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中川隆 koaQ7Jey コメント履歴 No: 100262
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[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
1. 中川隆[-11696] koaQ7Jey 2019年3月06日 07:37:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[294]

中島みゆき「世情」(1978年4月10日)
https://pv755.com/sejo
https://www.nicovideo.jp/watch/sm27227751


▲△▽▼


3年B組金八先生 2 第24話 - YouTube 動画
22:55 から中島みゆきの「世情」が流れる
https://www.youtube.com/watch?v=Ai9gWCQjrXI


心に残るこのシーン 2017/3/8

加藤逮捕!

中島みゆきの「世情」が流れる『3年B組金八先生』の加藤逮捕シーン!
https://lineblog.me/wondergarage4444/archives/244364.html

加藤逮捕!
僕の中では何と言ってもこのシーンですね。

このシーン、当時のテレビ番組では相当衝撃でしたよね。
まだ学生だったのですが、すごくショックを受けたのはよく覚えています。

大人視点でドラマを見れば他の方法があるだろうにって思うのでしょうが、まだまだ未熟な中学生からすれば、大人達に対して感じた矛盾への精一杯の主張でしょう。
良いドラマでした (´ー`)

この逮捕シーン、今では観ることができないですよね。
テレビ局がダメなのか中島みゆきさんの「世情」がダメなのかよくわかりませんが…

でも、見つけちゃいました (๑˃̵ᴗ˂̵)
こういうところは、さすが中国!
感謝です ( *´艸`)

中島みゆきさんの「世情」…
このシーン以降、ずっと心に残ってます (´-`)
https://lineblog.me/wondergarage4444/archives/244364.html


▲△▽▼

特段の欝状態で、生きるか死ぬかのときに、女性で誰を聴くかといえば、それは、あなた、中島みゆきでしょ@@

アルバムでは『愛していると云ってくれ』が好きだが、当時はドロドロの愛憎歌が多く、彼女のファンだった女の子が、毎日聴いてると暗くなるから、、と言っていた^^

彼女の詩質へのこだわりは谷川俊太郎との出会いが決定的だとよく言われるが、そのとおりでしょう。

アルバムのなかに「世情」というのがある。

***********************************

世の中はいつも 変わっているから
頑固者だけが 悲しい思いをする

変わらないものを 何かにたとえて
その度崩れちゃ そいつのせいにする

シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため

世の中は とても 臆病な猫だから
他愛のない嘘を いつもついている

包帯のような嘘を 見破ることで
学者は世間を 見たような気になる

シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため

シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため

シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため

*************************************

この歌は難解であるとか、反体制・不条理とか、いろいろ枕詞が並んでいるがそんなことはない。

句読点を仮に入れればこうなる。

シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
1 変わらない夢を 流れに求めて、
時の流れを止めて 2 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため

対立の構図が明確だ。
前者の夢を後者の体制は卑下したように眺めいる、ここでの夢は永遠性をもった聖。
これは自然な解釈だ。

しかし、この歌を聴いていると、隠された聴きづらさが伴う。
1 と 2 は同じ夢なのか?
そう思うリスナーも出てくるのだ。

前者は無産共産主義の夢で、後者の夢 2 は現世で確立された利益、なのかもしれない。

そうなると、それぞれが自分に都合のいい夢を求めているという、むしろ、染み入ってくるような解釈になる。

そして、面白いのは「流れに求めて」という反権力志向的なデモスタイル。
当時の学生運動の根底にあったのは「暴力の肯定」であり、建前は鉄と血の意志だったはずだ。
決して流れに身を委ねたわけじゃ、あるめー

歌詞というのは、かように、面白いものなんです。
1978年当時、ベトナム戦争はすでに終結し、若者は長髪を切って社会人になった。

自由主義思想と共産主義思想のハザマを勘違いした自称共産主義者が、愚かな行動を続けていたが、多くの若者はさっさと現実に戻っていた。

この歌は、変革への情念が冷えつつあったときに、(価値観がゆっくり壊れだした)絶対と相対の相克感を歌っているような気がする。

そして、深い現実に対してなにもなしえない、知識人へのサヨナラ。
いまの民進党はそのころの残党が多いので、未来を見据えていた歌ともいえる。
しかし、それはいまだから語れる詩篇に対する評論であって、中島みゆきは、単に学生運動の敗残者に対して歌ったのかもしれない。

ここまでアタシが話を引っ張ったのは、坂本龍一がこのアルバムに参加しているからです。

坂本は高校の後輩で同じ社研にいたが、早くから吉本隆明の胡散臭さを言っていました。

アタシと同じで、根っこはアナーキストの香りがする男だ。

彼が自在な思想観を中島みゆきに伝播した結果、色彩不透明な歌詞がうまれたともいえるし、おそらくそうだと思う。

アタシはこの曲を聴くたびに、ただ涙が流れ出してよろよろして、倒れそうになるので、あまり聴かないようにしている。。。

ちなみに中島みゆきのレコードを仕切っていたのは川上源一、ヤマハの天皇といわれた男。

中島みゆきのレコードの音質がいいのは、世界のヤマハの音響技術のおかげだ。
彼女は生涯、川上への畏敬の念を失わなかったという。
https://sniperfon.exblog.jp/25835674/

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c1

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
2. 中川隆[-11695] koaQ7Jey 2019年3月06日 08:33:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[295]

「世情」という曲と、もののあはれ 2010-08-10
https://blog.goo.ne.jp/tousui-00/e/4a7c2f53bdc9a4eb9a88fa23ee0fec36


1 世の中はいつも 変わっているから
  頑固者だけが 悲しい思いをする

  変わらないものを 何かにたとえて
  その度 崩れちゃ そいつのせいにする

  シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
  変わらない夢を 流れに求めて
  時の流れを止めて 変わらない夢を
  見たがる者たちと 戦うため


2 世の中はとても 臆病な猫だから
  他愛のない嘘を いつも ついている

  包帯のような 嘘を 見破ることで
  学者は 世間を 見たような気になる

  シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
  変わらない夢を 流れに求めて
  時の流れを止めて 変わらない夢を
  見たがる者たちと 戦うため

  シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
  変わらない夢を 流れに求めて
  時の流れを止めて 変わらない夢を
  見たがる者たちと 戦うため

  シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
  変わらない夢を 流れに求めて
  時の流れを止めて 変わらない夢を
  見たがる者たちと 戦うため


初出は、1978.04.10発売のアルバム、『愛していると言ってくれ』。

中島みゆきという人は、自分の歌詞について、解釈は聴く人によって様々だから、あえて本人からは説明しないという旨の発言をしている人であるので、歌詞も、勝手に解釈してみたいと、そう思います。

ああ、その前に、最近知ったエピソードをひとつ。
実は、このアルバム、スタジオミュージシャンだった頃の坂本龍一が参加しているのだが、彼が当時の事を書いている文があり、興味深いので、それをここに書いておきます。

彼はこんなエピソードを書いています。

「当時、僕がスタジオミュージシャンだった頃、みゆきさんのスタジオに行って、リハーサルなんかやるんですが、彼女は最初の頃、今度のアルバムのこの曲はね、って言って、まず自分でギター弾いて教えてくれるんですよね、で、ある時、聴いてたら、どこかで誰かがすすり泣く声が聞こえるんで、あれ?と思って、キョロキョロしてると、みゆきさんがギター弾きながら泣いてるんだよね、驚きましたよ。だから、彼女は、最初の頃はさ、売れるとか売れないとか、まったく考えずに、ピュアーに、音楽そのものをやってたんだと思うんですよね。云々。」と。

坂本龍一自身が、1983年頃にそう書いているのですが、初期の頃、というと、このアルバムが出たのが1978年だし、彼自身も参加しているLPな訳だから、当然、すすり泣いていた頃、のみゆきさん自身のどんぴしゃの時期に当たる。

坂本龍一は、「最初の頃」には、と書いていて、その後、すすり泣く事なく、ピュアーな領域からエンタテイメントの領域へと彼女が移っていった時期がある、と、論じていく訳ですが、この辺は、僕自身とは多少考え方が異なる所があります。尤も、坂本龍一自身、そのように変わっていった事を批判しているのではなく、個人的なピュアーな所からエンタテイメントの領域へと移る際に、落ちていく人と残っていく人が分かれるが、中島は残った人で、その移り変わりの際に、彼自身の用語でいうと、サーカスのような事が行われた、と、書く訳です、が、その辺は、僕にはよく理解できませんでした。

歌の解釈に入る前に、もう少しだけ、このアルバムや曲が成立した背景を探ってみたいと思います。

以下は、

「中島みゆき研究所」
http://miyuki-lab.jp/

のこの曲のコメントを丸引きです。

「中島みゆきの通算4枚目のアルバム『愛していると云ってくれ』のラストに収録されている名曲。1981年3月20日放送のTBSテレビ系ドラマ「3年B組金八先生(第2シリーズ)」で中学生たちが警察に連行されるTVドラマ史に残る名場面で挿入歌として使われ話題となる。この曲を起用した演出の生野慈朗氏は1960年代の学生運動を描いたアメリカ映画「いちご白書」の主題歌、バフィー・セントメリーの「サークル・ゲーム」をイメージしたという。」

余談が続きますが、このバフィー・セントメリーの「サークル・ゲーム」と「世情」の曲調自体は、実際聞いてみればわかると思うが、全く違うと言ってもいいと思いますが、そこは、アーティスティックな演出の秘儀とでも言う他無く、それはそれで想像出来ます。唯、いちご白書という記念碑的な映画との連想は、全く同感で、この曲は、明らかに、学生運動を題材として作られた曲であると、二十歳の頃、この曲を始めて聴いた瞬間から、そう思っています。

この「世情」から10年後、みゆきさんは、「ローリング」という曲を作っていますが、その二番の歌詞が、私が思うに、将に「世情」と同じ題材、つまり、学生運動を想定していると思われ、その歌詞はまた、「世情」の歌詞を読み解く上での傍証ともなると思われますので、ここでその部分だけ、紹介しておきます。


ローリング
https://pv755.com/roringu

中島みゆき ローリング 歌詞
https://t.co/4M4HzS0l4W


「黒白フィルムは 燃えるスクラムの街
 足並揃えた幻たちの場面
 それを宝にするには あまり遅く生まれて
 夢のなれの果てが転ぶのばかりが見えた」

と、いうものです。

ずいぶんな皮肉というか、痛烈な批判精神というか、・・・僕はこういう中島の側面も大好きな者の一人なのですが、この歌詞に、「足並揃えた幻たちの場面」とありますが、それは将に、「世情」の中で歌われる、「シュプレヒコールの波」と二重写しに見えます。

と、いうことで、前置きはここでやめて、「世情」の歌詞の、超個人解釈を以下に書かせて頂きたいと思います。

とても難しいですね、解釈が。二義性というか、どちらとも取れる言葉の連なりが横たわっています。

まず、一番から。

  世の中はいつも 変わっているから
   頑固者だけが 悲しい思いをする

ここでいう、「変わっているから」といのは、「変わり者」の変わっている、という意味ではなく、変化し続けているから、という意味ですよね。
だから、「頑固者だけが 悲しい思いをする 」。頑固者、って、誰のことでしょうか。変わり続ける世の中にあって、変わってはいけないもの、それを、誰がなんと言おうが、信じ続け、持ち続けている者、という意味でしょう。そういう人は、いつも、悲しい思いをする、という訳です。


  変わらないものを 何かにたとえて
  その度 崩れちゃ そいつのせいにする

これは、「変わり続ける世の中」が、「変わらないものを」何かしらの標語に巧み、呼んで、呼ばわる度に、自分自身が崩れ(変わり、変貌し)ては、崩れ壊れ変節したのは、お前、頑固者の、そいつのせいにする、という意味で、歌われていると思います。

ファーストアルバム「あぶな坂」の一番の歌詞をここで思い出してもいい訳です。(橋を壊したお前のせいだと、口を揃えてなじるけど」と、ありますよね。)

「そいつのせい」にされた、この私、頑固者こそ、可愛そうだと思いませんか ?

1978年というと、みゆきが、26歳の時、です。26歳にして、この洞察は、驚くべき事ですね。音楽家の洞察ではなく、むしろ、文学者の洞察だと思います。

そして、曲はサビの部分に入っていきます。


  シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
  変わらない夢を 流れに求めて
  時の流れを止めて 変わらない夢を
  見たがる者たちと 戦うため


うむ、これも難しい。両義的であり、軽々しく判断する事を拒む表現ですね。
まず、肯定か否定か、という判断はお預けにして、辿ると、これは、何を言っているかというと、変わり続け、変貌し続け、ある意味で変節し続ける、臆病でズルイ、人間たち、当然、この自分もその中に入っているのであろう、頼りない、情けない、爪も牙もない獣のような者達が、その「変わり続け変節し続ける流れこそが、変わらない夢なんだと、自ら、集団的に信じ込み続けながら、あの悲しい無口な頑固者をやっつけようと、戦うために、足並み揃えて、シュプレヒコールを繰り返し、見よ、今もまた、通り過ぎていく」と、歌っているのです・・・、きっと。

いやぁ、・・・すごいもんだ、おおげさに聞こえるかもしれませんが、これはもはや、予言的な洞察力と、表現力です。

さて、二番は、一番の展開部という事になります。


  世の中はとても 臆病な猫だから
  他愛のない嘘を いつも ついている

  包帯のような 嘘を 見破ることで
  学者は 世間を 見たような気になる
  

この二連のフレーズは、ほぼそのまま言葉通りですね。説明はいらないと思います。

注目すべきは、臆病者の猫がつく嘘、を、「包帯のような嘘」と、言っていることです。
本当は、傷つき、痛みを感じつつ、その嘘は付かれているのかもしれない、という、彼女のやさしい眼差しがある。
このモチーフは、「あぶな坂」にも息づいています。

唯、歌詞の解釈からちょっと離れて、二十歳の頃、この曲を初めて聴いた時に感じた事なのですが、この、「世の中はとても 臆病な猫だから」という冒頭の、臆病な猫、という直喩が、ちょっとわざとらしいというか、ださい、と感じました。

しかし、今はちょっと違って、・・・彼女は或る一定の語句を繰り返し、何かしらの詩的イメージとして、異なった場面で繰り返し用いる所があって、「猫」、は、他の曲でも使われていて、その類推をすると、改めて納得性のあるものとなって、現れてくる、という事を、リスナーである僕は度々経験しました。

一見、奇妙な風にも感じられる場合がある直喩には、揺らがない、彼女自身の底意が息をしている。

それをここで少し言うと、「猫」は、まず、「やまねこ」という曲で全面的に表現されていますが、一番の冒頭に、

  女に生まれて喜んでくれたのは
   菓子屋とドレス屋と女衒と女たらし
   嵐あけの如月壁の割れた産室
  生まれ落ちて最初に聞いた声は落胆の溜息だった


と、あります。これは、第二の性としての女性が置かれた場所、を言っているのですが、底にあるのは、共苦の感情、だと思う。少しオーバーな表現で言えば、受難。パトス的で、非戦闘的な、本質的な意味での女性性・・・。

また、「あした」という曲のサビでは、


  もしも明日 私たちが何もかもを失くして
  ただの心しか持たない やせた猫になっても
  もしも明日 あなたのため何の得もなくても
  言えるならその時 愛を聞かせて


と、ある。

「ただの心しか持たない やせた猫になっても」・・・言えるならその時、愛を聞かせて、・・・これはもう、極北の言葉だ、と言っていいと思います。

 因みに、が、多くて申し訳ないのですが、・・・因みに、「世情」から20年後、「瞬きもせずに」という曲の中では、女性・女を暗示する「猫」は、より一層進化し普遍化して、「獣」という表現を得ます。歌詞としては、こうです。

ああ 人は獣 牙も毒も棘もなく
 ただ痛むための涙だけを持って生まれた
 裸すぎる獣たちだ

「やまねこ」は「世情」の8年後に発表された曲ですが、その中では、この山猫は、

  傷つけるための爪だけが
  抜けない棘のように光る
  天(そら)からもらった贈り物が
  この爪だけなんて この爪だけなんて

と、嘆きながら、怒りながら、女性という同じ性を持つ者としての共苦として歌われていますが、更にその12年後には、猫は「獣」となり、女性をも男性をも含む「人」の比喩として登場し、上のように歌われるに至っている、という事です。


さて、話を元に戻して、2番の歌詞の続きをやりましょう。


続きと言っても、あとは、

  シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
  変わらない夢を 流れに求めて
  時の流れを止めて 変わらない夢を
  見たがる者たちと 戦うため

が、3回繰り返しとなるだけで、言葉としての展開はありません。しかし、歌い方、の展開があり、最後の「戦うため」の絶唱には、その声自体に、言葉を超えた、或いは、言葉の基底部にある、意味がある、とも言えるもので、将に、この解釈自体が、一番難しいと感じます。

例えば、或る人と直接話していて、非常に重要な場面では、言葉だけではなく、いや、むしろ、言葉ではなく、相手の声の感じとか、目の表情とか、微妙な息遣いなどをじっと聴き取り、見入り、その底にある本当の意味、を、探ろうとする事がありますが、中島みゆきの歌には、この「世情」だけではなく、リスナーをして、自然に、必然的に、そういう場面まで引きずり込むという、著しい特徴があると思います。

この「世情」の、最後の「戦うため」という歌唱には、遥か遠い、雷、・・・遠雷の遥かな轟きのような感があります。

曲の一番最後の声を長く伸ばすことで、言葉以上のことばを訴える例として、「泣かないでアマテラス」の最後、それから、「思い出だけではつらすぎる」のラストにも、同じような、非常に深い感情を喚起させる、いわば、卓越した歌唱の力が、彼女にはあって、中島みゆきを聴く事は、これを聴くかどうかで、彼女の歌自体の意味が著しく異なる、と言えるような気がします。

だから、「世情」の歌詞の解釈は、ラストの、この「戦うため」という、声の姿をどう感じるか、という所に帰す。

これは、聞き手の責任という事になります。一般的な解は無い、という事にもなるのだと思います。彼女自身も、そのような意味の事を言っている。

僕自身の聴き方、としては、こうです。
これは、先にも言ったように、肯定か否定か、という事ではなくて、まぁ、いわば、許容量の問題というか、彼女自身は、頑固者も、シュプレヒコールを繰り返して歩き流れていく者たちも、同じように悲しい、と言いたいのではないでしょうか。

無論、本人にたとえ会えたとしても、そして、訊ねてみたとしても、けして答えはしないでしょうが。ならば、聴いた私自身が、どう感じたかを、告白するほかない訳で、それを自分の言葉で言うと、こうなります。

「世の中」や「世間」と、「世情」とは、質の異なる、次元の違うものとして、捉えなければなりません。
だから、臆病な猫(世の中)がつく嘘も、その「包帯のような」嘘を見破って「世間」を見破ったと、その気になってはしゃいでいる学者も、もっと大きな、宿命的なと言ってもいい「世情」の湛える澄み切った底なしの悲しみのなかにある、という、存在的な認識が、ここで、歌として、その声として、露わになっている、と受け取るべきでしょう。

この認識に最も近いことばは、僕は繰り返し考えた末、やはりこう言わざるを得ないのだが、それは、宣長などのいう、「もののあわれ」という事です。

すると中島みゆきは、信じがたい事に、表現者として、同時代の誰彼ではなく、(笑わないで欲しいのだが)、紫式部と同じような地平・・・というか、式部が立っていたであろう大地と同じ大地に彼女は立っていて、そこから、彼女は歌、というものを育み生み出している、と言う他無いと、思うのです。

そのような傍証はいくつかある。まずひとつは、彼女自身、もともと国文出身だったという事と、また、夜会では、古事記からの取材で訳本も書いているという事などもある。

宣長の「古事記伝」はつとに有名だが、彼はまた、「紫文要領」や「いそのかみの私淑言」という、源氏論も書いている。頭のいい、国文を専攻した彼女が、学生時代から、これらのいわば基本書を読まなかったとは想像し難い。

更に想像を廻らせれば、小林秀雄が大著、「本居宣長」を「新潮」に連載していたのが、1966年から1977年まで。みゆきさんが、12歳から23歳までで、最後の方は彼女の学生時代と重なるし、1978年には出版もされ、それによって日本文学大賞も受賞している。新潮社から複数の著作も出している中島みゆきさんでもあるし、もともと、作家的な才能も豊かな人だから、氏の「本居宣長」も、もしかしたら新潮連載時から読んでいた可能性も、僕はあると想像している。

氏の「本居宣長」では、式部の源氏から宣長がどのようなものを汲み取ったかという、真率で丁寧な、ものあはれ論も展開されている。

変な言い方だが、中島みゆきを、単なる「はやり歌歌い」としてだけで見ていると、どこか頓珍漢な評価に陥る危険があると、僕は思っている。いずれにしても、彼女の表現の世界は、その根は、わが国の文化の、非常に深い所から自生していることは確かだと思われる。

無論、「世情」の最後の絶唱から、直接紫式部を連想する、という事ではないのだが、あの声の響きと揺れが告げるものは、この世界に生きる私たち人間の、宿命的で根源的な、哀しみ、どうしようもないあわれさへの、彼女自身の魂の涙なのだ、・・・そう、この歌を受け取ります。

冒頭に、坂本龍一のエピソードを紹介した。

ギターを弾きながら、すすり泣いていた曲は、何だったのだろう。
それは、同じアルバムのなかの「海鳴り」でも、この「世情」であっても、一向に構わない、と、・・・僕は一人で想像している。
  


「宙船」

その船を漕いでゆけ おまえの手で漕いでゆけ
おまえが消えて喜ぶ者に おまえのオールをまかせるな

その船は今どこに ふらふらと浮かんでいるのか
その船は今どこで ボロボロで進んでいるのか
流されまいと逆らいながら
船は挑み 船は傷み
すべての水夫が恐れをなして逃げ去っても
その船を漕いでゆけ おまえの手で漕いでゆけ
おまえが消えて喜ぶ者に おまえのオールをまかせるな


その船は自らを宙船(そらふね)と 忘れているのか
その船は舞い上がるその時を 忘れているのか
地平の果て 水平の果て
そこが船の離陸地点
すべての港が灯りを消して黙り込んでも
その船を漕いでゆけ おまえの手で漕いでゆけ
おまえが消えて喜ぶ者に おまえのオールをまかせるな


何の試験の時間なんだ 何を裁く秤なんだ
何を狙って付き合うんだ 何が船を動かすんだ
何の試験の時間なんだ 何を裁く秤なんだ
何を狙って付き合うんだ 何が船を動かすんだ
その船を漕いでゆけ おまえの手で漕いでゆけ
おまえが消えて喜ぶ者に おまえのオールをまかせるな
その船を漕いでゆけ おまえの手で漕いでゆけ
おまえが消えて喜ぶ者に おまえのオールをまかせるな
https://blog.goo.ne.jp/tousui-00/e/4a7c2f53bdc9a4eb9a88fa23ee0fec36

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c2

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
3. 中川隆[-11694] koaQ7Jey 2019年3月06日 08:40:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[296]

2017.11.06
中島みゆき『世情』の歌詞の意味が深すぎる・・・。
○○を見たことから誕生した歌詞の意味を徹底解釈!
https://otokake.com/matome/T2BvU3


他の誰も真似できない歌声と楽曲でたくさんの人を魅了し続ける中島みゆき。中でも『世情』は「3年B組金八先生」の名シーンで流れたことから一躍有名になった曲です。でもその歌詞はかなり難解との噂。曲が作られた時代背景と共に歌詞の意味を深掘りしてみました。

ジークレー 珊瑚色


中島みゆきってどんな人?

中島みゆき『世情』の歌詞の意味が深すぎる・・・。○○を見たことから誕生した歌詞の意味を徹底解釈!の画像


祖父は市議会議員、父は中島産婦人科の院長というエリート一家に育った中島みゆきは、大学時代に音楽活動を本格的に開始します。

そして1975年、ヤマハのコンテストで入賞したことをきっかけに『アザミ嬢のララバイ』でデビューを果たしました。

同じ年に開催された世界歌謡祭では『時代』を歌ってグランプリを受賞。翌年にはファーストアルバム『私の声が聞こえますか』をリリースしています。

その後は70万枚のセールスを記録した『わかれうた』、研ナオコが歌ってレコード大賞金賞を受賞した『かもめはかもめ』などのヒット曲を量産し、シンガーソングライターとしての地位を確かなものにしました。

ラジオパーソナリティとしても人気に


1979年には「中島みゆきのオールナイトニッポン」が開始され、その語り口が大人気に。

歌から受けるイメージとは正反対の軽く明るい話し方に多くの人が魅了されることとなります。

歌手への楽曲提供がすごい!

中島みゆき『世情』の歌詞の意味が深すぎる・・・。○○を見たことから誕生した歌詞の意味を徹底解釈!の画像


そして自分で歌う以外にも、歌手へ楽曲を提供していることでも有名です。数え上げたらきりがないので、代表的なものをピックアップしました。

「この曲、中島みゆきが作ったんだ!」と驚くかもしれません。

•工藤静香『FU-JI-TU』
• 〃  『MUGO・ん…色っぽい』
• 〃  『群衆』
• 〃  『黄砂に吹かれて』
• 〃  『私について』
• 〃  『慟哭』
•柴崎コウ『思い出だけではつらすぎる』
•TOKIO『宙船』
•中島美嘉『愛詞(あいことば)』
•ももいろクローバーZ『泣いてもいいんだよ』
•平原綾香『アリア−Air−』
•研ナオコ『かもめはかもめ』
•柏原芳恵『春なのに』
•薬師丸ひろ子『未完成』

『世情』の時代背景って?


ではさっそく、難解だと言われている『世情』の歌詞を紐解いてみましょう。

でもその前に、この曲が作られた時代背景を知る必要があります。

安保闘争が背景に


『世情』が発売されたのは1978年。4枚目のアルバム『愛していると云ってくれ』の収録曲でした。

今の若者世代にはピンとこないでしょうが、1960〜70年代にかけて、日本では大規模な反政府運動が起こっていました。

日米安全保障条約の改定に反対し、国会議員のみならず労働者や学生までも参加してあちこちでデモが行われました。

中心となったのは大学生で、勉強どころではなく学内は争いの場に。

東京大学の安田講堂を占拠して機動隊が突入した「東大安田講堂事件」に代表されるように、火炎瓶や投石が飛び交う激しい争いが繰り広げられていました。

中島みゆきが大学生だったのはちょうどこの時代。

先輩たちがシュプレヒコールをあげてデモをする様子を日常的に見ていたそうです。

そして、その様子を見た時の想いを歌にしたのがこの『世情』だと言われているのです。

歌詞の解釈に挑戦!

中島みゆき『世情』の歌詞の意味が深すぎる・・・。○○を見たことから誕生した歌詞の意味を徹底解釈!の画像

世の中はいつも変わっているから
頑固者だけが悲しい思いをする

変わらないものを何かにたとえて
その度崩れちゃ そいつのせいにする

シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を流れに求めて

時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと戦うため

出典: 世情/作詞:中島みゆき 作曲:中島みゆき


<世の中は変わり続けるものだから、

 変わらないことを大切にする人は頑固者とけなされて、

 悲しい思いをしてしまう。

 頑固者は悪のように例えられて、

 何かがうまくいかないといつも

 「お前のせいだ」と言われてしまう。

 シュプレヒコールをあげてデモをする人々は、

 変わらないことで得られる夢を求めている。

 時の流れを止めて同じように

 変わらない夢を見たがっている者たちと戦うために。>

安保闘争のむなしさを表現している?
https://otokake.com/matome/T2BvU3

続き
https://otokake.com/matome/T2BvU3?page=2


「頑固者=安保改定という変化に反対する学生たち」とするとこんな風に解釈できます。

<学生たちは変わらないことで

 未来の夢を手に入れようとしている。

 一方政府は、安保改定の調印をして

 未来の夢を手に入れようとしている。

 時を止めて、今の平和がこれからも

 永遠に続くことを確定させるために。

 だとしたら、学生も政府も同じ夢を見て、

 同じように時の流れを

 止めようとしているのではないか。>

こう読みとってみると、平和と幸福を求める気持ちは同じなのに、激しく争う安保闘争のむなしさを表現している歌詞だと感じることができます。

俯瞰する中島みゆき

中島みゆき『世情』の歌詞の意味が深すぎる・・・。○○を見たことから誕生した歌詞の意味を徹底解釈!の画像

世の中はとても 臆病な猫だから
他愛のない嘘を いつも ついている

包帯のような 嘘を 見破ることで
学者は 世間を 見たような気になる

シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて

時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため

出典: 世情/作詞:中島みゆき 作曲:中島みゆき


<世の中はとても臆病で、

 自分を守るために他愛のない嘘をつく。

 でもその嘘は、傷を隠して守る包帯のように

 ほどけやすいものだ。

 学者たちはその包帯を自慢げに剥ぎとって、

 「真実を見た」としたり顔をする。>

安保闘争を全てわかったような顔で説く見識者たちを皮肉る表現ですね。

こうしてみてくると、歌詞の中には「学生」と「政府」と「学者」という3つの姿が描かれていることがわかります。

そしてタイトルは『世情』です。世情とは「世間の事情」という意味を持つ言葉。

中島みゆきは安保闘争を世間という立場になって俯瞰して眺め、とてもむなしく悲しい争いだと感じた気持ちを歌ったのではないでしょうか。

金八先生の名シーンで有名に!

中島みゆき『世情』の歌詞の意味が深すぎる・・・。○○を見たことから誕生した歌詞の意味を徹底解釈!の画像


『世情』が注目されたのは、1981年に放送された『3年B組金八先生』の第2シリーズ、「卒業前の暴力(2)」がきっかけでした。

“腐ったミカン”と呼ばれた加藤優が、古巣の中学校の校内暴力に巻き込まれ、結果的に放送室を占拠。

校長から謝罪の言葉を引き出したものの、通報によって駆けつけた警察に学校の中で逮捕されてしまいます。

逃げまどう加藤たち。警察には渡すまいと必死に追いかける金八。でも集まった生徒たちが邪魔になって先へ進めません。

音声はなく映像はスローモーション。そこに『世情』の泣くような叫ぶような歌声だけが流れます。

一度だけの挿入歌だったにもかかわらず、残した印象は強烈で、金八先生の最大の名シーンとともに語り継がれることになったのです。

改めて聴き入ってみよう

中島みゆき『世情』の歌詞の意味が深すぎる・・・。○○を見たことから誕生した歌詞の意味を徹底解釈!の画像


『世情』はシングルカットもされていませんが、中島みゆきの隠れた代表作とも言える1曲です。

時代背景が違うとはいえ、彼女の歌い方や歌詞は今の私たちの心のどこかにも刺さるはず。

たくさんの歌手がカバーして『糸』が広く知られるようになったように、『世情』も一度聴けば虜になってしまう名曲です。聴く人の年齢を選ばないでしょう。

ぜひ一度、じっくり聴いてみてください。
https://otokake.com/matome/T2BvU3?page=2
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c3

[昼休み54] ゴーン逮捕で仏マクロンの謀略を潰した日本政府 中川隆
151. 中川隆[-11693] koaQ7Jey 2019年3月06日 08:43:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[297]

日産、ゴーン被告と全面対決=取締役解任、影響力を一掃へ
3/6(水) 7:05配信 時事通信

 日産自動車は、前会長カルロス・ゴーン被告と全面的に対決する構えだ。4月8日の臨時株主総会で同被告を取締役から解任し、影響力を一掃する方針。資金の不正支出で損害賠償を請求するほか、企業統治も抜本的に改め、「脱ゴーン」を粛々と進める。

 「遅かれ早かれこうなることは分かっていた。日産の対応は何ら変わらない」。関係者は、ゴーン被告の保釈決定を冷静に受け止めている。

 日産は昨年11月にゴーン被告が逮捕された直後、連合を組むフランス自動車大手ルノーと同被告の処遇をめぐり対立していた。しかし、同被告は今年1月にルノーの会長兼最高経営責任者(CEO)を退任。オランダにある日産とルノーの統括会社のトップも外れた。

 ルノーのジャンドミニク・スナール会長は1月の就任後から日産の西川広人社長と対話を重ね、信頼関係の構築を急いでいる。日産はゴーン被告が復権を画策する事態を懸念していたが、同被告は急速に影響力を失っている。

 日産は、内部調査で判明した海外の邸宅改築などの不正支出に関し、損害賠償を請求する考えだ。有価証券報告書に記載していなかったゴーン被告の報酬約92億円については実際には支払わない可能性がある。

 日産は外部有識者らの特別委員会で企業統治改革の議論も進めている。「独裁者を生んだ組織の在り方に問題がある」(関係者)として、ゴーン被告に過度な権限が集中していた仕組みを見直す。

 一方、ゴーン被告の事件では法人としての日産も起訴され、西川社長ら歴代経営陣の責任を指摘する声がある。ゴーン被告が保釈後、記者会見などで現経営陣に不利な発言や反論を繰り返す場面もありそうだ。 

http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/323.html#c151

[近代史3] いい日旅立ち _ 山の向こうで待っている人とは… 中川隆
5. 中川隆[-11692] koaQ7Jey 2019年3月06日 08:49:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[298]

「いい日旅立ち」は谷村新司が東北の田園風景を眺めているときに生まれたという。
http://kakaku.com/tv/channel=4/programID=12194/page=6575/

残雪の出羽三山に「生まれかわりの旅」に出よう


出羽三山 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%87%BA%E7%BE%BD%E4%B8%89%E5%B1%B1

羽黒山 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E7%BE%BD%E9%BB%92%E5%B1%B1

月山 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%9C%88%E5%B1%B1

湯殿山 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B9%AF%E6%AE%BF%E5%B1%B1


____


月山観光開発株式会社
http://www.gassankanko.jp/index.html

山形県西川町月山朝日観光協会公式サイト ぶらり西川ガイド
http://www.gassan-info.com/

月山情報 月山朝日観光協会
http://whatnew.sblo.jp/category/2464185-1.html

月山 Google マップ
https://www.google.com/maps/@38.523625,140.006476,12z?hl=ja-JP

自然と信仰が息づく「生まれかわりの旅」
https://nihonisan-dewasanzan.jp/reborn/

出羽三山

山形県の中央に位置する出羽三山の雄大な自然を背景に生まれた羽黒修験道では、

羽黒山は人々の現世利益を叶える現在の山、
月山はその高く秀麗な姿から祖霊が鎮まる過去の山、
湯殿山はお湯の湧き出る赤色の巨岩が新しい生命の誕生を表す未来の山

と言われます。

三山を巡ることは、江戸時代に庶民の間で「生まれかわりの旅」として広がり、地域の人々に支えられながら、日本古来の、山の自然と信仰の結び付きを今に伝えています。

旅は俗世を表す門前町から始まり、随神門は神域へと誘う境界です。

参道の石段の両側には天を覆うような杉並木が山頂まで続き、訪れる者に自然の霊気と自然への畏怖を感じさせ、心身を潤し明日への活力を与えてくれます。


「生まれかわりの旅」のはじまり

出羽三山は、山形県の中央にそびえる羽黒山(414m)・月山(1,984m)・湯殿山(1,504m)の総称であり、月山を主峰とし羽黒山と湯殿山が連なる優美な稜線を誇ります。

おおよそ1,400年前、崇峻天皇の御子の蜂子皇子が開山したと言われる羽黒山は、羽黒修験道の行場であり中枢です。

修験道とは、自然信仰に仏教や密教が混じり生まれた日本独特の山岳信仰です。

羽黒修験道の極意は、羽黒山は現世の幸せを祈る山(現在)、
月山は死後の安楽と往生を祈る山(過去)、
湯殿山は生まれかわりを祈る山(未来)

と見立てることで、生きながら新たな魂として生まれかわることができるという巡礼は江戸時代に庶民の間で、現在・過去・未来を巡る「生まれかわりの旅」(羽黒修験道では「三関三渡の行」と言う。)となって広がりました。


羽黒山の秋の峰入り〜「生まれかわりの旅」の原点〜

はるか昔から人々は、山は神そのものであり神霊の宿る聖地、新たな生命を育む霊地と考えてきました。

山伏がその霊地である山に籠こもるということは、現世の自分を一度葬り母の胎内に宿ることを意味します。

山伏たちは自らを死者とみなして白装束をまとい 「あの世」に見立てた山を駈け巡り、難行苦行をして穢を祓い、わが身に山の神霊をいわい込め新たな魂として再び「生」を得てこの世に出峰します。

山伏の目的は、即身成仏(生きたまま悟りを開く)するための修行であり、山で得た霊力を用いて生きとし生けるものを救済することです。この擬死再生の儀礼を現在に残す唯一の修行と言われているのが羽黒修験の「秋の峰入り」です。

現在は、神仏分離政策により、出羽三山神社が行う明治以降神式に改められた羽黒派古修験道の「秋の峰入り」と、羽黒山修験本宗羽黒山荒澤寺で行う神仏分離以前の法具法灯を継承し神仏習合のまま十界修行を行う古来の「秋の峰入り」の二つが毎年行われています。
https://nihonisan-dewasanzan.jp/reborn/


生まれ変わりのはじまり 羽黒山
https://nihonisan-dewasanzan.jp/spot/羽黒山/


聖観世音菩薩(現世利益の仏)=補陀落浄土ふだらくじょうど=現在
伊氐波神いではしん(出羽郡の産土神)・稲倉魂命うかのみたま(穀霊の神)
※浄土とは仏の世界

羽黒山は、開祖・蜂子皇子が現在の世を生きる人々を救う仏(聖観世音菩薩)を祀ったといわれ、出羽三山の中で最も村里に近い、人々の現世利益を叶える山であったことから「現在の世を表す山」といわれています。

羽黒山は、開祖・蜂子皇子が現在の世を生きる人々を救う仏(聖観世音菩薩)を祀ったといわれ、出羽三山の中で最も村里に近い、人々の現世利益を叶える山であったことから「現在の世を表す山」といわれています。
https://nihonisan-dewasanzan.jp/spot/羽黒山/


「月」と「黄泉」の清浄なる世界 月山
https://nihonisan-dewasanzan.jp/spot/月山/

(国指定天然記念物)
阿弥陀如来(死後の救済仏)=極楽浄土=過去
月読命つくよみのみこと (夜を司る神・水を支配する神)

標高 1,984 m、高く秀麗な姿から太古の昔より信仰を集め、「祖霊が鎮まる山」 として「過去の世を表す山」と言われています。

美しい高山植物が咲く山頂 までの道のりは神秘的で、まるで極楽浄土のような光景です。
https://nihonisan-dewasanzan.jp/spot/月山/


圧倒的な神秘の実感 湯殿山
https://nihonisan-dewasanzan.jp/spot/湯殿山/


大日如来(永遠の生命の象徴)=密厳浄土みつごんじょうど=未来

大山祇命おおやまつみのみこと(山の神)・大己貴命おおなむちのみこと(国土の神)・少彦名命すくなひこなのみこと(医薬の神)

全てのものを生み出す山の神「大山祇命」が祭神として祀られる湯殿山は、「未来の 世を表す山」といわれています。

山中で 修行を行う山伏が、生まれかわりを果たす聖地でもあります。
https://nihonisan-dewasanzan.jp/spot/湯殿山/

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/283.html#c5

[近代史3] いい日旅立ち _ 山の向こうで待っている人とは… 中川隆
6. 中川隆[-11691] koaQ7Jey 2019年3月06日 08:50:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[299]

死と再生というテーマ
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Icho/4875/kangae/kangae_02.htm


ユング心理学の本を読んでいて「死と再生」というテーマにたびたび出会うことに気がつきました。

ここでいう「死」は肉体的な死を意味するのではなく、象徴的な「死」のことです。

それは、「ひとつの世界から他の世界への変容を意味し、古い世界の秩序や組織の破壊を意味」しています。

象徴の世界の「死」は肉体の死と直接結びついているものではなく、ある人が象徴的な死を繰り返し体験しても、肉体的生命は生き続けていることが多いのだそうです。

ユング心理学では、たとえば「結婚」は娘にとっては処女性が失われるという死の体験であり、両親にとっては娘が失われる死の体験という、2重の死が含まれていると考えます。


肉体的な死と象徴的な死はかならず結びつくものではないですが、微妙なかかわりを持つものでもあるといいます。

生死をさまよう体験をしたときに、それを転機としてそれ以降の人生が大きく変わるようなことがそうです。

これは特別新しい考え方ではないですよね。夏目漱石が生死をさまよう大病をわずらったあとでその後の作品が変わっていった例、また精神科医であった神谷美恵子さんが若い頃結核になったが自分が死ななかったことが心の中で大きな部分を占めていたこと、作家の辻邦生さんも生死に関わる病気をしていたことがその後の作品に影響を与えていると思います。


このような死と再生のテーマを、河合隼雄さんが自殺との関わりについて述べたものがありました。

自殺しようとする人が、象徴的な意味での死の体験を求めていることについてです。

人は深い意味での死の体験によって、次の次元に生まれ変わることができる。
このような体験を求めたが、しきれなかった(死の体験をしそこなった)ために自殺未遂を繰り返すことになるというものでした。

深い意味での死の体験には充分な自我の力が必要になるといいます。自我の力がそのときに充分強いかどうかで、ひとりでその体験を行ったり、セラピストの力が必要であったり、または今はそのときではないとして、それが肉体的な死の体験へつながってしまうことを予防するのだそうです。

死の体験はいちどすれば終わるのではなく、その体験を繰り返しながら長い成長の過程をたどっていくものでもあるそうです。

自殺が精神の再生や新生を願って行われることもあるという考え方は、自殺がすべてそのようなものと考えるのではないですし、自殺をすすめるものでもありません。ここで私が伝えたかったのは

象徴的な死の体験が、次の次元へ生まれ変わる意味をもっていること、

そう考えることで自分自身の「死」についての考えに何かが加わったように感じたことです。

死と再生についてのテーマは私にはまだよくわかっていなくて説明できない部分も多いです。また、みなさんそれぞれのとらえかたもあると思います。このテーマについてもっとよく知りたい方は、ユング心理学やその他死と再生に関する本を読んでみてください。

私が参考にした本は、少し古い本ですが、

「絵本と童話のユング心理学」(朝日カルチャーブックス)山中康裕/大阪書籍/1986年
https://www.amazon.co.jp/%E7%B5%B5%E6%9C%AC%E3%81%A8%E7%AB%A5%E8%A9%B1%E3%81%AE%E3%83%A6%E3%83%B3%E3%82%B0%E5%BF%83%E7%90%86%E5%AD%A6-%E6%9C%9D%E6%97%A5%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E5%B1%B1%E4%B8%AD-%E5%BA%B7%E8%A3%95/dp/4754810678


「カウンセリングと人間性」河合隼雄/創元社/1975年 
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%AB%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%81%A8%E4%BA%BA%E9%96%93%E6%80%A7-%E6%B2%B3%E5%90%88-%E9%9A%BC%E9%9B%84/dp/4422110209


です。[10.Mar.2002]


「死と再生と、象徴と/考える人 河合隼雄さん」 2008/01/12

大晦日だったか、元旦だったか、
新聞の広告に、大きな笑顔があった。

親しんだ、名前があった。

「さようなら、こんにちは 河合隼雄さん」
(新潮社 考える人 2008年冬号)


その中で、こんな話が出てきます――


今増えてきているのは、抑鬱症(デプレッション)ですね。それはわりと説明が可能なんです、人生が長くなったこととか、社会の変動が速くなったことで。つまり自分の獲得したパターンというのが、意味を持たなくなることが多いんですね。


今まで大丈夫だったものとか、
今まで大切にしてきたものとか、

もっというと、今までそうやって生きてきたものが、<意味を持たなくなる>。

あるいは、通用しなくなる。


たとえば、私が算盤(そろばん)のすごい名人になったとします。算盤さえあれば、と思っているときにコンピューターが出てきますね。そこで自分の持っていたシステムそのものが、まさに行き詰るわけです。そうすると、これはもう抑鬱症になりますね。


自分の大切にしてきたものが、突然、価値を持たなくなる。

いい悪いではなくて、ともかく、そうなる。

それではどうしようもなくなる。

(大丈夫だと思いたい、でも、現実、大丈夫じゃない)
(一部をとったら大丈夫、でも、総体として、危うくなる)
(大丈夫だといえば大丈夫、危ういといえば危うい)

状態というか、環境というか、
取り巻く状況が変化しているのに、
自分というものが取り残されてしまう。

(もちろん、それはいい悪いの問題ではない)

それは、例えば(ヘンテコリンな例だけど)、

厚着をしているうちに、春になり、夏になったようなもので、
薄着をしているうちに、秋になり、冬になったようなもので、

冬に厚着をするのは間違ってないのだけれど、
暖かくなったのに厚着のままでいると、さすがに暑い。
真夏となると、なおさら。

夏に薄着をするのはその通りなんだけれど、
寒くなったのに薄着のままでいると、さすがにつらい。
真冬となると、なおさら。

身体も壊す。
壊す前に、つらい。


ファッションだとか、生き様だとか、
それはその通りで、ある意味、個人の聖域だけど、

だけど、実際問題、
凍えたり、汗だくになったり、
困ったことになってしまう。


気温は測定できて、温度計とか、天気予報とかで、
それを確認できるけれど、

時代の流れとか、社会の流れとか、
己を取り巻く状況とか、
そういうものは、なかなか数字として測定できません。


人生観でもそうでしょう。たとえば節約は第一なんて考えているうちに、息子は全然節約せんで無茶苦茶やっているのに、あれはいい子だ、なんて言われる。そうなると自分の人生観をいっぺんつくり変えなきゃいかんわけです。


こういうことが、14歳(思春期)とか、中年の時期に問題化するのかもしれません。

思春期には、思春期なりの、<今まで積み重ねてきたもの>があって、
でも、それが行き詰ってしまう。

中年期には、中年期なりの、<今まで積み重ねてきたもの>があって、
でも、それが行き詰ってしまう。

いいとか悪いとかじゃなくて、
ともかく行き詰ってしまう。(*1

(理由なんかない。ないことはなくても、明確ではない)
(言葉を持たないから、納得も表現も、伝えることもできない)
(つまり、なかなか意識化できない)
(そういう風になっている)

ともかく、通用しなくなってしまう。

こうなると、壊すしかなくなる。


そこをうまく突破した人はすごく伸びていく人が多いんです。突破し損なった場合は、極端な場合は、死んでしまう、自殺するわけです。もう生きていても仕方ないと。抑鬱症というのは、常に自殺の危険性があります。それがわれわれとしても非常に大変なんです。


ここが難しいところで、
根本的な崩壊を防ぎながら、いかに壊すかということが、突破するための必然になるのだと思います。

言葉をかえると、
いかにうまく壊すか、ということになる。

もっと奥に突っ込むと、
いかに生命としての死を避けながら、象徴的な死を経験するか、ということになる。


我々は破壊や死を避けるあまり、<そこを突破すること>まで拒否してしまう。

それは一方で正しく、もっともでありながら、
もう一方では、それだけでは語れない部分がある。

何を壊し、何を殺すか、
生命としては壊さず、殺さず、
(むしろ、生かし、残し)
どうやって、壊し、変革させていくか。

そのために、互いにつながった、深い部分にある、内なるものを、
どう壊し、変容させていくか。

それには、どうしても悲しみというものと付き合わなければならない。

そして、象徴ということが、非常に意味を持ってくる。

実際には壊さず、実際には死なず、殺さず、

それでいて、殆どそれに近い、
それでしか語れぬもの、
それでしか代替が利かないものを、
経験し、経ねばならない。

(ここに象徴の魔法がある)

しかし、そのものは見えず、
(また、見たくないものである場合が多いし)
実際と同じくらいの、悲しみも経験する。

(ギリギリ、皮一枚を隔てて、あちらとこちらが隣接する)

ここに、象徴の意味が出てくる。

実際にはそうでなくて、
しかし、ほぼ実際に近く、

深いところでつながっていて、

実際と同等の悲しみを経験する。

そして、最終的に、実際に変容する。


これをうまく表現するには、
もっと言葉が熟さねばならないのだろうな…。

実際にやらずに、実際にやるというのは、
たいへん意味深い。


(それは安易な代替では行えんことだ)


(*1
環境の変化や、身体の変化が、
生じやすい時期でもありますね。
https://jungknight.blog.fc2.com/blog-entry-819.html


ユングは、「死後の生」のような神秘的な考えがもつ意味について、次のようにも述べます。
彼は母親が死ぬ前日に彼女が死ぬ夢を見ます。
悪魔のようなものが彼女を死の世界へとさらっていったのです。

しかし彼女をさらった悪魔は、じつは高ドイツの祖先の神・ヴォータンでした。ヴォータンはユングの母を、彼女の祖先たちの中に加えようとしていました。

この高ドイツの神・ヴォータンはユングによれば「重要な神」「自然の霊」であり、あるいは錬金術師たちが探し求めた秘密である「マーキュリー(ローマ神話の神)の精神」として、「われわれの文明」の中に再び生を取り戻す存在でした。しかしその「マーキュリーの精神」は歴史的にキリスト教の宣教師たちにより悪魔と認定されていました。

ユングにとってこの夢は、彼の母の魂が、「キリスト教の道徳をこえたところにある自己のより偉大な領域に迎えられたこと」を、そして「葛藤や矛盾が解消された自然と精神との全体性の中に迎えられたこと」を物語っていました。

母の死の通知を受け取った日の夜、ユングは深い悲しみに沈みつつも、心の底の方では悲しむことはできなかったと言います。

なぜなら彼は、結婚式のときに聞くようなダンス音楽や笑いや陽気な話し声を聴き続けていたからです。

彼は一方では暖かさと喜びを感じ、他方では恐れと悲しみを感じていました。

ユングはこの体験から、死の持つパラドックスを洞察します。

母の死を自我の観点から見たとき、それは悲しみになり、「心全体」からみたとき、それは暖かさや喜びを感じさせるものになります。

ユングは「自我」の観点からみた死を、「邪悪で非情な力が人間の生命を終らしめるものであるようにかんじられるもの」と述べます。

「死とは実際、残忍性の恐ろしい魂である。…それは身体的に残忍なことであるのみならず、心にとってもより残忍な出来事である。一人の人間がわれわれから引き裂かれてゆき、残されたものは死の冷たい静寂である。そこには、もはや関係への何らの希望も存在しない。すべての橋は一撃のもとに砕かれてしまったのだから。長寿に価する人が壮年期に命を断たれ、穀つぶしがのうのうと長生きする。これが、われわれの避けることのできない残酷な現実なのである。われわれは、死の残忍性と気まぐれの実際的な経験にあまりにも苦しめられるので、慈悲深い神も、正義も親切も、この世にはないと結論する」(下p.158)。

しかし同時に夢は、母をヴォータンの神が死を通じて祖先たち下へつれていったと教えます。死は、母にとって、またユングにとって、喜ばしいものであると夢は教えます。

「永遠性の光のもとにおいては、死は結婚であり、結合の神秘である。魂は失われた半分を得、全体性を達成するかのように思われる」(下p.158)。
https://blog.goo.ne.jp/vergebung/e/eea5611531d7f83630a078b001261c2c

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/283.html#c6

[近代史3] いい日旅立ち _ 山の向こうで待っている人とは… 中川隆
7. 中川隆[-11690] koaQ7Jey 2019年3月06日 08:51:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[300]

日本の伝統的な結婚式に中国人はびっくり!「まるで葬式だな」―中国ネット 2017年1月5日
http://www.recordchina.co.jp/a159976.html

4日、中国のポータルサイト・今日頭条が、日本の伝統的な結婚式について紹介する記事を掲載した。これに対し、中国のネットユーザーからさまざまなコメントが寄せられた。写真は白無垢。


2017年1月4日、中国のポータルサイト・今日頭条が、日本の伝統的な結婚式について紹介する記事を掲載した。

中国の伝統的な結婚式といえば、新郎新婦が共に赤い衣装を身にまとう。赤色はおめでたい色とされているからだ。記事は、日本の伝統的な結婚式では、花嫁が真っ白な服を着ると紹介。これは白無垢(むく)のことだが、中国では葬式の時に真っ白な服を着るため、中国人からすると非常に違和感があるようだ。

これに対し、中国のネットユーザーからさまざまなコメントが寄せられた。

「まるで葬式だな」
「これって結婚式なのか?それとも葬式?」

「結婚はおめでたいことだが、結婚式で喪服を着るのを初めて見た」
「結婚はおめでたいことで、葬式の時にのみ全身真っ白な服を着るものだろ。日本人の世界は全く理解できないな」

「日本人にとっては白黒がおめでたい色なんじゃないか?」
「だったら日本人は葬式で何を着るんだ?」

「日本人は結婚式で白を着るなら、葬式で赤を着るのか?」
「これはだめだ。やはりわれわれの赤色の方がいい」

「まるで中国人は西洋のウエディングドレスを着ないかのような言い方だな」
「でも現代の結婚式では中国人も白いウエディングドレスを着るだろ」

「中国では赤はめでたい色、白は葬式、緑は浮気された男を表すが、日本では赤は血なまぐささ、白は純潔、緑は平和を表すんだな。観念が全然違う」(翻訳・編集/山中)
http://www.recordchina.co.jp/a159976.html


「死と再生」のイニシエーション

イニシェーションは宗教用語で、入会儀礼と訳されている。

仏教の出家もフリーメーソンの入会もこのイニシェーションを通して確実なものとなる。

この儀礼の重要な要素は個人として「死と再生」を象徴的に体験することである。
キリスト教では洗礼をすることで、これまでの自分を清算し、キリスト者として再生する重要な儀礼となる。

この洗礼はもともと川に行き、頭まで水の中に沈めてしまうという力強いものであった。

スタインベックの小説『怒りの葡萄』にも川での洗礼の場面が出てくる。
この水をかける儀礼は、インドの場合には王様の即位儀礼と関係がある。
これを仏教では潅頂といい、王の資格を持つ者の頭頂に頭から水をそそぎかけた。

この水は聖なる力の象徴であり、この水をかけられた瞬間、彼は個人ではなく天国の代理人となるのである。

  残酷な風習と考えられる割礼も、イニシェーションのひとつである。

正式に割礼を受けた者は、それまで母親の所有物であった関係を断ち切り、その象徴である血を出すことで、初めて男の世界の仲間に入るという象徴行為であった。
しかしこうしたイニシェーションの伝統は、地縁、血縁の結びつきが生きている時には効果的に働いていたが、現在ではイニシェーションの伝統そのものが失われ、また維持されているところでもその効果は疑わしい。

それは時代の要請によって、新しく生まれた宗教団体の閉鎖的な空間のなかでしか力を持ちえないのかもしれない。 
http://www.s-net.ne.jp/benri/institut/dw/199606.html


部族社会では危機が訪れるとシャーマンが変成意識状態の中で啓示を受け部族を導き、部族を危機から救おうとする。

 シャーマンのイニシエーションには「シャーマンの病」と呼ばれる精神的な危機がある事が知られている。

その構造は神話の構造と共通している。


1、セパレーション(分離・旅立ち) 
地下世界 天上界 異界への長く苦しい旅立ち


2、イニシエーション (通過儀礼) 

異界で神々、悪霊、祖先霊、動物の霊と遭遇する。
精霊に出会ったシャーマンは苦痛の中で象徴的にバラバラに引き裂かれる。

死と再生のプロセスを通過して シャーマンは深い人格変容をとげる。


3、リターン(帰還)

シャーマンは宇宙の智慧と癒しの力を得て共同体の一員として再統合する。

 現代の、拝み屋、新興宗教の教祖などの霊媒体質のシャーマンに共通するのは人生の中で突然、極端な不幸、災難、困難に出会い、発狂寸前まで追い込まれることだ。

病気や苦悩の頂点でカミサマと出会うのである。
危機状態を通過したのち霊能力を活かし、相談事を請け負う拝み屋になるのである。

ただし祈祷師、拝み屋、今風にいえばスピリチュアル・カウンセラーにもピンキリがあり、無意識が浄化されていないと物質的な現世利益に走り精神を病んだり、体調を崩したりする者がいる。

シャーマンの危機は現代医学では重度の精神病と診断されている。


精神的な危機に陥った住民を経験豊富なシャーマンは歌や踊り、祈りによって適切な処置を施し共同体の中に着地させる。

精神的な危機を理解できる指導者がいない文化では精神病の患者は共同体から隔離され誰からも相手にされない。

薬づけにされ、病室に閉じ込められる。
シャーマンがいない共同体では危機状態に陥った者の精神の苦しみはより増すばかりである。


 神話に表れる英雄、シャーマン、神秘家の体験、精神分裂病患者(統合失調症)の旅には共通の構造がが見られる。

自我の境界を超えると様々な無意識のイメージやヴィジョンの洪水に襲われる。
同じ無意識の海に飛び込んでも神秘家やシャーマンは泳ぎ、精神分裂病患者は溺れてしまうのである。

 20世紀の初頭イヌイットのシャーマンはデンマークの探検家に偉大な精霊シラについて話した。

「宇宙の霊であるシラは、目には見えない。声が聞こえるだけだ。
わたしらが知っているのは、シラが女のようにやさしい声をしているということだ。

とても上品でやさしい声なので、子どもでさえこわがらない。
そしてシラはこう言う。『宇宙を恐れるな。』」 と


 シャーマニズムの研究によるとシャーマンになるには二つのパターンがある。
召命型と探求型である。

沖縄と奄美には「カンカカリャ(神懸かり)」「ムンスイ(物知り)」「カンヌプトゥ(神の人)」と地域によって呼び名がことなるユタが存在する。
ユタはほとんどが女性であるがカミグルイ、カンブレ、カミダーリィと呼ばれるイニシエーションを経験する。

ある日、結婚生活を送っていた主婦の心身に異常が起きる。
夢や日常の中に神々が表れたりして精神状態が不安定になり、様々な体の不調を訴えるのである。

そのうちに神の歌を歌い一日中踊り続けたりするようになる。
当然、「モノグルイだ」「神グルイだ。」と近所で噂になる。
シャーマニズムの伝統が生きづいている地域ではこれが「聖なる病」であることが理解され家族は精神病院ではなくユタを訪れる。

やはり、カミダーリィとわかり一人前のユタを目指す。
ただしカミダーリィが起きた人が全員ユタになる訳ではないようだ。

「精霊から何代か前の先祖の葬られた場所を探し当てて供養しなければいけない。」

といわれ何年も探し歩いて彷徨しているユタもいる。
精霊にもやり残した仕事があるのだろう。
又、精霊と交流するうちに自分は特別な存在としてエゴがますます強化することもある。

無意識の抑圧に無自覚な人が妄想の中で神社巡りをつづけることもあるのである。
無意識に抑圧や緊張がある者が霊的な能力を得るとその能力故に自滅するケースもある。

突発的に神懸かりになる召命型のユタには人生でさまざまな災難が降りかかり、病気、貧乏、友人、家族、兄弟の死、夫の浮気、離婚などの苦悩と極端な不幸な経験をつむものが多い。

絶望しても死ねないことは普通の人では耐えきれない人生である。
しかし3次元の世界では不幸だがのちに神様の世界から見れば素晴らしい経験だという事を知るのである。

そして超自然的な出来事の中で思考が落ち、神に選ばれた自分の運命を受け入れ自覚した人がユタになるのである。

生まれながらのユタとして人々は「ウマレユタ」と呼び神と直接交流出来る人として特別視する。

ユタには人々をカミンチュ(神の人)に導くことを使命と自覚している人もいる。
カミダーリィを経ないでユタのもとに通っているうちに、ユタのシステムをおぼえていつのまにかユタ稼業を始める者を「ナライユタ」と呼ぶ。
探求、修行型は東北のイタコに相当する。


カミダーリィをシャーマンの病とも呼ぶが召命型のイニシエーションは世界中の先住民の文化に共通してみられる。

変成意識状態の中でシャーマンの今までの肉体は完全に解体される。

頭は切り離され手足と骨盤、関節はバラバラに分解される。
心臓や内蔵が生きたままとりだされる。
筋肉が奇麗にそぎ落とされ目がくり抜かれたりする。
体液が抜き取られ、そして釜で煮込まれたりする。

シャーマンはその間ほとんど息をせず臥せっているのである。
最後に骨が拾い集められ、肉がかぶせられる。

解体と再生は3日から7日続きイニシエーションは終了する。
これらはLSDやメスカリン、アヤワスカなどの向精神物質の摂取でも同様な報告がある。

シャーマンの病とはまさしく跳ぶ前に屈むことなのである。
http://homepage.mac.com/iihatobu/index.html


以前このブログで、私のうつ体験について書いたとき、インディアンのシャーマニズム(呪術的民間信仰)について詳しいある人が、

「先生の体験って、シャーマンのイニシエーション(呪術師になるための通過儀礼)そのものですね」

と話してくれた。


そう言われてみれば、自分ばかりでなく、うつの人のカウンセリングをしていても、自然とシャーマニズムについて話すことが少なくない。

どうやら私の目には、うつの人々とシャーマンとが、重なって見えることが多々あるらしい。

一体なぜそうなるのか、話の流れなどを具体的に思い出し、考えてみた。


シャーマンは、世界各地、特に古くから続く文化を踏襲している地域において、より多く存在し、日本語では「呪術師」あるいは「巫師(かんなぎ)」と訳される。

多くはトランス状態に入り、神の言葉を伝えるという職能の人々のことである。

日本で代表的なものとしては、巫女があげられるが、現在なお実質的な影響力を持つ人々として知られるのは、沖縄周辺の「ユタ」や青森県の「イタコ」が有名である。

青森県の「イタコ」の場合、視力障害を持つ人などが、その職能を身につけるために厳しい修行を行い、その立場を得る。

しかし、沖縄地方の「ユタ」の場合、一部の例外を除き、それまで一般人として生活していた人が、何らかのきっかけで一種の精神病様状態「カミダーリ(神障り)」に陥り、それを克服する中で、自らの「ユタ」としての能力と天命に目覚めていくという経緯をたどる。

イニシエーションにおいてシャーマンがたどるプロセスについて、井上亮(故人)という心理学者から聞いた話がある。

井上氏は大学に助教授として在任中、海外留学先を決める際、周囲の驚愕をよそに、さっさとアフリカはカメルーンの呪術師のもとに留学することを決め、1年を経て、実際に呪術師の資格を得て帰国した人で、さほど口数は多くないが非常に魅力的な人物であった。
シャーマンになるためのプロセスの中では、いくつかの課題を克服せねばならないという。
中でも、特に私の記憶に強く残っているのは、「孤独」と「恐怖」の克服である。

氏自身も、「恐怖」の克服こそがもっとも大きな課題であるとして、通過儀礼の中心に位置づけておられたように思う。

シャーマンの通過儀礼においては、「恐怖」の対象は、単なる観念ではない。

戸のない小屋で、夜一人で睡眠をとることを命じられ、ベッドに横たわっていると、黒豹が小屋の中に入ってくるというのである。

この黒豹は、たしかに実体ではあるが、ある大きな存在の化身らしく、普通に自然の中で生活している生きた黒豹とは違うようだ。

通過儀礼を受ける者は、これから逃げてはならないし、起き上がってもならない。

氏が儀礼を受けていた際も、確かにこの黒豹が、小屋に侵入してきた気配があったということである。

これまで自分が生活していた日常の世界から、未知の異世界へと通路が開かれていくとき、夢や物語の中では、異世界を象徴する存在は、しばしば獰猛な動物的性格を帯びる。

以前、このブログで『こぶとり爺さん』の解釈を試みたことがあったが、爺さんが最初に見た異世界の姿もまた、異形の鬼(妖怪)どもの宴であった。

そして、やはりこの爺さんも、「鬼に食われてもよい、わしは踊るのだ」という形で、恐怖を克服したのである。

ごく普通の人の場合でも、外部からの圧力によって表現することを妨げられた感情は、「怒り」という様相を帯びる。

それは、檻に閉じ込められた、あるいは鎖につながれた獣が、怒りのためにより凶暴になるというイメージに似ている。

異世界も異世界への通路も、潜在的にはとっくに存在していたのだが、ただ人の側にそれを受け入れる準備ができていなかったために、意識の向こう側に閉じ込められていたに過ぎない。

かなり前の放送だが、NHKスペシャル『脳と心』の最終章「無意識と創造性」に、宮古島のユタである、根間ツル子さんという女性が出演しておられた。

先に述べたユタの例に漏れず、彼女もまた離婚という節目をきっかけに精神病様状態となり、他のユタのもとを訪れて、「この人はユタになる人だ」と見抜かれたのだという。

都会であれば、「精神病」あるいは「人格障害」で片付けられてしまう状態だ。

根間さんに初めて神がかりが起きた頃、ある一つのことが強く訴えられた。

番組では、当時の神がかり中の根間さんの肉声が放送されていたが、まさに壮絶なまでの叫びであった。

「ああ私が悪かったぁー!…………
何としてもこの井戸を、これだけは、これだけは頼みます……!」

と、すでに使われなくなり、埋もれてしまっていたある井戸を再び掘りなおすことに、強く執着したのである。

根間さんは実際にこれを実現し、そしてユタとなった。

万物の根底にある地下水脈、地下世界という異界と、この世とをつなぐ通路。

根間さんの魂、あるいは宮古島の人々や自然の魂にとっては、それがその井戸だったと言えるだろう。

この場合、「井戸は、単に象徴に過ぎない」と言うことはできない。

心理的に大きな何かを乗り越えるというのは、単に「心の持ちようを変える」というのとは、まったく次元を異にする。

うつという病を乗り越えるにも、まず例外なく、ある現実との実際の闘いなくして、遂げられることはない。

だから根間さんも、実際に井戸を開通させねばならなかったのだ。

万物の根底にある地下世界のイメージによって表現される領域を、ユング心理学では「普遍的無意識」と呼ぶが、ユング自身もまた、当時ヨーロッパを席巻していたフロイト心理学と袂を分かった後、精神病様状態をともなう極度のうつを経験している。

そののち、ユングはこの考えを体系化するに至るのだが、彼もまた、フロイトとの決別という苦難に満ちた過程を経ることで、普遍的無意識に達する井戸を開通させたのだと言える。


うつの人々の特徴は、一言でいうならば、ものごとの本質・本筋・矛盾を見抜く目に、曇りがないことである。

だから、まわりの雰囲気や、慣習や、馴れ合いに流されず、いつも本当のことが見えてしまう。

要するに、非常にシャーマン的なのだ。

こういった人々の割合は、どれほど多く見積もっても1パーセントくらいではないかと、私は考えている。

はっきり言って、特殊と言わざるを得ない。

そして、そこにこそうつの人々の苦悩と劣等感がある。

一般の人々は、自力では大きな存在とは繋がれない。
それを導き、繋げてやるのがシャーマンである。

本来の姿のままに自然と人間とが有機的に絡み合い、人間性が生き生きとした文化の中であるならば、シャーマンのような立場となるべき人が、うつになるタイプの人々の中には少なくないのではないかと思うのである。

本来ならば、常に真実を見、正しい言葉を語り、尊敬を集めてこそしかるべき人々が、踏みつけにされ、もがき苦しまねばならない社会。

一体われわれは(というよりも私は)、これをどうすればいいのだろうか。
http://kohocounsel.blog95.fc2.com/blog-entry-55.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/283.html#c7

[近代史3] いい日旅立ち _ 山の向こうで待っている人とは… 中川隆
8. 中川隆[-11689] koaQ7Jey 2019年3月06日 08:53:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[301]

日本の深層―縄文・蝦夷文化を探る (集英社文庫)– 1994/6/1 梅原 猛 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%B7%B1%E5%B1%A4%E2%80%95%E7%B8%84%E6%96%87%E3%83%BB%E8%9D%A6%E5%A4%B7%E6%96%87%E5%8C%96%E3%82%92%E6%8E%A2%E3%82%8B-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%A2%85%E5%8E%9F-%E7%8C%9B/dp/4087481786


『日本の深層』梅原猛 松岡正剛の千夜千冊 1418夜
https://1000ya.isis.ne.jp/1418.html

この本は梅原猛の数ある著作を画期する一冊で、
かつ、いまこそ読まれるべき「日本=東北」の深層をあざやかに解く一冊である。
ここには、石巻や仙台に隠された生をうけた梅原の、東北に寄せる深くて熱いまなざしが生きている。

縄文と蝦夷、アイヌと日本人、仏教と修験道、柳田国男の目、啄木の詩、賢治の心、さらには太宰や徳一を通して、 大胆な梅原日本学の入口が次々に示される。


 梅原猛の母上は石巻の渡波(わたのは)の人である。石川千代という。父上の梅原半二は愛知の知多郡内海の出身だが、東北大学の工学部に学んで、そのときに石川千代と出会い、梅原猛を仙台で生んだ。


 けれども両親ともその直後に結核に罹ってしまい、父は辛うじて治ったのだが、母上は悪化したまま1年半もたたずに亡くなった。猛少年はそのまま父上の実家近くの知多の片田舎に送られて、そこで梅原半兵衛の子として育てられた。

 このことは長らく伏せられていたらしい。梅原は仙台に生まれたことも、養父と養母以外に実父実母がいることもずっと知らなかった。梅原の懊悩はこのことを知ったときから始まっているのだという。

 しかしその懊悩は、やがて梅原の不屈の探求心と「負の思想」を駆動させてぶんぶん唸る内燃力となった。それが仏教研究となって火がつき、人麻呂の死への挑戦となり、それらがしだいに古代日本の各地の謎の掘り起こしへと広がり、総じてはいまや「梅原日本学」にまで至ったわけだった。

 人生においては説明しがたい事態との直面こそ、しばしば「ヴァレリーの雷鳴の夜」(12夜)をつくるのだ。

 ちなみに父上の梅原半二はトヨタの常務や中央研究所の所長を務めたトヨタを代表するエンジニアで、一世を風靡したコロナなどを設計した。梅原半二をそのように仕向けたのは豊田喜一郎だった。

 そんなことはつゆ知らぬ梅原猛のほうは、私立東海中学から2カ月だけ通った広島高等師範をへて八高へ。ついで西田幾多郎・田辺元の京大哲学科か、和辻哲郎の東大倫理科かのどちらかに行きたくなって、結局京大に進んだのだが、もはや西田も田辺もいなかった。

 こうしてギリシア哲学やハイデガーに向かっていくものの、しだいに虚無感に襲われて、いっときは賭博にはまり、これを脱するためにまずは「笑い」を研究し、ついで和歌論の研究に入っていった。1963年の壬生忠岑『和歌体十種』についての論考は、梅原のその後の日本古典研究の嚆矢となった論文だった。

 あとの経歴は省こう。本書は、そういう梅原が自身の故郷というか、原郷というか、日本人の母国である東北を、かなり本気で旅したときの記録である。紀行ふうになっている。

 梅原自身が本書で告白しているように、それまでの梅原はどちらかといえば「日本の中心の課題」を解くことを主にこころがけていたのだが、本書の旅をする十年ほど前から「辺境にひそむ日本」に注目するようになっていた。とくに縄文やアイヌとのふれあいが大きかったようだ。

 けれども東北にはなかなか廻れない。それが本書をきっかけに起爆した。あえてこの辺境の旅を『日本の深層』と銘打ったところに、梅原のなみなみならぬ覚悟が表明されている。30年前のことだ。1983年に佼成出版社から刊行され、さらに山形や会津の話が加わって文庫本になった。

 文庫本の解説は赤坂憲雄(1412夜)が担当した。「『日本の深層』は疑いなく、一個の衝撃だった。大胆不敵な、と称していい仮説の書、いや、あえていえば予言の書である」と書いている。

 梅原の数ある本のうち、今夜、この一冊をぼくがとりあげるのを見て、すでに数々の梅原日本学に親しんできた梅原ファンたちは、ちょっと待った、梅原さんのものならもっとフカイ本に取り組んでほしい、松岡ならもっとゴツイ本を紹介できるだろうに、せめてもっと怨霊がすだくカライ本を選んでほしいと思ったにちがいない。

 それはそうである。たしかに梅原本なら著作集ですら20巻を数えるのだから、『地獄の思想』『水底の歌』『隠された十字架』から『日本学事始』『聖徳太子』『京都発見』まで、なんとでも選べるはずである。しかし、いま、ぼくが梅原猛を千夜千冊するには、この「番外録」の流れからは本書がやっぱりベストセレクトなのだ。

 本書が梅原にとっての初の蝦夷論や東北論になっていること、その梅原がいまちょうど東日本大震災の復興構想会議の特別顧問になっていること、この20年ほどにわたって梅原は原発反対の立場を口にしてきたこと、そしてなにより梅原が仙台や石巻の風土を血の中に疼くようにもっているということ、加うるに、ぼくもまた東北のことを考えつづけているということ、本書が現時点でのベストセレクトである理由はそういう点にある。

 とくに前夜に森崎和江の『北上幻想』(1417夜)を紹介した直後では、梅原が本書で北上川をこそ東北の象徴とみなし、「母なる川」と呼んでいることを心から受け入れたい。


本書の旅程

 春秋2回の旅は多賀城から始まっている。大野東人(あづまびと)が神亀元年(724)につくった多賀城跡を見て、梅原は太宰府との違いを感じる。太宰府は海に向かって開こうとしているが、多賀城は北方を睨んでいる。多賀城の跡には蝦夷と対峙する緊張がある。

 ついで芭蕉(991夜)が「壷碑」(つぼのいしぶみ)と名付けた坂上田村麻呂(1415夜)の碑文を見る。例の「多賀城、京を去ること一千五百里、蝦夷の国界を去ること百二十里‥‥靺鞨を去ること三千里云々」という文章だ。この石碑にはヤマト朝廷の自負と、その管轄から外されている「陸奥」(みちのく)に対する睥睨があった。

 多賀城から石巻に入り、梅原は初めて母の縁戚たちを訪ねた。石川家の檀那寺や石川家の墓にも参った。意外に大きな墓だった。いろいろ自身の来し方は気になるが、そのまま塩釜・松島から大和インターの東北自動車道を一気に走って平泉に行った。

 3度目の平泉だったようだが、それまで梅原は平泉の平泉たる意義をほとんど掴めていなかった。それが今度はアイヌや蝦夷の文化に関心をもったせいか、少しは平泉の意味が見えてきた。安倍一族の奥六郡を藤原清衡が継承して拠点を平泉に移した意味、奥州における金採集がもたらした中尊寺金色堂の意味、そうしたことを背景にしてここにつくられていった“今生の浄土”の意味、そういうものがやっと見えてきた。

 さらに金色堂の一字金輪像を眺め、「東北のみならず、日本の仏像の中で最もすぐれた仏像だ」という感想をもつ。これは梅原らしい目利きであった。毛越寺の庭を見て観自在王院のよすがを偲び、毛越寺とは毛人(えみし)と越の国の蝦夷とを合わせたものかと想っているのも、なるほど、なるほどだ。


金色堂の一字金輪像

 花巻温泉に泊まって、和賀町で高橋徳夫・阿伊染徳美・菊地敬一・門屋光昭らと語りあい、この町の出身の東北学の泰斗・高橋富雄(1415夜)の東北論・蝦夷論に思いを馳せた。

 梅原は、倭国といういじけた名を「日本」という国名に転じ、大王(おおきみ)やスメラミコトに新たな「天皇」というネーミングをもたらしたのは、ほかならぬ聖徳太子の仕事だろうと断じてきた人である。ただし、それにしては当時の日本も天皇も、倭国このかた「西に片寄りすぎてきた」とも感じていた。そうしたなか、高橋富雄が北の日本を称揚し、「北上はもとは日高見で、日の本も東北がつくった言葉だった」という見方をつねに主張しつづけてきたことには、いたく酔わせられる。この気分、ぼくもとてもよくわかる。

 門屋光昭は鬼剣舞(おにけんばい)にぞっこんだった。誘われて、見た。鬼剣舞は、安倍一族の怨霊が一年に一度、鬼となってあらわれて、かつての恨みをはらすことを人々がよろこぶのである。そうであるのなら、東北にさかんなシシ舞もアイヌのイヨマンテの系譜であって、シシとは実は熊のことではないかと梅原は仮説する。そこには縄文があるはずだ。

 案の定、和賀川をさかのぼって沢内へ行くと、そこには太田祖電がつくった碧祥寺博物館があって、マタギの日々が展示されていた。梅原はマタギこそ縄文の民の末裔で、日本神話以前の神々を熊とともに祀ってきたのではないかと思う。

 花巻に戻って、あらためて宮沢賢治(900夜)がどのように東北を見ていたかということを考えた。

 岩手をイーハトブと、花巻を羅須と、北上川の川岸をイギリス海岸と呼ぶ賢治は、東北をけっして辺境などとは見なかった。奥州藤原氏初代の清衡に似て、「ここが世界だ」とみなしていた。梅原は傑作『祭の暁』や超傑作『なめとこ山の熊』を思い出しながら、賢治には民族の忘れられた記憶を呼び戻す詩人としての霊力があったと、語気を強めて書いている。のちに叙事詩『ギルガメッシュ』を戯曲仕立てにした梅原ならではの見方だ。

 賢治記念館から光太郎山荘に向かった。高村光太郎が昭和20年から7年間にわたっていた山荘で、昭和20年4月13日に東京空襲で焼け出された光太郎が、賢治の父の宮沢政太郎のすすめで花巻に疎開して宮沢宅にいたところ、8月10日にその宮沢宅も戦災で焼けた。それで光太郎は佐藤隆房の家に寄寓したのち、この山荘に移ったのだった。

 が、行ってみて驚いた。聞きしにまさるひどい小屋である。杉皮葺の屋根の三畳半の小屋だった。ここで光太郎はすでに死後7年たった智恵子の霊といたのかと思うと、胸つぶれる気になった。

 翌日は遠野に出向いた。案内役は佐藤昇で、続石(つづきいし)、千葉家の曲り家、遠野市立美術館、駒形神社、早池峰神社、北川家のおしらさまなどを順に見た。
 梅原が遠野に来たのは初めてである。あまりに広く、あまりに都会的なのでびっくりしたようだ。自分が読んできた柳田国男の『遠野物語』の世界とずいぶん違っている。それに梅原は、そもそも柳田が『遠野物語』を書いた理由がいまひとつ理解できないままにいた。なぜ柳田が佐々木喜善が語る不思議な話を収集して並べたてたのか。泉鏡花(917夜)には絶賛されたけれど、これが民俗学の出発点というものなのか。

 とはいえ、柳田を本気で読んでこなかった自分にも何かが足りないのだろうとも気づき、本書ではそれなりの取り組みを試していく。


卯子酉様の祠(遠野町)
『図説 遠野物語の世界』より

 柳田は当初は山人の研究をしていた。先住民の研究だ。山人の動向は『遠野物語』では死者から届く声のようになっている。ところが柳田は、山人よりも稲作民としての常民をしだいに研究するようになった。

 村落に定住している稲作民から見れば、遊民としての山人は異様なものと映る。徳川期の百科事典だが、『大和本草』や『和漢三才図絵』の中では、山人はなんとヒヒの次に図示されている。また常民としての稲作民は天皇一族につながる天ツ神を奉じ、これに対するに山人は国ツ神を奉じるものとされ、里人からは異人・鬼・土蜘蛛・天狗・猿などとして扱われた。

 実際の柳田は生涯にわたってこうした山人を重視し、畏怖もしていた。それはまちがいない。しかし研究者として山人を追求しすぎることに不安も感じた。梅原は、柳田がそういう不安をもつにいたったのは、明治43年の幸徳秋水事件の影響があったのではないかと推理する。天皇暗殺計画が“発覚”したという事件だ。柳田はかなり大きな社会の変化を感じたのではないか。山人、国ツ神、鬼、天狗、猿といった「体制からはみ出された民」の復権を学者があえてはかろうとすることは、不穏な思想として取り締まりにあう時代になりつつあったのである。

 こんなふうに、梅原は初めての遠野のことを書いていく。なんともいえない説得力がある。歴史や思想や人物についての自分のかかわりの欠如や希薄を率直に認め、そこから直截にその欠如と希薄を独力で埋めていこうとするところは一貫した梅原独得の真骨頂で、本書は旅の先々での記録になっているため、その“編集力”が如実に伝わってくる。 

 盛岡では県立博物館から渋民村に行った。ここでも梅原は幸徳秋水事件に衝撃をうけた啄木(1148夜)のことを思い、27歳で夭折した啄木に高い自負心と深い想像力があることを考える。それは啄木だけではなく、賢治や太宰治(507夜)に共通する東北性のようにも思えてくる。

 たしかに東北人には想像力に富む文人が多い。たとえば安藤昌益や平田篤胤、近代ならば内藤湖南(1245夜)や原勝郎‥‥。ぼくがついでに現代から加えるなら、高橋竹山、藤沢周平、長嶺ヤス子、土門拳、寺山修司、福田繁雄、石ノ森章太郎、井上ひさし‥‥。

 梅原はつねづね師匠格の桑原武夫(272夜)の口ぶりをついで、こうした風土的事情を「批評は関西、詩は東北」とも言ってきた。では、なぜ詩は東北なのか。啄木の歌や詩はゆきずりの女たちをみごとな恋の歌にしている。そうした女たちから愛されてきたことも歌っている。しかし啄木研究者たちはそれらが想像力の産物でしかなかったことを証した。啄木自身も『悲しき玩具』でこう歌った。

  あの頃はよく嘘を言ひき。平気にてよく嘘を言ひき。汗出づるかな。
  もう嘘はいはじと思ひき それは今朝 今また一つ嘘をいへるかな。

 梅原は書く、「想像力の能力は嘘の能力でもある。嘘は想像力の裏側なのである。東北の人たちの話を聞いていると、嘘か本当かよくわからないことがある。多くの東北人は豊かな想像力に恵まれていて、奔放な想像力のままにいろいろ話をしているうちに、その話に酔って、自分でも嘘と本当のけじめがわからなくなってしまうのであろう」。

 8月になって、ふたたび東北を訪れた。今度は花巻空港まで飛んで、そこから岩洞湖や早坂自然公園を抜けて岩泉に入った。このあたりの岩手県は何時間車をとばしても、集落に出会わない。日本列島でもこれはめずらしい。北海道を除いて本州ではあまりない。

 佐々木三喜夫の案内で龍泉洞へ行って湧窟(わくくつ)を見た。ワクはアイヌ語のワッカ(水)、クはクッ(入口)だろう。どうやら八戸の閉井穴(へいあな)という洞窟まで通じているらしい。東北は土と水でつながっている。

 宿に戻って、岩泉民間伝承研究会の『ふるさとノート』を読んでみると、畠山剛の『カノとその周辺』がおもしろかった。カノとは焼畑のことである。縄文中期に始まって今日まで至っている。このあたりではいまでも山を焼いて灰の上に種を蒔き、蕎麦や粟や大豆や小豆を栽培している。やっぱり東北は土と水の国なのだ。

 翌日、葛巻町から浄法寺町の天台寺に向かって、あらためて北上川の大いなる意味を感じた。

 ふつう、日本の多くの川は真ん中の山脈や高地から太平洋か日本海かに流れるようになっている。けれども北上川はちがっている。東北をタテに流れている。東の北上山脈と西の奥羽山脈のあいだの水を集め、長々と南下する。

 それゆえにこそ縄文・弥生・古代の東北はこの北上川によって育まれ、蝦夷の一族たちもここに育った。まただからこそヤマト朝廷はこの北上川にそって、多賀城・伊治城・胆沢城・志波城・徳丹城などを築いた。

 北上川こそ東北の「母なる川」なのである。安倍一族も藤原4代も、啄木も賢治も、この母なる北上川に母国の面影を見いだしたのだ。

 この北上川は七時雨山(ななしぐれやま)のあたりで、東と西に分かれていく。梅原が向かった浄法寺町は七時雨山の北にある。ここでは北上川は馬渕川・安比川になっている。奥六郡のひとつにあたる。蝦夷の本貫の土地であり、安倍氏の大事な土地だった。アッピとアベはつながっていた。

 浄法寺町の天台寺はこうした背景をもって、おそらくは安倍氏の力によって建てられたのであろう。天台寺というからには比叡の天台を意識したのだろうし、比叡山延暦寺のほうも、奥六郡を治める安倍氏の金や馬に目をつけたのであろう。

 ところが、いざ天台寺に入ってみて梅原が注目したのは、山門の仁王像に白い紙がいっぱい貼られていたことだった。顔にも胸にも手足にも紙が貼ってある。なんだか痛々しい。

 聞くと、この地方の人々は病気にかかるとここに来て、自分の病気の患部を仁王に当てて貼っていくのだという。なるほど関西にも、たとえば北野天神の牛のように悪いところを撫でるという習慣はある。けれどもこんなふうに紙をべたべた貼ることはない。

 こういう信仰は仏教そのものにはない。これは土着信仰がおおっぴらに仏教のほうへ入ってきているせいだ。おまけに天台寺の中心仏はナタ彫りの聖観音と十一面観音なのである。ナタ彫りの仏像も関西にはない。特異なものである。しかし梅原は一目見て、これは一代傑作だと感じた。亀ケ岡式土器につながる芸術感覚がある。

 このように奥六群の周辺の信仰感覚を見ていくと、ここはやはり縄文時代からの霊地であったろうという気がしてきた。


十一面観音体(左)聖観音(右)
『図説 みちのく古仏紀行』より


 国道4号線へ出て十和田市を通っていよいよ青森に入った。まずは成田敏の案内で県立郷土館の風韻堂コレクションを見た。亀ケ岡土器を中心にした縄文土器1万点のコレクションだ。溜息が出るほどすばらしい。

 郷土館では田中忠三郎が待ってくれていた。田中忠三郎といえば、ぼくには「津軽こぎん刺し・南部菱刺し・サキオリ(裂織)」などの東北古布のコレクターとしての馴染みがあるが、梅原には『私の蝦夷ものがり』の著者だったようだ。縄文文化の話の花が咲いた。

 そもそも縄文文化には大きく二つの興隆期がある。ひとつは縄文中期で約五千年から四千年前になる。諏訪湖を中心に中部山岳地帯に燃えるような縄文エネルギーが爆発した。神秘的な力をもっていた。

 もうひとつは後期の縄文文化で、東北と西日本に遺跡がのこる。こちらはエネルギーの爆発というより、静かで深みのある美を極めた土器群である。「磨消(すりけし)縄文」という。いったん付けた縄文を消した部分と縄文とのコントラストが美しい。亀ケ岡式土器は磨消縄文である。天台寺のナタ彫りはこの磨消縄文に通じるものだった。

 亀ケ岡文化を飾る遺品に、もうひとつ、土偶がある。遮光器土偶や女性の土偶が有名だが、梅原は弘前の市立博物館で見た猪の土偶と郷土館で見た熊の土偶にいたく感銘している。まことにリアルな模造なのだ。人体をデフォルメしてやまない縄文人がこうした動物をリアルにつくったことに、梅原は新たな謎を発見していく。


猪の土偶(上)と熊の土偶(下)


津軽こぎん刺し
田中忠三郎『みちのくの古布の世界』より


南部菱刺し
田中忠三郎『みちのくの古布の世界』より


サキオリ
田中忠三郎『みちのくの古布の世界』より


 8月は東北の祭の季節である。恐山の大祭(地蔵会)、秋田の竿燈、岩手の鹿踊り、山伏神楽‥‥。

 いずれも盆の祭であって、死霊を迎え、それを喜ばせ、それを送る。そこで8月末に津軽に行った。ねぷたの里である。この里は新たに造営されたところで、毎年のねぷたの良品を展示している。

 ねぷたの起源は坂上田村麻呂の蝦夷征伐にあるという。東北には田村麻呂伝説と義経伝説がやたらにあるが、なにもかもが田村麻呂のせいではあるまい。もともとは精霊流しが母型だったはずである。しかしねぷたの狂騒的熱狂やそのディオニソス性を思うと、そこには田村麻呂と蝦夷との闘いがよみがえるものもある。

 青森のねぷたと弘前のねぷたはちがうらしい。青森の連中は青森ねぷたが本物で、弘前ねぷたはダメだと言う。弘前では青森ねぷたは下品で弘前ねぷたが昔のままを継いでいると言う。こういう津軽人の相互に譲らない自信は津軽の風土から来ているのであろう。

 梅原は津軽を一周することにした。10時に青森を発って外ケ浜を北上し、蟹田(かいた)で西に入って今別から三厨を通って竜飛岬に向かう。そしてふたたび今別から南下して、今度は西に行って市浦(いうら)から十三湊(とさみなと)を見て、金木町・五所川原に着く。実はこのコースは太宰治の『津軽』のコースにもなっていた。金木町は太宰の故郷である。

 太宰は『津軽』で書いている。津軽の者はどんなに権勢を誇る連中に対しても従わないのだと。「彼は卑しき者なのぞ、ただ時の運の強くして、時勢に誇ることにこそあれ」と見抜くのだと。その一方で、太宰は津軽人があけっぱなしの親愛感とともに、無礼と無作法をかこっていることを書く。あけっぴろげにするか、すべて隠すか、二つにひとつなんだとも書いた。

 もう少し正確にいえば、津軽の親愛の力は相手にくいこむ無作法によって成り立っているのだ。梅原はそこに、啄木にも賢治にも感じられる真実と想像とを区別しなくなる東北的詩魂のマザーのようなものを見た。


たちねぷた 毎年1体が新調される
『東北お祭り紀行』より

 金木町には太宰の生家の斜陽館がのこされている。観光客はみんな行く。しかしこの町で梅原を驚かせたのは川倉地蔵のほうだった。

 何百という地蔵が並んでいるのだが、そのすべてが赤や青の現色の着物をまとい、顔に白粉や口紅をつけている。まことに不気味。これは生きている人間ではない。死んだ人間たちだ。

 太宰はイタコについては何も書かなかったけれど、梅原はイタコの力を思い出し、さらに以前、弘前の久渡寺(くどじ)で見た数百体のおしらさまを思い出していた。そのおしらさまたちも金銀緞子の衣裳をつけ、信者たちは手に手に長い箸をもって祈っていた。

 久渡寺は密教寺院だから、僧侶がやることは真言密教の儀式にもとづいている。しかし、おしらさまの前で信者たちが見せている祈りの姿は、もっと以前からの母型性をもっている。

 実は梅原はこの旅の20年ほど前に、恐山のイタコに母親の霊をおろしてもらっていた。梅原の母上が梅原を生んで1年ほどで亡くなったことはすでに紹介しておいたが、そのため、梅原には母の顔や母の声の記憶がない。その母の声をイタコは乗り移って聞かせたのだ。

 津軽弁だったのでよくは聞き取れなかったけれど、よくぞおまえも大きくなったな、立派になったな、わたしも冥土でよろこんでいるというところは、辛うじてわかった。

 梅原はこの声が母の声だと感じた。同行していた友人たちは、終わって3倍の料金を払おうとしていた梅原の頬に、何筋かの涙が流れていたと言った。

 生者と死者は切り離せない。そこに大地震や大津波があろうとも、切り離せない。イタコとゴミソとおしらさまもまた、これらは切り離せないものたちなのである。


家にイタコを呼び、おしらさまを遊ばせて1年を占った
それが久渡寺に数百体も集まっている
『東北お祭り紀行』より


 次の旅は秋田の大館、能代から酒田に向かう旅である。途中に八森(はちもり)に寄った。加賀康三所有の「加賀家文書」を見るためだ。

 加賀家文書というのは、幕末に加賀屋伝蔵という者が蝦夷地に渡って、そこで蝦夷(エゾ)の通訳をしていたのだが、その伝蔵にまつわる文書のことをいう。松浦武士郎が伝蔵に宛てた手紙なども含まれているのだが、梅原が見たかったのは伝蔵がつくったアイヌ語の教科書だった。

 梅原がアイヌ文化に関心をもったのは、昭和54年に藤村久和と出会ってからのことである。以来、蝦夷の文化は縄文の文化で、その蝦夷の文化をくむのがアイヌ文化だという考えをもつようになった。ところが、このような見方は学界ではまったく否定されてきた。アイヌ人と日本人は異なる種族で、アイヌ語と日本語もまったく異なっている。

 これは金田一京助が確立した大きな見方で、アイヌ語は抱合語であるのに対して、日本語は膠着語であって、仮に類似の言葉がいくらあろうとも、それは一方から他方への借用語か、文化の濃度差による移入語であるというものだ。金田一によってアイヌと日本は切り離されたのである。

 しかしながら梅原はこの見方に従わない。屈強に抵抗をして、縄文≒蝦夷≒アイヌという等式を追いかけている。その後も、いまもなお――。学界的には劣勢であるが、学界というところ、けっこうあやしいところもいっぱいあるものなのである。

 八森から男鹿半島に入って寒風山に登った。このあたりはなまはげの本場である。祭の中心には真山神社がある。

 なまはげは坂上田村麻呂に殺された蝦夷の霊魂を祀るとも言われている。またまた田村麻呂の登場だが、もしもそうなのだとしたら田村麻呂以前に秋田に遠征した阿部比羅夫についてはそうした反抗の記憶がのこっていないので、やはり田村麻呂には強い中央に対する反発が残響したのだということになる。

 しかしこれをもっとさかのぼれば、ここには蝦夷やアイヌがそのまま残響しているとも考えられてよい。アイヌ語でパケは頭のことをいう。なまはげとは生の頭、生首のことなのだ。証拠も何もないけれど、そういうふうなことも思いついた。梅原は本書のみならず多くの著作のなかで、こういうツイッターのような呟きを欠かさない。のちのち別の著作を読むと、その呟きがけっこうな仮説に成長していることも少なくない。

 秋田、本庄を素通りし、この夜は酒田に入った。土門拳(901夜)の故郷である。しかしこの夜はアイヌの夢を見て眠りこんでいたようだ。


ケデ、腰ミノ、ハバキ、面をつけて、なまはげに変身する
『東北お祭り紀行』より


 次の旅では妻子とともに出羽三山をまわった。海向寺で忠海上人のミイラに直面し、羽黒山で正善院に寄り、湯殿山では総奥之院を詣でた。ここでの体験と思索は、ふたたび三たび、梅原が新たな“深層編集”に挑むためのものだった。

 仏教の研究から日本思想に入った梅原にとって、修験道はただただ奇異なものにすぎなかった。吉野大峰であれ、英彦山であれ、出羽三山であれ、仏教や仏教思想とはなんらのつながりのない土俗的な呪術に見えていた。こういうところは、ぼくと逆である。ぼくは早くに内藤正敏と出会って遠野や出羽三山に親しんだ。桑沢デザイン研究所で写真の講師をしていたときは、学生たちに真っ先に勧めたのは出羽三山旅行だった。

 そういう梅原ではあったらしいけれど、縄文にさかのぼる日本の深層に関心がおよんでからというものは、修験道は梅原の視野を強く刺激するようになってきた。このへんの事情も正直に本書にのべられている。

 羽黒山の開祖は能除太子で、崇峻天皇の第二皇子だとされている。蜂子皇子ともいわれた。しかしその像の容貌は容貌魁偉というどころか、ものすごい。あきらかに山人の顔だ。けれども羽黒山が能除太子を開祖にもってきたことには、深い暗示作用もある。崇峻天皇は仏教交流に大きな役割をはたしながらも、蘇我馬子に殺された。その皇子が祀られたのには、遠い山人との交差がおこっているはずなのだ。

 湯殿山の御神体は湯の出ている岩そのものである。岩も重要だし、湯も重要だ。とくに東北においては、縄文以来、湯を大事にしてきた。

 その湯は岩とともにある。縄文遺跡の近くに温泉が湧いていることが多いのも、東北の本来を物語っている。

 帰途は最上川をさかのぼって、天童、作並温泉をへて仙台に出た。空港では源了圓(233夜)夫妻が待っていた。源はこのころは東北大学の教授で、梅原が信頼する数少ない日本学の研究者だった。

 こうして春秋2度にわたる東北の旅が終わり、仙台空港から梅原は機上の人となって関西へ、京都へ帰っていくのだが、この紀行文が『日本の深層』として佼成出版社から刊行されると大きな反響になったとともに、山形や福島の読者から、これではわれらの故郷がふれられていない、残念だという声が寄せられてきた。

 そこで、この文庫版には別途に書かれた会津の章と山形の章が入れられた。あらかた次のようなものになっている。

 会津についての地名伝説の一番古いものに、『古事記』にのっている話がある。崇神天皇が大彦命(オオヒコ)を高志道へ、その子の建沼皮別命(タヌナカワワケ)を東国に遣わして、まつろわぬ者たちを平定するように命じた。そのオオヒコとタヌナナカワワケが父子で出会ったのが会津(相津)だったという記述だ。高志道は越の国のこと、東国は「あづま」で、関東を含めた北寄りの東国をいう。

 越の国にも東の国にもまつろわぬ部族たち、すなわち蝦夷(エミシ)がいて、これを平定しようとしたという話だが、そしてどうやらその平定ができたという話だ(ちなみに、それでもまだまつろわぬ者たちがいたのが陸奥と出羽だった)。もっとも、これは表向きの話だ。

 崇神天皇の時代はだいたい4世紀前半にあたる。梅原はこの古代エピソードには、会津地方が縄文文化と弥生文化の出会いの場所であって、二つの文化が重なっていった場所だという暗示がこめられていると見る。

 よく知られているように、越後には火焔土器が目立つ。越の蝦夷による造形だったろう。記紀神話に登場する須勢理媛(スセリヒメ)はこの越の蝦夷たちの後継者で、かなり神秘的な地域を治めていたのだと思われる。会津地方は阿賀川などの水系交通でこの越とつながって、縄文土器の国々をつくっていた。火焔土器に似た土器が出る。

 その一方、会津地方は弥生文化が早くにやってきた地域でもあった。盆地のせいだったろう。弥生中期の南郷山遺跡に出土する弥生土器はそうとうにすばらしい。こうして、縄文と弥生がここで交わった。それは「日本」の成立というにふさわしい。

 梅原は他の著作でも何度も書いているのだが、縄文が終わって弥生が栄えたとは見ていない。農作の文化が広まって、政治制度や社会制度に大きな変化があらわれていても、信仰や習俗はかなり縄文的なるものを継続していたとみなしている。倭人とは縄文人と弥生人の混血でもあったのだ。ただ、その「日本」や「倭人」のその後の継続のかたちや活動のしかたが、西国と東国、また畿内と東北ではかなり異なったのだった。

 会津を象徴する人物に徳一がいる。古代仏教史上できわめて重要な人物で、最澄と論争し、空海(750夜)が東国の布教を頼もうとしたのに、その空海の真言に痛烈な文句をつけた。

 南都六宗の力が退嬰し、道鏡などが政治的にふるまうようになった奈良末期、この古代仏教を立て直すにあたっては、二つの方法があった。ひとつは旧来の仏教を切り捨てて新たな仏教を創造していく方法だ。これを試みたのが最澄や空海の密教だった。

 もうひとつは、旧仏教が堕落したのは組織と人間がよくなかったのだから、別の土地に新たな寺院と組織をつくって、倫理的回復をはかるという方法である。前者がカトリックに対してプロテスタントがとった方法だとすれば、後者はイエズス会がとった方法で、徳一はこの後者の方法でイエズス会が海外に布教の拠点を求めたように、東国や東北に新たな活動を広めていった。

 時代が奈良から平安に移ると、都を中心に最澄と空海の密教が比叡山や高雄山(神護寺)や東寺などに定着していった。このままでは奈良仏教は旗色が悪い。しかし最澄と空海の論法に旧仏教はたじたじだった。そこで東北の一角から徳一がこの論争を買ってでた。

 最初は最澄を相手にした。このとき徳一は牛に乗り、その角のあいだに経机をおいて、最澄の教義を破る文章を書き上げたという。日本ではめずらしい激越な論争であるが、このときの徳一の文章はのこっていない。

 空海のほうは徳一の才能を認めて、むしろ北への密教の拡張を託したかった。しかし徳一はこれを拒否して、痛烈な批判を書いた。この批判は『真言未決文』としてのこっている。ぼくも読んだが、11にわたる疑点をあげたもので、まことにラディカルだ。

 平安期以降の会津は、この徳一のおこした恵日寺を中心に仏教文化を広げていった。まさにイエズス会である。恵日寺は磐梯山信仰ともむすびついたようだ。火山爆発に苦しむ住民の救済力として信仰されたからだ。同じく常陸の筑波山寺も徳一によって新たな拠点になっていく。

 恵日寺のその後について一言加えると、いったんは会津仏教王国のセンターとなるのだが、源平の合戦のとき、恵日寺の僧兵たちが越後の城氏とともに平家側についたため、木曽義仲によって滅ぼされるという宿命になっていく。だからいまはその七堂伽藍の偉容は拝めない。

 梅原はこうした徳一の断固たる活躍や恵日寺の宿命には、その後の会津が奥羽列藩同盟や戊辰戦争で背負った宿命のようなものを感じると書いている。白虎隊の滅びの精神は夙に徳一から始まっていたわけなのだ。

 古代の奥羽は陸奥国と出羽国から成っていた。出羽の中心に山形県がある。梅原は山寺や、小国町を見て、最後に福島の高畠町の日向窟に向かい、自身の内なる東北を埋めていく旅となった。

 この旅では、芭蕉が「閑さや岩にしみ入る蝉の声」と詠んだ山寺についての随想がおもしろい。まず慈覚大師円仁が建立した経緯の背後を調べた。円仁が朝廷の意向を携えて東北の布教に向かったのだとして、その宗教イデオロギーの背後にひそむものを見つけたいからだ。

 調べてみると、ここが立石寺として「立て岩」を重視してきたことが見えてくる。立て岩は縄文以来の日本人の崇拝の対象である。ストーンサークルは東北各地にのこっている。円仁はその立て岩に香を炊いて天台仏教の色に染め上げようとした。そのため、いまではこの岩は「香の岩」とよばれる。しかし、そこにはさまざまな軋轢があったはずである。

 伝承では、この地を所有していたのは磐司磐三郎というマタギの親分だった。そこへ円仁がやってきて、説得されてこの地を譲った。磐司磐三郎はそのため秋田のほうに移ったことになっている。そこでこの地は聖地となって、山の動物さえ円仁に感謝したという昔話になった。

 が、これはもともとがマタギの聖地だったから、それを消すわけにはいかなかったのである。梅原はそのように見て、結局は京都の朝廷が仏教的自己聖地化をはかったのだと考えた。

 山寺の奥の院には、絵馬と人形がたくさん納められている。その絵馬には結婚した若い夫婦が描かれている。

 この息子や娘は、実は幼いときか、子供の頃に死んだ者たちなのである。それを両親が自分の子が結婚をする年頃になったろうとき、絵馬に花嫁あるいは花婿の姿を描いて納めたのだった。顔はおそらく亡くした子の面影に似ているのであろう。

 このように死んだ息子や娘の結婚式をするという風習は東アジアにもあるようだが、これは決して仏教の思想によるものではない。仏教ではこの世は厭離穢土であって、だからこそ死ねば極楽浄土に行けると説いていく。こういう仏教観にもとづけば、死んだ息子も娘も浄土に行ったと考える。ところが、ここには失った哀れなわが子を、この世と同様の幸せでうめあわせてあげたいという気持ちが溢れている。このような感じ方を円仁が広めたはずはない。

 このように見てくると、山寺は死の山でもあったのである。ここは死の国の入口でもあったのだ。マタギはそのことをよく知っていたのであろう。

 そして、そうだとすると、梅原には「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の句も別の意趣に感じられたのである。芭蕉が奥の細道を通して把えようとした意図が、日本の深層への旅だったと思えてきた。

 ぼくも想うのだけれど、3月11日で失った子供たちが結婚する年頃になったとき、今の東北の人たちが何をどのように手向けるか。将来の日本の心が、そのようなところにもあらわれるのではないかと予想する。
https://1000ya.isis.ne.jp/1418.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/283.html#c8

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった

若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった


監督 若松孝二
脚本 若松孝二 掛川正幸 大友麻子
原作 掛川正幸
音楽 ジム・オルーク
撮影 辻智彦 戸田義久
公開 2007年8月26日

動画
https://video.9tsu.com/videos/view?vid=101196
https://muryoueigadrama.com/?p=7220


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出演者

連合赤軍

赤軍派森恒夫:地曵豪
坂東國男:大西信満
山田孝:日下部千太郎
植垣康博:中泉英雄
青砥幹夫:伊達建士
山崎順:椋田涼
進藤隆三郎:粕谷佳五
行方正時:川淳平
遠山美枝子:坂井真紀
革命左派永田洋子:並木愛枝
坂口弘:ARATA
吉野雅邦:菟田高城
寺岡恒一:佐生有語
杉崎ミサ子:奥田恵梨華
大槻節子:藤井由紀
金子みちよ:安部魔凛碧
奥沢修一:玉一敦也
前沢虎義:辻本一樹
寺林真喜江:神津千恵
伊藤和子:一ノ瀬めぐみ
中村愛子:木全悦子
小嶋和子:宮原真琴
岩田平治:岡部尚
尾崎充男:鈴木良崇
加藤能敬:高野八誠
加藤倫教:小木戸利光
加藤元久:タモト清嵐
山本順一:金野学武
山本保子:比佐廉

連合赤軍に関連する人物

赤軍派塩見孝也(事実上途中離脱):坂口拓
高原浩之(事実上途中離脱):笠原紳司
田宮高麿:本多章一
重信房子:伴杏里
梅内恒夫:渋川清彦
金廣志:RIKIYA
持原好子(途中離脱):桃生亜希子
革命左派向山茂徳(途中離脱):黒井元次
早岐やす子(途中離脱):田島寧子
瀬木政児(途中離脱):山本直樹
松本志信(途中離脱):中道亜希


その他
さらぎ徳二:佐野史郎
松本礼二:倉崎青児
山荘の管理人:奥貫薫
ナレーション:原田芳雄

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あさま山荘事件または浅間山荘事件は、1972年2月19日から2月28日にかけて、長野県北佐久郡軽井沢町にある河合楽器の保養所「浅間山荘」において連合赤軍が人質をとって立てこもった事件である。

ベトナム反戦運動や公民権運動、ヒッピー文化やパリ5月革命など世界的な左翼全盛の時代に、日本でも反権力的な学生運動が盛り上がっていたころが舞台である。その学生運動の中でも最も純粋であったがゆえに、真剣に革命の実現を信じた連合赤軍の若者たち。彼らが何に突き動かされ、どのような葛藤を経てあさま山荘事件へと至っていったのか、そしてリンチ事件へと至ったのか。連合赤軍側の立場から、彼らの生き様を描こうとしている。

本作品は低予算であり、制作費の一部はカンパでまかなわれた他、若松孝二監督が自宅を抵当にいれ、宮城県大崎市(旧鳴子町)の自身の別荘をあさま山荘のロケセットとして使用、解体までおこなって、ラストシーンの撮影が行われた。また、リアルさと現場での緊張感を優先させる為、出演者はオーディションの段階からマネージャーの帯同禁止、メイクや衣装も自前で用意させる、山岳ベースからあさま山荘シーンの撮影時には、宮城の山中での長期合宿等、焦燥感ある空気を画面に創り出す工夫が成されている。撮影は「順撮り」(ストーリーの順番)で行われたため、出演者達が段々憔悴していく姿がリアルである。長台詞が多いので、棒読みにならないよう感情を乗せるのが難しかったという。


連合赤軍元メンバーからの批判

連合赤軍元メンバー加藤倫教は連合赤軍事件に関するインタビューの中で本作について話が及んだ際に本作の終盤の劇中で加藤元久が言うセリフに対して批判的に語っている。

「映画を見て感動したというひとが、僕のまわりにもたくさんいるんだけど、それは弟の言った言葉だというんです。
しかし、それは事実としてはないこと。完全なフィクションであるならそれも構わないけれども、仮にも『実録』とタイトルをつけるかぎりは、違和感が拭えない。(中略)

銃を持って交番を襲撃しろといったら、行くひとたちだった。それを『勇気がない』という一言でまとめられたんでは、ものすごく腹が立ちますね。それが間違っていると思っていたなら、行動するひとたちですよ。あるいは、組織を捨てて出たでしょう。

間違っているんじゃないかという気持ちは、僕にもありましたよ。しかし、間違いだ、と言い切れない、『これはこういうことだから間違っている』と言うだけの論拠、確信がなかったんです」(中略)

「若松さんに聞きたいことがあるかと言われたら、一つだけ。なぜあのような日本人ならわかるだろうという情緒的な落とし方に、どうしてしてしまったのか。あれでは『こう言いたいんだけど、言えなくて……』というのと、同じですよね。そして事が起きてしまったら、『ほんとはこうしたかったんだ』と弁解する。それと同じ扱いですよね。若松さんは、あの事件を単にそういうふうなことと理解したということなのか」[9]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E9%8C%B2%E3%83%BB%E9%80%A3%E5%90%88%E8%B5%A4%E8%BB%8D_%E3%81%82%E3%81%95%E3%81%BE%E5%B1%B1%E8%8D%98%E3%81%B8%E3%81%AE%E9%81%93%E7%A8%8B


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あさま山荘事件 1972年(昭和47年)2月19日 - 2月28日

あさま山荘事件または浅間山荘事件は、1972年2月19日から2月28日にかけて、長野県北佐久郡軽井沢町にある河合楽器の保養所「浅間山荘」において連合赤軍が人質をとって立てこもった事件である。

1972年2月19日、日本の新左翼組織連合赤軍のメンバー5人が、管理人の妻(当時31歳)を人質に浅間山荘に立てこもった。山荘を包囲した警視庁機動隊及び長野県警察機動隊が人質救出作戦を行うが難航し、死者3名(うち機動隊員2名、民間人1名)、重軽傷者27名(うち機動隊員26名、報道関係者1名)を出した。10日目の2月28日に部隊が強行突入し、人質を無事救出、犯人5名は全員逮捕された。人質は219時間監禁されており、警察が包囲する中での人質事件としては日本最長記録である。

酷寒の環境における警察と犯人との攻防、血まみれで搬送される隊員、鉄球での山荘破壊など衝撃的な経過がテレビで生中継され、注目を集めた。2月28日の総世帯視聴率は調査開始以来最高の数値を記録し、18時26分(JST)には民放、日本放送協会(NHK)を合わせて視聴率89.7%(ビデオリサーチ・関東地区調べ)に達した[5]。同日のNHKの報道特別番組(9時40分から10時間40分に亘って放送)は、平均50.8%の視聴率(ビデオリサーチ・関東地区調べ)を記録した[5]。これは事件から45年以上が経過した現在でも、報道特別番組の視聴率日本記録である。

事件の発端

1970年代初頭、連合赤軍の前身である日本共産党(革命左派)神奈川県委員会[注釈 3](マスコミ通称「京浜安保共闘」)および共産主義者同盟赤軍派の両派は、それぞれ銀行に対する連続強盗事件(M作戦)と真岡銃砲店襲撃事件を起こして資金や銃・弾薬を入手し、特異かつ凶暴な犯行を繰り返しながら逃走を続けていた。これに対し警察は、都市部で徹底した職務質問やアパートの居住者に対するローラー作戦を行いながら(真岡銃砲店襲撃事件が発生した1971年2月は「捜査強化月間」とされ、全国24万箇所の一斉捜査が行われた[6])、総力を挙げてその行方を追っていた。一方、一連の学園紛争が終焉を迎えた当時にあって、マスコミ関係者の間でも一部の公安担当記者らを除いては両組織の存在すら知られていなかった[7]。

警察に追われていた両派のメンバーは、群馬県の山岳地帯に警察の目を逃れるための拠点として「山岳ベース」を構え、連合赤軍を旗揚げした。潜伏して逃避行を続けていたが、まもなく警察の山狩りが開始されたうえ、外部からの援助なども絶たれたため、組織の疲弊が進む。

1971年の年末から、山岳ベースにおいて「銃による殲滅戦」を行う「共産主義化された革命戦士」になるための「総括」の必要性が最高幹部の森恒夫や永田洋子によって提示され、仲間内で相手の人格にまで踏み込んだ自己批判と相互批判が次第にエスカレートしていき、「総括」に集中させるためとして暴行・極寒の屋外での束縛・絶食の強要などされた結果、約2ヶ月の間に12名にも及ぶ犠牲者を出し(山岳ベース事件)、内部崩壊が進んでいた。

群馬県警は350名を動員して大規模な山狩りを開始しており、山岳ベースに、息を潜めていた連合赤軍メンバーに対する包囲網は迫っていた。近隣住民から「不審な火の手が上がっている」との通報を受けて駆けつけた群馬県警は榛名ベースの焼け跡を発見、さらに2月16日には迦葉ベースも発見された[8]。

1972年2月16日、彼らが直前まで事実上の拠点として使用していた榛名山や迦葉山のベースの跡地が警察の山狩によって発見されたことをラジオのニュースで知った坂口弘らは、群馬県警察の包囲網が迫っていることを感じ、群馬県妙義山の山岳ベースを出て山越えにより隣接する長野県に逃げ込むことにした。長野県では、まだ警察が動員されていないと思われていたためである。この時、最高幹部の森と永田が資金調達のための上京によりベースを不在にしていたため、この決定は2人との連絡が取れない中で坂口を中心に行われた。

坂口・植垣康博ら5人は合流地点設定のため先発隊として東京のレンタカーで調達したライトバンで出発したが、妙義湖近くの林道で泥濘に嵌り身動きが取れなくなったところを付近を捜索していた警官2人に見つかり、職務質問[注釈 4]を受ける。警官らが車両の脱出を手助けしている隙に、指名手配されていた坂口・植垣ら3人は2人を残して警察が目を離している隙に逃亡、残されたメンバー2人は9時間の車内での籠城の末(この間に車内の男女は警官らの呼びかけに一切応じず、缶詰を食べたり、放尿したりした)、「森林法違反容疑」で逮捕された。この間に運良く通りかかった工事用トラックに便乗させてもらいベースに戻ることができた坂口らは、留守をしていた6人のメンバーを引き連れて長野県の佐久市方面に出ることを意図してベースを出発した。事態を受けて、冬期は少人数しか配置されていなかった軽井沢署が限られた人員を割き、署長も含めた署員らが拳銃を携行して和美峠で逃走者を待ち構えていたが、連合赤軍メンバーは警察が警戒しているであろう道路を避け、敢えて急斜面の沢を伝って移動する困難なルートを選択した[9]。装備の貧弱さと厳冬期という気象条件が重なって山中で道に迷い、軽井沢へ偶然出てしまった[注釈 5]。軽井沢レイクニュータウンは当時新しい別荘地で、連合赤軍の持っていた地図にはまだ記載されていなかった。そのため、メンバーはそこが軽井沢であるとは知らずに行動せざるを得なくなり、後に彼らが立てこもり先として浅間山荘を選んだのは偶然であった。なお、警戒中の警官らによって、夜間に山中を移動しているメンバーの懐中電灯の光や夜が明けて残されていた足跡が発見されたが、あまりにも奥深い場所であったことや足跡の周辺の雪が崩れていたことなどから(メンバーは先導者の足跡を踏んで移動することで、足跡の人数を偽装していた)、いずれも「下山中の猟師だろう」「前日見落とした古い足跡だ」と判断された。仮に両者がこの時点で接触して銃の撃ち合いになっていた場合、ライフルを持つ連合赤軍に対し警察は拳銃で野外の銃撃戦を挑まねばならず、大きな被害を出していたであろうとも言われる[10]。

森と永田も榛名山・迦葉山ベース跡地が発見されたことを知って坂口たちと合流すべく妙義山ベースに向かうが、既にベースを捨てて脱出した坂口らと入れ違いになり、2月17日に山狩りをしていた警察官に見つかり抵抗の末逮捕された[注釈 6][11]。

2月19日午前、食料などの買い出しに出かけた植垣ら4名が軽井沢駅の列車内で職務質問された。メンバーは2手に分かれていたが、一方は手製爆弾や実弾を所持しているのが見つかり銃刀法違反の現行犯で逮捕され、もう一方も咄嗟に住所として答えた長野市内の地名がデタラメであることを地元出身の警官に見破られ、逃走を試みたが逮捕される。駅売店の店員が、長期間入浴していなかったため悪臭を放っていたメンバーらを不審に思い、助役に通報したことがきっかけであった[12]。

こうして29名いた連合赤軍メンバーは、ここに至るまでに12名が山岳ベースで殺害され、4名が脱走、8名が逮捕された結果、事件発生直前には坂口・坂東國男・吉野雅邦・加藤倫教・加藤倫教の弟(以降、「加藤弟」と表記)の5名を残すのみとなっていた。レイクニュータウン付近の雪洞で待機していた連合赤軍メンバーはラジオで4人の逮捕のニュースを知ると警察の追跡を恐れて移動を開始し、捜査陣も逮捕者らがレイクニュータウン方面から来たことを聞き込みで突き止めて捜査網を狭めた[13]。


事件の経過(浅間山荘への立てこもりから制圧まで)

2月19日の正午ごろ、メンバーは軽井沢レイクニュータウンにあった無人の「さつき山荘」に侵入し、台所などにあった食料を食べて休息したり、洗面や着替えをしたりしていたが、捜索中の長野県警察機動隊一個分隊(5人。レイクニュータウン近辺の別荘の捜査が行われていた[13])がパトカーに乗って近づいてきたことを察知し、パトカーに発砲した。即座に機動隊側も拳銃を発砲してこれに応戦した後、加藤倫教が坂口に対し、警察官を包囲してパトカーを奪って逃走することを提案したが、坂口は何も答えなかったという[14]。

15時10分ごろ、現場から犯人発見と発砲を受けている旨の緊急報が出され、軽井沢署の署長室にいた(署長は別の打ち合わせで不在)警備第二課長の北原薫明が居合わせたパトカーに飛び乗って現場に急行した(この時、北原はほぼ使ったことのないパトカーの無線機で「県下の無線は全部黙れ!」「東北信各署からできるだけ多数の人員を応援させられたい」と指示を出した)[15]。

15時20分ごろ、メンバーは銃を乱射しながらさつき山荘を脱出し、自動車がある家を探す中で浅間山荘を発見した。この時、機動隊2人が連合赤軍メンバーに撃たれて負傷している[13]。最初に侵入した坂口が管理人の妻を発見、管理人や宿泊客は外出していて山荘内は管理人の妻一人きりだった。坂口は管理人の妻に「騒いだり逃げたりしなければ危害を加えない」と繰り返し告げ人質として立てこもることにした[16][注釈 7]。吉野は管理人の妻の拘束に異議を唱え、車を奪って逃げることを提案したが、坂口と坂東は管理人の妻を人質として、警察に森と永田の釈放と浅間山荘のメンバーの逃走を保障させようと計画していた。しかし、吉野がそれに反対したため、この計画は断念された。坂口が車のキーの所在を人質に尋ねると、車のキーは出掛けている人質の夫が持っていると答えたために車での逃走も断念した(なお、連合赤軍5人の中に、車の免許を持っている者はいなかった)。事件後、車のキーは山荘の玄関で発見されたという[16][8]。坂口は人質に対し、「人質ではなく、助けを求めた山荘の管理人」という説明を行い、以後この考えに縛られ人質を利用する考えを放棄せざるを得なくなった[16]。警察側は、人質を取られているうえ十分な人員が到着しておらず、また別働の連合赤軍の呼応の恐れもあったため、突入できずに説得を試みている中、連合赤軍メンバーらは山荘内にバリケードを築いていった[17]。

すでに逮捕され、本事件の勃発を知らされた連合赤軍リーダーの森恒夫は、渋川署員に対して「警察が全員射殺をしない代わりに、自分が立てこもっているメンバーを説得して投降させる」として現地に行かせるように要求したが、その前に供述するよう要求され、森はこれを拒否したため実現しなかったという。森はこの自身の行動を「敗北主義」「降伏主義」として事件後に自己批判している[8]。

2月20日、朝食後坂口、坂東、吉野の3人で今後の方針を協議。吉野が警察の包囲網を強行突破することを主張したが他の2人の反対に合い、自説を取り下げた。吉野は抗戦して殺害されることを念頭に置いてこのような主張をしたと逮捕後証言したという[16]。坂口は人質を自分たちの逃走の取引に使うことを一度は提案したが、前夜人質に人質でないと説明したこと、山岳ベース事件の犠牲者への償いのためにも警察権力と闘うしかないと考えたことからこの考えを取り下げる[16]。こうして3人は1日でも長く徹底抗戦を続けることで一致した。「徹底抗戦をするのなら人質は必要ないのでは」と吉野が人質を解放する案を提案したが、坂口は身元が発覚することを理由に却下。実際は長く抗戦するためだったという[16]。坂口が協議の結果を加藤兄弟にも説明した。

犯人たちは山荘内の食糧を集め、1か月は持つと考えていた。警察は、管理人から山荘には20日分の食糧が備蓄されており、さらに6人分の宿泊客のために食糧を買い込んでいることを聞いたため、兵糧攻めは無理と判断して説得工作を開始した。

8時40分と同46分に、上空のヘリに向けて犯人たちが発砲。午前11時過ぎから、装甲車の中より夫や親族による人質への呼びかけが行われた[18]。

当初は人質を縛りつけ、口にはハンカチを押し込んで声が出ないようにしていたが、この日の午後、坂口が独断で縄を解いた。前日に人質に対して人質にするつもりはないと言ったことと、人質の緊縛姿が山岳ベース事件で縛られながらリンチ死した同志と重なったためであったという。坂口の独断による行動であったが他のメンバーは何も言わなかった[16]。

人質も交えて夕食。加藤弟が電気ジャーで御飯が炊きあがってすぐ食べようとしたのを人質が「ご飯は少しそのままにしておいた方がおいしいよ」とたしなめ、加藤弟が素直に従い御飯が蒸れるのを待ってから人質の「もういいでしょう」の言葉を聞いてから食べるなど犯人と人質の間でちょっとした雑談があったという[16]。

2月21日、犯人5人は盗聴や人質から身元が割れることを警戒してコードネームを決めた。コードネームは、坂口は「浅間」、坂東は「立山」、吉野は「富士山」、加藤倫教は「赤城」、加藤弟は「霧島」であった[16]。犯人たちはアジ演説も行わず電話にも出ず警察に何も要求せず、ただ山荘に立てこもって発砲を繰り返した。

14時過ぎ、人質の夫から妻への激励の手紙や果物を差し入れたいと申し出を受け、第九機動隊隊長の大久保伊勢男警視が丸腰で山荘の玄関前に果物籠を置く。犯人らの反応はなく、籠はそのまま放置された[19]。

さつき山荘に残された指紋から吉野のものが発見され、警察は吉野と行動を共にしていた坂口も現場にいると判断し、2人の肉親を呼び寄せていた。午後5時ごろ、坂口・吉野の母が到着し、説得を行う。犯人らは全員ベッドルームでこれを聞いていた。坂口は人質に「俺の実家は花屋をしている。田舎だから村八分にされていると思う」と弱気な口調で話したという[16]。

19時、山荘内のテレビでアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソン訪中のニュースを観た犯人らは衝撃を受ける。加藤倫教は後にこの時のことを自著でこう語っている。


