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中川隆 koaQ7Jey コメント履歴 No: 100515
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[近代史6] シャルル・グノー(Charles François Gounod,1818 - 1893)
シャルル・グノー(Charles François Gounod,1818 - 1893)

交響曲

交響曲第1番 ニ長調(1854)
2点
オペラ作曲家らしいはつらつとした快活さが印象的。しかし、あまりに古典的すぎるし、かといってハイドンのような霊感に満ちている感はなく、聴いていて心地よいのだが物足りない。

交響曲第2番 変ホ長調(1856)
3.5点
1番の2年後の作品で、音楽的には似ているのだが、モーツァルトのようなシンプルな中にロマン的な情緒を篭める技術を体得したのか、はるかに深みがありいい音楽になっている。

小交響曲 変ホ長調(1888)

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%281889%E5%B9%B4%E3%81%BE%E3%81%A7%29

シャルル・フランソワ・グノー(フランス語: Charles François Gounod、1818年6月17日 - 1893年10月18日)は、フランスの作曲家。

ゲーテの『ファウスト』第1部に基づく同名のオペラで知られるほか、バチカンの実質的な国歌である『賛歌と教皇の行進曲』を作曲したことでも知られている。「フランス近代歌曲の父」とも呼ばれ、美しい旋律、色彩感に満ちたハーモニーを伴った優雅でやさしい音楽は今日も広く愛されている[1]。


生涯
パリ生まれ。母はピアニスト、父は設計士であった。母親にピアノの手ほどきを受けて楽才を開花させ、パリ音楽院に入学してオペラ作曲家フロマンタル・アレヴィに師事した。1839年にカンタータ『フェルディナン』(Ferdinand)でローマ大賞を受賞、ただちにローマへ留学し、パレストリーナの作品を研究した。

2年間のローマ留学の後、ウィーン、ベルリン、ライプツィヒ等を経由して、1843年にパリに戻り、サン・トゥスタッシュ教会(英語版)の聖歌隊楽長兼教会オルガニストとなった。1851年に最初のオペラ『サッフォー(英語版)』(Sapho)を作曲するが、1859年の『ファウスト』(Faust)まで大成功をおさめることはできなかった。この作品は今日でも最も有名なグノー作品であるが、シェイクスピア原作のオペラ『ロメオとジュリエット』(1867年初演)もまた定期的に上演・録音がなされている。

1870年から1875年まで、グノーは戦乱を避けてイングランドに過ごし、のちの王立合唱協会(ロイヤル・コーラル・ソサエティ)の首席指揮者を務めた。この頃から、グノー作品の多くが実質的に声楽曲や合唱曲となった。

グノーは後半生において主に宗教曲を手掛けているが、中でもバッハの『平均律クラヴィーア曲集』第1巻第1曲の前奏曲に旋律をかぶせた『アヴェ・マリア』は有名であり、『グノーのアヴェ・マリア』と称されている。

管弦楽曲『操り人形の葬送行進曲』は、アルフレッド・ヒッチコックのテレビシリーズ『ヒッチコック劇場』でテーマ音楽に用いられて有名になった[2]。

2つの交響曲はハイドンやモーツァルトらの作品を熟知した上で作曲されている。この2曲は17歳のビゼーが交響曲ハ長調を作曲する上でも手本となった。

1893年、パリ郊外のサン=クルーで死去。墓所はパリメトロ9号線のエグゼルマン駅の南にあるオートゥイユ墓地。

主要作品

オペラ

サッフォー(英語版)(Sapho, 1851年)
E.オージエの台本による3幕のオペラ。1884年に4幕に改訂される。初期作品であるが、時折上演され、終幕のアリア『不滅の竪琴よ』は有名である。
血まみれの修道女(英語版)(La nonne sanglante, 1854年)
A-E.スクリーブとG.ドラヴィーニュの台本による5幕のオペラ。『血にまみれた尼』とも。初期作品であり、演奏や録音は少なかったが、2010年にCPOレーベルからCDがリリースされた。
いやいやながら医者にされ(英語版)(Le médecin malgré lui, 1858年)
J.バルビエとM.カレ、作曲者自身の台本による3幕のオペラ・コミーク(モリエール原作)。『にわか医師』の訳題も用いられる。1924年のディアギレフによる上演では、エリック・サティがレシタティーフを作曲。
ファウスト(Faust, 1859年)
J.バルビエとM.カレの台本による5幕のオペラ(フランス語の発音では「フォースト」)。最も有名なオペラで、同時に最初に大規模な成功を収めた作品でもある。当初は対話を含むオペラ・コミーク形式であったが、1868年のオペラ座での上演に際して、対話をレシタティーフ化し、オペラ座の慣習に基づいてバレエ音楽を追加する形で改訂しており、現在では、ほぼこの形で上演される。なお、バレエ音楽の作曲者はグノー本人でないとの説がある。またドイツでは、原作であるゲーテの『ファウスト』からかけ離れた内容であるとの理由から『マルガレーテ』(ヒロインであるマルグリートを原作通りにドイツ語で発音したもの)と呼ばれることが多かった。
鳩(英語版)(La colombe, 1860年)
J.バルビエとM.カレの台本による2幕のオペラ・コミーク。1924年のディアギレフによる上演では、フランシス・プーランクがレシタティーフを作曲。
フィレモンとボーシス(英語版)(Philémon et Baucis, 1860年)
J.バルビエとM.カレの台本による2幕のオペラ・コミーク(オヴィディウスの『変身物語』中の挿話に基づくラ・フォンテーヌの寓話による)。初演時は3幕構成であったが、1976年の改訂時に2幕とされた。1924年のディアギレフによる上演では、ジョルジュ・オーリックがレシタティーフを作曲。
サバの女王(La reine de Saba, 1862年)『シバの女王』とも表記される。
J.バルビエとM.カレの台本による5幕のオペラ。
ミレイユ(Mireille, 1864年)
M.カレの台本による5幕のオペラ(ミストラル原作)。2番目に成功したオペラである。1874年に4幕に改訂されたが成功せず、1889年に3幕のハッピーエンド版が作成され、比較的成功した。しかし、1901年にはオペラ・コミーク座で再度、当初の悲劇的結末の5幕に戻しつつ、レシタティーフではなくセリフによる対話の版が上演され、こちらも成功した。しかし、1939年にレイナルド・アーンとアンリ・ビュッセルによるグノーの当初の意図を復元しようとする版(完全に正確な復元ではないにせよ)が上演され、これが成功すると、以後はこの版に基づく上演が主流となった。
ロメオとジュリエット(Roméo et Juliette, 1867年)
J.バルビエとM.カレの台本による5幕のオペラ(シェークスピア原作)。『ファウスト』と共に最も知られる作品。ジュリエットのワルツ『私は夢に生きたい』はコロラトゥーラを得意とするソプラノたちに好んで歌われるアリアである。
サン=マール(英語版)(Cinq-Mars, 1877年)
L.ガレとP.ポワルソンの台本による4幕のオペラ。サン=マール侯を題材にしており、王(ルイ13世)やマリオン・ドロルム(当時の有名なクルティザンヌ)が登場する。
ポリュクト(英語版)(Polyeucte, 1878年)
J.バルビエとM.カレの台本による5幕のオペラ。
ザモラの貢ぎ物(英語版)(Le tribut de Zamora, 1881年)
A.P.デリーとJ.ブレジルの台本による5幕のオペラ。ただし台本作者にJ.バルビエとM.カレも関わっているとされる。このオペラをもってグノーはオペラの作曲を止めたため、最後の作品である。
ピエール親方(英語版)(未完)(Maitre Pierre, 1877年-1878年)
L.ガレの台本による5幕のオペラ(アベラールとエロイーズの物語に基づく)。管弦楽配置が半分ほど終了した時点で放棄された。グノーは、「4部からなる劇的組曲」に素材を流用した(スコアがパリの国立図書館に存在する)。グノーの死後、未亡人がカミーユ・サン=サーンスに完成を依頼し、グノーが完成した部分をつなぐレシタティーフが追加された。1939年に、レイナルド・アーンが最後の場面のみ演奏会形式で上演した。


劇音楽

ユリシーズ(Ulysse, 1851年)
Ponsardの劇のための音楽。全5幕。
町人貴族(Le bourgeois gentilhomme, 1856年)
モリエールの劇のための音楽。
フランスの2人の王女(Les deux reines, 1865年)
ルグヴェの劇のための音楽。全4幕。
ジャンヌ・ダルク(Jeanne d'Arc, 1873年)
J.バルビエの劇のための音楽。全5幕。


交響曲と管弦楽曲

交響曲第1番 ニ長調(1854年)
全4楽章からなる最初の交響曲。ミシェル・プラッソンの録音が残されている。
交響曲第2番 変ホ長調(1856年)
全4楽章からなる2番目の交響曲。イーゴリ・マルケヴィチによる録音(1957年)は隠れた名盤として知られている。
小交響曲 変ホ長調(1888年)
管楽器(ハルモニームジークの編成)のためのシンフォニエッタであるが、厳密には室内楽に分類される。
操り人形の葬送行進曲


宗教音楽・ミサ曲
聖セシリア荘厳ミサ曲(Messe solennelle en l'honneur de Sainte Cécile, 1855年)
3人の独唱陣(S,T,Bs)、合唱、管弦楽とオルガンのための作品。同年に作曲された『荘厳ミサ』より改作したもの。『聖チェチーリア荘厳ミサ曲』とも呼ばれる。
レクイエム ハ長調(Requiem en Do majeur, 1893年)
4人の独唱陣(S,A,T,Bs)、合唱と管弦楽(ピアノまたはオルガンの任意)のための作品。


オラトリオ
トビー(英語版)(Tobie, 1854年)
十字架上のキリストの最後の7つの言葉(英語版)(Les Sept Paroles de Notre Seigneur Jésus-Christ sur la Croix, 1855年)
贖罪(英語版)(La rédemption, 1882年)
死と生(英語版)(Mors et vita, 1885年)
アッシジの聖フランチェスコ(英語版)(Saint Francois d'Assise, 1891年)


エピソード
グノーが楽長を務めていたサン・トゥスタッシュ教会の聖歌隊に、後に画家として著名になるピエール=オーギュスト・ルノワールが、1850年頃から数年間所属していたことがある。グノーはルノワールに声楽を教え、ルノワールの歌手としての才能を高く評価していた。そのため、グノーはルノワールの両親にルノワールをオペラ座の合唱団に入れることを提案したが、断られた。グノーはルノワールを歌手にしようと考えていたので、その才能を惜しんだ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%8E%E3%83%BC
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/851.html

[近代史6] シャルル・グノー 交響曲第2番 変ホ長調
シャルル・グノー 交響曲第2番 変ホ長調


Gounod: Symphony No. 2 in E-Flat Major






Orchestre des Concerts Lamoureux
Igor Markevitch

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/852.html

[近代史6] シャルル・ヴァランタン・アルカン (Charles Valentin Alkan ,1813 - 1888)
シャルル・ヴァランタン・アルカン (Charles Valentin Alkan ,1813 - 1888)

ショパンやリストやシューマンといったピアノ音楽の大天才と同時代のフランス代表のピアノ音楽作曲家。肥大化した超難曲を沢山書いていて、技工派ピアニストに好かれている。総合的にはショパン達には一歩劣るものの、スケールの大きさや雰囲気の構築力や独特のピアノの器を限界まで引き出すような作品を作った、十分大きな価値のある作曲家。


Op.27b エチュード「鉄道」
3.5点
ガンガン突き進む高速の金属的な無機的なフレーズのたたみかけは、よく表題を表している。超絶技巧の圧倒は聴き映えがする。手が疲れそう。後半には大きなうねりもみせるのも楽しい。アイデアが楽しい曲。

Op.33 グランドソナタ
3.5点
かなり大規模なピアノソナタ。まずは大規模さそれ自体を楽しめる曲としては、ばっちりだと思う。技工的な部分だけでなく、広大さを基調とした幅広い曲調で音楽を構成されている。多くを詰め込んだ、芸術性の高い本格的な曲を書こうとしたであろう本人の高い志を感じる。それはある程度成功していて、例えばシューマンのソナタならライバルとも言えそうなほどである。トップレベルとは言わないまでも、ロマン派の大規模ピアノ曲の重要作品の一つとは言えそうだ。巨匠的な響きに到達している。後の短調のための練習曲と比較すると、作曲技術にまだ若さやこなれていない印象はすこしあるが、芸術的な真摯さでは上回っている気がする。ちなみに、いきなりスケルツォで始まるのが驚く。

Op.35 全ての長調による12の練習曲

Op.39 全ての短調による12の練習曲
第1番 イ短調 あたかも風のように(Comme le vent)プレスティッシマメンテ
3.3点
超絶技巧のたたみかける感じ。ショパンの作品10−4のような焦燥感も演出する。かなり密度が濃く、多くのアイデアが詰め込まれた密度の濃い曲。敷き詰められたものすごい音の多さにびっくりする。

第2番 ニ短調 モロッソのリズムで(En rythme molossique)リゾルート

第3番 ト短調 悪魔のスケルツォ(Scherzo-diabolico)プレスティッシモ
3.8点
この曲は巨匠的な発想の良さを感じる。部分同士の対比が非常に効果的で、陳腐さが無い。リストのスケルツォとマーチを思い起こすゴリゴリとして少し悪魔的で情熱的なスケルツォも、分厚い重音の長調の部分も良い曲。

第4番 ハ短調 ピアノ独奏による交響曲(Symphonie pour piano seul)第1楽章 アレグロ・モデラート
第5番 ヘ短調 ピアノ独奏による交響曲 第2楽章 アンダンティーノ
第6番 変ロ短調 ピアノ独奏による交響曲 第3楽章 メヌエットのテンポで
第7番 変ホ短調 ピアノ独奏による交響曲 第4楽章 プレスト
3.3点
ピアノ独奏による交響曲4楽章をまとめて感想を書く。オケ曲の編曲にありがちな非ピア二スティックな音楽ではなく、ばっちりピアノ曲である。しかし、メロディーやパッセージには管弦楽曲のような印象を多くの場面で持つ。だから、交響曲という命名にはあまり違和感はない。シューマンの交響曲のような、19世紀半ばらしい音楽である。なかなかの力作であり、交響曲という発想ならではの強弱や陰陽の幅が大きくて、展開の豊富な音楽を楽しめるし、感心する。しかし、メロディーなどの純粋な楽曲としての魅力の点では、印象に強く残るほどではないとも思う。

第8番 嬰ト短調 ピアノ独奏による協奏曲(Concerto pour piano seul)第1楽章 アレグロ・アッサイ
3.5点
リストのソナタ同様の30分ぶっ通し1本勝負の曲。これがなかなか素晴らしい。テーマは分かりやすくて良く、テーマを活用した技巧的な様々な雰囲気の移り変わりや興奮と鎮静の展開が楽しいので、長い曲を全然飽きずに聴き通す事ができる。むしろあっという間の30分という感じ。
リストのソナタの全てを注ぎ込んだような迫力には及ばないにしても、エンターテイメント作品として出来が良くて素晴らしいし、芸術性も決して低く無い。ピアノ曲マニアは要チェック。

第9番 嬰ハ短調 ピアノ独奏による協奏曲 第2楽章 アダージョ
3.0点
瞑想的で夜想曲に近い部分や、暗い行進曲的雰囲気などを組み合わせている。わりと良いメロディーを使って、大人っぽい雰囲気を出している。また、曲の規模の大きさを有効活用して構成的に書かれており、聞き応えのある音楽を作り上げており、なかなか良い。

第10番 嬰ヘ短調 ピアノ独奏による協奏曲 第3楽章 蛮族風のアレグレット
3.0点
典型的な19世紀の協奏曲の終楽章という感じの、技巧を派手に見せつけるが内容が軽い音楽。華麗ではあり、3つの楽章の中でもっとも協奏曲らしい曲だ。テクニックを楽しむ曲であり、面白い曲という感じではない。

第11番 ロ短調 序曲(Ouverture)マエストーゾ―レンテメンテ―アレグロ

第12番 ホ短調 イソップの饗宴(Le festin d'Ésope)アレグレット
3.8点
変奏曲としてかなり優れている部類だろう。短いが優れたテーマを使って非常に豊かな展開を見せており、その展開の幅広さや高低差は屈指のものがある。超絶技巧も効果的に必要な場面で使われて聴き手の期待を満たしている。変奏の繋げ方も良い。芸術性は十分に高い。

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%281889%E5%B9%B4%E3%81%BE%E3%81%A7%29


シャルル・ヴァランタン・アルカン(フランス語: Charles Valentin Alkan, 発音: [ʃaʁl valɑ̃tɛ̃ alkɑ̃], 1813年11月30日パリ - 1888年3月29日パリ)は、フランスのロマン派の作曲家・ピアニスト。


生涯

アルカンは本名をシャルル・ヴァランタン・モランジュ (フランス語: Charles Valentin Morhange) といい、パリのブラン・マントー通り(フランス語版)[注 2]でユダヤ系の家庭に生まれた。父はアルカン・モランジュ(1780年 – 1855年)、母はジュリー(フランス語: Julie)・モランジュ(旧姓 アブラアム Abraham)である[3]。彼は6人姉弟の2番目であり、姉と4人の弟がいた。アルカンは音楽家だった父の名であり、彼を含む兄弟すべてが音楽家としてアルカンを名乗った。パリのユダヤ人居住区だったマレ地区の彼の自宅は、パリ音楽院を目指す子どもたちが通う音楽予備校であり、マルモンテル、ラヴィーナらが通っていた[4]。弟のナポレオン(フランス語: Napoléon)は音楽院でソルフェージュの教授となり、別の弟のマクシム(フランス語: Maxim)はパリの劇場で軽音楽を作曲する仕事に就いた。姉のセレスト(フランス語: Céleste)もピアニストだった。

アルカンは生涯をパリ周辺で過ごした。彼の外遊で知られているものは、1833年から1834年のイングランドへの演奏旅行と、家族の用事で1840年にメスへ赴いたことだけである。

幼くして神童といわれ、6歳でパリ音楽院に入学、ピーエル・ジョゼフ・ギヨーム・ジメルマンのピアノクラスに学んだ。7歳にしてソルフェージュ・ピアノ・伴奏・作曲・オルガンでプルミエ・プリ(一等賞)を得る。7歳半で初めての公開演奏会を行ったが、この時彼はヴァイオリニストとして出演した。ピアニストとしてのデビューは12歳の時で、私的な家庭演奏会で自作を何曲か披露した[5]。彼の作品番号1番は1828年、14歳で発表した作品だった。1829年に室内楽のトリオを結成したが、その時のチェロ奏者はショパンの親友だったオーギュスト・フランコムであり、彼がアルカンにこのポーランドの青年を紹介した可能性が指摘されている。[6]

アルカンは20代になって、教育に携わり、上流階級の集まりで演奏会を行うなどし、リスト、ジョルジュ・サンド、ヴィクトル・ユーゴーらと友好関係を築いた。1838年、25歳にして彼の経歴は頂点に達する。彼は自ら主催した演奏会で賛助出演したショパンとしばしば共演し、リスト、タールベルク、カルクブレンナーらのライバルのヴィルトゥオーゾと称されていた。リストはアルカンについて、自分が知る中で誰よりも優れたピアノ技巧を有していると述べている[7]。この頃から6年の間、アルカンは私的なレッスンと作曲に専念するが、これは彼の子ではないかとされるエミール・ドゥラボルド(英語版)[注 3]の誕生、乳幼児期と期を同じくしている。その後、アルカンは1844年に演奏会に復帰している。1842年にショパンがスクアール・ドルレアン(英語版)にジョルジュ・サンドと共に越して来て隣人同士となっており[8]、1849年のショパンの死後はその弟子の多くを引き取った。

1848年、アルカンは大きな挫折を経験することになる。パリ音楽院ピアノ科長だったジメルマンの引退に伴う後継者争いに敗れたのである。ロビー活動に精を出してアルカンは任用を期待していたが、音楽院学長のオーベールはジメルマンの後継に、かつてアルカンの弟子だったマルモンテルを据える決定をする。この件や親友のショパンの死に直面して失意に沈んだことで、アルカンは公衆の面前での演奏ができなくなったのだろう。1851年にシナゴーグのオルガニストになったのもつかの間、すぐに職を辞してしまう。早くから技術を体得して名声を手にしていた彼だったが、1853年の2回の演奏会を除くと、25年もの実質的な隠居生活に入ったのである[9]。

1861年にヒラーに宛ててしたためた手紙の中で、アルカンはこう記している。

私は日ごとに人間嫌い、女性嫌いになってきています・・・行動に移す価値のあること、良いこと、役に立つことなどなにもありません・・・私自身を捧げるに足る人物などいないのです。私は自分の置かれた状況をどうしようもなく悲しく、惨めに感じています。私は音楽を作ることにすら意味や目的を見出せなくなり、魅力を感じられなくなっています。


このような状況ではあったものの、アルカンは友人たちと交流し、作曲と出版を継続した。ドイツ系スコットランド人の音楽学者であるフレデリック・ニークス(英語版)[注 4]はアルカン宅の守衛に厳しく面会を拒否された数日後、エラールのサロンで彼を見かけている。ニークスはその出会いについて、こう述べている。「私に対する対応は礼儀正しいだけでなく、大層親しげなものであった」。またアルカンはヒラーやスペイン人のピアニスト、作曲家だったサンチャゴ・デ・マサルナウ(英語版)[注 5][10]との文通を続けた。マサルナウはパリでアルカンと知り合い、「3つの華麗なる練習曲 (スケルツォ集、フランス語: Trois études de bravoure)」作品16の献呈を受けている。

ジャック・ギボンズ(英語版)はアルカンの性格について、次のように記している。

アルカンは知的で、活発で、機智に富んだ温かみのある人物であった(これらの性格は全て彼の音楽に現れている)。彼の唯一の欠点は生き生きとした想像力を持ち続けていたことだった。時おり奇行に走ったようだが(それでも他の「高く位置づけられる」芸術家たちに比べれば穏やかな方だ!)、それも主に彼の過敏な基質に根ざしたものだったのである。
—[8]
晩年、1873年からアルカンはエラールのピアノ展示場で年に6回の「小コンサート(フランス語: Petits Concerts)」を開くようになる。そこでは自作だけではなく、バッハ以降の彼の好みの作曲家の作品を取り上げていた。こうした演奏会では、時に彼の姉弟が助っ人になることもあり、出席者の中にはヴァンサン・ダンディもいた。この演奏会は、少なくとも1880年[11]まで続けられたことが分かっている。

アルカンが自宅に閉じこもって一時は聖書やユダヤ教の経典タルムードの研究に没頭した時期のことはあまり分かっていないが、それ以外にも足取りのつかめない期間が存在する。ヒラーとの間に交わされた書簡から分かるのは、アルカンが旧約聖書と新約聖書のいずれも、原語からフランス語への翻訳を完成させていたということである。この聖書は、アルカンの多くの作品と同様に完全に失われてしまっている。失われた作品には、『弦楽六重奏曲』やフルオーケストラによる『交響曲ロ短調』があり、アルカンからその楽譜を見せられたレオン・クロイツァー(フランス語: Léon Kreutzer)の1846年の論文にそれらの記述がある[12]。

ドゥラボルドについて
アルカンは生涯独身だったが、エミール・ドゥラボルド(英語版)[注 3]は彼の子であると一般に信じられている。ドゥラボルドという名前がアルカンの友人、そしてショパンの恋人だったジョルジュ・サンドの母の旧姓と同じであることが重要だと考える向きもある。ドゥラボルドは若い頃にアルカンに教えを乞い、またアルカンの作品の多くを演奏・校訂している。父同様、ドゥラボルドもペダルピアノの優れた奏者だった。ビゼーの死後、彼の未亡人であるジュヌヴィーヴ(フランス語版、英語版)(作曲家ジャック・アレヴィの娘)はドゥラボルドと協定関係を結んだ。実のところ二人の間には婚姻届が準備されていたが[13]、それが実際に効力を発揮することはなかった。興味深いことに、情熱的なアスリートだったドゥラボルドはビゼーの死を間接的に招いた人物である。彼ら二人は水泳競技を行ったが、ビゼーはそれが原因で風邪を引いてその後に死亡したのである[14]。ドゥラボルドは晩年になって結婚するが、子をもうけたという記録は残っていない。

死因について
アルカンは1888年3月29日、74歳で永眠した。彼は自宅の高い本棚でユダヤ教の経典タルムードを本棚から取りだそうと手を伸ばしたところ、本棚が倒れて下敷きになって死亡したと、長年にわたって信じられてきた。この説はアレクサンドル・ベルタの1909年の記事に端を発している[15]。それ以外にも、アルカン一家の故郷の町であるメスでラビをしており、「シャーガットのアリヤ」として知られたアリヤ・レイブ・ベン・アシャー・グンツベルク(英語版)[注 6]の言い伝えがもとになっているのではないかという意見もある[16]。この話はピアニスト兼作曲家のイシドール・フィリップやドゥラボルドによって誇張されて伝えられたが、死因についての確定的な根拠はなく、不明だった[17]。伝説に異を唱えたのはヒュー・マクドナルド(英語版)である。彼は近年発見されたアルカンの守衛の書簡の記載から、守衛がアルカンのうめき声を聞いてかけつけたところ、彼が台所で傘立てラック(フランス語: porte-parapluie)の下敷きになっているのを発見したとしている。彼はラックを支えにしようと掴んでその下敷きになり、おそらく気絶したと考えられる。彼は寝室に運ばれて、その日の午後に息を引き取ったと伝えられる[18]。

アルカンは復活祭の日曜日だった4月1日に、パリのモンマルトル墓地のユダヤ人区画に埋葬された。それは同時代のアレヴィの墓からは程近い位置にある。アルカンの姉のセレステも、同じくモンマルトル墓地に眠っている。

アルカンの死を巡る主張には、ロナルド・スミスが著した伝記に事実として引かれ、その後に広く引用されたものがある。それは《ル・メネストレル(英語版)》誌を出典とし、「アルカンは死んだ。彼は自らの存在を証明するために命を絶ったのだ」で始まるものである。しかし、そのような死亡記事はル・メネストレル誌には掲載されておらず、現在まで同時代の雑誌のいずれにもそのような記載は確認できていない[注 7]。これらの説は物証には乏しく、直接の死因は判明していない。

他の音楽家との交流
アルカンは、作品の贈答を通じて同時代の音楽家との交流を深めた。アルカンは完全な世捨て人だったかのように伝承されている事が多いが、実際にはパリ音楽院を辞職した後、アルカンの父親が経営していた音楽塾を継ぎ、書き溜めた作品をRichaultほかの出版社に送り、細々と生活していた可能性が有力である。契約した出版社は、Richault、Brandus、Cocks[19]、Heugel、Schlesinger、Bureau Central de Musique[20]、Grus、Lemoine、Troupenas、Schott、Mechettiと多岐に渡っている。アルカンが高齢になった後も、フランク、ルビンシテイン、ラヴィーナ、ヒラーから作品を献呈され、音楽理論家フェティスや作曲家として大成したヴァンサン・ダンディの信頼も得て、その存在はフランス国内外で信頼されていた。Josef Aibl社刊「クラーマー=ビューロー 50の練習曲」(1868)の序文では、アルカンの練習曲はルビンシテインと並んで最高難度の練習曲と称された。

ワーグナーやシューマンが攻撃したことで知られるマイアベーアは、オペラ《預言者》からリハーサル中にカットされた序曲をアルカンに手渡し、アルカンはその序曲を全曲を4手連弾のためのピアノ曲へ編曲している。このエピソードからも、マイアベーアと親交のあった事が伺える。

一連の「リタイヤ・リサイタル・シリーズ」が1880年に終了した後は伝承された通りの隠遁生活を送り、その時期の印象が強すぎたために多くの逸話がロナルド・スミス他により創作・捏造されたものと考えられている。ショパンとゴッチョーク(ゴットシャルク)は既に亡くなってしまい、リストは交響詩作家へ転進、タールベルクはピアノをやめ、1830年代に一世を風靡した一連のヴィルトゥオーゾは流行が過ぎると、その存在ごと無視された。アルカンもその例外ではなかったのである。


アルカンに献呈された作品
フェルディナント・ヒラー:『8小節変奏曲 Op.57』
アルカンの作品39-12と極めて類似した形式で書かれている
セザール・フランク:オルガン曲『交響的大曲 Op.17』嬰ヘ短調
アントン・ルビンシテイン:『ピアノ協奏曲第5番 Op.94(イタリア語版)』
ジャン=アンリ・ラヴィーナ:『3つのカプリス Op.6』


アルカンの実子に献呈された作品
カミーユ・サン=サーンス:『ピアノ協奏曲第3番 (サン=サーンス)』


アルカンが献呈した作品
『シュタイベルトの主題に基づく変奏曲 Op.1』 (ピーエル・ジメルマン)
『3つの悲愴的な様式による3曲 Op.15』 (フランツ・リスト)
『室内協奏曲第1番 Op.10』 (ピーエル・ジメルマン)[21]
『歌曲集 第二集 Op.38』 (ユリウス・シュルホフ[注 8])
『全ての短調による練習曲 Op.39』 (フランソワ=ジョゼフ・フェティス)
『ドイツ風メヌエット Op.46』 (ジャン=アンリ・ラヴィーナ)
『3つの行進曲 Op.40』(ピアノ4手) (フェルディナント・ヒラー)


ピアノ技巧
アルカンの際立った技巧は彼の作品に求められる技術的・身体的難度を見れば明らかである。しかし、これらの技巧が音楽性を犠牲にしているわけではないことは、より繊細な作品群に目を向けることで分かる(『夜想曲 ロ長調 Op.22』や『エスキス集』など)。ダンディは60代半ばのアルカンが、誰もいない部屋で「折れ曲がった、骨と皮ばかりの指で」エラールのペダル・ピアノでバッハを弾いている姿を思い出し、こう述べている。「私が耳にしたのは、表情の豊かさという美点に根ざした、透明感のある見通しの良い演奏であった」アルカンは後にベートーヴェンの『ピアノソナタ第31番』を演奏しており、これについてはダンディは以下のように評した。

ベートーヴェンの偉大な音詩に何が起こったかというと - アリオーソとフーガでは旋律が死そのものの神秘を貫き通して、眩い光の中立ち昇ってくるのである - 私は言葉にできなかった。(その演奏は)私にいまだ経験したことないような熱狂をもたらした。この演奏はリストではない - 技術的な完成度では劣るが - より親密であり人間的な感動をもたらしてくれた・・・。[8]

アルカンの晩年に彼に習い、またリスト門下でもあったある弟子も同じくアルカンの演奏に関して述べている。彼が回想するに、アルカンの演奏は「実年齢以上に老け衰えて見える彼のその姿にもかかわらず、驚くべき若々しさ」を維持していた[8]。


作風
アルカンの作品は、ショパンと同様にほとんどがピアノ作品であり、リストと同様にピアノによる交響的表現を追求した。その実現のために彼の作品には超絶的な技巧の数々・極端な速度・高速での大きな跳躍・長時間の早い同音連打・幅の広い対位法的旋律の維持などが要求される。そのような彼の音楽は「恐ろしく」また「演奏不可能なほど」難しいとも評されてきた[8]。ピアニストのマルカンドレ・アムランはこう述べている。

アルカンという作曲家を知らずにその音楽を始めて耳にした時にほとんどの人がそう感じるだろうが、アルカンの音楽は難しすぎて演奏できないという一面を持っている(中略)しかしある意味では、私は彼の音楽が法外な技巧を用いているわけではないと思っている(中略)アルカンの非常に価値ある音楽は、それらの困難を克服するに足るものなのだ。


代表作には練習曲『鉄道』 (Op.27) 、大ソナタ『四つの時代』 (Op.33) 、長短全調からなり超絶的技巧を要する練習曲(長調のOp.35と短調のOp.39)などがある。Op.39の4・5・6・7番は『独奏ピアノのための交響曲』、また8・9・10番は『独奏ピアノのための協奏曲』と銘打たれている。

とはいえアルカンには室内楽作品もあり、ヴァイオリンソナタ・チェロソナタ・ピアノ三重奏曲などがそれにあたる。中でも最も異様なのは「ある鸚鵡の死によせる葬送行進曲 (フランス語: Marcia funebre, sulla morte d'un Pappagallo)」(1859年)であり、3つのオーボエとファゴット、声楽のための曲である。

音楽的に、彼の発想の多くは型にはまらず、斬新ですらあった。多楽章制の作品では、後にデンマークの作曲家であるニールセンによく見られるような発展的調性(英語版)を採っている。例えば、『四つの時代』はニ長調に始まり嬰ト短調の終結に至る。彼は厳格にエンハーモニックの使用を避け、転調を行う際はダブルシャープやダブルフラットを用いた。そのため、ピアニストはしばしば見慣れない調性であるヘ長調のエンハーモニックである嬰ホ長調や、トリプルシャープなどの記号に遭遇することになる[注 9]。

後年になると高度な技巧を駆使した大規模形式による作品からは手を引き、『エスキス集 Op.63』に代表される小品集においてピアノの語法を探究した。この作品集では、ユダヤ教の教会旋法・半音階による無調的表現・トーン・クラスターなどの野心的なピアノ書法特徴的が見られる。また、シューマン、リスト、グノーらと同様にペダル・ピアノにも関心を持ち、作品をいくつか残している。1855年にはエラール社のペダル・ピアノ(ペダリエ)を公衆の前で実演した[23]。 彼はまた、1886年に作成した遺書においてこの楽器のためのコンクールを創設するため遺産から800フランを寄附することを希望している[24]。


受容
死後、彼の作品は20世紀の初めごろまではフェルッチョ・ブゾーニやハロルド・バウアーなどのヴィルトゥオーゾ・ピアニストたちに取り上げられていた。再評価の機運が高まってきたのは1970年代末からである。1977年にイギリスで、1984年にフランスでアルカン作品の普及を目的としたアルカン協会が設立されたことは、この動きを象徴するものである。ロナルド・スミスによる『短調による12の練習曲』の全曲録音は発表当時大きな話題になった。その後マイケル・ポンティによる『短調による12の練習曲』抜粋の録音、金澤攝による1984年の全曲演奏とジャック・ギボンズ(英語版)による1995年の全曲演奏が共にライヴでなされ、この頃からマイナーレーベルの注目を集めるようになった。現在ではマルカンドレ・アムラン、スティーブン・オズボーン(英語版)、ステファニー・マッカラム(英語版)、森下唯、飯坂健、ローラン・マルタン(英語版)、ヴィンチェンツォ・マルテンポ(英語版)、マーク・ヴァイナー(Mark Viner)らのピアニスト達が普及に努めている。2011年にはアテネでもジメルマン=アルカン国際音楽協会が設立され、2012年4月にはヨーロッパ各地から参加したピアニストたちがアルカン作品を演奏したピアノコンクールが開催されたが[25]、このコンクールは閉会している。

作品一覧

ピアノ独奏曲

Op.1 シュタイベルトの主題にもとづく変奏曲
Op.2 乗合馬車 変奏曲 ハ長調
Op.3 ロンドレット「小さな男がおりました」
Op.4 華麗なロンド
Op.5 ロンド「私は町の何でも屋」―ロッシーニの『セビリアの理髪師』のアリアより
Op.10a 室内協奏曲第1番 (ピアノ独奏版)
Op.12a 半音階的なロンド
Op.12b 3つの華麗なる練習曲
Op.13 3つのロマンティックなアンダンテ
Op.15 3つの悲愴的な様式による3曲 第一曲「我を愛せよ」 第二曲「風」 第三曲「死んだ女」
Op.16 3つのスケルツォ
Op.16-4 ドニゼッティの歌劇『アンナ・ボレーナ』より 「ああ! 死刑は決まった」によるピアノのための変奏
Op.16-5 ベルリーニの歌劇『カプレーティとモンテッキ』のアリア「恐ろしい復讐の剣を」によるピアノのための変奏
Op,16-6 ナポリの舟歌による幻想的変奏曲
Op.17 演奏会用練習曲「騎士」
Op.22 夜想曲 第1番
Op.23 サルタレロ ホ短調
Op.24 ジーグと古い形式によるバレエの音楽
Op.25 アレルヤ
Op.26 葬送行進曲
Op.27a 凱旋行進曲
Op.27b エチュード「鉄道」
Op.29 エチュード 「オーヴェルニュ地方のブーレ」
Op.30b 無窮動――ピアノトリオの終楽章より
Op.31 短調と長調による25の前奏曲
Op.32a 即興曲集第1集
Op.32b 3つの5拍子の歌と1つの7拍子の歌 即興曲集第2集
Op.33 グランドソナタ
Op.34 スケルツォ・フォコーソ
Op.35 全ての長調による12の練習曲
Op.37 3つの騎兵隊行進曲
Op.38-1 歌曲集第1集
Op.38-2 歌曲集第2集
Op.39 全ての短調による12の練習曲
Op.41 3つの小さな幻想曲
Op.42 和解―小さなカプリス
Op.45 貧しき者の亡骸に幸いあれ!
Op.46 ドイツ風メヌエット
Op.50 奇想曲-軍隊風に
Op.50bis 戦場の太鼓
Op.51 3つのメヌエット
Op.52 バビロンの流れのほとりで―詩篇137からのパラフレーズ
Op.53 狩りの如く―カプリス
Op.55 打ち上げ花火 ―序奏と即興
Op.57-1 夜想曲 第2番
Op.57-2 夜想曲 第3番
Op.60-1 「私の大切な自由―ピアノのための小品」
Op.60-2 「私の大切な束縛―ピアノのための小品」
Op.60bis 夜想曲 第4番 「蟋蟀」
Op.61 ソナチネ
Op.63 48のモチーフ集―エスキス
Op.65 歌曲集第3集
Op.67 歌曲集第4集
Op.70 歌曲集第5集
Op.74 12の性格的な小品
Op.75 小トッカータ
Op.76 片手ずつと両手のための3つの大練習曲


作品番号無し

アパッショナート
空想 ロ短調
「脱帽!」―空想 第2番
幻想曲「欲望」
練習曲「野蛮に」
練習曲 ニ長調
アルカンの練習曲
胸騒ぎ イ長調
ソルツィーコ―イベリアの踊り ニ短調
プチ・コント 変ホ長調
24小節の無限カノン
「修道女ちゃんの後悔」―ピアノのための小さな調べ
ドニゼッティの歌劇『愛の妙薬』[パリ伯爵ウーゴ] によるヴィエル風変奏曲
音楽院の演奏会の思い出(ピアノ用編曲集)
音楽院の演奏会の思い出(第2集)

管弦楽曲
交響曲(未出版)

協奏曲
室内協奏曲 Op.10
第1番…ピアノと管弦楽
第2番…ピアノと弦楽合奏

室内楽曲
華麗なロンド Op.4…ピアノ五重奏
協奏的大二重奏曲 Op.21…ピアノとヴァイオリン
ピアノ三重奏曲 Op.30
演奏会用ソナタ Op.47…ピアノとチェロ


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%AB%EF%BC%9D%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%B3

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/853.html

[近代史6] シャルル・ヴァランタン・アルカン 全ての短調による12の練習曲 Op.39
シャルル・ヴァランタン・アルカン 全ての短調による12の練習曲 Op.39


Vincenzo Maltempo plays Alkan: 12 Études dans tous les tons mineurs Op 39 (Complete)



This monumental recital was recorded on 2nd November 2013 in Yokohama, Japan.


0:53 No.1 en la mineur "Comme le vent"
5:38 No.2 en re mineur "En rythme molossique"
14:47 No.3 en sol mineur "Scherzo-diabolico"
20:50 No.4 en ut mineur "Symphonie,1er mouvement : Allegro"
32:26 No.5 en fa mineur "Symphonie, 2eme mouvement : Marche funebre"
40:09 No.6 en si bémol mineur "Symphonie,3eme mouvement : Menuet"
45:52 No.7 en mi bémol mineur "Symphonie,4eme mouvement : Finale"
51:30 No.8 en sol dièse mineur "Concerto,1er mouvement"
1:20:59 No.9 en ut dièse mineur "Concerto, 2eme mouvement"
1:33:47 No.10 en fa dièse mineur "Concerto, 3eme mouvement"
1:45:01 No.11 en si mineur "Ouverture"
2:00:10 No.12 en mi mineur "Le festin d'Esope"



12 Etudes in All the Minor Keys, Op. 39 (Alkan) - Sheet Music



1. Comme le Vent - 0:00
2. En rhytme Molossique - 4:06
3. Scherzo-diabolico - 12:23


- Symphony for solo piano -
4. First Movement - Allegro Moderato - 16:01
5. Second Movement - Marche funèbre (Andantino) - 26:47
6. Third Movement - Menuet - 32:40
7. Finale - Presto - 38:20


- Concerto for solo piano -
8. First Movement - Allegro Assai - 42:55
9. Second Movement - Adagio - 1:08:54
10. Third Movement - Allegretto alla barbaresca - 1:18:58


11. Overture (Maestoso-Lentement-Allegro) - 1:28:36
12. Le Festin d’Ésope - 1:41:15



アルカン, シャルル=ヴァランタン: 全て短調による12の練習曲,
Op.39 3. ト短調 悪魔的スケルツォ;出来る限り速く
Pf.ヴィンチェンツォ・マルテンポ:Maltempo,Vincenzo




アルカン, シャルル=ヴァランタン: 全ての短調による12の練習曲,
Op.39 12. ホ短調 イソップの饗宴 
Pf.ヴィンチェンツォ・マルテンポ:Maltempo,Vincenzo






▲△▽▼


短調による12の練習曲(Douze études dans tous les tons mineurs)作品39は、シャルル=ヴァランタン・アルカンによって作曲され、1857年に出版されたピアノのための練習曲集。全12曲からなり、フランソワ=ジョゼフ・フェティスに献呈された。


タイトル通り全12曲が短調で構成され、「長調による12の練習曲」作品35と対を成している(こちらもフェティスに献呈されている)。


楽曲
イ短調に始まり、下降五度循環によりニ短調、ト短調…変ホ短調、嬰ト短調(=変イ短調)を経て最後にホ短調となる。


第1番 イ短調 あたかも風のように(Comme le vent)プレスティッシマメンテ
第2番 ニ短調 モロッソのリズムで(En rythme molossique)リゾルート
第3番 ト短調 悪魔のスケルツォ(Scherzo-diabolico)プレスティッシモ
第4番 ハ短調 ピアノ独奏による交響曲(Symphonie pour piano seul)第1楽章 アレグロ・モデラート
第5番 ヘ短調 ピアノ独奏による交響曲 第2楽章 アンダンティーノ
第6番 変ロ短調 ピアノ独奏による交響曲 第3楽章 メヌエットのテンポで
第7番 変ホ短調 ピアノ独奏による交響曲 第4楽章 プレスト
第8番 嬰ト短調 ピアノ独奏による協奏曲(Concerto pour piano seul)第1楽章 アレグロ・アッサイ
第9番 嬰ハ短調 ピアノ独奏による協奏曲 第2楽章 アダージョ
第10番 嬰ヘ短調 ピアノ独奏による協奏曲 第3楽章 蛮族風のアレグレット
第11番 ロ短調 序曲(Ouverture)マエストーゾ―レンテメンテ―アレグロ
第12番 ホ短調 イソップの饗宴(Le festin d'Ésope)アレグレット


楽曲(詳細)
『長調による12の練習曲』が全曲で1時間程度(フランツ・リストの『超絶技巧練習曲』などと同等)であったのに対し、この作品は全曲を演奏すると約2時間を要する、破格の規模を持つ巨大な曲集であり、またアルカンの培ってきた音楽語法やピアノ書法の一つの集大成とも言える作品である。森下唯は、「ピアノ表現の限界と、そしてまた自身の音楽表現の限界をも目指した」曲集と形容し、それが『練習曲』と題されていることについて「技巧そのものが音楽となり、音楽そのものが技巧となる、そんな究極の名技性の体現を目指したアルカンの誇りに満ちた宣言」と分析している。


『交響曲』や、『協奏曲』、『序曲』といった題名を見てわかるとおり、この曲集の特徴の一つとなるのが、ピアノによるオーケストラの響きの再現である。オーケストラ作品を思わせる指示もたびたび見られ、例えば第8番から第10番の『協奏曲』では、「ピアノソロ」と「トゥッティ」が書き分けられている。


演奏機会の多いとはいえないアルカン作品の中では、代表作として比較的取り上げられる機会も多く、全曲録音はロナルド・スミス、ジャック・ギボンズ(英語版)、ミヒャエル・ナナサコフ(自動演奏)、ステファニー・マッカラム(英語版)、ヴィンチェンツォ・マルテンポ(英語版)、森下唯[1]が達成し、エゴン・ペトリ、ジョン・オグドン、レイモンド・レーウェンタール(英語版)、ベルナール・リンガイセン(英語版)、中村攝、マルカンドレ・アムランなどが抜粋を録音している。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%AD%E8%AA%BF%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B12%E3%81%AE%E7%B7%B4%E7%BF%92%E6%9B%B2

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[近代史6] フランソワ=ジョセフ・ゴセック(François-Joseph Gossec,1734 - 1829)
フランソワ=ジョセフ・ゴセック(François-Joseph Gossec,1734 - 1829)

ガボット
4.0点
CMなどでよく使われており誰でも聞いたことがある曲。軽快で楽しい。

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%281889%E5%B9%B4%E3%81%BE%E3%81%A7%29

フランソワ=ジョゼフ・ゴセック(François-Joseph Gossec,1734年1月17日 - 1829年2月16日)は、フランスで活躍したベルギー出身の作曲家[1]・指揮者。長い生涯の間に、バロック音楽の終焉から初期ロマン派音楽の勃興までに遭遇した。

現在では一般的にヴァイオリンのための愛らしい小品「ガヴォット」1曲によって知られている。彼は交響曲の大家で30曲近くを書いた。パリ音楽院創立の際、作曲の分野における教授として招かれ、教育家としての実績もある。今となっては彼の存在は埋もれてしまったという感があるが、「フランス交響曲の父」としてその業績は忘れがたいものがある。共和政・帝政時代の革命歌の作曲家としても歴史的に名を残している。


生涯と作品
オーストリア領ネーデルラント(現在のベルギー)の中にあったフランスの飛び地であるエノー州のヴェルニー村(Vergnies)の小さな農家に生まれる。幼児期から音楽への強い志向を見せ、アントウェルペンの聖歌隊員に加わる。1751年にパリに行き、ジャン=フィリップ・ラモーに見出される。ラモーの裕福なパトロン、ラ・ポプリニエールの私設楽団の指揮者に任命され、フランスで器楽曲の研究をやり直すべく決心する。

1754年に最初の交響曲が上演される。ゴセックはコンデ公のオーケストラの指揮者として、いくつかのオペラや自作を上演する。目覚しい成功によってフランス音楽に自らの影響力を見せ付けた。1760年に、1時間半を要する大作の《レクィエム》を初演すると、一夜にしてゴセックの名は有名人の仲間入りを果たした。この作品を称賛したモーツァルトは、1778年のパリ滞在中にゴセックを訪ねて、会見記を父親に書き送った。曰く、「とてもいい友人になりました。とても素っ気ない人でしたが。」

ゴセックは1770年に「コンセール・デ・ザマトゥールConcert des Amateurs 」(愛好家のための合奏団の意)を設立し、1773年にはシモン・ルデュックやピエール・ガヴィニエスとともに「コンセール・スピリテュエルConcert Spirituel 」を再編成した。この演奏会のシリーズでゴセックは、自作の交響曲だけでなく、同時代人、とりわけハイドンの作品を指揮したので、ハイドン作品は次第にパリで人気となり、ついにはゴセックの交響楽を凌ぐに至った。

1780年代にゴセックは交響曲の作品数を減らしてゆき、オペラに集中するようになる。1784年に「エコール・ドゥ・シャンÉcole de Chant 」(唱歌伝道所の意)を設立、フランス革命の際には、エティエンヌ・メユールとともに救国軍の楽隊指揮者を務め、1795年にパリ音楽院が設立されると、ルイジ・ケルビーニと、そしてまたもやメユールとともに、視学官に任命された。フランス学士院の最初の会員に選ばれるとともに、レジオンドヌール勲章を授与されている。

1815年にワーテルローの戦いでナポレオンが敗北すると、ルイ18世によってパリ音楽院はしばらく閉鎖に追い込まれ、81歳のゴセックも引退を余儀なくされた。音楽院近くで年金暮らしを続けながら、最後の作品となる3曲目の《テ・デウム》の作曲に1817年まで取り組んだ。

フランスの外ではほとんど無名であり、おびただしい数の作品は、宗教音楽も世俗音楽もともに、同時代の、より有名な作曲家の陰に隠れていった。それでもゴセックは多くの者にとって、器楽曲復興の強力な立役者だった。

ゴセックはパリ郊外のパシー(Passy)に没した。葬儀には、かつての同僚ケルビーニも駆けつけた。墓はペール・ラシェーズ墓地にあり、グレトリと、かつての盟友メユールのそばに葬られた。


作品
ゴセックは、ロマン派音楽の時代における、オーケストラの拡張や上演における起用人員の膨張傾向、ステージ上・ステージ外における空間配置へのこだわりなどを先取りしている。それは、ゴセック独りのうちで一過性に終わったというより、ベルリオーズを通じて、その後の、とりわけドイツ・ロマン派音楽の展開に影響を与えたというべきかも知れない。ゴセックの《テ・デウム》は、1200人の歌手[2]と300人の吹奏楽を必要としており、いくつかのオラトリオは、複数の合唱の物理的な配置と分割が指示され、しかもステージの陰には、聴衆から見えない合唱隊も使われている。《共和政の勝利Le Triomphe de la République 》や《自由の賜物L'Offrande à la Liberté 》のようなフランス革命賛美の作品もいくつか遺した。


管弦楽曲

いくつかの楽器のための6つの交響曲Sei sinfonie a più stromenti 作品4 (1759年)
いくつかの楽器のための6つの交響曲Sei sinfonie a più stromenti 作品5 (1761年)
6つの交響曲Six Symphonies 作品6 (1762年)
大管弦楽のための6つの交響曲Six Symphonies à grand orchestre 作品12 (1769年)
2つの交響曲Deux symphonies (1773年)
交響曲 第1番Symphonie n° 1 (1771年頃〜1774年)
交響曲 第2番Symphonie n° 2 (1771年頃〜1774年)
交響曲 ヘ長調Symphonie en fa majeur (1774年)
狩の交響曲Symphonie de chasse (1776年)
交響曲 ニ長調Symphonie en ré (1776年)
'交響曲 ニ長調'Symphonie en ré (1777年)
いくつかの楽器のための協奏交響曲 第2番Symphonie concertante en fa majeur n° 2, à plusieurs instruments (1778年)
管楽器のための交響曲 ハ長調Symphonie en do majeur for wind orchestra (1794年)
17声部の交響曲 ヘ長調Symphonie à 17 parties en fa majeur (1809年)


吹奏楽曲
葬送行進曲Marche lugubre (1790年)
軍隊交響曲ヘ長調Sinfonia militaire (1793年)
行進曲「帝国の護り」Garde impériale


室内楽
ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタSei sonate a due violini e basso 作品1 (1753年頃)
フルート四重奏曲集Sei quartetti per flauto e violino o sia per due violini, alto e basso 作品14 (1769年)
6つの弦楽四重奏曲Six Quatuors à deux violons, alto et basse 作品15 (1772年)


声楽曲・合唱曲
死者のためのミサ曲Messe des morts (Requiem) (1760年)
降誕祭La Nativité, oratorio (1774年)
テ・デウムTe Deum (1779年)
Te Deum à la Fête de la Fédération for three voices, men's chourus and wind orchestra (1790年)
Hymne sur la translation du corps de Voltaire au Panthéon for three voices, men's chourus and wind orchestra (1791年)
7月14日の歌Le Chant du 14 juillet (Marie-Joseph Chénier) for three voices, men's chourus and wind orchestra (1791年)
Dernière messe des vivants, for four voices, chorus and orchestra (1813年)


歌劇
漁師たちLes pêcheurs, opéra comique en 1 act (1766年)
共和制の勝利Le triomphe de la République, ou Le camp de Grandpré, divertissement-lyrique en 1 acte, (Chénier) (1794年)

代表曲
ガヴォット ニ長調
歌劇『ロジーヌ』(Rosine, ou L'épouse abandonnée, 1786年)の中の曲を、ウィリー・ブルメスターがピアノ伴奏つきのバイオリン独奏曲に編曲したもの。ゴセックの曲としては日本では最も有名。高度な演奏技巧を必要としないが、明るくかわいらしい表現にあふれ、旋律も覚えやすく、口ずさみやすい。4分の4拍子、三部形式の形をとっている。単純なピアノ伴奏の上に、スタッカートを取り入れた旋律で曲は始まる。中間部は二重把弦による優雅な旋律に変わり、最後にスタッカートを取り入れた第1部を再現させる。本来、ガヴォットは弱拍(3拍目)から始まるが、この曲は強拍(1拍目)から始まるのが特徴。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%AF%EF%BC%9D%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%82%BB%E3%83%83%E3%82%AF
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/855.html

[近代史6] フランソワ=ジョセフ・ゴセック ガヴォット ニ長調
フランソワ=ジョセフ・ゴセック ガヴォット ニ長調


Gavotte · Mischa Elman & Joseph Seiger




Mischa Elman - Gossec Gavotte in HD




Mischa Elman plays Gossec's Gavotte






Gossec: Gavotte · Kyung Wha Chung · Phillip Moll
℗ 1987 Decca Music Group Limited



▲△▽▼


ガヴォット(Gavotte)ニ長調は、フランソワ=ジョセフ・ゴセックが作曲した小曲。日本では今日、作曲者の最も有名な作品となっている。


ガヴォットはオペラやバレエに取り入れられたことから有名になり、多くの作曲家が取り上げたが、ゴセックのガヴォットが最も有名である。この作品はゴセックが作曲したオペラ『ロジーヌ』の中の旋律をもとにしたヴァイオリンと管弦楽のための曲で、単純な伴奏の上にスタッカートで歌われる旋律がいかにも愛らしい。


本来はヴァイオリンと管弦楽で演奏されるが、ヴァイオリンとピアノの編成の方がよく演奏される。また、テレビやCMなどで使われることが多い。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%83%E3%83%88_(%E3%82%B4%E3%82%BB%E3%83%83%E3%82%AF)

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/856.html

[近代史5] 「ママ、死にたい」自慰行為強要、わいせつ画像拡散…氷点下の旭川で凍死した14歳女子中学生への“壮絶イジメ” 中川隆
335. 中川隆[-16073] koaQ7Jey 2021年10月07日 20:52:20 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[28]
旭川市レストランで会計をした少女はやはり財布を持っていなかった・・・
2021/10/07



http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/591.html#c335
[近代史5] 旭川では町ぐるみで女子中学生に強制売春をさせている? 中川隆
256. 中川隆[-16072] koaQ7Jey 2021年10月07日 20:53:23 : eAnA8vXCag : a3JobkR2NS41a00=[29]
旭川市レストランで会計をした少女はやはり財布を持っていなかった・・・
2021/10/07



http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/598.html#c256
[番外地9] 日本陸軍将校が批判していたのはリベラリズム・新自由主義・帝国主義だった 中川隆
1. 中川隆[-16071] koaQ7Jey 2021年10月08日 05:02:48 : OQtwHPKyGw : cy9paXN5QjZ1RGM=[2]
国粋主義者や日本陸軍の将校が批判していたのはリベラリズム・新自由主義・帝国主義で、右翼・保守は共産主義者と何も変わらなかった
JPモルガンやロックフェラーの様な国際金融資本が日本陸軍将校の敵だった:
昭和天皇は戦後の学生運動と戦前の2・26事件を全く同じものだと見做していた
大学生を青年将校と重ね合わせる昭和天皇
昭和25年7月10日の拝謁では、昭和天皇が「共産党の大学生ニ 動機の純眞なるものがあるとの議論ニ非常ニあぶないので 永田鉄山問題でも動機云々(うんぬん)を口実ニ 刑ニハ処しても 甚しく軽きに失し 又他の場合ニハ動機のよきを口実ニ不問に附した事もあり かゝる風が遂に大平洋戦争(原文ママ)を起す事となつた事故 青年将校と大学生との差だけであつて 危険ハ同じ事だ」と述べたと記され、学生運動に参加する大学生を戦前の青年将校と重ね合わせていたことがうかがえます。

「私は実ニ心配しているのだが…」
また、昭和26年12月9日の拝謁では「所謂(いわゆる)反米思想が一般ニある程度あるは已(や)むを得ぬも それニ乗じて共産のものが共産主義の為に美名を平和とか戦争反対とかいつて色々やるのは困つたものだ、これハ丁度(ちょうど)戦前ニ軍閥者が 忠君愛国といふやうな当時ニあつては一寸 文句のいへぬ事を看板ニして戦争へと かりたてたのと同じであつて誠に困つた事だ」と語ったと記されています。

また、サンフランシスコ平和条約が発効し独立を回復する10日前、昭和27年4月18日の拝謁では、昭和天皇は「私は実ニ心配しているのだが 戦争前の状況といふか、大正末期から昭和の始めへかけての社会の有様と最近ハ非常に似てると思ふ。国会は矢張り其頃と実際少しも変りなく、国家社会より党の事を考へたやうな様子でその言論や実勢力を行ひ、政府側の答弁も責任逃れのやうな事ばかりで慨(なげか)ハしい有様ハ 先つ(さっ)きいつた頃と少しも違いない」と述べ、政治家が党利党略で動き国会で責任逃れの答弁する状況も戦前に似ているという認識を示したことが記されています。

そして、「あの頃ハ 血気ニはやる青年将校を此等の事情が刺戟(しげき)して 段々さはぎを大きくしたが、今はこれがソ連の手ニのせられて共産的ニなるか、又は反動として右翼的の戦前と同じ様なものが出現するか、世相ハ誠ニ私ニは憂慮すべきもので、その前徴は歴々あらはれてると私は思ふ」と語ったと記されています。

そのうえで、「蟻の穴から堤が切れるとか、塵もつもれば山といふ諺がある。今私ハその徴候を充分認める。これは過去の過ちを再びせぬと限らぬ徴候だ。まだ徴候の内ニ手を打たなければ、そして重病ニなつては名医も及ばぬ 今の内ニ警告して何とかすればどうかなると思ふが 時機を失しては駄目だ」と危機感をあらわにしたと記されています。
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/867.html#c1

[番外地9] GDP が増えると賃金が増えないまま物価だけ上がるので、労働者が貧しくなりマルクスが預言した階級社会が完成する
橋洋一の話は大昔の経済理論で現代では通用しない
日銀金融緩和で、消費者物価は下がっているが、生活必需品の価格は上がっていた
需給で大事なのは生活必需品の需給だけ、不要品や高級品まで入れたすべての商品の需給に意味は無い
労働生産性、GDP、需要・供給とか消費者物価指数は経済指標としては使えない
労働生産性というのは賃金額の事だよ、地方の生産性が低いというのは地方の賃金が安いというだけの事だ。
GDPというのは企業や金持ちの所得の事だ、労働者の所得とはあまり関係しない。
やっても やらなくてもいい仕事ばかりの需要・供給は生活必需品の需要・供給とはあまり関係しない。
消費者物価指数というのは高級酒や高級車や贅沢品の価格を反映する物価で、生活必需品の価格とはあまり関係しない。

従って、労働生産性、GDP、需要・供給とか消費者物価指数は経済指標としては使えないのです。

金利が上がらないのは日本だけでなく世界中で起きている現象で、階級社会が完成して内需が壊滅したのが原因です。
奥の院は今 資本主義をグレートリセットして地球人口を3億人まで減らそうとしています。

これから起きるのは共産革命か?、グレートリセットか?

資本主義というのは投資してその利子や配当で稼ぐシステムですが、今は世界中ゼロ金利になっているので、投資では稼げない、つまり資本主義システム自体が世界中で既に破綻しています。

理由は明らかで、国債には利子が付いていて、その金はすべて資本家の所に行くので、格差が開いてマルクスが預言した階級社会になってしまったのです。そうすると内需が壊滅して、新規事業しても稼げないので銀行から金を借りる人が居なくなる、それで金利がゼロなる。
これからは世界中で共産革命の嵐が吹き荒れる時代になります。今世界の支配層が取り組んでいるグレートリセットというのは、共産革命を起こしそうな人間をすべてデジタル管理して、反体制活動を始めたらすぐに抹殺するシステムです。

今は世界中が階級社会になってしまって内需が壊滅したので資本主義の時代はもう終わったと言われています。
銀行から金を借りて新規事業をやっても儲からないですからね。
それで資本主義のグレートリセットをやらないといけないという結論になったのです。

▲△▽▼

人口100人の青い目の人達の村 _ 資本主義村があった。
4人の資本家に支配された労働者庶民96人が住んでいた。
資本家の年俸は2億円、残りの庶民は年俸200万円
全体で9億9200万円の紙幣が循環していた。
資本主義村 では、自動車は6〜7台しか売れず、他の者は自転車だった。
暴動や略奪や薬物中毒・犯罪が頻繁に起こっていて
ズタズタなスラム社会になった。

その村の隣に、共産主義村という人口100人の島国があった。
20人の知恵者をリーダーとした職人庶民80人いた
リーダーの年俸は1440万円、残りの職人は年俸500万円
全体で 資本主義村 より少しすくない6億8800万円の紙幣が循環していた。
その村では、自動車は100台売れた。 自転車も売れた。
あらゆる産業が学問が医療が社会福祉が発展し
インフラが整備されていき、すばらしい街を形成していった。

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GDPが増えても国民は豊かにならない
GDP が増えると賃金が増えないまま物価だけ上がるので、労働者が貧しくなりマルクスが預言した階級社会が完成する
日本を始めとして世界中で”親世代より貧しい子供世代”に入っていて、韓国もご多分に漏れず子供世代が貧しい。
先進国で初めてこうなったのはおそらく1980年代以降のアメリカで、マイホームが買えなくなった。
アメリカは1950年代が絶頂期で(裕福な白人家庭は)7リッターの大型車を乗り回し、芝生やプール付きの家を所有していた。

当然未来のアメリカはもっと豊かになると想像していたが、子供や孫の世代になるほど貧困化している。
アメリカは60年代、70年代、80年代と不況が続き、やっと好景気になった90年代は以前とは違っていた。
前の好景気では労働者の所得が増え、自動車工場の従業員は自分が作った車を買うことが出来た。

だが90年代以降の好景気では労働者の給料はあまり増えず、資産価値だけが増加しました。
つまりお父さんの給料は30万円で変わらないのに、株価や地価やビットコインだけが値上がりしました。
値上がりした株やビットコインでGDPは上昇するので、物価も資産上昇につれて上昇しました。
だが物価が上昇してもお父さんの給料は30万円のままなので、労働者家庭はどんどん貧困化しました。

統計によるとアメリカの中産階級は1980年代から貧困化していて、中産階級から貧困階級に転がり落ちる人が多い。
こうした例を日本に当てはめるまでも無く、労働者の所得は減り資産だけが増え日本人は『貧困民族』になりました。

資産価値上昇が日本人を貧困にしている。
個人資産が1500兆円とか2000兆円という数字を聞いたことがあると思いますが、アレが増えれば増えるほど日本人は貧困になります。
なぜなら汗を流して働いた人の給料は減り続け、働かずに土地や株を所有する人の収入が増え続けるからです。
多分あなたは週5日以上、一日8時間以上働いているが、収入は増えていないのではないでしょうか?
ところが資産を保有している人は1年に1日も働いていないのに、資産が倍になったりしています。
資産価値が上昇した分日本のGDPが増えたことになり物価が少し上がるので、労働者は毎年貧しくなります。
これが安倍、小泉や自民党政権が20年やった事だが、自民党のせいというほど話は単純ではない。

欧米や中韓ロですらそうなっていて、労働者の給料は実質減り続けて、不労者である資産階級だけが収入を増やしている。
この原因が資産価値の上昇で、マネー経済ともバブル経済とも言います。
労働価値は変わらないのに株やビットコインや地価だけが上昇する社会は労働者にとって地獄の世界になります。
そして世界中が地獄化しているのです。


日銀金融緩和で、消費者物価は下がっているが、生活必需品の価格は上がっていた
https://www.youtube.com/watch?v=20L9UD0qtwc

中国の元高為替操作によるコストプッシュ インフレが始まった
日本にも悪性の物価上昇が迫っている!
https://www.youtube.com/watch?v=ZhTgq_eGaI4

橋洋一も少し位は見習ったら

大西つねきがやろうとしていること
https://www.youtube.com/watch?v=Z0aesmYcl0U
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/869.html

[番外地9] ミテ子さんのカッコウ(鳥)疑惑
天皇家は完全フリーセックスの伝統があるから男系に意味は無いんだよ
ミテ子さんのカッコウ(鳥)疑惑はかなり前から一部で噂になっていましたが、もっと凄いのがありまして盗宮出産後も皇太子を騙して男性と密会していた。(たぶん婚活パーティーの仲間)それが昭和帝の怒りをかい死ぬようなリンチを受けた。
表面上は流産だが実は…喜久子妃の言葉が苛めの一つとして伝わっていますが、皇太子以外ミテ子にされた仕打ちは知っていた。
ミテ子はヒステリーで発狂して手の施しようがなく別荘に篭って落ち着くのを待った。
真相は…若くして二度と子を産めなくされたこと。
昭和帝のご長女様が若くしてガンで亡くなった直後にミテ子は一家でリゾートに旅行し、あろうことか長女を亡くしてふさぎ込む香淳皇后に皇室のクレームをつけています。
盗宮を生んだミテ子さんは調子に乗りすぎて香淳皇后をないがしろにする態度がひどく目に余るようになり、昭和帝はリンチを命じたのだろうと伝わっています。
その後ミテ子さんは甲状腺の病気を発症してどんどん痩せて…顰蹙を買いながら昭和帝が亡くなるのを待って自分らの代になり…今に至るところでしょう。

旧宮家関係もミテ子さんのカッコウや別腹説やリンチは知っているでしょうが内々でしか話さない。

ミテ子は面倒なキャラクターだから。闘争か何だか知りませんが、清浄な中に土足で入って行って何もされないのがどうかしています。皇室を舐めてかかったミテ子さんと取り巻きが甘かったのでしょう。排除されても仕方がない事です。

≪私の返事≫
貴重な情報有難うございました。驚くべきことがあったんですね。
美智子が、徳仁ばかり可愛がって、文仁親王や、清子様に冷たい意味がよくわかりましたよ。自分の産んだ子が徳仁だけだから、愛子を女帝にと固執するのがよくわかりました。たとえ東宮は自分の腹を痛めた子でも、東宮ほど両親にも、兄弟にも、祖父母にも、母方の祖父母や叔父叔母にも似ていないのが昔から不思議でした。

私が、一部知っていたのは「美智子さんが、流産し、その時誰かから嫌みを言われたので、狂乱状態になり、拘禁服を着せられて、葉山の御用邸にいかれ、2,3か月療養されたとのこと。

何故流産ぐらいで発狂し、拘禁服を着させられたかが疑問でしたが、F氏の証言で腑に落ちました。侍従らに折檻されて、「石女(うまずめ)」にされたんですね。びっくりしましたが、表面に出ないだけで、皇室内の折檻というのは、昔からあったのではないでしょうか?

江戸時代、武家の家では妻が浮気すると、間男を捕まえ、二人を裸にして、女を上に乗せ、一太刀で真っ二つにしたそうです。

「姦婦姦夫の重ね斬り」と言います。普通の武家の家でそうですからね。

2800年続く、世界最古の王家で、しかも世界最高権威をもつ日本の天皇家に、史上初めて民間から入内した嫁が、人の良い皇太子を騙して、東宮出産後も間男と「昼下がりの情事」を楽しむなんて、戦前は大日本帝国の大元帥のヒロヒトとして、世界から恐れられた、気性の激しい昭和天皇を激怒させたのです。

「殺されなかっただけ感謝しろ」の話ですよ。

ロミオとジュリエットの様に、皇太子が熟睡した深夜、東宮御所の外の森で、逢引するぐらいなら未だ可愛げがありますが。白昼堂々ですからね。婚約交渉の時、母親の富美子が、昭和天皇に散々の悪態をつき、記者のカメラが向くと決まって不機嫌な表情をする。母親のこうした「日本人離れした」態度を見て、美智子も横着になったんでしょう。

ある皇室ブロガーさんの豊富な写真を見ると、ナルへの溢れんばかりの愛を隠さない美智子さんと、無視された無念さをかみ殺す文仁親王と複雑な表情の清子内親王の対照的な姿。

★お土産をなるの分しか用意しなかった用意しなかった正田富美、用意がいいですね(笑)ある意味、托卵を積極的に仕組んだのはこの母親です。娘が折檻されることも計算のうちだったかもしれません。

正田富美(旧姓副島、上海生まれの佐賀人;本籍多久市)のこの天皇家に対するあくなき敵意、婚約交渉中の昭和天皇に対する発言、天皇家を「あちらよばわり」「婚約はストラングル(闘争)です」、婚約後の会見で不機嫌そうに「最良の結婚と最適な結婚は違うんですよ」等々、

少なくとも武家の家柄(副島氏は多久藩2万石の下級武士)では口を裂かれても言えない言動です。どうさかさまから見ても朝鮮人です。しかも夫の正田英三郎は出自は部落民です。

石高2万石と言えば、旧日本陸軍の研究では、1万石で兵士250人、2万石だから、武士階級は500人いるかいないかの超小藩です。特に本藩の佐賀藩は、支藩に対する搾取がきつく、特に多久は、鍋島家の元主家竜造寺家(家老鍋島直茂は主人の竜造

寺家を乗っ取った)の藩ですから、搾取はより一層きつかったらしいです。

ですから、多久の下級武士は相当生活が苦しかったはずです。維新後、副島家からは、ブラジル移民も出ましたが、普通の武士階級では海外移民などいきませんよ。平民以下の人が多かったのです。

加えて戦中上海生まれとする自称日本人には在日朝鮮人がいます。

元総理の鳩山由紀夫の妻、鳩山幸が両親とも在日朝鮮人でした。なんせ、戦前は各国の租界が有り、列強の謀略戦が繰り広げられ「魔都」と呼ばれた上海ですから、日本人と

言っても疑ってかかるのが正解です。

昭和天皇は嫁が産んだ男子が、長男の子ではない、浮気相手の男の子だという事を直観的に感ずいていたのでしょう。

カッコウの雛鳥には「徳仁」の「徳」という、最も不吉な文字を付けました。

私はこれは昭和天皇が行った一種の呪詛だと思います。徳仁の即位を絶対に阻止するつもりだったのでしょう。

ご自分の死後、皇太子妃の美智子が【皇室を破壊すること】を読んでいたと思います。

東宮は両親に似ていない、弟、妹とも似ていない、祖父母、従姉とも似ていない。正田家の祖父母とも似ていない。叔父叔母とも似ていない。従姉とも似ていない。

英国、初め世界の人気者だった故ダイアナ妃は夫のチャールズがカミラ夫人との浮気を知ると、騎兵で馬術のインストラクターであったジェームズ・ヒューイットと5年間不倫しました。

英国王室の法律では、皇太子の妃を寝取った男は、死刑だそうです。未だにヒューイットは刑死していませんが、これは、チャールズも離婚後、人妻カミラと再婚した負い目もあるでしょう。  
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/870.html

[番外地9] 故鬼塚英昭 氏 戦争はすべて八百長 『日本の真相』 - YouTube動画
明治天皇も昭和天皇も天皇家ではなく李氏 c house n の王族や両班階級の血筋だった
故鬼塚英昭 氏 戦争はすべて八百長 『日本の真相』 - YouTube動画
熊毛郡 田布施町 (00:00:21)
大室寅之佑 (00:03:48)
明治天皇の秘密 (00:03:55)
大正天皇には、子種がない(00:18:39)
西園寺八郎 (00:19:26)
昭和天皇の秘密 (00:21:34)
昭和天皇の父親は、西園寺八郎 (00:22:01)

田布施は李氏 c house n の王族や両班階級が逃げてきた場所で、岸信介は李氏c house n の王の末裔です。

永田町における「c house n 系」というのは李氏c house n時代の両班階級出身という意味です。以前、田布施の話をした時にも言いましたが、田布施は李氏c house nの王族や両班階級が逃げてきた場所で、岸信介は李氏c house nの王の末裔です。岸という名字も「李」を分解して木(き)と子(し)にしたから岸(きし)なんだという話をしたと思います。安倍さんは岸家の人なので、当然「c house n系」ですし、今井さんも安倍さんと遠い親戚なのでやはり「c house n系」。二階さんも同じく遠い祖先が李氏c house n系だったという区分けです。また、そういう人たちが集まったのが自民党の清和会です。清和会というのは、多くが「c house n系」の人々の集まりで、永田町では常識です。実際に、清和会の事務所は旧李王家邸で当時の赤坂プリンスホテルの一階にありました。李氏c house n最後の皇族であった李玖も清和会の支援を受け、2005年まで赤坂プリンスホテルで暮らしていました。

これはインターネットで検索したって出てきません。しかし、日本の支配者層にとっては常識中の常識です。
https://tocana.jp/2020/08/post_168418_entry_2.html


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田布施システム

そもそも、あのあたりの土地は昔から地元ではc house n部落として知られています。といっても田布施だけが特別なのではありません。奈良平安の頃から瀬戸内海沿岸はc house n半島から渡ってきた人たちが多数移り住んできた土地なので、彼らの集落があっても別段珍しいことではないのです。彼らは皆、陶工であったり、刀鍛冶であったり、特殊技能を持った職人の集団として活躍していました。

まず、近代の半島を語る上で李氏c house nを理解しないといけません。李氏c house nは1392年から高麗の武将、李成桂が興した王朝で、中国冊封体制の下、王朝内で多くの内紛が起こっていました。いまの韓国を見ていてもわかると思いますが、選挙で負けた大統領は罪に問われてほとんどが監獄に放り込まれています。李氏c house n王朝時代はさらにそれが徹底されており、内紛で負けた派閥は殺されたのです。

 とはいえ、負けたほうも黙って手をこまねいているわけではありません。当然、逃亡を図るわけで、そのほとんどが海を渡って日本へと逃げてきていたのです。
彼ら政争に負けたc house nの人々は日本の瀬戸内海沿岸まで逃げてひとつの集落を作っていったのです。田布施はそういった町の一つでした。

c house nと明治維新の濃密なつながり

 岸家も佐藤家も田布施という町も、李氏c house n王朝の血を引く、とても由緒正しい人たちでした。

田布施からは伊藤博文、木戸幸一が出ており、さらに山口県そのものがかつての長州藩(正確には萩藩)です。明治維新を薩摩藩とともに推進した土地です。
 さらに、鹿児島にも田布施という町名が最近まで残っており(そこの出身者として小泉純一郎元首相がいます)、かつての肥後藩である佐賀県にも、字こそ違いますが多布施という土地があります。維新を引っ張った薩長土肥のうちの3つにタブセという名が絡んでいるのです。

 もっと言えば、維新後に薩摩藩で最も出世した大久保利通は鹿児島市高麗町の出身です。高麗という名が示すように大久保はc house n系の人である可能性が高く、少なくとも彼が生まれた土地はc house n集落でした。さらに言えば、維新を引っ張った薩摩の志士たちもほとんどが同じ町内に住んでいました。それも高麗町の隣の町です。

 このように明治維新とc house nは極めて親しい関係なのです。

 このことを皆さんはどう感じますか?

明治維新はc house n系の人々によるクーデターに感じてしまうのです。口さがないエージェントなんかはもっとハッキリ「明治維新はc house n系の人たちの日本乗っ取りなのに、なぜか、日本人は明治維新が好きだよね」と言います。
https://tocana.jp/2019/12/post_130392_entry_3.html 


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鬼塚英昭さんは本を沢山書いていて、その結論をビデオで紹介しているんですね:

鬼塚英昭さんの著書
https://www.amazon.co.jp/%E9%AC%BC%E5%A1%9A-%E8%8B%B1%E6%98%AD/e/B004LVD7MC/ref=dp_byline_cont_book_1

こういう話もありますが、マスコミではタブーになっています:

世間の噂
皇室がDNA公開を厳禁し、死後は火葬にする事にした理由

秋篠宮文仁  
みなさんこんにちは 

もう皆さんお気づきでしょうが、僕は今上天皇の息子ではありません
(顔立ちを見てもらえば一目瞭然だと思います)
その事で、父や兄や妹から随分ひどい虐めを受けました。
僕の父親は一体誰なんでしょう?(母は頑として口を割りません)
皆さんも一緒に探してください

「万世一系」  秋篠宮様の種は誰ですか?  美智子妃殿下様
https://www.youtube.com/watch?v=E4g5y1qq4Tw

[不倫]の美智子 「日本の皇室はイイカゲン」
https://www.youtube.com/watch?v=B1EbVre0prI

美智子の不倫  33333    美智子妃殿下
https://www.youtube.com/watch?v=0UikfbuWxg8

美智子妃殿下の「不倫と出産」
https://www.youtube.com/watch?v=pR7JHtPkKfk

美智子のおもてな し「趣味と実益」
https://www.youtube.com/watch?v=nYs_iBmyL6s

美智子皇后様の「不倫・出産・悪事・電動こけし事件」
https://www.youtube.com/watch?v=k_bXPvuWGzQ

80歳まで14年間侍従長を務めた「入江侍従長」
https://www.youtube.com/watch?v=MUqRHN9KV6k

「侍従長と美智子妃殿下」と どっちから誘ったの?
https://www.youtube.com/watch?v=jfLWtOZEj7w


ミテ子さんのカッコウ(鳥)疑惑はかなり前から一部で噂になっていましたが、もっと凄いのがありまして盗宮出産後も皇太子を騙して男性と密会していた。(たぶん婚活パーティーの仲間)それが昭和帝の怒りをかい死ぬようなリンチを受けた。

表面上は流産だが実は…喜久子妃の言葉が苛めの一つとして伝わっていますが、皇太子以外ミテ子にされた仕打ちは知っていた。

ミテ子はヒステリーで発狂して手の施しようがなく別荘に篭って落ち着くのを待った。

真相は…若くして二度と子を産めなくされたこと。

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美智子様の実子は1人だけ??? 2013年3月4日月曜日

ベルギー大使館のパーティーに行った時に、
イスラエルから来ていたモサドのエージェントの日本人の奥さんが

「美智子様のお子様はお一人だけなのよ」

と自慢げに話していた。

その時に常陸宮夫妻も来ていたが

「彼、精神薄弱なの」

とも言っていた。よく観察してみたが、やはり彼女が言うように精神薄弱のようだ。


ふうーん、そういえば美智子様に似ているのは確かに秋篠宮の1人だけ。

なんたって、世界の秘密を握るモサドのエージェントだから、情報は本物の確立は高い。

ちょっと「美智子様の子供は一人だけ」とネットをサーフィンしてみたが、逆に出てきたのは、

「秋篠宮の父親が違う」

という驚きの情報だった。と言う事は、秋篠宮だけが美智子様の子供で、しかも、父親は天皇陛下ではないと言う話になる。

故鬼塚英昭 氏 戦争はすべて八百長 『日本の真相』 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=eUIhcvcSmrA
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/871.html

[近代史5] 中国の隠し債務1000兆円が『発見』された

2021年10月07日
中国の隠し債務1000兆円が『発見』された

中国は政府債務を企業債務であるかのように偽装している

画像引用:https://www.sankeibiz.jp/macro/news/210125/mcb2101250615003-n1.htm 【中国を読む】社債デフォルト額が過去最高 三菱総合研究所・橋本択摩 - SankeiBiz(サンケイビズ):自分を磨く経済情報サイト

1000兆円の隠し債務が見つかる国

中国では今、好調時に見えなかった諸問題が顕在化し、次々に発覚しています。

ゴールドマン・サックスによると中国の隠れ地方債務は918兆円に達している。

GSリポートによると地方政府の資金調達事業体(LGFV)の総負債額が約53兆元(約918兆円)に達した。


GDPの約52%に相当しているが「隠れ地方債務」とは別に公表されている地方債務もある。

2020年12月中国財政省の高官は地方政府の債務残高は、2020年末の地方債残高は26兆元(約3兆9800億ドル)に達すると述べていた。

裏と表を合計すると約79兆元(1362兆円、12.25兆ドル)になり中国のGDPにも近い。


中国のGDPは2020年に14.7兆ドルで地方債務は急激に増加しているので、ほぼGDP=地方債務と言えます。

分かりにくくしているのは地方政府が民間企業を利用したり、民間を偽装して債権を発行しているからです。

地方政府傘下の投資会社「融資平台」の2020年社債発行額は、すでに50兆円規模に達している。


浙江省寧波市の浙江交工集団は省傘下のゼネコンで、社債発行や銀行融資を通じて省の資金調達もしている。

日本で言えば例えば千葉県のXX建設というゼネコンが社債を発行したり銀行融資を受けたりしている。

表向き民間企業の借金だが、実はXX建設は公営企業のような存在です。

全土に中国恒大と同じシステムがある

浙江省の浙江交工集団は19年に8億元(約120億円)の社債を発行し、他に銀行からの融資も受けていた。

中国全土の融資平台が21年前半に発行した社債は3兆3千億元(約56兆円)、前年比5割増加している。

中国は2020年に主要国で唯一2%のプラス成長だったが、不動産やインフラ整備への依存が多く公的債務に依存している。


日本がバブル崩壊前後に散々やった、借金でインフラ工事をして経済成長する手法です。

この方法が後進国では効果があるか、先進国や大国がやると投じた資金に対して成長率が少ない。

1兆円を使って5000億円以下しか経済成長しないイメージなので、やればやるほど債務超過になる。


融資平台は公的債務を民間債務に偽装しているが、国務院(政府)は融資平台を支払う義務はないと説明している。

地方政府と中央政府共に公的債務は国債と地方債のみなので、公的債務の統計にも含めていない。

日本政府が「民間企業」である旧道路公団や特殊法人の債務を「日本の借金」にしているのとは対照的です。


中国の投資家は融資平台は政府が保証していると考えて安心して投資している。

それと同じものが最近経営破綻しつつある中国恒大で、どうなるか注視してみましょう

https://www.thutmosev.com/archives/86887347.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1161.html

[近代史6] ジュール・マスネ(1842年5月12日 - 1912年8月13日)
ジュール・エミール・フレデリック・マスネ(1842年5月12日 - 1912年8月13日)


ジュール・エミール・フレデリック・マスネ(Jules Emile Frédéric Massenet, 1842年5月12日 - 1912年8月13日)は、フランスの作曲家。オペラで最もよく知られ、その作品は19世紀末から20世紀初頭にかけて大変人気があった。現在も特に『マノン』、『ウェルテル』、『タイス』は頻繁に上演され、主要なオペラハウスのレパートリー演目となっている。『タイス』の間奏曲である『タイスの瞑想曲』は、ヴァイオリン独奏曲としても人気がある。


生涯
マスネはフランス、ロワール県モントーで生まれた。モントーは今でこそサン=テチエンヌの都市部の一地区となっているが、当時は辺鄙な小村であった。マスネは1848年、家族とともにパリに移り住む。幼いころから楽才を示し1853年、11歳でパリ国立高等音楽学校へ入学した。 1862年、カンタータ「ダヴィッド・リッツィオ」(David Rizzio)でローマ賞を受賞、3年をローマで過ごした。初めてのオペラは1867年にオペラ=コミック座で上演した一幕ものの作品であったが、彼がチャイコフスキーやグノーに並ぶ賞賛を勝ちえたのはオラトリオ劇『マグダラのマリア』によってである。

マスネは普仏戦争に兵士として従軍し、その間作曲活動を中断したが、1871年に戦争が終わると、創作活動に復帰した。1878年からはパリ国立高等音楽院の教授を務めた。同音楽院での彼の教え子にはギュスターヴ・シャルパンティエ、レイナルド・アーンやシャルル・ケクランなどがいる。彼の最大の成功は、1884年の『マノン』、1892年の『ウェルテル』と1894年の『タイス』である。特筆すべき後の作品として『ドン・キショット(ドン・キホーテ)』があり、1910年にモンテカルロで初演され、ロシアの伝説的バス歌手フョードル・シャリアピンが主役をつとめた。

マスネはリヒャルト・ワーグナーのライトモティーフの技法を使用したが、これにフランス風の軽妙さと叙情性を加えており、甘美なメロディーとフランス的なエスプリが特徴である。ドライで真面目であったヴァンサン・ダンディは、マスネが「秘められた、ほとんど宗教的なエロティシズム」(un érotisme discret et quasi-réligieux )を用いていると批判しているが、生涯を通じてマスネは世界で最も人気のある作曲家であったし、その傑作には今日なお色あせない快活さと魅力がある。マスネは申し分のないメロディメーカーであり、まさに「舞台人」であり、よきにせよ悪きにせよ、誰が聞いても間違いなく彼の作品だとわかるような強い個性を持った、唯一的な芸術家であった。

オペラの他に、バレエ、オラトリオ、カンタータ、オーケストラ作品、また200以上の歌曲を作曲している。幾つかの作品は広範な人気をもち、今でも頻繁に演奏されている。例えば、ヴァイオリン独奏とオーケストラで演奏される『タイス』の『瞑想曲』は殊に有名であるし、ピアノの練習曲としてよく用いられる、オペラ『ル・シッド』の「アラゴネーズ」や歌曲『エレジー』もよく知られる。

作品リスト

オペラ

大伯母(英語版) - 1867
バザンのドン・セザール(英語版) - 1872
ラオールの王(英語版) - 1877
エロディアード(Hérodiade) - 1881
マノン - 1884
ル・シッド - 1885
エスクラルモンド(英語版) - 1889
ル・マージュ(東方の三賢人)(フランス語版) (Le Mage) - 1891
ウェルテル - 1892
タイス - 1894 - (曲中のタイスの瞑想曲が特に有名)
マノンの肖像(英語版) - 1894
ナヴァラの娘 - 1894
サッフォー(英語版) - 1897
サンドリヨン(シンデレラ) - 1899
グリセリディス(フランス語版) - 1901
ノートルダムの曲芸師(英語版) - 1902
天使ケルビム - 1903
シェリュバン(英語版) - 1905
アリアーヌ(英語版) - 1906
テレーズ(英語版) - 1907
バッカス(英語版) - 1909
ドン・キショット(ドン・キホーテ) - 1910
ローマ(英語版) - 1912
パニュルジュ(英語版) - 1913
クレオパトラ(フランス語版) - 1914
アマディス(英語版)(Amadis) - 1922


オラトリオとカンタータ
ダヴィド・リッジオ (David Rizzio)- 1863
マリー・マグドゥレーヌ(フランス語版、英語版)(Marie-Magdeleine) - 1873
エヴ(フランス語版、ドイツ語版) (Ève)- 1875
ナルシス(Narcisse) - 1877
聖処女(フランス語版) (La Vierge)- 1880
Biblis - 1886
約束の土地(英語版) (La Terre Promise)- 1900


バレエ
鐘 - 1892
蝉(英語版) - 1904
エスパーダ - 1908


管弦楽
組曲第1番- 1867
組曲第2番 Scénes Hongroises ハンガリーの風景 - 1870
組曲第3番 Scénes Dramatiques 劇的風景 - 1873
組曲第4番 Scénes Pittoresques 絵のような風景 - 1874
組曲第5番 Scénes Napolitaines ナポリの風景 - 1876
組曲第6番 Scénes de Féerie おとぎの国の風景 - 1881
組曲第7番 Scénes Alsaciennes アルザスの風景 - 1882
Fantaisie pour violoncelle et orchestre - 1897
Concerto pour piano et orchestre - 1903

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%8D
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/857.html

[近代史6] ジュール・マスネ 『タイスの瞑想曲』
ジュール・マスネ 『タイスの瞑想曲』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/951.html
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/858.html
[近代史6] ジュール・マスネ『エレジー』
マスネ 『エレジー』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/954.html
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/859.html
[近代史5] 縄文人の起源 中川隆
29. 中川隆[-16070] koaQ7Jey 2021年10月08日 06:45:36 : OQtwHPKyGw : cy9paXN5QjZ1RGM=[7]
雑記帳
2021年10月08日
縄文時代の人類のゲノム解析まとめ
https://sicambre.at.webry.info/202110/article_8.html

 縄文時代の人類の核ゲノム解析数も次第に増えてきたため、私が把握している分を以下の図で一度まとめます。年代は基本的に直接的な放射性炭素年代測定法による較正年代です。mtHgはミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ、YHgはY染色体ハプログループです。なお、福島県相馬郡新地町の三貫地貝塚の3000年前頃の縄文時代個体(Kanzawa-Kiriyama et al., 2017)については、標本2点の塩基配列を合体して分析していることもあり、今回は省略します。縄文時代の人類遺骸は多数発見されているので、そのうち怠惰な私がこうしたまとめ記事を執筆する気にならないくらい、縄文時代の人類のゲノム解析数が蓄積されることを期待しています。以下は、参考として佐賀県唐津市の大友遺跡の弥生時代早期個体(大友8号)も含めた、核ゲノムが解析されている縄文時代の人類の一覧図です。

https://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/006/822/60/N000/000/000/163343134066380552189.jpg

 これらの縄文時代の個体は全て、既知の現代人および古代人集団に対して一まとまりを形成します。以下は、東名貝塚標本012とF23とF5と三貫地貝塚遺跡個体とIK002を対象としたAdachi et al., 2021の主成分分析結果を示した図4です。

https://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/006/822/60/N000/000/000/161796910375111925217.jpg

 大友8号はF23とF5と三貫地貝塚遺跡個体とIK002といった既知の縄文時代個体群と主成分分析では一まとまりを形成し(神澤他., 2021図3)、弥生時代にも遺伝的に縄文時代の個体群と一まとめにできる集団が西北九州に存在したことを強く示唆します。さらに、まだ査読前の論文(Robbeets et al., 2021)で遺伝子型が公表されていないため上記の一覧図には掲載しませんでしたが、沖縄県宮古島市長墓遺跡の紀元前9〜紀元前6世紀頃の個体の遺伝的構成が、六通貝塚の個体群とほぼ同じと示されました。先史時代の先島諸島には、縄文文化の影響がほとんどないと言われています。さらに、朝鮮半島南端の8300〜4000年前頃の人類は、割合はさまざまですが、遼河地域の紅山(Hongshan)文化集団と六通貝塚の個体群との混合としてモデル化されます(Robbeets et al., 2021)。

 縄文時代の人類は時空間的に広範囲にわたって遺伝的に均質で、そうした遺伝的構成の集団は大きく異なる物質文化の担い手になっていった、と示唆されます。もっとも、言語も含めて精神文化では重要な共通性があったと想定できなくもありませんが、それを否定することはできないとしても、証明することもほぼ無理ではないか、と思います。縄文時代の人類集団がどのように形成されたのか、まだ明らかではなく、今後の研究の進展をできるだけ追いかけていき、考えていくつもりです。新たな縄文時代の人類の核ゲノム解析結果が公表されれば、上記の一覧図も更新する予定です。


参考文献:
Adachi N. et al.(2021): Ancient genomes from the initial Jomon period: new insights into the genetic history of the Japanese archipelago. Anthropological Science, 129, 1, 13–22.
https://doi.org/10.1537/ase.2012132


Cooke H. et al.(2021): Ancient genomics reveals tripartite origins of Japanese populations. Science Advances, 7, 38, eabh2419.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abh2419


Gakuhari T. et al.(2020): Ancient Jomon genome sequence analysis sheds light on migration patterns of early East Asian populations. Communications Biology, 3, 437.
https://doi.org/10.1038/s42003-020-01162-2


Kanzawa-Kiriyama H. et al.(2017): A partial nuclear genome of the Jomons who lived 3000 years ago in Fukushima, Japan. Journal of Human Genetics, 62, 2, 213–221.
https://doi.org/10.1038/jhg.2016.110


Kanzawa-Kiriyama H. et al.(2019): Late Jomon male and female genome sequences from the Funadomari site in Hokkaido, Japan. Anthropological Science, 127, 2, 83–108.
https://doi.org/10.1537/ase.190415


Robbeets M. et al.(2021): Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages. Research Square.
https://doi.org/10.21203/rs.3.rs-255765/v1


Wang CC. et al.(2021): Genomic insights into the formation of human populations in East Asia. Nature, 591, 7850, 413–419.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03336-2


神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一(2021A)「佐賀県唐津市大友遺跡第5次調査出土弥生人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P385-393


https://sicambre.at.webry.info/202110/article_8.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/195.html#c29

[番外地9] 最も「勝ち組」の投資は日本国債だった
最も「勝ち組」の投資は日本国債だった
マネーストックが毎年毎年増えているのは新規国債発行分だけ金が増えているからだよ。
財務省や経済学者が騒いでいる財政危機というのは、民間が新規事業を増やせないのに、国債の利払い額だけが毎年毎年増え続けて、その増加分もすべて新規国債で賄わないといけない、という現状の事だよ。政府財政はネズミ講と同じになってしまったんだ。

利子付き国債の発行は貧富の差を拡大しマルクスの預言した階級社会を作ってしまう
最も「勝ち組」の投資は日本国債だった

投資をしている人は「日本国債が危ない」「国債が破綻する」「国債を買うな」という情報を、今までに数多く聞いてきたと思います。

ニュースを見れば国債破綻、投資コラムでは国債を買うなという具合で、悪い投資の筆頭に上げられることが多い。

だが現実に1990年台バブル崩壊で「1円も損をせず」「元金が7倍以上になった」のは日本国債を買った人だけだった。

バブルの頃は色々な投資がブームで、金銀、土地、ゴルフ会員権、株やピカソの絵、ハワイや湯沢の別荘が人気でした。

これらの投資はその後のバブル崩壊で全て損をした筈で、保険や年金商品ですら政府の方針でカットされていました。

そんな中で唯一バブル崩壊の影響をまったく受けなかった投資商品が「日本国債」で、日本国債が危ないという定説とは真逆の結果です。


バナナ売りみたいな投資アナリスト達は毎日毎日「あぶないよあぶないよ、さあ国債が破綻するよ」と道端で「国債が危ない」と言い続けています。

彼らがそう言っている理由は国債以外の投資商品を売って稼いでいるからで、国債が売れたら困るのです。

日経先物とかFXとか株とか土地とかピカソの絵を売って初めて「カモ」から金を取れるので、日本国債が売れたら儲からなくなるのです。


1980年に日本国債を購入した人は、30年後の2010年に7倍に増えていて、もし最初に1000万円なら7000万円、100万円でも700万円に増えていたのです。

バブル崩壊も阪神大震災も福島原発もリーマンショックもすべて無関係で、1980年台に買っていさえすれば誰でも7倍になったのです。

では日本国債を買う以外でこの30年間に投資で資産を7倍にした人がどれだけ居たか、聞くまでもなくほとんど居ないはずです。


日本国債より危険な投資に手を出す人々

「そんなのウソだ。日本国債はゼロ金利じゃないか」というもっともな意見がありますが、それでも30年間毎年金利が付くことで、5倍とか7倍に増えるのです。

考え方を変えれば本当に「金利ゼロ」だったとしても、デフレで物価が下がると実質的にお金が増えるのです。

「経済専門家は皆日本が破産すると言っている」というもっともな意見もあるが、逆に日本政府が破産した後に残る安全な物って何なんでしょう?


例えば土地は消えませんが、戦前日本最大の資産家だった本間家(ローソク足を発明した本間宗久の子孫)は敗戦でアメリカ軍に土地を没収され、ただの釣具屋になり今は中国に買収されて消滅しました。

有名企業の株を保有しても日本政府が倒産するほどの事態なら、三菱や三井やトヨタだって倒産するでしょう。

金などの貴金属は物質として目減りしませんが、あの手のものは長期的には必ず物価上昇率より価値が目減りしていきます。


日本国債がデフォルトするほどの危機なら、どんな資産も無価値になる可能性が高く、それらより危険ではありません。

例えば沖縄県知事のアホは「中国に統一してもらって日本から独立しよう」と言っていますが、中国は共産国家で個人の土地所有が認められていません。

米軍基地が中国軍基地にかわり、土地は政府の所有になり、住民は政府から借りた借地に住む事になります。(中国人民はそうしている)

日本国債より安全な投資って何?

日本国債が無効になるほどの衝撃というのはこれほどの事が起きると推測でき、こんな事を考えるよりは自衛隊に税金を払ったほうが幾らかマシです。

「日本国債がアブナイから他に投資しよう」という考えは一見合理的にみえて、相当におかしいのが分かると思います。

例えていえば「巨大隕石が地球に落下するから地球の裏側に逃げよう」みたいな話で、恐竜より頭の働きが鈍いです。


日本国債ではなく米国債など外国政府に投資しようという人も居て、こちらの方は理にかなっています。

円高が進んでも日本よりアメリカの金利が高いので、最終的に日本国債を買うよりも、数十年後に元本が増える可能性は高いです。

だがしかし日本の証券会社から米国債を買って、日本政府が倒産したときにその証券会社は存在し、銀行は投資した元本を保証してくれるのか甚だ疑問です。


日本が破産したとき自分が買った証券会社が倒産していて、資産保全しているメガバンクも倒産したら、買っておいた米国債も消滅するでしょう。

アメリカの証券会社から米国債を買うという方法もあるが、おそらく日本からだと余計なコストを取られたり不利になるかも知れません。

このように考えると「日本国債があぶない」から色々な投資を試みるのは、結局どれも日本国債そのものより危険な投資に手を出すハメになります。
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/872.html

[番外地9] 植民地のインドは商品を輸出しても、その見返りの代金はポンドでイギリスに蓄積され、デフレになり、不景気になった
海外に投資すればする程、日本人がどんどん貧しくなっていく理由
植民地のインドは商品を輸出しても、その見返りの代金はポンドでイギリスに蓄積され、デフレになり、不景気になった
2006年2月9日 アメリカの謎を解く 橋本裕の文学・人生日記帳
ブッシュ大統領が1月31日の一般教書演説で、「私は8800億ドルを減税し、国民に返却した。今後も減税を恒久化し、09年に財政赤字を半減する」と述べた。

 一方で、アメリカの経常赤字は05年が7900億ドル(93兆6940億円)、財政赤字も06年度は4230億ドル(約50兆2千億円)で過去最大、債務残高はすでに8兆ドル(約950兆円)を越えている。

 日本では、税制赤字を解消するために、増税をしなければならないと考えられているが、アメリカは逆である。減税をして国内消費を活性化し、景気をよくして税収をあげようとする。さらにアメリカの場合は戦争によって軍需景気を作りだしているわけだ。

 いずれにせよ、アメリカは消費大国。国も国民も借金をして消費を楽しんでいる。このアメリカの消費を助けているのが日本をはじめとするアジア諸国だ。とくに日本の貢献が大きい。日本は政府と民間が何百億ドルというアメリカ国債を買っている。

 先日、朝日新聞夕刊「経済気象台」に「米国のもう一つの謎」という文章が載った。経常収支の赤字が拡大しているにもかかわらず、ドル高が持続している謎について、それは借金国のアメリカが負債について支払う金利が「異常」に低いからだと書いている。これに反して、アメリカの対外資産は巨大な利益を手にしている。

 アメリカは莫大な借金をし、そしてその中から、わずかな一部を他国に貸している。そして不思議なことに、巨大な借金のための利払いよりも、わずかな海外資産の方が多くの利益を生み出しているというのだ。

 どうしてこんなマジックが可能なのか。それは日本がこの逆をしているからである。なぜ日本がこの分の悪い役回りを続けるのか、実はこれこそが本当の謎だということになる。

驚くべきことに、小さな対外資産から受け取る利子と配当が、大きな対外負債に支払う利子と配当を今日まで上回り続けている。家計にたとえると、収入を上回る買い物をして毎月赤字が続き、借金が膨らんでいる。ところが、多額の借金に支払う金利がゼロに近ければ、わずかばかり保有する預金などから受け取る利子の方が大きいという状態なのだ。これでは赤字をいくら出しても、借金さえできれば、後は何の憂いもなく買い物ができる


このうまい話に手放しで悪のりして、米国は経済収支赤字を続け、負債の増加に加速度がついている。この構図が最近話題になり、債権国が浮き足だっている。日本にその気配がないことが「謎」の源である


 実はアメリカのこの「うまい話」は、19世紀に繁栄した大英帝国をまねているだけだ。大英帝国の場合は、その繁栄の謎をとく鍵はインドをはじめとする植民地が持っていた。たとえば当時イギリスの植民地であったインドは、香辛料などの原材料を輸出してイギリスを相手に多額の黒字を計上していた。ところが黒字はルピーではなく、ポンドを使って決済され、そのままイギリスの銀行に預けられていた。

 だからイギリスはいくら植民地を相手に赤字を出しても平気だった。イギリスの銀行に預けられたポンドを、イギリス国内で使えばいいからだ。インドは名目上は債権が増え、お金持ちになったが、そのお金をイギリスの銀行から自由に引き出し、自分の国では使えなかった。お金の使い道は預金者ではなく、イギリスの銀行が決めていたからだ。そしてもちろん、イギリスの銀行は国内の人々に貸し出した。

 イギリス国民は植民地から輸入した品物で生活をたのしみ、しかもしはらったポンドもイギリスの銀行に吸収され、イギリスのために使われるわけだ。こうしてイギリスはどんどん発展した。

 一方植民地はどうなったか。たとえばインドは商品を輸出しても、その見返りの代金はポンドでイギリスに蓄積されるだけだから、国内にお金がまわらなくなる。どんどんデフレになり、不景気になった。

 仕事がきつくなり、給料が下がり、ますます必死で働いて輸出する。ところが黒字分の代金は、ポンドのまま名義上の所有としてやはりイギリス国内で使われる。こうしていくら黒字を出してもインドは豊かになれなかった。そして、赤字を出し続けたイギリスは、これを尻目に繁栄を謳歌できた。

 このイギリスとインドの関係は、そっくり現在のアメリカと日本の関係だと言ってもよい。経済同友会元副代表幹事の三國陽夫さんは、「黒字亡国」(文春新書)にこう書いている。


輸出拡大によっていくら日本が黒字を蓄積しても、それはアメリカ国内にあるアメリカの銀行にドルで預け入れ、アメリカ国内に貸し置かれる。日本からの預金は、アメリカにしてみれば資金調達である。貸し出しなどに自由に使うことができる。

 日本は稼いだ黒字にふさわしい恩恵に与らないどころか、輸出関連産業を除いて国内消費は慢性的な停滞に喘いでいる。停滞の原因であるデフレはなかなか出口が見えない。

 日本の黒字がドルとして流入したアメリカはどうなのか。ドルはアメリカの銀行から金融市場を経由して広く行き渡り、アメリカ経済の拡大のために投下されている。日本の黒字は結局、アメリカが垂れ流す赤字の穴埋めをし、しかもアメリカの景気の底上げに貢献しているのである。・・・

 輸出で稼いだ黒字を日本がドルでアメリカに預け、日本の利益ではなく、アメリカの利益に貢献している限り、円高圧力もデフレ圧力も弱まることなく、政府・日銀がいくら財政支出や金融緩和というデフレ解消策を講じても、一向に持続性ある効果は現れないのである


 幸い、最近この貿易構造がかわりつつある。日本の貿易相手国が中国をはじめとするアジアやヨーロッパにシフトしたことで、日本の対米黒字の割合が相対的に低下したからだ。こうして日本がデフレから解放されるチャンスがここから拡大した。

 しかし、問題はすでに厖大なドル建て資産をアメリカに持っていることだ。日本人の汗の結晶であるドル建て資産が、今後ドル安で何百兆と失われる可能性がある。こうした形で、アメリカは最終的に日本の資産を合法的に手に入れようとする。

「今後も減税を恒久化し、09年に財政赤字を半減する」というブッシュの一般教書の宣言は、これからも日本をはじめ、世界から資金を調達するという意思表示と読むべきなのだろう。
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財務省が何時も警告している、日本国民一人当たりの借金とか財政破綻の話はすべて事実です。
ただ財務省としては、資本家・労働者とか植民地搾取とかの用語を使えないので曖昧な表現にしているのですね。
それがMMT派の人が誤解する原因になっているのです。
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/873.html

[番外地9] 植民地のインドは商品を輸出しても、その見返りの代金はポンドでイギリスに蓄積され、デフレになり、不景気になった 中川隆
1. 中川隆[-16069] koaQ7Jey 2021年10月08日 07:37:22 : OQtwHPKyGw : cy9paXN5QjZ1RGM=[8]
輸出企業に投資すればする程、日本人がどんどん貧しくなっていく理由
植民地のインドは商品を輸出しても、その見返りの代金はポンドでイギリスに蓄積され、デフレになり、不景気になった
2006年2月9日 アメリカの謎を解く 橋本裕の文学・人生日記帳
ブッシュ大統領が1月31日の一般教書演説で、「私は8800億ドルを減税し、国民に返却した。今後も減税を恒久化し、09年に財政赤字を半減する」と述べた。

 一方で、アメリカの経常赤字は05年が7900億ドル(93兆6940億円)、財政赤字も06年度は4230億ドル(約50兆2千億円)で過去最大、債務残高はすでに8兆ドル(約950兆円)を越えている。

 日本では、税制赤字を解消するために、増税をしなければならないと考えられているが、アメリカは逆である。減税をして国内消費を活性化し、景気をよくして税収をあげようとする。さらにアメリカの場合は戦争によって軍需景気を作りだしているわけだ。

 いずれにせよ、アメリカは消費大国。国も国民も借金をして消費を楽しんでいる。このアメリカの消費を助けているのが日本をはじめとするアジア諸国だ。とくに日本の貢献が大きい。日本は政府と民間が何百億ドルというアメリカ国債を買っている。

 先日、朝日新聞夕刊「経済気象台」に「米国のもう一つの謎」という文章が載った。経常収支の赤字が拡大しているにもかかわらず、ドル高が持続している謎について、それは借金国のアメリカが負債について支払う金利が「異常」に低いからだと書いている。これに反して、アメリカの対外資産は巨大な利益を手にしている。

 アメリカは莫大な借金をし、そしてその中から、わずかな一部を他国に貸している。そして不思議なことに、巨大な借金のための利払いよりも、わずかな海外資産の方が多くの利益を生み出しているというのだ。

 どうしてこんなマジックが可能なのか。それは日本がこの逆をしているからである。なぜ日本がこの分の悪い役回りを続けるのか、実はこれこそが本当の謎だということになる。

驚くべきことに、小さな対外資産から受け取る利子と配当が、大きな対外負債に支払う利子と配当を今日まで上回り続けている。家計にたとえると、収入を上回る買い物をして毎月赤字が続き、借金が膨らんでいる。ところが、多額の借金に支払う金利がゼロに近ければ、わずかばかり保有する預金などから受け取る利子の方が大きいという状態なのだ。これでは赤字をいくら出しても、借金さえできれば、後は何の憂いもなく買い物ができる


このうまい話に手放しで悪のりして、米国は経済収支赤字を続け、負債の増加に加速度がついている。この構図が最近話題になり、債権国が浮き足だっている。日本にその気配がないことが「謎」の源である


 実はアメリカのこの「うまい話」は、19世紀に繁栄した大英帝国をまねているだけだ。大英帝国の場合は、その繁栄の謎をとく鍵はインドをはじめとする植民地が持っていた。たとえば当時イギリスの植民地であったインドは、香辛料などの原材料を輸出してイギリスを相手に多額の黒字を計上していた。ところが黒字はルピーではなく、ポンドを使って決済され、そのままイギリスの銀行に預けられていた。

 だからイギリスはいくら植民地を相手に赤字を出しても平気だった。イギリスの銀行に預けられたポンドを、イギリス国内で使えばいいからだ。インドは名目上は債権が増え、お金持ちになったが、そのお金をイギリスの銀行から自由に引き出し、自分の国では使えなかった。お金の使い道は預金者ではなく、イギリスの銀行が決めていたからだ。そしてもちろん、イギリスの銀行は国内の人々に貸し出した。

 イギリス国民は植民地から輸入した品物で生活をたのしみ、しかもしはらったポンドもイギリスの銀行に吸収され、イギリスのために使われるわけだ。こうしてイギリスはどんどん発展した。

 一方植民地はどうなったか。たとえばインドは商品を輸出しても、その見返りの代金はポンドでイギリスに蓄積されるだけだから、国内にお金がまわらなくなる。どんどんデフレになり、不景気になった。

 仕事がきつくなり、給料が下がり、ますます必死で働いて輸出する。ところが黒字分の代金は、ポンドのまま名義上の所有としてやはりイギリス国内で使われる。こうしていくら黒字を出してもインドは豊かになれなかった。そして、赤字を出し続けたイギリスは、これを尻目に繁栄を謳歌できた。

 このイギリスとインドの関係は、そっくり現在のアメリカと日本の関係だと言ってもよい。経済同友会元副代表幹事の三國陽夫さんは、「黒字亡国」(文春新書)にこう書いている。


輸出拡大によっていくら日本が黒字を蓄積しても、それはアメリカ国内にあるアメリカの銀行にドルで預け入れ、アメリカ国内に貸し置かれる。日本からの預金は、アメリカにしてみれば資金調達である。貸し出しなどに自由に使うことができる。

 日本は稼いだ黒字にふさわしい恩恵に与らないどころか、輸出関連産業を除いて国内消費は慢性的な停滞に喘いでいる。停滞の原因であるデフレはなかなか出口が見えない。

 日本の黒字がドルとして流入したアメリカはどうなのか。ドルはアメリカの銀行から金融市場を経由して広く行き渡り、アメリカ経済の拡大のために投下されている。日本の黒字は結局、アメリカが垂れ流す赤字の穴埋めをし、しかもアメリカの景気の底上げに貢献しているのである。・・・

 輸出で稼いだ黒字を日本がドルでアメリカに預け、日本の利益ではなく、アメリカの利益に貢献している限り、円高圧力もデフレ圧力も弱まることなく、政府・日銀がいくら財政支出や金融緩和というデフレ解消策を講じても、一向に持続性ある効果は現れないのである


 幸い、最近この貿易構造がかわりつつある。日本の貿易相手国が中国をはじめとするアジアやヨーロッパにシフトしたことで、日本の対米黒字の割合が相対的に低下したからだ。こうして日本がデフレから解放されるチャンスがここから拡大した。

 しかし、問題はすでに厖大なドル建て資産をアメリカに持っていることだ。日本人の汗の結晶であるドル建て資産が、今後ドル安で何百兆と失われる可能性がある。こうした形で、アメリカは最終的に日本の資産を合法的に手に入れようとする。

「今後も減税を恒久化し、09年に財政赤字を半減する」というブッシュの一般教書の宣言は、これからも日本をはじめ、世界から資金を調達するという意思表示と読むべきなのだろう。
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財務省が何時も警告している、日本国民一人当たりの借金とか財政破綻の話はすべて事実です。
ただ財務省としては、資本家・労働者とか植民地搾取とかの用語を使えないので曖昧な表現にしているのですね。
それがMMT派の人が誤解する原因になっているのです。
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/873.html#c1

[番外地9] 最も「勝ち組」の投資は日本国債だった 中川隆
1. 中川隆[-16068] koaQ7Jey 2021年10月08日 07:42:43 : OQtwHPKyGw : cy9paXN5QjZ1RGM=[9]
最も「勝ち組」の投資は日本国債だった _ 国債を発行すると資本家だけがボロ儲けして労働者はどんどん貧しくなる
マネーストックが毎年毎年増えているのは新規国債発行分だけ金が増えているからだよ。
財務省や経済学者が騒いでいる財政危機というのは、民間が新規事業を増やせないのに、国債の利払い額だけが毎年毎年増え続けて、その増加分もすべて新規国債で賄わないといけない、という現状の事だよ。政府財政はネズミ講と同じになってしまったんだ。

利子付き国債の発行は貧富の差を拡大しマルクスの預言した階級社会を作ってしまう
最も「勝ち組」の投資は日本国債だった

投資をしている人は「日本国債が危ない」「国債が破綻する」「国債を買うな」という情報を、今までに数多く聞いてきたと思います。

ニュースを見れば国債破綻、投資コラムでは国債を買うなという具合で、悪い投資の筆頭に上げられることが多い。

だが現実に1990年台バブル崩壊で「1円も損をせず」「元金が7倍以上になった」のは日本国債を買った人だけだった。

バブルの頃は色々な投資がブームで、金銀、土地、ゴルフ会員権、株やピカソの絵、ハワイや湯沢の別荘が人気でした。

これらの投資はその後のバブル崩壊で全て損をした筈で、保険や年金商品ですら政府の方針でカットされていました。

そんな中で唯一バブル崩壊の影響をまったく受けなかった投資商品が「日本国債」で、日本国債が危ないという定説とは真逆の結果です。


バナナ売りみたいな投資アナリスト達は毎日毎日「あぶないよあぶないよ、さあ国債が破綻するよ」と道端で「国債が危ない」と言い続けています。

彼らがそう言っている理由は国債以外の投資商品を売って稼いでいるからで、国債が売れたら困るのです。

日経先物とかFXとか株とか土地とかピカソの絵を売って初めて「カモ」から金を取れるので、日本国債が売れたら儲からなくなるのです。


1980年に日本国債を購入した人は、30年後の2010年に7倍に増えていて、もし最初に1000万円なら7000万円、100万円でも700万円に増えていたのです。

バブル崩壊も阪神大震災も福島原発もリーマンショックもすべて無関係で、1980年台に買っていさえすれば誰でも7倍になったのです。

では日本国債を買う以外でこの30年間に投資で資産を7倍にした人がどれだけ居たか、聞くまでもなくほとんど居ないはずです。


日本国債より危険な投資に手を出す人々

「そんなのウソだ。日本国債はゼロ金利じゃないか」というもっともな意見がありますが、それでも30年間毎年金利が付くことで、5倍とか7倍に増えるのです。

考え方を変えれば本当に「金利ゼロ」だったとしても、デフレで物価が下がると実質的にお金が増えるのです。

「経済専門家は皆日本が破産すると言っている」というもっともな意見もあるが、逆に日本政府が破産した後に残る安全な物って何なんでしょう?


例えば土地は消えませんが、戦前日本最大の資産家だった本間家(ローソク足を発明した本間宗久の子孫)は敗戦でアメリカ軍に土地を没収され、ただの釣具屋になり今は中国に買収されて消滅しました。

有名企業の株を保有しても日本政府が倒産するほどの事態なら、三菱や三井やトヨタだって倒産するでしょう。

金などの貴金属は物質として目減りしませんが、あの手のものは長期的には必ず物価上昇率より価値が目減りしていきます。


日本国債がデフォルトするほどの危機なら、どんな資産も無価値になる可能性が高く、それらより危険ではありません。

例えば沖縄県知事のアホは「中国に統一してもらって日本から独立しよう」と言っていますが、中国は共産国家で個人の土地所有が認められていません。

米軍基地が中国軍基地にかわり、土地は政府の所有になり、住民は政府から借りた借地に住む事になります。(中国人民はそうしている)

日本国債より安全な投資って何?

日本国債が無効になるほどの衝撃というのはこれほどの事が起きると推測でき、こんな事を考えるよりは自衛隊に税金を払ったほうが幾らかマシです。

「日本国債がアブナイから他に投資しよう」という考えは一見合理的にみえて、相当におかしいのが分かると思います。

例えていえば「巨大隕石が地球に落下するから地球の裏側に逃げよう」みたいな話で、恐竜より頭の働きが鈍いです。


日本国債ではなく米国債など外国政府に投資しようという人も居て、こちらの方は理にかなっています。

円高が進んでも日本よりアメリカの金利が高いので、最終的に日本国債を買うよりも、数十年後に元本が増える可能性は高いです。

だがしかし日本の証券会社から米国債を買って、日本政府が倒産したときにその証券会社は存在し、銀行は投資した元本を保証してくれるのか甚だ疑問です。


日本が破産したとき自分が買った証券会社が倒産していて、資産保全しているメガバンクも倒産したら、買っておいた米国債も消滅するでしょう。

アメリカの証券会社から米国債を買うという方法もあるが、おそらく日本からだと余計なコストを取られたり不利になるかも知れません。

▲△▽▼

利子付き国債を発行すると、その利子を返す為に新規国債を次々に発行しないといけなくなるので、ネズミ講と同じです。 失業云々とは関係ありません。完全雇用になっても国債の利子を返す為に、新規に国債を発行しなければいけないというのが現在の状況です。 だから財務省は財政破綻、財政破綻と大騒ぎしているのです。
 
貨幣のプール論は正しい。
三橋さんは完全に誤解していますが、本来の貨幣のプール論というのは
税金で徴収した以上の金を政府が使うと、その分はインフレ税という形で通常の税額に加えて後から追加徴収する事になる
という意味です。何処の国でも国債発行でマネーストックを増やして意図的にインフレにしています。つまり、国民が気付かない様にこっそり金を取って政府資金を増やしているのです。

サルの朝三暮四の話と同じ騙しの手口ですね。 三橋信者みたいな 右翼・保守はアホだから簡単に騙せるんです。

日本政府が使える金は税金で徴収する金額だけ
日本政府が国債を発行すると日本国内で流通する貨幣が増えるので貨幣価値が下がります。

円の貨幣価値が下がると
・日銀の借用証である日銀紙幣の実質価値が下がる。
・政府の借用証である日本国債の実質価値が下がる。
・銀行預金額の実質価値が下がる。
・労働者の賃金の実質価値が下がる。

従って、日本政府が公共事業をやる為に国債を発行すると、労働者の持って居る金の一部を日本政府に取られた事になります。
つまり、日本政府が財政支出する元金は税金の他に、貨幣価値が減少した為に労働者から日本政府に移転した金額も含まれます。

政府が財政出動しなければ税金だけで政府支出を賄っていたのが、余計な公共事業をやった為に貨幣価値の減少した分(所謂インフレ税)も加算されます。
即ち、政府が使える金額は (税金 +インフレ税) で徴収した金額 になります。
つまり貨幣のプール論は正しいのです。
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/872.html#c1

[近代史3] 日本人を憎む被差別同和部落出身者 2 _ 竹中平蔵 中川隆
50. 中川隆[-16067] koaQ7Jey 2021年10月08日 07:55:23 : OQtwHPKyGw : cy9paXN5QjZ1RGM=[10]

2021年10月08日
小泉、安倍、竹中で日本経済が縮小した理由

この3バカは「日本人の賃金を中国人より安くしないといけない」という謎理論を信じ込み20年間経済破壊を続けた

画像引用:https://bunshun.jp/articles/photo/6983?pn=6 [写真](6ページ目)小泉純一郎が「東大ゼミ」で明かした、竹中起用と安倍後継を決めた理由 _ 文春オンライン

政府に経済音痴しかいない

以前竹中平蔵氏が最低賃金引上げなどの議論で「賃金を引き上げたら労働コストが上昇し競争力が低下するだけだ」のように猛反対していました。

竹中氏は小泉内閣で経済財政政策担当大臣だった他、安倍・菅内閣でも経済顧問などを務めてきた。

20年近い間、民主党時代を除いて日本の経済政策は竹中平蔵が望むように決定されてきた。


安倍首相時代に自民党の有力議員が「ナントカ会議とかで竹中あたりが決定し、国会はそれを承認するよう命令される」のように嘆いていました。

実際この通りだったと思われるほど、竹中平蔵の影響力は強大で、竹中氏は反論を許さず徹底的に相手をやりこめる。

竹中はパソナと深くかかわっていて、人材派遣や中抜きが栄えるほど、個人として利益を得る関係にあった。


小泉首相が竹中に権力を与えた事から、日本中に派遣、中抜き、実質どれい労働が蔓延するようになった。

コロナや東京五輪関連では9割中抜きで1割だけが実際にその仕事をする会社に渡っているという実態が報道された。

竹中氏がこれほど強大な権限を握った理由は、自民党や政治家の誰も経済が分からず、竹中氏に丸投げしたからでした。


小泉首相も安倍・菅首相も経済に暗く、小泉改革やアベノミクスを掲げたが内容は空っぽでした。

ところが丸投げされた竹中平蔵氏も経済用語に詳しいだけで、どうすれば景気が良くなりGDPが拡大するか分かりません。

竹中氏の「賃金を下げるほど国際競争力が強くなり、賃上げすると日本は滅びる」のような発言でそれは分かります。

日本人の賃金を中国人より安くしないといけない?

竹中理論では日本より高賃金のドイツとアメリカは国家破産している筈ですが、現実には「賃金が安い国ほど」経済が悪く破産に近い。

竹中が言っているのは中国や韓国と輸出競争しているので、中国並みに賃金を下げないと日本は輸出で負けるという話です。

この辺から実は経済に無知なのが知れるが、欧米のような先進国は中韓と輸出競争なんかしていません。


アメリカは中韓や日本からどんどん安いものを輸入し、自国で輸入品を使う事で経済成長しています。

トランプ大統領は国産品にこだわったが、彼は金儲けのプロだったが国の経済には詳しくありませんでした。

例えば日本や韓国が300万円の超素晴らしい車を輸出したら、アメリカはその車を15年ほど使う事でGDPを生み出します。


ピザの配達から通勤やレジャーなど、300万円の車は15年間で300万円以上のGDPをアメリカにもたらすでしょう。

輸出した日本や韓国は300万円儲かるわけではなくせいぜい1割の30万円、輸入したアメリカのほうがずっと得をします。

品物を牛肉に変えるともっと分かりやすく、日本はアメリカから牛肉を100ℊ50円以下で輸入しています。


輸入した牛肉を焼き肉や牛丼に加工して販売すると軽く10倍の付加価値がつき、日本のほうが儲かっています。

先進国はこのように後進国から物やサービスを輸入し、国内で使う事でGDPにするので、中韓と競争しなくて良いのです。

それを経済音痴の政治家や官僚は「中韓より賃金を安くしないと輸出で負ける」と思い込み賃下げ競争をしました。


竹中のような人間の理解では日本人の給料を中国人と同じ年収100万円以内にしないと「日本は国際競争に負ける」そうです。

この程度の人間が20年も経済通として政府を指導してきたのが、日本経済がずっと不況だった理由です。

https://www.thutmosev.com/archives/86891552.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/115.html#c50

[近代史02] 竹中平蔵物語 中川隆
134. 中川隆[-16066] koaQ7Jey 2021年10月08日 07:55:46 : OQtwHPKyGw : cy9paXN5QjZ1RGM=[11]

2021年10月08日
小泉、安倍、竹中で日本経済が縮小した理由

この3バカは「日本人の賃金を中国人より安くしないといけない」という謎理論を信じ込み20年間経済破壊を続けた

画像引用:https://bunshun.jp/articles/photo/6983?pn=6 [写真](6ページ目)小泉純一郎が「東大ゼミ」で明かした、竹中起用と安倍後継を決めた理由 _ 文春オンライン

政府に経済音痴しかいない

以前竹中平蔵氏が最低賃金引上げなどの議論で「賃金を引き上げたら労働コストが上昇し競争力が低下するだけだ」のように猛反対していました。

竹中氏は小泉内閣で経済財政政策担当大臣だった他、安倍・菅内閣でも経済顧問などを務めてきた。

20年近い間、民主党時代を除いて日本の経済政策は竹中平蔵が望むように決定されてきた。


安倍首相時代に自民党の有力議員が「ナントカ会議とかで竹中あたりが決定し、国会はそれを承認するよう命令される」のように嘆いていました。

実際この通りだったと思われるほど、竹中平蔵の影響力は強大で、竹中氏は反論を許さず徹底的に相手をやりこめる。

竹中はパソナと深くかかわっていて、人材派遣や中抜きが栄えるほど、個人として利益を得る関係にあった。


小泉首相が竹中に権力を与えた事から、日本中に派遣、中抜き、実質どれい労働が蔓延するようになった。

コロナや東京五輪関連では9割中抜きで1割だけが実際にその仕事をする会社に渡っているという実態が報道された。

竹中氏がこれほど強大な権限を握った理由は、自民党や政治家の誰も経済が分からず、竹中氏に丸投げしたからでした。


小泉首相も安倍・菅首相も経済に暗く、小泉改革やアベノミクスを掲げたが内容は空っぽでした。

ところが丸投げされた竹中平蔵氏も経済用語に詳しいだけで、どうすれば景気が良くなりGDPが拡大するか分かりません。

竹中氏の「賃金を下げるほど国際競争力が強くなり、賃上げすると日本は滅びる」のような発言でそれは分かります。

日本人の賃金を中国人より安くしないといけない?

竹中理論では日本より高賃金のドイツとアメリカは国家破産している筈ですが、現実には「賃金が安い国ほど」経済が悪く破産に近い。

竹中が言っているのは中国や韓国と輸出競争しているので、中国並みに賃金を下げないと日本は輸出で負けるという話です。

この辺から実は経済に無知なのが知れるが、欧米のような先進国は中韓と輸出競争なんかしていません。


アメリカは中韓や日本からどんどん安いものを輸入し、自国で輸入品を使う事で経済成長しています。

トランプ大統領は国産品にこだわったが、彼は金儲けのプロだったが国の経済には詳しくありませんでした。

例えば日本や韓国が300万円の超素晴らしい車を輸出したら、アメリカはその車を15年ほど使う事でGDPを生み出します。


ピザの配達から通勤やレジャーなど、300万円の車は15年間で300万円以上のGDPをアメリカにもたらすでしょう。

輸出した日本や韓国は300万円儲かるわけではなくせいぜい1割の30万円、輸入したアメリカのほうがずっと得をします。

品物を牛肉に変えるともっと分かりやすく、日本はアメリカから牛肉を100ℊ50円以下で輸入しています。


輸入した牛肉を焼き肉や牛丼に加工して販売すると軽く10倍の付加価値がつき、日本のほうが儲かっています。

先進国はこのように後進国から物やサービスを輸入し、国内で使う事でGDPにするので、中韓と競争しなくて良いのです。

それを経済音痴の政治家や官僚は「中韓より賃金を安くしないと輸出で負ける」と思い込み賃下げ競争をしました。


竹中のような人間の理解では日本人の給料を中国人と同じ年収100万円以内にしないと「日本は国際競争に負ける」そうです。

この程度の人間が20年も経済通として政府を指導してきたのが、日本経済がずっと不況だった理由です。

https://www.thutmosev.com/archives/86891552.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/301.html#c134

[近代史4] 売国政治家列伝 _ 安倍晋三 中川隆
67. 中川隆[-16065] koaQ7Jey 2021年10月08日 07:59:41 : OQtwHPKyGw : cy9paXN5QjZ1RGM=[12]

2021年10月08日
小泉、安倍、竹中で日本経済が縮小した理由

この3バカは「日本人の賃金を中国人より安くしないといけない」という謎理論を信じ込み20年間経済破壊を続けた

画像引用:https://bunshun.jp/articles/photo/6983?pn=6 [写真](6ページ目)小泉純一郎が「東大ゼミ」で明かした、竹中起用と安倍後継を決めた理由 _ 文春オンライン

政府に経済音痴しかいない

以前竹中平蔵氏が最低賃金引上げなどの議論で「賃金を引き上げたら労働コストが上昇し競争力が低下するだけだ」のように猛反対していました。

竹中氏は小泉内閣で経済財政政策担当大臣だった他、安倍・菅内閣でも経済顧問などを務めてきた。

20年近い間、民主党時代を除いて日本の経済政策は竹中平蔵が望むように決定されてきた。


安倍首相時代に自民党の有力議員が「ナントカ会議とかで竹中あたりが決定し、国会はそれを承認するよう命令される」のように嘆いていました。

実際この通りだったと思われるほど、竹中平蔵の影響力は強大で、竹中氏は反論を許さず徹底的に相手をやりこめる。

竹中はパソナと深くかかわっていて、人材派遣や中抜きが栄えるほど、個人として利益を得る関係にあった。


小泉首相が竹中に権力を与えた事から、日本中に派遣、中抜き、実質どれい労働が蔓延するようになった。

コロナや東京五輪関連では9割中抜きで1割だけが実際にその仕事をする会社に渡っているという実態が報道された。

竹中氏がこれほど強大な権限を握った理由は、自民党や政治家の誰も経済が分からず、竹中氏に丸投げしたからでした。


小泉首相も安倍・菅首相も経済に暗く、小泉改革やアベノミクスを掲げたが内容は空っぽでした。

ところが丸投げされた竹中平蔵氏も経済用語に詳しいだけで、どうすれば景気が良くなりGDPが拡大するか分かりません。

竹中氏の「賃金を下げるほど国際競争力が強くなり、賃上げすると日本は滅びる」のような発言でそれは分かります。

日本人の賃金を中国人より安くしないといけない?

竹中理論では日本より高賃金のドイツとアメリカは国家破産している筈ですが、現実には「賃金が安い国ほど」経済が悪く破産に近い。

竹中が言っているのは中国や韓国と輸出競争しているので、中国並みに賃金を下げないと日本は輸出で負けるという話です。

この辺から実は経済に無知なのが知れるが、欧米のような先進国は中韓と輸出競争なんかしていません。


アメリカは中韓や日本からどんどん安いものを輸入し、自国で輸入品を使う事で経済成長しています。

トランプ大統領は国産品にこだわったが、彼は金儲けのプロだったが国の経済には詳しくありませんでした。

例えば日本や韓国が300万円の超素晴らしい車を輸出したら、アメリカはその車を15年ほど使う事でGDPを生み出します。


ピザの配達から通勤やレジャーなど、300万円の車は15年間で300万円以上のGDPをアメリカにもたらすでしょう。

輸出した日本や韓国は300万円儲かるわけではなくせいぜい1割の30万円、輸入したアメリカのほうがずっと得をします。

品物を牛肉に変えるともっと分かりやすく、日本はアメリカから牛肉を100ℊ50円以下で輸入しています。


輸入した牛肉を焼き肉や牛丼に加工して販売すると軽く10倍の付加価値がつき、日本のほうが儲かっています。

先進国はこのように後進国から物やサービスを輸入し、国内で使う事でGDPにするので、中韓と競争しなくて良いのです。

それを経済音痴の政治家や官僚は「中韓より賃金を安くしないと輸出で負ける」と思い込み賃下げ競争をしました。


竹中のような人間の理解では日本人の給料を中国人と同じ年収100万円以内にしないと「日本は国際競争に負ける」そうです。

この程度の人間が20年も経済通として政府を指導してきたのが、日本経済がずっと不況だった理由です。

https://www.thutmosev.com/archives/86891552.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/789.html#c67

[近代史4] 売国政治家列伝 _ 小泉純一郎 中川隆
5. 中川隆[-16064] koaQ7Jey 2021年10月08日 08:00:09 : OQtwHPKyGw : cy9paXN5QjZ1RGM=[13]

2021年10月08日
小泉、安倍、竹中で日本経済が縮小した理由

この3バカは「日本人の賃金を中国人より安くしないといけない」という謎理論を信じ込み20年間経済破壊を続けた

画像引用:https://bunshun.jp/articles/photo/6983?pn=6 [写真](6ページ目)小泉純一郎が「東大ゼミ」で明かした、竹中起用と安倍後継を決めた理由 _ 文春オンライン

政府に経済音痴しかいない

以前竹中平蔵氏が最低賃金引上げなどの議論で「賃金を引き上げたら労働コストが上昇し競争力が低下するだけだ」のように猛反対していました。

竹中氏は小泉内閣で経済財政政策担当大臣だった他、安倍・菅内閣でも経済顧問などを務めてきた。

20年近い間、民主党時代を除いて日本の経済政策は竹中平蔵が望むように決定されてきた。


安倍首相時代に自民党の有力議員が「ナントカ会議とかで竹中あたりが決定し、国会はそれを承認するよう命令される」のように嘆いていました。

実際この通りだったと思われるほど、竹中平蔵の影響力は強大で、竹中氏は反論を許さず徹底的に相手をやりこめる。

竹中はパソナと深くかかわっていて、人材派遣や中抜きが栄えるほど、個人として利益を得る関係にあった。


小泉首相が竹中に権力を与えた事から、日本中に派遣、中抜き、実質どれい労働が蔓延するようになった。

コロナや東京五輪関連では9割中抜きで1割だけが実際にその仕事をする会社に渡っているという実態が報道された。

竹中氏がこれほど強大な権限を握った理由は、自民党や政治家の誰も経済が分からず、竹中氏に丸投げしたからでした。


小泉首相も安倍・菅首相も経済に暗く、小泉改革やアベノミクスを掲げたが内容は空っぽでした。

ところが丸投げされた竹中平蔵氏も経済用語に詳しいだけで、どうすれば景気が良くなりGDPが拡大するか分かりません。

竹中氏の「賃金を下げるほど国際競争力が強くなり、賃上げすると日本は滅びる」のような発言でそれは分かります。

日本人の賃金を中国人より安くしないといけない?

