówna) と結婚し、まもなく最初の子アルフレト (Alfred) が生まれた。
しかしながら翌年になると長男の障害が判明し(1901年に死去)、10月にアントニナ夫人も亡くなってしまう。パデレフスキは音楽に献身することを決心して、1881年にベルリンに留学して、フリードリヒ・キール (F. Kiel) とハインリヒ・ウルバン (Heinrich Urban) に作曲を師事。1884年にウィーンに移り、ウィーン音楽院でレシェティツキに入門する。1885年から1886年までシュトラウスブルク音楽院で教鞭を執った後、1887年にはウィーンでのデビューを果たした。いくつかの文献には「作曲とピアノ、どちらも大したことなかった」とあるが、これは全くの間違いである。
国際ピアニストとして
やがて大変な人気を集めるようになり、その後の出演は(1889年パリ、1890年ロンドン)大成功となった。パデレフスキの輝かしい演奏は大熱狂を巻き起こし、ほとんど異様なほどの長さに渡って賞賛の的となった。パデレフスキの成功は、1891年にアメリカ合衆国においても繰り返された。パデレフスキの名は、たちまち高水準のピアノ演奏と同義となり、社交界が彼に跪いたのである。パデレフスキは、万全の技術を身につけるのに忍耐力が必要なことを、以下のように述べ、多くの人に記憶されてきた。「一日練習を怠ると自分には分かる。二日怠ると批評家に分かる。三日怠ると聴衆に分かってしまう。」( “If I miss one day’s practice, I notice it. If I miss two days, the critics notice it. If I miss three days, the audience notices it.” )ただし、ベルリンにはブゾーニとゴドフスキーがいたので、パデレフスキの評価はそこまでにはならなかった。
1899年にドゥ・ローゼン (de Rosen) 男爵未亡人ヘレナ・グルスカ (Helena Górska) と結婚し、1900年以降はめったに人前で演奏しなくなった。その代わりに作曲家として、それも主にピアノ曲の作曲家として有名になった。1901年にはオペラ《マンル Manru》がドレスデンで上演された。1908年には演奏時間が70分を超える大作交響曲ロ短調Op.24『ポーランド』を作曲。また、夫婦で社会事業や寄附活動も行なった例えば、貧しい農家の子女のために学校を開いたほか、1910年には、ドイツ騎士団に対するポーランドの戦勝500周年を記念して、古都クラクフの住民にモニュメントを贈った。また同年には、ショパン生誕100周年記念のモニュメントも建てている。1913年にパデレフスキはアメリカ合衆国に居を構え、サンフランシスコに2000エーカーのブドウ畑を所有し、ワイン製造業を興している。
政治家として
第1次世界大戦中にパデレフスキは、パリの「ポーランド民族委員会」の活動家となった。ポーランドは当時まだドイツ帝国やオーストリア・ハンガリー二重帝国の支配下にあり、この委員会は三国協商側から、連合国側ポーランドの代表と見なされていた。パデレフスキはこの組織のスポークスマンとなり、ロンドンにおける「ポーランド回復基金」など、その他の社会組織や政治組織をまもなく立ち上げた。1918年4月に、パデレフスキはニューヨーク市で、「アメリカ・ユダヤ人委員会」の指導者(ルイス・マーシャルなど)に会い、ユダヤ教徒を同権とすることと引き換えにポーランドの領土的回復の野心を支援してもらおうと交渉を持ち掛けたが、失敗したという。第1次世界大戦の末期、まだポズナニ市と大ポーランド全域の運命に決着がついていなかった時期にパデレフスキはポズナニを訪れ、1918年12月27日の演説において、ポズナニのポーランド人住民がドイツに対して武力蜂起を起こすように呼びかけた。
1919年に新生の独立ポーランドにおいて、パデレフスキはポーランド首相と外務大臣を兼務した(1919年1月 - 11月)。為政者としてパデレフスキは、ポーランドを代表してパリ講和会議に出席した。任期を終えると、国際連盟ポーランド大使を勤めた。
1922年にパデレフスキは政界を引退し、演奏活動に復帰した。長い中断の後での最初の演奏会はカーネギー・ホールで催され、目ざましい成功を遂げた。やがてスイスのモルジュに転居した。1926年のユゼフ・ピウスツキによるクーデターの後、パデレフスキは体制翼賛法案に反対する活動家となった。1936年に反体制メンバーがスイスのパデレフスキの邸宅で署名を行った。この間、1929年にヘレナ夫人が心の病から社会事業を続けられなくなり、1934年に亡くなった。1937年には映画『月光の曲(英語版)』に主演した[6]。
晩年
「1939年ポーランド祖国防衛戦争(ポーランド9月作戦)」の後にパデレフスキは国政に復帰し、1940年には、ロンドンにおける「ポーランド国家評議会」、すなわちポーランド亡命政府の指導者になった。今や80歳の芸術家が、再びポーランド回復基金を発足させ、財源確保のために何度か演奏活動を行なったのである(最も有名なのはアメリカ合衆国での演奏会)。このような演奏旅行の最中に、パデレフスキは1941年6月29日の午後11時に、ニューヨーク市に客死した。亡骸はアーリントン国立墓地に葬られたが、1992年にその遺灰がワルシャワに持ち帰られ、レフ・ヴァウェンサ大統領とジョージ・H・W・ブッシュ米国大統領が列席する中、ワルシャワ聖ヨハネ聖堂の地下霊廟に埋葬された。
