9. 中川隆[-10920] koaQ7Jey 2019年4月05日 15:16:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1108]
まともな人間は芸術家にはなれない _ 5
E・H・カー著「ドストエフスキー」筑摩書房 筑摩叢書106
ドストエフスキー伝記作家ストラーホフがトルストイに送った手紙の中の一文
「彼はけがらわしさに対する愛好癖があって、それを誇りにしていたのです。
ヴィスコヴァトフがこんな事を語りだした事があるのですが、ドストエフスキーはその家庭教師につれられて自分のもとへやってきた少女と浴場で姦淫したと自慢していたそうです。
( 中略 )
彼に最もよく似通っているのは「地下生活者の手記」の主人公、「罪と罰」のスヴィドリガイロフ、そして「悪霊」のスタヴローギンです。
ソフィヤ・コワレフスカ(ドスト氏が求婚して拒絶されたアンナ・コルビン・クルコフスカヤという女性、の妹)の回想記 〔 ドリーニン編『ドストエフスキー同時代人の回想』(水野忠夫訳。河出書房1966年刊。)に所収。p214。〕 には、ドスト氏自らが、彼ら姉妹の家(その時はその姉妹の母親も同席)で、彼らの前で、思い出して大胆にも告白した言葉
「かつて、夜遅くまでさんざん飲み歩いたあと、酔った仲間たちにそそのかされて、十歳になる○○を○○した」という告白が記されていますが、
( 注:自分の過去の体験のことを告白したのではなく、ドスト氏が構想していた小説の中の一部として、彼女らに紹介した話のようです。) この記述は、かなり信憑性が高いように思います。
アンドレ‐ジイド著『ドストエフスキー』を初め、他の書でも、ドスト氏は、自分が少女を○○したことを、友人や知人の何人かに(なんと、ツルゲーネフにも。) 告白した事実が、ドスト氏の知人が証言したものとして、紹介されている。
http://www.coara.or.jp/~dost/30-5-o.htm
▲△▽▼
ドストエフスキー『悪霊』
彼女の心中には、彼に対する不断の憎悪、嫉妬、軽蔑の気持にまじって、やむにやまれない愛情が秘められていた。夫人は二十二年このかた、塵っぱひとつ彼の身にかからぬようにと、それこそ乳母のように彼の世話をやいてきた。もし問題が、詩人としての、学者としての、市民的活動家としての彼の名声にかかわることででもあれば、夫人は心労のあまり、夜もおちおち眠れないほどであった。彼女は、自分の頭の中で彼を創り出し、その想像の所産をまず自身が真っ先に信じたのである。彼は夫人にとって、いわば夢にもひとしい存在であった……ただしその代償として、夫人は実に多くののことを、時には奴隷的服従をまで彼に要求した。彼女が想像を絶するほど執念深い性格だったこともある。
いかにもシニカルな考えにはちがいない。けれど人間、あまりに高尚になりすぎると、その教養が多面的になるという理由ひとつだけからしても、えてしてシニカルな考え方に陥りがちなものである。
「出発のときのぼくらは腑抜けも同然でしたよ」とステパン氏はよく話してくれた。
彼は、ある力強い思想に打たれると、たちまちその思想に圧倒されて、ある場合には永遠にその影響を抜け出せなくなる、そういった類いの純粋なロシア人の一人であった。こういう連中は、思想を自分なりに消化するということがけっしてできず、ただやみくもにそれを信じこんでしまうので、その後の全人生は、彼らの上にのしかかって、もう半分は彼らを押しひしいでしまった大石の下で、気息奄々と最後のあがきをつづけるといった態のものになるのである。
「ぼくはこの明るい希望に背を向けるようなことは、けっして、けっしてしませんよ」――彼はよく目を輝かして私に言ったものだった。この《明るい希望》の話になると、彼はいつも秘密を明かすようなひそひそ声になり、静かな、陶然とした物言いになった。
「要するに、すべては無為怠惰の産物なんだな。わが国では、どんな立派なよいことも、無為怠惰から生ずる。わが旦那方の、愛すべき、教養ある、気まぐれな無為怠惰からね!ぼくは三万年でもこのことをくり返すな。ぼくらは自分の労働で生活することができないんですよ。それを、連中はなんでまた、わが国に世論が《生れた》なんぞとふれまわるんだろう、――それこそ藪から棒に、天から降ってでも来たんですかね?自分の意見をもちうるためには、何よりもまず労働が、自分自身の労働が、自分自身の手による開拓と実践が必要であることぐらい、連中にもわかりそうなものだが!坐していては何も手にはいりませんよ。労働することによって、はじめて自分の意見がもてる。ところがわれわれはけっして労働しようとしないから、そこで意見のほうも、これまでわれわれに代って働いてくれた連中、つまり、二百年来われわれの教師であった、あいかわらずのヨーロッパ、あいかわらずのドイツ人が、われわれに代ってもってくれるわけです。そこへもってきて、ロシアというやつは、ドイツ人の助けなしで、労働せずして、われわれだけで解きあかすには、あまりにも大きな謎ですからね。だからこそぼくも二十年来、警鐘を鳴らしつづけ、労働を呼びかけているわけです!ぼくはこの呼びかけに生涯をかけて、愚かにも、その効果を信じてきた!いまはもう信じちゃいないが、それでも警鐘は鳴らしつづける、いや、最後まで、死ぬときまで鳴らしつづけまうよ。ぼくの追善供養の鐘が鳴りだすときまでは、綱を引きつづけますよ!」
「ずばり図星ですね。賢い人がいるということは、つまり、ぼくらより正しい人がいるということだから、してみると、ぼくらも誤りを犯すことがありうると、こうなりますね?デモ・トモヨ、かりにぼくが誤っているとしてもですよ、ぼくにはそれでも、自由な良心という全人類的な、永遠の、最高の権利がありますからね。ぼくには、自分の欲するところにしたがって、偽善者や狂信者にならないでいる権利がある、当然、そのためにこの世の終りまで、さまざまな人から憎まれつづけることにはなるでしょうけれどね。ソレニ・コノヨニハ・ドウリヨリ・ボウズガオオイのたとえで、ぼくもこれにはまったく同感ですからね……」
「首を吊りたいなんぞと言っておどかすだろうけれど、本気にするんじゃないよ、みんなたわごとなんだから!本気にしないでもいいけど、やっぱり油断をしてはだめよ、ひょっとして首を吊ってしまわないでもないからね。ああいう人にはよくあることなんだから。力があまって首を吊るのじゃなくて、力が足りなくてそうすることが。だから、いつも最後のぎりぎりのところまでは持っていかないようにしなくちゃ、それが夫婦生活の第一の要諦なんですよ。それから、あの人が詩人だということも忘れるんじゃないよ。いいかい、ダーシャ、自分を犠牲にする以上のしあわせはないんですよ。おまけにおまえはたいへんわたしを喜ばせてくれることになる、そこが大事なところでね。いまわたしの言ったことを口からでまかせだなんて思うんじゃないよ。わたしはちゃんと心得て話しているんだから。わたしはエゴイストだけど、おまえもエゴイストになることさ」
いま、こうして過去を回想する段になると、私としては、彼女が当時の私にそう思えたほどの美人であるとは断言しかねる。もしかすると、彼女は全然美人ではなかったのかもしれない。背が高く、ほっそりとしているくせに、しなやかで強靭な体つきをしていたけれど、彼女の顔立ちは見る人に奇異の感をいだかせるほど均整を欠いていた。目はどこかカルムイク人風に、斜めに吊りあがっていたし、顔は血の気がなく、頬骨が突き出て、浅黒く、痩せていた。だが、それでいてこの顔には、人を征服し、魅了せずにおかない何かがあった!何か力づよいあるものが、彼女の黒ずんだ目の燃えるような輝きのなかにあって、彼女はまさしく《征服者として、また征服せんがために》この世に現われてきたかのようだった。彼女は傲慢に、ときには不遜にさえ見えた。彼女がやさしい女性になりえたときがあったかどうかは知らないが、しかし彼女が無理にも自分を多少ともやさしい女性にしようと熱望し、そのことで苦しんでいたのはたしかである。もちろん、この女性の本性には、多くの美しい願望や正しい意図が秘められているが、しかし彼女の内部のいっさいは、たえず自身の均衡を求めながら、永遠にそれを見いだせないでいる趣があって、いっさいが混沌と、動揺と、不安のただなかに置かれてでもいるようだった。ことによると、彼女は自分に対してあまりに厳格な要求をもちすぎ、その要求を充たすだけの力を自身のうちに見いだしかねていたのかもしれない。
「リプーチンは弱虫か、せっかちか、腹黒いか、でなければ……うらやんでいるんですよ」
最後の言葉は私をぎくりとさせた。
「もっとも、それだけいろいろな定義を並べられたら、どれかに当てはまる道理でしょう」
「あるいはその全部に」
「いや、それもそうかもしれない。リプーチン――あれは混沌ですからね!」
「ぼくのほうは、なぜ人間があえて自殺しようとしないのか、その原因を探求しているんで、それだけのことなんです。でも、こんなことはどうでもいい」
「あえてしないというのは?自殺が少ないというわけでも?」
「非常に少ないですね」
「ほんとうにそうお考えですか?」
彼はすぐには答えず、立ちあがって、何か考えこみながら部屋の中を行ったり来たりしはじめた。
「あなたの考えだと、人間に自殺を思いとどまらせているのは何なのです?」私はたずねた。
私たちが何を話していたのかを思い出そうとでもするように、彼はぼんやりとこちらを見た。
「ぼくは……ぼくはまだよくわかりません……二つの偏見が思いとどまらせていますね、二つのこと。二つきりです。一つはたいへん小さなことで、もう一つはたいへん大きなことです。でも、その小さなことも、やはり大きなことにはちがいない」
「小さなことというと?」
「痛いことです」
「痛いこと?そんなことが重要ですかね……この場合に?」
「いちばんの問題ですよ。二種類の人があって、非常な悲しみや憎しみから自殺する人たち、でなければ気がちがうとか、いや、なんでも同じだけれど……要するに、突然自殺する人たちがいます。この人たちは苦痛のことはあまり考えないで、突然です。ところが思慮をもってやる人たち――この人たちはたくさん考えますね」
「思慮をもってやる人なんかがいるものですかね?」
「非常に多いですね。もし偏見がなければもっと多いでしょう。非常に多い。みんなです」
「まさかみんなとはね」
彼は口をつぐんでいた。
「でも、苦痛なしに死ぬ方法はないものですかね?」
「ひとつ想像しててみてください」彼は私の前に立ちどまった。「大きなアパートの建物ほどもある石を想像してみてください。それが宙に吊るしてあって、あなたはその下にいる。もしそれがあなたの頭の上に落ちてきたら、痛いですかね?」
「建物ほどの石?もちろん、こわいでしょうね」
「ぼくはこわいかどうかを言ってるんじゃない、痛いでしょうかね?」
「山ほどの石、何十億キロのでしょう?痛いも何もあるものですか」
「ところが実際にそこに立ってごらんなさい。石がぶらさがっている間、あなたはさぞ痛いだろうと思って、ひどくこわがりますよ。どんな第一流の学者だって、第一流の医者だって、みんなこわがるにちがいない。だれもが、痛くはないと承知しながら、だれもが、さぞ痛いだろうとこわがる」
「なるほど、では第二の原因は、大きいほうは?」
「あの世です」
「というと、神罰ですか?」
「そんなことはどうでもいい。あの世、あの世だけです」
「でも、あの世なぞまるで信じていない無神論者だっているでしょうに?」
彼はふたたび押し黙った。
「あなたは、たぶん、自分に照らして判断されているんじゃありませんか?」
「だれだって自分に照らしてしか判断できませんよ」彼は赤くなって言った。「自由というのは、生きていても生きていなくても同じになるとき、はじめてえられるのです。これがすべての目的です」
「目的?でも、そうなったら、だれひとり生きることを望まなくなりはしませんか?」
「ええ、だれひとり」彼はきっぱりと言いきった。
「人間が死を恐れるのは、生を愛するからだ、ぼくはそう理解しているし」と私が口をはさんだ。「それが自然の命ずるところでもあるわけですよ」
「しれが卑劣なんです、そこにいっさいの欺瞞のもとがあるんだ!」彼の目がぎらぎらと輝きだした。「生は苦痛です、生は恐怖です、だから人間は不幸なんです。いまは苦痛と恐怖ばかりですよ。いま人間が生を愛するのは、苦痛と恐怖を愛するからなんです。そういうふうに作られてもいる。いまは生が、苦痛や恐怖を代償に与えられている、ここにいっさいの欺瞞のもとがあるわけです。いまの人間はまだ人間じゃない。幸福で、誇り高い新しい人間が出てきますよ。生きていても、生きていなくても、どうでもいい人間、それが新しい人間なんです。苦痛と恐怖に打ちかつものが、みずから神になる。そして、あの神はいなくなる」
「してみると、いまは神がいるわけですね、あなたの考えだと?」
「神はいないが、神はいるんです。石に痛みはないが、石からの恐怖には痛みがある。神は死の恐怖の痛みですよ。痛みと恐怖に打ちかつものが、みずから神になる。そのとき新しい生が、新しい人間が、新しいいっさいが生まれる……そのとき歴史が二つの部分に分けられる――ゴリラから神の領域までと、神の領域から……」
「ゴリラまでですか?」
「地球と、人間の肉体的な変化までです。人間は神になって、肉体的に変化する。世界も変るし、事物も、思想も、感情のずべても変る。どうです、そのときは人間も肉体的に変化するでしょう?」
「生きていても、生きていなくても同じだということになったら、みんな自殺してしまうだろうし、それが変化ということになりますかね」
「それはどうでもいい。欺瞞が殺されるんです。最高の自由を望む者は、だれも自分を殺す勇気をもたなくちゃならない。そして自分を殺す勇気のある者は、欺瞞の秘密を見破った者です。その先には自由がない。ここにいっさいがあって、その先には何もないんです。あえて自分を殺せる者が神でう。いまや、神をなくし、何もなくなるようにすることはだれにもできるはずです。ところが、だれもまだ一度としてそれをしたものがない」
「いや、きみ、きみはまた一つ別の傷口にさわってくれましたね、きみの友情にあふれた指で。この友情にあふれた指というのはえてして残忍なものでね、時には理不尽でもある、いや、失礼、でも、信じてはもらえないだろうけれど、ぼくはあのこと、あの汚らわしい話のことはほとんど忘れていたんですよ、つまりね、けっして忘れていたわけじゃないが、リーズのところにいた間じゅう、ぼくは幸福になろうとつとめえちた、おれは幸福なんだと自分に言いきかせていたんですよ。しかし、いまは……ああ、いまぼくの頭にあるのは、あの心の大きな、人道的な、ぼくの醜い欠点をじっと忍んでくれる夫人のことなんですね、いや、じっと忍んでくれるばかりでもないけれど、だいたいぼく自身がこんな男だもの、空疎な、醜い性格の持主だもの!そう、ぼくはわがままな子供ですよ、子供のエゴイズムはそっくりもちあわせているくせに、無邪気なところだけはない子供なんだな。あの人は二十年間、乳母のようにぼくの面倒を見てきてくれた、リーズの上品な呼び方を借りれば、あのおかわいそうな伯母さまはね……ところが二十年たったら、突然この子供が結婚したいと言いだした、結婚させてよ、結婚させてよ、とつぎからつぎへと手紙を書く、あの人のほうは頭を酢で冷やす騒ぎだ……で、とうとうその願いがかなって、今度の日曜には妻帯者の誕生ということになる、冗談じゃないですよ……」
「かわいそうに、きみは女性を知らないんですよ、ところがぼくはひたすら女性の研究をしてきたんですからね。『全世界を征服せんと欲すれば、まずおのれ自身に勝利せよ』――これは、きみの同類のロマンチストであるシャートフ君、ぼくの義兄が吐いた唯一の名言ですよ。この言葉をぼくは喜んで彼から借用したいですね。そこでぼくもいよいよ自分に勝利する決心がついて、結婚するわけだが、全世界はさておき、ぼくが征服できるのは何ですかね?ねえ、きみ、結婚というのは、誇りをもった人、独立心に燃える人にとっては、つねに精神的な意味での死ですよ。結婚生活はぼくを堕落させて、事業に奉仕するための精力も勇気も吸いとってしまうでしょうよ。それで、子供でもできれば……いや、もしかしたら、自分のではなくて、なに、知れたこと、ぼくの子供じゃない。賢い人は事実を直視することを恐れないからね……リプーチンはさっきバリケードを築いてニコラスを寄せつけるなと勧めていたが、あれはばかですよ、リプーチンは。女というものは、千里眼のような眼光の持主でもあざむきおおせるからね。ゼンリョウナル・カミハ、女を創られるにあたって、もちろん、どんな結果になるかご存知だったろうけれど、ぼくの信じているところでは、そのとききっと女のほうが邪魔を入れて、あんなふうに……つまり、ああいう属性をもったものに創らせたのだと思いますね。でなくて、だれがあんな七面倒くさい仕事をただで引受けたりするものですか?ナスターシャはきっと、こんな自由思想を聞いたら腹を立てるだろうが……要するに、スベテ・オワレリですよ」
私はこれまで人間の顔にこれほどまでの暗さ、陰気さ、鬱陶しさを見たことがない。彼の顔つきは、まるで世界の崩壊を待ってでもいるふうだった。それも不確かな、かならずしも実現するとはかぎらない予言を信じて待っているのではなく、あくまでも正確に、たとえば、明後日の午前十時二十五分きっかりにそうなるといった待ち方なのである。
「ロシアの無神論は駄洒落の域を出たことがないんです」消えかかった蝋燭を新しいのに代えながら、シャートフがつぶやいた。
「いや、彼は駄洒落なんて柄じゃないと思いますね。洒落どころか、満足に話もできない感じですよ」
「紙でできた人間なんです。何もかも思想の下男根性のせいですよ」隅のほうの椅子に腰をおろし、両手を膝についた格好で、シャートフは冷静に言った。
「憎悪もあるんだな」しばらく黙っていてから、彼はまた口を切った。「もしロシアが何かこうふいに改革されて、まあ、あの連中の方式でもいいけれど、何かこうふいに途方もなく豊かで幸福な国になったとしたら、真っ先におそろしく不幸になるのはあの連中でしょうね。そうなったら、あの連中、憎悪の対象も、唾を吐きかける相手も、嘲弄する相手もなくなるんだから!あの連中にあるのは、ロシアに対する動物的な、際限のない憎悪、体質にまでなってしまった憎悪ですよ……目に見える笑いのかげにひそむ、世人には見えない涙なんてものはありやしない!あの目に見えぬ涙うんぬんくらいそらぞらしい言葉は、かつてロシアで言われたためしがないな!」彼は狂暴とも思える声で絶叫した。
「人間は自分の心の高潔さだけから死ぬことができるものでしょうか?」
「存じませんね、わたし、そんな質問を自分にしてみたことがありませんから」
「ご存じない!こういう質問をご自分になさったことがない!!」大尉は皮肉たっぷりに叫んだ。「もしそういうことなら、そういうことなら――
望みなき心よ、黙すがよい!
