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中川隆 koaQ7Jey コメント履歴 No: 100263
http://www.asyura2.com/acpn/k/ko/koa/koaQ7Jey/100263.html
[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
51. 中川隆[-11600] koaQ7Jey 2019年3月08日 19:40:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[392]

中島みゆき 砂の船 動画
https://pv755.com/sand-boat


 「寂しい、一人だ」と思ってしまったとき、この温泉があります。思い出してください。


温泉津温泉 泉薬湯 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B8%A9%E6%B3%89%E6%B4%A5%E6%B8%A9%E6%B3%89+++%E6%B3%89%E8%96%AC%E6%B9%AF

温泉津温泉 元湯 (泉薬湯)
http://www.yunotsu.jp/oyu/index.htm

望むものは何一つない 
探す人は誰一人ない 
望むほどに消える夢です 
探すほどに逃げる愛です 
月は波に揺れて幾百幾千 
古い熱い夢の数だけ 
いま誰もいない夜の海を砂の船がゆく


中島みゆき 砂の船 動画
https://pv755.com/sand-boat


 これは、中島みゆきの「砂の船」の一節である。

 若い頃、この歌を聴いて、恐ろしくも何かに引かれるような魅力を感じた。当時はこのような”古い熱い夢が波に砕け散って浮ている海”のがどこにあるのか分からなかった。

 ここ温泉津温泉の共同湯は、温泉街の中に2つ(住宅地にはもう一つ小浜温泉がある)あり、そのうちひときわ古い概容を示しているのが元湯泉薬湯である。はっきり言って、きれいではない(早く言うと朽ちかけている)脱衣所を抜けると、カルシウムと鉄分の湯の花が析出してこびりつき、元のコンクリートが見えなくなった2つの浴槽と洗い場が見える。

 2つの浴槽のうち、熱い方はとびきり熱い。46℃もあり、常人には耐えられない。また、”ぬるい”と書いてある方も42℃あり、これまたけっこう熱い。湯は、源泉口から”熱い湯”の方に注ぎ込まれ、浴槽の下を通って”ぬるい湯”の方に流れ、排水溝から消えていく仕組みだ。

 湯は、緑と茶と白が混ざった濁り湯で、塩分を多く含んでいる。”ぬるい湯”に浸かり、目を閉じてゆっくり鼻から息を吸い込むと、ここが探していた”夜の海”であることに気がついた。やっとそれがわかる年齢になったし、そういう人生経験を経たのだなと、過去を振り返ることが出来た。


 個人的願望だが、年齢に関係なく、アビルマンはもとより、今だ気を滾らせた温泉マニアや温泉通、もちろんただの冷やかしにはここ温泉津への入湯は自重してほしいと思う。ここは、古い熱い夢を捨てた枯れた心が似合う。

目を閉じると、幾百幾千の月が熱い湯気の向こうに輝いているのが見えるではないか。

 もし、貴女が、「一人だ」と思ったら、決して綺麗ではないこの湯に来て欲しい。眉間にしわを寄せ、一人で試練に耐えているつもりなら、ここの湯が効きます。

 古き熱き夢を湯の波間に砕いて流し、全てを捨て去って欲しい。あなたは、、捨てきれずに貯めていた欲望という澱を、いままで分厚いロングスカートにため込んでいたはずです。ゆがんだ顔をして。

 でも、この熱き湯で、隠していた欲望を全て洗い流したら、きっと、ミニスカートをはいた貴女にかわっているはずです。明るい薄手のシャツに、淡い色のミニスカート、笑顔のあなた。あなたの課せられた重い荷物は、もう、放り投げましょう。さあ、そんな荷物は誰に持ってもらいますか? ここはそういう湯です。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~umayu/page086.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c51

[リバイバル3] カルトの世界 中川隆
25. 中川隆[-11599] koaQ7Jey 2019年3月08日 20:41:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[393]
麻原の四女が「父には100人の愛人がいた」とオウムの「大奥」を暴露
2012.6.13 週刊朝日
https://dot.asahi.com/wa/2012092601302.html?page=1




「十年一昔」とはよく言われることだが、地下鉄サリン事件からすでに17年が経つ。

 教祖だった麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚(57=以下、麻原)のまわりには、複数の女性信者がいた。色白に長い黒髪――メディアに登場したオウムの女性信者の外見には共通点があった。何とも分かりやすい話だが、これが麻原の好みだったという。

 麻原には、教団幹部を務めた妻との間に後継者と目された三女アーチャリーなど2男4女がいる一方、多くの愛人もいたとされる。

 麻原の四女は、自著『私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか』(徳間書店)でこう記している。


父の子供は15人いると聞きました〉〈父は4人の女性に自分の子どもを産ませたそうです〉

 愛人の筆頭格は、教団ナンバー2のマハー・ケイマ(ホーリーネーム、以下同)。「大蔵大臣」を務め、「女帝」とも呼ばれていた。麻原との間に3人の子どもをもうけ、麻原が地方へ行くときなど、妻に代わって同行していたという。

 私は徳川家光の生まれ変わり――そう吹聴していた麻原は、家光同様に「大奥」制度を敷いたという。四女によると、

〈延べ100人の愛人がいたと思われます〉

 これまで報じられただけでも、上祐史浩・ひかりの輪代表(49)の元恋人とされるウッパラヴァンナーや、教団から一時"脱走"してAVに出演したバドラーなど枚挙にいとまがない。そのほかにも「ダーキニー」と呼ばれる愛人部隊がいた。信者の中から、幹部らが麻原好みの女性を探し出し、面接していたという。

※週刊朝日 2012年6月22日号
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/215.html#c25

[リバイバル3] 「住宅は資産」という幻想で誰があなたをカモにするのか? 中川隆
233. 中川隆[-11598] koaQ7Jey 2019年3月09日 07:28:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[394]
病気、離婚で散財も…「住宅ローン地獄」から抜け出せたワケ
https://gentosha-go.com/articles/-/20334
2019.3.8 矢田 倫基 幻冬舎ゴールドオンライン


住宅ローン破綻にいたった家庭の事情は複雑で、さまざまな要素が絡んでいるため、お金の問題だけを解決しようとしてもうまくいきません。本記事では住宅ローン破綻にいたった家族を例にあげて、具体的に問題点をピックアップし、解決策を解説していきます。

突然の病魔に襲われ、左半身不随に…そして離婚

≪竹屋さん(50歳・男性)≫
職業:中古車販売会社勤務

年収:350万円

備考:自動車整備士としてバリバリ働いていたが、脳梗塞を患い左半身不随となったため、身体的負担の少ない事務職に配置転換された。慣れない仕事に本人はやる気を失い、収入も低下。

小学4年生の娘は軽度の障害を抱えており、「家族を守りたい」という気持ちは人一倍強かったが、それだけに身体がままならないことにいら立ち、妻に辛く当たることが増えてしまった。

最終的には離婚することとなり、養育費の負担などから経済的に破綻。住宅ローンを支払えなくなり、金融機関から競売を申し立てられたため、相談に訪れた。

≪竹屋さんの元妻(38歳・女性)≫
職業:主婦

備考:社内結婚で竹屋さんと結ばれ、娘をもうけた。病気で収入が減った竹屋さんを支えるためパートに出たが、竹屋さんから投げかけられた「お前は楽でいい」という言葉に嫌気が差し、離婚を決意した。離婚成立後は娘と2人暮らし。竹屋さんからは毎月5万円の養育費を受け取っている。

≪物件とローンの詳細≫
住宅のタイプ:新築一戸建て

購入価額:3500万円

うち住宅ローン:2500万円

ローンの詳細:返済期間35年・金利1.0%(元利均等)

毎月の返済額:7万571円

任意売却時の残債:2300万円

備考:三階建てだが建坪率が地域の規制を超えており、違法建築となっている。

竹屋さん一家が価額3500万円の新築一戸建ての住まいを購入したのは破綻にいたる8年前のことです。頭金1000万円を入れ、住宅ローンを利用して2500万円を借り入れることで購入資金を賄いました。

当時、自動車整備士として会社で高く評価されていた竹屋さんの年収は600万円程度あったため、月額7万円の支払いは特にリスクを感じない余裕のあるものでした。ところがそんな竹屋さんを突然の病魔が襲います。脳梗塞を発症し、左半身不随になってしまったのです。

幸い、リハビリで日常生活に不自由がない程度には回復しましたが、細かな手作業が必要な自動車修理の仕事は以前のようにはできません。そこで竹屋さんが働き続けられるよう、会社側は彼を事務職に配置転換しました。

ところが修理の仕事しか知らない竹屋さんは新しく与えられた業務をうまくこなすことができません。失敗しては自分よりはるかに若い同僚にバカにされるという日々が続く中、だんだん気持ちが荒むようになりました。

配置転換に伴い、収入も大幅に減少しました。月収は22万円程度に落ち込んでしまい、生活費やローンの支払いを賄うため、それまで専業主婦として家で娘の面倒を見てきた奥さんも働かざるを得なくなったのです。

当時の竹屋さんに家族の気持ちを思いやる余裕はなく、会社でのストレスを家で爆発させることが増えていきました。結局、ある日つい発した「お前は楽でいいな」という言葉がきっかけとなり、奥さんから三行半(みくだりはん)を突きつけられて離婚することとなりました。

個人再生を提案してみたが、「任意売却」を希望

竹屋さんがローン返済に行き詰まった原因は離婚にありました。収入が減る中、養育費を支払うのは大きな負担です。さらに子煩悩な竹屋さんは娘に会えない寂しさから、生活を律する気持ちを失い、パチンコや競馬、飲酒などで散財するようになりました。

ただでさえ経済的に厳しいうえに、無駄な出費がかさめば家計は成り立ちません。竹屋さんはカードローンなどを重ね、その返済に追われるようになったのです。その結果、住宅ローンの滞納が続き、金融機関からは競売申立の通知が送付されてきました。

私が相談を受けた当時、竹屋さんは自分がどこからいくら借りているのか、まったく把握できていませんでした。負債額を訊ねた私に「住宅ローン以外の借金は300万円程度」と回答しましたが、調べてみると約500万円の借金を背負っていることが判明したのです。

500万円程度であれば、住宅を売却する必要のない個人再生で100万円ほどに圧縮できます。詳しくは後述しますが、裁判所に申し立てを行えば、債務を1/5に減らすことができるのです。消費者金融などに対する債務が1/5になれば、月額22万円の収入でも7万円の住宅ローンの支払いは難しくありません。

私が相談を受けた時点でも、まだ任意売却を選択しなくてもよい状況でした。保証会社による代位弁済がなされておらず、交渉によっては家を失わずに暮らしていくことが十分に可能だったのです。

ところが竹屋さんの希望は任意売却をしたいというものでした。ローンを支払えなくなったのを機に、住まいを売却して気持ちの面でも区切りをつけたいという思いが強かったのです。

任意売却の目的はあくまで生活再建

私が任意売却を手がけるのは債務の圧縮が目的ではありません。あくまで依頼主の生活再建が真の目的であり、債務の圧縮はその過程に過ぎないのです。竹屋さんの場合には任意売却で家を失う必要はありませんでした。竹屋さんの住まいには建坪率が現在の建築基準法に抵触するという問題があったため、売却してもかなりの安値になってしまい大きな債務が残るので、経済的には不利益の大きい選択だったのです。にもかかわらず竹屋さんが任意売却を希望したのは、生活を立て直すために必要と判断したためでした。

家族で暮らしていた一戸建て住宅に1人で住む竹屋さんの気持ちは後悔と未練にとらわれており、将来を前向きに考えることができなくなっていました。特に娘に対する思いが強く、長女が使っていた二階の部屋は母と娘が出て行ったその日のまま、まったく手つかずの状態でした。掃除もせず、娘が遊びかけていたままオモチャが放置されていたのです。「辛すぎて、二階に上がれないんです」。竹屋さんはそう語りました。

家のあちこちに娘との思い出が残っており、それを消すのが寂しいので、掃除することもできないとのことでした。竹屋さんにとって任意売却は経済的に立ち直るのと同時に、気持ちの面でも踏ん切りをつけ、その後の人生を前向きに生きるために必要なことだったのです。

物件を売りに出してみたところ、1580万円で買い手がつきました。相場価格は1800万円程度だったので、建坪率に違反がある分、差し引かれましたが、妥当な額として金融機関からも承諾を得ることができました。

売却後は次のステップとして、裁判所に自己破産を申請しました。任意売却により返済しきれなかった住宅ローンの残債とクレジットカードの債務について、自己破産することで返済を免除してもらうことができました。

意図したとおり、経済面の問題と気持ちの問題をクリアして、竹屋さんは新たなスタートを切ることができたのです。

生活再建に役立つ「生活準備金」とは?

住み慣れた家を離れて新たに生活を始めるためには、一定の資金が必要です。アパートやマンションを借りるためには敷金・礼金などが要りますし、家財道具を運ぶ引っ越し費用、カーテンなど最低限の生活用品をそろえるためのお金も必要です。

任意売却ではそういった債務者が必要とするお金を「生活準備金」という名目で購入者に用意してもらうことが可能です。交渉次第ですが、売却代金に含めて別途現金で購入者から受け取ることもできなくはありません。ただ、このお金はあくまでも生活費として受け取るものです。

金額は一般に50万〜100万円程度です。預貯金などが債務の返済に充てられる中、手元に現金が入ることには大きな意味があります。任意売却完了後、自己破産する場合もこのお金は徴収されません。生活を再建する資金として使うことが可能です。

生活準備金の有無は、住宅ローン破綻を乗り越えて再度、健全な暮らしを営むことができるかどうかの分かれ目といえます。

借金の額が不明なときは個人信用情報の開示を求める

竹屋さんのように負債がかさみ、あちこちから借金を重ねると、債務者自身も自分がいくら借り、いくら返したのかわからなくなってきます。

任意売却を含め、債務整理では、まず初めに負債額の特定が必要です。自身の負債がわからないときには、個人信用情報を管理している機関に開示を求めることで、把握できます。

本人であればインターネットで確認することもできるので、カードローンなどを複数利用している人は債務を整理するための第一段階として自身の負債を確認してください。私のような任意整理の専門家や弁護士、司法書士などの場合は、委任された代理人という立場で郵送、もしくは窓口を利用して依頼者の負債を確認することができます。

銀行などの金融機関や消費者金融、カードローンなどの利用情報は個人信用情報として網羅されています。ただし個人や闇金業者からの借金については個人信用情報に記載されていないため、注意が必要です。
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/615.html#c233

[リバイバル3] ウェスタンエレクトリック伝説 中川隆
114. 中川隆[-11597] koaQ7Jey 2019年3月09日 07:36:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[395]

ウエスタンエレクトリック13Aレプリカ&WE555導入記 その1.
>
https://91683924.at.webry.info/201709/article_3.html



 9月11日の月曜日に我がベンプレ亭書斎にウエスタンエレクトリック社の大型劇場用ホーン、13Aのレプリカ一本が搬入されることになりました。

 大型機材が入るときは、セッティングと粗方の調整が済んでからブログに掲載するのですが、楽しみで堪らないため、今日から2〜3話ずつ書いていきます。

 なお、今回のシリーズの写真の多くは、レプリカを作っていただいた大阪府高槻市の笹本さんのフェイスブック
WA13A studio https://www.facebook.com/bass.sasamotoからご本人の承諾を戴いて転載しています。

 私は写真の腕が無いし、手元に現物が来るのは1週間ほど後なので・・・

 今年(2017年)5月にヨーロッパのオーディオマニア40名が来日し、日本のマニア15名を加え総勢55名で福岡のウエスタンエレクトリック・マニア軍団のシステムを中心にオーディオをやるというイベント、Japan Triode Meeting Fukuoka(JTMF)があったことをブログで紹介しました。

 私はその半年ほど前から福岡・大分のウエスタンマニアの方々の知己を得ており、そのイベントに2日間参加させていただきました。

 多くのシステムを聴かせてもらいましたが、その中にはWE555レシーバー(通常の呼称はドライバーですが、この稿ではウエスタン流にレシーバーとします)を装着したWE13A、WE15A(ホーン名は17Aで555を一本装着すると15Aと呼称するそうです)、WE16A、WE22Aの大型ホーンのシステム群がありました。

13A、16Aがフォールデッド型、15A、22Aがカール(カーブド)型。13Aのみレプリカでモノラル、他は全てオリジナル、ステレオで鳴らされていました。

 どのホーンもそれぞれに良く鳴っていましたが、特に私の印象に残ったのが13Aでした。

 15A、16A、22Aはバッフルにショートホーンこそ付いていたものの、全てTA4181などのダイレクトラジエター型ウーハーを加えていたのに対し、13Aはウーハーでの補強はせず、最低域までWE555+13Aで受け持たせていました。

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 (写真は福岡で聴くことができたWE555+13Aです。よく見ると後方と左右は障子一枚なんですが、見事な低域が鳴っていました。この置き方をジンベイザメ型と名前を付けましょうw)

 WE555+13Aの音は素晴らしいスピード感、切れ味に加え、深々とした広がりも感じられ、驚く程スケール豊かな低音でした。

 聴いたことのない方は信じられないでしょうが(私も聴くまでは信じていませんでした)、ウエスタンエレクトリックはキャッチコピー通り、本当にワイドレンジだったんですねw。
https://91683924.at.webry.info/201709/article_3.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/208.html#c114

[リバイバル3] ウェスタンエレクトリック伝説 中川隆
116. 中川隆[-11596] koaQ7Jey 2019年3月09日 07:40:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[397]

ウエスタンエレクトリック13Aレプリカ&WE555導入記 その3.
>
https://91683924.at.webry.info/201709/article_5.html


画像

 (ネットにあったWE13Aの図面です)

 その後ブログを通じて大阪のAさんと知り合いになり、Aさんを通じて、WE15Aを使っておられる京都のBさんとも相互訪問をしました。

 Bさん宅で、福岡で聞いた13Aレプリカの音がとても良かった話をしますと「その人知ってます。大阪の笹本さんです。来週末に笹本さんの工房に遊びに行くんです」と。

 うーむ縁は異なもの、私も笹本さんのお宅に、別な日にお邪魔させていただける事になりました。

 さて私はウエスタンはウエスタンでもロンドン・ウエスタンを使っていて、アメリカのウエスタンエレクトリックには詳しくありません。昔本で読んだ知識や、最近ネットで見た知識に想像や妄想を加えて中途半端な文章を書いてみます。
 マニアの諸先輩には既知の事項ばかりでしょうが、私はウエスタン初心者なので、自分の知識の整理のためにグダグダ書きますよーw

 日本でウエスタンエレクトリックといえば、なんといっても故・池田圭先生でしょう。「音の夕映」、「盤塵集」に書かれておられますように、先生は日本で最初にウエスタンの機材、WE15Aホーンをオーディオ用として家庭に持ち込まれた方でした。

 現在ではウエスタン専門店が複数存在するなど、ウエスタンエレクトリックのトーキー用機材はオーディオ用途として高い評価を受けるようになり、国内でレプリカを作るメーカーも多数現れましたが、全ては池田先生の15Aから始まりました。

 WE15Aは曲げやすいように繊維の方向を一方向に揃える特殊な貼り方をしたシナベニア合板を湾曲させて作ったカールホーンでしたが、ウエスタンには合板でない無垢材の組み木大型ホーンが存在しました。15A以前、1927年、初のフル・トーキー映画「ジャズ・シンガー」が封切られた年に発表されたWE12A、WE13Aです。

 WE12Aは15Aと同型の渦巻き型のカールホーンです。開口部サイズはW45インチ、H45インチ、ホーンの奥行は47インチで、15Aホーンの開口部W56・3/8インチ、H57インチ、奥行53・1/8インチと比較するとサイズはやや小さくなります。

 これに対しWE13Aは渦巻き型ではなく折り返し型のフォールデッドホーンで、サイズは開口部W62インチ、H42・1/2インチ、奥行56インチとウエスタンエレクトリック歴代最大のホーンで、そのカットオフ値も57Hzと12Aの67Hzより10Hz低くなっています。

 12Aの音道の長さ3.35mに対して13Aは4.27mもあるそうです。

※笹本さんの工房にお邪魔し、現物のホーンに巻尺を当てて計測していただいたところ、13Aのホーン長はさらに長く、鉄製のスロートを含めると4.85mでした。

 気柱共鳴管の場合、ドライバーが最低域まで鳴らせるのなら、音道4mでは21Hzが出せますから、13Aで57Hzが出ても不思議はありません。

 三上先生のHP内の新先生の記事の引用によると、13Aの低域は50Hzまで伸びている様です。

 なんとなく大型振動板でなければ低音は出ないような気がしますが、小型の振動板で低音が出にくいのは、振動板に押された空気が横に逃げてしまうためだそうで、そこを大型ホーンでがっちり逃がさなければ振動板が小さくても低音は出るらしいです。

P.S.1.
 ベンプレ親父が15Aホーンですこし不思議に思っていることがあります。映画館のスピーカーはサウンドホールの開いたサウンドスクリーンの裏側に設置されていました。

 スクリーンは定期的にスクリーン塗料が吹きつけられていましたので、劇場で使用されていたアルテックやロンドン・ウエスタンのスピーカーにはスクリーンのサウンドホールを通して漏れてきたスクリーン塗料の白い斑点が、吹雪のように着いている物が散見されます。

 しかし15Aホーンでスクリーン塗料の白い斑点がついているものは見たことがありません。15Aはアルテックやロンドン・ウエスタンと一時期並行して使われていたはずですが、なぜ15Aには塗料の斑点が無いのでしょうか。

 「アルテックA4やロンドン・ウエスタン2080A、2090Aは粗末にされていたが、15Aは大切にされており、塗料吹付時には養生されていた」などという文書も見たことがありませんし、どちらも業務用ですから、取り扱いが変わるとは思えないのですが。

 むしろウーハー(515、2080A)の振動板が露出しているA4やロンドン・ウエスタンこそ養生すると思うのです。

 15Aは映画館からお暇を出されたあと、どれも全て再塗装されていたのでしょうか。

 A4やA5の箱は、塗料の白斑点のある方が「映画館で使用されていた証拠だ」と価値が高いとされています。それなら15Aも同じでは。

 ビンテージショップならいざ知らず、好事家が(池田邸スタジオの15Aの様に)映画館から直接手に入れたものなら普通は再塗装はされないでしょう。

 どうして15Aにはスクリーン塗料の斑点がないのか、ご存知の方は、コメント欄にお知らせくださいますと嬉しいです。
https://91683924.at.webry.info/201709/article_5.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/208.html#c116

[リバイバル3] ウェスタンエレクトリック伝説 中川隆
117. 中川隆[-11595] koaQ7Jey 2019年3月09日 07:41:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[398]

ウエスタンエレクトリック13Aレプリカ&WE555導入記 その4.
>
https://91683924.at.webry.info/201709/article_6.html


 12A、13Aを比較しますと、12Aは抜けが良く繊細で高域寄り、13Aは図太く低域寄りの音らしいです。たしかに仕様をみても納得できますね。

 福岡のJTMFで聴かせていただいた15Aはフルレンジ再生ではなく、下にTA4181を入れていたので何とも言えませんが、その時聴いた感じでは、ホーンのカットオフ周波数、音道長が13Aと同じと言われる15Aも、13Aより音抜け重視ではないかと思います。私の耳には13Aの方がドスが効いていたように聴こえました。

 この辺の音の違いはホーンの形状の差かもしれません。

 13Aはフォールデッド型、12A、15Aはカール型で、音道の折れ曲がり角度の合計を推測すると、12A、15Aは450°ですが、13Aは540°だと思います。ですから13Aは高域の減衰がほかのホーンより多いのではないでしょうか。

 また、ホーン開口部の形状も13Aはやや扁平、12A、15Aはほぼ正方形です。これも音質に関係するのでは。

画像

 上の図のように12Aと13Aは映画館で同時に使用されていたそうです。当時はサウンドスクリーンがなかったため、スクリーンの下に置いた13Aのホーン開口部を上に向け、スクリーンの上に置いた12Aを下に向けて聴衆に聴かせていたとか。

 (※図ではTransvox screenと書いてありますが、これはサウンドスクリーンのことでは?voxはvoiceの古語のはず)
 
 オペラのオーケストラピットのように掘り下げた一段低いところに13Aを上向きに設置し、上段の12Aはやや下方に向け配置している図表もあり、これで13Aは二階席、12Aは一階席の聴衆に音を届けていたという情報もありました。

 いやそうではなく、13Aは12Aより大型で音道も長いため、メカニカルに13Aに低域を、12Aに中高域を持たせていたとの見方もありました。

 13Aに関して、三上先生は新先生の記事を以下のように引用されておられます。
『最低周波数は50Hzで12Aと同時に鳴らすと図太い音(ベンプレ親父の註:13A)と繊細な音(同:12A)の混ざり合いになり聴きづらくなります。

 オーディオに詳しい方が資料を基に12-A:upper positionと13-A:lower positionの記載をもって高音用、低音用の目的でないとの指摘をされています。しかし実際に使ってみると当時ウェスターン・エレクトリックがVictorに製造を依頼した目的は高音用12-Aは天井近くに客席に直接音が届くよう、低音用13-Aは舞台スクリーン裏か舞台下のオーケストラボックスに天井に向けて高音成分が観客に届かないようにセッティングされたものと解釈しています。』

 12Aと13Aはペアで使うのが前提で、片方だけで使用する劇場はなかった様です。しかし、近づけて同時に鳴らすと干渉するのか、これまた上手くないらしいです。どうやら13Aはウーハー的に使われていたと思われます。

 私は13A単独の音しか聞いたことがないのですが、これにツィーターをプラスすると十二分にワイドレンジサウンドであることを福岡で確認していますので、13A単独でやってみます。
https://91683924.at.webry.info/201709/article_6.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/208.html#c117

[リバイバル3] ウェスタンエレクトリック伝説 中川隆
118. 中川隆[-11594] koaQ7Jey 2019年3月09日 07:44:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[399]

ウエスタンエレクトリック13Aレプリカ&WE555導入記 その5.
2017/09/06
https://91683924.at.webry.info/201709/article_7.html



画像

 (WE13Aのプレートのレプリカです。刻印の文字が微妙に傾いていたり、プレートの一部が擦れて塗料が取れているようにしたり、芸が細かいですねw)

 1927年、WE555レシーバー(1926年開発)を相棒として12A、13Aは世に出ましたが、そのわずか1年後、1928年には15Aが発表されました。しかしベンプレ親父には、少なくとも13Aは音に問題があったようには思いません(12Aは聴いたことがないので・・・)。

 では何故15Aがこれほど急いで開発されたのか。

 12A、13Aは無垢材で作られていましたので、製造原価も制作費も高く、納期も長かったためだと思います。さらに12Aが81.5kg、13Aに至っては113.3kgと重量が極めて重いホーンだった事も理由の一つでしょう。

 12A、13Aはペアで使うのがデフォですから、これでは大変高価で大掛かりなシステムになったに違いありません。例え音に不満がなくても、トーキー普及のためには12A、13Aを使い続けるわけには行かなかったのだと思います。

 さて、トーキー映画は当初、普及するか否か大手の映画会社は懐疑的だったそうで、ウエスタンエレクトリックは自分たちが作ったトーキーシステムを売り込むのに苦労したそうです。

 映画は当時最大の娯楽産業であり、無声映画でも映画会社は大きな利益を出していました。ですから映画会社の財務は良好だったはずですが、トーキーとなると莫大な設備投資を要します。

 利益が充分上がっている映画会社は、そんな冒険を犯す必要がなかったのです。一社を除いては。

 その一社とはワーナー・ブラザーズ。実は大手の中ではワーナーだけが経営不振、倒産の危機を回避せんと乾坤一擲トーキーに打って出たそうです。

 第一回のトーキー映画は1927年封切り、舞台の人気俳優アル・ジョンソンが主演する「ジャズ・シンガー」。

 この映画は大当たりし、ワーナーの危機を救うとともに、トーキーは燎原の火のごとく全米に、そして世界に広まりました。

 トーキー装置の需要がウエスタンエレクトリックの予想を上回るほど活発であった為に、シナベニア合板製で量産が効き、軽量(63.4kg)のため輸送も容易、かつホーンのカットオフ周波数57Hz、音道長4.27mにて13Aに近い低音再生が期待でき、なによりも一本の555と一本のホーンだけでフルレンジが再生可能な15Aを、ウエスタンは急遽開発したのではないでしょうか。

 また、12A、13Aは制作の難しい無垢材組木のため、蓄音機のビクトローラ・クレデンザを制作していたVictorに作らせていたようです(そういえば13Aの形はクレデンザの内蔵ホーンと似ていますね)。

 これも量産の足かせとなり、コストダウンと納期に融通が利くように、自社工場で製作できる合板製の15Aに移行を急いだのでしょう。

 さらに、映画産業が隆盛となり劇場のサイズが巨大化し、大音量が求められるようになったとの事で、555も徐々に大音量タイプ(リード線斜め引き出しから横引き出しへ、バックプレートもメッシュからブラスプレートへ)に変更され、15Aのスロートも555が2本、3本、4本付けられるタイプが開発されたようです。

 12A、13Aは555一本タイプのスロートしか製造されませんでしたので、ウエスタンエレクトリック社は映画館のオーナー達に12A、13Aから15A(ホーンの名称は17A)への変更を勧めていたのではないかと想像します。

 最初のトーキー映画、「ジャズ・シンガー」の冒頭のアル・ジョンソンのセリフは、

 “Wait a minute! Wait a minute!
 You ain`t hear nothing`yet ,
 Wait a minute,I tell ya,
 You ain`t hear nothing!”

 「お楽しみはこれからだ」

 この瞬間、555WとWE12A、13Aホーンから「お楽しみ」は始まりました。
https://91683924.at.webry.info/201709/article_7.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/208.html#c118

[リバイバル3] ウェスタンエレクトリック伝説 中川隆
119. 中川隆[-11593] koaQ7Jey 2019年3月09日 07:45:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[400]

ウエスタンエレクトリック13Aレプリカ&WE555導入記 その6.
2017/09/06
https://91683924.at.webry.info/201709/article_8.html


画像

 (WE13A、美しいホーンですね。まるで美術品のようです)

 ゼネラルエレクトリック社のライス&ケロッグがダイレクトラジエター型ダナミックスピーカー(一般的なコーン型スピーカー)の特許を取得した1925年から11年後、15Aが発表された8年後の1936年にダイレクトラジエター型TA4181ウーハーとWE594レシーバーが開発され、ミラフォニック・サウンドシステムが発表されました。
 従って555レシーバーが生産されたのは1927年〜35年のわずか8年、15Aは1928年〜35年のわずか7年で生産完了となったのでしょう。

 さて、トーキー映画を主流に据えた映画産業の勢いは留まるところを知らず、トーキー発表後わずか2年、1929年にウエスタンは日本に進出しています。

 伊藤喜多男先生の書かれた「続・音響道中膝栗毛」の中の日本に導入されたウエスタン・トーキーシステムの時代別変遷表を見ますと、日本にWE555のシステムが導入された期間は1929~1935年のわずか6年間になっていました。ウエスタンのシステムは原則、全てリースなので1936年には555は全て引き上げられ、WE594のシステムに置き換えられたのでしょうか。

 続・音響道中や、やはり伊藤先生の著された「もみくちゃ人生」を読むとそうではなく、WE555、15Aはそのままリースされ、劇場で使用されていた様です。

 ウエスタンエレクトリックが独禁法で分社化されて音響部門がアルテック・ランシングに引き継がれたあとも、1970年頃までアルテック・ブランドの555振動板が補修部品として生産されていました。従って555+15Aのシステムはその時期までは一部の劇場で使用されていたものと思われます。

 凄いですね。555の映画館での使用期間は40年にも及びますよ。

 日本でNEC(Nippon Electric Co.)が555-Mを製造し、イギリスでロンドン・ウエスタン30150Bが作られていたように、インドでも555は生産されていたそうですから、最後の555はインドか東南アジアの劇場に備えられていたトーキーシステムで使用されていたのでは。

 続・音響道中には1957年の時点で、ウエスタンのトーキーシステムを使用していた国内映画館の一覧表もありますが、北は盛岡、南は別府まで108の小屋でウエスタンは使用されていました。1957年当時、108館のうち30館がシネマスコープ、前方3チャンネル+サラウンド1チャンネルの音響機械に変更されていました。

 WE555、15Aホーンはシネマスコープ導入時にお役御免となり、高域はWE713-BやALTEC802、低域はWE754-AやALTEC803、805エンクロージャー(ウエスタン流ではバッフル)で組まれた前方3チャンネルに置き換えられる事になりました。

P.S.
 ベンプレ親父はコーン型スピーカーを見慣れているせいか、コーン型スピーカーが発明されたのが先で、ドライバー型スピーカーが後のように漠然と思っていました。ドライバー型が先で、コーン型が後だったんですね。

 そうか、旧い電話機のスピーカーはドライバー型でしたね。ドライバー(レシーバー)のことをウエスタンが別名ラウド・スピーキング・テレフォンと称していたのはそういう歴史からだったのか。
https://91683924.at.webry.info/201709/article_8.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/208.html#c119

[リバイバル3] ウェスタンエレクトリック伝説 中川隆
120. 中川隆[-11592] koaQ7Jey 2019年3月09日 07:46:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[401]

ウエスタンエレクトリック13Aレプリカ&WE555導入記 その7.
2017/09/07
https://91683924.at.webry.info/201709/article_9.html



画像

 (ベンプレ亭書斎搬入目前のWE13Aです。これから最終塗装を経てお輿入れです。それにしても貫禄充分、まるで生物のような有機的な造形ですね)

 シネマスコープの30館を除いた残りの78館、モノラルのシステムを使っていた小屋の相当数は555+15Aだったのではないかと思います。

 WE594、TA4181のシステムは戦前の1936~1937の二年間しか日本に輸入されていませんでしたし、続・音響道中で、伊藤先生はWE594にはほとんど触ったことがないと書いておられるので、モノラル再生の78館の中にミロフォニックシステムは無かったか、あっても僅かであったと思います。

 ただロンドン・ウエスタンの2080A、2090Aは一定数あった様です。伊藤先生はロンドン・ウエスタンが戦後、関西地区と中部地区に設置されたこと、「これらは相当な銘機であって、殊に2080及2090型のステージスピーカーは抜群なものであった」と続・音響道中に書き残しておられます。

 先の1957年版ウエスタンエレクトリック・トーキーシステム使用映画館一覧によれば、同年日本で初めて公開されたシネマスコープの普及は東京地区が優勢で、中部、関西地区はモノラル再生がまだまだ主流だったようです。

 「もみくちゃ人生」にも記載がありますが、やはり戦前、羽振りのよい東京からウエスタンは導入されていき、戦前のシステムはWE555A+15A。

 戦後ようやくウエスタンを入れられるようになった中部、関西の地方都市は1954~1959年の間に導入され、価格がやや安かったロンドン・ウエスタンになったものと思われます。

 日本にウエスタンが再登場した1949年から1956年までは先の「高域WE713-BかALTEC802、低域WE754-AかALTEC803」が導入されましたが(1954~1956はロンドン・ウエスタンと併売)、東京の一流館は既に1929〜1935年にWE555+15Aの導入が済んでいたので、シネスコまでこれらに置き換えなかったものと想像します。

 555の生産本数(7万本?9万本?)から考えても、594を使用したミロフォニックシステムが発表されたあとも、シネマスコープが広まり始めたあとも、555、15Aはかなり長いあいだ現役で使用されていたと思われます。

P.S.1.
 日本で最初の立体音響映画は1957年4月29日、昭和天皇の誕生日に封切られた、新東宝の「明治天皇と日露大戦争」だそうです。新東宝といえば、われわれの世代では日活ロマンポルノと併映される低予算のピンク映画ですが、こんな良い時期もあったんですなぁ。


P.S.2.
 WE754-AはWE755によく似た20cmのウーハーです。これで客席まで十分な音量で音が飛ぶのでしょうか。1949年には既にALTEC803は発表されていますから、754-Aは小さな映画館専用だったのでは。
https://91683924.at.webry.info/201709/article_9.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/208.html#c120

[リバイバル3] ウェスタンエレクトリック伝説 中川隆
121. 中川隆[-11591] koaQ7Jey 2019年3月09日 07:48:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[402]

ウエスタンエレクトリック13Aレプリカ&WE555導入記 その8.
2017/09/07
https://91683924.at.webry.info/201709/article_10.html



画像

 (フォールデッドホーンの形状がよくわかる写真です。悪魔が尾を巻いて休んでいるように見えませんか。ウエスタンのホーンにはどこかデモーニッシュな雰囲気がありますよね) 

 続・音響道中を見ますと、WE594のシステムが日本に導入されたのは1936〜1937年のわずか二年間。再度ウエスタンが進出して来たのは1949年ですが、この時には既に594の時代は終わっていました。

 ウエスタンの業務が途絶えていたのは戦争のためでしょうが、日本に594があまり残っていないのは、この中断期間が594の全盛期であったからだと思います。

 ちょっと気になるのはウエスタンエレクトリックが日本から撤退した1937年から再度進出した1949年までの12年の空白期間です。

 各地の一流館でWE555+15Aは「肉弾三勇士」や「加藤隼戦闘隊」のような戦時映画の音声を勇ましく鳴らしていたはずですが、メンテナンスには苦労したのでは。

 ウエスタン日本支社の技師はリストラされたものの、戦争に招集された方(無線通信兵とか需要がありそうです)以外は地域に居たでしょうが、補修パーツは手に入らないでしょう。それにマニュアルは手元にあったのでしょうか。

 こっそり写しを撮っていたのかな?私はウエスタンはマニュアルをリストラした技師達に託したのではないかと想像します。補修パーツも少しは置いて帰ったのかも。

 戦争が終わったあとは、再度日本で商売をしようと考えていたかもしれませんし、現場の人間には、自分たちがリースした機材が少しでも生き延びることを望む気持ちがあっても不思議ではないでしょう。

 メンテを止めた後に戦争相手の国からレンタルフィを取れるはずがありませんが、東洋ウエスタンが引き上げる時に映画館にシステムを買い取らせたとの話も聞きません。このあたりの感覚はアメリカ人は妙に鷹揚というか大局観がありますよ。

 日本人ならこんな時はマニュアルを全部焼却、機材も引き上げられない物は、全て壊して使えなくしたと思います。

 どうしてそう思うかといいますと、昔、父からこんな話を聞いたからです。

 亡くなった私の父は京城大学(現・ソウル大学)医学部二年生の時に終戦となり、命からがら日本に帰国し、岡山医専に編入したのですが、京城大の病理実習室にあった数十台のツァイスの顕微鏡を全て壊してから帰国したそうです。

 当時の日本人の感覚ではこれが普通だったのでしょうが、子供の頃に父からこの話を聞いたベンプレ少年はビックリしましたよ。

 父は子供には少々話を盛る人でしたので、実際に自分が手を下してはいないと思うのですが、ツァイス全損は事実のようでした。

 推測ですが、ウエスタンは1937年〜49年の間、自社のトーキーシステムをメンテしない代わりにフィは取らず、かといって機材を引き上げも壊しもせずに、米国に帰ってしまったのではないでしょうか。

 そして49年に日本に再度進出し、まだウエスタンのミシン(マシーンの事だねw)を使っていた小屋から再度フィをとり、リースとメンテを再開したのだと思います。

 戦前にリースが始まった555、15Aが戦後も再度ウエスタンのリースになったからこそ、池田圭先生を始め先人は入手に苦労されたのでしょう。

P.S.
 さて夢想ですが、ウエスタンと契約している映画館を3館経営している興行主がいて、シネマスコープへのシステム交換時期に3台のWE555+15Aを一つの小屋にまとめてシネスコの音響設備を組んでたら、どんな音だったんでしょうか。一度聴いてみたかったですね。

 ベンプレ親父が興行主だったらやってたけどなぁ。

 音への興味だけじゃなく、こうすれば新規で3セットレンタルしなきゃならないシネスコ用スピーカーが、2セットで済むじゃないですか。自分は仕事では経費管理にうるさいからねw

 つまるところ555+15Aは映画館では最後までモノラル再生だったわけで、日本で(世界で?)一番最初に555+15Aでステレオを再生したのは池田圭先生だったのかもしれませんね。
https://91683924.at.webry.info/201709/article_10.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/208.html#c121

[リバイバル3] ウェスタンエレクトリック伝説 中川隆
122. 中川隆[-11590] koaQ7Jey 2019年3月09日 07:49:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[403]

ウエスタンエレクトリック13Aレプリカ&WE555導入記 その9.
2017/09/07
https://91683924.at.webry.info/201709/article_11.html



画像

 (WE13Aをチューバ型に設置した様子です。これはこれでメカメカしくてカッコイイですね。天まで届けとばかりに大音声を発していますぞ)

 ベンプレ親父が疑問に思っていることをもう少し書きましょう。
 555の生産本数は7万本なのか9万本なのか。

 新先生の記事では1927年からイリノイ州のホーソン工場で生産されていた、チーフエンジニアのWente氏のWが末尾につく555Wはシリアルナンバーが25,000番辺りまで。ノースカロライナ州のバーリントン工場に生産拠点を移してからの555は末尾にWがなくナンバーは67,000番辺りまでだそうです。

 なお、1930年代初めには555は生産完了となったと記載されていましたが、1936年に594が発表されていますから、生産完了は1935年では。

 555Wと555が通し番号なら生産本数は7万本足らずでしょう。
 6.7万本と言わないのは、多くはありませんがに番号が無いものがあるからです。

 なんでもウエスタンと正式契約せずに555W、555を使用していた小屋があったそうで、そこの555にはシリアルナンバーのプレートが付いていないそうです。

 ナンバープレートを剥ぎ取ってあるとの事ですが、リースしか受け付けないウエスタンと契約しないで555を使う小屋があるのなら、555をヤミで流すルートがあったかもしれませんよね。補修部品を集めて組んじゃうとか。

 だって、当時は禁酒法、アル・カポネの時代ですからね。何でもアリでしょうw

 バーリントン工場生産の555が再度1番から番号を振っていたのなら555の生産本数は2.5万+6.7万=9.2万本+αになりますが、同じ番号の555が二つあると管理が厄介なのでは。ホーソン製は555W、バーリントン製は555で区別がつくから良いのかな?

 でもやっぱり通し番号にするのが普通でしょうし、若い番号の555には全てWが付いているように思うのですが。

 だから555の生産本数は7万本が正解じゃないかと私は推測します。9万本ならヤミで製作された555が2万本もある?それは無いでしょう。

 なお、日本に入っていたとされる1万本の555は555Wが3割、555が7割と言われています。このあたりはウエスタンの機材は公式にはリースのみでしたので数が掴みやすいのでしょうね。
https://91683924.at.webry.info/201709/article_11.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/208.html#c122

[リバイバル3] ウェスタンエレクトリック伝説 中川隆
123. 中川隆[-11589] koaQ7Jey 2019年3月09日 07:50:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[404]

ウエスタンエレクトリック13Aレプリカ&WE555導入記 その10.
2017/09/07
https://91683924.at.webry.info/201709/article_12.html



画像

 (電源コードも見えますので、実演中と思われる13Aレプリカです)

 実はベンプレ親父のホントの疑問はここからです。日本国内に入ってきた555が1万本は本当かなと。

 日本のウエスタンエレクトリック使用館のうち、戦後、シネマスコープ導入以前の時期にWE555+15Aを使用していた館は100館足らずだったのでは。なぜなら、1957時点のウエスタン使用館は108館で、関西・中部地区は555の生産がとっくに終了した戦後になって、ようやくウエスタンを導入した小屋が多かったようですから。

 では戦前にWE555を使用していた映画館はどの程度あったのでしょうか。

 多くの映画館が戦災で焼失したようですが、それでも焼失した小屋はウエスタン使用館ばかりではなかったでしょう(余談ですが、五味康祐先生のご実家は興行師で、そこの映画館はウエスタン。先生が復員されたときウエスタンは小屋もろとも戦火で灰塵に帰していたそうです)。

 100歩譲って、戦災で消失したWE555使用館が日本に100館あったとしても、焼け残った555使用館と合計で、200館あれば良い方では。

 「戦前のウエスタン使用館は200館」は以下の@、A、Bから推論しました。

 @日本にウエスタンが進出していたのは1929~37年、1949~59年の合計18年。

 A1957年の映画館数は7000館弱で、同年のウエスタン使用館は108館。

 B戦前、ウエスタンが日本から引き上げた1937年の日本のトーキー映画館数は1701館(無声映画の小屋も49館、まだ存在 ! )。


 1937年時はトーキーシステムを供給できる音響設備の会社が戦後ほどは無かったと思いますが、1957年の状況(7000館中108館がウエスタン)から推測すると、1937年の1701の映画館のうち、リース料の高いウエスタン使用館は200館もあれば良い方ではないでしょうか。

 戦前、ウエスタンエレクトリックのトーキーシステムを使用していた小屋は、それを誇らしげに小屋の前に掲示してあったと聞きますよ。

 以上より1929年~37年に555使用館が200館あって1949~59年に555使用館が100館あったとします。日本に本当に1万本の555が入っていたとして、その数の555を国内の映画館で消費するには、

 10000本÷(200館×8年+100館×10年)=3.85本、つまり三ヶ月に一回555を交換しなくてはなりません。

 戦後555を使用していた100館が1970年まで555を使用していたと大甘に見積もっても、

 10000本÷(200館×8年+100館×21年)=2.63本、半年に一回以上555を交換です。

 ダイヤフラムは必要に応じて交換されていたようですが、555レシーバーを二つ使用する15Bスロートが日本で多く使われていたとも聞いていませんから、レシーバーを盆暮れに交換しても、1万本なんて要りませんぞ。
https://91683924.at.webry.info/201709/article_12.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/208.html#c123

[リバイバル3] ウェスタンエレクトリック伝説 中川隆
124. 中川隆[-11588] koaQ7Jey 2019年3月09日 07:51:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[405]

ウエスタンエレクトリック13Aレプリカ&WE555導入記 その11.
作成日時 : 2017/09/07
https://91683924.at.webry.info/201709/article_13.html



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 今回はすこしブレイクを入れましょう。

 この写真はベンプレ親父が先日手に入れた1935年のチラシです。京都座という映画館が、新たにウエスタンエレクトリックの音響システムを導入する事を、イラストの様に鳴り物入りで喧伝しています。
 
 読んでみますと、ウエスタンエレクトリックの優秀性を口を極めて誉めたたえています。1935年といえばウエスタンが一時撤退する1937年の2年前ですが、この時期であっても国内のトーキーシステムの中でウエスタンは希少なものと伺えます。
 このチラシも戦前のウエスタンエレクトリック使用館が200館もなかったと私が思う理由の一つです。

 うーむ、それにしても音響装置をウエスタンに入れ替えることを宣伝するだけのチラシですか。熱気がありますなあ、当時の映画館は。

 いまでもマニアの間では「何処其処の何某映画館は音が良いね」なんて話が出ないこともないですし、HIVIのようなAV雑誌で映画館の音響設備が取り上げられることも無きにしも非ずですが、音響設備変更のチラシが撒かれた話はついぞ聞いたことがありません。
 
 それにしても・・・82年前にそんなチラシが撒かれていて、そのチラシが映画ポスター屋さんに残っていて、なおかつ今は私の手元にあるとは、なんという僥倖でしょう。

P.S.
 京都座はかつて新京極にあった映画館だそうです。ネット上では1936年時の京都座の写真とともに以下のように解説されています。

 『京都座は中京区新京極三条下ルにあった松竹直営の封切館。上映作品は『入婿合戦』(野村浩将監督、1936年)、『踊る名君』(井上金太郎監督、1936年)。『踊る明君』に出演した高田浩吉実演の案内も見える。京都座は1900年に弁天座として開場、演劇や映画などを上演していたが、1933年12月末に松竹キネマの封切館となった。第ニ次大戦後は東映などの封切館となり、その後名称も京都ロキシーと改めたが1999年に閉館。現在はその場所にはシネコン「MOVIX京都北館」がある。』

 京都座は戦後も長く営業されていたようですが、続・音響道中の1957年時のウエスタン使用館の中には残念ながら出てきません。京都は空襲をほとんど受けていませんので、シネマスコープ導入時に価格の安い他社製品に乗り換えられたのかもしれませんね。
https://91683924.at.webry.info/201709/article_13.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/208.html#c124

[リバイバル3] ウェスタンエレクトリック伝説 中川隆
125. 中川隆[-11587] koaQ7Jey 2019年3月09日 07:53:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[406]

ウエスタンエレクトリック13Aレプリカ&WE555導入記 その12.
2017/09/07
https://91683924.at.webry.info/201709/article_14.html


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 先日入手したWE555ペアです。製造番号は左がNo.45168、右がNo.45757と近く、生産時期は同じ頃のようですが、外観の痛みは異なります。モノラルで別々の映画館で使用されていたのですから、当然ですね。
 
 ウエスタンエレクトリック13Aレプリカ&WE555導入記 その10.の続きになります。

 上の現物写真を見ると、これが3ヶ月しか劇場で使用されておらず、あとは倉庫に仕舞われていたか、マニアのオーディオルームで大事に使われていたとは思えないです。

 しかし、もう一回100歩譲って、三ヶ月毎に555が取り替えられていたとしましょう。

 振動板こそ1970年頃までアルテックが生産を引き継いでいた様ですが、555の生産は1935年に完了したはず。  そうなると1949~59年はアメリカの倉庫にあったデッドストック品の555を何千本も輸入してきたことになります。

 いかにウエスタンエレクトリックといえども、それほどの在庫を日本のために抱えているのは不自然では。

 もしウエスタンが555の在庫を大量に持っていたなら、555が使われなくなった頃に相当数の新古品が出回っていたでしょう。しかし流通している555は、戦後に海外からショップや好事家が買い付けたものを含めて、どれも映画館で使われていた中古品ばかりのように思います。

 さらに付け加えれば、東洋ウエスタンエレクトリックのメンテがなかった1937年〜1949年の12年間を555は生き延びました。さらにメンテナンスの終了した1959年から1970年ごろまで、555は10年前後も劇場で使用されていました。その後も50年、マニアのオーディオルームで使用されています。

 ダイヤフラムさえ交換すれば(あるいは交換しなくても)数十年普通に使用出来るのが555です。それはそうでしょう、555は励磁型レシーバーですから、振動板さえ飛ばなければ、あとは壊れるところもヘタルところもありませんぞ。

 旧い個体ならもう90年も使われている555が、3ヶ月に一回新品に交換されていたなんてどう考えてもヘンでは。

 ドライバーなんてパーマネントマグネットのアルテック288系や802系だって50年以上使われている個体はザラにあります。

 我が家のVITAVOX BASS BINのS2ドライバー、新品で購入後32年になりますが、ビクともするどころか、益々良い音で鳴っています。経年変化に強いハンマートーン塗装ではあるにせよ、外観も新品同様ですよ。

 ベンプレ親父は戦後に映画館で使用されていた555は、全て1929~37年の間に持ち込まれたものだと思っています。

 ですから「ウエスタンの機材は映画館へのリースのみ」が事実なら、日本に東洋ウエスタン経由で輸入されていた555は数百本が良いところ、たぶん555を使用した映画館の数+αしか無かったのではないでしょうか。

 輸入1万本は随分話が大きくなっているのでは。戦後かなり経ってからビンテージマニア、ショップが欧米や東南アジアで相当数を買い付けていた事は間違いないですが、九千数百本も買って来たとは思えません。だって数億円〜十数億円、ことによるとそれ以上の資金が必要ですよ。

 それにそれを売りさばくビンテージマーケットがないと成立しません。有り得ないと思うんだけどなぁ・・・

 BOSEの101MMの様なミニスピーカーを除くと、日本で一番売れたスピーカーはJBLの4343で、1万セットだそうです。最盛期は高校生が4343を買い、販売店が納品に行くと、自分のラジカセに繋ごうと彼が待っていたという素晴らしくオーディオ的で、嬉しくなるような話もあります。

 これほど売れた4343と555が同じ数だけ輸入されていたとは信じられないのですが。555をラジカセに繋いだ高校生は聞いたことがないですぞw

 日本に入ってきた555は、国内の映画館からの放出品とショップ等が輸入したものを合わせても千本は無いと私は思います。それをマニアが売ったり買ったり、時には壊してしまったりして、少しずつ個体数を減らしながらグルグル回っているのでしょう。なにしろ人間のほうが555より寿命は短いですからね。

 ネットで売られている555はシリアルナンバーの下3桁が隠してある物がありますね。これは誰が持っていたか、すぐ足が付くからかもしれません。

 ウエスタンはもはや神話の世界に棲んでいますから、話はどんどん大きくなります。「戦前、ウエスタンエレクトリックがスピーカー開発のために費やした投資額はアメリカの国家予算に匹敵した」なんて話もありましたね。

 アポロ計画やマンハッタン計画(原子爆弾の開発)だって、そんな豪快な話はないのに・・・

 まあその、神話なんですから、国引きもヤマタノオロチもダイダラボッチもなんでもアリなんで、面白がっていれば良いといえば良いのだけれどw
https://91683924.at.webry.info/201709/article_14.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/208.html#c125

[リバイバル3] ウェスタンエレクトリック伝説 中川隆
126. 中川隆[-11586] koaQ7Jey 2019年3月09日 10:01:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[407]

ウエスタンエレクトリック13Aレプリカ&WE555導入記 その13.
2017/09/07
https://91683924.at.webry.info/201709/article_15.html


画像

 (555の正面です。レシーバーの横面にあるのが励磁電源用の端子、端子の先端に7Vと書いてあり、+、−の刻印もあります。正面のL1、L2と打刻してある端子が信号入力端子です。WEのお約束でL1がプラスです。

 うっかり励磁電源コードを信号端子につなぐとボイスコイルが焼き切れてしまうそうなので、端子の先端に大きな文字で刻印が入っているのでしょう。励磁電源のコードと信号のコードを間違えないように、全く違う線にしないといけませんな。

 電源コードはベルデンの8417、12GAのメッキケーブルで、黒白の縒り線の上にグレーの被覆がされたもの、信号コードはやはりメッキ線ですがウエスタンの16GA、布の被覆がされたものを使ってみます)

 MGM映画の音響システム部門がウエスタンエレクトリックの音に(リース料に?)不満を持ち、同社の音響部門長のダグラス・シャラー氏がジェームス・バロウ・ランシング氏らを招き、ランシング・マニファクチャリング社のユニットを使用して共同開発したのが件のシャラーホーンシステムです。
  
 このシステムの音がウエスタンエレクトリックのトーキーシステムを打ち破り、その後のMGM直営館ではランシングが使用されることになった有名な事件は1936年、TA4181とWE594で構成するミラフォニックが発表された年です。

 MGM社はWEの音に不満で自社開発を目論んだそうですが、MGMが不満を持っていたのは、時期から考えると、ミラフォニック・システムではなく555+15Aの音だったのではないでしょうか。

 もしかするとウエスタンエレクトリックはランシングとMGMの動きを事前に察知して、慌ててミラフォニック・システムを開発し、対抗したのかもしれませんね。
 当時のトーキー映画は一大産業、最先端技術でしたから、今では想像できないほどの熾烈な開発競争が行われていたのかもしれません。

 MGMと組んでウエスタンに一泡吹かせたジェームス・バロウ・ランシングは1941年、ランシング・マニファクチャリング社の経営に失敗し、独禁法で分社化されたウエスタンの音響部門アルテック社に自社を吸収合併されました(アルテック・ランシング社)。

 ランシング本人もアルテックに買われ、副社長兼技術部長となったのですから皮肉ですね。

 でも彼は此処で515、288などの後世に残るスピーカーを開発し、その後のラウドスピーカーの範となる一つの頂点を築いたのですから、その才能は恐るべきものだったのでしょう。

 ランシングは1946年、アルテック・ランシングを飛び出してJBL社を作り、名器D130や175を開発しますが、再度経営に失敗し1949年、わずか47歳で自社工場の庭に生えていたアボガドの枝の露と消えました。

 そして栄光のウエスタンエレクトリック音響部門であるアルテックも徐々に力を失い1985年、エレクトロボイスの軍門に下り、吸収合併されます。
 今ではアルテックの名はパソコンのデスクトップスピーカーに残るのみです。

 「強者どもも夢の跡」というわけでしょう。

 私たちの世代が鬼籍に入り、555、515、288とその仲間たちが寿命を迎えるとき、長い長いウエスタンエレクトリックの伝説と、稲妻のようにその伝説を駆け抜けた天才ジェームス・バロウ・ランシングの物語も終わるのでしょう。

 WE555+15Aを打ち負かしたシャラーホーンに使用されたランシング社の15XS励磁型ウーハー、284励磁型ドライバーがアルテック・ランシングの515、288の前身で、英国に渡って私が愛用している2080A、2090Aに改良されました。

 そして今、東洋の島国の片隅で、初老の親父が2080A、2090Aの前で、新たに555を鳴らそうとしています。なんだか因縁といいますか、人間の業の深さを感じて、私は少し恐ろしいような気がします。

P.S.
 今回のブログ記事は三上剛先生のホームページ、ステレオサウンドの別冊、池田圭先生、伊藤喜多男先生、渡辺直樹先生の成書とベンプレ親父の記憶をつなぎ合わせて書いています。

 本によって細かな数字が異なっているようです。ここまでに記した12A、13A、15Aの諸元はひとまず三上先生のHPに準拠しました。

 新忠篤先生が書かれた記事では12A、13A、15Aのサイズ、重量は12AがW114.3cm、H171.5cm、D119.3cm、81.0kg(81.5kg)、13AがW137.2cm、H137.2cm、D160cm、112.5kg(113.3kg)、15AがW143.2cm、H179.1cm、D134.9cm、49.5kg(63.4kg)となっています(カッコ内は三上先生のHPの数値。新先生記事のW、Hはホーン開口部ではなくホーン全体での表示と思われます)。

 また、新先生は15Aの音道の長さは3.3mで12Aと同じと書いておられますが、13Aは三上先生のHPの記載4.27mとほぼ同じ4.2mと書かれています(繰り返しますが、私が目の前で実測してもらったところ、スロートを含めて4.85mでした)。
https://91683924.at.webry.info/201709/article_15.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/208.html#c126

[リバイバル3] ウェスタンエレクトリック伝説 中川隆
127. 中川隆[-11585] koaQ7Jey 2019年3月09日 10:03:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[408]

ウエスタンエレクトリック13Aレプリカ&WE555導入記 その14.
2017/09/07
https://91683924.at.webry.info/201709/article_16.html


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 (塗装前の13A。ホーンの木製部分が全て無垢材の組み木であることが判ります。

 一番下の写真を見てください。ホーンの横を覆う板が単なる平板ではなく、微妙にカーブしているのがお判りでしょうか。この横板が一番手間のかかる部材だそうです)
 
 改めてWE13A、ウエスタンエレクトリック歴代最大のホーンで無垢材の組木ホーンとなるとそれだけでグッと来ちゃいます。その上、福岡で聴いたらとても音が良い。

 欲しくてたまらなくなりましたよ、ベンプレ親父は。

 13Aは生産量も少なかったため、日本にはいくつも入っていないと思います。
 大阪(高槻)の笹本さんはこの音に惚れ込まれてオリジナルを入手され、長年レプリカで同じ音を出せるようトライしてこられたそうです。

 ようやくオリジナルと聴き分けができないホーンが完成し、コツコツ作られては国内外の好事家に譲っておられるとか。なにしろ材料の材木は岩手まで原木を探しに行かれるそうですから、大変な情熱です。

 私は元からオリジナル原理主義者ではありません。良い音が出ればOKで、レプリカであっても心を込めて制作してあるものなら、またそれなりの良さがあると思っています。

 実は、かなり以前に廃刊になったFMファンという雑誌の姉妹誌、別冊FMファンで40年ほど前にレプリカ製作の連載が組まれたことがあります。第一回がタンノイ・オートグラフのレプリカ、第二回の企画がWE15Aホーンのレプリカでした。

 池田圭先生が監修に引っ張り出されましたが、編集者に「きみ、ここにストラディバリのバイオリンがあるとするだろ。これを精密に計測して、全く同じものを作ったとして、同じ音がすると思うかい?」とレプリカには懐疑的でした。

 この意見もよくわかるのですが、横にオリジナルを置いて、音が同じになるように長年工夫された物なら、百歩譲って同じ音ではないとしても、良い音であるには違いないでしょう。

 私はレプリカで行きます。オリジナルを探すのは「百年河清を待つ」行為でしょうし、良いレプリカにはオリジナルに迫ろう、越えようという情念を感じられるものが時々ありますよ。

 WE15Aは別冊FMファンの影響もあるのか、国内でも複数の方がレプリカを作られています。

 12Aはネットでは1名だけ、1980年にレプリカを制作した方の話が載っていました。この方は引越しを機に555の使用をやめたそうで、ラン栽培の農園で、ランの生育をよくするためのBGM用に12Aを使っておられます !!

 12AのドライバーにはなんとALTEC 405Aを小さな箱に入れて使用しておられました。この方の感想ではそれでも音は良いそうです。

P.S.
 JBLのハーツフィールドは38cm径の150-4Cウーハーと4インチ径の375ドライバーを使いますが、お金がない人は20cmフルレンジD208を買って、ハーツフィールドのホーンにアダプターを介して組み込むプアマンズ・ハーツフィールドというのをJBLは売っていたそうです。

 「こんなもんアカンやろ」と思ってましたが、あながちそうでも無いのかも。音に関与する割合はドライバーよりホーンの方が大きいという説は昔からあります。

 13Aレプリカの製作は、国内では今回レプリカを作ってくれた笹本さんだけではないかと思いますが、笹本さんのフェイスブックにも以前、13Aのスロートにi-phoneを突っ込んで音を鳴らしている動画がありました。

 ジョークですが、555なんていらないかも?なんて書いてありましたねw 
https://91683924.at.webry.info/201709/article_16.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/208.html#c127

[リバイバル3] ウェスタンエレクトリック伝説 中川隆
128. 中川隆[-11584] koaQ7Jey 2019年3月09日 10:04:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[409]

ウエスタンエレクトリック13Aレプリカ&WE555導入記 その15.
2017/09/07
https://91683924.at.webry.info/201709/article_17.html



 WE13Aホーンがどれほどの逸物であろうが、ホーンだけでは音は出ません。当然レシーバーが必要です。アメリカ・ウエスタンのホーンにロンドン・ウエスタンの2090Aやアルテック288を装着できるスロートアダプターを作っている所が韓国にあるそうで、2090Aを15Aに装着した音を聴いた方は大変良かったと言われていました。
 当然アダプターを特注すればバイタボックスS2やS3もイケると思います。
 
 しかし、まずもって聴くべきはWE555でしょう。555は前記のように世界で7万本(9万本?)も作られ、日本にも相当数が入っています(伝説通りなら1万本?)。

 ですからお値段が張るのを覚悟で探せば、また補修を受けた物、振動板を交換した物でも良いとなれば今でもタマはあります。従って、ベンプレ親父はお盆前からボツボツ555の出物はないか探していました。

 いくつか候補はあったのですが、一本だけだったり、値段が高かったりで見送りましたが、結局2本揃うものでは一番安く手に入ったエール音響振動板の製造番号45168と45757のペアを手に入れました。

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 (入手したWE555です。左がNo.45168、右がNo.45757です。裏蓋の金属カバーですが、45757はオリジナルの真鍮だと思いますが、45168は最近交換されていると思います。材質もアルミ板では。うーむ、大丈夫かな?)

 555は1927年~35年(?)の8年しか制作されていないのですが、結構バリエーションがあります。

 型番は製造工場が異なる555Wと555の二種類。バックプレートは薄いメッシュ、分厚いメッシュ、ブラスの三種類。振動板は最も旧いタイプの斜め引き出し、その後使用された横引き出しのウエスタン製に加え、横引き出しのアルテック製とここまでがオリジナル、もしくはそれに準ずる振動板です。他に国産の斜め引き出しのエール音響製があり合計4種類。

 さて、どれが良いのでしょうか。それともどれも良いのかな?

 ステレオサウンド別冊では仕様別の555試聴記があります。

 フルレンジで使用するならレシーバーの背部に金属メッシュのエア抜きがある旧いモデル、振動板からのリード線が斜め引き出しのヤツが向いており、ウエスタンのオリジナル振動板でもリード線が横に引き出してある後期のモデルや、同じく横引き出しのアルテック製の振動板に取り替えられたものは中域のドライバーとして使う方が良いと評されていました。

 ただし耐久性は後期モデル振動板、アルテック製振動板が上らしいです。

 「斜め引き出し」が「横引き出し」に変更されたのは555の生産が終了した1935年か、その前年の34年だそうです。従って7万本の555のうち、大半が斜め引き出しだったと思います。しかし現在市場に残っている555は、横引き出しがかなりあるのではないでしょうか。

 ウエスタンは555生産終了後もメンテナンス時に、斜め引き出し振動板を、耐入力が大きく大音量の出せる横引き出しのウエスタン製、更にはアルテック製の振動板に取り替えていったようです。

 同じく耐入力を向上させるために、555Wのメッシュ・バックカバーもブラスプレートに変更されていったようです。

 現在、斜め引き出し振動板、メッシュ・バックカバーの旧型555Wが珍重されています。実際、フルレンジで使うと、この旧型が一番だという人も多いようです。

 斜め引き出しオリジナル振動板、メッシュ裏蓋の555の大半は、使用されている映画館が小さくて、大音量が必要なかったのでパーツが変更されなかったのでしょう。

 しかし考えようによっては、斜め引き出し振動板、メッシュ裏蓋はウエスタンの改良を受けていないとも言えます。

 振動板がアルテック製で、裏蓋がブラスで塞いである555がどのように使用しても一番音が良いという方もいますが、これはそうかも知れません。最後まできっちりメンテナンスを受けていた個体がアルテック振動板+ブラス裏蓋ですから。

 まあ、このあたりは相当道楽しないと何とも言えませんが、そこまで自分で体験するのは普通の人には無理ですよねぇ。

 振動板に関しては厳格に「オリジナルに限る」という方もいれば、わりと融通を利かせる方もいます。オーディオに対するポリシーの違いなのか、実際に音の面で譲れないのかは、私のようなオールド・ウエスタンの初心者には判りませんが・・・
https://91683924.at.webry.info/201709/article_17.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/208.html#c128

[リバイバル3] ウェスタンエレクトリック伝説 中川隆
129. 中川隆[-11583] koaQ7Jey 2019年3月09日 10:06:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[410]

ウエスタンエレクトリック13Aレプリカ&WE555導入記 その16.

2017/09/07
https://91683924.at.webry.info/201709/article_18.html


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 (裏板がアルミ板のようで、パチモン度の高い方の555、No.45168です。プレートの下に赤いペンキでなにか文字が書いてありますが、全部は読めませんでした。最後の二文字は31だと思います)

 今回入手した555はエール振動板ですが、これ、大丈夫かなと少し調べてみました。

 まずエール音響の振動板が前期ウエスタン、後期ウエスタン、アルテック振動板のどれに近いのか。ネット情報によると、どうやら前期ウエスタンの振動板を範として作られているらしく、リード線は斜め引き出しです。

 諸説ありますが、振動板のうちオリジナル横引き出し、アルテック横引き出しは元気な音、オリジナル斜め引き出しは繊細な音と評されることが多いので、クラシックを鳴らせば案外良い音がするのでは。

 「音の獄道」、横須賀の三上先生のホームページによると、先生の15Aに装着されているWE555もオリジナルダイヤフラムの寿命が尽き、エールの振動板に交換されています。オリジナルと同じ音ではないのでしょうが(「比べるものではない」と書かれています。比べられないほどオリジナルの方が良いという意味に取らず、また別なものとして評価、楽しむべきものだと勝手に解釈していますw)、エールの振動板は三上先生が採用する程のブツですから、それなりにイケるのでは。

 現在もG.I.P.などがWE555のレプリカを出していますが、エール音響も以前、励磁型の555レプリカを限定生産で作ったそうです。ネット情報ではこのレプリカは評判がよく、オリジナルより良いという方もおられたそうです。

 オリジナル555の交換部品として使われているエール振動板は、この限定生産エール励磁型555の補修部品です。

 それなら最初からエールのレプリカ555を探せよ、という意見もありそうですが、13Aホーンもレプリカ、555も丸ごとレプリカではなんだか寂しいじゃないですか。

 まあその、ダイヤフラムが違うということは、コーン型スピーカーならコーン紙、エッジ、ボイスコイルが違うのと同じですから、「こんなんWE555ちゃいますよ」というのも判るんだけど。

 同じように555レプリカを作っているG.I.P.は振動板だけでは販売しないそうです。G.I.P.555は本体と振動板トータルで音作りしていて、振動板だけ他の555に移植しても上手くないのかもしれません。

 エールは振動板単体でも販売しますので、「WE555と組み合わせてもイケまっせ」というメーカーの判断があるのでは?

 なんとか屁理屈も付いたので、それなら安い555から試してみようという訳です。まあ、四の五の言わずに一度やってみましょう。命までは取られませんからねw
 うへへ、こんなのを「理屈は後から貨車で来る」と言うんだね。

P.S.
 私が聴いた事のある555のシリーズは555Wオリジナルと555オリジナル、それにアルテック振動板の555の3種類です。前者は福岡のJTMFで同じ13Aホーンレプリカで聴き比べることができました。実はベンプレ親父の駄耳には555Wと555、どちらも同じで良い音に聴こえました。

 アルテック振動板の555は、13Aを作ってくれた笹本さんの工房で聴きましたが、これも良い音でした。ここでは福岡のようなオリジナル振動板555W、555との聴き比べはしていません。

 過去に聴いたことがない555が今回入手したエール振動板555となるわけですが、555W、555、アルテック振動板555はどれも同じような良い音に聴こえましたので、555の振動板が少々ナニでも、13Aは上手く聴かせちゃうのかもしれませんよ。

 ハイ、これも希望的観測の典型ですなw
https://91683924.at.webry.info/201709/article_18.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/208.html#c129

[リバイバル3] ウェスタンエレクトリック伝説 中川隆
130. 中川隆[-11582] koaQ7Jey 2019年3月09日 10:07:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[411]

ウエスタンエレクトリック13Aレプリカ&WE555導入記 その17.
2017/09/07
https://91683924.at.webry.info/201709/article_19.html


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 (映画館の薄暗がりの中、一本で数百人を超える聴衆に音響を届けていたWE555を二発も使っての、世界一贅沢な(?)ニア・フィールド・リスニングです。ホーン納入まであと数日ありますので、エージングを兼ねて聴いています。)
 
 555レシーバーは励磁型なので、電源がなければ磁力が発生せず、当然音も出ません。555の電源は7V、1.5AのDCですが、これを作る方法はいろいろあるそうです。

 タンガーバルブ、セレン半導体、さらに新しい素材の半導体などマニアはいろいろ試されているようで、電源部を自作する方も多いようですね。

 オーディオマエストロの是枝さんの意見では、そりゃタンガーバルブは良いでしょうが、最初は簡易型で鳴らしますか?と。

 ベンプレ親父は555も励磁型も初心者なので、その意見に従って、最初は無理はせずに市販の直流安定化電源を使用することにしました。菊水電子工業のPMX18-2という、直流が0~20V、電流が0~2A、任意に取り出せるヤツです。5万円もしないですが、これでも市販の直流安定化電源の中では高級品の部類です(安い物は1万円からあります)。

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 回路図というか、繋ぎ方はこんな感じを提案されました。PMX18-2だけで用は足りると思うのですが、2Ωのレオスタットを直列につないで、555のフィールドコイルの抵抗値をすこし上げたほうが音が良いとか。このあたりからベンプレオヤジには珍糞漢ですな。

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 菊水電子工業の直流安定化電源PMX18-2です。555とは全く雰囲気は合いませんぞw

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 555のフィールドコイルの抵抗値は判らなかったのですが、定格が7V、1.5Aなら抵抗値は7÷1.5=4.7Ωなのかな?電力(W)は7×1.5=10.5Wで良いのでしょう。

 555のフィールドコイルを万が一にも焼いてしまうと大変なので、上記の値を参考に、写真のようにあらかじめ4Ω・20Wのセメント抵抗を仮結線して電圧、電流の値を確かめました。

 レオスタットは間に合わなかったので、ひとまずフィールドコイルへの直列抵抗なしと、セメント抵抗4Ω・20wをパラって2Ωとし、フィールドコイルに直列に入れたものの二種類で実験しました。上の写真は直流抵抗使用時の実験写真です。

 どちらでも直流安定化電源は正常に稼働しているようです。しかしPMX18-2を使う限りでは、直流抵抗2Ωを入れた場合は励磁電源の電流値を1.5Aにすると電圧が7Vまで上がらないので、直流抵抗は使用しないことにしました。

 直列抵抗なしの場合、外付けの電圧計、電流計の値と、PMX18-2の電圧、電流の表示値はほぼ一致しますので、外付けメーターは省略しましょう。うーむ、結局、励磁電源はPMX18-2だけでヤル事に。

 さて、ここまで実験が進むと次は555に繋ぐ他ないですね。励磁型スピーカーは初体験なのに、それがいきなり555なんて。ドキドキしますよ。
https://91683924.at.webry.info/201709/article_19.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/208.html#c130

[リバイバル3] ウェスタンエレクトリック伝説 中川隆
131. 中川隆[-11581] koaQ7Jey 2019年3月09日 10:08:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[412]

ウエスタンエレクトリック13Aレプリカ&WE555導入記 その18.
2017/09/07
https://91683924.at.webry.info/201709/article_20.html


 何時までも逡巡してもおれず、さあ、555、No.45168から実験開始です。

 555はホーンなしの裸のままで励磁電源端子にDCを流します。
 555に繋ぐパワーアンプは、手持ちのアンプのうち現在休眠中の6550pp是枝アンプ。

 ソースはSACD、いつもの視聴用ディスク、イザベル・ファウストのバッハ「無伴奏パルティータ第二番」とカミラ・ティリングの歌曲「Rote Rosen」、プリは真空管式是枝プリです。

 DCの電圧電流は最初から基準値の7V、1.5Aとはせず、励磁コイルの安全を考え3.5V、0.75Aから開始し、少しずつ上げていきました。以下は試聴中の写真です。

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 うおっ、いきなり音が出てますよ、ホンマカイナ。当たり前か。
 徐々に正規の電圧、電流値に上げていきます。
 うはっ、ちゃんと良い音で鳴りますよ、ホンマかいな。当たり前か。
 こんな感じで、アホみたいに一人でウロタエながら実験を進めました。

 次はレシーバーを交換し、No.45757の試聴です。不思議なことに、やはりちゃんと良い音で鳴ってます。こりゃなんの問題もないですぞ。レシーバー二個の音色、音量はよく揃っていますし、二個ともビリ付きは皆無です。

 どうしたんでしょう。ベンプレ親父って、よほど日頃の行いが良い人なんですねぇ。
 
 菊水電子工業のPMX18-2で555の音が出る事は間違いないです。しかしまだホーンも入手していないし、電源の音質は評価不能です(凄く良いと思うけど)。でもまあ、この手のものを励磁電源に使用しているマニア氏は見たことがないです。

 先輩諸兄はタンガーバルブやセレンを用いて種々工夫されているようで、電源によって励磁型スピーカーの音はコロコロ変わるらしいです。

 それは事実でしょうし、多くの方がタンガーバルブが良いと言われますので、これも事実なのでしょう。その上、タンガーバルブのメーカー違いでも音が違うとか、ディープな世界がある様です。

 懐具合もありますので、初心者らしく、最初は市販の直流安定化電源からソロソロ始めてみようかなと。他の電源装置と比較していないので判りませんが、ベンプレ亭書斎ではPMX18-2で良い音で鳴ってる様です。

 すこし落ち着いたところで我が家のオーディオ評論家、ベンプレ妻を呼んで評価してもらいました。

 「媚のない音ね。」、「新鮮で新しい音ね」、「いつまでも聞いていられる自然な音だわ」、「あなたの集めてくるガラクタで最初からここまで(良い音が)出たのは初めてね」

 常に的確な御批評、有難うございます。
https://91683924.at.webry.info/201709/article_20.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/208.html#c131

[リバイバル3] ウェスタンエレクトリック伝説 中川隆
132. 中川隆[-11580] koaQ7Jey 2019年3月09日 10:09:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[413]

ウエスタンエレクトリック13Aレプリカ&WE555導入記 その19.
2017/09/07
https://91683924.at.webry.info/201709/article_21.html


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 裏板中央のカバーがアルミ板っぽい怪しい555、No.45168です。裏の励磁コイルカバーに3 P213933と謎の番号が刻印されています。その横には地球人には読めない象形文字が !! このブツは古代宇宙人が使っていたのかな???

 冗談はさておき、この刻印の入った555は私の手元のNo.45168だけでは無いようで、ネットには私のブツと同様の刻印とマークが入っている製造番号違いの555の写真があります。

 どこかの国のウエスタンの支社が輸入していた555にはこの刻印が入っていて、製品の管理をしていたのでは。

 「地球人には読めない象形文字」と書きましたが、無理に読んだらCECでしょうか。

 日本にはウエスタンエレクトリックの子会社Nippon Electric Co.=NEC、日本電気(ウエスタンの出資54%の合弁会社として1899年に創業)があり、パーマネントマグネット仕様の555Mを作っていました。するとCECは国名がCで始まる国のウエスタンエレクトリックの子会社では。

 Cで始まる国は・・・カンボジア、カメルーン、カナダ、チリ、チャイナ、コロンビア、コモロ諸島、コンゴ、コスタリカ、コートジボワール、クロアチア、チェコなどです。

 可能性があるのはカナダ、チリ、チャイナ、コロンビア、コスタリカ、チェコかな?アフリカ諸国はまだトーキーが普及していなかったと思いますし、当時は植民地の時代で独立していません。クロアチアは555の時代にはまだ建国されていません。

 カナダは可能性が高そうですが、カナダのウエスタン子会社は、ベンプレ親父がしばらく同社の515を使用していたNorthern Electric Co.のはずです。

 いやまてよ、日本にNECと東洋ウエスタンエレクトリック(後に東洋ウエストレックス)があったように、カナダにはCanada Electric Co.とNorthern Electric Co.の二社があったのかもしれません。

 次の可能性はChina Electric Co.でしょうか。中国は地理的に日本に近いので、中国で555が使用されていれば、日本に中国製の555が入ってきても不思議ではありません。

 戦前の上海あたりは租界も多く有り、ジャズの盛んなモダンな街だった様ですし、映画館もたくさんあったことでしょう。ただ、中国にウエスタンの子会社があった話は、私は聞いた事がありません。

 しかし、ウエスタンエレクトリックはトーキーが始まったわずか二年後に日本に子会社を作って進出してきたほどの貪欲な会社ですから、中国にも当然、子会社を作っていたのでは。

 いやまてよ、日本のウエスタンの支社は東洋ウエスタンエレクトリックです。中国に支社があったら「東洋」の名前は付けないのでは。NEC日本電気と被らないように、日本の支社は極東ウエスタンエレクトリックか何かにしたのでは。やっぱりChina Electric Co.は無かったのかも知れませんなぁ。

 他の可能性としては、アメリカに大きな映画館のチェーンがあって、一括してウエスタンエレクトリックと契約し、チェーン店が555を管理するために独自の番号を打刻していたなんてどうですか?

 そういえばアカデミー賞の会場になるハリウッドのデカイ映画館はChinese theaterですから、Cで始まってますな。怪しいぞ。

 このような骨董品に近い機材は、いろいろと想像を巡らせることができて、面白いなぁw
https://91683924.at.webry.info/201709/article_21.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/208.html#c132

[リバイバル3] ウェスタンエレクトリック伝説 中川隆
133. 中川隆[-11579] koaQ7Jey 2019年3月09日 10:11:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[414]

ウエスタンエレクトリック13Aレプリカ&WE555導入記 その20.
2017/09/07
https://91683924.at.webry.info/201709/article_22.html


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 (最終塗装前に仮組みされた、ベンプレ亭書斎搬入予定のWE13Aに、3個の555と2種類の電源を随時つなぎ変えて実験をしました)
 
 8月31日に笹本さんから「13A、ひとまず完成しました、最後の塗装前に音を確認してください」と電話がありました。

 笹本さんのWE13Aは福岡のJTMF時と、8月11日に高槻の工房にお邪魔した時の二回聴いていますので、確認は自分としては必要ないのですが、私が手に入れたエール音響振動板の555ペア、PMX18-2定電圧電源の様子を探ろうと、これらを持ち込んで笹本さんの555、電源装置と聴き比べさせて頂くことにしました。

 9月3日、ベンプレ妻と二人で工房にお邪魔し、最終塗装前のほぼ完成した13Aを聴かせて頂きました。試聴は以下の組み合わせです。

 @笹本さんの所有するアルテック振動板555、タンガーバルブ電源
 Aベンプレ親父のエール音響振動板555、No.45757、タンガーバルブ電源
 B同じくエール音響振動板555、No.45168、タンガーバルブ電源
 Cエール音響振動板555、No.45168、PMX18-2電源

 バイオリン、女性ボーカル、男性ボーカルで試聴しましたが、555はアルテック振動板の方が低域のレンジが広く、響きが豊かで深みのある音でした。バイオリンの胴鳴り、人間の体幹を感じる音の厚みなども再現され、情報量も多いと思います。

 電源もタンガーバルブとPMX18-2では、前者の方が響きが豊かで自然です。しかしアルテック振動板555とエール音響振動板555ほどの差はありませんでした。

 音の印象は笹本さんも、私も、妻も一致していました。

 すこし嬉しかった事は私の555であるNo.45168とNo.45757に音質の差、能率の差が無かったことです。

 帰りの車の中での妻の評価は「笹本さんの555を10点とすると、パパの555は7点か8点、でも電源は笹本さんのを10点ならパパのも9点はある」との事でした。

 私としてはエール音響振動板555は予想より良かったと思います。エールの振動板は新品を付けたばかりで殆ど使用されていないブツですが、金属製ダイヤフラムのエージングには10年はかかります。私のバイタボックスS2も30年を過ぎる頃から一段と音が良くなりました。

 新品の振動板でもうここまでの音が出ているのなら、ベンプレ親父が70歳まで生きれば、この振動板もかなりイケてくる様な気がします。私が死んで、次のオーナーに渡る頃に本領発揮かなーとw

 もちろんエージングの進んだオリジナル振動板つき555を手に入れるのも良いと思いますが、自分の好きな曲、好きな演奏家、好きなレコードで振動板を調教し、美しい声で鳴き始める過程を追っていく楽しみはナカナカですよね。

 いや、すっぱいブドウじゃないですよ。本心です。オーディオに限らず、趣味も仕事も、大きなことを言えば人生も、苦労こそ楽しみ、味わいというものです。

 人間は結果で満足するんじゃなくて、プロセスを楽しむ事に満足してるんですよ。

P.S.
 お願いがあります。

 皆様、お気持ちは良くわかるのですが、私の手に入れたエール音響振動板の555をディスるのは止めて下さいね。ディスられる理由のあるのはよーく判っていますし、ディスる方も御好意からの御助言であるのはよーく理解しています。

 でも、私の手の内に入った555はもう「私の」555ですからね。

 「おまえの女房よりオードリー・ヘップバーンの方が美人だから離婚しろ」、「おまえの犬よりラッシー(古いね)の方が利口だから取り替えちゃえ」といわれても、選んだのは私ですから。

 昔から人間も犬もモノも、何処か瑕疵のある方が私は好きなんです。これは性分だから。

 その方がなんだか可愛いですよ。

 小学校の修学旅行で「知恩院の忘れ傘」を見学した時に、優しそうなおかめ系美人のバスガイドさんが「完璧なものには魔が差す」という話を教えてくれました。

 小学6年生だったベンプレ少年は「( `・ω・) ウーム…名言じゃな」と思いましたぞ。

 ハイ、言い訳はこの辺でヤメます。
https://91683924.at.webry.info/201709/article_22.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/208.html#c133

[リバイバル3] ウェスタンエレクトリック伝説 中川隆
134. 中川隆[-11578] koaQ7Jey 2019年3月09日 10:14:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[415]

ウエスタンエレクトリック13Aレプリカ&WE555導入記 その21.
2017/09/07
https://91683924.at.webry.info/201709/article_23.html


画像

 (こちらは外観の状態がやや良い、裏蓋も真鍮と思われるNo.45757です)

 笹本製13Aのベンプレ亭書斎への搬入日も決まりましたので、WE555+13Aのドライブアンプを決めなければいけません。小出力の三極管がお約束なのでしょうが、当面予備の是枝アンプ6550P.P.でしのぎましょう。

 「なんじゃそりゃー」と怒られそうですが、まあ「はじめの一歩」という事でご勘弁を。

 それから13Aは出来るだけフルレンジで使いたいのですが、13Aはウエスタンではウーハー的に使用されていたホーンなので、プラス・ツィーターは必要でしょう。

低音フェチのベンプレ親父の事ですから、最低域にはサブウーハーも付けたくなるかもしれません。

 まずツィーターは笹本さんご推薦のエレボイT350が本命です。

 このツィーター、私は30年以上使っていますので音は良く判っています。最高域は15KHzまでしか伸びていませんが、滑らかで、フェノリック振動板の良いところが出ているツィーターです。能率も107dbありますので、555には敵わないものの、たっぷりとアルニコマグネットを使用した高級機です。

 エレボイの最高機種、パトリシアンにも使用されていましたね。

 対抗は能率こそエレボイT350よりかなり低いですが、最高域が20KHz以上伸びているアルテック3000Hの後期型、銀色のアルミ振動板バージョンです。

 音は旧タイプ3000Hのジュラルミン飴色振動板が評価されていて、私は両方持っていますが、ベンプレ親父の耳には音は大差ない様に聴こえます。それに新タイプの方が丈夫らしいのでコッチを使います。以前、旧タイプ振動板の3000Bを飛ばした事があるのでw
 
 なお、先に記述した12Aレプリカを作られた方は3000Hを片チャンネル2本使われていたようです。

 池田圭先生はアルテック3000Hの前身である3000B一本をWE15Aシステムの最高域に使っておられましたので、味付け程度で良いのなら能率が低くても役目は果たせるのかも知れません。

 サブウーハーはどうしましょう。笹本さんの意見では、そんなものは付けないに越したことはないが、付けるにしても大口径の物は上手くないし、ビンテージ物も案外難しいとか。

 この辺は諸説あると思いますが、たしかに励磁型レシーバーの下に大口径ウーハーは音の立ち上がり、立ち下がりの点で難しいと思います。

 ただ、エール音響振動板の555は、やや低域が出難い様なので、何かあったほうが良さそうです。

 現在ベンプレ亭書斎ではナショナルEAS46PL80NA、エレクトロボイス30W、ハートレイ224HS、ガウス18インチダブルなど各種サブウーハーを使った挙句にBOSE AWCS-1とエラックSUB2090の二つのサブウーハーに落ち着いています。

 前者はバイタボックスAK157×2+BASS BINの下に、後者はロンドン・ウエスタン2080A×2+ALTEC210の下に入れていますが、そう言えばどちらも小口径、30cmウーハーですね。

 当面、カットオフ周波数、低域のイコライジングが自由なエラックSUB2090をつないでみましょう。このサブウーハーはカットオフの上限が150Hzまでイケますので、13Aの低域なら全く問題ないと思います。

 池田圭先生はWE555+15Aシステムの最低域にALTEC 803の壁バッフルや、ご自身が日本ビクターに作らせた38cmウーハーSK2038Dをやはり日本ビクター製のIK-38(だったかな?)という650Lのバスレフ箱に入れて3D再生をしておられました。

 ベンプレ親父としては、時代も違いますから、もう少しモダンなサブウーハーでイケないかなと。
 
 鳴らす前からなんだか妄想がひどいですが、こんな風にアレコレ考えを巡らすのもオーディオの楽しみですよねw

 なおスピーカーケーブルはウエスタンエレクトリック16GA、励磁電源ケーブルはベルデン12GA、ラインケーブルは英バイタル社のマイクケーブル、RCAプラグはスイッチクラフトを使用しましょうか。

 さて、ここでひとまずWE13Aレプリカ&WE555導入期はお休みします。
 あと4日後の9月11日には13Aがベンプレ亭書斎に搬入されますので、その後に続きを書きたいと思います。

コメント

「実はある方が、WE16Aステレオの下にヤマハのAV用サブウーハーを一本だけ入れて使っておられる写真を、最近見せて頂きました。」ひょっとすると、私がお送りさせていただいた画像でしょうか? Powered Bassは鈍重で一波長ずれて出てきます。という実験をご友人に実演された直後の画像で、実際には特殊なWooferを片側4連で駆動です。
mambo 2017/09/11 11:11

mambo様、コメント有難うございます。
なるほど、パワードスピーカーでは結果が良くなかっいたのですね。本文に追加しておきます。
有難うございました。
ベンプレ親父
2017/09/11 16:03
https://91683924.at.webry.info/201709/article_23.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/208.html#c134

[リバイバル3] ウェスタンエレクトリック伝説 中川隆
135. 中川隆[-11577] koaQ7Jey 2019年3月09日 10:15:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[416]

ウエスタンエレクトリック13Aレプリカ&WE555導入記 その22.
2017/09/11
https://91683924.at.webry.info/201709/article_26.html



 9月7日に書いた「ウエスタンエレクトリック13Aレプリカ&WE555導入期 その21.」の続きとなります。

画像

 WE13Aホーン・レプリカ、無事ベンプレ亭書斎に搬入されました。
 設置位置はベンプレ亭書斎東側、左右のロンドン・ウエスタンスピーカーの中央前方に。
 設置方法は13A使用映画館のデフォであったチューバ型ではなく、ホーンの音軸をほぼ正面に向けたジンベイザメ型としました(チューバ型に設置する場合は12Aと同時使用がお約束)。
 笹本さんはこの部屋だと13Aが小さく感じると言われましたが、やっぱりデカイですよ。存在感十分な黒い怪物です。 

画像

 13Aレプリカは9月11日早朝、笹本さんの工房を出発し、同日am9:00より、中二階にあるベンプレ亭書斎に搬入されました。
 ホーンは木製部分が3分割され、金属スロートと合わせると4パーツに分かれますので、ベンプレ亭の家庭用小型エレベーターになんとか載せることができました。

 写真はパーツの搬入が終了、養生を解いているところです。笹本さんの他に助手の方が1名、さらに九州から見物兼応援の方も来られ、大変助かりました。有難うございました。

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 台座、木製ホーン(3っに分かれます)のうち、スロートに近い方の部材2パーツが組みあがり、一番大物の開口部パーツに取り掛かるところです。

画像

 ホーンが組み上がりました。ホーンの部材同士を強固に固定するための小パーツをこれから取り付けます。

 組みあがって、笹本さん持参のCD、ベンプレ親父手持ちのSACDで音の確認を行いました。
 アルテック振動板555、エール音響振動板555、タンガーバルブ電源、トランジスタ式定電圧電源を順列組み合わせで聴いていきましたが、結果は「WE13Aレプリカ&WE555導入記その20.」と同じようでした。電源の差は広がったかな?
 何れにしても、ホーン1本の音とはとても思えない深々とした音に改めて感心しました。これから手を入れていけば、益々良い音がしそうで、とても楽しみです。

 試聴中にエレボイT350ツィーターやエラックSUB2090ウーハーのアタリも付けてみましたが、なんだかイケそうな印象です。

 さて、9月23日にオーディオの友人がベンプレ亭書斎を訪ねてくれる事になっています。出来るだけ良い音が出せるように、笹本さんのタンガーバルブ電源をその時期まで貸していただけることになりました。有難うございます。

 11日はpm2:00より仕事ですので、試聴は慌ただしく終わりました。夜に再度じっくり聴いて、ブログ記事にしたいと思います。
https://91683924.at.webry.info/201709/article_26.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/208.html#c135

[リバイバル3] ウェスタンエレクトリック伝説 中川隆
136. 中川隆[-11576] koaQ7Jey 2019年3月09日 10:17:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[417]

ウエスタンエレクトリック13Aレプリカ&WE555導入記 その23.
2017/09/11
https://91683924.at.webry.info/201709/article_27.html


画像

 既にツィーター、サブウーハーの準備はしてあるのですが、改めての第一声は当然、WE555+13Aのみで鳴らしましょう。

 パワーアンプは既述のごとく、休養中の6550p.p.を使用、プリアンプはステレオからモノラルへのミックスダウンが容易なマンレイ・チューブミキサーを使います。

 最初にかける音源はどうしましょうか。

 WE15Aで一世を風靡した池田圭先生は美空ひばりや青江三奈で最初にお客の度肝を抜いたとか。

 私もその路線で、石川さゆりのLPから「ウィスキーがお好きでしょ」を。このLPは45回転の高音質版との触れ込みです。プレーヤーはデンオンDN308F、針DL103R。マランツPH-1のMC-H端子に入力しました。

 やはり一発目から上手く鳴りました。人の声の再生は実に安定感があります。
 艶も響きもあってナカナカ聴かせますよ。

 次はモノラルのジャズLPを。コルトレーンのマイ・フェイバリット・シングスです。ターンテーブルはMICRO-TRAK740、アームGRAY108C、針DL102、MCトランスPeerless15095A、フォノイコ東京サウンドPE-100でイキました。

 これは更に良いですね。パワーがあってゆとりもある。緊張感があって遊びがある。実にジャジーな音です。少し硬い音の録音なのですが、聴きやすさも出てくる大人っぽい音です。

 次はステレオLPを。RCA70C-1タンテにデンオンDL103カートリッジ、JELCO SA750-LBアーム、UTC A-11トランス、マイクロトラックの6041フォノイコで、カバリエのトスカを。

 さすがにオケの低域部やホールトーンは少し不足しますが、やはり声は良いですね。これならステレオで聴きたくなります。

 最後はSACDで。ホールトーンが豊かに入っているライブ録音のヴァントの「未完成」、ピアノの中の頭を突っ込んだような超近接録音の清水和音のピアノ、「展覧会の絵」です。

 「未完成」はモノラルで聴いても奥行が感じられますね。「展覧会の絵」ではグランドピアノの巨大な鉄のフレームを感じるスケール豊かな音でした。

 視聴後にWE555+13Aの周波数特性をいつもの日本オーディオRC-2で計測してみました。マイクは13Aホーン軸上、ホーン開口部から1.5mにセットしています。

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https://91683924.at.webry.info/201709/img2_27.150514041414372834179.html

 ベンプレ亭書斎は無響室でも何でもないので、F得のカーブは参考程度にしかなりませんが、概ね雑誌やネットの情報のとおりの周波数特性(F得)です。下は60Hz、上は5KHzまで出ており、ワイドレンジなレシーバーとホーンであることが判ります。

 なお、少し意外だったのは、WE555+WA13Aの能率が110db程度だったことです。オールド・ウエスタンは超高能率と言われていますが、ロンドン・ウエスタン2080A+2090Aのシステム、バイタボックスBASS BINのシステムと同じくらいの能率だとおもいます。

 WE555の定格入力は6Wですから、あまり無茶な大音量は出せませんな。
https://91683924.at.webry.info/201709/article_27.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/208.html#c136

[リバイバル3] ウェスタンエレクトリック伝説 中川隆
137. 中川隆[-11575] koaQ7Jey 2019年3月09日 10:19:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[418]

ウエスタンエレクトリック13Aレプリカ&WE555導入記 その24.
2017/09/11
https://91683924.at.webry.info/201709/article_28.html



画像

 エレクトロボイスT350を13Aホーン内に収めました。少々アンバランスですが、こういったものは直に見慣れますから大丈夫ですw
 
 さて、WE555+13Aにはあらかじめツィーター、サブウーハーを準備しておいたと書きました。

 前記のようにツィーターはエレクトロボイスT350とアルテック3000Hの二機種。サブウーハーは現在ロンドンウエスタン・システムのサブウーハーに使用しているエラックSUB2090です。

 まずはツィーターから試してみましょう。
 WE555+13Aのホーン軸上1.5mのF得を計測すると、高域は5KHz前後から減衰が目立ちますので、その辺からツィーターで補うと良いのでしょう。

 しかし、マルチアンプシステムではありませんから、やたらとフラットネスを追うより、ツィーターは雰囲気を出す程度に止めないと、WE555の良さを失うかもしれません。
 
 最初はエレクトロボイスから。エレボイT350は3.5KHz以上で使うツィーターですので、バカデカイ音さえ出さなければ、6db/octでもカットオフ5〜6KHz以上なら心配ないと思います。

 0.8μF、1.0μF、1.5μF、3.3μFのフォステクスやムンドルフのコンデンサーが複数道具箱に転がっていましたので、最初は1.0μFと1.5μFをパラッて2.5μFとし、カットオフ8KHz、6db/octのローカットフィルターを作って、高域を少し補正してみました。

 WE555+13Aの方がT350ツィーターより能率が高いと思いますので、アッテネーターは省略です。

 試聴には聴き慣れたSACD、イザベル・ファウストのバイオリン独奏、バッハの「無伴奏パルティータ第二番」を使用しました。

 ツィーターがある方が音がなめらかでリアリティがありますね。バイオリンソロならツィーターは是非とも必要ですな。

 日本オーディオRC-2で計測した周波数特性は以下のようでした。

画像
https://91683924.at.webry.info/201709/article_28.html


 下のWE555のみのF得から大きく改善、ハイが15KHzまで伸びました。アッテネーター無しで能率もピタリと合っています。T350の音色は過去30年も聴いているのですが、滑らかで刺激の少ない麗しい音です。もうキマリやね。

 次にアルテック3000Hを試す予定でしたが、能率の低い3000Hでは物足らないと思いますので、ツィーターはT350に決めました。

 使用するツィーターとカットオフ周波数が決まったので、6db/octのネットワークを高級部品で作り直しましょう。

 といってもウエスタンのパーツは使いません。コンデンサーはムンドルフのシルバー・オイルを使うつもりです。

 ウエスタンマニアならコンデンサーはウエスタンのペーパーコンとかオイルコンを使うのでしょうが、昔211シングルアンプを自作した時に使用したウエスタンのペーパーコンが劣化して雑音が出て苦労した経験があるので、ウエスタンのコンデンサーは敬遠しています。
https://91683924.at.webry.info/201709/article_28.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/208.html#c137

[リバイバル3] ウェスタンエレクトリック伝説 中川隆
138. 中川隆[-11574] koaQ7Jey 2019年3月09日 10:21:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[419]

ウエスタンエレクトリック13Aレプリカ&WE555導入記 その25.
2017/09/11
https://91683924.at.webry.info/201709/article_29.html



 WE555+13Aの低域は、聴感上は充分伸びており、ジャズのウッドベースのピチカートまでなら問題なくこなします。

 しかしオーケストラの低弦のうなり、ホールトーン、空間のレゾナンスを再現するためにはもう少し低域が伸びて欲しいことも事実です。

 デジタルソースのパイプオルガンやグランカッサは既にサブウーハーを組み込んであるバスビン・システム、ロンドンウエスタン・システムで聴けば良いので、WE13Aはツィーターの追加で止めておくのも賢い選択でしょう。

 でも、池田圭先生のスタジオにあった15Aは3Dで最低域が補強されていました。また池田邸の最大の特徴は豊か過ぎる低音にあったとか。
 ベンプレ亭書斎でもその片鱗くらいは聴いてみたいと思い、先に候補として選んでおいたエラックSUB2090をサブウーハーに使用してみました。

 SUB2090、ロンドン・ウエスタン2080A+2090Aシステムにも繋がっていますから、なんとかなりませんかね。

 SUB2090のハイカット周波数は、WE555+13AのF得を睨んで60Hzです。実はロンドン・ウエスタンと同じ値なので、WE555+13Aのパワーアンプ、6550p.p.への信号レベルを調整すると、そのままイケるはずです。

 試聴は低域が大音量で入っているデジタルソースのローカットしていない信号を555に直接入れると振動板を飛ばしはしないかと考え、「春の祭典」なんかは回避して、ヴァントの「未完成」のSACDを使いました。

 WE555+WE13Aだけの時より低域の豊かさが大きく向上し、ホールトーンが聴こえます。コントラバスのアルコも美しく響き、会場の広さや聴衆の気配が出てきました。

画像
https://91683924.at.webry.info/201709/article_29.html

 上はエラックSUB2090とエレボイT350を加えた最終バージョンのF得、下はWE555+13AのみのF得です。名実ともにワイドレンジになりました。音質も明らかに向上し、現代のソースも楽々こなしますよ。

 パワード・サブウーハーも特に音の遅れは感じません。60Hz以下のみのチョイ足しなら何とか誤魔化せそうですw

 さて、心配症なベンプレ親父としては、WE13Aで現代のデジタルソースで低音のたっぷり入ったヤツを大音量で聴くなら、WE555用のパワーアンプの前に、60Hz辺りのローカットフィルターを入れないと危ないのではと思ってしまいます。

 パワーアンプの前にCR型のパッシブ型フィルターを入れれば良いのでしょうが、WE555+13Aにはピュアなフルレンジ信号をいれ、ツィーターはネットワークを使ってチョイ足し、サブウーハーもチョイ足しで行ければその方がお行儀が良いと思います。

 しかしそうなると、ソースは少々選んで鳴らさなきゃダメかなーと。

 WE555にフルレンジを入力すると振動板の寿命が短くなるという意見もあります。事実、映画館では大音量再生で555を飛ばすことがしばしばあった様です。

 過大電流が流れてボイスコイルが焼ききれるのは仕方がありませんが、リード線斜め引き出しを横引き出しに変えたのは、低域の大振幅のために切れてしまうリード線の接続方法の変更だそうで、裏蓋のメッシュをブラスプレートに変更したのは、低域の大振幅を抑えるためにバックキャビティの内圧を上げる工夫だと思います。

 最近のデジタルソースの低域は、戦前のトーキー映画の光学トラックの低域とはケタが違いますぞ。心配ですね。

 しかし池田圭先生は555の低域をカットしておられなかったのでは。
いやまてよ。完実電気の3Dフィルターアンプ、パーフェクションDF3000の開発には先生が関係しておられたので、池田邸の555の下は切ってあったのかな。

 さて、どうしたものでしょうか。私としては、音の鮮度が劣化しないようにパワーアンプの入力部に60Hzから6db/octで減衰させる簡単なCR回路を入れて、お茶を濁しておくのが精神衛生上も良いと思うのですが。


コメント

私はこんな内容「先輩のお話ではWE555+WE16A+ヤマハ(かな?)AV用パワードウーハーはパワードウーハーの音の遅れが目立ち、上手く繋がらなかったそうです。」はお話ししていません。前回のコメントにも記述していますが、既にシステムは完成しておられる16aのオーナーに失礼ですので削除願います。
mambo
2017/09/13 22:40

mambo様、コメント有難うございます。
失礼いたしました。
「ウエスタンエレクトリック13Aレプリカ&WE555導入記 その21.」の「先輩のお話ではWE555+WE16A+ヤマハ(かな?)AV用パワードウーハーはパワードウーハーの音の遅れが目立ち、上手く繋がらなかったそうです。」と同日のWE555+16A関係の文章は削除いたしました。

今後とも宜しくお願いします。
ベンプレ親父
2017/09/13 22:56
https://91683924.at.webry.info/201709/article_29.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/208.html#c138

[リバイバル3] ウェスタンエレクトリック伝説 中川隆
139. 中川隆[-11573] koaQ7Jey 2019年3月09日 10:23:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[420]

ウエスタンエレクトリック13Aレプリカ&WE555導入記 その26.(最終回)
2017/09/11
https://91683924.at.webry.info/201709/article_30.html


画像

 第一段階ではありますが、ひとまず形になったWE555+WE13Aレプリカシステムです。

 現在不確定なところはまず電源、WE555のフィールド電源はどうしましょうか。菊水電子工業の直流安定化電源で行くか、お借りしているタンガーバルブで行くか。本当はタンガーバルブで行きたいところですが・・・

 このへんも随分楽しめそうですね。

 WE555+13Aのパワーアンプはどうするか。現在使用中の是枝アンプ6550P.P.はエール音響振動板の555を上手く鳴らしてくれるのですが、少々雰囲気は合いませんなぁ。

 諸先輩ご推薦のアンプも試したいし、久しぶりに自作してみようかな。入力端子を二つ付け、片方にローカットフィルターを入れて試すのも良いかもしれません。
 まてよ、長いあいだ休眠させていて音が出なくなってる211(VT-4C)シングルを復活させちゃおうかな。

パーツやシャシに凝り始めると自作はキリが無いのですが、そのへんは折り合って行きましょう。

 それから・・・WE13Aホーンをもう1本入れて、ステレオで聴きたいなぁと。エール振動板WE555は2本揃えていますしね。

 ちょっとコストもスペースも大変ですが、1年がかりくらいなら何とかなるのでは。

 うーむ、やることが一杯ありますね。もう暫くは死ねませんなw

 無意味に長い駄ブログにもし付き合ってくださった方がおられましたら、感謝致します。
https://91683924.at.webry.info/201709/article_30.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/208.html#c139

[リバイバル3] ウェスタンエレクトリック伝説 中川隆
140. 中川隆[-11572] koaQ7Jey 2019年3月09日 10:24:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[421]

励磁電源は不思議です
2017/09/14
https://91683924.at.webry.info/201709/article_31.html

 先日来WE13Aレプリカ+WE555にサブウーハー(エラックSUB2090)とツィーター(エレボイT350)をチョイ足しして聴いています。

 ナカナカ良いのではないかと思いますが、ここ数日で励磁電源は面白いなーと。

 まず、励磁電源を繋ぐWE555のフィールドコイルですが、これが、電流を流してしばらくすると音が変わってくるようです。

 真空管アンプ類はLP片面〜両面聴くと安定し、音が良くなってくるのは知られていますが、フィールドコイルもしばらく電流を流しておくと音が良くなるように感じます。

 コイルに電流を流して30分くらいするとレシーバーのコイルのカバーがほんのり暖かくなり、人肌くらいの温度で安定しますが、こうなってからの方が音が良いようです。

 気のせいだと思いたいのですが、スイッチオン直後から菊水の定電圧電源のデジタルメーターを睨んでいますと値が変わってきます。

 電圧7.0V、電流1.5Aにセットしているのですが、スイッチオン直後は電圧6.77V、電流1.5Aくらいで、コイルの温度が安定する頃(20〜30分後)には電圧7.0V、電流1.48A辺りで落ち着く様です。 

 電流を流しているとコイルが温まるのは判るのですが、そうするとコイルの抵抗値が変わって定電圧電源のV、Aメーターの値も変化するのでしょうか。

 フィールドコイルの温度が25℃から40℃位に変わるだけでそんなに抵抗値が変わるものなんでしょうか。

 こんなの常識なのかもしれませんが、15℃ほどコイルの温度が変化するだけで、電気抵抗がこれだけ変わるなら、熱を持つアンプなんか温度で音はメチャメチャ変化すると思います。

 プロのアンプ製作者はそこまで考えてアンプの抵抗値を選んでるのかな?

 ベンプレ親父がものを知らないだけなんでしょうが、温度が少し変わるだけでフィールドコイルの特性がそんなに変わって良いのかなぁ。いや、変わるのがアタリマエなのかな?

 オーディオはどこを変えても音は変わりますから、レシーバーの音は変わっても不思議はないけれど、コイルの特性まで変わるとはやっぱり不思議です。少なくとも高校の物理では習いませんでしたよ。

 次に励磁電源の種類でも音が変わるようです。

 ベンプレ亭書斎にある励磁電源装置は、トランジスタ式の菊水電子工業18X-2とお借りしているタンガーバルブ電源のシンプレックスの二機種です。

 これが音が違います。タンガーバルブ電源の方が音が良いです。18X-2は音が滑らかですが、どことなく表情に乏しく深みが不足するように思います。
 タンガーバルブはこの辺りが上手く鳴るみたいです。

画像

 写真はシンプレックスのタンガーバルブ電源です。

 18X-2の方が直流の波形はよりフラットで性能が良いと思うのですが、どうも結果はタンガーバルブの方が良く聴こえます。

 18X-2は音響装置の励磁電源用ではなく、単に0〜20V、0〜2Aの直流電源を作る定電圧電源装置に過ぎませんから、「音がイマイチじゃんか」と言われても困るでしょうがw

 近日中にオーディオのお仲間で励磁型スピーカーを長く使用しておられる方がおいでになりますので、いろいろ教えてもらうことにします。

 ホントは「菊水電子工業18X-2で十分じゃないの」という結論を期待していたのですが、微妙に負けてますな、タンガーバルブに。

 でもオーディオはこの「微妙に」を追求する楽しみだから、これは重大な問題だよねw

 P.S.
 我が家のオーディオ評論家、ベンプレ妻に、昨夜WE13Aレプリカ+WE555中心のシステムを聴いてもらいました。

 妻は若い頃ビートルズをよく聴いていたそうで、ビートルズのLPを試聴してもらいましたが、

 「ビートルズのLPは録音が良くないから、高級なので聴くとアラがでちゃうのよ。でもコレ(13A+555システム)は良く聴こえるわね。ビートルズはラジカセや安物のステレオの方が良く鳴るのに、不思議ねえ」と。

 なるほど、このWE13Aレプリカ+WE555中心のシステムは良い録音は良く、悪い録音も良く聴かせる傾向があると私も思います。

 「良い録音は良く、悪い録音は悪く」聴かせるのがハイファイなスピーカーなんでしょうが、「良い録音は良く、悪い録音も良く」聴かせるWE13A+WE555システムの方が役者が上だとベンプレ親父は思うのですが。
https://91683924.at.webry.info/201709/article_31.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/208.html#c140

[リバイバル3] ウェスタンエレクトリック伝説 中川隆
141. 中川隆[-11571] koaQ7Jey 2019年3月09日 10:27:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[422]

WE13Aレプリカ+WE555をホンノ少しだけ触りました
2017/09/15
https://91683924.at.webry.info/201709/article_33.html

 先日WE13AレプリカとWE555をベンプレ亭書斎に導入したことを書きました。

 このブログ記事は現在150hit内外なのですが、WE13A製作者の笹本さんのフェイスブックのベンプレ亭書斎に13Aを搬入した時の写真はナント3000hitもしているそうです。

 うーむ、今のコミニュケーションツールとしてはブログよりフェイスブックなんですねぇ。

 いやいや、ツールの違いだけじゃなく、笹本さんの知名度によるところ大なんでしょう。それから写真の腕の差も大きいですね。

 今日は東京から少し早めに帰れたので、WE13Aのネットワークや配線を少々触り、写真を撮ってみました。

画像

 斜め下から撮った写真です。壁際のライトがないと照度が不足しますが、逆光にもなってしまいます。難しいですね。

画像

 真横から撮ってみました。ピントはこの写真ほうが良いですね。

画像

 部屋の中にスピーカーが増えすぎましたので、ロシア・ダブルコーンを出しました。

 ツィーターのエレボイT350への配線も、T350の固定用ネジ穴にコードを通すようにして、左右のバランスを取ってみました。多少はすっきりしたかな?

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 T350に8KHz以上の信号を送る、6db/octのネットワークの写真です。コンデンサーはムンドルフを考えていたのですが、フォステクスで上手く鳴っているのでフォステクスで行きました。

 スピーカーユニットやネットワークパーツを売っているメジャーな国産メーカーは、いまではフォステクス(フォスター電機)だけです。応援しないとねw
 
 端子台は春日電機ですが、コレは誤算でした。もっと小さな端子台を買って、板に取り付けて使うつもりでしたが、届いた端子台は、考えていたやつの倍位の大きさでした。

 ネットで購入した時にちゃんとサイズを確認しておかなかったベンプレ親父のミスですが、届いたデカくて重い端子台を見て、「まてよ、これなら板がなくても安定するじゃんか」。

 端子台の裏面に滑り止めを貼って、コンデンサーとコードを繋ぎ、コンデンサーを結束バンドで固定して出来上がりです。簡単で良かったですよ。

 さて、明日からまる二日間、早朝から夜まで全日本クラシック・マスターズパワーリフティング選手権で、明石のパワーフラッシュ・アリーナに缶詰です。
 この大会は日本マスターズ・スポーツ週間の一環として、日本中のマスターズスポーツが一堂に会して行われるスポーツ大会の一部です。今年は兵庫県が担当です。

 審判にも入っているので頑張りますね。
https://91683924.at.webry.info/201709/article_33.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/208.html#c141

[リバイバル3] ウェスタンエレクトリック伝説 中川隆
142. 中川隆[-11570] koaQ7Jey 2019年3月09日 10:28:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[423]

WE13Aレプリカ+WE555システムのツィーター・ネットワークを変更
2017/09/18
https://91683924.at.webry.info/201709/article_34.html


画像

 (エレボイT350のローカットフィルターを8KHz、6db/octから7.5KHz、12db/octに変更しました)

 土日は全日本マスターズパワーリフティング大会の主管協会会長業務と3セッションの審判(副審1、テクニカル・コントローラー2)で頑張りました。

 さて、今日、敬老の日は福岡からオーディオのお仲間、Nさんがベンプレ亭書斎に訪問されました。

 今朝は早めに起きて、WE13Aレプリカ+WE555システムの調整を少々。

 ここまで2.5μFのコンデンサー1発でローカット(8KHz、6db/oct)していましたが、少々ツィーターのT350が鳴り過ぎかなと思い、ここを改造してみました。

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画像

 一番上のグラフは、ローカット8KHz、6db/oct(C=2.5μF)の従来のネットワーク、上から二番目はローカット13KHz、6db/oct(C=1.5μF)です。

 サブウーハーのエラックSUB2090とエレボイT350ツィーターのみを鳴らし、WE555の代わりに4Ωのセメント抵抗を3個直列にして12Ωとしたものをダミー抵抗にしました。

 下から2番目のグラフは7.5KHz、12db/oct(C=1.5μF、L=0.18mH)のローカット・フィルターを使用した時のF得です。この時は手持ちの鰐口クリップが足らなくなり、ダミー抵抗は使わずWE555をそのまま繋ぎ、励磁電源をOFFとして計測しました。

 6db/octのNWではC=1.5μFの方が高域のキツさがやや抑えられる印象ですが、思った程の差は出ませんでした。

 12db/octのNWに変更すると音の滑らかさが出てきて、より自然です。計測しても2KHz辺りの山が抑えられて良さそうなので、こちらに変更します。

 というわけで、出来上がりのF得が一番下のグラフです。

 実はこの12db/octのNWはアルテック3000Hに使用していたNWです。パーツはそれ程良いものではないので、後日高級パーツに変更しましょう。アッテネーターは全開でバランスしていますので、不要ですね。


 実験ではNW以外に面白い事が判りました。WE555は励磁電源を切っていても微かに音が出るんですな。

 上のグラフの一番上と二番目はWE555の代わりに12Ωの抵抗を入れましたから、当然サブウーハーとツィーターしか鳴りませんが、上から三番目のWE555を繋いで励磁電源をOFFにした状態だと、400Hzを中心に、少々音が出ています。

 WE555には鉄製の部品も使われていますから、長年のお勤めで、励磁電源の磁気で鉄製部品が磁化され、永久磁石化したのでしょうか。
 面白いですね。

 NさんにはWE13A+WE555システム、ロンドン・ウエスタン2080A+2090Aシステム、バイタボックスBASS BINシステムを順次聴いていただきました。

 Nさんは最近ラウザーのクラシックモデルを手に入れたとか。また聴きに行かせてくださいませ。
https://91683924.at.webry.info/201709/article_34.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/208.html#c142

[リバイバル3] ウェスタンエレクトリック伝説 中川隆
143. 中川隆[-11569] koaQ7Jey 2019年3月09日 10:30:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[424]

続・WE13A+WE555システムのツィーター・ネットワークを変更
2017/09/19
https://91683924.at.webry.info/201709/article_35.html


 昨日Nさん来訪前にWE13Aレプリカ+WE555システムのツィーター・ネットワークを変更し、7.5KHzカットオフ、12db/oct(C=1.5μF、L=0.18mH)に変更したことをブログに書きました。
 
 「近いうちにアッテネーターをパスし、高級パーツに変更する」と書きましたので、部品の選定を開始しましたが、Cは手持ちのフォステクスの銅箔巻きとキメました。

 Lは何か高級品をと物色しましたが、0.18mHにピタリと来るものがありません。本格的なマニア氏なら大きめのコイルを買って、少し解いて使うのでしょうが、ベンプレ親父はそこまで詳しくないのでw

 ネットワークはツィーターに行く信号だけを通すので、Lはツィーターに並列に入るだけです。信号が直接通るCほど音質への影響はなかろうと、使用中のAUDYN LU44、0,18mHをそのまま使うことにしました。

 というわけで、アッテネーターの配線を外してコンデンサーをJantzenAudio Z-SuperiorからFostex CS1.5に変更するだけですね。

画像

 うへへ、瞬間芸で完成ですw

画像

 いつもの日本オーディオRC-2での測定です。

 上がサブウーハー・エラックSUB2090とツィーター・エレボイT350を鳴らして、WE555の励磁電源を切った時のF得、下は励磁電源をONし、SUB2090、WE555+13Aレプリカ、T350を一緒に鳴らしたF得です。

 もちろん、F得のグラフはコンデンサーがJantzenAudio Z-Superiorの時と同じです。

 音も同じだろうと聴いてみましたが・・・

 ウーム、コンデンサーを変更し、アッテネーターをパスしただけなのに、音が違うような?

 小改造後の方が音の透明感が上がり、情報量も増えたように思います。
 コンデンサーの変更が効いたのか、アッテネーターを省いたのが効いたのか不明ですが、良い方向に?

 実はネットワークの小変更くらいで差が出るわけないと思っていたのですが、なんだか違うようです。

 「違うのが当たり前だろ」という人と、「違う訳無いだろ」という人が両方いて無限ループで論争してるのがオーディオマニアですが、自分は今回は違うような気がします。

 正直、ブラインドテストなら差が判らないかもしれませんが、アレは何回も聴くから判らないのでは?