竹中理論では日本より高賃金のドイツとアメリカは国家破産している筈ですが、現実には「賃金が安い国ほど」経済が悪く破産に近い。

竹中が言っているのは中国や韓国と輸出競争しているので、中国並みに賃金を下げないと日本は輸出で負けるという話です。

この辺から実は経済に無知なのが知れるが、欧米のような先進国は中韓と輸出競争なんかしていません。


アメリカは中韓や日本からどんどん安いものを輸入し、自国で輸入品を使う事で経済成長しています。

トランプ大統領は国産品にこだわったが、彼は金儲けのプロだったが国の経済には詳しくありませんでした。

例えば日本や韓国が300万円の超素晴らしい車を輸出したら、アメリカはその車を15年ほど使う事でGDPを生み出します。


ピザの配達から通勤やレジャーなど、300万円の車は15年間で300万円以上のGDPをアメリカにもたらすでしょう。

輸出した日本や韓国は300万円儲かるわけではなくせいぜい1割の30万円、輸入したアメリカのほうがずっと得をします。

品物を牛肉に変えるともっと分かりやすく、日本はアメリカから牛肉を100ℊ50円以下で輸入しています。


輸入した牛肉を焼き肉や牛丼に加工して販売すると軽く10倍の付加価値がつき、日本のほうが儲かっています。

先進国はこのように後進国から物やサービスを輸入し、国内で使う事でGDPにするので、中韓と競争しなくて良いのです。

それを経済音痴の政治家や官僚は「中韓より賃金を安くしないと輸出で負ける」と思い込み賃下げ競争をしました。


竹中のような人間の理解では日本人の給料を中国人と同じ年収100万円以内にしないと「日本は国際競争に負ける」そうです。

この程度の人間が20年も経済通として政府を指導してきたのが、日本経済がずっと不況だった理由です。

https://www.thutmosev.com/archives/86891552.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/784.html#c5

[近代史4] 売国政治家列伝 _ 菅義偉 中川隆
68. 中川隆[-16063] koaQ7Jey 2021年10月08日 08:00:40 : OQtwHPKyGw : cy9paXN5QjZ1RGM=[14]

2021年10月08日
小泉、安倍、竹中で日本経済が縮小した理由

この3バカは「日本人の賃金を中国人より安くしないといけない」という謎理論を信じ込み20年間経済破壊を続けた

画像引用:https://bunshun.jp/articles/photo/6983?pn=6 [写真](6ページ目)小泉純一郎が「東大ゼミ」で明かした、竹中起用と安倍後継を決めた理由 _ 文春オンライン

政府に経済音痴しかいない

以前竹中平蔵氏が最低賃金引上げなどの議論で「賃金を引き上げたら労働コストが上昇し競争力が低下するだけだ」のように猛反対していました。

竹中氏は小泉内閣で経済財政政策担当大臣だった他、安倍・菅内閣でも経済顧問などを務めてきた。

20年近い間、民主党時代を除いて日本の経済政策は竹中平蔵が望むように決定されてきた。


安倍首相時代に自民党の有力議員が「ナントカ会議とかで竹中あたりが決定し、国会はそれを承認するよう命令される」のように嘆いていました。

実際この通りだったと思われるほど、竹中平蔵の影響力は強大で、竹中氏は反論を許さず徹底的に相手をやりこめる。

竹中はパソナと深くかかわっていて、人材派遣や中抜きが栄えるほど、個人として利益を得る関係にあった。


小泉首相が竹中に権力を与えた事から、日本中に派遣、中抜き、実質どれい労働が蔓延するようになった。

コロナや東京五輪関連では9割中抜きで1割だけが実際にその仕事をする会社に渡っているという実態が報道された。

竹中氏がこれほど強大な権限を握った理由は、自民党や政治家の誰も経済が分からず、竹中氏に丸投げしたからでした。


小泉首相も安倍・菅首相も経済に暗く、小泉改革やアベノミクスを掲げたが内容は空っぽでした。

ところが丸投げされた竹中平蔵氏も経済用語に詳しいだけで、どうすれば景気が良くなりGDPが拡大するか分かりません。

竹中氏の「賃金を下げるほど国際競争力が強くなり、賃上げすると日本は滅びる」のような発言でそれは分かります。

日本人の賃金を中国人より安くしないといけない?

竹中理論では日本より高賃金のドイツとアメリカは国家破産している筈ですが、現実には「賃金が安い国ほど」経済が悪く破産に近い。

竹中が言っているのは中国や韓国と輸出競争しているので、中国並みに賃金を下げないと日本は輸出で負けるという話です。

この辺から実は経済に無知なのが知れるが、欧米のような先進国は中韓と輸出競争なんかしていません。


アメリカは中韓や日本からどんどん安いものを輸入し、自国で輸入品を使う事で経済成長しています。

トランプ大統領は国産品にこだわったが、彼は金儲けのプロだったが国の経済には詳しくありませんでした。

例えば日本や韓国が300万円の超素晴らしい車を輸出したら、アメリカはその車を15年ほど使う事でGDPを生み出します。


ピザの配達から通勤やレジャーなど、300万円の車は15年間で300万円以上のGDPをアメリカにもたらすでしょう。

輸出した日本や韓国は300万円儲かるわけではなくせいぜい1割の30万円、輸入したアメリカのほうがずっと得をします。

品物を牛肉に変えるともっと分かりやすく、日本はアメリカから牛肉を100ℊ50円以下で輸入しています。


輸入した牛肉を焼き肉や牛丼に加工して販売すると軽く10倍の付加価値がつき、日本のほうが儲かっています。

先進国はこのように後進国から物やサービスを輸入し、国内で使う事でGDPにするので、中韓と競争しなくて良いのです。

それを経済音痴の政治家や官僚は「中韓より賃金を安くしないと輸出で負ける」と思い込み賃下げ競争をしました。


竹中のような人間の理解では日本人の給料を中国人と同じ年収100万円以内にしないと「日本は国際競争に負ける」そうです。

この程度の人間が20年も経済通として政府を指導してきたのが、日本経済がずっと不況だった理由です。

https://www.thutmosev.com/archives/86891552.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1084.html#c68

[近代史6] ヴァシーリー・カリンニコフ(Vasily Sergeyevich Kalinnikov, 1866 - 1901)
ヴァシーリー・カリンニコフ(Vasily Sergeyevich Kalinnikov, 1866 - 1901)

交響曲第1番ト短調 (1894-95)
3.5点
1楽章は素朴で田舎臭く、メロディーは印象的で秀逸なのだが、むしろこの芋っぽさに惹かれてしまう。やたらと快活で歯切れがいいのも良い。2楽章も続けて芋臭いのだが、家庭的な暖かさが素敵。3楽章は急に中東風?の異国情緒で楽しい。4楽章はカーニバル的な楽しさ。歯切れが良すぎて性急な印象。この交響曲は、とにかく全編が歌謡曲のような田舎臭さで素人臭いが、メロディーが良く発想豊かな力作であり、聴いて損はない独特の魅力がある。この魅力はメジャー作曲家には無い。


交響曲第2番イ長調 (1895-97)
1.5点
1番でみせた魅力のほとんどが悲しいほどスポイルされてしまい、実力不足が目立ち耳に残らないB級作品になってしまっている。4楽章が少し魅力があるかと思うが、耳に入ってきやすい音楽というだけだ。田舎臭さ、素人臭さ、歯切れのよさ、メロディーの魅力が無くなってつまらない。こうしてみると、1番はやはり奇跡のホームランなのだろうか。

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ヴァシーリー・セルゲイェーヴィチ・カリーンニコフ(Васи́лий Серге́евич Кали́нников ; Vasily Sergeyevich Kalinnikov, 1866年1月13日(ユリウス暦1月1日) - 1901年1月11日(ユリウス暦1900年12月29日))は、ロシアの作曲家。


生涯
オリョーリ県オリョーリ出身。イワン・ツルゲーネフと同郷である。貧しく倹しい警官の家庭に生まれる。後にやはり作曲家となった弟ヴィクトルとともに、少年時代から楽才を顕し、14歳で地元の聖歌隊の指揮者を務めるまでになる。

その後モスクワ音楽院に進むが、学費を納入できずに退学させられる。その後、奨学金を得て、モスクワ楽友協会付属学校(en)でファゴットを学ぶかたわら、セミョーン・クルーグリコフ(ロシア語版)に和声法を、アレクサンドル・イリインスキーに対位法とフーガを、パーヴェル・ブラランベールク(ロシア語版)に管弦楽法を師事。師のクルーグリコフは後に親友となった。劇場の楽団でファゴットやティンパニ、ヴァイオリンを演奏するかたわら、写譜家としても働いて生計を立てた[1]。

1892年にチャイコフスキーに認められ、マールイ劇場の指揮者に推薦され、それから同年にモスクワのイタリア歌劇団の指揮者も務める。以前からの過労が祟って健康が悪化し、結核に罹患したために、やむなく劇場での活動を断念し、温暖な気候のもとでの転地療養を余儀なくされてクリミア南部に向かう。生涯の終わりをヤルタで過ごした。2つの交響曲とアレクセイ・コンスタンチノヴィッチ・トルストイの《皇帝ボリス》のための劇付随音楽は、同地で作曲されている。

セルゲイ・ラフマニノフが楽譜出版社ユルゲンソンにかけ合ったおかげで、3つの歌曲が120ルーブルで買い取られ、その後《交響曲第2番》も売れた。循環形式を用いた《交響曲第1番》は、作曲者の存命中にモスクワのほかベルリンやウィーン、パリでも演奏されたが、病が悪化していたため1897年の初演にも立ち会うこともかなわなかった。交響曲第1番の出版と35歳の誕生日を目前にして世を去った。ユルゲンソン社主ピョートルは、後にカリンニコフが受け取るべき報酬を増額して未亡人に支払った。

病のため、カリンニコフはウラル山脈の山荘に転居した。小品の多くがこの地で書かれたが、カリンニコフは稼ぎが無いまま一生を終えた。

遺された弟ヴィクトルは奉神礼音楽や合唱曲の作曲家となり、楽友協会付属学校の教壇に立った。

作風と作品
カリンニコフは、2つの交響曲といくつかの付随音楽、そして多数の歌曲を遺した。いずれの作品もみな、ロシア民謡の特徴に染め抜かれている。2つの交響曲、なかでも《交響曲 第1番》は、20世紀初頭に頻繁に演奏された。近年カリンニコフの名声は消えかかっていたものの、交響曲は音源で接することが可能である。

カリンニコフの作風は、おおむねチャイコフスキーに倣って西欧的な楽曲構成法を採っていながらも、旋律や和声法に民謡や民族音楽の影響が自明であるように、国民楽派(「五人組」)からの影響も無視できない。このようにカリンニコフは、モスクワ楽派とペテルブルク楽派のいずれかに与するのではなく、その両方の伝統の美点を折衷した作曲家であった。折衷的という点においてグラズノフに似ていなくもないが、よりアカデミックで、洗練された作曲技法と緻密な構成を追究し続けた点でグラズノフはカリンニコフと異なっている。1899年からオペラ《1812年》の作曲にも着手したが、未完に終わった。


交響曲
2曲の完成された交響曲こそは、美しい民族的な旋律と、色彩的な管弦楽法ゆえに、カリンニコフの代表作であると言っても過言ではない。特に第1番は旧ソ連時代から録音・上演の機会が多い。どちらの曲もほとんど病床で作曲されたものであるが、生への希望に満ちた明るさが感じられる。おそらく、作曲者は、これらの曲を実際に聴くことはなかったはずである。

交響曲第1番ト短調 (1894-95)
親友であったクルーグリコフに献呈された。金銭的な援助を仰ぐため、演奏前にリムスキー=コルサコフに楽譜を送ったが、回答は批判的であった。第一楽章の印象的な旋律が終楽章で再現される。第2楽章の導入部では、ドビュッシー風の和声も聞こえる。

交響曲第2番イ長調 (1895-97)
旋律はやや印象が薄く、第1番ほど有名ではないが、循環形式を使用し、構成・内容ともに充実している。とりわけ第二楽章のアンダンテ・カンタービレは、表現力に富む。


管弦楽曲
2000年に、どちらかといえば無名の序曲《ブィリーナ》(1892年ごろ作曲)が、不意に忘却の中を抜け出した。この序曲の(後半で数回繰り返される)抒情的な主題のひとつが、アレクサンドル・アレクサンドロフ作曲のソ連国歌(1936年〜1943年)の出だしと驚くほどそっくりであることが分かったためである。この類似点は、ドゥーマにおいて、ソ連国歌を復活させるべきかという論戦にも持ち出された。《ブィリーナ》とソ連国歌の因果関係は確定しておらず、その類似も単なる偶然とするのが尤もであろう。

フーガ ニ長調 (1889)
弦楽のためのセレナード ト短調(1891)
序曲『ブイリーナ(叙事詩)』(1892)
組曲 ロ短調 (1892)
序曲 ニ短調 (1894)
間奏曲第1番 イ長調 (1896)
間奏曲第2番 ト長調 (1897)
交響的絵画『杉と棕櫚』 (1897-98)
劇付随音楽『皇帝ボリス』 (1898) - 序曲と4つの幕間への間奏曲。
交響的絵画『妖精』 (1899)


ピアノ曲
モデラート 変ホ長調
交響曲第1番の主題による《ポロネーズ》 変ロ短調 - 4手連弾。
スケルツォ ヘ長調 (1888)
悲しい歌 ト短調 (1892-93) - 5(3+2)拍子のロシア風旋律が歌われる、簡素な美しさを持った小品。
ノクターン 嬰ヘ短調 (1892-93)
エレジー 変ロ短調 (1894)
メヌエット ホ長調 (1894)
ロシア間奏曲 ヘ短調 (1894)
ワルツ イ長調 (1894)


声楽曲
無伴奏合唱聖歌『ヘルヴィムの歌』(1885,86)
オーケストラと合唱とソリストのためのカンタータ『ダマスコの聖イオアン』(1890)

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http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/860.html

[近代史6] ヴァシーリー・カリンニコフ 交響曲 第1番 ト短調
ヴァシーリー・カリンニコフ 交響曲 第1番 ト短調


カリンニコフ 交響曲第1番  Kalinnikov / Symphony No. 1 in G Minor





第1楽章 ト短調・ソナタ形式 Allegro moderato 14:06
ロシア的な性格を持つ美しい2つの主題の発展を基盤とする、ソナタ形式です。


第2楽章 変ホ長調・3部形式 Andante commodamente 7:10
木管楽器と弦楽器による、美しく穏やかで、抒情的な雰囲気を持つ洗練された緩楽章です。


第3楽章 ハ長調・複合3部形式 Allegro non troppo-moderato assai 7:35
ロシアの農民の舞踊曲のようなメロディーを用いた、躍動的なスケルツォです。


第4楽章 ト長調・ロンド形式 Allegro moderato 8:29
第1楽章の主題を織り込みつつ、エネルギッシュですが寂寥感を伴う第4楽章の主題が演奏されます。後半では、第2楽章で穏やかに美しく奏でられていた主題も勇壮に奏でられ、堂々としたフィニッシュを迎えます。


ネーメ・ヤルヴィ指揮
ロイヤル・スコッティシュ・ナショナル管弦楽団
1987年録音




カリンニコフ:交響曲第1番ト短調 (スコア付き)



指揮:エフゲニー・スヴェトラーノフ
管弦楽:ソヴィエト国立交響楽団


00:00 第1楽章 Allegro moderato (ト短調)
14:12 第2楽章 Andante comodamente (変ホ長調)
21:41 第3楽章 Scherzo: Allegro non troppo - Moderato assai (ハ長調)
29:23 第4楽章 Finale: Allegro moderato (ト長調)


▲△▽▼


交響曲第1番ト短調は、ヴァシリー・カリンニコフが1895年に完成させた交響曲。友人の音楽評論家セミョーン・クルーグリコフ(ロシア語版)に献呈された[2]。


1894年に作曲を開始し、翌1895年に完成した。金銭的な援助を仰ぐため、ニコライ・リムスキー=コルサコフへ楽譜を送るも、リムスキー=コルサコフはこの曲に対し、写譜のミスなどにより、演奏不能という評価を下した。1897年2月20日、友人達の協力によりキエフにて初演が行なわれ、大盛況を収める。


楽曲構成


第1楽章 Allegro moderato ト短調 ソナタ形式
弦楽合奏による第1主題で始まる。第2主題はチェロが提示する歌謡的な主題。提示部は繰り返される。第2主題で始まる展開部では、第1主題によるフガートが置かれている。再現部では第1主題は木管合奏により出される。また、第2主題にはハープの伴奏が付く。コーダは第1主題による。
第2楽章 Andante comodamente 変ホ長調[1] 三部形式
緩徐楽章。非常に叙情的な楽章。ハープと弦楽器による伴奏の上に、木管と弦が哀調を帯びた主題を出す。
第3楽章 Allegro non troppo - Moderato assai ハ長調[1] 複合三部形式
スケルツォ。弦楽の主題は細かい動きが特徴的な明るい旋律。トリオはイ短調に移り、オーボエがやや哀歌的な主題を奏する。
第4楽章 Allegro moderato ト長調[1] ロンド形式
それまでの楽章を総合するフィナーレ。冒頭、第1楽章の主題が再現されると、ト長調の熱狂的なロンド主題が弦により提示される。その後も、ロンド主題の合間に第1楽章第2主題、第2楽章の主題が再現される。コーダでは、ト長調に移った第2楽章の主題が金管により燦然と吹奏され、トライアングルのトレモロが響く中、ト長調の主和音で圧倒的な終結となる。


楽器編成


フルート2
ピッコロ1
オーボエ2
コーラングレ1
クラリネット2
ファゴット2
ホルン4
トランペット2
トロンボーン3
チューバ
ティンパニ
トライアングル
ハープ
弦五部
第1ヴァイオリン
第2ヴァイオリン
ヴィオラ
チェロ
コントラバス


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[近代史6] アレクサーンドル・グラズノフ(Aleksandr Konstantinovich Glazunov, 1865 - 1936)
アレクサーンドル・グラズノフ(Aleksandr Konstantinovich Glazunov, 1865 - 1936)

ロシア色が薄く、ドイツ的な端正さとバランス感覚と構築感がある。管弦楽の表情の付け方がうまい。しっかりした曲を書く正統派であり、チャイコフスキーの後継者という感じがする。しかし、一流作曲家と比較すると曲のインパクトが足りない。


交響曲

交響曲第1番ホ長調『スラブ』 作品5(1882年)
2.8点
全体的に広大さがあり、発想も豊かで華やかである。ドヴォルザークを連想した。国民性も少し入っている。一方でやはり密度は足りないし、子供っぽさも感じる。平板に進むばかりで奥行きや立体感がなく、曲の長さに見合う収穫はないと思う。ただ、たった15歳で聴き映え十分のこの大交響曲書いたというのはやはり驚くべきことで、驚異の神童と思う。

交響曲第2番嬰ヘ短調 作品16(1886年)
3.3点
まだ若い時の作品だが、1番よりはるかに成熟し、大人の音楽になっている。なかなか本格的で、短調の力強い説得力を音にしている。大きな流れと起伏があって、流れに身をまかせるだけで気持ちいい。ただ、特に2楽章は一流の作品に比べればねちっこいフレーズが延々と続き、やや冗長ではある。とはいえリストの追悼とのことだが、強い感情に感動させるものがあり驚かされる。

交響曲第3番ニ長調 作品33(1890年
3.0点
1楽章も2楽章もあまりにもチャイコフスキーの影響が明白。チャイコフスキーが発見し開拓した音の魔法のかけ方をふんだんに取り入れていて、「これはありなのか?」とさえ思ってしまう。ただ、愉しいものではあるが、プラスアルファには乏しい。3楽章は16分もあり、大いなる情緒性は一聴の価値があるものの、長すぎる気がする。4楽章は音の躍動感を楽しめて、なかなかのワクワク感はあるものの、なんというか名作感はない。

交響曲第4番変ホ長調 作品48(1893年)
3.3点
唯一の3楽章制の曲。回想するような甘美で柔らかい雰囲気の1楽章。管楽器が夢のような雰囲気を出してバレエ音楽のような活発な2楽章。高揚感を演出しながらも落ち着いて音楽が展開していく3楽章。どの楽章も均等に充実し、バランスよく表情豊かで巨匠的な響きでありよく出来ている。手堅いしメロディーのインパクトの強さには欠けるものの、充実ぶりがかなりのレベルなので楽しんで聴ける。5番より少し良いと思う。

交響曲第5番変ロ長調 作品55(1895年
3.3点
1895年に書かれたにしては非常に古典的で、1840年代の曲のように感じてしまう。
ドイツ的なしっかりとした骨組みと薄いロシア的情緒の組み合わせで聴きやすい。明るく明快な1楽章と2楽章はまあまあ。3楽章のチャイコフスキーを連想するようなロマンティックで甘美で耽美的な叙情性は素敵で美しく、特筆される。4楽章は活発に盛り上げるが、音が軽すぎてあまり気分が高揚しない。出来は良いがトップレベルの作曲家よりほんの少しずついろいろな所が足りない。

交響曲第6番ハ短調 作品58(1896年)
2.8点
1楽章の悲劇的な盛り上げ方はチャイコフスキーに似すぎ。悪い曲ではない。2楽章は、ディテールの表情の付け方はさすがだが、全体としては変奏曲らしい効果を挙げていない。3楽章はありきたりな間奏曲という印象でいまいち。4楽章は力強い終曲だが全然いい曲と思えない。

交響曲第7番ヘ長調『田園』 作品77(1902年)
3.3点
舞台音楽的な軽快さと、説得力とバランスに優れたオーケストレーションの巨匠的な卓抜さは相変わらず。田園的な雰囲気は多くの場面で出しているが、抽象的であり、明確な描写はない。感動したりゾクゾクとするようないい所までいくのに、優等生的な物足りなさで尻すぼみして期待はずれに終わる。うまく転べば素晴らしい名曲にもなれた素材があるのに、「ちょっといい曲」止まりなのが残念である。

交響曲第8番変ホ長調 作品83(1906年)
3.5点
1楽章はあまり印象に残らない。自然の美しさの印象が少し感じられるくらい。2楽章は荘重な雰囲気は新鮮で面白く、創意性も感じる。それなりのインパクトを作ることに成功していて、曲に引き込まれる。3楽章は独特の賑やかさの作り方で面白く聴ける。4楽章は一番霊感に溢れており、かなり良い。しみじみとした感動や未来への希望や不安や回想を、ブルックナーのようなスケール感を伴って描いている。感動やゾクゾクする興奮を得られる。ただ、最後はバレエ風に軽く終わるのが残念なところ。

交響曲第9番ニ短調(1910年、未完)
3.0点
1楽章だけの他人による編曲版を聴く限り、けっして悪い曲ではない。8番の1楽章よりは表現への意思の強さと説得力がある。中断してしまったのはもったいない。


バレエ音楽

『ライモンダ』作品57(1897年)
3.3点
組曲版で聴いた。この組曲は曲数が多く、十分なボリュームを楽しめる。この人は恐らくバレエ音楽が音楽性として1番合っている思う。どの曲もよくできていて豊富な発想と音の充実感や躍動感を楽しめる。しかし、音だけで鑑賞する自分としては、とても良いバレエ音楽であるという以上のものがないとも思う。チャイコフスキーのバレエ音楽に作品の水準として肉薄していると思うが、しかし面白さに大きな差も感じてしまう。

『四季』作品67(1899年)
3.5点
グラズノフの美点がもっともよく表れている曲の一つと思われる。移りゆく情景、伸びやかさと躍動感、発想の豊かさ、チャイコフスキーを彷彿とさせるオーケストレーション力。穏やかで、シリアスさや刺々しさのない娯楽曲で愉しい。強すぎない個性が逆にバレエ音楽としての純粋さにつながって、良い結果になっている気がする。飽きることなく最後まで楽しめる。

管弦楽曲
交響詩『ステンカ・ラージン』 作品13(1885年)
3.0点
20歳の作品にしては十分に成熟した内容であり、歴史的な事件を題材にした血湧き肉踊るような活き活きとした描写と物語を楽しめる。ただ、それ以上のプラスアルファが無いので、名曲とまではいかない。


協奏曲

ヴァイオリン協奏曲 イ短調 作品82(1904年)
3.5点
巨匠的な音の品の良さと濃密さがある。これは完全に一流の作品である。音感の良さが納得感を感じさせるとともに、安心感を与えて、それが感動の基礎になる。チャイコフスキーの協奏曲と比べても、ダイナミックな面白さでは劣るが、詰め込まれた内容の良さでは決して劣らないほどである。最後の場面は舞台音楽的な躍動感も楽しめる。

ピアノ協奏曲 第1番 ヘ短調 作品92(1911年)
3.0点
1楽章は甘いロマン的な情緒に溺れる感じ。あのラフマニノフ交響曲2番の3楽章と同じ動機をふんだんに使っていることもあり、とにかくロマンチックな印象が強い。規模も大きく、ピアノとオケが協調して作る感情の振れ幅が大きい。しかし、まとまりは一聴しただけでは感じない。2楽章の緩徐楽章相当分は変奏曲として面白くないがやりたいことは分かる。スケルツォとフィナーレ相当の場面は華やかなピアノ協奏曲らしい楽しみがあり面白い。それとフィナーレ前の静かな部分がかなり素敵である。全体に1.5流感はあるものの、20世紀らしい自由さがあり情緒は深く、独特の楽しみがある。

ピアノ協奏曲 第2番 ロ長調 作品100(1917年)
2.5点
これはあまりにムード音楽的に聴こえてしまう。甘くセンチメンタルなだけで、内容に乏しい。ピアニスティックなチャレンジにも乏しい。これと比較するとラフマニノフが非常に芸術性の高い音楽だと思えるほどだ。残念である。

サクソフォーン協奏曲
2.8点
グラズノフらしい説得力のある力強いオケと、サックスの微妙にオサレなフレーズが交互に登場する変わった曲。現代的でポピュラー音楽のようであり、中盤まではサクソフォーンが鳴っている時にあまりクラシックに聴こえないのが面白い。

ピアノ曲

ピアノ・ソナタ第1番 変ロ短調 作品74(1901年)
3.3点
全3楽章。ピアニスティックな書法と正統派感がありきっちり作られた規模感において、この曲はロマン派ピアノソナタの重要作に挙げられそうである。しかしながら、素晴らしいと唸りたくなりように場面はあまりない。グラズノフらしく正統派だが地味である。とはいえ、1楽章のシューマンみたいな情熱的な第1主題とロマンチックな第2主題の対比、2楽章の夢想的で静謐で沈思するようなロマンティックさと温かみと中間部の盛り上げ方、3楽章の常道的なフレーズで畳み掛ける音の流れが生み出すスケールの大きさなど、どの楽章もそれなりに聞かせるものがある。もしよい演奏が見つかり自分の気分がうまくマッチすれば、かなり好きになれるかもしれないとも思う。

ピアノ・ソナタ第2番 ホ長調 作品75(1901年)
3.3点
力強い情熱やロマンチックさなどを非常に正統的な3楽章のソナタとして詰め込んだ曲。特に1楽章はメロディーが美しくて極上のロマンティック気分に浸れる。3楽章の後半も素晴らしい。品の良さと総合性とメロディーの良さはショパンのソナタ3番を連想する。しかしながら、まとまり過ぎていて優等生的になっており、起伏の激しさが意図的過ぎる面は気になってしまう。

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アレクサンドル・コンスタンティノヴィチ・グラズノフ(ロシア語: Алекса́ндр Константи́нович Глазуно́в, ラテン文字転写: Aleksandr Konstantinovich Glazunov, 1865年8月10日 - 1936年3月21日)は、ロシア帝国末期およびソビエト連邦建国期の作曲家・音楽教師・指揮者。ペテルブルク音楽院の院長を1906年から1917年にかけて務め、ペトログラード音楽院およびロシア革命後のレニングラード音楽院への改組を担った。グラズノフは、ロシア楽壇における民族主義(ペテルブルク楽派)と国際主義(モスクワ楽派)を巧みに融和させた重要人物である。

略歴

神童として
サンクトペテルブルクの富裕な出版業者の家庭に生まれる(グラズノフの父親は、プーシキンの『エフゲニー・オネーギン』の版元であった)[1]。9歳でピアノの、13歳で作曲の学習を開始。ロシア五人組のかつての指導者バラキレフは、グラズノフ青年の才能を認め、その作品をリムスキー=コルサコフに注目させた。「バラキレフは、14歳か15歳の高校生の作品を、何気なく私のところに持ってきた。それがサーシャ・グラズノフの曲だった。あどけない手法で作曲された管弦楽曲だった。青年の才能は疑いようもなく明らかであった」とリムスキー=コルサコフは回想している[2]。バラキレフは、その後まもなく1879年12月に、グラズノフ青年をリムスキー=コルサコフに紹介した。

リムスキー=コルサコフは、自分はグラズノフの個人教師であると考えていた[3]。「彼の音楽的な成長は、日ごとにではなく、文字通り時間ごとに進んだ[3]」とリムスキー=コルサコフは記している。二人の関係も変化した。1881年の春までに、リムスキー=コルサコフはグラズノフを門弟としてでなく、年少の同僚と看做すようになった[4]。このような発展は、リムスキー=コルサコフの側で、同年春に他界したムソルグスキーの精神的な代わりを見つけなければならないという念願から起こったのかもしれないが、同時に、グラズノフの最初の交響曲の進展を見守っていて起きたのかもしれない[4]。リムスキー=コルサコフはグラズノフの《交響曲 第1番「スラブ風」》の初演を指揮した。グラズノフが16歳のときである。なかんずくボロディンとウラディーミル・スターソフが作品と作曲者を激賞した。

ベリャーエフの庇護
褒め言葉よりも重要だったのは、グラズノフ作品の賛美者であり、中でもその一人が富裕な材木商人でアマチュア音楽家でもあったミトロファン・ベリャーエフであった。ベリャーエフはアナトーリ・リャードフによってグラズノフの音楽に引き合わされ[5]、この若者の音楽の行く手に激しい興味を掻き立てられて[6]、その興味を国民楽派の作曲家全員にも広げたのであった[5]。グラズノフは1884年にベリャーエフに西欧旅行に連れ出され、ヴァイマルで老巨匠フランツ・リストに出会い、同地で《交響曲 第1番「スラブ風」》を上演してもらっている[7]。

やはり1884年にベリャーエフは、音楽ホールとオーケストラを借り切って、グラズノフの《「スラブ風」交響曲》と最新作の管弦楽組曲を上演した[8]。リハーサルの成功に気を良くしたベリャーエフは、翌年のシーズンにグラズノフらの作品による公開演奏会を行うことを決心する[9]。この目論見は、1886年から1887年のシーズンに開会された、「ロシア交響楽演奏会」へと膨らんだ[10]。

1885年にベリャーエフは、ライプツィヒに自前の楽譜出版社を創設し、グラズノフやリャードフ、リムスキー=コルサコフ、ボロディンらの作品を自費で出版した。すると新進作曲家がベリャーエフの援助を懇願するようになった。提出された作品を選定してもらうため、ベリャーエフは、リャードフやリムスキー=コルサコフとともに出版社の顧問に就任するようグラズノフに依頼した[11]。ベリャーエフを囲んで結成された作曲家集団は、結局のところ「ベリャーエフ・サークル」として名をなすようになった[5]。

名声
グラズノフはやがて国際的な称賛を受けるようになる。それでも1890年から1891年まで創作上の行き詰まりを経験している。この期間を抜け出すと、新たに成熟期へと進み、1890年代に3つの交響曲、2つの弦楽四重奏曲、そしてバレエ音楽《ライモンダ》と《四季》を完成させた。1905年にペテルブルク音楽院の院長に選出されるまでの間グラズノフは創造力の頂点を極めた。この間の最も有名な作品に、《交響曲 第8番》と、《ヴァイオリン協奏曲》がある。この頃が国際的な名声の最高潮の時期でもあった。1907年5月17日にパリでロシア史演奏会の最終日を指揮し、オックスフォード大学とケンブリッジ大学からは名誉音楽博士に任ぜられている。作曲活動25周年の節目の年には、ペテルブルクとモスクワで、全曲自作のみの祝賀演奏会が開かれた[12]。


指揮者として
グラズノフは1888年に指揮者デビューを果たしている。その翌年には、パリ万博で自作の《交響曲 第2番》を指揮した[13]。1896年にロシア交響楽協会の指揮者に任命されてもいる。1897年には、ラフマニノフの《交響曲 第1番》の悲惨な初演を指揮した。後にラフマニノフ未亡人は、その時グラズノフは顔が真っ赤で酔っているように見えたという。この申し立てを肯定することはできないものの、ショスタコーヴィチ曰く「机にアルコール1瓶を忍ばせておいて、講義の合間にちびりちびりと飲み干してしまう」ような男には、あながち無い話でもなさそうだ[14]。

酔っ払っていたのであろうとなかろうと、グラズノフにはその交響曲に十分なリハーサルをつけることが出来なかったのであり、指揮法に熟達することはなかったものの、それでも指揮が大好きだった[13]。たとえ自分が指揮の才能には恵まれていないと承知していたにせよ、グラズノフは時おり自作を、特にバレエ《ライモンダ》を指揮した。時に冗談で、「私の作品を批判するのは構わないけど、私が名指揮者じゃないとか有名な音楽院の院長じゃないなんて言ったら、承知しないよ[15]」と言ったという。

第1次世界大戦とその後のロシア内戦の困難のさなかに、グラズノフは指揮者として活動を続けた。工場や会館、赤軍の駐屯地などでコンサートを指揮した。

ベートーヴェン没後百周年記念行事において、グラズノフは解説者ならびに指揮者として大役を果たした。ソ連を離れてからは、1928年にパリで自作の夜会を指揮した。これに続いてポルトガルやスペイン、フランス、イングランド、チェコスロバキア、ポーランド、オランダ、アメリカ合衆国でも指揮台に上った[16]。


教育者として
1899年にペテルブルク音楽院の教授に就任。二月革命の勃発と、院長リムスキー=コルサコフの解雇と再雇用を経て、グラズノフが1917年まで院長に就任した。第1次世界大戦の末期においては、音楽院の改組の責任者であった。実のところこれが主な理由となって、長年出国を待ちかねていたのかもしれない[15]。在任中にグラズノフは、弛むことなくカリキュラムを改善し、学生と教職員のために規律を高め、学校の威厳と自治を守った。偉業の一つに、オペラの練習場と学生オーケストラの設立が挙げられる[13]。

ショスタコーヴィチは、グラズノフには変わったところや可笑しいところが多々あったが、それでもグラズノフが進んで自分の時間や心の平穏、そして創造力を、音楽院のために犠牲にしたと認めている。グラズノフは実際に一日中音楽院に詰めており、苦学生の暮らし向きに父性的な関心を示した。毎年学期末になると、何百人もの学生を個人的に試問して、その人物像や適正な評価を記した推薦状を無数に作成した[13]。困窮した学生に、同情心から巨額の収入を分け与え、時には政府に掛け合って、学生の置かれた立場を訴えた。1922年にソ連政府は、グラズノフの創作活動を容易にするような、その業績に見合う生活条件を決定した。グラズノフは、すでにげっそりと痩せ細り、当時の多くのソ連国民と同じように困難な生活を過ごしていたにもかかわらず、そんなことより音楽院に焚き木を送り、多くの学生が校内でもっと快適に学習できるようにしてほしいと要望した。すると薪が運び込まれたという[17]。

当局者をやり過ごす際のグラズノフは、落ち着き払って動じなかった。革命前に、何人のユダヤ人が入学したかを問われて、グラズノフは「ここではそんな数は数えていない」と答えを返した[18]。ユダヤ人の音楽家は、自分たちがペトログラードに住めるようにグラズノフが当局者に会って許可をもらっていたことを知っていた。グラズノフのおかげで、ヤッシャ・ハイフェッツやナタン・ミルシテイン、ミッシャ・エルマンらは上京して学習することが出来たのである[19]。ショスタコーヴィチは、グラズノフがユダヤ人音楽家に見返りを求めたりはしなかったと述べている。誰にも自分の好きな土地に住む権利があれば、芸術が廃れることも無い筈だと感じていたからである。

『ショスタコーヴィチの証言』によるとグラズノフのアルコール依存症は、不幸にして素面では授業が出来ない段階にまで進んでいたかもしれない。ショスタコーヴィチの学生時代には、グラズノフは室内楽しか指導していなかった。グラズノフは、教室で演奏されている音楽を中断しまいと教壇に腰掛けていた。グラズノフは小声で口数少なく、授業が終わる頃には、ぼそぼそと話し、さらに口数が減った[20]。グラズノフが素面だったのかは怪しいにせよ、グラズノフの威信については疑問の余地が無い。グラズノフの名声ゆえに、ペトログラード音楽院は十月革命以降においても、数ある高等教育機関の中で特別の地位を与えられたからである。


亡命と終焉
グラズノフはボリシェヴィキ体制と、とりわけ教育相ルナチャルスキーと健全な協調関係を築いた。それでもなおグラズノフの保守主義は音楽院内部で非難された。教授陣からより進歩的な学校経営を要請され、学生からは大幅な権利の承認を要求されたのである。グラズノフはこれらの要望を、破壊的で不当であると看做した。音楽院に疲れたグラズノフは、1928年にウィーンで開かれたシューベルトの没後100周年記念行事に出席するのを好機として、国外に出たきり二度とソ連に戻らなかった。グラズノフが最終的に1930年に辞職するまで、マクシミリアン・シテインベルクが不在の院長の代理を務めた[12]。

グラズノフはヨーロッパとアメリカ合衆国を巡り、パリに定住した。ロシアを不在にしているのは、(亡命ではなく)「体調不良」のせいだと言い張っていたので、それ以外の理由で国を棄てたラフマニノフやストラヴィンスキーとは違い、ソ連における尊厳を失わずに済んだ。1929年にパリの音楽家によるオーケストラを指揮して、《四季》全曲を電気録音で遺した。同年64歳で、10歳年下のオリガ・ニコライェヴナ・ガヴリロヴァ(1875年 – 1968年)と結婚した[21]。前年にオリガの娘エレーナ・ガヴリロヴァが、グラズノフの《ピアノ協奏曲 第2番 変ロ長調》作品100のパリ初演でピアノを弾いており[22]、後にエレーナはグラズノフの養子となり、エレーナ・グラズノヴァと名乗るようになった。エレーナは1928年に、ピアニストのセルゲイ・タルノフスキーと結婚した。タルノフスキーはパリ時代のグラズノフのマネージャーも務めていた[23]。タルノフスキーと離婚後は、ヘルベルト・ギュンター(1906 – 1978)と再婚して、エレーナ・ギュンター=グラズノヴァと名乗った[24]。

グラズノフが70歳でパリに客死すると、その訃報は多くを驚かせた。長年グラズノフは、今の音楽ではなく過去のものと結び付けられてきたために、多くの人がグラズノフがまだ健在だったと初めて知ったのであった[25]。


記憶力
グラズノフは音楽の分野においては非常な神童として認められており、恩師で友人のリムスキー=コルサコフの手助けで、ボロディンのいくつかの大作(《交響曲 第3番》や、有名な〈だったん人の踊り〉を含む歌劇《イーゴリ公》)を補筆した。グラズノフは、一度だけピアノで演奏された《イーゴリ公》の序曲を、記憶から蘇らせて再構成した。しかしながらショスタコーヴィチの伝聞によると、酔っ払ったグラズノフが、「再構成」したボロディンの序曲は、実際には自分の曲なのだと洩らしたという。グラズノフは自分で書いた楽曲を、あえて完全にボロディンの手柄だとしたのである。ボロディンの作風を完璧に模倣する能力は、グラズノフの音楽的な創造力の証しである。ボロディンを作者としたところに、グラズノフの人となりの多くが現れているとショスタコーヴィチは感じたという。「一人の人間が他人に代わって優れた楽曲を創り、酔っ払って喋ったのは兎も角、そのことを伏せておくということは、なかなか出来るものでない。普通は正反対のことが起こるものだ。つまり、他人の着想や、丸々1曲さえ盗作して、自分のものとして押し通すといったことだ[26]」。

『ショスタコーヴィチの証言』には、グラズノフの記憶力について同様の多くの逸話が載っている。さらに有名な逸話の一つは、セルゲイ・タネーエフが新作の交響曲を携えサンクトペテルブルクを訪れた時のものである。タネーエフの訪問相手は、十代のグラズノフを隣室に隠していた。タネーエフが主人のためにピアノで自作の交響曲を弾いて聞かせると、別の客がタネーエフを祝福した後こう切り出した。「君に才能のある若者を会わせたいのだが。彼も交響曲を作曲しましてね」。そういうとその人物は隣室からグラズノフを連れ出し、主人が「サーシャ、お客様にお前の交響曲を聴かせてお上げ」と話しかける。グラズノフ青年はピアノの前に腰掛けると、タネーエフの交響曲を最初から最後まで演奏した。たった一度聞いただけで、それも閉まった扉越しに、である[27]。

グラズノフは、老いても記憶力が衰えなかった。ショスタコーヴィチが伝える別の逸話は、ペテルブルク音楽院の作曲科に入学を志願してきた「永遠の学生」についてである。志願者は自作のピアノ・ソナタを披露した。グラズノフは聴いていた。志願者が弾き終えるとグラズノフは言った。「私が間違っていなければだがね、君は何年か前にも志願したね。そのときは別のソナタだったが、なかなかいい第2主題だった。」グラズノフはピアノの前に腰掛けると、そのときのソナタの大部分を弾いた。「第2主題はもちろん屑みたいなものだったのだが」とショスタコーヴィチは言う。(グラズノフが弾くと)「印象は格段に違った[28]。」


影響力
ストラヴィンスキーは『年代記』の中で、青年時代にグラズノフの完成された音楽形式、対位法の純粋さ、書法の澱みなさと確実さを非常に尊敬していたと認めている。15歳のときストラヴィンスキーはグラズノフの弦楽四重奏曲をピアノ独奏用に編曲している[29]。ストラヴィンスキーの《交響曲 変ホ長調》は、当時流行のグラズノフの交響曲をかなり模倣しており[30]、自作の基本的な修正の際に、同じ調性のグラズノフの《交響曲 第8番》を雛形に用いてもいる。

グラズノフに対する敬意は時が経つにつれて変わった。ストラヴィンスキーは『回想録』において、グラズノフは最も性に合わない人間の一人だとして、《交響曲 変ホ長調》の非公開初演の際に経験した不吉な前兆についてこのように述べている。グラズノフは、演奏の後で「とても良い、とても良い」と言いながらストラヴィンスキーのところにやって来た。その後ストラヴィンスキーはこの出来事を思い返して、グラズノフは演奏会の後、通路に立っているストラヴィンスキーのそばを通って、ストラヴィンスキーにこう話し掛けたと畳み掛ける。グラズノフ曰く、「あんな曲にしては、管弦楽法が重苦しかったね」と[31][注 1]。

ストラヴィンスキーに言わせれば、自分の音楽が選んだモダンな傾向をグラズノフが支持してくれなかったということになる。だがグラズノフばかりがこうした偏見に陥ったわけではない。二人の恩師リムスキー=コルサコフもまた、音楽院で徐々に進めたアカデミックな手法に馴染むうち、最晩年までに心底から保守化している。グラズノフはリムスキー=コルサコフとは違って、アカデミズムに厳格に従うことによってロシア音楽が隘路にはまり込む可能性については心配しておらず、それでリムスキー=コルサコフのように新しい発想や技法を渋々認めるという態度をとりもしなかった[32]。

グラズノフがストラヴィンスキーに遠慮がちに(むろん無作法にならずに)接する機会はたまたまあった[32]。但し、他人が居合わせたところでストラヴィンスキー作品をどう講評したかは別問題である。グラズノフは、《花火》の演奏に接して、ドイツ語で「才能はない、不協和音しかない("Kein Talent, nur Dissonanz")」と洩らしたと言われている(この時の聴衆の中にセルゲイ・ディアギレフがいて、この曲の表現力に「バレエ・リュス」の未来の座付き作曲家を見出している)[33]。 グラズノフはとどのつまりはストラヴィンスキーを、管弦楽法の大家としてしか認めていなかった。1912年にヴラディーミル・テリャコフスキーに「《ペトルーシュカ》は、あれは音楽じゃないね。でも管弦楽法が見事で凄いんだ[34]」と述べたという。

新音楽への態度
グラズノフが嫌ったモダンな傾向の作曲家は、ストラヴィンスキーだけではなかった。ショスタコーヴィチは、ドビュッシー以降の新世代の西欧の作曲家を非難する際にグラズノフが「気取った騒音屋」と呼んでいたことに触れている。フランツ・シュレーカーの楽劇《はるかなる響き(英語版、ドイツ語版)》がレニングラードで上演された際、グラズノフは作曲家の名前に引っ掛けて、ドイツ語で「怖ろしい音楽だ("Schrekliche Musik!")」と言い放ったという。

音楽界にはびこる無秩序に、自分が役目を果たしていたのではないかと時々不審になることもあったようだ。あるときドビュッシーの《牧神の午後への前奏曲》の総譜に見入って、「大変趣味の良いオーケストレーションだ…。作曲家の手並みもいい…。リムスキーや私が、まさか現代人の堕落に感化しているということか?」と洩らしたという[35]。

しかしながらグラズノフの言い分としては、ある曲が「不協和である」と分かったからといって、聴くのを止めたりはしなかった。むしろ、理解しようとして聴き続けた。グラズノフは、このようにしてワーグナーの音楽を「洞察した」のである。《ワルキューレ》を数回聴いただけでは何も理解できなかったが、十回目にとうとう理解して、大好きになった。「自分が学生時代にグラズノフは、リヒャルト・シュトラウスの《サロメ》に同様に接して、慣れようとし、理解し、研究したのである」とショスタコーヴィチは述懐する[36]。

ショスタコーヴィチはペトログラード音楽院に13歳で入学し、音楽院で最年少の学生となった。ピアノをレオニード・ニコラーエフに、作曲をマクシミリアン・シテインベルクに師事し、こつこつと骨身を惜しまず精進する学生になった。グラズノフはショスタコーヴィチに、若き日の自分の面影を見出したのかもしれない。シテインベルクの講座へは、ショスタコーヴィチの進歩について注意深く助言し、ショスタコーヴィチに博士号を与える際には、教授職につながるより高い学位を目指すようにショスタコーヴィチに薦めた。実家の経済的な困難から、ショスタコーヴィチはこの機会を利用することが出来なかった[37]。1926年3月12日にニコライ・マルコ指揮レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団によって行われた、ショスタコーヴィチの《交響曲 第1番》の初演の手配もグラズノフが行なっている[38]。これは、同じ音楽ホールでグラズノフの《交響曲 第1番》が初演されてから、44年後の出来事であった[39]。交響曲が大旋風を捲き起こし、舞台上に現れた青年作曲家が不恰好にお辞儀すると会場が沸いたというのも、さながらグラズノフの青年時代の再現であった[38]。

グラズノフはひとしきりの深酒のために、気づくとボリシェヴィキ政権によって、ウォッカやワインの専売店に出入りすることを御法度とされていた。しかしながらショスタコーヴィチの父親が(厳格に配給されていた)蒸留酒を入手していたことを知る。ショスタコーヴィチにとって、グラズノフの父親への要請を取り次ぐことは気の重い日課であった。第一にその要求は、父親を致命的な危機に陥れかねなかった。見せしめとして誰がボリシェヴィキに銃殺されるのかは、知れたものでなかったからである。第二に、音楽院で優等生でいられたのが賄賂のせいだとは誰にも思われたくなかったのだ[40]。

作品

グラズノフの作品は、大まかに言って、ロシア国民楽派を受け継いだ民族主義を基調としつつ、チャイコフスキーの流れを汲むロシア・ロマン主義と融和させた作曲様式が認められる。前者からは色彩的で華麗な管弦楽法や豊かな和声法を、後者からは抒情的な旋律と洗練された優雅な表現を取り入れている。また、後年「ロシアのブラームス」との異名をとったように、年を経るにつれて、対位法的な構想や、綿密な動機労作による構築性、変奏の技法の援用といった特徴が強まった。

グラズノフのこんにち最も有名な作品は、バレエ音楽《ライモンダ》と《四季》、それにいくつかの後期の交響曲(例えば《第4番》《第5番》《第6番》)、それから2つの《演奏会用ワルツ》であろう。

ヤッシャ・ハイフェッツが贔屓した《ヴァイオリン協奏曲》は、今でも時おり上演・録音されている。最後の作品となった《サクソフォーン協奏曲》(1934年)は、当時の西欧での流行を取り入れる能力が示されている。ただし音列技法、極小形式といった20世紀初期の運動はやり過ごし、世紀の変わり目までに完成させた洗練された手法から後ずさりすることはなかった。

グラズノフの音楽的な成長は矛盾に満ちている。(リムスキー=コルサコフを除いて)アカデミックな手法に心底不満を抱いていた、ほとんど独学の国民楽派の作曲家から、グラズノフ青年は偶像のように祭り上げられた。最初の二つの交響曲は、バラキレフやボロディンによって実践された、国民楽派の技法の集大成のように見える。グラズノフは20代前半までに、アカデミズムと国民楽派との侃々諤々の論争が、もはや無意味なものであることを悟った。作曲はロシアの民族音楽に根差してはいたものの、グラズノフは作曲技法を熟知したお蔭で、洗練され垢抜けた音楽語法で作曲することができるようになった。《交響曲 第3番》を手始めに、グラズノフはチャイコフスキーに似た手法で自作をことさら国際的にしようと試みた(ちなみに《交響曲 第3番》はチャイコフスキーに献呈されている)[41]。

だが《交響曲 第3番》は過渡期の作品である。グラズノフはこの作品が大問題を引き起こしたことを認めている。グラズノフの成熟期は《第4番》からである。アントン・ルビンシテインに献呈された《第4番》は、西欧を見据えたロシア人による、かなりコスモポリタンな作品として作曲されたが、それでも音色は紛う方なくロシア的なままである[42]。《第5番》においても国民楽派の伝統と西欧的な作曲技法の統合が図られている[43]。《第7番》を作曲するまでに、音楽院の職責のためにグラズノフの作曲の筆が鈍り始める[44]。おまけに《第8番》以降では、深酒のために、創造力に警鐘が鳴り始めていたのかもしれない。《第9番》は一つの楽章をスケッチしたものの、未完成に終わった[45]。

グラズノフの作品は、8つの交響曲とその他多数の管弦楽曲、5つの協奏曲、7つの弦楽四重奏曲、2つのピアノ・ソナタとその他のピアノ曲など、さまざまな器楽曲のほか、歌曲がある。3つのバレエ音楽を残したものの、オペラは遺さなかった。バレエ音楽《レ・シルフィード》は、ショパンのピアノ曲の寄せ集めをグラズノフが管弦楽化したものであり、舞踊家ミハイル・フォーキンとの共同制作だった。リャードフがバレエ・リュスのための《火の鳥》を完成できなくなると、お鉢が回ってきたのだが、グラズノフはこれを断り、結局、当時は無名のストラヴィンスキーが《火の鳥》を完成させた[46]。

グラズノフは、ラフマニノフと同じく後半生において「時代遅れ」と看做されたが、近年においては、音源の普及のお蔭もあって、その創作力がより徹底して認識されるようになってきた。


バレエ音楽
『ライモンダ』作品57(1897年) - 全3幕からなる。このバレエ音楽からは演奏会用組曲も編まれている。
『お嬢さん女中、または女の試み(恋愛合戦)』作品61(1898年)
『四季』(Времена года)作品67(1899年) - 1幕4場からなる小バレエ音楽。冬に始まり秋に終わる。特定の物語を持たず、自然の情景を表現している。


付随音楽
サロメ 作品90(1908年)
ユダヤの王 作品95(1913年)
仮面舞踏会 作品102(1913年)


交響曲
8曲の完成された交響曲がある。交響曲第9番は未完に終わった。

交響曲第1番ホ長調『スラブ』 作品5(1882年) - 15歳で作曲、16歳で初演。すでにグラズノフの音楽スタイルは確立されている。師であるバラキレフが初演を指揮した。フランツ・リストに注目され、1884年にヴァイマルでも演奏された。1885年と1929年に改訂されている。
交響曲第2番嬰ヘ短調 作品16(1886年) - 敬愛していたフランツ・リストへの追悼として書かれた逸品。
交響曲第3番ニ長調 作品33(1890年) - チャイコフスキーに献呈された作品。
交響曲第4番変ホ長調 作品48(1893年) - ロシア的情緒を全面に押し出した作品。冒頭に現れる憂鬱な旋律が曲全体を支配する。
交響曲第5番変ロ長調 作品55(1895年) - 「ワグネリアン」の異称を持つ。堂々とした響きの作品。
交響曲第6番ハ短調 作品58(1896年) - グラズノフの代表的な交響曲。第2楽章に変奏曲、第3楽章に間奏曲を配した構成が特徴的である。
交響曲第7番ヘ長調『田園』 作品77(1902年) - ベートーヴェンの田園交響曲を意識した作品。
交響曲第8番変ホ長調 作品83(1906年)
交響曲第9番ニ短調(1910年、未完) - 9つめが最後の交響曲になるとする俗説(第九の呪い)を忌んで中断した[要出典]。後にガヴイリル・ユーディンが第1楽章のオーケストレーションを行った。


協奏曲
ヴァイオリン協奏曲 イ短調 作品82(1904年) - 比較的短い曲。
ピアノ協奏曲第1番 ヘ短調 作品92(1911年)- レオポルド・ゴドフスキーがピアノパートを改訂しており、彼に献呈された。
ピアノ協奏曲第2番 ロ長調 作品100(1917年)- 単一楽章。
チェロと管弦楽のための《コンチェルト・バッラータ》ハ長調 作品108(1931年、パブロ・カザルスへの献呈作品)
アルト・サクソフォーンと弦楽オーケストラのための協奏曲 変ホ長調(1934年) - 北欧生まれのサクソフォーン奏者シグルト・ラシャーのために作曲。サクソフォーン協奏曲は、作曲当時は珍しかった。亡命中に作曲されたが、ロシア的な情緒は堪能できる。稀にヴィオラ協奏曲としても演奏される。


協奏的作品
チェロと管弦楽のための2つの小品 作品20(1887年 - 1888年)
メロディ
スペインのセレナード
チェロと管弦楽のための《吟遊詩人の歌》作品71(1900年) - 小品。


管弦楽曲
悲歌『英雄の思い出に』 作品8(1881年 - 1885年)
性格的組曲 作品9(1884年)
抒情的な詩 作品12(1884年 − 1887年)
交響詩『ステンカ・ラージン』 作品13(1885年) - リストの影響を受けて作られた弱冠20歳の時の作品。明確に交響詩と銘打った管弦楽曲はこの曲のみである。
幻想曲『森』 作品19(1881年 - 1887年)
婚礼の行列 作品23(1889年)
幻想曲『海』 作品28(1889年)
交響的絵画『クレムリン』 作品30(1891年)
春 作品34(1891年)
序曲『謝肉祭』 作品45(1892年)
勝利の行進曲 作品40(1893年) - 「リパブリック讃歌」として知られるアメリカの民謡を題材にした作品。コロンブスのアメリカ大陸発見400年を記念して催された世界博のために作曲された。
組曲『ショピニアーナ』 作品46(1893年) - ショパンの作品を管弦楽のための組曲に編曲した作品。ポロネーズ、ノクターン、マズルカ、タランテラの4楽章からなる。
演奏会用ワルツ第1番ニ長調 作品47(1893年)
祝典の行列 作品50(1894年)
演奏会用ワルツ第2番ヘ長調 作品51(1894年)
バレエの情景 作品52(1894年) - 8つの舞曲などから構成された、演奏会用バレエ組曲。
幻想曲『暗黒から光明へ』 作品53(1894年)
祝典序曲 作品73(1900年)
組曲『中世より』 作品79(1902年)
フィンランド幻想曲 作品88(1909年)
祝典の行列 作品91(1910年)
「第一次世界大戦の連合国の国歌によるパラフレーズ(「君が代」の主題も含まれる) 作品96
叙事詩(1933年 - 1934年)


室内楽曲
弦楽四重奏曲 第1番 ニ長調 作品1(1881年 - 1882年)
弦楽四重奏曲 第2番 ヘ長調 作品10(1883年 - 1884年)
弦楽四重奏曲 第3番 ト長調「スラヴ」 作品26(1886年 - 1888年)
弦楽四重奏曲 第4番 イ短調 作品64(1894年)
弦楽四重奏曲 第5番 ニ短調 作品70(1898年)
弦楽四重奏曲 第6番 変ロ長調 作品106(1921年)
弦楽四重奏曲 第7番 ハ長調 作品107(1930年)
サクソフォーン四重奏曲 作品109(1932年) - サクソフォーン協奏曲と同じくパリで作曲された。サクソフォーンのために作曲された最も重要な室内楽曲のひとつ。変奏曲形式で書かれた第2楽章が単独で取り上げられる機会も多い。


オルガン曲
前奏曲とフーガ ニ長調 作品93(1906年 - 1907年)
前奏曲とフーガ ニ短調 作品98(1889年 - 1991年)
幻想曲とフーガ 作品110(1935年)


ピアノ曲
サーシャの名による組曲 作品2
3つの練習曲 作品31(1889年 - 1891年)
演奏会用大ワルツ 変ホ長調 作品41(1893年)
主題と変奏 作品72(1900年)
ピアノ・ソナタ第1番 変ロ短調 作品74(1901年)
ピアノ・ソナタ第2番 ホ長調 作品75(1901年)


合唱曲
戴冠式カンタータ 作品56
プーシキン生誕100周年記念カンタータ 作品65


歌曲
5つの歌 作品4(1882年 - 1885年)
2つの歌 作品27(1888年)
6つの歌 作品56(1898年)
6つの歌 作品60(1898年)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%BA%E3%83%8E%E3%83%95

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/862.html

[近代史6] アレクサーンドル・グラズノフ 交響曲 第5番 変ロ長調 作品55
アレクサーンドル・グラズノフ 交響曲 第5番 変ロ長調 作品55


Glazunov - Symphony No 5 in B flat major, Op 55 - Mravinsky






00:00 Moderato maestoso - Allegro
12:01 Scherzo. Moderato
17:21 Andante
27:15 Allegro maestoso


Leningrad Philharmonic Orchestra
Evgeny Mravinsky, conductor


Live recording. Tokyo, June 1979




Glazunov Symphony No. 5 (1968rec/mono/Live)





1. Moderato maestoso - Allegro
2. Scherzo
3. Andante
4. Allegro maestoso


Leningrad Philharmonic Orchestra
Yevgeny Mravinsky, Conductor
28.IX.1968



▲△▽▼


アレクサンドル・グラズノフの《交響曲第5番 変ロ長調》作品55は、1895年4月から10月にかけて作曲された。この作品で再び伝統的な4楽章構成に戻っているものの、主題の推移は回避されている(ちなみにグラズノフが4楽章制から離れたのは、交響曲第4番だけである)演奏時間は約36分。


この作品は、セルゲイ・タネーエフに献呈された。1896年11月17日、サンクトペテルブルクの貴族会館における第2回ロシア音楽演奏会にて初演を迎え、作曲者本人が指揮を執った。ライプツィヒの新聞は、この作品を「非常に深みがあり」「才気煥発である」と評し、スケルツォ楽章が聴衆に好評であったと報じた。



楽曲構成
以下のように古典的な4楽章構成をとる。


Moderato maestoso - Allegro
Scherzo. Moderato
Andante
Allegro maestoso


「英雄」との別名を持つように、全般的に明朗な性格と鮮やかな生命力が漲っており、グラズノフ自身、この作品を「沈黙の響き」「詩の建築」と評した。ブラームス風の重厚で勇壮な第1楽章、メンデルスゾーン風の軽妙洒脱な第2楽章、シューマン風に内向的で感傷的な第3楽章というように、ドイツ・ロマン派音楽に作品のモデルを見て取ることができる。賑々しい終楽章では、民俗音楽に特徴的な旋律やリズムが素材に使われており、にわかに民族調をかもし出している。


楽器編成
フルート3、ピッコロ1(3rd フルート持ち替え)、オーボエ2、クラリネット3、バスクラリネット1(3rd クラリネット持ち替え)、ファゴット2
ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、チューバ1
ティンパニ、シンバル、トライアングル、バスドラム、グロッケンシュピール
ハープ
弦五部


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC5%E7%95%AA_(%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%BA%E3%83%8E%E3%83%95)

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/863.html

[近代史6] アレクサーンドル・グラズノフ ヴァイオリン協奏曲 イ短調 作品82
アレクサーンドル・グラズノフ ヴァイオリン協奏曲 イ短調 作品82


Heifetz - Glazounov : Violin Concerto a-moll Op.82 (1934)





JASCHA HEIFETZ
London Philharmonic Orch
John Barbirolli
Recorded 28 March 1934
transfer from Jpn Victor 78s / JD-427/9 (2B-6853/6)
再復刻





Glazunov: Violin Concerto, Heifetz & Hendl (1963)







(00:05) 1. Moderato
(04:04) 2. Cadenza : Andante sostenuto
(13:33) 3. Allegro


アレクサンドル・コンスタンティノヴィチ・グラズノフ
ヴァイオリン協奏曲 イ短調 作品82


ヴァイオリン:ヤッシャ・ハイフェッツ
指揮:ワルター・ヘンドル
RCAビクター交響楽団


録音:1963年6月3〜4日 サンタモニカ・シビック・オーディトリアム



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アレクサンドル・グラズノフの《ヴァイオリン協奏曲 イ短調》作品82は、作曲者の代表作の一つ。1904年に作曲され、レオポルト・アウアーに献呈された。初演はアウアーの独奏、作曲者の指揮によりサンクトペテルブルクでのロシア音楽協会のコンサートにおいて翌1905年2月15日に行われた。


別記のように3楽章で構成されているが、特筆すべきは、作品全体が間断なく連結されており、多楽章構成を含んだ単一楽章のようにまとめられていることである(なお、中間楽章が実質的なカデンツァであることから、第1楽章の延長と見なして、独立した楽章に数えない見方もある)。


カデンツァはグラズノフ自身の作曲であり、重音奏法を駆使して作品中の最大の難所となっている。グラズノフの器楽曲としては、独奏パートの演奏技巧の追究と、オーケストラの音色表現の充実ぶりにおいて、全般的に華麗な表現技巧が際立っている。


楽曲構成
多くの他のヴァイオリン協奏曲と同様に、以下の3楽章からなる。


Moderato (イ短調、自由なソナタ形式)
Cadenza : Andante sostenuto (緩徐楽章とカデンツァの融合。前半部は第1楽章第2主題を、後半は第1主題を素材とする。頻繁に転調するため調性は流動的)
Allegro (イ長調、三部形式風のロンド形式)


楽器編成
フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット(各2)
ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、
ティンパニ、トライアングル、シンバル、グロッケンシュピール、ハープ
独奏ヴァイオリン
弦楽5部


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E5%8D%94%E5%A5%8F%E6%9B%B2_(%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%BA%E3%83%8E%E3%83%95)

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/864.html

[近代史5] 複雑性PTSDは虐待のような悲惨な体験を長期間受け続けた人に生じる心の病
複雑性PTSDは虐待のような悲惨な体験を長期間受け続けた人に生じる心の病

精神科医・和田秀樹「複雑性PTSDなんかではない」眞子さまの本当の病名は
10/7
https://news.yahoo.co.jp/articles/58e04976e80049b6afc4747e029abd25f69b356f


宮内庁は10月1日、眞子さま(29)と小室圭さん(29)が同月26日に結婚されると正式発表するとともに、眞子さまが「複雑性PTSD」と診断されたことを明らかにした。精神科医の和田秀樹さんは「会見に同席した精神科医は『結婚について周囲から温かい見守りがあれば、健康の回復が速やかに進むとみられる』と発言しましたが、これは国民に誤解を与え、現実に複雑性PTSDの症状に苦しむ虐待サバイバーに脅威を与えるおそれがある」という。その理由とは――。

【画像】複雑性PTSDの実際の症状を赤裸々に記録した書籍

■精神科医が腰を抜かすほど驚いた「眞子さまは複雑性PTSD」

 宮内庁は1日、秋篠宮家の長女・眞子さま(29)が「複雑性心的外傷後ストレス障害(PTSD)」と診断されたことを明らかにした。

 そのため、この病名がネット上で一気にトピックワードとなった。

 この病名については、秋篠宮家の側近部局トップの加地隆治皇嗣職大夫が眞子さまの病状について切り出し、精神科医で、公益財団法人「こころのバリアフリー研究会」理事長の秋山剛氏が会見に同席して「長期にわたり誹謗中傷を体験された結果、複雑性PTSDと診断される状態になっておられる」と述べた。

 1991〜94年にアメリカに留学して以来、この疾患に向き合ってきた私は、宮内庁のその後の説明を聞くにつけて、腰を抜かすほど驚いてしまった。

 なぜなら、複雑性PTSDとは虐待のような悲惨な体験を長期間受け続けた人に生じる心の病であり、治療も大変困難なものとされているからだ。

 1970年代、ベトナム戦争で兵士が受けた心理的後遺症やレイプトラウマの研究が進み、1980年に発表されたアメリカ精神医学会の診断基準第3版(DSM-3)に「PTSD」という病名が採用された。

 その後もトラウマ研究が進み、児童虐待のような長期反復型のトラウマ体験の場合は、もっと深刻な病状が生じることがわかってきた。

 当時のアメリカにおけるトラウマ研究の第一人者であるジュディス・ハーマン(ハーバード大学准教授)は、その主著と言える『心的外傷と回復』(みすず書房)において、複雑性PTSDという病名を提起した。

■複雑性PTSDの症状…自傷行為、性的逸脱、解離症状、希望喪失

 ハーマンが提起し、94年に発表されたアメリカ精神医学会の診断基準第4版(DSM-4)の「複雑性PTSD」に加えることが検討された症状には以下のようなものが列挙された。

 1:感情制御の変化(自傷行為や性的逸脱など)
2:意識変化(解離症状など)
3:自己の感覚の変化(恥の意識など)
4:加害者への感覚の変化(復讐への没頭だけでなく、加害者を理想化することもある)
5:他者との関係の変化(孤立・ひきこもりなど)
6:意味体系の変化(希望喪失など)

 実際、私の留学中も虐待の被害者の患者をかなりの数で診たが、この指摘には心当たりがある。ここで注目したいのは、2の項目にある「解離」という症状だ。

 解離は、自分の忌まわしい記憶をふだんとは別の意識状態に置くことで生じると考えられている。要するにトラウマ的な出来事を覚えている意識状態と、普段の意識状態は、別の意識状態になっている。

 そのため、その人は、トラウマ的出来事を覚えている意識状態になったときのことは覚えていないし、その意識状態は、普段の意識状態と連続性をもたない。

 解離性健忘の場合、その解離状態の時の言動を覚えておらず、かなりの暴言を吐いても、犯罪的な行為(万引きや暴行など)や性的逸脱を行っても、それを覚えていない。

 別の意識状態になったときにアイデンティティ(自分が子どもか大人かとか、ふだんの名前や役職など)まで変わってしまう状態は多重人格と呼ばれてきたが、DSM-4では解離性同一性(アイデンティティ)障害と呼ばれるようになった。


■「複雑性PTSDとは、悪口レベルの外傷的体験ではない」

 またこの複雑性PTSDの場合、感情も対人関係も不安定なので、婚姻生活や社会生活に支障をきたし、定職にもつけない境界性パーソナリティー障害と呼ばれる診断を受けることも多い。

 ただ、ハーマンの過去の記憶を思い出させて、それをぶちまけさせるような治療方針がかえって患者の具合が悪くすることが多いことが明らかになったことで、彼女のアメリカ精神医学会での影響力はかなり弱まった。ハーバード大学でも教授に昇格していない。そのせいか、2013年改訂のアメリカ精神医学会の診断基準の第5版(DSM-5)では、複雑性PTSDの病名は採用されなかった。

 ところが、WHOが作るもう一つの国際的な診断基準の最新版(ICD-11)が2018年に公表された際に複雑性PTSDが採用されることになった。これまでの歴史をみるとアメリカ精神医学会の基準に追随することが多かった中で画期的なことである。

 おそらくは、世界的に深刻化する児童虐待だけでなく、人権を弾圧するような政府や軍事介入などで生じる心の後遺症を無視することができないと考えたのだろう。

 実際、この診断基準で挙げられている逃れることが困難もしくは不可能な状況で、長期間・反復的に、著しい脅威や恐怖をもたらす出来事の例としては、「反復的な小児期の性的虐待・身体的虐待」のほか、「拷問」「奴隷」「集団虐殺」が挙げられている。けっして悪口レベルの外傷的体験などではない。

 これに対して秋山医師は、「複雑性PTSDは言葉の暴力、インターネット上の攻撃、いじめ、ハラスメントでも起こる」と拡大解釈をしたわけだ。

 実際、インターネット上の誹謗中傷で自殺する人もいるのだから、私もその可能性を否定するつもりはない。

■「温かい見守りがあれば、健康の回復が速やかに」という発言の問題点

 むしろ今回、国民に誤解を与え、現実に複雑性PTSDの症状に苦しむ虐待サバイバー(※)に脅威を与えるおそれがあるのは、秋山医師が発した「(小室圭さんとの)結婚について周囲から温かい見守りがあれば、健康の回復が速やかに進むとみられる」という言葉だ。

 ※児童虐待を受けたあと、生き残り、心の病に苦しんでいる人たち。

 自らが虐待サバイバーで複雑性PTSDの実際の症状を赤裸々に記録した『わたし、虐待サバイバー』(ブックマン社)の著者である羽馬千恵さんは、自身が発行するメルマガ(※)の中で、「虐待が終わってからが、本当の地獄だった」と記している。

 ※大人だって虐待で苦しんでいる。当事者が語る子供時代のトラウマ - まぐまぐニュース! (mag2.com)

 虐待を受けた子供たちは大人になり複雑性PTSDに苦しむわけだが、親元を離れ、虐待を受けなくなったり、多少周囲が温かくしてくれたりしところで、そう簡単に治るものではない。

 つい最近も3歳児が母親の同居人の虐待で死亡した事件があったが、それに関するニュースの多くは、初動で行政がしっかり対応していたら死ななくてすんだという類のものだった。

 たしかにそういう面もあるかもしれない。しかし、もっと重要なのは子供の今後の人生だ。「運よく生き残ったから、よかった」で済む問題ではない。生き残った子供たちは下手をすると生涯にわたる複雑性PTSDに苦しむのである。


■「眞子さまはおそらく適応障害なのではないか」

 人格変化のために周囲の人が犠牲になることさえある。古くは永山則夫事件、あるいは大阪・池田小事件の宅間死刑囚、そして山口県光市の母子殺しの少年など、子供時代などに虐待を受けた人物が起こす重大事件は枚挙に暇がない。

 銃社会のアメリカでは、虐待を受けた子供が将来重大犯罪を起こすことが多いことも、虐待を受けた子供を親元に返さない大きな理由となっている。

 眞子さまの場合、もし、環境が変わり周囲の批判がなくなった結果、秋山医師が断言したように「健康の回復が速やかに進むとみられる」ならば、それは複雑性PTSDなどという心の重病でない。もちろん、私は直接診察したわけではないので100%そうだと言い切れないが、眞子さまに関してはおそらく適応障害(この疾患の詳細は、拙著『適応障害』宝島社新書を参照いただきたい)にあたるのではないかと思う。

 ただ、日本の場合、精神科の主任教授が臨床軽視・研究重視の大学教授たちの多数決で決まるため、私のようなカウンセリングや精神療法を専門とする大学医学部は全国どこを探してもない。そのため、複雑性PTSDであれ、適応障害であれ、よい治療者をみつけることはかなり困難だ。

 そういう点で、いい治療者を見つけるために眞子さまがご結婚されアメリカに行かれるのはいいことだ。

 複雑性PTSDについては予防の必要性は極めて高い。私は、アメリカのように、虐待が見つかったら原則的に親元に返さないできちんとしたチャイルドケアを受けさせるべきだと考える。そうでないと一生不幸を抱えてしまうことになりかねない。

 その一方、虐待をしてしまった親に対するカウンセリングも重要だ。アメリカではこれが盛んに行われ、カウンセラーが認めれば、子供はその親元に返される。

 日本の場合、残念ながら医学の世界、精神医学の世界がカウンセリングを軽視する傾向があり、見通しは暗いと言わざるを得ない。私の留学先のような「大学でない精神科医の養成機関」をかなりの数作らなければならないと思われる。

■「複雑性PTSDの患者は数十万人に達する可能性がある」

 実は、複雑性PTSDの患者はかなり多いと予想できる。というのは、虐待の数が想像以上に多いからだ。2021年8月27日に、令和2(2020)年度の児童相談所における虐待相談対応件数が発表されたが、ついに20万件を超えた(心理的虐待12万1325件:全体の59.2%、身体的虐待5万33件:24.4%、ネグレクト3万1420件:15.3%、性的虐待2251件:1.1%)。

 虐待された子供が新規で毎年20万人(実際はもっと多い可能性が高い)ということは、日本中に虐待経験者は全体で数百万人単位いるということになる。仮にその1割が複雑性PTSDになったとしても数十万人だ。これはかなり少なく見積もった数と言えるものだ。これから複雑性PTSDを増やさないだけでなく、現在複雑性PTSDの人たちを救うことが急務だ。

 今回の報道でもっと危惧するのは、複雑性PTSDになった人は周囲の人がやさしく見守れば、そのうち症状が緩和する軽い病気であるかのような誤解が広まることだ。

 あるいは、芸能人や政治家がバッシング逃れのために知り合いの精神科医に複雑性PTSDの診断書を書いてもらうケースが増え、この疾患に直面している人の苦しみをどこか軽んじるような風潮が世間に広まることもあり得る。

 複雑性PTSDという病名が世間に知られることは望ましいことだが、本当の実態が知られないと逆にいちばん迷惑をこうむるのは複雑性PTSDの患者であることも知ってほしい。

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和田 秀樹(わだ・ひでき)
国際医療福祉大学大学院教授
アンチエイジングとエグゼクティブカウンセリングに特化した「和田秀樹 こころと体のクリニック」院長。1960年6月7日生まれ。東京大学医学部卒業。『受験は要領』(現在はPHPで文庫化)や『公立・私立中堅校から東大に入る本』(大和書房)ほか著書多数。
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1162.html

[番外地9] 複雑性PTSDは虐待のような悲惨な体験を長期間受け続けた人に生じる心の病
廣瀬爽彩さんの自殺の原因はイジメなのか? 校長や教頭が言っていた様に家庭の問題なのか?
廣瀬爽彩さんを二か月も精x病院に閉じ込めて母親と面会させなかった理由は?
亡くなる前の爽彩さんの様子について、母親がこう話す。。
急に泣いたり叫んでしまったり、震えたり、過呼吸が起きたり、吐いちゃったりとか。それが本当に1日の間に10回以上とか、ひどいときには20回以上、起きることが続いていた。(2021年9月27日放送)

複雑性PTSDは虐待のような悲惨な体験を長期間受け続けた人に生じる心の病

精神科医・和田秀樹「複雑性PTSDなんかではない」眞子さまの本当の病名は
宮内庁は10月1日、眞子さま(29)と小室圭さん(29)が同月26日に結婚されると正式発表するとともに、眞子さまが「複雑性PTSD」と診断されたことを明らかにした。精神科医の和田秀樹さんは「会見に同席した精神科医は『結婚について周囲から温かい見守りがあれば、健康の回復が速やかに進むとみられる』と発言しましたが、これは国民に誤解を与え、現実に複雑性PTSDの症状に苦しむ虐待サバイバーに脅威を与えるおそれがある」という。その理由とは――。

■精神科医が腰を抜かすほど驚いた「眞子さまは複雑性PTSD」
 宮内庁は1日、秋篠宮家の長女・眞子さま(29)が「複雑性心的外傷後ストレス障害(PTSD)」と診断されたことを明らかにした。
 1991〜94年にアメリカに留学して以来、この疾患に向き合ってきた私は、宮内庁のその後の説明を聞くにつけて、腰を抜かすほど驚いてしまった。 なぜなら、複雑性PTSDとは虐待のような悲惨な体験を長期間受け続けた人に生じる心の病であり、治療も大変困難なものとされているからだ。

 眞子さまの場合、もし、環境が変わり周囲の批判がなくなった結果、秋山医師が断言したように「健康の回復が速やかに進むとみられる」ならば、それは複雑性PTSDなどという心の重病でない。眞子さまはおそらく適応障害にあたるのではないかと思う。

 1970年代、ベトナム戦争で兵士が受けた心理的後遺症やレイプトラウマの研究が進み、1980年に発表されたアメリカ精神医学会の診断基準第3版(DSM-3)に「PTSD」という病名が採用された。

 その後もトラウマ研究が進み、児童虐待のような長期反復型のトラウマ体験の場合は、もっと深刻な病状が生じることがわかってきた。

 当時のアメリカにおけるトラウマ研究の第一人者であるジュディス・ハーマン(ハーバード大学准教授)は、その主著と言える『心的外傷と回復』(みすず書房)において、複雑性PTSDという病名を提起した。

■複雑性PTSDの症状…自傷行為、性的逸脱、解離症状、希望喪失

 ハーマンが提起し、94年に発表されたアメリカ精神医学会の診断基準第4版(DSM-4)の「複雑性PTSD」に加えることが検討された症状には以下のようなものが列挙された。

1:感情制御の変化(自傷行為や性的逸脱など)
2:意識変化(解離症状など)
3:自己の感覚の変化(恥の意識など)
4:加害者への感覚の変化(復讐への没頭だけでなく、加害者を理想化することもある)
5:他者との関係の変化(孤立・ひきこもりなど)
6:意味体系の変化(希望喪失など)

 実際、私の留学中も虐待の被害者の患者をかなりの数で診たが、この指摘には心当たりがある。ここで注目したいのは、2の項目にある「解離」という症状だ。

 解離は、自分の忌まわしい記憶をふだんとは別の意識状態に置くことで生じると考えられている。要するにトラウマ的な出来事を覚えている意識状態と、普段の意識状態は、別の意識状態になっている。

 そのため、その人は、トラウマ的出来事を覚えている意識状態になったときのことは覚えていないし、その意識状態は、普段の意識状態と連続性をもたない。

 解離性健忘の場合、その解離状態の時の言動を覚えておらず、かなりの暴言を吐いても、犯罪的な行為(万引きや暴行など)や性的逸脱を行っても、それを覚えていない。

 別の意識状態になったときにアイデンティティ(自分が子どもか大人かとか、ふだんの名前や役職など)まで変わってしまう状態は多重人格と呼ばれてきたが、DSM-4では解離性同一性(アイデンティティ)障害と呼ばれるようになった。

■「複雑性PTSDとは、悪口レベルの外傷的体験ではない」
 実際、この診断基準で挙げられている逃れることが困難もしくは不可能な状況で、長期間・反復的に、著しい脅威や恐怖をもたらす出来事の例としては、「反復的な小児期の性的虐待・身体的虐待」のほか、「拷問」「奴隷」「集団虐殺」が挙げられている。けっして悪口レベルの外傷的体験などではない。

 ※児童虐待を受けたあと、生き残り、心の病に苦しんでいる人たち。

 自らが虐待サバイバーで複雑性PTSDの実際の症状を赤裸々に記録した『わたし、虐待サバイバー』(ブックマン社)の著者である羽馬千恵さんは、自身が発行するメルマガ(※)の中で、「虐待が終わってからが、本当の地獄だった」と記している。

 虐待を受けた子供たちは大人になり複雑性PTSDに苦しむわけだが、親元を離れ、虐待を受けなくなったり、多少周囲が温かくしてくれたりしところで、そう簡単に治るものではない。

 つい最近も3歳児が母親の同居人の虐待で死亡した事件があったが、それに関するニュースの多くは、初動で行政がしっかり対応していたら死ななくてすんだという類のものだった。

 たしかにそういう面もあるかもしれない。しかし、もっと重要なのは子供の今後の人生だ。「運よく生き残ったから、よかった」で済む問題ではない。生き残った子供たちは下手をすると生涯にわたる複雑性PTSDに苦しむのである。

 人格変化のために周囲の人が犠牲になることさえある。古くは永山則夫事件、あるいは大阪・池田小事件の宅間死刑囚、そして山口県光市の母子殺しの少年など、子供時代などに虐待を受けた人物が起こす重大事件は枚挙に暇がない。

 銃社会のアメリカでは、虐待を受けた子供が将来重大犯罪を起こすことが多いことも、虐待を受けた子供を親元に返さない大きな理由となっている。

 その一方、虐待をしてしまった親に対するカウンセリングも重要だ。アメリカではこれが盛んに行われ、カウンセラーが認めれば、子供はその親元に返される。
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/874.html

[番外地9] 複雑性PTSDは虐待のような悲惨な体験を長期間受け続けた人に生じる心の病 中川隆
1. 中川隆[-16062] koaQ7Jey 2021年10月08日 10:37:44 : OQtwHPKyGw : cy9paXN5QjZ1RGM=[15]
廣瀬爽彩さんの自殺の原因はイジメなのか? 校長や教頭が言っていた様に家庭の問題なのか?
廣瀬爽彩さんを二か月も精x病院に閉じ込めて母親と面会させなかった理由は?
亡くなる前の爽彩さんの様子について、母親がこう話す。。
急に泣いたり叫んでしまったり、震えたり、過呼吸が起きたり、吐いちゃったりとか。それが本当に1日の間に10回以上とか、ひどいときには20回以上、起きることが続いていた。(2021年9月27日放送)

複雑性PTSDは虐待のような悲惨な体験を長期間受け続けた人に生じる心の病

精神科医・和田秀樹「複雑性PTSDなんかではない」眞子さまの本当の病名は
宮内庁は10月1日、眞子さま(29)と小室圭さん(29)が同月26日に結婚されると正式発表するとともに、眞子さまが「複雑性PTSD」と診断されたことを明らかにした。精神科医の和田秀樹さんは「会見に同席した精神科医は『結婚について周囲から温かい見守りがあれば、健康の回復が速やかに進むとみられる』と発言しましたが、これは国民に誤解を与え、現実に複雑性PTSDの症状に苦しむ虐待サバイバーに脅威を与えるおそれがある」という。その理由とは――。

■精神科医が腰を抜かすほど驚いた「眞子さまは複雑性PTSD」
 宮内庁は1日、秋篠宮家の長女・眞子さま(29)が「複雑性心的外傷後ストレス障害(PTSD)」と診断されたことを明らかにした。
 1991〜94年にアメリカに留学して以来、この疾患に向き合ってきた私は、宮内庁のその後の説明を聞くにつけて、腰を抜かすほど驚いてしまった。 なぜなら、複雑性PTSDとは虐待のような悲惨な体験を長期間受け続けた人に生じる心の病であり、治療も大変困難なものとされているからだ。

 眞子さまの場合、もし、環境が変わり周囲の批判がなくなった結果、秋山医師が断言したように「健康の回復が速やかに進むとみられる」ならば、それは複雑性PTSDなどという心の重病でない。眞子さまはおそらく適応障害にあたるのではないかと思う。

 1970年代、ベトナム戦争で兵士が受けた心理的後遺症やレイプトラウマの研究が進み、1980年に発表されたアメリカ精神医学会の診断基準第3版(DSM-3)に「PTSD」という病名が採用された。

 その後もトラウマ研究が進み、児童虐待のような長期反復型のトラウマ体験の場合は、もっと深刻な病状が生じることがわかってきた。

 当時のアメリカにおけるトラウマ研究の第一人者であるジュディス・ハーマン(ハーバード大学准教授)は、その主著と言える『心的外傷と回復』(みすず書房)において、複雑性PTSDという病名を提起した。

■複雑性PTSDの症状…自傷行為、性的逸脱、解離症状、希望喪失

 ハーマンが提起し、94年に発表されたアメリカ精神医学会の診断基準第4版(DSM-4)の「複雑性PTSD」に加えることが検討された症状には以下のようなものが列挙された。

1:感情制御の変化(自傷行為や性的逸脱など)
2:意識変化(解離症状など)
3:自己の感覚の変化(恥の意識など)
4:加害者への感覚の変化(復讐への没頭だけでなく、加害者を理想化することもある)
5:他者との関係の変化(孤立・ひきこもりなど)
6:意味体系の変化(希望喪失など)

 実際、私の留学中も虐待の被害者の患者をかなりの数で診たが、この指摘には心当たりがある。ここで注目したいのは、2の項目にある「解離」という症状だ。

 解離は、自分の忌まわしい記憶をふだんとは別の意識状態に置くことで生じると考えられている。要するにトラウマ的な出来事を覚えている意識状態と、普段の意識状態は、別の意識状態になっている。

 そのため、その人は、トラウマ的出来事を覚えている意識状態になったときのことは覚えていないし、その意識状態は、普段の意識状態と連続性をもたない。

 解離性健忘の場合、その解離状態の時の言動を覚えておらず、かなりの暴言を吐いても、犯罪的な行為(万引きや暴行など)や性的逸脱を行っても、それを覚えていない。

 別の意識状態になったときにアイデンティティ(自分が子どもか大人かとか、ふだんの名前や役職など)まで変わってしまう状態は多重人格と呼ばれてきたが、DSM-4では解離性同一性(アイデンティティ)障害と呼ばれるようになった。

■「複雑性PTSDとは、悪口レベルの外傷的体験ではない」
 実際、この診断基準で挙げられている逃れることが困難もしくは不可能な状況で、長期間・反復的に、著しい脅威や恐怖をもたらす出来事の例としては、「反復的な小児期の性的虐待・身体的虐待」のほか、「拷問」「奴隷」「集団虐殺」が挙げられている。けっして悪口レベルの外傷的体験などではない。

 ※児童虐待を受けたあと、生き残り、心の病に苦しんでいる人たち。

 自らが虐待サバイバーで複雑性PTSDの実際の症状を赤裸々に記録した『わたし、虐待サバイバー』(ブックマン社)の著者である羽馬千恵さんは、自身が発行するメルマガ(※)の中で、「虐待が終わってからが、本当の地獄だった」と記している。

 虐待を受けた子供たちは大人になり複雑性PTSDに苦しむわけだが、親元を離れ、虐待を受けなくなったり、多少周囲が温かくしてくれたりしところで、そう簡単に治るものではない。

 つい最近も3歳児が母親の同居人の虐待で死亡した事件があったが、それに関するニュースの多くは、初動で行政がしっかり対応していたら死ななくてすんだという類のものだった。

 たしかにそういう面もあるかもしれない。しかし、もっと重要なのは子供の今後の人生だ。「運よく生き残ったから、よかった」で済む問題ではない。生き残った子供たちは下手をすると生涯にわたる複雑性PTSDに苦しむのである。

 人格変化のために周囲の人が犠牲になることさえある。古くは永山則夫事件、あるいは大阪・池田小事件の宅間死刑囚、そして山口県光市の母子殺しの少年など、子供時代などに虐待を受けた人物が起こす重大事件は枚挙に暇がない。

 銃社会のアメリカでは、虐待を受けた子供が将来重大犯罪を起こすことが多いことも、虐待を受けた子供を親元に返さない大きな理由となっている。

 その一方、虐待をしてしまった親に対するカウンセリングも重要だ。アメリカではこれが盛んに行われ、カウンセラーが認めれば、子供はその親元に返される。

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爽彩さんの自殺未遂事件では警察は爽彩さんと母親の関係が原因だと判断して、爽彩さんを精神病院に二か月も入院させて母親とは会わせませんでした。
失踪・凍死事件では警察は爽彩さんと母親の喧嘩が原因の家出だと判断して、初期捜査を殆ど行いませんでした。
そもそも警察は自殺未遂事件で爽彩さんが退院して以降は、爽彩さんを毎月呼び出して、母親との関係、売春していないかどうか、覚醒剤使用の有無等を聞いていたと思われます。 つまり警察は爽彩さんの病状や家庭の状況を完全に把握した上で、失踪・凍死事件は爽彩さんと母親の喧嘩が原因の家出だと判断したのです。

爽彩さんは精神病院に二か月も入院させられていたので、唯のパニック障害なら、退院後も病院でカウンセリングを受けるのが普通ですが、病院ではなく警察に毎月呼び出したというのは、警察は爽彩さんのパニック障害はイジメが原因ではなく、家庭環境や覚醒剤障害が原因だと判断していた可能性が高いのです。

校長や教頭、担任、教育委員会も失踪・凍死事件は中学でのイジメが原因ではなく、家庭の問題だと何度も指摘しています。
第三者委員会のメンバーの大半が精神科医や心理学者で、加害者への聞き取り調査を一切していないのも、旭川少女凍死事件は中学でのイジメが原因ではなく、家庭の問題だと判断しているからです。
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/874.html#c1

[近代史6] セルゲイ・タネーエフ( Sergei Ivanovich Taneyev、1856 - 1915)
セルゲイ・タネーエフ( Sergei Ivanovich Taneyev、1856 - 1915)

交響曲

交響曲第1番ホ短調

交響曲第2番変ロ長調:3楽章までの未完成。

交響曲第3番ニ短調
3.3点
かなり本格志向で硬い感じがする。ロシア風の場面は他の作曲家と比較してかなり少ないと思うが、少ないなかに時々顔をみせるのがむしろ愛嬌のようなものを感じさせる。響きや音使いの本格性や絶対音楽の志向は、人によってはなかなか好ましいと感じるだろう。ドイツ的だが、ドイツ臭はなく硬い絶対音楽志向だけを抜き出している。秀逸なはっとさせる霊感を楽しめる場面も時々あって、一流作曲家ほどに「音を楽しませる」「自分だけの音世界を持っている」感じの天才性やセンスはなくて、マイナー交響曲なのは当然ではあるが、案外曲に没入できて「いいなあ」と感動できる場面も多いから、聴いて損のない音楽と思う。

交響曲第4番ハ短調
4.0点
1楽章は旋律がやや陳腐なのが気になるが、ドイツ的なゴツい劇的な作りにブラームス的な渋みのあるロマンを盛り込んだ正統派。ロマン派では他にないほどの正統派感とアツい感じはかなり良い。2楽章は非常に叙情的であり、永遠の時間を音楽に浸していたくなるような美しさがある。しかし、正統派はここでも後期ロマン派ほどに構築感を崩していないため、さらに作り物としての完成度を感じさせる。とはいえ中間はもっともっと浸っていたいという気持ちをあっさり壊される感もあり、場面展開は一長一短である。最終的にはかなり長い時間をじっくりと余韻をもたせて満足とともに終わってくれる。3楽章も前の楽章からうまく気分を適切な塩梅で切り替えさせてくれている。素材の展開が素晴らしくて、この楽章もかなり良い。4楽章は力のこもった迫力のある力作であり、エルガーの1番を思い出させる1楽章の旋律の堂々たる再現も文句なしに感動的で素晴らしい。全体に素晴らしい力作であり、一流作曲家ほどのオリジナルな音世界は無いにしても、ロマン派交響曲を代表する作品の一つと言えるだろう。

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%281889%E5%B9%B4%E3%81%BE%E3%81%A7%29

セルゲイ・イヴァノヴィチ・タネーエフ(ロシア語: Сергей Иванович Танеев、ラテン文字転写例: Sergei Ivanovich Taneyev、1856年11月25日(ユリウス暦 11月13日)) - 1915年6月19日(ユリウス暦 6月6日))はロシアの作曲家、ピアニスト、音楽理論家、教育者である。作曲家のアレクサンドル・タネーエフは親類に当たる。姓はタネイエフ、タニェエフなどと表記されることもある。


生涯と業績
ヴラディーミル出身。5歳からピアノを習い始める。9歳の時、一家でモスクワに移住し、モスクワ音楽院でピアノをエドゥアルト・ランゲル(ロシア語版)とニコライ・ルビンシテインに、音楽形式とフーガをニコライ・グーベルト(ロシア語版)に、作曲と楽器法をピョートル・チャイコフスキーに学び、1875年に金メダルを得て卒業[1]。卒業後はピアニスト、作曲家として活躍。レオポルト・アウアーとデュオを組んで演奏旅行を行う。1875年11月には、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番のモスクワ初演でピアノを担当。1882年5月22日には同じくピアノ協奏曲第2番の世界初演を担当している。

1878年、モスクワ音楽院の和声および楽器法の教授となり、1881年には亡くなったニコライ・ルビンシテインの跡を継いでピアノ科教授も受け持った。そして1885年からは4年間院長も勤めた。彼の弟子にはアレクサンドル・スクリャービン、セルゲイ・ラフマニノフ、アレクサンドル・グラズノフ、セルゲイ・プロコフィエフ、ニコライ・メトネルなどがいる。

対位法の理論家としても知られ、著書には「可動的厳格対位法」、「カノンの研究」、ブレッスラーの「厳格対位法と楽式論」の翻訳などがある。また、チャイコフスキーのいくつかの未完作品(『アンダンテとフィナーレ』など)を補筆している。

出版について無頓着だったために出版された作品数は少なく、番号は混乱しているが、4曲の交響曲、弦楽四重奏曲などの室内楽曲、オペラ、合唱曲、ピアノ曲(数は少ないが、リーリャ・ジルベルシュテインがレパートリーとしている「前奏曲とフーガ」嬰ト短調・作品29が有名)など多数の作品を残した。僅かながら正教会の聖歌も作曲している(「主よ、爾は善智なる盗賊を」)。

音楽院を退いた後の晩年はヨーロッパへ旅行することが多かった。1915年、弟子であったスクリャービンの葬儀に出席した際、薄着で棺を担いだのが元で風邪を引き、心臓病を併発してモスクワ近郊のデューティコヴォ村で生涯を閉じた。モスクワのノヴォデヴィチ墓地に埋葬されている。

彼の作風はチャイコフスキー同様保守的だが、叙情性よりも構築性を重んじ、対位法を多く駆使しており「ドイツ的」と称されることが多い。グラズノフ、門人パウル・ユオンやメトネルと並んで、「ロシアのブラームス」と呼ばれる一人である。もっとも、タネーエフ自身はブラームスを嫌悪していた(同様にワーグナーも嫌悪していた)。

なおピアニストとしては、1891年にモーツァルトの幻想曲ハ短調K.396をエジソンシリンダーに録音しているほか、高く評価していたアントン・アレンスキーの「2台のピアノによる組曲第2番」作品23の第4曲の録音(1892年)をパーヴェル・パプストと共に残している。

作品

交響曲
交響曲第1番ホ短調
交響曲第2番変ロ長調:3楽章までの未完成。
交響曲第3番ニ短調
交響曲第4番ハ短調

管弦楽曲
ロシアの主題による序曲

協奏曲
ピアノ協奏曲変ホ長調(1875–76):2楽章までのスケッチのみ。チャイコフスキーに酷評されたことから作曲を断念した。ヴィッサリオン・シェバリーンによる補筆版がある。
ヴァイオリンと管弦楽のための協奏的組曲 Op.28

弦楽四重奏曲
弦楽四重奏曲ニ短調
弦楽四重奏曲第7番変ホ長調(1880)
弦楽四重奏曲第8番ハ長調(1883)
弦楽四重奏曲第9番イ長調(1883)
弦楽四重奏曲第1番変ロ長調(1890)
弦楽四重奏曲第2番ハ長調(1894/95)
弦楽四重奏曲第3番ニ短調(1886-96)
弦楽四重奏曲第4番イ短調(1898/99)
弦楽四重奏曲第5番イ長調(1902/03)
弦楽四重奏曲第6番変ロ長調(1903-05)
弦楽四重奏曲ハ短調

室内楽曲
弦楽三重奏曲ニ長調
弦楽三重奏曲ニ長調
弦楽三重奏曲変ホ長調
弦楽三重奏曲ホ短調
弦楽五重奏曲第1番ト長調
弦楽五重奏曲第2番ハ長調
ピアノ四重奏曲ホ長調
ピアノ三重奏曲ニ長調
ピアノ五重奏曲ト短調
主題と変奏
行進曲
ヴァイオリン・ソナタイ短調

合唱曲
ダマスコの聖イオアン(ダマスクスのヨハネ)
詩篇の朗読

歌劇
オレステイア


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%82%B2%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%83%95

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[近代史6] セルゲイ・タネーエフ 交響曲第4番 ハ短調 作品12
セルゲイ・タネーエフ 交響曲第4番 ハ短調 作品12


Sergei Taneyev : Symphony No. 4 in C minor Op. 12 (1896-98)



I. Allegro molto
II. Adagio
III. Scherzo. Vivace
IV. Finale. Allegro energico. Molto maestoso.


the Philharmonia Orchestra
Neeme Järvi.




Sergei Taneyev: Symphony No. 4 in C minor Op. 12 (1898)





0:00 Allegro molto
11:54 Adagio
25:42 Scherzo. Vivace
31:39 Finale. Allegro energico - Molto maestoso


Evgeny Svetlanov
USSR State Symphony Orchestra
1988.



Gennady Rozhdestvensky conducts Taneyev - Symphony No. 4



► 00:00. I. Allegro molto
► 12:01. II. Adagio
► 25:06. III. Scherzo. Vivace
► 30:54. IV. Finale. Allegro energico. Molto maestoso


Gennady Rozhdestvensky
Tchaikovsky Symphony Orchestra
Recorded in 1973




Sergey Taneyev - Symphony No. 4 in C minor, Op. 12 (1896-98)



I. Allegro molto - 00:00
II. Adagio - 11:35
III. Scherzo. Vivace - 23:51
IV. Finale. Allegro energico - Molto maestoso - 29:38


Russian State Symphony Orchestra
Valeri Polyansky, Conductor



▲△▽▼


交響曲第4番 ハ短調 作品12は、ロシアの作曲家、セルゲイ・タネーエフが1898年に作曲した交響曲。


作曲の経緯
タネーエフは、1875年から1898年にかけて4曲の交響曲を書いたが、作品番号が付けられ、かつ作曲者の生前に出版されたのは、1898年に書かれた本作のみであった(1901年に「第1番」として出版)。現在は作曲順に番号が振られており、最後に作曲された本作が第4番となっている。


初演
1898年3月21日、サンクトペテルブルクにおいて、アレクサンドル・グラズノフの指揮で初演された。


なお、この作品はグラズノフに献呈されている。


編成
フルート3(うち1本はピッコロ持ち替え)、オーボエ2、クラリネット3、ファゴット2、コントラファゴット1、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、チューバ1、ティンパニ、トライアングル、小太鼓、シンバル、弦楽五部。


トライアングル、小太鼓、シンバルは第4楽章でのみ用いられる。


作品の概要
対位法を駆使し、作曲者の円熟した語法が見られる作品で、循環形式を用いて書かれている。


演奏時間は、第一楽章の繰り返しを含めて約40分。


第1楽章
Allegro molto、ハ短調、4分の3拍子、ソナタ形式。


弦楽器のユニゾンとトロンボーン、チューバにより、「C→G→Fis」という「循環主題」が叩き付けるように提示される。もう一度循環主題を叩き付けると、チェロ、コントラバスとオーボエ、ファゴットで、短い動機の掛け合いとなる。次第に厚みを増して盛り上がって行った頂点で、第1主題が高らかに提示される。音量が落ちて行くと、変イ長調の息の長い第2主題が、チェロとコントラバスに現れ、次いでフルートに受け渡される。提示部の最後に反復記号が付けられているが、その前のかなり長い部分が「反復記号括弧」の形をとっており、反復なしで演奏した場合、音楽内容や演奏時間が大きく異なる結果となる。1番括弧の中盤で、変イ短調の、特徴的な第3主題が現れる。2番括弧から、展開部に入り、転調を重ねながら、第3主題と第1主題を中心に、動機が徹底して展開される。金管楽器が循環主題を吹き鳴らすと、激しい盛り上がりを見せ、第1主題が再現されて再現部に突入する。第2主題はハ長調、第3主題はハ短調で再現され、ハ短調で勢いよく曲を閉じる。


第2楽章
Adagio、変イ長調、4分の2拍子、ABAの3部形式。


ホルンとヴァイオリンで、A部分の主要主題が提示される。この主題の冒頭は、循環主題の変形となっている。弦楽器のピッツィカートの伴奏で木管楽器が歌う部分、金管楽器主題の重々しく静かなコラールを経て、ピウ・モッソとややテンポを速め、チェロ、コントラバスの細かく激しい動きの旋律と、ヴァイオリン、ヴィオラのシンコペーションがぶつかりあうB部分に入る。オーボエに、歌謡的な旋律が表れるが、再び低弦の旋律が回帰する。牧歌的な木管楽器と弦楽器の掛け合いを経て、木管楽器のオブリガートを伴って、A部分の旋律がチェロに回帰し、大きなクライマックスの後に音量を落としてゆき、弦楽器のピッツィカートと木管楽器主体の響きとなり、最後はヴァイオリン・ソロが上昇して消えてゆく。


第3楽章
スケルツォ。Vivace、ヘ長調、8分の6拍子、ABAの3部形式。


オーボエに、無窮動的なスケルツォ主題が提示される。細かい掛け合いから、全合奏まで一気に盛り上がり、すぐに静かな音楽となる。シンコペーションを多用し、また、半音階的に転調を重ねてゆく。突然、4分の2拍子のトリオ部分に入り、弦楽器に第2楽章のA部分の主題が再現される。トリオ部分は、第2楽章の回想が中心となり、盛り上がって行った頂点でスケルツォに回帰する。最後は静かに消えてゆく。


第4楽章
Allegro energico〜Molto maestoso、ハ短調〜ハ長調、2分の2拍子(4分の6拍子)変則的なロンド形式。


フルート、クラリネット、ヴァイオリンで、勢い良く行進曲風の主題が提示される。これは、第1楽章第1主題の回想である。対位法的に音楽が進んでゆくと、突然、ヴァイオリンとヴィオラで、変ホ短調のどっしりとした主題が提示される。再び第1の主題が中心の音楽となり、しばらく後にヘ短調で第2の主題が再現される。低弦に、第1楽章第2主題のリズム動機が現れると、突然音楽は断ち切られる。


Molto maestosoのコーダは、第1楽章第2主題を高らかに響かせて開始される。転調を重ねつつ、第2楽章の主題も回想され、循環主題が金管楽器群に登場すると、力強い和音連打となり、ハ長調で曲を締めくくる。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC4%E7%95%AA_(%E3%82%BF%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%83%95)

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[近代史6] ミリイ・バラキレフ(Mily Alekseyevich Balakirev, 1837 - 1910)
ミリイ・バラキレフ(Mily Alekseyevich Balakirev, 1837 - 1910)

管弦楽曲・協奏曲

交響曲第1番 ハ長調 (1864-66年、再開1893-97年)

交響曲第2番 ニ短調 (1900-08年)

ピアノ協奏曲第1番嬰ヘ短調 作品1 (1855/56年)

ピアノ協奏曲第2番 変ホ長調 (1861/62年, 再開1909/10年、セルゲイ・リャプノフにより完成)


ピアノ曲

ピアノソナタ第2番変ロ短調 (1900-05年)

イスラメイ(東洋風幻想曲)(1869年、改訂1902年)
4.0点
19世紀で最も難しいピアノ曲として有名。音楽的にはいまいちと言う人も多いが同意できない。楽想としても、各フレーズやパッセージの面白さはかなりのレベルであり、中間部の民族的なメロディーは素敵。ロシアのピアノ曲の中では、音楽的にもかなりの傑作だと思う。

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%281889%E5%B9%B4%E3%81%BE%E3%81%A7%29

ミリイ・アレクセエヴィッチ・バラキレフ(ロシア語: Ми́лий Алексе́евич Бала́кирев, ラテン文字転写: Mily Alekseyevich Balakirev Ru-Mily-Alekseevich-Balakirev.ogg 発音, 1837年1月2日 - 1910年5月29日)は、ロシアの作曲家。今日では作品よりも「ロシア五人組」のまとめ役として知られている。


略歴
ニジニ・ノヴゴロド出身。少年時代に、ロシアにおけるモーツァルトの伝記作家ウーリビチョフから、さまざまな有益な音楽教育を受けた。18歳でサンクトペテルブルクに上京、大学で数学を専攻した後、ミハイル・グリンカの面識を得る。バラキレフを中心にツェーザリ・キュイらが集まって、1862年に無料音楽学校が設立される。1869年にバラキレフは、帝室宮廷礼拝堂の監督と、帝国音楽協会の指揮者に任命される。指導者やロシア音楽のまとめ役としての発言力から、新たな運動の発起人という役割を得た。「五人組」ばかりでなく、チャイコフスキーもいくつかの標題音楽や《マンフレッド交響曲》の作曲に、バラキレフの助言や批評を仰いでいる。

しかし、1870年代からは無料音楽学校の経済的な問題、演奏活動の失敗などから精神的に落ち込み、1874年に無料音楽学校学長を辞任して以降ほとんど創作活動から遠ざかる。生活のためにサンクトペテルブルク・ワルシャワ鉄道で勤務したこともあった。この創作活動の停滞は、結果としてバラキレフの音楽界への影響をほとんど失わせることになってしまった。1881年に無料音楽学校学長に復帰して以降ようやく徐々に創作意欲を取り戻し、未完のまま放置していた2曲の交響曲などの作品を完成させていった。1883年には宮廷聖歌隊の長に任命された。

1910年に死去した時には《ピアノ協奏曲第2番》などの作品が未完のまま残され、私淑していたセルゲイ・リャプノフにより完成された。他の「五人組」の同人と同じく、サンクトペテルブルクのアレクサンドル・ネフスキー大修道院のチフヴィン墓地に埋葬されている。


作品
一時的に音楽界から身を退いていたこともあり、残された作品はあまり多くないが、ロシア民謡の要素に基づき、作品は親しみやすい。代表作のピアノ曲「イスラメイ」は、難曲として有名だが、それ以外のピアノ曲は、理想として思い描いていたショパンやシューマン、リストの影響を鮮明に示している。2曲の交響曲を残している。さまざまな音楽理論やドイツ・ロマン派音楽に精通していたことがかえって自発的な創造力を阻害したのか、「五人組」の指導者でありながら、同人のうち最も遅筆で、最初の交響曲は完成まで33年の歳月を要した。作曲の中断や改作も頻繁に繰り返された。

世俗曲と同様に作品数は限られているが、無伴奏(正教会の聖歌は無伴奏声楽が原則である)の正教会聖歌も作曲している。

近年、「ケーネマン出版社」(総代理店はMELBAY)から出版されたバラキレフピアノ作品全集(全5巻)は、内容の良さと破格の安価であったことから予想外の注文が殺到し、一時期入手不可能になるほどのベストセラーとなった。2004年現在は、MELBAYのWEBサイトから入手可能である。

作品一覧

管弦楽曲・協奏曲
交響曲第1番 ハ長調 (1864-66年、再開1893-97年)
交響曲第2番 ニ短調 (1900-08年)
組曲 ロ短調 (1902-08年、セルゲイ・リャプノフにより完成)
交響詩「タマーラ」 (1867-82年)
交響詩「ルーシ」 (1884年、「3つのロシアの主題による序曲 第2番」の改作)
3つのロシアの主題による序曲 第1番(1858年、1881年改訂)
3つのロシアの主題による序曲 第2番 (1863-64年)
チェコの主題による序曲 (1867年)
交響詩「ボヘミアにて」 (1905年、上記の改作)
スペインの行進曲の主題による序曲 (1857年)
スペイン序曲 (1886年、上記の改作)
ピアノ協奏曲第1番嬰ヘ短調 作品1 (1855/56年)
ピアノ協奏曲第2番 変ホ長調 (1861/62年, 再開1909/10年、セルゲイ・リャプノフにより完成)
ピアノと管弦楽のためのロシアの主題による大幻想曲変ニ長調 作品4 (1852年)


ピアノ曲
ピアノソナタ第1番変ロ短調 作品5 (1855/56年)
ピアノソナタ第2番変ロ短調 (1900-05年):現在バラキレフのソナタとして有名なもの
イスラメイ(東洋風幻想曲)(1869年、改訂1902年)
7つのマズルカ
7つのワルツ
3つの夜想曲
3つのスケルツォ
薗にて(1884年)
トッカータ嬰ハ短調(1902年)


室内楽曲
フルート、オーボエ、ホルン、弦楽四重奏とピアノのための八重奏曲ハ短調 作品3 (1850-56年)
チェロとピアノのためのロマンス ホ長調(1856年)

声楽曲
カンタータ「ペテルブルクのグリンカ記念祭に」(1902-04年)
民謡編曲

正教会聖歌(無伴奏)
諸預言者は預告せり(Свыше пророцы)


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[近代史6] ミリイ・バラキレフ 東洋的幻想曲《イスラメイ》
ミリイ・バラキレフ 東洋的幻想曲《イスラメイ》


Vladimir Horowitz plays Balakirev´s Islamey (audio only)






Live recording: Carnegie Hall, 23rd January, 1950




horowitz plays islamey by balakirev (pirate rare 1950)



pirate recording in 1950


▲△▽▼


東洋的幻想曲《イスラメイ》(フランス語: Islamey : Fantaisie orientale、ロシア語: Исламей : Восточная фантазия)は、ロシアの作曲家ミリイ・バラキレフが1869年9月に書き上げたピアノ曲。1902年には、第2版の、改訂版が出版されている[1]。


自由なソナタ形式でまとめられた幻想曲であり、ピアノ曲の歴史において、最も演奏至難な独奏曲の一つに数えられている。作品を献呈されたニコライ・ルビンシテインにより初演された。



好戦的な民族主義者であったバラキレフは、ロシアの伝統音楽に影響された作風を採っていたが、カフカス地方に旅行した後で着想されたのが本作である。これについてバラキレフは私信の中で次のように触れている。


「…そこの豊かに繁った自然の荘厳なまでの美しさ、そしてそれと調和した住民たちの美しさ ―― これら全てが一つとなって私に強い印象を与えたのです。……私は土地の声楽に興味をもって以からというもの、チェルケス公と親しくなりました。殿下はしばしば私のところにやって来て、持っている楽器(どこかヴァイオリンに似た楽器です)で民俗音楽を演奏したのです。その中の一つに“イスラメイ”と呼ばれる舞曲がありました。これに私ははなはだしい喜びを覚え、構想中の“タマーラ”を主題とする作品にするつもりで、その旋律をピアノのために編曲し始めたのです。第2主題の旋律は、モスクワでクリミア出身のアルメニア人の俳優から教わりました。こちらの旋律は、彼が断言したところによると、クリミア・タタール人にはよく知られているとの由。」(Reishへの手紙 1892年)


本作は、数年がかりで作曲することが癖になっていたバラキレフの、いつもの遅筆ぶりとは対照的に、僅か1ヶ月で書き上げられた。16分の12拍子と"Allegro agitato"の指定による三部形式ないしは自由なソナタ形式で構成されており、各部分は、主要主題が登場する呈示部、まったく新たな主題が登場する中間部、主要主題が戻ってくる再現部となっている。


演奏がすこぶる困難なことから、多くの出版譜にはたくさんの「別案」(ossias)が添えられている。しかし華麗な超絶技巧の要求は、同時代のニコライ・ルビンシテインやフランツ・リストの興味を惹き付けた。バラキレフ自身も生前は超絶技巧のピアニストとして通っていたが、それでもこの作品には「自分の手に負えない」パッセージが含まれていることを認めていたという。譜面には、コーダにおいてロシアの民族舞曲トレパークに似せて演奏するようにバラキレフ自身が指示を出している。


音楽的な実体のなさをあげつらって否定する評価もあるものの、《イスラメイ》はピアノの難曲の歴史において、独自の地位を占め、後世にも大きな衝撃を与えた。モーリス・ラヴェルはかつて友人に、《夜のガスパール》の作曲の目標は、「《イスラメイ》以上の難曲を書き上げること」だと伝えている。また、ロシア五人組の仲間のうち、ボロディンは歌劇《イーゴリ公》に、またリムスキー=コルサコフは交響組曲《シェヘラザード》において《イスラメイ》の一節を引用している。《イスラメイ》はバラキレフの死後まもなく、門弟セルゲイ・リャプノフによって管弦楽曲として編曲された。またイタリアの作曲家アルフレード・カゼッラによる管弦楽編曲版も存在する。


近年の音楽学研究によって、バラキレフが本作に残した旋律が、今なお旧ソ連の民謡に健在であることが明らかとなった。たとえば第1主題は、カバルディノ・バルカル自治共和国の「レズギンカ」の一種である。ただし、バラキレフの作品とは拍子が異なる。第2主題は、バラキレフが受けた説明のように、起源はタタール人の恋歌であった。


リャプノフによる管弦楽版
楽器編成(ユルゲンソン版)


ピッコロ2、フルート2、オーボエ、コーラングレ、クラリネット2(A管)、ファゴット2、ホルン4、トランペット4(B♭管)、トロンボーン3、チューバ、ティンパニ、トライアングル、タンブリン、小太鼓、シンバル、大太鼓、ハープ2、弦楽五部


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%A1%E3%82%A4

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/868.html

[近代史6] ニコライ・リムスキー=コルサコフ(Nikolai Andreyevich Rimsky-Korsakov, 1844 - 1908)
ニコライ・リムスキー=コルサコフ(Nikolai Andreyevich Rimsky-Korsakov, 1844 - 1908)

交響曲

交響曲第1番 Op.1(1861年-1865年/1884年) ― 第1版は変ホ短調、改訂版はホ短調
3.3点
シューマンの音楽の進め方の手際の良さや硬めの響きにロマン的香りを封じ込める点が似ていて、手本にしたのがよく分かる。しかし、ロシア的な開放感と大地の広さとスラブ的な音像はあり、オリジナリティを感じる。作曲年代をみると元は若書きだが、円熟してから改作されておりオーケストラの充実感などは壮年らしいものになっている。まだロシア音楽が完全に確立していない折衷の感じがなんとも微笑ましい。形式的すぎて深みに乏しいが、なかなか良い曲である。

交響曲第2番「アンタール」Op.9(1868年/1875年/1897年) ― 1897年版で交響組曲に改められる。
3.3点
中東的な旋律、華やかで開放感がある雰囲気など、シェヘラザードと強く類似する曲。交響曲的でなく、交響詩の連作に近い。物語性が少ないのと、旋律に強く心をとらえて離さないほどのものはないため、シェヘラザードより1.5ランク落ちるとは思う。しかし、それでも娯楽性が高くて充分に楽しめる曲になっている。

交響曲第3番 ハ長調 Op.32(1866年/1873年/1886年)
3.3点
シリアスで構築的な交響曲。がっちりとした骨格の太さが印象的だが、一方で伸びやかさには欠ける。それでもリムスキー=コルサコフらしい華があるのが良いところだが、あまり焦点が当たらない。かなりドイツ的であり、ドイツ音楽が好きな人だと感激するかもしれない。正統派ともいえる。ただし、メロディーは印象に残らない。

協奏曲

ピアノ協奏曲 嬰ハ短調 Op.30(1882年-1883年)
4点
期待せずに聞いたらかなりいい曲で驚いた。ピアノも効果的に使われている。

管弦楽曲
スペイン奇想曲 Op.34 (1887年)

交響組曲「シェヘラザード」 Op.35 (1888年)
5.0点
千夜一夜物語に基づく作品であり代表作である。華麗な管弦楽法を駆使した、まさに壮大な物語絵巻を見るような色彩感の豊かさと幻想的な華かさと物語性をもった作品であり、楽しい時間を過ごせる。何度聴いても心が躍り、少年のような気分になって冒険気分を味わえる。エキゾチック感も満載で、まだ見ぬ新世界を旅する物語を見ているかのようだ。


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ニコライ・アンドレイェヴィチ・リムスキー=コルサコフ(ロシア語: Никола́й Андре́евич Ри́мский-Ко́рсаков, ラテン文字転写: Nikolai Andreyevich Rimsky-Korsakov, 1844年3月18日(ユリウス暦3月6日) - 1908年6月21日(ユリウス暦6月8日))はロシアの作曲家。ロシア五人組の一人で、色彩感あふれる管弦楽曲や民族色豊かなオペラを数多く残す。


生涯
ノヴゴロド近隣のティフヴィンで、軍人貴族の家庭に生まれる。幼児期より楽才を顕すが、12歳でサンクトペテルブルクの海軍兵学校に入学し、ロシア海軍に進んで艦隊による海外遠征も体験した。1859年からピアノを始め、1861年にバラキレフと出会って、ようやく真剣に作曲に打ち込むようになる。バラキレフは、リムスキー=コルサコフが航海演習のない時に作曲の指導をして、励ましてくれた。バラキレフとの出会いによって、後の「五人組」の同人となる他の作曲家とも面識を得た。

交響曲第1番(1861年-1865年)は、まだ海軍在籍中に完成された。1865年の初演後、好評を博して「ロシア人による前代未聞の交響曲」と呼ばれた[注釈 1]。1873年に軍籍離脱するまでに、管弦楽曲『サトコ』の初稿(1867年)、『アンタール』の初稿(1868年)、歌劇『プスコフの娘』の初稿(1872年)を完成させている。これらの初期作品は、いずれも後年になって改訂された。

1871年、それまで音楽や作曲については、独学や、「五人組」の仲間内での集団学習だけだったにもかかわらず、ペテルブルク音楽院から作曲と管弦楽法の教授に任命される。その翌年に、ナジェージダ・プルゴリト(Nadezhda Purgol'd, 1848年-1919年)と結婚(ナジェージダ自身も作曲家でピアニストであった)。音楽院での最初の数年間は、「五人組」時代の知識不足を埋め合わせるために、和声法や対位法について根気強く勉強し続けた。この事が、上記の初期作品の改訂の契機となった。

オペラの方面では『五月の夜』(1879)と『雪娘』(1881)を書き、後者で成功するが、その後はスランプに陥った。その間、作曲よりも編曲や、1881年に没したムソルグスキーの作品の補筆と出版、和声法の教科書の執筆などの仕事を行っている[1]。

1883年から1894年まで、宗務局(宮廷礼拝堂)においてバラキレフの助手となる。この間に、ロシア正教の奉神礼(典礼)音楽について研究することができた。指揮者としても活動し、豪商ミトロファン・ベリャーエフの後援するロシア交響楽演奏会を指導したほか、外国でも演奏活動を行なった。ベリャーエフが企画した1889年のパリ万国博覧会におけるロシア音楽のコンサートにおいても指揮者を務め、自作曲の他、グリンカ、ボロディン、ムソルグスキーなどの楽曲をフランスに紹介した。この時のコンサートには若き日のドビュッシーやラヴェルも聴衆として足を運んでいる。

ロシア交響楽演奏会のレパートリーとして、リムスキー=コルサコフは『スペイン奇想曲』、『シェヘラザード』、『ロシアの復活祭』などの管弦楽曲を作曲した。ロシア国外でリムスキー=コルサコフの作品としてもっともよく知られるこれらの作品は、いずれも1880年代後半の短い期間に書かれたものである。

1888年から1889年にかけて、サンクトペテルブルクで初めて上演されたワーグナー『ニーベルングの指環』はリムスキー=コルサコフに衝撃を与え、この後の作品はほとんどがオペラになる。新しい刺激を受けて久しぶりにオペラ『ムラダ』(1890)を書き、『クリスマス・イヴ』(1895)以降は没するまでの十数年間に次々と新作オペラを発表した[1]。

リムスキー=コルサコフは貴族の出自ではあったが、ロシア帝国の近代化の立ち遅れに批判的で、学生の革命運動にも同情的であった。1905年に、政府批判を行なったためにペテルブルク音楽院の教授職を解雇されるが、これが口火となり、彼を慕う多くの同僚(グラズノフやリャードフら)によって、相次いで辞職騒ぎが引き起こされた。結果的にリムスキー=コルサコフは復職することとなった。しかし政府当局との軋轢はなおも続き、遺作となった歌劇《金鶏 Le Coq d'Or 》(1906年-1907年)は反体制的で、帝政の転覆を図るものと看做され、作曲者の死後の1909年まで初演が遅らせられた。

リムスキー=コルサコフは最晩年に狭心症を患っていた。1908年にルーガ近郊のリューベンスクにて他界し、サンクトペテルブルクはアレクサンドル・ネフスキー大修道院のティフヴィン墓地に埋葬された。ナジェージダ未亡人は、余生を亡夫の遺産の管理にささげた。

リムスキー=コルサコフは7人の子をもうけた。そのうち、1884年生まれの第5子ナジェージダは、1908年にユダヤ系の作曲家マクシミリアン・シテインベルクと結婚しており、当時リムスキー=コルサコフに作曲の個人指導を受けていたストラヴィンスキーは、管弦楽曲《花火》作品4を、ふたりの結婚記念にささげている(シテインベルクはショスタコーヴィチの恩師としても有名である)。第3子アンドレイ(1878年-1940年)は音楽史家・音楽学者で、亡父に関して多くの著作を残した。甥ゲオルギイ(1901年-1965年)も作曲家で、当初は微分音に興味があり、後にフィルム・シンセサイザーの開発に取り組んだ。


作風と後世への影響
華やかだが客観的で簡潔な作風と言われる。ロシアの民謡・文学を題材にした作品が多い。管弦楽法の大家として知られ、その理論書である「管弦楽法原理」といった実践理論に関する著作をいくつか残し、なかでも和声学の教科書は日本でも広く知られた。海軍士官としての経験もあることから海の描写を得意としたことでも有名で、歌劇《サトコ》や交響組曲《シェヘラザード》には、航海の場面が含まれている。

ムソルグスキーの交響詩《禿山の一夜》や歌劇《ホヴァーンシチナ》、歌劇《ボリス・ゴドゥノフ》、ボロディンの歌劇《イーゴリ公》など、彼らの死後に残された未完成作品のみならず、生前に完成された作品の補筆・改訂をも行なった。ただし、オリジナル作品の、現在では「斬新」「独創的」とされる部分を「未熟」と判断して常識的なスタイルに直してしまうような面もあり、これには批判もある[2]。

卓越した教師として名望があり、なかでも2人の高弟グラズノフとストラヴィンスキーのほか、リャードフ、アレンスキー、プロコフィエフなどを輩出した。劇作家のニコライ・エヴレイノフもリムスキー=コルサコフに作曲を学んでいる[3]。日本人の弟子としては金須嘉之進がいる。シベリウスはウィーン留学を考える前は、ペテルブルクでリムスキー=コルサコフに師事したいと望んでいた。伊福部昭の恩師チェレプニンの父ニコライもリムスキー=コルサコフ門下である。またレスピーギも若いころロシアで彼に作曲を学んでいる。

師弟関係にはなかったものの、スクリャービンは生涯を通じてリムスキー=コルサコフを助言者としており、初期の《練習曲 嬰ニ短調》作品8-12に2つの初稿が出来たとき、どちらを公表すべきかの判断をリムスキー=コルサコフにゆだねた。ラフマニノフは交響詩《岩》をリムスキー=コルサコフに献呈している。

リムスキー=コルサコフは、ロシアだけでなくフランスでも非常に好まれ、ドビュッシーが好意的な批評を残したほか、ラヴェルやフローラン・シュミットによって管弦楽法の模範とされた。ラヴェルの初期の作品、序曲『シェヘラザード』(1898年)にはリムスキー=コルサコフやロシア音楽の影響が強く表れている。

作品一覧

交響曲

交響曲第1番 Op.1(1861年-1865年/1884年) ― 第1版は変ホ短調、改訂版はホ短調
交響曲第2番「アンタール」Op.9(1868年/1875年/1897年) ― 1897年版で交響組曲に改められる。
交響曲第3番 ハ長調 Op.32(1866年/1873年/1886年)


協奏曲
トロンボーンと吹奏楽のための協奏曲 変ロ長調(1877年)
クラリネットと吹奏楽のためのコンツェルトシュトゥック 変ホ長調(1877年)
グリンカの主題による変奏曲(1878年) ― オーボエと吹奏楽のための作品
ピアノ協奏曲 嬰ハ短調 Op.30(1882年-1883年)


管弦楽曲
3つのロシアの歌による序曲 Op.28(1866年/1879-1880年)
音画「サトコ」 Op.5(1867年/1869年/1892年) ― 1867年度版の題名は「ブィリーナ『サトコ』よりのエピソード」。のちに歌劇「サトコ」に楽想が転用される。
セルビア幻想曲 Op.6(1867年/1889年)
おとぎ話 Op.29(1879年-1880年)
ロシアの主題によるシンフォニエッタ Op.31(1880年-1884年)
スペイン奇想曲 Op.34 (1887年)
交響組曲「シェヘラザード」 Op.35 (1888年) ― 千夜一夜物語に基づく代表作といえる作品。
序曲「ロシアの復活祭」 Op.36(1888年)
墓前に Op.61(1904年)
ドゥビーヌシュカ Op.62(1905年) ― 同名の革命歌の編曲
祝辞 (1907年)
ナポリの歌(1907年) ― 「フニクリ・フニクラ」の編曲
そのほか自作の歌劇をもとにした管弦楽曲が多数ある。


歌劇
プスコフの娘(1873年初演)
五月の夜(1880年初演)
雪娘(1881年初演) ― 「道化師の踊り」が有名
ムラダ(オペラ・バレエ、1892年初演) ― 1872年の未完の合作オペラ・バレエと同一の題材
クリスマス・イヴ(1895年初演) ― ピョートル・チャイコフスキーの歌劇「チェレヴィチキ」と同一の題材
サトコ(1898年初演)― アリア「インドの歌」が有名
モーツァルトとサリエリ Op.48(1898年初演)
貴族夫人ヴェーラ=シェロガ Op.54(1898年初演)
皇帝の花嫁(1899年初演)
皇帝サルタンの物語(1900年初演) ― 間奏曲「熊蜂の飛行」が有名
セルヴィリア(1902年初演)
不死身のカシチェイ(1902年初演)
パン・ヴォエヴォーダ(1904年初演)
見えざる町キーテジと聖女フェヴローニャの物語(1907年初演)
金鶏(1909年初演)


室内楽曲
五重奏曲 変ロ長調 (1876年) ― ピアノ・フルート・クラリネット・ホルン・ファゴットのための作品。
弦楽四重奏曲「命名日」 (1887年) ― 合作。第3楽章のみ。
ピアノ三重奏曲 ハ短調 (1897年)


ピアノ曲
4つの小品 Op.11(1876年)
BACHの主題による6つの変奏曲 Op.10(1878年)


合唱曲
賢者オレーグの歌 Op.58(1899年)

歌曲
4つのロマンス Op.2(1866年) ― 第2曲「バラのとりこになったナイチンゲール」が知られる

正教聖歌(無伴奏)[4]
ヘルヴィムの歌(数種類あり)
『主や爾を崇め歌い』(数種類あり)
天主経(主の祈り)
『天より主を讃めあげよ』
聖大土曜日のカノン
『我等ワヴィロンの河辺に坐し』
信経

他者作品の編曲
ムソルグスキー:交響詩「禿山の一夜」
ムソルグスキー:組曲「展覧会の絵」
ムソルグスキー:歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」


著作
我が音楽人生年代記 (Летопись моей музыкальной жизни) 1909年
リムスキイ・コルサコフ『露西亜音楽年代記』服部龍太郎訳、第一書房、1926年。(抄訳)
服部龍太郎訳 リムスキー・コルサコフ『わが音楽生涯』 春陽堂書店、1943年
服部龍太郎訳 『リムスキー・コルサコフ自伝 わが音楽の生涯』 音楽之友社 音楽文庫第55、1952年
高橋健一郎訳 リムスキー=コルサコフ『我が音楽生活の年代記』翻訳の試み(1) (2)(3)
実用和声法 (Практический учебник гармонии.) 初版1885年
菅原明朗訳 和声法要義 A:本文, B:註, 音楽之友社, 1953年
管弦楽法基礎 (Основы оркестровки.) 1873年に開始したが、没後マクシミリアン・シテインベルクによって1912年に補筆完成され、1922年に出版された。
小松清訳 管絃楽法原理 創元社, 1939年 (参考譜例あり)
平沢奏汰訳 管弦楽法の基本 NextPublishing Authors Press, ISBN 978-4-99103-470-1, 2018年 (参考譜例なし)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%EF%BC%9D%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%82%B3%E3%83%95
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/869.html

[近代史6] ニコライ・リムスキー=コルサコフ 交響組曲「シェヘラザード」 Op.35
ニコライ・リムスキー=コルサコフ 交響組曲「シェヘラザード」 Op.35

リムスキー=コルサコフ 『シェヘラザード』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/898.html


http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/870.html

[近代史6] モデスト・ムソルグスキー( Modest Petrovich Mussorgsky, 1839 - 1881)
モデスト・ムソルグスキー( Modest Petrovich Mussorgsky, 1839 - 1881)

管弦楽曲
交響詩「禿山の一夜」

ピアノ曲
組曲「展覧会の絵」
5.5点
どの曲も強靭な発想力と独特の土臭さと色彩感が両立していて大変面白い。組曲としてのまとまりやプロムナードの変奏など曲集としての全体の構成感も大変素晴らしい。捨て曲なしであり、間奏的な作品はあるものの、名作揃いである。最後のキエフの大門の圧倒的なフィナーレには感動してしまう。ロマン派のピアノ用組曲としては圧倒的な出来だと思う。ラヴェルの華麗な編曲も素晴らしいが、より土着的でグロテスクさもあるピアノ版が自分は好みである。

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%281889%E5%B9%B4%E3%81%BE%E3%81%A7%29

モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキー(Моде́ст Петро́вич Му́соргский [mɐˈdɛst pʲɪˈtrovʲɪtɕ ˈmusərkskʲɪj],ラテン文字転写:Modest Petrovich Mussorgsky, 1839年3月21日 - 1881年3月28日)は、ロシアの作曲家で、「ロシア五人組」の一人。「五人組」の中では、そのプロパガンダと民謡の伝統に忠実な姿勢をとり、ロシアの史実や現実生活を題材とした歌劇や諷刺歌曲を書いた。国民楽派の作曲家に分類され、歌劇『ボリス・ゴドゥノフ』や管弦楽曲『禿山の一夜』、ピアノ組曲『展覧会の絵』などが代表作とされる。


生涯
プスコフ州で、リューリクの血を引く地主階級に生まれる。ムソルグスキー家は、リューリクの18代目の末裔ロマン・ヴァシリエヴィチ・モナストィリョフの子孫であり、家名はモナストィリョフの渾名「ムソルガ」に由来する。

6歳から母の手ほどきでピアノを始める(そこから、やがてフランツ・リストの小品を弾くまでになったといわれる[1])。10歳のときサンクトペテルブルクのエリート養成機関ペトロパヴロフスク学校に入学。

ムソルグスキーは武官になることを夢見ており、13歳で士官候補生になるが、音楽は大切な存在であり続けた。1852年には父が出費して、ピアノ曲『騎手のポルカ(Porte-enseigne Polka)』が出版された。

2年間のうちに、ロシアの文化人との出会いを果たし、ダルゴムイシスキー、スターソフ、バラキレフ、キュイとの出会いは重要であった。バラキレフの指導のもとに、歌曲とピアノ曲などの習作を手がけるが、1858年に軍務を退役する[2]。リャードフ少年に出会い、モスクワ詣でにも出向き、同胞愛や郷土愛に目覚める。

ムソルグスキーは、バラキレフに師事して、ベートーヴェンなどのドイツ音楽を学んでおり、バラキレフの監督下に作曲された『4手のためのピアノ・ソナタ』は、ムソルグスキー唯一のソナタ形式を含む作品である。作曲を続け、未完成のまま放棄した歌劇『アテネのオイディプス』も、またピアノ曲『古風な間奏曲(Intermezzo in modo classico)』(1867年に改訂し、管弦楽化)も、やはり民族主義的でない。ムソルグスキー家は荘園の半分を収奪され、ムソルグスキー自身は、非常に多くの時間をカレヴォに過ごして、一家の突然の零落を何とか食い止めようとしたものの失敗した。

この頃、ムソルグスキーはバラキレフの影響力から自由になり、ほとんど独学するようになった。1863年から1866年まで、歌劇『サランボー (Salammbô) 』に取り組む。ペテルブルクに戻り、下級官吏として生計を立てる。ペテルブルクで、近代芸術や近代科学について読書し、議論を戦わせた。そのような影響のもとにムソルグスキーは、段々と「リアリズム」という理念を抱くようになり、社会の低層に関心を寄せた。再現やシンメトリーのある楽式を拒否し、「現実生活」の繰り返しのない、予測のつかない流れに十分に忠実であろうとした。

「現実生活」の衝撃は、1865年に母親が没すると、ムソルグスキーにはとりわけ苦痛に思われた。この頃から深刻なアルコール依存症の兆しが見え始める。しかしながら26歳のムソルグスキーは、写実的な歌曲の作曲を始め、1866年に作曲された歌曲『ゴパーク(Gopak)』と『愛しいサーヴィシナ(Darling Savishna)』は翌1867年に、初めて自力で出版された作品となった。1867年は、『禿山の一夜』の初稿が完成された年でもあったが、バラキレフはこれを批判し、指揮することを拒んだため、存命中には上演されなかった。

文官としての職務は安定していなかった。1867年に余剰人員と宣告され、出勤しても無報酬であった。とはいえ芸術生活においては、決定的な展開が生じようとしていた。バラキレフを中心とした作曲家集団についてスターソフが「五人組」と名付けたのは1867年のことであったが、それまでにムソルグスキーはダルゴムイシスキーに接近した。

1866年よりプーシキンの原作歌劇『石の客』を作曲中であったダルゴムイシスキーは、テクストは「その内的な真実が捻じ曲げられないように、あるがままに」曲付けされるべきであると力説して、アリアとレチタティーヴォをやめデクラマシオンをよしとした。

『石の客』に影響されて、1868年に作曲された、ゴーゴリ原作の『結婚』の最初の11場では、戯曲の日常的な対話の抑揚を、旋律線によって自然に再現することが優先されている。『結婚』は、ムソルグスキーの自然主義的な曲付けにおいて極端な位置を占めている。この作品は第1幕の終結まで作曲されながらも、管弦楽法を施されぬままに放棄されたが、その典型的なムソルグスキー流デクラマシオンは、その後のあらゆる声楽曲において聞き取ることが可能である。自然主義的な声楽書法が、数ある表現原理の中で、しだいに唯一のものとなった。

『結婚』を放棄した後、ムソルグスキーはボリス・ゴドゥノフの物語でオペラを作曲するよう励まされる。このためプーシキンの戯曲や歴史物語を集め、オペラ『ボリス・ゴドゥノフ』を書き上げた。1871年に提出されるが、歌劇場から上演拒否にあった。初稿では、明らかにプリマドンナ役がなかったからだった。ムソルグスキーは改訂に取り掛かり、より大掛かりな第2稿(これが原典版である[1]。)を完成させ1872年(おそらく5月)に受理され、1873年にはマリインスキー劇場で抜粋上演が行われた。

1874年2月の『ボリス・ゴドゥノフ』の初演まで、ムソルグスキーは、不運に終わった「五人組」の合作オペラ『ムラーダ』にかかわって、このために『禿山の一夜』合唱版を作成し、歌劇『ホヴァーンシチナ』にも着手した。『ボリス・ゴドゥノフ』は批評家筋の受けが悪く、上演回数は十回程度でしかなかったが、聴衆には好評で、これによってムソルグスキーの活動は頂点をきわめた。

この頂点からの転落のきざしが次第に明らかとなり、ムソルグスキーは友人のもとから押し流され、アルコール依存症が関係する狂気も見受けられる。さらに友人ヴィクトル・ハルトマン(ガルトマン)が死に(1873年のことである[1])、肉親やルームメートのゴレニシェフ=クトゥーゾフ伯爵(『陽の光もなく』『死の歌と踊り』の作詞家)も結婚して去って行った。1874年以降は、『陽の光もなく』、『モスクワ河の夜明け』(『ホヴァーンシチナ』前奏曲)、『展覧会の絵』が作曲されている、この時ムソルグスキーは35歳である。歌劇『ソロチンスクの定期市』にも着手し、さらに『禿山の一夜』の、別の合唱版も作成した。

やがて著名人のサークルと交際を始めたが、酒量が抑えられず、身近な人の相次ぐ死は心痛をもたらしたが、ムソルグスキーの最も力強い作品『死の歌と踊り』が作曲された。文官としての仕事は、たびたびの「病気」や欠席のためにいっそう不安定になり、内務省に転職することができたことは幸運であった。しかも転職先では、ムソルグスキーの音楽熱が寛大に扱われたのである。1879年には、伴奏者として3ヶ月間に12都市で演奏活動を行うことさえ許されていた。ただし、サンクトペテルブルクに戻ると再び以前の荒んだ生活に逆戻りした[1]。

1880年に公務員の地位を追われる。ムソルグスキーの窮乏を知って友人たちは、『ホヴァーンシチナ』『ソロチンスクの定期市』を完成できるように寄付を集めようとした。『ホヴァーンシチナ』のピアノ・スコアは、2曲を除いて完成しており、仕上げまでもう少しというところまで達したが完成には至らなかった。

1881年初頭に4度の心臓発作に見舞われた。ムソルグスキーが入院させられ状況は絶望的であり、3月28日に42歳で死去。イリヤ・レーピンによって有名な肖像画が描かれたが、これは最期を伝えるものとなった。

作品
増四度を積み重ねる技法や、原色的な和声感覚、作曲素材の大胆な対比などは、さしずめ印象主義音楽や表現主義音楽の前触れとなっている。

ムソルグスキー作品の目覚しい斬新さは、20世紀半ばにショスタコーヴィチによって、作曲者の手法にあたうる限り忠実に、2つの歌劇『ボリス・ゴドゥノフ』と『ホヴァーンシチナ』の管弦楽法がやり直されるまで、永らく見過ごされてきた。また『禿山の一夜』は、ディズニー映画『ファンタジア』に利用されて、いっそう有名になった。

想像力に富み最も演奏される作品は、ピアノのための連作組曲『展覧会の絵』である。この作品は友人であった建築家ヴィクトル・ガルトマンの遺功をしのんで作曲された。19世紀のうちから管弦楽への編曲が試みられていたが、今日のほとんどの演奏はラヴェルの編曲である。

ムソルグスキーは歌劇『ソロチンスクの定期市』を未完成のまま没したが、有名な舞曲『ゴパーク(英語読みでホパック)』は、しばしば単独で演奏され、またラフマニノフのピアノ用への編曲で有名になった。

また、歌曲『蚤の歌』はゲーテ『メフィストフェレス』をアレクサンドル・ストルゴフシチコフがロシア語訳した詞に曲をつけたバス独唱曲。その他の作品では、3大歌曲集(『子供部屋』(1872年)、『日の光もなく』(1874年)、『死の歌と踊り』(1877年))が有名である。


舞台作品
ムソルグスキーは生涯で7つのオペラを作曲しているが、生前唯一完成させた有名な『ボリス・ゴドゥノフ』を除き、そのほとんどが未完成のまま残されている。また構想に終わったオペラもいくつか存在し、彼が1856年に創作を試みた『アイスランドのハン』(ヴィクトル・ユーゴーの台本による)という実現に至らなかった作品があるが、これが最古のものとされている。また死の数年前に『ホヴァーンシチナ』と『ソローチンツィの定期市』を作曲していた最中の1877年頃に『プガチョフシチナ』という構想のみに終わった作品もある。これはプーシキンの『大尉の娘』に基づいたオペラとして計画された作品である。

歌劇『アテネのエディプス王』(Эдип в Афинах)(1858-60,未完)
初期に作曲された歌劇。ソフォクレスに基づき、V.A.オゼロフの台本で作曲が進められたが途中で放棄した。現在は合唱曲の『民衆の合唱』のみ現存。
歌劇『サランボー(英語版)』(Саламбо)(1863-66,未完)
フローベールの原作に基づき、作曲者自身が台本を作成。しかし途中で放棄したため未完となる。現在は台本のほぼ大半と3曲のナンバーのみが現存する。
歌劇『結婚(英語版)』(Женитьба)(1868,未完)
ニコライ・ゴーゴリの原作に基づいて、全4幕のオペラとして作曲が進められたが、作曲者が完成させたのは1幕のみ。残りの3幕はミハイル・イッポリトフ=イワノフの補筆により完成させた。

歌劇『ボリス・ゴドゥノフ』(Борис Годунов)(1868-69/71-73)
アレクサンドル・プーシキンの原作を基に、スターソフと共同で台本を作成。1869年に初稿を完成させたが、劇場側から上演を拒否されたため大幅な改定を施し、1873年にプロローグ付きの4幕版を完成させた。未完となったオペラが多いムソルグスキーのオペラの中で唯一完成させたものである。
歌劇『ホヴァーンシチナ』(Хованщина)(1872-80,未完)
17世紀に帝政ロシアで起きた史実を基に作曲者自身が台本を作成。第1幕への前奏曲が有名
オペラ・バレエ『ムラーダ』(Млада)(1872,未完)
未完の合作。キュイらによる合作オペラだが、2曲現存する
歌劇『ソロチンスクの定期市』(Сорочинская ярмарка)(1874-80,未完)
ニコライ・ゴーゴリの『ディカーニカ近郷夜話』に基づいて作曲者自身が台本を作成。『ホヴァーンシチナ』と同時並行で作曲が進められていたが、作曲者の死没により未完のまま残された。のちにアナトリー・リャードフらにより補筆完成。


管弦楽曲
『禿山の聖ヨハネ祭の夜』(1867)
一般的には リムスキー=コルサコフが改作した交響詩『禿山の一夜』(1883)で知られることが多い。ただし、近年は原典版の演奏も増えてきている[3]。
古典様式による交響的間奏曲(1867)
行進曲『カルスの奪還』(Взятие Карса)(1880)
原曲は未完となった合作オペラ=バレエ『ムラダ』のために作曲した『公と僧侶たちの行進』。『トルコ行進曲』という別名もある。


ピアノ曲
ムソルグスキーが最初に作曲したとされる『騎士のポルカ』は1852年に生み出されているが、彼が13歳の時の産物である。バラキレフの許で修業していた時期にピアノソナタも作曲しているが、これらは未完に終わったかもしくは紛失しているため、完全な形としては残されていない。彼のピアノ曲で有名なものは『展覧会の絵』であり、後に管弦楽版として編曲されている。晩年はオペラの制作に注いでいたため、作品数はごく少なく、演奏時間にして数分程度の小品が生み出されている。

騎士のポルカ(1852)
最初期に書かれたピアノ曲。父が自費で出版した。
アレグロとスケルツォ ハ長調(1860)
古典様式による間奏曲(1860-61)
子供の頃の思い出(1865)
気まぐれな女(1865)
夢(1865)
紡ぎ女(1871)

組曲『展覧会の絵』(1874)
1891年、リムスキー=コルサコフの弟子であったミハイル・トゥシュマロフがこの曲の一部を初めてオーケストラ編曲を行って以降、さまざまな編曲がなされている。特に1922年モーリス・ラヴェルが行ったオーケストラ編曲版が非常に有名であり、その他ギターやマリンバ、シンセサイザーなど、様々な楽器によって演奏されている。また、クラシックだけでなく、ロックバンドによる編曲・演奏も行われている。

クリミア南岸にて(1880)
涙(1880)
村にて(1880)


合唱曲
他のジャンルと比べて、ムソルグスキーの合唱曲はごくわずかしか残されていない。

セレナヘリブの陥落(The Destruction of Sennacherib)(1866-67)
混声合唱と管弦楽のための作品。バイロンの詩による。
イエス・ナヴィヌス(Iisus Navin)(1874-77)
アルト、バリトン、合唱とピアノのための作品。『ヨシュア』の題としても知られる。歌詞は作曲者による。管弦楽伴奏版はリムスキー=コルサコフが1883年に作成している。


歌曲
ミリイ・バラキレフの下で音楽を学んでいた頃から没するまで、歌曲は生涯にわたって書き続けられている。『ラヨーク』では当時の社会を風刺した歌曲として知られる。

小さな星よ、お前はどこに(1857)
N.P.グレコフの詞による。1858年に管弦楽伴奏版も作られている。
夜(1864)
カリストラート(1864)
A.I.ネクラーソフの詞による。『カリストラートゥシュカ』の改訂版
ゴパーク(1866)
神学生(1867)
きのこ狩り(1867)
L.A.メイの詞による。他者による編曲版が存在する。
いたずらっ子(1867)
雄山羊(1867)
古典主義者(1867)
イェリョームシカの子守歌(1868)
歌曲集『子供部屋』(1868-72)
全7曲から構成される歌曲集。歌詞は作曲者自身による。
ラヨーク(1871)
または『のぞきからくり』や『人形芝居』とも。歌詞は作曲者自身による。
歌曲集『日の光もなく』(1874)
全6曲からなる歌曲集。歌詞は作曲者自身による。
歌曲集『死の歌と踊り』(1875-77)
全4曲からなる歌曲集。A.ゴレニーシチェフ=クトゥーゾフの詞による。後にドミートリイ・ショスタコーヴィチによって管弦楽伴奏版も作られている。
不幸は落雷のようにではなく襲った(1877)
傲慢(1877)
幻(1877)
蚤の歌(1879)
ゲーテによる。『アウエルバッハの酒倉でのメフィストフェレスの歌』の題でも知られる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%87%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%82%BD%E3%83%AB%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/871.html

[近代史6] モデスト・ムソルグスキー『展覧会の絵』
最美の音楽は何か? _ ムソルグスキー『展覧会の絵』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/380.html
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/872.html
[近代史6] アレクサンドル・ボロディン(Alexander Porfir'evich Borodin, 1833 - 1887)
アレクサンドル・ボロディン(Alexander Porfir'evich Borodin, 1833 - 1887)

管弦楽曲

交響曲第1番 変ホ長調
2.5点
作曲技術は十分に成熟している感じがあり、未熟な習作という感じではない。しかしながら、どの楽章もインスピレーションに乏しくて地味。印象に残る場面がないまま型にはまった音楽が流れて、時間が過ぎていく。ボロディンの個性も感じられなかった。

交響曲第2番 ロ短調
3.8点
1楽章はとにかくイントロのエキゾチックな強烈な主題のインパクトが大。一度聴いたら忘れられない。その主題を有効活用しながらチャイコフスキーに匹敵するほどダイナミックに展開する楽しめる楽章。2楽章は佳曲だが、1楽章のようなインパクトは無い。3楽章は漆黒を感じさせる雰囲気のなかで、うねるように表情を変える情景描写が素敵。4楽章は軽く感じられて、この曲の弱点に思われた。

交響曲第3番 イ短調(未完)
3.3点
1楽章の孤独感のようにも感じられる陰りが印象的。しかし、2楽章はそのようなものはなく、活発で密度の高い曲である。2つの楽章はともにロマン派の交響曲として十分な完成度と魅力がある。したがって、未完成のまま亡くなってしまったのが残念だ。まとまりがある状態で終わっておらず、完全に中途半端であり、非常にもの足りない。

交響詩 中央アジアの草原にて
3.5点
ボロディンらしいエキゾチックな旋律を活用した佳曲。広々とした草原、草や生き物の匂い、風の吹く草原と人々をよく表現しており、本当にコーカサスに旅行したような気分になれる。

小組曲
3.5点
オリジナルはピアノ曲。クラズノフ編曲の管弦楽版で聴いた。チャイコフスキーのような愛らしさと躍動感にあふれた良作。強い印象にこそのこらないが、かなり楽しめる作品。小曲7曲。これは掘り出し物だと思った。

イゴーリ公からの組曲
3.8点
有名な韃靼人の踊りを含む3曲を組曲風にした作品。オリジナリティと強い創意を感じる説得力の強い音楽である。舞台音楽らしい華やかさを基本に据えながら、メロディーの面白さ、アジア風味の楽しさ、ダイナミックさのあるオーケストラの使い方などの要素も入れており、ボロディンの才能の豊さに感心する作品となっている。


室内楽曲

スペイン風セレナード

弦楽四重奏曲第1番 イ長調

弦楽四重奏曲第2番 ニ長調

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%281889%E5%B9%B4%E3%81%BE%E3%81%A7%29


アレクサンドル・ポルフィーリエヴィチ・ボロディン(Alexander Porfiryevich Borodin, Алекса́ндр Порфи́рьевич Бороди́н RU-Alexander Porfiryevich Borodin, 1833年10月31日(ユリウス暦)/11月12日(グレゴリオ暦) - 1887年2月15日/2月27日)は、帝政ロシアの作曲家、化学者、医師。ロシア音楽の作曲に打込んだロシア5人組の一人である。


生涯
サンクトペテルブルクにて、グルジアのイメレティ州タヴァディのルカ・ステパノヴィチ・ゲデヴァニシヴィリ(ロシア名ゲディアノフ、62歳)と既婚のロシア女性エヴドキヤ・コンスタンティノヴナ・アントノヴァ(25歳)の非嫡出子として生まれる。

タヴァディは、日本では王子、公爵と訳されることがあるが、正確ではない。大領主というニュアンスが最も近い。グルジアの貴族制度タヴァディ・アズナウリ制度に、貴族つまり領主一般を意味するアズナウリ、大領主を意味するタヴァディがある。グルジア王国が複数の王国と複数の公国に分裂した15世紀以降も各国の君主家は引き続きバクラチオニ家であり、19世紀初頭まで存在したイメレティ王国も同様である。また、イメレティ王国はグルジア王国から分裂直後から、長らくオスマン帝国の侵略をたびたび受け、ロシア帝国に1810年に占領・併合された頃は実質的にオスマン帝国の支配下にあった。ちなみに、タヴァディの権限の強さは各王国・時代により異なる。
ゲデヴァニシヴィリはボロディンを実子として戸籍登録せず、農奴の一人ポルフィリ・ボロディンの息子として登録した。しかしボロディンは、ピアノの稽古を含めてすぐれた教育を受け、化学を専攻した。転じて、サンクトペテルブルク大学の医学部に入る。最優秀で卒業後、陸軍病院に勤務、24歳の時に医学の会議の出席のためにヨーロッパに長期出張した。この頃、ムソルグスキーと知り合い、シューマンの曲を紹介され、興味を持つ。ピサ大学では臭化ナトリウムを用いた有機窒素の定量法を発見した。

初めて会った時の印象について、「まさに嘴の黄色い青二才ではあったが、極めて優雅で全く非の打ち所のない青年士官であった。…彼はピアノの前に座ると、態とらしく両手を上げて演奏を始めた。優雅に、しかも繊細に…。」と語ったと言われる(DEAGOSTINI刊‘The Classic Collection’第99号)

26歳の時、ハイデルベルク大学(化学)入学。元素理論を確立したメンデレーエフと知り合う。卒業後はサンクトペテルブルク大学医学部生化学の助教授、教授と進み、生涯有機化学の研究家として多大な業績を残した。

作曲は1863年にミリイ・バラキレフと出会うまで正式に学んだことがなかった。1869年にバラキレフの指揮によって交響曲第1番が公開初演され、同年ボロディンは交響曲第2番に着手する。この新作交響曲は、初演時には失敗したが、1880年にフランツ・リストがヴァイマルでドイツ初演の手筈を整え、ボロディンの名をロシアの外に広めた。

やはり1869年には、オペラ『イーゴリ公』に着手、これはボロディンの最も重要な作品とみなされている。しばしば単独で演奏され、おそらく最も有名なボロディン作品となっている「ポロヴェツ人の踊り(だったん人の踊り)」と「ポロヴェツ人の行進(だったん人の行進)」は、『イーゴリ公』からの曲である。ボロディンは本職や公務に忙殺されて、生前この作品を完成できなかったため、没後にニコライ・リムスキー=コルサコフとアレクサンドル・グラズノフにより補筆と改訂が進められた。

1887年に急死した。謝肉祭の週間に、数人の友人を呼んで上機嫌に歌って踊って楽しんでいたが、突然ひどく青ざめて卒倒したのである(動脈瘤の破裂だった)。サンクトペテルブルクのアレクサンドル・ネフスキー大修道院のチフヴィン墓地に葬られている。

化学者としては、ボロディン反応(ハロゲン化アルキルの合成法、ハンスディーカー反応の別名)に名を残している。また、求核付加反応の一つであるアルドール反応を発見したとされる。

作風と影響
ボロディンは、作曲家としてその道に秀でていたにもかかわらず、いつも化学者として収入を得ており、化学の世界においては、とりわけアルデヒドに関する研究によって、非常に尊敬されていた。結果的に「日曜作曲家」を自称することになり、同時代人ほど多作家ではなかったものの、2つの交響曲や音画『中央アジアにて』(通称;交響詩『中央アジアの草原にて』)、抒情美をたたえて人気の高い「夜想曲」で有名な弦楽四重奏曲第2番はますます盛んに演奏されている。一握りの歌曲とピアノ曲も残され、なかでもピアノ曲『スケルツォ 変イ長調』は、ラフマニノフが演奏を録音に残している。ボロディンは交響曲第3番にも着手したが、完成できずに世を去り、後にグラズノフによって「完成」された。ただし、どの部分がオリジナルでどの部分が補筆か不明確な部分が多いため、この作品はボロディンの真作として扱われない傾向にある。近年では、未完成のチェロ・ソナタなど、初期の室内楽曲も見直されつつある。

ボロディンの作品は、力強い叙事詩的性格と豊かな和声が特色である。名高い「ロシア五人組」の同人として、ロシア的な要素は否定すべくもない。情熱的な音楽表現や比類のない和声法は、ドビュッシーやラヴェルといったフランスの作曲家にも影響を与えた。また、同世代のロシア人作曲家の中では、自然にポリフォニーを扱う能力でも際立っている。交響曲や弦楽四重奏曲のスケルツォ楽章は、ボロディンがメンデルスゾーンの作風を熟知していたことをうかがわせる。また、第1主題と第2主題との間に明確な対照性を与えず、それらに関連した要素を配置していく手法は、後の時代のシベリウスを予感させ、西欧的な二元性とは異なった思想基盤が表れている。

ボロディン弦楽四重奏団は、ボロディンの功労にちなんでいる。1954年にはトニー賞を授与された。これは、ボロディンの数々の作品を改作して創られたミュージカル『キスメット』の成功を評しての受賞であった。

主要作品

オペラ
勇者たち
イーゴリ公(未完)

管弦楽曲
交響曲第1番 変ホ長調
交響曲第2番 ロ短調
交響曲第3番 イ短調(未完)
交響詩 中央アジアの草原にて

室内楽曲
スペイン風セレナード
弦楽四重奏曲第1番 イ長調
弦楽四重奏曲第2番 ニ長調

ピアノ曲
小組曲(全7曲)
変化のない主題によるパラフレーズ

合唱曲
キリルに栄光あれ、メソディウスに栄あれ(未完)

歌曲
慈悲深い神
間違った音符


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%AD%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/873.html

[近代史6] アレクサンドル・ボロディン 交響曲 第2番 ロ短調 作品5
アレクサンドル・ボロディン 交響曲 第2番 ロ短調 作品5



ボロディン:交響曲 第2番 ロ短調 作品5 カルロス・クライバー 1972








カルロス・クライバー指揮 シュトゥットガルト放送交響楽団
12 Dec.1972


1. Allegro 6:50 (00:03)
2. Scherzo: Prestissimo - Trio: Allegretto 4:30 (06:55)
3. Andante 8:14 (11:30)
4. Finale: Allegro 5:50 (19:43)


▲△▽▼


交響曲 第2番 ロ短調は、アレクサンドル・ボロディンが歌劇『イーゴリ公』と同じく1869年に着手された交響曲。この2曲の作曲は長引いて手間取った。ボロディンは、オペラにするつもりで準備済みであった素材のいくつかをこの交響曲に転用し、曲調と音色の結びつきを強めた。



交響曲が1877年になって完成すると、ボロディンはこれを「勇者Épique 」と呼んだ。実際のところこの作品は、とりわけ第1楽章において、峻烈な勇壮さで貫かれており、第1楽章の「勇壮な」主題が作品中を循環している。 この「勇壮な」主題は、モーリス・ラヴェルやフローラン・シュミットなどが1900年頃にパリで旗揚げした芸術家サークル「アパッシュ」のテーマソングとして愛好された。


その他の楽章も典型的なロシア風の色彩に染められている。特にアンダンテ楽章は旋律が優れており、休止なくフィナーレへとなだれ込む。


1877年にエドゥアルド・ナープラヴニーク[注 2]の指揮によってサンクトペテルブルクで初演されたが、真の成功には程遠かった。その後ボロディンが管弦楽法に多少の手を入れ、1879年にリムスキー=コルサコフの指揮によって初演されると、今度は成功することができた。1882年には交響曲第3番の作曲に着手したが、これは歌劇『イーゴリ公』と同じく、作曲者の死により未完成のままで遺され、どちらもリムスキー=コルサコフとグラズノフの手により補筆・完成されることになった。


楽器編成
フルート 3(ピッコロ持ち替え 1)、オーボエ 2(イングリッシュホルン持ち替え 1)、クラリネット(イ調、変ロ調) 2、ファゴット2、ホルン4、トランペット(イ調、変ロ調) 2、トロンボーン3、チューバ1、ティンパニ、トライアングル、タンブリン、シンバル、バスドラム、ハープ、弦五部


楽曲構成
Orchesterwerke Romantik Themen.pdfOrchesterwerke Romantik Themen.pdfOrchesterwerke Romantik Themen.pdfOrchesterwerke Romantik Themen.pdf
第1楽章
アレグロ、ロ短調、ソナタ形式 重々しい第一主題から始まり、第二主題は雰囲気が変わりチェロによって美しく奏でられる。 この第一主題は、モスクワにおける初演で成功を収めたローベルト・フォルクマンの交響曲第1番(1862-63)の冒頭と構成や管弦楽法が酷似しており、影響を伺わせる。


小節番号の163(スコア内でいくとF)からは、ティンパニのソロが入っている。 弦楽器にはダウン指示が多い。


第2楽章:スケルツォ
プレスティッシモ、ヘ長調、トリオはアレグレット、ニ長調 主部は1/1の拍子である。


第3楽章
アンダンテ、変ニ長調、三部形式 第4楽章(フィナーレ)にはアタッカでつながる。


第4楽章:フィナーレ
アレグロ、ロ長調、ソナタ形式 弦、木管(ファゴット以外)は主にメロディを担当 ファゴット、金管は伴奏やメロディの土台部分を担当 打楽器は、結構目立つパートが多い(特にティンパニとタンブリン) この楽章にも弦のダウン指示がある。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC2%E7%95%AA_(%E3%83%9C%E3%83%AD%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3)

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/874.html

[近代史6] ミハイル・グリンカ(Mikhail Ivanovich Glinka、1804 - 1857)
ミハイル・グリンカ(Mikhail Ivanovich Glinka、1804 - 1857)

ミハイル・イヴァーノヴィチ・グリンカ(ロシア語:Михаил Иванович Глинка、ミハイール・イヴァーナヴィチュ・グリーンカ:Mikhail Ivanovich Glinka、1804年6月1日スモレンスク近郊ノヴォスパスコイェ(ロシア語版) - 1857年2月15日ベルリン)は国外で広い名声を勝ち得た最初のロシア人作曲家。「近代ロシア音楽の父」と呼ばれる。


生涯
グリンカは貴族で富裕な地主の家庭に第2子として生まれ、子ども時代から音楽に興味を持っていた。少年のころに体験した祖国戦争と農奴オーケストラが演奏する民謡の編曲が、成長してからの彼の音楽に影響を与えたといわれる。

イギリスでピアノ販売を成功させたイタリア人作曲家クレメンティにともなわれてサンクトペテルブルクを訪れたジョン・フィールドはロシアの貴族たちにピアノを売り込んだと同時にピアノの演奏技術をロシアに普及させた[1]。グリンカもフィールドよりピアノを習っている[1]。経済的に恵まれていた彼は若いうちからピアノのほか、ヴァイオリン、声楽、指揮、そして作曲を熱心に学習することができたが、音楽教育はごくわずかしか受けておらず、同胞の作曲家よりは、むしろプーシキンら当時の詩人や画家などと交遊を結んだ。

グリンカは1824年からサンクトペテルブルクの運輸局(運輸省の前身)に勤務したが、1828年に辞職し、その後3年間にわたってイタリアに滞在した。イタリアではドニゼッティやベッリーニの影響を受けた[2]。ついでドイツに遊学し、ベルリンでジークフリート・デーンについて作曲を勉強した[3]。1834年に父が没したため、ロシアに帰国した[3]。

外国を回るうちに、徐々に彼のロシア人としてのアイデンティティが芽生え、ロシア的な作品を書きたいという願いが起きてくるようになった。この間、ロシアの民族音楽に興味を示した者はほとんどいなかった。その代わりに貴族階層は、ドイツやフランス、イタリアなどから、たとえばベッリーニやドニゼッティなどの作品を輸入していた。まったくロシア的なオペラを最初に作曲すべく取り掛かったのがグリンカなのである。

1836年に作曲された《皇帝に捧げた命》は、E.F.ローゼン(Егор Фёдорович Розен)男爵の依嘱作品で、大成功をもって賞賛された。これは、幅広く受容された最初のロシア語オペラである。部分部分はロシア民謡に基づいているのだが、主部は伝統的なイタリア様式で構成されている。因みに、この作品は、ソビエト時代には政治的な理由から、主人公の農民の名前をとって《イワン・スサーニン》として知られていた。

オペラの第2作《ルスランとリュドミラ》は1842年に作曲されたが、ほとんどは上演のまずさのせいで、今度は好意的に受容されなかった。この作品は、民謡の自由な活用や、不協和音や半音階、それに全音音階の独創的な活用が特徴的である。それにもかかわらず、この第2のオペラは、国民楽派的な作曲様式が確固としており、これは次世代のロシア人作曲家によって追随されることとなった。

グリンカは1844年から再び西ヨーロッパ各地の演奏旅行に出た。フランスに9か月滞在し、エクトル・ベルリオーズと交遊した[3]。ついで1845年の夏にはスペインへ行き、バリャドリッドの村でスペイン民謡を収集し、マドリードで『ホタ・アラゴネーサの主題による華麗な奇想曲』を作曲した[4]。この作品で民族的素材の扱いに自信を得たグリンカは、ついでワルシャワでロシア民謡にもとづく『カマリンスカヤ』を作曲した。この曲はロシアの民族的素材を使った最初の管弦楽曲として知られる[5]。

1852-1854年にはふたたび西ヨーロッパ、主にパリに滞在したが、クリミア戦争の勃発にともなって帰国した[2]。

1857年に、対位法の研究のために滞在していたベルリンに客死する。遺体はペテルブルクに運ばれてアレクサンドル・ネフスキー大修道院に埋葬された。


作風と後世への影響
グリンカは、青年時代にイタリア、晩年にドイツに留学して、作曲理論を学んでおり、この間にはオペラよりも、器楽曲の創作を追究した。イタリア時代は、ハイドンやモーツァルトの器楽曲やロッシーニの序曲の様式で、数々の室内楽曲を作曲しており、ドイツ時代は、交響詩などの管弦楽曲が中心となっている。中でもイタリア時代に書かれたクラリネット三重奏曲《悲愴トリオ》ニ短調は、イタリア風のカンタービレとスラヴの憂鬱が結びついた、流麗かつ軽快な表現によって、再評価を受けるに至っている。

初めて真のロシア的音楽をつくったといわれるグリンカの作品は、ロシアのその後の作曲界に重要な影響を与えており、とりわけ有名なのが「ロシア五人組」である。このグループはグリンカの指導力を受け入れて、はっきりとロシア的な特質のあるクラシック音楽を創造した。

グリンカの2つの作品歌劇《皇帝に捧げた命》(Жизнь за царя)は17世紀初頭のロシアが舞台、そして《ルスランとリュドミラ》(Руслан и Людмила)は、ロシア最大の詩人アレクサンドル・プーシキン原作の台本であり、これらの序曲がしばしば演奏会でも演奏されて有名である。特に後者は明るく楽しい曲想で親しみやすく、いわゆるホームミュージック、アンコールピースとしては定番ともいえる地位を占め続けている。管弦楽曲はあまり有名ではないが、それでも幻想曲《カマリンスカヤ》(Камаринская、1848年)や《ホタ・アラゴネーサ》(Арагонская хота1845年)などの作品がある。

また、数ヶ国語をマスターしていたほどの大変な旅行家であった彼は、ロシアの民俗音楽だけでなく、旅先で触れた各国の民俗音楽を吸収したり自作に取り入れたりしている。もっとも彼が旅行ばかりであまりロシアに滞在しなかった理由は、国外での彼の音楽に対する高い評価に比べて、当時のロシア国内では特に貴族などの保守的な層から良い評価を得られなかったせいとも言われる。反面、彼ら以外の主に若い層の音楽家たちからは尊敬を勝ち得ていた。

作品

歌劇
歌劇 皇帝に捧げた命(イワン・スサーニン)(1836年)
歌劇 ルスランとリュドミラ(1842年)


管弦楽曲
スペイン序曲第1番「ホタ・アラゴネーサの主題による華麗な奇想曲」(1845年)
幻想曲「カマリンスカヤ」(1848年)
スペイン序曲第2番「マドリードの夏の一夜の思い出」(1851年)
幻想的ワルツ(1856年)

ピアノ曲
ロシア民謡『なだらかな谷間に沿って』による変奏曲(1826年)
アリャービエフの『夜泣き鶯』の主題による変奏曲(1833年)
幻想的ワルツ(1839年)
夜想曲『別れ』(1839年)
『スコットランドの主題』による変奏曲(1847年)
『ドン・ジョヴァンニ』の主題による変奏曲
『魔笛』の主題による変奏曲

室内楽曲
七重奏曲変ホ長調(1823年)
弦楽四重奏曲ニ長調(1825年)
弦楽四重奏曲ヘ長調(1830年)
悲愴三重奏曲ニ短調(1832年)

歌曲
真夜中の閲兵(1836年)
歌曲集『サンクト・ペテルブルクとの別れ』(1840年)
全12曲。第10曲の『ひばり』が有名。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%AB
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/875.html

[近代史6] ミハイル・グリンカ 歌劇 ルスランとリュドミラ 序曲
ミハイル・グリンカ 歌劇 ルスランとリュドミラ 序曲


Glinka: Ruslan and Lyudmila Overture, Mravinsky (1965)







指揮:エフゲニー・アレクサンドロヴィチ・ムラヴィンスキー
レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団 (サンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団)


録音:1965年2月26日 モスクワ (実況録音)



Glinka - Ruslan & Ludmila Overture - Mravinsky Budapest 1962



Leningrad Philharmonic Orchestra
Yevgeny Mravinsky
Live recording, Budapest, 10.II.1962

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/876.html

[近代史6] エドワード・エルガー(Sir Edward William Elgar、1857 - 1934)
エドワード・エルガー(Sir Edward William Elgar、1857 - 1934)

交響曲

交響曲第1番 変イ長調 作品55
4.0点
イギリスを代表する交響曲。最後に第一主題が戻ってくるところは感動してしまう。

交響曲第2番 変ホ長調 作品63

交響曲第3番 ハ短調 作品88(未完成。A.ペインによる完成稿あり。)


管弦楽曲

独創主題による変奏曲(「エニグマ(謎)」変奏曲)(Variations on an Original Theme("Enigma")) 作品36

行進曲「威風堂々」第1 - 6番(Military Marches "Pomp and Circumstance") 作品39-1 - 6(第6番は未完成。A.ペインによる完成稿あり。)

協奏曲

ヴァイオリン協奏曲 ロ短調 作品61
2点
雰囲気はいいのだが、メロディーがぜんぜん印象に残らず、大曲なのになんとなく聴き流していたら終わってしまった。

チェロ協奏曲 ホ短調 作品85


室内楽曲

「愛の挨拶」("Salut d'Amour" ("Liebesgruss")) 作品12
5点
愛らしくていい小品。個人的な思い入れもあり5点。

ヴァイオリン・ソナタ ホ短調 作品82

弦楽四重奏曲 ホ短調 作品83

ピアノ五重奏曲 イ短調 作品84


声楽曲
オラトリオ「ゲロンティアスの夢」("The Dream of Gerontius") 作品38

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9


初代準男爵サー・エドワード・ウィリアム・エルガー(Sir Edward William Elgar, 1st Baronet, OM, GCVO、1857年6月2日 - 1934年2月23日)は、イングランドの作曲家、指揮者。もとは音楽教師でありヴァイオリニストでもあった。

エルガーが遺した楽曲の多くは母国イギリスのみならず、世界中の演奏会で取り上げられている。中でも最もよく知られるのは『エニグマ変奏曲』や行進曲『威風堂々』、ヴァイオリン協奏曲、チェロ協奏曲、2曲の交響曲などである。また、『ゲロンティアスの夢』をはじめとする合唱作品、室内楽曲や歌曲も作曲した。

1904年(47歳)にナイト、1931年(74歳)准男爵に叙されている。1924年からは国王の音楽師範を務めた。


生涯

若年期
エルガーは1857年6月2日、ウスター近郊のロウアー・ブロードヒース(英語版)で生まれた。父はドーヴァー育ちでロンドンの音楽出版社での見習い経験を持つ、ウィリアム・ヘンリー・エルガー(William Henry Elgar、1821年-1906年)であった。ウィリアムは1841年にウスターへと移り住み、ピアノ調律師として働きながら楽器商として楽譜や楽器を販売する店を営んでいた[1]。1848年、彼は農家の娘であったアン・グリーニング(Ann Greening、1822年-1902年)と結婚する[2]。エドワードは7人きょうだいの4番目であった[注 1]。

母のアンはエドワード誕生の直前にローマ・カトリックへと改宗しており、エドワードもカトリック教徒として洗礼を受けて育てられたが、これは父の認めるところではなかった[注 2]。ウィリアムはプロ並みの腕前を持つヴァイオリニストであり、1846年から1885年にかけてはウスターのセントジョージ・カトリック教会(St George's Church)でオルガニストを務めていた。彼が旗振り役となってケルビーニやフンメルのミサ曲が初めてスリー・クワイアズ・フェスティバル(英語版)で演奏されることになり、彼自身もヴァイオリンの演奏で参加した[5]。エルガー家の子どもたちは皆、音楽を教え込まれており、エドワードは8歳までにはピアノとヴァイオリンのレッスンを受けていた。彼は時おり、ウスターシャーの名だたる家々を回ってピアノを調律していた父に連れられて出かけていき、地元の名士らの前で技量を披露する機会を与えられた[1]。

エルガーの母は芸術に関心を持つ人物で、息子が音楽の道に進むのを後押しした[2]。エルガーはこの母から文学面での審美眼と田舎町に対する強い愛情を受け継いだ[6]。エルガーの友人で伝記作家のウィリアム・ヘンリー・リードが記すところでは、エルガーの幼少期の環境が与えた影響は「彼の作品全てに染み渡っており、彼の生涯にわずかながらもなお真正かつ頑強なイングランド的特性を授けたのである[7][注 3]。」エルガーは幼いころから作曲を始めていた。10歳頃にはきょうだいで演じる劇を作曲しており、その40年後に彼は若干の修正のみを行ったこの曲にオーケストレーションを施し、組曲『子供の魔法の杖』とした[2]。

エルガーは15歳になるまでウスター近郊のリトルトン・ハウス校[注 4]で一般教育を受けた。一方で、彼が地元の教師たちから受けていたピアノとヴァイオリンのレッスンを超える公式な音楽の訓練は、1877年から1878年にかけてロンドンに滞在した際にアドルフ・ポリッツァーに師事して受けた発展的なヴァイオリンの特訓のみだった。エルガー自身の言によれば「私の最初の音楽は大聖堂(英語版)で学んだもの(中略)それと、8歳、9歳か10歳頃に音楽図書館から借りた本で学んだものだった[11]。」彼はオルガン演奏の教則本を使って勉強し、音楽理論に関しては見つけられた本を片端から読み漁った[5]。中でも最も役に立ったのはヒューバート・パリーが『ニューグローヴ世界音楽大事典』に執筆した論説だったと、彼は後になって述べている[12]。エルガーはさらに音楽を学ぶためにライプツィヒ音楽院への留学を目指し、ドイツ語を勉強し始めた。しかし、彼の父には彼を国外へやる経済力がなかった。ミュージカル・タイムズ紙は後になって、エルガーがライプツィヒ留学を果たせなかったことは彼の音楽的発展にとって幸運なことだったとの考察を掲載した。「こうして芽を出し始めた作曲家は様々な楽派のドグマを回避できたのである[5]。」エルガーは1872年に学校を卒業してすぐにライプツィヒに赴かず、地元の事務弁護士の元で事務員として働くことになったことに失望していた。性分に合わない事務員でのキャリアを見出せず、音楽ばかりでなく文学にも埋め合わせを求めた彼は貪欲に書籍を読み耽った[注 5]。この時期に彼はヴァイオリニスト、オルガニストとして最初の公開演奏を行っている[14]。


数ヵ月後、エルガーは音楽の道に身を投じるべく事務弁護士の元を後にし、ピアノやヴァイオリンのレッスンを行うと同時に折に触れて父の店で働くようになった[1]。彼はウスターのグリークラブで父と共に活発に活動する傍ら、歌手を伴ってヴァイオリン演奏、楽曲の作曲や編曲、そして初めての指揮も行った。ポリッツァーはエルガーにヴァイオリニストとして国を代表するソリストとなり得る才能があると信じていたが[15]、エルガー自身はロンドンの演奏会で一流ヴィルトゥオーゾたちの演奏を耳にして、自分の演奏には十分な音色が欠けていると感じて、ソリストになるという野心を捨ててしまう[1]。22歳になった彼はウスターから5km離れたポウィック(英語版)のウスター・アンド・カントリー精神科養護施設(英語版)付属楽団の指揮者の職に就いた[5]。楽団はピッコロ、フルート、クラリネット、ホルン2、ユーフォニウム、3人から4人の第1及び第2ヴァイオリン、場合によってヴィオラ、チェロ、コントラバスやピアノという構成だった[16]。エルガーは奏者に指導を行い、この特殊な編成の楽団のためにカドリーユやポルカなどの音楽を作曲、編曲した。ミュージカル・タイムズ紙はこう書いている。「この実践的な体験が若い音楽家にとって最大の価値を有していたことがわかる。(中略)彼はこれらの様々な楽器の性能について実用的知識を得た。(中略)彼はそうして音の色彩、並びにこれらやその他の楽器の詳細をつぶさに知ることになったのである[5]。」彼は1879年以降この職に5年間留まり、週に1回ポウィックへと足を運んでいた[1]。彼が初期に就いていた他の職にはウスターの盲学校(英語版)のヴァイオリンの教授があった[5]。


元来孤独を好み内省的な性格であったエルガーであるが、ウスターの音楽サークルでは目立つ存在だった[2]。彼はウスターやバーミンガムの音楽祭でヴァイオリンパートに加わっており、そうした中でドヴォルザーク自身の指揮で交響曲第6番と『スターバト・マーテル』を演奏できたのは大きな経験となった[17]。また彼は、オーボエ奏者で自ら組織した吹奏楽団の指揮をしていた弟のフランクとともに管楽五重奏団でファゴットを吹いていた[5]。エルガーはモーツァルト、ベートーヴェン、ハイドンやその他の作曲家の多くの作品を五重奏用に編曲し、自身の編曲と作曲の腕前を磨いていった[5]。

初めてとなる海外旅行で、エルガーは1880年にパリ、1882年にライプツィヒを訪れた。彼はサン=サーンスがマドレーヌ寺院のオルガンを演奏するのを耳にし、第1級のオーケストラの演奏会に出席した。1882年に彼はこう書いている。「シューマン(私の理想!)、ブラームス、ルビンシテイン、ワーグナーにどっぷり浸かったので、文句を言う理由などありません[11]。」ライプツィヒでは音楽院で学んでいた友人のヘレン・ウィーヴァー(Helen Weaver)を訪ねた。2人は1883年の夏に婚約を果たしたが、この縁談は理由はわからないものの翌年破談となってしまった[1]。エルガーは大いに悲嘆にくれる。彼が後年ロマン的な音楽へ謎めいた傾倒を見せるのは、ヘレンや彼女に対する想いがほのめかされていることが一因かもしれない[注 6]。生涯のあらゆる場面で、エルガーはしばしば親しい女性の友人から霊感を得ている。ヘレン・ウィーヴァーに続くのはメアリー・ライゴン、ドーラ・ペニー、ジュリア・ウォーシントン、アリス・ステュアート・ウォートリー、そして最後は彼の晩年に活気付けたヴェラ・ホックマンである[18]。

1883年、バーミンガムにおいてW.C.ストックリーの冬期コンサートシーズンのオーケストラに定期団員として在籍中、エルガーはフル・オーケストラ用に作曲した最初期の楽曲群のひとつ『Serenade mauresque』の演奏に加わった。ストックリーは彼に自作の指揮をするよう呼びかけたが、彼が次のように述懐する事態に終わった。「彼は拒絶するのみならず、オーケストラで演奏することを強く希望した。その結果、聴衆の心からの温かい拍手に応えるために彼はフィドルを手に登場せねばならなくなった[19]。」エルガーは自作の出版を取り付けるためにしばしばロンドンへと赴いたが、この時期には落胆することが頻繁にあり金欠に喘いでいた。1884年の友人宛の書簡にはこう書いている。「私の見通しはほとんどこれまでどおり望み薄です(中略)私は元気が乏しいわけではないと思います。そうしたわけで、私は時々これは能力の乏しさなのだろうと結論付けるのです。(中略)私にはお金がない?1セントもありませんよ[20]。」彼は長年、ウスターのセントジョージ教会のオルガニストだった父ウィリアムの助手を務め、1885年からの4年間は父の後任として働いた。この期間に彼はローマ・カトリックの伝統に則って初めてとなる礼拝用作品群を書いている。4声の合唱のための『3つのモテット』 Op.2(1887年; 「Ave Verum Corpus」、「Ave Maria」、「Ave Maris Stella」)を皮切りに、1888年の司教のセントジョージ教会公式訪問の際の入場曲として『Ecce sacerdos magnus』へ付した音楽が続く。これら4曲は教会での合唱レパートリーに残り続けている。

結婚
エルガーが29歳のとき、彼は新しい弟子を取った。後のサー・ヘンリー・ロバーツ陸軍少佐の娘で詩歌や散文の出版経験もあるキャロライン・アリス・ロバーツである。エルガーより8歳年上のアリスは、3年後に彼の妻となる。エルガーの伝記作家であるマイケル・ケネディはこう記した。「アリスの一家は、彼女が店先で働くローマ・カトリックの名の知れない音楽家と結婚しようとしていることにぞっとした。彼女は勘当されてしまった[1]。」2人は1889年5月8日にブロンプトン祈祷所(英語版)で結婚した[17]。このときからこの世を去るまでの間、彼女はエルガーの仕事のマネージャー、社会的な秘書となり、彼の気が動揺すればなだめ、音楽には的確な批評を与えた[21][22]。彼女はエルガーが有力団体の注目を浴びるよう最善を尽くしたものの、これはあまり成功しなかった[23]。やがて栄誉を受けるようになるエルガーは、それが彼女と彼女の社会的地位にとってより大きな問題であること、そして彼女がエルガーのキャリアを後押しするために何を諦めてきたのかに気付かされることになる[注 7]。彼女の日記にはこう書かれている。「天才の面倒を見るというのは、いかなる女性にとっても生涯の仕事として十分なものです[25]。」婚約の贈り物として、エルガーはヴァイオリンとピアノのための小品『愛の挨拶』を彼女に捧げた[注 8]。アリスの勧めに従って、彼はよりイギリスの音楽の中心に近いロンドンへと移り住み、作曲に専念するようになった。一人娘であるキャリス・アイリーンは、1890年8月14日にウェスト・ケンジントン(英語版)の彼らの家で誕生している。エルガーが『愛の挨拶』に記した献辞からわかるように、キャリス(Calice)という彼女の名前は母のCarolineとAliceを繋げて名づけられたものである。

エルガーは見知らぬ音楽を聴く機会を存分に活用した。ミニチュア・スコアや録音が登場する以前の当時、若い作曲家が新しい音楽を知るのは容易ではなかった[26]。彼は水晶宮の演奏会には必ず足を運んだ。彼とアリスは毎日のように出かけていき、幅広い作曲家の音楽を聴いたのである。そうした中にはオーケストレーションの達人でありエルガーが多くを学んだ、ベルリオーズやワーグナーも含まれていた[2]。しかし、エルガー自身の楽曲はロンドンの音楽界でほとんど注目されることはなかった。アウグスト・マンスが水晶宮で『愛の挨拶』の管弦楽版と組曲ニ長調を演奏すると、2つの出版社からエルガーのヴァイオリン作品、オルガン曲、パートソングからいくつかの楽曲が出されることになった[27]。淡い期待を抱かせるような出来事もあったようだが、予期せぬ形でそれは泡と消えた[27]。例えば、彼の楽曲から数曲を通してみたいというロイヤル・オペラ・ハウスからの申し出があったが、アーサー・サリヴァンが予告なしに現れて自作曲のリハーサルを始めると撤回されてしまった。サリヴァンは後年、エルガーからこの時のことを訊ねられて冷や汗をかいている[注 9]。この時期にロンドンにいたエルガーにとって唯一の重要な委嘱は、彼の故郷からのものだった。ウスター音楽祭委員会が1890年のスリー・クワイアズ・フェスティバルのために、彼を招待して短い管弦楽曲を依頼したのである[29]。ダイアナ・マクヴェイが『ニューグローヴ世界音楽大事典』に記したところによると、結果として生まれた曲は「彼の最初の主要作品、自信に溢れ自由闊達な『フロワサール』である。」1890年9月のウスターでは、エルガー自身が初演の指揮を行った[2]。他の作品に恵まれなかったため、エルガーは1891年にロンドンを離れざるを得なくなり、妻と子を連れてウスターシャーへと戻ると地元の楽団の指揮や音楽教師をして生活費を稼いだ。彼らはアリスのふるさとであったグレート・マルヴァーン(英語版)に居を構えた[2]。

高まる名声
1890年代、エルガーは主にミッドランズ(英語版)で催される大きな合唱祭のための作品により、次第に作曲家としての名声を確立していった。ロングフェローに触発されて書かれた『黒騎士』(1892年)、『オラフ王の伝説からの情景』(1896年)、他にも『生命の光』(1896年)、『カラクタクス』(1898年)は皆そこそこの成功を収め、彼はノヴェロ社(Novello & Co)との長期契約を獲得することになる[30]。『弦楽セレナード』(1892年)や『3つのバイエルン舞曲』(1897年)といった作品もこの時期に生まれたものである。すっかり地元の重要人物となっていたエルガーは、サミュエル・コールリッジ=テイラーに対して若者のキャリア確立の助けになるからと、スリー・クワイアズ・フェスティバルへの演奏会用楽曲提供を勧めている[注 10]。エルガーは著名な評論家の目に留まるが、彼らの論評は熱狂的というよりむしろ礼儀正しいものだった。彼は音楽祭の作曲家としては求められる存在だったものの、自分は経済的に食いつなげているだけであり認められてはいないと感じていた。1898年、彼は「音楽のことで非常に心を病んでいる」と述べており、規模の大きな作品で成功する道を見出せることを願っていた。友人のアウグスト・イェーガーは彼の気持ちを高めようとしている。「毎日苛まれる憂鬱(中略)は君の希望、君の必要性を消し去ったりはしない。それはある種の神意が君に与えた創造の力が訓練されようとしているということだ。君が世界に認められる時はやってくる[32]。」


『エニグマ変奏曲』の主題
1899年、その予言は突如現実のものとなる。42歳になったエルガーが作曲した『エニグマ変奏曲』が、ロンドンでドイツの指揮者ハンス・リヒターの指揮により初演されたのである。エルガー自身の言葉に次のようにある。「私は創作主題に基づく変奏曲のスケッチを行った。作曲にあたって私は友人のニックネームを変奏に付していったのだが、これは楽しいものだった(中略)つまり私は『人』の雰囲気を表すように変奏を作曲したのだ(中略)そして私は - 彼らがもし作曲するような馬鹿者だったとしたら - こう書くだろうと思ったように書いたのだ[33]。」彼はこの作品を「描かれている友人たちへ」献呈した。おそらく最もよく知られる変奏はイェーガーを描いた「ニムロッド」だろう。純粋に音楽的な観点からエルガーはアーサー・サリヴァンとヒューバート・パリーを描いた変奏を省略した。彼は変奏に彼らのスタイルを盛り込もうとしたが叶わなかった[34]。この大規模な作品は独自性、魅力、精巧さの点から広く称賛を受けることになり、同世代の中でも抜きん出たイギリスの作曲家としてエルガーの評価を確立した[2]。

正式な表題は「創作主題による変奏曲」であるが、曲の冒頭6小節に現れる「エニグマ(謎)」という言葉がタイトルとして広く知られるようになった。謎とは「創作主題」による14の変奏が変奏される一方で、全体に通底する別の主題があるということである。主題はエルガー自身によれば「全曲を貫き覆う」が一度も音にされることはなく、また彼はこれを特定しなかった[注 11]。後の世のコメンテーターらの考えるところでは、エルガーは今日ではイングランドらしい特徴を備えた作曲家だとみなされているが、彼の管弦楽作品、中でも特にこの曲は当時でいえばリヒャルト・シュトラウスの楽曲に典型的なヨーロッパの中心の伝統と通ずるところを多く備えている[1][2]。『エニグマ変奏曲』はドイツとイタリアでも好評を博し[36]、現在でも世界中で演奏会の定番であり続けている[注 12]。

国内外での成功
エルガーの伝記作家であるバジル・メインはこうコメントしている。「1900年にアーサー・サリヴァンが死去すると、異なるタイプの作曲家であるにもかかわらず、多くの者にとってエルガーが国一番の音楽家として彼の真の後継者であることは明白であった[17]。」エルガーの次作は強く待ち望まれていた[37]。そこで彼が1900年のバーミンガム・トリエンナーレ音楽祭(英語版)に向けて書き下ろしたのは、枢機卿ジョン・ヘンリー・ニューマンの詩を題材とした複数の独唱者、合唱と管弦楽のための『ゲロンティアスの夢』であった。初演の指揮はリヒターが受け持ったが、合唱隊の準備が不十分でひどい歌唱となった[38]。エルガーは深く意気消沈したが、評論家たちは不出来な演奏だったにもかかわらず曲の熟達の度合いを見抜いていた[1]。この曲は1901年と続く1902年にも、ユリウス・ブーツの指揮によりドイツのデュッセルドルフで演奏されている。ブーツは1901年に『エニグマ変奏曲』のヨーロッパ初演を指揮した人物である。ドイツの紙面はこれを熱狂的に報じた。ケルン・ガゼット紙は次のように伝えている。「第1部、第2部ともに我々は不朽の価値を持つ美しさに出会うことになる。(中略)エルガーはベルリオーズ、ワーグナー、リストの肩の上に立ちながら、自らが重要な個性を獲得するに至るまで彼らの影響から解き放たれている。彼は現代の音楽芸術を牽引する1人である。」デュッセルドルファー・フォルクスブラット誌の評は次の通りである。「忘れがたい記念碑的初演であった!リストの時代以降オラトリオ形式の作品が何も生まれてこなかった(中略)ついにこの宗教的カンタータの偉大さ、重要さに行き当たったのである[39]。」当時の主導的作曲家と広く目されていたリヒャルト・シュトラウスは[40]、深く感銘を受けてエルガーの面前で「イングランドで初めての革新的音楽家、マイスター・エルガー」への乾杯の音頭を取った[40][注 13]。ウィーン、パリ、ニューヨークでの公演が続き[2][42]、間もなく『ゲロンティアスの夢』はイギリス国内でも同様に称賛されるようになった。ケネディによれば「これは疑いなくオラトリオ形式で書かれた最高のイギリス作品である(中略)(この曲は)イングランドの合唱の伝統に新たな1章を開くとともに、ヘンデルへの偏向からの解放をもたらした[1]。」カトリック教徒であったエルガーは罪びとの死と贖いというニューマンの詩に深く感動したが、聖公会の有力者らにはこれを認めない者もいた。エルガーの同僚であったチャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォードは、この作品が「悪臭を放っている」と不平を漏らした[43]。グロスター大聖堂の首席司祭は1901年より聖堂での『ゲロンティアスの夢』の演奏を禁止し、翌年にはウスター大聖堂でも演奏許可を下す前に首席司祭から不穏当な箇所の削除が命じられた[44]。


エルガーはおそらく1901年から1930年にかけて作曲された5曲の『威風堂々』の第1曲によって最も知られるだろう[45]。毎年全世界に向けて放映されて数えきれない視聴者が目にするプロムス最終夜では[46]、伝統的にこの曲が演奏されている。第1番のゆったりした中間部分(専門的にはトリオと呼ばれる)の主題をひらめいた時、エルガーは友人のドーラ・ペニーにこう述べている。「皆を打つ - 打ちのめす旋律を思いついたんだ[47]。」1901年にロンドンのプロムナード・コンサートにおいて第1番の行進曲が初演された際のことを、指揮を行ったヘンリー・ウッドは次のように記した。「(聴衆は)立ち上がり叫び声をあげた(中略)プロムナード・コンサートの歴史において管弦楽曲が2度のアンコールという栄誉を受けた、ただ1度の出来事である[48]。」エドワード7世の戴冠式を飾るため、1901年6月にロイヤル・オペラ・ハウスで行われたガラ・コンサートへ向けてエルガーはアーサー・クリストファー・ベンソン(英語版)の『戴冠式頌歌』への楽曲提供を委嘱された。王の許可が確認されるとエルガーは楽曲に取り掛かった。コントラルトであったクララ・バットからの、『威風堂々第1番』のトリオにちょうど合わせた歌詞を付けられるという言葉に納得したエルガーは、ベンソンにそうするよう要請した。エルガーは頌歌にその新しい声楽版を組み込んだ。この声楽作品『希望と栄光の国』に可能性を感じ取った楽譜出版社は、エルガーとベンソンに対して独立した楽曲として出版するためにさらに改訂を加えるように依頼した[49]。この曲は絶大な人気を獲得し、イギリスにおいては今や第2の国歌と称されている[1]。アメリカではトリオが『威風堂々』もしくは『卒業行進曲』として知られており、1905年以降ほぼすべての高校並びに大学の卒業式に採用されている[50][51]。

その後、オラトリオ『使徒たち』(1903年)、オラトリオ『神の国』(1906年)を発表。50代にして作曲した交響曲第1番(1908年)とヴァイオリン協奏曲(1910年)は、瞬く間に成功を収めることとなった。ただし、交響曲第2番(1911年)、チェロ協奏曲(1919年)の聴衆からの当初の反応は芳しくなく、イギリスのオーケストラの演奏会レパートリーとして定位置を占めるに至るには何年もの歳月を費やした。それでも、これらの作品や交響的習作『フォルスタッフ』(1913年)といった傑作を次々と作曲したエルガーは、名実共に英国楽壇の重鎮となる。

1904年3月、ロイヤル・オペラ・ハウスにおいて3日間にわたってエルガー作品を取り上げた音楽祭が開催された。これはイングランドの作曲家には初めて与えられた栄誉であった。タイムズ紙の評には次のようにある。「4、5年前に、もしイングランド人のオラトリオを聴くためにオペラ・ハウスが床から天井までの超満員になると予言した人がいたとしたら、おそらくその人は正気ではないと思われたことだろう[52]。」国王エドワード7世とアレクサンドラ妃は、リヒターが『ゲロンティアスの夢』を指揮した初日の演奏会に出席し[52]、オラトリオ『使徒たち』のロンドン初演[注 14]が行われた2日目にも再び訪れた[53]。音楽祭の最終日にはエルガー自身の指揮により、『カラクタクス』からの抜粋と歌曲集『海の絵』全曲(クララ・バットの歌唱)を除くと、主に管弦楽曲が披露された。演奏された楽曲は『フロワサール』、『エニグマ変奏曲』、『コケイン』、『威風堂々』の最初の2曲(当時は第2番までが作曲されていた)、そしてイタリアでの休暇から着想を得て書かれた新作の序曲『南国にて』の初演であった[54]。

1904年7月5日、バッキンガム宮殿においてエルガーはナイトに叙された[55]。翌月には彼は家族と共にPlâs Gwynに移り住んだ[56]。家はヘレフォードの郊外でワイ川を見下ろす大きな邸宅であり、一家は1911年までそこに留まった[1]。1902年から1914年までの間エルガーは、ケネディの言葉を借りるならば人気の絶頂にあった[1]。彼は4度アメリカへと渡っており、そのうちの1回は指揮を行って自作の演奏により多額の報酬を受け取っていた。1905年から1908年にかけて、彼はバーミンガム大学で音楽のペイトン教授(Peyton Professor)を務めた[2]。いち作曲家が音楽学校を率いるべきではないと考えていたエルガーは、この職をしぶしぶ引き受けていた[57]。彼はこの役職でいることに心落ち着かず[58]、彼の講義は論争の火種となった。ひとつの原因には彼が批評家に対してやり返したことがあり[59][注 15]、また一方では彼が概してイングランドの音楽に攻撃的だったことが挙げられる。「低俗性はやがては洗練されるだろう。低俗性はしばしば創造性と共にあるものなのだ(中略)しかし、凡庸な精神はどうしても凡庸でしかない。あるイングランド人が君を美しく調和の取れた大きな部屋へと連れて行き、君にこれは白だ - どこもかしこも白だ -と告げる。そして誰かがこう言うのだ。『なんと優雅な趣なのでしょうか。』君は自分の心、魂でこう感じるのだ。それは全く趣などではない、趣不足ではないか、言い訳に過ぎない。イングランドの音楽は白い。そして言い訳ばかりしている。」彼は論争について後悔し、1908年には友人のグランヴィル・バントックに喜んでこの役職を引き継いだ[62]。彼の著名人としての新生活は極度に神経質なエルガーにとって悲喜こもごもなものとなり、私生活を侵害されるなどして彼はしばしば体調を崩した。彼は1903年にイェーガーに宛ててこう不満を漏らしている。「私の暮らしは自分の些細な楽しみを諦めることの連続だ[63]。」ウィリアム・S・ギルバートとトーマス・ハーディはこの10年間にエルガーとの合作の機会を欲していた。エルガーはこれを拒絶したが、もしジョージ・バーナード・ショーにその気があれば彼と共同制作を行っていたと思われる[64]。


1905年のエルガーの主要作品はイェール大学の教授だったサミュエル・サンフォードに捧げられた『序奏とアレグロ』である。この年、自作を指揮すべくアメリカを訪れたエルガーはイェール大学より博士号を授与された[2][注 16]。次なるエルガーの大規模作品は『使徒たち』の続編となるオラトリオ『神の国』(1906年)であった。この曲の評判は上々だったものの『ゲロンティアスの夢』のように大衆の想像力を射止めることはできず、またその状況は変えられなかった。しかしながら、熱心なエルガーファンの中には、『神の国』をそれまでの作品よりも好む者もいた。エルガーの友人であったレオ・フランク・シュスターは若きエイドリアン・ボールトにこう述べている。「『神の国』に比較すると『ゲロンティアス』はまだ青いアマチュアの作品だ[65]。」50歳の誕生日が迫りつつあったエルガーは、初めての交響曲に着手した。構想自体は約10年来彼の心にあり、様々な形式が模索されていた[66]。こうして完成した交響曲第1番は国内外で大きな成功を収めた。初演から数週間の間にニューヨークでウォルター・ダムロッシュ、ウィーンでフェルディナント・レーヴェ、サンクトペテルブルクでアレクサンドル・ジロティ、ライプツィヒでアルトゥル・ニキシュがこの曲を振っている。さらにローマ、シカゴ、ボストン、トロント及びイギリス国内の50都市でも演奏された。わずか1年の間に交響曲第1番のイギリス、アメリカ、ヨーロッパでの演奏回数は100回に到達したのであった[67]。

1910年のヴァイオリン協奏曲は、当時を代表するヴァイオリニストであったフリッツ・クライスラーからの委嘱によって作曲された。エルガーが作業に取り組んだのは1910年の夏季であり、ロンドン交響楽団を率いていたウィリアム・ヘンリー・リードが時おり技術的な側面から助言を与えた。リードが著した伝記『私の知るエルガー Elgar As I Knew Him』(1936年)には、エルガーの作曲法の詳細が数多く記されている[68]。初演はロイヤル・フィルハーモニック協会によって催され、クライスラーの独奏、作曲者自身の指揮、ロンドン交響楽団によって演奏された。リードの述懐にはこうある。「協奏曲は完全なる勝利を証明した。コンサートは輝かしく忘れ得ぬものとなった[69]。」この協奏曲が与えた衝撃は大きく、クライスラーのライバルであったウジェーヌ・イザイは多くの時間をエルガーと共に過ごし、曲を調べ上げた。契約上の理由からロンドンでの曲の演奏ができないとわかり、イザイは大きな失望を味わうこととなった[69]。

ヴァイオリン協奏曲はエルガーが大衆的な成功を収めた最後の作品となる。翌年に交響曲第2番をロンドンで披露したエルガーであったが、曲の評判に落胆することとなる。燃えるようなオーケストラの輝きに終わる第1交響曲とは異なり、第2番は静かに、瞑想的に幕切れを迎える。初演に立ち会ったリードが後年記したところによると、エルガーは拍手を受けるために何度か舞台へと呼び出されたが、「ヴァイオリン協奏曲や第1交響曲の終演後に見られたような、聴衆、イングランド人の聴衆さえもがすっかり沸き立ち興奮を顕わにするという、紛れもない様子は見られなかった[70]。」エルガーはリードに「彼らはいったいどうしたというだ、ビリー。皆、腹一杯になったブタのように座っているではないか。」と尋ねた[70]。この作品は初演から3年間で27回演奏され、一般的な基準で見れば成功と言えるだろうが、第1交響曲のような世界的な「大騒ぎ」には至らなかったのである[71]。


最後の主要作品群
1911年6月、ジョージ5世の戴冠に伴う祝典の一環として、エルガーにメリット勲章が授けられた[72]。これは同時に24人までしか保持できない栄誉ある勲章である。翌年、ロンドンへと戻ってきたエルガー一家はリチャード・ノーマン・ショウのデザインによるハムステッド、ネザーホール・ガーデンズ(Netherhall Gardens)の大きな邸宅に住むようになった。ここで戦前期最後となる2つの主要作品、合唱頌歌『ミュージック・メイカーズ』(1912年のバーミンガム音楽祭のため)、交響的習作『フォルスタッフ』(1913年のリーズ音楽祭のため)が書き上げられた。両曲とも慇懃な評価を受けたが、そこに熱狂を見出すことは出来なかった。『フォルスタッフ』の被献呈者である指揮者のランドン・ロナルドですら、内輪には自らが「曲を理解[73]」できないと告白していた。一方、音楽学者のパーシー・シュールズ(Percy Scholes)は『フォルスタッフ』に関して、「偉大な作品」であるが「大衆の評価による限り、相対的に失敗作である[74]。」と記した。

第一次世界大戦が勃発すると、大虐殺の予感に恐れ慄いていたエルガーの心の内には愛国的な感情が湧きあがっていた[75]。彼は『兵士へ寄せる歌 A Song for Soldiers』を作曲したが、これは後になってしまいこんでしまう。彼は地元警察の特別巡査として署名し、その後陸軍のハンプステッド・ボランティア予備隊に加わっている[76]。こうした中で生まれた愛国的作品群の『カリヨン』は語り手による朗読と管弦楽によるベルギーを讃えた作品[77]、『ポローニア』はポーランドを讃える管弦楽曲である[78]。『希望と栄光の国』は既に人気であったが、さらにその勢いは高まりを見せていた。エルガーは愛国的感情を少くした歌詞を曲に合わせて歌えるよう新たに付けたいと考えていたが、この案は日の目を見なかった[2]。

戦時期にエルガーが作曲したその他の作品は児童演劇への付随音楽『スターライト・エクスプレス』(1915年)、バレエ音楽『真紅の扇』(1917年)、そしてローレンス・ビニョンの詩「フォー・ザ・フォーレン」による『イングランドの精神』(1915年-1917年)であり、これは彼のそれまでのロマン的な愛国的性格とは質を異にする3つの合唱音楽である[2]。戦中最後の大規模作品はラドヤード・キップリングの韻文へ作曲した『The Fringes of the Fleet』である。曲は国中で大きな人気を博したが、やがてキップリングは理由を明らかにしないまま劇場での同曲の演奏に異を唱えるようになった[79]。エルガーは自ら指揮棒を執り、グラモフォン社(Gramophone)にこの作品の録音を遺している[80]。

大戦が終結へ向かう頃、エルガーは健康を損ねていた。彼の妻は郊外へ移り住むことが夫にとって最善の策であると考え、画家のレックス・ヴィキャット・コール(英語版)からウェスト・サセックスのフィトルワース(英語版)近くにある屋敷、「ブリンクウェルズ Brinkwells」を借り受けた。ここに1918年から1919年まで滞在して健康を回復させたエルガーは、4つの大規模作品を書き上げる。その最初の3作品は室内楽曲のヴァイオリンソナタ ホ短調、ピアノ五重奏曲 イ短調、弦楽四重奏曲 ホ短調である。作品の制作途上で、アリスは日記にこう書き記している。「E. 素敵な新しい音楽を書いている[81]。」これら3作品の評判は上々であった。タイムズ紙は次のような論評を掲載した。「エルガーのソナタは他の楽曲形式で我々が耳にしたことのあるものを多分に含んでいるが、我々は彼に変わって欲しいとも他の誰かになって欲しいとも全く考えていないのだから、それはあるべき姿なのである[82]。」四重奏曲と五重奏曲は1919年5月21日にウィグモア・ホールで初演を迎えている。マンチェスター・ガーディアン紙は次のように評した。「この四重奏曲は途方もないクライマックス、舞踏のリズムの興味深い洗練、完璧な対称性を備えており、五重奏曲はより抒情的かつ情熱的で、両曲ともそうした形式による偉大なオラトリオにも引けを取ることのない理想的な室内楽曲の見本である[83]。」


対して、残る1曲であるチェロ協奏曲 ホ短調の初演は1919年10月にロンドン交響楽団の1919年-1920年シーズンの開幕コンサートを飾ったが、惨憺たる結果に終わった。演奏会においてエルガー作品のみ作曲者自身が指揮棒を握り、それ以外の楽曲はアルバート・コーツが指揮を行った。彼はリハーサルの時間を超過してエルガーの持ち時間を使い込んだ。エルガー夫人はこう記している。「あの冷酷で自己中心的なマナーの悪いがさつ者(中略)あの冷酷なコーツがリハーサルをし続けていた[84]。」オブザーバー紙のアーネスト・ニューマン(英語版)は次のように書いた。「不適切なリハーサルの1週間に関する噂が囁かれている。どう説明をしたとしても、かつてあれほどの立派なオーケストラがこうも嘆かわしい姿を見せることなど十中八九なかっただろう、という哀れな現実が残る。(中略)作品自体は愛らしい素材から成り、非常に簡素であるが - その含蓄に富む簡潔さはこの2年にエルガーの音楽に現れてきたものである - その簡素さの下には深遠な知恵と美が隠されている[85]。」エルガーは初演のソリストを務めたフェリックス・サルモンドを責めることはせず、サルモンドは彼のために後日もう一度演奏を行った[86]。約1年余りで100回の演奏に恵まれた第1交響曲とは対照的に、チェロ協奏曲はその後1年以上にわたってロンドンで再演されることはなかった[87]。


晩年
1920年代に入るとエルガー作品はもはや流行の音楽ではなくなっていたものの[1]、高い名声を勝ち得た彼の作品は機会さえあれば取り上げられ続けていた。リードはそうした中で1920年3月に行われた第2交響曲の演奏会を取り上げている。指揮をしたのは「一般にはほとんど知られていない若者」のエイドリアン・ボールトで、彼はより多くの聴衆へ向かって「作品の雄大さと崇高さ」を届けた。1920年にはさらに、ランドン・ロナルドによってエルガー作品のみの演奏会がクイーンズ・ホール(英語版)で催されている[88]。アリス・エルガーは交響曲が熱狂を巻き起こしたと書き残しているが、彼女が公の場で夫の作品が演奏されるのを耳にしたのは、この時を含めてあと数回だけだった[89]。1920年4月7日、72歳の彼女は肺がんに倒れ、短い闘病の後にこの世を去ったのである[90]。

1920年、夫人アリスの死去とともに創作意欲を落とすが1923年以降は徐々に作曲活動を再開する。晩年のエルガーの音楽は、専らイギリスの聴衆を訴求の対象としているとみなされるようになっていく。劇音楽『アーサー王』(1923年)、劇音楽『達男ブランメル』(散逸、メヌエットのみ知られる。1928年)、ブラスバンドのための『セヴァーン川組曲』(1930年)、組曲『子供部屋』(1931年)といった作品を手がける。最晩年には交響曲第3番、歌劇『スペインの貴婦人』、ピアノ協奏曲といった大作に次々と着手するが、いずれも未完成のまま1934年2月23日、大腸がんのため死去した。最後の完成作品は愛犬をモチーフにした小品『ミーナ(Mina)』[91](1933年)だった。

妻を失ったエルガーは途方に暮れた[86]。世間からは新作を期待する声もなく、妻からもたらされていた絶えざる献身と霊感を失った彼は、つい作曲から遠ざかりがちになる。彼の娘による後年の記述によれば、エルガーは父親譲りの性質で「腰を据えて仕事に向かい続け」たがらず、「必要性が皆無で全く無意味な作業をして何時間も楽しげに過ごすことができた」といい、この傾向はアリスの死後ますます顕著になった[92]。彼は残りの人生の大半をいくつかの道楽に耽って過ごした[1]。生涯を通じて熱心に化学を趣味としていた彼は、時おり裏庭の実験室を使っていた[93]。サッカーファンでもあった彼の贔屓はウルヴァーハンプトン・ワンダラーズFCで、このチームのために祝歌『He Banged the Leather for Goal』を作曲するほどであった[94]。また晩年には競馬にも足しげく通っていた。エルガーが目をかけていた指揮者のマルコム・サージェントとヴァイオリニストのユーディ・メニューインは共に、リハーサルに出席した彼が万事良好としてさっさと納得し、競馬場へと消える姿を思い出している[95][96]。また、若い頃には熱心な自転車乗りだったエルガーは1903年に自分と妻のためにロイヤル・サンビーム(Royal Sunbeam)の自転車を購入している(「ミスター・フォイボス」と名付けていた)[97]。老いて独り身となったエルガーは、お抱え運転手の運転による田舎でのドライブを楽しんだ[1]。1923年の11月から12月にかけてブラジルを訪問した彼はアマゾンやマナウスを巡り、マナウスではオペラ・ハウスのテアトロ・アマゾナス(英語版)に感銘を受けた。旅行中のエルガーの行動や出来事に関する記録はほとんど残っていないが、それが故に小説家のジェームズ・ハミルトン=パターソン(英語版)がこの旅行を基にしたフィクション作品『ゲロンティアス』を執筆するにあたって、創作の余地が多分に残されていたことになる[98]。


アリスの死後、ハンプステッドの家を引き払ったエルガーはロンドン中心部のセント・ジェームズ(英語版)の集合住宅に一時身を置いた後、ウスターシャーへと戻って1923年から1927年までケンプシー(Kempsey)の村落で暮らした[99]。この時期には作曲の筆を執ることもあった彼は、バッハやヘンデルの作品の大規模な管弦楽編曲を制作した他、1924年の大英帝国博覧会(英語版)に向けて『イギリス帝国行進曲』と『Pageant of Empire』を作曲している[100]。これら作品の出版後まもない1924年5月13日、彼は死去したウォルター・パラットの後任として国王の音楽師範に任用された[101]。

1926年以降、エルガーは自作曲の一連の録音を手掛けている。音楽ライターのロバート・フィリップが「真面目に蓄音機を手に取った初めての作曲家」と評するように[102]、エルガーは1914年からグラモフォン社(HMV)の初期アコースティック録音で数々の自作曲を録音していたが、1925年に電気式のマイクロフォンが登場すると、蓄音機はただの目新しいメディアから管弦楽や合唱音楽を再現する現実的なメディアへと様変わりした[102]。エルガーはこの技術的進歩を最大限に活用した最初の作曲家だったのである[102]。HMVでエルガーの録音を監修したフレッド・ガイズバーグは、主要管弦楽作品における作曲者自身の解釈を遺すべく録音セッションを組んだ。そこには『エニグマ変奏曲』、『フォルスタッフ』、第1、第2交響曲、チェロ、ヴァイオリン協奏曲などが含まれる。これらの大半はロンドン交響楽団による演奏であったが、『エニグマ変奏曲』はロイヤル・アルバート・ホール管弦楽団が担当した。この一連の録音の後半で、エルガーはボールトのBBC交響楽団とトーマス・ビーチャムのロンドン・フィルハーモニー管弦楽団という、2つの新たに設立されたオーケストラも指揮している。


エルガーの録音はHMVとRCAビクターから78回転のディスクとしてリリースされた。第二次世界大戦後、1932年に10代のメニューインをソリストに迎えたヴァイオリン協奏曲の録音は78回転及びその後出されたLPレコードとして入手可能であったが、他の録音はしばらくカタログから姿を消していた。1970年代にそれらがEMIから再発売されると、エルガーの死後長い間多くの指揮者が採用してきたゆったりしたテンポとは対照的な、急速なテンポ設定が多くの人々に驚きをもたらした[102]。これら録音群は1990年代にCDとして再度刊行されている[103]。

1931年、ロンドンにEMIのアビー・ロード・スタジオが開設されたことに伴う『威風堂々第1番』の録音セッションに臨むエルガーが、映画会社パテによるニュース映画としてフィルムに収められた。これが現存するエルガーの姿を収めた唯一のまともな映像であると考えられている。エルガーはロンドン交響楽団の指揮を始める前に「これまでにこの曲を聴いたことがないかのように演奏」して欲しいと楽団員たちに語りかけている[104]。アビー・ロードには1993年6月24日にエルガーを記念する銘板が取り付けられた[105]。


リトル・マルヴァーンのカトリック教会にあるエルガーの墓。彼はここで妻のアリスと共に眠っている。
エルガーの晩年の作品である組曲『子供部屋』は、アビー・ロード・スタジオで最初の演奏が行われ、スタジオ初演された初期の楽曲となった。ヨーク公爵の妻子に捧げられたこの楽曲で、エルガーは再び自身の幼少期のスケッチブックを持ち出してきている[2][注 17]。

最晩年になり、エルガーには音楽的再興が訪れていた。1932年にはBBCが75歳の誕生日を祝って彼の作品による音楽祭を催した[106]。またエルガーは1933年には空路パリへ渡り、メニューインを独奏者としてヴァイオリン協奏曲を指揮した。フランス滞在中、彼は作曲家フレデリック・ディーリアスをグレ=シュル=ロワンの彼の自宅に訪ねている[17]。時代遅れとなっても彼の音楽を擁護したエイドリアン・ボールト、マルコム・サージェント、ジョン・バルビローリといった下の世代の音楽家によって、エルガーは見出されたのであった[107][108]。エルガーはオペラ『スペインの貴婦人』に着手するとともに、BBCからの交響曲第3番作曲の委嘱を受諾した。しかしながら、作品の完成は彼の最期の病により阻まれることになる。彼は未完作品のその後を気にかけていた。リードには何人たりとも交響曲のスケッチを「下手に弄」って完成させようとしないようにして欲しいと頼む一方[109]、別の時には「もし私が第3交響曲を完成させられなかったら、誰かが完成させるだろう - もしくはもっといいものを書くだろう。」と述べている[110]。エルガーの死後、パーシー・ヤングがBBC及びエルガーの娘であるキャリスと協力して『スペインの貴婦人』の補筆完成版を制作[111]、CDとして刊行された。第3交響曲は草稿を基に作曲家のアンソニー・ペインが推敲を重ね、1998年に完成版の総譜を世に出している[110]。

1933年10月8日、手術中に除去不可能な大腸がんが発見された[112]。1934年2月23日に76年の生涯を閉じたエルガーは、リトル・マルヴァーン(英語版)のSt. Wulstan's Churchで妻の隣に埋葬された。

音楽

影響、先立つ人物、初期作品
エルガーは民俗音楽を軽んじており[113]、イングランドの初期作曲家にはほとんど興味も敬意も持ち合わせていなかった。ウィリアム・バードやその同時代の作曲家に関しては「博物館の陳列品」と呼んでいた。その後のイングランドの作曲家の中ではヘンリー・パーセルを最高と考えており、また彼はヒューバート・パリーの著作から自らの技術の多くを習得したと語っている[114]。大陸の作曲家のうち、エルガーに最も大きな影響を与えたのはヘンデル、ドヴォルザークであり、ブラームスからもいくらか影響を受けた。彼の半音階技法にはワーグナーの影響が顕著であるが、エルガーの管弦楽法のスタイルは19世紀フランスの作曲家、ベルリオーズ、マスネ、サン=サーンスそしてとりわけドリーブに多くを依っている。エルガーはドリーブの作品をウスターで指揮し、これを大いに称賛していた[113][115]。

エルガーはまだ幼い頃に作曲を開始し、その後生涯を通じてメロディや着想をこの時期に記したスケッチブックに求めていた。たとえ大規模な作品であっても、でたらめに書き殴った主題の断片から曲を組み立てるという習慣は彼の生涯を通じて変わることはなかった[116]。彼の青年期の作品にはヴァイオリンとピアノの楽曲、1878年から1881年の間に兄弟と演奏した管楽五重奏のための楽曲、そしてポウィックの精神科養護施設の楽団のために作曲した様々な形式の楽曲がある。ダイアナ・マクヴェイは『ニューグローヴ世界音楽大事典』の中で、こうした作品にエルガーらしい感覚の萌芽を数多く見出しているが、『愛の挨拶』と数十年を経て『子供の魔法の杖』として編曲された幼少期のスケッチの一部を除くと、初期作品には定期的に演奏される楽曲はほとんどない[2]。1889年から1891年のエルガーのロンドン第1期で特筆される唯一の作品、序曲『フロワサール』はメンデルスゾーンとワーグナーの影響下にあるロマン的ブラヴーラ風の楽曲で、エルガーらしい性格もより前面に出てきている[2]。続くウスターシャーでの期間に書かれた管弦楽曲には『弦楽セレナード』や『3つのバイエルン舞曲』がある。この時期以降、エルガーは歌曲やパートソングも作曲するようになる。ウィリアム・ヘンリー・リードはこれらの作品に対して疑念を表明する一方、男声合唱のためのパートソング『The Snow』と5曲から成るコントラルトと管弦楽のための歌曲集で現在も演奏機会のある『海の絵』については称賛した[117]。

エルガーの初期大規模作品で主要なものは、スリー・クワイアズ・フェスティバル(英語版)やその他音楽祭のために書かれた合唱と管弦楽のための楽曲である。『黒騎士』、『オラフ王の伝説からの情景』、『生命の光』、『聖ジョージの旗』、『カラクタクス』がそうした作品にあたる。ヘレフォード音楽祭のためには『テ・デウム』と『ベネディクトゥス』も書かれている。これらに関して、マクヴェイは贅沢な管弦楽法と斬新なライトモチーフの用法に好意的な評を寄せているが、選ばれた詩の質と着想が一定しないことはさほど前向きに評価していない。マクヴェイが指摘するのは、こうした1890年代の作品群が長年あまり知られてこなかった(現在でも演奏頻度は少ない)ために、エルガーの最初の大成功作である『エニグマ変奏曲』の熟達度が凡人から天才への突然の変容のように映ったが、実のところ、彼の管弦楽技法はこの10年を通じて築き上げられてきたものだったということである[2]。

創作の絶頂期
エルガー作品中、最も知られる作品群が作曲されたのは1899年から1920年までの21年間である。それらの大半は管弦楽作品であった。リードは「エルガーの天分はその管弦楽作品において頂点を極める」と記した上で、オラトリオを書く場合ですらオーケストラパートが最も重要であると語った、作曲者自身の言葉を引用している[118]。『エニグマ変奏曲』によってエルガーはその名を国中に轟かせた。彼にとってこの時期に変奏曲という形式を採用したのは理想的な選択であった。というのも、この頃の彼には広く管弦楽法に長じていながらも、対照的に旋律を短く、時に息詰まるようなフレーズで書く傾向があったからである[2]。続く管弦楽作品である演奏会用序曲『コケイン』(1900年-1901年)、『威風堂々』の第1番と第2番(1901年)、そして柔和な『夢の子供たち』(1902年)はいずれも小規模な作品であった。最長の『コケイン』でも15分未満の演奏時間である。『南国にて』(1903年-1904年)は当初作曲者により演奏会用序曲と銘打たれたものの、マイケル・ケネディによれば実質的に交響詩となっており、エルガーがそれまでに書いた純管弦楽作品の中では連続して演奏される最長の楽曲となった。この曲が書かれたのは交響曲作曲の試みをいったん中断した後のことだった[119]。この作品からは息の長い旋律線と管弦楽の歌わせ方に上達を続けるエルガーの姿が窺われるが、ケネディをはじめとする批評家には中間部に関して次のような指摘をする者もいる。「エルガーのインスピレーションの炎は、その最高の輝きを放ってはいない[120]。」1905年には『序奏とアレグロ』が完成された。この作品は多くの主題を用いてきたそれまでのエルガーの作品とは異なり、主題を3つだけに絞っている。ケネディはこれを「イングランドにおける弦楽合奏のための作品の中では、唯一ヴォーン・ウィリアムズの『トマス・タリスの主題による幻想曲』のみが右に並び得る偉大な楽曲」であると評した[121]。にもかかわらず、15分に満たないこの楽曲は当時の基準では長大な作品とはならなかった。同時期に作曲されたグスタフ・マーラーの交響曲第7番は演奏時間が1時間を超える作品である[注 18]。

しかしながら、次の4年の間にエルガーが作曲した3つの主要な演奏会用楽曲は、大陸で同時代に活躍した一部作曲家の同種作品群に比べれば短いとはいうものの、イングランドの作曲家による同じジャンルの作品としては最も長大な部類に属するものとなる。その作品とはいずれも45分から1時間を要する交響曲第1番、ヴァイオリン協奏曲、交響曲第2番である[注 19]。マクヴェイは2つの交響曲について次のように述べている。「(2つの交響曲は)エルガー作品の中のみならず、イングランドの音楽の歴史においても高く位置づけられる。両曲とも長大で力強く、曲の生気と雄弁さの源となる内的なドラマの存在を示唆する唯一の鍵、そして引用句である曲のプログラムは公表されていない。両曲は古典的形式に依拠しながらも形式から逸脱しており(中略)そのために批評家からは冗長で締まりがないとみなされることもあった。おびただしい数の新たな試みが盛り込まれていることは疑いなく、各交響曲の進歩の過程を図示しようものなら何十曲もの音楽が間に連なることだろう[2]。」


エルガーのヴァイオリン協奏曲とチェロ協奏曲は、ケネディの述べるところでは「彼の最良の作品であるだけにとどまらず、同じ形式の作品中でも最上級もの」である[123]。しかし、この2曲は大きく趣を異にしている。ヴァイオリン協奏曲はエルガー人気が頂点を極めた1909年の作曲で、彼が最も愛する楽器のために書かれており[117]、全編を通して抒情的でありながら狂乱と絢爛が交互に顔を出す[124]。10年経ち、第一次世界大戦終結直後に作曲されたチェロ協奏曲は、ケネディの言によれば「異なる時代、異なる世界に属するもの(中略)エルガーの全主要作品中でも最も簡素であり(中略)また、最も控え目である[125]。」2曲の協奏曲の合間に作曲された交響的習作『フォルスタッフ』に関しては、エルガーを最大限に称賛する人々の意見すら2つに割れる。音楽学者のドナルド・トーヴィーは「シェイクスピアと同等の」力を備えた「音楽の中でも計り知れないほど偉大なもののひとつ」としているが[126]、一方ケネディは作品が「反復進行に依存しすぎ」ており、女性の登場人物を理想的に描き過ぎているとして批判した[127]。また、リードは曲の主要主題にエルガーのそれまでの作品のような特徴が乏しいと考えていた[128]。エルガー自身は『フォルスタッフ』を自らの純管弦楽作品の中でも頂点に位置する楽曲であるとみなしていた[129]。

21年間に及ぶエルガーの創作中期における管弦楽と声楽のための主要作品は、管弦楽、合唱と複数の独唱者のための3つの大規模な楽曲であった。『ゲロンティアスの夢』(1900年)、オラトリオ『使徒たち』(1903年)、『神の国』(1906年)である。またより小規模な2つの頌歌、『戴冠式頌歌』(1902年)と『ミュージック・メイカーズ』(1912年)も書かれている。頌歌のうち前者は戴冠式用に書かれており(pièce d'occasion)、当初は最大の成功作である『希望と栄光の国』と共に成功を収めたものの、その後あまり顧みられていない。後者にはエルガーとしては珍しく、リヒャルト・シュトラウスの『英雄の生涯』同様にいくつかの過去作品からの引用が行われている[130]。合唱作品はいずれも成功を収めたが、現在に至るまで最大の成功作となり最も演奏機会が多いのは1作目の『ゲロンティアスの夢』である[131]。エルガーはジョン・ラスキンを引用し、草稿に次のように記している。「これは私の最高傑作だ。これ以外のものは、誰しもするように食べ、飲み、眠り、愛しては嫌悪しているに過ぎない。私の霞のようだった人生は終わりを告げた。しかし私はこれを見、知った。私のものであるにせよ、これは君の記憶にとどめる価値がある[2]。」これら3つの大規模合唱作品は、全て伝統的な形式に則り、独唱、合唱、そして斉唱の各部分から構成されている。エルガーの管弦楽法は旋律の着想同様に特徴的で、これによって彼の合唱曲群は先立つ大半のイギリスの作品より高いレベルへと引き上げられている[132]。

中期に書かれた作品には、他にジョージ・ムーアとウィリアム・バトラー・イェイツの戯曲への付随音楽『グラニアとディアミド』(1901年)、そしてアルジャーノン・ブラックウッドの小説に基づく戯曲への付随音楽『スターライト・エクスプレス』(1916年)がある。前者に関して、イェイツはエルガーの音楽を「英雄的な陰鬱さが素晴らしい」と評した[133]。さらにこの絶頂期には数多くの歌曲が作曲されているが、リードはこれらについて「彼がオーケストラのレパートリーを拡充したのと同程度に、声楽のレパートリーを増やしたとは言えない」と考えている[117]。

晩年、遺作の補完
チェロ協奏曲以降、エルガーが大規模作品を完成させることはなかった。バッハ、ヘンデル、ショパンらの作品に独特の管弦楽法で編曲を施す一方で[2]、再び幼少期のノートに立ち返り組曲『子供部屋』(1931年)を作曲した。この時期に書かれた作品には、他に定期的に演奏されるようになっている楽曲はない[1]。その後の20世紀の大半を通じて、エルガーの創作衝動は妻の死を境に途絶えてしまったのだと広く考えられてきた。しかし、アンソニー・ペインがエルガーの草稿から交響曲第3番を再構成したことが、この認識を改める契機となる。エルガーは第3交響曲の開始部を管弦楽編曲の完成した状態で残しており、その総譜や他のページからは戦前期の豊かだった頃から大きく姿を変えた彼の管弦楽法が垣間見える。『グラモフォン』誌はこの新作の冒頭について「身の毛のよだつ(中略)忘れがたく痩せ衰えた」ものと表現した[134]。ペインはその後『威風堂々第6番』のスケッチから演奏可能な版を作成し、これは2006年8月のBBCプロムスで初演された[135]。1913年に書かれたピアノ協奏曲の草稿は作曲家のロバート・ウォーカーによる再構成を経て、1997年8月にピアニストのデイヴィッド・オーウェン・ノリスの演奏で初演された。出来上がった作品はその後大きく改訂されている[136]。

評価
エルガーの偉業に対する見方は、彼の音楽が名声を獲得した20世紀の初頭以来の数十年で変遷を遂げてきた。前述の通り、リヒャルト・シュトラウスはエルガーを革新的作曲家であると認めていた。1908年の第1交響曲の主題に感銘を受けなかった敵対的な『オブザーバー』紙の評論家ですら、管弦楽法に関しては「見事に現代的」であるとしている[137]。ハンス・リヒターはエルガーを世界中で「最も偉大な現代作曲家」とみなし、またアルトゥル・ニキシュも第1交響曲を「ベートーヴェンやブラームスの偉大な交響曲の模範と並び位置づけ」られるべき「第1級の傑作」と考えていた[41]。対照的に批評家のウォルター・ジェームズ・ターナー(英語版)は20世紀中盤にエルガーの「救世軍交響曲たち」と書いており[115]、ヘルベルト・フォン・カラヤンは『エニグマ変奏曲』を「中古のブラームス」と呼んでいた[138]。エルガーの絶大な人気は長く続かなかった。第1交響曲とヴァイオリン協奏曲が成功を収めた後、第2交響曲とチェロ協奏曲は好意的に受け止められたが、以前のような激しい熱狂には欠けていた。人々の心には彼の音楽がエドワード朝と軌を一にするもの捉えられており、第一次世界大戦終了後には彼はもはや先進的、もしくは現代的な作曲家とみなされなかったのである。1920年代初頭になると、ロンドンでは第1交響曲でさえ3年のうちわずか1度しか演奏されなかった[1]。ヘンリー・ウッドや若い指揮者のボールト、サージェント、バルビローリらはエルガーの音楽を擁護したが、世紀の半ば頃の録音カタログや演奏会のプログラムには彼の作品はあまり目立たなくなっていた[2][139]。

1924年、音楽学者のエドワード・ジョゼフ・デントはドイツの音楽雑誌に掲載した論文において、イングランドのある一部意見を持つ人々(学究的で上流気取りの人々のことを指している)の感情を害するエルガーのスタイルとして、4つを同定している。「感情的すぎること」、「低俗さがないとはいえないこと」、「気取っていること」そして「表現を意図的に崇高にしすぎていること」の4つである[140]。この論文は1930年に増刷され、議論を巻き起こした[141]。世紀の後半に入ると、少なくともイギリスにおいてはエルガーの音楽に対する関心が再燃する。戦間期に禁欲志向の人々に目の敵とされた特徴は、異なる観点から眺められるようになった。1955年に録音目録として出版されていた『レコード・ガイド』は、エルガーのキャリアが頂点を迎えた時期のエドワード朝の背景について論じている。

自慢げな自信、情動的な俗悪さ、素材の贅沢さ、無味乾燥な建築と高価ながらも醜悪なあらゆる装飾品に現れる無情な俗物根性。こうした大英帝国末期の特徴はエルガーの大規模作品に忠実に反映されており、今日では理解不能になってしまいそうである。しかし、もし彼の音楽の大げさで、お涙頂戴的で、細々としたとした要素を見過ごせなかったとしても、そうしようとする努力は行われるべきである。エルガーの最高傑作には力強く雄弁で、高遠な悲哀が何ページも素晴らしく綴られているのだから。(中略)エルガーの天分を疑うのであればまず聴くべき作品群を挙げる。彼の傑作、最大の規模を誇りおそらく最も深い共感を伴う作品である『ゲロンティアスの夢』、交響的習作『フォルスタッフ』、弦楽合奏のための『序奏とアレグロ』、『エニグマ変奏曲』、そしてヴァイオリン協奏曲である[139]。
1960年代までには、エドワード朝に向けられる目は厳しいものではなくなってきていた。1966年に批評家のフランク・ハウズ(Frank Howes)は、エルガー作品が映し出すのは絢爛、豪奢、血気盛んな生活が放つ最後の閃光であり、それらは第一次世界大戦によって多くが消し去られてしまったのだと記している。ハウズの考えでは、この時代とエルガーの音楽には通ずるところがあるのだが、「作曲家というものはその最高傑作によって後世の人々から評価される権利を与えられている。(中略)エルガーが歴史的に重要なのは、イングランドの音楽に管弦楽法の感覚を与えたこと、エドワード朝の時代に生きるとは如何なる感覚なのかを表現したこと、世界に少なくとも4つの自由な傑作を送り出したこと、そしてそれによってイングランドに音楽国歌としての礼節を取り戻したことである[140]。」


1967年、批評家でアナリストのデイヴィッド・コックスは、エルガーの音楽においてイングランドらしさと思われているものに対して疑念を抱いていた。彼が指摘するのは、エルガーは民謡を毛嫌いして自らの作品に用いることはなく、本質的にドイツ的な語法を選択し、ベルリオーズやグノーといったフランスの作曲家に由来する軽妙さに影響を受けているということである。そこでコックスが問うたのは、いかにすればエルガーが「最もイングランドらしい作曲家」たり得たのかということである。コックスはエルガーの個性にその答えを見出している。それは「彼のみが用いる表現上で極めて重要な部分として、外来の語法を使用できるような個性。そして音楽中に表出された時にはイングランド的となる個性」である[115]。エルガーが受けた影響を変質させるという点については、それ以前にも指摘されていた。1930年のタイムズ紙はこう書いている。「エルガーの第1交響曲が世に出た際、全曲を統一する主要主題が『パルジファル』の聖杯の主題に類似していると示そうとする者があった。(中略)しかし、そうした試みは失敗に終わった。なぜなら、曲を嫌う者を含めた誰もが、それは典型的な『エルガー風』だと即座に認めたからである。一方の聖杯の主題は典型的にワーグナー風である[142]。」エルガーの「イングランドらしさ」については、彼の同僚の作曲家たちがそれを認めている。リヒャルト・シュトラウスとストラヴィンスキーは特にそのことに言及しており[41]、またシベリウスはエルガーを「音楽での純粋なイングランドの性質を擬人化した人物(中略)高潔な性格と生まれながらの貴族」と表現していた[41]。

エルガーを称賛する者の間でも、どの作品を傑作とみなすかについては意見が分かれる。『エニグマ変奏曲』は概して傑作の中に含まれる[143]。『ゲロンティアスの夢』もエルガー愛好家からは高い評価を受けており[144]、またチェロ協奏曲も同様である[144]。ヴァイオリン協奏曲を同じく高く位置づける人も多いが、そうしない者もいる。サックヴィル=ウェストはレコード・ガイドのエルガーの傑作リストからこの曲を除外しており[145]、ダニエル・グレゴリー・メイソンはThe Musical Quarterlyに発表した長大な分析論文において、この協奏曲の第1楽章を「一種の歌謡曲(中略)詩歌の場合と同様に音楽の気高いリズムにとって致命的」であるとして批判した[71]。『フォルスタッフ』に対する見解も分かれる。この曲は一般の聴衆から高い人気を勝ち得たことがなく[146]、ケネディとリードは曲の欠点を突き止めている[147]。対照的に、『ミュージカル・タイムズ』紙上でヴォーン・ウィリアムズの取りまとめにより1957年に行われた、エルガーの生誕100周年記念シンポジウムにおいて、複数の出席者が『フォルスタッフ』を全エルガー作品中の最高傑作とするエリック・ブロムの意見に賛同している[148]。

2つの交響曲に対する評価はさらに明確に分かれる。メイソンは第2番が「リズム労作が明快に過ぎる」として低い評価を与える一方で、第1番は「エルガーの傑作。(中略)偏見を持たぬ学生がいかにこの交響曲の偉大さを否定し得るか、目にすることは難しい」とした[71]。しかしながら、1957年の生誕100周年シンポジウムではエルガーの主導的称賛者からも交響曲の一方、もしくは両方について疑念を表明する者が現れた[148]。同じ年にはロジャー・フィスクがグラモフォン誌にこう書いている。「何らかの理由によりエルガーの2つの交響曲を同じように愛好する人は少ない。両曲には各々擁護者がおり、彼らはもう一方の作品に対してはしばしば少なからぬ退屈を感じている[149]。」批評家のジョン・ワラックは次のように記した。「交響曲として書かれた作品の中に、第1交響曲のアダージョ終結部ほど悲しみを湛えた箇所はない。ホルンとトロンボーンが2度にわたり、全く以て悲痛なフレーズを柔らかく詠唱するのである[150]。」他方、マイケル・ケネディにとってはこの楽章には苦悶なる切望と「苦悩」の欠落が明白で、代わりに「情け深い静寂」によって彩られているという[151]。

長年にわたる評価の変遷がありながらも、エルガーの主要作品は21世紀に入ると全体として、1950年代に黙殺されていた状況から力強く復活を遂げている。1955年のレコード・ガイドが挙げることができたのは、現在入手可能な第1交響曲の録音1種、第2交響曲はゼロ、ヴァイオリン協奏曲1種、チェロ協奏曲2種、『エニグマ変奏曲』1種、『フォルスタッフ』1種、『ゲロンティアスの夢』はゼロだった。その時以来、全主要作品には複数の録音が行われてきた。1995年以降、例えば第1交響曲の録音は30種を超え、『ゲロンティアスの夢』も12種類以上ある[152]。演奏会でも同様に、無視されていた時期が終わり、エルガー作品は再び頻繁に取り上げられるようになった。エルガー協会のウェブサイト、演奏予定一覧内に、ヨーロッパ、北アメリカ、オーストラリアで組まれているエルガー作品の演奏日程がまとめられている[153]。

人物
エルガーはしばしば典型的なイングランドの作曲家であるとみなされるが、主として彼に影響を与えたのはイングランドというよりむしろヨーロッパ大陸であった。自身は音楽面だけに留まらず、社会面でも自らをよそ者だと感じていた。経済的な問題から専門的な音楽教育を受けることができず、独学によって作曲法を修得した彼は、研究者などが主体となる音楽サークルにおいては我流の作曲家だった。プロテスタントのイギリスでは、ローマ・カトリック教徒は疑いの眼差しを向けられる場面もあった。そして、階級意識の強いヴィクトリア朝、エドワード朝のイギリスにあっては、彼は名声を確立して以降ですらも自らの卑しい出自には過敏になっていた。

にもかかわらず、彼が妻として迎えたのはイギリス軍上級士官の娘で、ピアノの教え子だったキャロライン・アリス・ロバーツだった。婚約に際しアリスのために作曲した『愛の挨拶』はのちに広く知られるようになる。彼女はエルガーを音楽的、社会的に奮い立たせたが、彼は40代になるまで地元の合唱音楽祭のために作品を委嘱される程度で、成功に恵まれない苦しい時期を過ごす。そこそこの成功を収めた作品がいくらか出た後、ようやく1899年、ハンス・リヒターの指揮により初演された『エニグマ変奏曲』が大成功を収め、イギリス及び外国で瞬く間に人気を獲得する。さらに1900年のオラトリオ『ゲロンティアスの夢』はローマ・カトリックのテクストに基づいていたため聖公会に波紋を広げたが、ドイツ初演が大成功して作曲家リヒャルト・シュトラウスから賞賛されるなど、エルガーの名声はヨーロッパ中に広まった。イギリスやその他各地で主要レパートリーとなった同曲は、現在でもその地位を保ち続けている。一方、彼が後に書いた宗教的合唱曲は上々の評判を得ながらも、レパートリーとして定着するには至っていない。

死後、その評判は低迷を続けていたが、作品の新録音が行われたことに助けられて1960年代からは大きく再興してきている。近年ではイギリス国外でも再び取り上げられるエルガー作品が現れてきているが、最も彼の音楽を享受しているのは母国イギリスの聴衆である。

エルガーはレコード録音に初めて真剣に取り組んだ作曲家とされる。1914年(旧吹込み)以来、エルガーはレコーディング活動にも積極的であった。1925年に新しく開発されたマイクロフォンによる電気吹込みが導入されると、それまでに比べて遥かに正確な音の再現が可能となる。そこで彼は『ゲロンティアスの夢』の抜粋など自身の作品の主だったものを自ら指揮して非常に多く録音しており、演奏家としての活動も注目される。なお1シーズンのみであるが1911年にロンドン交響楽団の首席指揮者に就いている。

政治的には保守主義の立場であった。『威風堂々』はエルガーの遺志により、保守党以外の使用を認められていない。

名誉、受賞、記念史跡
エルガーは1904年にナイトに叙され、1911年にはメリット勲章を受章した。1920年にはベルギーの王冠勲章(Order of the Crown)の十字章を授けられている。1924年に国王の音楽師範に任ぜられると、翌年にはロイヤル・フィルハーモニック協会からゴールド・メダルを授与された。1928年にはロイヤル・ヴィクトリア勲章のナイト・コマンダーを贈られた。1900年から1931年にかけて、エルガーはケンブリッジ、ダラム、リーズ、オックスフォード、イェール、アバディーン、ウェスタン・ペンシルベニア、バーミンガム、ロンドンの各大学から名誉学位を授与されている。また、多数の国外のアカデミーのメンバーとなっており、そうしたものにはローマのサンタ・チェチーリア国立アカデミア、フィレンツェのAccademia del Reale Istituto Musicale、パリの芸術アカデミー、フランス学士院、アメリカ芸術アカデミーが挙げられる。1931年にはウスター、ブロードヒース准男爵となった[154]。1933年にはロイヤル・ヴィクトリア勲章のナイト・グランド・クロスの候補に挙がっている[155]。ケネディの言によれば、彼は貴族階級に「物怖じすることなく売り込んだ」が徒労に終わった[1]。

エルガーが生を受けたロウアー・ブロードヒースの邸宅は現在エルガー生誕地博物館となっており、彼の生涯と作品の展示が行われている。博物館の設立にあたっては1936年にエルガーの娘であるキャリスが協力しており、彼女は1970年に死去した際、遺言によりエルガーの書簡や書類のコレクションの多くを博物館に譲り渡した。また、キャリスはエルガーの手稿譜を音楽大学へと託した。『黒騎士』はトリニティ・ラバン音楽舞踏学院へ、『オラフ王の伝説からの情景』は王立音楽アカデミーへ、『ミュージック・メイカーズ』はバーミンガム大学へ、チェロ協奏曲は王立音楽大学へ、『神の国』はボドリアン図書館へ、そしてその他の原稿は大英図書館へ贈られた[156]。エルガー協会は1951年の創設で、エルガーと彼の作品を専門に扱っている。バーミンガム大学の特別収蔵品にはエルガー自筆の書簡が収められている[157]。

ウスターのハイ・ストリートには大聖堂を臨むようにエルガー像が建てられており、これはかつて彼の父の店があった場所からわずか数ヤードの地点に位置している。他にもローズ・ガラード(英語版)制作の彫像が、マルヴァーン(Malvern)のチャーチ・ストリートの頂上から町を見下ろしている。2005年9月には、町に対する彼の音楽的、並びに他分野での貢献を記念し、ジェマ・ピアソン作の3つ目の彫像がヘレフォード大聖堂(英語版)近くで除幕式を迎えた。これは自転車とたたずむエルガーをイメージしたものである。1999年から2007年初頭までの間、新しいスターリング・ポンド紙幣の20ポンド札にはエルガーの肖像が描かれていた。2007年はエルガー生誕150周年にあたったため、彼の肖像を他へと差し替えることには議論が巻き起こった。2007年からエルガー紙幣は姿を消していき、2010年6月30日に法定通貨ではなくなっている[158]。


イギリス国内にはエルガーにちなんで名付けられた通りが約65あり、6つはヘレフォードシャーとウスターシャーにある[159]。これらのうち11はエルガー・アヴェニューで、1つはマルヴァーン、他もエルガーが住んだヘレフォードのPlâs Gwynの家から近い場所に位置している。アメリカ合衆国、バージニア州のノース・スプリングフィールド(英語版)にある通りと、オーストラリア、メルボルンのボックス・ヒル(Box Hill)にある幹線道も彼にちなんで命名されている。エルガーの栄誉を称えて3つの機関車が彼の名を冠しており[160]、いずれも現存している。一つ目はグレート・ウェスタン鉄道(GWR)のブルドッグ級機関車で、1906年5月に3704番として建造されて以来、1912年12月に3414番に変更、1914年7月に「A. H. Mills」と名付けられ、1932年8月から「Sir Edward Elgar」へと改称された。その後1938年10月に現役を引退している[161]。二つ目はやはりGWRのキャッスル級機関車で、1946年6月に7005番「Lamphey Castle」として建造[162]、1957年8月に「Sir Edward Elgar」へと改称して1964年9月に現役を退いた[163]。三つ目はイギリス国鉄の50形ディーゼル機関車(Class 50)であり、1968年3月にD407番として建造されると1970年代中頃に50007番へと変更、1978年4月に「Hercules」となる[164]。1984年2月25日、この機関車はロンドンのパディントン駅において、当時はバーミンガム市交響楽団の首席指揮者だったサイモン・ラトルによって正式に「Sir Edward Elgar」と命名された[165]。新しいネームプレートが、かつてのGWRを偲ばせる形で特別に掲げられている[159]。


エルガーはその生涯と音楽の両面で『ゲロンティアス』などの小説[98]、また複数の戯曲から影響を受けた。1993年公開のデイヴィッド・パウナル(英語版)による舞台作品『エルガーのロンド Elgar's Rondo』では、死んだアウグスト・イェーガーが幽霊となりエルガーの音楽的発展に助言を与える様が描かれている[166]。パウナルは『エルガーの3番 Elgar's Third』(1994年)と題したラジオ演劇も著している[167]。ラジオ演劇には他にもアリック・ロウ(英語版)作の『ドラベッラ変奏曲 The Dorabella Variation』(2003年)がある[168]。デイヴィッド・ラドキン(英語版)によるBBCテレビPlay for Todayの『Penda's Fen』(1974年)[169]は性と思春期、スパイ、スノッブ根性を扱った作品であるが、そこに背景としてエルガーの音楽、主として『ゲロンティアスの夢』が絡められている。あるシーンでは幽霊となったエルガーが現れ、他言しないようにと命じた上で幼少期の主人公に『エニグマ変奏曲』の秘密を囁く。ケイス・アルドリット作の小説『Elgar on the Journey to Hanley』(1979年)では、エルガーのドーラ・ペニー(後のパウエル夫人、『エニグマ変奏曲』では「ドラベッラ」として描かれている)に対する思慕が描写され、小説では2人が初めて出会った1890年代中頃からヴァイオリン協奏曲が生まれるまでが扱われ、最後にドーラに対するエルガーの愛情はアリス・ステュアート=ウォートリーに取って代わられる[170]。

おそらく、エルガーを描いた作品の中で最もよく知られるのはケン・ラッセル監督による1962年のBBCのテレビ用映画『Elgar』だろう。これはエルガーがまだ多分に時代遅れ扱いを受けていた時期に制作されている。この1時間程度の映画はエルガーが強硬主義で誇大主義の作曲家であるという見方に異を唱え、彼の性格と音楽の田園的で陰気な側面を喚起している[171]。

代表作品

交響曲
交響曲第1番 変イ長調 作品55
交響曲第2番 変ホ長調 作品63
交響曲第3番 ハ短調 作品88(未完成。アンソニー・ペインによる完成稿あり)

管弦楽曲
組曲『子供の魔法の杖』("The Wand of Youth")第1、2番 作品1A,1B (1907年)
ポルカ『ネリー』(Polka "Nelly")
3つの性格的小品(Three Characteristic Pieces) 作品10
マズルカ(Mazurka)
ムーア風セレナード(Serenade Mauresque)
「コントラスツ」(ガヴォット1700-1900)("Contrasts" (The Gavotte 1700-1900))
聖体奉挙(Sursum Corda) 作品11 (ヴァイオリンとピアノの稿あり)
2つの小品(Two Pieces) 作品15 (ヴァイオリンとピアノの稿あり)
「夜の歌」("Chanson de Nuit")
「朝の歌」("Chanson de Matin")
演奏会用序曲『フロワッサール』(Concert Overture "Froissart") 作品19
3つのバイエルン舞曲(Three Bavarian Dances) 作品27 (合唱曲「バイエルンの高地より」から抜粋・管弦楽編曲)
「踊り」("The Dance" Allegro giocoso)
「子守歌」("Lullaby" Moderato)
「射手」("The Marksman" Allegro vivace)
独創主題による変奏曲(『エニグマ(謎)』変奏曲)(Variations on an Original Theme("Enigma")) 作品36
行進曲集『威風堂々』第1-6番(Military Marches "Pomp and Circumstance") 作品39-1 - 6(第6番は未完成。アンソニー・ペインによる完成稿あり)
序曲『コケイン(首都ロンドンにて)』("Cockaigne"("In London Town")) 作品40
劇音楽『グラニアとディアミド』("Grania and Diarmid") 作品42
序曲『南国にて(アラッショ)』("In The South"("Alassio")) 作品50
戴冠式行進曲(Coronation March) 作品65
組曲『インドの王冠』(Suite "The Crown of India") 作品66 (劇音楽からの編曲)
交響的習作『フォルスタッフ』(Symphonic Study "Falstaff") 作品68
『鐘』("Carillon") 作品75
交響的前奏曲『ポローニア』(Symphonic Prelude "Polonia") 作品76
劇音楽『星明かりの急使』("The Starlight Express") 作品78
バレエ曲『真紅の扇』(Ballet "The Sanguine Fan") 作品81
劇音楽『アーサー王』(Incudental music to "King Arthur" (Laurence Binyon))(1923年)
劇音楽『伊達男ブランメル』(Incidental music to "Beau Brummel" (B. P. Matthews))(散逸、メヌエットのみ知られる。1928年)
組曲『セヴァーン川』("Severn Suite")作品87 (ブラス・バンド曲[注 20])
『ミーナ[注 21]』("Mina")(小管弦楽)


弦楽合奏曲
弦楽セレナード ホ短調 作品20
序奏とアレグロ(Introduction and Allegro) 作品47
エレジー(Elegy) 作品58
『ソスピーリ(ため息)』("Sospiri") 作品70 (ヴァイオリンとピアノの稿あり)


協奏曲
ヴァイオリン協奏曲 ロ短調 作品61
ロマンス(Romance) 作品62 (ファゴットと管弦楽のための作品)
チェロ協奏曲 ホ短調 作品85
ピアノ協奏曲 作品90(未完成。ロバート・ウォーカーによる補筆完成稿あり)


室内楽曲
ロマンス(Romance) 作品1 (ヴァイオリンとピアノ)
『愛の挨拶』("Salut d'Amour" ("Liebesgruss")) 作品12 (ヴァイオリンとピアノ[注 22])
『気まぐれ女』("La Capricieuse") 作品17 (ヴァイオリンとピアノ)
ヴァイオリン・ソナタ ホ短調 作品82
弦楽四重奏曲 ホ短調 作品83
ピアノ五重奏曲 イ短調 作品84


器楽曲
ソナティナ ト長調 (1887年、1930年改訂)(ピアノ曲)
オルガン・ソナタ(第1番) ト長調 作品28
演奏会用アレグロ (Concert Allegro) 作品46[注 23](ピアノ曲)


声楽曲
『黒騎士』("The Black Knight") 作品25
合唱曲『バイエルンの高地より』("From the Bavarian Highlands") 作品27
オラトリオ『生命の光』("The Light of Life") 作品29
『オラフ王のサガからの情景』("Scenes from the Saga of King Olaf") 作品30
バラッド『聖ジョージの旗』("The Banner of St. George") 作品33
カンタータ『カラクタクス』("Caractacus") 作品35
連作歌曲集『海の絵』("Sea Pictures") 作品37
オラトリオ『ゲロンティアスの夢』("The Dream of Gerontius") 作品38
『戴冠式頌歌』(Coronation Ode) 作品44
オラトリオ『使徒たち』("The Apostles") 作品49
オラトリオ『神の国』("The Kingdom") 作品51
『ミュージック・メイカーズ』("The Music Makers") 作品69(アルト・合唱・管弦楽のための作品)
『イングランドの精神』("The Spirit of England") 作品80(ソプラノ・テノール・合唱・管弦楽のための作品)


編曲
『国王陛下万歳』 (国歌)
『エルサレム』 (原曲: チャールズ・ヒューバート・パリー)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%BC

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/877.html

[近代史6] エドワード・エルガー 交響曲第1番 変イ長調 作品55
エドワード・エルガー 交響曲第1番 変イ長調 作品55


Edward Elgar "Symphony No 1" Sir Adrian Boult



London Philharmonic Orchestra
IX.1976



Edward Elgar : Symphony No. 1 in A-flat major Op. 55 (1907-08) Live recording



the BBC Symphony Orchestra
Adrian Boult.
Recorded at the Proms in the Royal Albert Hall on 28 July 1976.





Elgar - Symphony n°1 - LPO / Boult 1949



I. Andante, nobilmente e semplice - Allegro 0:00
II. Allegro molto 17:59
III. Adagio 25:00
IV. Lento - Allegro 37:23


London Philharmonic Orchestra
Sir Adrian Boult
Studio recording, London, 26-27.IX & 3.X.1949




▲△▽▼


交響曲第1番変イ長調 作品55は、エドワード・エルガーが1907年から1908年にかけて作曲した交響曲。曲は、初演を指揮したハンス・リヒターに献呈された。


初演と評価
初演は1908年12月3日に、イギリスの都市マンチェスターにあるフリートレードホールで行われた。指揮はハンス・リヒター、演奏はハレ管弦楽団によるものであった。リヒターはこの作品を「当代最高の交響曲」と評したが、一部では構成に否定的だったり、主題の繰り返しがしつこいと指摘する向きもあった。いずれにせよ、初演は大変な反響を呼び、初演から1年で百回あまりも再演された。今日でも、イギリスやアメリカでは頻繁に演奏される。


楽器編成
フルート3(3番フルートはピッコロ持ち替え)、オーボエ2、イングリッシュホルン、クラリネット2、バスクラリネット、ファゴット2、コントラファゴット、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、チューバ、ティンパニ、小太鼓、大太鼓、シンバル、ハープ2、弦五部


構成
4楽章よりなる。曲頭に現れる旋律が循環主題として用いられており、全曲にわたって登場する。これ以外にも第1楽章の第1主題からいくつもの動機が派生していて、全体的に緊密な構成がとられている。またこの曲は変イ長調となっているが、実際に変イ長調であるのは第1楽章の序奏と終結部、第4楽章の終結部のみであり、その他の部分は第1楽章主部がニ短調、第2楽章が嬰ヘ短調、第3楽章がニ長調、第4楽章の序奏と主部がニ短調と、全体的にニ短調交響曲としての性格が強い。演奏時間約55分。


第1楽章 Andante. Nobilmente e semplice − Allegro
序奏つきソナタ形式。序奏は変イ長調・4/4拍子で、この曲のモットーとなる主題がヴィオラと木管楽器に提示される。モットーが全合奏に発展した後、一段落してからアレグロ・2/2拍子の主部へと入る。第1主題はニ短調で闘争的、第2主題はイ短調・6/4拍子の悲しげな旋律である。小結尾では金管が咆哮してクライマックスを築く。再現部の後のコーダはかなり長く、冒頭のモットー主題が静かに回帰する。約19分。


第2楽章 Allegro molto
舞曲楽章に相当する。嬰ヘ短調・1/2拍子。三部形式。主部には忙しく動き回る弦楽器と金管による行進曲調の勇ましい旋律が登場する。中間部は変ロ長調で、木管や独奏ヴァイオリンが楽しげに歌う。次の主部は初めは激しいが次第に雰囲気を落ち着かせていき、次の楽章へと切れ目なく移行する。約7分。


第3楽章 Adagio − Molto espressivo e sostenuto
叙情的な、美しい緩徐楽章。ニ長調、4/8拍子。二部形式。前半部では、典雅な息の長い主題が発展する。最初に現れる旋律は第2楽章冒頭の忙しないフレーズと音の並びが全く同じであるが、ここでは落ち着いた物憂げな旋律になっている。後半部はモットー主題を基にした旋律が現れる。約12分。


第4楽章 Lento − Allegro − Grandioso
序奏つきソナタ形式、ニ短調。序奏ではバスクラリネットによる不穏な導入の後、モットー主題が扱われるが、ファゴット、ついでトロンボーンに新しい印象的な楽想も現れる。駆け上がるようにして始まる主部は強迫的な付点リズムによる第1主題、行進曲風の勇壮な第2主題、序奏の楽想による小結尾主題で構成される。コーダは序奏の導入動機から始まり、変イ長調に達するとモットー主題が全合奏で輝かしく奏される。最後は6/4拍子に転じて加速するように終わる。約12分。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC1%E7%95%AA_(%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%BC)

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/878.html

[近代史6] エドワード・エルガー チェロ協奏曲 ホ短調 作品85
エルガー チェロ協奏曲
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/945.html
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/879.html
[近代史6] エドワード・エルガー 弦楽合奏曲 『ため息』作品70
エドワード・エルガー 弦楽合奏曲 『ため息』作品70


Elgar: Sospiri, Op.70 - Adagio For Strings, Harp And Organ, Op.70




Wiener Philharmoniker
John Eliot Gardiner






Edward Elgar - Sospiri op.70





Bournemouth Sinfonietta
George Hurst (*1926), Dirigent



Edward Elgar, 'Sospiri'



English String Orchestra, William Boughton (dir.).




Elgar - Introduction and Allegro, Serenade for Strings, Elegy, Sospiri (Ct.rc.: Sir John Barbirolli)



Serenade for Strings in E minor, Op. 20
14:03 I. Allegro Piacevole
18:02 II. Larghetto
24:02 III. Allegretto, Come Prima


27:15 Elegy, Op. 58*
31:46 Sospiri, Op. 70*


Sinfonia of London
New Philharmonia Orchestra*
Recorded in 1962, 1966, at London


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『ため息』(伊: Sospiri)作品70は、エドワード・エルガーが作曲した弦楽合奏とハープ(またはピアノ)、オルガン(またはハーモニウム)のための楽曲。第一次世界大戦の開戦直前に作曲された。


エルガーは元々、『愛の挨拶』(仏: Salut d'Amour)と対になるようなヴァイオリンとピアノのための楽曲を作曲し、『愛のため息』(仏: Soupir d'Amour)という表題とすることを構想していた。しかし、作曲の最中に曲がより情熱的なものであることに気付き、イタリア語で「ため息」を意味する『ソスピーリ』(Sospiri)と名付けることにした[1]。


初演は1914年8月15日、ヘンリー・ウッドの指揮によりロンドンのクイーンズ・ホール(英語版)で行われた。曲はエルガーの長年の友人であったヴァイオリニストのウィリアム・ヘンリー・リードへと献呈されている。


楽曲構成


アダージョ 4/4拍子 ニ短調


2小節の導入に続き、第1ヴァイオリンによって物悲しい譜例1の旋律が奏でられる。


譜例1


もう一つの主題は広い音域を行き来する、より熱を帯びたもの(譜例2)。


譜例2


譜例1が1オクターブ低く再現し、最後はピアニッシッシッシモ(pppp)でヘ長調の響きの中に消えるように終わる。


演奏時間は約5分。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9F%E3%82%81%E6%81%AF_(%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%BC)


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銚子の散歩道 2017年06月18日
Sospiri ためいき


仰向けに浮いて。 木立にさえぎられた月空が過ぎていく。 悲しみかすれ、ぼんやりと満ちてくるうれしさ。 仰向けになって小川に流されていく・・・。 狂ったオフィーリアが目の前をゆっくりと流れていく、森の花々にかこまれて・・・。  Study of Opheria不安とあきらめの闇を背に、弦がためらいの旋律を奏し始める。 ラファエル前派の「オフィーリア」が浮かぶ。 


数か月前に聴いて以来、旋律にある毒が耳から離れない。


指揮者の唸り声(装置により聞こえたり聞こえなかったりする)が興醒めだけれど、作品にある魂が圧倒する。 RIMG0168


エルガーにはアリスという近しい友人がいた。 ジョン・エヴァレット・ミレイの娘だと知った。 もちろん彼女のお父さんが描いた「オフィーリア」を知っていたはずだ。
「Sospiri ‐ためいき」は忘れられない佳曲、一度聴いていただきたい。 


この盤はオリジナルの赤黒半円ニッパーレーベルをお勧めします。 切手ニッパーでは情念が薄いのです。


一緒に収録されているエレジーも淡く佳い曲。
http://blog.livedoor.jp/thorens/archives/52275651.html

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/880.html

[近代史4] エルガー 中川隆
2. 中川隆[-16061] koaQ7Jey 2021年10月08日 15:35:00 : OQtwHPKyGw : cy9paXN5QjZ1RGM=[18]
エドワード・エルガー 弦楽合奏曲 『ため息』作品70


Elgar: Sospiri, Op.70 - Adagio For Strings, Harp And Organ, Op.70




Wiener Philharmoniker
John Eliot Gardiner









Edward Elgar - Sospiri op.70









Bournemouth Sinfonietta
George Hurst (*1926), Dirigent




Edward Elgar, 'Sospiri'




English String Orchestra, William Boughton (dir.).