ですな!」こう言うと彼は自分の胸を荒々しく叩いた。
彼はすでにふたたび部屋の中を歩きまわりはじめていた。自分の欲望をどうにもこらえられないのが、こういう連中の特徴である。それどころか、この連中は、いったん何かの欲望が生じると、それがどんなに醜悪なものであっても、ただいにそれをぶちまけてしまいたい衝動を抑えられない。よそゆきの席に出ると、この手合いはたいてい最初はおずおずとしているが、ほんのわずかでもこちらが下手に出ようものなら、たちまちがらりと態度を変えて、厚顔不遜そのものになる。
「ですから、もしいつもニコラスの身近に(ワルワーラ夫人はもう半ば歌うような調子になっていた)、もの静かな、謙虚さこのうえもないホレーショのような友がついていたら――ステパンさん、これもあなたの使われたすばらしい言葉ですわ、――おそらくあの子は、生涯あの子をさいなみつづけた憂鬱な、そして『発作的な皮肉の悪魔』からもうとっくに救われていたにちがいありません(この皮肉の悪魔というのも、ステパンさん、あなたの発明ですのよ)。でもニコラスには、ホレーショもオフェリアもいたためしがありませんでした。あの子についていたのは母親ひとりでしたけれど、母親ひとりで、しかもあんなことになってしまったら、いったい何ができたでしょう?ねえ、ピョートルさん、わたしはニコラスのような人間が、あなたの話してくだすったような不潔な貧民窟に出入りするようになったわけが何か、わかりすぎるくらいわかってきましたの。わたしの目には、その《冷笑的》な生活というのが、(ほんとにぴったりした言い方ですわ!)飽くことを知らない反対極(コントラスト)への渇望が、ピョートルさん、またあなたの言い方を借用させていただくと、あの子がダイヤモンドのように見えるというその陰鬱な背景が、まざまざとうかんでくるようですの。そして、ほかでもないそういう場所で、あの子はみなから辱められているかたわの狂女、けれど、崇高そのもののような心をもった女性にめぐり合ったのです!」
「というと、悪ければ悪いほどいいという意味なんですね、わかりますよ、奥さん、ぼくにもわかりますよ。つまりそれは宗教なんかで言うのと同じことでしょう。人間の生活が苦しければ苦しいほど、また一国の民衆が虐げられ、貧しくあればあるほど、天国での酬いを夢見る気持ちはますます強くなってくる、しかもそこへもってきて、十万人もの坊主どもが、懸命になってその夢を焚きつけ、それをたねにひと儲けをたくらもうとするんですからね……ぼくにはあなたのおっしゃることがよくわかりますよ、ワルワーラさん、安心してください」
「いえ、どうもすこしちがうようですけど、でも、聞かせていただけません、どうしてニコラスはあの不幸なオルガニズム(ワルワーラ夫人がなぜここで《オルガニズム》という言葉を使ったのか、わたしにはわからなかった)がいだいた空想の火を消すために、どうして自分もあの女を笑いものにしたり、ほかの役人たちと同じような態度をあの女に取ったりしなければならなかったんでしょう?あなたはニコラスのもっていた気高い同情の気持ち、全オルガニズムの崇高な戦慄を否定なさいますの?それあればこそニコラスがふいにきっとなって、『ぼくはあの女を笑いものにしているのじゃない』とキリーロフさんに答えたのじゃありませんか。なんと崇高な、神聖な答えでしょう!」
けれど真実の、疑いようもない悲しみというものは、稀に見るほど浅薄な人間をも、たとえわずかの間にもせよ、意志堅固なしっかりした人物に帰ることがあるものである。いや、そればかりか、むろん、一時だけのことだが、これは明らかに悲しみの特質なのだ。
もう一度読者に断っておきたいが、ニコライ・スタヴローギンはけっして恐怖心を表にあらわさない性質の人間であった。決闘で冷静に相手の発射を待ち受けることもできれば、ゆっくりと狙いを定めて、野獣のように冷静に相手を殺すこともできた。もしだれかに頬をなぐられたりすれば、相手に決闘を申し込むまでもなく、その場で無礼者を叩き殺してしまいそうにも思えた。彼はまさしくそういう人間で、人を殺すにも完全に意識を保ったままやってのけ、けっして我を忘れてするというふうではない。私の感じでは、彼は一度として、分別も何も失うほどの盲目的な怒りの発作にかられたことはないようにさえ思われる。時として際限のない憎悪におそわれることはあったが、その場合でも彼はつねに自制を失わず、したがって、決闘以外で人を殺せば確実に徒刑送りになることを心得ていた。それでいて彼は、なんの躊躇もなく無礼者を殺すことができるのである。
「すべてです。人間が不幸なのは、自分が幸福であることを知らないから、それだけです。これがいっさい、いっさいなんです!知るものはただちに幸福になる。その瞬間に。あの姑が死んで、女の子が一人で残される――すべてすばらしい。ぼくは突然発見したんです」
「でも、餓死する者も、女の子を辱めたり、穢したりする者もあるだろうけれど、それもすばらしいのですか?」
「すばらしい。赤ん坊の頭をぐしゃぐしゃに叩きつぶす者がいても、やっぱりすばらしい。たたきつぶさない者も、やっぱりすばらしい。すべてがすばらしい、すべてがです。すべてがすばらしいことを知る者には、すばらしい。もしみなが、すばらしいことを知るようになれば、すばらしくなるのだけれど、すばらしいことを知らないうちは、ひとつもすばらしくないでしょうよ。ぼくの考えはこれですべてです、これだけ、ほかには何もありません」
「ぼくは自分を尊敬してほしいのです、要求します」シャートフは大声を張りあげた。「ぼくの人格に対してじゃない、そんなものは糞くらえだ、そうじゃなくて、ほかのことです、いまこうしている間だけでもいい、ほんの数言いう間だけでもいい……ぼくらは二つの存在だけれど、それが無限の中で一体になったのです……世界のいまわに。あなたの話しぶりを変えて、人間的なものにしてください!せめて生涯に一度なりと人間の声で話してください。ぼく自身のためじゃない、あなたのためです。いいですか、ぼくはあなたの顔をなぐったけれど、そのことによってあなたに自分の無限の力を認識させる機会を提供したんですからね、この理由ひとつからでもぼくを許してくれなければいけませんよ……あなたはまた例のいやらしい社交的な微笑を浮かべるんですね。ああ、いつになったらあなたはぼくのことをわかってくれるんだろう!その坊っちゃん面をやめてください!ぼくがこれを要求している、要求しているんだということをわかってください、でなけりゃ、ぼくは話したくない、どんなことがあったって話しやしない!」
「いかなる国民も」と、彼はまるで書いたものを読むように、それでいてあいかわらずすさまじい目つきでスタヴローギンを見つめながら話しはじめた。「いかなる国民もいまだかつて科学と理性に基づいて存在したためしはない。ほんの一般的に、ばかげた気の迷いでそうなったのを別にすれば、そんな実例は一度としてなかった。社会主義はその本質からいってすでに無神論たるべきものである。なぜなら社会主義は、まず開口一番、それが無神論的な制度であって、科学と理性は諸国民の生活においてはつねに、現在も、また天地開闢以来、たんに第二義的な、副次的な役割を果たしてきたにすぎない。世界の終末のまでこのことは変らないだろう。諸国民を組織し、動かしているのは、命令的で支配的な別の力であるが、この力の起原は不明であり、説明不可能である。この力はあくことなく究極に到達しようとする願望の力であると同時に、この究極を否定する力でもある。これはおのれの存在をたえまなく、倦むことなく確認し、死を否定する力である。それは生の精神、聖書が『生ける水の流れ』と説き、その枯渇を『黙示録』が警告してやまないものである。哲学者に言わせれば、それは美の原理であり、哲学者自身が同一視しているように、同時にそれは道徳の原理でもある。私はそれを最も簡潔に《神の探究》と呼ぶ。一国民の全運動の目的は、いかなる国民においても、またその国民の存在のいかなる時期においても、ただ一つの神の探究、自身の神、ぜひともおのれ自身の神の探究でしかありえないし、またその神を唯一真実のものとして信仰することでしかありえない。神は一国民の起原から終末にいたるまでの全体を代表する総合的人格である。すべての国民、と言わぬまでも多くの国民が一つの共通の神をもっていた例はいまだかつてなく、つねにそれぞれの国民が独自の神をもっていた。神が共通のものになりはじめるのは、国民性の滅亡の前兆である。神が共通のものとなれば、神も神への信仰も、その国民自身とともに死滅する。一国民が強力であればあるほど、その神は独自である。宗教をもたぬ国民、つまり善悪の観念をもたぬ国民はいまだかつてなかった。あらゆる国民が善悪についてのおのれの観念をもち、おのれの善悪をもっていた。多くの国民の間で善悪の概念が共通なものになりはじめると、国民は死滅し、善悪のけじめそのものも摩滅し、消え去っていく。理性はかつて善悪を規定しえたことがないし、たとえ近似的にでも善悪を区別しえたことさえない。それどころか、いつもぶざまな、みじめな混同をやってきた。科学にいたっては、力づくの解決しかもたらさなかった。この点でとくにきわだっているのは半科学であって、今世紀まではまだ知られていなかったけれど、これは疫病や飢餓や戦争よりもひどい、人類に対する最も恐るべき鞭である。半科学――それは今日までまだ現われたこともないような専制者である。この専制者は、おのれの神官と奴隷をもち、すべての者が、これまで考えられもしなかったような愛と迷信をいだいてその前にひざまずき、科学そのものさえもその前ではふるえおののいて、恥ずかしげもなくそのご機嫌をとり結ぶ。これはみんなあなた自身の言葉なんですよ、スタヴローギン、半科学についての言葉だけは別だけれど。これはぼくの言葉です、なぜならぼく自身が半科学でしかないから、当然、とりわけ強くそれを憎悪しているんです。あなたの思想については、いや言葉そのものについてさえ、ぼくは何ひとつ変えちゃいません、一言も」
「変えなかったのは思いませんね」スタvyローギンが用心深く口をはさんだ。「きみは熱烈に受け入れて、それとは気づかず、熱烈にそれを別物にしてしまったのですよ。きみが神を民族のたんなる属性に引きおろしてしまった一事からだけでもそう言える……」
彼は何か特別に注意をこらして、ふいにシャートフを注視しはじめた。彼の言葉というより、むしろ彼自身をである。
「神を民族の属性に引きおろした?」シャートフは絶叫した。「反対です、国民を神にまで引きあげたんです。だいたい、いあっまでにそうでなかったことがありますか?国民は神の肉体です。あらゆる国民は、自身の独自の神をもち、この世のあらゆる神を妥協なく排除するかぎりにおいてのみ国民なのです。自身の神によって他のすべての神を征服し、世界から追放できると信じているかぎりにおいてのみ、国民なのです。開闢以来、どの国民もそう信じてきました。すくなくとも大国民、多少なりとも名を知られ、人類の先頭に立った国民はすべてそうでした。事実を無視して進むことはできません。ユダヤ人は真実の神を待ちおおせ、真実の神を世界に残すためにのみ生存したのです。ギリシャ人は自然を神と化して、世界に自身の宗教、つまり哲学と芸術を残しました。ローマ人は国家の中の国民を神化して、諸国民に国家を残した。フランスは、その長い歴史を通じて、ローマの神の理念を具現し、発展させたにすぎなかった。そして、ようやくそのローマの神を深淵に投げ捨てたと思ったら、今度は無神論に突っ走った、それをいま彼らは社会主義と呼んでいるのです。それも、無神論のほうがローマ・カトリックよりまだしも健全であるからという、それだけの理由からにすぎない。もし大国民が、自分たちだけに(まさしく自分たちだけにです)真理があると信じられないようなら、もし自国民だけが自身の真理によって他国民を蘇生させ、救済する使命をもつと信じられないようなら、その国民はたちまち人類学上の資料になりさがって、大国民ではなくなってしまう。真の大国民はけっして人類における二流の役割に甘んずることはできないし、一流の役割にさえ甘んじられない。どうあってもかならず第一の役割でなければならないのです。この信念を失ったものは、もはや国民ではない。しかし真理は一つですから、したがって、諸国民の間でただ一つの国民だけが真実の神をもつことができる。なるほど他の諸国民も自分たち独自の偉大な神をもってはいますがね。《神の体得者》である唯一の国民――それはロシア国民です、そして……そして……スタヴローギン、いったいあなたはぼくをそれほどのばかだと思っているのですか」彼はふいに逆上した声で叫んだ。
「ちょっと話のついでに、奇妙に思っていることを言っておきますがね」突然スタヴローギンが口を入れた。「なぜみなが、その旗とやらをぼくに押しつけようとするのですかね?ピョートル・ヴェルホーヴェンスキーも、やはりぼくが『彼らの旗をかかげる』ことのできる男と思いこんでいるのですよ、すくなくとも、あの男の言葉として聞かされました。あの男は、ぼくが『異常な犯罪能力』をもっていて、――これもあの男の言葉ですがね、――彼らのためにステンカ・ラージンの役どころを引受けられると信じきっているんですよ」
「なんですって?」とシャートフがきいた。「『異常な犯罪能力』ですって?」
「そのとおりです」
「ふむ。で、あれはほんとうなんですか、あなたが」彼は毒々しい微笑を浮かべた。「ほんとうなんですか、あなたがペテルブルグで、獣的な好色秘密クラブの会員だったというのは?サド侯爵でさえ、あなたには兜を脱いだだろうというのは?幼い子供を誘惑して、堕落させていたというのは、ほんとうなんですか?言ってください、嘘を言ったら承知しませんよ」彼は、ほとんど我を忘れたように叫んだ。「ニコライ・スタヴローギンが、自分の顔をなぐったシャートフの前で嘘をつくわけにはいかんのです!何もかも言ってください、そして、もしそれがほんとうなら、ぼくはいますぐ、この場で、あなたを殺してやる!」
「そういうことは言ったけれど、子供たちを辱めたのはぼくじゃない」スタヴローギンはこう言ったが、それはすこし長すぎる沈黙の後だった。彼は青ざめ、その目がきらきらと輝きだした。
「でも、言いはしたんですね!」ぎらぎらする目を相手の顔から離さず、シャートフは高飛車につづけた。「あなたがこう言ったとかいうのはほんとうですか、何か好色な、獣的な行為と、たとえば人類のために生命を犠牲にするような偉業との間に、美の差異を認められないと断言したというのは?あなたがこの両極のなかに美の一致、快楽の同一性を見いだしたというのはほんとうですか?」
「そう言われると返事ができませんね……返事をしたくない」スタヴローギンは、いかにも立ちあがって出ていきたそうな様子を見せながらこうつぶやいたが、立ちあがりもせず、出ていきもしなかった。
「なぜ美が醜く、善が美しいのかは、ぼくにもわからないんです。でもぼくは、この差異の感覚が、なぜスタヴローギンのような人では摩滅され、失われていくのかはわかるんです」シャートフは全身をふるわせながらもあとへは退かなかった。「いったい、どうしてあなたはあのとき、あれほど醜悪で下劣な結婚をしたんです?ほかでもない、あの場合、醜悪と無意味さが天才の域に達したからなんです!おお、あなたは端のほうから手さぐりでそろそろ行くほうじゃなくて、いきなり頭からどまんなかへとびこむほうなんです。あなたは苦悩を求める情熱から、良心を責めさいなみたい情熱から、精神的な情欲から結婚したんです。あの場合は神経的な発作だったんです……常識に挑戦するのがたまらなく誘惑的だったんです!スタヴローギンと、醜い、半気違いの、貧しいびっこの女!あなたが知事の耳をかじったとき、あなたは情欲を感じましたか?感じたでしょう?のらくらの極道坊ちゃん、感じたでしょうが?」
レビャートキン大尉は飲んだくれることだけはやめていたが、やはり均衡のとれた状態とはほど遠いように見えた。こういう年季のはいった酔っぱらいは、必要とあrば人並みに嘘もつくし、悪知恵も働かせ、人をペテンにかけもするが、長年のうちにはどことなくピントのはずれた、ぼけたようなところ、何ひとつ心棒の抜けたような、気違いじみたところが固定化して、容易に抜けなくなるものなのである。
「ぼくの見るところ、大尉、きみはこの四年間、まるで変っていないねえ」ニコライはいくらかやさしい調子でこう言った。「どうやら、ほんとうのことらしいな、人間の後半生はふつう前半生に蓄積された習慣だけから成り立つというのは」
「高遠なお言葉ですなあ!あなたは人生の謎を解いてしまわれる!」なかば悪ふざけ気味に、またなかばは、警句の大好きな男であるだけに、事実、いつわらぬ喜悦にもひたりながら、大尉は叫んだ。「ニコライさま、あなたの口にされたお言葉の中で、とりわけ私の記憶に焼きついているものがございますよ。まだペテルブルグにいらしたころ、『常識に反してまで自分の立場をつらぬくためには、真に偉大な人間である必要がある』とおっしゃいました。これでございます!」
「と同時に、ばかである必要もね」
「ぼくはスタヴローギンのためにならないことは、いっさいきみにさせませんからね」客を送りだしながら、キリーロフはつぶやいた。こちらは驚いて彼を見返したが、何も答えなかった。
「進行?いとも簡単ですよ。ひとつ笑わせてあげましょうか。まずおそろしくきくのが――肩書きなんです。肩書きぐらい強力なものもないな。ぼくはわざと官等や職務を考案していますよ。秘書あり、秘密監視官あり、会計官あり、議長あり、書記あり、その代理ありといったわけでね――こいつはえらくお気に召して、大歓迎でしたよ。つぎに強力なのは、もちろん、センタリズムです。なにしろロシアに社会主義が広まったのは、主としてセンチメンタリズムのせいですからね。ところがそこで困ったのが、例の噛みつき少尉みたいな連中ですよ。ちょっと油断していると、たちまちとびだしてくるのでね。で、そのつぎはほんもののペテン師連中です。いや、これはいい連中でね、時には大いに役に立ちますよ、そのかわりこの連中には時間をくいましてね、なにしろいっときも目が離せないんだから。そこで、最後に、最大の力――すべてを結合するセメントはですね、――これは自分自身の意見に対する羞恥心です。こいつはまさしく強力だな!まったくだれの頭にも自分自身の思想というものがなんいも残らなくなたっとは、いったいだれの働きですかね、どこの《かわいい人》の骨折りですかね!まるで恥だと思っているんですからね」
「きみはいま、サークルがどういう力から成り立っているか、指折りかぞえてみせましたね。その官僚制とかセンチメンタリズムとかは、たしかに立派な糊にはちがいないけれど、もっといいものが一つある。つまり、サークルの四人のメンバーをそそのかして、あとの一人のメンバーを、密告の恐れがあるとかなんとか言って、殺させるんです。そうすればきみはたちまち、その流された血によって、一つ絆で結んだようにあとの四人を硬く結束させられる。きみの奴隷になりきって、謀反を起こすどころか、説明を求めることもしなくなりますよ。は、は、は!」
「古くさいとはなんです?偏見を忘れることは、その偏見がどんなに罪のないものであろうと、古くさいことじゃありませんよ、それどころか、恥ずかしいことに、いまだに新しいことじゃないですか」椅子から猛然と身を乗り出すようにして、女子学生が即座にやり返した。「それに、罪のない偏見なんて存在しないんです」彼女はむきになってつけ加えた。
「彼はですね、問題の最終的解決策として、人類を二つの不均等な部分に分割することを提案しているのです。その十分の一が個人の自由と他の十分の九に対する無制限の権利を獲得する。で、他の十分の九は人格を失って、いわば家畜の群れのようなものになり、絶対の服従のもとで何代かの退化を経たのち、原始的な天真爛漫さに到達すべきだというのですよ、これはいわば原始の楽園ですな、もっとも、働くことは働かなくちゃならんが。人類の十分の九から意志を奪って、何代もの改造の果てにそれを家畜の群れに作り変えるために著者が提案あいておられる方法はきわめて注目すべきものであり、自然科学にのっとったきわめて論理的なものです」