 利き酒だって、最初の一口で決着付けますよね。

 人間の感覚には慣れがありますから、似たような刺激を複数回受けていると差が判らなくなるんじゃないかなーとベンプレ親父は思っています。

 「良い様な気がする」と感じたらひとまずその方向でキメて、それを積み重ねていけば、いつの間にか大きな差になって、客観性のある差が生じてくるんじゃないかと思ってるんですが・・・
https://91683924.at.webry.info/201709/article_35.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/208.html#c143

[リバイバル3] ウェスタンエレクトリック伝説 中川隆
144. 中川隆[-11568] koaQ7Jey 2019年3月09日 10:32:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[425]

新しいオーディオのお友達がたくさん出来ました
2017/09/23
https://91683924.at.webry.info/201709/article_39.html


 今日は岡山から2名、大阪から3名、京都から1名の方が遊びにこられ、丸一日オーディオ三昧でした。

 先日導入したWE13Aレプリカ+WE555の他、ロンドンウエスタン、バイタボックス、クラングフィルムのシステムを聴いていただきました。

 聴いていただいての皆様の感想が、意外な程ベンプレ親父と一致するので少々驚きました。

 オーディオは主観的なものだと思っているのですが、案外そうでもないのかも知れませんなぁ。

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 大阪の笹本さんにWE555用のタンガーバルブ電源を借りていましたが、同じシンプレックスの電源(写真)が入手できるとの事で手配していただきました。

 なにぶん旧い機材ですから、お借りしていたものと全て同じパーツではありませんが、配線等は再度引き直されたものだそうで、信頼性は充分のようです。
 音も良いですね。大事に使います。

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 WE13A+WE555システムはツィーターのエレボイT350を7.5KHzカットオフ、12db/oct、アッテネーター無しで鳴らしていたのですが、ツィーターの音が目立ちすぎるのではないかとの皆さんの意見で、少々ネットワークを変更しました。

 上の写真の上側のグラフはWE13A+WE555のみのF得、下側のグラフはエラックSUB2090と0.47μFのコンデンサー一発でT350を乗せたF得です。

 この辺りがいい塩梅かな?という皆さんの意見でした。

 皆さんが帰られたあと、ベンプレ親父一人でいろいろ聴いてみましたが、もう少しハイのキラメキが欲しいかなーという事で、再度7.5KHzカットオフ、12db/octのネットワークに戻し、今度はアッテネーターを入れてみました。

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 上側のグラフはアッテネーターを全開にしたF得です。実はATT無しの時と比較すると、これでも少しハイが抑えられています。

 下側のグラフはアッテネーターを4db絞ったF得です。0.47μFコンデンサー1発、アッテネーター無しと、7.5KHzカットオフ、12db/oct、アッテネーター全開の中間ぐらいの高域のレベルです。

 聴感上、この辺がちょうど良い感じにベンプレ親父には聴こえます。

画像

 出来上がりのネットワーク写真です。見た目はあまり代わり映えしませんが、アッテネーターを高域の出力に入れています。励磁電源のケーブルを間違えて信号端子に繋がないように、グレー被覆のベルデンに変更しました。

 当面、これでしばらく行ってみましょう。エール振動板のエイジングが進めば、また変わってくるでしょう。

 11月に、本日こられた方の中の1名のオーディオルームを訪問させて頂ける事になりました。

 とても楽しみです。宜しくお願いします。
https://91683924.at.webry.info/201709/article_39.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/208.html#c144

[近代史3] 輸出企業が日本を滅ぼす _ 輸出超過額と対外資産が増える程 日本人はどんどん貧しくなっていく 中川隆
3. 中川隆[-11567] koaQ7Jey 2019年3月09日 11:54:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[426]

2019年03月09日
経常収支は赤字のほうが美味しい理由


アメリカの経常赤字が増えるほど、アメリカは経済成長している


画像引用:アメリカから日本はどう見えるか | 経済社会を知りたい:経済ニュースの背景をグラフで易しく解説しますhttp://3rdworldman.jugem.jp/?eid=59


経常収支黒字でも経済はマイナス

内閣府は3月8日、2018年10月から12月期GDPを前期比0.5%増、年率換算1.9%増に上方修正しました。

同時に財務省が発表した1月の国際収支は6004億円の黒字、貿易収支は9648億円の赤字となりました。

目を引くのは9648億円の貿易赤字で、輸出大国論によれば貿易赤字だと大変なことになるそうです。




経常収支は貿易以外の儲けを含む収支で、これが黒字のうちは「日本が儲けている」ことになります。

第1次所得収支が過去最高1兆7592億円の黒字で、海外からの株式配当金や利払い、海外での投資収益を差しています。

日本企業が海外進出したり海外企業を買収したり、投資家が海外投信に投資した収益もここに含まれています。


従来の経済解説では「日本は経常黒字で大儲けしている。良かった良かった」で終わるのだが、実は全然良くない。

日本の経常黒字が急激に増え始めたのは1990年代からで、増やしても増やしても日本の経済成長率はマイナスでした。

経済学者は「日本は経常黒字で儲かっている」と言うが、それが本当なら90年代から2000年代の日本は高度成長している筈です。

貿易・経常収支は赤字の方が儲かる

ところが実際に高度成長しているのは膨大な貿易赤字と経常赤字を抱えているアメリカで、日本とアメリカの経済格差が拡大しました。

「儲けている」筈の日本はどんどん貧しくなったのに、「損をした」筈のアメリカが経済成長したのはおかしい。

明らかに経常黒字の国が損をし、経常赤字の国が儲かるようなシステムが存在している筈です。


アメリカの貿易赤字は8000億ドル(約8.8兆円)前後で経常赤字は4000億ドル(約4.4兆円)前後もあるが、アメリカ経済は年平均2%以上成長しています。

日本の経常黒字は平均して年10兆円もあるのに、経済成長率は平均1%とアメリカの半分にとどまっています。

経常収支の年10兆円づつ日本が儲かったなら、それだけで90年代から300兆円も儲けた筈ですが、そんなお金はどこにも存在しません。


アメリカでは年4000億ドルの経常赤字だと必ず年4000億ドルの資本収支黒字になり、両者は釣り合っています。

資本収支とはお金のやり取りのことで、要するに4000億円毎年赤字だが、4000億円必ずお金がもらえるのでお金は減りません。

例えばトヨタがアメリカで車を売って100万円儲けたら、その100万円は日本に送金せずアメリカで再投資されます。


アメリカが4000億ドル経常赤字でもアメリカという国から1ドルもお金は減らず、損をしていません。

逆に日本は年間10兆円海外で儲けているが、そのお金は全額海外で再投資されていて、日本は1円も受け取っていません。

年10兆円儲けても儲けた10兆円は海外で利用されるので、日本は経常収支という数字が増えるだけでGDPは増えません


得をしているのはアメリカのような経常赤字国で、外国から年間40兆円の投資が増えているので、これがそのまま経済成長になります。

逆に日本は毎年10兆円海外に送金しているので、年10兆円経済が縮小したことになります。

このように貿易や海外投資でいくら黒字を増やしても、そのお金はアメリカなど海外で利用されるので、日本のGDPは増えないのです。
http://www.thutmosev.com/archives/79242540.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/187.html#c3

[リバイバル3] 廃墟と化した水上温泉 中川隆
129. 中川隆[-11566] koaQ7Jey 2019年3月09日 11:55:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[427]

2019年03月09日
経常収支は赤字のほうが美味しい理由


アメリカの経常赤字が増えるほど、アメリカは経済成長している


画像引用:アメリカから日本はどう見えるか | 経済社会を知りたい:経済ニュースの背景をグラフで易しく解説しますhttp://3rdworldman.jugem.jp/?eid=59


経常収支黒字でも経済はマイナス

内閣府は3月8日、2018年10月から12月期GDPを前期比0.5%増、年率換算1.9%増に上方修正しました。

同時に財務省が発表した1月の国際収支は6004億円の黒字、貿易収支は9648億円の赤字となりました。

目を引くのは9648億円の貿易赤字で、輸出大国論によれば貿易赤字だと大変なことになるそうです。




経常収支は貿易以外の儲けを含む収支で、これが黒字のうちは「日本が儲けている」ことになります。

第1次所得収支が過去最高1兆7592億円の黒字で、海外からの株式配当金や利払い、海外での投資収益を差しています。

日本企業が海外進出したり海外企業を買収したり、投資家が海外投信に投資した収益もここに含まれています。


従来の経済解説では「日本は経常黒字で大儲けしている。良かった良かった」で終わるのだが、実は全然良くない。

日本の経常黒字が急激に増え始めたのは1990年代からで、増やしても増やしても日本の経済成長率はマイナスでした。

経済学者は「日本は経常黒字で儲かっている」と言うが、それが本当なら90年代から2000年代の日本は高度成長している筈です。

貿易・経常収支は赤字の方が儲かる

ところが実際に高度成長しているのは膨大な貿易赤字と経常赤字を抱えているアメリカで、日本とアメリカの経済格差が拡大しました。

「儲けている」筈の日本はどんどん貧しくなったのに、「損をした」筈のアメリカが経済成長したのはおかしい。

明らかに経常黒字の国が損をし、経常赤字の国が儲かるようなシステムが存在している筈です。


アメリカの貿易赤字は8000億ドル(約8.8兆円)前後で経常赤字は4000億ドル(約4.4兆円)前後もあるが、アメリカ経済は年平均2%以上成長しています。

日本の経常黒字は平均して年10兆円もあるのに、経済成長率は平均1%とアメリカの半分にとどまっています。

経常収支の年10兆円づつ日本が儲かったなら、それだけで90年代から300兆円も儲けた筈ですが、そんなお金はどこにも存在しません。


アメリカでは年4000億ドルの経常赤字だと必ず年4000億ドルの資本収支黒字になり、両者は釣り合っています。

資本収支とはお金のやり取りのことで、要するに4000億円毎年赤字だが、4000億円必ずお金がもらえるのでお金は減りません。

例えばトヨタがアメリカで車を売って100万円儲けたら、その100万円は日本に送金せずアメリカで再投資されます。


アメリカが4000億ドル経常赤字でもアメリカという国から1ドルもお金は減らず、損をしていません。

逆に日本は年間10兆円海外で儲けているが、そのお金は全額海外で再投資されていて、日本は1円も受け取っていません。

年10兆円儲けても儲けた10兆円は海外で利用されるので、日本は経常収支という数字が増えるだけでGDPは増えません


得をしているのはアメリカのような経常赤字国で、外国から年間40兆円の投資が増えているので、これがそのまま経済成長になります。

逆に日本は毎年10兆円海外に送金しているので、年10兆円経済が縮小したことになります。

このように貿易や海外投資でいくら黒字を増やしても、そのお金はアメリカなど海外で利用されるので、日本のGDPは増えないのです。
http://www.thutmosev.com/archives/79242540.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/624.html#c129

[近代史3] 外国人が増えると嬉しいか? _ 外人観光客誘致は日本を貧しくしている 中川隆
4. 中川隆[-11565] koaQ7Jey 2019年3月09日 11:56:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[428]

2019年03月09日
経常収支は赤字のほうが美味しい理由


アメリカの経常赤字が増えるほど、アメリカは経済成長している


画像引用:アメリカから日本はどう見えるか | 経済社会を知りたい:経済ニュースの背景をグラフで易しく解説しますhttp://3rdworldman.jugem.jp/?eid=59


経常収支黒字でも経済はマイナス

内閣府は3月8日、2018年10月から12月期GDPを前期比0.5%増、年率換算1.9%増に上方修正しました。

同時に財務省が発表した1月の国際収支は6004億円の黒字、貿易収支は9648億円の赤字となりました。

目を引くのは9648億円の貿易赤字で、輸出大国論によれば貿易赤字だと大変なことになるそうです。




経常収支は貿易以外の儲けを含む収支で、これが黒字のうちは「日本が儲けている」ことになります。

第1次所得収支が過去最高1兆7592億円の黒字で、海外からの株式配当金や利払い、海外での投資収益を差しています。

日本企業が海外進出したり海外企業を買収したり、投資家が海外投信に投資した収益もここに含まれています。


従来の経済解説では「日本は経常黒字で大儲けしている。良かった良かった」で終わるのだが、実は全然良くない。

日本の経常黒字が急激に増え始めたのは1990年代からで、増やしても増やしても日本の経済成長率はマイナスでした。

経済学者は「日本は経常黒字で儲かっている」と言うが、それが本当なら90年代から2000年代の日本は高度成長している筈です。

貿易・経常収支は赤字の方が儲かる

ところが実際に高度成長しているのは膨大な貿易赤字と経常赤字を抱えているアメリカで、日本とアメリカの経済格差が拡大しました。

「儲けている」筈の日本はどんどん貧しくなったのに、「損をした」筈のアメリカが経済成長したのはおかしい。

明らかに経常黒字の国が損をし、経常赤字の国が儲かるようなシステムが存在している筈です。


アメリカの貿易赤字は8000億ドル(約8.8兆円)前後で経常赤字は4000億ドル(約4.4兆円)前後もあるが、アメリカ経済は年平均2%以上成長しています。

日本の経常黒字は平均して年10兆円もあるのに、経済成長率は平均1%とアメリカの半分にとどまっています。

経常収支の年10兆円づつ日本が儲かったなら、それだけで90年代から300兆円も儲けた筈ですが、そんなお金はどこにも存在しません。


アメリカでは年4000億ドルの経常赤字だと必ず年4000億ドルの資本収支黒字になり、両者は釣り合っています。

資本収支とはお金のやり取りのことで、要するに4000億円毎年赤字だが、4000億円必ずお金がもらえるのでお金は減りません。

例えばトヨタがアメリカで車を売って100万円儲けたら、その100万円は日本に送金せずアメリカで再投資されます。


アメリカが4000億ドル経常赤字でもアメリカという国から1ドルもお金は減らず、損をしていません。

逆に日本は年間10兆円海外で儲けているが、そのお金は全額海外で再投資されていて、日本は1円も受け取っていません。

年10兆円儲けても儲けた10兆円は海外で利用されるので、日本は経常収支という数字が増えるだけでGDPは増えません


得をしているのはアメリカのような経常赤字国で、外国から年間40兆円の投資が増えているので、これがそのまま経済成長になります。

逆に日本は毎年10兆円海外に送金しているので、年10兆円経済が縮小したことになります。

このように貿易や海外投資でいくら黒字を増やしても、そのお金はアメリカなど海外で利用されるので、日本のGDPは増えないのです。
http://www.thutmosev.com/archives/79242540.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/185.html#c4

[近代史3] 日本や中国のバブルは簡単に崩壊するけれど、アメリカのバブルだけは絶対に崩壊しない理由 中川隆
6. 中川隆[-11564] koaQ7Jey 2019年3月09日 11:59:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[429]

2019年03月09日
経常収支は赤字のほうが美味しい理由


アメリカの経常赤字が増えるほど、アメリカは経済成長している


画像引用:アメリカから日本はどう見えるか | 経済社会を知りたい:経済ニュースの背景をグラフで易しく解説しますhttp://3rdworldman.jugem.jp/?eid=59


経常収支黒字でも経済はマイナス

内閣府は3月8日、2018年10月から12月期GDPを前期比0.5%増、年率換算1.9%増に上方修正しました。

同時に財務省が発表した1月の国際収支は6004億円の黒字、貿易収支は9648億円の赤字となりました。

目を引くのは9648億円の貿易赤字で、輸出大国論によれば貿易赤字だと大変なことになるそうです。




経常収支は貿易以外の儲けを含む収支で、これが黒字のうちは「日本が儲けている」ことになります。

第1次所得収支が過去最高1兆7592億円の黒字で、海外からの株式配当金や利払い、海外での投資収益を差しています。

日本企業が海外進出したり海外企業を買収したり、投資家が海外投信に投資した収益もここに含まれています。


従来の経済解説では「日本は経常黒字で大儲けしている。良かった良かった」で終わるのだが、実は全然良くない。

日本の経常黒字が急激に増え始めたのは1990年代からで、増やしても増やしても日本の経済成長率はマイナスでした。

経済学者は「日本は経常黒字で儲かっている」と言うが、それが本当なら90年代から2000年代の日本は高度成長している筈です。

貿易・経常収支は赤字の方が儲かる

ところが実際に高度成長しているのは膨大な貿易赤字と経常赤字を抱えているアメリカで、日本とアメリカの経済格差が拡大しました。

「儲けている」筈の日本はどんどん貧しくなったのに、「損をした」筈のアメリカが経済成長したのはおかしい。

明らかに経常黒字の国が損をし、経常赤字の国が儲かるようなシステムが存在している筈です。


アメリカの貿易赤字は8000億ドル(約8.8兆円)前後で経常赤字は4000億ドル(約4.4兆円)前後もあるが、アメリカ経済は年平均2%以上成長しています。

日本の経常黒字は平均して年10兆円もあるのに、経済成長率は平均1%とアメリカの半分にとどまっています。

経常収支の年10兆円づつ日本が儲かったなら、それだけで90年代から300兆円も儲けた筈ですが、そんなお金はどこにも存在しません。


アメリカでは年4000億ドルの経常赤字だと必ず年4000億ドルの資本収支黒字になり、両者は釣り合っています。

資本収支とはお金のやり取りのことで、要するに4000億円毎年赤字だが、4000億円必ずお金がもらえるのでお金は減りません。

例えばトヨタがアメリカで車を売って100万円儲けたら、その100万円は日本に送金せずアメリカで再投資されます。


アメリカが4000億ドル経常赤字でもアメリカという国から1ドルもお金は減らず、損をしていません。

逆に日本は年間10兆円海外で儲けているが、そのお金は全額海外で再投資されていて、日本は1円も受け取っていません。

年10兆円儲けても儲けた10兆円は海外で利用されるので、日本は経常収支という数字が増えるだけでGDPは増えません


得をしているのはアメリカのような経常赤字国で、外国から年間40兆円の投資が増えているので、これがそのまま経済成長になります。

逆に日本は毎年10兆円海外に送金しているので、年10兆円経済が縮小したことになります。

このように貿易や海外投資でいくら黒字を増やしても、そのお金はアメリカなど海外で利用されるので、日本のGDPは増えないのです。
http://www.thutmosev.com/archives/79242540.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/121.html#c6

[近代史3] もうすぐ氷河時代が来る証拠 中川隆
9. 中川隆[-11563] koaQ7Jey 2019年3月09日 12:05:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[430]


2019年3月9日
【竹村公太郎】気象の狂暴化に対する方策はあるか? 
 https://38news.jp/default/13317   

気象の狂暴化

理由は何であれ、温暖化は確実に進んでいる。温暖化により気象は狂暴になり次々と日本列島に襲いかかってくる。

気象の狂暴化とは、今までに経験したことのない異常豪雨と異常渇水を指す。(図―1)


(図―1)の、100年間の降雨量のデータでみるとその傾向が見えてくる。

降雨量の傾向は、多い年と少ない年の変動の巾が大きくなっている。気象の狂暴化とは、豪雨と大渇水が交代で襲ってくることだ。さらに、その頻度と時期が全く予測不可能なところが、気象の狂暴化の特長となる。

洪水に関する防災計画は、ある定まった予測手法に基づいて行われる。定まった予測手法とは、過去の100年オーダーの長期雨量データを基にして、その降雨量実績が将来も繰り返しされるであろう、という前提に立った予測手法である。

分かりやすく云うと、100年に1度の豪雨というのは、過去100年間の観測データの中でN0.1の豪雨をいう。気象が狂暴化するというのは、過去100年に発生した最大規模の豪雨が、10年ごと、いや極端にいうと2〜3年で襲ってくることを意味する。
それは豪雨だけではない、大渇水に関しても同じことである。

つまり、気象の狂暴化が進行していく将来、過去の実績データを基にして計画し、整備したインフラでは発生する水災害に対しては対応できないということなのだ。

気象の狂暴化に備えての対応策

水災害のインフラは、過去のデータを使って計画し、戦後70年間かけて整備してきた。しかし、近年の気象の狂暴化に伴い、その水災害のインフラ計画を見直さなければならなくなっている。計画の見直しをするだけではなく、実際にそれに即して新しい計画を実践していかなければならない。

計画を見直すことはできる。しかし、それを実践していくことは容易ではない。なにしろこの70年間で日本の都市は大きく発展し、人口と資産が集中した。この都市を守るため、住居やビルが密集した都市内で河川の幅を広げ、洪水流下能力を増大させる工事は困難を極める。

東京都中央区虎ノ門〜新橋間のたった1.4qのマッカーサー道路でさえ、計画決定から68年もかかってやっと概成したのを見ればわかる。

都市を洪水から守る方法は、都市郊外で遊水池を作るか、山の中でダムを造って洪水を留める手法がある。都市郊外で遊水池を造る候補地も住宅開発が著しい。山の中で新しいダムを造るのは、費用と社会的状況から容易ではない。

しかし、方法がある。既存ダムの運用変更とダムの嵩上げである。

ダム運用の工夫
台風や豪雨の予測技術は急速に進歩した。洪水が襲ってくる以前にその情報は得られる。

(図―2)


(図―2)は台風進路の予測の事例である。大規模な洪水が来ると予測されれば、ダムの貯水を事前に下げておけばよい。ダムの建設を新たにしなくても、ダムの改造とダムの運用で洪水を貯め込む容量を増加させる。

具体的なダム運用の1例を述べる。洪水の初期段階で洪水を貯める量を少なくして、ダム下流に放流していく。洪水が次第に大きくなってくる段階で、ダムの洪水量に応じて放流量を高めていき、洪水のピークゾーンを貯め込んでいく。ダム流入の洪水がピークを過ぎた不段階では、次の台風などが来襲しない限り、ダム流入量を貯め込んでいく。。

要は、洪水の初期ではなるべくダムに貯留せず、ダムの空容量を確保する操作を行う。洪水の後期では、次の台風が来ない限りダムに洪水を貯留して、その水を最大限に利用していく操作である。

そのためには、初期の洪水を貯留せずに、洪水をスムースに下流に流すために、新たに放流管を設置する改造が必要となることがある。

このようなダム改造と運用により、既存ダムを洪水調節で最大限利用し、かつ、貯水量を発電エネルギーなどで最大限利用できる。

既存ダムの嵩上げ

ダム運用は気象予測の精度に基づくため、その効果の範囲は限定的である。ところが、新しいダムを造るのと同じ効果がある決定的な方法がある。それは既存ダムの嵩上げである。

(図―3)


(図―3)はダム嵩上げの事例である。ダムの上部標高は面積的に大きく広がっている。この夕張シューパロダムの嵩上げの例では、43mの嵩上げで、新たに3億4千万m3のダム容量が生まれている。既存ダムの高さ1m当たり容量価値は1.3百万m3であったが、ダム嵩上げの高さ分の1m当たりの容量価値は7倍の9.2百万m3となっている。

また、この既存ダムの嵩上げの建設費は圧倒的に低い。なぜなら、ダム水没に係る補償費は支払い済みである。ダム建設事業費の5分の4は水没補償や、付け替え鉄道、付け替え国道などのダム水没に関連する対策費である。既存ダムの嵩上げは、それが免除されるので工事費は圧倒的に安くなる。

なお、既存ダムの嵩上げはすでに多くの実績があり、嵩上げ技術も確立されている。

既存ダムの嵩上げにより、新たな貯水容量が生まれる。その貯水容量を利用して、洪水を貯め込む治水容量としたり、水力発電のための容量としたり、下流の水道、農業用水などへの補給のための利水容量となる。

狂暴な大洪水、異常な渇水が襲ってきても、この手法で日本国土の安全性ははるかに向上していく。

ダムの運用変更、既存ダムの嵩上げは、未来の狂暴化する気象に対して最も素早く対応できる有効な手法である。既存ダムは未来の日本国民の貴重な財産となっていく。
https://38news.jp/default/13317
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/202.html#c9

[昼休み54] 発電をすべて原子力にしなければ地球温暖化で地球の気温は250℃になる 中川隆
47. 中川隆[-11562] koaQ7Jey 2019年3月09日 12:05:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[431]


2019年3月9日
【竹村公太郎】気象の狂暴化に対する方策はあるか? 
 https://38news.jp/default/13317   

気象の狂暴化

理由は何であれ、温暖化は確実に進んでいる。温暖化により気象は狂暴になり次々と日本列島に襲いかかってくる。

気象の狂暴化とは、今までに経験したことのない異常豪雨と異常渇水を指す。(図―1)


(図―1)の、100年間の降雨量のデータでみるとその傾向が見えてくる。

降雨量の傾向は、多い年と少ない年の変動の巾が大きくなっている。気象の狂暴化とは、豪雨と大渇水が交代で襲ってくることだ。さらに、その頻度と時期が全く予測不可能なところが、気象の狂暴化の特長となる。

洪水に関する防災計画は、ある定まった予測手法に基づいて行われる。定まった予測手法とは、過去の100年オーダーの長期雨量データを基にして、その降雨量実績が将来も繰り返しされるであろう、という前提に立った予測手法である。

分かりやすく云うと、100年に1度の豪雨というのは、過去100年間の観測データの中でN0.1の豪雨をいう。気象が狂暴化するというのは、過去100年に発生した最大規模の豪雨が、10年ごと、いや極端にいうと2〜3年で襲ってくることを意味する。
それは豪雨だけではない、大渇水に関しても同じことである。

つまり、気象の狂暴化が進行していく将来、過去の実績データを基にして計画し、整備したインフラでは発生する水災害に対しては対応できないということなのだ。

気象の狂暴化に備えての対応策

水災害のインフラは、過去のデータを使って計画し、戦後70年間かけて整備してきた。しかし、近年の気象の狂暴化に伴い、その水災害のインフラ計画を見直さなければならなくなっている。計画の見直しをするだけではなく、実際にそれに即して新しい計画を実践していかなければならない。

計画を見直すことはできる。しかし、それを実践していくことは容易ではない。なにしろこの70年間で日本の都市は大きく発展し、人口と資産が集中した。この都市を守るため、住居やビルが密集した都市内で河川の幅を広げ、洪水流下能力を増大させる工事は困難を極める。

東京都中央区虎ノ門〜新橋間のたった1.4qのマッカーサー道路でさえ、計画決定から68年もかかってやっと概成したのを見ればわかる。

都市を洪水から守る方法は、都市郊外で遊水池を作るか、山の中でダムを造って洪水を留める手法がある。都市郊外で遊水池を造る候補地も住宅開発が著しい。山の中で新しいダムを造るのは、費用と社会的状況から容易ではない。

しかし、方法がある。既存ダムの運用変更とダムの嵩上げである。

ダム運用の工夫
台風や豪雨の予測技術は急速に進歩した。洪水が襲ってくる以前にその情報は得られる。

(図―2)


(図―2)は台風進路の予測の事例である。大規模な洪水が来ると予測されれば、ダムの貯水を事前に下げておけばよい。ダムの建設を新たにしなくても、ダムの改造とダムの運用で洪水を貯め込む容量を増加させる。

具体的なダム運用の1例を述べる。洪水の初期段階で洪水を貯める量を少なくして、ダム下流に放流していく。洪水が次第に大きくなってくる段階で、ダムの洪水量に応じて放流量を高めていき、洪水のピークゾーンを貯め込んでいく。ダム流入の洪水がピークを過ぎた不段階では、次の台風などが来襲しない限り、ダム流入量を貯め込んでいく。。

要は、洪水の初期ではなるべくダムに貯留せず、ダムの空容量を確保する操作を行う。洪水の後期では、次の台風が来ない限りダムに洪水を貯留して、その水を最大限に利用していく操作である。

そのためには、初期の洪水を貯留せずに、洪水をスムースに下流に流すために、新たに放流管を設置する改造が必要となることがある。

このようなダム改造と運用により、既存ダムを洪水調節で最大限利用し、かつ、貯水量を発電エネルギーなどで最大限利用できる。

既存ダムの嵩上げ

ダム運用は気象予測の精度に基づくため、その効果の範囲は限定的である。ところが、新しいダムを造るのと同じ効果がある決定的な方法がある。それは既存ダムの嵩上げである。

(図―3)


(図―3)はダム嵩上げの事例である。ダムの上部標高は面積的に大きく広がっている。この夕張シューパロダムの嵩上げの例では、43mの嵩上げで、新たに3億4千万m3のダム容量が生まれている。既存ダムの高さ1m当たり容量価値は1.3百万m3であったが、ダム嵩上げの高さ分の1m当たりの容量価値は7倍の9.2百万m3となっている。

また、この既存ダムの嵩上げの建設費は圧倒的に低い。なぜなら、ダム水没に係る補償費は支払い済みである。ダム建設事業費の5分の4は水没補償や、付け替え鉄道、付け替え国道などのダム水没に関連する対策費である。既存ダムの嵩上げは、それが免除されるので工事費は圧倒的に安くなる。

なお、既存ダムの嵩上げはすでに多くの実績があり、嵩上げ技術も確立されている。

既存ダムの嵩上げにより、新たな貯水容量が生まれる。その貯水容量を利用して、洪水を貯め込む治水容量としたり、水力発電のための容量としたり、下流の水道、農業用水などへの補給のための利水容量となる。

狂暴な大洪水、異常な渇水が襲ってきても、この手法で日本国土の安全性ははるかに向上していく。

ダムの運用変更、既存ダムの嵩上げは、未来の狂暴化する気象に対して最も素早く対応できる有効な手法である。既存ダムは未来の日本国民の貴重な財産となっていく。
https://38news.jp/default/13317
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/140.html#c47

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
52. 中川隆[-11561] koaQ7Jey 2019年3月09日 13:53:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[432]

kaz********さん 2012/11/4 10:43:21

よく中島みゆきさんの【御乱心時代】という言葉をききますが…

この【御乱心時代】とはどういう時代(曲?)何でしょうか?


アンサー


mot********さん 2012/11/5 10:37:54

【御乱心時代】というのは、後にみゆきさん自身がこの頃を振り返って、そう表現した言葉のようです。

みゆきさんがデビューした頃から1980年代に入り、世のミュージックシーンは変革の潮流が顕著でした。

具体的に何かというと、それはサウンド面でした。

それまでのギターやドラム、パーカッションというものに加え、シンセサイザーやコンピューターでプログラミングされたリズム編成などが台頭してきたんです。
この流れは世界的なもので、ローリングストーンズやポールマッカートニーですら当時唖然とするような作品を残しています。

みゆきさんも、この潮流に抗うことはできなかったのかもしれないし、それまでの自らの暗く重厚な作風を変えようという試行錯誤もこの頃からしています。

そしてこの時代を超えて、瀬尾一三という名プロデューサーとタッグ組み現在に至ります。

該当するアルバムでいうと、

.はじめまして
.中島みゆき
.miss M
.36℃

などが、それにあたるようです。

曲でいうと、シングルカットされた

.御機嫌如何
.あたいの夏休み


を聞くと分かると思います。
どれもかなり大胆なサウンドですが、今聞いても良い曲ですよ。

sou********さん 2012/11/4 23:21:15

みゆきさんが新しい音楽の模索を始めた時期のことです。

一般的には1984年の11thアルバム「はじめまして」から1988年の15thアルバム「中島みゆき」までと言われています。

定義についてはもうこれ以上書くことを思いつきませんので、あとは徒然に僕が思ったことを…

8thアルバム「臨月」9thアルバム「寒水魚」が初期のサウンドの完成形だったのだと思います。まあこのアルバムの悪女のアレンジは既にちょっと似つかわしくないものがあったのですが…

10th「予感」で曲の雰囲気が相当変わります。僕がよく使う言葉なのですが「無機質」な感じなんです。個人的には1st「私の声が聞こえますか」,2nd「みんな去ってしまった」の歌い方も無機質に思えるのですが、

予感の歌い方はより温かみがあって無機質の中にどこか可愛らしさを内包しており、逆に最初の二枚のアルバムはツンとすましたような感じで微妙に違うわけです。全部僕の主観ですが。

更に予感は全体を通じてドラムスの音を強調しているのも無機質に感じる理由だと思います。
まあとにかくこのアルバムから何か新境地を開拓しようとしている感はします。

で次に「はじめまして」がリリースされるわけですが、これは、従来の良い意味での「古っぽさ」を意図的に取っ払ったような編曲なんですね。

例えば「ひとり」という曲はシングルカットされていますが、これはいわば今までのみゆきさん風アレンジなんです。でもアルバムになると歌い方も編曲もちょっとカッコ良くなった?と思える…何というか歌の主人公が少女から女性に成長したようなイメージです。

ほか「幸福論」「不良」などは今までにないロック調で、「はじめまして」も明るくPOPであり暗いイメージを完全に払拭せんとする意気込みを感じます。

16th「グッバイガール」が御乱心の時代の終焉を告げるアルバムと呼ばれるのは、このアルバムから現在のプロデューサーである瀬尾一三さんになったからです。
まあご乱心の時代が終わっても初期のみゆきさんの雰囲気に戻ることはもうありませんでしたが、それはサウンドもそうですが歌い方が変わったのが大きいでしょうね。

ファンなので勿論全時代好きなのですが、御乱心の世代の時期の曲は相当お気に入りですよ。

逆に36thアルバム「DRAMA!」から今に至るまでが二度目の御乱心の時代の気がしますが…ファンの中でも賛否両論あるこのアルバム、僕は結構好きなんですけど。

アルバムに関しては一枚一枚それぞれ語りたいことが沢山ありすぎまして。

ナイス 5


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. . .

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qui********さん 2012/11/4 18:49:51

実はこれ、本人が御命名されたのですが、具体的な時期は人によって見解が変わったりします ただ、入った、と言う時期はほぼ一致しており、アルバム『はじめまして』のリリース以降、抜けた時期が『36.5℃』あたりまで、の説と、『グッバイガール』くらいまで(Wikipediaはこちら)、の説があります

それまでのフォーク・アコースティック基調の作風がガラリと変わり、ロック色が強かったり、わざと癖のある歌い方をしたり、海外スタッフを多用したり…アルバムによって出来や作風がガラリと変わるような時期でした

そのため、昔からのファンや、『悪女』あたりからのファンがかなり離れてしまいました

本人もこの時期が、迷走に近い状況であった事を自覚しており、何をしでかすかわからない、と言う感じを自虐的な意味で『御乱心』と呼んだのです

ただ、夜会を始めたのはこの頃ですし、文部省の国語審議官に選ばれたり、歌詞集やエッセイ、小説等を本格的に始めたのもこの頃でした また、ロックっぽい歌い方や夜会への対応から、ボイストレーニングをやり直したのもこの時期で、音楽と向き合うために長年務めたオールナイト・ニッポンを降板したのも、この頃


とにかく、御乱心の時代とは、みゆきさんが変わろうと色々チャレンジしていた時代で、その頃のユーミンは、一番時代の先端で、時代がユーミンに追い付いたような、そんな時期でした

ちなみに私個人は、この頃のアルバム、結構好きです 特に『36.5℃』は傑作だと思ってます!
また、この頃があったから、みゆきさんは未だ現役第一線でやっていけてるんだと思ってますけどね

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1496682869

中島みゆきさんもこの時期に音楽の専門的な勉強をキチンとしておけば、今みたいな有様にはならなかったんですけどね。

せっかくあれだけの才能が有ったのに勿体なかったですね。
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c52

[昼休み54] ゴーン逮捕で仏マクロンの謀略を潰した日本政府 中川隆
152. 中川隆[-11560] koaQ7Jey 2019年3月09日 14:24:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[433]
日産はホンダより欧州で売れているがやはり生産能力が過剰なようで、生産能力縮小が報道されています。

3交代体制から2交代体制にして従業員を減らすそうで、工場そのものの縮小や閉鎖は避ける。

ルノー日産は余っているルノー工場で日産車を生産して日産に買い取らせていて、これが日産内の不満が爆発する一因になった。
http://www.thutmosev.com/archives/79223624.html
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/323.html#c152

[昼休み54] カルロス・ゴーンは所得税をゼロにする為に世界各地の日産所有豪邸を転々としていた 中川隆
25. 中川隆[-11559] koaQ7Jey 2019年3月09日 14:26:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[434]
日産はホンダより欧州で売れているがやはり生産能力が過剰なようで、生産能力縮小が報道されています。

3交代体制から2交代体制にして従業員を減らすそうで、工場そのものの縮小や閉鎖は避ける。

ルノー日産は余っているルノー工場で日産車を生産して日産に買い取らせていて、これが日産内の不満が爆発する一因になった。

自前の工場を停止させてまで親会社のルノーに生産させ、それを高額で日産に買い取らせている。

それはともかく日産のイギリス工場は合意なきEU離脱で生産台数を減らすことになる。
http://www.thutmosev.com/archives/79223624.html
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/333.html#c25

[昼休み54] ゴーン逮捕で仏マクロンの謀略を潰した日本政府 中川隆
153. 中川隆[-11558] koaQ7Jey 2019年3月09日 14:26:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[435]
日産はホンダより欧州で売れているがやはり生産能力が過剰なようで、生産能力縮小が報道されています。

3交代体制から2交代体制にして従業員を減らすそうで、工場そのものの縮小や閉鎖は避ける。

ルノー日産は余っているルノー工場で日産車を生産して日産に買い取らせていて、これが日産内の不満が爆発する一因になった。

自前の工場を停止させてまで親会社のルノーに生産させ、それを高額で日産に買い取らせている。

それはともかく日産のイギリス工場は合意なきEU離脱で生産台数を減らすことになる。
http://www.thutmosev.com/archives/79223624.html
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/323.html#c153

[昼休み52] 名張ぶどう酒毒殺事件の真犯人は? 中川隆
37. 中川隆[-11557] koaQ7Jey 2019年3月09日 16:51:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[436]

名張毒ぶどう酒事件 冤罪と死刑 -冤罪事件から日本の死刑制度賛否について考える

@事件概要

名張毒ぶどう酒事件とは、1961年3月28日の夜、三重県名張市葛尾(くずお)地区の公民館で起きた5人が死亡した集団毒殺事件。三角関係の清算を犯行の動機とされ、容疑者の奥西勝(おくにし まさる)さんが4月3日に逮捕され、その後起訴された。奥西さんは、当初、自身の妻による犯行を主張も、後に農薬混入を自白したが、逮捕後は否認に転じた。

昭和39年一審の津地裁で「無罪」になるが、昭和44年二審の名古屋高裁では「死刑」という全く正反対の判決が出た。1972年6月に最高裁で死刑判決が確定した。

死刑確定後も裁判のやり直しを求め続けた。弁護団が2015年5月にも第9次の再審請求をして、新証拠を提出していた。

2015年10月4日、収監されていた東京都の八王子医療刑務所で死亡した。89歳だった。収監期間はなんと43年に及んだ。

A事件の考察

この事件が冤罪と思われる主な5点について見ていくことにする。

1、ニッカリンTの様々な矛盾

2、王冠の傷

3、村人の供述の奇妙な変更

4、奥西勝さんのアリバイ

5、奥西勝さんの自白の信憑性
http://enzai-shikei.com/blog/224/


名張毒ぶどう酒事件 その2
http://enzai-shikei.com/blog/225/


では、順に。

1、ニッカリンTの様々な矛盾

1)ニッカリンTの色(赤)についての矛盾

まず事件の懇親会で出されたぶどう酒の色は白であった。それに対して、犯行に使われたとされる奥西さんの家にあったニッカリンTの色は赤であったことが再審において明らかになっている。


(画像 東海テレビ 『約束』 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯 から引用)

事件で使われたとされる農薬の「ニッカリンT」と同じもの。赤色であることが表記されている

白のぶどう酒に赤のニッカリンT(左写真)を入れていたなら、ワインの色が明らかに赤っぽくなることが弁護団の実験で証明された(右写真)。


弁護団による白のワインに赤のニッカリンTを入れた実験 (画像 東海テレビ 『約束』 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯 から引用)

上の写真の通り、明らかに白ワインの色が赤色の変化している

しかし、生き残った人は全員、出されたぶどう酒の色は白だったと証言している。本当に赤いニッカリンTがぶどう酒に混入されたのかと疑わざるを得ない。

しかも、事件の直前に奥西さんは公民館で村の女性Fさんからぶどう酒の色を聞かれて、その際に包装紙を外して見せているのである。そしてそのぶどう酒を見たFさんは「白やなあ、美味しいなあ」と言ったと証言している(この証言は、昭和三十六年四月八日付検察官調書に記載もされている)。

もし奥西さんが犯人であれば、赤のニッカリンTをワインの中に入れた後、わざわざ包装紙を外してまで、ワインの色を、これからその毒入りワインを飲ませるであろう女性に見せるだろうか。

万一不審な点を見抜かれたら、まずいことになると考えるのが普通だろう。この点は不自然としか言いようがない。この矛盾は放置されたままである。

2)ニッカリンTの瓶が見つかっていない

このニッカリンTの瓶は、奥西さんの供述では、名張川に投げ込んだとされた。4月3日に三重県警捜査本部16人と地元消防団員45人が動員されて、かなり大掛かりな名張川の捜索を行ったが、瓶らしきものは見つからなかった。12日まで捜索は行われたが結局何も瓶らしきものは一切見つからなかった。
http://enzai-shikei.com/blog/225/


名張毒ぶどう酒事件 その3
http://enzai-shikei.com/blog/226/

3)毒ぶどう酒の成分分析について

ニッカリンTは、テップ剤と呼ばれる農薬であるが、ニッカリンTの製造方法では、主成分のテップの他、製造工程で発生する不純物(トリエチルピロリン酸(トリエチルピロホスフェート))が含まれている。

しかし、毒物が混入されていたぶどう酒の飲み残りからは、この不純物が検出されていないのである。テップとテップが加水分解した物質であるデップ(DEP)が検出されているものの、トリエチルピロリン酸(トリエチルピロホスフェート)は検出されていない。

(※加水分解: 反応物に水が反応し、分解生成物が得られる反応のこと)


(名張毒ぶどう酒事件 奥西さんを守る東京の会HPより引用)

【図の解説】

図の左側の1が飲み残りのぶどう酒を検査した結果である。これにはトリエチルピロリン酸の反応はない。それに比べて、テップ剤を入れた他の検査結果には、トリエチルピロリン酸の反応がある。


(東海テレビ 『約束』 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯 から引用)

この不純物のトリエチルピロリン酸が検出されなかった理由について、当時の鑑定人は加水分解速度が非常に速く、それにより消失したと説明していた。

しかし後に、弁護団の調査・研究を積み重ねた結果、ニッカリンTには、製造後30年を経過しても15%以上のトリエチルピロリン酸が含まれており、このトリエチルピロリン酸の加水分解速度はテップ剤と比較すると非常に遅いことがわかったのである。

さらに弁護団は、この点を明らかにするために農化学の専門家の京都大学教授、宮本恒氏に鑑定を依頼した。以下が宮本教授の実験、鑑定データである。


ニッカリンTに水を加えて2日間放置した結果

テップ 28.8% → 2.1%
不純物(トリエチルピロリン酸)
15.1% → 11.6%


ニッカリンTにエタノール溶液を加えて2日間放置した結果

テップ 29.0% → 12.0%
不純物(トリエチルピロリン酸) 14.6% → 12.5%

(京都大学教授 宮川恒氏の実験、鑑定:冤罪ファイルNo6 2009年6月号から参照)

これらのデータから、テップは加水分解されて激減しているのに対して、不純物トリエチルピロホスフェートの減り方はかなり少ないのがわかる。エタノール溶液の場合もしかりである。

つまり、飲み残りのぶどう酒からテップが検出されているにも関わらず、それよりも加水分解スピードの遅いトリエチルピロリン酸が検出されていないということは、当時の鑑定人の説明には無理があることになる。

事件に使われた農薬は奥西さんが所有していたニッカリンTではない可能性が高いのではないか。何か別のテップ剤が使われた可能性が高まったことになる。

尚、当時市販されていた別のテップ剤の製造方法では、トリエチルピロリン酸が生成されない。この事実を見ても、やはり犯行に使われたニッカリンTでないのではと言わざるを得ない。これだけでも無罪になりそうな重大な内容ではないだろうか。
http://enzai-shikei.com/blog/226/

名張毒ぶどう酒事件 その4
http://enzai-shikei.com/blog/227/

2、王冠の傷

次に、死刑判決の決め手となった最大で唯一の物証となっている王冠の傷について考えてみたい。


事件現場の公民館でみつかったぶどう酒の王冠 (東海テレビ 『約束』 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯 から引用)

この王冠の傷についての鑑定にも重大な疑惑があるのである。

奥西さんは、逮捕されたときにぶどう酒の王冠を歯で噛んで開けたと自白したことになっている。


再現の写真 (東海テレビ 『約束』 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯 から引用)


(画像 東海テレビ 『約束』 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯 から引用)

これは、裁判で採用された松倉豊治教授の王冠の鑑定の写真である。

現場から見つかった証拠の王冠の傷の一つ(右)が、奥西さんが捜査中に再現で王冠を噛んでできた傷(左)と一致するとして、上のような写真が提出されている。

確かにこの写真では奥西さんの歯形と公民館から発見された王冠の傷がよく似ているように見える。

ところが後に重大な事実が発覚する。なんと上の二つの写真の倍率が2倍も違っていた疑いが強まったのである。

実際には


(画像 東海テレビ 『約束』 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯 から引用)

ではなく


正しい倍率での2つの歯形の比較写真 (画像 東海テレビ 『約束』 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯 から引用)

であったということだ・・・。

この写真では、形は似ているが大きさが全く違うのである。どう考えても同じ歯形と言え無いだろう。

さらに弁護団は、王冠の傷跡を平面写真では比較するだけでは不十分と考え、この王冠の最新の科学技術の鑑定を日本大学の土生博義助教授に依頼した。土生教授は、王冠について最新技術を使った三次元解析を行って、二つの王冠の傷を比較したのである。
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名張毒ぶどう酒事件 その5
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(画像 東海テレビ 『約束』 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯 から引用)

その結果、この写真の通り一目瞭然、傷の形、深さなど全く違うことがわかったのである。

この現状で、これが死刑判決の物証になるのは不合理過ぎると言わざるを得ない。

さらに王冠の足についても触れておく。






(画像 東海テレビ 『約束』 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯 から引用)

この王冠は4本の足で瓶の頭部を塞いでいる。


(画像 東海テレビ 『約束』 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯 から引用)

4本の足ののうち3本は、L字型になっているのに対して、1本だけかなりぐっと曲がっているのである。

これが、奥西さんの自白通り歯で噛んで開けたときに生じる曲がりだろうか・・・

弁護団は、塑性力学の専門家の名古屋大学の石川孝司教授にこの王冠の足の部分の鑑定を依頼した。

コンピュータ解析を結果は、栓抜きのような物を横から押し当てた時に、形成可能であると判明した。そして石川教授は、歯で噛んだ場合の点接触では、力の痕跡が残りやすく、この王冠は歯でないと明言した。

また、弁護団は、自ら王冠の現物を全く同じ材質で作って実験してみたのである。まったく同じ王冠を再現して実際に奥西さんが自白したとされる全く方法で歯で噛んでこのような曲がりが作れるかどうか実験してみたのである。


画像 東海テレビ 『約束』 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯 から引用)

この実験を10人が10回ずつ行ったのである。その結果、奥西さんが歯で噛んだとされた王冠のようにつぶれて曲がる物は一つも無かったのである。


(画像 東海テレビ 『約束』 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯 から引用)

当たり前だが、この奥西さんが噛んだとされる王冠のように極端に、しかも曲がりの面が平行にくらいまで綺麗に曲がるためには栓抜きを使わないとできないだろう、実際の栓抜きで開けた実験もやっている。以下がその際の写真である






(画像 東海テレビ 『約束』 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯 から引用)

見ての通り、ほぼ同じになった。証拠品は歯で空けたのではなく、栓抜きが使われた可能性が極めて高い。これが死刑判決の証拠になり得るのか・・・・

3、村人の供述の奇妙な変更

死刑判決は、奥西さんだけが犯行が可能であると認定しているが、これについて検証してみたい。特に以下の2点が重要である。

@ぶどう酒が届いた時間

A村人の供述の変更

事件当日の重要事項の流れをまとめて見る。

日・時間

内容


3/28朝

1)三奈の会会長のAさんが農協職員Eさんにぶどう酒を買うことを指示する

(ぶどう酒を懇親会で出すことを決めたのは事件当日3/28の朝であった)

15時20分頃

(→17時頃に変更)

2)EさんはM酒店で清酒2本とぶどう酒1本を購入して、会長Aさん宅に運んだ。受け取ったのは会長A氏の妻Bさん(事件で死亡)であった

17時20分頃

3)奥西さんが会長宅に来て、清酒2本とぶどう酒1本を持って公民館に運んだ

@のぶどう酒が会長宅に届いた時間は、事件当初は遅くとも15時20分頃とされていた。この場合は、ぶどう酒は会長宅に2時間近くも置かれていたことになり、奥西さん以外にも農薬を入れる時間があったことになる。

ところが奥西さんが、自白を初めてから2週間後に、これらの関係者の供述が一斉に変更されることになる。



事件直後の供述

事件から2週間以後の供述


Eさん

14時5分頃、M酒店で清酒2本とぶどう酒1本を買って、14時半〜15時頃に会長宅に届けた

清酒2本とぶどう酒1本を買って会長宅に届けたのは、17時頃であった。

M酒店

Eさんに清酒2本とぶどう酒1本を売ったのは14時半〜15時過ぎ

16時過ぎではなかったかといわれると、あるいはそうかもしれないと考えてしまう・・・。昼ご飯と晩ご飯の間であるということは間違いありませんが・・。

Tさん

初期の調書はなぜか公開されていない

会長の妻Bさんとともに17時5分〜17時10分頃にIさんから受け取ったと思う

(Tさんは、会長Aさんの実の妹であり、清酒2本とぶどう酒をEさんから、会長の妻Bさんとともの受け取ったとされる人物である)

奥西さんが自白した後に、このように村人の証言が一斉に変更されるのは、あまりにもおかしいのではないか。詳細は書かないが、その証言の変更の合理的な説明もほとんどないに等しい。

しかも、その変更は、全てぶどう酒に農薬を入れることができたのは、奥西さんしかいないとする奥西犯人説を肯定する物になっている。

常識的に考えても、事件直後の記憶の方が2週間後の記憶より正確ではないか。

しかし、死刑判決は、この2週間後の供述を全て採用しているのである。
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名張毒ぶどう酒事件 その6
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4、奥西さんのアリバイ 

裁判では、奥西さんはぶどう酒を会長宅から公民館に運んだあと、10分間公民館に1人でいたと、そしてこの10分の間にぶどう酒に農薬を入れたとされている。

しかし、奥西さんは、最初から「10分間、1人で公民館にいたことはない」と訴え続けている。

この「10分間が存在した」との裁判所の認定の根拠になっているのは、以下のようなSさんの証言である。要約すると

「私は17時頃家を出た。会長宅に着いて奥西さんと一緒に公民館に行った。この時奥西さんはぶどう酒を持っていた。公民館に行くと雑巾が無かったので、会長宅に自分だけで雑巾を取りに行き、すぐ公民館に戻ってきた。私が会長宅に雑巾を取りに行っている約10分間、奥西さんは1人で公民館にいた」

とする証言である。

しかし、この証言を否定する村人のNさんの証言もある。その証言の要点を列挙すると、

@Sさんは会長宅で私から風呂敷包みを受け取り、公民館に向かった

ASさんが公民館に向かっている時に、私が会長宅の便所に入ったが、その便所から牛を運動させる奥西さんを目撃した

B便所から戻ってきて、帰り際に会長宅にぶどう酒が置いてあることに気づいた。それから奥西さんが来た。

このNさんの証言だとSさんが会長宅から公民館に1回目に移動する際に、奥西さんは同行できないことになり、奥西さんが公民館で1人で10分間いることもできない。もちろん、ぶどう酒も会長宅から公民館にまだ運んでいなかったということである。

そして奥西さんも起訴されたあとの手記でNさんの証言と同様のことを述べている

重要な点を要約すると

「牛の運動をしていたと。その時に、Sさんが1人で小さな風呂敷包みを持って公民館の方で上がっていった。そして牛の運動が終わった後、帰って身支度をして、会長宅に行った。そしてぶどう酒を持ってSさんと一緒に公民館に行った」

これらの証言、奥西さんの手記をまとめると以下のような、時系列の流れが真実である可能性が高いのではないだろうか。


@Sさんは会長宅でNさんから風呂敷包みを受け取り、1回目に公民館に向かった

ASさんが公民館に向かっている時に、Nさんが会長宅の便所に入ったが、その便所から牛を運動させる奥西さんを目撃した

BNさんが便所から戻ってきて、帰り際に会長宅に清酒2本とぶどう酒1本が置いてあることに気づいた。

CSさんは公民館から雑巾を取りに再び会長宅に向かった

DSさんは、雑巾(と竹柴)を持って、奥西さんは清酒2本、ぶどう酒1本を持って一緒に公民館に向かった。(その途中で出合ったFさんとも同行した)

この流れからして、奥西さんが公民館で1人10分間いることは無かったことになる。また詳細は省略するが、弁護団は、この事件の証言を元にぶどう酒購入の時間、会長宅にぶどう酒が届けられた時間、Sさん、奥西さん、Nさんの証言を元に、いろいろな再現実験を行った結果、奥西さんが1人で公民館に10分間いることができなかったとしているのである。

(詳細は、「名張毒ブドウ酒殺人事件 六人目の犠牲者 江川紹子著 岩波書店」を参照されたい)

またそれを裏付ける新証拠が名古屋高裁の第六回再審請求において提出された。事件当時の名張署長の捜査ノート、いわゆる「中西ノート」と呼ばれる物である。

このノートには、事件後3〜4日後の記述で、Sさんの証言として、奥西さんは公民館でSさんや別の主婦とずっと一緒にいたと書かれていたのである。

(Sさんは事件直後の新聞記者の取材でも同様のことを述べているのである)

事件直後の証言と大きく食い違う内容の供述は、やはり信用できないのではないか。

これらから総合的に考えると、奥西さんが公民館で1人で10分間いることはできなかったということになる。

つまり、裁判所の認定した犯行時間、犯行機会が存在しないことになる。

5、奥西さんの自白の信憑性

事件は1961年3月28日の夜に起きたが、奥西さんは事件翌日から取り調べを受けることになった。最初は任意捜査だったが、奥西さんは三角関係のことを疑われ、厳しい取り調べを受けることになる。

深夜まで取り調べが行われ、それが終わった後にも自宅の中にまで捜査官が2人配置され、奥西さんがトイレに行く時も、戸も開けて用を足すように指示された。妻もこの事件で亡くした上、娘が小学校の入学式が迫っているなど、精神的に極度に追い込まれていた。

家のことをいろいろしなければいけないと追い詰められる中で、早く家に帰りたい一心で、妻が犯人かもしれないとの供述をしてしまう。その影響で、今度は妻の母から血相をかいて責めたてられる。

また捜査官から「おまえが妻が犯人だと自白したから、おまえの家に部落の人間が押しかけている。おまえの親父、お袋も、もう自殺すると泣いてるぞ」とまで告げられる。そのように追い詰められた中で、自分が犯人だといった方が家族の為にもなるかも知れないと考えるようになったようである・・・。

さて、奥西さんの自白の内容で重要な点は以下の4つである。

@妻と愛人の三角関係の清算の為に、3月10日前後から二人とも殺してしまおうと考えた。

A事件前夜20時頃、自分で作成した竹筒に、自宅にあった農薬のニッカリンTを入れて新聞紙で栓をしたものを用意した

B竹筒に入れたあとのニッカリンTの残りが入った瓶は、犯行当日の朝、近くの名張川に投げ捨てた

C公民館で一人になった隙に竹筒の中に入ったニッカリンTをぶどう酒の中に入れた

DニッカリンTが少し残った竹筒は、公民館のいろりで竹柴とともに焼いた

これらの自供の全てにおいておかしな点がある。順を追って見てみよう。

@についてだが、三角関係と言っても、本職が農業での兼業で三人が同じ職場で働いたり、三人で映画を一緒に見に行ったりの関係であり、奥西さんが、奥さんと愛人の二人とも殺害しようと考えるまで、こじれた関係ではなかった。

A殺人前夜に自宅でニッカリンTをいれる竹筒を作成している際に家に村人が訪問していたが、(普通ならまずいときに人が来たと考えるはずだが)このことに奥西さんはまったく心に動揺があった供述は一切出てこない。竹筒を作り、それにニッカリンTを入れ、蓋をして隠す間に訪問客に見つかるかもしれないのにである。しかも奥西さんはこの訪問があった日を最初間違えて26日と勘違いして供述をしていた。大犯罪を計画して準備している日の出来事は、本来鮮明に覚えているのではないか。

BニッカリンTのところでも書いたが、名張川には4月3日に三重県警捜査本部16人と地元消防団員45人が動員されて、かなり大掛かりな名張川の捜索を行ったが、瓶らしきものさえ見つからなかった。また奥西さんは、ニッカリンTの瓶を川に投げ捨てた際には、ぷかぷかと浮いて流れていったと明確に証言している。しかし、後に警察による瓶の投棄実験では、何度やっても水の中に沈んでしまったのである。(※ニッカリンTの比重は、1.185(20℃) 医薬品情報21より引用)

Cそもそも公民館で奥西さんが1人になった時間は無かったのではないかと思われる。これについては4のアリバイのところで説明したとおりである。

D竹筒をいろりで燃やしたのであれば、燃えかすがいろりに残っている可能性が高い。実際に裁判所が後に検証を行い、竹筒を柴と一緒に燃やしたところ、竹筒はほぼ原形をとどめてた形で確認されている。

またニッカリンT(有機リン剤)が竹筒に残っていたのではあれば、燃焼してもリンの成分は残る可能性が高いが、いろりの灰の中からはリンは一切に検出されていない。

これらからして、奥西さんの自白は、それを裏付ける物的証拠は一切になく、むしろ矛盾だらけのように思われる。

裁判所の原則「疑わしきは罰せず」ではなく「少しでも疑わしきは罰する」になっているのではないか。

この事件は、以上のように奥西さんが犯人だとする物証は無く、あえて言えば追い詰められた際の自白だけだ。

その自白も矛盾ばかりではないか。これで死刑判決は、あまりにひどい冤罪事件だとしか言いようがないと感じた。

興味をお持ちになった読者の方は、一度自分でも調べて頂きたい。

※)参考文献・データ

「名張毒ブドウ酒殺人事件 六人目の犠牲者 江川紹子著 岩波書店」

「名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の半世紀 東海テレビ取材班」

「東海テレビ 『約束』 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯」

https://www.youtube.com/watch?v=CSXhi51sbkU

「名張毒ぶどう酒事件 奥西勝さんを守る東京の会

http://www5a.biglobe.ne.jp/~nabari/
ziken_naiyou.html

「名張毒ぶどう酒事件とは【奥西勝】」

https://matome.naver.jp/odai/
2139624134852820701

「NNNドキュメント‘06 名張毒ぶどう酒事件」

https://www.youtube.com/watch?v=t_4sAaMhk28

https://www.youtube.com/watch?v=MVgJIh9HKJ4

http://enzai-shikei.com/blog/229/
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/254.html#c37

[リバイバル3] かぐらスキー場 (かぐら・三俣・田代スキー場) 中川隆
113. 中川隆[-11556] koaQ7Jey 2019年3月09日 17:57:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[437]

825名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/03/09(土) 11:47:59.11

現地組から、中尾根雪崩たって聞いたが、大丈夫なのか?


826名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/03/09(土) 11:50:53.21
>>825
被害はなさそうだけど見事に雪崩れたよ


827名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/03/09(土) 11:52:14.62

いつもの一本木の右側?

828名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/03/09(土) 12:03:01.93
>>826
被害ないなら良かった
自然誘発なのか、スキーカット誘発なのか。。
あんだけ、スキーカットはヤメてくれって言われてたが

829名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/03/09(土) 12:13:41.17>>831>>832

中尾根なんかでも雪崩はあるんだな

830名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/03/09(土) 12:17:17.65

被害者がいなかったならよかった。

831名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/03/09(土) 12:20:02.14
>>829
普通にあるけど

832名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/03/09(土) 12:20:02.34
>>829
中尾根は雪崩の巣だぞ
自然なのかな?うーん
雪崩後に中尾根トラバースしてる奴もいるってな
ってか雪崩のところにトラバースラインついてる

833名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/03/09(土) 12:24:03.76

冷えてカチンコチンになった上に積もったんだから雪崩るよね

834名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/03/09(土) 12:26:00.17

昨日もとあるとこはいったら軽く流れたからなあ
その後ドンドコ人入って行ったけど

835名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/03/09(土) 13:18:13.45

雪崩は多分自然誘発ですね
今日は5ロマ山頂から二つめの尾根の1番手前ですが雪崩そうなとこ全部雪崩跡があります
管理で流してるのかも
発破っぽい跡はないですが

838名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/03/09(土) 13:25:59.76

かぐらは発破はしてない

839名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/03/09(土) 13:27:00.65

中尾根はコントロールもしていない

田代落ちはしてる

https://mao.5ch.net/test/read.cgi/ski/1550547087/l50
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/779.html#c113

[リバイバル3] マルクスはやはり正しかった _ もうすぐ共産革命の嵐が吹き荒れる時代がやって来る 中川隆
236. 中川隆[-11555] koaQ7Jey 2019年3月09日 20:05:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[438]

パリ・コミューンについて - 内田樹の研究室 2019-03-05

石川康宏さんとの『若者よマルクスを読もう』の三巻目は「フランスにおける内乱」をめぐっての往復書簡だった。

『反抗的人間』を読んでいたら、ぜひ引用したいカミュの言葉が出て来たので、それを数行加筆することにした。

それを含む、パリ・コミューン論を採録する。


『フランスの内乱』、読み返してみました。この本を読むのは、学生時代以来50年ぶりくらいです。同じテクストでも、さすがに半世紀をおいて読み返すと、印象がずいぶん違うものですね。

パリ・コミューンの歴史的な意義や、このテクストの重要性については、もう石川先生がきちんと書いてくださっていますので、僕は例によって、個人的にこだわりのあるところについて感想を語ってゆきたいと思います。
 
「コミューン」というのは、そもそもどういう意味なんでしょう。「コミューン」という言葉を学生だった僕はこの本で最初に知りました。そして、たぶん半世紀前も次の箇所に赤線を引いたはずです。

「コミューンは本質的に労働者階級の政府であり、横領者階級に対する生産者階級の闘争の所産であり、労働者階級の経済的解放を実現するために、ついに発見された政治形態である。」(『フランスの内乱』、辰巳伸知訳、マルクスコレクションVI, 筑摩書房、2005年、36頁、強調は内田)

「ついに発見された政治形態」であると断定された以上、それは前代未聞のものであるはずです。僕は素直にそう読みました。なるほど、パリ・コミューンは歴史上はじめて登場した政治形態だったのか。すごいな。それなのに反動的なブルジョワたちから暴力的な弾圧を受けて、徹底的に殲滅されて、多くのコミューン戦士は英雄的な死を遂げた。気の毒なことをしたなあ・・・。そう思いました。それくらいしか思いませんでした。でも、さすがにそれから半世紀経つと感想もずいぶん違うものになります。

 僕が気になったのは、パリ・コミューンがマルクスの時代において「ついに発見された」前代未聞のものであったことはわかるのですが、それに続くものがなかったということです。

 パリ・コミューンからすでに150年を閲しましたけれど、パリ・コミューンのような政治形態はそれを最後に二度と再び地上に現れることはありませんでした。それはなぜなのでしょう。

 もし、パリ・コミューンがマルクスの言うように、1870年時点での革命的実践の頂点であったのだとしたら、その後も、パリ・コミューンを範とした革命的実践が(かりに失敗したとしても)世界各地で、次々と試みられてよかったはずです。でも、管見の及ぶ限りで「この政治形態はパリ・コミューンの甦りである」とか「この政治形態はパリ・コミューンが別の歴史的条件の下でいささか相貌を変えて実現したものである」というふうに名乗る事例を僕は一つも知りません。「われわれの戦いはパリ・コミューンを理想としてしている」と綱領的文書に掲げた政治運動や政治組織も僕は見たことがありません。

 変な話だと思いませんか?

 かのマルクスが、「ついに発見された政治形態である」と絶賛した究極の事例について、それを継承しようとした人たちも、未完・未済のものであったがゆえにその完成をこそ自らの歴史的召命として引き受けようとした人たちも、1871年から後いなかった。どうして、パリ・コミューンという政治的理想をそれからのちも全力で追求しようとした人たちは出てこなかったのか? 

 少なくともそれ以後フランスには「パリ・コミューン的なもの」は二度と登場しません。フランスでは、1789年、1830年、1848年、1871年と、比較的短いインターバルで革命的争乱が継起しました。いずれも、その前に行われた革命的な企てを引き継ぐものとして、あるいは先行した革命の不徹底性を乗り越えるものとしてなされました。でも、1871年のパリ・コミューンから後、パリ・コミューンを引き継ぎ、その不徹底性を批判的に乗り越える革命的な企てを構想した人は一人もいなかった。

 1944年8月25日のパリ解放の時、進軍してきた自由フランス軍に中にも、レジスタンスの闘士たちの中にも、誰も「抑圧者が去った今こそ市民たちの自治政府を」と叫ぶ人はいませんでした。1968年には「パリ五月革命」と呼ばれたラディカルな政治闘争がありましたが、その時に街頭を埋め尽くしたデモの隊列からも「今こそ第五共和政を倒して、パリ・コミューンを」と訴える声は聴こえませんでした。少しはいたかも知れませんが(どんなことでも口走る人はいますから)、誰も取り合わなかった。

 今も「パリ・コミューン派」を名乗っていて、少なからぬ力量を誇っている政治組織が世界のどこかにはあるかも知れませんけれど、寡聞にして僕は知りません(知っている人がいたらぜひご教示ください)。

 これはどういうことなのでしょう。なぜ「ついに発見された政治形態」は後継者を持ちえなかったのか?

 以下はそれについての僕の暴走的思弁です。

「マルクスとアメリカ」でも同じ考え方をご披露しましたけれど、僕が歴史について考える時にしばしば採用するアプローチは「どうして、ある出来事は起きたのに、それとは別の『起きてもよかった出来事』は起きなかったのか?」という問いを立てることです。

 このやり方を僕はシャーロック・ホームズから学びました。「起きたこと」からではなくて、「起きてもよかったはずのことが起きなかった」という事実に基づいて事件の真相に迫るのです。「白銀号事件」でホームズは「なぜあの夜、犬は吠えなかったのか?」というところからその推理を開始します。なぜ起きてもよいことが起きなかったのか?

 (...)

 なぜパリ・コミューンはマルクスによって理想的な政治形態と高く評価されたにもかかわらず、それから後、当のマルクス主義者たちによってさえ企てられなかったのか?

 それに対する僕の仮説的回答はこうです。

 パリ・コミューンはまさに「ついに発見された政治形態」であったにもかかわらずではなく、そうであったがゆえに血なまぐさい弾圧を呼び寄せ、破壊し尽くされ、二度と「あんなこと」は試みない方がよいという歴史的教訓を残したというものです。

 パリ・コミューン以後の革命家たち(レーニンもその一人です)がこの歴史的事実から引き出したのは次のような教訓でした。

 パリ・コミューンのような政治形態は不可能だ。やるならもっと違うやり方でやるしかない。

 パリ・コミューンは理想的に過ぎたのでした。

 それは『フランスの内乱』の中でマルクスが引いているいくつもの事例から知ることができます。マルクスが引いている事実はすべてがヴェルサイユ側の忌まわしいほどの不道徳性と暴力的非寛容と薄汚れた現実主義とコミューン側の道徳的清廉さ、寛大さ、感動的なまでの政治的無垢をありありと対比させています。どちらが「グッドガイ」で、どちらが「バッドガイ」か、これほど善悪の対比がはっきりした歴史的出来事は例外的です。少なくともマルクスは 読者たちにそういう印象を与えようとしていました。

 ティエールは国民軍の寄付で調達されたパリの大砲を「国家の財産である」と嘘をついてパリに対して戦争をしかけ、寄せ集めのヴェルサイユ兵を「世界の称賛の的、フランスがこれまで持った最もすばらしい軍隊」と持ち上げ、パリを砲撃した後も「自分たちは砲撃していない、それは叛徒たちの仕業である」と言い抜け、ヴェルサイユ軍の犯した処刑や報復を「すべて戯言である」と言い切りました。一方、「コミューンは、自らの言動を公表し、自らの欠陥をすべて公衆に知らせた」(同書、44頁)のです。

 マルクスの言葉を信じるならまさに「パリではすべてが真実であり、ヴェルサイユではすべてが嘘だった」(同書、46頁)のでした。パリ・コミューンは政治的にも道徳的にも正しい革命だった。マルクスはそれを讃えた。

 でも、マルクス以後の革命家たちはそうしなかった。彼らはパリ・コミューンはまさにそのせいで敗北したと考えた。確かに、レーニンがパリ・コミューンから教訓として引き出したのは、パリ・コミューンはもっと暴力的で、強権的であってもよかった、政治的にも道徳的にも、あれほど「正しい」ものである必要はなかった、ということだったからです。レーニンはこう書いています。

 「ブルジョワジーと彼らの反抗を抑圧することは、依然として必要である。そして、コンミューンにとっては、このことはとくに必要であった。そして、コンミューンの敗因の一つは、コンミューンがこのことを十分に断固として行わなかった点にある。」(レーニン、『国家と革命』、大崎平八郎訳、角川文庫、1966年、67頁)

 レーニンが「十分に、断固として行うべき」としたのは「ブルジョワジーと彼らの反抗を抑圧すること」です。ヴェルサイユ軍がコミューン派の市民に加えたのと同質の暴力をコミューン派市民はブルジョワ共和主義者や王党派や帝政派に加えるべきだった、レーニンはそう考えました。コミューン派の暴力が正義であるのは、コミューン派が「住民の多数派」だからです。

「ひとたび人民の多数者自身が自分の抑圧者を抑圧する段になると、抑圧のための『特殊な権力』は、もはや必要ではなくなる!国家は死滅し始める。特権的な少数者の特殊な制度(特権官僚、常備軍主脳部)に代わって、多数者自身がこれを直接に遂行することができる。」(同書、67−8頁、強調はレーニン)

 少数派がコントロールしている「特殊な権力」がふるう暴力は悪だけれど、国家権力を媒介とせずに人民が抑圧者に向けて直接ふるう暴力は善である。マルクスは『フランスの内乱』のどこにもそんなことは書いていません。でも、レーニンはそのことをパリ・コミューンの「敗因」から学んだ。

 レーニンがパリ・コミューンの敗北から引き出したもう一つの教訓は、石川先生もご指摘されていた「国家機構」の問題です。これについて、石川先生は、レーニンは「国家機構の粉砕」を主張し、マルクスはそれとは違って、革命の平和的・非強力的な展開の可能性にもチャンスを認めていたという指摘をされています。でも、僕はちょっとそれとは違う解釈も可能なのではないかと思います。レーニンの方がむしろ「できあいの国家機構」を効率的に用いることを認めていたのではないでしょうか。レーニンはこう書いています。

「コンミューンは、ブルジョワ社会の賄賂のきく、腐敗しきった議会制度を、意見と討論の自由が欺瞞に堕することのないような制度とおき替える。なぜなら、コンミューンの代議員たちは、みずから活動し、自分がつくった法律をみずから執行し、執行にあたって生じた結果をみずから点検し、自分の選挙人にたいしてみずから直接責任を負わなければならないからである。代議制度はのこるが、しかし、特殊な制度としての、立法活動と執行活動の分業としての、代議員のための特権的地位を保障するものとしての、議会制度は、ここにはない。(...)議会制度なしの民主主義を考えることができるし、また考えなければならない。」(同書、74−75頁、強調はレーニン)
 
 法の制定者と法の執行者を分業させた政体のことを共和制と呼び、法の制定者と執行者が同一機関である政体のことを独裁制と呼びます。パリ・コミューンは「議会制度なしの民主主義」、独裁的な民主主義の達成だったとして、その点をレーニンは評価します。

 この文章を読むときに、代議制度は「のこる」という方を重く見るか、立法と行政の分業としての共和的な制度は「ない」という方を重く見るかで、解釈にずれが生じます。僕はレーニンは制度そのものの継続性をむしろ強調したかったのではないかという気がします。レーニンは何か新しい、人道的で、理想的な統治形態を夢見ていたのではなく、今ある統治システムを換骨奪胎することを目指していた。そして、マルクスもまた既存の制度との継続を目指したしたるのだと主張します。

「マルクスには『新しい』社会を考えついたり夢想したりするという意味でのユートピア主義など、ひとかけらもない。そうではなくて、彼は、古い社会からの新しい社会の誕生、前者から後者への過渡的諸形態を、自然史的過程として研究しているのだ。」(同書、75頁、強調はレーニン)
 
 ここで目立つのは「からの」を強調していることです。旧体制と新体制の間には連続性がある。だから、「過渡的諸形態」においては「ありもの」の統治システムを使い回す必要がある。レーニンはそう言いたかったようです。そのためにマルクスも「そう言っている」という無理な読解を行った。

「われわれは空想家ではない。われわれは、どうやって一挙に、いっさいの統治なしに、いっさいの服従なしに、やっていくかなどと『夢想』はしない。プロレタリアートの独裁の任務についての無理解にもとづくこうした無政府主義的夢想は、マルクス主義とは根本的に無縁なものであり、実際には、人間が今とは違ったものになるときまで社会主義革命を引き延ばすことに役だつだけである。ところがそうではなくて、われわれは、社会主義革命をば現在のままの人間で、つまり服従なしには、統制なしには、『監督、簿記係』なしにはやってゆけない、そのような人間によって遂行しようと望んでいるのだ。」(同書、76―77頁、強調はレーニン)

 レーニンが「監督、簿記係」と嘲弄的に呼んでいるのは官僚機構のことです。プロレタリアート独裁は「服従」と「統制」と「官僚機構」を通じて行われることになるだろうとレーニンはここで言っているのです。「すべての被搾取勤労者の武装した前衛であるプロレタリアートには、服従しなければならない。」(77頁)という命題には「誰が」という主語が言い落とされていますが、これは「プロレタリアート以外の全員」のことです。

 これはどう贔屓目に読んでも、マルクスの『フランスの内乱』の解釈としては受け入れがたいものです。

 マルクスがパリ・コミューンにおいて最も高く評価したのは、そこでは「服従」や「統制」や「官僚機構」が効率的に働いていたことではなく、逆に、労働者たちが「できあいの国家機構をそのまま掌握して、自分自身の目的のために行使することはできない」と考えたからです。新しいものを手作りしなければならないというコミューンの未決性、開放性をマルクスは評価した。誰も服従しない、誰も統制しない、誰もが進んで公的使命を果たすという点がパリ・コミューンの最大の美点だとマルクスは考えていたからです。

「コミューンが多種多様に解釈されてきたこと、自分たちの都合のいいように多種多様な党派がコミューンを解釈したこと、このことは、過去のあらゆる統治形態がまさに抑圧的であり続けてきたのに対して、コミューンが徹頭徹尾開放的な政府形態であったということを示している。」(マルクス、前掲書、36頁)

 マルクスの見るところ、パリ・コミューンの最大の美点はその道徳的なインテグリティーにありました。自らの無謬性を誇らず、「自らの言動を公表し、自らの欠陥のすべてを公衆に知らせた」ことです。それがもたらした劇的な変化についてマルクスは感動的な筆致でこう書いています。

「実際すばらしかったのは、コミューンがパリにもたらした変化である! 第二帝政のみだらなパリは、もはやあとかたもなかった。パリはもはや、イギリスの地主やアイルランドの不在地主、アメリカのもと奴隷所有者や成金、ロシアのもと農奴所有者やワラキアの大貴族のたまり場ではなくなった。死体公示所にはもはや身元不明の死体はなく、夜盗もなくなり、強盗もほとんどなくなった。1848年二月期以来、はじめてパリの街路は安全になった。しかも、いかなる類の警察もなしに。(・・・)労働し、考え、闘い、血を流しているパリは、―新たな社会を生み出そうとするなかで、(・・・)自らが歴史を創始することの熱情に輝いていたのである。」(同書、45―46頁、強調は内田)

「新しい社会を生み出そうとするなかで」とマルクスは書いています。この文言と「マルクスには『新しい』社会を考えついたり夢想したりするという意味でのユートピア主義など、ひとかけらもない」というレーニンの断定の間には、埋めることのできないほどの断絶があると僕は思います。

 でも、パリ・コミューンの総括において「パリ・コミューンは理想主義的過ぎた」という印象を抱いたのはレーニン一人ではありません。ほとんどすべての革命家たちがそう思った。だからこそ、パリ・コミューンはひとり孤絶した歴史的経験にとどまり、以後150年、その「アヴァター」は再び地上に顕現することがなかった。そういうことではないかと思います。

 勘違いして欲しくないのですが、僕はレーニンの革命論が「間違っている」と言っているのではありません。現にロシア革命を「成功」させたくらいですから、実践によってみごとに裏書きされたすぐれた革命論だと思います。でも、マルクスの『フランスの内乱』の祖述としては不正確です。

 ただし、レーニンのこの「不正確な祖述」は彼の知性が不調なせいでも悪意のせいでもありません。レーニンは彼なりにパリ・コミューンの悲劇的な結末から学ぶべきことを学んだのです。そして、パリ・コミューンはすばらしい歴史的実験だったし、めざしたものは崇高だったかも知れないけれど、あのような「新しい社会」を志向する、開放的な革命運動は政治的には無効だと考えたのです。革命闘争に勝利するためには、それとはまったく正反対の、服従と統制と官僚機構を最大限に活用した運動と組織が必要だと考えた。

 レーニンのこのパリ・コミューン解釈がそれ以後のパリ・コミューンについて支配的な解釈として定着しました。ですから、仮にそれから後、「パリ・コミューンのような政治形態」をめざす政治運動が試みられたことがあったとしても、それは「われわれは空想家ではない。われわれは、どうやって一挙に、いっさいの統治なしに、いっさいの服従なしに、やっていくかなどと『夢想』はしない」と断定する鉄のレーニン主義者たちから「空想家」「夢想家」と決めつけられて、舞台から荒っぽく引きずりおろされただろうと思います。

 アルベール・カミュは『国家と革命』におけるレーニンのパリ・コミューン評価をこんなふうに要言しています。僕はカミュのこの評言に対して同意の一票を投じたいと思います。

「レーニンは、生産手段の社会化が達成されるとともに、搾取階級は廃滅され、国家は死滅するという明確で断固たる原則から出発する。しかし、同じ文書の中で、彼は生産手段の社会化の後も、革命的フラクションによる自余の人民に対する独裁が、期限をあらかじめ区切られることなしに継続されることは正当化されるという結論に達している。コミューンの経験を繰り返し参照していながら、このパンフレットは、コミューンを生み出した連邦主義的、反権威主義的な思潮と絶対的に対立するのである。マルクスとエンゲルスのコミュ―ンについての楽観的な記述にさえ反対する。理由は明らかである。レーニンはコミューンが失敗したことを忘れなかったのである。」(Albert Camus, L'homme révolté, in Essais, Gallimard, 1965, p.633)

 僕はできたら読者の皆さんには『フランスの内乱』と『国家と革命』を併せて読んでくれることをお願いしたいと思います。そして、そこに石川先生がこの間言われたような「マルクス」と「マルクス主義」の違いを感じてくれたらいいなと思います。マルクスを読むこととマルクス主義を勉強することは別の営みです。まったく別の営みだと申し上げてもよいと思います。そして、僕は「マルクス主義を勉強すること」にはもうあまり興味がありませんけれど、「マルクスを読む楽しみ」はこれからもずっと手離さないだろうと思います
http://blog.tatsuru.com/2019/03/05_1542.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/704.html#c236

[近代史3] 馬渕睦夫 ウイルソン大統領とフランクリン・ルーズベルト大統領は世界を共産化しようとしていた 中川隆
2. 中川隆[-11554] koaQ7Jey 2019年3月09日 20:06:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[439]

パリ・コミューンについて - 内田樹の研究室 2019-03-05

石川康宏さんとの『若者よマルクスを読もう』の三巻目は「フランスにおける内乱」をめぐっての往復書簡だった。

『反抗的人間』を読んでいたら、ぜひ引用したいカミュの言葉が出て来たので、それを数行加筆することにした。

それを含む、パリ・コミューン論を採録する。


『フランスの内乱』、読み返してみました。この本を読むのは、学生時代以来50年ぶりくらいです。同じテクストでも、さすがに半世紀をおいて読み返すと、印象がずいぶん違うものですね。

パリ・コミューンの歴史的な意義や、このテクストの重要性については、もう石川先生がきちんと書いてくださっていますので、僕は例によって、個人的にこだわりのあるところについて感想を語ってゆきたいと思います。
 
「コミューン」というのは、そもそもどういう意味なんでしょう。「コミューン」という言葉を学生だった僕はこの本で最初に知りました。そして、たぶん半世紀前も次の箇所に赤線を引いたはずです。

「コミューンは本質的に労働者階級の政府であり、横領者階級に対する生産者階級の闘争の所産であり、労働者階級の経済的解放を実現するために、ついに発見された政治形態である。」(『フランスの内乱』、辰巳伸知訳、マルクスコレクションVI, 筑摩書房、2005年、36頁、強調は内田)

「ついに発見された政治形態」であると断定された以上、それは前代未聞のものであるはずです。僕は素直にそう読みました。なるほど、パリ・コミューンは歴史上はじめて登場した政治形態だったのか。すごいな。それなのに反動的なブルジョワたちから暴力的な弾圧を受けて、徹底的に殲滅されて、多くのコミューン戦士は英雄的な死を遂げた。気の毒なことをしたなあ・・・。そう思いました。それくらいしか思いませんでした。でも、さすがにそれから半世紀経つと感想もずいぶん違うものになります。

 僕が気になったのは、パリ・コミューンがマルクスの時代において「ついに発見された」前代未聞のものであったことはわかるのですが、それに続くものがなかったということです。

 パリ・コミューンからすでに150年を閲しましたけれど、パリ・コミューンのような政治形態はそれを最後に二度と再び地上に現れることはありませんでした。それはなぜなのでしょう。

 もし、パリ・コミューンがマルクスの言うように、1870年時点での革命的実践の頂点であったのだとしたら、その後も、パリ・コミューンを範とした革命的実践が(かりに失敗したとしても)世界各地で、次々と試みられてよかったはずです。でも、管見の及ぶ限りで「この政治形態はパリ・コミューンの甦りである」とか「この政治形態はパリ・コミューンが別の歴史的条件の下でいささか相貌を変えて実現したものである」というふうに名乗る事例を僕は一つも知りません。「われわれの戦いはパリ・コミューンを理想としてしている」と綱領的文書に掲げた政治運動や政治組織も僕は見たことがありません。

 変な話だと思いませんか?

 かのマルクスが、「ついに発見された政治形態である」と絶賛した究極の事例について、それを継承しようとした人たちも、未完・未済のものであったがゆえにその完成をこそ自らの歴史的召命として引き受けようとした人たちも、1871年から後いなかった。どうして、パリ・コミューンという政治的理想をそれからのちも全力で追求しようとした人たちは出てこなかったのか? 

 少なくともそれ以後フランスには「パリ・コミューン的なもの」は二度と登場しません。フランスでは、1789年、1830年、1848年、1871年と、比較的短いインターバルで革命的争乱が継起しました。いずれも、その前に行われた革命的な企てを引き継ぐものとして、あるいは先行した革命の不徹底性を乗り越えるものとしてなされました。でも、1871年のパリ・コミューンから後、パリ・コミューンを引き継ぎ、その不徹底性を批判的に乗り越える革命的な企てを構想した人は一人もいなかった。

 1944年8月25日のパリ解放の時、進軍してきた自由フランス軍に中にも、レジスタンスの闘士たちの中にも、誰も「抑圧者が去った今こそ市民たちの自治政府を」と叫ぶ人はいませんでした。1968年には「パリ五月革命」と呼ばれたラディカルな政治闘争がありましたが、その時に街頭を埋め尽くしたデモの隊列からも「今こそ第五共和政を倒して、パリ・コミューンを」と訴える声は聴こえませんでした。少しはいたかも知れませんが(どんなことでも口走る人はいますから)、誰も取り合わなかった。

 今も「パリ・コミューン派」を名乗っていて、少なからぬ力量を誇っている政治組織が世界のどこかにはあるかも知れませんけれど、寡聞にして僕は知りません(知っている人がいたらぜひご教示ください)。

 これはどういうことなのでしょう。なぜ「ついに発見された政治形態」は後継者を持ちえなかったのか?

 以下はそれについての僕の暴走的思弁です。

「マルクスとアメリカ」でも同じ考え方をご披露しましたけれど、僕が歴史について考える時にしばしば採用するアプローチは「どうして、ある出来事は起きたのに、それとは別の『起きてもよかった出来事』は起きなかったのか?」という問いを立てることです。

 このやり方を僕はシャーロック・ホームズから学びました。「起きたこと」からではなくて、「起きてもよかったはずのことが起きなかった」という事実に基づいて事件の真相に迫るのです。「白銀号事件」でホームズは「なぜあの夜、犬は吠えなかったのか?」というところからその推理を開始します。なぜ起きてもよいことが起きなかったのか?

 (...)

 なぜパリ・コミューンはマルクスによって理想的な政治形態と高く評価されたにもかかわらず、それから後、当のマルクス主義者たちによってさえ企てられなかったのか?

 それに対する僕の仮説的回答はこうです。

 パリ・コミューンはまさに「ついに発見された政治形態」であったにもかかわらずではなく、そうであったがゆえに血なまぐさい弾圧を呼び寄せ、破壊し尽くされ、二度と「あんなこと」は試みない方がよいという歴史的教訓を残したというものです。

 パリ・コミューン以後の革命家たち(レーニンもその一人です)がこの歴史的事実から引き出したのは次のような教訓でした。

 パリ・コミューンのような政治形態は不可能だ。やるならもっと違うやり方でやるしかない。

 パリ・コミューンは理想的に過ぎたのでした。

 それは『フランスの内乱』の中でマルクスが引いているいくつもの事例から知ることができます。マルクスが引いている事実はすべてがヴェルサイユ側の忌まわしいほどの不道徳性と暴力的非寛容と薄汚れた現実主義とコミューン側の道徳的清廉さ、寛大さ、感動的なまでの政治的無垢をありありと対比させています。どちらが「グッドガイ」で、どちらが「バッドガイ」か、これほど善悪の対比がはっきりした歴史的出来事は例外的です。少なくともマルクスは 読者たちにそういう印象を与えようとしていました。

 ティエールは国民軍の寄付で調達されたパリの大砲を「国家の財産である」と嘘をついてパリに対して戦争をしかけ、寄せ集めのヴェルサイユ兵を「世界の称賛の的、フランスがこれまで持った最もすばらしい軍隊」と持ち上げ、パリを砲撃した後も「自分たちは砲撃していない、それは叛徒たちの仕業である」と言い抜け、ヴェルサイユ軍の犯した処刑や報復を「すべて戯言である」と言い切りました。一方、「コミューンは、自らの言動を公表し、自らの欠陥をすべて公衆に知らせた」(同書、44頁)のです。

 マルクスの言葉を信じるならまさに「パリではすべてが真実であり、ヴェルサイユではすべてが嘘だった」(同書、46頁)のでした。パリ・コミューンは政治的にも道徳的にも正しい革命だった。マルクスはそれを讃えた。

 でも、マルクス以後の革命家たちはそうしなかった。彼らはパリ・コミューンはまさにそのせいで敗北したと考えた。確かに、レーニンがパリ・コミューンから教訓として引き出したのは、パリ・コミューンはもっと暴力的で、強権的であってもよかった、政治的にも道徳的にも、あれほど「正しい」ものである必要はなかった、ということだったからです。レーニンはこう書いています。

 「ブルジョワジーと彼らの反抗を抑圧することは、依然として必要である。そして、コンミューンにとっては、このことはとくに必要であった。そして、コンミューンの敗因の一つは、コンミューンがこのことを十分に断固として行わなかった点にある。」(レーニン、『国家と革命』、大崎平八郎訳、角川文庫、1966年、67頁)

 レーニンが「十分に、断固として行うべき」としたのは「ブルジョワジーと彼らの反抗を抑圧すること」です。ヴェルサイユ軍がコミューン派の市民に加えたのと同質の暴力をコミューン派市民はブルジョワ共和主義者や王党派や帝政派に加えるべきだった、レーニンはそう考えました。コミューン派の暴力が正義であるのは、コミューン派が「住民の多数派」だからです。

「ひとたび人民の多数者自身が自分の抑圧者を抑圧する段になると、抑圧のための『特殊な権力』は、もはや必要ではなくなる!国家は死滅し始める。特権的な少数者の特殊な制度(特権官僚、常備軍主脳部)に代わって、多数者自身がこれを直接に遂行することができる。」(同書、67−8頁、強調はレーニン)

 少数派がコントロールしている「特殊な権力」がふるう暴力は悪だけれど、国家権力を媒介とせずに人民が抑圧者に向けて直接ふるう暴力は善である。マルクスは『フランスの内乱』のどこにもそんなことは書いていません。でも、レーニンはそのことをパリ・コミューンの「敗因」から学んだ。

 レーニンがパリ・コミューンの敗北から引き出したもう一つの教訓は、石川先生もご指摘されていた「国家機構」の問題です。これについて、石川先生は、レーニンは「国家機構の粉砕」を主張し、マルクスはそれとは違って、革命の平和的・非強力的な展開の可能性にもチャンスを認めていたという指摘をされています。でも、僕はちょっとそれとは違う解釈も可能なのではないかと思います。レーニンの方がむしろ「できあいの国家機構」を効率的に用いることを認めていたのではないでしょうか。レーニンはこう書いています。

「コンミューンは、ブルジョワ社会の賄賂のきく、腐敗しきった議会制度を、意見と討論の自由が欺瞞に堕することのないような制度とおき替える。なぜなら、コンミューンの代議員たちは、みずから活動し、自分がつくった法律をみずから執行し、執行にあたって生じた結果をみずから点検し、自分の選挙人にたいしてみずから直接責任を負わなければならないからである。代議制度はのこるが、しかし、特殊な制度としての、立法活動と執行活動の分業としての、代議員のための特権的地位を保障するものとしての、議会制度は、ここにはない。(...)議会制度なしの民主主義を考えることができるし、また考えなければならない。」(同書、74−75頁、強調はレーニン)
 
 法の制定者と法の執行者を分業させた政体のことを共和制と呼び、法の制定者と執行者が同一機関である政体のことを独裁制と呼びます。パリ・コミューンは「議会制度なしの民主主義」、独裁的な民主主義の達成だったとして、その点をレーニンは評価します。

 この文章を読むときに、代議制度は「のこる」という方を重く見るか、立法と行政の分業としての共和的な制度は「ない」という方を重く見るかで、解釈にずれが生じます。僕はレーニンは制度そのものの継続性をむしろ強調したかったのではないかという気がします。レーニンは何か新しい、人道的で、理想的な統治形態を夢見ていたのではなく、今ある統治システムを換骨奪胎することを目指していた。そして、マルクスもまた既存の制度との継続を目指したしたるのだと主張します。

「マルクスには『新しい』社会を考えついたり夢想したりするという意味でのユートピア主義など、ひとかけらもない。そうではなくて、彼は、古い社会からの新しい社会の誕生、前者から後者への過渡的諸形態を、自然史的過程として研究しているのだ。」(同書、75頁、強調はレーニン)
 
 ここで目立つのは「からの」を強調していることです。旧体制と新体制の間には連続性がある。だから、「過渡的諸形態」においては「ありもの」の統治システムを使い回す必要がある。レーニンはそう言いたかったようです。そのためにマルクスも「そう言っている」という無理な読解を行った。

「われわれは空想家ではない。われわれは、どうやって一挙に、いっさいの統治なしに、いっさいの服従なしに、やっていくかなどと『夢想』はしない。プロレタリアートの独裁の任務についての無理解にもとづくこうした無政府主義的夢想は、マルクス主義とは根本的に無縁なものであり、実際には、人間が今とは違ったものになるときまで社会主義革命を引き延ばすことに役だつだけである。ところがそうではなくて、われわれは、社会主義革命をば現在のままの人間で、つまり服従なしには、統制なしには、『監督、簿記係』なしにはやってゆけない、そのような人間によって遂行しようと望んでいるのだ。」(同書、76―77頁、強調はレーニン)

 レーニンが「監督、簿記係」と嘲弄的に呼んでいるのは官僚機構のことです。プロレタリアート独裁は「服従」と「統制」と「官僚機構」を通じて行われることになるだろうとレーニンはここで言っているのです。「すべての被搾取勤労者の武装した前衛であるプロレタリアートには、服従しなければならない。」(77頁)という命題には「誰が」という主語が言い落とされていますが、これは「プロレタリアート以外の全員」のことです。

 これはどう贔屓目に読んでも、マルクスの『フランスの内乱』の解釈としては受け入れがたいものです。

 マルクスがパリ・コミューンにおいて最も高く評価したのは、そこでは「服従」や「統制」や「官僚機構」が効率的に働いていたことではなく、逆に、労働者たちが「できあいの国家機構をそのまま掌握して、自分自身の目的のために行使することはできない」と考えたからです。新しいものを手作りしなければならないというコミューンの未決性、開放性をマルクスは評価した。誰も服従しない、誰も統制しない、誰もが進んで公的使命を果たすという点がパリ・コミューンの最大の美点だとマルクスは考えていたからです。

「コミューンが多種多様に解釈されてきたこと、自分たちの都合のいいように多種多様な党派がコミューンを解釈したこと、このことは、過去のあらゆる統治形態がまさに抑圧的であり続けてきたのに対して、コミューンが徹頭徹尾開放的な政府形態であったということを示している。」(マルクス、前掲書、36頁)

 マルクスの見るところ、パリ・コミューンの最大の美点はその道徳的なインテグリティーにありました。自らの無謬性を誇らず、「自らの言動を公表し、自らの欠陥のすべてを公衆に知らせた」ことです。それがもたらした劇的な変化についてマルクスは感動的な筆致でこう書いています。

「実際すばらしかったのは、コミューンがパリにもたらした変化である! 第二帝政のみだらなパリは、もはやあとかたもなかった。パリはもはや、イギリスの地主やアイルランドの不在地主、アメリカのもと奴隷所有者や成金、ロシアのもと農奴所有者やワラキアの大貴族のたまり場ではなくなった。死体公示所にはもはや身元不明の死体はなく、夜盗もなくなり、強盗もほとんどなくなった。1848年二月期以来、はじめてパリの街路は安全になった。しかも、いかなる類の警察もなしに。(・・・)労働し、考え、闘い、血を流しているパリは、―新たな社会を生み出そうとするなかで、(・・・)自らが歴史を創始することの熱情に輝いていたのである。」(同書、45―46頁、強調は内田)

「新しい社会を生み出そうとするなかで」とマルクスは書いています。この文言と「マルクスには『新しい』社会を考えついたり夢想したりするという意味でのユートピア主義など、ひとかけらもない」というレーニンの断定の間には、埋めることのできないほどの断絶があると僕は思います。

 でも、パリ・コミューンの総括において「パリ・コミューンは理想主義的過ぎた」という印象を抱いたのはレーニン一人ではありません。ほとんどすべての革命家たちがそう思った。だからこそ、パリ・コミューンはひとり孤絶した歴史的経験にとどまり、以後150年、その「アヴァター」は再び地上に顕現することがなかった。そういうことではないかと思います。

 勘違いして欲しくないのですが、僕はレーニンの革命論が「間違っている」と言っているのではありません。現にロシア革命を「成功」させたくらいですから、実践によってみごとに裏書きされたすぐれた革命論だと思います。でも、マルクスの『フランスの内乱』の祖述としては不正確です。

 ただし、レーニンのこの「不正確な祖述」は彼の知性が不調なせいでも悪意のせいでもありません。レーニンは彼なりにパリ・コミューンの悲劇的な結末から学ぶべきことを学んだのです。そして、パリ・コミューンはすばらしい歴史的実験だったし、めざしたものは崇高だったかも知れないけれど、あのような「新しい社会」を志向する、開放的な革命運動は政治的には無効だと考えたのです。革命闘争に勝利するためには、それとはまったく正反対の、服従と統制と官僚機構を最大限に活用した運動と組織が必要だと考えた。

 レーニンのこのパリ・コミューン解釈がそれ以後のパリ・コミューンについて支配的な解釈として定着しました。ですから、仮にそれから後、「パリ・コミューンのような政治形態」をめざす政治運動が試みられたことがあったとしても、それは「われわれは空想家ではない。われわれは、どうやって一挙に、いっさいの統治なしに、いっさいの服従なしに、やっていくかなどと『夢想』はしない」と断定する鉄のレーニン主義者たちから「空想家」「夢想家」と決めつけられて、舞台から荒っぽく引きずりおろされただろうと思います。

 アルベール・カミュは『国家と革命』におけるレーニンのパリ・コミューン評価をこんなふうに要言しています。僕はカミュのこの評言に対して同意の一票を投じたいと思います。

「レーニンは、生産手段の社会化が達成されるとともに、搾取階級は廃滅され、国家は死滅するという明確で断固たる原則から出発する。しかし、同じ文書の中で、彼は生産手段の社会化の後も、革命的フラクションによる自余の人民に対する独裁が、期限をあらかじめ区切られることなしに継続されることは正当化されるという結論に達している。コミューンの経験を繰り返し参照していながら、このパンフレットは、コミューンを生み出した連邦主義的、反権威主義的な思潮と絶対的に対立するのである。マルクスとエンゲルスのコミュ―ンについての楽観的な記述にさえ反対する。理由は明らかである。レーニンはコミューンが失敗したことを忘れなかったのである。」(Albert Camus, L'homme révolté, in Essais, Gallimard, 1965, p.633)

 僕はできたら読者の皆さんには『フランスの内乱』と『国家と革命』を併せて読んでくれることをお願いしたいと思います。そして、そこに石川先生がこの間言われたような「マルクス」と「マルクス主義」の違いを感じてくれたらいいなと思います。マルクスを読むこととマルクス主義を勉強することは別の営みです。まったく別の営みだと申し上げてもよいと思います。そして、僕は「マルクス主義を勉強すること」にはもうあまり興味がありませんけれど、「マルクスを読む楽しみ」はこれからもずっと手離さないだろうと思います
http://blog.tatsuru.com/2019/03/05_1542.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/145.html#c2

[経世済民72] 脳動脈硬化症で晩節を汚した(?)レーニン _ 実際は若い時から… 中川隆
10. 中川隆[-11553] koaQ7Jey 2019年3月09日 20:07:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[440]

パリ・コミューンについて - 内田樹の研究室 2019-03-05

石川康宏さんとの『若者よマルクスを読もう』の三巻目は「フランスにおける内乱」をめぐっての往復書簡だった。

『反抗的人間』を読んでいたら、ぜひ引用したいカミュの言葉が出て来たので、それを数行加筆することにした。

それを含む、パリ・コミューン論を採録する。


『フランスの内乱』、読み返してみました。この本を読むのは、学生時代以来50年ぶりくらいです。同じテクストでも、さすがに半世紀をおいて読み返すと、印象がずいぶん違うものですね。

パリ・コミューンの歴史的な意義や、このテクストの重要性については、もう石川先生がきちんと書いてくださっていますので、僕は例によって、個人的にこだわりのあるところについて感想を語ってゆきたいと思います。
 
「コミューン」というのは、そもそもどういう意味なんでしょう。「コミューン」という言葉を学生だった僕はこの本で最初に知りました。そして、たぶん半世紀前も次の箇所に赤線を引いたはずです。

「コミューンは本質的に労働者階級の政府であり、横領者階級に対する生産者階級の闘争の所産であり、労働者階級の経済的解放を実現するために、ついに発見された政治形態である。」(『フランスの内乱』、辰巳伸知訳、マルクスコレクションVI, 筑摩書房、2005年、36頁、強調は内田)

「ついに発見された政治形態」であると断定された以上、それは前代未聞のものであるはずです。僕は素直にそう読みました。なるほど、パリ・コミューンは歴史上はじめて登場した政治形態だったのか。すごいな。それなのに反動的なブルジョワたちから暴力的な弾圧を受けて、徹底的に殲滅されて、多くのコミューン戦士は英雄的な死を遂げた。気の毒なことをしたなあ・・・。そう思いました。それくらいしか思いませんでした。でも、さすがにそれから半世紀経つと感想もずいぶん違うものになります。

 僕が気になったのは、パリ・コミューンがマルクスの時代において「ついに発見された」前代未聞のものであったことはわかるのですが、それに続くものがなかったということです。

 パリ・コミューンからすでに150年を閲しましたけれど、パリ・コミューンのような政治形態はそれを最後に二度と再び地上に現れることはありませんでした。それはなぜなのでしょう。

 もし、パリ・コミューンがマルクスの言うように、1870年時点での革命的実践の頂点であったのだとしたら、その後も、パリ・コミューンを範とした革命的実践が(かりに失敗したとしても)世界各地で、次々と試みられてよかったはずです。でも、管見の及ぶ限りで「この政治形態はパリ・コミューンの甦りである」とか「この政治形態はパリ・コミューンが別の歴史的条件の下でいささか相貌を変えて実現したものである」というふうに名乗る事例を僕は一つも知りません。「われわれの戦いはパリ・コミューンを理想としてしている」と綱領的文書に掲げた政治運動や政治組織も僕は見たことがありません。

 変な話だと思いませんか?

 かのマルクスが、「ついに発見された政治形態である」と絶賛した究極の事例について、それを継承しようとした人たちも、未完・未済のものであったがゆえにその完成をこそ自らの歴史的召命として引き受けようとした人たちも、1871年から後いなかった。どうして、パリ・コミューンという政治的理想をそれからのちも全力で追求しようとした人たちは出てこなかったのか? 

 少なくともそれ以後フランスには「パリ・コミューン的なもの」は二度と登場しません。フランスでは、1789年、1830年、1848年、1871年と、比較的短いインターバルで革命的争乱が継起しました。いずれも、その前に行われた革命的な企てを引き継ぐものとして、あるいは先行した革命の不徹底性を乗り越えるものとしてなされました。でも、1871年のパリ・コミューンから後、パリ・コミューンを引き継ぎ、その不徹底性を批判的に乗り越える革命的な企てを構想した人は一人もいなかった。

 1944年8月25日のパリ解放の時、進軍してきた自由フランス軍に中にも、レジスタンスの闘士たちの中にも、誰も「抑圧者が去った今こそ市民たちの自治政府を」と叫ぶ人はいませんでした。1968年には「パリ五月革命」と呼ばれたラディカルな政治闘争がありましたが、その時に街頭を埋め尽くしたデモの隊列からも「今こそ第五共和政を倒して、パリ・コミューンを」と訴える声は聴こえませんでした。少しはいたかも知れませんが(どんなことでも口走る人はいますから)、誰も取り合わなかった。

 今も「パリ・コミューン派」を名乗っていて、少なからぬ力量を誇っている政治組織が世界のどこかにはあるかも知れませんけれど、寡聞にして僕は知りません(知っている人がいたらぜひご教示ください)。

 これはどういうことなのでしょう。なぜ「ついに発見された政治形態」は後継者を持ちえなかったのか?

 以下はそれについての僕の暴走的思弁です。

「マルクスとアメリカ」でも同じ考え方をご披露しましたけれど、僕が歴史について考える時にしばしば採用するアプローチは「どうして、ある出来事は起きたのに、それとは別の『起きてもよかった出来事』は起きなかったのか?」という問いを立てることです。

 このやり方を僕はシャーロック・ホームズから学びました。「起きたこと」からではなくて、「起きてもよかったはずのことが起きなかった」という事実に基づいて事件の真相に迫るのです。「白銀号事件」でホームズは「なぜあの夜、犬は吠えなかったのか?」というところからその推理を開始します。なぜ起きてもよいことが起きなかったのか?

 (...)

 なぜパリ・コミューンはマルクスによって理想的な政治形態と高く評価されたにもかかわらず、それから後、当のマルクス主義者たちによってさえ企てられなかったのか?

 それに対する僕の仮説的回答はこうです。

 パリ・コミューンはまさに「ついに発見された政治形態」であったにもかかわらずではなく、そうであったがゆえに血なまぐさい弾圧を呼び寄せ、破壊し尽くされ、二度と「あんなこと」は試みない方がよいという歴史的教訓を残したというものです。

 パリ・コミューン以後の革命家たち(レーニンもその一人です)がこの歴史的事実から引き出したのは次のような教訓でした。

 パリ・コミューンのような政治形態は不可能だ。やるならもっと違うやり方でやるしかない。

 パリ・コミューンは理想的に過ぎたのでした。

 それは『フランスの内乱』の中でマルクスが引いているいくつもの事例から知ることができます。マルクスが引いている事実はすべてがヴェルサイユ側の忌まわしいほどの不道徳性と暴力的非寛容と薄汚れた現実主義とコミューン側の道徳的清廉さ、寛大さ、感動的なまでの政治的無垢をありありと対比させています。どちらが「グッドガイ」で、どちらが「バッドガイ」か、これほど善悪の対比がはっきりした歴史的出来事は例外的です。少なくともマルクスは 読者たちにそういう印象を与えようとしていました。

 ティエールは国民軍の寄付で調達されたパリの大砲を「国家の財産である」と嘘をついてパリに対して戦争をしかけ、寄せ集めのヴェルサイユ兵を「世界の称賛の的、フランスがこれまで持った最もすばらしい軍隊」と持ち上げ、パリを砲撃した後も「自分たちは砲撃していない、それは叛徒たちの仕業である」と言い抜け、ヴェルサイユ軍の犯した処刑や報復を「すべて戯言である」と言い切りました。一方、「コミューンは、自らの言動を公表し、自らの欠陥をすべて公衆に知らせた」(同書、44頁)のです。

 マルクスの言葉を信じるならまさに「パリではすべてが真実であり、ヴェルサイユではすべてが嘘だった」(同書、46頁)のでした。パリ・コミューンは政治的にも道徳的にも正しい革命だった。マルクスはそれを讃えた。

 でも、マルクス以後の革命家たちはそうしなかった。彼らはパリ・コミューンはまさにそのせいで敗北したと考えた。確かに、レーニンがパリ・コミューンから教訓として引き出したのは、パリ・コミューンはもっと暴力的で、強権的であってもよかった、政治的にも道徳的にも、あれほど「正しい」ものである必要はなかった、ということだったからです。レーニンはこう書いています。

 「ブルジョワジーと彼らの反抗を抑圧することは、依然として必要である。そして、コンミューンにとっては、このことはとくに必要であった。そして、コンミューンの敗因の一つは、コンミューンがこのことを十分に断固として行わなかった点にある。」(レーニン、『国家と革命』、大崎平八郎訳、角川文庫、1966年、67頁)

 レーニンが「十分に、断固として行うべき」としたのは「ブルジョワジーと彼らの反抗を抑圧すること」です。ヴェルサイユ軍がコミューン派の市民に加えたのと同質の暴力をコミューン派市民はブルジョワ共和主義者や王党派や帝政派に加えるべきだった、レーニンはそう考えました。コミューン派の暴力が正義であるのは、コミューン派が「住民の多数派」だからです。

「ひとたび人民の多数者自身が自分の抑圧者を抑圧する段になると、抑圧のための『特殊な権力』は、もはや必要ではなくなる!国家は死滅し始める。特権的な少数者の特殊な制度(特権官僚、常備軍主脳部)に代わって、多数者自身がこれを直接に遂行することができる。」(同書、67−8頁、強調はレーニン)

 少数派がコントロールしている「特殊な権力」がふるう暴力は悪だけれど、国家権力を媒介とせずに人民が抑圧者に向けて直接ふるう暴力は善である。マルクスは『フランスの内乱』のどこにもそんなことは書いていません。でも、レーニンはそのことをパリ・コミューンの「敗因」から学んだ。

 レーニンがパリ・コミューンの敗北から引き出したもう一つの教訓は、石川先生もご指摘されていた「国家機構」の問題です。これについて、石川先生は、レーニンは「国家機構の粉砕」を主張し、マルクスはそれとは違って、革命の平和的・非強力的な展開の可能性にもチャンスを認めていたという指摘をされています。でも、僕はちょっとそれとは違う解釈も可能なのではないかと思います。レーニンの方がむしろ「できあいの国家機構」を効率的に用いることを認めていたのではないでしょうか。レーニンはこう書いています。

「コンミューンは、ブルジョワ社会の賄賂のきく、腐敗しきった議会制度を、意見と討論の自由が欺瞞に堕することのないような制度とおき替える。なぜなら、コンミューンの代議員たちは、みずから活動し、自分がつくった法律をみずから執行し、執行にあたって生じた結果をみずから点検し、自分の選挙人にたいしてみずから直接責任を負わなければならないからである。代議制度はのこるが、しかし、特殊な制度としての、立法活動と執行活動の分業としての、代議員のための特権的地位を保障するものとしての、議会制度は、ここにはない。(...)議会制度なしの民主主義を考えることができるし、また考えなければならない。」(同書、74−75頁、強調はレーニン)
 
 法の制定者と法の執行者を分業させた政体のことを共和制と呼び、法の制定者と執行者が同一機関である政体のことを独裁制と呼びます。パリ・コミューンは「議会制度なしの民主主義」、独裁的な民主主義の達成だったとして、その点をレーニンは評価します。

 この文章を読むときに、代議制度は「のこる」という方を重く見るか、立法と行政の分業としての共和的な制度は「ない」という方を重く見るかで、解釈にずれが生じます。僕はレーニンは制度そのものの継続性をむしろ強調したかったのではないかという気がします。レーニンは何か新しい、人道的で、理想的な統治形態を夢見ていたのではなく、今ある統治システムを換骨奪胎することを目指していた。そして、マルクスもまた既存の制度との継続を目指したしたるのだと主張します。

「マルクスには『新しい』社会を考えついたり夢想したりするという意味でのユートピア主義など、ひとかけらもない。そうではなくて、彼は、古い社会からの新しい社会の誕生、前者から後者への過渡的諸形態を、自然史的過程として研究しているのだ。」(同書、75頁、強調はレーニン)
 
 ここで目立つのは「からの」を強調していることです。旧体制と新体制の間には連続性がある。だから、「過渡的諸形態」においては「ありもの」の統治システムを使い回す必要がある。レーニンはそう言いたかったようです。そのためにマルクスも「そう言っている」という無理な読解を行った。

「われわれは空想家ではない。われわれは、どうやって一挙に、いっさいの統治なしに、いっさいの服従なしに、やっていくかなどと『夢想』はしない。プロレタリアートの独裁の任務についての無理解にもとづくこうした無政府主義的夢想は、マルクス主義とは根本的に無縁なものであり、実際には、人間が今とは違ったものになるときまで社会主義革命を引き延ばすことに役だつだけである。ところがそうではなくて、われわれは、社会主義革命をば現在のままの人間で、つまり服従なしには、統制なしには、『監督、簿記係』なしにはやってゆけない、そのような人間によって遂行しようと望んでいるのだ。」(同書、76―77頁、強調はレーニン)

 レーニンが「監督、簿記係」と嘲弄的に呼んでいるのは官僚機構のことです。プロレタリアート独裁は「服従」と「統制」と「官僚機構」を通じて行われることになるだろうとレーニンはここで言っているのです。「すべての被搾取勤労者の武装した前衛であるプロレタリアートには、服従しなければならない。」(77頁)という命題には「誰が」という主語が言い落とされていますが、これは「プロレタリアート以外の全員」のことです。

 これはどう贔屓目に読んでも、マルクスの『フランスの内乱』の解釈としては受け入れがたいものです。

 マルクスがパリ・コミューンにおいて最も高く評価したのは、そこでは「服従」や「統制」や「官僚機構」が効率的に働いていたことではなく、逆に、労働者たちが「できあいの国家機構をそのまま掌握して、自分自身の目的のために行使することはできない」と考えたからです。新しいものを手作りしなければならないというコミューンの未決性、開放性をマルクスは評価した。誰も服従しない、誰も統制しない、誰もが進んで公的使命を果たすという点がパリ・コミューンの最大の美点だとマルクスは考えていたからです。

「コミューンが多種多様に解釈されてきたこと、自分たちの都合のいいように多種多様な党派がコミューンを解釈したこと、このことは、過去のあらゆる統治形態がまさに抑圧的であり続けてきたのに対して、コミューンが徹頭徹尾開放的な政府形態であったということを示している。」(マルクス、前掲書、36頁)

 マルクスの見るところ、パリ・コミューンの最大の美点はその道徳的なインテグリティーにありました。自らの無謬性を誇らず、「自らの言動を公表し、自らの欠陥のすべてを公衆に知らせた」ことです。それがもたらした劇的な変化についてマルクスは感動的な筆致でこう書いています。

「実際すばらしかったのは、コミューンがパリにもたらした変化である! 第二帝政のみだらなパリは、もはやあとかたもなかった。パリはもはや、イギリスの地主やアイルランドの不在地主、アメリカのもと奴隷所有者や成金、ロシアのもと農奴所有者やワラキアの大貴族のたまり場ではなくなった。死体公示所にはもはや身元不明の死体はなく、夜盗もなくなり、強盗もほとんどなくなった。1848年二月期以来、はじめてパリの街路は安全になった。しかも、いかなる類の警察もなしに。(・・・)労働し、考え、闘い、血を流しているパリは、―新たな社会を生み出そうとするなかで、(・・・)自らが歴史を創始することの熱情に輝いていたのである。」(同書、45―46頁、強調は内田)

「新しい社会を生み出そうとするなかで」とマルクスは書いています。この文言と「マルクスには『新しい』社会を考えついたり夢想したりするという意味でのユートピア主義など、ひとかけらもない」というレーニンの断定の間には、埋めることのできないほどの断絶があると僕は思います。

 でも、パリ・コミューンの総括において「パリ・コミューンは理想主義的過ぎた」という印象を抱いたのはレーニン一人ではありません。ほとんどすべての革命家たちがそう思った。だからこそ、パリ・コミューンはひとり孤絶した歴史的経験にとどまり、以後150年、その「アヴァター」は再び地上に顕現することがなかった。そういうことではないかと思います。

 勘違いして欲しくないのですが、僕はレーニンの革命論が「間違っている」と言っているのではありません。現にロシア革命を「成功」させたくらいですから、実践によってみごとに裏書きされたすぐれた革命論だと思います。でも、マルクスの『フランスの内乱』の祖述としては不正確です。

 ただし、レーニンのこの「不正確な祖述」は彼の知性が不調なせいでも悪意のせいでもありません。レーニンは彼なりにパリ・コミューンの悲劇的な結末から学ぶべきことを学んだのです。そして、パリ・コミューンはすばらしい歴史的実験だったし、めざしたものは崇高だったかも知れないけれど、あのような「新しい社会」を志向する、開放的な革命運動は政治的には無効だと考えたのです。革命闘争に勝利するためには、それとはまったく正反対の、服従と統制と官僚機構を最大限に活用した運動と組織が必要だと考えた。

 レーニンのこのパリ・コミューン解釈がそれ以後のパリ・コミューンについて支配的な解釈として定着しました。ですから、仮にそれから後、「パリ・コミューンのような政治形態」をめざす政治運動が試みられたことがあったとしても、それは「われわれは空想家ではない。われわれは、どうやって一挙に、いっさいの統治なしに、いっさいの服従なしに、やっていくかなどと『夢想』はしない」と断定する鉄のレーニン主義者たちから「空想家」「夢想家」と決めつけられて、舞台から荒っぽく引きずりおろされただろうと思います。

 アルベール・カミュは『国家と革命』におけるレーニンのパリ・コミューン評価をこんなふうに要言しています。僕はカミュのこの評言に対して同意の一票を投じたいと思います。

「レーニンは、生産手段の社会化が達成されるとともに、搾取階級は廃滅され、国家は死滅するという明確で断固たる原則から出発する。しかし、同じ文書の中で、彼は生産手段の社会化の後も、革命的フラクションによる自余の人民に対する独裁が、期限をあらかじめ区切られることなしに継続されることは正当化されるという結論に達している。コミューンの経験を繰り返し参照していながら、このパンフレットは、コミューンを生み出した連邦主義的、反権威主義的な思潮と絶対的に対立するのである。マルクスとエンゲルスのコミュ―ンについての楽観的な記述にさえ反対する。理由は明らかである。レーニンはコミューンが失敗したことを忘れなかったのである。」(Albert Camus, L'homme révolté, in Essais, Gallimard, 1965, p.633)

 僕はできたら読者の皆さんには『フランスの内乱』と『国家と革命』を併せて読んでくれることをお願いしたいと思います。そして、そこに石川先生がこの間言われたような「マルクス」と「マルクス主義」の違いを感じてくれたらいいなと思います。マルクスを読むこととマルクス主義を勉強することは別の営みです。まったく別の営みだと申し上げてもよいと思います。そして、僕は「マルクス主義を勉強すること」にはもうあまり興味がありませんけれど、「マルクスを読む楽しみ」はこれからもずっと手離さないだろうと思います
http://blog.tatsuru.com/2019/03/05_1542.html
http://www.asyura2.com/11/hasan72/msg/756.html#c10

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
21. 中川隆[-11552] koaQ7Jey 2019年3月09日 20:47:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[441]
連合赤軍のアホ大学生はボルボトでインテリをリンチした少年兵や文化大革命で宗族の指導者を吊るし上げた少年達と全く同じメンタリティですね。

まあ、レーニンも同じですけど:

パリ・コミューンについて - 内田樹の研究室 2019-03-05


石川康宏さんとの『若者よマルクスを読もう』の三巻目は「フランスにおける内乱」をめぐっての往復書簡だった。

『反抗的人間』を読んでいたら、ぜひ引用したいカミュの言葉が出て来たので、それを数行加筆することにした。

それを含む、パリ・コミューン論を採録する。


『フランスの内乱』、読み返してみました。この本を読むのは、学生時代以来50年ぶりくらいです。同じテクストでも、さすがに半世紀をおいて読み返すと、印象がずいぶん違うものですね。

パリ・コミューンの歴史的な意義や、このテクストの重要性については、もう石川先生がきちんと書いてくださっていますので、僕は例によって、個人的にこだわりのあるところについて感想を語ってゆきたいと思います。
 
「コミューン」というのは、そもそもどういう意味なんでしょう。「コミューン」という言葉を学生だった僕はこの本で最初に知りました。そして、たぶん半世紀前も次の箇所に赤線を引いたはずです。

「コミューンは本質的に労働者階級の政府であり、横領者階級に対する生産者階級の闘争の所産であり、労働者階級の経済的解放を実現するために、ついに発見された政治形態である。」(『フランスの内乱』、辰巳伸知訳、マルクスコレクションVI, 筑摩書房、2005年、36頁、強調は内田)

「ついに発見された政治形態」であると断定された以上、それは前代未聞のものであるはずです。僕は素直にそう読みました。なるほど、パリ・コミューンは歴史上はじめて登場した政治形態だったのか。すごいな。それなのに反動的なブルジョワたちから暴力的な弾圧を受けて、徹底的に殲滅されて、多くのコミューン戦士は英雄的な死を遂げた。気の毒なことをしたなあ・・・。そう思いました。それくらいしか思いませんでした。でも、さすがにそれから半世紀経つと感想もずいぶん違うものになります。

 僕が気になったのは、パリ・コミューンがマルクスの時代において「ついに発見された」前代未聞のものであったことはわかるのですが、それに続くものがなかったということです。

 パリ・コミューンからすでに150年を閲しましたけれど、パリ・コミューンのような政治形態はそれを最後に二度と再び地上に現れることはありませんでした。それはなぜなのでしょう。

 もし、パリ・コミューンがマルクスの言うように、1870年時点での革命的実践の頂点であったのだとしたら、その後も、パリ・コミューンを範とした革命的実践が(かりに失敗したとしても)世界各地で、次々と試みられてよかったはずです。でも、管見の及ぶ限りで「この政治形態はパリ・コミューンの甦りである」とか「この政治形態はパリ・コミューンが別の歴史的条件の下でいささか相貌を変えて実現したものである」というふうに名乗る事例を僕は一つも知りません。「われわれの戦いはパリ・コミューンを理想としてしている」と綱領的文書に掲げた政治運動や政治組織も僕は見たことがありません。

 変な話だと思いませんか?

 かのマルクスが、「ついに発見された政治形態である」と絶賛した究極の事例について、それを継承しようとした人たちも、未完・未済のものであったがゆえにその完成をこそ自らの歴史的召命として引き受けようとした人たちも、1871年から後いなかった。どうして、パリ・コミューンという政治的理想をそれからのちも全力で追求しようとした人たちは出てこなかったのか? 

 少なくともそれ以後フランスには「パリ・コミューン的なもの」は二度と登場しません。フランスでは、1789年、1830年、1848年、1871年と、比較的短いインターバルで革命的争乱が継起しました。いずれも、その前に行われた革命的な企てを引き継ぐものとして、あるいは先行した革命の不徹底性を乗り越えるものとしてなされました。でも、1871年のパリ・コミューンから後、パリ・コミューンを引き継ぎ、その不徹底性を批判的に乗り越える革命的な企てを構想した人は一人もいなかった。

 1944年8月25日のパリ解放の時、進軍してきた自由フランス軍に中にも、レジスタンスの闘士たちの中にも、誰も「抑圧者が去った今こそ市民たちの自治政府を」と叫ぶ人はいませんでした。1968年には「パリ五月革命」と呼ばれたラディカルな政治闘争がありましたが、その時に街頭を埋め尽くしたデモの隊列からも「今こそ第五共和政を倒して、パリ・コミューンを」と訴える声は聴こえませんでした。少しはいたかも知れませんが(どんなことでも口走る人はいますから)、誰も取り合わなかった。

 今も「パリ・コミューン派」を名乗っていて、少なからぬ力量を誇っている政治組織が世界のどこかにはあるかも知れませんけれど、寡聞にして僕は知りません(知っている人がいたらぜひご教示ください)。

 これはどういうことなのでしょう。なぜ「ついに発見された政治形態」は後継者を持ちえなかったのか?

 以下はそれについての僕の暴走的思弁です。

「マルクスとアメリカ」でも同じ考え方をご披露しましたけれど、僕が歴史について考える時にしばしば採用するアプローチは「どうして、ある出来事は起きたのに、それとは別の『起きてもよかった出来事』は起きなかったのか?」という問いを立てることです。

 このやり方を僕はシャーロック・ホームズから学びました。「起きたこと」からではなくて、「起きてもよかったはずのことが起きなかった」という事実に基づいて事件の真相に迫るのです。「白銀号事件」でホームズは「なぜあの夜、犬は吠えなかったのか?」というところからその推理を開始します。なぜ起きてもよいことが起きなかったのか?

 (...)

 なぜパリ・コミューンはマルクスによって理想的な政治形態と高く評価されたにもかかわらず、それから後、当のマルクス主義者たちによってさえ企てられなかったのか?