私や多くの仲間が武装闘争に参加しようと思ったのは、アメリカのベトナム侵略に日本が加担することによってベトナム戦争が中国にまで拡大し、アジア全体を巻き込んで、ひいては世界大戦になりかねないという流れを何が何でも食い止めなければならない、と思ったからだった。私たちに武装闘争が必要と思わせたその大前提が、ニクソン訪中によって変わりつつあった。
ーーここで懸命に闘うことに、何の意味があるのか。もはや、この戦いは未来には繋がっていかない……。 そう思うと気持ちが萎え、自分がやってしまったことに対しての悔いが芽生え始めた。 [14]

19時半頃、警察の阻止線を越えた男が山荘に近付こうとしているのを発見され、逮捕される。男は新潟市内でスナックを経営する民間人で、警察は厳重注意のうえ23時20分に釈放[19][20]。

2月22日、午前、吉野の母の説得中に銃声。吉野の母が「お母さんを撃てますか」と言ったことに対し、吉野はさらに発砲。銃弾は吉野の母が乗る装甲車に当たり跳ね返った[19]。涙を流す吉野に坂口は「君のお母さんはインテリだからよく話すね」と言い、後年後悔したという[16]。

正午ごろ、画家の男とSBCの記者が警戒線を突破して山荘に近づこうとしているのを取り押さえられる騒ぎがあり、この隙に警察の包囲をすり抜けた前日の民間人の男が山荘の玄関先に現れ、「文化人」を名乗り人質の身代わりとなることを主張。前日に大久保警視が置いた果物籠をもって内部の犯人に呼び掛けだした[19]。警察が「山荘の学生諸君。この人は警察官ではない。民間人だから撃たないように」と呼びかける。坂口は私服警官ではないかと疑いながら監視を続け、吉野が威嚇発砲を行うが後退せず。坂口は機動隊にウインクをするなどした男にさらに不審を感じ、遂に拳銃で狙撃[16]。男は一旦倒れたが、すぐ立ち上がり自力で階段を這い上がり機動隊員に保護される[19]。警察の呼びかけに男は「ああ痛え、オレか?オレは大丈夫だ」と答えていたが、実は脳内に弾が留まっておりその後容体が悪化、3月1日に死亡した(これにより、犯人が38口径の拳銃を持っていることが判明した)[19]。1人目の犠牲者。

14時40分ごろ、吉野と坂東の発砲により警察官2名が負傷。超望遠レンズを持たない長野県警の鑑識班員らが現場判断で関東管区機動隊の特型車の後ろに隠れて山荘に接近したところ、車両の速度と歩調があわず、更に凍った道路に足を取られるなどして車体の影から露出したところを狙撃されたもので、最初に散弾で分隊長が右膝を撃たれ、更に倒れた分隊長を救出しようとした駆け寄った隊員が首筋にライフル弾を受けた。この隊員は一命はとりとめたものの、口もきけなくなるほどの重傷を負った。この失態により警察内部の主導権争いで長野県警の旗色が悪くなり、長野県警本部長の野中庸による判断で、幕僚団が指揮系統を押さえるとともに山荘周辺の警備実施は警視庁機動隊に任せることになった[19]。

20時10分、米中首脳会談を見せるためにあえて電気をそのままにしていた[8] 警察が山荘の送電を断つ。山荘内の部屋が真っ暗になると同時に外周に設置した投光器で山荘が照らされる。山荘から数発の発砲[19]。以後、電気は切られたままだったがガスと水道は止まらなかった。

23時16分、投光器の照明灯が山荘から狙撃される[19]。

この日、警察が山荘の玄関先にメガホンを置いて政治的主張を訴えるよう要請。人質を取りながら何も要求してこない犯人を不気味に感じたためだったという。吉野が訴えるよう主張するが、坂口は「黙って抵抗していくことが我々の主張となる」と拒否[16][注釈 8]。

2月23日 - 14時過ぎ、警官隊は山荘の三階玄関前に3台の特型警備車を配備し、強行偵察を開始。16時半ごろには二階風呂場に催涙ガス弾20発が撃ち込まれた。坂口はメンバーと人質にレモンを配り、人質を含めた全員が目の周囲、手の露出した部分にレモンをこすりつけた[注釈 9]。警察は強行偵察の目的であった犯人の特定と人質の安否の確認は果たせなかった[8]。

2月24日1時頃、犯人らを眠らせないための擬音作戦が開始される。作戦開始の合図として照明弾1発を発射する手はずとなっていたが、最初に点火した照明弾が燻るだけで打ち上がらないため別の照明弾を発射したところ、最初の照明弾が作動してしまい、「犯人らの突撃」を意味する2発の照明弾が撃ちあがってしまった。この日は長野県警が現場を受け持ち、残りの部隊は休息を取る予定だったが、慌てて緊急配備を敷いた警察は肩透かしを食う[19][21]。

5時と6時に人質の親族による呼びかけ[19]。人質は安心させたいからとバルコニーに立つことを要望するが坂口は拒否[16][注釈 10]。

さつき山荘に残された指紋から新たに坂東のものが発見され、この日9時半、坂東の母が警察の要請に応じて現場に到着し、説得。坂東は黙って聞いていたという[16]。

正午ごろ、警察による山荘への放水が始まり、水圧で玄関のドアやバリケードが破壊される。犯人たちは散弾銃で応戦。

2月25日、深夜から警察による擬音作戦(録音テープによる銃撃音等の偽装攻撃)と投石が行われるようになり犯人たちは不眠に悩まされるようになる[16]。

2月26日、前夜から濃い霧が発生していたため吉野がこれに乗じての脱走を提案。排水管や浄化槽などを調べるが脱走に利用できそうになかったため断念[16]。

9時半、人質の親族が再び呼びかけ。人質が「顔だけでもいいから出させてください」と頼むが坂口はこの日もこれを拒否。坂口は人質に「どうして命を粗末に扱うのか」と問われるが、笑って答えなかった。また、人質から自分を楯にしないこと、裁判になった際にも自分を証人として呼ばないことを要求され、坂口はいずれも了承。坂口が人質のバッグに入っていた善光寺のお守りを人質に渡すと人質は自分で首に掛け、ベッドに横になった[16][注釈 11]。

坂東が玄関右側にいる警官隊を見て「爆弾を投げつけて倒れた警官を引っ張り込んで人質に取ろう」と提案。坂口は「縛り上げて北側のベランダに吊るし上げておこう」と同意したが、爆弾を投擲するための穴を開けることが出来ず、断念[16][8]。この他、玄関口のガス管を開放して機動隊が突入してきたときに爆破させる案も出されたが、玄関口が風通しが良いことから断念された[22]。

夕方、山岳ベース事件の犠牲者寺岡恒一の両親が到着し、午後6時40分から呼びかけ[19]。メンバー全員がベッドルームに集まりこれを聞いていた。寺岡の両親も警察もこの段階で寺岡がすでに死亡していることを把握しておらず、山荘内に立てこもっているものと考えていた。聞いていた犯人のうちの誰かが「この世にいない者の親を呼ぶんだからなぁ」と発言。坂口はこれを聞きながら「言いようのない胸の圧迫感」があったという[16]。

夜、坂東がつまみ食いをするのを見たことをきっかけに吉野が坂口と坂東に対して強い不満を抱いていたことを坂口に打ち明け、坂東に総括を要求する。坂口は山岳ベース事件の犠牲者である吉野の妻に対する総括を求めてなだめる。最終的に坂口に促されて坂東が自己批判[16][注釈 12]。

犯人たちは人質に対して警察側にも犯人側にもつかない「中立」の立場でいることを要求。「殺されるまで闘い抜く」と言う坂口に人質は「どうしてそんなに生命を粗末に扱うの?」と尋ねたが、坂口が「最後まで闘い抜いて死ぬことは意義あることだ」と答えると人質は押し黙った。犯人に促されるまま「中立を守ります」と言った人質ではあったが、坂口の目には「内実を伴っているように見えなかった」[16]。

2月27日、この日も吉野の両親、寺岡の父による呼びかけ。午後、ラジオからの事件関係の放送がなくなる。「連合赤軍事件に関する取材・報道協定」が結ばれたためであった。26、27日と警察の接近行動が形ばかりのものになっていたため、犯人たちは全員で警察の出方を協議。結論は出なかったが明日はこれまでにない接近行動があるだろうと予測[16]。

2月28日、5時、投石が止む。9時、警察による投降勧告。同じ頃、吉野があさま山荘の隣の芳賀山荘で数名の機動隊員が無防備で休憩しているのを発見し、散弾銃を構えたものの発砲はしなかった[8][注釈 13]。

9時55分の最後通告の後、10時に機動隊が突入を開始。10時7分、犯人によるこの日初の発砲。機動隊員の大楯に当たり、銃撃戦が始まる。同時に警察はモンケンにより山荘の玄関脇の階段の壁に穴が空け、空いた穴に激しい放水を行う。

11時27分ごろ、放水の指揮をしていた警視庁特科車両隊中隊長の高見繁光警部(殉職により警視正に特進)が被弾(「吉野か坂東のいずれか」によるものとされたが裁判でも特定されず)。1時間後に死亡。2人目の犠牲者。坂口はこれをラジオで知ったが誰が撃ったのか知らなかった[16]。

11時47分ごろ、第二機動隊伝令の巡査が坂東の狙撃により左目を被弾。後に失明する。

11時54分ごろ、第二機動隊隊長の内田尚孝警視(殉職により警視長に特進)が坂東の狙撃により被弾し、午後4時1分死亡。3人目の犠牲者。

11時56分ごろ、3階の厨房に侵入し指揮していた第二機動隊4中隊長の警部が吉野と加藤倫教の狙撃により頭に被弾。坂口は法廷で聞くまでこれを知らなかったという[16]。

内田尚孝警視重体の報はラジオを通して山荘内にも伝わり、人質は「銃を発砲しないで下さい。人を殺したりしないで下さい。私を盾にしてでも外に出ていって下さい」と必死に呼びかけた。これに対し坂口は動じたものの、取り合わずに洗面所側と屋根裏のメンバーに向かって「おーい、上の方(階級が高い警官)をやったぞ」と伝えた[16][23]。

12時30分過ぎ、警察の作戦行動が休止したため、犯人全員がベッドルームに集まり、空いた穴の応急処置、食事。この頃には加藤倫教はすでに戦意を喪失しており、事件が早く終息して、弟の罪がこれ以上重くならないことを望んでいたという[14]。

12時45分ごろ、山荘にカメラを向けていた報道陣に坂口が威嚇発砲[注釈 14]。信越放送の記者が被弾したことを知り、坂口は驚く[16]。

14時40分ごろ、厨房にたむろしていた機動隊を発見した吉野の進言により坂口が鉄パイプ爆弾を投擲。第二機動隊4中隊の分隊長が右腕を砕かれる重傷を負った他、他4名が全治数日の聴覚障害を負った。

15時半ごろ、警察による放水が再開され、撃ち込まれたガス弾により催涙ガスが山荘内に充満。催涙ガスにより呼吸ができなくなり、窓を叩き割った坂口は目の前に見える浅間山を見て、浅間山荘という現場の名前の由来をこの時初めて知ったという[16]。

15時58分ごろ、第二機動隊第2小隊巡査2名が坂口、坂東、吉野のいずれか(裁判でも特定されず)の銃撃により顔面に被弾[24]。

17時ごろ、機動隊がベッドルームに接近。バリケードを少しずつ排除していった。

17時20分ごろ、第九機動隊巡査が坂口と坂東の銃撃により被弾[24]。

17時55分ごろ、第九機動隊巡査部長が坂口、坂東、吉野の乱射により顔面に被弾[24]。

やがてベッドルームの壁に穴が開けられ、28人の機動隊員が突入。18時10分ごろ、犯人一斉検挙のため先頭を切って突入した第9機動隊巡査が坂東の至近距離からの銃撃により右眼に被弾。後に右目失明[24]。

その直後の機動隊突入により18時10分犯人全員逮捕、人質無事解放となった。犯人たちは報道陣の罵声を浴びながら連行された。この時、坂口は山越えで靴が破れていた植垣に靴を貸していたため雪の降る中を裸足で歩いて行ったという[16]。

加藤倫教は連行された時の感情を以下のように記している。


のちに全員が連行される際の写真を見る機会があったが、私以外の四人は顔を歪めていた。私はただ前を真っ直ぐ見つめて歩くことを心に決めていた。
悔しい思いで、他の四人が顔を歪めていたとすれば、それは私も同じであったが、それは警察との闘いに敗北したことへの悔しさではなかった。 私は、自分が正しい情報分析もできず、主観的な願望で小から大へと人民の軍隊が成長し、自分が立ち上がることで、次から次へと人々が革命に立ち上がり、弱者を抑圧する社会に終止符が打たれることを夢見ていた、その自らの浅はかさを思い知り、自分の幼稚さに悔しさを感じていた[8]。

18時過ぎ、朝からテレビの実況中継を見ていた坂東の実家では、坂東逮捕が報じられると、父親が席を立ち、しばらく後に首を吊って死亡しているのが発見された。


▲△▽▼


警察の対応

初期対応

全国を股にかけ逃走を続けた連合赤軍に対し、警察庁では警備局・刑事局・全国の各管区警察局などが陣頭指揮を執り都道府県警察と総合調整を図って捜査していた。

そして、連合赤軍一派と遭遇し、銃撃戦に応戦した長野県機一個分隊の至急報を受けた長野県警察本部では、全県下の警察署に対し重大事案発生の報と共に動員をかけ、軽井沢への応援派遣指令を出した。まず、山荘周辺の道路封鎖と強行突破を防ぐための警備部隊の配置、連合赤軍残党の捜索を行うための山狩りと主要幹線道路の一斉検問実施、国鉄及び私鉄各線の駅での検問など、県警として考えうる限りの対応を実施した。

また、長野県軽井沢にて連合赤軍発見の急報を無線傍受していた警察庁では、直ちに後藤田正晴警察庁長官の指示により、人質の無事救出(警備の最高目的)・犯人全員の生け捕り逮捕・身代わり人質交換の拒否・火器使用は警察庁許可(「犯人に向けて発砲しない」ことを大前提とした)などの条件が提示され、長野県警察の応援として警察庁・警視庁を中心とする指揮幕僚団の派遣を決定する。後藤田は20日朝に開かれた記者会見で「なんとかしてxx(人質女性)さんを無事救出したいという気持ちでいっぱいである。この事件が凶悪犯罪であることは間違いないが、彼ら(連合赤軍)はもともとインテリなのだから、彼らの心に訴えて慎重な作戦を取り、できるだけ血を見ないで解決したい」と述べている[25]。

警察庁からは、長野県警察本部長・野中庸(いさお)警視監と同格の丸山昂(こう)警視監(警備局参事官)を団長として、警備実施及び広報担当幕僚長に佐々淳行警視正(警備局付兼警務局監察官)、警備局調査課の菊岡平八郎警視正(理事官・広報担当)、情報通信局の東野英夫専門官(通信設備及び支援担当)、また、関東管区警察局からも樋口公安部長など数人が派遣されている。

警視庁からは、機動隊の統括指揮を行うため石川三郎警視正(警視庁警備部付)、國松孝次広報課長、梅澤参事官(健康管理本部・医学博士)など他にも多数の応援が向かった。

後日、佐々幕僚長の要請で警視庁警備部の宇田川信一警視(警備第一課主席管理官・警備実施担当)が現場情報担当幕僚として派遣される。また、宇田川警視もコンバットチームと呼ばれる警視庁警備部の現場情報班を軽井沢に招集する。

機動隊関係では、事件発生当日の警視庁の当番隊であった第九機動隊(隊長・大久保伊勢男警視)が急遽軽井沢へ緊急派遣された。しかし、東京の環境での装備しかないため、冬期の軽井沢では寒さの対策に苦慮した。そこで追加派遣に第二機動隊(隊長・内田尚孝警視)が選ばれ、先に現着している九機の現地での状況も考慮し、寒冷地対策を徹底して軽井沢に向かった。

第二機動隊が追加派遣された理由については諸説あるが、当番隊として先着していた第九機動隊は当時まだ新設されたばかりであり、石川と内田は元上司と部下の関係で互いに気心が知れており、しかも、警視庁予備隊時代から基幹機動隊として歴戦の隊であるため派遣要請されたのではという説もある。九機も現着した二機と一旦交代し、一度東京へ戻り寒冷地対策をして再び軽井沢に向かった。さらに警視庁からは、防弾対策・放水攻撃実施などの支援のため特科車両隊(隊長・小林茂之警視)、人質の救助、及び現場での受傷者の救助の任務のため第七機動隊レンジャー部隊(副隊長・西田時男警部指揮)も追加派遣されている。

警察は、当初は犯人の人数もわからず、また人質の安否もわからないまま、対応にあたることになった。後藤田長官の方針としては、当地の長野県警察本部を立てて、幕僚団と応援派遣の機動隊は支援役的な立場とされていた。しかし、現地の長野県警察本部では、大学封鎖解除警備などの大規模な警備事案の警備実施経験がなく、装備・人員等も不足しており、当初から長野県警察本部での単独警備は困難であるとの見解を警察庁は有していた。だが、どうしても地元縄張り意識が強く、戦術・方針・警備実施担当機動隊の選定などで長野県警察本部と派遣幕僚団との間で軋轢が生じ、無線装置の電波系統の切り替えや山荘への偵察実施の方法など、作戦の指揮系統についても議論が紛糾した。

結果的には、長野県警察本部の鑑識課員などが幹部に報告せずに、被疑者特定のための顔写真撮影を目的とした強行偵察を行おうとした際、機動隊員2名が狙撃され、1名が重傷を負ったこと、包囲を突破した民間人が山荘に侵入しようとして犯人から拳銃で撃たれ(2月24日)、死亡(3月1日)したこと、さらに無線系統の不備や、強行偵察時の写真撮影の不手際など長野県警察側の不備が露呈し始めたことから、作戦の指揮は警視庁側を主体に行われていった。

制圧作戦

包囲のなか、警察側は山荘への送電の停止、騒音や放水、催涙ガス弾を使用した犯人側の疲労を狙った作戦のほか、特型警備車を用いた強行偵察を頻繁に行った。また、立てこもっていると思われた連合赤軍メンバーの親族(坂口弘の母、坂東國男の母、吉野雅邦の両親、寺岡恒一の両親)を現場近くに呼び、拡声器を使って数度にわたり説得を行った[注釈 15]。犯人の親は説得において、事件の最中の2月21日にニクソンアメリカ合衆国大統領が中華人民共和国を訪問しており、国際社会が変わっていることをあげた。なおニクソン訪中のニュースについては犯人側もテレビで見ていた。初めは冷ややかに母親たちの説得を聞いていた機動隊員らも、子を思う親の愛情の深さに涙を流したといわれる。しかし、犯人は警察が親の情を利用したとして逆上し、親が乗っていた警察の装甲車に向けて発砲した[19]。

長時間の検討の結果、クレーン車に吊ったモンケン(クレーン車に取り付けた鉄球)で山荘の壁と屋根を破壊し、正面と上から突入して制圧する作戦が立案された。建物の設計図などの情報が提供されて、作戦実施が決定された。警察は情報分析の結果、3階に犯人グループ、2階に人質が監禁されていると判断し作戦を立案した。そこで破壊目標は山荘3階と2階を結ぶ階段とし、3階の犯人達が人質のいる2階(実際は人質も3階にいた)へ降りられなくするために、まず階段のみを限定的に破壊した。鉄球の威力が強すぎると、山荘自体が破壊され崖の下へ転落する恐れがあったため、緻密に計算された攻撃であった[19]。なお、強行突入を前に山荘内のラジオなどで情報漏洩を防止するため、報道機関と報道協定を締結している。

次に3階正面の各銃眼を鉄球で破壊し、さらに屋根を破壊してからクレーンの先を鉄球から鉄の爪に付け替え屋根を引き剥がし、特製の梯子を正面道路から屋根へ渡して上から二機の決死隊を突入させる手筈だった。また、下からは1階を警視庁九機、人質がいると思われる2階を長野県機の特別に選抜された各決死隊の担当で、予め山荘下の入口から突入させて人質救出・犯人検索を実施という手筈だった。しかし、実際には人質は3階で犯人と共におり、また、山荘破壊途中にクレーンの鉄球も停止して再始動不能になってしまい、作戦の変更を余儀なくされた。鉄球作戦の効果は2階と3階の行き来を不可能にさせたことと、壁の銃眼を壁ごと破壊するに留まった。

鉄球が停止した理由は、公式には「クレーン車のエンジンが水をかぶったため」とされているが、これは現場警察官の「咄嗟の言い訳」であり、本当は「狭い操作室に乗り込んだ特科車両隊の隊長が、バッテリ・ターミナルを蹴飛ばしたため」であるといわれる[注釈 16]。本来、屋外で使用されるクレーン車であり、多少の水がかかった程度では問題は起きない。

当時の警視庁第九機動隊長であった大久保伊勢男は、鉄球作戦は失敗であったと回想している[27]。佐々も作戦中にクレーンが故障したため十分な効果を得られなかったとしている。

ただしこの故障説については作戦に関わった土木会社の関係者によると、故障ではなくて車両そのものが問題だったとしている。そもそもこのクレーン車は警察車両ではなく、米軍の払い下げ品を地元の民間会社が使用していたもので、そこに同民間会社の敷地内にあった資材から鉄板を切り出して操縦席に取り付けるなど、防弾のための改造を急遽施したものだった。またモンケンにしても専用の車両ではなく、単なるクレーン車のフック部分にケーブルで補強した上で鉄球を取り付けた代物だったため、ほぼ一回限りの動作が前提であった事を鉄球作戦に車両を提供および操縦した白田組関係者がテレビ番組、模型雑誌[28] および自動車雑誌[29] で明かしている。

事件の収束

2月28日午前10時に警視庁第二機動隊(以下「二機」)、同第九機動隊(以下「九機」)、同特科車両隊(以下「特車」)及び、同第七機動隊レンジャー部隊(七機レンジャー)を中心とした部隊が制圧作戦を開始。まず、防弾改造したクレーン車に釣った重さ1トンの鉄球にて犯人が作った山荘の銃眼の破壊を開始。直後に二機が支援部隊のガス弾、放水の援護を受けながら犯人グループが立てこもる3階に突入開始(1階に九機、2階に長野県機動隊が突入したが犯人はいなかった)。それに対し、犯人側は12ゲージ散弾銃、22口径ライフル、38口径拳銃を山荘内から発砲し抵抗した。このとき、弾丸が盾を貫通することが分かり[注釈 17]、隊員は盾を2枚重ねて突入した。

突入した二機四中隊(中隊長・上原勉警部)は築かれたバリケードを突破しつつ犯人グループが立てこもる部屋に接近した。作戦は当初順調に進んだが、作戦開始から1時間半後から2時間後にかけて、鉄球攻撃及び高圧放水攻撃の現場指揮を担当していた特車中隊長・高見繁光警部、二機隊長・内田尚孝警視が犯人からの狙撃を頭部に受け[注釈 18]、数時間後に殉職。さらに山荘内部で上原二機四中隊長が顔面に散弾を受け後退したのを皮切りに突入を図った隊員数名が被弾して後退した。その他、ショックによる隊員達の混乱、犯人側の猛射、クレーン車鉄球の使用不能等が重なり、作戦は難航した。

内田二機隊長が撃たれた後に警察庁から拳銃使用許可[注釈 19]が下りたものの、現場の混乱もあって命令が伝達されず、結局数名の隊員しか発砲しなかった(威嚇発砲のため犯人には当たらず)。狙撃班も配備されていたものの、射程が長く殺傷力の大きな狙撃銃の使用は長官許可とされていたため[31]、結局使用されなかった。ただしこの拳銃使用許可を受けて、狙撃班長・保坂調司警部により、屋根裏部屋の銃座に対する威嚇射撃が行われた。この銃座は二機隊長・内田尚孝警視を始めとして多くの犠牲を出していたが、この威嚇射撃を受けて射手が退避し、無力化された[30]。

しかしその後も、犯人側は鉄パイプ爆弾を使用するなどして隊員達の負傷者は増えた。作戦開始5時間半後、作戦本部の意向により、隊長や中隊長が戦線を離脱し指揮系統が寸断された二機を1階2階を担当とし、無傷の九機で3階に突入することを決定。また、放水の水が山荘中にかかった事から、夜を越すと犯人と人質が凍死する危険があったため、当日中の人質救出・犯人検挙を決定した。また当初は士気に関わるとして、部隊指揮官の意思を尊重する形でヘルメットに指揮官表示をしていたが、指揮官が次々と狙撃されていったことから、途中からヘルメットの指揮官表示を外すことを決定した。

作戦開始から7時間半後の午後5時半から、放水によって犯人が立てこもる部屋の壁を破壊する作戦が取られ、午後6時10分、九機隊長・大久保伊勢男警視から一斉突入の命令が下り、数分の後、犯人全員検挙、人質無事救出となった。

逮捕時、犯人側には多くの銃砲や200発以上の弾丸、水で濡れて使用不能になった3個の鉄パイプ爆弾、M作戦(銀行強盗)などで収奪した75万円の現金が残っていた。

事件収束までの犠牲者は、警視庁の高見繁光警部(二階級特進・警視正)と内田尚孝警視(二階級特進・警視長)の2人、そして「犯人を説得して人質を解放する」という意思で山荘に近づいた民間人1人が死亡した。また、機動隊員と信越放送のカメラマン計16人が重軽傷を負った。重傷者の中には、失明など後遺症が残った者もいる。また、坂東國男が逮捕される直前、彼の父親が自宅のトイレで首吊り自殺している。遺書には人質へのお詫びと残された家族への気遣いが書かれていた。

事件が長期化した要因
生け捕りの方針であったこと人質の無事救出が最重要目的であり、かつ犯人を生け捕りにする方針であった。仮に犯人を射殺した場合「殉教者」として神格化され、他の集団に影響を与えると考えられたためである。警察は1960年の安保闘争で死亡した樺美智子や1970年の上赤塚交番襲撃事件で射殺された柴野春彦等の事例を想定していた。警察官が殺人罪で告発される懸念があったこと1970年の瀬戸内シージャック事件において犯人を射殺した警察官が、自由人権協会所属の弁護士から殺人罪等で告発されたことへの憂慮もあった。告発は正当防衛として不起訴となったが、事件当時は特別公務員暴行陵虐罪による付審判請求が行われ、裁判所の決定が下されていなかった。犯人が主張や要求をしなかったこと犯人たちは警察の要求を一切聞き入れず、かつ一切の主張や要求をしなかったので、警察は人質の安否すら把握できなかった[注釈 20]。そのため、人質の安否確認、犯人の割り出しのために偵察を繰り返した。立てこもり側に有利な地形であったこと。山荘が切り立った崖に建てられていて、犯人に有利な構造であったこと。頻繁に犯人が発砲してくること。警察の発砲が突入直前まで全く許されなかったこと[注釈 21]などから情報収集もままならなかった。佐々淳行は著書の中で、この難攻不落の山荘を「昭和の千早城」と評している[19]。


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事件後の情勢

連合赤軍の崩壊

あさま山荘事件での犯人逮捕で、連合赤軍は幹部全員が逮捕され[注釈 22]、事実上崩壊した。逮捕後の取り調べで、仲間内のリンチ殺人事件(山岳ベース事件)が発覚し、世間に衝撃を与えた。また、逃走していた連合赤軍メンバーも次々と出頭し、全メンバーが逮捕された。

特殊部隊の創設

1972年9月5日、西ドイツ(当時)でミュンヘンオリンピック事件が発生し、黒い九月により人質全員が殺害され、日本国内に衝撃を与えた。事件後、警察庁は全国の都道府県警察に通達を出し、「銃器等使用の重大突発事案」が発生した際、これを制圧できるよう特殊部隊の編成を行うこととした[33]。

1975年、日本赤軍によるクアラルンプール事件によって、あさま山荘事件犯人の一人である坂東國男が「超法規的措置」として釈放され、日本赤軍に合流した(坂口も日本赤軍から釈放要求されていたが、本人が法廷闘争を望み留まった)。

1977年9月28日、釈放された坂東が関与した日本赤軍によるダッカ日航機ハイジャック事件が発生した際、日本政府は日本赤軍の要求を受け入れ、身代金(600万ドル)を支払い、超法規的措置により6名を釈放した。だが、直後に起こったルフトハンザ航空181便ハイジャック事件での西ドイツ政府の強行手段(特殊部隊GSG-9による犯人射殺)と対照的だったため、国内外から厳しい批判を受けることになった。この事件に対する教訓から、同年、政府は警察にハイジャック対策を主要任務とする特殊部隊を創設した。この部隊が近年増設され、SATと呼ばれている。

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裁判

山岳ベース事件も含めた連合赤軍事件全体で起訴された。当初、被告たちの多くは共同の弁護団による統一公判で裁判に臨んだが、徐々に被告間で事件に対する認識の齟齬が生じたり、坂東國男の離脱などの事情もあり、最終的には統一公判組と分離公判組に分かれることになった。本事件に関係した被告では、坂口弘は死刑、吉野雅邦は無期懲役、加藤倫教(逮捕時19歳)は懲役13年、加藤元久(逮捕時16歳)は中等少年院送致とそれぞれ判決が確定した。なお、坂口への最高裁判所の判決は1993年2月19日で、あさま山荘事件発生からちょうど21年であった。国外逃亡した坂東國男は現在も国際指名手配されている。警察関係者の中には、坂東が逮捕されるまであさま山荘事件は終わらないと考えている者もいる。

関係者のその後

佐々淳行は初代内閣安全保障室長に就任。退職後は危機管理の専門家・評論家として活動していた。
亀井静香警察庁警備局公安第三課課長補佐は、2017年まで衆議院議員を務めていた。
國松孝次警視庁広報課長は後に警察庁長官に就任したが、在任中何者かに狙撃されている(警察庁長官狙撃事件)。
佐々の伝令だった後田成美巡査は現在、衆議院議員山本有二の政策担当秘書を務めている。
BS朝日で報道されたドキュメンタリー「あさま山荘事件 立てこもり犯の告白 〜連合赤軍45年目の新証言〜」で、連合赤軍の元メンバーは、親戚の叔父に言われた「社会を正しく導くというが、お前たちは誰か一人でも救ったのか?」という一言で活動を辞めていた。山荘に立てこもった内で当時は未成年だった青年が事件後15年の刑期を終えた後に45年ぶりにテレビ出演した。彼は60代の老人だったが現在は自民党の党員になって保守思想へ転向していた。連絡の取れる元メンバーらは転向していたことなどが明かされた[34][35][36]。


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エピソード
カップヌードル事件当時の現場は、平均気温が摂氏マイナス15度前後の寒さで、機動隊員たちのために手配した弁当は凍ってしまった。地元住民が炊き出しを行い隊員に温かい食事を提供したエピソードがあるが、実際にこれにありつけたのは外周を警備していた長野県警察の隊員のみであり、最前線の警視庁隊員に配給されるころには、炊き出したカレーライスも蠟細工のように凍っており、相変わらず凍った弁当しか支給できなかったという[19]。やむなく、当時販売が開始されたばかりの日清食品のカップヌードルが隊員に配給された。手軽に調達・調理ができた上に寒い中長期間の勤務に耐える隊員たちに温かい食事を提供できたため、隊員の士気の維持向上に貢献したといわれている。

もっとも、佐々淳行の著書によれば、カップヌードルは警視庁が補食として、隊員に定価の半額で頒布したものであるが、当初長野県警察・神奈川県警察の隊員には売らず(警視庁の予算で仕入れ、警視庁が水を汲んで山に運び、警視庁のキッチン・カーで湯を沸かしたからというのがその理由)、警視庁と県警との軋轢を生んだとある[19]。このカップヌードルを食べる隊員達の姿が、テレビの生放送で幾度も大写しで報じられ、同商品の知名度を一挙に高めた。直後から他県警や報道陣からの注文が相次ぎ、それが更に大きく報道されたことで、カップヌードルの売上は爆発的に伸びて一躍ヒット商品となった[37]。モップル社2月22日、浅田光輝(立正大教授)・丸山照雄(僧侶)・水戸巌(東大助教授)・木村荘(弁護士)ら「救援連絡センター・モップル社」と名乗り、立てこもり犯との交渉を名目として野中庸本部長に面会を求めてきた。応対した佐々によれば、「身の安全については自己責任の原則」「対話にあたっては通牒にわたることはしない」「現場の警察官の指示に従うこと」の3点について書面で誓約することを条件に立てこもり犯への説得をすんなりと認めると、高圧的な態度で臨んできた彼らは動揺しだし、「あのう、彼らは我々に向かっても撃つでしょうか」と佐々に尋ねてきた。佐々が「そりゃあ撃ちますとも。実の親に向かって発砲する手合いですからね。ではどうぞ気を付けて行ってらっしゃい」と言うと「東京の本部と相談してから返事します」と退散した。後に彼らが無条件での面会を求めてきたため断ったところ、記者会見を開いて警察批判をぶち、軽井沢町内に宿泊して「連合赤軍銃撃戦断固支持。山狩警官ピストルで射殺を企む。威嚇でなくて本当だ。警視庁から狙撃犯五十人を集めた」と書かれたビラを撒くなどの宣伝活動を行った[19]。

鉄球作戦佐々淳行によると、当時テレビの前の視聴者の度肝を抜いた鉄球作戦は、実は東大安田講堂事件の時、当時警視庁警備第一課長として現場指揮担当であった佐々自身が提案したものが、後に浅間山荘で実施されたのだという[19]。佐々は全共闘による建物上部からの抵抗から機動隊員を守り、かつ速やかに占拠された建物への突破口・進入路を安全に確保するために、安田講堂の正面入口を建物解体用のモンケンで一気に破壊する、という正面突破作戦を具申したが、秦野章警視総監(当時)から却下された。その理由として、安田講堂は国の登録有形文化財第1号[38][39]であり、安田財閥の創始者・安田善次郎からの寄付でもあるための配慮があったのではないか、としている。なお近年のテレビ番組において、警察側に重機、鉄球クレーンを提供した機材会社、また実際にクレーン車を操縦した民間協力者が実名で報じられている。

以前は報復を警戒して、テレビ番組では当事者が否定していた。だが、警察の努力により連合赤軍及びそのシンパが報復活動に出ることが不可能となった(要するに連合赤軍が壊滅した)ため、この状況を以って、当事者が実名で現れても報復の心配がなくなったことが証明されたといわれる。使用された鉄球は2018年時点において、長野市内の株式会社白田組に残されている。ヘルメットの意匠当時、現場の隊長、副隊長は指揮を円滑に進めるためにヘルメットの意匠が少し変わっていた。その事が災いし、それさえ理解していれば容易に隊長格を特定して狙撃、指揮系統を混乱させる事が可能だった。事件の後、これらの問題点からヘルメットによる識別は撤廃された(現在はヘルメット後頭部にある階級線によって識別が可能)。

生中継1972年2月28日の突入作戦時にNHK・民放5社が犯人連行まで中継しているが、このうち、NHK・日本テレビ・TBS・フジテレビの中継映像がVTRで残っている。長野放送とフジテレビが、当時はまだ白黒用だった長野放送の中継車を通じて犯人連行の様子を高感度カメラで捉えることに成功。当時、報道に力を入れていなかったフジテレビはこれを機に報道に力を入れるようになった。また、暗視カメラとして白黒カメラが見直されるなど後のテレビ報道に影響を与えた。後方の治安当時の長野県警察の定数2,350人中、あさま山荘事件と他メンバー潜伏の山狩りのために838人(定数の36%)を動員していた。そのため、事件が長期化するにつれて後方の治安が心配され、交通事故の増加や窃盗犯の増加が懸念された。しかし、事件の長期化とともに犯罪発生件数や交通事故は減少傾向を示していた。これは事件の放送が異常な高視聴率を示していたことから大勢の人間がテレビを視聴していたことになり、外出を控えて自動車の絶対量が減ったり、在宅率が増えて空き巣が入る対象の空き家が減ったり、犯罪者自身もテレビの事件報道を視聴している間は犯罪を犯さなかったためとされている。

警備心理「警備心理学研究会」の宮城音弥東工大名誉教授・島田一男聖心女子大教授らが、現地に派遣された。両教授から「インフォメイション・ハングリー状態となっている隊員らに情報をこまめに伝達せよ」「明かりや音による陽動作戦で犯人たちを眠らせないようにせよ」などと警備本部幹部へ助言がなされた。一方、高橋幹夫警察庁次長の肝いりでできた研究会の現場視察とあって張り切っていた科学捜査研究所の某技官が幹部らの面前でテレビ出演の段取りまで仕切りだし、憤慨した丸山昂参事官が富田朝彦警備局長に抗議電話を掛けた[19]。事件後の人質女性事件後報道合戦が加熱する中、入院した人質女性はマスコミの取材等は一切の断絶状態で長野県警察本部が厳重に警護されていたが、精神科医の問診や警察の事情聴取の模様等が、特ダネとして朝日新聞に次々とスクープされた。これは、病室のベッドの下に仕掛けられた盗聴器を使用して警察や他社を出し抜いていたものであり、電池の交換に来た記者が病院に侵入したところを取り押さえられたことで判明したが、大物記者らによる必死のもみ消し工作の甲斐あってか、表沙汰にはならなかった[19][40]。

3月1日に開かれた短時間の記者会見で、「(退院したらまず何をしたいかとの問いに対し)みんなと一緒に遊びたい」といった、気が動転している中でなされた女性の発言の一部がセンセーショナルに切り取られたうえ、あたかも犯人達と心の交流があったかの如く(女性が所持していたお守りを夫が勘違いで犯人から貰ったものと別の記者会見で語ってしまっていたことも一因であった)報道された。この結果、女性は広く世間の批判を受けることとなる。実際には、「一日一食、ごった煮みたいなものを食べさせられた」「26日からはコーラ1本しかもらえなかった」「2月29日の報道(朝日新聞の「スクープ」)を見たらまるで私が赤軍と心のふれあいをしたみたいに書いてあって驚いた」と、女性は後に述べている[41]。この会見後、女性のもとヘの激励の手紙が激減し、逆に「うどんが食べたい(病院で食欲を尋ねられ、うどんを所望していた)とか、遊びたいとは何事だ」「お前のために警官が死んでいるのに何を考えているのか」といった文言やカミソリの刃を同封した脅迫の手紙が届くようになり、週刊誌は女性のプライベート情報や虚偽の内容を織り交ぜて『ウソ泣きxx(女性の名前)』『偽善者』と書き立てた。女性は予め夫が目を通して問題がなかった手紙のみを渡されていたが、精神的に不安定になっていった。女性は衰弱しながらも3月11日にそれまでの報道を否定する記者会見(全国からの励ましへの感謝、殉職警官遺族への「お詫び」の意向、監禁中は常に拘束と監視を受け生命の危機にさらされていた旨)を涙ながらに行った。それ以後、女性はマスコミとの接触を拒むようになった[41]。3月1日に東京で殉職警官の合同葬が行われた時、女性は病室から浅間山荘の方角に向けて黙祷を捧げながら涙を流していたという。また退院直後には山荘に直行し、殉職者の祭壇に跪き「申し訳ありません」と泣き崩れた[41]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%95%E3%81%BE%E5%B1%B1%E8%8D%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
1. 中川隆[-11688] koaQ7Jey 2019年3月06日 10:01:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[303]


亀井静香とチェ・ゲバラ 2005年10月25日

保守政治家の亀井静香は連合赤軍事件について、以下のように言及しています。

「連合赤軍メンバーの森恒夫や永田洋子なども取り調べましたが、結構いい若者なんですよ。

今の若い連中みたいに、シンナー吸ってフラフラしたりとか、ガリ勉して、いい学校、いい会社に入るとか、いい彼氏、いい彼女見つけたいとか、そんな浮ついた気持ちはなかった。

自分が幸せになるより、世の中をよくしたいという思いに駆られた連中でした」

総選挙前の8月10日に私が書いたエントリー記事「亀井派と社民党の合併は如何?」のコメント欄に下記のようなコメントをいただきました。

保守政治家の亀井静香氏がチェ・ゲバラを尊敬しているというのは、多くの人々にとって大変に興味深い事実のようです。ちょっと私的に分析してみたいと思います。反小泉左右共闘を考える上でも、警察出身の亀井静香と革命家のチェ・ゲバラの共通点を探るというのは興味深いと思われるからです。


 >>ちなみに亀井氏が尊敬する人物は、私も好きなチェ・ゲバラです。

 >これホントですか?警察官僚出身の亀井氏がそんな発言をするとは。
 >私はゲバラも亀井氏も好きなので(笑)、出典などを教えてくれればうれしいです。


 亀井さんが自民党総裁選に立候補したときは、マスコミの取材に答えて「私が尊敬するのは、貧困に苦しむ民衆のために死を選んだチェ・ゲバラと大塩平八郎だ」と公言していました。 

 私の手元にある亀井さんの著書は『ニッポン劇的大改造』(扶桑社)ですが、その中でも以下のように語っています。

「私はゲバラの写真を事務所に掲げてあります。アメリカのベーカー大使が、永田町の私の事務所にやってきて、そのゲバラの写真を見て驚かれていましたが、私はゲバラを尊敬しているのです。

 (中略。ゲバラのグァテマラでの活動、キューバ革命への参加などの事績を紹介する)

 そうして、(ゲバラは)自分の人生を、圧政と貧困のなかで苦しんでいる人たちの救済に捧げました。自分の人生を全部捨てて、人の痛みを少しでも和らげようとしたわけです」(亀井静香、前掲書、150〜151頁)
 
 自民党の機関紙の『自由民主』でも今年の3月8日号で、亀井さんは鉄人・衣笠祥雄さんと対談して、ゲバラに対する想いを語っています。亀井さんのHPに紹介されています。
 http://www.kamei-shizuka.net/media/2005/050308.html

 その衣笠さんとの対談の中で、亀井さんは連合赤軍事件について、以下のように言及しています。

「連合赤軍メンバーの森恒夫や永田洋子なども取り調べましたが、結構いい若者なんですよ。今の若い連中みたいに、シンナー吸ってフラフラしたりとか、ガリ勉して、いい学校、いい会社に入るとか、いい彼氏、いい彼女見つけたいとか、そんな浮ついた気持ちはなかった。自分が幸せになるより、世の中をよくしたいという思いに駆られた連中でした」

 私は、亀井さんが死刑制度廃止を叫び続けるのは、獄中で心の底から改心している永田氏のような人々を、死なせたくないからだと思います。

 警察の内部事情を知り尽くした亀井さんが、「冤罪は絶対に避けられない。無実の人間の命を国家が奪ってはならない。だから死刑には反対だ」と訴えているのです。冤罪が避けられないことは、他ならぬ警察の中にいる方々がもっとも良く知っていることでしょう。

 「共謀罪」などという治安維持法を思わせる法律が審議されている現在、亀井さんの訴えはますます重みを増しています。私も読者の皆さんも、全くの冤罪によって罪を着せられて死刑になってしまうというようなことすら、今後は発生するかも知れないのです。共謀罪が可決されれば、市民の誰もが冤罪の犠牲になってもおかしくないような状況が発生すると思います。警察官僚だった亀井さんの訴えに、私たちは耳を傾けるべきでしょう。
 
 それにしても興味深い事実は、暴力革命を目指した連合赤軍の摘発に敏腕を振るった警察官僚である亀井静香氏が、キューバで暴力革命を成功させたチェ・ゲバラや、大阪町奉行所の役人でありながら幕府の悪政に抗議して武装蜂起を行った大塩平八郎を「尊敬」しているという事実でしょう。

 亀井さんの頭の中では、この問題はどのように処理されているのだろう、と私も非常に不思議に思います。いまでもちゃんと回答は出せません。本人に直接聞いてみるのが一番ですね。

 私が思うに、民主主義国であった70年代初頭の日本において武力革命など全くのナンセンスであるが、米国傀儡のバティスタ独裁体制下で、言論の自由も集会結社の自由も制限されていたような状況下において、カストロやゲバラが行った選択は、亀井さんから見ても支持できるということでしょうか。しかし、そう考えると米国傀儡の小泉独裁体制も、当時のキューバのバティスタ体制に近づいているような・・・・・。

 大塩平八郎も町奉行所の与力という、いわば警察官の立場にありながら、反政府武装蜂起をしたわけです。大塩が抗議したのは、奉行と悪徳商人が結託してコメの値段を釣り上げ、庶民を苦しめながら、暴利を貪るという不正義でした。

 ちなみに大阪の商人が行っていたのは、今日でいうデリバティブ取引の原型でした。社会を混乱させながら暴利を貪るハゲタカファンドやヘッジファンドと結託して郵貯の資金を投機に流そうとする小泉の不正義に、公然と反逆した亀井さんの心境も、大塩と重なるものがあったと思います。残念ながら、大塩も亀井さんも敗北してしまいましたが・・・。

 亀井さんは東大時代は、駒場寮に住んでバイトしながら学費を払った苦学生でした。駒場寮にあった『マルクス・エンゲルス全集』は、「全部読んだ」そうです。

 亀井さん本人は学生運動をしていたわけではないみたいですが、全学連の活動家学生が退学処分を受けそうになったとき、抗議のハンガーストライキをしたそうです。ドクターストップがかかるまで、1週間もやったそうです。

 小泉のような、苦労知らずの親の7光ボンボン3世議員とは、心が根本的に違います。

 私も以前は、マスコミによる「ミスター公共事業」というレッテル貼りの宣伝に騙されて、亀井さんをただの「利権政治家」と誤解していました。亀井さんの書いたものなど読んでみて、全くの誤解であり、自分がマスコミに騙されていたのだと気付きました。

 亀井さんは政調会長のとき、中海干拓を中止し、吉野川可動堰を凍結するなど、総額2兆円以上もの公共事業費を斬りました。利権政治家にこんなことができるでしょうか?

 小泉を見てください。官僚のメンツを守り、ムダな公共事業など一つも止めていません。川辺川ダムや八ッ場ダムのような究極のムダすら止めることができないのです。それで予算総額だけ減らすので、生活関連の本当は必要な事業ばかり削られて庶民を苦しめているのです。
https://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/739472309fb34190d4e7768d8e002ba6


2005年7月2日 亀井静香
警察官僚亀井静香を政治家に転向させた「浅間山荘」事件の背景


定刻より15分ほど前に因島市民会館へ到着した俳優菅原文太さん。この日、飛騨の山里からJRを乗り継いだ新幹線の車中で目にした文藝春秋6月号。「三島由紀夫自決からあさま山荘事件まで」の特別企画の証言に亀井静香代議士が登場、当時、警視庁警備局公安第一課課長補佐として「あさま山荘」事件の作戦に加わっていたことに衝撃を受けた。

この事件があった72年といえば文太さんが「人斬り与太」でスターの仲間入り、その翌年に主演映画「仁義なき戦い」がシリーズ化され大ヒットした。昭和元禄といわれた六十年代の総決算ともいえる大阪万博は6422万人が押しかけた。ヤクザ映画は股旅物の様式美から実録ヤクザ映画がヒット。完全にサラリーマン化した大衆には仁侠映画でレトロ趣味を満たすことができなくなってきていた。

その一方で71年に警察庁は凶悪化した極左集団を取り締まるため警備調査官室を設置した。警視庁、神奈川、千葉の両県警をまたぐ重要事件について警視庁が直接指揮をとるための臨時措置だった。弱冠33歳の亀井静香氏が直接指示をした。72年2月には極左集団が金融機関を襲う連続強盗事件を起こし、銃砲店を襲った彼らの足跡をつきとめることができた。

地元民の通報で群馬県警が山狩りをして迦葉山山中で丸太小屋の山岳アジトを発見した。亀井氏も現場へ急行した。男女二人が不審自動車に立て籠もったが、引きずり出す容疑が見つからない。そこで窮余の一策として思いついたのが山小屋を作ったのだから無断伐採したはず。そこで「氏名不詳の窃盗罪」で逮捕礼状を請求した。逮捕した2人は京浜安保共闘の奥沢修一と杉崎ミサ子だった。妙義山山中=写真=ではリーダーの森恒夫と永田洋子を逮捕した。妙義から逃亡した連合赤軍を追い、軽井沢で4人を捕まえたものの5人逃がし、あさま山荘に逃げ込まれた。

「だから、私が彼らを取り逃がさなければ、あさま山荘事件は起きなかった。私にとって大恥というしかない」と、亀井代議士は回顧する。事件は解決したが。警視庁と長野県警が協力して死力を尽くしたからで、けっして威張れるような作戦でなかったとも言う。

しかし、同僚の警察官を殺した犯人グループに対して一方的な憎しみを感じなかった。彼らのやったことは明らかに間違っている。だが、恵まれない人民をどうにかしたいという強い思いが取り調べでその気迫が伝わってきた。六〇年代後半から七〇年代にかけ東アジアはどの国も文化大革命の中国が発する情報に目を注いでいた。志ある若者が、なぜ誤った道に足を踏み入れたのか。そこに政治の責任を感じ、亀井氏は警察庁を退職。衆院選出馬を決意する起爆剤になったことはまちがいない。

こういう亀井さんが大好きだという日本を代表する映画俳優の菅原文太さん。気を緩ませた時の笑顔が魅力的。若い男優がビビってしまう大スターの風格は厳しく怖いという印象とは別に一般聴衆たちが「文太ちゃん」という感じで接する様は闘将亀井静香の「亀ちゃん」の愛称と共通した一面もうかがえる。
http://0845.boo.jp/times/archives/6122
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c1

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
2. 中川隆[-11687] koaQ7Jey 2019年3月06日 10:11:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[304]

共産主義者はどういう人間なのか?

1) 共産主義者は正義の味方 


ダメダメ家庭においては、「正しい」という言葉がよく出てきます。

それこそ、以前に取り上げた魯迅の「狂人日記」という作品においても、「あくまで問い詰めた。『正しいか?』」なる記述があります。自分で考えることから逃避する抑圧的な人間は、そんな「正しい」と言うことにこだわりを持つわけ。かと言って、

じゃあ、その「正しい」って何?
どういう意味なの?
その「正しさ」を、どうやって証明するの?

そんな話になりますよね?

数学の問題だったら、その正しさの証明だって可能でしょう。あるいは、物理学などの自然科学だったら、豊富なデーターを元にすれば、「この考え方が正しい。」ということが言えるでしょう。

逆に言うと、データーを取らないで、「正しい」なんて言えるの?

「正しい」という言葉は、排他的な意味を持つ言葉と言えます。
「正しく」ないものは、存在が許されないものでしょ?

「1たす1は2である。」という考えは正しい。だから、その考えと相反する「1たす1は3である。」という考えは存在が許されない。

そう言うものでしょ?

別の例だと、「地球が太陽の周りを回っている。」という考えが正しいのだから、「太陽が地球の周りを回っている。」という考えは存在が許されない。そんなものですよね?

間を取って、

「1月から6月までは、地球が太陽の周りを回っていて、7月から12月の間は、太陽が地球の周りを回っていることにしよう。」

と妥協しようとしても無理がありますよ。「正しさ」は排他性をその特徴としているわけです。


地動説なり天動説の「正しさ」の証明の際には、データーを取る事によって証明することが可能です。
しかし、一般社会における「正しさ」となると、その証明は簡単ではないでしょ?

「消費税率は、5%が正しいのか?10%が正しいのか?」

そう言われても、どうしようもない。むしろ、このようなことを考えるにあたって、「正しい」という言葉を使うことが不適切でしょ?

それらの考え方を取り入れた場合はどのようなことになるのか?それぞれをシミュレーションして、そのメリット,デメリットを考慮し取捨選択すればいいだけ。言うとしたら、

「消費税率は、5%と0%のどちらが適切なのか?」

という、「適切」とか「有効」とかの文言を使う方が、それこそ適切でしょ?
人間社会において、「正しい」ということは簡単ではない。だって人間なんて色々なタイプが居るわけでしょ?

「自分の考えはこれこれで、自分はこれで行く!」

ということならそれでいいじゃないの?
その考えが気に入らなければ、その人を避ければいいだけですよ。

「オマエの考えは正しくないからケシカラン!」

なんて言ってもしょうがない。だったら、その考えが「正しくない」という証明ができるの?

まったく面白いことに、「正しくないからケシカラン!!」なんてことをよく言ったりするような人間は、その「正しくない」証明って、決してしないものでしょ?

そんな人が往々にしてやるのは、

「権威者の○○先生がこう言っているのだから、これが正しいんだ!!」

そんなものですよね?

「正しい」という言葉は、権威主義と結びつく例が多いわけ。主張や要求が問答無用なんですね。双方の合意に基づいたものにはならない。そんな問答無用の権威主義者が、周囲から好意的に評価されたりする際に、よく使われるのが、「彼は正義感が強い!」というもの。

この言葉は、以前にこのメールマガジンで取り上げた民主党の(故)永田議員が、「偽メール事件」の際に、言われていました。彼の上司とも言える鳩山さんによると「永田議員は正義感の強い人」なんだそうです。

へぇ・・・そうなの?

しかし、

「自分は正しいことをやっている。」・・・だから、「自分と違っている人間は間違っている。」・・・

「彼らは存在すること自体が罪だ!」・・・だから、「彼らを抹殺すべきだ!」。


そのような発想の流れは、まさに「正しさ」なり正義感の「裏面」としては典型的なものと言えます。おまけに

「存在すること自体が罪」の相手を抹殺するために、多少「いかがわしい」方法も使うことが許される・・・

そう考えてしまうわけ。そんなものでしょ?

正義感が強いと、そのようないかがわしい方法も許容する精神的な土台ができてしまうんですね。それこそテロリストなんて典型でしょ?

「存在すること自体が罪」と判断したら、どんな方法も取っていいんだ!!

だって、「自分たちは正しい」のだから。

正義感というものは、ある種の「非人間的」な面を持っているんですね。だって、「正しい」ということは、どんな人間にも適用される考えでしょ?

個々の人間を超えた概念ですよ。人によって適用されたり、適用されなかったりしたら、「正しい」とは言えない。逆に言うと、

「正しく」ないことをしているものは、人間ではない・・・
「正義感」が強い人はそう考えたりするもの・・・

現実にそうでしょ?

民主党の永田議員は「正義感が強い」とのことでしたが、まさしく「それにふさわしい」行動のスタイルだったでしょ?

あのガセメール事件に限らず、様々な問題を起こしていたそうですが、

「自分以外のものは認めない!」

という意味では極めて正義感を持った人だったわけです。正義感の持つ排他的な部分を強く持っていたわけ。


話が変わりますが、よく援助交際のようなマターになって、

「無理強いはよくないけど、お互いの合意があればいいんじゃないかなぁ・・・」

と言っている人がいたり、逆に

『ルールはルールだ!そんなことはケシカラン!!』

と言っている人もいますよね?

まあ、確かにルールはルールでしょう。未成年を相手にするのは問題ありでしょう。だって、相手は判断能力が未発達なんですからね。しかし、面白いことに、現実社会で話をすると、「お互いの合意があればいいんじゃないの・・・」と、小声で、言ったりする人の方が、それ以外の話をしていて面白い。これって、ある意味当然のこと。

だって、「合意があればいいじゃないの・・・」と言えるということは、当人が「合意を取れる」何らかの能力があるということでしょ?話がやたら上手かったり、まあ、お金を持っていたり・・・と、色々なケースはあるでしょう。しかし、それなりに何かを「持っている」から、言えるわけ。世の中って、そんなもの。もちろん、実際にそんな行為をするかどうかは別問題ですよ。

逆に言うと、「ルールはルールだ!」と言ったりする人の方が話をしていて、つまらない。

そんな人は、往々にして問答無用だったりする。確かに正義感はあるのかもしれませんが、逆に言うと、「相手から合意を取れる人」ではないんですね。

「合意があればいいじゃないか。」と言う人は、現実的には、合意しなければ、何もしない。

「ダメなものはダメ。」と言う人は、他者との合意など平気で無視をする。


抑圧的な人は、そもそも合意というものに価値を見いださない。自分のやりたいことについて考えることから逃避し、何かを始めても最後に総括する習慣もない。そもそも判断というものから逃避しているんだから、判断の結果としての合意などは、むしろ「相手から判断を要求された」という形で、自分が被った被害として認識してしまう。

と言うよりも、合意の土台となる個々の判断や思考こそが、悪や罪に近いものと認識している。

それこそ、その代表例として、宗教改革のマルティン・ルターの言葉を引用してみましょう。


「神は我々の正義と知恵によってではなく、・・・・我々から出てくるのでもなく・・・・我々のうちに潜むものでもなく、どこか外から我々にやってくる正義によって、神は我々を救おうとし給う。・・・

言い換えれば、正義はもっぱら外部からやってくるものであり、我々とはまったく縁がないということが、教えられなければならない。」

このルターの言葉で示されているように、抑圧的な人間にしてみれば、人間の判断と正義と言うものは、対立し、いわば排他的な関係となっているわけです。

人間が判断したがゆえに、正義から逸脱し、人間にとっての罪であり、天国から遠くなってしまう・・・
そんな発想の人にしてみれば、合意などは、どんな分野においても、罪になるわけ。

判断や思考を抑圧しているんだから、人の気持が分からなくなり、一般論的な正義しか語るものがない。個々の人間の思考に依存するものではやり取りができない。非人間的なものを持ち出さないと、対応ができない。

達成したいものがなく、最後を締めるという発想がないので、語り続けることそれ自体が目的化されてしまう。それはまさに典型的なクレーマーの様相となる。クレーマーというのは、相手を嫌がらせしようとしてやっているのではなく、ただ自分の正義を狂信的に主張している、まさに正義感の強い人と言えるでしょ?

正義だからこそ妥協する必要もない。というよりも、自身が判断した時点で、それは罪であり悪となってしまう。逆に言うと、「どの点で妥協すればいいのか?」判断することから逃避するためにも、自分なりの正義を主張し続けることになる。

「あの人は、正義感があってすばらしい人だ!」

そのような評価は、ある意味において、もっともなことなんですが、その人の持っている考えと、別の人が持っている考えの間に不一致が起こった場合、その手の正義感の強い人は、逆上し、相手を攻撃するだけなんですね。
パステルナークの小説「ドクトルジバゴ」に登場していた正義感の強い人は、そんな感じだったでしょ?

正義というものは、問答無用の状態の反映であり、新たなる問答無用を作り出すもの。


たとえば、独裁体制において、自分の親の罪を告発する子供の例が、いわば美談として登場したりするものです。

それって、それだけ家族の間に会話がないということでしょ?

子供が主張したいことがあれば、それを親が聞いて、議論して、親なりの判断を示し、子供を説得すればいいだけ。逆に言うと、親を告発するのは、そんな対話もないことがわかるでしょ?

まあ、だからこそ告発されてしまうわけです。

ダメダメ家庭の子供としては、非人間的な概念である正義しか頼るものがない。
現実逃避の方法論としての精神論なんですね。権威主義的で問答無用の親に対する不満を、より大きな権威でやり返しているわけ。そして、そのまま成長してしまったら、どんな人間になるの?

正義というのは、基本的に「北の発想」と言えます。ヨーロッパの芸術作品だと南北問題をテーマにした作品が多くあります。それこそドイツでも、イタリアでも、スペインでも、精神的な北と、享楽的な南の間の対立が起こっているもの。北は戦争をすると南には必ず勝つけど、だからと言って人々が幸福かというと別問題。北の住人は、日々ノンキに暮らしている南の住人を見ると、憧れと侮蔑が入り交じった不快感を持ってしまう。

北の住人は、精神的だけど、それが「殻」になってしまって、人生を楽しめない。自分で作り上げた「殻」からどうやって脱却するのか?そんなことに悩んでしまう。だから放埒に生きる南に対して密かに憧れを持っている。その憧れを認めたくないものだから、なおのこと、南を侮蔑し、それを自分たちの成果や倫理で正当化する。
そんな北の住人を描いた作品は、結構あるんですよ。

精神的な豊かさも、ある種の閉塞感につながってしまうこともある。
自分の信念なり倫理観は、それ相応に誇ればいいでしょう。
重要なことは、それを相手にわかるように説明することでしょ?

正義というのは、倫理的に汚れがない状態といえます。
それはいいことなんでしょうが、そんな状態で人は生きられるの?
そもそも汚れなきキレイな状態の極限が死となることは誰でも分かること。
正義を突き詰めれば死になってしまう。曇りなき世界を追い求める宗教原理主義者が、死に近いことは、歴史上で常に起こっていること。

そして、その死も往々にして悲劇的な死であって、充足感に満ちた死ではない。充足感に満ちた死は、キレイなものでも純粋なものではない。ヘルマン・ヘッセの小説「ナルチスとゴルトムント(邦題 知と愛)」で、

「君には母がない。だから死ぬことができない。」

という言葉があります。文芸的に言うと、母親というものは、死を受け入れ、生を生み出す存在。だからその存在は、キレイなものとは言えない。母親というものは、心理的には「汚れ」を体現する存在と言えます。だから心理的に母親が不在の人は、汚れとの付き合い方がわからずに、実に純粋な人になってしまう。これは例えばパスカルなんてその典型でしょう。

罪を受け入れることによって、その罪を浄化する。そして再生へとつなげる存在となる。母親は、そういう意味で正義ではない。罪を受け入れる存在は、正義とは言えないでしょ?

正義感が強い人は、罪を受け入れてくれる大地から離れているがゆえに、必死で「いい子」としての存在証明をする。しかし、その必死さゆえに、実際にトラブルになってしまう。そして、そんなトラブルを受け入れてくれる存在を探し求め、周囲に更に要求し続ける。しかし、自分の親の問題はアンタッチャブル。だから自分の罪はまったく浄化されないまま。

正義感が強い人は、純粋に正義の中だけで生きているの?

そんな人は自分の中の不正義とどのように付き合うの?

当人は、その正義感ゆえに、自分の「不正義」な面を見つけて苦悩する。そしてそれを、全部破壊しようとする。正義感は破壊衝動と隣り合わせ。

歴史的に見ると、正義の名のもとに、数多くの殺戮が行われましたよね?
正義とは、個々の人間を超えた普遍的な観点であるがゆえに、問答無用で非人間的。だからこそ抑圧的な人間が頼りにする。

人の気持ちがわからないがゆえに、正義しか頼れない。

正義というものは、人の世に属していながら、人の世を超えたもの。本質的に矛盾を抱えた存在と言えます。
芸術だったら、もともと人の世を超えていて、人の世をさらに超えようとしているもの。ただ、その「おき場所」が、人の世だというだけ。

「正しい」という言葉は、芸術の、特に創作の領域では使われない。
音楽における演奏の分野では使われることもあります。しかし、作曲では使われないでしょ?

まあ、「正しさ」という言葉が飛び交う領域はそれだけ、創造から遠いわけ。


正義感が強いことが、悪いわけではありませんが、正義感が強いがゆえに、その排他性から

「アイツは存在すること自体許されない!」

なんて発想になってしまう。

正義とは「存在すること自体が許されない。」という危険思想と隣り合わせ。

それが他者に向くだけでなく、自分自身にも向いたりもするもの。

それは現実に生きる当人自身にとっても、周囲の人にとっても、見極めが必要な事態を暗示しているものなんですよ。正義感が強いといわれる人で、幸福そうに見える人って、あまりいないでしょ?

https://medium.com/dysfunciton/正義感が強い-e107fdfd5eff

2) 共産主義者は悪を憎む


社民党の福島党首がおっしゃった発言である、

「ふつうの人が、ふつうに働いて、幸せを感じられる社会を作るべき。」

という発言を取り上げたます。私は別に、社会主義という理念云々を問題にしているわけではありませんよ。

というか、「ふつうの人が、ふつうに働いて、幸せを感じられる社会」って、具体的にどんな社会なの?

現実的なイメージが私にはわからない。それとも福島党首は自分で説明できるとでも言うの?

そんな自分でもわかっていないようなことを「べき論」を使って相手に要求する・・・
こんなスタイルがダメダメの典型だと申し上げているだけです。

さて、その発言に接して以来、私は福島党首に注目していました。

「次はどんなボケをかましてくれるのかなぁ・・・」

「まったく、あの人はネタの宝庫だねぇ・・・」

福島党首は立場のある有名人なんだから、彼女が発する折々のコメントは、ニュースなどに登場したりしますよね?
そして気がついたのは、「悪(あく)」という言葉が実によく使われること。

憲法改悪阻止!悪法!悪政!

1分間の発言のうちに、3回くらいは、この「悪」なる言葉を使っている。皆さんも、今後は注目してみてくださいな。

ある人の考えや行動が気に入らないということはあるでしょう。自分だったらそうはしない、そう思うことだってありますよね?
しかし、自分と違うからと言って、それをいきなり「悪」なんて断定する・・・そんなことをする人って、いったいどんな人なの?って思うでしょ?

自分と違うから気に入らない・・・のはいいとして、じゃあ、自分の考えなり行動の方が、他の人にとっても適切なものなんだ!と、周囲の人にもわかるように説明するのが先でしょ?

たとえば憲法の問題だって、今までの憲法のいい点はこれこれだ、憲法の改訂をして、この点を取り入れると、このあたりが問題になってくる・・・だからワタシの考えの方がいいんだヨ!
そうやって、他者にわかりやすく説明することが重要でしょ?

「この私が『悪』だって言っているんだから、黙って従えコラっ!」

そんな感じでいきなり価値判断を押し付ける必要なんてないじゃないの?

さて、以前にこのメールマガジンで韓国の歴史教科書を取り上げました。あの教科書も、事件の具体的記述はそっちのけで、価値判断だけが書いてあった世にも珍妙な教科書でした。大きな事件があったのなら、「いつ」「どこで」「だれが」「なんの目的で」「どうやって」と、そんなことを記述するのが先でしょ?事件の価値判断は人それぞれですよ。

しかし、ダメダメ人間は、自分自身で考えたりはしない。権威者認定のありがたいご高説を、盲目的に受け入れているだけ。自分で考えたりはしないから、事実の詳細より、価値判断が先に来るわけ。

そして、自分と違っているからということで、「悪」と勝手に認定してしまう。

しかし、自分と違っているから、あるいは、自分の言うことを聞かないから、すなわち「悪」なんて、実に恐ろしい発想でしょ?

それこそヒトラーやスターリンや毛沢東となんら変わりませんよ。ホロコーストに至る典型的な発想じゃないの?あるいは、「子供が言うことを聞かないから殴った!」と語る児童虐待する親とまったく同じ。

福島党首の発想は、価値判断が先に来て、権威主義的で、問答無用。
実際にそうでしょ?

しかし、このような発想って、別の言い方をすると、軍国主義的ですよね?

「米英は悪だ!オレの言うことを黙って聞け!反論は許さんっ!!」

まあ、福島党首の実家・・・なかんずく、両親がどんな人なのか?
簡単に見当がつくでしょ?

問答無用で権威主義的な父親。グチばかり言っている母親。そして両方とも被害者意識が強い。

「悪いのは全部政治のせいだ!」そして「
いったい誰のためにこんな苦労をしていると思っているんだ?!」

そんな環境で育ってしまうと、「ああ」なりますよね?

このような被害者意識が強い人間は、被害者意識が強い同じような人間を呼び込んでしまう。しかし、お互い「親に迷惑を掛けられない!」なんて強迫的に思っているから、根源的な思考ができない。自分たち自身の問題として捉えられないわけ。そんな連中が、一緒になって、

「ああ!ワタシたちって、なんてかわいそうなの?!」

とグチ大会をするわけ。しかし、物事は簡単に行かない。被害者意識が強い人間は、被害者競争をしたりするもの。双方が不幸自慢をして、「どっちの側がより不幸なのか?」で競争するんですね。そして「より不幸」な方が序列が高いわけ。

「アナタより・・・ワタシの方がかわいそうな人間なんだから、ワタシの言うことを聞いてよ!」

社民党から離脱した人がいたりしますが、それって、政策論争や路線論争でもなく、このような不幸「抗争」に敗れた・・・という面もあるんじゃないの?

福島党首が何を目指しているのかはよくわかりませんが、彼女が目指しているものを彼女自身が自覚しているのかな?
その点が、そもそも、それが疑問ですし、もし、明確な目標があるのなら、今のような権威主義的で軍国主義的な手法だと、その実現は遠いだろうなぁ・・・と思っているだけです。

そもそも、じゃあ、頻繁に登場する「悪」って、どういう意味なの?

「アンタの言う、悪って、どういう意味?ちょっと教えて?」

と、こちらが尋ねたら、どう答えるでしょうか?
まあ、予想できるのは、これ。

『悪って・・・よくないこと・・・』

まさに、「ふつうって、どういう意味なの?」という問い掛けに対する回答とよく似ていますよね?

ちなみに、福島党首が掲げる「ふつうの人が、ふつうに働いて、幸せを感じられる社会」に似た社会というか組織があることが最近わかりました。最近言及し続けていますウィリアム・スタイロンの小説「ソフィーの選択」の中での記述からです。その中に、第2次大戦中にナチスが作り上げた、アウシュビッツ収容所の記述があります。

アウシュビッツのスタッフには、いわゆる職業軍人はほとんどいません。一般の、それこそ「ふつう」の人たちが、あのような「作業」を行っていたわけ。あのような行為ができるためには、「考えないこと」が、絶対に必要でしょ?「考えていたら」やっていられませんよ、いくらなんでもね。だから「考えない」能力に長けている人たちが、スタッフとして集められ、「粛々と」作業したわけ。

まさに「ふつうの人が、ふつうに働いて・・・」そして、「考えない」から、自分は不幸だと思わない・・・そんな組織だったわけ。

そもそも、物言いの冒頭に「悪」なんて言葉を出すということは、それ以上は「考えなくてもいい」わけでしょ?

それこそ、アウシュビッツでも

「ユダヤ人は悪だから・・・」
「これがワタシの仕事だから・・・」

そんな言葉を持ち出し、自分で考えることに封印を施し、「粛々と」作業したわけでしょ?


悪という言葉は、倫理に直結している。

倫理というのは、言葉の上では結構なことですが、別の観点からすると、プラグマティックな視点が欠如していることと言えます。そもそも、プラグマティックに物事を見る人が「悪」なんて言葉を持ち出しますか?

プラグマティックな発想がないということは、自分で達成したい目標そのものがないということでしょ?

自分に確たる目標があれば、その実現のために、プラグマティックに行動することになりますからね。倫理的に考えているだけでは、自分の目標は達成できませんよ。目標が達成できない・・・というか、目標自体が存在しないので、むしろ、

「○○のせいで、上手くいかない。」

と犯人認定の論理を持ち出すことになる。その「○○のせいで上手くいかない。」という発想を、エーリッヒ・フロムは「○○からの自由」と記述しております。その「○○からの自由」にこだわる心理がナチスを呼び込んでしまうことになる。

「○○をする自由」を意識して、プラグマティックに発想すれば、それに協力してくれる味方がほしい。しかし、「○○からの自由」を意識して、倫理的に物事を見れば、敵がいた方がいい。「悪」を意識することによって、「善」vs「悪」の構図を作り上げるわけ。だからこそ、抑圧的な人間は、味方よりも敵が必要になってしまう。そして、自分の考えと違っている者を、「悪」と認定して、それを敵とすることになる。

敵なんだから、説得も必要はなく、一方的に糾弾するだけ。
逆に言うと、会話の能力は必要とされない。

ただ、敵を攻撃する言葉を繰り返し、権威筋認定のご高説を連呼するだけ。

あるいは、反論されにくい漠然とした言葉を持ち出すことで、説明や説得のシチュエーションから逃避する。まさに、「ふつうの人が、ふつうに働いて、幸せを感じられる社会を作るべき。」という言葉に結実することになる。その言葉はいいとして、

『で、結局は、アンタはどうしたいの?』

と聞かれてしまったら、どう答えるんだろう?
彼女としては、どうしてもやり遂げたい具体的なことがあるの?


倫理というのは外部的な体系であって、その裏面として自己逃避とつながりやすい。抑圧的な人間は、自分で考え、判断することが心理的に怖いので、その物言いに「学ぶ」という言葉が頻発することになる。その「学ぶ」という言葉は、その心理的な意味としては「従う」とか「縛る」という言葉に近い。まさに自分で判断することを否定している発想なんですね。自分で考えることを否定し、自分自身を否定しているんだから、相手のことを肯定するわけがないじゃないの?

いきなり「悪」なんて価値判断を押し付ける人間って、現実にいたりするでしょ?
そもそも「悪」なんて言葉が冒頭に登場したら会話にならないじゃないの?

つまり、最初に「悪」なる言葉を使うことによって、会話や思考から逃避できるわけ。そんな人間は、今までちゃんとした会話をして来なかったことがわかるわけですし、そんな人は被害者意識も持っているものなので、スグに逆上することになる。

「ああ!アイツの悪によって、私はかわいそうな目に!」

そう思ってしまうので、暴力的な手段を取ることに躊躇しない。自分と違っている発想や行動を持っている人を、いきなり「悪」と断罪するような人が、後になってどのように評価されるのかって・・・決まっているものでしょ?


まあ、この私が、福島党首と1対1のやり取りができる機会があれば、1時間あれば必ず泣かせられる自信があります。まあ、「泣かせてみせようホトトギス」ってところ。

そもそも、彼女に対しては、

「アナタのさっきの物言い・・・アナタのお父さんの物言いにそっくりでしょ?」

なんて言葉がチェックメイトになるわけですから、その前段階で、少しづつ相手を追い詰めていけば、実に簡単に泣かせられるでしょう。ちょっと興奮したりすると、「つい」、もっとも自分らしい言葉を言ってしまうもの。
それこそ

「ふつうって・・・ふつうのこと・・・」なんて言葉。

そのような言葉を多く引き出して、ニッコリ笑って、

「ああ!お父さんもそんな感じで言っていたんでしょ?」
「アナタはやっぱりお父さんの子だねぇ・・・」とやるわけ。

まあ、この時点で確実に泣くでしょうね。2時間あれば、首を吊らせることもできるでしょう。彼女はそれくらい「心が弱い」ことが歴然としています。まあ、この私が「いかにモノが見えるのか?」知っている人は知っていますので、これ以上は言いませんが・・・

だから重要なことは、自分自身で自分自身を見つめるということ。

人から突っ込まれるから逆上してしまう。自分自身で考えれば、そんな厳しいことにはならないでしょ?
普段から考える習慣を付けておけば、いざという時にも、大怪我はしないもの。

だからこそ、「悪」などの価値判断を最初に持ち出して、会話や思考から逃げるようではダメなんですね。

https://medium.com/dysfunciton/悪-あく-ac385668ea9e


3) 共産主義者は権威主義


ダメダメ家庭出身者の活躍分野 共産党員

第2次大戦中のイギリスの首相をされたチャーチルが、こんなことを言っていますよね?

「若い頃に共産主義にシンパシーを持たなかったら人間の心がない。
しかし、いい歳をして共産主義者だったらバカ。」


あるいは、私の個人的な知り合いが、よくこぼしていたものです。

「共産党の人は、勉強もしているし、正義感もあるんだけど、

『共産党員になって一緒にやらないとあなたたちには協力できない。』

と言われてしまうので、付き合いきれない・・・」


ダメダメ家庭の人間は、目の前の現実を直視して、その問題を一つずつ解決していく・・・と言った現実的な改善をしない。何かの問題に取り組む際にも、理念先行であり、
「悪いのは全部○○のせいだ!」

と、勝手に判断して、その○○への対抗心を膨らませてしまうことが多いわけ。


確かに、共産主義が掲げる「人類が皆平等で幸福」という状態は、誰も反論できませんよね?

しかし、現実にはダメダメ家庭というものが存在し、自分の子供をダメダメにしてしまう親だっているわけですから、そのようなダメダメ家庭で育てられた人間をどう扱って行くの?あるいは、どのようにサポートしていくの?

出身家庭は皆平等というか、同レヴェルというわけには行きませんよ。経済的には平等に近くなっても、まさに「心の貧しい」状態の家庭もあるわけ。そしてそのような「心の貧しい」家庭ほど、被害者意識を持っているもの。だから対抗心が強い。

そしてダメダメ家庭は、政治をあてにするもの。自分たちが当事者意識を持ってことにあたるという発想がなく、政治の力でいきなり解決してもらおうとするわけ。何かと言うと、政治の問題にしてしまい、そして、対抗心が強い家庭で育った人間が共産党に入党するのも、当然といえば当然といえます。

政治的な主義主張としてのマルクス主義がいいとか悪いとかは別として、

「目の前にいる困りごとを抱えている人間を、どのように助けるのか?」

と考えることも重要でしょ?

「困っている人が、自分と同じ共産党員だったら助ける。」

「困っている人が共産党員でなかったら助けない。」

そんな発想だったらねぇ・・・

しかし、ダメダメ家庭の人間にはグチの共有への渇望があるわけ。

「一緒になってグチを言い合いたい!」

常にそう思っている。だから一緒になってグチを言ってくれるような人間でないと、仲間とは言えないわけ。

「アンタ・・・さっきからグダグダ言っているけど、そんなことは、自分で何とかできるでしょ!?」

なんて言い出すような人間が身近にいては困るわけですね。

面白いことに、共産党のポスターが多く貼ってある地域は、空気がよどんでいる。なぜかなぁ・・・と思ったのですが、声が聞こえないんですね。何となく静か。それに風景の色自体がくすんだ感じ。ちょっと殺伐とした雰囲気なんですね。そんな環境で育ったら、やっぱり

「悪いのは全部○○のせいだ!」

と考えるような人間になるのも当然でしょう。

マルクス主義を共有する集団なら、まだ救いようがありますが、往々にして共産党政権が行うのは被害者意識の共有という手法なんですね。

マルクス主義を肯定しているのか?
あるいは、現行の政治を否定しているのか?

言葉の上では共通していても、その心理の方向性は、肯定と否定で逆方向になっている。結びつきだって、肯定と否定は違うもの。
理想を共有しているのか?
敵を共有しているのか?
それによって、心理的にはまるっきり違うものでしょ?

それこそ、以前に京都府で共産党の長期政権がありました。そこでも「憎い!憎い!」と、東京への憎しみを掻き立てる政権運営がなされたそう。ちょうど今の北朝鮮と同じ手法といえるわけ。京都府民が東京への憎しみで一致団結している。当時の京都はそんな状態だったそう。だから共産党の長期政権になったわけでしょう。そんな精神風土が残っていると、確かにヘンな事件も起きちゃいますよね?

マルクス主義的な考えで取り入れられるものは、取り入れればいいでしょうし、選挙において共産党に一票入れるもの、ひとつの判断といえるでしょう。しかし被害者意識を共有する集団に入ると、抜け出すのも大変なわけです。形の上では抜け出せても、精神的には抜け出せない。ちょうどダメダメ家庭出身者が、自分の出身家庭の被害者意識から抜け出すことが難しいようなことが起こるわけ。常に自分の被害を考える習慣がついてしまうわけ。

現実で問題が起こってしまったら、自分の目で問題を認識し、人の話を真摯に聞いて、自分の頭で考える・・・現実を改善するのは、これが基本でしょ?

マルクス主義の考えを参考にするのは結構ですが、あくまで考える主体は自分自身なんですね。

しかし、共産党員になると自分で考える必要がなくなるわけ。それこそ上意下達の世界でしょ?

だからダメダメ家庭の人間には都合がいいわけ。自分で考えなくてもいいし、自分の被害者意識を満足させてくれるし、人と会話しなくてもいいし、明確な序列があり、権威主義的。

と、ダメダメ家庭の人間の「ツボ」を満足させてくれる集団といえるわけ。

面白いことに、「人類がみな平等」という主義主張のはずの共産党では、明確な序列があり、実に権威主義的でしょ?

会話ができないので、新たな縁を広げていくことができず、従来からの縁であう地縁血縁にこだわったりする。

それこそ、権威や血縁の集大成とも言える皇室に、妙にこだわったりするわけ。共産党員ほど、

「実はワタシの先祖は、遠く皇室につながっているんだ!」

などと自慢気に話したりするもの。そんな血縁自慢の共産党員って、いたりするものでしょ?

あるいは、共産党員の主義が統一されているのはともかく、その「話しぶり」も、全員同じようなものでしょ?

それってTPOに合わせた会話をしていないわけですよね?
あんな口調を聞かされたら子供はどう思うのかな?
あの話しぶりは、相手から合意を取るという発想ではなく、相手から反論を食らわないことが目的化した話しぶりでしょ?

共産主義そのものは、現在でも十分に参考になる考えでしょう。マルクスの指摘には有意義な点も多い。しかし、現実の共産党員で尊敬できるような人って、ほとんどいませんよね?

不平不満を、権威主義的な物言いで主張するだけ。結局は、会話ができない人間が、自分の被害者意識を主張しているだけでしょ?

だからダメダメ家庭の人間は、共産党員になってしまったりするわけ。
共産主義の理想というより、不平不満の体系化の方が主眼と見た方が理解しやすいもの。

それこそ読売新聞の渡辺さんが、昨年のプロ野球での騒動の際に、「たかが選手が・・・」と言ったそうです。渡辺さんは今は違っていますが若い頃は共産党員でした。まあ、「たかが選手が・・・」という物言いは「共産主義」の発想とは似ても似つかぬように思われるでしょ?

しかし、「まず最初に、自分の側の被害を考える。」あるいは、「権威主義」という「共産党」のメンタリティからは、結局は変わっていないわけ。彼もダメダメ家庭の出身なんでしょうね。

あるいは、以前に、年季が入った実際の共産党員の方と雑談をしたことがありますが、その方が「ウチの使用人が・・・」と言う言い回しをしたので、私も呆れてしまいました。「使用人」という言い方ではなく、たとえば「働いてもらっている人」とか、せめて「従業員さん」とかの言い回しの方が適切といえるのでは?
共産党の集会では、「使用人」という物言いをする人に対して、注意とか指摘はされないの?

共産党員さんも、主義主張は当人の勝手ですが、実際に働く労働者の方々に、もうちょっと敬意を持てないものなのか?

序列意識が強いダメダメ人間は、何でも序列で判断するので、逆に言うと、「格に対するセンシビリティ」がなくなってしまうことになる。格の違いというか、そもそも背負っているものが違うというか、そもそもの土俵が違うというか・・・もはや別の世界という存在もあるでしょ?

それを、格の問題ではなく、序列関係の枠組みで認識するわけ。


それこそ、皇室なんて、一般の人間にしてみれば、格が上とかの問題以上に、そもそも別の世界ですし、はっきり言ってしまうと、関係ありませんよ。だから、どうでもいい話といえるくらいでしょ?

しかし、共産党員は、格が違うというか、世界が違うという発想自体を持っていないので、それを序列関係で意識して、だから、皇室に対して妙に対抗したりする。しかし、無理に意識などはせずに、

「あの人はあの人、ワタシはワタシ。」

でいいんじゃないの?

しかし、序列意識が強く、対抗心が強いので、どうしても、意識してしまうわけです。

ちなみに、これらの記述は、基本的に「日本」の問題です。ただ、日本以外でもほとんど同じでしょ?

尊敬できる共産党員って、世界的に聞かないでしょ?


被害者意識の体系化と、組織化という点では、それこそ中国の共産党もその典型といえます。

昔の中国では、「大人(たいじん)」と称される「器の大きい」大人物がいたものでした。しかし、今の中国で、そんな大人物って聞きませんよね?

伝記を書きたくなるような大人物って、まあ、「トウ小平」さんが最後じゃないの?
あれだけ人口がいるのに、人物としてはどんどん「小さく」なっちゃっていますよね?

共産党治下の今の中国は、地縁と血縁を重視し権威主義的と、まさにダメダメ家庭の人間の「ツボ」を押さえたつくりになっているわけ。あと・・・中国人や中国政府の行動にやたら対抗心があるのも、共産主義というよりも、ダメダメ家庭のツボそのものでしょ?

私は別に共産主義に反対しているわけではありません。それこそ共産党員の問題を、以前触れた皇室の問題と同じ観点で考えているだけです。右とか左とかの分類で、わかった気分になること自体が、いかにもダメダメでしょ?

ちなみに、「被害者意識を体系化して、それを組織化する」というのは、宗教団体にも見られたりしますよね?
やたら自分たちの被害を主張する団体ってあったりするでしょ?

そんな人たちは、往々にして、自分たちが周囲に撒き散らしている「被害」については無頓着なもの。

「自分たちが一番の被害者だ!」

と、思っていると、自分以外の被害なんて無視するわけです。これもダメダメ家庭のお約束ですが。

http://space.geocities.jp/kinoufuzennkazoku/05-12/05-12-23.htm

4) 共産主義者は人間の価値を社会的序列でしか判断できない


支配・被支配の構図 (統治と支配の違い)


ダメダメ家庭の人間は、序列意識が強い。コミュニケーションが命令と服従だけなので、

「どっちが命令を下すのか?どっちが命令を聞くのか?」

その立場を確定する序列が重要になってしまうわけ。序列が違うと言っても、格として見た場合には、それほど違いがありません。

「どっちが2番で、どっちが3番なのか? だからどっちが上の序列なのか?」

と言っても、順番が違うというだけ。逆に言えば、そんな「格の違いと序列の違いが区別できない」発想が問題になってしまうこともあるもの。

序列意識が強いダメダメ人間は、格の違いを序列の違いとして認識してしまうので、たとえば親子の関係も序列の違いとして認識し、格の違いとしては認識していないわけ。本来なら親子の間にある違いは序列の違いではなく、格の違いでしょ?

格の違いがあれば、「上の立場」の人間は、下の立場の存在に対し、保護したりする責務があるでしょ?

しかし、ダメダメ家庭の人間は、上の立場であっても、下の立場の存在を保護しようなんて考えてはいない。ただ、序列に基づいた命令の流れがあるだけ。

ダメダメ家庭においては、上の立場のものの責務として、下の立場のものを「保護し」「思いやる」なんて発想は持っていないわけ。

序列の違いと、格の違いは、質的に大きく違うもの。

このような「格の違い」以外にも、単なる順番の差で示される序列の差ということをもっと超えて、「立場が大きく違う」状況が存在する場合があります。そうなると、いわば「支配・被支配の構図」が誕生するわけ。

ここで、「支配・被支配」と言っても、支配であって、統治ではありません。

イギリスの王室を、「君臨すれども、統治せず。」なんて言われたりしますが、

ダメダメ家庭というものは、「支配すれども、統治せず。」

となっているわけ。


「支配すれども、統治せず。」となると、それこそ北朝鮮の金王朝が、まさにその典型でしょ?
金王朝は君臨して、北朝鮮の人々を支配しているけど、統治はしていないでしょ?

逆に言えば、ダメダメな人は、統治の責務を認識しないからこそ、何も覚悟もなく「支配」を目指すことになるわけ。

そして、支配を目的とすることで、自己逃避してしまう。本来なら、何かを統治というものは、その統治した人々を幸福にしたり、あるいは、統治の領域を拡張したりと、その立場を獲得すること自体は、最終目標とは言えないもの。どのように統治するのかが最重要の問題ですよ。

あるいは、統治の問題だったら「どうやって、みんなの富を増やしていくのか?」なんて問題も発生するもの。
しかし、ダメダメな地域ではそんな発想がないので、富の再生産がないことになる。それこそ、支配者が被支配者に対してワイロを要求するようになるわけ。それは支配者の役得かもしれませんが、統治者の義務からは外れているでしょ?

ダメダメな地域では、支配者は、得た地位によってお金を得て、そのお金によって、土地とか、宝石とか、お妾さんに出費しても、本来の統治者の役割である富の再生産に回すようなことはしないでしょ?
だから被支配者は貧しくなるばかり。それを指摘されると、

「悪いのは全部○○のせいだ!」

と他者を犯人認定。 中国とかロシアとか、韓国・北朝鮮とか、イスラムって、そんな感じでしょ?


ダメダメな領域ほど、支配者はラクだし、儲かる。だからこそ、支配者になりたがる。そのようなプラグマティックな意味ばかりではなく、ダメダメ人間の抑圧的な傾向からも、支配欲が発生するもの。自己逃避のダメダメ人間は、支配そのものを目的化することで、あるいは支配する立場を得ることを目的とすることで、自分自身の問題から逃避してしまうわけ。

そんな人は、支配を目的化した用語を使ったりするもの。たとえば「制圧」とか「征服」とかの、一般の社会では使わないような言葉を持ち出してくる。それこそ、大阪の芸能人が、よく「東京制圧!」とか言って喜んでいますよね?

あるいは、韓国の芸能人が、「日本制圧!」とか・・・
征服とか制圧はいいとして、じゃあ、その芸人さんは、東京や日本でどんな活動をするの?
本来は、それが重要でしょ?

しかし、それを考えることから逃避してしまい、征服とか制圧そのものが目的化されてしまうわけ。

そもそもダメダメ人間は、「勝ち負け」だけで判断するもの。

「ヤツラに勝って、制圧したぞ!」

そう言いたいわけ。支配が目的化されているので、それを確認するような物言いが多くなる。それこそ、

「誰がオマエを養っていると思っているんだ?!」

なんて物言いが頻発することに。あるいは

「教えてやる」とか「恵んでやる」とか「出演してやる」

なんて恩着せがましい物言いが多くなる。あるいは、

自分の支配下にある女性に対して「ご主人さま!」と言わせるとか・・・

そんな事件が実際にありました。そんな行為は、その人の出身となったダメダメ家庭の反映なんですね。


そんな環境に育ってしまうと、まさに親譲りで、相手を「支配」することをもくろむパターンになったり、逆に、「支配」に対して過敏に反応するようになるわけ。ちょっとでも力のあるものに接すると、

「この○○は、ワタシを支配しようとしているのでは?!」

と、警戒することになってしまう。


それこそ、「日の丸」とか「君が代」などにも過剰反応することになる。そんな過剰反応も、支配されることに対する過敏な恐怖感を理解していると、簡単に理解できるでしょ?

ダメダメな環境においては、「支配すれども、統治せず。」の状況。だから支配されることは、すなわち、死につながってしまう。ダメダメな地域では、そんな「支配・被支配の構図」で物事を見る人が多いでしょ?

韓国人の訳知りコメントって、「日本が我々を支配しようとしている!」なんて警戒感を主張した文章って多いでしょ?

日本だって、本来なら、そんな「しょーもない」連中など支配しても、ジャマくさいだけ。本来は、支配する際には統治も発生するわけですから、そんな連中の統治は面倒だし、価値もありませんよ。しかし、ダメダメと言うものは、「支配・被支配の構図」で相手との関係を設定し、その支配においては、統治する義務が含まれていないことを理解すれば、そんな警戒感を踏まえた主張も理解できるようになるわけです。


本来なら、そんな「支配・被支配の構図」で見なくても、対等の関係で

「お互いが迷惑にならない範囲で自由に行動し」

「自分のやりたりことを相手に的確に伝えればいいだけ」、

別の言い方をすると、双方の合意を積み重ねながら進めていけばいいと思ってしまうのはマトモな発想ですが、会話不全で自己逃避のダメダメ人間にはできないこと。他者の支配を目的化することで自己逃避できるわけだから、そんな支配欲に浸ることはダメダメ人間には、心休まるものと言えるわけ。つまり、支配対象の他者を凝視することで、自己逃避するわけです。

ダメダメ人間にとっては、支配欲というのが、自己逃避の具現化であって、目的達成のための統治とは結びついていない。そんな人間に実際に支配されてしまったら、とんでもないことになってしまうもの。

支配しても、しょーもない連中であるがゆえに、支配されてしまうとトンデモナイ事態になるわけです。


そんな支配欲を持つ人は、そもそも個人としての尊厳がないので、自分で自分を律する発想がない。
支配だからコミュニケーションが問答無用の命令だけ。そして、その支配関係を利用して

「オレに従え!」

「ワタシを好きになれ!」

と要求するようになる。そんな要求を受けても、実際に好きになるわけもなく、そして、なりようもない。だからこそ、支配下にある存在は、自分の感情を抑圧せざるを得ない。あるいは面従腹背状態になり、臥薪嘗胆を決め込むようになる。

「支配・被支配の構図」で物事を見る人間は、対等の関係では対処できないわけだから、強引に相手を支配しようとするもの。だから、そんな発想が通用する世界に行きたがる。序列に関わる領域において、自分の序列を上げることだけに熱心の人がいるでしょ?

そして、序列を上げて、最終的に頂点にたったら、もうやることがなくなってしまう。

逆に言うと、「その後」をイメージしていないので、どんなズルイことをしても、頂点に立ちたいと思うようになるわけ。トップに立った後でやることについて、何も考えていない状態。それこそ北朝鮮の金王朝ではありませんが、政治の世界なども、やたら「支配・被支配の構図」を作ろうとする人がいるでしょ?

政治の世界だったら、ある種の支配欲が必要でしょう。しかし、抑圧的な人間は、それが最終目的になってしまって、その後の統治のイメージが出てこないわけ。先ごろ辞任された小沢さんなんて、その典型でしょ?

小沢さんは支配のための方法論とか、支配を維持するための方法論には熱心ですが、統治のイメージは何も持っていないでしょ?

支配欲が強い人は、相手を支配しようとするわけですが、逆のパターンで「支配されたい」と思っている人もいるもの。ある種のマゾヒズムを持っている人もいるわけです。
なにせ、「支配されてしまえば」、自分ではもう考えなくてもいいでしょ?

自己逃避の人間にしてみれば、自己責任から解放されて、実にラクチン。そうして、トラブルが起こったら

「アイツのせいで、こんな事態に・・・」

と支配者を恨んでいればいいだけ。まさに韓国なんてその典型でしょ?

韓国人がその典型と言えるわけですが、シェークスピアの最後の作品である「テンペスト」に出てくるキャリバンが典型的にそのパターン。いわば隷属への意思を持ち、強き者に積極的に隷属しようとし、そして不都合な事態になると、

「悪いのは全部あの○○のせいだ!」

と言い出し、そして

「どうやって、あの憎い○○に報復しようか?」

と考えることになる。そんな発想の流れは、まさにキャリバンがそうであるように、「育ちの悪い」人間には、頻繁に発現したりするものなんですよ。そんなマゾヒズム人間は、自分を縛ってくれる存在を待ち望んでいるわけ。だからこそ権威主義的な性格を持つもの。

「我々は権威ある○○に黙って従っていればいいんだ!」

と自分に納得させ、周囲の人間に命令する。あるいは、

「あ〜あ、誰か、スゴイ力のある人がワタシを支配してくれないかなぁ・・・」

と念願することになる。支配を志向する人は、結局は序列志向であって、会話の能力がない。あるいは、自分の考えを説明する意欲も能力もない。だから、人から質問されないような、「立派な大義」を掲げたりするものです。

「我々は、こんな立派な正義を掲げているんだから、オマエたちは文句を言わずに我々に従っていなさい!」

そんなスタイルに持ち込みたがる。立派な大義による、問答無用で説明不要の支配関係を形成するとなると、ボランティアの連中なんて、その典型でしょ?

「オマエに恵んでやる!」という立場を作って、弱い立場の人間を支配する。そして、「アナタは悪くないわ!」などと言いながら、その支配体制を維持しようとする。逆に言うと、反論してくるような人間、つまり当人自身で考えることができる人間は、そんな会話不全のボランティア人間の相手などはしない。というか、ボランティア人間自体が、そんな会話が必要な相手から逃げてしまう。


支配に当たっては、言葉は不要。しかし、統治に当たっては、言葉は重要になるでしょ?

だから、会話不全のダメダメ人間は、支配止まりであって、支配自体を目的化するわけ。

支配欲はまさにサディズムであって、被支配欲はマゾヒズム。


お互い同士でくっつけば、まさにベストカップルと言えるわけですが、世界はそんな2人のためだけにあるわけではない。周囲の人間にしてみれば、思考停止のサド・マゾのカップルが巻き起こすトラブルに対して迷惑するだけ。結局は、マトモな人はそんな人から離れて行ってしまうし、残された人間は同類のダメダメばかり。そんな人間が一緒になって家庭を持ったら、その家庭はどんな状態になるの?

支配関係はあっても、家族を保護し、維持し、育成していくという統治の発想がない家庭となってしまうでしょ?

前にも書いていますが、ダメダメ家庭においては、親は子供の「保護者」ではなく、「支配者」なんですね。つまり、ダメダメ家庭においては、子供は保護者不在の日々を送っているわけ。そんな日々だったら、常に切羽詰った心理状態になってしまいますよ。

支配関係というものは、いったん、その関係が崩れたら、修復ができるわけがない。むしろ、次に会うときは敵となっている。それが支配関係というもの。民主党の小沢さんが、いつも、そんな感じですし、皆様が実際にご存知のダメダメ家庭というものも、そうなっているでしょ?

逆に言うと、いったん、その関係が崩れたら修復が効かない関係だったら、その関係が、相互理解に基づいた信頼関係ではなく、「支配・被支配の関係」だったことがわかるわけ。

支配と統治は、似て非なるもの。外から見る行動とか状態においては、「重なる」ことが多いわけですが、ダメダメの領域では、しっかり区別する必要があるわけですし、その区別によって、見えてくるものも多いものなんですよ。

https://medium.com/dysfunciton/支配-被支配の構図-3c3ce4b7f638


5) 共産主義者には格と序列の違いが理解できない


格に対するセンシビリティ (格と序列の違い)


ダメダメ家庭の人間は、序列意識が強い。コミュニケーションが「命令と服従」しかないので、

「どっちが命令を下す側なのか?」

そのようなことを常に意識するようになるわけ。


さて、ダメダメ家庭を考えるのに際し、「似て非なるもの」に注目する・・・
序列に対しては過敏にこだわるダメダメ人間ですが、「格」のようなものに対するセンシビリティは、意外にも、弱いものなんですね。

人間なり物事には「格の違い」というものがあるでしょ?
それが「命令と服従」につながるわけではないにせよ、そもそも別次元のようなものもあったりしますよね?

この「格の違い」というものを、別の言葉で言い換えると、「背負っているもの」「背負ってきたもの」の違いと言ってもいいでしょう。あるいは「土俵が違う」とでも言えるでしょう。

同じ格闘技と言っても、「お相撲」と「柔道」では、そもそも別物ですよ。お相撲さんと柔道家とで「どっちが上か?強いのか?」なんて、議論をすること自体がナンセンス。

しかし、無理に序列に巻き込むダメダメ人間は、何でもかんでも序列の中に位置づけてしまう。そもそも別物だったり、格の違うものも、強引に自分の脳内序列に当てはめようとするわけです。そうして、やたら、

「どっちが上なのか?」

なんて言い出したりする。逆に言うと、そもそも格の違うものも、序列としてしか理解できないので、「格の違い」や「土俵の違い」に対するセンシビリティがないわけ。

さて、このメールマガジンでは、以前に「背景を読む力」というお題で文章を配信しております。自分で物事を考えないダメダメ人間は、他者から見解が示されても、その見解がどんな背景から出てきたのか?そんなバックボーンまで見切る力がないし、そもそもそこまで考える発想がない・・・そんな文章でした。

バックボーンは、別の言い方をすると、文字通りに「背負っているもの」「背負ってきたもの」とも言えるでしょ?
過去において、体験してきたものも違うし、背負っている義務も違う。もちろん、背負っている能力も違う。
あるいは、将来において、解決したいもの、やり遂げたいものも、違っている。

そんなに違うんだから、強引に序列に当てはめるのは無理がある。そして、やり取りをする際には、そのお互いの「背景」なり「背負っているもの」なり「やり遂げたいもの」に対する配慮がないと、議論になりませんよ。

ただ、当事者意識がないと、そもそも「自分がやり遂げたいもの」自体が存在しない。

あるいは、常に被害者意識なので、自分が「背負っている」ものも存在しないわけ。ダメダメ人間に存在するのは「背負わされているもの」くらい。自分自身が背負っているものについて、無頓着なんだから、他者が背負っているものについても無頓着となってしまう。

だから、他者からの見解に接しても、どんな背景を元に、そしてどんな目的意識を元に、そんな考えになったのかについて何も考えない。背景に対するセンシビリティがないので、「格の違い」に対するセンシビリティもなくなってしまう。

「背負っているもの」の違いの代表例は、親と子の違いでしょ?

親は、子供より、多くの義務を背負っている。だから格が違う。そんなことは当たり前のこと。

しかし、ダメダメ家庭においては、そうはなっていないわけ。

ダメダメ家庭においては、親と子の「序列」は存在しても、「格の違い」は存在しないわけです。

だって、ダメダメ家庭においては、親も子供も、背負っているものは同じなんですからね。

「いくらダメダメ家庭でも、親は子供の養育義務を背負っているだろう?」そのように思われる方も多いでしょうが、ダメダメ家庭においては、親は子供の養育義務を「背負わされている」だけ。つまり被害と捉えている。当事者意識を持って「背負っている」のではないわけです。だから、その家庭にトラブルが発生すると、ダメダメ家庭の親と子は、同じものを背負っている同格のもの同士として、犯人探しが行われ、結局は子供が犯人と認定されてしまう。そして、ダメダメ家庭の子供は序列が低いので、親の見解には逆らえない。

本来なら、親と子では格が違うんだから、同じ土俵で議論すること自体が間違いでしょ?

しかし、格の違いに対する配慮がないんだから、何事も同格になってしまうわけ。
序列はあっても、格の違いはない。

それこそ、経済的なトラブルなどにおいても、親と子が同格で議論することになってしまう。

本来なら、親と子は経済的に格が違うものでしょ?
しかし、ダメダメ家庭においては、その家庭の経済的な苦境の解決に当たって、子供が率先してことに当たることになってしまう。だから子供が経済的な面まで「気を使う」ことになるわけ。

ダメダメな人間は、自分が被害者だと思っているので、自分自身を弱い、哀れんでもらう立場だと思っている。保護する側ではなくて、保護される側だと思っている。だからある意味において、子供と同格と思っている。だから、子供と同じ次元でケンカする。しかし、本来なら、同じ次元で親子でケンカしたら、どっちが勝つかわかりきったこと。

しかし、親子の間で、同じ次元でのケンカなんて、まさに虐待家庭では、よく起こっているでしょ?

あるいは、夫婦間においても、夫と妻では、肉体的に差がありますよ。格が違うといってもいいでしょ?
だから身体でケンカしたらどっちが強いのか?そんなことは判りきったこと。

しかし、格へのセンシビリティがないので、親子間なり夫婦間で、同格同士としてケンカして、序列を決定することになる。

このような「序列はあっても、格の違いが存在しない」状態は、ちょっとしたやり取りでも発生したりするものです。

「この人・・・ワタシに色々と言ってくるけど・・・
そもそも格が違うというか・・・土俵が違うんだから・・・
この人・・・いったい何を考えて、このワタシにこんなことを言っているの?」

そんな怪訝な思いになってしまうわけ。

「どっちが命令する側なのか?」

という序列には対応できても、

「そもそも背負っているものが違う。」
「そもそも土俵が違う。」
「目指しているものが違う。」

という格の違いに対するセンシビリティがないので、やりとりがトンチンカンになってしまう。それこそお相撲の土俵で、お相撲さんと柔道家が向き合っているようなもの。お互い、「どうすればいいのさ?」となるだけ。

格の違いは、命令とか服従には関係がない。
だからこそ、ダメダメ人間には認識されにくく、無視されやすい。

それこそ文章においても、書いている人の「背負っているもの」、「背負ってきたもの」が反映されるのは当然のこと。この私のもとにお便りのメールの文章もあったりしますが、読めば、その人の背景となっているものなんて、スグにわかりますよ。一つ一つの言葉の重みが違うものなんですね。
使われた言葉が100の言葉から選択したのか?5の言葉から選択したのか?
ちょっと話をしたり、文章を読んだりすれば、その背景がわかるものなんですよ。

よく「じっくり寝かせた文章」なんて言われたりしますが、十分に推敲をした文章と、書き流した文章は、読めばすぐわかるものですよ。文章の上手下手はあっても、背景となっている精神は、表象としての文章から見えてくるもの。ヘンな話ですが、「一気に読める文章」と、「一気に書いた文章」は、別物ですよ。

このような表現の問題ばかりではなく、ちょっとしたやり取りにおいても、その人の背景が見えてくることが多い。

当事者意識がない人間は、自分の現状や問題を見ようとしないので、自分に関係のないマターばかりに首を突っ込んだりする。他者に興味を持つのはいいとして、当人自身に解決したいことはないの?そのような当事者意識のない人からの質問を受けたりすると、

「それって、アンタが本気で解決したり、知りたいと思っていることなの?」

なんて怪訝に思ってしまうもの。そんな人は、質問の仕方なり言葉も、「ちょっとハズレて」いることが多い。だって、当人がどうしても知りたいと思っていることではないので、質問にもパワーがないものなんですね。いわば、質問のための質問に堕している。

格へのセンシビリティがない人は、そんなトンチンカンな物言いをすることが多いわけ。結局は自分自身の現状なり背景が見えていないわけ。自分が背負っているものを自覚していれば、それに伴う一貫した問題意識も発生するものですよ。逆に言うと、そんな一貫した問題意識がないということは、自らが背負っているものを意識して生きていないということなんですね。

あるいは、ちょっとした行動にも、それが反映されることになります。いわゆる貴族とか平民とかの身分においても、単に出生云々の問題よりも、背負ってきたものが反映されることになる。

「秀でたるもの義務多し」の積み重ねが、その身分の高貴さを生む訳でしょ?
単にDNAの問題ではないわけ。
背負っているものを自覚している日々だから、そんな人の行動は重みがあるわけでしょ?


しかし、バックボーンを自覚し見出す能力が、ダメダメ人間にはない。

稚拙な文章を書くのはともかく、そんな稚拙な文章の人間に限って、説教くさいもの。序列意識を元に、上からの物言いをしたがるわけ。

他者がどんな背景を背負って、その文章にしているのかわからないし、わかろうとしない。

たとえ、その分野で格が違っていても、「自分はこのようなものを背負っていて、このような目標があって、現状はこうなっていて、今はこの問題を解決したい。ワタシとしてはこのように考えている。だから、この点について、ちょっとアナタの見解を聞きたい。」とでも言えばいいだけ。

そのような問い掛けだったら、その分野での格の違いはあっても、自立した一個人同士のやり取りなんだから、スムーズに進むことになるでしょ?

まずは当事者意識が重要なんですね。当事者意識がある人なら、その分野はともかく、別の分野では「格」が高いことが推測されるわけ。

特定分野における格の違いの問題ではなく、格の違いが、そもそもわからないダメダメ人間は、持ち前の序列意識から、上からの説教くさい物言いだったり、下から媚を売るような物言いをしてしまう・・・
だからこそ、ますます人間の格が低くなる。

「序列意識」と「格の違いに対するセンシビリティ」の違いは、当人が「背負っている背景」に対する感応度の違いであって、それは自分自身が「背負っているもの」に対する自覚がないと、生まれて来ないもの。

その大元として、親と子の間で「格の違い」が存在しないダメダメ家庭の発想があるわけです。

そんな「格の違い」に対するセンシビリティがないと、それこそ学校における教員と生徒の間も、序列で捉えてしまうことになる。教員と生徒は、格が違うものであって、序列の問題ではないでしょ?

しかし、教員と生徒の間の違いも、ダメな教員は、序列で判断するし、ダメな生徒やその親も、序列で判断する。そんな学校は、どうなってしまうのか?まあ、お約束でしょ?

あるいは、以前に起こった自衛隊の船と漁船の衝突事故ですが、最新鋭の軍艦と、オンボロの漁船で、同格で議論してはダメでしょ?

それって、親子間で、同格でケンカするようなもの。

格が違いに対するセンスというものは、自分が背負っているものを自覚しているから、持っているわけ。当事者意識がないと、持てないセンスなんですよ。逆に言うと、そのセンスがないことから、自らが背負っているものを全く意識していない日々が見えてくるわけです。

「秀でたるもの、義務多し。」

という言葉でいうと、

「義務を自覚してない人」は、「秀でたる存在」ではないわけでしょ?

そんな人は、たとえ、その立場がそれなりではあっても、ダメダメな人なんですね。


格が上の人は、一般人とは、求められるものが違っていて当然。逆に言うと、その覚悟がない人は、そんな立場に立ってはダメなんですね。

本来なら、家庭内で、格上の存在であるはずの親というものも、ダメダメ家庭においては、子供と同格。逆に言うと、格上の責務について何も考えないから、簡単に親になってしまう。格上の存在として、子供を保護ずる発想もない。自分ひとりで何事も解決しようと、子供が無理をして、結果的に子供が問題行動を起こして、

「どうしてこんなことに?!」

と嘆く。ちょっと説明されれば誰でもわかることですが、何も考えないからこそダメダメ家庭ができてしまう。家庭内においては、親というものは、格上の責務があるものなんですよ。その責務を自覚してない親って、残念ながら多いでしょ?

そんな人は、別の面でも、今回の文章にある「格に対するセンシビリティ」がないものなんですね。
https://medium.com/dysfunciton/序列過敏-62558f9a2332

▲△▽▼


ダメダメ家庭の目次録

音楽・映画関係の超有名サイトでしたが、東北大震災以降リンク切れになり、ミラーサイトでかろうじて読めるものがあります。

消えない内に早くコピーを取って残しておいた方がいいです:


ダメダメ家庭の目次録
http://kinoufuzenkazoku.hariko.com/index_original.html

ダメダメ家庭 カテゴリー分類総目次
http://kinoufuzenkazoku.hariko.com/mokuji/sougoumokuji.htm

映画とクラシック音楽の周囲集
http://movie.geocities.jp/capelladelcardinale/schejule.htm

「映画の中のクラシック音楽」
http://movie.geocities.jp/capelladelcardinale/top-page.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c2

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
3. 中川隆[-11686] koaQ7Jey 2019年3月06日 10:14:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[305]

因みに、現在の日本共産党は親米保守、極右反動勢力に変わっていますね。


昔から民青の学生は事大主義で

大学では左翼教官に おべっかを使って興味も無いのにマルクスとか読むふりするけど

会社に入ると

マルクス主義はもう古い

と言って否定するので有名でした。


民青や共産党員にまともな人間は一人もいませんでした。

つまり、20年前まで大学関係者や学生が左翼とマルクス主義者ばかりだったのは
GHQ の教育方針が反映していただけで、自律的で自然な現象ではなかったのですね。


戦前に極右で米英鬼畜とか言ってた極右は終戦後に殆ど日本共産党員に転向しています。
反対に、全学連の闘士は年取ってから大半が極右になっています。

つまり、

極右=極左

で、環境によって極右になったり、極左になったりするだけなのですね。
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c3

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
4. 中川隆[-11685] koaQ7Jey 2019年3月06日 10:16:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[306]

浅間山荘事件 _ ここでも江青女史みたいな女が出て来て大活躍

 
紅衛兵たちが大人やかつての権力者たちに対して、

「自分の思想、価値観が間違っていたことをここで認めろ」

と、反省大会を繰り返して根拠なき暴力を繰り返していた丁度この時期、海を隔てた日本でも全く同じような光景が各所で行われていました。その最も代表的な例といえるのが、日本の浅間山荘事件です。

 この事件は山中にて、左翼過激派に属す若者たちが内ゲバの果てに仲間を集団でリンチして殺害し、その後に浅間山荘に逃げ込んで人質を取って篭城した事件です。もともとこの左翼過激派は日本を共産主義社会にするために来るべき暴力革命に備えて軍事訓練を行っていました。その訓練過程で、この事件を象徴する言葉となる「総括」が行われたのです:


総括とは、本来は過去を振り返る「反省」を意味した。当時の左翼の政治運動家の間で好んで使われた思考法である。しかし、連合赤軍では次第に総括が儀式化していった。連合赤軍のリーダーであった森恒夫は「殴ることこそ指導」と考えていた。殴って気絶させ、目覚めたときには別の人格に生まれ変わり、「共産主義化」された真の革命戦士になれるという論理を展開し、仲間にも強いたが、絶対的上下関係の中でその思考は疑われることなく受け入れられていった。

総括はあくまでも「援助」であり、「お前のためなんだぞ」といいながら殴り倒した。「総括」は建前は相手を「革命戦士として自ら更生させる」ことを目的としており、周囲のものが暴力をふるうことは「総括援助」と称して正当化された。

後に、暴力はそれをふるう側にとっても「総括」であるとされ、自身の「総括」のためにもより一層の暴力をふるうことが要求されるようになった。リンチは非常に凄惨で、激しい殴打を伴った。 「総括」にかけられたメンバーの多くはされるがままに暴力を浴び続けた。中には自ら殴られることを願い出たり暴力に対して感謝の言葉を述べる者もいた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/山岳ベース事件

 この「総括」、内容は文字通りこれまでの自分の人生を総括、反省を行ってこれまでの自分と決別することで革命戦士として自らを完成させることを言い、それを周りの援助を以って行うことを差します。この周りの援助、というか補助ですが、ここまで言ってればわかると思いますが罵倒と暴力です。

 この総括を指揮したのは実質的に森恒夫と永田洋子の二人で、二人はこの事件が起こる以前にあらかじめ自分たちは総括を終えて革命戦士として完成しているために、まだ完成していないものを指導する義務(権利)があるとして、一方的に総括対象者を選んでは私的なリンチを繰り返しました。


総括の対象者に選ばれる人間の根拠というのは妬みとか、接吻といった不純な行為、また伝え聞くところでは女性が指輪をしていただけでも覚悟が足りないといって殺されています。

この総括の内容が恐らく、共産主義者同士とはいえそれほど交流のなかったはずの中国で紅衛兵が行った行為と不思議なくらいに酷似しております。

 基本的なやり方は逆らえないように批判対象者を集団で囲み、その対象者に対して周りが一方的に批判します。

紅衛兵なら

「お前の報告書の出し方が毛首席の指導と違う」、

総括なら

「髪を伸ばして革命戦士としての心構えがない」

などなど、何を言っても批判するネタになります。それに対して対象者は否定しようが肯定しようが、基本的に暴行されます。まず、


「その通りだ、すまなかった」と言えば「反省が足りない!」と殴られ、

「いや、そのつもりはなかった」と言えば、「まだわからないのか」と言われ蹴られます。


 両者に共通するのは、何をどうすれば自己批判、反省が達成されるかという基準がないということです。紅衛兵も何が最も理想的な毛沢東主義者で、何が毛沢東主義に反しているかは毎回変わり、総括でも既に完成したという森と永田の二人の私的な感情が満たされるかどうかで、言ってしまえば批判対象者が何をどう言っても無駄だったと言うことです。

 暴行を加える側の理論からすると、自分たちは連中に真に反省を促すために愛の鞭を振るっている(恐らく、そういう気は一切なかっただろうが)という理屈を持っており、よくこの手の史料を見ていると「お前のためを思ってやっているんだぞ」という脅し文句が見受けられます。

 紅衛兵も総括も殴打による内臓破裂や失血によって批判対象者は次々と殺されましたが、一体何故交流のなかったこの二つの集団でこれほど酷似した暴行が行われたのか、個人的には興味が尽きません。まぁその答えというのは簡単で、単にこの暴力行為を行った集団が共産主義集団だったことに尽きます。

 共産主義の集団というのは基本的に教条主義で、既に理論は完成されているのだから余計な疑問、異論を持つな、持つ人間がいれば集団の統率が崩れるからそいつは叩き潰せ……という、比喩としては中世のキリスト教組織のような価値観を持っております。そのため組織は疑問を徹底して話し合う民主主義とは真逆の体制となり、異論派は徹底的に叩き潰されていきます。

共産主義組織はこのように破綻した構造を持っており、スターリン時代のソ連や北朝鮮の例を持ち出すまでもなく権力の暴走を必然的に招きます。またその暴走は基本的に暴力を伴っており、人権というのは徹底的に無視されることが過去の歴史から言って確実です。

最近「蟹工船」ブームで共産党の入党者が若者の間で増えていると言いますが、今時の若者は本当に馬鹿揃いだと毎日せせら笑っています。何を期待して入るかまでは知りませんが、共産党は彼らの考えている組織から最も遠い組織、福祉や人権に対して一切無視する組織であることに間違いありません。今の委員長の志位和夫も、かつての委員長に対して反旗を翻そうとした東大内の下部組織の行動を防いだ事から出世して今の地位についていますし、組織として完璧にいかれています。

http://imogayu.blogspot.com/2008/10/blog-post_5175.html


 70年安保をひかえ、急速に過激化しつつあった新左翼に刺激された日本共産党左派神奈川県委員会から、「思想問題も実践の中で解決していくべき」と強調する旧「警鐘」グループが委員会を解散させ、新しく「革命左派」として立ち上がった中に、このリンチ殺人の首謀者である永田洋子はいた。

 1969年9月、革命左派は外相の訪ソ訪米阻止のため、「反米愛国」の旗を掲げて羽田空港へ突入。当時の指導者であった川島豪は逮捕されたが、それと入れかわるように出所した坂口弘が革命左派の党員となり、やがてリーダー格にまでのし上がる。そして彼は永田の内縁の夫でもあった。

 1971年には栃木県の猟銃店を襲い、川島奪還のため十数挺の散弾銃と大量の弾薬を入手。これにより革命左派は武装化の一途をたどる。

 赤軍派は、本来は塩見孝也と田宮高麿というふたりのカリスマ的指導者を擁していたが、塩見が破防法で逮捕され、田宮が日航機ハイジャックで北朝鮮に渡った後は、森恒夫がそのあとがまに座る形となっていた。ただし森という男は元来は田宮の腰ぎんちゃくのような存在で、デモで初逮捕された際には警察で泣きじゃくって呆れられ、わずか2日で釈放されたり、明大和泉校舎衝突事件にいたっては、恐怖心にかられて土壇場で逃亡したりしている。

 革命左派は、中国亡命の可能性を探るため、そんな赤軍派と接触した。

 赤軍派は「女ぎらい」と言われたほど、女性党員が少なかった。その中の例外が、『ブンドのマタ・ハリ』こと、美しき才女、重信房子であるが、彼女はそのとき塩見の計画に従ってパレスチナへ飛んだあとであった。

 対する永田洋子は、週刊誌に「チビでブス」、「ぎょろ目で出っ歯の醜女」と書きたてられたような面相だった(永田はバセドー氏病をわずらっていたため、目が飛び出し気味であった)が、演説の才があり、ひたむきな革命への情熱は魅力的ですらあった。森は永田に「個人的な友情」を感じ、両派は合同計画を練りはじめる。

 のちに川島の進言もあり両派は「世界革命」を目指す『連合赤軍』として再結成することになる。なおこの頃には、永田と森の間には男女関係があったようだ。 やがて彼らは亡命をあきらめ、山岳アジトの設置をはじめる。主な目的は警察の手から逃れるためと、「学習・討論・兵士の訓練」のためである。

 1971年11月、赤軍派から9人、革命左派から9人の合計18人で、榛名山中に「榛名ベース」と呼ばれるアジトを設立。実質これが彼らの最後のアジトとなった。この日からわずか100日で、この18人から8人の死者が出ることとなるが、彼らはまだ知るよしもない。

 それに先立って、革命左派ではちょっとした問題が起こっていた。 メンバーの1人である向山茂徳が女性メンバーの早岐やす子を連れ、脱走したのである。しかも

「永田のやってることは甘っちょろい『革命ごっこ』だ」

と批判し、

「テロリストとしてなら戦えるけど、もう思想のために駆けずりまわるのは御免だね」、

「おれはこの闘争の経験を小説に書くつもりだ」

とまで言った。 森はそれを聞いて

「処刑すべきだ!」

と言い放ち、

「そういえば向山のアパートの近くに警官がたくさんいた。密告する気だぞ」

と根も葉もないことを永田に吹きこんだ。 永田は向山のアパートへ5人のメンバーを差し向け、「処刑」を命じた。メンバーたちは向山と早岐を油断させて酔わせたあげく、ロープで絞殺し、死体を茨城県山中に埋めた。

 榛名ベース完成後、連合赤軍18名は共同生活をはじめる。指導者は森、中央執行委員は坂口、永田をはじめとする7名で、彼らはほかの兵士たちとは一線を画す特権階級であるとされた。

 12月20日、幹部会議で全員の「総括」を求めることが可決され、第一回目の総括が行なわれた。 まず永田洋子が赤軍派の遠山美枝子に対し、

「化粧したり、髪を櫛でとかしたり、指輪をしたり――彼女は革命戦士としては失格だ」

と批判。だがこのときは遠山が

「この指輪は困ったときに換金しろ、として母が与えてくれたものだから」

と反論し、森が彼女に味方したため、うやむやになった。

 12月26日、革命左派のメンバーである山本順一が妻・保子と赤ん坊を連れて榛名ベースへ合流。これは永田の承認を得てのことだったが、森はいい顔をせず、

「この点でいくらか手綱をゆるめた以上、ほかの点では厳しく鞭を入れなくてはならない」

 と主張した。永田もこれに賛同し、その夜中、総括が行なわれた。 ターゲットは××能敬という22歳の学生で、彼の弟2人も革命左派メンバーであった(この2人はのちに「あさま山荘篭城」のメンバーとなる)。彼が批判された点は、

「検察で完全黙秘を通さなかった」、
「官弁以外の食物を口にした」、
「合法派と接触した」

 といったたわいもないことばかりだが、彼がそれらの批判をすべて認めたため、森が「有罪」と断じた。

 次に、××と肉体関係になったということで小嶋和子をも断罪。ふたりを正座させ、全員で

「犬!」
「日和見主義者!」

と怒鳴りながら、気絶するまで殴った。長い山ごもりと粗末な食事に鬱積していたやり場のない感情がここで炸裂したと言ってもいい。

 失神したふたりは柱に縛りつけられた。顔面は変形してしゃべることもできず、失禁するほど衰弱していたが、彼らは食事も与えられずそのまま放置された。

 28日、21歳の尾崎充男が総括の対象となる。森は「対警官の実演演習」と称し、永田の元・夫である坂口を警官役に命じて、尾崎と戦わせた。 これは坂口をなぶるためでもあったのだろうが、実戦経験で勝る坂口は尾崎を叩きのめした。しかし尾崎は手当てもされず転がされたままで、彼は鼻血と折れた歯の出血で窒息しそうになり、

「紙をとってくれ、息が出来ない」

と訴えた。それを聞いた永田が

「寝たまま人をこき使うような神経で革命戦士たり得るか!」

と激昂。尾崎は柱に縛りつけられ、絶命するまで狂気のごとき暴行を受けた。

 尾崎は「日和った敗北者」と呼ばれ埋められた。××と小嶋は「臭くなってきた」という理由で屋外の木に縛りつけられた。

 1972年1月1日、21歳の進藤隆三郎が総括される。理由は

「プチ・ブル的言動」、
「女好き」、
「幹部への尊敬の欠如」など。


 まず「女の敵」として永田をはじめとする女性メンバーが彼を殴り、つぎに男性メンバーが殴りかかった。失神すると、××と小嶋のもとへ連れていかれ、同じく木に縛られた。翌朝、進藤はもの言わぬ死体となっていた。死因は暴行による内臓破裂である。

1日午後、小嶋和子死亡。死因は内臓内出血と、凍死であった。

2日、××は屋外から小屋の中へ移された。


 2日、以前に永田が批判した遠山美枝子と、22歳の行方正時が総括される。遠山の罪状は主に

「女を捨てていない。革命戦士らしくない」

というものであるが、彼女が重信房子を崇拝していたことも永田には気にいらなかったようだ。

 行方の罪状は「日和見主義」、「警察で組織の秘密をしゃべった」等々。
彼らは暴行を受け、柱に縛りつけられた。遠山は自慢の髪まで切られ、食事もなく放置された。

 4日、××能敬、死亡。顔は土左衛門のごとく膨れあがり、生前の面影はなくなっていたという。

 6日、あいつぐ死者の数にメンバーはほとんど狂気と化していた。彼らは恐怖と罪悪感から逃れたい一心で、遠山と行方への暴行を再開し、薪でぶん殴った。
薪は遠山の性器にも押しこまれた。

7日、母の名を呼びながら遠山、死亡。

9日、行方が死亡。


 18日、幹部のひとりであった寺岡恒一が「永田批判」、「合法派との接触」を理由に総括の場に引きずり出される。ただし彼は殴殺ではなく、ナイフで胸をえぐられ、アイスピックで首と胸を滅多刺しにされた挙句、絞殺された。

 19日、21歳の山崎順が総括の的となる。理由は「幹部批判」。彼もナイフとアイスピックで刺された末、絞殺された。

 26日、赤ん坊を連れてベースに合流した山本順一が総括される。理由はもはやあってなきがごとしで、「運転を誤まった」というものである。彼は殴られず、極寒の山中で一晩中の正座を命じられた。――が、のちに寒さで失神し、倒れたことによって「態度がなってない」と暴行を受け、木に縛り付けられた。

 同日、「美人でいい気になっている」という理由で大槻節子が総括にかけられる。
また、大槻をかばったことで、金子みちよも同罪となった。金子みちよは妊娠8ヶ月だったが、まったく容赦はされなかった。彼女たちは髪を切られ、歯が折れ顔が腫れあがるまで殴られた末、柱に縛られた。

 30日、山本死亡。苦悶のため、自分で舌を半分以上噛みきっていた。

 永田は

「誰かを総括してないと、みんな退屈してたるんで困るわ」

と公言。それを聞きつけ恐怖にかられたメンバーは大槻へのリンチを再開した。大槻は

「目が、目がまわる。水、水」

を最期の言葉として息絶えた。


 31日、森は

「金子は裏切り者だが、腹の赤ん坊は大切な未来の闘士だ。帝王切開して赤ん坊を『奪還』しよう」

と言い出した。が、技術者もいなければ器具もない。手をこまねいているうち、金子は死んだ。腹の子の父親は同じく連合赤軍のメンバーであった(あさま山荘に篭城した吉野雅邦)が、彼女が死ぬ直前、彼は永田の命令に従って金子を殴っている。また永田は金子が死んだ、と聞かされたとき、

「ちくしょう、赤ん坊まで死なせやがって!」

 とその死体を足蹴にしたという。


 2月2日、幹部のひとりである山田孝が総括にかけられ、13日まで生きのびたものの、両手両脚の凍傷による脱水症状を起こし死亡。最期の言葉は

「水、水。なにが革命だ、ああ、俺はきちがいになってしまう」。

 ここまでの死者は14人である。「革命の理想」のためにこの14の死は必要不可欠なものであったと、この時点でメンバーの何人が信じていたかは定かではない。 たださすがに一番冷静だったのは指導者の森で、「俺たちは捕まったら死刑だ」と言い、少なくとも自分たちがしていたのが「殺人」だということはわかっていたようだ。 だがそれを聞いた永田は、

「なんでそんなことを言うのだろう」

と驚いたという。彼らが死んだのは己の弱さに負けたせいであり、自分たちが殺したわけではない、と彼女は信じこんでいたのである。

 2月4日、森と永田は「敵地調査」のため下山した。東京で彼らを出迎えた同志は、彼らがあまりに臭いので仰天したらしい。10体以上もの死体と同居していたのだから当然なのだが、ふたりはこれを、「山に住む猪の匂いだよ」とごまかしている。 一方、指導者のいなくなった榛名ベースでは3人の脱走者が出た。坂口は追っ手を出したが、誰も捕まらなかった。 そうこうしている間に、彼らの山岳アジトは警察に次々発見されていった。森、永田と合流できないままに、残る9名のメンバーは榛名ベースを放棄して逃走。そのうち4名は買出しに下山したとき逮捕された。

 2月17日、警察の決行した山狩りによって、前日に東京から帰ってきていた森と永田は捕縛される。警察は永田のことは一目見てすぐわかったようだが、森のことはなかなかわからなかったという。逮捕に際しても、バセドー氏病で小柄な永田の陰に隠れようとしたり、森は一貫して「指導者の器にはほど遠い」男であったようだ。

 一方、残る5人のメンバー(坂口弘、坂東国男、吉野雅邦、××次郎、三郎)は軽井沢の別荘地に迷いこみ、2月19日、あさま山荘に篭城。のべ10日間、219時間という長期戦の末、警察の突入により完全降伏した。

森は1973年の元旦、拘置所で首を吊って自殺した。

http://www8.ocn.ne.jp/~moonston/lynch.htm

「我々は全ての人々が平等に暮らせる世の中をつくらなければならない! 
そのために革命を起こすのである!」

「革命は武力より生まれる! 銃のみが政権を生み出すのだ!」

「来るべき国家権力との戦いに備えて全員が革命戦士とならなければならない!」


森恒夫と永田洋子はこういった方針のもと、群馬県・榛名山ベースで厳しい軍事訓練を行った。登山でも遅れているものは殴り、射撃訓練で命中率の悪い者は容赦なく殴られ蹴られた。 この体罰が次第にエスカレートしていく。

射撃訓練で的をはずした同志に対し、

「弾丸の一発が外(はず)れて、それが原因で敗北するかも知れないのよ! 