「どうです、スタヴローギン、山をならして平地にする――いい考えでしょう、滑稽どころじゃなき。ぼくはシガリョフ支持ですね!教育なんていらないし、科学もたくさんだ!科学なんぞなくたって、千年くらいは物質に不足しませんからね、それほり服従を組織しなくちゃ。この世界に不足しているのはただ一つ――服従のみですよ。教育熱なんぞはもう貴族的な欲望です。家族だの愛だのはちょっぴりでも残っていれば、もうたちまち所有欲が生じますしね。ぼくらはそういう欲望を絶滅するんです。つまり、飲酒、中傷、密告を盛んにして、前代未聞の淫蕩をひろめる。あらゆる天才は幼児のうちに抹殺してしまう。いっさいを分母で通分する――つまり、完全な平等です」
「スタヴローギン、きみは美男子ですよ!」ピョートルはもう陶然となりながら叫んだ。「きみは自分が美男子だということを知っていますか!きみのいちばんいいところは、きみがどうかするとそのことを忘れている点なんです。ああ、ぼくはきみを研究しましたよ!ぼくはよく横のほうから、物陰からきみを眺めるんです!きみには純真なところ、ナイーヴなところまでありますね、わかってますか?まだある、まだ残っているんです!きみはきっと苦しんでいますね、それも心から苦しんでいるにちがいない、それはきみの純真さのためです。ぼくは美を愛するんですよ。ぼくはニヒリストだが、美を愛するんです。だいたいニヒリストは美を愛さないでしょうか?いや、彼らが愛さないのは偶像だけですよ、ところがぼくは、偶像も愛するんだな!で、ぼくの偶像はきみなんです!きみはだれを侮辱するわけでもないのに、きみはみなから憎悪されている。きみは万人を平等に見ているのに、きみはみなから恐れられている、そこがいいところなんですよ。きみのそばへやってきて、なれなれしく肩を叩こうなんて者はだれもいない。きみはおそろしいアリストクラートなんです。デモクラートをめざすアシストクラートなんて、こいつは魅力的じゃないですか!きみは自分の生命だろうと、他人の生命だろうと、そんなものを犠牲にするくらい屁でもない。きみはまさしく打ってつけの人物なんだな。ぼくに、ぼくに必要なのは、ほかでもない、きみのような人間なんですよ。きみのほかには、ぼくはそういう人をだれも知りません。きみは頭領です、きみは太陽です、ぼくなんかきみの蛆虫ですよ……」
彼はだしぬけにスタヴローギンの手に接吻した。悪寒がスタヴローギンの背を走り、彼はぎくりとしてその手を引っこめた。二人は足を止めた。
「気違い!」スタヴローギンはつぶやいた。
「イワン皇子。つまり、きみですよ、きみなんですよ!」
スタヴローギンはしばらく考えていた。
「僭称者の?」彼はふいにこうたずね、逆上せんばかりになっている相手を深い驚きに打たれてみつめた。「ほう!それがきみの計画だったんですね」
「ぼくらはね、皇子は《身をかくしておられる》と触れまわるんです」愛のささやきにも似た小声でヴェルホーヴェンスキーは言った。事実、何かに酔ってでもいるようだった。「きみにはわかりますか、《身をかくしておられる》というこの言葉の意味が?けれど皇子はかならず現われる、かならずなんです。ぼくらは去勢宗徒の連中よりはもうちっと気のきいた伝説を流しますよ。皇子は実在する、だがだれも彼を見たものがない。ああ、すばらしい伝説が流せるだろうな!ともかく、肝心なのは――新しい力が来るという確信なんです。その新しい力こそが必要なんで、みなはそれを待ちこがれて泣きださんばかりなんです。社会主義には何があります、旧い力は破壊したが、新しい力はもたらさなかった。ところがぼくらのは力です、それも、いままで聞いたこともないようなすばらしい力です!地球を持ちあげるためには、ほんの一度だけ梃子をぐいとやればいいんですよ。そうすりゃ、何もかも持ちあがるんです!」
「気が乗らない、そんなことだろうと思ってたよ!」相手は、狂暴な憎悪の発作にかられて叫んだ。「いや、そいつは嘘だな、やくざで、色狂いで、変態貴族のお坊ちゃん、狼みたいに食欲のあるきみがまさかと思いますね!わかってくださいよ、いまやきみのほうがはるかに分がいいのに、それでもぼくはきみをあきらめられないんだから!きみ以外にはこの世界にだれもいないんですよ!外国にいたころにもう、ぼくはきみを思いついたんですよ、きみを見ているうちに、きみを思いついたんです。もし物陰からきみを見ていなかったら、こんな考えは頭にうかびっこなかったんです……」
「ねえ、きみ、これは偉大な思想のためにすることなんだ」明らかに言いわけのためらしく、彼は私に言った。「貴君、ぼくはね、二十五年間居ついた地点から腰をあげて、ふいに動きだすんだよ、どこへかは知らない、しかしぼくは動きだすんだ……」
「わたし、あなたに白状しないといけないけど、まだスイスにいたころから、こんな考えがこびりついているんです。あなたの心には何か恐ろしい、よごれた、血にまみれたものがあって……そのくせ、何かあなたをおそろしく滑稽に見せるものがあるって。だから、もしほんとうなら、わたしに告白なさるのはあおよしになったほうがいいわ。わたし、あなたを笑いものにしますから。あなたを一生涯笑いものにするでしょうから……あら、またお顔が青くなったのね。やめるわ、やめるわ、すぐ出ていくわ」彼女は嫌悪と軽蔑の入りまじった動作で椅子からとびあがった。
「ぼくを苦しめてくれ、ぼくを罰してくれ、ぼくに憎悪をぶつけてくれ」彼は絶望にかきくれて叫んだ。「きみには十分にその権利がある!きみを愛していないくせに、きみを破滅させたことを、ぼくは知っているんだ。そうだよ、『僕は瞬間を自分の手に残しておいた』んだ。ぼくは希望をもっていた……ずっと以前から……最後の希望をもっていた……きみがきのう自分から、ひとりで、進んでぼくの部屋にはいってきたとき、ぼくは、自分の心を照らし出した光明にさからうことができなかった。ぼくはふいに信じてしまった……ことによると、いまでも信じているのかもしれない」
「でも、どうしてひざまずいたりなさいますの?」
「世界に別れを告げるにあたって、きみの内なるぼくの過去のいっさいに訣別したいんですよ!」彼はふいに泣きだして、彼女の両手を涙に濡れた自分の目に押し当てた。「ぼくは、生涯の美しかったすべての前にひざまずいて、接吻して、感謝するんです!ぼくはいま自分を真二つに引き裂いてしまった。向こうにいるのは――二十二年間、空へ翔けのぼることばかりを空想していた狂人!ここにいるのは――打ちひしがれ、凍えきった老家庭教師です……」
彼の話は全体に曖昧で、辻褄が合わなかった。それは、狡猾さとはゆかりのない人間が、誠実な人柄であるだけに、山ほどの誤解を一時に解かねばならない苦しい羽目に立たされて、不器用な正直者の悲しさ、どこからどうはじめてどう締めくくればいいのか、自分でも思案にあまっているような趣があった。
彼は深い物思いに沈んでいた。彼は一時に二つのことができた――うまそうに食いながら、瞑想に沈むのである。
シャートフは部屋の反対側、五歩ばかり離れたところに、彼女と向かい合って立ち、おずおずとながら、何か生まれ変わりでもしたように、これまでについぞない輝きを顔に浮かべて、彼女の言葉に耳を傾けていた。髪の毛をいつもさかだてている、この気性のはげしい、人づきの悪い男が、ふいに柔和そのもののようになって、顔つきまで晴ればれとしてきた。彼の心の中で、何か思いもかけぬ異常な感覚がうごめいた。三年の別離、破れた結婚生活の三年も、彼の胸から何ひとつ葬り去ることはできなかったのだ。ことによったら、彼はこの三年の間、毎日のように彼女にあこがれ、かつて自分に「愛してるわ」と言ってくれたこのかけがえのない人のことを夢に見ていたのかもしれない。シャートフを知っているものとして、私は断言できるが、彼はだれかほかの女性が自分に「愛してるわ」と言ってくれようなどとは、夢にも考えることができなかった。彼は奇怪なくらい純真で、恥ずかしがりやで、自分のことをひどい醜男と考え、自分の顔や自分の性格を憎悪して、市場の立つときにあちこちで見世物にされる怪物同然に自分を考えていた。こういうことの結果として、彼は潔癖さを何よりも重んじ、狂信的なくらい自分の信念に忠実で、陰気くさく、傲慢で、怒りっぽく、無口な男になっていた。ところがいま、彼を二週間のあいだ愛してくれたこのただ一人の女性(このことを彼はいつどんなときでも信じていた!)――彼女のあやまちをそれなりに冷静に受けとめながらも、それでも自分よりははかり知れぬほど高い人間だといつも思いこんできた女性(このことはもう疑問の余地もなかった、いや、それどころか、むしろその反対で、彼の考えによると、彼女に対しては何につけ、悪いのはすべて自分ということになってしまうのだった)、――そういう女性、すなわち、ほかならぬマリア・シャートワが、ふいにまた彼の家に現われ、彼の前にすわっているのである……これはもうほとんど理解を絶したことであった!彼にとってはかり知れぬほどの恐ろしさと、同時にはかり知れぬほどの幸福感とが含まれているこの出来事に、彼はあまりにもはげしい衝撃を受け、むろんのこと、彼はもう正気に返ることもできなかった。いや、ひょっとすると、彼は正気に返ることを望まず、恐れていたのかもしれない。
「人間はまず徐々に、本を読むことを習い覚える、もちろん、何世紀もかかってさ。ところが、本そのものはたいしたものじゃないと考えて、乱暴に扱ったままそこらにほうりだしておく。製本というのはもう本に対する尊敬を意味していてね、たんに本を読むのが好きになっただけじゃなく、それを一つの仕事と認めたことのしるしなのさ。ロシアはまだその段階まで達していないね。ヨーロッパはもうだいぶ前から製本しているけど」
「ペダンチックだけど、なかなか気のきいた意見だし、三年前を思い出すわ。三年前にも、どうかするとずいぶん機知があったわ」
「おお、マリイ!この三年の間にどれほどいろいろのことがあったか、知ってもらえたらなあ!あとから聞いたことだけど、きみはぼくが転向したと言って、ぼくを軽蔑したそうだね。しかし、ぼくが見捨てたのはだれだろう?生きた現実生活の敵、自立を恐れる時代おくれのリベラリスト、思想の下男、個性と自由の敵、死屍と腐肉の老いぼれた宣伝者どもだよ!やつらのところに何がある?老衰と、中庸精神と、俗物臭ふんぷんたる、あさましいばかりの無能無才ぶり、ねたみがましい平等主義、自身の尊厳を忘れた平等主義、下男の考えるような、九三年のフランス人が考えたような平等主義だ……それよりひどいのは、どこへ行っても人非人、人非人、人非人ばかりということだ!」
「そうよ、人非人がうようよしてる」切れぎれな、病的な口調で彼女が言った。
「なんて……かわいい……」彼女は微笑を浮かべ、弱々しい声で言った。
「ふっ、なんて顔をしてるの!」得意満面のアリーナが、シャートフの顔をのぞきこみながら、陽気に笑った。「ほんとに、この人の顔ったら!」
「浮かれてくださいよ、アリーナさん……偉大な喜びなんだから……」マリイは赤ん坊について言ったたった二言で、もう輝きわたらんばかりになったシャートフは、しあわせそのもののめでたい表情でつぶやいた。
「何がいったい偉大な喜びなの?」せわしなく後片付けをし、それこそ懲役囚のように立ち働きながら、アリーナは陽気に言った。
「新しい生の出現の神秘ですよ、大きな、説明のつかない神秘ですよ、アリーナさん、これがあなたにわからないとは残念だな!」
シャートフは熱に浮かされたように有頂天で、とりとめもないことをつぶやいた。何かが彼の頭の中でぐらつき、意志とはかかわりなく、おのずと胸からあふれ出てくるようだった。
「二人しかいなかったところへ、ふいに第三の人間が、新しい魂が生まれる。人間の手ではけっしてできないような、完璧に完成された魂がです。新しい思想と新しい愛、恐ろしいみたいだ……世界にこれ以上すばらしいものはない!」
「まあ、くだらない。有機体の生成発展というだけで、神秘なんて何もありゃしないじゃないの」アリーナは心から愉快そうに笑った。「そんなことを言っていたら、蝿一匹も神秘になってしまう。でもね、余計な人間は生まれる必要がないんでしょうね。まず、そういう人たちがよけいでなくなるように、何もかも作り直して、それから子供を生むことですね。でなけりゃ、この子だってあさってには養育院へ連れていかれる……もっとも、そうするのが当然でしょうけれどね」
「あなたにはすっかり笑わされたわ。あなたからお金なんてもらいませんよ。夢にまで笑わされちゃうわ。今夜のあなたくらい滑稽な人は見たこともない」
彼女は大満足の態で引きあげた。シャートフの顔つきと、その話しぶりからして、この男がであることは、白日のようにあきらかだった。
「もし神があるとすれば、すべての意志は神のもので、ぼくはその意志から抜け出せない。もしないとすれば、すべての意志はぼくのもので、ぼくは我意を主張する義務がある」
「我意?でもどうして義務なんです?」
「なぜなら、すべての意志がぼくの意志になったから。この地上に、神を滅ぼして我意を信じ、最も完全なる点まで我意を主張する人間は一人もいないではないか。ちょうど貧乏人に遺産がころげこんだが、それを自分のものにする力はないと思いこんで、金袋に近寄る勇気が出ないのと同じで。ぼくは我意を主張したい。たとえ一人きりだろうと、ぼくはやってみせる」
「まあ、やってください」
「ぼくには自殺の義務がある、なぜなら、ぼくの我意の頂点は、自分で自分を殺すことだから」
「しかし、きみだけが自殺するわけじゃない。自殺者はたくさんいますよ」
「理由がある。ところが、なんの理由もなく、ただ我意のためのみに自殺するのは、ぼく一人なのだ」
ピョートルはまたちらと考えた。
「いいですか」彼はいらだたしげに口を入れた。「ぼくがきみの立場だったら、我意を示すためには、自分じゃない、だれかほかの人間を殺しますね。それなら役に立てますよ。もし怖気づかないようなら、だれを殺せばいいか教えましょうか。それなら、きょう自殺しなくてもいい。相談に乗ってもいいですよ」
「他人を殺すのは、ぼくの我意の最低点だし、そこにきみのすべてがある。ぼくはきみじゃない。だから最頂点を欲して、自分を殺す」
ピョートルは心中、憎々しげにつぶやいた。
「ぼくは自分の不信を宣言する義務がある」キリーロフは部屋を歩きまわった。「ぼくにとって神がないという思想以上に高いものはない。人類の歴史がぼくに味方している。人間がしてきたことといえば、自分を殺さず生きていけるように、神を考え出すことにつきた。これまでの世界史はそれだけのことだった。ぼくひとりが、世界史上はじめて神を考え出そうとしない。永遠に記憶にとどめるがいい」
ピョートルは不安になった。
「ほんとうらしく思わせるには、できるだけ曖昧に書く必要があるんです、つまり、これですよ、こんなふうにちらとほのめかすんです。真実というやつは、端のほうをちらと垣間見せて、人の気持をそそるのが手なんですよ。人間というやつは、他人に欺かれるよりは、いつも自分で自分を欺くものでね、むろん、他人よりは自分の嘘のほうをよけいに信ずるものなんですよ、これがいちばん、これがいちばんなんですね!」
彼はひどく沈んだ気持で家に戻った。ピョートルがこんなふうに突然、彼らをおいて発ってしまったことが気がかりなのではなかった……ではなくて、あの若い伊達男から声をかけられたとき、彼があんなふうにくるりと自分に背を向けてしまったこと、それより……「じゃ、いずれまた」などではなく、もっと別の言い方がありそうなものではないか、でなければ……でなければ、せめて手なりともうすこし強く握りしめてくれたら。
この最後のことが何より重大であった。彼の哀れな胸を、何か別種のものがかきむしりはじめた。それが何であるかは、まだ自分でもよくつかめなかったが、それは昨夜のことに関係した何かであった。
「みなさん」と彼は言った。「ぼくにとって神が欠かせない存在であるのは、それが永遠に愛することのできる唯一の存在であるからなのです……」
ほんとうに彼が神を信ずるようになったのか、それともいま取行われた秘蹟の荘厳な儀式が彼の心を揺り動かして、生来の彼の芸術家的な感受性を目ざめさせたのか、それはともかく、彼ははっきりとした口調で、また伝えられるところによると、大きな感動をこめて、これまでの彼の信条とは真っ向から背馳するような言葉をいくつか口にしたようである。
「ぼくにとって不死が欠かせないのは、神が不正を行うのを望ます、またぼくの胸の中にひとたび燃え上がった神への愛の火をまったく消し去ることを望まれないという理由によるものです。愛より尊いものがあるでしょうか?愛は存在よりも高く、愛は存在の輝ける頂点です。だとしたら、存在が愛に従わないなどということがありうるでしょうか?もしぼくが神を愛し、自分の愛に喜びをおぼえているとするなら――神がぼくの存在をも、ぼくの愛をも消し去って、ぼくらを無に変えてしまうなどということがありうるでしょうか?もし神が存在するとすれば、このぼくも不死なのです。コレガ・ボクノ・シンコウコクハクデス」
「自分自身より限りなく正しく、かつ幸福なものが存在しているのだとたえず考えるだけで、ぼくの心はもう言い知れない感動と、それから――栄光に充たされるのです。おお、このぼくがたとえ何者だろうと、ぼくが何をしようと、それはもうどうでもいい!人間にとっては自分一個の幸福よりも、この世界のどこかに万人万物のための完成された、静かな幸福が存在することを知り、各一瞬ごとにそれを信じることのほうが、はるかに必要なことなのです……人間存在の全法則は、人間が常に限りもなく偉大なものの前にひれ伏すことができたという一事につきます。もし人間から限りもなく偉大なものを奪い去るなら、人間は生きることをやめ、絶望のあまり死んでしまうでしょう。無限にして永遠なるものは、人間にとって、彼らがいまその上に住んでいるこの惑星と同様、欠かすべからざるものなのです……友よ、すべての、すべての人たちよ、偉大なる思想万歳!永遠にして無限なる思想万歳!人間は、だれであれ、偉大なる思想の現れであるものの前にひれ伏す必要があるのです。どんな愚かな人間にも、なんらかの偉大なものが必要です。ペトルーシャ……ああ、ぼくはあの連中みんなともう一度会いたい!彼らは知らない、知らないんです、彼らの中にも同じく永遠にして偉大なる思想が蔵されていることを!」
私はいたるところで自分の力をためした。これはあなたが、《自分を知るため》にと私に勧めてくれたことだ。自分のため、また他に見せるためにそれをためしてみたとき、この力は、これまでの全生涯を通じてそうであったように、限りもないものに思えた。あなたの目の前で、私はあなたの兄の頬打ちを忍んだ。私は皆の前で結婚を告白した。しかし、この力を何に用いるべきなのか――それが私にはついにわからなかったし、またスイスであなたの承認を受け、私がそれを真に受けたにもかかわらず、いまもってわからない。私はいまもって、いや、以前も常にそうだったのだが、善をなしたいという欲望をいだくことができ、そのことに満足感をおぼえる。と並んで悪をなしたいという欲望をもいだき、そのことにも満足感をおぼえる。しかし、そのどちらの感情も依然として常に底が浅く、かつて非常にのあったためしがない。私の欲望はあまりに力弱く、みちびく力がない。丸太に乗ってなら河を横切ることができるが、木っぱに乗ってではだめだ。これは、私がなんらかの希望をいだいてウリイへ行くのでないかなどと、あなたが考えないために書いておくことだ。
私は従来どおりだれを咎めることもしない。私は大きな淫蕩を試み、それに力を消耗しもした。けれど私は淫蕩を好まないし、欲しもしなかった。あなたはこのところ私を注意深く見守っていた。私が、あのいっさいを否定する同志たちをさえ、彼らのもつ希望に対する羨望から、煮えくりかえるような思いで眺めていたことをご存知だろうか?しかし、あなたの心配は杞憂だった。あの連中となんの共通点ももたぬ私が、同志になれるはずもなかったのだ。冷やかしのためにも、また憎悪の気持からも、やはりできなかった。それも自分の滑稽さを恐れたからではなく、――私は滑稽さを恐れたりはしない、――私がなおまともな人間の習性をもっていて、嫌悪感を感じたからである。しかし、彼らに対してより大きな憎悪と羨望をもっていたならば、おそらく、私は彼らと行をともにしたことだろう。そのほうがどれほど私にとって楽なことだったか、私がどれほど思い悩んだか、察してほしい!
私はけっして理性を失うことができないし、彼ほどに思想を信ずることもできない。私はそこまで思想に関心をいだくことさえできない。けっして、けっして私はピストル自殺などできはしない!