 それに対する僕の仮説的回答はこうです。

 パリ・コミューンはまさに「ついに発見された政治形態」であったにもかかわらずではなく、そうであったがゆえに血なまぐさい弾圧を呼び寄せ、破壊し尽くされ、二度と「あんなこと」は試みない方がよいという歴史的教訓を残したというものです。

 パリ・コミューン以後の革命家たち(レーニンもその一人です)がこの歴史的事実から引き出したのは次のような教訓でした。

 パリ・コミューンのような政治形態は不可能だ。やるならもっと違うやり方でやるしかない。

 パリ・コミューンは理想的に過ぎたのでした。

 それは『フランスの内乱』の中でマルクスが引いているいくつもの事例から知ることができます。マルクスが引いている事実はすべてがヴェルサイユ側の忌まわしいほどの不道徳性と暴力的非寛容と薄汚れた現実主義とコミューン側の道徳的清廉さ、寛大さ、感動的なまでの政治的無垢をありありと対比させています。どちらが「グッドガイ」で、どちらが「バッドガイ」か、これほど善悪の対比がはっきりした歴史的出来事は例外的です。少なくともマルクスは 読者たちにそういう印象を与えようとしていました。

 ティエールは国民軍の寄付で調達されたパリの大砲を「国家の財産である」と嘘をついてパリに対して戦争をしかけ、寄せ集めのヴェルサイユ兵を「世界の称賛の的、フランスがこれまで持った最もすばらしい軍隊」と持ち上げ、パリを砲撃した後も「自分たちは砲撃していない、それは叛徒たちの仕業である」と言い抜け、ヴェルサイユ軍の犯した処刑や報復を「すべて戯言である」と言い切りました。一方、「コミューンは、自らの言動を公表し、自らの欠陥をすべて公衆に知らせた」(同書、44頁)のです。

 マルクスの言葉を信じるならまさに「パリではすべてが真実であり、ヴェルサイユではすべてが嘘だった」(同書、46頁)のでした。パリ・コミューンは政治的にも道徳的にも正しい革命だった。マルクスはそれを讃えた。

 でも、マルクス以後の革命家たちはそうしなかった。彼らはパリ・コミューンはまさにそのせいで敗北したと考えた。確かに、レーニンがパリ・コミューンから教訓として引き出したのは、パリ・コミューンはもっと暴力的で、強権的であってもよかった、政治的にも道徳的にも、あれほど「正しい」ものである必要はなかった、ということだったからです。レーニンはこう書いています。

 「ブルジョワジーと彼らの反抗を抑圧することは、依然として必要である。そして、コンミューンにとっては、このことはとくに必要であった。そして、コンミューンの敗因の一つは、コンミューンがこのことを十分に断固として行わなかった点にある。」(レーニン、『国家と革命』、大崎平八郎訳、角川文庫、1966年、67頁)

 レーニンが「十分に、断固として行うべき」としたのは「ブルジョワジーと彼らの反抗を抑圧すること」です。ヴェルサイユ軍がコミューン派の市民に加えたのと同質の暴力をコミューン派市民はブルジョワ共和主義者や王党派や帝政派に加えるべきだった、レーニンはそう考えました。コミューン派の暴力が正義であるのは、コミューン派が「住民の多数派」だからです。

「ひとたび人民の多数者自身が自分の抑圧者を抑圧する段になると、抑圧のための『特殊な権力』は、もはや必要ではなくなる!国家は死滅し始める。特権的な少数者の特殊な制度(特権官僚、常備軍主脳部)に代わって、多数者自身がこれを直接に遂行することができる。」(同書、67−8頁、強調はレーニン)

 少数派がコントロールしている「特殊な権力」がふるう暴力は悪だけれど、国家権力を媒介とせずに人民が抑圧者に向けて直接ふるう暴力は善である。マルクスは『フランスの内乱』のどこにもそんなことは書いていません。でも、レーニンはそのことをパリ・コミューンの「敗因」から学んだ。

 レーニンがパリ・コミューンの敗北から引き出したもう一つの教訓は、石川先生もご指摘されていた「国家機構」の問題です。これについて、石川先生は、レーニンは「国家機構の粉砕」を主張し、マルクスはそれとは違って、革命の平和的・非強力的な展開の可能性にもチャンスを認めていたという指摘をされています。でも、僕はちょっとそれとは違う解釈も可能なのではないかと思います。レーニンの方がむしろ「できあいの国家機構」を効率的に用いることを認めていたのではないでしょうか。レーニンはこう書いています。

「コンミューンは、ブルジョワ社会の賄賂のきく、腐敗しきった議会制度を、意見と討論の自由が欺瞞に堕することのないような制度とおき替える。なぜなら、コンミューンの代議員たちは、みずから活動し、自分がつくった法律をみずから執行し、執行にあたって生じた結果をみずから点検し、自分の選挙人にたいしてみずから直接責任を負わなければならないからである。代議制度はのこるが、しかし、特殊な制度としての、立法活動と執行活動の分業としての、代議員のための特権的地位を保障するものとしての、議会制度は、ここにはない。(...)議会制度なしの民主主義を考えることができるし、また考えなければならない。」(同書、74−75頁、強調はレーニン)
 
 法の制定者と法の執行者を分業させた政体のことを共和制と呼び、法の制定者と執行者が同一機関である政体のことを独裁制と呼びます。パリ・コミューンは「議会制度なしの民主主義」、独裁的な民主主義の達成だったとして、その点をレーニンは評価します。

 この文章を読むときに、代議制度は「のこる」という方を重く見るか、立法と行政の分業としての共和的な制度は「ない」という方を重く見るかで、解釈にずれが生じます。僕はレーニンは制度そのものの継続性をむしろ強調したかったのではないかという気がします。レーニンは何か新しい、人道的で、理想的な統治形態を夢見ていたのではなく、今ある統治システムを換骨奪胎することを目指していた。そして、マルクスもまた既存の制度との継続を目指したしたるのだと主張します。

「マルクスには『新しい』社会を考えついたり夢想したりするという意味でのユートピア主義など、ひとかけらもない。そうではなくて、彼は、古い社会からの新しい社会の誕生、前者から後者への過渡的諸形態を、自然史的過程として研究しているのだ。」(同書、75頁、強調はレーニン)
 
 ここで目立つのは「からの」を強調していることです。旧体制と新体制の間には連続性がある。だから、「過渡的諸形態」においては「ありもの」の統治システムを使い回す必要がある。レーニンはそう言いたかったようです。そのためにマルクスも「そう言っている」という無理な読解を行った。

「われわれは空想家ではない。われわれは、どうやって一挙に、いっさいの統治なしに、いっさいの服従なしに、やっていくかなどと『夢想』はしない。プロレタリアートの独裁の任務についての無理解にもとづくこうした無政府主義的夢想は、マルクス主義とは根本的に無縁なものであり、実際には、人間が今とは違ったものになるときまで社会主義革命を引き延ばすことに役だつだけである。ところがそうではなくて、われわれは、社会主義革命をば現在のままの人間で、つまり服従なしには、統制なしには、『監督、簿記係』なしにはやってゆけない、そのような人間によって遂行しようと望んでいるのだ。」(同書、76―77頁、強調はレーニン)

 レーニンが「監督、簿記係」と嘲弄的に呼んでいるのは官僚機構のことです。プロレタリアート独裁は「服従」と「統制」と「官僚機構」を通じて行われることになるだろうとレーニンはここで言っているのです。「すべての被搾取勤労者の武装した前衛であるプロレタリアートには、服従しなければならない。」(77頁)という命題には「誰が」という主語が言い落とされていますが、これは「プロレタリアート以外の全員」のことです。

 これはどう贔屓目に読んでも、マルクスの『フランスの内乱』の解釈としては受け入れがたいものです。

 マルクスがパリ・コミューンにおいて最も高く評価したのは、そこでは「服従」や「統制」や「官僚機構」が効率的に働いていたことではなく、逆に、労働者たちが「できあいの国家機構をそのまま掌握して、自分自身の目的のために行使することはできない」と考えたからです。新しいものを手作りしなければならないというコミューンの未決性、開放性をマルクスは評価した。誰も服従しない、誰も統制しない、誰もが進んで公的使命を果たすという点がパリ・コミューンの最大の美点だとマルクスは考えていたからです。

「コミューンが多種多様に解釈されてきたこと、自分たちの都合のいいように多種多様な党派がコミューンを解釈したこと、このことは、過去のあらゆる統治形態がまさに抑圧的であり続けてきたのに対して、コミューンが徹頭徹尾開放的な政府形態であったということを示している。」(マルクス、前掲書、36頁)

 マルクスの見るところ、パリ・コミューンの最大の美点はその道徳的なインテグリティーにありました。自らの無謬性を誇らず、「自らの言動を公表し、自らの欠陥のすべてを公衆に知らせた」ことです。それがもたらした劇的な変化についてマルクスは感動的な筆致でこう書いています。

「実際すばらしかったのは、コミューンがパリにもたらした変化である! 第二帝政のみだらなパリは、もはやあとかたもなかった。パリはもはや、イギリスの地主やアイルランドの不在地主、アメリカのもと奴隷所有者や成金、ロシアのもと農奴所有者やワラキアの大貴族のたまり場ではなくなった。死体公示所にはもはや身元不明の死体はなく、夜盗もなくなり、強盗もほとんどなくなった。1848年二月期以来、はじめてパリの街路は安全になった。しかも、いかなる類の警察もなしに。(・・・)労働し、考え、闘い、血を流しているパリは、―新たな社会を生み出そうとするなかで、(・・・)自らが歴史を創始することの熱情に輝いていたのである。」(同書、45―46頁、強調は内田)

「新しい社会を生み出そうとするなかで」とマルクスは書いています。この文言と「マルクスには『新しい』社会を考えついたり夢想したりするという意味でのユートピア主義など、ひとかけらもない」というレーニンの断定の間には、埋めることのできないほどの断絶があると僕は思います。

 でも、パリ・コミューンの総括において「パリ・コミューンは理想主義的過ぎた」という印象を抱いたのはレーニン一人ではありません。ほとんどすべての革命家たちがそう思った。だからこそ、パリ・コミューンはひとり孤絶した歴史的経験にとどまり、以後150年、その「アヴァター」は再び地上に顕現することがなかった。そういうことではないかと思います。

 勘違いして欲しくないのですが、僕はレーニンの革命論が「間違っている」と言っているのではありません。現にロシア革命を「成功」させたくらいですから、実践によってみごとに裏書きされたすぐれた革命論だと思います。でも、マルクスの『フランスの内乱』の祖述としては不正確です。

 ただし、レーニンのこの「不正確な祖述」は彼の知性が不調なせいでも悪意のせいでもありません。レーニンは彼なりにパリ・コミューンの悲劇的な結末から学ぶべきことを学んだのです。そして、パリ・コミューンはすばらしい歴史的実験だったし、めざしたものは崇高だったかも知れないけれど、あのような「新しい社会」を志向する、開放的な革命運動は政治的には無効だと考えたのです。革命闘争に勝利するためには、それとはまったく正反対の、服従と統制と官僚機構を最大限に活用した運動と組織が必要だと考えた。

 レーニンのこのパリ・コミューン解釈がそれ以後のパリ・コミューンについて支配的な解釈として定着しました。ですから、仮にそれから後、「パリ・コミューンのような政治形態」をめざす政治運動が試みられたことがあったとしても、それは「われわれは空想家ではない。われわれは、どうやって一挙に、いっさいの統治なしに、いっさいの服従なしに、やっていくかなどと『夢想』はしない」と断定する鉄のレーニン主義者たちから「空想家」「夢想家」と決めつけられて、舞台から荒っぽく引きずりおろされただろうと思います。

 アルベール・カミュは『国家と革命』におけるレーニンのパリ・コミューン評価をこんなふうに要言しています。僕はカミュのこの評言に対して同意の一票を投じたいと思います。

「レーニンは、生産手段の社会化が達成されるとともに、搾取階級は廃滅され、国家は死滅するという明確で断固たる原則から出発する。しかし、同じ文書の中で、彼は生産手段の社会化の後も、革命的フラクションによる自余の人民に対する独裁が、期限をあらかじめ区切られることなしに継続されることは正当化されるという結論に達している。コミューンの経験を繰り返し参照していながら、このパンフレットは、コミューンを生み出した連邦主義的、反権威主義的な思潮と絶対的に対立するのである。マルクスとエンゲルスのコミュ―ンについての楽観的な記述にさえ反対する。理由は明らかである。レーニンはコミューンが失敗したことを忘れなかったのである。」(Albert Camus, L'homme révolté, in Essais, Gallimard, 1965, p.633)

 僕はできたら読者の皆さんには『フランスの内乱』と『国家と革命』を併せて読んでくれることをお願いしたいと思います。そして、そこに石川先生がこの間言われたような「マルクス」と「マルクス主義」の違いを感じてくれたらいいなと思います。マルクスを読むこととマルクス主義を勉強することは別の営みです。まったく別の営みだと申し上げてもよいと思います。そして、僕は「マルクス主義を勉強すること」にはもうあまり興味がありませんけれど、「マルクスを読む楽しみ」はこれからもずっと手離さないだろうと思います
http://blog.tatsuru.com/2019/03/05_1542.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c21

[リバイバル3] 電子タバコは葉タバコより遥かに有害 中川隆
1. 中川隆[-11551] koaQ7Jey 2019年3月09日 22:10:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[442]

電子たばこ吸引、10代にとって危険な理由
2019.03.09 Sat posted at 19:07 JST
https://www.cnn.co.jp/fringe/35132614.html

紙巻きたばこだけでなく電子たばこも、10代の健康に脅威を与えている/Shutterstock



(CNN) 10代のニコチン中毒に関する私たちの知識の大半は、紙巻きたばこから来ている。しかし専門家の間では、電子たばこ吸引にまつわる技術や化学反応により、全く別種の脅威が生じる可能性が指摘されている。

ボストン小児病院のシャロン・レビー医師は、「子どもによる電子たばこの使用は様相が全く異なる」と説明。「ニコチンの送達方法や送達量など、あらゆる変化が重要だ」と話す。

レビー氏のプログラムに参加する電子たばこ常用者の子どもたちは、従来の紙巻きたばこの使用者や大人では滅多に見られない精神症状を呈している。一例を挙げれば、不安が募って集中できない、といった具合だ。

そんな中、多くの高校では電子たばこ吸引が広がっており、米食品医薬品局(FDA)が対策に乗り出す事態に発展した。

電子たばこを巡っては当初、大人の喫煙者にとって害が少ない代替品になるかもしれないと盛んに宣伝されていた。だが、専門家はむしろ若者への影響が大きいと指摘する。背景には電子たばこでのニコチン送達の方法や、子どもの脳の配線と発達の仕方、ガジェット特有の魅力といった要因が絡み合っている。

10代での流行は「予想できた問題」

専門家によると、高濃度の液体ニコチンが入ったカートリッジ1個には、紙巻きたばこ1箱と同量のニコチンが含まれている。

レビー氏は、子どもたちが頭痛や腹痛など「ニコチン中毒そっくり」の症状を訴えることも珍しくないと説明。電子たばこでは従来の紙巻きたばこに比べ、血中ニコチン濃度のピーク値が上昇するのではないかと疑っている。ただし専門家は、人体や脳への影響を理解するには、さらなる研究が必要だとしている。


電子たばこ吸引、10代にとって危険な理由

2019.03.09 Sat posted at 19:07 JST




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電子たばこのニコチン含有量はメーカーによって増やされている可能性がある/Shutterstock
電子たばこのニコチン含有量はメーカーによって増やされている可能性がある/Shutterstock


米ロズウェルパーク包括的がんセンターのマチェイ・ゴニエビチ准教授は「ジュールのような新世代の電子たばこは実際に高濃度のニコチンを送達している。紙巻きたばこよりも高濃度かもしれない」と語る。

昨年の研究では、ニコチン代謝物質「コチニン」の尿内濃度について、電子たばこを使用する若者の場合、10代の喫煙者に関する従来の研究で報告されていた値よりも高いことが判明した。

ゴニエビチ氏によると、電子たばこメーカーは「ニコチンソルト」の生成によりニコチン含有量を増やしている可能性もある。これによりニコチンに特有の不快な味を覆い隠し、人体による吸収を早めているかもしれない。

ニコチンそのものの化学成分だけでなく、電子たばこ会社がリキッドに心地よく甘い風味を加えていることにも批判が向けられている。

一方、電子たばこ大手ジュールは風味について、燃焼式たばこからの切り替えを大人に促すうえで有効な手段だと主張。昨年にはジュール・ラブズの管理責任者アシュリー・グールド氏がCNNの取材に、「若者による使用は全くの驚きだった」と語っていた。

ただ、レビー氏は、10代の間で人気が出るのは「完全に予測できた問題」だと指摘する。

10代の脳はニコチンの影響を受けやすい可能性も

レビー氏によると、こうした現状を受け、ニコチン製品に関する考え方にも変化が出ている。

喫煙は多くの場合、がんなどの身体疾患を引き起こしかねない「医学上の問題」とみられていた。それが今や、電子たばこの使用は精神医学の問題とみなされることが増えている。ニコチンが子どもたちの間で中毒行動を引き起こし、脳の発達の妨げとなっているとの懸念からだ。

南カリフォルニア大学医学部の保健・感情・依存症研究所の責任者、アダム・レベンサル氏は、「若者の脳はニコチン中毒の影響を受けやすいのではないかと懸念されている」と語る。

「快楽や新しい楽しみの追求の背後にある脳の回路は、意思決定や衝動制御、合理的思考を促す回路に比べて発達が早い」

レベンサル氏によると、子どもたちが特に電子たばこの影響を受けやすい背景には、生物学的な要因だけでなく、心理学的な要因もある。仲間うちの同調圧力やストレスにより、依存行動に走る可能性が高まる場合があるという。

ゴニエビチ氏によると、子どもと大人では電子たばこに手を出す理由も異なる傾向にある。大人はたいてい高用量のニコチンを扱える元喫煙者で、不眠や集中力不足といった離脱症状を避けたいという場合が多い。

しかし子どもの場合、電子たばこで初めてニコチンに接するという場合もある。

「ニコチンは強力な化学物質であり、私たちの脳を変えてしまう」(ゴニエビチ氏)


子どものニコチン中毒への対処には、しっかりとしたカウンセリングも欠かせない/Shutterstock


子どもに禁煙させるのは困難

レビー氏によると、プログラムに参加する若者は「ほぼ全員」が電子たばこの使用経験を持っている。ただ、「現象として新しいのは、現在はニコチンしか摂取した経験のない患者が薬物使用プログラムにいることだ」

専門家は、早い段階でニコチン中毒になると、それが紙巻きたばこやドラッグへの入り口になりかねないと懸念している。相手が10代の場合、実証済みの対策法は少ない。

一部の親は医師の指導の下、ニコチンガムなど認可外の禁煙ツールを試している。ただ、レビー氏は、子どもによっては喫煙の合間での「つなぎ」に使う可能性もあるため、落とし穴になりかねないと指摘する。

中毒が進行した場合には薬も重要だが、それだけでは十分でない。子どもには「しっかりとしたカウンセリング」も必要だ。

最終的には、喫煙者に囲まれた状況への対処法を教える必要が出てくる。しかし現実には、大半の子どもは治療後に学校に戻さざるを得ない。学校でトイレに行くと、誰もが電子たばこを使っているのが実情だ。

こうした状況にもかかわらず、子どもや親は多くの場合、危険性に気付いていないようだ。

「いまだに『安全だと思った』『紙巻きたばこに比べれば安全性は高いはず』と言う子どもがいる」とレビー氏。「『紙巻きたばこに比べれば安全』というのでは基準として余りに低い」


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/915.html#c1

[近代史3] 中国は何時崩壊するのか? 中川隆
8. 中川隆[-11550] koaQ7Jey 2019年3月09日 22:42:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[443]

河添恵子#12-1 ゲスト:馬渕睦夫
★ディープステートと中華人民共和国の末路 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=kZBUkGEmbHs

<2018年の米中対立を振り返る>

・トランプ大統領の軍事政策「ナショナル・ディフェンス・ストラテジー」(2018年1月発表)
・習近平 中国国家主席による改革開放40周年祝賀会での演説
(2018年12月18日 約80分の演説)
 →中国共産党の行き詰まり、終わりの始まりが見えた。何を言っているんだ今更という印象
・ペンス米副大統領によるハドソン研究所での演説
(2018年10月4日 約50分の演説)
 →主には中国共産党の一党支配を終わらせる、という意図

(メモ)
メモ 
※習近平 改革開放40周年祝賀会での演説 概要
 http://j.people.com.cn/n3/2018/1218/c...
※ペンス副大統領演説全文:
 https://www.newshonyaku.com/usa/20181009

・中国共産党を終わらせたい米国
・ファーウェイ始め中国の軍拡のために存在していた企業の力を潰し始めた米国
・特にサイバー空間、宇宙空間への中国の拡張を米国は懸念する
・米国(ディープステート金融資本)を凌駕する中国資本
・米国ディープステートの覇権に楯突き始めた中国に我慢がならない米国

<そもそも中国をつくったのは誰か?>

・中国共産党をつくったのは米国ディープステートであることを理解すること
・中国「改革開放」政策(1978年)
 ケ小平による市場経済体制の大改革。以降 海外資本を積極的に導入した
 →これは米国キッシンジャーが主導したこと。その後のソ連の崩壊とも連動
・中国とソ連を操っていたのはディープステート(DS)
・ロシアからは資源を強奪したが、中国からは安い労働力を得たDS勢力
・世界の工場としての中国を育てたのはDS(あえて先進国の技術を盗ませた)
・(本来対立するはずの)ディープステートとトランプ政権は、一緒になって中国共産党を潰すと決めた
・対中政策で一致するトランプとDS
・ディープステートと中国共産党の蜜月
・アメリカのDSと中国共産党はこの1世紀(100年)、深いつながりがあった
 →客家系の中国人と米国スカル&ボーンズメンバーなど
 →アヘンの利権を持つ
 →クリントン夫妻と客家系財閥の関係
 →江沢民時代(上海閥)とクリントン時代の利権
 →清華大学の経済管理学院の顧問委員会(米中の金融を動かす)
  ゴールドマンサックス、Facebook、ブラックストーン、リーマン・ブラザーズのトップなどが名を連ねる
 →トランプ氏の派閥とは異なるもの
※「スカル&ボーンズ」は米イェール大学にある由緒正しき秘密結社(1832年創設)ですが、中国客家人との1世紀以上に渡る蜜月ぶりは、本番組の第7回で詳しく解説しています。ぜひ復習を!
・毛沢東は1919年頃、米イェール大学でスカル&ボーンズの一員だった可能性
・スカル&ボーンズのメンバーは、相当強く深く、中国の利権を共有していた
・毛沢東とキッシンジャーの知られざる蜜月エピソード
・共産主義国と資本主義国といった視点で見ていると米中関係の本質は見えてこない
・東西冷戦時代のソ連とDSの関係
・ソ連のスパイがアメリカの技術を盗んだ、と考えているが、アメリカ(のDS)がソ連に技術を渡したと見るほうが正解
・中国も同じで、中国が技術を盗んだのではなく、米DSが盗ませたと言える
・ソ連と中国はDSによる同じやり方


<2021年 中国共産党が崩壊する可能性>

・1949年(中国誕生)+72年(ソ連崩壊)=2021年
・ジャック・アタリなどは2025年崩壊を唱える
・迫る中国共産党崩壊
・歴史学者も認めない中国誕生の真相
・中国とアメリカが長年ズブズブだった関係がバレることを、世界の学者などは恐れている
・潰すDS、抗う中国
・世界をどのように支配するか、というディープステートの筋書き
 →それに抗う者は潰されてきた
・DSを中心とした西欧世界は、反中国共産党として結託、完璧に舵を切ったと言える
・AIIBは何処へいった?
・3〜4年経つが未だに世界から信用が得られないAIIB
・一帯一路にも同調しかねるDS
・WIN-WINは2度の勝利を意味する by 中国
・利益になる中国、利益にならない中国
・新しい中国を創設しようとするDSの企み
・中国共産党がいなくなった中国の巨大マーケットで、さらに儲けようと企む世界の資本家の人々
・中国人の体質は変わらない、私益しかない
・中国人に 国益や国家観は無い
・中国は国ではなく市場
・中国人の発想を知り 対応しなければならない
・中国人を尊敬はしなくとも尊重を。何事にも尊重が必要


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/112.html#c8

[近代史3] 馬渕睦夫 米国がつくった中華人民共和国 中川隆
6. 中川隆[-11549] koaQ7Jey 2019年3月09日 22:43:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[444]

河添恵子#12-1 ゲスト:馬渕睦夫
★ディープステートと中華人民共和国の末路 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=kZBUkGEmbHs

<2018年の米中対立を振り返る>

・トランプ大統領の軍事政策「ナショナル・ディフェンス・ストラテジー」(2018年1月発表)
・習近平 中国国家主席による改革開放40周年祝賀会での演説
(2018年12月18日 約80分の演説)
 →中国共産党の行き詰まり、終わりの始まりが見えた。何を言っているんだ今更という印象
・ペンス米副大統領によるハドソン研究所での演説
(2018年10月4日 約50分の演説)
 →主には中国共産党の一党支配を終わらせる、という意図

(メモ)
メモ 
※習近平 改革開放40周年祝賀会での演説 概要
 http://j.people.com.cn/n3/2018/1218/c...
※ペンス副大統領演説全文:
 https://www.newshonyaku.com/usa/20181009

・中国共産党を終わらせたい米国
・ファーウェイ始め中国の軍拡のために存在していた企業の力を潰し始めた米国
・特にサイバー空間、宇宙空間への中国の拡張を米国は懸念する
・米国(ディープステート金融資本)を凌駕する中国資本
・米国ディープステートの覇権に楯突き始めた中国に我慢がならない米国

<そもそも中国をつくったのは誰か?>

・中国共産党をつくったのは米国ディープステートであることを理解すること
・中国「改革開放」政策(1978年)
 ケ小平による市場経済体制の大改革。以降 海外資本を積極的に導入した
 →これは米国キッシンジャーが主導したこと。その後のソ連の崩壊とも連動
・中国とソ連を操っていたのはディープステート(DS)
・ロシアからは資源を強奪したが、中国からは安い労働力を得たDS勢力
・世界の工場としての中国を育てたのはDS(あえて先進国の技術を盗ませた)
・(本来対立するはずの)ディープステートとトランプ政権は、一緒になって中国共産党を潰すと決めた
・対中政策で一致するトランプとDS
・ディープステートと中国共産党の蜜月
・アメリカのDSと中国共産党はこの1世紀(100年)、深いつながりがあった
 →客家系の中国人と米国スカル&ボーンズメンバーなど
 →アヘンの利権を持つ
 →クリントン夫妻と客家系財閥の関係
 →江沢民時代(上海閥)とクリントン時代の利権
 →清華大学の経済管理学院の顧問委員会(米中の金融を動かす)
  ゴールドマンサックス、Facebook、ブラックストーン、リーマン・ブラザーズのトップなどが名を連ねる
 →トランプ氏の派閥とは異なるもの

※「スカル&ボーンズ」は米イェール大学にある由緒正しき秘密結社(1832年創設)ですが、中国客家人との1世紀以上に渡る蜜月ぶりは、本番組の第7回で詳しく解説しています。ぜひ復習を!
・毛沢東は1919年頃、米イェール大学でスカル&ボーンズの一員だった可能性
・スカル&ボーンズのメンバーは、相当強く深く、中国の利権を共有していた
・毛沢東とキッシンジャーの知られざる蜜月エピソード
・共産主義国と資本主義国といった視点で見ていると米中関係の本質は見えてこない
・東西冷戦時代のソ連とDSの関係
・ソ連のスパイがアメリカの技術を盗んだ、と考えているが、アメリカ(のDS)がソ連に技術を渡したと見るほうが正解
・中国も同じで、中国が技術を盗んだのではなく、米DSが盗ませたと言える
・ソ連と中国はDSによる同じやり方


<2021年 中国共産党が崩壊する可能性>

・1949年(中国誕生)+72年(ソ連崩壊)=2021年
・ジャック・アタリなどは2025年崩壊を唱える
・迫る中国共産党崩壊
・歴史学者も認めない中国誕生の真相
・中国とアメリカが長年ズブズブだった関係がバレることを、世界の学者などは恐れている
・潰すDS、抗う中国
・世界をどのように支配するか、というディープステートの筋書き
 →それに抗う者は潰されてきた
・DSを中心とした西欧世界は、反中国共産党として結託、完璧に舵を切ったと言える
・AIIBは何処へいった?
・3〜4年経つが未だに世界から信用が得られないAIIB
・一帯一路にも同調しかねるDS
・WIN-WINは2度の勝利を意味する by 中国
・利益になる中国、利益にならない中国
・新しい中国を創設しようとするDSの企み
・中国共産党がいなくなった中国の巨大マーケットで、さらに儲けようと企む世界の資本家の人々
・中国人の体質は変わらない、私益しかない
・中国人に 国益や国家観は無い
・中国は国ではなく市場
・中国人の発想を知り 対応しなければならない
・中国人を尊敬はしなくとも尊重を。何事にも尊重が必要


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/135.html#c6

[リバイバル3] 苗場スキー場の元高級リゾートマンションが遂に10万円になった 中川隆
516. 中川隆[-11548] koaQ7Jey 2019年3月10日 07:22:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[445]

2019年03月10日
西成や山谷のホテルはなぜ安いのか?

萩之茶屋のホテル街


画像引用:https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/n/nonoty32a/20170402/20170402172736.jpg


カプセルホテルと同じ簡易宿所

東京の山谷や大阪の西成にあるホテルは低料金で泊れることで知られています。

最近は外国人パッカー(貧乏旅行する若者)にも人気があり、外国人が歩いていたりします。

相場は山谷が2000円前後、西成の萩之茶屋周辺は1500円前後と東京の方が高くなっている。




横浜の寿町は1500円から2000円くらいで、全国的には他にも同様の安宿街が点在している。

これら低料金ホテルはどうしてこんなに安くできるのでしょうか?

まずこうした安いホテルは旅館業法の簡易宿所で、カプセルホテルや民宿などと同様になっている。


簡易宿所は一つの部屋または建物を多人数で共有する形式で、外国のドミトリーに似ている。

簡易宿所は消防法などで定められた基準が緩く、最初から低コストで建築でき、既存の建物の改造も容易です。

山谷や萩之茶屋のホテル群は築40年は経っているものばかりで、新築ピカピカというのはあまり見ない。


新しくつくられる安いホテルはこうした安宿街を避けて、おしゃれなカプセルホテルとかにする事が多い。

ドヤ街の安宿が1500円から2000円なのに対して、カプセルホテルは3000円前後からとかなり料金は高い。

カプセルホテルは施設が充実していて大浴場やサウナやレストランも入居しているが、安宿にはそうしたものはない。

高齢者の終の住居に

1500円くらいの安宿は畳2畳くらいの細長い部屋で、最近はエアコン付きが人気がある。

料金が高い部屋はテレビや冷蔵庫が備え付けてあるが、低料金の部屋にはエアコンもない。

ドヤ街の安宿には短期宿泊と定住者向けがあり、1か月4万円から5万円が相場になっている。


なぜみんな月4万円台かというと生活保護で認められる家賃がその程度だからで、入居者は生保受給している高齢者が多い。

5万円以上にすると入居者が集まらず、家賃は生保で払ってくれるので3万円台にしても意味がない。

電気代や水道代は家賃に含まれていて、風呂は毎日ではなく週何回かの事が多い。


毎日風呂に入れる宿はセールスポイントとして表示してあるので、すぐに分かる。

ドヤ街のアパート形式の住居も簡易宿所でホテルなので、入居審査や手続きは一切要らない。

ただ生保を受給する場合は、NGOとか宿が手続きを代行することが多い。


宿にとってこれから生保申請する人は今後数年家賃を払ってくれるお客なので、「生保申請します」のように募集している。

中には生保受給するまで家賃無料を掲げている宿もあり、入居者の獲得競争があるらしい。

生保受給して安宿に定住した高齢者は、そこを終の住居にする人も多い。
http://www.thutmosev.com/archives/79232629.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/565.html#c516

[近代史3] ニセコは既に外人に乗っ取られ日本語も通じなくなった 中川隆
2. 中川隆[-11547] koaQ7Jey 2019年3月10日 10:25:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[446]

日本人がいない…外国人だらけの街の実態は?「ラーメン3000円」に「家賃急騰」も【北海道発】
3/9(土) 17:35配信 FNN PRIME
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190309-00010010-fnnprimev-soci


北海道・ニセコエリアの倶知安町。倶知安町の外国人の住民登録者数が1月末現在で2000人を超えるほどに急増した。一体なぜ外国人が増えたのか。街はどうなっているのか、取材した。

【画像】「家賃がすごく高騰している」地元住民も悲鳴
https://www.fnn.jp/posts/00434140HDK#y

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インド料理店店員「客の95%は外国人」

札幌から車で向かうこと約2時間。スキー場のある、倶知安町比羅夫(ひらふ)地区に到着する。

遠藤まさしレポーター:
行き交う人々が皆さん外国の方。車を運転している人も外国の方。お好み焼き屋さんも周りは英語表記。まるで和洋折衷ですね。

取材している我々が、外国人かのような錯覚に陥る。
在住3か月のインド料理店の店員に実状を聞いてみると「外国人の方が多いです。95%は外国人」という驚きの返事。

取材開始から1時間。この比羅夫地区ですれ違った日本人の数はゼロ。1人もすれ違わなかった。外国人しかいない。
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「完全に外国」…日本人宿泊客は5%だけ

スキー場のふもとにあるホテル、シャレーアイビーホテルを訪ねた。レストラン「比羅夫坂」は、店員も外国人で、客のほとんどが外国人だという。

シャレーアイビーホテル・ジョンヒョンギルさん(韓国出身・町在住6年):
こちらに泊まるお客様は、冬だけで言えば、宿泊客の5%が日本人。海外旅行に行ったような雰囲気があるし、ほとんど日本語が聞こえない。
(北海道の中にポッカリ外国ができたような?)完全に外国ですね。

そんな外国人に一番人気のメニューが、タラバ塩ラーメン。そのお値段はなんと3000円。たっぷり載ったトッピングが、外国人に好まれる理由だとか。それにしても、なぜ観光客だけでなく、倶知安町に住む外国人が増えているのか。

シャレーアイビーホテル ・岩佐信マネージャー:
色々な宿泊施設含め、新しい働き口も増えているので、ホテルのコンシェルジュや、レストランスタッフだったり、通年で働く外国人が増えているので、そういう数字に表れている。私も小さい子どもがいますけど、学校や幼稚園にも、親が外国人の子どもがクラスに2〜3人はいる。

倶知安町に外国籍の住民が増えた理由は、ここ数年の観光客の増加に伴い、サービスを行う外国人労働者が急増したから。

シャレーアイビーホテル ・岩佐信マネージャー:
宿泊施設は多いが住む場所が少ない。あってもほぼ飽和状態。街の方に住まないといけない。


スーパーのレジに外国人の列

今や国際化の波は観光地だけにとどまらず、地元の住民が多く住む駅前地区の住宅街にも現れている。
スーパーのレジには多くの外国人が並んでいた。

外国人客:
(仕事は?)ホテルのレセプションです。ホテルのフロントで働いています。
(外国の方は多いですか? )めっちゃ多いです。
(いっぱい買ってますね? )お好み焼きを作る。めっちゃ大きいパーティー。

コープさっぽろ倶知安店の客の1割は外国人。商品の案内板を英語や中国語で表記したり、「納豆」がどんな商品なのかを詳しく英語で解説したりと工夫をしている。外国人買い物客のために、英語を話せる外国人スタッフもいるという。

精肉売り場では、塊肉を販売しているのを発見。

大塚高弘店長:
アジアの方が好きで、年末も4万6000円の塊を買っていかれた方がいた。オーストラリアの赤味が強い肉は、主にオーストラリアや欧米の方がバーベキュー用に買っていく。

外国人が好むワインの種類も多いほか、種類豊富なシリアルコーナーがあったり、外国人が朝食などに食べるナッツの売り上げは、北海道の店舗で1位とのこと。

そして、住宅街の夜を歩いていると…。

外国人:
Come! Come! Come! はいはい GO! GO!

外国人に誘われるまま、恐る恐る店の中に入ってみた。オーナーはオーストラリア出身。

TheWayBarオーナー・ダニエルマーシャルさん:
ここに住んでいます。店の2階に住んでいます。

実はこのバー、店員も客もすべて外国人という国際的な店。もちろん日本人のお客さんも大歓迎だそう。
さらに歩いていると…。

遠藤リポーター:
お店から賑やかな声が聞こえてきました。おー、マイクを持ってカラオケしている。

冬の間は、スキーやスノーボードのインストラクターでにぎわうというダイニングバー。

セブンスヘブン・栗栖裕貴店長:
みんなでシェアハウスをしている。ひと物件に20人ぐらい住んでいます。(英語は?)話せません。(どうやって接客?) ノリです 。

地元住民「家賃がすごく高騰している」

急速に進む国際化。地元の住民からは「もう慣れた。あまり違和感ない」「倶知安の家賃がすごく高騰している。建ってるアパートは家賃8万円。札幌より高くなってる」との声が聞かれた。

ペンション「陽のあたる場所」経営・中村仁さん:
出来たら日本のことを理解していただいて、日本の文化は良い文化だと思うので、そこは残していってほしい。

倶知安総合政策課・芳田国弘さん:
町としては暮らしが不便にならないように、安心して暮らせる町づくりを進めていかなければならないと考えてます。
.

北海道新幹線が延伸予定…「勢い落ちる理由ない」

ニセコエリアでは、パークハイアットやリッツカールトンなど、大型ホテルやコンドミニアムの開発が進んでいるほか、2030年度には北海道新幹線が札幌まで延伸し、新幹線の倶知安駅が開業する予定。

シャレーアイビーホテル・ジョンヒョンギルさん(韓国出身・町在住6年):
(この勢いは止まらない? )止まらないと思います。インフラが作られているのであれば、人が集まる。それによって色々な商売が発生する。それによってお客様を呼ぶ。勢いが落ちる理由は特にないですよね。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/184.html#c2

[リバイバル3] かぐらスキー場 (かぐら・三俣・田代スキー場) 中川隆
114. 中川隆[-11546] koaQ7Jey 2019年3月10日 11:53:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[447]

872名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/03/10(日) 10:17:42.69

中尾根が雪崩れたって心配する奴は何の影響があって心配してるんだろう
あんなところ昔から雪崩れて当たり前な場所だし一本ダケカンバの右側なんて普通滑りこまない
昨日は一本ダケカンバの左側ギリにもライン入ってたけどそっちも雪崩れてた

KG2?3?からの田代落ち、
5ロマコブ斜面終わりからの田代方面林の奥も昔はよく雪崩れてた

5ロマ外では自分より上にバカなトラバーズ野郎が居ないかいつも注意してる
自分より上の位置で人が滑ってる時は本当に気を付けて
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/779.html#c114

[近代史02] 日本の農村は怖い _ 狭山事件の背景 中川隆
145. 中川隆[-11545] koaQ7Jey 2019年3月10日 12:00:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[448]

「憧れの田舎ライフ」で常に警戒すべき“因習リスク” 若夫婦を苦しめた“奴隷の亡霊”
3/10(日) 7:00配信 デイリー新潮
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190310-00558023-shincho-soci

移住先の“恐怖体験”とは


次男や次女は、長男の“奴隷”

「こっちの水は甘いぞ」とばかりに、パンフレットにホームページまで、今や「移住者」という拡大市場を狙い、自治体から不動産業まで沸き立っている。だが、いきなりの移住はドツボにはまるリスクがある。ある夫婦は、移住先の“恐怖体験”を理由に、そこを去らなければならなかったという。

 ***
.

 学生時代にワンダーフォーゲルサークルで知り合った山好きな立石泰典さん(仮名)夫妻は、都会でのサラリーマン生活に早々に見切りをつけ、就農を考えていた。

「学生時代に何度も登った駒ヶ岳が懐かしくて。そのふもとで自分のペースで農業をしながら暮して、時間があるときには駒ヶ岳をはじめ南アルプスの山々を散策できれば……」

 そう考えた2人は、まずは実家が空き屋になっているという学生時代の友人のツテで、納屋同然の古民家を借りた。南アルプスのふもとを太平洋へと流れる天竜川沿い、長野県南部の小さな集落だった。

 同い年の2人は、ちょうど38歳。結婚5年目ながら、都会では共働きで、まだ子供はいなかった。

「どんなことにも耐えられる自信はあったんです。ですが、まさか地元との人たちの人間性に耐えられないというのは、自分たちにとっても予想外でした。それに、ああいった因縁ともいえる深い歴史がある土地だということは、行ってみるまではまったく想像もできませんでした」

 移り住んだ“寒村”は、いまや人口1000人ほど。そのほとんどはお年寄りで、学生生活を終え、都会からUターンしてきた若い衆は、ことごとく役場に勤めている。

 住み始めてまもなく、不思議なことに気づかされた。集落の者に挨拶をしても、返事がないのだ。首をかしげるが返事をしない者、顔さえこちらに向けず目も合わせない者、年寄りばかりでもなかった。比較的まだ若いと思われる50代、60代と思しき者たちも、ことごとく、である。

 いずれ馴れてくれば挨拶を返してもらえることもあるだろう――。そう考えた夫婦は、ことごとく無視されても、小さな集落でとにかくすれ違えば大きな声で丁寧に挨拶をし、立ち止まって会釈を繰り返していた。だが……。

「まるで目の前に誰もいないかのように、完全に無視なんですよ。周りには誰もいないし、こっちの声が聞こえない距離でもない。でも、無視なんです」

 当初、役場の担当者とともに挨拶に回ったときには笑顔で歓談してくれた相手でさえ、道ばたですれ違っても「無視」であった。集落の集まりでは拍手をして迎えてくれた面々でさえ、個別に顔を会わせれば「無視」である。

 馴れてくればと思いながら、どんなに話しかけても無視されるばかり。会話らしきものに応じるのは役場の職員くらいだ。役場のホームページには移住者勧誘の専門ページがあり、地元民の「人柄のよさ」が謳われていたからかもしれない。

 こんな無視がいったいいつまで続くのだろうか、と悩んだ立石さんは、学生時代に知り合った、この地域出身の友人に、ついに相談することにした。すると友人は、こともなげにこう言うではないか。

「ああ、よそ者を無視するなんて当たり前だよ。いちいち気にしてたら、生きていけないよ。無視されても、こちらからとにかく頭を下げ続けておくことだね。そのうち気が向けば、あっちも応じてくれることがあるかもしれないから。それがいつになるのか、何のきっかけで会話をしてくれるようになるのかは、わからないよ。でも、こっちから先に頭を下げ続けておくことが大事なんだわ。無視してても、あっちはこっちの態度を見てるから」

 まるで、「無視こそ文化」と言わんばかりである。立石さん夫妻が移住を試みたのは、その地域の出身者でさえそう認める場所だったのだ。さらに友人は、不穏な話をほのめかした。

「まあ、いろいろと暗い過去があった土地だからね。ただ、もうそんな習慣はとっくにないけど。実際に経験した人たちもほとんど死んじゃっているんだけど、そんな風習がずっとあった場所だから、何かと外から来た者に対して強い警戒感が残っているのかもしれない……」

 その土地では、長男以外に産まれた者は、分家はおろか結婚さえ許されず、一生涯、長男一家のために働き、尽くして亡くなっていく。次男、次女に産まれれば、それが運命づけられていた。かつてそんな風習があったというのだ。

 立石さんにとっては、生まれて初めて聞く因習だった。極めて封建的で、移住者を受入れない原因は、ここにあるに違いない。早速、夫婦は調査に乗り出した。


軽視できない“因習”リスク

「そんなことを突然、訊かれても、答えられん」

 集落一帯を代々見守ってきた寺の住職らにそのことを訊ねると、顔をこわばらせ、狼狽を隠さなかった。どうやら、県南部から静岡県へと下り、太平洋へと注ぐ天竜川沿いの集落には、広く定着していた習慣のようだった。

 かの地では、子供の運命は、産まれ落ちたときに定まってしまう。長く天竜川沿いで林業を営んできた古老が説くには、

「昔から、長男が家督を継ぐという話は当然あったんだが、そこでは次男坊、三男坊が家を継げないだけではなくて、長男のために生涯を捧げるというか、長男のために尽くして生涯を終えていくっていうことで、まるで奴隷みたいだって言う人もいた」

 先の住職が顔色を変え、言いよどんだのは、そうした者たちが、どのように生き、そして弔われてきたのかを訊ねたときだった。

 住職を強く警戒させたのも無理はない。その因習が戦後も長く続いていた集落や、その周辺域では、どこの家にも「被害者」とでも言うべき「彼ら」が存在していたことを知っている。しかし、今となっては一切触れられたくない。まさに封じられた因習なのだ。立石さん夫妻が移住したのは、そんな“過去を封印した土地”だったというわけだ。

 結局、「彼ら」の痕跡を訊ね歩いても「知っているが言いたくない」「どの家かは教えられない」と、一様にそんな返答ばかりである。

 しかし戦前、この地方に「彼ら」は溢れていた。決して多くはない集落の戸数のなかで、「この家だけ、あの家だけ、ということはなく、どの家にもたいてい2、3人は、そうした人々がいたものだった」(先の古老)のだ。

「彼ら」は長男一家と同居はしているが、食事をするのは、家長である長男や長男家族とは離れた場所であり、寝るのは納屋のような離れの小屋だった。はたから見れば、使用人や家政婦のような扱いに見えるかもしれない。

「彼ら」が、いわゆる「公」の場所に現れることはまずない。村の祭りなど、公式行事やハレの場に姿を見せることは、暗黙のうちに禁忌とされ、「彼ら」もまた、それに抗うことなく了承していた。

 産まれ落ちた家で、長男家のためにただひたすらに農作業や雑務をこなす一方で、もとより現金収入の乏しい山村ゆえ、「彼ら」に労働対価が支払われることはほとんどなかった。「彼ら」はただ長男家に尽くしている限りにおいて、衣食住が保証されていた。

 1964年に刊行された専門誌『精神医学』(医学書院)は、信州大学の研究者らによる調査結果を伝えている。同誌によると、《長野県の山奥の部落で古来その未分化的社会情勢に応じて人間疎外がやむをえず行われ》たとし、彼らの特徴を《感情が鈍く、無関心で、無口で人ぎらいで、自発性も少ない》と指摘した。

 明治の始め頃には、2000人ほどの人口に対して、およそ200人の「彼ら」が存在したとされ、人口比にして10%ほどを占めたとみられている。戦後はさすがに激減し、わずか数人にまで落ち込んだようだが、高度経済成長期の前夜まで最後の世代が健在だったことが確認されている。
 
「彼らは“福の神”とか呼ばれたなんて話もあるけれども、あの墓にはびっくりした」

「土饅頭にもなっていない、石がただポツンと置かれた、ただそれだけ。もちろん、家の墓とは別の場所に、ただ石を置いてあるだけで」

「彼ら」の墓を見た立石夫妻はそう言うのだった。立石夫妻が墓に辿り着いたとき、そこにはもちろん、墓誌などは一切なかった。

 墓地と呼べばそう見えなくもなく、ただの野原と言われれば、そうとも見える場所である。ただ、弔いの石は確かに、かつての「彼ら」の存在の数を裏付けるように、そこここに置かれていた。

 立石さん夫妻が移住を試みたのは、地元の人々でさえ押し黙る、そんな過去と歴史をまとった場所だったのだ。詳細を知った夫妻は、見知らぬ土地での就農は諦めた。土地が抱える業の深さともいうべきものを知り、恐ろしくなったからだった。

「もしかしたら、あの石も、この石も、彼らの墓石だったかもしれないなんて思えてきたら、なんだかとても収穫どころじゃないな、なんて思えてしまって……」

 移住支援策、定住促進パンフレットが決して謳わない因習は、長野だけに限らず日本全国、そこここにある。もちろん、そうした因習や暗い記憶は、地元町村誌や活字をつぶさに紐解いても記載されていることもまずない。

 地元の人でなければ、決して外からはうかがい知ることのできない風習と歴史を、日本の集落はどこも抱えている。移住勧誘のパンフレットから、あるいは移住相談会に並ぶ明るい笑顔の担当者からは、その背後に潜む、そんな歴史を見抜くことは難しい。

 人間は、その土地が孕む“歴史”によって育まれるものでもある。過酷な因習、暗い記憶は、住んでみなければ知り得ない。

 そんな土地に一目惚れし、なけなしの貯金や退職金をつぎ込み、何千万円もかけてログハウスでも建てようものならば、後の祭になりかねない。

 まずは借住し、じっくりと「人」に加えて「歴史」を“観察”してから、定住先を決めるべきだろう。移住・定住とは、そんな各地が封印している“歴史”のなかに飛び込む行為にほからならないのだ。

 結局、立石夫妻は、県南部での生活をわずか1年で終えた。南アルプスを越え、今は山梨県側に移り住んだ立石夫妻は、現在は公営住宅を借りながら終の住処を探している。

 ヤバいことがわかったら、いつでも引き払い転住できる、気楽な「借住」こそがお勧めだと、夫婦揃って声をそろえる。その言葉には説得力があった。

取材・文/清泉亮(せいせん・とおる)
移住アドバイザー。著書に『誰も教えてくれない田舎暮らしの教科書』(東洋経済新報社)

週刊新潮WEB取材班

2019年3月10日 掲載

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/340.html#c145

[リバイバル3] 苗場スキー場の元高級リゾートマンションが遂に10万円になった 中川隆
517. 中川隆[-11544] koaQ7Jey 2019年3月10日 12:00:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[449]

「憧れの田舎ライフ」で常に警戒すべき“因習リスク” 若夫婦を苦しめた“奴隷の亡霊”
3/10(日) 7:00配信 デイリー新潮
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190310-00558023-shincho-soci

移住先の“恐怖体験”とは


次男や次女は、長男の“奴隷”

「こっちの水は甘いぞ」とばかりに、パンフレットにホームページまで、今や「移住者」という拡大市場を狙い、自治体から不動産業まで沸き立っている。だが、いきなりの移住はドツボにはまるリスクがある。ある夫婦は、移住先の“恐怖体験”を理由に、そこを去らなければならなかったという。

 ***
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 学生時代にワンダーフォーゲルサークルで知り合った山好きな立石泰典さん(仮名)夫妻は、都会でのサラリーマン生活に早々に見切りをつけ、就農を考えていた。

「学生時代に何度も登った駒ヶ岳が懐かしくて。そのふもとで自分のペースで農業をしながら暮して、時間があるときには駒ヶ岳をはじめ南アルプスの山々を散策できれば……」

 そう考えた2人は、まずは実家が空き屋になっているという学生時代の友人のツテで、納屋同然の古民家を借りた。南アルプスのふもとを太平洋へと流れる天竜川沿い、長野県南部の小さな集落だった。

 同い年の2人は、ちょうど38歳。結婚5年目ながら、都会では共働きで、まだ子供はいなかった。

「どんなことにも耐えられる自信はあったんです。ですが、まさか地元との人たちの人間性に耐えられないというのは、自分たちにとっても予想外でした。それに、ああいった因縁ともいえる深い歴史がある土地だということは、行ってみるまではまったく想像もできませんでした」

 移り住んだ“寒村”は、いまや人口1000人ほど。そのほとんどはお年寄りで、学生生活を終え、都会からUターンしてきた若い衆は、ことごとく役場に勤めている。

 住み始めてまもなく、不思議なことに気づかされた。集落の者に挨拶をしても、返事がないのだ。首をかしげるが返事をしない者、顔さえこちらに向けず目も合わせない者、年寄りばかりでもなかった。比較的まだ若いと思われる50代、60代と思しき者たちも、ことごとく、である。

 いずれ馴れてくれば挨拶を返してもらえることもあるだろう――。そう考えた夫婦は、ことごとく無視されても、小さな集落でとにかくすれ違えば大きな声で丁寧に挨拶をし、立ち止まって会釈を繰り返していた。だが……。

「まるで目の前に誰もいないかのように、完全に無視なんですよ。周りには誰もいないし、こっちの声が聞こえない距離でもない。でも、無視なんです」

 当初、役場の担当者とともに挨拶に回ったときには笑顔で歓談してくれた相手でさえ、道ばたですれ違っても「無視」であった。集落の集まりでは拍手をして迎えてくれた面々でさえ、個別に顔を会わせれば「無視」である。

 馴れてくればと思いながら、どんなに話しかけても無視されるばかり。会話らしきものに応じるのは役場の職員くらいだ。役場のホームページには移住者勧誘の専門ページがあり、地元民の「人柄のよさ」が謳われていたからかもしれない。

 こんな無視がいったいいつまで続くのだろうか、と悩んだ立石さんは、学生時代に知り合った、この地域出身の友人に、ついに相談することにした。すると友人は、こともなげにこう言うではないか。

「ああ、よそ者を無視するなんて当たり前だよ。いちいち気にしてたら、生きていけないよ。無視されても、こちらからとにかく頭を下げ続けておくことだね。そのうち気が向けば、あっちも応じてくれることがあるかもしれないから。それがいつになるのか、何のきっかけで会話をしてくれるようになるのかは、わからないよ。でも、こっちから先に頭を下げ続けておくことが大事なんだわ。無視してても、あっちはこっちの態度を見てるから」

 まるで、「無視こそ文化」と言わんばかりである。立石さん夫妻が移住を試みたのは、その地域の出身者でさえそう認める場所だったのだ。さらに友人は、不穏な話をほのめかした。

「まあ、いろいろと暗い過去があった土地だからね。ただ、もうそんな習慣はとっくにないけど。実際に経験した人たちもほとんど死んじゃっているんだけど、そんな風習がずっとあった場所だから、何かと外から来た者に対して強い警戒感が残っているのかもしれない……」

 その土地では、長男以外に産まれた者は、分家はおろか結婚さえ許されず、一生涯、長男一家のために働き、尽くして亡くなっていく。次男、次女に産まれれば、それが運命づけられていた。かつてそんな風習があったというのだ。

 立石さんにとっては、生まれて初めて聞く因習だった。極めて封建的で、移住者を受入れない原因は、ここにあるに違いない。早速、夫婦は調査に乗り出した。


軽視できない“因習”リスク

「そんなことを突然、訊かれても、答えられん」

 集落一帯を代々見守ってきた寺の住職らにそのことを訊ねると、顔をこわばらせ、狼狽を隠さなかった。どうやら、県南部から静岡県へと下り、太平洋へと注ぐ天竜川沿いの集落には、広く定着していた習慣のようだった。

 かの地では、子供の運命は、産まれ落ちたときに定まってしまう。長く天竜川沿いで林業を営んできた古老が説くには、

「昔から、長男が家督を継ぐという話は当然あったんだが、そこでは次男坊、三男坊が家を継げないだけではなくて、長男のために生涯を捧げるというか、長男のために尽くして生涯を終えていくっていうことで、まるで奴隷みたいだって言う人もいた」

 先の住職が顔色を変え、言いよどんだのは、そうした者たちが、どのように生き、そして弔われてきたのかを訊ねたときだった。

 住職を強く警戒させたのも無理はない。その因習が戦後も長く続いていた集落や、その周辺域では、どこの家にも「被害者」とでも言うべき「彼ら」が存在していたことを知っている。しかし、今となっては一切触れられたくない。まさに封じられた因習なのだ。立石さん夫妻が移住したのは、そんな“過去を封印した土地”だったというわけだ。

 結局、「彼ら」の痕跡を訊ね歩いても「知っているが言いたくない」「どの家かは教えられない」と、一様にそんな返答ばかりである。

 しかし戦前、この地方に「彼ら」は溢れていた。決して多くはない集落の戸数のなかで、「この家だけ、あの家だけ、ということはなく、どの家にもたいてい2、3人は、そうした人々がいたものだった」(先の古老)のだ。

「彼ら」は長男一家と同居はしているが、食事をするのは、家長である長男や長男家族とは離れた場所であり、寝るのは納屋のような離れの小屋だった。はたから見れば、使用人や家政婦のような扱いに見えるかもしれない。

「彼ら」が、いわゆる「公」の場所に現れることはまずない。村の祭りなど、公式行事やハレの場に姿を見せることは、暗黙のうちに禁忌とされ、「彼ら」もまた、それに抗うことなく了承していた。

 産まれ落ちた家で、長男家のためにただひたすらに農作業や雑務をこなす一方で、もとより現金収入の乏しい山村ゆえ、「彼ら」に労働対価が支払われることはほとんどなかった。「彼ら」はただ長男家に尽くしている限りにおいて、衣食住が保証されていた。

 1964年に刊行された専門誌『精神医学』(医学書院)は、信州大学の研究者らによる調査結果を伝えている。同誌によると、《長野県の山奥の部落で古来その未分化的社会情勢に応じて人間疎外がやむをえず行われ》たとし、彼らの特徴を《感情が鈍く、無関心で、無口で人ぎらいで、自発性も少ない》と指摘した。

 明治の始め頃には、2000人ほどの人口に対して、およそ200人の「彼ら」が存在したとされ、人口比にして10%ほどを占めたとみられている。戦後はさすがに激減し、わずか数人にまで落ち込んだようだが、高度経済成長期の前夜まで最後の世代が健在だったことが確認されている。
 
「彼らは“福の神”とか呼ばれたなんて話もあるけれども、あの墓にはびっくりした」

「土饅頭にもなっていない、石がただポツンと置かれた、ただそれだけ。もちろん、家の墓とは別の場所に、ただ石を置いてあるだけで」

「彼ら」の墓を見た立石夫妻はそう言うのだった。立石夫妻が墓に辿り着いたとき、そこにはもちろん、墓誌などは一切なかった。

 墓地と呼べばそう見えなくもなく、ただの野原と言われれば、そうとも見える場所である。ただ、弔いの石は確かに、かつての「彼ら」の存在の数を裏付けるように、そこここに置かれていた。

 立石さん夫妻が移住を試みたのは、地元の人々でさえ押し黙る、そんな過去と歴史をまとった場所だったのだ。詳細を知った夫妻は、見知らぬ土地での就農は諦めた。土地が抱える業の深さともいうべきものを知り、恐ろしくなったからだった。

「もしかしたら、あの石も、この石も、彼らの墓石だったかもしれないなんて思えてきたら、なんだかとても収穫どころじゃないな、なんて思えてしまって……」

 移住支援策、定住促進パンフレットが決して謳わない因習は、長野だけに限らず日本全国、そこここにある。もちろん、そうした因習や暗い記憶は、地元町村誌や活字をつぶさに紐解いても記載されていることもまずない。

 地元の人でなければ、決して外からはうかがい知ることのできない風習と歴史を、日本の集落はどこも抱えている。移住勧誘のパンフレットから、あるいは移住相談会に並ぶ明るい笑顔の担当者からは、その背後に潜む、そんな歴史を見抜くことは難しい。

 人間は、その土地が孕む“歴史”によって育まれるものでもある。過酷な因習、暗い記憶は、住んでみなければ知り得ない。

 そんな土地に一目惚れし、なけなしの貯金や退職金をつぎ込み、何千万円もかけてログハウスでも建てようものならば、後の祭になりかねない。

 まずは借住し、じっくりと「人」に加えて「歴史」を“観察”してから、定住先を決めるべきだろう。移住・定住とは、そんな各地が封印している“歴史”のなかに飛び込む行為にほからならないのだ。

 結局、立石夫妻は、県南部での生活をわずか1年で終えた。南アルプスを越え、今は山梨県側に移り住んだ立石夫妻は、現在は公営住宅を借りながら終の住処を探している。

 ヤバいことがわかったら、いつでも引き払い転住できる、気楽な「借住」こそがお勧めだと、夫婦揃って声をそろえる。その言葉には説得力があった。

取材・文/清泉亮(せいせん・とおる)
移住アドバイザー。著書に『誰も教えてくれない田舎暮らしの教科書』(東洋経済新報社)

週刊新潮WEB取材班

2019年3月10日 掲載

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/565.html#c517

[近代史02] 日本の農村は怖い _ 狭山事件の背景 中川隆
146. 中川隆[-11543] koaQ7Jey 2019年3月10日 12:13:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[450]
憧れの「田舎暮らし」なんて真っ赤な嘘 女性が直面する“移住地獄”とは 2019年1月4日
https://www.dailyshincho.jp/article/2019/01040558/?utm_source=yahoo&utm_medium=http&utm_campaign=link_back&ui_medium=http&ui_source=yahoo&ui_campaign=link_back&all=1


現実は甘くない

移住女性に浴びせられる“罵詈雑言”

 小さくてもいい。田畑で家庭菜園をしながら、慎ましく暮していければ――。そんな思いが募り、ついに始めた夢の田舎暮らし。しかし、現実は甘くない。とりわけ女性にとっては堪え難い話も多い。

 ***

 地方は現在でも“男社会”が圧倒的。“男衆”の価値観が支配する集落に飛び込んだ、ある妻の苦悩とは……。

「集落では一人が言い出すと、全員が自分の意思に関係なくそっちに流されますから、昨日までの友も今日の敵で、もうダメなんですね。理屈じゃないんです。たとえ理不尽な言いがかりであっても、言われたら最後、噂を立てられたら最後なんです」

 五町田貞子(42歳・仮名)さんは、こう言う。そばに寄り添う夫の弘信さん(48・仮名)が黙ってうなずく。

 現在は長野県松本市に住む五町田さん夫妻が先頃まで住んでいたのは、やはり長野県内の小さな集落だった。そこは冬場になれば、あたりの林道はこぞって通行止めとなり、ほとんど陸の孤島に近い地形にあった。

 東京生まれ東京育ちで、大学では建築を専攻した夫の弘信さんは、建築会社で設計士としてキャリアを積み、40歳になるときに独立して設計事務所を立ち上げた。

 それまで築いた建築関係の人脈で設計請負の仕事は順調だったが、以前から夢だった山村での自然環境を生かした設計を手がけたいと、田舎暮らしに踏み切った。事務所を手伝っていた妻の貞子さんも、やはり東京育ち。「高層ビルの森はもう見飽きて」と、まさに夫唱婦随での田舎暮らしとなった。

 幾度も地域を訪れ、役所を通じて地域の有力者らへの挨拶も丁重に繰り返したうえで、人間関係に軋轢が生じないようにと十二分にケアをしてからの移住実行となった。

 だが、現実は想像以上のものだった。集落の公民館で移住者に向けられる言葉からして、苛烈なものばかりだった。

「東京の江東区から移住してきた70代の女性に対して、『あのババアは区費の払いが悪いくせに最新の石油ヒーターを使いやがって』とか、『東京から来たあっちの嫁は真っ昼間だってのにカーテンを閉めっぱなしにしやがって』とか、まあ、言葉がキタナイのなんのって。都会から来た私たちでさえ驚くほどの口の悪さでした。まるで素行不良の中学生みたいな……」

 この集落では毎年、住民が金を出し合って、代表者が新幹線で年末ジャンボ宝くじを東京・有楽町のチャンスセンターまで購入しに行くという“年中行事”がある。

「不参加を伝えると、『都会から来てカネを出さねえなんてふざけやがって。誰のカネで生活できてると思ってやがるんだ』ですからね。とにかく『移住者はカネを落とせ』、『カネを拠出しろ』と、まあカネ、カネ、カネ。もしくは、露骨に浴びせられる罵詈雑言ばかりでした」

 そんな地にも、まれに妙齢の“お一人様”の女性移住者が流れ着くことがある。

「畜産の地なので、あるとき女性の獣医さんが越してきたんです。そして、公民館で挨拶に立った女性の獣医さんに、男連中からこんな言葉が飛び交うんです。『おーいっ、彼氏はいるのかー、彼氏はーっ』。それを合図に、合いの手を入れるかのように、あっちからもこっちからもで、その下品なことといったら……。若い獣医さんは可哀想に、赤面したまま言葉なく立ち尽くしていましたよ。しかも、それの何がおかしいのか、男たちはドッと大笑いなんです。都会や会社の歓送迎会でそんなことをやったら、今時は『セクハラだ』、『モラハラだ』と言われかねませんが、いかにも男社会いまだ健在といった感じですね」

 そして、女性への配慮が、いまだに乏しいのだという。

「年に1度の集団検診では、体育館に男女問わず、1列に並んで検尿、検便を提出させるんですが、検診はおおむね集落を区切って検診日を決めているんで、指定された日に行くと、当然、前後左右みんな隣近所の見知った顔ばかりです。その検尿、検便を提出する机には、毎年こうプラスチックに印字された大きなプレートが出ているんです。『生理の方は申し出てください』って。前後左右は隣近所のオッサン、オバサンばかりですよ。そこで若い女性が、『今日生理です』なんて申告したらまる聞こえじゃないですか」

 さすがに見かねた五町田貞子さんが、役所の女性担当者に改善を要望したという。

「『隣人のおじさんがいる前で、今日生理ですって、あなたなら言えるんですか』って。『都会だったら、今時こんなことをしたら役所が突き上げられますよ』って。でも変わりませんでした。理由はこうでした。『毎年そうやってますから』って……」

 ゴミの収集では、完全に無色透明なビニール袋が指定されている。中身は当然、丸見えだ。

「そんなゴミ袋に、名前を書かなければなりません。女性なんかは恥ずかしくて、生理用品の袋ひとつ入れられないわけですよ。トイレは汲み取り式だし、浄化槽に流すわけにもいきませんから。結局、そうした恥ずかしいものは、夜のうちに車に積んでおいて、たまに遠くのコンビニに行った折に、そこのゴミ箱に捨てることになります。このように、田舎の集落へ移住した女性は比較的歓迎される一方、女性に対する配慮は公私ともにありませんね」

 過疎の地ほど、嫁の来手や後継者不足が、今もなお現実の課題である。そうした集落では、女性は大切に扱われる傾向が強い。ここで紹介した女性の苦労話は、移住体験談として、むしろ例外の部類に入るのは事実だ。

「実際、小学校や分校に独身の女性教師が派遣されてくると、そうした女性教師に男衆がアプローチして結婚した例は数多くあります。集落の若い男性は、そういうことでしか女性との出会いがないので」(同・五町田貞子さん)

 しかしながら、女性と男性の違いは当然として、既婚女性と独身女性の間でも、集落での扱われ方は決定的に異なる。移住の体験談も、その辺りを斟酌したうえで耳を傾けるべきだろう。

人間関係が厳しくとも離婚しない“地元嫁”

 五町田貞子さんが言う。「とにかく、生活費は高くつきますよ。集落の人間関係をうまくやろうとすればするほど、やっぱり最後はカネの話に行きつくんです」

 人間関係を円滑にしようと思えば、カネが必要――どういうことだろうか?

「人口が少なくて世帯数も少ない集落では、皆が助け合って和気あいあいとやっているのではないか、という印象を外からは持ちがちですが、とんでもないんです。むしろ、狭い土地ほど隣人同士のいがみ合いさえあって、それが表面化したときは凄いですよ。私がいた集落はもう、村長派と反村長派で二分していて、道路をはさんで、やれこっちに住んでいる者は村長の親戚が経営するガソリンスタンドから灯油を買わなければだめだとか」

 しかし、灯油もガソリンも、値段表示さえないというのだ。そのため、極めて高くつくこともあるという。

「30キロ近く離れたホームセンターに灯油缶を持っていって買ってきたほうが安いくらいですから。でも、それを見られると突きあげられるので、夜中、近所の人が寝静まった頃にこっそり、電気を消したまま家のなかからホースを延ばして外の灯油タンクに移すんです。バカバカしくなりますよ」

 隣人監視の目が厳しいのは、生活物資の調達や購買先すべてに及ぶ。

「遠くのイオンモールのショッピングバッグを家に運び込んでいるのが目につこうものなら、わざわざ自宅の戸を叩いてまで、『生活用品は農協の店で買え』ですからね。というのも、農協の店が商売にならなくなったら自分たちが生活できなくなってしまうからです。もちろん事情はわかりますが、イオンで90円のものが過疎地の農協直営店では150円ですからね。そもそも地方に移住してきている段階で、都会での会社勤めよりも収入そのものが減っていますから。そこに生活コストだけが倍になったら、やっていけませんよ」

 都会暮らしでは、まず体験できないような出費もかさむという。

「これは盲点ですが、地方の不動産物件は、公営住宅であれ、古民家であれ、和室が極端に多いんです。入居するときには『ああ、い草の上に寝っ転がったら気持ちいいじゃない』と気になりませんが、退出のときに必ず畳の“表替え”ってやりますよね。汚れた畳の表面を取り替えるものですが、和室が多いってことは、畳の表替えの枚数が多いってことなんです。田舎は畳屋も競争がありませんから、これがバカ高いんですよ。1枚8千円くらいから取りますから。10畳の部屋が2つもある古民家ならば、退出のときの表替えの費用だけで16万円です。家賃が安いので、表替えだけで軽く敷金はすべて飛びますから要注意です」

 役場や不動産業者は、敷金をはるかに凌ぐ退出コストがかかることなど、まず教えてくれない。

「カネを落としてもらうべき、飛んで火に入る夏の虫に、わざわざ不都合な話を教えてはくれませんからね」

 とはいえ、集落は意外にも、若い住人が少なくない。彼ら彼女らはみな、都会での教育を終えると、実家に戻ってきているのだ。何かと生活コストがかかり、人間関係が難しい土地であっても、昨今は過疎地でさえ都会人が想像するほど『若年層が皆無』ということはない。むしろ、地元出身の若い夫婦のUターンが盛んでさえある。そこには“事情”がある。

「行政や雇用促進の団体は盛んに施策効果を謳っていますが、実感としてはちょっと違いますね。地元出身者らが戻ってくるのは、決してそこが住みやすいから、懐かしいからではなくて、経済的な事情が大きいのではないでしょうか。詰まるところ、親が子供を呼び寄せ、居着かせるために、惜しまずにカネを出すからです」

 集落に戻ってきた子供たちは、実家の敷地内に新築のマイホームを建ててもらえるのだ。もちろん、土地は親のものなのでタダ、自宅の建設費もタダ。

「クルマは新車を次々に乗り換えて、そのクルマだって地方では家族の数だけ必要ですから、親が出している例はいくらでもありますよ。つまり、都会では働いても働いても賃金が上がらないワーキングプアなどと言われている現代では、子供たちも親元に戻ってきたほうが生活が楽なんですよ。むしろ、親元に戻ってこないと生活がままならない時代でもあるんですね」

 若衆が集まれば、こんな会話が交されるという。

「『もう、都会に出て行く』って言ったらよ、『クルマ買ってやるから』って言うじゃんよ。農協行ってすぐにカネおろして来ちゃってクルマ買ってもらっちゃったから、まだしばらくは出ていけんじゃんね」

 親のほうも、あの手この手で必死の引き留め工作だ。だが、病院通いに限らず、いざというとき手となり足となる我が子をそばに置いておくためと思えば、マイホーム代やクルマ代など安いものだろう。老人ホームに入るためのお金を子供に投資するようなものである。

 あるときその地方に、東京で人気の「いきなり!ステーキ」の店舗ができた。そこには、年老いた父母に中年の息子か娘といった組み合わせが、平日でも開店と同時に溢れていたという。さすがに“柔らかいステーキ”という評判でも、見ているだけで心配してしまうほど高齢の老父母は、我が子が「ステーキ食いたい」と言えば、財布を持ってどこまででも付いていくのだ。子供の心を引き留めたい一心なのだろう。

 だからこそ、人間関係がどんなに難しくとも、嫁は自宅の敷地内で夫の親と半ば同居し、どんなに精神的に不便があっても絶対に出て行かないという。


女性がタバコを吸えば“犯罪者”

 五町田貞子さんは、女性の喫煙も要注意だと明かす。

「最近は集落の奥さんたちも、みんなタバコを吸いますよ。でも、集落で女性がタバコを吸っているところなんか見られたら、もう、それこそ犯罪者扱いですよ。『女のくせにタバコなんか吸いやがって』って。周囲からそう罵声を浴びせられるだけでなく、その奥さんの嫁ぎ先の家の名誉にまでかかわってきますから、隠れて吸うのに必死です」

 見つかったら大変だ。「あそこの嫁は、あの女は、タバコなんか吸ってやがるぞ」と、まるで犯罪者扱いだ。

「だから、タバコを吸うときだけは、誰もいない山のなかの奥の奥のまで車を走らせたり、あるいは、集落の者はあまり立ち寄らないような生活圏から離れたコンビニまで行って……。一服するのに、1本吸うのに、もう大変です。ガソリン代のほうが高くつきます(笑)。女のくせにタバコなんかって。それでいて男たちは、役所の前だろうが、畑だろうが、プカプカやってますからね。女のくせにって……時代錯誤も甚だしい。でも、それが常識なのが地方の集落ですから。でも、それでも出て行かないんですよ、地元出身者やその奥さんは」

 高断熱高気密の自宅を建ててもらい、車も買ってもらい、子供の経費の面倒もみてくれる――。それはやはり、実家に“寄生”していなければ成り立たない、田舎暮らしの良さなのだろう。

 そんな地元出身者、Uターン夫婦の生活ぶりを見て、移住者が自分の生活像を重ねてはいけないのだ。「しかも……」と貞子さんは明かす。嫁はときに、家族として数のうちに入らない扱いなのだとか。

「これは長野のその集落だけじゃなくて、山梨県北杜市とか移住人気地でも共通ですよ。あのあたりじゃ、実家の姑は息子夫婦のところに、おやつだ、おすそ分けだといって、お菓子やお土産を持ってきても、例えば4人家族でも必ず3つしか持ってこないんです。それを奥さんが『夫が帰ってくる前においしくて食べちゃって』と姑に言うと、また姑は持ってくる。しかも、また3つだけ。息子である夫と孫である子供2人の分だけ。これは山梨から長野にかけて、どこでもそういう話を聞きます」

 つまり、嫁の分は勘定に入っていない。決して嫁と姑の関係が悪くなくても、姑はそうするのだという。

「つまり、姑たちが嫁いできた時代から、そうした習慣なんでしょうね、嫁の扱われ方として。都会の女性にはまったく理解できない作法で、彼女たちは陰ではブツブツ言いますが、決して集落から出て行きません。そうした奥さんたちはたいがい、家もクルマも子供の生活費も、そして農家だから食料も、実家から供給されているからなんです。つまり多少嫌なことがあっても、経済的なメリットのほうが勝っているから出て行かないだけのことなんです。それを見て移住者たちが、若い人たちも居着いているから住みやすいんだ、と思うと大間違いです」

 いよいよそんな集落に嫌気がさした貞子さんは、「こんなところに死ぬまで住むのはとても無理」と、ついに新たな移住先へと再び“転住”を決意した。その際、移住以来、なにくれとなく話し相手になってくれていた県警の駐在所に挨拶に行った。

 長野県内の駐在を転々としてきて、まもなく定年を迎えようかという駐在さんは、こう教えるのだった。

「あんたも出て行くか。あんたなんかは長いほうだったよ。もうね、入れ替わり立ち替わりだからね。定住なんかとはほど遠いよ」

 駐在さんは常に、狭い集落の人間の出入りと、転入、転出を目配りしている。移住者が転入してくる場所は限られている。そうした番地の住民の流れを見ていると、早ければ数カ月、長くても1年未満で外に出て行ってしまうという。

「あまりの入れ替わり立ち替わりで、こっちが挨拶に行こうと思ってると、もう出てっちゃってるんだから」と駐在は笑うのだった。

「この辺りは、3代住んでもまだ地元の者としては認められないからね。県をまたいで山梨から嫁いできた85歳のおばあちゃんなんかは、まだヨソ者扱いだから。移住してきた人たちが本心から受入れられるっていうのは、まず考えられないね」

 近くには、移住後10年近く、集落の住人から無視され続けてきたという移住者もいた。だが、都会や会社でのストレスから解放された退職後、そこから「10年もの無視」に耐える“意義”を移住者が見つけられるだろうか……。五町田貞子さんは言う。

「集落に居た頃は、冬場なんて朝は4時、5時から雪かきで、6時に出て行こうものならば、『もう終わったずら』なんて嫌みを言われる毎日でした。今は移住者ばかりが集まっている新興住宅地のような場所なので気が楽です」

 夫の弘信さんも同感だという。

「女房がタバコを吸うときでも、今はもう気兼ねなく堂々とですよ。隣の奥さんと仲良く、縁側でのびのびと世間話しながら、1本頂戴、いいよ、なんてやってますよ。女性がタバコを吸うためだけに車を走らせなきゃいけない田舎暮らしってね、なんだったんでしょうね」

取材・文/清泉亮(せいせん・とおる)
移住アドバイザー。著書に『誰も教えてくれない田舎暮らしの教科書』(東洋経済新報社)

週刊新潮WEB取材班

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/340.html#c146

[リバイバル3] 苗場スキー場の元高級リゾートマンションが遂に10万円になった 中川隆
518. 中川隆[-11542] koaQ7Jey 2019年3月10日 12:14:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[451]
憧れの「田舎暮らし」なんて真っ赤な嘘 女性が直面する“移住地獄”とは 2019年1月4日
https://www.dailyshincho.jp/article/2019/01040558/?utm_source=yahoo&utm_medium=http&utm_campaign=link_back&ui_medium=http&ui_source=yahoo&ui_campaign=link_back&all=1


現実は甘くない

移住女性に浴びせられる“罵詈雑言”

 小さくてもいい。田畑で家庭菜園をしながら、慎ましく暮していければ――。そんな思いが募り、ついに始めた夢の田舎暮らし。しかし、現実は甘くない。とりわけ女性にとっては堪え難い話も多い。

 ***

 地方は現在でも“男社会”が圧倒的。“男衆”の価値観が支配する集落に飛び込んだ、ある妻の苦悩とは……。

「集落では一人が言い出すと、全員が自分の意思に関係なくそっちに流されますから、昨日までの友も今日の敵で、もうダメなんですね。理屈じゃないんです。たとえ理不尽な言いがかりであっても、言われたら最後、噂を立てられたら最後なんです」

 五町田貞子(42歳・仮名)さんは、こう言う。そばに寄り添う夫の弘信さん(48・仮名)が黙ってうなずく。

 現在は長野県松本市に住む五町田さん夫妻が先頃まで住んでいたのは、やはり長野県内の小さな集落だった。そこは冬場になれば、あたりの林道はこぞって通行止めとなり、ほとんど陸の孤島に近い地形にあった。

 東京生まれ東京育ちで、大学では建築を専攻した夫の弘信さんは、建築会社で設計士としてキャリアを積み、40歳になるときに独立して設計事務所を立ち上げた。

 それまで築いた建築関係の人脈で設計請負の仕事は順調だったが、以前から夢だった山村での自然環境を生かした設計を手がけたいと、田舎暮らしに踏み切った。事務所を手伝っていた妻の貞子さんも、やはり東京育ち。「高層ビルの森はもう見飽きて」と、まさに夫唱婦随での田舎暮らしとなった。

 幾度も地域を訪れ、役所を通じて地域の有力者らへの挨拶も丁重に繰り返したうえで、人間関係に軋轢が生じないようにと十二分にケアをしてからの移住実行となった。

 だが、現実は想像以上のものだった。集落の公民館で移住者に向けられる言葉からして、苛烈なものばかりだった。

「東京の江東区から移住してきた70代の女性に対して、『あのババアは区費の払いが悪いくせに最新の石油ヒーターを使いやがって』とか、『東京から来たあっちの嫁は真っ昼間だってのにカーテンを閉めっぱなしにしやがって』とか、まあ、言葉がキタナイのなんのって。都会から来た私たちでさえ驚くほどの口の悪さでした。まるで素行不良の中学生みたいな……」

 この集落では毎年、住民が金を出し合って、代表者が新幹線で年末ジャンボ宝くじを東京・有楽町のチャンスセンターまで購入しに行くという“年中行事”がある。

「不参加を伝えると、『都会から来てカネを出さねえなんてふざけやがって。誰のカネで生活できてると思ってやがるんだ』ですからね。とにかく『移住者はカネを落とせ』、『カネを拠出しろ』と、まあカネ、カネ、カネ。もしくは、露骨に浴びせられる罵詈雑言ばかりでした」

 そんな地にも、まれに妙齢の“お一人様”の女性移住者が流れ着くことがある。

「畜産の地なので、あるとき女性の獣医さんが越してきたんです。そして、公民館で挨拶に立った女性の獣医さんに、男連中からこんな言葉が飛び交うんです。『おーいっ、彼氏はいるのかー、彼氏はーっ』。それを合図に、合いの手を入れるかのように、あっちからもこっちからもで、その下品なことといったら……。若い獣医さんは可哀想に、赤面したまま言葉なく立ち尽くしていましたよ。しかも、それの何がおかしいのか、男たちはドッと大笑いなんです。都会や会社の歓送迎会でそんなことをやったら、今時は『セクハラだ』、『モラハラだ』と言われかねませんが、いかにも男社会いまだ健在といった感じですね」

 そして、女性への配慮が、いまだに乏しいのだという。

「年に1度の集団検診では、体育館に男女問わず、1列に並んで検尿、検便を提出させるんですが、検診はおおむね集落を区切って検診日を決めているんで、指定された日に行くと、当然、前後左右みんな隣近所の見知った顔ばかりです。その検尿、検便を提出する机には、毎年こうプラスチックに印字された大きなプレートが出ているんです。『生理の方は申し出てください』って。前後左右は隣近所のオッサン、オバサンばかりですよ。そこで若い女性が、『今日生理です』なんて申告したらまる聞こえじゃないですか」

 さすがに見かねた五町田貞子さんが、役所の女性担当者に改善を要望したという。

「『隣人のおじさんがいる前で、今日生理ですって、あなたなら言えるんですか』って。『都会だったら、今時こんなことをしたら役所が突き上げられますよ』って。でも変わりませんでした。理由はこうでした。『毎年そうやってますから』って……」

 ゴミの収集では、完全に無色透明なビニール袋が指定されている。中身は当然、丸見えだ。

「そんなゴミ袋に、名前を書かなければなりません。女性なんかは恥ずかしくて、生理用品の袋ひとつ入れられないわけですよ。トイレは汲み取り式だし、浄化槽に流すわけにもいきませんから。結局、そうした恥ずかしいものは、夜のうちに車に積んでおいて、たまに遠くのコンビニに行った折に、そこのゴミ箱に捨てることになります。このように、田舎の集落へ移住した女性は比較的歓迎される一方、女性に対する配慮は公私ともにありませんね」

 過疎の地ほど、嫁の来手や後継者不足が、今もなお現実の課題である。そうした集落では、女性は大切に扱われる傾向が強い。ここで紹介した女性の苦労話は、移住体験談として、むしろ例外の部類に入るのは事実だ。

「実際、小学校や分校に独身の女性教師が派遣されてくると、そうした女性教師に男衆がアプローチして結婚した例は数多くあります。集落の若い男性は、そういうことでしか女性との出会いがないので」(同・五町田貞子さん)

 しかしながら、女性と男性の違いは当然として、既婚女性と独身女性の間でも、集落での扱われ方は決定的に異なる。移住の体験談も、その辺りを斟酌したうえで耳を傾けるべきだろう。

人間関係が厳しくとも離婚しない“地元嫁”

 五町田貞子さんが言う。「とにかく、生活費は高くつきますよ。集落の人間関係をうまくやろうとすればするほど、やっぱり最後はカネの話に行きつくんです」

 人間関係を円滑にしようと思えば、カネが必要――どういうことだろうか?

「人口が少なくて世帯数も少ない集落では、皆が助け合って和気あいあいとやっているのではないか、という印象を外からは持ちがちですが、とんでもないんです。むしろ、狭い土地ほど隣人同士のいがみ合いさえあって、それが表面化したときは凄いですよ。私がいた集落はもう、村長派と反村長派で二分していて、道路をはさんで、やれこっちに住んでいる者は村長の親戚が経営するガソリンスタンドから灯油を買わなければだめだとか」

 しかし、灯油もガソリンも、値段表示さえないというのだ。そのため、極めて高くつくこともあるという。

「30キロ近く離れたホームセンターに灯油缶を持っていって買ってきたほうが安いくらいですから。でも、それを見られると突きあげられるので、夜中、近所の人が寝静まった頃にこっそり、電気を消したまま家のなかからホースを延ばして外の灯油タンクに移すんです。バカバカしくなりますよ」

 隣人監視の目が厳しいのは、生活物資の調達や購買先すべてに及ぶ。

「遠くのイオンモールのショッピングバッグを家に運び込んでいるのが目につこうものなら、わざわざ自宅の戸を叩いてまで、『生活用品は農協の店で買え』ですからね。というのも、農協の店が商売にならなくなったら自分たちが生活できなくなってしまうからです。もちろん事情はわかりますが、イオンで90円のものが過疎地の農協直営店では150円ですからね。そもそも地方に移住してきている段階で、都会での会社勤めよりも収入そのものが減っていますから。そこに生活コストだけが倍になったら、やっていけませんよ」

 都会暮らしでは、まず体験できないような出費もかさむという。

「これは盲点ですが、地方の不動産物件は、公営住宅であれ、古民家であれ、和室が極端に多いんです。入居するときには『ああ、い草の上に寝っ転がったら気持ちいいじゃない』と気になりませんが、退出のときに必ず畳の“表替え”ってやりますよね。汚れた畳の表面を取り替えるものですが、和室が多いってことは、畳の表替えの枚数が多いってことなんです。田舎は畳屋も競争がありませんから、これがバカ高いんですよ。1枚8千円くらいから取りますから。10畳の部屋が2つもある古民家ならば、退出のときの表替えの費用だけで16万円です。家賃が安いので、表替えだけで軽く敷金はすべて飛びますから要注意です」

 役場や不動産業者は、敷金をはるかに凌ぐ退出コストがかかることなど、まず教えてくれない。

「カネを落としてもらうべき、飛んで火に入る夏の虫に、わざわざ不都合な話を教えてはくれませんからね」

 とはいえ、集落は意外にも、若い住人が少なくない。彼ら彼女らはみな、都会での教育を終えると、実家に戻ってきているのだ。何かと生活コストがかかり、人間関係が難しい土地であっても、昨今は過疎地でさえ都会人が想像するほど『若年層が皆無』ということはない。むしろ、地元出身の若い夫婦のUターンが盛んでさえある。そこには“事情”がある。

「行政や雇用促進の団体は盛んに施策効果を謳っていますが、実感としてはちょっと違いますね。地元出身者らが戻ってくるのは、決してそこが住みやすいから、懐かしいからではなくて、経済的な事情が大きいのではないでしょうか。詰まるところ、親が子供を呼び寄せ、居着かせるために、惜しまずにカネを出すからです」

 集落に戻ってきた子供たちは、実家の敷地内に新築のマイホームを建ててもらえるのだ。もちろん、土地は親のものなのでタダ、自宅の建設費もタダ。

「クルマは新車を次々に乗り換えて、そのクルマだって地方では家族の数だけ必要ですから、親が出している例はいくらでもありますよ。つまり、都会では働いても働いても賃金が上がらないワーキングプアなどと言われている現代では、子供たちも親元に戻ってきたほうが生活が楽なんですよ。むしろ、親元に戻ってこないと生活がままならない時代でもあるんですね」

 若衆が集まれば、こんな会話が交されるという。

「『もう、都会に出て行く』って言ったらよ、『クルマ買ってやるから』って言うじゃんよ。農協行ってすぐにカネおろして来ちゃってクルマ買ってもらっちゃったから、まだしばらくは出ていけんじゃんね」

 親のほうも、あの手この手で必死の引き留め工作だ。だが、病院通いに限らず、いざというとき手となり足となる我が子をそばに置いておくためと思えば、マイホーム代やクルマ代など安いものだろう。老人ホームに入るためのお金を子供に投資するようなものである。

 あるときその地方に、東京で人気の「いきなり!ステーキ」の店舗ができた。そこには、年老いた父母に中年の息子か娘といった組み合わせが、平日でも開店と同時に溢れていたという。さすがに“柔らかいステーキ”という評判でも、見ているだけで心配してしまうほど高齢の老父母は、我が子が「ステーキ食いたい」と言えば、財布を持ってどこまででも付いていくのだ。子供の心を引き留めたい一心なのだろう。

 だからこそ、人間関係がどんなに難しくとも、嫁は自宅の敷地内で夫の親と半ば同居し、どんなに精神的に不便があっても絶対に出て行かないという。


女性がタバコを吸えば“犯罪者”

 五町田貞子さんは、女性の喫煙も要注意だと明かす。

「最近は集落の奥さんたちも、みんなタバコを吸いますよ。でも、集落で女性がタバコを吸っているところなんか見られたら、もう、それこそ犯罪者扱いですよ。『女のくせにタバコなんか吸いやがって』って。周囲からそう罵声を浴びせられるだけでなく、その奥さんの嫁ぎ先の家の名誉にまでかかわってきますから、隠れて吸うのに必死です」

 見つかったら大変だ。「あそこの嫁は、あの女は、タバコなんか吸ってやがるぞ」と、まるで犯罪者扱いだ。

「だから、タバコを吸うときだけは、誰もいない山のなかの奥の奥のまで車を走らせたり、あるいは、集落の者はあまり立ち寄らないような生活圏から離れたコンビニまで行って……。一服するのに、1本吸うのに、もう大変です。ガソリン代のほうが高くつきます(笑)。女のくせにタバコなんかって。それでいて男たちは、役所の前だろうが、畑だろうが、プカプカやってますからね。女のくせにって……時代錯誤も甚だしい。でも、それが常識なのが地方の集落ですから。でも、それでも出て行かないんですよ、地元出身者やその奥さんは」

 高断熱高気密の自宅を建ててもらい、車も買ってもらい、子供の経費の面倒もみてくれる――。それはやはり、実家に“寄生”していなければ成り立たない、田舎暮らしの良さなのだろう。

 そんな地元出身者、Uターン夫婦の生活ぶりを見て、移住者が自分の生活像を重ねてはいけないのだ。「しかも……」と貞子さんは明かす。嫁はときに、家族として数のうちに入らない扱いなのだとか。

「これは長野のその集落だけじゃなくて、山梨県北杜市とか移住人気地でも共通ですよ。あのあたりじゃ、実家の姑は息子夫婦のところに、おやつだ、おすそ分けだといって、お菓子やお土産を持ってきても、例えば4人家族でも必ず3つしか持ってこないんです。それを奥さんが『夫が帰ってくる前においしくて食べちゃって』と姑に言うと、また姑は持ってくる。しかも、また3つだけ。息子である夫と孫である子供2人の分だけ。これは山梨から長野にかけて、どこでもそういう話を聞きます」

 つまり、嫁の分は勘定に入っていない。決して嫁と姑の関係が悪くなくても、姑はそうするのだという。

「つまり、姑たちが嫁いできた時代から、そうした習慣なんでしょうね、嫁の扱われ方として。都会の女性にはまったく理解できない作法で、彼女たちは陰ではブツブツ言いますが、決して集落から出て行きません。そうした奥さんたちはたいがい、家もクルマも子供の生活費も、そして農家だから食料も、実家から供給されているからなんです。つまり多少嫌なことがあっても、経済的なメリットのほうが勝っているから出て行かないだけのことなんです。それを見て移住者たちが、若い人たちも居着いているから住みやすいんだ、と思うと大間違いです」

 いよいよそんな集落に嫌気がさした貞子さんは、「こんなところに死ぬまで住むのはとても無理」と、ついに新たな移住先へと再び“転住”を決意した。その際、移住以来、なにくれとなく話し相手になってくれていた県警の駐在所に挨拶に行った。

 長野県内の駐在を転々としてきて、まもなく定年を迎えようかという駐在さんは、こう教えるのだった。

「あんたも出て行くか。あんたなんかは長いほうだったよ。もうね、入れ替わり立ち替わりだからね。定住なんかとはほど遠いよ」

 駐在さんは常に、狭い集落の人間の出入りと、転入、転出を目配りしている。移住者が転入してくる場所は限られている。そうした番地の住民の流れを見ていると、早ければ数カ月、長くても1年未満で外に出て行ってしまうという。

「あまりの入れ替わり立ち替わりで、こっちが挨拶に行こうと思ってると、もう出てっちゃってるんだから」と駐在は笑うのだった。

「この辺りは、3代住んでもまだ地元の者としては認められないからね。県をまたいで山梨から嫁いできた85歳のおばあちゃんなんかは、まだヨソ者扱いだから。移住してきた人たちが本心から受入れられるっていうのは、まず考えられないね」

 近くには、移住後10年近く、集落の住人から無視され続けてきたという移住者もいた。だが、都会や会社でのストレスから解放された退職後、そこから「10年もの無視」に耐える“意義”を移住者が見つけられるだろうか……。五町田貞子さんは言う。

「集落に居た頃は、冬場なんて朝は4時、5時から雪かきで、6時に出て行こうものならば、『もう終わったずら』なんて嫌みを言われる毎日でした。今は移住者ばかりが集まっている新興住宅地のような場所なので気が楽です」

 夫の弘信さんも同感だという。

「女房がタバコを吸うときでも、今はもう気兼ねなく堂々とですよ。隣の奥さんと仲良く、縁側でのびのびと世間話しながら、1本頂戴、いいよ、なんてやってますよ。女性がタバコを吸うためだけに車を走らせなきゃいけない田舎暮らしってね、なんだったんでしょうね」

取材・文/清泉亮(せいせん・とおる)
移住アドバイザー。著書に『誰も教えてくれない田舎暮らしの教科書』(東洋経済新報社)

週刊新潮WEB取材班

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/565.html#c518

[近代史3] 美智子妃殿下の実家の正田家は同和部落出身なのか? 中川隆
54. 中川隆[-11541] koaQ7Jey 2019年3月10日 13:30:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[452]

日本の大和朝廷は朝鮮に住んでいた漢民族が武器を持たない縄文人・弥生人を征服して作ったカースト制国家(氏姓制度というのはカ−スト制を定めたもの)

日本はカースト制の多民族国家だから下のカーストの人間は昔から お上には絶対に逆らえないんだ:

現代日本人は

縄文人の末裔
弥生人の末裔
朝鮮からの渡来人
アイヌ人・琉球民族
在日朝鮮人


から構成される

日本を支配していた天皇家や武家は朝鮮から渡来した漢民族(Y染色体O2系統)で、
縄文人・弥生人系の日本の一般民とは殆ど混血していない。

現代の日本の政治家や資産家は殆どが渡来漢民族:Y染色体O2系統(旧 O3系統)
地主や自作農は 弥生系: Y染色体O1b系統(旧 O2系統)
貧農や小作人や部落民は 縄文系「D2」

太平洋戦争で最前線に送られて死んだのは縄文人・弥生人系の日本人だけ
これから中国人移民と競争させられて搾取され食っていけなくなるのも縄文人・弥生人系の日本人だけなんだな

縄文人・弥生人系の日本人の問題は羊より従順でかつ自分が搾取されて滅ぼされる劣等民族だという自覚が無い事だな
お上には絶対に逆らわないもんな

日中戦争も太平洋戦も覚醒剤を飲んで戦わされたのが原因だからね。

ドイツ人は賢いから、戦争責任をすべてヒトラーとナチスに押し付けて、ドイツ人に責任は全くないという事にした。

日本人も戦争責任をすべて天皇一族に押し付けて、日本人に責任は全くないという事にすれば良かったんだけど そうしなかったから、中国人と朝鮮人に永遠に金をむしり取られる運命になったんだ。

天皇一族は漢民族系朝鮮人

美智子の母親は朝鮮系中国人とイギリス人のハーフ(普通に考えたら売春婦が産んだ父無し子だよね)

雅子の実家は在日

要するに、天皇一族は日本人でなくて中国人・韓国人なんだから、天皇制を廃止するしかないね

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/116.html#c54

[近代史3] 美智子妃殿下の実家の正田家は同和部落出身なのか? 中川隆
55. 中川隆[-11540] koaQ7Jey 2019年3月10日 13:37:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[453]

皇后や皇女が本来やるべき仕事は

トランス状態に入って、神憑りして、神意を語る事

国難に当たって、どの道を進んだらよいかを神に伺うのが天皇家の一番重要な仕事だ

トランス状態に入る技術すら持たない、讃美歌ばかり歌っている美智子みたいなアホ女に皇后は務まらない

アマテラスの霊が宿る八咫鏡は弥生時代後期に北部九州で製作され、他の同類は破砕されたけれども、一面だけがはるばる近畿地方にもたらされた

 豊玉姫−玉依姫−イワレヒコ(神武)の系譜から、この鏡の製作の中心にいたのは母豊玉姫を弔(とむら)ったであろう玉依姫ということになる。

その玉依姫が、わが子神武の東征にあたって、鏡の一面を携帯させたとすれば、当然、大和朝廷においてその鏡は玉依姫の鏡として長らく宮中にあったに違いない。それが、

「崇神五年、国内に疫病多発、人民の大半が死亡、六年には国内大混乱。その原因としてこれより先、宮中にアマテラスと倭(やまとの)大国魂(おおくにたま)の二神の並祭が、お互い神威が強すぎることにあると思えたので、別々に祭ることにし、アマテラスは豊鋤入姫(とよすきいりびめ)に託して云々」

とある『書紀』に従えば、このときからアマテラスこと玉依姫の依り代である八咫鏡が、現在の鎮座地である伊勢へと至る長い巡幸が始まるのである。 

 その伊勢神宮内宮を見てみれば、アマテラスこと玉依姫の相殿に万幡(よろずはた)豊秋津姫こと豊玉姫が鎮座している。


天孫降臨というと、普通、天皇家の祖先のニニギノミコトが九州の日向の高千穂に天降ったといわれますが、「海部氏系図」はもうひとつの天孫降臨伝説を伝えており、海部家と天皇家は同じ天照大神の孫で、兄弟の間柄になるようです。

 籠神社には、2000年間にわたり伝世されてきた息津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(へつかがみ)と呼ばれる秘蔵の鏡も2面あります。

_____


天皇家の祖霊が宿る鏡を祭るのが皇后や皇女の本来の仕事なんだよ。

美智子みたいな讃美歌を歌っている女が皇室にいるのが間違っているんだ:

秋篠宮の父親は入江侍従長だという噂だし、皇太子の妃には子供を産めそうもない年食った淫乱女を押し付けるし

皇室関係者を全員クリスチャンで固めるし

美智子の為にもう天皇家もお終いだよ

美智子と雅子はアメリカが皇室に強引に押し込んだ工作員なんだよ

官僚や権力者の子息をアメリカの大学に留学させるというのは、洗脳してアメリカの工作員にするのが目的だからね


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/116.html#c55

[近代史3] 美智子妃殿下の実家の正田家は同和部落出身なのか? 中川隆
56. 中川隆[-11539] koaQ7Jey 2019年3月10日 13:45:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[454]


雅子は英会話も満足にできないのに外国の王族と会話させられたから鬱病になったんだ

それも、雅子が学歴詐称、経歴詐称したのがすべての原因だ:


雅子様C@学歴 日本語も英語も話せない釣書詐欺
http://hiromihiromi.sakura.ne.jp/01/?p=4764

雅子様の学歴ロンダリング
https://dosuko.fandom.com/ja/wiki/%E5%AD%A6%E6%AD%B4%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0

雅子様の子弟枠を使ったインチキ外交官試験
https://dosuko.fandom.com/ja/wiki/%E5%A4%96%E4%BA%A4%E5%AE%98%E8%A9%A6%E9%A8%93

海外生活が長い雅子が英語もろくに話せないというのもおかしいけど、

麻生元首相も子供の頃から英語をやっていて、結局日本語も英語も中途半端になったんだよ

漢字も読めないというのは抽象的な思考や論理的な思考が全くできないという事だから
アメリカの10歳児程度の英語力という事だ

10歳児程度の英語力と思考力では海外の王族や政治家と対等な話なんかできないよ
だから鬱病になったんだろ
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/116.html#c56

[近代史3] 美智子妃殿下の実家の正田家は同和部落出身なのか? 中川隆
57. 中川隆[-11538] koaQ7Jey 2019年3月10日 13:56:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[455]

皇后や皇女が本来やるべき仕事は
トランス状態に入って、神憑りして、神意を語る事


国難に当たって、どの道を進んだらよいか、天皇家の先祖の霊から預言を受けるのが天皇一族の一番重要な仕事

宮中の人間が全員クリスチャンだとか、完全に逝かれるよね


祭祀の家系の天皇一族が本来やらなければいけない一番大事な仕事については

天皇家の中国鏡を神体とする太陽信仰と天孫降臨
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/104.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/116.html#c57

[近代史3] 美智子妃殿下の実家の正田家は同和部落出身なのか? 中川隆
58. 中川隆[-11537] koaQ7Jey 2019年3月10日 14:05:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[456]
天皇陛下、「平成」という時代を振り返る


お言葉全文(太字は保坂正康氏の引用箇所)

在位30年に当たり、政府並びに国の内外から寄せられた祝意に対し、深く感謝いたします。

即位から30年、こと多く過ぎた日々を振り返り、今日こうして国の内外の祝意に包まれ、このような日を迎えることを誠に感慨深く思います。

平成の30年間、日本は国民の平和を希求する強い意志に支えられ、近現代において初めて戦争を経験せぬ時代を持ちましたが、それはまた、決して平坦な時代ではなく、多くの予想せぬ困難に直面した時代でもありました。世界は気候変動の周期に入り、我が国も多くの自然災害に襲われ、また高齢化、少子化による人口構造の変化から、過去に経験のない多くの社会現象にも直面しました。島国として比較的恵まれた形で独自の文化を育ててきた我が国も、今、グローバル化する世界の中で、更に外に向かって開かれ、その中で叡智を持って自らの立場を確立し、誠意を持って他国との関係を構築していくことが求められているのではないかと思います。

天皇として即位して以来今日まで、日々国の安寧と人々の幸せを祈り、象徴としていかにあるべきかを考えつつ過ごしてきました。しかし憲法で定められた象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠く、これから先、私を継いでいく人たちが、次の時代、更に次の時代と象徴のあるべき姿を求め、先立つこの時代の象徴像を補い続けていってくれることを願っています。

天皇としてのこれまでの務めを、人々の助けを得て行うことができたことは幸せなことでした。これまでの私の全ての仕事は、国の組織の同意と支持のもと、初めて行い得たものであり、私がこれまで果たすべき務めを果たしてこられたのは、その統合の象徴であることに、誇りと喜びを持つことのできるこの国の人々の存在と、過去から今に至る長い年月に、日本人がつくり上げてきた、この国の持つ民度のお陰でした。災害の相次いだこの30年を通し、不幸にも被災の地で多くの悲しみに遭遇しながらも、健気に耐え抜いてきた人々、そして被災地の哀しみを我が事とし、様々な形で寄り添い続けてきた全国の人々の姿は、私の在位中の忘れ難い記憶の一つです。

今日この機会に、日本が苦しみと悲しみのさ中にあった時、少なからぬ関心を寄せられた諸外国の方々にも、お礼の気持ちを述べたく思います。数知れぬ多くの国や国際機関、また地域が、心のこもった援助を与えてくださいました。心より深く感謝いたします。

平成が始まって間もなく、皇后は感慨のこもった一首の歌を記しています。

ともどもに平らけき代を築かむと諸人のことば国うちに充つ

平成は昭和天皇の崩御と共に、深い悲しみに沈む諒闇の中に歩みを始めました。そのような時でしたから、この歌にある「言葉」は、決して声高に語られたものではありませんでした。

しかしこの頃、全国各地より寄せられた「私たちも皇室と共に平和な日本をつくっていく」という静かな中にも決意に満ちた言葉を、私どもは今も大切に心にとどめています。

在位30年に当たり、今日このような式典を催してくださった皆様に厚く感謝の意を表し、ここに改めて、我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります。
https://rondan.net/17512



▲△▽▼


>平成は「戦争を経験せぬ時代」であった


日本の米軍基地は中東戦争の為の中継基地だった
つまり、今上天皇がアメリカ軍の虐殺を支援・協力していたんだ

>象徴天皇像は私一代ではできない


象徴天皇というのはアメリカがでっち上げた憲法に書いてあるだけで、日本が守る必要はない

天皇はアマテラスの直系の子孫で、神の意思を預言するのが天皇の仕事だ
象徴なんかでは有り得ない


しかし本当はそういうのは日本人にとってはどうでもいい小さな問題だ

平成で何が変わったかを総括すると


1.GDPが全く増えなかった、従って国民の賃金も全く上がらなかった

2.日本企業の株の3割を外資に乗っ取られた

3.一億総中流社会が階級社会に変わった


要するに、日本は完全にアメリカの植民地にされて、日本人がいくら頑張って稼いでも、その金はすべて外資に持って行かれる様になった

つまり、今上天皇と美智子はアメリカのエージェントで日本人の敵だったんだ



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/116.html#c58

[近代史3] 美智子妃も雅子妃もアメリカが皇室と天皇制を破壊する為に送り込んだスパイなのか? 中川隆
38. 中川隆[-11536] koaQ7Jey 2019年3月10日 14:08:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[457]

皇后や皇女が本来やるべき仕事は
トランス状態に入って、神憑りして、神意を語る事

国難に当たって、どの道を進んだらよいか、天皇家の先祖の霊から預言を受けるのが天皇一族の一番重要な仕事

宮中の人間が全員クリスチャンだとか、完全に逝かれるよね

祭祀の家系の天皇一族が本来やらなければいけない一番大事な仕事については


天皇家の中国鏡を神体とする太陽信仰と天孫降臨
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/104.html


▲△▽▼



天皇陛下、「平成」という時代を振り返る

お言葉全文(太字は保坂正康氏の引用箇所)

在位30年に当たり、政府並びに国の内外から寄せられた祝意に対し、深く感謝いたします。

即位から30年、こと多く過ぎた日々を振り返り、今日こうして国の内外の祝意に包まれ、このような日を迎えることを誠に感慨深く思います。

平成の30年間、日本は国民の平和を希求する強い意志に支えられ、近現代において初めて戦争を経験せぬ時代を持ちましたが、それはまた、決して平坦な時代ではなく、多くの予想せぬ困難に直面した時代でもありました。世界は気候変動の周期に入り、我が国も多くの自然災害に襲われ、また高齢化、少子化による人口構造の変化から、過去に経験のない多くの社会現象にも直面しました。島国として比較的恵まれた形で独自の文化を育ててきた我が国も、今、グローバル化する世界の中で、更に外に向かって開かれ、その中で叡智を持って自らの立場を確立し、誠意を持って他国との関係を構築していくことが求められているのではないかと思います。

天皇として即位して以来今日まで、日々国の安寧と人々の幸せを祈り、象徴としていかにあるべきかを考えつつ過ごしてきました。しかし憲法で定められた象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠く、これから先、私を継いでいく人たちが、次の時代、更に次の時代と象徴のあるべき姿を求め、先立つこの時代の象徴像を補い続けていってくれることを願っています。

天皇としてのこれまでの務めを、人々の助けを得て行うことができたことは幸せなことでした。これまでの私の全ての仕事は、国の組織の同意と支持のもと、初めて行い得たものであり、私がこれまで果たすべき務めを果たしてこられたのは、その統合の象徴であることに、誇りと喜びを持つことのできるこの国の人々の存在と、過去から今に至る長い年月に、日本人がつくり上げてきた、この国の持つ民度のお陰でした。災害の相次いだこの30年を通し、不幸にも被災の地で多くの悲しみに遭遇しながらも、健気に耐え抜いてきた人々、そして被災地の哀しみを我が事とし、様々な形で寄り添い続けてきた全国の人々の姿は、私の在位中の忘れ難い記憶の一つです。

今日この機会に、日本が苦しみと悲しみのさ中にあった時、少なからぬ関心を寄せられた諸外国の方々にも、お礼の気持ちを述べたく思います。数知れぬ多くの国や国際機関、また地域が、心のこもった援助を与えてくださいました。心より深く感謝いたします。

平成が始まって間もなく、皇后は感慨のこもった一首の歌を記しています。

ともどもに平らけき代を築かむと諸人のことば国うちに充つ

平成は昭和天皇の崩御と共に、深い悲しみに沈む諒闇の中に歩みを始めました。そのような時でしたから、この歌にある「言葉」は、決して声高に語られたものではありませんでした。

しかしこの頃、全国各地より寄せられた「私たちも皇室と共に平和な日本をつくっていく」という静かな中にも決意に満ちた言葉を、私どもは今も大切に心にとどめています。

在位30年に当たり、今日このような式典を催してくださった皆様に厚く感謝の意を表し、ここに改めて、我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります。
https://rondan.net/17512

▲△▽▼


>平成は「戦争を経験せぬ時代」であった


日本の米軍基地は中東戦争の為の中継基地だった
つまり、今上天皇がアメリカ軍の虐殺を支援・協力していたんだ


>象徴天皇像は私一代ではできない


象徴天皇というのはアメリカがでっち上げた憲法に書いてあるだけで、日本が守る必要はない

天皇はアマテラスの直系の子孫で、神の意思を預言するのが天皇の仕事だ
象徴なんかでは有り得ない


しかし本当はそういうのは日本人にとってはどうでもいい小さな問題だ


平成で何が変わったかを総括すると


1.GDPが全く増えなかった、従って国民の賃金も全く上がらなかった

2.日本企業の株の3割を外資に乗っ取られた

3.一億総中流社会が階級社会に変わった


要するに、日本は完全にアメリカの植民地にされて、日本人がいくら頑張って稼いでも、その金はすべて外資に持って行かれる様になった

つまり、今上天皇と美智子はアメリカのエージェントで日本人の敵だったんだ


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/262.html#c38

[リバイバル3] 「住宅は資産」という幻想で誰があなたをカモにするのか? 中川隆
234. 中川隆[-11535] koaQ7Jey 2019年3月11日 10:23:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[458]

2019年03月11日
投資不動産の融資厳格化のうごき 数十億円借りたサラリーマンも


融資を受けて中古アパートを購入するサラリーマン大家がブームだった


個人で数十億円借りた人も

銀行などが個人の不動産投資への融資を制限する動きがでていて、アパート経営などに影響が出そうです。

この10年ほどネットや書店では不動産投資で成功したサラリーマン大家さんなどの話があふれていました。

手法としては銀行からお金を借りて不動産を購入し、物件を貸したりアパート経営などをして利益を得る。



利益で得た資金を元手にさらにお金を借り、不動産を購入してアパート等を多数保有するのが成功パターンです。

この過程で数十億円もの融資を受ける人もいるが、通常個人では年収の5倍から10倍程度の融資しか受けれない。

住宅用でも投資用でも不動産融資ならサラリーマンで5000万円くらいが限度とされるが、裏技が存在している。


法人を設立することで個人より多く融資を受けられるが、ほよど信用がなければやはり1回しか融資を受けれない。

ところが法人をいくつも設立することで銀行の審査をすり抜け、数十億円の融資を受けている人が居ます。

融資を受けるたびに別の法人を設立して別の金融機関に融資を申し込み、個人の履歴がわからないようにしていた。

一度でも返済できなければゲームオーバー

シェアハウス騒動などをきっかけに金融庁は2018年秋、不動産投資への過剰融資を抑制するよう金融機関に通達しました。

シェアハウス騒動ではスルガ銀行がサラリーマンに数億円もの融資をしていて、社会問題化しました。

投資ブームで賃貸用不動産の経営を始める会社員らが急増し、返済能力を超えた融資を受けているとして問題視した。


こうした個人投資家は自己資金なしのフルローンで購入した土地を運営し、短期間で利益を挙げて物件を増やそうとする。

成功すれば多額の資産を築けるが、一度でも返済が滞ったら、すべての融資が返済困難になるでしょう。

不測の事態はいくらでも考えられ、アパートなどの入居者が集まらなかったり、修繕費が予想以上にかかれば資金繰りがつかなくなります。


購入不動産の価格以上の金額を融資するオーバーローンも常態化しており、さらに過剰な融資になっている。

オーバーローンとは本来は融資しない不動産購入の諸費用や、不動産の「ついでに」お金を借りる行為です。

不動産融資の金利は銀行ローンやクレジットよりかなり安いため、こうした行為が横行している。


過剰な融資を受けた事業は経営が困難になり、結局は返済できなくなるケースが多い。
http://www.thutmosev.com/archives/79227141.html#more
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/615.html#c234

[近代史02] プーチン大統領は神の申し子_____小沢一郎先生はこういう人になって欲しかった 中川隆
145. 中川隆[-11534] koaQ7Jey 2019年3月11日 10:35:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[459]

「ひとりがたり馬渕睦夫」#16
ロシアを正しく知るAディープステートがつくったソ連と現在のプーチン・ロシアの違い - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=TvvTTol4mJM
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/297.html#c145
[近代史02] プーチン大統領は神の申し子_____小沢一郎先生はこういう人になって欲しかった 中川隆
146. 中川隆[-11533] koaQ7Jey 2019年3月11日 10:37:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[460]


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2019年03月10日
ロシア人は昔のまま / 馬渕大使の甘い認識
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68757454.html


Putin & Abe 2Putin 4


  YouTubeに「林原チャンネル」というのがあって、様々な知識人が登場し独自の見解を述べている。その中に、馬渕睦夫大使が単独で「ロシアを語る」という番組があるんだが、最近、馬渕大使はロシアの現状とプーチンの統治を取り上げ、日本人が持っている誤った認識について触れていた。ところが、馬渕大使の話を聞いていると、いろいろな点で疑問が生じ、どうも納得できない。ロシアに詳しいはずの外交官が、ロシア人への認識を歪めているので何とも不可解だ。

  まづ、第15回の「グローバリズム勢力と戦うプーチン」について紹介したい。馬渕大使によると、「ロシアは信用できない」という認識は誤ったイメージに基づいているという。そして、現在のロシアは共産主義時代のソ連と違って世界の覇権を求めていないらしい。馬渕大使は北方領土問題にも言及し、マスコミが四島一括返還にこだわるのは無茶で、二島の「引き渡し」にこそ現状打破のチャンスがあるという。だから、ロシアに対して従来の敵意を持ち、「また日本人を騙すんじゃないか?」と疑念を抱くのは、マスコミによる意図的な誘導だと判断している。

  では、本当にロシアは欧米諸国並みに信用できる相手なのか? 馬渕大使は日本とロシアの交渉が上手く行き、平和条約の締結を以て二島の返還がなされると予想している。が、筆者は賛成できない。なぜなら、ロシア人には「力の強い者が全てを奪う」という原則があり、「約束はいつでも反故にできる」という文化があるからだ。いくら日本に経済的余裕があるからといって、軍事的優位に立つロシアが軍事小国の日本に譲歩することなどあり得ない。ロシアは歯舞・色丹の返還を"ちらつかせる"だけで、両島の主権を譲渡する気など更々無く、経済的支援と技術をもらったら難癖をつけて日本人を追い返すつもりだろう。日本人はお金を巻き上げられて終わりだ。たとえ、日本側がロシア政府に対し、「話が違うじゃないか!」と抗議したところで、ロシア人は気にもとめず、「だから何だ?! 文句あんのか! ほら、かかって来いよ!」と脅迫し、ご自慢の軍隊を仄めかすはずだ。こうなれば、自衛隊だけの日本は泣き寝入りするしかない。

  「プーチン大統領はグローバリストに立ち向かうナショナリストである」というのが、馬渕大使のレクチャーにおける十八番(おはこ)となっている。プーチンはロシアの資源や国富を簒奪しようとしたグローバリスト勢力、すなわちユダヤ系オリガルヒ(新興財閥)を退治したので、ロシアの愛国者であるらしい。なるほど、プーチンは石油に群がるユダヤ人起業家や、マスメディアを支配しようとするユダヤ人を駆逐し、ロシアをグローバリストから守ったのだろうが、それはロシア国民を思ってのことではなく、自分の縄張(シマ)をユダヤ人や外国人に渡さない、という決意を示しただけだ。

(オリガルヒについては以前の記事を参照。)
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68377366.html

  プーチンというのは一応、人民投票で選ばれた大統領だが、その本質からして、巨大マフィアのドン(首領)と考えた方がいい。日本で言えば、支那人マフィアを払いのけるヤクザの組長みたいなものだ。暴力団の親分は、たとえ新宿や神戸から支那人を一掃しても、愛国的ナショナリストではないし、褒めるほどの侠客でもない。プーチンはグシンスキー(Vladimir Gusinsky)やホドルコフスキー(Mikhail Khodorkovsky)を駆逐したが、大富豪のローマン・アブラモヴィッチ(Roman Abramovich)やアレクサンダー・アブラモフ(Alexander Abramov)はプーチンの子飼いになっている。天然ガスを輸出する国営のエネルギー企業「ガスプロム・ネフチ」はプーチンの元同僚だったアレクセイ・ミレル(Alexei Miller)が運営しているし、石油大手の「ロスネフチ」は以前の部下であるイゴール・セチン(Igor Sechin)が社長になっているのだ。

 マスメディアだって実質上プーチンの支配下にある。「第一放送局(Channel One / 元の「ロシア公共テレビ局)」や「VGTRK」、「REN TV」、「RIA Novosti」が政府から独立し、プーチン批判を展開するなんて無理。夢物語だ。ほとんどのニューズ番組は、大統領とロシア軍の賛美が普通で、プーチンがどんな不正を犯しているのかを取材するドキュメント番組など最初からボツ。企画すらされず、提灯番組ばかり。ロシアのテレビ局はプーチンが軍隊を視察する場面とか、執務室で軍人に囲まれ、兵器開発に耳を傾ける姿をよく流している。つまり、各テレビ局は「偉大なる国父」を見せつけているというわけ。滑稽なのは、プーチンがロシア正教会を訪れ、司教の前で「敬虔な信者」を演じる事だ。信仰心など微塵も無いのに、国民や軍人のモラルを高めるため、善良なキリスト教徒を装っているんだから、観ている方が白けてくる。

  馬渕大使は、中東で繰り返される「カラー革命」にも言及し、欧米のグローバリストはプーチンを失脚させるために色々な陰謀を仕掛けていると説明する。確かに、ウクライナの「オレンジ革命」やチュニジアの「ジャスミン革命」、グルジアの「バラ革命」、キルギスタンの「チューリップ革命」などは誰が仕掛けたのか判らない。CIAや英国のMI6、イスラエルのモサドが裏で画策したとも考えられる。ロシア国内の反プーチン運動だって、その資金源を調べれば、欧米の組織にたどり着くこともあるから、表面の騒動だけでは抗議活動の本質は解らない。ただ、「国際金融組織やグローバル勢力と戦うナショナリストのプーチン」という図式だと、プーチンの正体を見誤ることになる。なぜなら、プーチンがどれくらい国民の利益を考えて対抗しているのか、その真意が明らかになっていないからだ。

  第16回の放送で、馬渕大使は「ディープ・ステートがつくったソ連と現在のロシアの違い」というタイトルを掲げ、ソ連時代と現在のロシアは違うと述べていた。大使によれば、「ロシア革命」なるものは、実質的に「ロシア系ユダヤ人による革命」であるという。確かに、ボルシェビキの指導層を見れば、矢鱈とユダヤ人が多いことに気づく。長いこと賤民だったユダヤ人には、迫害者たちへの恨みが深い。彼らは喜んでヨーロッパやロシアの破壊活動に従事するから、左翼活動家には自然とユダヤ人が多くなる。しかも、一般のロシア人は凡庸だから、才能あふれるユダヤ人にはかなわない。これはレーニンも認めている。ということで、共産主義革命を指導する連中にユダヤ人が多くても不思議じゃない。

  しかし、どれほどユダヤ人が革命を扇動し、大量虐殺を命じたからといって、それを実行したのはロシア人尖兵だったから、やはりロシア人には暴力を何とも思わない性質がある。ロシア人に関しては日本人でも意見が分かれており、残酷だと評する者もいれば、「人なつっこい」と感じる者もいる。昔、ロシアの革命を目にした黒田乙吉(大阪毎日新聞記者)によれば、ロシア人は残忍な一面を持っているそうだ。特に彼の注目を惹いたのは、タムボフ県で起きた暴動である。ここでは一千人以上の百姓が一団となって地主の邸宅十五カ所を襲い、殺人、劫掠、放火などを恣(ほしいまま)にしたそうだ。驚くのは、犠牲者になった地主の中に、民衆から生き神の如く崇められていた人物がいたことである。それはともかく、恐怖心に駆られた地主たちは、続々と都会を引き上げたが、運悪く捕まる者もいたそうだ。慈善家として知られた某地主は、百姓や兵卒に捕まり、目玉を抉られ、胸を刺されるというリンチを受けたらしい。

Russian serfs 1Russians 1
(写真 / 貧しい生活を送るロシアの民衆)

  平和な環境で何千年も過ごしてきた日本人には、漆黒の大陸で暮らすロシア人の精神は謎のままである。ロシアの犯罪を調べた倉井五郎は、あるウクライナ人の教授から聞いた話を伝えている。この教授によれば、ロシア人はヨーロッパ人にとってもパラドックスの塊で、極端に相矛盾した行動が絡み合っているという。例えば、ロシア人は時に優しく、相手が寒そうにしていれば、最後のシャツを脱いで与えてしまうこともあるそうだ。しかし、気分が変われば五分後にその相手を殺して、全てを奪ってしまうらしい。くだんのウクライナ人教授は、東歐や南歐のインテリとも議論したことがあるらしく、皆がロシア人の矛盾性を認めたそうだ。例えば、革命家は気高い精神と美しさを持つが、その同じ人物が独裁者や官僚となるや、驚くほどの残酷さを示す。農民も同様に複雑怪奇で、極端な勤勉さと呆れるような怠惰が混ざっている。また、ロシア人には超人的な忍耐と野獣のような無謀さがあるらしい。彼らには真理に対するひたむきな憧憬がある一方で、堂々と嘘をつく性格もあるのだ。

 ロシア文学者で陸軍士官学校の教授を務めていた昇曙夢(のぼり・しょむ / 直隆)も、ロシア人の謎めいた性格を述べていた。ロシア人には粗野と柔和、親切と獣的冷酷が混在していおり、西欧人がとてもロシア人とは一緒になれないと断念するのは、こうした両極端が併存しているからだ。日本人がロシア人を見ていて厭になるのは、その犯罪が桁違いに残酷なところである。ロシア人のやり口は手荒い面があると思えば、豪放でズボラだったり、陰険で巧妙だったりする。筋を通す日本人からすれば、何とも理解しがたい。日本の犯罪者なんかロシア人と比べたら月とスッポンだ。日本人が高級時計や指輪を嵌めているカモを見つけたら、職人技でかすめ取ろうとするが、ロシア人なら鉈(なた)を使って指や手首ごと切り落として盗んでしまうだろう。民族によって発想は違うものである。

  馬渕大使のプーチン評論には、同意できる点と反論したくなる点がある。大使によれば、プーチンの「新しい理念」は人道主義に基づく普遍的価値と、歴史の試練に耐え抜いたロシア的価値の統合にあるそうだ。馬渕大使には悪いけど、プーチンじゃなくとも、ロシアの政治家に人道主義なんて考えは無い。もっとも、人道主義を利用した政治プロパガンダや詐欺的外交ならある。プーチンが口にしたことを鵜呑みにするなんて愚かだ。ロシア人は謀略の天才で、昔、CIA長官だったジェイムズ・アングルトン(James Jesus Angleton)を手玉に取り、米国の諜報機関を麻痺させたことがある。まんまと奸計に引っかかったアングルトンは誰も信じなくなり、疑心暗鬼の権化となってしまった。

  もう一つ、筆者が馬渕大使の見解に賛成できない点がある。それは、ロシア人が国土に対する執着心が強く、集団主義を取りがちな傾向を持つから日本人と似ているという意見だ。土地に対する愛着が強いのは、何もロシア人や日本人に限ったことではなく、ドイツ人やイギリス人、イタリア人、スペイン人だって郷土愛が強い。馬渕大使は西欧人の個人主義を念頭に置いているんだろうが、イギリス人やアメリカ人だって集団主義の利点を解っている。意外にも、上流階級のイギリス人は「チーム・プレイ」を重んじ、危機に際しては徹底した団結を図ることが多い。彼らはパブリック・スクール時代にラグビーやボートの経験を積んでいるから、普段でも以心伝心に通じ、仲間の結束が固いことでも有名だ。

  ロシア人の民族性を語る馬渕大使の思考には大きな缼点(けってん)がある。大使によると、ロシア正教が性善説を取っているので、欧米人よりも日本人に近いというのだ。しかし、これはロシア理解の初歩すら掴んでいないと言えよう。教会内での言動と、外に出た時の行動は別なのだ。なるほど、礼拝に訪れるロシア人は素朴で善良に見える。だが、ロシア人の心には得体の知れない深い闇がある。それに、いつ豹変するかも判らない恐怖感さえあるのだ。また、ロシア人の無政府主義的傾向と専制主義の伝統を考えれば、「善良なロシア人」というイメージはおかしなことになる。

  昔、東京外語大の志水速雄(しみず・はやお)教授がロシア人の性格について述べていた。例えば、一人のロシア人を善良と考え、それを「プラス1」と勘定しよう。ロシアが1億4千万の民衆で構成され、みんなが善人なら、各人の善良性を足して1億4千万の「善」があることになる。しかし、これは現実的ではない。国家を含め人間の組織は、メンバーの足し算ではないからだ。むしろ、掛け算となる。だから、国民の九割がプラスでも、残りの人間がマスナスなら、出来上がる組織全体はマイナスになってしまう。数学だとマイナス掛けるマスナスはプラスになるけど、極左のロシア人と兇悪犯のロシア人を掛けても親切なロシア人にはならない。逆に、典型的なロシア人になったりするから、ロシアというのは日本人の理解を超えている。

  志水教授によれば、ロシア人の素朴さや善良さが無政府主義の原因であり、ロシアの専制政治は無政府状態への「突っかい棒」になっているという。( 志水速雄『日本人はなぜソ連が嫌いか』山手書房、昭和54年、p.255.) 確かに、普段は忍耐強く愚鈍なまでに従順な民衆でも、ある事を切っ掛けに爆発し、手がつけられぬほど暴れ回ってしまうから、ロシアを統治する者は強権を用いなければならない。それに、ロシア人はモンゴル人から熾烈な政治手法を受け継ぎ、ドイツ風の官僚制度を輸入しているから、支配者は物凄い弾圧政治を行っても平気である。ロシアでは貴族と農民は別人種と言ってよい。例えば、ドイツからやって来たエカチェリーナ2世にとったら、ロシアなんか野蛮国でしかなく、庶民などは野獣(けだもの)と違いが無い。

  馬渕大使はロシアの民族性ばかりでなく、対露外政についても幻想を抱いている。大使が二島返還論を支持しているのは、日本がロシアを味方につけ、支那と対峙させるためだという。もし、日本が四島一括返還にこだわれば、ロシアが支那と結びついてしまうというのだ。しかし、これはおかしい。当ブログで以前指摘したが、ロシアと支那は軍事面で連携し、経済交流も盛んである。エネルギーを輸入せねばならぬ支那は、ロシアからの石油やガスを購入しているから、プーチンにとって支那人は得意先になっている。しかも、モスクワが対支那包囲網を構築しようとする動きは無い。馬渕大使は支那人が国境を越えて、続々とロシア領に侵入しているというが、クレムリンは支那移民排斥の方針を取ってるのか? 確かに、支那人による浸透を懸念するロシア人は多い。だが、クレムリンは支那を潰すというより、裏から支えている節がある。なぜなら、「トラブルメイカー」がいた方がアメリカの軍事外政を攪乱できるからだ。合衆国政府の矛先がモスクワに向くより、北京に向けられた方がいいし、米国と支那が喧嘩して共倒れになればもっと良い。たとえ米国が勝っても、何らかの損害を受けるから、ロシアとしては両方を焚きつけた方が得である。

  狡猾なプーチンなら、支那人に困っている振りをして安倍総理に共闘を持ちかけ、そのついでに経済援助をもらって、ロシア社会に使うことを考えるはずだ。どうせ、ロシア人は日本から搾るだけ搾って、食い逃げするつもりなんだから。馬渕大使はロシアが近代化を成し遂げた日本手本にして、スラヴ的伝統と西歐的伝統の統合を図っていると解説する。でも、ロシア人が日本人を本気で見習う事なんてあるのか? どちらかと言えば、お人好しの日本人を騙して経済援助をクスねようと考えるのが普通のロシア人だ。ロシア人が見習うとすれば、日本から多額のODAを引き出した支那人の方だろう。それに、ロシアの経済発展が日本の利益になるとは思えない。日本政府はロシアが経済的に停滞し、軍事予算が減少するようロシアを貧乏にさせるべきだ。

  インターネット番組に出演する馬渕大使には、保守派のファンが多くいるけど、果たして彼らの何割が大使の見解を真剣に考えたことがあるのか? なるほど、グローバリストや国際ユダヤ人に対する馬渕大使の批判は優れていると思うが、ロシアに関する認識は甘いと言わざるを得ない。本来、馬渕大使は外務官僚の誰がロシアに靡いているのか、買収されているかも知れない怪しい人物の言動を炙り出し、一般国民にそっと教えるべきなのに、そこを避けている。だから、「やはり古巣には触れることができないのか」と落胆するファンもいるんじゃないか。日本人はプーチンの思惑より、国内にはびこるロシアの手先に注意すべきである。鈴木宗男や佐藤優なんかは下っ端の協力者だから判りやすい。もし、日本に防諜組織があれば、もっと大物を捕まえることができるだろう。しかし実際は、ロシア専門家に裏切者がいて、政府を操っているんだから、情けないというか哀しくなる。プーチンに送った秋田犬がロシアの秘密を嗅ぎ回ってくれればいいけど、あいにく日本の犬は主人に忠実だから無理だろう。だって、日本の政治家がロシアの忠犬なんだから。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68757454.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/297.html#c146

[近代史3] 第68・69代総理大臣(1978年-1980年) 大平正芳がやった事

第68・69代総理大臣(1978年-1980年) 大平正芳がやった事


2019年3月11日
【三橋貴明】大平正芳の呪縛


どこにも行けない日本国民が日本を守る
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12444723181.html

グローバリズムという文明退化
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12445436572.html

新刊の執筆に関連し、
大平正芳について調べています。

三木内閣の大蔵大臣として、
戦後初めて通常予算で赤字国債を発行し、
「万死に値する」と叫んだという、あの大平正芳です。

財務省は、1970年以降の
日本政府の長期債務残高(地方自治体分は除く)
についてデータを公表しています。

1970年以降の
「いわゆる国の借金」をグラフ化したものが、以下。

【日本の政府の長期債務残高と対GDP比率】


我が国では、

1975年 通常予算において
初となる赤字国債発行。
大平正芳蔵相「万死に値する!一生かけて償う」と発言

1982年 鈴木善幸首相「財政非常事態宣言」
1995年 武村正義蔵相「財政危機宣言」

と、過去に何度も閣僚や総理大臣が
「財政危機」を叫んできました。

2018年の政府の長期債務残高は
1107.4兆円。

村山内閣時の2.7倍、鈴木善幸時の5.4倍、
そして「万死に値する」三木内閣時の「34.5倍」、
1970年の「152.6倍」に達しています。

それにも関わらず、
財政破綻の「ざ」の字も見えず、
長期金利は十年物でマイナス。
世界最低水準を維持しているのです。

「何か、おかしい」と思わない方がおかしいですよ。
少しでも、思考能力を持っているならば。

それはともかく、
実は日本の「小さな政府」「グローバリズム」
の路線が始まったのが、
「万死に値する」の大平正芳が
総理大臣になった大平内閣以降なのです。

大平正芳は、総理大臣に就任する以前から
「小さな政府」主義者として有名でしたが、
首相として初めて「一般消費税の導入」を打ち出します。

とはいえ、消費税や財政以外の面でも、
大平内閣は「グローバリズム」でした。

1978年末に発足した大平内閣は、
様々な「政策研究会」を組織し、
その後の日本の政策に決定的な影響を与えることになります。

1980年にまとめられた
「大平総理の政策研究会報告書」を読むと、
実に興味深いことが書かれていました。

例えば、研究会の一つに
「環太平洋連帯研究グループ」があるのが目を引きます。

同研究会の報告書では、太平洋について
「内海と化した」「太平洋諸国がひとつの地域社会を形成し得る条件が整った」として、

「太平洋諸国が、その特色とする活力とダイナミズムをよく活用して、
グローバリズム(※原文ママ)の新たな担い手となることを、心から期待する」

と記されているのです。
お分かりでしょうが、
そのまんま「TPP(環太平洋経済連携協定)」です。

また、金融政策については、
「外国為替管理法による厳重な統制が、
人為的低金利政策等を実現する制度的な裏付けであったが、
日本の国際的な地位の向上に伴い、
「原則禁止・例外自由」という構造を持つ
外国為替管理を維持することは不可能になった」

と、1998年の外為法改正を
先取りする方針が書かれています。

また、財政については、
「財政赤字が拡大し、国債の大量発行時代が招来されたことである」
と、指摘し、

「経常的な歳出まで経常的に
公債の発行に依存する現在の状況は極めて危険であり、
当面の目標を「赤字公債」からの脱却におくのは妥当である」

と、早くも「プライマリーバランス黒字化」路線の採用を提言。

信じがたい話ですが、
現在の安倍政権の小さな政府、
グローバリズムのトリニティ路線が始まったのは、
今から40年前なのでございます。

日本のグローバリズム路線は、
40年前の大平正芳の呪縛により
継続しているという恐るべき事実を知ってください。
https://38news.jp/economy/13325
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/288.html

[近代史3] 第68・69代総理大臣(1978年-1980年) 大平正芳がやった事 中川隆
1. 中川隆[-11532] koaQ7Jey 2019年3月11日 11:00:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[462]

大平 正芳(おおひら まさよし、1910年(明治43年)3月12日 - 1980年(昭和55年)6月12日)は、日本の大蔵官僚、政治家。

池田勇人の秘書官を経て政界に進出。宏池会会長として三角大福中の一角を占め、田中角栄内閣の外相として日中国交回復に貢献。四十日抗争やハプニング解散で消耗し、選挙中に首相在任のまま死去。

衆議院議員(11期)、
内閣官房長官(第21・22代)、
外務大臣(第92・93・100・101代)、
通商産業大臣(第31代)、
大蔵大臣(第79・80代)、
内閣総理大臣(第68・69代)

を歴任。首相就任までに椎名裁定、三木おろし、大福密約といった苦難があり、田園都市構想や一般消費税構想は実現しなかった。

読書家、クリスチャンとして知られ、「戦後政界指折りの知性派」との評もある。

生い立ち

香川県三豊郡和田村(現観音寺市)の農家・大平利吉と妻・サクの三男として生まれる[1]。兄2人、姉3人、弟妹がそれぞれ1人ずつの8人兄弟だったが、大平が生まれた時長女は満1歳で、兄の1人も2歳半ですでに亡くなっていた[2]。父の利吉は学歴こそなかったものの村会議員や水利組合の総代を務めていた[3][1]。大平は「讃岐の貧農の倅」と称したが生家は中流に属していた[1]。それでも子供6人を抱えた大平家の生活は苦しいもので、大平も幼いころから内職を手伝って家計を支えていた[4][5]。

学生時代

和田村立大正尋常高等小学校(現観音寺市立豊浜小学校)、旧制三豊中学校(現香川県立観音寺第一高等学校)に進んだ[6][7]。兄の大平数光は高等小学校を卒業して家業を継ぎ、後に豊浜町長となって大平の地元での選挙活動を支援した[8]。

1926年(大正15年)、三豊中4年の時大平は腸チフスに罹り4か月間生死の境をさまよった[9][10]。家計に負担をかけないため海軍兵学校を受験したが、受験前に急性中耳炎を患い身体検査で不合格となった[10]。翌1928年(昭和3年)4月、経済的に恵まれなかったものの親戚からの援助[10]や奨学金を得て高松高等商業学校(現香川大学経済学部)に進学[9]。


高商に入学した春、元東北帝国大学教授で宗教家の佐藤定吉が講演に訪れた際キリスト教に出会った[11][12]。自身の病や父の死を立て続けに経験した大平はキリスト教に傾倒し、1929年暮れに観音寺教会で洗礼を受けた[13]。


卒業後の進路について大平は大学への進学を希望したものの経済的に厳しく断念せざるを得なかった[14]。就職するにせよ昭和恐慌の煽りを受け採用自体がなかったため進学も就職も決まらない状態にあったところ、桃谷勘三郎の食客となり桃谷順天館で化粧品業に携わった[15]。

1933年(昭和8年)、再び学業に戻ることを決意した大平は綾歌郡坂出町(現坂出市)の鎌田共済会と香川県育英会の2つの奨学金を得て東京商科大学(現一橋大学)に進学した[16]。大平23歳の時のことである。文京区千駄木に居を構え、在学中大平は経済哲学の杉村広蔵助教授、法律思想史の牧野英一教授らの講義を手当たり次第に履修した[16]。卒業論文は「職分社会と同業組合」[17]。