革命戦士としての自覚が足りないわ! アンタは自己批判すべきよ!」

と永田が言うと、

「自分で自分の弱い精神を批判せえーい!」

と森も同調する。 自己批判とは、自分の過ちを自分で批判することで、大声で謝り反省の言葉を口にしても、

「本当に反省しているとは思えない。みんなで総括すべきよ!」

と永田が総括を要求する。総括とは体罰によって反省を促すことを意味する。総括にかけられた者は全員から殴られ蹴られ、気を失うまで続けられた。目が覚めた時には真の共産主義者の革命戦士として目覚めているはずだとの理論による。

暴行を加える者はみんな一様に

「お前のためなんだぞ!」

と言いながら殴り続けた。また、総括が終わった者は

「ありがとうございました。」

と礼を言う。 この総括は、最初は確かにメンバーを戦士として鍛え上げるための体罰であったかも知れない。しかし、この小さな集団の中で森と永田の権力はあまりにも強過ぎた。絶対的な上下関係が形成され、次第に些細なことでも

「総括すべきだ!」

との掛け声のもと、何人ものメンバーが総括というリンチにかけられることとなった。


総括によって初めての死者が出る


昭和46年12月31日(1人目)

連合赤軍の総括によって初めての死者となったのは尾崎充男(みちお)(22)である。尾崎はこれまで何度も総括の対象となっていた。交番を襲撃した時に積極的ではなかったとか、教えるべきではないメンバーにまで銃の隠し場所を教えたとか、他の者の総括の最中によけいなことを口走ったなどの理由でさんざんリンチを受けてきた人物である。

12月31日、この日も尾崎に対する総括がまた始まった。メンバー全員で全身を殴ったあげく、副委員長・永田洋子が他のメンバーに対して命令を下した。


「ここでやめたらまた同じ過(あやま)ちを繰り返すだけよ! 

革命戦士としての自覚が持てるまで外の木に縛りつけなさい!」


小屋の外は雪の降りしきる氷点下の世界である。木に縛りつけられ食事も与えられないまま、尾崎はこのまま凍死した。 死体となった尾崎を見て永田洋子は、

「彼は革命戦士となることが出来ずに自分から死んでいった。 敗北死したのよ!」

と、「敗北死」という言葉を使うことによって、決して決して自分たちが殺したのではないという意識をメンバーたちに持たせた。この方針は今後の殺人の際にも使われ、メンバーたちに罪の意識を持たせない人心操作であった。


総括によって次々と殺される


昭和47年1月1日(2人目)

尾崎死亡の翌日、進藤隆三郎(22)が総括のターゲットにされた。進藤が昔同棲していた女が逮捕され、今のメンバーのことを警察で喋ってしまったことや、進藤が組織の活動においていつも積極的ではないことに委員長の森恒夫が腹を立て、

「戦士として他のメンバーより遅れている! 総括すべきだ!」

と命令を下し、全員から暴行を加え、それは死ぬまで続けられた。


1月2日(3人目)

連合赤軍の中には恋人同士で参加していた者もいた。小嶋和子(22)と××能敬(22)である。二人が小屋の外で抱き合ってキスしているところを運悪く永田洋子に見られてしまった。 たちまちのうちに二人は総括にかけられる。永田洋子はメンバーの男女間の交際を異常なまでに嫌っていたのだ。


「この二人は活動の拠点を汚した! 
みんなが革命戦士となるべき場所でキスするなんて! 
二人に総括を求める!」


全員が「意義なし!」とすぐに同調した。 二人とも激しい暴行を全員から受け、小嶋和子は屋外に縛られて放置され、そのまま凍死した。


1月4日(4人目)

一方、××能敬の方もこの日本格的に総括が始まった。××には二人の弟・××倫教と××元久がおり、二人ともこの連合赤軍のメンバーだった。いわば××は自分の恋人と、二人の弟と共にこの連合赤軍に参加していたのだ。

「同士として総括の援助をする!」

と、委員長・森恒夫が叫び、蹴りを入れる。 「次!」「次!」の声のもと、全員が順々に××を殴り続ける。それは××の弟たちも同様であった。

「これは兄さんのためなのよ! 兄さんの総括をみんなで助けてやるのよ!」

と永田洋子が言い、

「総括をみんなで達成させてやろう!」

と森恒夫も叫ぶ。森と永田に逆らうことは出来ない。××の弟二人は泣きながら、そして兄さんに謝りながら兄を殴り続けた。総括は延々と朝まで続き、××は動かなくなった。死亡していた。兄に寄り添って泣きじゃくる二人の弟に永田洋子は

「兄さんは革命戦士になりきれず敗北死したのよ。頑張ってあなたたちは真の戦士になりなさい。」

と声をかけた。実の兄をリンチで殺されて正常でいられるわけがないが、ヘタなことを言えば今度は自分たちが殺される。二人の弟たちは泣くことしか出来なかった。

1月6日(5人目)

遠山美枝子が髪を伸ばしていることや鏡を見ていることなどに対して永田洋子が腹を立て、遠山の使っていた化粧道具を床にバラまき、

「こんなもの、革命戦死になるために必要ないでしょ!」


と因縁をつけ始める。

「あなた自身による総括を求めます!」

永田洋子が叫び、

「自分で自分を殴れ!」

と森も命令した。 遠山美枝子は、小屋の中央に立たされ、自分で自分の顔を何度も何度も殴らされた。それは30分ほど続き、顔は腫れ上がっていた。遠山美枝子は髪を全部切られて丸坊主にされ、身体を逆エビ状に縛られた。その上で全員から袋叩きにあい、翌日の7日夕方に死亡した。

1月9日(6人目)

1月3日の会議で、中央委員会が結成されており、序列は森恒夫・永田洋子・坂口弘・寺岡・坂東・山田・吉野の順で、この7人が、「行方正時(22)が不適切な発言を行った。」という理由で1月4日に行方を縛ることを決定した。

縛られた行方正時は連日暴行を受け、縛られてから5日目のこの日、死亡した。

1月17日(7人目)

上記の中央委員会に選ばれたばかりの寺岡恒一(24)が犠牲者となった。寺岡は、これまでの総括で次々と仲間が殺されていることに恐怖を覚え、一番親しかった坂口弘にこっそりと相談した。坂口弘はこの組織のNo.3の立場にある男で、寺岡恒一はNo.4だった。


寺岡
「総括っておかしいと思わんか? 
森と永田が因縁をつけては自分の気に入らない者を痛めつけてるだけじゃないか。」


坂口
「な、何言い出すんだお前!」

寺岡
「このままじゃ、俺たち全員あの二人に殺されるぞ。
親友のお前だからこそ言ったんだ。このままでいいのか。」


だが、「親友」とまで言ってくれた寺岡の気持ちを裏切り、No.3坂口弘はこの発言をそのまま森恒夫と永田洋子に報告した。報告を受けた森と永田は激怒し、すぐに寺岡を呼び出し、縛りつけて全員で囲んだ。


「アンタ、私たちのいないところで色々言ってるみたいね。」

と永田洋子に言われ、寺岡は、昨日相談した坂口がこの2人に密告したことを悟った。

「寺岡、俺は悲しい。同じ同士だと思ってたんだがな。」

と言いながら森恒夫がナイフで寺岡の脚を突き刺した。悲鳴を上げる寺岡。そして永田洋子が

「アンタは総括にすらかけない。死刑よ!」

と寺岡に死刑を宣告した。ここに至っては総括も死刑も同じようなものになっていたが、「死刑」とは最初から殺す目的で全員が標的に攻撃を加えるのだ。

「最後に何か言いたいことはあるか。」

と森恒夫が聞くと

「俺は最初からこの風船ババアの永田が大嫌いだったんや! 

お前らがリーダーなんてチャンチャラおかしいわい!」


と最後の抵抗を見せた。 次の瞬間、森恒夫が

「貴様は死ね!」

と叫んで寺岡の身体にナイフを突き刺した。

「全員で殺れ!」

という掛け声のもと、メンバーたちは次々とアイスピックやナイフで寺岡の身体を突き刺した。だが、なかなか死なない寺岡に対し、

「もういい! 絞殺しろ!」

と森恒夫が命令を下した。縛られている寺岡の首にロープを巻きつけ、その両端をメンバーたちが持って、綱引きのように寺岡の首を締め上げた。そしてついに寺岡は死亡した。

1月20日(8人目)

寺岡処刑の翌日18日、寺岡の処刑の時に加わらなかった山崎順(21)が森恒夫から厳しく追及される。そして翌日、そのことで山崎順も森恒夫から死刑を宣告される。

「死刑にされて当然です。」

と山崎順が反省の色を見せたため、即時の死刑は行われず、森恒夫の指示で縛られることとなった。だが、その後の暴行の最中、山崎順が「組織から逃げるつもりだった。」と発言したために、これが決定的となり、この日20日、死刑の執行が決まった。 寺岡処刑の時と同様、アイスピックなどで全身を刺され、肋骨6本を折られる暴行を加えられ、最後はロープを首に巻きつけてられて絞殺された。

榛名山ベースから新アジト「迦葉山ベース」へ


17日の寺岡処刑の後、一人の脱走者が出た。岩田半治(21)がこの榛名山ベースから逃亡したのである。脱走者とは即ち、警察に密告する恐れがある。 「この榛名山ベースはヤバイ。」と拠点を移すことに決めた。上記の山崎順の総括と並行して、森恒夫は他のメンバーにベースの移転先を探させていた。榛名山ベースは閉鎖された旅館の一部を改造して作ったものだったが、そうそう都合のよい建物が簡単に見つかるはずもない。結局新しいアジトは群馬県沼田市の山林にテントを張って、そこをアジトとすることに決まった。新アジトの名前は迦葉山ベースと命名された。

榛名山ベースで殺害した者たちの死体は、万が一警察に発見されることを考えて身元を隠すために全裸にして順次埋めておいた。そして移動の際には榛名山ベースには火を放ち、証拠品は全て燃やし、連合赤軍は榛名山ベースを後にした。この榛名山ベースは、赤軍派と京浜安保共闘が合体して連合赤軍が誕生した記念すべきベースであったが、結成当時29人だったメンバーも、総括と死刑によって8人死亡、1人逃亡で20人になっていた。

そして新しいアジトに移る際、連合赤軍はバスに乗ったのだが、これまでの山の中の生活で何日も風呂にも入らず着替えもしなかったため、彼らの放つ悪臭はすさまじかった。あまりにも異様で汚い集団であったため、同じバスに乗った人が後で群馬県警に通報している。

現地に着いてテントで生活しながらもメンバーは新しいアジトとしての小屋の建設に励んだ。完成と同時にテント生活を辞め、小屋に移る。改めて新アジト「迦葉山ベース」の完成であった。


更に総括による犠牲者は続く


1月30日(9人目・10人目)

この4日前である26日に、森恒夫が、山本順一(21)に対して

「妻の山本保子(28)に対する態度が偉そうだ。革命戦士としての意識が低い。」

などと因縁をつけ始める。山本保子とは、山本順一の妻であり、生後三ヶ月の子供を連れて夫と同じくこの連合赤軍のメンバーに参加していた。いわば山本順一は、妻と子供の三人家族でこのメンバーに参加していたのだ。

山本順一を総括することが決まり、暴行が始まった。山本順一は妻の見ている前でさんざん殴られた上に、終わると逆エビに縛られた。そのまま縛られ続け、新アジトの迦葉山ベースが完成した時には、縛られたまま運ばれ、新アジトの床下の柱につながれた。29日に山本順一は

「中央委員会の方が理論が矛盾している。」

と発言し、舌を噛んで自殺を図ったが、口に猿ぐつわを噛まされ、更に放置され、そして翌日30日に死亡しているのが発見された。

この日30日は2人死亡しているが、もう一人の犠牲者は大槻節子(23)である。大槻節子は、5日前に当たる25日に、60年の安保闘争に関する議論で、大槻が「敗北」という言葉を多用したことについて腹を立てた森恒夫から厳しく追求を受けた。そしてこれを理由に縛られることになった。縛られたのは、上記の山本順一と同じ26日である。
激しい暴行を受け、永田洋子に髪を切られ、山本順一と同様、29日に縛られたまま運ばれて床下の柱につながれた。ここでまたもや暴行を受け、翌日30日、遺体となっていた。

2月4日(11人目)

金子みちよ(24)が死亡した。金子みちよは、前述の山本順一、大槻節子と同じ26日に縛られていた女性である。

2人と同じように縛られたまま、床下へつながれた。金子みちよは妊娠八ヶ月でお腹も大きかったが、容赦はなかった。彼女が縛られたのは、永田洋子から

「アンタ、最近、森さんの方ばかり見てるね。
女であることを使って、森さんに取り入ろうとしてるんだろ。」


などと完全な言いがかりをつけられ、

「同士とヤッた(sexした)ことがあるだろ!」

「物に対する執着が強い!そんなことでは革命戦士にはなれない!」


などと更に因縁をつけられ、ここから総括が始まった。何日にも渡って暴行は続けられ、2月4日のこの日ついに死亡した。同じ26日に縛られた山本順一と大槻節子が30日に死亡してから、金子みちよはその後、4日間も生き地獄を味わった上、お腹の中にいる子供と共に死亡したのである。

2月12日(12人目)

2月1日に「この組織を脱退したい。」と申し出た山田孝(27)が最後の犠牲者である。翌日2日に山田は雪の上に正座させられ、反省を求められた。そして森恒夫に「食事抜きでマキ拾いして来い。」と命じられるが、作業が遅かったため、全員から袋叩きに遭う。

その後、縛られ暴行を受け、食事もほとんど与えられず、ついに12日のこの日衰弱して死亡した。山田は延々と12日間もリンチを受け続けた上に死亡したのである。

これまでのリンチで殺した者の死体は、榛名山ベースの時と同じ様に順次穴を掘って埋めていた。この時点で残りのメンバーは16人となった。連合赤軍のリンチで死亡した者は12人であるが、これ以前の京浜安保共闘時代にすでに2人を殺しているので、正確にはこの組織によって殺された者は14人ということになる。

http://ryoshida.web.infoseek.co.jp/jikenbo/036sekigun02.htm


独裁者タイプの上司はなぜできるのか


世の中には独裁者のような上司が多くいる。しかし、彼らは果たして生まれつきそういう人たちなのだろうか。それとも、環境がそうさせるのだろうか。

私がよく聞く上司のタイプの1つに、独裁者タイプがある。このタイプの上司は、恐怖と脅迫で支配し、部下を扱う際に残酷な振る舞いをする傾向がある。

 私はいつも1つ疑問に思っている。悪い上司というのは、もともと悪い人間だからそういう振る舞いをするのか、それとも彼らは基本的にはいい人であるにもかかわらず、権威を背負ったことによって心理的に変わってしまったのだろうか。言い換えれば、悪いボスは生まれつきのものか、それとも後天的なものかということだ。Acton卿の

「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対に腐敗する」

という言葉は正しいのか。  私は以前、魅力があり話しやすい人物と仕事をしたことがある。彼は野心的な性格だったが、腹の立つようなことはなかった。しかし、一度権威のある地位についてから、彼はまるで違う性格になってしまったように見えた。彼は「言うことに従わない者は去れ」というタイプの人間になってしまった。私は、彼があるミーティングで、おおっぴらに部下を馬鹿にし、恥をかかせたと聞いた。彼はおそらく、権威を手にした瞬間から、一度も間違いを認めたことがないだろう。その後彼と社交的な会話を交わした時、彼はまだ私が以前知っていた魅力的な人物のように見えたが、彼の仕事場での顔を無視することはどんどん難しくなっていった。

 1971年に、スタンフォード大学の心理科学者がある実験を行った(スタンフォード監獄実験)。この実験では、彼らはなぜ監獄があれほど不愉快な場所になるのかを見出そうとした。具体的に彼らが知りたかったのは、そうなる理由が、監獄に集まるのがひどい人間ばかりだからか、それとも監獄が人々をひどい人間にしてしまうからかということだ。研究者たちは、「塀の中での振る舞い」の効果を調べられるような擬似的な監獄を作った。

 24人の大学生がこの実験の被験者となった。学生たちは全員、最初に面接と性格テストを受けた後、コイントスで無作為に2つのグループに分けられた。半数が看守の役を与えられ、半数が囚人役となった。看守への唯一の指示は、監獄の法と秩序を維持するために何でも必要なことをしろというものだった。

 実験は2週間の予定だったが、たったの6日間で中止された。なぜか?それは「看守役」があまりにも虐待的になり、「囚人役」が心的外傷を受けたためだった。看守役の中には、自分は平和主義者だと主張する者たちもいた。

 これは1つの実験に過ぎず、職場は監獄ではない。しかし、それでもこの結果は身も凍るようなものだ。私は、権威によって腐敗してしまう人たちの性格には、もともと心理学テストでは発見できないような、弱いところがあったのだと考えるようになってきている。私は確かにリーダーシップが人間を変えると考えているが、われわれすべての中に、権力によって芽を出す残虐さの種があるとは信じられない。

http://builder.japan.zdnet.com/off-topic/20379103/

権力者はなぜ「堕落」するのか:心理学実験


権力を手にすると、世界を他者の視点から想像することが難しくなり、さらに、他者に厳しく自分に甘くなるようだ。

権力者が正しくない行動をするというニュースは大量にある。彼らが、自分より地位が下にある者に対して横暴にふるまい、権力をかさにとった性的行動をとったりすることは、気が重くなることではあるが、驚くことではまったくない。問題は、このようなひどい行ないはなぜ起こるのかということだ。権力はなぜ堕落するのだろう?

心理学者たちによると、権力者の問題のひとつは、他者の状況や感情に対する共感性が低くなることだという。いくつかの研究によれば、権力的な地位にある人は、ほかの人を判断する際に、ステレオタイプ的な判断を行ないやすく、一般化しやすいという。
ノースウエスタン大学の心理学者Adam Galinsky氏らによる最近の研究を見てみよう。研究チームはまず、自らが大きな権力を手にした経験、あるいは自分に何の権力もないと感じた経験のいずれかを、被験者たちに語らせた。

そしてその後、自分の額に「E」の文字を書くよう指示した。すると、権力を手にした経験を語った被験者のほうが、文字を(他人から見て)左右逆に書く傾向がはるかに強かった。この傾向は、権力の「視野の狭さ」が引き起こすものだと研究チームは主張する。権力を手にすると、世界を他者の視点から想像することが非常に難しくなるというのだ。

さらに、権力者は偽善的傾向も持ちやすい。Galinsky氏の2009年の研究(PDF)では、一方のグループには、仕事の交通費を不正請求する行為は、倫理的にどの程度の悪事にあたるかを、9段階で評価させた。もう一方のグループには、さいころを使ったゲームに参加させた。[被験者は他人に見えないところでさいころをふり、]さいころの出た目に応じて、決まった枚数の宝くじを各被験者がもらえるというゲームだ。出た目の数が多いほど、もらえる券のくじも増える。

http://www.kellogg.northwestern.edu/faculty/galinsky/Power%20Hypocrisy%20Psych%20Science%20in%20press.pdf

前者の実験では、権力を手にした経験を事前に想起していた被験者のほうが、交通費の不正請求に対する倫理的評価は有意に厳しかった。ところが、さいころゲームのほうでは全く逆の結果が出た。権力を想起したグループの被験者に、振ったさいころで出た目の平均値を申告させたところ、偶然のレベルを平均20%上回る(統計的にはありえない)数字を申告したのだ。それに対し、無力さを想起したグループが申告した数字は、偶然をやや上回る程度だった。この結果は、前者のグループの被験者が、実際の出た目ではなく虚偽の数字を申告して、宝くじ券を余計にもらおうとした可能性を強く示唆している。

人間は大抵の場合、正しい行ないは何か(ズルは悪だということ)を知っているが、自分が権力を手にしていると感じると、倫理的な過ちを正当化しやすくなる。例えば、約束の時間に遅れてスピード違反をする行為について、両グループの被験者に評価をさせたところ、権力を想起したグループは、その行為をする当事者が自分ではなく他人であった場合に、より厳しい評価を下す傾向を一貫して示した。つまり、ほかの者は法律に従うべきだが、自分は重要な人物であり重要な行動をしているので、スピード違反にも適切な理由がある、と感じやすいというのだ。


以上の研究結果については、実験室での研究にすぎず、説得的ではないという思う人もいるかもしれない。「権力者の堕落」に関するほかのs研究で私が気に入っているのは、スタンフォード大学ビジネススクールの心理学者Deborah Gruenfeld氏による研究だ。1953〜1993年に米連邦最高裁が下した判決を1000件以上にわたって分析したところ、判事の法廷における権限が強まるにつれて、あるいは判事が法廷の多数意見を支持した場合において、彼らの意見書の文言からは、複雑さや細かいニュアンスが失われる傾向が明らかになった。彼らが検討する視点はより少なくなり、判決から生じうる影響についての検討も少なくなった。そして問題は、こうした「多数意見」が実際の法律になっていくことだ。

ミシェル・フーコーが語っているように、権力のダイナミクスはわれわれの思考に深く影響する。権力の階段を上るにつれて、われわれの内なる議論はねじ曲げられ、他者への自然な共感は否定されるようになる。自らの行動が及ぼす影響など気にかけず、お構いなしに実行するようになっていくのだ。

http://wired.jp/wv/2011/06/03/%e6%a8%a9%e5%8a%9b%e8%80%85%e3%81%af%e3%81%aa%e3%81%9c%e3%80%8c%e5%a0%95%e8%90%bd%e3%80%8d%e3%81%99%e3%82%8b%e3%81%ae%e3%81%8b%ef%bc%9a%e5%bf%83%e7%90%86%e5%ad%a6%e5%ae%9f%e9%a8%93/

独裁者の心理


NATOがトリポリを爆撃開始しても、ムアンマー・カダフィは相変わらず権力にしがみ付いている。シリアではバシャール・アルアサードが1000人以上の市民を殺しているし、イエメンでは今週には内戦状態になろうとしているのにアリ・アブドラ・サリーは辞任しない。何故、独裁者はこれほど権力に執着するのか。サウジアラビヤやベネズエラに逃亡して豪華に余生を過ごせないのか。最悪の結果が待っているのに彼等はそうしない。

誇りより欲が先立つということであろうが、独裁者は地位の維持にこだわる。独裁者の心理分析は難しいが、過去の有名な独裁者であるスターリンや毛沢東、サダム・フセイン、カダフィ等の得られる記録から、彼等の心理をある程度研究することができる。少なくても戦略局(今のCIA)がアドルフ・ヒットラーの心理分析を専門家に依頼して以来、独裁者の心理研究は進んできた。ここに最近の研究結果をもとに、独裁者の心を調べて見る。

1) 独裁者は変質者であると言う説


この説明が最も簡単で我々にも分かりやすいが、少し無理がある。変質者とは精神障害の診断と統計の手引き(DSM)によれば反社会的人格障害と記されている。その特性は犯罪の繰り返しと嘘、衝動的行動、自責の念の欠如とある。

多くの独裁者もこの傾向を持つ。彼等は民衆をだますが同時に自分をもだます。「もしスターリンが誰かを裏切り者と呼ぶとすれば、それは他人をそのように誘導していると同時に、実は自分自身をもだましている」とオックスフォード大学の歴史学者であるロバート・サービスは言っている。カダフィは、彼の体制に反対するものは国家リビヤへの反逆と言いつつ、「全ての人民は私の側にいるし、私を守るに命を惜しまない」とも言っている。

連続殺人犯のジョーン・ウェイン・ゲーシーの例を見ても本当の変質者は嘘つきでも冷酷な人間でもなかった。ゲーシーは被害者を各種の道具を使って苦しめ、気絶するとわざわざ起こして苦しめた後に殺した。多くの独裁者はそのような残酷なことを少なくても直接自分は実行していなかった。

ミシガン大学の心理学のスコット・アトランは、20年間、世界の独裁君主を調べている。彼はハマスのリーダーであるカレド・メシャール、東南アジアで活動しているジェマー・イスラミヤの以前の司令官であるアブバカ・アシール、ムンバイでテロを行ったラシュカレタイバのハフィズ・サイード、アメリカの白人至上運動の指導者であったウィリアム・ピース等と直接話している。

アトランが引き出した結論は、衝動的道徳の追求が独裁者の性格の背後にあることであった。ヒットラーの場合、オーストリアのユダヤ人が現在のお金で数百億円を支払う意思を示しているにも関わらず、要請を拒否してガス室に送り込んでいる。イランの政府も外国からの多額の援助の申し出にも関わらず、独立を保つという聖なる目的のために、核兵器計画を維持する決定をしていた。

2) 独裁者は極端な自己愛主義者


一般の指導者は部下を持ち、部下は指導者を批判することが許されるが、独裁者の部下は生命さえも独裁者に握られているために、批判は絶対出来ない。

「私が強く印象付けられるのは、独裁者が変質者であるかどうかより、絶対権力が如何に人間の性格を変えてしまうかだ」

と香港大学のディコッター教授は言う。

「毛沢東は権力の頂上に長くいて権力の濫用は年々増し、最後は自分の作ったマユの中で生活しているような状態であった」

と彼は言う。独裁者は自分自身と他者への関わりを現実的に見る視点を失ってしまう。2003年にPsychological Review誌で発表されたカリフォルニア大学バークレーのダッチャー・ケルトナー等の報告によると、強い力を持つものはその心理体質を変えていくと指摘している。権力のあるものは他者が成し遂げた業績を自分の手柄にできるし、自分を囲む世界を単純化して考える傾向があった。

しかし我々を囲む現実を無視すると神経学的代償を払うことになる。どの脳の部位もそうであるが、余り使われないと退化してしまう。特に旁辺縁系皮質は我々の感情と自己規制の中枢で、そこを使わないと機能は退化してしまう。

カダフィは数百から数千人のスパイを張り巡らして、彼の体制に歯向かう者を探して抹殺して来た。スターリンは人民委員会を使って彼に反対する者や、特に革命以前のエリートを根絶やしにした。このように聞くべき批判を全て封じてしまうと、独裁者は自ら自分の旁辺縁系を機能不全にしてしまう。ゆえに彼等の末期には傍から見ていても狂ったように見える。

3) 独裁者とは、絶対権力により心の病を発病した人


ジンバブエのロバート・ムガベ大統領は若い頃、至って禁欲的、礼儀正しい若者であった。ピーター・ゴールドウィンの著書「ロバート・ムガベとジンバブエの苦難」の中に、ムガベが若い頃は人の話を良く聞き、朝は早起きし腕立て伏せをし、決して酒を飲まなかったと補佐官が述べている記述がある。何故そんな若者があんな怪物になってしまうのか。

ここでロード・アクトンの言葉を引き合いに出して、”絶対権力がムガベを堕落させた”とする。では絶対権力が人を堕落させるメカニズムとは何だろうか。

新しく発表された”権力はどのように人を腐敗させるか”と題する論文で、コロンビア大学の研究チームは、権力は人間の心理を変えると言うより人の生理を変えるとしている。その論文の中でダナ・カーネイーは、権力を持つと人の日常のストレス・レベルは低下するから、ストレスの刺激で分泌されるコルチゾルのレベルも低くなるとしている。確かに権力者は車を運転する必要もないし、住宅ローンの心配もないからストレスレベルは低い。

一般に不道徳な行いをすればストレスレベルは高まる。

「例えば嘘を日常言う人間は、真実、道徳、社会のルール、結果がどうなるかと色々考察しながら、言葉を慎重に選ばないとならない。ストレスが余りに高まると気持は落ち込み、コルチゾルのレベルの上昇となって現われる」

とカーネイーは述べている。しかし、独裁者はコルチゾル・レベルが低いから、いざストレスに見舞われた時にも心に十分な余裕があり、悔やむ事なく何かを実行できる。この仮説が正しいかどうか調べるために、カーネイー等は心理実験をした。


被験者を2つのグループに分けて、最初のグループには大きな事務所をあてがい、貴方は管理職ですよと言う。

するとこの管理職のグループでは難しい決定も比較的簡単にやってのけた。

これに対して第2のグループは、狭い部屋を与えられ部下であると言われるが、彼等の反応は第一グループと反対の結果が出た。

管理職グループの人達は心理的にもストレスが低かったばかりか、唾液の中のコルチゾルのレベルも低かった。


このような理由があるから独裁者の犯罪が許されると言っているのではない。我々の脳は絶対権力を行使するようには出来ていないのだ。独裁者は自分の将来には色々の選択肢があると考えることが出来なくなっている。

カダフィも全てを失う前に辞任すべきだし、ムバラクも辞任を発表する数週間前にエジプトを出国すべきであった。ヒットラーは平和へ向けた交渉が可能だったかも知れないし、サダム・フセインも処刑を避け得た。しかし独裁者は軍事力に頼りすぎ、心理的にも柔軟性が欠けているため、全滅と言う結果になる。

http://mui-therapy.org/newfinding/psycology-dictatorship.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c4

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
5. 中川隆[-11684] koaQ7Jey 2019年3月06日 10:28:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[307]

内田樹の研究室 2015-05-28
http://blog.tatsuru.com/2015/05/28_1617.html


私たちの世代には全共闘の「マルクス主義者」がいた。

私はその渦中にいたのでよく覚えているが、他人の「革命的忠誠心」やら「革命的戦闘性」についてがたがたうるさいことを言って、自分勝手なものさしでひとを「プチブル急進主義者」よばわりしてこづきまわしたひとたちは、だいたいが中学高校生のころは生徒会長などしていて、校則違反の同級生をつかまえて「髪が肩に掛かっている」だの「ハイソックスの折り返しが少ない」だのとがたがた言っていた連中であった。

その連中の多くは卒業前になると、彼らの恫喝に屈してこつこつと「プロレタリア的人格改造」に励んでいたうすのろの学友を置き去りにして、きれいに髪を切りそろえて、雪崩打つように官庁や大企業に就職してしまった。

バブル経済のころ、やぐらの上で踊り回っていたのはこの世代のひとたちである。こういうひとたちのやることはいつでも変わらない。


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国旗国歌について


国立大学での国旗掲揚国歌斉唱を求める文科省の要請に対して、大学人として反対している。

その理由が「わからない」という人が散見される(散見どころじゃないけど)。
同じことを何度もいうのも面倒なので、国旗国歌についての私の基本的な見解をまた掲げておく。

今から16年前、1999年に書かれたものである。
私の意見はそのときと変わっていない。

国旗国歌法案が参院を通過した。

このような法的規制によって現代の若者たちに決定的に欠落している公共心を再建できるとは私はまったく思わない。すでに繰り返し指摘しているように、「公」という観念こそは戦後日本社会が半世紀かけて全力を尽くして破壊してきたものである。半世紀かけて国全体が壊してきたものをいまさら一編の法律条文でどうにかしようとするのはどだい無理なことだ。

ともあれ、遠からず、この立法化で勢いを得て騒ぎ出すお調子者が出てくるだろう。式典などで君が代に唱和しないものを指さして「出ていけ」とよばわったり、「声が小さい」と会衆をどなりつけたり、国旗への礼の角度が浅いと小学生をいたぶったりする愚か者が続々と出てくるだろう。

こういう頭の悪い人間に「他人をどなりつける大義名分」を与えるという一点で、私はこの法案は希代の悪法になる可能性があると思う。
 
一世代上の人々ならよく覚えているだろうが、戦時中にまわりの人間の「愛国心」の度合いを自分勝手なものさしで計測して、おのれの意に添わない隣人を「非国民」よばわりしていたひとたちは、8月15日を境にして、一転「民主主義」の旗持ちになって、こんどはまわりの人間の「民主化」の度合いをあれこれを言い立てて、おのれの意に添わない隣人を「軍国主義者」よばわりした。こういうひとたちのやることは昔も今も変わらない。

私たちの世代には全共闘の「マルクス主義者」がいた。私はその渦中にいたのでよく覚えているが、他人の「革命的忠誠心」やら「革命的戦闘性」についてがたがたうるさいことを言って、自分勝手なものさしでひとを「プチブル急進主義者」よばわりしてこづきまわしたひとたちは、だいたいが中学高校生のころは生徒会長などしていて、校則違反の同級生をつかまえて「髪が肩に掛かっている」だの「ハイソックスの折り返しが少ない」だのとがたがた言っていた連中であった。その連中の多くは卒業前になると、彼らの恫喝に屈してこつこつと「プロレタリア的人格改造」に励んでいたうすのろの学友を置き去りにして、きれいに髪を切りそろえて、雪崩打つように官庁や大企業に就職してしまった。バブル経済のころ、やぐらの上で踊り回っていたのはこの世代のひとたちである。こういうひとたちのやることはいつでも変わらない。

いつでもなんらかの大義名分をかかげてひとを査定し、論争をふきかけ、こづきまわし、怒鳴りつけることが好きなひとたちがいる。彼らがいちばん好きなのは「公共性」という大義名分である。「公共性」という大義名分を掲げて騒ぐ人たちが(おそらくは本人たちも知らぬままに)ほんとうにしたがっているのは他人に対して圧倒的優位に立ち、反論のできない立場にいる人間に恫喝を加えることである。ねずみをいたぶる猫の立場になりたいのである。

私は絶対王政も軍国主義もスターリン主義もフェミニズムも全部嫌いだが、それはその「イズム」そのものの論理的不整合をとがめてそう言うのではない。それらの「イズム」が、その構造的必然として、小ずるい人間であればあるほど権力にアクセスしやすい体制を生み出すことが嫌いなのである。

正直に言って、日本が中国や太平洋で戦争をしたことについて、私はそれなりの歴史的必然があったと思う。その当時の国際関係のなかで、他に効果的な外交的なオプションがあったかどうか、私には分からない。たぶん生まれたばかりの近代国民国家が生き延びるためには戦争という手だてしかなかったのだろう。

しかし、それでも戦争遂行の過程で、国論を統一するために、国威を高めるために、お調子者のイデオローグたちが「滅私奉公」のイデオロギーをふりまわして、静かに暮らしているひとびとの私的領域に踏み込んで騒ぎ回ったことに対しては、私は嫌悪感以外のものを感じない。

小津安二郎の『秋刀魚の味』の中に、戦時中駆逐艦の艦長だった初老のサラリーマン(笠智衆)が、街で昔の乗組員だった修理工(加東大介)に出会って、トリスバーで一献傾ける場面がある。元水兵はバーの女の子に「軍艦マーチ」をリクエストして、雄壮なマーチをBGMに昔を懐かしむ。そして「あの戦争に勝っていたら、いまごろ艦長も私もニューヨークですよ」という酔客のSF的想像を語る。すると元艦長はにこやかに微笑みながら「いやあ、あれは負けてよかったよ」とつぶやく。それを聞いてきょとんとした元水兵はこう言う。「そうですかね。そういやそうですね。くだらない奴がえばらなくなっただけでも負けてよかったか。」

私はこの映画をはじめてみたとき、この言葉に衝撃を覚えた。戦争はときに不可避である。戦わなければ座して死ぬだけというときもあるだろう。それは、こどもにも分かる。けれども、その不可避の戦いの時運に乗じて、愛国の旗印を振り回し、国難の急なるを口実に、他人をどなりつけ、脅し、いたぶった人間がいたということ、それも非常にたくさんいたということ、その害悪は「敗戦」の悲惨よりもさらに大きいものだったという一人の戦中派のつぶやきは少年の私には意外だった。
その後、半世紀生きてきて、私はこの言葉の正しさを骨身にしみて知った。

国難に直面した国家のためであれ、搾取された階級のためであれ、踏みにじられた民族の誇りのためであれ、抑圧されたジェンダーの解放のためであれ、それらの戦いのすべては、それを口実に他人をどなりつけ、脅し、いたぶる人間を大量に生み出した。そしてそのことがもたらす人心の荒廃は、国難そのもの、搾取そのもの、抑圧そのものよりもときに有害である。

現代の若い人たちに「公」への配慮が欠如していることを私は認める。彼らに公共性の重要であることを教えるのは急務であるとも思う。しかし、おのれの私的な欲望充足のために、「公」の旗を振り回す者たち(戦後日本社会で声高に発言してきたのはほぼ全員がその種類の人間たちである)から若者たちが学ぶのは、そういう小ずるい生き方をすれば、他人をどなりつける側に回れるという最悪の教訓だけだと私は思う。

国旗国歌法によって日本社会はより悪くなるだろうと私は思う。だが、それは国旗や国歌のせいではない。
http://blog.tatsuru.com/2015/05/28_1617.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c5

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
6. 中川隆[-11683] koaQ7Jey 2019年3月06日 10:51:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[308]

世間から相手にされなくなった 70年代左翼のその後


講演 憲法について考えよう──子どもたちの未来に平和を──
2006年1月14日(土)午後1時30分 鋸南町中央公民館多目的ホール
講師・東北学院大学講師・世界キリスト協議会前中央委員
川端 純四郎

 ご紹介いたします。
 先生は1934年のお生まれです。東北大学文学部に学ばれ、博士課程を終えられてから、ドイツのマールブルグ大学に入学されました。帰国後、東北学院大学教員として35年間お勤めになりました。その後ひきつづき講師として、現在も勤務されています。一貫して平和、人権、政治改革の活動に積極的に関わっておいでになりました。

 「9条の会」の講師団メンバーとしても、全国を股にかけて講演なさっており、昨年は1年間で80回以上の講演会を開いておられます。

 先生は今朝8時前に仙台を発ち、はるばる鋸南町においで下さいました。今日の講師としてほんとうにふさわしく、よいお話をうかがえると思います。早速、先生からお話をうかがいたいと思います。 先生、どうぞよろしくお願いいいたします。
                                        安藤

 みなさん、こんにちは。 安房郡の水清き鋸南町に伺って、こうしてお話できることをありがたいと思っています。初めておうかがいしました。木更津まで来たことはあるのですが、今日、電車で君津を過ぎたらとたんに山が美しくなり、あそこまでは東京郊外のなんとまあみっともない風景でしたけれど、あそこから南に来ると一気にほんとうに昔のよき日本の風景がよみがえってくるようでした。ほんとうに嬉しく思いました。

 いま、「さとうきび畑」の朗読と、合唱団のコーラスをお聞きしたのですが、どちらも聞いていて涙が出ました。

 私は、戦争に負けた時小学校6年生でした。仙台で敗戦を迎えましたが、仙台も空襲で全滅いたしました。街の真ん中にいましたから、もちろんわが家も丸焼けでした。忘れられない思い出があります。街の真ん中の小学校でしたから、同級生が一晩で8人焼け死にました。隣の家の、6年間毎日いっしょに学校へ適っていた一番仲の良かった友達も、直撃弾で死にました。今でも時々思い出します。

 今このような歌を聞くと、どうしてもその人のことを思い出します。思い出す私の方はもう70になりますが、記憶に出てくるその三浦君という友達は、小学校6年生のまま出てきます。どうして小学校6年で人生を終わらなければいけなかったのか、生きていてくれたらいろんな事があったのに、と思います。戦争なんて二度としてはいけない、というのが一貫した私の願いです。

 私は牧師の家に生まれました。父はキリスト教の牧師で、教会で生まれ教会で育って、讃美歌が子守歌でした。牧師の中には戦争に反対した立派な牧師さんもおられたのですが、私の父のような多くの普通の牧師は、政治や社会に無関心で魂の救いということしか考えていませんでした。で、私もその親父に育てられましたから、大学を出、大学院に入って博士課程までいって、ずっとキルケゴールや実存哲学という、魂だけ見つめているような学問をやっていて、政治とか経済、社会とかは25歳までいっさい関心がありませんでした。

 25歳の時チャンスがあって、ドイツ政府の招待留学生となってドイツヘ勉強に行くことになりました。1960年のことでした。1960年にドイツへ行ったというだけで、どんなにノンポリだったか分かります。安保改訂問題で日本中が大騒ぎの時、それを尻目に悠々とドイツ留学に行ったのです。幸か不幸かまだ世界は貧しくて、飛行機などというものは贅沢な乗り物で、まだジェット旅客機機はありませんでした。プロペラ機でヨーロッパヘ行くには途中で何遍も何遍も着地し、給油して、今のようにノンストップでシベリヤを越えて、などというのは夢のような話でした。しかもベラ棒に高いのです。船の方があの頃はずっと安かったのです。特に貨物船に乗せてもらうと飛行機よりずっと安いのです。そこで一番安いのを探して、5人だけ客を乗せるという貨物船をみつけました。

 その船で神戸を出航し、インド洋からスエズ運河をぬけ、地中海を渡ってイタリアのジェノバに上陸。そこから煙を吐く蒸気機関車でアルプスを越えて、ドイツのマールブルクという町に着きました。

 実は、飛行機をやめて船で行ったということが、私の人生を大きく変えることになりました。あの時もし飛行機で行ったなら、私は一生、世間知らずの大学に閉じこもって勉強だけしている人間で終わった、と思います。

 ところが船で行ったおかげで、しかも貨物船に乗ったおかげで、私は途中のアジア・インド・アラブの国々をくわしく見ることができました。まっすぐ行けば船でも二週間で行くそうですが、何しろ貨物船ですから、途中港、港に寄って荷物を下ろし、また積んで、一つの港に4日から5日泊まっているのです。おかげでその間、昼間は上陸してそのあたりを見て歩き、夜は船に帰って寝ればいいのですから、東南アジアからアラブ諸国をくまなく見て歩きました。

 1ヵ月かかりました。神戸からジェノバまでのこの船旅。その時見たものが、私の人生を変えたのです。何を見たかはお解りですね。アジアの飢えと貧困という厳しい現実にぶつかったのです。

 降りる港、港で、ほんとうに骨と皮とに痩せせこけた、裸足でボロボロの服を着た子供達が、行く港も行く港、集まって来るのです。船の事務長さんに、「可哀想だが、何もやっては駄目だよ。1人にやると収拾がつかなくなるよ」と言われていました。だから心を鬼にして払いのけて通り過ぎるのですが、その払いのけて通り抜ける時に触った子供の肩、肉などなんにもない、ただ骨と皮だけのあの肩、あの感触が、今でも時々蘇ってきます。

 船に帰って、眠れないのです。明日も、あの子供たちに会う。どうするか。私が考えたことは、「神様を信じなさい。そうすれば救われます」と言えるか、ということでした。

どんなに考えたって、言えるわけがありません。飢えて捨てられた孤児たちに、こちらは着るものを看て、食うものを食っておいて、「神様を信じなさい、そうすれば救われます」などとは、口が裂けても言えないと思いました。牧師館で生まれて、キリスト教しか知らずに育って、キリスト教の学問をして来て、それではお前キリスト教って何なのか、25年お前が信じてきたキリスト教とは、飢えた子供たちに言えないようなキリスト教なのか。とれが私の考えたことでした。

 もし言えるとしたら、ただ一つしかない。そこで船を降りて、服を脱いで、子供たちに分けてやって、食っているものを分けてやって、そこで一緒に暮らす、それなら言える。言えるとしたら、それしかありません。言えるじゃないか、と自分に言い聞かせました。

 それなら、船を降りるか──。くやしいけど、降りる勇気がありませんでした。折角これからドイツヘ勉強に行くという時、ここで降りて、一生インドで暮らすのか、一生アジアで暮らすのか、どうしてもその気にならないのです。
 ですから理屈をこねました。

 「降りたって無駄だ。お前が降りて背広一着脱いだって、何百人人もいる乞食の子に、ほんの布切れ一切れしかゆきわたらないではないか。自分の食うものを分けてやったって、何百人もの子供が1秒だって、ひもじさを満たされる訳がないじゃないか。お前が降りたって無駄だ。それは降りたという自己満足だけで、客観的にはあの子らはなんにも救われない。」

 「だから降りない、勇気がないのではなく、無駄だから降りない。」と自分に言い聞かせるのです。でも、降りなければ「神様を信じなさい」とは言えません。言えるためには降りなければならない、しかし降りても無駄なのだ。

 堂々巡りです。寄る港、寄る港でこの間題に直面しました。毎晩毎晩同じ問題を考え続けて、結局、答えが見つからないまま、閑々として港を後にしました。、出港の時、あの子たちを見捨て自分だけドイツへ行くことに、強い痛みを感じました。これは永く私の心の傷になって残りました。

 このようにして初めて、世の中には飢えた仲間がいるという、当然分かっていなくてはいけない事実に、何ということでしょう、25にもなってやっと気づいたのです。飢えた子供たちがいる、それを知らんぷりしてドイツに行くのか、お前が降りてあの子たちと一緒に暮らすことはあまり意味ないかも知れない、しかしやっぱり船を降りないのだとしたら、せめて世の中に飢えた子供なんか生まれないような社会を作るために、自分で何かしなければいけないのではないか。ただ魂の中だけに閉じこもっていていいのか。

 これが、私がヨーロッパヘ行く1ヵ月の旅で考えたことでした。

 ドイツヘ行って、宗教の勉強をしました。ブルトマンというドイツの大変偉い先生の所に1年いて、いろいろ教わりましたが、結局、私の結論としては、実存哲学だけではだめだということでした。自分が自分に誠実に生きる──これが実存的、ということですが、それだけでは駄目だ。自分が生きるだけでなく、みんなが人間らしく生ることができるような世の中になるために、自分にできる何か小さなことでもしなければいけない。

 こう思うようになって、日本に帰ってきたのです。

 それじゃあ、世の中で、そのように飢えて死ぬような子がいなくなるような社会とは、どうすれば出来るのか。これはやっぱり、飢え、貧困、戦争、差別、そういうものが生まれる原因が分からなければ、除きようがありません。原因を勉強しなければいけない。そのためには社会科学を勉強しなければいけない。特に経済学を勉強しなければいけない──。

 ドイツヘの留学は、大学院の途中で行きましたので、帰国して大学院に復学しました。幸い東北大学は総合大学ですから、中庭をへだてて向こう側が経済学部でした。帰ってきた次の日から、私は、経済学部の講義を経済原論から、授業料を払わずにもぐりで、後ろの方にそっと隠れてずっと聞きました。

 それからもう45年になりますが、ずっと宗教哲学と経済学と2股かけて勉強してきています。今日も、多少経済の話を申し上げるわけですが、やっぱり自分がクリスチャンとして、今もクリスチャンであり続けていますが、同時に、自分の救いということだけ考えていたのでは申し訳ないと思うのです。現実に飢えて死ぬ子がいるのです。ユネスコの統計によると、毎日2万人の子が栄養不足で死んでいるそういう世の中、このままにしておくわけにはいかない、自分でできることは本当に小さいけど、その小さなことをやらなかったら、生きていることにならない──。そう思って45年過ごしてきたわけです。

 キリスト教の中でずっと生きていますので、一般の日本の人よりは外国に出る機会が多いと思います。特に世界キリスト教協議会という全世界のキリスト教の集まりがあります。その中央委員をしていましたので、毎年1回中央委員会に出かけて、1週間か2週間会議に参加しました。世界中のキリスト教の代表者と一つのホテルに缶詰になり、朝から晩までいろいろと情報交換したり論議したりします。そのようなことを7年間やりましたので、世界のことを知るチャンスが多かったと思います。それを辞めてからも、自分の仕事や勉強の都合で、今でも毎年二週間ぐらいはドイツで暮らしています。そうしていると、日本ってほんとうに不思議な国だということが分かってきました。

 日本にいるとなかなか分からないのです。島国ですし、おまけに日本語という特別な言葉を使っています。他の国との共通性がない言葉です。ヨーロッパの言葉はみんな親戚のようなものですから、ちょっと勉強するとすぐ分かります。一つの言葉の、ドイツ弁とフランス弁、ベルギー弁、オランダ弁というようなものです。日本で言えば津軽弁と薩摩弁の違い程度のものです。津軽と薩摩では、お互いに全然通じないとは思いますが、それでも同じ日本語なのです。ヨーロッパの言葉とはそういうものです。ですからお互いに何と無く外国語が理解できるというのは、別に不思議なことではないのですね。ですから、自分の国のことしか知らないという人は、非常に少ないのです。

 新聞も、駅に行けばどんな町でも、ヨーロッパ中の新聞が置いてあります。ドイツのどんな田舎町へ行っても、駅にいけばフランスの新聞もイタリアの新聞も売っていますし、それを読める人がたくさんいるのです。そういう社会ですから、日本人とはずいぶん違います。自分の国を客観的に見られる。他の国と比べて見ることができるのです。

 日本にいると比べられません。そのうえ、日本はマスコミが異常です。ワンパターンのニュースしか流しません。ヨーロッパではいろんなテレビがあって、テレビごとに自由な報道をやっています。バラエティー番組のようなものがなくて、ニューハ番組が充実しています。きちんとした議論をテレビでやっています。ですから日本にいるよりは、比較的自分の国の様子を客観的に見られることになります。ドイツに行く度に、日本とは不思議な国だなあと思うのです。

 例えば、もうだいぶ前、バブルの頃です。日本のある有名なモード会社がミラノに支店を出しました。そしてマーケティング調査をしました。どんな柄が流行っているか、アンケートを集めそれを整理するために、イタリア人女性3人雇ったそうです。アンケートの整理をしていたら5時になりました。あと少ししか残っていなかったので、日本ならの常識ですから、「あと少しだからやってしまおう」と日本人支店長は声をかけました。ところがイタリア人女性3人は、すっと立って「5時ですから帰ります」と言って出て行こうとしました。思わず日本人支店長は怒鳴ったのだそうです。「たったこれだけだからやってしまえ」と。途端にこの日本人支店長は訴えられました。そして「労働者の意志に反する労働を強制した」ということで、即決裁判で数万円の罰金をとられました。

 これがヨーロッパの常識です。つまり9時から5時までしか契約していないからです。5時以後は命令する権利はないのです。9時から5時までの時間を労働者は売ったんであって、5時以降は売っていないのですから、自分のものなんです。会社が使う権利はありません。当たり前の話です。

 その当たり前の話が日本では当たり前ではないのです。残業、課長に言われたので黙ってやる。しかもこの頃は「タダ残業」ですからネ。本当にひどい話です。常識がまるで違うのです。あるいは有給休暇。ドイツのサラリーマンは年間3週間とらねば「ならない」のです。3週間休まなければ罰せられます。日本は有給休暇など殆どとれません。ドイツでは取らないと罰せられます。ですからどんな労働者でも3週間、夏はちゃんと休んで、家族ぐるみイタリアへ行ってゆっくり過ごしてきます。有給になっているからです。或いは日本では1週間40時間労働です。ドイツはもう随分前から36時間です。土日出勤などありえない話で、日本のように表向き40時間労働でも、毎日毎日残業で、その上休日出勤、日曜日には接待ゴルフなど馬鹿なことをやっています。接待ゴルフなど、ドイツには絶対ありません。日曜日は各自が自由に使う時間で、会社が使う権利はないのです。

 そういうところもまるで常識が違います。或いは、50人以上だったと思うのですが、50人以上従業員がいる会社、工場は必ず、労働組合代表が経営会議に参加しなければいけないことになっています。そんなことも、日本では考えられないことです。ですから配置転換とかもとても難しいし、労働者の代表が入っているから、簡単に首は切れません。

 そういういろんな面で、日本の外に出てみるとびっくりするようなことが山ほどあります。日本という国は、高度に発達した資本主義国の中で例外的な国なのです。資本主義が発達した点では、アメリカにもフランスにもドイツにも負けないのですが、資本主義が発達したにしては、労働者が守られていない。或いは市民の権利が守られていない。会社の権利ばかりドンドンドンドン大きくなっているのです。それが日本にいると当たり前のように思われています。外国で暮らしていると、日本は不思議な国だと分かります。特にこの数年それがひどくなってきているのではないでしょうか。

 私たちの暮らしは、戦後50何年かけて、少しずつよくなってきました。例えば年金なんかも少しずつ整備されてきた。健康保険制度も整備されてきた。介護保険も生まれてきた。或いは、労働者も土曜日チャンと休めるようになってきた。ところがこの数年、それが逆に悪くなつてきています。年金は削られる一方、介護保険料は値上がりする、労働者は首切り自由でいくらでも解雇できる。労働者を減らすと政府から奨励金が出る。タダ残業はもう当たり前・・・。

 特にこの数年、構造改革という名前で、日本の仕組みが変わってきています。いま申し上げたように、戦後50年かけてみんなで、少しずつ少しずつ作ってきた、いわば生活の安心と安全を守る仕組み、そういうものが今はっきり壊されかかっているのではないでしょうか。

 小泉首相という人は「自民党をぶっ壊す」といって当選したのですが、この4年間を見ていると、あの人は自民党を壊したのではなく「日本を壊した」のではないかと思われます。これまで日本が戦後50年かけて作ってきた社会の仕組みが、バラバラにされているのです。フリーターとかニートがもう30%でしょう。そうなると当然、この人たちは生きる希望がありません。お先真っ暗。いまさえよければ、ということになる。ですから若者が当然刹那的になる。人生の計画なんて立たない。今さえよければということになっていきます。

 昔なら10年に1回あるかないかのような犯罪が、いま毎日のように起きています。私は仙台にいますが、この正月には赤ん坊の誘拐事件で一躍有名になってしまいました。あんなことが日常茶飯事として起こっています。栃木県で女の子が山の中で殺された事件は、まだ解決されていませんが、こんな事件が今は「当たり前」なのです。世の中がすさんできて、何が善で何が悪なのか、みんなに共通な物差しというものがなくなったというふうに思われます。

 そのような世の中の変化、私は多分、「構造改革」というものがその犯人なのだ、と思っています。

《逆戻りの原因はアメリカの変化》

 その構造改革というのは、どこから来たのか。もちろんアメリカから来たのです。アメリカが変化した、日本はそのアメリカに右ならえをした、それが構造改革です。

 それでは何が変わったのか、これが一番の問題です。この変化の行き着くところが、憲法改悪です。

 社会の仕組み全体がいま変わろうとしているのです。憲法も含めて。いったい何がどう変わるのか。いったいどういう構造をどういう構造に変えるということが構造改革なのか。そこのところがアメリカを見ればよく分かってきます。アメリカがお手本なのですから。

 アメリカはソ連崩壊後変わりました。ソ連とか東ドイツは自由のないいやな国でした。昔1960年に西ドイツヘ留学した折、東ドイツへ何回か行く機会がありました。ふつうはなかなか行けないのですが、幸いキリスト教国なので、ドイツのキリスト教はしっかりしていまして、東ドイツと西ドイツに分裂しても、教会は分裂しなかったのです。東西教会一つのまんまです。ですから、教会の年1回の大会には、西で開く時は東の代表がちゃんと来たし、東で開く時は西の代表が行けたのです。ですから一般の人の東西の往来が難しかった時でも、キリスト教の人だけはかなり自由に行き来ができました。

 私も連れていってもらって、何回か東ドイツへ行って見ました。ご存じのように自由のないいやな国でした。ですからソ連や東ドイツが崩壊したのは当然だし、いいことだと思います。しかしソ連や東ドイツが100%悪かったかというとそんなことはありません。良い部分もありました。何から何まで全部ひっくるめて悪だったというのも間違いです。基本的に自由がない。ですから、ああいう国は長くは続かない。これは当然そうだと思います。滅びたのは当然だと私は思います。

 しかし同時に、良い面はなくしては困るのです。良い面は受け継がなければいけません。最も目につくのは女性の地位でした。これは立派なものでした。いまの日本なんかより遥かに進んでいました。男女の平等が徹底的に保障されていました。専業主婦などほとんど見たことがありません。だれでも自由に外に出て、能力に応じて働いていました。それができるような保障が社会にあるのです。文字通りポストの数ほど保育所があって、子供を預け安心して働きに出られるようになっていました。同一労働同一貸金の原則はきちんと守られていて、女性だから賃金が低い、女性だからお茶汲みだけなどというようなことは一切ありませんでした。これは凄いなと思いました。あれは、日本はまだまだ見習わなければいけないことです。

 もう一つ私がびっくりしたのは、社会保障です。私が初めて東の世界を見たのは、何しろ1960年の頃のことです。日本はまだ社会保障がない時代でした。いま若い方は、社会保障はあるのが当たり前と思っておられる方も多いと思いますが、そんなことはないのです。日本は1972年が「福祉元年」といわれた年です。それまでは、福祉はなかったのです。大企業とか公務員だけは恩給がありましたが、商店の経営者とか家庭の主婦なんか何もありませんでした。健康保険も年金も何もありませんでした。72年からようやく国民皆年金、国民皆保険という仕組みが育ってきたのです。

 もともと資本主義という仕組みには、社会保障という考えは無いのです。自由競争が原則ですから、自己責任が原則です。老後が心配なら、自分で貯めておきなさい。能力がなくて貯められなかったら自業自得でしょうがない。こういうのが資本主義の考え方です。労働者が、そんなことはない、我々だって人間だ、人間らしく生きていく権利がある。だから我々の老後をちゃんと保障しろと闘って、社会保障というものが生まれてくるのです。自然に生まれたのではありません。

 労働者が団結して闘って、止むを得ず譲歩して社会保障が生まれてくるのです。資本主義の世界で最初の社会保障を行ったのはビスマルクという人です。ドイツの傑物の大首相といわれた人です。ドイツの土台を作った人ですが、この首相の頃、何しろマルクス、エンゲルスの生まれた故郷ですから、強大な共産党があり、国会で100議席くらいもっていました。そこで、ビスマルクが大弾圧をやるのです。社会主義取り締まり法という法律を作って共産党の大弾圧をし、片方では飴として労働者保険法という法律で、労働者に年金を作ります。世界で初めてです。辞めた後年金がもらえる仕組み、病気になったら安く治してもらえる仕組みを作った。こうやって鞭と飴で労働運動を抑えこんでいったのです。

 社会保障というのは、そうやって労働者の力に押されてやむを得ず、譲歩として生まれてくるのです。放っておいて自然に生まれてくるものではありません。
 そこへ拍車をかけたのが、ソ連や東ドイツです。ソ連や東ドイツヘいってみて、1960年の時点なのですから、日本にまだ社会保障などなかった時、そう豊かではなかったのですけれども、老後みながきちんと年金をだれでも貰える、そして、病気になればだれでも、医者に行って診察を受けて治療を受けられる。これにはほんとうに驚きました。これが社会主義というものかと、その時は思いました。ただ自由がないのです。例えば、牧師さんの家に泊めてもらうと、こちらがキリスト教徒ということが分かっていますから、牧師さんも信用して内緒話をしてくれるわけです。外国から来る手紙はみな開封されていると言っていました。政府が検閲して開封されてくる。だから、「日本へ帰って手紙をくれる時は、気をつけて書いてください。政府の悪口など書かれると私の立場が悪くなるから。手紙書くときは開封されることを頭に入れて書いてくれ。」というふうに言われました。こんな国には住みたくないなと思いましたけれど、同時に社会保障という点では驚きました。こういうことが可能な社会の仕組みというのがあるんだなあ、とこう思ったのです。

 その後、スターリン主義というものによって目茶苦茶にされていくのですが、私の行った頃はまだ、東側の社会保障がある程度きちっと生きていた時代です。こうして、ソ連や東ドイツが社会保障というものを始めると、資本主義の国もやらざるをえなくなってきます。そうでないと労働者が、あっちの方がいいと逃げ出してしまいます。ですから西ドイツが一番困りました。地続きですから、何しろ。ですから、東に負けないだけの社会保障をしなければならなかったのです。そうすると、自由があって社会保障があるのですから、こっちの方がいいということになります。いくら向こうは社会保障があっても自由がないのです。こうして西ドイツは大変な犠牲を払って、社会保障先進国になってきました。そのことによって、東ドイツに勝ったのです。

 実際西ドイツの労働者は、別に強制されたわけではありません。自主的に西ドイツを選んだのです。ですからあのような東西ドイツの統一も生まれてきたのです。

 つまり資本主義の国は、ひとつは自分の国の労働者の闘いに押されて。そこへもってきて、ソ連、東ドイツの社会保障という仕組みの外圧で、それに負けるわけにいかないものですから、そういう力があって、社会保障というものを造り出していくのです。しかし社会保障というものは莫大な財源がかかります。

《社会保障をやめて小さな政府へ──構造改革の中身(1)》

 いま日本政府は社会保障をどんどん削っていますけど、それでも国家予算の中で一番多い費目は社会保障です。大変な財源が必要なのです。そこで資本主義の国は、新しい財源を見つける必要ができてきます。

 そこで見つけたのが2つ。1つは累進課税です。それまでの資本主義にはなかった、累進課税という新しい仕組みです。つまり収入の多い人ほど税率が高くなるという仕組みです。日本でも1番高い時は1980年代、1番大金持ちはの税率75%でした。ですから、年収10億あれば7億絵5千万円税金にとられたのです。今から考えれば良く取ったものです。今は35%です。大金持ちは今ほんとうに楽なのです。35%ですむのですから。年収10億の人は3億5千万払えばいいのです。昔なら7億5千万取られたのです、税金で。「あんまり取りすぎではないか、これは俺の甲斐性で俺が稼いだ金。それを取り上げて怠け者のために配るのか。」と彼らはいいました。

 そうすると政府は、「いやそういわないでくれ。そうしないと、資本主義という仕組みがもたない。だから体制維持費だと思って出してくれ。そうでないと社会主義に負けてしまう」と言って、大金持ちからたくさん取ったのです。大企業も儲かっている会社からたくさん税金取った。法人税もずっと高かったのです、以前は。こうやって大金持ち、大企業からたくさん取る累進課税で一つ財源を作ったのです。

 もうひとつは、企業負担です。サラリーマンの方はすぐお分かりですが、給料から社会保障で差し引かれますね。そうすると、差し引かれた分と同額だけ会社が上乗せするわけです。自分が積み立てたものが戻ってくるだけなら、貯金したのと同じです。労働者の負担する社会保障費と同額だけ会社も負担しているのです。倍になって戻ってくるから、社会保障が成り立つわけです。

 これも資本主義の原則からいえば、おかしいことです。いまいる労働者の面倒を見るのは当たり前です。会社は労働者がいるから成り立っているのですから。だけど、辞めてからは関係ないはずです。契約関係がないのですから。辞めた人が飢え死にしようがのたれ死にしょうが、会社の責任ではないはずです。
 だけども一歩ふみこんで、それでは資本主義の仕組みがもたないから、労働者が辞めた後まで面倒みてくれ、そこまで企業負担してくれ、そうしないと資本主義がもたないから、ということになります。

 こうやって、社会保障というものが資本主義の国で成り立っているのです。これは、ただの資本主義ではありません。資本主義の原則に反するような累進課税とか、企業負担というものを持ち込んで、社会主義のよいところを取り入れた資本主義です。これを「修正資本主義」と呼びました。

 資本主義の欠点を修正して、社会主義に負けないようないい仕組みに造り直した資本主義ということです。学者によっては、資本主義の経済の仕組みと社会主義経済を混ぜ合わせた「混合経済」と呼ぶ人もいます。所得再配分機能を政府が果たすということです。もちろん修正資本主義というものは、このような良い面だけではなくて、公共事業という名前で国民の税金を大企業の利益のために大々的に流用するというようなマイナスの面もあることも忘れてはなりません。

 しかし、ともかくこうやって、西側の世界は、自由があって社会保障がある、そういう社会に変わっていくのです。そのことで東に勝ったのです。ところが、そのソ連と東ドイツが居なくなったのです。

 その前にもうひとつ。先進資本主義国というのは或る一種の傾向として、労働者が闘わなくなってきます。これは先進資本主義国の宿命のようなものです。つまり資本主義国というのはご存じのように、地球上の大部分を占めている低開発諸国、貧しい第3世界といわれた世界から、安い原料を買ってきてそれを製品にして高く売っています。そして差額、莫大な差額を儲けている。超過利潤と呼ばれています。だから遅れた国は働けば働くはど貧しくなるのです。一生懸命働いてコーヒー豆作っても、それを安く買われてチョコレートやインスタントコーヒーなどの製品を高く買わされるのですから、結局差額だけ損をすることになります。

 この20年、先進国と遅れた国の格差は開く一方、全然縮まらない。地球上の富を先進国が全部集めちゃって、とびきりぜいたくな生活をやっています。ですから先進国の労働者にも、当然そのおこぼれの分け前に預かるので、低開発国の労働者にくらべれば、ずっと豊かになります。豊かにれば闘わなくなってしまいます。その上、それを推し進めるようなありとあらゆる謀策が講じられているのです。

 資本主義というのは、物を売り続けなければなりたたちません。売ったものをいつまでも使われていたのでは、資本主義は成り立たないのです。早く買い換えてもらわなければなりません。いま、日本の車はよく出来ているので、30年は楽に乗れるのに、30年乗られたら日本の自動車会社はみな潰れます。3年か5年で買換えてもらわなれりばいけません。買い替えてもらうには、自分の車は古いと思ってもらう必要があります。ですからコマーシャルで、朝から晩まで何回も、「あんたは古い、あんたは古い。こんないい車ができてます。こんな新しい車が出ましたよ。もっといいのが出ましたよ」と宣伝して洗脳しいるのです。だから3年も乗ると、どうしても買換えざるをえない心境に引き込まれてしまいます。全てのものがそうです。まだまだ使えるのに新しいものに換えてしまう。そういう仕組みができているのです。

 そうしないと、資本主義はもちません。ですから労働者はどうなるかというと、「次、この車に買換えよう、次、パソコンこっちに買換えよう、次、今度はデジタルテレビに買換えよう、じゃあセカンドハウス、つぎは海外旅行・・・」。無限に欲望を刺激され、自分の欲望を満たす方に夢中になって、社会正義とか人権とか考えている暇がなくなっていくのです。

 いま日本の大部分がそうですね。「もっといい生活を」ということだけ考えています。ほかの人の人権だの社会正義なんて見向きもしない。見事に資本の誘惑にひっかかってしまいます。

 もちろん、欲しいからって、お金がなければ買えません。家がほしい、車がほしい、パソコンほしい・・・。それが、実はお金がなくても買える、なんとも不思議な世の中です。ローンというものがあるのですね。

 フォードという人が見つけたのです。それまでは、「つけ」で何か買うなどということは、労働者にはありませんでした。労働者が「つけ」で買ったのはお酒だけです。酒飲みはお金がなくても飲みたいのです。だから酒屋だけは「つけ」がありました。大晦日に払うか払わないかで夜逃げするかどうかもあったでしょうが、今は家を「つけ」で買う、車を「つけ」で買う、なんとも奇妙な世界になってきました。これをフォードが始めたのです。それまでは、自動車というのは大金持ちのものでした。フォードが、あのベルトコンベアーというのも発明して、大量生産を始めたのです。そうなれば、大量に売らなれりばなりません。大量に売るためには労働者に買ってもらわなくてはなりません。でも労働者にはお金がないのです。そこで、ローンという、とんでもないものを考え出したのです。ローンなら金がなくても買えるんですから、みんな買う。当然な話です。

 そりゃあ豊かなのに越したことはありません。マイホームが欲しくなる。ですからみんなローンで買う。そして「マイホーム」という感じになるのです。でも本当はマイホームではありません。あれは銀行のものです。払い終わるまでは、所有権は銀行のものです。銀行から借りてローン組んだだけなんです。こうして次々と新しいものを買わされていく。そのローンは多くの場合退職金を担保に組みます。一度退職金を担保にローンを組んでしまったら、ストライキはできなくなります。会社と闘って退職金がすっとんだら終わりなのです。家も途中でおしまいになってしまいます。ですから、ローンでマイホームが変えるようになってから労働運動は一気に駄目になりました。みんな闘わない、会社と喧嘩したくない、というふうになります。これはもちろん、向こうは計算済みのことです。

 ですから、高度に発達した資本主義社会というのは、労働者が、ある程度ですが、豊かになり、そして、このような消費社会に組み込まれてしまって、身動きができなくなるのです。

 こうして、いま日本では労働組合も、労働運動もストライキもほとんど力を失いました。そうなれば、政府は社会保障なんて、何も譲歩する必要がはありません。労働者が必死になって運動するから、止むを得ず健康保険とか年金制度とかやってきたのであって、労働者が闘わなければ、その必要はないのです。いま、どんどん社会保障が悪くなってきています。次から次から悪くなる。20年前だったら、いまのように社会保障が悪くなったらたちまち、大ストライキが起こりました。しかし今は何も起きません。労働組合が弱体化している、労働運動が骨抜きという状態です。

 そこへもってきて、ソ連や東ドイツがいなくなったのです。こうなればもう社会保障をやる必要はありません。社会保障は止めます、修正資本主義は止めます、ということになるわけです。修正資本主義にはいろいろな意味があるのですけど、一つの特徴は、大金持ちや大企業からお金を取って、弱い立場の人たちに配るところにあります。所得再分配と言われる働きです。だから政府は大きな政府になります。こういう仕組みが修正資本主義で、いろんなマイナス面もあるのですが、プラスの面も大いにあります。

 この仕組みをやめる、というのが今のアメリカです。もう政府は面倒みません、自分でやりなさい、と自由競争に戻る。自由競争一筋。これが、ソ連が崩壊した後に新しくなったアメリカの仕組みなのです。そして、それに日本が「右へならえ」ということなのです。

 それに対してヨーロッパは、アメリカのいうことを聞かず、「われわれはこれからも、社会保障のある資本主義でいきます。むき出しの裸の自由競争には戻りません」。これがヨーロッパなのです。なぜヨーロッパがそういえるかというと、労働運動が強いからです。先進資本主義国なのになぜ労働運動が弱くならないのか。これはこれで時間をかけて考えなければならない問題なのですが──。

 現実の問題として強い。ヨーロッパだって大企業は社会保障を止めたいにきまっています。しかし止めると大騒ぎになります。労働者が絶対に言うことを聞きません。だからやむを得ず守っているのです。企業負担もうんと高いです。日本の会社の倍以上払っています。ですからトヨタ自動車もフランスに、フランス・トヨタを作っていますけど、日本トヨタの倍以上払っています。それでも儲かっているのです。

 ですから、ヨーロッパでも、社会保障は少しずつ悪くなってきてはいますが、日本に比べれば遥かに違います。このようにして、ヨーロッパはアメリカと別の道を進み始めました。アメリカは剥き出しの資本主義に戻りますが、ヨーロッパは修正資本主義のままでいこうとしています。

 しかし、それでは競争で負けます。アメリカや日本は企業の社会保障負担がうんと減っていますから、利潤が増えています。ヨーロッパは高い社会保障負担でやっていますから、儲けが少ないのです。そこで競争しなくてすむようにEUいうものを作って、枠を閉ざしちゃいました。アメリカや日本の会社がヨーロッパに来るときは、ヨーロッパ並みの負担をしなければ、EUには入れません。だからEUの中でやっている時には、日本にもアメリカにも負ける心配はないのです。

 そういう仕組みを作って、アメリカとは別の道を進み始めました。そのためにユーロという別のお金も作りました。イラク戦争で表面に出てきたのですが、イラク戦争がなくても、ヨーロッパはアメリカとは別の道を進み出していました。もう2度とアメリカとは一緒にならないでしょう。

《規制緩和とグローバリゼーション − 構造改革の中身(2)》

 もう一つ、ソ連、東ドイツ崩壊の結果、アメリカが大きく変化したことがあります。それは何かというと、大企業・大資本を野放しにしたことです。

 ソ連がいる間は、大企業や大資本に、「あなた達は資本主義なんだから儲けたい放題儲けたいだろうけど、それをがまんしてください。あなたたちがやりたい放題にやったら、他の資本主義国はみんな負けてつぶれてしまう。アメリカの資本と競争できるような資本などどこにもありませんから。そうなれば、ソ連の方がましだということになる。だから、やりたい放題は抑えてほしい」と言ってその活動を制限してきました。

 具体的に何を抑えたかというと、為替取引を規制したのです。これが一番大きな規制です。いまではもう、中央郵便局へ行って「ドル下さい」といえば、すぐドルをくれます。「100ドル下さい」といえば「ハイこれ1万2千円」。ユーロでも、「下さい」といえば「100ユーロ・ハイ1万4千円」とすぐくれます。でもこれはごく最近のことです。それまでは、外貨・外国のお金は、日本では勝手に手に入りませんでした。お金を外国のお金と取り替える、つまり為替取引は厳重に規制されていて、個人が勝手にはできなませんでした。外国旅行に行くとか、何か特別な理由が認められた時しか、外国のお金は手に入りません。いまは何も制限ありません。自由にだれでもいつでもできます。理由など聞きませんから、100ユーロとか千ドルくださいと言えば、そのままくれます。これが為替取引の自由化というものです。これがなかったのです。ソ連が崩壊するまでは、アメリカも厳重に規制していました。それをとっぱらったのです。理屈っぽく言えば、資本の国際移動が自由にできるようになったということです。こうして、アメリカの巨大な金融資本が、世界中を我が物顔にのし歩く時代が来るのです。

 もうソ連も東ドイツもなくなったのですから、「いや永いことお待たせしました。今日からもう儲けたい放題儲けていいですよ。やりたい放題やっていいですよ」ということになったのです。これが規制緩和とことです。規制緩和ということは要するに、大資本が野放しになったということです。そうなったらどうなるか、世界第2の経済大国といわれる日本でさえ、全然太刀打ちできません。アメリカの巨大資本、金融資本・銀行ですね。日本の銀行とは勝負になりません。ボブサップと私が裸で殴り合ぅようなもので、一コロで殺されてしまいます。

 それでもやれというなら、ボブサプは手と足を縛ってもらって、目隠ししてもらって、こちらは金槌でも持たしてもらって、それでやっと勝負になるのです。今まではそうだったのです。それを全部外して自由にする、無条件で自由競争にするというのです。負けないためには、相手に負けない位大きくなるしかないですから、合併、合併、合併。あっという間に30ほどあった都市銀行が3つになってしまったのです。UFJとか「みずほ」とか、元何銀行だったか覚えておられる方おられますか。すぐ言えたら賞金をさし上げてもよろしいのですが、まず、言える方おられないでしょう。合併、合併であっという間に3つになりました。3つにになってやっとなんとか対抗できるというくらいにアメリカの巨大銀行というのは大きいものなのです。それでもダメで、長銀はのっとられてしまいました。北海道拓殖銀行も山一証券ものっとられてしまいました。次々とのっとられています。

 ついこの間は青森県の古牧という温泉がのっとられまし。広くていい温泉なんですけど、驚いたことにゴールドマンサックスでした。世界最大のアメリカの金融投資会社、ハゲタカファンドの代表のようなものです。これがどうして古牧温泉なのかと思ったのですが、テレビで放送していました。古牧だけではありません。他に28ケ所、超有名温泉みんな買い占めちゃったのです、ゴールドマンサックスが。どうするかというと、従業員みんな首切っちゃってパートにして、腕利きのマネージャーを送り込み、部屋をヨーロッパ、アメリカ向きに整備しなおして、欧米からの観光客をワーツと呼ぼうという作戦なんですね。儲かるようにして高く売るのです。ゴールドマンサックスが経営するのではありません。いま赤字の会社を買い取って、儲かるように造り直してすぐに売っちゃうのです。これが投資銀行のやっていることです。確かに、いわれてみればそのとおりで、日本の温泉ほどいいものはありません。知らないだけで、こんないいものは世界中どこにもありません。だから日本の温泉の良さが分かったら、おそらくヨーロッパ、アメリカからごっそり観光客が来ると思います。そこにゴールドマンサックスが目をつけたのですね。そして近代経営やって外国人が来て楽しめるような設備に変えて、世界中にジャパニーズスパーなんていって売り出す気なのですね。ですから、そのうち皆さんも温泉にいらっしやるとみんな英語で案内され、アメリカのお湯の中に入ることになってしまいます。

 アッという間に日本はアメリカ資本に乗っ取られようとしています。去年のホリエモン合併もそうです。今年から商法改正(改悪)して、乗っ取りを認めるということになったのです。株の等価交換、面倒な仕組みですから詳しいことは申し上げませんが、アメリカ株1億ドル分と日本の株1億ドル分を、等価父換していい、こういっているんです。ところが、アメリカの株の値段が高いのです。ですから1億ドルといっても、株の数からすると、例えば千株位しかない。日本は株が安いですから、同じ1億ドルで1万株位あるのですね。そうすると、千株と1万株で取り替えますから、あっという間にアメリカは大株主になってしまう。この等価父換を認めると、日本の大企業全部乗っ取られてしまう。

 そこで、日本の優良企業が狙われています。超優良企業を株式等価交換で、簡単にアメリカが乗っ取ることができる。今年からそれが可能になるはずだったです。それで去年、実験をやったのですね。ホリエモンにやらせてみたのです。ホリエモンはアメリカのリーマン・ブラザースから借りてやったのです。で、出来そうだなと分かったので、アメリカはお金を引き上げてしまいました。ホリエモンに乗っ取られては困る、いずれ自分が乗っ取るのですからネ。最後の段階で資金引き上げましたたから、ホリエモン降りる外なかった、多分そういう仕組みだったのではないかと思います。

 今年から自由に、日本中の会社をアメリカが乗っ取れるはずだったのですが、あのホリエモン騒動のおかげで日本の大企業が震え上がり、政府に泣きついて、「なんとか商法改正を見送ってくれ」と。それで見送りになりました。ですから、ちょっと一息ついているのです。今年すぐ、乗っ取られるというわけではありません。でも、いつまでも見送りというわけにはいかないでしょう。2・3年後には解禁。そうなれば、日本はほぼアメリカ資本に支配される、ということになるでしょう。

 日本ですらそうなのですから、まして、フィリピンとかタイとかいう国はたまったものではありません。あっという間に乗っ取られてしまいます。アメリカに勝手に経済的属国にされてしまう。それに対して、いやそんなの困るから、アメリカ資本が自分の国の株を買うことを法律で禁止する、というようなことをやろうとすると、アメリカはそれを認めないのです。グローバリゼーションだから地球はは「一つ」だというのです。いくら規制緩和しても相手国が法律で規制してしまったら終わりです。ですから、自分の国だけ勝手に現制することは認めません、地球はひとつですよ、グローバリゼーションですよ、ときます。フメリカの大資本が地球上のどこの国でもアメリカ国内と同じ条件で商売できるようにする、これがグローバリゼーションです。いやだと断ると制裁を加えられます。

 クリントン大統領の時は経済的制裁だけですんだのですが、ブッシュになってから、軍事的制裁になりました。いうことを聞かないと軍事制裁だぞという、これがネオコンという人たちの主張です。イラクを見ればみな震え上がるでしょう。ですから、アメリカの言いなりにグローバリゼーションで国内マーケットを開放して、アメリカ資本に全部乗っ取られてしまう、というのがいま着々と進行しているのです。

《アメリカの孤立》

 そこでどうなったかというと、ヨーロッパと同じように、「そんなの困る。自分の国の経済の独立は自分たちで守りたい」という人たちが手を繋いで、「アメリカに支配され引きずり回されないように、防波堤を作ろう」という動きが始まりました。だいたい5・6年前からです。アセアン(ASEAN東南アジア諸国連合)の動きが始まりました。5つの国です。インドネシア、タイ、マレーシア、シンガポール、フィリピン。元来はアメリカが造らせた組織だったのですが、いつのまにか自主独立を目指す組織に成長しました。

 手を繋ぎ、アメリカに引きずり回されないように、アメリカの資本が勝手に入ってこないように、自分たちの経済は自分たちでやりましょう、と。ところが、ASEANが束になったってアメリカにはとてもかないません。そこで、知恵者がいました。アセアンだけではかなわないので、中国と手を繋いだのです。「アセアン、プラス中国で、アジアマーケットを作り、アメリカにかき回されないようにしよう」しようというのです。確かに、中国が入ったらアメリカはうかつに手が出せません。しかし中国だけ入れると、反米色があまりにも露骨ですから、「アセアン、プラス・スリーでいきましょう。アセアン+日本+韓国+中国、でいきましょう」ということになります。日本はアメリカの51番目の州だといわれているのですから、日本が入れば、アメリカも安心します。

 EUのように、アセアン+スリーで、自分たちの経済は自分たちでやれるように、アメリカに引きずり回されないような自立したアジアマーケットを形成することが目標です

 ただひとつ、日本が具合が悪いのです。日本はそのスリーに入っているのですが、(アセアンの会議に)行く度に「アメリカも入れろ、アメリカも入れろ」というのです。アセアン諸国はアメリカから自立するために作っているのですから、「アメリカを入れろ」といわれたんじゃあ困るので、結局日本は棚上げになってしまいます。実際にはアセアン+中国で、経済交流が進んでいます。いずれ2010年には、東アジア共同体・EACというものを立ち上げる、という動きになっています。
 そうなってくると韓国が困りました。日本・アメリカ側につくのか、中国・アセアン側につくのかで、2・3年前から中国側に大きく傾いています。留学生の数を見ると分かります。中国の北京大学には世界中の留学生が集まります。21世紀は中国と商売しなければメシが食えなくなることが分かっていますから、将釆、中国語がしゃべれる人が自国のリーダーになり、中国の指導者に友達がいないと困ります。それには北京大学に留学するのが一番いいのです。あそこはエリート養成学校です。この前行った時聞いてみたのですが、入学試験競争率5千倍だそうです。超難関です。大学の構内を歩いて見たのですが、広い敷地に6階建てのアパートが36棟ぐらい建っていて、みな学生寮です。全寮制。そばに教職員住宅があって、朝から晩まで共に暮らしながら勉強しています。授業は朝7時からです。ものすごく勤勉に勉強しています。35年間私は大学の教員でしたが、愛すべき怠け者の学生諸君を教えてきたわが身としては、「あ、これはかなわないなァ、20年もしたら──」と思いました。向こうは国の総力を上げて次の時代の指導者を養成しているのです。日本はもう全然、ニートとかフリーターとかいって、若者の気迫がまるでレベルが違います。これは置いていかれるな、という気持ちになりました。このように世界中の国が、いま一流の学生を北京大学に送り込んでいるのですが、去年、北京大学留学生の中で一番数が多いのが韓国なのです。

 おととしまで韓国の学生は殆どアメリカヘ行っていました。去年あたりから中国へ変わったようです。つまり韓国は、21世紀の自国は、アメリカ・日本ではなく、中国・アセアンと組むことで繁栄を図りたい、と向きを変えたということです。

 それに拍車をかけたのが小泉首相の靖国参拝。これで韓国は怒っちゃってあちらを向いた。そうなると、アセアン、中国、韓国と繋がって、日本だけはずされてしまった、という状況がいま生まれつつあります。

 さらに中国は、数年前からいま、「ふりん政策」を国の方針としています。フリンといっても男女の不倫ではありません。富、隣。隣の国を富ます、隣の国を豊かにする──富隣政策です。隣の国と仲良くする。中国だけ儲けたのでは相手に恨まれてしまいます。英語では「ウィン、ウィン」(win-win)というようです。どっちも勝つ、中国も儲けるけど相手も儲けるような関係を必ず作っておく、ということが基本政策です。

 つまりアメリカは、やっとソ連を倒したと思ったら、今度は中国が出てきたのですから、中国を目の敵にしているのは当然です。中国にすれば、アメリカにやられないためには、単独では対抗できませんから、周りの国と手をつなぐ、ということです。

 アメリカは修正資本主義を止めて自由競争の資本主義に戻りました。その結果大企業・大資本は野放しになりました。そのためにアジアにそっぽを向かれることになりました。アメリカにはついていけない。アメリカに勝手にされては困る。もちろんアメリカと喧嘩をしては駄目ですが、自分の国は自分の国でやれるようにしなければならない──、というふうに変わったのです。

 そして最後に、3年前から南米が変わりました。ようやく日本でも報道されるようになりましたからご存じと思います。ただ日本のマスコミはちょっとしか書きませんから、気づいておられない方もおありかと思います。南米がものすごい勢いでアメリカ離れを始めたのです。

 今まで200年、南米はアメリカの裏庭といわれていました。アメリカはやりたい放題やっていました。チリは世界一の銅の産出国ですが、このチリの銅はすべて、アナコンダというアメリカの銅会社が一手で採掘していました。だからいくら掘ってもチリは豊かにならない。アメリカのアナコンダだけが儲かるのです。

 ブラジルは世界一の鉄の産地です。これもみな掘っているのは欧米の会社で、いくら掘ってもブラジルは豊かにならない。ベネズエラは世界第五位の産油国です。これもみなアメリカの石油資本が持っていく。

 こういう国はこれまで軍事独裁政権でした。政治家は、自分の国の資源をアメリカに売り渡し、自国の国民の反発は力で抑えつけ、莫大なリベートを貰って自分たちだけベラボウな贅沢をしてきました。これがアメリカと南米のパターンだったのです。

 それが、3年ほど前から、「おかしいではないか。やっぱりベネズエラの石油はベネズエラ人のものだ。石油を掘ったら、ベネズエラが豊かにならないとおかしいではないか。いくら掘ってもアメリカだけ儲けるのはおかしい。石油をアメリカの石油会社から取り上げて、ベネズエラで掘ることにしよう。国有化しよう」というような政策を訴える大統領が、当選するようになりまし。この3年間で、南アメリカは80%が、このような自主独立派の大統領になりました。アメリカ資本に任せず、自国の経済は自分でやろうという政策を掲げた大統領が、次々と当選したのです。
 いまでは、南アメリカでアリカの言いなりというのは、多分コロンビアしかないと思います。あとは殆どみな、自分の国は自分でやりましょというふうに変わってきました。ベネズエラのウゴ・チャベスという人がそのチャンピオンです。ご存じですね、時の人です。アメリカはそのチャベスの当選を必死になって妨害したのですが、結局ダメでした。チャベスが圧倒的多数で選出されました。その彼の言い分がふるっているのです。

 「失礼にならないようにアメリカから遠ざかりましょう」というのです。いきなり遠ざかったのではゴツンとやられますから、アメリカを怒らせないように、喧嘩しないように、少しずつ「小笠原流」で遠ざかって自主独立に向かいましょうというのです。

 これがいま世界の合言葉です。「失礼にならないようにアメリカから遠ざかる。」日本もそうしなければいけない、と私は思っているのですが。絶対にやりません。

 こうやってアメリカは、ソ連や東ドイツがなくなってから、修正資本主義をやめて、いまの言葉でいえば「新自由主義」という仕組みに代わりました。日本はそれに右ならえしたのです。いま申し上げたように、このアメリカの新自由主義経済に無条件で追随しているのは、日本しかありません。あとはみな、「失礼にならないように」距離をおきました。日本だけが無条件でついていきました。だから「ポチ」だといわれるのですネ、確かにポチと言われてもしょうがないほど、無条件でついていきます。それは恥ずかしいことですが、日本が追随していく。これが構造改革なのです。修正資本主義経済から新自由主義経済に変わるということです。簡単にいえば、弱い人の面倒を政府が見るような仕組みから、もう弱い人の面倒は見ませんという仕組みに、変わっていく──。これが構造改革です。

 だから、社会保障はどんどん悪くなる。自由競争で勝ち組と負け組がある。中には1千万ぐらいのマンション買って落ち着いているのもいる。片方には、国民健康保険料さえ払えなくて医者にも行けない。そういう人がもう全国で膨大な人数出てきている。まさに格差社会です。

 どんどんその格差が広がっています。金持ちからお金を取って弱い人の面倒を見る、というのが修正資本主義なのですが、それを止めてしまいました。野放しなのです。強い人はますます強くなり、弱いものは負けたら自己責任なんですよ。こういう仕組みにいま変わったのですね。

 それがいいか悪いか、止むを得ないのかどうかは、いろいろな立場によって考えが違うのですが、事実はそうなったのです。

 しかしヨーロッパは別の道をとっています。このように別の道もありうるというのも事実なのです。ヨーロッパのように社会保障を止めない資本主義もあり得るのです。

 日本の場合、アメリカほど徹底していませんが、流れとしては「政府はもう弱い人の面倒は見ません」、という方向に大きく動いています。

《憲法改悪の要求》

 こうして、アメリカは新自由主義経済で自国の企業を野放しにして、それを世界中に押しつけようとしたのですが、意外に抵抗が大きかった。ヨーロッパはいうことを聞かない。アジアも聞かない、南米も聞かない。これでは困るので力づくで押しつける。こういうことになるのですね。力づくで押しつける時に、最大の目標・ターゲットはもちろん中国です。やっとソ連を倒して、21世紀はアメリカが王様になれると思ったら、中国が巨大な国になってきて、アレリカの前に立ふさがっいます。このままではアメリカは王様ではいられません。中国を抑え込むことが21世紀へ向けてのアメリカの最大の長期的課題になっています。しかし戦争はできません。中国と戦争したのでは共倒れになります。唯一の道はエネルギーを抑えることです。

 ネオコンという人たちの書いた文章を読むと、非常にはっきり書いてあります。21世紀にアメリカが世界の支配権を握るには、中近東の石油を抑えなければならないというのです。中国は石油の自給ができません。どんどん石油を輸入していますが、殆どいま中近東から輸入しています。アメリカが中近東の石油を抑えれば、中国はアメリカのいうことを聞かざるをえなくなる。当然でしょうね。
 世界一の産油国サウジ・アラビアはすでにアメリカ側の国です。そこで第二の産油国であるイラクをアメリカは分捕りたいのですが、その理由がありません。そこでアメリカは「大量破壊兵器、テロ応援」という嘘をつきました。プッシュ大統領も、ついにウソであったことを認めました。

 ではなぜイラク戦争をやったのか。本当の理由はまだ公表されていません。しかしネオコンという人たちの文章を読むと、明らかに「石油を抑える。抑えてしまえば中国は言うことを聞かざるをえない」。ここに本当の理由があったことは明白です。そうだとすれば、恐ろしい話ですが、(次に)絶対にイランが狙われます。

 世界第1の産油国サウジアラビアは、昔からアメリカの同盟国です。第2位のイラクは抑えてしまいました。そしてイランは第3位の産油国です。ここを放っておいたのでは意味がないのです。中国はいくらでもイランから石油の輸入ができます。どうしてもイランまで抑えなければならないというのは、アメリカでは、いわば常識です。どんな新聞雑誌でも次はイランだということが堂々と語られています。

 ライス国務長官も3日前、「今イランに対するは軍事力行使の予定はない」と言っていました。「今は」です。イランは核開発やっているというのが理由です。たしかに妙な国ですが、しかし別に悪い国ではありません。あのあたりでは1番民主的な国です。曲がりなりにも選挙で大統領を選んでいますから。女性はみな顔を出していますし、大学へもいっています。イランは近代化した国なのです。サウジアラビアなどの国に比べたら、ずっと民主的な近代国家です。イスラム教のお妨さんが、選挙で選ばれた大統領より偉い、というのだけが変ですが、全員がイスラムですから、他国がとやかく言うことではないです。

 ですから、イランが悪魔の国というのは嘘なのです。イラクがそういわれたのも同じで、要するに悪魔の国と誤解させて、戦争しかけてもやむを得ないと思わせるための宣伝が行われているのです。

 イランはイランで、自分で自分他ちの国を近代化していけばいいのであって、核兵器持つなといっても、隣のパキスタンもインドも持っているのです。こちらのイスラエルもです。イランだけ持つなといっても、聞くわけありません。イランに持たせたくないのなら、「俺も止めるからあんたも」と言わなければなりません。

「俺は持っている。お前だけ止めろ」と言ったってイランが聞くわけありません。そんな理屈が通るはずがないのです。実に馬鹿な理屈です。本当にイラクに核開発をやめさせたいのなら、イギリスもフランスもアメリカも 「先ず自分が止める、だからお前も止めろ」と言うしかありません。お前だけ持つなと言って、聞くと思う方がどうかしています。核開発は現在の大国の論理では抑えられません。イランに言わせれば、「イラクがなぜあんなに簡単に戦争しかけられたかといえば、核兵器を持っていなかったからだ。持っていたら恐ろしくてとても戦争なんか仕掛けられない」ということになります。だからイランはいま核開発を急いでいるのです。核兵器を持たないとアメリカに攻められるから。そう思い込んでいるのです。

 そう思わせるようなことをアメリカはやってきたのですから、イランに核兵器開発を止めさせるためには、イラクから撤収して、中東の平和は中東に任せる、という姿勢を示すしかありません。自分がイラクを分捕って居座ったままで、イスラエルやパキスタンやインドの核兵器には文句をいわずイランにだけ、というのは通じない理屈です。実にゆがんだ国際常識というものが罷り通っている、と思います。

 もしアメリカがイランまで分捕ってしまえば、サウジアラビア、イラン、イラクと合わせて、世界の石油の70%ぐらいになるはずですから、中国はアメリカのいうことを聞かざるをえなくなります。だからつぎはイランだというのが、ネオコンの論理です。

 ただ問題は、イランに戦争を仕掛けるとしても単独ではできなません。兵隊がたりない。徴兵制ではなく志願兵制度ですから。いま、ありったけの兵隊さんがイラクに行っています。あれ以上いないのです。だからハリケーンが来ても出せなかったのですね。そうすると、イランに出す兵隊なんていないのです。そこで、アメリカの右翼新聞の社説など、堂々と書いています。「イラクにいるアメリカ軍でイランを乗っ取れ。カラッポになったイラクの治安維持は、日本にやらせろ」と。

 アメリカの論理から言えばそうなるのでしょう。自衛隊にイラクの治安維持をといいますが、実際は内乱状態ですから、今も毎日アメリカ兵は毎日5人位殺されています。そんなこと引き受けたら、自衛隊員何人死ぬか分かりません。第一そんなことは、憲法9条があるかぎりできないのです、絶対に。憲法があるおかげで、自衛隊はイラクにいますけれども、ピストル1発撃つことができないのです。憲法9条第2項というのがあるのです。自衛隊は戦力ではない・交戦権はないとなっていますから、不可能なのです。だから給水設備備を作るとか、学校修理とか、そういうことしか出来ません。これじゃあアメリカから見れば役に立たないのです。

《平和憲法こそ 日本生存の大前提》

 そこで、「9条2項を変えて、戦争ができる自衛隊になってくれ」というのがアメリカの強い要求なのです。みんな分かっています。言わないだけです。日本の新聞記者も知っています。しかし、「9条変えろ」がアメリカからの圧力、と書くと首になるから書かないだけです。でも誰も知っています。アメリカのに戦争に参加しなさい、という強い圧力がかかっているのです。

 ここのところをよく見極めておくことが必要です、「9条を守る」ということは、「アメリカの言いなりにならぬ」ということと一つ、なのです。

 アメリカと喧嘩しては駄目ですから、「失礼にならないようにアメリカから遠ざかる」のが何よりも大切です。仲良くするけれども言いなりにはならない、ということです。ところが、憲法が危ないという、この危機的な状況にもかかわらず、国内で労働運動が弱体化していますから、ストライキも起きない。大きなデモも起きない。大反対運動も起きない──。という状況です。

 ではもう駄目なのでしょうか。そうではないと思います。それには日本の国内だけではなく、世界に目を向ける、アジアに目を向けるこちとが必要のです。ご存じのように、これからの日本は、中国と商売せずには、生きていけなくなりま。いま、大企業だけですけど、多少景気がよくなってきています。全部中国への輸出で持ち直したのです。中国マーケットがなくなったら日本経済はおしまいだ、ということは誰も分かってきています。

 お手元の資料の中の(貿易額の)丸い円グラフは、2003年のもので少し古いのですが、アメリカ20.5%、アジア全体で44.7%、つまり日本にとって一番大事な商売の相手は、アメリカではなくてアジアなのです。

 アジアと仲良くしなかったら、経済が成り立たないところへ、いま既にさしかかっているのです。左隣の棒グラフは2004年ですが、左上から右に折れ線がずうっと下がってくる。これが日本とアメリカの貿易です。点線で右へずうっと上がっていくのが中国との貿易。遂に去年(2つの折れ線が)交差し、中国との貿易の方がアメリカとの貿易額より多くなりました。しかも鋏状に交差していますから、今後この2つは開く一方になってきています。

 つまり、あと2・3年もすれば、日本は中国との商売なしには生きていけない、ということが国民の常識になるということです。いま既に、中国を含めたアジアが、日本の一番大事なお客さんなんです。仲良くしなければいけません。一番大切なお客さんの横っ面ひっぱたいたんじゃ商売は成り立ちません。

 靖国参拝などというものは、一番大事なお客さんの横面ひっぱたくと同じことなのですから、個人の信念とは別の問題です。小泉首相は総理大臣なのですから、個人の心情とは別に日本の国全体の利益を考えて行動しなければいけません。それは総理大臣の責任だと思います。その意味でアジアと仲良ぐできるような振舞いをしてもらわなければ困るのです。

 もう一つ。アメリカとの商売はこれからどんどん縮小していきます。それは、ドルというものの値打ちがどんどん下がっていくからです。これはもう避けられません。
 昔はドルは純金だったのです。1971年まで、35ドルで純金1オンスと取り換えてくれました。だからドルは紙屑ではありませんでした。本当の金だったのです。

 われわれのお札はみな紙屑です。1万円なんて新しくて随分きれいになりましたけど、綺麗にしただけちょっとお金がかかって、印刷費に1枚27円とかかかると聞きました。27円の紙がなぜ1万円なのか。これは手品みたいなものです。あれが5枚もあるとなかなか気が大きくなるのですが、本当は135円しかないのです。それが5万円になるのは、法律で決めているのです。日銀法という法律で、こういう模様のこういう紙質のこういう紙切れは1万円、と決められている。だから、あれを1万円で受け取らないと刑務所に入れられます。法律で決まっているからです。ですから日本の法律の及ぶ範囲でだけ、あれは1万円なのです。その外へ出ると27円に戻ってしまいます。

 金と取り換わらないお札というのは、簡単にいえばその国の中でしか通用しません。他の国へ行ったら、その国の紙屑と取り換えなければ通用しません。ところが、ドルだけは世界で通用しました。純金だからです。

 ところが、1971年にアメリカはドルを金と取り換える能力を失いました。ベトナム戦争という馬鹿な戦争をやって莫大な軍事費を使ったのです。背に腹は代えられなくてお札を印刷し、航空母艦を造ったりミサイル、ジェット機を作ったりしたのです。そのために、手持ちの金より沢山のお札を印刷しちゃったのです。

 その結果、アメリカは、ドルを金と取り換える能力を失ったのです。そこで、71年8月15日、ニクソン声明が出されました。「金、ドル交換停止声明」です。あの瞬間にドルも紙屑になったのです。ドルが紙屑になったということは、ドルがアメリカの国内通貨になったということです。

 ところが、問題はそれ以後なのです。世界で相変わらずドルが適用したのです。皆さんも海外旅行へ行かれる時は、大体ドルを持って行かれますね。どこの国へ行っても大丈夫なのです。金と取り換えられないお札が何故世界で適用するかは本当に不思議で、経済学者にとって最大の難問なのです。いろんな人がいろんな答を言っていますけど、あらゆる答に共通しているのは、ひとつは「アメリカの力の反映」だから、ということです。

 つまり、日本が自動車を作ってアメリカヘ売ります、ドルを貰いますネ。日本は損をしているのです。自動車という貴重なな物質がアメリカへ行って、紙屑が返ってくるのですから。物が減ってお札だけ増えると必ずバブルになります。

 バブルの犯人はそこにあるのです。日本が輸出し過ぎて貿易黒字を作り過ぎているのです。だから日本は、アメリカに自動車を売ったら、「純金で払ってください」と言わなければなりません。ところがそう言うと、ジロッと睨まれてお預けになってしまいます。日本には米軍が5万人います。「アメリカのドルを受け取らないとは、そんな失礼なこと言うなら、在日米軍クーデター起こしますよ」、これで終わりなのです。黙って受け取ってしまう。だから日本は無限に物を提供し、無限に紙屑をもらう。こうしていくら働いても日本人の生活はよくならないのです。しかもその紙屑でアメリカの国債を買っています。アメリカに物を売って、払ってもらった代金をアメリカに貸している。言ってみればツケで輸出しているようなものです、現実に。アメリカにいくら輸出しても日本は豊かにならない仕組みになつています。

 2週間前に『黒字貿易亡国論』という本が出ました。有名な格付け会社の社長さんですが、「貿易黒字を作るから日本は駄目なのだ」、ということを詳しく論じたたいへん面白い(文芸春秋社の)本です。確かにそうだと思います。だからドルは、本当は受取りたくないのです。みんな紙屑なんです。だけど受け取らないと睨まれる。アメリカの軍事力が背景にあるのです。

 その力をバックにして、紙切れのお札を世界に通用させている。例えていえば──餓鬼大将が画用紙に絵をかき1万円と書いて鋏で切り、これ1万円だからお前のファミコンよこせ、とこれを取り上げる──のと同じです。いやだと言ったらぶん殴るのです。怖いから黙って渡して紙屑もらうことになります。その紙屑で、他の人から取り上げればよいのです。「お前のバイクよこせ、よこさなかったらいいつける」。「あの人、あんたの紙屑受け取らない」、するとガキ大将が釆て、ゴツンとやってくれる──。餓鬼大将の力の及ぶ範囲ではそれが通用するのです。露骨にいえば、ドルがいま世界に適用しているのは、そういう仕組みが一つあります。
 もう一つは、ソ連の存在です。もし紙屑だからアメリカのドルを受け取らないといったら、アメリカ経済は潰れます。アメリカが潰れたらソ連が喜ぶ。だから紙屑と分かっていても受け取ってきた。ソ連に勝たれては困るから──。

 これも確かに一理あります。ということは、ソ連がいなくなって、紙屑は紙屑だということがはっきりしてきたのです。今まではソ連がいるために、紙屑なのに金のように適用したが、今や「王様は裸だ」というのと同じで、「ドルは紙屑だ」といっても構わない時代です。

 ともかくドルが危ないのです。私が言ってもなかなか信用してもらえませんが、経済誌『エコノミスト』、一流企業のサラリーマンなら必ず読んでいる雑誌すが、これの去年9月号が中国“元”の特集でした。その真ん中へんに「プラザ合意20年」という対談がありました。その中で、榊原英資さんは「5年以内にドル暴落」と言っています。

 榊原さんは大蔵省の元高級官僚で日米為替交渉の責任者を10年やりました。円・ドル問題の最高責任者だった人です。「ミスター円」といわれていました。通貨問題に最も詳しい現場の責任者です。停年で大蔵省をやめて今は慶應大学の先生になっています。この人が「5年以内にドルが暴落する」、つまりドルが紙屑だということが明らかになる日が近いと言っているのです。

 ソ連がいる間は隠されていたのですが、いまはもう、ドルは紙屑だから受取りたくないという人たちが増えてきています。これまでは世界通貨はドルしかなかったので、受け取らなければ商売ができなかったのですが、今ではユーロという代わりが出来てしまいました。ドルでなくてユーロで取引する国が増えてきています。そしてユーロの方が下がりにくい仕組みになっています。ドルは下がるのです。

 なにしろアメリカは、永いことドルが世界通貨ということに慣れてきました。だから自動車が欲しければ日本から自動車買って、アメリカは輪転機を回せばよいのです。紙とインクがあればいいのですから。ほかの国はこんなことできません。自動車が欲しければ、一生懸命働いて何か輸出し、その代金で輸入しなければならないのです。アメリカ以外の国は全部そうやっているのです。

 輸入は輸出と一緒です。輸入するためには輸出しなければなりません。ところがアメリカだけは輸出しないで輸入ができるのです。ドルという紙切れが世界通貨ですから。極端に言えば、欲しい自動車や石油を日本やアフリカなどから買って、紙とインクで支払う。実際そうして世界の富がアメリカに集まったわけです。

 71年以降の30年間、この仕組みのために、世界中にドルが溢れ出ました。ドルがどんどん増えますから、当然値打が下がります。こうしてドル下落傾向。(資料の一番下のグラフがそうです。円が上がっていく様子、為替取引だから短期的には上下しますが、長期的には間違いなく円高。ドルがドンドン下がるのは確かです。)これがあるところまでいくと、ガクッと下がります。

 あるところまでいくと、「ドルは信用できない、下がる通貨は持っていたくない」となります。ですからドルを受け取らない、ユーロか何か、別な、下落しない通貨でなければ受け取らないということが出てくる。そうなるとドルは暴落します──。榊原氏がそういっているのです。

 ヨーロッパはユーロでいくでしょう。アジア経済圏はなんといったって元です、中国の。中国は賢いですから、元を押しつけないで、何かアジアの新しい通貨を作るかもしれません。しかし元が中心になることは間違いないでしょう。ドルはアメリカでしか使われなくなる。そうすると、今まで全世界で使われていたドルが、みんなアメリカに集まって来るわけですから、アジア、ヨーロッパで使われいていたドルがみな戻ってきて、簡単にいえばドルの値打が3分の1に下がることになります。

 アメリカの生活は大きく収縮します。一家で3台自動車持っていた家は1台に。1台持っていた家は止めなくればならなくなる、ということです。

 アメリカ経済の収縮。これは大変恐ろしい話なのです。世界経済が大きく収縮し、日本経済は大きな打撃を受けます。しかし避けられない動きなのです。いつのことか分からないが、そう遠くない将来にドルの信用がドンと落ちていく。結果として日本がアメリカにだけ頼っていたら、大変なことになります。

 いまのうちに、アメリカに輸出してドルをもらったらユーロに代えておいた方がいい。ユーロの方は下がらないからです。EUという所は、国家財政が赤字だと加盟できないことになっています。赤字だと穴埋めにお札を出すので乱発ということになって下がるのです。だからユーロは一応下がらない仕組みになっています。乱発できないようになっているのです。ドルは短期的に持つのはかまわないが、3年、4年と長期的に持っていると下がってしまいます。それならユーロにしておいた方がいいとか、これから生まれるかもしれないアジア通貨にしておいた方がよいとかいうことになります。世界の大企業や国家が、決済のために多額のドルを持っていますが、これがユーロに切り替えられるとなると、ドルはもう世界通貨ではなくなります。

 そうなると、アメリカだけに依存している国は、大変苦しくなります。21世紀の日本を考えた時、アメリカと仲良くするのは大切ですが、しかしアメリカ一辺倒では駄目な時代になっているのです。アジアと仲良くしなければいけません。

 しかしアジアと仲良くするのには、無条件ではできません。なぜなら、60年前、アジアに戦争を仕掛けて大変な迷惑をかけた。その後始末がちゃんとできていないのです。仲良くするするためには、60年前のマイナスを埋めるところから始めなければいけません。別に難しいことではないのです。「あの時はごめんなさい。2度とやりませんから、勘弁してください」。これで済むわけです。

 問題は、「2度とやりません」が、信用してもらえるかどうかです。信用してもらうための最大の決め手が「憲法第9条」です。憲法9条第1項、第2項がある限り、日本は2度と戦争はできません。イラクの状態を見ても、自衛隊は鉄砲一発撃てない。(世界中)みんなが見ています。この憲法9条第1、第2項がある限り、日本は戦争はできません。だから安心して日本と付き合うのです。

 もし日本が憲法9条を変えて、もう1回戦争やりますということになったら、アジアの国々は日本を警戒して、日本との付き合いが薄くなってしまいます。いま既にそうなりつつあります。小泉首相は靖国に何度も行く。自民党は憲法9条を変えることを決め、改憲構想まで発表した。アジアの国々は用心します。「そういう国とは、あまり深入りしたくない」。

 小泉首相は「政冷、経熱」でいいじゃないか、といいます。政治は冷たくても経済では熱い関係というのでしょうが、そんなことはできません。中国と日本の経済関係はじわっと縮小しています。統計でもそれははっきり出ている。

 おととしまで中国の貿易のトップはアメリカでした。次が日本、3位はEU。これがひっくり返ってしまいました。去年はトップはEU、2位アメリカ、3位日本です。明らかに中国は日本との商売を少しずつ縮小させている。その分EUに振り替えています。

 去年5月、ショッキングなことがありました。北京・上海新幹線という大計画をEUに取られました。北京〜上海って何キロあるのでしょう。日本の本州より長いのではないでしょうか。このとてつもない計画があって、去年、まだ予備調査の段階すが、日本は負けました。ドイツ、フランスの連合に取られました。予備調査で取られたということは、本工事は駄目ということです。中国にすれば、日本にやらせるのが一番便利なのです。近いですし、新幹線技術も進んでいます。まだ1度も大事故を起こしたことがありません。ドイツもフランスも、1回ずつ大事故を起こしたことがあります。技術からいっても資本からいっても、日本にやらせれば一番いいのに、日本が負けました。明らかに政治的意図が働いたと思われます。日本との関係を深くしたくない。いざという時、いつでも切れるようにしておく。いざというとき、切れないようでは困る。そういうことではないでしょうか。

 いまのままアメリカ一辺倒でいいのでしょうか。私は長島さんをよく思い出します。後楽園での引退試合の時、最後に「読売ジャイアンツは永久に不滅です」といったのです。永久に不滅どころか、去年のジャイアンツのサマといったらもう、見ていられない。アメリカもそうなるのではないでしょうか。小泉首相は「アメリカは永久に不滅です」と、いまもいっているのですが、そうではないのではないでしょうか。

 アメリカにさえ付いていれば、絶対大丈夫という時代は終わったのです。アメリカとも仲良くしなければいけませんが、しかしアジアとも仲良くしなければいけない、そういう時代がいま来ているのです。仲良くするのには、憲法9条を守ることが大前提です。これを止めてしまったら、アジアとは仲良くできません。

 憲法9条は、日本にとって“命綱”です。いままでは、憲法9条というと、「理想に過ぎない。現実は9条で飯食えないよ」という人が多く、中には鼻で笑う人もいました。しかしいまは逆です。9条でこそ食える。9条を変えたら、21世紀日本の経済は危ないのです。

 憲法9条を守ってこそ、この世紀の日本とアジアとの友好関係を守り、日本も安心して生きていけるのです。こういう世の中をつくる大前提が憲法9条です。憲法9条は美しいだけではなく、現実に儲かるものでもあります。そのことがやっと分かってきました。

 奥田経団連会長は、去年までは小泉首相を応援して靖国参拝も賛成だったのですが、そんなこといってたらトヨタは中国で売れなくなります。そこで今年の正月の挨拶でついに、「中国との関係を大事にしてほしい」と、向きが変わりました。
 財界が、中国と仲良くしなければ自分たちは商売ができない、となってくれば、日本の政治の向きも変わるだろうと思います。あと3年たてば多分、これは日本の国民の常識になってきます。中国と仲良くしないと経済が駄目になる。それは中国のいいなりになることではないのです。良くないことはきちんという。だけど敵にするのではなく、仲良くする。でなければ、日本の経済は成り立たない。これがみんなの常識になってくるでしょう。

 これまで60年、アメリカベったりだったから、アメリカから離れたら生きていけないと皆思ってきました。しかし現実の数字はそうでなくなっています。一番大事な経済の相手は、もうアメリカではなくアジアなのです。これに気づくのにあと2・3年かかるでしょう。これが世論になれば、もう、憲法を変えるなどということは、絶対にできません。

 しかし、この3年の間に、国民の世論がそのように変わる前に、憲法が変えられてしまったら、どうにもなりません。

 あと3年、必死の思いでがんばって、子供たちに平和な日本を残してやるのが、私たちの務めだと思います。そう思って、私も必死になってかけ回っています。あと3年ぐらいはまだ生きていけるだろうから、なんとしても3年間は9条を守るために全力をつくしたいと決心しています。

 ありがたいことに、9条を変えるには国民投票が必要です。国会で決めただけでは変えられません。国民投票で過半数をとらないと、憲9条は変えられないのです。逆にいえば、これによってこちらが憲法9条を守る署名を国民の過半数集めてしまえばいいことになります。住民の過半数の「9条を守る」署名を3年間で集めてしまう。そうすればもう、変えることは不可能になります。

 そうすれば、子供たちに憲法9条のある日本を残してやれます。2度とアジアと戦争する国にならないようにして、そしてもし長生きできれば、新自由主義という方向、つまりアメリカ言いなりではなく、もっと自主的な経済ができるように、せめてヨーロッパのような修正資本主義、ルールのある資本主義の仕組みにもう一度戻すこともできるでしょう。

 日本中で、飢えている人、因っている人、貧しい人が、それでも人間らしく生きていけるような、最低限の保障ができる、生きる希望が出る──。そういう社会にすることが大切なのだ、と思います。これは長期的展望です。簡単にはできません。一度、新自由主義になってしまったので、10年位かかるでしょう。国民が賢くなって、正しい要求を政府につきつけていかなければいけません。その中心になる労働運動の再建が必要です。

 結局国民が主権者なんですから、国民の願いがかなうような、そういう日本に作り替えていきたいなと、そういう道を進んでいきたいなと思います。

 鋸南町は合併を拒否なさったというので、日本でも有数な自覚的な町といえます。合併するとまず住民自治がダメになります。大きくなるということは、住民自治が駄目になることでもあります。住民が主人公になる町こそ大切。ぜひこの美しい山と海と禄のある町で、1人1人が主人公であるような地域共同体というものを、みんなが助け合える町になることを私も希望して、講演を終わらせていただきます。
http://kyonannet.awa.or.jp/mikuni/siryo/2006/kawabata-kouen060114.htm


要するに、世間から相手にされなくなった 70年代左翼はその後、護憲派・反原発派に変身して、今は阿修羅掲示板や るいネットで細々と空しい政府批判を繰り返しているのですね。



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c6

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
7. 中川隆[-11682] koaQ7Jey 2019年3月06日 11:02:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[309]

学生運動しなくてもよくなった一流大学の学生のその後

年収5億円vs.186万円「新・階級社会」日本の真実 もはや「格差」ではなく「階級」だ
2018.02.05 週刊現代  :現代ビジネス
http://www.asyura2.com/17/hasan125/msg/734.html


頑張れば報われる――それは、昭和の牧歌的な風景だったのかもしれない。努力しても報われない、現代日本の残酷な現実。

入会金540万円のスポーツジム

仮にW氏としよう。40代男性。シンガポールに住む投資家である。元々、メーカー勤務のサラリーマンだったが、ベンチャー投資で財を成した。その後、資産は倍々ゲームで増えている。

そのW氏が語る。

「資産がいくらあるのか――正直、自分でも正確に把握できていないんですよ。数百億円といったところでしょうか。複数のプライベートバンカーに運用を任せていて、株や債券、外貨、資源、ゴールドなど、ありとあらゆる金融商品に分散投資をしています。

何かで損が出たとしても他が補ってくれますから、資産は安定的に増えていく。年収5億円?それくらいは優にありますかね」

豊かな人はより豊かになり、貧しい人はより貧しくなっていく――。トマ・ピケティ氏が『21世紀の資本』で喝破した現実は、現代の日本でも着実に進行している。
W氏が続ける。

「月に1000万円を使うって大変なんですよ。昔は酒とオンナで浪費しました。入会金100万円を払って、VIP向けの会員制交際クラブに入り、有名グループの女性アイドルを買ったこともあります。でも、実際に寝てみたら『こんなものか』という感想。

ワインは多少高いものを飲みますが、飲める量には限度がある。結局、酒もオンナもほどほどで、健康が一番という結論に辿り着きました。

ああ、時計は買いましたね。アラスカでオーロラを見た後、スイスに寄った際に。リシャール・ミルの1億円の時計を2本買った。一つは自分がつけて、もう一つは保存用です。これも希少性が高く、今では買った価格よりも高値で取り引きされているようです」


使っても使ってもカネが減らない。年収5億円以上の超富裕層が日本にも存在する。彼らに共通するのは、こんな特徴だ。

●限度額が著しく大きなブラックカードを持ち、現金は原則使わない。

●事故を起こすリスクを考え、自分で車は運転しない。移動はハイヤーかタクシーを利用する。

●会員制高級ジムに通って健康維持に励む。

資産数十億円、年収1億円の上場企業創業者A氏はこう話す。

「カネを使うのは、自己研鑽、情報収集、人脈形成のためですね。たとえば、一般の方がとても入会できない高額のスポーツジムで汗を流しています。

大手町にある超高級ホテル内にあるフィットネスクラブです。入会金は540万円、年会費64万8000円。ここには私のような経営者や投資家が集まり、体を鍛えると同時に情報交換の場になっています」

超富裕層はこういった場で、公になっていない情報をやり取りし、新しい儲けのタネを仕込んでいく。前出のW氏は、こんな豪快なカネの使い方をしたと言う。

「ミシュランの星付きの店はたいてい行きましたが、高くておいしいのは当たり前。

むしろ私は、安くておいしいものに目がありません。博多で一人前800円のもつ鍋が評判だったので、シンガポールからビジネスクラスに乗って食べに行ったこともあります。

800円のもつ鍋を食べるのに、30万円くらいかかりましたが、まあ、いくら使ってもおカネはなくなりませんので……」

7割近くが結婚していない

超富裕層の中には財布が膨れるのが嫌というだけの理由で、お釣りの小銭を全額募金箱に入れる人もいる。一方で、日々の生活もままならない「階級以下」の層=アンダークラスが登場している。

「格差社会」が社会問題として一般に認知されるようになったのは、この言葉が流行語大賞トップテンに選ばれた'06年のことだった。所得が低く、結婚もできない「非正規労働者」の存在が問題視された。

その後、格差は縮小するどころか、拡大し、今や絶対に超えられない壁=階級となった。早稲田大学人間科学学術院教授(社会学)の橋本健二氏は著書『新・日本の階級社会』で膨大なデータを用いて分析している。

「これまでの社会は、資本家階級があり、中間階級がいて、一番下に労働者階級がいると考えられてきました。労働者階級の給料は安いですが、正規労働者として身分は安定し、生活できるだけの所得はもらっていた。

ところが近年、その条件に当てはまらない非正規労働者、『階級以下』の存在(アンダークラス)が増えています。彼らはたしかに雇われて働き、賃金をもらっている労働者です。しかし、身分は不安定で、給料も安く抑えられている。

社会調査データから明らかになった、彼らの平均年収は186万円で、貧困率は38.7%。男性の未婚率は66.4%にも上ります。こうした人が929万人も存在し、就業人口の14.9%を占めているのです」

彼らの暮らしぶりはどのようなものか。東京都武蔵野市に住む日雇いバイト(45歳・男性)の話。

「20代の頃、人気グループのバックダンサーをやっていました。'90年代には小室哲哉さんと何度も仕事をしたことがありますよ。

でも年齢を重ねるごとにダンス関係の仕事は減っていき、安定した収入を得るために、洋服の包装・仕分け工場で非正規社員として働いたこともあります。

40歳を過ぎたとき、年下の上司と揉めて契約を更新されなくなりました。それ以来、イベント会場の設営などの日雇いバイトで収入を得ています。月の収入は15万円程度です。

中央線の駅から徒歩30分のボロアパートに住んでいます。家賃は6万5000円。夕食は100均で買ったカレールーを湯でとかしたもの。少し野菜も入れますが、この歳になると米は太るし、節約のために食べません。

2週間に一度、ラーメン屋に行って食べるのが唯一の贅沢です。移動は基本、人からもらった自転車。現場によっては交通費が支給されるので、それが浮くのがありがたい」


収入が低いと、異性と付き合うことにも困難を伴う。介護職に従事する男性(29歳)が物悲しいエピソードを披露する。

「学生時代から付き合っていた彼女がいたのですが、卒業後はデートをするにも交通費や食事代がかかり、厳しいものになりました。クリスマスはおカネのかかるイベントですから大変でしたね。

プレゼントは、彼女の革のブーツをピカピカに磨いてあげるというもの。おカネがないなりに相手を笑わせようとした精一杯の誠意だったのですが、彼女は笑うどころか引いていましたね。それが彼女との最後のクリスマスになりました」

一日頑張っても500円

愛知県在住の派遣労働者(26歳・男性)は、派遣労働の合間に小銭を稼ぐのに四苦八苦している。

「部品工場に派遣され、流れてくる部品を組み立てたり、運んだりします。時給900円で、一日7000円程度にはなる。

景気のいいときは月収12万〜13万円ですが、派遣先が見つからないときもあり、そういうときはネット上のニュース記事を書くバイトをしています。500文字書くと50円もらえる仕事。一日頑張ると、500円くらいにはなります」


一日頑張っても500円。かたや財布がかさばるから小銭はすべて募金箱に投げ入れ。たしかに「格差」という言葉では生ぬるい。

アンダークラスの多くに共通するのは、正規労働者になりたいという切実な願いだ。

だが、企業は一度採用するとなかなかクビを切れない正規社員の雇用を渋っている。
'03年の時点で「年収300万円時代」の到来を予見した経済アナリストの森永卓郎氏は、今後、階級間の断絶はさらに広がると指摘する。

「資本家階級と労働者階級は、同じ日本で暮らしているかもしれませんが、超富裕層にとって、自分たち以外の人は人間ですらない。彼らにとっては金儲けの道具でしかないのです。

資本家と労働者階級が対立するのが、マルクス経済学が読まれた時代の資本主義でした。しかし、今の階級社会では、両者の間に接点がないので、対立になりようがない」

これがアベノミクスの背後に隠れた「日本の不都合な真実」なのである。


「週刊現代」2018年2月10日号より
http://www.asyura2.com/17/hasan125/msg/734.html



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あなたは巨額の資産を持った家系の生まれだろうか。それとも、ごく普通の生まれだろうか。いや、すでに貧困に落ちた家系だろうか。言うまでもないが、それによって、まったく違う人生を歩むことになる。

現在の先進国では身分制度もないし、特権階級もないと思われている。もちろん、それは間違いだ。現代社会でも、依然として特権階級はある。現代社会の特権階級というのは、「金持ち」「資産家」のことである。

現代は資本主義だ。この資本主義が続くと、当然だが、経済的に成功する人と失敗する人が二極分化する。

いったん金持ちになった人は家族にも一族にもその恩恵を与えることができるようになり、経済的に成功した一族が特権階級化していく。

現代社会はそのほとんどの商品・サービスを金で買うことができる。さらに、あまり知られていないが、「身分・地位・立場・学歴」もまた金で買うことができる。
https://bllackz.com/?p=1039


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「学歴」が分断する現代日本社会
『日本の分断』吉川徹教授インタビュー
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13370


 「学歴なんか関係ない」といくら言ったところで、学歴により就くことのできる職業も違えば、賃金にも差があるのが現実。また、社会人になると同業者や同じような人生を歩んできた人々とのコミュニケーションが多くなり、それ以外の人々がどんな生活を送り、何を考えているかについては無関心になりがちだ。大卒と非大卒の人生が別々のものになりはじめた現代日本社会では、特に若年非大卒の男性たちが多大なリスクにさらされているという。

『日本の分断 切り離される非大卒若者たち』(光文社新書)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%88%86%E6%96%AD-%E5%88%87%E3%82%8A%E9%9B%A2%E3%81%95%E3%82%8C%E3%82%8B%E9%9D%9E%E5%A4%A7%E5%8D%92%E8%8B%A5%E8%80%85-%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%B0%E3%82%B9-%E3%81%9F%E3%81%A1-%E5%85%89%E6%96%87%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8/dp/4334043518

を上梓した計量社会学が専門で、大阪大学大学院人間科学研究科、吉川徹教授に日本における学歴の意味や、学歴分断社会の現状、そして非大卒の若者たちに忍び寄るリスクについて話を聞いた。


(hyejin kang/iStock/Getty Images Plus)

――日本社会で学歴が持つ意味を一言で言い表すとどんな言葉になるでしょうか?