私は、自分がいっそ自殺すべきである、いやしい虫けらのようにこの地上から自分を掃き捨てるべきであることを知っている。しかし私は自殺がこわい、なぜなら心の広さを示すことを恐れるからだ。あたしはそれがまたしても欺瞞であるだろうこと、無限につづく欺瞞の列の最後の欺瞞であるだろうことを知っている。心の広さを演じて見せるためだけに自己をあざむいて何になろう?私の内部には憤怒と羞恥はけっして存在しえないだろう。したがって、絶望も。
ニコライ・スタヴローギンが首を吊った丈夫な絹紐は、明らかにあらかじめ吟味して用意されていたものらしく、一面にべっとりと石鹸が塗られていた。すべてが覚悟の自殺であること、最後の瞬間まで意識が明晰に保たれていたことを物語っていた。
町の医師たちは、遺体を解剖したうえで、精神錯乱説を完全に、そして強く否定した。
スタヴローギンの告白――チホンのもとにて
「でも、神を信じないで、悪霊だけを信じることができますかね?」スタヴローギンが笑った。
「おお、できますとも、どこでもそんなものです」チホンは目をあげて、にこりとした。
「あなたはそういう信仰でも、完全な無信仰よりはまだしもと認めてくださるでしょうね……」スタヴローギンはからからと笑った。
「それどころか、完全な無神論でさえ、世俗的な無関心よりはましです」一見、屈託もなげなさっぱりした調子でチホンは答えた〔が、それでも用心深く、不安そうな様子で客のほうをうかがっていた〕。
「ほほう、そうですか、〔いや、あなたにはまったく驚かされますね〕」
「完全な無神論者は、〔なんと申しても、やはりなお〕完全な信仰に至る最後の階段に立っておりますからな(その最後の一段を踏みこえるか否かは別として)。ところが無関心な人は、愚かな恐怖心以外には何ももっておらない、いや、それとても、感じやすい人が、時たま感じる程度で」
私の考えでは、この文書は病気のなせるわざ、この人物に取りついた悪霊のなせるわざである。はげしい痛みに苦しんでいる人間が、ほんの一瞬でも苦痛を軽減できる姿勢を見いだそうとして、ベッドの中でもがきまわる姿に、これは似ている。軽減できないまでも、せめて一瞬なりと、以前の苦痛を他の苦痛で置き換えようとするのである。こうなるともう、当然のことであるが、その姿勢の美しさとか合理性とかは問題にもならない。この文書の基本思想は――罰を受けたいという恐ろしいばかりの、いつわらぬ心の欲求であり、十字架を負い、万人の眼前で罰を受けたいという欲求なのである。しかも、この十字架の欲求が生まれたのが、ほかでもない十字架を信じない人間のうちにであったこと。――「これだけでもすでにれっきとした思想ですよ」とは、かつてステパン氏が、もちろん、別の機会にであるが、いみじくも喝破した言葉である。
これまでの生涯にすでに何度かあったことであるが、私は、極度に不名誉な、並はずれて屈辱的で、卑劣で、とくに、滑稽な立場に立たされるたび、きまっていつも、度はずれな怒りと同時に信じられないほどの快感をかきたてられてきた。これは犯罪の瞬間にも、また生命に危険の迫ったときにもそうなのである。かりに私が何か盗みを働くとしたら、私はその盗みの瞬間、自分の卑劣さの底深さを意識することによって、陶酔を感じることだろう。私は卑劣さを愛するのではない(この点、私の理性は完全に全きものとしてあった)、ではなくて、その下劣さを苦しいほど意識する陶酔感が私にはたまらなかったのである。
こんなことを書くのは、この感情がいまだかつて私を全的に征服しつくしたことがなく、常に意識が全きままに残っていたことを、みなに知ってもらいたいためである(しかり、すべてが意識のうえにこそ成り立っていたのだ)。そして、ときに分別を失うほどまで、いや、というより、滅茶苦茶なほどにその感情に支配されることはあったが、われを忘れるということは一度もなかった。それが私の内部で火そのもののようになっていっても、私は同時にそれを完全に支配することができたし、その絶頂で押しとどめることさえできた。もっとも、自分から抑えようと思ったことは一度もない。私は生まれつき獣的な情欲をさずけられ、またっつねにそれをかきたててきはしたが、一生涯、修道僧のように暮すこともできただろうと確信している。私は、その気になれば、常に自分の主人であった。だから、知ってほしいのだが、私は環境とか病気のせいにして、私の犯罪の責任をのがれようとは思わないのである。
すべてが終ったとき、彼女は困惑していた。私は彼女の気をしずめることもしなかったし、もう愛撫することもしなかった。彼女はおずおずとしたほほえみを浮べながら、私を見つめていた。彼女の顔が私には急に愚かしいものに思われた。彼女はすみやかに、一刻ごとに、ますますはげしい当惑にとらえられていった。とうとう彼女は両手で顔を覆い、壁のほうへ顔を向けて片隅に立ち、動かなくなった。私は、彼女がまたさっきのようにおびえだすのを恐れて、無言で家を出た。
考えるのに、彼女にとってはこの出来事のいっさいが、決定的に、死の恐怖さえともなって、かぎりもなく醜悪なことと自覚されたに相違ないようである。彼女にしても、ロシア語独特の卑猥な罵言は、もう襁褓のころから耳にしていたにちがいないし、そのほかの怪しげな話も聞いていたはずなのだが、にもかかわらず私は、彼女がまだなんの理解ももっていなかったと確信している。おそらく、彼女は最後には、自分が想像もつかないような罪を犯し、その罪には死に値するほどの責任がある、つまり、と感じたのであろう。
「犯罪には真に醜いものがある。犯罪は、どのようなものであれ、血が多く流れ、醜悪さが度を加えるにつれて、ますます印象的な、いわば絵画的なものとなる。だが、この世には、秀作さなど通りこして、まことに恥ずべき、不名誉な犯罪がある、あまりにも優雅ならざるとでも言いましょうか……」
チホンは最後までは言わなかった。
「つまり」とスタヴローギンは興奮にかられて引き取った。「あなたは、きたならしい少女の手に接吻したときのぼくの姿が滑稽だと言われるのですね……それならよくわかりますし、だからこそあなたはぼくに絶望されたのですね、醜く、醜悪だと、いや、醜悪というのではなく、恥ずかしく、滑稽なことだと、そしてあなたは考えられるわけです。ぼくがこのすべてを持ちこたえられるはずがないと」
チホンは黙っていた。〔スタヴローギンの顔が青ざめ、ゆがんだようだった。〕
何より大きかったのは、私が恐れていたこと、そして、そのことを私が意識していたことであった。おお、これ以上に不合理な、いやらしいことがあるだろうか!私はそれまで恐怖心をいだいたことがなかったし、この場合を別にすれば、一生涯、それ以前も、それ以後もそうだった。しかし、このときだけは、私は恐怖を感じたし、文字どおりの意味でふるえてさえいた。私はそのことを、屈辱感をおぼえながら、力のかぎり意識していた。もしできるなら、私は自分を殺しただろう。しかし私は、自分が死にも値しないと感じた。もっとも、私が自殺しなかったのはそんなことのためではなく、恐ろしかったからである。恐怖心から自殺する者もあるが、恐怖心から生きながらえる者もある。人間、自殺する決心がにぶりはじめると、そのこと自体が考えられなくなってくるものだ。そればかりでなく、その晩、自分のアパートで、私は彼女に対してたまらない憎悪を感じ、殺してしまおうと決意したほどだった。翌朝、私はそのつもりでゴロホワヤ街へ出かけていった。私はその道々、自分が罵言を浴びせながら、彼女を殺すさまを想像していた。何より私の憎悪がかきたてられるのは、彼女の微笑を思い出すときであった。彼女が何かを想像しながら私の首につびついてきたことに対して、私の胸には軽蔑感をどうにもならない嫌悪感が生れた。しかし、フォンタンカ河まで来て、私は気分が悪くなった。そのうえ私はある新しい恐ろしい考えが、それを意識していたからこそ恐ろしいのだが、胸にうごめくのを感じた。戻ってくると、私は悪寒にがたがたふるえながら横になった。けれど、恐怖はもう最高の程度にまで達して、もう少女を憎悪することもなくなってしまった。私はもう殺そうとは思わなかった。そしてこれこそが、フォンタンカで意識した新しい考えであったのだ。そのとき、生れてはじめて、私は、最高度にまで達した恐怖が、完全に憎悪を、いや、侮辱者に対する復讐心をさえ追いのけてしまうということを感じた。
「自分のことを見るがよい、とあなたは言われるが、あなた自身は、その人たちをどのような目でごらんになるのかな?あなたはその人たちの憎悪を期待し、それにまさる憎悪で答えようとしておられる。あなたの告白のある部分は文章の力で強められている。あなたはご自分の心理にいわばうっとりされて、実際にはあなたのうちに存在しない非情さや無恥で読む者を驚かせようとしておられる。その反面、邪悪な情欲や怠惰の習慣があなたを実際に非情な、愚鈍な人間にしていることもある」
「愚鈍は悪徳にあらず」スタヴローギンは苦笑して、顔色を青くした。
「ときには悪徳です」チホンはひたむきに、熱っぽくつづけた。「戸口の幽霊によって致命的な傷を受け、そのために苦しんでおられながら、あなたのこの文書では、あなたの最大の犯罪が何であり、あなたがその裁きを求めておられる人々に対して何を最も恥じなければならないのか、ご自分でもよくわかっておられないらしい。あなたによって犯された暴行の非情さをか、それとも、その際に現われた臆病さをか?ある個所では、あなたは読む者に向かって、少女の脅すしぐさがもはやあなたにとって《滑稽》ではなく、たまらなく恐ろしいものであったとさえ、確言しようと急いでおられる。だが、してみると、それはほんの一瞬にせよ、あなたにとって《滑稽》だったのですかな?そのとおり、滑稽だったのですな、私は証言してもよろしい」
チホンは口をつぐんだ。彼の話しぶりには、もう自制の色がまったく見えなかった。
http://d.hatena.ne.jp/asaibomb/touch/20110918/p2
▲△▽▼
ドストエフスキー『白痴』
「あたし今酔ってますの、将軍、」
ナスターシャ・フィリッポヴナはいきなり笑い出した、
「あたし浮かれ騒ぎたいわ! 今日はあたしの日、あたしのたった一度のお祭りの日、あたしの閏の日、あたしこれを長いこと待ってたのよ。
ダーリヤ・アレクセーエヴナ、ごらんなさいよ、この花束紳士、ほらこの monsieur aux camelias [椿の紳士]、ほら座ってあたしたちを笑ってる・・・」
「私は笑っていません、ナスターシャ・フィリッポヴナ、私はただ非常に注意して聞いています」とトーツキーは重々しく応酬した。
「あーあ、何のためにあたし、まる五年その人を苦しめて解放してあげなかったのかしら! それに値する人かしら!
単にああいう人なのがあたりまえだったってこと・・・
むしろあたしがあの人に対して罪がある、ってあの人思ってるのよ。教育だって受けさせたし、伯爵夫人みたいに養ったし、お金だって、お金だって、どれだけかかったか、立派な夫をあっちにいた時も見つけてくれたし、こっちでもガーネチカをね。
あんたどう思うかしら、あたしこの五年あの人と暮らさないで、お金だけは取って、それが正しいって思ってたのよ! まったくあたしどうかしてたのね!
あんた言ったわね、いやなら十万取った上で追い出せって。 確かにいやだけど・・・
あたしだってとっくに結婚できたし、それもガーネチカじゃないけど、それだってもうすごくいやだった。 それになんのためにあたし、あたしの五年間を意地悪なんかで失ってしまったんでしょう!
ねえ信じられる、あたし四年前に時々考えたの。 もうほんとにアファナシー・イワノヴィチと結婚しちゃだめかなって。 あたしその時は悪意でそう考えたの。 その頃はどんなことだって頭に浮かんだものよ。
あら、ほんとよ、こっちが無理強いすればね! 自分からにおわしていたことだし。
あんた信じない?
確かにあの人、嘘をついてたんだけど、そりゃもうすごい欲張りで我慢できないからよ。それから、まあありがたいことに考えついたわ。
あの人、そんな意地悪をする価値があるかしら!
するとその時急にあの人がいやになってね、あっちから求婚してきたって、するもんじゃないわ。 それでまるまる五年、あたしはお高くとまってた。
いいえ、もう街角に立った方がいい、それがあたしには当然なのよ!
でなきゃラゴージンと浮かれ騒ぐか、でなきゃ明日には洗濯女になるわ!
だってねえ、あたしには自分の物は何もないのよ。
行くわ、何もかもあの人に投げつけて、最後のぼろきれまで捨てて、それで何もないあたしを誰がもらってくれる、 ほら、ガーニャに訊いてごらんなさいな、もらってくれるかどうか?
あたしなんかフェルディシチェンコももらってくれないわ!・・・」
「フェルデシチェンコはもしかするともらいません、ナスターシャ・フィリッポヴナ、僕は率直な人間です、」
フェルディシチェンコがさえぎった、
「かわりに公爵がもらいます! あなたはそこで座って泣いていますが、ちょっと公爵を見てごらんなさいよ! 僕はもうずっと観察してますが・・・」
ナスターシャ・フィリッポヴナは公爵に好奇の目を向けた。
「本当?」と彼女は尋ねた。
「本当です」と公爵はささやいた。
「もらってくれるの、このまま、手ぶらで!」
「もらいます、ナスターシャ・フィリッポヴナ・・・」
公爵は、悲しげな、厳しい、鋭い目つきで、相変わらず彼を眺め回しているナスターシャ・フィリッポヴナを見つめた。
「ほらまた現れたわよ!」
彼女は不意に、再びダーリヤ・アレクセーエヴナの方を向いて言った。
「ともかくほんとに優しい心からなのよ、あたし知ってるんだから。
篤志家を見つけたわ! ああでも、ほんとうかもしれないわね、この人のことをほら・・・あれだって。
どうやって暮らしていくの、もしほんとにそんなに夢中になって、ラゴージンの女を、自分のその、公爵夫人にするって言うなら?・・・」
「僕がもらうのは立派ななあなたです、ナスターシャ・フィリッポヴナ、ラゴージンのものじゃありません」
と公爵は言った。
「立派ってあたしのこと?」
「あなたです。」
「ああ、それはどこか・・・小説の中のこと!
それはねえ、公爵さん、昔の空想。
現代では世の中利口になって、そんなのはみんなナンセンスなのよ!
それに何で結婚するの、あんたには自分にまだ乳母が必要よ!」
公爵は立ち上がり、おずおずとした震える声ではあるが、同時に深い信念を持った様子で話した。
「僕は何も知りません、ナスターシャ・フィリッポヴナ、僕は何も見たことがありません、おっしゃる通りです、
が、僕は・・・僕は思うんです、あなたは僕の、僕があなたのではなく、名誉です。 僕はつまらないものですが、あなたは苦しんで、そんな地獄から汚れなく現れた、これは大変なことです。
なぜあなたは自分を恥じてラゴージンと出かけようとするんです?
それは熱病です・・・ あなたはトーツキーさんの七万を返したし、
すべて、ここにあるものすべてをなげうつと言いますが、そんなことはここでは誰一人しません。
僕はあなたを・・・ナスターシャ・フィリッポヴナ・・・愛します。
僕はあなたのために死にます、ナスターシャ・フィリッポヴナ・・・
僕は誰にもあなたのことで何か言わせません、
ナスターシャ・フィリッポヴナ・・・僕たちが貧乏したら、僕が働きましょう、ナスターシャ・フィリッポヴナ・・・」
____________
「聞いてる、公爵、」
ナスターシャ・フィリッポヴナは彼に話しかけた、
「あんなふうにあんたのフィアンセを下種が売り買いしてるわよ。」
「酔ってるんです」と公爵は言った。
「あの人はあなたをすごく愛しています。」
「それであんた後で恥ずかしくならないかしら?
あんたのフィアンセは危うくラゴージンと行ってしまうところだったのよ。」
「それは熱のせいです。あなたは今も熱があって、熱に浮かされているようです。」
「それと後であんた、あんたの女はトーツキーの愛人だったって言われて恥ずかしくない?」
「いいえ、恥ずかしくありません・・・あなたは自分の意志でトーツキーさんの所にいたのではありません。」
「では決して責めない?」
「責めません。」
「ナスターシャ・フィリッポヴナ、」公爵は静かに、同情するように言った、
「あなたが今、取り返しのつかないほど自分を破滅させようとしたのは、あれから決して自分を許そうとしないからです。あなたには何の罪もないことなのに。
あなたの人生がすっかりもう滅びたなんてはずはありません。
誇り高いあなたですが、ナスターシャ・フィリッポヴナ、でも、あるいはあなたはもう、不幸せのあまり、本当に自分が悪いと思っているかもしれません。
あなたには充分ないたわりが必要です、ナスターシャ・フィリッポヴナ。
僕があなたをいたわりましょう。
僕はさっきあなたの写真を見て、よく知っている顔を認めたような気がしました。
僕にはすぐに、その時まるであなたが僕を呼んでいるかのように思われました・・・
僕・・・僕はあなたを一生大切にします、ナスターシャ・フィリッポヴナ。」
「ありがとう、公爵、今まで誰も私にそう言ってくれなかった、」
ナスターシャ・フィリッポヴナは言った、
「私は売り買いされるばかりで、結婚はまだ誰一人ちゃんとした人は申し込んでくれなかったわ。
お聞きになった、アファナシー・イワノヴィチ?
公爵の言ったこと、あなたにはどう思われたでしょう?
あまり慎みがないかしらねえ・・・
ラゴージン!あんた行くのはちょっとお待ちよ。
でもあんた、どうやら行きゃしないわね。
もしかしたらあたし、まだあんたと一緒に出かけるかもしれないわよ。
あんたどこへ連れて行くつもりだったの?」
「エカテリンゴフですよ」と、隅からレーベジェフが告げたが、ラゴージンは身震いひとつすると、自分を信じかねるように一心に見つめていた。
彼は頭を強打したかのように、すっかり麻痺していた。
「まああんたどうしたの、あんたどうしたのよ、ねえ!
ほんとに発作を起こしてるんじゃないの。 それとも気が違ったの?」
ダーリヤ・アレクセーエヴナはびっくりして飛び上がった。
「あらあんた本気にしてたの?」
ナスターシャ・フィリッポヴナは笑いながらソファから飛び上がった。
「こんな赤ちゃんをめちゃめちゃにしちゃうわけ? それならちょうどアファナシー・イワノヴィチがいるじゃない。 あの人はね、小さな子が大好きなのよ。
行くわよ、ラゴージン! 自分の包みを持って!
結婚したいってのもかまわないけど、そのお金はやっぱりちょうだいね。
あたしはまだあんたと一緒にならないかもしれないわ。
あんたはさ、結婚もするつもりだけど、包みも手元に残ると思ってたんでしょ?
ばかね! あたしだって恥知らずよ!
あたしはトーツキーの愛人だったのよ・・・
公爵!
あんたに今必要なのはアグラーヤ・エパンチナであって、ナスターシャ・フィリッポヴナじゃないの、でないとフェルディシチェンコに後ろ指さされることになるわ!
あんたは怖くなくたって、あたしはあんたをだめにしてそれを後であんたに責められるのが怖いの! それにあんたは堂々とあたしがあんたに名誉を与えるって言ってくれたけど、それについちゃトーツキーさんがよく知ってるわ。
それとアグラーヤ・エパンチナといえば、ガーネチカ、あんた取り逃がしたわね、あんたそれわかってる? あんたが駆け引きしたりしなければ、あの人きっとあんたと一緒になったわ!
あんたがたはみんなそんなふう。
相手にするなら恥ずべき女か、立派な女か、どちらかひとつよ!
でないときっとごたごたするから・・・見て、将軍たら、口をぽかんと開けて見てる・・・」
「こりゃソドムだ、ソドムだ!」と将軍は肩をすくめながらつぶやいた。
彼もソファから立ち上がった。
再び皆が立ち上がっていた。
ナスターシャ・フィリッポヴナは狂乱状態のようだった。
「まさか!」公爵は両手をよじりながらうめいた。
「あんたは違うと思った?
あたしはね、高慢かもしれないけど、かまわないわ、恥知らずで!