大学在学中も引き続きキリスト教の活動にも精力的に参加し、YMCA活動に従事した[16]。

大蔵省時代

1935年(昭和10年)、高等試験行政科試験に合格したが、特に官吏志望だったわけではなく、川田順を愛読していた大平は住友系の企業へのあこがれを持っていた[18][19]。ところが当時大蔵次官だった同郷の津島壽一に挨拶に行った折、即決で大蔵省に採用された[20][21]。1936年入省、預金部に配属[22][23]。以後、税務畑を中心に以下の役職を歴任した。

1937年(昭和12年) - 横浜税務署長[24]。当時東京税務監督局直税部長だったのが池田勇人で[24]、以後しばしば部下として会う[25]。

1938年(昭和13年) - 仙台税務監督局間税部長。どぶろく退治に尽力[26]。

1939年(昭和14年) - 興亜院にて大陸経営にかかわり、1939-1940年に張家口の蒙疆連絡部で勤務したほか[27][28]、帰国後も頻繁に大陸に出張[29]。

1942年(昭和17年) - 本省主計局主査(文部省・南洋庁担当)[30][31]。大日本育英会(後の日本育英会、現独立行政法人日本学生支援機構)の設立について査定[32][33]。

1943年(昭和18年) - 東京財務局関税部長。国民酒場を創設[34]。

1945年(昭和20年) - 津島壽一大蔵大臣の秘書官[34][35]

1946年(昭和21年) - 初代給与局第三課長[36][37]

1948年(昭和23年) - 経済安定本部建設局公共事業課長[38][37]

1949年(昭和24年) - 池田勇人蔵相秘書官。以後1952年まで務める[39][40]。

1950年(昭和25年) - 国税庁関税部消費税課長兼任

政治家としての活動

池田側近として

池田内閣の頃
1952年(昭和27年)、大蔵省時代の上司だった池田勇人の誘いを受け、大蔵省を退職し自由党公認で衆議院選挙に立候補し当選[41]。以後、連続当選11回。1957年(昭和32年)、池田勇人が宏地会を発足させると、当然のごとく池田のもとに馳せ参じた。[42]。

大蔵省の先輩である前尾繁三郎をヘッドとする大蔵省出身者の池田の政策ブレーンとなり、宮澤喜一や黒金泰美らとは、池田勇人側近の「秘書官トリオ」と呼ばれる[43]。

1960年(昭和35年)に第1次池田内閣で内閣官房長官に就任[44][45]。「低姿勢」をアピールする同内閣[45]の名官房長官と評された[46]。

第2次池田内閣・第2次池田内閣第1次改造内閣でも官房長官を務め、続く第2次池田内閣第2次改造内閣で外務大臣に就任した[47][48]。戦前は中国勤務を経験し占領時代はアメリカを旅行した経験から外交を身近に感じていた大平は外相就任を望んでいた[48]。

外相時代は韓国との国交正常化交渉を巡って、金鍾泌中央情報部長との間で最大の懸案だった請求権問題で合意(いわゆる「金・大平メモ」1962年11月12日)、日韓交渉で最も大きな役割を果たした政治家である[49][50]。一方で日中関係の進展を念頭に置いていた池田との離反という代償も伴った[51]。

中国大陸との関係に関しては、経済的、地政学的、また極東の政治的現実の観点から、「長崎国旗事件」によって途絶えた日中関係を現実的な重大な課題として受け止め、前向きな姿勢で対中関係の改善に取り組んだ。アメリカが主導する「中国封じ込め」政策に苦しみつつも、日中経済貿易関係の拡大を徹底して追求した[52]。LT貿易の成立[53]、貿易連絡事務所の相互設置と新聞記者交換の実現等、日中関係はこれまでに見られないほど進展した[54]。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B9%B3%E6%AD%A3%E8%8A%B3
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/288.html#c1

[近代史3] 馬渕睦夫のユダヤ陰謀論はどこまで本当なのか? 中川隆
8. 中川隆[-11531] koaQ7Jey 2019年3月11日 11:17:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[463]

[馬渕睦夫さん][今一度歴史を学び直す] 6-7-
石油目的のイラク戦争と東欧のカラー革命「アラブの春」の実態 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=9ayQK3ht6yM&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&index=7&app=desktop

【馬渕睦夫】ウクライナ問題から見る国際情勢[桜H26-7-24] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=sDnbkelk0fs



▲△▽▼

プーチンは共産主義者ではなく国粋主義の愛国者

【平成30年 新春特別対談】馬渕睦夫氏に聞く[桜H30-1-2] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=UiH6n-vvsnI

▲△▽▼

馬渕睦夫沖縄講演〜2019年の国難をどう乗り切るか[桜H31-1-29] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=nIQpvmu_Mt0


▲△▽▼

【桜無門関】馬渕睦夫×水島総 第3回
「ネオコンが狙う日露決裂とプーチン潰し」[桜H31-1-31] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=jWRxVmGJkDo


▲△▽▼

「ひとりがたり馬渕睦夫」#15
ロシアを正しく知る@グローバリズム勢力と戦うプーチン - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=6YE0qi4xuYc

「ひとりがたり馬渕睦夫」#16
ロシアを正しく知るAディープステートがつくったソ連と現在のプーチン・ロシアの違い - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=TvvTTol4mJM

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/212.html#c8

[近代史3] 馬渕睦夫のユダヤ陰謀論はどこまで本当なのか? 中川隆
9. 中川隆[-11530] koaQ7Jey 2019年3月11日 11:18:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[464]


2019年03月10日
ロシア人は昔のまま / 馬渕大使の甘い認識
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68757454.html


Putin & Abe 2Putin 4


  YouTubeに「林原チャンネル」というのがあって、様々な知識人が登場し独自の見解を述べている。その中に、馬渕睦夫大使が単独で「ロシアを語る」という番組があるんだが、最近、馬渕大使はロシアの現状とプーチンの統治を取り上げ、日本人が持っている誤った認識について触れていた。ところが、馬渕大使の話を聞いていると、いろいろな点で疑問が生じ、どうも納得できない。ロシアに詳しいはずの外交官が、ロシア人への認識を歪めているので何とも不可解だ。

  まづ、第15回の「グローバリズム勢力と戦うプーチン」について紹介したい。馬渕大使によると、「ロシアは信用できない」という認識は誤ったイメージに基づいているという。そして、現在のロシアは共産主義時代のソ連と違って世界の覇権を求めていないらしい。馬渕大使は北方領土問題にも言及し、マスコミが四島一括返還にこだわるのは無茶で、二島の「引き渡し」にこそ現状打破のチャンスがあるという。だから、ロシアに対して従来の敵意を持ち、「また日本人を騙すんじゃないか?」と疑念を抱くのは、マスコミによる意図的な誘導だと判断している。

  では、本当にロシアは欧米諸国並みに信用できる相手なのか? 馬渕大使は日本とロシアの交渉が上手く行き、平和条約の締結を以て二島の返還がなされると予想している。が、筆者は賛成できない。なぜなら、ロシア人には「力の強い者が全てを奪う」という原則があり、「約束はいつでも反故にできる」という文化があるからだ。いくら日本に経済的余裕があるからといって、軍事的優位に立つロシアが軍事小国の日本に譲歩することなどあり得ない。ロシアは歯舞・色丹の返還を"ちらつかせる"だけで、両島の主権を譲渡する気など更々無く、経済的支援と技術をもらったら難癖をつけて日本人を追い返すつもりだろう。日本人はお金を巻き上げられて終わりだ。たとえ、日本側がロシア政府に対し、「話が違うじゃないか!」と抗議したところで、ロシア人は気にもとめず、「だから何だ?! 文句あんのか! ほら、かかって来いよ!」と脅迫し、ご自慢の軍隊を仄めかすはずだ。こうなれば、自衛隊だけの日本は泣き寝入りするしかない。

  「プーチン大統領はグローバリストに立ち向かうナショナリストである」というのが、馬渕大使のレクチャーにおける十八番(おはこ)となっている。プーチンはロシアの資源や国富を簒奪しようとしたグローバリスト勢力、すなわちユダヤ系オリガルヒ(新興財閥)を退治したので、ロシアの愛国者であるらしい。なるほど、プーチンは石油に群がるユダヤ人起業家や、マスメディアを支配しようとするユダヤ人を駆逐し、ロシアをグローバリストから守ったのだろうが、それはロシア国民を思ってのことではなく、自分の縄張(シマ)をユダヤ人や外国人に渡さない、という決意を示しただけだ。

(オリガルヒについては以前の記事を参照。)
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68377366.html


  プーチンというのは一応、人民投票で選ばれた大統領だが、その本質からして、巨大マフィアのドン(首領)と考えた方がいい。日本で言えば、支那人マフィアを払いのけるヤクザの組長みたいなものだ。暴力団の親分は、たとえ新宿や神戸から支那人を一掃しても、愛国的ナショナリストではないし、褒めるほどの侠客でもない。プーチンはグシンスキー(Vladimir Gusinsky)やホドルコフスキー(Mikhail Khodorkovsky)を駆逐したが、大富豪のローマン・アブラモヴィッチ(Roman Abramovich)やアレクサンダー・アブラモフ(Alexander Abramov)はプーチンの子飼いになっている。天然ガスを輸出する国営のエネルギー企業「ガスプロム・ネフチ」はプーチンの元同僚だったアレクセイ・ミレル(Alexei Miller)が運営しているし、石油大手の「ロスネフチ」は以前の部下であるイゴール・セチン(Igor Sechin)が社長になっているのだ。

 マスメディアだって実質上プーチンの支配下にある。「第一放送局(Channel One / 元の「ロシア公共テレビ局)」や「VGTRK」、「REN TV」、「RIA Novosti」が政府から独立し、プーチン批判を展開するなんて無理。夢物語だ。ほとんどのニューズ番組は、大統領とロシア軍の賛美が普通で、プーチンがどんな不正を犯しているのかを取材するドキュメント番組など最初からボツ。企画すらされず、提灯番組ばかり。ロシアのテレビ局はプーチンが軍隊を視察する場面とか、執務室で軍人に囲まれ、兵器開発に耳を傾ける姿をよく流している。つまり、各テレビ局は「偉大なる国父」を見せつけているというわけ。滑稽なのは、プーチンがロシア正教会を訪れ、司教の前で「敬虔な信者」を演じる事だ。信仰心など微塵も無いのに、国民や軍人のモラルを高めるため、善良なキリスト教徒を装っているんだから、観ている方が白けてくる。

  馬渕大使は、中東で繰り返される「カラー革命」にも言及し、欧米のグローバリストはプーチンを失脚させるために色々な陰謀を仕掛けていると説明する。確かに、ウクライナの「オレンジ革命」やチュニジアの「ジャスミン革命」、グルジアの「バラ革命」、キルギスタンの「チューリップ革命」などは誰が仕掛けたのか判らない。CIAや英国のMI6、イスラエルのモサドが裏で画策したとも考えられる。ロシア国内の反プーチン運動だって、その資金源を調べれば、欧米の組織にたどり着くこともあるから、表面の騒動だけでは抗議活動の本質は解らない。ただ、「国際金融組織やグローバル勢力と戦うナショナリストのプーチン」という図式だと、プーチンの正体を見誤ることになる。なぜなら、プーチンがどれくらい国民の利益を考えて対抗しているのか、その真意が明らかになっていないからだ。

  第16回の放送で、馬渕大使は「ディープ・ステートがつくったソ連と現在のロシアの違い」というタイトルを掲げ、ソ連時代と現在のロシアは違うと述べていた。大使によれば、「ロシア革命」なるものは、実質的に「ロシア系ユダヤ人による革命」であるという。確かに、ボルシェビキの指導層を見れば、矢鱈とユダヤ人が多いことに気づく。長いこと賤民だったユダヤ人には、迫害者たちへの恨みが深い。彼らは喜んでヨーロッパやロシアの破壊活動に従事するから、左翼活動家には自然とユダヤ人が多くなる。しかも、一般のロシア人は凡庸だから、才能あふれるユダヤ人にはかなわない。これはレーニンも認めている。ということで、共産主義革命を指導する連中にユダヤ人が多くても不思議じゃない。

  しかし、どれほどユダヤ人が革命を扇動し、大量虐殺を命じたからといって、それを実行したのはロシア人尖兵だったから、やはりロシア人には暴力を何とも思わない性質がある。ロシア人に関しては日本人でも意見が分かれており、残酷だと評する者もいれば、「人なつっこい」と感じる者もいる。昔、ロシアの革命を目にした黒田乙吉(大阪毎日新聞記者)によれば、ロシア人は残忍な一面を持っているそうだ。特に彼の注目を惹いたのは、タムボフ県で起きた暴動である。ここでは一千人以上の百姓が一団となって地主の邸宅十五カ所を襲い、殺人、劫掠、放火などを恣(ほしいまま)にしたそうだ。驚くのは、犠牲者になった地主の中に、民衆から生き神の如く崇められていた人物がいたことである。それはともかく、恐怖心に駆られた地主たちは、続々と都会を引き上げたが、運悪く捕まる者もいたそうだ。慈善家として知られた某地主は、百姓や兵卒に捕まり、目玉を抉られ、胸を刺されるというリンチを受けたらしい。

Russian serfs 1Russians 1
(写真 / 貧しい生活を送るロシアの民衆)

  平和な環境で何千年も過ごしてきた日本人には、漆黒の大陸で暮らすロシア人の精神は謎のままである。ロシアの犯罪を調べた倉井五郎は、あるウクライナ人の教授から聞いた話を伝えている。この教授によれば、ロシア人はヨーロッパ人にとってもパラドックスの塊で、極端に相矛盾した行動が絡み合っているという。例えば、ロシア人は時に優しく、相手が寒そうにしていれば、最後のシャツを脱いで与えてしまうこともあるそうだ。しかし、気分が変われば五分後にその相手を殺して、全てを奪ってしまうらしい。くだんのウクライナ人教授は、東歐や南歐のインテリとも議論したことがあるらしく、皆がロシア人の矛盾性を認めたそうだ。例えば、革命家は気高い精神と美しさを持つが、その同じ人物が独裁者や官僚となるや、驚くほどの残酷さを示す。農民も同様に複雑怪奇で、極端な勤勉さと呆れるような怠惰が混ざっている。また、ロシア人には超人的な忍耐と野獣のような無謀さがあるらしい。彼らには真理に対するひたむきな憧憬がある一方で、堂々と嘘をつく性格もあるのだ。

 ロシア文学者で陸軍士官学校の教授を務めていた昇曙夢(のぼり・しょむ / 直隆)も、ロシア人の謎めいた性格を述べていた。ロシア人には粗野と柔和、親切と獣的冷酷が混在していおり、西欧人がとてもロシア人とは一緒になれないと断念するのは、こうした両極端が併存しているからだ。日本人がロシア人を見ていて厭になるのは、その犯罪が桁違いに残酷なところである。ロシア人のやり口は手荒い面があると思えば、豪放でズボラだったり、陰険で巧妙だったりする。筋を通す日本人からすれば、何とも理解しがたい。日本の犯罪者なんかロシア人と比べたら月とスッポンだ。日本人が高級時計や指輪を嵌めているカモを見つけたら、職人技でかすめ取ろうとするが、ロシア人なら鉈(なた)を使って指や手首ごと切り落として盗んでしまうだろう。民族によって発想は違うものである。

  馬渕大使のプーチン評論には、同意できる点と反論したくなる点がある。大使によれば、プーチンの「新しい理念」は人道主義に基づく普遍的価値と、歴史の試練に耐え抜いたロシア的価値の統合にあるそうだ。馬渕大使には悪いけど、プーチンじゃなくとも、ロシアの政治家に人道主義なんて考えは無い。もっとも、人道主義を利用した政治プロパガンダや詐欺的外交ならある。プーチンが口にしたことを鵜呑みにするなんて愚かだ。ロシア人は謀略の天才で、昔、CIA長官だったジェイムズ・アングルトン(James Jesus Angleton)を手玉に取り、米国の諜報機関を麻痺させたことがある。まんまと奸計に引っかかったアングルトンは誰も信じなくなり、疑心暗鬼の権化となってしまった。

  もう一つ、筆者が馬渕大使の見解に賛成できない点がある。それは、ロシア人が国土に対する執着心が強く、集団主義を取りがちな傾向を持つから日本人と似ているという意見だ。土地に対する愛着が強いのは、何もロシア人や日本人に限ったことではなく、ドイツ人やイギリス人、イタリア人、スペイン人だって郷土愛が強い。馬渕大使は西欧人の個人主義を念頭に置いているんだろうが、イギリス人やアメリカ人だって集団主義の利点を解っている。意外にも、上流階級のイギリス人は「チーム・プレイ」を重んじ、危機に際しては徹底した団結を図ることが多い。彼らはパブリック・スクール時代にラグビーやボートの経験を積んでいるから、普段でも以心伝心に通じ、仲間の結束が固いことでも有名だ。

  ロシア人の民族性を語る馬渕大使の思考には大きな缼点(けってん)がある。大使によると、ロシア正教が性善説を取っているので、欧米人よりも日本人に近いというのだ。しかし、これはロシア理解の初歩すら掴んでいないと言えよう。教会内での言動と、外に出た時の行動は別なのだ。なるほど、礼拝に訪れるロシア人は素朴で善良に見える。だが、ロシア人の心には得体の知れない深い闇がある。それに、いつ豹変するかも判らない恐怖感さえあるのだ。また、ロシア人の無政府主義的傾向と専制主義の伝統を考えれば、「善良なロシア人」というイメージはおかしなことになる。

  昔、東京外語大の志水速雄(しみず・はやお)教授がロシア人の性格について述べていた。例えば、一人のロシア人を善良と考え、それを「プラス1」と勘定しよう。ロシアが1億4千万の民衆で構成され、みんなが善人なら、各人の善良性を足して1億4千万の「善」があることになる。しかし、これは現実的ではない。国家を含め人間の組織は、メンバーの足し算ではないからだ。むしろ、掛け算となる。だから、国民の九割がプラスでも、残りの人間がマスナスなら、出来上がる組織全体はマイナスになってしまう。数学だとマイナス掛けるマスナスはプラスになるけど、極左のロシア人と兇悪犯のロシア人を掛けても親切なロシア人にはならない。逆に、典型的なロシア人になったりするから、ロシアというのは日本人の理解を超えている。

  志水教授によれば、ロシア人の素朴さや善良さが無政府主義の原因であり、ロシアの専制政治は無政府状態への「突っかい棒」になっているという。( 志水速雄『日本人はなぜソ連が嫌いか』山手書房、昭和54年、p.255.) 確かに、普段は忍耐強く愚鈍なまでに従順な民衆でも、ある事を切っ掛けに爆発し、手がつけられぬほど暴れ回ってしまうから、ロシアを統治する者は強権を用いなければならない。それに、ロシア人はモンゴル人から熾烈な政治手法を受け継ぎ、ドイツ風の官僚制度を輸入しているから、支配者は物凄い弾圧政治を行っても平気である。ロシアでは貴族と農民は別人種と言ってよい。例えば、ドイツからやって来たエカチェリーナ2世にとったら、ロシアなんか野蛮国でしかなく、庶民などは野獣(けだもの)と違いが無い。

  馬渕大使はロシアの民族性ばかりでなく、対露外政についても幻想を抱いている。大使が二島返還論を支持しているのは、日本がロシアを味方につけ、支那と対峙させるためだという。もし、日本が四島一括返還にこだわれば、ロシアが支那と結びついてしまうというのだ。しかし、これはおかしい。当ブログで以前指摘したが、ロシアと支那は軍事面で連携し、経済交流も盛んである。エネルギーを輸入せねばならぬ支那は、ロシアからの石油やガスを購入しているから、プーチンにとって支那人は得意先になっている。しかも、モスクワが対支那包囲網を構築しようとする動きは無い。馬渕大使は支那人が国境を越えて、続々とロシア領に侵入しているというが、クレムリンは支那移民排斥の方針を取ってるのか? 確かに、支那人による浸透を懸念するロシア人は多い。だが、クレムリンは支那を潰すというより、裏から支えている節がある。なぜなら、「トラブルメイカー」がいた方がアメリカの軍事外政を攪乱できるからだ。合衆国政府の矛先がモスクワに向くより、北京に向けられた方がいいし、米国と支那が喧嘩して共倒れになればもっと良い。たとえ米国が勝っても、何らかの損害を受けるから、ロシアとしては両方を焚きつけた方が得である。

  狡猾なプーチンなら、支那人に困っている振りをして安倍総理に共闘を持ちかけ、そのついでに経済援助をもらって、ロシア社会に使うことを考えるはずだ。どうせ、ロシア人は日本から搾るだけ搾って、食い逃げするつもりなんだから。馬渕大使はロシアが近代化を成し遂げた日本手本にして、スラヴ的伝統と西歐的伝統の統合を図っていると解説する。でも、ロシア人が日本人を本気で見習う事なんてあるのか? どちらかと言えば、お人好しの日本人を騙して経済援助をクスねようと考えるのが普通のロシア人だ。ロシア人が見習うとすれば、日本から多額のODAを引き出した支那人の方だろう。それに、ロシアの経済発展が日本の利益になるとは思えない。日本政府はロシアが経済的に停滞し、軍事予算が減少するようロシアを貧乏にさせるべきだ。

  インターネット番組に出演する馬渕大使には、保守派のファンが多くいるけど、果たして彼らの何割が大使の見解を真剣に考えたことがあるのか? なるほど、グローバリストや国際ユダヤ人に対する馬渕大使の批判は優れていると思うが、ロシアに関する認識は甘いと言わざるを得ない。本来、馬渕大使は外務官僚の誰がロシアに靡いているのか、買収されているかも知れない怪しい人物の言動を炙り出し、一般国民にそっと教えるべきなのに、そこを避けている。だから、「やはり古巣には触れることができないのか」と落胆するファンもいるんじゃないか。日本人はプーチンの思惑より、国内にはびこるロシアの手先に注意すべきである。鈴木宗男や佐藤優なんかは下っ端の協力者だから判りやすい。もし、日本に防諜組織があれば、もっと大物を捕まえることができるだろう。しかし実際は、ロシア専門家に裏切者がいて、政府を操っているんだから、情けないというか哀しくなる。プーチンに送った秋田犬がロシアの秘密を嗅ぎ回ってくれればいいけど、あいにく日本の犬は主人に忠実だから無理だろう。だって、日本の政治家がロシアの忠犬なんだから。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68757454.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/212.html#c9

[近代史3] Re: ブルネイは世界一成功した「共産主義国家」_ 働かなくても、頑張らなくても食べていける世界

ブルネイは世界一成功した「共産主義国家」_ 働かなくても、頑張らなくても食べていける世界

迷走する日本の「働き方改革」への処方箋 2019年2月10日
働かなくても、頑張らなくても食べていける世界
立花 聡(エリス・コンサルティング代表・法学博士)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/15310


 人間の能力差を認めようとしない、人間平等主義に根ざした日本社会は現今の世界において歪んでいるように見える(参照:「同一労働同一賃金」が格差を生むワケ)。能力差といえば、先天的格差といっても通じる。生来頭が良くて勉強のできる子とそうではない子、果たして公平といえるのだろうか。人間だけではない。国もそうである。先天的に資源に恵まれている国とそうではない国は、その後天的な経済発展に至ってどのような影響があるのか。私はこの課題を抱えてブルネイや中東(クウェート、バーレーン、UAEなど)、ノルウェーといった産油国を視察する旅に出た。

1億円もする世界一のシャンデリア

 ブルネイ王国は、周知の通り世界でも有数の富裕国である。妙なことに、世の中の富裕国は極端に天然資源の豊富な国もあれば、極端に天然資源の貧弱な国もある。前者は、ブルネイや中東湾岸・アラブ諸国ないしノルウェー(北海油田)のような、豊富な原油と天然ガスの資源を有している国々である。後者は、シンガポールやスイス、ルクセンブルクのような、ほとんど天然資源を有しておらず、独自の産業育成を中核とする国家戦略の成功によって富を手に入れた資源貧弱国(多くは都市国家に近い小国)である。

 ブルネイ視察(2015年5月)。1億円もする世界一のシャンデリアを一目見たくて、伝説の7ツ星ホテル、エンパイア・ホテル&カントリークラブに投宿する。


1億円もする世界一のシャンデリア(写真:筆者提供) 写真を拡大

 ロビーに一歩踏み入れると、圧巻。金、金、金、大理石、大理石、大理石…、そして紺碧の海を眼下に納める巨大なアトリウム。エンパイアは王宮の迎賓館として2000年のアセアン会議に合わせて建てられた宮殿級のホテル。まさに国力の誇示であり、世界トップクラスの金持ち小国・ブルネイの縮写でもある。


エンパイア・ホテル&カントリークラブ(写真:筆者提供) 写真を拡大

 ホテルはとにかく大きい。日本人から見ればなんでここまで無駄なスペースを設けるのか、というくらいに空間が大きい。廊下もエレベータホールも信じられないほどに広い。誰も座らないのに、あちこち高級そうなソファが配置されている。一般の客室の天井がここまで高いのも初めて見た。それに大きなバルコニー、これも「く」の字になっていてミニパーティーができるほどの広さ。もちろん、海一望。

 三重県と同じ大きさの国土。ブルネイの豊かさを支えているのは石油と天然ガス資源である。働かなくても石油が湧き出る限り、暮らしていける。いや、贅沢に暮らしていけるのだ。まるで代々資産家の豪族資本家とサラリーマンの勤労家庭、資源国と非資源国、生れつきのこの先天的格差。公平といえるのだろうか。気がつくと、内心に芽生える妬みの感情を一生懸命抑えようとする自分がそこにあった。

 資源の乏しい我が日本。資源のために戦争を起こしたといっても過言ではない。もし日本がブルネイのような資源国だったらどうなっていたのだろう。なんてことはありえないし、考える意味もない。

「ブルネイ・ロイヤル資源商事株式会社」

 石油と天然ガス部門がGDPの6割以上、輸出のなんと96%を占める(2013年データ)。医療費、教育費無料。税金なし。国民の8割が公務員。ハサナル・ボルキア国王が首相・国防相・蔵相を兼任し、国王の実弟モハメッド・ボルキア殿下が外務貿易相を務める。一族の絶対王権国家である。

 経済面において分かりやすく表現すれば、「ブルネイ・ロイヤル資源商事株式会社」と言ったほうが分かりやすい。いわゆる資源専門商社である。オーナー兼会長・社長の完全ワンマン企業。取締役会は形上のもの、監査役不在。社員42万人、このうち終身雇用で身分が保障されている年功制正社員は30万人強、残りは派遣社員。社員の医療費と子女教育費は全額会社負担、所得税支払い義務なし(会社負担)。会社理念は、イスラム教。王権神授説に基づくオーナー(国王)への絶対的崇拝と服従は全社員の義務。主業務は石油、天然ガスの採掘と輸出。

 さらに補足すると、「ブルネイ・ロイヤル資源商事株式会社」では、完全年功制のため同年代社員間の所得格差がほとんどない。このため、嫉妬や潰しあいもないという、ゆとりある平和な会社である。

 いかがですか、日本人の皆さん、「ブルネイ・ロイヤル資源商事株式会社」に転職しませんか。


ブルネイの首都バンダルスリブガワン(写真:筆者提供) 写真を拡大

 働かなくても、頑張らなくても食べていける。生涯を保障されている。人間の怠惰本性が是認されるのはブルネイである。全般的に勤労意欲が非常に低いと言わざるを得ない。熾烈な競争を勝ち抜き、生き延びるための意欲や闘志が失われている。いや、その必要もないし、逆にガツガツ働くのが美徳とされていない。働きたい、一旗を挙げようという有志は叩かれるのである。

 現地の人に、ブルネイで起業して大成功したサクセスストーリーはと聞くと、そんなの聞いたことないねと素気ない回答だった。ビジネスで成功したいという少数の異端児はとうに国を出て、シンガポールあたりの実業の世界に身を投じたのである。


人は皆、労働をやめるべきである!

「Tamu Kianggeh」というローカル市場を訪問。アジアの市場といえば、活気溢れる光景をイメージするが、ここブルネイだけは大外れ。

 まだ早い時間帯なのに、8割以上のブース(店)はすでに営業終了。2割ほどが営業中。といってもまったく商売気がない。売り子がただ座ってのんびりしているだけ。客が寄ってきても声をかけようとしない。もちろん、値切れる雰囲気ではない。ガイドに聞くと、「この国は市場でも値切る習慣がありません。買うなら買う。買わなきゃ邪魔するな、という感じですよ」


ブルネイのローカル市場(写真:筆者提供) 写真を拡大

 店は生計を立てるためではない。暇つぶしで商売をしているようなものだ。店を開けてしばらく時間を潰して、「いや、疲れたなあ」「つまらない。もう帰るか」と思ったら店をたたんで帰る。

 勤勉とは何だろう。勤勉は果たして美徳なのか。ここブルネイに来て私は自分の倫理観や勤労観を疑うようになった。ふとボブ・ブラック『労働廃絶論』の一節を思い出す――。

「人は皆、労働をやめるべきである。労働こそが、この世のほとんど全ての不幸の源泉なのである。この世の悪と呼べるものはほとんど全てが、労働、あるいは労働を前提として作られた世界に住むことから発生するのだ。苦しみを終わらせたければ、我々は労働をやめなければならない。(中略)収入や仕事のことなどすっかり忘れて、まったく無精と怠惰になる時間を、誰もが今よりもっと必要としていることはまちがいない」(引用:『労働廃絶論―ボブ・ブラック小論集』アナキズム叢書)

 労働信仰や勤勉信仰をもつ人間にとって本質的に異なる価値体系である。そもそも、人間の本能的な部分は怠惰なのだ。いや、そういう表現はよくない。「自然体信仰」とでも呼ぼう。

ブルネイは世界一成功した「共産主義国家」

 ある意味で、ブルネイは世界一成功した「共産主義国家」だ。共産主義とは、財産の共同所有で社会の平等を目指す制度だ。素晴らしい理念だが、最大の問題は2つ。「過程自律依存性」と「結果自律依存性」と、私が勝手に名付けてみた。

 まずは、過程自律依存性。富を創出し、築いていく過程に一人ひとりの共同体構成員が自律的に努力し全力を挙げて頑張るかどうかの問題。私有財産の消滅や規制、分配の均等性などの要素によって、頑張っても頑張らなくても結果が同じだということになると、頑張る意味を見出せなくなり、動機付けと努力の自律性が失われる。

 次に、結果自律依存性。財産の共同所有と分配を司る特権階級(支配者階級)が自律的に、過度な私利私欲を持たずに平等・公正に富の分配を行うことができるかどうかという問題。資本主義のような監督・抑制機能(他律)がなく、完全な自律に頼らざるを得ない。富の総量が少なければ少ないほど特権階級の貪欲さが目立ち、国民の貧困が進む。北朝鮮はその好例だ。

 ブルネイの最大の特徴は、その富が、労働の質と量への依存性が非常に低いことだ。来る日も来る日も石油や天然ガスが湧いてくる(採掘という労働は必要だが)。黙っても買ってくれる客が世界中にいるから、汗水たらして頭を下げて営業する必要もない。すると、富の形成の過程自律依存性問題はおのずと解決される。これについては、今日のブルネイで目撃された国民の平均勤労意欲の低下・萎縮現象によって裏付けられている。

 さて、結果自律依存性の問題はどうであろう。ブルネイの特権階級(支配者階級)といえば、ハサナル・ボルキア国王とその一族である。国王自身がスルタンというイスラム教の絶対的地位をもっている。この権威は神によって付与され、揺るぎないものとされている。

 つまり、権威性は神聖性に起源する「王権神授説」がその根拠となっている。ならば、イスラム教への絶対的信仰が王権の存続を担保する基盤であり、ブルネイという国家を完全なるイスラム教国家にする必要があることは自明の理だ。現にブルネイは世界でも有数の敬虔なイスラム教信仰国である。

http://wedge.ismedia.jp/articles/-/15310
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/289.html

[リバイバル3] 優良株の長期投資以外はすべてギャンブル 中川隆
6. 中川隆[-11529] koaQ7Jey 2019年3月11日 13:32:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[466]

2019年03月11日
起業後に長続きするのは小さい事業


店や仕入れや従業員に多額の運営費が必要なら、その事業を続けるのは難しいでしょう


見栄えがする大きな事業は継続が難しい

個人が起業したり独立する場合、最初はかならず流行の最先端の業種に目が行くと思います。

英語とがカタカナ職業で、ITとSEとかWEBデザイナーとかフィナンシャルプランナーなどです。

だが最先端職業ほど陳腐化するのも早い傾向もあり、そうした職業が長続きするとも思えません。




システムエンジニアとかITエンジニアなどの職業がこの先何年続けられるのか、やっている当人も疑問に感じると思います。

独立して会社を興して、社員多数を抱える大企業になるのは夢ですが、そうした成功例はほとんどありません。

個人事業主にしろ会社設立にしろ最初の1年で半数が廃業し、10年後に事業を続けているのは数%に過ぎません。


20年後に残っているのは1%に満たず、続けていたとしても個人経営か小さな事業所が大半です。

一人で個人事業を数十年続けたり、小さな事業所が最先端分野で高い技術を維持するのはほとんど不可能でしょう。

小さな事業を長く続けるには最先端を避けて、むしろ古いビジネスモデルを有効に生かした方が良い。

起業するなら小さい事業が良い

自分の周りで長く続いている事業やお店を見ると、古くからある業種で身の丈に合った経営をしていると思います。

地域に根差した飲食店とか不動産屋とか、その地域の人たちに必要とされている業種が結局は長続きします。

長続きする小規模事業は一人でできるものが多く、他人を雇わないとできない事業はどこかで躓きます。


事業がうまくいかない時期は必ずあるので、最悪の場合は自分一人で自宅ででもできれば低コストでできる。

土地や建物を借りて何人もの人を雇い、仕入れに多額の資金が必要では、その事業は継続困難になります。

元手や事業資金が必要ないなら、たとえ失敗しても事業を畳むだけで借金は残りません。


一人でなんでも屋をやったほうが、多額の借金をして店を構えるより長続きしやすいのです。

最近は起業する人の多くがネット起業で、いわゆるフリーランスとして個人事業主になる人が多い。

共同経営や銀行などから融資を受ける事業は一見壮大で見栄えがし、他人は褒めてくれるので気分が良い。


だが褒めてくれた人たちは失敗すると離れていき、後の面倒を見てはくれません。
http://www.thutmosev.com/archives/79245768.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/907.html#c6

[リバイバル3] ロッテアライリゾート 中川隆
12. 中川隆[-11528] koaQ7Jey 2019年3月11日 16:34:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[467]

スキー場積雪ランキング 2019年3月11日
https://weather.goo.ne.jp/ski/ranking/.


1ロッテアライリゾート

新潟 積雪量 456cm
.

2シャルマン火打

新潟 積雪量 380cm
.

3夏油高原

岩手 積雪量 350cm
.

4かぐら

新潟 積雪量 320cm
.

5谷川岳天神平

群馬 積雪量 320cm
.

6ニセコマウンテンリゾート グラン・ヒラフ

道央 積雪量 315cm
.

7キューピットバレイ

新潟 積雪量 305cm
.

8八甲田

青森 積雪量 300cm
.

9ニセコビレッジスキーリゾート

道央 積雪量 300cm
.

10野沢温泉(やまびこゲレンデ)

長野 積雪量 290cm
.

11赤倉観光リゾート

新潟 積雪量 290cm
.

12GALA湯沢

新潟 積雪量 280cm
.

13赤倉温泉

新潟 積雪量 280cm
.

14HAKUBA VALLEY 栂池高原

長野 積雪量 275cm
.

15妙高スキーパーク

新潟 積雪量 260cm
.

16六日町八海山

新潟 積雪量 260cm
.

17天元台高原

山形 積雪量 260cm
.

18キロロスノーワールド

道央 積雪量 260cm
.

19丸沼高原

群馬 積雪量 255cm
.

20HAKUBA VALLEY エイブル白馬五竜

長野 積雪量 250cm
.

21HAKUBA VALLEY 白馬八方尾根

長野 積雪量 250cm
.

22斑尾高原

長野 積雪量 250cm
.

23舞子スノーリゾート

新潟 積雪量 250cm
.

24湯殿山

山形 積雪量 250cm
.

25森吉山阿仁

秋田 積雪量 250cm
.

26ニセコアンヌプリ国際

道央 積雪量 250cm
.

27HAKUBA VALLEY Hakuba47ウィンタースポーツパーク

長野 積雪量 245cm
.

28HAKUBA VALLEY 白馬コルチナ

長野 積雪量 240cm
.

29野沢温泉

長野 積雪量 240cm
.

30サッポロテイネ

道央 積雪量 240cm
.

31湯沢高原

新潟 積雪量 230cm
.

32川場

群馬 積雪量 230cm
.

33たんばらスキーパーク

群馬 積雪量 230cm
.

34夕張リゾート マウントレースイ

道央 積雪量 230cm
.

35札幌国際

道央 積雪量 230cm
.

36志賀高原中央エリア 寺小屋

長野 積雪量 220cm
.

37竜王スキーパーク

長野 積雪量 215cm
.

38神立高原

新潟 積雪量 215cm
.

39志賀高原 焼額山

長野 積雪量 210cm
.

40戸狩温泉

長野 積雪量 210cm
.

41松之山温泉

新潟 積雪量 210cm
.

42ニュー・グリーンピア津南

新潟 積雪量 210cm
.

43上越国際

新潟 積雪量 210cm
.

44安比高原

岩手 積雪量 210cm
.

45志賀高原中央エリア 高天ヶ原マンモス

長野 積雪量 205cm
.

46志賀高原中央エリア タンネの森 オコジョ

長野 積雪量 205cm
.

47志賀高原中央エリア 一の瀬ファミリー

長野 積雪量 205cm
.

48志賀高原中央エリア 一の瀬山の神

長野 積雪量 205cm
.

49志賀高原中央エリア 一の瀬ダイヤモンド

長野 積雪量 205cm
.

50志賀高原中央エリア 東館山

長野 積雪量 200cm
.

51奥志賀高原

長野 積雪量 200cm
.

52石打丸山

新潟 積雪量 200cm
.

53ホワイトワールド尾瀬岩鞍

群馬 積雪量 200cm
.

54グランデコスノーリゾート

福島 積雪量 200cm
.

55志賀高原 横手山・渋峠

長野 積雪量 195cm
.

56富良野

道北 積雪量 193cm
.

57志賀高原 熊の湯

長野 積雪量 190cm
.

58志賀高原中央エリア 西館山

長野 積雪量 190cm
.

59スノーパーク尾瀬戸倉

群馬 積雪量 190cm
.

60志賀高原中央エリア 発哺ブナ平

長野 積雪量 180cm
.

61黒姫高原スノーパーク

長野 積雪量 180cm
.

62志賀高原中央エリア ジャイアント

長野 積雪量 180cm
.

63立山山麓(極楽坂・らいちょうバレー)

富山 積雪量 180cm
.

64NASPAスキーガーデン

新潟 積雪量 180cm
.

65シャトー塩沢

新潟 積雪量 180cm
.

66宝台樹

群馬 積雪量 180cm
.

67片品オグナほたか

群馬 積雪量 180cm
.

68万座温泉

群馬 積雪量 180cm
.

69カムイスキーリンクス

道央 積雪量 180cm
.

70さかえ倶楽部

長野 積雪量 170cm
.

71池の平温泉

新潟 積雪量 170cm
.

72苗場

新潟 積雪量 170cm
.

73岩原

新潟 積雪量 165cm
.

74一本杉

新潟 積雪量 165cm
.

75北志賀小丸山

長野 積雪量 160cm
.

76タングラムスキーサーカス

長野 積雪量 160cm
.

77HAKUBA VALLEY 鹿島槍スキー場(鹿島槍スポーツヴィレッジ)

長野 積雪量 160cm
.

78妙高杉ノ原

新潟 積雪量 160cm
.

79湯沢パーク

新潟 積雪量 160cm
.

80パルコール嬬恋スキーリゾート

群馬 積雪量 160cm
.

81鹿沢スノーエリア

群馬 積雪量 160cm
.

82星野リゾート 猫魔

福島 積雪量 160cm
.

83ムイカスノーリゾート(旧六日町スキーリゾート)

新潟 積雪量 155cm
.

84湯沢中里スノーリゾート

新潟 積雪量 155cm
.

85岩手高原スノーパーク

岩手 積雪量 155cm
.

86おんたけ2240

長野 積雪量 150cm
.

87湯の丸

長野 積雪量 150cm
.

88ブランシュたかやまスキーリゾート

長野 積雪量 150cm
.

89HAKUBA VALLEY 白馬岩岳スノーフィールド

長野 積雪量 150cm
.

90志賀高原中央エリア サンバレー

長野 積雪量 150cm
.

91十日町市松代ファミリー

新潟 積雪量 150cm
.

92水上高原スキーリゾート

群馬 積雪量 150cm
.

93水上高原藤原

群馬 積雪量 150cm
.

94山形蔵王温泉(ユートピアゲレンデ)

山形 積雪量 150cm
.

95山形蔵王温泉(中央ゲレンデ)

山形 積雪量 150cm
.

96たざわ湖

秋田 積雪量 150cm
.

97雫石

岩手 積雪量 150cm
.

98ニノックススノーパーク

新潟 積雪量 145cm
.

99高鷲スノーパーク

岐阜 積雪量 140cm
.

100開田高原マイア

長野 積雪量 140cm


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/935.html#c12

[リバイバル3] スキー場の選択は雪質だけで決めよう 中川隆
164. 中川隆[-11527] koaQ7Jey 2019年3月11日 16:34:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[468]

スキー場積雪ランキング 2019年3月11日
https://weather.goo.ne.jp/ski/ranking/.


1ロッテアライリゾート

新潟 積雪量 456cm
.

2シャルマン火打

新潟 積雪量 380cm
.

3夏油高原

岩手 積雪量 350cm
.

4かぐら

新潟 積雪量 320cm
.

5谷川岳天神平

群馬 積雪量 320cm
.

6ニセコマウンテンリゾート グラン・ヒラフ

道央 積雪量 315cm
.

7キューピットバレイ

新潟 積雪量 305cm
.

8八甲田

青森 積雪量 300cm
.

9ニセコビレッジスキーリゾート

道央 積雪量 300cm
.

10野沢温泉(やまびこゲレンデ)

長野 積雪量 290cm
.

11赤倉観光リゾート

新潟 積雪量 290cm
.

12GALA湯沢

新潟 積雪量 280cm
.

13赤倉温泉

新潟 積雪量 280cm
.

14HAKUBA VALLEY 栂池高原

長野 積雪量 275cm
.

15妙高スキーパーク

新潟 積雪量 260cm
.

16六日町八海山

新潟 積雪量 260cm
.

17天元台高原

山形 積雪量 260cm
.

18キロロスノーワールド

道央 積雪量 260cm
.

19丸沼高原

群馬 積雪量 255cm
.

20HAKUBA VALLEY エイブル白馬五竜

長野 積雪量 250cm
.

21HAKUBA VALLEY 白馬八方尾根

長野 積雪量 250cm
.

22斑尾高原

長野 積雪量 250cm
.

23舞子スノーリゾート

新潟 積雪量 250cm
.

24湯殿山

山形 積雪量 250cm
.

25森吉山阿仁

秋田 積雪量 250cm
.

26ニセコアンヌプリ国際

道央 積雪量 250cm
.

27HAKUBA VALLEY Hakuba47ウィンタースポーツパーク

長野 積雪量 245cm
.

28HAKUBA VALLEY 白馬コルチナ

長野 積雪量 240cm
.

29野沢温泉

長野 積雪量 240cm
.

30サッポロテイネ

道央 積雪量 240cm
.

31湯沢高原

新潟 積雪量 230cm
.

32川場

群馬 積雪量 230cm
.

33たんばらスキーパーク

群馬 積雪量 230cm
.

34夕張リゾート マウントレースイ

道央 積雪量 230cm
.

35札幌国際

道央 積雪量 230cm
.

36志賀高原中央エリア 寺小屋

長野 積雪量 220cm
.

37竜王スキーパーク

長野 積雪量 215cm
.

38神立高原

新潟 積雪量 215cm
.

39志賀高原 焼額山

長野 積雪量 210cm
.

40戸狩温泉

長野 積雪量 210cm
.

41松之山温泉

新潟 積雪量 210cm
.

42ニュー・グリーンピア津南

新潟 積雪量 210cm
.

43上越国際

新潟 積雪量 210cm
.

44安比高原

岩手 積雪量 210cm
.

45志賀高原中央エリア 高天ヶ原マンモス

長野 積雪量 205cm
.

46志賀高原中央エリア タンネの森 オコジョ

長野 積雪量 205cm
.

47志賀高原中央エリア 一の瀬ファミリー

長野 積雪量 205cm
.

48志賀高原中央エリア 一の瀬山の神

長野 積雪量 205cm
.

49志賀高原中央エリア 一の瀬ダイヤモンド

長野 積雪量 205cm
.

50志賀高原中央エリア 東館山

長野 積雪量 200cm
.

51奥志賀高原

長野 積雪量 200cm
.

52石打丸山

新潟 積雪量 200cm
.

53ホワイトワールド尾瀬岩鞍

群馬 積雪量 200cm
.

54グランデコスノーリゾート

福島 積雪量 200cm
.

55志賀高原 横手山・渋峠

長野 積雪量 195cm
.

56富良野

道北 積雪量 193cm
.

57志賀高原 熊の湯

長野 積雪量 190cm
.

58志賀高原中央エリア 西館山

長野 積雪量 190cm
.

59スノーパーク尾瀬戸倉

群馬 積雪量 190cm
.

60志賀高原中央エリア 発哺ブナ平

長野 積雪量 180cm
.

61黒姫高原スノーパーク

長野 積雪量 180cm
.

62志賀高原中央エリア ジャイアント

長野 積雪量 180cm
.

63立山山麓(極楽坂・らいちょうバレー)

富山 積雪量 180cm
.

64NASPAスキーガーデン

新潟 積雪量 180cm
.

65シャトー塩沢

新潟 積雪量 180cm
.

66宝台樹

群馬 積雪量 180cm
.

67片品オグナほたか

群馬 積雪量 180cm
.

68万座温泉

群馬 積雪量 180cm
.

69カムイスキーリンクス

道央 積雪量 180cm
.

70さかえ倶楽部

長野 積雪量 170cm
.

71池の平温泉

新潟 積雪量 170cm
.

72苗場

新潟 積雪量 170cm
.

73岩原

新潟 積雪量 165cm
.

74一本杉

新潟 積雪量 165cm
.

75北志賀小丸山

長野 積雪量 160cm
.

76タングラムスキーサーカス

長野 積雪量 160cm
.

77HAKUBA VALLEY 鹿島槍スキー場(鹿島槍スポーツヴィレッジ)

長野 積雪量 160cm
.

78妙高杉ノ原

新潟 積雪量 160cm
.

79湯沢パーク

新潟 積雪量 160cm
.

80パルコール嬬恋スキーリゾート

群馬 積雪量 160cm
.

81鹿沢スノーエリア

群馬 積雪量 160cm
.

82星野リゾート 猫魔

福島 積雪量 160cm
.

83ムイカスノーリゾート(旧六日町スキーリゾート)

新潟 積雪量 155cm
.

84湯沢中里スノーリゾート

新潟 積雪量 155cm
.

85岩手高原スノーパーク

岩手 積雪量 155cm
.

86おんたけ2240

長野 積雪量 150cm
.

87湯の丸

長野 積雪量 150cm
.

88ブランシュたかやまスキーリゾート

長野 積雪量 150cm
.

89HAKUBA VALLEY 白馬岩岳スノーフィールド

長野 積雪量 150cm
.

90志賀高原中央エリア サンバレー

長野 積雪量 150cm
.

91十日町市松代ファミリー

新潟 積雪量 150cm
.

92水上高原スキーリゾート

群馬 積雪量 150cm
.

93水上高原藤原

群馬 積雪量 150cm
.

94山形蔵王温泉(ユートピアゲレンデ)

山形 積雪量 150cm
.

95山形蔵王温泉(中央ゲレンデ)

山形 積雪量 150cm
.

96たざわ湖

秋田 積雪量 150cm
.

97雫石

岩手 積雪量 150cm
.

98ニノックススノーパーク

新潟 積雪量 145cm
.

99高鷲スノーパーク

岐阜 積雪量 140cm
.

100開田高原マイア

長野 積雪量 140cm


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/782.html#c164

[近代史3] 日本円と日本の物価は異常に安過ぎる _ 1ドル=50円 が適正価格 中川隆
4. 中川隆[-11526] koaQ7Jey 2019年3月11日 17:37:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[469]

2019年03月11日
アメリカの住宅事情 広い土地に一戸建ては幻想?

NYなどでは収入の半分が家賃で消える人が多い

画像引用:https://www.sekai1.co.jp/media/7/ny5.jpg


ハワイの住宅事情

アメリカの住宅と言えばアメリカドラマや映画に登場する、広大な敷地に数百坪の庭がある風景を想像する。

そういう場所もあるものの、都市化が進んだ地方では一戸建てに住むのが難しくなっている。

日本人に人気のハワイは全米有数で不動産価格が高く、ホノルル市の平均家賃はなんと約25万円です。(2017年)




1ベッドルーム約20万円弱、2ベッドルーム約30万円弱のようになっていて1ベッドルームはワンルームにリビングがついた程度の広さです。

日本でいう1DKか1LDKに相当するものが20万弱なので、東京23区の人気物件ならあり得なくもない。

ホノルル市内で家族数人で子供部屋を持つには家賃40万円ほども必要になっています。


もっとずっと安い(とは思わないが)家賃約11万円(1000ドル)はホノルル市内の賃貸情報では存在しないそうです。(ドヤ的なものはあるかも知れない)

ホノルル市内で一戸建てを買おうとすると単位は億(円)になるので、ホノルルは富裕層だけの都市になっています。

独身者は一人で部屋を借りるのは不可能なので、数人でシェアするのが当たり前になっています。


でも1ベッドに2人で住んでも月10万、2ベッドに4人で住んで月8万弱でタコ部屋生活になります。

ハワイの賃貸価格は全米11位くらいなので、もっと高い都市が他に10くらい存在しています。

人気都市では年収の半分が家賃

西海岸の都市は日本では理想郷のように語られているが、家賃は年々上昇する一方です。

サンフランシスコでは約14坪の老朽住宅が今年、約7000万円で取引されたと報道されている。

SF市中心部の平均売買価格は約9000万円で、賃貸価格はニューヨークを抜き全米一に高騰しました。


ワンベッドルームの平均家賃は月3334ドル(約37万円)で、ニューヨークの2956ドル(約33万円)を上回っています。

ちなみに賃貸情報のスーモによると、東京でもっとも家賃が高い港区の1K/1DKで9.6万円なので3倍から4倍です。

これら高家賃都市では収入の50%を家賃に払っている人も多く、1Rに一人で住んだらもっとかかるでしょう。


仮に家賃25万円の部屋を2人でシェアしても、総支給30万で納税後24万円なら収入の半分が家賃に消えます。

理想的な住居費支出は年収の3割以内とされるが、アメリカ主要都市では望むべくもない。

こうした都市は就職に有利で高収入都市でもあるので、家賃の安い都市では収入も低い傾向がある。


アメリカの田舎にはインターネット高速回線がない地域が全体の1割(人口比率)もあり、そうした地域は住居費が安いが収入を得るのが難しい。

各国主要都市の住宅価格÷年収比率では、世界一は香港で年収の20倍、アメリカの平均は3.8でまだ低い。

日本は4.2でイギリスの4.5やカナダの4.3とほぼ同じで、およそ先進国の平均にも近い。


東京都心部はサラリーマン年収の10倍近くあり、アメリカの人気都市は10倍を超えている。

住宅価格が平均年収の10倍を超えると年収の半分が家賃に消えるようになり、普通の人がそこに住めなくなります。

アメリカは広いので田舎では住居費が非常に安い場所もあり、平均としては低くなる。
http://www.thutmosev.com/archives/79250987.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/189.html#c4

[リバイバル3] かぐらスキー場 (かぐら・三俣・田代スキー場) 中川隆
115. 中川隆[-11525] koaQ7Jey 2019年3月11日 20:11:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[470]

雪日記 【18-19シーズン 113日目】 天候:晴れ
3/9(土) かぐらスキー場でスキー。
http://golgo13zilch.jp/blog-entry-3538.html

神楽魂の方からお聞きしました。
中尾根南斜面で大規模な雪崩が発生したとの事。
みつまたからもハッキリ確認できました。

常々注意喚起されていた例の場所です。
怪我人が出たという話は無かったので一安心ですが、
本日のような混雑でトラバースラインに人がいたらと思うと…。
1本木の横は滑ってはダメ、絶対に!
真下のトラバースも危険地帯です。
http://golgo13zilch.jp/blog-entry-3538.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/779.html#c115

[近代史3] 日本人は「狂ったアメリカ」を知らなすぎる 中川隆
25. 中川隆[-11524] koaQ7Jey 2019年3月12日 07:08:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[471]
2019.03.12
御仕着せの取材で書いた記事は権力者のプロパガンダにすぎない

 フアン・グアイドなる人物をベネズエラの暫定大統領に任命したのは事実上、アメリカ政府。ウゴ・チャベスが大統領選挙に勝利した1998年からアメリカ支配層は政権転覆を目論んできたが、グアイドの件もその延長線上にある。

 そのアメリカに従属している国、例えばオーストラリアやカナダのアングロ・サクソン国、日本、EU、ラテン・アメリカの属国、つまりアルゼンチン、ブラジル、チリ、コロンビア、コスタ・リカ、グアテマラ、ホンジュラス、パナマ、パラグアイ、ペルーなどの政府もグアイドを支持している。

 それに対し、ロシア、ベラルーシ、中国、トルコ、イラン、シリア、ラテン・アメリカではボリビア、キューバ、ニカラグア、エル・サルバドルなどは法律に則って大統領に就任したニコラス・マドゥロを支持している。選挙はアメリカなどよりはるかに公正なものだった。

 選挙で選ばれたわけでないグアイドを暫定大統領と表現すること自体、アメリカのクーデターに組していると言われても仕方がない。

 アメリカの支配層は目障りな政権や体制を転覆させる際、似た手口を使う。まずエリート層の買収、それがだめなら恫喝。さらに進んで暗殺やクーデター、状況によっては軍事侵攻だ。クーデターの前にはメディアや広告会社を使ってプロパガンダを展開、配下のゴロツキや労働組合、最近ではNGOを使って抗議活動を展開、それと並行して経済戦争を仕掛ける。

 鉱物資源を輸出している国を潰すために相場を暴落させることは昔から行われてきた。さらに活必需品が手に入らないようにしたり、逆に主要輸出品を売れないよう各国に圧力を加える。銀行や金融関係の国際機関は融資を止めたり、厳しい取り立てを始める。やることは犯罪組織と同じ。

 ベネズエラの主要輸出品は石油だが、2014年半ばから原油相場が暴落して経済状況は悪化する。9月11日にアメリカの国務長官だったジョン・ケリーとサウジアラビアのアブドラ国王と紅海の近くで会談しているが、その会談でも相場引き下げについて話し合われたと言われている。

 相場を暴落させる最大の目的はロシア経済を破綻させることにあったと推測されている。これは失敗に終わったものの、ベネズエラは大きなダメージを受けている。さらに経済戦争、要するに兵糧攻めにあって苦しくなったのは事実。

 アメリカ側でベネズエアラ攻撃を指揮しているのは殺戮と破壊を繰り返してきたエリオット・エイブラムズだが、そのグループのシナリオでは物資不足で社会が不安定化、ニコラス・マドゥロ政権に対する不満が爆発することになっていたのだろう。ところがロシア、中国、イラン、キューバなどからの人道的支援でそうした展開にはならず、店には商品が並んでいる。

 有力メディアの記者は予定稿通りに書いたのだが、それが事実と違うということかもしれない。予定稿があるとすると、それはアメリカ支配層のプランに基づいている。事前の調査が不十分で現地に情報網を持っていない場合、御仕着せの取材でそのプランを書くように仕向けられるだろう。現地へ行けば事実が見えるというものではない。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201903120000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/175.html#c25

[近代史3] 日本人は「狂ったアメリカ」を知らなすぎる 中川隆
26. 中川隆[-11523] koaQ7Jey 2019年3月12日 07:15:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[472]
2019.03.10
ウィキリークス弾圧に手を貸すことを拒否したマニングを米当局が再収監

 イラクを先制攻撃したアメリカ軍の実態を明らかにしたブラドレー・マニング(現在はチェルシー・マニングと名乗っている)特技兵が3月8日に再び収監された。アメリカの司法システムはウィキリークスに対する弾圧を正当化する証言をマニングにさせようとしたのだろうが、証言を拒否したからだ。

 2016年のアメリカ大統領選挙でドナルド・トランプ陣営の選挙対策本部長を務めたポール・マナフォートのケースでも言えるが、アメリカ支配層は司法取引などを利用して自分たちに都合の良い証言をさせようとする。往々にして偽証の強要だ。その手口がマナフォートやマニングの場合、成功しなかった。

 ウィキリークスの顔的な存在で、ロンドンにあるエクアドル大使館から外へ出られない状態にある​ジュリアン・アッサンジをアメリカの当局は2011年、秘密裏に起訴している​が、それに絡む証言をさせたかったのだろう。

 マニングが提供した情報をウィキリークスは公表するが、中でも衝撃的だったものは、​2007年7月にバグダッドでロイターの特派員2名を含む非武装の十数名をアメリカ軍のヘリコプターから銃撃、射殺する様子を撮影した映像​。2010年4月に公開された。

 スウェーデン検察は2010年11月、幹部の判断でアッサンジに逮捕令状を出した。レイプ容疑だが、嫌疑なしということで2017年に捜査は中止され、逮捕令状は取り消されている。それにもかかわらずアッサンジの軟禁状態が続いているのはアメリカ支配層の意向があるからだ。

 嘘の上に嘘を重ねて自由と民主主義の国という幻影を見せてきたが、事実はその幻影を消し去ってしまう。事実を封じ込めようと彼らは必死だ。

 2011年春にリビアとシリアへジハード傭兵を使って体制転覆作戦を始動、14年2月にウクライナでネオ・ナチを使ったクーデターを成功させ、いまはベネズエラの再植民地化に力を入れている。いずれも侵略を正当化するために嘘を拡散させているが、事実を明らかにする人びとが立ちはだかっている。

 嘘を広める役割を果たしているのは広告会社と有力メディア。最近は嘘から真実味が急速に失われ、厚顔無恥な人間でなければ騙されたふりをすることもできないだろう。大東亜共栄圏を宣伝していた記者たちを笑うことはできない。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201903090000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/175.html#c26

[近代史02] タイは天国に二番目に近い国 3 _ 鴨ネギにされる日本人 中川隆
65. 中川隆[-11522] koaQ7Jey 2019年3月12日 07:28:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[473]

◆異国で結婚生活を長く送るには「4つの許容」がないとやっていけない?2019.03.12

東南アジアの女性と日本人を国際結婚させる会員制の「結婚紹介所」が日本にはいくつかある。女性の出身は、タイ、カンボジア、ベトナム、フィリピンと多岐に渡っている。怪しいところもあるのだが、しっかりしたところもある。

こうした結婚紹介所を利用して結婚する日本人男性に、紹介所のスタッフが必ず説明することがある。それは、「女性が毎月親に仕送りするのを許容し、仕送り金を出してあげて下さい」というものである。

仮にタイ女性と結婚するのであれば、仕送り金の相場は1万バーツほどである。

1万バーツと言えば約3万5000円ほどだが、もし「毎月、女性が親に1万バーツを仕送りする」という条件が飲めないというのであれば、結婚紹介所はその人物を女性に紹介しない。

東南アジアの女性と結婚するというのは、「女性の親に仕送りする」という条件が飲めないとならないのである。

東南アジアの女性たちは、子供は親に仕送りして育ててくれた恩義に報いるのは当然のことと考えている。東南アジアの売春地帯でも多くの女性は、親に仕送りをするために身体を売っている。
https://blackasia.net/?p=11909
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/379.html#c65

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
22. 中川隆[-11521] koaQ7Jey 2019年3月12日 10:03:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[474]

標記映画の動画リンク追加


若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) 動画
https://www.youtube.com/watch?v=q_uMjzQAwnM
https://www.youtube.com/watch?v=cicGFPx-4GE


____

連合赤軍あさま山荘事件 完全版 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=_7538Mapqd8

https://www.youtube.com/watch?v=JbXHqyyCvRY
https://www.youtube.com/watch?v=UgCwy_WQP60
https://www.youtube.com/watch?v=6dy2fbMgILE

▲△▽▼


しかし、昔の学生やインテリは随分 IQ が低かったみたいですね。

当時の日本は一億総中流で、マルクス主義の前提になる階級自体が存在しなかったので、いくら社会不安を起こしても階級闘争や革命なんか起きる筈がなかったのですけどね。


まあ、今の学生やインテリが賢くなったというのでなく

今だけ、金だけ、自分だけ

という価値観に変わっただけなのですが。


世界の国で中間層が部厚かったのは平成バブル崩壊までの日本だけです
そしてそれは、終戦直後に GHQ が農地改革、意図的なインフレと預金封鎖、極端な累進課税で人為的に所得再分配をやった結果なのです。

日本共産党や労働組合を創設させたのも GHQ なのですね。

平成バブル崩壊までの日本が世界で最も成功した社会主義国だと言われていたのは
すべて GHQ の共産化政策の結果なのです。

20年前まで大学関係者や学生が左翼とマルクス主義者ばかりだったのも GHQ の教育方針の結果でしょう。
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c22

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
23. 中川隆[-11520] koaQ7Jey 2019年3月12日 12:53:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[475]

<再現>連合赤軍 山岳ベース事件  - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%EF%BC%9C%E5%86%8D%E7%8F%BE%EF%BC%9E%E9%80%A3%E5%90%88%E8%B5%A4%E8%BB%8D+%E5%B1%B1%E5%B2%B3%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E4%BA%8B%E4%BB%B6&sp=mAEB


2018/01/22 に公開
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c23

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
24. 中川隆[-11519] koaQ7Jey 2019年3月12日 15:01:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[476]

銃撃と粛清の神話 1972年連合赤軍あさま山荘事件 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E9%8A%83%E6%92%83%E3%81%A8%E7%B2%9B%E6%B8%85%E3%81%AE%E7%A5%9E%E8%A9%B1+1972%E5%B9%B4%E9%80%A3%E5%90%88%E8%B5%A4%E8%BB%8D%E3%81%82%E3%81%95%E3%81%BE%E5%B1%B1%E8%8D%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c24
[リバイバル3] 「住宅は資産」という幻想で誰があなたをカモにするのか? 中川隆
235. 中川隆[-11518] koaQ7Jey 2019年3月12日 16:21:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[477]
マンションの「安すぎる手付金」が招く悲劇
https://diamond.jp/articles/-/196344
2019.3.12 後藤一仁 ダイヤモンド・オンライン


「もうマンションを買ってもいいかな。でも損はしたくないし、ローンも怖い」。
そんなあなたが買うべきは、「60m²前後」×「駅徒歩7分以内」×「2001年以降完成」のマンションしかありません。

本連載の書き手は、「不動産ひと筋30年! 12000人と面談し、成約件数は6000件以上」という圧倒的なキャリアを持つ後藤一仁氏。不動産仲介会社の“現役”社長です。「不動産を通じて、1人でも多くの人に幸せになってほしい」という願いが込められた『マンションを買うなら60m²にしなさい』の著者でもあります。「損をしない、戦略的なマンション選び」を語ってもらいます。

手付金は安易に「安く」してはいけません!

 手付金は、売買契約締結時に買主が売主にいったん預けて、後日、売買代金を支払う際に売主から買主へ返還するものです。

 しかし実際には、預かっている手付金をいちいち返還するのは面倒なので、売買契約書に「手付金は、残代金支払いのときに売買代金の一部として充当する」としていることが多いです。

 実際のお金の流れは、売買契約時に代金の一部として手付金を支払い、物件の引き渡しを受けるときに、物件価格から手付金を差し引いた残りの金額を払うイメージです。

 マンション購入時、物件代金の他にさらに別途「手付金」を用意しなければならないと勘違いしている人がいますが、そのようなことはありません。

 手付金は、厳密には3種類あります。

(1)解約手付
 買主は支払い済の手付金を放棄することで、また売主は手付金を買主に倍にして返すことで売買契約を解除することができる

(2)違約手付
 買主と売主のいずれかに契約違反(債務不履行)があった場合の「違約金」

(3)証約手付
 買主が売主に対象不動産を購入する意思があることを示す

 日本の不動産売買契約(実際の取引)では、解約手付として授受することが多いです。

手付金の額は少なければ少ないほど有利なのか?

 まれに手付金の額をかなり低くして、購入申込をする人がいます。しかし、手付金の額をむやみに低く申し出るとマイナスになることがありますので注意しましょう。手付金は、中古マンションのように個人と個人の一般的な売買の場合、売買代金の5〜10%が目安として適切で、高すぎても低すぎてもあまりよくありません。

 例えば、物件価格が4000万円なら、5%で200万円です。解約手付の場合、200万円の手付金を支払って、買主から「やっぱりキャンセルします」という場合、その200万円を放棄しなければなりません。

 売主からキャンセルする場合は、預かっている200万円を返却し、かつ買主に追加で、もう200万円を支払わなければなりません。

 しかし、もし手付金が30万円だったらどうでしょうか?

 買主はマンションの売買契約が終わった後にも、「もっといい物件が出るのではないか」と物件探しを継続して、もし物件が出たら、そちらの物件価格から30万円値引きしてもらい、最初のマンションをキャンセルしてしまうかもしれません。

 売主も、手付金として預かった30万円を返却し、追加の30万円を支払ってキャンセルし、もっと条件がよい人と契約してしまうかもしれません。

 しかし200万円だったら、お互いになかなかキャンセルできません。10%の400万円であれば、いっそう契約は安定します。逆に高すぎると、今度は本当にやむを得ない事情で解約をしたい場合に額が高すぎてできなくなります。

 買主は自分が解約するときのことを考えて、なるべく少なくしようとします。しかし、「少なすぎる手付金は、売主から解約されるリスクがある」と心得ましょう。

 キチンとした勤務先に勤めていて年収もそれなりにあるというのに、「手付金の額を少なくしてほしい」と要求することは、売主側から見れば、「もしかしたら本当は購入意思があまり強くなく、他にもっとよい物件が見つかったらキャンセルをするのかもしれない」と思えてしまいます。

 そのような可能性を懸念され、「一番手」としての購入順位が保全されないことがあります。

 私は今まで、物件を探し続けているのに購入に至らないお客様にたくさん会ってきました。実際に購入申込を入れていたのに買えなかったという人もいて、詳しく聞いてみると「手付金の額がネックになったのではないか」と思えることが多々ありました。

 手付金の額は、皆さんが思う以上に大きな意味を持っています。

 ようやく気に入った物件が見つかって、やっと一番に申込を入れることができたのに、手付金にこだわって「買えない」のは、あまりにももったいないです。

 ただ、売主の残債が購入価格を超えている場合は、手付金を仲介会社預かりにしてもらうなどして、買主として万一のリスクに備えることも必要です。


後藤一仁(ごとう・かずひと)

株式会社フェスタコーポレーション代表取締役。不動産コンサルタント。
国土交通大臣登録証明事業・公認不動産コンサルティングマスター。宅地建物取引士。
1965年、神奈川県川崎市生まれ。1989年から30年以上、常に顧客と接する第一線での不動産実務全般に携わる。大手不動産会社のハウジングアドバイザー、東証一部上場企業連結不動産会社の取締役を経て、「誰もがわかりやすく安心して不動産取引ができる世の中」をつくるために株式会社フェスタコーポレーションを立ち上げ、代表取締役に就任。
首都圏を中心に不動産の購入、売却、賃貸、賃貸経営サポートなど、今まで12000組以上の対面個別相談を行い、成約件数は6000件以上。徹底して顧客の立場に立った不動産購入・売却のガイド、コンサルティング・アドバイスを一般の個人・法人向けに、わかりやすく提供している。
親子3代にわたるクライアントや20年以上にも及ぶファンも多く、顧客層は一般人から著名人まで幅広い。2012年から7年連続で、『専門家プロファイル』の「建築・不動産」の年間アクセスランキングで全国1位をとり続ける(2012〜2018年)。
日々、実務を行いながら、執筆、セミナー講師、テレビ・ラジオへの出演・監修、雑誌・新聞等各メディアへの取材協力など、「不動産を通じて一人でも多くの人を幸せにする」ことをミッションに活動中。著書に『東京で家を買うなら』(自由国民社)がある。


なぜいま、「60m²マンション」なのか?

 はじめまして。後藤一仁と申します。この度『マンションを買うなら60m²にしなさい』を出版しました。

 当初「60m²」をタイトルに入れることについて、あちこちから『60m²? 狭くない?』という声が聞こえてきました。しかし単に、「これからは狭いマンションにしたほうがよい」と言っているわけではありません。人生を通じて「お金の不安」をなくすためであり、住宅ローンやその場所に縛られてしまうような人生にしないためです。

 思い起こせば今から20年近く前、予算ぎりぎりで75m²以上の3LDKを希望していたご夫婦のお客様がいました。ご夫婦ともに都心で働いていて、奥様は出産・育休後、在の職場に復帰の希望があるとのこと。

 お話を伺う中で、「このお客様たちには75m²の3LDKではなく、利便性のよい都心・準都心の60m²くらいの2LDKのほうがよいのでは?」と思い、提案したところ、60m²の2LDKを購入されました。結果、月々の負担が予想以上に抑えられ、貯蓄もできたうえ、約売却時にかなりの利益が出たのです。その後も「60m²前後のほうが資産性・ランニングコスト、生活利便性などを考えたときに有利では?」と思われる場合は、そのようなアドバイスをしてきました。

 その結果、60m²前後の2LDKやコンパクトな3LDKを購入された多数の方々から、うれしい便りが続々届くようになったのです。選ぶ物件や購入時期によっては、買ったときより数百万円、数千万円も高く売れた事例も多々あり、少なくとも買ったときと同じ価格くらいで売れ、「管理費等はかかりましたが、家賃と比べると小さいものですし、数年間もタダみたいな金額で住んだようなものですね」とお客様が笑顔で話してくれた事例は、数え切れないほどです。

 資産性のない物件を購入すると、その家に縛られ、住宅ローンの返済に追われるような人生になります。

 今後の人口減少・少子高齢化が加速する日本で、新たに住宅を購入し、安心して暮らしていくためには、月々の負担(固定費)はできる限り抑え、「売れなくなったり貸せなくなったりすることにより、その家(マンション)に縛られてしまうリスク」「住宅ローン破綻のリスク」を回避することが大切です。

 今までのように「家を買うなら、70〜80u以上の広さは必要」といった価値観に縛られてはいけません。

 「不動産を通じて1人でも多くの人を幸せにしたい」という思いから、本書の執筆を開始しました。

        
著:後藤一仁 価格:1500円+税 判型:四六並製、264ページ  ISBN:978-4-478-10545-0

【ダイヤモンド社書籍編集部からのお知らせ】

『マンションを買うなら60m²にしなさい』

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いま買うべきマンションは、「60m²前後」「駅徒歩7分以内」「2001年以降完成」
“損しないマンション”の見つけ方、お教えします!

不動産ひと筋30年! 12000人と面談し、成約件数は6000件以上! 不動産仲介会社の“現役”社長が教える「戦略的なマンション選び」

【なぜ60m²なのか?】
60m²はさまざまな側面から見て最も無駄がありません。70〜80m²に比べ、価格が手ごろなのに加え、途中で売ることや貸すことになった場合でも、“守備範囲が広い”ので「売りやすく、貸しやすい」のです。

入居を希望する人たちは「夫婦2人」から「子ども1人の夫婦」に加え、「夫婦と小さな子ども2人」「シニア」「1人暮らし」「兄弟姉妹」「母子または父子家庭」と、非常に幅広いのです。自ら住む層だけではなく、「不動産投資」や「相続税対策」などの需要もあります。国立社会保障・人口問題研究所によれば、今後、「広い家」を必要とするファミリー世帯はどんどん減りますが、「1人暮らし世帯」「夫婦のみ世帯」は逆に増えていきます。

「家を買うなら、70~80m²以上の広さは必要」といった価値観は、今すぐ捨ててください。

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/615.html#c235

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
25. 中川隆[-11517] koaQ7Jey 2019年3月12日 16:27:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[478]

【昭和】連合赤軍30年目の真実【大事件】 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=VwrRJSLg7nU
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c25
[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
26. 中川隆[-11516] koaQ7Jey 2019年3月12日 17:19:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[479]

連合赤軍兵士 41年目の証言 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=fBusjiyrX78

植垣康博(64)。

連合赤軍兵士だった彼は、仲間へのリンチや銀行強盗に参加。

懲役20年の刑を終え、現在は静岡市でスナックを経営している。
2005年には33歳年下の中国人留学生と結婚、一男を儲けた。

全ては時の流れと共に封印されたかに見えた。しかし植垣は最近、連合赤軍時代についてのシンポジウムを行うなど、閉ざし続けた重い口を開き始めた。彼の心にどんな変化があったのか?40年の時に隠された"心の襞(ひだ)"に肉薄する。
<2013/02/24>
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c26

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
27. 中川隆[-11515] koaQ7Jey 2019年3月12日 17:46:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[480]

あさま山荘事件から40年 メディアの現在 (2012年) - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=HUe181o-WdE
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c27
[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
28. 中川隆[-11514] koaQ7Jey 2019年3月12日 17:50:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[481]

赤軍派の集団リンチや南京大虐殺での日本兵の残虐行為は典型的な感応精神病

1.精神病の感染

 果たして、精神病というのは伝染するものなのだろうか。

 人の心を操る寄生虫が出てくる小説(ネタバレになるのでタイトルは言えない)を読んだことがあるが、実際に見つかったという話は聞かないし、たとえ存在したとしてもそれはあくまで寄生虫病であって、「伝染性の精神病」とは言いがたいような気がする。

 実際には、たとえば梅毒のように伝染性の病気で精神症状を引き起こすものはあるけれど、純粋な精神病で細菌やウィルスによって感染する病気は存在しない。精神病者に接触しても、感染を心配する必要はないわけだ。

 しかし、だからといって精神病は伝染しない、とはいえないのである。

 精神病は確かに伝染するのである。細菌ではない。ウィルスでもない。それならなんなのか、というと「ミームによって」ということになるだろうか。

 妄想を持った精神病者Aと、親密な結びつきのある正常者Bが、あまり外界から影響を受けずに共同生活をしている場合、AからBへと妄想が感染することがあるのだ。

もちろんBはまず抵抗するが、徐々に妄想を受け入れ、2人で妄想を共有することになる。

これを感応精神病、またはフォリアドゥ(folie a deux)という。

Folie a deuxというのはフランス語で「ふたり狂い」という意味。

最初に言い出したのがフランス人なので、日本でもフランス語で「フォリアドゥ」ということが多い。もちろん妄想を共有するのは2人には限らないので、3人、4人となれば"folie a trois"、"folie a quatre"と呼ばれることになる。なんとなく気取った感じがしてイヤですね。

 AとBの間には親密な結びつきがなければならないわけで、当然ながらフォリアドゥは家族内で発生することが多いのだけど、オウム真理教などのカルト宗教の場合も、教祖を発端として多数の人に感染した感応精神病と考えることもできるし、以前書いたことのあるこっくりさんによる集団ヒステリーも広義の感応精神病に含めることもある。

 この感応精神病、それほどよくあるものでもないが、昔から精神科では知られた現象で、森田療法で知られる森田正馬も1904年に「精神病の感染」という講演をしている(この講演録が日本での最初の文献)し、その後も今に至るまでいくつもの論文が発表されている。


フォリアドゥの治療

 この例でもわかるように、実はフォリアドゥには、鉄則といってもいい非常に簡単な治療法がある。それは、2人を引き離すこと。もちろん最初に妄想を抱いた人物(発端者)は、多くの場合入院させて薬物などによって治療する必要があるが、影響を受けて妄想を抱くようになった人物(継発者)は、発端者から引き離されただけで治ってしまうことが多いのだ。

 ただし、引き離す、という治療法は多くの場合有効だが、そうすれば絶対に治るとはいえない。

 私がまだ研修医だったころのことだ。隣の家の朝鮮人が機械で電波を送ってくる、という妄想を抱いて入院しているおばあさんの治療を先輩医師から引き継いだことがある。「自分が治してやろう」という意気込みは精神科ではむしろ有害なことも多い、ということくらいは知っていたが、まだ駆け出しだった私には、どこかに気負いがあったのだと思う。

必死に薬剤を調整してみてもいっこうに妄想は改善しない。万策尽き果てた私が、永年同居生活を送っている兄を呼んで話をきいてみると、なんと、彼の方も「隣の家の朝鮮人からの電波」について語り出したではないか。

2人は同じ妄想を共有していたのだった。


 これはフォリアドゥだ! 私は、珍しい症例に出会ったことと、そして先輩医師が気づかなかった真実にたどりついたことに興奮し、さっそく「鉄則」の治療法を試みた。兄の面会を禁止したのである。

しかしこれは逆効果だった。面会を禁止してもおばあさんの妄想はまったく改善せず、それどころか2人とも私の治療方針に不信を抱くようになり、治療はまったくうまくいかなくなってしまったのだ。私は2人を一緒に住まわせるのはまずいと考え、兄のところ以外に退院させようと努力したのだが、2人とも態度を硬化させるばかりであった。

 今考えれば私の方針の間違いは明らかである。私は、妄想が残ったままであろうと、彼女を兄のところに退院させるべきであった。それが彼女の幸せであるのならば。私は「鉄則」にこだわるあまり、老人の住居侵入妄想はなかなか修正しにくいことを忘れてしまい、そして何よりも、永年2人だけで暮らしてきた兄に突然会えなくなった彼女のつらさに考えが及ばなかったのであった。


古いタイプの感応精神病

 続いて、古いタイプの感応精神病の例を紹介してみよう。最近の感応精神病は「宇宙語」の例のように、都会の中で孤立した家族で発生することも多いのだが、かつては圧倒的に迷信的な風土の村落で発生することが多かった。例えばこんな例がある。

 昭和29年、四国の迷信ぶかい土地の農家での話である。

あるとき、父親が幻覚妄想が出現し興奮状態になった。

そのさまを熱心にそばで見ていた長男は2日後、父親に盛んに話しかけていたかと思うと、次第に宗教的誇大的内容のまとまりのない興奮状態に発展し、互いに語り合い感応し合いながら原始的憑依状態を呈するに至った。

父親は妻、娘など一家のもの6人を裏山に登らせ裸にさせて祈らせ、大神の入来を待った。長男は家に残り夢幻様となって家に放火。一同は燃え崩れる我が家を見ながら一心に祈りつづけた。父親、長男以外も一種の精神病状態にあった。


 悲惨な話だが、どこかゴシック・ホラーの世界を思わせないでもない。

 これがさらに拡大すると、村落全体が感染するということもある。青木敬喜「感応現象に関する研究(第1報)」(1970)という論文に載っている例だが、これはフォリアドゥというよりむしろ、以前書いた


こっくりさん
http://homepage3.nifty.com/kazano/kokkuri.html


の例のようなヒステリー反応とみなすのが適当かもしれない。


 昭和11年、岩手県北部にある戸数40程度の集落での話である。

 発端となったのは35歳の農家の妻Aである。昭和11年5月、夫の出稼ぎ留守中、頭痛や喉頭部の違和感を感じるようになり、また身体の方々を廻り歩くものがあるような感じがするようになった。あちこちの医者を回ったがなんともないといわれるのみで一向によくならない。どうも変だと家人がいぶかしんでいる間に、患者はときどき

「鳥が来る。白いネズミのようなものが見える」

などといったり、泣いたり騒いだりするようになった。家人はこれは変だと患者の着物を見ると、動物のものらしい毛がついている。

これはイズナに違いない、と12キロほと離れた町の祈祷師K に祈祷してもらったところ、たちまち発作状態となり、さらに発作中に自分は集落の祈祷師Tのもとから来たイズナであると言い出したのである。その後もこの患者は発作を繰り返すようになり、多いときには一日のうちに数回起こすようになった。

 さてAの近所に住む農家の妻BとCも、昭和11年5月頃から喉の違和感を覚えるようになる。12月にはBの夫がBに毛が付着しているのを発見している。BとCは例の祈祷師Kのもとを訪れ祈祷してもらったところ、祈祷中に2人は急に騒ぎ出し、「Tから来たイズナだ。Tで育ったものだ」と言い出す。

 こうして昭和12年4月までの間に続々と同様の患者がこの集落に発生、ついにその数は10名にのぼった。事件は集落をあげての大騒ぎとなり、

「集落は悪魔の祟りを受けた。なんとかして悪魔を滅ぼさねば集落は滅んでしまう」

と不安と緊張が集落にみなぎるにいたる。

 こうしたなか、本当にTの祈祷のせいなのか確かめようじゃないか、という動きになり、昭和12年8月20日午後3時ごろ、集落の共同作業所に患者10名を集め、集落の各戸から1名ずつ、合計四十数名の男たちの立ち会いのもと、TとKのふたりの祈祷師の祈祷合戦が繰り広げられることになった。

まず疑いをかけられているTが祈祷をするが患者は何の変化も示さない。

次にKが祈祷すると、約10分くらいして患者たちはほぼ一斉に異常状態となり、

「Tから来たTから来た」と叫ぶもの、

「お前がよこした」と激昂してつかみかかるもの、

「命をとれといわれたが恨みのないものの命をとることができないからこうして苦しむのだ。苦しい苦しい」と泣き喚くもの、

ものもいえず苦しげにもがいているもの


など憑依状態となり、まったく収拾のつかない大騒ぎとなった。

このため、これは確かにTの仕業に違いないと集落のものは確信を抱き、Tに暴行を加え、T宅を襲って家屋を破壊した上、村八分を宣言したのである。

 さらにその約1ヶ月後のことである。集落の各戸から1人ずつ男たちが出揃ったところで副区長が

「イズナが出ないようにするにはイズナ使いの家に糞便をふりかければイズナは憑くことができないという話をきいた。どうであろう」

と提案した。すると、一同は一も二もなく賛成し、そのまま四十数名が暴徒と化し、大挙してT宅に押しかけ、雨戸を叩き壊して座敷になだれ込み、糞便をかけ、Tをはじめ家族の者を殴打、重傷をおわせてしまった。

 これまたものすごい事件である。ただ、「宇宙語」の家族は隣にいてもおかしくないように思えるが、こちらはわずか60年前の事件とは思えないくらい、私には縁遠く思える。集落全体が外部から遮断された緊密な共同体だった時代だからこそ起こった事件なのだろう。こうした共同体が減ってきた今では、このような憑依型の感応精神病はほとんど見られなくなっている。


家庭内幻魔大戦


 さて今度はまた篠原大典「二人での精神病について」(1959)から。家庭内の騒動が、宇宙的規模での善悪の戦いにまで発展していってしまうという、興味深い物語である。

 昭和31年5月、Kという呉服商が相談のため京大精神科を訪れた。

 彼の話によれば、昭和23年に妻と長女、三女が彼と口論をしたあと家出。しばらくして帰宅したが帰宅後はことごとく彼と対立、離婚訴訟を起こした上、妻と長女は前年から二階の一室にこもり、ときどき外出して彼の悪口を言い歩くが、一見正常に見えるから始末に困るという。なお、別居中の義母も妻とは別に彼を悪者扱いしているという。

 そこでこの論文の著者らはただちに母と娘を閉鎖病棟に収容した。現在の常識からすればこれくらいのことでなぜ、と思えるが、当時はそういう時代だったのだろう。入院後も2人が協力して反抗してくるのでただちに分離したという(「鉄則」の通りである)。

 さて母子の入院後、2人の部屋からは数十冊にも及ぶ膨大なノートが発見される。そのノートには、驚くべき母子共通の妄想体系が詳細に記されていたという。その記述によればこうだ。

 宇宙外にある「大いなるもの」から一分子が月に舞い降り、さらに地球に来て母の肉体に宿った。太陽を経て地球にきた分子は長女に、ある星を経て来た分子は三女に宿った。彼女らは肉体は人間の形をしているが、魂は大いなるものの一部であり、月や太陽の守護のもとに人類を救済する使命をもち、「宇宙外魔」の援助を受けて彼女らをおびやかす悪の根源である夫Kを撃滅せねばならない!

 家庭内幻魔大戦というか、家庭内セーラームーンというか、とにかくそういう状態なのである。ここで、仮に母を月子、長女を陽子、三女を星子と呼ぶことにし(実際、論文にそう書いてあるのだ)、2人が書いた手記をもとに、この妄想体系が完成されるまでの経過をたどってみる(以下斜体の部分は手記の記述による)。

 Kは苦労人で丁稚奉公のあと、月子と見合い結婚すると暖簾をわけてもらい東京で呉服店を開いた。一方月子は貿易商の長女で甘やかされて育ったせいもあり、派手でだらしなく浪費癖があり、夫とは常に対立していた。2人の間には4人の子どもが生まれる。長女陽子、長男、次女、三女星子の4人である。

 長女陽子は自然が好きな子どもだったが、人間は嫌いで、幼稚園の頃は太陽の絵ばかり描いていた。

「父は些細なことで怒り赤鬼のようになって母を叩き、耐えている母をみて母の尊いこと」を知った。

父と母の争いにまきこまれ、成績があがらず落胆し、学校も家庭も憎み、

「よく裏庭に出て月や星を仰いで」いた。5年生のときにH市に疎開、終戦までの1年間は父のいない楽しい生活を送ったが、終戦後父もH市で商売を始め、再び母との争いに巻き込まれることになった。

 しかも、中学から高校にかけては父の命令で、妹たちとは別に祖母のいる離れで寝なければならなかった。祖母は向かい合っていても何を考えているかわからない人で、

「父が悪事を企んでいる」と真剣な顔で陽子に告げるのであった。この祖母も分裂病だったと思われる。陽子の手記によれば

「父から物質的恩恵を受けながら父を愛せませんでした。そのことを深刻に苦しみましたが、誰も理解してくれませんでした。知らず知らず孤独を好み、しかし一方では自分が頼りなく誰かに頼らねば生きていられませんでした」。そして高校1年のときある事件が起き、それ以来彼女ははっきりと父を敵とみなすようになるのである。

 その事件については陽子の母月子の手記をもとに見ていこう。

 昭和25年、月子と陽子はKの弟の家で軽い食中毒を起こす。このとき月子の心に最初の疑惑が生じる。昭和27年、月子は夫の甥が陽子の部屋に無断ではいるのを発見し、夫に告げるが「夫は全然取り合わないのである。私は夫の仮面を見たような気がした」。

 昭和28年1月、陽子は腎臓疾患にかかり、月子は離れで陽子を看病するが、Kが離れに出入りしたあとは必ず容態が悪化することに気づいた。「ここに至っては夫が陽子に危害を加えていることは明らかである。私は夫と甥に警戒の目を向けた。家の中は自ら疑心暗鬼、一家をなさず私と陽子対夫と甥の目に見えない対立が生じ、間に入ったほかの子どもたちはおろおろするばかりである」。長男は中毒事件までは母についていたが以後父に従い、次女は最初から父の側、三女星子はほとんど母についていたが、終始母に批判的であったという。

 28年3月、月子は飼い犬のえさのことで夫とひどい口論をしたときに夫に「何か一種の妖気を感じた。私は今までの夫にないものを見たのだ。以後奇怪な事件は連続して起こっていった。私たちは身体に異常を感ずるが、くやしいことにその根源を科学的に実証できなかった。しかし害を加えられるところにとどまることはできない」

 彼女たち3人は家を出て警察などに訴えまわり、3ヶ月後に帰宅した。

「家に帰ると陽子は身体がしびれて動けぬという。奇怪だ。しかしある夜、私はその正体の一部を見た。私が陽子を看病していると、といっても病気ではない。

見守っていると、はなれとの境目の板塀の節穴からさっと私たちに向かって青白い閃光が走った。私も陽子もしびれるような異常を感じた。相手は見えざる敵である。あるときは右隣、あるときは左隣から来た」

 やがて29年になる。「私は陽子を連れて二階に引きこもることにした。疑いを持った人とともに生活することは無意味だからである。そしてこの不可解な事件をどう解決するかということに専念した」

 家出前後の事情は娘陽子の手記にも書かれている。

「腎臓炎になってから不思議なことが次々と起こり、布団が非常に重く感じられ、時計の音が大きく響きました」

「父が薬を飲ませたとき、味が妙だと思いましたが、あとで毒を入れられたのでそれで病気が治らなかったのだとわかりました」

「父に殺されるといったのは私で、家を出ようといったのは母です」

「隣の家から光線が出て2人とも気持ちが悪くなったこともあります」

「H先生(遠縁にあたる絵の先生で、彼女の片想いの対象)に何度も危険を訴え、殺されたら裁判所に訴えてくれと頼みました」。

 笑っちゃいけないのだが、月子の手記がなんだか妙にB級ホラーサスペンスタッチなのがおかしい。母子と父の戦いはいったいどうなるのか。

 昭和29年になると、母月子と長女陽子は2人で2階で暮らすようになる。陽子の手記によるとこうだ。「母と2階で生活し、父が来ると追い返し塩を撒きました」「私が買い物に出て家の周りのことを母に伝え、対策を考えてはノートで敵を攻撃しました」

 「ノートで敵を攻撃」というのがどういうことかというと、つまり呪文による攻撃なのである。母のノートには「神不可抗、我等と敵魔外魔との反発源を白光通像の中へ密着入せよ」などとあり、娘のノートには「さしもかたき暗黒の魔星、四方に砕けて、たちまち無くなれり。彼方より尊き神の御光、仰げ白光たえなる神を」とあった。

また、「敵撃滅敵撃滅敵撃滅……」という呪術的文句も延々と繰り返されていたという。ここにきて、事態は家庭内呪術戦争の様相を呈する。

 昭和30年、ついに2人は「大いなるもの」と接触する。

「『ご自身の世界に一度顔を出してください』と太陽から聞こえたり、大いなるものから『来たければおいで』と知らせてくれました。体がしびれたとき、目を閉じるとダイヤモンドのようにきらきら光るものが見え、母に話したら大いなるものだといいました」。

 きのう書いたとおり、困り果てた父親が精神科を訪れたのが昭和31年5月。そして2人は入院することになる。入院3日目より陽子は

「壁の後ろから父に命令されたものが電波をかける」

と訴え、母の名を叫びながらノートにも

「お母さんお月さんはありますね」

「お母さんを離れては私はありません」

「お母さんの心は私の心、一心同体とお母さんは言いましたね」


などと書いた。母と会わせると抱き合って

「月と太陽が……あいつと宇宙外魔が……」

と語り合っていた。


 入院第1週から月子は「私の伝記」を書き始める。これが今まで引用してきた手記である。

 第2週、娘は

「新しい素晴らしい世界ができる。その主となるのは私」

「地球も宇宙も月も捨ててしまう」

「月も太陽も出ない。宇宙を逆転させて、しめたといったのは誰だ」


と緊張病性興奮をきたし、父と面会させると

「あれは亡霊です人間ではありません」

と逃げ出した。主治医はつとめて妄想を肯定するように対応したが、すると彼女は主治医とH先生(きのうの記述にも出てきた、陽子が片想いしている絵の先生である)を人物誤認し、

「太陽は自由だった。太陽に飛んでいきたい。しかし地上にも幸福はある。それはH先生」

と書いている。この頃から興奮は鎮まり、第3週から手記を書き始めている。


 母の症状はなかなか改善しなかったが、第6週には娘は父の住む家に外泊、父は案外やさしい人だといい、逆に母を説得さえするようになった。

「入院はいやだったが、病気が治りかえって自由になった」

と書いている。第8週に母はなんら改善されずに退院。第10週に娘も母と別居し父と暮らす約束で退院した。

 しかし、話はここでは終わらない。陽子は1ヶ月ほど父と生活したが、H市の母のもとに手伝いに行ったのをきっかけに、ふたたび母と二階の一室で暮らすようになる。ときどき帰る父と母の緊張、H先生への恋を母に禁止されたことなどが誘引となり、10ヶ月後、再び陽子の症状は悪化してしまう。

 昭和32年4月、陽子は京都にH先生に似ているというある俳優の撮影を見に来ていたが、その俳優が殺されるシーンになると不安になり、ハンドバッグから持ち物を出し、次々と太陽にすかし池に投げ込んだ。かけつけた父を罵りますます興奮するので、主治医が呼ばれて行った。

「よい月が出ているから安心しなさい」

と主治医が言うと一応鎮まり、

「二次元と三次元の世界のどちらを選ぶべきですか」

と質問したという。

 かくして陽子は再入院。第1週には

「人間なんか信用できないから地球に未練はない。あの汚らわしいやつ。人間のできそこない、あいつは絶対に許されない。神でもないのに神のつもりでいるのだ。あいつは物質的恩恵を与えたつもりでいるけれど、太陽によって成り立った物質はあいつのものとはいわせぬ」

「私の元の世界は宇宙の外にある。お母さんが帰らなければ私だけH先生を連れて帰ってしまう」

などと話していたが、2週目以降はやや現実的になり、母親と離れることの不安やH先生への思いを語るようになっていった。


 入院2ヶ月後にLSDを服用させて妄想を発現させたところ(驚くべきことに、昔はそういう治療法があったのである)、1時間後強迫的に笑い出し、

「ケセラ・セラの歌は私がお母さんに頼っていたことに対する警告だと思います。お母さんを捨ててH先生と結婚します」

といい、2、3時間後には

「先生! オールマイティになってください」

と主治医に寄りかかる。一人で立たないといけないと突き放すと不安がつのり

「空に飛びたい。元の世界に帰る」と机の上に乗って飛ぼうとする。しかし飛べずに興奮し始め、「過去も現在もなくなってしまえ」

と叫びながら主治医にH先生になってくれと懇願する。主治医がうなずくと次第に静まっていったという。

 念のため言っておくが、これは今じゃとても考えられない荒っぽい治療法である。

 ともかく、入院4ヶ月目に陽子は退院。以来京都で父と暮らし洋裁学校に通うようになったという。

 論文の著者はこう結んでいる。

「母からH先生へ、そして主治医へ、退院の頃には主治医から父へと陽子の依存性は次々と移され、その程度も弱まり遂には精神的独立を決意するに至っている。かくて主治医を通じて父との新しい人間的結合を生じ、母から分離したのである」。

 つまり主治医は、陽子の分離不安をいったん自分で引き受けることによって治療を成功させたわけなのだけど、これも下手をすれば主治医が妄想に取りこまれないとも限らないわけで、けっこう危険を伴なう治療法だと思うんだけどなあ。ま、結果よければすべてよしですが。
http://homepage3.nifty.com/kazano/folie.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c28

[リバイバル3] 株で儲ける方法教えてあげる(こっそり) 新スレ 中川隆
183. 中川隆[-11513] koaQ7Jey 2019年3月12日 18:28:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[482]

225現物と先物の値段が乖離しているのは何故か?  03月12日 


「225と225先物の値段が乖離しているのは何故か?」という質問をメンバーから頂きました。

初歩と言えば初歩なのですが、意外と分かり難かったりもするのかも知れないなと思いましたので、説明しておきます。

所謂225というのは、現物株の状態ですので、配当金がある訳ですが、225先物にはこれがありません。

現在、225に関連する配当分は170円程度あると見込まれるので、この分が先物よりも高くなっています。

ですから、3月27日に4月受け渡しの取引になるので、この日に225は配当分が無くなるので、先物と理論上は同じ値段になります。

これが、所謂「配当落ち」です。

では、この乖離はいつから起こるのか?

大きな配当時期はもちろん配当が集中する3月ですが、中間配当の9月、年末決算の12月と、その中間決算の6月。

そして、これらに属さない2月配当だとか、色々ありますが、常にこれらの配当時期を睨んでの動きになります。

ですから、何月何日から乖離して行くとか、そういう事ではないのですが、主に配当の2か月前から1か月前位には乖離が大きくなり始めており、その後は配当落ち日に向けてピークになって行く訳です。

ただ、配当は予想値でしかありませんし、同じでもありませんので、乖離幅は毎回異なります。

また、相場上昇の期待が高ければ、より乖離が大きくなりますし、下落懸念が強ければ乖離は小さくなる訳です。

気にしても仕方のない事ですが、こうした理由で乖離が起こっているとお考えいただければよろしいかと思います。

まあ、大した利用価値はありませんし、知っていたからと言って得することはないのですが、先物の値段を見て現状を見誤らない様にして頂ければとは思っております。
http://ssoubakan.com/blog-entry-2991.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/822.html#c183

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
29. 中川隆[-11512] koaQ7Jey 2019年3月13日 06:40:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[483]


amazon.co.jp 植垣 康博 本
https://www.amazon.co.jp/%E6%9C%AC-%E6%A4%8D%E5%9E%A3-%E5%BA%B7%E5%8D%9A/s?ie=UTF8&page=1&rh=n%3A465392%2Cp_27%3A%E6%A4%8D%E5%9E%A3%20%E5%BA%B7%E5%8D%9A

_____


連合赤軍兵士 植垣康博 41年目の証言 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=fBusjiyrX78


植垣康博(64)。

連合赤軍兵士だった彼は、仲間へのリンチや銀行強盗に参加。

懲役20年の刑を終え、現在は静岡市でスナックを経営している。
2005年には33歳年下の中国人留学生と結婚、一男を儲けた。

全ては時の流れと共に封印されたかに見えた。しかし植垣は最近、連合赤軍時代についてのシンポジウムを行うなど、閉ざし続けた重い口を開き始めた。彼の心にどんな変化があったのか?40年の時に隠された"心の襞(ひだ)"に肉薄する。
<2013/02/24>


▲△▽▼

2017.11.18
連合赤軍の元活動家 植垣康博 は獄中27年で「革命」をどう総括したか

元連合赤軍活動家・植垣康博氏インタビュー(1)
週刊ダイヤモンド編集部+ 
https://diamond.jp/articles/-/150171


1972年に「あさま山荘事件」を起こすなど、あの時代に強烈なインパクトを残した極左暴力集団(過激派)の一つ「連合赤軍」。殺人罪、死体遺棄罪、強盗致傷罪など計31の訴因で起訴され、懲役20年の刑を受けた元連合赤軍活動家、植垣康博さんに左派の衰退や事件について聞いた。1回目のテーマは大学紛争、連合赤軍、獄中など。(「週刊ダイヤモンド」編集部 土本匡孝)

最初は石とゲバ棒ぐらいのものが
火炎瓶、銃、爆弾……

――1998年秋に出所し、今秋で20年目。そして山岳ベース事件、直後のあさま山荘事件からは約半世紀たちますが、あのころを思い出すことはありますか?


うえがき・やすひろ/1949年生まれ、68歳。「総括」の名の下に同志12人をリンチ殺人した「山岳ベース事件」に関わり、72年のあさま山荘事件直前に逮捕。懲役20年。98年出所。現在、静岡市でスナック・バロンを経営する。 photo by Masataka Tsuchimoto

 しょっちゅう、ほとんど毎日です。だいたい店に立つと、どうしてもお客さんとその話になる。お客さんも私のことを知っていますし。なので私は当時の話をしたり、刑務所の話をしたり。事件を思い出すというよりは、常時脇にある感じです。

――68年の弘前大学入学から、72年のあさま山荘事件直前に軽井沢駅で逮捕されるまで、あの時代に何があったのかを振り返っていただけますか?

 沖縄問題をめぐる政府側のやり方に反対する闘い、それが大きかったですし、もう一つはベトナム戦争に反対する闘い。それらが大学の中で活発になっていました。それまでの大学闘争と大きく違っていたのは、それまでの闘争は左翼党派中心の運動。それに対抗する形で全共闘運動、つまり個人参加の闘い。大学闘争が盛り上がって、無期限ストライキとか、どんどん学生がなんらかの形で関わりました。そういう中で、全共闘に対して大学側というか政府側は機動隊でもって、つぶしにかかった。

 機動隊との攻防がものすごく激しくなった。最初は石とゲバ棒ぐらいのもんでしたが……。ヘルメットは警棒に対する防衛で始まった。あれはファッションじゃないですからね(笑)。そこから始まって火炎瓶、銃、爆弾……。武装するしかないという動きが出てきて、それがどちらかといえば党派の人たちは、そういう戦いをやると自分たちの党派がつぶされてしまうということで……。

典型的なのでは、中核派なんてデモをしただけで、勝利とかいう言い方をする。それはおかしいじゃないかと。むしろ一般学生の方から武装闘争の流れが出てきて、それが赤軍派と結び付いていくという展開になっていきます。

 その中で中心になっていくのは、武闘闘争と党派との関係。それがその後もずっと続いて、無政府的で組織されていないということに対して、党派がちゃんとしようと、一種の囲い込みをする。

 その中で、僕らの場合も、問題があったわけ。赤軍派としても組織体制を作りたいというところで共産主義化という考えが生まれてきた。ただ、僕らの場合は武装しちゃっているわけで、そういう形が強烈に出てきた。

 よく言うんですけど、総括要求とかする中で暴力が出てきたわけだけど、これはもう、早い話が中国のプロレタリア大革命。政府軍の運動のミニ版。そういう問題にバーンとぶつかってしまった。私らにとっても想定外だったし、何が何だかさっぱり分からない。結局、あさま山荘事件で終わってしまったわけですが、そういう新しい問題を抱えてしまったというのが、僕らの運動の現実だったと思う。

 あれによって左翼運動は確かに衰退はしてしまったけど、衰退の最大の理由は、やはりベトナム運動が終わったことなんだろう。米国の敗北で反戦運動は下火になって、それで左翼運動も下火になる過程に入った。でも問題はやはり連合赤軍の問題で、左翼が抱えている問題が表に出てしまった。これをどうするんだと。

独房から手紙で論争
赤軍派自身の総括

――逮捕後、出所まで27年間。

 まあ僕は獄中にずっと入るはめになったわけですが、連合赤軍の問題を正面から考えていこうと。左翼運動、特にロシア革命以降の労働運動。革命の歴史は粛清の歴史でもあるわけで、そういう問題を僕ら自身も抱えてしまったことによって、ロシア革命以降の革命を再点検し直そうと思った。どこに問題があったのかを問い直すことが私自身の獄中での行動になり、27年間はあっという間だった。原稿書いたり、文通で論争したり、大変だったわけですよ。

――論争と言いますと?

 独房にいますから手紙でのやり取りです。そのなかで、赤軍派自身の総括。(元赤軍派議長の)塩見孝也との論争とか。激しくやりました。

――当時、「総括」を否定する、あるいは加わらないという選択はできなかったのでしょうか。

 私自身はその場にいきなり放り込まれちゃったもんで、できるできないという問題じゃなかった。確かに初めは共産主義化というか、自分たちが抱えている問題を考えて、どう乗り越えるかを考える意味での総括なんだけど。それは別に反対するものでもない。ただああいう風な総括に変わっていくのは想定外だった。自己批判、総合批判と展開。組織と個人の問題じゃないかと思っている。

 当時はああやって激しく行われたわけですけど、現実の、例えば会社の新入社員研修なんかも似たようなことをやっているんじゃないかと思います。むしろ左翼のやり方が会社に持ち込まれたのかな。いずれにしても個人を鍛えるという意味合いで暴力的なことを持ち込むのはある意味、日本的なスタイルでもあるような感じがしないでもない。

――次第に個人の問題になったときに、なぜストップできなかったのか不思議なんですが。

 個人が組織の人間として、個人的考えを持たないようにするっていうね。完全に組織に同化させる。森(恒夫)さんとか永田(洋子)さんが指導的な立場にあったわけだけど、当時の左翼運動がそういうスタイルだったわけですよね。私はそうやって党派に完全に属してしまった人間を党派人間と呼んでいるんだけど。森さん、永田さんは党派の活動でもって、成長してきた人間なんですよね。だからまったくの党派人間そのもの。性格に問題があったとかそういうことではなくて。党派にあまりにも忠実な人間になっていたことが問題であったのではないかと思う。

 彼らは私らみたいな大学闘争の経験はないわけですよね。私らが大学闘争やっているころには、彼らは卒業していましたから。森さんは私らの兄貴と同じぐらい。大先輩だから逆らうなんてとんでもない。おやじさん、とみんなが呼んでいた。

党派による革命運動は
だめだと分かった

――当時のことを書いた本を読むと大人びた集団に思えるが、みんな20代だったんですよね。

 そうですよ。私なんか21か22歳。考えたら子どもですよ。体力があるからやれることもあった。

――当時の行動について。「集団狂気」という言葉では説明つかないですか?

 そうではないと思う。ロシア革命以降の、革命が抱える問題が日本でも出てきたということですよ。私自身も党派人間に変えられていった。変わらざるを得ない。山に入る(編集部注:山岳ベース事件)まではせめぎ合い。女性を逃がしたり、それなりの努力はしました。でもそのあたりが限界でした。

――党派人間から解き放たれたなと思ったのはいつぐらいだったんですか?

 捕まってから、この問題を考えなければならないと。党派がする総括はやはり僕には了解できなくて。で、論争する中で、党派人間からだんだん解放された。最初のころは党派が主導権をとらない限り、革命なんてできないという固定観念からなかなか抜け出せませんでした。結局、塩見孝也との論争の中で、「党派とは、党とはなんぞや」ということになって。

 党による革命というのは結局、一党独裁体制をつくるしかない。つまり国家による社会主義。本来の意味での社会主義ではないというところにたどり着いて、「やれやれ」と。それからはもう党派による革命運動はだめだと分かった。それに対抗する形でかつて行われた全共闘運動がどういうことだったのかを逆に考えるようになって。

 今の政治問題にも関わるけど、かつての党派政治が、今は政党政治になり、限界にたどりついている。これを乗り越えるためにはどうしたらいいのか。そこで全共闘運動、一種の自治運動。それがこれからの一種のスタイルとして、新しい運動の方向として追及すべきではないかという思い。個人でもって、自分自身の意見を言う。当時の活動家というのは大して勉強もしてないくせに、党派の理論を言う。それに対して、疑問を持っていたのは確か。好きじゃなかった。

――逮捕後、自供を始めるまで。

 私は最初カンモク(完全黙秘)。森さんの自供があって私も話し始めました。でも党派人間は超えられなかった。当時自供を始めたのは、「この野郎」と頭にきた面もあるけど、自供する過程で事実関係をきちんと残しておきたかった。それが最大の目的。取り調べをする刑事に「(調書を)書け、書け、書け」と。逆に、刑事が勘弁してくれというぐらい(笑)

――いま国内にいる当時の関係者と会うことはあるのですか?

 もちろんありますよ。運動としての交流ではなくて、人間関係としての交流。当時の問題について語ることもたまにはあります。

――ところで植垣さんはもう活動家ではないのですか?

 何をもって活動というかですよね。いわゆる左翼組織の党員としての活動というのはない。個人として、関われる範囲内で関わっています。いろんな問題について語ったり書いたりしている。
https://diamond.jp/articles/-/150171?page=4


元連合赤軍活動家・植垣康博氏インタビュー(2)
週刊ダイヤモンド編集部+ 
https://diamond.jp/articles/-/150175

出所後は外国に来た気分
酒のおかげで溶け込めた


うえがき・やすひろ/1949年生まれ、68歳。「総括」の名の下に同志12人をリンチ殺人した「山岳ベース事件」に関わり、72年のあさま山荘事件直前に逮捕。懲役20年。98年出所。現在、静岡市でスナック・バロンを経営する。

――出所した途端、「地に足がつかない」という感想だったと植垣さんの著書で拝読しました。

 出てからは四苦八苦でした。生活費稼ぎで。

 とにかく、外国に来たような気分。街の雰囲気が全然違う。会話が成り立たない。出てからの「塀」の方がはるかに高いなあと思いました。そんな中、だんだん世の中に溶け込めるようになったのは酒があったから。酒が入れば相手もだんだん本音で話す。最初は頼まれて始めた夜の商売でしたが、今考えればこれが正解だったのかな。いつまでやっていていいものかなとも思うが。書くこともちゃんとやらないといけないから。でもなかなか両立できません。

――出所した1998年の政治情勢。その前には社会党政権もありました。

 政界再編とか、なんとかは塀の中で聞いていました。でも議会内でのごちゃごちゃは大して意味は無い。むしろ、この政党政治からどう脱却していくのかなという思いで見ていました。その中で、私なりにいけるなと思ったのが、インターネットを使った情報発信。これで交流を作っていく。思えば大学闘争の時代は固定電話でさえ、ろくにできなかった。他の大学との連帯でもわざわざそこに行かないといけなかった。大学闘争としても、結局各大学で孤立した闘いになってしまったかなあと。東京はある程度共闘できたけど、弘前大学とか田舎は……。

――今の大学は新左翼の拠点としての機能はほとんどないようです。大学紛争も下火を極めています。

 当時、私たちが一番反対したのが産学協同。特に大学でも就職問題が問題になっていく中で、共産党は学生の完全就職実現というスローガンを出してきました。それに対して、「就職は個人的行為だ」「大学の自治をいかにつくるかが問われている」と言って、大学紛争でぶつかりました。弘前大学でも盛り上がりました。

今の大学は完全に就職予備校みたいになっています。そんなところで大学の自治とか、学問の独立とか言っても盛り上がりません。学生がまずそんなこと考えていない。国立大学も経営を考えていかないといけない。企業からいかにお金をとってくるかとなると、もろに産学協同。学問が金儲けを考え出すとダメですね。

私のスナックにも
学生はよく来ます

――今の大学はセクト、ノンセクト問わず、政治活動自体、締め付けているようです。

 私がびっくりしたのは、今年連赤45周年(編集部注:1972年のあさま山荘事件から45周年)ということで、東京でシンポジウムをやったんですけど、若い人がかなり参加しました。実は私のスナックにも学生はよく来ます。極左とかじゃなく。

――若物は何を求めて来るのでしょう。

 彼らから言わせると、『あんな風にいろいろできたことがうらやましい』と。自分たちがやろうとしてもとてもできない。今の時代に、どんな形でできるか模索している様子です。

――暴力的な部分をですか?

 ではなくて、いろんな形で。団交とか、大学間連携とか。極左的な面に限定するんじゃなくて、「行動の自由があった」って言うんだね。いろんなことを自由に考えられる状況もあったと。今、大学で自治を叫んでもどうにもならん閉塞感。どうやったら解放されるか(を考えているようです)。

――植垣さんは彼らにどんなアドバイスをするのですか?

 それは自分の頭で考えるしかありません。「失敗してもともとの思いで行動した方がいいよ」とは言います。とにかく行動して経験をしないと、次の問題は見えてこない。私の本を読んだからといって、所詮あの時代の話。これからどういう行動が可能なのかは、いろんな形で行動して、失敗も糧にして経験した方がいいじゃないのと言っています。

 私らの時代は団塊の世代、人数多いし、経済的に切羽詰まっていたわけでもない。今の学生は学費も高い。先生自身への締め付けもあります。管理教育が徹底しています。


――国政について伺っていきます。

 小選挙区制にするときに、保守2大政党制にするとか、戯言を言ってましたけど、そんなんなるわけない。寄らば大樹の影。あとどこかの政党に依存していないといけない。これじゃあ政治家が、個人の存在の意味がない。議員になると何もできなくなるのと同じ。今の議会制度に対抗する運動がつくれるかどうかが今問われているのではないでしょうか。投票率が約50%。なんでこんな選挙が有効なのか。その中で多数党が政権。こんな政治おかしいだろう。政党政治の限界がここにきています。

今は左の側が護憲で思考停止
当時のわれわれ極左は改憲派だった

――政党政治への対抗。

 一つはネットを通じたつながり。そのためには情報発信力が問われます。個人の努力だろうね。

――左派、リベラル派が衰退している要因はどう考えますか。

 左の側が護憲で思考停止しちゃっています。当時のわれわれ極左は改憲派でしたね。天皇制条項排除せよとか。

――護憲で思考停止。

 それが一番大きい。そして党派政治から一歩も抜けられていない。政党政治から抜けられない。共産党も結局、自分たちの党を支持せよということでしょ。それはおかしいだろうと。

 あと当時の左翼、諸党派、みんな同じ組織構造なんだよね。政治局があって、その下に中央委員会、その下に地方委員会……。社会党はよく分かりませんが、共産主義に関わる政党は全部そう。当時のソ連のコミンテルンの傘下に置かれたわけだから。その流れで粛清の策も持ち込まれてしまったと思うんだよね。

 宮本査問事件(編集部注:戦前の日本共産党スパイ査問事件)でちょっと問題になったわけだけど、結局その問題を、ショック死としてしまった。私らが「総括できないやつが敗北死した」と言うのと同じ考え方。まったく同じ思考構造。連合赤軍はもっと派手な形で出た。それは武装していて一つの権力になっていたから。武装するということは権力になるということ。一党独裁的にならざるを得ません。

――そういう組織構造がまずかったと。


そういう組織構造で革命をやるというのは、政党が権力を握るということ。だから一党独裁にならざるを得ません。官僚的軍事的機構が支配します。

――共産党や極左は今もそういった組織構造?

 進歩がないんですね。まだ昔の古い歌を歌っている。当時の赤軍派の連中なんかとたまに会っても、まだ昔の古い歌を歌っている。とてもじゃないけど、おもしろくもなんともない。だから支持にもつながらない。関わろうという気持ちにならないだろう。

――共産党だけを見ると評価が難しくて、ある時は政権批判票を受けて伸びたり、ある時は縮んだり。

 全体で見ると、進歩がありません。しかもロートル化もいいとこでしょ。我々の頃に共産党に入った人が今ものさばっています。

学校でも戦争、軍事を教え
国民皆兵制にすべき

――護憲で思考停止の政党というと。


記者が訪れた夜、酔った客が「植垣は人殺しなんて何とも思ってない」とからんだ。それまで笑顔で受け答えしていた植垣さんは「言っていいことと悪いことがありますよ」と真顔で答えていた

 社民、共産、立憲民主……。憲法改正を自民党が主導して言ってますが、左翼が憲法についてもっと積極的に発言していたら、左翼が力を持っていたかもしれない。ただ護憲であれ、改憲であれ、安保体制を打破しないと、自主的な憲法は絶対につくれない。要するに米軍の従属下にある限り、アメリカの意向を無視できない。

――植垣さんは憲法論議ではどんなお考えなんですか。

 安保条約を破棄したうえで、自主憲法制定。軍隊を持つか持たないかはあまり重要じゃない。大切なのは軍事を知るべきだ。日本人の悪いところは、学校でも戦争、軍事を教えないところ。そして国民皆兵制にすべき。武器の扱いを知るべき。軍隊を持っていてもそれがつぶれれば終わり。本当の戦いはそこからという面があります。

――左派政党も改憲を積極的に言うべきだという考え。極端な話、共産党も改憲を主張すべきと?

 言うべきだ。左翼の定義が変わるだろうね。左翼、右翼という区別がいまや意味を成していないわけですけど。左翼は護憲、右翼は改憲という固定観念は打破していかないと。
https://diamond.jp/articles/-/150175

元連合赤軍活動家・植垣康博氏インタビュー(3)
週刊ダイヤモンド編集部+
https://diamond.jp/articles/-/150184

革命はだめだめ
絶対に無理です


うえがき・やすひろ/1949年生まれ、68歳。「総括」の名の下に同志12人をリンチ殺人した「山岳ベース事件」に関わり、72年のあさま山荘事件直前に逮捕。懲役20年。98年出所。現在、静岡市でスナック・バロンを経営する。

――今の時代でも、革命は求められていると?