吉川:「自己責任だとみなされているがゆえに、もっとも重視されるアイデンティティ」でしょうか。

 今の日本社会では、「ジェンダー」「生年世代」「学歴」という3つの分断線が重要な意味をもちはじめています。前者2つについては変更不可能なある意味で運命論的な分断です。しかし、「学歴」に関しては、本人の努力次第で手にするものと思われています。実際には、親が教育にお金の面などで手助けをしてくれたから可能になった成果なども含まれているのですが。

 さらに、「ジェンダー」や「生年月日」は外見から判断できてわかりやすい。しかし、学歴は外見上わからないものなのに、問いただすのはタブーだとされています。タブーというのは、もっとも重要で決定的なものであるからこそ、たやすく触れないことにされているものごとです。格差論がここ数年注目されていますが、その根底にはタブーとされがちな学歴差が、人生を少なからず左右している実態がある、といえばだれでも多少は思い当たるところがあるはずです。

――学歴分断と、巷で話題になる格差社会、階級社会という言葉に違いはあるのでしょうか?

吉川:学歴分断とは「最終学歴という、大人にとって変更不可能なアイデンティティ境界に従い、上か下かが決まる」ことを指します。たとえば、格差といわれる状態は、解消しようとなれば、そのための議論が可能ですし、政策によって、「アンダークラス」のような特定の階級に属する人の数を減らすこともできます。しかし、学歴は、一度身につけて社会へ出れば、定年を迎えるまでそれをずっと使い続けなければなりません。だから、学歴分断は解消しえないのです。そこが決定的な違いですね。

――トランプ大統領の誕生によってアメリカの分断が、Brexitによりイギリスの分断が叫ばれ、欧米諸国でもこの「分断」がキーワードになっていますが、そこでも学歴が重大な意味を持っているのでしょうか?

吉川:いいえ。欧米社会には、階級と民族という学歴より重大な格差の源泉があります。たとえば、企業の採用では、表向きは民族や階級といった個人情報によって差別をしてはならないとなっていますが、履歴書を見る人事担当者は名前で中国系か、ユダヤ系かなど出身民族を推測し、それならばこういう社会階級出身ではないかと想像しているのです。

 しかし日本社会では、民族や階級の分断線が欧米ほどははっきりしていません。それゆえに、他社会では格差の決め手とみなされていない学歴が、大きな働きを果たしている。その重大さゆえに、欧米の民族や階級のようにタブー扱いされているのです。このように、だれもが知っているけれども表立って言われることのないものごとが、分断の源泉になるものなのです。

――日本人は、高学歴化し、大学全入時代に突入するかと言われています。

『日本の分断 切り離される非大卒若者(レッグス)たち』(吉川徹、光文社)

吉川:昭和の日本社会の高学歴化を支えていたのは、親も教師も子どもになるべく高い学歴を望み、子どもも当然そう考えているという大衆的に高学歴を望む「大衆教育社会」だったと言われています。戦後、多くの親たちが自分よりも高い学歴を子どもに望むようになり、1974年には高校進学率が90%を超えました。

 2009年に『学歴分断社会』を書いた当時は、「学歴分断」という言葉や概念自体がありませんでしたし、現実社会も大卒と非大卒の分断はまだ起きていなかったのです。データから、この先そういった事態が起こると予想したに過ぎません。しかし、2013〜14年を境に、成人式から還暦までの現役世代は、大卒者と非大卒者(編注:ここでの大卒とは、短大、高専以上の学歴、それ以外については非大卒とする)の割合が、ほぼフィフティ・フィフティになりました。

――半々の割合で、大卒と非大卒になる学歴分断状態が継続すると何が問題になってくるのでしょうか?

吉川:大卒と非大卒では、就いている職種や産業、昇進のチャンス、賃金などが異なります。そのため、ものの考え方や行動様式も異なってきます。さらに、恋愛や結婚においても学歴による同質性は高く、日本人の7割が同学歴の相手と結婚します。また、日本人の8割が親と同じ学歴をたどり、子どももまた同じ学歴になるよう望んでいるということを加味すると、大卒家庭と非大卒家庭の分断は、やがて世代を超えて繰り返されるようになります。これはつまり、学歴が欧米の民族や階級のような働きをするようになっているということです。

 たとえば、この1週間でどんな人と話をしたかを思い返してみてください。大卒ならば大卒の人とばかり話し、非大卒ならば非大卒の人とばかり話しているのではないかと思います。両者のコミュニケーションが少なく、人生が交わらないので、互いに何を考え、どんな暮らしをしているのかがわからないし、知ろうともしていない。「住んでいる世界が違うから」という言葉を聞くことさえあります。これはまさしく深刻な分断状況だと言えないでしょうか。

――吉川先生が、特に問題を抱えているとみているのは、若年の非大卒層の人たちなのですね。

吉川:日本社会の現役世代は、ジェンダー、生年世代、学歴と3つの分断線でわけると、若年非大卒男性、若年非大卒女性、若年大卒男性、若年大卒女性、壮年非大卒男性、壮年非大卒女性、壮年大卒男性、壮年大卒女性の8つにわけられます。このうち特に不利な境遇にあるのが、若年の非大卒男性です。彼らのプロフィールは次のようなものです。

 かれらの多くが義務教育もしくは高卒の両親のもとで育ち、かれらの多くは製造や物流を始めとした、わたしたちの日常生活に欠かせない仕事に就いて日本を支えているのですが、5人に1人が非正規・無職、一度でも離職経験のある割合は63.2%、3カ月以上の職探し、失業経験者は34%、3度以上の離職経験がある割合は24%と他の男性たちに比べ高くなっています。労働時間だけは長いのですが、同じく非大卒の壮年男性と比べると個人年収は150万円近く低い。


彼らのことを本書ではレッグス(LEGs)と新しい言葉で表しました。「Lightly Educated Guys」の略で、高卒時に、お金と時間のかかる重い大卒学歴を選ばなかった、軽学歴の男たちという意味です。軽学歴と言っても、日本の高校を卒業していれば、労働力としての水準はOECD加盟国の標準を上回っています。レッグスたちがその水準を越えていることが、日本の安定した豊かな社会のボトムの高さを支えているのです。


 そして本来ならば、高卒ですぐに働き始めれば、大卒層よりも早く生活を安定させて、貯蓄もできて、早く結婚して家庭をもつこともできるはずです。しかし、雇用や収入の面で厳しく、消費や文化的な活動、余暇について総じて消極的になっていることがデータからわかりました。
 
――なんだかラストベルト周辺に住む白人ブルーカラーの人たちと重なるところがありますね。

吉川:少し前にアメリカでヒットした『ヒルビリー・エレジー』という本があります。その本が出るまで、都会に住むホワイトカラーの白人たちは、どうして都会へ出て仕事をしないのかなどと見ていたわけです。でも、彼らには彼らの論理がある。それに気が付かせてくれたのが同書です。トランプ大統領は彼らに配慮を示したから、支持を得ることができたのだといわれています。

――なぜ、レッグスだけが他の層と切り離されているのでしょうか?

吉川:彼ら自身は、日々の生活に追われるばかりで、積極的に自分たちの立場を主張しません。他の層の人たちも、レッグスが世代を超え繰り返されることに気がついてない。これは意識的に排除しているのではなく、エアポケットのような状態になってしまっているのです。けれども、約4000万人の高齢者と、約2200万人の未成年者を現役世代6025万人がそれぞれの特性に応じて支えているのが日本の現状なのですが、およそ680万人のレッグスだけは十分に力を発揮できずにいるのです。

――彼らに対し、公的なケアがなされず、リスクを負わせている現状をどのように変えていけば良いと考えていますか?

吉川:再三、繰り返している通り、日本では学歴が重要な決定要因になっているにもかかわらず、大学無償化の議論を除けば、学歴をベースにした政策はありません。地方消滅と言われる現在、地方から東京の大学へ進学すると給付型の奨学金を得ることができるようになりました。一方、地元に残り、地域のコミュニティを支え、決して十分ではない雇用条件で高齢者介護などの仕事を受け持っているのは、大多数が非大卒層ですが、彼らにはなんの支援もありません。

 大卒層について、大学無償化や私的負担の軽減を議論するのであれば、同じ世代のレッグスに対しての支援も議論すべきです。

 大学へ進む学生には月に5万円、年間60万円、4年間で240万円の支援があります。それならば、レッグスがたとえば、高卒後すぐに就職した企業には、彼らを正規雇用すれば同じように月に5万円をその企業に支援するなどです。そうすれば18歳から22歳の間に安定した雇用を得ることができ、シルバー人材や外国人労働者に頼ろうという議論にはならないと思うのです。

 若い世代の職業人としての人生を企業の側がサポートするという発想は、高度経済成長期の日本型雇用と、ある意味で同じモデルです。義務教育卒や高卒の若者たちは、企業が正規雇用し、終身雇用制のなかでOJTによりスキルを磨き代えがたい労働力になりました。

――多くの人が、大人になるにつれ、同じようなライフコースを歩んできた人としかコミュニケーションを取らなくなります。

吉川:『日本の分断』では、8つの分類を8人のプレイヤーで構成されたサッカーチームのようなものだと考えています。大卒のフォワードだけがいくら得点し活躍しても、ディフェンスであるレッグスが機能しなければチームは勝てません。それくらい日本社会はギリギリの状態なのです。全員が活躍するためには、この社会がどのような仕組みで、各プレイヤーがどんなプロフィールなのかプレイヤー全員が理解していることが大切です。そうすることで、8人のプレイヤーが支え合って、チームは成り立っているのですから、弱い部分は守ろうという発想になると思うのです。
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13370


結局、一億総中流だった日本でも中間層が没落して階級社会になってしまったのですね。

マルクスの預言通りの社会になりました。


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c7

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
8. 中川隆[-11681] koaQ7Jey 2019年3月06日 12:19:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[310]

日本でもギリシャでもダメダメ家庭出身者は政治好き

Theo Angelopoulos Ο Θίασος(旅芸人の記録) : 1975


監督 テオ・アンゲロプロス
音楽 ルキアノス・キライドニス
出演 エヴァ・コタマニドゥ


動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%CE%9F+%CE%98%CE%AF%CE%B1%CF%83%CE%BF%CF%82


ギリシャの芸術家の名前って、皆様は、どれくらいご存知ですか?

「まあ、彫刻家や音楽家は名前が伝わっていないけど、文学関係なら、有名なホメロス、それに3大悲劇詩人のエウリピデス,ソフォクレス,アイスキュロス、喜劇のアリストファネス。別の方面?でも有名なレスボス島の女流詩人のサッフォーとか・・・」

まあ、出て来る名前って、こんなところでしょ?
これらの名前は全員古代の人ですよね?それ以降のギリシャの芸術家の名前は?

こうなると途端に出てきませんよね?
アレキサンダー大王以降のギリシャの芸術界は一体何やっていたの?
2千年以上もサボっていたの?

ギリシャ人も、かつては、すばらしい芸術家を輩出したのに・・・遺伝子的にレヴェルが低いわけではないでしょう?
だって、かつては立派だったんだし・・・

それに、16世紀のスペインの画家に、その名も「ギリシャ人」という名前のエル・グレコというギリシャ系の人もいます。ギリシャ人もギリシャ以外の国では活躍しているわけ。

どうして、ギリシャ国内では芸術家を生み出さなくなってしまったのでしょうか?

このように芸術家を産まない国や地域ってありますよね?
日本のお隣の朝鮮半島の芸術家の名前って、ご存知ですか?
中国の芸術家の名前なら、世界史でいやというほど覚えさせられましたよね?
詩人だけでも李白、杜甫、白楽天、孟浩然・・・ああ!!思い出したくも無い、勉強ばかりのあの日々!?

しかし、朝鮮半島の芸術家の名前って、出てきませんでしたよね?

あるいは、イスラム圏の芸術家の名前って、出てきますか?
イスラムでは歌舞音曲を禁じているはず。絵画もダメなの?文学だって禁じているのかな?

「テメエらは、コーラン読んでりゃ、ええんや!」なの?

しかし、ペルシャにはイスラムとは異質なキャラクターの詩人のオマル・ハイヤームという人もいました。別に遺伝子的に芸術とは無縁の人というわけではないんですね。どうしてイスラムの下では、芸術家が出なくなってしまったのでしょうか?

これらの国や地域の経済的な問題なの?
しかし、どのみち、創造的な芸術家がその作品でお金儲けをできるわけもないことは歴史的な現実。芸術家というものは死んでから認められるものでしょ?
芸術作品を制作すると言っても、文章を書くのは費用がかかるわけでもないので、「その気」になりさえすれば、できることでしょ?

芸術家の絶対数が少なく、多くの人が芸術家との接触することが少なかったから、芸術作品を作る意欲や発想が起こらなかったの?
しかし、例えばギリシャなどは様々な芸術家が訪れていますよね?
それにギリシャ人も外国に出てみればいいじゃないの?
韓国人だってそう。中国に行けばいいだけ。その気になれば、様々な芸術家との接触は可能なんですね。

では、これらの国や地域が何故に、芸術家を生み出さなかったのでしょうか?

それはそれらの人々がダメダメだからですね。

「悪いのは全部アイツのせいだ!」

そのような発想なので、自分自身を厳しく見つめることをしないわけ。自分自身から目をそらしているような人間が、芸術家になれるわけがありませんよ。

職業としての音楽家や物書きや絵描きにはなれるかもしれません。しかし、そんな自分自身から目をそらすような人間は、永遠に届くような作品を生みだす「芸術家」になれないわけです。

別の言い方をすると、自分から逃避してしまっているので、仕事にはなっても、使命にはなっていないわけ。

今回の文章で取り上げる映画はギリシャの映画監督テオ・アンゲロプロス監督の75年の作品である「旅芸人の記録」という映画です。テオ・アンゲロプロス監督は現在における最も厳しい精神の「芸術作品」を作る監督です。まあ、映画の分野において、芸術性では3本指には確実に入るような大芸術家。

しかし、ギリシャという芸術不毛の地で、どうしてアンゲロプロスのような芸術的な映画監督が出現したの?

また、彼は、どのようにして、芸術家不毛の地から芸術作品を生み出すような芸術家になったの?

アンゲロプロスは自分自身の「内なるギリシャ」、つまり自分の中の「内なるダメダメ」を厳しく見つめ、それを克服していったわけです。今回取り上げる「旅芸人の記録」という作品は、ダメダメなギリシャ人の一員であるアンゲロプロスの心の中に巣食う「ダメダメな部分」を白日なところにさらしているわけ。その過程があったがゆえに、近年のアンゲロプロス監督作品の「人間と人間のコミュニケーション」「人間の再生への希望」を語る豊穣な作品群が生み出されることになったわけです。

では、彼の作品「旅芸人の記録」の導きに従って、ギリシャ人のダメダメな面・・・これは呆れるほど韓国やイスラムにおけるダメダメな面と共通しています・・・を見てみることにいたしましょう。

ちなみに、この「旅芸人の記録」という作品は1939年から1952年のギリシャを舞台に、「羊飼いの少女ゴルフォ」というお芝居を上演している旅芸人の一座を描いた映画です。事件を時系列的に追った映画ではありません。

一座がそのお芝居を上演しようとすると、当時のギリシャの様々な情勢によって、途中で上演がストップしてしまう・・・そんな映画です。

つまり「羊飼いの少女ゴルフォ」の上演という「まがりなりにも」芸術活動と言える活動がジャマされていくことについての映画といえるわけです。
「ギリシャにおいて何故に芸術が育たないのか?」そのような問題意識が反映しているわけですね。

この映画について、日本の3文映画ライターが「激動のギリシャ現代史を語る映画」などと解説したりしていますが、現代史ではないんですね。もし、現代史を語るつもりなら、登場人物の名前をもっと現代的にするでしょう。

この「旅芸人の記録」という作品での登場人物の名前はエレクトラとかアガメムノンなど、昔のギリシャ人の名前です。そして起こっている事件も、昔から何回も繰り返されているような事件。つまりそれだけアンゲロプロス監督は「いつまで経っても変わらない」ギリシャを描きたいわけです。

それに現代史を描くつもりなら、事件の配置を時系列的にしますよ。歴史を描くつもりが無いから、事件の時系列を無視しているわけです。まあ、それがわからないからこそ、「映画ライター」なんでしょうが・・・

さて、この映画に従って、ギリシャのダメダメやダメダメ家庭の問題というより、もっと一般的な意味でのダメダメ精神の事例を以下に列挙いたします。


1. 働かない・・・ギリシャ人は働かない。この4時間の映画で、働いている人はレストランのウェイターくらい。労働者が「資本家打倒!」と言うのはいいとして工場で働いているシーンはない。「労動者ならまずは労働しろよ!」と言いたいところ。

また、資本家も工場を経営したり、外国と貿易を行うというそぶりもない。とにかく働かない連中なんですね。さすがに韓国では働いているシーンは出てきますが、イスラム圏でも働いているシーンって出てこないでしょ?商店で働いている人は多少出てきますが・・・イスラム圏の工場って見たことありませんよね?やっぱり働かない連中なんですね。


2. 政治好き・・・経済的な面では意欲がない連中ですが、政治には熱心です。「悪いのは全部政治が悪いせいだ!」などと思っていたりするので、やたら政治には熱心なんですね。この映画でもデモ行進のシーンが多い。あるいは政治議論も活発です。

個々の人間が政治について確かな見解を持つことは必要でしょう。しかし、問題の全部を政治のせいにしてもねぇ・・・しかし、デモのシーンはイスラムでも韓国でもおなじみですよね?そして、この手の人は、政治論議が好きでも、実際に政治に携わって、現状を改善しようとはしないもの。ただ、「ダメな政治のせいで、うまく行かない。」という理屈がほしいだけ。


3. 会話がない・・・登場人物の皆さんは、とにかく人の話を聞かない。4時間にもわたる映画なのに、会話のシーンがない。どちらかが一方的に言っているだけ。人の話を聞くという習慣がなさそう。


4. 被害者意識・・・何かと被害者意識が出て来る。『イギリスには裏切られた!』『国王には裏切られた!』とか・・・「ああ、オレ達って、何てかわいそうなんだ?!」そして相手を恨むわけ。


5. 当事者意識がない・・・被害者意識があるのに、当事者意識がない。「じゃあ、アンタはギリシャという国をどうしたいの?」と言われても答えられない状態。ただ、相手を恨んでいるだけなんですね。イスラムや韓国でもこんな感じですよね?


6. 内部分裂・・・ギリシャ人の内輪もめは、それこそ紀元前のアテネとスパルタの戦争など、いつもやっているようです。「イギリス人はギリシャから出て行け!」と本気で思っているのなら、ギリシャ人が結集して、イギリス人を追い出せばいいじゃないの?

ところがこの映画では内輪もめのシーンばかり。ギリシャ正規軍とイギリス軍が戦うシーンなどは全然なくて、いつもギリシャ人同士で戦っているんですね。同じようにイスラムだと宗派対立などが出てきますよね?
韓国だと地域対立とか・・・彼らがまとまるのは「○○大嫌い!」それだけなんですね。


7. こびへつらい・・・この映画で出て来るギリシャ人は、強きにこびへつらい、弱い人には威張っている。そのような権威主義なのもダメダメの特色の一つですね。落ちたイヌだけを叩こうとするのがギリシャ人の特色のようです。まあ、これはイスラムや韓国も同じですが・・・


8. ユーモアがない・・・4時間にわたる映画なのに、笑えるシーンがない。まあ、それは監督のアンゲロプロスの個人的キャラクターの面も大きいでしょう。しかし、ダメダメな人間は「自分自身を笑う」心のゆとりって無いものなんですね。「オレってバカだなぁ・・・」なんて自分を笑わないのに、自分以外の人のことは高笑いするわけ。

ユーモアって、いつもとは別の見方で物事を見たりすると、出てきたりするものでしょ?
ユーモアがないってことは、それだけ、ものの見方が画一的ということなんですね。


9. ホスピタリティーがない・・・この面は、むしろアンゲロプロス監督の別の作品で強調されています。どうもギリシャ人は外の世界から来た人を歓迎するという発想がない様子。外来者を、ヘタをすれば政治的な人質として利用したりするくらいの扱い。外の世界から来た人と会話して自分の知識を広め、相手に自分のことを知ってもらおうなんてこれっぽちも考えていない。

自分自身が被害者意識に凝り固まっているので、人をもてなす心の余裕がないわけ。このような面は韓国もイスラムの全く同じですよね。スポーツ大会などヒドイものでしょ?これでは味方ができませんよね?


10. 歴史自慢・・・この「旅芸人の記録」という作品では強調されていませんが、ギリシャは偉大な歴史がありますね。それはそれで結構なこと。しかし、ちょっと考えて見てください。「オレは小学校の時は優秀で、学級委員をやっていたんだ!」・・・そんなことを言う人間ってショボイオヤジでしょ?
ちゃんとした人間はそんな昔の自慢話などはしないものでしょ?

歴史自慢しかするものがない連中って、それだけ今現在がダメダメということですよね?
しかし、ダメダメな人間は歴史しか自慢するものがないので、歴史自慢をしたがる。
そして「こんなに偉大な歴史を持つ我々なのに、今うまく行かないのはアイツのせいだ・・・」と被害者意識をますます膨らませるわけ。


このように、「悪いのは全部アイツのせいだ!」と思っていると、自分の気持ちとしてはラクですよね?だって、自分自身では何もしなくてもいいんですからね。ただ相手を恨んでいるだけでいい。
まあ、一般の人はそれでいいのかもしれませんが、そんな貧しい精神では芸術家は育たないでしょ?

真の芸術家になるためには、自分の内面にあるそのようなダメダメな面を自覚していく必要があるわけです。
ギリシャ人のアンゲロプロスは、このような自分に厳しい映画作品を作ることによって、自分自身を一歩前に進めたわけです。

ちなみに、この「旅芸人の記録」という映画はギリシャ映画ですので、セリフはギリシャ語です。ということで字幕担当の人も「とある芥川賞受賞作家さん」がやっています。その作家さんはギリシャ語が出来るので、アンゲロプロス監督作品の字幕だといつもこの人です。この作家さんは、ギリシャに住んだり、最近ではイラクに行って「フセイン政権下ではイラク人はすべて幸せだった!アメリカ人は出て行け!」とかおっしゃっておられます。メールマガジンも発行されていて、私も読む時がありますが、実に「お・も・し・ろ・い」わけ。

自分自身の問題から目をそらし、グチばかり言う人間は、やっぱりそんな類の人間が多いところに行きたがるものなんですね。そうして、グチで盛り上がることになる。
「アンタたちは全然悪くないのよ!悪いのは全部アメリカなんだ!」
そう言われれば言われた方もラクでしょ?
確かに同情してもらったイラクの人も幸福かもしれません。だって「自分自身は全然悪くない!」と思っていられるわけですからね。「悪くはない」んだから、自分自身では何もしなくてもいいわけ。

そのような精神的に怠惰な状況に、外国からのダメダメ人間が、まるで腐臭にハエやゴキブリが吸い寄せられるように喜んで出かけ、集まり、そしてグチで盛り上がる。

職業としての物書きや絵描きや音楽家は、そこそこのスキルがあればなれるものです。しかし、芸術家になって未来に残る作品を生み出すには「自分自身を厳しく見つめる」ことが必要不可欠なんですね。

ダメダメなギリシャの映画監督のアンゲロプロスが「旅芸人の記録」という、何より自分に厳しい作品を作って、自分自身を見つめ大芸術家になっていったのに対し、グチばかり言っていて、世界中のグチ人間を求めて自分から逃げ回っている人間が、芥川賞という新人賞止まりなのは、芸術的にみて必然なんですね。

この映画で描かれたギリシャの人々は、誰かを犯人認定して、対抗心ばかりを膨らませ、自分では何もする気もなく、しょーもない議論ばかりという、典型的なダメダメ人間の姿といえるでしょう。これは何もギリシャの問題だけでなく、たとえば、インターネットの掲示板が、まさに絵に描いたようにこんな様相でしょ?

作り手のアンゲロプロスとしては、「激動のギリシャの歴史」を描いているのではなく、バカばかりやっているダメダメ人間の姿を描いているわけ。彼は歴史学者ではなく、芸術家なんだから、普遍的な人間心理を描きますよ。

ダメダメというのは、時とか場所とかのテンポラリーな問題ではなく、人間の普遍的な心理の問題なんですね。だから、ちょっと見方を変えると、21世紀の日本での様相を理解するのにも役に立つわけ。

ちなみに、ギリシャもイスラム圏も韓国も、独裁政権が多い。民主的政体は育たない。

それは民主主義というものは、個々の責任という面が要求されるからですね。自分自身が主体的に政治に参加する。そしてみんなの選択に共同責任を持つわけ。しかし、責任を取りたくないダメダメ人間は、独裁政治の方がラクなんです。だって独裁だったら上手くいかなかったら、その原因の全部を独裁者のせいにできるでしょ?そして「オレたちは独裁政治の被害者だ!」と言うだけ。

だから、これらの国の政権担当者は、政権を降りた後は大変な目にあいますよね?
それは「うまく行かない原因」を一手に引き受けされられるからです。「自分たちは被害者だ!」と思いたいダメダメ人間は、とにもかくにも加害者というレッテルを何かに貼りたがるわけ。民主的政体だと、自分自身にも責任を取らないといけないので、精神的にラクができない。だから、このようなダメダメな連中は無意識的に独裁政治を望んでいるわけです。

ダメダメというのは、経済的な問題というより、まずもって心が貧しいわけなんです。
http://space.geocities.jp/kinoufuzennkazoku/04-11/04-11-12.htm

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c8

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
9. 中川隆[-11680] koaQ7Jey 2019年3月06日 12:39:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[311]

日本でもギリシャでもダメダメ家庭出身者は政治好き _ 2


テオ・アンゲロプロス アレクサンダー大王


監督 テオ・アンゲロプロス
脚本 テオ・アンゲロプロス 、 ペトロス・マルカリス
撮影 ヨルゴス・アルヴァニティス
衣装デザイン Ghiorgos Ziakas
音楽 クリストドゥロス・ハラリス
美術 ミキス・カラピペリス
1980年 ギリシャ=イタリア=西ドイツ作品

動画
https://www.youtube.com/results?search_query=Angelopoulos++O+Megalexandros+++&sp=mAEB


▲△▽▼


キャスト

Alexander オメロ・アントヌッティ
The Stepdaughter エヴァ・コタマニドゥ
The Schoolteacher グリゴリス・エヴァンゲラトス
The Guide ミハリス・ヤナトゥス
Mr. Zelepis クリストフォロス・ネゼル
Mrs. Zelepis Miranda Kounelaki
Man of the Commune Thanos Grammenos
Man of the Commune Photis Paparamprou
Woman of the Commune Toula Stathopouluo
Italian Anarchist Francesco Carnelutti
Italian Anarchist ブリツィオ・モンティナーロ
Italian Anarchist ラウラ・デ・マルキ
Italian Anarchist Claudio Betan
Italian Anarchist Norman Mozzato
Alexander as a Boy イリアス・ザフィロプロス
Shepherd ストラトス・パキス

20世紀目前の大晦日、アレクサンダー大王と呼ばれる首領に率いられた山賊たちが脱獄した。 銃を手にした彼らはイギリス人貴族たちを誘拐、特赦を発令するとともに土地所有権の農民への変換を政府に要求する。だが、救世主として現れたアレクサンダーはやがて独裁者へと変貌していく。


映画のストーリー

1899年12月31日の深夜、何者かの手引きによってギリシャの小島にある刑務所から20数名の囚人が脱獄した。アレクサンダー大王(オメロ・アントヌッティ)と呼ばれる首領に率いられた賊の一団だ。

同じ夜、アテネの王宮では英国貴族らを迎えて新年と新世紀を祝うパーティが開かれていた。その席でさる英国人が、大地主ジェレピス(C・ネザール)の土地にある炭鉱の採掘許可が得られるよう陸軍大臣に訴える。しかし、ジェレピスはその土地は農民が所有権を主張して頑強に抵抗していると語る。

パーティに出席していたマンカスター卿は4人の仲間と3人の女性を伴って、アテネに程近いスーニオン岬に日の出を見に行くが、脱獄したアレクサンダー大王に誘惑されてしまう。大王はジェレピスの土地を農民のものと認め、自分たちに恩赦を下すよう国王、政府、英国大使に要求書を出し、生地である北ギリシャの村ヘ向った。途中、5人のイタリア人アナーキストが一行に加わる。しかし、村は先生(グリゴリス・エヴァンゲラトス)と呼ばれる指導者のもとで共産村が作られており、大王の部下は全てが共有で、自分のものは何ひとつないと、口々に不満を訴えた。そして翌朝、何頭かの羊が殺されているのが発見された。

村は政府軍に包囲され、大王と村人との間に不和が生じる。そんな時、政府の密使が大王を訪れ、恩赦には応じられないが形式的な裁判を開いた後、特赦によって彼らを自由にするという提案がなされ、大王は裁判を村で開くよう要請した。また、ジェレピスは政府の圧力でやむなく土地を村人ヘ返すが、陰謀の匂いを嗅ぎつけた先生はイタリア人アナーキストに不安を訴える。そして、村では戻った土地についての争いが始まり、共産制は危機に瀕し、村を逃げだそうとしたイタリア人も射殺されてしまう。

裁判は大王が検事を射殺したことにより成立せず、これによって村人とも完全に孤立し、遂に人質までも殺害してしまった。政府は人質が殺されたことにより、村に総攻撃をかけ、大王の部下を次々と倒していく。大王は多勢の村人に取り押えられるが、何故か後には大王の形をした石像が残るだけでその姿は消えてしまった。村から脱出したのは大王と同じ名の少年ただひとりだった……。
https://movie.walkerplus.com/mv11318/

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アレクサンダー大王(テオ・アンゲロプロス)


 1899年12月31日深夜、義賊の首領アレクサンダー大王(歴史上の、というより、「解放者」として知られる伝説上のアレクサンドロス)は、囚われていた自らの一団を率いて脱獄、明くる日の1900年1月1日に、イギリス貴族らを誘拐する。

 向かった先の生地である北ギリシャの村は、「先生」と呼ばれる指導者によって、すでに共産村と化していた。途中で遭遇したイタリアのアナーキストらと入村したアレクサンダーは、国王や政府に対し、人質の解放と引き換えに、自らの恩赦と、イギリス人地主によって搾取された土地を農民の手に戻すことを要求する。

 だが、なかなか取引は成立せず、時間が経つにつれ、アレクサンダーのカリスマ性も徐々に薄れていき、いつしか彼は解放者から独裁者へと変貌していく――。

 久し振りに見た『アレクサンダー大王』は、何と当たり前のようにイデオロギーの映画だったことか。イデオロギーの終焉が叫ばれて久しい現在、そのあまりに堂々としたイデオロギー映画ぶりに、何だか励まされた。

 言うまでもなく、イデオロギーが終焉したならば、夢もなくなったのだ。そして、夢を見られなくなったということは、すなわち芸術が終わったということである。にもかかわらず、人は、都合よく、死んだのはイデオロギーだけで、夢や芸術はいまだ健在だと思い込んでいる。

 アンゲロプロスはきっぱりと言う。「今日、語られうるのは、いわばちゃちな夢であり、ちゃちな芸術でしかない。すべては、ちゃちなものとなってしまった」(蓮実重彦インタビュー集『光をめぐって』)。

 だからこそ、この『アレクサンダー大王』は、20世紀の「夢」を、「芸術」として真正面から語ろうとした。

出発点にあったものは、今世紀に特有の夢、つまり、社会主義的な夢の実態を批判的に考察することです。社会主義の夢というのは、否定しえない現実として人びとの想像力を支配していた。その事実は、社会主義に反対の人でも否定することはできないものです。それは、二十世紀の夢なのです。それに到達するにはいくつかの異なる出発点がありました。だが、あらゆる理論的な探求は、ある一点で、現行の社会主義が失敗であったという事実につきあたる。なぜか。

 私の映画は、そのなぜかという理由を示そうとするものではない。最後に、アレクサンドロスと呼ばれる少年が、さまざまな社会主義的な経験と試練をへた上で、夕方、都会に向けて歩んでゆく。それはもはや大王ではないアレクサンダーです。その夜は長いのか、短いのか。朝が訪れるのか否か、それはどんな色調なのかわからない。いずれにせよ、もはや夢は夢ではありえない。(『光をめぐって』)

 有名なワンシーン・ワンショットや360°のパンの多用、あるいは古代ギリシャ悲劇の劇場のような円形広場のシーンは、観客を含む全宇宙を俯瞰する視線によって、20世紀を余すところなく総体として捉えようとする野心の表れである。

 かつて中上健次は、ギリシャ悲劇の円形舞台は、もともと神の近くにいた王が、そこから転がり落ち、そうと知らずに不可避的に罪を犯してしまうそのありさまを、観客が空の上の神の位置から見渡せるように作られていたのではないかと指摘した(『中上健次と熊野』)。まさに、この作品では、観客が、アレクサンダー大王が罪を犯していく一部始終を俯瞰するのだ。

 観客が神の位置にあるといっても、むろんそこには「お客様は神様」という消費者主義的な意味はみじんもない。むしろ逆なのだ。そして、そのことは、アンゲロプロスが、なぜモンタージュを嫌い、ワンシーン・ワンショットを好むかということと明確につながっている。

モンタージュによる映画を見ていて私が苛立つのは、それは二つの画面の相互介入といった衝撃の上に成立しているのですが、そのとき、その画面を指さして、ほら、このイメージを良く見なさいといった押しつけの姿勢が感じられることです。(中略)ワンシーン・ワンショットの映画では、見る人間の知性と感性とにより多くの自由を残そうとしています。(中略)それは、つまり映画を見に来た人の知性を信頼し、その受動性から解放させようとすることにほかなりません。


 アンゲロプロスの作品においては、観客も積極的にスペクタクルに参加し、思考と想像力を駆使し、各々が各々の映画を作り上げていかねばならない。おそらく、そのことによって身をもって示そうとしているのだ――二十世紀を俯瞰してみたときに、われわれは、もはや「夢」が受動的に与えられるものではなく、自ら見ようと積極的に紡ぎ出していかなければならないものとなったのだ――ということを。

 ラストで、アレクサンダー大王の末路と20世紀社会主義の一部始終を見届けた少年アレクサンダーは、丘の上から見下ろしていた都会へと分け入っていく。アンゲロプロスは、彼に21世紀の夢を託した。

 アンゲロプロスの予言したように、果たして、すべてを見た少年は、本当に「大王=カリスマ」にならないだろうか。おそらく、黒沢清が、1899年からちょうど一世紀を経た1999年に撮った『カリスマ』は、この『アレクサンダー大王』への真摯なレスポンスだった。ラストで、「カリスマ」と呼ばれる木をめぐる闘争の果てに、真っ赤に燃える街を見下ろす役所広司の姿は、少年アレクサンダーの反復でなくて何であろう。

 もちろん、そこに答えなどない。ただ、アンゲロプロスの夢を見てしまった者だけが、夢を見続けることができる。そして、だからこそ、また後から来る者にも夢を見せたいと願う。そうした夢と芸術のか細い連なりだけが、そこにははっきりと見える。
http://d.hatena.ne.jp/knakajii/20120901/p1


▲△▽▼


空想と現実感


16世紀、オスマントルコのギリシャ侵攻があった際、マケドニアの
アレクサンダー大王が復活したと巷間のうわさとなり、それと19世紀の
英国貴族誘拐事件の史実をふまえてアンゲロプロスはこのファンタジーを
つくり上げたそうです。

しかし、ファンタジーといっても本作の内容はやけに現実味を帯びた
部分もあり、類まれな空想のなかにのっぴきならぬリアリティを含ませて
います(全編が空想にもかかわらず)。

空想と現実感がないまぜになっているところがこの作品の魅力のひとつの
ような気がします。

長まわしのワンショット=ワンシーン、ロングショットの多用、曇天下の
撮影など、例によって変わるところはありません。

まず、冒頭近く、20世紀目前の大晦日いんちきくさい大王一味がいかにも
現実めいた脱獄を敢行したのち、いきなり古代マケドニアにタイムスリップ
したかのようなフォトジェニック、レンブラントの画のごとく明暗を強く
押し出してけぶる森の木立の拓けたまるい平土に一頭の白馬が繋がれて
遊んでいる。
やがて大王が馬に颯爽とまたがりエキゾティックな音曲がその夢のような
映像を盛り立てます。もやはうさん臭さはどこにもありません。

アレクサンダー大王、復活せり!

さて、大王が人質(農地の要求と恩赦を得るため)をつれて帰郷すると
そこはコミューンと呼ばれる共産村になっていました。
いわゆる私有財産は認められず、共有財産により貧富の差をなくそうとする
ものです。

そこで、イタリア人アナーキストの一団も加わり、村は徐々に安定性を欠いて
行きます(彼らは王のカリスマ性の限界を見抜くのだが)。

やがて、大王はしだいに村人から刀狩りや食糧略奪などをはじめ、じぶんの
言うことをきかないやつは処刑します。専制君主政のはじまりです。

結果、村人たちのうっぷんは水面下でだんだん蓄積されてゆきます。

ここらあたりは妙にリアリティが伴っています(その他、英国との折衝や裁判
など現実的な場面が何度もでてくる)。

ラスト近くの革命シーンのアイデアには度肝を抜かれますが、ここでは
思いっきり現実離れして、もはや寓話の世界です。映画的というより演劇的な
演出に圧倒されます。

史実のアレクサンダー大王もてんかん持ちだったらしく、それを持ち出すのも
芸が細かいです。

ところで、大王と同じ名のアレクサンダーという名の少年が登場します。
彼は向学心が強く、どうやらマザコンです。明らかに大王の少年時代を映しており、
次世代の英雄としての含みを持たせているように思われます。
これもどこか寓意的です。

ラストカットではもっと直截的に「英雄は生き続ける」と主張しているわけですが。
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E5%A4%A7%E7%8E%8B-DVD-%E3%82%AA%E3%83%A1%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8C%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3/dp/B00JKB218E


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c9

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
10. 中川隆[-11679] koaQ7Jey 2019年3月06日 12:52:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[312]


ユリシーズの瞳 Το βλέμμα του Οδυσσέα / Ulysses' Gaze

監督 テオ・アンゲロプロス
脚本 テオ・アンゲロプロス トニーノ・グエッラ ペトロス・マルカリス
音楽 エレニ・カラインドルー
撮影 ヨルゴス・アルヴァニティス アンドレアス・シナノス
公開 1996年3月23日

動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%CE%A4%CE%BF+%CE%92%CE%BB%CE%AD%CE%BC%CE%BC%CE%B1+%CF%84%CE%BF%CF%85+%CE%9F%CE%B4%CF%85%CF%83%CF%83%CE%AD%CE%B1+&sp=mAEB


▲△▽▼

キャスト

A:ハーヴェイ・カイテル
Aの元恋人/博物館職員/ブルガリアの農婦/ナオミ:マヤ・モルゲンステルン(四役)
イヴォ・レヴィ:エルランド・ヨセフソン[1]
タクシーの運転手:タナシス・ヴェンゴス
ニコス:ヨルゴス・ミハラコプロス
タクシーに同乗する老女:ドーラ・ヴォラナキ

映画監督のAは、回顧上映と、バルカン半島最初の映画作家マナキス兄弟のドキュメンタリー映画を作るため、アメリカから故郷のギリシャに帰国した。そして、マナキス兄弟が未現像のまま遺したという幻の3巻のフィルムを探す旅に出る。

Aはタクシーでアルバニアを経て、マケドニアのにあるマナキス兄弟の博物館に行くが、手がかりは得られなかった。次いでブルガリア、ルーマニアのブカレストを経て、セルビアのベオグラードで旧友の記者ニコスと合流したAは、ベオグラード映画博物館の元教授を老人ホームに訪ねる。

元教授は、幻のフィルムはサラエヴォの映画博物館の館長であるイヴォ・レヴィが現像を試みていたが、戦争の勃発で音信不通になってしまったと語る。Aは戦火のサラエヴォでレヴィに会う。戦争のため完成寸前でフィルムの現像を諦めたというレヴィに、何があっても現像すべきだと説得するA。レヴィは彼の説得を聞き入れて、フィルムの現像に着手する。

レヴィの娘ナオミと知り合ったAは、戦闘が止んだ束の間の間、懐かしい恋人のように語り合う。やがて、フィルムの現像は成功するのだが、そんな彼らに再開した戦闘の現実が襲いかかる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%81%AE%E7%9E%B3


▲△▽▼


「ユリシーズの瞳」はギリシャ出身で現在アメリカに在住する映画監督という設定の主人公が、バルカン半島で最初に撮影されたと言うマナキス兄弟が撮影した「まぼろしのフィルム」を探す旅というあらすじを持つ作品です。

実は、この「ユリシーズの瞳」のDVDを見る前に、フランスの映画監督であるエリック・ロメール監督の59年の「獅子座」と言う作品のDVDを見ました。その「獅子座」のDVDにはオマケが付いていて、ロメールの司会による、ジャン・ルノアールとアンリ・ラングロアの対談が付いていました。

その対談のお題が、「人類最初の映画」と言えるルミエール兄弟による映像作品についてでした。ちなみに、ジャン・ルノアールは有名な画家のオーギュスト・ルノアールの次男であり、映画監督としてはルキノ・ヴィスコンティの師匠格に当たる人。それにロメールをはじめとしたヌーヴェル・ヴァーグの連中にも暖かい理解を示した、「大したオッサン」と言える人ですね。もちろん、映画監督としても超が付くくらいの一流。

そして、対談相手のアンリ・ラングロアは、ヌーヴェル・ヴァーグの関係者で、批評家。映像ライブラリーを設立し、映画の発展に尽力した・・・と言えるのかな?

重要なことは、アンリ・ラングロアが批評家で、ジャン・ルノアールが芸術家と言うか創作者という違いです。

そして、批評家のラングロアによる、ルミエール兄弟の映像作品への「まなざし」と、芸術家ルノアールによる、ルミエール兄弟作品への「まなざし」が全然違っているわけ。

ラングロアは、ルミエール作品を見ながら、芸術技法の発展とか、労働者などの一般人が登場するようになったとかの、いわば進歩史観。これはこの対談がなされた68年という時代が反映していると言えるでしょう。いかにも古き良きモダニズムですね。そして「さすが批評家!」と言いたくなるほど、政治的に捉えている。

それに対し、ルノアールは、全然違っているわけ。
ルノアールがこのルミエール兄弟の映像に「発見」した「まなざし」は、「純粋なる喜び」と言えるようなもの。撮影する人間が、「これって、面白いなぁ!」とウキウキして撮影している。そんな心の弾むような瞬間が映像から発見できる・・・ルノアールの主張は、こんなところです。

絵画や戯曲などの個別の表現技法が、ある種、弁証法的に「統合」されて、ルミエールの時代に映画作品として結実したと言うより、「作り手」の純粋な喜びが反映されて、これらのルミエール兄弟の映像作品になっているんだ!そんな調子です。
無垢なんて言葉が出てきたりしますが、それは無邪気とは違うわけ。純粋なる喜びなんですね。

アングロアの言うような、政治的な側面なり、表現における技法的な進歩も、ある面ではあるでしょうし、その面からの説明は、往々にして、多くの人に受け入れられやすい。だって、多くの人はルノアールが語る「純粋な喜び」なんて言われてもピンと来ませんよ。労働者階級云々とか、表現技術の発展と言った文言の方に反応するものでしょ?

だから、芸術家が、「心が弾む」ような「純粋な喜び」を元に、作品を作っても、政治的に解説されちゃったりするわけ。それにやっぱり表現技法の発展という側面は否定しがたい。以前に同じような表現があったら、同じことはしたくはないでしょ?

人と違ったことをしたい、新たな技法にチャレンジしたい・・・
その気持ちはいいとして、それが「純粋な喜び」に基づいていないと、単なる技法の問題に堕してしまうわけ。

まずは「これって面白いなぁ!」と思ったりしたのか?
そのような発見なり「まなざし」が、芸術作品の出発点なんですね。

この対談で司会をしているエリック・ロメールが、批評家ラングロアと、創作者ルノアールの「違い」を際立たせることによって、自分自身の内部で会話を行い、「自分とはどんな存在なのか?」考えているわけ。言うまでもなくロメールなどのヌーヴェル・ヴァーグの連中は、批評家から出発して、創作に向かった人たち。

この対談で言うと、ラングロアのような立場から、ルノアールへのような立場へと自分たちの「立ち位置」を移動させて行ったわけ。そして創作者ロメールの作品が、「これって面白いなぁ!」と言った新鮮な視点に満ちたものであることは、ご存知の方も多いでしょう。創作者ロメールは、むしろルミエール兄弟の精神に忠実と言えるわけです。「ヌーヴェル・ヴァーグ(新しい波)」と言うより、原点回帰・・・映画の始原への回帰なんですね。

ロメール司会によるこの対談が頭に入っていると、アンゲロプロス監督の「ユリシーズの瞳」と言う作品を理解するのに、実に役に立つわけ。というか、これ以上の「解説」はありえないほどですよ。

「最初の映画」という共通する題材。そして失われた「まなざし」という問題意識。そして創作の原点。

「純粋な喜び」を持って、物事を、事物を見ることが出来る人だけが、神の恩寵に預かれるわけ。面白いもので、いわゆる無神論者でも神の恩寵がこめられた文章を書くこともありますし、宗教関係者の書いたものでも、まったく神の恩寵のない文章も、多く存在するわけ。

虚心で物事を見ることができるか?
幼児のように心を虚しくできるものだけが天国に入ることができる。

そう言うことなんですね。しかし、多くの人は、虚心で物事を見ることはできない。と言うか、しようとしない。大体が「政治的なメッセージ」を受け取ろうとするわけ。あるいは、「倫理的なメッセージ」を受け取ろうとするもの。しかし、幼児が物事を政治的なり倫理的に見るでしょうか?

物事を倫理的に見るからこそ、神の恩寵から、そして天国から遠い・・・そんなものじゃないの?
虚心で見るからこそ、子供たちの楽園に入ることができるわけ。

さて、やっと、「ユリシーズの瞳」に入って行きましょう。
ここではクラシック音楽が使われているわけではありませんが、「いかにも」使いそうな「引き」があったりします。

舞台は戦火のサラエボ。濃い霧が起こって、ターゲットとなる人間が見えないので狙撃手が仕事にならない。狙撃されないので、人々は安心して外に出てくる。そうして人々が集まって音楽を演奏している・・・
セルビア人も、モスリムも、ユダヤ人も・・・

さあ!このようなシチュエーションが語られたら、次には、どんな音楽が演奏されると思いますか?たぶん、100人中、80人以上の人が考えるのは、ベートーヴェンの第9交響曲ですよね?「人類よ!皆で手をつなげ!!」平和のメッセージとしては、この上ないくらいにフィットします。

もうちょっとヒネルと、何かのレクイエムとか・・・たくさんの方々がお亡くなりになったことを追悼する・・・そんな音楽だって成立するでしょう。戦火のボスニアに一時的に訪れた平和・・・それを音楽で表現するのなら、平和を歌い上げるような音楽だったり、亡くなった人を追悼するような音楽ですよね?それこそが心より平和を望む人々の心情を表現するものでしょ?

まさに「ドナ・ノビス・パーチェム」と、心から思いますよ。ただ、宗教曲だと、宗派の問題があるので、この選択は、ファースト・チョイスではない。特にボスニアでは、難しいでしょう。

戦火のボスニアを舞台にした映画はその他にもあります。
マイケル・ウィンターボトム監督の97年の「ウェルカム・トゥ・サラエボ」です。あの映画では最後にチェロの独奏があります。私はその映画を見たのですが、最後にチェロ独奏のシーンがあることを、実は忘れていました。だって、あまりにも「当たり前」ですからね。人から尋ねられたので、そう言えばそんなシーンもあったのかな?と思った程度。

そのチェロ独奏の曲目が何なのか?クラシック音楽に多少なじんでいる人なら、100人中100人が同じ選曲をするでしょう。その選曲自体は、心がこもったすばらしいものです。「カタルーニャの鳥はピース!ピース!と鳴いているんですよ!!」ですからね。

その心情は、すばらしいとしても、映画表現としては、事前に予想できてしまう。
戦争の悲惨さと、平和への願いをテーマとした映画なら、その選曲がベストでしょう。逆に言うと、そのようなオーソドックスな選曲をしなかったら、戦争とか平和と言う問題は、主なテーマでないと言えますよね?

戦火のサラエボで、濃い霧によって訪れた一時的な平和。
その時に「人類よ!皆、手をつなげ!」と言う音楽が演奏されれば、これ以上ない「平和へのメッセージ」になるでしょ?実際、このシーンでは、楽器を持った演奏者だけでなく、コーラスまで居る。
しかし、映画において演奏されるのは、ベートーヴェンの第9交響曲ではなく、エレニ・カラインドルーによるオリジナル音楽。

どうしてベートーヴェンを使わないの?
まさか第9交響曲を知らなかったの?そんなわけないでしょ?ベートーヴェンの第9交響曲なんてあまりに有名ですしね。百歩譲って監督のアンゲロプロスや脚本のトニーノ・グエッラが思いつかなくても、音楽を担当しているカランドルーだったら思いつきますよ。この「ユリシーズの瞳」という映画では、リルケの詩が引用されます。リルケを引用するくらいなんだから、ベートーヴェンだって引用できますよ。

著作権の関係なの?
しかし、ベートーヴェンの作品は著作権は切れているでしょ?
まあ、その点についてはカザルスの「鳥の歌」よりも、ラクですよ。

むしろ、様々な民族が一緒になって、演奏している。
なんてミエミエの「引き」で、観客を引っ張っておいて、カラインドルーのオリジナルですからね。
観客としては「あれっ?」と思うわけです。

戦火のボスニアにおいて、一時的に訪れた平和・・・その平和なり戦火が主なテーマではないというわけ。戦争なり平和がテーマだったら、ベートーヴェンの第9交響曲を使いますよ。
あるいは、それこそ「鳥の歌」でもいいわけ。その「鳥の歌」だったら、平和への希求という思いが強く打ち出せるでしょ?「鳥の歌」に、それらしい歌詞を乗っけて演奏してもいいのでは?平和を希求する歌詞を乗せれば、より平和への思いが表現できるでしょ?

しかし、あえてベートーヴェンを使わない・・・そして、映画において実際に引用されているのは、リルケの詩。
ここで引用されているリルケの詩は、リルケの若書きの詩。実は、最初にこの映画を劇場で見たときは、この詩が突然出てきたのには、ビックリしました。日本のマンガ家の竹宮恵子氏のマンガでも引用されていた詩なんですね。

この映画にも出てきたのかぁ・・・アンタ!よく会うねぇ・・・なんですが、結局、発想が似ている人同士は、似たり寄ったりのことをするんでしょうね。竹宮恵子さんの芸術家意識が強い人ですからね。

そのリルケの若書きの詩は、リルケの芸術家意識が横溢したもの。
終わりなき探求・・・それが芸術家の使命だ!そんな感じの詩。

つまり、この「ユリシーズの瞳」という映画は、戦争や平和をテーマとしたわけではなく、芸術家のあり方、そして、その終わりなき自己探求がテーマであるわけです。

芸術家そのもの、そして芸術作品が、本来持っている、「まなざし」。
それがどうして喪失したのか?
最初の映画である、マナキス兄弟にはあったのでは?そのような映像作品の原点を見直すことで、自分自身も見直したい。

いわば芸術家としての原点を求める旅、まさにユリシーズ(オデッセウス)の旅と同じ。これは主人公の旅であるだけでなく、ギリシャの旅であるわけ。

ギリシャは、古代のソクラテス、プラトン、アリストテレスなどの哲学者や、ソフォクレス、アイスキュロス、エウリピデスなどの劇作家が活躍した古代以降は芸術家が出ていませんよね?約2000年の間いったい何をやっているの?
どうしてこうなっちゃったのでしょうか?

スペインに渡ったギリシャ人は、まさにエル・グレコという名前で歴史に名前を残しているのに?あるいは、20世紀では、アメリカにおいては映画監督のカサヴェデスや、ギリシャの血を引くマリア・カラスなんて大芸術家も誕生しています。

この「ユリシーズの瞳」では、ハーヴェイ・カイテル演じる主人公の映画監督はカサヴェデスを意識していて、当初はカサヴェデスに主演を頼もうとしたことはご存知の方も多いでしょう。外国のギリシャ人は、それなりに活躍しているわけ。
どうしてギリシャの地にいるギリシャ人は、全然ダメになっちゃったの?

これらの問題意識が、アンゲロプロスの初期の作品では主要なテーマでした。
あの有名な1975年の「旅芸人の日記」と言う作品でも、「羊飼いの娘ゴルフォ」という戯曲の上演という「芸術作品の成立」が、いつもいつも阻まれるというスタイルでしたよね?

どうして芸術が育たないのか?

そのような問題意識が反映しているわけ。


あの「旅芸人の日記」を、激動のギリシャ現代史を描く!なんてオバカな解説があったりしますが、現代史を描くのなら、もっと時系列に沿って描きますし、登場人物の名前だって現代風にしますよ。現代史ではなく、2000年に渡るギリシャの芸術不毛の歴史を描くことが主眼だったわけ。

じゃあ、どうして、かつては立派だったギリシャが、どうしようもないほどに芸術不毛の地になってしまったの?

その答えは、まさにこの映画「ユリシーズの瞳」の冒頭に引用されているプラトンの言葉が示しているでしょ?


「魂でさえも、自らを知るためには、魂を覗き込む。」

自分自身の魂を覗き込まない人が、永遠に残るような作品を生み出せるわけがないでしょ?

現在のギリシャって、そんな気概がなくなっていますよね?

「悪いのは全部○○のせいだ!」なんて、被害者意識に浸っているだけで、自分自身に厳しく接することをしない。

そんな地域では芸術なんて生まれませんよ。そんな地域って他にもあるでしょ?
たとえばイスラムとか韓国とか・・・

その手の地域って、やたら政治的なデモが盛んで、誰かを糾弾することだけに熱心。
「じゃあ、アンタはいったいどうしたいの?」なんて言われると逆上するだけ。

「自分がかわいそうな被害者だ!」と常に思いたいがために、何事も政治的に捉えてしまう。

「自分たちはダメな政治による被害者なんだ!」そう言うための理屈がほしいわけ。

しかし、それでは芸術作品なんて生まれませんよ。ギリシャやイスラムや韓国に芸術作品が生まれないのは当然なんですね。

しかし、自分の魂を覗き込むこと自体は、政治は関係ないでしょ?
それこそ最低の政治状況にあったショスタコーヴィッチだってできたわけですからね。

ただ、多くの人は、どんな作品も政治的に捉えてしまうわけ。しかし、政治なんて洞窟に映った影のようなもの。逆に言うと、移ろい行くものだからこそ、多くの人は関心を持ってしまう。まさに目移りするわけ。そして、その影が、この線のどちら側なのか?なんてツマンナイことばかりに関心を持つ。

右翼とか左翼とか、正しいとか間違っているとか・・・

しかし、所詮は影ですよ。


この「ユリシーズの瞳」の字幕を担当されている某芥川賞作家さんが、以前に「アンゲロプロスの作品は、国境の問題を身を持って体験したものでないとわからない。」なんて書いていたことがありました。いささか失笑してしまいます。そんなことを言うから芥川賞止まりなんですよ。国境も、政治体制も、人の、人の魂が作りし影のようなもの。影ではなく、人の魂そのものに真実があるわけでしょ?

たとえば、前回取り上げたショスタコーヴィッチですが、よく「スターリン体制云々」なんて言われたりしますよね?

しかし、創作者にとって重要なものはスターリンの問題よりも、そんな体制を「求めて」しまう人間たちの魂の問題。そのような精神は、たとえスターリンの問題が終了しても、次に同じようなものを求めてしまうわけ。

「悪いのは○○のせいだ!」という人は、その次には「悪いのは△△のせいだ!」と言いだして、その次には「悪いのは☆☆のせいだ!」なんて言ったりするものでしょ?

結局は、発想そのものは全然変わっていないものなんですね。

それこそ、日本でも第2次大戦前に「悪いのはアメリカやイギリスなんだ!」と大騒ぎしていた人が、後になって「悪いのは、日本の軍国主義のせいだ!」と、大騒ぎする。この2つの主張は、政治的には大きな違いがありますが、精神的には全く同じでしょ?

そして、洞察力のある芸術家が見つめるのは、変わらない精神的な面の方なんですね。

魂の真実なんて、時代によって変わるものではありませんよ。しかし、変わらないからこそ、多くの人には見えないわけ。
多くの人は洞窟に映った影しか見えないし、見ようとしない。ショスタコーヴィッチだって、スターリン云々を直接描いたわけではないんですね。スターリンのような人を「求めてしまう」多くの人々の魂を覗き込んでいるわけ。そして、「求めてしまう」魂は、いつの時代でも変わらない。

魂に真実があり、魂を覗き込む行為、見続ける精神に真実があるわけでしょ?

人類最初の映画であるルミエール兄弟の映像作品に、ルノアールが、純粋な喜びをみて、芸術創作の原点を見たように、アンゲロプロスも、バルカン半島最初の映画であるマナキス兄弟の作品を捜し求めるという行為を描くことによって、芸術創作の原点を捜し求めたわけ。それはプラトンの言う、「魂を覗き込む」行為そのものでしょ?

この「ユリシーズの瞳」においては、アンゲロプロス個人としての芸術家の原点を探求する旅という側面があり、初期の作品群で扱われたギリシャにおける芸術不毛の探求という側面もあるわけ。だから、まさに彼のその時点における集大成的な作品であって、過去に自分の映画に登場した俳優を再び登場させているわけです。

激動のバルカン半島を描くと言った、時事ネタを扱った作品ではないんですね。時事ネタや政治ネタが中心のテーマの作品だったら、ベートーヴェンの第9交響曲とか「鳥の歌」を使いますよ。


むしろ、2千年以上変わらずに続く、芸術家の自己探求がテーマとなっているわけ。「いかにも」な曲が使われていない・・・そこから見えてくる作者の意図もあるわけです。

真の芸術家は、洞窟に映った影などは、その作品のテーマにはしないもの。

事物を、「純粋な喜び」を持って見つめること。
魂を覗き込む終わりなき旅。
それこそが、芸術作品の始源となる。

それらが芸術家の原点でしょ?
そして、とりあえずの終着点とも言えるのかな?

たどり着き、また旅立つ。

純粋な矛盾も、純粋な喜びも、自分自身の魂も、薔薇の花びらのように幾重にも重なった円環の中にあり、それを求める旅は、永遠に終わることはない。それを求め続ける使命を背負っているのが、アーティストというものだ。

アンゲロプロスも、そう考えているのでは?

http://movie.geocities.jp/capelladelcardinale/new/07-08/07-08-02.htm

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c10

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
4. 中川隆[-11678] koaQ7Jey 2019年3月06日 13:17:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[313]

泣きながら歌った歌。 2007/1/16

 坂本龍一が、中島みゆきのアルバム 「あ・り・が・と・う」 のスタジオミュージシャンとしてでスタジオに行った時、みゆきが 「こういう曲よ」 といって、今回の収録曲を自ら歌って紹介し始めた。 しばらくして、辺りから嗚咽が聞こえ始め 「誰か泣いているのかな?」 とキョロキョロ見回してみたら、そこに泣きながら歌っている中島みゆきがいた…。

 このことに、坂本龍一はかなり驚いたらしい。

 みゆきが泣きながら歌った歌とは?
 それはどうやら、みゆきの父の死を歌った 「まつりばやし」 だったらしい。


 「北海道の夏の終わりはもう冷たい風が吹いているんです。
 その風の中をお祭がやって来るんです。どの家も軒にも、紙で作った赤い花を飾って、お祭を待つんです。

 寒い朝でした…。…脳溢血でした。
 救急車の音の中で、何がどうなったのか、わかんないままに、三日待てって言われて、三日待っても目が覚めなかったら、もう諦めてくれって。

 着の身着のまま徹夜で一日待って、徹夜で二日待って、徹夜で三日待って。
 …お祭でした。日が暮れるまで待ったけど、目は覚めませんでした。何日もかかって準備したお祭の支度は、うちだけ無駄になりました。

 病院の外をねえ、まつりばやしが通って行くんです。綺麗で賑やかでねえ。まつりばやしを追いかけて、浴衣を着た子供が走り出すと、その子の父親が、追いかけて、走って行くんです。
 走って…行くんです」

 当時コンサートで 「まつりばやし」 を歌った時の話である。


まつりばやし
https://pv755.com/matsuri-bayashi


 まつりばやし  詞・曲:中島みゆき

肩にまつわる 夏の終わりの 風の中
まつりばやしが 今年も近づいてくる
丁度 去年の いま頃 二人で 二階の
窓にもたれて まつりばやしを見ていたね
けれど 行列は 通り過ぎていったところで
後ろ姿しか 見えなくて 残念だった
あとで思えば あの時の 赤い山車は
私の すべてのまつりの 後ろ姿だった
もう 紅い花が 揺れても

今年よく似た 声をかき消す まつりの中
信じられない おまえの最後を知る
眠りはじめた おまえの窓の外
まつりばやしは 静かに あでやかに通り過ぎる
もう 紅い花が 揺れても

人は誰でも まつりの終わりを知る
まつりばやしに 入れなくなる時を知る
眠りつづける おまえよ 私のところへは
まつりばやしは 二度とは来ないような気がするよ
もう 紅い花が 揺れても
もう 紅い花が 揺れても
もう 紅い花が 揺れても
https://blogs.yahoo.co.jp/bokkemon2006/2557151.html


▲△▽▼

坂本龍一 2007/1/14

 「坂本龍一」 といえば、アカデミー賞やグラミー賞などを受賞した世界的にも有名なアーティストであるが、スタジオミュージシャンとして活動していた時期に、中島みゆきの3rdアルバム 「あ・り・が・と・う」 の制作に参加している。

 「プロデューサーとアレンジャーとで、アルバムを練り上げていくっていう、今もとっている方法がこの頃から始まります。
 この時来たメンバーは坂本龍一さんとか、癖の強い人が多かった。スタジオが野性動物園と化した(笑)。

 坂本さんが 『今日出がけに金魚食べてきた。不味かった』 と言ったのを覚えています。それで彼、スタジオではみかんばっかり食べてなかなか弾いてくれないんです。

でも、全部食べて手もなめて、ポロッと弾いたらこれがすごくいいタイミング。

 天才はこういうものだ! と思いました」
 と、アルバム制作の時の坂本龍一のことを、みゆきはこのように語っている。

 あるインタビューに坂本龍一が当時のことを語っている。

 「…中島みゆきのアルバム 『あ・り・が・と・う』 にどういう経緯で参加したか、いまはっきり覚えてないんだけど。

 エピソードとして思い出すのは、僕たちがスタジオ・ミュージシャンとして行くと、みゆきさんが 『こういう曲よ』 って自分でギター弾いて聞かせるんですが、そのうち、しばらくして嗚咽が聞こえてくるんです。

 誰か泣いているのかなと思ってキョロキョロしていたら、みゆきさんが歌いながら泣いているわけね。それで、ちょっと、びっくりしたんです。オソロシかったですね。 

 当時は、居直りとかなくて、つまり、あまり衆人環視されていなかったわけです。レコード売上枚数とかにかかわりなく、存在として、ピュアな真剣さだけでやれたと思うんです。

 しかし、それが時間を経て、気持ちの上でも断層というか、切断が現れて、自分に対して客観視せざるを得なくなった時期があったはずなんで、そこでエンターテイメントとして落ちる人と浮上する人とが別れるという気がします。

 僕がスタジオ・ミュージシャンとしてやっていた時のみゆきさんは、純粋なシンガー・ソングライターだったと思いますね。そのままではエンターテイメントになれないという意味でね」

 
坂本龍一プロフィール

52年東京生まれ。
東京芸術大学大学院卒。

スタジオミュージシャンとしての数々の活動を経て、'78年アルバム「千のナイフ」でデビュー、同時に「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)に参加、その世界的な成功により80年代テクノポップ・ブームの立役者として名を知らしめる。

'84年映画「戦場のメリークリスマス」('82年公開)の音楽を担当し、英国アカデミー賞音楽賞を受賞。'83年にYMOを散会した後、映画「ラスト・エンペラー」('87年公開)の音楽を担当、'88年にアカデミー賞作曲賞他多数受賞、続く'89年グラミー賞映画・テレビ音楽賞を受賞。その後も世界的に幅広く活動中。
https://blogs.yahoo.co.jp/bokkemon2006/2491529.html?type=folderlist
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c4

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
5. 中川隆[-11677] koaQ7Jey 2019年3月06日 13:22:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[314]

女なんてものに 2007/1/17


 当時の彼女は、このようなことを語ったことがあるそうである。

 「私の歌を聴いて、どこかにひとりドキッとする人がいるはずなのよ」


その歌の一つが、このアルバム 「あ・り・が・と・う」 に収録されているらしい。

 それは本人が語ったわけではないが、巷で言われていることである。
 その曲とは 「女なんてものに」 である。

 アルバム発売前の1年くらい前に、彼女は作家の故・吉行淳之介氏と 「プラトニック・ラブ」 について対談をしている。

 その中で彼女は実に面白いことを言っている。

 「私は欲ばりですから、たぶん、肉体的な愛を待ち構えている時期をプラトニック・ラブというんじゃないかと…きっとそうなるだろうけど、待て待てしかし…と言ってる間がプラトニック。
 たとえばネコがネズミに飛びかかる前に、身を低くしてねらっている、そのときがそう」

 しかし、気になるのは次の対談部分である。

中島:「私、いつもわからなくなるのは、男性が女性を本当に好きだからふれないでおこうというのと、本当に好きならふれないではいられないというのと、どっちが本当だろうということなんです」

吉行:「後のほうが本当でしょうね。好きだから手もふれないというのはスリカエているわけなんだ。十代の終わりごろの男のセリフでね。それは女、並びに性行為がこわいんですよ。
 だが、男はこわいと言えないから、そういうロジックを立てる場合が多いね。
 はじめて自分の武器を使う場合に醜態を演じるんじゃないかというおそれがあるから、それを精神的なものにすりかえて自己を正当化するわけでしょう」

中島:「でもプラトニックでいるほうが恋愛が長続きするようね」

吉行:「恋愛とは、その構造基盤からいっても 『情熱』 でしょう。すると持続できないような構造ですよね。

 もう何十年も前に岡本かの子がすでに書いているが、愛を長続きさせるには、技巧を用いて努力する必要がある…。つまり 『愛』 の要素には 『努力』 がいるが、 『恋』 のほうはただやたらに燃えるわけです。

 しかしここでは愛については一応切り捨てて考えないと話がやっかいになるからね。だが、やむを得ない障害によって、プラトニックであらざるを得ないなら、長続きする、とは言えますね」

中島:「ああ、つまり障害もないのに、ふれないでもすむようなのは、大した恋じゃない」

吉行:「ええ。しかしぼくは疑っているんだが、女の人って恋愛感情を持てるのかな。
 本当に、持ってるの?」

中島:「は? まア (笑)」

吉行:「一生の計算で言ってるんじゃないのかな。努力して一流商社勤めの男性を獲得したいのを、自己暗示にかけてほれほれしたって言ってるのかもしれない。あのハンドバッグがほしいと思うような情熱を、恋愛の情熱と錯覚してるんだ。

 もっと言えば、女の人には観念的、抽象的な能力が、あまりない。恋愛感情というのは、かなり抽象的なものだよね。その能力がないものが、抽象的なものに支えられていることができるかという疑いを持っているんだ、ぼくは」

中島:「そうかなア」


 みゆきは 「女の人って…」 と言われたことに深く傷ついたのかもしれない。その思いが 「女なんてものに」 の中で歌われている。


女なんてものに
https://pv755.com/onna-nante-mono-ni

 女なんてものに  詞・曲:中島みゆき

女なんてものに 本当の心はないと
そんなふうに言うようになった
あなたが哀しい
女なんてものは 心にもないことを
平気で言うと人を諭してる
あなたが哀しい
笑ってごらん なんて なぐさめを
あたし これから 信じないわ
泣いても どうにも ならないけれど
笑っても あなたは 帰らないじゃないの

女なんてものは 愛などほしがらないと
笑いながら 言うようになった
あなたが哀しい
女なんて奴の 涙は 売り物だと
泣いてる人を指さして言う
あなたが哀しい
忘れていれば なんて 言い方を
あたし これから 信じないわ
呼んでも どうにも ならないけれど
忘れても あなたは 帰らないじゃないの

笑ってごらん なんて なぐさめを
あたし これから 信じないわ
泣いても どうにも ならないけれど
笑っても あなたは
忘れても あなたは 帰らないじゃないの


吉行淳之介 (よしゆき じゅんのすけ) 

1924年〜1994年 
東京大学英文科中退。

'54年 「驟雨」 で第三十一回芥川賞を受賞。
その後、 「砂の上の植物群」 「暗室」 などの本格的な長編や、軽妙なエッセイなどを多数発表している。
https://blogs.yahoo.co.jp/bokkemon2006/2637971.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c5

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
6. 中川隆[-11676] koaQ7Jey 2019年3月06日 13:29:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[315]

あ・り・が・と・う


 1977年6月25日、3rdアルバム 「あ・り・が・と・う」 をリリース。
 
 前作の2作の編曲が、当時ヤマハ所属の 「エジソンと発明王」 というグループに委ねられていたため、サウンド的にどちらかというとフォーク的な色が強かったような気がする。

 しかし 「あ・り・が・と・う」 では、スタジオミュージシャンが変わり、サウンド面でも前作とは全く違う洋楽的要素が組み込まれ、奥行きが深くなったように感じる。

 また、歌詞も、一曲一曲の中に登場する主人公たちの姿や心情が具体化され、情景が目に浮かんでくるぐらいその表現は研ぎ澄まされ始めたようである。

@ 遍路
https://pv755.com/henro

A 店の名はライフ

B まつりばやし
https://pv755.com/matsuri-bayashi

C 女なんてものに
https://pv755.com/onna-nante-mono-ni

D 朝焼け

E ホームにて
https://pv755.com/homu-nite

F 勝手にしやがれ

G サーチライト

H 時は流れて
https://pv755.com/tokihanagarete

主人公の恋愛遍歴を遍路巡礼に例えた@。
 
みゆきが札幌の女子大生の頃に、実際に行きつけだった店のことを歌ったA。
 
みゆきの父が倒れてから亡くなることを歌ったB。
 
ある作家との対談の時に言われた言葉で作ったと言われるC。
 
思いを寄せる人が違う女の元へ去り、ひとり眠れぬ夜を過ごすD。
 
地方から都会へ出て来た者たちの郷愁の思いを歌ったE。

 
などなど、このアルバムには中島みゆきの実体験的な歌も収められている。

 そして、単調なワルツのリズムで始まるが、徐々にみゆきの押さえ切れない感情が涙声に変わり、次第に壮大になっていくラストのHは、感動的で胸を打つ。

 このアルバムのライナーノーツには下記のようなことが書かれている。

 「いつだって 物語のようになんか いかなかった。
  別れは みっともなかったし
  愛は お笑い沙汰だった。
  言えばよかった筈でも とても
  ありがとう なんて 言えなかった。
  言えばよかったこと そして 言わなければよかったこと…
  いつだって 物語のようになんか いかなかった。
  だから 今夜。」

 恋破れ人と別れ、その哀しみも癒えた頃、ふと思い出を振り返った時にこのような素直な気持ちになれるのだと思う。

 このアルバムに収められている曲の主人公たちが、歌の中では哀しみにいたとしても、 「ありがとう…」 と言える時がいつか来る…。それがこのアルバムのテーマなのだろう。
https://blogs.yahoo.co.jp/bokkemon2006/2240109.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c6

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
7. 中川隆[-11675] koaQ7Jey 2019年3月06日 13:33:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[316]


中島みゆきの父・中島真一郎氏は産婦人科の開業医である。彼女は常に生命の誕生を肌身に感じていたのではないだろうか。

 真一郎氏はどうやら 「赤ヒゲ」 的な開業医だったらしく 「医者にもピンからキリまでありまして、ウチの場合はキリでした。家には10万円のお金もなかったのよ」 と彼女はある雑誌の対談の中で話している。

 その中で父親のことを次のように語っている。

 「人間としてやっちゃいけないことは、殴ってでも許さなかったですネ。私が音楽やること、やれとは言わなかったけれど、反対はしませんでした。世間に対しては、まるで不器用な処し方しかできない人でしたネ。そう、生きること自体が下手だったんです。」 

「頑固で融通が利かなかったンですねぇ。私と同じで愛想も悪くて」

 そんな父に対して世間が何と言おうと、彼女は自分自身を「ファザコン」と自称するほど父を尊敬している。

 一人静かに焼き鳥屋で酒を飲む父親の相手をしてあげていたようである。

 1975年9月。彼女の元にデビュー曲 「アザミ嬢のララバイ」 のサンプルレコードが届く。

 しかし、彼女はそのレコードを直ぐには父に見せなかったようである。正式にデビュー曲が発売される9月25日に見せようと考えていた。

 そしてもう一つ考えていることがあった。それは、翌月に行われる第10回ポピュラーソングコンテストで賞を貰うことができたら、その賞金で父にはオーバーを買ってあげようということであった。間もなくやって来る北海道の厳しい冬に向けて最高のプレゼントになる筈だった。

 そんな矢先のことである。

 「九月だった。寒い朝に父が倒れたの…。脳溢血。家は小さな病院だけど、その日の診察料で食べるような生活だったの」

 救急車で運び込まれた病院で 「3日待っても目が覚めなかったら諦めてほしい」 と宣告され、着の身着のまま徹夜で3日待った。が、真一郎氏の目は覚めなかった…。

 そんな中、中島みゆきはレコードデビューをし、そして翌月10月12日に第10回ポピュラーソングコンテストを迎える。

 本選会では、予選の時の歌を歌うのが通常であるが、彼女は予選の時に歌った歌とは違う 「時代」 に急遽変更し本選会に臨んだ。


時代
https://pv755.com/jidai-pv


 彼女は父が目を覚ますことを願って 「時代」 を歌い上げたかったのだろう。

   旅を続ける 人々は
   いつか故郷に 出逢う日を
   たとえ今夜は 倒れても
   きっと信じて ドアを出る
   たとえ今日は 果てしもなく
   冷たい雨が 降っていても
 
     めぐるめぐるよ 時代は巡る
     別れと出逢いを くり返し
     今日は倒れた 旅人たちも
     生まれ変わって 歩き出すよ

 「時代」 は見事グランプリに輝き、翌月の第6回世界歌謡祭でもグランプリを獲得した。

 彼女は、このことを誰よりも父に報告したかったに違いない。

 しかし、真一郎氏の目は、倒れてから一度も覚めることはなかった。愛する娘のデビューと成功を見ることもなく、翌年の1月、真一郎氏は静かに旅立って逝った。

享年51歳。
https://blogs.yahoo.co.jp/bokkemon2006/596380.html
 
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c7

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
8. 中川隆[-11674] koaQ7Jey 2019年3月06日 13:39:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[317]

愛する娘のデビューと成功を見ることもなく、真一郎氏は静かに旅立って逝った。
1976年1月のことである。

 「ポピュラーソングコンテストで賞を貰うことができたら、間もなくやって来る北海道の厳しい冬に向けて、その賞金で父にはオーバーを買ってあげよう」 と考えていたその賞金は、全て父の葬儀代へと変わってしまった。

 しかし、みゆきはいつまでも父との別れを悲しんではいられなかった。
 一家の大黒柱を失った家族の生活が、一気に彼女の肩にかかってきたのである。

 彼女には3歳年下の弟が一人いる。その弟は医大生になっていた。父の志を引き継ぎ医者を目指していた彼の夢を叶えるために、彼女はプロとしてやっていく決意をしたのだと思う。

 彼女は仲間たちに 「弟が医者になるまで頑張る」 と告げ、北海道と東京を往復しながらプロとして活動を開始した。

 彼女は対談などで一度も「残された家族のためにプロになった」とは話したことはない。父の死後、家族の生活を守るのは自分しかいない。それは当然のことだと思っていたのだと思う。

 以前、某テレビ局で、熱烈なみゆきファンの著名人を集めてそれぞれがみゆきについての思いを熱く語るという企画の深夜番組をやっていた。

 その一人、登山家で医師でもある今井通子女史が 「私は医師である中島さんの弟さんを知っているのですが、彼は今でもお姉さんのみゆきさんのことを尊敬してますねぇ」と話していた。
 
 「時代」 で第6回世界歌謡祭グランプリ受賞直後のインタビューでは次のように応えている。

 「あの頃って、アマチュアでやるのにもイヤ気がさしていたし、それにもう歌う場所がなくなりかかっていて、本当に悲しかったわ。まだ他にも私と同じように自分を殺しかかっている人もたくさんいるでしょうに…。私は幸運だったんですね。」
 
 どうしてアマチュアでやっていくことにイヤ気がさしていたのか、ある対談で次のように話している。

「機材を持っているアマチュアっていないからね。それにアマチュアだけのコンサートなんてやってくれないし、アマチュアがでれて機材もあるっていったら、とりあえずコンテストぐらいしかないんだよね。学生やアマチュアが集まるのもやっていたけど、機材が全然問題にならなかったしね。PAも専門家だし、スタッフもいてくれるし、コンテストはね。」

 丁度その頃は、反戦フォークを歌う若者達が新宿西口にあふれ、それを機動隊に排除されてしまう 「新宿西口の騒ぎ」 があった頃である。

 ギターを持って歌うことが認められなくなっていった時代である。
 
 自分の心の中の叫びを歌にして伝えたい。その残された場所が 「プロでやっていく」 ということだったのかもしれない。

 彼女はプロになりたくて歌ったのではなく、歌を歌う場所を求めて、そして家族の生活を守るために 「プロ」 という道を選んだのだ。
https://blogs.yahoo.co.jp/bokkemon2006/662894.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c8

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
9. 中川隆[-11672] koaQ7Jey 2019年3月06日 14:14:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[319]

中島みゆき 誰のせいでもない雨が 動画
https://pv755.com/dare-no-seide-mo-nai-ame-ga



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中島みゆき難解な名曲「誰のせいでもない雨が」2011-10-24
https://ameblo.jp/lupin-akane/entry-11057745125.html


You Tube で この歌を カバーしている 人が

1番を砂川闘争 2番を学生運動 はともかく
3番を洞爺丸事故と 想定した

と 書いてあったが、突拍子も無い同じ事 想像する人 世の中に いるんですね 
驚いたよ  


誰のせいでもない雨が降っている
しかたのない雨が降っている
黒い枝の先ぽつりぽつり血のように
りんごが自分の重さで落ちてゆく
誰のせいでもない夜が濡れている
眠らぬ子供が 責められる
そっと通る黒い飛行機があることも
すでに赤子が馴れている
もう誰一人気にしてないよね
早く 月日すべての悲しみを癒せ
月日すべての悲しみを癒せ

怒りもて石を握った指先は
眠れる赤子をあやし抱き
怒りもて罪を穿った唇は
時の褥に愛を呼ぶ
されど 寒さに痛み呼ぶ片耳は
されど 私の裏切りは
誰のせいでもない雨が降っている
日々の暮らしが降っている
もう誰一人気にしてないよね
早く 月日すべての悲しみを癒せ
月日すべての悲しみを癒せ

船は港を出る前に沈んだと
早すぎる伝令が火を止めにくる
私たちの船は 永く火の海を
沈みきれずに燃えている
きのう滝川と後藤が帰らなかったってね
今ごろ遠かろうね寒かろうね
誰かあたしのあの人を救けてよと
跣(はだし)の女が雨に泣く
もう誰一人気にしてないよね
早く 月日すべての悲しみを癒せ
月日すべての悲しみを癒せ
早く 月日すべての悲しみを癒せ
月日すべての悲しみを癒せ

中島みゆき 難解な名曲の1つです

みゆきさんの歌は 多くのインテリが様々な解釈をしています

しかし本人は 「ああ こういう解釈もあるのかぁ」といっさい

弁解や解説は致しません

それがまた 多くの 解釈を生むのでしょう


学生運動 左翼系の活動家の心情がテーマとして歌われている

というのが 定説になっているようです


1番の歌詞は どこか「砂川闘争」を思わせるような 感じです

2番の歌詞

「怒りもて石を握った指先は」
「眠れる赤子をあやし抱き」
「怒りもて罪を穿った唇は」
「時の褥に愛を呼ぶ」
「されど 寒さに痛み呼ぶ片耳は」
「されど 私の裏切りは」

七・五調の文学的表現ですが どのフレーズも ???一見なんのこったか 

しかし 元活動家が 過去を想い 志半ばで 挫折した己の 現在の心情と見ると 

なるほどそうかな とも思えてきます

3番 最も難解な歌詞

私はなぜか 飢餓海峡の「洞爺丸事件」を想像してしまいました

 岩内で放火強盗殺人事件が起き 町は大火となります

 その日 港を出る 洞爺丸が台風で沈み 大勢の犠牲者がでます 

岩内といえば みゆきさんの 故郷ですね なにか結び付けたくなります

そして いきなり出てくる「滝川」と「後藤」とはいったい何者か


「月日すべての悲しみを癒せ  おおぅお〜」

無邪気な少女が 意味も分からず 口ずさんでいるような 

たどたどしい 歌い方で歌い終えています


消し去りがたい 過去を引きずる者にとって 

最後の 「おおぅお〜」 は 

胸を掻き毟られることだろう


みゆきさんは 数ある歌の引き出しの中から

敢えて意図して この歌い方をしたのだろうか
https://ameblo.jp/lupin-akane/entry-11057745125.html



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学生運動の歌をあらためて聴く 「誰のせいでもない雨が」(中島みゆき)

 今回は中島みゆきの「誰のせいでもない雨が」を、私なりに解釈していこうと思います。

 「神田川」で、いっしょに暮らしていた二人は、運動の志のせいかどうかはわかりませんが、結局は別れてしまいました。

 一方、この「誰のせいでもない雨が」は、「神田川」の主人公が恐れた、まさにその通りになった、女性活動家の歌だと思います。
 道浦母都子に、

ガス弾の匂い残れる黒髪を洗い梳かして君に逢いにゆく

という句があります。

 大義を掲げた運動をしていて、いくら目的に関係のないものはみんな排除しようとしても、「人間らしさ」というものは抑えきれないのでしょう。

 中島みゆきのこの歌の女性は、誰かと恋愛関係になり、子供が生まれ、結局、高邁な目標よりも平凡な日常を選んで、運動から降りてしまいます。

 学生時代、権威に反対する運動へ身を投じた人の多くは、結局は世の流れに呑み込まれ、男は平凡な勤め人に、女は平凡な母親に、恐らく彼ら・彼女らが「こうした人生には埋没したくない」と思っていたその人生に落ち着いていきました。

 自分の変わり身に何の痛みも覚えず、さっさと会社で出世している人もたくさんいますが、罪悪感のような落ち着かない気持ちを抱えて毎日を送っている人もいます。

 この歌の女性は明らかに後者であり、この歌の「雨」は彼女が感じている後ろめたさ、やり場のない気持ちの象徴です。

 黒い飛行機がそっと通るくらいですから、世界は、彼女が考えるまともな場所に、全くなってはいません。

 それでも彼女は今では、かつて投石した手で赤ん坊を抱き、罪を糾弾した唇で愛情を囁きます。

 運動から降りてしまった自分は非難されても「仕方ない」、でも、人間である以上、りんごが自分の重さで落ちていくように、今の生活を選び、落ち着いていったのもまた「仕方ない」ことだ、彼女に降るのはたぶんそんな「雨」です。

 「寒さに痛み呼ぶ片耳」とは、活動中に怪我を負った耳を指すのかもしれないし、活動家たちのメッセージを、今では全身を傾けては聞けないが、さりとて無視したくもないという落ち着かない気持ちの比喩なのかもしれません。

 その他、私の勝手な想像ですが、「港を出る前に沈んだ船」は、改革が何らかの具体的な実行段階に移される前に、頓挫させられたこと、「火を止めに来る早過ぎる伝令」とは、もうあきらめなさいと囁く、体制側の声のような気がします。
それでも船は沈みきれず、火の海で燃えます。

 運動から降りてしまった彼女は、そうした成り行きや、かつての仲間である滝川と後藤が逮捕されたという知らせをやりきれない思いで受け止めながら、時間が気持ちを鎮めてくれるのをひたすら待っている、これはそういう歌ではないかと思います。


 あらためて考えてみると、「誰のせいでもない雨」って、すごい言葉です。

 この一言で、「私にはこうするしかなかった」「どう思われようと受け入れるしかない」「世界の現状の中で暮らしていくしかない」

 「人間とは悲しいものだ」等、様々なイメージが喚起されます。

 中島みゆきは、本当に凄い歌手だと思います。
http://nekosabu.blog.fc2.com/blog-entry-69.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c9

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
10. 中川隆[-11671] koaQ7Jey 2019年3月06日 14:43:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[320]

中島みゆき エレーン 動画
https://pv755.com/nakajima-miyuki-eren

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中島みゆきさん『生きていてもいいですか』―「エレーン」と「ヘレン」
http://bund.jp/?p=14806


 初めて中島みゆきさんの「エレーン」という曲を聞いたのは高校生の頃だったでしょうか。まだネットなんて影も形もなく、音楽はレコードとカセットテープで聞いていた時代で、その手の情報は主にラジオの深夜放送という頃でした。

 一般にはそんなにヒットしたという印象はありませんが(シングルカットもされてなかったと思う)、不思議と印象に残る曲で、みゆきファンの間では最高傑作にあげる人もいる有名な歌です。私も長らく心に残る曲として覚えていましたが、ネット時代に入ってから、これが実話であることを知り、大変にショックを受けました。中島みゆきさん本人が、コンサートであかしたそうで、すでにファンの間では大変に有名な話だったそうです。

 中島さんが20代の頃、ヒット曲に恵まれて都内に拠点を設けるにあたり、「有名人の居宅」として騒がれるのを嫌って、麻生の外国人専用マンションを選んだそうです。そこに「ヘレン」と名乗る外国人娼婦が住んでいました。中島さんはヘレンと知り合い、時おりカタコトの英語で会話をかわすようになります。

彼女は髪を金髪に染め、いつも派手な化粧と、ファッション雑誌から切り抜いたような派手な衣装を着ていました。自分をモデルと自己紹介しましたが、夜になると何度か住人以外の日本人男性がやってきて、ヘレンのドアをノックし「ハウマッチ?」などというところを目撃するようになります。


 そんなある日、警察が中島さんのマンションを訪ねてきました。
ヘレンが殺されたので、住人にも聞きこみをしたいというのです。

ヘレンは顔面を潰されて絞殺された上に、全裸でゴミ捨て場に捨てられていたそうです。
顔が潰されているので、しばらく身元も特定できなかったとのこと。

手口と状況から見て、所持品目当ての犯行という疑いよりも、「客」がいざこざから犯行に及んだとの疑いが濃いとのことでした。


 中島さんは訪ねてきた刑事に

「だったらヘレンの客にあたって事情を聞けばいいのでは?」

と質問してみました。刑事の答えは

「それはわかっているが、誰が彼女のことを話したがりますかね?」

だったといいます。

聞き込みなんてしても、どうせ誰もヘレンのことを知っていたとさえ話したがらないだろうと、だから最初から無駄なことだと言うのです。中島さんは絶句するしかありませんでした。

 これだけ無残な大事件なのに、新聞はたった数行の扱いでした。前述のように警察の動きも鈍く、結局は犯人もわからないまま早々に迷宮入りします。

ヘレンには身内もおらず、やむなく管理人がヘレンの荷物を整理しましたが、華やかにみえた衣装は実はすべてが安いまがい物で業者も引き取らず、ゴミとして出すしかなかったそうです。

 私でさえ大きなショックを受けた話です。若き日の中島さんは、自分と同年代のこの女性の死を、どういう思いで受け止めたでしょうのでしょうか。

そしてこの歌ができました。


中島みゆき『エレーン』の歌詞
http://www.kasi-time.com/item-18203.html


 歌詞の「生きていてもいいですか」はアルバムのタイトルとなり、この歌は同アルバムの中心的な曲となっています。

 重要なことですが、中島さんは曲の中で、決してヘレンの生き方を美化も肯定もしていません、まして安易な同情を歌っているわけでもない。ただ、ヘレンを金で抱きながら、口をつぐんで悪口を流す世間への嫌悪感、そしてただ哀しみを歌っています。同情でも美化でもないこの哀しみが、この曲が心に残る所以だったのかなと思います。

 人の死は平等ではない。そのことがただ哀しい。同じように惨殺された人でも、大きく報道されて世間の同情を集め、何年でも警察が威信をかけて捜査することもあれば、同じような目にあいながら、わずか数行しか報道されず、さっさと迷宮入りあつかいされてしまう人もいる。

 刑事が訪ねてくる数日前、おそらくはヘレンが殺されるまさにその前日、中島さんがマンションのランドリーで乾燥機を回しているヘレンを見かけます。その時のヘレンはいつもとは違い、濃い化粧が抜け落ちていて、珍しく沈んでいるようにみえました。「これが私の普通の顔よ」と言って恥ずかしそうに笑って振り向いたヘレンの素顔は、普段よりもふけてみえたが、一番きれいだったと中島さんは語っています。

 学生時代に調べた正当防衛の判例で、ホテルの密室に呼びだされた娼婦が、客の男性から酷い「SMプレイ」を強要され、殺されるかもしれないという恐怖に逃げ回っているうちに、あやまって男性を突き飛ばして死亡させたという事例がありました。この事例では弁護士の努力にもかかわらず、正当防衛が認められずに実刑となり、女性は刑務所にいきました。理由は女性は娼婦なのだから、男性の要求をある程度は受け入れるのが当然だからということでした。

 同時に調べた別の事例では、空き巣にはいった泥棒に遭遇した男性が、逃げる空き巣を家の外まで追いかけて、そのままバッドで殴り殺したという事例がありました。この場合は正当防衛が認められ、男性は無罪になります。男性の「自身ではなく家族を守るためにやった」という証言が決め手になったそうです。

 人の死のあとに残るのはその人の生き様だけです。それに安易な肯定も同情も美化もしません。ただ、あとから作られた社会の価値観によって、自分だけは手を汚していないような顔をしながら、人の死に優劣をつけて分類していく、そんな世間の仕組みを見ながら、それがとても哀しい。

 そういう、人ならば当然に感じる人間らしい感性を「中二病」などと切り捨てたり、そんな人間らしい感性を失っていくことが大人になることだとか、それをなくすことが求められるような社会が哀しい。だからどうだとか言う前にただ哀しいのです。

 せめて、中島さんの歌を通じて、ヘレンという女性がいたことをいつまでも覚えていたいと思います。「エレーン」は今日も私たちの食卓を窓から眺めていると思うから。

 私は(そしてわりと多くの人もそうだと思うのですが)この話を聞いて、聖書で一般に「姦通の女」と呼ばれている話を思いだしました。中島さんの通っていた藤女子大学は北海道で唯一のカトリック系の女子大だったそうです。中島さんも、おそらく刑事の話を聞いた時、この話を思い浮かべたのではないかと思います。


 イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、 御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。
 「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」
イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。

 イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」
 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。

 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。
 「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」
 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。
 「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」
(ヨハネによる福音書、第8章の1〜11節)

http://bund.jp/?p=14806


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c10

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
11. 中川隆[-11670] koaQ7Jey 2019年3月06日 15:10:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[321]

中島みゆき ローリング 動画
https://pv755.com/roringu



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学生運動の歌をあらためて聴く(1) ローリング(中島みゆき)

 この間あることで「ブサヨク」と決めつけられたのですが、これをきっかけに、ふと、学生運動に関する歌をまとめて聴いてみたくなりました。

 私と同い年の音楽仲間Kさんは、大学に入ったら必ず学生運動に参加しようと思っていたとよくライブで話していますが、 私たちが大学に入る頃には、もう学生運動は終っていて、大学側と学生が対立するようなことなどなく、学内はいたって平穏でした。

 私が通っていた大学は敷地が広いので、勝手に車で来る学生も多く、特に大学祭の時期などは構内に車が溢れるようになっていましたが、 これを憂えた大学側は門に警備員を置き、学生の車は許可証なしでは学内に入れないようにしました。

  「車の規制はいいとしても、学生に相談もなく制服の警備員を常駐させることに、きみたちは抵抗がないのか」と、英文学の講義中、教授に呆れられ、言われてみればそうかもしれないとやっと気づくくらい、私たち学生は管理されることに鈍感になっていました。

 それでも、上からの一方的な押し付けや権力を嫌う空気はまだ残っていて、運動を継続しようとする学生も多少はいました。

  「○○首相訪米阻止」などと大書された立看板が、翌朝には叩き壊されている、などということはまだよくありました。

  でも、ヘルメットで武装した学生など1度も見たことはないし、世の矛盾を声高に糾弾するような者は周囲から浮いていました。

 私も含め、学生の多くは政治などどうでもよく、楽しい時間を過ごせればそれでいいと思っていました。

 そんなわけで、私は学生運動とはほぼ無縁で、かろうじてその残り香にふれたくらいでした。

 インターネットでちょっと見てみると、若い人達は概ね学生運動を大変否定的にとらえているようで、「ゴミ」「基地外」などの言葉がやたらと目につきます。

 まあ、ネットに匿名で無責任に書くのは所詮こんな程度の人間なのでしょうが、それでも、頭のイカれた無責任な人達が、ヘルメットをかぶり、顔をタオルで覆い、ゲバ棒を持って暴れた、

というのが、今の若者が持つ、学生運動のイメージのようです。

 確かに、末期には先鋭化した幹部が仲間を殺したり、テロ行為に走ったりと、単なる犯罪者と成り果てた者もいます。

 また、当時、激しく体制を批判しながら、その後大変器用に体制に順応して、平然と企業の幹部に納まっている人もきっとたくさんいます。

 でも私は、匿名性を利用してインターネットに放言したり、ナンパ、合コン、車などに明け暮れている学生より、犯罪行為は別として、当時運動に参加していた学生をどうしても好意的に見てしまいます。

 歌で自分の思いを伝えるという、今では当たり前のことがこの時代に生まれたことからつい贔屓目に見てしまうのですが、それでも彼ら、彼女らのほとんどは、少なくとも運動の最中は、本当によりよい世界構築のために行動していたのだと思います。

 インタビューなどを読んでも、当時運動に関わっていた人の9割は、本気で世界をよりよい方向に変えようとしていたことがわかります。

 その後の個々の進んだ道は様々ですが、学生たちが一時にせよ、自分の時間とエネルギーをその時点で正しいと信じたことに傾けたのは事実だと思います。
 「金と暇を持て余した学生の遊び」などと言われたりもしますが、私はもし自分がそのとき大学生だったら、銀色の盾を持って向かってくる機動隊に対峙する勇気が自分にあったかどうか、正直疑問です。

 地雷除去や反原発で有名な坂本龍一のように、自分の才能を活かして、その後も社会的な活動を、もちろん合法的に続けて世界中から評価されている人もいます。

 現在私たちは、民衆はただ上からの指示に従うだけの存在ではない、という意識を当たり前のように持っていますが、
この常識を根付かせたのは、学生運動の功績ではないかと思います。


 前置きが長くなりましたが、まず、中島みゆきの「ローリング」です。

 1952年生まれの中島みゆきは、学生運動の志に共感を覚えながらも、結局は参加しなかったと言われています。

 運動に参加することができず、それを大昔の出来事とも見ることができないどっちつかずの自分の年代を、彼女は Rolling Age と呼んでいるような気がします。

 この歌は学生運動そのものを歌っているわけではありませんが、2番の歌詞を聴くと、運動に参加しなかったこと、運動に幻滅したことが、中島みゆきにとっては乗り越えなければいけない課題だったのではないかと思われます。

 中島みゆきの曲では、この他に、「まつりばやし」「世情」「誰のせいでもない雨が」「永遠の嘘をついてくれ」などが、学生運動に関わりのある歌だと言われているようです。
http://nekosabu.blog.fc2.com/blog-entry-65.html


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中島みゆき 「ローリング」2012-04-03
https://ameblo.jp/lupin-akane/entry-11211158342.html


工事ランプの凍る路地をたどって
探しあぐねた たむろできる場所を
昨夜騒いだ店は 客を忘れて
一見相手の洒落た挨拶を配る
Rollin' Age 淋しさを
Rollin' Age 他人に言うな
軽く軽く傷ついてゆけ
Rollin' Age 笑いながら
Rollin' Age 荒野にいる
僕は僕は荒野にいる


黒白フィルムは 燃えるスクラムの街
足並揃えた幻たちの場面
それを宝にするには あまり遅く生まれて
夢のなれの果てが転ぶのばかりが見えた
Rollin' Age 淋しさを
Rollin' Age 他人に言うな
軽く軽く傷ついてゆけ
Rollin' Age 笑いながら
Rollin' Age 荒野にいる
僕は僕は荒野にいる


9桁の数字を 組み替えて並べ直す
淋しさの数と同じ イタズラ電話
ボックスを叩く街の風が冷たい
どうしても1つだけ押せない組がある
Rollin' Age 淋しさを
Rollin' Age 他人に言うな
軽く軽く傷ついてゆけ
Rollin' Age 笑いながら
Rollin' Age 荒野にいる
僕は僕は 荒野にいる
僕は僕は 荒野にいる

70年代の匂いのする   男歌

なんといっても 歌い方が かっこいい

以下 勝手な イメージ

革命思想にかぶれ 上京し 都会の大学へ 

学生運動に身を投じたが 既に波は過ぎ去り

結局 革命などは 起こせるはずもなく

就職にも失敗

日々の労働で 食いつないでいるが

今のままでは 郷里に帰ることも叶わず

でもまだ 握りこぶしの中に 持っている 

もう 2年 もう 10年 忘れ捨てるまで・・・

 

そんな感じです

学生運動は 70年安保を境に その燃えるスクラムの波は 過ぎ去り 

一部過激な者達が アンダーグラウンドに潜り

72年 浅間山荘事件 連合赤軍事件を引き起こす

みゆきさんは当時 二十歳の女子大生 

音楽を通じ 北大の学生達と交流があったと聞く 

その中に まだ学生運動の 夢のかけら を追いかけて 

あぶな坂を転げ落ちていく エリート達を見ていたのかもしれない

 軽く軽く傷ついてゆけ

学生運動をしていた事で 採用試験に失敗 

本当はショックだったが 

エリートのプライドからの やせ我慢か

  笑いながら  荒野にいる
 
笑っているのは 自分の生き様に対し プライドからくる自嘲なのか 

 荒野は 望まない職場か 肉体労働かもしれない


みゆきさんの "歌" の根っ子の1つが 「哀しき父への鎮魂歌」ならば

もう1つの 根っ子は この  「Rollin' Age」  

転げ落ちていく 群像への レクイエムだろうか


「世情」 「誰のせいでもない雨が」 「君の昔を」などにも 
この 「Rollin' Age」 の影が見える 
 

 

中島みゆき 数ある曲のなかでも 常に人気上位の曲  

この曲に対する 思いや 解釈も 皆それぞれ と思います 
https://ameblo.jp/lupin-akane/entry-11211158342.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c11

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
12. 中川隆[-11669] koaQ7Jey 2019年3月06日 16:49:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[322]


70年代過激派の醜い内ゲバを描いたキツネ狩りの歌

中島みゆき キツネ狩りの歌 動画
https://pv755.com/kitsune-kari-no-uta


中島みゆき は高校時代の彼氏が内ゲバで亡くなったことがトラウマだとか

▲△▽▼

2017年06月05日 中島みゆき 『生きていてもいいですか』 キツネ狩りの歌

 能天気なピッコロ・トランペットによって奏でられるファンファーレ。2.まで余韻として残っていた「うらみ・ます」の重い空気を吹き飛ばす、みゆき風大人のお伽話。でも、歌われている内容は皮肉めいた暗喩に満ちており、どこか奇妙な明暗を落とす。

 軽快なアルペジオによる爽やかな叙情派フォーク・サウンドは、このアルバムの流れでは躁病的に映る。なので、A面はノン・コンセプトの小品集なのだ。

 昔聴いた時は、単なる寓話として受け止めていたけど、後になって、様々な暗喩を含んだ解釈を知るようになった。

最終的な部分は結局、人それぞれになってしまうけど、大方の意見のように、
70年代過激派の醜い内ゲバを描いたというのが、俺的には納得の落としどころ。
http://oresuki.dreamlog.jp/archives/70903289.html

中島みゆきさんの「結婚」につながりそうな噂


現在は独身とのこと。結婚歴もなくずっと独身ですって。
なぜ結婚しなかったのでしょうね。

そういえば、松山千春さんと熱愛したんじゃなかったっけ?〔中略〕

某ギタリストの彼氏とホテルから朝帰りする写真を撮られたことあるし。

高校時代の彼氏が内ゲバで亡くなったことがトラウマだとか。

某プロデューサーと不倫関係で、同棲してるとか。

もっと深刻なのが、同〇愛〇だとか。
https://entertainment-topics.jp/43047
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c12

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
13. 中川隆[-11668] koaQ7Jey 2019年3月06日 17:04:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[323]


ang********さん 2010/6/4 08:52:30

狐狩りの歌です。

曲名は忘れました。中島みゆきさんの物凄く古いアルバムで、狐狩りの歌の歌詞を知りたいです。

狐狩りにいくなら
なら●●●●●
ねぇ 狐狩りは素敵さ
ただ生きて戻れたら

●には何が入りますか?



i_a********さん 2010/6/5 15:26:32

♪きつねがりにいくなら〜
『ララ、きこえるょ〜』
♪きつねがりはすてきさ〜
ただ生きてもどれたら、ね

cs8********さん 2010/6/4 21:26:50

本当の歌詞を書くよ

「内ゲバのことも忘れず」

恋人を殺された中島みゆきの怒りが垣間見られる・・・と思っている。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1441756209


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c13

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
14. 中川隆[-11667] koaQ7Jey 2019年3月06日 17:10:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[324]

えのき堂‏ @skoda130rs

中島みゆきの「キツネ狩りの歌」は革共同の内ゲバについて歌っていると言われているが、確かにこの歌詞はそういうものを想起させるものだと思う。

内ゲバ云々については昔、京大吉田寮のプレハブ部屋に住む中島みゆきファンの京大生から聞いたのだった。

10:18 - 2011年12月1日
https://twitter.com/skoda130rs/status/142306665130246144
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c14

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
15. 中川隆[-11666] koaQ7Jey 2019年3月06日 17:37:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[325]
百理 ★5n9Jhh5DYh_dB9

みゆきさんは、最近聞いた事が無くて申し訳ありません。

大御所になるとバックの抱えている人数が違います・・

うぶな頃の曲しか興味が無くて申し訳ありません。

何でも初々しいままでいられないのでしょう・・

やはりデビュー仕立ては、魅力がありますが・・何年も経つと・・以下略・・

1年前 No.852 

雲龍 @steiner777 ★iPhone=hxAEwl8GlZ

「いつからそうではなくなったのか?」

これはハッキリとは中島みゆきに聞かなければ分かりませんが、アルバム的には「愛していると言ってくれ」からでしょう。

百理 ★5z6bVAmgS3_VuR

久しぶりにみゆきさんの新曲を聞きました・・やはり気迫が感じられません・・
デビューしてから数年の旬の歌がいいですね・・

雲龍 @steiner777 ★iPad=U7R3mnzrE6

もう還暦だからねえ。
しかし彼女とうとう結婚しなかったね。
http://mb2.jp/_swn/122_801.html#UPG

葉山 @kirin035 ★Android=gN3GKHk0Vr

中島みゆきの「世情」はファンでなくても大体知っているほど有名だ。

しかし、この曲の歌詞の意味する所は人によって解釈が違うようだ。

http://m.youtube.com/?hl=ja&gl=JP#/watch?v=O3ZODWsWCPM


「世の中はいつも変わっているから

頑固者だけが悲しい思いをする

変わらない物を何かに喩えて

そのたび崩れちゃそいつのせいにする」


(1)全共闘運動が背景に有る事は間違い無いから、「頑固者」とは機動隊を導入した教授の側だ、というのが最も単純な解釈だ。


(2)逆に、いや全共闘の側こそ頑固者の象徴として歌われているのだ、という解釈も成り立つ。


(3)三つ目は中島みゆき自身が頑固者なのだ、という解釈だ。


さて、皆さんはこの歌を聴いて頑固者を誰と見るだろうか?


僕はずっと(1)の解釈をして来たが、それではこの曲はあまりに薄っぺらな気がする。

(1)+(3)と考える事でこの曲のイロニーが浮かび上がる、と今では考えている。

4年前 No.709 

高知の片隅で ★LQZwOZniVZ_9G6

葉山さんこんにちは。

世情という曲の歌詞の"頑固者″についての解釈を自分なりにしてみました。

この曲があくまでも、中島みゆきの目線で書かれた歌詞ならば
"悲しい思いをする頑固者"とは、自身が学生時代、自分よりちょっと上の
学生運動に参加し主義主張をシュピレヒコールしていた先輩たちのことではないでしようか。

少なくても、権力側、体制側に立つ頑固者たちには
"悲しい"という形容詞は不似合のような気がします。

ただ、過激派と呼ばれ反社会的な破壊活動をした人物たちではなく
純粋に学生として大学の在り方に疑問を呈したり、この国の将来を憂いて
シュプレヒコールをしながら通り過ぎていった若者たちのことだと思いますが。

世情についてご本人は
「学生時代がちょうど学生運動の時期と重なってたんで
私よりもちょっと上の先輩たちがこのシュピレヒコールを上げてた
先輩たちだったんですよね。
〜中略〜
しょっちゅう耳にしてたので、ごく日常的な言葉で使っちゃったんですけどね」
と述べていますね。
https://www.youtube.com/watch?v=DDpGyIiVwlY#t=20

学生運動をリアルには知らない1961年生まれの、もしかしたら的外れかもしれない解釈です^^;


葉山 @kirin035 ★Android=gN3GKHk0Vr

高知の片隅でさん、どうも初めまして!

レスいただき大変嬉しいです。

今は時間が無いので、9時か10時頃にでもレスします。

4年前 No.711 


葉山 @kirin035 ★Android=gN3GKHk0Vr

高知の片隅でさん、

改めて初めまして。

今までもこのスレに何度もレスしていたんですね。

今後も拓郎への思い入れをぜひ語って下さい。

世情の解釈ですが、貴方の解釈も一理有ると思いました。

そこで僕の解釈は(1)+(2) +(3)に変わりました。(笑)

中島みゆきが当時の学生運動に対しどういう立ち位置を取っていたか?
それによって解釈は変わってくるでしょう。

僕の見方は、彼女はユーミンと同じで、一時は心情的に共鳴していたが積極的に参加はしなかった、 というものです。

そういう者達は活動家に対して屈折した感情を持っています。

つまり、大学当局=権力=悪、 全共闘=反権力=善、という様な単純な見方はしていない筈だと思います。

サビの部分で、シュプレヒコール を上げる側が「変わらない夢を流れに求め」

権力者の側は「時の流れを止めて変わらない夢を見たがる」と描かれています。

どちらも「変わらない夢を見ている」、この言葉が中島みゆきの立ち位置を示していると思います。


多くの学生がこういう立ち位置にいました。

学生運動側に共感したのは、やはりテレビや新聞で流されるベトナム戦争の映像が強烈だったからでしょう。

積極的に参加できなかったのは、 三派系全学連の暴力的スタイルや 古臭いマルクス主義の理論を支持できなかったからであり、また自 分の就職という現実を考えたからでしょう。

また、その学生運動の側もその後の凄惨な内ゲバやリンチ殺人を見ると、彼等自身も権力者と同じ精神構造を持っていた、とも思えま す。

この曲を作った時、既にそういう状況がハッキリしていました。

この事を考えた時、権力者側と学生運動側、どちらも頑固者で悲しい存在であり、またどちらの立場にも徹底できなかった自分も悲しい存在である。

そういう心情を歌ったのだと僕には思えます。

二番の「世の中はとても臆病な猫だから、たわいの無い嘘をいつもついている」

これなどはみゆき自身の事と考えるのが一番自然でしょう。

4年前 No.712 

高知の片隅で ★LQZwOZniVZ_9G6

葉山さん、こんばんわです。


>世情の解釈ですが、貴方の解釈も一理有ると思いました。

拙い解釈をお汲み取り下さりありがとうございます。
その作品を作ったご本人には申し訳ないかもしれませんが
楽曲は聴く側がその年齢や経験によりいろんな解釈ができる(許される)点が面白いと感じます。

>そこで僕の解釈は(1)+(2) +(3)に変わりました。(笑)

ほほぉ(笑)

>中島みゆきが当時の学生運動に対しどういう立ち位置を取っていたか?
>それによって解釈は変わってくるでしょう。

まさに、おっしゃる通りですね( ゚ー゚)( 。_。)ナットク


>僕の見方は、彼女はユーミンと同じで、一時は心情的に共鳴していたが積極的に参加はしなかった、 というものです。
>そういう者達は活動家に対して屈折した感情を持っています。
>つまり、大学当局=権力=悪、 全共闘=反権力=善、という様な単純な見方はしていない筈だと思います。

いつの時代にも、その世代の主流となる物事の見方があるにせよ皆が皆「右向け右」ではなかったはずですよね。
(表面的にはそれらしく振舞っていたとしても)

中島みゆきさんという人は、けしてみんなで手を取り合って主義主張を繰り広げるタイプの性格ではないように思います。

>サビの部分で、シュプレヒコール を上げる側が「変わらない夢を流れに求め」
>権力者の側は「時の流れを止めて変わらない夢を見たがる」と描かれています。
>どちらも「変わらない夢を見ている」、この言葉が中島みゆきの立ち位置を示していると思います。

サビの4連、みゆきさんがこの作品で表現したかった意図はここにあると思います。
なにせ、くどいと思えるほどリピートさせてるわけですから(笑)
戦うために通り過ぎてゆく人の群れをみゆきさんはどのような心境で見送っていたのでしょうね。

>権力者側と学生運動側、どちらも頑固者で悲しい存在であり、またどちらの立場にも徹底できなかった自分も悲しい存在である。

言葉のあやというか屁理屈かもしれませんが「悲しい存在」=「その存在が悲しい」と置き換えることが可能ならば
葉山さんがおっしゃるとおりだと私も思います。

4年前 No.713 

葉山 @kirin035 ★Android=gN3GKHk0Vr

高知の片隅でさん、

再レスありがとうございます。

まあ、彼女が実際はどういう目で見ていたか、いろんな噂も有りますが、本当の所は分からないので、いろんな解釈があって良いと思います。


ところで、ネットでこの歌の解釈を幾つか見たのですが、面白い解釈が有ったので紹介します。

この頑固者は新撰組など、佐幕派の事を歌ったもの、と解釈すると、学生運動よりもっとぴったり来る様な気がします。

シュプレヒコールを上げる側とは薩摩の軍勢の「宮さん、宮さん、お馬の前のちらちらするもの何じゃいな」と歌いながら江戸へ進軍する様子であり、

時の流れを止める夢を見る者が佐幕派、という事です。

もちろんコジツケですが、こちらの方が歌の最初の「世の中はいつも変わっているから、頑固者だけが悲しい思いをする」という一句がジワジワ来ます。(笑)

4年前 No.714 

葉山 @kirin035 ★Android=gN3GKHk0Vr

ついでに言うと、これは全くのデタラメという訳でもありません。

2・26事件を自分の思想的原点と考えた三島由紀夫と全共闘の学生たちが意外な共振現象を起こしていた事を考えると、それなりに深い意味が有るようにも思えます。

4年前 No.715 

葉山 @kirin035 ★Android=gN3GKHk0Vr

しつこい様ですが、また世情の話です。

上の動画に金八先生が出て来るのが不思議だったのですが、金八先生のラストシーンにあの曲が流れたんですね。

全く金八先生はトコトン偽善番組です。

中島みゆきを汚しやがって!

許せん!


葉山 @kirin035 ★Android=gN3GKHk0Vr

そもそも現代の教育荒廃の根本原因は教育が「様々な職業に人間を配分する」という差別・選別機能を持たされている点にある。

「熱血教師」が出て来て解決する様な甘ったれた話ではないのだ。

金八先生という番組の本質はその様に社会問題を矮小化し、核心を隠蔽する事にある。

学生運動を徹底的に矮小化して描いた三田誠宏の「僕って何?」が芥川賞を取ったのと同じカラクリがそこに有る。

4年前 No.717 

まこっち ★M0gPGdWDJy_M0e

学生の頃に流行った「時代」で中島みゆきの存在を知りました。

ヒット曲も多く、ファンでなくとも常にその存在感を意識させるアーティストです。

私も一定のイメージを持っていましたが、みゆきさんのラジオ番組のトークを初めて聞いた時にはぶっ飛びました。

何とハイテンションな人なんだろう!と。

女の情念を歌うみゆきさんとあのトークはどうしても結びつきませんでした。

そして、拓郎のおっかけをしていたという話には、二度ビックリ。

その後、みゆきさんがどんどんスーパースターへの道を歩み始め、拓郎も意識し始めたようです。

あまり他のアーティストを褒めない拓郎も、しっかりリスペクト。

そのクライマックスが、2006年のつま恋ライブだったと思います。

会場の大半は、拓郎(かぐや姫)のファンで占められたはずですが、天女のように舞い降りたみゆきさんを見たファンのどよめき・歓声は本当に凄かった。

幸い、最前列のブロックで見られた私も、あのオーラには圧倒されました。

みゆきさんは、いわゆる美人にはあたらないと思いますが、ステージで歌う彼女は、本当に美しかった。

私のように中島みゆきを意識する拓郎ファンは、結構多いのでは。

4年前 No.722 

葉山 @kirin035 ★Android=gN3GKHk0Vr

まこっちさん、初めまして。

妻恋をライブで見たんですね。羨ましい限りです。

僕はYouTubeでしか見てないのですが、みゆきが出て来て拓郎がどんな合わせ方をするのかな?と変な事に注目して見ました。

みゆきが歌う間の拓郎の伴奏、曰わく言い難しです。(笑)

特に張り切るでもなく、恥ずかしがるでもなく、普段と同じ様にギターを弾いているのですが、それでもみゆきに対する気持ちが手に取る様に分かりました。

拓郎はシブいですね。(笑)

みゆきが惚れるのも無理ないですね。
http://mb2.jp/_swn/122_701.html#UPG
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c15

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
16. 中川隆[-11665] koaQ7Jey 2019年3月06日 17:46:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[326]

中島みゆき ホームにて 動画
https://pv755.com/homu-nite

▲△▽▼


心 人、 ★4P7XD2RRXb_Id2

今夜は前にも言いましたが、みゆきの『ホームにて』を語らせてもらいます。

この曲は彼女のサードアルバム【ありがとう】に収録されてますね。
他にも『店の名はライフ』とか『まつりばやし』とか自分の好きな曲が入ってるアルバムなんです。

この『ホームにて』はお登紀さんが唄っても合いそうな感じがするのですが、、、。
そのお登紀さんの初期の曲「帰りたい帰れない」をふと彷彿させることもありました。
望郷の想いを綴ってますが、その表現が、、、。


 >♪振り向けば 空色の汽車は
   今ドアが閉まりかけて
   灯りが灯る窓の中では帰り人が笑う。♪<


故郷へ帰れる人を羨んでいる。そう!お登紀さんの歌のように♪帰りた〜い帰れない、♪


本当は帰りたいけど、、、。帰れないのは何の事情かは説明がない。
人それぞれなのでしょう。


 >♪走り出せば間に合うだろう、かざり荷物をふり捨てて
  街に街に挨拶を、
  振り向けばドアは閉まる。♪<


駅のホームにはさまざまなドラマがある。旅行者が楽しそうに駅弁を食べ、はしゃいでる光景、
ご無沙汰親子が再会を喜んでいる光景、サラリーマンがキオスクで缶ビールを買い疲れた横顔を見せている。
ホームの影ではカップルがしばしの別れを惜しんで女性は泣いている男性は肩を抱き慰めている。
おそらく遠距離恋愛のカップルだろう。
そんなさまざまな人間たちの中で、ここにもひとつのドラマがある、


 >♪ふるさとは 走り続けたホームの果て 叩き続けた窓ガラスの果て
  そして手のひらの残るのは白い煙と乗車券♪<


帰りたいけど帰れないのは何故なのか?最初の歌詞では


 >♪ふるさとへ向かう最終に乗れる人は急ぎなさいと
  優しい優しい声の駅長が町仲に叫ぶ♪<


とある。だから時間的な物理的な理由ではない! 意地なのだろうか?


 >♪たそがれには彷徨う街に 心は今夜もホームに佇んでいる。
  ネオンライトでは燃やせない ふるさと行きの乗車券♪、


ネオンライト、かざり荷物 の表現がいいですね。
結局 しがらみ なのかな?