あんたさっきあたしを完璧と言ったわね。
見事な完璧だわ、虚栄心ひとつで、百万も公爵の身分も踏みつけにして、スラムに行くのよ!
さあ、こうなるとあたし、あんたにとってどんな奥さん?
アファナシー・イワノヴィチ、なにしろ百万だってあたしはほんとに窓から放り投げちゃったのよ!
あなたどうして思ったの、あたしがガーネチカと、あなたたの七万五千と結婚するのを幸せと考えるなんて?
七万五千はあんた取っときなさい、アファナシー・イワノヴィチ、
十万とまでいかなかったのは、ラゴージンの勝ちね!
ああ、ガーネチカはあたしが慰めてあげなくちゃ、ひとつ思いついたわ。
ああ、あたし歩きたくなったわ、だって街の女だもの!
あたしは十年牢獄に座って過ごして、今が幸せなの!
どうしたの、ラゴージン?用意して、行くわよ!」
「ねえあんた何わめいてるの!」ナスターシャ・フィリッポヴナは彼を笑った。
「あたしはまだここでは主人よ。その気になればまだ一突きであんたを追い出すわよ。
あたしはまだあんたからお金をもらってないわ、ほらそこにある。 それをこっちにちょうだい、包みごと!
この包みの中が十万ね? へ、なんていまわしいこと!
どうしたの、ダーリヤ・アレクセーエヴナ? いったいあたしにこの人をだめにしたりできる?
(彼女は公爵を指さした。)どうしてこの人に結婚できるの、まだ自分に乳母が必要なのに。
そこにいる将軍がこの人の乳母になるわ。 ほら、彼につきまとってる!
見て、公爵、あんたの花嫁は金を取ったわよ、堕落した女だからね、
あんたはそんなのをもらおうとしたのよ!
でもあんた何よ泣いたりして?
ねえ、悲しいの?笑ってちょうだいよ、あたしみたいに」
と、話し続けるナスターシャ・フィリッポヴナの両の頬にも大粒の涙が二つきらめいていた。
「時を信じること−−何もかも過ぎてしまうわ。
後で考え直すより今の方がいい・・・
ああ、でもなんであんたたちみんな泣くの。 カーチャまで泣いて!
どうしたの、カーチャ、ねえ? あたし、あんたとパーシャにいろいろ残しとくからね、もう言いつけておいたのよ、でも今はさようなら!
あたしはあんたみたいな立派な娘にあたしの、堕落した女の世話をさせたりして・・・
これでいいのよ、公爵、ほんとにいいのよ、後であたしを軽蔑するようになって、あたしたち幸せにはなれないわ!
誓ってもだめ、信じないわ! それにどんなばかげたことになるやら!・・・
いいえ、気持ちよくさよならにしましょう
、だってそうしないとね、あたしは夢想家で、何の役にも立ちゃしないんだから!
あたしがあんたを夢見なかったと思って?
あれはあんたの言う通り、長いこと夢想したわ、
まだ村のあの人のうちにいて、五年間ひとりぼっちで過ごした頃。
考えて考えて、夢ばかり見続けたものよ。 するといつも、思い浮かんだわ、
あんたのような、優しくて、誠実で、いい人で、それでやっぱりばかそうな人が突然現れて言うの、
『あなたに罪はありません、ナスターシャ・フィリッポヴナ、
私はあなたを崇拝します!』
よくそんな空想をすると気が狂いそうになるものよ・・・
そこへほら、この人が到着するの。
年に二ヶ月滞在して、辱め、傷つけ、怒らせ、堕落させ、帰っていく。
それで何度も池に身を投げようとしたけど、卑劣だったし、心が弱かったから、
ええ、それでこうして・・・
ラゴージン、用意は?」
「いつでもこいだ!近寄るんじゃねえ!」
「いつでもこいだ!」といくつかの声が聞こえた。
「鈴のついたトロイカが待ってるぜ!」
ナスターシャ・フィリッポヴナは包みをつかんだ。
「ガーニカ、あたしひとつ思いついたの。 あたしあんたにご褒美をあげたいの。 だってあんた何もかもなくしちゃっちゃねえ。
ラゴージン、この人は三ルーブリでワシリエフスキー島まで這っていくのね?」
「這っていくさ!」
「さあ、それじゃ、お聞きなさい、ガーニャ、あたしはこれが最後、あんたの心を見てみたいの。 あんたはまる三月あたしを苦しめた。 今度はあたしの番よ。
この包みを見て、十万入ってるのよ!
それをあたしは今、暖炉に投げ込むわ、火の中へ、みんなの前で、みんな証人よ! 火が全体を包んだ瞬間に、暖炉に手を突っ込むのよ、ただし手袋なし、素手で、袖をまくってね、それで包みを火から引っ張りだすのよ!
引き出したら、あんたのものよ、十万全部、あんたのものよ!
少しばかり指を焦がしても、なにしろ十万よ、考えてごらんなさい!
つかみ出すのは簡単よ!
あたしはね、あんたがどんなふうにあたしのお金のために火の中に突っ込むかであんたの魂を見るんだから。 みんなが証人、包みはあんたのものになるわ!
突っ込まなければ、そのまま燃えてしまうのよ。 誰にも許さないからね。
どいて!みんなどいて!あたしのお金よ!
あたしが一晩でラゴージンから取ったのよ。あたしのお金よね、ラゴージン?」
「おまえのだとも!おまえのだ、女王様!」
「さあ、それじゃみんなどいて、あたしがしたいようにするの!
邪魔しないで!フェルディシチェンコ、火を直して!」
「ナスターシャ・フィリッポヴナ、手が言うことを聞きません!」ぼう然としてフェルディシチェンコが答えた。
「ああもう!」とナスターシャ・フィリッポヴナは叫んで火ばしをつかみ、くすぶっているまきを二つ掻き起こし、火が燃え上がるやいなや、その上に包みを投げた。
まわりに叫び声が起こった。それどころか多くのものは十字を切った。
「気が狂った、気が狂った!」まわりの人たちは叫んだ。
「い・・・いいのかな・・・彼女を縛らなくて?」将軍がプチーツィンにささやいた
、「それとも入れてしまうか・・・だって気が狂ったんだろ、気が?狂ったんだろう?」
「い、いいえ、これは完全な発狂ではないかもしれません」と、ハンカチのように青ざめ、震えながらプチーツィンは、くすぶりだした包みから目を離すこともできずにささやいた。
「狂ってるね?狂ってるんだね?」と将軍はトーツキーを煩わせた。
「毛色の変わった女だと言ったでしょう」と、やはり少し青ざめたアファナシー・イワノヴィチがつぶやいた。
「ラゴージン、出発よ!
さよなら、公爵、初めて人間に会ったわ!
さようなら、アファナシー・イワノヴィチ、メルシー!」
ラゴージンの一団は騒々しく大声を立て、叫びながら、ラゴージンとナスターシャ・フィリッポヴナの後に続き、部屋部屋を通り抜け、出口へ殺到した。
ホールでは娘たちが彼らにコートを渡した。
料理女のマルファは台所から駆け出してきた。ナスターシャ・フィリッポヴナは彼ら皆にキスをした。
「では本当に奥様、私たちをすっかり見捨ててしまわれるんですか?
ではいったいどこへおいでですの? それにお誕生日に、こんな日に!」
と尋ねながら娘たちは泣き出し、彼女の手にキスしていた。
「街へ出るのよ、カーチャ、
あんた聞いてたでしょ、そこがあたしの場所なの、でなけりゃ洗濯女よ!
アファナシー・イワノヴィチとはもうたくさん!
あの人にあたしからよろしくね、悪く思わないでね・・・」
http://homepage3.nifty.com/coderachi/doct/idiot-1.html#ch11
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1. 『白痴』における虐げられた女性たちの考察
―ナスターシャ・フィリポヴナの形象をめぐって 高橋誠一郎
はじめに ―― 『白痴』の主人公について
『白痴』においてドストエフスキーは、ムイシュキンにフランスの処刑制度を批判させながら
「聖書にも『殺すなかれ!』といわれています。それなのに人が人を殺したからといって、その人を殺していいものでしょうか? いいえ、絶対にいけません」
と明確に語らせていた。
つまり、決定稿におけるムイシュキンは、『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老や、若きアリョーシャにつながる風貌を持っている。
そしてこのような「哲学者」的な風貌を持つムイシュキン像は、5000万人以上の死者を出した第二次世界大戦の反省を踏まえて製作された黒澤明監督の名作「白痴」でも、登場人物を日本人に移し替えながらも、
「滑稽」に見えるが、「一番大切な知恵にかけては、世間の人たちの誰よりも、ずっと優れて」いる人物
として、きわめて説得的に描き出されていた。
そして、そのようなムイシュキン像は本場ロシアや海外の研究者たちによってきわめて高く評価された。
さらに、新谷敬三郎氏が「初めてみたときの驚き、ドストエフスキイの小説の世界が見事に映像化されている」と書いているように、「ドストエーフスキイの会」に集った日本の研究者たちも、同じような感想を抱いていた。
たとえば、「ドストエフスキーと黒澤明とはいわば私の精神の故郷である。他の多くの人にとってそうであるように」と記した国松氏も、ラストのシーンでアグラーヤ役の綾子が、
「そう! ……あの人の様に……人を憎まず、ただ愛してだけ行けたら……
私……私、なんて馬鹿だったんだろう……
白痴だったの、わたしだわ!」
と語っていることに注意を促している。
私はキリスト者ではないが、初めて『白痴』を読んだときからムイシュキンという主人公に、ドストエフスキーが与えようとした「キリスト公爵」としての風貌の一端を感じ、彼が語る「哲学」からは強い知的刺激や励ましをも受けてきた。
私も、重要な登場人物たちとの関係をとおしてドストエフスキーが描こうとしたムイシュキン像を再考察することにより、私が考える『白痴』の意義をドストエフスキーの愛読者に率直に提示して批判を求めたい。ただ、時間や紙数などの関係から、本発表ではナスターシャ・フィリポヴナの形象を中心に考察する。
(1) 『白痴』の時代とナスターシャの形象
多くの研究者が指摘しているように『白痴』には、死にまつわるエピソードが多い。
たとえば江川卓氏は、
「とくに目立つのはムイシュキン公爵が死について語り、あるいは死に遭遇する機会が異常に多いことである」
とし、
「とにかくこの『白痴』では、いたるところに殺人、自殺、死がちりばめてある」
と記している。
亀山氏もドストエフスキーが
「ロシアから送られてくる新聞を貪るように読み、徐々に剣呑な状況へはまりこんでいく祖国の姿を遠方から固唾をのんで見守っていた」
とし、
「紙面にあふれかえる凶悪事件に、彼は文字通り圧倒された。
ウメツキー一家事件、マズーリン事件、ジェマーリン一家惨殺事件、商人スースロフ殺人事件。
『罪と罰』執筆時とは比べものにならぬほどの強い危機感が彼をとらえようとしていた」と書いている。
たしかにこの指摘はドストエフスキーの当時の気持ちの一端をうがっているだろう。
しかし、ドストエフスキーは『罪と罰』(1866年)で「悪人」と見なした「高利貸しの老婆」の殺害を行ったラスコーリニコフに、自分が犯した殺人と比較しながら、
「なぜ爆弾や、包囲攻撃で人を殺すほうがより高級な形式なんだい」
と反駁させていたが、同じ年に起きたプロシア・オーストリア戦争は、近代的な兵器による殺戮の大規模化と普仏戦争など新たな戦争の勃発をも予想させた。
このような戦争の拡大や軍国主義に危機感を抱いた平和主義団体は「民族の平和と自由の思想」を広めるためとして、翌年の9月にジュネーブで国際会議を開いた。
そこでロシアの代表として演壇に立ったのが、プラハやドレスデンの蜂起に参加し、「サクソニヤとオーストリヤとロシヤでは囚人」となり、二度も死刑宣告を受けながらも、脱出に成功したことで英雄視されるようになっていたミハイル・バクーニンであった。
そのバクーニンは、ロシヤ帝国を「人間の権利と自由の否定の上に成立している」と糾弾し、「未来のヨーロッパ連邦」を築くために滅亡させることを要求した。
グロスマンは「国際会議」でバクーニンが行った演説の内容を知ったドストエフスキーが「バクーニンを主人公にしてロシヤ革命を扱った小説を書こうという自分の意図」を固めたと書いている。
「平和のため」としながらも「火と剣」を要求し、「あらゆるものが絶滅したあとに初めて平和が訪れる」としたバクーニンの主張が、ドストエフスキーにきわめて深刻な印象を残したことは確かだろう。
1862年の夏に「長いことあこがれ」ていた西欧への初めての旅行を行い、『冬に記す夏の印象』において
「数百万の富を有し、全世界の富を支配する」ロンドンの繁栄だけでなく、
労働者たちの住む貧民窟や「毒に汚されたテムズ河、煤煙にみちみちた空気」
など近代科学が生み出した環境の悪化をも記したドストエフスキーは、そこでゲルツェンやバクーニンとも会っていたのである。
それゆえ、1869年11月にロシアでバクーニンとも深いつきあいのあったネチャーエフによる陰湿な殺人事件が起き、その翌月にはペトラシェフスキー・サークルの旧友でもあったドゥーロフの死を知ると、ドストエフスキーは『悪霊』のノートをとりはじめ、「スタヴローギン像の創造」に着手することになる。
なぜならば、非凡人は
「自分の内部で、良心に照らして、血を踏み越える許可を自分に与える」
のだとラスコーリニコフに説明させて、「良心」理解が誤った思いこみに陥った際の危険性を具体的に示していたドストエフスキーは、予審判事のポルフィーリイに
「もしあなたがもっとほかの理論を考え出したら、それこそ百億倍も見苦しいことをしでかしたかもしれませんよ」
と批判させていた。
そして、そのエピローグでは旋毛虫に犯されて自分だけが真理を知っていると思いこんだ人々が互いに殺しあって、ついに人類が滅亡するというラスコーリニコフの悪夢が描かれていたのである。
ドストエフスキーがロシアのキリスト公爵として描こうとしたムイシュキンに、フランスの「死刑」を批判させることによって、「文明」の名のもとに自らの「正義」によって人を裁き、「他者」を殺すことへの鋭い疑問を投げかけていたことを思い起こすならば、『白痴』において死が多く描かれているのは、ある意味で当然だと思える。
ドストエフスキーはムイシュキンに
「骨の髄まで悪のしみこんだ者でも、…中略…自分の良心に照らして悪いことをしたと考えている」
が、自分の思想に基づいて殺人を行った者は、
「自分のしたことは善いことだ」と考えていると指摘させている。
『罪と罰』でラスコーリニコフの「自己中心的な理論」の問題点を指摘しただけでなく、暴利を貪る「高利貸し」の非道性も鋭く批判していたドストエフスキーは、『白痴』においても
「こんな男なら、お金のために人殺しでもするでしょうよ。
ねえ、いまじゃ人は誰でもお金に眼がくらんで、まるでばかみたいになっているんですからね」
とナスターシャ・フィリポヴナに語らせ、
「まだまったくの子供みたいな人までが、高利貸しのまねをしているんですからね」
と続けさせているのである。
ナスターシャのこの言葉は、近代西欧社会の現実を踏まえた上でのドストエフスキーの鋭い問題意識を反映しているといえよう。
つまり、ドストエフスキーは『白痴』において金銭ばかりが重視され、金儲けのためには殺人をも厭わないような傾向をも示し始めたロシア社会を厳しく分析しているのである。
(2) ナスターシャ・フィリーポヴナとトーツキイの関係をめぐって
『白痴』における主人公がムイシュキンであることには誰も異議はないだろうが、この作品を書いていたときにドストエフスキーはマイコフに宛てた手紙で、この長編小説には「二人の主人公」がいると書いて、ナスターシャの重要性を強調していた。
このことに注目したロシアの研究者フリードレンデルは、ドストエフスキーがその作品において女性が虐げられていることの「社会的原因」や「女性のたどる運命の問題」を描き続けて来たとして、『椿姫』との関連も指摘している。
実際、両親が所有していた村が火事で焼け、そのために苦労した母親が病死したあとでは妹たちが親戚に引き取られたという苦い体験をしていたドストエフスキーは、
第一作『貧しき人々』において、村の管理人を務めていた父親がリストラされたあとでの少女の苦難に満ちた人生を描き、
『白痴』においても両親が亡くなった後のナスターシャの苦難に満ちた人生に読者の注意を向けているのである。
すなわち、ナスターシャの父は軍隊を退役した後で「所有地の少ないきわめて貧しい地主」となり、
借金を重ねるような貧乏暮しをしながらも、「幾年か百姓同様の怖ろしく辛い労働をつづけ」、
「財政をどうにか建てなおすことができた」矢先に、
債権者たちと話しあうために出かけた先で、自分の屋敷が火事で焼け、妻も焼け死んだという報せを受けて、
絶望のあまり「気が狂って、一カ月後には熱病で死んでしまった」。
その後、「焼けた領地は、路頭に迷った百姓たちもろとも、借財の返済にあてられ」たが、
生き残った二人の女の子は、隣りに豊かな領地を所有していたトーツキイが「持ち前の義侠心から」手もとに引き取り、「支配人である大家族持ちの退職官吏のドイツ人の子供たちといっしょに」育てたのである。
ナスターシャの妹は病気で亡くなったが、5年後に自分の領地を訪れた際に12歳になったナスターシャが美しく成長していたのをみたトーツキイは、「この道にかけては」、「決して眼に狂いのない玄人であった」ので、
ナスターシャに貴婦人としてふさわしいような特別な教育を施し始める。
こうして、
「年頃の娘の高等教育に経験のある、フランス語のほかに一般学科を教えるりっぱな教養あるスイス婦人が家庭教師として招かれ」、