 何をもって革命か。どこかの政党、党派が暴力的に政権をひっくり返すのは革命ではなく、クーデター。ロシア革命もクーデター。政党が政権をもっちゃあいけない。革命は起こすものじゃない、起きるもの。起こそうとするとそこに無理が生じる。無理が生じれば、無理を押し通すことで問題を広げる。連合赤軍もそう。いろんな粛清もそう。……と私は総括してきました。

――過激派の中核派や革マル派は今も革命を狙っていると思います。中核派は一方で、国政選挙にも出ています。

 中核派は選挙出るけど、よくお金あるなあと感心している(笑)。当選しようという考えではないんだろうけど。

 革命はだめだめ、絶対に無理です。昔風のスタイルってのは絶対に無理。考えるのも行動するのも自由だけど、何もできない。

 彼らは所詮革命を起こそうとしている。でも誰も求めていないじゃないですか。革命はやはりどうにもならんという状況、例えば戦前の米騒動とか。民衆の動きに対応できるかどうかが問われている。

 今の政治体制への反抗が投票率の低さに表れていると思う。無関心というよりも拒否感。何をやっても変わらない。この拒否感が何らかのきっかけでぐっと盛り上がることはあると思う。今のいわゆる無党派層、昔風にいえばノンセクトたちがどう動くかで日本の政治はがっと変わるのでは。かつてノンセクト学生が大学紛争の主役だったように。

名前を出さない限り
大した力にはなりません

――ネット右翼についてはどうみていますか。

 所詮自分の名前を出さないでやっていて、どこまで本気で言っているのかなという印象です。名前を出さない限り、大した力にはなりません。わーわー叫ぶのは勝手ですが。ヘイトスピーチも大した力になっていない。名前を出すことはリスクがありますが、出してこその言論の自由なんじゃないかと。連合赤軍の問題でも匿名で出る人いるが、あれじゃあだめ。私みたいにちゃんと顔を出せよと(笑)。

――左派が衰退しているということは、逆に言えば、日本全体が右傾化しているとも言えます。

 日本経済の先が見えないことに対して無思考。考えないで行動してしまう。それが最大の問題ではないでしょうか。マスコミも右傾化してしまっている。朝日、毎日も右傾化しているように思う。朝鮮問題にしても振り回されている。私なんか「出来レースなんだからほっておけ」なんて思う。日本だけ良かれという国粋主義もあります。そういう意味では昔の右翼とは全然違う。

 最近感じるのは、40代後半から50代の世代は、団塊の世代に抵抗感がある。私らに締め付けられた。私らの世代が現役世代を退いたことで、いろいろ言い出したのかなという印象です。反発があるんじゃないでしょうか。団塊の世代がだいたい左だから、彼らは反発で右傾化しているんじゃないかなと。

――ところで植垣さんのスナックにはどんな人が来ますか。

 左翼も右翼も、私たちの学生時代にあった「行動力」に憧れて話を聞きに来る若い人も。やくざも昔刑務所で散々世話したから来ますよ(笑)。

 野村秋介(編集部注:1993年に朝日新聞東京本社で拳銃自殺した新右翼の活動家)の追悼会に、私も毎年呼ばれて行くんだけどね。いわゆる左翼でいえば、ただ一人。でも私は右翼にも結構好かれます。「右翼でも左翼でも最後までケツをふいたのは植垣ぐらいしかいない」という評価だそう。彼らは筋の通った生き方に憧れる。私は裁判闘争もやり、ハイジャックの際も出国を断りました(編集部注:植垣氏は77年に日本赤軍が起こしたダッカ日航機ハイジャック事件で釈放を要求された一人)。そういうところが大きいのだろうなあ。

要は義があるかないか
こんなこと言うと右翼もいいとこだけど

――左派、あるいはリベラル勢力と呼ばれる政党の議席が減ってきています。国民の間でも支持が減ってきているのかも。

 でしょうね。いや、どうかな。投票率50%ということは半分が日本の政治に関わっていない。そこがどう考えているのか。左翼に対しても批判的な層がそこに相当含まれているのかもしれないが。

――左派、あるいはリベラル勢力に対しての提言はありますか。


植垣さんの著書の一部。顔出し名前出しOKで堂々と語る植垣さんは「連合赤軍のスポークスマン」を自任する

 今の日本の方向性をちゃんと出すべきです。

 なぜ人気がなくなっているのか。党派政治の限界とか、いろいろある。私が右翼にモテることと関連するけど、肝心なのは一貫性。それはないわけね。何らかの行動もやってない。ただ騒いでいるだけ。行動が間違ってもいいのだけど、それに対する反省もない。

 フランス革命で『自由、平等、博愛』って言葉があるんだけど、博愛って実は「義」なんですよね。マルクスが最初に作ったグループも「義人同盟」なんですよね。義で同盟を作った人たちって意味。

 一貫性とかなんとか言ったけど、要は義があるかないか。こんなこと言うと、右翼もいいとこだけど(笑)。義を見てせざるは勇無きなり、なんてね。

――では自公に義があるかというとどうなのでしょうか。

 とてもないと思う。義で動くのは少数派かもしれないけど、義で動くかどうかってのも大事だと思うんですよね。

――10月の衆院選の結果についてはどんな感想をお持ちですか。

 こんなもんでしょう。自民党が大勝して、ますます日本はだめになっていくでしょうね。安倍(晋三首相)もかつてのような人気がなくなっているし。小池劇場なんか政治、吹っ飛んでいる。

――立憲民主党が野党第一党。

 一貫性を持っているような気もするが、さあどうなるかね。どれだけ一貫性を持ってやれるか。
https://diamond.jp/articles/-/150184


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c29

[リバイバル3] 苗場スキー場の元高級リゾートマンションが遂に10万円になった 中川隆
519. 中川隆[-11511] koaQ7Jey 2019年3月13日 06:46:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[484]


ホームレスではないが、限りなくそれに近いギリギリの一線にいる人たち2019.03.13


日本はバブルが崩壊した1990年代から底辺で貧困層が増え始め、自殺も3万人超えが普通になっていた。しかし、1990年代は「まだ日本は経済大国である」という自負もあったせいか、ほとんどの人は底辺の異常に気付かなかった。

この頃、「貧困」は日本人の意識外だったのだ。

その忘れられていた「貧困」が意識されるようになっていったのは2000年以降だが、ちょうどこの頃から製造業でも非正規雇用が取り入れられて拡大していき、若年層の貧困が目立つようになっていた。

正社員になれない人間が増えていき、ニートやフリーターが顕在化して社会に認識されるようになった。格差も拡大していた。これで、やっと日本人は社会の底辺で貧困がじわじわと広がっているのを知った。

この若年層の貧困が、日本人全体の貧困になっていったのは2008年以降である。その2008年には、世界経済を揺るがす経済事件も起きて日本を巻き込んでいた。何が起きたのか。リーマン・ショックである。

これによって世界経済は一気に不況に突入し、日本でも輸出が急激に減少し、企業は非正規雇用者の解雇と雇い止めと正社員のリストラを始めるようになった。(鈴木傾城)


2008年の個室ビデオ放火事件

日本の貧困化をさらに悪化させたのは、2009年から始まった民主党政権だ。民主党政権は日本の輸出企業を苦境に追いやる円高を放置し続けた。円高を放置することによって、日本経済を破滅に追いやろうとしているかのように何もしなかった。

日本企業は苦しみ抜いた。

それ以降、日本企業は工場を中国や東南アジアに移動させて、日本人を徹底的に切り捨てる生き残り策に出た。また円高で競争力を失ったので、企業を縮小させるためにも正社員をリストラし続けた。

民主党政権が放置していた円高によって、日本から雇用が消えて行き、リストラが増え、その結果として日本人がどんどん貧困化していくことになった。

2008年10月1日、大阪府大阪市浪速区でひとりの男が「個室ビデオ店・キャッツなんば」を放火するという事件があった。15人が死亡して、10人が重軽傷を負った。犯人の小川和弘は2014年3月6日、死刑が確定している。

この事件は、ひとりの人間が起こした事件で出した犠牲者は戦後最も多かったので、その部分がクローズアップされていた。しかし、この事件の本質は犠牲者数ではなく、犯人と犠牲者の境遇の方だった。

小川和弘はパナソニックの元社員だったが、リストラされて人生が変転していった男だった。さらに、小川の放火によって死んだ男たちも、その犠牲者の多くは「住所不定」「身元不明」の人間たち、実質的にホームレス寸前になっていた男たちだったのである。

一夜を過ごすために使っていた場所

「個室ビデオ店」とは、いったいどんなところか。ひとことで言うと、一畳ほどの閉ざされた空間に、PCとDVDプレイヤーが置いてあって、リクライニングマットで、ポルノを見て過ごす空間だ。

その多くはポルノを鑑賞するための用途で使われるのだが、実はこの空間はそれだけのためにあるわけではなかった。住所も仕事もない人間が、路上で寝たくないので、ここで一夜を過ごすために使っていたのである。

これを聞くと、誰もが思い浮かべるのは「マンガ喫茶」と「ネットカフェ」だろう。やはり、同じような個室があって、事情のある人たちがそこで寝泊まりしている。

日本では貧困層が増えているのに、ホームレスが減っているのは、実はここに理由があった。また、女性のホームレスもほとんど見ないのも、ここに答えがある。

2007年から2013年までの6年間でホームレスは64%も減少しているのだが、貧困層が減ったからホームレスが減ったのではない。

ホームレスに落ちるか落ちないかのギリギリのところで生活している人は、みんな「個室ビデオ店」「マンガ喫茶」と「ネットカフェ」と言った極狭空間に籠もるようになっていた。

こういった店も真夜中に泊まりに来る人間たちでビジネスをしている。

ナイトパックやステイパックという料金価格を用意していて、それを使うと7時間で1200円から2000円ほどで泊まれるようになっている。また、毛布貸し出し無料から、シャワーが無料で使えるコースもある。

日雇いの仕事をしながら、こういったところを転々としている若年層、あるいは中高年は、もう珍しい存在ではなくなっていて、それが貧困層の新しいライフスタイルにすらなっているとも言える。

ホームレスに落ちない程度に生きる

「ホームレスに落ちると終わりだ」という意識は誰にでもある。どん底の中のどん底がホームレスである。だから、誰もがホームレスに落ちまいと、最後の部分で踏みとどまる。

その最後の部分が「個室ビデオ店」「マンガ喫茶」と「ネットカフェ」である。しかし、一泊1500円から2000円もするので、それも決して安くない料金だ。

その金すらも出せないほど切迫した人間はどうするのか。24時間開いているマクドナルドで100円のコーヒー一杯だけでイスに座って夜を過ごす。

しかし、その100円すらも出せない人間は、24時間開いているレンタルビデオ屋などで、人目に付かないところで「立って寝る」のである。

昼間に身体を休めるにはどうするのか。図書館に行って可能な限り寝る。あるいは公衆トイレの個室で可能な限り寝る。そういったギリギリのところで、かろうじてホームレスに落ちない程度に生きている。

日本の底辺では「ホームレスではないが、限りなくホームレスに近いギリギリの一線」で生きている人間が、若年層のみならず、中高年にまで拡大している。

日雇い労働など、いくら続けてもそれで満足に暮らせることは絶対にない。その日をしのぐことはできるかもしれないが、むしろ長く「その日暮らし」になってしまって、永遠に這い上がれない。

しかし、日本の底辺ではそういった「ホームレスに落ちる一歩手前のライフスタイル」が定着してしまっており、永遠のその日暮らしを続けている人間たちが増えているのも事実だ。

蓄えが不足したまま仕事を失うと、場合によっては誰もがこの救いのないライフスタイルの中に堕ちていく可能性がある。リストラや非正規雇用や低賃金化が加速している危険な時代なのだから、誰もが他人事ではない。(written by 鈴木傾城)
https://blackasia.net/?p=11924
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/565.html#c519

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
30. 中川隆[-11510] koaQ7Jey 2019年3月13日 06:57:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[485]

植垣康博


植垣 康博(うえがき やすひろ、1949年1月2日 - )は連合赤軍の元活動家。
現在は静岡市葵区で「スナック・バロン」を経営。


静岡県金谷町(現・島田市)生まれ。父親は農場長で、町の有力者の一人。

静岡大学教育学部附属島田中学校から静岡県立藤枝東高等学校に入学。
地質学に興味を持ち1968年4月に弘前大学理学部物理学科に入学。

大学入学後、なりゆきで民青に加盟するが、学内活動においてはあくまでクラス代表としての立場を取り、必ずしも民青の方針に沿った活動をしていたわけではなかったので、民青幹部から批判を受けることもあった。一方で民青の指示により反代々木派学生の排除(反代々木派学生に対する暴行を含む)を行い、民青・共産党から一定の評価を得るも、反代々木派を全否定する民青に対し、植垣自身はむしろ反代々木派にも一理あると感じたという。やがて民青の反代々木派学生に対する暴行に嫌気がさすようになり、1969年4月に脱退。その後反代々木派に転じる。

1969年夏に弘前大全共闘を結成しバリケード封鎖を行う。その最中、福島医科大学の梅内恒夫が指導にやって来た際に共産主義者同盟赤軍派に誘われて同党派に参加。10.21国際反戦デー闘争に参加し(但し赤軍派から指示が来なかったので知人のつてで第四インターの隊列に加わる)、新宿で逮捕され、1970年12月中旬まで獄中生活を送ることになった。その後赤軍派の活動に復帰し、横浜・寿町で活動。また、早大生・山崎順(後に山岳ベース事件で殺害される)を獲得。

1971年に赤軍派として坂東國男の率いる隊に入り、山崎順らと共に「M作戦」と呼ばれる一連の金融機関強盗を行った。赤軍派が京浜安保共闘と統一して連合赤軍となると、兵士のリーダー的存在となり山岳ベース事件にも加担。榛名ベースの会議の席で相思相愛を表明した恋人の死に直面する。また、自身も総括要求をされ、一時は正座をするが、それ以上の殴打や緊縛には至らないまま有耶無耶になり、結果的に言葉以上の総括要求をされて生還した唯一のメンバーとなった。

1972年2月16日、妙義ベースに捜査の手が迫ると、植垣ら連合赤軍の残存メンバー9人は長野県佐久市に移動することを決定し、登山の経験のある植垣の先導で雪深い裏妙義を通って群馬県を脱出、長野県に入る。しかしその後、警察の包囲網を突破した気の緩みから、連合赤軍の持っていた地図にはまだ載っていなかった軽井沢レイクニュータウンに迷い込む。2月19日、連合赤軍メンバー3人と共に食料などを買出しに行った際、軽井沢駅で逮捕された(残った坂口弘ら5人があさま山荘事件を起こす)。

1977年9月に日本赤軍がダッカ日航機ハイジャック事件を起こしたとき、釈放要求メンバーに植垣も指名されたが、「日本に残って連合赤軍問題を考えなければならない」として要求を拒否した。また、連合赤軍事件の公判では森恒夫が自殺(1973年)、坂東國男が超法規的措置で釈放逃亡(1975年)と連合赤軍事件の公判において赤軍派出身幹部がいなくなっており、連合赤軍事件の被告人の中で赤軍派出身として裁判に臨む者は少なくなっていた(連合赤軍幹部として認知度が高い永田洋子と坂口弘は京浜安保共闘出身)。

一審、二審と懲役20年を言い渡され上告したが、1993年2月19日、最高裁も上告を棄却し刑が確定した。未決拘留期間が差し引かれ、残り5年半の懲役となる。1998年10月6日に出所。2005年、自らが経営するスナック「バロン」のアルバイト従業員である33歳年下の中国人留学生と結婚し、一男をもうける。

後年、植垣は12人同志殺しの山岳ベース事件について「集団狂気に陥ったり誰かにマインドコントロールされたわけではなく、集団を支える強固な論理構造があった。自分が森の立場だったら同じことをやってしまった可能性が高いと思う」と述べている。また、自身が生還できた理由については、「運が良かったとしか言えないけど、僕は手先が器用で大工仕事ができたからだと思う。幹部たちも僕がいないと小屋も作れない。技術が身を助けたのかもしれない」と述べている。

軽井沢駅で逮捕された理由

植垣は国鉄(当時)軽井沢駅で逮捕されたが、理由はふたつある。

体臭植垣は軽井沢駅のキヨスクでタバコを買ったが、山岳ベースでの逃亡生活のため風呂に入っておらず、悪臭が漂っていた。このにおいをかいだキヨスクの中年女性売店員が不審に思い、軽井沢警察署の署員に通報した。職務質問の際、長野市にない地名をしゃべったこと植垣は長野行きの普通列車に乗り込もうとしたところ、軽井沢署員に呼び止められ、職務質問を受けた。その際、「長野市内幸町の友人宅へ行く」としゃべったが、長野市には内幸町という地名はなかった。署員は「そんな地名はないぞ」と植垣を問い詰めた。これで逃げ切れないと感じた植垣は大立ち回りを演じた末、逮捕された。

著書

兵士たちの連合赤軍(彩流社)
連合赤軍27年目の証言(彩流社)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8D%E5%9E%A3%E5%BA%B7%E5%8D%9A
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c30

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
31. 中川隆[-11509] koaQ7Jey 2019年3月13日 08:09:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[486]

日刊ゲンダイDIGITAL 「告白」あの事件の当事者
連合赤軍元活動家の植垣康博さん静岡でスナック経営 2018/10/31
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/newsx/240648

「このところ、忙しいんだけど、お金は入ってこない。相変わらずの自転車操業だよ」

 元連合赤軍の植垣さんは、そうぼやいた。

 その表情に暗さはなく、以前会った時と同じように飄々としている。

 植垣さんは、連合赤軍が起こした山岳ベースにおける同志殺害や活動資金調達のための銀行強盗などにより、懲役20年の実刑判決を受けた。1998年の出所後は静岡市内でスナックバロンを営んでいる。

 植垣さんと最後に会ったのは、10年以上前のことだった。その時は彼の案内で、榛名山や迦葉山など、連合赤軍の山岳ベース跡を回った。

 そこは植垣さん自身が同志を殺め、連合赤軍の同志で当時付き合っていた恋人が亡くなった場所でもあった。

 そこでの態度も、特に感情をあらわにすることなく、冗談めかしく近況を語る時とまったく変わらぬ口調だったことが印象に残っている。



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植垣康博さん(提供写真)
植垣康博さん(提供写真)

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 11年ぶりに見る植垣さんは、口調こそ変わらぬものの、少しばかり痩せ、心なしか背中が曲がったようにも見えた。

 営業前の店内で話を聞いた。

 ――忙しいとおっしゃってましたが、やはり連合赤軍関連の取材ですか。

「そうだね。なぜか、このところテレビのドキュメンタリーとかで、インタビューを受けることや、山岳ベースを訪ねたこともあったよね」

 ――事件から、46年が経ちましたが、今も人々の記憶には強く残っているんですね。

「以前は集会をすると、同世代の人間が多かったんだけど、今はトークイベントなどにも20代から30代の若者も多いんだよね。こっちがびっくりしちゃうよね。それは、漫画の『レッド』や若松孝二監督の映画の影響も大きいんじゃないかな」


それにしても、事件を知らない若者たちはどんな思いで連合赤軍を見ているのだろうか。

「のびのび思う存分動き回れた時代で羨ましいです、なんて言う若者も多いよね。今と時代状況が違うから簡単には比較はできないけど、管理教育でがんじがらめの若者からしたら、あの時代が新鮮なんじゃないかな」

 私は思わず、うなってしまった。若者たちは、ひと昔もふた昔も前の青春譚として事件を認識しているのだ。

 仮に20代の若者だと、連合赤軍の事件は生まれる20年前のことになる。その感覚を昭和47年生まれの私に当てはめてみると、太平洋戦争と合致する。

 考えてみれば、私にとって太平洋戦争は、今では取材対象でもあるが、10代の頃には、パソコンゲームで遊んだりする仮想空間でもあった。

 昭和から平成さらに、来年には新たな元号となる時代の流れの中で、連合赤軍の事件は、若者たちによって新たな捉え方をされている。

植垣さんは、来年で70歳になる。事件に関する時代の変化を感じるとともに、日本の行く末や政治には今も一家言持っている。

「このままでは、日本はまずいことになるという思いはあるよね。ただ、安倍首相のひどさにみなが気づきはじめ、これまでにないほど日本を美しくない国にしてくれたうえに、混沌とした状況をつくり出してくれた。むしろ日本を変えるチャンスだと思うよね」

 ――どのような手段がありますか。

「さすがに武装闘争という時代じゃないからね。この経済優先の構造を変えていかないといけない。ただ、高度なテクノロジーは維持しつつ、人口が減っていくことを受け入れて、農業資源などを有効に活用していくことじゃないかな」

 日本の政治と社会に関わり続けていくことは、連合赤軍時代から現在まで変わらぬ姿勢である。 =この項つづく

(ルポライター・八木澤高明)
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/newsx/240648


連合赤軍元活動家の植垣康博さん「パパやったの?」2018/11/07
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/newsx/241136

「静岡で“スナック”と検索すると、最初に出てくるのがうちの店みたいで、地元では有名なんですよ」

 連合赤軍のメンバーのひとりだった植垣康博さんは言う。

 1972年2月に起きた連合赤軍によるあさま山荘事件は日本を震撼させた。その時に記録した最高視聴率は、89.7%でテレビ史上最高。いまだに破られていない。

 当時は今以上に左翼が影響力を持っていた時代ということもあり、連合赤軍にシンパシーを抱く者も少なくなかったが、事件後に榛名山や迦葉山の山岳ベースで仲間を殺害していた事実が明らかになると、おぞましさを感じる者も少なくなかった。

 戦後の日本社会を揺るがした事件の当事者である植垣さんは、どんな思いで、生活しているのだろうか。

「連合赤軍のことは死ぬまで向かい合っていかなければならないことだよね。それだから、このスナックを利用して、情報発信の場所としていきたいなと思っている」

植垣さんのなかでは、連合赤軍事件は現在進行形のまま続いている。

「店ばっかりじゃなくて、テレビや雑誌などにも、よく顔を出しているから、仲間からは“極左の芸能人”なんて言われているよ」

 店には、悩みごとを抱えた若者が訪れることも少なくないという。

「行ってみたいけど怖い店というイメージがあるらしいんだ。3回、店の前まで来て帰り、4回目にようやくドアを開けたなんてお客さんもいるぐらい。東京から来てくれる若者もけっこういるよね。今の学校教育というものが、政府に都合のいい人間をつくる画一化したものだから、そこからはみ出してしまうと逃げ場所がない。それで、ここに助けを求めに来る若者もいる」

 植垣さんには、離婚した中国人の奥さんとの間に中学生になる男の子がいる。彼も学校生活には馴染めていないという。

「離婚した時に、父ちゃんと母ちゃん、どっちと生活するかと聞いたら、父ちゃんがいいと言うので僕が面倒を見ているんだけど、学校には行ってないよ」

 ――そもそも、不登校のきっかけは何だったんですか?

「確か息子が小学校4年生の時に、連合赤軍のニュース映像と僕のインタビューがテレビで流れたんだよ。その時、僕は寝ていたんだけど、息子に『パパ起きて、本当にやったの?』と聞かれてね。嘘を言うわけにはいかないからね。それを同級生が見ていて、植垣君のお父さんは危ない人だとなってしまって、無視されたり遊んでくれなくなったりした。同級生の親も遊ぶなとか言ったんだろうね。それで学校に行くのが嫌になっちゃったんだ」

 植垣さんは苦笑いを浮かべながら、話を続けた。

「僕は学校なんて別に行かなくてもいいよという考えだから、気にもしていなかったけど、妻は学校が大事だという考え方で、意見が対立するようになって、離婚ということになったんだ」

――お子さんは昼間どうされているんですか?

「昼間は僕が家にいることができるから、一緒に映画を見たり、世の中のことを話したりしているよ。そもそも学校教育とは何かということから教えて、息子には学校に行かなくても生きていけると伝えている」

 革命を志した男の人生は、世間一般の常識では推し量れないようである。ただ、植垣さんは全く意に介しているようにはみえない。

 日々の生活に行き詰まった人は、植垣さんのスナックに足を運んでみてはいかがだろうか。きっと何か人生を生き抜くヒントが見つかるはずだ。 =この項おわり

(ルポライター・八木澤高明)
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/newsx/241136

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c31

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
32. 中川隆[-11508] koaQ7Jey 2019年3月13日 08:39:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[487]

2010年12月号掲載 おじさんの眼 「緑茶薫る遠州紀行」後編
http://www.loft-prj.co.jp/OJISAN/ojisaneyes/1012/

革命酒場バロン

 この日は、静岡市内に住む従兄弟と会ってそこに泊まろうと思って電話すると、誰も出ない。仕方なしに繁華街のホテルを取った。  夜は、あの獄中27年の元連合赤軍兵士・植垣康博氏の経営する「スナックバロン」に電話した。

植垣氏とは、ロフトプラスワンで何度も赤軍関連のトークをやっているし、元は同じ共産主義者同盟(ブント)で知り合いなのだが、どうも奴とは顔を合わせにくいと思っていた。

 それは一昨年、テアトル新宿で開かれた若松孝二監督作品「実録・連合赤軍、浅間山荘への過程」での公開トークショーで、植垣と塩見孝也(元赤軍派議長)と三人で、激しくやり合ってしまったからだった。

 その時のふるまいを謝る私に、電話に出た植垣は、「おう! 平野さん。是非店においでよ。そんなこと気にする必要はない」と言って、暖かく迎えてくれた。  バロンは、かつて開店記念の時に行った場所から静岡市内の繁華街に移り、店も大きくなっていた。植垣も、そしてお客の元左翼のオヤジ達も健在だった。不定期だが、プラスワンをまねて政治的なトークイベントもやっているみたいだった。

 相変わらず時代錯誤な論争が店内の客同士で展開され、若い子が東大闘争とか全共闘の質問をしていて、どこからか集まって来た老闘士が偉そうに解説しているのを、店長の植垣は、コップを洗いながらニコニコ笑って聞いている。まるでロシア革命前夜の、炭坑街の労働者が集まる酒場のように感じられた。

「この町には不似合いな時代遅れの酒場。三カ月は持たないと陰口をたたかれた(立松和平談)」と言う通り、メニューはまさに刑務所料理に毛の生えた感じだったが、その一つ一つに奴の誠意がこもっていて、それはとても美味しく感じられた。

「出所してから結婚して、子供がもう小学生になる。金も、年金もない。でも、刑務所生活を除けば、俺はまだ20代の青春真っ盛りなんだ。負けるものか」

と植垣がぽつんと言った。しこたま酔っぱらった私は、それを背中で聞いて深夜の店を出た。植垣は、多くの静岡の革命的同志から暖かく見守られているのを確認し、私は心から「よかったな植垣」と心の中でつぶやいた。


刑務所帰りと言ってももうシャバ生活10年もなる。なんだか解らん革命のために青春を刑務所で費やした。あの日々は何だったのか? 何を勝ち得て何を失ったのか、若い人は一度聞きに行くといい
http://www.loft-prj.co.jp/OJISAN/ojisaneyes/1012/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c32

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
33. 中川隆[-11507] koaQ7Jey 2019年3月13日 08:49:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[488]


スナック・バロン

〒420-0031 静岡県静岡市葵区呉服町2丁目5−22

電話: 054-221-5236

新静岡駅から368m

地図
https://tabelog.com/shizuoka/A2201/A220101/22021664/dtlmap/


スナック バロン - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%B9%E3%83%8A%E3%83%83%E3%82%AF+%E3%83%90%E3%83%AD%E3%83%B3+%E6%A4%8D%E5%9E%A3%E5%BA%B7%E5%8D%9A


植垣康博(@YasuhiroUegaki)さん Twitter
https://twitter.com/yasuhirouegaki
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c33

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
34. 中川隆[-11506] koaQ7Jey 2019年3月13日 08:54:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[489]

スナック「バロン」の15周年|鈴木邦男の愛国問答-第198回 2016年5月11日


 5月7日(土)、静岡に行ってきた。スナック「バロン」15周年記念だ。でも、ここはただのスナックではない。集まった人たちも、昔、学生運動をしていた人が多い。左翼が主だが、右翼もいる。又、脱原発や人権などの市民運動をしている人が多い。「普通の人」はあまりいない。普通の「酒場の客」はいない。

 このスナック「バロン」のマスターは、実は元・連合赤軍の活動家の植垣康博さんなのだ。

『兵士たちの連合赤軍』(彩流社)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4779120519?ie=UTF8&camp=247&creativeASIN=4779120519&linkCode=xm2&tag=magazine9-22


という名著を書いている。詳しいし、それでいて読みやすい。一般的に連合赤軍を調べ、報道しようとすると、皆、この本を読み、そして植垣さんに会う。連合赤軍事件を知るためのテキストだ。そして植垣さんは連合赤軍事件の〈顔〉だ。テレビで連合赤軍が取り上げられる時も、植垣さんが出ることが多い。植垣さんは「兵士」と言っている。その上に幹部たちは沢山いる。しかし、森恒夫、永田洋子は亡くなり、他の幹部たちも獄中にいたり、海外に行ったりして、いない。いる人でも、語りたがらない。「失敗」体験をいくら言っても仕方ない、と思っているのだろう。だから、どうしても植垣さんの所に取材が集中する。又、静岡でスナックをやっているし、誰でも行って、会うことができる。そこで取材の約束もとれる。あるいは客が少なかったら、そこで取材も出来る。又、そこで時々、トークイベントもやっている。ライターや評論家、元活動家を呼んで、トークをやっている。僕も何度かトークをやった。又、格別、用事がなくてもブラリと行ってみることもある。

 植垣さんは弘前大学に入り、そこで赤軍派に入る。「M作戦」をやらされる。「マネー」(資金獲得作戦)だ。いくつかの銀行を襲い、大金を奪う。それが全て成功する。又、ダイナマイトを工事現場から盗む。武装闘争のためだ。連合赤軍が出来てからも参加。山で武装訓練をやり、下りて権力と全面的な闘いになるはずだった。ところが、連日の会議の中では、参加者への批判・攻撃が中心になる。山の中にいて、権力と闘えないもどかしさ。運動はどんどん小さくなる。活動家の力量も落ちている。立て直し、鍛え直さなくては…と森、永田たち幹部は思ったのだろう。それが「総括」の始まりだ。一人ひとり、総括させる。自分の非力・失敗を認める人間には、なぐる、蹴るの総括が加えられる。初めは自分で自分をなぐらせる。でも、あまり効き目がない。「皆で、援助してやれ」となる。「援助総括」だ。その人間が反省し、再生するための手助けだ。でも実際は、ただなぐる、蹴るの暴行だ。そこで死亡する人も出る。

 「総括」をしきれなくて死んだ。だから革命家としては、これは「敗北死」だ。森たちは断定した。そのうち「化粧してくるのは自覚がない」「寝たまま、他人にティッシュをとってくれと言った」…と批判される。「理屈」はどんどんエスカレートする。だが、植垣さんは主体的にかかわる。初めは嫌だったが、途中から「やるしかない」と思い、積極的に援助総括をする。総括する人間をしばり、皆でなぐり、さらにナイフで刺す。アイスピックで刺す。でも、人間はなかなか死なない。これでは、苦しみを長びかせるだけだ、と思い、首を絞めて殺してやった。

 事件の後、逮捕され、その後、27年間も刑務所にいた。刑務所の中で必死に書き、そして獄中から『兵士たちの連合赤軍』を出した。それまで僕は、この事件にさほど関心がなかった。ともかく酷い話だし、残忍な事件だ。我々の運動とは全く関係がない、と思っていたが、読んで驚いた。左翼の運動ってこんなに楽しいのかと思った。又、銀行強盗にしても、明るく書いている。「終わったことだし、これからやることもない」という割り切りがあるから、明るく書けるのか。ともかく驚き、書評を書き、それを出版社にも送ったら、出版社がそれを東京拘置所にいる植垣さんに送ってくれた。そしてすぐに本人から手紙がきた。それで、本人に会いに行った。〈連合赤軍〉と会ったのは、全く初めてだ。手紙のやりとりが続き、刑務所を出た時、彼は実家のある鳥取に帰った。僕はすぐに鳥取に行き対談し、それが月刊『創』に載った。それから、ロフトや雑誌、新聞などで何回も何回も対談した。何十回かもしれない。

 初めは鳥取にいた植垣さんだが、昔の仲間たちが静岡に呼んでくれ、店も用意してくれた。あの植垣さんがマスターだということで、初めの頃は大盛況だった。でも、女の子がいるわけでもないし、客は固定化する。コアな客だけになると、一般の人は入りにくい。それで店の経営も大変だ。でも、大変なのに15年も続いた。たいしたものだ。それで、植垣さんの努力と忍耐をたたえるパーティになった。この日はなんと、植垣さん自らが司会をやる。それもすごい。昔の仲間や反対の右翼の人、作家、マンガ家などを紹介し、挨拶してもらう。作家の山平重樹、マンガ家の山本直樹、元兵庫県警の飛松五男…などが紹介される。皆、「よくがんばった。これからも10年、20年とやってくれ。死ぬまでやってくれ」と激励する。

 でもなー、と僕は思った。いつまでもスナックのマスターでは勿体ない。いい本を書いているんだし、もっともっといろんな場で話してほしい。活躍してほしい。連合赤軍の失敗や教訓についても一番語れる人だ。本当なら作家一本でやってもらうとか、あるいは大学の先生になってほしい。静岡の酔っ払い相手に酒を飲んでいるだけじゃ、勿体ない。「国家の損失だ!」と思ったから、そう言った。「15周年で終わりにしたらいい」「20周年はいらない、30周年もいらない。植垣康博をスナックという、この小さな檻から解放しろ!」と言った。でも、不評だった。僕こそが一番、植垣さんのことを考えていると思ってたのに。

 しばらく本が出てなかったが、今年の夏には久しぶりに本が出るという。出所してから考える連合赤軍事件について書くという。これは楽しみだ。今、連合赤軍はないが、日本社会はむしろ全体的に「連合赤軍化」しているのではないか。小さなアラを見つけて批判し、罵倒する、つぶす。テレビ討論でも、出版される本でも、他人を批判し、他国を罵倒するものばかりだ。それでいて自分のことを「愛国者」だと錯覚している。とんでもない。「愛国者」に愛はない。

 失敗したとはいえ、昔の学生運動家のほうが愛があり、夢や理想があった。そんなことを僕も植垣さんに聞いてみたい。又、〈極限状況〉を見て、耐えてきた人だ。そこから学んだこと。又、地獄をくぐり抜けた先から見た、この日本。そうしたことを具体的に聞いてみたい。そんな本を出したい。スナックはもういいだろう。誰にも出来ない体験をした人だ。それを基に、広く言論活動をやってほしいと思う。
http://www.magazine9.jp/article/kunio/27740/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c34

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
35. 中川隆[-11505] koaQ7Jey 2019年3月13日 09:13:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[490]

連合赤軍を巡る 【1】 スナックバロン・植垣さん 2010-11-25
https://blog.goo.ne.jp/akame_2005/e/a3f14860b74fd2d5e580ea38d9afdff4

前回、前々回と静岡について書いてきましたが、わたしが静岡に行った理由は「おでん」でも「ガンダム」でもなく、元連合赤軍兵士・植垣康博さんに会うためでした。


植垣さんについて少しばかり。
植垣さんはもともと静岡の出身ですが、地質学への興味から弘前大学へ。
ここで全共闘運動に身を投じ、頭角をあらわした頃、赤軍派と接触。メンバーである坂東國男氏率いる「坂東隊」の一員となり、資金調達のためのM(マネー、マフィア。要は強盗行為)作戦を数々こなしていく。(植垣さん著の『兵士たちの連合赤軍』においては、ここらへんまで非常にあっけらかんと、明るい青春物語のように描かれている)

やがて赤軍派が革命左派(京浜安保共闘)と共闘、連合赤軍を結成するに至り山岳ベースへ合流。
同志殺しに積極的に関わり、最後は他3名と買出しに行った折、軽井沢駅において逮捕される。
この時すでに、「粛清・逃亡・逮捕」によって連赤メンバーは9名にまで減っていた。
植垣さんたち4名の逮捕後、残りの5名があさま山荘に立て篭もり、銃撃戦を展開することになります。


植垣さんと初めてお会いしたのは今年の5月に行われた「リッダ闘争38周年記念パーティー」において。
司会進行をしていた足立監督が、参加者にそれぞれ一言を求めたわけですが、その時わたしも求められたのです。
普段は大勢の前だと、緊張して何喋ってんだか途中で分からなくなるような小心者ですが、この時、なぜか言いたいことがスラスラと言えました。
たしか、以下のようなことを喋ったのだと思います。


「70年安保を中心とした学生運動のドキュメントを撮りたいと思っている」
「ある人に『君はなんだ。興味本位か』と言われた。それをみなさんに言われたらおしまいだが、それでもやらなければならないと思う」
「思想的なことは抜きにして、皆さんがやったことは歴史的に意義があることだと思う」


この時、向かいの方に座っていた若松監督(『実録・連合赤軍』『キャタピラー』)が「そんなもん、興味本位でいいんだ!!」と叱責交じりに檄を飛ばしてくれました。

「興味本位でいい」

今日に至るまで、この一言がわたしをどれだけ奮い立たせたか知れません。


話が終わると、5人くらいの方が名刺を渡しに来て下さり、その中に、植垣さんもいました。

もちろん以前から名前やプロフィールは存じ上げており、こちらから名刺を渡して取材のお願いをしようとも思っていました。
これは願ったりかなったりだ、と取材の申し込みをさせていただくと、すんなり「いいよ」。

そしてアウトサイダーアート展でもお会いし、改めて、ちゃんとお願いしよう、ということで今回植垣さんの経営されている『スナック・バロン』にお邪魔した、というわけです。

当日はあいにくの雨降り。
7時開店とのことなので、少しコーヒーなど飲んで暇をつぶしてから、市役所近くにあるというバロンを目指しました。

駅からやや歩き、市役所を見つける。
この近くか、とキョロキョロしながら向かいの雑居ビル郡の看板を見回すと・・・

あった。

ふしぎな酒場 スナックバロン。


中に入るとけっこうな雨のせいか、客はおらず。このまま0時過ぎまで、ずっと二人でお話させていただけました。
ちなみにいつもこうかと言うとそんなことは無く、わたしが前もって電話したときは非常に忙しそうで、二度にわたり「ゴメン、今はちょっと忙しいからあとで!」となりました。

「僕のこと、おぼえてますか」
そう聞くと植垣さんは「ああ、なんとなくね」とのこと。とりあえず生中を頼み、思い出してもらうべくアウトサイダーアート展で撮った写真を渡し、リッダ闘争38周年記念パーティーのことなどをお話しする。


ここからは覚えていることまで。
というのも、しっかり飲んでしまったため、記憶が曖昧なのです。また、話が非常に興味深く面白い。話しているとお酒がうまくなる。
植垣さんはそういった人柄の方です。

以下、メモを頼りに。


連合赤軍事件は、挑戦して失敗した世界である。

森氏・永田さん・坂口氏らに対し、恨みは持っていない。
しかしその後の裁判ではもっと頑張れたのではないか。(※1)

殲滅戦とは
相手の戦闘能力を無くすこと。殺すことではない。それが何時の間にか殺すことになってしまった。

革命を、起こした後どうするか、なんてことは考えていなかった。
後は誰かがどうにかしてくれるだろう、と。とにかく革命を起こさねば、という気持ち。

植垣さんをオルグした梅内さん
大阪のどこかにいるらしいが、詳しくは不明。別に隠れてるわけじゃないんじゃないか、と。

進藤さん(坂東隊の一員。総括により死亡)のお連れ合いだったMさんについて。
元芸者さん。
連赤事件後はタクシーの運転手と結婚。しかしその方は労働組合のリーダーをやっていたため、会社の雇ったヤクザに殺される。
現在は大阪の某所に。

ダッカ事件で日航機に乗り合わせていた乗客がバロンに来たことも。
ハイジャック時、丁寧な物腰だった実行メンバー(日本赤軍)たちに「なぜこのような人たちがテロをやるのか」と疑問に持ち、その話を聞きたく、植垣さんを尋ねた。

『実録・連合赤軍』について
植垣さんとしては不服。若松監督の思いが強すぎる。『レッド』の方が余計な演出もなく、事実に忠実である。(※2)

今、語ることは辛いか。
ぜんぜんそんなことはない。

逮捕された時の映像。すごい怖い表情だったが。
あれは凍傷で足が痛かった。(※3)

不屈というか、極限状態でも常にポジティブだが・・・(総括要求されても、最初は笑ってごまかしていたほど)
基本的に目の前の問題に常に前向きに取り組む。挫折とは無縁。

本であまり描かれなかった部分。死臭について。
それはもう、ひどいもんだった。(※4)


以上です。

(※)についての補足。
(※1)連合赤軍の指導部・トップの3人。
リーダーであった赤軍派の森恒夫氏は、永田さんと共に逮捕された後、自らの犯した過ちに耐え切れず拘置所内にて73年1月1日自殺。
ナンバー2的立場で、森氏と共に同志粛清体制を敷いた革命左派・永田さんは、逮捕後数々の本を上梓。死刑が確定しているも、現在病床にて重度の意識障害と危篤を繰り返す。
かつて永田さんと事実婚状態にあったナンバー3の革命左派・坂口氏はあさま山荘で最後まで銃撃戦を闘い、逮捕後は手記や歌集を執筆。死刑確定。

(※2)若松監督が粛清で殺された遠山さんを物語前半の主人公としたのは、彼女が監督自身の作品『赤軍 - PFLP 世界戦争宣言』の上映運動を担う一員だったから。(本人談)
この上映運動のメンバーには、後にリッダ闘争で銃撃戦を行う岡本公三氏も含まれている。
あらゆる面において「監督の思いが強くなる」のは仕方のない事だと思う。映画は映画なのだから。一方で当事者として一言があるのもまた、仕方のない事ではないでしょうか。その意味で極めて地味だが作品としてものすごく尖っている『レッド』(山本直樹先生によるイブニング連載・連赤事件をモチーフにした漫画)を推すのは必然かもしれない。

(※3)この映像、2:59付近に若き日の植垣さん、逮捕直後の様子が。

こわい。

(※4)なぜこのようなことを聞いたかというと、植垣さんの『兵士たちの連合赤軍』においては、極めて整然とした文章で総括とそれによる死の様子が描かれている。
これは反省的な文章を避け、事実をありのままに読んでもらいたい、という思いからですが、実際に総括を受けた方々は縛られた上にいわゆる「垂れ流し」を強いられ、ボコボコにされて死んでゆく。
このような凄惨な状況で「臭い」があまり語られないのが個人的に不思議でしょうがなかったからです。おそらく麻痺していた、というのもあるとは思うのですが・・・
植垣さんたちが逮捕された原因のひとつに、駅の売店員が感じた悪臭というものがあるのですが、これはおそらく死臭もまざっていたのではないか、と思います。

わたしはこの後吐くまで飲み、フラフラで宿に戻りました。

余談ですが、何かのキッカケで「隣駅のガンダム観にいってました」という話になりました。

ガンダムと言えば思い出される何人かの方々のうち、キャラクターデザインで今も漫画『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』を連載している安彦良和先生。
彼は弘前大学時代の植垣さんの先輩にあたり、学生運動(反戦委員会)のリーダーを務めていました。
後にそれが原因で除籍処分を受けるそうですが、植垣さんの著書『兵士たちの連合赤軍』によると
「元民青の幹部で、今日でこそアニメーション映画で活躍しているが、その当時は、多くの学生から信頼されていた活動家だったのである」
とのことです。


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コメント

1972年琉大でも殺人があった (びせ)2013-11-02 23:57:49

1972年沖縄・琉大でも中核派による殺人がありました。
殺す相手は革マル派の幹部のつもりだったようですが、実際殺されたのはなんの関係もない一般の学生でした。中核派は自分たちの新聞に「今は戦時中で、彼(安里君と行った)は流れ弾に当たったんだ」と書いてあったそうです。

当時現場にいた私の友人は警察から呼ばれ、裁判に赴き、「犯人は被告席の男だと証言した」と言っていました。彼の証言を聞いて傍聴席にいた女性が大きな声で「ワー」と泣き喚いたと言っていました。被告の彼女だったんだろうと言っていました。
https://blog.goo.ne.jp/akame_2005/e/a3f14860b74fd2d5e580ea38d9afdff4
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c35

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
36. 中川隆[-11504] koaQ7Jey 2019年3月13日 09:39:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[491]

連合赤軍を巡る 【2】 榛名ベース - ちくわブログ 2010-12-24
https://blog.goo.ne.jp/akame_2005/e/26d040e8cfda56ee74bc95b848d3cdd6


前回のエントリ 連合赤軍を巡る 【1】 スナックバロン・植垣さん にて静岡を訪れ、そのままある方にお会いするため大阪に向かいました。しかし40年前の縁を手繰り寄せるのは、わたしのような者にとって簡単には行かず、断念せざるを得ない状況となりました。

一旦東京に戻り、今度はすぐさま群馬へと向かいました。群馬、長野をまたいだ「連合赤軍」に関する場所を巡るため。
案内して下さったのはメル斗さん。

以下は当日つけた記録に加筆したものです。


高崎駅にてメル斗さんと待ち合わせ。会うのは実に4年ぶりくらいか。

以降車にて移動。
小川伸介監督の学生運動ドキュメント映画『圧殺の森』の舞台となった高崎経済大学前を通る。
その近くに、進藤氏・Mさんが夫婦と偽って借りたアジトがあるというので、だいたいの場所を見る。


熊よけの鈴を買い、昼飯を食い榛名山へ。

【榛名山とは・・・(以下wiki)
榛名山(はるなさん)は、関東地方の北部の群馬県にある上毛三山の一つであり、古来山岳信仰を受けてきた山である。山の南西麓に榛名神社が祀られている。】


ベース付近を尋ねる前に、総括によって殺されたメンバーの方々を慰霊するための小さな碑があるというので、そこで手を合わせて行くことにした。
近くの寺の住職が建立したというもので、地主さんの都合で二度の移動を余儀なくされた。実際に殺された方々が埋められた場所は、養鶏場となっている。
その、養鶏の慰霊碑の真横に、ボタ石のような小さな碑がある。それが慰霊碑だった。

なんの因果で養鶏の慰霊碑の真横にあるのか分からないが、養鶏のものよりずっと小さく、泥にまみれてそれはあった。

手を合わせ、撮影する。
その後、花をやり、線香をたく。そして恐らく彼らの唯一嗜好品だったであろう、煙草をつけてそなえる。
漫画『レッド』の一場面、久々の煙草にクラクラする場面を思い出した。

慰霊碑の小ささ、ぞんざいさに、この事件の世間からの評価が見てとれたような気がした。
「彼らは英雄として死んだわけではないからねえ」
メル斗さんが言った。


次いで、榛名湖を横目に榛名ベース付近を目指す。
人けのない、奥まった山の道に車を止め、静まり返った山道を少々歩く。

沢の付近にあったらしいが、今はもう何もない上、道がなく急勾配で危険な場所に予想地点があるという。
仕方なく、付近を撮影。

うっそうとした木々の奥に、沢の流れる音が静かに響いていた。
どう思おうにも、ただの山であるので、なんとも感じるものは無かった。「こういう気持ちで来なければ、山道として気持ちいいとか、空気うまいとか思うんだろうな」と考えた程度。
自分は想像力が貧困なんだろうか。

ここでも線香をあげ、花を供える。
榛名ベースにて総括、死刑よって殺されたのは以下の8名。(死亡順)


・尾崎充男 (革命左派)
・進藤隆三郎 (赤軍派)
・小島和子 (革命左派)
・加藤能敬 (革命左派)
・遠山美枝子 (赤軍派)
・行方正時 (赤軍派)
・寺岡恒一 (革命左派)
・山崎順 (赤軍派)


いわゆる「山岳ベース事件」は、その殆どがここで行われたことになる。
次の迦葉ベースで3名、最後の妙技ベースで1名。

死が普遍的なものになるにつれ、それに対する感覚は麻痺し、最後の2名、寺岡氏と山崎氏に関しては総括ですらない「死刑」によって殺されている。そしてそれを「たいへんな闘争をやりきったなあ」と何の罪の意識もなく、それどころか充実感を持って迎え入れている。


これを「人間のやることではない」「われわれとは違う」とうっちゃることは簡単で、若い人々からすればそう思われてもまったく仕方ないことだと思う。
実際、あの状況に追い込まれても集団心理が働いているとはいえ、さすがに「逃げる」という選択肢をとるだろう。
でも、彼らとわれわれでは圧倒的に環境、時代、社会が違っている。
さまざまなものが違っている。違いすぎてる。
何より、戦後という歴史の捉え方が違っている。

世代論で語るのもどうかと思うけど、それでもやっぱり、わたしとわたしの親世代では、ぜんぜん違う。
ましてや、今の10代にしてみれば、まったくの異次元、理解不能の出来事と言っても過言ではないだろう。


その「違うもの」から生まれ出た異形のものが何だったのか、それが知りたい。


次に迦葉山のベース付近に向かう予定だったが、日が落ちてきたので明日にまわすことに。
https://blog.goo.ne.jp/akame_2005/e/26d040e8cfda56ee74bc95b848d3cdd6
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c36

[リバイバル3] アメリカの有名大学では金で合格を買える 中川隆
6. 中川隆[-11503] koaQ7Jey 2019年3月13日 09:46:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[492]

人気女優ら50人、裏口入学関与で訴追 米
3/13(水) 5:25配信 AFP=時事


米女優のフェリシティ・ハフマンさん(左、2018年9月16日撮影)とロリ・ロックリンさん(右、2017年1月18日撮影)。【翻訳編集】 AFPBB News


【AFP=時事】米検察当局は12日、子どもを名門大学に裏口入学させるための総額数千万ドル(数十億円)の詐欺行為に関与した疑いで、米ドラマ「デスパレートな妻たち(Desperate Housewives)」のフェリシティ・ハフマン(Felicity Huffman)さん(56)と「フルハウス( FULL HOUSE)」のロリ・ロックリン(Lori Loughlin)さん(54)の人気女優2人を含む50人を訴追したと発表した。

【写真】「フルハウス」の共演者と並ぶロックリンさん

 訴追された人々には企業幹部、資産家、ワイン醸造業者やファッションデザイナーも含まれ、自身の子どもをエール大学(Yale University)、スタンフォード大学(Stanford University)、ジョージタウン大学(Georgetown University)、南カリフォルニア大学(USC)などの名門大学に入学させるため、入学試験での不正や贈収賄を行った疑いが掛けられている。

 依頼人らは、カリフォルニア州在住のウィリアム・リック・シンガー(William Rick Singer)被告が運営する偽の慈善団体に巨額の謝礼を支払い、米大学進学適性試験の「SAT」や「ACT」での不正や、本来なら大学のスポーツチームに入団できない子どもをスカウトさせるための大学職員やコーチらへの賄賂の手配を依頼していたとされる。

 ハフマンさんとロックリンさんを含む33人の保護者に対しては、詐欺共謀の疑いが掛けられている。事件が立件されたマサチューセッツ州ボストンの検察当局によると、裏口入学の料金は20万〜650万ドル(約2200万〜7億2000万円)で、シンガー被告は保護者らから総計約2500万ドル(約28億円)を受け取っていた。【翻訳編集】 AFPBB News
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190313-00000003-jij_afp-int
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/933.html#c6

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
37. 中川隆[-11502] koaQ7Jey 2019年3月13日 09:54:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[493]

連合赤軍を巡る 【3】 迦葉ベース・妙義ベース 2010-12-26
https://blog.goo.ne.jp/akame_2005/e/1b340ad73ebaedcd4d9aa646451ed226

前日、日が暮れて断念した迦葉山からまわる事にしたため、朝の8時から行動開始。メル斗さんとホテル前で待ち合わせ。

高速を使い、迦葉山へ。

【迦葉山とは・・・(以下wiki)
迦葉山(かしょうざん)は、群馬県沼田市上発知町に位置する、標高1322mの山である。
古くから「天狗の霊峰」と称され、中腹には弥勒寺が鎮座する。迦葉山信仰として講が組織され、関東をはじめとする広範な信仰を集めた。】


細い道へ入る山道の近くに車を停め、ベース付近へ進む。
沢の近くを歩く。空気もうまく、普通に来たなら観光として楽しめる山道だろう。

やや歩くと、ベースの目印となった“タンク岩”と呼ばれる巨大な岩が。

そこから少し歩き、小さな橋を渡り、川の曲がっているあたりを撮影する。恐らく、このあたりにあったのではないか、と・・・

山から降り、連赤メンバーが連絡に使ったバス停を見学することに。ちょうど、「間もなく迦葉山」と記してある天狗の看板が見える場所にある。

バス停は古びたものだが、昭和50年くらいに建て替えれられたものとのこと。


迦葉ベースにて総括によって殺されたのは以下の3名。(死亡順)


・山本順一 (革命左派)
・大槻節子 (革命左派)
・金子みちよ (革命左派)

金子みちよさんのお腹には、後にあさま山荘で銃撃戦を展開する吉野氏との間にもうけた子供がいた。

この後、殺された山本氏(夫人、生まれたばかりの赤ん坊と共に一家で山岳ベースに参加していた)の夫人が脱走。続いて革命左派の前沢氏も脱走する。
さらに革命左派・中村さんが連絡のために乗ったタクシーで、自殺志願者と間違われ通報される。この時抱いていた山本氏の子供も保護される。

次いで妙義山へ。
【妙義山とは・・・(以下wiki)
妙義山(みょうぎさん)は、群馬県下仁田町・富岡市・安中市にまたがる標高1,104メートルの山である。
赤城山、榛名山と共に上毛三山の一つに数えられる。急勾配の斜面と尖った姿が特徴的で日本三大奇勝の一つである。また、国の名勝に指定され、日本百景に選定されている。】


来る途中にも、特徴的な切り立った山の姿が面白く、一度車を停めてもらい、その姿を眺めた。

山道付近の宿舎前に車を停め、熊除けの鈴をつけ、山に入る。

今までとは違い、そこそこに険しい道で、道というより獣道。三脚はメル斗さんが持ってくれたが、5Dmk2とDVX100を首からぶら下げた身にはいろいろとつらく、気温の低さにも関わらず途中で汗が噴き出してきた。


ある程度の深さまで入ったが、これより先は本格的に厳しい道をしていた。今日中に向かわなければいけない、軽井沢のあさま山荘までに日が暮れるのでは元も子もないので、それらしいもの、を見つけたが違うのではないか・・・と結論。付近を撮影し、下山した。

妙義山ベースは簡易的な洞穴のベースであり、外から見ればただの岩で、現存しているというので期待して行ったが、残念だった。


妙義ベースにて総括によって殺されたのは以下1名。


・山田孝 (赤軍派)

山岳ベースの総括による最後の死者。
山田氏は赤軍派の政治局員で、本来だったらリーダーである森氏より序列が上の人。総括にかけられた直接の原因は「任務中に銭湯に入ったから」というささいなもの。

最後の言葉は「総括しろだって! ちくしょう!」

https://blog.goo.ne.jp/akame_2005/e/1b340ad73ebaedcd4d9aa646451ed226
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c37

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
38. 中川隆[-11501] koaQ7Jey 2019年3月13日 10:02:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[494]

連合赤軍を巡る 【4】 あさま山荘 2010-12-27
https://blog.goo.ne.jp/akame_2005/e/13efc6677a07ca3ddf571fc3a84de869

迦葉山、妙義山を歩いた後、軽井沢に移動。あさま山荘のある別荘地へ。
途中、有名な“治安の礎”を見学。線香をあげ、手を合わせる。これは主に、亡くなった二人の機動隊員に対するもの。


供え物には割と新しいビール、酒等が置かれていた。
定期的に誰かが来ている様な気配だった。

今の時期はオフシーズンのため、別荘地はゴーストタウンのように閑散としていた。
また店舗物件には空き家も多く、バブルの名残を感じさせた。
山道をぐるぐる車でまわること数分。

目の前に浅間山が見える素晴らしい立地に、あの、見た事のある山荘が。
「ああ、これか」と一目で分かった。身震いするほど脳内と同じものが、目の前に現れた。

事件当時から下の部分が増築されているが、形や雰囲気は不思議に思うくらいそのまま残っている。
ただ圧倒的に屹立していて、他の別荘郡とは一線を画していた。
幾度もテレビ等で見た、坂口氏がガラスを割って顔を見せるシーン。機動隊突入時に彼らの主戦場となったベッドルーム“いちょうの間”もそこから見える。

あさま山荘に立て篭もったのは、坂口弘(革命左派)・坂東國男(赤軍派)・吉野雅邦(革命左派)・加藤倫教(革命左派)・加藤元久(革命左派)の5名。

道を回ってメンバーの侵入ルート、つまりモンケンで破壊された壁の部分が見える上部分から山荘を見ることに。
その道中、隅の方に小さなお地蔵さんが。ある方が匿名で、犠牲者三名(民間人1と機動隊員2)を慰めるために建てたものという。ここにも手を合わせる。

道には屋根部分が面していた。モンケンによる破壊作戦を行うため、おそらくここに重機が横付けしたのであろう、と思われる小さな駐車場もある。

主に攻防はこちらで行われていたという。こちら側にいくつもの銃眼が作られ、機動隊と交戦した。
報道資料でよく見るのが反対側のため、印象はあちらが強いが、まさにここが戦場となったのだ。

あさま山荘の銃撃戦では連合赤軍メンバーによる銃撃により、3名の死者が出ている。

・田中保彦さん (民間人)
・高見繁光 中隊長
・内田尚孝 警視

田中さんは新潟でスナックを経営していたが、この事件を知り、機動隊の阻止線をかいくぐってあさま山荘まで駆けつけた。
バリケード封鎖された玄関口で「文化人だからあなた方の気持ちは分かります」と言い、人質の牟田夫人との身代わりになることを求めたが、中からの坂口氏による忠告が届かず、警察側のスパイとみなされ銃殺されてしまう。
坂口氏の『あさま山荘1972【下】』には、短くではあるけど、田中さんという人物について描かれている。
一人の男が歩んだ少し寂しい人生が、ひとつの事件と交差したことで起きた悲劇だけれど、それを気にしたり同情したりする人はもう、殆どいないのかもしれない。


山を降りたころにはすっかり暗くなっていた。
せっかくだから、と、植垣さんたちが逮捕された軽井沢駅へ。駅舎は新しく建て替えられているが、当時のものも保存されているとのこと。
もう遅い時間で閉まっていたが、建物の全容を見ることはできた。

すぐ横に派出所があり、植垣さんはここに連れてこられたのか、ストーブを蹴ったという交番はここなのだな、と思い、納得したりした。

交番内には、今でもそこかしこで見る、赤軍の手配書。
この事件はまだ終わっていないんだ、といつも思う。

この旅から帰って二日くらい、頭が重く、なんだかボヤボヤとしたものが心にあった。
何なのか分からないが、憂鬱とも違う感情にとまどった。
おそらく、客観視していたものが突然目の前に現れたことによる驚きが尾を引いていたのかもしれない。

https://blog.goo.ne.jp/akame_2005/e/13efc6677a07ca3ddf571fc3a84de869
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c38

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
39. 中川隆[-11500] koaQ7Jey 2019年3月13日 10:09:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[495]
福ちゃん荘に行ってきた 2013-05-08
https://blog.goo.ne.jp/akame_2005/e/ea56a331ffbab87fe6e8f69bb0a631c8?fm=entry_awp


福ちゃん荘とはいわゆる『大菩薩峠事件』のあった場所で、まだまだイケイケドンドンだった赤軍派が首相官邸襲撃のために武装訓練をしようとして山小屋・福ちゃん荘に集結。そのことが当局に筒抜けだったために参加者53名が一挙に逮捕されるという、ある意味で赤軍派の「細かいことはあまり考えない」「とりあえずやる」的な部分が思いっきり露呈したアレな事件なんであります。

メンバーにはお偉いさんも含め、中には高校生もいたという。
そんなわけでこの事件は事実上リーダー不在の中からうまれた『連合赤軍事件』の、いわば引き金となった事件なのです。時系列で追っていくと、この後最高指導者・塩見孝也さんは逮捕され『よど号事件』が起こり、さらに重信房子さんはアラブに発ち…と続き、連合赤軍に繋がります。

では当日のことを。
高崎からメル斗さんと車で出発。当日は快晴でした。

途中、なぜかダムによりダムカードをゲットし


落ちると死ぬであろう絶景に金玉をキュッとさせつつ

雪が残る道を走り

あっというまに大菩薩!!!

とかそんなわけはなく、福ちゃん荘はグーグルマップに登録されてない場所にあるのでアタシらはさんざん迷った挙句、ここまで来ました。

というか福ちゃん荘ホームページにあるアクセスページのさらにアクセス地図ページのさらに案内ページがすごくわかりやすいことに今、たった今気付いた。
上日川峠の案内


このページ見てなかったので、写真にある山道登りつつも「本当にこっちでいいのかしら」と二人して不安な表情をしていました。
しかし思い切って登ってしまえば、そこにはしっかり福ちゃん荘がありました。記事トップの写真です。
屋根にしっかり書いてある。ここが伝説の地・福ちゃん荘だ。

向かいには綺麗に山が見えます。あれが大菩薩峠なのかな。

とりあえず中へ。泊まるわけでもないので、とりあえず「ここで飯食う」というのが目標でした。入ってすぐの食堂。

山菜ラーメンを食ったよ!

恐らく、当時娘さんだったであろうお店の方とお話し、撮影させていただく。
食堂奥には事件に関する新聞や雑誌の切り抜きが額に入って飾られておりました。

昨年お亡くなりになった若松孝二監督のサインも懐かしいチラシと共に。
『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』では福ちゃん荘がそのままロケ地として使用されているのですよね。

土産物コーナーで登山記念バッヂを購入。


横に回ると、こっちが本当の玄関。


この看板だけは事件当時から変わっていないそうです。確かに、当時の報道写真にも写っています。

この後、少しお部屋も見せてもらい、また今度は泊まりに来ますと約束して出ました。


行ってみて納得したのですが、こちらの山小屋はやや開けたところからちょっと登った、少し奥まった場所にあるのですね。だから赤軍派はここを訓練での宿泊場所に選んだのだろう、と。あえなく逮捕された当時の写真なんか見てると、寝起きに突入されたもんだから、おパンツ姿で逮捕されてたりしてあらあら…という感じです。
https://blog.goo.ne.jp/akame_2005/e/ea56a331ffbab87fe6e8f69bb0a631c8?fm=entry_awp
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c39

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
40. 中川隆[-11499] koaQ7Jey 2019年3月13日 10:22:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[496]
2018-05-18
山本直樹「レッド」と「普通の人たち」が引き起こした連合赤軍事件について。
https://www.saiusaruzzz.com/entry/2018/05/18/120000

レッド(1) (KCデラックス イブニング)
山本 直樹 講談社 2007-09-21
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/asin/4063723224/saiusaru-22/

レッド 最後の60日 そしてあさま山荘へ(1) (KCデラックス イブニング)
山本 直樹 講談社 2015-02-23
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/asin/4063770885/saiusaru-22/

連合赤軍事件については当事者である永田洋子、坂口弘、植垣康博、坂東国男がそれぞれ手記を出している。吉野雅邦の友人の大泉康雄も本を出している。

坂東国男の本以外は、かなり繰り返し読んでいるけれど、それらの本の印象的な部分が取り入れられているなあと思う。事件の一連の経緯も分かりやすい。

ただそれぞれの一巻を読んだ時点で、気になったことがあるのでそれを書きたい。


永田洋子(赤城)の描写が気になった。

「基本的にはあったことをそのまま書いている」が「フィクション」と銘打っているのは、作者の解釈を入れたかったからか。

個人的にはその解釈が、永田洋子に対して厳しいのが気になった。

以下、漫画の内容に言及する箇所だけ()内に漫画の人名を記載している。

気になった箇所をあげてみる。

坂口弘(谷川)が永田洋子(赤城)に結婚を申し込んだとき、彼女の女性としての部分を利用しようとする気持ちがあった、というのは永田も感じているけれども、坂口弘本人がそう書いていたと記憶している。

「収監される前に、女性の体を知っておきたい気持ちがあった」「彼女ならば、自分が出所するまで待っていてくれているのではないか、という気持ちがあった」と書いていたと思う。

漫画では、坂口(谷川)は永田(赤城)に好意を持ったから申し込んだのに、永田(赤城)が「あなたはこういう魂胆があるのだろう」と邪推しているように見える。

この坂口弘による永田への結婚申し込みは、当時、革命左派内で女性がどういう扱いだったかという一例になるので、ここはきちんと描いて欲しかった。

こういうことが全て、後の山岳ベース事件における総括につながってくるからだ。

このあと結局結婚したのは、永田は「坂口氏ときちんとした愛情関係を築いてみたいと思ったから」と言っていたと思う。

これを入れるのと入れないのとでも、相当永田に対する印象が変わる。

また他にも公判を傍聴した永田(赤城)が怪我をさせられたあと、吉野雅邦の家に厄介になるのだが、その時の印象を吉野(吾妻)の母親は「強引な人」と同時に「人なつっこい人」とふたつの印象を持っていたと思う。

それが漫画では「強引な人」という印象ばかりが強調されているように見える。

また遠山美枝子(天城)に、腫れ上がった自分の顔を見るように強要するシーンは、かなり誇張されているように感じる。

同じ遠山美枝子(天城)の総括に関する場面で、「遠山に着替えをさせる。そういう援助は必要では」という永田の言葉は、「甘い」と咎められるのではないか、と思いながらも思いきって発言したと言っている。

そういう葛藤や場の雰囲気が、漫画では反映されていないのも気になる。

こういうところを見るとどうしても、永田という人物をある一定方向に印象づけたいのかなと思ってしまう。

一巻を読んだだけでもこういう印象なので、ずっとこの調子か? と心配になる。

人は自分が信じた「正しさ」の構造に、たやすく閉じ込められる。

決して永田洋子にもこういう事情があったんだ、同情しろ、と言っているわけではない。

連合赤軍事件はそれぞれの記憶も主張も感じたことも、同じことを経験していながら微妙に違う。

誰の視点に立つかでだいぶ印象が変わるのだが、1979年に出た第一審判決(石丸判決)を始め、永田洋子の性格や個人的な資質に原因を求める論がかなり多い。

この事件の最大の責任が、森(漫画では北)と永田にあるのは間違いない。

ただ永田洋子の性格や彼女の個人的な資質に事件の主因を見出すのは、かなり安易な見方だと思っている。

本当にこの事件を描こうと思うならば、流されないように常に気をつけていないとどうしてもそちらへ流されてしまう。

何故なら「ブスで性格が悪い女が権力を握って増長し、自分に逆らう人間を殺し、自分より才色が優れた同性を嫉妬から殺した」という解釈は、聞いているほうからすれば「単純明快でわかりやすいから納得しやすく、なおかつドラマとして描くうえで面白い」論だからだ。

ちなみにこれが塩見孝也が永田に求めた総括らしい。(永田の言によれば。)

特定の個人の人格や行動の動機を悪意のみで解釈して事件の原因とするのは、永田たちが殺害したメンバーに強いた理屈とまったく同じだ、と思う。

「人は自分が信じた正しさの中に閉じ込められると、他人の人格や身体を破壊することさえ何とも思わなくなる」「そしてその正しさの構造に、誰もがたやすく閉じ込められてしまう」ことこそ、この事件の主因だと思っている。

だから特定の個人の人格に事件の原因の全てを見出す言葉を見るたびに、事件と同じ構造を見るようで非常に残念な気持ちになる。

そういう解釈でこの事件を描きたいと考えているならば仕方ないが、「あった事実をそのまま描く」ことを目的としているのならば、分かりやすく刺激的で手軽な「悪女、永田洋子が事件を主導した説」は意識的に避けて欲しいと思うのだ。

「新組織における女性リーダーの座をめぐる争い」と見られがちな永田の遠山美枝子に対する総括要求は、「新組織において両派のうち、どちらが主導権を握るか」という争いの要素のほうが大きかったと思う。

つまり永田洋子においてのみそういうものがあった、と指摘されがちな心の機微は、彼女特有のものではなく、事件に関わった全員の心の中にあり作用していた、と思うのだ。

森は革命左派を迎えにいかせるときに、「水筒を持ってこなかったこと」を批判するように伝えており、すでに主導権争いを仕掛けていた。

そういう赤軍派に対して革命左派の面々は不満を募らせており、「そちらが批判してくるのならば、こちらも」という潜在的な争いの中で起こったのが、永田からの遠山批判なのだと思う。

人間関係でよくある「そういうこというなら、お前だって」という構図だ。

そして何故、そういった主導権争いを森が仕掛けたのかと言えば、革命左派の持つ銃や処刑の「実績」に、森が強いプレッシャーと恐怖を感じていた、と板東国男が書いている。

遠山批判は、森にとっても渡り船だったのだと思う。

それまで「幹部の妻」で赤軍派では特別扱いされていた遠山には、森も遠慮せざるえなかった。植垣なども「ちょっと面倒臭くてやりづらい」心境を吐露している。

森は自分にとって目の上のたんこぶの遠山を排除しつつ、彼女をスケープゴートにすることによって革命左派との連携を強めたのではないか。

日常生活の延長線上にある事件

連合赤軍の山岳ベース事件で起こった色々な出来事の構図自体は、日常生活でも「あるある」なものが多い。

「日本の組織が抱える構造的な問題だ」と四角四面に考えるまでもなく、こういう微妙な人間関係の力学は、日常的に学校でも会社でもよく見る。

自分がこの事件を恐ろしいと思うのは、そういう自分が日常でいくらでも見てきた「こういう構図、よく見るなあ」「こういうことってあるよなあ」「こういう人っているよなあ」「自分もこういう部分があるかもしれない」と思うことが、歯止めがなくなればここまで凄惨な結果に行きついてしまうというところだ。

この事件は「異常者が起こした異常な事件」ではなく、「思想にとりつかれた未熟な若者たちが引き起こした事件」でもなく、自分も含めた普通の人が生きる日常の延長線上にある事件だと思うのだ。(あの時代の学生運動は現代から見ると異様に見えるが、当時は多くの学生にとって日常の延長だった。)

ある構造の中に閉じ込められている、という一点の条件を加えるだけで、日常的に経験しているものがここまで恐ろしいものになりうるのか。

そしてこの構造に何かの拍子に閉じ込められたときに、自分がその構造の外では「異常」と言われる思考や行動をしている、と気づくかどうか。

塩見孝也が永田洋子にしたこの事件の総括の「指導」や、立松和平の「光の雨」のように、自分が連合赤軍事件が起こった構図と、そっくり同じ構図を再生産していることにまったく無自覚なままこの事件を解釈しようとしている意見を見ると、ある思考やシステムに一度取り込まれると、その外に抜け出すのがいかに難しいかということを思い知らされる。

立松和平の「光の雨」は、総括の理屈を内包してしまっている。

「光の雨」は、「他人の自己実現に、自分が関与できるという欲望の発露」が総括の本質と同じだという点を、大塚英志が強く批判している。

自分も「自分の言葉は、他人の主体を変革するほど価値があり力があるはず」と考える傲慢さこそ「総括」という概念の醜悪さだと思っている。

「結果的に」「ためになった」とその相手本人が考えてくれるのはいいと思うけれど、それは言う側が「相手のためになるはずだ」と考える、ましてや相手が受け入れないときに押し付けていいものではない。

「光の雨」は、坂口弘がモデルになっている主人公の話に若い男女が真剣に耳を傾けて、援助交際をしていた女の子が「私、自分を大事にしようと思ったの」という結論に達するという筋だ。

これをこの事件のモチーフとして用いてしまうとは。

「自分たちの言動によって、他人が自己実現する」

この「総括」の発想をそっくりなぞって肯定的に描いているのに、そのことに無自覚なまま終わるのがこの小説の怖いところだ。

「光の雨」を読んで思ったことは、連合赤軍事件のメンバーたちが行った総括の根っこにある、「自分の関与によって他人を変えたい。その事実をもって、自分の言動の価値を感じたい」という欲望は、人間にとって抑えがたいものなのだろう、ということだ。

この欲望が根底にある「総括」という概念を否定するために、主人公が自分が正しいと信じた思想と犯した罪の深さを必死に訴えても、今の若い人たちは退屈そうに聞いている。いや、聞いてすらいない。

結果、「自分が正しいと信じたことをいくら訴えても、相手には伝わらないことがあるし、人と人とはそういうことがあってもいいんだ」というごく当たり前のことに気づくことが、この事件にふさわしい結論じゃないかと思っている。

どれだけその人にとって大切で切実で正しいことでも、他人にはあくびが出るほど退屈で聞く価値のないものであることもある。それが多様性なんじゃないかと自分は思う。

全てがそうだと寂しいけれど、「そういうことが時にあることは、人がそれぞれ違うという健全さでもある」と思うことが大切なんじゃないかと思う。

「結局、伝わらなかった、分かり合えなかった」それでいい

結局「総括」の構造から抜け出ないまま、この事件は終わるのかなと思っていた。

そんなとき、塩見孝也が死んだときに書かれた雨宮処凛の文章を読んだ。

塩見孝也とのコミュニケーションのとれなさ、その困惑があけすけに書かれている。


「うーん、ちょっと、こっちは世界同時革命じゃないんですよねぇ…」

 渋々そう口にすると、塩見さんはいつも心の底から驚いたように「なんでだ!」と叫んだ。「世界同時革命が目的でないことを説明する」ことに、どれほどの時間を費やしただろう。

 そんなこともあって、塩見さんの「会おう」という誘いをのらりくらりと断り続けていると、ある日、「怒りのメール」が届いた。

 そこには、「お前は左翼でもなんでもない」「だいたいマルクスも読んでいないのに左翼とは何事だ」などという言葉が書かれていた。おそらく、塩見さんにとっては最大限の罵倒だったのだろう。しかし、こっちにとっては痛くも痒くもないのだった。

(引用元:「雨宮処凛がゆく!」第431回「革命バカ一代、塩見孝也、死す。の巻」)

これを読んだとき、笑ってしまった。

「正しさ」を受け入れられない人間は、その人格を傷つけ罵倒しても構わない。

その赤軍派の「正しさ」の構造こそ、連合赤軍事件の構造の片親であり、そこで殺し殺された人たちが閉じ込められたものだった。

そのことにあの事件から四十年以上たっても気づかず、まったく同じことを繰り返している塩見孝也に、その「正しさ」を気にもとめない言葉を言う人がいて良かった。

「マルクスも読んでいないなんて左翼でも何でもない」という言葉が最大限の罵倒であると考える価値観と、「そんなものは痛くも痒くもない」という価値観が何ひとつ分かりあえずに並ぶさま、そしてそれでいいんだと思えることが、この事件の結末に最もふさわしいと思うのだ。

この記事に書いているようなこともまったく考えず、塩見孝也が自分の思想や正しさを最後まで信じて死んだのなら「自分が正しいと考え、相手のためになると思った言葉なんて、他人には意味がないし伝わらない。そもそもろくすっぽ聞いていない」という事実を彼自身が証明したことになる。

それでいいと思う。

それが連合赤軍事件の結論に最もふさわしいと思う。

「どんなに正しいと思っても、それが伝わらないこともある。分かりあえないこともある。そういうこともある」

そういう考えを常に持っておくことが、「正しさ」の中に閉じ込められそうになったときのために大切なのかなと思った。

連合赤軍事件関連書籍


十六の墓標 上―炎と死の青春
永田 洋子 彩流社 1982-09

あさま山荘1972〈上〉
坂口 弘 彩流社 1993-04-01

革命左派側で起こったことや流れは、この二人の本を読むとだいたいわかる。

この二人は山岳ベースを退去するまでほぼ行動を共にしていたのだが、大まかな出来事はともかく、記憶や心境や観察にはかなり食い違いがある。

「川島豪が自らの奪還を指示したのか」などは事件の原因につながるので非常に重要だと思うのだが、今となっては真相を知る術がない。


兵士たちの連合赤軍〈改訂増補版〉
植垣 康博 彩流社 2014-11-19


赤軍派から参加した植垣康博の本。幹部だった上記二者の本とは、かなり雰囲気が異なる。

植垣康博はインタビューで「永田洋子は普通の人」と答えていたが、この本を読むと「普通の若者たちが起こした凄惨な事件」という印象が深まる。


「あさま山荘」籠城―無期懲役囚・吉野雅邦ノート (祥伝社文庫)
大泉 康雄 祥伝社 2002-04


吉野雅邦の学生時代からの友人だった大泉康雄の本。

吉野が金子と付き合う前からの友人であり、吉野と金子が付き合った経緯や、付き合ったあとにみんなで遊ぶシーンも出てくる。

大泉本人は学生運動には関わっていないので、事件の記述よりも吉野と金子の交流や人柄が中心に描かれている。

金子みちよは恋人の吉野雅邦を支えるために学生運動に加わったのだが、山岳ベースに行く前に大泉に「わたしたち、馬鹿なことをしていると思う?」と聞くなど、運動に対して冷静な目も持っていたと思う。

山岳ベースでも反対の声を上げたり、最期まで総括に屈しなかった彼女のことを思うと胸が痛い。

二人への優しい気持ちと友情が伝わってくる本。読んだことがない人はぜひ。

連合赤軍「あさま山荘」事件―実戦「危機管理」 (文春文庫)
佐々 淳行 文藝春秋 1999-06-01

あさま山荘に突入した警察部隊の指揮をとっていた佐々淳行の本。現場がどのような雰囲気だったか、ということがよく伝わってくる。

この本で印象的だったのは、著者の息子が学校で「警察官や自衛官の子供は立ってください」と言われて教師から色々と言われたという箇所だ。

現代だったらあり得ないことだと思うのだが、そういう時代だったということも感じとれる。

光の雨 (新潮文庫)
立松 和平 新潮社 2001-08

「連合赤軍事件を描く上で、よりによってこのモチーフを用いるか」「山岳ベース事件以外のことが、そこに至る経緯も含めてほとんど書かれていない」という不満もあるが、それを差し引いても余りに安易な設定では……と思う。
https://www.saiusaruzzz.com/entry/2018/05/18/120000



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c40

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
41. 中川隆[-11498] koaQ7Jey 2019年3月13日 10:53:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[497]

2016-07-31
連合赤軍事件は「オタク」が起こした事件だった? 
大塚英志「「彼女たち」の連合赤軍 −サブカルチャーと戦後民主主義ー」の感想
https://www.saiusaruzzz.com/entry/2016/07/31/111744


「彼女たち」の連合赤軍―サブカルチャーと戦後民主主義 (角川文庫)
大塚 英志 角川書店 2001-05-01
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/asin/4044191093/saiusaru-22/



この本の内容

題名を見ると「連合赤軍事件関連の本かな」というイメージですが、どちらかと言えば副タイトルが表すサブカル論の比重が強いです。

サブカル論の枠組みの中で、サブカルチャーという分野が興隆する直前の時代に起こった連合赤軍事件を語るという大変面白い試みをしています。

著者の大塚英志は、漫画「多重人格探偵サイコ」の原作者として有名です。


多重人格探偵サイコ(1) (角川コミックス・エース)

多重人格探偵サイコ(1) (角川コミックス・エース)
作者: 田島昭宇×大塚英志
出版社/メーカー: KADOKAWA / 角川書店
発売日: 2012/09/01
メディア: Kindle版
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いま見たら、24巻で完結したらしいです。7巻くらいまでしか読んでいない…。

本書で大塚英志は「若者の自己実現や自己表現の手段が、学生運動からサブカルに移り変わった」というような論も展開しているのですが、自分もこの意見に賛成です。

結局、「学生運動」も「共産主義思想」も、その時代の若者の自己実現の道具に過ぎなかったのではないか、そう思います。

それが今の時代はアニメや漫画、ゲームなどのサブカルにとって代わったのではないかと思います。

連合赤軍の言動を今の時代でやれば、ネットで「厨二乙www」と言われたことでしょう。

本書は連合赤軍事件だけではなく、オウム事件、改憲運動、村上春樹、エヴァンゲリオン、宮崎勤と永山則夫の自我形成の違いなど様々なことに言及しています。

「連合赤軍事件」については、事件そのものの記載はほとんどありません。

事件の経緯を知りたいのであれば、当事者たちの書いた本のほうがおすすめです。

事件の詳細を知ったうえで興味を持った方には、本書はたいへんおススメの本です。

自分も連合赤軍事件の本は何冊も読みましたし、映画なども見ましたが、大塚英志の解釈は類をみないほど斬新な解釈だと思っています。

連合赤軍事件について

この事件は色々な要素を含んでおり、他の事件の類似点もいくつも指摘されています。

どんな人間でも持つ、最も根源的な悪があらわになった事件だと思いますので、必ず後世に残さなければならない事件のひとつだと思っています。

この事件であらわになった「誰もが持つ根源的な悪」というのは、

「正しいことのためらならば、他人をコントロールしても構わない」という発想だと思います。

このコントロールの中には、「心身を傷つける」「主体の形成に(強引に)関与する」「行動を制限する」「自尊心を破壊する」などが含まれます。

他人をコントロールすること……ましてや行動だけではなく、他人の思想や心を暴力的にコントロールすること……これはどんな理由があれ、絶対にやってはいけないことだということが、連合赤軍事件の最も大きな教訓だと思っています。

ひるがえってみれば、昨今もそんな事件ばかりです。

ISもそう、オウムもそう、相模原の事件もそう。

「正しいことのためならば、他人を傷つけても構わない」

「正しい方向性に導くためならば、他人のことをコントロールしても構わない」

前者は極端な発想ですが、後者は日常生活でもよくあります。

連合赤軍事件においても事件発生前の活動の段階で、「もし、彼女が組織活動をやめると言ったら、殴ってでもとめようと思っていた」という発言をしていた人が組織内にいました。(この発言をした人は、事件には参加していません。)

事件の土壌として組織内に、「正しいことをさせるためならば、相手を殴っていうことをきかせても構わない」という発想があったということです。

連合赤軍事件は起こるべくして起こった事件だ、ということができると思います。

大塚英志の連合赤軍事件論

本書での大塚英志の主張の面白いところは、時代とともに移り変わってきた女性の意識に注目している点です。

連合赤軍事件に参加した女性たちは、1970年代から本格的に始まる「消費社会」で「消費による自己実現を求め出す女性」のはしりであった。

それに対して、前時代の家父長的な制度の発想で生きている男性たち、(自分が正しいと思うことのためならば、殴ってでも相手に言うことをきかすという発想の男性たち)、この二者の対立ですらない……ディスコミュニケーションがまず根底にあった。

そもそもまったく言葉が通じ合うことすらない、この二者が新左翼言語で「通じ合っている」と錯覚している状態が、土台としてあった。

それに対して主犯格の森恒夫は他の男性たちとは違い、1980年代に出現した「おたく」と呼ばれる人間に感性としては近かったのではないか。

そしてもう一人の主犯格永田洋子は他の女性たちと同じように自己実現を求めていたが、他の女性たちがバブル期に代表されるような「消費による自己実現」を潜在的に求めたのに対し、永田は少女漫画のごとき「男性に全肯定されることによる自己実現」を求めていた。

「消費社会で消費によって自己実現する女性たち」「戦前からの家父長制度的な発想に生きている男性たち」「オタクの森」「乙女ちっくな永田」

本来ならば、何ひとつ相容れず話すら通じないはずのこの四者が、新左翼言語という共通言語で話しているために、「お互い分かりあっている」と思ってしまった。

「オタク的感性の森」&「家父長制度による支配原理を持つ男性陣」VS「女性性を男性の力を借りずに、自己実現させる方法を模索した女性たち」

この構図に、「男性に存在を肯定されることによる自己実現を求めた永田」が加わり、男性側に加担した。

この辺りが連合赤軍事件の主因のひとつではないか、というのが大塚英志の主張です。

自分は連合赤軍事件の主因は、小難しい共産主義思想などとっぱらえば、結局のところ、野合した二つの組織の主導権争い、対男性を巡る女性同士の主導権争い、殺人が続いたあとはメンバー全員の相互不信が原因だと思っています。

ただ、「総括」のそもそもの発端が遠山美枝子に対する批判であったことに注目して展開された、この大塚英志の論はとても面白かったです。

特に永田洋子論は、とても秀逸です。

植垣康弘が「永田さんは、そのときに頼りにしている人の考えを、そのまま自分の考えのように話す」という風なことを言っていたように、「とても従順でかわいい女性」だったのではないかと思います。残虐な事件の主犯格として裁かれた人に対して、こういう言い方は何ですが。

だから革命左派時代に川島豪(革命左派の指導者)に利用されながらも何も言えず従い、「女性が妊娠したら、活動のために中絶しなくてはならない」という人権もへったくれもない組織の方針にも従い、川島のどんな理不尽な所業にも抗議しない坂口弘と結婚したのだと思います。

「自分の考えがない女性(パートナーの考えが、自分の考えになってしまう女性)」

個人的な感想ですが、こういう女性は今の時代も多いです。

だからなのでしょうか? 永田洋子の手記は坂口弘の手記などに比べて、事件への実感のようなものが薄いです。

大塚英志はそういった中で事件の主犯格になった永田に、同情のような言葉を寄せています。


「ぼくが永田洋子という女性をある意味であわれに思うのは、彼女が自らの中の「女性性」に強い禁忌を課し、自分で自分を抑圧してしまっている点だ。(P84)

彼女が欲しているのは、外見ではなく彼女の内なる「心や魂」を肯定してくれる男性である。(P54)

塩見(孝也)は、永田の「心や魂」の問題を「外見」(容貌)に還元してしまう。(P56)

(引用元:「彼女たちの連合赤軍−サブカルチャーと戦後民主主義−」 大塚英志 角川書店)

逮捕後に「永田の自己批判を援助するために」、永田洋子に「自分が思い描く通りの自己批判書(永田の生い立ちや容貌に事件の原因を求める)」を書くように強要した塩見孝也(赤軍派の幹部)を、大塚英志は強い口調で非難しています。

自分もまったく同意見です。

塩見が永田に対して行ったことは、永田たちが山岳ベースで行った「総括」の論理とまったく一緒です。

「正しいことのためならば、相手の生命も人権も自我も自尊心も全て破壊して構わないし、暴力的な言動で、他人の主体の形成に関与して構わない」

事件の前から自分たちが当然のように持っていたこのような発想こそ、連合赤軍事件が起こった原因である、ということに、なぜこの人たちが気付かないのか、不思議で仕方がありません。

森恒夫という人物

大塚英志は、なぜ、森恒夫が後世に出現する「オタク」と呼ばれる人種に連なる人物であると考えるのか、ということを次のように語っています。


森恒夫における「母」の喪失とそれ故の母胎的なるものへの畏れと執着は、同じように八十年代を生きた「おたく」や「新人類」と当時名付けられた感受性のある部分と通底するように思える。

(引用元:「彼女たちの連合赤軍−サブカルチャーと戦後民主主義−」 大塚英志 角川書店)

ここから「二次元の登場人物に性欲を向けるオタク」と、彼らは実際の女性には何もしていないのに、これを批判する「フェミニスト」とのディスコミュニケーション具合が、左翼運動を中心とした女性陣と森とのディスコミュニケーション具合に重なるという論を展開しています。

賛否はともかく、この論もなかなか面白いです。

ただ主は、森に関しては大塚英志の「森=オタク論」よりも、坂口弘が自著の中で紹介していた評論家の意見のほうが的を得ているような気がします。

ソースが手元にないので意訳になりますが、

「森は、自分の作った観念の中だけで生きている人。実際の物事や実際の人間が、本当の意味で彼の関心ごとになることはない。山岳ベース事件も極論をいえば、森の観念の中でだけで起きた事件だったのだと思う」

たぶん、そういう人だっただろうと思います。

よく考えると、この評も「オタク」と呼ばれる人に多い感覚のような気もします。

森自身も事件後、「自分が気が狂っていたとは思えない。それどころか、(山岳ベース事件のときは)人生で一番、色々なことを考えていた」と語っています。

「他人の痛みなどの実際的な物事にはほとんど関心が向かない、観念の世界で生きている人間が、総括による革命戦士化という観念を思いつき、それを実行する場を得てしまった」

そう考えると森恒夫がトップに立たなければ、あれほど凄惨な事件はおこらなかったかもしれないとも思います。

まとめ

連合赤軍事件を知った当初、一番恐怖を覚えたことは、

「自分もちょっとしたきっかけで、殺す側にも殺される側にも回ることがありうるのではないか」

「これほど残虐なリンチ殺人だが、自分の日常の延長線上でもありうる事件なのではないか」

ということです。

山岳ベースの事件の参加者の中には、普通に大学生活を送っていてたまたま呼ばれたというメンバーもいました。

そもそもこのころ行われていた「学生運動自体が、若者の自己実現の道具にすぎず、現代のサブカルと呼ばれる分野に当たるものなのではないか」という論を前提とするならば、彼らにとっては日常の少し先にこの事件が待ち構えていたという感覚だったのではないでしょうか?

永田や坂口弘が所属していた革命左派はもともとはそれほど過激な組織ではなく、川島豪がトップになってから、行動がどんどん過激化していきました。

組織を中心とした人間関係もできていたので、なかなか組織から抜ける踏ん切りがつかなかった様子、もともとはサークル活動のようだった組織運動がどんどん過激化していく様子など見ると、自分だったら既存の人間関係を断ち切ってでも組織をやめられただろうか、と考えさせられます。

これは連合赤軍事件と構図が良く似ている、北九州監禁殺人事件などにも言えると思います。(あちらは親族ですが。)

「危ない」と思った段階で、自分や家族を守るために、親族などの人間関係も断固として断ち切れただろうか。

そもそも「危ない」などと考える前に、気づいたら深みにはまっていることがほとんどなのではないだろうか。

平穏な日常にぽっかりと空いた黒い穴、そんなものを想起させる事件です。

もうひとつ、この事件の感想などを見ると「自分が下部のメンバーであったとき、やはり逆らえず殺す側に回ったのではないか」という感想を見ることが多いのですが、自分は「自分が森恒夫の立場に立ったとき、同じようなことをやってしまうかもしれない」という恐怖を覚えます。

「自分が絶対的に正しいと信じる価値観や信念と他者の痛みが対立しているとき、後者を優先できるだろうか。正しいことなのだから仕方がない、と思わないだろうか」

「現実の世界のことが感じられず、観念の世界に生き、その中で正しいと思ったことを行った森」

彼は逮捕されたあと、自分が山岳ベースでメンバーたちにしたことを社会からされることによって追体験します。

このころの社会の空気を永田洋子は、「社会全体が有形無形の形で、森さんに死ぬことを強いていた」と評しました。

恐らく罪悪感からではなく、その圧力に負けて森は自死しました。

自分を取り囲む人間全てから否定されて生きられるほど、人間は強い生き物ではないことを、森自身が証明しました。

自分の全存在を否定されることがどれほど残酷なことかを、追体験したわけです。

これほどむごく残虐な事件が、自分たちの日常生活の少し先にある。

それを防ぐためには、どれほど正しいと思うことを言う人間に対しても、「自分をコントロールすること」を許してはいけない。

そして、自分もどれほど正しいと思う意見でも、それをもって他者をコントロールしてはならないということを感じました。

連合赤軍事件が起きてから50年近い月日が流れましたが、似たような事件が何度も起こっています。

そういう事件を見るたびに、いつもそう思います。
https://www.saiusaruzzz.com/entry/2016/07/31/111744
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c41

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
42. 中川隆[-11497] koaQ7Jey 2019年3月13日 11:34:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[498]

第431回:革命バカ一代、塩見孝也、死す。の巻 By 雨宮処凛 2017年11月29日
https://maga9.jp/171129/




 塩見さんが死んだ。

 塩見孝也。1960〜70年代、革命を目指し、武装蜂起を主張した赤軍派の元議長。70年、ハイジャックの共謀や爆発物取締法、破壊活動防止法違反などで逮捕。獄中20年。89年、出所。晩年はシルバー人材センターの紹介で東京・清瀬のショッピングセンターで駐車場管理人をしていた。享年76歳。11月14日、心不全のために亡くなった。

 塩見さんとの付き合いは、もう20年にもなる。

 出会いのきっかけは、私が23歳の頃、ロフトプラスワンに「元赤軍派議長が語る!」的なイベントを見に行ったことだった。なぜわざわざそんなイベントに行ったかというと、当時の私は生きづらさをこじらせていて、近い過去に政治とかに怒って火炎瓶とか投げまくってた「政治の季節」に多大な関心があったからである。

 翻って、自分の周りを見ると、半径5メートルの世界で消費活動だけしてろ、という空気の中、政治や社会に関心を持とうものなら「ヤバい奴」扱いされるという圧力に満ちていて、なんだかとっても息苦しかった。そうして自分自身はと言えば、リストカットをしては生きづらさを誤魔化すという、これまたショボいことばかりしていて、そんな自分が大嫌いだった。

 私が生まれる前、「国家」とかと命懸けで闘ってた人の話を聞いたら、何か生きるヒントが得られるのでは。そうして訪れたイベントで、塩見さんは初対面の私を突然北朝鮮に誘ったのだった。なんでも、北朝鮮には70年に飛行機をハイジャックして平壌へ飛び立った「よど号グループ」なる赤軍派の同志がいるということだった。元赤軍派議長に、国際指名手配犯に会うための北朝鮮旅行に誘われる。こんなブッ飛んだ誘い、OKするしかないだろう。「行きます!」。何も考えずに、私は即答していた。

 そして99年、私は生まれて初めての海外旅行で北朝鮮に飛び立った。

 塩見さんも含めた数人で成田空港から北京に飛び、北京の朝鮮領事部で手続きをし、翌日、平壌へ。なぜか北京で花を買って、北朝鮮に着いたら真っ先に金日成の銅像に献花をし、よど号グループの招待所で、自分の父親と同世代のよど号グループと会った。

 その招待所で寝泊まりしながら連日、「金日成の生家」や「人民大学習堂」や「革命博物館」など、思想教育のような観光日程をこなした。「食糧難」や「餓死」が報じられていたのに北朝鮮で出される料理はどれも豪華で、案内役としてずっとついている朝鮮労働党の人には「日本は資本主義で、金に追われてばかりの生活で可哀想」と同情されたりして、連日、脳の許容量を越えることばかりが起きた。観光で行った幼稚園では園児がなぜかみんなフルメイクで「主席を讃える歌」を完璧に歌い踊り、あまりにも頭がクラクラしたことからその辺りで思考を停止した。

 よど号グループには私と同世代の子どもがたくさんいて、彼女たちと仲良くなった私は、合計5回、北朝鮮に通うことになる。そうしてよど号の子どもたち三人が日本に「帰国」する際には平壌まで迎えに行き、しばらく私の家に滞在していたりもした。そのようなことが原因で02年にはガサ入れが入ったりしたのだが、私は塩見さんが北朝鮮に誘ってくれたことに、今でも深く感謝している。ただのフリーターで、この先どうやって生きていくかさっぱりわからなかった私に初めて「世界」を見せてくれた人だからだ。

 初の北朝鮮行きから半年後、私は2度目の海外旅行でイラクに行くのだが(今度は一水会の木村三浩氏に誘われて)、北朝鮮行きがなければ、決してイラクに行こうなんて思わなかったはずだ。日本という島国から、まったく価値観の違う国に行ったことは、私のその後の人生に大きな影響を与えた。それからいろいろな国に行き、価値観の違う人たちと話すことが大好きになった背景には、間違いなくこの経験がある。

 そんな塩見さんとは03年、共にイラク・バグダッドを訪れた。私にとっては2度目のイラク。時はイラク戦争一ヶ月前で、外務省から出ている「邦人避難勧告」を振り切り、数十人でオランダを経由してヨルダンから陸路でバグダッド入り。開戦一ヶ月前のイラクで「ここに爆弾を落とすな」と反戦デモをし、多くのイラク人と交流した。そんなイラクで、塩見さんが「日本の赤軍派議長」であることを告げると、日本赤軍の岡本公三人気が異様に高い中東ではやたらと感激されたことも覚えている。

 だけど、私はそんな塩見さんと一緒の飛行機に乗ることがちょっと怖かった。「撃ち落とされるのではなか」という不安があったからだ。実際、日本のレッドアーミーの塩見孝也がイラク入りするということで、イスラエルのモサドが動いてるとか動いてないとか、そんな嘘かほんとかわからない話もあった。

 塩見さんとの付き合いはこの20年間ずっと続いていたのだが、特に06年から、私が反貧困運動を始めたことには大変喜んでくれた。60年代からなんでもかんでも資本主義のせいにしてきた塩見さんにとって、私が労働・貧困問題に「目覚めた」ことは自分の影響だと思ったのかもしれない。以後、塩見さんは「共に闘おう、そのためにまず打ち合わせをしよう」という電話やメールを頻繁にしてくるようになった。

 が、ちょうどネットカフェ難民などの「若者の貧困」が注目された当時、「元赤軍派議長と一緒に反貧困運動をする」ことは、リスクでしかないことは明白だった。しかも、私たちが求めているのは、一言で言うと「生きさせろ」ということ。が、塩見さんは明らかに「世界同時革命」を求めていて、労働・貧困運動はその「手段」でしかないことは話していて明白だった。

 「うーん、ちょっと、こっちは世界同時革命じゃないんですよねぇ…」

 渋々そう口にすると、塩見さんはいつも心の底から驚いたように「なんでだ!」と叫んだ。「世界同時革命が目的でないことを説明する」ことに、どれほどの時間を費やしただろう。

 そんなこともあって、塩見さんの「会おう」という誘いをのらりくらりと断り続けていると、ある日、「怒りのメール」が届いた。

 そこには、「お前は左翼でもなんでもない」「だいたいマルクスも読んでいないのに左翼とは何事だ」などという言葉が書かれていた。おそらく、塩見さんにとっては最大限の罵倒だったのだろう。しかし、こっちにとっては痛くも痒くもないのだった。が、この時、私は心の中で決意した。絶対に、自分のことを「左翼」などと名乗らないでおこう、と。

 一時期右翼だった私が貧困問題に取り組み始めたことで、当時、やたらと「左傾化した」「左翼になった」と言われていた。とりあえず便利なので使っていたその言葉だったが、左翼に「なる」にはマルクスを読破するなどの「資格」が必要なようなのである。そんな七面倒臭いものならこっちから願い下げだ。その点、右翼はある意味寛容だった。「日本が好き」とか、そんなゆるふわな感じで今すぐなれるし必読図書もない。

 このように、塩見さんには面倒臭いところがあり、私は時々ちょっとうんざりしていた。

 が、そんな塩見さんに大きな転機が訪れたのはその直後のことだ。シルバー人材センターの紹介で、清瀬のショッピングセンターの駐車場管理人となったのだ。60代半ばにして、「労働者」になったのである。思えば、それまでの塩見さんは「労働者が」「人民が」と言いながらも、この国の労働の実態を、ほとんどわかっていなかったように思う。しかし、自らが時給制で働き始めたことによって、明らかに変わった。大文字の、頭の中で考えた「労働者諸君」ではなく、自身の労働経験から矛盾を感じたことを発信するようになったのだ。

 そんな塩見さんに労働相談を受け、組合を紹介したこともある。一時期は本気で「シルバー人材センターユニオン」の結成を考えていたし、それは私も熱烈に応援した。が、そんな打ち合わせの席でも塩見さんが口にするのは「シルバー人材センターの労働運動を盛り上げて、最終的には世界同時革命を!」という言葉。この人、全然懲りてないな…。21世紀になっても本気で「革命」を目指すその姿に驚きつつも、塩見さんは前に比べればずっと「地に足のついた」活動家になっていた。

 塩見さんとの最後の「祭り」は、この連載の第334回「『獄中二十年』の選挙戦」で書いた清瀬の市議会選挙。15年、なんと無所属で市議に立候補したのだ。選挙最終日、応援に呼ばれたので駆けつけると「獄中二十年」「赤軍」と書かれた旗や大きな幟があり、それを見た瞬間、「落選」を確信した。が、みんなで「赤軍」の旗を先頭に、街を練り歩き、叫んだ。

 「獄中20年の確かな実績、塩見孝也です!」「赤軍派もいる明るい清瀬!」「清瀬から世界同時革命を!」「元赤軍派議長、今は駐車場管理人、塩見孝也をよろしくお願いします!」

 もちろん、選挙は落選した。

 塩見さんとの思い出は数えきれないほどあるけれど、印象深いのは、晩年の塩見さんの周りには、いつも「生きづらさ」を抱えた若者たちがいたことだ。2010年、突然「生前葬をやる」と言い出し、本当に開催した際には、長年ひきこもりだった若者が、塩見さんを歌った「オレは駐車場管理人」という自作のラップを作って披露。それ以外にも、不登校だったり、リストカットの経験があったりという若者がいつも塩見さんの周りには集まっていた。

 なぜ、「世界同時革命」とか言ってる元赤軍派議長の周りに若者たちが嬉々として集まっていたのか。もともとは私自身もその一人だったわけだが、それは「塩見さんの近くにいると、自分の悩みがどうでもよくなる」という作用があったからだ。

 前回の原稿で、自分の「死にたかった頃」の話を書いた。同じように「死にたい」と口にする多くの人との出会いが私を生かしてきたわけだが、塩見さんとの出会いも、確実に私の「死にたい」気持ちを脱臼させた。

 獄中20年で、個人で破防法適用とかされて、いまだに「世界同時革命」とか口にする塩見さん。その存在は、私の中に根深くあった「ちゃんと生きなければならない」という気持ちを一瞬で霧散させるものだった。なんだ、こんなメチャクチャな生き方してもいいんだ。一生「革命」とか、中2病みたいな感じで生きてていいんだ、と。

 しかも塩見さんは、何かあればすぐになんでもかんでも資本主義のせいにする。そのことは、生きづらい若者たちにとって大きな「免責」を与えてくれた。他の大人たちは、勇気を出して悩みを相談したところで、みんな「自己責任」とか「お前の努力が足りないんだ」とかそんなことばかり言うけれど、塩見さんはどんな状況の若者に出会おうとも、「それは資本主義のせいだ!」と断言していた。元赤軍派議長に、お前の生きづらさの原因は資本主義だとお墨付きをもらう。これほど強烈な「癒し」を、私は他に知らない。

 が、常々、私は心のどこかで「塩見さんが自分のお父さんじゃなくてよかった」と思っていた。ちょうど親子世代で、塩見さんには私と同世代の息子がいることは知っていた。会ったこともないその息子に、勝手にずっと同情していた。だって、自分の父親が常に全力で反抗期だったら、どういう方向性で生きていこうか、いろいろと悩むはずだ。

 そんな塩見さんと遊びまくってきたこの20年間で、覚えているのは北朝鮮に行く途中の北京での食事の席のことだ。出てきた「アヒルの舌のスープ」は、強烈な悪臭を放ち、アヒルの舌が数百個浮いている見た目もグロすぎた上、一口啜ると「おじいさんの唾液を煮詰めた」ような味がした。全身が震えるほどマズく、その場にいた誰もがまったく箸をつけられなかったそれを、塩見さんは「そんなに不味いかー? イケるぞ」と言いながら平気な顔で食べていたのだ。聞けば、母親が料理があまり上手くなかったとのことで、刑務所の食事も全然平気だったという。そういう人だからこそ、獄中20年を生き抜くことができたのだろう。

 ああ、それにしても、本当に好き勝手に生きた人だった。しかも、たったひとつの理想を、死ぬまで追い求め続けていた。そして本人の意図とはまったく別のところで、多くの生きづらい若者を確実に救っていた。

 そんな塩見さんにもう会えないことが、やっぱりすごく、寂しい。
https://maga9.jp/171129/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c42

[リバイバル3] 酷い音のインチキ・レプリカを量産して伝説の評価を落とした Goodmans Axiom80 中川隆
43. 中川隆[-11496] koaQ7Jey 2019年3月13日 12:12:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[499]

オークション情報〜高額で落札されたSPユニット〜
「音楽&オーディオ」の小部屋 2019年03月13日
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/5082c261d6c4cdcffece255176b32734


「クラシックやジャズ、そしてオーディオは1950年代が黄金時代だった、あの頃はほんとうに良かったなあ。」と回顧する人は多い。

ただし、現代と大きく違うのは「インターネット」という文明の利器が利用できないことだった。

これは大きい。

オーディオの向上は自己に有益な情報をいかに収集するかにかかっているともいえるが、現代ではネット情報によりいとも簡単に貴重な情報が手に入るし、それにオークションが実に効果的なツールになっている!

我が家もその例にもれず現在使っているオーディオ機器の大半はオークションで手に入れたものである。

ここ20年ほど常にアンテナを張っているが、機器の調達のほかにも売り買いの相場を通じてオーディオの趨勢が把握できるところが実に面白い。

そこで、つい最近の顕著な例として高額で落札されたSPユニット二点を挙げてみよう。

☆ SPユニット「AXIOM80」(グッドマン:英国)

   

「フレームに塗装がしていない 初期の物です。ビビリもなく 修理歴もない 美品です。」と簡潔な説明付きで出品された「AXIOM80」。

落札日は3月11日(月)、落札額は「622、001円」なり!


高ッ!

たしかに、マグネット部分の角が丸いし「WEMBLEY MIDDX.」の印字は比較的初期の製品であることを示している。

それにしても62万円とは驚く。我が家のAXIOM80も最初期の製品との触れ込みで5年ほど前にオークションで落札したときは「36万円」だったので、今にしてみると随分安い買い物だったことになる。

このところ「AXIOM80」の相場が「うなぎ登り」のようだが、このユニットじゃないと出せない音がある一方で、現代は「マンション・オーディオ」の波及によって大型スピーカーの人気が凋落しており、その反動があるのかもしれない。

そしてもうひとつ、ネット情報でこのユニットの凄さが広く知れ渡ってきたことも挙げられる。

もちろん、このブログがその一つだとは言いませんけどね(笑)。

☆ JBL / AMPEX 150-4C 極上ペア

   

オークションの解説がちょっと長くなるがそのまま掲載させてもらおう。

「JBL最強ウーファーの誉れ高い150-4Cの、最初期ジムラン筆記体AMPEXラベルです。

JBLが初めてシアター向けに開発しWESTREX、AMPEXに供給したもので、375ドライバーや537-500ホーンとともにJBLを代表する銘ウーファーです。製造は年代から見て1954〜56年頃です。

ラベルにBy AMPEXとあるのは、この時期にJBLがAMPEXにライセンス供与したためで、設計製造は正真正銘のJBLです。この後、AMPEXによるJBL買収はご破算になりますが、当時WESTREX、AMPEXブランドと同時にJBLブランドも並行して製造、販売されていました。

今回出品のものは、コーンやエッジに全くのへたりや痛みのない極上品で、コーンNo.も150-101のオリジナルです。コーン裏面の粗さやフィックスドエッジの仕上げから見て、製造当初のものと思います(定かではありませんが)。」

以上のとおりだが、数ある口径38センチのユニットの中でJBL「150−4C」の噂はかねがね聞いていたので落札価格に大いに興味を持っていたところ、結果は「52万5千円」なり。

まあ、そんなところですかね。やっぱりJBLファンの入れ込みようは半端ないですね(笑)。

ちなみに我が家のポリシーには口径38センチ以上のユニットは入っていない。

空気を前後に動かす量と負荷を考えただけで背筋がゾッとするし(笑)、音の反応が鈍いというかスピードが遅く感じるのでどんなユニットであろうとアウト。

せいぜい口径30センチまでが合格ラインで、「スケール感」と「繊細かつ緻密な再生」を天秤にかけた時に後者を優先させることにしているのがその理由。

つい最近もJBLの口径38センチ「D130」ユニットをオークションで委託処分したばかりだが落札価格は「5万円」だった。「150−4C」とは月とスッポンの価格(苦笑)。

しかし、いかに「150−4C」といえども価格的には「AXIOM80」に負けるのだから意外だ。

このことは「音を雄大に鳴らす」量的オーディオから「音の彫琢を愉しむ」質的オーディオの時代への移行を暗示しているのだろうか。
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/5082c261d6c4cdcffece255176b32734



▲△▽▼


ヤフオク! - 「AXIOM80」の検索結果
https://auctions.yahoo.co.jp/search/search?auccat=&tab_ex=commerce&ei=utf-8&aq=-1&oq=&sc_i=&exflg=1&p=Axiom80&fixed=0&x=0&y=0
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/686.html#c43

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
43. 中川隆[-11495] koaQ7Jey 2019年3月13日 12:36:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[500]

「獄中二十年」の選挙戦。の巻‐雨宮処凛がゆく!-第334回
http://www.magazine9.jp/article/amamiya/18923/

清瀬の商店街を練り歩く不穏な人々

 「獄中20年の確かな実績、塩見孝也です!」「赤軍派もいる明るい清瀬!」「元赤軍派議長、今は駐車場管理人、塩見孝也をよろしくお願いします!」

 4月25日、統一地方選最終日、東京都・清瀬の街をそんな言葉とともに練り歩く一団がいた。

 彼らが掲げる大きな幟には「獄中二十年」の文字。「赤軍」と書かれた旗を持つ人もいる。十数人ほどの一団の中にいるのはマガジン9でもおなじみ・鈴木邦男氏、ロフトプラスワンの平野悠氏、老若男女の塩見支援者、そして、私。一団の先頭ではなく後方を「足がつった」とのろのろ歩くのは、このたび清瀬市議選に立候補した塩見孝也氏だ。

 塩見孝也氏とは、1960〜70年代、革命を目指し、武装蜂起を主張した赤軍派の元議長。70年、ハイジャックの共謀や爆発物取締法、破壊活動防止法違反などで逮捕され、獄中20年。89年に出所した。

 そんな塩見さんとの出会いは今から約20年近く前。ロフトプラスワンに、「元赤軍派議長が語る!」的なイベントを見に行ったことがきっかけだった。もともと、60〜70年代の「政治の季節」には並々ならぬ興味・関心があった。というより、一言で言うと羨ましかった。若者が政治のことに怒り、デモとかしまくって火炎瓶を投げていた時代。翻って90年代に「若者」だった私は、半径5メートルの世界の中で、「消費活動」や「恋愛」や「合コン」にうまく乗れない人々がなんとなく馬鹿にされ、社会や政治のことなど語ろうものなら「おかしな人」扱いされるという空気の中、生きづらさを極めていた。その自分の生きづらさが、社会と何か関係があるのではないか。政治の季節に思い切り暴れていた「元若者」の話を聞けば、何かヒントが得られるのではないか。そうして訪れたイベントで、塩見さんは初対面の私をいきなり北朝鮮に誘った。

 そうして、よくわからないまま知り合ったばかりの塩見さん、他の若者数名と初めての海外旅行でピョンヤンに飛び立ったのが24歳の冬。北朝鮮には私と同世代のよど号グループの子どもたちがたくさんいて、彼女たちと仲良くなった私は合計5回北朝鮮に通うことになり、それが原因でガサ入れを受ける羽目になるのだが、当時はそんなことなど露知らず。

 また、2003年のイラク戦争直前には、塩見さん、鈴木邦男さん、そして平野悠さんたちと数十名で外務省から出ている「邦人避難勧告」を振り切ってイラク・バグダッドへ。開戦一カ月前のイラクで「ここに爆弾を落とすな」と反戦デモなどをすると警察が応援してくれた上、パトカーのマイクなどを貸してくれたのもいい思い出だ。ちなみに塩見さんはイラクで、撮影禁止の場所を撮影したとかで数時間秘密警察に拘束されたという、これまたどうでもいいエピソードがある。

 こんなふうに、この20年近く、私は塩見・鈴木・平野というオッサンたちと何かあるたびにつるみ、遊んできた、というか活動をしてきたのである。で、この3人は私が物書きになる前のフリーター時代、ロフトプラスワンや各種右翼、左翼、サブカル系イベントにただの客として出入りしていた時から私のことを知っていたという経緯があるため、未だにいろいろと頼まれると断れない相手でもあるのだ。

 ということで、そんな塩見さんが清瀬の市議会議員選挙に立候補しようと思っている、と本人から聞いたのは数カ月前。思わず言葉を失ったものの、ここ数年の塩見さんの「変化」に感銘を受けていた私は、選挙戦に駆けつけることを約束した。

塩見さんの事務所。いろいろすごいです。

 「変化」とは何か。例えば出会った頃の塩見さんは、とにかくなんでもかんでも資本主義のせいにし、二言目には「世界同時革命」と叫ぶという、非常に珍しい人だった。そうして常に「労働者が」「人民が」などと演説するのだが、なんというか、難しい言葉が空転しているような印象だったのだ。

 そんな塩見さんは数年前にシルバー人材センターに登録。地元・清瀬のショッピングセンターで駐車場管理人を始めたところから大きく変わり始めた。大文字の「労働者諸君」ではなく、自身の労働経験からいろいろと矛盾を感じ、発信するようになったのだ。この数年間、幾度か塩見さんから「労働相談」的なものを受け、時には労働組合の事務所で話し合いをしたりもした。ちなみにシルバー人材センターの労働には労働基準法が適用されないなど様々な問題があるのだが、そういったことなどについても、現場目線からいろいろなことを私に教えてくれたのである。
 そんなふうに「シルバー人材センター労働運動を!」的な話になると、「これをきっかけに最終的には世界同時革命を!」なんて言い出すこともあったけれど、「革命家」・塩見孝也は70代にしてやっと「地に足がついた」活動家となったのである。この辺りの話は塩見さんの著書

『革命バカ一代 駐車場日記 たかが駐車場、されど駐車場』(鹿砦社)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4846310256?ie=UTF8&camp=247&creativeASIN=4846310256&linkCode=xm2&tag=magazine9-22

に詳しいので興味のある方はぜひ。

 ということで、統一地方選最終日、私は清瀬に駆けつけた。73歳、元赤軍派議長・駐車場管理人の塩見氏の周りには、多くの支援者がいた。
 マイクを渡されて、私は話した。

 なぜ、塩見氏を応援しようと思ったのか。それは「現在暴走を続ける安倍政権、そして地方議会でも多数を占める与党の好き放題を止めるには、塩見さんレベルの飛び道具しかいないのではないか」と思ったからだ。なんといっても、日本で初めて、個人で破壊活動防止法を適用された人である。その上、権力に楯突き続けて50年以上。20年の獄中生活を非転向で過ごしたという「超頑固者」だ。「言うこときかない」「黙ってない」系の元祖みたいなものである。もはや存在自体が嫌がらせ。こういう人が市議会にいれば、いろいろと風通しもよくなるのではないか。
 清瀬の街頭でそんなことを話させて頂き、そして夜は商店街を「獄中二十年」の旗のもと、みんなで練り歩いた。

 そうしてすべてを終えた20時、近所のスーパーで発泡酒やお惣菜を買い込み、みんなで安酒で乾杯した。途中、「これが学生運動名物・内ゲバか?」と身構えるような喧嘩が勃発したりもしたけれど、「これでこそ塩見さんの選挙だ」ということになり、なんとなく収まったのだった。

 そうして、翌日の投開票日。塩見さんは319票を獲得したものの、落選となった。

 「市会議員・塩見孝也」誕生とはならなかったが、73歳のチャレンジは、今後きっと大きな波紋を広げていくはずだ。

 今回、改めて思ったけれど、塩見さんの周りにはいつも、生きづらさを抱えた人々が多くいる。この20年近くずっとだ。本人はまったく意識していないけれど、そういった人々を、何か救い、癒す力があるのだ。本人は「革命」を目指しているのに、癒し系。

 そんな塩見さんに、今後も注目していきたいと思っている。

左から、鈴木邦男さん、私、塩見孝也さん、平野悠さん。
この三人のオッサンと20年くらい、いろいろつるんでいる私の人生・・・。

http://www.magazine9.jp/article/amamiya/18923/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c43

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
44. 中川隆[-11494] koaQ7Jey 2019年3月13日 12:52:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[501]

塩見孝也


塩見 孝也(しおみ たかや、1941年5月22日 - 2017年11月14日[1])は日本の新左翼活動家、元赤軍派議長、最高指導者、テロリスト。

「日本のレーニン」と呼ばれた[2]。
「一向健」の組織名やペンネームでも知られた[3][4]。

1941年、大阪府大阪市の十三で医師の家庭に生まれ、生後1年で岡山県和気郡神根村(現・備前市)に移り[5][6]、戦後は母の郷里の広島県尾道市で育つ。

尾道市立長江小学校から[5]広島大学附属福山中学校・高等学校を経て、1962年、2浪して京都大学文学部に入学。


京大在学中から「共産主義者同盟(ブント)」の活動家となり、京都府学連書記長、社学同書記長と幹部となる。

京大は2年で中退[7]。
しかし1969年、それまでのブントの活動に飽きたらず、「これまでの闘争方針では70年闘争を闘いきれない。受動的な階級闘争論では展望が開けず、能動的な攻撃型の階級闘争こそが必要である」と武装闘争を主張する。

さらぎ徳二らの関東派と対立の結果、決別し、いわゆる関西ブントを中心に「共産主義者同盟赤軍派」を結成し、その議長に就任した。

メンバーは京大、同志社大学、立命館大学を中心に400人で、軍事委員長は大阪市立大学の田宮高麿である。

同年秋には具体的な実行として、大阪、東京で交番・パトカーなどを襲撃した大阪戦争、東京戦争等を指揮する。しかし11月に「大菩薩峠事件」の失敗で主要幹部を含む53人が逮捕され、大きな打撃を受ける。

その後、「一国内の闘争には限界がある。労働者国家(キューバ)を根拠地とし、そこで軍事訓練を行った革命軍を各地に送って、武装蜂起を図り「世界共産主義革命」を実現すべき」という「国際根拠地論」を提唱した。

1970年、「フェニックス作戦」と名づけたハイジャックを計画。下見を重ね具体的な計画を作成。実行部隊のメンバーを決定し同年3月後半の実施を決定したが、寸前の3月15日、豊島区駒込で警察に逮捕された。しかし塩見の逮捕を知った実行部隊は、善後策を協議し既定方針どおりハイジャックを決行。3月31日、田宮高麿をリーダーとする9名が、羽田空港で日本航空機・よど号をハイジャックし北朝鮮に亡命した(よど号ハイジャック事件)。

塩見は爆発物取締法、よど号事件の共謀共同正犯、破防法などで起訴される。法廷闘争の中、1972年の連合赤軍事件以来分裂状態にあった赤軍派に対し1974年に赤軍派(プロレタリア革命派)を結成。その後プロ革派は分裂し、塩見派は1979年に日本社会科学研究所(マルクス・レーニン主義、毛沢東思想)を結成。

1980年、懲役18年の判決が出され、1982年刑が確定。
府中刑務所に収監され、結局19年9ヶ月の獄中生活を送り、1989年12月出所。

晩年

ぱとり・自主日本の会を主宰し、定期的に都内で集会を開くなどの活動を行っていた。

出所後は何度も渡朝し田宮(1995年死亡)らと再会。また近年、民族主義を唱え一水会らと共に「国の日集会」(毎年9月2日開催)を開いたり、よど号事件実行犯が日本人拉致に関与しているかのような発言を行い、物議を醸した。

だが先に挙げた民族主義に関しては彼なりの過去の内ゲバに対する反省点と愛郷心から来ており同じ革命を目指す者同士なら左右問う事無く解決すべきであるという理念が伺える。

ちなみに塩見自身は、新宿騒擾事件については刑事責任を問われうる範囲内であるも、よど号事件については自身は無罪であるとの主張を唱えていた。もっとも、ハイジャック自体については「プチブル急進主義」だったという自己批判も行っている[8]。

赤軍派や日本赤軍については、反省すべき点はあるとしつつも基本的に肯定的に評価していた。一方で連合赤軍(特に山岳ベース事件)については全否定しており、自身や赤軍派とは何の関係も無いと主張していた。一方で、山岳ベースでの同志殺害をもたらした連合赤軍の暴力的体質や「共産主義化」の理論は赤軍派や塩見のものに他ならない、との批判が関係者からなされることもある[9]

2015年4月以降「自主日本の会」の活動は休止中で、後述の駐車場関係者を中心に「銀河の会」(シルバー世代の意味)を主催。「若者から希望を奪う安倍政権打倒、老人いじめの清瀬市政と闘う」をスローガンに政治活動を展開した。

同月26日執行の東京都清瀬市議会議員選挙に立候補し、候補者23人中22位で落選(定数20)した。

2017年11月14日、東京都小平市の入院中の病院にて心不全のため死去した。満76歳没[1]。

エピソード

PANTAは「塩見さんもちょっと露出のしすぎかなと思う。赤軍の頃は本当にすごくて、私らにとっては雲の上の人だったんですから」と話している[10]。

60代半ば頃には自身の高齢に伴う身体の衰えを実感し、地元の東京都清瀬市シルバー人材センターの紹介により清瀬市所有の駐車場管理員(隣は西友の駐車場)の仕事を時給950円にて紹介してもらい、本人も「66歳にして労働の意義を知る」と自身のHP内や週刊新潮(2008年5月1・8日号)等でその充実ぶりを語り、それ以前の生活費は仲間からの援助や労組からのカンパだったと語った。

mixiにて、HN「預言者」として活動していた[11]。


著書

過渡期社会論 酒井隆樹共著 共産主義者同盟赤軍派(プロ革)編 査証出版 1975
一向過渡期世界論の防衛と発展のために 査証出版 1975
封建社会主義と現代—塩見孝也獄中論文集 塩見孝也救援会,高沢皓司編 新泉社1988
いま語っておくべきこと 現代資本主義論と社会主義論 革命的左翼運動の総括 川島豪対談 新泉社 1990
「リハビリ」終了宣言—元赤軍派議長の獄中二十年とその後の六年半 紫翠会出版 1996
さらば赤軍派 私の幸福論 オークラ出版 2002
赤軍派始末記 元議長が語る40年 彩流社 2003 
監獄記—厳正独房から日本を変えようとした、獄中20年。 オークラ出版 2004 
革命バカ一代 駐車場日記-たかが駐車場、されど駐車場  鹿砦社 2014 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%A9%E8%A6%8B%E5%AD%9D%E4%B9%9F
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c44

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
45. 中川隆[-11493] koaQ7Jey 2019年3月13日 12:55:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[502]

参考 レーニンの実像  


ロシアではグラスノスチによって、神聖不可侵だったレーニンの実像を知る手がかりが次第に明らかにされつつある。共産党中央委員会が管理していたマルクス・レーニン主義研究所所属の古文書館に「秘密」のスタンプが押された3724点におよぶレーニン関連の未公開資料が保存されていたことも判明し、民主派の歴史学者の手によってその公開が進みつつある。

 これらの資料のうちの一部は、ソ連崩壊以前からグラスノスチ政策によって公開されていた。そのうちのひとつが、私が月刊『現代』91年10月号誌上で全文を公表した、1922年3月19日付のレーニンの秘密指令書である。改めてここでその内容を紹介しておこう(翻訳全文は拙著『あらかじめ裏切られた革命』に所収)。


 22年当時、ロシアは革命とそれに続く内戦のために、国中が荒廃し、未曾有の大飢饉に見舞われていた。そんな時期に、イワノヴォ州のシューヤという町で、ボリシェヴィキが協会財産を没収しようとしたところ、聖職者が信徒の農民たちが抵抗するという「事件」が起きた。報告を受けたレーニンは、共産党の独裁を確立する最大の障害の一つだった協会を弾圧する「口実ができた」と喜び、協会財産を力ずくで奪い、見せしめのための処刑を行い、徹底的な弾圧を加えよと厳命を下したのである。以下、その命令書の一部を抜粋する。


<我々にとって願ってもない好都合の、しかも唯一のチャンスで、九分九厘、敵を粉砕し、先ゆき数十年にわたって地盤を確保することができます。まさに今、飢えた地方では人をくい、道路には数千でなければ数百もの死体がころがっているこの時こそ、協会財産をいかなる抵抗にもひるむことなく、力ずくで、容赦なく没収できる(それ故、しなければならないのです>


<これを口実に銃殺できる反動聖職者と反動ブルジョワは多ければ多いほどよい。今こそ奴らに、以後数十年にわたっていかなる抵抗も、それを思うことさえ不可能であると教えてやらねばならない>


おぞましい表現に満ちたこの秘密書簡は、『ソ連共産党中央委員会会報』誌90年4月号に掲載され、一般に公開された。党中央委ですら、90年の時点で、レーニンが直接命じた残忍なテロルの事実の一端を、公式に認める判断を下したわけである。

 アナトリー・ラトゥイシェフという歴史家がいる。未公開のレーニン資料の発掘に携わっている数少ない人物で、同じくレーニン研究に携わっていた軍事史家のヴォルコゴーノフが、95年12月に他界してからは、この分野の第一人者と目されており、研究成果をまとめた『秘密解除されたレーニン』(未邦訳)という著書を96年に上梓したばかりだ。モスクワ在住の友人を通じて、彼にあてて二度にわたって質問を送ったところ、氏から詳細な回答を得るとともに、氏の好意で著書と過去に発表した論文や新聞インタビュー等の資料をいただいた。以下、それらのデータにもとづいて、レーニンの実像の一端に迫ってみる(「 」内は氏の手紙および著書・論文からの引用であり、< >内はレーニン自身の書いた文章から直接の引用である。翻訳は内山紀子、鈴木明、中神美砂、吉野武昭各氏による)。

まずは、ラトゥイシェフからの手紙の一節を紹介しよう。


「残酷さは、レーニンの最も本質をなすものでした。レーニンはことあるごとに感傷とか哀れみといった感情を憎み、攻撃し続けてきましたが、私自身は、彼には哀れみや同情といった感情を感受する器官がそもそも欠けていたのではないか、とすら思っています。残酷さという点ではレーニンは、ヒトラーやスターリンよりもひどい」


「レーニンはヒトラーよりも残酷だった」という主張の根拠として、ラトゥイシェフはまず、彼自身が古文書館で「発掘」し、はじめて公表した、1919年10月22日付のトロツキーあての命令書をあげる。

<もし総攻撃が始まったら、さらに2万人のペテルブルグの労働者に加えて、1万人のブルジョワたちを動員することはできないだろうか。そして彼らの後ろに機関銃を置いて、数百人を射殺して、ユデニッチに本格的な大打撃を与えることは実現できないだろうか>

 ユデニッチとは、白軍の将軍の一人である。白軍との内戦において、「ブルジョワ」市民を「人間の盾」として用いよと、レーニンは赤軍の指導者だったトロツキーに命じているのである。

「ヒトラーは、対ソ戦の際にソ連軍の捕虜を自軍の前に立たせて『生きた人間の盾』として用いました」と、ラトゥイシェフ氏は私宛ての手紙に書いている。

「しかし、ヒトラーですら『背後から機関銃で撃ちながら突進せよ』などとは命令しなかったし、もちろん、自国民を『盾』に使うことはなかった。レーニンは自国民を『人間の盾』に使い、背後から撃つように命じている。ヒトラーもやらなかったことをレーニンがやったというのはこういうことです。しかも、『人間の盾』に用いられ、背後から撃たれる運命となった人たちは犯罪者ではない。あて彼らの『罪』を探すとすれば、それはただひとつ、プロレタリア階級の出身ではなかったということだけです。しかし、そういう人々の生命を虫ケラほどにも思わず、殺すことを命じたレーニン自身は、世襲貴族の息子だったのです」


レーニンが「敵」とみなしていたのは、「ブルジョワ階級」だけではない。聖職者も信徒も、彼にとっては憎むべき「敵」だった。従来の党公認のレーニン伝には、革命から2年後の冬、燃料となる薪を貨車へ積み込む作業が滞っていることにレーニンが腹を立て、部下を叱咤するために書いた手紙が掲載されてきた。


<「ニコライ」に妥協するのは馬鹿げたことだ。――ただちに緊急措置を要する。

 一、出荷量を増やすこと。

 二、復活祭と新年の祝いのために仕事を休むことを防ぐこと。>


「ニコライ」とは、12月19日の「聖ニコライの祭日」のことである。この日、敬虔(けいけん)なロシア正教徒は――ということは当時のロシア国民の大半は――長年の習慣に従って、仕事を休み、祈りを捧げるために教会へ足を運んだに違いない。レーニンはこの日、労働者が仕事を休んだのはけしからんと述べているわけだが、そのために要請した緊急措置は、この文書を読むかぎりとりたてて過激なものではないように思える。しかし実は、この手紙は公開に際して改竄(かいざん)が施されていた。古文書館に保存されていた、19年12月25日付書簡の原文には、先のテクストの「――」部分に以下の一文が入っていたのである。


<チェーカー(反革命・サボタージュ取り締まり全ロシア非常委員会=KGBの前身の機関)をすべて動員し、「ニコライ」で仕事に出なかったものは銃殺すべきだ>

 レーニンの要請した「緊急措置」とは、秘密警察を動員しての、問答無用の銃殺だったのだ――。


 この短い書簡の封印を解き、最初に公表したのは、今は亡きヴォルコゴーノフで、彼の最後の著書『七人の指導者』(未邦訳)に収められている。ラトゥイシェフは、私宛ての手紙で『七人の指導者』のどのページにこの書簡が出ているか示すとともに、こういうコメントを寄せてきている。


「この薪の積み込み作業に動員されたのは、帝政時代の元将校や芸術家、インテリ、実業家などの『ブルジョワ』層でした。財産を奪われた彼らは、着のみ着のままで、この苦役に強制的に従事させられていたのです。彼らにとって『聖ニコライの日』は、つかの間の安息日だったことでしょう。レーニンは無慈悲にも、わずかな安息を求め、伝統の習慣に従っただけの不幸な人々を『聖ニコライの日』から一週間もたってから、その日に休んだのは犯罪であるなどと事後的に言い出し、銃殺に処すように命じたのです」

内部に胚胎していた冷血


 ひょっとすると、このような事実を前にしてもなお、以下のような反論を試みようとする人々が現れるかもしれない。


――レーニンはたしかに「敵」に対しては、容赦なく、残酷な手段を用いて戦ったかもしれない。しかしそれは革命直後の、白軍との内戦時の話だ。戦争という非常時においては、誰でも多かれ少なかれ、残酷になりうる。歴史の進歩のための戦いに勝ち抜くにはこうした手段もやむをえなかったのだ――。

 いかにも最もらしく思える言い分だが、これも事実と異なる。レーニンの残酷さや冷血ぶりは、内戦時のみ発揮されたわけではない。そうした思想(あるいは生理)は、ウラジーミル・イリイッチ・ウリヤーノフが「レーニン」と名乗るはるか以前から、彼の内部に胚胎していたのだ。

 話は血なまぐさい内戦の時代から約30年ほど昔に遡る。1891年、レーニンが21歳を迎えたその年、沿ヴォルガ地方は大規模な飢饉に見舞われた。このとき、地元のインテリ層の間で、飢餓に苦しむ人々に対して社会的援助を行おうとする動きがわきあがったが、その中でただ一人、反対する若者がいた。ウラジーミル・ウリヤーノフである。以下、『秘密解除されたレーニン』から引用する。


「『レーニンの青年時代』と題する、A・ペリャコフの著書を見てみよう(中略)それによれば、彼(レーニン)はこう発言していたのだ。


『あえて公言しよう。飢餓によって産業プロレタリアートが、このブルジョワ体制の墓掘人が、生まれるのであって、これは進歩的な現象である。なぜならそれは工業の発展を促進し、資本主義を通じて我々を最終目的、社会主義に導くからである――飢えは農民経済を破壊し、同時にツァーのみならず神への信仰をも打ち砕くであろう。そして時を経るにしたがってもちろん、農民達を革命への道へと押しやるのだ――』」


 ここの農民の苦しみなど一顧だにせず、革命という目的のためにそれを利用しようとするレーニンの姿勢は、すでに21歳のときには確固たるものとなっていたのだ。

 また、レーニンは『一歩前進、二歩後退』の中で自ら「ジャコバン派」と開き直り、党内の反対派を「日和見主義的なジロンド派」とののしっているが、実際に血のギロチンのジャコバン主義的暴力を、17年の革命に先んじて、1905年の蜂起の時点で実行に移している。再び『秘密解除されたレーニン』から一節を引こう。


「このボリシェヴィキの指導者が、(亡命先の)ジュネーブから、1905年のモスクワでの『12月蜂起』前夜に、何という凶暴な言葉で、ならず者とまったく変わらぬ行動を呼びかけていたことか!(中略)


『全員が手に入れられる何かを持つこと(鉄砲、ピストル、爆弾、ナイフ、メリケンサック、鉄棒、放火用のガソリンを染み込ませたボロ布、縄もしくは縄梯子、バリケードを築くためのシャベル、爆弾、有刺鉄線、対騎兵隊用の釘、等々)』(中略)


『仕事は山とある。しかもその仕事は誰にでもできる。路上の戦闘にまったく不向きな者、女、子供、老人などのごく弱い人間にも可能な、大いに役立つ仕事である』(中略)


『ある者達はスパイの殺害、警察署の爆破にとりかかり、またある者は銀行を襲撃し、蜂起のための資金を没収する』(中略)建物の上部から『軍隊に石を投げつけ、熱湯をかけ』、『警官に酸を浴びせる』のもよかろう」


「目を閉じて、そのありさまを想像してみよう。有刺鉄線や釘を使って何頭かの馬をやっつけたあと、子供達はもっと熟練のいる仕事にとりかかる。用意した容器を使って、硫酸やら塩酸を警官に浴びせかけ、火傷を負わせたり盲人にしたりしはじめるのだ。

(中略)そのときレーニンはこの子供達を真のデモクラットと呼び、見せかけだけのデモクラット、『口先だけのリベラル派』と区別するのだ」


彼の価値観はきわめて「ユニーク」で、「警官に硫酸をかけなさい」という教えだったのだ。

よく知られている話だが、1898年から3年間、シベリアへ流刑に処されたとき、レーニンは狩猟に熱中していた。この狩猟の趣味に関して、レーニンの妻、クループスカヤは『レーニンの思い出』の中で、エニセイ川の中洲に取り残されて、逃げ場を失った哀れなウサギの群れを見つけると、レーニンは片っ端から撃ち殺し、ボートがいっぱいになるまで積み上げたというエピソードを記している。


 何のために、逃げられないウサギを皆殺しにしなくてはならないのか?これはもはや、ゲームとしての狩猟とはいえない。もちろん、生活のために仕方なく行なっている必要最小限度の殺生でもない。ごく小規模ではあるが、まぎれもなくジェノサイドである。レーニンの「動物好き」とは、気まぐれに犬を撫でることもあれば、気まぐれにウサギを皆殺しにすることもある、その程度のものにすぎない。


「レーニンは疑いなく脳を病んでいた人でした。特に十月革命の直後からは、その傾向が顕著にあらわれるようになります。1918年1月19日に、憲法を制定するという公約を反古にして、憲法制定会議を解散させたあと、レーニンはヒステリー状態に陥り、数時間も笑い続けました。また、18年の7月、エス・エルの蜂起を鎮圧したあとでも、ヒステリーを起こして何時間も笑い続けたそうです。こうした話は、ボリシェヴィキの元幹部で、作家であり、医師でもあったボグダーノフが、レーニンの症状を診察し、記録に残しています」


 レーニンの灰色の脳は病んでいた。彼は「狂気」にとりつかれていたのだ。ここでいう「狂気」とはもちろん、陳腐な「文字的」レトリックとしての「狂気」でも、中沢氏のいう「聖なる狂気」のことでもない。いかなる神秘ともロマンティシズムとも無縁の、文字通りの病いである。

 頭痛や神経衰弱を訴え続けていたレーニンは、1922年になると、脳溢血の発作を起こし、静養を余儀なくされるようになった。ソ連国内だけでなく、ドイツをはじめとする外国から、神経科医、精神分析医、脳外科医などが招かれ、高額な報酬を受け取ってレーニンの診察を行った。そうした診察費用の支払い明細や領収書、カルテなどが、古文書館で発見されている。


 懸命な治療にもかかわらず、レーニンの病状は悪化の一途をたどり、知的能力は甚だしく衰えた。晩年はリハビリのため、小学校低学年レベルの二ケタの掛け算の問題に取り組んだが、一問解くのに数時間を要した。にもかかわらず、その間も決して休むことなく、彼は誕生したばかりの人類史上最初の社会主義国家の建設と発展のために、毎日、誰を国外追放にせよ、誰を銃殺しろといった「重要課題」を決定し続けた。二ケタの掛け算のできない病人のサイン一つで、途方もない数の人間の運命が決定されていったのである。

そしてこの時期、もう一つの重大事が決定されようとしていた。レーニンの後継者問題である。1922年12月13日に、脳血栓症の二度目の発作で倒れたあと、レーニンは数回に分けて「遺書」を口述した。とりわけ、22年1月4日に「スターリンは粗暴すぎる。そしてこの欠点は、われわれ共産主義者の間や彼らの相互の交際では充分我慢できるが、書記長の職務にあっては我慢できないものとなる」として、スターリンを党書記長のポストから解任するよう求めた追記の一節が、のちに政治的にきわめて重要な意味をもつこととなった。

 ラトゥイシェフはレーニンとスターリンの関係についてこう述べる。


「よく知られている通り、レーニンは『遺書』の中でスターリンを批判しました。そのため、レーニンは、スターリンの粗暴で残酷な資質を見抜いており、もともと後継者として認めていなかったのだという解釈が生まれ、それがスターリン主義体制は、レーニン主義からの逸脱であるとみなす論拠に用いられるようになりました。しかしこれは『神話』なのです。レーニンの『神話』の中で最も根強いものの一つです。

 レーニンがスターリンを死の間際に手紙で批判したのは、スターリンがクループスカヤに対して粗暴な態度をとったという個人的な怒りからです。スターリンがそのような態度をとったのは、衰弱の一途をたどるレーニンを見て、回復の見込みはないと判断して見切りをつけたからでした。しかしそれまではグルジア問題などで対立することはあっても、スターリンこそレーニンの最も信頼する”友人”であり、忠実で従順な”弟子”でした。レーニンが静養していたゴーリキーに最も足繁く通っていたのはスターリンであり、彼はレーニンのメッセージを他の幹部に伝えることで、彼自身の権力基盤を固めていったのです」

たしかに「遺書」では、レーニンはスターリンを「粗暴」と評しているが、別の場面では、まったく正反対に「スターリンは軟弱だ」と腹を立てていたという証言もある。元政治局員のモロトフは、詩人のフェリックス・チュエフの「レーニンとスターリンのどちらが厳格だったか?」という質問に対して、「もちろん、レーニンです」と答えている。このモロトフの言葉を『秘密解除されたレーニン』から引用しよう。


「『彼(レーニン)は、必要とあらば、極端な手段に走ることがまれではなかった。タンボフ県の暴動の際には、すべてを焼き払って鎮圧することを命じました。(中略)

彼がスターリンを弱腰だ、寛大すぎる、と言って責めていたのを覚えています。『あなたの独裁とはなんです? あなたのは軟弱な政権であって、独裁ではない!』と」


 あのスターリンを「軟弱だ」と叱責したレーニンの考えていた「独裁」とは、ではどういうものであったか? この定義は、何も秘密ではない。レーニン全集にはっきりとこう書かれている。


「独裁の科学的概念とは、いかなる法にも、いかなる絶対的支配にも拘束されることのない、そして直接に武力によって自らを保持している、無制限的政府のことにほかならない。これこそまさしく、『独裁』という概念の意味である」

 こんな明快な定義が他にあるだろうか。
 法の制約を受けない暴力によって維持される無制限の権力。これがレーニンが定式化し、実践した「独裁」である。スターリンは、レーニン主義のすべてを学び、我がものとしたにすぎないのだ。


 ラトゥイシェフはこう述べている。

「独裁もテロルも、レーニンが始めたことです。強制収容所も秘密警察もレーニンの命令によって作られました。スターリンはその遺産を引き継いだにすぎません。もっとも、テロルの用い方には、二人の間に相違もみられます。スターリンは、粗野で、知的には平凡な人物でしたが、精神的には安定しており、ある意味では『人間的』でした。彼は政敵を粛清する際には、遺族に復讐されないように、一族すべて殺したり、収容所送りにするという手段を多用しました。もちろん残酷きわまりないのですが、少なくとも彼には人間を殺しているという自覚がありました。しかし、レーニンは違う。彼は知的には優れた人物ですが、精神的にはきわめて不安定であり、テロルの対象となる相手を人間とはみなしていなかったと思われます。

彼の命令書には


『誰でもいいから、100人殺せ』とか

『千人殺せ』とか

『一万人を「人間の盾」にしろ』


といった表現が頻出します。彼は誰が殺されるか、殺される人物に罪があるかどうかということにまるで関心を払わず、しかも『100人』『千人』という区切りのいい『数』で指示しました。彼にとって殺すべき相手は匿名の数量でしかなかったのです。

人間としての感情が、ここには決定的に欠落しています。私が知る限り、こうした非人間的な残酷さという点では、レーニンと肩を並べるのはポル・ポトぐらいしか存在しません」

 ラトゥイシェフの言葉を細くすれば、レーニンとポル・ポトだけでなく、ここにもうひとり麻原彰晃をつけ加えることができる。麻原が指示したテロルには、個人を狙った「人点的」なものもあったが、最終的には彼は日本人の大半を殺害する「予定」でいたわけであり、これは「人間的」なテロルの次元をはるかに超えている。

暴力革命を志向するセクトやカルト教団の党員や信徒達は厳しい禁欲を強いられるものの、そうした組織に君臨する独裁者や幹部達が、狂信的なエクステリミストであると同時に、世俗の欲望まみれの俗物であることは少しも意外なことではない。サリンによる狂気のジェノサイドを命じた麻原は、周知の通り、教団内ではメロンをたらふく食う俗物そのものの日々を送っていたのであるが、この点もレーニンはまったく変わりはなかった。

 レーニンが麻原同様の俗物? そんな馬鹿な、と驚く人は少なくあるまい。レーニンにはストイックなイメージがあり、彼に対しては、まったく正反対の思想の持ち主でさえも、畏敬の念を抱いてしまうところがある。彼は己の信じる大義のために生命をかけて戦い抜いたのであり、私利私欲を満たそうとしたのではない、生涯を通じて彼は潔癖で清貧を貫いた、誰もがそう信じて今の今まで疑わなかった。そしてその点こそが、レーニンとそれ以外の私腹を肥やすことに血道をあげた腐った党指導者・幹部を分かつ分断線だった

 ところが、発掘された資料は、それが虚構にすぎなかったことを証明しているのである。1922年5月にスターリンにあてたレーニンのメッセージを公開しよう。


<同志スターリン。ところでそろそろモスクワから600ヴェルスト(約640キロメートル)以内に、一、二ヶ所、模範的な保養所を作ってもよいのではないか? 