目下のところポーランドの大都市では、パデレフスキにちなんで通りの名前が付けられている。ニュージャージー州パースアンボイの通りも、パデレフスキを称えてつけられた。ちなみに、ポズナニ音楽アカデミーの名もパデレフスキにちなんでいる。
創作
ピアニストとしては一大巨頭であるパデレフスキも、作曲活動では全く振るわなかった。例外的に「パデレフスキのメヌエット」として知られる6つの演奏会用ユモレスクの第1曲「メヌエット」は演奏も平易であること、親しみやすい旋律からピアノ発表会などの曲目として人気がある。近年は、日本人によるピアノソナタの録音がなされるなど、メヌエット以外の曲も再評価が進んでいる。
その振るわなかった作曲活動も「後期ロマン派から近代の橋渡しとしては成功した」という見解もある一方、「盛期ロマン派から現代音楽の黎明期までを作曲家として活動するのは非常に困難だったから演奏家に転じた」という見解もある。同時代を生きて同類の失敗をした作曲家にツェムリンスキーがおり、似た評価を受けている。
全作曲作品
Op.1 - Prelude e capriccio, Minuetto - 2 Piano Pieces (ca.1886)
Op.2 - Gavotte, Melodie, in C major, Valse melancolique - 3 Morceaux for Piano (ca.1881)
Op.3 - Stara suita for piano: Prelude in d, Intermezzo in B, Air in F, Fugue in d.
Op.4 - Elegie for Piano (1883)
Op.5 - 3 Danses polonaises for Piano (ca.1883), arrangement also for Piano 4-hands
Op.6 - Introduction et Toccata for Piano (ca.1884)
Op.7 - 4 Songs (after Adam Asnyk) for Voice and Piano (1885)
Op.8 - Chants du Voyageur, 5 Pieces for Piano (ca.1883)
Op.9 - 6 Danses polonaises for Piano (ca.1883)
Op.10 - Album de Mai, 5 Scenes romantiques for Piano (ca.1884)
Op.11 - Variations et Fugue sur un Theme original for Piano (ca.1883)
Op.12 - Tatra Album, Tänze und Lieder des polnischen Volkes aus Zakopane for Piano (ca.1883), arrangement also for Piano 4-hands
Op.13 - Violin Sonata in A minor (1882)
Op.14 - 6つの演奏会用ユモレスク、6 Humoresques de Concert for Piano (ca.1887)
Op.15 - Dans le Desert, Tableau musical in Forme d'une Toccata for Piano (ca.1888)
Op.16 - Miscellanea, Series of 7 Piano Pieces (1886-96)
Op.17 - Piano Concerto in A minor (1888)
Op.18 - 6 Songs (after Adam Mickiewicz) for Voice and Piano (1893)
Op.19 - Polish Fantasy on original Themes for Piano and Orchestra (1893)
Op.20 - Manru, Lyrisches Drama in 3 Aufzügen (1892-1901), Libretto in German by Alfred Nossig
Op.21 - Piano Sonata in E flat minor (ca.1903)
Op.22 - 12 Melodies sur de Poesies de Catulle Mendes, 12 Songs for Voice and Piano (ca.1903)
Op.23 - Variations et Fugue sur un Theme original in E flat minor for Piano (ca.1903)
Op.24 - Symphony in B minor 'Polonia' (1903-09)
作品番号のないもの
2 Canons for Piano
Canzone in G major, Chant sans Paroles for Piano (ca.1904)
Et vitam venturi for Chorus, contrapuntal excercises
Hej, Orle bialy (Hey, White Eagle), Hymn for male Chorus and Piano or Wind Orchestra, Words by composer (1917)
Ich will den Herrn for Chorus, contrapuntal excercises