 >♪ふるさとは 走り続けたホームの果て 叩き続けた窓ガラスの果て
   そして 手のひらにに残るのは 白い煙と乗車券♪<


この歌は帰れる想いを立ち切って都会での暮らしにしがみつく気持ちを唄ってるのだと思います。


 >♪涙の数 ため息の数 濁って行く空色の切符
  ネオンライトでは燃やせない ふるさと行きの乗車券♪<

ネオンライトでは燃やせない ふるさと行きの乗車券、が何度も出て来ますね。
そして空色の汽車、空色の切符、
空色とは何の意味か?単なる汽車の色なのか、きっとふるさとの空のことだと思います。

ふるさと行きの乗車券をネオンライトでは燃やせないのは、ふるさとへの想いは都会の歓楽では立ちきれないのではないかな。
それだけ故郷への想いが強いことでしょう。

またこの歌は都会に骨を埋める覚悟は出来ていても家を捨てた筈でも故郷への思い入れまでは捨てきれない想いを
唄った歌だとも思います。


___

ミトラ ★1VBAC8U5ZM_1G6

心人さん「ホームにて」ですが、貴方の解釈はその通りだと思いますが、「エレーン」と同様に、また違った解釈もあり得るという事を書きたいと思います。

「ふるさと」は「世間並みの幸せ」を意味していると僕には聞こえました。
恋愛、結婚、温かい家庭、かわいい子供、要するに女性にとっての幸せです。

何故そう感じたかというと、次の句からです。

 「ふるさとは走り続けたホームの果て 叩き続けた窓ガラスの果て」

この一句には相当の激しい号泣、涙が枯れるほど泣き続けた過去を思わせます。

「私から去らないで!」と彼をどこまでも追いかけ、とうとう去った後の長い涙。「ひまわり」の最後の場面を思い出します。

そのつもりで聴いてみると「灯りともる窓の中では帰りびとが笑う」は「エレーン」の2番を連想します。幸せな人々の姿が不幸な自分にはあまりに痛すぎる。

「かざり荷物をふり捨てて走り出せば間に合うだろう」プライドをかなぐり捨てれば幸せにたどりつける。しかし躊躇している内にドアは閉まります。

「ネオンライトでは燃やせない ふるさと行きの乗車券」またも幸せを逃したみゆきは、都会のネオンライトに憂き身をやつします。

「涙の数 ため息の数 溜まってゆく 空色のキップ」青い空を見るたびに、今まで一体いくつの幸せを逃したのか、と涙とため息がでる。

僕にはこの歌は「エレーン」と同じモチーフを歌った歌に聞こえました。

6年前 No.449 

心 人、 ★4P7XD2RRXb_Id2

 ミトラさん、
 なるほど、みゆきの『ホームにて』をそう云う風に解釈されたのですか。
 ふるさと≠世間並みの幸せ≠ナすか、フムフムなるほど。

 そして、映画【ひまわり】のラストシーンを、、、、、、、、。随分奥深く捉えたんですネ。

 貴方って深い感性があるんですね。
 自分はやっぱりふるさとへの望郷への強い想いを唄ってるように聞こえます。

 望郷の歌としてもう少し話を進めますが、。

 メロディも緩やかでいいですねぇ、アコギのアルペジオでみゆきが淋しく唄いますが、
 ひとつのフレーズの後の余韻がたまらなく切なくて、、、。
 ここで唄われてるのはお分かりいただいてると思いますが、単なる一時的な里帰りではことではないですね。


   >♪灯りともる 窓の中では 帰り人が笑う、♪<


 笑顔でふるさとへ帰る人々は、、単なる里帰りかも知れないけど?そんな人々を羨んでる。

 都会で傷つき?疲れ果てている。
 もし、帰ってふるさとで暮らすとしても、きっと昔の友人たちや恋した人も違う世界で暮らしているのだろう。
 都会での人間関係も出来、しがらみも多い、


   >♪たそがれには彷徨う街に 心は今夜もホームにたたずんでいる。
     ネオンライトでは燃やせない ふるさと行きの乗車券♪<

 だからネオンライトではなかなか燃やせないように思います。

 たしかにミトラさんの仰るかざり荷物をふり捨てて走り出せば間に合うだろうプライドをかなぐり捨てれば幸せにたどりつける。しかし躊躇している内にドアは閉まります≠ナしょうネ。

 でもミトラさんの解釈のように聴けばまた違った歌にも聞こえて奥が深いですね 映画、小説と一緒で観た人読んだ人聴いた人の
 数だけドラマがあるものだと思います。
6年前 No.450 

心 人、 ★4P7XD2RRXb_Id2

 前 >>450 で書き忘れましたが、

 ふるさと行きの乗車券≠フふるさと行き≠雪≠ニ解釈した人もいるそうです。
  つまりふるさと雪の乗車券≠ニ

  みゆきは北海道出身ですからね、
http://mb2.jp/_swn/122_401.html#UPG


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c16

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
17. 中川隆[-11664] koaQ7Jey 2019年3月06日 19:30:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[327]

中島みゆき あぶな坂 動画
https://pv755.com/abuna-saka


_____

故郷の考察 -中島みゆき『あぶな坂』より-1


先日、高村智恵子について書いた中で『逃避願望というか、回帰熱』という事を書きましたが、そのことについて友人から質問を受けましたので、ちょっと敷衍しつつ、雑文をば。

「回帰熱」という言葉は、中島みゆきがアルバムのタイトルに使っていますが、彼女の作品には故郷の喪失感というか、故郷に対する憧憬と諦念が同居しています。

それは最初のアルバムの、最初の作品である『あぶな坂』に、ハッキリと見えます。まずは、以下をジックリと読んでくださいませ。

『あぶな坂』 -アルバム【私の声が聞こえますか】より-

 あぶな坂を越えたところに
 あたしは 住んでいる
 坂を越えてくる人たちは
 みんな けがをしてくる
 橋をこわした おまえのせいと
 口をそろえて なじるけど
 遠いふるさとで 傷ついた言いわけに
 坂を落ちてくるのが ここからは見える
 
 今日もだれか 哀れな男が
 坂をころげ落ちる
 あたしは すぐ迎えにでかける
 花束を抱いて
 おまえがこんな やさしくすると
 いつまでたっても 帰れない
 遠いふるさとは おちぶれた男の名を
 呼んでなどいないのが ここからは見える

 今日も坂は だれかの痛みで
 紅く染まっている
 紅い花に魅かれて だれかが
 今日も ころげ落ちる
 おまえの服が あんまり紅い
 この目を くらませる
 遠いかなたから あたしの黒い喪服を
 目印にしてたのが ここからは見える


けっこう難解な内容で、ファンによっても解釈はいろいろあります。ただ、故郷への喪失感というキーワードを最初に頭に置いてみると、わりとすんなり理解できるんじゃないでしょうかね。自分の大好きな演歌や浪花節では、故郷というのは肯定される存在です。これは、アジア全体、漢字文化圏に共通の心情のような気がします。東洋のユダヤ人と言われる中国架橋にしても、最終的には故郷に帰る、故郷に錦を飾るというのを非常に重要視しています。

王貞治監督の父親である仕福さんも、そういった行動を取られていらっしゃいます(詳しくは鈴木洋史『百年目の帰郷』(小学館文庫)を一読いただけると、王貞治監督の背負ってしまった物の正体も含めて、非常に興味深く読めると思います)。千昌夫の歌とか典型的ですが、カルビーのカールのCMフレーズ「いいもんだぁなぁ ふるさとはぁ♪」なんかに代表される、故郷肯定の感情ですね。演歌や浪花節では、まず否定的には語られないですよね。

【2004.05.17 Monday 08:00】 author : 土岐正造

「生きていてもいいですか」の「キツネ狩り」がとても怖い歌ですよね
(歌詞だけでなく歌唱法?も)
| Doblogコメント移植 | 2009/05/31 12:01 AM |


アレも、解釈に幅のある歌ですよね。
一応、名曲『世情』と『誰のせいでもない雨が』と重ね合わせて、全共闘の挫折体験(内ゲバによる仲間殺し)という解釈も可能でしょうか。

しかし、ずいぶんと鋭いところを突いてきますね。
詞の怖さを指摘する人はまぁまぁいますが、歌唱法の怖さまで感じる人って、少数派じゃないでしょうか。突き抜けた、乾いた狂気が宿っている歌い方だとは、自分も漠然と感じてはいましたが。
[ motowota ] [2004/05/18 11:43] [ Myblog ] [ 削除 ]


全共闘シリーズ? は「はじめまして」の「僕たちの将来」でひと段落着いている気がしますね。
救いようのない絶望で一旦死に、「はじめまして」で転生すると。
以上、猪木の独り言でした(違います)。
[ 土岐正造 ] [2004/05/18 11:54] [ Myblog ] [ 削除 ]


「あぶな坂」知らなかったんで歌詞だけの印象ですがモロ男女モノで想像しました。
「ふるさと」を失くした男と「ふるさと」になれない女、みたいな。=都会、というのは「ほぉ」と。
故郷モノ(?)で谷山浩子の「ネコの森へは帰れない」を思い出しました。
ば、漠然としたヒトリガタリですいませんー
[ motowota ] [2004/05/18 16:37] [ Myblog ] [ 削除 ]

[ 土岐正造 ] [2004/05/21 10:57] [ Myblog ] [ 削除 ]
>>motowotaさん
そこら辺の、全共闘の挫折に対する中島みゆき論は、いつかまとめてやりたいですね。いやマジに。
イラクの3人組とか見ていますと、人間は相変わらず同じような失敗と過ちを繰り返しているようですしね。

時代は変われど人は変わらず……って自分の作品のキャッチコピーですな(苦笑)。
[ mutsumi ] [2004/05/20 00:36] [ Myblog ] [ 削除 ]

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c17

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
18. 中川隆[-11663] koaQ7Jey 2019年3月06日 19:45:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[328]

故郷の考察 -中島みゆき『あぶな坂』より-2

「予言者、故郷に容(い)れられず」という言葉があります。新約聖書でイエスが故郷で「大工の息子が、なんだしゃんどえりゃあ偉そうなことぬかしおって、ちょうすいとりゃあせんきゃ?」と、拒絶されたことを言うのですが、これは孔子にしても故郷を亡命し、14年にも渡る流浪の生活を送ったわけですから、宗教家にしろ思想家にしろ芸術家にしろ、突出した自我と行動を起こそうという人間は、故郷にはじみづらいのでしょう。


さて、本題に戻って中島みゆきの『あぶな坂』です。

『あぶな坂』とは、いったい何のメタファー(隠喩)なのでしょうか? そして詞中の『あたし』とは? 勘の良い方は気づいてらっしゃるかもしれませんが、自分は

 あぶな坂=故郷と都会との境界線
 あたし=都会

のメタファーだと考えています。

 この詞で唄われているのは、1番の歌詞では明らかに「ふるさと→都会(あたし)」というルートをたどっています。

遠い故郷で傷つき、あぶな坂を越えてきています。そして、怪我をした理由を「橋をこわした おまえのせい」と非難し、なじっているわけです。

橋とはなんでしょうか? 

これも故郷と都会との境界線とも考えられますが、「あぶな坂=故郷と都会との境界線」というメタファーがすでに提示されているわけですから、もっと踏み込んで「故郷と自分の連続性」と、定義した方がよりイメージに近いのではないでしょうか。

都会の生活に疲れ、しかし自分を温かく迎えてくれるはずの故郷で拒絶され、精神的に傷ついた人間が、橋=故郷との連続性を壊した、あたし=都会を非難する、というメタファーだと解釈すると、かなりスッキリしませんか? 

ところが「あたし」の方から見ると、それは「言いわけに 坂を落ちてくるのが ここからは見える」訳です。

都会の否定。

それは、しばしば都会に住む田舎者の口から語られます。

人情がない、冷たい人間関係。しかし、都会とは本来そんなものです。
イヤ、人間関係が希薄だからこそ、都会は都会たり得るわけです。

濃密な田舎の人間関係というのは、そこにどっぷりつかっていると楽な部分が多々あります。少なくとも、老人が死んで白骨化するまでほっておかれるような悲しい事態は少ないでしょう(0ではない)。ただ、それは同様にプライベートが無くなるという部分と引き替えにあるわけです。


 「隣の家に勝手に上がり込んで冷蔵庫の中野ジュースを飲むような関係」だからこそ、借金で困っていれば相談にも乗るし、晩飯のお裾分けやら、独居老人の家にこまめに訪問するという良い部分も成立するわけです。

田舎の無神経さは濃厚な人間関係の裏返しであり、そういうプライベートを侵害される部分を我慢する、あるいは同化すれば、これほど住みやすい場所もないわけです。

もっと進めた考えると、故郷に錦を飾る、つまり一時帰国的な場合、故郷は温かく迎える(もちろん嫉妬や羨望も混じりながら)訳です。でも、故郷を捨てて都会に出て行った人間が、落ちぶれて帰ってきたら? 

「遠いふるさとは おちぶれた男の名を 呼んでなどいないのが ここからは見える」わけです。ここ、そう都会の側からは、田舎のそういった排他性が見えるわけです。そして、都会でプチな成功もささやかな幸せを見つけられなかった人間は、帰るべき故郷に帰れない理由を、傷ついた言い訳同様に「都会の優しさ」になすりつけるわけですな。

人は、都会のきらびやかさ=赤い花に惹かれて、故郷を捨てて旅立ちます。

まぁ、意外と都会はプチな成功やささやかな幸せを与えてもくれるのですが、そうでもなかったりします。田舎の窮屈さは田舎の良さと表裏一体であるように、都会の良さも悪さも、表裏一体であるわけです。

それは鮮やかな赤い服に見えながらも、プチな成功もささやかな幸せも見つけられなかった敗北者を弔う喪服でもあるわけです。


 自分の個人的な経験をひとつ。

昔、東京に住む従兄弟の奥さんが、田舎に住む旦那の義兄に、トレーナーを買ってプレゼントしてくれたことがありました。ところがそれは、当時はやっていたピンクのトレーナーだったのですが、ウチの田舎ではそれは着られない色な訳です。東京だとピンクだろうがラメだろうが、まぁ普通に着ていても言い訳ですが、田舎では漠然と、しかしハッキリと男が着るべき色というのが存在知るわけです。

これは色に限らず、東京ではモヒカンにしてようが鼻ピアスしていようが、駅の構内でディープキスしていようが、ほとんどの人は気にもとめない。でも、田舎ってのはこれらが全部不可な訳です。文化的に(笑)。田舎出身の人は、素直に首肯できるでしょうが。
http://bunzaemon.jugem.jp/?eid=1114


故郷の考察 -中島みゆき『あぶな坂』より-3

以前テレビで、東京のオカマバーの人が、故郷の名古屋に帰るという企画がありました。20年ぶりに帰る故郷。テレビカメラという存在の前で、ピンクのラメフクに色とりどりのマダラ模様に染めた長髪で、派手な化粧をした息子に対して、今にも泣きそうな引きつった顔で迎えていたお母さんが、印象的でした。お父さんは出演拒否してましたね、確か。

名古屋は巨大な田舎と良く揶揄されますが、同じように人口数万程度のウチの田舎でも、オカマとして生きること自体が許されないわけです。もっと言えば、田舎には浮浪者が存在し得ない。それは、環境的な貧富の差という部分もありますが、もしも自分の親類縁者友人知人が浮浪者になろうものなら、寄ってたかって助けてくれる、田舎の人情に寄るところが大きいでしょう。

 ただ、それは地縁血縁がもたらす温かさであって、よそ者に対しては「犬と芸人入るべからず」の立て看板を村境に置く、非常さとも表裏一体です。これは、田舎のルールに従わない人間に対しても、同様です。宗教家や思想家や芸術家のように(ついでにオカマも)、突出した自我を持ってしまった人間にとっては、田舎のそういった個人阻害ってのは大変息苦しい。

「東京は故郷なき人間の故郷」と言われます。前出のオカマさんも、東京に戻ってきて、やっと自分の居場所に戻ってきたようでホッとしたという意味のことを言っていました。都会の無関心、非人情というのは、実はだからこそ素晴らしいものであるという逆説でもあるわけです。そういう冷たさが、温かさでもあるという逆説。そこを突いているからこそ、中島みゆきの詞は詩たり得るのでしょう。

故郷とそこにいられない自分との相克という意味では、『異国』というこの曲が、代表的な作品でしょうか。『あぶな坂』に比較しても、わりとストレートな故郷の喪失感を描いているようです。凡百の解説なんかよりも、実際に読んで味わってもらうのが一番分かり易いのではないでしょうか。

中島みゆき 異国 動画
https://pv755.com/nakajima-miyuki-ikoku

『異国』 -アルバム【生きていてもいいですか】より-


 とめられながらも去る町ならば
 ふるさとと呼ばせてもくれるだろう
 ふりきることを尊びながら
 旅を誘うまつりが聞こえる

 二度と来るなと唾を吐く町
 私がそこで生きてたことさえ
 覚えもないねと町が云うなら
 臨終の際にもそこは異国だ

 百年してもあたしは死ねない
 あたしを埋める場所などないから
 百億粒の灰になってもあたし
 帰り仕度をしつづける

 悪口ひとつも自慢のように
 ふるさとの話はあたたかい
 忘れたふりを装いながらも
 靴をぬぐ場所があけてある ふるさと

 しがみつくにも足さえみせない
 うらみつくにも袖さえみせない
 泣かれるいわれもないと云うなら
 あの世も地獄もあたしには 異国だ

 町はあたしを死んでも呼ばない
 あたしはふるさとの話に入れない
 くにはどこかときかれるたびに
 まだありませんと うつむく

 いやぁ、重いっす。「まだありません」。人至る所青山ありとは言いますが、故郷は故郷に「なる」ものなのかもしれないなぁと、漠然と思ったりもします。ちょっと話しは外れますが、戦後の混乱期、多くの日本人女性が米兵について海を渡っていきました。英語がまったくの苦手で米がないと生きていけない自分などは、気持ちひとつでほとんど予備知識もなく環境も文化も違う世界に飛び込んでいった女性のたくましさに圧倒されます。

が、言語学の教授に「男は生まれた場所の方言とかボキャブラリーを生涯手放さないんだけど、女性の場合は適応力が高くって、婚礼先の方言やボキャブラリーに染まりやすいので、言語採集の時は気を付けないといけない」と言われて、そこら辺の男の弱さと女性の強さってのは、世界共通なのかな?とも思ったりします。

例えば、グレイシー柔術の祖である前田光世は、晩年は寝たきりになると日本語だけをしゃべって、日本語がわからないブラジル人の奥さんを困らせたそうですが、明治の時代に生き、若くして海外雄飛し、2000試合とも言われる格闘義戦を戦い、ブラジル移民事業に心血を注いだ前田光世にしてからが、最期は望郷の念にさいなまれていたというのは、同じ男としてその気持ちには非常に共感を覚えたりもします。

あぶな坂を転げ落ちてくるのは、男なのですから。
http://bunzaemon.jugem.jp/?eid=1118


故郷の考察 -中島みゆき『あぶな坂』より-4


続きまして、『エレーン』。中島みゆき自身の小説(なのか実話体験なのかは上手にぼかしてありますが)の中でも登場するエレーンは、異国の地で生きる娼婦という設定です。中島みゆきには『白鳥の歌が聞こえる』という名曲もありますが、こちらも娼婦をモチーフにしています。ですが年齢的な円熟もあるのでしょうが、こちらの方では「男を癒す存在」としての娼婦という側面が、より強くなっています。

そう言う意味では、初期の作品である『エレーン』の方が、より故郷の喪失感に比重が置かれています。歌い手としての自分(=中島みゆき)の存在と、居場所のなさをモチーフにした作品というのは、『流浪の歌』や『流星』などのように、繰り返し描かれています。

ただ、中島みゆきの「居場所のなさ」というのは、基本的に“自分で選択したい場所のなさ”という感じがします。

中島みゆき エレーン 動画
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『エレーン』 -アルバム【生きていてもいいですか】より-

 風にとけていったおまえが残していったものといえば
 おそらく誰も着そうにもない
 安い生地のドレスが鞄にひとつと

 みんなたぶん一晩で忘れたいと思うような悪い噂
 どこにもおまえを知っていたと
 口に出せない奴らが流す悪口

 みんなおまえを忘れて忘れようとして幾月流れて
 突然なにも知らぬ子供が
 ひき出しの裏からなにかをみつける

 それはおまえの生まれた国の金に替えたわずかなあぶく銭
 その時 口をきかぬおまえの淋しさが
 突然私にも聞こえる

 エレーン 生きていてもいいですかと誰も問いたい
 エレーン その答えを誰もが知ってるから 誰も問えない

 流れて来る噂はどれもみんな本当のことかもしれない
 おまえは たちの悪い女で
 死んでいって良かった奴かもしれない

 けれどどんな噂より
 けれどおまえのどんなつくり笑いより、私は
 笑わずにいられない淋しさだけは真実だったと思う

 今夜雨は冷たい
 行く先もなしにおまえがいつまでも
 灯りの暖かに点ったにぎやかな窓を
 ひとつずつ のぞいてる

 今夜雨は冷たい

 エレーン 生きていてもいいですかと誰も問いたい
 エレーン その答えを誰もが知ってるから誰も問えない
 エレーン 生きていてもいいですかと誰も問いたい
 エレーン その答えを誰もが知ってるから誰も問えない


『エレーン』の作品中では、観察者としてのポジションにあるせいか、そんなエレーンを見ていた『私』という存在に対する描写が希薄です。「笑わずにいられない淋しさだけは真実だったと思う」私って誰?って事ですね。まぁ、無難に中島みゆき自身というのが普通の解釈でしょうし、妥当だとは思います。ただ、自分からの問題提起として私を、[エレーンと同じように居場所なく、それでも村落共同体に同化せざるを得ない自我に苦悩を抱えている存在]とするのか、[おまえを忘れて忘れようとしていた人々の内の一人]とするかで、だいぶ解釈が違ってくるような気もします。


 例えば、小林信彦はエッセイの中で、夜中に寝ようとしてふと昔の屈辱(それも何十年も前の)を思い出し、眠れなくなって夜明けを迎えてしまうこともしばしばだと語っています。これは筒井康隆もそうで、疎開中に田舎の体力のあるガキどもにいぢめられたことを思い出すと、庭に飛び出して絶叫したくなる(そこまではやらないけど)と書いています。中島らもなど、口喧嘩で負けた何日も後に「あのときこう反論していれば、負けなかったのに!」と思うこともしばしば(その結果『口先の魔術師』という、古今東西の減らず口を集めた本を執筆してしまった)だそうです。

だいたいが、文筆を生業としてる人間ってのは、漫画家もそうですが、そういった内向性と昔のことをいつまでもグチグチグズグズと引きずる性癖を持っています。カラッとしていない。「ああすれば良かった、こうすれば良かった」という後ろ向きな態度が、逆に経験値として蓄積されるからこそ、それが作品の中に生かされるわけです。じゃあ、そういう後ろ向きで陰湿なタイプならば、作家に向いているかと言えば、そうだともいえます。

ただし、そこからもう一歩踏み込んで奥行きのある作品(売れる・売れないは別にして)を書くには、そういう自分が傷つけられた記憶だけに拘泥している人間ってのは、ダメだと自分の師匠に言われました。自分が傷つけられたのと同様に、例え自分にその意図はなくても、他人を傷つけてしまう自分というのに対する自覚と畏れがないヤツは、自己中心的でご都合主義的な作品しか書けないよ、と。
http://bunzaemon.jugem.jp/?eid=1115


故郷の考察 -中島みゆき『あぶな坂』より-5


まぁ、これが行きすぎると「生まれてきてすいません」って発想になってしまうのですが、自分が傷つけられた経験から、傷つけてしまう可能性にたいして思いを致すだけの客観性がないと、作品というのは主観の押しつけにしかならないような気がします。そういう意味で、エレーンを哀れむ「私」は、ではどこのポジションにいるのかに、思いを致すのもまた作品を多層的にしてくれるような気がします。

さて、最期に再び「自分の居場所」に対する中島みゆきの思いについて。突出する自我というのは、村落共同体のルールから飛び出してしまわずにはおかないエネルギーを内包しています。まぁ、これは男女の恋愛に関してもそうなんでしょうが。

 研ナオコに提供した初期の代表作『かもめはかもめ』では、そういった自分の生き方の肯定と、それに伴う痛みを引き受ける覚悟を、雄々しく歌い上げています。

中島みゆき かもめはかもめ 動画
https://pv755.com/kamome-wa-kamome


『かもめはかもめ』 -アルバム【お色直し】より-(2番を抜粋)

 あきらめました あなたのことは
 もう ゆくえも 知らない
 あなたがどこで 何をしても
 何ひとつ 私では 合わない

 かもめはかもめ 孔雀や鳩や
 ましてや 女には なれない
 あなたの望む 素直な女には
 最後まで なれない

 この海を 失くしてでも
 ほしい愛は あるけれど

 かもめはかもめ
 ひとりで海を ゆくのがお似合い

中島みゆきの作品の底に流れる、故郷の喪失感と憧憬と、それでも突出せざるを得ない自分の自我を引き受ける雄々しさ。ところで、かもめに仮託される自分って、いったいなんでしょうか? 昔はピンと来なかったのですが、かもめのメタファーを一番的確に表現されたのが、漫画家の大和和紀先生の『ヨコハマ物語』でした。

この中で、

 白鳥=帰るべき場所から離れられない女
 カモメ=港港を自由に渡っていく存在

と表現されてらっしゃいました。にゃるほど、そういう意味でカモメを居場所なき自分のメタファーとしていたのかと。自由に生きていくには痛さや悲しみが表裏一体であるという重さ、覚悟。二十代の初期の頃から、中島みゆきの姿勢は一貫していますね。

愛する男の望む色には染まれない自分。恋愛を唄っているようで実は、恋愛至上ではない不思議な世界。故に、中島みゆきの世界は奥が深いのかなと、ファンの勝手な解釈をしつつ、ようやく脱稿。
http://bunzaemon.jugem.jp/?eid=1116


もう一丁、中島みゆきの世界の補足

ついでに、故郷の生きづらさ、自我を抑圧して平均化してしまう共同体の悪意というかプレッシャーについて、名曲『ファイト!』では、このように表現されています。

出て行く以上、故郷を捨てていくというイメージ。そこには、共同体からの離脱を意味します。ウチの田舎のように、外に出て行かざるを得ない土地柄だったりしても、わりと地元のおばちゃん達は「すっかり東京の人になったねぇ」なんて嫌みを、平気で言ったりしますからね。

 一旗揚げて帰ってくる故郷と、室生犀星のように断ち切ってしまわなければならない故郷は、やはり別物であって、そこに根っこがあるかないかの差は大きいのではないでしょうかね。


『ファイト!』 -アルバム【予感】より-

 薄情もんが田舎の町にあと足で砂ばかけるって言われてさ
 出てくならおまえの身内も住めんようにしちゃるって言われてさ
 うっかり燃やしたことにしてやっぱり燃やせんかったこの切符
 あんたに送るけん持っとってよ 滲んだ文字 東京ゆき

 ファイト! 闘う君の唄を
 闘わない奴等が笑うだろう
 ファイト! 冷たい水の中を
 ふるえながらのぼってゆけ


自分の思想方面の師匠でもある呉智英夫子も嘆いていますが、「中島みゆき=演歌」という、安易で凡庸で薄っぺらなことを言う音楽評論家がままいます。ですが、その内容をつぶさに見れば、演歌や浪花節で唄われているような、そういう共同幻想(=故郷肯定)とは相容れないところに、中島みゆきは存在するのになぁ……と思います。彼女が唄っているのは、女の情念などという個人的な主観のみに依拠したモノではなく、存在に対する突出性であり、それを客観的に認識してしまった者だけが持つ痛みと、自我の相克なのに。

さらに、もう一つ。自分が大好きな『彼女の生き方』という作品も、紹介しておきます。唄われてる世界は、最低最悪な生き方。ただ、それを自分で選び取った力強さと、不自由を引き受ける強さを、この中に見ます。普通は、こうは生きられない。東京にあって「人情がある」と評価される下町は、実はプチ田舎。人間が生きていく以上、そうならざるを得ないのも事実ですが、そこには精神の不自由がつきまとう訳です。そこを見事に活写していますね。


 普通で、善良で、常識的なはずの下町のオカミさんが、やってしまう阿漕なマネ。それは、自己保身であったり既得権益の確保であったりするのでしょうが、主観的にはどこまでも普通で、善良で、常識的な人達は、己の醜さには気づかない。そういう事なんでしょうね


中島みゆき 彼女の生き方 動画
https://pv755.com/kanojo-no-ikikata

『彼女の生き方』 -アルバム【みんな去ってしまった】より-

 酒とくすりで 体はズタズタ
 忘れたいことが 多すぎる
 別れを告げて来た中にゃ
 いい奴だって 居たからね

 死んでいった男たち
 呼んでるような 気がする
 生きている奴らの
 言うことなんか 聞かないが

 彼女の人生 いつでも晴れ

 そうさあたしは タンポポの花
 風に吹かれて 飛んでゆく
 行きたい町へ 行きたい空へ
 落ちると思えば 飛び上がる
 
 浮気女と 呼ばれても
 嫌いな奴には 笑えない
 おかみさんたちよ あんたらの方が
 あこぎな真似を してるじゃないか

 彼女の人生 いつでも晴れ

 思い通りには 動かない
 世の中なんて 何もかも
 だけど あたしだって 世の中の
 思い通りなんか 動かない

 彼女の人生 いつでも晴れ

 ああ今日もまた 裏街は
 うわさ話の 花盛り
 浮気な風を追い払え
 裏切り者を 叩き出せ

 そうさあたしは タンポポの花
 風に吹かれて 飛んでゆく
 行きたい町へ 行きたい空へ
 落ちると思えば 飛びあがる
 
 彼女の人生 いつでも晴れ

やっぱり、深いわ。横並びを強要する共同体から自由であることの痛みは、喜びでもあるというこの雄々しさ。見習いたいモノですね。
http://bunzaemon.jugem.jp/?eid=1119

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c18

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
19. 中川隆[-11662] koaQ7Jey 2019年3月06日 20:06:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[329]

474 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:18

あと中島みゆきがカクマルだったとか
松任谷由実の音音は琉球大学医学部のカクマルだったといはなしが
あるが本当でしょうか。

475 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:19

あと中島みゆきがカクマルだったとか
松任谷由実の弟は琉球大学医学部のカクマルだったといはなしが
あるが本当でしょうか。


476 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:24
>>475
中島みゆきは、いろんな説がある。
当時の彼が北大マルだったとか。

松任谷由実自身もマルだったという話もあるが、それはさすがにガセでしょう。
当時、彼女が通っていた多摩美はマルの拠点校ではあったが。数なんて、しれてる。

477 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:24

松任谷のほうは本当のようです。


478 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:26

    まつりばやし                   

肩にまつわる 夏の終わりの 風の中
まつりばやしが 今年も近づいてくる
丁度 去年の いま頃 二人で 二階の
窓にもたれて まつりばやしを見ていたね

けれど行列は 通り過ぎていったところで
後ろ姿しか 見えなくて 残念だった
あとで思えば あの時の 赤い山車は
私の すべてのまつりの後ろ姿だった

 もう 紅い花が 揺れても

今年よく似た 声をかき消す まつりの中
信じられない おまえの最後を知る
眠りはじめた おまえの窓の外
まうりばやしは 静かにあでやかに通り過ぎる

 もう 紅い花が 揺れても

人は誰でも まつりの終わりを知る
まつりばやしに 入れなくなる時を知る
眠りつづけるおまえよ 私のところへは
まつりばやしは 二度とは来ないような気がするよ

 もう 紅い花が 揺れても
 もう 紅い花が 揺れても
 もう 紅い花が 揺れても

479 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:29

坂本龍一や根津じんぱちが中核派だったということは本当だし
猪瀬もそうだし、中村敦夫参議院議員もそうだったときく。

カクマルも、舛添とか松任谷の弟もいたわけだから
松任谷由実が弟のオルグをうけて支持したことはあるでしょう。

だって、学生運動に挫折したような世代にもぞくしてるでしょ
あの人たち。

彼女のうたにもそれをかもしだす歌がありますからね。

480 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:31

      いちご白書をもう一度

 いつかきみと行った映画がまたくる
     授業を抜け出して二人で出かけた
     悲しい場面では涙ぐんでた
     素直な横顔が今も恋しい
     雨に破れかけた街角のポスターに
     過ぎ去った昔が鮮やかによみがえる
     君も見るだろうか、『いちご白書』を
     二人だけのメモリー どこかでもう一度

    僕は無精ひげと髪を伸ばして
     学生集会へも時々出かけた
     就職が決まって髪を切ってきた時
     もう若くないさと君に言い訳したね
     君も見るだろうか、『いちご白書』を
     二人だけのメモリー どこかでもう一度

481 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:32

中核にはそのほか、糸井重里や梨本茂もいたらしい。
新谷のり子は、中核の選挙を支持していましたね。

また、いちご白書をもう一度をつくった杉田らは
立命民青だしね。

482 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:39

いちご白書をもう一度をつくった杉田<???


483 : 名無しさん@3周年[sage] 投稿日:04/02/08 20:41

なしもとだけは嘘であってほすぃ


484 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:44

いちご白書をもう一度というアメリカの反戦運動
をモチーフにした映画が当時流行していました。

立命民青の杉田らが、それをふまえていちご白書をもう一度
をつくったわけです。
あと戦争をしらない子どもたちという歌も、彼等がつくりましたね。

485 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:44

梨本は、法政社会学部だけどチュンではないよ


486 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:45

杉田とばんばひろふみのバンドですよ。


487 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:45

荒井由美だよ<いちご白書

488 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:46

>戦争をしらない子どもたち

それのある意味アンチとして
パンダが「戦争しか知らない子供達」を作り、熱狂的な支持を受けていきます

489 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:50

梨本民青説をふいている人がいますが、それはうそです。

梨本は学生部を追求したことがあるらしく
学生部とはそりがあわなかったといっています。
当時法政大学は当局そのものが共産党色がつよく
学生部は共産党といえます。

法大生協が共産党だったために、学生会館には設置
できなかったらしいですね。

梨本が共産党であれば、共産党の学生部を追求するよりも、追求する
学生を排除する活動をいうはずです。

共産党民青は当時は今よりも相当セクト主義だったのですからね、

490 : 名無しさん@3周年[sage] 投稿日:04/02/08 20:50

ということは杉田と有田と穀田はつながっているのか
立命の3田か

491 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:53

荒井由実時代はおそらく、カクマルにカンパしていたとおもわれますね。

ところで琉球カクマルの松任谷由実の弟は足をあらったのでしょうか。

492 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:54

立命館民青全盛の時代ですね。

493 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:54

中島みゆきは、内ゲバの周辺にいたことは明らかだね。
「まつりばやし」は学生運動へのレクイエムだろうか


495 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:58
>>493
学生運動へのレクイエムでいえば「世情」でしょう

494 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:57

荒井由実には、カクマル臭は全く感じないが。


496 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:59

松任谷由実の初期を聴いても、
どう考えても
マルとは対極のセンス。w

497 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 21:00

パンタですか、懐かしい。

498 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 21:01

「まつりばやし」の方が表現が間接的な分、意味深長に読める。
「世情」は、一度はなれてから、客観視してる印象。

499 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 21:01

おそらく中島みゆきは北海道全学連共闘シンパだつたのでしょう。

また松任谷由実の弟は沖縄マル学同でしたね。

500 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 21:04

まだ現役なのだろうか、松任谷由実の弟は。

501 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 21:38

ちゃうちゃう。中島みゆきはノンポリ。全く関係ない。

502 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 22:04

北大の音楽サークルらしいから、当事者だったかどうかは知らないが、いろいろ見てるよ。


503 : 名無しさん@3周年[sage] 投稿日:04/02/08 22:05

地上の星ってまさか…

504 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 22:10

昔、「中島みゆきの弟が、革マルの(元)活動家で、その弟への『仕送り』的な意味で革マルのシンパである」という噂を耳にしたことがあります。

あ、あと松任谷由美は、学生時代革マルの活動家だった、とか。

『卒業写真』は、活動をやめたころの彼女の心境を歌っている、なんて言われてました。
真偽のほどは定かではありません。

505 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 22:22

ちゃうよ。

松任谷由実の弟は琉球大学医学部のカクマル派。
仕送りしていたのは松任谷由実。

中島みゆきのほうが、カクマル活動家だったらしい。

いちご白書が弟のことをおもったもので、
世情などがカクマル時代の中島みゆきをうたったものだと
いわれています。

504さんは意図的にすりかえていますね。

中島みゆきは北大ではありません。
ただ北大のサークル連合はカクマルが掌握し
シンパもいたといえます。

みゆきは全学連北海道共闘系だったということでしょうか。


507 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 22:33

実は、内ゲバのテーマソング?

 キツネ狩りの歌

キツネ狩りにゆくなら気をつけておゆきよ
キツネ狩りは素敵さただ生きて戻れたら
ねぇ空は晴れた風はおあつらえ
あとは君のその腕次第

もしも見事射とめたら
君は今夜の英雄
さあ走れ夢を走れ

キツネ狩りにゆくなら気をつけておゆきよ
キツネ狩りは素敵さただ生きて戻れたら、ね

キツネ狩りにゆくなら酒の仕度も忘れず
見事手柄たてたら乾杯もしたくなる
ねぇ空は晴れた風はおあつらえ
仲間たちとグラスあけたら

そいつの顔を見てみろ
妙に耳が長くないか
妙にひげは長くないか

キツネ狩りにゆくなら気をつけておゆきよ
グラスあげているのがキツネだったりするから
君と駆けた君の仲間は
君の弓で倒れてたりするから

キツネ狩りにゆくなら 気をつけておゆきよ
キツネ狩りは素敵さ ただ生きて戻れたら、ね

508 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 22:34

話題が松任谷の弟になったからですか、カクマルよ。

現役かどうかはしらんが転向していたとしたら、
いい資金源をうしなったわけですがね。

509 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 22:50

また、趣味者相手にカクマルですか。マル厨が涌きますので止めてください。


510 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 22:58

元カクマルの趣味者かな


511 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 01:04

マルがマルネタで面白がってもな。

つ・ま・ら・ん


512 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 01:09

コケマル趣味者か・・・
ほんと、つまらん。


515 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 09:49

あのね、中島みゆきは違うんですよ。(キッパリ)

516 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 09:56

もともと北海道には「中島みゆき=革マル(シンパ)説」なんてなかったんです。
今は、本州からその「説」が流れ込んできていますが。

北海道の、その年代のいろいろな潮流の活動家に聞いても「そんな説は知らん」
といいますよ。

北大は革マルがおさえていましたが、「北大祭」と言えばそんなことは関係なく
地元では大きなイベントなんです。そのイベントに、隣の大学(藤女子大)にいた
彼女が参加しても何の不思議もないのです。

517 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 11:08

黒白フィルムは 燃えるスクラムの街
足並揃えた幻たちの場面
それを宝にするには あまり遅く生まれて
夢のなれの果てが転ぶのばかりが見えた
Rollin' Age 淋しさを
Rollin' Age 他人に言うな
軽く軽く傷ついてゆけ
Rollin' Age 笑いながら
Rollin' Age 荒野にいる
僕は僕は荒野にいる

518 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 12:23

北大祭は革マルがやってんだろ。
動労とか総動員してさ。

早稲田祭のように動労を動員させて、記念集会みたいのやっていたわけだろ

519 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 12:35

北大農学部自治会て?
http://www.milkcafe.net/test/read.cgi/hokudai/1073889974/

北海道大学農学部自治会
http://www1.odn.ne.jp/~adu56780/index.html


520 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 12:49
>>518
農学祭だろ


521 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 13:04

いいえ北大祭じたいでしょう

522 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 19:01
  
転び上手の子守歌

誰のせいでもない雨が降っている しかたのない雨が降っている
黒い枝の先 ぽつりぽつり血のように りんごが自分の重さで落ちてゆく
誰のせいでもない夜が濡れている 眠らぬ子供が 責められる
そっと通る黒い飛行機があることも すでに赤子が馴れている
もう誰一人気にしてないよね
早く 月日すべての悲しみを癒せ 月日すべての悲しみを癒せ

怒りもて石を握った指先は 眠れる赤子をあやし抱き
怒りもて罪を穿った唇は 時の褥に愛を呼ぶ
されど 寒さに痛み呼ぶ片耳は されど 私の裏切りは
誰のせいでもない雨が降っている 日々の暮らしが降っている
もう誰一人気にしてないよね
早く 月日すべての悲しみを癒せ 月日すべての悲しみを癒せ

船は港を出る前に沈んだと 早すぎる伝令が火を止めにくる
私たちの船は 永く火の海を 沈みきれずに燃えている
きのう滝川と後藤が帰らなかったってね 今ごろ遠かろうね寒かろうね
誰かあたしのあの人を救けてよと 跣の女が雨に泣く
もう誰一人気にしてないよね
早く 月日すべての悲しみを癒せ 月日すべての悲しみを癒せ
早く 月日すべての悲しみを癒せ 月日すべての悲しみを癒せ

523 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/11 02:49

くすはっ。
「北へ・・・」観たが、マルのマの字も出やしねぇ。
ちなみに舞台は北大な。

北大にマルはい・ら・ね・え。
失せろ、北大の恥。
http://fc2masaki.blog.fc2.com/blog-entry-42.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c19

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
20. 中川隆[-11661] koaQ7Jey 2019年3月06日 20:23:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[330]

革労協スレッド31


186革命的名無しさん2017/10/28(土) 07:37:19.79
>>182
お前のようなモノには、革命も解放も永遠に理解できないだろうな。
関係無いけど、中島みゆきの歌を思い出したよ。

「闘う君のことを、闘わない奴がわらうだろ。冷たい雨の中を、、、」だったかな。


187革命的名無しさん2017/10/28(土) 12:33:46.54
>>186
解放派が、中島みゆきを賛美しちゃダメでしょ。
革マルなんじゃなかったの。


189革命的名無しさん2017/10/28(土) 17:17:26.00
>>187
おい、中島みゆきは本当に革マルなのか?
証拠は?

190革命的名無しさん2017/10/28(土) 17:21:11.93

ないが、趣味者界隈じゃ常識だろ。


192革命的名無しさん2017/10/28(土) 18:30:17.08

中島みゆきは革マルじゃないよ。
あんないい歌を創る人が革マルであるはずが、ないじゃないか。

194革命的名無しさん2017/10/28(土) 18:41:13.56

内田樹が元革マル  解る
中島みゆきが元革マル  嫌

195革命的名無しさん2017/10/28(土) 18:51:35.50>>204

いや、中島みゆきは元革マルだ!
なぜなら北海道出身だからだ!
北海道は革マルの牙城なので、
ゆえに中島みゆきも革マル派以外の何者でもない!ww

それにしても「世情」は、
いつ聞いてもいい曲だな!
党派や時代を超えて、
人々の胸を打ち続ける!


200 195 2017/10/28(土) 19:51:19.78>>202

今、YouTubeで「世情」を改めて聞いてみた!

「シュプレヒコールの波、通り過ぎて行く、
変わらない夢だけを、流れに求めて」

この部分は、
新左翼各派の人間が共通に抱く感情!


だが、しか〜〜〜〜し!
その後の…

「時の流れを止めて、変わらない夢を、
見たがる者たちと、戦うため〜〜♪」

なんじゃ、こりゃ!
新左翼各派と対峙してきた、
公安or革マルのことかいな?!(?_?;


202革命的名無しさん2017/10/28(土) 20:12:17.28
>>200
世情のその歌詞は、私も以前から疑問でした。みゆき本人にきかないと分かりませんね。
ところで、私が歌詞を間違って紹介したのはファイトのほうです。
別に屈折したエリート主義の歌じゃないですよ。
力弱き人たちが世の不条理と闘う、そのことへの応援歌ですよ。
革マルと正反対じゃないですか。

203革命的名無しさん2017/10/28(土) 20:22:39.99

ンダ、ンダ。解放派への応援歌だ。

204革命的名無しさん2017/10/29(日) 01:49:21.93
>>195
すげえな。それなら北海道出身者は全員革マルだな。
解放派にも拠点大学がいつくかあったが、
ではそこの学生はみんな解放派の活動家かシンパなのかといえば違うだろ。

と、ネタにマジレスしてみる。

205革命的名無しさん2017/10/29(日) 02:20:45.59
>>204
そうだよ!
あの松山千春も鈴木宗男←(ってこの字だったかな?!(-_-;))先生も、
隠れ革マル派シンパだよ!
ってなわけねうだろうが…(ノ`△´)ノ

ところで確か小樽水産大学←(でしたっけ?!)も、
かつては解放派の拠点大学とか書いてあったけど、
まあ、昔々大昔のことなんでしょうねえ!

2061952017/10/29(日) 04:47:03.55>>207

深夜に目が覚めてしまい暇だったので、
中島みゆきの「世情」の歌詞の解釈について、
いろいろとググってみた!


皆さん一様に、
「この歌は難解だ」「その歌詞に二重性がある」と感じているようだ!


中島みゆき 「世情」の歌詞の解釈
http://nvc.halsnet.com/jhattori/Spirits/NakajimaMiyukiSejyou.htm


中島みゆき「世情」の二重性
http://blog.goo.ne.jp/daslebenistschoen/e/d6ac2321fe3736b755a245c9c6d51d0c


「世情」という曲と、もののあはれ 山桜
http://blog.goo.ne.jp/tousui-00/e/4a7c2f53bdc9a4eb9a88fa23ee0fec36


【歌謡曲批評】中島みゆき「世情」
http://mantenbook.seesaa.net/article/229392150.html


でもやっぱり自分としては、
昔から趣味者界隈で流布されている←(自分の思いこみや記憶違いかもしれないが)、
「中島みゆきの世情は革マル派の応援歌」といった説が、
今のところは一番しっくりくるのだが…(-_-;)


207革命的名無しさん2017/10/29(日) 06:39:59.78
>>206
革マルを応援するモノなどいない。みゆきは、もちろん、誰も革マルなど応援しない。
革マルを応援するのは、革マル自身と国家権力、ヤツラノ反革命性を知っているファシストくらいのものだ。

208革命的名無しさん2017/10/29(日) 07:28:44.27

現実に戻ると(笑)。

「世情」は、「3年B組金八先生」の第2シリーズ(1980年10月〜1981年3月放映)の第23話の

「加藤優(直江喜一)」が不当に刑事に連行されるシーンのバックに流れた曲として有名らしい。

つまり、1981年に10代であった1960年代後半以降生まれの人たちにも、とても良く知られた曲らしい。彼ら彼女らは、「世情」に涙ぐむ。

209革命的名無しさん2017/10/29(日) 08:29:36.92>>210>>212

中島みゆき=革マル説の根拠は、せいぜい歌詞にある「ライフ」という店が革マルのたまり場だった
ということ以外は、聞いたことがない。

しかし、革マルって特定の店をたまり場にする習性があったっけ?

彼女が北海道にいたころは、革マル一色ではなく、旧三派いずれも北海道でそれなりに勢力を持っていた。

中核などは「北大戦争」と称して数十人の竹竿部隊をだだっ広い北大に投入して、丸一日構内を彷徨っても、遭遇せずに帰ったなどというのを数次にわたり実施した。
(このあたり、早稲田に登場して革マルを蹴散らした解放派とは違うな)

70年夏の例の一件以降、中核の学生部隊は北大などから一掃。されど、アゲハが71年の沖縄闘争に40〜50上京して、他の府県の高校生より多かったという話もあるから、それなりに残存していたらしい。

ブントも中央の日向対12.18の分裂に際し、独自の立場に立っち、「北海道戦旗」を名乗って活動。

解放派については、ここの住人の方が詳しいでしょ。
ようするに、いろんな人たちがいたんだから、革マルであると限らない。
 

ちなみに、清歌手で革マルなのは、松任谷由美。
100万もの金をカンパしたとか、三里塚闘争に賛同した長谷川きよしや山崎ハコを恫喝した話は有名。

松任谷と中島の作風を考えれば、中島が革マルであるという説は信用しがたい。


210革命的名無しさん2017/10/29(日) 09:08:32.92
>>209
中島みゆきが革マルでないことは、最早、明確になった。

しかし、ユーミンが革マルと云うのも、眉つばではないか?
プロレタリア統一戦線戦闘団の服務規律をまとめた書物の名称は「ルージュの伝言」だぜ。
ユーミンが革マルだと、非常にまずい。


212革命的名無しさん2017/10/29(日) 12:43:04.83
>>209

丁寧なコメントをいただきありがとうございます。
その頃までには北海道には さまざまな党派が現れていたのですね!

自分は

「たまたまみゆきさんが、革マル派の主催した集会か何かに、それとは知らずに呼ばれて歌ったところ、それ以来、革マルシンパの話が生まれた」

みたいなことを、かつてどこかで聞いたような覚えがあります!

ユーミンが革マル派だったのですか?!
いや、ほんと、このスレは、いろいろと勉強になります!
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/kyousan/1507656442/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c20

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
21. 中川隆[-11660] koaQ7Jey 2019年3月06日 20:57:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[331]

159 :Track No.774:2013/01/02(水) 08:45:06.11

「誰のせいでもない雨が」について思う所を聞かせてくれないか?

以下は私の意見。

黒い飛行機=在日米軍戦闘機
怒りもて石を握った指先、罪をうがった唇という歌詞から

歌の主人公はかつて日米安保条約に反対していたが
今は平穏な生活を送っている元活動家で
3番の歌詞は回想であり

私たちの船は計画を意味するのかも知れない
それを警察が知って実行前に乗り込まれた
早すぎるというのは誰かがその情報を教えたから

滝川と後藤は計画前に
仲間の元に帰らなくなり
燃える船の中にはいない
だから寒いだろうと

自分と泣いている女は
船の外の同じ場所に立っている

裏切りとは船に乗らずに普通の生活を選んだこと
もしくは仲間を警察に売ったことではないだろうか

674 :Track No.774:2014/02/10(月) 19:06:12.90

ひさしぶりにきたら
なんでも答えてくれる方がいらっしゃるようなので

「誰のせいでもない雨が」は何をあらわした曲なのか解釈をお聞かせください!


676 :Track No.774:2014/02/10(月) 20:54:25.98
>>674
 世情という曲があります。みゆきさんは自分がやっている曲は元々ロック
だと答えたそうです。体制や不条理に対する抵抗者である、そんな曲を作って
来たという意思表示かも知れません。

 雨が誰かのせいで降るわけじゃないのはあたりまえですが、雨が降ったり
夜が濡れたりするのは、自身の今が誰のせいだとも言えない、生きて行く上で
止むを得ない結果なのと同じだと感じているのです。

 しかし、その成り行きに忸怩たるものが有り、時が早く過ぎれば全ての憤り
を忘れる事が出来るかも知れない、そんな感情を「癒せ」という言葉で表して
いるのだと思います。


677 :Track No.774:2014/02/10(月) 20:55:01.74
>>674
「誰のせいでもない雨が」の歌詞はすべて比喩で表せていますね。

非常に難解な比喩で表されている一つ一つの比喩を説明していたら、ここでは解釈や説明が、出来ません。かなりのインテリでも無理です。

簡潔に解釈したいと思います。歌の主人公の心理状態、状況の説明から入っても解説が非常に難しい。
個人的で勝手な解釈ですが、学生運動などの活動家の心情が歌われているように感じます。

七五調の文学的表現を使っているが何のことか、一見分かりにくい。難しい、とりあえず勝手な解釈で
元活動家の過去を想い志半ばで挫折した己の現在の心情風景が垣間見れる。過去の回想。

哀れな己の姿を思い浮かべ早く忘れたい。すべて比喩語で描かれているので、最後に言えることは
「ファイト!」とは違う密かなエールを送っている。早く忘れろ、すべては終わったんだ 
終わったことは一刻も早く忘れろ 一刻も早く忘れろ 

早く月日のすべての悲しみを癒せ 月日のすべての悲しみを癒せ

早く月日のすべての悲しみを癒せ 月日のすべての悲しみを癒せ

726 :Track No.774:2014/02/13(木) 01:25:34.77
>>676 >>677
「誰のせいでもない雨が」について答えてくれた方、ありがとうございます。
でももうちょっと具体的に聞きたいです。

たとえば1、2番の歌詞は日常から過去を語っていますが、

3番「船は港を出る前に〜」からの歌詞がかなり緊迫した状態になりますが
これは日常自体が緊迫した状況へ変化したのでしょうか?

それとも過去の映像がフラッシュバックしてるような感じでしょうか?

738 :536:2014/02/13(木) 21:05:59.41
>>726
 私たちの船は永く火の海を沈みきれずに燃えている
が、前の文章を解く根拠となるでしょう。倒置法です。
怒りや憤りや後悔を引きずっているという感じです。

 つまり、伝令とは体制に抵抗する者たちに警告を与える存在です。
学生運動なんかやると碌な事はないぞ、人生の航海を始められず、
後悔する事になるという警告です。

 かつての同士である滝川と後藤の噂を悲しみながらも、彼らを裏切り
家庭を持ち安住している主人公は、やり切れない気持ちを癒せるのは
月日が過ぎる事以外にはないと考えている、そういう詩だと思います。
 

741 :人力飛行機:2014/02/14(金) 10:58:51.74  

「誰のせいでもない雨が」。

60-70年代ならば新左翼運動、90年代ならオウム真理教事件。のように、人間疎外を訴え、闘おうとし、でもそのなかで家族からも離れ、警察から追われ、就職もできず、社会の片隅で隠れるように生きていく人がいる。

彼らにも恋人がいたり、恋人は彼らを助けたいけどどうしようもないことがあったり。恋人との別れがあったり。かつて平和を訴え政治家を弾劾した唇はいつしか離れた恋人の名前を呼んでいる。

 ちょうど二年前だったか、オウムの菊池という女性逃亡犯が同棲していた
男性に説得されたか、出頭したような記憶が・・・。彼らも思想だけじゃなく
恋も生活もある、そこでいろんな想いはあるでしょうし、自分の人生を
思い返したりね。でももう引き返せない。殺人の容疑者や協力者になって。
いろんな想いがある。始まりは正義であり不正や差別や貧困の存在や、
真理の希求や、当然なものがある。そこから始まり、気がついたら遠い場所
で家族や友人からも離れ、逃げるように生きている自分がいる・・・。

 それが誰のせいでって自問しても答えはない。

 そういう心の風景が浮かぶんですけどね。僕とかあの歌の心の風景が
浮かんでくる。周りに左翼もいたし、新宗教の人もいたし、オウム教団の本
も読んでます。そういう人たちの姿が浮かんできます。

 中島みゆきは大学時代にやはり内ゲバで恋人が死んだ女性と関わりが
あり、その女性は歌も歌ってて、中島がプロになったあとに家にまねかれ
たことを『女歌』(ふたつのうちのどっちか)に書いてます。

彼女は家庭をもち、幸せそうだった、とか。

751 :Track No.774:2014/02/14(金) 22:01:18.13
>>738>>741
よくわからないんですが
つまり「誰のせいでもない雨が」の3番は1、2番以前の回想という意見ですか?

752 :Track No.774:2014/02/15(土) 12:08:14.01
>>751
 >>738です。>>741さんの解釈はかなり過激で僕の意見とは少し違います。(笑)
決してオウムを容認するような詩ではなく、学生運動、政治活動の主な対象は
日米安保だと特定していいと思います。黒い飛行機がそれを示しています。

 一番から三番まで同じ時間の思いです。伝令があったのは過去です。デモを
止めるように拡声器で警告した警察とか、大学教授などの大人たちからの将来
に関する注意です。

 その過去と今日までの自分の生活を、船の航海(想念)によって喩えているんです。
滝川と後藤は昨日捕まった、或いは死傷したので、回想ではありません。


779 :Track No.774:2014/02/17(月) 23:09:28.44
>>752
「私たちの船」というのは日米安保に対する思いみたいなもの?で
それは過去から現在まで「燃えている」ということですか?

滝川と後藤は現在における昨日まで活動家をしていた
つまり主人公は子供が生まれて活動家を止めたけど
そんなに時間はたっていなくて、仲間との連絡も取り続けていたってことですか?


781 :Track No.774:2014/02/18(火) 18:37:04.29
>>779
 >>752です。そうです。炎は赤いので、或いは赤軍派だとか共産党を
示す象徴かも知れません。

 そうです。滝川と後藤は同志でしょう。連絡はどうかわかりません。
別の同志から噂を聞いたんです。


928 :Track No.774:2014/03/02(日) 15:04:08.05

>>676 >>738 >>781が僕のレスです。

 伝令は命令を伝えるだから、「沈んだと」が指すのは私たちとは別のグループでしょう。
当局、警察、大学などからの私たち(の活動)への警告や命令です。
 しかし、火は消えず、沈みきれずに燃えているのだから、仲間からの連絡や
グループ自体は存続していて、潜伏しているというところでしょうか。
 滝川と後藤は過去ではなく、現在のきのう帰らなかったんだと思います。
それで、女は(誰のせいでもない)雨の中で泣いているんです。

 船に乗り続けているんだと思います。


935 :Track No.774:2014/03/02(日) 18:54:54.78
>>928
沈んだ船と沈みきれずに燃えている船は別の船という解釈ですか。
たしかにその可能性もあるかもしれませんね。

私は「さむかろうね」という言葉と「燃えている船」は対照的だと感じました。
だから滝川と後藤は船から降りた者だと考えました。
一般的にはやはり滝川と後藤は船に乗っていて
女はどちらかの恋人という解釈なんですかね。

https://awabi.5ch.net/test/read.cgi/mjsaloon/1355029610/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c21

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
22. 中川隆[-11659] koaQ7Jey 2019年3月06日 21:02:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[332]


中島みゆき 誰のせいでもない雨が 動画
https://pv755.com/dare-no-seide-mo-nai-ame-ga

中島みゆき「世情」(1978年4月10日)
https://pv755.com/sejo
https://www.nicovideo.jp/watch/sm27227751


▲△▽▼


2010年11月17日
民主党、隠れ革マル派の見分け方・・・中島みゆきだった!


 中島みゆきが、警視庁の「革マル派シンパ」リストに名前があがっていることを知っているのは、限られた人だけだった。

 ほぼ同年代で、中島みゆきと同じ北海道出身のボスによると、

「ま、北海道は革マル派の牙城というか、学生運動=革マル派という時代があったから、その手の集会に顔をだしたら、革マル派シンパと認定される可能性があった。高校の後輩が、道警に就職したが、こいつも革マル派シンパか?と査問されたことがある。つまり、北海道では日教組、ロシアのスパイの次ぐらいに前職、元職をいれて革マル派が多い」

 と、のんきなことをいっている。
 こんなことだから、北海道はロシアの植民地にされかねないのだ。

 さて、民主党に革マル派が浸透しているという話だ。
 平沢勝栄先生が国会で追及したJR総連出身の参院議員のことだけをいっているのでない。秘書なのだ。民主党国会議員の秘書に革マル派が増殖中。
 どれくらい増殖中かというと、゜「自民党に浸透した統一教会・勝共連合出身の秘書にせまる勢い」(公安調査庁の担当者)
 という。

参考:JR総連・「松崎明」の運転手兼ボディガードでしられる「田城郁」 民主党から参院比例は難航・・・

 ところで問題は、
 以下の中島みゆきの「世情」である。

「シュプレヒコールの波・・」で有名になって、「革マル派のテーマソング」といわれていた時期がある。

 市民団体主催の反戦運動や集会で、この曲がでたら、「革マル派主催」といわれたものらしい。
http://officematsunaga.livedoor.biz/archives/51115354.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c22

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
23. 中川隆[-11658] koaQ7Jey 2019年3月06日 21:18:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[333]

中島みゆきの噂

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/07(土) 20:30

ある?


2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/07(土) 20:47

視力が0.1にも満たないらしい。

3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/07(土) 20:51

下北に住んでるらしい。

4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/07(土) 20:57

昔、高校時代の写真が某音楽雑誌に載ってたけど、
お下げ髪にセーラー服姿だった。

>>2にも書いてあったけど、とても近眼で、牛乳瓶の底みたいな
レンズの眼鏡を掛ける事があるけど、本人はけっこう気にしてるみたい。

5 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/07(土) 21:07

男関係は?大昔、松山千春と噂あったよね。

6 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/08(日) 00:30

どだ?

7 :奈々氏:2001/07/08(日) 08:11

結局結婚しないのかな?あの人。

ちーさまとの噂はなんかの本で見たな。

ちー様 ヲレ達結婚するらしいな(藁
みー  あっはっは!らしいね(大藁

こんな感じの。

8 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/08(日) 08:36

夜曲の「街になーがれーるー歌をーきいーたーらーきづいてー」
って誰に向けて歌ってるのかな?当時好きだったひと?

9 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/08(日) 11:19

ずっと不倫してたよね。どうなったんだろ。

10 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/08(日) 11:27


誰とですか?

11 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/08(日) 20:48

いい年こいてニンジンが嫌いだそうな。

いっぺん椅子に縛り付けて無理矢理喰わせてみたい。
歌姫のプライドを引き裂く恥辱プレイだね。(w

12 :名無しさん:2001/07/08(日) 22:23

人参じゃなくて
セロリなんじゃなかった?

13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/08(日) 22:40

カップラーメンが好きなんだよね。

14 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/07/08(日) 22:40

>>12
両方嫌い。

15 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/08(日) 23:20

ユーミンよりは美人だね

16 :大人の名無しさん:2001/07/09(月) 01:15

みゆきさんが一方的に
千春のこと好きだったみたい
千春は勘弁してよ〜って感じでした。
この間テレビで千春本人が暴露してました。

17 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/09(月) 01:28

>>16
そうだったの?じゃああいつに向けて書いた曲もあるんだろうね。
昔は髪ふさふさで結構かっこ良かったもんね。>松山

18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/09(月) 01:41

>>16
結婚すればビックカップルだったのに、惜しいね。

19 :ななし:2001/07/09(月) 02:30

》10  「36.5゜」あたりから、いっときプロデューサーをやった、椎名和夫さんでしょ。         当時、『エンマ』っていう写真誌にすっぱぬかれて、結局おわったみたいよ。 プロデューサーが今の瀬尾さんに変わったのも、そのせいと思われ。

20 :名無しさん:2001/07/10(火) 22:29

瀬尾師匠から新しいプロデューサーに
替わるにはマスコミに
すっぱぬかれなきゃ無理かな?(藁

21 :名無しです:2001/07/10(火) 22:50

でもその瀬尾師匠と組んでもう10年以上…
今更すっぱ抜くも何も業界では「暗黙の。。。」
ってやつでしょう。
現時点では瀬尾師匠も独身なわけだし。

22 :禁断の名無しさん:2001/07/11(水) 05:12

>>21
やっぱそうなんだろうね…。
瀬尾師匠って独身だったんだ〜。意外。
中島さんが原因でわかれたの??

23 :名無しさん:2001/07/11(水) 12:25

そいじゃぁプロデューサーが
替わるのって・・・
大分先になるのかな?

24 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/11(水) 14:19

あれ?千春だったっけ?
「うらみます」は当時いい仲だった山下達郎にあてて書いた歌だと
いとこに聞いたことがある。

25 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/11(水) 14:24

心の病で通院してるところを見たという書き込みを2chで見たことがある。
この人は「躁鬱病」を演じてるだけの人だと思ってたんだけど、その書き込みがホントなら
本物の躁鬱病ってことになるな。作風の背景にもそれがあると思われ。

26 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/11(水) 14:26

松山の言うことを鵜呑みにしてはいけません。
その証拠に、みゆき嬢はあれ以来、松山のまの字も言いません。
その反対に、松山は、ことあるごとにみゆきの話題を出します。
TVやコンサートetc
松山のコンサート言ってみ、絶対1回はみゆき嬢の話をします。
松山未練たらたら。

27 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/11(水) 14:30

そうだね。「俺は気がなかった」っていうのは照れ隠しだろうね。

28 :名無しです:2001/07/11(水) 15:04

>>22
みゆきさんが原因で離婚したと言う噂も
聞いたことはあるけど、私自身もよく知らないです。
でも瀬尾師匠が独身なのは、5〜6年前に
親友である拓郎のラジオにゲストで出た時、
拓郎が言ってたから確かなはず。
(確かハワイの話題の時、「僕も瀬尾ちゃんもよく
行くんだよ。僕の場合は家族と、まぁ瀬尾ちゃんの場合
は一人だけど…」と言ってた)

29 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/11(水) 15:21

元革マル

30 :名無しさん@お腹いっぱい:2001/07/11(水) 22:01

瀬尾師匠と…とか思うと、『妹じゃあるまいし』のはもりが、なんだかラブラブって感じに聞こえてきたわ。
そういう曲じゃないのに…。
ファンの間では有名なお話だったのね。

31 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/11(水) 22:39

>元革マル?ほんとですか?
みゆきが10数回堕胎したという話は聞いたことある。
子供が産めない体らしいね。小説にも書いていたけど

32 :名無しさん:2001/07/11(水) 22:43

>>31
その小説って「寒雀」のこと?
みゆきさん、産婦人科医の娘なのに
本当に堕胎したことあんのかなぁ・・・?

33 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/11(水) 22:57

>そうです。寒雀ですね。
それからエッセイでも、書いてますよ。
子供を持ってる友達と対比して
自分ことをWITHOUT BABYと言って、子供が作れない
女としての人生感を語っていました。
まだ30代の頃の話で結婚願望の強い人なのに
かわいそうですよね

34 :名無しさん@お腹いっぱい:2001/07/11(水) 23:06

旦那が英国人の女友達だったっけ?

子供が作れないじゃなくて
子供が居たら仕事や恋愛に差し障るから
作ろうとはしなかったと思ってたよ。

35 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/11(水) 23:25

そうです。旦那が英国人の友達のこと。
しかしあなたも相当のみゆきファンですね。
私も自他共に認めるみゆきファンですけどね。
彼女のCDも本のできる限り集めてますよ。
理想の女性ですからね。
今好きな女もみゆきにそっくりですがね。顔が。

36 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/11(水) 23:46

すごいねここ。
あることないこと・・・
あぁ、噂板だからいいのね。
でも、小説と現実を一緒くたにする人っていったい・・・(それもうろ覚えの)
(歌と現実を一緒にする人と同類?)

37 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/11(水) 23:53

ごちゃごちゃうるせいな。
私は、みゆきのことは、だいたいわかってるんだよ。
行間を読めということだな

38 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/12(木) 00:03

あぁ、ごめんね。
ネタだったのね。それは、失礼しました。
でも、小説をネタ元にするのは、噂じゃなくって、妄想でしょ?

39 :ななし:2001/07/12(木) 01:00

》37  おいおい(藁 それだけ強気の発言をする程のみゆきオタなら、かって某対談で「わたしの中に『私小説』なんて言葉は無い」と言ってた事を、まさか!?知らない訳じゃ、ないだろに。(藁藁

40 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/12(木) 01:18

いずれにせよ、貞操観念は堅そうだね。
よって、ロストヴァージンも遅そう。

41 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/12(木) 01:26

新曽根崎心中とか聴いてると、年下の男を調教するのが上手そう。
あの歌もなんか筆下ろしを連想させる。(w

42 :名無しさん@お腹いっぱい:2001/07/12(木) 06:23

噂じゃなくて妄想じゃん・・・。

43 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/12(木) 06:29

>>42 文句いうならネタだせやゴルァ

44 :禁断の名無しさん:2001/07/12(木) 11:24

憶測でも妄想でも何でも良い
面白ければ許す。

45 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/12(木) 20:09

>
37  おいおい(藁 それだけ強気の発言をする程のみゆきオタなら、かって某対談で「わたしの中に『私小説』なんて言葉は無
い」と言ってた事を、まさか!?知らない訳じゃ、ないだろに。(藁藁

もちろん知ってるよ。その対談。私の歌は、すべて自分の体験ですと言ったのを
私小説と書かれたという話だったよ。つまり私小説ととらえてもらって
結構だという事だ

46 :名無しさん@お腹いっぱい:2001/07/12(木) 20:14

某サイトで話題になった
さ○○○雨 って
囁く雨だったんだね。

47 :ななし:2001/07/13(金) 01:35

》45     だめだコリャ(藁  いいから、もういっぺん過去のインタビュー記事を読み返しに逝っといで。      あの対談の後からも、もう何べんも「いちいち歌の数ぶんの経験なんて実際にしてたら、とても身がもたないわよね(笑)」という趣旨の事を言ってるだろが!

勝手な思い込みはヤメマショネ(藁

48 :36=38:2001/07/13(金) 03:02

>>44 面白ければな。
つまり、ネタ作るんならもっと上手くすれってこっちゃ。
ちなみに、42とは、別人だからな。

49 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/13(金) 06:47

お前こそ、もう一回あのインタビューを読めよ。
俺は、ちゃんと確かめて書いてるよ。

50 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/13(金) 08:01

この人のオナニー観って聞いてみたいね。
かなり身近なテーマと思われるのに、
そういうようなことしゃべった記憶なし。

51 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/13(金) 12:51

オナニー観って・・・(w
誰か、ほかにそんな観しゃべっている人いるのか?

52 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/13(金) 18:03

>>51 江角マキコ

53 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/13(金) 18:23

ひとり上手はオナニーの歌なの?

54 :ななし:2001/07/14(土) 00:28

》49  なにを確かめたんだか。(藁

本人が聞いたら、のたうち回りそーだ。(大藁

ついでになんだが、アナタに『おまえ』呼ばわりされるすじあいは、無いと思うが?

55 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/14(土) 01:11

>>51
江角マキコか・・・。何て言ってんだ?
でも、個人的には、みゆきと江角マキコを一緒にして欲しくなかったりして・・・。

56 :革マルみゆき:2001/07/14(土) 08:32

みゆきが卒業した大学を含め
北海道の大学は北大中心に革マル派が牛耳ってたらしいね。

革マル:日本革命的共産主義者同盟全国委員会革命的マルクス主義派
中核派:日本革命的共産主義者同盟全国委員会マルクス主義学生同盟中核派

もともと同じ母体らしい。

57 :名無しさん@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 19:49

>>56

お前さん、ひょっとして
懐柔吐かせなんかじゃないよね!?

58 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/14(土) 19:53

柳美里は中島みゆきの大ファソ。小説はみゆきの歌そのまま逝ってるな。

59 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/14(土) 21:54

本名は中島美雪。医者の娘で藤女子大・・・。典型的お嬢ですな。

60 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/14(土) 22:47

お嬢だったのね。

61 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/15(日) 02:52

お嬢だよ。
おじいさんは、北海道でも名士。
中島公園は、そのおじいさんの名前を取って名付けられた。

62 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/15(日) 02:57

この人って結婚してるのですか?

63 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/15(日) 03:04

天理教

64 : :2001/07/15(日) 03:52

age

65 :名無しさん@お腹いっぱい:2001/07/15(日) 08:53

みゆきさんは結婚はしてないよ。

66 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/16(月) 22:56

革マルってのは、本当か?
北大軽音に出入りしていたのは、本当だが

67 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/16(月) 22:58

振られる歌ばかり歌うのでブス扱いされるが、
よく見ると美人ですよね。そそる顔と体をしている。
もてる歌を歌いたがるユーミンの100倍は美人だ。
育ちの良さも感じるし。

68 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/16(月) 23:06

学生の頃、バイト先の同僚のオバチャンに聞いた話。
オバチャンが学生の頃、北大近くのアパートに住んでたらしいんだが、
隣が中島みゆきの彼氏の家だったらしい。
相当の修羅場があったらしく、ドアをガンガン叩いて暴れたりとか、
廊下で寝てたりとか、すごいことになってたらしい。
さすがあんな歌詞書く人よね〜と
しみじみ語っておりました、オバチャン。

69 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/16(月) 23:13

>>68 それすごい。デビュー前のことか。

70 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/16(月) 23:19

>68
ほんとすごい。
情が深そうな顔しているものね。

71 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/07/16(月) 23:39

中島みゆきに惚れられたら、地獄の果てまで追いかけてくると思われ。
ある意味スッポン。(w

72 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/16(月) 23:56

今の気分的にはそれもいいかもとか思っちゃうぜー。
なんか誰かにめちゃくちゃ愛されたい。愛したいって感じなのさ。最近(w

73 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/17(火) 00:04

『 愛していると云ってくれ 』ってやつ?

74 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/17(火) 00:08

しかし、情念は諸刃の剣だからね・・・
「愛したい」って叫ぶ人は、結局は自分が好きなだけかも。

75 :68:2001/07/17(火) 00:20

私は中島みゆきさんをそんなに存じてないのでわからないのですが、
当時彼女は藤女子大の学生だったと思われます。
なので、もしかするとデビュー前でしょうか?

76 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/17(火) 18:26

デビューは、卒後だが、大学時代からアマで活動してたよ

77 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/18(水) 19:49

68さん。中島の彼氏は、北大生のはずだが、そのおばさんも
北大生なの?

78 :68:2001/07/19(木) 22:55

>>77
いや、そこまでは知りません。
68で書いてるように、北大近くのアパートで、中島みゆきの彼氏の
隣の部屋に住んでたって話だけですから。
でも、年齢的なことを考えると、大学生とか短大生だったとおもいますよ、
おばさんも。

79 :名無し愛もーど:2001/07/24(火) 16:13

椎名和夫氏以前のブロデューサーで仲良かった人っていたの?

80 :名無しさん:2001/07/25(水) 10:05

プロデュ−サー でっすよん。
http://mimizun.com/log/2ch/uwasa/994505456/#22
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c23

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
24. 中川隆[-11657] koaQ7Jey 2019年3月06日 21:48:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[334]

永遠の嘘をついてくれ - 吉田 拓郎 & 中島みゆき - 動画 Dailymotion
https://www.dailymotion.com/video/x5anmkm

中島みゆき 永遠の嘘をついてくれ 動画
https://pv755.com/eiennousowotsuitekure



▲△▽▼


中島みゆきが吉田拓郎に提供した楽曲「永遠の嘘をついてくれ」は一説によると、夢破れた全共闘世代の胸の内を表現した歌とされています。

彼らの夢は日本の「赤化」、つまり「共産革命」であり、それこそが人民にとっての理想だったのでしょう。

しかし、共産主義の実態はそんな甘っちろいものではなく、
コミュニストの本家ソ連はもろくも崩壊してしまった。

彼らが青春を費やした革命ごっこは「永遠の嘘」だったというわけです。

吉田拓郎は反体制シンガーとして彼らの象徴的存在にまつり上げられましたが、のちに彼自身が「そんなつもりはなかった」と吐露しています。流行歌の歌手などに成り下がってほしくない、そして「嘘」に踊らされた自分たちを認めたくない全共闘世代は「拓郎よ、種明かしなんかするな。永遠に嘘をつき続けてくれ」とエールを送っているのです。

彼らは「嘘」と知りつつ、信じ続けることしかできないのでしょう。自己否定なんかしたくないから。

歌詞の一節にこうあります。

「たとえ繰り返し何故と尋ねても 振り払え風のように鮮やかに
人は皆望む答えだけを 聞けるまで尋ね続けてしまうものだから」


「望む答え」とは何でしょう?

自分たちがヘルメットをかぶり、ゲバ棒を振るったのは
決して間違いではなかった―という「答え」なのでしょうか。
それに対するポスト全共闘世代の当方の「答え」はこうです。

「いつまでも甘ったれてんじゃねぇ!!」

エコノミックアニマルと蔑まれても日本国家再建と豊かな生活実現のため歯を食いしばって頑張った戦前、戦中世代の皆さんへの敬意を捨て、
現実離れした妄想を膨らませてごっこ遊びに興じた自分を恥じ、國神社で深々と頭を下げて来いと申し上げたい。

ちなみに「永遠の嘘をついてくれ」は当方の愛唱曲でもあります。いつまでも悪あがきする人間の業に対し、戒めを込めた歌として口ずさんでおります。

投稿: やす | 2018/04/26 11:25
http://banmakoto.air-nifty.com/blues/2018/04/post-66b3.html



▲△▽▼

【永遠の嘘をついてくれ/吉田拓郎】
中島みゆきの深い想いが込められた歌詞を徹底解釈!アルバムも紹介♪
https://otokake.com/matome/AQIHr0


古くから関係があった中島みゆきさんからの提供楽曲「永遠の嘘をついてくれ」を紹介します。自身で作詞作曲していた吉田拓郎さんが何故、楽曲の提供を頼むようになったのでしょうか。


中島みゆきさんからの提供楽曲

吉田拓郎さんは昭和を代表するシンガーソングライターの一人です。

多くのミュージシャンが自身のルーツに吉田拓郎さんを上げるほど、多くの人に影響を与えてきました。

今回紹介させていただく、「永遠の嘘をついてくれ」を楽曲提供した中島みゆきさんも、吉田拓郎さんをルーツに挙げています。

中島みゆきさんとの関係

中島みゆきさんは元々、吉田拓郎さんのファンだったそうで、追っかけをしていました。

吉田拓郎さんの楽屋に出入りするほどで、多くの人に認知されていたようです。

中島みゆきさんがデビューしてからも、吉田拓郎さんをルーツにしていることを感じさせる歌詞の曲があります。

吉田拓郎さんは字余り、字足らずな歌詞の曲が特徴的ですが、それに似た曲がちらほらあります。それほど吉田拓郎さんから影響を受けていたのでしょう。

作詞作曲を頼んだのは初めて


吉田拓郎さんがこれまでに出してきた楽曲の作詞作曲はほとんど自身で手がけていました。

ですが、中島みゆきさんの「ファイト」を聴いて「もう自分はこんな詞を書くことは出来ない」と言ったそうです。

そこで中島みゆきさんに「遺書のような曲を作って欲しい」と頼んだそうです。

吉田拓郎さんは引退を考えていて、最後の曲として中島みゆきさんに書いてもらった歌を歌おうとしていたのかもしれません。

吉田拓郎さんの曲で、一人のアーティストに作詞作曲をしてもらったというのは初めての試みでした。

歌詞解説

ニューヨークは粉雪の中らしい
成田からの便は まだまにあうだろうか
片っぱしから友達に借りまくれば
けっして行けない場所でもないだろう ニューヨークぐらい
なのに 永遠の嘘を聞きたくて 今日もまだこの街で酔っている
永遠の嘘を聞きたくて 今はまだ 二人とも旅の途中だと
君よ永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ
永遠の嘘をついてくれ 何もかも愛ゆえのことだったと言ってくれ

出典: 永遠の嘘をついてくれ/作詞:中島みゆき 作曲:中島みゆき


成田からニューヨークまでは12時間かかります。お金だってかなりかかりますが友達から借り集めれば行けないわけではないです。

ですが、そこまでして会いに行きたいと思う人はいますか?

永遠の嘘を聞きたくて、永遠の嘘をついてくれと言っているのは、本当のことを知りたくないからでしょう。

本当のことを知ってしまうと、それは悲しみに変わることが分かっていたのでしょう。

騙す為の嘘ではありません。ここで出てくる嘘は人を思いやる嘘です。

この国を見限ってやるのは俺の方だと
追われながらほざいた友からの手紙には
上海の裏街で病んでいると
見知らぬ誰かの 下手な代筆文字
なのに 永遠の嘘をつきたくて 探しには来るなと結んでいる
永遠の嘘をついてくれ 今はまだ二人とも旅の途中だと
君よ 永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ
永遠の嘘をついてくれ 一度は夢を見せてくれた君じゃないか

出典: 永遠の嘘をついてくれ/作詞:中島みゆき 作曲:中島みゆき


ここで注目してもらいたいのは2行目までの歌詞です。「この国を見限った友達は追われている」と書かれています。

追われながら、ということは何かの罪を犯したのでしょう。この国を見限ったということは海外にいることが分かるので、海外で逃亡生活をしていたのでしょう。

友人が遠い街で病気になったことを知らせる手紙が届いてきます。

2番の歌詞には上海の路地裏と出てきますが、1番の歌詞で歌われているのはニューヨークです。

時系列的には上海のから手紙が届いた後、ニューヨークに行くか悩んでいるという順です。

つまり、友人がいるのは上海ではなく、ニューヨークに行くことが分かったというのは、自分で上海に行って教えてもらったか、人伝で突き止めたのか、といったところでしょう。

海外に住む友達が手紙をくれるというのは、よっぽど仲が良かったか、よっぽどひどい病気でこの先長くないことを伝えたいかのどちらかでしょう。

傷ついた獣たちは最後の力で牙をむく
放っておいてくれと最後の力で嘘をつく
嘘をつけ永遠のさよならのかわりに
やりきれない事実のかわりに
たとえ くり返し何故と尋ねても 振り払え風のようにあざやかに
人はみな望む答えだけを 聞けるまで尋ね続けてしまうものだから
君よ 永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ
永遠の嘘をついてくれ 出会わなければよかった人などいないと笑ってくれ

出典: 永遠の嘘をついてくれ/作詞:中島みゆき 作曲:中島みゆき


友人はもう自分のことを探さないでくれ、という思いを込めて手紙を送ったのでしょう。

実際に病気だったのか、もうすぐ死んでしまうのかは分かりません。

ですが友人に迷惑をかけたくないとか、困らせたくないからという理由で嘘をついてしまうのでしょうね。

人を騙しているわけではないのです。愛を持って嘘をついているのです。

中島みゆきさんのラブレター?


歌詞の意味を解釈するのが非常に難しい楽曲だと思います。この楽曲には当時の背景があったと思うからです。

吉田拓郎さんは「遺書のような曲を作って欲しい」と頼んでいますが、かけ離れています。

この曲は中島みゆきさんが吉田拓郎さんに送るラブレターのようなものではないか、という説もあります。

曲が作れなくなった、と言う吉田拓郎さんに対して中島みゆきさんが「永遠の嘘をついてくれ」と言っているのかもしれません。

最後に「一度は夢を見せてくれた君じゃないか」という歌詞がありますが、それは中島みゆきさんからの叱咤激励にも聞こえます。

何にせよ、リスナーに沢山想像させたり、含みを持たせる文章を書くのがとても上手いですね!

吉田拓郎さんはどんな気持ちでこの歌を歌っていたのでしょうか。気になりますね(笑)

本人が作詞したのかと思わせる歌詞


中島みゆきさんが作詞した曲であることを調べるまで気が付きませんでした。

この曲は吉田拓郎さんの色がとても出ている楽曲になっています。

作詞の技術があるのももちろんだと思いますが、中島みゆきさん自身、ずっと吉田拓郎さんの曲を聴いて育ってきた人だから書けた歌詞なのでしょう。

歌うというより、語りに近い歌詞は吉田拓郎さんにとても似ています!
https://otokake.com/matome/AQIHr0
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c24

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
25. 中川隆[-11656] koaQ7Jey 2019年3月06日 22:20:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[335]

■学生運動をした芸能人〜吉永小百合、坂本龍一


11革命的名無しさん2006/02/24(金) 10:25:08

所属も分かる範囲で。

芸能人じゃないんだけんどナベツネ、戦前日共東大細胞。
坂本は新宿高校→中核派と聞いた。
糸井も法大チュン。佐世保闘争で中核メットかぶりHNKからインタビューされてた。
宮崎美子は熊大の労働青年団、

中島みゆきは北海道時代、革マルシンパ。

吉永小百合は早大馬術部だろーが!
加橋かつみはマリファナだろーが! 

後は知らんなあ。

209革命的名無しさん2006/09/03(日) 11:15:54

浜田省吾

高校時代、広島でデモに参加してた

中島みゆき
藤女子大時代の彼氏が札医大の革マル派学生(現在も現役)

316革命的名無しさん2008/02/05(火) 10:40:11

中島みゆきって学生運動でバリケード作って大学に泊り込んでるときに
自分の好きだった男と友達の女がセクロスしてるのを目撃してショック受けて
そのまま運動やめて家に帰ったんだよね。

https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/kyousan/1140679815/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c25

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
26. 中川隆[-11655] koaQ7Jey 2019年3月07日 00:10:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[336]

44 :可愛い奥様:2013/06/02(日) 11:41:29.77 ID:lNIVgYI10

みゆきは学生運動に関わってたから学園祭とか呼ばれないのよ<藤

学生が呼びたかったのを先生方が反対して、二度と行かねぇみたいな
話になってるんだって。
代わりに清水ミチコが来てみゆきの真似して行った事があったとかw


45 :可愛い奥様:2013/06/02(日) 11:54:54.99 ID:QJkTuccZ0

みゆきが入学した時は派手な学生運動は終わってたでしょ


46 :可愛い奥様:2013/06/02(日) 12:04:19.46 ID:lNIVgYI10

北海道は時差があるからw
まあ「世情」とか出してるし
弟も関わってたんだってさー<学生運動

52 :可愛い奥様:2013/06/02(日) 15:56:19.19 ID:yiHifc2A0
>>46
弟は4歳も年下の医大生よね
証拠も無しにネット上に書かれてたのを鵜呑みにしてるんじゃないの?

みゆきが本当に学生運動に関わっていたか気になった人がいて
その人が道内の活発に学生運動してた何人かに連絡を取って聞いたところ
誰からもみゆきが学生運動に関わっていたという証言は得られなかったそうよ。
これもネットに書かれてたことだけどねw

54 :可愛い奥様:2013/06/02(日) 16:55:18.82 ID:6Y9pF+n30

学生運動に参加してないことはアルバム「中島みゆき」が出た当時の
雑誌のインタビュー記事と、「女歌」にしっかり書いてある。

55 :可愛い奥様:2013/06/02(日) 18:16:12.49 ID:cP1yy4Kq0

天理教信者ってほんとかな。
みゆきさんでも信仰無しで生きられないものなんだろうか。

56 :可愛い奥様:2013/06/02(日) 18:52:06.94 ID:R42aUsp80

生まれた時からの家の宗教じゃ仕方ない部分もあるんでは?
特に母親が熱心らしい。
本人は今はそんなに熱心でもないみたいだけど輪廻転生はずっと信じてるよね。



59 :可愛い奥様:2013/06/03(月) 00:59:17.27 ID:LOVQvsx/0

天理時報(号外)のことを知らない人がいるなんてビックリ。
そうなると、当然、コンサートのMCで「この近く(天理)にオヤジが眠っていまして・・・」って言ったのも知らないんでしょうね。


302 :可愛い奥様:2013/06/20(木) 11:18:56.47 ID:dsVudmUC0 

中島みゆきが、天理教の熱烈なる信者であることは、周知のことである。
中島家は祖父母の代からの天理教信者である。

 1994年9月30日付の「天理時報」(号外)に、中島みゆきは「幸せというものに」という詩を載せている。

 「幸せというものになってみたいと だれしも望むところではあるが さてだれのよいなと問われたら迷う」という書き出しだ。

人から幸せですかと訊かれて、いつから否定する癖がついたのだろう。
妬みが怖いのか。
ちっぽけな幸せなのに、幸せですと大きくうなずくのが惜しいのか。
そういった後、「そんなことで怯えなくていいんだよ そんなことで真実は傷つきはしないから」

と書いている。

305 :可愛い奥様:2013/06/20(木) 20:22:49.23 ID:xTXfywUsO

「糸」が今や結婚式の定番曲になってる事を考えれば
創価のように嫌われていない証拠だね。
みゆきさんも今は父親の供養ぐらいしか関わってないみたいだけど。

6 :可愛い奥様:2013/06/01(土) 11:31:53.58 ID:tqAy7G8V0

毒女とか言いつつ、瀬尾十三や松山千春、甲斐よしひろ、筒美京平なんかと浮名を流していたよね。
この人ずっと処女なのかな、と思っていたんだけど、妄想だけであんなに情念の曲を量産できないしね。

♪た•わ•わ
お前を殺したい♪
もなんか嫌な曲だ。


490 :可愛い奥様:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN ID:BhdWWjBS019
彼氏いない歴774年[sage] 投稿日:2012/02/02 02:17:59  ID:B4QSRErT(1)

みゆきが咥えた皆さん

松山千春
甲斐よしひろ
瀬尾一三
松任市正隆
椎名和夫
長渕剛
吉田拓郎
工藤静香
柏原芳恵

492 :可愛い奥様:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN ID:zgzfRm+t0
>>490
後藤次利
鈴木茂
斎藤ノブ
布袋寅泰
坂本龍一
前川清
上柳昌彦
亀渕明信
太田亮
世良公則
福山雅治
グーフィー森

書くなら全部書きなさいよw


565 :可愛い奥様:2013/07/30(火) NY:AN:NY.AN ID:bS4LfVpJ0

後藤次利にも
長渕剛にも
松山千春にも
さだまさしにも
瀬尾一三にも
籍を入れていただくことを許されず
性のお慰みにしか扱われず
所詮、二号さんにしかなれない超絶根暗喪女

71 :可愛い奥様:2013/06/04(火) 10:56:17.32 ID:yv0Y5hwT0

瀬尾一三に辿り着くまでに、アルバムプロデューサーを数人変えてきたよね。
中には松任谷正隆もいたけど、やっぱり寝ただろうね。

グッバイガールという意味深なアルバムから、瀬尾一三に乗り換え20年以上寄り添ってきたのだから、よっぽどSEXの相性がいいのだろう。
みゆきは精神上の少女に別れを告げ、オンナに生まれ変われたのだ。

75 :可愛い奥様:2013/06/04(火) 11:48:23.23 ID:UNA5nIuaO

別にいいんじゃない?二人にとってその方がいい関係なら。
みゆきには元々世間の目をあまり気にしない強さがあるのよ。
だからああいう作風や活動を長年やってるのよ。

77 :可愛い奥様:2013/06/04(火) 11:57:17.21 ID:yv0Y5hwT0

そんな強さがみゆきにあるのなら、
初期の頃のあの女々しい振られ歌オンパレードは何?
自ら赤裸々な失恋ソングを書いて自浄するしかなかったからメンタル弱かったはず。
メンタル強けりゃそんなもん書かんわいw

瀬尾と男女の関係を始めてから女々しい歌はガクンと減ったし、
吹っ切れたように軍歌や菩薩歌が増えた。

女って所詮そんなもの。
男で女は変わるよ。


79 :可愛い奥様:2013/06/04(火) 12:11:21.84 ID:UNA5nIuaO

メンタル強いから心のストリッパーみたいな歌を公表できるんじゃない?
普通はもっと自分をよく見せようと飾るよ。

80 :可愛い奥様:2013/06/04(火) 12:20:30.16 ID:yv0Y5hwT0

北海道大学くらい出てたら知性が邪魔して、今の作風には決してならないと思うがやはり藤女子大学の知能だからw
北大を受験したけど滑ったと聞いたから、納得がいく。


82 :可愛い奥様:2013/06/04(火) 12:32:44.17 ID:yv0Y5hwT0

みゆきは不合格の烙印を押されたのにいけしゃあしゃあと合同サークルに入って北大をうろついてたらしい。
私は早稲田だったけど、我が物顔でキャンパスに上がり込んでる大妻や本女、学女、山脇なんかのチャラ牝がうっとおしかった。

118 :可愛い奥様:2013/06/04(火) 17:34:03.09 ID:kNyneyNc0

今はどうだか知らないが、藤女子は当時はお嬢様学校。
クリスチャンで寮があって、校内に聖母像とかが立ってるようなそんな所。

藤女子の国文出てる有名人は知る限り中島みゆきと故氷室冴子。
2人とも独特の感性を持った作品を送り出している。

氷室冴子は前編だけや、連載中に絶筆した作品もあるが、
国文科らしい平安時代やもっと前のヤマトの頃の本もある。
個人的には、大半がのほほんお嬢だが、変わり種がたまに出るいい大学だと思ってる。


119 :可愛い奥様:2013/06/04(火) 18:15:23.40 ID:nFMOcUJl0

北海道って大学無いからねw
女の子が道外に出るのは反対されるし、北大行ける人でも
ヨメにいけなくなるって藤にされたりね
面白い人が藤に集中する時代は確かにあったと思うよ
今はアレだけど。

123 :可愛い奥様:2013/06/05(水) 06:43:31.78 ID:6zju4Btd0
>>119
でもみゆきは、嫁に行けなくなるからあえて藤女子大学にしたのではなく明らかに能力不足だったために北海道大学受験に失敗しているし、それもコンプレックスのひとつになっているんじゃないかな。


522 :可愛い奥様:2013/07/21(日) NY:AN:NY.AN ID:lvDDsdN30

北大受かってたらどんなふうになってただろうね。
いい所の奥さまになったんじゃないかな。


527 :可愛い奥様:2013/07/22(月) NY:AN:NY.AN ID:4UbmG82t0
>>522
いやもっと暴走していたかもしれん

ほとんど北大に入り浸ってたらしいけど多少なりとも
シスターやお嬢様に囲まれた学生生活も送っていたわけで
その辺は二重生活みたいなのを楽しんでたんじゃないかな
いやならみゆきの性格上きっぱり退学しそうだし

当時の藤女子大は道内の有名お嬢様大学の一つだよ
レベルも低くはない


996 :可愛い奥様:2013/10/14(月) 09:32:28.44 ID:fKW/tGOR0

北大受験した話はあなた以外聞いたことないけど
親父は北大医学部卒だけど


133 :可愛い奥様:2013/06/05(水) 11:10:37.16 ID:6zju4Btd0

これだけ振られ歌を歌ってきて、いろんな男を乗り回してモノにできず、幸せな結婚もとうとうできずに
還暦を超えた今も働き続けねばならないなんて、よっぽど不幸に見舞われた一生だったよね。

135 :可愛い奥様:2013/06/05(水) 11:40:22.82 ID:OMz5TXyrO

へ〜?しゃべりが綺麗とは意外。
歌好きだけど、ものすごく喪女体質なのは確かでしょ。
スラッとしてるのと、整形大成功なのは羨ましい。

136 :可愛い奥様:2013/06/05(水) 15:02:36.57 ID:mYz7xzYvP
>>135
喪女の神って感じだよねw
整形してるの?
紅白に出た時、えらい綺麗なオバサンになったなと思ったけど

138 :可愛い奥様:2013/06/05(水) 16:15:40.48 ID:Zv/XJBqX0
>>136
歯をいじっただけよ
手入れは怠りないと思うけど元々色白で肌はきれいだし
ほんと僻みが非道いねw

142 :可愛い奥様:2013/06/05(水) 21:42:54.04 ID:RKrBtO7t0

整形はそんなにしてないかもしれないけどしわ取り注射は打ちまくってるだろうね
紅白歌合戦では小皺だらけのおばあちゃんだったのに
5年後のライブDVDではつやつやの張りのある肌になってたw

143 :可愛い奥様:2013/06/05(水) 21:59:17.31 ID:CMK2kXwU0

観察力が足りないわよ
いつでも目の周りは小皺があるけど、それ以外はつやつやきれいよ


155 :可愛い奥様:2013/06/07(金) 01:03:46.79 ID:G5Xp67940

世界歌謡祭の中島みゆきは曽我ひとみさんみたいだった。
顔は不細工だし歌も金切り声で下手糞だし
とても40年近く活躍する人には見えなかった。

157 :可愛い奥様:2013/06/07(金) 02:41:47.71 ID:qv4ZC/fo0
>>155
努力をすれば歌は上手くなるってことの証明だね。
みゆきさんは30代後半に本格的なボイトレをやったから
還暦過ぎた今でも歌声だけでじゅうぶん堪能できるライブをやれる。

158 :可愛い奥様:2013/06/07(金) 19:21:19.07 ID:licYZo3c0

若いみゆきの方が歌はよかった
予感あたりまでは本当に天才だったと思う
夜会も文化村まではなんとか見られた

けど瀬尾と付き合ってからはまったくダメ
コンサートも恥ずかしいような演出
真横斜め上の歌い方は見てるこっちが恥ずかしい

瀬尾はみゆきの才能をなくしてしまったな


268 :可愛い奥様:2013/06/17(月) 18:03:05.17 ID:wg0ueUm10
>>158
なんか物足りなくなった感じはするね

瀬尾時代よりも椎名時代〜が好きですね
まあ瀬尾時代でもいいものはいいんだけど、なんか違う


449 :可愛い奥様:2013/07/16(火) NY:AN:NY.AN ID:l72Bz2u+0

みゆきが不倫体質なのは、もはや否定し難い事実でしょ?
それより瀬尾と事実婚になってから、音楽活動の幅が狭くなったわ。

そもそもみゆきに人類愛だの命の尊さなど期待してないのに。
むしろ、生きてもいいですか?的なアイロニーを期待してるわ。


333 :可愛い奥様:2013/07/01(月) NY:AN:NY.AN ID:bKsFhbP+P

デビュー当時からずっとヤマハの幹部の愛人なんだよね。
なんだか哀れな人生。

336 :可愛い奥様:2013/07/01(月) NY:AN:NY.AN ID:ZLDltHNR0
>>333
幹部っていうか天皇と言われた会長の愛人か何かでしょ

でも今やヤマハの役員だし
文科省の国語審議会委員務めたり紫綬褒章も授与されてて
結婚してなくてもお金はおろか本人の地位や名誉もあるでしょ
もともとの血筋も悪くないし勝ち組じゃない
歌の主人公とは全く違って哀れとは思えない

337 :可愛い奥様:2013/07/02(火) NY:AN:NY.AN ID:zJrn0SR7O

愛人て根拠の無いただの噂でしょ
本当に愛人だったら親族が献歌をみゆきさんに歌わせないと思う

338 :可愛い奥様:2013/07/02(火) NY:AN:NY.AN ID:/1IPtrgY0
>>337
愛人かどうかは知らないけどすごいワンマンな会長に
ヤマハのリゾート地をあちこち連れ歩かれてたのは確か
可愛がられていたみたいだね

島を貸切状態で料理人を連れてクルーザーやヘリでリゾートめぐり
バブル時代とは言えそういう体験を自分もしてみたいわ

339 :可愛い奥様:2013/07/02(火) NY:AN:NY.AN ID:zJrn0SR7O

ヤマハのリゾート地を連れ歩かれてたのは谷山浩子さんも一緒よ

342 :可愛い奥様:2013/07/03(水) NY:AN:NY.AN ID:P4eFYCqf0

みゆきは、愛人で終わる女でない。ヤマハの役員にまでなった。昔オールナイトでヤマハの爆破事故のお詫びを言っていたけど、まさか役員になるとはね〜
あの頃から狙うものがそこらの河原乞食と違っていた。

431 :可愛い奥様:2013/07/16(火) NY:AN:NY.AN ID:l72Bz2u+0

しかし川上の葬式の時代って結構意味深だわ。だって愛人が葬式で歌うのでしょ?
まーみゆきにとっては、愛人をも超えた関係なのかもしれないが。
あの時代の笑いこそみゆきの暗黒時代を彷彿させるわ〜


439 :可愛い奥様:2013/07/16(火) NY:AN:NY.AN ID:l72Bz2u+0

確かに川上の家族公認というか、あーいう破天荒な人の家族って黙認なんでしょ。
でもみゆきの献歌で涙している家族の映像とか意味深だわー。愛人の歌で何を泣いてたのかしら。
みゆきって写真集にも何度も撮られているほど、不倫体質なのは間違いないわ。芸のこやしとぐらいに本人は、割り切っているのかしらね〜


440 :可愛い奥様:2013/07/16(火) NY:AN:NY.AN ID:7vt3qFidO

何度も撮られたとか凄い捏造w
撮られたのは一度だけでしょ
だからネットは全く信用できないのよ

441 :可愛い奥様:2013/07/16(火) NY:AN:NY.AN ID:KhTGMgyZ0
>>439
何度もって椎名和夫との不倫騒動と
夜会の演出家の2人だけじゃなかった?
現場写真はエンマにスッパ抜かれた
椎名和夫との密会だけだし。

442 :可愛い奥様:2013/07/16(火) NY:AN:NY.AN ID:KhTGMgyZ0

あとみゆきの「写真集」ってヤマハ出版から出てる歌暦一冊だけよw

200 :可愛い奥様:2013/06/12(水) 11:09:54.44 ID:ejU2z7I90

ちじょうの犯人(ホシ)でロングヒットを収めて惜しまれつつ引退してればよかったのに、
もう還暦過ぎて、皺くちゃの老婆だし、ヒット曲も書けない、
歌詞も覚えられない、上りの傾斜は険しくなるばかりの晩年•中島みゆきサンw
引っ込みどきを間違え、引っ込みつかなくなっていい気味w

248 :可愛い奥様:2013/06/16(日) 10:56:19.05 ID:d5B/nXtU0

売れてた頃の中島みゆきの曲は平易な表現でリスナーの共感を呼ぶ歌詞が多かったよ。
最近の詞はべつに歌いたいことがなくなったのか
堅い単語や言葉遣いを羅列してお茶を濁してるきらいはあるけれども

253 :可愛い奥様:2013/06/16(日) 16:04:03.99 ID:9D3Z93iUO

なんでいつもがなって歌うの?
昔の若い頃は普通の歌いかただったのに
懐かしい歌謡曲のVTRを見る番組でワイプゲストに最近のは失笑されてる

399 :可愛い奥様:2013/07/13(土) NY:AN:NY.AN ID:fow6KJa00

中島みゆきってご乱心の時代を経て、軍歌とメロディックパワーメタルに開眼し、
しかし実力不足で消化しきれずに
今みたいな訳わからん糞曲をヒリ出すようになったよね。
https://ikura.5ch.net/test/read.cgi/ms/1370020637/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c26

[昼休み53] 女子高生コンクリート詰め殺人事件 中川隆
126. 中川隆[-11654] koaQ7Jey 2019年3月07日 07:24:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[337]
>>125 は私の投稿ではないので除外して読んで下さい
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/458.html#c126
[近代史3] 内閣官房参与をクビにされた藤井聡先生、遂に本音を語る 中川隆
10. 中川隆[-11653] koaQ7Jey 2019年3月07日 07:42:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[338]

2019年3月6日

財務省は今、安倍内閣下で増えた「自由に使える血税」の全てを、国民のためでなく「自分のため」に活用しています。
From 藤井聡(京都大学大学院教授)

突然ですが今、
経済、財政、金融、防衛、科学技術、
インフラ、農業等の様々な視点から、
今後の日本の政治のあるべき姿を「提言」する本

を書いています。

出版は5月か6月頃になるかと思いますが、
それを執筆する中で、
現在の安倍内閣による政治が、
一体どのようなものだったのかを
客観データに基づいて「検証」する作業を
進めています。

その中でとりまとめてグラフの一つがこちら。


この一枚のグラフは、
今の日本で展開されている「政治の本質」

を理解する上で、
極めて重大な意味をもっています。

今日はこの「一枚のグラフ」が暗示する
恐ろしい「真実」を、解説したいと思います。

・・・

安倍内閣下で税収は、
実に17兆円も拡大しました。

安倍内閣誕生時点の2012年度の税収が
42兆円に過ぎなかった一方で、
2018年時点では59兆円にまで拡大したのです。

詳細はまた別途解説したいと思いますが、
消費増税によって7兆円、
世界経済の好景気に牽引される形で実現した
「26兆円もの輸出拡大」によってもたらされた
経済成長による自然増収10兆円によって、
合計17兆円、割合にして実に40%も拡大したのです。

では、この17兆円の増収を、
安倍内閣は一体何に投入していったのかを検証した結果、
得られたものが、このグラフなのです。


ご覧の様に、圧倒的に多くの「増収分」が、
「赤字圧縮」政策に投入されています。

「赤字圧縮」政策とはつまり、
「借金削減」政策であり、
広い意味で言えば「借金返済」政策と
言うこともできます。

その金額は10兆円、
17兆円の増収の実に「6割以上」もの水準に
達しています。

具体的に言うなら、安倍内閣は、
新しく国債発行額を縮減するために
10兆円もの巨大な税収を活用したわけです。

その一方で、
社会保障の拡大に6・6兆円が活用されているのを除けば、
17兆円の増収分は、
その他の政策項目にほとんど活用されていない様子が
見て取れます。

公共事業が0・2兆円、
防衛が0・5兆円拡大していますが、
その拡大分は17兆円の税収拡大分から
拠出されているというよりはむしろ、
総務省が所管している「地方交付税交付金」を
1兆円以上削ることで拠出したものです。

そして、
文部科学行政や環境、農水、外交に到っては、
予算が全く増えておらず、17兆円の増収分が
「一切」活用されていないのです。

つまり安倍内閣は税収が40%も拡大し、
17兆円も豊かな収入が得られる様になったにも関わらず、
(法律的に拠出する金額が規定されている)社会保障の
増分には致し方なく充当している一方で、
それ以外の全て、
実に増収の6割にあたる10兆円以上もの大量の税収を、
「赤字圧縮」行政に投入してしまっているのです。

言うまでも無く、
「赤字圧縮」政策を推進する官庁は財務省。

一方で、それ以外の政策項目を所管する省庁は、
その他全ての省庁です。

そして、
この予算の配分を決定する事務を所管するのも財務省です。

つまり財務省は、
17兆円もの増収分をどこに投入するかを決定する事務を
所管しているわけですが、
法律的に削除することが原理的に出来ない
「社会保障」に致し方なく一部(しぶしぶ)回した上で、

防衛や公共事業など、
政策的に拡大することが必要な部分については、
僅かに増やしたものの、その拡大分も、
地方自治体に回す交付税交付金を削ることで捻出したのです。

つまり、防災や国防など、
国家国民の最低限の安心や安全のため行政には
予算の拡大が必須ではないかという声に応えるために、
財務省は、地方自治体に回す分をむしり取って、
その分のカネを用意したというわけです。

こう見れば、「赤字圧縮」行政を所管する財務省は、
安倍内閣下で、
「赤字圧縮」政策ために必要な
「支出の抑制」の仕事をほぼ完璧にやり遂げたのです。

そしてそれを通して、
10兆円にも上る国民の血税を
政府の借金、あるいは赤字を圧縮するため
「だけ」に活用したのです。

すなわち・・・

財務省は今、
安倍内閣下で増えた「自由に使える血税」の「全て」を、
国民のためでなく自分のために活用しているのです。

借金返済は何の富も国民にもたらさないにも拘わらず、

そして、

もしも他省庁の「国民のための行政」に活用していれば、
経済が成長し、税収がさらに拡大していたにも拘わらず・・・

一人でも多くの国民が、
この恐るべき真実を理解されんことを、
心から祈念したいと思います。
https://38news.jp/economy/13285
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/140.html#c10

[近代史3] 財務省は何故日本を滅ぼそうとしているのか? 中川隆
9. 中川隆[-11652] koaQ7Jey 2019年3月07日 07:42:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[339]

2019年3月6日

財務省は今、安倍内閣下で増えた「自由に使える血税」の全てを、国民のためでなく「自分のため」に活用しています。
From 藤井聡(京都大学大学院教授)

突然ですが今、
経済、財政、金融、防衛、科学技術、
インフラ、農業等の様々な視点から、
今後の日本の政治のあるべき姿を「提言」する本

を書いています。

出版は5月か6月頃になるかと思いますが、
それを執筆する中で、
現在の安倍内閣による政治が、
一体どのようなものだったのかを
客観データに基づいて「検証」する作業を
進めています。

その中でとりまとめてグラフの一つがこちら。


この一枚のグラフは、
今の日本で展開されている「政治の本質」

を理解する上で、
極めて重大な意味をもっています。

今日はこの「一枚のグラフ」が暗示する
恐ろしい「真実」を、解説したいと思います。

・・・

安倍内閣下で税収は、
実に17兆円も拡大しました。

安倍内閣誕生時点の2012年度の税収が
42兆円に過ぎなかった一方で、
2018年時点では59兆円にまで拡大したのです。

詳細はまた別途解説したいと思いますが、
消費増税によって7兆円、
世界経済の好景気に牽引される形で実現した
「26兆円もの輸出拡大」によってもたらされた
経済成長による自然増収10兆円によって、
合計17兆円、割合にして実に40%も拡大したのです。

では、この17兆円の増収を、
安倍内閣は一体何に投入していったのかを検証した結果、
得られたものが、このグラフなのです。


ご覧の様に、圧倒的に多くの「増収分」が、
「赤字圧縮」政策に投入されています。

「赤字圧縮」政策とはつまり、
「借金削減」政策であり、
広い意味で言えば「借金返済」政策と
言うこともできます。

その金額は10兆円、
17兆円の増収の実に「6割以上」もの水準に
達しています。

具体的に言うなら、安倍内閣は、
新しく国債発行額を縮減するために
10兆円もの巨大な税収を活用したわけです。

その一方で、
社会保障の拡大に6・6兆円が活用されているのを除けば、
17兆円の増収分は、
その他の政策項目にほとんど活用されていない様子が
見て取れます。

公共事業が0・2兆円、
防衛が0・5兆円拡大していますが、
その拡大分は17兆円の税収拡大分から
拠出されているというよりはむしろ、
総務省が所管している「地方交付税交付金」を
1兆円以上削ることで拠出したものです。

そして、
文部科学行政や環境、農水、外交に到っては、
予算が全く増えておらず、17兆円の増収分が
「一切」活用されていないのです。

つまり安倍内閣は税収が40%も拡大し、
17兆円も豊かな収入が得られる様になったにも関わらず、
(法律的に拠出する金額が規定されている)社会保障の
増分には致し方なく充当している一方で、
それ以外の全て、
実に増収の6割にあたる10兆円以上もの大量の税収を、
「赤字圧縮」行政に投入してしまっているのです。

言うまでも無く、
「赤字圧縮」政策を推進する官庁は財務省。

一方で、それ以外の政策項目を所管する省庁は、
その他全ての省庁です。

そして、
この予算の配分を決定する事務を所管するのも財務省です。

つまり財務省は、
17兆円もの増収分をどこに投入するかを決定する事務を
所管しているわけですが、
法律的に削除することが原理的に出来ない
「社会保障」に致し方なく一部(しぶしぶ)回した上で、

防衛や公共事業など、
政策的に拡大することが必要な部分については、
僅かに増やしたものの、その拡大分も、
地方自治体に回す交付税交付金を削ることで捻出したのです。

つまり、防災や国防など、
国家国民の最低限の安心や安全のため行政には
予算の拡大が必須ではないかという声に応えるために、
財務省は、地方自治体に回す分をむしり取って、
その分のカネを用意したというわけです。

こう見れば、「赤字圧縮」行政を所管する財務省は、
安倍内閣下で、
「赤字圧縮」政策ために必要な
「支出の抑制」の仕事をほぼ完璧にやり遂げたのです。

そしてそれを通して、
10兆円にも上る国民の血税を
政府の借金、あるいは赤字を圧縮するため
「だけ」に活用したのです。

すなわち・・・

財務省は今、
安倍内閣下で増えた「自由に使える血税」の「全て」を、
国民のためでなく自分のために活用しているのです。

借金返済は何の富も国民にもたらさないにも拘わらず、

そして、

もしも他省庁の「国民のための行政」に活用していれば、
経済が成長し、税収がさらに拡大していたにも拘わらず・・・

一人でも多くの国民が、
この恐るべき真実を理解されんことを、
心から祈念したいと思います。
https://38news.jp/economy/13285
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/151.html#c9

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
11. 中川隆[-11651] koaQ7Jey 2019年3月07日 08:20:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[340]

山下敦弘 『マイ・バック・ページ』(2011年)


監督 山下敦弘
脚本 向井康介
原作 川本三郎
撮影 近藤龍人
公開 2011年5月28日


映画『マイ・バック・ページ』 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8+2011&sp=mAEB


▲△▽▼


キャスト

沢田雅巳(週刊東都、東都ジャーナル記者):妻夫木聡 ※モデルは川本三郎
梅山(本名・片桐優 赤邦軍リーダー):松山ケンイチ
倉田眞子(週刊東都表紙モデル):忽那汐里 ※モデルは保倉幸恵
安宅重子(赤邦軍隊員):石橋杏奈
赤井七恵(赤邦軍隊員):韓英恵
柴山洋(赤邦軍隊員):中村蒼
飯島(東都ジャーナルデスク):あがた森魚
徳山健三(週刊東都デスク):山崎一
清原(反戦自衛官):山本剛史
佐伯仁(運動家):山本浩司
中平武弘(週刊東都 記者):古舘寛治
津川(週刊東都記者):中野英樹
前園勇(京大全共闘議長):山内圭哉 ※モデルは滝田修
唐谷義朗(東大全共闘議長):長塚圭史 ※モデルは山本義隆
タモツ(うさぎ売りの青年):松浦祐也
キリスト(キリストのような風貌の青年):青木崇高
山口(東都新聞 社長):並樹史朗
小林(東都ジャーナル編集長)菅原大吉
島木武夫(週刊東都編集長):中村育二
白石(東都新聞 社会部部長):三浦友和
康すおん、近藤公園、熊切和嘉、早織 ほか

『マイ・バック・ページ』は、日本の評論家・川本三郎の著作、およびそれを原作とする2011年公開の日本映画。タイトルはボブ・ディランの楽曲「マイ・バック・ページズ」から取られている。

川本三郎が、1968年から1972年の『週刊朝日』および『朝日ジャーナル』の記者として活動していた時代を綴った回想録。前半は東大安田講堂事件や三里塚闘争、ベトナム反戦運動などの当時を象徴する出来事の取材談、出会った人々の思い出、当時の文化状況などが新左翼運動へのシンパシーを軸に綴られ、後半は活動家を名乗る青年Kと出会ったことから、朝霞自衛官殺害事件に関わって逮捕され、有罪となって懲戒免職に至る顛末が語られる。雑誌『SWITCH』に1986年から1987年にかけて連載され、1988年に河出書房新社から『マイ・バック・ページ ある60年代の物語』という題で単行本が出版された。一時は絶版となっていたが、映画化を機に2010年に平凡社より再刊された。


物語

1969年、沢田は東大法学部大学院生時代に安田講堂事件を目撃する。「週刊東都」の新米記者として、新左翼運動への取材を通じて活動家たちに共感を抱きながらも、ジャーナリストとして客観性を保たなければならない立場との間に葛藤する日々を送っていた。編集部はアポロ11号の月着陸記事で忙しくしている。

1970年、教室では片桐という青年と他の学生たちとが激しい議論を戦わす。沢田は名画座で 川島雄三監督の『洲崎パラダイス赤信号』を見る。映画では新珠三千代が頼りない恋人の三橋達也に、「あんた、どっか一つくらい当てないの?」「あんた、男でしょ」となじる。オールナイトが終わってから日曜日の編集部で『ガロ』を読んでいると「週刊東都」の表紙モデル・倉田眞子が遊びにくる。

1971年、活動家を名乗る梅山という青年が接触してくる。自分は「京西安保」の幹部であり、「銃を奪取し武器を揃えて、われわれは4月に行動を起こす」などと語る。紹介した先輩記者・中平武弘は「偽物だ」と決めつけるが、離れに匿う。宮沢賢治を愛読し、CCRの『雨を見たかい』をギターでつま弾きながら「雨ってナパーム弾のことなんですね」という姿に、沢田は親近感を覚えていく。編集部では『週刊東都』が出版6日後に回収という事件が起きる。中平も「左遷」される。同僚から「あんたら、うちの余った紙で雑誌作らせてもらってるんでしょ」といわれ、殴りかかる。一緒に『ファイブ・イージー・ピーセス』を観て、倉田に「私はきちんと泣ける男の人が好き」と言われる。

やがて梅山は学生仲間を引き込んで「赤邦軍」なる組織を作ると、自衛隊基地を襲撃して武器を奪うという計画を立てる。計画を明かされた沢田は自分に独占取材させてくれと頼む。

「駐屯地で自衛官殺害」のニュースが沢田のもとに届く。接触すると他誌の記者も来る。証拠として腕章を預かる。社会部では「思想犯」ではなく「殺人犯」として通報するといい、反論すると「うちは大学新聞作っているわけではない」といわれる。捕まった梅山は軍を動かしているのは前園だという。警察は腕章を出せば証拠隠滅罪には問わないというが、燃やしてしまっていた。会社を辞める時にモデルは終わったという倉田が訪ねてくる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8


▲△▽▼


「マイバックページ」を観た 2011年6月 9日


なぜか弁護士会のボックスに、マイバックページのパンフレットが入れられていて、さして興味もなかったのに、もののはずみで観てきた。

わたくし的には、これほど途中で席を立とうかと何度も思った映画は初めてだった。

何しろ登場人物の誰にも感情移入できない。
時代は1969年から1972年。
学生運動崩壊過程で起きた自衛官殺害事件を題材にしている。

潮が引くように去っていく学生たちから孤立した活動家梅山は、存在自体が怪しい組織を騙って、暴力革命路線を追及する。

そこには何の理念もありはしない。
あるのは、ただ、世間を騒がすようなことをしでかして見返してやりたいという情念だけだ。

一方、彼の取材を続ける記者沢田は、彼の理念なき大言壮語を易々と信じて肩入れしていく。

僕にとっては、どこにも共感できる要素がないのだ。


僕が大学に入ったのは74年。
初めてセクトというものと出会ったのも同じ時期である。

当時は、中核派と革マル派の内ゲバ事件が最盛期だった。

東大駒場寮から引っ越し作業中の活動家が敵対セクトから襲撃されて殺された事件があった。僕も駒場寮に住んでいたが、それを聞いても、特段の感慨すら抱かなかった、そんな時代だった。

結局、崩壊した学生運動は、どれだけ派手な成果を挙げるかだけを競い、三菱重工爆破事件や、北海道庁爆破事件を次々と起こし、自壊していった。

映画は、そうした学生運動の崩壊過程の初期を描いていることになろう。

実は収穫が一つだけあった。

常々、学生運動の経験者が実権を握った現代日本がなぜ、これほどまでに保守化していくのか、疑問に思っていた。
朝日新聞などのメディアには、相当数の学生運動経験者が、今やデスクを握っているに違いないのに、とめどなく保守化していくのはなぜなのか。

映画は、そんな疑問に明快な回答を与えてくれた。

熱病が醒めれば、潮が引くように一部の活動家を孤立化させて、抵抗なく社会に適応をする学生が大半だった。
熱病には、確固たる信念もなかった。
共通する心情は、何かしら、目立つことがしたい、いい言葉で言えば「自己実現したい」ということだけだった。

政界にしろ、メディアにしろ、組織を左右する地位を手に入れる人たちは、人並み以上の権力欲を持っている人たちだろう。
そして梅山がそうであったように、権力欲とバランスするような理念を持っている訳ではない。

政治やメディアで権力を掌握した学生運動経験者たちは、過激派と違う方向で、「自己実現」を図っているに過ぎないのだろう。

誤解なきようにいえば、学生運動経験者の全てを批判している訳ではない。

若き時代の初志を貫いている人たちがいることも僕は知っている。
但し、そうした人たちは、基本的に、名前も権力も求めず、ひたすら地道に現代という時代が抱える問題に真摯に向き合う活動を続けている人たちだ。

それにしても、と僕は思う。
少し時間を遡り、学生運動の最盛期に戻れば、大人が手を付けられないほどの若者のエネルギーがあった。

若者のエネルギーは、今こそ発揮されて欲しい。

既得権にしがみつく、私も含む大人たちが、若者の行く手を阻む構造になっていることは見やすい道理だ。

日本の社会保障費は国際的に見て、年金が占める割合が大きいといわれている中、厚生年金で、現役世代以上の収入を得て、頻繁に海外旅行を楽しむ高齢者。

40代で1000万円の年収を約束されている大企業の会社員たち。
彼らが、日本の将来を考え、若者に道を譲ることを考えない限り、若者には未来が開けないと僕は思う。
しかし、彼らは、決して既得権を手放そうとはしない。

その結果、若者の30%以上が非正規雇用に甘んじている。

かつて学生運動が華やかだった頃、若者に対して不公正な社会構造があった訳ではない。

今の社会構造は明らかに若者に対して不公正なのだ。

若者はもっと怒っていい。
僕はつくづくそう思うのだが、「希望は戦争」といわざるを得ないほど、この国は閉塞してしまっているのだろう。

この閉塞感を生み出す、至る所に張り巡らされたコングロマリットを解きほぐす手がかりはないのか、ただ無為に煩悶しながら僕の日々は過ぎていく。
http://moriyama-law.cocolog-nifty.com/machiben/2011/06/post-7948.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c11

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
27. 中川隆[-11650] koaQ7Jey 2019年3月07日 09:35:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[341]

中島みゆき「世情」(1978年4月10日)
https://pv755.com/sejo
https://www.nicovideo.jp/watch/sm27227751


シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
  変わらない夢を 流れに求めて
  時の流れを止めて 変わらない夢を
  見たがる者たちと 戦うため


▲△▽▼


変わり続け、変節し続ける、臆病でズルイ左翼を描いた映画


山下敦弘 『マイ・バック・ページ』(2011年)

監督 山下敦弘
脚本 向井康介
原作 川本三郎
撮影 近藤龍人
公開 2011年5月28日


映画『マイ・バック・ページ』 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8+2011&sp=mAEB


▲△▽▼


キャスト

沢田雅巳(週刊東都、東都ジャーナル記者):妻夫木聡 ※モデルは川本三郎
梅山(本名・片桐優 赤邦軍リーダー):松山ケンイチ
倉田眞子(週刊東都表紙モデル):忽那汐里 ※モデルは保倉幸恵
安宅重子(赤邦軍隊員):石橋杏奈
赤井七恵(赤邦軍隊員):韓英恵
柴山洋(赤邦軍隊員):中村蒼
飯島(東都ジャーナルデスク):あがた森魚
徳山健三(週刊東都デスク):山崎一
清原(反戦自衛官):山本剛史
佐伯仁(運動家):山本浩司
中平武弘(週刊東都 記者):古舘寛治
津川(週刊東都記者):中野英樹
前園勇(京大全共闘議長):山内圭哉 ※モデルは滝田修
唐谷義朗(東大全共闘議長):長塚圭史 ※モデルは山本義隆
タモツ(うさぎ売りの青年):松浦祐也
キリスト(キリストのような風貌の青年):青木崇高
山口(東都新聞 社長):並樹史朗
小林(東都ジャーナル編集長)菅原大吉
島木武夫(週刊東都編集長):中村育二
白石(東都新聞 社会部部長):三浦友和
康すおん、近藤公園、熊切和嘉、早織 ほか

『マイ・バック・ページ』は、日本の評論家・川本三郎の著作、およびそれを原作とする2011年公開の日本映画。タイトルはボブ・ディランの楽曲「マイ・バック・ページズ」から取られている。


川本三郎が、1968年から1972年の『週刊朝日』および『朝日ジャーナル』の記者として活動していた時代を綴った回想録。前半は東大安田講堂事件や三里塚闘争、ベトナム反戦運動などの当時を象徴する出来事の取材談、出会った人々の思い出、当時の文化状況などが新左翼運動へのシンパシーを軸に綴られ、後半は活動家を名乗る青年Kと出会ったことから、朝霞自衛官殺害事件に関わって逮捕され、有罪となって懲戒免職に至る顛末が語られる。雑誌『SWITCH』に1986年から1987年にかけて連載され、1988年に河出書房新社から『マイ・バック・ページ ある60年代の物語』という題で単行本が出版された。一時は絶版となっていたが、映画化を機に2010年に平凡社より再刊された。

物語

1969年、沢田は東大法学部大学院生時代に安田講堂事件を目撃する。「週刊東都」の新米記者として、新左翼運動への取材を通じて活動家たちに共感を抱きながらも、ジャーナリストとして客観性を保たなければならない立場との間に葛藤する日々を送っていた。編集部はアポロ11号の月着陸記事で忙しくしている。

1970年、教室では片桐という青年と他の学生たちとが激しい議論を戦わす。沢田は名画座で 川島雄三監督の『洲崎パラダイス赤信号』を見る。映画では新珠三千代が頼りない恋人の三橋達也に、「あんた、どっか一つくらい当てないの?」「あんた、男でしょ」となじる。オールナイトが終わってから日曜日の編集部で『ガロ』を読んでいると「週刊東都」の表紙モデル・倉田眞子が遊びにくる。

1971年、活動家を名乗る梅山という青年が接触してくる。自分は「京西安保」の幹部であり、「銃を奪取し武器を揃えて、われわれは4月に行動を起こす」などと語る。紹介した先輩記者・中平武弘は「偽物だ」と決めつけるが、離れに匿う。宮沢賢治を愛読し、CCRの『雨を見たかい』をギターでつま弾きながら「雨ってナパーム弾のことなんですね」という姿に、沢田は親近感を覚えていく。編集部では『週刊東都』が出版6日後に回収という事件が起きる。中平も「左遷」される。同僚から「あんたら、うちの余った紙で雑誌作らせてもらってるんでしょ」といわれ、殴りかかる。一緒に『ファイブ・イージー・ピーセス』を観て、倉田に「私はきちんと泣ける男の人が好き」と言われる。

やがて梅山は学生仲間を引き込んで「赤邦軍」なる組織を作ると、自衛隊基地を襲撃して武器を奪うという計画を立てる。計画を明かされた沢田は自分に独占取材させてくれと頼む。

「駐屯地で自衛官殺害」のニュースが沢田のもとに届く。接触すると他誌の記者も来る。証拠として腕章を預かる。社会部では「思想犯」ではなく「殺人犯」として通報するといい、反論すると「うちは大学新聞作っているわけではない」といわれる。捕まった梅山は軍を動かしているのは前園だという。警察は腕章を出せば証拠隠滅罪には問わないというが、燃やしてしまっていた。会社を辞める時にモデルは終わったという倉田が訪ねてくる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8


▲△▽▼


「マイバックページ」を観た 2011年6月 9日


なぜか弁護士会のボックスに、マイバックページのパンフレットが入れられていて、さして興味もなかったのに、もののはずみで観てきた。

わたくし的には、これほど途中で席を立とうかと何度も思った映画は初めてだった。

何しろ登場人物の誰にも感情移入できない。
時代は1969年から1972年。
学生運動崩壊過程で起きた自衛官殺害事件を題材にしている。

潮が引くように去っていく学生たちから孤立した活動家梅山は、存在自体が怪しい組織を騙って、暴力革命路線を追及する。

そこには何の理念もありはしない。
あるのは、ただ、世間を騒がすようなことをしでかして見返してやりたいという情念だけだ。

一方、彼の取材を続ける記者沢田は、彼の理念なき大言壮語を易々と信じて肩入れしていく。

僕にとっては、どこにも共感できる要素がないのだ。


僕が大学に入ったのは74年。
初めてセクトというものと出会ったのも同じ時期である。

当時は、中核派と革マル派の内ゲバ事件が最盛期だった。

東大駒場寮から引っ越し作業中の活動家が敵対セクトから襲撃されて殺された事件があった。僕も駒場寮に住んでいたが、それを聞いても、特段の感慨すら抱かなかった、そんな時代だった。

結局、崩壊した学生運動は、どれだけ派手な成果を挙げるかだけを競い、三菱重工爆破事件や、北海道庁爆破事件を次々と起こし、自壊していった。

映画は、そうした学生運動の崩壊過程の初期を描いていることになろう。


実は収穫が一つだけあった。

常々、学生運動の経験者が実権を握った現代日本がなぜ、これほどまでに保守化していくのか、疑問に思っていた。
朝日新聞などのメディアには、相当数の学生運動経験者が、今やデスクを握っているに違いないのに、とめどなく保守化していくのはなぜなのか。

映画は、そんな疑問に明快な回答を与えてくれた。

熱病が醒めれば、潮が引くように一部の活動家を孤立化させて、抵抗なく社会に適応をする学生が大半だった。
熱病には、確固たる信念もなかった。
共通する心情は、何かしら、目立つことがしたい、いい言葉で言えば「自己実現したい」ということだけだった。

政界にしろ、メディアにしろ、組織を左右する地位を手に入れる人たちは、人並み以上の権力欲を持っている人たちだろう。
そして梅山がそうであったように、権力欲とバランスするような理念を持っている訳ではない。

政治やメディアで権力を掌握した学生運動経験者たちは、過激派と違う方向で、「自己実現」を図っているに過ぎないのだろう。


誤解なきようにいえば、学生運動経験者の全てを批判している訳ではない。

若き時代の初志を貫いている人たちがいることも僕は知っている。
但し、そうした人たちは、基本的に、名前も権力も求めず、ひたすら地道に現代という時代が抱える問題に真摯に向き合う活動を続けている人たちだ。


それにしても、と僕は思う。
少し時間を遡り、学生運動の最盛期に戻れば、大人が手を付けられないほどの若者のエネルギーがあった。

若者のエネルギーは、今こそ発揮されて欲しい。

既得権にしがみつく、私も含む大人たちが、若者の行く手を阻む構造になっていることは見やすい道理だ。

日本の社会保障費は国際的に見て、年金が占める割合が大きいといわれている中、厚生年金で、現役世代以上の収入を得て、頻繁に海外旅行を楽しむ高齢者。

40代で1000万円の年収を約束されている大企業の会社員たち。
彼らが、日本の将来を考え、若者に道を譲ることを考えない限り、若者には未来が開けないと僕は思う。
しかし、彼らは、決して既得権を手放そうとはしない。

その結果、若者の30%以上が非正規雇用に甘んじている。

かつて学生運動が華やかだった頃、若者に対して不公正な社会構造があった訳ではない。

今の社会構造は明らかに若者に対して不公正なのだ。

若者はもっと怒っていい。
僕はつくづくそう思うのだが、「希望は戦争」といわざるを得ないほど、この国は閉塞してしまっているのだろう。

この閉塞感を生み出す、至る所に張り巡らされたコングロマリットを解きほぐす手がかりはないのか、ただ無為に煩悶しながら僕の日々は過ぎていく。
http://moriyama-law.cocolog-nifty.com/machiben/2011/06/post-7948.html


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変わり続け、変節し続ける、臆病でズルイ左翼 _ 2

現在の日本共産党は親米保守、極右反動勢力に変わっていますね。

昔から民青の学生は事大主義で

大学では左翼教官に おべっかを使って興味も無いのにマルクスとか読むふりするけど

会社に入ると

マルクス主義はもう古い

と言って否定するので有名でした。


民青や共産党員にまともな人間は一人もいませんでした。

つまり、20年前まで大学関係者や学生が左翼とマルクス主義者ばかりだったのは
GHQ の教育方針が反映していただけで、自律的で自然な現象ではなかったのですね。


戦前に極右で米英鬼畜とか言ってた極右は終戦後に殆ど日本共産党員に転向しています。
反対に、全学連の闘士は年取ってから大半が極右になっています。

つまり、

極右=極左

で、環境によって極右になったり、極左になったりするだけなのですね。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c27

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
28. 中川隆[-11649] koaQ7Jey 2019年3月07日 11:35:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[342]

永遠の嘘をついてくれ - 吉田 拓郎 & 中島みゆき - 動画 Dailymotion
https://www.dailymotion.com/video/x5anmkm

中島みゆき 永遠の嘘をついてくれ 動画
https://pv755.com/eiennousowotsuitekure

▲△▽▼


中島みゆき「永遠の嘘をついてくれ」の正しい解釈 15年7月執筆


 吉田拓郎の、というより中島みゆきの「永遠の嘘をついてくれ」は、佳曲と名曲と名曲中の名曲しかない中島みゆきの、90年代の大傑作で、吉田拓郎に提供することを前提に作られた

“いかにも拓郎っぽい”歌詞とメロディでありながら、それでいて中島みゆきの曲以外の何物でもないという、“神”に不可能はないことを改めて思い知らされる作品だが、拓郎・みゆき、どちらもアルバム収録曲でシングル・カットはされていないにも関わらず、かなり広く知られているようで、ストリート・ミュージシャン稼業でたまにやってると立ち止まる人も多い。


 が、とくに私と同世代ぐらいとか、それ以下の世代だと、この曲をすごく好きな人であっても、歌詞の意味をちゃんと理解していない場合がほとんどなんだろうなと以前から思っている。

「永遠の嘘をついてくれ」は、簡単に云えば「まつりばやし」とか「誰のせいでもない雨が」などの系列の、要するに明白に“学生運動ソング”で、聴く人が聴けばもう反射的にそのことに気づくのだが……

そんなこと分かってるよ、という人もあるかもしれないが、試しに「永遠の嘘をついてくれ」で検索すると上位にアホみたいな誤読解説も出てきたことだし

「自分の許を去った男に向かっての未練」の歌なんだってさ!