「ちょうど四年後にこの教育は終り、家庭教師の婦人は立ち去った」。
その後で訪れた女地主は、
16歳になったナスターシャを「慰めの村」と呼ばれていたトーツキイの領地の一つである小さな村に「トーツキイの指図と委任とによって」、連れていき、
「しゃれた飾りつけ」の「建ったばかりの木造の家」に住まわせた。
「慰めの村」と呼ばれていた小さな村でのトーツキイとの生活について、ナスターシャは
「そこへあの人がやってきて、一年に二月ぐらいずつ泊まっていって、
けがらわしい、恥ずかしい、腹の立つようなみだらなことをして、帰っていくんです。(……)
あたしは何べんも池に身投げしようと思ったけれど、卑怯にもその勇気がなかった」
と告白している。
この言葉に注目した亀山氏は、
「わしらのなにより楽しみっていえば、娘っこに鞭打ちの仕置きを食わせることでしてね。
鞭打ちの役はぜんぶ若い衆にまかせるんですがな。
そのあとで、今日ひっぱたいたその娘っこを、明日はその若い衆が嫁にとる。
だから、娘っこたちにしてもそいつが楽しみなんですな」
という『カラマーゾフの兄弟』のフョードルが聞き及んだ田舎の老人の話を紹介しながら、
「トーツキイの快楽とは、田舎地主のサディズムないしはマゾヒズムの儀式だったと私は思います」
と結論している。
しかし、「慰みの村」におけるトーツキイとナスターシャの関係から、「鞭の快楽」を連想することは妥当なのだろうか。
なぜならば、亀山氏はトーツキイとナスターシャの関係を「領主と農奴の娘」の関係に擬しているが、
「慰みの村」でナスターシャが与えられた家には、「年寄りの女中頭とよく気のつく若い小間使い」がいたばかりでなく、「さまざまな楽器、少女むきのすばらしい図書室、絵画、銅版画、鉛筆、絵具が揃っており、素敵な猟犬までがいた」。
つまり、ナスターシャはそこで「農奴の娘」どころか、「領主夫人」なみの扱いを受けていたのであり、
それゆえ、
「四年あまりの歳月が、何事もなく幸福に、優雅な趣のうちに、流れていった」と記されているのである。
これらの文章はナスターシャと正式には結婚していなかったものの、おそらくトーツキイが将来的な結婚の約束を「慰みの村」で与えていた可能性が強いことを物語っていると思われる。
そして下線の文章に注目するならば、
「トーツキイがペテルブルグでも富も家柄もある美貌の女(ひと)と結婚しようとしている」という「噂(うわさ)」を伝え聞いたときになぜナスターシャが、それまでとは「全く別の女性」として現れ、トーツキイには「結婚を許さない」と宣告したかが分かるだろう)。
しかも、「小ねずみ」を語源とする「ムイシュカ」という単語から派生した「ムイシュキン」という滑稽な感じの名字をもつ主人公が、かつての名門貴族の出身であったと記したドストエフスキーは、
「子羊」を語源とするバラシコーワという名字を持つナスターシャの家柄についても
「かつては由緒ある貴族の出身」であり、「かえってトーツキイなどよりも家柄」がよかったとも記している。
つまり、自分の所有する領地の一つの隣に住んでいた名門だが没落した貧しい貴族の夫婦が焼け死んだことで、トーツキイは慈善家のような形で名家の娘を育て、さらに愛人として所有していたのである。
それゆえ、トーツキイの結婚の噂を聞いたときに、初めて自分がパリの「高級娼婦」のような存在に過ぎなかったことを思い知らされたナスターシャは、「からからと大声で笑いながら、毒々しい皮肉を浴びせ」たのだと思える。
このように見てくるとき、彼女が語る「腹の立つようなみだらなこと」とは、鞭打ちに快楽を感じるような性愛を指すのではなく、
それまで自分が愛の営みとして受け取っていた行為が、トーツキイの快楽の手段であったことへの怒りの言葉と見なすべきであろう。
ただ、「鞭の快楽」が「田舎地主のサディズムないしはマゾヒズムの儀式」とされているが、それは『地下室の手記』や『死の家の記録』など重要な作品の解釈とも密接に結びついているので、もう少しその点に触れておきたい。
すなわち、亀山氏は、『地下室の手記』にはクレオパトラが
「自分の女奴隷の胸に金の針を突き刺し、彼女たちが叫び、身もだえるのを見てよろこんだという」
というエピソードが書かれていることを紹介して、ここでは「ドストエフスキーの変貌は決定的なものになった」と断言しているのである。
そして、「おあいにくさま、歯痛にだって快楽はある」と語る「地下室の男」の言葉を引用して亀山氏は、ここでは「受け身の快楽をことさら強調してみせることで、暗に虐待する人間の快楽を正当化するという戦法」がとられていると続けている。
しかし、『イギリス文明史』で「楽観的な進歩史観」を主張した歴史家バックルにたいして、ドストエフスキーは「地下室の男」を敢然と立ち向かわせているとイギリスの研究者ピース氏が指摘しているように、
「歯痛にだって快楽はある」と語る主人公の論理は、屈折しながらも、きわめて鋭い西欧文明批判を秘めている。
つまり、「地下室の男」はここで、
「自分の女奴隷の胸に金の針を突き刺し」て喜んだクレオパトラの「野蛮さ」と、
「血はシャンパンのように」多量に流されている近代の戦争とを比較することで、「自己の正義」を主張して「他国」への戦争を正当化している近代西欧文明の方が、古代エジプトよりもいっそう「野蛮」であることを指摘して、バックルの主張に厳しい反駁を加えていたのである。
さらに、貧しい人々を治療する医師だった父が、農奴の所有者になると一変して、農奴を鞭打つことも当然としたことを厳しく批判していたドストエフスキーは、亀山氏も指摘しているように、『死の家の記録』で笞刑を行うことに慣れた刑吏の心理を分析して、
「もっとも残酷な方法で」、「他者」を「侮辱する権力と完全な可能性を一度経験した者は、もはや自分の意志とはかかわりなく感情を自制する力を失ってしまうのである」
と指摘していた。
つまり、「他者」にたいする鞭打ちという体刑を認めないドストエフスキーの姿勢は、『カラマーゾフの兄弟』まで変わることなく一貫していたのであり、そのように理解しないと子どもの虐待をめぐるイワンとアリョーシャの白熱したやり取りもその意義を失うことになると思われるのである。
(3) ナスターシャとロゴージンの形象をめぐって
ナスターシャ・フィリポヴナのバラシコーワという名字が、「子羊」を語源とする「バラーシェク」という単語から採られていると記した亀山氏は、ムイシュキンの名前がライオンという意味のレフであることにも注意を促している。
そして、バラシコーワという名字は「アベルによって神に捧げられた犠牲の子羊のイメージ」と重なり合っているとし、「旧訳聖書の文脈に従うなら、ナスターシャはアベル=ムイシュキンによって屠られるべき存在です」と主張している。
ただ、このような亀山氏のナスターシャ像は突然生まれたのではなく、ナスターシャの名前や父親の名前から造られるロシア独特の父称などに注目して、
ドストエフスキーには明らかに
「ナスターシャ・フィリッポヴナを鞭身派の一信徒に擬そうとする意図」
があったと解釈した江川卓氏の 『謎とき「白痴」』 から強い影響を受けていると思われる。
すぐれた語学力と読解力を活かして、登場人物の名前や動詞の意味だけでなく、フォークロアや法律書にまで踏み込んだ鋭い分析がなされている江川卓氏の『謎とき「罪と罰」』(1986年)から私は、多くの知的示唆を受けた。
しかし、『謎とき「カラマーゾフの兄弟」』(1991年)の後に書かれた『謎とき「白痴」』(1994年)を読んだ時には強い違和感が残った。
おそらくそれは、ロゴージンやナスターシャの名前について言語的なレベルからの考察をとおして、旧教徒のセクトとのかかわりが指摘される一方で、『罪と罰』のテーマとの深いつながりや、ナスターシャとムイシュキンの関係を分析する上ではきわめて重要な役割を担っている『椿姫』などへの言及などがほとんどなかったためだろう。
たとえば江川氏は、
「情熱の権化のように言われていた」ロゴージンの名前が、ギリシャ語で「童貞」を意味する「パルテノス」を語源とするパルフョンであることや、「死人のような蒼白さ」という表現から去勢派の教義に従った人物と読み取っている(185)。
たしかに、
ロゴージンの父親が去勢派や鞭身派などの旧教のセクトに強い関心を持っており、
伯母も「職業的な修道女で、旧教派の中心地であるプスコフに住んでいる」
と描かれており、ムイシュキンもロゴージンが将来
「二本の指で十字を切ったり」、
「ニコンの改革前の聖書を読んだりするようになる」
可能性を示唆している。
しかし、「熱病にかかってまる一月も」寝込んでいたロゴージンが、病みあがりにもかかわらずナスターシャと会うために夜汽車で駆けつけようとしていたと書かれていることに留意するならば、ここでは彼の情熱が強調されていると考える方が自然だろう。
しかもグロスマンが書いているように、
ドストエフスキーはここで「プーシキンの名前すら知らない」、文盲に近いロゴージンが
「民族の伝統や、昔の民間信仰と固く結びついて」いる一方で、
「西欧化した新しい風俗のハイカラさ、つまりひげを短く剃りこんだり、色つきのチョッキを着て、めかしこんだりする『大商人』のタイプとはおよそ掛け離れて」いた
ことを強調しているのである。
そして、ムイシュキンはロゴージンのことを「情欲だけの人間ではない」、「人生の闘士」だと感じ、
「彼は苦悩することも同情をよせることもできる大きな心を持っている」とも考えている。
ことに、「二人でプーシキン」を「すっかり読んだ」と語っていることに注目するならば、
吝嗇な父親と息子の対立と父親の殺害にいたる経過を描いたプーシキンの『吝嗇の騎士』
をも彼らが読んでいたことは確実だろう。
すなわち、『白痴』を書いていたころのドストエフスキーは、旧教徒にも一定の意味を認めていたのである。
ムイシュキンは情熱に駆られて極端にまで走りかねないロゴージンの民衆的なエネルギーとその可能性を信じて、彼とともにプーシキンの作品を読むことで、彼に正しい方向性を示そうとしていたのだと考えられるのである。
さらに、「権力を重視し」、他者の「処刑」を認めていた当時のカトリックを、「ゆがめられたキリストを説いている」と厳しく批判したムイシュキンは、
「自分の生れた国を見捨てた者は、自分の神をも見捨てたことになる」
といった旧教徒の商人の言った言葉を紹介しながら、
ロシアの「鞭身派」でさえ、「ジェスイット派や無神論」などよりも、「ずっと深遠でさえあるかもしれません」
と語っている)。
この言葉に注目するならば、ここに見られるのは「クレオパトラ」と比較しつつ、「近代西欧文明」の「野蛮さ」を指摘した「地下室の男」と同じような論法であるといえよう。
すなわち、自らを傷つけたロシアの「鞭身派」と比較することで、「異教徒」や「皇帝」の「殺害」をも正当化する「ジェスイット派や無神論」の「野蛮性」をムイシュキンは強調しているのである。
しかし、ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』を『ロシア報知』に掲載した1880年には、以前から交際していた保守的な政治家で、ロシア正教以外の宗教的な価値を認めなかったポベドノースツェフが、ロシアの教育と宗教を総括する総務院の総裁となっていた。
それゆえ、このころには再び厳しさを増していた検閲のために、ロシア正教の異端とされた旧教徒をも否定的に描かざるをえなくなっていたと思える。
去勢派などとの関わりが暗示されている『カラマーゾフの兄弟』におけるスメルジャコフの否定的な形象はこのような時代状況のなかで生み出されたのである。
こうして、スメルジャコフに「去勢派(スコペッツ)」の影を色濃く見て、『白痴』論でもその連想から「新しい」ロゴージン像を描き出した江川氏は、そのような視点からナスターシャ・フィリポヴナにも「鞭身派」の影を強く見出している。
たとえば、第三編では
「もうこうなりゃ、ぴしゃりとやらなくちゃだめだ。
それよりほかにあんな売女(ばいた)をやっつける法はないさ!」
と一人の青年将校から大声で批判されたのを聞いたナスターシャが、
「相手のステッキを引ったくって、その無礼者の顔をはすかいに力いっぱい打ちすえた」
という場面が描かれている。
ここで「ぴしゃりとやらなくちゃだめだ」という表現に用いられている
「鞭(フルイスト)」という単語が、「鞭身派(フルイストフシチナ)の名称の起りとなったことばである」
ことを指摘した江川氏は、
734年に処刑された「鞭身派の聖母」がナスターシャ・カルポヴナという名前を持っているばかりでなく、
ナスターシャの父称が「鞭身派の教祖ダニイラ・フィリッポヴィチ」の父称とも同じであることに注意を促して、
「ナスターシャ・フィリッポヴナという名が、鞭身派の神話を背負った名であることは自明である」
と断言していた。
しかし、当時のロシアでは妻や子供に対する「躾」のために鞭をふるったりすることは伝統的に認められていたのであり、軍隊では兵士に対する殴るなどの体罰が日露戦争の最中にも行われていた。
このことを考えるならば、とりわけ青年将校が「鞭でこらしめねばならない」と語るのは特別なことではないと思える。
しかも、『白痴』ではしばしば高級娼婦と貴族の若者の悲恋を描いた『椿姫』が話題となっていることを思い起こすならば、
「ぴしゃりとやらなくちゃだめだ。それよりほかにあんな売女をやっつける法はないさ!」
という言葉に激しく反発したナスターシャの反応には、娼婦と呼ばれたことへの彼女自身のプライドの問題や、女・子供や農民出身の兵士の教育には「鞭」が必要だと考える伝統的な道徳の問題が提起されていると考えるほうがむしろ自然であろう。
つまり、『謎とき「白痴」』が『謎とき「カラマーゾフの兄弟」』の後で書かれたという事情もあり、
江川氏がロゴージンやナスターシャの形象を1860年代の大地主義的な世界観によってではなく、厳しい検閲によって制約を受けていた晩年の記述によって、ロゴージンやナスターシャを旧教徒のセクトと結びつけて解釈している可能性が強いと思えるのである。
そして、亀山氏の『白痴』論では重要な登場人物とムイシュキンとの関係の考察が省かれことにより、ナスターシャにおけるマゾヒズムへの傾向がいっそう強調されることになったのだと思える。
4.『白痴』の現代性
ところで、長編小説『椿姫』は、『三銃士』などの作品で知られるアレクサンドル・デュマの私生児として生まれたデュマ・フィスによって、2月革命が起きた1848年に書かれた。
そして、主人公がアルマンの腕に抱かれて亡くなるというメロドラマ的な筋書きのオペラ『椿姫』とは異なり、到着が遅れたために主人公がマルグリットの死に目に会えないという発端を持つこの『椿姫』は、フリードレンデル氏などが指摘しているように、ドストエフスキーの『白痴』にもきわめて強い影響を与えている。
つまり、訳者の新庄嘉章氏が書いているように、この作品でデュマ・フィスは高級娼婦であったマルグリットの純愛と犠牲的な死をとおして、「男性の利己主義的な行為」や、「それを助長させる金銭の力」や「それを黙認している世間の慣習」を厳しく批判していたのである(新潮文庫、1950年)。
そしてドストエフスキーも『冬に記す夏の印象』(1863年)において、
ナポレオン三世治下のフランス社会には「すべての者が法の範囲内で何でも行える同一の自由」があることを認めたあとで、次のように「フランス的自由」を厳しく批判していた。
「いつ欲することをすべて成すことができるのだろうか?
百万をもっている時である。自由は各人に百万を与えるだろうか?
与えはしない。
百万を持っていない者は何者だろうか?
百万がない者は、何でも好きなことができる者ではなく、何でも好きなことをされる者である」。
実は、敗戦後まもない1951年に上映された黒澤明監督の映画『白痴』では、キリスト教的な背景ばかりでなく、このような社会的背景をもきちんと描かれていた。
さらに私見によれば、この作品で黒澤明はムイシュキンの存在を
ロゴージン・ナスターシャ・ムイシュキンという「欲望の三角形」的な関係に縛られる者としてではなく、むしろ精神科医的な視点から、
「何でも好きなことをされる者」としてのナスターシャの苦悩を、治癒しようとして果たし得なかった者として描いているのである。
この意味で注目したいのは、ロンドンで開かれていた万国博の会場である水晶宮を訪れて、
「全世界から集ったこれら無数の人間の全てをここで一つの群に集めた恐るべき力」を感じたドストエフスキーが、
イギリスの社会はキリスト教を名乗りながらも、実際には儲けの神である異教の神、「バール神」に屈服した
と厳しく批判するとともに、
「バールの神を偶像視したりしないようにするには」、「幾世紀にもわたるおびただしい精神的抵抗」が必要とされるだろうと記していたことである。
つまり『白痴』における考察は、市場原理主義に基づいた極端な「規制緩和」により格差社会が生まれる一方で、それまでアメリカ企業の模範とされてきたリーマン・ブラザーズが、カジノ資本主義的な手法のサブプライム・ローンによって破綻し、世界が金融危機に陥った現代の状況をも予測するような深いものだったといえよう。
http://dokushokai.shimohara.net/t111.htm
果たしてムイシュキンは殺人の「使嗾者」か?