Impromptu in F major for Piano (ca.1879)
2 Intermezzi in G minor and C major for Piano (ca.1885)
Krakowiak (Fantasy) for Piano (1884)
Kyrie Eleison for Chorus, contrapuntal excercises
Mazurka in F major
Mazurka in G major (1896)
Miniatura in E flat major
Moment musical (1892)
Overture in E flat major for Orchestra, 1884
Piece in F major for Violin and Piano (1878)
Powódź (The Flood)
Suite in E flat major for Piano (ca.1879)
Suite in G major for String Orchestra (1884)
Valse mignonne for Piano (ca.1876)
著作
『パデレフスキー自伝――愛国の音楽者』(1940年、第一書房、翻訳:原田光子)
『闘うピアニスト パデレフスキ自伝 上巻』(2016年6月17日、ハンナ、翻訳:湯浅玲子)ISBN 978-4907121587 ※上記の新訳版。
『闘うピアニスト パデレフスキ自伝 下巻』(2016年7月9日、ハンナ、翻訳:湯浅玲子)ISBN 978-4907121594
パデレフスキ編 『ショパン全集』 全27巻 (ルドヴィク・ブロナルスキとユゼフ・トゥルチィンスキとの共編 / ポーランド音楽出版社) 「パデレフスキ版」または、「クラクフ版」と呼ばれる。現在はヘンレ、エキエル、ウィーン、ペータース新版の最新のリサーチが入手できる現在においても、学習者からプロ、アマチュアを問わず幅広く使われている。21世紀を迎えて新たな資料が発掘された今は「非和声音を常識的なものに変えすぎる」または「改竄に近い処理」と批判が多いが、それでもなおこの版で勉強するように指導するプロは、一定数存在する。初期のショパン国際ピアノコンクールでは、この版が推奨されていた。ショパンは決定稿を持たないピアニスト=コンポーザーだったので、パデレフスキが意図して改竄したとは言えない。2021年現在は財団法人ジェスク音楽文化振興会が日本語版の販売を行っている[8]。
日本の受容
瀧廉太郎は、パデレフスキの演奏をライブで聴いた初めての日本人らしい。1901年11月17日鈴木毅一宛書簡には「先日 当今欧州にて非常に有名なるピヤニストPaderewsky(パデレウスキー)を聴き申候 さすが上手なりされど驚く程の音楽者ならず Chopinをひく事一番上手なり Beethovenをひく事まづし大ピヤニストでハなく良きピヤニストなり」とあった。滝廉太郎の「Beethovenをひく事まづし」と記された感想から36年後、ベートーヴェンの月光ソナタを放送リサイタルで披露している[9]。放送リサイタルでは、パデレフスキが自分で用意した即興演奏の後に、月光ソナタを続けて弾いている。
野村あらえびすは「演奏は巨人的な見事さであったが、作曲は華麗で外面的であまり良いものはない。」と評している[10]。
中村紘子の著書『ピアニストという蛮族がいる』では、晩年のパデレフスキの演奏がダメになったという記述が見られる。1936年に白黒フィルムでパデレフスキの演奏が遺されているが、指の速度が確かに落ちていても風格のあるアゴーギクや美しいタッチは衰えはない。その演奏後は全ての聴衆がスタンディングで拍手を捧げており、彼の人気と名声の大きさが伺える。ただし、この映像は映画『Moonlight Sonata』(邦題『月光の曲』、(1937年)のワンシーンとして撮影されたものなので、観客の反応などは演出されたものである可能性は高い。なお、宮城道雄は日本封切時にこの映画に接しており、随筆[11]の中でパデレフスキの演奏を絶賛している。
一方、政治家としてのパデレフスキの評価は、丸山眞男が平凡社『政治学事典』の中で、「パデレフスキーのように、なんら政治的資質と関係のない声望…だけでリーダーシップの地位にのしあがることもおこりうる」として挙げているが、ただし、ここでの丸山はパデレフスキの一連の政治キャリアを知ってか知らずか完全に無視しており、まったく言及していない。パデレフスキはSP録音時の伝聞情報(よくあるものに「作曲とピアノどちらも大したことがなかった」「三つしかなかったピアノ・コンチェルトを一日10時間以上練習して2桁にした」「晩年の演奏はだめだった」「校訂も主観が多い」など)が多くの日本人に広まってしまい、パデレフスキ研究に基づいた正確な事実関係が、現代の日本にも広まっているとは言い難い。
パデレフスキのSP録音は日本でも当時から入手でき、プロアマ問わず高い人気を誇っていた。
2016年、日本パデレフスキ協会が設立された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B0%E3%83%8A%E3%83%84%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%87%E3%83%AC%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/802.html