無粋を承知で解説したい。

 たぶんもう何十年も会っていない古い友人、語り手の人生にとってかなり重要な存在であるらしい友人が、どうやら遠い異国で病で死にかけている、という状況が歌われる。

友人は「俺」と云ってるし男だろうが、語り手もおそらく男である
(そもそも吉田拓郎に歌わせるのが前提でもあるし)。

前記の誤読解説者が云うような恋愛方面の歌ではなく、ある種の“男の友情”的な歌である。


 相手が死にかけている場所は「ニューヨーク」なのか「上海」なのか分からない。たぶんニューヨークだろう。「上海の裏町で病んでいる」という「見知らぬ誰かの下手な代筆文字」の手紙が突然舞い込んだわけだが、手紙は「探しには来るなと結」ばれていたわけだし、相手は自分の本当の居場所を伝えてきたわけではない可能性が高い。語り手の側が、独自に手をつくして探した結果、実はニューヨークにいることが判明したので、冒頭で語り手は急遽ニューヨークへ飛ぶかどうかと迷っているわけだろう。


 これが“学生運動がらみ”の歌だと分かるのは、2番の冒頭のフレーズからである。

「この国を見限ってやるのは俺のほうだと追われながらほざいた友」

と云っている。これだけでもうピンとこなければならない。


 この友人は要するに学生運動上がりの“国際テロリスト”か何かである。
たぶん70年代初頭に国内での何らかのテロ事件の容疑者として指名手配されるかして(したがってこの時点ではまだ“国際”テロリストではない)、国外逃亡したのである。

そして間違いなく友人は国外へ渡った後も革命運動に少なくともしばらくは挺身している。そのことを語り手はずっとニュースで知ることができていただろう。

ところがどこかの時点で友人は一切消息不明となる。生きてるいるのか死んでいるのかも分からない、という長い期間があり、最近になって突然、死にかけているという手紙が本人から届いた、というわけである。

「見知らぬ誰かの下手な代筆文字」なのは、日本の公安当局の監視を警戒してのことであるに決まっている。


 語り手の側は、若い頃、おそらく学生時代に新左翼運動に関わった時期があり、しかし短期間で運動を離れて、フツーに就職して、そうした運動体験は過去のものとして、“平凡な一市民”としての人生を送ってきた人間である。

もちろん死にかけている友人との関係は、“同志”的なものか、それに近いものだったろう。印象としては、党派の同志というよりも、“何々大学全共闘”とかの同志で、闘争が後退する過程で友人はテロ路線に走って地下に潜り、語り手は運動を離れた、という雰囲気である。

史実にムリヤリ当てはめると、例えば友人は赤軍派に加盟し、弾圧され追いつめられてアラブへ渡ったとか、東アジア反日武装戦線の爆弾闘争に身を投じて逮捕されたが、日本赤軍のハイジャック闘争によって“超法規的措置”で獄中から奪還され国外へ出た、みたいなことだろう。

もちろん歌詞の内容はあくまでフィクションなわけで、“おおよそそんな感じのこと”という意味で私は解説しているまでである。


 要するに語り手は“日和って”運動から脱落したわけだが、今も世界のどこかで闘っているはずの友人の存在が、いつでも語り手の人生において影のようなものとして意識され、負い目の対象であったり、挫折した自分の代わりに“志”を貫いてくれている救いであったりしたのだろう。

もちろん、いつしか消息が途絶えて以降は、友人が引き続き革命を目指して闘い続けているのかどうか、そもそもその生死すらも分からない状況となっていた。

語り手は、今も闘い続けていてほしいと願ってきたが、一方で、彼が今もどこかで生きてはいるとしても、すでに革命への希望を失って、自分の闘いはすべてムダだったと、敗残者として抜け殻のような“余生”を送っているのかもしれないという不安も常に抱いていた。


 そこへ突然の手紙である。現時点では、まだ生きていたということだけが分かり、消息が途絶えて以降の友人がどのような人生を歩んだのかは不明である。闘い続けていたのか、すでに負け犬と化していたのか、まだ分からない。語り手は、答えを知るのが怖いという気持ちを持っている。たぶん友人もどこかの時点でとうに挫折していたのではないかと薄々思っている。


 「永遠の嘘をついてくれ」というのは、「ずっと闘っていたし、今でも闘っている」と云ってくれ、の意である。

「まだ旅の途中だ」と云ってくれというのは、「我々の革命はまだ途上である」つまり「まだ革命をあきらめてはいない」と云ってくれ、の意である。

「嘘をついてくれ」と云っているのだから、そのように「強がってみせてくれ」ということである。

「永遠のさよならの代わりに」、つまり友人はもう死ぬわけだが、最後までその「嘘」をつきとおしてくれ、と。


 「やりきれない事実」というのは、友人もとうの昔に挫折して異国でただ無意味な“余生”をいつしか送るようになっていたという事実である。友人もそのような姿を語り手にさらすことを恥じ、ずっと闘っていたし今も闘っているという「永遠の嘘をつきたくて」、「探しには来るな」と書き添えたのである。


 世間の連中はこういう、大それた夢を描いてどこぞへ飛び出していったような連中の“悲惨な末路”を見たいのである。

「オレが間違っていた。革命なんて幻想だった」と云わせて安心したいのである。

「みな」が「望む答え」とはそういう答えであり、語り手は、そのような答えを引き出そうとつきまとってくる連中を「風のようにあざやかに振り払え」と云っている。


 「一度は夢を見せてくれた君」が見せてくれた「夢」とは、テルアビブ空港事件とか、三菱重工爆破とか、そのテの何かであるはずだ。

「出会わなければよかった人」というのは、塩見孝也とか太田竜とか、とにかく友人をそのような道へと誘い込んだ誰かだろうが、「出会わなければよかった人などないと笑ってくれ」というのはもちろん、「自分の人生は結果としてこのような形になったが、決して後悔などしていない」と云ってくれ、ということである。


 私はべつに自分が読みたいように勝手な読み方をしているわけではない。この曲の歌詞はおおよそこのようにしか解釈のしようがないものである。

 嘘だと思うならこの歌詞を書いた本人に訊いてみなさい、と云いたいところだが「神は何も語らない」のがセオリーなので、私のように神の言葉をちゃんと聞くことのできる「預言者」の声に、迷える子羊の諸君は耳を傾けるしかないのである。


 付記

なお90年代の中島みゆきの名曲中の名曲中の名曲である「二艘の舟」もおおよそ似たようなテーマの、もっと抽象化された歌である。

男女の恋愛の歌にも聞こえるようにわざと作ってあるが、絶対に違うと預言者として請け合う。
http://www.warewaredan.com/miyuki.html

▲△▽▼

中島みゆき 二隻の舟 動画
https://pv755.com/ni-seki-no-fune
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c28

[リバイバル3] 幽玄の世界 _ モナリザは何故書き換えられたのか? 中川隆
9. 中川隆[-11648] koaQ7Jey 2019年3月07日 13:40:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[343]

「裸のモナリザ」、ダビンチ本人の作品だった?
2019.03.07 Thu posted at 10:51 JST
https://www.cnn.co.jp/style/arts/35133822.html


巨匠レオナルド・ダビンチの名画「モナリザ」にそっくりな女性を描いた裸婦像は、ダビンチ本人の作品なのか――。フランスの研究チームが、その謎を解く手がかりとなる調査結果を明らかにした。

注目の作品は「モナ・ヴァンナ(『裸のモナリザ』の意味)」と呼ばれる木炭画で、フランス北部にあるコンデ美術館が所蔵する。これまでは、ダビンチの弟子が制作したものと思われていた。

しかしフランス美術館研究修復センターの専門家チームが詳しく調べた結果、作品はダビンチのスタジオで完成されたもので、ダビンチ本人の作品だった可能性があるとの結論を出した。

調査の結果、作品の大部分は左利きの画家が描いていたことが判明。ダビンチは左利きだったことから、ダビンチ説が濃厚になった。

さらに、ダビンチが好んだ輪郭をぼかして描く「スフマート」の技法が使われていることも分かり、作品は複製ではなかったと判断した。

コンデ美術館のキュレーター、マチュー・デルディク氏は、「大部分をレオナルドが描いた可能性が非常に強い」と述べ、「偉大な画家による非常に質の高い作品」と評価、「油絵の準備のための作品だったことはほぼ間違いない」と話している。

ただし専門家チームは、この作品がダビンチ本人の作品だと断定するには至っておらず、絶対的な確証を持つことはできないかもしれないとしている。

モナ・ヴァンナは今年6月、コンデ美術館がダビンチの没後500年を記念して開く特別展で展示される。

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/199.html#c9

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
12. 中川隆[-11647] koaQ7Jey 2019年3月07日 14:49:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[344]

標記映画の動画リンク追加


若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) 動画
https://www.youtube.com/watch?v=q_uMjzQAwnM
https://www.youtube.com/watch?v=cicGFPx-4GE

しかし、昔の日本人は随分 IQ が低かったみたいですね。
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c12

[近代史3] GHQ とユダヤ金融資本は戦後の日本を共産化しようとして農地改革、人為的インフレ生成、預金封鎖、日本国憲法制定を行った 中川隆
6. 中川隆[-11646] koaQ7Jey 2019年3月07日 15:30:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[345]
少子化の根本原因は、50年前の「国の政策」にあった
 
「週刊現代」2019年3月2日号より

「2010年の先進各国の総人口を100とした場合の、2060年の人口予測を社人研が出しています。それによれば、アメリカやオーストラリアをはじめ、いまよりも人口が増加する国が多い。減少するのは韓国、ドイツ、日本くらいです。

しかも、韓国は10年比で89.9、ドイツは79.1なのに対し、日本は67.7まで減少すると予測されている。日本の減少幅が突出していることがわかるでしょう
並み居る先進国のなかで、断トツのスピードで人口減少の道をひた走る日本。なぜ、そんな状況に陥ってしまったのか。
「それは、戦後の日本で起きた2度のベビーブームの前後で、国を挙げて人口を減らそうとした時期があったからです」(河合氏)

◆「家族計画」の名の下に

国も新聞も、日本中がこぞって「少子化対策」を騒いでいるいまの世の中と真逆のことが行われていたというのは、にわかには信じがたいが、それは紛れもない事実だ。
1947年、日本は第一次ベビーブームを迎える。終戦による旧植民地からの引き揚げや、出征していた夫の帰国によって、夫婦による「子作り」が一気に進んだ結果だ。
この年以降、日本の出生率は上昇し、'49年には4.32を記録している。出生数は、269万6638人にのぼる。これは2017年の3倍近い数字だ。
ところが、翌1950年には上昇がピタリと止まり、出生数が一気に約36万人減少している。明らかに不自然な推移だが、いったい何が起こったのか。
「複雑な要因がありますが、GHQが産児制限の普及を誘動したことにより、爆発的な中絶ブームがおこったことが一番大きい。
食糧難の中で人口が急拡大していた日本が再び軍国化することを恐れたアメリカは、中長期的に日本の出生数を抑え、人口の増加に歯止めをかけるべく、中絶の合法化や避妊知識の普及などを陰に陽に働きかけていたのです」(河合氏)
くわえて、当時のアメリカには「人口の急増は共産化に結びつく」という考えも根強かった。アメリカにとって、日本の人口増は絶対に食い止めなければならない「課題」だったのだ。
当時の吉田茂内閣はこのGHQによる産児制限の誘導を受け入れ、「家族計画」を国民へ広めるべく務めるようになる。
そして、それに一役も二役も買ったのが当時の新聞だった。
'49年の新聞記事を見ると、いま掲載されているのはまったく逆の「人口増加による危機」を叫ぶ言葉が並んでいる。

(中略)

その後、'60年代に入り、高度成長が本格化すると、急速な経済発展による労働力不足を背景に、国による人口抑制政策は次第に後退していく。
そして、'70年代になると、ふたたび出生数の急増が起きる。先述の'47〜'49年第一次ベビーブーム世代の年齢が20代のなかばに差しかかり、一気に結婚、出産ラッシュを迎えたのだ。
'71年には、出生数が19年ぶりに200万人台を回復、第二次ベビーブームが到来した。

◆少子化は本当に「悪」か

ふたたび、日本の人口増加が進むかに思われた。だが、「人口を減らす動き」は、忘れた頃にまた繰り返される。
背景には、当時アジアを中心に進んでいた急激な人口増加があった。
このまま人口膨張や環境汚染が進めば、100年以内に地球上の成長は限界を迎える――。'72年に民間組織「ローマ・クラブ」が発表した報告書『成長の限界』は世界中に衝撃を与えた。
敗戦から奇跡的な経済的復興を遂げ、'64年の東京オリンピック、'70年の大阪万博と世界へのアピールに余念がなかった「アジアの優等生」日本は、人口抑制においても、世界の先陣を切ろうと試みる。
「いまこそ我々が先頭に立って人口抑制に取り組まなければならない」

1974年に開催された「日本人口会議」で基調演説をした大来佐武郎海外経済協力基金総裁(のちの外務大臣)の言葉からは、並々ならぬ意気込みが滲んでいる。
この会議では「子供は二人まで」というスローガンが採択され、新聞各紙も大々的に報じた。
同日付の読売新聞は、人口研究の第一人者だった慶應義塾大学の安川正彬教授のコメントを掲載している。
〈いますぐこの(出生抑制の)提案を実施しても、若年層が多いため、人口は二〇一〇年に一億二千九百三十万人になるまで増え続け、現在の一億人に落ち着くのに百八十年かかる。『せめてこれくらいの努力をしようではないか』というのが、会議全体を通じての雰囲気だった〉

「挙国一致」の体制で人口を減らそうとする動きが、ふたたび巻き起こったのだ。いまからわずか50年ほど前のことである。
この「子供は二人まで」という宣言の効果は絶大だった。ここから日本の出生数と出生率は低落の一途をたどることになる。
「現在からすれば、'74年前後の出生率は、一国の人口規模をかろうじて維持できる数字に過ぎなかった。
しかし、毎年100万人以上のペースで人口が増えるという事態に、国もメディアも焦りを覚えたのです。当時の状況を踏まえれば、彼らを責めることはできません。
ただ、このときの国を挙げた動きが、現在の日本の『致命傷』になっていることは事実でしょう」(前出・河合氏)
国や学者、そしていまよりも遥かに影響力の大きかった新聞がこぞって人口減少を主導すれば、おのずと国民の行動に絶大な影響を及ぼすのは自明のことだった。

権威によって、いかにも正しいかのように語られていたことが、後から見れば間違っている。歴史上、繰り返されてきた悲劇が、戦後の日本でも起きていたのだ。
翻って考えると、いまの新聞は人口減少によって日本に訪れる「危機的な状況」を叫んでいる。どれももっともらしく聞こえるが、果たしてこれらは正しいのだろうか。


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/146.html#c6

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
29. 中川隆[-11645] koaQ7Jey 2019年3月07日 15:51:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[346]

中島みゆき 店の名はライフ 動画
https://pv755.com/mise-no-na-wa-raifu


喫茶「ライフ」(北海道札幌市)
http://miyuki-lab.jp/gallery/spot/life.shtml

かつて北海道大学正門前にあった、アルバム『あ・り・が・と・う』収録の『店の名はライフ』のモデルとなった喫茶店。

写真撮影当時は漫画喫茶「ニューライフ」と改名。歌詞に登場する自転車屋は文具店に変わっていた。1992年に取り壊され、現在は、ホテル「北栄館」になっている

___


北大前にあった喫茶店「ライフ」は、のちにうどん屋に商売替えをし、さらには札幌駅に近い札幌国際ビル地下に移転してしまいました。

現在は「味処あずま」という店名で営業しています。
喫茶店時代からあり、中島みゆきもよく注文した「豚丼」は、今でも健在です。
https://wiki.chakuriki.net/index.php/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E3%81%BF%E3%82%86%E3%81%8D%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c29

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
13. 中川隆[-11644] koaQ7Jey 2019年3月07日 16:23:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[347]

戦後の日本のインテリが全員マルクス主義のシンパになった理由


GHQ とユダヤ金融資本は戦後の日本を共産化しようとして農地改革、人為的インフレ生成、預金封鎖、日本国憲法制定を行った


馬渕睦夫さんが明らかにしていますが


左翼=リベラル=グローバリズム=親ユダヤ
=国際金融資本、軍産複合体、ネオコン、CIA、FBI、マスコミ、ソ連共産党、中国共産党、天皇一族、日本の官僚
=マクロン、メルケル、ヒラリー・クリントン、オバマ、レーニン、スターリン、ボリス・エリツィン、小泉純一郎、竹中平蔵、小沢一郎、橋下徹、枝野幸男、日本の護憲派・反原発派・反安倍勢力


右翼・民族主義=反リベラル=反グローバリズム=反ユダヤ
=プーチン、チェ・ゲバラ、カストロ、J.F.ケネディ、トランプ、ヒトラー、サダム・フセイン、カダフィ、アサド、ウゴ・チャベス、 ロドリゴ・ドゥテルテ、田中角栄、安倍晋三、日本共産党


なんですね。

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馬渕睦夫
フランクリン・ルーズベルト大統領は世界を共産化しようとしていた


[馬渕睦夫さん][今一度歴史を学び直す] 7 (日米近現代史2-3)
[支那事変]とは 日本 対 [ソ連 英 米] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=r4qS9LFuQG0&index=9&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop


[馬渕睦夫さん ][今一度歴史を学び直す] 7 (日米近現代史3-3)
なぜアメリカは日本に戦争を仕掛けたのか? - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=2yQ72lCQUNg&index=10&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop


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[馬渕睦夫さん][今一度歴史を学び直す] 1-7
米国がつくった中華人民共和国 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=ORy-CvwklVA&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop

[馬渕睦夫さん ] [今一度歴史を学び直す] 1-7 (付属動画)
米国がつくった中華人民共和国 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=iQBSmzvY6xY&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&index=2&app=desktop

[馬渕睦夫さん] [今一度歴史を学び直す] 2-7
米国が仕組んだ朝鮮戦争 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=jsDal9CuLfo&index=3&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop

2018/03/18 に公開
[今一度歴史を学び直す] 1/7 米国がつくった中華人民共和国
馬渕睦夫さん 元駐ウクライナ大使兼モルドバ大使

一部引用:

国難の正体――日本が生き残るための「世界史」 – 2012/12/25 馬渕睦夫 (著)

「国難」とは「グローバリズム」という潮流のことです。

グローバリズムとは、「民営化」「規制緩和」という拒否できない美名のもとに強烈な格差社会を生み出し、各国の歴史や文化を破壊します。「世界史」といえば、「国家」間の対立や同盟の歴史と教科書で習ってきました。しかし、戦後世界史には国家の対立軸では解けない謎が沢山あります。

日本では対米関係ばかり論じられますが、じつはアメリカを考える上でイギリスの存在は欠かせません。政治も経済も日本はなぜこれほど低迷しているのか。元大使が2013年に向け緊急提言!


戦後世界史の謎

▶東西冷戦は作られた構造だった

▶なぜ毛沢東の弱小共産党が中国で権力を握れたのか

▶朝鮮戦争でマッカーサーが解任された本当の理由

▶アメリカはベトナム戦争に負けなければならなかった

▶なぜかアメリカ軍占領後アフガニスタンで麻薬生産が増大した

▶「中東の春」運動を指導するアメリカのNGO

https://www.amazon.co.jp/%E5%9B%BD%E9%9B%A3%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93%E2%80%95%E2%80%95%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%8C%E7%94%9F%E3%81%8D%E6%AE%8B%E3%82%8B%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E3%80%8C%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E3%80%8D-%E9%A6%AC%E6%B8%95%E7%9D%A6%E5%A4%AB/dp/4862860656


アメリカは日本へのキリスト教布教には失敗したが、戦争犯罪者という原罪を植え付けるのには成功した

【日いづる国より】馬渕睦夫、現代の「三国干渉」を打破せよ![桜H27-5-1] - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=YxGqLyB3rmQ


ロシア革命も毛沢東の中国支配も東西冷戦も朝鮮戦争もすべてユダヤ金融資本が仕組んだヤラセだった:

【大道無門】馬渕睦夫と国難の正体を暴く[桜H25-5-24] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Rl7oyG4ebwk&app=desktop

2013/05/24 に公開

司会:渡部昇一(上智大学名誉教授)
ゲスト:馬渕睦夫(元駐ウクライナ大使)

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ひとりがたり馬渕睦夫 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PL7MaEu9i584fGdp78r27h-eH0rmWLioEC

2018/06/22 に公開
待望の馬渕睦夫大使の新番組がスタート!激動する世界、今の日本に必要なのは何か?どんな危機が訪れているのか?マスメディアでは伝えられない世界の真実と、馬渕睦夫の「眼」をお届けいたします。

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GHQに君臨した"マッカーサー"の愚将ぶり
http://blogos.com/article/242547/?p=1


連合国軍総司令部(GHQ)のトップとして、戦後の日本で「王」のように振る舞ったダグラス・マッカーサー。だが、1950年に勃発した朝鮮戦争ではまったく役に立たず、軍人としての適性を疑わせるほどだった。「朝鮮半島に原爆投下を主張」に匹敵する“能なし司令官”のエピソードを紹介しよう――。


前線視察のため金浦飛行場に到着、米軍第24師団の兵士を閲兵するマッカーサー国連軍最高司令官(韓国/写真=時事通信フォト)


■仁川上陸作戦で形勢を逆転したが

朝鮮戦争において米韓側の軍隊の指揮をとったのは、連合軍総司令官ダグラス・マッカーサーでした。この戦争の中でマッカーサーが原爆の使用を主張し、トルーマン大統領から反対されて総司令官を解任されたことは有名です。

しかし、原爆使用の問題以前に、マッカーサーは総司令官としての適性に欠ける人物であり、解任されるべくして解任された「能なし司令官」と言えます。

彼が指揮するGHQは、第二次世界大戦後の日本に対する占領統治の主体でした。当時の占領政策を考えるうえでも、マッカーサーの人間性についてはよく知っておいたほうがよいでしょう。

1950年6月25日、北朝鮮が38度線を越えて侵攻を開始してから1週間後の7月2日、ようやくアメリカ軍は半島に本格介入しはじめます。本格介入したとはいえ、アメリカ軍は朝鮮半島南端の釜山近郊まで、北朝鮮軍に追い詰められました。そこでなんとか踏みとどまり、反転攻勢を掛けていきます。

マッカーサーは9月15日、ソウル近郊の仁川(現在の仁川国際空港がある付近です)から米軍部隊を奇襲的に上陸させ、北朝鮮軍の補給路を断つ「仁川上陸作戦」に成功。以後、米軍側にはイギリス軍なども参画し、国連軍が編成されました。国連軍は9月28日、ソウルを奪還しました。

直前まで日本に逃亡する計画すら立てていた李承晩大統領は一転、「北進統一」を掲げ、強気の攻勢を主張しはじめました。マッカーサーも、北朝鮮をつぶしての半島統一を考えており、両者の思惑は一致しました。

■「中国の介入はない」という思い込み

しかし、半島統一に向けた軍事行動に際し、マッカーサーはトルーマン大統領から、ある条件をつけられていました。「ソ連や中国が半島に介入するようなことがあれば、北進はダメだ」というのがそれです。ソ連や中国を相手にアジアで大戦争をする気は、トルーマンにはありませんでした。

この点についてマッカーサーは、「ソ連は言うまでもなく、中国の介入の可能性はない」と、トルーマンに答えています。

一方、中国の周恩来首相は「(アメリカの)帝国主義的な領土侵犯を許さない」と警告を発しており、この段階で、中国の軍事介入(義勇軍という形で)の準備はかなり進んでいました。状況を少し、調査すればわかることであったにも関わらず、マッカーサーは自らの偏った心象にのみ頼り、「介入はない」と大見得を切りました。

マッカーサーらは中国軍の侵攻が間もなくはじまることに全く気付かず、北部一帯に補給線も確保しないまま、前線をむやみに拡大させました。アメリカ国務省からは、中朝国境付近では中国・ソ連を刺激することのないよう、韓国軍以外は展開させるなと指令が出ていましたが、マッカーサーはこれを無視しています。

10月20日、平壌を制圧し、マッカーサーは得意満面、平壌の空港に降り立ちます。厚木飛行場に降り立った時のように写真を撮らせ、自分を英雄の如く見せるワンパターンな猿芝居がまた演じられたのです。ただ、この時は一言、気の利いたせりふが付いていました。

“Where is Kim Buck Tooth?”

(出っ歯の金日成の出迎えはないのか?)


■ボスの意を「忖度」し、敵を過小評価した部下

アメリカではマッカーサーを喝采する声が沸き起こります。彼のような「英雄」に対し、中国軍介入の可能性やその作戦について異議を申し立てることもはばかられました。アメリカ軍はマッカーサーを崇拝する若い将校たちで固められていました。マッカーサーが「中国軍の介入はない」としたために、中国軍の動きについての情報はマッカーサーに上げられませんでした。

中国はアメリカとの前面衝突を避けるために、朝鮮への派遣軍を正規の「人民解放軍」とせず、私的な「義勇軍」としました。「義勇軍」はソ連から支給された最新鋭の武器で武装し、100万人規模の強大な軍隊でした。

毛沢東の側近であった彭徳懐が率いる「義勇軍」の先発隊30万人は10月19日、ひそかに中朝国境を流れる鴨緑江を渡ります。30万もの軍隊でしたが、マッカーサーには「3万」という報告が上げられます。マッカーサーの意を「忖度」した将校たちが、兵力を下方修正して報告したのです。

マッカーサーは東京で指揮を執っていました。平壌にやって来た時も、日帰りで東京に戻り、現地の詳細な状況を把握していませんでした。自らは東京や横浜の高級ホテルに宿泊し、食事のたびに料理にケチを付けていたようです。

マッカーサーは国境を渡った中国「義勇軍」が「3万」であると聞いて安心し、意に介しませんでした。あくまでも、「中国は本格介入しない」が絶対的前提であったのです。この誤った認識が、英雄気取りのマッカーサーを追い詰めていくことになります。

1948年11月1日、中国「義勇軍」の大部隊が前線のアメリカ軍・国連軍に、突如猛攻を仕掛けてきます。アメリカ軍はパニックに陥り、各部隊を壊滅させられながら、撤退していきます。

■プライドの高さと功名心で罠に落ちる

この時、中国「義勇軍」は撤退するアメリカ軍を追撃せず、すぐに軍を引き上げます。司令官の彭徳懐は「誇り高き」マッカーサーが復讐心に燃えて、必ず報復してくると読んでいました。彭徳懐はアメリカ軍を待ち伏せ、返り討ちにする戦略を立てていました。彭徳懐ら中国「義勇軍」は、国民党軍や日本軍との長く苦しい戦いを数多く経験し、戦い方を熟知していたのです。

体勢を立て直したアメリカ軍は、哀れにも彭徳懐の読み通り、中朝国境付近に陣取る中国「義勇軍」をめがけて突進して来ました。国境付近は山岳地帯の入り組んだ地形で、大軍は身動きが取れません。そのことをマッカーサーに進言する部下もいましたが、マッカーサーは自分の名誉を回復することに躍起になり、聞く耳を持ちませんでした。

マッカーサーは「人の話に耳を傾けることができない人間だった」と、多くの将校が証言しています。会議でも延々と自分一人がまくし立てるのみで、他の者に発言させなかったといいます。彼の副官を努めていたこともあるドワイト・アイゼンハワー(後に第34代大統領)などは、「マッカーサーの自己顕示欲には嫌気がさす」と言っています。

中国「義勇軍」の大軍は、罠にはまったアメリカ軍を包囲し、一斉攻撃を加えます。犠牲者が次々と出はじめ、撤退をはじめるアメリカ軍でしたが、マッカーサーは「前進せよ」と命令しています。

このマッカーサーの命令のため、アメリカ軍は退路をほとんど確保できず、中国「義勇軍」の餌食になりました。こうして、「アメリカ陸軍史上最大の敗走」が展開されることになります。ちなみに韓国軍は、国境付近で中国「義勇軍」と戦う前からおじけづき、われ先にと逃げています。

マッカーサーは自らの失態が招いた「最大の敗走」の事実を隠すため、国境付近に出した偵察部隊が中国軍により攻撃を受けたという虚偽の報告をしています。

度重なる失態でもはや引っ込みがつかなくなったマッカーサーは、中国「義勇軍」の補給ルートになっている中国東北部に、「原爆を50発落とせ」という主張をはじめることになります。この続きは、次回くわしく掘り下げます。
http://blogos.com/article/242547/?p=1  

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日本共産党はマッカーサーが創設した
http://www.thutmosev.com/archives/71957109.html#more


マッカーサーのこうした写真は全部ヤラセで、俳優のように何度もポーズを取っては撮り直した
引用:http://learnlearn.net/Historie,religion,kunst/res/Default/ESS_PasteBitmap02329.png


マッカーサーの歪んだ人格

連合軍総司令官として日本に乗り込んできたダグラス・マッカーサーには多くの知られていない逸話があり、その一つは事実上「日本共産党」の創設者だという事です。

日本共産党と名乗る団体は戦前から存在し、日本をソ連の植民地にするため活動していたが、非合法テロ組織という位置づけでした。

日本の統治者として君臨したマッカーサーには人格上の欠陥があり、『ニセ写真』作りを趣味にしていた。

         

硫黄島に米国旗を立てる写真とか、マッカーサーがフィリピンの海岸に上陸した写真などは全部”やらせ写真”でした。

マッカーサーは映画監督のように戦場で写真や動画撮影を指示し、気に入った構図で自分がヒーローに見えるように報道させていました。

厚木飛行場の輸送機からコーンパイプを咥えて降りてくる写真も、専属カメラマンに映画撮影のように撮影させました。


この時日本軍は武装解除されていたが、襲われるのではないかという恐怖心から、マッカーサーは小便を漏らしていました。

日本に到着してからも彼は、あらゆる写真で自分が格好良く見えるように撮影するため、専属の撮影スタッフを周囲に置いていました。

昭和天皇とマッカーサーが面会した有名な写真があり、マッカーサーは作業服のような軍服のズボンに手を突っ込んでいます。


正装ではなく平服で、胸のボタンを全部止めず、身体を斜めにして立っていたのも計算しつくした『構図』でした。

昭和天皇が自分よりかなり背が低いのが目立つように、昭和天皇を直立不動にさせ、自分がくつろいでいるように撮らせました。

当時新聞を統制していたのはGHQなので、新聞に掲載する写真も記事も、GHQが決めていました。


「マッカーサーが日本の支配者であって、天皇はこれほどみすぼらしい」と日本人に見せ付けて天皇を貶める目的でした。


GHQは何の根拠で日本を占領していたのか

マッカーサーについて70年間一度も議論されず、タブーになっている事は、実は正式な資格が無いのに日本を統治していたという事実です。

マッカーサーは連合軍司令長官だったが、一体何ゆえに日本の支配者となったのか、この根拠が曖昧なままなのです。

日本が1945年8月15日に停戦したとき「ポツダム宣言を受諾し、占領地を放棄する」と言いましたが、アメリカが日本本土を占領して良いとは誰も言っていません。


アメリカ大統領や国連事務総長、あるいは国連安保理が任命したからと言って「だから何?」という事です。

降伏したら占領されるのが当たり前という主張もあるが、それなら日本はロシアを占領できるし、朝鮮や中国の占領は正しかった事になります。

1945年9月2日に東京湾の米戦艦ミズーリ上で、連合国各国と日本代表団が日本の降伏文書に署名調印しました。


文書には連合国軍最高司令官の指示に基づき、日本政府は日本軍と日本国民を従わせると書かれているが日本占領には触れていない。

8月15日の玉音放送でも、9月2日の降伏文書でも連合軍が日本を占領できるとは書かれていない。

日本軍の武装解除については書かれているが、連合軍の日本占領には、天皇や他の誰も合意していない。


マッカーサーが小便を漏らしながら厚木飛行場に降りたのは8月30日、連合軍先遣隊が厚木に到着し武装解除したのは8月28日だった。

9月2日に降伏文書に調印し、9月15日にGHQ本部が日比谷に設置され、GHQによる日本統治が始まった。

だがマッカーサーは武装解除までは良いとして、一体どのような条約や合意に基づいて「日本占領」をしたのだろうか。


この写真も自分は立派に見え、天皇は「みすぼらしい小男」に見えるよう計算されている
mig


日本国憲法はアルバイトに書かせ脅迫して成立させた

法的根拠がないのに一介の軍人が日本を占領して独裁者になった事が、その後の日本の70年に大きな悪影響を与えた。

例えばマッカーサーは日本政府に憲法改正を命令し、政府が帝国憲法の改正案を示すと、これを拒絶して独自の憲法を創作させました。

マッカーサーはGHQのアルバイト職員に命じて適当な憲法草案を書かせて、日本政府に無断で新聞に発表しました。


東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣は新憲法が非民主的だとして辞職し、マッカーサーは「もう一度東京を空襲してやろうか」と言って議会を脅迫しました。

日本人は新聞に書いてあるからには日本政府が作ったのだろうと思い込んだが、実際にはマッカーサーがアルバイトに書かせた落書きでした。

東京大学などの法学者もこのやり方に怒り、新憲法反対の立場を取ったが、GHQは反対するものを「戦争犯罪人」として逮捕していきました。


新憲法に反対するものは戦犯になり処刑されるか刑務所に入れられると分かり、反対する人間は居なくなりました。

こうしてできたのが現在の「日本国憲法」であり、日本人は一切関わっていないし、民主主義とは正反対の経緯で成立しました。

マッカーサーが日本を統治するために優遇したのが共産主義者で、特に逮捕歴がある共産主義者を好んで重用しました。


GHQを創設するとすぐに、共産主義者や反政府主義者を釈放させ、労働組合や政党を結成させました。

こうして誕生したのが日本共産党と日本社会党で、事実上GHQが合法化し創設したのです。

マッカーサーの意図は日本の「犯罪者」である天皇や旧時代の権力者に対抗させるため、反政府主義者に力を持たせる事でした。


マッカーサーの共産党優遇

マッカーサー自身は共産主義者ではなかったが、それ以上に日本の「右翼」を嫌っていたので、共産主義者を重用しました。

GHQは主要な新聞社に共産主義者を雇用するよう圧力を掛け、応じなければ事実上活動できなくしました。

こうして日本の新聞社やNHKの上層部は共産主義者や戦前の逮捕者、反政府主義者になり、今日まで続いています。


マスコミだけではなく銀行や企業にもこうした圧力が掛けられ、自動車で有名な「日産」などは特に酷かったとされている。

日産は戦前には三菱や三井以上の最大の財閥だったが、戦争に協力したとしてほとんど解体されました。

自動車生産も認められなかったが、朝鮮戦争勃発で軍事生産が必要になり、共産主義者を経営に参加させる条件でようやく認められました。


こうしたGHQの共産党優遇は1948年まで続いたが、1949年になると米ソ冷戦が始まり、米本国は日本を再軍備させる方針に突然変わりました。

その変化は急激なもので、それまで日本人をわざと飢えさせては笑いものにして楽しんだり、なるべく日本経済が破綻するように仕向けていました。

ところが1949年のある日から、本国は「日本軍を再結成させろ」「日本の産業を立て直せ」と命令してきました。


マッカーサーは最初本国からの指示を無視していたが結局従わざるを得なくなり、1950年には朝鮮戦争が勃発しました。

マッカーサーの間違いは誰の目にも明らかになり、その後アメリカは何度も日本軍を再建しようとしては、日本政府と対立する事になります。

この後日本ではマッカーサーの後遺症で反日カルト政党が大ブームになり、今も日本を破壊するために”日々努力”しているようです。


マッカーサーの占領下では日本を貶めたり日本を破壊する事が正しいとされ、日本の為に貢献する人は戦犯や右翼と決め付けられました。

マスコミは全てGHQの統制下にあったので「日本国民はマッカーサー様を心から慕っています」などの気持ち悪い記事が量産された。

北朝鮮の新聞が金正恩を褒めるのと同じで、これほど気持ち悪い事はない。


そして当時GHQの為に報道していた新聞やテレビは、当時の本当の事を決して話そうとしない。


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醜い戦後 終戦後とはどんな世界だった?

空襲でホームレスになり上野駅に避難した人達
引用:http://livedoor.blogimg.jp/abechan_matome/imgs/3/d/3df4faa4-s.jpg


アメリカはわざと日本人を飢えさせた

テレビや映画や小説では「戦後」は美しいものの同義語で語られていて、まるで理想郷のように描かれている。

そこでは貧しいながらも人々は協力して生き、戦後の復興をなしとげたとされている。

またGHQは困窮した日本人に食料を支給して助け、民主主義を与えたとも言われている。

          
こうした物語は映画やドラマの中だけで十分であり、事実とは程遠いか、正反対だった。

GHQは日本人に食料を与えるどころか奪い取ってわざと飢えさせて、日本人を従わせる手段に用いていた。

戦争前後は食糧難だったのはよく知られているが、戦時中に日本国内で(朝鮮台湾でも)飢えて亡くなった人や、その危険はなかった。


都会の人は空襲で疎開したが、農村には食べるものがあり、十分ではなかったが飢餓状態などではなかった。

それが戦争が終わって平和になり、アメリカ軍が占領したら食料が足りなくなり、「来年は1000万人が食糧不足で亡くなる」と総理大臣が警告する事態になった。

多くの要因があるが最大のものはアメリカ合衆国自体で、戦争の報復としてわざと日本人を飢えさせていました。


占領軍による妨害で日本は食糧の輸入ができなくさせられ、生産活動も制限され、経済破綻しました。

農業も経済の一部なので、国が経済破綻すると農業生産が停止して、食糧不足に陥ります。

終戦の昭和20年から昭和25年まで、日本はほとんどの工業生産を禁止され、前近代社会になりました。


経済破綻するように仕向けた

戦前から存在する設備を更新することは出来ず、農業生産に支障を来たし、外地に出兵した男達は中々帰ってきませんでした。

「戦争が終わって平和になった」と書いたが、そのこと自体が日本経済を破綻させる原因を作り出しました。

戦争中はあらゆる兵器をフル生産していたが、それが8月15日を境に全面停止になり、一切の生産活動が停止した。


困った日本政府は紙幣を印刷して「金融緩和」したが、激しいインフレを引き起こしました。

物を生産していないのにお金だけばらまいたからだが、当時の日本政府は他にどうする事もできなかった。

あらゆる工場が全て操業停止、鉄道は空襲で破壊しつくされ交通網が分断され、労働者たる男達は外地に居るか戦犯として逮捕されていた。


空襲によって東京など都市部の多くの人は家を失ってホームレスになっていて、路上や公園などで生活していました。

この頃アメリカ本国では、日本人のこうした窮状を伝えては「楽しんでいた」のが分かっています。

自分たちが倒した敵が飢えて苦しんでいるのを見て面白がっていたのが、本当の戦後の世界でした。


一例として占領軍は広島や長崎の被爆者を診療したが、治療をせずに「治療するふり」をして、どのように悪化するか観察しました。

生産活動が禁止され輸入も禁止されているので、復興が進まずホームレスが溢れているのも、無論そうなるように仕向けていました。

さらに占領軍は日本人同士が憎み会うように、心を破壊する政策を実行していました。


アメリカは日本人の食料を絞り上げた上で、自分の手で少し援助した。
援助を受け取った人達はアメリカに感謝し日本を憎むよう仕向けられた。
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引用:http://blog.nihon-syakai.net/blog/wp-content/uploads/img2011/enjo.jpg


美しくない戦後

NHKというラジオ放送局(当時唯一のラジオ)で「真相はこうだ」という日本軍や戦前の日本の暴露番組を放送させました。

内容は日本軍がいかにアジア人や欧米人に酷い事をしたかという物だったが、内容は全て嘘だったのが分かっています。

だが当時の日本人はこうした「真相」を信じ、日本人同士で憎みあったり攻撃するようになりました。


愚かなことに「こんな酷い日本を倒してくれて有難う」「原爆を投下してくれて感謝します」とアメリカ軍に感謝する連中すら大勢居た。

人々は最初アメリカ軍を鬼畜だと思っていたが、食料を恵んでくれるので、感謝するようになっていった。

実は占領軍はわざと食料を絞り、日本人を飢えさせてから、犬を手なずけるように「餌」を与えていきました。


学校では子供たちに「日本は悪の国」「アメリカは正義の国」と教え込み、拒否する教師は戦犯として逮捕しました。

じゅうたん爆撃や原爆で数百万人が犠牲になり、本来なら犯人であるアメリカ人を憎むべき所なのだが、次第に日本のせいだと思い込むようになった。

終戦時に外地には日本軍数百万人が存在したが、ソ連や中華民国の捕虜になった日本兵は、洗脳した順番から帰国を許された。


集団学習や反省、謝罪(今日使われるような軽い意味ではない)などで日本は悪の国と教え込み、拒否したものは永遠に帰国できなかった。

アメリカ軍の捕虜になると多少ましだったが、戦犯として裁かれ、やはり徹底して「日本は悪の国」と教え込んだ。

こうして「日本に原爆を落としてくれて有難う」などと言う日本人が大量生産され、この人達が現在の左翼になっていきます。


この状況が1948年まで続き、1950年に朝鮮戦争が勃発して、急にアメリカは日本の工業力や日本軍の軍事力を必要とするようになります。

ここから日本側の発言力が強まって復興へと繋がっていくのだが、戦後数年間の占領が長く日本を蝕むことになります。
http://www.thutmosev.com/archives/72011631.html

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2017年05月04日
安倍首相、2020年まで憲法改正表明 日本国憲法の暗黒面

マッカーサーは尿漏れしながらタラップを降り、独裁者になった
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引用:http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-fa-95/naojyi/folder/1134515/20/15427020/img_0


憲法改正の日程

安倍首相は憲法記念日の5月3日、憲法改正推進のフォーラムにビデオメッセージを寄せて改憲を訴えました。

首相はメッセージで、新憲法が2020年に施行されるようにしたいと具体的な年限を示した。

また憲法9条について、自衛隊の存在が明記されるように追加し、位置づけを明確にしたいと語った。


自民党総裁の任期は3年で2回まで続けて就任できるので2018年までだったが、3回に延長されたので2021年9月まで可能になった。

日本国総理大臣には期限がないので、理論上は自民党の総裁でなくなっても、総理を続けることは出来る。

改正には衆議院参議院が別々に3分の2以上の賛成を得た上で、国民投票で過半数の賛成を得る必要がある。


国民投票の過半数は憲法の日本語で定義されておらず、護憲派は有権者の過半数だと主張していたが、これだと絶対に憲法改正はできない。

日本国憲法は英語で書いた文章を日本語に翻訳したので英語の原文が存在し、一応「日本語から翻訳した」事にしている。

GHQの原文では「投票者の過半数」と書かれているので、日本人の半分しか投票に行かなくても改正可能だという解釈になった。


2020年に改正憲法施行とすると1年前には国民投票が必要で、その1年前には衆参両院の法案審議を始める必要がある。

その前に改正憲法の条文を明確に決定して国民に示す必要があり、2017年か遅くとも2018年には示されなくてはならない。

2012年に自民党から示された憲法改正案は、はっきり言えば稚拙の印象があり、架空戦記小説に似ている。


日本国憲法の根本的矛盾

2012年自民党案は改正内容が多岐に渡っていて、個別の議論だけで数年を要し、その間に政権が交代したら白紙になってしまう。

緊急に必要なのは「戦争の権利」あるいはもっと穏やかに「自衛権の明記」、それと憲法改正手続きの簡素化の2点だけです。

衆参両院でそれぞれ3分の2が必要なのは、当時のアメリカ軍が日本を敵国と見なしていたため、憲法を改正できないようにしたのです。


世界のどの国でも多数決の原則に基づいて議会の過半数で改正できるのが当たり前で、両院それぞれの3分の2としているのは全世界で日本だけです。

この制度では衆議院で100%の議員が改正賛成でも、参議院の3分の1の議員が反対したら憲法改正はできません。

少数意見が通り多数意見が排除される仕組みで、こういう制度を「独裁政治」と言います。


なぜ独裁を奨励するのかといえば、日本国憲法が成立した1946年の日本は、1人の軍人が全ての権限を握る「独裁国家」だったからです。

この軍人とは東条英機ではなく米軍人のダグラス・マッカーサーで、公式な資格がないのに勝手に憲法を作って議会に承認させました。

誰もこれを指摘しないので自分で書くが、マッカーサーは連合軍総司令官で、トルーマン大統領から日本占領を命じられた。


だが一体何故、「ただのアメリカ軍人」が日本を占領して議会や政府に命令し、憲法を勝手に作り変える権限を。アメリカ大統領が与えるのだろうか?

連合国(=国連)が任命したというが、日本は国連加盟国ではないので、そいつらに指図される筋合いがない。

1945年8月に日本が受け入れたのはポツダム宣言だけであって、米軍の日本占領に合意しても居ない。

トルーマン大統領は「天皇の処遇」「憲法を自由に作る」「戦争裁判を開く」などの権限を与えたが、なぜアメリカ大統領にこうした権利があると考えるのかも謎です。


独裁者になった尿漏れ男

1945年8月28日、帝国海軍厚木飛行場に米軍第一陣が到着し、8月30日にマッカーサーがパイプを咥えて降り立った。

マッカーサーは写真にはこだわりがあり、硫黄島の有名な写真や、厚木に降り立った写真など、すべて演出させた「やらせ写真」でした。

厚木の輸送機から降りるマッカーサーは、日本軍人から襲撃される恐怖から、尿を漏らしながらタラップを降りました。


マッカーサーは開戦時にフィリピンにいたが、部下を置き去りに逃げ出し、沖縄や本土では民間人への空襲を命令した、そんな人間でした。

マッカーサーは軍事法廷や天皇の処罰などをチラつかせながら憲法(帝国憲法)改正を命じ、帝国議会は現行憲法(帝国憲法)の改正案を示した。

1945年(昭和20年)10月4日、マッカーサーは日本政府に憲法改正を命令したが、日本側はマッカーサーの命令を拒否し、時間を掛けて改正すると回答しました。


1946年1月、日本政府はGHQに憲法改正案を提出したが、GHQは却下し独自の憲法を作成する事にした。

特にマッカーサーを激怒させたのが天皇の身分を存続させる点で、彼は天皇を「犯罪者」として定義させたがった。

イラクやアルカイダの首謀者をアメリカは犯罪者と定義したが、あれと同じ事を日本でもやりたかったようです。


脅迫で可決した日本国憲法

マッカーサーはGHQのアルバイト職員に、7日間でで英語の憲法草案を書かせ、日本語に翻訳して新聞社に直接掲載させた。

GHQによる憲法発表が先であって、国会議員や総理大臣は新聞を読んで初めて「GHQ憲法」の存在を知らされた。

ここで駆け引きに使われたのが「昭和天皇処遇と戦争再開」で、GHQ側は公然と、「議会が承認しないならもう一度空襲してやる」と言ったそうです。


ここで日本の国会議員らは、もう一度アメリカと玉砕戦争をするか、それともGHQ憲法を承認するかの二者択一を迫られました、

GHQ憲法は3月7日に発表され、1946年8月24日に衆議院可決、10月6日に貴族院(後の参議院)でも圧倒的多数で可決成立した。

若干の審議と修正がおこなわれたものの、1946年の時点では昭和天皇を初めとして大半の政治家や有力者が、戦犯として裁判に掛けられる恐れがあった。

東京裁判はアメリカ軍側の証拠や証人だけが採用され、被告側の証人や証拠は一切認めないので、最初から有罪が確定していたイカサマ裁判でした。


例えば東京大学(当時唯一の最高学府で最高権威)はGHQ憲法は違法だと主張していたが、GHQは教授らを連行して戦争裁判に掛けると脅迫した。

東大は新憲法容認に立場を変えて「憲法学」という珍妙な学問を考案し、以来日本国憲法を擁護している。

日本国憲法はその成立過程において、民主的な手続きを一切経ておらず、憲法自体が無効だと考えられるが、安倍首相はあくまで正式な改正手続きを踏みたいようです。

リサイクルも良いが、ゴミはゴミ箱に捨てるべきでは無いだろうか。
http://www.thutmosev.com/archives/70762817.html


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2016年08月19日
日本国憲法を作ったのは軍隊のアルバイト
http://thutmose.blog.jp/archives/65117879.html

マッカーサーはやらせ写真を作るのが大好きで、こういう写真を撮らせてはマスコミに掲載させた。

http://livedoor.blogimg.jp/aps5232/imgs/c/8/c8d8b55f.jpg


日米両国の高官が「日本国憲法を作ったのは我が国だ」と主張している。


日本国憲法の珍論争

日本国憲法を作ったのは誰かという珍論争が日米の政府当局者で勃発し、互いに牽制している。

8月15日に大統領候補ヒラリークリントンの応援演説をした、副大統領のバイデンが次のように発言した。

「日本が核兵器を持てないように、我々が日本の憲法を書いたのを、トランプ候補は知らないのではないか」


この前に対立候補のトランプは様々なヒラリー批判や民主党批判をしていて、その中に次のような演説があった。

「日本には米軍駐留陽を負担してもらう。あるいは米軍に頼らず核武装して自分で守ってもらう」という趣旨の発言だった。

バイデンはトランプへの反論として、日本が核武装出来ないことを指摘し、そうなるように我々が憲法を作ったと話した。


実際はどうかというと、日本国憲法に核武装を禁止した条文はないし、軍隊の保有も軍事行動も禁止するとは書かれていない。

「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」

「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」


「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」と憲法に書いてあるのに陸海空軍が存在するのは周知の事実で、これは次の理由による。

『国権の発動たる戦争』は先制攻撃『武力による威嚇又は武力の行使』は侵略戦争という意味で書かれていた英語の日本語訳だとされている。

国の主権者による戦争の禁止、恫喝行為と武力行使禁止、それらを行うための軍事力禁止と書かれています。


終戦後に軍事政権樹立した日本

ひっくり返すと侵略戦争や先制攻撃以外の戦争は認められているし、軍事力による反撃も、核保有も禁止していません。

集団的自衛権もミサイル防衛も、安保法制も、もちろんどこにも禁止とは書いてありません。

バイデン副大統領の発言の半分は誤解ですが、もう半分の「我々が憲法を作った」の部分はどうでしょうか。


英語の原文があり、それを日本語に訳したから「変な日本語」になっているのですが、そもそも英語の原文が存在するのが奇妙です。

時間を追って経緯を見るために1945年(昭和20年)8月15日に戻ってみます。

8月30日に帝国海軍厚木飛行場にマッカーサーが降り立って、パイプを咥えた有名な写真を撮ったが、このポーズはやらせだった。


マッカーサーという男はこういう記念写真が大好きで、硫黄島に旗を立てる写真などを作っては見せびらかしていた。

それはともかく10月4日、マッカーサーは日本政府に憲法改正を命令したが、軍による独裁には従わないとして東久邇宮内閣は総辞職しました。

マッカーサーは連合軍という軍隊の司令官にすぎず、日本政府や議会に命令する立場に無いのに、勝手に軍事政権を作った事になる。


日本側はマッカーサーの命令を拒否し、憲法調査会を組織して、時間を掛けて改正すると回答しました。

1945年11月に憲法改正のための委員会が発足し、1946年1月にGHQに提出しました。

日本側の案は現行憲法(帝国憲法)に米国の要望を取り入れて改正する案だったが、マッカーサーは拒絶しました。


アルバイトに適当な憲法を書かせて「拒否するなら何発でも原爆を落す」と議員らを脅迫した。


軍事政権が作った憲法

マッカーサーは民政局長のコートニー・ホイットニーに憲法作成を命令し、ホイットニーはアルバイト職員らに草案を書かせた。

こうして約7日間で書き上げたのが「日本国憲法」の原文の英語版でした。

当時日本の新聞はGHQの支配下にあったので、マッカーサーは日本政府に伝える前に、勝手に新聞で発表してしまいました。


先に日本政府に伝えるとまたゴネだして、内容を変更したり無効になると考えたからでした。

日本の国会議員らは新聞を読んで初めて憲法の内容を知り、激怒して絶対反対の態度を取りました。

するとマッカーサーは「新憲法を承認しなければもう一度戦争だ、原爆をまた落す」と言って脅迫しました。


東京大学などの法学者は新憲法を違法だと言い、反対の態度を取ったが、これも「認めなければ戦犯にしてやる」と脅迫して認めさせました。

当時マッカーサーはA級戦犯、B級戦犯などランク付けし、連合軍に反抗的な公務員や学者らを逮捕しては処刑していました。

GHQを恐れた東京大学は「憲法学」という学問を作り、日本国憲法は日本国民が作ったと言い出しました。


これが今日に残っている「憲法学」で、マッカーサーが「戦犯になるか憲法を認めるか」と脅迫して作らせた学問です。

GHQ支配下の新聞、NHKはこぞって「国民が新憲法を作った」という嘘の報道を繰り返し、やがて嘘の方が事実として広まりました。

帝国議会は「もういちど原爆を落とされたいか」と脅迫され、ほとんど審議せず新憲法を承認しました。


新憲法は「国民が作った」という宣伝の後で、1947年(昭和22年)5月3日に施行され、今日に至っている。

これを誰が作ったと考えるかはその人の考え次第だが、少なくとも日本の総理大臣や国会議員はまったく関与していない
http://thutmose.blog.jp/archives/65117879.html


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NHKスペシャル 戦後ゼロ年 東京ブラックホール 1945−1946 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%88%A6%E5%BE%8C%E3%82%BC%E3%83%AD%E5%B9%B4+%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%AB+1945%EF%BC%8D1946


初回放送 2017年8月20日(日) 午後9時00分〜9時59分

終戦直後の東京を記録した鮮明な映像が、次々に発掘されている。さらには、極秘扱いだった10万ページに及ぶCIA文書が情報公開法によって続々と公開され、敗戦直後の東京をめぐる新たな真実が明るみに出てきた。浮かび上がってきたのは、ヒト・モノ・カネをブラックホールのようにのみ込んでふくれあがる東京の姿。

焼け跡に最初に出現したブラックホールは「闇市」だった。日本軍や米軍のヤミ物資が大量に横流しされ、大金を手にした野心家が、新しいビジネスを興す。六本木や銀座には、治外法権の「東京租界」が生まれた。占領軍を慰安するショービジネスから、戦後の大衆文化を担う人材が生まれた。

連合軍による占領からはじまった戦後ゼロ年の東京。それは、今の東京を生み出した原点である。俳優の山田孝之が、21世紀の若者にふんし、時空を超えて当時のフィルムの中に入り込み、東京ゼロ年を追体験していく。それは、まもなくオリンピックを迎える東京の足下を照らし出す、確かな道しるべとなるはずである。


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朝鮮戦争は八百長だった

ノンフィクション作家・河添恵子#4-1
「馬渕睦夫氏と語る最新世界情勢」前編・グローバリスト&共産主義勢力 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Z7syO3BhDdQ


ノンフィクション作家・河添恵子#4-2
「馬渕睦夫氏と語る最新世界情勢」後編・北朝鮮問題の行方 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Z4Ot9KiWPV8


収録日:2018年4月25日


今回はゲストに馬渕睦夫氏(元駐ウクライナ大使兼モルドバ大使)をお招きし、2018年の世界情勢を語っていただきました。馬渕氏曰く「今、世界は100年に1度の地殻変動」が起こっています。

アメリカ、中国、北朝鮮問題を中心に、マスメディアでは得られることがない、最先端の世界の見方がここにあります。この100年、世界はいかに作られてきたのか、どうぞしっかり掴んでください!


ゲスト馬渕睦夫氏の後半!北朝鮮問題の行方を中心に、朝鮮戦争の真実・そして終焉、グローバル勢力の影響下にあるNHK、世界の反ロシア・反プーチンの動き、マレーシア・マハティール首相の反中国、金融や企業スキャンダルに潜む外資企業の動き、テロに無自覚な日本、求められる日本国民の自衛・・・等、初対談となった今回、両先生も手応えをつかんだご様子。


<ゲスト>
馬渕睦夫(まぶち むつお)1946年1月21日生まれ
吉備国際大学客員教授 元駐ウクライナ大使兼モルドバ大使 
1946年京都府生まれ 世界情勢を視る眼差しは超一級品


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ノンフィクション作家、河添恵子さんの番組が林原チャンネルで配信中!中国問題の専門家として知られる河添さんの、実はそれだけじゃ無い!本当の姿をお届けします。
「中国のことは好きでも嫌いでもなく、私はただ、ありのままの中国を見ているだけ・・・」
決してブレることなく燃え上がる、ノンフィクション作家としての河添恵子魂をどうぞキャッチしてください!


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2018年12月14日
日産の本当の問題は政府の過干渉 GHQからフランスまで

プリンス自動車乗っ取りに成功した日産は、人気車を利用しプリンス社員は下請けや派遣のように扱った

今同じことをルノーにやられている


画像引用:https://pbs.twimg.com/media/C9nhPEGVwAAasKg.jpg


日産はなぜ混乱するのか

日産のゴーン逮捕から企業統治問題が発生し、フランス国営化するか独立かということになっています。

最初に国営化をしかけたのはフランスのマクロン大統領で、今後半年以内に国営化の手続きをするつもりだった。

ゴーンは当初反対していたものの、自分の地位の保証と引き換えに、ルノー日産国有化に合意しました。

こうしたタイミングで日産が東京地検に告発して逮捕した事は、やはり関係があると推測します。

ところで日産は90年代に経営破綻してルノーが買収したが、どうしてこうなったのでしょうか。

1991年から98年にかけて確かに日本は不況だったが、他の自動車メーカーは破綻していません。


有名な逸話として日産では社長や経営陣にモデルチェンジの決定権がなく、工場長が決めていました。

座間工場など有力な工場長は労働組合幹部を兼ねていて、労働組合の合意がないとモデルチェンジできませんでした。

日産マーチは8年間モデルチェンジしないと労組と約束し、他の車も老朽化したまま放置されました。


トヨタは4年ごとにモデルチェンジしていたのに日産は6年か8年ごとなので、その差は販売に現れました。

こうして日産はホンダにも抜かれて国内3位メーカーになり、海外でも売れず経営破綻に至りました。

日産の労働組合が強大な力を持つに至ったのは、GHQ(連合軍総司令部)の命令で、日本軍に協力した懲罰でした。


各国政府が都合よく日産を利用した

日産は戦前満州や朝鮮の軍事輸送に深くかかわり、陸軍の軍用車の大半を生産していました。

GHQはこれを問題視して財閥解体したうえに、自動車の生産を禁止しました。

禁止しただけでなくGHQは日産を「戦犯企業」と定義し、戦前の逮捕者や共産党員、在日韓国人を経営に参加させるよう強要しました。


この強要は戦前軍部に協力した朝日新聞などの新聞にも行われ、日本の新聞は共産党員や左翼活動家らが支配することになりました。

日産の自動車生産は数年後に許されたがトヨタと大差がついていて、本格的に再開されたのは1950年の朝鮮戦争以降でした。

皮肉なことに米軍は朝鮮での戦争協力を日本に依頼して、日産にも軍事協力を求めてきました。


戦前は日本軍べったりだったが、戦後も米軍の軍事企業として再開を許されたのです。

朝鮮戦争は終わったが続いて高度成長時代になり、日産の自動車生産は順調に増えました。


ここで襲い掛かったのはオートバイや自動車メーカーの乱立で、日本政府はメーカー統合を強要しました。


GHQは日産労組や幹部に共産党や左翼活動家を採用させ、大混乱に陥れた

GHQが指名した人物なので日産は絶対に解雇できない


1953_Nissan_Labor_Dispute
引用:http://agora-web.jp/cms/wp-content/uploads/2017/07/1953_Nissan_Labor_Dispute.jpg


フランス対日本になった理由

スカイラインなどを生産していたプリンス自動車を日産が吸収合併したのが、これが後に禍根となった。

プリンス側は対等合併と聞いていたのに実際は合併すると日産側の社員が威張り散らし、プリンス社員は解雇されたり苛めで辞めされられた。

日産はスカイラインという美味しいブランドだけを利用し、GTRなどの人気車を生み出しました。


このプリンス統合も労組や経営陣に激しい対立を生み、経営破綻につながっています。

1990年に日本はバブル崩壊し車の売れ行きが急減、日産が得意とした若者向けスポーツカーは全滅しました。

ここでまた日本政府とフランス政府がちょっかいを出してルノーに買収させ、事実上ルノーの子会社になりました。


ルノーは実は日産以上のダメ会社で、フランス政府は手を焼いて「日産とくっつけて国営化しよう」と考えました。

これがマクロンのルノー日産三菱国営化で、工場も本社も日本から奪い取ってやると宣言していました。

いわば日本への宣戦布告であり、日本側はゴーン逮捕という「真珠湾攻撃」で報復しました。


ここまで見てきて日産を混乱させている本当の原因は、戦前から続いている政府の過干渉だと考えられます。
http://www.thutmosev.com/archives/78424019.html

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ユダヤ国際金融資本と GHQ は日本を共産化しようとして農地改革と人為的インフレ生成・金融封鎖を行った

フランクリン・ルーズベルト大統領やニューディール派は親共産主義だったので、戦後の日本を階級か無い疑似共産社会にしようと計画していた。


それで平等主義的な日本国憲法を制定、

農地改革で地主の土地を取り上げて貧民にタダ同然で分配、
貧民が土地を買う金を出せる様に人為的なインフレを起こし
預金封鎖で資産家の資産を取り上げた

戦後の人為的なインフレはそういう背景で起こされた


 

株も不動産も奪われる! 預金封鎖よりも怖い「財産税」の傾向と対策=東条雅彦 2016年9月25日
http://www.mag2.com/p/money/23235


メルマガのQ&Aコーナーで「過去に不動産や株式に資産課税が実施された事例がありましたか?」という質問を受けました。「はい、あります!」……それは日本です。

以前に解説したキプロスの預金封鎖では銀行預金だけが対象でしたが、我が国で起きた1946年の預金封鎖・財産税では、株式も不動産もあらゆる資産が課税の対象となりました。

本稿では、できるだけ歴史的・客観的な事実をベースに、様々な諸事情で新聞、テレビ、他メディアでは積極的に報道しにくい領域に踏み込んでいきます。特に財産税の課税手順については、どこよりもわかりやすく解説したつもりです。2013年に発生したキプロスの預金封鎖との違いに注意しながら、読み進めてください。

一体いくら奪われる? 資産課税の手順を知り危機を乗り越えよ

預金封鎖、2つの目的

預金封鎖の目的は、「資産課税」と「取り付け騒ぎを起こさせないこと」の2つです。2013年のキプロスの預金封鎖では、10万ユーロより多い預金が没収されました。

もし預金封鎖の情報が事前に漏れると、取り付け騒ぎが発生します。

銀行の経営者は少しの現金を手元に置いておけば、十分だということを知っています。預金残高の一定比率の金額しか保有していなくて、この比率を「預金準備率」と呼びます。

預金準備率は預金の種類や金額によって様々ですが、概ね1%程度です。残りの資金は企業への貸し付けや債券や株式への投資に回しています。そのため、大勢の人々が一気に預金の引き出しをしようとすると(取り付け騒ぎが起きると)、その銀行は倒産してしまいます。

預金封鎖の情報が事前に漏れて、国民全員が一気に銀行に押し寄せて、預金を引き出そうとすると、その国の銀行が全て破綻するリスクがあるのです。取り付け騒ぎになる前に、預金封鎖を実施しなければいけません。

銀行休業日が危ない

キプロスでは2013年3月16日に預金封鎖が発表されました。この日は土曜日で銀行は営業していません。預金封鎖の発表は土曜日、日曜日、祝日など、銀行の窓口が営業していないタイミングを狙います。

土日に営業している銀行でも、現金の取り扱いはどこも行っていません。365日、休みなしで銀行に営業を許可している国はありません(営業時間が最も長いと言われている米国でも、日曜日はお休みです)。どの国も過去の歴史から、預金封鎖・資産課税に備えて、銀行には休業日が必要であることを知っているからです。

日本でも1946年に預金封鎖が実施された!

1946年2月17日、日本で預金封鎖、新円切り替えが実施されました。政府が発表したのは、前日の2月16日土曜日でした。

キプロス預金封鎖と同じで、やはり銀行の窓口が休んでいる時に発表されます。繰り返しになりますが、事前に情報が漏れて取り付け騒ぎが起こると全てが水の泡です。

1946年の日本の預金封鎖も、2013年のキプロスと同様、事前に情報が漏れずに実施できた、預金封鎖の成功例となりました。

預金封鎖では引き出しが完全にできなくなるのではなく、引き出し額を大幅に制限されました。銀行預金からの新円での引き出し可能な月額は、世帯主で300円、世帯員は1人各100円でした。

預金封鎖と呼ぶより、「出金制限」と言う方が実態に沿っています。

1946年の国家公務員大卒初任給が540円だったので、現在の貨幣価値に換算すると、世帯主が11万円前後、世帯員が1人各4万円弱まで引き出せました。

そして、封鎖預金中に引き出されたお金は全て「新円」でした。このとき、1946年3月3日からは「旧円」の市場流通を停止すると、同時に発表されていました。

これが「新円切り替え」と呼ばれる政策で、その目的は市場でのお金の流通量を制限して、急激なインフレを抑止するためだとされていました。

ところが、国民は逆に3月3日までに旧円を使い切ろうとしたために、インフレが加速してしまいました。

インフレを抑制するという意味では、預金封鎖&新円切り替えは大失敗でした。しかし、実は、この預金封鎖の目的はインフレ抑制ではなかったことが明かされたのです。


69年後に明かされた預金封鎖「真の目的」とは?

2015年2月16日、NHKの報道番組「ニュースウオッチ9」にて、「『預金封鎖』もうひとつのねらい」という特集が組まれました。(※参考動画 – YouTube)

放送では、当時の大蔵大臣である渋沢敬三氏と、大蔵官僚である福田赳夫氏(後、総理大臣)の証言記録が公開されました。

福田氏:「通貨の封鎖は、大臣のお考えではインフレーションが急激に進みつつあるということで、ずっと早くから考えていられたのでございますか?」

渋沢大臣:「いや、そうではない。財産税の必要からきたんだ。まったく財産税を課税する必要からだった」

証言記録では、「インフレを抑制させるためですか?」という質問に対して、渋沢大臣は「そうではない(インフレ抑制ではない)」と明確に否定しています。

しかし、当時、政府は国民に向けてインフレ抑制のためだと説明していました。やむを得ないことですが、こういうことは往々にして起こります。

財産税を課税するには出金制限(預金封鎖)が必須だった

日本では1944年、日本国債の発行残高が国内総生産の2倍に達したために、償還が不可能となっていました。

1945年に第二次世界大戦が終わり、その翌年の1946年、政府は最後の手段、資産課税(財産税)で国債を償還する(借金を返済する)しか方法がなかったのです。

今、日本では「国債は国の借金ではなく政府の借金である」「国民は政府の債務者ではなく債権者だ」と主張する論者もいます。

残念ながら、それは俗論です。

政府が財政破綻した場合、国内の個人も法人も、政府に対して請求権はありません。一方、政府は国内の個人、法人への徴税権を持っています。このことは日本だけではなく全世界共通のことなので、俗論に惑わされずに、正確に把握しておくことが重要です。

結局、この預金封鎖(出金制限)は1948年6月まで続きました。2年以上も出金制限が続いたのです。銀行預金から出金を制限することが極めて重要でした。

1946年2月17日から約2週間後の3月3日に財産税が実施されます。それは、1946年3月3日午前0時における個人の財産全額を対象に課税するというものでした。

財産全額なので、銀行預金だけではなく、株式、不動産、ゴールド(金)等も含まれます。

3月3日午前0時において、政府が把握できる国民の銀行預金を減らさないため、預金封鎖をして、出金制限をかけておく必要があったのです。

月額あたり世帯主で300円、世帯員1人につき100円までの出金制限は、当時「500円生活」と呼ばれていたそうです。500円は現在の貨幣価値で25万円前後です。

一見、十分な金額に見えますが、インフレが急激に進行しており、当時の生活はかなり厳しい状況になりました(1946年の物価上昇率は300%強でした)。


いくら奪われたのか?「最高税率90%」財産税の中身

財産税の税額は次の通りです。

<財産税 当時の課税価格と税率>

課税価格 税率
10万円超-11万円以下 25%
11万円超-12万円以下 30%
12万円超-13万円以下 35%
13万円超-15万円以下 40%
15万円超-17万円以下 45%
17万円超-20万円以下 50%
20万円超-30万円以下 55%
30万円超-50万円以下 60%
50万円超-100万円以下 65%
100万円超-150万円以下 70%
150万円超-300万円以下 75%
300万円超-500万円以下 80%
500万円超-1,500万円以下 85%
1,500万円超 90%

「ええーっ、1500万円を持っていたら、85%も取られちゃうの?」とビックリしてしまった人もいるでしょう。ところが、この財産税には2つの誤解があります。
1.上記の課税価格は当時の資産価値であり、今の価値とはまったく異なる
2.各段階でスライスされた資産に対して課税される

つまり実際には、1500万円を超えた金額に90%、500万円を超えた金額に85%、300万円を超えた金額に75%…というように、段階的に課税されました。

上記の課税価格のままでは、当時の状況が少しイメージにくいので、これを現在の価値に換算して説明していきましょう。

当時の財産税を現在の価値に換算すると

終戦直後は激しいインフレに見舞われており、1946年の貨幣価値を現在の価値に換算する際に何を基準にすべきかには諸説あります。

1946年の大卒初任給は400〜500円程度なので、今の大卒初任給20万円から計算すると、400〜500倍ぐらいの物価上昇が発生しています(計算しやすいように本稿では500倍を採用します)。

当時の財産税を現在の価値になおすと、次のようなイメージになります。

<現在の価値に置き換えた課税価格と税率>

課税価格 税率
5000万円超-5500万円以下 25%
5500万円超-6000万円以下 30%
6000万円超-6500万円以下 35%
6500万円超-7500万円以下 40%
7500万円超-8500万円以下 45%
8500万円超-1億円以下 50%
1億円超-1億5000万円以下 55%
1億5000万円超-2億5000万円以下 60%
2億5000万円超-5億円以下 65%
5億円超-7億5000万円以下 70%
7億5000万円超-15億円以下 75%
15億円超-25億円以下 80%
25億円超-75億円以下 85%
75億円超 90%

次ページではこの表を元に、さらに詳しく資産課税の手順を説明します。


資産課税の流れ

財産税は、次の手順で確定されました。

<Step1>

各個人が保有する資産額(銀行預金、株式、不動産、ゴールド等)を合算する。この金額を課税対象価格とする。一緒に住んでいる家族全員の課税対象価格を合計する。

<Step2>

合計の課税対象価格に応じて、段階的に上記の税率を適用する。

【具体例】
父の資産額:4,200万円、母の資産額:1,800万円、合計の資産額(=これが課税対象価格となる)が6000万円だった場合:

5000万円×25%=1,250万円
1000万円×30%=300万円

課税対象価格6000万円に対する財産税額は、1,550万円となります。

<Step3>

Step2で算出された財産税額を、家族の保有資産額に応じて按分して各個人が納税する。

【具体例】
父の資産額:4,200万円 按分率70%
母の資産額:1,800万円 按分率30%

財産税額1,550万円×70%=1,085万円…父の財産税額
財産税額1,550万円×30%=465万円…母の財産税額

このように、財産税のポイントは「同居家族の資産を合算して、後で各個人に按分する」という点にあります。現在の価値では最低ボーダーラインが5000万円ほどとなりますが、同居家族の合計資産額がこの金額に達していれば、課税されていたのです。


キプロスと日本、預金封鎖の共通点と相違点

キプロスの預金封鎖との相違点を探っていくと、我が国で起きた預金封鎖がより鮮明にイメージできるようになります。

<共通点>

いずれのケースでも、少額預金者は保護された。
キプロス:10万ユーロ(当時のレートで約1130万円)未満の資産には課税されなかった。
日本:現在の価値で5000万円未満の資産には課税されなかった。

<相違点>

キプロス:資産課税の対象は銀行預金だけだった(株式、不動産等は関係なし)。
日本:銀行預金だけではなく、不動産、株式、ゴールド(金)等の資産も対象になった。また、個人毎の資産ではなく、同居家族の合計資産が対象になった。

日本の国債は「内国債だから安心」という俗論に要注意!

日本政府の負債は、1941年3月の310億円から、1946年3月には2,020億円に膨張しました。当時のGDPの2倍を超えたあたりで、事実上のデフォルトとなったのです。

現在の政府財務残高対GDP比は、230%を超えています。戦後の状況と今の状況は、とても似通っていると言えます。

キプロスの場合、EUとIMFから10億ユーロの支援が約束されていたため、銀行預金のレイヤーを侵食するだけで済みました。

銀行預金は資産額の査定が簡単で、最も浸食されやすいレイヤーです。このレイヤーに多額のポジションを取っていると、被害が大きくなります。

内国債を抱えて財政破綻に向かう場合、対外的な支援者がいないことが、逆にデメリットになりえます。1946年に起きた日本の預金封鎖&資産課税では、銀行預金のレイヤーだけではカバーできませんでした。

対外的な支援者がいない場合、銀行預金レイヤーを突き破って、純資産レイヤー(株式、不動産、ゴールド)まで侵食されてしまうという見本になってしまったのです。

「日本の国債は内国債だから安心」というのは俗論です。むしろ逆で、ギリギリまで財政ファイナンスができるため、政府の負債額が大きくなって、ダメージも増幅される側面があることを忘れてはなりません。
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戦争体験者は、敗戦後はアメリカの占領の下で、「さらにひどい食糧難」を経験したことを語っている。
コメの遅配、欠配が続き、どこの家庭でも買い出しに出て、「闇米」を手に入れなければ食べていけない状況が続いたのは、いうまでもなくアメリカの占領政策によるものであった。


 ▼マッカーサーは、GHQに到着してすぐの1945(昭和20)年9月22日、「日本は産業、通商、軍事その他いかなる部門においても、完全に壊滅の状態にある。食糧供給はほとんど止まり、破局寸前の状況にある。日本が犯した罪に対する懲罰は、始まったばかりであり、長く厳しいものになるであろう」と公言し、懲罰としてこの様な状態を強いる意図を隠さなかった。GHQが貿易を全面的に禁止したことは、日本人の食糧事情を戦前の水準以下におしとどめるためでもあった。

 ▼名古屋に駐留した米第25師団長モラン少将は「連合国軍の日本占領を成功させる手段としては、まず日本の食糧不足を利用し、当面は食糧を封鎖して、日本人の抵抗意欲の抑止を第一目標とする。つまり、食糧攻めにすることだ」とのべた(中西薫著『名古屋戦乱物語』)。

 ▼モランはさらに、「(日本の)軍国主義体制を崩壊させ、武装解除が完了した段階で、徐々に米国の余剰農産物を活用し、無償・有償援助を実施して日本人に恩義を感じさせる。それまではたとえ日本農業の米麦が増産されたとしても、配給量を増加する許可を絶対に日本政府に与えてはならない」と訓示していた。名古屋では、熱田造兵廠に備蓄されていた大量の古米、小麦がすべて没収された。それは日本国内の食料難に供するのではなく、「損害賠償物資」として国外に流された。

 ▼GHQは、「闇米が出回るから、遅配・欠配が続く」などといって、買い出し列車に警察官を乗り込ませるなど、「闇米」の徹底的な取り締まりとともに、直接ジープで農家に乗りこみ、強制的に供出させることまでやった。


[戦後余剰農作物を日本に押しつけ]

 ▼こうしたなかで1946(昭和21)年、元大統領フーバーが食糧事情調査団として来日。予定どおり「食糧援助」への布石を打った。そしてこの年11月30日「ララ物資」第一便としてミルク・衣類・薬品など450トンが横浜港に到着した(写真あり:学校給食用の脱脂粉乳などの「ララ物資」第一便の歓迎に動員された横浜の子供たち)。戦後、学校給食に使われた脱脂粉乳はこの「ララ物資」によるものであった。

 ▼マッカーサーは「経済的扼殺」の成果を踏まえて、1947年2月23日、「飢餓は社会不安、混乱、暴動を生み出すに違いない。国民はどんなに邪悪な思想だろうが、食べ物を与えてくれるものに、安易に走るのだ」と「食糧援助」を本国に要請した。

 ▼こうして11月6日、「アメリカに感謝いたしましょう」と放出された輸入食糧の多くは、もともと家畜飼料で栄養値に劣るコーリャンやトウモロコシであった。それはアメリカでの市場買付け価格の二倍の高値で日本国民に押しつけられたが、「我慢して食べてもたちまち胃腸をこわす」という悪質なものであった。

 ▼「米価審議会委員」「食品流通審議会委員」などを歴任した岸康彦氏は著書『食と農の戦後史』のなかで、「フーバーは単なる慈善のために食糧援助に力を入れたわけではない。第一次大戦後、米国は大量の余剰小麦を抱え込んだ。食糧援助は飢餓救済と合わせて、米国の倉庫から、余剰小麦をへらして国際市況の低落を防ぐこと、さらには共産主義の浸透に対する防壁として農産物を利用することも狙っていた」と指摘している。

 ▼国会での感謝決議をおこなって受け入れたこれらの「援助物資」は、ガリオア・エロア基金という「見返資金制度」によるものであった。それは、物資に相当する金額を日本側が積み立てて、その30%は在日米軍基地の費用にあてるなど、資金の運用はすべてアメリカの許可を必要とした。

 ▼アメリカはそのうえに1953年、「ガリオア・エロア返済」を日本政府に要求した。そして60年「安保改訂」後の1962年、「日本はアメリカの妾(めかけ)みたいなものだから、だんなのご機嫌をとるのは当然だ」と放言した池田勇人が首相となって、4億9000万ドルの返済を実行したという屈辱的な事実も消し去ることはできない。
http://electronic-journal.seesaa.net/article/252217217.html

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戦後の日本のインフレは戦時中の借金とは何の関係もない

米軍に国土を焼け野原にされ、供給能力が極端に落ち込んだ1946年の日本であってさえ、物価が6倍「程度」のインフレでしかなかったのだ。

 当時の我が国の供給能力は、戦前と比較して実に2割の水準にまで落ち込んだと考えられている。供給能力の8割を喪失してさえ、インフレ率が500%程度で済むわけだから、日本国の生産力や技術、さらには「人材」の蓄積は凄まじい限りだ。


戦後、物が不足したのは米軍が意図的に物資を市場に出さなかったから。

別に需要が生産量より多かったからではないですね。


戦争体験者は、敗戦後はアメリカの占領の下で、「さらにひどい食糧難」を経験したと語っている。

コメの遅配、欠配が続き、どこの家庭でも買い出しに出て、「闇米」を手に入れなければ食べていけない状況が続いたのは、アメリカの占領政策によるもの。

終戦直後は大したインフレは起きなかった。

円がその後安くなったのはアメリカの命令で戦時国債を踏み倒す為に意図的に紙幣をそれまでの何十倍も発行したからだ

アメリカが日銀にやらせたのは、それまでの 1円札を100円札に名称変更して、戦時国債の額面だけは昔と同じままにしておいた。


戦後の農地解放と同じで、アメリカは地主の金を貧農・小作人に再分配させる為に円の額面を変えたんだ。 だからハイパーインフレとは全く違う。
その結果、農民はすべて自民党支持層になって日本が共産化する可能性がなくなったたんだ。

ドイツやジンバブエのハイパーインフレとは中身が全然違うよ


因みに、日本が一億総中流、世界で一番成功した社会主義国と言われる様になったのは

・GHQ の農地改革で富農の土地をインフレ前に強制買い取り、小作農にインフレ後にインフレ前の金額と同額(タダ同然)で売ってその金額だけ売主に渡した

・意図的なインフレと預金封鎖で富裕層の預金を没収


が原因

要するに、日本を共産化させない為にブルジョアジーの持つ農地と銀行預金・国債を没収してプロレタリアートに再分配したんだ

一億総中流の無階級社会になったらもう共産革命を起こす必要がなくなるからね

損したのは預金を没収された資産家と農地改革で農地を昔の地価と同じ額面のままインフレで安くなった新円札で売らされた大地主だけ

農地を地主からタダ同然で買わせて貰った小作人は一気に土地持ちの資産家になって、それ以降自民党とアメリカの支持者になった

それが自民党一党独裁が今迄ずっと続いた理由

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戦後のインフレと言われているのはアメリカの指示で戦時国債を返さなくても良くする為に、意図的に円の価値を下げて、借金の額面だけ据え置いただけの話
デノミの逆をやって資産家の財産を取上げたんだ

インフレは供給より需要が大きい場合にしか起きない
日銀がいくら金融緩和しても株式市場や海外投資に廻るだけで物価は上がらない


そもそも日本は常に供給過剰な国でハイパーインフレになった事は一度もない

ハイパーインフレーションとはフィリップ・ケーガンにより、「インフレ率が毎月50%を超えること」と定義されている。毎月のインフレ率50%が継続すると、一年後には物価が130倍に上昇することになる。すなわち、インフレ率13000%である。


戦後の日本は確かにインフレ率が高まったが、別にハイパーインフレになどなっていない。

米軍に国土を焼け野原にされ、供給能力が極端に落ち込んだ1946年の日本であってさえ、物価が6倍「程度」のインフレでしかなかったのだ。

戦後、物が不足したのは米軍が意図的に物資を市場に出さなかったから。

別に需要が生産量より多かったからではない。

戦時中も終戦後しばらくも大したインフレにならなかったんだから、農業が再開されれば食料不足は有り得ない、

従って戦後のインフレはアメリカが意図的に作った偽りのインフレという事

元々日本は供給能力が高かったから輸入と上手く組み合わせればインフレになる訳ないんだよ

米軍は食料の流通と配給制度を破壊した上で、ララ物資という食料を配給し、アメリカに恩義を感じさせる政策をとったんだよ。

GHQは小麦や脱脂粉乳などのアメリカの余剰農産物を大量に日本に輸出したかったので、日本の農業を壊滅させる占領政策を取ったんだ。
それが農家には食料が有り余っていたにもかかわらず餓死者が出た理由

 東京の小売物価は、全国平均と比べて高く推移する傾向があった。その東京の小売物価指数で見てさえ、1946年のピーク時のインフレ率は500%「程度」に過ぎない。


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米国の食糧輸出戦略
(1)、ガリオア、エロア、ララ援助
ちなみに敗戦後の小学校では、昭和二十一年(1946年)十二月から、米国産の脱脂粉乳を中心とする学校給食が始まりました。

それが米国産小麦粉から作るパンを主食とする完全給食になったのは、大都市では昭和二十五年(1950年)二月からで、全国の都市部では翌年二月からでした。

この給食はガリオア = GARIOA(Government Account for Relief In Occupied Areas)占領地救済資金、及びエロア = EROA(Economic Rehabilitation in Occupied Areas)占領地経済復興基金、からの援助プログラムによる米国産の小麦の払い下げを受けて発足したもので、ガリオア援助には食糧以外にも原綿、肥料、燃料、医薬品もふくまれていました。

日本に対する援助はこれ以外に国連が管理したララ=LARA(Licensed Agency for Relief of Asia)アジア救済機関による援助があり、これにより米国産の粉ミルクが日本全国の小学校児童に配給されました。

ガリオアによる援助は昭和二十三年(1948年)にエロア援助に吸収されましたが、基金の性格、その目的(米国における余剰農産物の処理)から、本来占領地域に対する無償援助の「はず」でした。


(2)、だまし、と脅し(Bluff)の手法

これは欧州に対する対共産主義政策の一環としての無償援助であるマーシャル・プラン(注:1)に対応したもので、日本に対しても当初は無償援助と言っておきながらサンフランシスコ講和条約締結を前に、昭和23年(1948年)1月に米国政府が突然総額二十億ドル(注:2、当時の為替レートで七千二百億円)の援助の立て替え代金(?)を請求したので、日本政府は「寝耳に水」と驚きました。


無償援助ではなく有償でもない、貸与したとする口実を米国は考えついたのです。

品質、鮮度が商品価値を左右する農産物について、大量の現物貸与などという話はこれまで聞いたことがありません。

しかも日本政府はそれまで援助は無償であると信じていて、占領中には国会で「米国の援助に対する感謝決議」までして来たのです。


もし仮に貸与であるとするならば、政府間の貸借契約書があるはずですが、そのような書類は存在しませんでした。

また小麦や脱脂粉乳の援助が有償、つまり売買契約に基づくものであるならば、その売買契約書が存在し、売買金額(トン当たりいくら、または総額いくら)が当然その契約書に記載されているはずです。


ところがガリオア、エロア援助に関する公文書には売買契約に関する文書やそれに関する条項がなく、金額の記載も全くありませんでした。

値段も決めずに何千億円もの品物を買う愚か者など、たとえ占領下でもいるはずがありません。

日本は米国から詐欺に遭ったのです。


最初に巨額な金額を要求して交渉相手をひるませるブラフ(Bluff、脅し)と呼ばれる交渉テクニックは、アメリカでは弁護士の常套手段です。

相手をひるませて交渉の主導権を握り、次に要求を少し減額して譲歩の姿勢を相手に示し、交渉解決に誠意のあるような振りをするのです。


それにより交渉を有利に進め、最後には目的とした金額を相手に支払わせる、とする戦術です。

交渉は難航しましたが、昭和三十七年(1962年)一月に、米国が援助の経緯を勘案した結果、当初請求した金額を定石通りに四億九千万ドル(千七百六十四億円)に減額して交渉成立に誠意を示した(?)ので、日本は十五年の年賦での返済に応じることとなり、後にはそれを完済し解決しました。


かなり減額したように思えますが、それまでに日本は占領に要する経費である終戦処理費として、五十億ドルもの大金を占領軍の為に支出したのです。

あたかも刑務所の看守の給料を、囚人が負担したようなものです。

その一方でマーシャル・プランによる経済援助を受けたヨーロッパの国々で、債務(?)返済に応じた国はありませんでしたが、アメリカ政府は赤子の手をひねるが如く簡単に、支払い義務の無い大金を日本から巻き上げました。


(3)、パン食導入計画、その影響

昭和二十九年(1954年)には学校給食法が国会を通過し、「小麦の粉食形態を基本とした学校給食の普及拡大をはかること」が明文化されて、米作地帯の農村までもコッペパンによる学校給食の普及が進められました。

当時米国の小麦栽培農家連盟の資金で作られた、パン食普及協議会が作成した小冊子「学校給食とパン」には、


コメを食べていると身体が弱く、頭が悪くなり、ガンや脳溢血になり易い
と書かれていました。

実は米国からの農産物援助には米を主食とする日本人を、子供の頃からパン食に慣れさせて、自国産小麦の輸出を図るアメリカ政府の遠大な戦略があったのです。

敗戦後の学校給食のパン食で育った子供が増加、成長し、親になるにつれて、日本人の食生活にも次第にパン食が普及して、その計画は見事に成功しました。


昭和三十九年(1964年)にマクガバン上院議員が米国上院に提出した報告書によると

米国がスポンサーとなった学校給食プログラムによって、日本の子供達が米国のミルクとパンを好むようになり、日本が米国農産物の最大の顧客となった

と書かれています。


具体的には米国産小麦の日本への輸入量は昭和二十八年度(1953年)の百六十八万トンから、昭和三十九年度(1964年)には三百五十九万トンと二倍以上に増加しました。

それ以来パン食が普及するのに伴い主食である米の需要が次第に減少して行き、米の生産過剰の状態が長年続いています。

その結果政府が保有する米の在庫や備蓄については、適正備蓄量百六十万トンのところ、平成十二年度では二倍近い二百八十万トンにも達していて、食糧倉庫には古米(生産後一年以上経過したもの)、古々米(二年前以上経過したもので、長期保存のために味が落ち、米飯には使用されず、せんべいなどの加工用や家畜のエサに振り向ける)が溢れています。

それにもかかわらず日本は米国をはじめ、オーストラリア、カナダから、毎年六百万トンを超える小麦を輸入していて世界最大の小麦輸入国となっていますが、その小麦の七割は米国産です。

つまり米国は自分のカネではなく、日本人の税金を使ってパン食普及の確固たる基盤を日本に作り上げて、大量の小麦の、しかも恒久的輸出先を確保したのです。


(4)、食糧自給率の低下

その後、昭和三十一年(1956年)には「米国余剰農産物に関する日米協定」を結ばせ、農産物輸入義務化により、大きな市場を米国農業に提供しました。

それ以来日本は米国にとって農産物の最大の輸出先となりましたが、その結果、主食の米離れが進み、日本の農業は衰退し、食糧自給率の試算を始めた昭和三十五年度(1960年)の七十九パーセントから、平成十四年度(2002年)ではカロリー換算で四十パーセントまで低下しています。

これほど低い自給率の国は フランスの百三十五パーセント、米国の百二十五パーセントなどに比べて先進国では日本だけですが、小麦をはじめ、牛肉、大豆など食糧に関する限り、日本は米国の「五十一番目の州」になり下がったと言えます。
http://homepage3.nifty.com/yoshihito/hp-1.htm


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「アメリカ小麦戦略」と日本人の食生活 – 2003/2 鈴木 猛夫 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%B0%8F%E9%BA%A6%E6%88%A6%E7%95%A5%E3%80%8D%E3%81%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E9%A3%9F%E7%94%9F%E6%B4%BB-%E9%88%B4%E6%9C%A8-%E7%8C%9B%E5%A4%AB/dp/4894343231

より抜粋


■昭和20年代(1945年〜)---アメリカで農産物の過剰生産、過剰在庫

 戦後日本人の食生活が急速に欧米化した裏にはアメリカの存在があった。
アメリカは昭和20年代、小麦、大豆等の過剰生産、過剰在庫が深刻化し、その余剰農産物のはけ口として標的にされたのが日本である。


■昭和29年(1954年)---余剰農産物処理法(PL480)成立。

 昭和29年、アメリカは余剰農産物処理法 (PL480)を成立させ、日本に対する農産物輸出作戦に官民挙げて本格的に乗り出した。

当時の日本側栄養関係者も欧米流の栄養学、食生活の普及、定着が必要だとしてパン、畜産物、油脂類などの普及を意図した「栄養改善運動」に取り組み、日米共同の食生活改善運動が推進された。


■アメリカ小麦戦略

 活動資金の多くがアメリカ側から提供されたが、そのことは当時も今もタブーとして長く伏されてきた。 

これを一般に「アメリカ小麦戦略」という。


■昭和30〜40年代(1955〜1975年)---フライパン運動、学校給食など

 パンの原料である強力小麦は日本では産出できず、日本人がパン食を始めれば永久的に日本はアメリカのお得意になる。

戦前まで少なかった油料理を普及させるためにフライパン運動を展開し、油の必要性を強調する栄養指導が熱心に行なわれた。

トウモロコシ、大豆は家畜のエサであると同時に油の原料でもある。
余剰農産物処理の観点から欠かせない重要な戦略であった。

学校給食ではパンとミルクが無償援助され、子供のうちから洋食嗜好の下地を作ることにも成功した。


■昭和52年(1977年)マクガバンレポート(アメリカは気が付いた)

 アメリカ合衆国政府は1977年に

『ガン、心臓病、脳卒中などの現代病は食生活の間違いで起こる"食源病"である』(マクガバンレポート)

と解明して、欧米型の食生活の改善を促した。

欧米型とは、脂肪と動物性たん白質、砂糖の過剰摂取。ビタミン・ミネラルや食物繊維の減少のこと。


■食料自給率たった四割

 「アメリカ小麦戦略」の成功で、小麦、大豆、トウモロコシの九割以上がアメリカをはじめとする輸入品。
食糧自給率は四割以下で先進国中最低。


■問題は命にかかわる

 ここまでは、食生活が変わった〜。美味しい食べ物のバリエーションが拡がった〜。程度の認識でいいかもしれない。

しかし、問題は・・・別にある。


■子供が糖尿病にかかり、アレルギー疾患が蔓延している

 問題は、欧米型食生活にともなって病気もまた欧米型となり、日本人の健康状態が非常に懸念される状況になってきたことである。

戦前まで少なかったガン、糖尿病、動脈硬化、心臓病、痛風などのいわゆる欧米型疾患は子供にまで広がり、アトピー、花粉症、喘息などのアレルギー疾患も増加の一途である。

糖尿病は予備軍を含めて1620万人にのぼり糖尿病に子供が苦しむという前代未聞の事態になってしまった。痛風患者も予備軍を含めて560万人とも言われる。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=124643&g=132107

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真珠湾アリゾナ記念館での安倍総理の演説

総理は米国の寛容さを示すエピソードとして、終戦直後の食料援助に言及している。本文は
「日本が見渡す限りの焼け野原、貧しさのどん底の中で苦しんでいた時、食べるもの、着るものを惜しみなく送ってくれたのは、米国であり、アメリカ国民でありました」

である。

終戦直後の米国の援助物資はララ物資(LaRa・・Licensed Agencies for Relief in Asia(アジア救援公認団体))と呼ばれている。これによって命を助けられた日本人は多数いる。またこのララ物資が発端となり学校給食が始まったという話がある。


日本人は、長い間、ララ物資を100パーセント米国民の自主的な善意の援助と思っていた。しかしこの裏には浅野七之助氏という日系米国人の大きな働きがあった。浅野氏は岩手・盛岡出身のジャーナリスト(サンフランシスコ邦字紙「日米時報」を発刊)である。氏は終戦直後の日本の惨状にいたたまれず、「日本難民救済会」を設立し日系人に声を掛け祖国日本に救援物資を送ることに奔走した(ブラジルの日系人からも寄付を募った)。

浅野氏は、食料などの援助品を米軍に掛け合い日本に送ってもらったのである。戦後間もない頃の日本人は、これを米国の善意のプレゼントと勘違いしていた。たしかにその後、金額的に見てもララ物資は大きくなりとても日系人の寄付だけではとうてい賄えないものになっている。おそらく米国の援助部分が大きくなったと思われる。しかしララ物資の先鞭をつけたのはこの浅野七之助氏という事実を忘れてはいけない。

この話は決して米国民の寛容さを否定するものではない。米国民の対日感情が非常に悪かった時代に、米軍が日本に援助物資を届けてくれたことはむしろ画期的なことである。むろん日系ではない米国人の大きな協力もあった。ただララ物資の裏に浅野氏等の日系人の働きがあったことは戦後長い間伏せられていた。安倍総理の演説を聞き、この話を思い出したしだいである。
http://www.adpweb.com/eco/


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日本の農地改革

一般的には1947年(昭和22年)、GHQの指揮の下、日本政府によって行われた農地の所有制度の改革を指す。

もともと日本の官僚の間には農村の疲弊を除くために地主制度を解体する案はもとよりあったが、財界人や皇族・華族といった地主層の抵抗が強く実施できなかったものをGHQの威を借りて実現したといえる。

1945年(昭和20年)12月9日、GHQの最高司令官マッカーサーは日本政府にSCAPIN-411「農地改革に関する覚書」を送り、「数世紀にわたる封建的圧制の下、日本農民を奴隷化してきた経済的桎梏を打破する」ことを指示した。これ以前に日本政府により国会に提案されていた第一次農地改革法はこの後GHQに拒否され、日本政府はGHQの指示により、より徹底的な第二次農地改革法を作成、同法は1946年(昭和21年)10月に成立した。

この法律の下、以下の農地は政府が強制的に安値で買い上げ、実際に耕作していた小作人に売り渡された。

不在地主の小作地の全て

在村地主の小作地のうち、北海道では4町歩、都府県では1町歩を超える全小作地
所有地の合計が北海道で12町歩、都府県で3町歩を超える場合の小作地等

また、小作料の物納が禁止(金納化)され、農地の移動には農地委員会の承認が必要とされた。

農地の買収・譲渡は1947年(昭和22年)から1950年(昭和25年)までに行われ、最終的に193万町歩の農地が、延237万人の地主から買収され、延475万人の小作人に売り渡された。

しかも、当時の急激なインフレーションと相まって、農民(元小作人)が支払う土地代金と元地主に支払われる買上金はその価値が大幅に下落し、実質的にタダ同然で譲渡されたに等しかった。

譲渡された小作地は、1945年(昭和20年)11月現在の小作地(236万町歩)の8割に達し、農地に占める小作地の割合は、46%から10%に激減し、耕地の半分以上が小作地である農家の割合も約半数から1割程度まで減少した。

この結果、戦前日本の農村を特徴づけていた地主制度は完全に崩壊し、戦後日本の農村は自作農がほとんどとなった。

このため、農地改革はGHQによる戦後改革のうち最も成功した改革といわれることがある。

一方で、水田、畑作地の解放は実施されたが、林野解放が行われなかったことから、不徹底であったとされる。

この農地改革を巡っては、施行されたばかりの日本国憲法の第29条3項(財産権の保障)に反するとして、一部の地主が正当な価格での買取を求め訴訟を起こしたが、第29条3項で言う正当な補償とは、市場価格とは異なるという解釈がされ請求は棄却された。

また、この農地改革は当事者によればナチス・ドイツの世襲農場法も範とした反共政策として意図されており、政府や GHQ もその勢力拡大を警戒していた日本共産党の力を大幅に削ぐことになった。

従来、賃金労働者と並んで共産党の主要な支持層であった水田および畑作地の小作人の大部分が自作農、つまり土地資本を私有財産として持つようになり、その多くが保守系政党に取り込まれたためである

(当時の共産主義諸政党の政策方針では集団化(農地は自給用の田畑のみがコルホーズの協同組合経営として認められ、残りはソフホーズとして国有化され、農業従事者は国から土地を借りて耕作するという形)を目指していたため)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B2%E5%9C%B0%E6%94%B9%E9%9D%A9

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旧華族没落の引き金を引いた財産税の話です。

Jcoffee さんの株式投資日誌に面白い記事がありました。
旧華族没落の引き金を引いた財産税の話です。

(2003/2/17) 華族の話

1869年(明治2年)、維新政府は大名の支配する土地と人民を朝廷に奉還させます(版籍奉還)。何の代償もなく、大名が手放すはずはありません。大名には、軍事力があります。


大名と藩士の主従の関係をどう断ち切ったか?

つまり、300諸侯といわれた大名を華族として特権を与え、藩士を士族として遇することにより、維新政府は封建身分制度の解消に成功します。
華族は、近代日本の黎明期に、こうして誕生したのです。


5摂家などの公家も同時に、華族に叙せられます。

1884年(明治17年)に、華族に対し、公・侯・伯・子・男の5つの爵位が与えられます。

当時、最高位の公爵は、徳川家、島津家(2人)、毛利家の4人だけでした。
加賀100万石の前田家は、侯爵にすぎません。薩長の藩閥政治の影響でしょう。


この年に注目されるのが、明治維新の立役者が新華族になったことです。

伊藤博文、山県有朋、黒田清隆、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌などは、伯爵に叙せられました。

旧華族は、新参者の新華族を嫌い、対立したそうです。

学習院は、昔は、華族学校といって、皇族と華族の子供を教育する学校でした。平民でも、財閥の子供は、特別に入学が認められました。

侯爵と伯爵は、皇族とともに、貴族院の終身議員の地位が保証されていました。伯・子・男爵についても、一度議員に選出されると、7年間は解散がありません。

華族は、80年間、日本の上流社会を形成してきたのです。
そして、玉音放送・・・太平洋戦争が終結。

1948年5月、日本国憲法の制定とともに、華族制度は廃止されます。
しかし、多くの華族を苦しめ没落させた、政府の施策は、華族制度廃止のニ年前に断行されました。

1947年(昭和21年)11月、戦後の財政の行き詰まりを打開するため、GHQの指導に基づき、政府は、「財産税法」を制定して、財産税が徴収されることとなります。
財産税は、10万円以上(今の価値に直すと約5000万円以上)の財産を保有する個人に課せられ、税率は次のとおりでした。


財産税の税率

財産額 税率
10万円を超える金額 5%
11万円を超える金額 30%
12万円を超える金額 35%
13万円を超える金額 40%
15万円を超える金額 45%
17万円を超える金額 50%
20万円を超える金額 55%
30万円を超える金額 60%
50万円を超える金額 65%
100万円を超える金額 70%
150万円を超える金額 75%
300万円を超える金額 80%
500万円を超える金額 85%
1500万円を超える金額 90%


すなわち、膨大な資産を持っていた華族達は、全財産の90%近くを税金として支払う必要がありました。戦後の混乱期とはいえ、個人財産の約9割を取上げる累進課税は、過酷だと思います。

現金で支払うか、物納するか、利息を払って延納するか?
広大な屋敷、別荘、土地、先祖伝来の絵画、掛け軸などの骨董品を直ぐに換金することは出来ません。

多くのケースで、財産が物納されました。
物納された骨董品の買い手は、日本国内には、いません。
国宝級の美術品が、海外に流出していきました。

このとき延納を選び土地を温存し、ドッジデフレ時代の資金繰りを凌いだ華族は、土地価格の高騰で大金持ちとして、生き残れたそうです。

1948年春に発表された財産税の納税番付のトップは、天皇家です。
37億4300万円を納め、残りの財産は、国有財産になりました。

秩父宮、高松宮、三笠宮を除く、11家51人の皇族が財産税を支払った上に皇籍を離脱します。彼らに対しては、わずかの一時金が、支払われますが、直ぐに底をつきます。

ある内親王は、鶏を飼い、卵の生産・販売をしたり、プラステック加工の内職をして、元軍人で失業中の夫を助けたそうです。

皇族でさえ、この状況です。多くの華族が、この瞬間に致命的な打撃を受けて、没落し、路頭に迷います。

1950年1月、絶世の美女といわれた伯爵令嬢・堀田英子さんが、戦後の成金・小佐野賢治さん(国際興業社主)と結婚します。結納金は、なんと400万円。財産税がなかったら、二人は結ばれなかったと思います。

◆◆華族達を犠牲にした財産税は、日本の財政再建と復興に役に立ちました。◆◆
http://www.asyura.com/2003/hasan22/msg/288.html

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アメリカの社会主義者が日米戦争を仕組んだ


「日米近現代史」から戦争と革命の20世紀を総括する – 2015/10/9 馬渕 睦夫(著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E8%80%85%E3%81%8C%E6%97%A5%E7%B1%B3%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%82%92%E4%BB%95%E7%B5%84%E3%82%93%E3%81%A0-%E3%80%8C%E6%97%A5%E7%B1%B3%E8%BF%91%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E5%8F%B2%E3%80%8D%E3%81%8B%E3%82%89%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%A8%E9%9D%A9%E5%91%BD%E3%81%AE20%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%82%92%E7%B7%8F%E6%8B%AC%E3%81%99%E3%82%8B-%E9%A6%AC%E6%B8%95-%E7%9D%A6%E5%A4%AB/dp/4584136823/ref=sr_1_3?ie=UTF8&qid=1546955741&sr=8-3&keywords=%E9%A6%AC%E6%B8%95%E7%9D%A6%E5%A4%AB+%E6%9C%AC


「ロシア革命」「支那事変」「日米戦争」…近現代史の裏には必ず彼らがいる!

米大統領のウィルソンやルーズベルトを操り、日本とアメリカを戦わせた勢力に迫る―。

社会主義者=国際金融資本家。「東京裁判史観」を打ち破る渾身の一冊!!

アメリカはなぜ日本に戦争を仕掛けたのか?


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日米の“真の和解"のために、著者渾身の書下ろし!