――黒澤明監督の映画『白痴』を手がかりに 高橋誠一郎
黒澤自身が最も高く評価した自作の一つが、ドストエフスキーの『白痴』を終戦直後の混乱した時代の日本に置き換えて描いた映画『白痴』(1951)であった。
上映時間四時間二五分という大作となったこの作品は、観客の入りを重視した経営陣から大幅なカットを命じられたために、時折、字幕で筋の説明をしなければならないなど異例の形での上映となり、日本では多くの評論家から「失敗作」と見なされた。
それにもかかわらず、新谷敬三郎氏が「初めてみたときの驚き、ドストエフスキイの小説の世界が見事に映像化されている」と書いたように、映画『白痴』は原作を熟知している本場ロシアや海外、そして日本の研究者たちからはきわめて高く評価された。
一方、近年の日本は「グローバリゼーション」の名の下に、「新自由主義」が幅をきかすようになって「格差社会」が一気に進んだ。
ちょうどその頃に出版された研究書で亀山郁夫氏は、
ナスターシャの殺害をロゴージンに「使嗾」したのはムイシュキンであり、
「現代の救世主たるムイシキンは、じつは人々を破滅へといざなう悪魔だった」
と結論した(『ドストエフスキー 父殺しの文学』上巻、NHK出版、2004年、285頁)。
そして、亀山氏のこのようなドストエフスキー論はマスコミで賞賛され、学校などでも読書コンクールの対象図書とされたことで若者たちの間でも広まっている。
亀田(ムイシュキン)を「真に美しい善意の人」として描いた黒澤明の『白痴』理解は、全くの誤読だったのだろうか。
この意味で注目したいのは、大著"Dostoyevsky―― An Examination of the Major Novels"(Cambridge University Press, 1971)において、
『白痴』のロゴージンやナスターシャが古儀式派から派生した過激なセクトである去勢派や鞭身派への強い関心を示していたことや、
『カラマーゾフの兄弟』のスメルジャコフが去勢派に属していた可能性が強い
ことを語義的なレベルから明らかにして、世界中のドストエフスキー研究者に強い影響を与えたイギリスのすぐれた研究者ピース氏のムイシュキン解釈である。
後に、"Dostoyevsky's Notes from Underground"で、ドストエフスキーの作品が緻密な論理構造を持っているだけでなく、登場人物もきわめて有機的に配置されていることを明らかにすることになるピース氏はすでにこの大著で、
「死刑を宣告された者」と自ら名乗っていたイポリートの考察をとおして、
当時の「弱肉強食の論理」とそれに対抗する「弱者の権利の理論」との対立を浮き彫りにしていた。
そして1864年の裁判改革の流れにのって、弁護士の資格も取っていたレーベジェフの問題点だけではなく、彼の娘ヴェーラの肯定的な意義も示すことで、ムイシュキンという主人公がプーシキンに依拠しつつ、「美は世界を救う」という理念によって世界を和解させる道を必死に模索していたことを明らかにしていた。
これらの指摘をふまえて黒澤映画を見直す時、『白痴』(1951)とその前後に撮られた『醜聞(スキャンダル)』(1950)と『生きる』(1952)が、『白痴』三部作と呼べるような深いつながりを有していたことに気づくのである。
今回の報告ではピース氏の『白痴』論や黒澤明監督の映画を手がかりにしながら、モスクワから半年ぶりに帰還したムイシュキンの行動を描いた第2編を次のような順序で分析する。
まず、最初にレーベジェフと甥との会話に注目することで、
弁護士も営むようになったレーベジェフが、「真心は持っている」ものの、酔っぱらいの「ペテン師」である可能性が示唆されていることを確認する。
そして、ロゴージンの古い家を訪れた際にはムイシュキンが、ホルバインの絵画『キリストの屍』や「分離派」について会話を交わしただけでなく、別れ際にはC氏との出会いや殺人事件の話、そして百姓の女性から受けた印象についても語っていることに注目する。
さらに、ロゴージンとの間では歴史書についての会話もなされていたが、『死の家の記録』で重要な役割を与えられているペトロフも歴史的な事実についての強い関心を持っていたと記されていることに注意を払うことで、
ロゴージンという人物が1861年の農民一揆を指導した「古儀式派」教徒のペトロフをモデルとしている可能性があることを示唆する。
最後に、エパンチン夫人がコーリャに無神論を教えて「誘惑」したとイポリートを批判していることに注目しながら彼の『キリストの屍』観などを分析することにより、
ロゴージンを殺人へと「使嗾」したのはムイシュキンではなく、多くの研究者が『白痴』を解く鍵と見なしているイポリートである可能性が高いことを明らかにする。
http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost09.htm
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2. ナスターシャ・フィリッポヴナは鞭身派の聖母 復活のナスターシャ
「時代」廃刊騒ぎのさなか、ドストエフスキーは愛人と連れ立って2度目の外国旅行に旅立とうとしていました。
1861年、「時代」にアポリナーリヤ(ポリーナ)・スースロワという女子大生の短編が掲載されました。
2度目の外国旅行に同行する予定だったのは、このスースロワでした。
スースロワの父親はもともと農奴でした。
しかし、強靱な意志、人並みはずれた能力で農奴の身分を脱し、手広く企業を営むようになったやり手でした。
そして、その資産で娘たちに高等教育を受けさせ、そのかいあって、ポリーナの妹ナデージダはロシア史上最初の女性医師となっています。
姉のポリーナのほうは妹のような栄光とは無縁でしたが、アレキサンドル二世時代の開放感に充ちた空気に鋭敏に反応し、自由奔放に生きる「新しいタイプ」の女性でした。
しかも、父親からは鋼鉄のような性格を譲り受けていたようで、のちにポリーナと結婚したローザノフは彼女のことを「異常なまでの集中力、決断力を持つ女性」と評しています
(ドリーニン編 中村健之助訳 「スースロワの日記」みすず書房)。
「気性は完全にロシア女でしたが、ロシア女はロシア女でも、分離派の”無僧派”の女でした。
いや ”鞭身派の聖母”といった方がいいでしょう」
とも書いています。
ローザノフはのちにドストエフスキーの伝記も書いた文学者でしたが、結婚後数年して、男を作ったスースロワに逃げられてしまいます。
復縁を哀願するローザノフにスースロワは
「何千という夫があなたのような立場に立たされますが、吠えたりはしませんよ、
人間は犬ではないのですからね」
とすげなく答えています。
当初、ドストエフスキーはこのスースロワと一緒にペテルブルグを出発して1863年の夏の間フランス、イタリアを旅行する予定でした。
しかし、妻マリアの転地療養の手配、借金の手続き、旅券更新に手間取って、その間に愛人は先にパリへ旅立ってしまいます。
ドストエフスキーはポリーナに一ヶ月以上遅れて出発します。
にもかかわらず、途中、ヴィースバーデンに立ち寄り、ルーレット賭博に4日間を費やします。
ようやくパリに着いたドストエフスキーを待っていたのは
「あなたは来るのが少し遅すぎた」
というポリーナの言葉でした。
ポリーナはパリで新たにスペイン人の恋人を作っていたのです。
しかし、ドストエフスキーがパリに着いた頃、そのスペイン人の恋人はポリーナに飽きがきていたようで、病気を理由にポリーナと会おうとしなくなっていました。
愛人に捨てられかかったドストエフスキーと新たな恋人に捨てられたポリーナは「兄と妹」という関係を保つことを条件にイタリアに出発します。
しかし、途中、二人はまたもヴィースバーデンに立ち寄り、ルーレットで有り金すべてをまきあげられてしまいます。
ミハイルをはじめとする親戚、出版社からかきあつめた借金でようやくヴィースバーデンを出立、ジュネーブ、トリノ、ジェノア、ローマ、ナポリと南欧各地を転々とします。
そして、10月になってようやく二人は別れることになり、この奇怪な情事旅行は終幕をむかえます。
この2ヶ月間で、ドストエフスキーのポリーナに対する情熱はかなり冷めたようです。
しかし、しばらくポリーナとの関係は続き、2番目の妻アンナと結婚してからも二人は手紙をやりとりしています。
そして、この「鞭身派の聖母」は「賭博者」「白痴」などかれのさまざまな小説に出没することになります。
http://www009.upp.so-net.ne.jp/aoitori/tenkan/Dostoyevski.htm
スースロワと「白痴」ナスターシャ
名前:ぼんやり読者 投稿日時:2009/11/17(火) 13:27 [ 返信 ]
スースロワはドストエフスキーだけでなく、性関係を持った相手や結婚相手に深い憎悪をいだく性質の女性だったようです。
彼女がサルヴァドールをいう男性に対して行った仕打ちを見てみましょう。
この二人は合意のもとに関係を持ち、その後彼女は捨てられました。
そこで彼女は彼に何をしたかというと、「お金」を送りつけたのです。
「拝啓、以前わたしはあなたからある親切を受けました。
世間ではそういう親切に対してはお金を払うのが通例です。
無料で親切を受けていいのは、自分の友だちである人と自分が尊敬している人からだけである、とわたしは考えています。
わたしはあはたを誤解していましたので、自分の間違いを訂正するためにこのお金をお送りします。
このわたしの考えをさまたげる権利はあなたにはありません。」
(スースロワの日記、みすず書房)
まるで「白痴」のナスターシャみたいです。
ガーニャに暖炉に投げ込んだ金を取らせるシーンを思い出します。
スースロワは、性を売る相手に金を払うように、もともとは恋愛関係だったものを金銭関係にすりかえて相手を侮辱し、自分の自尊心を守るため「借りは作らない」という態度をとったようにも見えます。
ちなみに相手からは無視され、返事はありませんでした。
23歳のスースロワのはじめての相手が41歳のドストエフスキーだったとのこと。
ドストエフスキーは
「粗野なものではない。 そこから本質へ突き進むことのできるもの」
と考えていたかもしれませんが、性急な性の要求は深く彼女を傷つけたともいいます。
「白痴」ではナスターシャは年端のいかないうちにトーツキーの囲い者にされた憐れな女と設定され、ムイシュキン公爵は彼女を深く憐れみ、彼女の救いの存在となります。
これはもしかしたらスースロワという女性を怪物のようにしてしまったという、ドストエフスキーの悔恨と懺悔と憐憫の気持ちの産物なのかもしれません。あくまで想像ですが。
http://dostef.webspace.ne.jp/bbs/dostef_tree_r_706.html
946 :吾輩は名無しである :2009/04/23(木) 00:05:49
アタシャ女だが、よくトルストイは女が描けるけど、ドストはダメというのがいるが、
それこそ、男の見方だよね。
ドストのあのヒステリックで自虐的かつサディステックな女性群こそ、本物の女だぞ。
もちろん誇張があるけど。
もてない男が描く理想像がトルストイの女たち。
『戦争と平和』のナターシャにも、アンナ・カレーニナにもさっぱり感情移入できん。
私がトルストイですきなのは、いかに自分がブオトコで持てなかったかを綿綿と綴った『幼年時代』等の自伝的作品と、女は登場しない『イワン・イリッチの死』だけ。
小谷野敦はほんと、もてない男だな。
今度出した新書も、女がわからない男の見方という意味で面白いといえば面白い。
http://logsoku.com/thread/love6.2ch.net/book/1232204701/
江川卓著「謎とき『白痴』」と 「謎とき『カラマーゾフの兄弟』」 を読む。
このたび『白痴』と『カラマーゾフの兄弟』読了記念企画として読んでみました。
いやはや、なんとも濃かった。
軽いタイトルとは裏腹に、著者の卓見がいたるところにちりばめられている。
登場人物の名前から語源探索してその秘められた意味を見出すなんて作業は、これは素人にはとても無理なわけで。
カラマーゾフのミーチャの弁護人の名「フェチュコヴィッチ」が、日本語にすると「阿保田」になるなんてのは、
あの裁判の場面でミーチャに肩入れして、弁護人がんばれみたいな気持ちで読んでいた私にとっては、
「え、それじゃ最初から勝ち目ない法廷闘争だったんじゃん」てなわけで。
鞭身派と去勢派という異端についての説明も詳しくてよかった。
この二つのキリスト教異端は、ドストエフスキーについての評論を読むと結構目にすることが多いのだが、それが一体どういう人たちなのかはあまり深く紹介されることがなかったので。
命名の語源探索や、『カラマーゾフ』の「3と13」なんかは、素人の私としては、若干トゥー・マッチに思えるところもないではないが、全体としては、『カラマーゾフ』の裏表紙に埴谷雄高が絶賛を寄せているように、名作だと思う。
で、印象に残ったことを、一つ二つ。
『白痴』で、
ムイシュキンは言うまでもなく、ロゴージンもナスターシャと性交渉を持たなかったことは、
ナスターシャを殺害した後にロゴージンがムイシュキンに
「(ナスターシャの裸体を)初めて見たが、綺麗な体だぜ」
という内容の言葉を言うことからも明らか。
では、なぜロゴージンはナスターシャと性交渉をしなかったのか。
江川氏は、ロゴージン(およびムイシュキンも)インポテンツ説である。
私としては、目からうろこと言うか、とにかく、そっちの角度(どっちの角度?)から考えたこともなかったので、「その手があったか!」と思った次第。
ただ、欲望の塊のようなロゴージンがインポだったなんてことが、いやいや、インポテンツな男性がロゴージンのような行動をすることがありえるのかというのが若干疑問。
ヤリたくてたまらないのに、いざとなったら萎えてしまったというのが「インポテンツ」の範疇ならば納得。
ムイシュキンが、ナスターシャを「気狂い」呼ばわりするのは、ナスターシャからセクハラ行為を受けたから。
納得。ただただ納得。
イワン・カラマーゾフの譫妄状態。
アル中説。
うーん。そうでないとは言い切れないが、そうであるとも言い切れないような気が。
悪魔がイワンの前に姿を現す場面は、スメルジャコフとの三度の対面でイワンの心がずたずたになっていたからと言うだけでも十分なような気がするんだが。
http://ameblo.jp/nisekagami/entry-10346336923.html
この本を読むと、まずドストエフスキーって一般には悪文家と言われているけれど、俗語や学生隠語、古風な言い回しにはちゃんと意味があって、そこにはドストエフスキーの意図が働いている、ということが指摘されている。
たとえば小説のはじめに、ラスコーリニコフが「ナスーシチヌイな仕事もすっかりやめてしまい」、とある。
「ナスーシチヌイ」ということばは「日々の」という意味なんだけど、日常めったに使われない文語的なことばだそうだ。
ところがこれがじつは聖書のなかに「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」という一句の、「日用の」と同じなんだな。
そもそもこれは、当時のロシアの子供たちが暗唱させられるお祈りで、「ナスーシチヌイな仕事も・・・」とくればこの聖書から採られたお祈りが連想される、というわけだ。
だから、ここでは主人公が日用の糧を稼ぐ仕事もやめようとしている、と読みとることができる
そうだとすると、併せて日々のお祈りもしなくなった、とも連想できますね
それにラスコーリニコフという主人公の名前・・・
この名前は17世紀ロシア正教から分裂した「ラスコーリニキ(分離派)」に由来している。
その証拠に、創作ノートには主人公の母親のことばとして「ラスコーリニコフ家は二百年来、有名な家系」と記されている。
この小説が書かれたのは1865〜1866年、そこから200年さかのぼると、まさに17世紀の'60年代で、分離派運動の発生期に一致するんだよ
分離派って、どんな信仰形態なんですか?
「分離派」にもいくつかあって、
身体をたたき合いながら法悦状態に達する「鞭身派」、
肉欲から逃れるために生殖器官を切除する「去勢派」などがあったそうだ
また、ラスコーリニコフという姓はロシア語の動詞「ラスコローチ(割り裂く)」とも無関係ではない。
まさにこの青年は金貸しの老婆の脳天を斧で割り裂くわけだ
でも・・・斧が凶器ですけれど、たしか峰打ちでしたよね?
優美、よく気がついたね(^^ )そう、峰打ちであることが妙に強調されている。
つまり、斧の刃はラスコーリニコフ自身の方を向いていたんだね
それはドストエフスキーの意図するところだったと・・・?
うん。これまた証拠があって、後にラスコーリニコフがソーニャに老婆殺しを告白するとき、
「あのときぼくは、ひと思いに自分をウフローパチしたんだ、永遠にね・・・」と言っている。
ここはふつう「ひと思いに自分を殺した」と訳されているけれど、「ウフローパチ」というのは俗語で、もとはものが激しく打ち当たる擬音語「パチン、パシリ」にあたることばなんだそうだ。
つまり「ひと思いに自分をパシリとやった」・・・
割り裂いたのは自分自身だったというわけだな
はあ〜見事な分析ですね
名前の話に戻るけど、主人公のフルネームは「ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフ」で、頭文字はロシア語のR音だから「PPP」になる。
著者の江川卓によれば、ロシアでもこんな名前はほとんどあり得ない、可能性としては600万人にひとり、当時のロシアなら5人もいたかどうかという計算になるそうだ
頭文字が「PPP」となることに意味があるのですか?
これは裏返しにして「666」、つまりヨハネ黙示録に記述されたアンチクリストをあらわすのではないか、というのが著者の推理だ。
神の掟に背いて殺人を犯しながらなお人間の掟を「踰えた」とうそぶく主人公に、すこぶるふさわしい設定―「刻印」だろう。
じっさい、非凡人論をぶちあげたラスコーリニコフに、予審判事ポルフィーリイが「何か生まれながらのしるしでもないのですか?」と質問している
名前だけでそれだけの意図が込められているなんて驚きですね・・・(・o・)
主人公に次いで重要な登場人物である聖娼婦ソーニャについてちょっとだけふれておこうか。
この小説にリザヴェータという登場人物が出てくるだろう?
金貸しの老婆に使われていて、運悪く殺人の現場に来合わせてしまったために主人公に殺されてしまう女性ですね
うん。ラスコーリニコフが安料理屋で、たまたま隣に立った将校と学生がリザヴェータについて噂しているのを聞くよね。
それによると、リザヴェータは「ひどい醜女」で「善良」「柔和」「静か」、そして未婚でありながら「ほとんどいつも妊娠している」ということだった。
ここで「柔和」と「静か」はソーニャとの共通点なわけだけど、同時に「醜女」でありながら「いつも妊娠している」のはなぜだろう?
・・・(・_・;
ヒントがいくつかあって、はじめてソーニャの部屋を訪れた主人公は、ふとたんすの上に置かれたロシア語訳の「新約聖書」に目をとめる。
ソーニャによればリザヴェータが持ってきたものだということだ。
ところがこの「新約聖書」は、ドストエフスキーが持っていた、発行後40年を経た稀覯書を模している。
どうしてこんなものをリザヴェータが持っていたんだろうか?
たしか、ソーニャがリザヴェータのことを「あの人は神を観ずる方です」と言っていましたね。
そのことと関係があるんでしょうか?
まさにそれだ( ・_・)♭
さっき話に出た、ロシア正教から分裂した「分離派」に、「観照派」という宗派がある。
「鞭身派」と「去勢派」がそれで、「観照派」とは文字どおり神や聖霊を観照する、つまり目に見ることだな。
「鞭身派」というのは信徒たちが密室でお互いの身体をたたき合い、集団的な法悦状態にまで高まったとき、キリストや聖霊が儀式の場にあらわれるのを観照する。
そしてその法悦状態から信徒たちは乱交に至ることもあり
(このことが、この鞭身派の勢力を急成長させた要因ではないかという説もあるらしい)、
この儀式の際に授かった子供は未来のキリスト候補として宗派の共同体によって育てられるという習慣もあったそうだ
するとリザヴェータは・・・
「鞭身派」のあるセクトの巫女―「聖母マリア」だったのではないか、というわけだ。
それならいつも妊娠していて、しかも生まれてくる子供の養育については心配する必要もなかっただろう
・・・それでは、ラスコーリニコフは「聖母マリア」を殺したということにもなりますね・・・
でも、ソーニャはリザヴェータがそのような立場にあったことを知っていたのでしょうか?
「神を観ずる方」と言っているくらいだから、当然知っていたんだろうね・・・
いや、それ以上かもしれない。
ソーニャがリザヴェータについて語るとき、妙な言い淀みが頻発しているのに気がついた?
「ええ・・・あの人は心正しい方でした・・・
ここへも来ました・・・たまにですけれど・・・
そうそうは来られなかったんです。
わたしたち、いっしょに読んだり・・・お話ししたりして」
たしかに「・・・」が多いですね
公然化されていない儀式のことを思っていたのだろうか・・・
「わたしたち」って、ソーニャとリザヴェータのふたりのことだけだろうか・・・
するとソーニャも・・・
ちょっと考えにくいけど、彼女の部屋は窓が三つもあって家具がほとんどない「大きな」部屋とされている。
娼婦の部屋としては似合わないよね。
じつは鞭身派の儀式は、窓がたくさんあって明るく広い部屋が使われるのが通例だったそうだ
というわけで、ドストエフスキーの「罪と罰」は、この本によって意味論を超えた次元で徹底的に読み解かれている。
http://amadeushoffmann.web.infoseek.co.jp/dialogue29.html
「君は確実に病気で死ぬ」
私の好きな小説「罪と罰」 ソーニャについて
当時のロシアペテルブルグは梅毒蔓延が社会問題で客の8人に一人は梅毒持ちのロシアンルーレット状態だったそうな。
黄色い鑑札を受けるってのは、何週間かおきに、警察に出頭して発症してないか性器を調べられるという意味。
ラスコがねちねちねち「君は確実に病気で死ぬ」といじめるのも、意地悪いが事実の指摘だね。(2chより)
現代において、売春少女は不幸か?
と言えば、援助交際とか気楽に言っているので、そんなにこの女主人公ソーニャは悲劇なのか?
やはり、時代背景と言うものを少しは知らなくては、ソーニヤの悲劇性はわからないと思う。
時代は19世紀である。
避妊具とかが発達していなので、性病・妊娠の危険は売春の仕事をする中では大きいと思う。
それゆえに社会的な排他・阻害感も、現代よりも強いと思う。
亡くなった飯島愛さんのようにTVタレントにはなれないだろう。
小説にも出てくるが、一般の家族と娼婦は同じ部屋に一緒にいることはない。
ソーニャが父の葬儀の出席依頼をしにラスコの下宿を訪ねて来る場面がある。
そこに偶然、ラスコの母と妹がいるのだが、それを見たソーニヤは決してラスコの部屋に入ろうとせずにドアの外で用件を伝えようとする。
たぶん、性病への感染リスクがある為だと思う。
ソーニャの最初の相手は16歳の時に、売春をはじめた時の相手である。
当然、恋愛もなにも知らずに、いきなり売春である。
(これは現代においても、かなり悲劇ではないか・・・)
それから、家族の為にほぼ毎日、お客の相手をするのだが、残念ながら、彼女は性的な快感はない。
18歳にして、重度の不感症・冷感症なのである。
それ故に、彼女は「純粋な売春婦」と称されるのである。
当然ながら、彼女には友人はいない。
唯一の友人であった知的障害を持つリザベーダーは、ラスコに斧で殺されたのである。
彼女に知的障害を持つ「神がかり」と言われる人しか友人がいないことが、彼女の社会的境遇を物語る。
彼女は虐げられた人である。
ラスコ曰く、
「あなたは自分で自分を殺してしまったのだ」
ラスコーニコフは自分の老婆殺しについて
「あれは斧で老婆を殺したのではなく、自分自身を殺したのだ」
人間として一線を超えてしまった2人の若者は、お互いに強く惹かれ合うのである。
http://psjfk.blog23.fc2.com/blog-entry-797.html
江川卓 謎とき『カラマーゾフの兄弟』
外国文学を日本語で読むと、その面白さは半減する。
たとえば、日本文学で、谷崎の流麗な上方言葉の魅力を、では、どう英語に、フランス語に、ロシア語に翻訳することができるか。
京都や大阪という土地の土着性など、その細かいニュアンスを他言語圏に伝えるのは相当無理があると思う。
訳者でもある著者は、そのロシア語と日本語の間に立って、ロシア語で読まれるはずの『カラマーゾフの兄弟』の魅力を、詳しく、丹念に解説してくれる。ロシア語のできん者にはとてもありがたい。
たとえば、なぜ一連の騒動を巻き起こす一族の姓名が「カラマーゾフ」でなければいけないのか。
「カラ」は日本語で「黒い」、「マーゾフ」は「塗りたくる」の意味らしい。
さらに、「カラ」が「カーラ」だとすると、それはロシア語で「罪」となり、さらに「カラ」は泥棒の隠語で「男性性器」の意味でも用いられるという。
作者も指摘するように、語の多義性を最大限に利用するのが「ドストエフスキーの小説作法の真髄である。
ところが、この「カラ」起源説はこれに留まらない。
「カラ・ゲオルギイ」というセルビアに実在した民族英雄がいたらしい。
この人、王朝の始祖、ゲオルギイ・ペードロヴィチが父親殺しをしたことから、「カラ・ゲオルギイ」、つまり「黒いゲオルギイ」とあだ名されたらしい。
さて、父親殺しとはこの小説の主要テーマであり、この事件を中心に小説は進行するのだが、このカラ・ゲオルギイは父を殺し、王朝を築き上げた。
つまりそれは、旧制度の討伐、であります。
何よりもスリリングなのは、あんなにも信仰深く敬虔だったアリョーシャが、のちに革命家となり、皇帝暗殺を企てるだろうという説!