Elgar - Introduction and Allegro, Serenade for Strings, Elegy, Sospiri (Ct.rc.: Sir John Barbirolli)




Serenade for Strings in E minor, Op. 20
14:03 I. Allegro Piacevole
18:02 II. Larghetto
24:02 III. Allegretto, Come Prima

27:15 Elegy, Op. 58*
31:46 Sospiri, Op. 70*

Sinfonia of London
New Philharmonia Orchestra*
Recorded in 1962, 1966, at London


▲△▽▼


『ため息』(伊: Sospiri)作品70は、エドワード・エルガーが作曲した弦楽合奏とハープ(またはピアノ)、オルガン(またはハーモニウム)のための楽曲。第一次世界大戦の開戦直前に作曲された。

エルガーは元々、『愛の挨拶』(仏: Salut d'Amour)と対になるようなヴァイオリンとピアノのための楽曲を作曲し、『愛のため息』(仏: Soupir d'Amour)という表題とすることを構想していた。しかし、作曲の最中に曲がより情熱的なものであることに気付き、イタリア語で「ため息」を意味する『ソスピーリ』(Sospiri)と名付けることにした[1]。

初演は1914年8月15日、ヘンリー・ウッドの指揮によりロンドンのクイーンズ・ホール(英語版)で行われた。曲はエルガーの長年の友人であったヴァイオリニストのウィリアム・ヘンリー・リードへと献呈されている。


楽曲構成

アダージョ 4/4拍子 ニ短調

2小節の導入に続き、第1ヴァイオリンによって物悲しい譜例1の旋律が奏でられる。

譜例1

もう一つの主題は広い音域を行き来する、より熱を帯びたもの(譜例2)。

譜例2

譜例1が1オクターブ低く再現し、最後はピアニッシッシッシモ(pppp)でヘ長調の響きの中に消えるように終わる。

演奏時間は約5分。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9F%E3%82%81%E6%81%AF_(%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%BC)

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/460.html#c2
[近代史6] エドワード・エルガー 『愛の挨拶』作品12
エドワード・エルガー 『愛の挨拶』作品12


Edward Elgar - Salut d'Amour Op.12





Piano: John Lenehan
Violin: Tasmin Little



Itzhak Perlman - Elgar: Salut d'amour for Violin and Piano - Rohan De Silva



Itzhak Perlman, violin
Rohan De Silva, piano
State dinner in honor of Queen Elizabeth II and Prince Philip, Duke of Edinburgh (2007)




Salut d'amour Berliner Philharmoniker Edward Elgar op 12




Edward Elgar - Salut d'amour, Op. 12



From the Annecy Classic Festival 2013
Saint-Petersburg Philharmonic Orchestra
Yuri Temirkanov - conductor



ALDO CICCOLINI PLAYING SALUT D’AMOUR BY EDWARD ELGAR



Aldo Ciccolini, piano




▲△▽▼


『愛の挨拶』(フランス語:Salut d'amour)作品12は、イギリスの作曲家エドワード・エルガーが作曲した楽曲。


1888年にキャロライン・アリス・ロバーツとの婚約記念に贈った曲で、エルガーの作品中では初期のものである。タイトルは当初、ドイツ語を得意としていたアリスのために “Liebesgruss” (意味は同じ)と名付けられたが、出版に際して出版社からフランス語に変更を求められ、“Salut d'amour” としたものである。なお、英語タイトルは "Love's Greeting" という。楽譜の売れ行きは好調だったものの、エルガーには数ポンドの収入しかもたらさなかった。まだ、エルガーは厳しい暮らしだった。


元々エルガーのピアノの生徒であったアリスは8歳年長(当時39歳)であり、宗教の違い(エルガーはカトリック、アリスはプロテスタント)や、当時はまだ無名の作曲家と陸軍少将の娘という身分格差から、アリスの親族は2人の仲を認めなかったため、反対を押し切っての結婚であった。


エルガーはピアノ独奏用、ピアノとヴァイオリン用、小編成の管弦楽などいくつかの版を残した。他にも各種の編曲がなされ、エルガーの作品の中では行進曲『威風堂々』第1番や第4番に並んで有名な部類に入る。優美な曲想が幅広い支持を集めている。


ホ長調、4分の2拍子のシンコペーションで緩やかに始まり、有名な旋律が現れる。中間部はト長調の簡明な展開。すぐにホ長調主題が再現し、コーダで多少高揚があって終結する。


こんにち、日本人演奏家の間でも人気の高い小品の一つである。ヴァイオリン版では、原曲のホ長調(E dur)で演奏される場合は高度な音程技術が要されるため、開放弦を用いる事で技術的に容易となるニ長調(D dur)で演奏される事も多い。チェロ版はニ長調。なお編曲の際にはしばしば移調される。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E3%81%AE%E6%8C%A8%E6%8B%B6

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/881.html

[近代史6] エドワード・エルガー『威風堂々』作品39 第1番 ニ長調
エドワード・エルガー『威風堂々』作品39 第1番 ニ長調


Elgar: Pomp and Circumstance March No. 1 - Scottish National Orchestra/N. Järvi (1987)



Scottish National Orchestra
NEEME JÄRVI, conductor
Recording: Suntory Hall, Tokyo, October 4, 1987




Elgar: "Pomp and Circumstance," Op.39: March, No.1 in D



BBC Symphony Orchestra
Leonard Bernstein



Elgar: "Pomp And Circumstance," Op.39: March, No.1 In D



Elgar: "Pomp And Circumstance," Op.39: March, No.1 In D ·
Philharmonia Orchestra
Giuseppe Sinopoli




エルガー:『威風堂々』 作品39 (スコア付き)



指揮:ゲオルク・ショルティ
管弦楽:ロンドン交響楽団


0:00 行進曲第1番 ニ長調 (1901年作曲)
6:41 行進曲第2番 イ短調 (1901年作曲)
12:33 行進曲第3番 ハ短調 (1904年作曲)
18:29 行進曲第4番 ト長調 (1907年作曲)
23:20 行進曲第5番 ハ長調 (1930年作曲)


エルガーは《威風堂々》(原題:Pomp and Circumstance)という名前をつけた行進曲を6曲作曲います。6曲目はエルガーの死後スケッチのみが見つかり、未完成です。原題 "'Pomp and Circumstance" は、シェイクスピアの戯曲『オセロ』第3幕第3場の台詞からとられており、厳密には日本語の《威風堂々》の意味はありません。




Edward Elgar: Pomp and Circumstance Military Marches, Op. 39
Previn, Royal Philharmonic Orchestra


March No. 1 in D major: Allegro, con molto fuoco - Trio - Tempo I - Più mosso • 6:31
March No. 2 in A minor: Allegro molto - Coda • 9:32
March No. 3 in C minor: Con fuoco - Vivace - Come prima - Cantabile - Cantabile - Tempo I - Vivace - Grandioso - Tempo I - Animato • 15:18
March No. 4 in G major: Allegro marziale - Nobilmente - Grandioso • 20:16
March No. 5 in C major: Vivace - Nobilmente - Poco allargando


https://www.youtube.com/watch?v=Wo_9BbhfGPY

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/882.html

[近代史6] エドワード・エルガー『威風堂々』作品39 第1番 ニ長調 中川隆
1. 中川隆[-16060] koaQ7Jey 2021年10月08日 16:43:37 : OQtwHPKyGw : cy9paXN5QjZ1RGM=[19]
『威風堂々』(Pomp and Circumstance)作品39は、イギリスの作曲家エドワード・エルガーが作曲した管弦楽のための行進曲集。エルガーが完成させたのは5曲であるが、21世紀初頭に未完の第6番が補筆完成されて新たに加えられた。


エルガーが生前に作曲、出版した5曲のうち、第1番から第4番は1901年から1907年にかけて作曲され、第5番は晩年の1930年に作曲された。遺稿から見つかった第6番は未完成であり、アンソニー・ペインによって補筆・完成されたもので知られている。

原題 "'Pomp and Circumstance" は、シェイクスピアの戯曲『オセロ』第3幕第3場の台詞

"Pride, pomp and circumstance of glorious war"
「名誉の戦争には付物の[……]誉れも、飾りも、立派さも」(坪内逍遥訳)

から取られている。pomp とは「壮麗、華麗」、circumstance とは「儀式張った、物々しい」といった意味合いであり、『威風堂々』という題名は名訳ではあるものの相当意訳されている。なお『沙翁全集』第四巻『オセロ』(戸澤正保, 淺野和三郎訳、大日本図書、明治39年)の該当箇所周辺は「錦の御旗や何やかや、威武堂々の軍装束」との訳が見受けられる。

日本では、エルガーの楽曲を指して単に『威風堂々』と言う場合、第1番あるいはその中間部の旋律を指すことが多い。しかし、このタイトルは行進曲集全体に与えられた題名であって、この旋律自体に付けられたものではない。したがって、第1番の中間部をして『威風堂々』と呼ぶことは誤用に近いものがある。イギリスではこの旋律はもっぱら『希望と栄光の国』 (Land of Hope and Glory )と呼ばれている。BBCプロムスなどで第1番に合唱を付けて演奏されるときも『希望と栄光の国』として扱われる。

『希望と栄光の国』は「イギリス第2の国歌」、「イギリス愛国歌」と称されるほど愛されている曲である(詳細は後述)。

演奏時間
第1番:約6分半
第2番:約5分
第3番:約5分
第4番:約5分
第5番:約5分
第6番:約8分


楽曲解説

第1番
Allegro, con molto fuoco – Trio. Largamente – Molto maestoso、ニ長調。1901年に作曲され、同年の10月19日にリヴァプールにてアルフレッド・ロードウォルドの指揮で初演された。エルガーの友人でもあったロードウォルドと、リヴァプールの管弦楽団に捧げられた。

全6曲中、最も広く知られた楽曲である。
初演から3日後の1901年10月22日、ロンドンのクイーンズ・ホール(Queen's Hall)での演奏会では、聴衆が2度にわたるアンコールを求めたことが逸話として伝えられている。

エドワード7世からの「歌詞をつけてほしい」という要望に従い、翌年に国王のための『戴冠式頌歌』(Coronation Ode)を作曲、終曲「希望と栄光の国」(Land of Hope and Glory)にこの行進曲の中間部の旋律を用いた。

この曲は三部形式をとり、序奏(イントロ)の部分に独創的な一捻りがあり、主調であるニ長調に対して変ロ長調(?)で開始され、一段落の後、主調(ニ長調)になり、主部のテーマが弦楽器を中心に演奏され、躍動的な第1主題、第2主題が続く。やがて、テンポがPoco allargando(だんだん遅くしながらだんだん強く)で次第に弛められた後、有名なトリオの旋律が主調の下属調(ト長調)で登場する。やがて、再現部に入り、主題が回帰し第1主題、第2主題が続いた後、トリオの旋律が再現部では主調のまま(ニ長調)で再現され、曲の最後に主部の第1主題が登場して幕を閉じる。


楽器編成
ピッコロ2(第2は任意)、フルート2、オーボエ2、クラリネット2、バス・クラリネット、ファゴット2、コントラファゴット、ホルン4、トランペット2、コルネット2、トロンボーン3、チューバ、ティンパニ、スネアドラム、バスドラム、シンバル、トライアングル、グロッケンシュピール、スレイベル、ハープ2、オルガン、弦五部


第2番
Allegro molto、イ短調。第1番と同じ時期に作曲され、同じコンサートにて初演された。友人のグランヴィル・バントックに献呈されている。

楽器編成
ピッコロ、フルート2、オーボエ2、クラリネット2、バス・クラリネット、ファゴット2、コントラファゴット、ホルン4、トランペット2、コルネット2、トロンボーン3、チューバ、ティンパニ、スネアドラム2(第2は任意)、バスドラム、シンバル、トライアングル、スレイベル、グロッケンシュピール、弦五部


第3番
Con fuoco – Vivace – Cantabile – Grandioso – Animato、ハ短調。1905年に作曲され、同年3月8日、ロンドンのクイーンズホールにて、エルガー自身の指揮により初演された。友人のアイヴァー・アトキンズ(英語版)に献呈されている。

楽器編成
ピッコロ、フルート2、オーボエ2、コーラングレ、クラリネット2、バス・クラリネット、ファゴット3、コントラファゴット、ホルン4、トランペット2、コルネット2、トロンボーン3、チューバ、ティンパニ、スネアドラム、テナードラム、バスドラム、シンバル、弦五部


第4番
Allegro marziale – Nobilmente – Grandioso、ト長調。1907年に作曲され、8月24日、ロンドンのクイーンズホールにて、エルガー自身の指揮により初演された。ヘレフォード出身の友人G・ロバートソン・シンクレアに献呈されている。

楽器編成
フルート3(ピッコロ1持ち替え)、オーボエ2、コーラングレ、クラリネット2、バス・クラリネット、ファゴット2、コントラファゴット、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、チューバ、ティンパニ、スネアドラム、バスドラム、シンバル、ハープ2、弦五部


第5番
Vivace、ハ長調。1930年9月18日、ロンドンのキングズウェイホール(Kingsway Hall)にて、エルガーの指揮でロンドン交響楽団が初演。ヘレフォード出身の友人パーシー・ハル(英語版)に献呈されている。

楽器編成
ピッコロ、フルート2、オーボエ2、コーラングレ、クラリネット2、バス・クラリネット、ファゴット2、コントラファゴット、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、チューバ、ティンパニ、スネアドラム、バスドラム、シンバル、弦五部


第6番(遺作?)
Alla marcia - Vivace - Poco meno mosso - Con spirito - Giocoso - Largamente - Grandioso - Vivace、ト短調。1934年の作曲者の死後、スケッチのみの状態で見つかった未完の作品で、アンソニー・ペイン(交響曲第3番も補筆した)による補筆版がある。補筆は1996年に大英図書館で発見された主要主題を含む草稿と、大英図書館所蔵の手稿譜を元に、2005年から2006年にかけて行われた[1]。

この補筆版の初演は2006年8月2日、第26回BBCプロムスで、アンドルー・デイヴィス指揮のBBC交響楽団によって演奏された。また日本初演は2007年7月8日、第93回東京芸術劇場シリーズで、大友直人指揮の東京交響楽団によって採り上げられた。

楽器編成
ピッコロ、フルート2、オーボエ2、コーラングレ、クラリネット2、バス・クラリネット、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、スネアドラム、バスドラム、シンバル、スレイベル、グロッケンシュピール、弦五部


第1番中間部について
第1番を聴いた当時の王太子アルバート・エドワード(のちのエドワード7世)は、中間部を「歌詞を付けたら偉大な曲になるだろう」と、歌詞をつけるべきことをエルガーに示唆した。エルガーはこの提案を受けて、1902年のエドワード7世の戴冠式のための『戴冠式頌歌』の第6番、終曲「希望と栄光の国」にこの中間部の旋律を用いた(導入部「王が戴冠したまわんことを」("Crown the King")の最後にも使用している)。歌詞はイギリスの詩人アーサー・クリストファー・ベンソン(英語版)による。エドワード7世の虫垂炎により戴冠式が延期されたため、『戴冠式頌歌』の楽譜の刊行と初演が戴冠式の挙行と前後した。楽譜刊行時に世間の好評を得た第6番を版元が独立した曲にするようエルガーに提案し、エルガーが別の曲として書き直し、ベンソンに新たに歌詞をつけさせたものが『希望と栄光の国』である。

現在のイギリスにおいては、国威発揚的な愛国歌かつ第2国歌的な扱いを受け、BBCプロムスなどにおける演奏がBBCで放映される際には、歌曲の最初の部分においてエリザベス2世女王の映像が必ず流されることとなっている。また、『女王陛下万歳』は連合王国国歌として、それとは別のイングランドの独自の国歌の必要性が議論されるとき、イングランド国歌の候補にパリーの『エルサレム』などともに必ず挙げられる曲である。


第1番中間部の使用例等

第1番の中間部は非常に有名であり、オーケストラのコンサートを離れて、イギリスにおいてもさまざまな場面で演奏されたり、多様な編曲がなされている。演奏時に歌詞をつけるときは、「希望と栄光の国」のうち2番が歌われるケースがほとんどである。また、サッカーの応援に歌われるケースもこれに倣っている。

そもそも「大英帝国を称える歌」であるにも拘らず、何もわからずにイギリス連邦と全く関係ない他国の広告どころか、他国の政党の広告や軍隊の演奏にすら使用されるケースもある。

イギリス国内
『戴冠式頌歌』の『希望と栄光の国』の部分はエドワード7世からエリザベス2世(エリザベス2世のときは歌詞の中の"king"は"queen"に変更された)まで挙行された戴冠式すべてで演奏された。またジョージ5世在位35年記念祭でも演奏された。
イギリス保守党党大会の最終日の党員の退場のBGM(他党での使用は認められていない。これはエルガーの遺志による)。
サッカーイングランド代表のサポーターが試合の合間に応援のために歌う。
ベイ・シティ・ローラーズ:コンサートの開演時にメンバー登場のBGMとして使用。
映画では「ブラス!」のラストシーンなどの例がある。
空飛ぶモンティ・パイソンの第二シリーズ最終話のオープニング曲としても使われた。
レインボーのコンサートでは、開演の直前にこの曲がBGMとして流れる。この曲に続けて映画「オズの魔法使」のジュディ・ガーランドのセリフが流れ、開演になる。
アメリカ合衆国
元イギリスの植民地であったアメリカでは、学校の卒業式で「卒業生入場」の際にBGMとして使用されている。1905年にエルガーがイェール大学の音楽博士号を授与されて以来、同大学の卒業式で使用されたのが広まった。在校生の吹奏楽部員(小学校ではリコーダー合奏)によって生演奏が行なわれることが多い。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A8%81%E9%A2%A8%E5%A0%82%E3%80%85_(%E8%A1%8C%E9%80%B2%E6%9B%B2)
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/882.html#c1

[近代史5] 韓国は政府から庶民まで借金漬け 中川隆
1. 中川隆[-16059] koaQ7Jey 2021年10月08日 16:53:23 : OQtwHPKyGw : cy9paXN5QjZ1RGM=[21]

2021年10月08日
借金王国韓国、借金で投資ブームに政府が警告

韓国人は楽して稼げるとして借金で不動産や株式投資をしている。
結末がどうなるか分かり切っている

画像引用:https://weekly-economist.mainichi.jp/articles/20210406/se1/00m/020/025000c 韓国:高騰続く韓国マンション価格 文在寅政権の対応後手に=金明中 _ 週刊エコノミスト Online

借金成長モデルは限界点

韓国人は借金好きで家計負債は世界一多く、最近は借金で投資する人が多いと伝わっていました。

それがどうやら限度を超えたようで、若者の投資負債が3兆円を超えたと報道されています。

韓国メディアによると10代から30代の信用取引融資が、21年上半期に38兆7000億ウォン(約3兆6400億円)に達した。

信用取引では証券金融会社から融資を受ける事で、手持ち資金の3倍などの投資をします。

韓国の金融監督院は21年9月、借金による投資である信用取引の危険性について、「消費者警報」を発令した。

金監院によると信用取引が急増したのはコロナ流行が始まった2020年春、失業者が副業として始めた。


政府の経済支援策によって銀行は金利を引き下げ融資審査を緩くしたので、誰でもお金を借りるようになった。

韓国では土地が値上がりする土地神話が有効なので、借金で土地を購入する人が多い。

コロナによって意外にも世界で株価が上昇したので、借金で株式投資する人も急増した。


特に若者は借金や投資への抵抗感が少なく「働かずに高収入を得られる」と考えて投資する人が多い。

こういう人はアメリカにも多く、トランプ政権は国民平均100万円もの給付金を配ったので、若者は借金でビットコインや株投資をした。

こんなのは明らかにバブル景気で崩壊するしかないのだが、熱狂している本人は気づかないのがバブルです。

韓国借金バブルの崩壊が近い

韓国という国自体が借金で成り立っていて、日米欧から借金して借金の金利以上に経済成長する国家モデルです。

それがアジア通貨危機で行き詰ったのが1997年の国家破産とIMFによる国家差し押さえでした。

その後はまた借金以上の経済成長を回復し、最近までは歯車がうまく回っていました。


2020年に韓国は李氏朝鮮以来150年ぶりに人口減少し、コロナの影響もあってGDPもマイナスになった。

GDP減少は一時的要因だが人口減少はずっと前から予兆があり、20年の出生率は0.84でした。

2021年の出生率は0.7台になると見られていて、7月までの出生数(15万9千人)は前年比5500人減少している


2015年12月以降、前年より出生数が増えたことが一度もない状況で、これでは借金以上の経済成長は難しい。

韓国の成長率は今後1%前後が定着し、かなり困難な時代を迎えるでしょう。

すると今借金で投資している人たちはどうなるかと言うと、おそらく身ぐるみ剥がされます


古来からあらゆる大投資家は「借金で投資する」愚を説き、借金で投資しても絶対に勝てないと言っています

https://www.thutmosev.com/archives/86891834.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1066.html#c1

[番外地9] 財政出動政策は日本経済を破滅させる 中川隆
1. 中川隆[-16058] koaQ7Jey 2021年10月08日 17:25:47 : OQtwHPKyGw : cy9paXN5QjZ1RGM=[22]
財政出動政策は日本経済を破滅させる
2022年、オイルショック級の物価上昇が日本と世界を襲う=吉田繁治
20年間のディスインフレで、「茹でカエルの反対の冷えカエル」になった頭には、石油危機のときのようなインフレへのイマジネーションがない。事実、高市早苗候補は、2022年からの経済予想がないままに、150兆円規模の、量的緩和を政策として掲げているのです。

20年間の「ディスインフレ」が一変する
21世紀の20年は、世界的なディスインフレの時代でした。通貨が下落した国で輸入物価が上がり、インフレになるだけだったのです。

ディスインフレとは、価格が下がるデフレではなく、物価上昇が0%から1%付近と低い経済の状態を言います。米国の物価上昇もコロナ前は1%台と低かった。

この世界的な原因は、中国とアジアでの、出荷価格3分の1くらいの商品生産が増えたことです。この生産量は、世界の50%に増えているでしょう。中国とアジアは内需主導型ではなく、輸出主導型経済です。

たとえばマレーシアのGDPに占める輸出額は、69%と、異常なくらい高い。日米欧のメーカーが、工場を作って、現地人を雇用し、輸出しているからです。部品は他国から調達します。

中国と東南アジアの産業構造がこれです。約20年で、世界中に、網の目のサプライチェーン物流網が築かれたのです。

通信はインターネットとスマホ、物流はコンテナ。世界中で国内の価格が上がると、中国・アジア輸入が有利になるので、2000年代の20年間、企業が価格を上げることができないディスインフレの経済構造になっていたのです。


コロナ禍で世界のサプライチェーンはズタズタに壊れました。コンテナ便の運賃は異常な上昇をみせており、2022年にはすべての商品にインフレが及ぶと思われます。私たちは1970年代に起きたオイル・ショック級のインフレを覚悟しないといけないでしょう。


21世紀の世界の産業は、部品と製品のサプライチェーンで深く結ばれています。「近代国家の枠を超えるサプライチェーン」が、21世紀の産業の構造変化でした。

産業、つまり製造と小売・流通が、国際サプライチェーンに変わったのです。人的なサービス業のみが国内産業となりました。

国際サプライチェーンでの部品・商品調達と、生産の障害になったのが、今回のコロナ危機です。

日本の企業の多くは、東南アジアと中国で生産しています。SONYやパナソニックのAV機器も、多くが中国製造です。米欧の企業も同じです。中国の工業は世界の約40%の商品は生産しています。

コンテナ便の料金は6.6倍に高騰
サプライチェーンの物流は国際コンテナ便に依存します。

料金は、2020年の1月は2,420ドルでしたが、2021年の1月は5,250ドル(58万円:へと3倍に上がっています。21年7月は更に上がっていて1万3,630ドルです(150万円:20年1月の5.6倍の料金:上海〜NY:EAST BOUND:20ftの標準コンテナ)。上海からNYまで25万円というのが、通り相場の常識でしたが、今はその5.6倍です。

2020年1月:2420ドル → 7月:2,760ドル → 12月:4,100ドル →
2021年1月:5,250ドル → 7月:1万3,630ドル……
※参考:主要航路コンテナ運賃動向 – 日本海事センター

当初、コロナによる一時的な上昇かと思っていました。

しかし2021年7月には5.6倍に上がり、下がる気配がない。世界のコンテナ便の料金が同じ傾向です(※筆者注:原油のタンカー便は上がっていません。洋上備蓄が多くなっているためです)。

なぜ運賃上昇?
なぜ商品や部品を混載するコンテナ便の非常な高騰が続いているのか。

国内物流、出荷港、そして船舶に、コロナでの低操業と休業が増えたために、便が足りなくなったからです。

NYのコンテナ港(NJ州セコーカス)には、運ばれないコンテナが山積みです。2020年の11月から現在まで、9か月続いています。

船会社の利益は上がった。しかし、運航する便数は減った。

国際物流費の異常な高騰は、2022年の世界の物価上昇(製造物価の上昇)を先行して示しています。
2021年の12月からは、より大きなサプライチェーンの停止、つまり物流と生産の縮小になる可能性が高い。

これは大戦のとき以外には起こったことのない、「供給ショック」です。

平時に、需要に対して供給が下回る事態が長期化すれば、「石油危機並みの物価上昇」に帰結します。


2022年のインフレ予想
経済の未来は、複雑であり確率的なものです。2021年冬にコロナ第6波が起こると、2022年の「高いインフレ率(20%か?)」となる確率は高まるでしょう。

過去のように、戦争で工場が破壊された後のハイパーインフレまでは行かないでしょう。しかし石油危機(1973年と79年)並みのインフレは、相当な確率(70%)で想定できるでしょう。

コンテナ料金の長期高騰(事実)は、インフレに6か月先行する指標になるものです。世界のエコノミストは、国際コンテナ料金の長期高騰に気がついていません。

インフレの本質は、物価上昇の形をとった「過剰になった信用通貨の価値の下落(マネーサプライの残高 × 流通速度 = マネー量)」です。

相対的な、通貨ペアのレートでは信用通貨の価値下落はわからない(ドル/円)。両方が下がれば同じレートだからです。通貨価値の下落は高騰した物価との関係で分かります。

今回は、戦争ではない。コロナ危機による、アジアの工場と国際物流の休業です。すでに、戦争のときのような「供給ショック」になっています。

輸入物価の30%上昇は、商品原価の高騰であり、長期化すれば、時間をおいて約15%の店頭物価の上昇になって行きます。

わが国の次期首相は、2022年から「長期化するサプライチェーン供給ショックによるインフレ」と戦うことになります。インフレは、経済学的には、市場の期待金利を上げます。国債価格の買いの価格が下るということです。

市場の金利上昇(国債価格の下落)のなかで、日銀のマネー絞りを行わねばならず、2022年の株価は下がり、リーマン危機より大きな金融危機に直面する可能性が高いでしょう(推計70%)。損な役割です。

20年間のディスインフレで、「茹でカエルの反対の冷えカエル」になった頭には、石油危機のときのようなインフレへのイマジネーションがない。事実、高市早苗候補は、2022年からの経済予想がないままに、150兆円規模の、量的緩和を政策として掲げているのです。


MMT論者も大西つねきさんを少し位は見習ったら
大西つねきがやろうとしていること
https://www.youtube.com/watch?v=Z0aesmYcl0U  
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/849.html#c1

[近代史6] エドワード・エルガー『独創主題による変奏曲(エニグマ変奏曲)』作品36
エドワード・エルガー『独創主題による変奏曲(エニグマ変奏曲)』作品36


Elgar conducts Elgar - Enigma Variations op.36



Royal Albert Hall Orchestra 1926



Elgar: Enigma Variations (Boult LSO 1970)



Theme: Enigma: Andante (0:00)
Variation I: L'istesso tempo "C.A.E." (1:21)
Variation II: Allegro "H.D.S-P." (3:14)
Variation III: Allegretto "R.B.T." (4:00)
Variation IV: Allegro di molto "W.M.B." (5:28)
Variation V: Moderato "R.P.A." (5:56)
Variation VI: Andantino "Ysobel" (7:50)
Variation VII: Presto "Troyte" (9:02)
Variation VIII: Allegretto "W.N." (9:57)
Variation IX: Adagio "Nimrod" (11:41)
Variation X: Intermezzo: Allegretto "Dorabella" (15:35)
Variation XI: Allegro di molto "G.R.S." (18:31)
Variation XII: Andante "B.G.N." (19:30)
Variation XIII: Romanza: Moderato "* * *" (21:51)
Variation XIV: Finale: Allegro "E.D.U." (24:25)


Conductor: Adrian Boult
Orchestra: London Symphony Orchestra
Date: 1970




Elgar - Enigma Variations, Nemrod / Pomp and Circumstance, March (Cent.rec.: Sir John Barbirolli)



00:00 Theme
01:37 Variation I : C.A.E.
03:16 Variation II : H.D.S.-P
04:05 Variation III : R.B.T.
05:33 Variation IV : W.M.B.
06:04 Variation V : R.P.A.
08:19 Variation VI : YSOBEL
09:36 Variation VII : TROYTE
10:40 Variation VIII : W.N.
12:27 Variation IX : NIMROD
16:01 Variation X : DORABELLA
18:25 Variation XI : G.R.S.
19:24 Variation XII : B.G.N.
22:17 Variation XIII : ***
25:01 Variation XIV : E.D.U.


Pomp and Circumstance Op.39
30:33 March No.1 in D Major, Op.39-1
37:12 March No.4 in G Major, Op.39-4


The Philharmonia Orchestra
Sir John Barbirolli
Recorded in 1962, at London




Edward Elgar's Enigma Variations | BBC Symphony Orchestra, Leonard Bernstein



00:00 Theme (Andante)
01:56 Variation I. (L'istesso tempo) "C.A.E."
04:09 Variation II. (Allegro) "H.D.S.- P."
04:56 Variation III. (Allegretto) "R.B.T."
06:19 Variation IV. (Allegro di molto) "W.M.B."
06:49 Variation V. (Moderato) "R.P.A."
09:07 Variation VI. (Andantino) "Ysobel"
10:27 Variation VII. (Presto) "Troyte"
11:22 Variation VIII. (Allegretto) "W.N."
13:29 Variation IX. (Adagio) "Nimrod" - http://youtu.be/iPlW4pAFMOM
19:05 Variation X. (Intermezzo : Allegretto) "Dorabella"
22:14 Variation XI. (Allegro di molto) "G.R.S."
23:22 Variation XII. (Andante) "B.G.N."
26:45 Variation XIII. (Romanza: Moderato) "* * *"
29:51 Variation XIV. (Finale: Allegro - Presto) "E.D.U."


BBC Symphony Orchestra
Leonard Bernstein.
Live Broadcast, 1984




▲△▽▼


『独創主題による変奏曲』(英語: Variations on an Original Theme for orchestra)、通称『エニグマ変奏曲』または『謎の変奏曲』(英語: Enigma Variations)作品36は、エドワード・エルガーが作曲した管弦楽のための変奏曲である。


『エニグマ変奏曲』というタイトルは通称であり、正式名を『独創主題による変奏曲』(Variations on an Original Theme for orchestra)という。出版に際して「エニグマ」(Enigma)を付記することをエルガーも認めた。本作品は「描かれた友人たち (My friends pictured within)」に献呈されている。


1898年から1899年にかけて作曲され、1899年にロンドンで初演された。この作品の成功によって、エルガーの名前は世界的に知られるようになった。


『愛の挨拶』、行進曲『威風堂々』第1番・第4番やチェロ協奏曲 ホ短調と並んでエルガーの代表作品の一つであり、管弦楽のために作曲された単独の変奏曲のうちでは、ブラームスの『ハイドンの主題による変奏曲』や、ラフマニノフの『パガニーニの主題による狂詩曲』と並んで重要でもある。


なお、この変奏曲は管弦楽曲として知られるが、エルガー自身によるピアノ独奏版もある。


作曲
『エニグマ変奏曲』の作曲のきっかけは、1898年10月21日[1]、ヴァイオリンのレッスンを終えて帰宅したエルガーが、夕食後にピアノで何気なく思いついた旋律を弾いているときであった。即興的な旋律の1つが妻キャロライン・アリスの注意を惹き、「気に入ったのでもう1度繰り返して弾いてほしい」と頼まれた。エルガーは妻を喜ばせるために、その主題に基づいて、友人たちを思い浮かべながら「あの人だったら、こんな風に弾くだろう」と即興的に変奏を弾き始めた。これを管弦楽曲に膨らませたものが『エニグマ変奏曲』となった。その作曲過程について、アリスは「きっと、今までに誰もやらなかったこと (Surely [...] something that has never been done before[1])」と述べている。


10月24日、エルガーは批評家のアウグスト・イェーガー(第9変奏“Nimrod” に描かれた親友)への手紙で『変奏曲』に触れ、イェーガーを Nimrod として描いていることを伝えた。 11月1日、エルガーは少なくとも6つの変奏を完成させてドラ・ペニー (第10変奏“Dorabella”に描かれた友人)に聞かせた。また翌1899年の1月5日にはピアノ曲としてのスコアを完成させ、「この変奏曲を気に入っている (I say — those variations [—] I like ’em.)[1]」との言葉と共にイェーガーに送った。その後、2月5日から19日までの2週間で管弦楽曲として完成させた。


初演
初演は1899年6月19日、ロンドンのセント・ジェームズ・ホールでハンス・リヒターの指揮により行われた。この初演は大成功を収め、エルガーの作曲家としての名声を大いに高めた。初演について、チャールズ・ヒューバート・パリーは次のように述べた:


They [the Variations] are indeed a brilliant success, and will bring the old country as well as yourself honour wherever they are heard.
— [2]


類似の先行作品
上述の通り、エルガー夫妻は、本作品について、過去に類を見ない試みだと考えていた。 しかし、実際には、類似したアイデアの作品は既に存在していた。 たとえば、人格描写を試みた変奏曲という点では、本作品の1年前に初演されたリヒャルト・シュトラウスの『ドン・キホーテ——大管弦楽のための騎士的な性格の主題による幻想的変奏曲』や、ロベルト・シューマンの『謝肉祭』が挙げられる。 また、管弦楽のための変奏曲としては、アントニン・ドヴォルザークの作品や、チャールズ・ヒューバート・パリーの『交響的変奏曲』が挙げられる。[1]


「エニグマ」の通称について
エルガーは自筆譜のスコアに“Variations on an Original Theme for Orchestra”とのみ記しており、“Enigma”はイエーガーが後に鉛筆で書き加えたものである。


エルガー自身も“Enigma”の名称を使っていたものの、作品全体ではなく、主題(より狭い意味では主題の前半部のみ)を指して“Enigma”と呼んでいた。 その根拠は次の二点である。。第一に、自筆譜において本来ならば“Theme”と書かれるべき箇所に、その代わりに“Enigma”と書かれている。また、第二に、エルガーやイエーガーが本作品を一時期“Enigma and Variations” (こんにち一般的に呼ばれている “Enigma Variations”ではないことに注意されたい)と呼んでいたと示唆する書簡が存在する[3]。


「謎」(エニグマ)について
「エニグマ」とはギリシア語で、「なぞなぞ」「謎かけ」「謎解き」といった意味である。 この変奏曲には2つのエニグマが込められているという。 第1のエニグマは「この変奏曲は、主題とは別の、作品中に現われない謎の主題も使われている」というエルガーの発言に基づいている。ストコフスキーは、作曲者が自身に語った言葉として「この曲の主題には、エロティックな意味が隠されている」とも証言している。 「謎の主題」の意味を旋律であると解釈するなら、この謎は今も解けてはいない。 第2のエニグマは各変奏に付けられたイニシャルや略称などの該当人物であり、謎解きはすでにほぼ完了している。 各変奏は、親しい友人たちへの真心のこもった肖像画となっており、この変奏曲は「作品中に描かれた友人たち」に献呈されている。


「謎の主題」の謎解き
エルガーはピアノロールに記録したピアノ版の『エニグマ変奏曲』に、簡単な解説を寄せている。その解説には「すべての変奏の基盤となっている、もう1つの聞き取ることのできない主題が存在する」と記述している。本人曰く、


The Enigma I will not explain —— its ‘dark saying’ must be left unguessed, and I warn you that the apparent connexion between the Variations and the Theme is often of the slightest texture; further, through and over the whole set another and larger theme ‘goes’ but is not played ... So the principal Theme never appears [...].[1]


その謎については説明しまい。その「陰の声」については想像できないようにしておこう。 諸君に警告しておくが、変奏と主題の明らかなつながりは、しばしば、ごくわずかなテクスチュアの問題でしかない。 もっと言えば、曲集全体を、もう1つのより大きな主題が貫いているのだが、それは演奏されないのである。 (中略)かくて基本主題は、その後の展開においてさえ、決して登場せず、(中略)その主要な性格は決して表舞台には出てこない。


エルガーは「隠された主題」がそれ自体、有名な旋律の変奏であるとも仄めかしている。仮説はいろいろ立ったものの、完全に合点がつくような謎解きはいまだに1つも出されていない。英国国歌『国王陛下万歳』とする説、スコットランド民謡『オールド・ラング・サイン』(蛍の光)であるとする説、『エニグマ変奏曲』の初演コンサートで一緒に演奏されたモーツァルトの『交響曲第38番「プラハ」』がそうだとする説、などである。[要出典]


こんにち有力な仮説は、「ルール・ブリタニア」の歌詞 “never, never, never” に該当する部分であるとする説である[要出典]。その楽句は、主題の最初の5音にはっきりと聞き取れるし、エルガー自身の記述にも、それを仄めかすような言葉、とりわけ「かくて基本主題は」以下の「決して……ない」(never)を繰り返すくだり、が見受けられるからである。


「作品中に描かれた友人たち」の謎解き
前述の通り、該当人物はほぼ特定されている。ただし第13変奏の(***)のみが依然未解明のままである(後述)。


描かれた友人たちについて
本作品には、エルガー自身と妻アリスを含めるならば14人の「友人」たちが描かれているが、エルガーは何らの明確な基準をもって彼らを選んだわけではない。もとより、エルガーに自らの交友関係を余すところなく描く意図はなかった。


描かれた友人の多くはアマチュア音楽家であり、職業音楽家は教会オルガニストの G.R.S. ただ一人である。その彼さえ、音楽家としては描かれておらず、彼の飼い犬に関連して描かれているにすぎない。もっとも、エルガーは最初から私的な友人たちに限った作曲を意図していたわけではなく、アイヴァー・アトキンスやニコラス・キルバーン、そしてパリーといった作曲家たちをも描こうと試みていた。しかしながら、エルガーは彼らの音楽性を自身の『変奏曲』に調和させて取り込むことに苦心したようで、結局、彼らのための変奏は下書きさえも作曲されることはなかった。


自身も変奏に描かれたドラ・ペニーは、描かれた友人たちについて、次のように述べている:


The friends were chosen, not because he [Elgar] had any particularly great regard for each one, but because the thought of them gave him ideas which could be described in music.
エルガーが(変奏曲に描かれた)友人たちを選んだのは、彼らに特別な好意を抱いていたからではない。エルガーが彼らについて考えることで、音楽によって描写できるような着想を得たからである。



楽器編成


フルート2(ピッコロ1持ち替え)
オーボエ2
クラリネット2
ファゴット2
コントラファゴット
ホルン4
トランペット3
トロンボーン3
テューバ
ティンパニ(3台)
小太鼓、トライアングル、大太鼓、シンバル
オルガン(使用任意)
弦五部


楽曲構成
演奏時間はおおよそ30分前後である。


二部形式による主題に、14の変奏が続く。変奏は主題の旋律線や和声、リズム的要素から飛躍し、最終変奏は大団円を作り出す。エルガーは、各変奏の譜面に、あたかも副題であるかのように、下記のような頭文字や愛称を記入した。これが、「作品中に描かれた友人たち」が誰であるのかを解く手懸かりとなった。


主題
ト短調、アンダンテ、4分の4拍子。


この楽章は、主題から切れ目なく演奏される。 実は、この変奏は、神秘的かつ優雅であってほしいと私が望んだ部分を主題に追加して、主題を延長したものである。 C.A.E. を知る人は、この変奏が彼女を表していると理解するだろう。 彼女の人生は、神秘的かつ優雅に、私の創作意欲を刺激したものだった。[6]


ト短調、リステッソ・テンポ、4分の4拍子。


作曲者の愛妻キャロライン・アリス・エルガー(Caroline Alice Elgar)の頭文字。


Hew David Steuart-Powellは、有名なアマチュアのピアニストで、室内楽の名手だった。 彼は、B.G.N.(チェロ)と作曲者(ヴァイオリン)と、長年一緒に室内楽を演奏していた。 彼がピアノを弾く前に鍵盤の上で指を滑らせる、特徴ある全音階の動きが、16分音符のパッセージによって滑稽に描写されている。 トッカータを連想させるけれども、H.D.S.-P.の好みに反して半音階的なパッセージである。[6]


ト短調、アレグロ、8分の3拍子。


ピアニストのヒュー・デイヴィッド・ステュアート=パウエル(Hew David Stuart-Powell)。エルガーとともに室内楽を演奏した。歯切れのよい跳躍的な旋律は、彼が指慣らしにピアノに触れる様子を描いている。


Richard Baxter Townshend.彼の著作 (“A Tenderfoot in Colorado”) は、今やたいへん有名である。 ときどき“ソプラノの”声色に変わる低い声が、アマチュア劇団の中で老紳士を演じているR.B.T.を連想させる。 オーボエは主題を幾分元気よく演奏する。そして、ファゴットの気難しいうなり声もまた重要である。[6]


ト長調、アレグレット、8分の3拍子。


リチャード・バクスター・タウンゼンド(Richard Baxter Townsend)。アマチュアの俳優・パントマイマー。声質や声域を自在に変えることが得意で、それが音楽にも反映されている。


第4変奏 "W.M.B."


土地の名士、紳士であり学者でもあった。 大勢の客人のために馬車を調達するのは、こんにちの自動車の時代よりもずっと大変なことだった。 この変奏は、彼が手に紙切れを持ち、力強くその日の予定を読み上げ、急いで音楽室を去り、不用意に音を立ててドアを閉める様子を描いている。 15‒24小節目は、客人たちのからかうような態度を連想させる。[6]


ト短調、アレグロ・ディ・モルト、4分の3拍子。


グロスタシャー州ハスフィールドの地主で、ストークオントレントの開基に寄与したウィリアム・ミース・ベイカー(William Meath Baker)のこと。とても精力的な人間だったので、変奏もトゥッティによる激しい雰囲気をもっている。


第5変奏 "R.P.A."


Richard P. Arnold. 彼はMatthew Arnoldの息子で、独学でピアノを弾くのを大変好んでいた。 難所は弾かないけれども、不思議と真の感情を思い起こさせる音楽だった。彼のまじめな会話は、気まぐれで冗談めいた物言いによって、ひっきりなしに中断されるのであった。 主題は低音群によって厳粛に演奏される。その後に続く主部では、管楽器が気軽な冗談を演奏する。[6]


ハ短調、モデラート、8分の12拍子(4分の4拍子)。


ピアニストのリチャード・P・アーノルド(Richard P. Arnold)、大詩人マシュー・アーノルドの息子。


第6変奏 "Ysobel" (イソベル)


モルヴァーンの淑女。彼女はヴィオラを習っていた。 最初の小節の、この変奏を通じて用いられているフレーズが、移弦の“練習曲”であることに気づくだろう。 それは、初心者にとっては難しい練習である。哀愁漂う、時に神秘的なこの変奏は、このフレーズにもとづいて形作られている。[6]


ハ長調、アンダンティーノ、2分の3拍子。


スペイン語風のイソベルとは、エルガーがヴィオラの愛弟子イザベル・フィットン(Isabel Fitton)に付けた愛称。第6変奏でヴィオラ独奏が活躍するのはこのためである。


第7変奏 "Troyte" (トロイト)


モルヴァーンの有名な建築家。この変奏は荒々しい印象だが、これは冗談である。 不器用にピアノを弾こうとする彼の姿からは、打楽器と低弦の無骨なリズムが実に連想された。 その後、ピアノの先生(E.E.)による、混沌から秩序のようなものを作り上げようとする試みが、強いリズムによって描かれる。 そして、最後の絶望したような「バタン」という音は、その努力が無駄になったことを示している。[6]


ハ長調、プレスト、1分の1拍子。


建築家アーサー・トロイト・グリフィス(Arthur Troyte Griffiths)のこと。ピアノを弾こうと頑張ったが、なかなか上達しなかったらしい。不向きなことに熱を上げるグリフィスの姿が描かれている。


第8変奏 "W.N."


この楽章は、18世紀のある一家から連想された。 静かにゆっくりと、淑女たちの優雅な性格が描かれている。 Winifred Norbury は、家族の誰よりも音楽とのつながりが深かった。 そのため、楽章の最初には彼女の名前が記されている。彼女の特徴的な笑い声が描写されているのも、その所以である。[6]


ト長調、アレグレット、8分の6拍子。


ウィニフレッド・ノーベリー(Winifred Norbury)。エルガーからのんびり屋と見なされていたので、かなり打ち解けた雰囲気で描かれている。変奏の結びにおいて、ヴァイオリンの1音が、次の変奏に向けて引き伸ばされている。


第9変奏 "Nimrod" (ニムロッド)


「ニムロッド」は私がJaegerにつけたあだ名である。 Jaegerは批評家として、そして音楽家たちの友として、よく知られていた。 この変奏曲は、すべてが“肖像”であるわけではない。 いくつかの変奏は雰囲気だけを表しているし、またいくつかのものは、描かれた人と作曲者の2人だけが知る出来事を描写している。 もしA. J. Jaegerの人格と気質を描写しようとすれば、このゆったりした第9変奏に加えて、何か情熱的で気まぐれなものが必要になっただろう。


夕方の散歩をしながら、Jaegerは「緩徐楽章に関して、全盛期のベートーヴェンに匹敵する者はいないだろう」と言った。 私はその意見に心から賛成していた。 この変奏の最初の小節が、ピアノソナタ第8番『悲愴』の緩徐楽章を暗示するように作曲されていることに気づくだろう。 Jaegerは長年の親友であり、私や他の多くの音楽家たちにとっての大切な助言者であるとともに、厳しい批評家であった。 Jaegerと同じ立場に立った人はいても、Jaegerに匹敵する人はいなかったのだ。[6]


変ホ長調、アダージョ、4分の3拍子。


アンコール・ピースとして単独で演奏されることもあり非常に有名な部分である。「ニムロッド」とは、楽譜出版社ノヴェロに勤めるドイツ生まれのアウグスト・イェーガー(August Jaeger, 英語式にはオーガスタス・イェイガー)にエルガーが付けた愛称。ふつう英語の「ニムロッド」は、旧約聖書に登場する狩の名手「ニムロデ」を指すが、この愛称は、ドイツ語の “イェーガー” (Jäger)が「狩人」や「狙撃手」に通ずることにちなんでいる。エルガーは第9変奏において、イェーガーの気高い人柄を自分が感じたままに描き出そうとしただけでなく、2人で散策しながらベートーヴェンについて論じ合った一夜の雰囲気をも描き出そうとしたらしい。また、この曲の旋律は2人が大好きだったというベートーヴェンのピアノソナタ第8番「悲愴」の第2楽章の旋律が下敷きになっている。


11月11日の戦没者追悼記念式典では「ニムロッド」の演奏がささげられる。
本作の中でも第9変奏は、前述のように単独で演奏されることが多く、独立させた編曲も多い。イギリスでは11月11日のリメンバランス・デーにおいて、ザ・セノタフ(戦没者追悼記念碑)の前で戦没者を追悼するために王立軍楽隊によって必ず演奏される[7]。これはグスターヴ・ホルストのコラール『我は汝に誓う、我が祖国よ』と同様の扱いである。しかし本作は愛国主義、追悼といった意図はない。このように作者の意図によらず葬送、追悼の場面に使用されることから、イギリスの音楽家ビル・マクグフィンは『ニムロッド』をアメリカにおけるバーバーの『弦楽のためのアダージョ』になぞらえている。2012年ロンドンオリンピックの開会式に際してもイザムバード・キングダム・ブルネルが『テンペスト』の一説を朗詠する場面で、BGMとして使用された。ギリシャ国立管弦楽団が廃止になった時に最後に演奏された曲も『ニムロッド』であった。


第10変奏「間奏曲」 "Dorabella" (ドラベッラ)


間奏曲。この別名は、モーツァルトの“Cosi fan tutte”から採用されたものだ。 この楽章は、妖精のような軽さをもった踊りを連想させる。 はじめはヴィオラ、のちにフルートによって演奏される中間部の息の長いフレーズは重要である。DorabellaはDora Pennyであった。[6]


ト長調、アレグレット、4分の3拍子。


ドラベッラ(きれいなドラ)とは、ドーラ・ペニー(Dora Penny)の愛称。ウィリアム・ベイカー(第4変奏)の義理の姪で、リチャード・タウンゼンド(第3変奏)の義理の姉妹にあたる。木管楽器は彼女の滑舌や笑い声の模倣であるとされる。


George Robertson Sinclair, 音楽学博士、Hereford大聖堂の今は亡きオルガニスト。 だが、この変奏はオルガンとも聖堂とも関係がないし、直接的にはG.R.S.とも関係がない。 最初の数小節は、彼が飼っていたあの有名な大きなブルドッグのダンが川に落ちて(1小節目)、陸に上がれる場所を探してバタバタと進み(2, 3小節目)、陸に上がって喜んで吠えた(5小節目の後半)という出来事から連想された。 G.R.S.は「この光景を音楽にしてくれ」と言った。そうしてこの楽章ができた。[6]


ト短調、アレグロ・ディ・モルト、2分の2拍子。


ヘレフォード大聖堂のオルガニスト、ジョージ・ロバートソン・シンクレア(George Robertson Sinclair)のことであるが、音楽に描かれているのはシンクレアの飼い犬ダン(Dan)である。このブルドッグはワイ川に飛び込んだことがある。


第12変奏 "B.G.N."


Basil G. Nevinsonは、名の知れたアマチュアのチェロ奏者で、H.D.S.-P.および筆者(ヴァイオリン)と一緒に多くの3重奏を演奏していた。 真剣で、熱心な友人だった。 この変奏は大親友への素朴な追悼である。 彼は、科学や芸術への造詣が深く、その知識を友人たちに惜しみなく与えてくれるので、筆者は彼をたいへん慕っていた。[6]


ト短調、アンダンテ、4分の4拍子。


ベイジル・G・ネヴィンソン(Basil G. Nevinson)は当時の著名なチェリスト。このためチェロが主旋律を奏でる。後にネヴィンソンに触発されて、エルガーは自作のチェロ協奏曲を作曲することになる。


第13変奏「ロマンツァ」 "* * *"


アスタリスクは、作曲当時に航海に出ていた女性の名前を置き換えるものとみなされている。 太鼓は遠く離れた定期船のエンジンの振動を連想させる。その上でクラリネットがメンデルスゾーンの『静かな海と楽しい航海』のフレーズを引用する。[6]


ト長調、モデラート、4分の3拍子。


文字で示されていないため人物を特定することは困難で、今なお真相は解明されていない。メンデルスゾーンの演奏会用序曲『静かな海と楽しい航海』からの引用楽句が含まれることから、当時オーストラリア大陸に向かって旅立ったレディ・メアリー・ライゴン(Lady Mary Lygon)のことか、もしくはかつてのエルガーの婚約者で、1884年にニュージーランドに移民したヘレン・ウィーヴァー(Helen Weaver)のいずれではないかと推測されている。


終曲。いわゆる力強さと活気をもって書かれている。 作曲当時、友人たちは私の音楽的な将来について懐疑的であり、私を失望させていた。 そのため、この“変奏”は、‘E.D.U.’(筆者の愛称をもじったもの)の意図したことを示しているに過ぎない。 終曲は、作曲者の人生と芸術へ偉大な影響を与えた第1変奏(C.A.E.)と第9変奏(Nimrod)を引用している。 これらの引用は、この作品の意図に申し分なく適うものである。 主題が長調で輝かしく大らかに提示され、作品全体が総括される。[6]


ト長調、アレグロ・プレスト、2分の2拍子。


エルガー自身。E.D.U.はすなわち「エドゥー」(Edu)に通じ、これはアリス夫人がエルガーを呼ぶときの愛称であった。第1変奏と第9変奏の余響が聞き取れる。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%8B%E3%82%B0%E3%83%9E%E5%A4%89%E5%A5%8F%E6%9B%B2

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/883.html

[近代史6] エドワード・エルガー『威風堂々』作品39 第1番 ニ長調 中川隆
2. 中川隆[-16057] koaQ7Jey 2021年10月08日 18:40:22 : OQtwHPKyGw : cy9paXN5QjZ1RGM=[23]

ラトル

Elgar: Pomp and Circumstance / Rattle · Berliner Philharmoniker




Simon Rattle, conductor
Berliner Philharmoniker

Recorded at the Berlin Waldbühne, 24 June 2018.
The Berliner Philharmoniker's Digital Concert Hall:

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/882.html#c2
[近代史4] 「間接民主制」の起源 中川隆
2. 中川隆[-16056] koaQ7Jey 2021年10月08日 19:25:40 : OQtwHPKyGw : cy9paXN5QjZ1RGM=[25]
自民党総裁選挙の党員投票から見えてくる「直接民主制」の危険性 [三橋TV第453回]三橋貴明・高家望愛
2021/10/08



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1705.html#c2
[番外地9] 30万人殺害は長江デルタ 南京大虐殺で英記者電報
南京城内の人口が20万人で、80万人減少というのは長江デルタ地域全体の話だよ:
被害者30万人というのは事件直後の欧米人の最も信頼できる調査の結果で、電報で世界中に発信された:
30万人殺害は長江デルタ 南京大虐殺で英記者電報
【ロンドン21日共同】1937年12月中旬に始まった旧日本軍による南京大虐殺から65年。当時、「長江(揚子江)デルタで市民30万人以上が虐殺された」と上海から打電しようとし、日本人検閲官に差し止められた英紙記者の電報記事コピーを21日までに共同通信が入手した。

犠牲者数について、中国側の公式見解は南京だけで30万人とするが、日本では数千人−20万人など諸説ある。

電報では、犠牲者「30万人以上」は、南京だけではなく、上海なども含む長江デルタ地域全体の数字として記されていることが確認された。

電報は38年1月16日付。書いたのは英マンチェスター・ガーディアン(現ガーディアン)紙の中国特派員ハロルド・ティンパリー記者(54年死去)。 電報のコピーは、英中部マンチェスター大学のジョン・ライランズ図書館書庫に保管されていた。

2002/12/21 09:31 【共同通信】
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/875.html

[番外地9] 警察は名張毒ぶどう酒事件みたいな冤罪事件と同じで、いくら新事実を伝えても再捜査はしないんだ。
そういう情報はすべて警察に通知されているよ。
しかし、警察は名張毒ぶどう酒事件みたいな冤罪事件と同じで、いくら新事実を伝えても再捜査はしないんだ。
プチエンジェル事件でも児童売春の顧客名簿を発見したのに調査は一切行わなかった。
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/876.html
[番外地9] 廣瀬爽彩さんの自殺の原因はイジメなのか? 校長や教頭が言っていた様に家庭の問題なのか?
廣瀬爽彩さんの自殺の原因はイジメなのか? 校長や教頭が言っていた様に家庭の問題なのか?
廣瀬爽彩さんを二か月も精x病院に閉じ込めて母親と面会させなかった理由は?
亡くなる前の爽彩さんの様子について、母親がこう話す。。
急に泣いたり叫んでしまったり、震えたり、過呼吸が起きたり、吐いちゃったりとか。それが本当に1日の間に10回以上とか、ひどいときには20回以上、起きることが続いていた。(2021年9月27日放送)

複雑性PTSDは虐待のような悲惨な体験を長期間受け続けた人に生じる心の病

精神科医・和田秀樹「複雑性PTSDなんかではない」眞子さまの本当の病名は
宮内庁は10月1日、眞子さま(29)と小室圭さん(29)が同月26日に結婚されると正式発表するとともに、眞子さまが「複雑性PTSD」と診断されたことを明らかにした。精神科医の和田秀樹さんは「会見に同席した精神科医は『結婚について周囲から温かい見守りがあれば、健康の回復が速やかに進むとみられる』と発言しましたが、これは国民に誤解を与え、現実に複雑性PTSDの症状に苦しむ虐待サバイバーに脅威を与えるおそれがある」という。その理由とは――。

■精神科医が腰を抜かすほど驚いた「眞子さまは複雑性PTSD」
 宮内庁は1日、秋篠宮家の長女・眞子さま(29)が「複雑性心的外傷後ストレス障害(PTSD)」と診断されたことを明らかにした。
 1991〜94年にアメリカに留学して以来、この疾患に向き合ってきた私は、宮内庁のその後の説明を聞くにつけて、腰を抜かすほど驚いてしまった。 なぜなら、複雑性PTSDとは虐待のような悲惨な体験を長期間受け続けた人に生じる心の病であり、治療も大変困難なものとされているからだ。

 眞子さまの場合、もし、環境が変わり周囲の批判がなくなった結果、秋山医師が断言したように「健康の回復が速やかに進むとみられる」ならば、それは複雑性PTSDなどという心の重病でない。眞子さまはおそらく適応障害にあたるのではないかと思う。

 1970年代、ベトナム戦争で兵士が受けた心理的後遺症やレイプトラウマの研究が進み、1980年に発表されたアメリカ精神医学会の診断基準第3版(DSM-3)に「PTSD」という病名が採用された。

 その後もトラウマ研究が進み、児童虐待のような長期反復型のトラウマ体験の場合は、もっと深刻な病状が生じることがわかってきた。

 当時のアメリカにおけるトラウマ研究の第一人者であるジュディス・ハーマン(ハーバード大学准教授)は、その主著と言える『心的外傷と回復』(みすず書房)において、複雑性PTSDという病名を提起した。

■複雑性PTSDの症状…自傷行為、性的逸脱、解離症状、希望喪失

 ハーマンが提起し、94年に発表されたアメリカ精神医学会の診断基準第4版(DSM-4)の「複雑性PTSD」に加えることが検討された症状には以下のようなものが列挙された。

1:感情制御の変化(自傷行為や性的逸脱など)
2:意識変化(解離症状など)
3:自己の感覚の変化(恥の意識など)
4:加害者への感覚の変化(復讐への没頭だけでなく、加害者を理想化することもある)
5:他者との関係の変化(孤立・ひきこもりなど)
6:意味体系の変化(希望喪失など)

 実際、私の留学中も虐待の被害者の患者をかなりの数で診たが、この指摘には心当たりがある。ここで注目したいのは、2の項目にある「解離」という症状だ。

 解離は、自分の忌まわしい記憶をふだんとは別の意識状態に置くことで生じると考えられている。要するにトラウマ的な出来事を覚えている意識状態と、普段の意識状態は、別の意識状態になっている。

 そのため、その人は、トラウマ的出来事を覚えている意識状態になったときのことは覚えていないし、その意識状態は、普段の意識状態と連続性をもたない。

 解離性健忘の場合、その解離状態の時の言動を覚えておらず、かなりの暴言を吐いても、犯罪的な行為(万引きや暴行など)や性的逸脱を行っても、それを覚えていない。

 別の意識状態になったときにアイデンティティ(自分が子どもか大人かとか、ふだんの名前や役職など)まで変わってしまう状態は多重人格と呼ばれてきたが、DSM-4では解離性同一性(アイデンティティ)障害と呼ばれるようになった。

■「複雑性PTSDとは、悪口レベルの外傷的体験ではない」
 実際、この診断基準で挙げられている逃れることが困難もしくは不可能な状況で、長期間・反復的に、著しい脅威や恐怖をもたらす出来事の例としては、「反復的な小児期の性的虐待・身体的虐待」のほか、「拷問」「奴隷」「集団虐殺」が挙げられている。けっして悪口レベルの外傷的体験などではない。

 ※児童虐待を受けたあと、生き残り、心の病に苦しんでいる人たち。

 自らが虐待サバイバーで複雑性PTSDの実際の症状を赤裸々に記録した『わたし、虐待サバイバー』(ブックマン社)の著者である羽馬千恵さんは、自身が発行するメルマガ(※)の中で、「虐待が終わってからが、本当の地獄だった」と記している。

 虐待を受けた子供たちは大人になり複雑性PTSDに苦しむわけだが、親元を離れ、虐待を受けなくなったり、多少周囲が温かくしてくれたりしところで、そう簡単に治るものではない。

 つい最近も3歳児が母親の同居人の虐待で死亡した事件があったが、それに関するニュースの多くは、初動で行政がしっかり対応していたら死ななくてすんだという類のものだった。

 たしかにそういう面もあるかもしれない。しかし、もっと重要なのは子供の今後の人生だ。「運よく生き残ったから、よかった」で済む問題ではない。生き残った子供たちは下手をすると生涯にわたる複雑性PTSDに苦しむのである。

 人格変化のために周囲の人が犠牲になることさえある。古くは永山則夫事件、あるいは大阪・池田小事件の宅間死刑囚、そして山口県光市の母子殺しの少年など、子供時代などに虐待を受けた人物が起こす重大事件は枚挙に暇がない。

 銃社会のアメリカでは、虐待を受けた子供が将来重大犯罪を起こすことが多いことも、虐待を受けた子供を親元に返さない大きな理由となっている。

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爽彩さんの自殺未遂事件では警察は爽彩さんと母親の関係が原因だと判断して、爽彩さんを精神病院に二か月も入院させて母親とは会わせませんでした。
失踪・凍死事件では警察は爽彩さんと母親の喧嘩が原因の家出だと判断して、初期捜査を殆ど行いませんでした。
そもそも警察は自殺未遂事件で爽彩さんが退院して以降は、爽彩さんを毎月呼び出して、母親との関係、売春していないかどうか、覚醒剤使用の有無等を聞いていたと思われます。 つまり警察は爽彩さんの病状や家庭の状況を完全に把握した上で、失踪・凍死事件は爽彩さんと母親の喧嘩が原因の家出だと判断したのです。

爽彩さんは精神病院に二か月も入院させられていたので、唯のパニック障害なら、退院後も病院でカウンセリングを受けるのが普通ですが、病院ではなく警察に毎月呼び出したというのは、警察は爽彩さんのパニック障害はイジメが原因ではなく、家庭環境や覚醒剤障害が原因だと判断していた可能性が高いのです。

校長や教頭、担任、教育委員会も失踪・凍死事件は中学でのイジメが原因ではなく、家庭の問題だと何度も指摘しています。
第三者委員会のメンバーの大半が精神科医や心理学者で、加害者への聞き取り調査を一切していないのも、旭川少女凍死事件は中学でのイジメが原因ではなく、家庭の問題だと判断しているからです。
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/877.html

[番外地9] 旭川の教育の荒廃は内地との経済格差と日本政府の北海道無人化政策から生まれた
旭川の教育の荒廃は内地との経済格差と日本政府の北海道無人化政策から生まれた
底辺の子供ばかりの旭川の公立学校では既にドラッグ、レイプ、強制売春が蔓延している
日本政府は札幌以外の北海道全土の無人化を押し進めており、旭川人は仕事を失って食べていけなくなっている。底辺に落ちた旭川人の子供たちはその影響から逃れることができない。
経済格差が広がると、教育もまた崩壊していく。最初にそれが指摘されたのはアメリカだった。アメリカではレーガン大統領時代に入ってからレーガノミクスという今で言うところの「新自由主義」「市場原理主義」を取り入れた。
その結果、国民の間で格差が急激に広がり、金持ちの子供は私立に、貧困層の子供は公立に通うという分離が出来上がり、貧困層が集まる公立校が急激に荒んでいった。暴力が蔓延し、学級崩壊し、いじめも急激に増加した。

それを嫌って金持ち層がますます公立校を避けて私立に向かうようになり、教師も逃げ出したので、さらに公立校が荒廃していった。そして生まれたのが「暴力教室」の出現である。

学校内で、ドラッグ、レイプ、銃撃戦が行われるようになり、授業が成立しなくなった。しかし、そうだと分かっていても、貧困層は公立の学校に子供を通わせるしかない。市立では学費が払えない以上、選択肢はないのだ。

教育が所得で分離し、教育の荒廃がアメリカに大きな影を落とすようになった。経済格差が子供たちの学力の差となり、それが子供たちの人生に大きく悪影響を及ぼすようになったのだ。

経済格差と教育の劣化は比例して起きる現象だ。経済格差が大きい国であればあるほど教育の劣化は大きくなる。親の資産によって子供たちが通う学校が分離し、底辺の子供たちは学級崩壊しやすい環境になるからだ。

貧困層の子供たちは親が教育熱心ではなく、子供の面倒をきちんと見ないこともある。その結果、子供たちは荒れていく。それがそのまま学校の荒廃につながる。貧困層の子供たちが通う学校が学びの場でなくなっていく。

特に、誰でも受け入れなければならない公立校で事態は深刻化する。とすれば、貧困層が特に多い旭川もまた公立校は暴力にまみれていくことになるというのが分かるはずだ。

また、体罰も禁止された。体罰については賛否両論も強いが、それが厳格に禁止されると、秩序を乱す生徒がいても教師は最後の手段が取れない。

口で言っても言うことを聞かない子供は、どこにでも一定数はいる。そういった暴力傾向の強い子供たちを放置するのは学校を無法地帯にするのと同様だ。だから、生徒を退学させることのできない公立校が暴力教室へと変貌していく。

そういった環境での教育は質の低下が著しいので、最終的に教育は破綻する。教育を満足に受けさせるためには私立校の進学が必須になるが、私立校こそが教育費の増大に拍車をかけるものだ。

その結果、中流以下の家庭は荒廃した公立校に向かい、質の悪い教育しか受けられなくなる。それは子供たちの知的レベルの低下につながるので、ますます経済格差は固定化されるという現象と化す。

旭川はすでにその悪循環にはまっている。旭川のどん底《ボトム》の若者たちは、ほとんどが良質な教育を受けられなかった人たちであるが、コロナ禍が終わったらますますどん底《ボトム》の若者たちは増えるのだ。

しっかりとした教育が受けられなかった人、あるいは経済的な事情で低学歴のまま社会に出た若者ができるのは、その多くが非正規・肉体労働・単純労働だけである。これらの労働環境では豊かになるのは難しい。

当然、自暴自棄に落ちる若者も出てくる。一瞬の怒りで引き起こされる暴力や短絡的な事件も加速度的に増えていく。社会のどん底で暴力が渦巻くようになるのは、どこの国でも同じだ。

貧困社会の次は暴力社会がやってくることをよく認識すべきだ。教育がなければ成り上がることもできない。単純労働ではその日暮らしが精一杯だ。

必死で働いたところで、教育がない以上、もはや手遅れであることだけは分かっている。そんな環境に置かれたとき、人間がどのように変質していくかを今から研究しておくべきだろう。

間違いなくどん底《ボトム》で暴力が台頭していくのである。

これは、誰にとっても他人事ではない。教育と常識を学ぶことができず、自暴自棄に陥った人間がまわりに溢れるからである。旭川の社会がそういう子供たちを大量に生み出すことになる。

将来に希望が持てない人間は、鬱々とした不安や、絶え間ない失意や挫折感でいっぱいになる。そして、毎日そのような挫折感と折り合って生活しなければならない。そこに芽生えてくるのが自暴自棄な感情と、反社会的な破壊欲求だ。

今後は旭川の底辺層は想像以上に増えていき、それが旭川の標準的な光景になっていく。そんな中、未来がない状態で生きることになる若者たちの心理は、不満と破壊衝動でいっぱいになっても仕方がない。女は身を持ち崩して売春や風俗へと向かっていく。

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1996年12月にも、女子中学生を中学校内で集団goukanし、被害者が先生に助けを三回も求めていたにもかかわらず『校内の性行為は自由』という『思想』のため、集団 rape を黙認した事件が旭川であったことを知っていますか?

初めのうちはクラスのマドンナ的存在であった女子生徒に対する、スカートめくりなどの軽度の性暴力から始まったと言われる。男子生徒10人は、女子生徒が1年生の時から胸や尻を触る等を繰り返した。女子生徒が誰にも訴えなかった為、その後行為はエスカレ−ト、中学2年生の夏に男子生徒の一人の家に連れ込まれるようになった。

男子生徒たちは公園や橋の下などで毎朝、kouin をさせた後「今日もおいしい牛乳を有難うございました。」という屈辱的な言葉を言わせていた。

中学3年の5月からは、下着の着用と自由な haiben を禁止した上、公園内のトイレにて kanchou 器具を用いてhaisetuを強要していた。

事件は1994年秋から1996年の冬にかけ2年間にわたって続きました。クラスのアイドル的存在だった真面目な女子中学生が被害者です。舞台となったのは当時の北海道旭川市立北都中学校でした。

犯行に及んだのは地元でも有名だった10人の不良グループです。彼らは学校の廊下をバイクで乗り回すような手のつけられない暴れ者達でした。

被害者女子中学生が不良グループの一人からの告白を袖にしたことがきっかけでした。それから不良グループによる性的暴行が始まりました。

女子中学生は不良グループに性的暴行のために特別教室に連れ込まれそうになった際、通りかかった女性教師に助けを求めています。それを聞いて反応しかかった女性講師は不良達に「帰れ」と一括され、その場を立ち去り何の対処もしていません。

まだ不良達の嫌がらせが初期段階の時、女子中学生は勇気をふるって担任の教師に体を触られることを訴えています。ところが担任は訴えから2〜3日後のクラス会で軽く注意する発言をしただけでした。不良達の暴行はこれを境に一気に凶暴化しており、担任の対応のまずさが浮き彫りになっています。

不良グループ達はいわゆる地元の札付きで、教師達には見て見ぬふりが当たり前という一種の空気感があり、毅然とした姿勢を示せなかったと思われます。

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教員 「だってどうしようもないじゃないですか。止めろと言って止めてくれる生徒なら何回でも言いますよ。でもそうじゃない生徒だっているんです。手を上げて無理やり止めさせれば良かったんですか?」

教員 「手を上げたら体罰。懲戒。変にクビを突っ込めば職を失うんですよ?こんなご時世でどうしろって言うんですか?教員だって人間です。自分の生活を第一にして何が悪いんですか!」

教員 「下手に不良生徒から恨みを買って刺されでもしたらどうするんですか。彼らは悪魔みたいな笑い方をするんですよ。他人を殴っておいて。報復が怖くてもいいじゃないですか。なんでそこまで教員にあれこれ求めるんですか!」
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/878.html

[近代史6] ジョアキーノ・ロッシーニ(Gioachino Antonio Rossini, 1792 - 1868)
ジョアキーノ・ロッシーニ(Gioachino Antonio Rossini, 1792 - 1868)


ジョアキーノ・アントーニオ・ロッシーニ(Gioachino Antonio Rossini, 1792年2月29日 - 1868年11月13日[1])は、イタリアの作曲家。多数のオペラを作曲し、『セビリアの理髪師』、『チェネレントラ』などは現在もオペラの定番である。また『タンクレーディ』、『セミラーミデ』などのオペラ・セリアも作曲した。フランスに移ってからはグランド・オペラ『ウィリアム・テル』を書く。美食家としても知られる[2]。


人物
『セビリアの理髪師』や『ウィリアム・テル』などのオペラ作曲家として最もよく知られているが、宗教曲や室内楽曲なども手がけている。彼の作品は当時の大衆やショパンなど同時代の音楽家に非常に人気があった。

ジョアッキーノ(Gioacchino)と綴られることが多かったが、出生届けなどからGioachinoであることが判明したため、ペーザロのロッシーニ財団の要請で、ジョアキーノ(Gioachino)と綴るようになってきており、ここ数年のイタリアでの公演や録音、映像収録ではGioachino綴りで行われているが、イタリア国外ではまださほど徹底されていない。

生涯に39のオペラを作曲、イタリア・オペラの作曲家の中で最も人気のある作曲家だった。ただし、実質の作曲活動期間は20年間に満たない。絶頂期には、1年間に3〜4曲のペースで大作を仕上げていた。彼の作品は『セビリャの理髪師』『アルジェのイタリア女』のようにオペラ・ブッファが中心だと思われがちだが、実際オペラ作曲家としてのキャリアの後半期はもっぱらオペラ・セリアの分野で傑作を生み出している。しかし、悲劇を好むイタリアのオペラ作家としては喜劇やハッピーエンド作品の比率が高い点で異色の存在ではある。

作風も明朗快活で、生前「ナポリのモーツァルト」の異名を取った。特に浮き立つようなクレッシェンドを好んで多用。これはロッシーニ・クレッシェンドと呼ばれて、一種のトレードマーク化している。

人生の半ばに相当する37歳の時に大作『ウィリアム・テル』を作曲した後はオペラ作曲はせず、サロン風の歌曲やピアノ曲、宗教作品を中心に作曲を行った。

略歴
1792年 - 2月29日、ペーザロに生まれる。
1800年 - (8歳)ボローニャに移り住み、ボローニャ音楽学校に学ぶ
1810年 - (18歳)フィレンツェで一幕のオペラ・ファルサ『結婚手形』を初演。オペラ作曲家としてデビュー。
1812年 - (20歳)ブッファ『試金石』をスカラ座で初演。初のヒット作となり兵役を免除される。
1813年 - (21歳)『タンクレーディ』『アルジェのイタリア女』が初演後たちまち大ヒットしヨーロッパ中に名声が轟く。
1815年 - (23歳) ナポリで『エリザベッタ』初演。以後この地のサン・カルロ劇場の音楽監督として、精力的にオペラ・セリアの傑作を生み出す。
1822年 - (30歳)歌手のイザベラ・コルブランと結婚。
1823年 - (30歳)『セミラーミデ』初演。イタリアでの最後のオペラとなる。
1824年 - (32歳)パリのイタリア座の音楽監督に就任。
1829年 - (37歳)最後のオペラ『ウィリアム・テル』を発表。
1836年 - (44歳)音楽界から引退し、イタリアのボローニャ(のちフィレンツェ)で隠居生活を送る。
1845年 - (53歳)イザベラ死去。
1846年 - (54歳)8月16日、美術モデルのオランプ・ペリシエと再婚。
1855年 - (63歳)健康が回復したとしてパリに戻る。著名人を集めたサロンや高級レストランを経営。
1868年 - (76歳)11月13日、死去。現在はイタリアのサンタ・クローチェ教会に眠る。

人物伝〜「ナポレオンは死んだが、別の男が現れた」

ロッシーニはイタリアのアドリア海に面したペーザロで音楽一家に生まれた。父親ジュゼッペ(Giuseppe)は食肉工場の検査官をしながらトランペット奏者をしていた。また、母親アンナ(Anna)はパン屋の娘で歌手であった。両親は彼に早くから音楽教育を施し、6歳の時には父親の楽団でトライアングルを演奏したと言われている。父親はフランスに好意を抱いており、ナポレオンが軍を率いてイタリア北部に到達したことを喜んでいた。しかしこれが元になり、1796年になってオーストリアに政権が復帰すると、父親は投獄されてしまった。母親はロッシーニをボローニャにつれてゆき、生活のためにロマニャーノ・セージアの多くの劇場で歌手として働き、のちに父親と再会した。この間ロッシーニはしばし祖母の元に送られ、手におえない子供と言われていた。容姿はやや太り気味だが、天使のような姿と言われ、かなりのハンサムだったので、多くの女性と浮き名を流した。


ロッシーニは10代終わりの頃からオペラ作曲家としての活動を始めた。1813年、20歳から21歳にかけての作品『タンクレーディ』と『アルジェのイタリア女』でオペラ作曲家としての評判を確立し、1816年、24歳の作品『セビリアの理髪師』でヨーロッパ中にその名声をとどろかせた。

1816年以降、ウィーンではロッシーニ人気の高まりによって、イタリア・オペラ派とドイツ・オペラ派の対立が巻き起こったが、イタリア派の勝利に終わった。1822年、ロッシーニは『ゼルミーラ』上演のためにウィーンを訪れ、熱烈な歓迎を受けた。このとき訪問を受けたベートーヴェンは『セビリアの理髪師』を絶賛し、「あなたはオペラ・ブッファ以外のものを書いてはいけません」と述べたという[3]。ベートーヴェンはロッシーニの才能を認めていたが、大衆が自分の音楽の芸術性を評価せず、ロッシーニの曲に浮かれていることに愚痴をもらしている[4]。

1823年、ロッシーニはパリを訪問し、やはり議論を巻き起こしながらも大歓迎を受けた。この訪問と同じころに出版された『ロッシーニ伝』において、スタンダールは「ナポレオンは死んだが、別の男が現れた」と絶賛している。

1825年、フランス国王シャルル10世の即位に際して、記念オペラ・カンタータ『ランスへの旅』を作曲、国王に献呈し、「フランス国王の第一作曲家」の称号と終身年金を得る。37歳で『ギヨーム・テル(ウィリアム・テル)』発表後、オペラ界から引退を表明。以後は『スターバト・マーテル』などの宗教曲や小品のみを作曲し、年金生活に入る。1830年の7月革命に際しても新政府と交渉し、前国王政府から給付された年金を確保することに成功した。

一方、彼は若い頃から料理が(食べることも作ることも)大好きで、オペラ界からの引退を表明した後の余生はもっぱら料理の創作や高級レストランの経営に費やしていた。フランス料理によくある「○○のロッシーニ風」(ヒレステーキにフォワグラとトリュフのソテーを添えた「トゥールヌド・ロッシーニ」など)とは、彼の名前から取られた料理の名前である[5]。彼はあまりにも料理が好きだったためか、料理の名前を付けたピアノ曲も作っている。

晩年には淋病、躁鬱病、慢性気管支炎などに悩まされ、ついには1868年に直腸癌になり、手術を受けたが、それによる丹毒に感染して生涯を閉じた。

ロッシーニは従来は教会の儀式などでしか聞くことが出来なかった宗教音楽を、一般のコンサートのレパートリーとして演奏するように尽力した人物である。ロッシーニのこの分野での傑作である『スターバト・マーテル』も、実は一般のコンサートを念頭において作曲されたものである。

作曲家として
パリで貧困生活にあえいでいたヴァーグナーがロッシーニのような作曲家になることを目標にしていたことはよく知られている。また、『ウィリアム・テル』を見たベルリオーズは、「テルの第1幕と第3幕はロッシーニが作った。第2幕は、神が作った」と絶賛している。当時から見ても「才能はあるが怠け者」の作曲家だったらしく、『セビリアの理髪師』の作曲をわずか3週間で完成させ、ベッリーニは「ロッシーニならそれくらいやってのけるだろう。」と述べている。

ロッシーニは(同時代の他作曲家の例にもれず)現在の著作権・創作概念からみれば考えがたい行動をとっており、同じ旋律を使い回すのは朝飯前で、『セビリアの理髪師』序曲は、『パルミーラのアウレリアーノ』→『イングランドの女王エリザベッタ』の序曲を丸ごと再々利用している。また、『ランスへの旅』でも最終カンタータの場面は諸国国歌の丸写しである。さらにベートーヴェンの第8交響曲の主題を剽窃し、また機会オペラ(国王即位記念に数度演奏されたにすぎなかった)だった『ランスへの旅』を、細部を手直ししただけでコミックオペラ『オリー伯爵』に作り替えている。


ロッシーニ・ルネッサンス
ロッシーニは死後たちまち忘れられた作曲家となってしまい、『セビリアの理髪師』『チェネレントラ(シンデレラ)』『ウィリアム・テル』(の序曲)の作曲家としてその名をとどめるだけの期間が長く続いた。特に上演や全曲録音はもっぱら『セビリアの理髪師』に集中したため、オペラ作家としては一発屋に近いイメージでとらえられがちだった(しかも『セビリアの理髪師』は、76歳まで生きた彼の24歳の作品である)。

しかし、ペーザロのロッシーニ財団が1960年代終わりから出版を開始した(現在も出版が続けられている)クリティカル・エディションによるロッシーニ全集の出版などをきっかけに、1970年代になるとロッシーニのオペラが再評価されるようになった。リコルディ社から校訂版楽譜が次々と出版されるようになり、それと並行してクラウディオ・アバドがベルリンで『ランスへの旅』を約150年ぶりに再上演し、以後ヨーロッパにおいてアバドなどの音楽家を中心にロッシーニ・オペラが精力的に紹介されるようになり、1980年代以降その他の作品も見直され、上演される機会が増えた。また、クリティカル・エディションの刊行により、長年受け継がれてきた伝統的な歌唱法や、旧版に記されていた間違いなども改めて見直され、よりロッシーニの楽譜に忠実な演奏が試みられるようになった。この再評価の動きを「ロッシーニ・ルネッサンス」という。現在では『ランスへの旅』、『タンクレーディ』、『湖上の美人』をはじめ、ロッシーニの主要オペラがほぼ再演されるようになっている。のみならず、かなりマイナーな作品の蘇演も延々と続いており、作品数が多いだけに、その活況はプッチーニやヴェルディに迫らんばかりの勢いを呈している。ペーザロのロッシーニ・オペラ・フェスティバルにおける蘇演、ロッシーニ研究家で指揮者のアルベルト・ゼッダの功績も大きい。


主な作品と作曲年

オペラ

デメトリオとポリービオ Demetrio e Polibio 1808年 (初演 1812年 ローマ)
結婚手形 La cambiale di matrimonio 1810年 ヴェネツィア
ひどい誤解 L'equivoco stravagante 1811年 ボローニャ
幸せな間違い L'inganno felice 1812年 ヴェネツィア
バビロニアのキュロス Ciro in Babilonia 1812年 フェラーラ 
絹のはしご La scala di seta 1812年 ヴェネツィア
試金石 La pietra di paragone 1812年 ミラノ
成り行き泥棒 L'occadione fa il ladro 1812年 ヴェネツィア 
ブルスキーノ氏 Il Signor Bruschino 1813年 ヴェネツィア
タンクレーディ Tancredi 1813年 ヴェネツィア
アルジェのイタリア女 L'italiana in Algeri 1813年 ヴェネツィア
パルミーラのアウレリアーノ Aureliano in Parmira 1813年 ミラノ
イタリアのトルコ人 Il Turco in Italia 1814年 ミラノ
シジスモンド Sigismondo 1814年 ヴェネツィア
イングランドの女王エリザベッタ Elisabetta, Regina d'Inghirtrra 1815年 ナポリ
トルヴァルドとドルリスカ Torvaldo e Dorlisca 1815年 ローマ
セビリアの理髪師(アルマヴィーヴァ) Il barbiere di Siviglia (Almaviva) 1816年 ローマ
新聞 La Gazetta 1816年 ナポリ
オテッロ またはヴェネツィアのムーア人 Otello 1816年 ナポリ
チェネレントラまたは善意の勝利 La Cenerentola, Il trionfo della bonta' ossia 1817年 ローマ
泥棒かささぎ La gazza ladra 1817年 ミラノ
アルミーダ Armida 1817年 ナポリ
ブルゴーニュのアデライーデ 1817年 ローマ
エジプトのモーゼ Mose in Egitto 1818年 ナポリ
アディーナ Adina 1818年 (初演 1826年 リスボン)
リッチャルドとゾライーデ Ricciardo e Zoraide 1819年 ナポリ
エルミオーネ 1819年 Ermione ナポリ
エドゥアルドとクリスティーナ Eduardo e Cristina 1819年 ヴェネツィア
湖上の美人 La donna del lago 1819年 ナポリ
ビアンカとファッリエーロ Bianca e Falliero 1819年 ミラノ
マオメット2世 Maometto secondo 1820年 ナポリ
マティルデ・ディ・シャブラン Matilde di Shabran 1821年 ローマ、ナポリ(改訂版)
ゼルミーラ Zermira 1822年 ナポリ
セミラーミデ Semiramide 1823年 ヴェネツィア
ランスへの旅、または黄金の百合咲く宿 Il viaggio a Reims 1825年 パリ シャルル10世の戴冠式のためのカンタータ
コリントの包囲(英語版) Le siège de Corinthe 1826年 パリ (『マホメット2世』の改作)
モイーズとファラオン Moïse et pharaon 1827年 パリ  (『エジプトのモーゼ』の改作)
オリー伯爵 Le Comte Ory 1828年 パリ (『ランスへの旅』から多くを流用)
ギヨーム・テル(ウィリアム・テル) Guillaume Tell 1829年 パリ 


管弦楽曲
シンフォニア 変ホ長調
シンフォニア ニ長調
イタリアの戴冠式
クラリネットと小管弦楽のための変奏曲 ヘ長調

宗教曲
グローリア・ミサ(Messa di Gloria)、1820年
小ミサ・ソレムニス(Petite Messe Solennelle)、1863年
スターバト・マーテル、1842年
タントゥム・エルゴ、1847年

歌曲
音楽の夜会
ヴェネツィアの競漕
ラ・ダンツァ

器楽曲
弦楽のためのソナタ(ヴァイオリン2、チェロ、コントラバスのための・全6曲)、1804年…他者による弦楽四重奏曲、管楽四重奏曲版(共に第3番を除く)あり。
チェロとコントラバスのための二重奏曲、1824年
「涙―主題と変奏」(チェロとピアノのための)、作曲年代不明

その他の作品
歓喜
主題
Brindisi
劇付随音楽 コロノスのオイディプス
狩での出会い(ファンファーレ)
Giunone(1822年以前に作曲?)

由来の定かでない作品
2匹の猫の愉快な歌(偽作)
交響曲(作曲年代不明)
歌劇 イタリアの王ウーゴ(未完、1824年)


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%A2%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%8B
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/884.html

[近代史6] ジョアキーノ・ロッシーニ セヴィリアの理髪師 序曲
ジョアキーノ・ロッシーニ セヴィリアの理髪師 序曲


Furtwängler - Rossini : Barber of Seville - Overture
セヴィリアの理髪師ー序曲 (1935) 再復刻








Berlin Phiharmonic Orchestra
transferred from Jpn Polydor 78s /65008 (526)
recorded June 1935

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/885.html

[近代史6] ジョアキーノ・ロッシーニ 泥棒かささぎ 序曲
ジョアキーノ・ロッシーニ 泥棒かささぎ 序曲


Furtwängler - Rossini : La gazza ladra
泥棒かささぎ - Overture (1930) 再復刻












指揮:ヴィルヘルム・フルトヴェングラー
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団


録音:1930年
transferred from Jpn Polydor 78s / S-4039

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[近代史6] ジョアキーノ・ロッシーニ ウィリアム・テル 序曲
ジョアキーノ・ロッシーニ ウィリアム・テル 序曲


Toscanini NBC Symphony Orchestra - Rossini William Tell Overture 1952





Arturo Toscanini
NBC Symphony Orchestra
15 Marzo 1952, al Carnegie Hall di New York City.



Toscanini - Rossini : William Tell - Overture (1939)








NBC Symphony Orch.
recorded Mrach 1 & 29, 1939, Studio 8H
transfer from Jpn Victor 78s / JE-208/9(CS-032814/7)

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/887.html

[近代史6] ジョアキーノ・ロッシーニ セヴィリアの理髪師 序曲 中川隆
1. 中川隆[-16055] koaQ7Jey 2021年10月09日 00:49:59 : F6HHp60G9o : cG40WWNGWFNNN28=[1]
トスカニーニ

Toscanini - Rossini : Barber of Seville-Overture セヴィリアの理髪師・序曲 (1929) 再復刻










New York Philharmonic Orch.
recorded 21, Nov. 1929
transferred from Jpn Victor 78s /JD-1287(7255)





Rossini: Overture to "The Barber of Seville", Toscanini & NBCso (1945)
ロッシーニ セビリアの理髪師序曲 トスカニーニ




Arturo Toscanini (1867-1957), Conductor
NBC Symphony Orchestra

Rec. 28 June 1945, in New York






Toscanini conducts Rossini Overture to the Barber of Seville




Conductor: Arturo Toscanini (1867-1957)
Orchestra: NBC Symphony Orchestra

Recorded: March 21, 1954 Live from Carnegie Hall, New York City


http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/885.html#c1
[近代史6] ジョアキーノ・ロッシーニ ウィリアム・テル 序曲 中川隆
1. 中川隆[-16054] koaQ7Jey 2021年10月09日 00:52:07 : F6HHp60G9o : cG40WWNGWFNNN28=[2]
トスカニーニ ロッシーニ序曲集

Rossini: Overtures, Toscanini/NBC, restored




I did this one as a sort of demo on what can be done to your rough-playing 1940s 78rpms.

0:01 Semiramide Overture
12:21 L' italiana in Algieri Overture
19:57 La scala di seta Overture
26:04 Il barbieri di Siviglia Overture
33:14 La gazza ladra Overture
42:18 La Cenerentola Overture
49:56 Il signor Bruschino Overture
54:29 William Tell-Act 1:Passo a sei

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[近代史6] ジョアキーノ・ロッシーニ 泥棒かささぎ 序曲 中川隆
1. 中川隆[-16053] koaQ7Jey 2021年10月09日 00:52:49 : F6HHp60G9o : cG40WWNGWFNNN28=[3]
トスカニーニ ロッシーニ序曲集

Rossini: Overtures, Toscanini/NBC, restored




I did this one as a sort of demo on what can be done to your rough-playing 1940s 78rpms.

0:01 Semiramide Overture
12:21 L' italiana in Algieri Overture
19:57 La scala di seta Overture
26:04 Il barbieri di Siviglia Overture
33:14 La gazza ladra Overture
42:18 La Cenerentola Overture
49:56 Il signor Bruschino Overture
54:29 William Tell-Act 1:Passo a sei

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[近代史6] ジョアキーノ・ロッシーニ セヴィリアの理髪師 序曲 中川隆
2. 中川隆[-16052] koaQ7Jey 2021年10月09日 00:53:26 : F6HHp60G9o : cG40WWNGWFNNN28=[4]
トスカニーニ ロッシーニ序曲集

Rossini: Overtures, Toscanini/NBC, restored




I did this one as a sort of demo on what can be done to your rough-playing 1940s 78rpms.

0:01 Semiramide Overture
12:21 L' italiana in Algieri Overture
19:57 La scala di seta Overture
26:04 Il barbieri di Siviglia Overture
33:14 La gazza ladra Overture
42:18 La Cenerentola Overture
49:56 Il signor Bruschino Overture
54:29 William Tell-Act 1:Passo a sei

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[近代史6] ジョアキーノ・ロッシーニ オペラ『セビリアの理髪師』
ジョアキーノ・ロッシーニ オペラ『セビリアの理髪師』


Rossini - Il barbiere di Siviglia (complet - ST it-eng-fr-de-esp)



Direction musicale : Claudio Abbado
Orchestre et chœurs du théâtre de la Scala (Milan)
Réalisation en studio (1972) : Jean-Pierre Ponnelle


Le comte Almaviva (Lindor) : Luigi Alva (ténor)
Bartholo, médecin : Enzo Dara (basse)
Rosine, riche pupille de Bartholo : Teresa Berganza (soprano)
Figaro, barbier : Hermann Prey (ténor)
Bazile, professeur de chant de Rosine : Paolo Montarsolo (basse)
Berthe, servante de Bartholo : Stefania Malagu (mezzo)
Fiorello, serviteur du comte : Renato Cesari (basse)
Ambroise, serviteur de Bartholo : Hans Kraemmer (rôle muet)
Un officier de la garde : Luigi Roni (basse)
Un notaire : Karl Schaidler (basse)


Chœurs de domestiques,musiciens, soldats.


▲△▽▼


『セビリアの理髪師』は、フランスの劇作家ボーマルシェの書いた風刺的な戯曲(フランス語原題:Le barbier de Séville ou la précaution inutile 「セビリアの理髪師あるいは無用の用心」)、ならびに同戯曲を題材にジョアキーノ・ロッシーニの作曲した2幕のメロドランマ・ブッフォ(イタリア語原題:Almaviva o sia L'inutile precauzione、一般には Il Barbiere di Siviglia )である。本項ではロッシーニのオペラについて扱う。なお、ロッシーニに先立ってジョヴァンニ・パイジエッロが同戯曲により同名のオペラを作曲している(1782年初演)が、ロッシーニ作品の成功によって忘れられた存在となった。


なお、セビリア(Sevilla)はスペインの都市で、セビーリャ、セビージャあるいはセビーヤとも表記されるが、イタリア語ではスィヴィリャ(Siviglia)、フランス語ではセヴィーユ(Séville)、英語ではセヴィル(Seville)となる。


本作は元々オペラ・コミックとして1772年に制作されたが、イタリア劇団に上演を断られたことから喜劇として書き直された[4]。戯曲は1775年2月23日に初めて上演されたものの、上演数日前に四幕で描かれたものを五幕に変更したため評価は悪く、2月26日に四幕に修正されたうえで再演された[5]。喜劇『フィガロの結婚』(第2部 1786年/モーツァルトがオペラ化、同年初演)、正劇『罪ある母』(第3部 1792年)とともに3部作と言われている。オペラのリブレットはボーマルシェの戯曲に基づき、チェーザレ・ステルビーニが書いた。初演は、1816年2月20日にローマのテアトロ・アルジェンティーナで行われた。ロッシーニのオペラの中で最も速い2週間で作曲され、現在でも頻繁に上演される。現在もロッシーニ随一の人気作品ではあるが、特に作曲者の再評価が始まる1970年前後までは、他の作品がほとんど上演されることがなかったため、唯一の代表作扱いをされていた。悲劇が好まれるイタリア・オペラとしては、ドニゼッティの『愛の妙薬』などとともに、少数派に属する明朗喜劇として人気を博している。


序曲は単独で演奏されることも多いが、元来はオペラ『パルミーラのアウレリアーノ』(1813年作曲)の序曲として書かれたものである。ロッシーニはこれを『イングランドの女王エリザベッタ』(1815年)に手を加えて用いた。『セビリアの理髪師』でも再び同じ曲を用いているが、現在は全曲自筆譜に序曲を欠いているため『パルミーラのアウレリアーノ』序曲を用いることが一般的である。



登場人物
アルマヴィーヴァ伯爵 Il Conte d'Almaviva (テノール)
バルトロ(医師) Bartolo, dottore in medicina (バス)
ロジーナ(バルトロの姪) Rosina, ricca pupilla in cas di Bartolo (メゾソプラノ)
フィガロ(理髪師) Figaro, barbiere (バリトン)
バジリオ(音楽教師) Basilio, maestro di musica di Rosina (バス)
フィオレッロ(伯爵の召使) Fiorello, servitore d'Almaviva (バリトン)
アンブロージョ(バルトロ家の召使) Ambrogio, servitore di Bartolo (バス)
ベルタ(バルトロ家の女中) Berta, vecchia cameriera di Bartolo (メゾソプラノ)
士官 Un ufficiale (バス)
公証人 Un notaio



楽器編成
フルート2、オーボエ1(序曲のみ2番オーボエあり)、クラリネット2、ファゴット2、ホルン2、トランペット2、ティンパニ(原典版にはないとされる)、シストルム、大太鼓、ギター、通奏低音、弦五部


演奏時間
約2時間40分(第1幕100分、第2幕60分:カット無しで19番のアリアも含む)


あらすじ


第1幕第1場
舞台はセビリア。夜明け前のバルトロ邸の前のある広場に、伯爵の召使フィオレッロが数人の楽師を連れて登場する。その後、アルマヴィーヴァ伯爵が登場する。


バルトロ邸のバルコニーに向かい、伯爵が愛の歌を歌うが、彼の想い人は現れない。伯爵は落胆し、楽師たちに金を渡し下がらせる。思い切れない伯爵は立ち去らずバルコニーの下で待つ。フィオレッロも伯爵の合図を待って奥で控えることになる。


夜明けとともに町の何でも屋フィガロが登場する。(カヴァティーナ「ラ、ラン、ラ、レーラ…町のなんでも屋に」)隠れていた伯爵は、既知であったフィガロにプラドで一目惚れしてしまったこの家の医者の娘を追ってきたことを打ち明ける。フィガロは伯爵に医者は彼女の後見人であることを教える。


バルコニーにロジーナが登場し、伯爵に手紙を渡そうとするが、そこにバルトロがやってきて、手にある紙は何かを正す。ロジーナは「無駄な用心」のアリアの歌詞だと言い、バルコニーから手紙を落とし、バルトロに拾ってくるように頼む。伯爵は手紙を拾い、フィガロと共に隠れるが、表に出てきたバルトロは自分が騙されたことに気づき、ロジーナにバルコニーから家の中に入るように命じる。


手紙には、伯爵に心引かれていること、後見人に禁止されているためバルコニーにでることもできないことが書かれている。伯爵はフィガロから、バルトロがロジーナの資産を狙って妻にしようと目論んでいることを教えられる。外出するバルトロは家の外から、ドン・バジリオに頼み今日中にロジーナと結婚することを家の中に叫び、伯爵たちもそれを知る。


バルトロがいなくなったので、伯爵はフィガロに促されバルコニーの下からロジーナに愛のカンツォーネを歌う。しかし、自分の地位や資産に関係なくロジーナに愛して欲しいと思い、金のない「リンドーロ」だと名乗る。ロジーナは好意的な反応を返すが、見張りがいたため家の中に入る。


伯爵は今日中にバルトロ邸に入りたいとフィガロに依頼し、報酬として金貨をやると言う。フィガロは金貨に喜び、酔っ払いの軍人のふりをして宿泊証を持って訪問することを提案する。(二重唱「あの不思議にして万能の」)伯爵はその案を採用し、喜び勇んで退場する。置いていかれたフィオレッロが主人の勝手を嘆きつつ退場する。


第1幕第2場
ドン・バルトロの家の自室でロジーナが、リンドーロと結婚する決意を固める。(カヴァティーナ「ある声が今しがた」)彼にあてた手紙を書いたので、フィガロに仲介を頼むことを考える。


出入りの理髪師であるフィガロがやってきて、二人はそれぞれ話をもちかけようとするが、ドン・バルトロが帰宅したため、フィガロは慌てて身を隠す。バルトロはロジーナを牽制した後、やってきたドン・バジリオに、今日中に秘密裏にロジーナと結婚したいともちかける。理由として、ロジーナに惚れているアルマヴィーヴァ伯爵がセビリアに来ていることをあげる。ドン・バジリオは伯爵の中傷をロジーナに吹き込むことを提案する(アリア「中傷とはそよ風です」)が、バルトロは一刻を争っているため、結婚契約書を作ることを要求し、バジリオはそれを受ける。


2人の企みを盗み聞きしたフィガロは、こっそりやってきたロジーナにそのことを告げるが彼女は歯牙にもかけない。それよりもリンドーロのことを教えてほしいと要求し、フィガロは彼は自分の従兄弟でロジーナに恋をしていることを伝える。逢引のために手紙を書くようにフィガロが勧めると、ロジーナは既に用意していた手紙を渡す。彼女の抜け目のなさに驚きながらフィガロは手紙を持って退場する。


ロジーナの部屋にバルトロがやってきて、彼女が誰かに手紙を書いたことを突き止め、非難する(アリア「私のような医者に向かって」)。さらに召使に監視させることにする。


玄関を乱暴に叩き、騎兵に変装した伯爵が酔っ払いのふりをしながら乱入する。さんざんバルトロをからかい、宿泊証をつきつけてバルトロの家に泊まろうとする。騒ぎにきづいたロジーナは、騎兵を見てすぐに彼がリンドーロであることに気づく。怒るバルトロの目を盗みながら2人は愛を確かめあう。伯爵が手紙を落とし、ロジーナはその上にハンカチを落として手紙を拾うがバルトロに見つかる。しかしバルトロに取り上げられる前にロジーナは手紙を洗濯物のリストにすりかえる。ロジーナが後見人の横暴を訴えると伯爵が逆上し、軍刀を振り回しはじめる。フィガロが登場し慌てて伯爵を宥める。大騒ぎをしたため、玄関から軍隊が入ってくる。バルトロが兵士(伯爵)の横暴を士官に訴え、士官は伯爵を逮捕しようとするが、伯爵が士官にこっそり身分を打ち明けたため一転して敬礼して手を引く。伯爵の正体を知らないバルトロたちは驚きのあまり固まってしまう。(「まるでもの凄い鍛冶屋の中に」)


第2幕
バルトロが家にいると、今度は音楽教師ドン・バジリオの弟子ドン・アロンゾに化けた伯爵がやってくる。(二重唱「あなたに平安と喜びがありますように」)伯爵は、バジリオは熱のため代わりにきたと偽る。見舞いに行こうとするドン・バルトロを押しとどめるため、先ほどもらったロジーナの手紙を伯爵の泊まっているホテルで偶然手に入れたと言って渡す。バルトロは、ドン・アロンゾを味方だと信用し、ロジーナの歌の稽古を開始する。ロジーナは一目で伯爵(彼女にとってはリンドーロ)と気づき、2人を見張るバルトロの目をかわしながら、2人は愛を確認しあう。


フィガロがバルトロの髭を当たるためにやってくる。タオルを取りに行くためにバルトロは部屋を出ようとするが、フィガロをロジーナのいるところに残すのは危険だと思い、鍵を渡してフィガロにタオルを取ってくるように指示する。フィガロは派手に陶器類を割り、驚き怒りつつバルトロが退場する。フィガロは鍵束からロジーナの部屋の鎧戸の鍵を抜きとって伯爵に渡す。ようやくフィガロがバルトロの髭を当たろうとすると、熱で寝ているはずのドン・バジリオが登場する。


バルトロに具合を尋ねられ、バジリオは何のことかわからない。3人はなんとか誤魔化そうとし、口々にバジリオの顔色が悪い、早く帰るように、しまいにはしょう紅熱だと言い立てる。(「さようなら、先生」)フィガロがバルトロの髭を当たっている間に、伯爵はロジーナに夜に迎えにくることを伝えるが、変装のことを口にしたのをバルトロに聴かれ、正体がばれて伯爵とフィガロは追い出されてしまう。


バルトロは、真相を知るために、召使にバジリオを呼びにいかせ、女中に見張りをさせようとするが、信用できないと思い自分で戸口に立つ。(アリア「爺さんは妻を求め」)バジリオは、自分にドン・アロンゾなどという弟子はいないと言明し、彼は伯爵だろうと告げる。バルトロはすぐに結婚するために、公証人を呼んでくるように頼み、バジリオは引き受ける。


ロジーナに結婚を承諾させるために、バルトロはドン・アロンゾと名乗っていた男(伯爵)から手に入れた手紙を彼女に見せ、アロンゾは彼女をアルマヴィーヴァ伯爵に売るつもりだと吹き込む。ロジーナはリンドーロ(これも伯爵)に裏切られたと思い、復讐のために結婚を承諾する。


嵐のあと、フィガロと伯爵はロジーナの部屋のバルコニーに到着するが、ロジーナは自分を伯爵に売った2人をなじる。伯爵はロジーナが、身分も金もない「リンドーロ」を愛していることを知り、感激して正体を明かす。(三重唱「ああ! 何と意外な展開でしょう!」)


2人が感激していると、カンテラの光が見え、誰かがやってきたことがわかる。逃げようとするとあるはずの梯子がなくなっていて、3人は進退窮まってしまう。光はドン・バジリオで結婚証明書の書類をもった公証人をつれてやってきたのだ。その公証人は先だってフィガロが伯爵のために結婚証明書を作るように依頼していた人物だったので、フィガロはバルコニーから声をかけ書類を受け取ろうとする。バジリオは驚いて止めようとするが、伯爵から指輪を渡されたうえ銃で脅され抵抗をやめる。伯爵とロジーナは書類に署名し、フィガロとドン・バジリオが証人となり、結婚が成立する。


バルトロが兵士を連れてきて、フィガロと伯爵を逮捕するように頼む。伯爵は結婚が成立したことと自らの身分を明かし、無駄な抵抗をやめるように命令する。バジリオに裏切られたバルトロは悔しがり、梯子を外したことが裏目に出たことを後悔するが、伯爵からロジーナの持参金は必要ないといわれ、鉾を収める。恋人たちを祝福してフィナーレ。(小フィナーレII「この素晴らしく幸せな結びつきを」)


曲目


序曲 Sinfonia


第1幕第1場
イントロダクション「静かに、静かに」(フィオレッロ、伯爵、合唱) Introduzione:Piano,pianissimo,senza parlar(Fiorello/Conte/Coro)
カヴァティーナ「ごらん、空がしらみ」(伯爵) Cavatina:Ecco ridente in cielo(Conte)
「静かに!見えたぞ」(伯爵、合唱) Tacete! geà veggo(Conte/Core)
イントロダクション(つづき)「どうだ、フィオレッロ?…」 Seguito dell'introduzion:Ehi, Fiorillo?(Conte/Fiorello)
「有難うございます…旦那さま…」(伯爵、フィオレッロ、合唱) Mille grazie mio Signore...(Conte/Fiorello/Coro)
レチタティーヴォ「ぶしつけな奴らだ!」(伯爵、フィオレッロ、フィガロ) Recitativo:Gente indiscretal(Conte/Fiorello/Figaro)
カヴァティーナ「ラ、ラン、ラ、レーラ…町の何でも屋に」(フィガロ) Cavatina:La ran la lera...Largo al factotum(Figaro)
レチタティーヴォ「ハッハッハ、何て楽しい生活だろう!」(フィガロ、伯爵) Recitativo:Ah ah! che bella vita!(Figaro/Conte)
「まだいらっしゃらない」(ロジーナ、伯爵、バルトロ、フィガロ) Non è venuto ancora(Rosina/Conte/Bartolo/Figaro)
「気の毒な娘だ!」(伯爵、フィガロ、バルトロ) Povera disgraziatal(Conte/Figaro/Bartolo)
カンツォーネ「もし私の名を知りたければ」(伯爵、ロジーナ、フィガロ) Canzone:Se il mio nome saper voi bramate(Conte/Rosina/Figaro)
レチタティーヴォ「何事だ!」(伯爵、フィガロ) Recitativo: O cielo!(Conte/Figaro)
二重唱「あの不思議にして万能の」(フィガロ、伯爵) Duetto: All'idea di quel metallo(Figaro/Conte)
「あの左側の15番」(伯爵、フィガロ) Numero quindici a mano manca (Conte/Figaro)
レチタティーヴォ「立派なご主人だぜ、まったく」(フィオレッロ) Recitativo: Evviva il mio Padrone! (Fiorello)
第1幕第2場
カヴァティーナ「ある声が今しがた」(ロジーナ) Cavatina: Una voce poco fa(Rosina)
「私は素直で」(ロジーナ) la sona docille(Rosina)
レチタティーヴォ「そうよ、きっと勝ってみせるわ」(ロジーナ) Recitativo: Sì, sì, la vincerò(Rosina)
「やあ、おはよう、お嬢さん」(フィガロ、ロジーナ) Oh buon dì, signorina(Figaro/Rosina)
「ああ、フィガロの悪党め!」(バルトロ、ロジーナ、ベルタ、アンブロージョ) Ah disgraziato Figaro!(Bartolo/Rosina/Berta/Ambrogio)
「ああ、ずる賢い床屋め…」(バルトロ、バジリオ) Ah! Barbiere d'inferno...(Bartolo/Basilio)
アリア「中傷とはそよ風です」(バジリオ) Aria: La calunnia è un venticello(Basilio)
レチタチーヴォ「さあ、いかがなものです?」(バジリオ、バルトロ) Recitativo: Ah! che ne dite?(Vasilio/Bartolo)
「立派だよ、ご両人! たいしたもんだ」(フィガロ、ロジーナ) Ma bravi! ma benone!(Figaro/Rosina)
二重唱「それじゃ私だわ……嘘じゃないわね?」(フィガロ、ロジーナ) Duetto: Dunque io son... tu non m'inganni?(Figaro/Rosina)
レチタティーヴォ「さあ、気分がよくなったわ」(ロジーナ、バルトロ) Ricitativo: Ora mi sento meglio(Rosina/Bartolo)
アリア「わしのような医者に向かって」(バルトロ) Aria: A un dottor della mia sorte(Bartoro)
「お嬢さん、今度」(バルトロ) Signorina, un'altra valta(Bartolo)
レチタティーヴォ「好きなだけ不平を言うがいいわ」(ロジーナ) Recitativo: Brontola quanto vuoi(Rosina)
「今しがたまでこの部屋で」(ベルタ、伯爵) Finora in questa camera(Barta/Cone)
フィナーレI「おーい、誰か!…親切なお方…」(伯爵、バルトロ) Finale 1: Ehi di casa!... buona gente(Conte/Bartolo)
「ああ、私の喜びである」(伯爵、バルトロ、ロジーナ) Ah venisse il caro oggeto(Conte/Bartolo/Rosina)
「何事ですか」(フィガロ、バルトロ、伯爵、ロジーナ、ベルタ、バジリオ) Che casa accadde(Figaro/Bartolo/Conte/Rosina/Berta/Basilio)
「静かに。扉を叩いている」(伯爵、バルトロ、ロジーナ、ベルタ、バジリオ、フィガロ) Zitti, chè battone(Conte/Bartolo/Rosina/Berta/Basilio/Figaro)
「皆やめろ」(伯爵) Fermi tutti(Coro)
「この兵隊のわからず屋が」(バルトロ、フィガロ、バジリオ、伯爵、ロジーナ、ベルタ、士官) Questa vesita di soldato(Bartolo/Figaro/Basilio/Conte/Rosina/Berta/Ufficial)
「冷たく、動かない。まるで彫像のように」(ロジーナ、伯爵、バルトロ、フィガロ、バジリオ) Fredda ed immobile come una statua(Rosina/Conte/Bartolo/Figaro/Basilio)
フィナーレIのストレッタ「しかし、あなた」「黙れ!」(バルトロ、合唱) Stretta del Finale 1: Ma Signor/Zitto tu!(Bartolo/Coro)
「まるでもの凄い鍛冶屋の中に」(バルトロ、合唱、ベルタ、バジリオ、伯爵、フィガロ、ロジーナ) Mi par d'essere con la testa(Bartolo/Coro/Berta/Basilio/Conte/Figaro/Rosina)


第2幕
レチタティーヴォ「しかしやっかいなことになった!」(バルトロ) Recitativo: Mavedi il mio destino!(Bartolo)
二重唱「あなたに平安と喜びがありますように」(伯爵、バルトロ) Duetto: Pace e gioia sia con voi(Conte/Bartolo)
レチタティーヴォ「要するに、あなた」(伯爵、バルトロ) Recitativo: Insomma, mio signore(Conte/Bartolo)
「おいで、お嬢ちゃん」(バルトロ、ロジーナ、伯爵) Venite, signorina(Bartolo/Rosina/Conte)
アリア「真実にして不屈の情熱をもつ」(ロジーナ) Aria: Contro un cor che accende amore(Rosina)
「ほほえむ優しい姿」(ロジーナ、伯爵) Cara immagine ridente(Rosina/Conte)
レチタティーヴォ「美しいお声です! とてもお上手です!」(伯爵、ロジーナ、バルトロ) Recitativo: Bella voce! bravissima!(Conte/Rosina/Bartolo)
アリエッタ「お前がそばにいる時は」(バルトロ) Arietta: Quando mi sei vicina(Bartolo)
レチタティーヴォ「お見事、床屋さん、うまいものだ!」(バルトロ、フィガロ、ロジーナ、伯爵) Recitativo: Bravo, signor Barbiere, ma bravo!(Bartolo/Figaro/Rosina/Conte)
五重唱「ドン・バジリオ!」「なんということだ!」(ロジーナ、伯爵、フィガロ、バルトロ、バジリオ) Quintetto: Don Basilio/Casa veggo!(Rosina/Conte/Figaro/Bartolo/Basilio)
「さようなら、先生」(ロジーナ、伯爵、フィガロ、バルトロ、バジリオ) Buona sera, mio signore(Rosina/Conte/Figaro/Bartolo/Basilio)
「さあさあ、ドン・バルトロ先生」(フィガロ、バルトロ、伯爵、ロジーナ) Orsù, signor Don Bartolo(Figaro/Bartolo/Conte/Rosina)
「悪人ども、チンピラども!」(フィガロ、バルトロ、伯爵、ロジーナ) Bricconi, birbanti!(Figaro/Bartolo/Conte/Rosina)
レチタティーヴォ「ああ! ひどい目に遭った」(バルトロ) Recitativo: Ah! disgraziato me!(Bartolo)
「何て疑い深い爺さんだろう!」(ベルタ) Che vecchio sospettoso!(Berta)
アリア「爺さんは妻を求め」(ベルタ) Aria: Il vecciotto cerca moglie(Berta)
レチタティーヴォ「では、あなたはドン・アロンゾなんて」(バルトロ、バジリオ) Recitativo: Dunque coi, Dn Alonso(Bartolo/Basilio)
「好むと好まざるにかかわらず」(バルトロ、ロジーナ) Per forza o per amore(Bartolo/Rosina)
Temporale 嵐の音楽
レチタティーヴォ「やっと着きましたよ」(フィガロ、伯爵、ロジーナ) Recitativo: Alfine, eccoci qua(Figaro/Conte/Rosina)
三重唱「ああ! 何と意外な展開でしょう!」(ロジーナ、フィガロ、伯爵) Terzetto: Ah! qual colpo inaspettato(Rosina/Figaro/Conte)
「黙って、黙って、静かに、静かに」(ロジーナ、伯爵、フィガロ) Zitti, zitti, piano, piano(Rosina/Conte/Figaro)
レチタティーヴォ「ああ、まずいことになった!」(フィガロ、伯爵、ロジーナ) Recitativo: Ah disgraziati noi!(Figaro/Conte/Rosina)
「ドン・バルトロ! ドン・バルトロ!」(バジリオ、フィガロ、士官、伯爵、ロジーナ) Don Bartolo, Don Bartolo!(Basilio/Figaro/Ufficiale/Conte/Rosina)
「みんな動くな。ほら奴らはここにいる」(バルトロ、フィガロ、士官、伯爵、ロジーナ) Fermi tutti. Eccoli qua!(Bartolo/Figaro/Ufficiale/Conte/Rosina)
レチタティーヴォ・インストルメンタート「伯爵だと! おお何たることだ!」(バルトロ、伯爵) Recitativo instrumentato: Il Conte! ah, che mai sento!(Bartolo/Conte)
アリア「もう逆らうのをやめろ」(伯爵) Aria: Cessa di più resistere(Conte)
「横暴な悪の権力の」(伯爵) E tu, infelice vittima(Conte)
「さあ皆さん」(伯爵、合唱) Cari amici(Conte/Coro)
「ああ、私の心は恋人たちの中で」(伯爵、合唱) Ah il piu lieto, il piu felice(Conte/Coro)
レチタティーヴォ「要するに、わしは何もかも間違っておった」(バルトロ、フィガロ、バジリオ、伯爵、ロジーナ) Recitativo: Insomma, io ho tutti i toriti!(Bartolo/Figaro/Basilio/Conte/Rosina)
小フィナーレII「この素晴らしく幸せな結びつきを」(フィガロ、ベルタ、バルトロ、バジリオ、ロジーナ、伯爵、合唱) Finaletto 2: Di si felice innesto(Figaro/Berta/Bartolo/Basilio/Rosina/Conte/Coro)


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%93%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%AE%E7%90%86%E9%AB%AA%E5%B8%AB

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[近代史6] マウロ・ジュリアーニ(Mauro Giuseppe Sergio Pantaleo Giuliani, 1781 – 1829)
マウロ・ジュリアーニ(Mauro Giuseppe Sergio Pantaleo Giuliani, 1781 – 1829)

ギター協奏曲1番
3.0点
ジュリアーニの協奏曲は1番が有名だそうだが、1聴した限りでは3番が好み。1番はギター協奏曲としての良さは十分だが、割とノーマルな音楽に感じた。

ギター協奏曲2番
2.5点
いい曲認定は出来ないが、古典派音楽のギター協奏曲というだけでも素敵で、ギターが好きな人は聴く価値がある。

ギター協奏曲3番
4.0点
この曲は好み。かなり良い。ギターの美しさに満ちており、古典派音楽の良い部分とうまく結合している。3つの楽章すべてがよい。穏やかで愛らしく気品がある。

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2


マウロ・ジュゼッペ・セルジョ・パンタレーオ・ジュリアーニ(Mauro Giuseppe Sergio Pantaleo Giuliani, 1781年7月27日 - 1829年5月8日)は、ウィーンで活躍したナポリ王国のギタリスト・作曲家。19世紀初頭におけるクラシック・ギターのヴィルトゥオーゾの一人と看做されている。


生涯
ビシェーリエに生まれるが、早くから兄ニコラとともにバルレッタに移り、その地を学習の拠点とした。初めはチェロの指導を受け、生涯にわたってこの楽器を完全に諦めたわけではなく、またおそらくヴァイオリンも学んでいたらしい。その後ギターに没頭するようになり、わずかな期間で非常に熟練したギター奏者に成長した。ジュリアーニがついた教師については不明であり、ジュリアーニのイタリア時代の活動についても厳密に分かっているわけではない。

マリア・ジュゼッペ・デル・モナコと結婚し、息子ミケーレ(1801年 バルレッタ - ?)を授かる。その後は一時期ボローニャやトリエステに滞在していたらしい。1806年の夏、チェロやギター、対位法の学習を済ませると、家族を残したままウィーンに出向く。この地でヴィルムート嬢(Fräulein Willmuth)という女性と関係を結び、1807年には1女マリアを儲けた。

ウィーンでは、古典派の器楽曲の様式に通じるようになり、1807年には古典派様式による自作の出版に取り掛かる。ヨーロッパ全土に演奏旅行に乗り出し、行く先々で、その超絶技巧や音楽的な趣味が称賛された。大成功をおさめて音楽界の名士となり、19世紀初頭のウィーンで活躍した演奏家や作曲家のなかでも、最高の一人に数えられた。

ジュリアーニは、西洋音楽の状況において、ギターの新たな役割を洗練させた音楽家である。オーストリア帝国の上流社会や、ベートーヴェンやロッシーニのような著名な作曲家にも知られるようになり、ウィーンで最も活動的な演奏家と共演した。1815年にピアニストのヨハン・ネポムク・フンメル(その後はイグナツ・モシェレス)、ヴァイオリニストのヨーゼフ・マイゼーダー、チェリストのメルクとともに、シェーンブルン宮殿の植物園で(入場料が1ドゥカートだったことにちなんで「ドゥカーテン・コンツェルト」と呼ばれた)一連の室内楽の演奏会を行なった。ジュリアーニはこれに出演したことで、ウィーンの音楽環境の中で名声を馳せた。同じく1815年には、ウィーンの帝国議会の名士たちのための公式の演奏家となった。それ以前の1813年12月8日には、ベートーヴェンの《交響曲 第7番》の初演にも(おそらくチェリストとして)参加している。

ウィーンでは、作曲家としてはささやかながら成功した。ジュリアーニは、ほとんど楽譜出版社アルタリアと提携しており、同社がジュリアーニのギター曲の大部分を出版したのだが、その他の地域のあらゆる出版社と取り引きし、自作をヨーロッパ各地に広めてもらった。また、ギター教師としても名声を得て、ボブロヴィッチやホレツキーら、数々の門人を輩出した。

1819年に、主に経済的な理由から、ウィーンを後にする(財産や預貯金は、債権者への返済のために差し押さえられていた)。イタリアに戻ると、トリエステやヴェネツィアに過ごし、ついにローマに落ち着いた。ローマでは大して成功せず、わずかな作品を出版し、1度きりの演奏会を開いただけだった。この間、1813年生まれの娘エミリアは、1821年から1826年まで腹違いの姉妹マリアとともに、ラドラツィオーネ・デル・ジェズー女子修道院で教育を受けている。

1823年7月は、重病の父親を見舞いに、たびたびナポリを訪ねている。両シチリア王国の都では、ジュリアーニの評価が好転し、地方の出版社によって、その他のギター曲を出版してもらうことができた。1826年には、ポルティチにてフランチェスコ1世とボルボーネ家の宮廷のために御前演奏を披露した。この頃がさしずめジュリアーニのナポリ時代であり、同じく巧みなギター奏者に成長した娘エミリアとしばしば共演するようになった。1828年の末までに体を壊し、1829年5月8日にナポリで生涯を閉じた。ジュリアーニの訃報に、ナポリの音楽界はほとんど動揺しなかったという。

作品
ジュリアーニは、ギター曲の作曲家として変奏曲形式を非常に好んだ。変奏曲はウィーンで大変人気のあるジャンルでもあった。ジュリアーニは、楽器の特性に逆らわずに、旋律を音楽的な効果のあるパッセージに織り上げていくことのできる能力が際立っていた。このような能力の実例の一つが、《ヘンデルの主題による変奏曲》作品107である。この主題は、ヘンデルの《ハープシコード組曲 第5番 ホ長調》の「アリアと変奏」から、現在「調子の良い鍛冶屋」の俗称で知られるアリア主題にほかならない。

ジュリアーニの作曲家としての業績は数多い。作品番号にして150曲のギター曲は、19世紀のギター曲のレパートリーの中核をなしている。きわめて難度の高い楽曲を、ギター独奏用に書いただけでなく、室内楽(ヴァイオリンやフルートとの二重奏曲)や協奏曲においても作曲した。

ジュリアーニの目立った作品といえば、3つのギター協奏曲(作品30、作品36、作品70)や、ギター独奏用の6つの幻想曲(作品119〜作品124。ロッシーニのアリアを原曲とし、「ロッシニアーナ(Rossiniane)」と呼ばれる)、《ギター五重奏曲》作品65、イタリア様式による大序曲、ギター伴奏歌曲集などである。

多くの交響楽をギター独奏用ないしはギター二重奏用に編曲しており、たとえばロッシーニの《セビリアの理髪師》序曲のトランスクリプションといった例がある。さらに、教育用の作品も数多く手がけており、中には今なおギター教師によって練習曲として利用されるものもある。

また、ジュリアーニは共作もいくつか手掛けている。上記の演奏会で共演したフンメルとはギターとピアノのための《国家の大ポプリ Grand Potpourri National》(ジュリアーニは作品93、フンメルは作品79として出版)、モシェレスとはピアノとギター、または2台のピアノのための《協奏的大二重奏曲》(モシェレスは作品20として出版)を作曲している。《協奏的大二重奏曲》の第4楽章ではジュリアーニ自身の《練習曲》作品48-12が登場する。

フェルナンド・ソルの全集が録音や楽譜によって企画および成功されることがあっても、ジュリアーニのギター作品全集を録音で達成した人物はまだ誰もいないばかりか、会社によるプロジェクトも成功例はいまだにない[1]。

主要作品一覧

協奏的作品
ギターと管弦楽のための協奏曲(Concerto)作品30 1812年頃
ギターと管弦楽のための大協奏曲(Gran Concerto)作品36 1812年頃
ギターと管弦楽のための大協奏曲(Gran Concerto)作品70 1822年頃

室内楽曲
ギター、ヴァイオリン、チェロのための《セレナーデ》作品19
ヴァイオリンとギターのための《協奏的二重奏曲》(Duo Concertante)作品25
フルートないしはヴァイオリンとギターのための《協奏的大二重奏曲(大ソナタ)》(Gran Duetto Concertante)作品52 1812年頃
弦楽四重奏とギターのための《大五重奏曲》(Gran Quintetto)作品65 1812年頃
フルートとギターのための《大セレナータ》(Gran Serenata)作品82
フルートないしはヴァイオリンとギターのための《協奏的大二重奏曲(大ソナタ)》(Gran Duetto Concertante)作品85 1817年頃
大協奏曲(Gran Concerto)作品36(ピアノ伴奏版)1824年頃
大協奏曲(Gran Concerto)作品70(ピアノ伴奏版)1824年頃

ギター二重奏曲
協奏的大変奏曲(Grandi Variazioni Concertanti)作品35 1833年
協奏的ポロネーズ(Polonesi concertanti)作品137

ギター独奏曲
ソナタ ハ長調(Sonata)作品15 1812年頃
3つの華麗なるソナタ(Tre Sonate Brillanti)作品96
大ソナタ「英雄」(Gran Sonata Eroica)作品150 1843年頃
大序曲(Grande Ouverture)作品61 1809年
ロンド ハ長調(Rondo en La Mayor)作品14-4
「皿と平鍋」の旋律と6つの変奏(Sei variazioni sull'aria "A Schisserl und a Reindl")作品38 1812年
華麗なる変奏曲(Variazioni Brillanti)作品87 1815年頃
大変奏曲(Grandi Variazioni)作品88
幻想曲《ロッシニアーナ 第1番》Rossiniana 作品119 1820年頃
幻想曲《ロッシニアーナ 第2番》作品120 1821年頃
幻想曲《ロッシニアーナ 第3番》作品121 1821年頃
幻想曲《ロッシニアーナ 第4番》作品122 1824年頃
幻想曲《ロッシニアーナ 第5番》作品123 1824年頃
幻想曲《ロッシニアーナ 第6番》作品124 1828年頃

ギター伴奏歌曲
声楽のための《6つのカヴァティーナ》(Sei Cavatine)作品39
ソプラノのための《6つのリート》(Sei Lieder)作品89

著作
Mauro Giuliani: Studio per la chitarra. Type: Italian : Book Book. Publisher: Bonn [etc.] : chez N. Simrock [etc.], [1812] OCLC 68319701
Mauro Giuliani: 120 daily guitar studies for the right hand. Type: English : Book Book Publisher: New York : Celesta Pub. Co., [©1949] OCLC 42884308


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%8B

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[近代史6] マウロ・ジュリアーニ ギター協奏曲 第3番 作品70
マウロ・ジュリアーニ ギター協奏曲 第3番 作品70


Mauro Giuliani: Guitar Concerto No.3 in F major, Op.70, Pepe Romero (guitar)



Pepe Romero (guitar)
Academy of St Martin in the Fields
Neville Marriner (conductor)
Recorded: 1976-09-23


1. Allegro moderato – 0:00
2. Andantino alla Siciliana con variazioni – 13:14
3. Polonaise. Allegretto – 19:48



Mauro Giuliani - Guitar Concerto No.3 in F-major, Op.70 (1822)



Mov.I: Allegro moderato 00:00
Mov.II: Andantino alla Siciliana con variazioni 12:08
Mov.III: Polonaise (Allegretto) 18:33


Guitar: Edoardo Catemario
Orchestra: Wiener Akademie
Conductor: Martin Haselböck




Mauro Giuliani: Guitar Concerto No. 3, Paolo Pugliese, Ensemble Ottocento



I.Allegro moderato 0:00
II.Andantino alla siciliana con variazioni 13:09
III.Polonaise (Allegretto) 20:06


Paolo Pugliese, guitar (Terz Guitar Vito & Antonio Garganese, c.1880)
Ensemble Ottocento (on original instruments)
Andrea Rognoni, leader


Recording date: 2002. Cd released in 2003.



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[近代史6] ルイジ・ボッケリーニ(Luigi Rodolfo Boccherini、1743 - 1805)
ルイジ・ボッケリーニ(Luigi Rodolfo Boccherini、1743 - 1805)

ハイドンのライバルの一人。有名なメヌエットに限らずなかなか高いクオリティの曲を書く良い作曲家であり、古典派の魅力を楽しめる。


交響曲ニ短調Op.12-4 G.506『悪魔の家』

交響曲ハ短調Op.41 G.519(1788/1797出版)
3.0点
古典派の短調の交響曲として、どの楽章もなかなか完成度が高く内容的にも充実している。ハイドンやモーツァルトを聴いた後に次に手を出すにはよいと思う。

チェロ協奏曲第9番変ロ長調G.482
2.5点
チェロの技巧的な難易度が高そうでチェリストの意欲をそそるのかもしれない。しかしながら観賞用の曲としてはいい曲とまではいかない。

弦楽五重奏曲ホ長調Op.11-5 G.275[4楽章](第3楽章は『ボッケリーニのメヌエット』として有名)

3つの弦楽五重奏曲Op.39 G.337〜339(1787)[2vn,va,vc,cb]
3.5点
コントラバスが入っているとオーケストラのような重厚感が出る。音楽的にもなかなかの充実感で楽しく聴き終えて満足できる。

弦楽五重奏曲集 作品27
3.0点
すごい特徴や素晴らしさがあるというわけではないが、安心のハイクオリティである。

フルートとハープのためのソナタ集 作品5
3.0点
編成のせいでホテルのロビーにかかっているような音楽になっているが、割とちゃんと書かれているように聞こえるので楽しい。決してただの機会音楽ではないように感じる。

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ルイジ・ボッケリーニ(Ridolfo Luigi Boccherini, 1743年2月19日[1] - 1805年5月28日[2])は、イタリア・ルッカ生まれの作曲家、チェロ奏者。

同時代のハイドン、モーツァルトに比して現在では作曲家としては隠れた存在であるが、存命中はチェロ演奏家として名高く、チェロ協奏曲、チェロソナタに加え、弦楽四重奏曲を90曲以上、弦楽四重奏にチェロを1本加えた弦楽五重奏曲を100曲以上作曲し、自身で演奏も行った。その中でも弦楽五重奏曲ホ長調G275の第3楽章は「ボッケリーニのメヌエット」として有名である。

その作風はハイドンに似ていながら優美で時に憂いを含むものであり、ヴァイオリニストのジュゼッペ・プッポ(イタリア語版)からはハイドン夫人(Signora Haydn)と呼ばれた。

台本作家のジョヴァンニ・ガストーネ・ボッケリーニは兄。


生涯
当時弦楽器が盛んだったイタリアのルッカに5人兄弟の3番目として生まれる。(ルッカは後にプッチーニの生誕地としても有名)。父レオポルドは町楽師のチェロ・コントラバス奏者だった。彼や、ルッカ大聖堂楽長のフランチェスコ・ヴァヌッチらからチェロを学び、13歳でデビューを果たした。その後ローマでも研鑽を積み、20歳前半には父と共にウィーンの宮廷に勤め高い評価を得る。

父が亡くなった後はヴァイオリン奏者のフィリッポ・マンフレーディと組み、ヨーロッパ中で華々しく演奏活動を行う。1768年には演奏会の本場パリのコンセール・スピリチュエルで成功を収めるなど、名声を極めるが、1769年スペインの宮廷に招かれドン・ルイス皇子付き奏者兼作曲家となり、マドリッドで後半生を送った。(同時期に画家のゴヤもドン・ルイス皇子の庇護を受けている)。

かつては1785年ドン・ルイス皇子の死去後はブランデンブルク=プロイセンに渡りフリードリヒ・ヴィルヘルム2世に仕えたと伝えられていたが、実際には王室作曲家のままスペインを離れず、作品をブランデンブルク=プロイセンに送っていたらしい。晩年は失職し貧困と忘却の内にこの世を去った。遺骨は1927年になり生地ルッカへと移されている。

作品
ボッケリーニはハイドン、モーツァルトと同時代の作曲家でありながら、彼らとは一味異なる独特な作風を固持しているといわれる。

つまりモチーフの展開を中心としたソナタ形式を必ずしも主体とせず、複数のメロディーを巧みに繰り返し織り交ぜながら情緒感を出していくのがその特徴で、時としてその音楽は古めかしいバロック音楽のようにも斬新なロマン派音楽のようにも聞こえる。また、後期の作品にはスペインの固有音楽を取り入れ国民楽派の先駆けとも思える作品を作っている。

これは一つにはボッケリーニ自身が当時まだ通奏低音に使われることの多かったチェロのヴィルトゥオーソであったため、自らを主演奏者とする形式性より即興性を生かした音楽を作ったこと、また、当時の音楽の中心地であるウィーンやパリから離れたスペインの地で活躍していたこともその理由として考えられる。

ボッケリーニの音楽史上の功績としては室内楽のジャンル確立が挙げられる。弦楽四重奏曲と、とりわけ弦楽五重奏曲では抜きん出た量と質を誇っているが、ジャンル確立に欠かせない四声を対等に扱うという点では最初期の作品(例えば弦楽四重奏曲Op.2 G.159〜164(1761年))において十分完成されており、これは同時代のハイドンの作品群を凌駕している[3]。

ベートーヴェンの活躍以降、ボッケリーニのような形式をさほど重視しない音楽は主流とは見なされず、20世紀まで一部の楽曲を除き忘れ去られていたが、近年になりその情緒的で優美な作品を再評価する動きも出てきており、その中にはチェリストのアンナー・ビルスマもいる。

逸話

ドン・ルイス皇子の家族(1783)ゴヤ画(左脇の画家はゴヤ自身、右から3人目で立って腕組みしているのがボッケリーニと思われる)
ボッケリーニがマドリッドに来た時、王家直属の音楽長には同じイタリア人のガエターノ・ブルネッティが既に就任しており、ボッケリーニは王位を巡る紛争で幽閉状態であった王の弟ドン・ルイス皇子付き作曲家という地位に甘んじなければならなかった。この地位は生涯変わる事は無かったが、その謎を解く鍵となる逸話が、ボッケリーニの子孫に伝えられている。

ある日のこと、ボッケリーニの新しい室内楽の評判を聞いたカルロス皇子(後のカルロス4世)は、彼を宮廷に招き、自らその曲の演奏に加わる機会を作った。カルロス皇子は第1ヴァイオリンを担当した。途中、第1ヴァイオリンに「ド、シ、ド、シ」を繰り返す場面があり、暫く我慢していた皇子もその長さに痺れを切らしてこう言った。「ド、シ、ド、シ!こりゃひどい、初心者でもこうは書くまい!」ボッケリーニは反論する。「殿下、よくお聴き下さい、第1ヴァイオリンの繰り返しの間に奏でられる第2ヴァイオリンとヴィオラの響き、またチェロによるピチカートを!これらの音の対話が見事になされた時、そのフレーズが単調との思いは失われるでしょう」「ド、シ、ド、シ!半時も!なんと愉快な対話だ。下手な初学者の悪い見本だな」ボッケリーニは引かなかった。「殿下、斯様な判断をされる前に御自身の音楽への理解を御深め下さい」怒った皇子はボッケリーニの脚を掴み、窓から落とさんばかりであった。その後、二度と王家に呼ばれる事は無かった。

それから暫くしてブルネッティは王家への御追従から、ド、シ、ド、シをわざと繰り返す交響曲を作り「変人(Il maniatico)」と表題をつけたといわれている[4]。

主な楽曲

交響曲

交響曲ニ長調G.490(1765頃)[3楽章](カンタータ『サビネとローマの同盟』の序曲として作曲)
交響曲ニ長調G.500(1767出版)[4楽章](偽作か,ドゥランジェ作曲?)