■ メディアを支配するものが世界を支配する

■ 国際社会は「国益」のぶつかり合い

■ ウィルソン大統領の「ロシア革命礼賛」の謎

■ 大資本家は社会主義者である

■ 共産主義者はなぜ殺人に“不感症"なのか

■ 「ワシントン会議」こそ大東亜戦争の火種

■ アメリカは中国を舞台に、日本に“参戦"していた

■ ルーズベルト大統領も国際主義者だった! 他


【目次より】

序 章 【米露に対する「安倍外交」の真髄】
世界は日本に期待している!
・アメリカの「対露制裁解除」の鍵を握る安倍外交
・「中国の暴走」を抑えるには、ロシアを味方にせよ 他

第一部 【ウィルソン大統領時代のアメリカ】
アメリカはなぜ日本を「敵国」としたのか
I「日米関係」の歴史
II アメリカの社会主義者たち
III「共産ロシア」に対する日米の相違
IV 人種差別撤廃と民族自決
v 運命の「ワシントン会議」

第二部 【支那事変の真相】
アメリカはなぜ日本より中国を支援したのか
I 狙われた中国と満洲
II「西安事件」の世界史的意義
III 中国に肩入れするアメリカ

第三部 【ルーズベルト大統領時代のアメリカ】
アメリカはなぜ日本に戦争を仕掛けたのか
I ルーズベルト政権秘話
II 仕組まれた真珠湾攻撃
III 日本を戦争へ導く「アッカラム覚書」

終 章 【これからの日米関係】
「グローバリズム」は21世紀の「国際主義」である
・アメリカの正体とは?
・「グローバリズム」と「ナショナリズム」の両立は可能か 他


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世界の国で中間層が部厚かったのは平成バブル崩壊までの日本だけです
そしてそれは、終戦直後に GHQ が農地改革、意図的なインフレと預金封鎖、極端な累進課税で人為的に所得再分配をやった結果なのです。

何もやらなければ現在のアメリカみたいに、マルクスの預言通りの階級社会になるに決まっています。

平成バブル崩壊までの日本が世界で最も成功した社会主義国だと言われていたのは
すべて GHQ の共産化政策の結果なのです。

20年前まで大学関係者や学生が左翼とマルクス主義者ばかりだったのも GHQ の教育方針の結果でしょう。


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c13

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
30. 中川隆[-11643] koaQ7Jey 2019年3月07日 16:35:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[348]

店の名はライフ 1977.06.25

中島みゆきの通算3枚目のオリジナル・アルバム『あ・り・が・と・う』収録曲。

1970年代、北海道札幌市北区、北大正門の近くにあった喫茶店「ライフ」がモデル。
歌詞のとおり、隣には自転車屋があった。

当時、藤女子大の学生として店を訪れていた中島みゆきについて、「ライフ」の“ママ”は、

「化粧っけも無く、地味な感じのお嬢さんだったけど、店が込むと、そっと手伝ってくれたんですよ。よく覚えています」

と語っている(1999年5月3日付「北海道新聞」より)。



□ REVIEW

この作品の3番の歌詞の「抜け道は左 安梯子」と言う部分は、小説「女歌」の「もう一人のmiss M.」のなかで昔の思い出として描写されている一部分

(公安関係者の捜索を受けた時に店を抜け出して走って逃げたという主旨の描写)

とつながるのではないでしょうか。

歌ではさらっと流していますが、現実はいろいろあったという感じで。

4番の歌詞は時代は変わったという表現だと思いますが、「ぬり込めてしまった」というフレーズには意味深長なものを感じます。(猫左衛門/50代・男性)
http://miyuki-lab.jp/disco/song/ba043.shtml
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c30

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
31. 中川隆[-11642] koaQ7Jey 2019年3月07日 16:59:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[349]

中島みゆき ミルク32 1978.04.10
https://www.youtube.com/results?search_query=%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E3%81%BF%E3%82%86%E3%81%8D+++%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%82%AF32&sp=mAEB


北海道大学の学生のたまり場となっていた喫茶店「ミルク」がモデル。

喫茶ミルクの中島みゆきと猫 2014年01月24日
https://ameblo.jp/takemasa723/entry-11756610237.html


先日、若い女性と飲んでいるときに「みゆき」と「ちはる」の話をしたら、「みゆきとちはるって誰ですか?」と聞かれてしまったタケマサです。


私の中では「みゆき」と「ちはる」と言われれば、「中島みゆき」さんと「松山千春」さんです。


さて、先日、あの「学生街の喫茶店」を絵に描いたようなお店に行ってきました。


地下鉄北18条駅から516m(食べログから)


札幌市東区北20条東1にある ミルク


ミルク - 北13条東-喫茶店 [食べログ]
https://tabelog.com/hokkaido/A0101/A010202/1007836/

40年前に出来たお店


マスターは元シンガー・ソングライター


(藤女子大学在学中に)北海道大学フォークソング研究会の初代メンバーだった中島みゆきさんもお店にも来ていたとのこと。



訪問時のお客さんは私ひとり。


なので、マスターの奥さまからいろいろなお話を聞くことが出来ました。


マスターは若手バンドの育成をしていて、デビュー前の中島みゆきさんと人気を二分していたシンガーでこの店でもバイトしていたのは宮越屋珈琲の社長さんという話や藤女子高校出身の大黒摩季さんもこのお店に来ていたとか。


と、ここで、お店の中で猫ちゃんを発見


捨て猫が住み着いて5年半


名前は「さぶ」ちゃん


最初はブサイクなので「ぶさ」ちゃんと名前をつけたそうですが、それではかわいそうなので、逆さにして「さぶ」ちゃんにしたとのこと。


まるで「怪傑ゾロ」のような「さぶ」ちゃんでした。



奥さんとの話に夢中になり、珈琲の写真を撮るのも忘れてしまいましたが、とても美味しい珈琲でした。(380円)


この店に訪問する前に食事したお店の有線で、偶然にも中島みゆきさんの「糸」


縦の糸はあなた 横の糸は私
逢うべき糸に出逢えることを
人は仕合わせと呼びます


学生時代にタイムスリップした「しあわせ」なひとときでした。
https://ameblo.jp/takemasa723/entry-11756610237.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c31

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
32. 中川隆[-11641] koaQ7Jey 2019年3月07日 17:05:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[350]
中島みゆきとミルク


投稿者 : エリック 登録日 : 2008年9月22日16時52分

中島みゆきと言えば「ミルク」をおもいだします。喫茶店の名前です。札幌の藤女子
大学に通いながら練習してた場所が大学近くのミルクでした。当時の喫茶店のマスタ
ーに取材したことがありますが、とにかく喫茶店の2階でいつも練習してたようです
ね。そして、ヤマハのポップコーンで才能が一気に爆発したのです。当時のヤマハプ
ロデューサーの橋田が生みの親とか橋田本人が言ってましたが。ミルクは歌の歌詞に
もまっているほど中島さんにとって愛着があるのです。時代を超えても「時代」は歌
われ続けてます。

Re:中島みゆきとミルク
投稿者 : 阿部@管理人 登録日 : 2008年9月23日16時53分
リンク : http://miyuki-lab.jp/


コーヒーハウス「ミルク」のマスター、前田重和さんは、
今年2月にNHK札幌で放送された「北海道ひと物語」でも
若手ミュージシャンたちを支援する様子が紹介されてました。
ちなみに、現在は「ミルク60」です。

その中で、みゆきさんの『ミルク32』の紹介があり、
みゆきさんがアマチュア時代に出演した前田さん後援の
フォークイベントのチケットが、ちらっと映ってました。

「??まなフォークコンサート」
 第30回不況克服ソロ特集
 1974年5月10日(金)道新8Fホール
 午後5時半開場、6時開演予定、おふたり様¥500
 出演:宮越陽一、中島美雪、こみやさんと室内バンド 他
 後援:コーヒーハウス ミルク(北20通り)

タイトルの一部が画面からはみ出して見えませんでした。
これがわかれば【公演記録】に追加できるんだけど。

喫茶店の開店は昭和49年なんですが、
当時は2階が練習スタジオだったんですね。
現在あるスタジオ「ミルク」は、喫茶店から徒歩2分ほどの所にあり、
昭和52年に父親の持っていたアパートを改装して開業したそうです。

p.s.
ヤマハの橋田さんって「橋田ペッカー正人」さんのことですか?
『親愛なる者へ』あたりからアルバム制作に参加してます。
http://miyuki-lab.jp/bbs/pslog/bbs_f/plgafree204.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c32

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
33. 中川隆[-11640] koaQ7Jey 2019年3月07日 17:12:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[351]


コーヒーハウス「ミルク」訪問記  ―中島みゆきからの「問い」の再発見―
投稿日: 2016年9月23日 投稿者: jun
https://soiree.belle-neige.net/essays/295

昨年末の『一会』年内最終公演のレポート以来、またしても長らく開店休業状態が続いていたこのブログ――だが、その怠惰から私を覚醒させる不意の一撃ででもあるかのように、つい先日、私の30数年間にわたる中島みゆきファン歴の中でも真にエポックメイキングな出来事に遭遇した。そのことを書きたい。

9月上旬、札幌への出張の最終日の日曜、幸い少しだけ時間ができたので、当地にお住まいのFacebookの友達Uさんのお誘いで、コーヒーハウス「ミルク」を訪れた。

今から24年前、みゆきファンの友人二人と北海道へ、いわゆる「聖地巡礼」をしたときにも、この店の前までは行ったのだが、そのときはまだ開店前で、シャッターの前に立った私の間抜けな写真が残っている。

中島みゆきの熱心なファンのあいだでは、このコーヒーハウスは、「ミルク32」 (1978年のアルバム『愛していると云ってくれ』収録曲) の舞台のモデルとしてよく知られているだろう。マスターの前田重和さんは、学生時代、宮越陽一さん (札幌の喫茶店、宮越屋珈琲の現社長) 、そして中島美雪と3人でフォーク・グループを組み、音楽活動をしていたかたである。

この日は、営業時間 (14時開店) を前もって調査し、Uさんと15時に現地で待ち合わせることにした。定刻少し前に到着すると、お店はまだすいていて、マスターに「長年の中島みゆきさんのファンなので……」と正直に打ち明けると、学生時代当時のことをはじめとして、色々な興味深いお話をゆっくり伺うことができた。

それらの貴重なお話の中でも、とりわけ強く印象に残ったのは、中島みゆきは、40数年前のアマチュア時代からずっと変わることなく、心の奥底に直接に響くように、「あなたは、人は、社会はこのままでいいのか」という問いを鋭く突きつけてきた――ということ。

当時、「彼女の歌には社会性が足りない」などという批評もあったが、今から思えばそれはとんでもない的外れで、彼女ほど社会の本質を深く、鋭く捉えていた者はいなかった――というお話もあった。

前田さんご自身は、最近はあまり頻繁に彼女のライブに出かけるわけではないけれど、2,30年ほど前のコンサートで、学生時代と同様、中島みゆきと1対1で向き合っているかのように、その問いかけの迫力に圧倒され、客席にいながら、まるで飛行機が離陸するとき加速で座席に強く押し付けられるかのような圧迫感を感じた、と率直に語られた。

この店は、隣接する「スタジオ・ミルク」と連携しながら、北海道・札幌の若いミュージシャンたちの活動拠点ともなっていて、私たちがいるあいだも、重そうな機材や楽器をかかえた人たちが時折、訪れていた。

前田さんは、そうした若いミュージシャンたちを育てることで、学生時代に中島美雪から突きつけられた問いに今も答えようとしているのかもしれない。

私自身、今から36年前に彼女の存在を最初に意識した時以来、まだ記憶に新しい夜会VOL.18『橋の下のアルカディア』、そしてスペシャルコンサート『一会』に至るまで、中島みゆきからは幾度も、そうした――直ちに応えることの困難な――自己や人間や社会についての根底的な問いかけを突きつけられてきた。それらの記憶が、今も私にとって、中島みゆきという存在がもつ意味の原点になっている。

――が、若き日の彼女を直接に知る前田さんの言葉で、改めてそれが彼女の変わらぬ姿勢であると証言されたことは、私にとってきわめて重く、その原点を鮮明に、新たな光の中に再発見させられる思いだった。1対1の関係の中で、中島みゆきから渡された問いというバトンを、未来へと引き継いでゆこうとする意志を――まるで中島みゆき自身の肉声で呼びかけられたかのように――これまでになく強く鼓舞される思いでもあった (Uさんも同じ思いだったと、後から聞いた)。


なお、少し補足しておくと、前田さんと私たちは、何も上記のようなシリアスで重い話ばかりをしていたわけではない。前田さん――そして、コーヒーハウスとスタジオを共同で切り盛りされている奥さんの彰子さんも、途中で話に加わっていただいたが――ご夫妻お二人とも、とても気さくで明るく、かつ穏やかな方々だった。

そういえば、中島みゆきの、あのシリアスな歌とコミカルなトークでバランスを取ろうとする独特のスタイルも、学生時代からまったく変わっていない――というのも、前田さんの貴重な証言のひとつであった。

私もUさんも、中島美雪がいつも坐っていたというカウンター席に坐らせてもらい、その頃から降り積もった時間が堆積しているこの空間の心地よさと懐かしさの中に、ひとときのあいだ身を委ねることができた。

――このような貴重な、まさに一期一会の機会をつくっていただいた前田さんご夫妻とUさんに心より感謝するとともに、いつか再びこの場所を訪れる時がめぐってくることを、強く願っている。



コメント


めんとれ より: 2016年9月24日 10:17 PM

拝読させて頂き、みゆきさんが3人のグループで歌っていたのは、何年間なのだろうか、又いつ頃なんだろうか、どんな曲を歌っていたのか、などなど興味が湧きます。

大学進学で札幌に出たのが、1970年4月。1972年1月にはソロで地区予選に出場。3人の活動期間は、大学1年2年の頃としたら、意外と短かかったんだなと。
人との繋がりを大切にされているようにお見受けするみゆきさんですが、こと音楽で接した人々に関しては客観的に対処されているように思えて仕方ありません。

学生時代に一緒に歌ったグループのメンバーからは、その後の交流の話題が漏れ伝わって来ません。そして、帯広時代のことと同様に、みゆきさん自身の口からも(曲を除いて)あまり話題が出てきません。
ミルクの話題から、ふと そんなことを感じました。

JUN より: 2016年9月25日 12:02 AM

そう言われてみれば、グループの活動期間やレパートリーなど、当時の具体的なことはほとんどお聞きせず (というか、そうした質問自体を思いつかず)、もっぱら前田さんから見たみゆきさんの人物像についてのお話を伺うことに集中していました。

みゆきさんの藤女子大での学生時代は1970年4月から1974年3月までの4年間ですが、ちょうどその半ば、3年生の1972年にフォーク音楽祭全国大会に出場し、課題詞として提示された谷川俊太郎さんの「私が歌う理由」に大きな衝撃を受けた、という有名なエピソードがありますね。その前後の時系列については具体的にはお聞きしなかったのですが、お話のニュアンスでは、それ以降も札幌での3人の活動は続いていたような印象を受けました (次に訪問する機会があれば、確認してみます)。

一般論として、みゆきさんのアマチュア時代については (卒業後の帯広時代のことも含め)、ご指摘のとおり彼女自身があまり語っていませんし、ごく断片的な情報 (当時の少数の新聞記事など) しか手に入らないので、なかなかはっきりしたことを知るのは難しいですね。

ただ、「ミルク」が開店したのは、みゆきさんの卒業後の1974年9月のことで、「ミルク32」の歌詞から伺われるように、それ以降もずっと――おそらく現在に至るまで――前田さんとみゆきさんとのあいだには、若き日の仲間同士としての気の置けない信頼関係が続いていることが感じられました。そのことを確認できただけでも、この訪問は私にとって価値ある経験だったと思います。


追伸
このブログ記事によると、NHK北海道ローカルで2008年に放送された「北海道ひと物語」というドキュメンタリー番組に前田さんが出演し、1974年5月にみゆきさんや宮越さんが出演したライブのチケットを見せてくれた、ということです。
http://58447802.at.webry.info/200802/article_5.html

そうするとやはり、(必ずしもグループというかたちではなくても) 3人の音楽的つながりは、みゆきさんの卒業後も続いていたと言えそうですね。



めんとれ より: 2016年9月25日 2:57 PM

あるブログに、ミルクのマスターから聞いたことが書かれていました。

思い切ってマスターとみゆきさんが組んでいたバンド「壊れた蓄音機」の時代のこともうかがってみた。最初ボーカルは女性2名で始まったのだという。やがてみゆきさんだけになり、その活動期間は2年間ほどだった、ということがわかる。様々な有名バンドのコピーを演奏するバンドとして活動していた、とのこと。みゆきさんがオリジナルを披露するようになるのは、そのあとに研究会をするようになったときからだった。
http://blogs.yahoo.co.jp/m19520223/54588939.html

ところで、このブログの方をご存知でしょうか。


JUN より:2016年9月25日 5:58 PM

このブログの著者は、内容から推察すると、放送当時のNHK札幌のスタッフ(ディレクター?)のかたのようですね。私は初見です。

この記述からすると、「壊れた蓄音機」として活動していたのはみゆきさんの学生時代前半の2年間ほどで、後半 (フォーク音楽祭出場以降) は、北大フォークソング研究会に参加する一方、ソロとしてオリジナル曲を歌うようになった、というような時系列が推測されますね。

前田さんのお話は、どちらかといえばその後半期の印象を中心に語っておられたのかもしれません。

なお、北大フォークソング研究会は現在も存続、活動しているようです。
http://hokudaifken.webcrow.jp/


https://soiree.belle-neige.net/essays/295
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c33

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
34. 中川隆[-11639] koaQ7Jey 2019年3月07日 17:15:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[352]

北海道 札幌巡りA【中島みゆき ミルク32】2019年02月18日
https://ameblo.jp/mejirotabi/entry-12439895308.html

2019年2月の北海道ツアーの参加旅行記です。

クラブツーリズムのツアー2泊3日に参加してみました。

1日目は札幌雪まつりを散策してますが、少し時間が余ったので、ロック巡礼をしていきます。タクシー拾って、あるお店に向かいました。

中島みゆきの1978年のアルバム「愛していると云ってくれ」というアルバムに、「ミルク32 」という曲があります。


札幌市内に実在する「ミルク」という喫茶店が舞台なんですね。そこにやってきました。中島みゆきは北海道の名士のお嬢さんだったんでした。札幌の大学に通っていて、このお店にもよく来ていたんですね。

「ミルク32 」はこのお店のマスターのことを歌ってるそうですね。振られて愚痴る客(=みゆき)と優しいマスターみたいな設定だったと思います。中島みゆきの歌詞にありがちな設定でした。


中島みゆき「ミルク32 」


ねえ ミルク またふられたわ
忙しそうね そのまま聞いて
ゆらゆら 重ね上げた
お皿と カップの かげから

ねえ ミルク またふられたわ
ちょっと 飛ばさないでよ この服高いんだから
うまくは いかないわね
今度はと 思ったんだけどな

あんたときたら ミルクなんて飲んでてさ
あたし 随分 笑ったわね
いつのまに バーボンなんて
飲むように なったのよ

https://ameblo.jp/mejirotabi/entry-12439895308.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c34

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
35. 中川隆[-11638] koaQ7Jey 2019年3月07日 17:22:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[353]

2015年5月31日のゲスト
http://www.hbc.co.jp/radio/genkibito/backnumber/2015/interview150531.html


前田 重和さん/音楽プロデューサー
「コーヒーハウス ミルク」マスター
「STUDIO MILK」経営

札幌市出身。68歳。
子どもの頃から音楽好きで、中学・高校では合唱部に在籍。高校2年の頃は、当時流行っていたアメリカンフォークにのめり込みバンド活動に夢中になる。札幌大学在学中には「北大フォーク研究会」とも交流をもち、デビュー前の中島みゆきさんと知り合う。そして1974年、大学を卒業して2年目で中島みゆきさんの歌にも登場する「コーヒーハウスミルク」を開店。1979年には、練習スタジオ「STUDIO MILK」をオープンした。


■コーヒーハウスミルク40周年記念 ザ感謝ライブ■
6月26日(金) OPEN 18:00〜/START 18:30〜
6月27日(土) OPEN 16:00〜/START 16:30〜
ペニーレーン24で両日開催
チケットの取り扱いは、ローソンチケットかコーヒーハウスミルク

◎コーヒーハウスミルク&STUDIO MILKのHP
 http://www.milk32.com/

村井裕子のインタビュー後記

 朝の連続テレビ小説。この3月までの「マッサン」の主題歌は、中島みゆきさんの「麦の唄」。ごく易しい言葉なのに物語の真髄が浮かび上がってくるような素晴らしい歌だった。

 確か年明けの回だったと思う。歌い出しを聴いて「あれ?変わった?」と思った。心をグイッと鷲掴みにされたような衝撃があり、あれよあれよという間に涙が止まらなくなった。

 なぜ?と思って録画を聴き直してみると、聴き慣れていた一番が二番に変わっており、その歌い方が一番の時とは格段に違っていたのだ。思いを込めているとか、深みがあるとか、簡単には表現できない中島みゆきさん特有の「凄み」といったらいいか。「朗読」表現で言えば、ここぞという言葉を発する時の「息づかい」の妙味に溢れていて、それからの毎朝、「大好きな」とか「愛する」という言葉に差し掛かると決まって涙を誘われ、メイクしたての時などはほんとうに困ったものだった。

 中島みゆきさんの真骨頂を再確認した主題歌だったが、歌であれ何であれ「テクニック」で人は泣かない。たぶんすごく簡単に言ってしまうと、「魂」の歌い手だからなのだろう。

前田重和さん 魂の込められた歌、嘘偽りのない歌、ほんものの歌・・・それは、人の人生をも揺さぶり、力強く前に踏み出す勇気を与えてくれる。今回の「ほっかいどう元気びと」は、そんな「ほんものの歌」を歌う人を世に送り出したくてミュージシャンの卵達を応援し続けてきた人。

 札幌の東区で40年間「コーヒーハウス ミルク」のマスターとしてコーヒーを淹れながら、音楽プロデューサーとしても活動してきた前田重和さん 68歳。喫茶店の開店から5年後の1979年には、バンドの練習が出来るようにと「STUDIO MIKL」も手掛け、格安でミュージシャン達の技を磨く場を提供してきたという音楽一筋の人だ。

 前田さん自身も若い頃から音楽に情熱を傾け、バンド活動やシンガーソングライターとしてメジャーを目指した時期もあったというが、応援する側に回ったのは、中島みゆきさんに会ってしまったからだという。70年代、音楽の世界も新しいものを生み出そうとするエネルギーが渦巻いていた時代、前田さんと中島みゆきさんは「北大フォーク研究会」で知り合い、初めて中島さんの歌を聴いて衝撃を受けた前田さんは、「自分はこういう人を世に送り出す手助けをしなくては」との思いで、卒業後にライブハウスも兼ねた喫茶店「ミルク」を手作りで完成させたのだという。

 中島さんの「ミルク32」という歌に出てくるマスターはやっぱり前田さん?と訊くと、満更でもなさそう。ただ、「中島(みゆきさん)に会ってしまったおかげで、中島を超えるようなミュージシャンを世に出したいと、とてつもなく高い目標になってしまった」と、その達成に向けてまだまだやりたいことは山ほどあるとの志を力を込めて語ってくれた。

 共感したのは、スタジオに練習に通うミュージシャンの卵達との距離の取り方。決して近くなりすぎないように、でも、なんとか伸びてほしいので、喫茶店から少し離れたスタジオに掃除に行ったついでに、漏れてくる音を聴く。その音がそれまでよりもより良く変化していたら、タイミングを逃さずに伝える。誉める。なぜならば、本人達は「変わった」ことに案外気づかないから。どこが、とんなふうに、どうより良く変化しているかを誰かが捉えて指摘してあげることでそこからまたグンと伸びる。それは経験でわかると、前田さんは言う。

 そして、音楽で成功する人の秘訣は、なんと言っても練習にあり。人並み外れた練習の出来る者だけが自分で自分の力を引き出すことが出来る。だからこそ、場を提供し、そっと寄り添い、ここぞという時に誉めて、気づかせ、誰かに繋ぐ仲立ちをする。音楽という、底知れぬ魅力の吸引力があり、同時に生半可な覚悟では弾かれてしまうような厳しい世界を目指す人への愛情がずっと継続しているのだということが伝わってきた。

 そして、「“ほんもの”だからヒットに恵まれるとも限らない。それは売れる売れないのビジネスと相容れないところもあって、そこが大きな悩みどころ」とジレンマも語る前田さん。とはいえ、そういう答えが出ない難問や課題も、80歳、90歳に到達した段階で解ける知恵が授かるかもしれない。自分は人間の遺伝子が可能とされる120歳まで生きると目標を置いて、答えを見つけるのを楽しみに歳を重ねていきたいと、意識付けこそが命を伸ばすという超前向き独自理論を語ってくれた。

前田重和さん そんな前田さんの「宝もの」は?

 「モノにはこだわらないから・・・無いなあ。でも、大事なものなら・・・やっぱりカミさん」

 苦労を共にしてきた大切な存在。前田さんは、「人間として尊敬している」と、きっぱりと言う。伴侶のことを、特に男が妻のことを「尊敬している」と言えるというのはなんと素晴らしいことだろう。前田さんは、若い頃にフォークを始めた時点でもう見栄も評価して貰いたいという気持ちもないし、夫婦の間でも嘘がない・・・と話されていたが、人と人との間で「尊敬」ほど輝く宝はないと私は思う。

 「尊敬」=「respect」は、「re(もう一度、遠く)+spect (見る)」という意味。「距離をとって見つめる」ということだと何かで読んだことがある。近くに見えすぎて感情的になる間柄を少し離して再び見てみるというのは、夫婦の間柄でこそ欠かせない視点だ。

 音楽を目指して集まる若者達にも前田さんはそんな眼差しで接しているのだろう。一般的な「誉める」という上からの評価ではなく「尊敬」の視点で良さを見つけ、言われた人に勇気が湧くような水平の言葉掛け。40年にも渡って多くの人達が前田さんの元に集ってきた理由は、そのあたりにもあるのではと感じた。

 これから高齢者人口の圧倒的割合を占めるのは、前田さんのような団塊の世代の人達。その年代の人達の生きる姿勢と発する言葉が世の中の空気を左右する時代が必ずやってくる。

 話を聴き終えて思った。女性も男性もなく、年が上だの下だのも関係なく、人のいいところを「いい」と言える尊敬のまなざしを持てる人があちらこちらに溢れてほしいな、と。そして、やはり、「ほんものを求める心」「何が大事か」を貫き続ける気概を見せ続けて欲しい。

 そんな「フォーク」な、或いは「ロック」な魂で生きるニュー高齢者が益々増えたら、この世の中、この北海道、何かがきっと変わるに違いない。

(インタビュー後記 村井裕子)
http://www.hbc.co.jp/radio/genkibito/backnumber/2015/interview150531.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c35

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
14. 中川隆[-11636] koaQ7Jey 2019年3月07日 19:13:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[355]

永遠の嘘をついてくれ - 吉田 拓郎 & 中島みゆき - 動画 Dailymotion
https://www.dailymotion.com/video/x5anmkm

中島みゆき 永遠の嘘をついてくれ 動画
https://pv755.com/eiennousowotsuitekure


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中島みゆき「永遠の嘘をついてくれ」の正しい解釈 15年7月執筆


 吉田拓郎の、というより中島みゆきの「永遠の嘘をついてくれ」は、佳曲と名曲と名曲中の名曲しかない中島みゆきの、90年代の大傑作で、吉田拓郎に提供することを前提に作られた

“いかにも拓郎っぽい”歌詞とメロディでありながら、それでいて中島みゆきの曲以外の何物でもないという、“神”に不可能はないことを改めて思い知らされる作品だが、拓郎・みゆき、どちらもアルバム収録曲でシングル・カットはされていないにも関わらず、かなり広く知られているようで、ストリート・ミュージシャン稼業でたまにやってると立ち止まる人も多い。


 が、とくに私と同世代ぐらいとか、それ以下の世代だと、この曲をすごく好きな人であっても、歌詞の意味をちゃんと理解していない場合がほとんどなんだろうなと以前から思っている。

「永遠の嘘をついてくれ」は、簡単に云えば「まつりばやし」とか「誰のせいでもない雨が」などの系列の、要するに明白に“学生運動ソング”で、聴く人が聴けばもう反射的にそのことに気づくのだが……

そんなこと分かってるよ、という人もあるかもしれないが、試しに「永遠の嘘をついてくれ」で検索すると上位にアホみたいな誤読解説も出てきたことだし

「自分の許を去った男に向かっての未練」の歌なんだってさ!

無粋を承知で解説したい。


 たぶんもう何十年も会っていない古い友人、語り手の人生にとってかなり重要な存在であるらしい友人が、どうやら遠い異国で病で死にかけている、という状況が歌われる。

友人は「俺」と云ってるし男だろうが、語り手もおそらく男である
(そもそも吉田拓郎に歌わせるのが前提でもあるし)。

前記の誤読解説者が云うような恋愛方面の歌ではなく、ある種の“男の友情”的な歌である。


 相手が死にかけている場所は「ニューヨーク」なのか「上海」なのか分からない。たぶんニューヨークだろう。「上海の裏町で病んでいる」という「見知らぬ誰かの下手な代筆文字」の手紙が突然舞い込んだわけだが、手紙は「探しには来るなと結」ばれていたわけだし、相手は自分の本当の居場所を伝えてきたわけではない可能性が高い。語り手の側が、独自に手をつくして探した結果、実はニューヨークにいることが判明したので、冒頭で語り手は急遽ニューヨークへ飛ぶかどうかと迷っているわけだろう。


 これが“学生運動がらみ”の歌だと分かるのは、2番の冒頭のフレーズからである。

「この国を見限ってやるのは俺のほうだと追われながらほざいた友」

と云っている。これだけでもうピンとこなければならない。


 この友人は要するに学生運動上がりの“国際テロリスト”か何かである。
たぶん70年代初頭に国内での何らかのテロ事件の容疑者として指名手配されるかして(したがってこの時点ではまだ“国際”テロリストではない)、国外逃亡したのである。

そして間違いなく友人は国外へ渡った後も革命運動に少なくともしばらくは挺身している。そのことを語り手はずっとニュースで知ることができていただろう。

ところがどこかの時点で友人は一切消息不明となる。生きてるいるのか死んでいるのかも分からない、という長い期間があり、最近になって突然、死にかけているという手紙が本人から届いた、というわけである。

「見知らぬ誰かの下手な代筆文字」なのは、日本の公安当局の監視を警戒してのことであるに決まっている。


 語り手の側は、若い頃、おそらく学生時代に新左翼運動に関わった時期があり、しかし短期間で運動を離れて、フツーに就職して、そうした運動体験は過去のものとして、“平凡な一市民”としての人生を送ってきた人間である。

もちろん死にかけている友人との関係は、“同志”的なものか、それに近いものだったろう。印象としては、党派の同志というよりも、“何々大学全共闘”とかの同志で、闘争が後退する過程で友人はテロ路線に走って地下に潜り、語り手は運動を離れた、という雰囲気である。

史実にムリヤリ当てはめると、例えば友人は赤軍派に加盟し、弾圧され追いつめられてアラブへ渡ったとか、東アジア反日武装戦線の爆弾闘争に身を投じて逮捕されたが、日本赤軍のハイジャック闘争によって“超法規的措置”で獄中から奪還され国外へ出た、みたいなことだろう。

もちろん歌詞の内容はあくまでフィクションなわけで、“おおよそそんな感じのこと”という意味で私は解説しているまでである。


 要するに語り手は“日和って”運動から脱落したわけだが、今も世界のどこかで闘っているはずの友人の存在が、いつでも語り手の人生において影のようなものとして意識され、負い目の対象であったり、挫折した自分の代わりに“志”を貫いてくれている救いであったりしたのだろう。

もちろん、いつしか消息が途絶えて以降は、友人が引き続き革命を目指して闘い続けているのかどうか、そもそもその生死すらも分からない状況となっていた。

語り手は、今も闘い続けていてほしいと願ってきたが、一方で、彼が今もどこかで生きてはいるとしても、すでに革命への希望を失って、自分の闘いはすべてムダだったと、敗残者として抜け殻のような“余生”を送っているのかもしれないという不安も常に抱いていた。


 そこへ突然の手紙である。現時点では、まだ生きていたということだけが分かり、消息が途絶えて以降の友人がどのような人生を歩んだのかは不明である。闘い続けていたのか、すでに負け犬と化していたのか、まだ分からない。語り手は、答えを知るのが怖いという気持ちを持っている。たぶん友人もどこかの時点でとうに挫折していたのではないかと薄々思っている。


 「永遠の嘘をついてくれ」というのは、「ずっと闘っていたし、今でも闘っている」と云ってくれ、の意である。

「まだ旅の途中だ」と云ってくれというのは、「我々の革命はまだ途上である」つまり「まだ革命をあきらめてはいない」と云ってくれ、の意である。

「嘘をついてくれ」と云っているのだから、そのように「強がってみせてくれ」ということである。

「永遠のさよならの代わりに」、つまり友人はもう死ぬわけだが、最後までその「嘘」をつきとおしてくれ、と。


 「やりきれない事実」というのは、友人もとうの昔に挫折して異国でただ無意味な“余生”をいつしか送るようになっていたという事実である。友人もそのような姿を語り手にさらすことを恥じ、ずっと闘っていたし今も闘っているという「永遠の嘘をつきたくて」、「探しには来るな」と書き添えたのである。


 世間の連中はこういう、大それた夢を描いてどこぞへ飛び出していったような連中の“悲惨な末路”を見たいのである。

「オレが間違っていた。革命なんて幻想だった」と云わせて安心したいのである。

「みな」が「望む答え」とはそういう答えであり、語り手は、そのような答えを引き出そうとつきまとってくる連中を「風のようにあざやかに振り払え」と云っている。


 「一度は夢を見せてくれた君」が見せてくれた「夢」とは、テルアビブ空港事件とか、三菱重工爆破とか、そのテの何かであるはずだ。

「出会わなければよかった人」というのは、塩見孝也とか太田竜とか、とにかく友人をそのような道へと誘い込んだ誰かだろうが、「出会わなければよかった人などないと笑ってくれ」というのはもちろん、「自分の人生は結果としてこのような形になったが、決して後悔などしていない」と云ってくれ、ということである。


 私はべつに自分が読みたいように勝手な読み方をしているわけではない。この曲の歌詞はおおよそこのようにしか解釈のしようがないものである。

 嘘だと思うならこの歌詞を書いた本人に訊いてみなさい、と云いたいところだが「神は何も語らない」のがセオリーなので、私のように神の言葉をちゃんと聞くことのできる「預言者」の声に、迷える子羊の諸君は耳を傾けるしかないのである。

 付記

なお90年代の中島みゆきの名曲中の名曲中の名曲である「二艘の舟」もおおよそ似たようなテーマの、もっと抽象化された歌である。

男女の恋愛の歌にも聞こえるようにわざと作ってあるが、絶対に違うと預言者として請け合う。
http://www.warewaredan.com/miyuki.html

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中島みゆき 二隻の舟 動画
https://pv755.com/ni-seki-no-fune

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c14

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
15. 中川隆[-11635] koaQ7Jey 2019年3月07日 19:29:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[356]


中島みゆき 誰のせいでもない雨が 動画
https://pv755.com/dare-no-seide-mo-nai-ame-ga


中島みゆき「世情」動画
https://pv755.com/sejo
https://www.nicovideo.jp/watch/sm27227751

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2010年11月17日
民主党、隠れ革マル派の見分け方・・・中島みゆきだった!


 中島みゆきが、警視庁の「革マル派シンパ」リストに名前があがっていることを知っているのは、限られた人だけだった。

 ほぼ同年代で、中島みゆきと同じ北海道出身のボスによると、

「ま、北海道は革マル派の牙城というか、学生運動=革マル派という時代があったから、その手の集会に顔をだしたら、革マル派シンパと認定される可能性があった。高校の後輩が、道警に就職したが、こいつも革マル派シンパか?と査問されたことがある。つまり、北海道では日教組、ロシアのスパイの次ぐらいに前職、元職をいれて革マル派が多い」

 と、のんきなことをいっている。
 こんなことだから、北海道はロシアの植民地にされかねないのだ。

 さて、民主党に革マル派が浸透しているという話だ。
 平沢勝栄先生が国会で追及したJR総連出身の参院議員のことだけをいっているのでない。秘書なのだ。民主党国会議員の秘書に革マル派が増殖中。
 どれくらい増殖中かというと、゜「自民党に浸透した統一教会・勝共連合出身の秘書にせまる勢い」(公安調査庁の担当者)
 という。

参考:JR総連・「松崎明」の運転手兼ボディガードでしられる「田城郁」 民主党から参院比例は難航・・・

 ところで問題は、
 以下の中島みゆきの「世情」である。

「シュプレヒコールの波・・」で有名になって、「革マル派のテーマソング」といわれていた時期がある。

 市民団体主催の反戦運動や集会で、この曲がでたら、「革マル派主催」といわれたものらしい。
http://officematsunaga.livedoor.biz/archives/51115354.html

▲△▽▼

159 :Track No.774:2013/01/02(水) 08:45:06.11

「誰のせいでもない雨が」について思う所を聞かせてくれないか?

以下は私の意見。

黒い飛行機=在日米軍戦闘機
怒りもて石を握った指先、罪をうがった唇という歌詞から

歌の主人公はかつて日米安保条約に反対していたが
今は平穏な生活を送っている元活動家で
3番の歌詞は回想であり

私たちの船は計画を意味するのかも知れない
それを警察が知って実行前に乗り込まれた
早すぎるというのは誰かがその情報を教えたから

滝川と後藤は計画前に
仲間の元に帰らなくなり
燃える船の中にはいない
だから寒いだろうと

自分と泣いている女は
船の外の同じ場所に立っている

裏切りとは船に乗らずに普通の生活を選んだこと
もしくは仲間を警察に売ったことではないだろうか


674 :Track No.774:2014/02/10(月) 19:06:12.90

ひさしぶりにきたら
なんでも答えてくれる方がいらっしゃるようなので

「誰のせいでもない雨が」は何をあらわした曲なのか解釈をお聞かせください!


676 :Track No.774:2014/02/10(月) 20:54:25.98
>>674
 世情という曲があります。みゆきさんは自分がやっている曲は元々ロック
だと答えたそうです。体制や不条理に対する抵抗者である、そんな曲を作って
来たという意思表示かも知れません。

 雨が誰かのせいで降るわけじゃないのはあたりまえですが、雨が降ったり
夜が濡れたりするのは、自身の今が誰のせいだとも言えない、生きて行く上で
止むを得ない結果なのと同じだと感じているのです。

 しかし、その成り行きに忸怩たるものが有り、時が早く過ぎれば全ての憤り
を忘れる事が出来るかも知れない、そんな感情を「癒せ」という言葉で表して
いるのだと思います。


677 :Track No.774:2014/02/10(月) 20:55:01.74
>>674
「誰のせいでもない雨が」の歌詞はすべて比喩で表せていますね。

非常に難解な比喩で表されている一つ一つの比喩を説明していたら、ここでは解釈や説明が、出来ません。かなりのインテリでも無理です。

簡潔に解釈したいと思います。歌の主人公の心理状態、状況の説明から入っても解説が非常に難しい。
個人的で勝手な解釈ですが、学生運動などの活動家の心情が歌われているように感じます。

七五調の文学的表現を使っているが何のことか、一見分かりにくい。難しい、とりあえず勝手な解釈で
元活動家の過去を想い志半ばで挫折した己の現在の心情風景が垣間見れる。過去の回想。

哀れな己の姿を思い浮かべ早く忘れたい。すべて比喩語で描かれているので、最後に言えることは
「ファイト!」とは違う密かなエールを送っている。早く忘れろ、すべては終わったんだ 
終わったことは一刻も早く忘れろ 一刻も早く忘れろ 

早く月日のすべての悲しみを癒せ 月日のすべての悲しみを癒せ

早く月日のすべての悲しみを癒せ 月日のすべての悲しみを癒せ


726 :Track No.774:2014/02/13(木) 01:25:34.77
>>676 >>677
「誰のせいでもない雨が」について答えてくれた方、ありがとうございます。
でももうちょっと具体的に聞きたいです。

たとえば1、2番の歌詞は日常から過去を語っていますが、

3番「船は港を出る前に〜」からの歌詞がかなり緊迫した状態になりますが
これは日常自体が緊迫した状況へ変化したのでしょうか?

それとも過去の映像がフラッシュバックしてるような感じでしょうか?


738 :536:2014/02/13(木) 21:05:59.41
>>726
 私たちの船は永く火の海を沈みきれずに燃えている
が、前の文章を解く根拠となるでしょう。倒置法です。
怒りや憤りや後悔を引きずっているという感じです。

 つまり、伝令とは体制に抵抗する者たちに警告を与える存在です。
学生運動なんかやると碌な事はないぞ、人生の航海を始められず、
後悔する事になるという警告です。

 かつての同士である滝川と後藤の噂を悲しみながらも、彼らを裏切り
家庭を持ち安住している主人公は、やり切れない気持ちを癒せるのは
月日が過ぎる事以外にはないと考えている、そういう詩だと思います。
 

741 :人力飛行機:2014/02/14(金) 10:58:51.74  

「誰のせいでもない雨が」。

60-70年代ならば新左翼運動、90年代ならオウム真理教事件。のように、人間疎外を訴え、闘おうとし、でもそのなかで家族からも離れ、警察から追われ、就職もできず、社会の片隅で隠れるように生きていく人がいる。

彼らにも恋人がいたり、恋人は彼らを助けたいけどどうしようもないことがあったり。恋人との別れがあったり。かつて平和を訴え政治家を弾劾した唇はいつしか離れた恋人の名前を呼んでいる。

 ちょうど二年前だったか、オウムの菊池という女性逃亡犯が同棲していた
男性に説得されたか、出頭したような記憶が・・・。彼らも思想だけじゃなく
恋も生活もある、そこでいろんな想いはあるでしょうし、自分の人生を
思い返したりね。でももう引き返せない。殺人の容疑者や協力者になって。
いろんな想いがある。始まりは正義であり不正や差別や貧困の存在や、
真理の希求や、当然なものがある。そこから始まり、気がついたら遠い場所
で家族や友人からも離れ、逃げるように生きている自分がいる・・・。

 それが誰のせいでって自問しても答えはない。

 そういう心の風景が浮かぶんですけどね。僕とかあの歌の心の風景が
浮かんでくる。周りに左翼もいたし、新宗教の人もいたし、オウム教団の本
も読んでます。そういう人たちの姿が浮かんできます。

 中島みゆきは大学時代にやはり内ゲバで恋人が死んだ女性と関わりが
あり、その女性は歌も歌ってて、中島がプロになったあとに家にまねかれ
たことを『女歌』(ふたつのうちのどっちか)に書いてます。

彼女は家庭をもち、幸せそうだった、とか。


751 :Track No.774:2014/02/14(金) 22:01:18.13
>>738>>741
よくわからないんですが
つまり「誰のせいでもない雨が」の3番は1、2番以前の回想という意見ですか?


752 :Track No.774:2014/02/15(土) 12:08:14.01
>>751
 >>738です。>>741さんの解釈はかなり過激で僕の意見とは少し違います。(笑)
決してオウムを容認するような詩ではなく、学生運動、政治活動の主な対象は
日米安保だと特定していいと思います。黒い飛行機がそれを示しています。

 一番から三番まで同じ時間の思いです。伝令があったのは過去です。デモを
止めるように拡声器で警告した警察とか、大学教授などの大人たちからの将来
に関する注意です。

 その過去と今日までの自分の生活を、船の航海(想念)によって喩えているんです。
滝川と後藤は昨日捕まった、或いは死傷したので、回想ではありません。


779 :Track No.774:2014/02/17(月) 23:09:28.44
>>752
「私たちの船」というのは日米安保に対する思いみたいなもの?で
それは過去から現在まで「燃えている」ということですか?

滝川と後藤は現在における昨日まで活動家をしていた
つまり主人公は子供が生まれて活動家を止めたけど
そんなに時間はたっていなくて、仲間との連絡も取り続けていたってことですか?


781 :Track No.774:2014/02/18(火) 18:37:04.29
>>779
 >>752です。そうです。炎は赤いので、或いは赤軍派だとか共産党を
示す象徴かも知れません。

 そうです。滝川と後藤は同志でしょう。連絡はどうかわかりません。
別の同志から噂を聞いたんです。


928 :Track No.774:2014/03/02(日) 15:04:08.05

>>676 >>738 >>781が僕のレスです。

 伝令は命令を伝えるだから、「沈んだと」が指すのは私たちとは別のグループでしょう。
当局、警察、大学などからの私たち(の活動)への警告や命令です。
 しかし、火は消えず、沈みきれずに燃えているのだから、仲間からの連絡や
グループ自体は存続していて、潜伏しているというところでしょうか。
 滝川と後藤は過去ではなく、現在のきのう帰らなかったんだと思います。
それで、女は(誰のせいでもない)雨の中で泣いているんです。

 船に乗り続けているんだと思います。


935 :Track No.774:2014/03/02(日) 18:54:54.78
>>928
沈んだ船と沈みきれずに燃えている船は別の船という解釈ですか。
たしかにその可能性もあるかもしれませんね。

私は「さむかろうね」という言葉と「燃えている船」は対照的だと感じました。
だから滝川と後藤は船から降りた者だと考えました。
一般的にはやはり滝川と後藤は船に乗っていて
女はどちらかの恋人という解釈なんですかね。

https://awabi.5ch.net/test/read.cgi/mjsaloon/1355029610/


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c15

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
37. 中川隆[-11634] koaQ7Jey 2019年3月07日 22:11:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[358]

71 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/26 19:58 ID:MsxWbGRDこ

こにも、みゆきファンが多いね。
私も彼女を見つづけている一人ですが、
彼女の隠されたキーは、彼女が共産主義者だったということです。
学生時代は、バリバリの活動家でアジっていたらしい。革マル派。

きのう、滝川と後藤が帰らなかったてねえ
今ごろ寒かろうね つらかろうねえ


74 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/26 20:03 ID:MsxWbGRD

握りこぶしのなかにあるようにみせた
夢を遠ざかる誰のために振りかざせばいい?
歌姫 スカートのすそを
歌姫 潮風に投げて
夢も悲しみも欲望も歌い流してくーれー

それとなく共産主義運動の挫折を歌っている個所が
ずいぶん出てきます。
私は歌姫が好きです。


77 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/26 20:23 ID:MsxWbGRD

彼女は、共産主義は捨てたんだよ
80年代に東欧諸国を旅をして
その現実に幻滅したことをある本に
書いている。


85 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/27 05:34 ID:reMFs4D2
>>77
それ、人違いじゃなくって?何て本?


86 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/27 07:13 ID:UoaOFwBi

ほんとほんと。
彼女は、80年代東欧諸国を旅行しているよ。
その旅の目的は、共産主義思想を捨てるためだ。
昔から東欧諸国を旅行することで共産主義思想の現実を把握し共産主義嫌いになるということが ひとつのパターンになっている。
安部公房もそうだ。
みゆきも、自分へのけじめとして旅行したかったんだろうね。

87 :  :03/09/27 08:19 ID:VAhdzvbS

歌で稼いで、共産主義なんてダメだわ!と気づき、
私は資本主義の世の中で、がっぽり稼ぐのよ〜って感じ?

立場が変われば思想も変わるクズ?


89 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/27 08:32 ID:Qitq5+Ff

中島みゆきの書く詩が共産主義思想についての詩だったのかと思うとなんだかな。
もっと人間の弱さと強さとか普遍的な人間というものを歌ってたのかと思ったよ。


92 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/27 11:20 ID:NzBGVwNR

私も共産主義思想の詩だとは思わなかった。。。
でも、もうその考えは捨てたんだよね。
そのことが書いてある本、読んでみたい。


93 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/27 12:02 ID:UoaOFwBi

彼女の歌に通奏低音のように響いているのは、 共産主義だ。
まあ、日本の映画作家や作家とかには、かなりいるけどね。
トラさん映画もそうだし、宮崎駿のそう。


94 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/27 12:47 ID:vABnYv7w

>共産主義どうこう

根拠をあげてくれればいいのに


98 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/27 19:22 ID:JSJjYWgC

根拠は、上げた。いくつも。
彼女が学生運動を激しくやっていたのは藤女子大の先生その他複数の証言がある。

歌詞もいくつもあげた。
彼女自身が書いた本もある。
極めて熱心なファンは知っている。
俺がそう。俺は彼女の容姿が好きなんだ。
彼女の顔も体も特に体の線がいいね。
あの腰からケツにかけたラインがすばらしい。
50になってもきれいだ。
昔はブスで有名だったが、俺にはブスにはみえなかった。俺は正しかったよ。

334 :^^:03/12/18 00:10 ID:a7z7WtIt

みゆきが、革マルだったのは有名な事実だが
新事実が出てきました。
なんとヤマハ会長の愛人だったって

109 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/28 13:14 ID:IV4TWm0U

>50になってもきれいだ。 昔はブスで有名だったが、俺にはブスにはみえなかった。俺は正しかったよ。

50くらいで整形したんでしょうか。
北海道にいるころは垢抜けないお姉さんだった。


110 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/28 18:48 ID:m0tO8Hh/

歯を矯正して、化粧を変えただけ。
元々、目鼻立ちの整った顔をしていた。


111 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/28 21:04 ID:+stqq9hU

もともと、スタイルは、抜群だしね。
身長は、165センチ前後らしい。


114 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/28 21:11 ID:+stqq9hU

医者の娘でしょう。母親はミス札幌
ブスなわけないじゃん。

121 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/28 23:43 ID:hHB+4UEQ
>>114
なるほど、医者の娘でないと母親がミス札幌でないと成功なんかできないんだな。
共産主義には走れないんだな。


122 : :03/09/29 00:45 ID:e4gAmVwF

俺の好きな宮沢賢治に通じるものがあるな。

129 : :03/09/29 01:04 ID:e4gAmVwF

賢治もみゆきも金持ちの生まれで弱者の味方。
欲はなく 決していからず いつも静かに笑っている・・・


137 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/29 13:57 ID:GrAKVIOA

ローリングエイジ寂しさを
ローリングエイジ人に言うなあ
軽く軽く傷ついてゆけえ


90年代に入って彼女の歌は、あんまりよくなくなったね、
70年代が一番だし続いて80年代、そして今はあんまりよくない。
しかしポップスとしては他とくらば傑出しているのは、確かだ。
柳美理も彼女の大ファンだし、大岡正平も大ファン。
こんなポップス歌手ほかにいない。


140 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/29 15:48 ID:lu3ub98Y

中学高校と施設にいたんだけど「ホームにて」聞くと盆暮れ正月に帰省
したとき思い出して涙がでますわ。


中島みゆき ホームにて 動画
https://pv755.com/homu-nite


144 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/29 18:45 ID:GrAKVIOA

ホームにて
 
あれは、帰ろうとするふりをするけども
なぜか、帰ることができない歌なんだよね。
実家に帰ることができない歌です。

145 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/29 18:57 ID:eVdb70tj

ふるさとへ 向かう最終に
乗れる人は 急ぎなさいと
やさしい やさしい声の 駅長が
街なかに 叫ぶ
振り向けば 空色の汽車は
いま ドアが閉まりかけて
灯りともる 窓の中では 帰り人が笑う

走り出せば 間に合うだろう
かざり荷物を ふり捨てて
街に 街に挨拶を
振り向けば ドアは閉まる


振り向けば 空色の汽車は
いま ドアが閉まりかけて
灯りともる 窓の中では 帰りびとが笑う
ふるさとは 走り続けた ホームの果て
叩き続けた 窓ガラスの果て
そして 手のひらに残るのは
白い煙と乗車券

涙の数 ため息の数
溜まってゆく 空色のキップ
ネオンライトでは 燃やせない
ふるさと行きの乗車券

たそがれには 彷徨う街に
心は今夜も ホームにたたずんでいる
ネオンライトでは 燃やせない
ふるさと行きの乗車券


151 :三年寝たろう ◆lr.SvCnhCc :03/09/30 01:46 ID:qqpb7Zlw

中島みゆきさんのコンサートってどんな雰囲気なんですかね?
もしかしたら、あのラジオ番組のノリでやってるんですかね?
ちょっと気になります。

152 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/30 05:59 ID:ZMd9+vBs

昔はよく泣きながら歌ってたみたいよ。
客を冗談で笑わしたかと思うと、次はしみじみ思い出を語りつつ泣きながら歌ったり(「まつりばやし」とかね)。

これは 70 年代の話だから、今はちょっと分からない。
「歌暦」はあるけど、あれが日常のライブの姿だったのかどうかもよく分からないしね。

233 :名無しさん@毎日が日曜日:03/11/19 05:25 ID:YaM57bRa

生きていてもいいですか?


235 :^^:03/11/19 06:11 ID:IP+ZDD1F

まさに、みゆきは、このアルバムを発表した1980年
生きていてもいいですか?と日本中に問いかけたのである。
もっといえば生きていてもいいことありますか?と問いかけたのである。
実際、その後の日本の状況はひどいもので、ますます人間が住んでいくことには、不可能なほどの生き辛い社会
いきぐるしい社会に変わっていく1980年という其のときに生きていてもいいですか?と問いかけた。

その後のみゆきの出すアルバムは、気の抜けたコーラのように味気ないものに変わり、みゆき自身も生きていないような歌に変わっていきます。

それに日本人も生きているのか死んでいるのかわからない状況で生きているのである。


260 :名無しさん@毎日が日曜日:03/11/26 05:56 ID:Hgd3QL82

根雪を始めて聞いた時に好きになった。25年位前だったと思う。
何か変わったような気がしてファンクラブもやめたのは日WING、月WING あたりからかな。
昔のアルバムは今でも聞く。


261 :名無しさん@毎日が日曜日:03/11/26 17:50 ID:NAm82bzX

アルバム買わなくなったの10年位前からかな・・・
みゆきも変わったんだろうけど、自分が変わったんだろう。
・・・同じく口ずさむのは昔の歌だなー


262 :名無しさん@毎日が日曜日:03/11/26 23:10 ID:Q+n4RJk5
>>261
漏れも EastAsia 以降買ってないなあ。

> みゆきも変わったんだろうけど、自分が変わったんだろう。

うんうん。


677 :名無しさん@毎日が日曜日:04/02/19 09:23 ID:MOIbSfZK

昔は心にしみる歌が多いね。
今はひどいね。
声が高くて早口で歌ってるだけだもんな。
歌詞も薄いし。

https://qb3.5ch.net/test/read.cgi/dame/1063795169/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c37

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
16. 中川隆[-11633] koaQ7Jey 2019年3月07日 22:13:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[359]

71 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/26 19:58 ID:MsxWbGRDこ

こにも、みゆきファンが多いね。
私も彼女を見つづけている一人ですが、
彼女の隠されたキーは、彼女が共産主義者だったということです。
学生時代は、バリバリの活動家でアジっていたらしい。革マル派。

きのう、滝川と後藤が帰らなかったてねえ
今ごろ寒かろうね つらかろうねえ


74 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/26 20:03 ID:MsxWbGRD

握りこぶしのなかにあるようにみせた
夢を遠ざかる誰のために振りかざせばいい?
歌姫 スカートのすそを
歌姫 潮風に投げて
夢も悲しみも欲望も歌い流してくーれー

それとなく共産主義運動の挫折を歌っている個所が
ずいぶん出てきます。
私は歌姫が好きです。


77 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/26 20:23 ID:MsxWbGRD

彼女は、共産主義は捨てたんだよ
80年代に東欧諸国を旅をして
その現実に幻滅したことをある本に
書いている。


85 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/27 05:34 ID:reMFs4D2
>>77
それ、人違いじゃなくって?何て本?


86 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/27 07:13 ID:UoaOFwBi

ほんとほんと。
彼女は、80年代東欧諸国を旅行しているよ。
その旅の目的は、共産主義思想を捨てるためだ。
昔から東欧諸国を旅行することで共産主義思想の現実を把握し共産主義嫌いになるということが ひとつのパターンになっている。
安部公房もそうだ。
みゆきも、自分へのけじめとして旅行したかったんだろうね。

87 :  :03/09/27 08:19 ID:VAhdzvbS

歌で稼いで、共産主義なんてダメだわ!と気づき、
私は資本主義の世の中で、がっぽり稼ぐのよ〜って感じ?

立場が変われば思想も変わるクズ?


89 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/27 08:32 ID:Qitq5+Ff

中島みゆきの書く詩が共産主義思想についての詩だったのかと思うとなんだかな。
もっと人間の弱さと強さとか普遍的な人間というものを歌ってたのかと思ったよ。


92 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/27 11:20 ID:NzBGVwNR

私も共産主義思想の詩だとは思わなかった。。。
でも、もうその考えは捨てたんだよね。
そのことが書いてある本、読んでみたい。


93 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/27 12:02 ID:UoaOFwBi

彼女の歌に通奏低音のように響いているのは、 共産主義だ。
まあ、日本の映画作家や作家とかには、かなりいるけどね。
トラさん映画もそうだし、宮崎駿のそう。


94 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/27 12:47 ID:vABnYv7w

>共産主義どうこう

根拠をあげてくれればいいのに


98 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/27 19:22 ID:JSJjYWgC

根拠は、上げた。いくつも。
彼女が学生運動を激しくやっていたのは藤女子大の先生その他複数の証言がある。

歌詞もいくつもあげた。
彼女自身が書いた本もある。
極めて熱心なファンは知っている。
俺がそう。俺は彼女の容姿が好きなんだ。
彼女の顔も体も特に体の線がいいね。
あの腰からケツにかけたラインがすばらしい。
50になってもきれいだ。
昔はブスで有名だったが、俺にはブスにはみえなかった。俺は正しかったよ。

334 :^^:03/12/18 00:10 ID:a7z7WtIt

みゆきが、革マルだったのは有名な事実だが
新事実が出てきました。
なんとヤマハ会長の愛人だったって

109 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/28 13:14 ID:IV4TWm0U

>50になってもきれいだ。 昔はブスで有名だったが、俺にはブスにはみえなかった。俺は正しかったよ。

50くらいで整形したんでしょうか。
北海道にいるころは垢抜けないお姉さんだった。


110 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/28 18:48 ID:m0tO8Hh/

歯を矯正して、化粧を変えただけ。
元々、目鼻立ちの整った顔をしていた。


111 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/28 21:04 ID:+stqq9hU

もともと、スタイルは、抜群だしね。
身長は、165センチ前後らしい。


114 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/28 21:11 ID:+stqq9hU

医者の娘でしょう。母親はミス札幌
ブスなわけないじゃん。

121 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/28 23:43 ID:hHB+4UEQ
>>114
なるほど、医者の娘でないと母親がミス札幌でないと成功なんかできないんだな。
共産主義には走れないんだな。


122 : :03/09/29 00:45 ID:e4gAmVwF

俺の好きな宮沢賢治に通じるものがあるな。

129 : :03/09/29 01:04 ID:e4gAmVwF

賢治もみゆきも金持ちの生まれで弱者の味方。
欲はなく 決していからず いつも静かに笑っている・・・

https://qb3.5ch.net/test/read.cgi/dame/1063795169/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c16

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
17. 中川隆[-11632] koaQ7Jey 2019年3月07日 22:54:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[360]

「遥かなる1970年代−京都」 松岡利康/垣沼真一(鹿砦社)2018.12.24
http://www.asahi-net.or.jp/~aw7k-mk/books/1970s.htm


大分前に何となく気恥ずかしくも買ってあった、

松岡利康/垣沼真一『遥かなる1970年代−京都』(鹿砦社)
https://www.amazon.co.jp/%E9%81%99%E3%81%8B%E3%81%AA%E3%82%8B%E4%B8%80%E4%B9%9D%E4%B8%83%E3%80%87%E5%B9%B4%E4%BB%A3-%E4%BA%AC%E9%83%BD-%E5%AD%A6%E7%94%9F%E9%81%8B%E5%8B%95%E8%A7%A3%E4%BD%93%E6%9C%9F%E3%81%AE%E7%89%A9%E8%AA%9E%E3%81%AE%E8%A8%98%E6%86%B6-%E6%9D%BE%E5%B2%A1-%E5%88%A9%E5%BA%B7/dp/4846312003

という、ノスタルジーの本。70年代の左翼的口調がいささか幼稚に感じられる。

正に、『もう誰一人、気にして無いよね。。。』(中島みゆき「誰のせいでもない雨が」)という話。


『連合赤軍事件』は確かに運動退潮の大きな転機となったのだろう。世界的な学生運動からの流れは各国では現在の国政の中に確かに生き残ってきているのだが、日本だけは未だに『反対運動』としてしか引き継がれていない。その最大の要因として、筆者達は『内ゲバ』を挙げている。レーニン組織論の悪しき遺産に足を掬われたという処である。

・・・前半は、松岡氏が出版していた「甲子園だより」という雑誌の内容が続いている。あまり面白くはない。2004年頃の記事で、70年代の同志社大学を中心としたブントの人達の人間模様である。寮母さんなんかも紹介されていて、微笑ましく、政治論争の話には深入りせず。とりあえずは置く、ということだろう。

元々ブント(共産主義者同盟)は60年安保の時に日本共産党から派生したが、敗北後、関西に拠点が移って、同志社大学では多数派であって、全学闘という大衆組織を主導していた。

60年代後半の盛り上がりの中から出現した著名な人物と言えば加藤登紀子の夫となった藤本敏夫と赤軍派を作った塩見孝也だろう。理論の方では田原芳という人が居たらしい。

赤軍派が分派したときは大変な内ゲバがあったらしい。
藤本氏が全国を逃げ回ったというのも有名な話である。

内ゲバというのは、路線対立をして別れるときの党員の奪い合いから生じるから、近い関係の党派間で行われることになる。右翼・民青と新左翼の間とか、三派全学連党派間とかは、比較的表舞台で行われるから、時折死者が出てはいながらも、根の深い事態には至らないが、近親間の内ゲバは密室で行われ、抑制が効かず、記録にも残らない。

その極端な例が浅間山荘事件で明るみになった連合赤軍の仲間内の殺し合いであった。

ヤクザ組織間の方がまだ合理性があって救われる。
「自己批判」とか「総括」とかが流行語になったのだが、それを迫られた党員達の気持ちを思えば、上司の犯罪を隠蔽してとりあえず会社を救うために自殺する社員達、特攻隊志願を迫られた学生達、更には、切腹を命ぜられた武士達等々、とも重なる。

皆真面目で優秀だった。狭い集団での規律が個人の心との間で反響して肥大していく、そんなプロセス。これは、単にイデオロギーに凝り固まったせいだけではない、何か「男性原理(権力の原理)」の欠陥のようなものにも思える。

赤軍派が誕生した後、同志社の全学闘はややそれにシンパシーを抱く、という独特のものになっていたらしい。著者が卒業してしまった後で、全学闘は1977年に学友会の主導権を失い、最後は1979年此春寮夜間襲撃、監禁、リンチ事件で壊滅した。


・・・後半は、垣沼真一氏による京大の話である。
1970年から75年まで在籍して、主に熊野寮の監察役とかをやっていたから、当時の学生運動の殆どに関わっている。

元々、1968年パリの五月革命を切っ掛けとして先進国間に拡がった学生運動は日大とか東大で全共闘運動と呼ばれるようになったが、それまでの新左翼系諸党派とは別の目的を持った運動(大学という組織に対抗する運動)であったから、当然大学の特徴を反映する。

日大と東大ではその様相はかなり違う。
京大においても、それまでのベトナム反戦運動とか安保反対運動とは別の軸を持つ運動として、各学部で個別に始まったのだが、どちらかと言えば自由な学風だったから、日大や東大に比べて運動の焦点が呆けていた。

当人達自身は勿論自らを全共闘とも呼んでいなかった。それまでの党派の運動も「全共闘」運動も反体制運動には違いないので、外から見ると区別が付かないし、外に向かっては共闘する形になった。

僕は、既に1967年には諸党派の硬直した思考に愛想を尽かして半年程で関わるのを止めて、夜は只管麻雀に付き合い、昼間はジャズ喫茶に籠って量子力学の勉強をしていたから、このような「全共闘」運動も(日大での運動は別として)随分と観念的で無駄なものに思えたのだが、個別の目的にはまあ同意していたから、邪魔しないように努めていただけである。ここに書かれてあることも殆ど知らない。

C戦線とかパルチザンとか、確か名前だけは聞いたことがある。
滝田修も名前だけしか知らない。
学生大衆運動として多少は盛り上がったのは、垣沼氏のようなノンセクト学生がクラス討論を巻き起こして無関心な学生をひっぱり出したからであって、諸党派はそれに乗っかって党派に引きずりこもうとしていたに過ぎない。

やがて運動が静まってしまうと、諸党派は武力闘争へと路線転換を行い、方針の異なる内部の党員同士での内ゲバが当たり前になっていって、それがさらに学生から見放される要因になった。

まあ、そういう流れだから、読んでいて全く嫌になってくる。
各学部で運動していた学生たちは、その後、専門を生かしながら、公害問題や労災問題といった具体的な社会問題に取り組んでいたのだが、垣沼氏には多分見えていなかったのだろう。

読む価値のある部分は、最後の2話位である。


その33.「内ゲバの論理はこえられるか−高橋和巳」では、辛亥革命、ロシア革命、スペイン人民戦線、日本共産党の50年、当時身近で見た、民青と全共闘、中核−革マルの殺し合い、を考察しての高橋和巳の提案の紹介であるが、内部での「総括」つまり少数派の粛清、には必ず党員以外のシンパのオブザーバーを参加させてはどうか?という事である。それによって、少なくとも、自ら頭に血が上って非人間的な暴力行為に至ることはかなり抑制できるのではないか?という。当時高橋和巳の小説はよく読んでいたが、こういうのは知らなかった。


その34.「書き足りなかったこと」では、「革命という目的の為には手段を択ばない」ということは間違いであり、そのことは官僚支配と独裁制をもたらしたのだが、それを避ける具体的な方法論、直接民主主義はあまりにも効率が悪すぎる。

パリコンミューンのやり方も失敗した。

中で述べられている「クロンシュタットの反乱」というのは知らなかったので、また勉強してみようかと思う。
ヴォーリンの『知られざる革命』という本があるらしい。

結論が出ないままに最後、これまでの社会思想は地球という大きな入れ物が無限であることを前提としてきたのだが、今やそれが有限となりつつある、2030年頃には水と食料が慢性的に不足してきて、社会主義と民主主義がこの観点から再度問題となるであろう、というところで終わっている。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c17

[昼休み53] 千葉県にだけは住んではいけない 中川隆
242. 中川隆[-11631] koaQ7Jey 2019年3月08日 08:08:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[361]

>>224 千葉県の人間はみんな頭がおかしい(15)

の続き

母親に凄惨な虐待を黙認させた「暴力の支配」 小4女児死亡 2019.2.4
https://www.iza.ne.jp/kiji/events/news/190204/evt19020420560036-n1.html?utm_source=yahoo%20news%20feed&utm_medium=referral&utm_campaign=related_link



 千葉県野田市立小4年の栗原心愛(みあ)さん(10)が自宅浴室で死亡した事件で、県警が傷害の疑いで逮捕した母親のなぎさ容疑者(31)が、心愛さんが死亡した1月24日、父親の勇一郎容疑者(41)=同容疑で逮捕=と共に「午前中から自宅にいた」と逮捕前の任意聴取に話していたことが4日、捜査関係者への取材で分かった。

 捜査関係者によると、勇一郎容疑者は24日の「午前10時ごろからしつけで休ませずに立たせた。悪いことをしたとは思っていない」と供述。県警は、なぎさ容疑者が勇一郎容疑者を制止せず、黙認していたとみて詳しい状況を調べる。勇一郎容疑者からドメスティックバイオレンス(DV)を受けていた可能性があるとの情報も把握。暴行に積極的に加わってはおらず、従属的立場だったとみている。


× × ×

 目の前で繰り広げられる勇一郎容疑者の凄惨(せいさん)な虐待を、妻のなぎさ容疑者はなぜ黙認していたのか−。背景には、なぎさ容疑者自らも夫から「暴力の支配」を受けていた実態が浮かぶ。こうした黙認のケースは過去にも繰り返されており、専門家は関係機関の情報共有と連携を訴える。

 なぎさ容疑者は、死亡した心愛さんへの暴行を黙認した疑いがあるほか、勇一郎容疑者の“異常な行動”にも手を貸したとされる。

 柏児童相談所が平成29年12月27日に心愛さんの一時保護を解除。勇一郎容疑者が30年1月12日、千葉県野田市の学校側に「暴力がなかった証し」と苦情を訴え、心愛さんが父の暴行を訴えた学校アンケートの回答を見せるよう要求した際、なぎさ容疑者も同席していた。

 さらに同15日の交渉の場で、勇一郎容疑者が市教委に提示した学校アンケート公開に関する同意書を、なぎさ容疑者が心愛さんの自筆だと証言。アンケートのコピーが勇一郎容疑者の手に渡る後押しをした。

× × ×

 なぜ、なぎさ容疑者はそんな行動をとったのか。児童虐待防止全国ネットワークの吉田恒雄理事長は「暴力の矛先が自分に向くという恐怖心から従っていたのではないか」と推察する。

 一家が野田市に移り住む前の沖縄県糸満市には29年7月、勇一郎容疑者から心愛さんへの恫喝(どうかつ)のほか、なぎさ容疑者にも勇一郎容疑者が支配的で「外出や携帯電話をチェックする」と親族から情報提供があった。なぎさ容疑者へのDVの情報は野田市にも伝えられた。

 糸満市で近所に住んでいた女性(65)は「心愛さんが小さいときから(なぎさ容疑者は)ふさぎ込みがちだった」と証言。女性は結婚前、優しかった勇一郎容疑者の態度が結婚後に急変したのが原因だったと聞いたとしている。

 元児相所長で児童虐待防止協会の津崎哲郎理事長も「力関係で支配されていたのだろう」とみる。


× × ×

 父親(内縁も含む)による子供の虐待を母親が黙認するなどしたケースは過去にも繰り返されてきた。

 虐待は家庭の中で行われるケースが多く、露呈しにくい。ただ、今回の心愛さんのケースでは、親族からの情報提供や学校アンケートなど行政や児相側が把握する機会は多かった。さらに、児相はDVがなくなっていない疑いを把握しながら、なぎさ容疑者への聞き取り調査を行っていなかったとされる。

 過去のケースから、児童虐待の陰に夫婦間などのDVの存在があることは少なくない。警察や行政、学校など虐待とDVに対応する関係機関が情報を共有し、双方を視野に入れておく必要がある。

 吉田氏は「児相と市など関係機関がどう連携し、協議してきたのか。今までの教訓が全く生かされていない」。津崎氏は「SOSを発しなかった母の落ち度は否定できないが、関係機関の対応が非常にまずかった印象がある」と話した。


http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/390.html#c242

[昼休み53] 千葉県にだけは住んではいけない 中川隆
243. 中川隆[-11630] koaQ7Jey 2019年3月08日 08:10:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[362]

「5秒以内に服を脱げ」父の暴行詳細判明 千葉・小4女児死亡 2019.3.6
https://www.iza.ne.jp/kiji/events/news/190306/evt19030621080054-n1.html?utm_source=yahoo%20news%20feed&utm_medium=referral&utm_campaign=related_link




 千葉県野田市立小4年の栗原心愛(みあ)さん(10)が1月24日に自宅浴室で死亡した事件で、6日に傷害致死罪などで起訴された父親の勇一郎被告(41)が心愛さんの死亡した当日に加えた暴行の詳細が起訴状などで明らかになった。

 勇一郎被告は心愛さんが死亡する2日前から妻のなぎさ被告(32)=傷害幇助(ほうじょ)罪で起訴=に食事を与えないよう指示し、心愛さんを飢餓状態にさせた。さらに、長時間、肌着のまま居間や暖房のない浴室に立たせ続け、十分な睡眠を与えなかった。

 心愛さんが死亡した1月24日の午後1時ごろからは、既に肌着が水でぬれていた心愛さんに「5秒以内に服を脱げ」と命令。「5、4、3、2、1」とカウントダウンした上で頭からボウルに入った冷水を数回浴びせかけ、さらに「シャワーで流せよ。お湯じゃないだろう」などと言って体に冷水シャワーをかけた。

 同4時ごろには居間の床にうつぶせに寝かせた心愛さんの背中に座り、両脚をつかんで体を反らせるなどの暴行を加え、同9時50分ごろ、心愛さんが寝室に入ろうとすると、「なんでいるの。駄目だから」と叱り、「ちょっと来い」と浴室に連れ込み、シャワーの冷水を顔面にかけ続けた。心愛さんは同11時8分ごろ、死亡したとみられる。

 心愛さんの死因はこれまでの司法解剖では判明しなかったが、地検は心愛さんの死因を3つの可能性に絞った。健康状態では弱アルカリ性の血液が飢餓状態などで酸性になる「ケトアシドーシス」によるショック死▽致死性不整脈▽溺死−のいずれかと判断。心愛さんが長期間の虐待で、強いストレス状態にあったこともその死に影響したとみている。

http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/390.html#c243

[昼休み53] 千葉県にだけは住んではいけない 中川隆
244. 中川隆[-11629] koaQ7Jey 2019年3月08日 08:13:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[363]

なぜ課長はアンケート用紙を渡したのか…非常識な「役所の常識」2019.2.5
https://www.iza.ne.jp/kiji/events/news/190205/evt19020513300022-n1.html?utm_source=yahoo%20news%20feed&utm_medium=referral&utm_campaign=related_link



 千葉県野田市で小学4年生女児が父から日常的に暴力を受けて亡くなった事件で、野田市教育委員会・学校教育部次長兼指導課長の「対応」が厳しい批判にさらされている。

 女児は小学校で実施された「いじめアンケート」で、父からの暴力を相談していたが、そのアンケートのコピーを、この課長の「現場判断」で、事もあろうに「加害者」である父に手渡していたことが明らかになったからだ。

 当初、教育委員会は「娘のアンケートを見せろ」という父の要求を突っぱねていた。しかし、「大きな声でどう喝され、威圧的な態度に恐怖を感じ」たことに加え、子どもの字で書かれたような「同意書」を持参してきたことからコピーを差し出したという。

 このアンケートには「ひみつはまもります」と書いてあった。だからこそ、女児は安心して自分の名前を明記したうえで、「お父さんにぼう力を受けています」「先生、どうにかできませんか」という相談ができたのである。

 その信頼が「現場判断」によって裏切られてしまった。しかも、それだけではなく、この軽はずみな行動によって、事態が悪化した恐れもあるのだ。

 ストーカーやDV男は相手が警察や専門機関へ駆け込むのを知ると、逆上して暴力がエスカレートするケースが多い。さらに強い恐怖や痛みを与えて、「二度とおかしな気を起こすな」「今度チクったらこんなもんじゃ済まないぞ」と脅して、「口封じ」をするためだ。


今回の女児も同じように追いつめられていた可能性は否めない。

 このトラブル後、女児の学校は同様の「アンケート」が2回実施されているが、彼女が父の暴力について記すことは二度となかった。が、1月24日、自宅で亡くなった女児の遺体には、複数の皮下出血があり、首には擦り傷もあったという。父の暴力は亡くなる直前まで続いていたのだ。

 どうにかしてと誰かに助けを求めてもすぐにお父さんにバレてしまう−−。そんな絶望に打ちひしがれ、たったひとりで暴力に耐えなくてはいけなくなったのだ。

 自分たちで解決できなければ「評価」が下がる

 という話を聞くと、「こんな愚かな現場判断を下す課長は、きっと子どものことなど何も分からない素人に違いない」と思うかもしれないが、どうもそうではないらしい。

 野田市に問い合わせをしたところ、課長の経歴などは詳しく明かせないものの、「教育委員会の仕事は教職員経験がある者がなり、この課長も教育現場でそれなりに経験がある」という。ちなみに、野田市内の中学の公式Webサイトをみると、課長と同姓同名の人物が2014年(平成26年)から3年間、校長を務めている。

 では、「それなりの経験のある教育者」が、なぜ素人でも分かるようなひどい対応をしてしまったのか。なぜ上司に報告をせず、学校や児童相談所とも連携して対応をしなかったのか。どう喝で恐怖を感じたというのなら警察に相談するなどの選択もあったはずだ。

「この課長の人間性の問題でしょ」「明石市の市長が怒鳴っていたみたいに、仕事しないでサボる役所の人間が多すぎるんだよ」など、皆さんさまざまな辛辣(しんらつ)なご意見があることだろう。

 ただ、これまで何人かの市長や地方公務員の方たちの著書を手伝った関係で、いろいろな役所の裏側を目の当たりにしてきた立場から言わせていただくと、この課長のやったことは、世間的には非常識だが、行政組織の中ではそれほど驚くことではない。

 役所の人間というのは総じて、トラブルを自分だけで抱えこみがちだ。他部署と連携して解決するのを極度に嫌うカルチャーがあるのだ。

 なぜかというと、まず、自分たちのところで解決できなければ評価が下がる。そこに加えて、他部署を動かすことは、関係各所へ事前に綿密な根回しが必要となる。役所内の人間関係やパワーバランスを考慮しなくてはいけないので、とにかくめんどくさいのだ。

 だが、中でも最も連携を嫌う理由が「責任」だ。

 役所で生きる人々の「連携を嫌い、問題を抱え込むセクショナリズム」

 他部署と連携してトラブルが解決できればよいが、もし連携をしたものの望むような成果が得られなかったら、誰が責任を負うのかという問題がある。他部署になすりつけるわけにはいかないので当然、言い出しっぺが負わねばならない。場合によっては「面倒な話に巻き込むな」とお叱りを受ける場合もあるのだ。


「責任」というのは、親方日の丸で定年退職まで安穏と暮らしたい役所の人間にとって、最も避けて通りたい2文字なのだ。

 今回の小学4年生女児のアンケート問題に関しても、我々外野の人間からすれば、「そんなもん警察を呼んでガツンと対応しろ」とか「教育委員会にあげて対応を協議しろ」というのがパッと頭に浮かぶが、「役所」という閉鎖されたムラ社会に肩までどっぷり浸かった課長からすれば、なかなかそのような発想は出なかったはずだ。

 親からのどう喝で、教育委員会が警察を動かすことは「大事件」である。警察だって猫の手を借りたいほど忙しい。そんな彼らを呼びつけるわけだから当然、そこには大きな「責任」が生じる。こうなる前に穏便に解決できなかったのか。今後もしこの親との対立が続いた場合、誰が対応をしていくのかなど、「大事件」にした張本人−−つまり、担当課長は「戦犯」としてつるし上げられるのは目に見えている。

 そんな袋小路に追い込まれた担当課長が、怒り狂う父に女児のコピーを差し出したのは、個人的には非常に納得感がある。

 日本の学校教育の「現場」で起きるトラブルの多くは、「親と対立しない」「親の怒りを鎮める」ことで、事態の収束を図れることができるからだ。

 つまり、今回の問題の本質は、担当課長の人間性うんぬんというよりも、役所で生きる人々の「連携を嫌い、問題を抱え込むセクショナリズム」にあるのだ。


「そんなのはお前の妄想だ、ウチの役所は他部署となんでも話し合っていつも連携して、セクショナリズムなんて感じたことがない!」と怒る公務員の方も大勢いらっしゃると思うが、今回の舞台となった野田市の過去を振り返るだけでも、役所という組織がセクショナリズムを克服できないことがよく分かる。

 役所の悪いところは「仏つくって魂入れず」

 こういう事件が起きると「連携が」「もっと連携を」と叫ぶ人たちがいるが、虐待で亡くなる子どもはずいぶん前から右肩上がりで増えており、行政でもずいぶん前から「連携」に取り組んでいる。

 野田市もその一つで、2001年5月に、児童相談員、児童相談所、警察、弁護士などが虐待防止のために連絡を密にとる組織づくりを目指して、「児童虐待防止対策連絡協議会」が発足している。

 こういう連絡組織は当時まだ少なく、千葉県では、市川市、袖ヶ浦市に続いて3カ所目だった。

 だが、「仏つくって魂入れず」ではないが、こういう立派な組織をつくっても、ほとんどまともに機能しないのが日本の役所の悪いところだ。

 連絡組織ができて4年ほど経過した05年9月1日、野田市に「顔が腫れている姉弟がいる」という通報があった。5歳女児と3歳男児が、母に同居する男性から「しつけ」として殴られたり、ライターで火傷を負わされていた。


「いざ、児童虐待防止対策連絡協議会発動!」といきたいところだが、協議会の出番はまったくなかった。というよりも、この虐待児童の情報は市担当者のところで1カ月間ずっと止まっていたのである。

 結局、住民の通報から1カ月以上経過した10月15日、裸足で逃げ出して歩いていた女児が保護されたことで事件は表沙汰になった。鎖骨の骨が折れて、足は火傷を負った重症だった。

 もしあと少し遅れていたら、今回の小四女児のケースと同様、「最悪」の結末を迎えていたかもしれないのだ。

 そう聞くと、市役所担当者の怠慢だと思うかもしれないが、遊んでいたわけではない。通報を受けてから市役所の担当者が計8回、姉弟が暮らす自宅を訪ねて、そのたびに男に「子どもはいない」などと門前払いを食らっていたのだ。

 親がかたくなに面会を拒絶する場合、市は児童相談所と連携をしなくてはいけない。児相は、虐待の疑いが強い場合は、立ち入り検査ができる権限があるからだ。しかし、役所はそうしなかった。その理由を担当者はこう述べている。

 「立ち入り調査を要請しておけば良かったが、判断が難しかった」(読売新聞 2005年10月21日)

 「判断が難しい」というのは、役所内の話法

 一般の人にはちょっと分かりにくいかもしれないが、ここに出る「判断が難しい」というのは、役所内の話法である。

「私の責任問題に発展してしまう恐れがあったので、めんどくさい判断はしたくなかった」ということをオブラートに包むとこうなる。

 このようなセクショナリズムが13年経過した今も野田市に脈々と受け注がれているのは、今回の「担当課長」の言動からも明らかである。

 野田市だけでもこの有様だ。ということは、日本中の市町村でも多かれ少なかれ似たような構造的問題があると考えるのが自然なのではないか。

 マスコミが瞬間風速的にわっと騒いで、忘れられていくことの繰り返しなので、このように行政に見殺しにされる児童虐待を、何やら最近の現象と勘違いしている人が多いが、実は戦前からこういう問題は繰り返されている。

 親に「しつけ」の名目でボコボコにせっかんされた子どもが「助けて」と訴えながら死んでいく。そのたびに、手を差し伸べなかった役所は、「難しい判断だった」なんてしおらしい態度を見せるが、セクショナリズムを打破するような組織づくりには着手しない。

 世間も悲劇の直後は「もっと連携を」「届かなかったSOS」とか感情的に叫ぶが、喉元過ぎればなんとやらで、なぜ全国の役所で同じような悲劇が続発するのかを、真剣に検証しようとしない。

 この繰り返しが延々と続いてきたのである。

 虐待問題の専門機関を設けること

 なぜ「助けて」と訴える子どもたちがいつまでたっても救われないのか。なぜ「連携」を呼びかけても、いつまでたっても実行されないのか。

 問題の根っこに、「連携を拒否する」という公務員カルチャーがあるのは明らかだ。ということは、やるべきことは、個人を糾弾したり、連携強化を呼びかけたりするのではなく、「組織」に目を向けるべきではないのか。

 つまり、この問題を解決するのに必要なのは、「関係機関の蜜な連携」ではなく、「関係機関のセクショナリズムを打破できる強い権限を持った組織」である。

 もちろん、その権限は、「親が子どもをどう育てようが勝手だろ」と、子どもを所有物のように扱う者たちの親権を上回る強さがなくてはいけない。

 専門家の中には「こども省」のような独立機関を設けて、全国を統括して虐待問題の専門部署をつくるべきという人がいる。筆者も全く同感で、今回のように、沖縄から千葉へ高飛びするような「越境虐待」にも対応できる。

 ということを主張すると、やれ人手不足だ、やれ人材育成が難しい、予算はどうしたとか、家庭の問題に行政が口出しするなんてとか、あの手この手で反対が入るが、子どもが減っていく今の日本では、子どもを守ること以上に重要なことがあるのか。

 行政のセクショナリズムが起こした人災を、「届かなかったSOS」みたいなふわっとした話で片付けるのはもうやめにしないか。


http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/390.html#c244

[リバイバル3] 起業するより多国籍企業に投資する(現物株を買う)方がギャンブル度は遥かに低い 中川隆
12. 中川隆[-11628] koaQ7Jey 2019年3月08日 08:36:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[364]

2019年03月08日
アメリカのショッピングモール閉鎖 AmazonGOや1ドルショップ増加

かつては賑わっていたアメリカの巨大モール


画像引用:『2017年ラスベガス GW旅行記(3/5)3日目〜マエケン頑張れ、ダル頑張れ〜』ラスベガス (ネバダ州) (アメリカ)の旅行記・ブログ by ひらのたさん【フォートラベル】https://4travel.jp/travelogue/11240097

巨大モールが数万か所が閉鎖

アメリカには10万以上のショッピングモールがあり、その一つ一つも巨大です。

一つの街に匹敵する広大な面積に数十、あるいは数百店舗以上も入居し活況を呈していました。

アメリカ人の伝統的な買い物スタイルは週末に家族で巨大ワゴン車やピックアップでまとめ買いするものでした。



一週間分の食料を買い込むついでに映画を見たりイベントを楽しんだりして一日を過ごします。

だが2000年代にネットショッピングが拡大すると、そうしたライフスタイルが変化していきました。

買い物はアマゾンで済ませるので週末に家族で買い物する必要がなくなり、家で配達を待つようになった。


娯楽もネットで映画やゲームを見るのでモールまで行く必要がなくなり、郊外の巨大モールは閑散としています。

試算では全米のショッピングモールの1割近くが空室つまり出店なしの状態で、今後3年で2万以上のモールが閉鎖される。

巨大モールがあるから周辺の土地を買って家を建てた人も多い筈で、買い物難民が発生したり大変な目に遭う。


もっとも巨大モールが閉店すればもっと小さなスーパーや小売店が出店するので、いずれ穴は埋まるのかもしれません。

勢力増すAmazonGOや1ドルショップ

モールは従来のテナントだった百貨店やブランドショップの代わりに、フィットネスジムや体験型テナントを増やしているが代りにはなっていない。

巨大モールに替わってロードサイドなどに増えているのが1ドルショップで、Dollar Treeなどが有名です。

ダイソーに似ているがアメリカは1ドルショップも巨大で規模が大きく、ホームセンターのような印象です。


100均や1ドルの商品はネット販売しても送料が高くなるため、ネットショップの影響を受けにくい。

フィットネスやジムなどの体験型健康ビジネスも、日本と同様増加しています。

外食店、ファーストフードやコンビニも毎日食べる食品中心なので、ネットショップの影響を受けにくい。


総崩れしたのはブランドショップと百貨店・ファッション店舗で、こうしたものはネットで購入するようになっている。

銀行やホームセンターも弱く、おもちゃ屋のトイザらスは閉店したが営業再開するという噂もある。

実店舗開店をすすめているのがネットショップの王者アマゾンで、コンビニのAmazonGOは2021年までに3000店舗を目指しています。


アマゾンは同じような仕組みのスーパー開店準備も進めていて、近いうちにアマゾンスーパーも見られるでしょう。

このようにアメリカの従来型店舗は総じて苦戦していて、ネットから来た新興勢力や、ネットとうまく連携した店舗が拡大しています。

こうした流れは間違いなく数年後に日本にもやってくるでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/79205418.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/826.html#c12

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
18. 中川隆[-11627] koaQ7Jey 2019年3月08日 09:06:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[365]

70年代過激派の醜い内ゲバを描いたキツネ狩りの歌

中島みゆき キツネ狩りの歌 動画
https://pv755.com/kitsune-kari-no-uta

都市伝説?

中島みゆき は高校時代の彼氏が内ゲバで亡くなったことがトラウマだとか


▲△▽▼


741 :人力飛行機:2014/02/14(金) 10:58:51.74  

「誰のせいでもない雨が」。

60-70年代ならば新左翼運動、90年代ならオウム真理教事件。のように、人間疎外を訴え、闘おうとし、でもそのなかで家族からも離れ、警察から追われ、就職もできず、社会の片隅で隠れるように生きていく人がいる。

彼らにも恋人がいたり、恋人は彼らを助けたいけどどうしようもないことがあったり。恋人との別れがあったり。かつて平和を訴え政治家を弾劾した唇はいつしか離れた恋人の名前を呼んでいる。

 ちょうど二年前だったか、オウムの菊池という女性逃亡犯が同棲していた
男性に説得されたか、出頭したような記憶が・・・。彼らも思想だけじゃなく
恋も生活もある、そこでいろんな想いはあるでしょうし、自分の人生を
思い返したりね。でももう引き返せない。殺人の容疑者や協力者になって。
いろんな想いがある。始まりは正義であり不正や差別や貧困の存在や、
真理の希求や、当然なものがある。そこから始まり、気がついたら遠い場所
で家族や友人からも離れ、逃げるように生きている自分がいる・・・。

 それが誰のせいでって自問しても答えはない。

 そういう心の風景が浮かぶんですけどね。僕とかあの歌の心の風景が
浮かんでくる。周りに左翼もいたし、新宗教の人もいたし、オウム教団の本
も読んでます。そういう人たちの姿が浮かんできます。

 中島みゆきは大学時代にやはり内ゲバで恋人が死んだ女性と関わりが
あり、その女性は歌も歌ってて、中島がプロになったあとに家にまねかれ
たことを『女歌』(ふたつのうちのどっちか)に書いてます。

彼女は家庭をもち、幸せそうだった、とか。
https://awabi.5ch.net/test/read.cgi/mjsaloon/1355029610/


▲△▽▼


【2004.05.17 Monday 08:00】 author : 土岐正造
「生きていてもいいですか」の「キツネ狩り」がとても怖い歌ですよね
(歌詞だけでなく歌唱法?も)
| Doblogコメント移植 | 2009/05/31 12:01 AM |
http://bunzaemon.jugem.jp/?eid=1117

▲△▽▼


2017年06月05日 中島みゆき 『生きていてもいいですか』 キツネ狩りの歌


 能天気なピッコロ・トランペットによって奏でられるファンファーレ。2.まで余韻として残っていた「うらみ・ます」の重い空気を吹き飛ばす、みゆき風大人のお伽話。でも、歌われている内容は皮肉めいた暗喩に満ちており、どこか奇妙な明暗を落とす。

 軽快なアルペジオによる爽やかな叙情派フォーク・サウンドは、このアルバムの流れでは躁病的に映る。なので、A面はノン・コンセプトの小品集なのだ。

 昔聴いた時は、単なる寓話として受け止めていたけど、後になって、様々な暗喩を含んだ解釈を知るようになった。

最終的な部分は結局、人それぞれになってしまうけど、大方の意見のように、
70年代過激派の醜い内ゲバを描いたというのが、俺的には納得の落としどころ。
http://oresuki.dreamlog.jp/archives/70903289.html


ang********さん 2010/6/4 08:52:30

狐狩りの歌です。

曲名は忘れました。中島みゆきさんの物凄く古いアルバムで、狐狩りの歌の歌詞を知りたいです。

狐狩りにいくなら
なら●●●●●
ねぇ 狐狩りは素敵さ
ただ生きて戻れたら

●には何が入りますか?

i_a********さん 2010/6/5 15:26:32


♪きつねがりにいくなら〜
『ララ、きこえるょ〜』
♪きつねがりはすてきさ〜
ただ生きてもどれたら、ね

cs8********さん 2010/6/4 21:26:50

本当の歌詞を書くよ

「内ゲバのことも忘れず」

恋人を殺された中島みゆきの怒りが垣間見られる・・・と思っている。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1441756209


えのき堂‏ @skoda130rs

中島みゆきの「キツネ狩りの歌」は革共同の内ゲバについて歌っていると言われているが、確かにこの歌詞はそういうものを想起させるものだと思う。

内ゲバ云々については昔、京大吉田寮のプレハブ部屋に住む中島みゆきファンの京大生から聞いたのだった。

10:18 - 2011年12月1日
https://twitter.com/skoda130rs/status/142306665130246144



▲△▽▼


474 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:18
あと中島みゆきがカクマルだったとか
松任谷由実の音音は琉球大学医学部のカクマルだったといはなしが
あるが本当でしょうか。


475 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:19

あと中島みゆきがカクマルだったとか
松任谷由実の弟は琉球大学医学部のカクマルだったといはなしが
あるが本当でしょうか。

476 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:24
>>475
中島みゆきは、いろんな説がある。
当時の彼が北大マルだったとか。

松任谷由実自身もマルだったという話もあるが、それはさすがにガセでしょう。
当時、彼女が通っていた多摩美はマルの拠点校ではあったが。数なんて、しれてる。


477 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:24

松任谷のほうは本当のようです。


478 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:26

    まつりばやし                   

肩にまつわる 夏の終わりの 風の中
まつりばやしが 今年も近づいてくる
丁度 去年の いま頃 二人で 二階の
窓にもたれて まつりばやしを見ていたね

けれど行列は 通り過ぎていったところで
後ろ姿しか 見えなくて 残念だった
あとで思えば あの時の 赤い山車は
私の すべてのまつりの後ろ姿だった

 もう 紅い花が 揺れても

今年よく似た 声をかき消す まつりの中
信じられない おまえの最後を知る
眠りはじめた おまえの窓の外
まうりばやしは 静かにあでやかに通り過ぎる

 もう 紅い花が 揺れても

人は誰でも まつりの終わりを知る
まつりばやしに 入れなくなる時を知る
眠りつづけるおまえよ 私のところへは
まつりばやしは 二度とは来ないような気がするよ

 もう 紅い花が 揺れても
 もう 紅い花が 揺れても
 もう 紅い花が 揺れても


479 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:29

坂本龍一や根津じんぱちが中核派だったということは本当だし
猪瀬もそうだし、中村敦夫参議院議員もそうだったときく。

カクマルも、舛添とか松任谷の弟もいたわけだから
松任谷由実が弟のオルグをうけて支持したことはあるでしょう。

だって、学生運動に挫折したような世代にもぞくしてるでしょ
あの人たち。

彼女のうたにもそれをかもしだす歌がありますからね。


480 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:31

      いちご白書をもう一度

 いつかきみと行った映画がまたくる
     授業を抜け出して二人で出かけた
     悲しい場面では涙ぐんでた
     素直な横顔が今も恋しい
     雨に破れかけた街角のポスターに
     過ぎ去った昔が鮮やかによみがえる
     君も見るだろうか、『いちご白書』を
     二人だけのメモリー どこかでもう一度

    僕は無精ひげと髪を伸ばして
     学生集会へも時々出かけた
     就職が決まって髪を切ってきた時
     もう若くないさと君に言い訳したね
     君も見るだろうか、『いちご白書』を
     二人だけのメモリー どこかでもう一度


481 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:32

中核にはそのほか、糸井重里や梨本茂もいたらしい。
新谷のり子は、中核の選挙を支持していましたね。

また、いちご白書をもう一度をつくった杉田らは
立命民青だしね。


482 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:39

いちご白書をもう一度をつくった杉田<???


483 : 名無しさん@3周年[sage] 投稿日:04/02/08 20:41

なしもとだけは嘘であってほすぃ


484 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:44

いちご白書をもう一度というアメリカの反戦運動
をモチーフにした映画が当時流行していました。

立命民青の杉田らが、それをふまえていちご白書をもう一度
をつくったわけです。
あと戦争をしらない子どもたちという歌も、彼等がつくりましたね。


485 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:44

梨本は、法政社会学部だけどチュンではないよ


486 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:45

杉田とばんばひろふみのバンドですよ。


487 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:45

荒井由美だよ<いちご白書


488 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:46

>戦争をしらない子どもたち

それのある意味アンチとして
パンダが「戦争しか知らない子供達」を作り、熱狂的な支持を受けていきます


489 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:50

梨本民青説をふいている人がいますが、それはうそです。

梨本は学生部を追求したことがあるらしく
学生部とはそりがあわなかったといっています。
当時法政大学は当局そのものが共産党色がつよく
学生部は共産党といえます。

法大生協が共産党だったために、学生会館には設置
できなかったらしいですね。

梨本が共産党であれば、共産党の学生部を追求するよりも、追求する
学生を排除する活動をいうはずです。

共産党民青は当時は今よりも相当セクト主義だったのですからね、


490 : 名無しさん@3周年[sage] 投稿日:04/02/08 20:50

ということは杉田と有田と穀田はつながっているのか
立命の3田か


491 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:53

荒井由実時代はおそらく、カクマルにカンパしていたとおもわれますね。

ところで琉球カクマルの松任谷由実の弟は足をあらったのでしょうか。


492 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:54

立命館民青全盛の時代ですね。


493 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:54

中島みゆきは、内ゲバの周辺にいたことは明らかだね。
「まつりばやし」は学生運動へのレクイエムだろうか


495 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:58
>>493
学生運動へのレクイエムでいえば「世情」でしょう

494 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:57

荒井由実には、カクマル臭は全く感じないが。

496 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:59

松任谷由実の初期を聴いても、
どう考えても
マルとは対極のセンス。w


497 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 21:00

パンタですか、懐かしい。


498 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 21:01

「まつりばやし」の方が表現が間接的な分、意味深長に読める。
「世情」は、一度はなれてから、客観視してる印象。


499 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 21:01

おそらく中島みゆきは北海道全学連共闘シンパだつたのでしょう。

また松任谷由実の弟は沖縄マル学同でしたね。


500 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 21:04

まだ現役なのだろうか、松任谷由実の弟は。


501 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 21:38

ちゃうちゃう。中島みゆきはノンポリ。全く関係ない。


502 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 22:04

北大の音楽サークルらしいから、当事者だったかどうかは知らないが、いろいろ見てるよ。


503 : 名無しさん@3周年[sage] 投稿日:04/02/08 22:05

地上の星ってまさか…


504 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 22:10

昔、「中島みゆきの弟が、革マルの(元)活動家で、その弟への『仕送り』的な意味で革マルのシンパである」という噂を耳にしたことがあります。

あ、あと松任谷由美は、学生時代革マルの活動家だった、とか。

『卒業写真』は、活動をやめたころの彼女の心境を歌っている、なんて言われてました。
真偽のほどは定かではありません。


505 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 22:22

ちゃうよ。

松任谷由実の弟は琉球大学医学部のカクマル派。
仕送りしていたのは松任谷由実。

中島みゆきのほうが、カクマル活動家だったらしい。

いちご白書が弟のことをおもったもので、
世情などがカクマル時代の中島みゆきをうたったものだと
いわれています。

504さんは意図的にすりかえていますね。

中島みゆきは北大ではありません。
ただ北大のサークル連合はカクマルが掌握し
シンパもいたといえます。

みゆきは全学連北海道共闘系だったということでしょうか。

507 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 22:33

実は、内ゲバのテーマソング?

 キツネ狩りの歌

キツネ狩りにゆくなら気をつけておゆきよ
キツネ狩りは素敵さただ生きて戻れたら
ねぇ空は晴れた風はおあつらえ
あとは君のその腕次第

もしも見事射とめたら
君は今夜の英雄
さあ走れ夢を走れ

キツネ狩りにゆくなら気をつけておゆきよ
キツネ狩りは素敵さただ生きて戻れたら、ね

キツネ狩りにゆくなら酒の仕度も忘れず
見事手柄たてたら乾杯もしたくなる
ねぇ空は晴れた風はおあつらえ
仲間たちとグラスあけたら

そいつの顔を見てみろ
妙に耳が長くないか
妙にひげは長くないか

キツネ狩りにゆくなら気をつけておゆきよ
グラスあげているのがキツネだったりするから
君と駆けた君の仲間は
君の弓で倒れてたりするから

キツネ狩りにゆくなら 気をつけておゆきよ
キツネ狩りは素敵さ ただ生きて戻れたら、ね


508 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 22:34

話題が松任谷の弟になったからですか、カクマルよ。

現役かどうかはしらんが転向していたとしたら、
いい資金源をうしなったわけですがね。


509 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 22:50

また、趣味者相手にカクマルですか。マル厨が涌きますので止めてください。


510 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 22:58

元カクマルの趣味者かな


511 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 01:04

マルがマルネタで面白がってもな。

つ・ま・ら・ん


512 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 01:09

コケマル趣味者か・・・
ほんと、つまらん。

515 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 09:49

あのね、中島みゆきは違うんですよ。(キッパリ)


516 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 09:56

もともと北海道には「中島みゆき=革マル(シンパ)説」なんてなかったんです。
今は、本州からその「説」が流れ込んできていますが。

北海道の、その年代のいろいろな潮流の活動家に聞いても「そんな説は知らん」
といいますよ。

北大は革マルがおさえていましたが、「北大祭」と言えばそんなことは関係なく
地元では大きなイベントなんです。そのイベントに、隣の大学(藤女子大)にいた
彼女が参加しても何の不思議もないのです。


517 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 11:08

黒白フィルムは 燃えるスクラムの街
足並揃えた幻たちの場面
それを宝にするには あまり遅く生まれて
夢のなれの果てが転ぶのばかりが見えた
Rollin' Age 淋しさを
Rollin' Age 他人に言うな
軽く軽く傷ついてゆけ
Rollin' Age 笑いながら
Rollin' Age 荒野にいる
僕は僕は荒野にいる


518 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 12:23

北大祭は革マルがやってんだろ。
動労とか総動員してさ。

早稲田祭のように動労を動員させて、記念集会みたいのやっていたわけだろ


519 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 12:35

北大農学部自治会て?
http://www.milkcafe.net/test/read.cgi/hokudai/1073889974/

北海道大学農学部自治会
http://www1.odn.ne.jp/~adu56780/index.html


520 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 12:49
>>518
農学祭だろ


521 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 13:04

いいえ北大祭じたいでしょう

522 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 19:01
  
転び上手の子守歌

誰のせいでもない雨が降っている しかたのない雨が降っている
黒い枝の先 ぽつりぽつり血のように りんごが自分の重さで落ちてゆく
誰のせいでもない夜が濡れている 眠らぬ子供が 責められる
そっと通る黒い飛行機があることも すでに赤子が馴れている
もう誰一人気にしてないよね
早く 月日すべての悲しみを癒せ 月日すべての悲しみを癒せ

怒りもて石を握った指先は 眠れる赤子をあやし抱き
怒りもて罪を穿った唇は 時の褥に愛を呼ぶ
されど 寒さに痛み呼ぶ片耳は されど 私の裏切りは
誰のせいでもない雨が降っている 日々の暮らしが降っている
もう誰一人気にしてないよね
早く 月日すべての悲しみを癒せ 月日すべての悲しみを癒せ

船は港を出る前に沈んだと 早すぎる伝令が火を止めにくる
私たちの船は 永く火の海を 沈みきれずに燃えている
きのう滝川と後藤が帰らなかったってね 今ごろ遠かろうね寒かろうね
誰かあたしのあの人を救けてよと 跣の女が雨に泣く
もう誰一人気にしてないよね
早く 月日すべての悲しみを癒せ 月日すべての悲しみを癒せ
早く 月日すべての悲しみを癒せ 月日すべての悲しみを癒せ


523 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/11 02:49

くすはっ。
「北へ・・・」観たが、マルのマの字も出やしねぇ。
ちなみに舞台は北大な。

北大にマルはい・ら・ね・え。
失せろ、北大の恥。
http://fc2masaki.blog.fc2.com/blog-entry-42.html


▲△▽▼

11革命的名無しさん2006/02/24(金) 10:25:08

所属も分かる範囲で。

芸能人じゃないんだけんどナベツネ、戦前日共東大細胞。
坂本は新宿高校→中核派と聞いた。
糸井も法大チュン。佐世保闘争で中核メットかぶりHNKからインタビューされてた。
宮崎美子は熊大の労働青年団、

中島みゆきは北海道時代、革マルシンパ。

吉永小百合は早大馬術部だろーが!
加橋かつみはマリファナだろーが! 

後は知らんなあ。


209革命的名無しさん2006/09/03(日) 11:15:54

浜田省吾

高校時代、広島でデモに参加してた

中島みゆき
藤女子大時代の彼氏が札医大の革マル派学生(現在も現役)


316革命的名無しさん2008/02/05(火) 10:40:11

中島みゆきって学生運動でバリケード作って大学に泊り込んでるときに
自分の好きだった男と友達の女がセクロスしてるのを目撃してショック受けて
そのまま運動やめて家に帰ったんだよね。
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/kyousan/1140679815/


68 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/16(月) 23:06

学生の頃、バイト先の同僚のオバチャンに聞いた話。
オバチャンが学生の頃、北大近くのアパートに住んでたらしいんだが、
隣が中島みゆきの彼氏の家だったらしい。
相当の修羅場があったらしく、ドアをガンガン叩いて暴れたりとか、
廊下で寝てたりとか、すごいことになってたらしい。
さすがあんな歌詞書く人よね〜と
しみじみ語っておりました、オバチャン。

77 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/18(水) 19:49

>>68さん。
中島の彼氏は、北大生のはずだが、そのおばさんも北大生なの?

78 :68:2001/07/19(木) 22:55
>>77
いや、そこまでは知りません。
>>68 で書いてるように、北大近くのアパートで、中島みゆきの彼氏の
隣の部屋に住んでたって話だけですから。
でも、年齢的なことを考えると、大学生とか短大生だったとおもいますよ、
おばさんも。
http://mimizun.com/log/2ch/uwasa/994505456/#22
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c18

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
38. 中川隆[-11626] koaQ7Jey 2019年3月08日 10:25:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[366]

中島みゆき『時代』動画
https://pv755.com/jidai-pv

八神純子『時代』動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%85%AB%E7%A5%9E%E7%B4%94%E5%AD%90++%E6%99%82%E4%BB%A3


▲△▽▼

中島みゆき『時代』が今日も歌い継がれる理由〜縁の深い3人が、その答えを出した
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/48297

今年1月にセブンイレブン限定で発売された『週刊現代スペシャル』が、kindleでも読めるようになりました(詳しくはこちらをクリック)。今回は同誌のなかでも最も反響の大きかった「中島みゆき『時代』を語ろう」を特別に公開いたします。

「つま恋」での出会い

八神純子
’58年愛知県生まれ。歌手。’78年『思い出は美しすぎて』でデビュー。'16年1月ニューアルバム『There you are』発売


上柳昌彦
’57年大阪府生まれ。ニッポン放送アナウンサー。『オールナイトニッポン』を通して中島みゆきと親交を深める。現在は『金曜ブラボー。』のパーソナリティ


田家秀樹
’46年東京都生まれ。音楽評論家・ノンフィクションライター。中島みゆきが定期的に開く舞台『夜会』公式サイトに文章を寄せるなど、親しい付き合いがある


八神 中島みゆきさんの『時代』が発表されてから、もう40年近くが経ったんですね。

田家 僕がみゆきさんと出会ったのは、じつは『週刊現代』がきっかけだったんです。'75年か'76年に東京の豊島公会堂で『週刊現代』の記者が主催した作家や歌手との交流イベントがあって、僕もそれに誘われて出かけていった。そしたら、まだデビューしてまもないみゆきさんがゲストで来ていて、楽屋で紹介されたんです。彼女はジーパンはいて、白いシャツを着ていました。

上柳 へぇ、そうだったんですか。みゆきさんの姿が目に浮かびます。

田家 ええ。髪は後ろで結んでいました。

八神 ファーストアルバムのジャケット写真と同じ。

田家 そのイベントには作家の中上健次さんもゲストで来ていて、「愛唱歌だ」と言って、みゆきさんとふたりでデビューシングルの『アザミ嬢のララバイ』を歌っていました。

上柳 そんなことがあったんですね。僕は'81年にニッポン放送に入社して、'83年に『オールナイトニッポン』の月曜第2部のパーソナリティを担当することになったんですが、月曜の第1部の担当がみゆきさんだったんです。それが出会いのきっかけでした。

第1部と第2部は同じスタジオで放送していたので、僕がスタジオに入って椅子に座ると、まだみゆきさんのお尻の温もりが残っていて……。なんて軽々しく言うと、みゆきさんのファンから「無礼者!」と叱られちゃいますが(笑)。

田家 みゆきさんとの出会いは、僕よりも純子さんのほうが古いんじゃないでしょうか。

八神 私が初めて彼女にお会いしたのは、'75年5月の「ポピュラーソングコンテストつま恋本選会」です。みゆきさんはまだデビュー前でしたね。荷物と一緒にみんな地べたに座っているような楽屋で、私から声をおかけしました。そのコンテストで彼女が『傷ついた翼』を歌っていて、すごくいい曲だなと思ったので、それを伝えに行ったんです。そしたら、あまり反応がなくて。

田家 きょとんとしたような?

八神 「え?」みたいな。当時私はシャイで、初対面の人に声をかけるのはとても勇気がいることだったんですね。いま思えば、私の声が小さかったので、たぶんはっきりと声が聞き取れなかったんだろうなと思います(笑)。

田家 みゆきさんもとても人見知りをする性格だから、彼女も緊張してしまって、うまく話せなかったのかもしれませんね。

上柳 誰にでも愛想をふりまける器用な人ではないですから。


75年。それは最も重要な年だった

田家 彼女が『時代』を発表した'75年というのは、音楽シーンの上ではとても重要な年なんです。この年には「キャロル」が解散して、吉田拓郎、井上陽水、小室等、泉谷しげるの4人が「フォーライフレコード」を設立した。「フォーライフレコード」は、それまで契約される立場だったミュージシャンが、みずから経営者になって契約する側に回ったという意味で、ひとつの革命でした。また、女性のシンガーソングライターが多数出てくるのも、ちょうどこのころからです。

八神 そうそう。私よりも少し前に尾崎亜美さんや渡辺真知子さんがデビューして。

田家 '60年代の終わりに藤圭子さんが登場して、'70年代になると五輪真弓さんと荒井(現・松任谷)由実さんが出てくる。その数年後にみゆきさんがデビューしたという流れですね。'70年代に入っていろいろなスタイルで歌う女性シンガーが出はじめて、'75年に一気に花開いた。そのなかに中島みゆきさんの『時代』があったわけです。

上柳 八神さんは最初に『時代』を聴いたとき、どんな印象を受けましたか?

八神 じつは私、『時代』をはじめて聴いたとき、すぐには好きになれなかったんです。

上柳 え! そうだったんですか?

八神 ええ。まず『時代』という仰々しいタイトルがなんだかとっつきにくいなと思った。それに、当時プロミュージシャンになるための登竜門だった「ポプコン」や、「世界歌謡祭」でグランプリを獲るために狙って書いた曲のように見えてしまって、どうにも好きになれませんでした。

上柳 それは意外なお話ですね。

八神 でも、あとになって、みゆきさんが『時代』を書いたのは、彼女の才能を見出した、川上源一さん(ヤマハ社長=当時)と、お父さまの存在が大きかったのではないかな、と気づきました。

みゆきさんのお父さまは彼女がデビューする直前に脳溢血で倒れられて、デビュー翌年に亡くなられています。そんな大変な状況のみゆきさんを見て、川上さんは自分がお父さまの代わりになって彼女を応援しよう、絶対に世に出してやろうと思ったのではないでしょうか。

そして、みゆきさんも川上さんの期待に応えたい気持ちがあった。そのためにも『時代』という大曲を作って、川上さんに感動してもらいたい、恩返しがしたいと願っていたのだと思います。


田家 なるほど。八神さんは東日本大震災以降、被災地を回りコンサートを開かれていますよね。そこでよく『時代』を歌われている。どのような経緯であの曲をカバーするようになったのですか。

八神 被災地を訪ねるなかで、ある町長の「中島みゆきの『時代』が聴きたいな、来てくれないかな」という言葉を人づてに聞いたのがきっかけです。それならば私が歌わせてもらおうかなと(笑)。私、カラオケを持って被災地を回っていましたから。

上柳 ご自身で『時代』を歌われるようになって、あの曲の存在をどう感じるようになりましたか。

八神 被災地でコンサートをするうちに、『時代』という曲の持つ力を痛感するようになりました。コンサートというのは毎回雰囲気が違うもので、みんなとうまくつながることができないなと感じる瞬間もある。でも、そういうときに『時代』を歌うと、すぐに聴く人たちと一緒になれるんです。

田家 それこそが『時代』の懐の深さですよね。誰にだって生きていれば辛いこと、悲しいことがあります。『時代』は、誰もが経験したことのある人生の苦境を歌にしている。とても普遍的な歌詞であり、メロディです。

八神 そう思います。東日本大震災の前と後では日本はずいぶん変わってしまいました。その状況で〈今日は別れた恋人たちも生まれ変わってめぐりあうよ〉というフレーズを歌うと、震災前には考えもしなかった意味を持ちますよね。『時代』というのは、時、場所によってその姿を変えながら、聴いた人を励まし続ける歌なんです。

田家 悲しいことがあるけども立ち上がって歩きだすという歌詞も、当てはまらない人はいない。

八神 岩手県一関市の千厩でコンサートをしたときに、あるお医者さんご夫婦が来られたんですね。そのご夫婦は被災して病院も自宅もすべて失い、絶望して「もう死のうか」と思いながらコンサートに来られた。そのときも私は『時代』を歌ったんですが、コンサートが終わると、「また病院を建てよう」と思い直したそうです。

上柳 そういえば、『オールナイトニッポン』の担当になってしばらくして、ふとみゆきさんが番組で『時代』をかけないことに気づいたんです。なんでだろうと思ってディレクターに聞いたら、「『時代』をかけると『私のためにかけてくれてありがとう』っていう人が多すぎて困るんだよ」と言っていました。「この曲は自分のためだけに中島みゆきが届けてくれたんだ」と感激するリスナーが多く、意味を持ちすぎて軽々しくかけられないというわけです。

実際、私はいまだに番組で『時代』がかかると、つい身構えてしまいますよ。若いディレクターなんか気軽にポンと『時代』を選曲しますけど、そのたびに僕は「そんなに簡単に流して!」と思ってしまう。言いませんけど(笑)。

田家 曲をかける時期やタイミングを読み違えると、影響力が大きいだけに意図したものと違った受け止め方をされてしまう可能性もあるのでしょうね。


瞬間のひらめきで曲をつくる

上柳 こんなこともありました。'10年にみゆきさんの東京国際フォーラムコンサートを観にいったときのことなんですが、僕の前に座っていたのが中年の男性だったんです。その人がコンサート中ずっとわさわさと動いていて、「なんだか落ち着かない人だな」と思っていました。ところがみゆきさんが『時代』を歌うと途端に曲に聴き入り、嗚咽を漏らし始めたんですよ。

田家 みゆきさんといえば、アーティストとしては静かな求道者のイメージがありますよね。けれども、ラジオではとてもハイテンションで話す。上柳さんは素顔の中島さんをよくご存知だと思いますが、どちらが本当の彼女の姿なのでしょう。

上柳 難しい質問です。多分どちらも本当のみゆきさんなんでしょうね。彼女にインタビューをしていると、最初ハイテンションでバーッとおしゃべりするんですが、音楽の話になった途端に、ふっとシリアスな、アーティストのみゆきさんになる。僕はその瞬間が好きなんです。「あ、いま音楽家のモードに入ったぞ」と。

どんなときでも本当に真剣に物事に取り組む人なんだと思います。ラジオの放送前も、いつも番組で取り上げるハガキを熟読されていました。そして番組が終わる深夜3時からすぐにスタッフとミーティング。私の番組が早朝の5時に終わっても、まだ会議をしていることもありました。

田家 さまざまな面があるのも、彼女の魅力なんですね。歌うときも、シャウトする彼女と、ささやく彼女、いろいろな顔を持っていますよね。

上柳 それについても、本人に聞いたことがあるんですよ。曲を作る段階でここはシャウトして、ここはささやくように歌って、とあらかじめ決めるんですかと聞いたら、みゆきさんは「そんなこと、曲を書いているときはまったく考えていないのよ」と言っていました。

曲ができて最初のリハーサルのときに、バンドのみんなで「せーの」でポンと歌いだしたときに、たまたま自分がシャウトで歌ったら、それ以降もその部分はシャウトにするとおっしゃっていました。

八神 その瞬間のひらめきで曲を作り上げていくんですね。

上柳 だからラジオ番組のあのテンションも、初めてラジオ局のマイクの前に座ったとき、追い詰められてポンと出たのがあのテンションだったと思うんです。それまでは、コンサート会場でお茶を出すアルバイトをしていて、ラジオから受ける印象とは真逆の、まったく目立たない女性だったそうですから。

田家 僕なんかも、中島みゆきというと、ジーパンに白シャツという地味なイメージが離れない。



永遠の名曲

上柳 そうでしょう。でもじつは、本人は赤が好きなんです。真っ赤なトレーナーに真っ赤なパンツとか。そういう格好で深夜にいらっしゃる。

田家 それは意外ですね。たしかに赤といえば、彼女のファーストアルバムの1曲目に『あぶな坂』という歌があります。これは、様々な事情で怪我をした男たちがその坂を越えようとして転げ落ちていくという歌です。

その曲のなかに、紅い花に魅せられてみんなが坂を登ってくるというくだりがある。赤が象徴的な色として歌われているんです。自分の思うように生きられなかった人たちに向けられた『あぶな坂』と、もっと俯瞰的に人生を包みこむ『時代』。僕はこの2曲が彼女の原点だと思いますね。

八神 『時代』は進化する歌です。時代が変わるごとに、進化し続けていく。

田家 すぐれた歌というのは、結局そういうことなんでしょうね。誰が歌っても、その歌っている人の歌になるし、みんなの歌になる。『時代』はこれからもずっと、歌い継がれていく永遠の名曲なんだと思います。

(週刊現代スペシャルより)

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c38

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
39. 中川隆[-11625] koaQ7Jey 2019年3月08日 10:43:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[367]

中島みゆき あぶな坂 動画
https://pv755.com/abuna-saka
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c39
[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
40. 中川隆[-11624] koaQ7Jey 2019年3月08日 11:12:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[368]

中島みゆきの代表曲「時代」は天理教の歌

天理教の生死感を見事に歌詞に載せ代弁している。
 生まれ変わりと、人生は魂の旅だと表現している。素晴らしい。

 一般の人が全く気付かない点も素晴らしい。
 宗教臭い厭味(いやみ)ったらしい所が無い。

______

天理教 と 中島みゆき 130年祭の最中に不謹慎ですが。 2016/01/31
https://hikino-effect.at.webry.info/201601/article_18.html


 シンガーソングライター 中島みゆきは天理教の信者(だった?)

 知っている人は知っていると思う。
 今は脱会したと噂が流れている。

 天理教の教理(天理教の教え)を知っている人は、中島みゆきの歌詞=天理教の教理 と認識できる曲が多くあると知っている。


 天理教幹部のための曲も作っている。 

 「糸」 

糸 中島みゆき (1992年) 歌・坂本冬美 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?list=RDz3pkmjqnbHY&v=srBRgYF6LVo


 彼女の代表曲「時代」も天理教の歌だ。

 「時代」

時代 -ライヴ2010〜11- (東京国際フォーラムAより) - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Ry_bpaKDcAo


 天理教の生死感を見事に歌詞に載せ代弁している。
 生まれ変わりと、人生は魂の旅だと表現している。素晴らしい。

 一般の人が全く気付かない点も素晴らしい。
 宗教臭い厭味(いやみ)ったらしい所が無い。

 また、彼女の名前も素敵だ。
 中島 みゆき ・・・ 中山みき (天理教教祖)

 姓の島を 山 だけにして名の ゆ を抜くと 何となく教祖の名前が連想されてしまう。親が考えて付けたのだろうか。

 それは良いとして、なぜ脱会したか。
 それを考えると、TOKIOの 「宙船」 作詞曲:中島みゆき が頭に浮かぶ。 


TOKIO Sorafune Live YouTube - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=L-XTB8RvxIM


 何の試験の時間なんだ 何を裁く秤なんだ
 何を狙って付き合うんだ 何が船を動かすんだ
 その船を漕いでゆけ おまえの手で漕いでゆけ
 おまえが消えて喜ぶ者に おまえのオールをまかせるな

 私と同じで、組織が嫌になったのではなかろうか。

 今、教団は金が無い。金で裁かれ金で秤(はか)られ、金を狙って付き合っている。
 なぜなら、船(教団)を動かす金が絶対的に不足しているからだ。
 そして、信者たちに、中島みゆき は
 自分の船をおまえの手で漕いでゆけと言う。
 自分の考えで漕いでゆけ(おまえのオールをまかせるな)と言う。

 中島みゆき はそこまで考えて書いたのだろうか。

 いま日本の状況も同じだ、天理教では天理教本部を鏡屋敷と言う。
 日本を映す鏡だと言う意味だ。まさに見事に映っている。
・・・金で裁かれ金で秤(はか)られ、金を狙って付き合っている。

 中島みゆきは日本人一人一人に政治を当てにせずに、自分で考えて生きろと言っているようだ。

https://hikino-effect.at.webry.info/201601/article_18.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c40

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
41. 中川隆[-11623] koaQ7Jey 2019年3月08日 11:15:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[369]

2018.02.13
中島みゆきは天理教をなぜ脱退したのか?信者の芸能人は?
https://芸能ニュース速報.com/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E3%81%BF%E3%82%86%E3%81%8D%E3%81%AF%E5%A4%A9%E7%90%86%E6%95%99%EF%BC%9F/

Contents

1 天理教とはどんな宗教?
2 天理教信者の芸能人一覧
3 中島みゆきは天理教をなぜ脱退したのか?

芸能ブログライターのkomichiです。

今回は、現在話題となっている「中島みゆきは天理教をなぜ脱退したのか?信者の芸能人は?」です。

まさに日本の元祖歌姫とも言える中島みゆき、個人的に知らなかったのですが彼女は以前天理教に入っていて脱退したということですが何故信仰していた宗教から離れたのでしょうか?

天理教には他にも数多くの芸能人が入信していると言われています、誰が信者なのかまずはご紹介していきましょう!


天理教とはどんな宗教?

中島みゆきも以前は信仰していたという天理教とは、いったいどんな宗教なのでしょうか?

江戸時代末に成立した天理教は、新宗教の一つで中山みきを教祖としている宗教団体になります!

中山みきは、寛政10年に現在の天理市見昧田町にあった前川家の長女として誕生します。

この家は大庄屋だったと言われていて信心深い心優しい人間へと成長し、13歳で中山家に嫁ぎます!

天保9年41歳のときに神の啓示を受け、彼女の体に親神様が入りました。

嘉永7年に妊婦が安心して出産できるように「をびや許し」を始め、これが日本全国へと広まりました!

彼女の言動を快く思わない他の宗教から迫害を受けながらも、天理教は人々から親しまれ広まっていったそうです。

をびや許しは、妊娠6ヶ月以上の女性やその夫、夫婦の両親であれば代理で受けることが出来ます。

奈良県天理市に本拠所を置いていて、信者と教祖で作る法人格を持った包括宗教団体で、天理教の傘下にある一般教会は各地に存在します!

天理教の神名は天理王命(てんりおうのみこと)で、別名親神、親神様とも呼ばれています!

そして、芸能人の中島みゆきも所属していた天理教は「陽気ぐらし」というのを世界に実現しようとしている団体です!

教祖の中山みきは明治20年に死去していますが、天理教では目に見える現身(げんしん)を隠しただけで、その魂は教会本部に留まっていて人々の暮らしを見守り守護していると考えています!

この「教祖存命の理」という考え方が、天理教の信者にとって精神的な支柱になっているということです!

2018年2月11日現在の統理者は「真柱(しんばしら)・中山善司」になります!

天理教の信者は基本的にハッピを平服の上に着るのですが、黒字で背中には天理教と書かれています。

そして、天理教は神道の影響が強く根本教義には次のようなことが書かれています!

「この世の元初まりは、どろ海であった。月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた」

人間の役割は、親神が見たいと説く陽気ぐらしを実現することで、親神の守護と恵みによって生かされているという謙虚な気持ちを持って欲を捨てて、嘘をつかず、平和で豊かな世界を目指すことが重要。

さらに、天理教では人間社会の根本理念として親子関係や夫婦関係が重要視されています!

結婚に関して天理教では男女の両性が愛し合うことが前提ですが、離婚は否定していません。

全国各地の天理教の教会は、ぢばの方角に建てられていて信仰している人たちは、ぢばに向かって人の幸せや救いを親神様に向かって祈ります!

本部神殿は、365日24時間開かれていていつでも参拝出来ます!

天理教信仰の中心になるぢば一帯はもともとは、大和の国の庄屋敷村と名づけられた小さな村だったのですが多くの人がやってくるようになり、親里村と呼ばれるようになりました。

親里は人間の帰りを待っていてくれる親神様がいて、人類の故郷であると考えています。

そして、芸能人にも信者が多いと言われる天理教は明治時代から海外へも広がっています!

集団移民した日本人がいる場所やアメリカのハワイ、ブラジル、ペルー、コロンビア、アルゼンチン、パラグアイ、インド、オーストラリア、英国、フランス、メキシコ、チリ、香港、ニュージーランド、ウガンダ、ゴンゴ、ケニア、フィリピン、ネパール、シンガポール、タイなどの世界各国にあります!

教義の基礎は「お筆先(おふでさき)」「神楽歌(みかぐらうた)」「御指図(おさしづ)」の3種類の掲示書に示されています!

毎年1月5〜7日に教会本部で「お節会」という行事が行われていて、この期間中は人類の故郷と考えられているぢばに帰り、参拝した人には鏡餅を雑煮にしたものが振る舞われています!

現在の宗教法人天理教の教えは、元祖の教祖であった中山みきの教えと明らかな違いがあるという指摘がされています!

天理教信者の芸能人一覧

ここからは、天理教の信者だと言われる芸能人をご紹介していきましょう!

● 李香蘭(山口淑子)
天理教信者であったのは事実のようで、神殿で見たという目撃情報が多いのです!

● 元チェッカーズ 高杢禎彦
がんになったことで、天理教の信者になったと言われています

● 加護亜依
子供の頃に、天理教が毎年夏休みに行っている子供向けのお泊まり会「こどもおぢばがえり」に参加していたと語ったことがありますが、これは信者でなくても参加出来るのでそうであるのかは不明です!

● 渡辺徹
ご両親は天理教だったことから、渡辺徹もそうではといった説や一時期週刊誌にもそう書かれていたと言われています

● 伊東美咲
学生時代素行が悪かったことから、大阪の天理教の分教会に下宿に出されたそうです。

● 畑恵
目撃情報が多いようで、信者だったのではという説が浮上しています!

中島みゆきは天理教をなぜ脱退したのか?

芸能人の中島みゆきは天理教の信者だったといいますが、脱退した理由はいったいなんでしょうか?

それを紐解いて行く前に、中島みゆきとはどんな人物なのかご紹介していきましょう!

1952年2月23日北海道札幌市生まれの65歳(2018年で66歳)、日本のシンガー・ソングライターでラジオパーソナリティでもあります。

1975年「アザミ嬢のララバイ」でデビュー、父親は産婦人科医だったといいます。

ご存知のとおり、芸能人として日本で知らない人はいないと思われる中島みゆきは数々のヒット作を自身が歌う以外にも、他の歌手に楽曲提供して世の中に送り出しています!

1979年にニッポン放送の「中島みゆきのオールナイトニッポン」が放送開始され、リスナーから大きな支持を受けます。

1983年になると、柏原芳恵に提供した「春なのに」が大ヒットし、第25回日本レコード大賞で作曲賞を受賞するなど数多くの賞をもらい、日本の音楽業界を牽引していきました!

さまざまな活躍をしてきた中島みゆきは、2009年11月3日に紫綬褒章を受賞しています!

芸能人としての中島みゆきの活躍の裏には、天理教が色濃く影響されていると言われていて、言葉遣いや衣装などに強い影響を与えていたといいます。

両親が信者で、父は産婦人科医だったのに赤ひげ先生のような生き方を実践しお金のない人からは出産費用を取らなかったと言われているほど、熱心に天理教の教えを守っていたといいます。

その意志を引き継いで、中島みゆきは芸能人として活躍をしながら天理教の教えを歌の歌詞に込めて、多くの人に広めていったと言われています。

1992年に発表された「糸」という曲は、天理教の代表者「中山善司氏」の結婚式のために作られた曲だと、天理教機関新聞1992年4月12日号に書かれているそうです!

この歌の歌詞に次のようなものがあり、脱退の噂がある中島みゆきの歌詞が好きすぎて天理教に入りたくなるファンもいると言われています。

「縦の糸はあなた、横の糸は私、会うべき糸に出会えることを人は幸せと呼びます」

この曲は、人を糸にたとえて人と人が出会うことで布が出来上がる、という意味がある素敵な作品となっているそうです!

そんな中島みゆきが天理教を脱退したという噂が出ていますが、実はこれに関しては本当か噂なのか憶測の域を出ていないと言われています。

ただ、先程も書いたように中山みきが生きていた頃から考えると現在の天理教はただお布施集めに熱心で、教えが捻じ曲げられている面があると言われていて、それにうんざりしている信者の方もいるようですから、芸能人の中島みゆきがそれにうんざりして脱退した可能性は否定できないと考えることも出来るようです!

どんなものを信仰するかは個人の自由です!

こんな映画もありますので、参考にされてください!