そのためには金を使うこと。また、やむをえないドイツ行きにも、今後ずっとそれを使うこと。

しかし模範的と認めるのは、おきまりのソビエトの粗忽者やぐうたらではなく、几帳面で厳格な医者と管理者を擁することが可能と証明されたところだけにすべきです。

 5月19日     レーニン>


この書簡には、さらに続きがある。


<追伸 マル秘。貴殿やカーメネフ、ジェルジンスキーの別荘を設けたズバローヴォに、私の別荘が秋頃にできあがるが、汽車が完璧に定期運行できるようにしなければならない。それによって、お互いの間の安上がりのつきあいが年中可能となる。私の話を書きとめ、検討して下さい。また、隣接してソフホーズ(集団農場)を育成すること>

 


自分達、一握りの幹部のために別荘を建て、交通の便をはかるために鉄道を敷き、専用の食糧を供給する特別なソフホーズまでつくる。

こうした特権の習慣は、後進たちに受け継がれた。その結果、汚職と腐敗のために、国家の背骨が歪み、ついには亡国に至ったのである。その原因は、誰よりもレーニンにあった。禁欲的で清貧な指導者という、レーニン神話の中で最後まで残った最大の神話はついえた。レーニンは、メロンをむさぼり食らう麻原と何も変わりはなかったのである。
http://www.hh.iij4u.or.jp/~iwakami/nakazawa.htm

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c45

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
46. 中川隆[-11492] koaQ7Jey 2019年3月13日 12:58:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[503]

1元赤軍派議長 塩見おじいさんの面白い話 世界革命の夢 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=CJ7daglEA4M

2011/10/12 に公開
テント村に寝に来てビールを飲んで、クダを巻いてる酔っ払いのおじいさんと思ってインタビューしはじめました。(^_^;)

 でも話しが面白くて、1時間以上話し続けてもらいました。
いやー、本当に面白くて、特に感心したのはビジョンをもっているところです。
これからのお金のあり方など、大事なポイントだと思いました。

※なお、この中継の後、ひょんな事から10人以上の警官に取り囲まれ、パトカーで愛宕警察署に連行され、朝まで尋問を受けた。(^-^;

持っているものすべてチェックされたが、USBメモリだけは分析できないからと没収された。1年後、急に没収されたUSBメモリを取りに来い、と言われ、取りに行った。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c46

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
47. 中川隆[-11491] koaQ7Jey 2019年3月13日 13:04:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[504]

元赤軍派議長・塩見孝也氏死去、元連合赤軍兵士だから語れるその素顔
文● 週刊ダイヤモンド編集部(ダイヤモンド・オンライン)


2017年11月14日に亡くなった塩見孝也氏(本人のフェイスブックより)

 過激派の一つだった「赤軍派」の塩見孝也元議長が今月14日に亡くなった。享年76歳。1970年代末に「赤軍派の総括」をテーマに論争し、その後も付き合いがあった元連合赤軍兵士の植垣康博さんは「まさに反面教師。悪い人ではなかったが冗談が通じないクソまじめな人だった」と話す。

 塩見氏の自著『赤軍派始末記』
https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4779114861/diamondonline-22/

などによると、塩見氏は62年、京都大学文学部に入学した。間もなく活動家となり、京大教養学部(当時)の闘争委員長などを歴任。69年に武装闘争を唱えて赤軍派を結成して議長に就任した。

 70年に逮捕。「よど号」ハイジャック事件など一連の赤軍派事件に関与したとして懲役18年の実刑判決を受けた。89年に出所した後は、北朝鮮にいる「よど号」グループと接触を重ねた。晩年は東京都内の駐車場に勤務。2015年4月には東京都清瀬市議選に無所属で出馬して落選した。

 赤軍派と連合赤軍の関係も整理しておこう。塩見氏が逮捕された後の1971年に逮捕を免れていた赤軍派の一部が革命左派と合流し、連合赤軍となった。連合赤軍は同志12人をリンチ殺害した「山岳ベース事件」、人質と共に立てこもった「あさま山荘事件」を起こし、日本中を震撼させた。植垣さんは山岳ベース事件に関与し、あさま山荘事件の直前に長野県の軽井沢駅で逮捕された。

 一兵士に過ぎなかった植垣さんにとって塩見氏は“雲の上の人”。そのため会ったことはなかったが、70年代末、「赤軍派の総括」をテーマに激論を交わした。互いに“獄中”のため、対面ではなく、「数えきれないほどの」(植垣さん)手紙の応酬、論文の送りつけ合いだった。

 論争の結果、2人は80年に決別した。植垣さんは「塩見さんは結局、連合赤軍を自分の問題にできなかった」と述懐。塩見氏は「(植垣さんは山岳ベース事件での)『粛清』の『同志殺し』を居直ることで、僕から去ってゆきました」と自著『監獄記』に記している。

 塩見氏が亡くなった後の本誌の取材に対し、植垣さんが答えた塩見評は悲しいほど低かった。「超主観主義の人だった。他人の意見を聴かないどうにもならない人だった」。だが植垣さんによると、そんな塩見氏も晩年は集会で顔を合わせると、アジり方(過激な言動で扇動する方法)が控えめになっていたという。植垣さんは「年を取って物腰が少し柔らかくなった。『頑固なままでいてくれよ』と拍子抜けした」と振り返る。

 塩見氏に対する評価は人それぞれだが、大学紛争など新左翼運動が活発だった60〜70年代を象徴する人物だったことは間違いない。

 塩見氏のフェイスブックの職業欄には「革命家 駐車場管理人」、出身校には「京都大学 革命」と書かれていた。最期まで「活動家であり続けたい」との気概を見せていたのかもしれない。

(「週刊ダイヤモンド」編集部 土本匡孝)
https://ascii.jp/elem/000/001/591/1591977/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c47

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
48. 中川隆[-11490] koaQ7Jey 2019年3月13日 13:27:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[505]

No490 元赤軍派議長 塩見孝也お別れ会 前編 2018/4/20
https://blogs.yahoo.co.jp/meidai1970/34340940.html


2018年3月4日、御茶ノ水の連合会館で、昨年11月に亡くなった元赤軍派議長塩見孝也さんの「お別れ会」があった、

私は、塩見さんとは10年ほど前、ある会合で一緒になり、名刺交換をしたことがある。塩見さんとの接点は、その時の1回のみである。「お別れ会」の案内状を見ると、「交流の濃淡を問わず参加を」ということなので、参加してきた。

今回は、その「お別れ会」第一部の発言をまとめたものである。

※ ブログの字数制限2万字を超えるため、今日と明日の2回に分けて掲載します。

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【「塩見孝也お別れ会」前編】

  「塩見孝也お別れ会」ならびに「時代を語る会」への案内状

 塩見孝也さんが、2017年11月14日に心不全で亡くなりました。享年76歳でした。塩見さんは1962年京大(文学部)に入学、京大、京都府学連で活躍しその後、三派全学連と第二次ブント結成に中心的役割を担いました。そして、全共闘運動、70年安保闘争の過程で共産主義者同盟赤軍派を結成、議長として「大菩薩」「よど号」を主導し逮捕、破防法も適用されて18年間にわたる獄中生活を送りました。出獄後は「9条改憲阻止の会」の運動に参加するなどして、多くの方と交流しました。また文筆活動を通して「革命の夢」を語り続け一生を終えました。

 塩見さんといえば、やはり「赤軍派」問題です。1969年に「前段階武装蜂起」を主張して無謀な局面突破を追求し、7/6事件で第二次ブンドを崩壊させ、後の連合赤軍事件への道を開いた事実を避けて通ることはできません。それらは日本の地において、20世紀の革命運動の終わりを開く端緒となりました。赤軍派を胚胎した第二次ブントの路線的根拠が問われた所以でもあります。そうした事々をも含めて想い致しつつ、塩見さんのお別れ会を開催したいと思います。

 第一部は「塩見孝也お別れ会」、第二部は「時代を語る会」とします。彼との交流の濃淡を問わず、彼への評価の違いも問わず、多くの方々の参加を呼びかけます。

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椎野礼仁(司会)

「皆さま、今日は塩見孝也お別れ会及び時代を語る会にお越しいただきありがとうございました。一部は発言者が決まっておりますが、俺にも喋らせろという方は二部の方でぞんぶんに語っていただければいいと思います。

私は椎野礼仁と申します。塩見さんの追悼記事が朝日新聞と毎日新聞に出ましたが、朝日新聞は、そこにいらっしゃいます樋口さんがなかなか素敵な文章を書いておりますが、毎日新聞の追悼文は、私が実は書いております。

私は社学同の戦旗派の方にいた人間ですので、直接関係ないんですが、塩見さんの本の出版と、塩見さんが市議選に出た時に運動員の一人として応援しまして、晩年、ちょっと縁ができましたの、その関係で司会を仰せつかりました。
メイン司会の村田さんを紹介します。」

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村田能則(メイン司会)

「塩見孝也さんとは55年くらいの前から付き合いです。途中、彼が刑務所に入って20年くらい付き合いが途絶えたんですけれでも、私は赤軍派ではなかったんですけれども、ブントの関係で、学生時代と刑務所から出てきてからの付き合いが何度かあります。意見が違ったりしていますけれども、喧嘩をする時もあれば仲良く酒を飲む時もあるという関係でした。

今日は椎野さんと2人で進行をさせいただきます。よろしくお願いします。」


椎野(司会)
「それでは実行委員長から開会の挨拶をいただきます。」

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新開純也(実行委員長:京大友人)

「今日はお別れ会に参加していただき有難うございます。実行委員会を代表して、塩見孝也の大学と、共産主義者同盟ブントのいささかの先輩として、僭越ではありますが、ご挨拶をさせていただきます。

塩見孝也は、昨年11月14日に心臓疾患で亡くなりました。享年76歳でした。
塩見は1962年に京大に入学しました。たいへん目立つ男で、当時、大管法(大学管理法)反対闘争を闘い、その過程で社学同に入りました。そういう過程の中で、60年代中盤から上京し、三派全学連、第二次ブント再建の中心の役割を担って活躍しました。

70年安保の過程で共産主義者同盟赤軍派を結成し、過渡期世界論を路線化して武装闘争を提起した。このことについては、皆さんのいろいろな思い、賛否はあるかと思いますが、武装闘争を初めて路線化したのは彼でありました。70年に逮捕され、よど号ハイジャックの共同正犯として約20年間獄中にありました。出てきてから北朝鮮に行って田宮らと交流し、近年は9条改憲阻止の会に参加、また、2011年の福島第一原発事故以降は、経産省前テント村にも参加して活躍した。獄中20年を含めて、闘い続けた一生だった。

その中で、彼は赤軍派リーダーでありましたから、獄中を含めてそれにこだわり続けた一生だったとも思います。

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彼は、赤軍派から出た3つの流れ、一つはよど号ハイジャック、二つ目は連合赤軍に至る過程、三つ目は日本赤軍への流れ、こういう三つの流れについて、後の二つについては、彼は獄中にいて直接タッチしていません。しかし、彼はそういうことに対して責任にこだわり、総括をすることを一生の課題にしたのではないかと思う。

彼は自分の生をストレートに表現した男ではなかったかと思う。そのことは、しばしば多くの誤解を生み、迷惑を被った人が多くいると思います。(笑)お別れ会には行かないという人が結構いるのも事実です。

しかしながら、彼は自分自身のキャラクターを自分の生身の言葉で表現しようとした一生であったと思っています。文字通り『わがままに生きた男』ではなかったか。そういう意味では幸せな人生を送ったのではないかと私は思っている。

今日は塩見孝也を偲び、その時代を語るとともに、現在、大きな転換点にあります世界と日本の今後の行方を含めて、大いに偲びつつ語っていただければ、実行委員会としては非常にうれしく思います。今日はご参加ありがとうございます。」


椎野(司会)

「塩見さんの奥様はいらっしゃいませんが、親しい方が手紙をいただいていて、それをご紹介するということで、ご了承を得ております。」


塩見一子さん手紙紹介(代読:長船青治)
<塩見一子さんの手紙 >

御挨拶 前略 ご容赦ください。

塩見孝也は、2017年11月14日20時15分旅立ちました。直接の死因は虚血性心不全。亨年76年と半年。

生前の御好意感謝致します。私が死者に代わって感謝とはおかしなことです。が、「ありがとう」「ごめん」が言えなかった人なので・・・。
2015年、家族の猛反対を押し切って、市議選に立候補以来、体調を崩し、入退院を繰り返してきました。

今年は、4月3日から15日迄「多摩北部医療センター」に入院。8月下旬から9月一杯「順洋会武蔵野総合クリニック」に入院。退院しても前のように元気をとり戻すことはありませんでした。

「入院しても、もう元には戻らんのだな」と自問自答することも多くなりました。11月14日、武蔵野クリニックで診療拒否。両病院共にトラブルの連続でした。
ケアマネジャー、清瀬市の社協に相談。具合が悪くなったら救急車を呼んで、病院を決めてもらうという方針にしました。

玄関に座り込んだままの彼に「救急車呼ぼうか?」「いや、呼ばんでいい」 台所仕事をしながら会話をしていました。言葉が途切れたので、見ると動きません。それが、20時15分でした。 救急車で心臓マッサージをしながら昭和病院に運ばれました。心臓は動きだすことはありませんでした。

「午後9時53分死亡を確認致しました。でも動かなくなったとき心臓は止まったんだと思いました」

スタッフ全員、直立不動で背筋を伸ばし、深々とおじぎをしました。死者への敬意と受け取りました。私も同様に、おじぎを返しました。感謝をこめて。

眠るような安らかな死に顔でした。3年の内に、沖縄の海に散骨するつもりでおります。
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お世話になりました。
塩見は何の挨拶もせず、逝ってしまいました。
故人に代わって最後の一日の様子を中心に語らせて頂きました。

本日は、ありがとうございました。
いずれ散骨の日の費用に使わせて頂きます。
塩見に対する評価(悪評)は多々あります。

しかし、個は類に規定され、時代の子でもあります。
彼をつくり出したのは同時代を生きた我々ひとりひとり。

時代を総括して、新しい時代を切り開いていく力にしていく必要はあるでしょう。

私たちとって、自分の人生に向き合うということは、塩見孝也の生涯に向き合うということでもあります。生命のある限り逃げることはありません。
合掌
12月26日  塩見一子


椎野(姉妹)

「黙祷を捧げたいとと思います、皆さまご起立をお願いいたします。」
●黙祷
「同志は倒れぬ」の曲が流れる中、全員で黙とう。

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椎野(司会)

「献花をお願いいたします。」
●献花
「同志は倒れぬ」「ワルシャワ労働歌」などの曲が流れる中、全員で献花。


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椎野(司会)

「参加者の方々から一言づつお言葉をいただきます。渕上さんお願いします。」

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渕上太郎(経産省前テント広場代表)

「塩見さんとはそんなに長い付き合いではない。彼は元赤軍派議長という肩書ですが、72年に浅間山荘の事件があり、彼の政治的な考え方等々について、政治の世界でセンセーショナルに報じられてきたし、彼自身もそうした問題についての一般的な考察を巡って苦労されたのかなと思っています。私も同時代で生きているわけですから、そういう点では共通の問題もあったんだろうと思っています。総括というのはなかなか難しい問題なので、この場でああだこうだ言うつもりはありません。ただ、人間としての塩見孝也について少し申し上げておきたいと思います。
塩見さんとは9条改憲阻止の会が出きてからの付き合いです。しばらく経ってから、会議が終わった後に、彼が『渕上、ちょっと話がある』ということで何のことかと思っていたら、『俺の方が一つ年上なのに会議で塩見と呼び捨てにされた。けしからん』と言われた。(笑)『もしそうだったとすれば悪かった』と謝って終わった。その後いろいろあったわけですが、ある日突然『30万円貸せ』と言われた。『返すのか』と聞いたら『はい』と言うので貸したが、その後お金の話は一切ない。それはそれで仕方ない、そんなこともあるだろうと思っている。

70にもなろうとする男が、呼び捨てにしたと怒って一席設けるわけです。ほとんど学生時代から成長していない。(笑)成長すればいいというものではないわけですが、革命運動などと言う限り、少しずつ成長していかないとなかなかうまくいかない部分があるはずです。そういう点が全く見られなかったので、おもしろい男だと思っていた。

その後、改憲阻止の会が沖縄闘争に取り組んだことがあって、ユニークな沖縄闘争をやりたいと考えて、その金集めの出し物として塩見孝也さんの『生前葬』をやった。その時に、彼から重要な抵抗はほとんどありませんでした。しかし、本音はたぶん『何で俺なんだ。俺はもうお終いということか』という思いもあったはずだか、直接俺には言わなかった。

生前葬に賛同していただいて、おかげで。かなりの金額を沖縄にカンパできた。
9条改憲阻止の会でそういうことをやってしまったものですから、本当に死んだらどうしよう思いましたが、これは普通の方が普通に亡くなっていく対応しかないわけであります。

亡くなってからしみじみ思うわけですが、彼があの世で、まったく違った分野で頑張っていこうということであればいいなと思っている。違った分野で違った経験をして、もう1回転じて、彼の希望していた『革命家』の道を成就することができるのではないかと思ったりするところであります。

彼は『学生運動革命家』として一生を終えた。これはこれで大変幸せな一生ではなかったのかと思っています。楽しい人生を送っていただいて、私も塩見さんの人柄に触れることができて、それはそれで良かったと思っています。」


椎野(司会)

「9条改憲阻止の会の三上治さんにご挨拶いただきます。」

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三上治(9条改憲阻止の会)

「塩見とは長い付き合いで、塩見のことはいろんな話があって、どういう風にお別れするかと思っていて、自分の中でいい言葉がないというか、もっと時間をかけて、いろんな形でやらなければいけないと思っています。

1969年から70年にかけて、いわゆる赤軍派が登場した時、僕はブントの右派といわれた、後に叛旗派となるグループの先頭で、塩見とは一番激しく対立していた時代がありました。それは、あの時代に武装闘争をやることが正しいのかどうか、基本的に僕は反対の考え方をとっていて、一番激しく対立した時期があります。その時代の後も、ずっといろんな形で総括し、話し合ってきました。

その後、9条改憲阻止の会で一緒になり、活動してきました。議論もし論争もしました。60年代の話になると、2人で激烈な喧嘩になり、収拾がつかなくなり、周りがハラハラすることもありました。でも、お互いにその問題について決着つかなくとも、何らかの形で考えていかなければいけないということに関しては塩見と共通の考えを持って、お互いの意見を聞こう理解しようとしていました。

9条改憲阻止の会が経産省前にテントを作り、初期は塩見も来ていた。その後、清瀬市会議員の選挙があり、選挙の後、清瀬まで塩見に会いにいきました。彼も前から心臓を患っていて、お互いに身体には気を付けようという話になりました。

塩見自体が、本当の意味で自分の心の底を、あの当時どうだったかということを本当の意味で語ったのか、語らなかったのか。たぶん語りたかったけれど語れなかったのか、あるいは言葉にしたかったけれど、まだ言葉にならなかったのか、それは塩見の問題ではなくて、また俺の問題でもあるんだろう。

塩見とお別れするのは、塩見の本音を自分自身で本当に理解できた時だろうし、それまでは塩見さんの存在は僕の中ではずっと続いていくだろう。それは、あの時代を共に闘った、その時代の問題でもあるのだろうと考えて、しばらくは、お別れしたいけれど、お別れするためにはまだまだ時間がかかる。まだしばらくは、お別れという言葉を留保させていただきます。」


椎野(司会)

「続いて、塩見さんと北朝鮮とかイラクに一緒に行ったり、市議選の時には応援に来ていただいた作家の雨宮処凛さん、お願いします。」

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雨宮処凛(作家)

「皆さん60年代くらいからの付き合いがある方も多いと思うんですけれども、私はちょうど20年前、塩見さんのイベント、確か『赤軍派対ダメ連』、ダメ連という若者のムーブメントと赤軍派議長が語るみたいなイベントに行ったのが、1998年、私が23歳くらいの時だったと思うんですけれども、塩見さんが初対面のただの客の私に、いきなり『北朝鮮に行こう』と言ってきて、それが最初の会話で、私も元赤軍派議長にいきなり北朝鮮旅行に誘われて、断ったら殺されるんじゃないかと思って(笑)、しょうがないから二つ返事で行きますと言って行ったのが初めての海外旅行で、99年に北朝鮮に行った。何で北朝鮮に行くのか全然説明がなくて、とりあえず平壌に行けば何とか活動するだろうみたいな感じで、いきなりよど号グループの宿舎にぶち込まれて、子どもが同世代だったので、子どもたちと仲良くなって、それで5回北朝鮮に行って、よど号の子どもが日本に帰ってくる時に、私は平壌まで迎えに行って一緒に帰ってきて、そんなことしていたから、日朝会談があった直後に家にガサ入れが入って、本当に塩見さんと付き合っていると、いきなりいろんなことに巻き込まれて人生がおかしな方向になるという、それを実践している一人です。皆さんもいろいろ迷惑を被っていると思いますけれども(笑)、私にはこの20年でこのような実害というか、そのようなことがありましたけれど、塩見さんに強引に巻き込まれたお陰で、人生がとっても面白くなったということがあります。

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あと、晩年の塩見さんのことで、皆さん知らない方もいるかもしれないですけれども、この10年15年くらい、塩見さんの周りに生きづらさを抱える若い人たちがすごく集まってきて、私のイベントにも塩見さんに来てもらっていたんですけれども、2010年にここで塩見さんの生前葬をした時は、元引きこもりの若い人が『俺は駐車場管理人』という自作のヒップホップを歌ったことがあって、その彼は塩見さんのことが大好きで、他にも引きこもりとかニートとかいじめられていたとか不登校だったとか、社会的に排除されたような若い人が、塩見さんの周りにすごい集まっていて、塩見さん塩見さんとなついていたんですね。何でかというと、その人たちのいろんな悩みを普通の大人に相談すると『自己責任だ』そんなことを言われるけど、塩見さんに相談すると全部資本主義が悪いんだ(笑)

それは全部資本主義の問題だ、世界同時革命しかないと言う感じで、普通の大人が言うのとは全く違うことで、元赤軍派議長にお前は悪くない、お前の生きづらさの原因は資本主義だと断言される。そういう形で塩見さんと関わった若者たちが、塩見さんが意図しない形ですごい勇気づけられて、元気になっていくということがたくさん起こっていたんですね。本人は気付いていなかったけど、すごいたくさんの人を救っていた。

自己責任をいわれて分断されて孤立化させられていく中で自殺に追い込まれていくという中での苦しさに対して言ってくれたので、塩見さんがどこまで若者たちの思いを理解していたかわからないですが、そういう形で救っていたというのはすごい大きなことです。

私は20年前は右翼団体にいて、塩見さんにやめろ辞めろと言われていて、12年間から貧困問題と労働問題を始めたら、全部自分の手柄だと思ったらしくて、それからしょっちゅう電話が掛かってきて、明らかにこっちの運動を乗っ取って世界同時革命をやろうというのがバレバレなんです(笑)。

10年前にシルバー人材で仕事をしてからすごく変わって、シルバー人材センターユニオンを作りたいと相談に来たことがある。結局、シルバー人材ユニオンから世界同時革命をしたいということをまだ言っていて、とても感動したことがあって、本当に好き勝手に生きてきた人だったなと思います。

私にとっての塩見さんは『世界同時革命おじさん』でした。」


椎野(司会)

「この方も塩見さんと交差した方で、塩見さんが左から右へ、鈴木さんが右から左へ行くような交差がずいぶんあった鈴木邦男さんから一言いただきたいと思います。」

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鈴木邦男(元「一水会」最高顧問)

「鈴木邦男です。今、司会者が交差と言いましたけれど、そういう点もあったのかなと。僕がかって右の運動を40年間やっていて、今は左翼だといわれますけれども、塩見さんの名前は昔から知っていましたし、本も読んでいました。ただ、皆さんと違って同志ではなかったので刑務所に迎えに行くこともできなかった。

出てきてから、運命的な討論会がありました。予備校の河合塾で『左翼激突討論会』というのがありまして、塩見さんと私がやりました。名古屋でやって、大阪でやって、東京でやって、全国でやりまして、塩見孝也というのはものすごい人だと思ったんですけれども、でも、結構脇が甘くて人間的なんですね(笑)。そういう意味で非常に面白い人ですね。

塩見さんが左翼のアホどもに利用されるのが嫌で、一度塩見さんにこう言ったことがあったんですが、

『塩見さん、そろそろ革命家としてきちんとこの国の将来を考える本を作りましょうよ。憲法9条の改憲阻止の会なんかやっているんじゃない』

すみません、関係者がいっぱいいるのに(笑)

『それよりも憲法そのものが日本にはいらないんじゃないか。天皇制もいらない。そういうことをきちんと言ったらどうですか』

と言った。かって、社会主義協会の人がこんなことを言ったことを覚えている。社会主義協会の代表だった人は

『日本には自衛隊なんかいらない。自衛隊を赤軍にしろ。ワルシャワ条約機構に加盟しろ』

と言っていた。敵ながらあっぱれなことを言うなと思った。塩見さんにもそういう存在になって欲しいと思ったんですね。塩見さんにも

『天皇制はいらないでしょう。大統領制にしましよう。自衛隊はいらないでしょう』

という話をしたんです。塩見さんは『そうだな』と。

『じゃあ憲法9条の問題をやっているところじゃないでしょう、天皇制はいらない、大統領制にする、最初の大統領は塩見さんですね』

と聞いたら、塩見さんは謙虚なんです。

『俺はダメだ。中核派の親分、本多さん』。
『その次は塩見さんですね』

と聞いたら答えない。

冗談半分なんだから大風呂敷を広げればいのに、正直で言わない。

雨宮さんが言っていましたが、若い人の話を聞いたと。塩見さんはキチンと聞くんですね。

『君はなかなか革命的だ』とほめる。
ほめる言葉の最大の表現が『革命的』ですからね(笑)。

それで、『今の若者は大したものだ、しっかりしている』。どこがしっかりしているのか、こいつらは、と僕は思いました。他人に対して甘いんじゃないかと思いました。

あれだけのことをやった日本のレーニンといわれた塩見さんだから、もっと大きく構えていればいいと思うんです。

連合赤軍の人たちが塩見さんの責任を言うと、これこれと細かく例証を上げるんですね。そんなことよりも全部自分が作ったんだ、俺のせいだ、成功も失敗も全部俺のものだと言ったらいいと思うんです。でも、そういう風に言えなかった。きっと人間が真面目なんですね。そういう意味で残念だったと思うし、そういった形で塩見さんをもっと大きくすることができなかった我々傍にいた人間の失敗だと思います。

塩見さんを送るということですが、送りたくないですね。阻止したい、奪還したいという感じですね。肉体は奪還できなくても、魂は、また、革命の志は奪還したいと思っています。塩見さんが出来なかったことを、我々がみんなが何とかしてやっていきたいと思っています。」


椎野(司会)

「続いてトークライブ酒場を経営している平野悠さんにお言葉をいただきます。」

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平野 悠(ロフト+1経営)

「僕はロフト+1というトークライブハウスを経営していまして、その中でいろんな論争があったり乱闘があったりしました。僕は青春時代は、ブントが初めて作った労働戦線で懸命に労働運動をやっていました。でも2年間一生懸命やったことが、あの連合赤軍事件で悲惨な目に遭って仕事を辞めました。僕は学生時代も労働戦線の時代も塩見と全く接点がなかったです。

85年に酒場、トークライブハウスを作った極端なきっかけは、中核と革マルを同じステージに上げて喋らせたいというのがずっと僕のテーマにあったんですけれども、結局、僕のところに出たのはブント系しかなかった。98年に塩見さんと会いましたが、塩見さんは全く孤立無援でしたね。20年間の獄中生活の中で、彼はいろんなことを思ったに違いない。出たらもう1回組織を作って世界革命をやるということはなかった。塩見さんが出てきて何かをしたいという土壌が一つもなかった。

それで僕は塩見さんを立てるしかないと、塩見さんを呼んだいろんなイベントをやりました。15年前に塩見のイベントをやった時に、塩見さんの事務所にFAXが入って『塩見を殺す』。普通の人だったら面白がって、右翼こいこいとなるが、塩見さんは異常反応しまして、防衛隊を作ってどうのこうの、そこまではいいんですが、店の入口で一人一人チェックして写真まで撮って、新宿署の公安もいるというムチャクチャなことをやった。ふざけるな、俺のところは絶対警察なんて入れないと一時絶縁した。

だけど塩見さんはいい人なんだな。塩見さんとは北朝鮮に行き、イラクに行き、原発の時は福島まで行って一緒にデモをしたり、いろんなことをしました。

最後の塩見さんとの決別の場所は、塩見さんから電話がかかってきて『俺は選挙に出る』たぶん、裏ではお金出せというだけの話だったと思うんですけれども、塩見さんに言われちゃったらしょうがないんで、僕と鈴木邦男と雨宮処凛と選挙の応援演説に行った。選挙日の前日には、皆で町をゲバラの旗を持って、赤軍派だと、世界革命の旗を持って町中行進したんですよ。これはひんしゅくもので、町はドンビキ。選挙演説の時は買い物かごを持ったおばさんに対して世界革命をやる訳ですよ(笑)。本人は受かるつもりだったらしいが。僕は間違いなく受からないと思った。でも300票くらい取ったんだよね。20年間牢獄にいたせいなんでしょうが、午前中に演説して午後には家に昼寝に行ってしまう。そんなこともありました。

でも塩見さんはいい人です。塩見さんは大衆運動にとにかく入り込みたい、自分で何かやりたいといった時に、僕の店は若者もいたし、彼は僕の店で開いた学習会にも入り込んできて、『賃労働と資本』の学習会をやったんですけれども、全部パクるんですけれど、組織者としてはうまくいかなかった。

塩見さんは最後の最後まで世界革命を忘れていなかった、という無茶苦茶偉大な人です。」


椎野(司会)

「平野さんが紹介していた選挙演説の時に、塩見さんは獄中20年と言っていた。それは隣の西東京市で、自分は大菩薩で捕まった赤軍派であるということを隠さずにトップ当選をしている市議会議員の選挙参謀がそういう戦術を打ち出した。(選挙参謀は)『塩見さん、他の人と同じことをやってもダメだ。1人対他の候補22人という構造を作り出せばそこに勝機があるかもしれない。そこにしか勝機がない』ということを仰って、それを採用して、23人中22位、319票で落選しました。ただ供託金は取り戻しました。」


村田(司会)

「これから学生運動の時代に活動家だった方が発言します。最初は白川真澄さん、お願いします。」

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白川真澄(京大大学時代の友人)

「私が大学に入学したのは1961年、安保闘争の次の年です。彼が入学したのは1962年に文学部に入学した。教養部のブンドの新しいリーダーとして活動するようになった。当時の京大ブンド、関西ブントは、渥美さんとか新開さんとか、きらびやかなスター軍団ぞろいで『巨人』のようなものです。私は共産党に入党したわけですが、共産党は人材もない戦闘力もない、当時の広島カープのような『貧乏球団』に入ったという印象だった。この『貧乏球団』をブントに並ぶ強い『球団』にしなくてはいけないということで、私が大衆運動の前面に出まして、塩見君とライバルとしてやりあったということであります。

当時の京大ブントの新開さんたちとよく論争しましたが、かなり生産的な論争ができたと思っています。だけど、塩見とは生産的な論争をした記憶が全くない(笑)。新開さんとはグラムシとかローザを読んで、それをベースにして論争するわけですが、塩見は読んだことがないんじゃないか。あいつのレーニン理解は何なんだろうと思っていて、結局塩見とは腕ずくでやり合うことが多くて、論争にならなかったというのが私の印象です。彼は『日本のレーニン』と呼ばれたそうだが、誰が言ったのだろうか(笑)。自分で言ったのではないか、とさえ思う。

私たちにとっての華というのは、68 年から70 年にかけての闘争ということになって、同じように体験したわけですが、私は共産党から当然のように除名されまして、共産主義労働者党という党派を結成しました。これは『遅れてきた新左翼』ということで、中核の諸君とかブントの諸君が先行していましたから、何とか追いつけ追い越せということで、私たちも反政府実力闘争を展開してかなりの犠牲者を出しながら実力闘争を展開しました。ただその中で、いろいろな要素があって、政府を実力で倒すという闘争と同時に、全共闘運動に見られるように自分たちに決定権を取り戻す、つまり自治の革命とか、あるいはフランス5月革命に見られる自主管理の闘い、そういう新しい要素が芽生えていたのではないか、今も当時もそう考えていました。私たちは政治革命だけではなくて、社会革命もということで『政治=社会同時革命』といういい方をして、68年69年の闘いに行こうと考えていたわけです。

ある時、69年ですが、上京していた塩見とばったり出会った。私は共労党の専従で上京していた。その時、塩見に『塩見、暴力だけでは世の中は変わらないぞ』と言った。それ対して、塩見は『何言ってるんだ、暴力で変わるんだよ、暴力で』と言った。その後、交わることはなくて逮捕されて、長い獄中生活を送るわけです。出てきたときに出迎えに行って付き合いが復活するわけです。

私は68年69年というのは、世界革命ということでいうと、国家権力を獲る革命あるいは政府権力の奪取を優先する革命から、自治の革命に革命というものが大きく転換する歴史的な転換点だったと、私は総括している。

このことは、国家権力を獲る革命、あるいは政治権力を奪取することを優先する革命は、革命的な暴力を伴います。革命的な暴力というものは、当時の新左翼の共通の考えであったわけです。『革命的暴力』をどうするかという問題があって、やっぱり塩見君はぎりぎり武装闘争を追求した。68年から70年にかけて東京でやった反政府実力闘争は敗北した。敗北をはっきろ認めなければいけない。私たちは、三里塚闘争の中で、もう1回実力闘争を復権するという道を選んだ。

ちょうど今年が管制塔占拠の40周年になるわけで、生活空間に根差した人々の抵抗の暴力は強いということを非常に実感しました。と同時に、世界的に行われた民族解放の武装闘争、第三世界の武装闘争、ベトナムやパレスチナの解放闘争、そういうものに世界革命のリアリティを求めたわけです。だけれども、それが80年90年代に挫折をしたということをどう考えるか、という問題があります。私は、暴力の問題は、人々の生活空間に根差した『抵抗の暴力』は強い、これは生きるというのが私の一つの考えで、その点、塩見がどう考えたのか、彼が生きていたら論争したかった。

普通、偲ぶ会というのは、良いところを挙げて、最後にちょっとけなすということがあるけれども、何が良いところかよくわからない。

最後に一つ申し上げます。塩見はリアリスとしての革命家としてはダメだ。だけれども、間違いなく革命の夢を追い求めたロマンティストであったことは間違いない。リアリストであるためには、冷たい計算をして闘いを勝利に導くためには、その原点は熱い心を持ったロマンチストでなければいけないと思います。その点で、ロマンチストでありたい、あろうという塩見とどこかで一致するのではないかと考えているところです。」


村田(司会)

「白川さんのお話の中で、誰が塩見を『日本のレーニン』と最初に言い出したかということですが、私の記憶では、たぶん藤本敏夫が、新聞記者相手に関西弁で『レーニンみたいな男やな』と言ったと記憶している。次に朝日健太郎さんお願いします。」

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朝日健太郎(先駆社代表)

「私は1944年生まれです、塩見さんよりちょっと下ですが、同時代を生きてきた一人です。私はフロント派といわれていた政治グループの責任者でもあります。
彼の特徴点は世界同時革命、武装闘争ということでありますけれども、その視点からいいますと、私は終生一貫して反対し続けてきた右翼日和見主義の代表のような立場であります。塩見さんとは、実はほとんど接点がありません。3・11以降、立ち話をする機会はありました。

塩見さんは第二次ブントの中心的な方ですが、第一次ブントで世の中を騒がせている人は西部邁です。この人物はどういうわけかメディアでは賛美されている。60年安保のブントの人たちの一群は、皆さんご存知のように保守派に行きました。それは、国家をどうするかということで中曽根など保守派に近づいたと思います。西部はそこに行けなかった。彼は共産主義は嫌い、これは反スタですね。もう一つは親米保守は嫌い。これは私の理解ですが、60年論争の時に最大の論争点は自立従属論争というのがあった。ブントは私たちと同じように自立派、日本帝国主義復活と闘うにはどうするのかというのがテーマであったわけですから、アメリカと手を組んでやろうという気はさらさらなかったし、ましてや、従属的な発想は全くなかったですね。ですから西部は親米保守が嫌いだった。保守派に行ったにもかかわらず、彼の考えは合理主義です。力で振り負かすというのは彼には合わない。そうすると、最後は行く場所がなくなったのではないか。私は安倍晋三は対米従属を賛美しているとは思いません。彼は明らかに日本の自主独立をどうするかということを保守の側から考えている一人です。彼は最終的には憲法だけではなくて、核武装もそうだし、天皇元首化もそうだし、日本の復古的なものをもういっぺんやろうという発想に近い方である。西部は行く場所がなくて死んだと私は思っている。

塩見孝也の長い人生を見て、ブントの中で保守に行かなかった代表者の一人だと思う。それは保守に行かなかったけれども、革命をどうするかということを終始考えていたことは間違いない。

私は世界革命戦争と市議会議員選挙がどうして結びつくのかということを彼に聞くこともなかったし、私の理解を超えた発想であります。

彼はいろんな評価はありますけれども、彼のフェイスブックを読んだ友人によりますと、そこに革命家と書いてあるという。そうか、彼は革命家として終生闘ったんだ、その中身はともかくかくとして、その志は私は最後に称えたいと思います。」


(明日のブログ後編に続く)
https://blogs.yahoo.co.jp/meidai1970/34340940.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c48

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
49. 中川隆[-11489] koaQ7Jey 2019年3月13日 13:33:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[506]

No491 元赤軍派議長 塩見孝也お別れ会 後編 2018/4/21
https://blogs.yahoo.co.jp/meidai1970/34341440.html


2018年3月4日、御茶ノ水の連合会館で、昨年11月に亡くなった元赤軍派議長塩見孝也さんの「お別れ会」があった、

私は、塩見さんとは10年ほど前、ある会合で一緒になり、名刺交換をしたことがある。塩見さんとの接点は、その時の1回のみである。「お別れ会」の案内状を見ると、「交流の濃淡を問わず参加を」ということなので、参加してきた。

今回は、その「お別れ会」第一部の発言をまとめたものである。


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【「塩見孝也お別れ会」後編】

村田(司会)

「若い人はご存じないかもしれませんが、昔、三派全学連というのがありました。このネーミングは革マル派なんです。三派の寄せ集まりで、三派一緒にやってもいずれ分裂するだろうということを揶揄するために三派全学連という名前を付けたんです。これが学生運動の高揚期と重なりまして、新聞にも三派全学連が堂々と載るようになったんです。10・8から王子、成田闘争と学生運動の発展期にありましたので、三派全学連という名前が市民権をもつようになった。だから揶揄されている我々の方も、三派全学連は野暮と思っていたのがかっこいい響きになってきたので、我々も三派全学連を使うようになってきた。これから何人かの方は、その当時の三派全学連のリーダーの皆さんにご発言をお願いしたいと思います。

最初に三派全学連時代の東京都学連委員長の三島浩司さん、旧名山本浩司さんです。」

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三島浩司(元東京都学連委員長)

「今、司会の方が仰いましたけれども、私たちの時代はいわゆる三派の時代。私が塩見孝也さんと初めて会ったのは、おそらく1963年の春だったと思います。1963年の春は、全国自治会代表者会議が京都でありました。場所は京都先斗町の芸者さんとか舞子さんがお稽古するところです。彼と知り合ったのはその頃で、彼は本能寺のあたりの下宿に住んでいました。それからしばらくして、個人的にも親しく付き合いまして、京都に行った時は彼のところに泊めてもらいました。
連合会館のすぐ近くに全電通会館がありまして、65年の7月に都学連の再建大会がありました。その都学連再建大会以降、彼はしばしば東京に出てきている。それから1年くらいで常駐するようになったと思います。

彼らしい面白いエピソードがあります。白川さんの話でロマンチストという話がありましたが、彼が東京に出てきて、何人かと一緒に新宿の飲み屋で飲んでいて、彼は何を思ったのか、店の若い仲居さんに『私は京都から出てきた塩見孝也と申します。全学連再建のために東京に出てまいりました。付き合ってください』(笑)無理だと思いますけれども、そういうことを言った。彼とはそういう風な付き合いで、よく飲んだ。その後、あまり付き合いはなかったんですが、72年の連合赤軍事件の前に彼は逮捕されて、連合赤軍事件でかなり参っているのではないかと思い、当時の東京拘置所に会いに行った。事実、かなり落ち込んでいて、第一声は『すべて俺の責任だ』と言っていました。塩見に『全部自分の責任だというのは、ある種ごう慢じゃないか。お前がそんなことをできるわけがない』と言った。

塩見は新潟刑務所にいて、府中刑務所に移されて、出たときに府中での出獄の歓迎会で20年ぶりに会った。その後、彼と平壌に行ったりした。彼とは大勢で一緒に飲んでいたが、二人だけでじっくり飲んだ経験はないような気がします。

陶淵明に『長い年月を経ってみれば、栄誉や知力は何でもない。ただ、この世を去るにあたって残念なことがあるとしたら、もうちょっとだけ酒を飲みたかった』という意味の詩があります。

やがて私も行くと思いますので、今度はゆっくり彼と飲んでみたいと思います。」


村田(司会)

「次の発言者として、秋山勝行さん又は吉羽忠さんと書いてありますが、江戸川区の前進社あてにご案内の親書を出しましたが、返事がきませんでした。今日はお見えになっていませんので、残念ながら発言はないということになります。
ブントの当時の書記長だった渥美さんにご挨拶をお願いします。」

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渥美文夫(元ブント書記長)

「塩見とは長い付き合いがあったわけですが、塩見孝也でまず思い出されるのは、第二次共産主義者同盟結成のために共に頑張ったことが思い出される次第です。
しかし、1969 年7月、塩見孝也が前段階武装蜂起を主張しました。私はそれは時期尚早である、そこまで情勢は煮詰まっていないと考え、塩見孝也と別れた。連合赤軍事件は、森あるいは永田の指導者としての問題があると思いますが、私は、連合赤軍事件というのは、まさに塩見が唱えた前段階武装蜂起という政治路線が具体的に破綻していくプロセスそのもの、政治路線的な事件として我々は捉えなくてはいけないいと考えます。

塩見と話をしても、最後までそれは受け付けませんでしたが、私はそのように思っています。

1970 年以降、我々の運動は後退を強いられてきました。その中で大きな要因として、連合赤軍事件と内ゲバが指摘されてきました。私は確かにそれは大きな要因であったと思っています。しかし、我々左翼の後退というのは、日本的な現象というよりも、むしろ世界的に我々左翼、共産主義の運動が後退を余儀なくされている、これは事実だと思います。その原因は何であるか考えた場合に、その一番大きな要因は、ソ連の崩壊と中国の変質、これが非常に大きな要因として我々に突き付けられていると思います。実際に今のロシア、中国、これは開発独裁というか国家資本主義です。そういう現実を突きつけられる中で、私たちはそれをどうとらえ返すのか。確かに我々はソ連共産党の官僚化、腐敗を指摘し彼らは世界革命の立場を捨てて、各国の革命運動を自国防衛のための道具にする、そういうことを我々は厳しく批判してきました。しかし、ソ連崩壊 中国の変質、そういうことは、我々にさらに厳しい課題を突き付けている。

今年はロシア革命100 年、中国革命70 年、ここで示されてきたことに対して、裏切りである、腐敗であるということだけでは済まない。70年100年というのは一つの歴史の重みだと思います。ロシア革命の100年、中国革命の70年を考えると、いったいプロレタリア独裁と一党独裁はどう違うのか。結局のところ一党独裁でしかない。これを我々はどう総括するのか。我々はブルジョア民主主義ということで、いつもこれを見下してきました。しかし、実際のプロレタリア民主主義とは何だったのか、ということが問われている。それに対して、我々は、今や明確な我々が考える政治システムを提起しえない。ただソ連共産党の腐敗、中国共産党の腐敗というだけでは、不十分である。さらには、中央集権的な国有化経済というものが、実際には経済合理性を差別化していった、これも事実として我々に突き付けられた。あるいはスターリンのコルホーズ政策、あるいは毛沢東の人民公社方式を我々が批判するとするならば、我々はどういう農業政策を持っているのか、そういう我々が考える政治システム、我々が考える政治経済政策について、我々がより立ち入って、我々の考えを鮮明にさせていく、そのことを抜きにしては我々は進むことはできない、そういうことを私は突き付けられてきたと思っています。
今、搾取と抑圧、支配と差別に反対する戦いは全世界いたるところで展開されています。。しかしながら、それらの運動と共産主義とは乖離した状況にある。共産主義思想は何らヘゲモニーを持っていない。そういう中で、我々の道はロシア革命100年、中国革命70年の歴史総括を内包したものとして提起されなればならない、我々は圧倒的に立ち遅れている。我々は急がなければいけない。
以上、塩見孝也お別れ会の言葉とさせていただきます。」


村田(司会)

「次から元赤軍派関係の方の発言をお願いいたします。高原浩之さん。」

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高原浩之(元赤軍派)

「私は、第二次ブンドと赤軍派を通じて、塩見孝也とずっと政治行動を共にしてまいりました。そういう意味で、その間の政治的責任を共有するという立場で、少し思いを述べさせていただきたいと思います。

 まず、赤軍派についてどのように思うのか、ということですけれども、赤軍派が70年闘争を飛躍的に発展させたいという思いから結成されたことは間違いありません。しかし、現実に起きたことは何かというと、第1に7・6事件で第二次ブンドを崩壊させた。第2に起きたのは何かというと、連合赤軍事件。この事件は人民の闘争に壊滅的な損害をもたらしたことは間違いないと思います。なぜ起きたのか?赤軍派は実際に武装闘争に着手する前に、大菩薩峠で多くが逮捕されて基本的にはそこで挫折しました。にもかかわらず、人民に依拠しない、革命の原動力の点では根本的に誤っていた革命戦争路線を引きずった結果というのが連合赤軍事件であったと私は思っている。その赤軍派の路線が破綻したときに、いったい何で組織が維持されたのか。リンチでしょう。このことによって組織を維持する。それは革命運動の中にずっと蝕んできていた悪い『体質』が、いわばそこの路線の全面的な破綻の中で噴出してきたと考えざるをえないと思います。事件の後、当然、人民に依拠する、そういう路線に転換することを我々は問われました。実際、自己批判と総括を行って、赤軍派という組織はなくなりましたが、関係者はそのような路線に転換していったと思います。

しかし、連合赤軍事件というのは、もっともっと悲惨であると考えています。『時代』だとか『夢』だとか、そういう言葉で赤軍派の指導路線の責任をあいまいにしたり、あるいは赤軍派を美化するのは止めていただきたい。赤軍派の指導路線に問題があったわけですから、赤軍派の指導部は、当然、根本な誤りは路線にあったと認めなくてはならない。その上で、連合赤軍事件で殺された同志に対して謝罪する。また、さらに連合赤軍事件で生き残った人たちも、極めて不本意な形で他人を殺している、人生を破滅させている、そのことに対しても赤軍派の指導部は謝罪しなければいけない。あるいは、さらに、赤軍派関係者の中にも、多くの人が人生を狂わされている。そういう関係者全員に対して謝まらなければいけない。そういう意味で、この『会』は赤軍派の問題に関して決着をつける、けじめをつける、そういう『会』になるべきであると私は思っています。そういう意図で発言しています。ここに塩見孝也の写真が飾ってありますが、同時に連合赤軍事件で殺された山田孝とか遠山美枝子とかの写真も飾るべきでしょう。あるいは、事件の責任をとって自殺した森恒夫の写真も飾るべきでしょう。そういう意味で赤軍派に結末をつけるのがこの『会』だと思っています。私にとって赤軍派は、今、後悔とそして贖罪以外の何物でもないと思っている。

次に私が申し上げたいのは、赤軍派を生み出した第二次ブントと塩見孝也についてどう思っているかということですが、昨年は羽田闘争50年でしたが、70年において、新左翼は、三派全学連とか全共闘運動あるいは反戦青年委員会を通じて学生大衆と結合し、一部の青年労働者と結合し、数としては社共・総評ブロックより少数ではあったかもしれませんが、明らかに70年闘争全体をけん引していた。そういう中で第二次ブンドも、それなりの役割を果たしましたし、塩見も第二次ブンドの有力な指導者であったと思っている。

この70年闘争は21世紀の現在でも非常に大きな意義がある。例えば新左翼の代名詞はいわば実力闘争ですけれども、これが大衆を捉えましたけれども、それは日帝打倒、プロ独、社会主義革命という新左翼の政治路線を抜きには考えられないものです。この実力闘争の思想というものが、直接民主主義ですけれども、現在的には『自己決定権』とか言われるものであって、それは、今後、コンミューン・ソヴィエトとつながっていく、そのようなものだろうと思っています。また、70年闘争はベトナムと中国、民族解放闘争と文化大革命に対する共感と連帯と支持とを大きな力として、世界的な闘争で『68年革命』といわれましたけれども、そういう闘争として日本の人民運動の中にアジアと連帯するという思想と体質を根付かせたと思っています。このアジアと連帯するという体質も、70年闘争以降、ずっと日本の人民闘争に根付いてきている体質だと思っています。

それから考えると、塩見の『過渡期世界論』は帝国主義から社会主義への過渡期である。そこにおいては3ブロックの階級闘争が結合するといわれましたけれど、何よりも、ロシア革命以降、民族解放闘争・社会主義革命の発展は、アジアにおいてなされていく。そのアジアの革命と日本の社会主義革命は結合する、というところに根幹があったと思いますけれども、こういう時代認識は現在も引き継がれていると思っています。

以上の点で、私は赤軍派の罪は大きい、後悔と贖罪であるというと同時に、第二次ブントが存在した意義、そこで塩見が果たした役割というものを、やはり高く評価しなければならないと思っています。

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我々70年闘争の世代が、最後に何を残していかなければいけないのか。
2015年の反安保法闘争を頂点として、人民闘争が発展に向かっていますけれども、その人民闘争というのは、一つ一つの課題、例えば民族・女性・部落などの差別問題が大きいだろう。あるいは労働者階級の『下層』という問題がとても大きいと思う。私は直接大衆運動には関与しませんけれども、その運動を見ると、新左翼がその運動の中で良い体質、一言でいえば実力闘争、自己決定権という体質は堅持しながらも、小ブルジョア急進主義という悪い体質を払しょくし、清算し、人民大衆と結合していたことの結果として。現在の人民闘争はあると思います。その一つ一つの努力は偉大なものであると表現すべきだと思っています。私は70年闘争の世代なので全共闘運動は見ていますけれども、今の人民闘争の5年10年20年をかけた先には、おそらくあの全共闘運動が全人民化し、全社会化するというものが展望できるのではないか。それを一言でいえば人民民主主義といってもいいかもしれないし、革命的民主主義といってもいいかもしれない。そういう運動が目の前にある。あるいはアジアとの連帯について、残念ながら中国はすでに帝国主義になっておりますけれども、日本と中国の2つの帝国主義に反対し、2つの覇権主義に反対する、そういう中で朝鮮、韓国、台湾とか香港とかアジアの民族と国家の独立とか自己決定権を守るとか、そういう闘争を支持する中に、中国とか朝鮮、韓国、日本人民が結合していくという方向も強まっていくと思います。

ロシア革命から100年、いろんなことがありました。私はソ連の崩壊は帝国主義の崩壊だから大変よろしいことであると思っています。しかし、文化大革命が破綻した後の中国の変質、民族解放闘争に勝利した後のベトナムの変質、そして今ある朝鮮の信じられないような現実、これは極めて深刻なことであって、やはりマルクス・レーニン主義そのものを対象にした総括が必要である。そのことによって共産主義の理論を再構築していかなければならない。少なくとも、こういうことが起こったのは、我々の時代ですので、我々の世代の大きな責務として、それを総括するために一歩でも二歩でも踏み出していくのが我々の責務ではないかと思っています。

最後にもう一言申し上げたい。人民闘争の発展のためには、70年闘争の正と負の経験、とりわけ三派全学連は塩見が担ったんでしょうけれども、その後の八派共闘というのは、ブントを代表して出ていた立場でしたので、人民闘争の発展のためには、やはり革命党派の共同と統一が必要だと思っています。ただ、残念ながら新左翼と言われた我々の世代はそれには完全に失敗した。新左翼の党派的な崩壊が進行した。そしてよくよく総括すれば、『内ゲバ』と『リンチ』という最悪の体質も持っていた。こういう我々の世代の苦い教訓があるわけですけれども、今の運動を担ってくる現在そして新しい世代の人には、是非、我々の苦い経験を教訓として、是非とも闘争の発展に成功していただきたいと思っています。」


村田(司会)

「50年前の高原君の演説を聞いたような感じがしております。ありがとうございました。同じく元赤軍派の松平直彦君。」

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松平直彦(元赤軍派)

「この会は呼びかけ文にもありましたが、塩見さんとの付き合いの長短を問わず、塩見さんに対する評価の違いを問わず集まっていただいたということなので、高原さんの提起は友情の一つの意見として、真剣な提起ですので、それぞれの人に受け止めていただきたいとは思います。

ここに参集された人は、どういう気持ちで、どういう考えで集まってこられたのかはそれぞれだろうと思いますが、私は区切りを付けたいということです。それは塩見さんとの関係に区切りを付けたいのと、この半世紀の後退戦に区切りをつけたい、こういう気持ちで、この会の準備に関わってきました。この会を準備する過程は結構大変だった。普通のお別れ会であれば、論議する必要もないし、懐かしんで集まってくれればいいし、同窓会になってくれればいいが、みんな断る、来たがらないということがあった。とりわけ第二次ブントの人たちは『絶対に行かない。行く気持ちになれない』というのを説得して集まっていただいた。この後、『よど号』の小西さんと重信さんのメッセージがありますが、小西は『非常に困っている。どう語っていいか分からない。本当は書きたくない』と。これは山中さんが向こうに行って、その時に説得して書いてもらったということです。重信さんも『こういう会はやるべきではない』と言っていたわけですけれども、メッセージを寄こしていただきました。そういうことに象徴されるように、非常に塩見さんに対する評価もさまざまで、否定する人たちも多い。そういう中で、これだけの人が集まってお別れ会に臨んでくれたということは、非常に良かったと思っています。

私の塩見さんとの付き合いは、67年から69年です。路線以上の関係はなかった。67年の暮れに、早稲田の近くのアジトで会った。その当時私はまだ一年生で、塩見さんが早大支部の先輩たちと話しているのを聞いていただけだった。塩見さんと直接話をしたのは、69年11月の『大菩薩』の直前頃にホテルの一室に呼ばれ、首相官邸占拠の作戦を提示され、引き受けた。そして『大菩薩』に行って捕まった。その2回くらいしか記憶していない。

その後、71年のM作戦あたりまでで赤軍派は破産した。ハイジャク、重信さんがパレスチナに行くということはありましたが、現実に国内で何もできていない状況で、破産を総括する必要があるだろということで、私自身は転回して論争に入っていく、そういう時に 連合赤軍事件が表面化してきた。私にとっては、連合赤軍事件は一つの路線的破産の大きな側面ということで、冷静に静かに受け止めて、次にどうするかを考えるテコになっていった事件でした。

出てから塩見さんと論争になっていくわけですが、彼は連合赤軍事件というのは、革命戦争路線は正しかった、しかし指導者の森が悪かったということで、前段階武装蜂起の路線と密接に結びついた同志間の関係の問題であったわけで、その辺を切り離して、自己保身を図っていくという方向に入っていった。71年72年以降はそういう関係でずっと対立していた。ですから、塩見さんの生前葬の時は関与しなかった。生前葬に関与していたらこういう会をやろうと思わなかったと思います。
ある意味、大きな区切りに来ている。朝鮮で南北対話が作られて、何とか今、日米合同演習から第二次朝鮮戦争という危険が強まっている中で、実際に戦争になれば南北朝鮮、日本を含めて数百万が死ぬような戦争になっていくことが予想される中で、どうそれを押しとどめて我々の時代を切り開いていくのか、そういう重大な局面に来ていると思うし、資本主義が終焉の時代に入っている。同時に金融バブルが崩壊するかという局面にもなっている。そういう中で、日本の社会は欧米の社会と同じように人々の関係がズタズタになっている。新しい社会の構想を持った運動が、今、問われているのではないか。戦争の問題と社会変革の問題が煮詰まって眼前に迫って来ている。そういう大事な局面の中で、いつまでも総括問題にこだわっていいのか、ということです。いろいろな総括があっていいと思う。それぞれの総括をこれからの闘いの中に生かしていって欲しいと思います。

その中で共同しながら、今のトランプ・安倍の反動を跳ね返して新しい時代を切り開いていこうではないか、というのが私の考えです。」


椎野(司会)

「残念ながらここに来られないお二人のメッセージを代読させていただきます。最初は1970年に『よど号』をハイジャックして平壌の彼方に飛び立ってしまて以来、ずっとそこで暮らしている小西さんからのメッセージを、2月に平壌で小西さんに会ってきたばかりの救援連絡センターの山中事務局長が代読いたします。」

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山中幸男(救援連絡センター事務局長)

「『平壌で向こうに監禁されているのではないか』という昔の赤軍派の人がいたようですが、必ずしもそうではなくて、私は2月23日に朝鮮に行きまして、27日に帰ってきました。本当は書いてもらったものを持って帰るつもりだったんですが、なかなか書けなくて、昨日やっとメールで届いたものです。代読させていただきます。」

<メッセージ 「塩見孝也への追悼文」>

 塩見さん、このように貴方の追悼文を書くようになるとは思っていませんでした。

貴方に対する怒りだとか断罪だとか、そういったものを言うよりも、何か住む世界が違ってしまったという感じだったのです。

だから、今、こうして追悼の文を書きながらも、後が続きません。
人間にとって、住む世界が同じだということは、やはり大切なことですね。

50年前、住む世界が同じだったあの頃、わずか半年余りの時でしたが、われわれの命はかなり鮮烈に結びついていました。先行き不透明の中、なんとか出路を切り開いて行かなければという思いは。皆一つだったのではないかと思います。

憶えていますか、あの時、塩見さんにした「世界革命戦争の未来のあり方」についての私の質問への答えは、「そんなこと分かるか!」でした。

それで妙に納得したのを憶えています。混迷に近い状況をもう一つ分からないままに切り開く、それがわれわれが共有した世界における一つの合意点だったのではないでしょうか。田宮さんは、「塩見には無茶ができる。それがいいところだ」とよく言っていたものです。

今、世界を覆った混迷の露はかなり晴れてきているように思えます。この世界をともにして、もう一度一緒に闘ってみたかった。この追悼文を書きながら、浮かんでくるのはその思いです。

しかし、塩見さん、貴方はもうこの世にはいません。願わくば、向こうでの再会を果たし、もう一度同じ世界の下、ともに闘うことができる日が来ることを。合掌。
2018年3月4日ピョンヤンかりの会 小西隆裕

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山中幸男(救援連絡センター)事務局長

「日付は私の判断で今日付けにして紹介させていただきました。

私は1989年の塩見さんの出所の時に行ったんですが、彼が入っていた期間は19年9ケ月。『よど豪』事件の前の1970年3月にすでに逮捕されていた。前の年69年11月の『大菩薩』事件の一斉逮捕、それから凶器準備結集罪、破壊活動防止法が塩見さんに対して発動された。皆さん、考えてみてください、今、『よど号』事件に関しては実際に行っていない方が共謀共同正犯という形で起訴され、裁判を行っていたわけです。最近話題になっている共謀罪は、『よど号』事件の共謀共同正犯というよりは、何も事件が起こる前の共謀罪で、同じ共謀といっても質が違います。考えてみれば、80年代末から90年代にかけて旧ソ連邦が解体して、その後、朝鮮にいた『よど号』の人たちは、88年に柴田さんという実行メンバーが日本国内で逮捕されて、その後裁判、下獄、出所を繰り返してきたわけです。塩見さんはその間ずっといたわけですが、89年の年末に出所して、90年から朝鮮に行くようになりました。その後、今日に至るまで30年、(逮捕から)かれこれ50年になろうとするのが年月の月日です。

私の関わっている救援連絡センターも来年で50年目です。今日の会の呼びかけ人にもなっている情況出版の大下さんが1月に亡くなられて、私どもの代表弁護士を務めていた方の奥さんが1月に亡くなられて、葬式、葬式で、今日は偲ぶ会で、いったい救援というのは葬儀屋の代わりかという感じで、腐ってばかりもいられませんが、そんな状況です。

先月、朝鮮に行く前に高沢晧司さん(ジャーナリスト)を探し当てて会ってきました。生きていましたが、実際は再起不能の状態で多少会話をしてきました。なぜ高沢のことをあえて紹介するかというと、高沢さんから『山中は赤軍派とは何の関係もないのによくそこまで付き合ってきたが、それはなぜなんだ』とよく言われました。『よど号』事件だけではありませんが、新左翼の活動家の人たちは志はあるんですが、志に留まらずについ難局に直面する。そういうのを政治的遭難と私は表現させていただきました。政治的遭難者をのまま放置しておけばそれでいいんですが、我々の世代の責任として政治的遭難者を助ける、それが『救援』だと思います。救援連絡センターで、こういう考え方は私で終りかもしれませんが、若い方がもしいましたら、志を継ぐような方が是非とも出て欲しいと一言いわせて終りたいと思います。」

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椎野(司会)

「それでは最後になりました、日本赤軍の重信さんは、権力によって懲役20年という判決を受けて昭島の医療刑務所で過ごされています。メッセージを代読しますのは、頭脳警察のパンタさんです。パンタさんは、ある日、重信さんの裁判の傍聴に行って 面白いと思って通っている間に重信メイさんとも交流が出来て、重信房子作詞、パンタ作曲の『オリーブの樹の下で』というアルバムを出しました。そういう関係で来てもらいました。」

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パンタ(頭脳警察)

「50年が経って訃報が続き、毎日が命日となっていますけれども、来年、頭脳警察も何度かの分派を繰り返しながら結成50周年を迎えます(拍手)。70年72年当時、『世界革命戦争宣言』という歌を歌って、これをあわよくばヒットさせて、紅白歌合戦で紅組で歌わせてもらおうと思ったんですけれども、見事発売禁止にされました。

重信房子さんと、『オリーブの樹の下で』というアルバムを作らせてもらった関係で、今日は彼女のメッセージを代読させていただきます。

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<メッセージ「塩見孝也さんのお別れ会に」>

 塩見孝也さんのお別れ会に集まられたみな様と共に塩見孝也さん、そしてこの会の呼びかけ人でもある大下敦史さんの逝去に、ここに哀悼を捧げます。
 大下さんについては、60年代の闘いの当時は存じ上げませんでしたが、私が逮捕されて以降、情況誌・パレスチナ連帯などで交流しました。塩見さんとは、短い期間でしたが同志として塩見さんのリーダーシップの下で活動を共にしました。

 塩見さんに初めてお会いしたのは、確か千葉で行われた初の69年赤軍フラクの会議の時です。あれは5月だったのでしょうか6月だったのでしょうか。

 この会議のために、「現代革命T・U・V」という、のちにパンフbSへと再編される印刷物を明大の仲間とスッティングを頼まれて藤本敏夫さんらと、それを携えて遅れて会議に到着したのを覚えています。

その会議で文字通り口角泡を飛ばして熱烈にアジっていた人が、このフラクのリーダーの塩見さんだと知りました。

 チェ・ゲバラは「我々を夢想家と呼ぶなら、何度でもイエスと答えよう」と語ったと言われていますが、塩見さんは、まさに夢想において夢の力を発揮した人です。そしてまた当時のブント、そしてのちに赤軍派をはじめとして分裂していく人々も又夢想し、そのために実存を捧げて闘う人々でした。私も又、そのひとりでした。

 ロシア革命によって、以降労働者階級は世界性、普遍性をもち、本質的には資本家階級を逆制約する位置に転位し、人類史を切り拓く主体になったという大きな視野の中に、当時のチェ・ゲバラの「2つ、3つ、さらに多くのベトナムを!それが合言葉だ」という声が重なって私をかきたてたのです。

 塩見さんをはじめ、みんなのその頃の志を尊い誇りとして、今も熱く思い返します。

 塩見さんは、先駆的ひらめきと、大きなイメージによって、一時は、ブントの68年「8・3論文」などで牽引しましたが、しかし、レーニンやカストロ、チェ・ゲバラのような現実と社会、人民を知る、知ろうとする革命家ではありませんでした。塩見さんに限らず、ブントの人々の多くも、私もまたそうでした。

 それは、「現実を変える」という闘いにおいて、革命家としての真価が問われたからです。

私たちは十分に社会を知らず、人民に学ばず、知らず、常識すら理解していない若者たちであった為に、私たちは、敗れるべくして敗れたのだと思い至ります。

 塩見さんとは、あの初対面以降、翌年の70年3月、彼が逮捕されるまでの10ヶ月に満たないつきあいでした。

当初は「7人PB」と呼ばれる赤軍派の指導部を形成する者たちが居て、塩見さんと直接会うのは、会議くらいでしたが、藤本さんは去り、堂山さんが逮捕され、高原さんや田宮さんらも東京を離れたりして、連赤事件で殺された山田孝さんと私が一時書記局的に塩見さんと行動を共にすることになりました。正直なところ、塩見さんには、あきれかえる日々が続きました。

 僭越を承知で言わせて頂きますが、塩見さんは、あまりに自己中心的で自らを対象化しえない分、他者への配慮の無い無神経な行動、非常識が自覚できないことが多々発生しました。

 今なら笑って話せることもありますが、私は当時は許し難い思いで批判ばかりしたかもしれません。追悼のお別れ会にはそんな時代のエピソードを笑って送ってあげたいとも思います。

 ある日のことです。山田さんが青い顔をしてとんできて、「塩見が戻らん。捕まったかもしれん!」というので2人で対策を練り、ラジオ報道を気にしつつ、遠くにいた田宮さんに連絡したり、山田さんは、あれこれ悔いて食事も出来ません。
ところが塩見さんは、夜更け過ぎて「やー、すまん、すまん。ハラ減ったなあ」と元気に戻ってきました。

みなが心配したと、山田さんが問い糾すと、自制の効かないいつもの塩見さんの悪い癖が出て、当時一時熱中していたパチンコで有り金全部を使ってしまい、タバコのハイライトの景品を幾つか稼いだ時には、すでに終電を過ぎタクシー代も無いのに気付いたそうです。そこからが塩見さんらしいのですが、歩いて帰るという考えが浮かばなかったそうで、タバコの自動販売機の横に立って買いに来る人を待ち、やっとタクシー代を調達して帰宅したという訳です。

「あなたが赤軍派のリーダーと知ってたら、私は赤軍派に来なかったと思うわ」と、この時は批判したものです。

 塩見さんは、強烈な野心というか大志の割に計算のない無私な人ですが、自己中心的な考えの自制がない分、数々の問題行動も起して来ました。「7・6事件」はその最たるものの一つです。

 当日を知る者の一人として、塩見指導の疑念にもとづく強引な行動が「7・6事件」を引き起こし、ブントの分裂から崩壊へと、更には、連合赤軍事件への道を開いてしまったことを批判すると共に、それに与した一人として私は自己批判致します。

 最後に塩見さんと会ったのは、2010年私の最高裁判決が出る前の東京拘置所です。

7年の接見禁止が解けた後、塩見さんは、それまでにも面会に来ては励まして下さいました。

あの最後の時「結局何年や?20年の刑期か…。きついなあ。15年なら待てるけど20年はしんどい。無理かもしれんなあ…。今、ワシも、若者たちに結構もててるから一緒にやろうと思ってたんや。その5年はきついなあ」と、いつになく深刻そうに語っていました。

 「15年なら」と言っていた通り、20年を待たずに先に逝かれました。再会し、変革の志を熱く語っていた塩見さん。自分の志は、アラブで継続されたと主張していた塩見さん、昔と違って自分は、社会もわかっていると主張していた塩見さん。

 私にとっては、昔と変わらない塩見さんでしたが、赤軍派の過ちを前向きな力に育てたいという点で共に在りました。
当時の時代の情景を辿りつつ、現在の日本を直視する時、今も続く官僚・自民党支配は、当時の私たちの闘い方の過ちにも、その責任の一端があることを自覚せざるをえないこの頃です。

塩見さん、大下さんの追悼と共に、その思いを強くしています。 
2月18日 記 重信 房子


村田(司会)

「この小冊子にも書いてありますが情況出版の大下敦史君。塩見さんは昨年の11月14日に亡くなっていますが、その頃、大下君はまだ生きていたんです。この塩見お別れ会をやるに際して実行委員会を作りまして会議を積み重ね、その中でお別れ会に対する否定的な意見も出ました。大下君は残念ながらこの会に出席する前に、今年の1月2日に亡くなりました。ここに文章がありますので、彼が挨拶したものと思って是非読んでいただければと思います。」


<「私の思い」 大下敦史(情況出版)>

私は今、狭山市の病院にいます。塩見さんの「お別れ会」の準備のために、皆さんが、私の病室に集まっています。

話を聞きとることはできますが、ペンをとる力はありません。
「塩見さんを賛美するようなセレモニーには一切反対」という、強硬な意見も聞こえます。

厳しい意見は、赤軍派やブントで一緒に行動した、かっての仲間の間で多いようです。自分の誤りや、謝罪について、“肝心なこと”を言い残さずに、逝ってしまったことに対する失望感だと思います。

反対に塩見支持者(ファン)の間では、心のおもむくままに「革命バカ」で一生を押し通したことが、魅力的なのかも知れません。

反対意見がどんなに強かろうとも、いやそうであればこそ、「お別れ会」は実行しなければなりません。塩見さんのためというよりも、自分のために、同じ時代を闘った我々自身のためです。

「お別れ会」イコール肯定・賛美というわけではありません。賛美しない「お別れ会」もあるはずです。塩見さんがやり残したもの、それは何か。なぜできなかったのか。議論しなければなりません。

評価は、個人によって異なります。塩見さんとの距離を測りながら、自分の立ち位置を確かめる。そこからまず始めることです。 万人が納得するような、根本的な総括や、革命的な未来の構想が簡単に出てくると考えない方が賢明だと思います。出口の方向や、筋道、その初歩的なヒントだけでも意味があります。

我々がやってきた記録を正確に残すだけでも、正負両面でかなり重たい教訓になるはずです。我々の多くは高齢者で、訃報が珍しくない昨今です。寿命に追い立てられて、時間切れになるかも知れません。

ないものねだりではなく、実現可能な範囲で、何を残すことができるのか真摯に考えたいと思います。

この「お別れ会」が、その出発点になることを願っています。
https://blogs.yahoo.co.jp/meidai1970/34341440.html

<塩見孝也略歴>
https://blogs.yahoo.co.jp/meidai1970/34341440.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c49

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
50. 中川隆[-11488] koaQ7Jey 2019年3月13日 13:36:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[507]

追悼 塩見孝也 2017.12.01
老革命家・塩見孝也(元赤軍派議長、最高指導者)の「思い出」
text:平野悠
https://rooftop.cc/report/2017/12/01090000.php



 私は今、100日以上にわたる世界一周船に乗っている。ハワイから横浜に戻る船中、ネットで塩見孝也の死を知った。

 18年にも及ぶ獄中生活を経て塩見は出所したが、昔の同志は誰も迎えには来なかったらしい。寂しい出獄だった。かの塩見が作った武装闘争を標榜する赤軍派はボロボロになって消滅していたのだ。

 連合赤軍のあさま山荘と、同志殺しの悲惨な結末により、高揚していた日本の新左翼運動は完全に終焉したと言っていいと思う。その後は、もっとくだらない新左翼各派の内ゲバの時代が長く続いた。革マル、中核派、解放派のバカな内ゲバで100人以上が死んだ。

 私が属していたブンド(共産主義者同盟)はとうに雲散霧消していた。心ある連中は、もう思い出したくもなく、誰もが口を閉じた。政治の季節に参加した誰もがあの時代を若者に伝えることすら拒否した。

 そして時代は「しらけ世代」に移行した。

LPO 三上治塩・見孝也・前田日明・鈴木邦男・高須基仁.jpg

 もう20年も前、出所したばかりの塩見は私の経営するトークライブハウスにやってきた。

「平野、俺はやっと行き場を見つけた。ここには俺の話を聞いてくれる連中がいる」と語った塩見が忘れられない。私の店で塩見は鈴木邦男(新右翼「一水会」元最高顧問)、園子温、森達也、宮台真司、若松孝二、などいろいろな文化人と知り合った。

 あの滝田修に「平野、俺はもう何もできない。追われている身だ。塩見を頼む」と言われたこともあった。

 彼はブンド赤軍の世界同時革命の夢が捨てられなかった。最後の最後まで。漫画でしかないのに革命というロマンを追い求めた。「縄文革命論」などを編み出したが誰も相手にしなかった。

「俺は連合赤軍事件の時は監獄に入っていたから、あの事実を全く知らなかった。あんな京浜安保共闘なんぞと野合を組むなんてバカな話だ。痛恨だ。俺の責任なのだろうか……」とこぼしていたが、周りは塩見の責任を追及した。

「塩見、ここで全てを背負うのがお前の任務だ。ちゃんとした総括をしろ。それなしではお前を許さない」と言われていた。

 塩見孝也は出獄してからいつだって孤立無援だった。彼はよく「平野、久しぶりに議論をしよう」と私を誘ってきた。彼と一緒に北朝鮮にも行った。そこで塩見はよど号赤軍の連中と決定的な別れがあった。さすがの塩見も北朝鮮を全面的にマンセーとは言えなかったのだ。

 イラクに人間の盾になりに行ったこともあった。その時の塩見は本当に嬉しそうだった。どこかに命をかけられるところがあることが嬉しかったのだろう、と私は思った。

駐車場007.JPG

 2年前、塩見は清瀬市議会選挙に立候補した。彼は本当に当選するつもりだった。どこまでノーテンキなのか。

 私と雨宮処凛と鈴木邦男が応援演説に立った。彼は街頭演説でも「世界同時革命」を訴え続けてたのには感動した。買い物カゴを下げた清瀬市のおばさんたちはキョトンとしていた。清瀬の駅前で「日本のレーニン塩見孝也をよろしく」と演説したのは鈴木邦男さんだった。

 選挙運動最終日には赤軍旗と世界革命の幟を立てて、20人ぐらいで街を行進した。鈴木邦男さんなんか大喜びだった。まるで漫画だったが、塩見は真剣だった。 (街の人々はドン引きだったな。)

 投票結果は惨憺たるものだった。見事に落選した。

 今、私には塩見孝也の面影が走馬灯のようにぐるぐる回っている。いいやつだった。素敵な愛すべき老革命家だった。そして塩見の死によって、遅まきながら一つの時代が終わったと思ったのは私だけだろうか。

 安らかに眠れ。塩見孝也。世界革命は近い。あんたはやることはやり尽くした。時代遅れと言われようと。
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http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c50

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
51. 中川隆[-11487] koaQ7Jey 2019年3月13日 13:47:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[508]

追悼・塩見孝也議長 - ちくわブログ 2017-11-19
https://blog.goo.ne.jp/akame_2005/e/cec849fd59dd21112168801e9c78e019

2017年11月14日、元赤軍派議長・塩見孝也さんが亡くなった。


塩見さんとは「赤軍派」のドキュメントを撮ろうと思い立った頃から付き合いがあった。
関係者で一番最初にインタビューしたのが塩見さんだったと思う。
まだよく分かってない頃で、今そのインタビュー映像を見返すとチンプンカンプンな質問をしているが、塩見さんはひとつひとつ丁寧に答えてくれた。

わたしが塩見さんの事を人間的に信頼していたのは、ここだった。
相手の知的レベルに合わせて、決して馬鹿にすることなくそこまで降りてきて話してくれた。
どんな人に対しても平等で、相手によって態度を変えるようなことをしない人だった。そういう態度というか、そういう人、だった。

だから誰にも優しかったし、反面長い付き合いがある相手でもキレる時はすぐキレた。
それどころか現在進行形で世話になっている人でさえ、意見が食い違えばどこであろうと瞬間湯沸かし器のようにブチキレていた。
自分の思想信条や、一度そうと思った事は曲げない人だったように思う。そのせいか元赤軍派で塩見さんが嫌いだという人は少なからずいた。

撮る方としては面白かったけど。


思い返すと、まず最初に言われた事は「なんだキミは。興味本位か」という言葉だった。
このブログにも以前書いたけど、生前若松孝二監督とある集会で同席した時、そういうことをある人に言われて戸惑っている、というようなことを皆さんに話したら、若松監督がとっさに「そんなもの、興味本位でいいんだよ!!」と怒気の混じった声で言われた。
その言葉にすごく勇気付けられた。

最初にそういう経験をしておいて良かったと思う。


2015年、塩見さんは清瀬市議選に立候補した。

結果は惨敗だが、それでもあの票は重かったのではないかと思う。

一週間の選挙戦に4日ほど同行したが、近くで見ているとハラハラするくらい疲れていた。そういうそぶりは見せないようにしていたけど、確実に寿命縮めてるなあ、と思った。

でも、市民の前でアジったり、「おはようございます!!」と言ったりする塩見さんは画になった。

この時も、各地から協力者が事務所に詰め掛けた。

政治的な訴求力というより、妙に人望だけはある人だった。

どこに魅力を感じているのかそれぞれ違うと思うけど、わたしは先に挙げた点と、時折見せる人間的なかわいらしさが、塩見さんの事をどうしても憎めないポインツだった。

最後に会ったのは『連合赤軍事件の全体像を残す会』の例会だったと思う。
会の帰り道、市議選の総括を聞こうと高田馬場の路上で塩見さんに突然カメラを向けた。

その時、別件でもちょっとしたトラブルがあり塩見さんは疲れていた。それにわたしも少し巻き込まれていて、内心「しょうがねえな」と思っていた。

ひとしきり質問した後、駅前で「じゃあ」とお別れする時、最後に少し照れながら「色々とありがとな。来てくれたりアドバイスくれたり。これからもよろしくな」とお礼を言ってきた。


こういうところだな、憎めないな、と思った。


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[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
52. 中川隆[-11486] koaQ7Jey 2019年3月13日 14:12:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[509]

ロフト席亭・平野悠の『暴走対談』
第一回 追悼・塩見孝也さん(元赤軍派議長)2018年01月20日 
http://tablo.jp/serialization/hirano/news002775.html


「資本主義が全て悪い!」(塩見孝也談)

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司会・平野悠
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出席者
鈴木邦男(評論家)
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雨宮処凛(作家)
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出所、そして北朝鮮へ


平野:元赤軍派議長、塩見孝也追悼対談ということで、お集まりいただきました。

鈴木:(机に置いてあった『塩見孝也〈元赤軍派議長〉「私だけが知る"過激派"の素顔」』を見ながら)でもね、こういう取材はかわいそうですよ、塩見さんがおもちゃにされているようで...。塩見さんって獄中でいろんな本を読んでいるんですよ、20年もいたんだから。でもね、宗教の本は意図的に読まないようにしていたと本人から聞きましたね。

塩見孝也〈元赤軍派議長〉「私だけが知る"過激派"の素顔」

ph4.jpgよど号メンバーとの交遊秘録から知られざる"性事"活動まで、
という触れ込みで塩見氏がテレクラ、風俗、キャバクラなどに取材に行く様子が書かれている


平野:ハマっちゃうから?

鈴木:親鸞とか、ハマっちゃうからでしょうね。革命家としてやはり自分に対してタガをはめたのかな。だからね、こんなに真面目な塩見さんの性の問題っていう個人的なことを出すのはかわいそうですよ。

平野:でもこれはリスペクトして書いているからいいんじゃないかとは思うけどね。人間は最終的には性なんだよ、っていうことがあるよね。

雨宮:いちばん無防備な部分ですもんね。

鈴木:所詮、われわれと同じ人間と思われるでしょう......でも塩見さんはわれわれとは全然違うよ。そのへんの連中とは違う男だよ。


平野:雨宮と塩見さんの出会いはいつ頃になるの?

雨宮:98年に開催された、塩見さんのイベントですね。当時、わたしはフリーターで人生に迷っていたんです。迷っていたからこそ、「世界同時革命だ!」って言ったり、火炎瓶を投げて政治と戦っていた世代の人に話を聞けばヒントをもらえるかなと思って参加してみたら、塩見さんがすごいテンションで演説をしていて、イベントが終わったあとに、初対面のわたしに「とにかく平壌に行こう」って誘って来たんですよ。そんなとんでもないことは人生に滅多にないから、もちろんOKをして(笑)。99年に初めての海外旅行で北朝鮮に行ったんですよ。

一同:笑

雨宮:だから塩見さんのせいで人生がめちゃくちゃにねじ曲げられました(笑)。


鈴木:僕は、ずっと塩見さんの名前は知ってはいましたけど、出会いは河合塾での「左右激突討論会」というイベントでしたね。左翼と右翼の両極端の人間が集まって、お互い敢えて相手の欠点を探り出して戦うという内容でした。それを何回もやったんですよ。振り返ってみると、世界の革命家に対して失礼だったなと申し訳ないです。

平野:初対面の印象はどうでした?

鈴木:20年も獄中にいて、さぞ打ちひしがれただろうと思ったら、全くそんなことはなかったですね。僕らが学生の時に出会っていたら大変だったと思いますよ。よど号の人たちや連合赤軍の人たちもそうだけど、活動をしていたころから何十年もたっているから話せたんですよ。

塩見さんもそうだけど、上垣さんとか、赤軍の田中さんだとかね、いい人もいるわけですよ。そういう人と学生時代に出会って意気投合していたら、僕なんて簡単に連合赤軍になったり、北朝鮮に行ったりしてたでしょうね。だから何十年も後になってから出会ってよかったですよ。

連赤の人たちとは一緒に活動をしようとは思わないじゃないですか、距離感があるからこそ自由に話し合えることはいっぱいありました。塩見さんにも、ほんとうはもっと考えを教えてもらいたかったですね。


平野:僕は学生時代に何回か会ってるんだけど、彼は三派全学連の学生部長で学生を指揮していたからほとんど会うことはなかったんですよ。僕は労働戦線に行っていたから。だから、出所してから突然電話があって「おい、ロフトプラスワンに出るぞ」って(笑)。

鈴木:あははは、出るぞってすごいな(笑)。

平野:しょうがないな、じゃあ誰と組ませようかなと思ったときに、だめ連(註1)がいいなと思ったんだよね。彼らなら、塩見さんを素朴に尊敬してくれそうだから。そしたらイベント中に質問がたくさん来ちゃって、塩見さんは「おれの話を聞いてくれるやつがこんなにいる」と感動したんだよね。

だってね、出所の日に誰も迎えにこないし、世界は何も変わっていない。奥崎(謙三)さんの状況と同じですよ。奥崎さんは、自分の出所の日をみんなが歓喜の声で迎えてくれて、テレビにも出ずっぱりになって......と想像してたわけですよ、でも現実は正反対だった。

同じように塩見さんだって少しは期待したと思いますよ。奥さんからも言われたもんね、「うちの塩見を頼みます」って。潜行中の滝田修からも「俺はいま逃げ回っていてダメだから、塩見を頼む」って言われたんだよ。だから彼に気を使ってくれている人はそこそこにいたけど、もう一回運動をやろうっていう人はひとりもいなかったね。

雨宮:そりゃそうですよ(笑)。


平野:僕はそのころ『風』っていう店の常連 組織を作って学習会なんかもやってたの。そこに塩見さんが毎回来て演説するんだよ、もうまいったな、このおじさんって(笑)。でも結局、『風』の連中をほとんど引き連れて学習会を出て、自分の団体を作ったんだよ! まぁいいんだけど。

雨宮:もしかして、それが『自主日本の会』!? わたしもあの会に入れられた。

一同:笑

鈴木:これが北朝鮮に行く『白船訪朝団』になっていくわけですね。

平野:もう一発みんな飛躍したいんだったら塩見さんについて行ってもいいんじゃないって思って見てたんですけど、最後はかの「乱入事件」で......。

鈴木:ああ、『ロフト公安事件』(笑)。


塩見孝也、ロフトプラスワンに公安を呼んで大騒動


平野:『ロフト公安事件』で塩見さんは失態を演ずるわけですよ。ロフトプラスワンにわけのわからない右翼組織から「塩見孝也を殺す」っていう予告FAXが届いたんですよ。俺はおもしろいから「来るなら来いよ」って思ってたのに、塩見さんは本気でビビっちゃって。防衛隊を作って、警察にも相談して、ロフトプラスワンの入り口で一人ひとりをチェックしはじめちゃったの。

雨宮:そうだそうだ、あの日はみんながすごい怒ってた。

平野:その日、僕はコマ劇場で北島三郎ショーを観てたんだけど、ロフトプラスワンに帰ったら防衛隊が住所と氏名を書かせて写真まで撮ろうとするし、中に入ったら鈴木さんが壇上で「塩見! 許さない! 公安は帰れ!!」って激怒してるし、警察だって塩見さんに頼まれて来てるのにさ(笑)。もうね、何が起こったのかワケわからなくて大騒ぎだったの(笑)。あんなFAXにビビるなんて考えられないよ。

鈴木:20年間も刑務所にいて、拘禁症の影響があったんでしょうね。

平野:「自分の身を守るのに権力を使うのは当たり前だ」っていうのが塩見さんの言い分だったんだけど、うち(ロフトプラスワン)は警察は絶対に入れない、自分たちで解決するっていうのが基本だったから、まさか塩見さんが警察に相談してるなんて驚いたね。お客さんもひいちゃったし、俺も「塩見断絶宣言」をRooftop(※ロフトプロジェクトが発行しているフリーマガジン)に掲載したから、結局また塩見さんはひとりになっちゃって。


鈴木:その頃の塩見さんの心理状態を、僕らももう少し考えればよかったですよね。20年間も刑務所に入れておいて、「刑務所で警察は俺を殺す気だろう」と思っていたのに刑期を終えて外に出てきてしまったわけで、「自分をどこかで抹殺しようとしている人がいる・革命をこわがっている人がいる」と自意識が過大になっていたんだと思いますよ。いつテロが起こるかもしれない、と。

雨宮:あのイベントの少し前くらいから、塩見さんの事務所にいたずらのFAXが来たり、落書きをされたりしていたんですよ。それで自分を狙っている人がいるっていう気持ちが盛り上がったんでしょうね。わたしもそのイベントに訪朝報告ということで出ていたんですけど、お客さんだったらびっくりしますよね。入り口で写真をとられるなんて。

平野:前代未聞ですよ。鈴木さんは面白がってたけど(笑)。

雨宮:あ、その頃わたし右翼だったんだ。だから公安がどういうものなのか、あんまり分かってなかったんですよ。でもみんながすごい怒っているのを見て、塩見さんはとんでもないことをやらかしたんだなっていうのは分かったんですけど、それよりもオッサンたちがものすごい剣幕で怒鳴りあっているのを見て、もう誰が悪くて何が起こっているのかさっぱりわからなかったですね。

平野:とにかくみんなすごい怒ってだよね。


清瀬市議に出馬
「赤軍派もいる明るい清瀬」


平野:塩見さんが出所してからのもうひとつの失敗は選挙かな(笑)。

雨宮:15年の清瀬の市議会選挙ですよね。

鈴木:平野さん、選挙の相談を受けたんでしょ?

平野:俺が「鈴木さんを応援演説に連れて行くから」って塩見さんに言ったんだよ。これだけ塩見さんをおもしろがっているのに、選挙に応援にこないなんて許さない!って(笑)。

鈴木:そりゃ行きますよ(笑)。

雨宮:この3人、みんな塩見さんの応援演説に行ってますもんね。でも選挙事務所に行ったら「赤軍」「獄中20年」っていうノボリが立っていて、それを見た瞬間に、受かる気ないんだって確信して(笑)。だから「赤軍派もいる明るい清瀬!」とか「清瀬から世界同時革命を!」とか全員フザけてましたよ。わたしも、「獄中20年の確かな実績!」って言いましたもん(笑)。

平野:塩見さんだけが本気だったんだよ。

雨宮:赤軍っていう旗を持って、ヘルメットかぶった人たちが練り歩いても逆効果でしかないですよ。

鈴木:最初のうちは真面目にやってたんだよね。でもスタッフ同士が喧嘩になっちゃって、それでもうヤケだから赤軍の旗も出してしまえ! と(笑)。ゲバラの旗が立っている事務所なんてすごいよね。

平野:でもね、清瀬の他の党をつぶしていけば受かる可能性もあったよね。

雨宮:つぶせなかったと思いますよ(笑)。


平野:そう思うとさ、やっぱり「塩見孝也は偉大なり」っていう総括になるよね。

鈴木:僕はそう思いますよ。でも、みんながいじってたでしょ。

平野:一番いじってたの鈴木さんだよ(笑)。

鈴木:でも真面目に話し合ったこともあるんですよ。塩見さんは憲法を守るとか9条を守れとか言っているけど、もともとは日本革命をしようとしてたでしょ? って。

平野:そうそう、あの人が9条の会に入ってたこと自体がわからなかったよ。

鈴木:今の天皇制を守る気はないでしょう? って聞いたら、「最終的にはそうだけど、今はここしかないんだ」って言ってましたね。「最終的には今の天皇制を廃止して大統領制にすべきだ。最初は中核派の本多(延嘉)を初代大統領になってもらう」って。自分は二代目になるつもりだったんじゃないですか。塩見さんはいろんな思想を持っていたんですよ。でも発表する場がなかったんですよね。イベントでもおちゃらけなことしかできなくて。

平野:9条の会でも、脱原発テントでも、塩見さんはまわりから浮いちゃって放逐されちゃうんだよな。

雨宮:結局、こっちにも来たんですよ。わたしが反貧困活動をはじめたころに、「やっと俺の言っていることが分かったか」って(笑)。

一同:笑

雨宮:俺の思想が届いて右翼が治って労働のことが分かったらしい、雨宮は俺が育てた!って思い込んでる感じで。そしたら、「もう世界同時革命しかないから会おう」って言い出してしょっちゅう電話がかかってくるんですよ。でも、明らかに若い人たちの労働運動をのっとって世界同時革命をしよう、っていう魂胆がバレバレだから会いたくないじゃないですか(笑)。

うちは世界同時革命じゃないんですよ、って説明をして会うのを断っていたら、塩見さんが本気で怒って、「マルクスも読んでいないくせになんだ、俺はお前を左翼とは認めない」って言われちゃって。そんなマルクス読むとか資格が必要ならそんなもん願い下げだ! と思って。

平野:むちゃくちゃだな(笑)。


駐車場の管理が転機か
地に足がつき始めた......と思いきや


雨宮:でもその直後に、塩見さんはシルバー人材センターでショッピングセンターの駐車場管理の仕事を始めるんですよ。そしたらやっと、世界同時革命とか人民とか労働者とか大きなことばかり言わなくなったんです。

自分が時給制で働いて、ショッピングセンターに来る人たちは週末には買い出しに来たり、一緒に働く人は年金生活だったりっていう普通の人たちの生活を知って、地に足がついたことを言い始めたんです。シルバ人材センターって労災が適応されないとかいろんな問題もあるから、相談にのってくれって連絡が来たんですよ。

平野:なるほどね。

雨宮:それで、わたしが入っているフリーター全般労働組合を紹介して、一時は「シルバー人材センターユニオン」を作ろうって話にもなってたんですよ。素晴らしいことだから応援していたのに、塩見さんはこれを利用してまた「最終的には世界同時革命」って言いだしちゃって(笑)。

一同:笑

雨宮:だからもうね、コイツ全然懲りてない! ってびっくりしました(笑)。

鈴木:居場所がなかったんですよね。僕らも責任があるでしょうけど、でもかわいそうでしたよね。運動家という立ち位置を超えてもらって、本を書いてもらうのがいちばん良かったんでしょうね。


平野:鈴木さんの誕生日イベントで、足立正生監督と塩見さんケンカしちゃってね。足立さんから「連合赤軍事件と自分は関係ないなんて言うんじゃなくて、全部背負え」って言われたんだけど、塩見さんは「その時期に自分は監獄に入っていたし、そんなこと知らない。

なんであんなバカな屋号を組んだんだ」ってしか言わないわけですよ。でもみんなは「お前は赤軍議長だろ、そこも含めて総括しろよ」って思うわけ。そしたら塩見さんが足立さんに向かって「お前に言われる筋合いない」って言っちゃって一触即発。まぁでも、塩見さんが連合赤軍の総括までする必要があるのかっていうのはひとつの論争になるよね。「お前が作った暴力組織だろ」っていう視点もあるし、塩見さんにとっては自分がいなくなってから勝手に殺し合いをしたっていう気持ちだっただろうし。

鈴木:真面目すぎるんですよ。全ては俺のせいだっていう大きな視点で考えれば良かったんですよ、でも傲慢に思われるのがいやだったんでしょうけど。

平野:ブントだけは本当にいい加減な組織だから。それで混乱して赤軍派は分裂していくんですよね。個人情報保護法の運動にも巻き込んだけど、結局は浮いちゃってさ。塩見さんはリーダーシップがとれないんだよ。インテリに一発で論破されちゃうから。

鈴木:やっぱり元赤軍派議長っていう名前も大きかったんでしょうね。

平野:興奮すると他者を寄せ付けない雰囲気を作っちゃうんだよね。

雨宮:夢を捨てないロマンの男ですからね。でも駐車場管理の仕事を始めてから謙虚になったんですよね。それまでは、どこに来ても自分が演説をしなければ気が済まなかったのに。

一同:笑


生きづらい若者たちが集まりはじめる


雨宮:シルバー人材センターで働くようになってからはしょっちゅう貧困系のデモにも参加者としてまざってくれて、すごく照れながら「自分もいち労働者として参加をしているんだ」って言っていました。

でも、塩見さんってすごい功績もあるんですよ。2010年に生前葬をやったじゃないですか?(※過去の己に一つの区切りをつけ、「地上に足を着けた人」になるという葬儀)そのときに、ひきこもりの人が「俺は駐車場管理人」っていう自作のラップを作ってきたんですよ。その頃から、塩見さんのまわりに、生きづらい系の人たちが集まるようになったんですよね。なんでかって言うと、もともとわたしも自殺志願者だったけれど、塩見さんを見ていると「ちゃんと生きよう」っていう気がまったくなくなるんです。

平野:あはははは(笑)

雨宮:塩見さんって、獄中20年だし、破防法も適応されて、未だに世界同時革命って言っていて、60代なのに厨二病を患っている働いていないおかしなおっさんだから、一緒にいると「こんなに適当に生きていけるなら自分も大丈夫じゃないか」って思えるんですよ。

鈴木:なるほど。

雨宮:それで、生きづらい若者が何を相談しても「そうか、それは全部資本主義が悪い」っていうワンフレーズしかないんですよ。他の大人に相談をすると、「お前のせいだ」「頑張りが足りないからだ」「自己責任だ」って言われるけど、塩見さんだけはなんでもかんでも「資本主義が悪いんだ」ってことにしてくれるから。全然お前は悪くない...って。

平野:全部資本主義が悪いんだ、と(笑)。

雨宮:そうですそうです。しかも名前が大きいから余計に効果的で。元赤軍派議長に「お前の悩みは全部資本主義のせいだ」ってお墨付きをもらえるわけですよ。これはもう塩見さんにしかできない芸当なんです。そうするとみんな元気になっちゃって、冗談半分で「世界同時革命だ!」なんて言って元気になっちゃって。

鈴木:それはいいことですよね。ロフトプラスワンでも塩見さんが出演した自殺志願者が集まるイベントがありましたよね。塩見さんの力もあっただろうし、そのイベントで結婚して子どもを産んだ人たちも知っていますよ。あのままだったらふたりが地球から消滅するはずだったのに、いまは3人になっている。死にたいと思うということは、本当は生きたいんですよ。だから人に悩みを相談したり、集まったり。そういう場所が減ると座間の事件みたいなことが起こったりするんです。

雨宮:自殺するより、塩見さんのまわりで「世界同時革命だ!」って言ってたほうが楽しいんですよね。そのうちになんとなく、生きづらい若者たちが塩見さんのまわりにいて、生活のことがなにもわからない塩見さんを支えるっていう図式になっていたんです。

本人は本気で「資本主義が悪い」って思っているけど、でも本人の意図していないところで若者たちを救っていたんですよ。普通ならありえない救い方をしてくれますからね(笑)。

鈴木:だから塩見さんにはどっしりと教祖としてでも、若者たちと関わっていてほしかったですよ。人間国宝にしてもらって(笑)。

一同:笑


雨宮:塩見さんの入院中も、最後まで支えてくれていた若い人がいるようで、塩見さんは幸せだったと思いますよ。もう運動家の人脈じゃないんですよ、生きづらい系のつながりも大きかったですから。

平野:平野:ああ、そうか......。考えてみれば、鈴木さんも選挙以来、塩見さんに会っていないでしょ?

鈴木:そうなんですよ、お見舞いに行こうと思ったら「もう明日退院するみたいですよ」って聞いたので。

平野:僕も行くしかないなって思ったけど、本人から「退院したよ」って電話も来てたから安心してたんだけど、急だったな。でもいまの雨宮の話を聞いてほっとしたよ、最後まで懐いている人がいたんだな。

雨宮:愛されていたと思いますよ。

平野:はじめて塩見さんのいい話を聞いたよ(笑)。

雨宮:確かに現代は資本主義が悪いですからね。

平野:はずれてはいないよね、ピントは合っている。

鈴木:週刊誌で連載をやるっていうのもなかったのかな。

雨宮:塩見さんの思想系の文章って難しいじゃないですか、普通の人はとても読めない。だから書いてもダメ、喋ったらアジる......

平野:あはははは(笑)。だから発言場所を求めてうちに来たんだよな。
雨宮:でも意図しないところで人を救うっていう最強のお笑いキャラではありましたよね。ただかっこつけだから、笑われたりするのイヤがるんですよね。本気で尊敬されないとイヤだから(笑)。


塩見孝也御一行、イラクヘ


鈴木:"日本のレーニン"っていうフレーズだって誰が言い出したんでしょうね。

平野:そんなの鈴木さんでしょ。

鈴木:いや、本人から「俺のこと"日本のレーニン"なんて言うやつがいて、困るよなぁ」って形でしか聞いたことないですよ。

平野:俺は鈴木さんからしか聞いたことないよ(笑)。

雨宮:そういえば、この3人とも一緒にイラクにも行ってるんですよね。

平野:木村三浩さん(一水会代表)が先導して30数人くらいですごかったよね。

鈴木:大川興業も行ったしね。

雨宮:イラクで塩見さんは注目されましたよね。やっぱり「レッドアーミー」って言ったらみんな感動するわけですよ。でも「モサド(世界最強のスパイ組織)」が動いて飛行機が打ち落とされるんじゃないかって心配しましたよ。

鈴木:えっ、そうなの(笑)。

雨宮:そりゃそうですよ、塩見さんと一緒に飛行機乗ってイラク行くなんて、打ち落とされてもしょうがないじゃないですか(笑)。

平野:だって赤軍派元議長ですよ。しかも右翼の鈴木邦男も乗ってるっていうんだから。

雨宮:むしろ日本の未来のために撃ち落としたほうがいいんじゃないかって(笑)。

鈴木:撃ち落とされたら英雄になったかなぁ。

雨宮:縁起でもない、やめてくださいよ。それで飛行機の中で塩見さんがタバコを吸おうとして、客室業務員とモメるっていうどうでもいいトラブルを起こして。最後にはイラクの秘密警察にも捕まったじゃないですか!

鈴木:あれ塩見さんが原因だったの?

雨宮:そうですよ! しかも、10万円をイラク・ディナールにかえたら抱えきれないような量になっちゃって、塩見銀行をやったりして。

平野:ひどいもんだよな(笑)。でも面白い人だったよな。

雨宮:楽しい思い出しかないですもん。

平野:でも彼は一体何を遺したんだろう。

雨宮:「資本主義が悪い」っていう名言ですよ。

鈴木:獄中の話もどういう風に考えていたのか知りたいよね。日記をつけていたはずだから、それは本にするべきだよ。「塩見孝也名言集」を作らなくちゃ。

平野:遺品整理しに行きますか。

鈴木:だけど 『実録・連合赤軍』(註2)を観ると、塩見さんはかっこいいじゃないですか。相当な運動をやってきた人なんだろうなとは思いますね。最初に出会ったときは怖かったですから。

平野:鈴木さんが怖いなんてありえないでしょ(笑)。

鈴木:いや、当時の塩見さんはやっぱり怖かったですよ、日本のレーニンですから(笑)。


「知らないのに『全共闘運動世代が悪い』っていうガキがいますけどムカっときますね」(鈴木邦男)


平野:(塩見孝也さんは)この世の中でも、最後まで革命って言い続けた珍しい人だよな。だって革命って言葉なんかもう全然聞かないもんね。最後まで真剣に革命なんて言っていたのは塩見さんくらいしかいないんじゃない?

でも、あの人がやってきたことは「よりラジカルに」っていう戦略で人を惹きつけただけで、世界革命だなんだっていう内容で惹きつけたわけじゃないと思うんだよ。理論家ではないよ。他の人が武装闘争に焦燥感を持っていろんな権力にぶちのめされた時に、塩見さんたちみたいな、よりラジカルな方に惹きつけられるもんなんだよ。

鈴木:でも、塩見さんは現実ではダメだったかもしれないけど、ずっと運動をやり続けて、理念の世界では勝利をした人だと思いますよ。そういう人たちは魅力的に感じますね。

よく、当時を知らないのに「全共闘運動世代が悪い」っていうガキがいますけど、ああいうのはやっぱりムカっときますね。展望がないけど、毎日運動をやっていた人は、何もしなかった人よりも偉いと思いますよ。実際、学生運動をやっていた人っていうのは全体の1割くらいしかいないわけですよ、圧倒的に無責任・無感動な連中が多かったんです。

僕らの中にも、遠巻きに左翼活動家の顔写真を撮って警察に売るような人もいて、そういうのは許せないんですよ。だって、思想が違えど同じ学友ですよ。鈴木は甘いって言われましたけど、敵だから抹殺しろという人は自分の味方とは思わないし、それならむしろ左翼として戦っていた人のほうが信用できますね。塩見さんは信用できる大きな敵でした。だから、もったいなかったですよ、我々がきちんとした発言の場を作ってあげられなかったのは申し訳ないと思っています。


雨宮:わたしは最初の海外旅行が塩見さんに誘われた北朝鮮だったんですけど、あの時に強引に誘われなかったら海外旅行なんて行かないままだったと思うんですよ。

自分の視野が広がったことにはすごく感謝しています。あと、人生に悩んだ時期に「こんなにめちゃくちゃに自由に生きてもいいんだ」って思わせてくれた人でした。死ぬ時まで一回も革命の意思を曲げたことがなかったと思うんですけど、死ぬ瞬間まで理想を追い求めて、まわりからバカにされようと笑われようと続けていて、結果的に意図せぬ形とはいえいろんな若者を救う......。そこには、強さを感じました。打算がない愚直な塩見さんに若者たちが共感をしたのだと思います、人の生き方としてはスジが通っていましたね。

鈴木:ぜひ塩見孝也の本を書いてくださいよ。「わたしの愛した塩見孝也」ってタイトルで。

雨宮:愛してないですし!

鈴木:広い意味の愛ですよ。

雨宮:ああ、広い意味の......。塩見さんがインターネットを始めたときに、出会い系迷惑メールの「わたしを抱いてください」とかを間に受けちゃって、「最近の女性はこんなに解放されているのか」って驚いてましたよ(笑)。

一同:笑

雨宮:「女性が解放されている」っていう言い方も塩見さんらしいなと思って。

平野:でも生きづらい若者を救っていたっていう姿は知らなかったな。

雨宮:死にたいってSNSに書き込んだらすかさず「お前のせいじゃない、それは資本主義が悪いんだ!」ってAIとかで返信してほしいですよね。

鈴木:そりゃいいですね。自殺も減りますよ(笑)。

平野:じゃあ「わたしが愛した塩見孝也」という本を出すということで。

雨宮:みんなが塩見さんについての思い出を語るっていうのにしましょう。

鈴木:歴史的にも価値がありますよ、やりましょうやりましょう!

ph5.jpg

平野:やっぱりね、塩見孝也は間違いなく「ひとつの時代」を作ったと思いますよ。(文中・敬称略)

(註1)だめ連 ・・・ 1992年に神長恒一とぺぺ長谷川が始めたゆるやかな共同体。「働かないで生きるには」「恋愛しなくても楽しく生きたい」など、資本主義的な価値観にとらわれない生き方を模索した。

(註2)『実録・連合赤軍』 ・・・ 2008年公開の映画『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』。監督は若松孝二。坂口拓が塩見孝也役を演じている。
http://tablo.jp/serialization/hirano/news002775.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c52

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
53. 中川隆[-11485] koaQ7Jey 2019年3月13日 16:02:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[510]

日本赤軍の女帝 重信房子     週刊現代 2000.11.16発行
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/8536/shigenobu.htm

本誌・週刊現代だけが知っている逃亡29年、ついに逮捕

「血と銃弾と愛欲の1万日」を明かす!