6つの交響曲Op.12(16) G.503〜508(1771出版)
交響曲ニ長調Op.12-1 G.503[4楽章]
交響曲変ホ長調Op.12-2 G.504[3楽章](協奏交響曲的な作品)
交響曲ハ長調Op.12-3 G.505[4楽章]
交響曲ニ短調Op.12-4 G.506『悪魔の家』[3楽章](グルックの『ドン・ジュアン』シャコンヌの主題に基づく)
交響曲変ロ長調Op.12-5 G.507[4楽章]
交響曲イ長調Op.12-6 G.508[4楽章]

6つの交響曲Op.21(22) G.493〜498(1775)
交響曲変ロ長調Op.21-1 G.493[3楽章]
交響曲変ホ長調Op.21-2 G.494[3楽章]
交響曲ハ長調Op.21-3 G.495[3楽章]
交響曲ニ長調Op.21-4 G.496[3楽章]
交響曲変ロ長調Op.21-5 G.497[3楽章]
交響曲イ長調Op.21-6 G.498[3楽章]

6つの交響曲Op.35 G.509〜514(1782)
交響曲ニ長調Op.35-1 G.509[3楽章]
交響曲変ホ長調Op.35-2 G.510[3楽章]
交響曲イ長調Op.35-3 G.511[3楽章]
交響曲ヘ長調Op.35-4 G.512[3楽章]
交響曲変ホ長調Op.35-5 G.513[3楽章]
交響曲変ロ長調Op.35-6 G.514[3楽章]

4つの交響曲Op.37 G.515〜518(1786)
交響曲ハ長調Op.37-1 G.515 [4楽章]
交響曲ニ長調Op.37-2 G.516[4楽章](2004年再発見)
交響曲ニ短調Op.37-3 G.517『神のもの』[4楽章]
交響曲イ長調Op.37-4 G.518 [4楽章]
交響曲ハ短調Op.41 G.519(1788/1797出版)[4楽章]
交響曲ニ長調Op.42 G.520(1789)[4楽章]
交響曲(序曲)ニ長調Op.43 G.521(1790)[1楽章]
交響曲ニ短調Op.45 G.522(1792)[4楽章]
交響曲ハ長調G.523『ギターオブリガート付き』(1798?)[3楽章](弦楽五重奏曲Op.10-4より編曲)
協奏交響曲ハ長調Op.7(8) G.491(1770出版)[2vn,Orch][3楽章]


その他の管弦楽曲
セレナードニ長調G.501(1776頃/1777出版)[7楽章]
6つのディヴェルティメントG.492


協奏曲
ピアノ協奏曲変ホ長調G.487[3楽章](おそらく偽作)
ヴァイオリン協奏曲ト長調G.485[3楽章](おそらく偽作)
ヴァイオリン協奏曲ニ長調G.486(1924出版)[3楽章](おそらく偽作)
チェロ協奏曲第1番変ホ長調G.474(1770〜72以前)[3楽章](疑作)
チェロ協奏曲第2番イ長調G.475[3楽章]
チェロ協奏曲第3番ニ長調G.476(1767?)[3楽章]
チェロ協奏曲第4番ハ長調G.477(1770出版)[3楽章]
チェロ協奏曲第5番ニ長調G.478[3楽章](20世紀に発見,疑作)
チェロ協奏曲第6番ニ長調G.479(1770出版)[3楽章](カサドがギター協奏曲に編曲)
チェロ協奏曲第7番ト長調G.480(1770出版)[3楽章](グリュッツマッヒャー編の原曲)
チェロ協奏曲第8番ハ長調G.481(1771出版)[3楽章]
チェロ協奏曲第9番変ロ長調G.482(1785頃?/1949出版)[3楽章](グリュッツマッヒャー編の原曲)
チェロ協奏曲第10番ニ長調(Op.34) G.483(1782?/1785出版)[3楽章]
チェロ協奏曲第11番ハ長調G.573(1766?)[3楽章](20世紀発見,疑作)
チェロ協奏曲第12番変ホ長調(G.番号なし)[3楽章](1986発見,偽作か)
フルート協奏曲ニ長調(Op.27) G.489(1770〜73頃/1780頃出版)(偽作,ポコルニー作曲)
フルート協奏曲ニ長調G.575(G.479より,偽作か)
フルート協奏曲ニ長調(1767?/1981発見)


弦楽六重奏曲

6つの協奏的六重奏曲Op.23(24) G.454〜459(1776)[2vn,2va,2vc]
協奏的六重奏曲変ホ長調Op.23-1 G.454[3楽章]
協奏的六重奏曲変ロ長調Op.23-2 G.455[4楽章]
協奏的六重奏曲ホ長調Op.23-3 G.456[4楽章]
協奏的六重奏曲ヘ短調Op.23-4 G.457[4楽章]
協奏的六重奏曲ニ長調Op.23-5 G.458[4楽章]
協奏的六重奏曲ヘ長調Op.23-6 G.459[4楽章]

弦楽六重奏曲ニ長調G.460[3vn,va,2vc](偽作か)


弦楽五重奏曲

6つの弦楽五重奏曲Op.10(12) G.265〜270(1771)[2vn,va,2vc]
弦楽五重奏曲イ長調Op.10-1 G.265[4楽章]
弦楽五重奏曲変ホ長調Op.10-2 G.266[4楽章]
弦楽五重奏曲ハ短調Op.10-3 G.267[4楽章]
弦楽五重奏曲ハ長調Op.10-4 G.268[3楽章]
弦楽五重奏曲変ホ長調Op.10-5 G.269[3楽章]
弦楽五重奏曲ニ長調Op.10-6 G.270[3楽章]

6つの弦楽五重奏曲Op.11(13) G.271〜276(1771)[2vn,va,2vc]
弦楽五重奏曲変ロ長調Op.11-1 G.271[3楽章]
弦楽五重奏曲イ長調Op.11-2 G.272[4楽章]
弦楽五重奏曲ハ長調Op.11-3 G.273[4楽章]
弦楽五重奏曲ヘ短調Op.11-4 G.274[4楽章]
弦楽五重奏曲ホ長調Op.11-5 G.275[4楽章](第3楽章は『ボッケリーニのメヌエット』として有名)
弦楽五重奏曲ニ長調Op.11-6 G.276『鳥小屋』[3楽章](ドン・ルイス皇子の鳥小屋を模した音楽)

6つの弦楽五重奏曲Op.13(20) G.277〜282(1772)[2vn,va,2vc]
弦楽五重奏曲変ホ長調Op.13-1 G.277[4楽章]
弦楽五重奏曲ハ長調Op.13-2 G.278[3楽章]
弦楽五重奏曲ヘ長調Op.13-3 G.279[4楽章]
弦楽五重奏曲ニ短調Op.13-4 G.280[3楽章]
弦楽五重奏曲イ長調Op.13-5 G.281[3楽章]
弦楽五重奏曲ホ長調Op.13-6 G.282[4楽章]

6つの弦楽五重奏曲Op.18(17) G.283〜288(1774)[2vn,va,2vc]
弦楽五重奏曲ハ短調Op.18-1 G.283[4楽章]
弦楽五重奏曲ニ長調Op.18-2 G.284[4楽章]
弦楽五重奏曲変ホ長調Op.18-3 G.285[4楽章]
弦楽五重奏曲ハ長調Op.18-4 G.286[4楽章]
弦楽五重奏曲ニ短調Op.18-5 G.287[3楽章]
弦楽五重奏曲ホ長調Op.18-6 G.288[4楽章]

6つの弦楽五重奏曲Op.20(23) G.289〜294(1775)[2vn,va,2vc]
弦楽五重奏曲変ホ長調Op.20-1 G.289[5楽章]
弦楽五重奏曲変ロ長調Op.20-2 G.290[4楽章]
弦楽五重奏曲変ホ長調Op.20-3 G.291[4楽章]
弦楽五重奏曲ト長調Op.20-4 G.292[4楽章]
弦楽五重奏曲ニ短調Op.20-5 G.293[4楽章]
弦楽五重奏曲ホ長調Op.20-6 G.294[4楽章]

6つの弦楽五重奏曲Op.25 G.295〜300(1778)[2vn,va,2vc]
弦楽五重奏曲ニ短調Op.25-1(36-1) G.295[3楽章]
弦楽五重奏曲変ホ長調Op.25-2(36-2) G.296[3楽章]
弦楽五重奏曲イ長調Op.25-3(36-3) G.297[3楽章]
弦楽五重奏曲ハ長調Op.25-4(47-9) G.298[4楽章]
弦楽五重奏曲ニ長調Op.25-5(37-17) G.299[5楽章]
弦楽五重奏曲イ短調Op.25-6(47-5) G.300[4楽章]

6つの小弦楽五重奏曲Op.27(33,49) G.301〜306(1779)[2vn,va,2vc]
小弦楽五重奏曲イ長調Op.27-1 G.301[2楽章]
小弦楽五重奏曲ト長調Op.27-2 G.302[2楽章]
小弦楽五重奏曲ホ長調Op.27-3 G.303[2楽章]
小弦楽五重奏曲変ホ長調Op.27-4 G.304[2楽章]
小弦楽五重奏曲ト短調Op.27-5 G.305[2楽章]
小弦楽五重奏曲ロ短調Op.27-6 G.306[2楽章]

6つの弦楽五重奏曲Op.28 G.307〜312(1779)[2vn,va,2vc]
弦楽五重奏曲ヘ長調Op.28-1(37-14) G.307[4楽章]
弦楽五重奏曲イ長調Op.28-2(37-18) G.308[4楽章]
弦楽五重奏曲変ホ長調Op.28-3(51-1) G.309[4楽章]
弦楽五重奏曲ハ長調Op.28-4(37-7) G.310[4楽章]
弦楽五重奏曲ニ短調Op.28-5(51-1) G.311[4楽章]
弦楽五重奏曲変ロ長調Op.28-6(37-15) G.312[4楽章]

6つの弦楽五重奏曲Op.29 G.313〜318(1779)[2vn,va,2vc]
弦楽五重奏曲ニ長調Op.29-1(47-12) G.313[4楽章]
弦楽五重奏曲ハ短調Op.29-2(48-1) G.314[4楽章]
弦楽五重奏曲ヘ長調Op.29-3(48-2) G.315[3楽章]
弦楽五重奏曲イ長調Op.29-4(48-6) G.316[4楽章]
弦楽五重奏曲変ホ長調Op.29-5(47-11) G.317[3楽章]
弦楽五重奏曲ト短調Op.29-6(48-3) G.318[3楽章]

6つの小弦楽五重奏曲Op.30 G.319〜324(1780)[2vn,va,2vc]
小弦楽五重奏曲変ロ長調Op.30-1 G.319[2楽章]
小弦楽五重奏曲イ短調Op.30-2 G.320[2楽章]
小弦楽五重奏曲ハ長調Op.30-3 G.321[2楽章]
小弦楽五重奏曲変ホ長調Op.30-4 G.322[2楽章]
小弦楽五重奏曲ホ短調Op.30-5 G.323[2楽章]
小弦楽五重奏曲ハ長調Op.30-6 G.324『マドリッドの通りの夜の音楽』[5楽章]

6つの弦楽五重奏曲Op.31 G.325〜330(1780)[2vn,va,2vc]
弦楽五重奏曲変ホ長調Op.31-1(48-5) G.325[4楽章]
弦楽五重奏曲ト長調Op.31-2 G.326[4楽章]
弦楽五重奏曲変ロ長調Op.31-3 G.327[4楽章]
弦楽五重奏曲ハ短調Op.31-4(47-10) G.328[4楽章]
弦楽五重奏曲イ長調Op.31-5 G.329[4楽章]
弦楽五重奏曲ヘ長調Op.31-6(48-4) G.330[4楽章]

6つの小弦楽五重奏曲Op.36 G.331〜336(1784〜86)[2vn,va,2vc]
小弦楽五重奏曲変ホ長調Op.36-1 G.331[2楽章]
小弦楽五重奏曲ニ長調Op.36-2 G.332[2楽章]
小弦楽五重奏曲ト長調Op.36-3 G.333[2楽章]
小弦楽五重奏曲イ短調Op.36-4 G.334[2楽章]
小弦楽五重奏曲ト短調Op.36-5 G.335[2楽章]
小弦楽五重奏曲ヘ長調Op.36-6 G.336[2楽章]

3つの弦楽五重奏曲Op.39 G.337〜339(1787)[2vn,va,vc,cb]
弦楽五重奏曲変ロ長調Op.39-1(37-20) G.337[6楽章]
弦楽五重奏曲ヘ長調Op.39-2(47-4) G.338[4楽章]
弦楽五重奏曲ニ長調Op.39-3(37-23) G.339[3楽章]

6つの小弦楽五重奏曲Op.40(50) G.340〜345(1788)[2vn,va,2vc]
小弦楽五重奏曲イ長調Op.40-1(50-4) G.340[2楽章]
小弦楽五重奏曲ニ長調Op.40-2(50-2) G.341『ファンダンゴ』[3楽章]
小弦楽五重奏曲ニ長調Op.40-3(50-3) G.342[2楽章]
小弦楽五重奏曲ハ長調Op.40-4(50-1) G.343[2楽章]
小弦楽五重奏曲ホ短調Op.40-5(50-5) G.344[2楽章]
小弦楽五重奏曲変ロ長調Op.40-6(50-6) G.345[2楽章]

2つの弦楽五重奏曲Op.41 G.346〜347(1788)[2vn,va,2vc]
弦楽五重奏曲変ホ長調Op.41-1(37-12) G.346[4楽章]
弦楽五重奏曲ヘ長調Op.41-2(37-22) G.347[4楽章]

4つの弦楽五重奏曲Op.42 G.348〜351(1789)[2vn,va,2vc]
弦楽五重奏曲ヘ短調Op.42-1(37-19) G.348[4楽章]
弦楽五重奏曲ハ長調Op.42-2(47-8) G.349[4楽章]
弦楽五重奏曲ロ短調Op.42-3 G.350[2楽章]
弦楽五重奏曲ト短調Op.42-4(37-13) G.351[4楽章]

3つの弦楽五重奏曲Op.43 G.352〜354(1790)[2vn,va,2vc]
弦楽五重奏曲変ホ長調Op.43-1 G.352[2楽章]
弦楽五重奏曲ニ長調Op.43-2 G.353[3楽章]
弦楽五重奏曲ヘ長調Op.43-3(47-3) G.354[3楽章]

4つの弦楽五重奏曲Op.45 G.355〜358(1792)[2vn,va,2vc]
弦楽五重奏曲ハ短調Op.45-1(37-18) G.355[4楽章]
弦楽五重奏曲イ長調Op.45-2(37-4) G.356[4楽章]
弦楽五重奏曲変ロ長調Op.45-3(47-1) G.357[4楽章]
弦楽五重奏曲ハ長調Op.45-4(37-1) G.358[4楽章]

6つの弦楽五重奏曲Op.46 G.359〜364(1793)[2vn,va,2vc]
弦楽五重奏曲変ロ長調Op.46-1(37-10) G.359[4楽章]
弦楽五重奏曲ニ短調Op.46-2(47-2) G.360[4楽章]
弦楽五重奏曲ハ長調Op.46-3(37-16) G.361[4楽章]
弦楽五重奏曲ト短調Op.46-4(37-2) G.362[4楽章]
弦楽五重奏曲ヘ長調Op.46-5(37-21) G.363[4楽章]
弦楽五重奏曲変ホ長調Op.46-6(37-3) G.364[4楽章]

5つの弦楽五重奏曲Op.49 G.365〜369(1794)[2vn,va,2vc]
弦楽五重奏曲ニ長調Op.49-1(37-11) G.365[4楽章]
弦楽五重奏曲変ロ長調Op.49-2(37-9) G.366[4楽章]
弦楽五重奏曲変ホ長調Op.49-3(47-7) G.367[4楽章]
弦楽五重奏曲ニ短調Op.49-4(37-6) G.368[4楽章]
弦楽五重奏曲変ホ長調Op.49-5(37-5) G.369[4楽章]

6つの小弦楽五重奏曲Op.50 G.370〜375(1795)[2vn,va,2vc]
小弦楽五重奏曲イ長調Op.50-1(51-4) G.370[2楽章]
小弦楽五重奏曲変ホ長調Op.50-2(51-5) G.371[2楽章]
小弦楽五重奏曲変ロ長調Op.50-3 G.372[2楽章]
小弦楽五重奏曲ホ長調Op.50-4(51-6) G.373[2楽章]
小弦楽五重奏曲ハ長調Op.50-5(51-3) G.374[2楽章]
小弦楽五重奏曲変ロ長調Op.50-6 G.375[2楽章]

2つの弦楽五重奏曲Op.51 G.376〜377(1795)[2vn,va,2vc]
弦楽五重奏曲変ホ長調Op.51-1(47-6) G.376[4楽章]
弦楽五重奏曲ハ短調Op.51-2(37-24) G.377[4楽章]

6つの弦楽五重奏曲Op.60 G.391〜396(1801)[2vn,2va,vc]
弦楽五重奏曲ハ長調Op.60-1 G.391[5楽章]
弦楽五重奏曲変ロ長調Op.60-2 G.392[3楽章]
弦楽五重奏曲イ長調Op.60-3 G.393[4楽章]
弦楽五重奏曲変ホ長調Op.60-4 G.394 〔消失〕
弦楽五重奏曲ト長調Op.60-5 G.395[4楽章]
弦楽五重奏曲ヘ長調Op.60-6 G.396[4楽章]

6つの弦楽五重奏曲Op.62 G.397〜402(1802)[2vn,2va,vc]
弦楽五重奏曲ハ長調Op.62-1 G.397[4楽章]
弦楽五重奏曲変ホ長調Op.62-2 G.398[4楽章]
弦楽五重奏曲ヘ長調Op.62-3 G.399[4楽章]
弦楽五重奏曲変ロ長調Op.62-4 G.400[4楽章]
弦楽五重奏曲ニ長調Op.62-6 G.401[3楽章]
弦楽五重奏曲ホ長調Op.62-6 G.402[3楽章]


弦楽四重奏曲

6つの弦楽四重奏曲Op.2 G.159〜164(1761)
弦楽四重奏曲ハ短調Op.2-1 G.159[3楽章]
弦楽四重奏曲変ロ長調Op.2-2 G.160[3楽章]
弦楽四重奏曲ニ長調Op.2-3 G.161[3楽章]
弦楽四重奏曲変ホ長調Op.2-4 G.162[3楽章]
弦楽四重奏曲ホ長調Op.2-5 G.163[3楽章]
弦楽四重奏曲ハ長調Op.2-6 G.164[3楽章]

6つの弦楽四重奏曲Op.8 G.165〜170(1769)
弦楽四重奏曲ニ長調Op.8-1 G.165[3楽章]
弦楽四重奏曲ハ短調Op.8-2 G.166[3楽章]
弦楽四重奏曲変ホ長調Op.8-3 G.167[3楽章]
弦楽四重奏曲ト短調Op.8-4 G.168[3楽章]
弦楽四重奏曲ヘ長調Op.8-5 G.169[3楽章]
弦楽四重奏曲イ長調Op.8-6 G.170[3楽章]

6つの弦楽四重奏曲Op.9(10) G.171〜176(1770)
弦楽四重奏曲ハ短調Op.9-1 G.171[4楽章]
弦楽四重奏曲ニ短調Op.9-2 G.172[3楽章]
弦楽四重奏曲ヘ長調Op.9-3 G.173[3楽章]
弦楽四重奏曲変ホ長調Op.9-4 G.174[3楽章]
弦楽四重奏曲ニ長調Op.9-5 G.175[3楽章]
弦楽四重奏曲ホ長調Op.9-6 G.176[4楽章]

6つの弦楽四重奏曲(ディヴェルティメント)Op.15(11) G.177〜182(1772)
弦楽四重奏曲ニ長調Op.15-1 G.177[2楽章]
弦楽四重奏曲ヘ長調Op.15-2 G.178[2楽章]
弦楽四重奏曲ホ長調Op.15-3 G.179[2楽章]
弦楽四重奏曲ヘ長調Op.15-4 G.180[2楽章]
弦楽四重奏曲変ホ長調Op.15-5 G.181[2楽章]
弦楽四重奏曲ハ短調Op.15-6 G.182[2楽章]

6つの小弦楽四重奏曲Op.22(26) G.183〜188(1775)
小弦楽四重奏曲ハ長調Op.22-1 G.183[2楽章]
小弦楽四重奏曲ニ長調Op.22-2 G.184[2楽章]
小弦楽四重奏曲変ホ長調Op.22-3 G.185[2楽章]
小弦楽四重奏曲変ロ長調Op.22-4 G.186[2楽章]
小弦楽四重奏曲イ短調Op.22-5 G.187[2楽章]
小弦楽四重奏曲ハ長調Op.22-6 G.188[2楽章]

6つの弦楽四重奏曲Op.24 G.189〜194(1776〜78)
弦楽四重奏曲ニ長調Op.24-1(27-5) G.189[3楽章]
弦楽四重奏曲イ長調Op.24-2(27-4) G.190[3楽章]
弦楽四重奏曲変ホ長調Op.24-3(27-1) G.191[3楽章]
弦楽四重奏曲ハ長調Op.24-4(27-3) G.192[3楽章]
弦楽四重奏曲ハ短調Op.24-5(27-6) G.193[3楽章]
弦楽四重奏曲ト短調Op.24-6(27-2) G.194[3楽章]

6つの弦楽四重奏曲Op.26(32) G.195〜200(1778)
弦楽四重奏曲変ロ長調Op.26-1 G.195[2楽章]
弦楽四重奏曲ト短調Op.26-2 G.196[2楽章]
弦楽四重奏曲変ホ長調Op.26-3 G.197[2楽章]
弦楽四重奏曲イ長調Op.26-4 G.198[2楽章]
弦楽四重奏曲ヘ長調Op.26-5 G.199[2楽章]
弦楽四重奏曲ヘ短調Op.26-6 G.200[2楽章]

6つの弦楽四重奏曲Op.32(33) G.201〜206(1780)
弦楽四重奏曲変ホ長調Op.32-1 G.201[4楽章]
弦楽四重奏曲ホ短調Op.32-2 G.202[5楽章]
弦楽四重奏曲ニ短調Op.32-3 G.203[3楽章]
弦楽四重奏曲ハ長調Op.32-4 G.204[3楽章]
弦楽四重奏曲ト短調Op.32-5 G.205[4楽章]
弦楽四重奏曲イ長調Op.32-6 G.206[4楽章]

6つの小弦楽四重奏曲Op.33 G.201〜212(1781)
小弦楽四重奏曲ホ長調Op.33-1 G.207[2楽章]
小弦楽四重奏曲ハ長調Op.33-2 G.208[2楽章]
小弦楽四重奏曲ト長調Op.33-3 G.209[2楽章]
小弦楽四重奏曲変ロ長調Op.33-4 G.210[2楽章]
小弦楽四重奏曲ホ短調Op.33-5 G.211[2楽章]
小弦楽四重奏曲変ホ長調Op.33-6 G.212[2楽章]

弦楽四重奏曲イ長調Op.39 G.213(1787)[4楽章]

2つの弦楽四重奏曲Op.41 G.214〜215(1788)
弦楽四重奏曲ハ短調Op.41-1(39-6) G.214[4楽章]
弦楽四重奏曲ハ長調Op.41-2(39-5) G.215[4楽章]

2つの小弦楽四重奏曲Op.42 G.216〜217(1789)
小弦楽四重奏曲イ長調Op.42-1 G.216[2楽章]
小弦楽四重奏曲ハ長調Op.42-2 G.217[2楽章]

2つの小弦楽四重奏曲Op.43 G.218〜219(1790)
小弦楽四重奏曲イ長調Op.43-1 G.218[2楽章]
小弦楽四重奏曲イ長調Op.43-2 G.219[2楽章]

6つの小弦楽四重奏曲Op.44 G.220〜225(1792)
小弦楽四重奏曲変ロ長調Op.44-1 G.220[2楽章]
小弦楽四重奏曲ホ短調Op.44-2 G.221[3楽章]
小弦楽四重奏曲ヘ長調Op.44-3 G.222[3楽章]
小弦楽四重奏曲ト長調Op.44-4 G.223『暴君』[2楽章]
小弦楽四重奏曲ニ長調Op.44-5 G.224[2楽章]
小弦楽四重奏曲変ホ長調Op.44-6 G.225

6つの小弦楽四重奏曲Op.48 G.226〜231(1794)
小弦楽四重奏曲ヘ長調Op.48-1 G.226[2楽章]
小弦楽四重奏曲イ長調Op.48-2 G.227[2楽章]
小弦楽四重奏曲ロ短調Op.48-3 G.228[2楽章]
小弦楽四重奏曲変ホ長調Op.48-4 G.229[2楽章]
小弦楽四重奏曲ト長調Op.48-5 G.230[2楽章]
小弦楽四重奏曲ハ長調Op.48-6 G.231[2楽章]

4つの弦楽四重奏曲Op.52 G.232〜235(1795)
弦楽四重奏曲ハ長調Op.52-1(39-7) G.232[4楽章]
弦楽四重奏曲ニ長調Op.52-2(39-4) G.233[4楽章]
弦楽四重奏曲ト長調Op.52-3(39-1) G.234[4楽章]
弦楽四重奏曲ヘ短調Op.52-4(39-9) G.235[4楽章]

6つの小弦楽四重奏曲Op.53 G.236〜241(1796)
小弦楽四重奏曲変ホ長調Op.53-1(40-2) G.236[2楽章]
小弦楽四重奏曲ニ長調Op.53-2(40-3) G.237[2楽章]
小弦楽四重奏曲ハ長調Op.53-3(40-4) G.238[2楽章]
小弦楽四重奏曲イ長調Op.53-4(40-6) G.239[2楽章]
小弦楽四重奏曲ハ長調Op.53-5(40-1) G.240[2楽章]
小弦楽四重奏曲変ホ長調Op.53-6(40-5) G.241[2楽章]

6つの弦楽四重奏曲Op.58 G.242〜247(1799)
弦楽四重奏曲ハ長調Op.58-1 G.242[3楽章]
弦楽四重奏曲変ホ長調Op.58-2 G.243[4楽章]
弦楽四重奏曲変ロ長調Op.58-3 G.244[3楽章]
弦楽四重奏曲ロ短調Op.58-4 G.245[3楽章]
弦楽四重奏曲ニ長調Op.58-5 G.246[2楽章]
弦楽四重奏曲変ホ長調Op.58-6 G.247[3楽章]

2つの弦楽四重奏曲Op.64 G.248,249(1804) (ボッケリーニ最後の作品群)
弦楽四重奏曲ヘ長調Op.64-1 G.248[2楽章]
弦楽四重奏曲ニ長調Op.64-2 G.249[1楽章]〔未完〕


弦楽三重奏曲

6つの小弦楽三重奏曲Op.1(2) G.77〜82(1760)[2vn,低音楽器] (ボッケリーニ最初の作品群)
小弦楽三重奏曲ヘ長調Op.1-1 G.77[6楽章]
小弦楽三重奏曲変ロ長調Op.1-2 G.78[6楽章]
小弦楽三重奏曲イ長調Op.1-3 G.79[6楽章]
小弦楽三重奏曲ニ長調Op.1-4 G.80[6楽章]
小弦楽三重奏曲ト長調Op.1-5 G.81[6楽章]
小弦楽三重奏曲ハ長調Op.1-6 G.82[6楽章]

6つの弦楽三重奏曲Op.4(7) G.83〜88(1766)[2vn,低音楽器]
弦楽三重奏曲変ホ長調Op.4-1 G.83[3楽章]
弦楽三重奏曲変ロ長調Op.4-2 G.84[3楽章]
弦楽三重奏曲ホ長調Op.4-3 G.85[4楽章]
弦楽三重奏曲ヘ短調Op.4-4 G.86[3楽章]
弦楽三重奏曲ニ長調Op.4-5 G.87[3楽章]
弦楽三重奏曲ヘ長調Op.4-6 G.88[3楽章]

6つの弦楽三重奏曲Op.6(9) G.89〜94(1769)[2vn,vc]
弦楽三重奏曲変ロ長調Op.6-1 G.89[3楽章]
弦楽三重奏曲変ホ長調Op.6-2 G.90[3楽章]
弦楽三重奏曲イ長調Op.6-3 G.91[3楽章]
弦楽三重奏曲ヘ長調Op.6-4 G.92[3楽章]
弦楽三重奏曲ト短調Op.6-5 G.93[3楽章]
弦楽三重奏曲ハ長調Op.6-6 G.94[3楽章]

6つの弦楽三重奏曲Op.14(9) G.95〜100(1772)[vn,va,vc]
弦楽三重奏曲ヘ長調Op.14-1 G.95[3楽章]
弦楽三重奏曲ハ短調Op.14-2 G.96[3楽章]
弦楽三重奏曲イ長調Op.14-3 G.97[4楽章]
弦楽三重奏曲ニ長調Op.14-4 G.98[3楽章]
弦楽三重奏曲変ホ長調Op.14-5 G.99[3楽章]
弦楽三重奏曲ヘ長調Op.14-6 G.100[3楽章]

6つの弦楽三重奏曲Op.34(35) G.101〜106(1781)[2vn,vc]
弦楽三重奏曲ヘ短調Op.34-1 G.101[3楽章]
弦楽三重奏曲ト長調Op.34-2 G.102[4楽章]
弦楽三重奏曲変ホ長調Op.34-3 G.103[4楽章]
弦楽三重奏曲ニ長調Op.34-4 G.104[3楽章]
弦楽三重奏曲ハ長調Op.34-5 G.105[3楽章]
弦楽三重奏曲ホ長調Op.34-6 G.106[4楽章]

6つの小弦楽三重奏曲Op.47(38) G.107〜112(1793)[vn,va,vc]
小弦楽三重奏曲イ長調Op.47-1 G.107[2楽章]
小弦楽三重奏曲ト長調Op.47-2 G.108[2楽章]
小弦楽三重奏曲変ロ長調Op.47-3 G.109[2楽章]
小弦楽三重奏曲変ホ長調Op.47-4 G.110[2楽章]
小弦楽三重奏曲ニ長調Op.47-5 G.111[2楽章]
小弦楽三重奏曲ヘ長調Op.47-6 G.112[2楽章]

6つの弦楽三重奏曲Op.54 G.113〜118(1796)[2vn,vc]
弦楽三重奏曲ニ長調Op.54-1(44-6) G.113[3楽章]
弦楽三重奏曲ト長調Op.54-2 G.114[3楽章]
弦楽三重奏曲変ホ長調Op.54-3 G.115[4楽章]
弦楽三重奏曲ハ長調Op.54-4(44-1) G.116[4楽章]
弦楽三重奏曲ニ短調Op.54-5(44-3) G.117[4楽章]
弦楽三重奏曲イ長調Op.54-6(44-2) G.118[4楽章]


その他の室内楽曲

八重奏曲ト長調Op.38-4(41) G.470(1787/1798版)[2vn,va,2vc,fl/ob,hrn,fg][3楽章]

6つの六重奏曲Op.16 G.461 - 6
六重奏曲イ長調Op.16-1 G.461
六重奏曲ヘ長調Op.16-2 G.462
六重奏曲イ長調Op.16-3 G.463
六重奏曲変ホ長調Op.16-4 G.464
六重奏曲イ長調Op.16-5 G.465
六重奏曲ハ長調Op.16-6 G.466

6つの六重奏曲Op.38(1787)[vn,va,fl/ob,hrn,fg,cb]
六重奏曲変ホ長調Op.38-1(42-2) G.467(1787)[vn,va,fl/ob,hrn,fg,cb][3楽章]
六重奏曲変ホ長調Op.38-5(42-1) G.471(1787)[2vn,va,2vc,hrn][2楽章]
六重奏曲変ロ長調Op.38-6 G.472(1787)[2vn,va,vc,ob,fg][2楽章]

6つのピアノ五重奏曲Op.56 G.407〜412(1797)[p,2vn,va,vc]
ピアノ五重奏曲ホ短調Op.56-1(46-4) G.407[4楽章]
ピアノ五重奏曲ヘ長調Op.56-2(46-1) G.408[4楽章]
ピアノ五重奏曲ハ長調Op.56-3(46-6) G.409[3楽章]
ピアノ五重奏曲変ホ長調Op.56-4(46-3) G.410[3楽章]
ピアノ五重奏曲ニ長調Op.56-5(46-5) G.411[4楽章]
ピアノ五重奏曲イ短調Op.56-6(46-2) G.412[4楽章]

6つの協奏的ピアノ五重奏曲Op.57 G.413〜418(1799)[p,2vn,va,vc]
ピアノ五重奏曲イ長調Op.57-1 G.413[4楽章]
ピアノ五重奏曲変ロ長調Op.57-2 G.414[4楽章]
ピアノ五重奏曲ホ短調Op.57-3 G.415[4楽章]
ピアノ五重奏曲ニ短調Op.57-4 G.416[3楽章]
ピアノ五重奏曲ホ長調Op.57-5 G.417[3楽章]
ピアノ五重奏曲ハ長調Op.57-6 G.418[4楽章]

6つのフルート小五重奏曲Op.17(21) G.419〜424(1773)[fl,2vn,va,vc]
フルート小五重奏曲ニ長調Op.17-1 G.419[2楽章]
フルート小五重奏曲ハ長調Op.17-2 G.420[2楽章]
フルート小五重奏曲ニ短調Op.17-3 G.421[2楽章]
フルート小五重奏曲変ロ長調Op.17-4 G.422[2楽章]
フルート小五重奏曲ト長調Op.17-5 G.423[2楽章]
フルート小五重奏曲変ホ長調Op.17-6 G.424[2楽章]

6つのフルート小五重奏曲Op.19(25) G.425〜430(1774)[fl,2vn,va,vc]
フルート小五重奏曲変ホ長調Op.19-1 G.425[2楽章]
フルート小五重奏曲ト短調Op.19-2 G.426[2楽章]
フルート小五重奏曲ハ長調Op.19-3 G.427[2楽章]
フルート小五重奏曲ニ長調Op.19-4 G.428[2楽章]
フルート小五重奏曲変ロ長調Op.19-5 G.429[2楽章]
フルート小五重奏曲ニ長調Op.19-6 G.430[4楽章]

6つのフルート(オーボエ)小五重奏曲Op.55(45) G.431 - 436(1797)[fl/ob,2vn,va,vc]
フルート小五重奏曲ト長調Op.55-1 G.431[2楽章]
フルート小五重奏曲ヘ長調Op.55-2 G.432[2楽章]
フルート小五重奏曲ニ長調Op.55-3 G.433[2楽章]
フルート小五重奏曲イ長調Op.55-4 G.434[2楽章]
フルート小五重奏曲変ホ長調Op.55-5 G.435[3楽章]
フルート小五重奏曲ニ短調Op.55-6 G.436[2楽章]

6つのフルート五重奏曲G.437〜442[fl,2vn,va,vc]
フルート五重奏曲ヘ長調G.437[3楽章]
フルート五重奏曲ト長調G.438[3楽章]
フルート五重奏曲ハ長調G.439[3楽章]
フルート五重奏曲ヘ長調G.440[3楽章]
フルート五重奏曲ト長調G.441[3楽章]
フルート五重奏曲変ロ長調G.442[3楽章]

五重奏曲ハ長調G.443[fl,ob,vn,va,BC][3楽章]

五重奏曲変ロ長調G.444[fl,ob,vn,va,BC][3楽章]

ギター五重奏曲集(1798出版)[g,2vn,va,vc]
ギター五重奏曲第1番ニ短調G.445(1798)[4楽章](ピアノ五重奏曲Op.57-4からの編曲)
ギター五重奏曲第2番ホ長調G.446(1798)[4楽章](ピアノ五重奏曲Op.57-4からの編曲)
ギター五重奏曲第3番変ロ長調G.447(1798)[4楽章](ピアノ五重奏曲Op.57-2からの編曲)
ギター五重奏曲第4番ニ長調G.448『ファンダンゴ』(1798)[4楽章](Op.10-6,40-2より編曲)
ギター五重奏曲第5番ニ長調G.449(1798)[4楽章](Op.53-2,56-5より編曲)
ギター五重奏曲第6番ト長調G.450(1798)[4楽章](Op.55-1,53-5より編曲)
ギター五重奏曲第7番ホ短調G.451(1797?)[4楽章](ピアノ五重奏曲Op.56-1からの編曲)
ギター五重奏曲第8番(1797?)〔消失〕
ギター五重奏曲第9番ハ長調G.453(1797?)[3楽章](ピアノ五重奏曲Op.56-3より編曲)[5]
ギター五重奏曲第10番(1797?)〔消失〕
ギター五重奏曲第11番(1797?)〔消失〕
ギター五重奏曲第12番(1797?)〔消失〕

ギター五重奏曲『マドリードの帰営ラッパ』による12の変奏曲(弦楽五重奏曲Op.30より編曲)[5]

トリオ・ソナタハ長調G.143
トリオ・ソナタホ短調G.144
トリオ・ソナタ変ホ長調G.145
トリオ・ソナタニ長調G.146
トリオ・ソナタ変ロ長調G.147
トリオ・ソナタト短調G.148

6つのヴァイオリン・ソナタOp.5(3) G.25 - 30(1768)[vn,p]
ヴァイオリン・ソナタ変ロ長調Op.5-1 G.25[3楽章]
ヴァイオリン・ソナタハ長調Op.5-2 G.26[3楽章]
ヴァイオリン・ソナタ変ロ長調Op.5-3 G.27[2楽章]
ヴァイオリン・ソナタニ長調Op.5-4 G.28[3楽章]
ヴァイオリン・ソナタト短調Op.5-5 G.29[3楽章]
ヴァイオリン・ソナタ変ホ長調Op.5-6 G.30[2楽章]

2つのヴァイオリンのための6つの二重奏曲Op.3(5) G.56〜61(1761)[2vn]
二重奏曲ト長調Op.3-1 G.56[3楽章]
二重奏曲ヘ長調Op.3-2 G.57[3楽章]
二重奏曲イ長調Op.3-3 G.58[3楽章]
二重奏曲変ロ長調Op.3-4 G.59[3楽章]
二重奏曲変ホ長調Op.3-5 G.60[3楽章]
二重奏曲ニ長調Op.3-6 G.61[3楽章]

ノットゥルノ『おやすみ』G.62[2vn][4楽章]

二重奏曲第8番ト長調G.63
二重奏曲第9番ホ長調G.64
二重奏曲第10番ヘ短調G.65
二重奏曲第11番ハ長調G.66
二重奏曲第12番変ホ長調G.67
二重奏曲第13番ニ短調G.68

チェロ・ソナタヘ長調G.1(第5番)[3楽章]
チェロ・ソナタ第2番ハ短調G.2(第2番)[3楽章]
チェロ・ソナタ第3番ハ長調G.3
チェロ・ソナタイ長調G.4(1773頃)(第6番)[3楽章]
チェロ・ソナタ第5番ト長調G.5(第3番)[3楽章]
チェロと通奏低音のためのソナタハ長調G.6
チェロ・ソナタ第7番ハ長調G.7
チェロ・ソナタ変ロ長調G.8
チェロ・ソナタ第9番ヘ長調G.9
チェロ・ソナタ変ホ長調G.10(第4番)[3楽章]
チェロ・ソナタ第11番変ホ長調G.11
チェロ・ソナタ第12番変ロ長調G.12(1766頃)
チェロ・ソナタイ長調G.13(第1番)[3楽章]
チェロ・ソナタ第14番変ホ長調G.14
チェロ・ソナタ第15番ト長調G.15
チェロ・ソナタ第16番変ホ長調G.16
チェロと通奏低音のためのソナタハ長調G.17
チェロ・ソナタ第18番ハ長調G.18
チェロ・ソナタ第19番ヘ長調G.19
チェロ・ソナタト短調G.562
チェロ・ソナタト長調G.563
チェロ・ソナタニ長調G.564
チェロ・ソナタ変ロ長調G.565
チェロ・ソナタ変ホ長調G.566
チェロ・ソナタ変ホ長調G.567
チェロ・ソナタ変ホ長調G.568
チェロ・ソナタハ長調G.569
チェロ・ソナタヘ長調G.579

2つのチェロのためのソナタハ長調G.74[2vc][3楽章]
2つのチェロのためのソナタ変ホ長調G.75

チェロ・ソナタニ長調G.571(偽作か,カルミレッリ発見)
チェロ・ソナタニ長調G.572(偽作か,カルミレッリ発見)


舞台作品
サルスエラ『慈悲深い女(ラ・クレメンティーナ)』G.540(1786)(疑作)
バレエ・パントマイム『チェファロとプロクリ』G.524(1778初演)
舞踏のためのメヌエット集Op.41 G.525(1788)
スペイン舞曲集G.526(1773?)


宗教曲
キリエG.529(1764〜66頃)[4独唱,Orch]
グローリアG.530(1764〜66頃)[4独唱,Orch]
クレドG.531(1764〜66頃)[4独唱,Orch]
スターバト・マーテルOp.61 G.532(1781/1800改訂)[S,弦楽(改訂版=S,A,T,弦楽)]
主は言われたG.533(1764〜66)[S,A,T,Bs,cho,Orch,org]
主は励ましたもうG.534(1764〜66)[S,A,T,Bs,Orch,org]
オラトリオ『ユダヤの王ジョアス』G.537(1765頃)[2S,A,2T,Bs,cho,Orch] P.メタスタージオ詞
オラトリオ『許されたヨハネ』G.538(1765頃)[2S,A,2T,Bs,cho,Orch] P.メタスタージオ詞
9つのビリャンシーコG.539
カンタータ『サビネとローマの同盟』G.543(1765/1765初演)[S,3T,Bs,cho,Orch] P.A.トレンタ詞
(G.はイーヴ・ジェラールによる作品目録番号)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%83%E3%82%B1%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8B
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/891.html

[近代史6] ルイジ・ボッケリーニ 『ボッケリーニのメヌエット』
ルイジ・ボッケリーニ 『ボッケリーニのメヌエット』


Boccherini: String Quintet in E Major, G. 275 - Menuet - (Tempo di minuetto con un poco di moto)





Mischa Maisky - cello
Daria Horova - piano



Boccherini: Minuet From String Quintet in E Major, Op. 13 No. 5






Mischa Maisky
Orpheus Chamber Orchestra




Boccherini: String Quintet E, Op.13, No.5 - 3. Menuetto
イ・ムジチ合奏団






http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/892.html

[近代史6] ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ(Giovanni Battista Pergolesi, 1710 - 1736)
ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ(Giovanni Battista Pergolesi, 1710 - 1736)

古典派様式の初期の様式を示した天才作曲家。夭折が惜しまれる。
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2

ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ(Giovanni Battista Pergolesi, 1710年1月4日 - 1736年3月17日)は、イタリアのナポリ楽派オペラ作曲家。ペルゴレーシとも呼ばれる。モーツァルトやロッシーニらに継がれるオペラ・ブッファの基礎を築き、甘美な旋律にあふれたオペラを作曲した。短い生涯であったのにも拘らず、古典派音楽の様式を最も早く示した人物として音楽史に名を遺している。


生涯
マルケ州イェージ生まれ。幼い頃から音楽の才能を現し、ナポリ音楽院に入学する。1731年に卒業し、卒業作品として音楽劇『グリエルモ・ダキタニアの改心』を作曲。同年、初のオペラ『サルスティア』を初演するも不評に終わった。

1732年、オペラ・ブッファ『妹に恋した兄』を初演し最初の成功を収めた。1733年8月28日、サン・バルトロメオ劇場でオペラ『誇り高き囚人』を初演。失敗に終わったにもかかわらず、この作品の幕間劇として作曲された『奥様女中 La Serva Padrona』が歴史的な大成功を収め、オペラの歴史に大きな変革をもたらした。1734年にはナポリ楽長に就任。

1735年、オペラ『オリンピアーデ』をローマで初演するが失敗しナポリへ戻る。この頃から結核のため体調が悪化し、宗教音楽の作曲に取り組むようになり、1736年にはナポリ近郊ポッツオーリの聖フランチェスコ修道院に療養に移る。ナポリ在住貴族の集まり「悲しみの聖母騎士団Cavalieri della Virgine dei Dolori」から委嘱された『スターバト・マーテル Stabat Mater』(悲しみの聖母)を余力を振り絞って書き上げてまもなく、26歳で死去した。

作品

歌劇(オペラ・セリア)

グリエルモ・ダキタニアの回心 San Guglielmo duca d'Aquitania
サルスティア Salustia
誇り高き囚人 Il prigionier superbo
シリアのハドリアヌス Adriano in siria
オリンピアーデ L'Olimpiade


幕間劇(オペラ・ブッファ)
妹に恋した兄 Lo frate 'nnamorato
奥様女中 La serva padrona
リヴィエッタとトラコッロ Livietta e Tracollo
フラミニオ Il Flaminio


カンタータ
オルフェオ Nel chiuso centro


協奏曲
フルート協奏曲第1番ト長調
フルート協奏曲第2番ニ長調
ヴァイオリン協奏曲変ロ長調(偽作?)

宗教作品
ミサ曲 ヘ長調
グロリア・ミサ曲 ニ長調
ミゼレーレ ハ短調
マニフィカト ハ長調
サルヴェ・レジナ ハ短調
スターバト・マーテル


生前の成功は限られたものであったが、没後人気が上昇し、その結果として偽作が大量に出回ることにもなった。多数の作品が誤って彼の作曲とされ、その混乱は1939〜42年の〈作品全集〉にまで及んでいる。

20世紀前半にはイーゴリ・ストラヴィンスキーがペルゴレージの作品の中から数曲を選び[1]、和音などに変更を加えてバレエ音楽「プルチネルラ」とした。形を変えながらもペルゴレージの作品が新古典主義の幕開けを告げたことは興味深い。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%8B%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%B4%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B8
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/893.html

[近代史6] ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ『奥様女中』
ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ『奥様女中』


(HD) Pergolesi: La Serva Padrona, intermezzo in two parts | Diego Fasolis & Barocchisti



Part 1:


02:35 • Aria: Aspettare e non venire ~ Uberto
04:16 • Recitativo: Questa e per me disgrazia! ~ Uberto, Serpina
07:52 • Aria: Sempre in contrasti ~ Uberto
11:27 • Recitativo: In somma delle somme ~ Serpina, Uberto
13:02 • Aria: Stizzoso, mio stizzoso! ~ Serpina
16:29 • Recitativo: Benissimo! ~ Uberto, Serpina
18:38 • Duetto: Lo conosco ~ Serpina, Uberto


Part 2:


23:03 • Recitativo: Or che fatto ~ Serpina, Uberto
26:38 • Aria: A Serpina penserete ~ Serpina
29:50 • Recitativo: Ah, quanto mi fa male ~ Uberto, Serpina
31:52 • Aria: Son imbrogliato io gia ~ Uberto
36:03 • Recitativo: Favorisca, Signor ~ Serpina, Uberto
39:40 • Duetto: Per te io ho nel core ~ Serpina, Uberto
42:35 • Contento tu sarai! ~ Serpina, Uberto


• Umberto: Furio Zanasi
• Serpina: Sonya Yoncheva
• Vespone: Roberto Carlos Gerboles
• Tafano: Pablo Ariel Bursztin


I Barocchisti
Conducted by Diego Fasolis


Directed by Mando Bernardinello ® 2008 - Broadcast by HD Suisse




Giovanni Battista Pergolesi: La Serva Padrona (with English subtitles)



Donato Di Stefano - Uberto
Patrizia Biccirè - Serpina
Stefano Di Lucca - Vespone


Orchestra "La Petite Bande"
Sigiswald Kuijken - conductor



▲△▽▼


『奥様女中』(伊語:La serva padrona)はジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ作曲のオペラ・ブッファ。ペルゴレージの代表作の一つ。ヤコポ・アンジェロ・ネッリの戯曲に基づき、ジェンナロ・アントニオ・フェデリーコが脚本を執筆した。


元来は、ペルゴレージのオペラ・セリア『誇り高き囚人 Il prigioniero superbo 』のインテルメッゾ(幕間劇)として作曲され、共に1733年に初演された。ナポリ大地震の直後に歌舞音曲が禁じられていたのだが、ハプスブルク家の皇后の誕生日を祝うために、それが解禁されてから上演された最初のオペラであった。


『誇り高き囚人』は当時としても成功せず、今日においてもレパートリーとして認められてはいない。結局これと『奥様女中』とは切り離され、後者が単独でヨーロッパ中で持て囃されるに至った。オペラの歴史においてこのインテルメッゾの重要性を見過ごすことなど到底できない。聴衆にとって馴染みやすい登場人物によって魅力的な作品となっている。すなわち、頭の回るメードと、年老いた主人である。


音楽様式において、《奥様女中》はバロック音楽から古典派音楽への過渡期の典型的な楽曲であるとしばしば認められている。


粗筋
主人ウベルトは、自分が女中のセルピナと結婚したいのか、それともただ彼女の境遇を憐れんでいるだけなのか、自分でも確信が持てずにいる。そこでセルピナが一計を案じ、下男ヴェスポーネを兵士に仕立て上げ、「自分はこの許婚と結婚することになっているが、彼から持参金を迫られている」と言ってウベルトに言い寄る。あれこれあった末に結局ウベルトは根負けしてセルピナを娶ることになる。


配役
ウベルト(バス)
セルピナ(ソプラノ)
ヴェスポーネ(「無言」の俳優)


演奏時間
約50分(各幕22分、28分)


楽器編成
弦5部と通奏低音


主な楽曲
私のおこりんぼさん(Stizzoso, mio stizzoso)
女中・セルピナのアリア。全音楽譜出版社が出版するアンソロジー歌曲集、『イタリア歌曲集』第4巻に収録されている。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E6%A7%98%E5%A5%B3%E4%B8%AD

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/894.html

[近代史6] パブロ・サラサーテ(Pablo Martín Melitón de Sarasate y Navascuéz, 1844 - 1908)
パブロ・サラサーテ(Pablo Martín Melitón de Sarasate y Navascuéz, 1844 - 1908)

大ヴァイオリニストとして有名であり、作曲家としてもあのツィゴイネルワイゼンの作者として有名。

ツィゴイネルワイゼン Op.20(1878年)
4.5点
技巧系ヴァイオリン音楽の代表作の一つ。粘っこくてタメがたっぷりの民族的なフレーズも早弾きも、めちゃくちゃカッコ良い。
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3

パブロ・マルティン・メリトン・デ・サラサーテ・イ・ナバスクエス(Pablo Martín Melitón de Sarasate y Navascuéz, 1844年3月10日 - 1908年9月20日)は、スペイン・パンプローナ出身の作曲家、ヴァイオリン奏者。バスク人である。


来歴
8歳のときに初めての公演をし、10歳のときにスペイン女王イサベル2世の前で演奏を披露した。その後パリ音楽院で学び、13歳のときヴァイオリン科の一等賞を得た。1860年代ごろから演奏家としての活動を始め、1865年には一番初めに仲良くなったサン=サーンスと演奏旅行をした。サン=サーンスはサラサーテに『序奏とロンド・カプリチオーソ』、『ヴァイオリン協奏曲第3番』などを献呈している。サラサーテはまた、ラロの『スペイン交響曲』、ブルッフの『ヴァイオリン協奏曲第2番』、『スコットランド幻想曲』の初演者かつ献呈先でもある。サラサーテの華麗な名人芸は、チャイコフスキーやブラームスなどにも影響を与えた。

サラサーテはフォノティピアの筒形レコードにツィゴイネルワイゼンの録音、グラモフォン社へは円盤レコードを、自作7(バスク奇奏曲,ツィゴイネルワイゼン,カプリスホタ,ハバネラ,イントロダクションとタランテラ,ミラマールツォルツィコ,ツァパテアード)曲とバッハの無伴奏パルティータ第3番のプレリュード、ショパン作曲サラサーテ編曲のノクターン9ー2を録音した。勿論機械吹き込みのSP盤であるが、LP盤やCDにも復刻されている。この頃のレコードとしては比較的多く残存し、小説(サラサーテの盤)の題材にされて、映画(ツィゴイネルワイゼン)にも扱われている。

1908年9月20日、慢性気管支炎のためにフランス領バスクのビアリッツで死去した。64歳没。

作曲家としてのサラサーテの作品は、ほとんどヴァイオリンと管弦楽(もしくはピアノ)のための作品であり、スペインの民謡や舞曲の要素を盛り込んだ国民楽派に位置付けられる。その代表的な作品がジプシー(ロマ)の民謡による『ツィゴイネルワイゼン』であり、ラッシュ、フリッシュなどの特徴を取り入れている。他の作品はあまり演奏されることがない。

人物
ステッキを集めるのが趣味で、ヨーロッパの様々な王室から譲り受けていた[1]。また、親交のあったヴァイオリニストのジャック・ティボーにステッキをプレゼントすることもあった[1]。

評価
ヴァイオリニストのジャック・ティボーは「サラサーテのヴァイオリンは文字通り歌っていました。ナイチンゲールのように歌うのです。その澄んだ音は驚くほどでした。私が見てきた中でも最高のテクニックの持ち主で、弓も信じられないほどのスキルで操る。彼が演奏する時、その気取らない優雅な所作は聴衆の心をぐっと掴み、そのとてつもない才能は観客を熱狂に包むのです」と語った[2]。また、ソロヴァイオリニストとしてのみならず、四重奏団のヴァイオリニストとしてもサラサーテは見事であったとも述べている[1]。

代表作品

ツィゴイネルワイゼン Op.20(1878年)
アンダルシアのロマンス Op.22-1
サパテアード Op.23-2
カルメン幻想曲 Op.25(1883年)…ジョルジュ・ビゼーの『カルメン』によるパラフレーズ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%86

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/895.html

[近代史6] パブロ・サラサーテ『ツィゴイネルワイゼン』作品20
パブロ・サラサーテ『ツィゴイネルワイゼン』作品20


Sarasate Plays Sarasate Zigeunerweisen



Rare audio clip of the great Pablo Sarasate performing his piece Zigeunerweisen. Keep in mind that this was recorded around 1904, so the quality isn't perfect. Also, the slow movement was left out, probably due to time constraints.



Zigeunerweisen Op. 20 (1992 Remastered Version)



Jascha Heifetz
London Symphony Orchestra
John Barbirolli



Sarasate Zigeunerweisen,Op.20(Version for Violin and Orchestra)(Heifetz,Steinberg 1951)





00:00 1.Moderato
00:57 2.Lento
04:37 3.Un poco più lento
06:29 4.Allegro molto vivace


Jascha Heifetz(Violin)
William Steinberg(Conductor)
RCA Victor Symphony Orchestra
16 June 1951, Hollywood




Jascha Heifetz - Pablo de Sarasate, Zigeunerweisen Op.20




Heifetz plays Sarasate's Zigeunerweisen 1 & 2, 1919 restored



Acoustic recording from 1919.
Accompanist Sam Chotzinoff


▲△▽▼


『ツィゴイネルワイゼン』(独:Zigeunerweisen)作品20は、スペイン生まれのヴァイオリニストであるサラサーテが作曲、1878年に完成した管弦楽伴奏付きのヴァイオリン独奏曲である。1904年に本人の演奏のレコードが録音されている。


本作は派手で劇的でありながら哀感を持ち合わせる技巧的なヴァイオリン曲として知られる。題名は「ジプシー(ロマ)の旋律」という意味である[1]。ドイツ語では「ツィゴイナ(ー)ヴァイゼン」とするほうが現代的な発音であり、また日本語ではチゴイネルワイゼン、またはチゴイナーワイゼンとも表記される(なお日本語の題名表記は語尾の「-er」を母音化させない古典的な舞台ドイツ語の発音を基にしたものである)。 いくつかのハンガリー民謡・大衆音楽の旋律を組み合わせて作曲されている。オリジナルはヴァイオリンと管弦楽であるが、ヴァイオリンとピアノで演奏する機会も多い。作曲者本人による録音が残されている[2]。


出版はライプツィヒのゼンフ社[3]社により、そのオリジナル版は、その後ジムロックに買い取られたが、ヴァイオリンパートはほどなくアウグスト・ウィルヘルミ[4]校訂のものに差し替えられ、現在に至っている。現在入手の容易なブラウド・ブラザーズ[5]、カール・フィッシャー[6]、エドウィン・F・カルムス[7]等の再版スコアはいずれもゼンフまたはジムロックを基にしたものである。


編成
独奏ヴァイオリン、フルート2、オーボエ2、クラリネット2(B♭管)、ファゴット2、ホルン2(F管)トランペット2(F管)、ティンパニ、トライアングル(ad libitum/任意)、弦5部


構成
協奏曲の3楽章に相当する3部からなる。演奏時間は約8分。


Moderato - Lento
ハ短調、4分の4拍子。悲しげながらも堂々とした旋律。管弦楽の斉奏のあと独奏が主題を表す。非常に装飾音符が多く、見せ場には事欠かない。
Un poco più lento
ハ短調、4分の2拍子。いわゆる逆付点(16分音符+付点8分音符のリズム)が印象的な旋律を、弱音器を付けたヴァイオリンが奏でる。ハンガリー民謡にそのまま題材をとっている。「ジプシーの月」というタイトルでポピュラー・ソングとしてもヒットしている。
Allegro molto vivace
イ短調、4分の2拍子。いきなり急速なテンポとなる。通常の右手のピチカートと技巧的な左手のピチカートを併用する。日本では商業放送にまれに登場する。この部分の旋律は、フランツ・リストが『ハンガリー狂詩曲第13番』で用いている。


レコーディング
1904年にサラサーテ本人のヴァイオリンとフアン・マネンのピアノによる録音が行われている。この録音には、途中でサラサーテの声とも言われる謎の呟き声が入っていることで知られる。一説によれば、サラサーテ本人がレコードの録音許容時間をオーバーしそうなことに気付き、伴奏のピアニストに途中を端折って演じるよう指示したものという(20世紀初頭のレコード吹込み時間は短く、また録音原盤自体が修正録音のできない一発録りのディスク媒体であった時代で、後年なら雑音としてカットされるような小声もカットできないまま販売に至ってしまった)。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%82%A3%E3%82%B4%E3%82%A4%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%82%BC%E3%83%B3

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/896.html

[近代史6] ヨハン・ハルヴォシェン(Johan Halvorsen, 1864 - 1935)
ヨハン・ハルヴォシェン(Johan Halvorsen, 1864 - 1935)

ノルウェー

交響曲1番
3.5点
ドヴォルザークやチャイコフスキーあたりに近いロマン派音楽。かなり聴きやすくていい曲で驚いた。
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E5%8C%97%E6%AC%A7


ハン・ハルヴォシェン(Johan Halvorsen, 1864年3月15日 ドランメン - 1935年12月4日)は、ノルウェーの作曲家・指揮者。うら若い頃から洗練されたヴァイオリニストとして活動し、ノルウェー楽壇の著名人となった。日本では一般に「ヨハン・ハルヴォルセン」として知られており、以下その慣例に従う。


経歴
クリスチャニア(現オスロ)とストックホルムで音楽教育を受け、ベルゲンでコンサートマスターに就任した後、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団に入団。その後8年間を音楽活動と学習のために国外で過ごし、スコットランドのアバディーンでコンサートマスターとして過ごしたのを皮切りに、次いでヘルシンキで教授に就任し、最終的には再び学生に戻ってサンクトペテルブルクやベルリン、リエージュに留学した。

1893年にノルウェーに帰国し、ベルゲン国立劇場のオーケストラの指揮者に就任する。1885年にベルゲン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターとなり、1893年には首席指揮者に抜擢された。1899年には新設されたクリスチャニア国立劇場のオーケストラの指揮者に任命され、1929年に引退するまで30年間にわたってその座にあった。

作品について
舞台音楽に加えて30曲のオペラ公演を指揮し、30曲以上の劇付随音楽を作曲した。劇場を引退してからは、折に触れて作曲に専念し、3つの壮大な交響曲や2つのノルウェー狂詩曲を作曲した。

ハルヴォルセンの作品は、華麗な管弦楽法を特徴とする作風によって、エドヴァルド・グリーグによって実現されたロマン主義的な国民楽派の伝統を発展させたものである。ハルヴォルセンはグリーグの姪と結婚し、またグリーグのいくつかのピアノ曲に管弦楽法を施した。『ペール・ギュント』が1886年に再演された際の追加曲「花嫁の行列の通過」はその一つである。また、ハルヴォルセン編曲の《リカルド・ノルドローク追悼の葬送行進曲》は、グリーグの葬儀で演奏された。

こんにち最も有名な作品は、《ロシア貴族の入場(Bojarenes inntogsmarsj)》と《ベルゲン賛歌(Bergensiana)もしくはベルゲンの昔の旋律によるロココ変奏曲》のほかに、ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲《ヘンデルの主題によるパッサカリアとサラバンド》である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%B3
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/897.html

[近代史6] ヨハン・ハルヴォシェン 交響曲 第1番
ヨハン・ハルヴォシェン 交響曲 第1番


Johan Halvorsen - Symphony No.1 in C-minor (1923)



Mov.I: Allegro non troppo 00:00
Mov.II: Andante 11:55
Mov.III: Scherzo: Lento - Allegro con spirito 20:18
Mov.IV: Finale: Rondo: Andante - Allegro deciso 27:01


Orchestra: Bergen Philharmonic Orchestra
Conductor: Neeme Järvi

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/898.html

[近代史6] ヨーゼフ・マルティン・クラウス(Joseph Martin Kraus, 1756 - 1792)
ヨーゼフ・マルティン・クラウス(Joseph Martin Kraus, 1756 - 1792)

モーツァルトと同年生まれで1年後に亡くなった人。才能に関しても、あの天才に少し落ちる程度であり、かなりのレベルにあると感じる。古典派でモーツァルトとハイドン以外を聴くなら、真っ先に手を出すべき作曲家の一人。


交響曲ハ短調VB142
4.0点
1楽章のロマンチックな激情と知性はモーツァルトに匹敵と言えるほどの素晴らしさ。2楽章も時代を考えるとロマンチックであるとともに、モーツァルトに近い。最後の3楽章はもっと激しくやってほしいし、霊感があと少し足りないと感じるが、十分に頑張っている。モーツァルトの2曲の短調の交響曲の天才性にはかなわないが、ハイドンの大半の短調の交響曲よりも優れていると思う。

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E5%8C%97%E6%AC%A7

ヨーゼフ・マルティン・クラウス(Joseph Martin Kraus, 1756年6月20日 ミルテンベルク - 1792年12月15日 ストックホルム)はドイツ生まれのスウェーデンの古典派の作曲家。「スウェーデンのモーツァルト」という異名を持つ。作品は一般的にVB ヴァン・ボーア番号で整理される。

近年になってナクソスによる交響曲全集などのCDがリリースされ、その名が知られるようになった。


生涯
1756年、マイン川沿いのミルテンベルクで生まれる。マンハイムのイエズス会ギムナジウムに学んだ後、マインツ、エアフルト、ゲッティンゲンの各大学で哲学と法学を学ぶ。彼は音楽家以外に劇作家、著述家、画家としても活動しており、一生の大半を音楽の旅に費やしたモーツァルトとは全く違う運命をたどった。

1781年にストックホルムのグスタフ3世の宮廷作曲家として任用され、翌1782年から約4年間、イタリア、ウィーンなどへの音楽修業を許される。この旅で多くの作曲家と知り合い、その音楽に触れている。ハイドンとも1783年に会って交響曲を献呈している。また、この旅の際にクラウスはモーツァルトが所属していたフリーメイソンのロッジに加入しており、彼と面識を持ったと考えられている。

帰国後は宮廷のためにオペラや器楽曲を多く書いている。1792年、暗殺されたグスタフ3世の追悼音楽(「葬送交響曲」)および追悼カンタータを書いて間もなく肺結核のため逝去。

作風
「スウェーデンのモーツァルト」の異名に相応しく、各ジャンルに独自の「響き」を生かした優れた作品が多い。長調偏重の時代にもかかわらず短調を主調とした曲を多く書くところにもそれが現れている。


著名な作品

交響曲…現在12曲ほどが現存している。メヌエットを欠く3楽章構成が多い。

交響曲 ハ長調 「バイオリン・オブリガート」(1780年)VB138
交響曲 ハ長調(1781年)VB139
交響曲 嬰ハ短調(1782年)VB140
交響曲 ホ短調(1783年)VB141
交響曲 ハ短調(1783年)VB142(VB140からメヌエットを削除して移調・改作。1783年にハイドンに献呈)
交響曲 ニ長調(?)VB143
交響曲 変ホ長調(1783年)VB144
交響曲 ヘ長調(1786年)VB145
交響曲 ニ長調 「教会のための交響曲」(1789年)VB146
教会交響曲 ニ短調 VB147
交響曲 ハ短調 「葬送交響曲」(1792年)VB148(スウェーデン国王グスタフ3世のための葬送音楽)


弦楽四重奏曲

弦楽四重奏曲 ヘ短調 (1778年、ストックホルム) VB178
弦楽四重奏曲 ハ短調 VB179
弦楽四重奏曲 ホ長調 VB180
弦楽四重奏曲 変ロ長調 《ヴァイオリン》 Op.1-2(1784年出版) VB181
弦楽四重奏曲 ハ長調 《春》 Op.1-5(1784年出版) VB182
弦楽四重奏曲 ト短調 《フーガ》 Op.1-3(1784年出版) VB183
弦楽四重奏曲 ニ長調 《別れ》 Op.1-4(1784年出版) VB184 【演奏例】
弦楽四重奏曲 イ長調 《ゲッティンゲン》 Op.1-1(1784年出版) VB185
弦楽四重奏曲 ト長調 《ショット四重奏曲》 Op.1-6(1784年出版) VB187 【演奏例】
弦楽四重奏曲 ハ長調 《狩り》 VB186


ピアノソナタ
ピアノソナタホ長調 (1788年) VB196

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%B9
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/899.html

[番外地9] 昔はパニック障害はヒステリーと呼ばれていて、父親や義父に性的虐待されたトラウマだというのが定説だった 中川隆
4. 中川隆[-16051] koaQ7Jey 2021年10月09日 07:05:51 : yCF5w5sEnQ : TEI1cGhkekR4TlE=[1]

校長や教頭は廣瀬爽彩さんの自殺の原因は家庭の問題であって、中学でのイジメとは全く関係無い、と何度も指摘してきました。 ただ、家庭の問題というのが何なのかをはっきり言わなかったので理解されなかったのです。 推測ですが、校長や教頭が家庭の問題と言っていたのは

爽彩さんは母親の男にレイプされて複雑性PTSD(パニック障害)になった
爽彩さんは母親の男に覚醒剤を打たれて複雑性PTSD(パニック障害)になった
爽彩さんは母親の男に児童売春を強要されて複雑性PTSD(パニック障害)になった

の何れかでしょう。僕は爽彩さんは覚醒剤障害による被害妄想だったと思っています。

爽彩さんが小学校の時に発病した複雑性PTSD(パニック障害)というのは昔はヒステリーと呼ばれていて、父親や義父に性的虐待されたトラウマだというのが定説です。
性的虐待されたり、覚醒剤を打たれるとその後遺症としてフラッシュバックでパニック障害を起こすのです:

トラウマ・PTSDとは
トラウマとは、いわゆる「心の傷」と言われるものです。身体が傷つくことと同じように同じように心も傷ついてしまいます。そして、フラッシュバックや過覚醒、回避などのいくつかの症状が重なるとPTSD(心的外傷後ストレス障害)という診断になります。

トラウマ・PTSD・パニック障害は基本的には、

戦争に行って最前線で戦って死にそうになった
津波・地震・火災等で死にそうになった
レイプされて殺されそうになった
覚醒剤中毒でフラッシュバックした

等の異常体験で発症するものです。 自閉症程度ではパニック障害にはなりません。そもそも、フラッシュバックする様な恐怖体験をした事が無ければフラッシュバックする記憶も無いのでパニック障害にはなりません。

フラッシュバック (flashback) とは、強いトラウマ体験(心的外傷)を受けた場合に、後になってその記憶が、突然かつ非常に鮮明に思い出されたり、同様に夢に見たりする現象。心的外傷後ストレス障害(PTSD)や急性ストレス障害の特徴的な症状のうちの1つである。

▲△▽▼

ヴィクトリア朝時代に「精神分析」を提唱したジグムント・フロイトはヒステリー(解離性障害・PTSD・パニック障害などの神経症)の原因が、抑圧と性的原因にある、と提唱しました。

 が、彼の言は、後に性的虐待(sexual abuse セクシャル・アビューズ)を子供の願望によるものとし、20世紀後半になるまで、虐待を受けた子供達を苦しめることになります。

 ヒステリーのある女性には幼児期に性的な体験があり、これを引き起こすのが「エディプス・コンプレックス」だとはフロイト言いました。

幼い子供は親に支配されるものです。
子供にとって親しか頼れる人はおらず、親元が安全な場所なのです。
 だから、親から虐待を受ければ、深い傷を受け、居場所を無くしてしまいます。
 性的虐待を犯す父親は大人として未熟です。
幼児性愛やストレスなどにより、力でもって子供を踏み躙ります。
 それに対して母親は弱い人間で、何も言えない母親は夫と娘の関係を見守るだけです。
娘を女だと思って嫉妬したりする母親は、娘を罵り父親とともにさらに傷つけます。
 父親などの絶対者に
「これは夢だからね」
とか
「お母さんや他のひとに言っちゃだめだよ」
などといわれたら、子供は従わずにはおれません。

 こうして虐待は繰り返され、子供の傷は深く、潜在化していきます。
 幼い頃に受けた心的外傷はその人の人生を崩壊させます。
被害者(サバイバー)は人間不信に陥ってアダルトチルドレンとなってしまい、酷い場合だと自殺してしまう可能性もあります。
 また、幼い頃に受けてしまった傷を、人間は知らず知らずのうちに繰り返してしまったりします。
虐待の現場が夢となって何度も現われ、またずっと続く現実に子供自身が順応してしまい、まるで愛人のような慣れた様相を見せてしまうこともあります。
 傷がトラウマになった事象を人生に再現させたりします。
が、傷が子供の自我をねじれさせてしまったために起こったことで、子供の真実の本意ではないのです。
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/798.html#c4

[番外地9] 校長や教頭は廣瀬爽彩さんの自殺の原因は家庭の問題であって、中学でのイジメとは全く関係無い、と何度も指摘してきました。

校長や教頭は廣瀬爽彩さんの自殺の原因は家庭の問題であって、中学でのイジメとは全く関係無い、と何度も指摘してきました。 ただ、家庭の問題というのが何なのかをはっきり言わなかったので理解されなかったのです。 推測ですが、校長や教頭が家庭の問題と言っていたのは

爽彩さんは母親の男にレイプされて複雑性PTSD(パニック障害)になった
爽彩さんは母親の男に覚醒剤を打たれて複雑性PTSD(パニック障害)になった
爽彩さんは母親の男に児童売春を強要されて複雑性PTSD(パニック障害)になった

の何れかでしょう。僕は爽彩さんは覚醒剤障害による被害妄想だったと思っています。

爽彩さんが小学校の時に発病した複雑性PTSD(パニック障害)というのは昔はヒステリーと呼ばれていて、父親や義父に性的虐待されたトラウマだというのが定説です。
性的虐待されたり、覚醒剤を打たれるとその後遺症としてフラッシュバックでパニック障害を起こすのです:

トラウマ・PTSDとは
トラウマとは、いわゆる「心の傷」と言われるものです。身体が傷つくことと同じように同じように心も傷ついてしまいます。そして、フラッシュバックや過覚醒、回避などのいくつかの症状が重なるとPTSD(心的外傷後ストレス障害)という診断になります。

トラウマ・PTSD・パニック障害は基本的には、

戦争に行って最前線で戦って死にそうになった
津波・地震・火災等で死にそうになった
レイプされて殺されそうになった
覚醒剤中毒でフラッシュバックした

等の異常体験で発症するものです。 自閉症程度ではパニック障害にはなりません。そもそも、フラッシュバックする様な恐怖体験をした事が無ければフラッシュバックする記憶も無いのでパニック障害にはなりません。

フラッシュバック (flashback) とは、強いトラウマ体験(心的外傷)を受けた場合に、後になってその記憶が、突然かつ非常に鮮明に思い出されたり、同様に夢に見たりする現象。心的外傷後ストレス障害(PTSD)や急性ストレス障害の特徴的な症状のうちの1つである。

▲△▽▼

ヴィクトリア朝時代に「精神分析」を提唱したジグムント・フロイトはヒステリー(解離性障害・PTSD・パニック障害などの神経症)の原因が、抑圧と性的原因にある、と提唱しました。

 が、彼の言は、後に性的虐待(sexual abuse セクシャル・アビューズ)を子供の願望によるものとし、20世紀後半になるまで、虐待を受けた子供達を苦しめることになります。

 ヒステリーのある女性には幼児期に性的な体験があり、これを引き起こすのが「エディプス・コンプレックス」だとはフロイト言いました。

幼い子供は親に支配されるものです。
子供にとって親しか頼れる人はおらず、親元が安全な場所なのです。
 だから、親から虐待を受ければ、深い傷を受け、居場所を無くしてしまいます。
 性的虐待を犯す父親は大人として未熟です。
幼児性愛やストレスなどにより、力でもって子供を踏み躙ります。
 それに対して母親は弱い人間で、何も言えない母親は夫と娘の関係を見守るだけです。
娘を女だと思って嫉妬したりする母親は、娘を罵り父親とともにさらに傷つけます。
 父親などの絶対者に
「これは夢だからね」
とか
「お母さんや他のひとに言っちゃだめだよ」
などといわれたら、子供は従わずにはおれません。

 こうして虐待は繰り返され、子供の傷は深く、潜在化していきます。
 幼い頃に受けた心的外傷はその人の人生を崩壊させます。
被害者(サバイバー)は人間不信に陥ってアダルトチルドレンとなってしまい、酷い場合だと自殺してしまう可能性もあります。
 また、幼い頃に受けてしまった傷を、人間は知らず知らずのうちに繰り返してしまったりします。
虐待の現場が夢となって何度も現われ、またずっと続く現実に子供自身が順応してしまい、まるで愛人のような慣れた様相を見せてしまうこともあります。
 傷がトラウマになった事象を人生に再現させたりします。
が、傷が子供の自我をねじれさせてしまったために起こったことで、子供の真実の本意ではないのです。
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/879.html

[番外地9] 昭和天皇はスターリンの粛清を聞いて震え上がったんだ。
近衛文麿は昭和天皇に利用されていたというのが定説だよ。そもそもあの頭がいい昭和天皇が負けるとわかっている戦争をする訳ないだろ。天皇が日米八百長戦争の主犯で軍人・政治家と近衛文麿の反対を押し切って真珠湾攻撃を強行させたんだよ。

昭和天皇はスターリンの粛清を聞いて震え上がったんだ。
それで革命を起こしそうな陸軍軍人をみんな太平洋の最前線に武器・食料無しで送り込んで始末したんだ。大学生も革命を起こさない様に神風特攻で死んで貰った。
日本の一般人も革命に加わると困るから、アメリカに頼んで大空襲や原爆でやっつけて貰ったんだ。
だから皇居や大企業の工場は全く空襲されないで無傷にまま残った。

日本の優秀な外交官が宣戦布告をうっかりしてやらなかったり、栗田艦隊が謎の大反転したり、東京大空襲の時に昭和天皇が寝ていて空襲警報を出せなかったり、戦艦大和に片道燃料で特攻させたりする訳ないだろ。
すべて昭和天皇が指示したやらせだよ。

天皇が日米開戦の主犯で軍人・政治家と近衛文麿の反対を押し切って真珠湾攻撃を強行させた

「第二次世界大戦に日本が参戦する事に昭和天皇は反対であったが、軍部と東条英樹首相の暴走と強硬さに押し切られ、嫌々ながら天皇は戦争に関与した」という、デマ宣伝がマスコミによって流されている。
「天皇を何とかして戦争責任から逃がそう」という宣伝である。

1995年3月19日付、毎日新聞は、1944年7月20日付の天皇から、東条英樹宛ての勅語を掲載している。

「あなたは(東条は)、朕(天皇)の行う戦争において、朕の指導の下、十分に職務を果たした。」

天皇はこの公式の勅語で、第二次世界大戦への日本の参加は、「天皇が」決断し行った=朕の戦争である、と断言している。
そして東条英樹以下、軍部は「天皇の指導に従っていた」と明言している。

天皇が戦争に反対の「平和主義者」などと言うのは、全くのデマ宣伝である事を、天皇自身がここで明言している。

山田朗は著書「昭和天皇の軍事思想と戦略」校倉書房刊・・で、膨大な資料と証言を積み重ねながら、政治と軍事の最高指導者として、また、最も正確な情報を収集し得る立場にいた者として、天皇に戦争を起こした責任がある、と結論付けている。この膨大な資料と証言に反論し得る研究は、まだ出ていない。

戦争中、侍従次長として天皇の側近中の側近であった木戸幸一は、著書「側近日記」東京大学出版会・・で、真珠湾攻撃の成功直後、戦争の開始を、「天皇が喜び、飛び上がって、小踊りする」様子を描いている。

戦争の開始を、「喜び、飛び上がって、小踊りする」天皇が、どうして「戦争に反対する平和主義者で、軍部と東条英樹の強硬姿勢に引きずられた」事になるのか?
こうしたデマ宣伝の背後には、再び「天皇を中心に日本を、力づくで統一」しようと言う、日本政府の意図が透けて見えている。
昭和天皇こそ、戦争を起こした責任者、戦争犯罪人として死刑に処されるべき犯罪者である。

▲△▽▼

故鬼塚英昭 氏 戦争はすべて八百長 『日本の真相』 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=eUIhcvcSmrA
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/880.html

[番外地9] 廣瀬爽彩さんの自殺の原因はイジメなのか? 校長や教頭が言っていた様に家庭の問題なのか? 中川隆
1. 中川隆[-16050] koaQ7Jey 2021年10月09日 08:10:38 : yCF5w5sEnQ : TEI1cGhkekR4TlE=[2]
廣瀬爽彩さんの自殺の原因はイジメなのか? 校長や教頭が言っていた様に家庭の問題なのか?
廣瀬爽彩さんを二か月も精x病院に閉じ込めて母親と面会させなかった理由は?
亡くなる前の爽彩さんの様子について、母親がこう話す。。
急に泣いたり叫んでしまったり、震えたり、過呼吸が起きたり、吐いちゃったりとか。それが本当に1日の間に10回以上とか、ひどいときには20回以上、起きることが続いていた。(2021年9月27日放送)

複雑性PTSDは虐待のような悲惨な体験を長期間受け続けた人に生じる心の病
爽彩さんが小学校の時に発病した複雑性PTSD(パニック障害)というのは昔はヒステリーと呼ばれていて、父親や義父に性的虐待されたトラウマだというのが定説です。

性的虐待されたり、覚醒剤を打たれるとその後遺症としてフラッシュバックでパニック障害を起こすのです:

精神科医・和田秀樹「複雑性PTSDなんかではない」眞子さまの本当の病名は
宮内庁は10月1日、眞子さま(29)と小室圭さん(29)が同月26日に結婚されると正式発表するとともに、眞子さまが「複雑性PTSD」と診断されたことを明らかにした。精神科医の和田秀樹さんは「会見に同席した精神科医は『結婚について周囲から温かい見守りがあれば、健康の回復が速やかに進むとみられる』と発言しましたが、これは国民に誤解を与え、現実に複雑性PTSDの症状に苦しむ虐待サバイバーに脅威を与えるおそれがある」という。その理由とは――。

■精神科医が腰を抜かすほど驚いた「眞子さまは複雑性PTSD」
 宮内庁は1日、秋篠宮家の長女・眞子さま(29)が「複雑性心的外傷後ストレス障害(PTSD)」と診断されたことを明らかにした。
 1991〜94年にアメリカに留学して以来、この疾患に向き合ってきた私は、宮内庁のその後の説明を聞くにつけて、腰を抜かすほど驚いてしまった。 なぜなら、複雑性PTSDとは虐待のような悲惨な体験を長期間受け続けた人に生じる心の病であり、治療も大変困難なものとされているからだ。眞子さまの場合、もし、環境が変わり周囲の批判がなくなった結果、秋山医師が断言したように「健康の回復が速やかに進むとみられる」ならば、それは複雑性PTSDなどという心の重病でない。眞子さまはおそらく適応障害にあたるのではないかと思う。

 1970年代、ベトナム戦争で兵士が受けた心理的後遺症やレイプトラウマの研究が進み、1980年に発表されたアメリカ精神医学会の診断基準第3版(DSM-3)に「PTSD」という病名が採用された。

 その後もトラウマ研究が進み、児童虐待のような長期反復型のトラウマ体験の場合は、もっと深刻な病状が生じることがわかってきた。

 当時のアメリカにおけるトラウマ研究の第一人者であるジュディス・ハーマン(ハーバード大学准教授)は、その主著と言える『心的外傷と回復』(みすず書房)において、複雑性PTSDという病名を提起した。

■複雑性PTSDの症状…自傷行為、性的逸脱、解離症状、希望喪失

 ハーマンが提起し、94年に発表されたアメリカ精神医学会の診断基準第4版(DSM-4)の「複雑性PTSD」に加えることが検討された症状には以下のようなものが列挙された。

1:感情制御の変化(自傷行為や性的逸脱など)
2:意識変化(解離症状など)
3:自己の感覚の変化(恥の意識など)
4:加害者への感覚の変化(復讐への没頭だけでなく、加害者を理想化することもある)
5:他者との関係の変化(孤立・ひきこもりなど)
6:意味体系の変化(希望喪失など)

 実際、私の留学中も虐待の被害者の患者をかなりの数で診たが、この指摘には心当たりがある。ここで注目したいのは、2の項目にある「解離」という症状だ。

 解離は、自分の忌まわしい記憶をふだんとは別の意識状態に置くことで生じると考えられている。要するにトラウマ的な出来事を覚えている意識状態と、普段の意識状態は、別の意識状態になっている。

 そのため、その人は、トラウマ的出来事を覚えている意識状態になったときのことは覚えていないし、その意識状態は、普段の意識状態と連続性をもたない。

 解離性健忘の場合、その解離状態の時の言動を覚えておらず、かなりの暴言を吐いても、犯罪的な行為(万引きや暴行など)や性的逸脱を行っても、それを覚えていない。

 別の意識状態になったときにアイデンティティ(自分が子どもか大人かとか、ふだんの名前や役職など)まで変わってしまう状態は多重人格と呼ばれてきたが、DSM-4では解離性同一性(アイデンティティ)障害と呼ばれるようになった。

■「複雑性PTSDとは、悪口レベルの外傷的体験ではない」
 実際、この診断基準で挙げられている逃れることが困難もしくは不可能な状況で、長期間・反復的に、著しい脅威や恐怖をもたらす出来事の例としては、「反復的な小児期の性的虐待・身体的虐待」のほか、「拷問」「奴隷」「集団虐殺」が挙げられている。けっして悪口レベルの外傷的体験などではない。

 ※児童虐待を受けたあと、生き残り、心の病に苦しんでいる人たち。

 自らが虐待サバイバーで複雑性PTSDの実際の症状を赤裸々に記録した『わたし、虐待サバイバー』(ブックマン社)の著者である羽馬千恵さんは、自身が発行するメルマガ(※)の中で、「虐待が終わってからが、本当の地獄だった」と記している。

 虐待を受けた子供たちは大人になり複雑性PTSDに苦しむわけだが、親元を離れ、虐待を受けなくなったり、多少周囲が温かくしてくれたりしところで、そう簡単に治るものではない。

 つい最近も3歳児が母親の同居人の虐待で死亡した事件があったが、それに関するニュースの多くは、初動で行政がしっかり対応していたら死ななくてすんだという類のものだった。

 たしかにそういう面もあるかもしれない。しかし、もっと重要なのは子供の今後の人生だ。「運よく生き残ったから、よかった」で済む問題ではない。生き残った子供たちは下手をすると生涯にわたる複雑性PTSDに苦しむのである。
 銃社会のアメリカでは、虐待を受けた子供が将来重大犯罪を起こすことが多いことも、虐待を受けた子供を親元に返さない大きな理由となっている。

▲△▽▼

爽彩さんの自殺未遂事件では警察は爽彩さんと母親の関係が原因だと判断して、爽彩さんを精神病院に二か月も入院させて母親とは会わせませんでした。
失踪・凍死事件では警察は爽彩さんと母親の喧嘩が原因の家出だと判断して、初期捜査を殆ど行いませんでした。
そもそも警察は自殺未遂事件で爽彩さんが退院して以降は、爽彩さんを毎月呼び出して、母親との関係、売春していないかどうか、覚醒剤使用の有無等を聞いていたと思われます。 つまり警察は爽彩さんの病状や家庭の状況を完全に把握した上で、失踪・凍死事件は爽彩さんと母親の喧嘩が原因の家出だと判断したのです。

爽彩さんは精神病院に二か月も入院させられていたので、唯のパニック障害なら、退院後も病院でカウンセリングを受けるのが普通ですが、病院ではなく警察に毎月呼び出したというのは、警察は爽彩さんのパニック障害はイジメが原因ではなく、家庭環境や覚醒剤障害が原因だと判断していた可能性が高いのです。

校長や教頭、担任、教育委員会も失踪・凍死事件は中学でのイジメが原因ではなく、家庭の問題だと何度も指摘しています。
第三者委員会のメンバーの大半が精神科医や心理学者で、加害者への聞き取り調査を一切していないのも、旭川少女凍死事件は中学でのイジメが原因ではなく、家庭の問題だと判断しているからです。
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/877.html#c1

[番外地9] 旧悪は露見するか?
旭川のイジメ加害者だと思われている少年・少女もこれからまともに生きれば「旧悪が露見する」事はなくなる。

旧悪は露見するか?
五輪開会式にかかわったクリエーターの二人が、民族差別といじめについての「過去の言動」を掘り返されて職を解かれた。こんなふうに簡単に昔のことを掘り出して炎上させることができる時代になると、誰でもがプライバシーを侵害されるリスクがある。

僕の行ってきたイジメや名誉棄損的な発言を批判したいなら、僕の過去のコメントのうちから何であれ「名誉棄損的」な発言を取り出して、批判することは理論的には可能である。ただその場合に、その人はとりあえず手に入る限りの僕のコメントを通読し、かつ過去十年分のコメントすべてを読まなければならない。

 たぶんすべてを探せば「名誉棄損的な発言と解釈できなくもない」コメントは見つかるとは思う。だが、私のコメントからそれを探しだすのは「干し草の山から針を探す」作業に近い。おそらく数週間にわたり、朝から晩まで私のコメントを読み続ける(場合によって、その挙句「何も見つからなかった」ということもあり得る)という地獄のようなタスクをこなさなければならない。

 どれほどの苦役であろう。

 だから、「ネットで検索すれば簡単に旧悪がばれる」という考えそのものに僕は同意しない。「ネットで検索すれば簡単に旧悪がばれる」人がいたとしたら、それはその人にとって「旧悪」ではなく、頻繁に更新され、上書きされてきた「新悪」だからである。今もなお「いかにもそういうことを言いそうな人間」だから、過去のテクストをサルベージしたら「すぐ」にお目当てのものが出てくるのである。

 二十年前に「言わない方がいいこと」を言ってしまい、それを消去する手立てがないという場合には、それから後「そういうことを言いそうもない人」たるべく自己陶冶するはずである。

 ジャン・バルジャンだって、別に「旧悪が露見した」わけではない。起業して成功し、人望篤い市長になっていたのである。彼の旧悪が明らかになったのは彼が無実の罪を着せられた人を救おうとしたためである。ふつう、心を入れ替えて「よい人」になろうと思って日々努力している人の身には「旧悪が露見する」ということは起こらない。もしかしたら、こいつ「ろくでもないやつ」じゃないのか・・・という疑惑を周囲に抱かせるからこそ「旧悪」を調べるようという気になるのである。

 だから「ネット時代になれば、誰でも過去の失言を咎められるリスクがある」というのは事実ではない。仮に過去に恥ずべき失言をなしたことがあったとしても、その後反省して、「そういうことを言いそうもない人」なるべく努力を重ねていれば、その人について「恥ずべき過去があるに違いない。いくら時間がかかっても構わない。徹底的に調べてやろう」という人は出てこない。

 ネットというテクノロジーを駆使するのは生身の人間である。生身の人間においてある人物の「旧悪」を探す意欲がむらむらと湧き上がることがなければ、仮に恥ずべき過去があったとしても、それはいずれ忘れられる。それでいいと思う。

旭川のイジメ加害者だと思われている少年・少女に関しても全く同じである。
イジメが事実だったのか、単に被害者の覚醒剤障害による被害妄想だったのかは今となってはもう判断できない。
そもそも被害者が自殺したのはイジメ事件の2年も後なのだから、因果関係すら疑わしい。
少なくともイジメ加害者だと思われている少年・少女がこれからまともに生きれば「旧悪が露見する」事はなくなる。
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/881.html

[近代史3] (小室圭問題/佳子さま盗撮) 皇室記事まとめ一気読み 中川隆
40. 中川隆[-16049] koaQ7Jey 2021年10月09日 09:16:25 : yCF5w5sEnQ : TEI1cGhkekR4TlE=[3]
精神科医・和田秀樹「複雑性PTSDなんかではない」眞子さまの本当の病名は
10/7
https://news.yahoo.co.jp/articles/58e04976e80049b6afc4747e029abd25f69b356f


宮内庁は10月1日、眞子さま(29)と小室圭さん(29)が同月26日に結婚されると正式発表するとともに、眞子さまが「複雑性PTSD」と診断されたことを明らかにした。精神科医の和田秀樹さんは「会見に同席した精神科医は『結婚について周囲から温かい見守りがあれば、健康の回復が速やかに進むとみられる』と発言しましたが、これは国民に誤解を与え、現実に複雑性PTSDの症状に苦しむ虐待サバイバーに脅威を与えるおそれがある」という。その理由とは――。

【画像】複雑性PTSDの実際の症状を赤裸々に記録した書籍

■精神科医が腰を抜かすほど驚いた「眞子さまは複雑性PTSD」

 宮内庁は1日、秋篠宮家の長女・眞子さま(29)が「複雑性心的外傷後ストレス障害(PTSD)」と診断されたことを明らかにした。

 そのため、この病名がネット上で一気にトピックワードとなった。

 この病名については、秋篠宮家の側近部局トップの加地隆治皇嗣職大夫が眞子さまの病状について切り出し、精神科医で、公益財団法人「こころのバリアフリー研究会」理事長の秋山剛氏が会見に同席して「長期にわたり誹謗中傷を体験された結果、複雑性PTSDと診断される状態になっておられる」と述べた。

 1991〜94年にアメリカに留学して以来、この疾患に向き合ってきた私は、宮内庁のその後の説明を聞くにつけて、腰を抜かすほど驚いてしまった。

 なぜなら、複雑性PTSDとは虐待のような悲惨な体験を長期間受け続けた人に生じる心の病であり、治療も大変困難なものとされているからだ。

 1970年代、ベトナム戦争で兵士が受けた心理的後遺症やレイプトラウマの研究が進み、1980年に発表されたアメリカ精神医学会の診断基準第3版(DSM-3)に「PTSD」という病名が採用された。

 その後もトラウマ研究が進み、児童虐待のような長期反復型のトラウマ体験の場合は、もっと深刻な病状が生じることがわかってきた。

 当時のアメリカにおけるトラウマ研究の第一人者であるジュディス・ハーマン(ハーバード大学准教授)は、その主著と言える『心的外傷と回復』(みすず書房)において、複雑性PTSDという病名を提起した。

■複雑性PTSDの症状…自傷行為、性的逸脱、解離症状、希望喪失

 ハーマンが提起し、94年に発表されたアメリカ精神医学会の診断基準第4版(DSM-4)の「複雑性PTSD」に加えることが検討された症状には以下のようなものが列挙された。

 1:感情制御の変化(自傷行為や性的逸脱など)
2:意識変化(解離症状など)
3:自己の感覚の変化(恥の意識など)
4:加害者への感覚の変化(復讐への没頭だけでなく、加害者を理想化することもある)
5:他者との関係の変化(孤立・ひきこもりなど)
6:意味体系の変化(希望喪失など)

 実際、私の留学中も虐待の被害者の患者をかなりの数で診たが、この指摘には心当たりがある。ここで注目したいのは、2の項目にある「解離」という症状だ。

 解離は、自分の忌まわしい記憶をふだんとは別の意識状態に置くことで生じると考えられている。要するにトラウマ的な出来事を覚えている意識状態と、普段の意識状態は、別の意識状態になっている。

 そのため、その人は、トラウマ的出来事を覚えている意識状態になったときのことは覚えていないし、その意識状態は、普段の意識状態と連続性をもたない。

 解離性健忘の場合、その解離状態の時の言動を覚えておらず、かなりの暴言を吐いても、犯罪的な行為(万引きや暴行など)や性的逸脱を行っても、それを覚えていない。

 別の意識状態になったときにアイデンティティ(自分が子どもか大人かとか、ふだんの名前や役職など)まで変わってしまう状態は多重人格と呼ばれてきたが、DSM-4では解離性同一性(アイデンティティ)障害と呼ばれるようになった。


■「複雑性PTSDとは、悪口レベルの外傷的体験ではない」

 またこの複雑性PTSDの場合、感情も対人関係も不安定なので、婚姻生活や社会生活に支障をきたし、定職にもつけない境界性パーソナリティー障害と呼ばれる診断を受けることも多い。

 ただ、ハーマンの過去の記憶を思い出させて、それをぶちまけさせるような治療方針がかえって患者の具合が悪くすることが多いことが明らかになったことで、彼女のアメリカ精神医学会での影響力はかなり弱まった。ハーバード大学でも教授に昇格していない。そのせいか、2013年改訂のアメリカ精神医学会の診断基準の第5版(DSM-5)では、複雑性PTSDの病名は採用されなかった。

 ところが、WHOが作るもう一つの国際的な診断基準の最新版(ICD-11)が2018年に公表された際に複雑性PTSDが採用されることになった。これまでの歴史をみるとアメリカ精神医学会の基準に追随することが多かった中で画期的なことである。

 おそらくは、世界的に深刻化する児童虐待だけでなく、人権を弾圧するような政府や軍事介入などで生じる心の後遺症を無視することができないと考えたのだろう。

 実際、この診断基準で挙げられている逃れることが困難もしくは不可能な状況で、長期間・反復的に、著しい脅威や恐怖をもたらす出来事の例としては、「反復的な小児期の性的虐待・身体的虐待」のほか、「拷問」「奴隷」「集団虐殺」が挙げられている。けっして悪口レベルの外傷的体験などではない。

 これに対して秋山医師は、「複雑性PTSDは言葉の暴力、インターネット上の攻撃、いじめ、ハラスメントでも起こる」と拡大解釈をしたわけだ。

 実際、インターネット上の誹謗中傷で自殺する人もいるのだから、私もその可能性を否定するつもりはない。

■「温かい見守りがあれば、健康の回復が速やかに」という発言の問題点

 むしろ今回、国民に誤解を与え、現実に複雑性PTSDの症状に苦しむ虐待サバイバー(※)に脅威を与えるおそれがあるのは、秋山医師が発した「(小室圭さんとの)結婚について周囲から温かい見守りがあれば、健康の回復が速やかに進むとみられる」という言葉だ。

 ※児童虐待を受けたあと、生き残り、心の病に苦しんでいる人たち。

 自らが虐待サバイバーで複雑性PTSDの実際の症状を赤裸々に記録した『わたし、虐待サバイバー』(ブックマン社)の著者である羽馬千恵さんは、自身が発行するメルマガ(※)の中で、「虐待が終わってからが、本当の地獄だった」と記している。

 ※大人だって虐待で苦しんでいる。当事者が語る子供時代のトラウマ - まぐまぐニュース! (mag2.com)

 虐待を受けた子供たちは大人になり複雑性PTSDに苦しむわけだが、親元を離れ、虐待を受けなくなったり、多少周囲が温かくしてくれたりしところで、そう簡単に治るものではない。

 つい最近も3歳児が母親の同居人の虐待で死亡した事件があったが、それに関するニュースの多くは、初動で行政がしっかり対応していたら死ななくてすんだという類のものだった。

 たしかにそういう面もあるかもしれない。しかし、もっと重要なのは子供の今後の人生だ。「運よく生き残ったから、よかった」で済む問題ではない。生き残った子供たちは下手をすると生涯にわたる複雑性PTSDに苦しむのである。


■「眞子さまはおそらく適応障害なのではないか」

 人格変化のために周囲の人が犠牲になることさえある。古くは永山則夫事件、あるいは大阪・池田小事件の宅間死刑囚、そして山口県光市の母子殺しの少年など、子供時代などに虐待を受けた人物が起こす重大事件は枚挙に暇がない。

 銃社会のアメリカでは、虐待を受けた子供が将来重大犯罪を起こすことが多いことも、虐待を受けた子供を親元に返さない大きな理由となっている。

 眞子さまの場合、もし、環境が変わり周囲の批判がなくなった結果、秋山医師が断言したように「健康の回復が速やかに進むとみられる」ならば、それは複雑性PTSDなどという心の重病でない。もちろん、私は直接診察したわけではないので100%そうだと言い切れないが、眞子さまに関してはおそらく適応障害(この疾患の詳細は、拙著『適応障害』宝島社新書を参照いただきたい)にあたるのではないかと思う。

 ただ、日本の場合、精神科の主任教授が臨床軽視・研究重視の大学教授たちの多数決で決まるため、私のようなカウンセリングや精神療法を専門とする大学医学部は全国どこを探してもない。そのため、複雑性PTSDであれ、適応障害であれ、よい治療者をみつけることはかなり困難だ。

 そういう点で、いい治療者を見つけるために眞子さまがご結婚されアメリカに行かれるのはいいことだ。

 複雑性PTSDについては予防の必要性は極めて高い。私は、アメリカのように、虐待が見つかったら原則的に親元に返さないできちんとしたチャイルドケアを受けさせるべきだと考える。そうでないと一生不幸を抱えてしまうことになりかねない。

 その一方、虐待をしてしまった親に対するカウンセリングも重要だ。アメリカではこれが盛んに行われ、カウンセラーが認めれば、子供はその親元に返される。

 日本の場合、残念ながら医学の世界、精神医学の世界がカウンセリングを軽視する傾向があり、見通しは暗いと言わざるを得ない。私の留学先のような「大学でない精神科医の養成機関」をかなりの数作らなければならないと思われる。

■「複雑性PTSDの患者は数十万人に達する可能性がある」

 実は、複雑性PTSDの患者はかなり多いと予想できる。というのは、虐待の数が想像以上に多いからだ。2021年8月27日に、令和2(2020)年度の児童相談所における虐待相談対応件数が発表されたが、ついに20万件を超えた(心理的虐待12万1325件:全体の59.2%、身体的虐待5万33件:24.4%、ネグレクト3万1420件:15.3%、性的虐待2251件:1.1%)。

 虐待された子供が新規で毎年20万人(実際はもっと多い可能性が高い)ということは、日本中に虐待経験者は全体で数百万人単位いるということになる。仮にその1割が複雑性PTSDになったとしても数十万人だ。これはかなり少なく見積もった数と言えるものだ。これから複雑性PTSDを増やさないだけでなく、現在複雑性PTSDの人たちを救うことが急務だ。

 今回の報道でもっと危惧するのは、複雑性PTSDになった人は周囲の人がやさしく見守れば、そのうち症状が緩和する軽い病気であるかのような誤解が広まることだ。

 あるいは、芸能人や政治家がバッシング逃れのために知り合いの精神科医に複雑性PTSDの診断書を書いてもらうケースが増え、この疾患に直面している人の苦しみをどこか軽んじるような風潮が世間に広まることもあり得る。

 複雑性PTSDという病名が世間に知られることは望ましいことだが、本当の実態が知られないと逆にいちばん迷惑をこうむるのは複雑性PTSDの患者であることも知ってほしい。

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和田 秀樹(わだ・ひでき)
国際医療福祉大学大学院教授
アンチエイジングとエグゼクティブカウンセリングに特化した「和田秀樹 こころと体のクリニック」院長。1960年6月7日生まれ。東京大学医学部卒業。『受験は要領』(現在はPHPで文庫化)や『公立・私立中堅校から東大に入る本』(大和書房)ほか著書多数。
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/291.html#c40

[近代史3] 秋篠宮文仁  僕の父親は一体誰なんでしょう? 皆さんも一緒に探してください 中川隆
95. 中川隆[-16048] koaQ7Jey 2021年10月09日 10:51:46 : yCF5w5sEnQ : TEI1cGhkekR4TlE=[5]
小室圭と秋篠宮が隠したい深い闇


精神科医・和田秀樹「複雑性PTSDなんかではない」眞子さまの本当の病名は
10/7
https://news.yahoo.co.jp/articles/58e04976e80049b6afc4747e029abd25f69b356f

宮内庁は10月1日、眞子さま(29)と小室圭さん(29)が同月26日に結婚されると正式発表するとともに、眞子さまが「複雑性PTSD」と診断されたことを明らかにした。精神科医の和田秀樹さんは「会見に同席した精神科医は『結婚について周囲から温かい見守りがあれば、健康の回復が速やかに進むとみられる』と発言しましたが、これは国民に誤解を与え、現実に複雑性PTSDの症状に苦しむ虐待サバイバーに脅威を与えるおそれがある」という。その理由とは――。

【画像】複雑性PTSDの実際の症状を赤裸々に記録した書籍

■精神科医が腰を抜かすほど驚いた「眞子さまは複雑性PTSD」

 宮内庁は1日、秋篠宮家の長女・眞子さま(29)が「複雑性心的外傷後ストレス障害(PTSD)」と診断されたことを明らかにした。

 そのため、この病名がネット上で一気にトピックワードとなった。

 この病名については、秋篠宮家の側近部局トップの加地隆治皇嗣職大夫が眞子さまの病状について切り出し、精神科医で、公益財団法人「こころのバリアフリー研究会」理事長の秋山剛氏が会見に同席して「長期にわたり誹謗中傷を体験された結果、複雑性PTSDと診断される状態になっておられる」と述べた。

 1991〜94年にアメリカに留学して以来、この疾患に向き合ってきた私は、宮内庁のその後の説明を聞くにつけて、腰を抜かすほど驚いてしまった。

 なぜなら、複雑性PTSDとは虐待のような悲惨な体験を長期間受け続けた人に生じる心の病であり、治療も大変困難なものとされているからだ。

 1970年代、ベトナム戦争で兵士が受けた心理的後遺症やレイプトラウマの研究が進み、1980年に発表されたアメリカ精神医学会の診断基準第3版(DSM-3)に「PTSD」という病名が採用された。

 その後もトラウマ研究が進み、児童虐待のような長期反復型のトラウマ体験の場合は、もっと深刻な病状が生じることがわかってきた。

 当時のアメリカにおけるトラウマ研究の第一人者であるジュディス・ハーマン(ハーバード大学准教授)は、その主著と言える『心的外傷と回復』(みすず書房)において、複雑性PTSDという病名を提起した。

■複雑性PTSDの症状…自傷行為、性的逸脱、解離症状、希望喪失

 ハーマンが提起し、94年に発表されたアメリカ精神医学会の診断基準第4版(DSM-4)の「複雑性PTSD」に加えることが検討された症状には以下のようなものが列挙された。

 1:感情制御の変化(自傷行為や性的逸脱など)
2:意識変化(解離症状など)
3:自己の感覚の変化(恥の意識など)
4:加害者への感覚の変化(復讐への没頭だけでなく、加害者を理想化することもある)
5:他者との関係の変化(孤立・ひきこもりなど)
6:意味体系の変化(希望喪失など)

 実際、私の留学中も虐待の被害者の患者をかなりの数で診たが、この指摘には心当たりがある。ここで注目したいのは、2の項目にある「解離」という症状だ。

 解離は、自分の忌まわしい記憶をふだんとは別の意識状態に置くことで生じると考えられている。要するにトラウマ的な出来事を覚えている意識状態と、普段の意識状態は、別の意識状態になっている。

 そのため、その人は、トラウマ的出来事を覚えている意識状態になったときのことは覚えていないし、その意識状態は、普段の意識状態と連続性をもたない。

 解離性健忘の場合、その解離状態の時の言動を覚えておらず、かなりの暴言を吐いても、犯罪的な行為(万引きや暴行など)や性的逸脱を行っても、それを覚えていない。

 別の意識状態になったときにアイデンティティ(自分が子どもか大人かとか、ふだんの名前や役職など)まで変わってしまう状態は多重人格と呼ばれてきたが、DSM-4では解離性同一性(アイデンティティ)障害と呼ばれるようになった。


■「複雑性PTSDとは、悪口レベルの外傷的体験ではない」

 またこの複雑性PTSDの場合、感情も対人関係も不安定なので、婚姻生活や社会生活に支障をきたし、定職にもつけない境界性パーソナリティー障害と呼ばれる診断を受けることも多い。

 ただ、ハーマンの過去の記憶を思い出させて、それをぶちまけさせるような治療方針がかえって患者の具合が悪くすることが多いことが明らかになったことで、彼女のアメリカ精神医学会での影響力はかなり弱まった。ハーバード大学でも教授に昇格していない。そのせいか、2013年改訂のアメリカ精神医学会の診断基準の第5版(DSM-5)では、複雑性PTSDの病名は採用されなかった。

 ところが、WHOが作るもう一つの国際的な診断基準の最新版(ICD-11)が2018年に公表された際に複雑性PTSDが採用されることになった。これまでの歴史をみるとアメリカ精神医学会の基準に追随することが多かった中で画期的なことである。

 おそらくは、世界的に深刻化する児童虐待だけでなく、人権を弾圧するような政府や軍事介入などで生じる心の後遺症を無視することができないと考えたのだろう。

 実際、この診断基準で挙げられている逃れることが困難もしくは不可能な状況で、長期間・反復的に、著しい脅威や恐怖をもたらす出来事の例としては、「反復的な小児期の性的虐待・身体的虐待」のほか、「拷問」「奴隷」「集団虐殺」が挙げられている。けっして悪口レベルの外傷的体験などではない。

 これに対して秋山医師は、「複雑性PTSDは言葉の暴力、インターネット上の攻撃、いじめ、ハラスメントでも起こる」と拡大解釈をしたわけだ。

 実際、インターネット上の誹謗中傷で自殺する人もいるのだから、私もその可能性を否定するつもりはない。

■「温かい見守りがあれば、健康の回復が速やかに」という発言の問題点

 むしろ今回、国民に誤解を与え、現実に複雑性PTSDの症状に苦しむ虐待サバイバー(※)に脅威を与えるおそれがあるのは、秋山医師が発した「(小室圭さんとの)結婚について周囲から温かい見守りがあれば、健康の回復が速やかに進むとみられる」という言葉だ。

 ※児童虐待を受けたあと、生き残り、心の病に苦しんでいる人たち。

 自らが虐待サバイバーで複雑性PTSDの実際の症状を赤裸々に記録した『わたし、虐待サバイバー』(ブックマン社)の著者である羽馬千恵さんは、自身が発行するメルマガ(※)の中で、「虐待が終わってからが、本当の地獄だった」と記している。

 ※大人だって虐待で苦しんでいる。当事者が語る子供時代のトラウマ - まぐまぐニュース! (mag2.com)

 虐待を受けた子供たちは大人になり複雑性PTSDに苦しむわけだが、親元を離れ、虐待を受けなくなったり、多少周囲が温かくしてくれたりしところで、そう簡単に治るものではない。

 つい最近も3歳児が母親の同居人の虐待で死亡した事件があったが、それに関するニュースの多くは、初動で行政がしっかり対応していたら死ななくてすんだという類のものだった。

 たしかにそういう面もあるかもしれない。しかし、もっと重要なのは子供の今後の人生だ。「運よく生き残ったから、よかった」で済む問題ではない。生き残った子供たちは下手をすると生涯にわたる複雑性PTSDに苦しむのである。


■「眞子さまはおそらく適応障害なのではないか」

 人格変化のために周囲の人が犠牲になることさえある。古くは永山則夫事件、あるいは大阪・池田小事件の宅間死刑囚、そして山口県光市の母子殺しの少年など、子供時代などに虐待を受けた人物が起こす重大事件は枚挙に暇がない。

 銃社会のアメリカでは、虐待を受けた子供が将来重大犯罪を起こすことが多いことも、虐待を受けた子供を親元に返さない大きな理由となっている。

 眞子さまの場合、もし、環境が変わり周囲の批判がなくなった結果、秋山医師が断言したように「健康の回復が速やかに進むとみられる」ならば、それは複雑性PTSDなどという心の重病でない。もちろん、私は直接診察したわけではないので100%そうだと言い切れないが、眞子さまに関してはおそらく適応障害(この疾患の詳細は、拙著『適応障害』宝島社新書を参照いただきたい)にあたるのではないかと思う。

 ただ、日本の場合、精神科の主任教授が臨床軽視・研究重視の大学教授たちの多数決で決まるため、私のようなカウンセリングや精神療法を専門とする大学医学部は全国どこを探してもない。そのため、複雑性PTSDであれ、適応障害であれ、よい治療者をみつけることはかなり困難だ。

 そういう点で、いい治療者を見つけるために眞子さまがご結婚されアメリカに行かれるのはいいことだ。

 複雑性PTSDについては予防の必要性は極めて高い。私は、アメリカのように、虐待が見つかったら原則的に親元に返さないできちんとしたチャイルドケアを受けさせるべきだと考える。そうでないと一生不幸を抱えてしまうことになりかねない。

 その一方、虐待をしてしまった親に対するカウンセリングも重要だ。アメリカではこれが盛んに行われ、カウンセラーが認めれば、子供はその親元に返される。

 日本の場合、残念ながら医学の世界、精神医学の世界がカウンセリングを軽視する傾向があり、見通しは暗いと言わざるを得ない。私の留学先のような「大学でない精神科医の養成機関」をかなりの数作らなければならないと思われる。

■「複雑性PTSDの患者は数十万人に達する可能性がある」

 実は、複雑性PTSDの患者はかなり多いと予想できる。というのは、虐待の数が想像以上に多いからだ。2021年8月27日に、令和2(2020)年度の児童相談所における虐待相談対応件数が発表されたが、ついに20万件を超えた(心理的虐待12万1325件:全体の59.2%、身体的虐待5万33件:24.4%、ネグレクト3万1420件:15.3%、性的虐待2251件:1.1%)。

 虐待された子供が新規で毎年20万人(実際はもっと多い可能性が高い)ということは、日本中に虐待経験者は全体で数百万人単位いるということになる。仮にその1割が複雑性PTSDになったとしても数十万人だ。これはかなり少なく見積もった数と言えるものだ。これから複雑性PTSDを増やさないだけでなく、現在複雑性PTSDの人たちを救うことが急務だ。

 今回の報道でもっと危惧するのは、複雑性PTSDになった人は周囲の人がやさしく見守れば、そのうち症状が緩和する軽い病気であるかのような誤解が広まることだ。

 あるいは、芸能人や政治家がバッシング逃れのために知り合いの精神科医に複雑性PTSDの診断書を書いてもらうケースが増え、この疾患に直面している人の苦しみをどこか軽んじるような風潮が世間に広まることもあり得る。

 複雑性PTSDという病名が世間に知られることは望ましいことだが、本当の実態が知られないと逆にいちばん迷惑をこうむるのは複雑性PTSDの患者であることも知ってほしい。

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和田 秀樹(わだ・ひでき)
国際医療福祉大学大学院教授
アンチエイジングとエグゼクティブカウンセリングに特化した「和田秀樹 こころと体のクリニック」院長。1960年6月7日生まれ。東京大学医学部卒業。『受験は要領』(現在はPHPで文庫化)や『公立・私立中堅校から東大に入る本』(大和書房)ほか著書多数。



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2021年10月08日
小室圭と秋篠宮が隠したい深い闇
嘘で固められた学歴と就職
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68873479.html
Kei Komuro 8832Princess Mako 0001

  今回のブログ記事だけは、「投稿しようか、それとも、ボツにしようか?」と迷ってしまった。というのも、以下の記事は小室批判というよりも、皇室批判に繋がってしまうからだ。宮内庁の報道によれば、10月26日に眞子内親王殿下が結婚後の記者会見を開くそうだが、たとえ記者の質問を受けても明確に答えることはないだろう。おそらく、鋭い質問は事前に却下されるか、記者が自重するかのどちらかなので、一般国民からすると不満が残ってしまう「ウヤムヤ会見」になる可能性が高い。

  というのも、10月になって唐突に「眞子内親王殿下は複雑性PTSDに苦しまれています !」という発表を宮内庁が行ったからだ。これは何となく情報操作の臭いがするし、国民からの非難を封じる作戦にも思えてしまう。だいいち、主治医が正式な診断書を公表し、複数の医師が眞子様を診断して、正確な判断を下したのか? 単なる医者の談話じゃ信用できないぞ。おそらく、記者会見での辛辣な質問を封殺するために、側近の誰かが秋篠宮殿下に囁き、小賢しい智慧を仕込んだに違いない。こうした精神病を「葵の御紋」にすれば、質問攻めに遭った眞子様は答えなくても済む。要するに、宮内庁が建前上の「言い訳」を作った、ということなんだろう。ただし、ガス抜きのために、小室圭への厳しい質問が二、三あるかも知れないが、全体として見れば残尿感が残る茶番劇になるはずだ。つまり、最初から仕組まれた八百長会見になるというわけ。

  誠に厭なことだが、件(くだん)の御結婚には疑問や醜聞、犯罪などがチューイング・ガムのように纏わり付いている。とりわけ、小室圭の母親、あの小室佳代は厄病神というより、パンドラの壺と呼んでも差し支えない。試しに、この壺の蓋を開けてみると、警察官なら誰でも眉を顰める夫の焼身自殺、義父と義母の相次ぐ自殺、ヤクザまがいの同棲相手、お金持ちで息子の圭にも優しかった「湘南のパパパ」、さらに借金を踏み倒した元交際相手、と火曜サスペンスでも見られないほどの疑惑に満ちた人生だ。これは筆者の勝手な推測だが、小室佳代にはまだ明らかにされていない「闇」があるんじゃないか? だいたい、本当に彼女はお金に困っているのか? もし、隠し財産があったら大問題だぞ。それに、彼女の弁護士費用は誰が出したんだ? さらに、佳代は ちょくちょく行方をくらましたが、こうした期間に彼女は何をしていたのか?

Komuro Kayo 002 ( 左 / 野心家の小室佳代「旧姓 : 角田」) 
 もう、ここまでくると普通の母親じゃない。何しろ、佳代は遺族年金の不正受給だけでは飽き足らず、病傷手当の不正取得までしでかしたのだ。金づるにした男に対し、内縁関係を内緒にしましょうと提案し、遺族年金を数千万円も騙し取るなんて、まるでプロの詐欺師みたいじゃないか ! しかも、親族の不審な自殺に加えて、年金詐欺まで暴露されたのに、それを恥じることなく、息子の結婚を祝っているなんて、聞いている国民の方が目眩(めまい)がする。警察はなぜ彼女の不正行為を見過ごすのか? 検察の沈黙は、世間から「皇室への遠慮や忖度なのでは?」と疑われても仕方がないぞ。(最近、篠原常一カが小室佳代を詐欺罪で刑事告発したそうだ。)

  通常、皇族の御結婚となれば、皇室警護の警察組織が徹底的に交際相手を調査し、どんな人物なのか、その素性や家庭環境、親戚・友人・先輩後輩まで調べ上げる。なぜなら、外国の工作機関が送り込んだ人物であったり、黒社会と関わりのある不適切な人物というケースもあるからだ。支那人は捕虜にした日本兵を撫順戦犯所で洗脳してから帰国させたし、「日中友好」とやらで支那人の「草」を日本に植え付けた。おそらく、こうした「忍び」の手下が宮内庁や厚労省に浸透し、皇室をボロクソに貶すマスコミ操作をしているはずだ。

  外国勢力の政治工作はともかく、小室氏との交際が明らかになった時、彼のために警護官が用意されたというから、警察は前もって秋篠宮殿下に小室親子の情報を伝えていたはず。それでも、小室氏に警護官が附いたということは、秋篠宮殿下が警察からの通報や内部調査を斥け、眞子内親王殿下の婚約者でもいい、と承認したことになる。もしかすると、殿下の近くに「確信犯」がうごめき、皇族を守るフリをしながら、わざと問題を悪化させ、「眞子様の幸せのためにも・・・」と涙を流し、小室圭を受け容れるよう勧めた「側近の奸」がいたのかも知れない。諜報活動の世界では常識なんだけど、「まさか、あの人がスパイだったなんて・・・」というケースはよくある。

  筆者は単なる平民なので、皇室の内情や小室親子の真相については雑誌程度の知識しかない。それでも、小室圭と秋篠宮家に関しては色々な疑問を抱いている。だから、勝手な憶測や邪推であっても、筆者自身の見解を述べてみたい。結論として言えることは、小室氏の留学や就職は、最初から“計画された筋書き”に沿って実行されたものということだ。確実な証拠は無いけど、数々の状況証拠から推察すれば、彼の実力は留学レベルに達していないし、一橋大学の大学院にある国際企業戦略研究科に入れたことすらも怪しい限りである。彼はアメリカで弁護士になりたかったのか、フォーダム大学のロー・スクールに入った。でも、本当に自分の“実力”で入学できたのか?

  筆者がこう考えるのには理由がある。例えば、彼は在学中にクラウドファンディングに関する論文を米国の学術誌に発表した。ところが、小室氏が“書いた”という論文は、普通のアメリカ人が書いたのでは、と思えるほど自然な文章で、英語での論文を書き慣れた人が執筆したような文章なのだ。確かに、小室氏は英語が得意なんだろうが、彼の論文を読んでみると、「誰か別の人物が書いたんじゃないか?」と疑いたくなる。筆者が通読して特に引っ掛かったのは、彼が南鮮のコーヒー会社について言及した箇所だ。小室氏は一般人から資金を集める際の詐欺について述べており、そこで「カフェ・ウッズアス(Caffé Withus)」という店を例に取っている。(Kei Komuro, ‘Challenges and Implications for Potential Reforms of Crowdfunding Law for Social Enterprises’, NY Business Law Journal, Vol.23, No.1, Summer 2019, p.70.) しかし、「どうして日本人の小室氏が、いきなり朝鮮企業を例に挙げたのか?」という疑問が残る。

  とは言っても、この謎は小室氏が引用した脚注の論文を読んでみれば解消する。彼はベルギーのブリュッセル自由大学(Vrije Universiteit Brussel)で教授を務める、「キム」という朝鮮人学者の論文を引用していたのだ。キム・ヒョンス(Hyonsu Kim)とリーヴェン・デ・ムーア(Lieven De Moor)の二人は共著で「The Case of Crowdfunding in Financial Inclusion : A Survey」(Strategic Change, Vol. 26, 2017) 」という経済論文を『ストラテジック・チェインジ』誌に発表している。ここの198頁で「カフェ・ウィズアス」が具体例に挙がっているので、小室氏はここの箇所を「自分の論文」に引用したのだ。ところが、キム氏の論文では「Caffe WITHUS」と表記されており、小室氏は「e」ではなく、よく用いられる「café」を念頭にしたのか、「Caffé Withus」と書き換えていた。もちろん、キム氏もこの企業が「franchise café」であると説明しているから、この社名は固有名詞なんだろう。また、キム氏は論文の中で「a handmade leather bag equivalent to KRW 300,000 for providers over KRW 1 miilion」(p.198.)と書いているのに、小室氏は皮バッグを複数形にして「handmade leather bags equivalent to KWR 300,000」(p.70.)と書き換えている。どうしてキム氏と同じく単数形で引用しなかったのか?

  さらに“おかしい”のは、小室氏が米国ドル(USD)と南鮮ウォン(KRW)の為替レートを間違っていることである。キム氏の論文では、単に「KRW 100,000」とだけ表記されており、小室氏はアメリカ人の読者を考慮したのか、親切にも「10万ウォン」の直ぐ後ろの箇所に「KRW 100,000 KRW 1 = $ 0.0883 as of October 15, 2018」との註を加えていた。(小室論文 p.70.) しかし、小室氏が表示した為替レートは桁が間違っている。本当なら、「1 KRW = $ 0.000883」が正解だ。まぁ、単なる「勘違い」ということもあるんだろうが、もしかしたら、ゴースト・ライターがいたのかも知れないぞ。(となれば、また「誰がゴースト・ライターを見つけて、論文を代筆させたのか?」そして「幾ら払ったのか?」という疑問が生じてくる。金銭的余裕の無い小室氏が、助手に払う金があるとは思えない。)

  これは筆者の妄想なんだけど、もしかすると、小室氏を助けたゴーカト・ライターは、アメリカ育ちの朝鮮系アメリカ人なのかも知れない。南鮮での生活経験が無いから、南鮮の通貨「ウォン」の価値に詳しくなく、つい桁を間違ってしまった、とも考えられるのだ。もし、このゴースト・ライターが南鮮人留学生なら、こんな初歩的ミスは犯さなかったはず。なぜなら、彼らはしばしば懐のウォン紙幣を米ドルに両替しているから、2桁もレートを間違えるなんて有り得ない。日本人の留学生や在米日本人だって、1ドルが約110円とか105円と分かっているだろう。だから、いくら何でも「$ 1 = ¥11,000」と間違える馬鹿はいないはずだ。銀行で1万円渡して、1ドルしか貰えなかったら驚愕するだろう。

  したがって、もし小室氏に「ゴースト・ライターが居た」とすれば、その人物は南鮮のウォンを両替したことのない朝鮮系アメリカ人という可能性がある。もちろん、筆者はこれを証明する証拠を持っていないから、この疑問は永遠に謎である。小室氏の話を真っ向から否定するつもりはないが、それでも何となく腑に落ちない。そもそも、クラウドファンディングを論ずる日本人が、わざわざ南鮮のコーヒー・チェーン店を引き合いに出すのか? 普通なら、アメリカやカナダ、オーストラリア、イングランドないし西ヨーロッパの都市にある民間企業を例に取るだろう。マクドナルドやスターバックスじゃなくても、具体例になりそうな中堅企業は幾らでもある。実際、済州島に「With US, Travel Cafe」というのがあるらしいが、普通の日本人がこんな店を知っているのか? まぁ、単なる偶然かも知れないが・・・。

  それでも仮に、小室氏がゴースト・ライターを雇っていた場合、その人物が朝鮮系であるなら、普段の読書や研究で朝鮮人の論文を読んでいても不思議じゃない。ただ、我々がこうした疑問を小室氏にぶつけてみても、彼は「いや、偶然です!」と答えるはずだ。おそらく、たまたま読んだ学術論文がベルギーの朝鮮学者のものだった、と言うんじゃないか。ホント、小室氏の真相を探ることは困難だけど、小室問題を取り上げる週刊誌の記者やYouTuberは銭儲けばかり考えてないで、地道な調査をしてみろ ! もし、彼らが小室氏の学力に疑問を抱くなら、ちゃんと彼の論文に目を通し、もし「おかしな点」が見つかれば、その引用先の文献を取り寄せ、じっくりと精査・比較研究すべきだ。テレビ局のワイドショーは小室氏の髪型なんかを話題にしていないで、立派な学者を数名雇い、彼らに小室論文を精読させ、本当に小室氏が書いたのかどうかを尋ねるべきだろう。結婚会見ではアホな記者どもが、どうでもいい「お気持ち」とか「今後の予定」なんかを尋ねるが、本来なら、怪しい点を質問すべきだ。

「ロイヤル・パワー」全開で小室氏を支援?

  小室氏と眞子内親王殿下の結婚に反対する国民の中には、小室氏の異常な性格や行動、厚かましさ、いかがわしい側面、借金を返さない強欲さ、など様々な欠点をあげつらっている人がいる。けど、筆者がマズいと思うのは、秋篠宮殿下が小室氏に対して行った「便宜」と「裏工作」、および「ロイヤル・パワーの濫用」である。なるほど、小室氏は皇族の結婚相手としては最悪で、本当に相応しくない。でも、眞子内親王が惚れてしまったのだから、一般国民にはどうすることもできないし、座敷牢に閉じ込めることも出来ないから、渋々でも承認するしかないだろう。また、批判者の中には1億4千万円の「一時金(つまり、平民生活への補助金)」に対し、怒りや嫉妬を覚える国民もいるだろうが、小室氏への税金投入は“必要悪”と考えるしかない。なぜなら、「平民」となられる眞子内親王殿下の警備費用を考えれば、それくらいの金額は必要であるからだ。マスコミは言及しないけど、我々だって反日分子の辻元清美や福山哲郎なんかに数億円もくれているんだから、俗世界に降下する皇族に1億円くらい渡したっていいじゃないか。

  それよりも深刻なのは、秋篠宮殿下が間接的ないし意図的であれ、「ロイヤル・パワー」を使って小室氏を厚遇していることだ。小室氏が歩んできた黄金の出世街道を辿れば、誰だって「特殊なコネ」を考えてしまうだろう。以下の点を振り返ってみれば判る。

 @ 国際基督教大学を卒業後に、何と大手の「三菱UFJ銀行」に就職でき、しかも新米なのに「丸の内支店法人営業部」へと配属になった。これって、紛れ無き小室氏の実力なのか?

 A 2014年に入行したばかりなのに、もう2016年には退職し、秋篠宮殿下と親しい奥野総合法律事務所に就職できた。殿下は法律事務所の誰かと友人なのか?

 B 銀行での勤務期間が2年にも満たないのに、3年の実務経験を要求される一橋大学の大学院へ進学でき、「国際企業戦略研究科」の「社会人向け夜間コース」に入ることができた。そして、Master of Business and Lawの学位を取れたという。

 C 2017年に婚約内定会見を行うと、今度は弁護士を目指してフォーダム大学への留学を決めてしまう。いきなりの法科大学への進学だったので、最初の一年間はLLM(Legum Magister)コースに入り、そこからJD(Juris Doctor)コースへ滑り込んだ。アメリカ人の学生でも通常は3年かかるJDコースを、たった2年でご卒業なんだから凄い。しかも、2018年にフォーダム大学へ入ったばかりの小室氏は、既にその才能を発揮し、2019年には素晴らしい論文を書き上げた。優等生のアメリカ人でも大変なのに、英語を母語としない小室氏の論文は、学者が名を連ねる『NY Business Law Journal』に掲載されていた。お見事 ! 凄い!!

 D 2021年5月にフォーダム大のロー・スクールを卒業すると、同年7月にNY州の司法試験を受けたそうだ。でも、法曹協会の規定だと、日本人留学生は法学部卒の学位を持っていなければならないが、小室氏にその受験資格があったのか? 一応、JDコースを卒業したから受験資格があったんだろうが、小室氏はなぜかフォーダム大学の卒業リストから自分の名前を削除するよう、事務局に頼んだらしい。本人からの依頼が無ければ、事務局は抹消できないから、やはり「小室氏からの意思」と考えるべきだ。真相はどうなのか判らないが、事実、我々はインターネットで公開される卒業者リストの中に、彼の名前を目にすることはできない。

 E 大学の卒業者リストから名前が消えたのに、就職先の法律事務所「ローウェンシュタイン・サンドラー(Lowenstein Sandler)」が公表する、小室氏のプロファイル欄には、ちゃんと2021年にJ.D.を取得したことが明記されている。どうして小室氏は大学のリストから自分の名前を消したのか? 何か不都合な事でもあったのか? 「まさか !?」とは思いたくないが、ひっとすると、卒業要件に充分な実力や試験結果が無かったのかも。

 F なるほど、小室氏はよっぽど「優秀な学生」なんだろうが、アメリカ人でも難しいフォーダム大学の「マーティン奨学金」を授与されるなんて、本当に信じられない。フォーダム大学はそこそこ上級クラスの学校なので、奨学金を目指す学生には優等生が結構いたはず。年間約700万円の授業料が免除されるんだから、競争が激しくなっても当然だ。それなのに、法学部卒でもない小室氏が、日本からの留学生であるにもかかわらず、高嶺の花ともいえる奨学金を獲得したんだから、彼は相当素晴らしい“能力”を持っていたんだろう。しかも、パラリーガルの身分なのに、奥野法律事務所が生活費を出してくれたんだから、破格の待遇である。

 G 米国の大手法律事務所に就職できたのも凄いが、なんと、小室氏は故・ジョージ・H・W・ブッシュ大統領やバラク・オバマ元大統領、ミット・ロムニー元州知事らが授与されたという「JFK Profile in Courage」賞を貰っていたのだ。これまた信じられない ! ただし、「JFK Presidential Library and Museum」のホームページに小室氏の名前は見当たらないんだが、「ローウェンシュタイン・サンドラー」が公表した「Kei Komuro プロファイル」の中には、はっきりと明記されていた。ところが、これまた奇妙な現象が現れた。筆者が9月の下旬に見た彼のプロファイルは、9月28日になると書き換えられており、「Fordham's JFK Profile in Courage」と変わっていたのだ。いったい、この「Fordham's」という「付け足し」は何なのか?

 H 金欠状態の小室氏には、米国で弁護士業を営む「立花珠里亜(たちばな・じゅりあ)」という女性が世話役になっている。彼女は元々台湾国籍の華僑であったが、日本国籍を取得して一応、「日本国民(実質的には帰化支那人)」となっている。でも、彼女は如何なる目的で小室氏に近づき、米国での生活を支援しているのか? また、彼女以外に金銭的な支援を行う者がいるのか? 雑誌報道によると、宮内庁は小室氏が妙に落ち着いているので、「誰か特別な人がいるんじゃないか?」と疑っているそうだ。

 I これは蛇足になるが、小室氏は経歴書に「電通アメリカでインターンをしていました」と書いたが、当の電通はカルフォルニアに支店を持っていなかったという。どうやって存在しない勤務地で働いていたのか?

