テレビは“使命”を思い出し、今こそ福島・辺野古に踏み込め 井筒和幸の「怒怒哀楽」劇場
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/243758
2018/12/15 日刊ゲンダイ
先月も書いた。福島の原発がメルトダウンし、もう8年近いのに、原発の現状ぐらい、テレビで伝えたらどうだと。
「本日も心配をおかけします。今日の3号機の格納容器ですが……、1号機の方はプールから使用済み燃料棒も取り出せてなくて、手がつけられないままです。地元の皆さまおよび日本中に迷惑をおかけしてます」
と、朝ワイドのコーナー司会役ならオレが現地中継でやるから番組作ってみろと、この紙面で各テレビ局に呼びかけたつもりでいたが、冗談に思われたか、いまだ何の出演打診もないままだ。テレビ局っていうところは、東北や福島県で暮らす人のことを、どこまで思いやってるんだろう。多分だ。多分、何も思ってないという気がする。「テレビ屋」の使命って何なんだと、改めて失望してしまう。
その昔、海底トンネルが開通したので、本日が最後の就航となる青函連絡船に、カメラとともに青森港から乗り込んだのが、小生初のリポーター仕事だった。1988年、3月半ばの、雪の降りしきる、忘れられないサヨナラ航路だった。函館まで乗船する人の中に、重そうな荷物を大風呂敷に包んで背負ってきたお婆ちゃんたちが毛糸のほっかむりを頭から巻いて、一隅に寄って座っていた。北海道のことなど何も知らない35歳のオレは、ディレクターが言うまま、顔を隠そうとする婆ちゃんに無遠慮に質問を浴びせた。
「何を運んでるんですか?」と聞いても黙ったままだ。ディレクターが横で、「お米でしょ?」って聞けばと指示した。「このお米、どこに持って行くんです?」と尋ねると、秋田からだという婆ちゃんが居直ったか、
「これはコシヒカリだべ、札幌の寿司屋に買ってもらうべな」
と。もう一人もほっかむりを取り、
「もう明日から『闇米』は運べないし、別にテレビに顔映っていいや。今日は警察に捕まらないさ」
と口を開いてくれた。その直後、取締官が最後の巡回にやってきたので、我らはカメラを止めて隠し、取材のお礼に婆ちゃんの横に並んで座り、知り合いのように話し、彼らが通り過ぎるまで芝居をして、その場をごまかしてあげた。
次の週、テレビは最後の連絡船を放送した。連絡船に愛着のある利用客のお別れコメントを紹介し、「やっぱり、涙の連絡船となってしまいましたよ。感動の旅でした」と、オレもスタジオで締めくくった。
道内の米作りがまだまだの時代。特上米など道内でわずかだった頃、「闇米」を密売するため、体を懸けて渡っていた婆ちゃんの顔は、ワンカットも映らないまま終わった。顔をボカして声だけでも流せばよかったのにとディレクターに言うと、上司から“連絡船は美しく終わらせよう”ということでカットされまして、と言われた。テレビマンよ、今こそ、汚染土がたまり過ぎている福島にも、基地にされる辺野古にも、踏みこんでいく時じゃないのか!
井筒和幸 映画監督
1952年12月13日、奈良県出身。県立奈良高校在学中から映画製作を始める。75年にピンク映画で監督デビューを果たし、「岸和田少年愚連隊」(96年)と「パッチギ!」(04年)では「ブルーリボン最優秀作品賞」を受賞。歯に衣着せぬ物言いがバラエティ番組でも人気を博し、現在は週刊誌やラジオでご意見番としても活躍中。
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— 原発・放射性物質情報 (@radioactive_inf) 2018年12月15日