「ブントのマタハリ」「テロリストの女王」といわれた伝説の美女闘士“重信房子”が日本に潜入帰国していた! 驚愕する国民を後目に、逮捕された重信容疑者は、護送される際、手錠をかけられた手を高々と上げた。パレスチナゲリラとともに闘った壮絶な「革命人生」の裏にかくれた素顔のすべてを明かす。

 

実質的な拠点は北京に置いて

「重信は来年日本に帰ってくるよ」

 日本赤軍の支援者A氏は、一昨年('98年)、ある団体の忘年会の席上、こう明言したという。出席者が、驚きながら「どうやって?」と質問すると、A氏は、

「偽造パスポートを使えばわけない。偽造でなくとも、同じ年格好で見分けのつきにくい人は結構いるものだ。そういう人間のパスポートを使えば難しいことではない」

 と、自信満々に答えた。

 日本赤軍最高幹部、重信房子容疑者(本名=奥平房子)の突然の逮捕劇は日本中をあっと驚かせた。が、すでに2年前に、潜入帰国はごく近い人々には通達されていたのである。

 重信容疑者は11月8日朝、大阪府高槻市内のホテルを支援者の男性2名と出てきたところを逮捕された。

「今年7月下旬、大阪府警本部に、『重信房子に似た女がいる』というタレコミがあった。赤軍内部からの情報だ。高槻は'70年代に赤軍派の拠点があったところで、現在でも支援者が多い。中でも市内のB病院は、職員のほとんどが日本赤軍の支援者で、一大拠点となっている。この病院関係者の住まいや寮、関連施設などをしらみ潰しにあたっているうちに、アジトに出入りする中年女性を発見した。最初は重信とわからなかったが、写真や指紋をとり、前日までにようやく確認がとれ、逮捕に踏み切った」(公安関係者)

 やはり支援者の一人である関東在住のC氏によれば、

「重信が帰国しているという噂は、今年の夏前から、一部新左翼関係者の間で囁かれていた」

 というから、情報が警察に漏れるのは時間の問題だった。

 重信容疑者が潜伏していた大阪市西成区のアパートには、本人の顔写真が貼ってある別の日本人名義のパスポートやノートパソコン、フロッピーディスク、携帯電話数台などが残されていた。アパート、ホテルとも支援者名で借りてあった。中東情勢に詳しいジャーナリストが言う。

「中東の日本赤軍は、岡本公三がイスラエルでの13年にわたる獄中生活で精神を病み、ベイルートで一斉拘束された他の4人も今年3月に国外強制退去ののち送還されて逮捕された。もう実質的には彼女一人しか残っていないような状態でしたから、生きていくので精一杯だったようです」

 警視庁に移送された重信容疑者に接見した弁護士によると、重信容疑者は、

「やり残した仕事がたくさんあり残念だが、日本で皆さんに会えることを楽しみにしている」

 と話したそうだ。このコメントには“望郷”のニュアンスも感じられる。重信容疑者は、9月末に香港から関西国際空港に着いており、それ以前にも、中国、マカオなどを転々とし、日本にも過去3年間で4回入国した記録があるという。

「最近の重信の拠点はもはや北京といっていいほどだった。今年2月には、アラビア石油がサウジの油田採掘権の再契約に失敗した件を材料に、自分のコネクションを通じてサウジ王家と交渉できることをアピール。それを取引材料に政府に働きかけて帰国を実現しようと画策した。水面下では、何度かそうした交渉があったのです」(元公安調査庁調査第二部長・菅沼光弘氏)

「日本赤軍の女帝」重信房子容疑者は55歳。'71年に日本を出国し、レバノンに渡ってから29年になる。血と銃弾に彩られた彼女と日本赤軍の軌跡を簡単にたどっておこう。

 日本赤軍の前身ともいえる共産主義者同盟(ブント)赤軍派が結成されたのは'69年。その後、赤軍派のメンバーは3つに分かれていく。

ひとつは'70年、日航機「よど号」乗っ取り事件を起こし北朝鮮に亡命した田宮高麿ら9人のグループ。重信容疑者が奥平剛士と偽装結婚してベイルートへ出国した翌年の'72年2月には、日本では「連合赤軍」が「浅間山荘」に立てこもり、警察と銃撃戦を展開。凄惨なリンチ殺人事件を起こしていたことが発覚し、国内の赤軍派は事実上壊滅する。

 そして残る一つが重信容疑者ら中東を拠点とした「日本赤軍」だ。彼らは'72年5月30日に岡本公三容疑者(52歳)らが、イスラエル・テルアビブのロッド空港で乱射事件を引き起こしたことをきっかけに地下に潜り、'74年に「日本赤軍」を正式に名乗る。重信容疑者は、その最高機関・政治委員会のリーダーに就任した。

 その後、日本赤軍は、PFLP(パレスチナ解放人民戦線)と共闘し、レバノン・ベカー高原を拠点に、オランダ・ハーグやマレーシア・クアラルンプールの大使館占拠事件、日航機をハイジャックしたダッカ事件など、国際テロ事件を次々に起こし、世界にその名を轟かせた。

 

“飼い殺し”状態だった赤軍メンバー

 が、'97年にテルアビブ空港乱射事件の唯一の生き残りで、パレスチナ人民から英雄視されていたはずの岡本公三容疑者ら5人のメンバーが、潜伏先のレバノンで逮捕される。全盛期に30人といわれたメンバーも逮捕が相次ぎ、中東情勢の変化もあって、組織は衰退の一途をたどった。

 中東問題の専門家である拓殖大海外事情研究所・佐々木良昭教授がいう。

「日本赤軍にかつてのような戦闘能力はなくなっている上、中東の情勢がその存在を許さない環境になっている。パレスチナにとっても、いまや赤軍は邪魔でしかなくなっていたし、シリアも大統領が代わって対日政策が変わりつつあり、赤軍は居場所がなくなっていた。先に逮捕された赤軍メンバーの丸岡修服役囚(50歳)のしまりのない体型を見ても、もはやコマンド(=ゲリラ戦闘員)のそれではなかった。彼らは日本へ帰る以外に行き場所がないんです」

 こうした中で重信容疑者は、日本の支援者に書簡を出したり、声明を出すなどプロパガンダに努めてきたが、武装闘争を手段とするテロリストの側面はなくなっていった。

「'72年以来、テルアビブ乱射事件の日(5月30日)に、毎年、重信は『5・30声明』を出し続けてきたのですが、'95年には“武装闘争は誤りである”という声明を出し、この年にはベカー高原の拠点を引き払って、ベイルート市内のアパートに身を寄せるようになっていた。彼女はPFLPの幹部と結婚しているから、それなりの待遇ではあったようだが、もはや飼い殺しに近い状態になっていたようだ。現に今回の逮捕でもPFLPからは何の声明も出ていない。いかに日本赤軍との縁が薄くなっていたかの証拠でしょう」(全国紙外報部記者)

 また、支援者に、「湾岸戦争後、CIAの圧力が強くなったため、東南アジアに活動の拠点を移すつもりだ」とも語っていた。関西の左翼系新聞「人民新聞」の編集主幹は、今回の逮捕をこう見る。

「いくら組織支援とはいえ、重信が報道のように小規模の会議にのこのこ出てくるとは信じがたい。最近、彼女は、うちの新聞に、『銃による平和はもうたくさん』などと、大衆闘争路線への転換を示唆するようなリポートを寄せている。日本国内に拠点を移し、公然活動に入るための、覚悟の逮捕ではないか」

 多くのテロ事件に関わったとされる重信容疑者だが、いずれも実行犯ではない。日本赤軍のメンバーが次々に逮捕されていく現状のなかで、比較的罪の軽い重信容疑者が帰国して“みそぎ逮捕”され、公然の存在となって新たな活動を続けようとしていたのではないか、というわけだ。

 しかし、9日にはこうした重信容疑者の思惑を裏切るかのように、警視庁はハーグ事件での殺人未遂容疑で彼女を再逮捕している。

 

ゲリラに守られ市内を闊歩

 およそ30年間にわたって世界を騒がせてきたテロリスト・重信房子容疑者の素顔とはいったいどのようなものなのか。

 終戦の年の'45年、東京・世田谷で重信容疑者は生まれた。父親は鹿児島出身で、若いころは、右翼組織「血盟団」のメンバーだったという。食料品のよろず屋を営んで、生計をたてていた。重信容疑者の手記『わが愛わが革命』(小社刊)には以下のようなくだりがある。

〈'67年の羽田闘争のあとだったと思う。泥まみれになって帰った私に、父が言った。

「房子、今日の闘争はよかった。だけど、あれには、人を殺す姿勢がないな」

……父はつづけた。

 二・二六事件にしても、血盟団にしても、歴史はあとで右翼とか何だとかいうが、われわれは正義のためにやったのだ。政治家が腐敗していたから、われわれが権力を変えて、もっと人民がうるおえる社会にしたいと思ってやったのだ。房子は、いま左翼だといわれているけれども、とにかく自分が正義だと思うこと、それだけをやれ!〉

 重房容疑者の“革命家”としての下地は、父親によって育まれたのかもしれない。高校卒業後、キッコーマン醤油に就職。1年後、明治大学の二部に入学する。OLのかたわら、夜間大学に通うようになり、ここで大学紛争に出会うのである。

 気さくな美人活動家として学内で知られた存在だった彼女には恋の噂も多かった。大学時代には婚約までしていたという。相手は地方の名家出身で2〜3歳上の早大生だった。それでも、

〈あいかわらず彼は、私の手も握らない。会うたびに、この間別れたときから、今日まで何をしてたか、そんな話と討論に時間が過ぎていく〉(同書)

 が、彼は暴力的な学生運動には無縁だった。一方、彼女はどんどんのめり込み、やがてバリケードの中に泊まり込むようになる。そして1年後、彼女の方から別れを告げた。闘争に明け暮れる生活はOLと両立しなくなり、会社も辞めた。そんなとき、

〈突然、職業革命家になろうと決心していた〉(同書)

 いわば、彼と別れた傷心の中で“女革命家”が誕生したのである。この手記を構成した脚本家・佐々木守氏が当時を振り返る。

「大学の先輩後輩でもあった僕と彼女が知り合ったのは、'70年安保の真っ最中。新宿の左翼学生がたむろする、酒場みたいなところで話すようになったのがきっかけです。そういうところに出入りする女子学生というのは、マルクスとかを一生懸命勉強している生真面目な女性ばかりでしたが、彼女は、『この前、守さんがやったテレビ見ましたよ』と話しかけてくれた。人を見て対応する能力に、実に優れていた。それはベイルートで会っても変わりませんでした。生来の天真爛漫さ、ほがらかさで、自然とまわりの人間を楽しませてくれる明るさが、他派に比べて日本赤軍という組織が長く続いた原因の一つではないでしょうか」

 前出・佐々木教授がいう。

「重信房子の存在というものは、日本赤軍にとって一種、精神的なよりどころだったのだと思います。当時、日本の左派は、内部で盛んに粛清していました。赤軍に参加した20代の若者にとっても、生きづらい危険な状態が続いていたわけです。そんな中で彼女は、たどたどしい言語を使ってパレスチナとコンタクトをとり、ときに自分の体を張った行動で信頼を得て、PFLPと渡りをつけた。メンバーにとっては、彼女は、母であると同時に、姉であり、妹であり、恋人でもあるような存在だったのだと思います。今ではさすがに美貌もおとろえていましたがね」

 前述のように、レバノンに渡ったのは'71年。すでに2回の逮捕歴がある重信容疑者がパスポートを申請すれば、公安側に筒抜けになる。名字を変えるための偽装結婚が必要だった。

〈わたしはあせった。あせりながら結婚の相手を探した。……ある日、わたしはついに決心して奥平君を訪ねた。『やっぱりあんたの名前借りるわ』。そしたら奥平君は、ぴくっと顔を上げて、照れたように笑っていった。『ああ、それでもいいよ』。それがわたしたちのプロポーズであり、婚約であり、結婚式であり、要するに、男と女が結婚するためのすべてであった〉(同書)

 当時、レバノンで日本レストランを経営していた女性Dさんは、重信容疑者の印象を、

「迷彩をほどこした野戦服にカラシニコフ銃のパレスチナゲリラを引き連れて、颯爽とハムラ通り(メインストリート)を歩いていた。かっこ良かったですね」

 と言う。かつて「ブントのマタハリ」とよばれ、美人闘士として名をはせた彼女の絶頂の頃である。しかし'72年には夫の奥平剛士は、テルアビブ空港乱射事件で自爆して死亡。それまで公然と活動をしていた重信容疑者も地下活動へと突き進んでいった。

 

長女はソルボンヌ大学に留学

 その後、重信容疑者は、PFLPの幹部と結婚、2児をもうけた。

「私は彼女の夫に2〜3回会ってますが、長身でスマート、役者にしてもいいような美男子です。2人の子供はパレスチナの難民キャンプで生活してました。長女は優秀で、パリのソルボンヌ大学に入り、さらに大学院まで進みました。もう30歳近いんじゃないでしょうか。次女もソルボンヌに進学したと伝え聞いたことがあります」(重信容疑者と交流のある都内の元書店経営者)

 2人の娘が成人したことも、重信容疑者が帰国を決意した理由ではとみる関係者もいる。

 さて、重信容疑者の逮捕で、今後、日本赤軍はどうなるか。

「はっきりしているのは、赤軍の中東における使命が、完全に終わったということです。赤軍はこれまでベカー高原を拠点にし、シリア支配下にいたが、保護者たるアサド大統領が死去。加えてアラブ情勢が大きく動いて、イスラエルの力が増大した。モサド(イスラエル中央情報局)は彼女たちの動きを逐一把握しており、昔のようなゲリラ活動は不可能です。しかも、シリアは日本との間で経済上の取引があり、その利害を連動させて日本赤軍の扱いを考えるはず。注目されるのは、重信が表面上は黙秘でも、何をどこまで話すか、どんな取引材料を持ち出すかでしょう。ハーグ事件などに関与したといっても、彼女は実行犯ではないから、それで起訴できるかどうかも予断を許さない。はっきりしているのは旅券法違反など軽いものだけなので、その面でもまだ流動的です」(前出・菅沼氏)

 21世紀を獄中で迎えることになった日本赤軍の女帝は、何を思っているのか。テロを指導して世界を恐怖のドン底に陥れた罪が重いことは言うまでもない。

http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/8536/shigenobu.htm



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c53

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
54. 中川隆[-11484] koaQ7Jey 2019年3月13日 16:10:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[511]

2001 年 4 月 26 日 重信房子、よど号犯、オウム真理教の深い関係
 細井 保(ジャーナリスト)
http://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/96.html


 重信房子とよど号犯の関係

 日本赤軍最高幹部の重信房子は、平成十二年十一月に大阪で逮捕された。これまでの新聞報道によると、重信は数年前から日本への入国を繰り返し、日本から北京などにたびたび渡航していた。北京を拠点のひとつにして、偽造旅券を使って世界各地に渡航していた。使われたパスポートの偽造には、よど号犯グループが関った可能性が高い。

 日本赤軍は昭和四十六年(一九七一年)、共産主義者同盟赤軍派(共産同赤軍派)のメンバーのうち、レバノンに出国した重信房子、奥平剛士等によって組織された。結成以降、日本赤軍はパレスチナ・ゲリラと共同し、または単独で、国際テロ組織の中でも極めて活発なテロ活動を世界各地で展開してきた。彼らが起こした事件の中で最も忌しい事件は、昭和四十七年(一九七二年)五月、イスラエルのテルアビブ・ロッド空港での銃乱射事件だ。奥平剛士、安田安之、岡本公三の三人が自動小銃を乱射し、一般旅行者ら九十六人を殺傷(うち死亡二十四人)した。

 よど号グループは、同じ赤軍派の一つで、故・田宮高麿ら九人だ。彼らは昭和四十五年(一九七〇年)三月によど号をハイジャックして北朝鮮に渡った。彼らの“宿命”について、高沢皓司氏が著書『宿命−よど号亡命者たちの秘密工作』(新潮社刊)に描いている。北朝鮮で彼らの革命幻想は打ち砕かれ、彼らは北朝鮮の思想に思想改造され、北朝鮮の対外工作員に変じていく。よど号犯のうちには粛清された者、死亡した者もいるが、なお五名が現在、平壌市周辺で執筆業や貿易会社を営むなどしていると伝えられる。

 警察の発表によると、重信が使用していたパスポート二通のうち一通は、約三年前に取得されたものだ。これは、よど号犯グループの関係者が使用していた複数の偽造旅券と、旅券番号の一部が一致するなど、数多くの共通点がみられる。

 重信は偽造パスポートを使って、最近の約三年間に五回以上日本へ入国し、出国先はいずれも中国方面だった。そして、北京を拠点によど号犯グループのメンバーの関係者と接触を続けていたとみられる。関西の赤軍派支援グループのメンバーも北京などに渡航し、現地のホテルなどでひそかに会合を持っていたとみられる。

 平成八年(一九九六年)夏には、重信が当時滞在していた北京から、ひそかに北朝鮮に入国していた可能性がある。この夏、平壌で各国の革命を目指すグループの集会が開かれた。この集会に参加するため北京から北朝鮮に入ったとみられる。重信が集会前後に、よど号犯グループメンバーと接触していた可能性もある。この集会は、各国の革命家やグループなど数十人規模で、日本赤軍の新たな拠点づくりとも関連していたとみられる。参加者の中で重信は重要な役割を果たしていたとされ、この集会に参加する目的で北京を出国した可能性が高いとみられる。

 また平成十二年五月にも、重信が中国・北京に滞在していたことが、CIAによって確認されている。

 日本赤軍は近年、レバノンを活動の拠点とする一方、中東以外の地域に新たな拠点構築を目指し、世界各地で活動を展開していた。しかし、平成七年(一九九五年)、ルーマニアで浴田由紀子が逮捕され、平成八年、ペルーで吉村和江が逮捕、城崎勉がネパールで身柄拘束された。こうした中、平成九年(一九九七年)二月、レバノン国内に潜伏していた日本赤軍のメンバー五人(和光晴生、足立正生、山本萬里子、戸平和夫、岡本公三)が発見され、レバノン当局に身柄を拘束された。本拠地ともいえるレバノンにおいて、政府当局によりメンバーが逮捕されたことは、日本赤軍が最も重要な拠点を失ったことを意味している。メンバーの大量検挙と合わせて、組織として極めて大きな打撃を受けたものとみられる。そこで、重信らは日本へと目を向けてきたのではないか。

 警察の捜査によると、重信の家宅捜索では、新たな組織の構想を記した文書が押収されている。文書は「人民革命党綱領」と「綱領解説」と題されていた。

 人民革命党とは日本国内で革命を実現し権力を奪取するための組織で、平成三年(一九九一年)八月、シリア・ダマスカスで結党された。重信は相次ぐメンバーの逮捕で弱体化した組織を立て直すため、国内で人民革命党の旗揚げを目指し、党綱領をまとめ、来春から活動する計画だったとみられる。同党は運動方針などで対立している国内組織や支援者を一本化して、革命で政権を奪うことを目標にしている。
 東京地裁で先に開かれた拘置理由開示の手続きで、重信容疑者は「来春、いつ司法に身をゆだねてもよい準備を完了する予定だった」と述べた。その旗揚げの準備が完了する前に、最高幹部・重信房子を逮捕したことは、日本警察の功績だろう。

 これまでの報道を通じて、重信に関して二つの疑惑が浮かび上がってくる。よど号グループとの関係、さらに北朝鮮及び中国政府との関係である。この疑惑はオウム真理教と北朝鮮・よど号犯グループの関係に関する疑惑へとつながっていく。
http://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/96.html


金正日の極秘指令を受けたよど号犯

 重信ら日本赤軍はよど号犯グループと昭和五十年代から提携をもってきたとみられる。もとは同じ共産同赤軍派である。よど号犯には重大な事実がある。それは、彼らは北朝鮮の指令を受けて、日本国内及び国際的にさまざまな活動をしてきたという事実である。そして、そこに浮かび上がってくるのがオウム真理教との関係なのである。

 よど号犯グループと親しいジャーナリストが高沢皓司氏である。高沢氏は長年彼らを取材してきたことをもとに著書『宿命』を書いた。この本は平成十一年度の講談社ノンフィクション賞を受賞した。

 その後、高沢氏は平成十一年八月から十月にかけて、「週刊現代」に「『オウム真理教と北朝鮮』の闇を解いた」という記事を掲載した。十一回に及ぶ連載の中で高沢氏は、オウム真理教と北朝鮮の闇の中に、赤軍派、よど号犯グループの存在があることを明らかにしている。

 連載の中で、高沢氏は驚くべき事実を公表した。氏によると、昭和五十七年(一九八一年)五月六日、よど号犯は金正日から直筆の極秘指令を受けた。その指令書は実在している。指令書の内容は金日成主義によって日本革命を準備・達成せよ、というものだ。金正日は自衛隊工作や軍事クーデターの中核的人間の育成などを指示していた。よど号犯は指令に従って、対日工作を行ってきたのだという。

 よど号犯グループは金正日から指令書を受けるより前に日本赤軍と接触していた。早くも昭和五十年代(一九七〇年代後半)から、彼らは東欧等で複数回接触していた。これは今回の重信逮捕でわかってきたことである。

 よど号犯グループは日本赤軍のために、偽造旅券を手配していた可能性が高いtp見られている。昭和五十五−五十六年(一九八〇−一九八一)ごろ、日本赤軍の戸平和夫が使用した偽造旅券は、北朝鮮に拉致された疑いの強い男性のパスポートと旅券番号などが酷似していた。

 よど号犯グループは金正日のロボットとなって対日工作を行う一方で日本赤軍との連携を深めていったとみられる。当時、日本赤軍は中東での足場を次第に失い始め、新たな活動拠点を探して東南アジアなどで広域に活動するようになった。よど号犯グループとの連携は、これ以後の日本赤軍に大きな活動力を与えただろう。その背後には金正日の存在があると推測される。

 よど号犯の日本工作活動はメンバーの相次ぐ逮捕などのために、昭和六十年代(一九八〇年代後半)に挫折した。よど号犯による工作が挫折した後、北朝鮮は、ある集団を工作の対象として目をつけた。それがオウム真理教だった、と高沢氏はみている。
http://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/97.html

なぞの多いオウム真理教事件

 オウム裁判は進んでいる。判決も続々と出ている。しかしオウム事件にはあまりにも謎が多い。ジャーナリストの一橋文哉氏は独自の取材によってオウム事件を追及している。平成七年に月刊誌「新潮45」(新潮社刊)に、一橋氏は追跡記事を数度に亘って掲載した。その原稿をもとに平成十二年七月、単行本『オウム帝国の正体』(新潮社刊)が発刊された。

 一橋氏が書いているように、一連のオウム事件は疑惑に包まれたまま真相がほとんど明らかにされていない。オウム真理教の存在が、国民に広く知られるようになったのは、平成元年(一九八九年)十一月四日の坂本弁護士一家拉致殺人事件だ。その翌年、平成二年二月、麻原彰晃は真理党を創設し、二十五人の候補を立てて国政選挙に打って出た。しかし、それは惨敗に終わり、教団は深刻な財政危機に陥ったとみられる。ところが、その年の五月には熊本県波野村に六ヘクタールの土地を購入。そして翌三年にはロシアを訪問、エリツィン大統領の側近のロボフに面会して、「ロシア日本大学」構想を打ち上げる。麻原は平成四年には信者三百人を引き連れてロシアを訪問、政権中枢に接触して本格的な布教活動を開始した。

 一体、どこからこれだけのことをする巨額の資金が出てきたのか。その背後には、オウム真理教に資金を提供した団体があるのではないかとみられている。統一教会と創価学会が、疑惑の対象として挙がっている。また「オウムは金のなる木」として、オウムに食い込んだ暴力団の存在が浮かび上がっている。

 その後、オウム真理教は平成六年六月二十七日には、松本サリン事件、七年二月二十八日には、東京・目黒公証役場事務長逮捕監禁致死事件を起こした。そして遂に、同年三月二十日、東京都心部で地下鉄サリン事件を起こす。死者十二名、被害者五千五百名以上という大事件だった。

 これは単発のテロではない。「井上メモ」が示しているのは、オウム真理教の計画には天皇陛下が国会にお出ましになっているときに、国会の周辺で、サリンを大量に散布するというものがあった。計画は未然に防ぐことができたが、もし実行されていたらどのような結果となっていたか、慄然たるものがある。

 オウムはサリンによる無差別大量テロに続いて、国家中枢テロを行って、クーデターを起こし、さらにはアメリカ、ロシアを巻き込んだ第三次世界大戦を引き起こそうとしていたともみられている。

 オウム真理教はサリン事件の十日後、三月三十一日、国松孝次警察庁長官を狙撃する。そして四月二十四日、オウム真理教幹部の村井秀夫科学技術省大臣が、オウム本部前で刺殺された。一橋氏は一連の事件の中でも三つの事件は、特に疑問が多いとしている。つまり坂本弁護士一家拉致事件、国松長官狙撃事件、村井刺殺事件だ。一橋氏は徹底した取材によって、多くの疑問点を記している。

 そこから浮かび上がってくるのは、オウムに関っていた暴力団、疑惑のある宗教団体、そして大物政治家の存在である。この方面はある段階で「上から」捜査にストップがかかった。捜査当局はオウム事件を、オウム真理教単独による犯行として処理しようとしている。また、裁判において検察は、この方面については、ほとんど何も追及しようとしていない。重要点の多くに関係する早川は、裁判において、この領域に関しては固く口を閉ざしたままだ。

 早川はオウム真理教と北朝鮮・ロシアの関係についても明らかにしていない。毒ガス、偽ドル、麻薬、銃火器、潜水艦、軍用ヘリコプターなどオウム真理教の一連の事件は、日本史上、かつてない国際的な事件である。さらには核兵器製造に関する情報がやりとりされていた可能性もある。背後には北朝鮮や暴力団とのつながり、オウムをロシアに紹介した元代議士、その背後にいるとみられる大物政治家、ロシアにおける国際的な武器商人の暗躍等々、日本の内外を結ぶ組織的な関与が見え隠れする。これが単に噂の類ではないことは、CIAがオウム事件の調査を行い、アメリカの上院で大部の報告書が出されていることを知れば、わかるだろう。

 事件の真相は日本の警察、司法によって、ほとんど何も明らかにされていない。オウム事件は深い闇に閉ざされたまま次々に判決が出されている。徹底的に事実を追求していけば、類例を見ない大スキャンダルが暴露され、また国際的な大問題となる可能性があるのだろう。
http://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/98.html


よど号犯、オウム工作に関与か

 オウム真理教の一連の事件の背後には、北朝鮮やロシアの影がある。高沢氏は金正日がよど号犯を使って行っていた日本破壊・攪乱工作が挫折した後、それを「ちがう筋で見事に実行したのが、オウムではなかったのか」とみている。

 高沢氏はよど号犯グループは、北朝鮮のオウム工作に関っていたことを強調する。それを明らかにするのが、北朝鮮のオウム工作員Aの存在であると、氏は書いている。同氏によると、オウムには北朝鮮の主体思想(金日成・金正日を絶対化した思想)を身につけた工作員Aが潜入していた。その頃からオウムは急激に変質・過激化した。Aは村井秀夫科学技術省大臣に重用されて武器製造に関与していた。平成七年(一九九五年)三月二十日、オウム真理教は東京で地下鉄サリン事件を起こしたが、サリンの製造責任者は村井だった。

 Aに連なる潜入工作員は複数いたことが明らかになっている。その一人、霜島隆二は医師としてオウム真理教付属医院に入り、林郁夫の下で働いていた。霜島は共産党系の病院に医師として勤務していた時にオウムに入信した。ある日突然、都内にある北朝鮮系の病院に移り、さらにオウム付属病院へ移った。霜島は以後、林の右腕となり、麻酔剤、電気ショック、LSDなどを用いて、信者に洗脳を行っていた。

 これらの方法は、高沢氏によると「北朝鮮の洗脳技術と瓜ふたつ」だ。北の毒ガス等の兵器開発と「まったく同じ軌道上にあるもの」という。しかも霜島は「教祖・麻原に対しても心理療法、あるいは催眠療法などの『イニシエーション』を行える立場にあった」とみた。それゆえ、北朝鮮のオウム工作は麻原自身に及んでいたと考えられる。

 工作員Aはオウム事件でオウムの幹部が逮捕された後にオウムを脱会し、スペインのマドリッドへ飛んだ。高沢氏はマドリッドでAを取材した。Aは一連のオウム事件当時のオウム信者である。Aは高沢氏に対し、今でも主体思想は「すばらしい思想」だと言い、主体思想の作成者の黄長Yから直接指導を受けたと明かす。マドリッドは北朝鮮の工作拠点のある街。その土地は、柴田泰弘らよど号犯とその妻たちが、北朝鮮による日本人留学生を北朝鮮に拉致する等の活動拠点としていた場所だ。中でも柴田はマドリッドにしばしば滞在して活動していた。高沢氏によると、Aは柴田と同じホテルに宿泊していたことが明らかになっている。

 柴田泰弘は昭和六十三年(一九八八年)五月に、北朝鮮帰国者の偽造旅券で日本に潜入帰国をしていた時に逮捕された。しかし、平成六年(一九九四)七月に刑を終え出所している。柴田の逮捕は、対日工作を進める北朝鮮にとって打撃だったのだろう。高沢氏の著書『宿命』によると「事態を重く見たピョンヤンからは日本潜伏中の工作員に緊急の帰国指示命令が平壌放送を通じて流された」「柴田泰弘の国内での逮捕と、その後につづく一連の事態はよど号グループにとってすべての日本潜入工作が挫折したことを意味していた。…妻たちへの緊急の帰国指令は、からくも彼女たちの国内での逮捕だけはまぬがれさせたのである」という。

 柴田は出所後も、よど号グループのスポークスマン、「自主日本の会」などの活動を活発に続けている。北朝鮮及びオウム真理教との関りも持続していたとみられる。

 北朝鮮による日本人拉致事件は、なにも解決していない。日本国政府は北朝鮮に対して非常に弱腰であり、「拉致」を「拉致」として主張すらしていない。今後、この事件を解明するには、よど号犯グループによる日本人拉致の実態を明らかにされなければならないだろう。それは、金正日と北朝鮮政府の国家的な国際犯罪を暴露することになろう。

 オウム真理教へのよど号犯の関与は、偽ドルについても考えられている。偽ドルは北朝鮮が偽造して、世界に広く使用しているものだ。

 よど号犯の一人、田中義三は平成八年(一九九六年)、タイのパタヤで偽ドル札を使用したとして起訴された。この事件については、平成十一年(一九九九年)六月に無罪になり、拘留先のタイ・バンコクから昨年六月二十八日、日本へ移送された。田中が使った北朝鮮の偽ドルは「スーパーK」だった。彼が北朝鮮から出国したとき、北京を通過した可能性が高いとみられている。

 オウムの元幹部の証言によると、早川建設省大臣はドイツから精巧な印刷機を手配し、北朝鮮の偽ドル印刷に関係していたという。その一方、オウムには、外部から多額の資金提供を受けていた疑惑がある。それは、赤軍派・よど号犯の田中義三が使用して逮捕された偽ドル、スーパーKだった疑いが濃いと、高沢氏は言う。もしそうだとすれば、赤軍派・よど号犯とオウム真理教は、北朝鮮の偽ドルへの協力という点でもつながってくる。
http://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/99.html

オウムの北朝鮮コネクション

 オウム真理教と北朝鮮の関係についてに疑惑は、多数の死傷者を出したサリンやその他の武器にも関っている。この点において、よど号犯の関与はわかっていない。

 工作員Aがサリン製造責任者の村井に重用されていたことを再確認しておこう。
 高沢氏は言う、「オウム真理教が毒ガスや細菌兵器の開発に手を染めはじめていたのは、そこに北朝鮮の工作組織の浸透があったとすれば、けっして偶然ではないのである」と。

 金日成の著作集には、毒ガスや細菌兵器についての大量の論文。教示がある。朝鮮戦争後、北朝鮮では毒ガスや細菌兵器の研究が行われている。そして麻原らにサリンなどの知識を吹き込み、オウムを北朝鮮型の組織体系に誘導した工作組織が存在すると想定されるのだ。

 オウムと北朝鮮の関係の焦点にいるのが、早川紀代秀建設省大臣と村井秀夫科学技術省大臣だ。早川は麻原と共にオウムの前身である「オウム神仙の会」を創設した人物。オウムのナンバー・ツーといわれる大幹部だ。早川は元統一教会の信者である。それが阿含宗に入り込み、そこで麻原彰晃と巡り合い、オウム神仙の会を作った。オウム真理教の創設後も早川は統一教会の会員と会っていたという。

 早川はロシア射撃ツアーを企画したり、軍事訓練を受けたりと、非常にロシアに接近している。麻原オウムがロシアに接近しようとした最初のヒントは、恐らく、この早川によるものだろう。早川はロシアで武器の購入を行っていた。また頻繁にウクライナの首都・キエフへ行き、さらにそこを経由して北朝鮮に行っていたことがわかっている。

 一方、村井はサリン開発の責任者だった。オウム事件のなかで最も不透明で謎に満ちている事件の一つが、村井の刺殺事件だ。実行犯、徐浩行の背後には暴力団の存在があり、また同時に北朝鮮の工作組織の影が濃い。徐には数年間、北朝鮮に渡っていた形跡がある。彼は北朝鮮の「きわめて高度に訓練されたテロリストであり、工作員」と高沢氏はみる。

 村井はテレビで、オウムの資金は一千億円あると言った。また、地下鉄で使われた毒ガスはサリンではないとも証言した。とすれば、ガスの製造元はどこの国なのか。そして、さらに村井が曝け出しかねなかった秘密があったのだろう。

 その秘密は、北朝鮮と暴力団がらみの麻薬取引だった疑いもある。高沢氏は、それ以上の秘密があったのではないかと見ている。刺殺される前、村井はテレビでその秘密に触れかねない発言をしていた。そのことが、きわめて強い危惧を、北朝鮮側に抱かせたのだ。それは、日本の原子力発電所に関するものではなかったか。
 早川は頻繁にウクライナの首都・キエフへ行き、またそこを経由して北朝鮮に行っていたと先に書いた。高沢氏は、早川がロシアで武器の購入だけでなく、核燃料のプルトニウムの密輸にも関係があったのではないか、とみる。

 というのも、オウムは日本の原子力発電所に関する膨大な機密書類を手に入れていたのだ。村井らが約二百人もの作業員を潜入させて収集したものだ。専門家も初めて見るようね詳細な資料だ。こうした原発の機密資料が、早川ルートによって北朝鮮に流出していた可能性がある。そして、早川が北朝鮮の窓口としていたのは、北朝鮮の核兵器関連物資やIC機器の調達を行う部署、「第二経済委員会」だった可能性が、最も高いと、高沢氏は書いている。

 早川は、国際的な「死の商人」風のところがある。これに対し、村井は物理学の専門家であり、原発のデータを理解することができた。村井は早川とともに北朝鮮に渡航し、関係を持っていた。村井は究極の教団武装化として核開発を考えていた。北朝鮮も核開発のために、日本の技術とデータを必要としてオウムを利用していた。両者の利益は一致していたとも考えられる。

 オウムの一連の事件への「北朝鮮の関与、工作組織の存在は、村井の命を奪ってもなお、死守しなければならない機密に属していた」と高沢氏は言う。しかし、その真相は謎のままだ。北朝鮮は既に核兵器の開発を進め、既に数発の核兵器を持っているのではないかという観測がある。こうした国が連合赤軍など国際的なテロ組織とつながりを持ち、いや国際的なテロ組織を領導しようとしていたとすれば、どうだろうか。そうしたテロリストが、核兵器を掌中にしたならば、世界は震撼するだろう。勿論、掌中にあるのはサリンや生物化学兵器であるかも知れない。
http://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/100.html


赤軍派とオウムを結ぶ線

 オウム真理教が一連の事件を起こしたのか。それとも、外国の工作や国内の諸団体の関与によって操られていたのか。

 高沢氏は北朝鮮の存在を重く見る。氏はオウムは北朝鮮に「徹底して領導され、誘導され、利用され尽くしたともいえるのでは」と高沢氏はみる。「サリンをはじめとした一連のオウム真理教のテロ事件は、日本攪乱工作(クーデター工作)の、いわば予行演習でもあり得たのである」と。首都中枢の霞ヶ関を狙ったサリン事件については、北朝鮮が「日本の危機管理のずさんさと、どのような動きが取られるのかというシミュレーションのデータを得るためにこそ、攪乱工作の第一歩は必要だった」と述べている。

 もしそうだとすると、赤軍派・よど号犯グループは、こうした北朝鮮のオウム工作にどの程度関っていたのか。そして、重信ら日本赤軍はそれを関知していたのか。

 よど号犯グループは、中国北京を重要な拠点として活動してきた。平成八年の夏、重信房子は北京からひそかに北朝鮮に入国し、平壌で開かれた各国の革命を目指すグループの集会に参加したらしい。当然、重信はよど号犯グループメンバーと接触していただろう。

 日本赤軍の重信は、よど号犯グループが北朝鮮の国際工作員となっていることを知りながら、彼らとともに活動してきた可能性がある。それは同時に日本赤軍が、北朝鮮の対日工作や世界戦略に協力する、あるいは金正日の指令に従って動いてきたということを示唆する。

 実態はまだ明らかでないが、北朝鮮という国に重信や国際的なテロリストが集まるということは、当然、北朝鮮政府・指導部は、これを承知していたとみるべきだろう。北朝鮮政府は一体、何のためにこのような国際テロリスト集会を自国で開催したのか。そして、日本赤軍に対して何を提供し、また何を求めたのか。

 重信は北京を拠点として、日本や北朝鮮などでの活動をしてきたとみられる。果たして中国政府は日本赤軍やよど号犯グループと関りはないのか。

 今後、国際的な赤軍派の活動を解明してゆけば、オウム事件とそれに関る外国勢力の存在に、ぶつかるにちがいない。そこにメスを入れるとき始めて真相が見えてくるのではないのか。これは外交問題となることは必至である。

 いずれにせよ、やがて日本の政・官界の恥部や、暴力団などの絡む闇の権力が光に曝されるだろう。日本の背骨まで蝕むガンの病巣は、皮膚の下で破裂寸前にまで膨れ上がっているからだ。

(了)

(細井 保 (ジャーナリスト) 「重信房子、よど号犯、オウム真理教の深い関係」『動向』2001年1・2月合併号より)
http://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/101.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c54

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
55. 中川隆[-11483] koaQ7Jey 2019年3月13日 16:14:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[512]

重信房子


重信 房子(しげのぶ ふさこ、1945年9月28日 - )は、日本の新左翼活動家、革命家。元赤軍派中央委員、日本赤軍の元最高幹部である。

ハーグ事件の共謀共同正犯として有罪となり、懲役20年の判決を受けた。
現在、東日本成人矯正医療センターにて服役中。

生い立ち

東京都世田谷区で4人兄弟の次女として生まれた。父の重信末夫は四元義隆と同郷の鹿児島県出身で、第二次世界大戦前の血盟団事件に関与した右翼団体金鶏学院の門下生であった(血盟団メンバーと報じられることがあるが、メンバーではなく事件にも一切関与していない)。房子はこの父の影響を強く受けた。少女時代は「小さな親切運動」に熱心に取り組み、表彰を受けた[1]。また、文学少女でもあった[1]。東京都立第一商業高等学校卒業後、キッコーマンで働きながら小学校教員を目指し[2]、明治大学文学部史学地理学科の夜学に通う。大学では文学研究会で『一揆』というミニコミ誌を出していた[1]。

学生運動

大学入学後、夜学連に参加し[3]、2年次に文学研究会が属していた研究部連合会の事務長を務めていた[3]重信は学費値上げに絡んで明大闘争に参加した。この際、後に連合赤軍山岳ベース事件でリンチ殺人の犠牲となった遠山美枝子(二部法学部、麒麟麦酒勤務)と知り合う。明大闘争において全学連における立場を失墜させた共産主義者同盟(第二次ブント)の再建に協力してほしいとオルグされ、加入[4]。系列の明大現代思想研究会、二部の社会主義学生同盟の責任者として活動。神田カルチェ・ラタン闘争にも関わった[5]。その後分裂した共産主義者同盟赤軍派に創立メンバーとして加わる。塩見孝也ら幹部が逮捕され弱体化する中で主導権を握った森恒夫と対立した。

日本赤軍

重信は1971年に「国際根拠地論」に基づいて、パレスチナに赤軍派の海外基地を作ろうとする。奥平剛士と偽装結婚(奥平剛士は1972年5月、民間人ら23人を殺害、計100人以上を無差別殺傷したテルアビブ空港乱射事件のテロ行為で死亡)をし、「奥平房子」という戸籍を得て2月28日に出国した。なお重信は、後にパレスチナ人男性と結婚した。

その後、奥平剛士らとパレスチナで日本赤軍を結成し、創設当初は「アラブ赤軍」、「赤軍派アラブ委員会」、「革命赤軍」等と称し、その名称さえきちんと定まっていなかったが、1974年以降、「日本赤軍」を正式名称とした。

重信が「最高指導者」となった日本赤軍は、レバノンのベカー高原を主な根拠地に「革命運動」を自称し1970年代から1980年代にかけて、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)などパレスチナの極左過激派と連携し、一連のハイジャックや空港内での乱射事件などの無差別殺人を起こした。さらに外国公館の政府要人やハイジャックした飛行機の乗客を人質に取って、身代金や仲間の奪還を目論む事件を起こしたり、外国公館に攻撃をするなど、多数の民間人をも巻き込んだテロ事件を繰り返し世界各国から非難を受けた。

逮捕

その後重信は「ハーグ事件」への関与で国際手配を受けたものの逃亡を続け、不法に入手した偽造旅券を使って日本に不法入国し、その後しばらく大阪市西成区のマンションに潜伏していた。

2000年、日本赤軍の支援者を視察していた大阪府警警備部公安第三課は視察対象者が重信に似た女性と接触していたのを現認し視察・捜査を開始。重信はホクロが特徴となっていたが化粧でホクロを隠していたものの、特有のタバコの吸い方や、重信に似た女が某所で飲んだ際に使用されたコーヒーカップから指紋を採取、照合したところ重信の指紋と一致したことから公安第三課は女が重信であることを突き止めると、ハーグ事件から26年後の11月8日に潜伏していた大阪府高槻市において旅券法違反容疑で逮捕された。なお、大阪から警視庁への移送には東海道新幹線が用いられ、逃亡を防止する為グリーン車の個室に閉じ込めての移送となった。

重信が逮捕の際に押収された資料、それを報じた新聞などによれば、重信は1997年12月から2000年9月に、自ら他人になりすまして日本国旅券を取得し、関西国際空港から計16回にわたって中華人民共和国などに出入国を繰り返し、また1991年から日本での「武力革命」を目的とした「人民革命党」及びその公然活動部門を担当する覆面組織「希望の21世紀」を設立。またそれを足がかりとして、日本社会党との連携を計画していたとされる。

なお「希望の21世紀」は同事件に関連し、警視庁と大阪府警の家宅捜索を受けたが、日本赤軍との関係を否定している。また社会民主党区議の自宅なども「希望の21世紀」の関連先として同時に捜索を受けたが、社会民主党は「何も知らなかったが事実関係を調査する」とした。また、重信が残した多数の証拠品により支援組織が解明され、会社社長・教諭・医師・病院職員が次々に重信を匿った犯人隠避の疑いで検挙された。

解散

2001年には獄中から、組織として事実上崩壊していた日本赤軍の解散を発表している。2009年6月に、初めて産経新聞のインタビューに応じ、過去の活動について「世界を変えるといい気になっていた」と語った。一方で「運動が行き詰まったとき、武装闘争に走った。世界で学生運動が盛り上がっていたが、故郷に戻り、運動を続けたところもあった。私たちも故郷に戻って運動を続けていれば、変わった結果になったかもしれない」と自責の念にも駆られていたとも述べた[6]。


ハーグ事件裁判

起訴

重信は1974年9月13日に日本赤軍がフランス当局に逮捕されたメンバー(山田義昭)を奪還するために、オランダのハーグで起こしたフランス大使館占拠事件、いわゆる「ハーグ事件」への関与をめぐり、逮捕監禁罪・殺人未遂罪などでの共謀共同正犯で起訴された。

検察側は日本赤軍が実行翌日に犯行声明を出したり、その他の日本赤軍の刊行物からパレスチナ解放人民戦線(PFLP)に武器調達や解放された仲間を受け入れる国との調整を依頼していたこと、事件後の会議で重信が準備不足などを反省する発言をしたとする元メンバーらの供述などの証拠から、ハーグ事件について首謀者として犯行を主導したと主張し無期懲役を求刑した。これに対して弁護側は「ハーグ事件当時、日本赤軍が組織体制を確立しておらず、PFLPの作戦であったから重信が指示・指導する立場ではなかったうえ、謀議があったとされる時期にはリビアにいてアリバイがある」と無罪を主張した。

東京地方裁判所は2006年2月23日に「重信被告は武器調達や解放された仲間を受け入れる国との調整をPFLPに依頼するという重要な役割を担っていた」と認定し、さらにアリバイについては「共謀の詳しい内容や時期、場所は明らかではないが、被告がアラブ諸国の協力組織を介するなどして実行犯と共謀しており、アリバイとして成立しない」と認定した。量刑は「自らの主義や主張を絶対視し、多数の生命、身体への危険を意に介さない身勝手な犯行であり、真摯な反省がみられない」としたが、一方で「犯行の重要事項については実行犯の和光晴生が決定しており、被告は中核的立場を担ったものの犯行を主導したと断言できない」とし、検察が求刑していた無期懲役を退けて懲役20年の判決を言い渡した[7]。

懲役

これに対して重信の娘の重信メイと主任の大谷恭子弁護人は同日控訴した。控訴審では弁護側と検察側双方が、1970年代から1980年代にかけ重信と同様に世界各国でテロ事件を起こし多数の民間人を虐殺し、フランスで終身刑を受けているテロリストの「カルロス」受刑者から、「ハーグ事件」の指揮系統や武器提供の経緯についての証言を得て、裁判所に提出された。

2007年12月20日に東京高等裁判所は一審判決を支持し、控訴を棄却した[8]。重信は上告したが2010年7月15日に棄却が決定し刑が確定した[9]。重信は上告棄却決定に対する異議申し立てを行ったが、2010年8月4日に最高裁判所第2小法廷(竹内行夫裁判長)は棄却する決定をし、懲役20年とした一・二審判決が確定し重信はその後服役した。ただし、未決勾留期間の810日の3年を刑期に算入するため実質17年となり重信の出所予定は2027年となった。

その他

八尾恵(よど号グループの柴田泰弘の元妻)の『謝罪します』には、「1970年代後半に北朝鮮に在住し始めた時の夫の柴田のアルバムに、日本赤軍の重信房子がチマチョゴリを着て2歳くらいの娘と一緒の写真があった」と書かれており、重信とよど号グループとの関係が指摘されている。

和光晴生は1974年に北朝鮮当局に資金援助を求める手紙を見せられたこと、そして翌1975年に重信が北朝鮮に渡航したことと、その後、同国の「主体思想」に基づく「思想闘争」という活動形態が組織内部に持ち込まれたことを述懐している[10]。

但し、重信自身は和光の述懐の内容について「穿ち過ぎ」であるとし[11]、「思想闘争」や「自己批判」を行う「援助会」に関してはイスラエルやヨルダン政府などとの闘いの中で生まれたものだ、として否定している[12]。また、足立正生は1974年に日本赤軍に合流した際に年長者として思想や組織、革命に関しての議論を活発にさせたと述懐しており[13]、全てが北朝鮮やよど号グループの影響なのかは判然としない面がある。

公安関係者には「重信ファン」が少なからずいたという[14]。

2018年現在、東日本成人矯正医療センターにて抗がん剤の治療を行っている。


著書

『わが愛わが革命』講談社、1974年 [15] パレスチナ解放闘争史: p.260 - 263

『十年目の眼差から』話の特集、1983年
『大地に耳をつければ日本の音がする 日本共産主義運動の教訓』ウニタ書舗、1984年
『ベイルート1982年夏』話の特集、1984年
『りんごの木の下であなたを産もうと決めた』幻冬舎、 2001年
『ジャスミンを銃口に 重信房子歌集』幻冬舎、2005年
『日本赤軍私史 パレスチナと共に』河出書房新社、2009年
『革命の季節 パレスチナの戦場から』幻冬舎、2012年


共編著

『資料・中東レポート』1-2(日本赤軍との共編著)ウニタ書舗、1985-86年[16][17]
『重信房子の半生記』サンデー毎日連載、構成:竹中労、1985-1986年
『赤軍 1969→2001総特集』足立正生夫妻、山本万里子、中山千夏、平岡正明、松田政男、平井玄他、河出書房新社、2001年
『日本赤軍!世界を疾走した群像』和光晴生、足立正生、若松孝二、塩見孝也、小嵐九八郎、聞き手 図書新聞 2010年
『丸岡修自述―元・日本赤軍軍事指揮官告白録』 風塵社、2013年
『天皇制と共和制の狭間で』 小沢信男、日野百草、山本健治、藤田真利子、天野恵一、松田ひろむ、高橋武智、鹿島正裕他、第三書館、2018年[18]


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E4%BF%A1%E6%88%BF%E5%AD%90
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c55

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
56. 中川隆[-11482] koaQ7Jey 2019年3月13日 16:29:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[513]

重信房子独占インタビュー 1973 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=rXIUjCImv1M


映画『革命の子どもたち』予告編 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=93xiGKx5ASU

2014/05/16 に公開

元日本赤軍の重信房子と元ドイツ赤軍のウルリケ・マインホフ、その娘である重信メイとベティーナ・ロールをテーマとしたドキュメンタリー。当時のニュース映像や重信とウルリケに接した人たちのコメントを基に、二人の女性革命家の壮絶な人生と、そんな彼女たちの娘がたどった苦難の幼年期をつづる。監督は、アイルランドのドキュメンタリー作家シェーン・オサリヴァン。ベトナム戦争に声を上げたかつての若者たちの姿を通して、民主主義や平和とは何かを考えさせられる。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c56

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
57. 中川隆[-11481] koaQ7Jey 2019年3月13日 16:35:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[514]

<再現>日本赤軍事件 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=QNNokzO4u-Y
https://www.youtube.com/watch?v=3dN3r3H4mSU


2017/01/25 に公開
「日本赤軍」…日本赤軍が引き起こした事件の数々。
美人女性リーダー・重信房子は何を目指していたのか?
日本政府vs日本赤軍の知られざる真実

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c57

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
58. 中川隆[-11480] koaQ7Jey 2019年3月13日 17:10:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[515]

日本赤軍について少し
投稿者 ブッシュ親子の自作自演テロの11 日時 2005 年 3 月 09 日
http://www.asyura2.com/0502/holocaust1/msg/495.html


日本赤軍について少し。(ユダヤ悪を追求すると、な〜ぜ〜か、北朝鮮勢力から狙われますよ。)

1.よど号グループと日本赤軍は、提携している。よって、どちらも黒幕は、北朝鮮。ボスは、重信房子だった。(北朝鮮の日本の出店は、統一教会インチキ右翼が兼任。)日本の中の北朝鮮=オウム真理教と重信の間にもつながりがある。

▼重信房子、よど号犯、オウム真理教の深い関係
細井 保(ジャーナリスト)『動向』2001年1・2月合併号より)
http://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/kok_website/fireworks4/main_pages_sub/OUMUNOSEIRISEITON_PAGE10_4.HTM


2.重信の黒幕は、ユダヤ権力・勝共右翼の朝鮮人と見たほうが良さそうです。

▼行政調査新聞 「重信房子は四元義隆と会っていた?」
http://www.gyouseinews.com/storehouse/jan2001/001.html

米大統領選の当選者確定の日とされた昨年十一月八日午前、大阪府高槻市の路上で赤軍派の重信房子が逮捕され衝撃が流れた。ところがその後、重信が長期にわたり北京政府と密接な関係を持っていたことなどが明らかになってきている。さらに衝撃的な噂が流された。逮捕直前に重信房子が、四元義隆、後藤田正晴と会っていたというのだ。現実には、後藤田が重信と会った形跡はない。後藤田の秘書が会ったとも言われるが真偽は不明。いっぽう四元義隆は「逮捕前に重信房子に会ったか?」とのマスコミの質問に対し否定はしなかった。彼女は幼い頃にはしょっちゅう四元の膝の上で遊んでいたと言われる(ちなみに重信房子の父親は右翼・血盟団員)。

山下太郎、田中清玄…。かつて日本から実力者たちが何人もアラブ世界に飛び、交流を高めわが国の政治経済に貢献した。重信房子もこうした流れの中でアラブに渡ったものであり、彼女が中東に飛ぶ際に岸信介(当時首相)は当時のカネで500万円を手渡したと伝えられる。


3.重信は、アラブ・ゲリラの中心人物。重信の逮捕は、「あの」連中が計画している日本テロを「アラブゲリラによる重信奪還テロ」と思わせるため?日本でも、ビン・ラディンやアルカイダの名前が使われたインチキテロが行われるのか?(勿論、実際の犯行は、地下鉄サリン同様にCIAのユダヤ人と勝共・北朝鮮の朝鮮人。)

▼【心と宗教板 元オウム信者いない?】
http://mentai.2ch.net/psy/kako/973/973772995.html


4:気になるから質問!重信さん逮捕されちゃいましたけど、今後の計画は大丈夫なんですか?

13:そんなことよりも、重信さん逮捕されちゃいましたけど、今後の計画は大丈夫なんですか?上手くいかなかったらどうするんですか?平田さんの連絡先も教えて下さい。でないとタダのネタになっちゃいます。

4.元赤軍派の塩見が、結局は、朝鮮系右翼とつるんでいるわけです。つまり、日本の半島系右翼は、北朝鮮の傀儡。総元締めは、ロックフェラーの手先と北朝鮮の出先を兼任する文鮮明ということです。

▼元赤軍派議長 塩見孝也 "民族派宣言"(サンデー毎日2.27号から)
http://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/kok_website/fireworks4/main_pages_sub/OUMUNOSEIRISEITON_PAGE10_4.HTM

記者「民族派へ転向したみたいですね」
塩見「マルクス主義の脱構築です」

▼新右翼が元赤軍派を激励  法廷で3時間“会談” 96.09.03  共同

【チョンブリ(タイ中部)3日共同】日本の新右翼団体「一水会」の鈴木邦男代表(53)らが、偽米ドル札事件で裁判を受けているよど号乗っ取り犯の元赤軍派メンバー田中義三被告(48)を激励するためタイを訪問した。二日にチョンブリ刑務所で二十分ほど面会、三日は第九回公判が開かれた法廷で、傍聴席最前列の鈴木氏と木村三浩書記長が田中被告と「私語」を交わす形で三時間近く話し込んだ。田中被告は米国主導の捜査を非難し続けており、反米・民族派の鈴木氏らと「ともに闘っていけると感じました」。一方の鈴木代表も「四十歳を過ぎれば右翼も左翼もないですよ。意気投合しました」と言っていた。

▼平壌製作『よど号物語』上映
日本赤軍の塩見孝也が主体となった、よど号物語という映画の上映会に、サヨクがみんな集まった訳だけれども、「賛同人」の中にやっぱり、新右翼が混じっていたわけです。中台一雄(大悲会元会長)

5.ということで、オウム・日本赤軍・アルカイーダの連携に見せかけたインチキ日本テロを、ユダヤCIA+統一勝共似非右翼・創価学会の朝鮮人+北朝鮮が企んでいる恐れありと見ます。

日本有事情報【極秘】
http://jbbs.shitaraba.com/news/bbs/read.cgi?BBS=677&KEY=1038823935
2000年韓国に亡命 1975〜80年に、対日戦を想定した特殊部隊525部隊(5旅団6万人)を指揮し、100万人の一般部隊と合同で訓練をしていた。南光植によると、北朝鮮は、東京を占領することを目的とした、特別の軍隊を訓練させている。想定しているのは、東京での市街戦、化学兵器で人の脳を窒息させる、呼吸器系を麻痺させる、脳を麻痺させ手足を自由に動かなくさせる、政府関係庁舎の占領、空港の破壊、TV局や、新聞社などマスコミ関係の占領、化学兵器で市民を窒息させる等。北海道への上陸作戦の訓練も行っていた。金正日は、生物化学兵器で、東京市民を、一週間眠らせ、東京を占領するという内容の映画を作製し、軍の指揮官に見せている。

2チャンのコメント:「だからその実験がオウムのサリン事件なわけで。オウムは北鮮の破壊工作用下部組織だからね。カルト宗教などではない。」正解ですね。

↓は、私がかなり前に作ったHPです。現状は少し変わってきているので、ご参考程度にどうぞ。(2002年に起きなかった日本テロが、今年おきても不思議はないですが。)

◎オウム、赤軍派、北朝鮮は最初から一心同体。2002年の日本有事で、連携する。
http://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/kok_website/fireworks4/main_pages_sub/OUMUNOSEIRISEITON_PAGE10_4.HTM

◎東京でのテロは、重信房子奪回の名目。表向きは、イスラム過激派と赤軍派の共同作戦。実は統一・創価・北朝鮮・CIAの合同作戦。
http://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/kok_website/fireworks4/main_pages_sub/OUMUNOSEIRISEITON_PAGE10_5.HTM


http://www.asyura2.com/0502/holocaust1/msg/495.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c58

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
59. 中川隆[-11479] koaQ7Jey 2019年3月13日 17:18:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[516]

Re: 在日裏社会勢力が根を張っている社会単位の筆頭は、「宗教」と「ヤクザ」です。
投稿者 ブッシュ親子の自作自演テロの11 日時 2005 年 4 月 13 日 10:54:09: XUSllUZ/d1uKA
http://www.asyura2.com/0502/cult1/msg/239.html


在日裏社会勢力が根を張っている社会単位の筆頭は、「宗教」と「ヤクザ」です。どちらも内部に、北朝鮮に直結した在日・帰化人のネットワークが出来上がっています。それは、「右翼宗教」でも同じことです。北朝鮮とつながっているのは「サヨク」だけだと思うのは幻想です。むしろ、『右翼』の看板に隠れて、北朝鮮勢力が日本国内で工作を進めていると見るべきです。(従って、日本の右翼の大半は、在日と部落であるわけです。日本になんら利益をもたらさない品性下劣なヤクザ右翼は、反日的な朝鮮人でなければ勤まりません。日本の国家の利益を損ない、日本民族を愚弄する役割なのですから。日本人にはできません。)右翼とヤクザはほとんど同義語であり、どちらも「朝鮮」という接頭語をつけてながめるべき対象です。

日本赤軍は、右翼を偽装した民族派組織を日本国内に網羅することで、北朝鮮のための破壊工作を準備していたと思われます。(参考@)
新右翼の中心組織、一水会の宴会に出席している連中の顔ぶれを見れば、「北朝鮮系サヨク・似非在日右翼・在日宗教」が裏で手を結んでいるのが良くわかります。勿論、朝鮮創価学会の幹部も出席しています。赤軍派の塩見も右翼の親分も宮崎学もオウムのスポンサーだった代議士、山口敏夫も同席しています。この連中みなが、結局は北朝鮮と背後のユダヤ権力の手先ということです。(参考A)

一方で、北朝鮮の日本総代理店であった赤軍派が弱体化し、北朝鮮のための工作ができなくなった後、代わりにピョンヤンの手先の役割を担ったのが、オウム真理教でした。(参考B)よって、北朝鮮の同志である創価学会と統一教会の朝鮮人が、ピョンヤンの新しい対日工作拠点であるオウム真理教に移動集結したのも当たり前なわけです。オウムが1990年から急速に膨張したのは、創価・統一の朝鮮人・帰化人が親組織の命で、偽装改宗して組織に入り込んだという理解をすべきです。

参考@ 【赤軍派は、朝鮮労働党直結の似非・右翼団体の組織を目論んだ】
「鈴木邦男と一水会とピースボートと朝鮮労働党の関係」
http://www.meix-net.or.jp/~minsen/information.htm
「このころ彼(よど号グループの田宮高麿)は、日本国内に「愛族同盟」と称する政治団体を結成することを考えていた。民族主義を最前面に押し出した組織だった。もちろん、この動きが朝鮮労働党の指導のもとに行われていたことは明白だった。そして、この組織化のなかで日本の民族派系組織も取り込んで運動を拡大することが画策されていた....」

参考A
【結局、こいつ等がオウムの背後にいた連中に繋がっている】
一水会を鼓舞する会 
http://web.archive.org/web/20000605001307/http://www2.neweb.ne.jp/wc/issuikai/226.html
「一水会を鼓舞する会」の発起人名簿の一部。
有田芳生     (ジャーナリスト)
井上聖志     (創価学会広報室渉外部長)
柴田泰弘     (「よど号事件」メンバー)
高野 孟     (「インサイダー」編集長)
徳田虎雄     (徳洲会理事長)
中台一雄     (大悲会前会長)
宮崎 学     (作家)
山口敏夫     (元労働大臣)
塩見孝也     (元赤軍派議長)

参考Aの2
朝鮮労働党系右翼???
石井一昌氏のHPより  http://www.ishiikazumasa.com/cc/messages/0117200002.html
最初は、「新右翼」という試みを、旧態依然の右翼団体が誹謗し潰そうとしているのかと腹が立ちましたが、右翼の人にもちゃんとした言い分があるそうで、その根拠は、一水会および鈴木邦男氏は、日本赤軍の末端組織で朝鮮労働党の傘下組織である
・彼等の行動の真の実体は、北朝鮮支援、テロと誘拐拉致・核開発・日本に対する誹謗中傷の手伝い、という売国行為である・朝鮮労働党の指導下にある「愛族同盟」という極左と反米右翼を合流させる目的の組織があり、ここで一水会と塩見氏らが共闘しているというものであるということや、あと、鈴木氏個人の悪評判まで色々目にしました。 右翼の方が、ここまで言い切ってしまっているものを無下に「そんなのは誹謗中傷だろ」とも僕は言えなくなってしまい少々混乱しております。
そんな折りに、石井さんのページを見つけ、石井さんが鈴木邦雄さんに並々ならぬ感情をお持ちのようだというのを読んで、その根拠と、上記のことについて石井さんは御存知なのか、それについてどう御考えになるのか、ということを聞いてみたくなった次第です。

参考Aの3
【もはや、イデオロギーは無関係。右翼も左翼も、合言葉は在日、そして北朝鮮】
元赤軍派議長 塩見孝也 "民族派宣言"(サンデー毎日2.27号から) http://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/kok_website/fireworks4/main_pages_sub/OUMUNOSEIRISEITON_PAGE10_4.HTM

記者「民族派へ転向したみたいですね」
塩見「マルクス主義の脱構築です」

参考Aの4
新右翼が元赤軍派を激励  法廷で3時間“会談” 96.09.03  共同
http://www.zorro-me.com/TANAKA/TANAKA02_1.html
【チョンブリ(タイ中部)3日共同】日本の新右翼団体「一水会」の鈴木邦男代表(53)らが、偽米ドル札事件で裁判を受けているよど号乗っ取り犯の元赤軍派メンバー田中義三被告(48)を激励するためタイを訪問した。二日にチョンブリ刑務所で二十分ほど面会、三日は第九回公判が開かれた法廷で、傍聴席最前列の鈴木氏と木村三浩書記長が田中被告と「私語」を交わす形で三時間近く話し込んだ。田中被告は米国主導の捜査を非難し続けており、反米・民族派の鈴木氏らと「ともに闘っていけると感じました」。一方の鈴木代表も「四十歳を過ぎれば右翼も左翼もないですよ。意気投合しました」と言っていた。

参考B
重信房子、よど号犯、オウム真理教の深い関係
細井 保(ジャーナリスト)『動向』2001年1・2月合併号より)
http://www.asyura.com/sora/bd13/msg/96.htmlオウムの北朝鮮コネクション

オウムと北朝鮮の関係の焦点にいるのが、早川紀代秀建設省大臣と村井秀夫科学技術省大臣だ。早川は麻原と共にオウムの前身である「オウム神仙の会」を創設した人物。オウムのナンバー・ツーといわれる大幹部だ。早川は元統一教会の信者である。それが阿含宗に入り込み、そこで麻原彰晃と巡り合い、オウム神仙の会を作った。オウム真理教の創設後も早川は統一教会の会員と会っていたという。

早川はロシア射撃ツアーを企画したり、軍事訓練を受けたりと、非常にロシアに接近している。麻原オウムがロシアに接近しようとした最初のヒントは、恐らく、この早川によるものだろう。早川はロシアで武器の購入を行っていた。また頻繁にウクライナの首都・キエフへ行き、さらにそこを経由して北朝鮮に行っていたことがわかっている。

一方、村井はサリン開発の責任者だった。オウム事件のなかで最も不透明で謎に満ちている事件の一つが、村井の刺殺事件だ。実行犯、徐浩行の背後には暴力団の存在があり、また同時に北朝鮮の工作組織の影が濃い。徐には数年間、北朝鮮に渡っていた形跡がある。彼は北朝鮮の「きわめて高度に訓練されたテロリストであり、工作員」と高沢氏はみる。

村井はテレビで、オウムの資金は一千億円あると言った。また、地下鉄で使われた毒ガスはサリンではないとも証言した。とすれば、ガスの製造元はどこの国なのか。そして、さらに村井が曝け出しかねなかった秘密があったのだろう。

その秘密は、北朝鮮と暴力団がらみの麻薬取引だった疑いもある。高沢氏は、それ以上の秘密があったのではないかと見ている。刺殺される前、村井はテレビでその秘密に触れかねない発言をしていた。そのことが、きわめて強い危惧を、北朝鮮側に抱かせたのだ。それは、日本の原子力発電所に関するものではなかったか。

早川は頻繁にウクライナの首都・キエフへ行き、またそこを経由して北朝鮮に行っていたと先に書いた。高沢氏は、早川がロシアで武器の購入だけでなく、核燃料のプルトニウムの密輸にも関係があったのではないか、とみる。

以上


全部読むなら.....◎オウム、赤軍派、北朝鮮は最初から一心同体。2002年の日本有事で、連携する。
http://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/kok_website/fireworks4/main_pages_sub/OUMUNOSEIRISEITON_PAGE10_4.HTM


http://209.54.50.129/0502/cult1/msg/239.html

▲△▽▼


こーれはまた面白い情報をありがとうございました
投稿者 ぷち熟女 日時 2005 年 4 月 13 日 18:00:24: WgkZZjZT3HifU
http://www.asyura2.com/0502/cult1/msg/243.html

ブッシュ親子の自作自演テロの11様、

鈴木邦雄の妙な赤軍への擦り寄りについては、
あたくしも一部引用していただいた記事も含め、これまでに読んで知っていました。
でも、彼が在日コリアンであることを知ったのは、あなたのHPでのことです。
日本も自前の諜報機関を持てとか強化しろとか言う人もいますが、
ブッシュ親子の自作自演テロの11様ならスカウトされちゃったりして、ははは。
ほんとにすごいです。

思えば彼の『公安の手口』(ちくま書房でしたっけ?)と言い
重信メイの著作(講談社刊?)と言い、
割とメジャーな出版社からああも易々と手を差し伸べられていることが
また何とも不思議でなりませんでした。

今のところ、ぱっと見はどんなに突飛に映っても
赤軍がシオニストと組んでいるという仮説については
それをますます強化するような情報しか出て来ないように思えます。

北朝鮮と中東の関係に関連して、
レバノンからも拉致してた、なんていう情報もありましたからねえ。
重信氏はずっとレバノンに住んでたはずですから、
レバノン人の拉致にも何かしら関係があっても不思議はありません。

またお手隙の時にでも一度、
赤軍派(重信、奥平や岡本の)が起こしたことになってるテロが
ほんとに彼らの手になるものだったとお思いになるかどうか
ご意見をお聞かせいただけたらと思っております。
下に資料を添えておきます。

前にホロコースト板にも書いたのですが、
ミッション=インポシブルじゃあるまいしですね、
一体どうやってあれらのことをしでかして
捕まらないでトンズラしたり出来たというのか。
しかも、その場所たるや、
どこもむしろシオニストやメーソンリーであればこそ
水を得た魚のように動き回れる土地ばかり。

どうせ全部『モ』の字のお膳立てでイイカッコしたんでないの?
てか、アメリカやイスラエルがやりたかった工作に
名前を貸し、撹乱に協力して恩を売った、というのかしらん。

ではまた、ごきげんよう。


『無限回廊』より 日本赤軍が引き起こした主なテロ事件
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/nihon.htm

=================================================================================
1972年(昭和47年)5月30日 
テルアビブ空港事件

イスラエルのテルアビブ・ロッド空港で、奥平剛士、岡本公三、安田安之の3人が、自動小銃を乱射し、26人が死亡、73人が重軽傷を負った。
---------------------------------------------------------------------------------
1973年(昭和48年)7月20日
ドバイ事件

丸岡修と4人のパレスチナゲリラがパリ発東京行きの日航機を、オランダのアムステルダム空港離陸後ハイジャックし、3日間に渡り、アラブ首長国連邦のドバイ空港、シリアのダマスカス空港などを経て、リビアのベンガジ空港に着陸させ、人質141人を解放後、機体を爆破して投降。
---------------------------------------------------------------------------------
1974年(昭和49年)9月13日
ハーグ事件

重信房子、西川純、奥平純三、和光晴生の4人が、オランダ・ハーグのフランス大使館を占拠して、17日、フランス当局に拘禁中の山田義昭を釈放させ、シリアに脱出。
---------------------------------------------------------------------------------
1975年(昭和50年)8月4日
クアラルンプール事件

奥平純三、日高敏彦、和光晴生、丸山修、山田義昭と思われる5人がマレーシアのクアラルンプールのアメリカとスウェーデン両大使館を占拠し、アメリカ総領事らの人質と交換に、日本で勾留中の赤軍派の坂東国男、日本赤軍の西川純、戸平和夫、赤軍派の松田久、東アジア反日武装戦線の佐々木規夫を釈放させ、日航機でクアラルンプールに送り、日本赤軍は奪還した5人とともにリビア入りした。
---------------------------------------------------------------------------------
1977年(昭和52年)9月28日
ダッカ事件

丸岡修、和光晴生、佐々木規夫、戸平和夫、坂東国男と思われる5人が、日航機をハイジャックし、バングラデッシュのダッカ空港に着陸させ、乗員・乗客151人の人質と交換に、日本赤軍メンバーなど9人の釈放を要求した。犯人グループは奥平純三、大道寺あや子、浴田由紀子、城崎勉、泉水博、仁平映の6人と現金600万ドルをダッカに移送させたあとアルジェリアに逃亡し人質全員を解放した。
---------------------------------------------------------------------------------
1986年(昭和61年)5月14日
ジャカルタ事件

インドネシア・ジャカルタの日米両大使館に爆発物が打ち込まれ、同地のカナダ大使館で車が爆破されるという同時テロ事件が発生した。この事件では「反帝国主義旅団」名の犯行声明が出されており、日米捜査当局は、城崎勉を犯人の1人と断定した。
---------------------------------------------------------------------------------
1987年(昭和62年)6月9日
ローマ事件

ベネチア・サミット開催中、イタリアのローマで、アメリカ、イギリス両大使館に向けた爆発物の発射などのテロ事件が発生した。この事件では「反帝国主義国際旅団」名の犯行声明が出されており、イタリア捜査当局は、奥平純三らを犯人と断定した。
---------------------------------------------------------------------------------
1988年(昭和63年)4月14日
ナポリ事件

イタリアのナポリで米軍クラブ前に駐車中の車が爆破され、米軍1人を含む5人が死亡した。この事件では「聖戦旅団機構」名の犯行声明が出されており、イタリアと米捜査当局は、奥平純三と重信房子を犯人と断定した。
=================================================================================

http://209.54.50.129/0502/cult1/msg/243.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c59

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
60. 中川隆[-11478] koaQ7Jey 2019年3月13日 17:24:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[517]

2018年3月31日

 あの安保闘争では、デモを指導していた全学連の上層部が、右翼の田中清玄やCIAから資金援助を受けていた。そして、彼らは後に米国に留学し、中曽根康弘の手先として自民党の御用学者となった(西部邁、香山健一、佐藤誠三郎など)。安保闘争はデモを指導していた学生がCIAに取り込まれ、ガス抜きに利用された(当時の岸信介首相は、CIA工作員)。

 学生運動や極左運動では、凄惨なリンチやテロが相次いだ。だが当時の極左指導者も、裏では公安とツーカーだった。よど号事件では、犯人が北朝鮮(旧日本軍の残地諜者が建国した国)に亡命し、人質の一人が日野原重明(笹川人脈)だった(聖路加国際病院は戦時中は空襲に遭わなかったし、地下鉄サリン事件では被害者の搬送先となった)。

重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。

 オウム事件では、オウムは裏で統一教会や北朝鮮と関わりがあったが、当然、CIAの関与もあったはずだ(オウムが撒いたとされるサリンは、米軍製のサリンとなぜか成分が同じだ)。麻原は拘置所で薬漬けにされ、口封じされた。

 安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。

https://johosokuhou.com/2018/03/30/2831/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c60

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
61. 中川隆[-11477] koaQ7Jey 2019年3月13日 17:31:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[518]
重信家三代の家族愛‐鈴木邦男‐マガジン9 2012.03.07

3月4日(日)の「鈴木ゼミin西宮」は超満員だった。2カ月に一度、西宮で、いろんなゲストを読んで開催しているが、今回で10回目だ。今回のゲストは重信メイさん(国際ジャーナリスト)だ。お母さんは重信房子さんだけでなく、僕は房子さんのお父さんにも昔、会っている。重信家三代にわたって会っている。西宮では、その話を詳しくした。

 重信メイさんは日本に帰ってきて11年目だ。日本に帰る前から話は聞いていた。「もの凄い美人だ。日本に連れて帰って女優にしたい」と、映画監督の若松孝二さんは言っていた。全共闘時代の重信房子さんは「美人闘士」として有名だった。その娘さんなんだし…と、皆、思っていた。

 日本に帰ってきて、メイさんはまず河合塾の講師になった。河合塾には全共闘運動をしていた先生方が多い。そんなことがあって、呼ばれた。メイさんは、超人気講師で、廊下にまで生徒があふれていた。さらに「朝日ニュースター」のコメンテーターになった。5年ほどやったが、今は辞めて、フリーの国際ジャーナリストだ。河合塾の方は、今も授業があるという。僕も河合塾コスモで授業を持っている。「だから職場の同僚です」と言ったら、「鈴木さんは大先輩です」と言われた。

 西宮では、初めに、メイさんから40分ほど話してもらい、その後、二人でトーク。この時、僕は「重信家三代」との付き合いについて話をした。そのあと、質疑応答。会場を移しての二次会と続いた。初めにメイさんは、「これからの世界を語る。〜アラブ、アメリカ、そして日本」と題して話してくれた。又、アラブでの生活、お母さんのこと、日本赤軍の人たちのこと…などについても話してくれた。

 本名は「重信命」だ。命は、「いのち」だし、革命の命だ。そんな思いを込めて、お母さんが付けた。でも、漢字で書くと、かなり重い。重く信じて、それを命がけで守る。そんな感じになる。「それに、右翼のようでしょう」とメイさんは言う。「○○命(いのち)」なんて腕に入れ墨してる人がいるが、あんな感じがするという。右翼というよりは暴走族かもしれない。ともかく、重苦しくなるので「重信メイ」にしたという。その方が、国際ジャーナリストとしても通りがいい。

 この日、僕は、お爺さんの重信末夫さんに取材した「やまと新聞」のコピーを持っていって、会場の皆に配った。〈重信房子はなぜアラブへ。元右翼の父が語る女闘士の素顔〉と、見出しが書かれている。小見出しは…「ロマンを求めて。北一輝などを高く評価」「連合赤軍、唾棄すべきもの」「極右と極左は一致。ただ天皇観だけが違う」。

 「やまと新聞」の昭和49年3月15日付だ。1974年だ。三島事件の4年後。連合赤軍事件の2年後だ。今年は「連合赤軍から40年」だから、末夫さんに取材したのは今から38年前だ。タイトルで分かるように、末夫さんは元右翼だった。それも筋金入りだ。戦前の「一人一殺」の血盟団事件に参加していたのだ。ただ、テロを決行する直前、井上日召に言われた。

「君は人間が優しいからテロには向いてない。我々が破壊をやるから、その後の建設を頼む」と。

それで郷里に帰り、教師になった。戦前は、国家革新、革命、を言うのは右翼だった。だから、「娘は右翼ですよ」と断言していた。「右翼」は誉め言葉なのだ。この世の中を変えるために闘っている。そんな娘を誇りに思っていた。末夫さんの「過去」を知らずに、右翼からよく抗議、嫌がらせが来る、と言っていた。

「あんな左翼の娘に育てて恥ずかしくないのか。責任をとって自決しろ」と言ってくる。

末夫さんは、戦前の右翼だ。そんなものに動揺する人じゃない。笑って話していた。この時、「娘さんとは連絡はないんですか?」と聞いたら、「ない」と断言していた。房子さんが日本を脱出する時、「もう二度と会うことはないだろう」と思ったという。

 それから20年以上が経って、房子さんは日本に帰っていたところを逮捕される。そして、懲役20年の刑を受け、今は八王子の医療刑務所にいる。刑が決まる前、法廷には何回か行った。拘置所でも何回か面会をした。お父さんの話をよくした。

 「実は、あの時、父から問い合わせがあったんです」と房子さんは言う。「元右翼学生の鈴木邦男という男から取材の申し込みがあった。知ってるか?」という内容だったという。

もう連絡はないと言ってたが、ちゃんと連絡はあったのだ。父親から手紙が来たが、房子さんは知らない。周りの人達に聞いた。日本から来た活動家は沢山いて、その何人かが知っていた。

「右翼の暴力学生ですよ、鈴木というのは」。それで、「ロクな奴じゃないから取材は断った方がいいですよ」と房子さんは手紙を出した。

しかし、今と違い、38年前だ。手紙が届いて、返事が来るのに1カ月以上かかる。それが幸いして、僕は取材することが出来た。

 僕は右翼学生運動をやっていたが、内部闘争で、除名になり、運動の場から追われた。1969年だ。そして縁があって、1970年から1974年まで、産経新聞に勤める。事件を起こして産経をクビになってからは、右翼の世界に戻り、「新右翼」と言われるようになる。

「産経に4年いた」と言うと、「記者だったんですね」「だから、その後、本を出したりしてるんですね」と言われる。

しかし、産経では販売局と広告局にいて、ものを書く仕事ではない。産経を辞めてから、原稿を書くことを始めた。友人が「やまと新聞」にいたので、よく書かせてもらった。1974年の東アジア反日武装戦線〈狼〉の連続企業爆破事件について「やまと新聞」に連載した。それが三一書房の社長の目にとまり、本を出すことになった。『腹腹時計と〈狼〉』だ。それが僕のデビュー作だ。

 「やまと新聞」は右派系の日刊紙だ。当時は、月刊、週刊だけでなく、右派系の日刊紙もあったのだ。そこでは随分と書かせてもらい、生活も助かった。その頃、重信末夫さんにも取材した。

 そう思っていた。ところが、末夫さんのインタビューだけは違っていた。まだ産経新聞にいた頃だ。休みの日を利用してインタビューに行ったようだ。今、思い出したが、「発表するのは、やまと新聞ですが、僕は産経新聞の社員です」と言って、身分証を見せて、信用させたような気もする。その頃は、産経には満足していた。サラリーマン生活をエンジョイしていた。入社した年の暮に三島事件があり、それが契機で、昔の学生運動仲間が集まり、一水会を作った。でも、サラリーマンのサークル活動だった。

 ところが、末夫さんに話を聞いて、衝撃を受けた。「このままで俺はいいのか?」と思った。真剣に思った。そのインタビューから10日後、僕は事件を起こして、産経をクビになる。自分の心の中に、「このまま会社にいてはダメだ!」という焦りが生まれたようだ。末夫さんに会っていなければ、心をかき乱されることもなかっただろう。そして、ずっと会社勤めをしていたことだろう。

 最近、本屋で見つけて読んだ本だが、由井りょう子さんの『重信房子がいた時代』(世界書院)がある。いい本だ。「学生時代のサークル仲間が綴る重信房子の家族愛の軌跡」と本の帯には書かれている。第三章は「父と娘の革命」になっている。僕も三代の家族愛に触れた。そして運動の世界に戻った。不思議な縁だ。

http://www.magazine9.jp/kunio/120307/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c61

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
62. 中川隆[-11476] koaQ7Jey 2019年3月13日 17:48:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[519]


プロフィール画像

ang********さん 2009/6/22 07:16:49

重信房子ってのは、戦前の大物≪右翼≫の娘だよ。

父親(重信末夫)は鹿児島県出身であり、戦前の右翼の血盟団のメンバーであり、四元義隆とは同郷の同志である。


要するに≪反体制がかっこいい≫というレベルの遺伝子の持ち主。
思想・信条は関係ない。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1427486559


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P・グラレム‏ @pinkglalem · 2014年7月7日
@mayshigenobu @cinematoday
重信末夫は、四元義隆を通じて佐々弘雄と友人関係にあった。
つまり重信房子は佐々淳行と昔から知り合いだった。

連合赤軍のテロ事件は、警視庁や日本政府と組んだ茶番だった。
オメ-ラのやり方は、昔からキッタネーなぁ...?

P・グラレム‏ @pinkglalem · 2014年7月9日
@cinematoday @mayshigenobu
ハマスは、パレスチナをイスラエルが攻撃する口実作りの為に、被害が最小限のテロを行っている。

ハマスは実はモサドが作り、支援している似非テロ組織。
その実体は日本の連合赤軍にそっくり。
https://twitter.com/mayshigenobu/status/486330664204001280


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c62

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
63. 中川隆[-11475] koaQ7Jey 2019年3月13日 17:53:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[520]


2019/03/13
重信房子
全共闘のマドンナ 1974年 ハーグ事件

「血盟団員」だった右翼の父と語った"世界同時革命"

しげのぶ・ふさこ 1945年、東京生まれ。
明治大学二部在学中に学生運動に身を投じる。
赤軍派に所属して71年、パレスチナに渡る。
その後、日本赤軍の最高責任者。2000年密かに帰国中に大阪で逮捕される。


日本赤軍の重信房子が大阪の高槻で逮捕されたのは2000(平成12)年11月である。日本を出国したのが1973(昭和48)年だから丸々27年間、姿を消していた。逮捕後、オランダッで起きた「ハーグ事件」における監禁・殺人未遂の共謀共同正犯の罪で起訴され、06年6月、東京地裁で判決があった。裁判は有罪、無期懲役の求刑に対して懲役20年の刑が言い渡された。重信は無罪を主張して即座に高裁に上告している。

 日本赤軍と、そのリーダーだった重信房子についての報道や記録はおびただしいが、なかでももっとも興味深いのは重信の父への取材である。重信(偽装結婚しているか戸籍上は奥平)房子の父、重信末夫は戦前の右翼テロ事件「血盟団事件」に関係した男である。このことを発掘してはじめてインタビューしたのは、まだ産経新聞の社員だった鈴木邦男である。民族派の『やまと新聞』紙上に掲載されたインタビューで、鈴木の質問に重信の父はこう言った。

 「警察が何回捕まえようと、マスコミがどうこう言おうと自分の初心を貫くことは立派だと思う」


「戻るな」と言った父

インタビューは74(昭和49)年。日本赤軍によるテルアビブ空港乱射事件が起き、パレスチナに渡った日本赤軍幹部として重信房子の名が禍々しいものとし報道されたあとである。この2年前には浅間山荘事件があり、東京の町田に住んでいた重信の父のもとには嫌がらせの脅迫が殺到していた。鈴木は重信の父の態度と言葉に心を打たれる。鈴木が原稿を書き、記事になって原稿料を手にしたのはこの時がはじめてであり、このインタビューをきっかけとして産経新聞を辞めて民族運動に専念することになる。

 重信の父は『文藝春愁』に「重信房子の父として」と題された7ページの手記を残している。教育者だったからか文は達者である。そこで冒頭からこう記している。

 「房子が外国へ行くとき、わたしは『戻るな』と言った。どこへ何をしにくのか知っていたわけではない。だが革命家というのはいつも、大きな流れの中で寂しくてきびしい思いをする」

 重信末夫は宮崎の都城出身。現在の東京理科大学を卒業して故郷で代用教員をしていた時に血盟団事件に誘われる。しかし首謀者の井上日召に「お前は教育者だ」とあとのことを託されてテロの実行役からはずされている。

【田宮高麿との結婚を嫌う】

パレスチナに渡る以前、重信房子は家に学生運動のメンバーをよく連れてきている。そこでたびたび父を交えた会話と議論があった。かなり深い話もあったようだ。


「私がかつて右翼クーデターに参加した人間であることは、子供たちは知っている」

「話題は当然、革命に及んだ。歴史の大きな流れのために、私は革命は時には必要なものだったと思っている」

 しかし赤軍派についてはこう言う。

「房子の言う赤軍の世界同時革命という理論だけは、私は最後まで反対だった…中国で言う天が、仮に客観的必然性といったことを指すとするなら、房子たちの理論にはまったく天がかけていた」

 手記の最後はこう結んでいる。

 「ともあれ、房子は海のかなたに去った。アヒルは記しには戻らないだろう、と私は考えている」

 パレスチナへ入ったのは、抑圧されているパレスチナ人と共闘して、そこを根拠地として世界同時革命を闘おうという目的のためである。

 重信の父は娘が国際手配を受けたあとも堂々と生きて、83(昭和58)年に73歳で死んだ。

 逮捕のときこそ、その豹変ぶりから「ふつうのオバサン」と揶揄されたが、重信房子を罵る言葉は右からもない。左にとっては今も「全共闘のジャンヌ・ダルク」で、田宮高麿にいたっては「史上最高の女は重信房子だ」と叫んだ。

 重信のパレスチナ行きには、その田宮が関連しているという話がある。赤軍派議長の塩見孝也から重信房子に北朝鮮に渡って田宮と結婚せよとい指令があり、それを嫌った重信がほとんど思いつきでパレスチナ行きを決意したというのである。これは事実だと思われる。
(桃井四六氏文より転載)

http://bonbay.blog.shinobi.jp/%E5%B7%A6/%E9%87%8D%E4%BF%A1%E6%88%BF%E5%AD%90



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c63

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
64. 中川隆[-11474] koaQ7Jey 2019年3月13日 18:11:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[521]
2007年11月9日(土) 東京 45歳
「血盟団公判速記録」 と重信末夫
http://rive-gauche.jugem.jp/?eid=140


鈴木邦男のブログの記事の中に「血盟の革命戦士たち」と題し、血盟団事件のことが取り上げられていた。

血盟団事件(けつめいだんじけん)とは、1932年(昭和7年)2月から3月にかけて発生した連続テロ事件である。当時の右翼運動史の流れの中に位置づけて言及されることの多い事件であるが、事件を起こした血盟団は日蓮宗の僧侶(茨城県東茨城郡大洗町・立正護国堂住職)である井上日召(いのうえにっしょう)によって率いられていた集団であることも見逃すべきではない。(*)

井上日召が血盟団メンバーに命令した「一人一殺」の指令により、団伊玖磨の父親の団琢磨(三井財閥)を始めとする政財界の重鎮が次々とテロの凶弾に倒れた事件であることは、日本近代史の授業で勉強して覚えている。

鈴木は31歳(1974年)のときにこの事件の裁判記録全4冊3551ページを読破していて、最近必要があってまた読み返したとのことである。

一点の私情もない、純粋に国のために決起した血盟団の革命戦士たちの裁判での言葉を紹介している。

たとえば古内榮司氏。三井銀行常務池田成彬を狙い決行前に逮捕された。彼の公判中の陳述より。

「吾人の行く所は国家の反逆児として、乱臣賊子として葬り去られる、其の途を行く。さうして私の心境としては、私の境涯としては、それが即ち成仏の道だ、そう思って居ります」

悟り切った心境だ。宗教的だ。哲学的でもある。それに、今気づいたが、「自分は愛国者だ」とか「無知な国民の目を覚まさせるためにやった」「国民を啓蒙するんだ」などという人間はいない。実に謙虚だ。「天誅を下したんだ」と絶叫する人もいない。冷静で、淡々としている。そして、「愛国者」として名が残ることを求めてない。それが、国家の「戦死」とは違う。名誉も称賛もない。人を殺すのだから罪人だ。乱臣賊子だ。それでいい。むしろ、自虐的ですらある。これは何やら清々しい。

また、彼らの潔い、謙虚な発言に感心したからだろうか、この法廷では裁判官も被告らに十分に喋らせている。じっくりと話を聞いている。こうなると、時には被告は「講師」であり、「先生」である。裁判官、検事は「聴衆」のようだ。

実際、この古内の陳述のあと、裁判長は「よし聞こう」と言って、古内にもっと話を聞きたい、喋りなさいと促している。今の裁判ではこんなことは絶対にない。血盟団の公判では、立場上、仕方なく裁いているが、「被告」たちは一点の私情もない。国のために決起した男たちだ。それを裁判官も検事も認めている。その場に居合せたことを喜び、真剣に聞いている。傍聴人だって、被告たちの陳述を聞き、感動し、涙を流している。

日蓮宗の宗教観とも相関するのであろうが、この悟りきった精神の純粋性は素晴らしくも思うが、だからといってテロを肯定するかと問われれば、私は「否!」と答える。しかし人の心がテロに向かうときの精神の営みの記録は非常に興味がある。

鈴木の記述の中で私が初めて知った事実があった。それは重信末夫氏のことだ。
(以下、ばっすい)

血盟団の中では、同じ東大ということもあって池袋氏と四元氏は仲がいい。実は、もう一人、親友がいた。それは重信末夫氏だ。そう、日本赤軍の重信房子さんのお父さんだ。

末夫氏は当時、都城で教員をしていた。ところが、「国家の一大事だから上京しろ」と池袋氏から電報をもらい、上京する。そして血盟団に入る。しかし、決行直前に、井上日召から、「お前は心が優し過ぎるからテロリストには向かない。テロの後の建設を担当しろ」と言われる。それで郷里に帰ったのだ。

そうか、重信房子には父 末夫氏の革命家の血が流れていたんだな。これは知らなかった。

最後に2002年に書いた重信房子の愛娘メイさんに関して、以前書いた日記を以下に貼り付ける。

重信メイ

日本赤軍最高幹部、重信房子容疑者の長女。今日ラジオに出演していた。パレスチナでの死と隣合わせの過酷な体験を、かろやかで聡明な口調で淡々と語るところに親しみを持った。イデオロギー、主義主張の違いはあるが、母親の重信房子にも親近感を持った。一番驚いたのが

パレスチナにいたときには
手相がほとんどなかったのが、
日本に来て生命線がうっすらと見えてきたんだって!!


手相学って本当にあるんだ、と思ったね。エドワード・サイードも言っていたが、パレスチナでは占いとか、超常現象とかにはほとんどだれも見向きもしない。何故ならそんなことをしている余裕はないから。常に生存を脅かされ死と向かい合っている状況で、そんなことを考える隙間は全くないというわけだ。なるほど、と思った。

若松孝二の自伝『俺は手を汚す』に重信房子のことが書いてあったことを思い出す。もともと現地の大学で語学を学ぶ学生だった重信は、通訳の仕事で初めてアラブゲリラに接したらしい。取材したキャンプが数日後、敵の攻撃で全滅したのを目の当たりにしたときに、西洋的な民主主義ではどうにもならない社会構造の矛盾を感じ、急進的な武装闘争の方へ進んだらしい。そのとき同行していたのが映画監督の足立正生で、足立は重信と活動を共にし赤軍創設に与し、若松は日本に帰国した。
http://rive-gauche.jugem.jp/?eid=140
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c64

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
65. 中川隆[-11473] koaQ7Jey 2019年3月13日 18:40:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[522]

永田洋子と重信房子のふたりの呪いと日本人の共産主義嫌悪 │ ダークネス:鈴木傾城
https://bllackz.com/?p=287
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c65
[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
66. 中川隆[-11472] koaQ7Jey 2019年3月13日 18:48:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[523]

重信房子の日本潜伏を日本政府に通報したのはエシュロンから情報を得た米国だった


米国の同盟国・友好国に対する盗聴問題は古くからフランスなど欧州諸国から指摘されていた。

盗聴を担っているのは、「エシュロン」と呼ばれる傍受システムで、米国の国家安全保障局が主体的に運営している。

参加国はカナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどアングロサンソン系のイギリス連邦に所属する国々だと欧州連合などが指摘しているが、米国連邦政府自身が認めたことはない。

ドイツを初めとする欧州諸国や韓国が強く反発しているのに対して、日本の菅官房長官は

「日本が盗聴の対象になったか、米国に確認する予定はない」

と極めて自制的な態度で、どこか他人事のようだ。

エシュロンの施設が三沢基地にあることは公然の秘密だし、米国が日本国内の通信を傍受していることもよく知られている。


北朝鮮の最高指導者の長男である金正男氏の来日や日本赤軍最高幹部だった重信房子の日本潜伏を日本政府に通報したのもエシュロンから情報を得た米国だったという。

これらは日本が施設を提供している見返りだという確度の高い噂がある。


また、日本が米国の諜報に頼っているだけではなく、自衛隊が中国やロシア、北朝鮮の通信を傍受してエシュロン運営に協力していると考えられている。

それどころか、アメリカ政府がイラク戦争での多国籍軍参加の見返りにエシュロン参加を許可したという一部週刊誌の報道がある。
だが、その真偽は不明なままである。
http://64152966.blog.fc2.com/blog-date-201312.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c66

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
67. 中川隆[-11471] koaQ7Jey 2019年3月13日 18:55:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[524]

『未来の見えるテレビ』2011/05/23
日本の公安警察と極左団体は裏で同盟関係を結んでいる


日本の街宣右翼と極左集団が裏で繋がっているという事実も大事ですが、もっと大事なのは、日本の公安警察と極左団体が裏で同盟関係を結んでいる、という事実です。


公安警察の大首領である佐々淳行のお父様の佐々弘雄は、 近衛文麿(内閣総理大臣)内閣のブレーンである『朝食会(実質はゾルゲ諜報団の下部組織)』に所属していましたが、その縁もあってか、近衛文麿の首相秘書・書生を務めていた大物右翼の四元義隆とは、共に近衛文麿を支えた同志であったことから、深い仲の友達だったそうです。

四元義隆は、極右団体『血盟団』と右翼団体『金鶏学院』に所属していましたが、四元義隆とは同郷の同志で『血盟団』(『金鶏学院』だったという説も有り)のメンバーだった男に、重信末夫という人物がいますが、重信末夫の娘は、極左集団
『赤軍派』から、極左団体『日本赤軍』の女首領になった重信房子です。


重信房子が所属していた『赤軍派』が、『革命左派』と合同して生まれた極左団体が、佐々淳行が捜査を指揮した『あさま山荘事件』を引き起こした『連合赤軍』です。

『あさま山荘事件』の最大の問題点は、佐々淳行の父親と重信房子の父親が、四元義隆を通してお仲間だった可能性が極めて高いということです。

このことからも、『あさま山荘事件』は、『9.11』と同じ、警察による内部犯行であった疑いすら見えてきます。


重信房子は佐々淳行の妹分だったのではないか?


さらに、佐々淳行の義父(妻の朝香幸子の父親)の朝香三郎は、水俣病加害企業チッソの全身である日本窒素肥料、朝鮮窒素肥料の大幹部でしたが、水俣病裁判があったのは、1970年代の真っ最中なのですが、佐々淳行が名を馳せた左翼ゲリラによるテロ事件の『東大安田講堂事件』は、1969年1月に勃発し、佐々淳行がさらに名を馳せた左翼ゲリラによるテロ事件の『あさま山荘事件』は、1972年2月に勃発しています。

少なくとも、左翼ゲリラによるテロ事件が起こったことによって、世間の注目が水俣病裁判から、左翼ゲリラによるテロ事件に移ったことで、日本窒素肥料と、その系列企業は大喜びだったはずです。

そして、最大の問題点は、朝香三郎が大幹部を務めた水俣病加害企業チッソの全身の日本窒素肥料は、 昔、朝鮮窒素肥料という子会社を構え、朝鮮半島の咸鏡南道興南(現在の北朝鮮の咸興市)に工場を持ち、そこで、核実験を行い、その核技術が、第2次世界大戦の後になると、金親子 (金日成・金正日)の手に渡ったという恐怖と、朝鮮窒素肥料に、若かりし日の文鮮明が働いていたという恐怖です。

文鮮明が、朝鮮窒素肥料の『興南工場』の跡地で、朝鮮窒素肥料の社員とその家族を洗脳していったことは、まず、間違いないでしょう。

水俣病加害企業チッソ=『統一教会』


http://oldrkblog.s17.xrea.com/201105/article_119.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c67

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
68. 中川隆[-11470] koaQ7Jey 2019年3月13日 18:57:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[525]

日本の街宣右翼=朝鮮労働党日本支部だったんです。 2011/05/22


初心者の方には難しいと思いますが、日本には似非右翼と言われる下品な連中がいます。北朝鮮とつながった極左、部落極左がその実態です。棺桶左翼内閣とも水面下で提携し、311テロを実行する目的で、小沢一郎さんの首相就任を不正手段で阻止しました。

朝鮮労働党がよど号グループに指示した「日本国内の右翼民族派」結成工作のその後
http://rkblog.html.xdomain.jp/201005/article_40.html

北朝鮮右翼の起源
http://rkblog.html.xdomain.jp/200910/article_14.html

似非右翼暴力団の頭目が、実は、左翼過激派の偽装転向者だった。」
http://rkblog.html.xdomain.jp/201005/article_21.html

極左集団「日共左派・毛沢東派」元幹部が小沢さんを検察審査会にチクッた。
http://rkblog.html.xdomain.jp/201005/article_35.html

北朝鮮右翼が中国を攻撃するもう一つの理由
http://rkblog.html.xdomain.jp/201006/article_19.html

騙されないでください。「右翼」は看板だけです。黒幕は311テロリストと北朝鮮です。


http://oldrkblog.s17.xrea.com/201105/article_119.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c68

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
69. 中川隆[-11469] koaQ7Jey 2019年3月13日 19:14:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[526]

よど号リバプールZ48という感じであの時も北朝鮮だダッカだテルアビブだと子供ながらにハラハラさせられたが

重信房子がばばあになって帰ってきて娘が平気でテレビに出るとか

不自然でこの親子もなんちゃって一座の団員でスーチー型やダライラマ型という感じがする
http://maru101.blog55.fc2.com/blog-date-201408.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c69

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
70. 中川隆[-11468] koaQ7Jey 2019年3月13日 19:34:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[527]

赤軍派関係の話を総合すると、どうしても馬渕睦夫の

世界共産革命 = ユダヤ・グローバリズム = deep state が仕組んだ共産化運動

が正しい様な気がしてきますね:

馬渕睦夫
ウイルソン大統領とフランクリン・ルーズベルト大統領は世界を共産化しようとしていた


[馬渕睦夫さん ] [今一度歴史を学ぶ] 7 (日米近代史 1-3)
「 ロシア革命」と裏で支援した人達 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=dhyXzcOIrwI&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&index=8&app=desktop


[馬渕睦夫さん][今一度歴史を学び直す] 7 (日米近現代史2-3)
[支那事変]とは 日本 対 [ソ連 英 米] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=r4qS9LFuQG0&index=9&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop


[馬渕睦夫さん ][今一度歴史を学び直す] 7 (日米近現代史3-3)
なぜアメリカは日本に戦争を仕掛けたのか? - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=2yQ72lCQUNg&index=10&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop

▲△▽▼

[馬渕睦夫さん][今一度歴史を学び直す] 1-7
米国がつくった中華人民共和国 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=ORy-CvwklVA&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop

[馬渕睦夫さん ] [今一度歴史を学び直す] 1-7 (付属動画)
米国がつくった中華人民共和国 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=iQBSmzvY6xY&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&index=2&app=desktop

[馬渕睦夫さん] [今一度歴史を学び直す] 2-7
米国が仕組んだ朝鮮戦争 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=jsDal9CuLfo&index=3&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop

2018/03/18 に公開
[今一度歴史を学び直す] 1/7 米国がつくった中華人民共和国
馬渕睦夫さん 元駐ウクライナ大使兼モルドバ大使

一部引用:

国難の正体――日本が生き残るための「世界史」 – 2012/12/25 馬渕睦夫 (著)

「国難」とは「グローバリズム」という潮流のことです。

グローバリズムとは、「民営化」「規制緩和」という拒否できない美名のもとに強烈な格差社会を生み出し、各国の歴史や文化を破壊します。「世界史」といえば、「国家」間の対立や同盟の歴史と教科書で習ってきました。しかし、戦後世界史には国家の対立軸では解けない謎が沢山あります。

日本では対米関係ばかり論じられますが、じつはアメリカを考える上でイギリスの存在は欠かせません。政治も経済も日本はなぜこれほど低迷しているのか。元大使が2013年に向け緊急提言!


戦後世界史の謎

▶東西冷戦は作られた構造だった

▶なぜ毛沢東の弱小共産党が中国で権力を握れたのか

▶朝鮮戦争でマッカーサーが解任された本当の理由

▶アメリカはベトナム戦争に負けなければならなかった

▶なぜかアメリカ軍占領後アフガニスタンで麻薬生産が増大した

▶「中東の春」運動を指導するアメリカのNGO
https://www.amazon.co.jp/%E5%9B%BD%E9%9B%A3%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93%E2%80%95%E2%80%95%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%8C%E7%94%9F%E3%81%8D%E6%AE%8B%E3%82%8B%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E3%80%8C%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E3%80%8D-%E9%A6%AC%E6%B8%95%E7%9D%A6%E5%A4%AB/dp/4862860656

▲△▽▼


アメリカの社会主義者が日米戦争を仕組んだ
「日米近現代史」から戦争と革命の20世紀を総括する – 2015/10/9 馬渕 睦夫(著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E8%80%85%E3%81%8C%E6%97%A5%E7%B1%B3%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%82%92%E4%BB%95%E7%B5%84%E3%82%93%E3%81%A0-%E3%80%8C%E6%97%A5%E7%B1%B3%E8%BF%91%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E5%8F%B2%E3%80%8D%E3%81%8B%E3%82%89%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%A8%E9%9D%A9%E5%91%BD%E3%81%AE20%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%82%92%E7%B7%8F%E6%8B%AC%E3%81%99%E3%82%8B-%E9%A6%AC%E6%B8%95-%E7%9D%A6%E5%A4%AB/dp/4584136823/ref=sr_1_3?ie=UTF8&qid=1546955741&sr=8-3&keywords=%E9%A6%AC%E6%B8%95%E7%9D%A6%E5%A4%AB+%E6%9C%AC


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■ ウィルソン大統領の「ロシア革命礼賛」の謎

■ 大資本家は社会主義者である

■ 共産主義者はなぜ殺人に“不感症"なのか

■ 「ワシントン会議」こそ大東亜戦争の火種

■ アメリカは中国を舞台に、日本に“参戦"していた

■ ルーズベルト大統領も国際主義者だった! 他


【目次より】

序 章 【米露に対する「安倍外交」の真髄】
世界は日本に期待している!
・アメリカの「対露制裁解除」の鍵を握る安倍外交
・「中国の暴走」を抑えるには、ロシアを味方にせよ 他

第一部 【ウィルソン大統領時代のアメリカ】
アメリカはなぜ日本を「敵国」としたのか
I「日米関係」の歴史
II アメリカの社会主義者たち
III「共産ロシア」に対する日米の相違
IV 人種差別撤廃と民族自決
v 運命の「ワシントン会議」

第二部 【支那事変の真相】
アメリカはなぜ日本より中国を支援したのか
I 狙われた中国と満洲
II「西安事件」の世界史的意義
III 中国に肩入れするアメリカ

第三部 【ルーズベルト大統領時代のアメリカ】
アメリカはなぜ日本に戦争を仕掛けたのか
I ルーズベルト政権秘話
II 仕組まれた真珠湾攻撃
III 日本を戦争へ導く「アッカラム覚書」

終 章 【これからの日米関係】
「グローバリズム」は21世紀の「国際主義」である
・アメリカの正体とは?
・「グローバリズム」と「ナショナリズム」の両立は可能か 他

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c70

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
71. 中川隆[-11467] koaQ7Jey 2019年3月13日 21:43:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[528]

 浅間山荘事件直後の国会で、当時の後藤田正晴警察庁長官や富田朝彦同警備局長は、「連合赤軍」のなかに「協力者」をもち「謝礼金」も渡していたと認めました。


2008年11月20日(木)「しんぶん赤旗」

「連合赤軍」事件とは?


 〈問い〉 36年前の「連合赤軍」事件の永田洋子死刑囚が危篤という報道の中に、日本共産党との関係をにおわせるような表現がありました。どうなのですか?(愛知・一読者)

 〈答え〉 「連合赤軍」と、日本共産党は、まったくの無関係です。反対に、彼らは日本共産党の打倒を最大の目標にかかげていた反共・反民主主義の暴力集団でした。「鉄砲から政権が生まれる」という毛沢東の教えを信奉して、みずからを「毛沢東の教訓をもって武装されたプロレタリア軍隊」などと称し、市民を人質にした1972年2月の浅間山荘事件をはじめ、強盗事件、無差別爆弾テロ、仲間の虐殺などを繰り返しました。

 「連合赤軍」は、名称に「赤」という字を使ったり、「共産主義」を語ったりして、蛮行をおこない、国民に日本共産党も「連合赤軍」の同類だと思わせて日本共産党のイメージダウンをはかる―これこそが、彼らの最大の“存在意義”でした。

 当時、自民党政府は、高揚するベトナム反戦と政治革新を求める国民のたたかいを抑えるために、その先頭に立つ日本共産党に打撃を与えようと、「連合赤軍」をはじめ「中核派」「革マル派」など、「共産主義」を偽装するニセ「左翼」暴力集団を泳がせる政策をとっていました。

 浅間山荘事件直後の国会で、当時の後藤田正晴警察庁長官や富田朝彦同警備局長は、「連合赤軍」のなかに「協力者」をもち「謝礼金」も渡していたと認めました。中曽根康弘氏は「彼らの暴走が、反射的に市民層を反対にまわし、自民党の支持につながる作用を果している」と語りました(「朝日」69年5月3日付)。この卑劣なやり方が、彼らの蛮行を許す原因ともなったのです。

 こうした「連合赤軍」の蛮行や政府の“泳がせ”政策を最も厳しく批判し、たたかってきたのが日本共産党です。そもそも日本共産党が指針とする、共産主義=科学的社会主義は、「国民が主人公」の社会をめざし、国民の利益を守ることを何よりも大切にする考え方であり、テロや虐殺とは無縁です。(喜)

 〔2008・11・20(木)〕
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-11-20/ftp20081120faq12_01_0.html
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[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
72. 中川隆[-11466] koaQ7Jey 2019年3月13日 21:53:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[529]

2009年04月03日 池田信夫 blog 実録・連合赤軍

若松孝二監督の「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」が、日本映画批評家大賞の作品賞を受賞した。若松さんには昔、仕事でちょっとお世話になったので、まずはおめでとう。

しかし映画の出来は、残念ながらそれほどのものとはいいがたい。若松さんの連合赤軍への「思い」が過剰で、彼らを客観的に突き放して見ていない。特に最初の学生運動の経緯を資料フィルムで追う部分は、説明的で冗漫だ。殺し合いのシーンの演出も説明的でアップが多く、テレビのホームドラマみたいだ(ビデオ撮影というせいもあるが)。

最近の若者が見ると、こんな凄惨な殺し合いが行なわれたという事実に驚くようだが、私が大学に入ったのはこの事件の翌年で、東大駒場では2年間に5人が内ゲバで殺された。そのうち4人が私と同じサークルだったので、この映画の世界は他人事ではない。なぜそういうことが起こったのかもよくわかる。それはこの映画で美化されているような崇高な理想ではなく、ただのカルトだったのだ。

殺された友人のうち2人は誤爆だったが、2人は革マルの活動家だった。彼らの共通点は、地方の高校から出てきて、大学に友人がいなかったことだ(灘や開成の連中は、この種の党派には入らない)。2人とも党派にリクルートされ、「地下」に潜って大学へ出てこなくなった。たまに出てくると黒田寛一や梯明秀などを口まねした呪文のような話をするようになり、他の党派を「殲滅」することが最大の闘いだと主張した。そのくせ自分が殲滅されることは警戒しておらず、2人とも生協の前で演説しているところを白昼、襲われて殺された。

1960年代に世界的に学生運動が盛り上がったのは、ベトナム反戦運動がきっかけだった。それが先鋭化した末に衰退したのはどこの国も同じだが、こういう近親憎悪が激化したのは日本だけだ。私の印象では、その原因はイデオロギー的な党派性というより、自分たちのムラを守る意識だったと思う。だから党派が細分化されて小さくなればなるほど憎悪が激しくなり、内ゲバは激化した。

こうした「日本的」な中間集団の性格は、今も変わらない。都市化して個人がバラバラになると、人々は自分の所属すべき集団を求めて集まる。それが学生運動が流行したころは極左の党派であり、その後は原理であり、またオウムだったというだけだ。創価学会や共産党も同じようなもので、さらにいえば会社も中間集団だ。この意味で団塊世代は、学生運動というカルトが挫折したあと、日本株式会社という巨大なカルトに拠点を移しただけともいえる。

しかし今、日本の会社はほとんど連合赤軍状態だ。浅間山荘のような袋小路に入り込んでにっちもさっちも行かないのに、誰も軌道修正しようと言い出せない。連合赤軍からは逃亡できたが、沈没する日本からは誰も逃亡できない。このまま日本経済は、団塊世代とともに玉砕するのだろうか。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51301239.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c72

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
73. 中川隆[-11465] koaQ7Jey 2019年3月13日 22:09:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[530]


「連合赤軍」という闇 ― 自我を裂き、削り抜いた「箱庭の恐怖」1995年4月

 

序  

 1971年末から72年にかけて、この国を震撼させた大事件が起こった。「連合赤軍事件」がそれである。

 連合赤軍とは、当時最も極左的だった「赤軍派」と、「日本共産党革命左派神奈川県委員会」(日本共産党から除名された毛沢東主義者が外部に作った組織)を自称した軍事組織である、「京浜安保共闘」が軍事的に統合した組織で、その最高指導者に選出されたのは、赤軍派のリーダーである森恒夫。更に組織のナンバー2は、京浜安保共闘のリーダーである永田洋子。

 彼らは群馬県と長野県にかけて、「榛名山岳ベース事件」と「浅間山荘事件」(注1)を惹き起こした。とりわけ前者の事件は、組織内の同志を「総括」の名において、次々に凄惨なリンチを加え、12名を殺害、遺棄した事件として、この国の左翼運動史上に決定的なダメージを与えた。

 なお、「浅間山荘事件」は前者の事件で生き残り、逮捕を免れたメンバー5人よる、時の警察当局との銃撃戦としてテレビで実況中継され、当時の国民に鮮烈な印象を与えたが、それはあくまで、「榛名山岳ベース事件」(「総括」の死者の多くが「榛名山岳ベース」において現出したことから、以降、筆者はこの名称を使用)の一連の流れの中で突出した事件であった。従って、「連合赤軍事件」は、この「榛名山岳ベース事件」がなぜ惹き起こされたかという、その構造性を解明することこそ、私は緊要であると考える。

 本稿は、事件の当事者の同世代の者としての問題意識から、看過し難いこの震撼すべき事件を、主に心理学的アプローチによって言及したものである。

(注1)1972年(昭和47)2月、連合赤軍のメンバー5人が、軽井沢町にある「浅間山荘」(河合楽器の保養所)に、山荘の管理人夫人を人質に立てこもり、警官隊と銃撃戦を展開し、3名の犠牲者を出した末に全員が逮捕された事件。               
 

 連合赤軍事件は、この国の革命運動というものが、もう「やさしさの達人」を生む一欠片の余地もないことを露呈した極めつけの事件であった。

 事件に関与した若者たちの過剰な物語を支えた革命幻想は、彼らの役割意識を苛烈なまでに駆り立てて、そこに束ねられた若い攻撃的な情念の一切を、「殲滅戦」という過剰な物語のうちに収斂されていく。しかし彼らの物語は、現実状況との何らの接点を持てない地平で仮構され、その地下生活の圧倒的な閉塞性は若者たちの自我を、徒(いたずら)に磨耗させていくばかりだった。

 ここに、この事件をモノトーンの陰惨な映像で突出させた一人の、際立って観念的な指導者が介在する。当時、先行する事件等(「大菩薩峠事件」、「よど号ハイジャック事件」)で、殆ど壊滅的な状態に置かれていた赤軍派の獄外メンバーの指導的立場にあって、現金強奪事件(M作戦)を指揮した末に、連合赤軍の最高指導者となった森恒夫(注2)その人である。
 
 この事件を、「絶対的な思想なるものを信じる、若者たちによる禍々しいまでの不幸なる事件」と呼ぶならば、その事件の根抵には三つの要因が存在すると、私は考える。
 
 その一。有能なる指導者に恵まれなかったこと。

 その二。状況の底知れぬ閉鎖性。

 その三。「共産主義化論」に象徴される思想と人間観の顕著な未熟性と偏頗性。
 
 ―― 以上の問題を言及することで、私はこの事件の構造性が把握できると思うのだ。
 

(注2)1944年、大阪で生まれる。大阪市立大学在学中に田宮高麿と出会って大きな影響を受け、社学同の活動家となり赤軍派に参加。当時、多くの派内の幹部が検挙されたこと(「大菩薩峠事件」)で、派内のリーダー格的存在となり、金融機関を襲撃し、多額の資金を手に入れていた。同時期に、銃砲店を襲って武器を調達していた京浜安保共闘との連携を図ることで、「連合赤軍」を結成するに至る。               

 ―― 以下、それらの問題について、詳細に言及していこう。

1.最高指導者  

 森恒夫はかつて、赤軍派の内ゲバの恐怖から敵前逃亡を図り、組織から離脱したという過去を持つ。当時、赤軍派の創立者であった塩見孝也の意向により組織への復帰を果たすが、実は、この消しがたい「汚点」が、後の連合赤軍事件の陰惨さを生み出す心理的文脈に無視し難い影響を与える波動となっていて、しばしば党内の過剰なラジカリズムの奔流が、一個人の「汚点」の過去の補償行程であったと心理解析できるような側面をも、事件は宿命的に抱え込んでいたように思えるのである。

 連合赤軍事件は、多くの部分で本質的に、この森恒夫という男の事件なのである。

 国家権力と苛烈な「殲滅戦」を戦い抜くという、極めつけの物語に生きる若い攻撃的な情念を束ねる組織の最高指導者としては、この男はあまりに相応しくなさ過ぎた。これはもうミスマッチで済ますには、とうてい処理し切れないほどの莫大な代償を払い過ぎている。

 絶対に選ばれてはいけない男が最高指導者に君臨し、絶対に回避しなければならない状況がその指導者によって開かれてしまったとき、状況に拡散する様々な人間的な思いを鋭利に削ぎ落としていく暗い旋律を胎動させながら、事件は足早に上州の厳冬を駆け抜けていったのだ。

 最高指導者になった森恒夫という人格には、最高指導者に相応しい強靭で、不屈な指導者を演じ切ることが絶対的に要請されていた。彼の自我は、彼の内側からのこの要請に応えていくという文脈にしか、その安定の根拠を見出せなくなる世界を既に開いてしまっている。

 森恒夫の自我の跳躍のうちに、私は事件の最も深い所に潜む、何かドロドロと液状化した澱みのような風景を垣間見てしまうのである。
 
 森恒夫の跳躍は、恐らく、彼の能力の範疇を遥かに超えた地平を開かせてしまったのだ。

 事件のコアとも言える、「共産主義化論」(完璧な共産主義的人間を目指すための党内闘争を、実践的に選択していくことで、来るべき殲滅戦に備えるというもの)の登場は、彼の自我の跳躍を検証する集中的表現であって、その限りにおいて、跳躍の実態そのものであったと把握できるだろう。

 組織的指導者としての彼の貧弱な能力は、多分に、人間一般に対する精緻な観察眼や、個々のケースにおける心理学的洞察を欠如させたところに集中的に現れていて、「共産主義化論」の身体化というものが分娩してしまうであろう状況の負性過程への洞察と、この過程を統御する戦略を構築できない能力的劣性は否定し難いものがあるのだ。

 森恒夫は、自己の立場の優越性を確保することに必要以上に配慮したと想像できる。

 山岳ベースでの彼の自己批判は、自らの「汚点」を指導者自身が晒すことによってもなお、自らの党内ポジションが絶対に変わらないという確信を前提にすることで成立し、そのことによって、寧ろ、他の下位同志からの心理的共感と信望を手に入れるばかりか、却って今後の自己のイニシャティブの掌握を容易にするというコスト計算が、彼の内側に脈打っていたように推測される。それは、この男がドロドロした人間的感情の体現者であることを思い知らされる仮説である。

 私の推測によると、森恒夫という男は、ごく普通の感受性、認知力、洞察力、指導力、且つ、人並みの理性的能力を持つが、しかしそれ以上ではなかった。そして、内に抱えた劣性意識を無化し得ると信じられるまで事態を感情的に処理できない限り、容易に充足できない自我を、いつもどこかで引き摺っているようなタイプの人物であるとも考えられる。私には、彼の攻撃性や残虐性が病理的様相を示すに足るほどのものであるとは到底思えないのである。

 赤軍派時代からの盟友、坂東国夫(注3)は「永田さんへの手紙」(彩流社刊)の中で、森恒夫の人物像を正確に伝えている。

 「指導者として一切を放棄しないで頑張ろうとしていること、人にやさしいことで私は信頼していました。しかし同時に人に対して迎合、妥協したり、すぐ動揺する信念のなさが、何度か矛盾とあつれきをつくり出していることを知っていました」

 この指摘は重要である。

 何故なら、この文脈の中にこそ、森恒夫という自我が果たした危険な跳躍の心理的背景があると思われるからだ。

 森恒夫という自我は、恐らく、自分の劣性がどこにあるかについて正確に見抜いていた。正確に見抜いていたが故に、彼の自我はそれを他の同志に見透かされることを恐れていたのではないか。就中、党派としての力関係を常に意識し、競合さえしていた京浜安保共闘の年少の闘士たちに、「森恒夫という指導者は大したことないな」と侮られることを最も恐れていたと思われるのである。

(注3)京大卒。事件当時、25歳。赤軍派出身のメンバーとして、「浅間山荘事件」においてリーダー格的役割を担い、逮捕後3年目、昭和50年、「クアラルンプール米大使館占拠事件」における「超法規的措置」によって、釈放されるに至る。

 因みに、虚栄心とは、私の定義によれば、「見透かされることへの恐怖感」である。

 それは、見透かされることを恐れる自我が、見透かされたら困る内側の何かを隠そうという心情であり、紛れもなく、そこに、「隠さねばならない何か」を抱えているという心理的事実がある。「隠さねばならない何か」を抱える自我は、いつでも関係の内側に、ある一定の緊張を運んでくるのだ。

 人間の自我は生命の羅針盤であると同時に、社会的関係付けの羅針盤なのである。自分が他者の劣位に立つときは、劣位に立つことの方が状況適応に有効であると考えるからだ。劣位に立った相手が自分を攻撃して来ないという確信がなければ、人は決して、自ら敢えて劣位に立つことを選ばない。「君子危うきに近寄らず」の如く、相手からの有効攻撃距離を解体し得るスタンスの辺りにまで後退することで、常に難に遭う確率を低減する努力をするのもまた、人間の自我の枢要な機能である。これは本能ではない。全ては、人間の二次的学習の産物である。
 
 更に付言すれば、心理学では、「ホウレン草は体に良いから食べる」というのを一時的学習と呼び、「ホウレン草は体に良いから食べなさい」と言い続ける母の気を引くために、ホウレン草を食べるという文脈を二次的学習と呼ぶが、この心理は階層的秩序を成している。「これが人間の性格を形成していく」、と国立小児病院の崎尾英子は、「現代の母親像」という論文の中に書いている。(「思春期と家庭」より所収 誠信書房刊)

 これは元々、ダブルバインド仮説で有名なアメリカの社会学者、グレゴリー・ベイトソンが提起した概念として有名だが、人間の自我は「二次的学習」の中で社会化を果たし、その中で巧みに敵味方を嗅ぎ分け、優劣関係を複雑に拵(こしら)え上げていく。

 しかし、自分を決して攻撃して来ない「良き理解者」の前では、特段に虚栄心の発動を必要としないから、人間の自我は限りなく裸になれるのである。自我には、自らを裸にする休息の時間が絶対に必要なのだ。人間が落ち着いて睡眠を確保できる場所こそが、自我のレストステーションである。何故なら、そこは「誰も自己を襲わない場所」であるからだ。

 以上の推論から、私は森恒夫という男の自我に張り付く、虚栄心という名の、「見透かされることへの恐怖感情」を無視し難いと考えたのである。

2.箱庭の帝王  

 森恒夫と永田洋子が上州の山奥に構築した場所は、およそ人間の自我を適度に休ませる場所から最も隔たっていた。
 
 人間の自我に恒常的に緊張感を高める場所にあって、森恒夫の自我は常に裸にされることを恐れつつ、必要以上の衣裳をそこに被せていたと思われる。彼の虚栄心の対象は京浜安保共闘に集中的に向けられていたから、例外的に裸の自我が洩れ出すことがある。

 それを目撃する機会が最も多かったのが、盟友であった坂東国男である。坂東の伝える森恒夫像の正確さが根拠を持つ所以である。

 京浜安保共闘が山岳ベースに入る際に、既に、二人の粛清犠牲者を出したという報告を坂東から受けたときの森恒夫の動揺は、この男の平均的な人間性を、寧ろ余すところなく伝えていると言えるだろう。

 森はそのとき、「またやったか。あいつらはもはや革命家じゃないよ」と言った後、暗鬱な表情で暫く視線を落としていたと言う。(以上のエピソードは、植垣康博著「兵士たちの連合赤軍」彩流社刊参照)

 森恒夫が坂東からの報告を受けたときのインパクトは、想像するに余りある。

 森はこのとき、自分が相当の覚悟を括って対峙していかないと、状況が自らの脆弱さを醜いまでに晒しかねない恐怖感を感じ取ったと思われる。

 「覚悟」と「胆力」―― 決定的な状況下で、その状況を拓く役割を担っている者に常に問われるのは、この二つのメンタリティ以外ではないだろう。「覚悟」とは、「逃避拒絶」であり、「胆力」とは、「恐怖支配力」である。私の定義である。まさにこのとき、森恒夫という男には、このような強靭な精神性が求められていたのである。 

 幸いにして、自らは連合赤軍の最高指導者の地位にあるから、自らの跳躍によって「箱庭の帝王」を貫徹することが可能であり、そこでの「あるべき革命家像」の仮構によって自己史を止揚し得ると踏んでいたのだろうか。いずれにせよ、山岳ベースに入ってからの森恒夫の変身は、赤軍派内の同志たちに近寄り難い印象を残したようだ。
 
 京浜安保共闘からの遠山美枝子批判に端を発する、「内なるブルジョア性」との戦いは、やがて「総括」を日常化するに至り、ここに、「共産主義化論」を大義名分とした粛清の嵐が澎湃(ほうはい)していくのである。狭義に括られる所の、「連合赤軍事件」である。

 今、この事件を改めて整理してみる。

 この事件を考えるとき、連合赤軍の「殲滅戦」の思想を避けて通ることができないだろう。「殲滅戦」の思想こそ、この事件の母体となった思想である。この事件にまつわるあらゆる不幸は、全て「殲滅戦」の遂行という基本命題から出発しているとも言えるのだ。

 「殲滅戦」とは、敵(国家権力)を倒すか、敵に倒されるかという絶対状況を作り出すことである。彼らの意識において、それは革命戦争以外ではなかった。この思想は京浜安保共闘の根幹を成すマオイズム(毛沢東主義・注4)の影響もあって、山岳ベースの構築に帰結していくことになるが、そこには既に、不幸な事態の過半の要因が出揃っていた。

 山岳ベースという閉鎖的空間の選択が、「殲滅戦」の思想の理論的帰結と言っていいかどうか多いに疑問が残る所だが、若い攻撃的な情念は自らの思想と肉体の純化を、明らかに、都市と隔絶した「聖なる空間」に求めたのである。

(注4)農村が都市を囲繞し、都市ブルジョアジーを打倒することで達成されると考えられる労農一体の革命理論だが、農民がどこまでも中心的主体と看做すところがあり、階級闘争を絶対視する。このラジカルな思想が、後の「大躍進」や「文化大革命」という国内的大混乱を惹き起こしたと言っていい。その影響力は、カンボジアの「キリング・フィールド」を起こしたポル・ポト思想や、ネパールのマオイストらの行動に多大な影響を与えた。

 この文脈から言えば、「殲滅戦」を戦い抜く不屈な意志と強靭な肉体によって武装化されたスーパーマン(「共産主義化された人格」)に変身する(「自己変革」)までは決して下山しないという実践的テーゼ(「共産主義化論」)の登場は、彼らが山岳ベースを選択した時点で、半ば開かれた行程であったと言えるだろう。

 最高指導者によって提起された「共産主義化論」は、それがどのような理論的枠組みを持っていたにせよ、本質的には、最高指導者の権威と権力を強化していく方向にしか動かないのは自明である。何故なら、「共産主義的人間」のイメージは、ある特定の個人の観念の恣意性に依拠しなければ、そこに統一的な把握が困難なほどに漠然としたものであるからだ。

 「殲滅戦」の思想は、当然、「軍」の創設を必然化し、「軍」の創設は強力な上意下達の臨戦的な組織を要請する。山岳ベースは、この要請に応える形で構築されたのだ。この状況下で提起された実践的テーゼは、それを提起した最高指導者の観念の恣意性に全面依存する以外にないのである。

 有体に言えば、最高指導者が白と言えば白になり、黒と言えば黒になってしまうのだ。最高指導者の正義こそ組織の正義であり、「軍」の正義なのである。

 「共産主義化論」の登場は、本人がそれをどこまで自覚していたかに拘らず、最高指導者を神格化する最強のカードであったのだ。最高指導者としての森恒夫の変身は、自らが出したカードの効用の加速化と軌を一にして成ったものと見ていいのである。

 同時に、特殊な状況下にあって、森恒夫に内深く求められていたであろう、「覚悟」と「胆力」という強靭なメンタリティによる武装は、最高指導者を神格化し得る「共産主義化論」の提示によって、そこに構築された関係を権力性の濃度の深い様態に変容せしめるプロセスの内に収斂され、その過剰な観念系を仮構されていくに至ったと思われる。

 坂東国男や植垣康博に、「土建屋」を思わせるまでに変貌した、自らの風貌から滲み出る押し出しの強さと威厳性。総括等で、しばしば見せる迫力ある弁舌によって年少の同志たちを煙に巻き、二言目には、「力量の違いだよ」と驕って見せる態度などが求心力となって、「聖なる空間」において、森恒夫の神格性をより際立たせていく。

 森は恐らく、自らのヒロイックな自己総括を含めた印象的なパフォーマンスによって、年少の同志たちの思いを束ねることができたという実感に、一時(いっとき)漬かっていたはずだ。この実感は尊敬感情であると言っていい

 尊敬感情とは、関係における能力の落差に価値観を挿入することで、その関係を「優劣性」によって際立たせていく感情傾向である。それを被浴することは、人が人を動かすときに無視し難い力の源泉にもなる。尊敬感情を浴びることは、全ての権力者が均しく熱望するものであり、これを手に入れるために、彼らがどれほど醜態を演じて見せてきたかについては、私たちの知る所でもある。

 そして、この類の尊敬感情が、しばしば畏敬感情に繋がり得る心理的文脈については殆ど自明であるだろう。畏敬感情の本質は、恐れの感情である。恐れの感情を相手の人格に抱かせてしまうこと―― それが権力者の最も簡便な支配の様態であるということだ。
 
 森恒夫は、相手に畏怖感を与える一定の人格表現によって、「軍」と「党」の覇権を掌握し、自らも威厳的な態度を選択的に押し出していく。植垣康博は森の変貌に驚き、そこに越え難い距離感を覚えたことを自著に記していた。

 越え難い距離にいる者に対する普通の人々の基本的対応は、三つしかないだろう。

 「拒否」、「無視」、「同化」である。

 相手の権威を絶対に認めず、権威が自己に侵入してくることを毅然と拒むか、それとも、「自分とは無縁である」と言って、関係上の接点を持たないか、或いは、相手の権威に同化していくかのいずれかの対応である。

 ここで問題となる対応は、同化という態度である。

 人々が極限状況にでも置かれない限り、そうは易々と、他者の前で卑屈な自我を晒す訳にはいかない。そこで大抵の人間は、相手が垣間見せる「弱さ」や「寛大さ」を、自分(または自分たち)だけに特別に届けた表現であると思い込むことで、そこに都合のいい物語を創作していく。

 曰く、「天皇は私たちの苦難に心を痛めている。天皇をこれ以上苦しめてはならない」

 曰く、「毛沢東主席は私たちの心を分っている。主席の指示に誤りがあるはずがない。悪いのは全て、走資派(注5)のブタたちだ。革命を進めていくしかない」(「四人組」との闘争の勝利後に提起された、「毛沢東主席の決定を守り、その指示に従え」という、華国鋒の「二つのすべて」論も、そのイデオロギーの基幹には、この物語が横臥する)

 更に曰く、「金日成将軍は、本当は自分の銅像なんか作りたくないのだ。私たち国民が未熟だから悪いんだ。皆で将軍を守っていくしかない」等々。
 
 このような「確証バイアス」(自分が都合の良い情報によって、事態を把握すること)が一人歩きしてしまったら、権威への同化はほぼ完成したと見ていい。こうして人々は卑屈な自我を脱色しつつ、心地良く甘美な物語に陶酔していくことになるのだ。

(注5)劉少奇・ケ小平に代表される実権派のこと。中国文化大革命で、資本主義への復活を目指す党内幹部として打倒の対象にされた。

 
 森恒夫が自己総括の場で、自分の「汚点」を告白したという行為は、まさしく「天皇の涙」であり、「毛沢東の呻吟」であり、「金日成の苦渋」である。
 
 森恒夫はこの夜、「箱庭の帝王」になった。
 
 彼の重苦しい総括は、その後の忌まわしい総括の方向性を決定付けたのである。

 これが一つの契機となって、自己の過去と現在を容赦なく暴き、抉り出し、迸(ほとばし)る血の海の中から奇蹟的な跳躍を果たしていく厳しさが強要されるという、この「箱庭」の世界での総括のスタイルが定着するのである。

 この夜、最高指導者の一世一代の大芝居を聞く者の何人かは、明け方には疲労で眠りに入ってしまったが、それまでは、感極まって啜り泣く者もいたと言う。

 このようなエピソードには、厳冬の自然に抱かれて、生命を賭けた革命のロマンを語る若い情念の熱気を彷彿させるものがあり、時代さえ間違えなければ、語り継がれる感動譚の定番となる2、3の要素が揃っていたとも言えようか。

 いずれにせよ、このエピソードは、森恒夫の権力性が山岳ベースにおいて形成されていったことを雄弁に語っている。

 つまり森は、山岳ベース構築の当初から同志たちの肉体と精神を苛烈に管理していった訳ではないということだ。彼の「共産主義化」論の提示も、京浜安保共闘の永田洋子らの遠山美枝子批判(会議中に髪を梳かしたり、化粧をしたり等の行為によって、ブルジョア的とされた)への誠実な反応と理解・把握されたのである。

 しかしこれが、遂に自力で覚醒に逢着し得なかった全ての悪夢の始まりだった。榛名山岳ベースでの、「死の総括」の始まりである。
 
 髪を梳(と)かすことに象徴される、男女のエロス原理がブルジョア思想として擯斥(ひんせき)されるのだ。これは男の中の男性性と、女の中の女性性の否定である。

 その極めつけのような、森の表現がある。

 「女は何で、ブラジャーやガードルをするんや。あんなもん、必要ない」

 森はそう言ったのだ。

 彼は女性の生理用品の使用すら否定し、新聞紙で処理しろと要求したのである。こうした森の批判は、女性に「女」であることを捨てて、「戦士」としてのみ生きることを求めたもので、当時、女の中の女性性を否定していたはずの永田洋子は、獄中で記した「十六の墓標」(彩流社刊)の中で、これを「反人間的行為」であると批判している。

 森恒夫のエロス原理否定の思考は、山岳ベースに集合する若者たちを名状し難い混乱に陥れたであろう。

 大槻節子(京浜安保共闘)に恋情を抱いた植垣康博(赤軍派)が、大槻が過去の恋愛事件を理由に、「死の総括」を受けているとき、自分との関係を問題化され、「総括」を求められることの恐怖感に怯えていた日々を、彼は「兵士たちの連合赤軍」(彩流社刊)の中で率直に語っている。

 閉鎖的小宇宙の中で、森の「共産主義的人間」観は、男女の感情を惹起させる「性」の否定にまで行き着いたのだ。
 
 同様に、女性同志への恋愛問題が理由(後に、3人目の犠牲者となる小嶋和子と恋愛関係にあった)で、最初に総括を求められた後に、4人目の総括死に至る加藤能敬(京浜安保共闘)は、自らの性欲を克服すると総括した後、森に「性欲が起こったら、どうするのか?」と問い詰められた。

 この問いに対して、加藤は何と答えたか。

 「皆に相談します」

 ここまで来ると、殆ど喜劇の世界である。

 しかし、この小宇宙の基本的旋律は安手の喜劇を彷彿させるが、その内実は、一貫して悲劇、それもドロドロに液状化した極めつけの悲劇である。この小宇宙が喜劇なら、加藤のこの発言が他の同志たちの爆笑を買い、「この、ドアホ!」と頭を軽く叩かれて、それで完結するだろう。

 ところが、加藤のこの発言は森の逆鱗に触れて、総括のやり直しを求められることになり、遂に死の階梯を上り詰めていってしまうのである。

 この小宇宙にはもう、自らを守るための人間の愚かな立居振る舞いをフォローしていくユーモアの、些かの余裕も生き残されていなかった。

 因みに、私の把握によれば、ユーモアとは「肯定的なる批判精神の柔和なる表現」である。そんな精神と無縁な絶対空間 ―― それが革命を呼号する若者たちが構築した山岳ベースだった。その山岳ベース内の闇の臭気の濃度が自己生産的に深まるにつれ、若者たちの自我は極度に磨り減って、アウト・オブ・コントロールの様相を呈していく。

 追い詰める者も、追い詰められる者も、自我を弛緩させる時間を捕捉することさえ為し得ず、「総括すること」と、「総括させること」の遣り切れなさを客観的に認知し、その行程を軌道修正することさえ叶わない負の連鎖に、山岳ベースに蝟集(いしゅう)する全ての若者たちは搦(から)め捕られていたのである。

 そんな過剰な状況が小さな世界に閉鎖系を結ぶとき、そこに不必要なまでに過剰な「箱庭の帝王」が現出し、そこで現出した世界こそ、「箱庭の恐怖」と呼ぶべき世界以外の何ものでもないであろう。

3.箱庭の恐怖   

 ある人間が、次第に自分の行動に虚しさを覚えたとする。
 
 彼が基本的に自由であったなら、行動を放棄しないまでも、その行動の有効性を点検するために行動を減速させたり、一時的に中断したりするだろう。

 ところが、行動の有効性の点検という選択肢が最初から与えられていない状況下においては、行動の有効性を疑い、そこに虚しさを覚えても、行動を是認した自我が呼吸を繋ぐことを止めない限り、彼には行動の空虚な再生産という選択肢しか残されていないのである。

 このとき自我は、自らの持続的な安寧を堅持するための急拵(きゅうごしら)えの物語を作り出す。即ち、「虚しさを覚える自分が未熟なのだ。ここを突破しないと私は変われない」などという物語にギリギリに支えられて、彼は自らを規定する状況に縋りつく以外にないのである。

 彼には、行動の強化のみが救済になるのだ。

 そこにしか、彼の自我の安定の拠り所が見つからないからである。行動の強化は自我を益々擦り減らし、疲弊させていく。負の連鎖がエンドレスの様相を晒していくのである。

 平和の象徴である鳩でも狭い箱に二羽閉じ込められると、そこに凄惨な突っつき合いが起こり、いずれかが死ぬケースを招くと言う。

 これは、コンラート・ローレンツが「ソロモンの指輪 動物行動学入門」(早川書房刊)で紹介した有名な事例である。

 全ての生物には、その生物が生存し得る最適密度というものがある。人間の最適密度は、自我が他者との、或いは、他者からの「有効攻撃距離」を無化し得る、適正なスタンスを確保することによって保障されるだろう。
 
 最適密度が崩れた小宇宙に権力関係が持ち込まれ、加えて、「殲滅戦」の勝利のための超人化の達成が絶対的に要請されてくるとき、その状況は必ず過剰になる。その状況はいつでも沸騰していて、何かがオーバ−フローし、関係は常に有効攻撃距離の枠内にあって、その緊張感を常態化してしまっている。人間が最も人間的であることを確認する手続き、例えば、エロス原理の行使が過剰な抑圧を受けるに至って、若者たちの自我は解放への狭隘な出口すらも失った。この過剰な状況の中で、若者たちのエロスは相互監視のシステムに繋がれて、言語を絶する閉塞感に搦(から)め捕られてしまったのである。

 欲望の否定は、人間の否定に行き着く。

 人間とは欲望であるからだ。

 人間の行為の制御を、その行為を生み出す欲望の制御というものもまた、別の欲望に依拠せざるを得ず、そのための司令塔というものが私たちの自我であることを認知できないまでも、少なくとも、それが人間に関わる基本的経験則であることを、私たちは恐らく知っている。私たちの欲望は、その欲望を制御することの必要性を認識する自我の指令によって、その欲望を制御し得る別の欲望を媒介項にして、何とか制御されているというのが実相に近いだろう。

 例えば、眼の前に美味しいご馳走が並べられているとする。

 しかし今、これを食べる訳にはいかない理由が自分の内側にあるとき、これを食べないで済ます自我の戦術が、「もう少し我慢すれば必ず食べられるから、今は止めておけ」という類の単純な根拠に拠っていたとしよう。

 このとき、「今すぐご馳走が食べたい」という欲望を制御したのは、自我によって引っ張り出されてきた、「もう少し我慢した後で、ご馳走が食べたい」という別の欲望である。後者の欲望は、自我によって加工を受けたもう一つの欲望なのである。

 このように、人間の欲望は、いつでも剥き出しになった裸の姿で身体化されることはない。もしそうであったなら、それを病理と呼んでも差し支えないだろう。欲望を加工できない自我の病理である。欲望の制御とは、自我による欲望の加工でもある。これが、些か乱暴極まる私の「欲望」についての仮説である。

 もう一つ、事例を出そう。

 愛する人に思いを打ち明けられないで悩むとき、愛の告白によって開かれると予想される、素晴らしきバラ色の世界を手にしたいという欲望を制御するものは実に様々だ。

 「今、打ち明けたら全てを失うかもしれないぞ。もう少し、『恋愛』というゲームに身を委ねていてもいいじゃないか」

 そんな自我の急拵えの物語よって引っ張り出されてきた別の欲望、つまり、「もっとゲームを楽しもう」という欲望が、元の欲望を制御するケースも多々あるだろう。ここでも、欲望が自我の加工を受けているのである。

 或いは、「諦めろ。お前は恋愛にうつつを抜かしている場合ではない。お前には司法試験のための勉強があるだろう」などという物語が自我によって作り出されて、「愛の告白」によるエロス世界への欲望が制御されるが、このとき、自我は「司法試験突破によって得られる快楽」に向かう欲望を、内側に深々と媒介させているのかも知れない。欲望が別の欲望によって制御されているのである。

 また、ストイックな禅僧なら、「耐えることによって得られる快楽」に向かう欲望、例えば、尊敬されたいという欲求とか、自己実現欲求等が、自らの身体をいたずらに騒がせる性欲を制御するのかも知れないのである。