  小室氏にまつわるだけでも、これだけの疑問があるのに、マスコミは彼の髪型や無愛想な態度ばかりを取り上げている。本当なら、先ほど挙げた疑問点を小室氏に直接尋ねるべきなのに、どうも“曖昧”にしたまま、形式だけの質問で誤魔化そうと目論んでいるようだ。たぶん、宮内庁に忖度して、記者会見では厳しい質問をしないつもりなんだろう。例えば、NEWSポスト・セブンは、三浦瑠麗や倉田真由美、山口真由を動員して座談会を催し、わざとらしく小室氏を称讃していたから、「ご結婚の祝福」へと舵を切り替えたのかも知れない。

  ところが、もう一つ重要な疑問が残っている。それは「なぜ、宮内庁は結婚会見を10月26日に設定したのか?」という点だ。宮内庁は眞子内親王の御結婚を10月1日に発表したが、どうして記者会見をそんなに急いだのか? おそらく、小室氏が挑戦した司法試験の合格発表が10月末にあるからだろう。通常、法曹協会は10月下旬に合格発表を行うので、宮内庁は「不合格」の場合に備えて日時を早めたんじゃないか? 小室氏が合格していれば安心だが、もし不合格になっていれば日本の輿論はどよめき、皇太弟殿下も苦しい立場に陥る。だから、たとえ不合格になっていようとも、無事にお二人が国民との訣別を宣言できるよう、記者会見の日程を合格発表前に組んだのだろう。もし、小室氏が試験に落ちていても、米国へ旅立ってしまえば、あとは日本人同士が大騒ぎするだけだ。ハネムーン気分の「小室夫婦」は、アホな日本国民を海外から眺めて、「嫌な人達ねぇ〜」と呟く。

皇室に問題が生じるのは当然だ

Komuro 8832Kei Komuro 999345

  今回の御結婚騒動においては、色々な問題点が浮き彫りになったから、案外、良かったのかもしれない。小室氏の本性を知った国民は、「どうして眞子様はあんな奴と結婚するんだ?」と憤慨するけど、そもそも“まともな日本人”は皇族を避けてしまうから、近づいてくる奴となれば怪しい人物だけとなる。それにもし、秋篠宮殿下が強引に結婚を禁止すれば、眞子内親王殿下は一生独身となるかも知れない。結婚もできず、死ぬまで息苦しい皇室の中に押し込められるなんて、このプリンセスには我慢できないだろう。精神的に抑圧された娘というのは、とんでもないことをしでかすから、秋篠宮殿下も不安で堪らなくなる。もし、眞子様が自殺未遂でもすれば超弩級の皇族スキャンダルとなってしまうだろう。何が何でも嫌いな皇室を抜け出したいんだから、非常手段に訴えてもおかしくはない。

  日本の保守派国民は激昂するけど、ジゴロのような小室圭でも、眞子様にとったら白馬の王子様で、牢獄から救い出してくれる天使である。皇族のお嬢様は世間知らずだから、不幸な自分を救ってくれるのは「圭くん」しかいない、と思ってしまうのだ。しかし、逃亡先のアメリカで“世帯主”の旦那様が豹変するかも知れないぞ。それに、住居の近くには海千山千のパパラッチが待ち構えているから安泰ではない。日本人の藝能リポーター以上に、米国のパパラッチは執拗で強欲だ。銭のためなら不法侵入、盗撮、ストーカー行為など、お構いなしで断行する。眞子様は想像していないだろうが、米国でのハネムーンと甘い生活は日本以上の修羅場と化すだろう。例えば、盗撮されぬよう家の窓を総てカーテンで塞ぎ、じっと自宅に閉じこもることも有り得る。

Paparazzi 9921( 左 / 過激な取材を続けるパパラッチ)
  小室眞子様は日本より辛い軟禁状態に耐えきれるのか? 外出の時も、裏口からそっと抜け出して、プリンセス・マコとバレぬよう変装してのお忍びだ。もし、パパラッチに見つかれば、商店で何を買ったかも逐一暴露されるだろう。息抜きでナイト・クラブに赴けば、盗撮マニアに囲まれて悲鳴を上げることになる。でも、身辺警護のために「ブラックウォーター」(傭兵会社)に頼んでも、「シールズ(米海軍特殊部隊)」や「SAS(英国特殊部隊)」の元隊員ともなれば、目玉が飛び出る金額を請求されてもおかしくはない。有能な警護官は、時給20ドルじゃ雇えないから。おそらく、秋篠宮家が知人を通じて警護官を手配するから心配ないんだろうけどねぇ〜。

  そもそも、眞子内親王殿下や愛子内親王殿下に、ややこしい“問題”が生じるのは当然で、後知恵みたいに聞こえるが、筆者には前々から分かっていた。なぜなら、今上陛下も皇太弟殿下も揃って、内親王殿下に“普通の教育”、すなわち一般国民が受ける“平民教育”を要望されたからだ。皇太弟殿下は「特別な扱いをしない」という方針で二人の内親王殿下を教育されたが、そんなことをすれば“庶民”と同じ感覚を持ってしまうじゃないか。内親王殿下を平民の子供と一緒に混ぜて教育すれば、「どうして私は四六時中監視される人生なのかしら・・・」と嘆いてしまうのは自然だ。普通の少女と同じく「庶民の遊び」を楽しめば、「皇族らしくない」とか「はしたない」、「秋篠宮家のお転婆娘」と雑誌で叩かれてしまうから、批判されぬよう“平凡”な趣味に没頭するしかない。

  左翼知識人やマスコミは、「開かれた皇室」とぬかすが、これは皇室の内部腐蝕を狙った政治プロパガンダであろう。日本の皇室は西歐の王室よりも神聖で、庶民からの尊敬は桁外れに大きい。イングランドの王族は、庶民と同じ感覚で遊んでも非難されないが、日本の皇族はハイ・レベルな倫理・道徳を要求されるから、英国の知識人はビックリする。現在のブリテン王国では、王族に対し敬虔な信仰心とか道徳心を求める庶民は存在しないが、日本はチューダー王朝時代のピューリタン的行動様式を皇族に求めてしまうから、庶民の感覚を身につけた内親王殿下にとっては苦痛以外の何ものでもない。だいたい、庶民が自堕落になっている現在の日本で、皇族だけが中世のまま神聖な存在なんて無理だろう。国民と皇族が赤い絆で結ばれているんなら、皇族だって庶民に引き摺られて堕落しても不思議じゃない。それに、我が国の歴史を繙けば、承久の乱とか保元の乱とかがあったので、厄介な天皇や宮家が居てもおかしくはないだろう。総ての帝(みかど)が品行方正で、昭和天皇のような聖帝であるべし、と要望するのは非現実的だ。

  眞子内親王殿下の御結婚に反対する国民が多いのは、小室氏本人のせいもあるが、秋篠宮家が裏から資金を流したり、ロイヤル・パワーで小室氏を優遇したりするからだ。もし、秋篠宮家が何もせず、小室氏を突き放していれば、彼は三菱UFJ銀行や奥野総合法律事務所に就職できなかったし、フォーダム大学への進学も有り得なかった。本来なら、借金を抱える小室氏は、自力で就職先を見つけ、地道に働くしかなかったはず。若い労働力が不足する介護施設とか農業、漁業といった分野で一生懸命働けば、憤慨する国民だって「まぁ、しょうがないかぁ〜」と諦め、御結婚を承知したはずだ。

  ところが、宮内庁や側近は秋篠宮家に「慎ましい生活」を提案せず、小室氏を甘やかすような方針を提示したから、婚約問題が紛糾したのである。碌でなしのプー太郎がロイヤル・パワーを利用して、途方もない夢を実現しようと考えたんだから、国民が激怒したのも当然だ。どうして宮内庁は、こんな事態を予想できなかったのか? また、秋篠宮殿下は、一つの不正を犯せば、それを隠すために別の不正や嘘をつかねばならない、と思わなかったのか? 「皇族は汚い手段を執ってはないない !」というのが鉄則だったはず。親として娘を助けたい、世間体を考えて小室氏に“まともな”職を与えたい、と考える気持ちは分かる。しかし、「留学費用さえ出せば、あとは順調に事が進むだろう」と考えたのは甘かった。小室圭は眞子様と秋篠宮家を骨まで“しゃぶる”つもりだろう。悪い奴に欲望の限度は無い。総会屋と同じく、搾り取れるだけ搾るのがジゴロの特徴だ。

  筆者には情報が乏しいので、小室問題と小室疑惑に関しては推測しかできない。しかし、仮に秋篠宮家が資金を流さず、留学の後押しもしなかったとすれば、「いったい誰が小室氏に学費を融通し、奨学金まで用意したのか? 」という疑問が湧き上がってくる。ちょっと智慧のある日本人なら、必ず小室氏のフォーダム入学と卒業の手配した者、論文が掲載されるように根回しした者、就職先の法律事務所を斡旋した者など、「いったい誰が後ろで糸を操っているんだ?」と勘ぐりたくなるだろう。しかも、小室氏では絶対に受賞不可能な「JFK Profile in Courage」の獲得を自身のプロファイルに書いていた。でも、直ぐバレてしまう嘘を書くなんて馬鹿としか言い様がない。誰の入れ智慧なんだ?

  まぁ、今さら小室氏に対して、あれこれ言ってもしょうがないが、秋篠宮家の判断だけは残念である。眞子内親王殿下の将来や宮家のプライドを気にして小室氏への特別待遇を考えたのだろうが、こうした裏工作は却って皇族の品性を穢し、国民の反感を強めるだけだ。なぜなら、日本人は姑息な手段を使う皇族を嫌ってしまうからだ。たとえ、小室氏が低賃金の派遣社員とか、つまらない仕事に就く筋肉労働者になっても、彼を突き放して資金援助をしない、特別扱いはしない、ロイヤル・パラーで出世させない、といった厳格さを示せば、何割かの国民は矛を納めるだろう。

  ロイヤル・パワーの濫用は問題だけど、それよりも皇室を密かに守る影の組織や、外国の工作員やその協力者を摘発する防諜機関が無いことの方が深刻である。支那や朝鮮の謀略機関は、日本人のエージェントを使って宮内庁に協力者を作るし、帰化人の仲間を宮内庁に浸透させることも考える。金や女で買収された宮内庁職員や皇室の側近が、殿下にわざと偽情報を流すこともあるが、逆に本当の情報を密かにマスコミへ流すこともあるだろう。奸計を得意とする支那の工作員なら、小室親子と秋篠宮家を巧みに操り、双方がダメージを受けるよう罠を仕掛けることも有り得る。心理戦で皇室を潰すとなれば、支那人の右に出る者は居るまい。眞子内親王殿下に不満をぶつける国民が、支那人の策略にまんまと引っ掛かり、怒りの矛先を秋篠宮家に向ければ、支那人は大喜びだ。それゆえ、我々は一時的な激情に流されることなく、「今回の御結婚は仕方がない」と諦めるしかない。保守派国民はスッキリしないけど、現実の世界では筋が通らぬ話は結構ある。長い歴史を有する皇室には、色々なトラブルが巻き起こるから、「眞子様の乱」も皇統史における一つの事件と見なし、早く忘れる方が良いのかも知れない。

http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68873479.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/109.html#c95

[近代史3] プチエンジェル事件の顧客と噂されている秋篠宮・高円宮はロリコンなのか? 中川隆
96. 中川隆[-16047] koaQ7Jey 2021年10月09日 10:53:06 : yCF5w5sEnQ : TEI1cGhkekR4TlE=[6]
小室圭と秋篠宮が隠したい深い闇

精神科医・和田秀樹「複雑性PTSDなんかではない」眞子さまの本当の病名は
10/7
https://news.yahoo.co.jp/articles/58e04976e80049b6afc4747e029abd25f69b356f

宮内庁は10月1日、眞子さま(29)と小室圭さん(29)が同月26日に結婚されると正式発表するとともに、眞子さまが「複雑性PTSD」と診断されたことを明らかにした。精神科医の和田秀樹さんは「会見に同席した精神科医は『結婚について周囲から温かい見守りがあれば、健康の回復が速やかに進むとみられる』と発言しましたが、これは国民に誤解を与え、現実に複雑性PTSDの症状に苦しむ虐待サバイバーに脅威を与えるおそれがある」という。その理由とは――。

【画像】複雑性PTSDの実際の症状を赤裸々に記録した書籍

■精神科医が腰を抜かすほど驚いた「眞子さまは複雑性PTSD」

 宮内庁は1日、秋篠宮家の長女・眞子さま(29)が「複雑性心的外傷後ストレス障害(PTSD)」と診断されたことを明らかにした。

 そのため、この病名がネット上で一気にトピックワードとなった。

 この病名については、秋篠宮家の側近部局トップの加地隆治皇嗣職大夫が眞子さまの病状について切り出し、精神科医で、公益財団法人「こころのバリアフリー研究会」理事長の秋山剛氏が会見に同席して「長期にわたり誹謗中傷を体験された結果、複雑性PTSDと診断される状態になっておられる」と述べた。

 1991〜94年にアメリカに留学して以来、この疾患に向き合ってきた私は、宮内庁のその後の説明を聞くにつけて、腰を抜かすほど驚いてしまった。

 なぜなら、複雑性PTSDとは虐待のような悲惨な体験を長期間受け続けた人に生じる心の病であり、治療も大変困難なものとされているからだ。

 1970年代、ベトナム戦争で兵士が受けた心理的後遺症やレイプトラウマの研究が進み、1980年に発表されたアメリカ精神医学会の診断基準第3版(DSM-3)に「PTSD」という病名が採用された。

 その後もトラウマ研究が進み、児童虐待のような長期反復型のトラウマ体験の場合は、もっと深刻な病状が生じることがわかってきた。

 当時のアメリカにおけるトラウマ研究の第一人者であるジュディス・ハーマン(ハーバード大学准教授)は、その主著と言える『心的外傷と回復』(みすず書房)において、複雑性PTSDという病名を提起した。

■複雑性PTSDの症状…自傷行為、性的逸脱、解離症状、希望喪失

 ハーマンが提起し、94年に発表されたアメリカ精神医学会の診断基準第4版(DSM-4)の「複雑性PTSD」に加えることが検討された症状には以下のようなものが列挙された。

 1:感情制御の変化(自傷行為や性的逸脱など)
2:意識変化(解離症状など)
3:自己の感覚の変化(恥の意識など)
4:加害者への感覚の変化(復讐への没頭だけでなく、加害者を理想化することもある)
5:他者との関係の変化(孤立・ひきこもりなど)
6:意味体系の変化(希望喪失など)

 実際、私の留学中も虐待の被害者の患者をかなりの数で診たが、この指摘には心当たりがある。ここで注目したいのは、2の項目にある「解離」という症状だ。

 解離は、自分の忌まわしい記憶をふだんとは別の意識状態に置くことで生じると考えられている。要するにトラウマ的な出来事を覚えている意識状態と、普段の意識状態は、別の意識状態になっている。

 そのため、その人は、トラウマ的出来事を覚えている意識状態になったときのことは覚えていないし、その意識状態は、普段の意識状態と連続性をもたない。

 解離性健忘の場合、その解離状態の時の言動を覚えておらず、かなりの暴言を吐いても、犯罪的な行為(万引きや暴行など)や性的逸脱を行っても、それを覚えていない。

 別の意識状態になったときにアイデンティティ(自分が子どもか大人かとか、ふだんの名前や役職など)まで変わってしまう状態は多重人格と呼ばれてきたが、DSM-4では解離性同一性(アイデンティティ)障害と呼ばれるようになった。


■「複雑性PTSDとは、悪口レベルの外傷的体験ではない」

 またこの複雑性PTSDの場合、感情も対人関係も不安定なので、婚姻生活や社会生活に支障をきたし、定職にもつけない境界性パーソナリティー障害と呼ばれる診断を受けることも多い。

 ただ、ハーマンの過去の記憶を思い出させて、それをぶちまけさせるような治療方針がかえって患者の具合が悪くすることが多いことが明らかになったことで、彼女のアメリカ精神医学会での影響力はかなり弱まった。ハーバード大学でも教授に昇格していない。そのせいか、2013年改訂のアメリカ精神医学会の診断基準の第5版(DSM-5)では、複雑性PTSDの病名は採用されなかった。

 ところが、WHOが作るもう一つの国際的な診断基準の最新版(ICD-11)が2018年に公表された際に複雑性PTSDが採用されることになった。これまでの歴史をみるとアメリカ精神医学会の基準に追随することが多かった中で画期的なことである。

 おそらくは、世界的に深刻化する児童虐待だけでなく、人権を弾圧するような政府や軍事介入などで生じる心の後遺症を無視することができないと考えたのだろう。

 実際、この診断基準で挙げられている逃れることが困難もしくは不可能な状況で、長期間・反復的に、著しい脅威や恐怖をもたらす出来事の例としては、「反復的な小児期の性的虐待・身体的虐待」のほか、「拷問」「奴隷」「集団虐殺」が挙げられている。けっして悪口レベルの外傷的体験などではない。

 これに対して秋山医師は、「複雑性PTSDは言葉の暴力、インターネット上の攻撃、いじめ、ハラスメントでも起こる」と拡大解釈をしたわけだ。

 実際、インターネット上の誹謗中傷で自殺する人もいるのだから、私もその可能性を否定するつもりはない。

■「温かい見守りがあれば、健康の回復が速やかに」という発言の問題点

 むしろ今回、国民に誤解を与え、現実に複雑性PTSDの症状に苦しむ虐待サバイバー(※)に脅威を与えるおそれがあるのは、秋山医師が発した「(小室圭さんとの)結婚について周囲から温かい見守りがあれば、健康の回復が速やかに進むとみられる」という言葉だ。

 ※児童虐待を受けたあと、生き残り、心の病に苦しんでいる人たち。

 自らが虐待サバイバーで複雑性PTSDの実際の症状を赤裸々に記録した『わたし、虐待サバイバー』(ブックマン社)の著者である羽馬千恵さんは、自身が発行するメルマガ(※)の中で、「虐待が終わってからが、本当の地獄だった」と記している。

 ※大人だって虐待で苦しんでいる。当事者が語る子供時代のトラウマ - まぐまぐニュース! (mag2.com)

 虐待を受けた子供たちは大人になり複雑性PTSDに苦しむわけだが、親元を離れ、虐待を受けなくなったり、多少周囲が温かくしてくれたりしところで、そう簡単に治るものではない。

 つい最近も3歳児が母親の同居人の虐待で死亡した事件があったが、それに関するニュースの多くは、初動で行政がしっかり対応していたら死ななくてすんだという類のものだった。

 たしかにそういう面もあるかもしれない。しかし、もっと重要なのは子供の今後の人生だ。「運よく生き残ったから、よかった」で済む問題ではない。生き残った子供たちは下手をすると生涯にわたる複雑性PTSDに苦しむのである。


■「眞子さまはおそらく適応障害なのではないか」

 人格変化のために周囲の人が犠牲になることさえある。古くは永山則夫事件、あるいは大阪・池田小事件の宅間死刑囚、そして山口県光市の母子殺しの少年など、子供時代などに虐待を受けた人物が起こす重大事件は枚挙に暇がない。

 銃社会のアメリカでは、虐待を受けた子供が将来重大犯罪を起こすことが多いことも、虐待を受けた子供を親元に返さない大きな理由となっている。

 眞子さまの場合、もし、環境が変わり周囲の批判がなくなった結果、秋山医師が断言したように「健康の回復が速やかに進むとみられる」ならば、それは複雑性PTSDなどという心の重病でない。もちろん、私は直接診察したわけではないので100%そうだと言い切れないが、眞子さまに関してはおそらく適応障害(この疾患の詳細は、拙著『適応障害』宝島社新書を参照いただきたい)にあたるのではないかと思う。

 ただ、日本の場合、精神科の主任教授が臨床軽視・研究重視の大学教授たちの多数決で決まるため、私のようなカウンセリングや精神療法を専門とする大学医学部は全国どこを探してもない。そのため、複雑性PTSDであれ、適応障害であれ、よい治療者をみつけることはかなり困難だ。

 そういう点で、いい治療者を見つけるために眞子さまがご結婚されアメリカに行かれるのはいいことだ。

 複雑性PTSDについては予防の必要性は極めて高い。私は、アメリカのように、虐待が見つかったら原則的に親元に返さないできちんとしたチャイルドケアを受けさせるべきだと考える。そうでないと一生不幸を抱えてしまうことになりかねない。

 その一方、虐待をしてしまった親に対するカウンセリングも重要だ。アメリカではこれが盛んに行われ、カウンセラーが認めれば、子供はその親元に返される。

 日本の場合、残念ながら医学の世界、精神医学の世界がカウンセリングを軽視する傾向があり、見通しは暗いと言わざるを得ない。私の留学先のような「大学でない精神科医の養成機関」をかなりの数作らなければならないと思われる。

■「複雑性PTSDの患者は数十万人に達する可能性がある」

 実は、複雑性PTSDの患者はかなり多いと予想できる。というのは、虐待の数が想像以上に多いからだ。2021年8月27日に、令和2(2020)年度の児童相談所における虐待相談対応件数が発表されたが、ついに20万件を超えた(心理的虐待12万1325件:全体の59.2%、身体的虐待5万33件:24.4%、ネグレクト3万1420件:15.3%、性的虐待2251件:1.1%)。

 虐待された子供が新規で毎年20万人(実際はもっと多い可能性が高い)ということは、日本中に虐待経験者は全体で数百万人単位いるということになる。仮にその1割が複雑性PTSDになったとしても数十万人だ。これはかなり少なく見積もった数と言えるものだ。これから複雑性PTSDを増やさないだけでなく、現在複雑性PTSDの人たちを救うことが急務だ。

 今回の報道でもっと危惧するのは、複雑性PTSDになった人は周囲の人がやさしく見守れば、そのうち症状が緩和する軽い病気であるかのような誤解が広まることだ。

 あるいは、芸能人や政治家がバッシング逃れのために知り合いの精神科医に複雑性PTSDの診断書を書いてもらうケースが増え、この疾患に直面している人の苦しみをどこか軽んじるような風潮が世間に広まることもあり得る。

 複雑性PTSDという病名が世間に知られることは望ましいことだが、本当の実態が知られないと逆にいちばん迷惑をこうむるのは複雑性PTSDの患者であることも知ってほしい。

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和田 秀樹(わだ・ひでき)
国際医療福祉大学大学院教授
アンチエイジングとエグゼクティブカウンセリングに特化した「和田秀樹 こころと体のクリニック」院長。1960年6月7日生まれ。東京大学医学部卒業。『受験は要領』(現在はPHPで文庫化)や『公立・私立中堅校から東大に入る本』(大和書房)ほか著書多数。

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2021年10月08日
小室圭と秋篠宮が隠したい深い闇
嘘で固められた学歴と就職
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68873479.html
Kei Komuro 8832Princess Mako 0001

  今回のブログ記事だけは、「投稿しようか、それとも、ボツにしようか?」と迷ってしまった。というのも、以下の記事は小室批判というよりも、皇室批判に繋がってしまうからだ。宮内庁の報道によれば、10月26日に眞子内親王殿下が結婚後の記者会見を開くそうだが、たとえ記者の質問を受けても明確に答えることはないだろう。おそらく、鋭い質問は事前に却下されるか、記者が自重するかのどちらかなので、一般国民からすると不満が残ってしまう「ウヤムヤ会見」になる可能性が高い。

  というのも、10月になって唐突に「眞子内親王殿下は複雑性PTSDに苦しまれています !」という発表を宮内庁が行ったからだ。これは何となく情報操作の臭いがするし、国民からの非難を封じる作戦にも思えてしまう。だいいち、主治医が正式な診断書を公表し、複数の医師が眞子様を診断して、正確な判断を下したのか? 単なる医者の談話じゃ信用できないぞ。おそらく、記者会見での辛辣な質問を封殺するために、側近の誰かが秋篠宮殿下に囁き、小賢しい智慧を仕込んだに違いない。こうした精神病を「葵の御紋」にすれば、質問攻めに遭った眞子様は答えなくても済む。要するに、宮内庁が建前上の「言い訳」を作った、ということなんだろう。ただし、ガス抜きのために、小室圭への厳しい質問が二、三あるかも知れないが、全体として見れば残尿感が残る茶番劇になるはずだ。つまり、最初から仕組まれた八百長会見になるというわけ。

  誠に厭なことだが、件(くだん)の御結婚には疑問や醜聞、犯罪などがチューイング・ガムのように纏わり付いている。とりわけ、小室圭の母親、あの小室佳代は厄病神というより、パンドラの壺と呼んでも差し支えない。試しに、この壺の蓋を開けてみると、警察官なら誰でも眉を顰める夫の焼身自殺、義父と義母の相次ぐ自殺、ヤクザまがいの同棲相手、お金持ちで息子の圭にも優しかった「湘南のパパパ」、さらに借金を踏み倒した元交際相手、と火曜サスペンスでも見られないほどの疑惑に満ちた人生だ。これは筆者の勝手な推測だが、小室佳代にはまだ明らかにされていない「闇」があるんじゃないか? だいたい、本当に彼女はお金に困っているのか? もし、隠し財産があったら大問題だぞ。それに、彼女の弁護士費用は誰が出したんだ? さらに、佳代は ちょくちょく行方をくらましたが、こうした期間に彼女は何をしていたのか?

Komuro Kayo 002 ( 左 / 野心家の小室佳代「旧姓 : 角田」) 
 もう、ここまでくると普通の母親じゃない。何しろ、佳代は遺族年金の不正受給だけでは飽き足らず、病傷手当の不正取得までしでかしたのだ。金づるにした男に対し、内縁関係を内緒にしましょうと提案し、遺族年金を数千万円も騙し取るなんて、まるでプロの詐欺師みたいじゃないか ! しかも、親族の不審な自殺に加えて、年金詐欺まで暴露されたのに、それを恥じることなく、息子の結婚を祝っているなんて、聞いている国民の方が目眩(めまい)がする。警察はなぜ彼女の不正行為を見過ごすのか? 検察の沈黙は、世間から「皇室への遠慮や忖度なのでは?」と疑われても仕方がないぞ。(最近、篠原常一カが小室佳代を詐欺罪で刑事告発したそうだ。)

  通常、皇族の御結婚となれば、皇室警護の警察組織が徹底的に交際相手を調査し、どんな人物なのか、その素性や家庭環境、親戚・友人・先輩後輩まで調べ上げる。なぜなら、外国の工作機関が送り込んだ人物であったり、黒社会と関わりのある不適切な人物というケースもあるからだ。支那人は捕虜にした日本兵を撫順戦犯所で洗脳してから帰国させたし、「日中友好」とやらで支那人の「草」を日本に植え付けた。おそらく、こうした「忍び」の手下が宮内庁や厚労省に浸透し、皇室をボロクソに貶すマスコミ操作をしているはずだ。

  外国勢力の政治工作はともかく、小室氏との交際が明らかになった時、彼のために警護官が用意されたというから、警察は前もって秋篠宮殿下に小室親子の情報を伝えていたはず。それでも、小室氏に警護官が附いたということは、秋篠宮殿下が警察からの通報や内部調査を斥け、眞子内親王殿下の婚約者でもいい、と承認したことになる。もしかすると、殿下の近くに「確信犯」がうごめき、皇族を守るフリをしながら、わざと問題を悪化させ、「眞子様の幸せのためにも・・・」と涙を流し、小室圭を受け容れるよう勧めた「側近の奸」がいたのかも知れない。諜報活動の世界では常識なんだけど、「まさか、あの人がスパイだったなんて・・・」というケースはよくある。

  筆者は単なる平民なので、皇室の内情や小室親子の真相については雑誌程度の知識しかない。それでも、小室圭と秋篠宮家に関しては色々な疑問を抱いている。だから、勝手な憶測や邪推であっても、筆者自身の見解を述べてみたい。結論として言えることは、小室氏の留学や就職は、最初から“計画された筋書き”に沿って実行されたものということだ。確実な証拠は無いけど、数々の状況証拠から推察すれば、彼の実力は留学レベルに達していないし、一橋大学の大学院にある国際企業戦略研究科に入れたことすらも怪しい限りである。彼はアメリカで弁護士になりたかったのか、フォーダム大学のロー・スクールに入った。でも、本当に自分の“実力”で入学できたのか?

  筆者がこう考えるのには理由がある。例えば、彼は在学中にクラウドファンディングに関する論文を米国の学術誌に発表した。ところが、小室氏が“書いた”という論文は、普通のアメリカ人が書いたのでは、と思えるほど自然な文章で、英語での論文を書き慣れた人が執筆したような文章なのだ。確かに、小室氏は英語が得意なんだろうが、彼の論文を読んでみると、「誰か別の人物が書いたんじゃないか?」と疑いたくなる。筆者が通読して特に引っ掛かったのは、彼が南鮮のコーヒー会社について言及した箇所だ。小室氏は一般人から資金を集める際の詐欺について述べており、そこで「カフェ・ウッズアス(Caffé Withus)」という店を例に取っている。(Kei Komuro, ‘Challenges and Implications for Potential Reforms of Crowdfunding Law for Social Enterprises’, NY Business Law Journal, Vol.23, No.1, Summer 2019, p.70.) しかし、「どうして日本人の小室氏が、いきなり朝鮮企業を例に挙げたのか?」という疑問が残る。

  とは言っても、この謎は小室氏が引用した脚注の論文を読んでみれば解消する。彼はベルギーのブリュッセル自由大学(Vrije Universiteit Brussel)で教授を務める、「キム」という朝鮮人学者の論文を引用していたのだ。キム・ヒョンス(Hyonsu Kim)とリーヴェン・デ・ムーア(Lieven De Moor)の二人は共著で「The Case of Crowdfunding in Financial Inclusion : A Survey」(Strategic Change, Vol. 26, 2017) 」という経済論文を『ストラテジック・チェインジ』誌に発表している。ここの198頁で「カフェ・ウィズアス」が具体例に挙がっているので、小室氏はここの箇所を「自分の論文」に引用したのだ。ところが、キム氏の論文では「Caffe WITHUS」と表記されており、小室氏は「e」ではなく、よく用いられる「café」を念頭にしたのか、「Caffé Withus」と書き換えていた。もちろん、キム氏もこの企業が「franchise café」であると説明しているから、この社名は固有名詞なんだろう。また、キム氏は論文の中で「a handmade leather bag equivalent to KRW 300,000 for providers over KRW 1 miilion」(p.198.)と書いているのに、小室氏は皮バッグを複数形にして「handmade leather bags equivalent to KWR 300,000」(p.70.)と書き換えている。どうしてキム氏と同じく単数形で引用しなかったのか?

  さらに“おかしい”のは、小室氏が米国ドル(USD)と南鮮ウォン(KRW)の為替レートを間違っていることである。キム氏の論文では、単に「KRW 100,000」とだけ表記されており、小室氏はアメリカ人の読者を考慮したのか、親切にも「10万ウォン」の直ぐ後ろの箇所に「KRW 100,000 KRW 1 = $ 0.0883 as of October 15, 2018」との註を加えていた。(小室論文 p.70.) しかし、小室氏が表示した為替レートは桁が間違っている。本当なら、「1 KRW = $ 0.000883」が正解だ。まぁ、単なる「勘違い」ということもあるんだろうが、もしかしたら、ゴースト・ライターがいたのかも知れないぞ。(となれば、また「誰がゴースト・ライターを見つけて、論文を代筆させたのか?」そして「幾ら払ったのか?」という疑問が生じてくる。金銭的余裕の無い小室氏が、助手に払う金があるとは思えない。)

  これは筆者の妄想なんだけど、もしかすると、小室氏を助けたゴーカト・ライターは、アメリカ育ちの朝鮮系アメリカ人なのかも知れない。南鮮での生活経験が無いから、南鮮の通貨「ウォン」の価値に詳しくなく、つい桁を間違ってしまった、とも考えられるのだ。もし、このゴースト・ライターが南鮮人留学生なら、こんな初歩的ミスは犯さなかったはず。なぜなら、彼らはしばしば懐のウォン紙幣を米ドルに両替しているから、2桁もレートを間違えるなんて有り得ない。日本人の留学生や在米日本人だって、1ドルが約110円とか105円と分かっているだろう。だから、いくら何でも「$ 1 = ¥11,000」と間違える馬鹿はいないはずだ。銀行で1万円渡して、1ドルしか貰えなかったら驚愕するだろう。

  したがって、もし小室氏に「ゴースト・ライターが居た」とすれば、その人物は南鮮のウォンを両替したことのない朝鮮系アメリカ人という可能性がある。もちろん、筆者はこれを証明する証拠を持っていないから、この疑問は永遠に謎である。小室氏の話を真っ向から否定するつもりはないが、それでも何となく腑に落ちない。そもそも、クラウドファンディングを論ずる日本人が、わざわざ南鮮のコーヒー・チェーン店を引き合いに出すのか? 普通なら、アメリカやカナダ、オーストラリア、イングランドないし西ヨーロッパの都市にある民間企業を例に取るだろう。マクドナルドやスターバックスじゃなくても、具体例になりそうな中堅企業は幾らでもある。実際、済州島に「With US, Travel Cafe」というのがあるらしいが、普通の日本人がこんな店を知っているのか? まぁ、単なる偶然かも知れないが・・・。

  それでも仮に、小室氏がゴースト・ライターを雇っていた場合、その人物が朝鮮系であるなら、普段の読書や研究で朝鮮人の論文を読んでいても不思議じゃない。ただ、我々がこうした疑問を小室氏にぶつけてみても、彼は「いや、偶然です!」と答えるはずだ。おそらく、たまたま読んだ学術論文がベルギーの朝鮮学者のものだった、と言うんじゃないか。ホント、小室氏の真相を探ることは困難だけど、小室問題を取り上げる週刊誌の記者やYouTuberは銭儲けばかり考えてないで、地道な調査をしてみろ ! もし、彼らが小室氏の学力に疑問を抱くなら、ちゃんと彼の論文に目を通し、もし「おかしな点」が見つかれば、その引用先の文献を取り寄せ、じっくりと精査・比較研究すべきだ。テレビ局のワイドショーは小室氏の髪型なんかを話題にしていないで、立派な学者を数名雇い、彼らに小室論文を精読させ、本当に小室氏が書いたのかどうかを尋ねるべきだろう。結婚会見ではアホな記者どもが、どうでもいい「お気持ち」とか「今後の予定」なんかを尋ねるが、本来なら、怪しい点を質問すべきだ。

「ロイヤル・パワー」全開で小室氏を支援?

  小室氏と眞子内親王殿下の結婚に反対する国民の中には、小室氏の異常な性格や行動、厚かましさ、いかがわしい側面、借金を返さない強欲さ、など様々な欠点をあげつらっている人がいる。けど、筆者がマズいと思うのは、秋篠宮殿下が小室氏に対して行った「便宜」と「裏工作」、および「ロイヤル・パワーの濫用」である。なるほど、小室氏は皇族の結婚相手としては最悪で、本当に相応しくない。でも、眞子内親王が惚れてしまったのだから、一般国民にはどうすることもできないし、座敷牢に閉じ込めることも出来ないから、渋々でも承認するしかないだろう。また、批判者の中には1億4千万円の「一時金(つまり、平民生活への補助金)」に対し、怒りや嫉妬を覚える国民もいるだろうが、小室氏への税金投入は“必要悪”と考えるしかない。なぜなら、「平民」となられる眞子内親王殿下の警備費用を考えれば、それくらいの金額は必要であるからだ。マスコミは言及しないけど、我々だって反日分子の辻元清美や福山哲郎なんかに数億円もくれているんだから、俗世界に降下する皇族に1億円くらい渡したっていいじゃないか。

  それよりも深刻なのは、秋篠宮殿下が間接的ないし意図的であれ、「ロイヤル・パワー」を使って小室氏を厚遇していることだ。小室氏が歩んできた黄金の出世街道を辿れば、誰だって「特殊なコネ」を考えてしまうだろう。以下の点を振り返ってみれば判る。

 @ 国際基督教大学を卒業後に、何と大手の「三菱UFJ銀行」に就職でき、しかも新米なのに「丸の内支店法人営業部」へと配属になった。これって、紛れ無き小室氏の実力なのか?

 A 2014年に入行したばかりなのに、もう2016年には退職し、秋篠宮殿下と親しい奥野総合法律事務所に就職できた。殿下は法律事務所の誰かと友人なのか?

 B 銀行での勤務期間が2年にも満たないのに、3年の実務経験を要求される一橋大学の大学院へ進学でき、「国際企業戦略研究科」の「社会人向け夜間コース」に入ることができた。そして、Master of Business and Lawの学位を取れたという。

 C 2017年に婚約内定会見を行うと、今度は弁護士を目指してフォーダム大学への留学を決めてしまう。いきなりの法科大学への進学だったので、最初の一年間はLLM(Legum Magister)コースに入り、そこからJD(Juris Doctor)コースへ滑り込んだ。アメリカ人の学生でも通常は3年かかるJDコースを、たった2年でご卒業なんだから凄い。しかも、2018年にフォーダム大学へ入ったばかりの小室氏は、既にその才能を発揮し、2019年には素晴らしい論文を書き上げた。優等生のアメリカ人でも大変なのに、英語を母語としない小室氏の論文は、学者が名を連ねる『NY Business Law Journal』に掲載されていた。お見事 ! 凄い!!

 D 2021年5月にフォーダム大のロー・スクールを卒業すると、同年7月にNY州の司法試験を受けたそうだ。でも、法曹協会の規定だと、日本人留学生は法学部卒の学位を持っていなければならないが、小室氏にその受験資格があったのか? 一応、JDコースを卒業したから受験資格があったんだろうが、小室氏はなぜかフォーダム大学の卒業リストから自分の名前を削除するよう、事務局に頼んだらしい。本人からの依頼が無ければ、事務局は抹消できないから、やはり「小室氏からの意思」と考えるべきだ。真相はどうなのか判らないが、事実、我々はインターネットで公開される卒業者リストの中に、彼の名前を目にすることはできない。

 E 大学の卒業者リストから名前が消えたのに、就職先の法律事務所「ローウェンシュタイン・サンドラー(Lowenstein Sandler)」が公表する、小室氏のプロファイル欄には、ちゃんと2021年にJ.D.を取得したことが明記されている。どうして小室氏は大学のリストから自分の名前を消したのか? 何か不都合な事でもあったのか? 「まさか !?」とは思いたくないが、ひっとすると、卒業要件に充分な実力や試験結果が無かったのかも。

 F なるほど、小室氏はよっぽど「優秀な学生」なんだろうが、アメリカ人でも難しいフォーダム大学の「マーティン奨学金」を授与されるなんて、本当に信じられない。フォーダム大学はそこそこ上級クラスの学校なので、奨学金を目指す学生には優等生が結構いたはず。年間約700万円の授業料が免除されるんだから、競争が激しくなっても当然だ。それなのに、法学部卒でもない小室氏が、日本からの留学生であるにもかかわらず、高嶺の花ともいえる奨学金を獲得したんだから、彼は相当素晴らしい“能力”を持っていたんだろう。しかも、パラリーガルの身分なのに、奥野法律事務所が生活費を出してくれたんだから、破格の待遇である。

 G 米国の大手法律事務所に就職できたのも凄いが、なんと、小室氏は故・ジョージ・H・W・ブッシュ大統領やバラク・オバマ元大統領、ミット・ロムニー元州知事らが授与されたという「JFK Profile in Courage」賞を貰っていたのだ。これまた信じられない ! ただし、「JFK Presidential Library and Museum」のホームページに小室氏の名前は見当たらないんだが、「ローウェンシュタイン・サンドラー」が公表した「Kei Komuro プロファイル」の中には、はっきりと明記されていた。ところが、これまた奇妙な現象が現れた。筆者が9月の下旬に見た彼のプロファイルは、9月28日になると書き換えられており、「Fordham's JFK Profile in Courage」と変わっていたのだ。いったい、この「Fordham's」という「付け足し」は何なのか?

 H 金欠状態の小室氏には、米国で弁護士業を営む「立花珠里亜(たちばな・じゅりあ)」という女性が世話役になっている。彼女は元々台湾国籍の華僑であったが、日本国籍を取得して一応、「日本国民(実質的には帰化支那人)」となっている。でも、彼女は如何なる目的で小室氏に近づき、米国での生活を支援しているのか? また、彼女以外に金銭的な支援を行う者がいるのか? 雑誌報道によると、宮内庁は小室氏が妙に落ち着いているので、「誰か特別な人がいるんじゃないか?」と疑っているそうだ。

 I これは蛇足になるが、小室氏は経歴書に「電通アメリカでインターンをしていました」と書いたが、当の電通はカルフォルニアに支店を持っていなかったという。どうやって存在しない勤務地で働いていたのか?

  小室氏にまつわるだけでも、これだけの疑問があるのに、マスコミは彼の髪型や無愛想な態度ばかりを取り上げている。本当なら、先ほど挙げた疑問点を小室氏に直接尋ねるべきなのに、どうも“曖昧”にしたまま、形式だけの質問で誤魔化そうと目論んでいるようだ。たぶん、宮内庁に忖度して、記者会見では厳しい質問をしないつもりなんだろう。例えば、NEWSポスト・セブンは、三浦瑠麗や倉田真由美、山口真由を動員して座談会を催し、わざとらしく小室氏を称讃していたから、「ご結婚の祝福」へと舵を切り替えたのかも知れない。

  ところが、もう一つ重要な疑問が残っている。それは「なぜ、宮内庁は結婚会見を10月26日に設定したのか?」という点だ。宮内庁は眞子内親王の御結婚を10月1日に発表したが、どうして記者会見をそんなに急いだのか? おそらく、小室氏が挑戦した司法試験の合格発表が10月末にあるからだろう。通常、法曹協会は10月下旬に合格発表を行うので、宮内庁は「不合格」の場合に備えて日時を早めたんじゃないか? 小室氏が合格していれば安心だが、もし不合格になっていれば日本の輿論はどよめき、皇太弟殿下も苦しい立場に陥る。だから、たとえ不合格になっていようとも、無事にお二人が国民との訣別を宣言できるよう、記者会見の日程を合格発表前に組んだのだろう。もし、小室氏が試験に落ちていても、米国へ旅立ってしまえば、あとは日本人同士が大騒ぎするだけだ。ハネムーン気分の「小室夫婦」は、アホな日本国民を海外から眺めて、「嫌な人達ねぇ〜」と呟く。

皇室に問題が生じるのは当然だ

Komuro 8832Kei Komuro 999345

  今回の御結婚騒動においては、色々な問題点が浮き彫りになったから、案外、良かったのかもしれない。小室氏の本性を知った国民は、「どうして眞子様はあんな奴と結婚するんだ?」と憤慨するけど、そもそも“まともな日本人”は皇族を避けてしまうから、近づいてくる奴となれば怪しい人物だけとなる。それにもし、秋篠宮殿下が強引に結婚を禁止すれば、眞子内親王殿下は一生独身となるかも知れない。結婚もできず、死ぬまで息苦しい皇室の中に押し込められるなんて、このプリンセスには我慢できないだろう。精神的に抑圧された娘というのは、とんでもないことをしでかすから、秋篠宮殿下も不安で堪らなくなる。もし、眞子様が自殺未遂でもすれば超弩級の皇族スキャンダルとなってしまうだろう。何が何でも嫌いな皇室を抜け出したいんだから、非常手段に訴えてもおかしくはない。

  日本の保守派国民は激昂するけど、ジゴロのような小室圭でも、眞子様にとったら白馬の王子様で、牢獄から救い出してくれる天使である。皇族のお嬢様は世間知らずだから、不幸な自分を救ってくれるのは「圭くん」しかいない、と思ってしまうのだ。しかし、逃亡先のアメリカで“世帯主”の旦那様が豹変するかも知れないぞ。それに、住居の近くには海千山千のパパラッチが待ち構えているから安泰ではない。日本人の藝能リポーター以上に、米国のパパラッチは執拗で強欲だ。銭のためなら不法侵入、盗撮、ストーカー行為など、お構いなしで断行する。眞子様は想像していないだろうが、米国でのハネムーンと甘い生活は日本以上の修羅場と化すだろう。例えば、盗撮されぬよう家の窓を総てカーテンで塞ぎ、じっと自宅に閉じこもることも有り得る。

Paparazzi 9921( 左 / 過激な取材を続けるパパラッチ)
  小室眞子様は日本より辛い軟禁状態に耐えきれるのか? 外出の時も、裏口からそっと抜け出して、プリンセス・マコとバレぬよう変装してのお忍びだ。もし、パパラッチに見つかれば、商店で何を買ったかも逐一暴露されるだろう。息抜きでナイト・クラブに赴けば、盗撮マニアに囲まれて悲鳴を上げることになる。でも、身辺警護のために「ブラックウォーター」(傭兵会社)に頼んでも、「シールズ(米海軍特殊部隊)」や「SAS(英国特殊部隊)」の元隊員ともなれば、目玉が飛び出る金額を請求されてもおかしくはない。有能な警護官は、時給20ドルじゃ雇えないから。おそらく、秋篠宮家が知人を通じて警護官を手配するから心配ないんだろうけどねぇ〜。

  そもそも、眞子内親王殿下や愛子内親王殿下に、ややこしい“問題”が生じるのは当然で、後知恵みたいに聞こえるが、筆者には前々から分かっていた。なぜなら、今上陛下も皇太弟殿下も揃って、内親王殿下に“普通の教育”、すなわち一般国民が受ける“平民教育”を要望されたからだ。皇太弟殿下は「特別な扱いをしない」という方針で二人の内親王殿下を教育されたが、そんなことをすれば“庶民”と同じ感覚を持ってしまうじゃないか。内親王殿下を平民の子供と一緒に混ぜて教育すれば、「どうして私は四六時中監視される人生なのかしら・・・」と嘆いてしまうのは自然だ。普通の少女と同じく「庶民の遊び」を楽しめば、「皇族らしくない」とか「はしたない」、「秋篠宮家のお転婆娘」と雑誌で叩かれてしまうから、批判されぬよう“平凡”な趣味に没頭するしかない。

  左翼知識人やマスコミは、「開かれた皇室」とぬかすが、これは皇室の内部腐蝕を狙った政治プロパガンダであろう。日本の皇室は西歐の王室よりも神聖で、庶民からの尊敬は桁外れに大きい。イングランドの王族は、庶民と同じ感覚で遊んでも非難されないが、日本の皇族はハイ・レベルな倫理・道徳を要求されるから、英国の知識人はビックリする。現在のブリテン王国では、王族に対し敬虔な信仰心とか道徳心を求める庶民は存在しないが、日本はチューダー王朝時代のピューリタン的行動様式を皇族に求めてしまうから、庶民の感覚を身につけた内親王殿下にとっては苦痛以外の何ものでもない。だいたい、庶民が自堕落になっている現在の日本で、皇族だけが中世のまま神聖な存在なんて無理だろう。国民と皇族が赤い絆で結ばれているんなら、皇族だって庶民に引き摺られて堕落しても不思議じゃない。それに、我が国の歴史を繙けば、承久の乱とか保元の乱とかがあったので、厄介な天皇や宮家が居てもおかしくはないだろう。総ての帝(みかど)が品行方正で、昭和天皇のような聖帝であるべし、と要望するのは非現実的だ。

  眞子内親王殿下の御結婚に反対する国民が多いのは、小室氏本人のせいもあるが、秋篠宮家が裏から資金を流したり、ロイヤル・パワーで小室氏を優遇したりするからだ。もし、秋篠宮家が何もせず、小室氏を突き放していれば、彼は三菱UFJ銀行や奥野総合法律事務所に就職できなかったし、フォーダム大学への進学も有り得なかった。本来なら、借金を抱える小室氏は、自力で就職先を見つけ、地道に働くしかなかったはず。若い労働力が不足する介護施設とか農業、漁業といった分野で一生懸命働けば、憤慨する国民だって「まぁ、しょうがないかぁ〜」と諦め、御結婚を承知したはずだ。

  ところが、宮内庁や側近は秋篠宮家に「慎ましい生活」を提案せず、小室氏を甘やかすような方針を提示したから、婚約問題が紛糾したのである。碌でなしのプー太郎がロイヤル・パワーを利用して、途方もない夢を実現しようと考えたんだから、国民が激怒したのも当然だ。どうして宮内庁は、こんな事態を予想できなかったのか? また、秋篠宮殿下は、一つの不正を犯せば、それを隠すために別の不正や嘘をつかねばならない、と思わなかったのか? 「皇族は汚い手段を執ってはないない !」というのが鉄則だったはず。親として娘を助けたい、世間体を考えて小室氏に“まともな”職を与えたい、と考える気持ちは分かる。しかし、「留学費用さえ出せば、あとは順調に事が進むだろう」と考えたのは甘かった。小室圭は眞子様と秋篠宮家を骨まで“しゃぶる”つもりだろう。悪い奴に欲望の限度は無い。総会屋と同じく、搾り取れるだけ搾るのがジゴロの特徴だ。

  筆者には情報が乏しいので、小室問題と小室疑惑に関しては推測しかできない。しかし、仮に秋篠宮家が資金を流さず、留学の後押しもしなかったとすれば、「いったい誰が小室氏に学費を融通し、奨学金まで用意したのか? 」という疑問が湧き上がってくる。ちょっと智慧のある日本人なら、必ず小室氏のフォーダム入学と卒業の手配した者、論文が掲載されるように根回しした者、就職先の法律事務所を斡旋した者など、「いったい誰が後ろで糸を操っているんだ?」と勘ぐりたくなるだろう。しかも、小室氏では絶対に受賞不可能な「JFK Profile in Courage」の獲得を自身のプロファイルに書いていた。でも、直ぐバレてしまう嘘を書くなんて馬鹿としか言い様がない。誰の入れ智慧なんだ?

  まぁ、今さら小室氏に対して、あれこれ言ってもしょうがないが、秋篠宮家の判断だけは残念である。眞子内親王殿下の将来や宮家のプライドを気にして小室氏への特別待遇を考えたのだろうが、こうした裏工作は却って皇族の品性を穢し、国民の反感を強めるだけだ。なぜなら、日本人は姑息な手段を使う皇族を嫌ってしまうからだ。たとえ、小室氏が低賃金の派遣社員とか、つまらない仕事に就く筋肉労働者になっても、彼を突き放して資金援助をしない、特別扱いはしない、ロイヤル・パラーで出世させない、といった厳格さを示せば、何割かの国民は矛を納めるだろう。

  ロイヤル・パワーの濫用は問題だけど、それよりも皇室を密かに守る影の組織や、外国の工作員やその協力者を摘発する防諜機関が無いことの方が深刻である。支那や朝鮮の謀略機関は、日本人のエージェントを使って宮内庁に協力者を作るし、帰化人の仲間を宮内庁に浸透させることも考える。金や女で買収された宮内庁職員や皇室の側近が、殿下にわざと偽情報を流すこともあるが、逆に本当の情報を密かにマスコミへ流すこともあるだろう。奸計を得意とする支那の工作員なら、小室親子と秋篠宮家を巧みに操り、双方がダメージを受けるよう罠を仕掛けることも有り得る。心理戦で皇室を潰すとなれば、支那人の右に出る者は居るまい。眞子内親王殿下に不満をぶつける国民が、支那人の策略にまんまと引っ掛かり、怒りの矛先を秋篠宮家に向ければ、支那人は大喜びだ。それゆえ、我々は一時的な激情に流されることなく、「今回の御結婚は仕方がない」と諦めるしかない。保守派国民はスッキリしないけど、現実の世界では筋が通らぬ話は結構ある。長い歴史を有する皇室には、色々なトラブルが巻き起こるから、「眞子様の乱」も皇統史における一つの事件と見なし、早く忘れる方が良いのかも知れない。

http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68873479.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/362.html#c96

[近代史5] 街をきれいに保つ、という感覚は日本人が突出している
街をきれいに保つ、という感覚は日本人が突出している


多くの外国人は街にゴミを捨てることに抵抗感はない。それが意味することとは?
2021.10.09
https://blackasia.net/?p=26997


景観を守るとか、街をきれいに保つという感覚は、日本人が突出している。大量の外国人が日本の街を埋め尽くし、地域を占拠するようになっていくと、真っ先に現れる街の悪しき光景は「ゴミ」であると私は考えている。美しい日本? そんなものは夢のまた夢の話になるだろう。(鈴木傾城)


多くの外国人は街にゴミを捨てることに抵抗感はない
日本の政府と財界は「留学生・技術実習生・単純労働者・インバウンド」という隠れ移民政策を国民に何も説明せずに粛々と押し進めている。すでに国内には約292万人近くの在留外国人がいるのだが、コロナ禍が終わったら一気に400万人近くになってしまうのではないか。

さらに政府はインバウンドで6000万人もの外国人を呼び込む予定でいるのだが、インバウンドと言っても数日で帰る外国人ばかりではなく、1ヶ月も2ヶ月も日本にいて、自国に戻ったらまたトンボ返りするように日本にやって来る「短期移民」的な外国人もいる。

こうやって大量の外国人が街を埋め尽くし、地域を占拠するようになっていくと、真っ先に現れる街の悪しき光景は「ゴミ」であると私は考えている。

すでに多文化共生の地域となった東京の新大久保や、埼玉の西川口などは、ゴミが無分別かつ乱雑に捨てられて大問題になってしまっているのだが、外からやってきた外国人にゴミを神経質に片づけさせようと思っても不可能だろう。

多くの外国人は街にゴミを捨てることに抵抗感はないからである。

日本を一歩出ると衛生観念が日本人のものとはまったく違って驚くことがしばしばある。タイでもカンボジアでもインドネシアでもそうだが、人々はどこにでも罪悪感もなくゴミを捨てる。

中国でもインド圏でもそうだし、アメリカでも中南米でも同じだ。基本的に、ゴミを持ち帰るとか片付けるとかという発想はない。もちろん程度の差はあるが、ポイ捨てに罪を感じたりはしていない。


ゴミは隣に掃くだけなので、永遠にそこに溜まっている
街の至る所でゴミを捨てて、どうせ政府に雇われている誰かが片付けるのだから、と意に介さない。日本人のように神経質になって街の景観を考えるとか、人の迷惑を考えるというものはない。

衛生観念も違うし、景観に対する考え方も違う。それは仕方がない。文化がまったく違っているので、外国人に日本人みたいな振る舞いをさせることはできないのである。

日本の女性は、街を歩いている最中にツバを吐くということもないし、ガムを吐き捨てるというのもない。しかし、インドやカンボジアでは、一緒にいた女性がツバを吐くのは当たり前だった。

日本の子供たちはところ構わず小便をして回ることもないし、そこいらのドブで排泄するということもない。しかし、インドやバングラデシュでは子供たちがみんなどこでも好きに排泄している。貧困地帯であればあるほど、その傾向が顕著になる。

中米ホンジュラスに入ったときに感じたのだが、街を歩いていると、道の隅は捨てられたビニール袋が散乱したまま山になっていた。バスに乗って何十キロも走ったが、そのビニール袋のゴミの山は途切れることなく続いていて驚いたものだった。

中米では飲み物をビニール袋に入れて、ストローを挿して飲むのだが、みんなバスでそれを飲み終わると窓から放り捨てる。この国では、ゴミは道路の真ん中ではなく、道路の端に捨てるのがマナーなのだった。

インドのコルカタにいるときに見たが、商売人は店の前を従業員に掃除させる。従業員はゴミを掃くのだが、そのゴミはどうするのか。

集めてゴミ箱に捨てるとかではない。単に、隣に掃いて自分の店の周りだけをきれいにするのである。隣に店があると、その店もまたゴミを別のところに掃いて終わりにする。

ゴミはそのままそこに存在するから、翌日にはまた風で舞ったりして店の前に舞い戻る。そうすると、また隣に掃いて終わりにする。だから、永遠にゴミがどこかにある。

街をきれいに保つ、という感覚は日本人が突出している
もちろん、ゴミ収集車がいつか来るのだが、日本のように紙屑《かみくず》ひとつ残さず持って行くような律儀さはない。適当にトラックに詰めて、半分以上を回収しないで次に行ってしまう。

見ていると、ビジネス街や大通りは真剣にやっているが、スラムになると途端に素通りしてしまって、ゴミが山になっても我関せずで放置している。

だから、インドでは意外ときれいな場所と、壮絶なまでに薄汚い場所がはっきり分かれていて、その落差は驚くほどである。

私の知り合ってきた女性は、国を問わず、みんなゴミに関してはいい加減だったように思える。好きだったスリランカ女性はどこでもタバコを吸って、吸い殻は灰皿ではなく、わざわざ水洗トイレや浴槽に投げ捨てていた。

トゥールコック地区で知り合ったあるカンボジア女性は、ゴミがあると窓を開けて外に投げ捨てていた。ゴミ回収車など来ているのは見たことがないので、昼間になって窓の下を見たら、果たしてゴミが散乱してひどい状況になっていた。

日本の感覚からすると、ずいぶんマナーのない女性に見える。しかし、そう感じるのは日本人だけ(もしくは先進国の人間だけ)かもしれない。

国外の女性がこういった行為ができるのは、もちろんそれが「悪いことだ」という決まりや慣習がその国にないからであり、誰もがやっていることだからだ。こういったことが気になる日本人には耐えがたいかもしれない。

しかし、世界の大多数の国では「ゴミはどこでも捨てて責任を取らない」というのが普通なのだ。

「美しい日本」など、夢のまた夢の話になるだろう
多文化共生が進む日本で、2021年8月21日に私は興味深いと思う記事を目にしている。香川県で起きた事件なのだが、技能実習生としてやってきた2人のミャンマー人が逮捕されている。

この2人は大量のゴミを海岸に捨てて、廃棄物処理法違反で逮捕されていた。空き瓶や一斗缶、ペットボトル、古着などが入ったゴミ袋19袋(約72キロ)を海岸に捨てたというのだから、逮捕されても仕方がない案件である。

いったい何が起きていたのかというと、「日本は分別が細かすぎて、ゴミを出しても持って行ってもらえなかった」というのである。

確かに日本は「燃えるゴミ」「燃えないゴミ」「資源ゴミ」とあって、それぞれゴミの日が分かれている。そして、ゴミ袋の中が分別されておらずに何もかも一緒くたになっていたら持っていってくれない。2人のミャンマー人は困り果てていたのである。

日本人から見ると「ゴミの区分けなんか子供ですらもできるはずだ」と思う。

しかし、それは日本人だからそう思うのであって、外国人からしてみれば「なぜ、こんなに事細かに分別しなければいけないのか分からない」のだ。面倒だし、やる気もない。

この2人のミャンマー人が特別にゴミの処理ができないのではなく、新大久保や西川口を代表とする外国人が大量に住んでいる地域《エリア》というのは、だいたい同じ傾向があって、ゴミの出し方がめちゃくちゃで街がいつも散乱している。

分別もされていないし、出し方もめちゃくちゃだし、誰も片づけない。彼らにとっては「それが普通」なのである。だから、彼らの祖国がゴミだらけのように、彼らが日本に住む地域もまたゴミだらけになっていく。

少なくとも、景観を守るとか、街をきれいに保つ、という感覚は日本人が突出しているのは間違いない。他の国、特に途上国に関して言えば、どこも呆れるほどルーズである。

そういうわけで、大量の外国人が街を埋め尽くし、地域を占拠するようになっていくと、真っ先に現れる街の悪しき光景は「ゴミ」であると私は考えている。「美しい日本」など、夢のまた夢の話になるだろう。


『ブラックアジア・インド・バングラデシュ編 売春地帯をさまよい歩いた日々(鈴木 傾城)』
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https://blackasia.net/?p=26997


http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1163.html

[番外地9] 1945年ベトナム飢饉は、1944年10月から1945年5月にかけて、ベトナム北部で発生した大規模な飢饉。200万人が餓死した

ベトナムでも日本兵が農家からの食料強制調達で200万人餓死させているから、中国で1000万人餓死は妥当だよ:
意外に思われるかも知れないが、アジア太平洋戦争の後半、補給を無視した無謀な作戦により各地で日本軍兵士が続々と餓死(戦病死=栄養失調死)していった一方で、確かに食糧不足に悩まされていたとはいえ、敗戦に至るまで内地の日本人からは一人も餓死者は出なかった。占領地域から略奪した米などが大量に入ってきていたからだ。


 日本内地の一人あたりカロリー消費量は1931〜40年を100として、44年86、45年66と低下した。公定価格を数十倍から100倍以上上まわる闇取引が横行した。
 しかし敗戦までに日本内地で、餓死した日本国民は一人もいない。日本人の主食は、外米を確保することで少なからず補われた。その外米の主要な供給地の一つは仏印(ベトナム)であり、先にみたように日本による米の略奪が主因となって、死者100万〜200万人という大飢饉が発生した。餓死者100万〜200万人対ゼロという両者の隔絶と因果関係を見落としてはなるまい。

日本人は、200万人のベトナム人の命の米を、「外米」「南京米」などと呼び、「まずい」「臭い」と文句を言いながら食っていたのだ。


1945年ベトナム飢饉は、1944年10月から1945年5月にかけて、ベトナム北部で発生した大規模な飢饉。200万人が餓死したといわれている。

天候不順による凶作に加え、米軍の空襲による南北間輸送途絶や、フランス・インドシナ植民地政府及び日本軍による食糧徴発などが重なり、ベトナム北部を中心に多数の餓死者を出したとされる。新米が収穫される1945年6月に飢餓は収束した。

ホー・チ・ミンによる1945年9月2日のベトナム独立宣言には、「フランス人と日本人の二重の支配」のもとで「我々の同胞のうちの200万人が餓死した」との記述がある。
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/882.html

[近代史6] ヨーゼフ・マルティン・クラウス 交響曲 ハ短調 VB142
ヨーゼフ・マルティン・クラウス 交響曲 ハ短調 VB142


J. M. Kraus - VB 142 - Symphony in C minor



1. Larghetto - Allegro (0:00)
2. Andante (9:15)
3. Allegro assai (14:29)


Performers: Concerto Köln.



Kraus Symphony VB 142 | Giovanni Antonini | Kammerorchester Basel (Haydn2032 live)



Giovanni Antonini, Conductor
Kammerorchester Basel




Symphony in C Minor, VB 142





Conductor: Martin Sieghart
Orchestra: Stuttgarter Kammerorchester


Kraus: Symphony in C Minor, VB 142, Symphony in C Minor, VB 148 & Violin Concerto in C Major, VB 151 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=OLAK5uy_lOSdWaiuCas1Qf6nvCGuwzWY9lywSEFc4

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/900.html

[近代史6] レオシュ・ヤナーチェク(Leoš Janáček,1854-1928)
レオシュ・ヤナーチェク(Leoš Janáček,1854-1928)

シンフォニエッタ
3.5点
最初は盛大ながらも異質な何かをもつファンファーレで始まる。独特のおとぎ話的なフワフワとした夢の中のような幻想性があり、現実的な質感とか重みに乏しい感じがある。場面転換の仕方も、現実から精神的な自然さではなく、急に別世界に移行するような突発的でふわっとしたものを感じる。ディズニーのような幻想的な仮想世界を空を飛びながら旅するような楽しさがある曲。とてもオリジナリティのある独自の世界がある。

弦楽四重奏曲第1番『クロイツェル・ソナタ』
3.5点
物語性の明確さが楽しい。主人公の苦悩の表現と思われるものや悲劇性を、原作を知らなくても追体験できる。曲が短いのも良い。こんな悲劇的で歪んだ精神の悲劇を長時間聴かされたら、いたたまれない気持ちが続いてたまったものではない。音の絡み方など弦楽四重奏として充実している。文豪による19世紀の小説らしい雰囲気の音楽による再現としては圧巻と言ってもよい。

弦楽四重奏曲第2番『ないしょの手紙』
3.5点
歪みひしゃげた音は、とても女性への思慕を表現していると知識なしには理解できない。しかし、もはや老人だったヤナーチェクの苦悩や罪の意識を表現していると考えれば、腑に落ちる感じはある。力強い表現力の音楽は胸に迫るものがあり、聴く者を強く音楽に入り込ませるものがある。最後の救いのある場面には、ほっとすると共に、作曲者の心情をどう解釈すればよいか悩んでしまう。1番と共に、20世紀の重要な弦楽四重奏曲だろう。

ヴァイオリンソナタ
2.5点
東欧的なエキゾチックさと、現代的な荒廃した精神の表現は悪くない。短い3楽章の印象が強い。全体に散漫であり、緊密さに欠ける印象である。特に前半はあまり良い曲だと思わなかった。後半はヤナーチェクらしい味があり狂気を楽しめるが、やや物足りない。

ピアノ曲
『草かげの小径にて』
3.0点
聴いたのは生前に出版された第1集。2集は死後の出版で補遺の2曲のみ。ピアノ小品集として、それなりのバラエティはある。

ピアノソナタ 変ホ短調『1905年10月1日 街頭にて』
3.3点
こなれたピアニスティックな書法ではないし、特別に高い完成度まで磨かれた感じでもないものの、強く印象に残るものがある曲。1楽章は変ホ短調の暗くドロドロした調性感そのままの曲調でもある。社会的な情勢の雰囲気を感じる1楽章と、浮遊感と孤独感が心の隙間を表現している気がする2楽章。2楽章の中間での音の歪んだ盛り上がりの作り方は弦楽四重奏の世界に似た心に強く迫るものを感じる。どちらも良い。

霧の中で
2.8点
全体に雰囲気重視であり、ピアノソナタのような有機的な音楽には感じられない。音楽的な濃さとか、心に迫る感じはない。雰囲気は悪くはないため最初は楽しめるが、内容が浅いため後半は飽きてくる。ドビュッシーに似たところは感じる。

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E6%9D%B1%E6%AC%A7


レオシュ・ヤナーチェク(チェコ語: Leoš Janáček [ˈlɛoʃ ˈjanaːt͡ʃɛk] Cs-Leos_Janacek.ogg 発音[ヘルプ/ファイル], 1854年7月3日 - 1928年8月12日)は、モラヴィア(現在のチェコ東部)出身の作曲家。

モラヴィア地方の民族音楽研究から生み出された、発話旋律または旋律曲線と呼ばれる旋律を着想の材料とし、オペラをはじめ管弦楽曲、室内楽曲、ピアノ曲、合唱曲に多くの作品を残した。そのオペラ作品は死後、1950年代にオーストラリアの指揮者チャールズ・マッケラスの尽力により中部ヨーロッパの外に出て、1970年代以降広く世に知られるようになった。


生涯

少年時代(1854年 - 1868年)
1854年7月3日、モラヴィア北部のフクヴァルディ(ドイツ語版)[注釈 1]という村で、父イルジーと母アマリアの10番目の子供(14人兄弟)として誕生した[1][2]。祖父と父はともに教師で、音楽家でもあった[2][3][注釈 2]。

11歳のとき、ヤナーチェクの音楽的素養を見抜いていた父イルジー[4]の意向によってモラヴィアの首都ブルノにあるアウグスティノ会修道院[注釈 3]付属の学校に入学し、同時に修道院の少年聖歌隊員となった。聖歌隊の指揮者であったパヴェル・クシーシュコフスキーはヤナーチェクの父イルジーのもとで音楽の教育を受けた人物で、ベドルジハ・スメタナと同時期に活動したチェコ音楽における重要人物とされる[5]。ヤナーチェクは約4年[6]または8年[2]の間、クシーシュコフスキーの指導を受けた。1866年に父のイルジーが死去し、伯父のヤンの後見を受けることになった[7]。なお、ヤナーチェクは後に生まれ故郷のフクヴァルディに足繁く通うようになり、1921年には家を購入している[8]。

王立師範学校時代(1869年 - 1874年)
1869年秋、ブルノ市のドイツ人中学校を卒業した[9]ヤナーチェクは王立師範学校の教員養成科に入学し[9]、音楽のほか歴史、地理、心理学で優れた成績を収めた。イーアン・ホースブルグは、ヤナーチェクのオペラ作品に登場人物に対する深い理解がうかがえることと心理学でよい成績を収めたこととの関連性を指摘している[7]。1872年、3年間の教科課程を修了したヤナーチェクは無給での教育実習を2年間課せられた[9][10]。同じく1872年にアウグスティノ会修道院の聖歌隊副指揮者に就任[10][11]。留守がちであったクシーシュコフスキー[注釈 4]にかわって活動を取り仕切った。指導を受けた生徒の一人によると、ヤナーチェクは「気性が激しく、怒りっぽく、発作的に怒りを爆発させていた」という[10]。1873年、スヴァトプルク合唱協会の指揮者に就任[9][12]。イーアン・ホースブルグによるとスヴァトプルク合唱協会は主に織工によって構成されており、「居酒屋に集まる労働者の歌唱クラブの域をあまり出なかったが、ヤナーチェクの熱意のおかげでその水準はかなり高まった」[12]。ヤナーチェクは合唱協会のために四声部の世俗歌を作曲しており[9]、イーアン・ホースブルグは、合唱協会の指揮者を務めたことと『耕作』や『はかない愛』といった初期作品のいくつかが無伴奏男声合唱のための作品であることとの関連性を指摘している[12]。

1874年、2年間の教育実習を終え最終試験に合格したヤナーチェクは王立師範学校を卒業。この時ヤナーチェクが取得したのは「チェック語が話される学校で地理と歴史を教える資格」であり、音楽を教える資格ではなかった(ヤナーチェクが音楽の正教員としての資格を得たのは1890年5月のことである[13])。また、当時多くの中等学校ではチェック語ではなくドイツ語が話されていた[14]。

プラハに滞在(1874年 - 1875年)
ヤナーチェクは王立師範学校長のエミリアン・シュルツにプラハのオルガン学校[注釈 5]で学ぶことを勧められ、1年間の休暇が与えられた[12]。出願に際し、師であるクシーシュコフスキーは以下のような推薦状を書いた。

彼の音楽的才能、特にオルガン演奏の才能は殊のほか傑出したものであり、音楽をあますところなく研究する十分な機会が与えられるならば、彼はいつの日か真にすぐれた音楽家になることでしょう。
— ホースブルグ1985、40頁。

プラハ
プラハ滞在中、ヤナーチェクはアントニン・ドヴォルザークと出会って親交を深め、その音楽を深く愛するようになった[16]。また、ロシアを「全スラブ民族の理想の源泉」と位置付けて親ロシア的な心情を抱くようになり、ペテルブルク留学を志し独学でロシア語を学んだ[17]。ヤナーチェクは後に生まれた2人の子供に、ロシア式の名をつけている。1918年に完成した交響的狂詩曲『タラス・ブーリバ』は「ロシア人をスラヴ民族の救済者であり指導者であるとみなす国家的情熱」が反映された作品とされる[18]。ヤナーチェクの最後のオペラ作品である『死の家より』はフョードル・ドストエフスキーの小説『死の家の記録』を、1921年初演のオペラ『カーチャ・カバノヴァー』はアレクサンドル・オストロフスキーの戯曲『嵐 』をもとに制作されており、他に実行には移せなかったもののレフ・トルストイの小説『アンナ・カレーニナ』、『生ける屍』を題材にしたオペラの制作を計画していた[19]。また1898年にはロシア愛好者協会を設立して1914年まで会長を務め[20]、1909年にブルノのロシア文化サークルの会長を務めた[21]。文芸評論家の粟津則雄は、ロシアの作曲家を除けばヤナーチェクほど「ロシアの文化や文学と強く結びついた作曲家はちょっとほかに思いつかない」と述べている[21]。粟津は、ヤナーチェクの親ロシア的な心情には政治的な動機はまったくなく、「ロシアとかチェコといった区別を超え、それらをともに包んだ汎スラヴ的なものへの夢想」によるものであったと分析している[21]。

ヤナーチェクは教会音楽を中心としたオルガン学校の教育課程を「きわめて優れている」成績で修了[22]。1875年の夏をズノロヴィの叔父のもとで過ごした後、ブルノに戻った[23]。

ブルノへ戻る(1875年 - 1879年)
ブルノに戻ったヤナーチェクは師範学校の臨時教員となり、アウグスティノ会修道院聖歌隊とスヴァトプルク合唱協会の指揮を再開した。新たにブルノ・クラブ合唱協会聖歌隊[注釈 6]の指揮者にも就任し、多忙となったため1876年10月にスヴァトプルク合唱協会の指揮者を辞任した[25]。ブルノに戻ったヤナーチェクが手掛けた作品には男声合唱曲の『まことの愛』、『沈んだ花環』のほか、初の器楽作品である『管弦合奏のための組曲』、メロドラマ『死』などがある[26]。イーアン・ホースブルグはこの時期のヤナーチェクを「平凡な成行きで作曲と編曲にも手を染めた有能な教会音楽家以上の存在であることを暗示するものは、まだそこにはいっさいなかった」と評している[27]。

ライプツィヒ・ウィーンに滞在(1879年10月 - 1880年)
やがてヤナーチェクは「基本的な音楽技能を向上させたい」と思うようになり、1879年10月、王立師範学校長エミリアン・シュルツの勧めでライプツィヒ音楽院に入学した。この時ヤナーチェクはシュルツの娘、ズデンカ・シュルゾヴァーと交際していた[28]。音楽院でのヤナーチェクの評価は「『並はずれた才能に恵まれ、まじめで勤勉で』、『きわめて有能で知的で』あり、「まれにみる真剣さ」で勉強に熱中している」というものであった[29]が、ヤナーチェクは授業の内容に満足できず、1880年2月末にウィーンへ移った[30][注釈 7]。 イーアン・ホースブルグによると5か月間のライプツィヒ滞在中にヤナーチェクはルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン、フランツ・シューベルト、ロベルト・シューマンの音楽に接しており、この時期に作曲された作品からはその影響がうかがえる[29]。ウィーン滞在中、ヤナーチェクは2つのコンクールに『ヴァイオリン・ソナタ』を出品したが「あまりにも保守的」であるとして高い評価を得ることはできず、一方音楽院の授業[注釈 8]にも満足することができなかった。 ライプツィヒ、ウィーンでの滞在を通してヤナーチェクは、「正規の教育を受ける必要はもはやないという事実を痛感した」[29]。

再びブルノへ戻る(1880年 - 1916年)
ウィーンからブルノへ戻った後ズデンカと婚約し、1881年7月13日に結婚。翌1882年8月に娘のオルガが誕生したが、直後に母アマリアとの同居を望むヤナーチェクに反発したズテンカが娘を連れて2年間実家に戻るなど、当初から夫婦関係は不安定であった[31]。また、民族主義者のヤナーチェクは「きわめてドイツ的」なズデンカの親族に当惑を覚えていた[32]。ヤナーチェクのもとへ戻ったズテンカは長男ヴラディミールを出産したがヴラディミールは猩紅熱にかかり、1890年11月に2歳半で死去した[13]。ヴラディミールの死により、結婚・同居関係こそ解消されなかったものの、ヤナーチェク夫妻の結婚生活は事実上破綻した[13]。なお、ズデンカはヤナーチェクの死後「ヤナーチェクとの生活」と言う回想録を遺し、2人の関係について率直に語っている。

1882年9月、ヤナーチェクはブルノにオルガン学校(現在のヤナーチェク音楽院)を設立した。この学校ではヤナーチェクが自ら音楽理論を教えたほか、義父となったエミリアン・シュルツが心理学を教えた[13]。学校の教育課程は3年間で、目的は「教会音楽の技能の質を高めること」であった。これについてイーアン・ホースブルグは、「プラハ・オルガン学校の規則を手本としていたことは明らか」としている[13]。

同じく1882年9月、ブルノ・クラブ合唱協会運営の「若い歌手とヴァイオリニストのための学校」がヤナーチェクの計画に基づき設立されると、その責任者に就任した。アウグスティノ会修道院聖歌隊の指揮者にも復帰し、さらに1884年11月に音楽雑誌『ブデブニー・リスティ』を創刊、編集者を務めた[33]。ヤナーチェクはブルノ・クラブ合唱協会内部から批判を浴び、1889年以降聖歌隊の指揮者と「若い歌手とヴァイオリニストのための学校」の運営責任者から退いた[34]。この時期のヤナーチェクは多くの仕事や夫婦間の軋轢を抱え、1881年から1888年にかけて作曲したのは『四つの男声合唱曲』などいくつかの合唱曲のみである。[35]。ユリウス・ゼイエルの戯曲を原作とするオペラ『シャールカ』の作曲にも取り掛かったが、ゼイエルから詞の使用許可を得ることができず、とん挫した。『シャールカ』が完成したのはゼイエルが1901年に死去し、その作品がチェコ・アカデミーに遺贈された後のことである[36]。

1886年、ヤナーチェクは民俗音楽を研究していた民俗学者フランティシェク・バルトシュと親交を深め、バルトシュに協力して民俗音楽と民俗舞踊の収集・分析作業を行うようになった[37]。作業を進める中でヤナーチェクは民俗音楽の技法に魅せられていき、民俗音楽を採集することにとどまらず編集・刊行し、さらには自らの器楽作品に活用するようになった[38]。ヤナーチェクはモラヴィアの民謡にとくに強い関心を抱いた[39][注釈 9]。内藤久子は、ヤナーチェクは民謡を「民衆の生を包みこむ、まさに生きた歌」ととらえ、芸術音楽が「唯一、民謡から発展する」ことを確信していたと主張している[42]。19世紀末から20世紀初頭にかけ、ヤナーチェクは作曲家としてよりも民俗音楽学者として名が通っていたといわれる[43]。1889年から1890年にかけて作曲された『ラシュスコ舞曲』は、編曲・採集を除き、民俗音楽の影響がうかがえる初の作品とされる[44]。イーアン・ホースブルグは『ラシュスコ舞曲』について、以下のように評している。「特色の重要性は、いくら強調してもしすぎることはない。この比較的初期の作品においてヤナーチェクは、のちの作品で発展させてゆく旋律とリズムの創意を身につけていたことをすでに示していた」[45]。1891年にはオペラ『物語の始まり』が完成[46]。この作品はモラヴィア人がモラヴィアの民俗的資料に基づいて作曲した初のオペラであった[47]。イーアン・ホースブルグは「『物語の始まり』の重要性は、「その質がどうあれ、ここでヤナーチェクが音楽の点でも題材の点でも『シャールカ』のロマン主義を断固として放棄したことである」と評している[48]。音楽学者の内藤久子は、ヤナーチェクはこの頃から固有の語法を確立していったと考察している[49]。

1891年を境に、ヤナーチェクは民俗音楽の旋律を作品中に直接用いる手法を用いなくなった。イーアン・ホースブルグによると、1894年完成の序曲『嫉妬』、1896年完成の宗教曲『主よ、我らをあわれみたまえ』、1898年完成のカンタータ『アマールス』、1901年完成の宗教曲『主の祈り』といった作品にそのような傾向がはっきりと認められ[50]、1903年完成のオペラ『イェヌーファ』へと繋がる。『イェヌーファ』はガブリエラ・プライソヴァーによる戯曲『彼女の養女』の翻案を基にした作品で、この戯曲はモラヴィアの村を舞台とし、さらにモラヴィア方言で書かれている点に特徴があり[51]、ヤナーチェクが独自の語法を確立した作品として知られる[49]。ヤナーチェクは1894年から『イェヌーファ』の制作にとりかかっていた[49][52]。『イェヌーファ』は子供の死にまつわる悲劇を描いた作品であるが、完成の直前、ヤナーチェクは実際に娘のオルガを病で失っている[48]。死の間際の願いは『イェヌーファ』の全曲の演奏を聴きたいというもので、願いが叶えられた5日後にオルガは死去した[53]。ヤナーチェクはプラハでの初演を望んだが果たせず、1904年1月にブルノの仮設劇場で上演された。地元での評価は極めて高かったが、「プラハの批評家たちはほとんど公然と敵意を示した」[54]。イーアン・ホースブルグは当時のヤナーチェクについて、「プラハにおいては、彼はいくぶん冷やかに作曲家とみられていたが、それよりもわずかに敬意をこめて民俗学者と考えられていたのだった」[55]、「オペラ劇場やコンサートホールでの手ごわい競争者というよりも、民俗学者としての知識を身につけている二流の地方の作曲家であるという見方がプラハではなおも一般的であった」[56]と評している。

『イェヌーファ』の完成から数か月でヤナーチェクはオペラ『運命』の制作に乗り出し、半年で完成させた[57]。イーアン・ホースブルグによるとこの作品は「然るべき方向に進めることができなかった失敗作」であった[58]。台本の書き直しを模索するなど上演を躊躇するうちに第一次世界大戦が勃発して上演が不可能となり、没後30年にあたる1958年に初めて舞台で上演された[59]。1906年から1909年にかけ、ヤナーチェクはモラヴィア教員合唱団のために3つの男声合唱曲(『ハルファール先生』、『マルイチカ・マグドーノワ』、『7万年』)を作曲しており、これらはヤナーチェクの男性合唱曲の「頂点を極めた傑作」と評されている[60]。

1904年9月、ヤナーチェクは王立師範学校の教員を辞職した[61]。1904年、ワルシャワ音楽院院長就任を打診される。親露家のヤナーチェクはこの話に前向きであったが、立ち消えとなった[62]。1905年10月1日、ブルノでチェコ人のための大学創立を要求するデモと軍隊が衝突し一人の労働者が死亡する事件が起こると、ヤナーチェクは猛烈に怒り『ピアノソナタ「1905年10月1日 街頭にて」』を作曲した。

プラハでの『イェヌーファ』上演(1916年)
1916年5月26日、かつて果たされなかったプラハでの『イェヌーファ』上演が実現した。上演が実現しなかった要因の一つとして、プラハ国民劇場の首席指揮者カレル・コヴァルジョヴィツ(英語版)がヤナーチェクに対し悪感情を抱いていたことが挙げられる。1887年、ヤナーチェクはコヴァルジョヴィツのオペラ『花嫁』を「威嚇的な暗さと絶望的な悲鳴にみち、短剣が振り回されるいわゆる音楽」、「不安定な和音と動揺する聴感覚をそなえた序曲は、音楽的才能-かなり耳を悪くしてしまう才能-を証明している」と酷評していた[63]。事態が打開したのはヤナーチェクの友人ヴェセリー夫妻のコヴァルジョヴィツに対する説得が功を奏したからであった[64]。プラハ国民劇場での上演はイーアン・ホースブルグ曰く「度肝を抜くような大成功」で、その後ウィーン、ケルン、フランクフルト、リュブリャナ、ポズナニ、リヴォフ、バーゼル、ベルリン[注釈 10]、ザグレブなどで上演された[66]。プラハでの上演後、ヤナーチェクはヨゼフ・ボフスラフ・フェルステルへの手紙で次のように述べている。

私はまるでおとぎ話の世界に生きているかのような気持です。わたしはなにかせき立てられるようにして、次々に作曲をしているのです。
— ホースブルグ1985、176頁。

この言葉通り、ヤナーチェクはプラハでの『イェヌーファ』上演以降、精力的に作品をつくり出していった。イーアン・ホースブルグはこれを、「異常な力と独創性をそなえた音楽」が「万華鏡のようにほとばしり出(た)」と評している[67]。

カミラ・シュテスロヴァーとの出会い(1917年 - 1928年)
1917年夏、ヤナーチェクは二人の子供を持つ38歳年下の既婚女性カミラ・シュテスロヴァーと出会い、魅了された[注釈 11]。 以降ヤナーチェクは生涯にわたりカミラに対し熱烈に手紙を送り続け、その数は11年間で600通以上に及ぶ[68]。カミラが住む南ボヘミアのピーセクを訪れ家に泊まることもあったが、両者に肉体関係はなかったとされる[69]。カミラの存在は晩年の活動に多大な影響を与えたと考えられており[69]、たとえば『消えた男の日記』は若者がゼフカという名のジプシーに恋をする連作歌曲であるが、ヤナーチェクはカミラに対し「『日記』を作曲しているあいだ、あなたのことしか考えませんでした。あなたはゼフカであったのです!」と書いた手紙を送っている[70]。また、管弦楽曲『シンフォニエッタ』は、カミラの前で構想が立てられた[69]。

1918年、チェコスロバキアがオーストリア=ハンガリー帝国から独立。1919年、新政府がヤナーチェクが設立したオルガン学校を国立音楽院としたが、その院長にはヤナーチェクではなく弟子のヤン・クンツが抜擢され、ヤナーチェクはショックを受けたとされる[71]。1926年に完成した管弦楽曲『シンフォニエッタ』は独立を果たしたチェコスロバキアに対する誇りが反映された作品で、チェコスロバキア共和国軍に捧げられた[72]。

1920年にプラハで上演された『プロウチェク氏の旅行』は、ヤナーチェクが手掛けたオペラ作品の中で唯一初演がプラハで行われた作品であり[73]、さらに初めて作家に頼らず独力で台本を完成させるスタイルを確立させるきっかけをつかんだ作品である[74]。『プロウチェク氏の旅行』より後に制作された4つオペラ(『カーチャ・カバノヴァー』、『利口な女狐の物語』、『マクロプロス事件』、『死者の家から』)はすべてヤナーチェク自身が台本を手掛けた[74]。和田亘はその理由を、ヤナーチェクが目指した「できるかぎり自然な楽曲形成をおこなうためにはそれにふさわしい台詞が必要であった」からだとしている[75]。なお、イーアン・ホースブルグによるとこのうち『カーチャ・カバノヴァー』、『利口な女狐の物語』、『マクロプロス事件』は、(ヤナーチェクがカミラを通じて垣間見た[76])女性がもつ3つの顔を描いた三部作で、『カーチャ・カバノヴァー』は「苦悩に満ちた情熱」を、『利口な女狐の物語』は「自然な天真爛漫さ」を、『マクロプロス事件』は「冷たい不自然な美」を描いている[77]。ホースブルグは『マクロプロス事件』と『死者の家から』について、「(ヤナーチェクの)主題の展開と探求の体系が究極的な豊かさに到達しており、オペラ化がきわめてむずかしい物語が、かえって彼の豊かな才能を十分に引き出している」と評している[78]。1920年、ヤナーチェクはプラハ音楽院ブルノ分校の教員となり、1925年まで作曲を教えた[79]。

死(1928年)
1928年7月30日、カミラ・シュテスロヴァーとその夫ダーヴィト、そして11歳になるカミラの息子の三人を招待して、故郷フクヴァルディに出かけた。ダーヴィトは商用のため数日で帰宅したため、ヤナーチェクは三人で休暇を過ごしていたが、この滞在中ヤナーチェクは死に至る肺炎に罹った[80]。カミラの息子が迷子になったと思い込み、森の中へ探しに入ったのが原因といわれている[81]。。

8月12日の夜、ヤナーチェクは肺炎によりオストラヴァで息を引き取り、同月15日にブルノで公葬が執り行われた[80]。妻のズデンカは連絡の遅れによりヤナーチェクの死に目に会えなかった。さらに死の直前、ヤナーチェクは遺書をカミラに有利な内容に書き換えていたため、カミラとズテンカは激しく対立することとなった[82]。

死のおよそ2か月前の1928年5月、ヤナーチェクはオペラ『死の家より』を完成させている。完成前の1927年11月と1928年5月に、カミラ宛ての手紙でヤナーチェクは以下のように述べている。

わたしはまるで人生の決済をまもなくすませなくてはならないかのように、作品をひとつ、またひとつと完成させている
— ホースブルグ1985、335-337頁。
暗くなってきている。人は認めざるを得ないのだ、十字路の道しるべを
— ホースブルグ1985、337頁。
もうペンをおいていい時期だと私は強く感じます。……この『死の家より』が完成したらどんなに心の荷がおりることか、あなたには想像もつかないでしょう。この作品に夜も昼も取りつかれて、今年で3年目になります。しかしそれがどんな作品になるのか、まだわたしにもわかりません。音符をただ積み重ねているだけです。バビロンの塔が高くなってゆきます。それがわたしのうえに崩れおちる時に、わたしは埋葬されることになるでしょう。
— ホースブルグ1985、329頁。
同年2月19日に完成した『弦楽四重奏曲第2番「ないしょの手紙」』は、カミラへの愛が表現された最後の作品と考えられている[83]。

モラヴィア音楽の特徴とヤナーチェク
チェコの音楽学者J・ヴィスロウジルは、ヤナーチェクの作品に「モラヴィアのフォークロア(民俗音楽)を活用し、あるいは摂取して、地方性を強く芸術作品に表出しようとする動き」と濃厚なモラヴィアの地方色を見出し、フランチシェク・スシル、パヴェル・クシーシュコフスキー、アロイス・ハーバとともにヤナーチェクを音楽のモラヴィズム、モラヴィア主義の系譜に属する音楽家であると評価している[84]。ヤナーチェクは「民俗音楽と芸術音楽は一つの管で繋がっているようなものである」と考えた[85]。ヤナーチェクは芸術音楽が「唯一、民謡から発展する」と確信し、モラヴィア民謡から音楽の基礎を会得したといわれており[42]、その作品はモラヴィアの民俗音楽から強い影響を受けた[39]。ドイツの音楽批評家ハンス・ハインツ・シュトゥッケンシュミットは、ヤナーチェクが目指したものは「民謡の精神に基づく現代音楽の刷新」であったと述べている[42]。ヤナーチェクは民謡を直接引用するのではなく、その構造を科学的に分析して独自の「語法」を会得しようとした[86]。

現在のチェコは大きく分けて、ベドルジハ・スメタナやドヴォルザークの生まれたボヘミア(西部)とヤナーチェクの生まれたモラヴィア(東部)という歴史的地域から成り立っているが、両者の間には文化においても違いがある。ボヘミアが「いつも多分に西ヨーロッパの一部」で「いっそう都会風で豊か」なのに対し、モラヴィアは「スラヴ系特有の東洋との同一性を保持」し、「本質的に農村」と評される[87]。音楽についてもボヘミアの音楽が「単純な和声と規則的なリズムのパターンと調的構造」「厳格で規則正しい拍子」を有するのに対し、モラヴィア、とりわけワラキア(英語版)、ラキア(チェコ語版)などスロバキアに近い東部の音楽は規則性がなく、自由な旋律によって構成される[88]。また、ボヘミアの音楽には長調のものが多く、モラヴィアの音楽には短調のものが多い[89]。ボヘミアの音楽は舞踊に適するがモラヴィアの音楽は適さないとされる[88][89]。ヤナーチェクはチェコの音楽史において、「スラヴ人民の為のチェコ音楽の創造を目ざし、モラヴィア地方の諸要素を自らの内に正当化しつつ、地方レベルの音楽からモラヴィアの地方性に基づく国民音楽へ、さらには20世紀における世界的水準に至る現代音楽へと、創作の意味内容と価値を昇華させた」と評される[90]。ヤナーチェクは、スメタナの音楽のもつボヘミア的を西欧音楽・ドイツ音楽に傾斜した、「モラヴィアの『地方性』や『民俗性』を含む『汎スラブ主義』の理想を脅か」すものとみなし、「モラヴィアの伝統文化こそが、西スラヴ民族であるチェコ人の音楽を象徴するものである」と考えた[91]。内藤久子は、ヤナーチェクは「西洋としてのチェコ音楽」ではなく「『スラヴ民族としてのチェコ民衆の音楽』を通して見出される表現領域」[91]、「西洋文化の影響がどちらかといえば希薄な南東モラヴィアのスロヴァーツコ地方や、東モラヴィアのラシュスコおよびヴァラシュコ地方の民俗音楽」[42]にこそ、スラヴィ人としてのアイデンティティを見出したのだと述べている。モラヴィア出身の音楽学者J・ヴィスロウジルは、西洋音楽の枠にとらわれなかったヤナーチェクこそ「真のスラブ民族の音楽を樹立しようとした人物」であり、ヤナーチェクの出現によって「本当の意味での『チェコ国民音楽』の発展」が始まったのだと述べている[92]。

モラヴィア民謡では旋律を三度や六度で重ねることがある。ヤナーチェクは部分的にこの手法を用いることで効果を上げている。これはボヘミア民謡にも共通の特徴であり、ヤナーチェクに先行するスメタナやドヴォルザークもしばしば用いているものである[93]。イーアン・ホースブルグは、ヤナーチェクがこの手法を用いた場合について、「最大の同情がこめられた瞬間においては、…過酷な音楽との対比において、突然きらめく日の光のようにきわ立っている」と評し、例としてオペラ『死の家より』第一幕冒頭を挙げている[93]。

ヤナーチェクは民謡を研究する中で、モラヴィア、とりわけ東部の民謡が「話し言葉(の抑揚)」から生まれると考え[94]、オペラ『イェヌーファ』作曲中の1897年以降[60]、「人間の心の動きの表れである話し言葉の抑揚を、言葉の意味と関連させて楽譜に写し取った」旋律(「旋律曲線」または「発話旋律」)を収集し、作曲の際の参考とするようになった[95]。ヤナーチェクは発話旋律について「魂を覗き見るための窓」[96]、「人間のある瞬間の忠実な音楽的描写であり、人間の心とその全存在のある一瞬の写真である」[96]、「生なるもの'のすべてを映し出す鏡」[97]「発話旋律の中にのみ、チェコ語による劇的な旋律の真の範例が多く見出される」[98]と述べている。収集の対象は娘のオルガの臨終の床での言葉や動物の鳴き声にも及んだ。このことについて和田亘は、「偉大な自然の理法にしたがって生きる人間や動物の言語のいわば<<深層構造>>に迫ろうとする、ヤナーチェクの並々ならぬ熱意を示している」と評している[95]。ヤナーチェクの楽曲の特徴は、旋律曲線または発話旋律を参考にした「少数の核となる動機の反復と変容から全体が植物が繁ってゆくような独自のパターンを確立している」点にあるといわれている[99]。ヤナーチェクは収集した発話旋律を着想を得るための材料にはしたが、そのまま楽曲に活用することはしなかった[100]。この点についてヤナーチェク自身は次のように述べている。

収集した発話旋律、痛々しいほどに敏感な他人の心の断片をこっそりともちいて、自分の作品を『つくりあげる』などということは考えられるのだろうか?どうすればそんなばかげたことを推し進められるのだろうか?!
— 赤塚2008、194頁。

作曲法
ヤナーチェクがオペラの作曲で用いたプロセスは以下の通りである。

主題について、かなり長い時間をかけて考える[101]
「自然発生的なおおまかな草稿をスコアの形で書く」[101]
「オペラの最終的な形が明瞭に認められるスコアを書く」[102]
第1段階では、「しばしば、作品に固有の環境の環境を探り同化しようとする努力がはらわれた」。たとえば『マリチカ・マグドーノヴァ』作曲時にはオストラヴァの工業地帯を、『ブロウチェク氏の旅行』作曲時にはプラハの聖ヴィトゥス大寺院の塔を訪れている[101]。
第2段階については、「(ピアノの)ペダルをしっかり踏んだままにして」、「同一のモチーフを繰り返」しながら、「通常このモチーフをもとにして作られる曲を、ピアノを使わずに熱狂的に紙面に書きつける」姿の目撃談がある[103]。


ヤナーチェクの受容史
前述のように、「二流の地方の作曲家」であり、「プラハにおいては、彼はいくぶん冷やかに作曲家とみられていたが、それよりもわずかに敬意をこめて民俗学者と考えられていた」ヤナーチェクの知名度は、1916年にオペラ『イェヌーファ』のプラハでの上演を成功させたことにより大きく広がり[104]、1920年代に入るとブルノやプラハでオペラ作品が次々と上演されるようになった[105]。ただし母国以外で作品が上演されたのは主にドイツで、上演される作品はほぼ『イェヌーファ』と『カーチャ・カバノヴァー』に限られていた[104]。

英語圏では1919年にロンドンで催されたチェコスロバキア音楽祭で男声合唱曲『マリチカ・マグドーノヴァ』が演奏された[106]後、ローザ・ニューマーチの尽力によって1922年にロンドンのウィグモア・ホールで『消えた男の日記』が、1926年にはウィグモア・ホールで『弦楽四重奏曲第1番』など4曲が、1928年にロンドンのクイーンズ・ホールで『シンフォニエッタ』が、1928年にノリッジで『グラゴル・ミサ』が演奏・上演された[107]が、ほとんど関心を示されなかった[108]。アメリカでは1924年12月6日にニューヨークのメトロポリタン歌劇場でオペラ『イェヌーファ』(ドイツ語訳、マリア・イェリッツァ主演)が上演された時、イギリスの批評家アーネスト・ニューマンはこの上演を「明らかに素人に毛が生えた程度の男の作品としか思えない音楽」と酷評し、他にも「多くの批評家がヤナーチェクのなじみのない様式に当惑」した[109]。

音楽評論家の相澤啓三はオペラ史におけるヤナーチェクの位置づけについて、以下のように評している。

一見カオス状の<20世紀のオペラ>の中には何々主義でもなく何の立場を表明するものでもないオペラ作曲家たちがいます。その作曲行為には自発性と多様性があり、その作品は劇場性と個人様式をそなえ、そしてある意味では孤立した作曲家たちですが、ある意味ではオペラの辺境から現れてその母国語の声調とその風土の音楽語法とに拠って新鮮な悦びをもたらしてくれた作曲家たちです。その最高がチェコスロヴァキアのヤナーチェクとイギリスのブリテンの2人です。
— 相澤1992、450頁。

相澤は1992年発行の著書『オペラの快楽』において、ヤナーチェクのオペラが広く世に知られるようになったのは1970年代以降であるが、チェコ語で書かれた9曲中「少なくとも5曲か6曲はこれから世界中のオペラハウスのレパートリーとして歓迎されるようになるでしょう」と述べている[110]。

ヤナーチェクの死後の1951年、オーストラリアの指揮者チャールズ・マッケラスの尽力によりオペラ『カーチャ・カバノヴァー』が初めてサドラーズウェルズ劇場で上演された[111]のを皮切りに、「ヤナーチェクに対する最も熱狂的な支持」がイギリスで巻き起こった[108]。イギリスでは「主要なオペラがすべて上演され」たほか、オペラ以外の作品に対する関心も高まりつつある[108]。音楽評論家の相澤啓三は、ヤナーチェクのオペラが中部ヨーロッパから外に出るようになったのはマッケラスの功績であると評している[99]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%83%A4%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7%E3%82%AF

ヤナーチェクの楽曲一覧
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%81%AE%E6%A5%BD%E6%9B%B2%E4%B8%80%E8%A6%A7
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/901.html

[近代史6] レオシュ・ヤナーチェク 弦楽四重奏曲 第1番 ホ短調『クロイツェル・ソナタ』
レオシュ・ヤナーチェク 弦楽四重奏曲 第1番 ホ短調『クロイツェル・ソナタ』


Janacek String Quartet No.1 "After Tolstoy's The Kreutzer Sonata"(Smetana Quartet 1975)












00:00 1. Adagio - Con moto - Vivo
03:54 2. Con moto - Energico e appassionato - Tempo I
07:58 3. Con moto - Vivace - Andante - Tempo I
11:37 4. Con moto - Tempo II - Adagio - Maestoso (Tempo I) - piu mosso, feroce


Smetana Quartet
[Jiri Novak, 1st violin
Lubomir Kostecky, 2nd violin
Milan Skampa, viola
Antonin Kohout, cello]


1975/02/02 (ⓟ 2006) Stereo, Queen Elizabeth Hall, London


Leoš Janáček: String Quartets Played by Smetana Quartet - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=OLAK5uy_nZcL7NIUh_yjSYKk46rTdtqLtBC6DIXno


▲△▽▼


弦楽四重奏曲 第1番ホ短調『クロイツェル・ソナタ』は、レオシュ・ヤナーチェクが1923年10月30日から11月7日にかけて作曲した弦楽四重奏曲。1924年10月17日にプラハで初演された。


『クロイツェル・ソナタ』という副題は、レフ・トルストイの同名の小説に触発されたことを暗示しており、ベートーヴェンの《ヴァイオリンソナタ第9番》とは直接的な関連性はない(ただし第3楽章に、ベートーヴェン作品から楽句が引用されている)。かつてヤナーチェクは、この小説に霊感を得て弦楽三重奏曲(1904年)とピアノ三重奏曲(1908年 - 1909年)の2つの出発点としたが、その2曲は現在散逸している。


この弦楽四重奏曲は以下の4つの楽章からなるが、全曲を通して演奏してもおおよそ15分程度の長さしかない。またそれぞれの楽章は、順を追って物語を展開どおりに音楽化している。つまり、主人公が妻の不倫を知って苦悩する場面から開始楽章が始まり、終楽章で妻の殺害に至るのである。


Adagio
Con moto
Con moto – vivo – andante
Con moto (adagio) – più mosso

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/902.html

[近代史6] ベドルジハ・スメタナ(Bedřich Smetana, 1824-1884)
ベドルジハ・スメタナ(Bedřich Smetana, 1824-1884)


連作交響詩『わが祖国』(Má Vlast)(6曲)(1874-79年)

第1曲:ヴィシェフラド
3.8点
ワーグナーをすぐに連想するような、古代的なおとぎ話のような雰囲気を持っている。ヴィシェフラド城という城を題材にしているのはよく伝わってくる。心地よいファンタジー感で楽しい。かなり良いのだが、ワーグナーほど情熱的で地が湧く感じでないところに彼との差を感じる。

第2曲:モルダウ
4.5点
主要なメロディーをはじめとして、どの場面も旋律、雰囲気、音による描写の的確さなどいずれも非常に優れている。甘く劇的で描写的なロマン派の美点を見事に代表する曲の一つと言えるだろう。大地を流れる大河の自然の壮大さ、川の水のエネルギーなどをこれ以上なく表現できている。

第3曲:シャールカ
3.3点
やや和声や旋律に凡庸さを感じる場面が多くあるが、次々と移り変わる場面に身を任せることができるため、いちおう問題の解決になっている。ボヘミア的な民族的な旋律が楽しい。劇的ではあるが、激しさはそれほどでなく、おとなしい激しさとも呼ぶべき程度である。

第4曲:ボヘミアの森と草原から
3.3点
前半の森林浴やハイキングをしているかのようや自然の気持ちよさを満喫できる音楽。実際にハイキングに出かけたくなる。後半はポルカで楽しい踊りの音楽。ドヴォルザークのような躍動感があるが、同時に軽さもある。

第5曲:ターボル
3.0点
鋭角的な音楽。戦いを表現しているようだ。他と同様に正統派な交響詩らしい交響詩だが、インスピレーションは他と比べて強くない気がする。さらっと聴けて印象にあまり残らなかった。

第6曲:ブラニーク
2.8点
密度がオペラの音楽並みに感じでしまい、あまり楽しくない。正統派の交響詩として悪い曲ではないのだが、なんだか感動できる要素がかなり少ない。ここが良い、という部分がない。あと、5曲目と同じ旋律が多用されているのもマイナス。フス教徒の賛美歌とのことだが。


室内楽曲

弦楽四重奏曲第1番ホ短調『わが生涯より』(1876年)

弦楽四重奏曲第2番ニ短調(1882-83年)

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E6%9D%B1%E6%AC%A7


ベドルジハ・スメタナ(またはベドジフ・スメタナ ベトルジヒ・スメタナ、チェコ語: Bedřich Smetana [ˈbɛdr̝ɪx ˈsmɛtana] Cs-Bedrich_Smetana.ogg 発音[ヘルプ/ファイル]、1824年3月2日 - 1884年5月12日)は、チェコの作曲家・指揮者・ピアニスト。ドイツ語名のフリードリヒ・スメタナ (Friedrich Smetana)でも知られる。

スメタナは、当時、オーストリア=ハンガリー帝国(オーストリア帝国)によって支配されていたチェコの独立国家への願望、チェコ民族主義と密接に関係する国民楽派を発展させた先駆者である。そのため祖国チェコにおいては、広くチェコ音楽の祖とみなされている。

国際的には、6つの交響詩から成る『わが祖国』と、オペラ『売られた花嫁』、弦楽四重奏曲『弦楽四重奏曲第1番 「わが生涯より」』で知られる。

『わが祖国』は、スメタナの祖国であるチェコの歴史、伝説、風景を描写した作品で、第2曲の「ヴルタヴァ」(モルダウ)が特に著名である。

スメタナは、元々ピアニストとして才能を発揮しており、6歳の時には既にピアノ公演も経験している。通常の学業を修めたのち、彼はプラハでヨゼフ・プロクシュの下で音楽を学んだ。彼の最初の民族主義的な楽曲は、彼もわずかに関係した1848年プラハ反乱の中で書かれた。しかし、この時期にはプラハで成功することはなく、スメタナはスウェーデンへと移住した。移住先のスウェーデン・ヨーテボリで、スメタナは音楽教師、聖歌隊指揮者として著名になった。また、この頃から規模の大きいオーケストラ音楽の作曲を開始している。

1860年代初頭、これまで中央集権的なオーストリア帝国政府のボヘミア(チェコ)への政治姿勢が自由主義的なものへと変化しつつあったことから、スメタナはプラハへと戻った。プラハに戻ってからは、チェコオペラという新たなジャンルの最も優れた作曲家として、人生を過ごした。1866年に、スメタナ初のオペラ作品『ボヘミアのブランデンブルク人』と『売られた花嫁』が、プラハの仮劇場で初演されている。前述のように、後者は後に大きな人気を得ることになる。同年には、スメタナは同劇場の指揮者に就任しているが、彼の指揮者ぶりは論争の的となった。プラハの音楽関係者たちのある派閥は、彼を「チェコのオペラスタイルの発展とは反目するフランツ・リストやリヒャルト・ワーグナーの前衛的なアイデアを用いる指揮者」であると考えていた。その対立はスメタナの創作業にも暗い影を落としたばかりか、健康状態をも急速に悪化させた。最終的に健康状態の悪化が原因で、1874年にスメタナは同劇場の職を辞している。

仮劇場を辞した1874年の末頃になると、スメタナは完全に失聴してしまうが、その一方で劇場の義務と、それに関連する論争からは解放された。この後、スメタナは残りの人生のほとんどを作曲に費やすようになる。彼のチェコ音楽への貢献は、ますます著名になり大きな名声を得ることになった。しかし精神を蝕む病に侵されたことから、1884年には保護施設へと収監され、それから間もなく亡くなった。

現在でも、チェコにおいては、スメタナはチェコ音楽の創始者として広く知られており、彼の同世代たちと後継者たちよりも上に位置付けられている。しかしながら、スメタナの作品はその内の少数が国際的に知られるのみで、チェコ国外においては、アントニン・レオポルト・ドヴォルザークがより重要なチェコの作曲家であるとされることが多い。


生涯

家族背景と少年時代
ベドルジハ・スメタナは1824年3月2日、ボヘミア北部、現在のパルドゥビツェ州に位置する都市リトミシュルで生まれた。リトミシュルはプラハの東に位置し、ボヘミアとモラヴィアの歴史的境界の近い町で、当時はオーストリア帝国(ハプスブルク君主国)領であった。父はフランチシェック・スメタナ(1777-1857)で、母はフランチシェックの3番目の妻であるバルボラ・リンコヴァーである。ベドルジハは、フランチシェックとバルボラの間の3番目の子供で長男であった。フランチシェックには、前の2人の妻との間に8人の子供がおり、内5人の娘が幼少期を生き残っている。フランチシェックとバルボラは10人以上の子供をもうけており、内7人が成人になっている[1][2]。この地域を治めるハプスブルク家の敷いた制度により、ドイツ語がボヘミアの公用語であった。この社会的な理由と仕事の関係から、フランチシェックはチェコ語を話すことができたものの、生活においてはドイツ語を使用していた。そのため、彼の子供達は、かなり年を取るまで正式なチェコ語を知らないままであった[3]。

元々スメタナの一族は、ボヘミアのフラデツ・クラーロヴェーに居住しており、フランチシェックの代にリトミシュルへと移住している。フランチシェックは、最初ビールの醸造業者の商取引を学び、ナポレオン戦争中にフランス帝国軍に衣類と食糧を供給することによって、中流階級の富を獲得した。その後、1823年にリトミシュルに移る前まで、彼はいくつかのビール醸造業者の経営を行っていた。リトミシュルには、当地をリトミシュル城を中心に治めていた、ヴァルトシュタイン伯のビール醸造者として移っている[1][4]。

フランチシェックは、若い頃に少しばかりヴァイオリンを習った程度であったが、音楽に関しては才能が有り、仕事を終えた直後に友人たちと一緒に弦楽四重奏を演奏することを楽しんでいた程の音楽好きであった[5]。ベドルジハは、父の影響から早くに音楽に触れたこともあって、幼少期から音楽的才能を開花させ、早い時期からヴァイオリンを学んでいる[注釈 1]。スメタナも父と友人たちとの演奏に参加しており、弦楽四重奏曲などを演奏していた。のちにピアノも本格的に習って上達し、ヴァイオリンよりもピアノの方を気に入ったという[注釈 2]。1830年、6歳の時に、ベドルジハは公の場で演奏している[6]。このコンサートはリトミシュルの哲学学校で行われ、ベドルジハはフランソワ・オーベールのオペラ『ポルティチの唖娘』の序曲のピアノ編曲版を演奏し、好評を得た[7][8]。なおヴァイオリンを習っている際、即興でワルツを弾き教師が書きとったものがスメタナの最初の作品であるとされている。1831年にフランチシェックがチェルニン伯に仕えることとなり、スメタナ一家はリトミシュルからボヘミア南部のインドジフーフ・フラデツ(英語版、チェコ語版)へ移る[4][9][6]。当地は、グスタフ・マーラーの出身地であるイフラヴァ[10]の南西50kmほどにある小さな町である。スメタナは、この地で小学校に通い、その後ギムナジウムに入学した。またこれと並行して音楽教育も受けており、ヴァイオリンとピアノを学んでいる。また、ヴァイオリニストでオルガニストのフランチシェック・イカヴェッツ(1800-1860)に作曲を習い、1832年(当時8歳)には『ギャロップ』と題されたニ長調の短い小品を作曲している。同曲はスケッチの形で現存している[9][11][6]。

1835年に、父・フランチシェックが第一線から退き、ボヘミアの南東地域の農場へと移る[11]。そこには適当な学校が無かったため、スメタナはイフラヴァのギムナジウムに通うようになる。しかしホームシックとなり、勉強を行うことができなくなってしまった。そのため、1836年にニェメツキー・ブロト(現ハヴリーチュクーフ・ブロト(英語版、チェコ語版))のカトリック修道会・Premonstratensianの学校に再度転校している[6]。この学校ではホームシックに苦しむこともなく、幸せな少年期を過ごしている[11]。この地で友人となった者の中には、後にチェコの進歩派の作家となるカレル・ハヴリーチェク・ボロフスキーがいる。ハヴリーチェクは、1838年にカレル大学へと進学しプラハへ転居した。

音楽家の下積み時代

第一歩
ハヴリーチェクに刺激を受けたスメタナは、プラハに進学することを父・フランチシェックに請願する。当初フランチシェックはプラハ行きには反対していたものの、最終的にはスメタナのプラハ行きに賛成し、スメタナは1839年にプラハに移った。スメタナは、ヨセフ・ユングマンが教鞭をとるアカデミック・グラマー・スクールに在学した。ユングマンは、チェコ国家復興運動の第一人者となる著名な詩人で言語学者であった[12]。しかしながら、スメタナは、出身地のマナーに関してクラスメートから嘲笑の対象となるなど、学校に馴染むことができず[12]、スメタナはすぐに学校に行かなくなった。スメタナはコンサートに通い、オペラに通い、軍楽隊の演奏を聞き、自作曲のためにアマチュア弦楽四重奏に参加していた[12]。フランツ・リストが、プラハでピアノリサイタルを行った後、スメタナは音楽家の道が、自身が喜びを見出すことのできる唯一の道であると確信するようになる[12][6]。彼は日記に、「作曲ではモーツァルト、テクニックではリストになるために」と書いている[13][14]。しかし、フランチシェックに学校の無断欠席がばれてしまったため、プラハから連れ戻されてしまい、スメタナのプラハでの充実した生活は終わりを迎える[12]。フランチシェックはこの時、音楽を気晴らしの娯楽として考えており、音楽家を職業としては見ていなかった[3]。その後、スメタナは少しの間、叔父とノヴェー・メェスト・ナト・メトゥイー(英語版、チェコ語版)で暮らしていた。その地で、スメタナは従姉妹のルイサと恋愛関係となった。彼は、その情熱を『ルイサのポルカ』(Louisina Polka)で表現している。この曲は、スメタナの作曲した楽曲で完全に残っている物のうち、もっとも初期のものである[15]。

その後、プルゼニのカトリック修道会・Premonstratensianの学校で教師をしていた年上の従兄、ヨゼフ・スメタナがベドルジハの残った学校の就学期間中、彼の面倒を見ることを申し出た。1840年夏にスメタナはプルゼニに移った[5]。1843年に学校を卒業するまで、スメタナはプルゼニで過ごした。スメタナのピアニストとしてのテクニックは、プルゼニの多くの夜会で求められるまでになっていた。スメタナ自身は、この多忙な人生を楽しんでいた[14]。この中には、いくつもの恋愛も含まれており、最も重要なものはカテジナ・コラージョヴァーとのものである。彼女は、幼い時期から顔見知りの女性であった。スメタナは完全に彼女に魅了されており、彼は日記に「彼女の傍に居ないと、私は赤く熱された石炭の上に座っているかのように、平穏でいることがきない」と書いている[16]。スメタナは彼女のためにいくつかの楽曲を作曲している。その中には2つのカドリーユ、デュエット、左手のための不完全なピアノ練習曲がある[17]。また、この時期に、スメタナは初めて管弦楽曲(メヌエット)を作曲している[18]。

学生と教師
スメタナが学校を卒業するまでの間に、父・フランチシェックの財産は少なくなっていた。フランチシェックは、この頃にはベドルジハが音楽家の道を追うことに賛成していたものの、金銭的な支援を行うことができなくなっていた[14][17]。1843年8月、スメタナは僅か20ガルデンを持って[19][20]プラハに移るが、短期間で成功する展望は無かった[21]。正式な音楽教育を完全に受けていなかったことから、スメタナは教師を必要とし、前述のカテジナ・コラージョヴァーの母から、カテジナがちょうど在籍しているプラハ音楽大学の長であるヨゼフ・プロクシュを紹介される[5][17]。プロクシュは、当時としては最新の指導法を用いており、ベートーヴェンやショパン、ベルリオーズ、更にリストのライプツィヒサークルの楽曲を用いていた[5]。1844年1月、プロクシュはスメタナを生徒にとることに同意し、同時に貴族であるトゥーン卿の家族の音楽教師の職を確保し、スメタナの経済的困窮を救おうとした[5]。

それからの3年間、スメタナはトゥーン家の子供たちのピアノ教育を行いながらプロクシュの下で理論と作曲法を学んだ。この期間に彼が作曲した楽曲には、歌曲、ダンス、バガテル、即興曲、ピアノソナタト短調がある[22]。1846年、スメタナはベルリオーズがプラハで行ったコンサートに出席しており、確定はしていないものの、プロクシュによってレセプションでこのフランスのマエストロ(ベルリオーズ)に面会したとされる[23][6]。またトゥーン卿の家で、ロベルトとクララのシューマン夫妻に面会しており、この時自作のピアノソナタト短調を夫妻に見せている。しかし、その曲はあまりにもベルリオーズからの影響が強すぎるとして、夫妻から認められることはなかった[5]。このような日々の中で、カテジナとの関係がより親密になる。1847年6月、スメタナはトゥーン家の音楽教師の職を辞した上で、後任にカテジナを推薦した。彼はその時、西ボヘミアへの演奏旅行に出発し、コンサート・ピアニストとしての名声を確立することを望んでいた[24]。

音楽家としての活動初期

革命への傾倒
スメタナの西ボヘミアでの演奏旅行はサポートが貧弱であったため、彼はそれを中止しプラハへ戻った。プラハでは彼は私的に音楽の生徒をとり、また時折室内楽コンサートに伴奏者として出演し生計を立てていた[23]。また、スメタナは初めての一流の管弦楽曲、『祝典序曲 ニ長調』の作曲を始めた[25]。


1848年の短期間、スメタナは革命運動に傾倒していた。同年にヨーロッパを席巻した政治的変化と動乱の風潮の中、プラハでは民主化運動がおこり、この中でスメタナは、旧友であるカレル・ハヴリーチェク・ボロフスキーと再会した。ボロフスキーは、政治的自治を得るためにハプスブルク家の専制支配に終止符を打つことを主張していた[26]。この市民兵たち("Svornost")は、想定されうる攻撃に対してプラハを守るための防御策を講じた。スメタナは、愛国的な楽曲のシリーズを書いた。その中にはチェコ国家の番人とプラハ大学の学生グループそれぞれに捧げられた行進曲、ヤーン・コラールの詞に楽曲を付けた『自由の歌』がある[27]。1848年6月、ハプスブルク家の軍が反乱の動きを鎮圧するために動き始め、プラハはアルフレート1世・ツー・ヴィンディシュ=グレーツに指揮されたオーストリア軍の攻撃にさらされるようになった。市民兵のメンバーとして、スメタナはカレル橋のバリケードの人員を助けた[26]。この初期の蜂起はすぐに鎮圧されたが、スメタナはハヴリーチェクのようなリーダー達が受けたような国外追放や投獄を免れた[26]。市民兵におけるスメタナの僅かな仕事の間、彼は作家であり急進派の先鋒であったカレル・サビナに会っている。彼は後に、スメタナの最初の2つのオペラにリブレットを提供することになる[26]。

ピアノ学校
1848年初頭、スメタナはフランツ・リストに手紙を書いている。スメタナは彼に会ったことはなかったが、新しく作曲したピアノ曲『6つの性格的な小品』の献呈を受けてもらい、加えてそれを出版社に薦めてもらうように頼んだ。更には、音楽学校開校のために400グルデンの借金の依頼も行った。このスメタナからの手紙に対して、リストは真摯な返事を出しており、その中で、献呈を受け、出版社を見つけることを助ける約束したが、金銭的援助は断った[28][29]。この激励は、スメタナの後のキャリアにおいて非常に大きな価値を持つ友人関係の始まりでもあった[30]。リストからの資金援助は受けられなかったものの、1848年8月終わり頃に、スメタナは12人の生徒でピアノ学校を始めた[31]。混乱の時期の後、その学校の評判は高まっていき、特にチェコの民族主義を主張する者たちの間で短い間であるが流行するようになった。プロクシュは、人々の大義のためのスメタナのサポートについて手紙を書いており、彼は「私のアイデアをチェコ語に変換する有能な者になるかもしれない」と述べている[32]。1849年、スメタナの音楽学校はカテジナの両親の家に移転し、著名な訪問者が訪れるようになった。たとえば、リストは定期的に訪れており、前オーストリア皇帝で退位後プラハに住んでいた、フェルディナント1世は、学校のマチネー・コンサートに出席している[32]。これらのコンサートでのスメタナのパフォーマンスは、プラハでの音楽家としての生活の著名なものとなった。金銭的に安定したこの時期の1848年8月27日、スメタナはカテジナと結婚した。結婚後、1851年から1855年に4人の娘が2人の間に生まれている[29]。

新進気鋭の作曲家
1850年、スメタナの革命に近い思想にもかかわらず、彼はプラハ城におけるフェルディナント1世の常任宮廷ピアニストの職を手に入れる[27][32]。スメタナは、ピアノ学校での教鞭をとりながら、ますます作曲に打ち込むようになった。彼の楽曲は、主にピアノのための楽曲で、その中には3パートからなる『婚礼の情景』や、後に『売られた花嫁』に使われる楽曲のいくつかがこの時期に作曲されている[33]。またスメタナは、多くの実験的作品を書き、『6つのアルバムの綴り』という名前に集めている。また、ポルカのシリーズも書いている[33]。1853年から1854年の間、スメタナは管弦楽曲『祝典交響曲』の作曲を行っている。同曲は、フランツ・ヨーゼフ1世の成婚を記念して作曲された[29]。この交響曲は、当時のオーストリア帝国国歌『神よ、皇帝フランツを守り給え』の参照が十分目立っていないという理由で、皇帝側から受け取りを拒否された。上演阻止はされなかったため、スメタナは自費でオーケストラを雇い、1855年2月26日、プラハのコンヴィクト・ホールで同交響曲を上演している。この交響曲は冷淡な反応を受け、コンサートは金銭的失敗に終わった[34]。

プライベートでの不幸と職への幻滅
1854年から1856年の間、スメタナは次々と家庭の不幸に見舞われる。1854年7月、次女ガブリエレが結核で2歳で死去。翌年には、音楽的才能を見せていた長女のベドジーシカが、猩紅熱により4歳でこの世を去っている[35]。スメタナは、彼女の思い出を偲んで、『ピアノ三重奏曲ト短調』を作曲している。同曲は、1855年12月3日にプラハで演奏されたが、スメタナによれば、リストには称賛されたものの、評論家たちには厳しい評価を返されたという[5][36]。現在では、同曲は深い感情が満たされた傑作と評価されている。この後もスメタナには不幸が続く。ベドジーシカの死から少しして、四女カテジナが生まれたものの、1856年6月に亡くなっている。その上、この時期には、妻であるカテジナも結核の診断を受けている[35]。

1856年7月、スメタナは旧友であり、革命運動を共にした友人、カレル・ハヴリーチェク・ボロフスキーが死去したというニュースを聞いている[37]。プラハの政治的風潮は、更なる陰鬱の原因となっていた。具体的には、より賢明な政府及びフランツ・ヨーゼフ1世の1848年の即位に伴う社会改革への希望は、アレクサンダー・フォン・バッハ男爵の下のオーストリア絶対主義によって色褪せていた[37]。ピアノ学校の名声とは裏腹に、スメタナのコンサート・ピアニストとしての地位は、同世代のピアニスト、アレクサンダー・ドライショクよりも下であると一般的には考えられていた[37]。評論家たちは、リストよりもショパンに通じるスメタナの「繊細で、透き通るような指使い」を評価していたものの、彼の身体的な脆さが彼のコンサートピアニストへの野心には深刻な欠点となっていると確信していた[33]。この時期の、スメタナの成功した演奏としては、1856年1月のモーツァルト生誕100周年記念コンサートにおける、『ピアノ協奏曲第20番』の演奏であった[37]。スメタナのプラハへの幻滅は大きくなり、そして、おそらくスウェーデンでのドライショクの評価に影響されて、スメタナは同地での成功を目指すことに決めた。両親へ「プラハは私を認めようとはしない。だから私はそこを離れる」と手紙を書き、1856年10月11日、スウェーデン・ヨーテボリへ旅立った[38]。

海外での活動
スメタナは最初、カテジナ抜きでヨーテボリに向かった。リストへの書簡によると、彼は、そこの人々は音楽的には洗練されていないと述べている。しかし、彼はそれを「自分がプラハで達成できなかっただろう衝撃を与える」良い機会だとみなしていた。彼が到着してから数週間のうちに、彼は最初のリサイタルを開き、音楽学校を開いた[39]。そして、ヨーテボリのGothenburg Society for Classical Choral Music (英語)の指揮者にもなった[39]。数か月のうちに、スメタナはヨーテボリで、職業的にも社会的にも認められるようになった。作曲にはほとんど時間を割くことができなかったものの、仮に『Frithjof』と『The Viking's Voyage』と題された2つのオーケストラ曲を目指した。しかしながら、この2曲はスケッチは作成されたが、途中で放棄された[40]。1857年に同地で2回ピアノの演奏会を行っており、同年4月17日に行われた演奏会ではベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番を演奏し、批評家たちから大いに絶賛されている。


スウェーデン・ヨーテボリの街並み。スメタナは1856年から1861年の間滞在した。
1857年5月にスメタナはプラハに一時帰国し、体調を崩しているカテジナに面会した。また、6月には父・フランチシェックが亡くなっている[41]。9月末に、スメタナはカテジナと娘のゾフィーと共にヨーテボリに戻る。ただし、ヨーテボリに行く前に、ヴァイマルのリストを訪問している。この時には、カール・アウグスト・ゲーテ=シラー・ジュビリー式典の機会があり、スメタナは演奏に出演し、リストの『ファウスト交響曲』、交響詩『理想』を演奏した[42]。リストは、スメタナのこの後の創作活動を通して最も影響力のある音楽家であった。そして、この時、彼の魂は完全に復活し、ヨーテボリでの比較的芸術家から隔絶された彼を救った[38]。

スウェーデンに戻ってから、スメタナは、生徒の中の若い主婦と親しくなる。彼女は、フレーダ・ベネッケ (Fröjda Benecke)と言い、彼を物思いにふけるようにし、最終的に彼の愛人となった。彼女のために、スメタナは、シューベルトの歌曲集『美しき水車小屋の娘』から2曲を編曲し、加えてスメタナの初期のピアノ曲を『舞踏会のおもかげ』とタイトルされたポルカに編曲した[43]。併せて彼は、より大規模な作曲を始めた。1858年、彼は交響詩『リチャード三世』を完成された。続いて、スメタナはフリードリヒ・シラーの三部作『ウォーレンスタイン(英語版)』に触発されて、『ヴァレンシュタインの陣営』を作曲し[44]、更に3番目の交響詩『ハーコン・ヤルル』の作曲を始める。『ハーコン・ヤルル』は、デンマークの詩人、アダム・エーレンスレーヤー(英語版)の悲劇を基にしている[45]。スメタナは更に2曲の大規模なピアノ曲、『マクベスと魔女』とリストスタイルのエチュードを作曲した[46]。

死別、再婚とプラハへの帰国
カテジナの健康は徐々に悪化し、1859年の春には最悪の状態になった。彼女は故郷に帰りたいと切望していたため、ドレスデンに戻り、同地で1859年4月19日に亡くなった[47]。スメタナは、彼女が死んだことについて、「gently, without our knowing anything until the quiet drew my attention to her.」と書いている[48]。娘ゾフィーがカテジナに付き添うようになった後、スメタナはヴァイマルでリストと過ごしている。そこで彼は、リストの生徒であるペーター・コルネリウスによって書かれたコミック・オペラ『バグダッドの理髪師』を紹介されている[49]。この楽曲は、スメタナの後の音楽家としての人生をオペラ作曲家にするように影響したと考えられている[50]。同年後半には、彼は弟のカレルのもとに滞在し、カレルの義理の姉妹で16歳年下のバルボラ(ベッティーナ)・フェルディナンディオヴァと恋に落ちた。スメタナは彼女にプロポーズし、1859年から1860年にかけての冬、ヨーテボリに戻ってから、彼女から受諾を得た[38]。スメタナと彼女がスウェーデンに戻った後、1860年7月10日に結婚した。1861年4月には、スウェーデン王家から招待され、ストックホルムでピアノ演奏をするなど、絶頂期を迎える。同年9月には、スメタナとバルボラとの間の最初の娘、ズデンカが誕生している[45]。

このような中で、1859年、フランツ・ヨーゼフ1世率いるオーストリア帝国軍はソルフェリーノの戦いで敗れ、ハプスブルク君主国は弱体化しつつあり、フォン・バッハの力も落ちつつあった[51]。このことは、徐々にプラハにより開放的な空気を持ち込むようになり、1861年には、スメタナはチェコの民族主義と文化によりよい展望を見出している[13][45]。スメタナがこれからのことを決める前、9月に、スメタナはオランダとドイツで演奏旅行を敢行した。彼はまだ、ピアニストとして名声を得ることを望んでいたが、再び挫折を経験することとなった[45]。プラハに戻り、1862年1月、ジョフィーン(Žofín)島コンサートホールで、『リチャード三世』と『ヴァレンシュタインの陣営』とを指揮した。この時の観客は、控えめな反応を示したという。評論家たちは、主にリストに代表される"新ドイツ楽派"を信奉しすぎているとして、スメタナを批判した[52]。スメタナは、「預言者は、自身の土地では敬われないのです。」と返している[45]。1862年3月、スメタナはヨーテボリを短期間訪れた。しかし、スメタナはヨーテボリをそれほど重要視しなかった。これは、ヨーテボリが彼には田舎の僻地であるように思えたからであった。そして、どんなに困難であっても、プラハで音楽家としての道を進む決意を固めた。スメタナは、「私の祖国が、私が本当の満足を得ることができる唯一の場所であると、心の中にしっかりと根付いている。」と語っている[53]。

全国的な名声
名声の模索
1861年、チェコオペラの本拠地として、仮劇場の建設がアナウンスされた[54]。スメタナは、これをオペラを書く良い機会であり、ミハイル・グリンカのオペラにおけるロシアの生活の描写と同じように、ステージオペラにチェコの国民性を反映するものにすると考えた[13]。彼は、仮劇場の指揮者の地位を望んでいたが、結局そのポストには、ヤン・ネポムク・マイールが就くことになった。これは、明らかに、この劇場のプロジェクト内の保守派が、スメタナをリストやワーグナーのような前衛的な作曲達のとりことなっている"危険なモダニスト"であるとみなしたためであった[55][56]。そして、スメタナは、オペラコンテストに力を注ぐようになった。このコンテストは、ヤン・フォン・ハラハ伯爵によって開催されており、チェコ文化を下敷きにした歴史オペラと喜劇のそれぞれの最優秀作品に選ばれると、600ガルデンの賞金が授与されるものであった[55]。作品を基礎づけるような有用なモデルは無かった(当時は、チェコオペラはジャンルとしてはほとんど存在していなかった)が、スメタナは自身のスタイルを作り上げた。スメタナは、1848年のカレル橋のバリケードで同志であった、カレル・サビナを劇作家として起用し[57]、1862年2月に台本を受け取っている。その台本の内容は、13世紀、オットー2世によるボヘミア侵攻を題材としたものだった。1863年4月、そのオペラを『ボヘミアのブランデンブルク人』と題して、スコアを出版した[57][58]。


プラハ音楽院 (2007年撮影): スメタナは同院の指導者に応募したが落選している。
彼のキャリアの中で、この時期、スメタナのチェコ語による指示は不十分であった。チェコにおいて、彼の世代は、ドイツ語による教育を受けており[59]、彼はおそらく、母国語で彼自身を表現するのが困難であった[58]。この言語の欠点を克服するために、スメタナはチェコ語文法の勉強を始め、毎日、必ずチェコ語を書き、チェコ語で話すようにした。スウェーデンからの帰国後すぐにスメタナは民族主義的なフラホル合唱協会のコーラスマスターとなった。また、彼のチェコ語の流暢さが徐々に上達し、彼は社会のための愛国的なコーラスを作曲した。この『3人の騎手』と『裏切者』は、1863年初めに上演された[60]。同年3月、スメタナは、チェコの芸術協会であるUmělecká Besedaの音楽部門のトップに選ばれた[58]。1864年までに、スメタナはチェコ語を流暢に話すことができるようになり、主要なチェコ語の新聞、Národní listyの音楽評論家になるまでになっていた[61]。その間、ベッティーナとの間に娘、ボジェナが生まれている[62]。

1864年4月23日、スメタナはウィリアム・シェイクスピアの生誕300周年記念コンサートで、ベルリオーズの合唱交響曲『ロメオとジュリエット』を指揮している。この時、プログラムに自身の楽曲『シェイクスピア祭のための祝典行進曲』を追加している[55][58]。同年、スメタナはプラハ音楽院の指導者に応募するも落選。スメタナは、この職をとても期待していた。彼は、スウェーデンの友人への手紙で、「私の友人たちは、その地位はその地位は私のために特別に作られたのだろうといって私を説得しようとしています」と書いている[63]。彼の期待は、彼が急進的と考えられていたリスト派であるとされ、打ち砕かれた。そのポストには、保守的な愛国者、ヨゼフ・クレイチーが就任した[64]。

スメタナがハラハのオペラのコンテストの勝者であると発表されるまで約3年の月日が経過した[55]。その前の1866年1月5日、『ボヘミアのブランデンブルク人』を、仮劇場で熱烈な歓迎の下、上演した。この上演について、仮劇場の指揮者であるマイールは強く反対し、この演目のリハーサルや指揮を拒否した。結局、このオペラは作曲家であるスメタナ自身の指揮の下で上演された[55]。スメタナは、「私はステージに9回呼ばれた」と書いている。チケットは完売し、評論家たちはこぞって称賛したと記録に残っている[65]。しかしながら、このオペラは、徐々に上演されなくなった。音楽史家のローザ・ニューマーチは、『ボヘミアのブランデンブルク人』は長期にわたって上演されるような作品ではなかったものの、スメタナのオペラの芸術性の起源全てを含む作品であったと考えている[66]。

オペラ・マエストロ
1863年7月、サビナは2作目のオペラのリブレットを送った。このオペラは、『売られた花嫁』と題されたライト・コメディであった。スメタナは、次の3年間でこのオペラの作曲を行った。『ボヘミアのブランデンブルク人』の成功によって、仮劇場の運営者は、新しいオペラの上演に簡単に同意した。『売られた花嫁』は、1866年5月30日に、セリフ付きのオリジナルの二部構成版で上演された[58]。このオペラは、いくつかの改訂と再構成が行われ、最終的に三部構成となり、やがて、スメタナの国際的な名声を確立するに至った[67][68]。ただ、このオペラの初演は失敗に終わった。当時は、ボヘミアがプロイセン王国による侵攻の脅威にさらされており、普墺戦争の開戦目前という緊迫した時期な上[69]、この年の中でも最も暑い夕方であったことが原因と言われる。当然、観客の入りは悪く、支出を賄うこともできず、赤字であった[70]。1870年9月、改訂後の最終版を仮劇場で上演した際は、途方もない成功を収めている[71]。