宗教大国欧米の大手メデイアが唸ったと言われる、個人的にも好きな作品です。

ちなみに、PKとは酔っ払いという意味です!

https://芸能ニュース速報.com/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E3%81%BF%E3%82%86%E3%81%8D%E3%81%AF%E5%A4%A9%E7%90%86%E6%95%99%EF%BC%9F/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c41

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
19. 中川隆[-11622] koaQ7Jey 2019年3月08日 11:56:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[370]

標記映画の動画リンク追加

若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) 動画
https://www.youtube.com/watch?v=q_uMjzQAwnM
https://www.youtube.com/watch?v=cicGFPx-4GE


▲△▽▼


しかし、昔の学生やインテリは随分 IQ が低かったみたいですね。

当時の日本は一億総中流で、マルクス主義の前提になる階級自体が存在しなかったので、いくら社会不安を起こしても階級闘争や革命なんか起きる筈がなかったのですけどね。

まあ、今の学生やインテリが賢くなったというのでなく

今さえ、金さえ、自分さえ

という価値観に変わっただけなのですが。


世界の国で中間層が部厚かったのは平成バブル崩壊までの日本だけです
そしてそれは、終戦直後に GHQ が農地改革、意図的なインフレと預金封鎖、極端な累進課税で人為的に所得再分配をやった結果なのです。

日本共産党や労働組合を創設させたのも GHQ なのですね。

平成バブル崩壊までの日本が世界で最も成功した社会主義国だと言われていたのは
すべて GHQ の共産化政策の結果なのです。

20年前まで大学関係者や学生が左翼とマルクス主義者ばかりだったのも GHQ の教育方針の結果でしょう。


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c19

[リバイバル3] 車中泊向けの軽バン、ホンダ「N-VAN」の実用度 中川隆
97. 中川隆[-11621] koaQ7Jey 2019年3月08日 12:09:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[371]

2019年03月08日
車がなくてもカーシェアで車中泊の裏技


車種は大きい場合も小さいこともある


画像引用:トヨタ ヴォクシー | 外観 | トヨタ自動車WEBサイトhttps://toyota.jp/voxy/exterior/?padid=ag341_from_voxy_navi_exterior


カーシェアで車中泊

自動車で旅行に出かけて車の中で泊る車中泊はおなじみになったが、電車やバス移動でも車中泊できる。

カーシェアのタイムズにはダブルナイトパック(18時から翌9時)で2,580円というプランがあり車内で一泊できる。

タイムズの車種は安いベーシックとプレミアムに分かれているが、パックだと同一料金になる。




通常は走行距離に応じて1キロ16円を支払うが、走行しないので料金は2,580円のみになります。

タイムズシェアカーが置いてあるのは市以上の駅周辺が多く、電車やバスで利用するのにも便利です。

エンジンを始動してエアコンを使っても走行しなければ燃料代は請求されず、車内の装備も使える。


欠点としては便利な場所ほど周囲が明るく騒音もあるので、自分で耳栓やアイマスクで対策する必要がある。

ホテルと違って風呂やシャワーはないので、1泊なら良いが連泊には向いていません。

床がフルフラットになるのは一部の車種に限られ、ミニバンだとしても多少デコボコなベッドで寝ることになる。


寝具は薄い寝袋程度のものを持参すれば、春から秋の気温では問題ないでしょう。

カーシェアの13%は休憩利用など

安い宿泊施設としてはカプセルホテル、ゲストハウス、ビジネスホテル、簡易宿舎もあるが所在地が限定されています。

自分が行きたい場所に格安の宿泊施設がたまたま存在することは、ほぼないでしょう。

テント泊や野宿は設置場所が限られていて、駅で野宿すると警察がくるし、公園や河川敷も意外に設置しにくい。


シェアカー泊は1台2580円なので、2人で使うと1人当たり1290円になります。

1人1300円で床がデコボコとはいえ清潔で安全な車内に泊れるのは、魅力的ではないでしょうか。

タイムズは18時から翌9時まで2,580円、オリックスは2,500円で20時から翌9時、ドコモのdカーシェアも2,500円になっている。


なお車内を汚した場合は違約金や清掃費用を請求されるし、車中泊禁止の場所もあります。

車内で寝る事自体は規約に違反していないし、8人に1人はエアコンに当たったり仮眠など走行せずに使っているそうです。

同じような使い方として夏や冬には30分とか1時間だけエアコンで休憩するのもありでしょう。


なお夏に涼むには日陰に駐車してある車両にしないと、とんでもない目に遭います。

カーシェアは時間当たりの利用料金以外に、申込時の初期料金(タイムズ1,550円)と月額基本料金(タイムズ1,030円)が必要です。

月額基本料金1,030円を払うと無料利用分1,030円を貰えるので、利用すれば月額無料になります。


なおカーシェアの会員申込みには普通自動車免許証が必要で、免許がない人は申し込めません。

免許保有者が会員になって一緒に泊ることはできます。
http://www.thutmosev.com/archives/79222947.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/865.html#c97

[リバイバル3] 「住宅は資産」という幻想で誰があなたをカモにするのか? 中川隆
231. 中川隆[-11620] koaQ7Jey 2019年3月08日 12:15:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[372]


2019年3月8日

「マンション購入は資産構築にはならない」住宅ジャーナリストの榊氏が警告
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/15548

 「あなたの家は、『一生モノ』ではありません。『買えば安心』は大間違い」

 と、マンションに住んでいる人やこれから購入しようとする人への警告ともとれる新刊書

『すべてのマンションは廃墟になる』(イースト新書)
https://www.amazon.co.jp/%E3%81%99%E3%81%B9%E3%81%A6%E3%81%AE%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%81%AF%E5%BB%83%E5%A2%9F%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8B-%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%A6%8A%E6%B7%B3%E5%8F%B8/dp/4781651135/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1551761272&sr=8-1&keywords=%E6%A6%8A%E6%B7%B3%E5%8F%B8

が発売された。著者は、これまでもマンション不動産市場について価格の暴落を予言するなど辛口のコメントをしてきた住宅ジャーナリストの榊淳司氏。著者にインタビューして今年の不動産市場についても聞いた。

「誤ったイメージ」


『すべてのマンションは廃墟になる』(イースト新書)

 いまや、多くのサラリーマンは就職して結婚すれば家を買う、大都市の場合、多くが分譲マンションの購入するのが当たり前となっている中で榊氏は、

 「多くの人は分譲マンションに対してかなり誤ったイメージを抱いている。幻想と言っていいだろう。それは、『マンションを購入すると自動的に幸せになれる』というものだ。

 あるいは、『マンションを買うことは資産を築くこと』という感覚で購入を決断している場合も多く見かける。こういったイメージや感覚は部分的、短期的には正しい場合も多い。

 しかし、全体的あるいは中長期的には誤っていると断言していい。最終的には所有しているマンションが廃墟化してしまう可能性も高い。廃墟化の危機を迎えるのは、地方や遠隔郊外のマンションだけではない。現在、日本に存在するマンションのほとんどが、廃墟化への時限爆弾を抱えている」

 と、空恐ろしい指摘をする。

「持ち家信仰」はもう古い

 「東京や大阪に住む人が『自宅を所有したい』と熱望するのは、敗戦後の住宅難の時代に萌芽し、現代まで受け継がれている偏った価値観だと考える」と持論を展開、「そもそも、持ち家でないといけない、という価値観を見直すべきだ」

 と、訴える。その理由として、少子高齢化、人口減少を指摘する。

 「このままだと、昔のような住宅難の時代は来そうにない。それどころか、この国がいまだに経験したことがない住宅の大余剰時代がやってくる。というか、地方ではすでにそうなっている。そのことに気づけば、マンションを購入する、というのは大きなリスクであることが見えている」

欠陥だらけの区分所有法

 その最大の元凶がマンションの所有形態である区分所有制度であると主張する。

 「区分所有について定められた区分所有法という法律には、決定的な欠陥があるのだ。1962年に制定された同法は、基本的に性善説に基づいているとしか思えない構造になっている。また、500戸や1000戸大規模マンションの登場を想定していない。さらに言えば、マンションの老朽化さえも想定外ではないか。これを改めない限りにおいて、すべてのマンションは廃墟化へのレールを突き進むことになる」

 榊氏は、

 「日本のマンションにおける区分所有権とうのは、過剰に保護されていると言えないだろうか。せめて、管理費や修繕積立金を長期にわたって滞納している住戸に対しては、もう少し厳しい制度を設けてもよいと思う。国土交通省もその必要性は気付いているはずで、その方向で見直しをしてほしい」

 と述べ、管理費の滞納が5年分に達した場合、所有権がマンションの管理組合に移転するようにしてはと、具体的な提言をする。

 区分所有法では、共用施設の変更には区分所有者の4分の3以上の賛成が必要な特別決議が必要になる。建て替えとなると法的には5分の4の賛成が必要だ。数十戸の小規模のマンションなら住民も顔見知りのため、合意形成も得やすいが、1000戸規模となると、外国人や賃貸契約で入居している人もいて、合意形成は煩雑で難しくなる。

 「『4分の3』、『5分の4』の合意はハードルが高すぎるので、最大で『3分の2』あたりまで緩和すべきではなかろうか。マンションのような何十、何百もの世帯が生活を営む集合住宅は、たとえ所有者が個人であっても、ある程度は公共的な存在であるべきだ。

 公共物であるかぎり、私人が好き勝手に扱っていいはずがない。そこでは公共物なりの常識的なルールを守り、一定の秩序が保たれるべきであろう。また必要とあれば、行政がある程度介入すべきではないだろうか。

 特に廃墟化が迫っているマンションについては、区分所有者だけの力だけではどうにもならない場合が多い。そこには当然の如く行政の介入があってしかるべきであると私は考える」

性悪説で見直しを

 榊氏は自身がコンサルティングしたケースで、マンションの管理組合の悪徳理事長が跋扈した例を取り上げている。

 この組合では理事長が管理規約を好き勝手に変更して、自分への露骨な利益誘導を図っていたという。こういったことをするためには、管理組合の特別決議が必要になる。

 85%もの賛成投票の結果に疑念を感じて、議決権行使書と議長一任の委任状の開示を求めても、区分所有法とマンションの管理規約にはそのような規定はないので開示はできないとなった。

 「つまり、悪徳理事長が委任状や議決権行使書を偽造していたとしても誰にも暴けないのである。そもそも区分所有者法は、委任状や議決権行使書を偽造してまで自分に有利な決議を可決させようと企むような悪徳理事長の登場を想定していない。いまやマンションの管理組合は利権となり、悪意の人物が私腹を肥やすことが常態化している組織なのである」

 と話し、区分所有法は性悪説に基づいて見直すべきだと強調する。

 現実に管理組合の抱える問題点として、都内マンションの実態調査を見ると、役員のなり手がいない問題はいつもトップにランクされることが多い。

 理事長の多選を禁止している管理組合はほとんどなく、結果的に理事長が何度も再選されて、気が付いたら理事長がマンション管理費を流用していたというケースは、いくつもあるという。


新たなバブル崩壊リスク

 今年のマンション市場については、

 「新築マンションは価格が高くなり過ぎて在庫が積みあがってきている。中古は2020年の東京オリンピック後には下がるのではないかという期待感から模様眺めになっている。さらに今年10月から消費税が上がれば、景気を冷やすことになる。価格が上がる要素は何もない」

 と、価格の下振れ傾向が強まると予想する。

 不動産市場は昨年に表面化したスルガ銀行の不正融資、レオパレス21の施工不良問題などネガティブニュースが度重なっている。

 榊氏が特に心配するのは、

 「今年は投資用アパート、マンションが過剰になり暴落する恐れがある。すでに投資用不動産の価格がかなり下落してきている」点で、

 新たなバブル崩壊のリスクがあるとみている。この数年、節税や遺産相続対策になるとして、富裕層が1棟建てのアパートやマンションに積極的に投資してきた。金融機関も2年ほど前までは建設資金を融資し、借りる側も低金利が続いているため担保を提供して必要資金を割と簡単に借りることができていた。

 当初はアパートやマンションに入居者が入り、期待通りの賃料が得られていたが、似たようなアパートやマンションが急増したことから、空き家が増えてきており、期待したほどの賃料が得られなくなってきているという。

 仮に賃料が大幅に落ち込んだりすると、資金計画の目算が狂うことになり、場合によってはアパートやマンションを手離さなければならなくなる。これが引き金となって、新たなバブルが破裂する恐れがあるという。

 金融機関はスルガ銀行の不正融資が露見してからは住宅関連融資の蛇口を閉めており、お金を借りてアパートを建てるのは難しくなっている。今年の不動産市場は要注意だ。



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/615.html#c231

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
42. 中川隆[-11619] koaQ7Jey 2019年3月08日 13:46:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[373]

天理教 と 中島みゆき 130年祭の最中に不謹慎ですが。2 2016/02/01
https://hikino-effect.at.webry.info/201602/article_1.html



 『糸』 作詞:中島みゆき 作曲:中島みゆき


中島みゆき 糸 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E3%81%BF%E3%82%86%E3%81%8D+%E7%B3%B8+&sp=mAEB


 ひきのeffect が 天理教で解説してみましょう。


     なぜ めぐり逢うのかを
     私たちは なにも知らない
     いつ めぐり逢うのかを
     私たちは いつも知らない
     どこにいたの 生きてきたの
     遠い空の下 ふたつの物語

 天理教では「神にもたれる」といいます。

 私たち自身には分からないが、神を信頼して任せれば(不安を除いて生きていけば)安心して暮らしていける。との意味。

 けれども、ここは曲の導入部なので、「知らない」・・・まだ分からなくて不安な雰囲気を醸(かも)し出しています。


     縦の糸はあなた 横の糸は私


 天理教 元初まりの話 より

 縦の糸 ⇒  あなた (貴方)男、しやち(鯱)が象徴 縦方向の働き
 (男一の道具および骨つっぱりの道具)

 横の糸 ⇒  わたし 女、かめ(亀)が象徴 横方向の働き 
 (ふんばりも強くて容易には転(ころ)ばないものであるから、女一の道具および皮つなぎ)

 ですから、縦糸が男で横糸が女です。

     織りなす布は いつか誰かを
     暖めうるかもしれない


 布=神 天理教は中山ミキを今も生きている(存命の理)として、着物を神前に供え、それを赤衣(あかき)と称してい ます。その赤衣を細かく切った『布』をお守りとしています。


 私のお守り
https://hikino-effect.at.webry.info/201602/img1_1.145433509173604550179.html

 織りなす布・・・神の技ですね。それが包み込むとの意味でしょう。

 最後に曲を完成させるためにこの段階では『かもしれない』です。

 天理教において赤衣は重大な意味を持つが本題でないので割愛する。


     なぜ 生きてゆくのかを
     迷った日の跡の ささくれ
     夢追いかけ走って
     ころんだ日の跡の ささくれ
     こんな糸が なんになるの
     心許なくて ふるえてた風の中


 天理教用語 ⇒ 節から芽が出る

 人生で大きな問題に出会うことを天理教では『節』と言います。
 竹などの真っ直ぐな植物にある途中の枝の出た固い部分。

 順調にやってきたのに、この節というのは、人には妨げになることです。しかしその節(問題)が、大きければ大きい程、それを乗り越えた時、『大きな 幸福』 を感じることができます。
 それを「節から芽が出る」と言います。

 この歌詞では、それを「ささくれ」で表現しています。そして、感じる『大きな 幸福』が次からの歌詞の題になります。


     縦の糸はあなた 横の糸は私
     織りなす布は いつか誰かの
     傷をかばうかもしれない

     縦の糸はあなた 横の糸は私
     逢うべき糸に 出逢えることを
     人は 仕合わせと呼びます

 《まとめ》

 神の道理(天理)を信頼して生きれば、男と女が出会い、神の計(はか)らいで幸せに生きて行ける。

 となります。
 どうでしょうか。

 天理教が中山ミキの教えを、中島みゆきの楽曲の様に教えてくれれば、もっと現代の人にも理解してもらえるし、信者が増えたと思います。

 しかし、残念ながら今の天理教にはそれができません。

 中島みゆき 作詞作曲の 楽曲はカラオケでも人気があります。中山ミキ の思想に依っていることを一般の人は気付かずに歌っています。

 気付かずに歌っていると言うよりも、中島みゆきの 楽曲は私達・自分達の中に自然にある、備わっている、神性に気付かせてくれる楽曲と位置付けることができるかもしれません。だからみんな歌うのかもしれません。

 宗教色は排して、素直に感じればいいと思います。

 中山ミキ婆さんも中島みゆきも素晴らしいですね。

 また 『宙船』でも歌っちゃいますかね。

https://hikino-effect.at.webry.info/201602/article_1.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c42

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
43. 中川隆[-11618] koaQ7Jey 2019年3月08日 13:50:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[374]

天理教 と 中島みゆき 130年祭の最中に不謹慎ですが。3 : 2016/02/07
https://hikino-effect.at.webry.info/201602/article_5.html



 中島みゆき の楽曲 これに 天理教 とくれば、それしか知らない人は、彼女がさも暗く陰気な人間のように感じるかもしれない。

 しかし、ラジオ放送のパーソナリティーとしての彼女を知っている人は、その声があまりにも明るくて素敵なことを知っている。

 宗教と言うと厳(おごそ)かとか、幽玄(ゆうげん)・・・などの静かな厳粛(げんしゅく)な印象があるが、天理教は本来もの凄く明るい宗教だ。

 従って、私は彼女の歌の重みと、ラジオの声に違和感を感じない。むしろ天理教信者本来の、明るさ、無邪気さ、生きることの楽しさを感じる。


 では、今の天理教は?

 天理教関係者ならご存知と思うのであまり言わないが、一言でいえば「陰気」である。

 中山ミキによると、神が人間を作ったのは、「人間の陽気遊山が見たいから」である。わたしも、色々なことをしているが、楽しいからである。もちろん周りには死んでいく人もいるし、数々の苦楽のドラマが展開している。私自身、歳もとり、3歳の甥っ子に「ジジィ」呼ばわりされるが。

 それをどう感じるかは自分次第であり、それを見ているのが神である。で、神は楽しいものを見たいのだ。

 中山ミキの教えを素直に実践しているのが、中島みゆき だと思う。

https://hikino-effect.at.webry.info/201602/article_5.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c43

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
44. 中川隆[-11617] koaQ7Jey 2019年3月08日 14:13:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[375]

中島みゆき「世情」(1978年4月10日)動画
https://pv755.com/sejo
https://www.nicovideo.jp/watch/sm27227751

▲△▽▼

天理教信者の中島みゆきが書いた世情 私見 ひきのエフェクトのブログ : 2016/09/28
https://hikino-effect.at.webry.info/201609/article_21.html

 中島みゆき 世情  1978年4月10日 リリース

 1960年ごろから始まった学生運動のことを知らないとこの歌の本来の意味は理解できません。

 60年安保の時代は大衆運動は労働組合や政治結社が主体でした。
 時代が進むにつれて、大学生が主体となります。

 ベトナム戦争反対運動
 東大安田講堂攻防戦
 70年安保闘争
 三里塚闘争 成田空港建設反対運動
 全共闘世代(ぜんきょうとうせだい)

というのがあって、1965年から1972年までの、全共闘運動・安保闘争とベトナム戦争の時期に大学時代を送った世代のことです。


 1970年

 私は10歳でした。
 ですから、学生運動のことは遠い世界のことでした。都会は火炎瓶が飛び交い大変なことになってるらしい。ぐらい。

 中島みゆきさんは、18歳。
 直接かかわらないにしても、大きな影響を受けたであろうと想像できます。
 現在を生きる、若者世代は理解できないとおもいます。
 革命を本気で夢見た若者たち。・・・私もよくわからない。


 個人的には、全共闘世代・・・ほぼ団塊の世代・・・無責任な大量の人たちだと思っています。 あれだけ大騒ぎをして、知らない顔で社会人をしていました。・・・まだ元気ですがこれから老人になり反省のないまま消えてゆくでしょう。自業自得ある意味悲惨です。
 
 中島みゆきさんは、歌の意味について説明されません。
 そしてその意味の受け取り方は、聞く人それぞれの経験や考え方で変わってくる、別にそれでいいと思います。

 長い前書きになりました。私見ということで書いてみます。

 まず 原詞

 中島みゆき 世情


・世の中はいつも 変わっているから 頑固者だけが 悲しい思いをする

・変わらないものを 何かにたとえて その度崩れちゃ そいつのせいにする

 ※シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく 変わらない夢を 流れに求めて
 時の流れを止めて 変わらない夢を 見たがる者たちと 戦うため※

・世の中は とても 臆病な猫だから 他愛のない嘘を いつもついている

・包帯のような嘘を 見破ることで 学者は世間を 見たような気になる

 (※くり返し×4)


 長くはありませんが意味は深そうですね。
 
 頑固者をどう見るか・・・これで今後の展開が大きく変わります。

 彼女は天理教で育っています。私もです。どうしても、頑固者を・・・神様・・・にしてしまいます。

 (頑固者を時代についていけない者・・・との意見があります・・・単純すぎます)

 すると最初の一行で、後にくる言葉をまとめてしまっています。総括が一番最初にある。


・世の中はいつも 変わっているから 頑固者だけが 悲しい思いをする


 世の中はいつも神の想いと違う方向へ変わっていくので、神の視点からみると、流されていく者たちが不憫で、神は悲しい思いをしている。

変わらないもの・・・安寧、平和、愛・・・

これを何かにたとえて・・・形あるものにして・・・偶像、バリケード、壁新聞、ビラ、モニュメント、契約書

その度崩れちゃ そいつのせいにする・・・形にしたものが、形があるゆえに崩壊してしまう。

そいつ・・・代名詞にして特定しない。

・変わらないものを 何かにたとえて 作るたびに崩れちゃ そいつのせいにする


 変わらないもの、愛や安寧をバリけードや壁新聞にして、作るたびに崩れちゃ人のせいにして自分のせいじゃないと無責任なことばかり言う。


・シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく 変わらない夢を 流れに求めて


  デモ行進が波のように過ぎていく 波・・・おしてはかえしながら・・・小さくなってゆく・・・いずれは消え去る。
 変わらない夢・・・平和などの恒久なもの・・・だけど夢(消えてしまう)
 恒久なものを デモ行進などの流れ・・・変わってゆくものに求める・・・この矛盾
 流れは・・エネルギー・・・力・・・暴力・・・となって戦うに続く


・時の流れを止めて 変わらない夢を 見たがる者たちと 戦うため※

 時の流れを止めて・・・書面や契約書、条約などを作ってこれで、恒久に 平和などが約束されると夢を見たがる・・・実現しないと知っていながら、実行に移そうとする者

 夢を見ている者と、実現しないと知っていながら、実行に移そうとする者の闘い。

 学生運動の虚しさを表現しています。


・世の中は とても 臆病な猫だから他愛のない嘘を いつもついている


 猫の目 物事がその時どきの事情によって目まぐるしく変わる様子。
 猫なで声 優しげで媚を含んだ声
 猫ばば 悪いことを隠して素知らぬ顔をする
 真実を隠し、すぐばれるような嘘ばかりつく

 
・包帯のような嘘を 見破ることで


 大きな傷(社会の矛盾)が隠されている、傷を治さずに覆っているだけの包帯
 包帯を嘘と見破るだけで、本質・・・傷には触れず何もしない。

 
・学者は世間を 見たような気になる


 頭でっかちな学者は、それで世界を解明したかのようなことを言う。
 嘘を見破っただけで傷の本質(社会の矛盾)は何もわかってはいない。治そうとしない。
 また、新しい包帯に換えられる。

 文章が長くなってしまいました。

 TBSの金八先生でこの曲が使われ感動を呼んだと聞きます。私は金八先生が嫌いで見ていませんでした。中学生の不良と学校の対立だったかな。番組では不良中学生の権利の主張みたいな・・・
 いかにもTBS的です。…学生運動の残滓

 
 この歌の基調になる

 世の中はいつも神の想いと違う方向へ変わっていくので、神の視点からみると、流されていく者たちが不憫で、神は悲しい思いをしている。

 いまでも、変わりません。

 戦争法案反対デモ 貧困たたき反対デモ
 原発・・・実現しないと知っていながら、実行に移そうとする。
 
 頑固者だけが 悲しい思いをする。

 この歌を聞いて、私たちはどう行動するべきでしょうか。


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c44

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
45. 中川隆[-11616] koaQ7Jey 2019年3月08日 14:28:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[376]

中島みゆき の楽曲と 脳科学者:ひきのエフェクトのブログ 
https://hikino-effect.at.webry.info/201603/article_12.html


中島みゆき の楽曲を脳科学者の茂木健一郎氏と小堺一機氏が語らっている動画を見た。

 ⇒ かたらふ〜ぼくたちのスタア〜 2016年09月03日

 茂木健一郎氏の専門の『脳科学』・・・によると


 『時代』 は メタ認知

 メタ認知とは 認知を認知すること。 人間が自分自身を認識する場合において、自分の思考や行動そのものを対象として客観的に把握し認識すること。 それをおこなう能力をメタ認知能力という。


 『地上の星』『ヘッドライト・テールライト』 は グリットソング

 グリット 目的を達成するためにとてつもなく長い時間粘り強く努力することによって最後までやり遂げる力
 グリットソング・・・応援歌


 『ファイト』 は 究極のグリットソング


 コメディアンの小堺一機氏と一般人のチャラチャラした会話ならばこの内容でいいだろう。

 大人気の脳科学者茂木健一郎氏が中島みゆきの楽曲をこの程度の薄っぺらな理解しかしていないことに驚く。口をついて出てくる単語はなるほど難しい、しかし読みはあきれるほど浅い。

 中島みゆきの楽曲を深く理解するためには、宗教的な見方(霊的な感性)が不可欠だ。

 このことについては、過去のblogで書いてきた。
 宗教的な見方(霊的な感性)を教育や政治で避けてきた時代の弊害だろう。

 各楽曲の気になる部分を抜き出してみよう。

 『時代』の・・・ 人は生まれ変って歩き出すよ
 生まれ変わりは『メタ認知』から逸脱する。


 『地上の星』の・・・ 氷ばかり掴む
 ・・・やり遂げるというより虚しさを感じる。


 『ヘッドライト・テールライト』の・・・足跡は 降る雨と 降る時の中へ消えて
 最後までやり遂げる力・・・こんな単純な話ではない。

 『ファイト』の・・・闘わない奴等・・・誰のことか?

 脳科学者の茂木健一郎氏、世間の事件にblogでコメントをしている。

https://hikino-effect.at.webry.info/201603/article_12.html


 過去blog ⇒ 今度は「広島の中3自殺」だそうです。

 彼には次の詞が良いかもしれない。


 『世情』
 包帯のような嘘を 見破ることで
 学者は世間を 見たような気になる

https://s.webry.info/sp/hikino-effect.at.webry.info/201609/article_22.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c45

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
46. 中川隆[-11615] koaQ7Jey 2019年3月08日 14:44:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[377]

中島みゆきが追っかけをしていた吉田拓郎の場合

アジアの片隅で-吉田拓郎 - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%90%89%E7%94%B0%E6%8B%93%E9%83%8E+%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%81%AE%E7%89%87%E9%9A%85%E3%81%A7

団塊の世代 吉田拓郎 今も狂い酒のまま ひきのエフェクトのブログ : 2016/03/03
https://hikino-effect.at.webry.info/201603/article_4.html



 私が中学校の時、フォークソングの一大ブームがありました。

 70年安保闘争があり、ベトナム戦争が終わったのが75年、その当時も、今の様な混乱があったと思います。

 反戦平和を訴えて、当時の若者、いわゆる団塊の世代が、世相をリードしていました。

 わたしは、中学生だったのでそんな世相のことなど分からなかったのですが、フォークソングブームの波にはさらされていました。その中でギターのうまい友達が、吉田拓郎を弾いて聞かしてくれました。中学生の当時はカッコいいなー、程度で友達と一緒によく歌っていました。思春期の憧れですね。

 しばらくして、吉田拓郎のLP「アジアの片隅で」を買ったのですが、しっくりこなくて数回聞いて聞かなくなりました。


 吉田拓郎氏は 1946年生まれ、団塊の世代です。

 「アジアの片隅で」を詞で読んで見ましょう。

 ひと晩たてば 政治家の首がすげかわり
 子分共は慌てふためくだろう
 闇で動いた金を 新聞は書きたてるだろう
 ひと晩たてば 国境を戦火が燃えつくし
 子供達を飢えが襲うだろう
 むき出しのあばら骨は 戦争を憎みつづけるだろう

 ※アジアの片隅で 狂い酒飲みほせば
 アジアの片隅で このままずっと
 生きていくのかと思うのだか※

 ひと晩たてば 街並は汚れ続けるだろう
 車は人を轢き続けるだろう
 退屈な仕事は 野性の魂を老けさせるだろう
 ひと晩たてば チャンピオンはリングに転がり
 セールスマンは道路に坐りこむだろう
 年寄りと放浪者は 乾杯の朝を迎えないだろう

 ※−※ 繰り返し

 以下つづく ⇒ 歌詞リンク
http://j-lyric.net/artist/a001cc0/l0187af.html

 皆さんどう思われるでしょう?

 三番には
 ひと晩たてば 秘密の恋があばかれて 女たちは噂の鳥を放つだろう

 ベッキーのことでしょうか?


 凄い内容です。今にも通じる歌詞です。予言の様ですね。

 でも、ちょっと待ってください。これはこの当時(1980年)の歌です。今の世相にも通じるなんて甘い見方を私はしません。

 私は、ここで団塊の世代の特徴を見ます。

 ・・・・・問題を何も解決しない。
 ・・・・・で解決していない事実が分からない。
 ・・・・・その状態に酔いしれている。(こんなもんだと思っている)

 
 ― アジアの片隅で 狂い酒飲みほして このままずっと 生きていく ―

 ・・・だから、何も変わらないままなのです。

 吉田拓郎氏の思いは現実になっているんですね。今も、これからもずっーと。


 戦争反対だ、政治腐敗だ、と言っておきながら、一番人数が多いのに何も改善せずに、そのまま年老いていく。

 本田宗一郎の世代は一人一人が日本を変えたのに、です。

 この現象は、教育の世界でも

 神戸大学名誉教授の 広木克行 氏 1945生まれ

 このかたも ” 子どもは「育ちなおし」の名人―見えますか、子どものシグナル ”などの著書があり、講演会に行ったことがありますが、講演会は盛況になるのに、子供に関わる事件は一向になくならない。

 尾木ママもですね。

 政治の世界でも・・・・・・


 常に団塊の世代は、人数で日本を動かしてきました。人数が多すぎますが戦後民主主義の主役です。今後も日本は民主主義のままでしょう。とすれば、これから日本がどうなるかも彼らにかかっているのですが、私は老人たちを冷たい視線で見ています。


https://hikino-effect.at.webry.info/201603/article_4.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c46

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
20. 中川隆[-11614] koaQ7Jey 2019年3月08日 14:45:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[378]

中島みゆきが追っかけをしていた吉田拓郎のその後


アジアの片隅で-吉田拓郎 - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%90%89%E7%94%B0%E6%8B%93%E9%83%8E+%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%81%AE%E7%89%87%E9%9A%85%E3%81%A7


団塊の世代 吉田拓郎 今も狂い酒のまま ひきのエフェクトのブログ : 2016/03/03
https://hikino-effect.at.webry.info/201603/article_4.html

 私が中学校の時、フォークソングの一大ブームがありました。

 70年安保闘争があり、ベトナム戦争が終わったのが75年、その当時も、今の様な混乱があったと思います。

 反戦平和を訴えて、当時の若者、いわゆる団塊の世代が、世相をリードしていました。

 わたしは、中学生だったのでそんな世相のことなど分からなかったのですが、フォークソングブームの波にはさらされていました。その中でギターのうまい友達が、吉田拓郎を弾いて聞かしてくれました。中学生の当時はカッコいいなー、程度で友達と一緒によく歌っていました。思春期の憧れですね。

 しばらくして、吉田拓郎のLP「アジアの片隅で」を買ったのですが、しっくりこなくて数回聞いて聞かなくなりました。


 吉田拓郎氏は 1946年生まれ、団塊の世代です。

 「アジアの片隅で」を詞で読んで見ましょう。

 ひと晩たてば 政治家の首がすげかわり
 子分共は慌てふためくだろう
 闇で動いた金を 新聞は書きたてるだろう
 ひと晩たてば 国境を戦火が燃えつくし
 子供達を飢えが襲うだろう
 むき出しのあばら骨は 戦争を憎みつづけるだろう

 ※アジアの片隅で 狂い酒飲みほせば
 アジアの片隅で このままずっと
 生きていくのかと思うのだか※

 ひと晩たてば 街並は汚れ続けるだろう
 車は人を轢き続けるだろう
 退屈な仕事は 野性の魂を老けさせるだろう
 ひと晩たてば チャンピオンはリングに転がり
 セールスマンは道路に坐りこむだろう
 年寄りと放浪者は 乾杯の朝を迎えないだろう

 ※−※ 繰り返し

 以下つづく ⇒ 歌詞リンク
http://j-lyric.net/artist/a001cc0/l0187af.html


 皆さんどう思われるでしょう?

 三番には
 ひと晩たてば 秘密の恋があばかれて 女たちは噂の鳥を放つだろう

 ベッキーのことでしょうか?


 凄い内容です。今にも通じる歌詞です。予言の様ですね。

 でも、ちょっと待ってください。これはこの当時(1980年)の歌です。今の世相にも通じるなんて甘い見方を私はしません。


 私は、ここで団塊の世代の特徴を見ます。

 ・・・・・問題を何も解決しない。
 ・・・・・で解決していない事実が分からない。
 ・・・・・その状態に酔いしれている。(こんなもんだと思っている)

 
 ― アジアの片隅で 狂い酒飲みほして このままずっと 生きていく ―

 ・・・だから、何も変わらないままなのです。

 吉田拓郎氏の思いは現実になっているんですね。今も、これからもずっーと。


 戦争反対だ、政治腐敗だ、と言っておきながら、一番人数が多いのに何も改善せずに、そのまま年老いていく。

 本田宗一郎の世代は一人一人が日本を変えたのに、です。

 この現象は、教育の世界でも

 神戸大学名誉教授の 広木克行 氏 1945生まれ

 このかたも ” 子どもは「育ちなおし」の名人―見えますか、子どものシグナル ”などの著書があり、講演会に行ったことがありますが、講演会は盛況になるのに、子供に関わる事件は一向になくならない。

 尾木ママもですね。

 政治の世界でも・・・・・・


 常に団塊の世代は、人数で日本を動かしてきました。人数が多すぎますが戦後民主主義の主役です。今後も日本は民主主義のままでしょう。とすれば、これから日本がどうなるかも彼らにかかっているのですが、私は老人たちを冷たい視線で見ています。


https://hikino-effect.at.webry.info/201603/article_4.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c20

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
47. 中川隆[-11613] koaQ7Jey 2019年3月08日 14:54:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[379]

天理教の信者をやめた中島みゆきの運命は?


天理教の信者をやめた 時 どうなるか:ひきのエフェクトのブログ 2016/01/27

 130年祭の最中に不謹慎だが・・・天理教をやめたはなし。

 天理教の信者をやめた時、親やら、系列の教会長に、信心を続けるように説得された。

 わたしは、中山ミキに対する信心はするが、天理教組織には関わらないとはっきり告げた。

 いまでも、実母や小母さんや婆さんたちに戻って来いと言われる。
 天理教では「親」から離れることが御法度である。

 「親」とは教祖と同じ意味で、私は親の言うことを聞かない、すなわち ”教祖の言うことを聞かない” と同義語になってしまう。

 天理教の「親」とは、「親神」や教祖と書いて”おやさま”と呼んだり大変重要な言葉である。

その「親」に対するのが「子」で、「子」にあたるものは何でも「親」の言うことを聞かないといけない。絶対服従と言っても良い。

組織上もどんなにさびれても、どんなに遠くにあっても「親」に当たる教会を「子」教会が助けないといけない。私の属していた教会は北海道に「子」教会があり、所属の会長たちは大変な旅費を使って通っている。

 金もこの「子」から「親」に向かって集められ、「子」は大変な思いをする。見かけ上は「喜んで」することになってはいるが。

 そんな、組織を私は、言わば裏切った。


 すると、こんなことを言われる。
 「親」を裏切ったから、命が無い。・・・罰が当たって病気や事故で死ぬと言う。

 天理教用語で「出直し」と言う。人生を失敗したから、もう一回という意味だ。


 わたしは、中山ミキを裏切ったつもりはない、天理教と言う組織に嫌気がさしただけだ。

 自分は「罰が当たって病気や事故で死ぬ」とは思っていない。今まで健康で暮らしている。

 しかし、実母は本気で心配していて、天理教の教会に御供えをして息子を助けてくださいと祈っている。

 信心深いと言うか、なんと言うか。
 実母は80歳を超えるので、今更どうしようもない、好きにさせておこうと思う。
https://s.webry.info/sp/hikino-effect.at.webry.info/201601/article_16.html


ひふみ~示と天理教 : 2015/11/20 22:57 >>


 わたしは天理教に育てられました。
 わたしは婿養子で、実家が天理教だったからです。

子育てが終わったら、私一人家族から別れ(信仰上の話で離婚とか別居の意味では無い)天理教に奉仕しようと思っていました。そのために準備をしたのですが、結局ある分教会との意見の食い違いがきっかけになって、天理教を辞めてしまいました。いまでも、天理教教祖 中山ミキ の教えは素晴らしいと思っていますので、このブログにも ミキ婆さんの話や、資料を載せています。現在は、一般的な日本人、阿太加夜神社の氏子で、檀那寺が浄土真宗の浄円寺です。そして、氏子活動に奉仕しています。

 なぜ、天理教に奉仕しようと思ったか。
 なんと! それは、ひふみ~示にあるからです。

 ひふみ神示 第05巻  地つ巻 / (九二つまき) 全卅六帖 第十二帖 (一四九)
 この道は道なき道ざぞ。天理も金光も黒住も今はたましひぬけて居れど、この道入れて生きかへるのぞ

 天理教は生き返る!!

 天理教が生き返るなら、天理教を応援してやろう! と考えたのです。

 また、ひふみ神示 第23巻 海の巻  第十一帖 に 面白い記述があります。
 タンバはタニハ、田庭とは日の本の国ぞ、世界の事ぞ、タンバとはタンバイチとは世界の中心と云ふ事ぞ、日の本と云ふ事ぞ、キ・ミの国ざぞ、扶桑の国ざぞ、地場ざぞ、判りたか。地場を固めなならんぞ、五十鈴の川はムツの川、和合の川ぞ。

 「タンバイチ」とは「丹波市」 天理市の古地名でいまでも町名に残っています。そして天理教では本部の中心を「ぢば(地場)」と呼び「甘露台」という石柱を立てることになっています。もともとは中山ミキが住んでいた屋敷があったところで、ここで親神が人間を宿し込みになられた場所、イザナギとイザナミが人類を産んだ人類発祥の場所とされています。

 タンバイチ 興味深い~示ですね。

 しかし、天理教のいろいろ深い所に関わってみると次の~示のとおり。

 ひふみ神示 第08巻 磐戸の巻 / (イ八トノまキ) 全廿一帖 第7帖 (243)
 今迄の様な宗教や教の集団(ツドヒ)はつぶれて了ふぞ、神がつぶすのではないぞ、自分でつぶれるのざぞ、早うこの神示、魂にしてマコトの道に生きてくれよ、俳句は俳句と申してあるが、天理は天理、金光は金光だけの教であるぞ。

 今の天理教は、完全親族経営で超閉鎖的なことが分かりました。新しい取り組みなんてできません。教祖の教えは素晴らしいのに、金ばっかりかかって教勢は下がるばかり、残念で残念でなりません。これでは、「地場」が人手に渡るのを守る役でしかありません。

 しかし、この残念があるからこそ、ひふみ~示が天明さんにおろされ、今の時代があると思います。

 頑張ろうとはおもいますが、まあ、中山ミキ婆さんの教えと、ひふみ~示がしっかり対応していることが分かってもらえればうれしいです。
 
 次、中山ミキ婆さんの教えと、天照皇大神宮
https://hikino-effect.at.webry.info/201511/article_9.html


天理教と天照大神 : 2015/11/21


 天理教には、三原典「おふでさき」「みかぐらうた」「おさしづ」が存在します。
 (私は天理教の信者ではありません)

 「おふでさき」:教祖中山ミキが自動書記で残した和歌形式の文書
 「みかぐらうた」:つとめ(祭典で踊る)の地歌(楽曲)として教えられた詩
 「おさしづ」:中山ミキならびに本席(飯降伊蔵)による口述の教えを筆録したもの。

 その「おふでさき」の中に面白い記述があります。
 明治7年12月 第6号52
 いざなぎといざなみいとが一の神 これてしよこの大じんくゝなり

 訳
 A イザナギとイザナミとが一番の神 これは天照皇の大神宮である。
 B イザナギとイザナミとが一番の神 これで証拠の大神宮なり。
 A・B 二通りの解釈があります。いずれにしても、大神宮とは伊勢神宮のこと。

 伊勢神宮=古事記=神社神道

 これは、いろんな意味にとることができて、矛盾するような、しないような、天理教サイドも、神道サイドも困った話です。

 一番大きな違いは、天理教は一神教の体裁をしている。神社神道は多神教・・・・・・なのに、一番の神これは伊勢神宮である。・・・?

 一番困るのは、中山ミキが神の意志を自動書記した動かしようのない事実です。

 天理教は神社神道との違いを強調したいが、この一文のために大きな顔ができません。

 この一文は様々な憶測が成り立ちますが、ただ言えることは、金光教、黒住教、大本教、天理教、ひふみ神示・・・日本の神は天照(伊勢神宮)を通じてむすばれているということではなかろうかとおもいます。
 (この辺は、面白いけど、またの機会に取り上げましょう。)

 私も、この一文のおかげで、天理教に奉仕しながら、神社の氏子活動を平気な顔をしてやっていました。

 中山ミキ婆さん と 天照大神(あまてらすおおみかみ) が無関係ではないことが分かってもらえればうれしいです。
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#cbtm



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c47

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
48. 中川隆[-11612] koaQ7Jey 2019年3月08日 15:11:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[380]

中島みゆきが知らなかった天理教の正体


天理教について質問です。


ID非公開さん 2016/3/12 18:26:48

天理教について質問です。


1) 教祖は精神を病んでいたのか。
親様=教祖=中山みき は精神を病んでいたんでしょうか。
精神を病んでいたなら、それはいつ頃からですか。

狐憑き=親神様が憑依した時からでしょうか。


2) 中山家は貧乏人に施しをして凋落したのか。
中山家が貧乏人に施しをして、自分たちが貧乏になったのか。
投機相場に手を出して大損したんでしょうか。
元から貧乏だったんでしょうか。

3) 座りづとめ、12下りなどは誰が、天理教神話はだれが考えたのですか。
中山みきが考え出したとは思えない。憑依中(精神錯乱中)に何か口走ったかもしれないが誰かがそれをまとめて整理しないと御手振りや座りつとめの形式にならない。楽譜や振付、歌詞は誰が考えたのか。

天理教神話は誰が考えたのか。
全て中山みきが考えたのか。そんなはずはない。だれか参謀的な人がいたのですか。

ベストアンサーに選ばれた回答

blu********さん 2016/3/12 23:53:30
.

1: 中山みきは、1798年 (寛政10年)4月に、大和国山辺郡三昧田村で生れた。現在の奈良県天理市に属する。父は、当時34歳の前川半七(正信)で、母はきぬ(当時26歳)であった。

前川家は、豊かな家柄で、20戸(2百石)の庄屋であった。藩から一代限りの無足人という、武士に準ずる身分をあたえられ、近所の村を含めての目付役をつとめていた。名字帯刀を許され、具足、鎗、鉄砲各一と下人数人を持っていたといわれる。また、大和神社の総代でもあった。要するに、農家というより武家に近く、郷士層に属する地方の有力者であった。

彼女は7歳頃には、父から文字を習った。9歳から11歳までは、近所の寺子屋に通っていたといわれる。また、10歳の時には、母が唱える和讃を聞き、暗唱したこともあった。後の彼女の話によれば、幼い時に、彼女は人の前にはあまり出ようとしない、陰気な少女であった。また生来身体もあまり丈夫ではなかったという。


中山家は、耕作地主で、藤堂藩領三十余戸(300石)の庄屋をつとめ、十数町歩の田畑山林を所有していた。綿屋とよばれて綿の仲買もしていて、使用人も多いときには20人ほどであって、かなりの収入のある豪農であった。

夫の善兵衛は、怠惰て不身持ちな生活をしていた。彼女は、夫とのあいだに何の心の触れあいも感じない毎日を送るようになった。みきが、嫁いでしばらくしたころ、夫は妾をかこい、下女にまで手を出していた。

江戸時代、大和地方の農村は浄土宗の地盤で、村ごとに念仏講があり、念仏踊りや和讃の集まりが盛んであった。みきの実家である前川も浄土宗の熱心な壇家で、その菩薩寺は丹波市の迎承寺であった。両親は朝夕、仏前に回向頂礼を欠かさず、この寺への参詣もおこたらなかった。幼いみきも両親と一緒に念仏を唱え、「浄土和讃」を聞き覚えていた。たとえば、その内容は、「沙婆世界は厭ふべし、厭はば苦海を渡りなん、安養界をば願うべし、願はば浄土に生るべし、草の奄は静かにて、八功徳池に心すみ、夕べの嵐音なくて、七重宝樹にわたるなり」というようなものであった。

彼女は、19歳の時には、中山家の菩提寺であり壇家であった善福寺で「五重相伝」を受けた。五重相伝とは浄土宗の奥義をきわめた篤信者に授ける儀式で、7日間5回にわたって勧請聴聞をし、その上で剃度式(おかみそり)を受け、秘密の伝法を口伝で頂くものである。彼女は、1816年春、勾田村の浄土宗・善福寺に入り、そこの住職、報誉上人からその秘密の伝法を貰った。当時みきの戒名は「連誉勝岸智宝禅定尼」であったという。仏教とりわけ浄土宗からの深い影響が窺われる。


しかし、浄土宗の彼岸主義に中山みきは次第に失望していき、現世での幸福を求めて、仏道から離脱する。

夫の善兵衛との冷え切った生活、仏道に絶望し仏道から離脱してから精神的支柱を失い、徐々に精神が蝕まれていった。

そして、長男・秀司が米と綿の相場で失敗し、家ごと借金してしまい、ホームレスとなり、全てを失った中山みきは、絶望に陥った。その後は1と2の説を自分的にはあげる。


1:現在で言う統合失調症になり、幻聴により、加持祈祷の際、加持役となった中山みきの頭の中に神の声を聞き、祈祷者の問答に答えた。

2:中山みきは浄土宗の教義の全て(全てのお経を記憶し暗唱できる能力も含めて)を記憶し問答で正確に回答できなければ授与されない五重奏伝を授与できたほどの高度な知力を有していた。その知力は子孫に遺伝された。その知力を持って民衆をだまし、金儲けをした江戸時代の金儲けの天才であった。


2代真柱の中山正善(1905年-1967年)は東京帝国大学卒業。

3代真柱の中山善衞(1932年 - 2014年)は慶應義塾大学卒業。

のいずれも超知的エリートである。

特に中山正善の時代に東京帝国大学を卒業するのは努力だけでは無理。知力が相当に高かった事になる。中山善衛もしかり。

さらに言えば、天理教では”阿呆になりなさい”と信者に教えてるが、
それは、信者に考える時間を与えないためである。

その高度な知力を持って、中山みきは現状のホームレスの状況を有利にする策をとった。まず、産婆としての職人的能力のあった中山みきは「おびや許し」と安産請負をうたい文句に高々と宣伝していった。しかし、現代でも産婆での自然な分娩をする妊婦はいて、医療事故は聞いた事がない。天理教の主張する江戸時代の出産は致死率が非常に高かったは嘘である。現代の学者の推定では、江戸時代中期・後期を通じて、日本の人口は約3000万人前後であった。江戸時代前期の外様大藩の領民人口変遷をみてもどの藩も人口は増えてる。

安永3年(1774年)の段階で杉田 玄白はオランダ語医学書『ターヘル・アナトミア』を和訳し「解体新書」を刊行してる。

また、天理教で朝夕に「あしきを払い助けたまえ〜」と唱えて手を振る儀式を「おつとめ」と呼んでるが、元々「おつとめ」とは仏教の勤行(仏前で読経する)の事をさしてる。中山みきが信仰していた浄土宗のHPにも「おつとめ」と書いてある。
http://jodo.or.jp/jodoshu/okyou/index.html

中山みきは本来は浄土宗善福寺の熱心な信者だったが、自身が神道の教組になってからは、仏教から用語や思想を盗んで教理に取り入れた。

「撒いた種は刈らねばいけない」は天理教のオリジナルではない。

英語圏のことわざに

As you sow, so shall you reap.《蒔いたように刈り取るべし》[聖書:ガラテヤ人への手紙6−7]= Whatsoever a man soweth, that shall he also reap.《蒔いたものは刈らねばならない》というのがある。また、「因果応報」「自業自得」は仏教用語である。

2:天理教中山家は実際は、長男・秀司が米と綿の相場に手を出して大損をして滅んだ。この事実を隠蔽して歪曲し、貧しき者に土地屋敷家財を全て売り払い貧に落ちきったと天理教は嘘をついてる。

「日本の10大新宗教」(幻冬舎)という本の中に、書かれている。

特に現在の教団の重要な教えであるとされる「月日のやしろとなられた教祖は、親神の思召のまに/\『貧に落ち切れ。』と、急き込まれると共に、嫁入りの時の荷物を初め、食物、着物、金銭に至るまで、次々と、困って居る人々に施された。」という『稿本天理教教祖伝』の記述は、八島のみならず、島田も『日本の10大新宗教』の中で、早川も『天理教・その堕落と悲劇』の中で、実際はみきの長男・秀司が米と綿の相場で失敗し、家ごと借金してしまったが、教団は後にその事実を湾曲化して、信者から金を取ろうしたため「貧に落ちきれ」という思想が生まれたと指摘している。

宗教学者の島田裕巳
元天理教本嬬原分教会会長の八島秀雄
早川 和廣(新興宗教問題も手がけるライター)

3:2の質問で2の説をとると泥海古記などは中山みきが書いた。

最初に産みおろされたものは、一様に五分であつたが、五分五分と成人して、九十九年経つて三寸になつた時、皆出直してしまい、父親なるいざなぎのみことも、身を隠された。

その後、人間は、虫、鳥、畜類などと、八千八度の生れ更りを経て、又もや皆出直し、最後に、めざるが一匹だけ残つた。

奈良県天理市が人類発生の地である。

神秘性で呪縛する目的で意図的に書いたのだろう。

また、週刊文春は過去に「天理教本部賽銭箱は地下室のベルトコンベアーに直結してる」という記事を書いたが、天理教側は訴訟を起こさなかった。事実だから起こせなかった。豊文分教会が分離独立したときには、”天理教”という”商号”を使ったとして天理教本部は訴訟を起こしたが敗訴した。

4補足

天理教は悪名高い真光とつながっている。

まず、大本教の出口王仁三朗が、大本教が本来祭り上げてる神の隣に中山みきを神として祭り上げた。

大本教信者の岡田茂吉が分離独立し世界救世教を創設。
同時に大本教信者の谷口雅春が生長の家を創設。(数年前に約8千億円の資産をブラジルの銀行にレアル建てで移管)

世界救世教秀明教会が分離独立して神慈秀明会を創設。

世界救世教幹部だった岡田光玉が世界真光文明教団を創設。

岡田光玉死後、後継者争いで、岡田恵珠が崇教真光を創設。

生長の家は書籍販売で儲けてるが、後は悪名高い、浄霊や手かざしの金巻上げ集団。

●明主様御講話(岡田茂吉が天理王の命を地獄に落ちたものと言っている)

ここに伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の子供で五人としてあるがもう一人ある。

もう一人というのは伊弉諾尊と言う神様は国常立尊になるんですね。

息子に国武彦尊(くにたけひこのみこと)と言うのがありそれが一番長男になる。

当時大将軍と言い勇猛でかなり勝手なことをやっていたその罪によって、言わば地獄に行かれたようなことになる。

一番末が初稚姫尊(はつわかひめのみこと)と言い、これが天理教祖の中山みきとなる。

そういうようにいくども生まれ変わっている。大将軍の妹になる。

そこで霊界で地獄と言ってもふつうの人間と違います。

修行するんです。修行した結果、大いに世の中のためになろうと言うので天理教祖の中山みきに憑った。

それで中山みきに最初憑ったのは夫の大将軍が憑ったんです。

そういう因縁なんです。

そこで最初のうちは力がありますから病気治しもさせたが、その力によって良く病気が治った。

それで最初は病気治しで世の中に出たんです。

天理教の本体を書くことは天理教に悪いですからそこで書かなかった。

http://www.geocities.jp/shumeic3/oomoto2.html

天理王の命という弱い者いじめ専門の神も、「神の社にならなけれ

ば、屋敷もろとも(お前らを)木っ端微塵にする」と恫喝し暴力と力でねじ

伏せ中山家を支配したが、本当に清き正しき神ならば、自分よりはるか

に弱い者を暴力で力でねじふせ支配するような事をするだろうか?

世界一列助けたいなら、徳川将軍を暴力で力でねじふせれば一番の

近道のはずであるが、徳川将軍には勝てないからできなかった。


質問者 ID非公開さん 2016/3/13 01:20:58.

中山(前川)みき は幼少のころから秀才で頭脳明晰であった。親神様の憑依現象も芝居であって、詐欺師であった可能性も否定できない。
もっとも、家庭の不幸で統合失調症になった可能性は否定できない。

中山家は投機で破産したが、それを美談に仕上げた。

天理教の教えは中山みきなど中山家住人の頭脳から発した。もっとも、浄土宗からの引用ではあるが。


bluekeyakiさん 纏めるとこんなとこでしょうか。
けど、よくご存じですね。貴方は天理教の教会長やその関係者ですか。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14156926349


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c48

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
49. 中川隆[-11611] koaQ7Jey 2019年3月08日 15:22:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[381]


uta********さん 2018/7/10 20:29:21

中島みゆきさんは天理教を脱会されてますか?

今でも天理時報に載っているらしいので、本当に脱会されているのか分かりません。
知っている方、よろしくお願いいたします。
天理教の方だと

なお嬉しいです。



ベストアンサーに選ばれた回答

msk********さん 2018/7/11 18:02:50

脱会していません。

洲本大教会という教会の系統の信者さんです。
自宅には神様も祀られています。

定期的か不定期的かは分かりませんが、今も所属の会長さんがおつとめに行かれています。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11192966206
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c49

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
50. 中川隆[-11610] koaQ7Jey 2019年3月08日 15:52:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[382]

かれこれ2ヶ月ばかりかけて、中島みゆきのデビュー以来の曲を殆ど聴いてみて、彼女の訴えたい事の芯にあるものは、首尾一貫していることがよく判る。

<全ての生命とその連鎖(血の繋がりではなくて想いの継承とか、極端には輪廻)への徹底した畏敬>である。

これは殆ど宗教的なものだと思う。そういう意味で幼い頃から家庭で馴染んだと思われる天理教の思想が影響しているのかもしれない。

調べてみると天理教は江戸時代に中山みきという女性が始めたものらしい。神道に分類されているが、一応教義を持っているらしい。神の摂理を信じて楽しく生きる、というのがその心髄らしいがよく判らない。

また基本的に金銭に捉われる事を嫌い、信者はしばしば財産を教会に差し出すようである。

中島みゆきの家は天理教の教会長だったし、父の墓も天理にある。本人も天理教の勉強会に参加していたらしい。

歌の中で宗教的なものに何となくその気配があるということらしいが、むしろ個人の主体性を鼓舞するような歌が多いように思う。

これらの事については、本人の意思を憚って誰も語らない。

バッハがキリスト教の神に仕える職業音楽家として徹底していたのと同じように中島みゆきは天理教の神に仕えているのだろうか?

多分そうではなくて、天理教の神も含めて、もっと大きなものに仕えているように思われる。だとすればそれは何か?

*)「命の別名」については、文句のつけようのない解説があった。
http://www013.upp.so-net.ne.jp/sigeru/books/nakajima/nakajima_06.html


中島みゆきの夜会「2/2」は 1995年、1997年、2011年と作り直されてきた。そんなに拘るにはそれなりの深い理由があるはずである。

そこで、1996年に小説となった「2/2」(幻冬舎)を借りてきて読んだ。
なるほどこういう話だったのか。。。

双子として産まれて来る時に、姉の方が死んでしまった。姉が茉莉、主人公が梨花。2つあわせると茉莉花(ジャスミン)。

子供の頃ふと聞いてしまった親戚の人の言葉、<この子は姉を殺して生れてきたのよ>というのがトラウマとなって、<それ>がもうひとつの人格として梨花の幸せを邪魔する。

そして、恋人の圭に危害を加えることを恐れて、梨花はベトナム旅行に旅立つ。直ぐに帰って圭とは二度と会わないつもりだったが、手違いで帰れなくなる。結局圭がトラウマの真相を調べて助けに来る。

最後に梨花が本当の茉莉を幻覚して真相を知る。
真相とは、<茉莉が臍の緒を首に絡ませていたので、梨花が助けようとした>ということであった。

トラウマとなった梨花の中の<それ>、つまり偽者の茉莉、と本当の茉莉との闘いが最後にあって、梨花はついに胎内での出来事を思い出して<それ>が消える。

茉莉が

<梨花は几帳面で正義感に溢れているのは良いけれとも、人の証言なんていうものはその人の勝手な解釈に過ぎない。そんなことを信じて自分を責めてはいけない。そんなところに人が従っていい「正しさ」は無い。>

という。

茉莉はこれまで<それ>を消すために、圭を利用しようとして、梨花の2重人格障害を圭に見せようとしたのだが、圭がなかなか気づかず、梨花があまりにも真面目だったために、こういう大きな騒動になってしまった。けれども、結局は圭が出産の秘密を探り出して助けたのである。

確かにドラマチックで面白い物語なのだが、それだけではないだろう。何からの意味でこの物語は中島みゆき本人の<歌でしか言えない>人生、つまり<自分の中の他者との永遠の緊張関係>を語っているように思える。
http://www.asahi-net.or.jp/~aw7k-mk/books/miyuki5.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c50

[近代史3] 柏原芳恵のバイブレーター騒動 _ 宮内庁が皇太子妃候補 No.1 を引き摺り降ろした手口 中川隆
36. 中川隆[-11609] koaQ7Jey 2019年3月08日 16:16:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[383]
日本一運のいい女ー新皇后の肖像 7 2018-10-18
https://blog.goo.ne.jp/yonyon4009/e/1c85980c274d76225fbf0ec255d4a289

 週刊ポスト1990年6月22日号

「卑劣な怪文書「それなら僕は結婚しない」皇太子を激怒させた「妃選考の密謀体質」を許してはいけない」

「それでは、なぜ、小和田(雅子)さんは(皇太子妃候補)リストから外されたのか。
 前出の宮内庁関係者が、解説する。
「小和田さんのハーバード大学時代の学友と称する匿名の人物から、宮内庁関係者以外の第三者宛に“怪文書”が出されていたのです。
 手紙を入手して自ら読んだ侍従によると、内容は、ハーバード大学の学友だった頃、小和田さんには仲のいいボーイフレンドがいたというもので、どういう服装で、どういったところへデートに出掛けていたかなどが、事細かに記述されていたといいます。
 ボーイフレンドがいること自体、大学生にとっては当たり前のことですし、世間一般でいえばなんら取り沙汰されるほどのことでもない。
 しかしそれが、こと妃候補の女性となると事情は一変します。しかも、この文書が、皇族や神道関係者の知るところとなり、ボーイフレンドのいた女性は将来の皇后として適切でないといった“小和田妃”反対の声があがりはじめたんです」
 宮内庁関係者の解説は、さらに続く。
「かりに、小和田さんが皇太子妃に決定したとしても、その反対の声は容易に収まりそうもない。そういう判断のもと、小和田さんはリストから外されたんです。
 殿下は、こうした行為が自分と小和田さんの成婚の可能性をおもしろく思わない宮中の一部の人間によって行われたとお思いですし、それが側近たちの一致した見方なんです。ですから、殿下の憤りも大きなものにならざるをえないんです」

 国民の中では「私は関係ありません!」で全部終わったと思っている人多数。そんな事より世間ではかっこいい礼宮と可愛い紀子ちゃんに夢中。皇太子なんかどうでもいいや・・・的な雰囲気の中で掲載された記事。

え?終わってなかったの?なあに?それなら僕は結婚しないって・・それならって何よ。別にいいけど結婚しなくてもさ・・と思ったら怪文書が出たから怒ってる?どうしても雅子さんがダメなら誰とも結婚しないって?アホか?

 素行の悪さは折り紙付きだったのに、皇太子はそれを「対抗勢力の陰謀」だと思ったわけですね。すっかり小和田さんちに取り込まれてしまいました。

それでも国民の中では終わった話だった・・・筈なんですよ。

 「デビット・カオ」というのがいわゆる元ボーイフレンド。

1993年1月のシカゴ・サンタイムズ誌にデビッド・カオという中国系アメリカ人が小和田雅子について暴露すると言って来たらしい。この件については1993年1月の週刊新潮

「特集・キャリアウーマンで皇太子妃で皇室は変わるか」において

「皇太子妃に内定した直後、日刊紙『シカゴ・サン・タイムズ』(十一日付)が、とんでもない記事を掲載した。
<雅子さんの元ボーイフレンド、すべてを暴露すると息巻く>
 という見出しで、
<元ボーイフレンドのデービッド・カオ氏は小和田さんのトップレス写真を複数持っていて、ゴシップ紙に売り込みたいと友人に語った>
 というのだ。『シカゴ・サン・タイムズ』は発行部数が五十二万部。高級紙ではないが、ゴシップばかりを扱うタブロイド紙でもないという。記事を執筆したビル・ズウェッカー記者が語る。
「ニュースソースの一人から、“面白いことを言う人間がいる”と連絡が入り、デービッド・カオ氏に電話をしてみたんです。カオ氏はボストン在住の三十六歳の経営コンサルタント。彼が言うには、“小和田さんと初めて会ったのは、ボストン近くのケンジントンという町でのパーティーだった。その後、一緒に映画や夕食に行ったりするようになり、愛し合うようになった。小和田さんとはロマンティックな関係だ”と。彼は“やりとりした手紙も持っているし、数年前の夏、一緒に行ったビーチで撮った彼女のトップレス写真も持っている”と言うんです」
 皇太子妃内定の喜びに冷水を浴びせるような報道だが、四日目には事実上、それを取り消すような続報が載せられた。
「カオ氏と小和田さんが、最低二回、同じパーティーに同席していたことは確認できています。しかし、手紙や写真をファックスで送ってくれと言っても、イヤだという。そのうち、電話をかけても“現在この電話は使用されておりません”になってしまいました。シカゴの日本領事館を通じて問い合わせた結果、小和田さん本人の談話として“カオ氏のことは知らない”という答えが返ってきましたし、おそらくこの話はカオ氏のインチキか誇大妄想なのではないのでしょうか」(ズウェッカー記者)

 壮大に事実を暴露しておいて「誇大妄想なのではないでしょうか?」と締めくくるところがいかにも日本のマスコミっぽい。これが日本における最後の良心だったのかな。

 シカゴ・サンタイムズに売り込んだ瞬間に何かが起きた・・・という事でしょうか?お金を渡された?でもここで殺害してしまうと大変なことにと思われたか?

しかし、この記事が雅子妃決定直後に出て来た事に意義があったのかと思うのですが。

そういう「心無い噂」「雑音」は気にしない様に・・・って皇太子は誰かに言われたのかしらねーー可哀想にコキュにされて。

 噂の真相1993年3月号

「マスコミが書絶対にけない皇太子妃小和田雅子逆転決定に見る「現代の生贄」の検証」

「さらに皇室記者たちが「小和田雅子の可能性なし」と断定したのには、もっと決定的な理由があった。
 それはズバリ、彼女の男性関係にまつわる噂だったという。妃候補としてその名前がはじめて浮上した6年前から、小和田雅子という女性には常に男性の噂がつきまとってきた。
 実は妃内定直後の1月11日、アメリカの日刊紙「シカゴ・サン・タイムズ」が
“小和田雅子サンの元ボーイフレンドが彼女のトップレス写真を持っている”といった衝撃的な内容の記事を掲載する騒ぎが起きている。
「日本のマスコミはこの記事の存在を知りながら一切黙殺していたようですね。それに同紙もそのわずか4日後に記事を取消す続報を掲載して、あれはデマだったという結論にいつしか落ち着いてしまった」(大手紙・外信部記者)
 しかし、地元では依然として噂はくすぶり続けているという。というのも、告白したデビッド・カオなる男性は確かに実在しており、最低でも2回はハーバード留学中の彼女と同じパーティーに出席していたことが確認されているというのだ。在米特派員の一人もこう首をひねる。
「『シカゴ――』紙はいい加減な三流ゴシップ紙ではないですからね。デマだとしたら、どうしてあんな記事を載せたのか。その後の記事取消しもあまりに対応が早すぎるし、不自然な点は多い」
 真偽はさておき、この「シカゴ――」紙の記事と同じようなハーバード大学留学中の男性関係についての噂はこれまでもかなり頻繁に囁かれている。曰く「白人男性とつきあっていた」「日本人留学生と半同棲生活を送っていた」等々。
 妃候補として彼女の名前がはじめて浮上した87年には、宮内庁と一部マスコミに、やはり彼女が白人男性と交際していたことを英文で綴った怪文書がアメリカから送りつけられている。
 宮内庁が88年に突如として小和田雅子を妃候補から除外したのも、公にされている母方の祖父が公害タレ流し企業のチッソ社長をつとめていたから、というような理由ではなく、このハーバード時代の交友関係が原因だったとの見方もある。
「妃候補の家系は皇太子に引き合わせる前に必ず調べますからね。チッソを問題にするなら、最初から会わせていませんよ。時期的に見ても、小和田サンをはずしたのは例の白人男性との交友が書かれた怪文書がキッカケになっているのは確実です。一説には当時の宮内庁長官だった富田朝彦が内調室長時代のパイプを使って雅子サンのハーバード時代を徹底的に洗い直したという話もある」(宮内庁担当記者)
 いや、ハーバード時代だけではない。外務省の研修でオックスフォード大学に留学中の際には、イギリス人男性との交際が噂になったこともあり、あるフリーカメラマンがツーショットを撮影して、女性週刊誌に持ち込んだもののボツになった、とのまことしやかな話も漏れ伝わっている。
 また、91年の春から92年のはじめにかけては外務省内で上司と不倫をしている、との噂がかけめぐった。この時、相手と名指しされたのは彼女の所属する北米二課のM課長補佐。
「たしかに小和田サンとMサンは例の半導体交渉でコンビを組んでいた関係で、二人きりで海外出張する機会も多かった。外務省は伝統的に不倫の多い役所ですから、噂になるのもわかりますけど、でも実際はどうですかねえ」(外務省関係者)
 さらに上司との不倫ではS北米二課長との関係を指摘する怪文書が出回るなど、とにかくこのテの話は数えあげればキリがないほど流れてきたのである。

 小和田雅子には常に男の影・・・・(笑)そりゃまあ29歳の女性だし、何人の男性と関係があってもいいけどさ。でもつまり男関係をきちんと清算して「いい思い出」にしてこなかったことがお妃候補として危ないと思われていたのは事実なんでしょうね。世はバブル時代、女性が強かった頃だしねーー

 でも問題なのは日本のマスコミがこの事実を知りながら無視していたこと。今と同じ構図がそこにはあります。

 いやはやそれにしても上司と不倫の噂も一人じゃなくて二人。その一人が奥大使でイラクで亡くなった方?真面目に不倫していたのか・・・そうか・・・ベッキーなんか可愛いもんだわーーと。

 2009年6月NYタイムズにデビッド・カオ死亡記事にて一件落着。

ちょっと時計の針を回し過ぎました。戻りますね。

 週刊女性1990年8月21日・28日号

「独占スクープ皇太子さまお妃選び難航の中小和田雅子さん電撃再浮上!!最有力候補から3年6月密かに帰国して」

 女性自身1991年1月22日号

「もう一度殿下と会ってください!」皇太子妃激動!あの小和田雅子さんに小和田雅子さんが緊急接触」

 秋篠宮家の慶事が終わり、ほとぼりもさめたと思ったんでしょうか?

まさに電撃浮上ですよ・・小和田雅子さんってまだお妃候補だったのーーー?っていうか皇太子、まだ諦めてなかったのーーー?

世の中「紀子ちゃんブーム」ですっかり舞い上がって身に迫る危機にさっぱり気づきませんでした。

https://blog.goo.ne.jp/yonyon4009/e/1c85980c274d76225fbf0ec255d4a289
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/117.html#c36

[近代史3] 雅子という女は凄い女 _ 気に入った相手とは手当たり次第という感じ _ 男性経験は20人は超えている 中川隆
14. 中川隆[-11608] koaQ7Jey 2019年3月08日 16:17:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[384]

日本一運のいい女ー新皇后の肖像 7 2018-10-18
https://blog.goo.ne.jp/yonyon4009/e/1c85980c274d76225fbf0ec255d4a289

 週刊ポスト1990年6月22日号

「卑劣な怪文書「それなら僕は結婚しない」皇太子を激怒させた「妃選考の密謀体質」を許してはいけない」

「それでは、なぜ、小和田(雅子)さんは(皇太子妃候補)リストから外されたのか。
 前出の宮内庁関係者が、解説する。
「小和田さんのハーバード大学時代の学友と称する匿名の人物から、宮内庁関係者以外の第三者宛に“怪文書”が出されていたのです。
 手紙を入手して自ら読んだ侍従によると、内容は、ハーバード大学の学友だった頃、小和田さんには仲のいいボーイフレンドがいたというもので、どういう服装で、どういったところへデートに出掛けていたかなどが、事細かに記述されていたといいます。
 ボーイフレンドがいること自体、大学生にとっては当たり前のことですし、世間一般でいえばなんら取り沙汰されるほどのことでもない。
 しかしそれが、こと妃候補の女性となると事情は一変します。しかも、この文書が、皇族や神道関係者の知るところとなり、ボーイフレンドのいた女性は将来の皇后として適切でないといった“小和田妃”反対の声があがりはじめたんです」
 宮内庁関係者の解説は、さらに続く。
「かりに、小和田さんが皇太子妃に決定したとしても、その反対の声は容易に収まりそうもない。そういう判断のもと、小和田さんはリストから外されたんです。
 殿下は、こうした行為が自分と小和田さんの成婚の可能性をおもしろく思わない宮中の一部の人間によって行われたとお思いですし、それが側近たちの一致した見方なんです。ですから、殿下の憤りも大きなものにならざるをえないんです」

 国民の中では「私は関係ありません!」で全部終わったと思っている人多数。そんな事より世間ではかっこいい礼宮と可愛い紀子ちゃんに夢中。皇太子なんかどうでもいいや・・・的な雰囲気の中で掲載された記事。

え?終わってなかったの?なあに?それなら僕は結婚しないって・・それならって何よ。別にいいけど結婚しなくてもさ・・と思ったら怪文書が出たから怒ってる?どうしても雅子さんがダメなら誰とも結婚しないって?アホか?

 素行の悪さは折り紙付きだったのに、皇太子はそれを「対抗勢力の陰謀」だと思ったわけですね。すっかり小和田さんちに取り込まれてしまいました。

それでも国民の中では終わった話だった・・・筈なんですよ。

 「デビット・カオ」というのがいわゆる元ボーイフレンド。

1993年1月のシカゴ・サンタイムズ誌にデビッド・カオという中国系アメリカ人が小和田雅子について暴露すると言って来たらしい。この件については1993年1月の週刊新潮

「特集・キャリアウーマンで皇太子妃で皇室は変わるか」において

「皇太子妃に内定した直後、日刊紙『シカゴ・サン・タイムズ』(十一日付)が、とんでもない記事を掲載した。
<雅子さんの元ボーイフレンド、すべてを暴露すると息巻く>
 という見出しで、
<元ボーイフレンドのデービッド・カオ氏は小和田さんのトップレス写真を複数持っていて、ゴシップ紙に売り込みたいと友人に語った>
 というのだ。『シカゴ・サン・タイムズ』は発行部数が五十二万部。高級紙ではないが、ゴシップばかりを扱うタブロイド紙でもないという。記事を執筆したビル・ズウェッカー記者が語る。
「ニュースソースの一人から、“面白いことを言う人間がいる”と連絡が入り、デービッド・カオ氏に電話をしてみたんです。カオ氏はボストン在住の三十六歳の経営コンサルタント。彼が言うには、“小和田さんと初めて会ったのは、ボストン近くのケンジントンという町でのパーティーだった。その後、一緒に映画や夕食に行ったりするようになり、愛し合うようになった。小和田さんとはロマンティックな関係だ”と。彼は“やりとりした手紙も持っているし、数年前の夏、一緒に行ったビーチで撮った彼女のトップレス写真も持っている”と言うんです」
 皇太子妃内定の喜びに冷水を浴びせるような報道だが、四日目には事実上、それを取り消すような続報が載せられた。
「カオ氏と小和田さんが、最低二回、同じパーティーに同席していたことは確認できています。しかし、手紙や写真をファックスで送ってくれと言っても、イヤだという。そのうち、電話をかけても“現在この電話は使用されておりません”になってしまいました。シカゴの日本領事館を通じて問い合わせた結果、小和田さん本人の談話として“カオ氏のことは知らない”という答えが返ってきましたし、おそらくこの話はカオ氏のインチキか誇大妄想なのではないのでしょうか」(ズウェッカー記者)

 壮大に事実を暴露しておいて「誇大妄想なのではないでしょうか?」と締めくくるところがいかにも日本のマスコミっぽい。これが日本における最後の良心だったのかな。

 シカゴ・サンタイムズに売り込んだ瞬間に何かが起きた・・・という事でしょうか?お金を渡された?でもここで殺害してしまうと大変なことにと思われたか?

しかし、この記事が雅子妃決定直後に出て来た事に意義があったのかと思うのですが。

そういう「心無い噂」「雑音」は気にしない様に・・・って皇太子は誰かに言われたのかしらねーー可哀想にコキュにされて。

 噂の真相1993年3月号

「マスコミが書絶対にけない皇太子妃小和田雅子逆転決定に見る「現代の生贄」の検証」

「さらに皇室記者たちが「小和田雅子の可能性なし」と断定したのには、もっと決定的な理由があった。
 それはズバリ、彼女の男性関係にまつわる噂だったという。妃候補としてその名前がはじめて浮上した6年前から、小和田雅子という女性には常に男性の噂がつきまとってきた。
 実は妃内定直後の1月11日、アメリカの日刊紙「シカゴ・サン・タイムズ」が
“小和田雅子サンの元ボーイフレンドが彼女のトップレス写真を持っている”といった衝撃的な内容の記事を掲載する騒ぎが起きている。
「日本のマスコミはこの記事の存在を知りながら一切黙殺していたようですね。それに同紙もそのわずか4日後に記事を取消す続報を掲載して、あれはデマだったという結論にいつしか落ち着いてしまった」(大手紙・外信部記者)
 しかし、地元では依然として噂はくすぶり続けているという。というのも、告白したデビッド・カオなる男性は確かに実在しており、最低でも2回はハーバード留学中の彼女と同じパーティーに出席していたことが確認されているというのだ。在米特派員の一人もこう首をひねる。
「『シカゴ――』紙はいい加減な三流ゴシップ紙ではないですからね。デマだとしたら、どうしてあんな記事を載せたのか。その後の記事取消しもあまりに対応が早すぎるし、不自然な点は多い」
 真偽はさておき、この「シカゴ――」紙の記事と同じようなハーバード大学留学中の男性関係についての噂はこれまでもかなり頻繁に囁かれている。曰く「白人男性とつきあっていた」「日本人留学生と半同棲生活を送っていた」等々。
 妃候補として彼女の名前がはじめて浮上した87年には、宮内庁と一部マスコミに、やはり彼女が白人男性と交際していたことを英文で綴った怪文書がアメリカから送りつけられている。
 宮内庁が88年に突如として小和田雅子を妃候補から除外したのも、公にされている母方の祖父が公害タレ流し企業のチッソ社長をつとめていたから、というような理由ではなく、このハーバード時代の交友関係が原因だったとの見方もある。
「妃候補の家系は皇太子に引き合わせる前に必ず調べますからね。チッソを問題にするなら、最初から会わせていませんよ。時期的に見ても、小和田サンをはずしたのは例の白人男性との交友が書かれた怪文書がキッカケになっているのは確実です。一説には当時の宮内庁長官だった富田朝彦が内調室長時代のパイプを使って雅子サンのハーバード時代を徹底的に洗い直したという話もある」(宮内庁担当記者)
 いや、ハーバード時代だけではない。外務省の研修でオックスフォード大学に留学中の際には、イギリス人男性との交際が噂になったこともあり、あるフリーカメラマンがツーショットを撮影して、女性週刊誌に持ち込んだもののボツになった、とのまことしやかな話も漏れ伝わっている。
 また、91年の春から92年のはじめにかけては外務省内で上司と不倫をしている、との噂がかけめぐった。この時、相手と名指しされたのは彼女の所属する北米二課のM課長補佐。
「たしかに小和田サンとMサンは例の半導体交渉でコンビを組んでいた関係で、二人きりで海外出張する機会も多かった。外務省は伝統的に不倫の多い役所ですから、噂になるのもわかりますけど、でも実際はどうですかねえ」(外務省関係者)
 さらに上司との不倫ではS北米二課長との関係を指摘する怪文書が出回るなど、とにかくこのテの話は数えあげればキリがないほど流れてきたのである。

 小和田雅子には常に男の影・・・・(笑)そりゃまあ29歳の女性だし、何人の男性と関係があってもいいけどさ。でもつまり男関係をきちんと清算して「いい思い出」にしてこなかったことがお妃候補として危ないと思われていたのは事実なんでしょうね。世はバブル時代、女性が強かった頃だしねーー

 でも問題なのは日本のマスコミがこの事実を知りながら無視していたこと。今と同じ構図がそこにはあります。

 いやはやそれにしても上司と不倫の噂も一人じゃなくて二人。その一人が奥大使でイラクで亡くなった方?真面目に不倫していたのか・・・そうか・・・ベッキーなんか可愛いもんだわーーと。

 2009年6月NYタイムズにデビッド・カオ死亡記事にて一件落着。

ちょっと時計の針を回し過ぎました。戻りますね。

 週刊女性1990年8月21日・28日号

「独占スクープ皇太子さまお妃選び難航の中小和田雅子さん電撃再浮上!!最有力候補から3年6月密かに帰国して」

 女性自身1991年1月22日号

「もう一度殿下と会ってください!」皇太子妃激動!あの小和田雅子さんに小和田雅子さんが緊急接触」

 秋篠宮家の慶事が終わり、ほとぼりもさめたと思ったんでしょうか?

まさに電撃浮上ですよ・・小和田雅子さんってまだお妃候補だったのーーー?っていうか皇太子、まだ諦めてなかったのーーー?

世の中「紀子ちゃんブーム」ですっかり舞い上がって身に迫る危機にさっぱり気づきませんでした。

https://blog.goo.ne.jp/yonyon4009/e/1c85980c274d76225fbf0ec255d4a289
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/265.html#c14

[近代史3] 皇太子妃の雅子さんは典型的なダメダメ家庭出身者  中川隆
35. 中川隆[-11607] koaQ7Jey 2019年3月08日 16:17:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[385]

日本一運のいい女ー新皇后の肖像 7 2018-10-18
https://blog.goo.ne.jp/yonyon4009/e/1c85980c274d76225fbf0ec255d4a289

 週刊ポスト1990年6月22日号

「卑劣な怪文書「それなら僕は結婚しない」皇太子を激怒させた「妃選考の密謀体質」を許してはいけない」

「それでは、なぜ、小和田(雅子)さんは(皇太子妃候補)リストから外されたのか。
 前出の宮内庁関係者が、解説する。
「小和田さんのハーバード大学時代の学友と称する匿名の人物から、宮内庁関係者以外の第三者宛に“怪文書”が出されていたのです。
 手紙を入手して自ら読んだ侍従によると、内容は、ハーバード大学の学友だった頃、小和田さんには仲のいいボーイフレンドがいたというもので、どういう服装で、どういったところへデートに出掛けていたかなどが、事細かに記述されていたといいます。
 ボーイフレンドがいること自体、大学生にとっては当たり前のことですし、世間一般でいえばなんら取り沙汰されるほどのことでもない。
 しかしそれが、こと妃候補の女性となると事情は一変します。しかも、この文書が、皇族や神道関係者の知るところとなり、ボーイフレンドのいた女性は将来の皇后として適切でないといった“小和田妃”反対の声があがりはじめたんです」
 宮内庁関係者の解説は、さらに続く。
「かりに、小和田さんが皇太子妃に決定したとしても、その反対の声は容易に収まりそうもない。そういう判断のもと、小和田さんはリストから外されたんです。
 殿下は、こうした行為が自分と小和田さんの成婚の可能性をおもしろく思わない宮中の一部の人間によって行われたとお思いですし、それが側近たちの一致した見方なんです。ですから、殿下の憤りも大きなものにならざるをえないんです」

 国民の中では「私は関係ありません!」で全部終わったと思っている人多数。そんな事より世間ではかっこいい礼宮と可愛い紀子ちゃんに夢中。皇太子なんかどうでもいいや・・・的な雰囲気の中で掲載された記事。

え?終わってなかったの?なあに?それなら僕は結婚しないって・・それならって何よ。別にいいけど結婚しなくてもさ・・と思ったら怪文書が出たから怒ってる?どうしても雅子さんがダメなら誰とも結婚しないって?アホか?

 素行の悪さは折り紙付きだったのに、皇太子はそれを「対抗勢力の陰謀」だと思ったわけですね。すっかり小和田さんちに取り込まれてしまいました。

それでも国民の中では終わった話だった・・・筈なんですよ。

 「デビット・カオ」というのがいわゆる元ボーイフレンド。

1993年1月のシカゴ・サンタイムズ誌にデビッド・カオという中国系アメリカ人が小和田雅子について暴露すると言って来たらしい。この件については1993年1月の週刊新潮

「特集・キャリアウーマンで皇太子妃で皇室は変わるか」において

「皇太子妃に内定した直後、日刊紙『シカゴ・サン・タイムズ』(十一日付)が、とんでもない記事を掲載した。
<雅子さんの元ボーイフレンド、すべてを暴露すると息巻く>
 という見出しで、
<元ボーイフレンドのデービッド・カオ氏は小和田さんのトップレス写真を複数持っていて、ゴシップ紙に売り込みたいと友人に語った>
 というのだ。『シカゴ・サン・タイムズ』は発行部数が五十二万部。高級紙ではないが、ゴシップばかりを扱うタブロイド紙でもないという。記事を執筆したビル・ズウェッカー記者が語る。
「ニュースソースの一人から、“面白いことを言う人間がいる”と連絡が入り、デービッド・カオ氏に電話をしてみたんです。カオ氏はボストン在住の三十六歳の経営コンサルタント。彼が言うには、“小和田さんと初めて会ったのは、ボストン近くのケンジントンという町でのパーティーだった。その後、一緒に映画や夕食に行ったりするようになり、愛し合うようになった。小和田さんとはロマンティックな関係だ”と。彼は“やりとりした手紙も持っているし、数年前の夏、一緒に行ったビーチで撮った彼女のトップレス写真も持っている”と言うんです」
 皇太子妃内定の喜びに冷水を浴びせるような報道だが、四日目には事実上、それを取り消すような続報が載せられた。
「カオ氏と小和田さんが、最低二回、同じパーティーに同席していたことは確認できています。しかし、手紙や写真をファックスで送ってくれと言っても、イヤだという。そのうち、電話をかけても“現在この電話は使用されておりません”になってしまいました。シカゴの日本領事館を通じて問い合わせた結果、小和田さん本人の談話として“カオ氏のことは知らない”という答えが返ってきましたし、おそらくこの話はカオ氏のインチキか誇大妄想なのではないのでしょうか」(ズウェッカー記者)

 壮大に事実を暴露しておいて「誇大妄想なのではないでしょうか?」と締めくくるところがいかにも日本のマスコミっぽい。これが日本における最後の良心だったのかな。

 シカゴ・サンタイムズに売り込んだ瞬間に何かが起きた・・・という事でしょうか?お金を渡された?でもここで殺害してしまうと大変なことにと思われたか?

しかし、この記事が雅子妃決定直後に出て来た事に意義があったのかと思うのですが。

そういう「心無い噂」「雑音」は気にしない様に・・・って皇太子は誰かに言われたのかしらねーー可哀想にコキュにされて。

 噂の真相1993年3月号

「マスコミが書絶対にけない皇太子妃小和田雅子逆転決定に見る「現代の生贄」の検証」

「さらに皇室記者たちが「小和田雅子の可能性なし」と断定したのには、もっと決定的な理由があった。
 それはズバリ、彼女の男性関係にまつわる噂だったという。妃候補としてその名前がはじめて浮上した6年前から、小和田雅子という女性には常に男性の噂がつきまとってきた。
 実は妃内定直後の1月11日、アメリカの日刊紙「シカゴ・サン・タイムズ」が
“小和田雅子サンの元ボーイフレンドが彼女のトップレス写真を持っている”といった衝撃的な内容の記事を掲載する騒ぎが起きている。
「日本のマスコミはこの記事の存在を知りながら一切黙殺していたようですね。それに同紙もそのわずか4日後に記事を取消す続報を掲載して、あれはデマだったという結論にいつしか落ち着いてしまった」(大手紙・外信部記者)
 しかし、地元では依然として噂はくすぶり続けているという。というのも、告白したデビッド・カオなる男性は確かに実在しており、最低でも2回はハーバード留学中の彼女と同じパーティーに出席していたことが確認されているというのだ。在米特派員の一人もこう首をひねる。
「『シカゴ――』紙はいい加減な三流ゴシップ紙ではないですからね。デマだとしたら、どうしてあんな記事を載せたのか。その後の記事取消しもあまりに対応が早すぎるし、不自然な点は多い」
 真偽はさておき、この「シカゴ――」紙の記事と同じようなハーバード大学留学中の男性関係についての噂はこれまでもかなり頻繁に囁かれている。曰く「白人男性とつきあっていた」「日本人留学生と半同棲生活を送っていた」等々。
 妃候補として彼女の名前がはじめて浮上した87年には、宮内庁と一部マスコミに、やはり彼女が白人男性と交際していたことを英文で綴った怪文書がアメリカから送りつけられている。
 宮内庁が88年に突如として小和田雅子を妃候補から除外したのも、公にされている母方の祖父が公害タレ流し企業のチッソ社長をつとめていたから、というような理由ではなく、このハーバード時代の交友関係が原因だったとの見方もある。
「妃候補の家系は皇太子に引き合わせる前に必ず調べますからね。チッソを問題にするなら、最初から会わせていませんよ。時期的に見ても、小和田サンをはずしたのは例の白人男性との交友が書かれた怪文書がキッカケになっているのは確実です。一説には当時の宮内庁長官だった富田朝彦が内調室長時代のパイプを使って雅子サンのハーバード時代を徹底的に洗い直したという話もある」(宮内庁担当記者)
 いや、ハーバード時代だけではない。外務省の研修でオックスフォード大学に留学中の際には、イギリス人男性との交際が噂になったこともあり、あるフリーカメラマンがツーショットを撮影して、女性週刊誌に持ち込んだもののボツになった、とのまことしやかな話も漏れ伝わっている。
 また、91年の春から92年のはじめにかけては外務省内で上司と不倫をしている、との噂がかけめぐった。この時、相手と名指しされたのは彼女の所属する北米二課のM課長補佐。
「たしかに小和田サンとMサンは例の半導体交渉でコンビを組んでいた関係で、二人きりで海外出張する機会も多かった。外務省は伝統的に不倫の多い役所ですから、噂になるのもわかりますけど、でも実際はどうですかねえ」(外務省関係者)
 さらに上司との不倫ではS北米二課長との関係を指摘する怪文書が出回るなど、とにかくこのテの話は数えあげればキリがないほど流れてきたのである。

 小和田雅子には常に男の影・・・・(笑)そりゃまあ29歳の女性だし、何人の男性と関係があってもいいけどさ。でもつまり男関係をきちんと清算して「いい思い出」にしてこなかったことがお妃候補として危ないと思われていたのは事実なんでしょうね。世はバブル時代、女性が強かった頃だしねーー

 でも問題なのは日本のマスコミがこの事実を知りながら無視していたこと。今と同じ構図がそこにはあります。

 いやはやそれにしても上司と不倫の噂も一人じゃなくて二人。その一人が奥大使でイラクで亡くなった方?真面目に不倫していたのか・・・そうか・・・ベッキーなんか可愛いもんだわーーと。

 2009年6月NYタイムズにデビッド・カオ死亡記事にて一件落着。

ちょっと時計の針を回し過ぎました。戻りますね。

 週刊女性1990年8月21日・28日号

「独占スクープ皇太子さまお妃選び難航の中小和田雅子さん電撃再浮上!!最有力候補から3年6月密かに帰国して」

 女性自身1991年1月22日号

「もう一度殿下と会ってください!」皇太子妃激動!あの小和田雅子さんに小和田雅子さんが緊急接触」

 秋篠宮家の慶事が終わり、ほとぼりもさめたと思ったんでしょうか?

まさに電撃浮上ですよ・・小和田雅子さんってまだお妃候補だったのーーー?っていうか皇太子、まだ諦めてなかったのーーー?

世の中「紀子ちゃんブーム」ですっかり舞い上がって身に迫る危機にさっぱり気づきませんでした。

https://blog.goo.ne.jp/yonyon4009/e/1c85980c274d76225fbf0ec255d4a289
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/179.html#c35

[近代史3] 美智子妃も雅子妃もアメリカが皇室と天皇制を破壊する為に送り込んだスパイなのか? 中川隆
37. 中川隆[-11606] koaQ7Jey 2019年3月08日 16:17:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[386]

日本一運のいい女ー新皇后の肖像 7 2018-10-18
https://blog.goo.ne.jp/yonyon4009/e/1c85980c274d76225fbf0ec255d4a289

 週刊ポスト1990年6月22日号

「卑劣な怪文書「それなら僕は結婚しない」皇太子を激怒させた「妃選考の密謀体質」を許してはいけない」

「それでは、なぜ、小和田(雅子)さんは(皇太子妃候補)リストから外されたのか。
 前出の宮内庁関係者が、解説する。
「小和田さんのハーバード大学時代の学友と称する匿名の人物から、宮内庁関係者以外の第三者宛に“怪文書”が出されていたのです。
 手紙を入手して自ら読んだ侍従によると、内容は、ハーバード大学の学友だった頃、小和田さんには仲のいいボーイフレンドがいたというもので、どういう服装で、どういったところへデートに出掛けていたかなどが、事細かに記述されていたといいます。
 ボーイフレンドがいること自体、大学生にとっては当たり前のことですし、世間一般でいえばなんら取り沙汰されるほどのことでもない。
 しかしそれが、こと妃候補の女性となると事情は一変します。しかも、この文書が、皇族や神道関係者の知るところとなり、ボーイフレンドのいた女性は将来の皇后として適切でないといった“小和田妃”反対の声があがりはじめたんです」
 宮内庁関係者の解説は、さらに続く。
「かりに、小和田さんが皇太子妃に決定したとしても、その反対の声は容易に収まりそうもない。そういう判断のもと、小和田さんはリストから外されたんです。
 殿下は、こうした行為が自分と小和田さんの成婚の可能性をおもしろく思わない宮中の一部の人間によって行われたとお思いですし、それが側近たちの一致した見方なんです。ですから、殿下の憤りも大きなものにならざるをえないんです」

 国民の中では「私は関係ありません!」で全部終わったと思っている人多数。そんな事より世間ではかっこいい礼宮と可愛い紀子ちゃんに夢中。皇太子なんかどうでもいいや・・・的な雰囲気の中で掲載された記事。

え?終わってなかったの?なあに?それなら僕は結婚しないって・・それならって何よ。別にいいけど結婚しなくてもさ・・と思ったら怪文書が出たから怒ってる?どうしても雅子さんがダメなら誰とも結婚しないって?アホか?

 素行の悪さは折り紙付きだったのに、皇太子はそれを「対抗勢力の陰謀」だと思ったわけですね。すっかり小和田さんちに取り込まれてしまいました。

それでも国民の中では終わった話だった・・・筈なんですよ。

 「デビット・カオ」というのがいわゆる元ボーイフレンド。

1993年1月のシカゴ・サンタイムズ誌にデビッド・カオという中国系アメリカ人が小和田雅子について暴露すると言って来たらしい。この件については1993年1月の週刊新潮

「特集・キャリアウーマンで皇太子妃で皇室は変わるか」において

「皇太子妃に内定した直後、日刊紙『シカゴ・サン・タイムズ』(十一日付)が、とんでもない記事を掲載した。
<雅子さんの元ボーイフレンド、すべてを暴露すると息巻く>
 という見出しで、
<元ボーイフレンドのデービッド・カオ氏は小和田さんのトップレス写真を複数持っていて、ゴシップ紙に売り込みたいと友人に語った>
 というのだ。『シカゴ・サン・タイムズ』は発行部数が五十二万部。高級紙ではないが、ゴシップばかりを扱うタブロイド紙でもないという。記事を執筆したビル・ズウェッカー記者が語る。
「ニュースソースの一人から、“面白いことを言う人間がいる”と連絡が入り、デービッド・カオ氏に電話をしてみたんです。カオ氏はボストン在住の三十六歳の経営コンサルタント。彼が言うには、“小和田さんと初めて会ったのは、ボストン近くのケンジントンという町でのパーティーだった。その後、一緒に映画や夕食に行ったりするようになり、愛し合うようになった。小和田さんとはロマンティックな関係だ”と。彼は“やりとりした手紙も持っているし、数年前の夏、一緒に行ったビーチで撮った彼女のトップレス写真も持っている”と言うんです」
 皇太子妃内定の喜びに冷水を浴びせるような報道だが、四日目には事実上、それを取り消すような続報が載せられた。
「カオ氏と小和田さんが、最低二回、同じパーティーに同席していたことは確認できています。しかし、手紙や写真をファックスで送ってくれと言っても、イヤだという。そのうち、電話をかけても“現在この電話は使用されておりません”になってしまいました。シカゴの日本領事館を通じて問い合わせた結果、小和田さん本人の談話として“カオ氏のことは知らない”という答えが返ってきましたし、おそらくこの話はカオ氏のインチキか誇大妄想なのではないのでしょうか」(ズウェッカー記者)

 壮大に事実を暴露しておいて「誇大妄想なのではないでしょうか?」と締めくくるところがいかにも日本のマスコミっぽい。これが日本における最後の良心だったのかな。

 シカゴ・サンタイムズに売り込んだ瞬間に何かが起きた・・・という事でしょうか?お金を渡された?でもここで殺害してしまうと大変なことにと思われたか?

しかし、この記事が雅子妃決定直後に出て来た事に意義があったのかと思うのですが。

そういう「心無い噂」「雑音」は気にしない様に・・・って皇太子は誰かに言われたのかしらねーー可哀想にコキュにされて。

 噂の真相1993年3月号

「マスコミが書絶対にけない皇太子妃小和田雅子逆転決定に見る「現代の生贄」の検証」

「さらに皇室記者たちが「小和田雅子の可能性なし」と断定したのには、もっと決定的な理由があった。
 それはズバリ、彼女の男性関係にまつわる噂だったという。妃候補としてその名前がはじめて浮上した6年前から、小和田雅子という女性には常に男性の噂がつきまとってきた。
 実は妃内定直後の1月11日、アメリカの日刊紙「シカゴ・サン・タイムズ」が
“小和田雅子サンの元ボーイフレンドが彼女のトップレス写真を持っている”といった衝撃的な内容の記事を掲載する騒ぎが起きている。
「日本のマスコミはこの記事の存在を知りながら一切黙殺していたようですね。それに同紙もそのわずか4日後に記事を取消す続報を掲載して、あれはデマだったという結論にいつしか落ち着いてしまった」(大手紙・外信部記者)
 しかし、地元では依然として噂はくすぶり続けているという。というのも、告白したデビッド・カオなる男性は確かに実在しており、最低でも2回はハーバード留学中の彼女と同じパーティーに出席していたことが確認されているというのだ。在米特派員の一人もこう首をひねる。
「『シカゴ――』紙はいい加減な三流ゴシップ紙ではないですからね。デマだとしたら、どうしてあんな記事を載せたのか。その後の記事取消しもあまりに対応が早すぎるし、不自然な点は多い」
 真偽はさておき、この「シカゴ――」紙の記事と同じようなハーバード大学留学中の男性関係についての噂はこれまでもかなり頻繁に囁かれている。曰く「白人男性とつきあっていた」「日本人留学生と半同棲生活を送っていた」等々。
 妃候補として彼女の名前がはじめて浮上した87年には、宮内庁と一部マスコミに、やはり彼女が白人男性と交際していたことを英文で綴った怪文書がアメリカから送りつけられている。
 宮内庁が88年に突如として小和田雅子を妃候補から除外したのも、公にされている母方の祖父が公害タレ流し企業のチッソ社長をつとめていたから、というような理由ではなく、このハーバード時代の交友関係が原因だったとの見方もある。
「妃候補の家系は皇太子に引き合わせる前に必ず調べますからね。チッソを問題にするなら、最初から会わせていませんよ。時期的に見ても、小和田サンをはずしたのは例の白人男性との交友が書かれた怪文書がキッカケになっているのは確実です。一説には当時の宮内庁長官だった富田朝彦が内調室長時代のパイプを使って雅子サンのハーバード時代を徹底的に洗い直したという話もある」(宮内庁担当記者)
 いや、ハーバード時代だけではない。外務省の研修でオックスフォード大学に留学中の際には、イギリス人男性との交際が噂になったこともあり、あるフリーカメラマンがツーショットを撮影して、女性週刊誌に持ち込んだもののボツになった、とのまことしやかな話も漏れ伝わっている。
 また、91年の春から92年のはじめにかけては外務省内で上司と不倫をしている、との噂がかけめぐった。この時、相手と名指しされたのは彼女の所属する北米二課のM課長補佐。
「たしかに小和田サンとMサンは例の半導体交渉でコンビを組んでいた関係で、二人きりで海外出張する機会も多かった。外務省は伝統的に不倫の多い役所ですから、噂になるのもわかりますけど、でも実際はどうですかねえ」(外務省関係者)
 さらに上司との不倫ではS北米二課長との関係を指摘する怪文書が出回るなど、とにかくこのテの話は数えあげればキリがないほど流れてきたのである。

 小和田雅子には常に男の影・・・・(笑)そりゃまあ29歳の女性だし、何人の男性と関係があってもいいけどさ。でもつまり男関係をきちんと清算して「いい思い出」にしてこなかったことがお妃候補として危ないと思われていたのは事実なんでしょうね。世はバブル時代、女性が強かった頃だしねーー

 でも問題なのは日本のマスコミがこの事実を知りながら無視していたこと。今と同じ構図がそこにはあります。

 いやはやそれにしても上司と不倫の噂も一人じゃなくて二人。その一人が奥大使でイラクで亡くなった方?真面目に不倫していたのか・・・そうか・・・ベッキーなんか可愛いもんだわーーと。

 2009年6月NYタイムズにデビッド・カオ死亡記事にて一件落着。

ちょっと時計の針を回し過ぎました。戻りますね。

 週刊女性1990年8月21日・28日号

「独占スクープ皇太子さまお妃選び難航の中小和田雅子さん電撃再浮上!!最有力候補から3年6月密かに帰国して」

 女性自身1991年1月22日号

「もう一度殿下と会ってください!」皇太子妃激動!あの小和田雅子さんに小和田雅子さんが緊急接触」

 秋篠宮家の慶事が終わり、ほとぼりもさめたと思ったんでしょうか?

まさに電撃浮上ですよ・・小和田雅子さんってまだお妃候補だったのーーー?っていうか皇太子、まだ諦めてなかったのーーー?

世の中「紀子ちゃんブーム」ですっかり舞い上がって身に迫る危機にさっぱり気づきませんでした。

https://blog.goo.ne.jp/yonyon4009/e/1c85980c274d76225fbf0ec255d4a289
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/262.html#c37

[昼休み53] 被差別部落出身の有名人は? 中川隆
66. 中川隆[-11605] koaQ7Jey 2019年3月08日 16:18:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[387]

日本一運のいい女ー新皇后の肖像 7 2018-10-18
https://blog.goo.ne.jp/yonyon4009/e/1c85980c274d76225fbf0ec255d4a289

 週刊ポスト1990年6月22日号

「卑劣な怪文書「それなら僕は結婚しない」皇太子を激怒させた「妃選考の密謀体質」を許してはいけない」

「それでは、なぜ、小和田(雅子)さんは(皇太子妃候補)リストから外されたのか。
 前出の宮内庁関係者が、解説する。
「小和田さんのハーバード大学時代の学友と称する匿名の人物から、宮内庁関係者以外の第三者宛に“怪文書”が出されていたのです。
 手紙を入手して自ら読んだ侍従によると、内容は、ハーバード大学の学友だった頃、小和田さんには仲のいいボーイフレンドがいたというもので、どういう服装で、どういったところへデートに出掛けていたかなどが、事細かに記述されていたといいます。
 ボーイフレンドがいること自体、大学生にとっては当たり前のことですし、世間一般でいえばなんら取り沙汰されるほどのことでもない。
 しかしそれが、こと妃候補の女性となると事情は一変します。しかも、この文書が、皇族や神道関係者の知るところとなり、ボーイフレンドのいた女性は将来の皇后として適切でないといった“小和田妃”反対の声があがりはじめたんです」
 宮内庁関係者の解説は、さらに続く。
「かりに、小和田さんが皇太子妃に決定したとしても、その反対の声は容易に収まりそうもない。そういう判断のもと、小和田さんはリストから外されたんです。
 殿下は、こうした行為が自分と小和田さんの成婚の可能性をおもしろく思わない宮中の一部の人間によって行われたとお思いですし、それが側近たちの一致した見方なんです。ですから、殿下の憤りも大きなものにならざるをえないんです」

 国民の中では「私は関係ありません!」で全部終わったと思っている人多数。そんな事より世間ではかっこいい礼宮と可愛い紀子ちゃんに夢中。皇太子なんかどうでもいいや・・・的な雰囲気の中で掲載された記事。

え?終わってなかったの?なあに?それなら僕は結婚しないって・・それならって何よ。別にいいけど結婚しなくてもさ・・と思ったら怪文書が出たから怒ってる?どうしても雅子さんがダメなら誰とも結婚しないって?アホか?

 素行の悪さは折り紙付きだったのに、皇太子はそれを「対抗勢力の陰謀」だと思ったわけですね。すっかり小和田さんちに取り込まれてしまいました。

それでも国民の中では終わった話だった・・・筈なんですよ。

 「デビット・カオ」というのがいわゆる元ボーイフレンド。

1993年1月のシカゴ・サンタイムズ誌にデビッド・カオという中国系アメリカ人が小和田雅子について暴露すると言って来たらしい。この件については1993年1月の週刊新潮

「特集・キャリアウーマンで皇太子妃で皇室は変わるか」において

「皇太子妃に内定した直後、日刊紙『シカゴ・サン・タイムズ』(十一日付)が、とんでもない記事を掲載した。
<雅子さんの元ボーイフレンド、すべてを暴露すると息巻く>
 という見出しで、
<元ボーイフレンドのデービッド・カオ氏は小和田さんのトップレス写真を複数持っていて、ゴシップ紙に売り込みたいと友人に語った>
 というのだ。『シカゴ・サン・タイムズ』は発行部数が五十二万部。高級紙ではないが、ゴシップばかりを扱うタブロイド紙でもないという。記事を執筆したビル・ズウェッカー記者が語る。
「ニュースソースの一人から、“面白いことを言う人間がいる”と連絡が入り、デービッド・カオ氏に電話をしてみたんです。カオ氏はボストン在住の三十六歳の経営コンサルタント。彼が言うには、“小和田さんと初めて会ったのは、ボストン近くのケンジントンという町でのパーティーだった。その後、一緒に映画や夕食に行ったりするようになり、愛し合うようになった。小和田さんとはロマンティックな関係だ”と。彼は“やりとりした手紙も持っているし、数年前の夏、一緒に行ったビーチで撮った彼女のトップレス写真も持っている”と言うんです」
 皇太子妃内定の喜びに冷水を浴びせるような報道だが、四日目には事実上、それを取り消すような続報が載せられた。
「カオ氏と小和田さんが、最低二回、同じパーティーに同席していたことは確認できています。しかし、手紙や写真をファックスで送ってくれと言っても、イヤだという。そのうち、電話をかけても“現在この電話は使用されておりません”になってしまいました。シカゴの日本領事館を通じて問い合わせた結果、小和田さん本人の談話として“カオ氏のことは知らない”という答えが返ってきましたし、おそらくこの話はカオ氏のインチキか誇大妄想なのではないのでしょうか」(ズウェッカー記者)

 壮大に事実を暴露しておいて「誇大妄想なのではないでしょうか?」と締めくくるところがいかにも日本のマスコミっぽい。これが日本における最後の良心だったのかな。

 シカゴ・サンタイムズに売り込んだ瞬間に何かが起きた・・・という事でしょうか?お金を渡された?でもここで殺害してしまうと大変なことにと思われたか?

しかし、この記事が雅子妃決定直後に出て来た事に意義があったのかと思うのですが。

そういう「心無い噂」「雑音」は気にしない様に・・・って皇太子は誰かに言われたのかしらねーー可哀想にコキュにされて。

 噂の真相1993年3月号

「マスコミが書絶対にけない皇太子妃小和田雅子逆転決定に見る「現代の生贄」の検証」

「さらに皇室記者たちが「小和田雅子の可能性なし」と断定したのには、もっと決定的な理由があった。
 それはズバリ、彼女の男性関係にまつわる噂だったという。妃候補としてその名前がはじめて浮上した6年前から、小和田雅子という女性には常に男性の噂がつきまとってきた。
 実は妃内定直後の1月11日、アメリカの日刊紙「シカゴ・サン・タイムズ」が
“小和田雅子サンの元ボーイフレンドが彼女のトップレス写真を持っている”といった衝撃的な内容の記事を掲載する騒ぎが起きている。
「日本のマスコミはこの記事の存在を知りながら一切黙殺していたようですね。それに同紙もそのわずか4日後に記事を取消す続報を掲載して、あれはデマだったという結論にいつしか落ち着いてしまった」(大手紙・外信部記者)
 しかし、地元では依然として噂はくすぶり続けているという。というのも、告白したデビッド・カオなる男性は確かに実在しており、最低でも2回はハーバード留学中の彼女と同じパーティーに出席していたことが確認されているというのだ。在米特派員の一人もこう首をひねる。
「『シカゴ――』紙はいい加減な三流ゴシップ紙ではないですからね。デマだとしたら、どうしてあんな記事を載せたのか。その後の記事取消しもあまりに対応が早すぎるし、不自然な点は多い」
 真偽はさておき、この「シカゴ――」紙の記事と同じようなハーバード大学留学中の男性関係についての噂はこれまでもかなり頻繁に囁かれている。曰く「白人男性とつきあっていた」「日本人留学生と半同棲生活を送っていた」等々。
 妃候補として彼女の名前がはじめて浮上した87年には、宮内庁と一部マスコミに、やはり彼女が白人男性と交際していたことを英文で綴った怪文書がアメリカから送りつけられている。
 宮内庁が88年に突如として小和田雅子を妃候補から除外したのも、公にされている母方の祖父が公害タレ流し企業のチッソ社長をつとめていたから、というような理由ではなく、このハーバード時代の交友関係が原因だったとの見方もある。
「妃候補の家系は皇太子に引き合わせる前に必ず調べますからね。チッソを問題にするなら、最初から会わせていませんよ。時期的に見ても、小和田サンをはずしたのは例の白人男性との交友が書かれた怪文書がキッカケになっているのは確実です。一説には当時の宮内庁長官だった富田朝彦が内調室長時代のパイプを使って雅子サンのハーバード時代を徹底的に洗い直したという話もある」(宮内庁担当記者)
 いや、ハーバード時代だけではない。外務省の研修でオックスフォード大学に留学中の際には、イギリス人男性との交際が噂になったこともあり、あるフリーカメラマンがツーショットを撮影して、女性週刊誌に持ち込んだもののボツになった、とのまことしやかな話も漏れ伝わっている。
 また、91年の春から92年のはじめにかけては外務省内で上司と不倫をしている、との噂がかけめぐった。この時、相手と名指しされたのは彼女の所属する北米二課のM課長補佐。
「たしかに小和田サンとMサンは例の半導体交渉でコンビを組んでいた関係で、二人きりで海外出張する機会も多かった。外務省は伝統的に不倫の多い役所ですから、噂になるのもわかりますけど、でも実際はどうですかねえ」(外務省関係者)
 さらに上司との不倫ではS北米二課長との関係を指摘する怪文書が出回るなど、とにかくこのテの話は数えあげればキリがないほど流れてきたのである。

 小和田雅子には常に男の影・・・・(笑)そりゃまあ29歳の女性だし、何人の男性と関係があってもいいけどさ。でもつまり男関係をきちんと清算して「いい思い出」にしてこなかったことがお妃候補として危ないと思われていたのは事実なんでしょうね。世はバブル時代、女性が強かった頃だしねーー

 でも問題なのは日本のマスコミがこの事実を知りながら無視していたこと。今と同じ構図がそこにはあります。

 いやはやそれにしても上司と不倫の噂も一人じゃなくて二人。その一人が奥大使でイラクで亡くなった方?真面目に不倫していたのか・・・そうか・・・ベッキーなんか可愛いもんだわーーと。

 2009年6月NYタイムズにデビッド・カオ死亡記事にて一件落着。

ちょっと時計の針を回し過ぎました。戻りますね。

 週刊女性1990年8月21日・28日号

「独占スクープ皇太子さまお妃選び難航の中小和田雅子さん電撃再浮上!!最有力候補から3年6月密かに帰国して」

 女性自身1991年1月22日号

「もう一度殿下と会ってください!」皇太子妃激動!あの小和田雅子さんに小和田雅子さんが緊急接触」

 秋篠宮家の慶事が終わり、ほとぼりもさめたと思ったんでしょうか?

まさに電撃浮上ですよ・・小和田雅子さんってまだお妃候補だったのーーー?っていうか皇太子、まだ諦めてなかったのーーー?

世の中「紀子ちゃんブーム」ですっかり舞い上がって身に迫る危機にさっぱり気づきませんでした。

https://blog.goo.ne.jp/yonyon4009/e/1c85980c274d76225fbf0ec255d4a289
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/431.html#c66

[社会問題9] 語られ始めた皇太子「退位論」は説得力があるか・・が、語られるだけでも適応失調の天皇家! 墨染
187. 中川隆[-11604] koaQ7Jey 2019年3月08日 16:18:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[388]

日本一運のいい女ー新皇后の肖像 7 2018-10-18
https://blog.goo.ne.jp/yonyon4009/e/1c85980c274d76225fbf0ec255d4a289

 週刊ポスト1990年6月22日号

「卑劣な怪文書「それなら僕は結婚しない」皇太子を激怒させた「妃選考の密謀体質」を許してはいけない」

「それでは、なぜ、小和田(雅子)さんは(皇太子妃候補)リストから外されたのか。
 前出の宮内庁関係者が、解説する。
「小和田さんのハーバード大学時代の学友と称する匿名の人物から、宮内庁関係者以外の第三者宛に“怪文書”が出されていたのです。
 手紙を入手して自ら読んだ侍従によると、内容は、ハーバード大学の学友だった頃、小和田さんには仲のいいボーイフレンドがいたというもので、どういう服装で、どういったところへデートに出掛けていたかなどが、事細かに記述されていたといいます。
 ボーイフレンドがいること自体、大学生にとっては当たり前のことですし、世間一般でいえばなんら取り沙汰されるほどのことでもない。
 しかしそれが、こと妃候補の女性となると事情は一変します。しかも、この文書が、皇族や神道関係者の知るところとなり、ボーイフレンドのいた女性は将来の皇后として適切でないといった“小和田妃”反対の声があがりはじめたんです」
 宮内庁関係者の解説は、さらに続く。
「かりに、小和田さんが皇太子妃に決定したとしても、その反対の声は容易に収まりそうもない。そういう判断のもと、小和田さんはリストから外されたんです。
 殿下は、こうした行為が自分と小和田さんの成婚の可能性をおもしろく思わない宮中の一部の人間によって行われたとお思いですし、それが側近たちの一致した見方なんです。ですから、殿下の憤りも大きなものにならざるをえないんです」

 国民の中では「私は関係ありません!」で全部終わったと思っている人多数。そんな事より世間ではかっこいい礼宮と可愛い紀子ちゃんに夢中。皇太子なんかどうでもいいや・・・的な雰囲気の中で掲載された記事。

え?終わってなかったの?なあに?それなら僕は結婚しないって・・それならって何よ。別にいいけど結婚しなくてもさ・・と思ったら怪文書が出たから怒ってる?どうしても雅子さんがダメなら誰とも結婚しないって?アホか?

 素行の悪さは折り紙付きだったのに、皇太子はそれを「対抗勢力の陰謀」だと思ったわけですね。すっかり小和田さんちに取り込まれてしまいました。

それでも国民の中では終わった話だった・・・筈なんですよ。

 「デビット・カオ」というのがいわゆる元ボーイフレンド。

1993年1月のシカゴ・サンタイムズ誌にデビッド・カオという中国系アメリカ人が小和田雅子について暴露すると言って来たらしい。この件については1993年1月の週刊新潮

「特集・キャリアウーマンで皇太子妃で皇室は変わるか」において

「皇太子妃に内定した直後、日刊紙『シカゴ・サン・タイムズ』(十一日付)が、とんでもない記事を掲載した。
<雅子さんの元ボーイフレンド、すべてを暴露すると息巻く>
 という見出しで、
<元ボーイフレンドのデービッド・カオ氏は小和田さんのトップレス写真を複数持っていて、ゴシップ紙に売り込みたいと友人に語った>
 というのだ。『シカゴ・サン・タイムズ』は発行部数が五十二万部。高級紙ではないが、ゴシップばかりを扱うタブロイド紙でもないという。記事を執筆したビル・ズウェッカー記者が語る。
「ニュースソースの一人から、“面白いことを言う人間がいる”と連絡が入り、デービッド・カオ氏に電話をしてみたんです。カオ氏はボストン在住の三十六歳の経営コンサルタント。彼が言うには、“小和田さんと初めて会ったのは、ボストン近くのケンジントンという町でのパーティーだった。その後、一緒に映画や夕食に行ったりするようになり、愛し合うようになった。小和田さんとはロマンティックな関係だ”と。彼は“やりとりした手紙も持っているし、数年前の夏、一緒に行ったビーチで撮った彼女のトップレス写真も持っている”と言うんです」
 皇太子妃内定の喜びに冷水を浴びせるような報道だが、四日目には事実上、それを取り消すような続報が載せられた。
「カオ氏と小和田さんが、最低二回、同じパーティーに同席していたことは確認できています。しかし、手紙や写真をファックスで送ってくれと言っても、イヤだという。そのうち、電話をかけても“現在この電話は使用されておりません”になってしまいました。シカゴの日本領事館を通じて問い合わせた結果、小和田さん本人の談話として“カオ氏のことは知らない”という答えが返ってきましたし、おそらくこの話はカオ氏のインチキか誇大妄想なのではないのでしょうか」(ズウェッカー記者)

 壮大に事実を暴露しておいて「誇大妄想なのではないでしょうか?」と締めくくるところがいかにも日本のマスコミっぽい。これが日本における最後の良心だったのかな。

 シカゴ・サンタイムズに売り込んだ瞬間に何かが起きた・・・という事でしょうか?お金を渡された?でもここで殺害してしまうと大変なことにと思われたか?

しかし、この記事が雅子妃決定直後に出て来た事に意義があったのかと思うのですが。

そういう「心無い噂」「雑音」は気にしない様に・・・って皇太子は誰かに言われたのかしらねーー可哀想にコキュにされて。

 噂の真相1993年3月号

「マスコミが書絶対にけない皇太子妃小和田雅子逆転決定に見る「現代の生贄」の検証」

「さらに皇室記者たちが「小和田雅子の可能性なし」と断定したのには、もっと決定的な理由があった。
 それはズバリ、彼女の男性関係にまつわる噂だったという。妃候補としてその名前がはじめて浮上した6年前から、小和田雅子という女性には常に男性の噂がつきまとってきた。
 実は妃内定直後の1月11日、アメリカの日刊紙「シカゴ・サン・タイムズ」が
“小和田雅子サンの元ボーイフレンドが彼女のトップレス写真を持っている”といった衝撃的な内容の記事を掲載する騒ぎが起きている。
「日本のマスコミはこの記事の存在を知りながら一切黙殺していたようですね。それに同紙もそのわずか4日後に記事を取消す続報を掲載して、あれはデマだったという結論にいつしか落ち着いてしまった」(大手紙・外信部記者)
 しかし、地元では依然として噂はくすぶり続けているという。というのも、告白したデビッド・カオなる男性は確かに実在しており、最低でも2回はハーバード留学中の彼女と同じパーティーに出席していたことが確認されているというのだ。在米特派員の一人もこう首をひねる。
「『シカゴ――』紙はいい加減な三流ゴシップ紙ではないですからね。デマだとしたら、どうしてあんな記事を載せたのか。その後の記事取消しもあまりに対応が早すぎるし、不自然な点は多い」
 真偽はさておき、この「シカゴ――」紙の記事と同じようなハーバード大学留学中の男性関係についての噂はこれまでもかなり頻繁に囁かれている。曰く「白人男性とつきあっていた」「日本人留学生と半同棲生活を送っていた」等々。
 妃候補として彼女の名前がはじめて浮上した87年には、宮内庁と一部マスコミに、やはり彼女が白人男性と交際していたことを英文で綴った怪文書がアメリカから送りつけられている。
 宮内庁が88年に突如として小和田雅子を妃候補から除外したのも、公にされている母方の祖父が公害タレ流し企業のチッソ社長をつとめていたから、というような理由ではなく、このハーバード時代の交友関係が原因だったとの見方もある。
「妃候補の家系は皇太子に引き合わせる前に必ず調べますからね。チッソを問題にするなら、最初から会わせていませんよ。時期的に見ても、小和田サンをはずしたのは例の白人男性との交友が書かれた怪文書がキッカケになっているのは確実です。一説には当時の宮内庁長官だった富田朝彦が内調室長時代のパイプを使って雅子サンのハーバード時代を徹底的に洗い直したという話もある」(宮内庁担当記者)
 いや、ハーバード時代だけではない。外務省の研修でオックスフォード大学に留学中の際には、イギリス人男性との交際が噂になったこともあり、あるフリーカメラマンがツーショットを撮影して、女性週刊誌に持ち込んだもののボツになった、とのまことしやかな話も漏れ伝わっている。
 また、91年の春から92年のはじめにかけては外務省内で上司と不倫をしている、との噂がかけめぐった。この時、相手と名指しされたのは彼女の所属する北米二課のM課長補佐。
「たしかに小和田サンとMサンは例の半導体交渉でコンビを組んでいた関係で、二人きりで海外出張する機会も多かった。外務省は伝統的に不倫の多い役所ですから、噂になるのもわかりますけど、でも実際はどうですかねえ」(外務省関係者)
 さらに上司との不倫ではS北米二課長との関係を指摘する怪文書が出回るなど、とにかくこのテの話は数えあげればキリがないほど流れてきたのである。

 小和田雅子には常に男の影・・・・(笑)そりゃまあ29歳の女性だし、何人の男性と関係があってもいいけどさ。でもつまり男関係をきちんと清算して「いい思い出」にしてこなかったことがお妃候補として危ないと思われていたのは事実なんでしょうね。世はバブル時代、女性が強かった頃だしねーー

 でも問題なのは日本のマスコミがこの事実を知りながら無視していたこと。今と同じ構図がそこにはあります。

 いやはやそれにしても上司と不倫の噂も一人じゃなくて二人。その一人が奥大使でイラクで亡くなった方?真面目に不倫していたのか・・・そうか・・・ベッキーなんか可愛いもんだわーーと。

 2009年6月NYタイムズにデビッド・カオ死亡記事にて一件落着。

ちょっと時計の針を回し過ぎました。戻りますね。

 週刊女性1990年8月21日・28日号

「独占スクープ皇太子さまお妃選び難航の中小和田雅子さん電撃再浮上!!最有力候補から3年6月密かに帰国して」

 女性自身1991年1月22日号

「もう一度殿下と会ってください!」皇太子妃激動!あの小和田雅子さんに小和田雅子さんが緊急接触」

 秋篠宮家の慶事が終わり、ほとぼりもさめたと思ったんでしょうか?

まさに電撃浮上ですよ・・小和田雅子さんってまだお妃候補だったのーーー?っていうか皇太子、まだ諦めてなかったのーーー?

世の中「紀子ちゃんブーム」ですっかり舞い上がって身に迫る危機にさっぱり気づきませんでした。

https://blog.goo.ne.jp/yonyon4009/e/1c85980c274d76225fbf0ec255d4a289
http://www.asyura2.com/12/social9/msg/352.html#c187

[リバイバル3] 「マイ電柱」は効果が有るのか? 中川隆
13. 中川隆[-11603] koaQ7Jey 2019年3月08日 16:45:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[389]

自宅システムのタップを馴染ませる - Mr.トレイルのオーディオ回り道 2019年03月08日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/669aa33132cfd8968a52485ae7124c16

この頃は自宅システムを聴くのが楽しみ。まだ先日導入した電源タップの「活性化中」であるが、音楽を聴くのが楽しくなって来ている。

この電源タップのINとOUTのケーブルはNo1グレードのケーブルを使っています。おそらくタップの内部でふん詰まりしているか?No1ケーブルの伝送量で「オーバーフロー」している状態だと思っています。それでも最大限伝送できる様になれば「音がかすれる」ような症状は改善されると思います。端的に「サ行」の発音が綺麗に出て来る様になれば合格です。現在はまだ「シェ」と聴こえます。

それにしてもこのパイオニアのアンプは拾い物でした。1年間の「目覚めさせる」作業が大変でしたが、「潜在能力」(ポテンシャル)の高さに驚いています。もちろんC3+M4の組合せでです。電源ケーブルをインレット化して、ヒューズを良質のものに交換し、最高級の電源ケーブルとラインケーブルを使える様にしたのが効いています。ここがオリジナルのままだとそんなには上がらないでしょう。

一般に雑誌等でアンプの比較試聴された記事を読むと、そのアンプの音質傾向は「それは電源ケーブルの音」で有る事を認識しています。そんなケーブルで変わる事を知らない評論家の云う事を真に受けていたのでは先には進めません。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/669aa33132cfd8968a52485ae7124c16


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/759.html#c13

[リバイバル3] ケーブル(電線)の世界 中川隆
72. 中川隆[-11602] koaQ7Jey 2019年3月08日 16:46:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[390]

自宅システムのタップを馴染ませる - Mr.トレイルのオーディオ回り道 2019年03月08日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/669aa33132cfd8968a52485ae7124c16

この頃は自宅システムを聴くのが楽しみ。まだ先日導入した電源タップの「活性化中」であるが、音楽を聴くのが楽しくなって来ている。

この電源タップのINとOUTのケーブルはNo1グレードのケーブルを使っています。おそらくタップの内部でふん詰まりしているか?No1ケーブルの伝送量で「オーバーフロー」している状態だと思っています。それでも最大限伝送できる様になれば「音がかすれる」ような症状は改善されると思います。端的に「サ行」の発音が綺麗に出て来る様になれば合格です。現在はまだ「シェ」と聴こえます。

それにしてもこのパイオニアのアンプは拾い物でした。1年間の「目覚めさせる」作業が大変でしたが、「潜在能力」(ポテンシャル)の高さに驚いています。もちろんC3+M4の組合せでです。電源ケーブルをインレット化して、ヒューズを良質のものに交換し、最高級の電源ケーブルとラインケーブルを使える様にしたのが効いています。ここがオリジナルのままだとそんなには上がらないでしょう。

一般に雑誌等でアンプの比較試聴された記事を読むと、そのアンプの音質傾向は「それは電源ケーブルの音」で有る事を認識しています。そんなケーブルで変わる事を知らない評論家の云う事を真に受けていたのでは先には進めません。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/669aa33132cfd8968a52485ae7124c16
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/757.html#c72

[リバイバル3] 「住宅は資産」という幻想で誰があなたをカモにするのか? 中川隆
232. 中川隆[-11601] koaQ7Jey 2019年3月08日 17:25:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[391]

2019年03月08日
競売減って任意売却増加 住宅ローンに行き詰まったら


売却価格とローン残債の関係、売却してローンを払えるのは30年目近い


画像引用:住宅ローンを借りようと思っている方 | ながの住宅ローン相談センターhttp://www.njl-s.net/loan/case3.html


競売より任意売却が有利だが

住宅ローンを払えなくなったり夫婦名義で購入したが離婚する場合は、住宅を処分してローン返済することになる。

こうした場合以前は競売にかけられることが多かったのだが、最近は任意売却が増えています。

不動産競売は住宅ローンが支払われていない住宅を、裁判所の決定を経て差し押さえて売却することで、拒否することは出来ません。




住宅ローンに問題が無くてもマンション管理費を長期間滞納している場合は、やはり競売にかけられる事があります。

競売物件にはトラブルが多いので売却価格は低くなりがちであり、競売してもほとんどの場合住宅ローンを完済できません。

競売に掛けられる前に銀行などと協議して住宅を売却するのが任意売却で、いくらか高く売ることが出来ます。


ネットやハウツー本でこうした手続きが知られるようになり、不利な競売に至る前に任意売却する人が増えた。

ところでドラマなどでは住宅ローンが払えなくなると差し押さえられて終わりですが、実際のドラマはそこから始まります。

30年や35年ローンで2000万か3000万の住宅ローンを組むと、どの時点で売却しても売却金額でローン残債はゼロにならないのです。


35年ローンで家を売ってローンを返せるのは最後の10年から5年とされています。(頭金や金利で異なる)

30年経った建物の評価額は解体費用の「マイナス100万円」で、土地価格は郊外の分譲住宅だと300万円から500万円でしょう。

売却価格は200万から多くて400万円にしかならず、3000万円以上で購入し数百万円以上の金利を払ったのに資産価値はほぼなくなります。

売却してローンが残ると不利になる

任意売却する前に銀行と話し合って、売却後の金利や返済計画で合意してからにしたほうが良いです。

競売にしろ任意売却にしろ住宅ローン残債が残るのですが、「住宅ローン」が解約されたら残債は通常ローンとして残ります。

住宅ローンは金利2%以下だったかも知れないが、銀行ローンに切り替わると10%以上になる事もあり得る。


仮に売却して1000万円残債が残ったら、金利だけで年100万円も請求される可能性があるので、事前に売却後の返済プランを銀行と話し合う必要があるのです。

住宅ローン契約書には契約解消の場合は一括返済できると書いてある筈で、できない場合は通常ローンに切り替わる事が多い。

だがこれでもまだ良い方で、物件売却で住宅ローンが解消されると、ローンの一括返済を求められる場合があります。


住宅ローンを組むにあたって銀行は保証人を取っているので、保証人に一括請求して取り立てようと考えるかも知れません。

いわゆる自己破産しても免責されるのは本人だけなので、やはり保証人に請求が行きます。

このように住宅ローンが返済不能になってしまうと、銀行は次々にエグイ事をやって回収に乗り出します。


ではどうすればエグイ事態を回避できるかというと、結局住宅ローンを完済するのが最も楽なのです。

完全に返済不能になる前に銀行に相談し、リストラされたとか給料が減ったので予定通りに払えない旨を伝えます。

するとほとんどの銀行や金融機関では返済期間を長期化したり、金利が高い時期に借りたなら金利を下げたりしてくれます。

銀行としては事故物件になるよりは、回収が多少遅れても返済してもらった方が良いと考えます。


だらだら少しづつでも返済すれば、いずれば売却価格がローン残債を上回るので、その時に売却するのがお得です。

任意売却してローン残債が残ったままだと、住宅がなくなるので残債支払い+新たな住居の家賃が必要になり、思ったほど支払金額が減らない筈です。
http://www.thutmosev.com/archives/79216523.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/615.html#c232

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