 このように、欲望を加工したり、或いは、全く異質の欲望を動員したりすることで、私たちの自我は元の欲望を制御するのである。欲望の制御は、本質的には自我の仕事なのだ。私たちの自我は、「A10神経」から流入するドーパミンによる快楽のシャワーを浴びて、しばしばメロメロになることもあるが、欲望を制御するためにそれを加工したり、全く異質の欲望を作り出したりことすらあるだろう。

 人間とは欲望であるという命題は、従って、人間とは欲望を加工的に制御する、自我によってのみ生きられない存在であるという命題とも、全く矛盾しないのである。私たちができるのは本質的に欲望の制御であって、欲望自身の否定などではない。欲望を否定することは、美しい女性を見ただけで、「触れてみたい」という殆ど自然な感情を認知し、それを上手に加工する物語を作り出す自我を否定することになり、これは人間の否定に繋がるだろう。

 森恒夫に象徴される、連合赤軍兵士たちが嵌ってしまった陥穽は、理念系の観念的文脈、及び訓練された強靭な身体の総合力によって、人間のドロドロした欲望が完全に取り除かれることができると考える、ある種の人間の自我に強迫的に植え付けられた、それもまた厄介な観念の魔境である。

 まさしく、それこそが唯物論的な観念論の極致なのだ。その人間観の度し難き楽天主義と形式主義に、私は殆ど語るべき言葉を持たない。

 彼らが要求する「総括」というものが、本来、極めて高度な客観的、分析的、且つ知的な作業であるにも拘らず、彼らの嵌った陥穽はそんなハードなプロセスとは全く無縁な、過分に主観的で、感覚的な負の連鎖の過程であった。

 自らを殴らせ、髪を切り、「小島のように死にたくない。どう総括したらいいか分らない」と訴える遠山美枝子に、永田洋子が発した言語は、「ねぇ、早く総括してよ」という類の、懇願とも加虐嗜好とも看做し得る不毛な反応のみ。かくも爛(ただ)れた権力関係のうちに露呈された圧倒的な非生産性に、身の凍る思いがするばかりだ。

 生命、安全という、自我の根幹に関わる安定の条件が崩れている者は、通常その崩れを修正して、相対的安定を確保しようと動くものである。自我の基本的な安定が、理性的認識を支えるのである。死の恐怖が日常的に蔓延している極限状況下で、最も理性的な把握が可能であると考えること自体、実は極めて非理性的なのだが、元々、山岳ベースを選択させしめた彼らの「殲滅戦」の思想こそが非現実的であり、反理性的、且つ、超観念的な文脈以外ではないのだ。

 森や永田は、総括を要求された者が、「死の恐怖」を乗り越えて、自己変革を達成する同志をこそ、「共産主義的人間」であると決め付けたが、では、「死の恐怖」からの乗り越えをどのように検証するのか。また、そのとき出現するであろう、「共産主義的人間」とは、一体どのような具象性を持った人間なのか。

 「総括」の場に居合わせた他の同志たちの攻撃性を中和し、彼らの心情に何某かの親和性を植えつけることに成就した心理操作の達人こそ、まさに「共産主義的人間」であって、それは極めて恣意的、人工的、情緒的、相対的な関係の力学のうちに成立してしまうレベルの検証なのである。

 要するに、指導部に上手く取り入った人間のみが「総括」の勝利者になるということだ。しかしこれは、本来の人柄の良さから、森と永田に適正なスタンスをキープし得た植垣康博のみが例外であって(それも状況の変化が出来しなかったら、植垣も死出の旅に放たれていただろう)、「総括」を要求された他の若者たちは、このダブルバインドの呪縛から一人として生還できなかったのである。

 「12人の縛られし若者たち」を呪縛した「ダブルバインド」とは、こういうことだ。
 
 遠山のように、知的に「総括」すれば観念論として擯斥(ひんせき)され、加藤のように、自らの頭部を柱に打ちつけるという自虐的な「総括」を示せば、思想なき感情的総括として拒まれるという、まさに出口なしの状況がそこにあった。そのことを、彼らの極度に疲弊した自我が正確に感知し得たからこそ、彼らは、「生還のための総括」の方略を極限状況下で模索したのである。

 仮に貴方が、自分を殺すに違いないと実感する犯人から刀を突きつけられて、「助かりたいなら、俺の言うことを聞け」と命令されたら、どうするだろうか。

 過去のこうした通り魔的な事件では、大体、皆犯人の命令どおりに動いているが、これは生命の安全を第一義的に考える自我の正常な機能の発現である。

 然るに、森と永田は、「総括」を求められた者が自分たちの命令通りに動くことは、「助かりたい」という臆病なブルジョア思想の表れであると決めつけた挙句、彼らに「総括」のやり直しを迫っていく。指導部の命令を積極的に受容しなかったら利敵行為とされ、死刑に処せられるのである。

 「12人の縛られし若者たち」が縛られていたのは、彼らの身体ばかりでなく、彼らの自我そのものであったのだ。

 この絶対状況下での、若者たちの自我の崩れは速い。
 
 あらゆる選択肢を奪われたと実感する自我に、言いようのない虚無が襲ってくる。生命の羅針盤である自我が徐々に機能不全を起こし、闇に呑まれていくのだ。「どんなことがあっても生き抜くんだ」という決意が削がれ、空疎な言動だけが闇に舞うのである。

 連合赤軍幹部の寺岡恒一の、処刑に至る時間に散りばめられた陰惨なシーンは、解放の出口を持てない自我がどのように崩れていくのかという、その一つの極限のさまを、私たちに見せてくれる。兵士たちへの横柄な態度や、革命左派(京浜安保共闘)時代の日和見的行動が問題視されて、「総括」の対象となった寺岡が、坂東と二人で日光方面に探索行動に出た際に、逃げようと思えば幾らでも可能であったのに、彼はそうしなかった。

 その寺岡が、「総括」の場で何を言ったのか。

 「坂東を殺して、いつも逃げる機会を窺っていた」

 そう言ったのだ。

 俄かに信じ難い言葉を、この男は吐いたのである。

 この寺岡の発言を最も疑ったのは、寺岡に命を狙われていたとされる坂東国男その人である。なぜなら坂東は、この日光への山岳調査行の夜、寺岡自身から、彼のほぼ本音に近い悩みを打ち明けられているからである。坂東は寺岡から、確かにこう聞いたのだ。

 「坂東さん、私には『総括』の仕方が分らないのですよ」

 悩みを打ち明けられた坂東は当然驚くが、しかし彼には有効なフォローができない。寺岡も坂東も、自己解決能力の範疇を超えた地平に立ち竦んでいたのである。坂東には、このような悩みを他の同志に打ち明けるという行為自体、既に敗北であり、とうてい許容されるものではないと括るしか術がないのだ。自分を殺して、脱走を図ろうとする者が、あんな危険な告白をする訳がない、と坂東は「総括」の場で考え巡らすが、しかし彼は最後まで寺岡をアシストしなかったのである。

 逃げようと思えばいつでも逃げることができる程度の自由を確保していた寺岡恒一は、遂にその自由を行使せず、あろうことか、彼が最後まで固執していた人民兵としてではなく、彼が最後まで拒んでいた「階級敵」として裁かれ、アイスピックによる惨たらしい処刑死を迎えたのである。

 寺岡恒一は、「あちらも、こちらも成り立たず」というダブルバインドの絶対状況下で、生存への固執の苦痛より幾分かはましであろうと思われる死の選択に、急速に傾斜していった。

 彼の生命を、彼の内側で堅固にガードする自我が、彼の存在を絶対的に規定する、殆ど限界的な状況に繋がれて、極度の疲弊から漸次、機能不全を呈するに至る。ここに、人間に対する、人間による最も残酷な仕打ちがほぼ完結するのだ。

 人間はここまで残酷になれるのであり、残酷になる能力を持つのである。

 人間に対する最も残酷な仕打ちとは、単に相手の生命を奪うことではない。相手の自我を執拗に甚振(いたぶ)り、遂にその機能を解体させてしまうことである。人間にとって、拠って立つ生存の司令塔である自我を破壊する行為こそ、人間の最も残酷なる仕打ちなのである。

 「自我殺し」(魂の殺害)の罪は、自我によってしか生きられない最も根本的な在り処を否定する罪として、或いは、これ以上ない最悪の罪であると言えるのかも知れない。

 「12人の縛られし者たち」は自分たちの未来を拓いていくであろう、その唯一の拠り所であった自我を幾重にも縛られて、解放の出口を見つける内側での一切の運動が、悉(ことごと)く徒労に帰するという学習性無力感(この場合、脱出不能の状況下にあって、その状況から脱出しようとする努力すら行わなくなるという意味)のうちに立ち竦み、ある者は呻き、ある者は罵り、ある者は泣き崩れるが、しかし最後になると、殆どの者は、まるでそこに何もなかったかのようにして静かに息絶えていった。

 そして「12人の縛られし者たち」が去った後、彼らを縛っていたはずの全ての攻撃者たちの内側に、「最も縛られし者たちとは、自分たちではないのか」という、決して言語に結んではならない戦慄が走ったとき、もうその「聖なる空間」は、「そして誰もいなくなった」という状況にまで最接近していた、と私は考察する。この把握は決定的に重要である。何故なら、この把握なくして「浅間山荘事件」のあの絶望的な情念の滾(たぎ)りを説明することが困難だからである。

 「浅間山荘事件」の被害者の方には、不穏当な表現に聞こえるかも知れないが、「浅間山荘」は、紛れもなく、山岳ベースでの、「そして誰もいなくなる」という極限状況からの少しばかりの解放感と、そしてそれ以上に、同志殺しの絶望的ペシミズムに搦め捕られてしまった自我に、身体跳躍による一気の爆発を補償する格好のステージであったと言えようか。

 束の間、銃丸で身を固めた者たちの自我もまた、山岳ベースの闇に縛られていたのである。縛る者たちの自我は、昨日の同志を縛ることで、自らの自我をも縛り上げていく。明日は我が身という恐怖が、残されし者たちの自我に抗いようもなく張り付いていく度に、縛る者の自我は確実に削り取られていく。削り取られるものは思想であり、理性であり、感情であり、想像力であり、人格それ自身である。

 こうして闇は益々深くなり、いつの日か、「そして誰もいなくなる」というミステリーをなぞっていくかのように、空疎なる時間に弄(もてあそ)ばれるのである。

 残されし者たちの、その自我の崩れも速かった。

 自我が拠り所にする思想が薄弱で、それは虚空に溢れる観念の乱舞となって、自我を支える僅かの力をも持ち得なくなる。山岳ベースで飛び交った重要な概念、例えば、「共産主義化」とか、「敗北死」とかいう言葉の定義が曖昧で、実際、多くの同志たちはその把握に苦慮していた。
 
 「実際のところ、共産主義化という概念はじつに曖昧で、連合赤軍の生存者たちは一様に、まったく理解できなかったと述べている。彼らは、いわゆる自己変革を獲得しようという心情的呼びかけはよく理解できた。問題は、変革を獲得した状態とはどういうものなのか、獲得する変革とはいったいなんなのか、何も描き出されていないことだった」

 これは、パトリシア・スタインホフ女史(注6)の「日本赤軍派」(河出書房新社刊)の中の共感する一節であるが、「共産主義化」という最も重要な概念が把握できないのだから、「総括が分らない」と訴えるのも当然であろう。
 

(注6)1941年生まれ.ミシガン州デトロイト出身.ミシガン大学日本語・日本文学部卒業後,ハーバード大学にて社会学博士号を取得.現在,ハワイ大学社会学部教授.戦前期日本の転向問題をはじめ,新左翼運動の研究で著名。(「岩波ブックサーチャー・著者紹介」より)

 「私は、山崎氏と土間にしゃがんで朝の一服をしながら話をしていたが、しばらくして、加藤氏が死んでいるのに気がついた。

 『大変だ!死んでいるぞ!』
 と叫ぶと、指導部の全員が土間にすっ飛んできた。皆は、加藤氏の死を確認すると、『さっきまで元気だったのに』といい合い、加藤氏の突然の死に驚いていた。特に加藤氏の弟たちの驚きは大きく、永田さんは二人を抱きかかえるようにしてなぐさめていた。

 『どうして急に死んでしまったんだろう』といいながら話し合っていたが、話し合いを終えると、永田さんが、指導部の見解を、『加藤は逃げようとしたことがバレて死んだ。加藤はそれまで逃げることが生きる支えになっていた。それが指摘されてバレてしまい、絶望して敗北死してしまった』と私たちに伝えた。

 誰も陰鬱な様子で何もいわなかったが、私は加藤氏の急な死が信じられない思いでいたため、永田さんの説明に、なるほどと思った。

 そして加藤氏の死因を絶望したことによる精神的なショック死と解釈し、この段階で、初めて『敗北死』という規定が正しいのだと確信した。それまでの私は、『敗北死』という規定がよくわからず、総括できずに殺されたと思っていたのである」(筆者段落構成)
 
 これは、植垣康博の「兵士たちの連合赤軍」からの抜粋であるが、同志たちの死に直面した一兵士が山岳ベースの闇の奥で、どのようにして自我を支えてきたのかということを示す端的な例である。

 「革命」を目指す人間が、同志殺しを引き摺って生きていくのは容易ではない。普通の神経の持ち主なら、例外なく自我の破綻の危機に襲われるだろう。自我の破綻の危機に立ち会ったとき、その危機を克服していくのも自我それ自身である。

 その自我は、自らの危機をどのように克服していくのか。

 同志殺しを別の物語に置き換えてしまうか。或いは、それを正当化し得ないまでも、心のどこかでそれを生み出したものは「体制」それ自身であるとして、引き続き反体制の闘士を続けるかなどの方略が考えられる。
 
 後者の典型が、後に中東に脱出した坂東国男や、獄内で死刑制度と闘うと意気込む永田洋子だろうか。然るに、山岳ベースの只中で闇の冷気を呼吸する若い自我が、なお「革命家」として生きていくには前者の選択肢しか残されていない。彼らは、「同志殺し」を「敗北死」の物語に置き換える以外になかったのだ。

 植垣康博の自我は、「総括」で死んでいった者は「総括する果敢な自己変革の闘争に挫折し、敗北死した」という把握に流れ込むことによって救済されたのである。だからこそ、寺岡恒一の指示で死体を殴れたのであり、その寺岡の胸をアイスピックで突き刺すことができたのである。

 しかし、植垣康博の自我の振幅は大きく、度々危険な綱渡りを犯している。

 指導部に入ることで人格が変貌したように思えた坂東国男に向かって、彼は「こんなことやっていいのか?」と問いただす勇気を持っていた。

 「党建設のためだからしかたないだろう」

 これが、坂東のぶっきらぼうな解答だった。

 連合赤軍兵士の中で、相対的に激情から最も程遠い自我を有していると思われる植垣は、結局、「敗北死」という物語に救いを求める外はなかったようだ。

 激情に流された遠山美枝子は、吉野雅邦(注7)らの指示で裸にした同志の死体に馬乗りになり、こう叫んだのだ。

 「私は総括しきって革命戦士になるんだ」

 彼女は叫びながら、死体の顔面を殴り続けた。その遠山も後日、死体となって闇に葬られる運命から逃れられなかったのである。彼らの自我は死体を陵辱する激情でも示さない限り、自己の総体が崩れつつある不安を鎮められなかったのだ。

(注7)事件当時23歳。横浜国立大学中退。京浜安保共闘出身。猟銃店襲撃事件や「印旛沼事件」(組織を抜けた二人の同士を永田の命令によって殺害した事件)に関与した後、山岳ベース事件後の「浅間山荘事件」に参加し、逮捕。1983年、東京高裁で無期懲役の判決を受け、上告せず、刑は確定した。なお、11番目の犠牲者となった金子みちよの事実上の夫でもあった。

 
 しかし事態は、悪化の一途を辿る。

 いったん開かれた負の連鎖は次第に歯止めがきかなくなり、「総括」に対する暴力的指導の枠組みを超える、処刑による制裁という極限的な形態が登場するに及んで、その残酷度がいよいよエスカレートしていくのだ。

 森と永田が、金子みちよ(京浜安保共闘)の母体から胎児を取り出す方法を真剣に話し合ったというエピソードは、最高指導部としての彼らの自我の崩れを伝えるものなのか。何故なら、「総括」進行中の金子から胎児を取り出すことは、金子の「総括」を中断させた上で、彼女を殺害することを意味するからであり、これは指導部の「敗北死」論の自己否定に直結するのである。

 森と永田の理性の崩れは、彼らが金子の腹部を切開して胎児を取り出せなかった判断の迷いを、事もあろうに、彼ら自身が自己批判していることから明らかであると言えようか。

 それとも「総括」による激しい衰弱で、もはや生産的活力を期待すべくもない肉体と精神を早めに屠って、未来の革命家を組織の子として育てた方がより生産的であるという思想が、ここに露骨に剥き出しにされていると見るべきなのか。

 いずれにせよ、こうして少しずつ、時には加速的に、人間の、人間としての自我が確実に削り取られていくのであろう。
 
 削り取られた自我は残酷の日常性に馴れていき、その常軌を逸した振舞いがほぼ日常化されてくると、同志告発の基準となる彼らの独善的な文法の臨界線も、外側に向かって拡充を果たしていく。

 これは、どのような対象の、どのような行為をも「総括」の対象になり得るということであり、そして、一度この迷路に嵌ったら脱出不能ということを意味するのだ。この過程の中で崩れかかっていた自我を一気に解体に追い込み、そして最後に、身体機能を抹殺するという世にもおどろおどろしい「箱庭の恐怖」が、ここに完結するのである。
 
 連合赤軍のナンバー3であった坂口弘は、遠山の死後、「敗北死」論によってさえも納得できない自我を引き摺って、遂に中央委員からの離脱を表明するが、しかし彼の抵抗はそこまでだった。

 パトリシア・スタインホフの言葉を借りれば、坂口のこのパフォーマンスは一時的効果をもたらしただけで、状況の悪化の歯止めになる役割をも持ち得なかった。

 彼女は書いている。

 「実際には何一つ解決してはいなかった。粛清への心理的ダイナミズムは相変わらずで、ただ延期されていただけなのだ。しかもその延期状態も不完全なものだった。すでに犠牲者となった人、弱点を警告された人、まだターゲットになっていない人、この三者のあいだに明確な区別は何もなかった」(前掲書より)

 今や、「箱庭」の空気は魔女裁判の様相を呈して、重く澱んでいたのである。

 16世紀から17世紀にかけてヨーロッパに猛威を振るった魔女裁判の被害者は、身寄りなく、貧しく、無教養で陰険なタイプの女性に集中していたという報告があるが、やがてその垣根が取り払われて、「何でもあり」の様相を呈するに至るのは、抑止のメカニズムを持たない過程に人間が嵌ってしまうと、必ず過剰に推移してしまうからである。
 
 人間の自我は、抑止のメカニズムが十全に作動しない所では、あまりに脆弱過ぎるのだ。これは人間の本質的欠陥である。

 いったん欲望が開かれると、そこに社会的抑制が十全に機能していない限り、押さえが利かなくなるケースが多々出現する。上述したテーマから些か逸脱するが、ギャンブルで大勝することは未来の大敗を約束することと殆ど同義である、という卑近の例を想起して欲しい。

 これは脳科学的に言えば、ストレスホルモンとしてのコルチゾールの分泌が抑制力を失って、脳に記憶された快感情報の暴走を制止できなくなってしまう結果、予約された大敗のゲームに流れ込んでしまうという説明で充分だろう。「腹八部に医者いらず」という格言を実践するのは容易ではないのである。ましてや六分七分の勝利で納得することなど、利便なアイテムに溢れる現代文明社会の中では尋常な事柄ではないと言っていい。

 因みに、戦国武将として名高い武田信玄は、「甲陽軍鑑」(武田家の軍学書)の中で、「六分七分の勝は十分の勝なり。八分の勝はあやうし。九分十分の勝は味方大負の下作也」と言っているが、蓋(けだ)し名言である。私たちの理性の強さなど高が知れているのだ。

 榛名山の山奥に作られた革命のための「箱庭」には、適度な相互制御の民主的なルールの定着が全くなく、初めから過剰に流れるリスクを負荷していたのであろう。

 二人の処刑者を出した時点で、この「箱庭」は完全に抑止力を失っていて、「そして誰もいなくなる」という戦慄すべき状況の前夜にあったとも言えるのだ。

 連合赤軍の中央委員であった山田孝の「総括」の契機となったのは、何と高崎で風呂に入ったという瑣末な行為であった。

 これを、土間にいる兵士たちに報告したのは永田洋子である。
 
 「山田は、奥沢君と町へ行った時、車の修理中に風呂に入ったことを報告しなかったばかりか、それに対して、奥沢君と一緒に風呂に入ったのは指導という観点からはまずかったとは思うが、一人ならば別にまずいとは思わないといった。これは奥沢君はまだ思想が固まっていないから、そういう時に風呂に入ればブルジョア的な傾向に流れるが、山田の様な思想の固まった人間ならば、町に出て風呂には入ってもよいということで、官僚主義であり、山の闘いを軽視するものだ。山田は、実践を軽く見ているので、実践にしがみつくことを要求することにした」(「兵士たちの連合赤軍」より)
 
 要するに、二人で町の風呂に入った行動を批判された山田が、「一人で風呂に入れば問題なかった」と答えた点に対して、それこそ、「官僚主義の傲慢さの表れ」だと足元を掬われたのである。

 逮捕後、まさにその官僚主義を自己批判した当人である永田のこの報告を受けた兵士たちが、異口同音に、「異議なし!」と反応したことは言うまでもない。

 続いて森が、山田の問題点を一つ一つ挙げていき、恫喝的に迫っていく。
 
 「お前に要求されている総括は実践にしがみつくことだ」

 その恫喝に、山田の答えは一つしかない。

 「はい、その通りです」

 更に森は、冷酷に言い渡す。

 「お前に0.1パーセントの機会を与える。明日から水一杯でまき拾いをしろ」
 
 これが、最後の「総括」者、山田孝粛清のプロローグである。
 
 森恒夫は、自著の「銃撃戦と粛清」(新泉社刊)の中で、山田孝の問題点を以下のように記している。

 @ 尾崎、進藤、加藤、小嶋さんの遺体を埋めに行く際、彼が動揺した様子で、人が居ないのに居るといったりした事。 
 A 70年の戦線離脱の頃から、健康は害していたが、そうした自己を過度に防衛しようという傾向がある事。
 B 常に所持すべき武器としてのナイフを、あるときは羽目板を夢中で刺したりしながら、置き忘れたりする事。
 C これらと軍事訓練ベースの調査報告を厳しく行い、自然環境の厳しさのためには科学的対処が必要だと称して、多くの品物を買い込んだ事、等々。
 

 以上の山田の問題は、階級闘争への関わり方の問題であり、常に書記局的、秘書的な活動に終始した問題であり、更にかつて、「死の総括」を批判しながら、「これは革命戦士にとって避けて通れない共産主義化の環である」、という森らの見解にすぐに同調する弱さなどを指摘した。

 この最後の「すぐに同調する」という指摘は、当時の森恒夫による兵士たちへのダブルバインド状況を証明する貴重な資料となるものだが(批判を許さず、且つ、同調を許さずという二重拘束状況)、それにしても、@〜Cに網羅されてあることの何という非本質性、末梢性、主観性、非合理性。

 まさに重箱の隅を突っつく観念様式である。こんなことに時間をかけて労力を費やすなら、いかに殲滅戦を結んでいくかということにエネルギーを傾注したら良さそうなのに、とつい余計なことを嘆じてしまうほどだ。

 しかしこれが、抑制系のきかない過程を開いてしまった者の、その過剰の様態なのである。果たして、誰がこの冥闇(めいあん)の袋小路から脱却できるだろうか。

 ところで永田洋子は、巷間で取り沙汰されているように異常なサディストではない、と私は考えている。

 例えば、一審で中野裁判長は、永田洋子の人格的イメージを、「自己顕示欲が旺盛で、感情的、攻撃的な性格と共に、強い猜疑心、嫉妬心を有し、これに女性特有の執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味が加わり、その資質に幾多の問題を蔵している」と決め付けたが、この巷間に流布された「悪女」伝説には、「こんな禍々(まがまが)しい事件を起こした女」という先入観によって、かなりラベリングされたイメージが色濃く反映されている。

 私には、永田の手記、書簡や他の者たちの手記から受ける彼女のイメージは、山岳ベース内で下位の同志たちに、「鬼ババア」という印象を与えていた事実に見られるように、確かに、以上に列記した感情傾向を内在させていなかったとは思わないが、それでも、「極めつけの悪女」とは縁遠いという印象が強いのだ。寧ろ、外国人のパトリシア・スタインホフが提示する永田評の方が説得力を持つと思われる。

 彼女は書いている。
 
 「ことさら内省的な人間でも分析的な人間でもないが、すべてうまくいくと信じて、一つの行動方針に頑固にしがみつくずば抜けた能力をもっている」(前掲書)
 
 この指摘には、とても鋭利なものがある。
 彼女の犯した誤りの奥にある何かが垣間見えるからである。

 これだけはほぼ確信的に言えることだが、森や永田の執拗な追及は、所謂、「ナンバー2を消せ」というような心理的文脈とは殆ど無縁であり、ましてや、「気に入らない者」を排除するという目的のためだけに、そこに考えられ得る全ての罪状を並び立てていくというような文脈とも異なっているということだ。

 彼らは、「排除のための排除」という論法に、狂気の如く憑かれた権力者などではない。誤解を恐れずに言えば、彼らは本気で「革命戦士」であろうとしたのである。本気で、資本制権力との殲滅戦を結んでいこうとしたのだ。

 確かに、森恒夫には権力に固執する態度が見られるが、だからといって、自らの権力を維持するためだけに「総括」を捏造(ねつぞう)するという言動を一度も晒していない。

 森は寺岡恒一を裁くとき、「お前はスターリンと同じだ」と言い放ったが、極めてスターリン的行動に終始した森恒夫が、悪名高い「粛清王」のスターリンと別れる所は、キーロフ事件(大粛清の発端となった、党幹部への暗殺事件)に見られる、「邪魔者は殺せ」という体質の有無である。

 森恒夫と永田洋子は、単に「革命戦士」としてあるまじき人間的資質が我慢できなかったのである。ましてや、森は自分の過去に「汚点」を持つから、それが他者の中に垣間見えてしまうことが我慢ならなかったのだ。そう思えるのである。

 因みに、人間はなぜ他者を感情的に嫌い、憎むのか。

 他者の中に、自分に内在する否定的価値を見てしまうか、或いは、自分に内在すると信じる肯定的価値を見出せないか、いずれかであるだろう。

 これは、それらの価値にセンシブルに反応する自我ほど根強い傾向であると思われる。真面目な人間ほど、この傾向が強いのだ。潔癖であることは、しばしば罪悪ですらある。連合赤軍の兵士たちもまた、あまりに潔癖たる戦士たろうとしたのである。
 
 森恒夫の遺稿を読んでいくと、この男が物事を杓子定規的に把握する性向の持ち主であることが良く分る。しかし、物事を合理的に解釈する人間が、非合理的な発想といつでも無縁であるとは限らない。一つの人格の内部に、際立った合理主義と極端な非合理主義が同居するケースがあっても、別に不思議ではないのである。森恒夫のロジックは、しばしば信じ難いほどの精神主義によって補完されていたし、彼のパトスはロゴスを置き去りにして、暴発する危険性を絶えず内包していた。

 当時の「革命派青年」の多くがそうであったように、史的唯物論者であるが故と言うべきか、森恒夫の極めて観念的な傾向は、恐らく、同様の観念傾向を持つ下位の同志たちの、その思想性を被せた振舞いのスタイルの方向付けにとって明らかな障壁になったし、それが「総括」を要請された者の内側に軽視し難い混乱を与えたことは事実であろう。

 森と永田は、連合赤軍という「思想家族」の子供たちにとって威厳に満ちた父であり、また些かの怠惰をも見逃してくれない厄介で、嫉妬深い母でもあった。彼らは我が子を支配せずには済まない感情から自由でなかったばかりか、子供たちの隠れ遊びの何もかも把握しないではいられない地平にまで、恐らく、知らずのうちに踏み込んでしまっていたのだ。それと言うのも、彼らのそうしたフライングを抑止し得る必要な手続きを、「箱庭」の小宇宙の内側に彼ら自身が作り上げてこなかったからである。

 一切は、「革命戦士」への変革という絶対命題の産物でもあった。

 彼らは好んで、自らの子供たちへのダブルバインドを弄(もてあそ)んだ訳ではあるまい。プライバシーの垣根を取り払い、誰が誰に対してどれほどの愛欲に煩悶したかという、それ自体、至極人間的なる振舞いを、山岳ベースに侵入するまではさして問題にされなかった事柄に及ぶまで、彼らは悉く革命思想の絶対性の名によって裁いてしまう世界を強引に開かせてしまったのだ。
 
 ある種の捨て難き欲望が別の厄介なる欲望によって裁断を下されるという、踏み込んではならない禁断の世界を開いた行為のツケが、理性の継続力が困難な厳寒の上州の冬に、集中的に、且つ爆発的に表現されたのである。

 プライバシーのボーダーが曖昧になることで、相互の人格の適正なスタンスを確保することが困難になり、「有効攻撃距離」の臨界ラインが容易に超えられていく。関係の中に序列が持ち込まれているから、序列の優位者が劣位者の内側に踏み込んでいくという構図が般化される。

 序列の優位者によって過剰に把握された下位者のプライバシーは、不断に「革命戦士」という極めて恣意的な価値基準によって日常的に検証されるから、極度な緊張状態の下に置かれることになるのだ。当然の如く、強度な緊張が作業ミスなどを生んでいくだろう。そして、そのミスを必死に隠そうとするから、緊張状態は飽和点に達する。また絶えず、上位の者の眼差しを捕捉して、そこへの十全な適応を基本戦略にするから、自分の意見や態度などの表出を極力回避してしまうのである。

 これは自我の戦略なのだ。

 自我の疲弊が加速化するから、それが崩れたときのリバウンドが、あまりに呆気ないほどの死というインパクトをもたらすケースも起こり得る。これが「敗北死」の心理メカニズムである。

 ともあれ、パーソナルスペースの適正なスタンスの解体が、「有効攻撃距離」を日常的に設定してしまうという畏怖すべき状況を生んでしまうのだ。序列の優位者からの下位者に対するダブルバインドが、ここに誕生するのである。

 「有効攻撃距離」の日常的設定が、序列の優位者の支配欲を益々増強させ、序列の下位者の自我を益々卑屈にさせていく。序列の下位者はポジションに対応した有効な適応しか考えないから、その卑屈さを見抜いた優位者によって、解答困難なテーマが連続的に放たれることになる。これが、ダブルバインドのメカニズムである。

 Aという答えしかあり得ない状況の中で、Aという答えを表出することが身の危険を高めることを予測し得るとき、人は一体、何と答えたらいいのであろうか。ここには、人間の自我を分裂に導く最も確度の高い危険が潜む。人はここから、どのように脱出し得るのか。

 人間はこういうときに、或いは、最も残酷な存在に変貌する。

 自分以外に自分の行為を抑止し得る何ものなく、且つ眼の前に、自分に対して卑屈に振舞う下位者の自我が映るとき、Aという答えしかあり得ないのに、Aという答えを絶対に表出させない禅問答の迷路に追い詰めたり、AでもBでもCでも可能な答えの中で、いずれを選択しても、必ず不安を随伴させずにはおかない闇に閉じ込められてしまったりという心理構造をダブルバインドと呼ぶなら、それこそ、人間の人間に対する残酷の極みと言っていい。

 何故なら、相手の自我を分裂させ、それを崩壊に導く行為以上の残酷性は、自我によって生きる人間世界には容易に見当たらないからだ。
 
 ここに、山岳ベースの恐怖の本質がある。
 
 山岳ベースで起こったことは、そこに蝟集(いしゅう)するエネルギッシュな自我をズタズタに切り裂き、遂に闇の奥に屠ってしまったということ以外ではない。自我殺し(魂の殺害)の罪こそ、縛りし者たちが一生背負っていかねばならぬ十字架なのである。

 ここで、以上の仮説を整理しておく。

 題して、「総括という名の自我殺しの構造」である。(これについては、本章の最後に一つの表にまとめたので、参考にされたい)

 これは、「榛名ベースの闇」の心理解析である。
 
 連合赤軍は、最強のダブルバインドを成立させてしまったのだ。ここに「箱庭の恐怖」が出現し、常態化してしまったのである。

 「箱庭の恐怖」のコアは、「箱庭」に蝟集(いしゅう)した特定の物語(革命幻想)を厚く信仰する、「優しさの達人」の志願者たちの自我をズタズタに切り裂いて、闇に屠(ほふ)ってしまったことにある。「人民法廷」の向こうにいる者もこちらにいる者も、押し並べて、精神に異常を来していた訳ではない。彼らは一様に、「革命の捨石」になろうと考えていたのであり、強大な資本制権力と殲滅戦を結んで、立派に殉じようと願っていたのである。

 少なくとも、彼らの主観的心情はそうであった。

 そんな彼らの「ピュア」な思い入れが、「榛名ベースの闇」にあっという間に呑み込まれていく。「箱庭」状況と「箱庭の帝王」の出現を接合したのが、「帝王」もどきの人物による「共産主義化論」の唐突なる提示であった。これが、状況の闇を決定づけてしまったのである。加藤能敬への総括過程の初期には、加藤を立派な革命戦士に育てようという思いがまだ息づいていて、加藤自身もそのことを感知していたから、眼の輝きも失っていなかった。

 榛名ベースに遅れて参加した植垣康博は、その辺の事情について「兵士たちの連合赤軍」の中で書いている。
 
 「小屋内には張り詰めた雰囲気がみなぎり、大槻さんにも共同軍事訓練のようなはつらつとした感じが見られなかった。土間の柱の所には一人の男が縛られていた。加藤能敬氏だった。加藤は憔悴した顔で静かに坐っていたが、眼には輝きがあった。私は、彼が総括要求されている男だなと思い、総括要求のきびしさを感じたが、この張り詰めた雰囲気に負けてはならないと思った」
 
 実はこの時点で、既に加藤への「暴力的指導」が開かれていたのだが、しかし殴打という重大な制裁をきちんと定義するための確認が、まだそこでは行われていて、加藤への最初の殴打が、単に感情的暴発の産物ではなかったことが分るのである。 

 詳細に言及しないが、「革命左派」だった加藤の様々な問題点が左派の側から報告された後、森恒夫は以下のことを言い放ったのだ。
 
 「革命戦士としての致命的な弱さを抱えた加藤を指導するために殴る。殴ることは指導なのだ。殴って気絶させ、気絶からさめた時に共産主義化のことを話す。気絶からさめた時に共産主義化のことを聞き入れることができるはずや」
 
 森はそう提起して、それを指導部が受け入れたのである。(この辺については、坂口弘の「あさま山荘1972・下」や、永田洋子の「続十六の墓標」に詳しい。共に彩流社刊)

 このとき永田洋子は、自らが「今から殴ろう」と提案しつつも、心中は穏やかではなかった。

 彼女は書いている。
 
 「私はこたつのなかに入れていた手がブルブル震えていた。殴ることに抵抗があったうえ、指導として殴ることの殺伐さに耐えられない思いがしたからである。しかし私はこの震えを隠し、指導として殴るならば耐えねばならない」
 
 これが、「悪女」と罵られた一被告の、暴力的総括への心理のブレの断面である。

 しかし、全てはここから開かれていく。

 気絶させるまで集団暴行を加えるという行為が、「革命戦士」として避けられない行程であると位置づけられることで、物語は脚色され、一人歩きしていく。「気絶による共産主義化」という、森の信じ難い人間理解の底知れぬ鈍感さは、恐らく、彼の固有の欠陥であった。森は加藤を殺害する意志など毛頭なかったのだ。これは、赤軍派時代から身に付けてしまった、ある種の暴力信仰の悪しき産物でもあったと言える。

 しかし、ここは都市ではなかった。

 叫びを上げる者が緊急避難する僅かのスペースもここにはなく、裸の自我を強制的に晒されて、もはや隠そうとしても隠し切れない卑屈さが、周囲の冷厳な眼差しの中に引き摺り出されてくる。ここに、「箱庭の恐怖」が出現するのである。

 まもなく、暴力の加担者の自我にも、相手の卑屈さに怒りを覚える感情がまとってきて、却って攻撃を加速させることになる。「こいつは革命戦士であろうとしていない」と感受してしまうことで、益々相手が許し難くなってしまうのだ。序列の明瞭な関係が「箱庭」状況を作り、そこから脱出困難な事態に直面したり、過剰な物語によって補強されてしまったりすると、極めて危険な展開が開かれてしまうことがある。人民寺院事件(注8)やブランチ・ダビディアン事件(注9)を想起して欲しい。「榛名ベースの闇」こそ、まさにこの典型的な突出だった。

 誰も、ここで犯罪者になろうとしたのではない。誰も、ここで「敗北死」による死体であろうとしたのではない。様々に異なった因子が複雑に重なり合って闇に溶けるとき、そこに通常の観念ではおよそ信じ難い過程が突如開かれてしまい、「これは変だな」と思いつつも、誰もそれを軌道修正することができず、唯、いたずらに時間だけが流れていく。

 人間は過去に、こうした闇の記憶を嫌というほど抱え込んできているのに、記憶の正確な伝達が理性的に行われてこなかったために、いつでも同じような誤りを重ねてきてしまうのだ。人間はなかなか懲りない存在なのである。

(注8)1978年に、ジム・ジョーンズという男が率いる米国キリスト教系カルト宗教団体(「人民寺院」)が、南米のガイアナで集団自殺を行ったことで知られる事件。

(注9)1993年、アメリカ・テキサス州で起きた事件。デビッド・コレシュ率いる「ブランチ・ダビディアン」というカルト的宗教団体が、武装して篭城した挙句、集団自殺した事件だが、自殺説には今も疑問が残されている。当時警官隊の突入の際、その映像が全米で中継され衝撃を与えた。

 
 ここに、あまりに有名な心理実験がある。

 1960年代に行われた、エール大学のスタンリー・ミルグラムという心理学者による実験がそれである。パトリシア・スタインホフ女史も、「日本赤軍派」の中で紹介していたが、私もまた、この実験に言及しない訳にはいかない。連合赤軍事件の心理メカニズムにあまりに酷似しているからである。

 実験はまず、心理テストに参加するごく普通の市民たちを募集することから始めた。応募した市民たちにボタンを持たせ、マジックミラーの向こう側に坐る実験対象の人たちのミスに電気ショックを与える仕事のアシストを求める。

 こうして実験はスタートするが、事前に実験者たちから、あるレベル以上の電圧をかけたら被験者は死亡するかも知れないという注意があった。それにも拘らず、60パーセントにも及ぶ実験参加者は、被験者の実験中断のアピールを知りながら、嬉々としてスイッチを押し続けたのである。これは、学生も民間人も変わりはなかった。

 勿論、実験はヤラセである。電気は最初から流れておらず、被験者の叫びも演技であった。しかし、これがヤラセであると知らず、実験参加者はボタンを押したのである。このヤラセ実験の目的は、実は、「人間がどこまで残酷になれるか」という点を調査することにあった。
 
 そして、この実験の結果、人間の残酷性が証明されたのである。

 しかし実は、この実験はこれで終わりにならない。この実験には続きがあるのだ。即ち、被験者がミスしても、今度はどのようなボタンを押してもOKというフリーハンドを許可したら、何と殆どの市民は、最も軽い電圧のボタンを押したのである。

 この実験では、人間の残酷性が否定されたのである。

 これらの実験は、一体何を語るのか。

 人間の残酷性か、それとも非残酷性か。その両方なのである。人間は残酷にもなり得るし、充分に優しくもなり得るのである。

 両者を分けるのは何か。

 一つだけはっきり言えることは、命令系統の強力な介在の有無が、人間の心理に重要な影響を与えてしまうということである。つまり人間は、ある強力な命令系統の影響下に置かれてしまうと、そこに逆らい難い行為の他律性が生じ、これが大義名分に深々とリンクしたとき、恐るべき加虐のシステムを創造してしまうのである。

 就中、平等志向が強く、且つ、「視線の心理学」に振れやすい私たち日本人は、多くの場合、横一線の原理で動いてしまう傾向があるから、隣の人のスイッチ・オンを目撃してしまうと、行為の自律性が足元から崩れてしまうようなところがある。

 しかも、ここに「傍観者効果」の構成因子の一つである、「責任分散の心理学」(自分だけが悪いのではないと考えること)が媒介すると、加虐のメカニズムは構造化するだろう。

 これは疑獄事件の中心人物に、「私だけが悪くない」と言わしめる構造性と同質であり、この国の民がアジア各地で傍若無人の振舞いをしておきながら、「国に騙された」と言ってのける醜悪さとも大して変わりないだろう。
 
 人類学者の江原昭善氏は自著の中で、人間の内側に潜む「殺戮抑制」について言及しているが、これは、このような醜悪極まる私たち人間を救う手がかりと言えるかも知れない。

 江原氏は、「十九世紀の中頃には捕虜を射殺することを命じられた十二名の兵士の銃のうち、十一丁には実弾を、一丁には空砲をこめておくのがふつうだった」というクロポトキンの言葉を紹介したあと、つまりどの兵士も、自分は殺害者ではないと考えて自らの良心を慰めたことを指摘し、そこに人間の「殺戮抑制」を見ようとするのである。

 私は人間の「殺戮抑制」というものについて、否定も肯定もしない。人間には「何でもあり」と考えているから、性善説とか性悪説とかの問題の切り取り方にどうしても馴染まないのである。

 因みに、死刑制度を維持するわが国の処刑手段が、刑法11条1項によって絞首刑であると定められている事実を知る人は多いだろうが、実際に処刑のボタンを押す人が複数存在し、その中の一つが、処刑を成功裡に遂行する本物のボタンであるという事実を知っている人は少ないに違いない。この国もまた、刑務官の心の負担を軽減するためのシステムを維持しているのである。

 ただ、これだけは言える。

 人間は感情関係のない相手を簡単に殺せない、ということである。

 人間が人間を殺すことができるのは、通常そこに怨念とか、思想とか、使命感とか、組織の論理とかが媒介されているからであり、役職とはいえ、法務大臣にしたって、自らの在任中になかなか死刑執行の許可を与えにくいのである。仮に死刑執行の赤鉛筆署名をした法務大臣が、刑務場を事前に確認する行為を回避するという話もよく聞く所である。司法行政の最高責任者もまた、様々な感情を持った一人の人間であるということだ。

 翻って、連合赤軍の死の「総括」は、感情関係がドロドロに液状化した澱みのような溜りで噴き上がっていて、際立って人間的だが、しかし、あまりに過剰な狂宴に流され過ぎてしまったと言えるだろうか。

 残されし者たちの自我も跳躍を果たせずに、侵蝕による崩れの危機に立ち会って、じわじわと自壊の恐怖に呑み込まれつつあった。殲滅戦という本番に備えたはずのトレーニングの苛酷さの中で、肉体と自我のいずれもがブレークダウン(この場合、生体機能の衰弱)を起こしてしまって、本番を見ずに朽ちてしまいかねなかったのである。

 「箱庭の恐怖」は最も危険な心理実験の空気の前線となり、全ての者が電気スイッチを掌握し、誰とは言わずに被験の場に引き摺り出されるゲームの渦中にあって、ひたすら「革命幻想」の物語に縋りつく他はない。もうそこにしか、拠って立つ何ものも存在し得ないのである。人間はこうして少しずつ、そして確実に駄目になっていく。

 残されし者たちの何人かが権力に捕縛され、何人かが権力との銃撃戦に運命を開いていくことになったとき、残されし者たちの全ての表情の中に、ある種の解放感が炙り出されていたのは、あまりに哀しきパラドックスであった。

 「それまでの共産主義化の闘いの中で、見えない敵とわけのからない闘いを強いられ、激しい重圧によって消耗しきっていたところに、やっと眼に見える敵が現れ、共産主義化の重圧、とりわけ多くの同志の死に耐えてきた苦痛から解放され、敵との全力の闘争によって、多くの同志を死に追いやった責任をつぐなえると思ったからである。私は、本当に気持ちが晴れ晴れとしていた。皆も、同様らしく、活気にあふれていた。しかし、そうした気分とはうらはらに、凍傷と足の痛み、体の疲労が一段とひどくなっており、はたしてこの山越えに私の体が持つだろうかという不安があったが、体が続く限り頑張るしかなかった」(「兵士たちの連合赤軍」より)

 これは本稿で度々引用する、連赤の一兵士であった植垣康博の手記の中の、実に印象的な一節である。

 「総括」を要求され続けていた植垣の運命を劇的に変えた山岳移動の辛さを、「解放」と読み解く心理を斟酌するのは野暮である。兵士たちを追い詰めた「箱庭の恐怖」が去ったとき、彼らの崩れかかった自我は信じ難いほどの復元力を示して見せた。そこでの反応には勿論、それぞれの置かれた状況や立場による個人差があるだろうが、少なくとも、植垣のような一兵士にとって、それは魔境を閉ざす険阻な壁の崩壊を実感するほどの何かだったのだ。

 この山越えの先に待っていたのが権力による捕縛であったにせよ、山越えは兵士たちにとっては、「箱庭の恐怖」を突き抜けていく行為であった。

 山を越えることは恐怖を越えることであり、恐怖を越えることによって、崩れかけた自我を修復することであった。

 それは、もうこれ以上はないという苦痛からの解放であり。この解放の果てに待つものが何であったにしても、兵士たちには難なく耐えられる苦痛であると思えたに違いない。「榛名ベースの闇」に比較すれば、それは均しくフラットな苦痛でしかなかったのだ。

 連合赤軍の兵士たちが上州の山奥に仮構した世界は、人々の自我が魔境にアクセスしてしまうことの危険を学習するための空間以外ではなかった。

 そして兵士たちは、最後までこの小宇宙からの脱出を自らの意志によって果たせなかった。小宇宙の外側で起こりつつある状況の変化を読み解くことによってしか、兵士たちは自らの自我を縛り続けた小宇宙からの脱出を果たせなかったのである。

 まるで、自らの墓穴を黙々と掘り続ける絶滅収容所の囚人のように、縛られて凍りついた自我は、いたずらに時間に弄(もてあそ)ばれていただけだった。人々の自我は限りなく絶望の極みに嘗め尽くされてしまうとき、声も上げず、体も起こさず、思いも表さず、ひたすら呼吸を繋いでいくばかりとなる。生存の内側と外側を分ける垣根がそこになく、季節の風も、それを遮る力がない自我を貫流し、凍てつく冬をそこに置き去りにしていくのだ。
 
 兵士たちは、そこで何を待っていたのか。

 何も待っていないのだ。 彼らの自我は長い間、待つことすらも忘れていたのである。

 待つことすら忘れていた自我に、一陣の突風が吹きつけてきた。突風は、自我が自我であることを醒ますに足る最も刺激的な何かを運んできた。

 兵士たちの自我は突き動かされ、通俗の世界に押し出されていく。

 このとき、「箱庭の恐怖」の外側に、もう一つの別の世界が存在することを知った。兵士たちは、この世界こそ自分たちが、自分たちの信仰する教義によって破壊されなければならないと覚悟していた世界であることを、そこに確認する。

 崩れかかっていた兵士たちの自我は、この世界を前にして見事に甦ったのだ。自分たちのこれまでの苛酷は、この世界を倒すために存在し、その苛酷の補償をこの世界に返済してもらうことなく、自分たちの未来が決して拓かれないであろうことを、兵士たちの自我が把握したのである。
 
 兵士たちは山を越えることで、苛酷の過去を越えていく。恐怖を越えていく。自らを縛り上げていた闇を明るくしていく。

 時間を奪還する兵士たちの、無残なまでに独りよがりの旅が、こうして開始されたのだ。

 

〔総括という名の自我殺しの構造〕(連合赤軍というダブルバインド)

           組織の誕生と殲滅戦の思想の選択
           (序列の優位者と下位者への分化)
                  ↓
「箱庭状況の出現」= 山岳ベースの確保と革命戦士の要請
           (「共産主義化論」の下達)
                  ↓
「箱庭の帝王の出現」=「共産主義化論」による「総括」過程の展開
                  ↓
           「総括」過程の展開によるプライバシーの曖昧化
              (個と個の適性スタンスの解体)
                  ↓
「箱庭の恐怖の成立」=有効攻撃距離の日常的設定による
               暴力的指導の出現
                  ↓
「箱庭の恐怖の日常化」=序列の優位者と下位者間の緊張の高まりと、
            自我疲弊によるアウト・オブ・コントロールの日常化
                  ↓
    卑屈さの出現(下位者→優位者)と支配力の増強(優位者→下位者)
    
            最強のダブルバインドの成立
      (Aしか選択できないのに、Aを選択させないこと、或いは、
        あらゆる選択肢の中からいずれをも選択させないこと)

4.恐怖越えの先に待つ世界  

 しかし兵士たちの山越えは、兵士たちの運命を分けていく。

 時間を奪還できずに捕縛される者と、銃撃戦という絶望的だが、せめてそれがあることによって、失いかけた「革命戦士」の物語を奪還できる望みがある者との差は、単に運命の差でしかない。この運命の差は、同時に、抑え付けていた情念を一気呵成(かせい)に噴出させる僥倖(ぎょうこう)を手に入れるものができた者と、それを手に入れられなかった者との差であった。

 もっとも坂口弘のような、同志殺しの十字架の重みで崩落感の極みにあった「革命戦士」がいたことも事実であった。しかし本人の思いの如何に拘らず、銃撃戦という劇的な状況展開のリアリティが、「榛名の闇」で集中的に溜め込んだストレスを、束の間、吐き下す役割を果たしたことは否定できないであろう。

 銃撃戦に参加した戦士たちは一気に通俗の世界の晒し者になるが、5人の内側で殲滅戦という極上の観念が銃丸を放つ感触の中に、何某かの身体化を獲得するような徒(ただ)ならぬ快感をどれだけ踊らされていたか、私は知る由もない。

 いずれにせよ、彼らが山荘の管理人の夫人に対して慇懃(いんぎん)に対応し、それは恰も、「人民からは針一本も取らない」という物語を実践する、彼らの固有のストイシズムが自壊していなかったことを思えば、「革命戦士」という物語へのギリギリの固執をそこに見ることができる。

 彼らは管理人の夫人を人質にしたというよりも、人民の生活と権利を守るための自分たちの戦争に、人民が加担するのは歴史の義務であるという思いを抱き、そのことを啓蒙するという使命を持って夫人に接近したようにも思われた。

 彼らの内側では、自分たちの行為はあくまでも革命の切っ先であり、そのための蜂起であり、都市叛乱に引火させる起爆的な決起であったと考えたのであろう。

 だがそれは、どこまでも彼らの方向付けであり、それがなくては支え切れない苛酷の過去からの眼に見えない脅迫に、彼らの自我が絶えず晒されていたことを、私たちは今読み解くことができる。兵士たちはここでも、自分たちを縛り続けた過去と戦争していたのである。
 
 この戦争については、これ以上書かない。

 当然、「浅間山荘」という代理戦争にも言及しない。言及することで得られる教訓は、本稿のテーマに即して言えば、殆ど皆無だからである。

 一切は、「榛名ベースの闇」の奥に出現し、そこに戻っていく。縛りし者たちの自我が、縛るたびに自らを縛り上げていく地獄の連鎖に捉われて自らを崩していくさまは、私たちの日常世界でもしばしば見られる風景である。

 「自立しろ」と説教を垂れた大人が、その説教をうんざりする位聞かされていた、子供の自立への苦闘を目の当たりにして、「こうやるんだ!」とか、「そっちに走れ!」とか叫んで過剰に介入してしまうフライングから、私たちは果たしてどこまで自由であり得るのか。子供の自我を縛るたびに、私たちは私たちの自我をも少しずつ、しかし確実に縛り上げているとは言えないか。

連合赤軍の闇は、実は私たちの闇ではなかったか。連合赤軍の兵士たちが闘い抜いたその相手とは、国家権力でも何でもなく、解放の行方が見定められない私たちの近代の荒涼とした自我それ自身であったのかも知れない。

 兵士たちは残らず捕縛された。
 
 そして、そこに十二名の、縛られし者たちの死体が残された。そこに更に、二名の死体が発見されるに至った。凍てついた山麓に慟哭が木霊(こだま)する一方、都市では、長時間に及んだアクション映画の快楽が密かな自己完結を見た。

 それは、都市住民にとっては、簡単に口には出せないが、しかし何よりも格好の清涼剤であった。このアクション映画から、人々は絶対に教訓を引き出すことをしないだろう。「連合赤軍の闇」が、殆ど私たちの地続きの闇に繋がっていること(注10)を、当然の如く、私たちは認知する訳がない。狂人によって惹き起こされた狂気の宴とは全く無縁の世界に、自分たちの日常性が存在することを多くの人々は認知しているに違いない。

 それで良いのかも知れない。

 だから、私たちの至福の近代が保障されているのだろう。それは、森恒夫というサディストと、永田洋子という、稀に見る悪女によって惹き起こされた、殆ど理解不能な事件であるというフラットな把握以外には、いかなる深読みも無効とする傲慢さが大衆には必要だったのだ。

 私たちの大衆社会は、もうこの類の「人騒がせな事件」を、一篇の読み切りコミックとしてしか処理できない感性を育んでしまっているように思われる。兵士たちがどれほど叫ぼうと、どれほど強がって見せようと、私たちの大衆社会は、もうこの類の「異常者たちの事件」に恐喝されない強(したた)かさを身につけてしまったのか。

 連合赤軍事件は、最終的に私たちの、この欲望自然主義に拠って立つ大衆社会によって屠られたのである。私たちの大衆社会は、このとき、高度成長のセカンドステージを開いていて、より豊かな生活を求める人々の幸福競争もまた、一定の逢着点に上り詰めていた。人々はそろそろ、「趣味に合った生き方」を模索するという思いを随伴させつつあったのだ。

 そんな時代の空気が、こんな野蛮な事件を受容する一欠片の想像力を生み出さないのは当然だった。大衆と兵士たちの距離は、もう全くアクセスし得ない所にまで離れてしまっていたのである。

 これは、本質的には秩序の不快な障壁を抉(こ)じ開けるという程度の自我の解放運動であったとも言える、1960年代末の熱狂が、学生たちの独善的な思い込みの中からしか発生しなかったことを自覚できない、その「思想」の未熟さをズルズルと引き摺ってきたツケでもあった。彼らの人間観、大衆観、状況観の信じ難い独善性と主観性に、私は言葉を失うほどだ。彼らには人間が、大衆が、その大衆が主役となった社会の欲望の旋律というものが、全く分っていなかったのである。
 
 人間に善人性と悪人性が、殆ど同居するように一つの人格の内に存在し、体制側にもヒューマニストがいて、反体制側にも極めつけの俗物が存在してしまうということが、その人間観の本質的な把握において、彼らには分っていなかった。この把握の圧倒的な貧弱さが、彼らの総括を、実は更に陰湿なものにしてしまったのである。

(注10)「箱庭の恐怖」が人間の棲む世界において、どこにでも形成されてしまうことを、私たちは認知せねばならないだろう。

 即ち、以下の条件を満たすならば、常に「箱庭の恐怖」の形成はより可能であるということだ。
 
 それは第一に閉鎖的空間が存在し、第二に、その空間内に権力関係が形成されていて、第三に、以上の条件が自己完結的なメカニズムを持ってしまっていること、等である。そこに、何某かの大義名分や思想的文脈が媒介されれば、「箱庭の恐怖」の形成は決して困難ではない。例えば、閉鎖的なカルト集団や、独善的な運動団体、虐待家庭、等々。

 加藤能敬の自我を裸にして、その性欲の蠢動(しゅんどう)を引き摺り出してきたときの、森や永田の当惑のさまは、人の心の様態を世俗の水準で洞察できない理論居士の、ある種の能力の著しい欠損を晒すものであった。 

 彼らには、「性欲の処理で悩む革命戦士」は絶対に存在してはならない何かであったのか。当然の如く、欲望は生み出されてしまうもので、生み出されてしまった欲望は、欲望を生み出した、極めて人間的な学習過程の不可避な産物であり、それを自我が十全に統御し得なかったから、少なくとも、それを噴出させるべきではない状況下でギリギリに制御する仕掛けを、内側に拵(こしら)え上げていくように努めるというような文脈の中でしか処理できないのである。
 
 「共産主義化をかちとれば、本当に人間を知り、人間を好きになることができる」
 
 これは、森恒夫の常套句。

 自分でも恐らく、深く考察しなかったであろう、この「人間音痴」の命題の底流に脈打っている理性への過剰な信仰は、実は、自分が拠って立たねばならないと考えているに過ぎない内側の事態処理システムであって、森恒夫という自我自身によって、充分に検証を受けたものではないことが推測される。資料で読む限り、森恒夫という人間ほど非合理的で、非理性的な人間はいないからである。
 
 例えば、山崎順(赤軍派)の処刑の際、山崎が呻くようにあげた「早く殺してくれ」という声を、森は、「革命戦士の自己犠牲的誠実さ」という風に規定してしまうのである。

 これは、山岳ベースにおいてではなく、逮捕後の獄中での比較的冷静な、彼の「総括」の時間の只中においてである。山岳ベースでの遣り切れなさが、ひしひしと伝わってくるようだ。

 こういう遣り切れなさが、最も陰惨な風景の中で語られてしまうのは、もう一人の処刑者、寺岡恒一のケースである。

 寺岡は追い詰められたとき、「銀行強盗をやるつもりだった」とか、「宮殿をつくって、女をたくさんはべらせようと思った」とか、「女性同志と寝ることを年中夢想する」などという戯言を吐いたのである。

 最後の告白は、寺岡の本音かも知れないが、前二者の告白は明らかに、どうせ何を告白しても告発者を納得させられないという、自暴自棄的なダブルバインド状況が生んだ産物以外ではない。ここに、寺岡恒一の生産性のない自我の、底なしの冥闇(めいあん)を見る思いがする。

 ところが、居並ぶ告発者たちの自我も劣化しているから、この寺岡の告白が死刑相当であるという解釈に直結し、ここに最も陰惨な同志虐殺が出来してしまうのである。寺岡の自我は回復不能なまでに裂かれ、破壊されてしまったのだ。
 
 ここで事件のサブ・リーダーであった、永田洋子の手記を引用してみる。そこに、永田洋子の浅薄な人間観を伝えてくれる印象的な記述があるからだ。
 
 「坂東さん、覚えていますか。

 『共産主義化』のための暴力的総括要求中でのことでしたが、森さんが、『共産主義化をかちとれば、本当に人間を知り、人間を好きになることができる』と述べていたことを。それは、共産主義の理念に基づいたものでしたが、同志殺害時もそれを心していた私は、敗北後もこの理念は間違っていないと思うのでした。

 そうして、獄中での看守との接触に新鮮さを感じました。やさしい看守がいることには驚き、なかなか慣れませんでした。

 勿論やさしい看守も、結局東拘(注:東京拘置所のこと)の指示に従い獄中者支配の一翼を担っているのですが、そのやさしさが私の心をはずませ、楽しくさせ、私の生を心楽しいものにしてくれることを感じるのでした。獄中者と看守の関係ですから大きな限界があるわけですが、そのため楽しさは大きくなるのでした」(「獄中からの手紙」彩流社刊より/筆者段落構成)
 
 この永田洋子の人間観の根柢には、「看守=権力の番人=人民を抑圧する体制の直接的な暴力マシーン=卑劣な冷血漢」という、極めて機械的な把握の構造がある。

 そしてそんな把握を持つ人格が「心やさしき看守」の出現に当惑し、驚き入ってしまうのだ。唖然とするばかりである。信じ難いようなその狭隘な人間観に、寧ろ、私たちの方が驚かされる。

 この人間観からは、「親切なお巡りさん」とか、「社員のために骨身を削って働く経営者」という存在様式は決して導き出されることはなく、「経営者」とは、「鞭を持って労働者を酷使する、葉巻タバコを咥(くわ)えたブタのように太った輩」という極端にデフォルメされたイメージが、どこかで偏狭な左翼の人間観に影を落としていて、これは逆に言えば、「共産主義者は完全なる者たちである」という信仰を定着させることに大いに与っているということだ。

 「東拘の指示に従い、獄中支配の一翼を担」う、「やさしい看守」のその「やさしさ」に、「心をはずませ」る感性を持つ永田洋子は、それでも、「獄中者と看守の関係」に「限界」を感じつつ、「楽しさ」を「大きく」する幅を示している。

 しかしそのことが、何ら矛盾にならないことを認知できないという、まさにその一点において彼女の「限界」があるのだ。

 「看守のやさしさ」が「看守」という記号的な役割、即ち、「体制の秩序維持」という本来的役割から必ずしも発現するとは限らない所に、まさに人間の自由があり、この自由が人間にしばしば心地良い潤いを与えることを、私たちは知っている。

 役割が人間を規定することを否定しないということは、人間は役割によって決定されるという命題を肯定することと同義ではない。そこに人間の、人間としての自由の幅がある。この自由の幅が人間をサイボーグにさせないのである。

 因みに、私の愛好する映画の一つに、リドリー・スコット監督の「ブレード・ランナー」があるが、ここに登場するレプリカント(地球を防衛する有限生命のロボット人間)はロボットでありながら、彼らには自らの生命を操作する自由が与えられていない。所謂、「レプリカントの哀しみ」である。その哀しみは深く、その結末の残酷さは比類がなかった。だから、コンピューター社会における暗鬱な未来をイメージさせる、「サイバーパンク」の先駆的作品として、それは何よりも重い一作になったのだ。

 言わずもがな、拘置所の看守は断じてレプリカントなどではない。

 「獄中支配の一翼を担う」などという、ニューレフト特有の表現は思想的規定性を持つものだから、いちいち、異議申し立てをするべき筋合いのものではないが、しかし、このような厄介な規定性が、殲滅戦を闘うはずの軍事組織を率いた「女性革命家」の、その抜きん出て偏狭な人間観のベースになっていることは否定すべくもない。人間の行使し得る自由の幅までもが役割によって決定されてしまうならば、人間の未来には、「未来世紀ブラジル」((注11)や、ジョージ・オーウェル(注12)の文学世界しか待機していないことになるだろう。

 然るに、それは人間の能力を過大評価し過ぎているのである。

 人間には、役割によって全てが決定されてしまうに足る完全な能力性など全く持ち合わせていないのだ。それに人間は、人間を支配し切る能力を持ってしまうほど完全な存在ではない。いつもどこかで、人間は人間を支配し切れずに怠惰を晒すのである。

 これは、人間の支配欲や征服感情の際限のなさとも矛盾しない。どれほど人間を支配しようとも、支配し切れぬもどかしさが生き残されて、遂に支配の戦線から離脱してしまう不徹底さを克服し得るほど、私たちの自我は堅固ではない。

 人間の自我能力など、高々そのレベルなのだ。私たちは相手の心までをも征服し切れないからである。ここに人間の自由の幅が生まれるのである。この幅が人間を生かし、遊ばせるのだ。

 人間とは、本質的に自由であるという存在の仕方を、何とか引き摺って生きていくしかない、そんな存在体である。

 人間は、この自由の海の中でひたすら自我に依拠して生きていくという、それ以外にない存在の仕方を引き受けるのだ。 自我はひたすら、十全に適応しようと動いていくのである。どのようなシフトも可能だが、一切の行程が時間の検証を受けていく。適応の成功と失敗に関わる認知が、自我によって果たされていく。成功が単一の行程の産物でないように、失敗もまた、それ以外にない行程の産物であるとは言い切れないのだ。

 しかし、いつでも結果は一つでしかない。この結果が、次の行程を開いていく。自我がまた、駆動するのだ。自我のうちに、加速的に疲労が累積されていくのである。

 シビアな状況下では、自我はフル回転を余儀なくされるだろう。

 確かに人々には、状況から退行する自由もある。しかし自我は中々それを認めない。退行はリスクを随伴するからだ。退行のコストは決して安くない。自我は退行する自由を行使しないとき、そこに呪縛を感知する。この呪縛の中でも、自我は動くことを止めようとしない。止められないのだ。自我はそこに出口を見つけられないでいると、空転するばかりとなるだろう。

 人間は自由である外はないという存在でありながら、しばしば、自由であることの重圧に押し拉(ひし)がれていく。人間は同時に、過剰なまでに不自由な存在でもあるのだ。そのことを自我が認知してしまうとき、人間は一つの、最も苛酷な存在様式と化すであろう。

 絶対的な自由は、絶対的な不自由と同義となる。

 結局、人間は程々の自由と、程々の不自由の中で大抵は生きていく。人間の自由度なんて高が知れているし、また、人間の不自由度も高が知れている。この認知の中で全うし得る「生」は、幸福なる「生」と言えるだろうか。

 ともあれ、永田洋子が「やさしい看守」の中に見たのは、程々の自由と程々の不自由の中に生きる平均的日本人の、その素朴な人間性である。永田にとって「やさしい看守」の発見とは、どのような体制の下でも変わらない、人間の持つある種の「善さ」=「道徳的質の高さ」の発見であると言っていい。

 然るに、このような発見を獄中に見出す他にない青春を生きた、一人の女性闘士のその偏狭性は、殆ど圧倒的である。彼女は過去に何を見、何を感じてきたのかについて、その偏狭性によって果たして語り切れるか、私には分らない。

 彼女のこの発見が、同時に、「冷酷なる共産主義者」の発見に繋がったのかどうかについても、私には分らない。しかし彼女の中で、「共産主義者はやさしい」という命題が、「やさしい人間こそ共産主義者である」という命題に掏(す)り替ったとしても、私から言わせれば、そこにどれだけの「学習」の媒介があったか知れている、という風に突き放つしかない次元の「学習」のようにしか思えないのだ。

(注11)1985年米英製作。テリー・ギリアム監督による、近未来の管理社会を風刺したブラック・コメディ。

(注12)20世紀前半に活躍したイギリスの作家。「動物農場」、「1984」という代表作で、社会主義的ファシズムの危険性を鋭く風刺し、未来社会の予言的文学とされた。

 坂口弘にしろ、植垣康博にしろ、大槻節子(京浜安保共闘)にしろ、彼らの手記を読む限り、彼らが少なくとも、主観的には、「やさしさの達人」を目指していたらしいということが伝わってくるのは事実である。次に、その辺りを言及してみよう。

 ここに、大槻節子の日記から、その一部を引用する。

 断片的な抜粋だが、彼女の心情世界がダイレクトに伝わってくるので参考になるだろう。彼らが「凶悪なる殺人者集団」であると決め付けることの難しさを感受すると同時に、メディアから与えられた、通り一遍の「物語作り」によって括ってしまうことの怖さを痛感するに違いない。

 「私にはどうすることもできない、何ができようというのか、この厳然とした隔絶感の中で、なお私は見えてしまい、私の中に映像化し、暗転する。一つの死に焦がれて邁進する狂気した情念と、それに寄り添う死の花・・・」

 「テロル、狂気した熱い死、それのための生、許してよいのか?許す―とんでもない、そんな言葉がどうして吐かれようというのか、許すもへったくれもなく、厳然としてそこに在るのだから・・・」

 「そして打ちひしがれた、その哀れで、コッケイな姿態と位置から起上がって来るがいい。お前には死ぬことすらふさわしくない。アレコレの粉飾は鼻もちならない。“死”と流された鮮血を汚すな、汚してくれるな、その三文劇で!」

 「ああ愛すべき三文役者―お願いだから。その時、私は温かいしとねにもなれるだろうに・・・.私自身の傷跡もぬぐいさられるだろうに・・・」

 「わかって欲しい、わかって下さい。孤独な演技者よ、孤独な夢想者よ。私を殺さないで欲しい、私を無残に打ちのめさないで欲しい。あかくえぐられた傷口をもうこれ以上広げないで欲しい。助けて欲しいんです。もうどうしようもない」

 「優しさをクダサイ。淡いあたたかい色調の優しさをクダサイ」

 「既に奪われた生命と流された血を、せめて汚すまい、汚してはならない」

 「否が応でも、去る日は来る。それが幸いとなるか、悲しみを呼ぶか、一層の切実さを与えるか、全てを流す清水となるか、それは今、私は知らない。ただ、素直でありたい、自然でありたい」

 
 以上の大槻節子の日記のタイトルは、「優しさをください」。

 因みに、彩流社刊のこの著書のサブタイトルは、「連合赤軍女性兵士の日記」。
 上記に引用した文章は、1968年12月13日から71年4月4日にかけて大槻節子が書いた、この日記の肉声の断片である。

 正直言って、極めて稚拙な表現のオンパレードだが、しかしそれ故にと言うべきか、技巧にすら届き得ないその肉声から、彼女の自我が状況の激しい変化に必死に対応していこうともがくさまが、直接的に伝わってきて、とても痛々しい限りである。

 彼女にとって革命家であり続けることは、正義の貫徹のための確信的テロリスムを受容し切ることを意味していたが、それでもなお、それを受容し切れないもどかしさを認知してしまうとき、却って、不必要なまでの自虐意識を内側で加速させてしまうのだろう。

 沸々と煮え滾(たぎ)った状況下で、どうしても怯(ひる)んでしまう自我に何とか既成の衣を被せて、状況の先陣を疾駆するが、しばしば虚空に晒され、狼狽(うろた)えて、立ち竦むのだ。

 彼女もまた、「共産主義者はやさしい」という命題に憑かれているが、これがテロルを合理化する方便に安直に使われることを許せない感性と、拠って立つ思想との均衡に少なからぬ波動が生じていて、彼女の自我はそれを充分に処理し切れていないのである。

 恐らく、自我が状況を消化し切れないまま、大槻節子は跳躍を果たしていく。
 
 大槻には助走のための充分な時間が与えられることなく、ギリギリの所で「物語」が内包する圧倒性に引っ張られていった。しかし、この内側の貧困を仲間に見透かされてはならない。等身大の世界から決別するには、それなりの覚悟がいるという含みを内側に身体化していく過程を拓いたとき、ここに誰が見ても感激する、「気丈で頑張り屋」の「女性革命家」が誕生するのである。

 大槻節子という自我は、それがいつもどこかで感じ取っていたであろう、言語を絶する困難な未来にやがて嬲(なぶ)られ、噛み砕かれていく。彼女が欲した「優しさ」は、「共産主義化」という苛酷な物語が開いた闇の世界の中で宙吊りにされ、解体されていくのだ。

 彼女は、「死刑囚」としての寺岡恒一の顔面を殴り、熱心な粛清者を演じて見せた。その果てに、彼女自身の煩悶の過去が「人民法廷」の前に引き摺り出された挙句、末梢的な告発の連射を執拗に浴びて、自らも縛られし者となっていくのである。

 大槻節子の死は、一切の人間的感情を持つ者のみならず、一切の人間的感情を過去に持った者をも裁かれる運命にあることを示して見せた。

 「共産主義化」という苛酷な物語は、「プチ・ブル性」という名において、人々の意識や感情や生活のその過去と現在の一切を、執拗に裁いていくための錦の御旗であったのだ。

 考えてもみよう。

 このような裁きによる対象から、果たして自由であり得る者が、一体どこにいるというのか。この裁きによって生還を果たす者など、理論的にはどこにもいない。一歩譲って、これを認めるなら、裁かれし者の筆頭には、「敵前逃亡」の過去を持つ森恒夫が指名されて然るべきなのである。

 大槻節子の死は、圧倒的なまでに理不尽な死であった。
 
 彼女はその理不尽さに抗議するが、それが虚空に散っていくことを知ったとき、絶望的な空しさの中に沈んでいく。ギリギリまでに持ち堪(こた)えた彼女の自我は、遂に崩れ去っていったのだ。

 これは、一つの青春の死ではない。人間の、人間としての基本を支える、それなくしては生きられない、互換性を持たない何かの全き生命の死なのである。

 彼女の自我は遂にテロルの回路に搦め捕られてしまったが、その想像力の射程にはなお、「貧困と圧制に喘ぐ民衆の哀しさ」が捕捉されていた。「全人類の解放」という甘美な物語が紡ぐ極上の快楽のうちに、「やさしさの達人」への跳躍が準備されたに違いない。

 しかし大槻を始め、少なくない若者たちを捉えた大物語の大時代性は、既に拠って立つ基盤を失いかけていた。少なくとも、大槻たちが呼吸を繋いでいた社会には、彼らの殉教的なテロルによって救済されるべき「民衆の哀しさ」など、もう殆ど生き残されていなかったのだ。

 高度に成熟しつつあった大衆消費社会の出現は、自分の意見を暴力によって具現する一切の思想を、明らかに弾き出す精神文化を抱え込んでいたのである。連合赤軍事件の悲劇の根柢にあるのは、このような大衆文化の強靭な世俗性である。この社会では、彼らは最初から凶悪なテロリスト以外ではなかったのだ。

 大槻節子がどれほどの跳躍を果たそうと、彼女はヴェーラ・ザストリッチ(19世紀から20世紀にかけて活躍したロシアの女性革命家)にはなれないし、ローザ・ルクセンブルク(注13)にも化けられないのである。ローザがその厖大な書簡の中で表出したヒューマニズムを、大槻節子はもはや移入することさえできないのだ。

 彼らがどう主観的に決めつけようと、もうこの社会では、「やさしさの達人」を必要としないような秩序が形成されている。時の総理大臣を扱(こ)き下ろし、それが不可避となれば、首相経験者を逮捕するまでに発達した民主主義を持ち、アンケーをとれば、つい先年まで、9割以上の人が「中流」を自認するような大衆社会にあって、人を殺してまで達成しなければならない国民的テーマの存在価値などは、全く許容すべくもなかったのである。

 「やさしさの達人」を目指すなら、どうぞ国外に脱出した後、思う存分やってくれ。その代わり、国の体面だけは傷つけてくれるな、などという無言のメッセージがこの国の文化にたっぷりと張り付いていて、大衆の視線には60年安保のような、「憂国の青春」へのシンパシーが生き残されていなかったのだ。

 高度成長という日常性のカーニバルは、この国の風土を変え、この国の人々の生活を変え、この国の人々が拠って立っていた素朴な秩序を変えていった。それは人々の感性を変え、文化を変え、それらを紡ぐ一つのシステムを変えていったのである。

 大物語の大時代性に縋り付くテロリストだけが、そのことを知らない。

 彼らは時代に置き去りにされたことを知らない。人々の現在を知らないから、人々の未来を知らない。人々の心を知らないから、人々の欲望を知らないし、その欲望の挫折のさまを知らない。井上陽水の「傘がない」(注14)のインパクトを知らないし、ハイセイコー(注15)への熱狂を知らない。

 人々の心を知らないテロリストは、とうとう仲間の心までも見えなくなっていたのである。彼らはもう、「やさしきテロリスト」ですらなくなった。人々を否定し、仲間を否定したテロリストは、最後には自らをも否定していくのだ。これが、森恒夫の自殺であった。

 彼らは切っ先鋭く、「欺瞞に満ちた時代」を砕こうとして、激情的興奮を求める時代の辻風に屠られたのだ。ここからもう何も生まれない。それだけなのである。

 因みに、反日武装戦線(注16)によるテロルの拡散は、連合赤軍事件で否定されたものに固執するしか生きていけない情念が、醜悪にも演じて見せた最後の跳躍のポーズである。

 彼らは「左翼」であることの矜持すら打ち捨てて、殆ど、大義名分だけで動いたかのような杜撰(ずさん)さを晒して見せた。大衆社会の反応は、言葉の通じぬ犯人の闖入(ちんにゅう)によって被った、理不尽極まる大迷惑以外の何ものでもなかった。従って、それは通り魔的な事件を処理される文脈のうちに終焉したのである。
 
 世の中は、すっかり変わってしまったのだ。

 時代は、森恒夫や永田洋子はおろか、もはや、一人の大槻節子すらも求めることはない。事件に対する関心などは、アクション映画の快楽を堪能したらもうそれで完結したことになり、それを気難しく解釈する思いなど更々ない。まして裁判をフォローする理由などは全くなく、永田や坂口の死刑判決の報に接し、胸を撫で下ろすという程度の反応で擦過してしまうであろう。

 連合赤軍事件は、最初から過去の事件として処理されてしまったのである。

 それは事件の開始と共に既に過去の事件であり、そこでどのような陰惨な活劇が展開されたにせよ、どこまでもそれは、現在に教訓を引き出すに足る類の事件とは無縁の、おぞましい過去の事件の一つでしかなかったのだ。

 連合赤軍事件は、こうして最初から、政治とか思想とかいう次元の事件とは無縁の何かとして、高度大衆消費社会から永久に屠られてしまったのである。 
 

(注13)ドイツ革命の象徴的存在。ポーランド生まれのユダヤ人で、ドイツ移住後は「スパルタクス団」を結成、やがて組織はドイツ共産党に発展的解消。1919年に武装蜂起を指導するが、カール・リープクネヒトと共に虐殺される。

(注14)“都会では自殺する若者が増えている 今朝来た新聞の片隅に書いていた だけども問題は今日の雨  傘がない 行かなくちゃ  君に逢いに行かなくちゃ  君の街に行かなくちゃ 雨にぬれ・・・”という歌詞で有名なフォークソング。時代や社会よりも、個人の問題を優先する思いが歌われている。

(注15)1970年代半ばに活躍した、アイドル的な競走馬。増沢旗手による「さらばハイセイコー」というヒット曲でも有名。

(注16)正式には、「東アジア反日武装戦線」。1970年代半ばに、三菱重工ビル爆破事件を嚆矢とする、所謂、「連続企業爆破事件」を起こし、日本社会を震撼させた。

5.魔境に搦め捕られた男の「自己総括」  

 稿の最後に、「連合赤軍」という闇を作り上げた男についてのエピソードを、ついでに記しておく。永田洋子と共に、仲間が集合しているだろう妙義山中の洞窟に踏み入って行った森恒夫は、そこに散乱したアジトの後を見て動揺する。黒色火薬やトランシーバーなども放り出されていて、山田隆の死体から取った衣類も、そのまま岩陰にまとめて置かれていた。(因みに、この衣類が凄惨な同志粛清の全貌を解明する手懸りとなる)

 そのとき、森は上空にヘリコプターの音を聞き、下の山道に警官たちの動静を察知して、彼の動揺はピークに達する。彼は傍らの永田に絶望的な提案をする。
 
 「駄目だ。殲滅戦を戦うしかない」
 
 永田はそれを受け入れて、ナイフを手に持った。二人は岩陰に潜んで、彼らが死闘を演ずるべき相手を待っている。

 ここから先は、永田本人に語ってもらおう。
 
 「私はコートをぬぎナイフを手に持ち、洞窟から出て森氏と一緒に岩陰にしゃがんだ。この殲滅戦はまさに無謀な突撃であり無意味なものであった。しかし、こうすることが森氏が強調していた能動性、攻撃性だったのである。

 私はここで闘うことが銃による殲滅戦に向けたことになり、坂口氏たちを少しでも遠くに逃がすことになると思った。だから、悲壮な気持ちを少しももたなかった。私はこの包囲を突破することを目指し、ともかく全力で殲滅戦を闘おうという気持ちだけになった。

 この時、森氏が、『もう生きてみんなに会えないな』といった。

 私は、『何いってるのよ。とにかく殲滅戦を全力で闘うしかないでしょ』といった。

 森氏はうなずいたが、この時、私は一体森氏は共産主義化をどう思っていたのだろうかと思った。『もう生きてみんなに会えないな』という発言は、敗北主義以外のなにものでもなかったからである。

 しばらくすると、森氏は、『どちらが先に出て行くか』といった。

 私は森氏に、『先に出て行って』といった。

 森氏は一瞬とまどった表情をしたが、そのあとうなずいた。

 こうした森氏の弱気の発言や消極的な態度に直面して、私は暴力的総括要求の先頭に立っていたそれまでの森氏とは別人のように思えた」(永田洋子著・「十六の墓標・下」彩流社刊/筆者段落構成)
 
 
 この直後に二人は警察に捕縛され、粛清事件などの最高責任者として「裁かれし者」となるが、周知のように、森恒夫は新年を迎えたその日に獄中自殺を遂げたのである。 ともあれ、以上の永田のリアルな描写の中に、私たちは、森恒夫という男の生身の人間性の一端を垣間見ることができるだろう。

 自分の命令一下で動くことができる仲間たちと別れ、傍らには、下山以来行動を共にしてきた気丈な「女性革命家」しかいない。山中では、彼女を含めた殆ど全ての同志たちの前で、「鋼鉄の如き共産主義者」というスーパーマンを演じていて、それは概ね成功していたかに見えた。

 しかし事態は、同志殺しの連鎖という、恐らく、本人が想像だにしなかったはずの状況を生み出してしまった。

 自らが積極的に関与したこの負性状況の中にあって、彼はますます「鋼鉄の如き共産主義者」という、等身大を遥かに越える役割を演じ続けて見せた。この心理的文脈の尖った展開が、忌まわしい粛清の連鎖に見事なまでにオーバー・ラップされるのだ。

 彼の人格が、「共産主義者」の「鋼鉄性」(冷酷性)の濃度を増していく度に、同志の中から人身御供(ひとみごくう)となる者が供されていくのである。このような資質を内在させた人格があまりに観念的な思想を突出させた武装集団の最高指導者になれば、恐らく、不可避であったに違いないと思わせるほどの、殆ど予約された悲劇的状況が、厳寒の上州の冬の閉鎖系の空間の只中に分娩されてしまったのだ。

 一つの等身大を越える役割を演ずるということは、長い人生の中でしばしば起こり得るということである。しかし、それを演じ続けることは滅多にない。人間の能力は、等身大以上の役割を演じ続けられるほど、中々その継続力を持ち得ないのだ。等身大以上の役割を演じ続けるということは、自我のリスクを高めるだけで、自我を必要以上に緊張させることになる。緊張はストレスを高めるだけだ。

 セリエ(カナダの生理学者)のストレス学説によると、ストレスとは、「生物学的体系内に非特定的にもたらされた、全ての変化に基づく特定症候の顕在化状態」であり、これには、ユーストレス(良いストレス)とディストレス(悪いストレス)がある。

 人間が環境に普通に適応を果たしているとき、当然、そこにはユーストレスが生じている。適度なストレスは適応に不可欠なのだ。

 ディストレスは、アンデス山中に遭難(「アンデスの聖餐」/注17)してしまうとか、阪神大震災に遭うとか、殺人鬼にナイフを突きつけられるとか、アウシュヴィッツに囚われるとかいうようなケースで生じるストレスで、しばしば、自我を機能不全化してしまう。いずれのストレスも自我の臨界点を越えたら、本来の自我の正常な機能に支障を来たすのに変わりないのである。

 人間が等身大以上の役割を演じ続けることに無理が生じるのは、自我に臨界点を越えるほどのストレスが累積されることによって、自我内部の矛盾、即ち、等身大以上の人間を演じることを強いる自我と、そのことによって生じるストレスを中和させるために、等身大の人間を演じることを要請する自我との矛盾を促進し、この矛盾が自我を分裂状態にさせてしまうからだ。人間は、分裂した自我を引き摺って生きていけるほど堅固ではないのである。
 

(注17)1972年、ラグビー選手たちを乗せたチリ行き旅客機がアンデスの山中で遭難し、生き残るためにやむなく人肉食いを余儀なくされた衝撃的な事件を描いた、ブラジルのドキュメンタリー映画。『生きてこそ』(フランク・マーシャル監督)というアメリカ映画も話題になった。

 
 森恒夫が演じ続けた「鋼鉄の共産主義者」は、あくまでも彼が、「そうであるべきはずのスーパーマン」をなぞって見せた虚構のヒーローであった。

 然るに、そのヒーローによる虚構の表出が、彼をして、「箱庭の帝王」の快楽に酩酊させしめるほどのものであったか、些か疑わしいい所である。森恒夫の自我に、「箱庭の帝王」の快楽がべったりと張り付いていなかったとは到底思えないが、私には、彼の自我が浴びた情報が快楽のシャワーであるよりも、しばしば、等身大以上の人間を演じ続けねばならない役割意識が生み出した、厖大なストレスシャワーであるように思えてならないのだ。

 自我が抱え込めないほどのストレスはオーバーフローせざるを得ない。「鋼鉄なる共産主義者」を演じ切るには、考えられる限りのパフォーマンスの連射が要請されるに違いない。「敗北死」を乗り越えていく意志を外化させることで、自らの「鋼鉄性」を検証する。「鋼鉄性」の濃度が、「冷酷性」によって代弁されてしまうのである。この「冷酷性」こそ、実は、オーバーフローされたストレスの吐瀉物なのである。

 従って、森恒夫が等身大以上の人間を演じ切ろうとすればするほど、オーバーフローしたストレスが「冷酷性」として身体化されることになる。「鋼鉄なる共産主義者」への道という等身大以上の物語の仮構が、その物語が抱えた本質的な虚構性の故に、更にその虚構性を観念の範疇に留めずに、「あるべき身体」として押し出してくるとき、そこに極めて危険な倒錯が発生するのだ。
 
 即ち、「あるべき身体」であらず、「あるべき身体」であろうとしないと印象付けられた全ての身体、就中、「あるべき身体」でないために、「あるべき身体」を欲する身体を成功裡に演じ続ける器用さを持たない、真に内面的な身体、例えば、大槻節子のような身体が、「総括」の名によって烈しく否定されてしまうという状況を生み出すのである。

 「あるべき身体」の仮構が、「あるべき身体」であらない身体を拒むとき、そこで拒まれることのない身体とは、「あるべき身体」以外ではない。そこでの「あるべき身体」の検証をする身体もまた、「あるべき身体」でなければならないのである。だが、「悪魔」が「神」を裁けないのだ。

 では、「あるべき身体」としての「神」の存在を前提にすることで成立し得るこの状況性にあって、その「神」を担う身体は、一体どのような身体なのか。

 それが、「鋼鉄なる共産主義者」を演じ切ることを要請された、森恒夫という固有なる身体である。森恒夫という身体は、「あるべき身体」として、他の全ての「あるべき身体」を目指す、「あるべき身体」ではない身体を相対化する、唯一の絶対的な身体となる。少なくとも、それ以外には粛清を合理化するロゴスはないのである。「あるべき身体」ではない身体が、他の「あるべき身体」ではない身体を否定することは理論的に困難であるからだ。
 
 こうして、森恒夫という身体は、「あるべき身体」の体現者を演じ切らねばならないという十字架を負っていく。
 
 これが私をして、「箱庭の帝王」=「森恒夫の快楽」という風に、安直に決め付けることを困難にさせる根拠がある。問題はそれほど単純なものではないのである。

 森恒夫の跳躍は、まず「あるべき身体」を仮構するという困難さの中に端を発し、ここに埋没して果てたと言うべきか。どだい、その跳躍自体に問題があったのだ。「覚悟」と「胆力」を不足させた男の自我の、その過激な、あまりに過激な跳躍が、この陰湿極まる事件の根柢にあったとは言えないだろうか。
 
 高度大衆消費社会のとば口で、山岳ベースに依拠して殲滅戦を結ぶという、およそ信じ難い倒錯(この場合、社会的規範から外れた行動を示すこと)を生き切るには、それを内側で支えるに足る烈しく狂信的な物語と、その物語に殉教し得る持続的なパトスが不可欠であった。

 森恒夫という身体の内側に、それらの強靭な能力が備わっていたかどうかの検証が、少なくとも、山岳ベースではギリギリの所で回避されていた。森恒夫という能力の検証が回避されたことは、森恒夫という身体が、山岳ベースで、「あるべき身体」を仮構し得ていたことを意味するだろう。

 彼の能力の検証の回避は、同時に、「箱庭の恐怖」=「榛名ベースの闇」からの解放の可能性が開かれないことを意味していたのである。平凡な能力しか持ち得ない一人の男の、その過激な跳躍が、単なる愚行を忌まわしい惨劇に塗り替えてしまったのか。

 しかし、このドラマ転換は、恐らく、男の本意ではなかったように思われる。男はただ、演じ切ることが殆ど困難な役割を、一分の遊び心を持たないで、男なりに真摯に、且つ、徹底的に演じ切ろうと覚悟しただけなのだった。

 男のこの過激な跳躍を保証した山岳ベースとは、男にとって魔境であったのだ。

 男はこの魔境に嘗め尽くされ、翻弄された。この魔境は、平凡な能力しか持たない男に制御され、支配されるような宇宙ではなかったのである。男が支配したのは、男によって縛られし者たちの肉体のみであって、それ以外ではない。男もまた、その忌まわしい宇宙に縛られていたとしか説明しようがないのだ。

 男は恐らく、この魔境に入らなければ権力にきついお仕置きを受けた後、「俺の青春は華やかだったんだぞ」と声高に回顧する、理屈っぽい中年親父に転身を遂げたのではないか。

 男を擁護するつもりなど更々ないが、私にはこの男が、このような秩序破壊の暴挙を貫徹する能力において際立って愚昧であることを認知しても、その人格総体が狂人であるという把握をとうてい受容できず、誤解を恐れずに言えば、男の暴走の当然の帰結とは言え、男が流されてしまったその運命の苛酷さに言葉を失うのみである。

 ともあれ、最高指導者としての自分の能力の「分」を越えた男の所業の結果責任は、あまりに甚大であり過ぎた。踏み込んではならない魔境に侵入し、そこで作り上げた、「箱庭の恐怖」の「帝王」として君臨した時間の中で、この最高指導者は「同志」と呼ぶべき仲間の自我を裂き、削り抜いてしまったのだ。

 詰まる所、「箱庭の恐怖」の凄惨さは、最高指導者としての男の自我の凄惨さをも、存分に曝け出してしまったのである。

 ――― 男を縛った魔境は私たちの日常世界にも存在していて、それがいつでも私たちの弱々しい自我を拉致せんと、甘美な芳香を漂わせて、木戸を開けて待っている。それが怖いのである。その怖さは、或いは、近代文明の諸刃の剣であるだろう。

 近代文明の快楽は、いつでも快楽に見合った不条理を懐深く包含させているのだ。エール大学での心理実験が炙り出した根源的問題は、まさに私たちの自我の脆弱さが、その栄光の陰にまとっていることの認知を私たちに迫るものだった。そのことを少しでも認知できるから、私は近代文明への安直な批判者になろうとはゆめゆめ思わないのである。

 もう既に、私たちの文明は、私たちの欺瞞的な批判によっては何ものをも変えられないような地平を開いてしまったのである。甘い飴をたっぷり舐(な)め尽した後、虫歯になったからと言って、ギャーギャー泣き騒ぐのはフェアではないし、誠実さにも欠ける。誰のせいでもない。私自身の何かが欠落していたのである。文明の問題は、畢竟(ひっきょう)、私自身の問題であるという外はない。

 感傷的な物言いは止めて、男についての私の最後の感懐を記しておく。

 男は魔境の中で、遂に裸になれなかった。

 男が最後まで裸になれなかったなら、恐らく、私は本稿を書こうとは思わなかったであろう。終始、男と共に魔境にあった女が、「十六の墓標」という本を上梓しなかったら、私は「連合赤軍の闇」について、思考を巡らすことをしなかったかも知れない。

 私はこの本を読み進めていくうちに、次第に胸が詰まってきて、男の内側の見えない風景の中に、何とも名状し難い煩悶のようなものが蠢(うごめ)いているのが感じられたのである。この男は、自分の能力ではどうすることもできないような魔境の磁場に引き摺られて動いている、という思いが痛切に伝わってきて、これが逮捕劇の醜態を読み解く伏線になっていた。

 私には、この男の「弱気な発言や消極的な態度」に、何の違和感も覚えない。男は逮捕に至る酷(むご)く閉鎖的な状況下で、一瞬、仮面を脱ぎ捨てて、「最高指導者」としての決定的な役割を放擲(ほうてき)しようとしたのである。男は革命劇の最後のシーンで、裸の自我を完全に曝して見せたのだ。そしてこれが、過激な跳躍を果たした男の、最初にして最後の、赤裸々な自我の表出となったと言えるか、私には分らない。

 或いは、男が首を括ったとき、その顔は男が執拗に求め続けた「あるべき身体」の、威厳に満ちた、しかし情感に乏しい表情に戻っていたと言えるのだろうか。

 男は最後まで、「鋼鉄の如き共産主義者」という物語を捨てられなかったのか。それがせめてもの、男の死出の旅の拠り所であったのか。私には何も分らない。ただ、人間は死んでいくにも、何某かの物語を必要としてしまう何者かであることだけは分っているつもりだ。

 男は「自死」というあまりに見えやすい身体表現によって、「自己総括」を果たしたのか、それとも、それが男の「敵前逃亡」の自己完結点だったのか、今となっては、一切は想像の限りでしかない。少なくとも、魔境に搦め捕られた男の「自己総括」が、「自死」という見えやすい身体表現によって完結点を結んだと括るには、男が魔境で吐瀉した情動系の暴走は突き抜けて過剰だったと言えるだろう。
 
 その過剰なる暴走に対して、もう男は全人格を持って引き受ける何ものをも持ち得なかったに違いない。あのとき男は、自らが倒すべき標的だった権力機関の一画に捕捉されて、それと全人格的に闘争する合理的文脈の欠片をも所有することなく、その絶望感の極みを、あのような見えやすい身体表現のうちに、辛うじて、かつて「最高指導者」であった者のギリギリの矜持(きょうじ)を鏤刻(るこく)したのであろうか。             

(1995年1月脱稿)                          

〔尚、本稿の中での全ての注釈、本稿の一部については、本稿を「Word」に転記していく際に、若干の補筆を加えながら、2007年1月に記述したものである〕

 
【余稿】
 
 本稿を擱筆(かくひつ)後、2ヵ月経った3月20日に、「地下鉄サリン事件」が発生した。所謂、一連の「オウム真理教事件」として世を震撼させる事件が顕在化する契機となった凶悪犯罪である。

 事件の真相が明らかにされるにつれ、「サティアン」と呼ばれる特殊空間の中で、生物化学兵器である物質を製造し、あろうことか、それを既に使用したという現実を、この国の人々は目の当たりにすることになったのである。
 
 私が瞠目したのは、事件の凶悪さそれ自身よりも、寧ろ「サティアン」という名の、特定的な権力関係の暴走を許す小宇宙が、富士山麓の風光明媚な国土の一角を占有していたという現実だった。

 そこだけが閉鎖系に自己完結する、おぞましい空間が生み出した権力関係の内実は、まさしく「箱庭の恐怖」の様相を呈するものだったのだ。当然の如く、そこには「箱庭の帝王」が君臨し、その「帝王」によって支配される偏頗(へんぱ)な階級構造の仮構によって、その小宇宙の権力関係は、紛れもなく、ラインを判然とする暴力機構の機能を発現していたのである。

 この事件は、「箱庭の恐怖」の最もおぞましい様態を晒していて、必ずしも不可避な現出を検証する事態であるとは言えないだろう。

 それにも拘らず、近代文明社会の只中に物質文明の自然科学の情報のみを吸収しつつも、精神文化の異様な尖りを見せた世界が、そこだけは偏頗(へんぱ)な様態を顕在化させて、長きに渡って継続力を持ってしまったという事実に着目する限り、常に私たちのこの秩序だった社会の隅に、私たちが拠って立つ一般的な規範を逸脱する事態の出来が裂かれるようにして、一つの禍々(まがまが)しい「状況性」を結んでしまう恐怖感 ―――まさにそこにこそ、この事件の本当の怖さが伏在していたと考えるのである。
 

 「連合赤軍の闇」という本稿の冒頭に、「榛名ベースの闇」を形成した因子として、私は三つの点に注目した。それらを、ここで改めて確認する。

 その一。有能なる指導者に恵まれなかったこと。
 
 その二。状況の底知れぬ閉鎖性。

 その三。「共産主義化論」に象徴される思想と人間観の顕著な未熟性と偏頗性。
 
 この三つの要因が組織的に、構造的に具現化された世界の中で、私は「箱庭の恐怖」の出現の可能性がより増幅されると考えている。

 まさに「オウム真理教事件」の「サティアン」こそ、「箱庭の恐怖」以外の何ものでもなかったのである。そして、「サティアン」というカルト教団が作り出した「箱庭の恐怖」は、以上三つの形成因子を堅固にリンクすることで立ち上げられていたということだ。

 「サティアン」という名の小宇宙の闇の本質は、支配命令系統の絶対化と、脱出不能の閉鎖系の時間を日常化させていた所にある。就中、そこでの権力関係の組織力学は、およそ大衆的な宗教団体の柔和性と融通性とは完全に切れていて、「ハルマゲドン思想」という危機な物語の共有化によって、より極左集団の硬直性と酷似する苛烈さを内包するものであった。

 まさに「権力関係の陥穽」を存分に炙(あぶ)り出す、その組織の硬直した構造性こそ、このカルト教団の闇を貫流する、その本質的な暴力性を必然化する決定的な因子であると言っていい。
 
 このような問題意識によって、私は事件直後に、「権力関係の陥穽」と題する小論を書き上げた。それは、「権力関係の陥穽」というものが、ある一定の条件さえ揃ってしまえば、私たちの日常性の中に容易に出来してしまうという把握を言語化したものである。
 
 以下、本稿をフォローする「補論」として、それを記述していきたい。

(2007年1月記)

 

補論 「権力関係の陥穽」  

 人間の問題で最も厄介な問題の一つは、権力関係の問題である。権力関係はどこにでも発生し、見えない所で人々を動かしているから厄介なのである。 権力関係とは、極めて持続性を持った支配・服従の心理的関係でもある。この関係は、寧ろ濃密な感情関係の中において日常的に成立すると言っていい。
 
 例えば、極道の世界で生まれた階級関係に感情の濃度がたっぷり溶融したら、運命共同体に呪縛が関係を拉致して決して放すことはないだろう。

 或いは、最も非感情的な権力関係と見られやすい軍隊の中でこそ、実は濃密な感情関係が形成され得ることは、二.二六事件の安藤輝三隊(歩兵第3連隊)を見ればよく分る。決起に参加した下士官や兵士の中には、事件そのものにではなく、直属の上司たる安藤輝三大尉に殉じたという印象を残すものが多かった。
 
 心理理学者の岸田秀が折りに触れて言及しているように、日本軍兵士は雲の上の天皇のためというより、しばしば、彼らの直属の上司たる下士官や隊付将校のために闘った。また下士官らが、前線で驚くべき勇士を演じられたのも、普段から偉そうなことを言い放ってきた見知りの兵卒たちの前で、醜態を見せる訳にはいかなかったからである。まさに軍隊の中にこそドロドロの感情関係が澱んでいて、そこでの権力関係の磐石な支えが、視線に生きる人々を最強の戦士に育て上げていったのである。
 
 因みに、「視線の力学」は、この国のパワーの源泉の一つであった。

 この力学が集団を固く縛り、多くの兵卒から投降の機会を奪っていったのは事実であろう。日本軍将兵は単騎のときには易々と敵に平伏すことができたのに、「視線の力学」に呑まれてしまうと、その影響力から解放されることは極めて困難であった。この力学の求心力の強さは、敗戦によって武装解除された人々のうちに引き続き維持され、深々と温存されていることは経験的事実であると言っていい。

 こうした「視線の力学」の背後に感情関係とリンクした権力関係が存在するとき、そこに関わる人々の自我は圧倒的に呪縛され、その集合性のパワーが状況に雪崩れ込んで、しばしばおぞましい事件を惹起した。その典型例が、「連合赤軍事件」と「オウム真理教事件」であった。

 そこでは、個人の自我の自在性が殆ど済し崩しにされていて、闇に囲繞された「箱庭の恐怖」の中に、この関係性がなかったら恐怖の増幅の連鎖だけは免れていたであろう、様々にクロスして繋がった地獄絵図が、執拗なまでに描き込まれてしまったのである。

 権力関係は日常的な感情関係の中にこそ成立しやすいと書いてきたが、当然の如く、それが全ての感情関係の中に普通に生まれる訳ではない。
 
 ―― 例示していこう。
 
 ここに、僅かな感情の誤差でも緊張が生まれ、それが高まりやすい関係があるとする。

 些細なことで両者間にトラブルが発生し、一方が他方を傷つけた。傷つけられた者も、返し刀で感情的に反撃していった。相互に見苦しい応酬が一頻り続き、そこに気まずい沈黙が流れた。よくあることである。しかしそこに感情の一方的な蟠(わだかま)りが生じなければ、大抵は感情を相殺し合って、このように一過的なバトルが中和されるべき、沈黙という緩衝ゾーンに流れ込んでいくであろう。

 そこでの気まずい沈黙は、相互に感情の相殺感が確認できて、同時に、これ以上噴き上げていく何ものもないという放出感が生まれたときに、殆ど自然解消されていくに違いない。沈黙は手打ちの儀式となって、後は時間の浄化力に委ねられる。このようなラインの流れを保障するのは、そこに親和力が有効に働いているからに他ならないのである。

 このように、言いたいことを全て吐き出したら完結を見るという関係には、権力関係の顕現は稀薄であると言っていい。始まりがあって終わりがあるというバトルは、もう充分にゲームの世界なのだ。

 然るに、権力関係にはこうした一連なりの自己完結感がなく、感情の互酬性がないから、そこに相殺感覚が生まれようがないのである。関係が一方的だから、攻守の役割転換が全く見られない。攻め立てる者の恣意性だけが暴走し、関係が偶発的に開いた末梢的な事態を契機に、関係はエンドレスな袋小路に嵌(はま)りやすくなっていく。

 事態の展開がエンドレスであることを止めるためには、関係の優劣性を際立たせるような確認の手続きが求められよう。「私はあなたに平伏(ひれふ)します」というシグナルの送波こそ、その手続きになる。弱者からのこのシグナルを受容することで、関係の緊張が一応の収拾に至るとき、私はそれを「負の自己完結」と呼んでいる。権力関係は、しばしばこの「負の自己完結」を外化せざるを得ないのである。

 然るに、「負の自己完結」は、一つの始まりの終わりであるが、次なる始まりの新しい行程を開いたに過ぎないも言える。権力関係は、どこまでいってもエンドレスの迷妄を突き抜けられないのである。

 ―― 他の例で、具体的に見ていこう。
 
 ある日突然、息子の暴力が開かれた。

 予感していたとは言え、その唐突な展開は、母親を充分に驚愕させるものだった。母親は動揺し、身震いするばかりである。これも予測していたこととは言え、母親を守るべきはずの父親が、父親としての役割を充分に果たしていないことに、母親は二重の衝撃を受けたのだ。

 父親は口先では聞こえの良いことを言い、自分を庇ってくれている。しかしそれらは悉(ことごと)く客観的過ぎて、事態の核心に迫ることから、少しずつ遠ざかるようなのだ。父親は息子の暴力が反転して、自分に向かって来るのをどこかで恐れているようなのである。

 母親は急速に孤立感を深めていった。父親と同様に、息子の暴力を本気で恐れている。最初はそうでもなかった。髪をむしられ、蹴られるに及んで、自分を打擲(ちょうちゃく)する身体が、自分がかつて溺愛した一人息子のイメージと次第に重ならなくなってきて、今それは、自分の意志によっては制御し得ない暴力マシーン以外ではなくなった。
 
 何故、こうなってしまったのかについて、母親はもう理性的に解釈する余裕を持てなくなってしまっている。それでも、自分の息子への溺愛と、父子の対話の決定的な欠如は、息子の問題行動に脈絡しているという推測は容易にできた。

 しかし今となってはもう遅い。何か埋め難い過誤がそこにある。でも、もう遅い。息子の暴力は、日増しに重量感を強めてきた。ここに、体を張って立ち向かって来ない父親にまで、息子の暴力が拡大していくのは時間の問題になった。
 
 以上、この畏怖すべき仮想危機のイメージが示す闇は深く、絶望的なまでに暗い。
 
 母と息子の溺愛を示す例は少なくないが、必ずしも、その全てから身体的暴力が生まれる訳ではない。しかしドメスティック・バイオレンス(DV=家庭内暴力)の事例の多くに、溺愛とか愛情欠損といった問題群が見られるのは否めないであろう。

 その背景はここでは問わないが、重要なのは、息子の暴力の出現を、明らかな権力関係の発生という風に把握すべきであるということだ。母子の溺愛の構図を権力関係と看做(みな)すべきか否かについては分れる所だが、もしそのように把握したならば、ここでのDVは権力関係の逆転ということになる。
 
 歴史の教える所では、権力関係の逆転とはクーデターや革命による政権交代以外ではなく、その劇的なイメージにこの暴力をなぞってみると、極めて興味深い考察が可能となるだろう。

 第一に、旧政権(親権)の全否定であり、第二に、新政権(子供の権利)の樹立がある。そして第三に、新政権を維持するための権力(暴力)の正当性の行使である。

 但し、「緊張→暴力→ハネムーン」というサイクルを持つと言われるDVは、革命の暴力に比べて圧倒的に無自覚であり、非統制的であり、恣意的であり、済し崩し的である。

 実はこの確信性の弱さこそが、DVの際限のなさを特徴付けている。暴力主体(息子)の、この確信のなさが事態を一層膠着(こうちゃく)させ、無秩序なものにさせるのだ。権力を奪っても、そこに政治を作り出せない。政治を作り出せないのは、自分の要求が定められないからだ。要求を定められないまま、権力だけが動いていく。暴力だけが空気を制覇するのだ。

 この確信のない恣意的な暴力の文脈に、息子の親たちは弱々しい暴力回避の反応だけを晒していく。これが息子には、許し難い卑屈さに映るのだ。「卑屈なる親の子」という認知を迫られたとき、この文脈を解体するために、息子は暴力を継続させる外になかったのか。しかし継続させた暴力に逃げ惑う親たちを見て、息子の暴力はますますエスカレートしていった。「負の自己未完結」の闇が、いつしか「箱庭」を囲ってしまったのである。
 
 母親の屈従と、父親の沈黙。

 その先に父親への暴力が待つとき、この父親は一体、息子の暴力にどう対峙するのだろうか。
 
 近年、このような事態に悩む父親が、専門的なカウンセリングを受けるケースが増えている。その時点で、既に父親は敗北しかかっているのだが、かつて、そんな敗北感を負った父親に、「息子さんの好きなようにさせなさい」とアドバイスをした専門家がいて、一頻り話題になった。マスコミの論調は主として、愚かなカウンセリングを非難する硬派調の文脈に流れていった。

 私の見解もマスコミに近かったが、ここで敢えて某カウンセラー氏を擁護すると―― 息子の暴力に毅然と対処できないその父親を観察したとき、某カウンセラー氏が一過的な便法として、相手(息子)の感情を必要以上に刺激しない対処法を勧めざるを得なかった、と解釈できなくもない。

 某カウンセラー氏は常に、敗北した父親の苦悶に耳を傾けるレベルに留まらない、職域を越えた有効なアドバイザーとしての、極めてハードな役割を担わされてしまっている。だから、彼らが敗北した父親に、「息子と闘え」という恐怖突入的なメッセージを送波できる訳もないのだ。それにも拘らず、彼らが父親に、「打擲に耐える父親」の役割のみを求めたのは誤りだった。この場合、「逃げてはいけません」というメッセージしかなかったのである。

 敗北した父親に、「闘え」というメッセージを送っても、恐らく空文句に終わるであろう。そのとき、「我慢しなさい」というメッセージだけが父親に共振したはずなのだ。

 父親はこのメッセージをもらうために、カウンセリングに出向いたのではないか。他人をこの苛酷な状況にアクセスさせて、自分の卑屈さを相対化させたかった。他者の専門的な判断によって、息子との過熱した行程の中で自らが選択した卑屈な行動が止むを得なかったものであることを、ギリギリの所で確認したかったのではないか。そんな読み方もまた可能であった。

 結局、父親も母親も息子の暴力の前に竦(すく)んでしまったのだ。彼らは単に暴力に怯(おび)えたのではない。権力としての暴力に竦んだのである。DVというものを権力関係というスキームの中で読んでいかない限り、その闇の奥に迫れないであろう。
 
 息子の暴力の心理的背景に言及してみよう。

 以上のケースでの父子関係に、問題がない訳がないからだ。
 
 このケースの場合、ここぞという時に息子に立ち向かえなかった父親の不決断の中に、モデル不在で流れてきた息子の成長の偏在性を見ることができる。立ち向かって欲しいときに立ち向かうべき存在のリアリティが稀薄であるなら、そのような父親を持った息子は、では何によって、一人の中年男のうちに、より実感的な父親性を確認するのだろうか。

 そのとき息子は、長く同居してきた中年男が、どのような事態に陥ったら自分に立ち向かって来るのか、という実験の検証に踏み出してしまうのだろうか。それが息子の暴力だったというのか。DVという名の権力の逆転という構図は、こんな屈折した心象を内包するのか。

 いずれにせよ、これ以上はないという最悪の事態に置かれても、遂に自分に立ち向かえなかった父親の中に、最後までモデルを見出せなかった無念さが置き去りにされて、炸裂した。息子に言われるままに買い物に赴く父親の姿を見て、心から喜ぶ息子がどこにいるというのだろうか。
 
 「あ、これが父親の強さなのだ。やはりこの男は、俺の父親だったんだ」
 
 このイメージを追い駆けていたかも知れない息子の、あまりに理不尽なる暴力の前に、イメージを裏切る父親の卑屈さが晒された。

 卑屈なるものの伝承。

 息子は、これを蹴飛ばしたかったのだ。

 本当は表立った要求などない息子が、どれほど父親を買い物に行かせようとも、それで手に入れる快楽など高が知れている。そこには政治もないし、戦略も戦術も何もない。あるのは、殆ど扱い切れない権力という空虚なる魔物。それだけだ。

 家庭という「箱庭」を完全制覇した息子の内部に、急速に空洞感が広がっていく。このことは、息子の達成目標点が、単に内なるエゴの十全な補償にないことを示している。彼は支配欲を満たすために、権力を奪取したかったのではない。ましてや、親をツールに仕立てることで、物質欲を満たしたかったのではない。

 そもそも彼は、我欲の補償を求めていないのだ。

 彼が求めているのは自我拡大の方向ではなく、いつの間にか生じた自我内部の欠乏感の充足にこそあると言えようか。内側で実感された欠乏感の故に、自我の一連なりの実在感が得られず、そのための社会へのアクセスに不安を抱いてしまうのだ。

 欠乏感の内実とは、自我が社会化できていないことへの不安感であり、そこでの免疫力の不全感であり、加えて自己統制感や規範感覚の脆弱感などである。

 息子が開いた権力関係は、無論、欠乏感の補填を直接的に求めたものではない。もとより欠乏感の把握すら困難であるだろう。ただ、社会に自らを放っていけない閉塞感や、社会的刺激に対する抵抗力の弱さなどから来る落差の感覚が、内側に苛立ちをプールさせてしまっているのである。
 
 何もかも足りない。決定的なものが決定的に足りないのだ。

 その責任は親たちにある。思春期を経由して攻撃性を増幅させてきた自我が、今やその把握に辿り着いて、それを放置してきた者たちに襲いかかって来たのである。

 当然のように、暴力によって欠乏感の補填が叶う訳がなかった。

 そこに空洞感だけが広がった。もはや権力関係を解体する当事者能力を失って、かつて家族と呼ばれた集合体は空中分解の極みにあった。そこには、内実を持たない役割記号だけしか残されていなかったのである。

      
            *        *       *       *

 ここで、権力関係と感情関係について整理してみよう。それをまとめたのが以下の評である。
           
      ↑              感情関係   非感情関係
     関自
     係由   権力関係       @       A
     の度  非権力関係     B       C
       低        
       い          ← 関係の濃密度高い

  
 
 @には、暴力団、宗教団体、家庭内暴力の家庭とか、虐待親とその子供、また大学運動部の先輩後輩、旧商家の番頭と丁稚、プロ野球の監督と選手や、モーレツ企業のOJTなどが含まれようか。

 Aは、パブリックスクールの教師と寮生との関係であり、警察組織や自衛隊の上下関係であり、精神病院の当局と患者の関係、といったところか。

 また、Bには普通の親子、親友、兄弟姉妹、恋人等、大抵の関係が含まれる。

 最も機能的な関係であるが故に、距離を保つCには、習い事における便宜的な師弟関係、近隣関係、同窓会を介しての関係や、遠い親戚関係といったところが入るだろうか。
 
 権力関係の強度はその自由度を決定し、感情関係の強度はその関係の濃密度を決定する。

 ここで重要なのは、権力関係の強度が高く、且つ、感情関係が濃密である関係(@)である。関係の自由度が低く、感情が濃密に交錯する関係の怖さは筆舌し難いものがある。

 この関係が閉鎖的な空間で成立してしまったときの恐怖は、連合赤軍の榛名山ベースでの同志殺しや、オウム真理教施設での一連のリンチ殺人を想起すれば瞭然とする。状況が私物化されることで「箱庭」化し、そこにおぞましいまでの「箱庭の恐怖」が生まれ、この権力の中心に、権力としての「箱庭の帝王」が現出するのである。

 「箱庭」の中では危機は外側の世界になく、常に内側で作り出されてしまうのだ。密閉状況で権力関係が生まれると、感情関係が稀薄であっても、状況が特有の感情世界を醸し出すから、相互に有効なパーソナル・スペースを設定できないほどの過剰な近接感が権力関係を更に加速して、そこにドロドロの感情関係が形成されてしまうのである。そこには理性を介在する余地がなく、恣意的な権力の暴走と、その禍害を防ごうとする戦々恐々たる自我しか存在しなくなる。いかような地獄も、そこに現出し得るのだ。

 ―― この権力の暴走の格好の例として、私の記憶に鮮明なのは、連合赤軍事件での寺岡恒一の処刑にまつわる戦慄すべきエピソードである。

 およそ処刑に値しないような瑣末な理由で、彼の反党行為を糾弾し、アイスピックで八つ裂きにするようにして同志を殺害したその行為は、暴走する権力の、その止め処がない様態を曝して見せた。このような状況下では、誰もが粛清や処刑の対象になり得るし、その基準は、「箱庭の帝王」の癇に障るか否かという所にしか存在しないのだ。

 実際、最後に粛清された古参幹部の山田孝は、高崎で銭湯に入った行為がブルジョア的とされ、これが契機となって、過去の瑣末な立ち居振る舞いが断罪されるに及んだ。山田に関わる「帝王」の記憶が殆ど恣意的に再編されてしまうから、そこに何か、「帝王」の癇(かん)に障(さわ)る行為が生じるだけで、反党性の烙印が押されてしまうのである。

 そしていつか、そこには誰もいなくなる。

 そのような権力関係の解体は自壊を待つか、外側の世界からの別の権力の導入を許すかのいずれかしかない。いずれも地獄を見せられることには変わりがないのだ。

 感情密度を深くした権力関係の問題こそが、私たちが切り結ぶ関係の極限的様態を示すものであった。従って私たちは、関係の解放度が低くなるほど適正な自浄力を失っていく厄介さについては、充分過ぎるほど把握しておくべきなのである。

 ―― 次に、介護によって発生する権力関係について言及してみる。

 ある日突然、老親が倒れた。幸い、命に別状がなかった。しかし後遺症が残った。半身不随となり、発語も困難になった。

 倒れた親への愛情が深く、感謝の念が強ければ、老親の子は献身的に看護し、恩義を返報できる喜びに浸れるかも知れない。その気持ちの継続力を補償するような愛や温情のパワーを絶対化するつもりはない。しかしそのパワーが脆弱なら、老親の子は、看護の継続力を別の要素で補填していく必要があることだけは確かである。

 では、看護の継続力を愛情以外の要素で補填する者は、そこに何を持ち出してくるか。何もないのである。愛情の代替になるパワーなど、どこにも存在しないのである。強いてあげれば、「この子は親の面倒を看なければならない」という類の道徳律がある。しかしこれが意味を持つのは、愛情の若干の不足をそれによって補完し得る限りにおいてであって、その補完の有効限界を逸脱するほどの愛情欠損がそこに見られれば、道徳律の自立性など呆気なく壊されてしまうのである。

 「・・・すべし」という心理的強制力が有効であった共同体社会が、今はない。

 道徳が安定した継続力を持つには、安定した感情関係を持つ他者との間に道徳的実践が要請されるような背景を持つ場合である。親子に安定した感情関係がなく、情緒的結合力が弱かったら、病に倒れた親を介護させる力は、ひとり道徳律に拠るしかない。しかしその道徳律が自立性を失ってしまったら、早晩、直接介護は破綻することになるのだ。

 直接介護が破綻しているのに、なお道徳律の呪縛が関係を自由にさせないでいると、そこに権力関係が生まれやすくなり、この関係をいよいよ悪化させてしまうことにもなるだろう。

 介護の体裁が形式的に整っていても、介護者の内側でプールされたストレスが、被介護者に放擲(ほうてき)される行程を開いてしまうと、無力な親は少しずつ卑屈さを曝け出していく。親の卑屈さに接した介護者は、過去の突き放された親子の関係文脈の中で鬱積した自我ストレスを、老親に向かって返報していくとき、それは既に復讐介護と言うべき何かになっている。

 あれほど硬直だった親が、何故こんなに卑屈になれるのか。

 この親に対して必死に対峙してきた自分の反応は、一体何だったのか。そこに何の価値があるのか。

 何か名状し難い感情が蜷局(とぐろ)を巻いて、視界に張り付く脆弱な流動体に向かって噛み付いていく。道徳律を捨てられない感情がそこに含まれているから、内側の矛盾が却って攻撃性を加速してしまうのだ。この関係に第三者の意志が侵入できなくなると、ここで生まれた権力関係は、密閉状況下で自己増殖を果たしていってしまうのである。

 直接介護をモラルだけで強いていく行程が垣間見せる闇は、深く静かに潜行し、その孤独な映像を都市の喧騒の隙間に炙り出す。終わりが見えない関係の澱みが、じわじわとその深みを増していくかのようだ。

 ―― 或いは、ごく日常的なシーンで発生し得る、こんなシミュレーションはどうだろうか。

 眼の前に、自分の言うことに極めて従順に反応する我が子がいる。
 この子は自分に似て、とても臆病だ。気も弱い。この子を見ていると、小さい頃の自分を思い出す。それが私にはとても不快なのである。

 人はどうやら、自分の中にあって、自分が酷く嫌う感情傾向を他者の中に見てしまうと、その他者を、自らを嫌う感情の分だけは確実に嫌ってしまうようだ。また、自分の中にあって、自分が好む感情傾向を他者の中に見てとれないと、その他者を憧憬の感情のうちに疎ましく思ってしまうのだろう。多くの場合、自分の中にある感情傾向が基準になってしまうのである。

 我が子の卑屈な態度を見ていると、自分の卑屈さを映し出してしまっていて、それがたまらなく不愉快なのだ。この子は、人の顔色を窺(うかが)いながら擦り寄ってくる。それが見え透いているのだ。他の者には功を奏するかも知れないこの子の「良い子戦略」は、私には却って腹立たしいのである。それがこの子には分らない。それもまた腹立たしいのである。

 この子に対する悪感情は、家庭という「箱庭」の中で日増しに増幅されてきた。それを意識する自分が疎ましく、不快ですらある。自分の中で何かが動いている。排気口を塞がれた空気が余分なものと混濁して、虚空を舞っている。

 そんな中で、この子がしくじって見せた。

 他愛ないことだが、私の癇に障り、思わず怒気が漏れた。卑屈に私を仰ぐ我が子の態度が、余計私を苛立たせる。感情に任せて、私は小さく震えるその横っ面を思わず張ってしまった。それが、その後に続く不幸な出来事の始まりとなったのだ。

 以来、我が子の、自らを守るためだけの一挙手一投足の多くが癇に障り、それに打擲(ちょうちゃく)を持って応える以外に術がない関係を遂に開いてしまって、私にも充分に制御できないでいるのである。

 感情の濃度の深い関係に権力関係が結合し、それが密閉状況の中に置かれたら、後は「負の自己完結」→「負の自己未完結」を開いていくような、何か些細な契機があれば充分であろう。

 ここでイメージされた母娘の場合も、父の不在と専業主婦という状況が密室性を作ってしまって、そこに一気に権力関係を加速させるような暴力が継続性を持つに至ったら、殆ど虐めの世界が開かれる。

 虐めとは、身体暴力という表現様態を一つの可能性として含んだ、意志的、継続的な対自我暴力であると把握していい。それ故、そこには当然由々しき権力関係の力学が成立している。

 母娘もまた、この権力関係の力学に突き動かされるようにして、一気にその負性の行程を駆けていく。

 例えば、この暴力は食事制限とか、正座の強要とかの直接的支配の様態を日常的に含むことで、関係の互酬性を自己解体していくが、これが権力関係の力学の負性展開を早め、その律動を制御できないような無秩序がそこに晒される。もうそこには、別の意志の強制的侵入によってしか介入できない秩序が、絶え絶えになってフローしている。親権のベールだけが、状況の被膜を覆っているようである。

 ―― 虐めの問題を権力関係として捉え返すことで、この稿をまとめていこう。

 そもそも、虐められる者に特有な性格イメージとは何だろうか。

 結局、虐められやすい者とは、防衛ラインが堅固でなく、それを外側でプロテクトするラインも不分明で(母子家庭とか、孤立家庭とか)、そのため人に舐められやすい者ということになろうか。

 しかしそこに、少なからぬ経験的事実が含まれることを認めることは、虐めを運命論で処理していくことを認めることと同義ではない。

 虐めとは、意志的、継続的な対自我暴力であって、そこには権力関係の何某かの形成が読み取れるのである。この理解のラインを外せば、虐めの運命論は巷間を席巻するに違いない。

 虐めの第一は、そこに可変性を認めつつも権力関係であること。第二は、対自我暴力であること。第三は、それ故に比較的、継続性を持ちやすいこと―― この基本ラインの理解が、ここでは重要なのだ。

 虐めによる暴力の本質は、相手の自我への暴力であって、それが盗みの強要や小間使いとか、様々な身体的暴力を含む直接、間接の暴力であったとしても、それらの暴力のターゲットは、しばしば卑屈なる相手の卑屈なる自我である。ここを打擲(ちょうちゃく)し、傷つけることこそ、虐めに駆られる者たちの卑屈なる狙いである。

 卑屈が集合し、クロスする。

 彼らは相手の身体が傷ついても、その自我を傷つけなければ、露ほどの達成感も得られない。相手が自殺を考えるほどに傷ついてくれなければ、虐めによる快楽を手に入れられないのだ。対自我暴力があり、その自我の苦悶の身体表現があって、そこに初めて快楽が生まれ、この快楽が全ての権力関係に通じる快楽となるから、必ずより大きな快楽を目指してエンドレスに自己増殖を重ねていく。

 そして、この種の暴力は確実に、そして果てしなく増強され、エスカレートしていく。相手が許しを乞うことで、一旦は暴力が沈静化することはあっても(「負の自己完結」)、却って、その卑屈さへの軽蔑感と征服感の達成による快楽の記憶が、早晩、次のより増幅された暴力の布石となるから、この罪深き関係にいつまでも終わりが来ないのだ。

 虐めというものが、権力関係をベースにした継続的な対自我暴力という構造性を持つということ―― そのことが結局、相手の身体を死体にするまでエスカレートせざるを得ない、この暴力の怖さの本質を説明するものになっていて、この世界の際限のなさに身震いするばかりである。

 「虐め」の問題を権力関係として捉え返すことで、私たちはこの世に、「権力関係の陥穽」が見えない広がりの中で常に伏在している現実を、いつでも、どこでも、目の当たりにするであろう。それが人間であり、人間社会の現実であり、その宿痾(しゅくあ)とも呼ぶべき病理と言えるかも知れない。

 結論から言えば、私たち人間の本質的な愚昧さを認知せざるを得ないということだ。人間が集団を作り、それが特定の負性的条件を満たすとき、そこに、相当程度の確率で権力関係の現出を分娩してしまうかも知れないのである。

 繰り返すが、人間の自我統御能力など高が知れているのだ。だから私たちの社会から、「虐め」や「家庭内暴力」を根絶することは、殆ど不可能と言っていい。ましてや、権力関係の発生を、全て「愛」の問題で解決できるなどという発想は、理念系の暴走ですらあると断言していい。

 しかし、以上の文脈を認めてもなお、「虐め」を運命論の問題に還元するのは、とうていクレバーな把握であるとは思えないのだ。「虐め」が自我の問題であるが故に、その自我をより強化する教育が求められるからである。

 人間は愚かだが、その愚かさを過剰に顕在化させないスキルくらいは学習できるし、その手段もまた、手痛い教訓的学習の中で、幾らかは進化させることが可能であるだろう。少なくとも、そのように把握することで、私たちの内なる愚昧さと常に対峙し、そこから逃亡しない知恵の工夫くらいは作り出せると信じる以外にないということだ。

 人は所詮、自分のサイズにあった生き方しかできないし、望むべきでないだろう。

 自分の能力を顕著に超えた人生は継続力を持たないから、破綻は必至である。まして、それを他者に要求することなど不遜過ぎる。過剰に走れば、関係の有機性は消失するのだ。交叉を失って、澱みは増すばかりとなる。関係を近代化するという営為は、思いの外、心労の伴うものであり、相当の忍耐を要するものであるからだ。

 人は皆、自分を基準にして他者を測ってしまうから、自分に可能な行為を相手が回避する態度を見てしまうと、通常、そこでの落差に人は失望する。どうしても相手の立場に立って、その性格や能力を斟酌(しんしゃく)して、客観的に評価するということは困難になってくる。そこに、不必要なまでの感情が深く侵入してきてしまうのである。

 また逆に、自分の能力で処理できない事柄を、相手が主観的に差し出す、「包容力」溢れる肯定的ストロークに対して、安直に委託させてしまう多くの手続きには相当の用心が必要である。そこに必要以上の幻想を持ち込まない方がいいのだ。自分以外の者にもたれかかった分だけ拡大させた自我の暴走は、最も醜悪なものの一つであると言っていい。そのことの認知は蓋(けだ)し重要である。

 私たちはゆめゆめ、「近代的関係の実践的創造」というテーマを粗略に扱ってはならないということだ。それ以外ではない。
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