1866年、スメタナは、ドイツ軍の侵略を内容に含んでいる『ボヘミアのブランデンブルク人』の作曲家として、自身がプロイセン侵略軍の標的にされるのではないかと考え、交戦が終わるまでプラハから避難した[70]。8月23日にプラハ条約が締結され、普墺戦争は3か月弱で終戦となった。終戦によって、スメタナは9月にプラハに戻り、それからすぐに、仮劇場の首席指揮者としての職を得て、長年の野心を達成した。この職で、年1200ガルデンの報酬が支払われた[72]。またこのオーケストラには、ヴィオラ奏者として活動していたアントニン・ドヴォルザークが在籍しており、ドヴォルザークは直接教えを受けている。適切なチェコオペラの骨子が無い中で、最初のスメタナはヴェーバーや、モーツァルト、ドニゼッティ、ロッシーニ、グリンカの作品を上演している。この時には、自身の『売られた花嫁』の再上演も行っている[67][72]。スメタナによるグリンカのオペラ『皇帝に捧げた命』のプロダクションのクオリティは、グリンカの擁護者であったミリイ・バラキレフを激怒させている。これは、長年にわたる2人の間の対立の原因となった[72][73]。1868年10月16日、チェコの音楽家を代表するスメタナは、将来の国民劇場の礎石を築くことに貢献した[71]。スメタナは、この時のために『祝典合唱曲』を書いた。これと同じ日の夕方、スメタナの3番目のオペラ、『ダリボル』が、プラハのNovoměstské divadloで初演されている[58]。最初の反応は、温かいものであったが、その評判は芳しくなく、スメタナはその失敗を受け入れざるを得なかった[74]。このオペラはすぐに、仮劇場の指揮者の地位から引きずりおろそうとする圧力に続いて、スメタナへの一連の攻撃の基礎となった[72]。

対立
指揮者活動初期、スメタナにはプラハ歌唱学校の指導者、フランチシェック・ピヴォダという強敵がいた。以前はスメタナの支援者だったが、スメタナがピヴォダの学校からよりも海外から歌手を募集したことで、ピヴォダは不当な扱いを受けた[75][76]。ますます辛辣になる公的なやりとりの中で、ピヴォダはスメタナが、他の作曲家を犠牲にして、彼の経歴をよりよくするために、自身の地位を利用していると主張した[77]。

そして、ピヴォダは、『ダリボル』に関する論争の中で、それを極端な"ワグネリズム"の一例であると呼び、そして、チェコの国民的オペラのモデルとしては不適当であるとしている[78]。"ワグネリズム"とは、ワーグナーの理論を採用していたことを意味している[58][79]。仮劇場の主宰、フランチシェック・リーガルは、『ボヘミアのブランデンブルク人』の初演後、スメタナをワグネリストの傾向があるとして非難していた[65]。そして、その問題点がついにプラハの音楽界を二分するまでになった。音楽評論家、オタカル・ホスチンスキーはワーグナーの理論は民族のオペラの基礎になるだろうと信じていたし、『ダリボル』が、正しい方向に進み始めた作品であると主張していた。ピヴォダ率いる、対立グループは、イタリアオペラの原則を推奨した。それでは、オーケストラより歌唱の方が、ドラマティックなオペラには重要であるとされていた[58]。

仮劇場の中でさえ、意見は真っ二つに割れていた。リーガルはスメタナを首席指揮者から解任し、マイールを再任するキャンペーンを行った。そして、1872年12月、スメタナの解任を請願する請願書が、86名の署名と共に提出された[77]。これに対して、仮劇場の副主宰であるアントニーン・チーセックによる強いサポートと、ドヴォルザークらのような卓越した音楽家らからの主張によって、スメタナは仮劇場の地位を保証された。1873年1月、スメタナはより高給でより大きな責任を負う、芸術監督として再雇用された[58][77]。

スメタナは、仮劇場の演目に、新進気鋭のチェコの作曲家たちによるオペラを採用したが、自身の作品についてはそれほど扱わなかった[77]。1872年までに、スメタナは、4番目のオペラである『リブシェ』を完成させた。この作品は、スメタナの作品の中で最も野心的なものであったが[80]、将来の国民劇場のオープニングのプレミアショーのためにすぐに上演されなかった[81]。ピヴォダの策略とその支援者たちは、スメタナを作曲に注力できない状況に追い込み[77]、その上、1871年1月のサンクトペテルブルクにおける『売られた花嫁』の上演に関して、スメタナは相当な不快感を抱えることとなった。これは、観客は熱狂的な反応を返したものの、紙面では酷評されたためであった。その中の一つでは、この作品を「才能のある14歳の少年の作品よりも悪い」と評している[82]。スメタナは、深く傷つき、彼の古くからの敵であるバラキレフが、このオペラへの酷評を扇動していると非難した[82]。

晩年
失聴
仮劇場の芸術監督として再任された後、その職務の中の幾ばくかの期間を使って、スメタナは5番目のオペラ『二人のやもめ』を書き上げた。作曲は、1873年6月から1874年1月の間に行われた[83]。このオペラは、1874年3月27日に仮劇場で初演され、この舞台の後、スメタナの支援者たちは、彼に装飾の施された指揮棒 (baton)を贈呈している[58]。しかし、スメタナと対立する者たちは、彼への攻撃を続けていた。具体的には、マイール体制と比べて、彼の指揮者ぶりを非難し、スメタナの下で「チェコオペラは、あとわずかで死んでしまう病に罹りつつある」と主張した[83]。同年夏ごろまでに、スメタナは病に伏せることになる。咽喉感染症に続いて、発疹、耳に明らかな閉塞が起こった。8月中ごろまで、働くこともできず、彼の仕事は代理として、アドルフ・チェフが担当した。各新聞は、スメタナは「最近の特定の人々によって引き起こされた、精神的な苦痛の結果、病気になった」と書いている[83]。

9月になると、スメタナは健康状態が改善されるまで、職を辞することを仮劇場に伝えた[84]。スメタナの右耳は、既に完全に失聴しており、10月になると残る左耳も同じく完全に失聴し、中途失聴者となった。仮劇場を辞した後、仮劇場は、スメタナに、彼のオペラを、彼がしぶしぶ承諾した構成で上演し続ける対価として、年1200ガルデンの年金を支給することを申し出た[85]。また、これに加えて、以前のプラハの生徒たちと以前愛人だったヨーテボリのフレーダ・ベネッケによる、1244ガルデンに達する支援もあった[86]。この支援は、スメタナが海外で治療を探すことを可能にしたが、結局それは、できなかった[58]。1875年1月、スメタナは彼の日記に、「もし私の病が不治のものだったとしたら、私はこの人生から解放されるべきなのだろうか」と書き残している[87]。彼の精神は、主にお金の問題に加えて、ベッティーナとの関係の悪化によって、この時かなり悪化していた[88]。「私を嫌悪したり迫害する人と、同じ屋根の下で生活することなど出来ない」とスメタナは彼女に伝えた[89]。離婚が協議されたものの、結局、二人は不幸な結婚生活を続けることとなった[90]。


遅い開花
悪化する健康の中、スメタナは作曲を続けた。1876年6月、彼とベッティーナ、2人の娘はプラハを離れ、ヤブケニセ(英語版)に引っ越した。この地には、前妻のカテジナとの娘、ゾフィーの家があった。静かな環境に囲まれ、スメタナは平穏の中で仕事をすることができた[91]。プラハを離れる前、スメタナは交響詩『わが祖国』の作曲を開始した[92]。このうち、最初の2曲、「ヴィシェフラド」(Vyšehrad)と「ヴルタヴァ」(Vltava)の2曲は、プラハ滞在中に完成しており、1875年中にプラハで2曲とも演奏されている[93]。ヤブケニセで、スメタナは残りの4曲を作曲し、1882年11月5日に、アドルフ・チェフの指揮の下、初演されている[94]。この時期の他の著名な楽曲としては、『弦楽四重奏曲第1番 ホ短調「わが生涯より」』、ピアノ曲『チェコ舞曲集』、いくつかの合唱曲、そして3つのオペラ『口づけ』、『秘密』、『悪魔の壁』がある。これらは全て、1876年から1882年の間に初演されている[94]。

1881年6月11日、プラハで国民劇場が開場され、長い間先延ばしされていた、スメタナのオペラ『リブシェ』がついに初上演された。スメタナには、最初チケットが渡されていなかったが、間際になって劇場監督の席が用意された。聴衆は、その楽曲に熱狂し、スメタナは繰返しステージに呼ばれた[95][96]。その出来事から少しして、新しく開場した国民劇場は火災によって焼失した。スメタナは自身が病床にあるにもかかわらず、同劇場の再建のために資金調達を助けた[94][97]。その結果、1883年11月18日に国民劇場は再建の上、再開場した。再開場の際には、再び『リブシェ』が上演された[94]。

これらの数年で、スメタナは、チェコ国民楽派を代表する音楽家であると認知されるようになった[94]。この地位は、スメタナの最晩年の間に様々なイベントで褒め称えられている。1880年1月4日には、プラハで、スメタナの初公演から50周年を祝う特別コンサートが行われ、スメタナも出席し、1855年の作品『ピアノ三重奏曲 ト短調』を演奏している。1882年5月には、『売られた花嫁』が100回目の上演を記録した。100回目もの上演が行われたオペラは、チェコオペラ史において、先例のない出来事で、このオペラの人気の高さを示している[94]。1884年3月にスメタナの60歳の誕生日を記念して、ガラコンサートと宴会が敢行されたが、スメタナ自身は病が悪化し出席できなかった[94]。


死去直前(1883年頃)のスメタナ
病と死
1879年、友人であるチェコ人詩人のヤン・ネルダへの手紙には、スメタナの狂気の芽吹きに対する恐怖が表れている[98]。1882年から1883年の冬の間には、スメタナの頭には血がたまるようになり、眩暈や、痙攣、言葉や記憶の喪失と共に、鬱や不眠、幻覚などの症状が現れるようになった[98]。1883年に、彼は新作交響組曲『プラハの謝肉祭』の作曲を始める。しかし、イントロダクションとポロネーズより先の作曲はなされなかった[99]。更に、1874年に一度手を付けたものの、すぐに作曲を中断していたオペラ『ヴィオラ』の作曲を再開した。この曲は、シェイクスピアの「十二夜」のキャラクターをモデルとしていた[100]。しかし、スメタナの精神状態が徐々に悪化してしまい、結局、このオペラはオーケストレーションが施された15ページ分の楽譜と、50ページほどの歌声部(弦楽の伴奏付き)のみが書かれただけであった。1883年10月、プラハで行われたプライベート・レセプションでのスメタナの態度は、彼の友人たちを動揺させた[99]。1884年2月中ごろになると、スメタナは正気を失いつつあり、定期的に暴力的になった[101]。同年4月20日に、一時躁暴状態となり、彼の看病を行うことが不可能になったスメタナの家族は、4月23日、スメタナをプラハのKateřinky Lunatic Asylum(精神病院)に入院させた。収容されたスメタナは次第に衰弱し、正気に戻れないまま5月12日にこの病院でその生涯を終えた[94][101][102]。60歳没。

スメタナの収容された病院は、スメタナの死の原因を老人性認知症と記録している[101]。しかしながら、スメタナの家族は、彼の体と精神の状態の悪化は、梅毒が原因であると信じていた[101]。ドイツの神経学者、エルンスト・レヴィン博士が1972年に出版した、司法解剖記録の研究では、同じ結論に達している[103]。20世紀後半にエマヌエル・ヴルチェック教授が、スメタナの遺体から採取した筋肉組織のサンプルに対して行った実験は、その病気のさらなる証拠を与えた。しかし、チェコの医師、イジー・ランバ博士はこの研究に反論している。ランバは、年齢と組織の状態、そして梅毒とは関係のないスメタナの症状の報告を引用して、ヴルチェックの研究は正確な結論に至る根拠に欠けると主張している[104]。

スメタナの葬儀は、5月15日にプラハの旧市街にあるティーン教会で行われた。それに続いて、ヴィシェフラット民族墓地への行列は、松明を掲げたフラホルのメンバーに先導され、多くの人々がそれに続いた[101]。遺体は、ヴィシェフラット民族墓地後に埋葬された。後に、スメタナの墓は、プラハへ音楽関係で訪問した人々の巡礼地となった[105]。葬儀の日の夕方、国民劇場で予定されていた『売られた花嫁』の上演は、予定通りに行われたが、ステージはスメタナへの敬意を表して黒い布で覆われていた[101]。

スメタナは、ベッティーナと娘であるズデンカ、ボジェナ、ゾフィーによって支えられていた。ただ、彼女たちのだれも、スメタナの音楽家としての生活の中では重要な役割は果たしていない。ベッティーナはスメタナの死後20年以上存命し、1908年に亡くなっている。最初の妻との娘であるゾフィーは、ヨゼフ・シュワルツと1874年に結婚したが、義母であるベッティーナより先の1902年に亡くなっている[2]。残り2人の娘は、結婚したことまでは分かっているが、それ以降の記録は残っていない[2]。スメタナの生涯の記録と、その作品は、プラハにあるスメタナ・ミュージアムで展示されている。このミュージアムは、1926年に建設され、元々、カレル大学の音楽史研究所も併設されていた[106]。1936年に、ミュージアムが独立し、ヴルタヴァ川の河畔にある、以前は水道設備用として使われていた建物に移転した。1976年からは、チェコの音楽ミュージアムの一部となっている[106]。

カナダの昆虫学者で、ハネカクシ科のコレクションで知られるアレッシュ・スメタナ(Aleš Smetana、1931年生まれ)はスメタナの子孫である[107]。


音楽
ニューマーチによると、スメタナが作り上げた芸術の基礎にあるものは、民族主義とリアリズム、ロマン主義である[108]。スメタナの後期のすべての音楽の中に通じる特徴として、叙情的な性質を挙げることができる。オペラを除くスメタナの著名な作品すべては、プログラムのために書かれており、その多くが、明確に自叙伝体である[109]。スメタナの擁護者たちは、スメタナが主に影響を受けたのは、フランツ・リストやリヒャルト・ワーグナー、エクトル・ベルリオーズら、先進的であると認識されていた作曲家たちであると考えている。しかし、そのように主張する人々は、しばしばジョアキーノ・ロッシーニやガエターノ・ドニゼッティ、ジュゼッペ・ヴェルディ、ジャコモ・マイアベーアらのような、伝統的な作曲家からの影響を軽視することがある[110]。


ピアノ曲
ヨーテボリへ旅立つ前にスメタナが作曲したほとんどの作品がピアノ曲である.[111]。この初期に作曲されたいくつかの作品は、音楽史家のハロルド・C・ショーンバーグによって、「リストの影響を受けた、仰々しい美辞麗句の名手」との評価を下されている[112]。しかしながら、ヨゼフ・プロクシュの下で、スメタナは、より上達し、1846年に作曲した『ピアノソナタ ト短調』と『ポルカ』でその成長を見せている。1848年に発表した、『6つの性格的な小品』はリストに捧げられ、リストは同曲について、「the most outstanding, finely felt and finely finished pieces that have recently come to my note.」と述べている[113]。この時期のスメタナは、フレデリック・ショパンの前奏曲の様式に従った、全ての長調と短調を用いた短い小品による、いわゆる「アルバムの綴り」と呼ばれる作品集を計画していた[114]。この計画は、やや混乱することになった。それは、各曲の作曲は終了したものの、いくつかの調性が繰り返され、いくつかの調性が現れなくなっていた[114][115]。スメタナがヨーテボリから帰国した後は、スメタナはチェコオペラの開拓に主眼を置くようになってしまい、13年間ピアノ曲の作曲を行っていない[115]。

スメタナは最後の10年間で、3つの充実したピアノ曲集を作曲している。1つ目が、1875年に発表された、『夢-6つの性格的小品』である。この楽曲は、ロベルト・シューマンや、ショパン、リストらのような1840年代の作曲家達をモデルにしたオマージュであり、医療費を賄うために金銭的に苦労していた、かつての弟子に捧げられた[115]。そして、残り2つの曲集は、『チェコ舞曲集』の第1集と第2集である。第1集が1877年、第2集は1879年に発表された。第1集発表時には、出版社に対して、「ショパンがマズルカでのように、ポルカを理想的に表現する」という目的を持っていた[115]。第2集では、チェコの人々が知っているであろう"チェコに実際に存在する踊りの"タイトルが各曲につけられている[115]。


声楽曲と合唱曲
スメタナの初期の歌曲は、ドイツ語の歌詞で、1人の歌手が歌う形式のものであった。1848年に『自由の歌』を発表してから、ヨーテボリに滞在するようになるまでの間、スメタナは完全な合唱曲を書くことなかった。ヨーテボリに滞在した後、Hlahol合唱協会のために数多くの楽曲を作曲するまで、完全な合唱曲を書くことはなかった。Hlahol合唱協会のために作曲された楽曲のほとんどが、無伴奏の男声歌曲であった[116]。スメタナの合唱曲は、一般的に民族主義的性質であるとされる。また、スケールも、反乱軍で同志であり友人でもあったカレル・ハヴリーチェク・ボロフスキーの死の後に書かれた、『祝典合唱曲』のような短い作品から、合唱ドラマの性質を持つ、『海の歌』のような楽曲まで幅広い[117]。

スメタナの人生がおわにり近づくにつれて、スメタナはシンプルな楽曲を作曲する方向に回帰する。この時期の作品としては、『夕べの歌』と題された5曲で、詩人のヴィーチェスラフ・ハーレク(英語版)の詩を使っている。完成した最後の楽曲である、『われらの歌』では、4曲の最後にJosef Srb-Debrnovによる文章に楽曲が付けられている。スメタナの健康状態にかかわらず、これは、チェコの音楽とダンスによる明るい祝賀曲となっている。この楽曲は、長年の間失われていたが、1924年に再発見され、再発見後に初演された唯一の作品である[118]。


室内楽曲
少年時代の、ヴァイオリンとピアノのための幻想曲以降、スメタナが作曲した重奏曲は4曲のみである。しかしながら、これらそれぞれが、深い個人的な意義がある作品である[119]。1855年発表の『ピアノ三重奏曲 ト短調』は、娘であるベドジーシカの死の後に書かれた作品で、全体の曲調は哀調的である。様式は、ロベルト・シューマンに近く、リストの影響も垣間見られる[120]。この後、スメタナが、次の室内楽曲を作曲するまでに20年の歳月が経過している。1876年に『弦楽四重奏曲第1番 ホ短調「わが生涯より」』を発表。同曲は、副題からも推察されるように、自叙伝的な性質を持っており、作曲者であるスメタナの芸術に対する若々しい情熱や、彼の友情や恋が描かれている。しかし、最終楽章では、その雰囲気を一転させ、不吉な弦楽器のトレモロを用い、長く高いEを用いて、彼の難聴の発症が表現されている[121]。医師からの音楽活動の休止の忠告を無視して[122][123]、1882年から1883年の間に作曲された『弦楽四重奏曲第2番 ニ短調』は、短い時間を見つけては作曲していた作品で、「聴力を失った男の音楽の渦」[124]である。この曲は、スメタナの人生の挫折を表現しているが、完全に陰鬱なわけではなく、明るいポルカも含まれている[124]。この作品は、スメタナ最晩年の作品の一つである。2つの弦楽四重奏曲の間には、スメタナは、ヴァイオリンとピアノの二重奏曲『わが故郷から』を作曲している。同曲は、チェコの民俗音楽と強いかかわりのある陽気さと陰鬱さを混合させた作品となっている[124]。


管弦楽曲
スメタナ自身は、最初に発表した大規模な管弦楽曲、『祝典序曲 ニ長調』の出来に満足しておらず[125]、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンやフェリックス・メンデルスゾーン、カール・マリア・フォン・ウェーバー、ベルリオーズらの作品の一節を研究し、1853年に『祝典交響曲』を作曲した[126]。この曲は、ローザ・ニューマーチから、「ハプスブルク家の姫君への祝婚歌」であると酷評されている一方で[127]、スメタナの伝記作家であるブライアン・ラージ(英語版)は、この曲の中の多くが、作曲者のより円熟した仕事を特徴づけていると考えている[128]。皇帝から受け取りを拒否された交響曲であり、その初演は生ぬるい反応をされたにも関わらず、スメタナはこの曲を破棄することはしなかった。この曲は、1860年のヨーテボリでは好評を博し[129]、改訂版が1882年にプラハで上演されている。この際には、"勝利"に当たる部分を抜いたタイトルで、アドルフ・チェフの指揮で行われた[126]。そのため、今日では、この作品はしばしば祝典交響曲と呼ばれる。

スメタナが、ヴァイマルでリストに会った1857年夏、スメタナはリスト作曲の『ファウスト交響曲』と『交響詩 理想』を聞き、スメタナの管弦楽曲の構成の方針転換のきっかけとなった。これらの作品は、スメタナに、管弦楽曲構成に関係する作曲上の多くの問題の解答をスメタナにもたらした[42]。更に、これらの作品は、スメタナに単純な音楽による装飾よりも、音楽と文章の間の統合によって、文学的な主題を表現するための手法を提示した[126][130]。これらの見識は、スメタナにヨーテボリで3つの交響詩、『リチャード三世』、『ヴァレンシュタインの陣営』、『ハーコン・ヤルル』を書くことを可能にした。これらの楽曲において、スメタナは、主にサロンピースの作曲家から、現代的な新ロマン主義の作曲家へと変貌を遂げ、大規模編成の扱いが可能になり、最新の音楽概念を実行に移すことができるまでになった[126]。


1862年から、スメタナはかなりの部分をオペラに費やし、いくつかの短い作品を除いて[131]、1872年に、『わが祖国』の作曲を始めるまで、純粋なオーケストラ曲に戻ることはなかった。彼の正規版スコアの冒頭で、フランチシェック・バルトルは、『わが祖国』とオペラ『リブシェ』を、「民族闘争達成の直接的なシンボル」としてひとくくりに扱っている[132]。『わが祖国』は、スメタナの円熟した大規模な作品としては最初の作品で、文章からは独立しており、以前のスメタナの作品よりも、その作品のアイデアは大胆なものとなっている[133]。音楽研究家のジョン・クラップハムは、その曲集について、『チェコの歴史と伝説、チェコの風景の印象の断面図であり、加えて・・・国家の偉大さや精神に対するスメタナの見解を生き生きと我々に伝えている』と述べている[134]。ニューマーチによれば、その民族主義的な連想にもかかわらず、この曲は、『売られた花嫁』の序曲を除く他のスメタナのどの曲よりも、スメタナの名前をはるか高みへと引き上げた[135]。スメタナは、『わが祖国』をプラハの街に捧げた。この曲が1882年11月に初演された後、この曲はチェコ国家様式を正真正銘に表現しているとして、チェコの音楽愛好者たちから絶賛された[126]。その中でも、第2曲目、プラハを通りエルベ川へと注ぐヴルタヴァ川を描写している「ヴルタヴァ」(ドイツ語名のモルダウとしても著名)は、スメタナの管弦楽曲の中でも最も知られ、国際的にも高い人気を誇る作品となった[136]。


歌劇
スメタナは、実質的にフランティシェク・シュクロウプに端を発するチェコオペラの断片を知らなかった。そもそも、シュクロウプの作品は、1回か2回の上演を超えて上演され続けるものはほとんどなかった[137]。新たなる基準を作り上げるという課題の中で、彼の自国語とのつながりを確立するために、伝統的な民俗音楽を使うよりも、スメタナは彼の若い時代に著名だったダンス音楽、特にポルカを使うようになった[137]。スメタナは、存在するヨーロッパの文化、特にスラヴ文化やフランス文化を描いた。しかしながら、アンサンブルと合唱を彼のスコアの基礎にするため、極一部にアリアを利用している。

ワーグナーが再構築したオペラのジャンルの後継者であり、スメタナはそれがオペラの救済になると考えていた[79]。しかしながら、スメタナは過度のワグネリズムであるという非難を一蹴し、十分に「スメタニズム」に占められていると主張した[138]。最初の4つのオペラの主な"愛国的"性格は、後に書かれたオペラにおいては、叙情的なロマンティシズムによってより強化されている[139]。特に最後のオペラ3作品は、スメタナが病に伏せていた時期に作曲された。その最後の3作品中、最初に書かれた『口づけ』は、スメタナが苦痛を伴う薬物治療を受けていた時期に書かれたもので、ニューマーチに澄み渡った美しさを持つ作品であると評されている。この作品の中では、涙と笑顔がスコアを通して、代わる代わる現れる[140]。『口づけ』の台本作家は、若きフェミニストのエリシュカ・クラースノホルスカーである。彼女は、スメタナの最後のオペラ2作品の台本も手掛けている。彼女は、病に臥せっているスメタナの優位に立っていた。事実、スメタナは、主題や、声の性質やソロ、デュエット、アンサンブルの間のバランスなどについて、何一つ意見をしていない[137]。それにも関わらず、スメタナのチェコ語の熟達は、オペラでの言葉の使い方が、初期のオペラよりもさらに洗練されてきたことを示している一方で、評論家たちはこれらの作品について、スメタナの力の衰えをいくつかの部分で指摘している[137]。

スメタナの8作のオペラは、チェコオペラの根本を作り上げたが、その中でも『売られた花嫁』が、スメタナの出身地外において、上演されるだけである。1892年にウィーンで上演され、更に1895年にはロンドンでも上演されるなど、『売られた花嫁』は、急速に世界中の主なオペラ場におけるレパートリーの一つとなった。ニューマーチは、『売られた花嫁』は、"本当の宝石"ではないが、それでも"その宝石のように、完璧にカットされ磨かれた石"であると述べている[141]。『売られた花嫁』の中でも特に知られる序曲は、リブレットの草稿をスメタナが受け取る前にピアノ曲として作曲されたものである。この序曲をニューマーチは、"その向こう見ずな快活さによって、私たちの歩みを鼓舞する"と述べている[141]。クラップハムは、これはオペラの歴史全体における先例の要素は少ないと考えている[142]。スメタナ自身は、後に、自身の業績を軽視する傾向を示しており、「『売られた花嫁』は、単によどみなく書かれた子供の遊びだ。」と述べている[141]。ドイツの評論家、ウィリアム・リッターの視点によると、スメタナの創作力は、3作目のオペラ『ダリボル』で頂点に達したと考えられている[143]。

受容
スメタナの出身地においても、一般的な人々にスメタナが認知されるのには時間がかかった。若き作曲家でありピアニストとして、スメタナは、プラハの音楽サークルの中で認知され、リストやプロクシュらのような音楽家には認められる存在であったが、一般聴衆の認知の欠落は、自身に課したスウェーデンへの出国に隠れた重要な事実であった。帰国後、スメタナは特に真剣に考えられることもなく[60]、新作楽曲の聴衆を集めるのにも苦労することになった。そのため、空に近いホールでの上演や、それと大差ない1862年1月のゾフィン島における『リチャード三世』と『ヴァレンシュタインの陣営』の演奏会の後、彼の"名誉なき預言者"と評された[144]。

スメタナ最初の記録すべき公での成功は、スメタナ最初のオペラ『ボヘミアのブランデンブルク人』の1866年の上演である。この時、スメタナは既に42歳になっていた。彼の2作目のオペラ『売られた花嫁』の初演は、普墺戦争の開戦目前という不運な時期に行われたが、その後、今でも人気を得る大成功となった。それまでとは異なるスタイルのオペラである3作目『ダリボル』は、ワーグナーの音楽ドラマに近く、聴衆にはたやすく理解することができず、チェコオペラは民俗音楽をベースにするべきであると信じきっている評論家たちからは、激しい非難にさらされることとなった[145][146]。『ダリボル』は、数回の上演を行っただけで、その後は姿を消した[146]。それ以来、仮劇場の指揮者というスメタナの地位に付随する陰謀は、彼の創造的な作品が発表される1874年まで制限されることになった。ただし、『ダリボル』はスメタナが死去してから、2年が経過した1886年に復活公演がなされると、成功を収めている[147]。1890年代には、ザグレブ、ミュンヘン、ハンブルクでも上演された[148]。作曲家であり指揮者でもあったグスタフ・マーラーは、1892年にウィーンにおいて、ダリボルの指揮を行っている[147]。

スメタナ最後の10年は、体調の悪化に関わらず、彼の音楽家人生の中でも最も実り多い時期であり、スメタナは、遅くはなったものの、国家的に認知された。彼の後期のオペラ、『二人のやもめ』と『秘密』は、熱烈な歓迎を受けたが[149]、『口づけ』は"圧倒的な喝采"で歓迎された[94]。儀式的なオペラ『リブシェ』は、スメタナへの轟くような喝采に迎えられている。この頃(1881年)、スメタナの音楽に関する論争は減っており、一般には、チェコ音楽の創始者としての名誉ある人であると認知されてきていた[150]。それにもかかわらず、明らかにリハーサル不足であった『悪魔の壁』の1882年10月に行われた上演は、混沌としたものとなった[151]。そして、スメタナは、"恥辱と落胆"を感じながら離れることになった[152]。しかし、同年11月に行われた、『わが祖国』の全曲初演に続いて送られた喝采によって、この失望がすぐに和らぐこととなった。"誰もが立ちあがり、鳴り止まない喝采の嵐が、6つの楽曲ごとに繰り返された... 「ブラニーク」(最終楽曲)の最後には、聴衆はそれ自体を忘れ、人々は作曲家と挨拶をして別れることができなかった。"と残されている[153]。


人物と評判
スメタナの伝記作家は、スメタナを身体的に虚弱で外見も印象的ではなかったが、若いときには少なくとも、彼は、女性が明らかに魅力を感じるjoie-de-vivreを持っていたと述べている[154]。彼はまた激しやすく、多情多感で、頑固な人物であった。これらが、スメタナにビール醸造者か公務員になることを望んだ父の願いを越えて、彼の苦難に満ちた音楽家としてのキャリアを決めた。彼はキャリアを通して、自身の立ち位置を変えることはなかった。たとえば、『ダリボル』に対する厳しい批判が起こった際には、スメタナは、よりワーグナーの音楽ドラマの形式と手法を基礎にしたオペラ『リブシェ』を作曲している[155]。彼の私生活は、ストレスの多いものであった。ベッティーナとの結婚は愛情のないものであり、病気に苦しめられる時期には、完全に破たんしていた。これは、スメタナの人生が終わりに向かうにつれて、貧困に陥っていたことも関係しているといわれる[156]。彼の子供たちとの関係はわずかしか記録されていない。その記録によると、スメタナが精神病院に入った日、娘のゾフィーは「彼女の心が壊れたかのように泣いている」と記されている[157]。


スメタナが、それまで存在しなかったチェコオペラの基準を作り、明確にチェコの個性の現れた音楽を書いた最初の作曲家であると、大多数の評論家たちの間で、広く認知されている[110][158][159]。そのため、チェコ国民楽派の開祖とされる。別の視点による見解が、音楽ライターのマイケル・スティーンによって述べられている。スティーンは、"民族主義的な音楽"は実際に存在するかどうかと疑問に思っている。「我々は、音楽が究極的には表現であるにもかかわらず、それ自身で、具体的な物体や概念を説明することは苦手であると考えている[160]。」彼は、多くの音楽がそう聞くように慣らされた聴き手に依存していると結論付けている[160]。

音楽学者のジョン・ティレル(英語版)によると、スメタナは、チェコの民族主義と強い一体感を持っていた。そして、彼の出身地において、彼の晩年の悲劇的な事情が、特に彼の仕事が評価される客観性に影響を及ぼす傾向があった[110]。ティレルはほとんどの象徴的な地位が、スメタナの出身地で、チェコ当局によって、彼に授与されていると主張している。20世紀後半という時期になってさえ同様である[110]。この結果、チェコ音楽の見解として、同世代の作曲家や、アントニン・ドヴォルザークやレオシュ・ヤナーチェク、ヨセフ・スク(ヨゼフ・スーク)のような成功者、もしくは彼らよりは知名度の劣る作品などが軽視されて宣伝されたと、ティレルは主張している[110]。このチェコでの認識は、チェコ国外における認識とは異なっている。海外においては、ドヴォルザークの方がより頻繁に演奏され、知られた作曲家である。ハロルド・C・ショーンバーグは、「スメタナは、チェコ音楽を作り上げた一人であった。しかし、アントニーン・ドヴォルザークは...それを普及した一人だった」と述べている[13]。

また、1985年から1993年まで発行されていた旧チェコスロバキアの1000コルナ紙幣に肖像が使用されていた。

位置づけ
スメタナは、明確にチェコの個性の現れた音楽を書いた最初の作曲家であるといわれる。そのため、チェコ国民楽派の開祖とされる。

彼の歌劇の多くは、チェコの題材に基いており、中でも『売られた花嫁』は喜劇として最もよく知られている。彼は、チェコの民俗舞踊のリズムを多用し、また、彼の書いた旋律は時として民謡を彷彿とさせる。彼は、同じ様にチェコの題材をその作品中に用いた作曲家として知られる アントニン・ドヴォルザークに大きな影響を与えた。

主な作品

歌劇
『ボヘミアのブランデンブルク人』(1862年)
『売られた花嫁』(1863年)
『ダリボル』(1867年)
『リブシェ』(1872年)
『二人のやもめ』(1874年)
『口づけ』(1876年)
『秘密』(1878年)
『悪魔の壁』(1882年)
『ヴィオラ』(1874年、1883-84年、未完)
シェイクスピアの『十二夜』による。絶筆。


管弦楽曲
祝典交響曲 作品6(1853-54年)
ボヘミアの独立支持を期待してフランツ・ヨーゼフ1世の成婚を祝して彼に献呈しようとしたが、チェコ人であることを理由に政府からは却下された。当時のオーストリア国歌が第1、2、4楽章に用いられている。
交響詩『リチャード三世』(Richard III)作品11(1857-58年)
交響詩『ヴァレンシュタインの陣営』作品14(1858-59年)
交響詩『ハーコン・ヤルル』(Hakon Jarl)作品16 (1861-62年)
連作交響詩『わが祖国』(Má Vlast)(6曲)(1874-79年)
祝典序曲 ニ長調 作品4(1848-49年)
プラハの謝肉祭(1884年)


室内楽曲
弦楽四重奏曲第1番ホ短調『わが生涯より』(1876年)
弦楽四重奏曲第2番ニ短調(1882-83年)
ピアノ三重奏曲ト短調作品15(1855年)
『わが故郷から』(ヴァイオリンとピアノのための、2曲)(1880年)


ピアノ曲
ポルカ『ピルゼンの思い出』(1843年)
ピアノソナタト短調(1846年)
2台ピアノ8手のためのソナタ断章ホ短調(1851年)
チェコ舞曲集第1集(全4曲、1877年)
チェコ舞曲集第2集(全10曲、1879年)


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%89%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%8F%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%A1%E3%82%BF%E3%83%8A
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/903.html

[近代史6] ベドルジハ・スメタナ 連作交響詩『わが祖国』第2曲 モルダウ
ベドルジハ・スメタナ 連作交響詩『わが祖国』第2曲 モルダウ


ベドルジハ・スメタナ 『モルダウ』
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http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/904.html

[近代史6] ジョルジュ・ビゼー(Georges Bizet, 1838 - 1875)
ジョルジュ・ビゼー(Georges Bizet, 1838 - 1875)

ジョルジュ・ビゼー(Georges Bizet, 1838年10月25日 - 1875年6月3日)は、19世紀フランスの作曲家である。

代表作に『カルメン』、『アルルの女』、『真珠採り』、『美しきパースの娘(日本では作中のセレナードの旋律が「小さな木の実」(作詞:海野洋司、編曲:石川皓也)に転用され有名)』など。


生涯

ジョルジュ・ビゼーは1838年、パリに生まれた。最初につけられた名前はアレクサンドル=セザール=レオポール・ビゼー (Alexandre-César-Léopold Bizet) だったが、洗礼時に改名された。

父は声楽教師、母はピアニストで、ビゼーは幼い頃から音楽に親しみ、記憶力が抜群であった。9歳でパリ音楽院に入学し、アントワーヌ・マルモンテル、シャルル・グノー、ユダヤ人ジャック・アレヴィらに師事してピアノ、ソルフェージュ、オルガン、フーガで一等賞を獲得した。19歳でカンタータ『クローヴィスとクロティルデ』でローマ大賞を獲得。1861年にはリストの新作(リストは「この曲を正確に弾けるのは私とハンス・フォン・ビューローだけ」と豪語していた)のパッセージを一度聴いただけで演奏し、さらに楽譜を渡されると完璧に弾いてのけ、リストを驚かせた。この時、リストは「私は間違っていた。3人というべきでした。正確に言えば、最も若いあなたが最も奔放で輝かしいというべきでしょう。」といってビゼーを賞賛した。しかし、オペラ作家としての成功を夢見ていたビゼーは、ピアニストになることを潔しとはしなかった。

オペラなどの劇音楽を作曲の中心とし、25歳のときのオペラ『真珠採り』でオペラ作曲家の地位を確立する。その後、フランス人の作家アルフォンス・ドーデの劇『アルルの女』の付随音楽や、オペラ『カルメン』などを作曲したが、1875年3月にパリのオペラ=コミック座で行われた『カルメン』の初演は、ヒロインが女性労働者だったこともあり失敗に終わった。ヒロインの声域をそれまでに一般的だったソプラノではなくメゾソプラノに設定したことも新しさの一つだった。

1869年にプチブルのビゼーはブルジョワの師アレヴィの娘であるジュヌヴィエーヴ・アレヴィ(英語版)と結婚した。師は既に1862年に亡くなっていた。ビゼーは『カルメン』初演の約3ヵ月後である1875年6月3日、敗血症のため36歳で死去したが、のちに彼の音楽は世界的に認められるようになった。

なお、妻のジュヌヴィエーヴは後にビゼーとの間の息子のジャックを連れて、ロスチャイルド財閥の顧問弁護士であるユダヤ人エミール・ストロースと再婚し、花形サロンを形成した。ジャックの学友のマルセル・プルーストが後に小説『失われた時を求めて』の中で、彼女をモデルとしてゲルマント公爵夫人を造形した。ジャックのほかに、ビゼーが結婚する前に、ビゼー家の女中だったマリ・レテールとの間に生まれた非嫡出の子供ジャンがいた。ビゼー家でビゼーのいとことして暮らし、その母もビゼー家で再び奉公した。

作品
ビゼーは生涯に交響曲を3曲書いたが、1859年に作曲された第2番の草稿は破棄されてしまい、第3番は作曲されたのかどうかも判然としない。その他にも管弦楽曲、合唱曲、歌曲、編曲作品などがある。

オペラ『カルメン』はドビュッシー、サン=サーンス、チャイコフスキーなどから賞賛され、ニーチェは『カルメン』を20回も観たと記述している。運命を引き受ける至高の個人としてのヒロインに、感応するところが大だったと考えられる。ちなみにビゼーは舞台作品は約30曲以上も残しているが、『カルメン』や『アルルの女』、『真珠採り』以外はほとんど知られていない。なおオペラ『美しきパースの娘』の中のセレナードをベースにした『小さな木の実』は、NHKの「みんなのうた」で放送され、音楽の教科書にも採り上げられるなど、日本では特によく親しまれている楽曲である。

オペラの合間に作曲したピアノ曲は少数だが、グレン・グールドが演奏したことで知られる『半音階的変奏曲』、無言歌『ラインの歌』(1865年)などの作品は現在も演奏される。また、サン=サーンスのピアノ協奏曲第2番などのピアノ独奏用編曲も残しており、特にサン=サーンスの編曲は技巧派ピアニストが取り上げる難曲として知られている。

作品一覧

オペラ

カルメン(Carmen, 1873年-1874年)
全4幕のオペラ。ビゼーのオペラの中でもっとも有名で広く知られている作品である。台本はL.アレヴィとH.メイヤックによる。

真珠採り(Les Pecheurs de Perles, 1862年-1863年)
全3幕4場のオペラ。上演されることは多くないが、アリア「耳に残るは君の歌声」や二重唱が有名である。ビゼーの出世作でもあった。台本はM.カレとE.コルモンによる。

美しきパースの娘(La Jolie fille de Perth, 1866年)
全4幕のオペラ・コミック。ウォルター・スコットの原作による。「アルルの女」第2組曲のメヌエットは本作から採られている。また、NHKの「みんなのうた」で放送された「小さな木の実」はこの中のアリア「セレナード」の旋律の一部に日本語の歌詞をつけたもの。組曲版にこのアリアは含まれていない。

イヴァン4世(英語版)(『イワン雷帝』とも)(Ivan le Terrible, 1862年-1865年)
全5幕のオペラ。第5幕は未完で、その後長い年月を経て1946年にヴュルテンベルクにて初演された。台本はA.ルロワとH.トリアノンによる。なお、1951年に上演された際はアンリ・ビュッセルの編曲によって行われたが、タイトルは『イヴァン4世』であった。


オペレッタ

ミラクル博士(英語版)(Le Docteur Miracle, 1856年)
18歳の時に作曲。ジャック・オッフェンバックの企画したコンクールで応募した際に第1席を獲得した作品。初演時は好評を持って迎えられたという。若書き故に現在は滅多に上演されない。台本はL.バトゥとL.アレヴィによる。

マルボロー将軍は戦いに出かける(Malbrough s'en va-t-en guerre, 1867年)
合作のオペレッタ。ビゼーはそのうちの第1幕の作曲を担当した。後に破棄される。


劇付随音楽
アルルの女(L'arlesienne, 1872年)
全3幕27曲からなる付随音楽。アルフォンス・ドーデの戯曲のために音楽付けしたものである。後にオーケストラのための2つの組曲が編まれた。第1番はビゼー自身、第2番は友人のエルネスト・ギローによる。


管弦楽曲
交響曲ハ長調(1855年)
全4楽章からなる初期の交響曲。生前には一度も演奏されることはなく、作曲の80年後の1935年に初演される。
交響組曲『ローマ』(1860年-1871年)
全4楽章からなる管弦楽作品。10年以上にわたって改訂が施され、ビゼーの存命中には完全な形で演奏されることはなかった。
演奏会用序曲『祖国』(1873年)
本来はオペラ『ドン・ロドリーグ』のために作られた作品である。しかしオペラが未完のまま放棄されたため、急遽演奏会用序曲として改作されたもの。


合唱曲
カンタータ『クロヴィスとクロティルド』(Clovis et Clotilde, 1857年)
ビゼーがローマ賞を獲得した作品として知られるカンタータである。その後、総譜は一時紛失していたが、1988年に再発見され、同年に蘇演された。
テ・デウム(Te Deum, 1858年)
ローマ賞を受賞した翌年に書かれた合唱曲。ローマ滞在中に作曲されたもの。
交響的頌歌『ヴァスコ・ダ・ガマ』(Ode-symphonique "Vasco de Gama", 1859年-1860年)
L.ドライドルの作詞による合唱と管弦楽のための作品。全曲はめったに演奏されないが、この中の曲「君の心を開け」は多く演奏される。
パトモス島の聖ヨハネ(Saint-Jean de Pathmos, 1866年?)
ヴィクトル・ユゴーの作詞による男声合唱曲。


ピアノ曲
夜想曲第1番 ヘ長調(1854年)
初期の習作。
ラインの歌(1865年)
全6曲からなるピアノ曲。
半音階的変奏曲(1868年)
『演奏会用半音階的変奏曲』とも。グレン・グールドがこの作品を録音している。
子どもの遊び Op.22(1871年)
連弾のための作品。後にビゼーによって管弦楽編曲版『小組曲』も作られ、現在では後者が多く演奏されている。


歌曲
古い歌(1865年?)
てんとう虫(1868年)
はちすずめ(1868年-1873年頃)


編曲作品
グノー:交響曲第1番 ニ長調(1855年)
サン=サーンス:ピアノ協奏曲第2番 ト短調
サン=サーンス:序奏とロンド・カプリチオーソ イ短調 作品28(1870年)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%83%93%E3%82%BC%E3%83%BC

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/905.html

[近代史6] ジョルジュ・ビゼー オペラ『カルメン』
ジョルジュ・ビゼー オペラ『カルメン』


ビゼー 『カルメン』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/909.html
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/906.html

[近代史6] ジョルジュ・ビゼー 劇付随音楽『アルルの女』
ジョルジュ・ビゼー 劇付随音楽『アルルの女』


ビゼー 『アルルの女』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/910.html  
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/907.html

[近代史6] カミーユ・サン=サーンス(Camille Saint-Saëns,1835 - 1921)
カミーユ・サン=サーンス(Camille Saint-Saëns,1835 - 1921)

ドイツ的ながっちりとした作風で聴きやすい。ユーモアのある作品もあるが、作風が保守的で品格を重んじていることが、成功作では素晴らしい造型につながり、失敗作では心が躍らない地味なつまらなさになっている。


交響曲

第1番変ホ長調 作品2(1851年)
3.5点
シューマンの影響が濃いように聴こえる。とても爽やかで心地よく、気持ちいい曲だ。期待をいい意味で裏切られる。まだ素朴で未熟感も無くはないが、ほぼ気にならない。曲の魅力度合いや密度など、シューマンの交響曲と同レベルに聴こえる。スッキリとしたブルックナー的な開放感やスケール感があり、むしろ厚ぼったい後年の作品より魅力的なくらいだ。名旋律はないが、十分に旋律に魅力がある。これは掘り出し物である。

第2番イ短調 作品55(1858年)
2.5点
1楽章も2楽章も3楽章も地味さが気になる。悪くはないが、煮え切らず、盛り上がらない。耳を捉えるよい旋律もない。内容も厚ぼったい聞きにくさが出てしまっている。なんともいえないつまらなさ、心が踊らない後味の悪さがつらい。

第3番ハ短調 作品78「オルガン付き」(1886年)
4.5点
後期ロマン派のような肥大化したロマンチシズムに覆われているが、サンサーンスらしいまとまりの良さが歯止めとなっている、ロマン派の交響曲の傑作。凄みのある内容は「全てを注ぎ込んだ」という作曲者の言葉が伊達じゃないと感じさせる。スケールが大きくて壮麗で雰囲気に気持ちよく音楽に浸る事が出来るし、オルガンが格好いい。


ヴァイオリンと管弦楽のための作品

ヴァイオリン協奏曲第1番イ長調 作品20(1859年)
3.3点
1つの楽章の中に3つの楽章の要素を持っている曲であり、幻想曲のようなタイトルの方がしっくりくる。全般にメロディーにも甘さと強く情感に訴える艶めかしさがある。音に酔える感じで言えば、ヴァイオリン協奏曲のなかでかなり上位である。かなり華があり表情豊かであり、楽しめる。これは掘り出し物。

ヴァイオリン協奏曲第2番ハ長調 作品58(1858年)
2.8点
初めての協奏曲。1楽章はなんという垢抜けなさであろう。華やかなソロは派手だが、なんというか自分の中から出てきたものというより、雰囲気に流されて書かれたものに聴こえる。2楽章は憂いを帯びた曲だが、これまた初々しさがよい。表情は多くつけられており悪い曲ではないし意欲的だが、個性が足りない。3楽章は連続して続く。これも華があるが個性が足りない。1流作曲家と呼ぶに足レベルにはまだ達していない感じがする。

ヴァイオリン協奏曲第3番ロ短調 作品61(1880年)
3.8点
2楽章のメロディーの美しさが印象的で非常に素晴らしい。管弦楽が厚くて充実感のある交響的な響きでありながらヴァイオリンが全面に出て活躍する楽しさ、メロディーの豊富さや力強さが素晴らしい。サンサーンスの良さが出ている曲。

序奏とロンド・カプリチオーソ イ短調 作品28(1863年)
3.8点
序奏もロンド主題も耳から離れない印象的なもの。エキゾチックな雰囲気の中でヴァイオリン独奏が大活躍するのが楽しい。

ピアノと管弦楽のための作品

ピアノ協奏曲第1番ニ長調 作品17(1858年)
3.0点
1楽章はピアノは派手だが、曲としてはこれという目立つ良さが無い、二流感のある曲。2楽章も派手であり、チャイコフスキーの協奏曲のような管弦楽と対比されたピアノの活躍がある。一流ではないにしても侮れない良さがある。3楽章は深みに欠けるものの、やはりピアノの活躍を楽しめる。

ピアノ協奏曲第2番ト短調 作品22(1868年)
3.8点
どの楽章も華やかであり、ピアノが前面に出て活躍し、ピアノ協奏曲の醍醐味を十分に味わえる。ロマンチックな情緒や激しさなど、手堅い感じは残りながらも素敵なメロディーや表現に富んでいて楽しい。

ピアノ協奏曲第3番変ホ長調 作品29(1869年)
3.0点
1楽章は独奏が派手だがあまり内容が無い。2楽章はまあまあ。3楽章は派手なピアノで、やや通俗的な感があるが、エネルギッシュさを楽しめて割と良い。

ピアノ協奏曲第4番ハ短調 作品44(1875年)
3.8点
全体的にはシューマンの影響を感じる。1楽章は地味だが、柔らかくて控え目ながらもピアノもいい活躍の良作。2楽章はシューマンのよう。キャッチーで華がある。3楽章は名人芸を披露されて楽しい。

ピアノ協奏曲第5番ヘ長調 作品103「エジプト風」(1896年)
3.5点
爽やかで田園的なところもある絵画的な1楽章。2楽章のエキゾチックな主題を初めとした豊富なメロディー。3楽章のノリの良さ。どの楽章も華やかで楽しい気分で聴ける。

幻想曲「アフリカ」作品89(1891年)
2.8点
アフリカ的なエキゾチックなメロディーの動機を使いながら、華やかなピアノが大活躍する曲。サンサーンスの中でもピアノの活躍度は高い。たいした曲ではないが、聴き映えはする。

チェロと管弦楽のための作品

チェロ協奏曲第1番イ短調 作品33(1873年)
2.8点
壮年期の力作として情熱的にきっちり書かれているし、渋くて格好いいし充実感がある。さらに短くて聴きやすいかもしれない。しかしながら、響きもメロディーも堅すぎて、案外表情に乏しい感じがしてしまい、あまり楽しめない。

ロマンス ヘ長調 作品36(1874年)

アレグロ・アパショナート 作品43(1875年)
3.0点
情熱的なチェロ独奏を伴う協奏曲の小品。艶のあるチェロの渋くてかっこいい音色を楽しめる。何か凄さのある曲という印象ではないが。

チェロ協奏曲第2番ニ短調 作品119(1902年)
2.8点
1番と違いほとんど演奏されないそうだ。古典的な完成度では劣るのかもしれないが、自由自在なチェロ独奏の楽しさなどの刺激的な楽しさがあり、自分のようなライトなファンには1番以上に楽しめると思った。

その他の協奏的作品

「ミューズと詩人」(La Muse et le poete)作品132(1910年)
3.3点
ヴァイオリンとチェロの二重協奏曲の構成。耽美的で豊穣な音楽的充実感、自然な筆致、ヴァイオリンやチェロの扱いや2本の絡ませ方の巧さ、イメージの豊さなど、なかなか優秀な曲である。「ミューズと詩人」は出版社が名付けた題名だそうだが、2本の楽器の織りなす詩的なイメージの豊富さから受ける印象を的確に表しているのでまさにピッタリだと思う。

管弦楽作品

交響詩「ファエトン」(Phaeton)作品39(1873年)
3.3点
運動会の音楽のようなダイナミックなノリの良さで親しみやすく楽しめる。ギリシャ神話を題材にしているのにふさわしい雰囲気もある。凄さはないにしても、十分に品質の高い佳作。

交響詩「死の舞踏」(Danse macabre)作品40(1874年)
3.5点
小品の名作。舞踏性と怪奇的な描写的な音が面白い世界を作り上げている。アイデアがたくさん投入される。リストによりピアノ独奏用に編曲されたが、この曲のアイデアを果敢に音にする姿勢や派手な音の動きはかなりリストっぽいと思う。

交響詩「ヘラクレスの青年時代」作品50(1877年)
2.5点
随分と力の入っており、沢山の素材をつぎ込んで書かれているように聞こえた。しかし、音楽が堅くて、頭で書いた印象が拭えない。

アルジェリア組曲(Suite algerienne)作品60(1879年 - 1880年)(4曲)

『スパルタクス』序曲 (1863年)
2.0点
所々で後の展開に期待を持たせるが何も起きず。あまり面白くない。

室内楽作品

組曲「動物の謝肉祭」(Le carnaval des animaux)(1886年)
4.5点
パロディをうまく使いながらのユーモラスな動物の描写と楽器の使い方、ピアノのユニークな大活躍ぶりがとても愉しい曲である。有名な「白鳥」は豊かな詩情をたたえた美しく完璧な旋律の名作。水上の優雅な白鳥の泳ぎを見事に連想させる。

ピアノ四重奏曲変ホ長調 (1853年)
3.0点
作品番号なし。1楽章はメランコリックな感情を全面に出した曲であり、少なからず地味なサンサーンスの室内楽では異色である。2楽章も感傷的であり、傷ついた心を表しているかのよう。3楽章は少し前向きな感情になり、室内楽らしいアンサンブルの楽しみを感じられ、所々に感傷的な感動もある。作品番号なしの若書きではあるが、積極的な若さも出ていて、むしろ作品番号ありの変ロ長調より魅力的。

ピアノ四重奏曲ロ長調 作品41(1875年)
3.3点
全般的にわたり念入りに作り込まれてしっかりと書かれた曲という印象がとにかく強い。心を奪われるかと言われるとそうではないが、4楽章は奪われるものがある。やはりモチーフの積み重ねだけでなく、よい旋律があることは重要であると感じる。ただ、内容の密度の濃さは巨匠だなあと感心してしまう。無骨で分厚いピアノとつくり込みぶりはブラームスを彷彿とさせる。4楽章が良いため聴後の印象がよい。

ピアノ三重奏曲第1番ヘ長調 作品18(1869年)
3.0点
1楽章がつまらなくて先行き不安になる。しかし2楽章はドイツものにはない独特の流麗さを深みのある緩徐楽章に活かしおり、雰囲気がよいので楽しめる。3楽章はユーモラスで新鮮。なかなか面白い。4楽章の快活さもフランスらしい洗練があって悪くない。全体にピアノ三重奏曲のバランスの取り方は割と良い。

ピアノ三重奏曲第2番ホ短調 作品92(1892年)
3.5点
1楽章が憂愁をたたえていて感動的であり特に秀逸。他の楽章もなかなか優れている。どこかこなれていない感のある1番よりもアンサンブルも音楽の緊密さも音楽的な深みずっと上であり、巨匠的と言えるレベルの作品に仕上がっている。

七重奏曲変ホ長調 作品65(1881年) (トランペット、弦五部、ピアノ)
3.5点
トランペット、ピアノ、弦楽の構成。ショスタコーヴィチのピアノ協奏曲1番を連想する構成である。ドイツ的な堅さのあるがっちりとしたまとまりが主体だが、トランペットが中心となって開放感や軽いエスプリを演出している。こじんまりとしていながら華があり聴きやすい。どの楽章もそれなりによく出来ている。

弦楽四重奏曲第1番ホ短調 作品112(1899年)
3.0点
マイナー曲であるが、案外渋くてしっかりした曲であり、けっして悪く無い。地味ではあるが、後期ロマン派らしい耽美的な情緒と、ドイツ的なガッチリとした骨格の太い構築感を感じる。華はあまり無いが、地味すぎることはない。ブラームスが時にみせる根暗なジメジメした感じはある。また、とりとめのない方向感の掴みにくさが大きな欠点となっており、短くないこの曲を聴くのに苦痛を感じるのが不人気の原因か。

弦楽四重奏曲第2番ト長調 作品153(1919年)
3.5点
全3楽章。83歳の作品。音楽が崩れていく一方の時代に、この曲は特に1楽章は非常に古風で端正な形式と和声を持っている。しかし、単なる古臭い古典の模倣ではなく、耽美的なロマンチックさを内包しており、長い時の流れと時代の移り変わりと自身の老いを想うような気分を持っている。その晩年らしい純化された精神世界がなかなか感動する。結構地味ではあるが、隠れた名曲だと思うし、サン・サーンスの音楽は何気に弦楽四重奏に向いていると思う。

ヴァイオリン・ソナタ第1番ニ短調 作品75(1885年)
2.0点
1楽章はピアノの練習曲かと思うほどピアニスティックで驚く。2楽章はメランコリーの表現が個性的。3楽章は長くて音が多いのだが、ちっともいい曲でない。全体的に珍曲に近い曲という印象である。

ヴァイオリン・ソナタ第2番変ホ長調 作品102(1896年)
2.3点
音がふわふわとしていて優雅であり、フランス的である。しかしメロディーは冴えないし、音に重みが無さすぎるし、あまりいい所がなく、いまいちである。3楽章がメロディーに多少の説得力があり、伴奏がタイス瞑想曲に似た夢みる感じで少し評価できる程度。

チェロ・ソナタ第1番ハ短調 作品32(1871年 - 1872年)
2.8点
チェロの機能の活用に関してはかなりのレベルに感じる。低音域が多い。雰囲気が次々と移り変わる。表情豊かともいえるしまとまりがないとも言える。いずれにせよ、いろいろな事をやっていて優秀だが、芸術性が高いという印象でない。

チェロ・ソナタ第2番ヘ長調 作品123(1905年)
3.0点
30分の大作でありかなりの力作。ピアノが大活躍であり、チェロも渋めではあるが機能を生かしたスケールの大きさを見せている。メロディーは印象には残らないものの全体に漲る迫力と作曲者の力の入りように驚く。渋くて男臭い雰囲気が支配的。

オーボエ・ソナタ ニ長調 作品166(1921年)
3.5点
お洒落で都会的だったり、メランコリーな気分になったりと、表情豊かな曲。六人組の音楽に近い所があり、老人とは思えない創造力である。

クラリネット・ソナタ変ホ長調 作品167(1921年)
5.0点
1楽章は今までの長い人生を回想するような無邪気な童心に帰ったような透明な音楽で、大変強く心に響いて泣きそうになる。2、3、4楽章も優秀な素晴らしい曲。最後にまた1楽章の冒頭のメロディーをそのまま回想する部分が人生の締めくくりを感じさせてまた泣ける。86歳のおじいちゃんが書いた大傑作。

バスーン・ソナタ ト長調 作品168(1921年)
3.0点
夢の中に入っていくような1楽章の最初が印象的。回想的な3楽章もなかなか良い。しかし同時期のクラリネットソナタと比較すると普通の曲。

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シャルル・カミーユ・サン=サーンス(フランス語: Charles Camille Saint-Saëns, フランス語発音: [ʃaʁl kamij sɛ̃ sɑ̃(s)], 1835年10月9日 - 1921年12月16日)は、フランスの作曲家、ピアニスト、オルガニスト。


略歴
内務省に勤める官吏の家庭に生まれる[注 1]が、生後数ヶ月で父親は亡くなり、母親と大叔母に育てられる。モーツァルトと並び称される神童で[7]、2歳でピアノを弾き、3歳で作曲をしたと言われている[8]。また、10歳でバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンたちの作品の演奏会を開き[9]、16歳で最初の交響曲を書きあげている。1848年に13歳でパリ音楽院に入学して[10]作曲とオルガンを学ぶ[注 2]。特にオルガンの即興演奏に素晴らしい腕を見せ、1857年から1877年にかけ、当時のパリのオルガニストの最高峰といわれた[12]マドレーヌ教会のオルガニストを務める。

1861年から65年にかけてニデルメイエール音楽学校(École Niedermeyer)で生涯唯一の教職に就き、フォーレ、アンドレ・メサジェ、ウジェーヌ・ジグーなどを教える[13]。特にフォーレとは終生の友人となった。普仏戦争終了後の1871年にはフランク、フォーレらとともに国民音楽協会を設立し、フランス音楽の振興に努めた[13][注 3]。

サン=サーンスは作曲家、ピアニスト、オルガニスト、指揮者として国際的に活躍したが、パリでは長い間その作品に反対する意見が多かった[15]。その状況がはっきりと変わるのは、1881年にアカデミー会員に選出され、1883年のオペラ「ヘンリー八世」初演が大成功を収めるころのことだった[16]。57歳の1892年にはケンブリッジ大学から名誉博士号を贈られ[17]、1901年にはヴィルヘルム2世からプール・ル・メリット勲章を授与された[18]。1913年、78歳のサン=サーンスは、レジオン・ドヌール勲章の最高位であるグラン・クロワを贈呈されている。1921年、アルジェリア旅行中に86歳の生涯を閉じ、葬儀は、その多大な功績に相応しく国葬で執り行われた[18]。

作風
「モーツァルトとハイドンの精神で」育った[19]サン=サーンスは、バッハやベートーヴェンの作品にも精通し、若い時期にはメンデルスゾーンやシューマンに影響を受けている[18]。その一方で、彼の音楽は「本質的にフランス的なもの(...)を表現している」とされ[7]、ノルベール・デュフルク(英語版)はサン=サーンスの美学を「厳密な設計、明晰な構築、論理的な展開、節約された線的・和声的手段」と表現し[20]、ロマン・ロランはサン=サーンスを「古典的フランス精神のただ一人の代表者」と評している[21]。こうした美学は生涯を通して大きく変わることはなかった[22][注 4]。

サン=サーンスは、映画『ギーズ公の暗殺』のため1908年というきわめて早い時期にオリジナルの映画音楽を作曲した[注 5]ことに象徴されるように、幅広い分野に多くの作品を残している。なかでも重要なのは、当時のフランスでは新作が冷遇されていた[27]、交響曲や室内楽曲、協奏曲といった分野である[18]。国民音楽協会の開設とあわせ[28]、これらの作品によって彼はフランス音楽史へ大きな足跡を残した[29]。

前半生では、当時先進的とされたシューマンやリストの作品を積極的に擁護し[11]、「現代音楽家」、革命家とみなされていた[30]。「形式の最大限の可変性」を求めて[31]リストの確立した交響詩の形式をフランスにいち早く持ちこんだ一人であり[32]、協奏曲においては形式面や、独奏と管弦楽との関係において多くの実験を行い[33]、フランスにおけるこのジャンルに重要な貢献をもたらした[34]。またワーグナーを早くから擁護する一人でもあったが、のちにフランスに広がったワグネリズムには否定的な立場をとるようになった[注 6]。

他にはバロック音楽にも通じ、リュリ、シャルパンティエ、ラモーらの作品の校訂に携わり[37]、クラヴサンの復興にも関わった[38]。複数の「組曲」や七重奏曲 Op. 65などの作品では、バロック期の舞曲形式へのいち早い興味を示している[32]。

交響曲第3番「オルガン付」やオペラ「サムソンとデリラ」など「もっとも独創的で最良の作品のうちいくつか」が作曲された1870-80年代[39]を経て、晩年には第一次世界大戦を経験して死の直前にいたるまで、すでに保守的とみなされるようになった作風による創作を続けた[40]。公的には依然として栄光を受けていたものの若い世代からは「形式主義的」で「絶望的に古臭い」と攻撃され[41]、彼の影響を認める作曲家はラヴェルなどわずかだった[42]。1910年にサン=サーンスは、「私は最初の頃は革命家と言われた。しかし私の年齢になるとただ先祖でしかあり得ない」と書簡に記している[19]。ただし、晩年の作品ではピアノの書法が線的で軽くなるとともに木管楽器への偏重、遠隔的な和音進行や旋法終止の増加といった特徴がみられ、第一次世界大戦以降の世代の作曲家の美学(新古典主義音楽)と共通する点があると指摘されている[43][42]。

「彼の偉大な名声も、またそれに続く軽視も、共に誇張されすぎてきた」と評される[7]ように、サン=サーンスの音楽はしばしば不公平な評価を受けてきた[43]が、1980年代ごろからふたたび彼への関心が高まり、再認識が進んでいる[28]。

人物
音楽家として、作曲家、ピアニスト、オルガニストとして活躍するいっぽう、少年のころからフランス古典やラテン語を学んだほか、詩、天文学、生物学、数学、絵画などさまざまな分野に興味を持ち、その才能を発揮した[11][38]。文筆家としての活動は多岐にわたり、1870年代以降は音楽批評家として多くの記事を書いているほか、哲学的な著作、一定の成功を収めた詩や戯曲などを残しており[38]、自作の詩による声楽作品も少なからず存在する。

旅行好きとしても知られ[44]、1873年に保養のためアルジェリアに滞在して以来頻繁に北アフリカを訪れたほか、スペインや北欧、カナリア諸島、南北アメリカ[13]、セイロン、サイゴンなどにも足を伸ばしている[45]。異国風の音楽は、「アルジェリア組曲」やピアノ協奏曲第5番「エジプト風」など多くの作品に取り入れられている[32]。

その辛辣で無頓着な言動は人々の良く知るところであり[46][47]、音楽院時代のアルフレッド・コルトーがピアノを学んでいると名乗ったのに対して「大それたことを言ってはいけないよ」と答えた逸話が残っている[48]。対して、サン=サーンスが称賛したピアノの生徒にはレオポルド・ゴドフスキーがいる[49]。

近代音楽にはおしなべて批判的で、ミヨーの多調を用いた作品や[50]、無調音楽に[51]否定的な意見を述べている。また、ドビュッシーの交響組曲『春』に対して、嬰ヘ長調であることを理由に管弦楽に適さないと評し[52]、「白と黒で」を「突拍子もないもの」「キュービストの絵と同じです」と非難している[53][注 7]。ただし一方でサン=サーンスは「近代の和声が基づいている調性は死の苦しみにある。(...)古代の旋法が登場するであろう。そしてそれに続いて無限の多様性をもった東洋の旋法が音楽に入り込むであろう。(...)そこから新しい芸術が生まれるであろう」とも述べており[56]、『動物の謝肉祭』(1886年作曲)の「水族館」[57]や、「幻想曲」Op. 124、「7つの即興曲」Op. 150など、印象主義音楽の語法に接近した作品も残している[58]。

私生活では1875年、弟子の妹であったマリ=ロール=エミリ・トリュフォ(Marie-Laure-Emile Truffot)と結婚し二児をもうけている[注 8]が、1878年には息子たちが相次いで亡くなり、1881年には妻と事実上離婚しふたたび母親と暮らしている[13]。1888年に母親が亡くなってから14年のあいだは定住地を持たず、各地を旅行して過ごした。ただしこれらの出来事が作曲活動に大きく影響することはなく、「リンゴの木がリンゴを実らすように(...)自分の本性の法則に従って」[62]規則正しい創作活動を続けた[63]。

主要作品

オペラ

黄色い王女(La Princesse jaune) 作品30 (1872年)
サムソンとデリラ 作品47(1869年 - 1872年) ※同作品中「バッカナール」は、フィギュアスケートで有名選手が用いるなど特に広く知られた楽曲である
銀の音色(英語版)(Le Timbre d'argent)(1877年)
エティエンヌ・マルセル(英語版)(Étienne Marcel) (1879年)
ヘンリー八世 (1883年)
ガブリエッラ・ディ・ヴェルジ (Gabriella di Vergi) (1883年)
プロゼルピーヌ(英語版)(Proserpine)(1887年)
アスカニオ(英語版)(Ascanio)(1890年)
フリネ(英語版)(Phryné) (1893年)
フレデゴンド(英語版)(Frédégonde)(1895年)
野蛮人(英語版)(Les Barbares)(1901年)
エレーヌ(英語版)(Hélène)(1904年)
祖先(英語版)(L'Ancêtre)(1906年)
デジャニール(英語版)(Déjanire)(1911年)
ロッシュ・カルドンの城、または過酷な運命(Le château de la Roche-Cardon)(1861年)


劇音楽
アンティゴネ (1893年)
気に病む男 (1893年)
デジャニール (1898年)
パリザティス (1902年)
アンドロマク (1903年)
象牙細工師の娘(疑作説あり)(1909初演)
誓い 作品130 (1910年)
戯れに恋はすまじ (1917年)


バレエ音楽
ジャヴォット (1896年)


交響曲
交響曲変ロ長調(未完、1848年)
交響曲ニ長調(未完、1850年)
交響曲イ長調(1850年頃、第1版あり)
第1番変ホ長調 作品2(1853年)
交響曲ヘ長調「ローマ」(Urbs Roma)(1856年)
第2番イ短調 作品55(1858年)
第3番ハ短調 作品78「オルガン付き」(1886年)


協奏的作品(独奏と管弦楽のための作品)

ヴァイオリンと管弦楽のための作品
ヴァイオリン協奏曲第1番イ長調 作品20(1859年)
ヴァイオリン協奏曲第2番ハ長調 作品58(1858年)
ヴァイオリン協奏曲第3番ロ短調 作品61(1880年)
序奏とロンド・カプリチオーソ イ短調 作品28(1863年)
ロマンス 変ニ長調 作品37(1874年) ※フルートでも演奏される
「ノアの洪水」(Déluge)作品45 から「前奏曲」
ロマンス ハ長調 作品48(1874年)
演奏会用小品 ト長調 作品62(1880年)
ハバネラ ホ長調 作品83(1887年)
アンダルシア奇想曲(Caprice andalou)ト長調 作品122(1904年)

ピアノと管弦楽のための作品
ピアノ協奏曲第1番ニ長調 作品17(1858年)
ピアノ協奏曲第2番ト短調 作品22(1868年)
ピアノ協奏曲第3番変ホ長調 作品29(1869年)
ピアノ協奏曲第4番ハ短調 作品44(1875年)
ピアノ協奏曲第5番ヘ長調 作品103「エジプト風」(1896年)
アレグロ・アパショナート 嬰ハ短調 作品70(1884年)
「オーベルニュ狂詩曲」作品73(1884年)
「ウェディング・ケーキ」(カプリース・ワルツ)作品76(1886年)
幻想曲「アフリカ」作品89(1891年)

チェロと管弦楽のための作品
チェロ協奏曲第1番イ短調 作品33(1873年)
ロマンス ヘ長調 作品36(1874年) ※ホルンでも演奏される(下記に再掲)
アレグロ・アパショナート ロ短調 作品43(1875年)
チェロ協奏曲第2番ニ短調 作品119(1902年)
組曲 作品16bis(1919年)※チェロとピアノのための作品16(1862年)から改作

その他
タランテラ 作品6(1857年)(フルート、クラリネットと管弦楽)
「ミューズと詩人」(La Muse et le Poète)作品132(1910年)(ヴァイオリン、チェロと管弦楽)
演奏会用小品ト長調 作品154(1918年 - 1919年) (ハープと管弦楽)
糸杉と月桂樹(Cyprès et lauriers)作品156(1919年) (オルガンと管弦楽)
抒情的小品(オドレット)(Odelette)作品162(1920年) (フルートと管弦楽)
ロマンス ヘ長調 作品36(1874年) (ホルンとピアノ、またはホルンと管弦楽)
ロマンス ホ長調 作品67 (ホルンとピアノ、またはホルンと管弦楽)
演奏会用小品 ヘ短調 作品94(Morceau de concert) (ホルンとピアノ、またはホルンと管弦楽)


管弦楽作品
序曲「スパルタクス」(1863年)
ブルターニュ狂詩曲 作品7bis(作品7から抜粋・再構成)
管弦楽組曲 作品49(1863年)
行進曲「東洋と西洋」作品25 (1869年) (吹奏楽) ※管弦楽版も存在
ガヴォット 作品23(1871年)
交響詩「オンファールの糸車」(Le rouet d'Omphale)作品31(1871年)
英雄行進曲(Marche héroïque)作品34(1871年)
交響詩「ファエトン」(Phaeton)作品39(1873年)
交響詩「死の舞踏」(Danse macabre)作品40(1874年)
交響詩「ヘラクレスの青年時代」作品50
アルジェリア組曲(Suite algerienne)作品60(1879年 - 1880年)(4曲)
リスボンの夜 作品63(1880年)
アラゴン舞曲 作品64(1880年)
ヴィクトル・ユゴー賛歌 作品69(1881年)
サラバンドとリゴードン 作品93(1892年)
エドワード7世のための戴冠行進曲 作品117(1902年)
軍隊行進曲「ナイル川の岸辺で」 作品125(1908年)(吹奏楽)
祝祭序曲 作品133(1909年)
連合国行進曲 作品155(1918年)(吹奏楽)
アルジェの学生に捧げる行進曲 作品163(1921年)(吹奏楽)


室内楽作品
組曲「動物の謝肉祭」(Le carnaval des animaux)(1886年) ※オーケストラで演奏されることも多いが、本来は室内楽曲として作曲された。
ピアノ五重奏曲イ短調 作品14(1855年)
ピアノ四重奏曲ロ長調 作品41(1875年)
ピアノ三重奏曲第1番ヘ長調 作品18(1869年)
ピアノ三重奏曲第2番ホ短調 作品92(1892年)
七重奏曲変ホ長調 作品65(1880年) (トランペット、弦五部、ピアノ)
弦楽四重奏曲第1番ホ短調 作品112(1899年)
弦楽四重奏曲第2番ト長調 作品153(1918年)
ヴァイオリン・ソナタ第1番ニ短調 作品75(1885年)
ヴァイオリン・ソナタ第2番変ホ長調 作品102(1896年)
チェロ・ソナタ第1番ハ短調 作品32(1871年 - 1872年)
チェロ・ソナタ第2番ヘ長調 作品123(1905年)
オーボエ・ソナタ ニ長調 作品166(1921年)
クラリネット・ソナタ変ホ長調 作品167(1921年)
バスーン・ソナタ ト長調 作品168(1921年)
カヴァティーナ 作品144(1915年) (トロンボーンとピアノ)
幻想曲イ長調 作品124(1907年) (ヴァイオリンとハープ)[64]
三部作 作品136 (ヴァイオリンとピアノ)
エレジー(2曲) 作品143、160 (ヴァイオリンとピアノ)
組曲 作品16(1862年)(チェロとピアノ)
デンマークとロシアの歌による奇想曲 作品79(1887年) (ピアノ、フルート、オーボエ、クラリネット)


ピアノ作品

オリジナル作品(自編を含む)
6つのバガテル 作品3
マズルカ第1番 作品21
ガヴォット 作品23
マズルカ第2番 作品24
ピアノ協奏曲第3番 作品29より第1楽章(自編)
オンファールの糸車 作品31(自編)
英雄行進曲 作品34
6つの練習曲 第1集 作品52
メヌエットとワルツ 作品56
マズルカ第3番 作品66
アレグロ・アパショナート 作品70
アルバム 作品72
オーヴェルニュ狂詩曲 作品73
イタリアの思い出 作品80
鼓手の婚約者 作品82
夕べの鐘 作品85
カナリアのワルツ 作品88
アフリカ 作品89(自編)
組曲 作品90
主題と変奏 作品97
イスマイリアの想い出 作品100
かわいいワルツ 作品104
のんきなワルツ 作品110
6つの練習曲 第2集 作品111
弱々しいワルツ 作品120
左手のための6つの練習曲 作品135
愉快なワルツ 作品139
6つのフーガ 作品161
アルバムのページ 作品169

編曲作品(再構成作品も含む)
ベルリオーズの《ファウストの劫罰》より賛歌
「タイスの死」(マスネの《タイス》によるパラフレーズ)
ジョルジュ・ビゼーの《真珠採り》によるスケルツォ
D・ルイ・ミランのリュート(ビルエラ)のための2つの幻想曲
グノーの《ファウスト》より祭典とワルツ
グノーの《ガリア》によるパラフレーズ
グルックの《アルチェステ》のエール・ド・バレエによるカプリス
リストの《ベートーヴェン・カンタータ》による即興曲
バッハ編曲集 全2集

2台のピアノのための作品(自編を含む)
タランテラ 作品6(自編)
ベートーヴェンの主題による変奏曲 作品35(1874年)
オンファールの糸車 作品31(自編)
英雄行進曲 作品34(自編)
ファエトン 作品39(自編)
死の舞踏 作品40(自編)
ヘラクレスの青年時代 作品50(自編)
アルジェリア組曲 作品60(自編)
アラゴン舞曲 作品64(自編)
ヴィクトル・ユゴー賛歌 作品69(自編)
ポロネーズ 作品77(1886年)
交響曲第3番 作品78「オルガン付」(自編)
スケルツォ 作品87(1890年)
アラビア綺想曲 作品96(1894年)
英雄綺想曲 作品106(1898年)
糸杉と月桂樹 作品156(自編)
「プロゼルピーヌ」序曲(自編)
「パリザティス」序奏と三つのバレエシーン(自編)


オルガン作品
3つの小品 作品1(1852年)(ハルモニウム作品)
幻想曲 変ホ長調(1857年)
ブルターニュの歌による3つの狂詩曲 作品7(1866年)
祝婚曲(Bénédiction nuptiale) 作品9(1859年)
奉挙、または聖体拝領(Élévation ou Communion) 作品13(1858年)
3つの前奏曲とフーガ 第1集 作品99(1894年)
幻想曲(第2番)変ニ長調 作品101(1895年)
3つの前奏曲とフーガ 第2集 作品109(1898年)
7つの即興曲 作品150(1916-17年)
幻想曲(第3番)ハ長調 作品157(1919年)


合唱を含む作品
ジン(Les Djinns)(1850年)
クリスマス・オラトリオ(英語版) 作品12(1858年)
カンタータ「プロメテの結婚」作品19(1867年)
オラトリオ「ノアの洪水(英語版)」(Déluge)作品45(1874年)
レクイエム 作品54(1878年)
竪琴とハープ(La lyre et la harpe) 作品57(1879年)
ヴィクトル・ユゴー賛歌 作品69(1881年)


歌曲
歌曲集「ペルシャの歌」(Mélodies persanes)作品26(1870年) (A.ルノー詞、6曲)
「見えない笛」(Une flûte invisible)(1885年) (V.ユゴー詞、フルートのオブリガード付き)
「鼓手の婚約者」(La fiancée du timbalier)作品82(1887年) (V.ユゴー詞)
歌曲集「赤い灰」(La cendre rouge)作品146(1914年) (G.ドクワ詞、10曲)


映画音楽
「ギーズ公の暗殺(英語版)」(L'assassinat du Duc de Guise)作品128(1908年)


著作
日本語訳があるものは次の通り。

『音楽の十字街に立つ』(馬場二郎訳/新潮社/1925年)
ジャン=ミシェル・ネクトゥー編著『サン=サーンスとフォーレ 往復書簡集1862-1920』(大谷千正、日吉都希惠、島谷眞紀訳/新評論/1993年)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%A6%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%B9

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/908.html

[近代史6] カミーユ・サン=サーンス 組曲「動物の謝肉祭」第13曲「白鳥」
カミーユ・サン=サーンス 組曲「動物の謝肉祭」第13曲「白鳥」


サン=サーンス 『動物の謝肉祭 白鳥』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/911.html  


http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/909.html

[近代史6] カミーユ・サン=サーンス クラリネット・ソナタ 変ホ長調 作品167
カミーユ・サン=サーンス クラリネット・ソナタ 変ホ長調 作品167


Saint-Saëns: Sonata for Clarinet and Piano in E flat, Op.167 - 1. Allegretto
Reginald Kell · Brooks Smith
℗ 1958 Deutsche Grammophon GmbH, Berlin









Camille Saint-Saëns: Clarinet Sonata Op. 167 (1921)



Ulf Rodenhäuser, clarinet
Leonard Hokanson, piano


I. Allegretto (00:00)
II. Allegro animato (4:45)
III. Lento (7:09) (attacca)
IV. Molto allegro (11:55)



Saint-Saens Clarinet Sonata





▲△▽▼


クラリネットソナタ(Sonate pour clarinette et piano)変ホ長調 作品167は、カミーユ・サン=サーンスが作曲したクラリネットとピアノのためのソナタである。


サン=サーンスの死の年である1921年にパリで書かれ、当時パリ音楽院の教授であったオーギュスト・ペリエに献呈された。 晩年のサン=サーンスが「ほとんど顧みられてこなかった楽器」[1]にレパートリーを提供しようと考えて書かれた作品で、同時期にオーボエソナタ、バスーンソナタも書かれている。続けて管楽器のためのソナタを複数作曲する予定であったと伝えられるが、すでに死去していたクロード・ドビュッシー(晩年に3曲のソナタを作曲した)と同じく、その構想は果たせずに終わった。


作品はサン=サーンスが好んだ簡潔なテクスチュアで書かれ、新古典主義音楽に通じる澄み渡った響きが印象的である。ソナタ形式の楽章を含まず(これは3曲のソナタに共通している)、古典派以降のソナタの伝統よりも、バロック期の組曲に近い性格を持つ。


楽曲構成
4楽章からなる。演奏時間は約16分。


第1楽章
アレグレット、変ホ長調、8分の12拍子。三部形式。ゆったりとして牧歌的な主題がのびのびと歌われる。中間部はやや活動的になり、ハ短調を中心に調性が揺れ動く。


第2楽章
アレグロ・アニマート、変イ長調、4分の2拍子。軽やかなスケルツォ楽章。ガヴォットを思わせる拍の重心の置き方に特徴がある。トリオではクラリネットの特色を生かした12度の跳躍が用いられる。


第3楽章
レント、変ホ短調、2分の3拍子。ずっしりと重く暗いコラールが低音域で提示されたあと、クラリネットの音色の対比を利用し、同じ旋律が2オクターブ上で、ピアニッシモで繰り返される。痛ましくも美しい旋律で、「サン=サーンスの全作品でも最も感動的なものの一つ」と評される[2]。ピアノによる分散和音の間奏が入り、第4楽章へと切れ目なく続く。


第4楽章
モルト・アレグロ―アレグレット、変ホ長調、4分の4拍子。技巧的で快活なフィナーレ。冒頭からクラリネットによる急速な分散和音とスケールが続く。さまざまな動機が入り乱れ、途中では1楽章の主題が変ホ短調に移されシンコペーションを伴って再現される。冒頭の分散和音がト長調で戻ってきた後、第1楽章の主題が完全な形で回想され、静かに曲を閉じる。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%82%BD%E3%83%8A%E3%82%BF_(%E3%82%B5%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%B9)

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/910.html

[近代史6] ニコロ・パガニーニ(Niccolò Paganini, 1782年10月27日 - 1840年5月27日)
ニコロ・パガニーニ(Niccolò Paganini, 1782年10月27日 - 1840年5月27日)


ニコロ・パガニーニ(Niccolò(あるいはNicolò) Paganini, 1782年10月27日 - 1840年5月27日)はイタリアのヴァイオリニスト、ヴィオリスト、ギタリストであり、作曲家である。特にヴァイオリンの名手としてヨーロッパ中で名声を獲得した。


略歴
パガニーニがヴァイオリンを弾き始めたのは5歳の頃からで13歳になると学ぶべきものがなくなったといわれ、その頃から自作の練習曲で練習していた。それら練習曲はヴァイオリン演奏の新技法、特殊技法を駆使したものと言われる。

そのヴァイオリン演奏のあまりの上手さに、「パガニーニの演奏技術は、悪魔に魂を売り渡した代償として手に入れたものだ」と噂されたという。そのため彼の出演する演奏会の聴衆には、本気で十字を切る者や、本当にパガニーニの足が地に着いているか確かめるため彼の足元ばかり見る者もいたという。

少年時代から病弱であったが、1820年に入ると慢性の咳など体調不良を訴え、『毒素を抜くため』に下剤を飲み始める。1823年には梅毒と診断されて水銀療法とアヘンの投与が開始された。さらに1828年頃には結核と診断され、甘汞を飲み始め、さらに下剤を飲み続けた。その後、水銀中毒が進行して次第にヴァイオリンを弾くことができなくなり、1834年頃についに引退する。そして1840年に水銀中毒による上気管支炎、ネフローゼ症候群、慢性腎不全によりニースで死去。

一般に死因は喉頭結核もしくは喉頭癌といわれているが、主治医の診断から結核ではなかったことがはっきりとしており、記録に残る症状(歯肉炎、振戦、視野狭窄など)から、水銀中毒だったことは明らかである[3]。

前述の噂が原因で埋葬を拒否され、遺体は防腐処理を施されて各地を転々とし、改葬を繰り返した末に1876年にパルマの共同墓地にようやく安置された。


人物
目つきが鋭く、また病弱だったためにやせていて肌が浅黒かった。その容姿も悪魔の伝説に貢献した。
猛特訓の末に左手が柔軟になっていたことが彼の超絶技巧を可能にした。これは、マルファン症候群によるものという説があり、アイザック・アシモフはその著書において、悪魔的とまで言われた演奏技術は、マルファン症候群特有の指の長さや、関節のなめらかな動きがもたらしたものではないかとする見方を示している。しかし、パガニーニが中背だったという記録が残っている(絵画等には長身の人物として描かれているものもある)ことから、この説は考えにくいという説もある(ただし、マルファン症候群の罹患者は全て長身と言うのは俗説であり、身長はマルファン症候群と診断する際の必須の条件ではない)。
青年時代には、恋愛と賭博を好み、ナポレオン1世の妹のエリーズ・ボナパルトとポーリーヌ・ボナパルトと浮名を流した。賭博では、ばくちに大負けして、演奏会の前日に商売道具のヴァイオリンを巻き上げられたことがある。
興行師としての才能もあり、木靴に弦を張って楽器として演奏しひともうけした後、金に困った女性を助けたなどの逸話もある。また演奏会にて、弾いている最中にヴァイオリンの弦が切れていき、最後にはG弦しか残っていなかったのに、それ一本で曲を弾ききったと言う逸話もある。しかしながら、弦が頻繁に、高いほうから都合よく順に切れていったこと、一番低いG弦は決して切れなかったこと(弦楽器は開放弦より低い音を出す事は出来ない)などから、パガニーニ本人がパフォーマンスの一環として、伸ばして鋭くした爪で演奏中に弦をわざと切っていたと言われている。
自身の利益や金銭に執着する人物であったと言われる。高い評価や人気を得るにつれ、演奏会のチケット代は高額を要求するようになった。やがて偽造チケットも多く出回ったため、自ら会場の入口に立ち、チケットをチェックするほどの徹底ぶりであったと言われる。


楽器

イル・カノーネ(ヴァイオリン)
パガニーニが演奏に使用したヴァイオリンとして、1743年にグァルネリ・デル・ジェスが製作した「イル・カノーネ」が有名である。賭博で賭けたヴァイオリンを取られてしまったパガニーニに対し、1802年にリヴロンという商売人が、自身が所有する上記のグァルネリのヴァイオリンを演奏会で使用してほしいことを申し出た。パガニーニはそれを承諾し、演奏会でそのヴァイオリンを使用したところ演奏会は予想以上の成功を収めた。あまりの素晴らしい響きに驚嘆したリヴロンは、貸与したヴァイオリンをパガニーニに譲渡する。パガニーニはリヴロンの好意に対し「今後このヴァイオリンを他人には使用させない」との誓いを立てる。以後パガニーニはこの楽器を音の大きさから「カノーネ」と命名し、終生愛用した。

なおカノーネはパガニーニの遺言で「他人に譲渡、貸与、演奏をしない」ことを条件に故郷ジェノヴァ市に寄贈された。この遺言は当初は守られたが、1908年に定期的な修理をかねてヴァイオリニストに貸与することを決定。1937年の全面修理を経て、現在にいたるまでパガニーニの遺言を無視する形で貸与と演奏がされている。


ヴィヨーム(ヴァイオリン)
パリの弦楽器職人ジャン=バティスト・ヴィヨームが1833年に製作したヴァイオリン。カノーネの修理中に同器を忠実に複製したもので、パガニーニは気に入って購入しようとしたが、ヴィヨームは無償でプレゼントした。パガニーニはこれを愛用したのち、1840年に弟子のカミッロ・シヴォリに500フランで譲渡し、代金は製作者のヴィヨームに感謝と友情の証として贈った。[4]

影響
ロマン派作曲家
シューベルトはパガニーニがウィーンに来た時、家財道具を売り払ってまで高いチケットを買って(友人の分まで奢って)パガニーニの演奏を聞き(ちなみに、この時にシューベルトが聞いたのが「鐘のロンド」を持つヴァイオリン協奏曲である)、「天使の声を聞いた」と感激した。金銭に関して執着しないシューベルトらしい逸話である。この台詞は正確には「アダージョでは天使の声が聞こえたよ」と言ったものである。派手な超絶技巧よりもイタリアオペラに近い音色の美しさをとらえるシューベルトの鋭い感性も覗える。
リストは初恋に破れ沈んでいた20歳の時にパガニーニの演奏を聞いて「僕はピアノのパガニーニになる!」と奮起し超絶技巧を磨いたという逸話もある(リストはヴァイオリン協奏曲第4番を聞いたといわれている)。


その他
1866年に友愛数(1184, 1210)を発見した10代の少年ニコロ パガニーニとは別人。

1985年にパガニーニの子孫を名乗るスイス人のマーク・パガニーニ(ボーカル)によるドイツのヘヴィメタルバンド「パガニーニ」が結成されたが、音楽性は正統派のアメリカン・ロックであったという[5]。

作品一覧
パガニーニは作曲家としても活躍しヴァイオリン曲を残したが、極めて速いパッセージのダブルストップ・左手のピチカート・フラジョレット奏法など、どれも高度な技術を必要とする難曲として知られている。パガニーニ自身は技術が他人に知られるのを好まなかったため、生前はほとんど自作を出版せず自分で楽譜の管理をしていた。

その徹底ぶりは凄まじいもので、自らの演奏会の伴奏を担当するオーケストラにすらパート譜を配るのは演奏会の数日前(時には数時間前)で、演奏会までの数日間練習させて本番で伴奏を弾かせた後、配ったパート譜はすべて回収したというほどである。しかも、オーケストラの練習ではパガニーニ自身はソロを弾かなかったため、楽団員ですら本番に初めてパガニーニ本人の弾くソロ・パートを聞くことができたという。その背景として、パガニーニ自身が無類の“ケチ”だったと言う事の他に、この時代は、著作権などがまだ十分に確立しておらず、出版している作品ですら当たり前のように盗作が横行していた為、執拗に作品管理に執着するようになったとする説もある。

このようにパガニーニ自身が楽譜を一切外に公開しなかったことに加えて、死の直前に楽譜をほとんど焼却処分してしまった上、彼の死後に残っていた楽譜も遺族がほぼ売却したため楽譜が散逸してしまい、大部分の作品は廃絶してしまった。現在では、無伴奏のための24の奇想曲や6曲のヴァイオリン協奏曲(12曲あったといわれている)などが残されている(第3番 - 第6番が見つかったのは20世紀に入ってからである)。現存している譜面は、彼の演奏を聴いた作曲家らが譜面に書き起こしたものがほとんどだと言われている。また、同じ理由から弟子をカミッロ・シヴォリ一人しかとらず、そのシヴォリにも自分の持つ技術を十分には伝えなかったため、演奏の流派としてはパガニーニ一代で途絶えることとなってしまった。

パガニーニは、1800年から1805年にかけて表立った活動をやめ、ギターの作品を数多く作曲している。これは、フィレンツェの女性ギター奏者を愛人としていたためといわれている。


主要作品
24の奇想曲 Op.1 (無伴奏ヴァイオリン独奏曲)
ヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調 Op.6
ヴァイオリン協奏曲第2番ロ短調 Op.7 (第3楽章が「鐘のロンド(ラ・カンパネッラ)」として有名)
ヴァイオリン協奏曲第4番ニ短調
無窮動 ハ長調(モト・ペルペトゥオ)Op.11 (ヴァイオリンと管弦楽のための作品)
ヴァイオリンとギターのためのソナタ集 Op.2,3  (12曲)
ゴッド・セイヴ・ザ・キング 英国の国歌God Save the Kingによる変奏曲(無伴奏ヴァイオリン独奏曲)
ネル・コル・ピウ  パイジエッロのアリア「Nel cor piu」による変奏曲 (無伴奏ヴァイオリン独奏曲)
ノン・ピウ・メスタ  ロッシーニのオペラ「シンデレラ」の主題「Non piu mesta」による序奏と変奏曲 (ヴァイオリンと管弦楽のための作品)
ディ・タンティ・パルピティ  ロッシーニのオペラ「タンクレーディ」のアリア「こんなに胸騒ぎが(Di tanti palpiti)」による序奏と変奏曲 (ヴァイオリンと管弦楽のための作品)
ヴェニスの謝肉祭(Carnival of venice)の「いとしいお母さん(O mamma, mamma cara)」による変奏曲 (ヴァイオリンと管弦楽のための作品)
モーゼ幻想曲 (ヴァイオリンと管弦楽のための作品)
魔女たちの踊り(Le streghe) ニ長調 ジュースマイヤーのバレエ「ベネヴェントのくるみの木(Il noce di Benevento)[:it]」のアリアよる変奏曲 (ヴァイオリンと管弦楽のための作品)
カンタービレ(Cantabile) ニ長調 (室内楽曲(ピアノ伴奏))


その他の作品
ヴァイオリン協奏曲第3番
ヴァイオリン協奏曲第5番(独奏部分のみ現存、完成前に作曲者が死亡したためオーケストラパートは作成されていなかったとされる)
ヴァイオリン協奏曲第6番(原曲はヴァイオリンとギターのための曲だったとされる)
ヴァイオリンと管弦楽ためのポプリ(紛失?)
弦楽四重奏曲(3曲)
ナポレオン・ソナタ(Sonata Napoleone) 変ホ長調 (ヴァイオリンと管弦楽のための作品)
感傷的な堂々たるソナタ(Maestosa sonata sentimentale) (ヴァイオリンと管弦楽のための作品)
春(La primavera) イ長調 (ヴァイオリンと管弦楽のための作品)
ヨーゼフ・ヴァイクルの主題による変奏付きソナタ(Sonata con variazioni) ホ長調 (ヴァイオリンと管弦楽のための作品)
ジェノヴァの歌「バルカバ」による60の変奏曲 (ヴァイオリンとギターのための作品)
驚異の二重奏(Duo merveille) Op.20 (無伴奏ヴァイオリン独奏曲)

録音
20世紀前半の巨匠と呼ばれるヴァイオリニストでは、

ヤン・クベリーク
ヴァーシャ・プルジーホダ
ジノ・フランチェスカッティ
ナタン・ミルシテイン
ユーディ・メニューイン
ルッジェーロ・リッチ
ヘンリク・シェリング
アルテュール・グリュミオー
イヴリー・ギトリス

などがラ・カンパネッラなどの作品を録音している。また、ウィリアム・プリムローズがヴィオラ奏者としてパガニーニ作品の録音を残している。

20世紀に「ヴァイオリニストの王」と称されたヤッシャ・ハイフェッツは、パガニーニの作品を全く演奏、録音しようとしなかった。その理由については諸説あるが、ハイフェッツ自身が明確な理由を公にしなかったので、現在もその真意は不明なままである。例外として、師であるレオポルト・アウアーによって演奏会用に編曲[6]された24の奇想曲の13番、20番、24番と若い頃に録音した無窮動の音源が現存している。

現在では、24の奇想曲やヴァイオリン協奏曲第1番、ヴァイオリン協奏曲第2番、ラ・カンパネッラは、数多くのヴァイオリニストが録音をしている。なお、サルヴァトーレ・アッカルドが、ヴァイオリン協奏曲第1番〜第6番を始め、譜面が現存するヴァイオリンのための作品のほぼ全てを録音している。


パガニーニの主題
パガニーニの演奏、楽曲はリストやシューマンなど当時の作曲家に多大な影響を与え、以後様々な作曲家がその主題によるパラフレーズや変奏曲を書いた。特に『24の奇想曲』の最終曲「主題と変奏 イ短調」や『ヴァイオリン協奏曲 第2番』の終楽章「鐘のロンド」は繰り返し用いられた。パガニーニの主題を用いた他の作曲家の作品を以下に示す。

24の奇想曲 Op.1
ヨハン・ネポムク・フンメル
ピアノのための幻想曲「パガニーニの思い出」
イグナーツ・モシェレス
パガニーニ風の珠玉(3曲)
ヨハン・バプティスト・クラーマー
パガニーニの回想
ロベルト・シューマン
パガニーニのカプリスによる練習曲 Op.3 (6曲)
パガニーニのカプリスによる練習曲 Op.10 (6曲)
フランツ・リスト
パガニーニによる超絶技巧練習曲集 S.140 (6曲)
パガニーニによる大練習曲 S.141 (6曲)
フェルッチョ・ブゾーニ
パガニーニ風の序奏とカプリッチョ
ルイージ・ダッラピッコラ
パガニーニのカプリッチョによるカノン風ソナチナ


第24番「主題と変奏」
イグナッツ・フリードマン
パガニーニの主題による練習曲(変奏曲形式で作曲)op.47b
ハンス・ブレーメ
パガニーニアーナ
ユルク・バウアー
パガニーニアーナ
フランツ・リスト
パガニーニによる超絶技巧練習曲集 S.140 より第6曲 イ短調「主題と変奏」
パガニーニによる大練習曲 S.141 より第6曲「主題と変奏」
ヨハネス・ブラームス
パガニーニの主題による変奏曲 イ短調 Op.35(2巻)
セルゲイ・ラフマニノフ
パガニーニの主題による狂詩曲 イ短調 Op.43(ピアノと管弦楽)
ヴィトルト・ルトスワフスキ
パガニーニの主題による変奏曲(2台ピアノ1941年、のち1978年にピアノと管弦楽に編曲)
ボリス・ブラッハー
パガニーニの主題による変奏曲
アレクサンドル・ローゼンブラート
パガニーニの主題による変奏曲
ファジル・サイ
パガニーニの主題による変奏曲
中野二郎
パガニーニの主題による30の変奏曲 (ギター独奏)
一柳慧
パガニーニ・パーソナル (マリンバとピアノ)
川島素晴
パgani蟹 Paganinissimo (コントラバス独奏。左手を蟹に、右手の弓をシオマネキの鋏に見立てた喜劇的シアターピース)
パgani鐘(ヴァイオリンと打楽器。24番のテーマを用いているという意味で上記作品と同様だが、打楽器に銅鉢を含むのでこの名になった。)
ナタン・ミルシテイン
パガニーニアーナ(ヴァイオリン独奏)
ジョージ・ロックバーグ
カプリース変奏曲
アルフレート・シュニトケ
ア・パガニーニ(ヴァイオリン独奏)
ジェイムズ・バーンズ
パガニーニの主題による幻想変奏曲(吹奏楽)
アンドルー・ロイド・ウェバー
Variations(チェロ・弟のチェロ奏者ジュリアン・ロイド・ウェバーのために書いた変奏曲)
マルク=アンドレ・アムラン
パガニーニの主題による変奏曲


鐘のロンド
フリードリヒ・クーラウ
ピアノのための華麗なロンド「鐘」
アンリ・エルツ
「鐘」による行進曲とロンド
フランツ・リスト
パガニーニの「鐘」による華麗な大幻想曲 S.420
パガニーニによる超絶技巧練習曲集 S.140 より第3曲 変イ短調「ラ・カンパネッラ」
パガニーニによる大練習曲 S.141 より第3曲 嬰ト短調「ラ・カンパネッラ」(一般にピアニストのレパートリーとしての「鐘(ラ・カンパネッラ)」はこの曲を指す)
ヨハン・シュトラウス1世
パガニーニ風のワルツ Op.11
マルカンドレ・アムラン
短調による12の練習曲から第3番「パガニーニ ~リストによる」


その他の主題曲

フレデリック・ショパン
「パガニーニの思い出」変奏曲 イ長調
4手の為の変奏曲 ニ長調
上記2曲とも「ヴェネツィアの謝肉祭」を主題にしている。

アンリ・エルツ
パガニーニの最後のワルツ
パガニーニのロンド

フランツ・レハール
喜歌劇「パガニーニ」

アルフレード・カゼッラ
パガニーニアーナ

マリオ・カステルヌオーヴォ=テデスコ
悪魔のカプリッチオ〜パガニーニ讃(ギター独奏)

パガニーニを描いた作品

パガニーニ 愛と狂気のヴァイオリニスト - 2013年のドイツ映画。パガニーニを演じたのはヴァイオリニストのデイヴィッド・ギャレット。

パガニーニ (オペレッタ) - フランツ・レハールが作曲したオペレッタ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%91%E3%82%AC%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%8B
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/911.html

[近代史6] ニコロ・パガニーニ ヴァイオリン協奏曲 第2番 ロ短調 Op.7 第3楽章 ラ・カンパネッラ
ニコロ・パガニーニ ヴァイオリン協奏曲 第2番 ロ短調 Op.7 第3楽章 ラ・カンパネッラ


Paganini: Violin Concerto No.2 In B Minor, Op.7, MS.48 - 3. Rondo à la clochette, 'La campanella'






Salvatore Accardo
London Philharmonic Orchestra
Charles Dutoit
℗ 1975 Deutsche Grammophon GmbH, Berlin



Salvatore Accardo - Paganini Violin Concerto No. 2 in B minor, Op. 7 "La Campanella"





00:00 1. I. Allegro maestoso (Cadenza: Salvatoare Accardo)
14:58 2. II. Adagio
22:05 3. III. Rondo


Salvatore Accardo, violin
London Philhamonic Orchestra
Charles Dutoit, conductor
Recording: London, Barking Town Hall, 1/1975



▲△▽▼


ヴァイオリン協奏曲第2番ロ短調『ラ・カンパネラ』作品7は、ニコロ・パガニーニが作曲した2番目のヴァイオリン協奏曲。第3楽章が「鐘のロンド」で有名である。「ラ・カンパネッラ」とも表記される。


ヴァイオリン協奏曲第2番の作曲年代は、1811年から1812年か1819年と1826年と推定されているだけで、確実には判明していない。また1824年にヴェネツィアで既に作曲されていたが、その時はまだオーケストレーションをしていなかったという説もある。パガニーニは1826年12月12日付の手紙に「クリスマスの後にサン・カルロ劇場で演奏会を行ない、ナポリではまだ弾いたことがないヴァイオリン協奏曲第1番と、鐘のオブリガートがつく第2番を演奏するつもりです」と書いている。また国外での初演は同年3月29日にウィーンで「オーケストラ伴奏」で行われたということであり、それに対してこの曲のオーケストレーションがなされたのは1838年のパリであったとする研究家もいる。また初演された年代は未だに不明である。


また、リストはこの曲の終楽章を後に、変奏曲形式によるピアノ曲に編曲し、後の「パガニーニによる大練習曲」と呼ばれるものを1838年に作り上げ(1851年に大改訂)、その第3番が有名な「ラ・カンパネッラ」で、広く親しまれている。


構成
全3楽章の構成で、演奏時間は約30分。


第1楽章 アレグロ・マエストーソ ロ短調
形式的に自由で、第1主題と第2主題の性格は明確ではなく、またオーケストラは前奏と間奏部のほか、ほとんど伴奏的存在に終始している。ニ長調の第2主題は、パガニーニと親しかったロッシーニの歌劇「セビリアの理髪師」の序曲の旋律によく似ている部分がある。


第2楽章 アダージョ ニ長調
美しい旋律の背後に寂しい感情が潜む歌謡風な楽章である。


第3楽章 ロンド(アレグロ・モデラート) ロ短調
全曲中最も名高い「鐘のロンド」で、独奏ヴァイオリンの示すロンドの主題で始まり、ヴァイオリンのフラジオレットによる鐘の模倣[1]とオーケストラの鐘(またはベル)のかけ合いが繰り返される。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E5%8D%94%E5%A5%8F%E6%9B%B2%E7%AC%AC2%E7%95%AA_(%E3%83%91%E3%82%AC%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%8B)

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/912.html

[近代史6] ニコロ・パガニーニ ヴァイオリン協奏曲 第2番 ロ短調 Op.7 第3楽章 ラ・カンパネッラ 中川隆
1. 中川隆[-16046] koaQ7Jey 2021年10月09日 15:55:09 : yCF5w5sEnQ : TEI1cGhkekR4TlE=[7]
最美の音楽は何か? _ フランツ・リスト 『ラ・カンパネラ』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/201.html

フランツ・リスト 『ラ・カンパネラ』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/880.html
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/912.html#c1

[近代史6] ジュゼッペ・タルティーニ(Giuseppe Tartini, 1692 - 1770)
ジュゼッペ・タルティーニ(Giuseppe Tartini, 1692 - 1770)

ヴァイオリンソナタ 悪魔のトリル
3.5点
バロックらしい弦楽器がずっと出ずっぱりで弾きまくる楽しさ、技術的な難易度の高さゆえの複雑さ、デモーニッシュな音楽的刺激で楽しめる曲。バロック音楽におけるヴァイオリン曲の魅力があるが、もっと後の時代の音楽のような内容の豊富さと強烈さがある。

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2

ジュゼッペ・タルティーニ(Giuseppe Tartini, 1692年4月8日 - 1770年2月26日)は、イタリアのバロック音楽の作曲家・ヴァイオリニスト。


生涯
イストリア半島のピラーノ(現・スロベニア領ピラン)出身。タルティーニの両親は彼をフランシスコ会の修道士にしようとしていたらしく、そのために彼は基礎的な音楽の教練を受けていた。彼はパドヴァの大学で法律を勉強し、またそこでフェンシングの名手となった。1710年に父親が没した後、タルティーニはエリザベッタ・プレマゾーレ(Elisabetta Premazore)と結婚する。彼女は、もし彼の父親が生きていたならば、社会的身分の低さと年齢差ゆえに結婚に反対したであろう女性であった。運悪く、エリザベッタはコルナーロ家(英語版)の有力な貴族の寵愛を受けており、その貴族はすぐにタルティーニに誘拐の罪を押しつけた。タルティーニはパドヴァを後にしてアッシジの聖フランシスコ修道会に入り、そのことで訴追から逃れることができた。そして、この間に彼はヴァイオリンの演奏を始めるのである。

1716年にタルティーニがフランチェスコ・マリア・ヴェラチーニの演奏を聴いたとき、彼はその演奏に強い印象を受け、自分の技能に不満を抱き、そのために彼は逃げるようにアンコーナへ移り住み、練習のために自室に閉じこもったという逸話がある。

タルティーニの技能は非凡な成長ぶりを見せ、1721年にはパドヴァのイル・サント礼拝堂付きの指揮者(カペルマイスター)に、彼が希望するならば他の団体で演奏してもよいという契約つきで任命される。

1726年にタルティーニはヴァイオリン教室をはじめ、ヨーロッパ中の学生達を引きつけた。徐々に彼は和声と音響学の理論に興味を持つようになり、1750年以降生涯にわたって、彼は多くの学術論文を発表した。


音楽
おそらく、タルティーニの最も有名な作品は《悪魔のトリル》であろう[1]。このソロ・ヴァイオリンソナタは、数多くの高度な技術を要求されるダブルストップのトリルが必要とされ、近代の規範をもってしても難易度の高い曲である。ある逸話によれば、タルティーニはアッシジに居た頃「自分のベッドの足元で悪魔がヴァイオリンを弾いている」という夢にインスピレーションを得てこのソナタを書いたと言われてきた。 今日の研究では作風の考察から1740年代後半以降の作との説が有力である。また古代ギリシア・ローマ伝説をもとにしたヴァイオリン・ソナタ《捨てられたディド》もある。

タルティーニの作品は、ほぼ全てがヴァイオリン協奏曲とヴァイオリンソナタである。例外的にヴィオラ・ダ・ガンバをソロとする協奏曲も書いている。多くの同時代のイタリア人達とは異なり、タルティーニはオペラや教会音楽は全く作曲していない。タルティーニの音楽は、学者達にとって不確かなものである。それは、彼が決して原稿に日付を記入しないことや、過去に執筆されたあるいは既に演奏を終えた作品にさえ修正を加えたことなどにより、作品が製作された時期や修正が行われた時期、その修正の範囲などを定めるのが難しくなっているためである。ドゥニアス(Dounias)とブレイナード(Brainard)の2人の学者が、タルティーニの作品を、音楽の様式上の特徴に基づいて時期別に分類することを試みている。

作曲家としての活動に付け加えて、タルティーニは非常に実用性を好む音楽理論家であった。彼は、弦楽器に特に有用な聴覚現象である差音の発見者とされている。彼は自らの発見を、論文Trattato di musica secondo la vera scienza dell'armonia(パドヴァ、1754年)で発表している。

20世紀のイタリアの作曲家ルイージ・ダッラピッコラは、タルティーニのテーマをもとにした《タルティニアーナTartiniana》という小品を作っている。

主な作品
ヴァイオリン・ソナタ《悪魔のトリル》
ヴァイオリン・ソナタ《捨てられたディド》

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%82%BC%E3%83%83%E3%83%9A%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%8B
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/913.html

[近代史6] ジュゼッペ・タルティーニ『ヴァイオリンソナタ ト短調 悪魔のトリル』
ジュゼッペ・タルティーニ『ヴァイオリンソナタ ト短調 悪魔のトリル』


タルティーニ『悪魔のトリル』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/921.html  
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/914.html

[近代史6] アルカンジェロ・コレッリ(Arcangelo Corelli, 1653 - 1713)
アルカンジェロ・コレッリ(Arcangelo Corelli, 1653 - 1713)


ヴァイオリン・ソナタ 作品5


12番「ラ・フォリア」
3.8点
有名な主題であり、ラフマニノフにも変奏曲にされている。南欧的な情熱のほとばしりに圧倒される主題だけでなくさらに情熱をかきたてる変奏技術の見事さにより、一度聴いたら忘れられない曲に仕上がっている。


合奏協奏曲集 作品6

1番
3.0点
どの楽章もがっちりとした構築感があり、例えばヴィヴァルディのようにさらっと短時間で書いた趣はない。音の響きや音使いのバロックらしい美しさが基調なのだが、そのうえで楽章の連結の考慮や高度な計算されたバランスを構築している。ただ、正統派の曲であるが、その分固苦しくて面白くない気がした。あまり心が踊らない。

2番
3.3点
1番よりもダイナミックで楽しい。特に最後の楽章の手際の良い切れ味もある締めくくりの音楽はなかなかの出来栄えだと思う。音楽の密度が濃い。

3番
3.3点
短調であり、激情の表出がある。中間でエレジーのような悲しみの詠唱から、堰を切ったように激情の曲になる箇所がとくに極端である。とはいえ、情に流されすぎず場面を手際よく作っていく音楽という印象である。

4番
3.3点
ザクザクとした鋭い切れ味と豊穣さを両立した1楽章は見事。他の楽章もそれなりに良い。最後の楽章が見事に気持ちよく締めくくる感じが爽快で気持ち良い。

5番
3.0点
変ロ長調らしい柔らかさがある。伸びやかな解放へ向かう感じもある。一方で音楽の密度が濃すぎる堅苦しさもデメリットとしてより気になる気がする。

6番
3.3点
前半は性急さや詰め込みすぎがなくて、田園的な楽天的気分でゆったりした所があるのが心地よい。2楽章の旋律美も心の琴線に触れるものがあって良い。とはいえ緊密に書かれているのと、最後の楽章では短調で緊張感を高めていくため、最後まで続くわけではない。

7番
3.3点
軽快かつ機敏でありきたりでない音楽になっている。ソロの使い方の面白さが耳をつく。最後の終わり方も面白い。ふわっとした機知とでも呼びたい面白い仕掛けの工夫の楽しみが多くて楽しい曲。構成もひねりが効いている。

8番
3.5点
コレッリ合奏協奏曲の中で有名であるとともに規模が大きい。この時代からクリスマスの音楽の雰囲気が現代に似ているのに驚く。多くの楽章が様々な表情を見せながら、聖なる夜の音楽を演出してくれるのに浸れる。その曲調の分かりやすさと統一感が、他の曲よりもおすすめしやすい点といえるだろう。

9番
3.0点
手際の良いところが気持ちいいし、諧謔的な軽い面白さも良い。しかし、心を強く捉えるほどの曲ではないと思う。

10番
3.0点
様々な曲がある正統派の曲。しかし、旋律の魅力が全般に乏しい。悪く言えば、ただ音が鳴っているだけに聴こえる場面が多い。

11番
3.0点
小ぶりな曲。全体的に終焉の雰囲気が流れており曲想に統一がある。分かりやすい一方で一本調子にも聴こえる。聴き終わった後にあまり満足感を多く残してくれない。

12番
3.3点
平均的な楽章が続く曲に思える。コレッリらしい音使いの美しさと緊密さは楽しめるが、この曲ならではのものはないと思う。しかし、やはり改めて冷静に聴くとおとぎ話の世界のようでもあり、バロック音楽屈指の美しい音世界のようにも思える。

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2


アルカンジェロ・コレッリ(Arcangelo Corelli, 1653年2月17日 - 1713年1月8日) はイタリアの作曲家、ヴァイオリニスト。姓はコレルリ、コレルリ、コレリとも書かれる。


生涯
1653年に生まれたアルカンジェロ・コレッリはアレッサンドロ・スカルラッティより7年、アントニオ・ヴィヴァルディより25年、ジョージ・フレデリック・ヘンデルより32年年長にあたる。合奏協奏曲、トリオソナタ、ヴァイオリンソナタで知られる。コレッリはフジニャーノ(現在のラヴェンナ県内)で生まれた事以外、若い頃のことは知られておらず、13歳でボローニャに出てくる以前のことはあまりわかっていない。コレッリの経歴が明確になるのは、17歳でアカデミア・フィラルモニカの会員となってからのことである。コレッリの家系についてもあまり多くのことは知られていないが、善にもつよく悪にもつよい個性的な血族であったようである。コレッリが生まれる20年前、一族のルドルフは町の暴動の首謀者になったかどで処刑されたが、同じ一族から僧侶、法律家、医学者、詩人などが輩出している。

コレッリが生まれる数週間前に同名の父が亡くなっていたため、コレッリは母の実家で兄弟とともに育てられた。幼少時はファエンツアの教会で教育を受けたと見られている。その後ウーゴに渡り、1666年に当時イタリアの器楽音楽発展の最大の拠点であったボローニャに出て、ここでベンヴェヌーティにバイオリン奏法を学び、さらにブルノーニについて音楽家として大成した。彼のヴァイオリンの師はジョヴァンニ・バッティスタ・バッサーニという人物であったとされるが、これも伝聞情報の域を出るものではなく、いかなる教育で彼が育ったのかも不明である。有名な教皇の礼拝堂付き歌手であったマッテオ・シモネッリが彼に作曲を教えた。

コレッリの初期の作品では、みずからフジニャーノ生まれでボローニャの人と呼ばれるアルカンジェロ・コレッリと名乗っているが、彼が確実にボローニャに滞在したのは1666年(13歳)から1670年(17歳)までの4年間のようである。コレッリ最初の大きな成功は19歳のときにパリで得たもので、これによって彼はヨーロッパでの評判を得た。22歳の歳、1675年に、彼はローマに出てサン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会でバイオリン奏者の地位についた。1679年、26歳の時に、彼はローマのカプラニカ劇場(英語版)で友人のパスクィーニの歌劇<義務と愛と慈悲>のオーケストラを指揮した。フランスのラゲネは、この時「私はローマでコレッリ、パスクィーニ、ガエターニの3人が同じオペラで共演するのを聞いたが、この人たちはそれぞれバイオリン、チェンバロ、テオルボにかけては世界の第一人者である。その上、この人たちは1ヶ月か1ヵ月半の間に300から400ピストーラも稼ぐ」と、最大限の賛辞で感想を記した。

その後、コレッリはパリからドイツへ移った。1681年には彼はバイエルン選帝侯のもとで勤めていた。この前後1680年から1685年の間、彼は多くの時間を友人のクリスティアーノ・ファリネッリ宅で過ごしていた。この時期が最も脂がのり、1681年の作品1「トリオ・ソナタ集」を皮切りに作品番号を記した代表作を世に放ち、器楽曲の作曲家としての名声を高めていった。1685年にはコレッリはローマにおり、そこでスウェーデン女王クリスティーナのための祭典での音楽公演を指揮し、またピエトロ・オットボーニ枢機卿(後のローマ教皇アレクサンデル8世)の寵臣であった。1689年から1690年にかけてはモデナに滞在し、モデナ公はコレッリに対して寛大であった。1700年にローマで作品5「ヴァイオリン・ソナタ集」を出版する。この作品集はヨーロッパ中の宮廷で評判となり、幾たびも再版や再出版が重ねられるベスト・セラーとなった。1708年に彼はローマに戻り音楽活動からの引退を宣言し、以後オットボーニ枢機卿の邸宅で暮らした。同年には、国王の招きでナポリを訪れている。[2]

1713年にコレッリが59歳で亡くなったとき、彼は12万マルクもの大金とブリューゲルやプーサンなど貴重な絵画のコレクション(136枚)とチェンバロ1、バイオリン2、チェロ1、コントラバス1を有しており、楽しみといえば贅沢をすることのみであった。彼は自分の後援者と召使、友人に遺産を譲ったが、友人は寛大にもその財産をコレッリの親類に返還した[3]。コレッリはローマのパンテオンに埋葬された。

影響
コレッリによって生み出され、その弟子たち(フランチェスコ・ジェミニアーニ、ピエトロ・ロカテッリほか多数)によって守られてきた演奏形式はヴァイオリン演奏の発展の中心となる重要性をもっていたが、コレッリは自身の楽器演奏能力のうち、ほんの限定された一部しか用いなかった。このことは彼の著作からも見て取れる。作品6-1の第三楽章のような急楽章の中でも、ヴァイオリンのパートは第四ポジションの最高音である最高音弦のホ(E)音より上に行くことがないのである。一説によると、コレッリはヘンデルのオラトリオ「時と悟りの勝利」[4]の序曲におけるアルティッシモのイ(A)音にまで及ぶ楽節を演奏することを拒み、作曲者がその音を演奏したときに「技術を誇示するためだけにこんな音を弾かせるとは」と痛烈な批判を浴びせたという。しかしながら、コレッリの器楽の作曲は室内楽の歴史に一新紀元を画し、ジュゼッペ・トレッリ、トマゾ・アルビノーニ、アントニオ・ヴィヴァルディはそれぞれコレッリのスタイルのトリオ・ソナタ集を処女作品集として出版しており、コレッリの作品5(1700年)に次いでヨーロッパのベストセラーとなったヴィヴァルディの作品3『調和の霊感』(1711年)もコレッリの作曲スタイルを受け継いでいる。彼の影響力は自分の国の中に留まらず、ヨハン・ゼバスティアン・バッハはコレッリの作品を研究し、コレッリの作品3(1689年)の主題に基づきオルガンのためのフーガBWV.579を作曲した。またコレッリは、ジョージ・フレデリック・ヘンデルに最も影響を与えた人物でもある。ローマの音楽界は多くをコレッリに負っている。彼は貴族社会の最上位に受け入れられ、長期にわたってオットボーニ枢機卿の邸宅で行われる高名な月曜演奏会を主催していた。

存命時に名声を誇っていたヴィヴァルディは、オーストリア継承戦争の最中のウィーンで死去したせいもあり、死後急速に忘れられたが、コレッリはパトロンの庇護もあり、そうではなかった。作品番号の記された作品はヴァイオリンの教育の現場で使われ続け、新古典主義時代にはヴィヴァルディよりも遥かに名声が保たれていた。彼の痕跡はセルゲイ・ラフマニノフの「コレッリの主題による変奏曲」、八村義夫の「ラ・フォリア」にも表れている。

作風
コレッリの作品は、旋律の美しい流れと伴奏パートの丁寧な扱いが特徴的であり、それゆえコレッリが古風な対位法の厳格な規則から自由であったといわれるのももっともなことである。また、死後出版の作品集の中にあるトランペット・ソナタが彼の唯一の管楽器のための作品で、そのほかの曲はすべて弦楽器と通奏低音のためのものである。コレッリの様式はすでに旋法のための厳格対位法ではなく「調性のための対位法」のいくつかの特質が表れている。

48曲のトリオ・ソナタと、ヴァイオリンと通奏低音のための12曲のソナタならびに12の合奏協奏曲が名高く、出版された作品のうち、作品1から作品6までがすべて器楽曲である。中でも最も有名なのは、《ヴァイオリンとヴィオローネ、またはチェンバロのためのソナタ》作品5(ローマ、1700年)である。西洋では、コレッリの合奏協奏曲がしばしば人気であり、たとえば《クリスマス協奏曲》作品6-8の一部が映画「マスター・アンド・コマンダー」のサウンドトラックとして利用されている。また、小説『コレリ大尉のマンドリン』にもしばしばコレッリのことが話題にされている。

コレッリの全作品はCDでも12枚程度と極めて少なく、多くの作品を破棄したと考えられているが、事の真相は不明のままである。最有力説は「パトロンが作品の推敲を許し、納得がいくまで書き直しできる環境を与えた」とされているが、彼の書式の密度の高さを考えるとありえない話ではない。

作品一覧

生前発表作
トリオ・ソナタ(教会ソナタ)作品1(全12曲、出版:ローマ、1681年)
トリオ・ソナタ(室内ソナタ)作品2(全12曲、出版:ローマ、1685年)
トリオ・ソナタ(教会ソナタ)作品3(全12曲、出版:ローマ、1689年)
トリオ・ソナタ(室内ソナタ)作品4(全12曲、出版:ローマ、1694年)
ヴァイオリン・ソナタ 作品5(全12曲、ニ短調の『ラ・フォリア』を含む。出版:ローマ、1700年)
合奏協奏曲集 作品6(全12曲、ト短調の第8番は『クリスマス協奏曲』として有名、1712年に献呈ただし出版は没後の1714年、ローマ)

 
作品番号のない作品
WoO 1: Sinfonia zu Giovanni Lorenzo Luliers Oratorium Santa Beatrice d’Este (1689)
WoO 2–3: 2 Sonate a quattro (enthalten in: Six Sonates à 4, 5, & 6 parties …, Amsterdam um 1699)
WoO 4: Sonata a quattro für Trompete, 2 Violinen und Basso continuo
WoO 5–10: 6 Sonate a tre op. post. (Amsterdam um 1714)
再発見作も極めて希少で、多くの作品が生前に本人の手で破棄されたと考えられている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%AA

アルカンジェロ・コレッリ Arcangelo Corelli(1653-1713)
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 バロックと言えば器楽音楽が発達した時代であり、その中でもヴァイオリンを中心としたヴァイオリン族の楽器は、バロック代表する楽器と言うことができるでしょう。特にバロック中期、イタリアでアニトーニオ・ストラディヴァリやニコロ・アマーテといった名工たちが優秀な楽器を作り出した時代は、同時にヴァイオリンのための音楽が新たに作り出されていった時代でもありました。

 アルカンジェロ・コレッリ(1653-1713)は、イタリアが生んだ最初のヴァイオリン音楽の巨匠であったと言われます。コレッリの前にも後にもヴァイオリンの名手は存在し、多くの美しい楽曲を生み出しましたが、後世への影響力という点で彼と並ぶものは無いように思われるのです。


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 イタリア北部ラベンナ近郊のフジニャーで生まれたアルカンジェロ・コレッリ(1653-1713)は、13歳から当時イタリアの音楽教育の拠点のひとつであったボローニャでヴァイオリンを学び、わずか17歳で同地のアカデミア・フィラルモニカに正会員として迎えられました。

 このアカデミアへの入会は原則として20歳以上でなければ認められず、10代で特例として入会が認められたのはコレッリと、あとは100年後のモーツァルトのみであったことから考えても、コレッリがいかに若いときから才能を発揮していたかが伺えます。事実、彼はイタリア・バロック中期における、最大の器楽音楽の作曲家に成長していくことになります。

 コレッリの名は1675年からローマのサン・ルイージ教会のヴァイオリン奏者のひとりとし記録に現れるようになり、この頃には活動の拠点がすでにローマに移っていたことが伺われます。以後ローマを中心に作曲家、バイオリン奏者として名声を高めて行き、枢機卿ベネデット・パンフィーリや同時期にローマに滞在していたスウェーデンのクリスティーナ女王の後援を受け、コレッリはその活動の初期の段階から安定した生活を送ることができたのでした。

 1687年にクリスティーナ女王が亡くなり、1690年にはパンフィーリ枢機卿もボローニャに移ってしまうというように、同じ時期に二人の有力な後援者を失いますが、すぐにパンフィーリ枢機卿の後任である、ピエトロ・オットボーニ枢機卿の元で主席ヴァイオリン奏者兼楽長として仕えるようになりました。オットボーニ枢機卿は芸術家、特に音楽家のパトロンとして有名で、コレッリは彼の厚遇を受け、落ち着いた環境の中で創作活動を続けることになります。

 その後、1709年まではコレッリがサン・ルイージ教会の儀式のおりなどに、なんらかの演奏活動を行っていたことが記録からわかっていますす。けれど、1710年のはじめからは公衆の面前にあらわれる事なく、第一線を退いて作品6の合奏協奏曲集の出版作業に取りかかりますが、その出版(1714)を見届けることなく、1713年の1月に60歳でその生涯を終えたのでした。


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 コレッリは、バロック時代の作曲家には珍しく、その名声に比べると驚くほど作品の数が少ない作曲家です。コレッリ自らが編集して出版された曲集は全部で6つ(作品6は死後に出版)、総曲数で72曲のみであり、自ら出版しなかったけれど楽譜が現存しているという作品を加えても、現代にまで伝わっている曲は80数曲にすぎません。

 現存する作品の数が少ないのは、コレッリが遺言で未出版の作品をほとんど破棄させてしまったからだと言われています。けれど、これは同時に、コレッリが自らの作品を厳選し、納得のいくものだけを出版したことをも物語ってます。事実、出版された曲集の完成度は極めて高く、発表当時から高い評価を得ていました。ひとつの作品集が出版されると、すぐに次の作品集が待ち望まれるほどだったと言われています。

 コレッリは作品1と3の教会ソナタ集、作品2と4の室内(宮廷)ソナタ集でもって、それまでに様々に試みられていた3声部からなる器楽曲を洗練し、現在トリオ・ソナタとして知られる合奏形態を事実上完成させた音楽家でした。そして、作品5のヴァイオリンのソロ・ソナタ集、作品6の合奏協奏曲集によって、バロック期ヴァイオリン音楽を完成させたと言っても過言でないように思われます。


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 トリオ・ソナタ、合奏協奏曲、ソロ・ソナタの3分野のいずれにおいても、コレッリの作品はバロック中期の器楽音楽における高い到達点を示し、その発展に偉大な貢献をはたしました。

 使われたヴァイオリンの手法は華やかさとは無縁であり、難しいテクニックを避けた、どちらかと言えば表現の幅の狭い作品と言えなくもありません。けれど、旋律と短調の調整の明確さが際立った気品の高い典礼優雅なスタイルは、演奏のしやすさともあいまって、ソナタと合奏協奏曲の普及に大きな足跡を残しています。

 このことは、有名な《ラ・フォリア》を含むヴァイオリン・ソナタ集作品5が、18世紀末までにヨーロッパの各都市で40近くの版を重ねるベストセラーとなり、カデンツァの装飾例譜が60種以上も作られたことからもわかるのではないでしょうか。
 技巧に走らず奇をてらわない、手堅い構成の作品群であるからこそ、プロの演奏家だけでなく一般の音楽愛好家にも広く迎えられ、時代を超えた普遍性を持ち得たように思われます。

 コレッリが完成したトリオ・ソナタも合奏協奏曲も、バロック期の終焉と共に姿を消すことになるのでが、いずれもが諸国の音楽家によって模倣されてゆき、後年、バッハやヘンデルらに継承されて行くことになります。


 コレッリの作品は、本当にどれも完成度が高く、甲乙つけがたいところがあるのですが、録音数の多さでは作品5のヴァイオリン・ソナタ集と、作品6の合奏協奏曲集が双璧と言えるでしょう。

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 作品5のヴァイオリン・ソナタ集では特に最終12曲目の《ラ・フォリア》が有名で、昔から多くのヴァイオリニストによって演奏されています。モダン・ヴァイオリンによるモノラル演奏ですが、アルチュール・グリュミオーのヴァイオリンにリカルド・カスタニョーネのピアノによる「バロック・ヴァイオリン名曲集」に収められた《ラ・フォリア》は、一度は聴いていただきたいと思います。艶やかなヴァイオリンの響きが美しい魅力的な録音です。

 バロック・ヴァイオリンでの演奏と言うことになると、私は寺神戸亮のヴァイオリンによる「バイオリンと通奏低音のためのソナタ集 作品5より」が一番好きです。次いでシギスヴァルト・クイケンの「Sonate a Violino e Violone o Cimbalo, op.V」、Trio Sonnerie (vn.モニカ・ハジェット)の「Violin Sonatas OP.5」、ロカテッリ・トリオ(vn.エリザベス・ウォールフィッシュ)の「Violin Sonatas op 5」ということになりそうです。

 《ラ・フォリア》と言えば、フランス・ブリュッヘンによるリコーダー編曲盤も見逃せません。《ラ・フォリア》のみを収めた録音と作品5の全曲盤がありますが、どちらも優れた演奏です。また、有田正広がフラウト・トラベルソで演奏する《ラ・フォリア》も一聴に値すると名演奏だと思います。。

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 作品6の合奏協奏曲は全12曲中、第8番が特に有名です。最終章のシチリアーノに『主の降誕の夜のために』という副題がついていて、《クリスマス協奏曲》という題名でこれ一曲だけを収めた録音も数多く出ています。

 スタンダードな録音と言うことになると、モダン楽器によるものですが、やはりイ・ムジチ合奏団による演奏は外せないように思います。録音は何種類かあるのですが、アゴスティーニがコンサート・マスターを務めている全曲版の録音が、ややロマンティックではありますが艶やかで明るい弦の音と柔軟性に富んだ表現が魅力的だと思います。

 オリジナル楽器での演奏では、シギスヴァルト・クイケンが率いるラ・プティット・バンドの全曲版が、まずはスタンダードな演奏かと思います。多少型にはまりすぎて堅苦しさを感じさせるところもありますが、軽やかな響きが清涼感を感じさせるくれる録音です。もっと伸びやかで軽快な演奏をというのであれば、トレバー・ピノック指揮のイングリッシュ・コンソート盤が良いでしょうか。

 エウローパ・ガランティやアカデミア・ビザンティナといったイタリアの演奏家による録音は、いかにも南欧というような明るさときらびやかさが印象的です。時として、やりすぎではないかと思えるようなねっちこさがあって、好き嫌いがきっぱりと分かれそうな演奏ではありますが、イギリスやオランダの演奏家の録音とはまた違った面白さがあります。

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 残りの4つのトリオ・ソナタはあまり録音が多くありません。もし全曲を聴きたいのであれば、アカデミア・ビザンティナによる9枚からなるコレッリ作品全集か、分売されているパーセル・カルテットかロンドン・バロックの演奏と言うことになるでしょう。

 選集盤としては、トレバー・ピノック指揮イングリッシュ・コンソートのよる「トリオ・ソナタ集」やトン・コープマンやモニカ・ハジェットらが演奏した、非常に歯切れの良い生命感にあふれる「トリオ・ソナタ集」といった、非常に良質の録音が80年代に出されていたのですが、今は入手が難しいかもしれません。

 比較的最近録音されたトリオ・ソナタの選集盤としては、エンリコ・ガッティ指揮のアンサンブル・アウロラによる、艶やかで透明感に満ちた演奏があります。

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[近代史6] アルカンジェロ・コレッリ『ヴァイオリン・ソナタ ニ短調 ラ・フォリア Op.5,No.12』

最美の音楽は何か? _ アルカンジェロ・コレッリ『ヴァイオリン・ソナタ ニ短調 ラ・フォリア Op.5,No.12』
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http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/916.html

[近代史6] レモ・ジャゾット(Remo Giazotto, 1910年9月4日 – 1998年8月26日)
レモ・ジャゾット(Remo Giazotto, 1910年9月4日 – 1998年8月26日)

レモ・ジャゾット(Remo Giazotto, 1910年9月4日 ローマ – 1998年8月26日 ピサ)はイタリアの音楽学者で、トマゾ・アルビノーニの系統立った作品目録を作成したことでとりわけ名高い。また、アルビノーニのほかに、アントニオ・ヴィヴァルディなどの評伝を執筆した。

1932年から音楽評論家として活動し、1945年から1949年まで『 Rivista musicale italiana 』の編集責任者を担当し、1967年にその新編( Nuova rivista musicale italiiana )の共同編集者に任じられた。1957年から1969年までフィレンツェ大学の、1962年にはサンタ・チェチーリア国立アカデミーの音楽史の教授に就任した。1949年にイタリア放送協会の室内楽の番組編成の監督となり、1966年には欧州放送連合経由の国際放送の監督となった。また、イタリア放送協会のオーディションの審査員長や、作曲家の伝記の編集責任者も務めている。

ジャゾットは、ザクセン国立図書館から受け取ったアルビノーニの自筆譜の断片を編曲したと称して、《ト短調のアダージョ》を出版した。この作品が《アルビノーニのアダージョ》として親しまれるようになると、ジャゾットの名もアダージョの編曲者としてとりわけ有名になった。

ジャゾットは、自分は編曲したのであって、作曲したのではないと言い張ったが、現在では完全なジャゾットの創作であることが判明している。自筆譜の断片が公表されたため仕方なく、ジャゾットはバス声部のみが該当の部分だと述べており、しかもこの曲の版権はジャゾットが持っていたのである。


著作
Il melodramma a Genova nei secoli XVII e XVIII (Genoa, 1941)
Tomaso albinoni, 'musico violino dilettante veneto' (1671-1750) (Milan, 1945)
Busoni: la vita nell opera (Milan, 1947)
la musica a Genova nella vita pubblica e privata dal XIII al XVIII secolo (Genoa, 1952)
peosia melodrammatica e pensiero critico nel Settecento (Milan, 1952)
'Il Patricio di Hercole Bottrigari dimostrato practicamente da un anonimo cinquecentesco', CHM, i (1953), 97-112
Harmonici concenti in aere veneto (Rome, 1955)
La musica italiana a Londra negli anni di Purcell (Rome, 1955)
Annali mozartiani (Milan, 1956)
Giovan Battista Viotti (Milan, 1956)
Musurgia nova (Mila, 1959)
Vita di Alessandro Stradella (Milan, 1962)
Vivaldi (Milan, 1965)
La guerra dei palchi, NRMI, i (1967), 245-86, 465-508; iii (1969), 906-33; v (1971), 1304-52
'Nel CCC anno della morte di Antonio Cesti: ventidue lettere ritrovate nell' Archivio di Stato di Venezia', NRMI, iii (1969), 496-512

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%A2%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%BE%E3%83%83%E3%83%88
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/917.html

[近代史6] レモ・ジャゾット『アルビノーニのアダージョ』
レモ・ジャゾット 『アルビノーニのアダージョ』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/919.html
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/918.html
[近代史6] ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティ(Giovanni Battista Viotti, 1755年5月12日 - 1824年3月3日)
ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティ(Giovanni Battista Viotti, 1755年5月12日 - 1824年3月3日)


ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティ(Giovanni Battista Viotti, 1755年5月12日 - 1824年3月3日)は、イタリアのヴァイオリン奏者、作曲家。


略歴
フォンタネット・ポー生まれ。ヴィオッティは、ガエターノ・プニャーニの下で学んだ。イタリア北西部に位置する都市トリノの宮廷に仕えたが、独奏者として巡回公演も行った。パリへ訪れる前は、師プニャーニと共に公演を行った。パリでヴィオッティは名声を獲得し、1788年に歌劇場「Théâtre de Monsieur」を設立するまで、暫くヴェルサイユで働き、マリー・アントワネットに仕えた。フランス革命の勃発によりオペラを創作不可能になった為、ヴィオッティはロンドンに赴く。ロンドンではハイドンとの親交があった。その後パリへ戻るも、ワイン事業を営む為に演奏活動を断念。結局事業は失敗に終わってしまい、1819年から1821年にかけてパリ・オペラ座の音楽監督を務めた。ロンドンで死去。


影響
ヴァイオリン奏者としてのヴィオッティの影響力は大きい。ピエール・ロードやピエール・バイヨを教え、ルドルフ・クロイツェル(彼らは後に著名な教師となった)に大きな影響を与えた実績から、ヴィオッティは19世紀のフランス・ヴァイオリン楽派の創設の父と呼ばれる。また、弓の製作者フランソワ・トゥルテ(トゥールト)に助言を与え、現在の一般的な弓の形を作り上げた。後にニコロ・パガニーニに影響を与えたアウグスト・ドゥラノフスキ(August Duranowski)も教えている。

主な作品
ヴィオッティの最も重要な作品は、かのベートーヴェンに影響を与えたとされる、29曲から成るヴァイオリン協奏曲だろう。第22番イ短調、第23番ト長調などが有名であるが、とりわけ第22番イ短調(1792)は、上級の学生演奏家を中心に、今日に於いても演奏頻度が極めて高い。

ヴィオッティの作品の多くはヴァイオリンが顕著に活躍し、21曲から成る弦楽四重奏曲ではハイドンの開拓した「均衡の取れた構成」が大きく無視され、第1ヴァイオリンが独奏の役目を果たしている。室内楽曲に於いて彼は、2台のヴァイオリンとバスなど、より伝統的な組み合わせを用いている。他に2曲の協奏交響曲、10曲のピアノ協奏曲、ソナタや歌曲等を作曲。

協奏曲
ヴァイオリン協奏曲第3番イ長調
ヴァイオリン協奏曲第4番ニ長調
ヴァイオリン協奏曲第9番(協奏交響曲変ホ長調に改編)
ヴァイオリン協奏曲第16番ホ短調
ヴァイオリン協奏曲第17番ニ短調
ヴァイオリン協奏曲第19番(シュタイベルト編曲版としてピアノ協奏曲ト短調)
ヴァイオリン協奏曲第20番ニ長調
ヴァイオリン協奏曲第22番イ短調
ヴァイオリン協奏曲第23番ト長調
ヴァイオリン協奏曲第24番ロ短調
2つのフルートのための協奏曲イ長調

室内楽曲
弦楽四重奏曲変ロ長調
弦楽四重奏曲ト長調
フルート四重奏曲ハ短調

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%8B%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/919.html

[近代史6] ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティ ヴァイオリン協奏曲 第22番 イ短調

ヴィオッティ ヴァイオリン協奏曲 第22番 イ短調
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/922.html    
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/920.html
[番外地9] 北海道には絶対に住んではいけない街がある
北海道には絶対に住んではいけない街がある
■自殺率1位 北海道旭川市
2010年01月13日 | 北海道で有名なもの特集
知人に聞いたが、旭川は全国の市町村別順位で自殺率全国1位なんだとか。
▲△▽▼
■自殺率1位 北海道旭川市、特に女子中学生の自殺と教師による児童売春が異常に多い

2010年5月 旭〇西高 飛び降り自殺(他殺の可能性あり) これともう1件別の死亡事故(2名とも女子生徒との噂がある)
2016年    旭〇商業 女子生徒が修学旅行中に列車にひかれて死亡
2018年6月 永〇中学 女子生徒が学校内のトイレで死亡 自殺で処理
2018年7月 永〇中学 女子生徒が中学の敷地内の公園で絞殺される
2018年    永〇中学 女性教師が死亡 上記被害者の生徒のいじめを止めようとしていたとの情報あり
2019年    旭〇工業 定時制の生徒がいじめを苦に自殺?、これも女子生徒か?
2020年7月 旭〇工業 女子生徒がフィール旭川の前で死亡  飛び降り自殺で処理されるが遺体に損傷なし
2021年3月 廣瀬さんの死体が永山中央公園でみつかる、永〇中学とは200メートルほどの距離
2021年5月 旭川大橋で飛び込み自殺 男女1名づつの生徒 学校名は不明

旭川 児童売春・ハニートxップ帝国!

2007年 北鎮小学校  進藤 隆英 (43)
     17歳の高校生に現金渡してホテルでハメハメハ

2009年 北門中学校  前野 晴嘉 (39)
      出会い系で知り合った17歳の高校生に胸や下半身を露出させて撮影

2009年 永山小学校  田村 浩一 (41)
     2006年9月〜2007年6月に当時勤務していた東鷹栖中学の女子中学生とハメハメハし撮影していた

2010年 北門中学校  高井三千博(47) 
     当時教え子だった中学3年生と車でハメハメハ

2011年 旭川工業高校 角田 竜二 (46)
     旭川市の女子高生15歳に14歳の女子中学生を紹介させてその中学生に数万渡してハメハメハ
 
2017年 末広小学校 菅野 博之 (42)
     教師の立場を悪用し、10代の女児の服を脱がすなどの行為を繰り返した
 
2019年 新富小学校 工藤 義之 (57)
     旭川市の MEGAドン・キホーテ旭川店で女性のお尻ナデナデ 当時酒気帯び運転で停職処分中だった

2019年 永山南中学校 畔柳 健 (46)
     17歳の高校性に1万円渡してハメハメハ

2019年 東鷹栖中学校  丸田 文則(50)
     17歳の少女に1万5千円でハメハメハ

2020年 東町小学校  片山 育男 (47)
    令和2年2月、ホテルで18歳未満の女性に対し、現金を供与して性的行為
    令和2年4月、ホテルで別の18歳未満の女性に対し、現金を供与して性的行為
    令和2年5月、ホテルで上記と別の18歳未満の女性に対し、現金を供与して性行為

▲△▽▼

#157 2021/04/28 05:37
過去の女教師が数人自殺してるのはなんで?

#158 2021/04/28 05:41
>>157
母親も rape しようと企む奴らだぞ、女教師も執拗にやられてたんじゃないか

#203 2021/04/29 17:38
「自殺」した女教師は別の泣き崩れてた被害少女を発見した後に執拗な集団ストーカー被害に

#438 2021/05/21 21:29
詳細分かりませんが、過去若い女の先生の自殺も
それと川の自殺未遂の目撃者の女性も急逝

#76 2021/07/05 16:17
2018年にいじめというかおそらく集団強姦にあっていたとおもわれる
女子生徒が2名亡くなっている
そのいじめを止めようとしていた女性教師も自殺している
そりゃスレが立ってないほうがおかしいよね

旭川の事件で何故か報道されていないと言うのがあり、今回の事件もそうだけど隠蔽習慣があるようだ

・中学校女性教師惨殺 公共の場に遺体遺棄 ?年
・中学校女性教師自殺(泣き崩れていた女子中学生を保護した後、集団ストーカーに遭っていた) ?年
・女子中学生自殺 2016年
・女子中学生自殺 2018年

#21 2021/07/03 17:12
>>0
これ…
いつの自殺ですか⁉
最近、Twitterで助けを求めてる旭川の女性教師が居たんだけど。。

他の教師の前で自殺未遂をしても自殺とかを上の方に全く報告すらされずに揉み消されて辛いって伝えて来てました…

心配で、やりとりはしてたけど「もう駄目かも」って伝えて来たっきり何も連絡が取れてません❗
心配しています。。

#52 2021/07/04 11:56
H30年に永山中学で女子生徒2名が
女子トイレで1名自殺、永山中学敷地内にある公園で1名絞め殺ろされてる
この2名の女子生徒に関係するいじめを止めようとしていたとされるのが
この女性教師であると当時言われていたとおもう
ワイもそのような書き込みをみたことあるけど、もうすべて消されてるとおもう
この女性教師の死亡に関しては報道すらされていないはず

まじで触れてはいけないタイプの闇やぞ

#53 2021/07/04 12:01
>>52
自分もその書き込み見たわ。その2つの事件についても4月18日までは普通にネットで情報見れたのに4月19日からは何故かネットで情報ヒットしなくなって一部の書き込みが残っているだけだからな。

#54 2021/07/04 13:14
関連性あるべ

#55 2021/07/04 13:35
>>54
あるな。
絶対にある。
さもなきゃ、書き込みが削除されるなんて、不自然過ぎるだろ?

#57 2021/07/04 13:57
その女性教師が集団ストーカーにあって自殺に追い込まれたといった内容の書き込みを見た気がします

#60 2021/07/04 14:05
ここ旭川に住む人間達って女性を蔑視しているんだろうな💢
多分、道具や性殖器みたいな?

だから壊れたら、また探して調達すればいいんだって感じで。。
確か晒されたガキのスマホにも書いてあったよな❗

誰だったけなぁ。。
誰かが庇ってたような気がするんだが。。

#61 2021/07/04 14:13
村上菜々枝殺したの青笹仁と、小野教諭ダロ、死亡診断書には脳血管肥大と書いてあったが、 他殺、自殺かわからん。

#64 2021/07/04 14:22
旭川市神楽オカ小學校の女性教諭死亡は小野教諭のチンコが主犯、時効になっておりますけど、

#67 2021/07/04 14:31
被害者は村上菜々枝小學校教諭、加害者は小野○一小學校教諭、当時、指導教諭旭川市青x仁、副犯

#80 2021/07/04 16:34
>>65
永〇という場所の闇のこと知っていれば
だれも地元では弁護引き受けないでしょうね道外の弁護士に頼まないとだめ
ほかスレにもありましたが永山で見つかった死体は事件性なしの自殺として処理るようですね
永山中学の敷地内公園で見つかった子だけは絞殺だったけど捜査されたかどうかは不明
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/883.html

[近代史6] パブロ・カザルス(Pablo Casals、1876年12月29日 - 1973年10月22日)
パブロ・カザルス(Pablo Casals、1876年12月29日 - 1973年10月22日)


パブロ・カザルス(Pablo Casals、カタルーニャ語:Pau Casals, 1876年12月29日 - 1973年10月22日)は、スペインのカタルーニャ地方に生まれたチェロ奏者、指揮者、作曲家。カタルーニャ語によるフルネームはパウ・カルラス・サルバドー・カザルス・イ・ダフィリョー(Pau Carles Salvador Casals i Defilló)。

チェロの近代的奏法を確立し、深い精神性を感じさせる演奏において20世紀最大のチェリストとされる[1]。有名な功績として、それまで単なる練習曲と考えられていたヨハン・ゼバスティアン・バッハ作『無伴奏チェロ組曲』(全6曲)の価値を再発見し、広く紹介したことが挙げられる。

早くから世界的名声を築き、ヨーロッパ、南北アメリカ、ロシアなどを演奏旅行して回った。指揮者フルトヴェングラーはチェロ奏者としてのカザルスへ次のような賛辞を残している。「パブロ・カザルスの音楽を聴いたことのない人は、弦楽器をどうやって鳴らすかを知らない人である」。

カザルスは平和活動家としても有名で、音楽を通じて世界平和のため積極的に行動した。


略歴
1876年、スペイン・カタルーニャ地方タラゴナ県アル・バンドレイに生まれる。4歳でピアノを始め、6歳で「マズルカ」を作曲。9歳になると、ペダルに足が届くようになったことでオルガンを始める。11歳でチェロを弾き始める。
1888年、第1回バルセロナ万博の時、バルセロナに移り住む。
1888年から1893年まで、母の勧めでバルセロナ市立音楽院に入学し、チェロ、ピアノ、音楽理論、作曲などを学ぶ。チェロはホセ・ガルシアに、作曲は当時の音楽院長であったホセ・ロドレダに師事する。入学から半年ぐらいして、町はずれのカフェ・トストで働くようになった。カザルスはまだ少年であったが、チェロの名手として評判になり、遠方からも客が聞きに来るようになった。
1890年、バルセロナの楽器店でバッハの無伴奏チェロ組曲の楽譜に出会う。母の勧めでマドリードに居を移す。スペイン王室の庇護を受けるようになる。
1896年、母とブリュッセル、パリと渡り歩いた後、20歳の時バルセロナの音楽学校で教え始める。以後はバルセロナを拠点に、パリやニューヨークにも住みながら、世界を演奏旅行した。
1899年、パリでデビュー。
1904年、バッハの無伴奏チェロ組曲を初めて公開演奏する。
1905年、アルフレッド・コルトー(ピアノ)、ジャック・ティボー(ヴァイオリン)との三重奏団(カザルス三重奏団)を結成。
1908年、コンセール・ラムルー管弦楽団の演奏会に指揮者兼ソリストとして登場。このときが指揮者活動の始まりとみられる。
1919年、第一次世界大戦の影響により、カタルーニャに戻る。
1931年、53歳、カタルーニャ自治政府誕生を祝う記念式典(ムンジュイック宮殿、現カタルーニャ美術館)には、自らのオーケストラと地元の合唱団とともに、ベートーベンの第九を指揮した。それまでどの選挙でも投票しなかったカザルスは、この時には自治政府首班フランセスク・マシア(1859年 - 1933年)に一票を投じた。
1939年、スペイン内戦のため、フランスへ亡命。スペインとの国境に近いプラード(プラド)に隠棲。
1945年、6月から演奏活動を再開。しかし、各国政府がフランコ政権を容認したことに抗議して11月から演奏活動を停止。
1950年、ヴァイオリン奏者アレクサンダー・シュナイダーの説得によってカザルスを音楽監督とするプラド音楽祭が開催される。
1955年、本拠地をプエルトリコに移す。プエルトリコは、カザルスの母、また妻マルタの故郷である。
1960年、自作カンタータ『まぐさ桶』を初演。
1961年、弟子の平井丈一朗[2]のために来日。東京交響楽団、京都市交響楽団を指揮。文京公会堂でスズキ・メソードで学ぶ児童400人の演奏を聴き「世界は音楽で救われるだろう」と述べる。[3]
1971年10月24日(国連の日)、ニューヨーク国連本部にて演奏会、国連平和賞が授与される。
1973年、心臓発作によりプエルトリコで死去。遺言によって、遺体は生地ベンドレイの墓地に埋葬された。


チェロ奏法の改革
カザルスは12歳でバルセロナの市立音楽院でチェロを学ぶことになるが、ホセ・ガルシアから教授されたチェロ奏法に当初から違和感を抱き、独自の奏法の追究を始めた。当時のチェロ奏法は、両ひじを両脇につけるという窮屈なものであった。この状態で、右手は手首を持ち上げ加減にして前腕だけで弓を扱い、左手は指の間隔を広げずにすべらせて音程移動させていた。このような奏法は、ヨーゼフ・ヨアヒム一門によるヴァイオリン奏法を機械的に模倣したものと考えられている。

カザルスは、右手を脇から自由にして弓による表現性を広げ、左手も脇から離し、指の間隔を拡張させて同じポジションで半音広く弾くことができるように改良した。このとき、カザルスは、アンリ・ヴュータンやウジェーヌ・イザイなどフランコ・ベルギー派のヴァイオリン奏法を参考にしたともいわれる。これらの奏法の確立には11年から12年を要した。カザルスは、自身では奏法革命とか改革という表現は使っていない。名技性ではなく、あくまで音楽的な完全性をめざすために必要だったと述べている。

この奏法の改革がなければ、20世紀のチェロ無伴奏作品のほとんどが作曲されることはなかっただろうと言われる。

この理論の初期の実践者に、ギレルミナ・スッジアがいる[4]。


「表現する音程」
カザルスの演奏は、シャープ記号(半音高く)の音が半音より高く、フラット記号(半音低く)の音がより低い傾向があると指摘されたり、音程が不正確で現代と比べれば技巧的には前時代的などと批判的に指摘する者もいる。しかしカザルスは、音程も表現の手段であり、同じ音階でも上昇するときと下降するときでは異なる音程をとる必要があると語っている。したがって、カザルス自身はそのことを十分承知の上で、表現上あえて音程をずらしていたのである[5]。


カザルスの政治姿勢
カザルスは、スペイン内戦が勃発するとフランスに亡命し、終生フランコ独裁政権への抗議と反ファシズムの立場を貫いた。このことは、ナチス・ドイツに迎合する姿勢を示していたコルトーとの決別[6]、カザルス三重奏団の解散へとつながった。

また、スペイン内戦を避けて1939年にプラドへ移り、第二次世界大戦後の1945年に演奏活動を一時的に再開するが、各国政府がフランコ政権を容認する姿勢に失望し、公開演奏停止を宣言する。この間、多くのチェリストがカザルスのレッスンを受けるためにプラドを訪れた。この時期カザルスに師事したチェリストに、モーリス・ジャンドロン、アンドレ・ナヴァラら、日本人では岩崎洸、佐藤良雄、平井丈一朗、上田真二らがいる。

1950年代後半からはアルベルト・シュヴァイツァーとともに核実験禁止の運動に参加した。


プラド音楽祭の誕生
1947年、ヴァイオリニストのアレクサンダー・シュナイダー[7]がカザルスを訪ね、アメリカでの演奏を申し出たがカザルスはこれを断った。手ぶらで戻ってきたシュナイダーはカザルスと親交があるミェチスラフ・ホルショフスキと相談した。カザルスを引っ張り出すのは無理でも、音楽家がカザルスのところへ集まれば演奏会は可能だと判断し、1950年、シュナイダーはアメリカ・コロンビア社の資金協力を得て、プラドでカザルスを音楽監督としたバッハ音楽祭を開くことを提案し、カザルスの説得に成功した。プラド音楽祭の誕生であった。音楽祭の模様は、コロンビア社によってLP録音された。プラド音楽祭は1950年から毎年開かれたが、コロンビア社の資金難や意向、カザルスたち演奏家同士の意向が衝突するなど、次第に運営が困難になっていく[8]。1957年にカザルスがプエルトリコに本拠を移して以降は、この地でカザルス自身が音楽祭を開催した。1960年からは、カザルスはルドルフ・ゼルキンが主宰するマールボロ音楽祭に参加し、演奏家・指導者としてオーケストラを指揮・録音するようになる。このときのマールボロ音楽祭には、日本人ヴィオリストの今井信子やオーボエの鈴木清三も参加している。


鳥の歌
カザルスがカタルーニャ民謡『鳥の歌』(El Cant dels Ocells)を演奏し始めたのは、第二次世界大戦が終結した1945年といわれる。この曲には、故郷への思慕と、平和の願いが結びついており、以後カザルスの愛奏曲となった。

1971年10月24日、カザルス94歳のときにニューヨーク国連本部において「私の生まれ故郷カタルーニャの鳥は、ピース、ピース(英語の平和)と鳴くのです」と語り、『鳥の歌』をチェロ演奏したエピソードは伝説的で、録音が残されている[9]。

1996年に55歳で病死した日本のチェリスト徳永兼一郎が、死を目前にホスピスの小コンサートでこの曲を弾き、生涯最後の演奏とした[10]。


カザルスの楽器
弦楽器の名器といえば筆頭に挙げられるストラディヴァリウスだが、カザルスは「自分にはもったいない」「(音色が)自分には合わない」といって使わず、マッテオ・ゴフリラーが晩年の1733年に製作した楽器を愛用した。

カザルスの没後、このゴフリラーを貸与されたチェリストにアントニオ・メネセス、アンヌ・ガスティネル、アミット・ペレドがいる。その他、カザルスコンクール優勝者のチェリストオンツァイ・チャバもゴフリラーを愛用しており、現代のカザルスとも評されている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%82%B6%E3%83%AB%E3%82%B9
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/921.html

[近代史6] パブロ・カザルス カタルーニャ民謡 『鳥の歌』

パブロ・カザルス カタルーニャ民謡 『鳥の歌』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/927.html  
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/922.html
[近代史6] パブロ・カザルス(Pablo Casals、1876年12月29日 - 1973年10月22日) 中川隆
1. 中川隆[-16045] koaQ7Jey 2021年10月09日 17:24:12 : yCF5w5sEnQ : TEI1cGhkekR4TlE=[8]
カザルス (1876年12月29日 - 1973年10月22日)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/676.html

カザルス・トリオ (コルトー・カザルス・チボー)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/665.html
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/921.html#c1

[近代史4] 財務次官 矢野康治は経済が全くわかっていない
財務次官 矢野康治は経済が全くわかっていない


第290回 緊急生配信 国家財政が破綻するの嘘




http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1708.html

[近代史4] 財務次官 矢野康治は経済が全くわかっていない 中川隆
1. 中川隆[-16044] koaQ7Jey 2021年10月09日 18:57:19 : yCF5w5sEnQ : TEI1cGhkekR4TlE=[10]
暗雲
2021-10-08
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12702491664.html

 昨夜の地震が、意外に大変なことになっているので驚いています。電車もタクシーも混雑しているため、今日の午前中は混乱が続くのでしょう。
 さて、岸田内閣ですが、鈴木財相が「PB黒字化に取り組む」と発言。早くも(予想通り)暗雲が立ち込めてきました。

『2025年度のPB黒字化達成へ「しっかり取り組む」=鈴木財務相
 鈴木俊一財務相は7日、基礎的財政収支(プライマリーバランス、PB)の2025年度黒字化目標の達成に向けて「しっかり取り組む」との考えを述べた。ロイターなど報道各社のインタビューで語った。
 歳出改革を進めるなどして「質の高い2022年度予算を編成する」との意欲も示した。今後策定する追加経済対策の規模には言及しなかった。(後略)』

 岸田総理は、
「公的価格(公共サービス従事者の所得)の引き上げ」
「財政単年度主義の是正」
「経済安全保障強化の投資」
 といった、「長期の財政支出」が必要な政策をか掲げています。


 実は、上記の長期の財政支出とPB黒字化を両立させる術はあるのです。すなわち、
「公的価格引き上げで支出が増えたなら、他を削ればいい」
 と、トレードオフをやればいい。

 とはいえ、何を削るのでしょう? 社会保障? 公共投資? 防衛費? 科学技術予算? 教育? 地方交付税交付金? 削れる予算など、ないのです。

 というわけで、岸田総理の「PB黒字化目標を撤廃せず、公的価格引き上げ等、長期の予算拡大を進める」スタイルは、早晩、袋小路に行き着くことになります。

 あくまで予想ですが、
「PB黒字化目標を残し、財政拡大系は諦める」
 方向になるでしょう。


 岸田内閣が発足し、確かに露骨な「竹中的」な新自由主義は排除されるのかも知れませんが、財務省はむしろ攻勢を強めてきています。

 何と、矢野財務次官までもが、参戦。

『「このままでは国家財政は破綻する」矢野康治財務事務次官が“バラマキ政策”を徹底批判
「最近のバラマキ合戦のような政策論を聞いていて、やむにやまれぬ大和魂か、もうじっと黙っているわけにはいかない、ここで言うべきことを言わねば卑怯でさえあると思います。
 数十兆円もの大規模な経済対策が謳われ、一方では、財政収支黒字化の凍結が訴えられ、さらには消費税率の引き下げまでが提案されている。まるで国庫には、無尽蔵にお金があるかのような話ばかりが聞こえてきます」
 そう語るのは財務省事務方トップの矢野康治事務次官(58)。10月末の総選挙に向けて与野党ともにバラマキ合戦のような経済政策をアピールするなか、財源も不確かな財政楽観論を諫めようと、「文藝春秋」11月号に論文を寄稿した。財務事務次官と言えば、霞が関の最高ポストのひとつ。在任中に寄稿するのは異例のことだ。(後略)』

 大和魂と言うのは、あれでですか? 間違った方針に固執して、国民を殺すことなんですか。

【日本の国債発行残高の推移(兆円)】
http://mtdata.jp/data_77.html#kokusai

 矢野は、
「先ほどのタイタニック号の喩えでいえば、衝突するまでの距離はわからないけれど、日本が氷山に向かって突進していることだけは確かなのです。この破滅的な衝突を避けるには、『不都合な真実』もきちんと直視し、先送りすることなく、最も賢明なやり方で対処していかねばなりません。そうしなければ、将来必ず、財政が破綻するか、大きな負担が国民にのしかかってきます」
 と、逃げを打っていますが、すでに20年度の国債発行残高は、91年度の5.3倍になっているんだわ。それで? 何か問題起きた?


 タイタニックでも何でも構いませんが、とりあえず「いつ」氷山に衝突するのか断言しろよ。


 「距離は分からない」って何だよ。そんなに適当なのか。


 まあ、適当なのですが、このままで岸田内閣は、新自由主義の転換や格差是正をお題目に「増税路線」に突っ込むことになると思います。


 容赦なく、正しく、批判しましょう。


 特に、野党の皆さん。先日も書きましたが、
「岸田総理の理念は素晴らしいと思いますが、PB黒字化目標を堅持する以上、達成できないですよね。要するに、絵に描いた餅を掲げて総裁選を戦ったんですか? つまり、嘘をついたんですか?」
 と、容赦なく追及してくださいませ。

https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12702491664.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1708.html#c1

[番外地9] 民間銀行の信用創造について低レベルの誤解をしている人が多い
三橋貴明の話はすべてデタラメだよ _ 貨幣のプール論は正しい _ 銀行は国民の預金で国債を買っている
民間銀行の信用創造について低レベルの誤解をしている人が多い
民間銀行は自己資金ゼロでも、顧客に借用書を書いてもらって、融資金額を顧客の銀行預金として記帳するだけでお金が無から生まれると思っているアホが多過ぎる。
そもそも民間銀行が自己資金も持っていないのに顧客に融資したとしたら、顧客が自分が借りた金を日銀券(円紙幣)で引き出したいと言った時に、全く金を持っていない民間銀行が顧客に日銀券を渡せる訳がないですね。小学生でもわかる道理です。

信用貨幣論というのは要するに、
貨幣と言っても、マネタリーベース、マネーストック、銀行預金、国内で商品購買に使うお金、国内で不動産・株式購買に使うお金、為替交換して外国に投資するお金等 何種類もありますが、

・政府の信用創造: 国債と硬貨国債を発行、国債は政府が発行する有利子貨幣、硬貨は政府が発行する無利子貨幣

・日銀の信用創造: 日銀当座預金と日銀券(円紙幣)を発行、日銀当座預金は有利子貨幣で、日銀は民間銀行から国債を買って、民間銀行の日銀当座預金口座に日銀当座預金を信用創造し、マネタリーベースを増やす。
日銀券(円紙幣)は日銀が発行する無利子貨幣で、日銀は民間銀行の要請で日銀当座預金と日銀券(円紙幣)を交換する。

・民間銀行の信用創造:、銀行預金は民間銀行が発行する有利子貨幣で、民間銀行は一般人に融資して民間銀行の口座に銀行預金を信用創造し、マネーストックを増やす。民間銀行が日銀券(円紙幣)を持っていてもマネーストックにはならない。

お金の又貸し説は日銀当座預金では正しい

民間銀行の信用創造というのは民間銀行が自分の持っている日銀当座預金口座の日銀当座預金を日銀券に変えるという意味です。日銀当座預金口座は政府と民間銀行しか作れないので、民間銀行に借金しないと日銀券を発行してもらえないのです。
それが、借金でお金を作る、という意味です。
ゼロからお金を作るのではなく、日銀当座預金を日銀券に変えているだけです。 銀行が顧客に金を貸せるのは、貸す金額と同額の日銀当座預金を持っている場合だけです。

民間銀行の持っている日銀当座預金は、顧客から銀行預金として預かっている日銀券を日銀でデータに変えて保管したものです。民間銀行の融資というのは顧客から銀行預金として預かっているお金を又貸ししているだけです。

 銀行は自己資本だけではなく、お金を借りてそれをさらに融資するという「又貸し」を行っています。銀行の最大の他人資本は「預金」であり、この他に、他の金融機関からの借り入れや社債を発行して集めたお金、さらには中央銀行から借りたお金なども他人資本となります。融資が焦げ付いた場合、預金などの他人資本に手を付けるわけにはいかないので、銀行には一定水準以上の自己資本を持つことが義務付けられています。 国際的な業務を営む銀行の場合、自己資本比率=自己資本÷融資額(リスクアセット)×100 の下限は8%、国内業務に限っている場合には4%という「自己資本比率規制」があり、これを維持することがBIS(国際決済銀行)によって義務付けられています。

預貸率 : 銀行の預金に対する貸出金の比率
日銀によると、2020年5月の国内銀行の預貸率は63.7%で、2カ月連続で過去最低を更新した。新型コロナウイルスの感染拡大を受け、政府が多額の給付金を支給したり企業が手元資金を厚くしたりしたため、預金が急増した。銀行も貸し出しを増やすが、預金の増加幅を下回る。5月の国内銀行の預金平均残高は前年同月比6.2%増の772兆535億円だった。


一方、日銀は買いオペで国債を買って日銀当座預金を信用創造できますが、マネタリーベースを増やすと貨幣価値が下がってしまい、マネタリーベースすべてを使って買えるものの総量はマネタリーベースを増やしても変わりません。
日銀当座預金の信用創造というのは単に貨幣価格の単位を変えただけです。
いままで1万円札で10ケ買えていたものが、貨幣量を10倍にすると貨幣価値が1/10になって、1万円札で1ケしか買えなくなります。 日銀が信用創造で円貨幣を増やしても、貨幣の単位が変わるだけで経済には(長期的には)影響しません。

民間銀行が一般人に融資して民間銀行の口座に銀行預金を信用創造しても、それは民間銀行が元々日銀当座預金口座に持っている日銀当座預金の一部を一般人専用にしているだけで、お金が増えた訳ではありません。民間銀行の信用創造というのは日銀当座預金を日銀券(円紙幣)に変えてマネーストックが増えた場合だけです。但し、マネーストックが増えても国内で商品購買に使われなければ物価は上がりません。

お金が増えるのは、買いオペで日銀が国債を買い取って、その代金を日銀当座預金口座に信用創造して、マネタリーベースが増えた場合だけです。マネタリーベースが増えると貨幣価値は下がりますが、物価があがる訳ではありません。

日本人の給料は30年前と変わらないので、国内で商品の購買に使われる総額も同じで、従って国内物価は上がりません。金利も変わりません。円の貨幣価値が下がったというのは輸入物価やゴールド・原油・鉄鋼・穀物・大豆などの商品相場が上がったという事で、国内の消費者物価や金利が上がった訳ではないんですね。

▲△▽▼


古典派経済学の貨幣数量説・貨幣の中立説
貨幣中立説は、歴史的には大航海時代以後にスペインなどが重金主義を採用したことによる反動ともいえる。
重金主義とは、貿易などを通じて貴金属や貨幣を蓄積することにより、国富を増すことを目指す経済思想や経済政策の総称。

一方、古典派経済学の貨幣中立説は貨幣量の増減は物価にだけ影響を与え、生産活動や雇用の増減などには影響を与えないとする説。 中立説によれば、貨幣は社会的な分業や効率性をもたらす以上の役割はない。経済活動の本質は物々交換であり貨幣はその仲介を行っているにすぎず、貨幣量の増減は貨幣錯覚による混乱をもたらすが国富・国民経済の観点では中立的であり、国富の増大には貨幣量の拡大ではなく生産・供給能力の増強によるべきとした。

貨幣数量説は貨幣の中立性を前提にしており、物価の乱高下は流通貨幣量の管理によって押さえ込むことができるとする。管理通貨制度が定着する以前は、社会に存在する貨幣の総量は誰にも計測できず、金塊が採掘されるなり、難破などの事故により貴金属が喪失するといった確率現象や、貯蓄のために金塊を退蔵するといった個々人の経済行動は、物価に対して深刻な影響を与える要素であった。

ルーズベルトやニューディーラーは古典派経済学・マルクス経済学の系統で、ソ連の5か年計画を真似してニューディール政策を行っています。ルーズベルトやニューディーラーは勿論 緊縮財政派です。
長期的には貨幣の中立性は成立し、金融政策は実体経済に影響を与えず、ただ名目変数を動かすだけであるという点では、新古典派経済学、マネタリスト、ニュー・ケインジアンの見解は一致しています。

一方、ケインズやMMT学派は古典派経済学・マルクス経済学の貨幣数量説・貨幣の中立説を否定して、金融緩和や財政出動が経済を変えると思っているのですね。 1970年代までは欧米政府はすべてケインズ政策に基づいた経済政策を行っていましたが、悉く失敗したので。経済政策をハイエクの自由主義経済と財政均衡主義に変えたのです。
しかし、三橋貴明さんはそういう経済の流れを全く知らず、重商主義とケインズ・MMT学派と新自由主義の三つしか考えていないのです。この現代に既に大失敗したケインズ政策をもう一度繰り返す事に意味は無いのですけどね。
5月の国内銀行の預金平均残高は前年同月比6.2%増の772兆535億円だった。
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/884.html

[近代史6] ヘンリー・パーセル(Henry Purcell、1659 - 1695)
ヘンリー・パーセル(Henry Purcell、1659 - 1695)

イギリス最高の天才クラシック作曲家は、エルガーやブリテンではなく、パーセルなのだそうだ(ヘンデルは帰化人だから除く)。劇音楽作曲家として非常に評価が高い。自分も確かに天才性は感じられる。


ディド(ダイドー)とアエネアス(エネアス)
4.0点
オペラではなく音楽として聴いただけだが、後半は素晴らしい効果をあげていた。

4声のソナタ集
3.5点
バラエティ豊かで、華やかだったりうら悲しかったり、いろいろな表情を見せてくれる。形式も各国のものを取り入れて豊かなように聞こえた。

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9


ヘンリー・パーセル(英:Henry Purcell、1659年9月10日? - 1695年11月21日)は、バロック時代におけるイングランドの作曲家。イタリアやフランスの影響を受けつつ独自の音楽を生み出した、最も優秀なイギリス人の作曲家の1人として知られている。弟にダニエル・パーセルがいる。

生涯に残した曲はおよそ800曲以上あるが、どれもエリザベス朝時代のイギリス音楽が持つ諸要素と彼が取り入れたイタリア・フランスの風が巧く融合し、自由奔放な彼独特の世界観を醸し出している。


生涯

イングランド共和国のウェストミンスターに生まれる。少年期については資料が残されていないため、はっきりしないが、1667年前後(おそらく9歳か10歳の頃)に王室礼拝堂に付属する少年聖歌隊の一員となり、聖歌隊長のヘンリー・クック(Henry Cooke)とペラム・ハンフリー(Pelham Humfrey)から音楽の指導を受けたという。そこでは自国の作曲家の作品をまず学び、ハンフリーのフランスとイタリアから影響を受けた音楽様式からパーセルは多くを吸収したらしい。

1673年に15歳で変声期を迎えたため聖歌隊を退いて、同年6月に王室の楽器管理を担当していたジョン・ヒングストン(John Hingeston)の助手として1年間ほど務めた。翌1674年にはウェストミンスター寺院のオルガン調律師に任じられ、同時にオルガニストとして務めていたジョン・ブロウに師事している。また写譜係をしながら、ウィリアム・バード、オーランド・ギボンズ、トマス・タリスなどの作曲家たちの作品の研究していたが、これらを通して古い音楽の伝統を身に着けていた。なお作曲はこの頃からしていたとされるが、初期の作品はほとんど紛失している(ごくわずかに残されている歌曲とアンセムはこの時期のもの)。

1677年にマシュー・ロックが没し、18歳のパーセルは彼の後任として王室の弦楽合奏隊の専属作曲家(兼指揮者)に就任する。この弦楽合奏隊はチャールズ2世が、フランスのルイ14世の「24のヴァイオリン(ヴァンカトル・ヴィオロン)」に倣って1660年の王政復古の後に宮廷に設置したもので、音楽を好んでいたチャールズ2世がパーセルの才能を見抜いて抜擢したとされる。1679年にはブロウの後任としてウェストミンスター寺院のオルガニストに任命され、年俸とともに家も貸与されるなど、音楽家としてのキャリアを本格的に始めた時期でもあった。

1680年、ロンドンに帰還したチャールズ2世のための祝賀音楽をはじめとする一連の歓迎歌やオードを作曲し、また同時に祝祭音楽や劇場で上演されるための付随音楽、宗教曲を含む合唱曲などの作曲を通して名声を高め、付随音楽『テオドシウス』(Theodosius,Z.606)などの最初の大作が生まれたのもこの時期であった。1682年、王室付属礼拝堂の3人のオルガン奏者の一人に選ばれ、1683年1月にはヒングストンの死に伴い後任として王室の楽器管理職に就任するなど要職を兼務し、彼の名声はさらに高まっていき、多忙ながらも充実な生活を送っていた。この年に出版された作品には、12曲からなる「ファンタジア」と題されたヴィオールのためのトリオ・ソナタや鍵盤楽曲(主にハープシコード)『音楽のはしため』などがある。

1689年、バロック盛期のオペラの最高傑作として位置づけられるオペラ『ディドとエネアス』(Dido and Aeneas,Z.626)が12月にロンドンにて初演され、限られた手法で劇的な効果を上げた。1690年以降は一連の舞台作品の創作に力を注ぎ、セミオペラ『アーサー王』(1691年)、『妖精の女王』(1695年)、『アブデラザール、またはムーア人の復讐』(1695年)など40曲以上を手がけているものの、厳密な意味の歌劇は『ディドとエネアス』一作だけにとどまった。

1695年11月21日、体調不良ののち36歳で死去。死因は後世の研究者が推察[1][2]しているものの、詳細は不明である。師のブロウはその死を悼んで『ヘンリー・パーセルの死に寄せる頌歌』を作曲し、パーセルが務めていた宮廷の楽器管理の後を継いでいる。墓所は職場であったウェストミンスター寺院。

パーセルは、音楽業を世襲させるつもりであったらしいが、6人の子供たちのうち4人は長命に恵まれず次々代のエドワード・ヘンリー・パーセル(英語版)で途絶えている。早世のため後継者に恵まれず、作風が孤立しているばかりか批判的全集の発足すら遅れた恵まれない作曲家であったが、死後の新古典主義時代から急速に再評価され現在に至る。

主要作品
パーセルの作品目録番号は、アメリカの音楽学者フランクリン・B・ツィンマーマン(Franklin B.Zimmerman)によって作成された「Z番号」である。番号は4つに分類され、「ZN」は新発見された曲、「ZT」は鍵盤楽器用の編曲、「ZD」は疑作、「ZS」は偽作とそれぞれ分類している。


パーセル全集は21世紀に入っても編集作業が続いており、いまだ完成していない[3]。

舞台作品

歌劇

ディド(ダイドー)とアエネアス(エネアス)(Dido and Aeneas) Z.626
全3幕のオペラ。アリア『私が土の下に横たわるとき』が有名。

予言者、またはダイオクリージャン(Prophetess or The History of Dioclesian) Z.627
4幕のセミ・オペラ。

アーサー王、またはブリテンの守護者(King Arthur or The British Worthy) Z.628

妖精の女王(The Fairy-Queen) Z.629

インドの女王(The Indian Queen) Z.630
未完成に終わり、弟のダニエルが補筆完成している。

テンペスト、または魔法の島(The Tempest or The Enchanted Island) Z.631

劇付随音楽

アブデラザール、またはムーア人の復讐(Abdelazer or The Moor's Revenge) Z.570
第2曲「ロンドー」が、ベンジャミン・ブリテンの『青少年のための管弦楽入門』で変奏曲主題として使われている。

道化師の出世、またはダンスタブルの3人の公爵(A Fool's Preferment or The Three Dukes of Dunstable)Z.571

キルケー(Circe)Z.575

ドン・キホーテの滑稽な物語(Don Quixote) Z.578

二枚舌(The Double Dealer)Z.592

ほどかれたゴルディウスの結び目(The Gordian Knot Unty'd) Z.597

アテネのタイモン、または人間嫌い(Timon of Athens)Z.632

器楽作品

シャコンヌ ト短調 Z.730(1680年頃)
4つのヴィオールのための作品だが、現在では弦楽で演奏される。ブリテンは1948年に編曲を行っている。
3声のファンタジア Z.732~734
4声のファンタジア Z.735~744
いずれもヴィオール(3声は3台、4声は4台)のための作品。1680年頃出版。
ファンタジア『イン・ノミネ』Z.746(6つのヴィオールための)
3声のソナタ集 Z.790~801(1683年出版)
4声のソナタ集 Z.802~811(1697年出版)
いずれも2つのヴァイオリンと通奏低音のための作品。「4声のソナタ集」は実際は3声であるが、通奏低音を2声部と考えて4声としている。Z.810は「黄金ソナタ」の名称がある。
トランペット・ソナタ第1番 ニ長調 Z.850(1694?)
トランペット、2つのヴァイオリン、ヴィオラ、通奏低音のための


鍵盤作品(ハープシコード、オルガン)
『音楽のはしため』第2部(The sebond part of Musick's Hand-maid)
全12曲、1689年出版。『音楽の侍女』とも。
ハープシコード、またはスピネットのためのレッスン選集(A choice collection of Lesson)
8つの組曲(Z.660 - 663,Z.666-669)を含む。
4つのヴォランタリー Z.717-720(オルガンのための)
詩篇第100に基づくヴォランタリー イ長調 Z.721(オルガンのための)


宗教作品・合唱作品

アンセム
アンセム『醒めよ醒めよ主の腕よ、力を着よ(Awake, put on thy strength)』 Z.1
アンセム『願わくば神起きたまえ、その仇を散らしたまえ(Let God arise)』 Z.23
アンセム『わが愛する者語りて(My beloved spake)』 Z.28
アンセム『神よ、汝の義もまたいと高し(Thy righteousness, O God, is very high)』 Z.59(未完)
アンセム『汝に向かって叫ぶ(Unto Thee will I cry)』 Z.63

頌歌(オード)
来たれ、汝ら芸術の子よ(Come Ye Sons of Art)Z.323
愛の女神、必ずや盲目たらん(Love's goddess sure was blind)[4] Z.331
その昔、勇者は故郷にとどまるを潔しとせず(Of old when heroes thought it base) Z.333
嬉しきかな、すべての愉しみ(Welcome to all the pleasures)[5] Z.339

その他
カノン・アレルヤ Z.101
カノン『主よ、我を憐れみたまえ』 Z.109
アレルヤ ハ長調 Z.110
6つのチャント(聖歌) Z.120~125


歌曲・二重唱・キャッチ
音楽が愛の糧であるなら(If music be the food of love) Z.379
キャッチ『酒飲みは不死身である』(He that drinks is immortal) Z.254
讃歌『いま太陽はその光を覆い』(Now that the Sun hath veil'd his Light) Z.193
『夕べの讃歌』(An evening hymn on a ground)の名でも知られる。


備考
同年代の作曲家ジェレマイア・クラークの『デンマーク王子の行進曲』は、かつてパーセルの作品(『トランペット・ヴォランタリー』の名で知られていた)として誤解されていた。これは指揮者のヘンリー・ウッドがオルガンとトランペットのために編曲した際に「パーセルの作品」として紹介したためである(もっともウッド自身もクラークの作とは知らなかった)。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%BB%E3%83%AB
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/923.html

[近代史6] ヘンリー・パーセル『劇付随音楽 アブデラザール、またはムーア人の復讐 Z.570』
最美の音楽は何か? _ ヘンリー・パーセル『劇付随音楽 アブデラザール、またはムーア人の復讐 Z.570』
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/671.html

ヘンリー・パーセル アブデラザール組曲 Z.570
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/939.html


http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/924.html

[番外地9] 利子付き国債を発行すると、その利子を返す為に新規国債を次々に発行しないといけなくなる 中川隆
2. 中川隆[-16043] koaQ7Jey 2021年10月10日 01:22:00 : VTbZ6RHCZM : NlFtS1V1TTRQb2s=[1]
利子付き国債を発行すると、その利子を返す為に新規国債を次々に発行しないといけなくなるので、ネズミ講と同じです。 失業云々とは関係ありません。完全雇用になっても国債の利子を返す為に、新規に国債を発行しなければいけないというのが現在の状況です。 だから財務省は財政破綻、財政破綻と大騒ぎしているのです。  
貨幣のプール論は正しい。本来の貨幣のプール論というのは
税金で徴収した以上の金を政府が使うと、その分はインフレ税という形で通常の税額に加えて後から追加徴収する事になる
という意味です。何処の国でも国債発行でマネーストックを増やして意図的にインフレにしています。つまり、国民が気付かない様にこっそり金を取って政府資金を増やしているのです。
サルの朝三暮四の話と同じ騙しの手口ですね。 三橋信者みたいな 右翼・保守はアホだから簡単に騙せるんです。

日本政府が使える金は税金で徴収する金額だけ
日本政府が国債を発行すると日本国内で流通する貨幣が増えるので貨幣価値が下がります。

円の貨幣価値が下がると
・日銀の借用証である日銀紙幣の実質価値が下がる。
・政府の借用証である日本国債の実質価値が下がる。
・銀行預金額の実質価値が下がる。
・労働者の賃金の実質価値が下がる。

従って、日本政府が公共事業をやる為に国債を発行すると、労働者の持って居る金の一部を日本政府に取られた事になります。
つまり、日本政府が財政支出する元金は税金の他に、貨幣価値が減少した為に労働者から日本政府に移転した金額も含まれます。

政府が財政出動しなければ税金だけで政府支出を賄っていたのが、余計な公共事業をやった為に貨幣価値の減少した分(所謂インフレ税)も加算されます。
即ち、政府が使える金額は (税金 +インフレ税) で徴収した金額 になります。
つまり貨幣のプール論は正しいのです。

▲△▽▼

GDPとは国内総生産、つまり国内で産み出された付加価値の総額です。
それが3割減したのに株価が V字回復する不思議。

以下は金価格。
このように実は昨年の7月頃からずーっと上がりっぱなし。

https://golden-tamatama.com/wp-content/uploads/2020/09/WS20200707AZCLOPUY000786.jpg

で、以下が金価格に換算した日経平均です。
実は、昨年9月から下がりっぱなし。
https://golden-tamatama.com/wp-content/uploads/2020/09/WS20200707AZCLOPUY000788.jpg


NYダウゴールド換算のチャート
https://realtime-chart.info/%E8%AA%AC%E6%98%8E/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%88/NY%E3%83%80%E3%82%A6%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E6%8F%9B%E7%AE%97.html

日経平均はゴールド何グラム?

https://realtime-chart.info/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E6%A0%AA%E4%BE%A1/%E6%97%A5%E7%B5%8C%E9%87%91%E6%8F%9B%E7%AE%97%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0.html

と言う訳で、庶民が気づかないうちに通貨は紙屑化しつつある。
たった今、ステルス紙屑化が進行中なのでした。

で、富裕層はせっせと現金を物に変えつつある。

多分ですが、富裕層の換金ならぬ換物が済んでから、
バーチャルリアリティ市場を崩壊させるのでしょう。
https://golden-tamatama.com/blog-entry-dow-800-down.html

因みに、金、原油、穀物価格, 商品相場は何でも大体同じ値動きです、ゴールド価格のデータが一番入手し易いのでゴールドを使っただけです。:

世界最大のヘッジファンド: 量的緩和で人々はリッチになったような気がする
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10616

世界最大のヘッジファンド: 紙幣の刷り過ぎでドルが暴落するとき
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/11685

世界最大のヘッジファンド: ドルは既に紙くずになっている
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10645

インフレ相場で個人投資家でもコモディティに投資する方法
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/12900

量的緩和で上がらなかった物価が現金給付で高騰する理由
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/13296


▲△▽▼

本当の貨幣のプール論というのは
税金で徴収した以上の金を政府が使うと、その分はインフレ税として徴収する事になる
という意味なんですね。
正規の税金以上は払いたくなければ国債発行はNGという事。
国債発行すると貨幣価値が下がって銀行預金と実質賃金は目減りします。
更に、国債発行で増えた金は、たとえ公共事業に使ったとしても、最終的にはすべて資本家のものになります。
つまり、国債発行すると貧富の差が拡大、実質賃金が下がり、内需が減ってデフレが深刻化します。

「放漫財政」で日本は今危機的な状況にあります。 プラザ合意以降に日本が「放漫財政」に変わった経緯は大西つねきさんが何時も指摘しています:

民間銀行はもうこの世に必要ない(Live配信2021/1/12)
https://www.youtube.com/watch?v=a3y34SLGKlo

大西さんが何度も繰り返し説明している様に、プラザ合意後は民間人が民間銀行から借りる金の量が頭打ちになったので、日本政府が、国債金利でマネーストックが増える分の金、を出すしかなくなったのです。
政府の緊縮財政というのはマネーストックの増加分を政府がすべて負担出来なくなったという事です。

MMT論者や財政破綻を否定する人は大西つねきの財政破綻論を聞いた方がいいよ:

大西つねきがやろうとしていること
https://www.youtube.com/watch?v=pcifNIAlVG0
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/864.html#c2

[近代史6] ヨーハン・フリードリヒ・エック(Johann Friedrich Eck, 1766-1810)
ヨーハン・フリードリヒ・エック(Johann Friedrich Eck, 1766-1810)

ヨーハン・フリードリヒ・エック(Johann Friedrich Eck, 1766-1810)はホルン奏者ゲオルク・エックの息子で、1778年(12歳のとき)にミュンヘンでヴァイオリンの見習いになったという。 1779年、エック父子はザルツブルクを訪れている。 また、『イドメネオ』上演のために、1780年にモーツァルトがミュンヘンを訪れたとき、そこでもエックと出会い、親しくしていたことがわかっている。

その後、エックは1788年にミュンヘンでコンサート・マスターになり、1790年までの間に5曲のヴァイオリン協奏曲を書いたという。

モーツァルト ヴァイオリン協奏曲 第6番 変ホ長調 K.268 (Anh.C14.04) 

Allegro moderato 変ホ長調 2/2 ソナタ形式
Un poco adagio ト長調 3/4 変ロ長調
Allegretto 変ホ長調 2/4 ロンド形式

〔編成〕 vn, fl, 2 ob, 2 fg, 2 hr, 2 vn, va, bs

自筆譜ない。

モーツァルト ヴァイオリン協奏曲 第6番の成立について、アインシュタインは

1780年末のザルツブルクとミュンヘンの時期に着想されたとみなすことができよう。
[アインシュタイン] p.383

と推定し、第3版で K.365b に置いた。 続けて

改作者たるミュンヘンの若いヴァイオリニスト、ヨーハン・フリードリヒ・エックに提供されていたのは、せいぜい第1楽章の草稿と、多分ロンドのはじめの数小節だけであった。 中間楽章はたしかに拙劣な偽造である。

と説明している。

エック(Johann Friedrich Eck, 1766-1810)はホルン奏者ゲオルク・エックの息子で、1778年(12歳のとき)にミュンヘンでヴァイオリンの見習いになったという。 1779年、エック父子はザルツブルクを訪れている。 また、『イドメネオ』上演のために、1780年にモーツァルトがミュンヘンを訪れたとき、そこでもエックと出会い、親しくしていたことがわかっている。 その後、エックは1788年にミュンヘンでコンサート・マスターになり、1790年までの間に5曲のヴァイオリン協奏曲を書いたという。

アンドレの初版(1799年)から偽作と思われていたこの作品は、モーツァルトらしからぬ書き方であることから、ケッヘル第6版では「偽作および疑義ある作品」に置かれ、新全集では収録していない。 エックが1790年から1798年の間に書いたとする説もある。

http://www.marimo.or.jp/~chezy/mozart/works/cv.html
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/925.html

[近代史6] モーツァルト『ヴァイオリン協奏曲 第6番 変ホ長調 K.268』(偽作)
モーツァルト『ヴァイオリン協奏曲 第6番 変ホ長調 K.268』(偽作)


Mozart Violin Concerto No.6 in E-flat major,K.268(Thibaud,Sargent 1927)
(※now considered to be the work of Johann Friedrich Eck)



00:00 1.Allegro moderato
11:57 2.Un poco adagio
19:34 3.Rondo: Allegretto


Jacques Thibaud(Violin)
Sir Malcolm Sargent(Conductor)
Orchestra
23 February 1927 London



長らくモーツァルト作とされていたものの、めったに録音されないヴァイオリン協奏曲第6番です。
モーツァルト没後の1799年に出版され、ケッヘルによる作品目録では1776年作としてK. 268の番号が与えられていましたが、現在ではヨハン・フリードリヒ・エック(1767–1838)の作品とされ、新モーツァルト全集にも含まれていません。


真の作者が誰であろうと、高度な演奏技巧が要求され、モーツァルトを彷彿とさせるような美しいカンタービレにあふれる18世紀後半のヴァイオリン協奏曲の傑作です。
https://www.hmv.co.jp/artist_%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88%EF%BC%881756-1791%EF%BC%89_000000000018888/item_%E3%80%8E%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%80%8F%E7%AE%A1%E5%BC%A6%E6%A5%BD%E7%89%88%E3%80%81%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E5%8D%94%E5%A5%8F%E6%9B%B2%E7%AC%AC6%E7%95%AA-%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%EF%BC%86%E3%82%B6%E3%83%AB%E3%83%84%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A6%E3%83%A0%E7%AE%A1%E5%BC%A6%E6%A5%BD%E5%9B%A3%E3%80%81%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%83%A4%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%84%E3%82%A7%E3%83%B3_12171385
 

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/926.html

[近代史6] ヨハン・パッヘルベル(Johann Pachelbel, 1653 - 1706)
ヨハン・パッヘルベル(Johann Pachelbel, 1653 - 1706)

この時代の大作曲家の一人であるが、現代はもっぱら「カノン」の作曲家として有名。カノン以外の曲も聴いたことはあるが記憶に残ってない。

カノン
6.0点
「3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調」の第1曲なのだそうだ。クラシックの器楽曲の中でも最古にして最大の人気曲のひとつだろう。何百回聴いても魅力は尽きない。

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%281859%E5%B9%B4%E3%81%BE%E3%81%A7%29

ヨハン・パッヘルベル(独: Johann Pachelbel[1]、1653年9月1日(受洗) - 1706年3月9日(埋葬)[2])は、バロック期のドイツの作曲家であり、南ドイツ・オルガン楽派の最盛期を支えたオルガン奏者で、教師でもある。宗教曲・非宗教曲を問わず多くの楽曲を制作、コラール前奏曲やフーガの発展に大きく貢献したところから、バロック中期における最も重要な作曲家の一人である[3]。

パッヘルベルの作品は生前から人気が高かったため、師事する弟子も多く、またドイツ中部・南部の多くの作曲家の手本となった。

現在では彼の作品で最も有名なのは「パッヘルベルのカノン」(Canon in D) であるが、これは彼が生涯に書いた唯一のカノンである。

そのほか、シャコンヌ ヘ短調、トッカータ ホ短調などのオルガン曲、鍵盤楽器用の変奏曲集『アポロンの六弦琴』(『アポロの六弦琴』とも。Hexachordum Apollinis)などが知られている[4]。

パッヘルベルの音楽は、ヨハン・ヤーコプ・フローベルガーやヨハン・カスパール・ケルルといった南ドイツの作曲家や、ジローラモ・フレスコバルディ、アレッサンドロ・ポリエッティなどのイタリアの作曲家、さらにはフランス、ニュルンベルク楽派などの作曲家から影響を受けていたとされる。パッヘルベルの音楽は技巧的ではなく、北ドイツの代表的なオルガン奏者であるディートリヒ・ブクステフーデのような大胆な和声法も用いず、旋律的・和声的な明快さを強調した、明快で単純な対位法を好んで用いた。一方、ブクステフーデ同様に楽器を組み合わせた多様なアンサンブルの実験も行った。教会カンタータやアリアなどの声楽曲においてもそれが行われたことは特筆に価する。ただ、それらに見られる管楽器を含む豪華な器楽編成は、パッヘルベルの作品中では例外的であり、器楽曲作品の大半は室内楽曲である。


生涯
1653年〜1673年: 幼年期から学生時代(ニュルンベルク、アルトドルフ、レーゲンスブルク)

パッヘルベルの生涯にとって重要な役割を果たした、ニュルンベルクの聖ゼーバルドゥス教会
パッヘルベルは1653年、ニュルンベルクの中流家庭に、ワイン商のヨハン・(ハンス)・パッヘルベル(1613年ヴンジーデル生)[5]とその後妻アンナ(アンネ)・マリア・マイアーの息子として生まれた。正確な誕生日は分かっていないが、9月1日に洗礼を受けていることから8月下旬頃ではないかと見られている。

少年時代には、後に聖ゼーバルドゥス教会(ゼバルドゥス教会、ゼーバルト教会とも。ルター派)の聖歌隊先唱者となった音楽家・音楽教師ハインリヒ・シュヴェンマーから音楽の教育を受けた。同教会のオルガン奏者で、ニュルンベルク楽派の主要な作曲家でもあるゲオルク・カスパル・ヴェッカーにも師事していたとする文献もある[6][7][8]が、現在では疑問視されている[9]。シュヴェンマーとヴェッカーはいずれも、ニュルンベルク楽派の創始者の一人であるヨハン・エラスムス・キンダーマンに師事していた者たちである。(なお、キンダーマンは一時期ヨハン・シュターデンの弟子であった人物)

パッヘルベルの生涯についての重要な文献とされている "Grundlage einer Ehrenpforte" (Hamburg, 1740) の著者ヨハン・マッテゾンによると、若い頃のパッヘルベルは音楽と学問の両面に優れていたという。パッヘルベルは初等教育を聖ローレンツ基幹学校とニュルンベルクの "Auditorio Aegediano" で修めたのち、1669年6月29日にアルトドルフ大学に入学、同年そこで聖ローレンツ教会のオルガン奏者に指名された。経済的な理由によって1年も経たないうちに大学を辞めざるを得なくなったが、彼は勉学を最後まで修めるため、1670年にレーゲンスブルクのギムナジウム・ポエティクムの奨学生となった。その学校の教授たちは、パッヘルベルの学問の才能に感動したという。

パッヘルベルは学外で音楽を学ぶことも許されていた。担当の教師は、ヨハン・カスパール・ケルルの弟子カスパル・プレンツであった。ケルルはジャコモ・カリッシミをはじめイタリアの作曲家の影響を大いに受けていたため、プレンツを通じて当時のイタリアの音楽や、カトリックの教会音楽への興味を持ち始めたのかもしれない。

1673年〜1690年: 音楽家としての活躍(ウィーン、アイゼナハ、エアフルト)
師のプレンツは1672年にアイヒシュテットに発った。この時期のパッヘルベルについてはほとんど文献に記されておらず[10]、彼がその年のうちにその地を離れたのか、それとも翌1673年までレーゲンスブルクに留まったのかは分かっていない。しかし、いずれにせよ1673年にはウィーンに移り住んでおり、パッヘルベルはそこで有名な聖シュテファン大聖堂の次席オルガン奏者となった。当時のウィーンは巨大なハプスブルク帝国の中心であり、文化的にも重要な土地であった。また、当時は主にイタリア風の作品が好まれるような風潮があった。著名なコスモポリタリアンの作曲家たちもそこで活動しており、ヨーロッパ各地の音楽同士の交流が盛んに行われていた。特筆すべき人物としては、1657年までウィーンで宮廷オルガニストを務めたヨハン・ヤーコプ・フローベルガー[11](アレッサンドロ・ポリエッティの前任者[12])や、当時その地に住んでいたゲオルク・ムッファトが、そして特に重要な人物として、1673年にウィーンに移住してきたヨハン・カスパール・ケルル[13]がいる。ケルルはウィーンにいる間、彼の流れを汲むパッヘルベルと交流が、あるいは直に彼に音楽を教えてさえいたかもしれない。パッヘルベルはウィーンに5年間滞在し、彼が育った地の厳格なルター派とは対照的な、南ドイツとイタリアのカトリックの音楽を学んだ。青年時代にシュテファン大聖堂の音楽家を務め、当時の主要な作曲家の音楽に触れていたという点では、パッヘルベルはハイドンと似ていると言える。

1677年、パッヘルベルはアイゼナハに移り、ザクセン=アイゼナハ公のヨハン・ゲオルク1世に仕えていた宮廷楽長、ダニエル・エーベルリンの下で宮廷オルガン奏者の職に就き、宮廷とゲオルク教会での礼拝に携わった(なお、エーベルリンはパッヘルベルと同郷でニュルンベルクの出身であった)。アイゼナハは、J.S.バッハの父ヨハン・アンブロジウス・バッハの故郷であり、パッヘルベルはそこでバッハ家の人々と出会い、アンブロジウス・バッハと親しくなり、彼の子供たちの家庭教師を任せられた[14]。しかし、パッヘルベルのアイゼナハでの生活は、わずか1年で終わることになった。1678年、ヨハン・ゲオルク1世の弟ベルンハルト2世が亡くなり、その喪に服している間に宮廷音楽家の大幅削減が行われ[15]、パッヘルベルもまた職を失った。彼はエーベルリンに推薦状を書いてもらった。その推薦状の中でエーベルリンは、パッヘルベルについて「完璧ですばらしい才能を持った人物」—einen perfecten und raren Virtuosen と評している[16]。その紹介状とともに、パッヘルベルは1678年5月18日にアイゼナハを後にした。


1678年の6月、パッヘルベルはヨハン・エフラーに代わりエアフルトのプレディガー教会(伝道者教会)のオルガン奏者として雇われた。エアフルトでもバッハ家は有名で、パッヘルベルと彼らとの交友はここでも続いた。(なお、その地のオルガン奏者たちは皆 "Bachs" と後に呼ばれるようになるほどであった) パッヘルベルは、ヨハン・アンブロジウス・バッハの娘ヨハンナ・ユーディタの名付け親となり、ヨハン・クリストフ・バッハ(1671–1721年、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの長兄)の家庭教師を務め、ヨハン・クリスティアン・バッハ(1640-1682年)の家に住んでいた[17]。エアフルトでの滞在は12年間におよび、その間に彼は、当時のドイツにおける主要なオルガン作曲家の一人に数えられるほどの地位を確立した。当時の作曲の仕事は主に礼拝用の前奏曲であったため、コラール前奏曲はパッヘルベルのエアフルト時代で最も特徴的な作品のひとつとなった[18]。彼の仕事としては他にオルガンのメンテナンスがあり、より重要なことに、作曲家・オルガン奏者としての進歩を示すため毎年大曲の作曲を行わねばならず、しかも前年の作品よりも優れたものが求められた。

エアフルトでの家主であったヨハン・クリスティアン・バッハは1682年に亡くなった。その2年後の1684年6月、パッヘルベルはJ.C.バッハの未亡人からその家("Zur silbernen Tasche" と呼ばれていた。現在の Junkersand 1)を買い取った[19]。1686年、ゾンダースハウゼンの三位一体教会(Trinitatiskirche) からオルガン奏者の職を提示された。パッヘルベルも最初は招待に応じたものの、現存する自筆の手紙によれば、彼は長い交渉の末に、申し出を断らなくてはならなかった。彼は、求人があった際にはかならず事前にエアフルトの長老たちと教会の権力者たちに意見を求めるよう要求されていたようである[20]。この問題はパッヘルベルの評判に傷をつけることなく穏やかに解決されたようで、彼は昇給となり、さらに4年間エアフルトに留まることになった。

パッヘルベルはエアフルトで二回結婚している。一回目の結婚は1681年10月25日、エアフルト市長の娘、バルバラ・ガブラーとで、式は花嫁の実家で挙げられた。しかし妻と一人息子は1683年10月に伝染病で亡くなっている。パッヘルベルの初の出版物であるコラール変奏曲集『音楽による"死への思い"』("Musicalische Sterbens-Gedancken"、エアフルト、1683年)は、おそらくこの出来事の影響を受けていると思われる。

妻子を亡くした10ヵ月後の1684年8月24日に、パッヘルベルは二回目の結婚をしている。相手は銅器職人の娘[21]ユーディト (Judith Drommer (Trummert)) である。二人は5男2女を儲け、息子たちのうち2人、ヴィルヘルム・ヒエロニムスとカール・テオドールはオルガン奏者になっており、ヴィルヘルムは聖ヤーコプ教会(ニュルンベルク)、聖ゼーバルドゥス教会のオルガン奏者を歴任、カールは1734年にアメリカ植民地に渡り、ボストン、ニューヨークなどを経てチャールストン (サウスカロライナ州)の聖フィリップ教会のオルガン奏者となり、ドイツ音楽の普及に貢献した(英語名チャールズ・セオドア・パッケルベルの名で知られる)。息子のヨハン・ミヒャエルは、ニュルンベルクで楽器職人となり、ロンドンやジャマイカを回った[22]。2人の娘のうち、アマーリアは画家・版画家として評価された。

1690年〜1706年: 晩年(シュトゥットガルト、ゴータ、ニュルンベルク)
エアフルトではオルガン奏者・作曲家・教師として著しい成功を修めたパッヘルベルであったが、明らかに彼はより良い役職を求めていたようである。彼は上層部からエアフルトを離れる許可を請い、1690年8月15日に正式に自由の身となり、その努力と忠実さを称える推薦状を与えられた[23]。

彼は1690年の9月1日から2週間と経たないうちに、公爵夫人マグダレーナ・ジビュラの後援によってヴュルテンベルク公国(シュトゥットガルト)の宮廷音楽家・宮廷オルガン奏者に就任した。良い仕事ではあったが、大同盟戦争が勃発しフランス軍が攻めてきたため、そこでの生活はわずか2年で幕を閉じた。次の職場はゴータ市のオルガン奏者(在職2年)で、1692年11月8日に就任、アウグスティノ修道会のマルガレーテ教会に勤めた。この時期には彼の最初の、そして唯一のコラール前奏曲集 "Acht Choräle zum Praeambulieren "を出版している(1693年)。

かつての教え子であったヨハン・クリストフ・バッハが1694年10月に結婚した際、バッハ家の人々は10月23日にオールドルフでそれを祝い、音楽を提供するためパッヘルベルら作曲家たちを招待した。パッヘルベルはおそらくそれに参加したと思われ、もしそうであれば、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(当時9歳)とパッヘルベルが出会った唯一の機会である[24]。

ゴータでの3年間で、パッヘルベルは二度の求人を受けている。一つはシュトゥットガルトで、もう一つはイングランドのオックスフォード大学であるが、彼は双方とも断っている。ニュルンベルクでは、聖ゼーバルドゥス教会のオルガン奏者であった(そして、彼の師であったかもしれない)ゲオルク・カスパール・ヴェッカーが1695年4月20日に亡くなり、市の権力者たちは、通常の採用試験を行ったり、小さな教会から著名なオルガン奏者を招いたりすることなく、(ニュルンベルク出身者として有名な)パッヘルベルを後継者として呼び戻すことを切望した。パッヘルベルはそれに応え、1695年にゴータの職を辞し、夏にニュルンベルクに戻った。市からは日ごとの経費が支給された。


パッヘルベルは残りの人生をニュルンベルクで過ごし、室内楽曲集『音楽の喜び』"Musikalische Ergötzung" を出版、1699年には、鍵盤楽器のための6つの変奏曲『アポロンの六弦琴』(『アポロの六弦琴』、Hexachordum Apollinis)を出している。彼は主にイタリアや南ドイツの作曲家たちの影響を受けていたが、「アポロンの六弦琴」をディートリヒ・ブクステフーデに捧げたように、北ドイツ楽派の人々とも交際があった。晩年の作品としては他に、コンチェルタート様式によるイングレッススやマニフィカトといったイタリア風の宗教声楽曲や、グレゴリオ聖歌「マニフィカト」の旋法を用いた90曲以上の小フーガからなるオルガン曲集『マニフィカト・フーガ』がある。

1706年、パッヘルベルは52歳で亡くなった。彼の正確な死亡日は分かっていないが、埋葬は3月9日に行われた。Matthesonは3月の3日か7日ではないかと見ているが、いずれにせよ、遺体が埋葬されないまま長らく置かれていたとは考えづらい。当時の慣習として3回か4回の検死日を経てから埋葬していたので、1706年3月6日あるいは3月7日と考えるほうがより自然である[25]。墓は聖ロッフス墓地にある。

作品
パッヘルベルは生前からオルガン奏者として非常に有名であり、彼は宗教曲・非宗教曲を合わせて200以上の器楽曲を制作し、当時あったあらゆるジャンルの音楽に挑戦している。特にオルガン曲で知られ、『コラール変奏曲集』『コラール前奏曲集』など多数のコラール編曲を作曲している。コラールを一行ごとに区切り、その旋律の縮小形による模倣から主旋律に入る「パッヘルベル・コラール」と呼ばれる様式を確立、J.S.バッハなどに影響を与えた。また、中部と南部の各地を転々としてきたことで学んだ、歌唱的な南部の音楽様式と、中部の定旋律や対位法を用いた中部の様式を上手く統合させた作風も、パッヘルベルの特徴である。声楽曲の分野でも多くの作品を書いており、約40曲の大作を含む100曲ほどが残されている。わずかに室内楽曲も存在するが、アイゼナハやシュトゥットガルトで宮廷音楽家をしていた時期などにもっと多くの楽曲を作曲していた可能性もある。

パッヘルベルの作品の主要な資料はいくつか存在するが、たとえばルイ・クープランにとってのオールダム手稿のように重要なものはない。重要な資料のうちいくつかの手稿が第二次世界大戦の戦前・戦中に失われたが、ヴィンテルトゥール・コレクションのマイクロフィルムや、現在オックスフォード・ボドレー・ライブラリーが所有している2巻の手稿(パッヘルベルの後期の作品の中では主要なものの一つ)、弟子のヨハン・バレンティン・エッケルトが編集し、唯一パッヘルベルのサインが含まれている "Tabulaturbuch"(1692年、現在はクラクフの ヤギェウォ図書館 所蔵)の第一部のように部分的に現存するものもある。ノイマイスター原稿と、いわゆる「1704年のワイマール・タブラチュア」は、パッヘルベルの作風を知る上で多くの情報をもたらしてくれるが、そのどれも確実に彼によるものとは言えないものばかりである。

今のところ、パッヘルベルの作品についての標準的な作品番号システムは存在しないが、Antoine Bouchard による「POP番号」(オルガン曲のみ)、Jean M. Perreault による「P番号」(アルファベット順。現在最も完成度が高い)、Hideo Tsukamoto による「T番号」(主題によって分類されている)、Kathryn Jane Welter による 「PC番号」といった目録が使用されている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%83%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AB
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/927.html

[近代史6] ヨハン・パッヘルベル『3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調 PWC 37』
ヨハン・パッヘルベル『3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調 PWC 37』


『パッヘルベルのカノン』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/920.html  
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/928.html

[近代史6] ジョン・ダウランド(John Dowland、1563年??月??日 - 1626年2月20日)
ジョン・ダウランド(John Dowland、1563年??月??日 - 1626年2月20日)

ジョン・ダウランド(John Dowland)は、イングランドのエリザベス朝後期およびそれに続く時代に活動した作曲家・リュート奏者。デンマーク王クリスチャン4世の宮廷リュート奏者や、イングランド王ジェームズ1世およびチャールズ1世の宮廷リュート奏者を務めた。エリザベス朝前後に流行したメランコリア(憂鬱)の芸術の巨匠とされ[1]、特に代表作であるリュート歌曲『流れよ、わが涙』(1600年)とその器楽曲版『涙のパヴァーヌ』は当時の欧州で群を抜いて最も高名な楽曲として、東欧を除く全ヨーロッパで広く演奏された[2]。20世紀の音楽学研究者・リュート奏者ダイアナ・ポールトン(英語版)らによる古楽復興運動以来再び注目を浴び、クラシック・ギターへの編曲も多く作られた他、2006年にはイギリスを代表するロック歌手スティングによってカバーアルバムが作られた。


生涯
1588年にオックスフォード大学で音楽学士となった。イングランド女王エリザベス1世のもとで宮廷リュート奏者を望むも得られず、国外に職を求めた。宮廷楽士になれなかった理由として、青年期にフランスに滞在していた一時期カトリック教徒だったことがあったため、そのことが尾を引いて聖公会(イングランド国教会)のイングランドでは排斥されたのだと、ダウランド自身は信じていた[3][4]。しかし実際には宗教問題は関係がなく[3][4]、宮廷が予算縮小の方向にあったことや[3]、女王に献呈曲を書くのを怠ったこと[4]などが問題だったのではないかとも言われる。

その後、ヴェネツィア、フィレンツェ、ニュルンベルクなどヨーロッパ各地を遍歴した。フィレンツェでは同地在住のイングランド人からエリザベス暗殺計画への加担を持ちかけられ、1595年にイングランド政界の重鎮ロバート・セシルにその計画を密告している[3]。1598年から1606年にはデンマークでクリスチャン4世付きのリュート奏者を務めた。

1606年にイングランドへ戻り、1612年に国王ジェームズ1世付きのリュート奏者となった。息子のロバート・ダウランド(英語版)も作曲家・リュート奏者として活躍し、父の死後は宮廷リュート奏者の地位を継承した。

人物
「涙のジョン・ダウランド」(Jo: dolandi de Lachrimae)と自署し、イタリアでは「不幸なるイングランド人ジョヴァンニ・デュランデ」(イタリア語: Gio. Dulande infoelice Inglese)とも名乗った[5]。モットーは「人を救う技芸はその主を救うことあたわず」「運命の女神(フォルトゥーナ)の祝福を受けざりし者は、ただ憤るか泣きはらすのみ」[5]。自分の姓ダウランドとラテン語のドレーンス(dolens, 嘆いている)を掛けて、Semper Dowland, Semper Dolens(『常にダウランド、常に嘆いている』)という題名の曲も書いている。

ダウランドの実際の性格については、自称および作風通り陰気な人間であったとする説[6][4]と、その逆に陽気な人間であったとする説[7]がある。

もともとダウランド研究の旗手でありその伝記も著したダイアナ・ポールトン(英語版)は、涙や嘆き、死といった題材を好む陰鬱な人間としてのダウランド像を描いた[8]。しかし、アントニー・ルーリー(英語版)はポールトンの説に反論し、ダウランドの死から数十年後に書かれたトーマス・フラー『イギリス名士列伝』(1662年)ではダウランドが陽気な人間であったと書かれていることや、全87曲が現存する歌のうち14曲にしか明確に厭世的な曲は存在せず、実際は明るい舞曲や歌曲も多く作曲したことを指摘した[8]。ルーリーの主張によれば、ダウランドがしばしば自身を陰気な人間と描いたのは、音楽家としてそのような個性付けを行ったに過ぎず、実際は快活な人間であったという[8]。ルーリーによれば、16世紀初頭からイタリアでは新プラトン主義やグノーシス主義といった神秘思想が流行したが、大陸で学んだこともあるダウランドもまたその影響下にあり、作曲の理論として数秘術が用いられていることもあるという[9]。この神秘思想は16世紀末のイングランドではやや形を変えて、メランコリー(憂鬱性)や闇夜への崇拝として現れたが、ダウランドのパトロンだったルーシー・ラッセル (ベッドフォード伯爵夫人)(英語版)もそのような思想を好む人物であったなど、「憂鬱なダウランド」という人物像は時代の潮流に合わせるためにダウランド自身があえて作った人物像であるという[9]。

ルーリーの陽気人物説に対し、ポールトンは反論を行って自身の陰気人物説を補強した[6]。まず、トーマス・フラーが著した列伝は事実関係に誤認が多く、フラーがダウランドと面識があったとは考えにくいため、フラーによる「陽気な人間」という記述は信用をおけないという[5]。また、1595年に大陸に遊学中のダウランドがイングランド政界の重鎮ロバート・セシルに宛てて書いた手紙では、ジョン・ジョンソン (作曲家)(英語版)の後任としてエリザベス1世の宮廷リュート奏者になれなかったことへの不満が噴出している[3]。この手紙では、自分が宮廷楽士に選ばれなかった理由は宗教問題にあるとダウランドは信じ込んでいるが(ダウランドは一時期カトリックに改宗していたがエリザベス女王はイングランド国教会派だった)、ポールトンの説によれば実際は無関係で、宮廷の経費削減計画の一環として宮廷楽士の枠が削られただけではないかという[3]。さらに、1611年に発表された楽譜集A Pilgrimes Solaceでは、作曲家トバイアス・ヒュームをはじめ様々な音楽家が批判されているが、楽譜集を濫用して他人への批判の媒体として用いるのは他に例がないという[10]。なお、翌年に念願通りジェームズ1世お抱えのイングランド宮廷楽士に登用された後はこの種の不平不満は見られなくなる[10]。そのため、ポールトンの推測によれば、ダウランドは穏やかな晩年を過ごしたのではないかという[10]。

ポールトンの弟子だったリュート奏者ヤコブ・リンドベルイ(スウェーデン語版)もポールトン説とおおよそ同様の趣旨を述べ、陰気人物説を支持している[4]。

作品

作品は声楽とリュート音楽に分けられる。宗教的な楽曲はほとんど見あたらず、愛や悲しみを歌う通俗作品が特徴的である。

声楽は世俗曲であり、1597年、1600年、1603年に歌曲集が出版され、80以上の作品が残されている。

『涙のパヴァーヌ』の愛称で知られる『流れよ、わが涙』(Flow, my tears)は当時のもっとも高名な歌である。

他にも、『さあ、もういちど愛が呼んでいる(英語版)』(Come again, sweet love doth now invite)は明るい曲調で、広く知られている。

リュート音楽は、ファンタジアやパヴァーヌ・ガリヤード・ジグなどの舞曲を含む、独奏ないし合奏の曲である。ダウランドの作品は広くヨーロッパで愛好され、多くの作曲家が彼のメロディーを元にして舞曲を残した。リュート曲の中でも『蛙のガリアルド』(Frog Galliard、歌曲としては『今こそ別れ(英語版)』(Now o now I needs must part))は有名であるが、タイトルの蛙とは、女王エリザベス1世がフランス王子アンジュー公フランソワにつけたあだ名であり、そのアンジュー公との悲しい別れを題材にした曲である(この曲は栗コーダーカルテットもリコーダーでとりあげている)。 

文学においても、『流れよ、わが涙』がSF作家フィリップ・K・ディックにより、小説『流れよ我が涙、と警官は言った』のモチーフとして参照されている。

1973年、当時人気を博していたオランダのプログレッシブ・ロック・グループ、フォーカスのギタリストのヤン・アッカーマンがソロ・アルバム『流浪の神殿』でダウランド作品を数曲用いた。当時のLP解説を、異例にもバロックから古楽の大家皆川達夫が執筆、その功績を賞賛した。

1977年には、ダウランドの音楽が広く知られることとなる録音、アントニー・ルーリー、アントニー・ベイルズ、ヤコブ・リンドベルイ、ナイジェル・ノース、クリストファー・ウィルソンらの演奏によるリュート全曲集、およびルーリーとエマ・カークビーのリュート全歌集が世に出された。

2006年、ポップス界の大御所スティングが、ダウランド作品集『ラビリンス』(Songs from the Labyrinth)を発表して注目された。

日本では、リュート奏者つのだたかしの演奏や、つのだの伴奏による波多野睦美とのデュオによるリュート歌曲が知られている。つのだは自身のプロデュースする企業にダウランド アンド カンパニイと名づけている。また、村治佳織もギターでダウランドのリュート曲を演奏している。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%80%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/929.html

[番外地9] 利子付き国債を発行すると、その利子を返す為に新規国債を次々に発行しないといけなくなる 中川隆
3. 中川隆[-16042] koaQ7Jey 2021年10月10日 03:08:34 : VTbZ6RHCZM : NlFtS1V1TTRQb2s=[2]
利子付き国債を発行すると、その利子を返す為に新規国債を次々に発行しないといけなくなるので、ネズミ講と同じです。 失業云々とは関係ありません。完全雇用になっても国債の利子を返す為に、新規に国債を発行しなければいけないというのが現在の状況です。 だから財務省は財政破綻、財政破綻と大騒ぎしているのです。  
貨幣のプール論は正しい。本来の貨幣のプール論というのは
税金で徴収した以上の金を政府が使うと、その分はインフレ税という形で通常の税額に加えて後から追加徴収する事になる
という意味です。何処の国でも国債発行でマネーストックを増やして意図的にインフレにしています。つまり、国民が気付かない様にこっそり金を取って政府資金を増やしているのです。
サルの朝三暮四の話と同じ騙しの手口ですね。 三橋信者みたいな 右翼・保守はアホだから簡単に騙せるんです。
日本政府が使える金は税金で徴収する金額だけ
日本政府が国債を発行すると日本国内で流通する貨幣が増えるので貨幣価値が下がります。

円の貨幣価値が下がると
・日銀の借用証である日銀紙幣の実質価値が下がる。
・政府の借用証である日本国債の実質価値が下がる。
・銀行預金額の実質価値が下がる。
・労働者の賃金の実質価値が下がる。

従って、日本政府が公共事業をやる為に国債を発行すると、労働者の持って居る金の一部を日本政府に取られた事になります。
つまり、日本政府が財政支出する元金は税金の他に、貨幣価値が減少した為に労働者から日本政府に移転した金額も含まれます。

政府が財政出動しなければ税金だけで政府支出を賄っていたのが、余計な公共事業をやった為に貨幣価値の減少した分(所謂インフレ税)も加算されます。
即ち、政府が使える金額は (税金 +インフレ税) で徴収した金額 になります。
つまり貨幣のプール論は正しいのです。

▲△▽▼

GDPとは国内総生産、つまり国内で産み出された付加価値の総額です。
それが3割減したのに株価が V字回復する不思議。

以下は金価格。
このように実は昨年の7月頃からずーっと上がりっぱなし。

https://golden-tamatama.com/wp-content/uploads/2020/09/WS20200707AZCLOPUY000786.jpg

で、以下が金価格に換算した日経平均です。
実は、昨年9月から下がりっぱなし。
https://golden-tamatama.com/wp-content/uploads/2020/09/WS20200707AZCLOPUY000788.jpg


NYダウゴールド換算のチャート
https://realtime-chart.info/%E8%AA%AC%E6%98%8E/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%88/NY%E3%83%80%E3%82%A6%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E6%8F%9B%E7%AE%97.html

日経平均はゴールド何グラム?

https://realtime-chart.info/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E6%A0%AA%E4%BE%A1/%E6%97%A5%E7%B5%8C%E9%87%91%E6%8F%9B%E7%AE%97%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0.html

と言う訳で、庶民が気づかないうちに通貨は紙屑化しつつある。
たった今、ステルス紙屑化が進行中なのでした。

で、富裕層はせっせと現金を物に変えつつある。

多分ですが、富裕層の換金ならぬ換物が済んでから、
バーチャルリアリティ市場を崩壊させるのでしょう。
https://golden-tamatama.com/blog-entry-dow-800-down.html

因みに、金、原油、穀物価格, 商品相場は何でも大体同じ値動きです、ゴールド価格のデータが一番入手し易いのでゴールドを使っただけです。:

世界最大のヘッジファンド: 量的緩和で人々はリッチになったような気がする
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10616

世界最大のヘッジファンド: 紙幣の刷り過ぎでドルが暴落するとき
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/11685

世界最大のヘッジファンド: ドルは既に紙くずになっている
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10645

インフレ相場で個人投資家でもコモディティに投資する方法
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/12900

量的緩和で上がらなかった物価が現金給付で高騰する理由
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/13296


▲△▽▼

本当の貨幣のプール論というのは
税金で徴収した以上の金を政府が使うと、その分はインフレ税として徴収する事になる
という意味なんですね。
正規の税金以上は払いたくなければ国債発行はNGという事。
国債発行すると貨幣価値が下がって銀行預金と実質賃金は目減りします。
更に、国債発行で増えた金は、たとえ公共事業に使ったとしても、最終的にはすべて資本家のものになります。
つまり、国債発行すると貧富の差が拡大、実質賃金が下がり、内需が減ってデフレが深刻化します。

「放漫財政」で日本は今危機的な状況にあります。 プラザ合意以降に日本が「放漫財政」に変わった経緯は大西つねきさんが何時も指摘しています:

民間銀行はもうこの世に必要ない(Live配信2021/1/12)
https://www.youtube.com/watch?v=a3y34SLGKlo

大西さんが何度も繰り返し説明している様に、プラザ合意後は民間人が民間銀行から借りる金の量が頭打ちになったので、日本政府が、国債金利でマネーストックが増える分の金、を出すしかなくなったのです。
政府の緊縮財政というのはマネーストックの増加分を政府がすべて負担出来なくなったという事です。

MMT論者や財政破綻を否定する人は大西つねきの財政破綻論に耳を傾けた方がいいよ:

大西つねきがやろうとしていること
https://www.youtube.com/watch?v=pcifNIAlVG0
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/864.html#c3

[近代史6] ジョン・ダウランド『涙のパヴァーヌ・流れよ、わが涙』
ジョン・ダウランド『涙のパヴァーヌ・流れよ、わが涙』


『涙のパヴァーヌ』


Lachrimae Antiquae



Jordi Savall · Hespèrion XXI · John Dowland
John Dowland: Lachrimae or Seaven Teares



Dowland, Lachrimae or Seven Tears, for 5 viols & lute (1604) - I. Lachrimae antiquae



Jordi Savall



"Lachrimae" by John Dowland



Christopher Morrongiello performs "Lachrimae" (ca. 1590s) by John Dowland (1563–1626), Cambridge University Library manuscript DD.2.11.


Recorded April 15, 2015



John Dowland (1563-1626): Lachrimae or Seaven Teares (1604)



00:00 Lachrimae Antiquae
04:02 Lachrimae Antiquae Novae
07:42 Lachrimae Gementes
11:20 Lachrimae Tristes
15:47 Lachrimae Coactae
19:19 Lachrimae Amantis
23:17 Lachrimae Verae
27:35 Pavan (Moritz, Landgrave of Hessen-Kassel, 1572-1632)
(from Varietie of Lute-Lessons, 1610)
32:38 Semper Dowland semper dolens
38:16 M. Nicholas Gryffith his Galiard
40:15 M. Giles Hobies Galiard
41:39 Sir John Souch his Galiard
43:03 Sir Henry Umptons Funerall
47:53 M. George Whitehead his Almand
49:12 Mistresse Nichols Almand
49:52 M. John Langtons Pavan
53:20 M. Buctons Galiard
54:46 M. Thomas Collier his Galiard with 2 Trebles
56:05 Captain Digorie Piper his Pavan (from Kassel 4° MS mus. 125)
59:40 Captain Digorie Piper his Galiard
1:01:10 The Earle of Essex Galiard
1:02:33 M. Henry Noel his Galiard
1:05:12 The Most High and Mightie Christianus the fourth King of Denmarke, his Galliard (from Varietie of Lute-Lessons, 1610)
1:07:52 The King of Denmarks Galiard


The Parley of Instruments Renaissance Violin Consort
Judy Tarling, violin / Theresa Caudle, violin & viola
Lisa Cochrane & Paul Denley, violas / Mark Caudle, bass violin
Paul O´Dette, lute / Peter Holman, director




Dowland - Lachrimae or Seven Tears 1604 + Presentation (Century's record. : Jordi Savall, Hespèrion)



1 Lachrimae Antiquae (00:00)
2 Sir John Souch His Galiard (04:41)
3 Lachrimae Antiquae Novae (06:45)
4 Mr. Henry Noell His Galiard (11:36)
5 Lachrimae Gementes (13:35)
6 The Earle Of Essex Galiard (18:01)
7 Lachrimae Tristes (19:26)
8 Mr. Nicholas Gryffith His Galiard (24:47)
9 Lachrimae Coactae (26:41)
10 Mr. Giles Hoby His Galiard (31:34)
11 Lachrimae Amantis (33:03)
12 Mr. Thomas Collier His Galiard (38:25)
13 Lachrimae Verae (39:54)
14 Capitaine Digorie Piper His Galiard (45:07)
15 Semper Dowland Semper Dolens (47:01)
16 The King Of Denmark's Galiard (53:00)
17 Sir Henry Umpton's Funerall (55:00)
18 Mr. Bucton His Galiard (1:01:05)
19 Mr. John Langton's Pavan (1:02:35)
20 Mrs. Nichol's Almand (1:07:46)
21 Mr. George Whitehead His Almand (1:09:08)


Jordi Savall / Hespèrion XX
Recorded in 1987, at Spain




Dowland - Complete Lute Galliards Works/Lachrimae + Presentation (Century's record. : Paul O'Dette)
John Dowland (1563-1626) - Complete Lute Works by the Master Paul O’DETTE.



Book I
Almain For Lute, P 51 (00:00) Pavana For Lute (02:29)
Mr Knights Galliard, P 36 (09:24) My Lord Willobes Wellcome Home, P 66 (11:02)
Frogg Galliard, P 23A (12:22) Fantasie For Lute, P 5 (15:53)
Lady Rich, Her Galliard, P 43 (18:13) Lady Laiton’s Almain, P 48 (19:51)
Dream, P 75 (21:12) Galliard, P 104 (26:20)
Orlando Sleepeth, P 61 (28:01) What If a Day, P 79 (29:28)
Winters Jomps, P 55 (30:55) Galliard, P 35 (31:48)
Mr Giles Hobie’s Galliard, P 29 (33:29) Dr. Cases Paven, P 12 (35:19)
Mellancholy Galliard, P 25 (40:14) Galliard, P 27 (42:36)
Mistris Whittes Thingz, P 50 (44:24) Go From My Window, P 64 (45:27)
Almain For Lute, P 49 (49:02) Mistris Whittes P 56 (50:14)
Pavane For Lute, P 18 (51:15) Galliard, P 30 (56:38)
Farewell Fantasia, P 3 (58:30)


Book II
My Lady Hunsdons Puffe, P 54 (1:04:06) Solus Cum Sola, P 10 (1:05:28)
Susanna Fair Galliard, P 91 (1:09:56) Sir John Smith His Almaine, P 47 (1:11:46)
Robin, P 70 (1:14:14) Galliard, P 22 (1:18:07)
Pipers Pavan, P 8 (1:19:50) Pipers Galliard, P 19 (1:24:59)
As I Went To Walsingham (1:27:18) Monsieur’s Almain (1:32:42)
Mrs Brigide Fleetwoods Paven, P 11_ Solus Sine Sola (1:34:30)
First Galliard, P 20 (1:40:05) Farawell, P 4 (1:41:30)
John Dowland’s Galliard, P 21 (1:45:03) Aloe, P 68 (1:47:41)
Can She Excuse, P 42 (1:48:43) A Coye Joye, P 80 (1:50:17)
Mrs Vauxes Gigge, P 57 (1:52:37) Mrs Vaux Galliard, P 32 (1:53:32)
Sir Henry Guilford, His Almain (1:54:36) Mignarda, P 34 (1:56:31)
Lachrimae Pavan, P 15 (1:59:58) Galliard, P 26 (2:05:16)
Fantasia For Lute, P 1A (2:06:54)


Book III
King Of Denmark, His Galliard, P 40 (2:10:44) Mr John Langton’s Pavan, P 14 (2:13:36)
Mr John Langton’s Galliard, P 33 (2:19:36) A Fancy, P 7 (2:22:16)
Pavan For Lute, P 16 (2:26:38) Queene Elizabeth Her Galliard, P 41 (2:32:01)
Mrs Cliftons Allmaine, P 53 (2:33:09) Lady Cliftons Spirit, P 45 (2:34:24)
Tarletones Riserrectione, P 59 (2:36:05) Tarleton’s Willy, P 81 (2:39:30)
Fortune, P 62 (2:41:04) Queenes Galliard, P 97 (2:43:31)
Wallsingham, P 67 (2:45:07) A Galliarde On Walsingham, P 31 (2:49:56)
Dowland’s Adieu For Master Oliver Cromwell (2:51:49)
Ferdinando Earle Of Derby His Galliard, P 44 (2:57:20)
Lord Strang’s March, P 65 (2:59:51) Mrs Nichols Almand, P 52 (3:01:25)
Forlorne Hope Fancye, P 2 (3:02:51) Mr Dowland’s Midnight, P 99 (3:06:43)
Semper Dowland Semper Dolens, P 9 (3:08:30)


Book IV
Preludium, P 98 (3:15:52) A Fancy, P 6 (3:17:09) Lachrimae, P 15 (3:20:02)
Galliard To Lachrimae, P 46 (3:25:26) A Fantasia, P 71 (3:27:56)
An Almand, P 96 (3:33:38) Pavana, P 94 (3:35:04)
Robert, Earl Of Essex, His Galliard, P 42A (3:42:17)
A Galliard - Upon A Galliard By Daniel Bachelar, P 28 (3:44:01)
My Lord Wilobies Welcom Home, P 66A (3:47:20)
The Shoemakers Wife In A Toy, P 58 (3:48:43)
The Lord Viscount Lisle, His Galliard, P 38 (3:49:51)
Coranto, P 100 (3:52:42) A Galliard, P 82 (3:54:46)
The Lady Russells Paven, P 17 (3:56:40)
Galliard - On Awake Sweet Love, P 92 (4:01:43) The Frog Galliard, P 23 (4:03:31)


A Fancy (4:05:32) Pavana Dowlandi Angli (4:08:56)
Douland’s Rounde Batell Galyarde (4:14:18) Pavin (4:15:54)
The Erle Of Darbies Galiard (4:21:28) Mistris Norrishis Delight (4:24:18)
A Jig (4:26:02) The Erle Of Essex Galliard (4:28:21)
Galliard (4:30:00) Une Jeune Fillette (4:31:40)
Gagliarda (4:37:03) Pavana Lachrimae (4:38:58)
Squires Galliard (4:45:00) A Fancy (4:46:54)
Hasellwoods Galliard (4:52:48) Sir Thomas Monson, His Pavin (4:54:26)
Sir Thomas Monson, His Galliard (5:00:33) Almande (5:02:43)
Sir Henry Umptons Funerall (5:05:14) Captayne Pipers Galliard (5:11:04)
A Fantasie (5:13:55)


▲△▽▼


「流れよ、わが涙」("Flow, my tears")は、イングランド王国の音楽家ジョン・ダウランドが作曲したリュート歌曲である。


1600年出版。同時代のヨーロッパで随一の人気と知名度を誇った楽曲であり、器楽曲版だけでも東欧を除く諸地域で100前後の写本・刊本に残存し、ダウランドの存命時から後世に至るまで数多くの音楽家によってオマージュ作品が作曲された。比喩的な意味でも文字通りの意味でもダウランドの代名詞的な歌曲で、ダウランド自身、「涙のジョン・ダウランド」(中英語: "Jo: dolandi de Lachrimae")と署名することさえあった[2]。


文献上の初出は『第二歌曲集』(1600年)で、当時の題・綴りは「流れよ、わが涙、なんじの源から溢れ落ちよ」(中英語: Flow my teares fall from your springs)。


もともと1596年に「涙のパヴァーヌ」(ラクリメ・パヴァン、"Lachrimae pavan")という題で器楽曲として作曲されたものである。


歌詞はダウランド自身によって、この曲のために書かれた可能性も指摘されている。1604年には、「ラクリメ」の編曲を集めた楽曲集『ラクリメ、あるいは七つの涙』(中英語: Lachrimae, or Seaven Teares)が出版された。


ダウランドの他の歌曲と同様、この作品の形式(楽式)と様式は舞曲に、この場合は特にパヴァーヌに基づいている。初出は1600年にロンドンで出版された『二声・四声・五声のための第二の歌曲あるいはエア集:リュートもしくはオルファリオン、およびヴィオラ・ダ・ガンバのためのタブラチュア付き』(中英語: The Second Booke of Songs or Ayres of 2, 4 and 5 parts: with Tableture for the Lute or Orpherian, with the Violl de Gamba)、通称『第二歌曲集』(中英語: The Second Booke of Songs)である。


歌の出だしは「流れる涙」のモティーフで、「流れよ、わが涙」の歌詞とともにラから始まり段階的にミまで下降する。このモティーフはおそらくオルランド・ディ・ラッソのモテットやルカ・マレンツィオのマドリガーレからの借用とも考えられ(この形式のモティーフはエリザベス朝の音楽では嘆きを表現するのにしばしば用いられた)、本歌曲にはほかにも両者からの借用が見られる[4]。アンソニー・ボーデンは、本歌曲を「おそらく17世紀初期の英語歌曲で最も広く知られているもの」と称している[5]。


関連曲
この歌曲には、器楽曲版の変種が数多く存在し、その大部分には「ラクリメ」(ラテン語: Lachrimaeあるいはラテン語: Lachrymae、字義的には「涙」の意)という語が題に付されている。作曲自体は歌曲よりも器楽曲の方が先で、「ラクリメ・パヴァン」(「涙のパヴァーヌ」、"Lachrimae pavan")として1596年に完成し、歌詞は後から付けられたものである[3]。歌詞はこの曲のために特に書き下ろされたものであると信じられており、ダウランド自身の手によるものである可能性もある[6]。イングランドの音楽学研究者ピーター・ホルマンの主張によれば、ラクリメの最初の版("Lachrimae Antiquae"つまり「古き涙」と呼ばれる)は「おそらくこの時代において、最も際立って人気が高く広範囲に流布された器楽曲」であるという[7]。ホルマンによれば、ヨーロッパ中(イングランド・スコットランド・オランダ・フランス・ドイツ・オーストリア・デンマーク・スウェーデン・イタリアなど)に現存する写本や刊本のうちおよそ100冊ほどに同曲やその変曲が収録されているという[7]。


「ラクリメ」は後世の音楽(たとえばバッハやショパンなど)よりも抽象的な音楽であり、いわゆる決定版の楽曲は存在しない[7]。ダウランドや同時代人たちは、今日におけるジャズのように、半ば即興的な演奏を行ったと思われる[7]。ホルマンの評によれば、「ラクリメ」の人気はその豊かなメロディーやモティーフに由来するものだという[7]。同時代の他のイングランドの作曲家は一般的に、楽節ごとに1つか2つのモティーフしか用いず、それらを退屈で緩慢な形で水増しした[7]。それとは対照的に、ダウランドの「ラクリメ」では、強烈な印象を残す多種多様なメロディーが展開され、しかもそれらが緊密かつ巧妙に関連し合っているのである[7]。


ダウランド自身による器楽曲版には、リュート曲「ラクリメ」、リュート曲「ラクリメへのガイヤルド」("Galliard to Lachrimae")、コンソート(合奏)曲"Lachrimae antiquae"(1604年)などがある。ダウランドはまた楽曲集『ラクリメ、あるいは七つの涙』(中英語: Lachrimae, or Seaven Teares、ロンドン、1604年)を出版した。同書は、「流れる涙」のモティーフに基づく7つの「ラクリメ」パヴァーヌなどを収録している。


様々な作曲家がこの作品に基づいて新たな曲を書いた。その代表的人物や作品にヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンク[8]、トマス・トムキンズ[9]、トバイアス・ヒュームの"What Greater Griefe"[要出典]などがある。トマス・モーリーも、First Booke of Consort Lessons(ロンドン、1599年)で、ブロークン・コンソートの6つの楽器のための「ラクリメ・パヴァーヌ」を作曲した。とりわけ、ジョン・ダニエルの"Eyes, look no more"には「流れよ、我が涙」へのオマージュがより明白に出ており[10]、ジョン・ベネットの"Weep, o mine eyes"も同様である[11]。20世紀には、アメリカの作曲家・指揮者であるヴィクトリア・ボンドが"Old New Borrowed Blues (Variations on Flow my Tears)"という曲を書いた[12]。 ベンジャミン・ブリテンは、ダウランドのエア「私の嘆きで人の 心が動かせるものなら」("If my complaints could passions move")に基づく変奏曲集「ヴィオラのためのラクリメ」において、「流れよ、わが涙」の冒頭部を引用している。2006年には、イギリスの電子音楽グループのバンコ・デ・ガイアが、ヴォコーダー版である「流れよわが涙、とアンドロイドは泣いた」("Flow my Dreams, the Android Wept")を製作した[13]。



歌詞


Flow my teares fall from your springs,
Exilde for euer: Let mee morne
Where nights black bird hir sad infamy sings,
There let mee liue forlorne.


Downe vaine lights shine you no more,
No nights are dark enough for those
That in dispaire their last fortuns deplore,
Light doth but shame disclose.


Neuer may my woes be relieued,
Since pittie is fled,
And teares, and sighes, and grones my wearie dayes, my wearie dayes,
Of all ioyes haue depriued.


Frō the highest spire of contentment,
My fortune is throwne,
And feare, and griefe, and paine for my deserts, for my deserts,
Are my hopes since hope is gone.


Harke you shadowes that in darcknesse dwell,
Learne to contemne light,
Happie, happie they that in hell
Feele not the worlds despite.


流れよ、わが涙、なんじの源から溢れ落ちよ。
とこしえの追放を受けたれば、せめて我に悲嘆を許し給え。
夜の黒き鳥が自らの哀れな汚名をさえずる地、
その地にて我を独り惨めに生きさせ給え。


消え失せよ、むなしき光、二度と輝くなかれ。
いかな夜とて闇の深さに足るものか、
望みを捨てて残りの人生を嘆きに生きる者には。
光が明らかにするのは、ただ恥辱のみ。


わが苦痛が癒えることは決してあるまい。
なぜなら主の慈悲はとうに逃げ去って、
涙と、ため息と、うめきの声が、わが煩わしき日々から、わが煩わしき日々から、
すべての喜びを奪い取ったのだから。


いとも高き幸福の頂きから
わが宿命は投げ捨てられた。
恐れと、哀しみと、苦しみこそが、この身にふさわしき報い、この身にふさわしき報い、
そして我自身が希望するもの。なぜなら「希望」はとうに去ってしまったのだから。


聴け! なんじら影、闇に住まう者どもよ、
今よりのち光を蔑め。
幸いなるかな、幸いなるかな、地獄にありて
このうつし世の悪意を知らぬ者たちは。


—Flow my teares fall from your springs
from The Second Booke of Songs or Ayres,
of 2.4.and 5.parts: With Tablature for the Lute or Orpherian, with the Violl de Gamba (1600)


以下に、訳文の簡単な解説を示す。


Since pittie is fled(主の慈悲はとうに逃げ去って):pityは現代英語では「哀れみ」という意味だが、中英語では「慈悲」という意味もある[14]。なお、古い用法では、be動詞 + 過去分詞は現在完了を表すのにも使われる。


Feele not the worlds despite(このうつし世の悪意を知らぬ者たちは):despiteは現代英語では「軽蔑」という意味だが、中英語では「悪意」「敵意」「憎悪」という、より強い意味もある[15]。古代地中海世界のグノーシス主義の思想では、悪意を持つ偽神(デミウルゴス)が物質世界を不完全に作ったのだとされている。グノーシス主義はルネサンス期のイタリアで再発見されて知識人の間で流行したが、音楽学研究者・リュート奏者のアントニー・ルーリーの主張によれば、大陸に何度か遊学したことのあるダウランドにもグノーシス主義からの影響が見られるという[16]。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%81%E3%82%8C%E3%82%88%E3%80%81%E3%82%8F%E3%81%8C%E6%B6%99

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/930.html

[近代史6] ジョン・ダウランド『涙のパヴァーヌ・流れよ、わが涙』 中川隆
1. 中川隆[-16041] koaQ7Jey 2021年10月10日 03:56:19 : VTbZ6RHCZM : NlFtS1V1TTRQb2s=[3]
『流れよ、わが涙』


Dowland : Flow my tears




Barbara Bonney : soprano
Jacob Heringman : lute




John Dowland: Flow my tears (Lachrimae); Phoebe Jevtovic Rosquist, soprano & David Tayler, lute




Phoebe Jevtovic Rosquist, soprano
and David Tayler, archlute.





"Flow my tears" by John Dowland | Valeria Mignaco, soprano | Alfonso Marin, lute




Valeria Mignaco, soprano | Alfonso Marin, lute
Recorded live at Sint-Pieterskerk / Leuven / Belgium




Andreas Scholl sings 'Flow, my tears' by John Dowland




Andreas Martin, Andreas Scholl




Flow My Tears by John Dowland




soprano, Josefien Stoppelenburg.

http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/930.html#c1
[近代史5] 人類の奇跡の正倉院−なぜ、奪われなかったかー
2021年10月9日
【竹村公太郎】人類の奇跡の正倉院−なぜ、奪われなかったかー
https://38news.jp/column/19484

奈良の正倉院展
 毎年秋、奈良国立博物館で正倉院展が開催される。今年は10月30日から11月15日まで開催される。展示会が終わると山々は紅葉の盛りから冬の色に変化して行く。この展示会は関西の良い歳時記となっている。

 20年前の1997年、大阪で単身赴任をしていた私は時間つぶしに「正倉院展」へ向かった。いつもは静かな奈良を大勢の人々が博物館に向かって歩いていた。

 1時間以上の長い列のあと館内に入った。抑制された照明のガラスケースの中に、絵画、金工、漆器、刀剣、ガラス器などが何十点も展示されていた。

 美術に素養がなくてもどれも古代の美術工芸品であり、歴史的文化財であり、高価な宝物であることは肌で感じとれた。

 この展示会の解説文に驚かされた。

 正倉院には9,000点もの宝物があり、何十点かは毎年変更されるという。すべての宝物を見るためには100年以上もかかることになる。

 この莫大な宝物が1千年以上も無事だったことに圧倒された。

 この正倉院の存在は、奇跡であった。人類の奇跡と言ってよい。 

奇跡の正倉院
 東大寺にある正倉院は、奈良時代の8世紀中ごろ倉庫として建設された。聖武天皇・光明皇后ゆかりの品をはじめ、天平時代を中心とした宝物を保管する倉庫である。収蔵されている宝物は、中国、朝鮮だけでなく遠くペルシャからの宝物も含まれている。

 この正倉院はシルクロードの終着駅であった。

 正倉院は高床式で、壁面は校木を積み重ねた校倉(あぜくら)造りである。巧みな木造の校倉造りと、宝物は多重の箱に収められていたので、高温多湿の日本で宝物は守られた。貴重な膨大な宝物が1千年以上保存されたことは奇跡的なことであり「世界の宝庫」と呼ばれる所以である。

 しかし、この正倉院には、それ以上の「奇跡」があった。

 「盗まれなかった」ことである。ありえない謎である。奇跡としか言えない謎である。

 正倉院展を観ている中で、この謎に包まれてしまった。

交流軸から外れた奈良
 現在、正倉院は宮内庁が管理している。明治以前は東大寺によって管理されていた。

 正倉院が建てられた時代、奈良盆地は日本文明の中心であった。奈良には富も権力も人も集中していた。正倉院も朝廷によって厳重に警戒され、安全は万全であっただろう。

 しかし、784年、都が奈良から長岡京へ遷都されて以降、奈良は日本の歴史に登場しない。奈良は大いなる眠りに入っていた。

 平安後期から武士の時代となり、源平の戦いを経て源氏が勝利し、政治の中心は関東の鎌倉に移った。その後、南北朝の混乱を経て、再び京都で武士の室町時代となった。

 1467年に応仁の乱が勃発した。秩序を失った日本列島は、100年以上の戦国の世に突入した。織田信長、豊臣秀吉そして徳川家康と覇権が移り、1603年、徳川家康が江戸幕府を開府し、やっと平和な時代を迎えた。

 1千年の間、日本史の舞台は大阪、京都、江戸であった。

 大阪と京都を結ぶ動脈は淀川であった。京都と江戸を結ぶ動脈は、東海道と中山道であった。そして、日本列島の周囲には海運ネットワークが形成されていった。

 平安時代以降、江戸そして近代明治まで、奈良は歴史の大動脈から外れていた。淀川の水運から外れていた。東海道、中山道の陸の街道からも外れていた。奈良は海に面しておらず、日本列島の海運ネットワークからも外れていた。

 奈良は激動し躍動する日本史の交流軸から外れていた。(図―1)で奈良盆地が街道から外れていることを示した。

奈良の大いなる眠り
 明治になり、国鉄と近鉄が奈良盆地に敷設されるまで、奈良は山々に囲まれた田圃で眠りについていた。

 奈良の1千年の眠りには根拠がある。それは、奈良の人口の変遷である。
(図―2)は奈良市の人口の変遷を示す図である。

国土交通省の奈良国道事務所の労作である。

 平城京が栄えた奈良時代、奈良には20〜30万人が住んでいた。しかし、奈良から京都へ遷都されると、人口は3万人に激減してしまう。その後、明治までの約1千年の間、奈良の人口は増えることはなかった。江戸時代、日本の総人口が1000万人から3000万人に激増した。その人口急増の江戸時代でさえ、奈良の人口は増えなかった。

 この図を見ているかぎり、奈良は躍動する日本の歴史から忘れられ、大いなる眠りについていた。眠りについていた証拠がある。(図―3)は、全国の都道府県別の旅館、ホテルの数の統計である。

 全国最下位は奈良県である。

 旅館、ホテルの数は、その土地の交流を表す。奈良は交流軸から外れ、人々の交流はなく、眠っていた証左である。

 この1千年の間、何度も大騒乱が起こった。殺気立った軍隊が奈良にも入ってきた。血に飢えた夜盗や敗残兵も入ってきた。

 その間、奈良には強力な政治権力はなく、正倉院は宝物を抱いて裸同然に立ち尽くしていた。

 しかし、その正倉院は、誰にも襲われなかった。

 世界の人類史でありえないことであった。

盗掘され、襲われる遺跡
 世界の歴史遺産は、どれも盗掘され、破壊されている。偶然、海底に沈んだり、地中深く埋まった遺産は別にして、盗掘から逃れた遺産など世界にはない。

 時代を制覇した王たちが腐心したのは、いかに自分の墓が荒らされないかであった。王たちは深く隠し、複雑に守った。しかし、王たちの遺産は必ず人々によって盗掘され、夜盗集団に襲われた。

 それが人間社会の相場であった。ところが、正倉院は襲われず盗まれなかった。

 正倉院に多数の宝物が存在していることは、誰もが知っていた。その正倉院は寂しい奈良で、これ見よがしに高床式の木造で立ち尽くしていた。その姿は、いかにも襲ってくれと云わんばかりであった。武装した20人もの盗賊なら、いつでも宝物を強奪できたはずだ。

 何故、正倉院は襲われなかったのか?

 日本はそれほど治安が良いのか?日本の夜盗は特別に倫理観がすぐれていたのか?そのようなことは到底考えられない。

 腑に落ちなかった。その謎は胸の中に沈んでいった。

宝物の神秘の力?
 正倉院展に行ってから10年が過ぎた。

 奈良県が主催する会議に呼ばれた。その会議で、奈良の歴史に造詣の深い3人の教授陣と同席した。正倉院が襲われなかった理由を聞く良い機会であった。

 会議の間、それを聞くタイミングを探していた。話題は奈良の歴史に移っていった。チャンスとばかりに、心を弾ませながら発言した。

 「何故、正倉院は盗掘に遭わなかったのですか?正倉院を屈強な武装団が守っていたとは思えません。世界史の中で、宝庫は必ず襲われています。ましてや正倉院は木造です。何故なのでしょうか?」

 3人の教授の方々は答えに窮していた。少し間をおいて、ある教授が「源平の乱の大火事の際、正倉院の手前で火は止まりました。正倉院の『宝物の力』が守ったのでしょう」とユーモアで答えられた。会議の出席者たちも笑って、その場が過ぎ去ってしまった。

 正倉院の宝物の神秘の力が、盗掘から正倉院を守った、というのは話としては面白い。しかし、納得できるものではなかった。

近鉄奈良駅ビルの模型
 会議が終わって近鉄奈良駅に向かった。京都行きの特急まで30分あった。興福寺や東大寺へ行くには時間が足りない。切符を買った後、どうしたものかと構内を見回した。その時、ふっと案内が目に飛び込んできた。

 奈良駅ビルの4、5階の「なら奈良館」の看板だった。奈良の観光案内なのだろう。時間つぶしにはちょうどいい。その館に向かった。

 やはり、そこは観光館であった。内容はビデオ映像と写真の展示であった。ぶらぶら見て歩いていると、あっという間に出口になってしまった。出口の広間に、5m四方の模型ジオラマが置いてあった。その模型は、江戸時代の奈良の町であった。

 それを見たときには「なんだ、これは!」と声を出してしまった。

 大きな箱全体に、ただただ民家がごちゃごちゃと詰まっていた。これといった建物はない。しかし、意識を集中して見ると、これら町家に埋もれるように寺社が見える。

 このジオラマから目が離せなくなった。

 正倉院の謎が解けた!

 電車の時刻が迫っていた。コンビニに走って簡易カメラを買って映した。(写真)は、ジオラマ模型の奈良の町屋である。

特急に飛び乗ってビールの缶を開け、夕方の奈良の山々を眺めながら「そうかー」とつぶやいた。

 あの奈良の町家の模型が、正倉院の謎の解答だった。

濃密な奈良の町
 「京が京都へ遷都されて以降、奈良の人口は激減し、そのまま明治の近代化を迎えた。奈良は大いなる眠りについていた」と私は表現した。

 自分自身がこの表現に囚われていた。奈良は閑散で寂しい田舎だった、という思い込みだ。

 その思い込みは間違っていた。

 興福寺や東大寺の背後には、うっそうとした春日山がある。模型は興福寺や東大寺の前面の町屋を再現していた。びっしりと町家が埋まっていた。

 平城京や平安京や江戸の街には、広い街路が配置されていた。木造の都市の大敵は火事だ。その火事から町を守るため広い街路が必要であった。

 ところが、この奈良の町には、広い路がない。町の中を狭い路地が迷路のように曲がりくねっている。

 現在の奈良には、広い大宮通りが県庁に向かっている。県庁付近では鹿たちが悠々と歩き回っている。しかし、当時の奈良の町並みは、想像もできないほど狭く、凝縮した町だった。たしかに、奈良盆地全体の人口は多くはなかった。しかし、奈良の中心は、人口密集の濃密な町屋であった。

 都が奈良から京都へ遷都してからは、奈良は交流軸からはずれた。奈良の人々は町屋に集まり、肩を寄せ合うように濃密な共同体を形成していた。

 この密集する町家の人々が、正倉院を守った。

町衆が守った
 奈良の町屋で生活する人は、みな顔馴染みだった。隣の家族も、向こうの家族も、小さい頃からみな知っている。

 この濃密な町に、不審な者や犯罪者など一歩も立ち入れない。男衆だけではなく女衆や子供の視線も怪しい者の侵入を防いだ。

 怪しい者たちが正倉院にたどり着くには、この町屋の狭い路地を抜けなければならない。密集する家々の内側から、町屋の男衆や東大寺の僧兵が待ち構えていた。彼らは槍を構え、怪しい者が路地に浸入してきたときに、何本もの槍をただ突き出せばよかった。

 夜盗や狼藉者にとって、この迷路は危険過ぎた。盗賊たちは、正倉院の宝物を奪うことを諦めた。

 正倉院が守られた理由は、日本の夜盗の道徳心や倫理観ではない。

 正倉院が守られたのは、密集した町家と狭い路地とそこに住む人々の存在だった。

 奈良の町屋が、人類の奇跡の正倉院を生んだ。

https://38news.jp/column/19484
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1164.html

[近代史4] 財務次官 矢野康治は経済が全くわかっていない 中川隆
2. 中川隆[-16040] koaQ7Jey 2021年10月10日 07:42:42 : MKtlKLYSaM : cGpaQUJRN3pRcjI=[1]
矢野康治財務事務次官の「選挙妨害」
2021-10-10
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12702691806.html


 今月末の総選挙に向けた自民党の公約(重点政策)から、「財政健全化」「財政再建」が消えました。

『次期衆院選における自民党の重点政策が決定』

 所信表明演説において、自民党の総理大臣が「改革」という言葉を使わない。重点政策から「財政健全化」が消える。
 行きつ戻りつ、もやもやしますが、確かに「転換」は始まったのかも知れません。


 というわけで、財務省は相当に焦っているようで、先日も取り上げた矢野康治事務次官の「暴走」に至るわけですね。

『与野党論争「ばらまき合戦」と批判 矢野財務次官、異例の寄稿
 財務省の矢野康治事務次官は8日発売の月刊誌「文芸春秋」11月号に寄稿し、自民党総裁選や衆院選をめぐる政策論争に関し、「ばらまき合戦のようだ」と批判した。財政再建の必要性を訴える内容だが、現役の事務方トップがこのような形で自らの意見を表明するのは異例だ。』

 異例だ。じゃあ、すまないですよ。何しろ、今月末には選挙があるのです。

 与野党の複数の政治家から、
「矢野の寄稿は憲法違反」
「選挙妨害だ」
 という声が入ってきております。


 公職選挙法は、「公務員等の地位利用による選挙運動の禁止」として、


『第百三十六条の二 次の各号のいずれかに該当する者は、その地位を利用して選挙運動をすることができない。
一 国若しくは地方公共団体の公務員又は行政執行法人若しくは特定地方独立行政法人の役員若しくは職員』

 と、公務員の「選挙運動」を禁じています。もっとも、禁じられているのは「選挙」運動であり、政治的な意見を述べる「政治活動」は認められています。(「選挙運動」とは、「誰誰に投票してください」とやることです)


 とはいえ、j実は国家公務員は政治的行為も制限されています。

 具体的には、国家公務員法によります。


『第102条 職員は、政党又は政治的目的のために、寄附金その他の利益を求め、若しくは受領し、又は何らの方法を以てするを問わず、これらの行為に関与し、あるいは選挙権の行使を除く外、人事院規則で定める政治的行為をしてはならない。』


 国家公務員は「国民全体の奉仕者」であるため、政治的に中立な立場を維持することが求められます。また、公務員の地位は政治勢力の影響又は干渉から保護されており、政治動向により変動してはなりません。


 というわけで、国家公務員は一定の政治的目的を持つ政治的行為を制限されています。

 人事院が国家公務員に対し、制限している政治的行為に、
『多数の人に接し得る場所で政治的目的を有する意見を述べる』
『政治的目的を有する文書の発行・掲示・配布等』
 があります。矢野康治の文藝春秋における「財政破綻」を煽る寄稿は、完全にアウトです。


 とはいえ、「制限の対象とならない行為」つまりは例外行為に「職務遂行のため当然行うべき行為」が入っています。矢野は、財政破綻を避けるためにバラマキ批判をするのは、「職務遂行のために当然行うべき行為」と逃げを打つでしょう。


 もっとも、そもそも日本の「財政」を決めるのは財務省ではありません。国会議員なのです。


 日本国憲法には、
『〔財政処理の要件〕
第八十三条 国の財政を処理する権限は、国会の議決に基いて、これを行使しなければならない。』
 とあります。


 それにも関わらず、文藝春秋の寄稿のタイトルは、
「国家財政をあずかる現役トップ官僚の告発「財務次官、モノ申す 『このままでは国家財政は破綻する』」」
 となっている。もはや、タイトルからして憲法違反でございます。


 国家財政を預かるのは、財務官僚ではないから。国会議員ですから。

 それにしても、憲法、国家公務員法に抵触している(あるいは限りなく黒に近いグレー)な寄稿を上げるほど、矢野康治財務次官や財務省は追い詰められているのでしょうか。


 しかも、選挙前のタイミングですから、「財政出動」を公約に掲げる政治家、政党(少なくないです)が怒って当然です。


 矢野康治は、もしかしたら墓穴を掘ったかも知れません。
 与野党の政治家の皆さん、是非とも矢野康治の「暴走」を批判して下さいませ。
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12702691806.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1708.html#c2

[番外地9] 警察は爽彩さんの病状や家庭の状況を完全に把握した上で発言・行動していた
警察は爽彩さんの病状や家庭の状況を完全に把握した上で発言・行動していた
自殺未遂事件では警察は爽彩さんと母親の関係が原因だと判断して、爽彩さんを精神病院に二か月も入院させて母親とは会わせませんでした。
警察は自殺未遂事件で爽彩さんが退院して以降は、爽彩さんを毎月呼び出して、母親との関係、覚醒剤使用の有無等を聞いていた様です。
失踪・凍死事件では警察は爽彩さんと母親の喧嘩が原因の家出だと判断して、初期捜査を殆ど行いませんでした。
つまり、警察は爽彩さんの病状や家庭の状況を完全に把握した上で、失踪・凍死事件は爽彩さんと母親の喧嘩が原因の家出だと判断したのです。
イジメは覚醒剤障害による妄想だったのか? _ 爽彩ちゃんの絵は統合失調症患者が描く絵に近い

覚醒剤障害は死体検案書にあった統合失調症と全く同じ症状で、治療薬も全く同じ。
爽彩ちゃんが覚醒剤障害だとは表立って言えないので統合失調症だという事にしていた可能性が高い。警察は毎月爽彩ちゃんと会って様子を見ていたので爽彩ちゃんの病状を完全に把握していた。旭導会の覚醒剤関係の情報もすべて知っている。
覚醒剤精神病と統合失調症 岸本年史 (奈良県立医科大学精神医学教授)
覚醒剤精神病はメタンフェタミンの乱用によって統合失調症の幻覚・妄想と区別できない精神病症状を生じる。治療も統合失調症治療に準じ,線条体や側坐核でのドパミン放出に拮抗する抗精神病薬による治療がなされる。
統合失調症も幻覚・妄想で特徴づけられ,覚醒剤精神病と類似したドパミンシステムの異常があると考えられている。幻覚や妄想などの陽性症状だけでなく,統合失調症でみられる感情の平板化などの陰性症状や,ワーキングメモリーなど認知機能障害も両疾患で認められ,臨床症状や薬理学的特徴において,両疾患は酷似している。
国際的な診断基準ICD-10やDSM-5は症候学的観点に基づいて診断することから,両疾患を適切に鑑別することは難しいのが現状である。

▲△▽▼

爽彩ちゃんが11,12歳の頃にパニック障害を発症したのは覚醒剤障害になったのが原因か?

パニック障害は基本的には、

戦争に行って最前線で戦って死にそうになった
津波・地震・火災等で死にそうになった
レイプされて殺されそうになった
覚醒剤中毒でフラッシュバックした

等の異常体験で発症するものです。 自閉症程度ではパニック障害にはなりません。そもそも、フラッシュバックする様な恐怖体験をした事が無ければフラッシュバックする記憶も無いのでパニック障害にはなりません。

フラッシュバック (flashback) とは、強いトラウマ体験(心的外傷)を受けた場合に、後になってその記憶が、突然かつ非常に鮮明に思い出されたり、同様に夢に見たりする現象。心的外傷後ストレス障害(PTSD)や急性ストレス障害の特徴的な症状のうちの1つである。

爽彩ちゃんが小学生の時にパニック障害を発症した原因は
・レイプされた
・児童AV撮影や児童売春させられた際に覚醒剤を飲まされた
のどちらかの可能性が高いですね。

A子やC男は自分達が旭導会の一員だと言って被害者を脅迫して児童AVを撮影していました。 女児のAV撮影には覚醒剤や薬物を使うものなので、ヤクザから薬を貰っているに決まっています:

爽彩ちゃんは統合失調症や発達障害や心の病ではなく覚醒剤障害だった可能性が高い

爽彩ちゃんが自殺未遂後に2か月も精神病院に閉じ込められていたのは何故か?
自殺未遂後に警察が毎月爽彩ちゃんを呼び出して病状の報告をさせていたのは何故か?

医療に携わっていると、患者が覚せい剤などの薬物中毒になっていることを知る機会があるものです。覚せい剤の使用は犯罪ですから、本来は警察や行政機関に報告すべきです。

しかし、医師には守秘義務があるので、通報が守秘義務に反するのではないかと迷いを感じる医師の方も多いです。患者が覚せい剤を使用していることが判明した場合、医師としてはどのように対応すれば良いのでしょうか?
覚せい剤取締法には、麻薬及び向精神薬取締法と異なり、医師に届出義務は課されていません。

そうだとすると、覚せい剤の場合には守秘義務が優先されて、医師には警察などに通報することが許されないとも考えられます。実際に、過去の医師国家試験においては「覚せい剤取締法違反の場合には通報すべきではない」という趣旨の問題が出されたことがあり、こういった考え方を持っている医師の方もおられます。


爽彩ちゃんに売春させていた? 

#2 2021/06/18 21:31
お前ら今時気づいたんか?地元じゃ暗黙の了解だぞ?
死をほのめかすメール送るのにAndroidとiPhoneの2種類あったよね?
Androidは売春の連絡用に持たされてた管理人から持たされてたスマホだよ。

#20 2021/06/18 22:52
4月の時点で加害者は爽彩さんに売り強要させてたリークあるね。2ヶ月経って信憑性が高くなってきた。アイス(シャブ)奢ってもらった方、リークありがとう。

0385 ニューノーマルの名無しさん 2021/04/19 01:43:13
加害者の某は爽彩に売りを強要させてた
その金で遊び回ってたよ
叩かれるのはわかってるけど自分も加害者にアイス(註:覚せい剤の隠語)おごってもらった

0495 ニューノーマルの名無しさん 2021/04/19 01:48:47
んでね、まだいじめられて売りやらされてる女の子いんよ
072させられて動画とられたかは知らない
中学生じゃないから格安で売らないといけないからノルマゆって1日5人とやらないと髪の毛ひっぱったり見た目にわからない頭おもいっきり殴ってるんだって客を取らなかった

#297 2021/05/08 18:43
【被害者を詰るここの住民大丈夫か?】
子どもいる?
小6→ゴールデンウィークまでに彼女に暴力したんだよ
『年齢12歳』
妹とか知人で12歳いたらみてみろよ
まだ『羞恥心』すらあまりない

爆サイのスレでA子が誘引して、『媚薬』をもった
普通の大人でも
おかしくなるのに
小学生に媚薬とかもったら
おかしくならないか?

それを『旭川』はシステム的にしている

女性(女の子)を『便所』と呼ぶ

動画でも殴る蹴るして『豚』呼ばわりしていた
被害者を冒涜するやつ
頭おかしいやろ

お前たちの親族でしてみろ

親族に『便所』って周りから言われたら
悔しくないのか?

#371 2021/05/09 06:11
ハメ撮りの最後は
ピースと笑顔強要して和姦アピール

#379 2021/05/09 07:02
>>32
どっかのスレで
クスリもったって書き込してたけど
知ってるのか?

#383 2021/05/09 08:34
>>379
これ気になるね

f_i_ori
2020.7.29 6:31 さあやww
2020.7.29 6:32 飲んだ

>ツイ フジモン→フォロワー→れな→フォロー →3匹怪しいのがいる。1番下ツイ返信チェック!

#384 2021/05/09 08:37
C男は脅迫メールを送っただけで、それ以前に撮られた四本の動画作成とは無関係

#387 2021/05/09 08:44
挿入してたのは複数で吉xと藤x以外にも関わった男子がいる  


0601 名無番長 2019/07/12 17:15:29
旭導会 若頭補佐
唐沢昌幸(からさわまさゆき)56歳
旭川市豊岡7条1丁目
稲川会荒木組の組員と共謀し、小学生と中学生の姉妹に覚x剤を注射した上で卑猥な行為をした。
この姉妹の母親と唐沢は顔見知りであり、母親の依頼でトリトンの会長を恐喝し逮捕。その捜査の過程で小学生と中学生の姉妹に対する猥褻行為が発覚。旭導会本部はこれに対する処分をしておらず、強く処分を求める。

2020年8月12日、旭川中央警察署は、自宅に大量の覚せい剤と注射器を隠し持っていた組員を逮捕。同年9月2日、旭川市の事務所に家宅捜索が行われた
http://www.asyura2.com/21/ban9/msg/885.html

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