これは著者のみならず、多くの学者が指摘しているという。
もちろん、小説にはそんな事実はどこにも書かれてない。
父・フョードルを殺したのは私生児(その事実の真偽もこの本の中では取り上げられている)とされているスメルジャコフであり、殺害の嫌疑にかけられたのは長男のドミートリイだ。
アリョーシャの父親殺しはどこにも書かれてない。
しかし、小説冒頭、ドストエフスキーは、これは第1の小説で、この小説には13年後の、現在の小説が予定されていると断っている。
つまり、この『カラマーゾフの兄弟』には続きがあり、それこそは33歳になったアリョーシャの現在進行形の小説になるはずだったのだが、すでにドストエフスキーは死んでしまった。
33歳とはキリスト処刑の年齢に重なる。
「現代のキリスト」であるアリョーシャは、既存宗教から抜け出し、革命を起こす。
皇帝暗殺とは、ロシアの「父」を暗殺する事に他ならない。
予定されていた続編ではアリョーシャによる父親殺しが書かれるはずだったと言うのだ。
であるとすれば、「カラマーゾフ」とい姓が「カラ・ゲオルギイ」から引用されている事は、容易に結びつける事ができる。
ちなみに、ドストエフスキー死後1ヶ月、皇帝アレクサンドル2世は暗殺されている。
こんな謎ときです。
他にも、スメルジャコフは去勢していたという説。
ロシア正教の分派の中で「鞭身派」というのがある。
読んで字のごとく、身を鞭で打つのだが、
この宗派は、教会や聖書を介さずに直接にキリスト、精霊と交わることを求め、そのために、
男女の信徒が一部屋に集まって、祈祷、歌、踊りのあげくに、
最後には手や鞭で各々の身体を打ち合って、集団的恍惚を得る
儀式が行われていたのだという。
しかし、これ、キリストや精霊との直接の交感を求めていたこの儀式も、次第に乱交パーティー化していったという。
そうして、その反動として現れたのが「去勢派」である
性的堕落を激しく糾弾し、男は睾丸を、女は乳首を切除したり乳房を抉り取ったりするのだそうだ。
ゆえに、去勢派の人間はそろって顔色が悪く、傍から見ても「あいつは去勢派だ」ということが分かるくらいなのだという。
これはスメルジャコフの描写に見事に呼応している。
ちなみに、筆者はグリゴーリイは鞭身派だと指摘している。
さて、今では考えられないようなオカルト宗派(現在でも案外あるかも)、について、小説中ではどこにも直叙はされていないが、この分派は当時のロシアに、マイノリティではあるものの結構広く信仰されていて、認識はされていたようだ。
つまり、当時のロシアの読者であるならば、
スメルジャコフの描写や、マリヤとの同棲ではない同居を読むと、彼らが去勢派であるということは容易に推察できることなのである。
『カラマーゾフの兄弟』はロシアの民族的、土俗的信仰生活に深く根を下ろしている。
アリョーシャを「黒いキリスト」、スメルジャコフを「白いキリスト」と設定したり、
イワンは実はアル中ではなかったかとか、3と13という数字の意味、蛇と龍と男性性器。作者の行間にするする入り込んでいく、その快感は、中々である。
さらに、ドストエフスキーの名はフョードルというが、夭折した彼の息子の名はアリョーシャらしい!
古典が古典であるゆえんは、それが幾時代を超えてもなお読まれる、その力である。
それはつまり、幾通りもの読み方ができる言う事だ。
『カラマーゾフの兄弟』はもはや古典だが、この古典小説も数多くの神話や民話や古典を引用している
(ちなみに三島由紀夫は『仮面の告白』の冒頭で、美とソドムに関するミーチャの名高い演説を引用していた)。
それらについての素養ができていないと、真正面からこの小説に立ち向かう事はできない。
とりわけ聖書、ギリシア神話を暗誦できるくらいに読み込んでいないと、積み上げられたドストエフスキーの謎は紐解けないのです。
まあ、しかしアリョーシャがやがて革命家となり、国家的犯罪を犯し、皇帝暗殺に乗り出すとは、本当にビックリだ。
心優しいアリョーシャが! しかしその犯罪(ソドム)は美しい。
これこそがカラマーゾフ的だ。
最後の12人の少年たちに向けて行われるアリョーシャの演説は、そのまま12使徒に向けられたキリストの演説である。
と、すると、この中には絶対にユダがいる。
ゆえに、アリョーシャは密告されて殺されてしまうのだろうか。
ドストエフスキーが書くはずであった、そのアリョーシャの物語が読みたかったし、ドスト本人も書きたかったろうに。
しかし、これだけ膨大な伏線めぐりの末にたどり着いた最後の演説の場面が、それこそも続編への伏線だったとは。この巨大で精緻な構成力は、本当に圧巻である。
http://www.geocities.jp/maxi_japan/dokusyo_egawataku_nazo-k.html
「去勢派」については、江川さんが「謎ときカラマーゾフの兄弟」で次の様に書いています。
「ロシア分離派史上でも最大の人物と目されるコンドラーチイ・セイワーノフが登場した。〜〜〜
やがてセイワーノフは、鞭身派の性的堕落にいきどおり、自分は人類を肉欲から救い、「魂を滅ぼす蛇を退治する」ためにこの世にやってきた「神の子」であると宣言した。
むろん「蛇」とは男性の性器官の象徴であり、「蛇退治」は「去勢」の意味である。
このような形でセイワーノフによって開かれた新しい宗派が「去勢派」であり、信徒は「ぺチャ−チ」(刻印)と呼ばれる術を受けることになった。
女性の場合は、乳首だけを切除するのが「小ぺチャーチ」、
乳房まで切り取るのが「大ぺチャ−チ」と呼ばれた。
男性の場合の「小ぺチャ−チ」は睾丸を切断するわけだが、
「大ぺチャ−チ」については、手術を終えたあと、術者が切除部分を被術者の目の前に突きつけ、
「見よ、蛇の頭は砕かれたり、キリストはよみがえりたまえり」
と唱える、のだという。
〜〜〜鞭身派の聖母アクリーナから正式に「キリスト」と認められたセリワーノフは、
「魂を滅ぼす蛇を退治する」自身の事業をしだいに広め、十八世紀中葉には、信徒の数ももはや無視できなくほどの数に達していた。〜〜〜
ついに一七九七年には、ピョ−トル三世とエカチェリーナ女帝の遺児であるパーべェル一世と対面し、二人の間には次のような問答がかわされたという。
パーべェル帝「汝はわが父なるや?」
セリワーノフ「われは罪の父ならず。わが業(去勢)を受けよ。さすれば汝をわが子と認めん」
ファンタスチックとしか形容のしようのない対話で、パーべェル帝がセリワーノフを狂人と認定し、オブホフの精神病院に収容してしまったのも無理からぬことであった。
ところが奇妙なことに、パーべェル帝の後を襲ったアレクサンドラ一世は、すでに白髪の老爺となっていたセリワーノフの人柄に魅惑され、一八〇二年に彼を解放したばかりか、数次にわたつて彼と親しく面談し、セリワーノフのほうでも、大去勢によるロシア救済計画を帝に建議したといわれる。〜〜〜
つまり、「カラマーゾフの兄弟」の舞台となっている十九世紀の六十年代、七十年代にも、この奇怪な信者たちの問題は、けっしてたんなる昔語り、あるいは僻地のエキゾチックな風習ではなく、むしろすぐれて現代的な関心事であったということができるように思う。
「まぎれもなく「好色な人たち」である「カラマーゾフの兄弟」の作中人物たちのなかで、スメルジャコフ一人はいくぶん例外的に見える。
まず彼の少年時代の大好き遊びが猫の葬式ごっこだったことが想起される。
彼は幼い頃から、猫を首吊り台にかけ、そうしておいてその葬式ごっこをするのが大好きだった、と言われている。
葬式のときには、祭服に見立ててシーツをひっかぶり、香炉代わりに何やら猫の死体の上で振りまわしながら、歌をうたうのだという。
モスクワへ、コック人の修業に出されて戻ってきた彼は、
「すっかり面変わりがしていた。なんだかふいにめっきり老けこんだ感じで、年齢にまったくそぐわないくらい皺だらけになり、顔色は黄ばんで、去勢者に似た感じになっていた」
「大審問官」伝説をアーリョーシャに語った直後、家に戻ったイワンは、門のわきのベンチで夕涼みをしていたスメルジャコフを目にする。
「イワンは怒りと嫌悪の目で、びんの毛を櫛できれいに撫でつけ、ふっくらと前髪を立てたスメルジャコフの去勢者のように痩せこけた顔をにらめつけた」
見るとおり、スメルジャコフはドストエフスキーによって、ことさら「去勢者」に、あるいはさらに進んで「去勢派信徒」になぞえられている。
さらに注目されるのは、マリアの家に移ったスメルジャコフが、母娘によっていたく尊敬され、二人はスメルジャコフを「一段上の」人間のように見ていた、という指摘である。
「一段上の」という言葉にこだわるのは、
鞭身派以来、代替わりのいわゆる「新キリスト」は、旧キリストあるいはマリアによって「一段上の人、最上の人」として彼らの共同体である「船」に迎えられる慣行があったからである。〜〜〜
スメルジャコフが「花婿」の資格でマリアの家に移ってきた、とされていることも見逃せない。
ロシア正教会においてばかりでなく、西欧のキリスト教会においても、「花婿」という言葉は、ヨハネ黙示録の「子羊」、つまり 花嫁たる教会を聖化する「花婿」、別の言葉でいえば、再来するイエスキリストその人を指す言葉であった。〜〜〜
ところで、スメルジャコフが去勢派の「白いキリスト」だということになれば「蛇退治」(フョードル殺し)は、当然、彼の宗教的、社会的使命だということになる。
こうして、もともとは多分に個人的であったかもしれないスメルジャコフの犯行の動機が、いわば去勢派流に「聖化」され、普遍的な意義を獲得することになるのである。〜〜〜
前にも触れたが、幼児期の彼が大好きだったという猫の葬式ごっ子のエピソードがそれに当ることは、あらためて言うまでもあるまい。
このようなスメルジャコフが、鞭身派、去勢派の「船」が数多くあったモスクワへ「修業」に出て行ったとき、「猫」ないし「蛇」に対する彼の憎悪は一つの基礎ずけを与えられ、同時に深く内攻していくことになった。
こうして彼は外なる「蛇」を挫く以前に、まず自身の内なる「蛇」を挫くことを決意するのである。
つまり、「去勢者に似た感じ」になってモスクワから戻ってきた彼は、すでに「白いキリスト」の自覚をもち、フョードル殺害にあたっては、もはや完全な確信犯として行動することができたのである。
ところで、スメルジャコフの犯行がそのような「使命感」に裏ずけられたものだったすれば、当然、彼の憎悪はたんに個々の「蛇」だけにではなく、「蛇」一般に、さらにはそのような「蛇」のはびこる現世そのものにも向けられていたと考えなければなるまい。
事実、彼の憎悪は、カラマーゾフ一族を生み出した土台であるロシアそのものにも向けられていた。
「私はロシア全体が憎くてならならないんですよ」とは、彼のマリヤへの告白である。
〜〜〜
スメルジャコフの憎悪は、むろん、ロシアだけに局限されはしなかった
「女にだらしがない点しゃ、外国人もロシア人も似たり寄ったり」だからである。
〜〜〜
一方、スメルジャコフが目撃するカラマーゾフ一家の「淫蕩」が、全ロシア的な、あるいは世界的な「淫蕩」の象徴的な縮図とするならば、それは、「大審問官」伝説に登場する「野獣にまたがる淫婦」を媒介にして黙示録的終末のイメージとも重なってくることになる。
折りしもいまは「蛇の季節」でもあった。
スメルジャコフはこの終末の世に、「蛇」を退治し「淫婦」を辱めるべき「白いキリスト」として再来したのだった」
(謎解き「カラマーゾフの兄弟」 江川卓 新潮選書 Z 白いキリストより)
去勢を血統転換に置き換えれば、統一教会の教えそのものになります。
(「謎ときカラマーゾフの兄弟」V好色な人々・Z白いキリスト ページ158〜159より
江川卓 新潮社)
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誰もが関心を持つのは、去勢派、鞭身派共に各派の聖女ですね。
去勢派の聖女マリア(スメルジャコフの花嫁?)はスメルジャコフの元にスープをもらいにやって来ます。
寄生派の花嫁は「○○○の毛まで抜かれる」と言われている通りに、はるばる海を越えて○○○の毛を抜きにやって来ます。
「合同結婚でも日本人同士のカップルならば安心だろう」と思うのは、早とちりです。
友人の場合は、結婚当初、現金で預金をしていたら奥さんがすべて教会に献金してしまうので、すかさず預金をマンションのローン頭金にあてて、間一発のところで無一文にならずに済みました。
お気に入りの食器やレコード類も、生活必要品としてすばやく居間に配置したので無事に残りました
それでも、僕の友人はまだ恵まれているほうで、献身者(統一教会系列会社で働いている夫婦)の場合は数家族の共同生活の家賃や食費はかかりませんが、朝から夜遅くまで働きずめで一家族1万二千円の月収です。
「カラ」兄弟でも、スメルジャコフは、フョードル宅からいつのまにか去勢派の共同生活場?らしきマリアの丸太小屋に移されていますね。
http://dostef.webspace.ne.jp/bbs/dostef_topic_pr_287.html
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3. 鞭身派のキリストと聖母マリアとは
17世紀に分離派の一派として生れた宗派に鞭身派というのがある。
1700年1月1日に生きながら天に召されたダニイロ・フィリッポフが開祖とされており、この点では作中(カラマーゾフの兄弟)に登場する聖痴愚フェラポント神父にその面影が映されている。
鞭身派の教義の特質は、教会や僧を否定し、直接にキリスト、聖霊との交わりを求める点にあり、そのための手段として、
男女の信徒が一部屋に集まり、祈祷、歌、踊りのあげく、
最後には手や鞭でおたがいの全身を打って、集団的な恍惚状態に達する独特の儀礼が行なわれた。
この瞬間にキリストないし聖霊が信徒たちの胎内に入ると信じられたのである。
この教義の当然の帰結として、鞭身派には、初代キリストのイワン・スースロフをはじめ、何人ものキリストがつぎつぎと現われることになった。…
むろん「十二使徒」も信徒たちの中から選ばれ、「船」と呼ばれた信徒たちの共同体には、かなり厳格なヒエラルキーが確立していた。…
http://www5a.biglobe.ne.jp/~outfocus/page-he.htm
●ロシアの異端
鞭身派−肉、魚、にんにく、ジャガイモを食べず、酒も飲まない。
女はプラトークをまぶかにかぶる。
一部屋に車座になってすわり、入れ替わり立ち代わり踊り、罪のもとである肉を鞭で打ち続ける。
最後は乱交パーティーになる。
ラスプーチンもこの一派といわれる。
モンタヌス派−別名跳躍派。
集会で男女が手を取り合って飛び跳ね、そのあとで性交する。
聖書のロトと娘の性交、ソロモンの300人の妻にちなむ。
去勢派−淫行に走りがちな鞭身派を批判。
罪のもとである陰茎、乳首を切除する。
男性ホルモンの欠如からひげが生えず女性的な声なので外見からすぐに分かる。
「カラマーゾフの兄弟」のスメルジャコフは去勢派といわれる。
http://www.sapporo-u.ac.jp/~oyaon/kyozai/08.txt
鞭身派
17世紀末に起こった〈霊的キリスト者〉のセクトで、聖書と聖職者を認めず、
精霊(Святой дух)との直接的な交わりを求めて、熱狂的に踊り、歌い、互いに体を鞭打ったところから、その名が生じた。
神の化身である複数の〈キリスト〉、〈聖母たち〉あるいは〈母君(マートゥシカ)たち〉のもとに集まり、
祈り、祈りの最後に執り行なわれる独特の儀式(ラヂェーニエ)。
それが始まると、宗教的エクスタシーに達するまでみなが踊り狂ったという。
自らを〈神の人びと〉と称した。
旧タムボーフ、旧サマーラ、旧オレンブールグの各県、北カフカースやウクライナに彼らの小さな共同体が存在した。
http://www.seibunsha.net/prishivin/p15.html
帝政ロシアは政教一致を国是とし,ロシア正教が国教でしたが,国民のうちにはこの国教を奉じようとしない者もあり,政府と正教会はこれに手を焼いていました。
この反正教会的宗教潮流は,通常「ラスコールと諸セクト」と総称されます。
ラスコールは通常「分離派」と訳されるとおり,十七世紀の教会改革の際正教会を離れた人々のことで,改革を受け容れず古い儀式に固執したことから,「古儀式派」とも称されます。
分離派には穏健派から過激:派にいたる様々な流派がありますが,大略,司祭の存在を認める「司祭派」と,これを認めない「無司祭派」に分かれます。
無司祭派は教導者を擁するのみで,司祭も正典も宗規も有さぬところがら,次第に正教会はもちろんキリスト教そのものから離れ,キリスト教的要素を多く保持しつつも,新たな道をもとめて独自のセクトを生み出す傾向があります。
フルイスト派(鞭身派)の場合も,その発生時期(十七世紀半ば)からして,もとは無司祭派に端を発していると考えられます。
フルイストが鞭を意味するところがら,日本ではこれまで鞭身教徒と訳されていますが,この訳語は不適切であり,見当違いな憶測のもとになりかねません。
鞭身教徒という言葉から,人は漠然と,鞭打ちがこのセクトの特徴であると思うでしょう。
確かに鞭打ちは,中世の修道僧などが自らに課した苦行です。
しかしフルイストゥイの儀式において鞭打ちはなんの役割も演じておらず,この場合フルイストゥイの語はまったく別の由来を有しています。
このセクトの信者たちがなぜ「キリストたち」と呼ばれたかというと,それは彼らが多くのキリストを輩出したからです。
彼らの地域集団をカラーブリ(船の意。フリーメイソンのロージにあたるもの)と呼びますが,各カラーブリは必ず教導者たるキリストと生神女,さらに大抵は複数の預言者と女預言者を擁していました。
その儀式の主たる内容は輪舞(これをラジェーニエと言います)で,彼らはこの激しい身体運動によって法悦に達し,キリスト,生神女,預言者たちは忘我の気惚状態の内にあって,天候の如何,収穫の良し悪し,個人の身上等々を預言しました。
預言者には原則として誰でもがなれた。
もちろん預言者たる能力には個人差があって,預言者や女預言者になるのは,人一倍霊感を受け易い者たち,恍惚状態に陥り易い者たちでした。
フルイストたち自身の言い伝えによれば,その教祖たちの行実とは次のようなものです。
皇帝アレクセイ・ミハイロヴィチ(在位三64546)の時代,ウラジーミル県コヴロフ郡なるゴロジン山の頂に二軍のエホバが降り,コストロマ県の農民ダニーラ・フィリッポヴィチの内に入って彼を生ける神とした。
当時はニコンの改革に端を発する教会分裂の真最中で,人々はいかなる書物によって救われるかをめぐって争っていた。
人が救われるのは古い書物によってか,それとも新しい書物によってか。ダニーラ・フィリッポヴィチは,新たな啓示によってこの書物の新旧論争にけりをつけた。
すなわち,救われるためにはいかなる書物も要らない。
聖神そのものさえあればよい。
内心の祈りによってのみ神は人間に宿り,人は救われる。
彼は新旧の書物をすべてかますに詰め,ヴォルガに捨てさせました。
ダニーラ・フィリッポヴィチははじめコストロマ近郊のスターラや村に住み,のちコストロマに移った。
以来コストロマは「天上のエルサレム」,彼の住む家は「神の家」と呼ばれ,多くの信者を集めます。
書物の(つまり教会の)教えに頼らず,わたしの言葉のみを信ぜよ。
あるいは,預言者たちが忘我状態で口にする言葉(預言)のみを信ぜよというのが,彼の教えでした。
別の伝説によると,ダニーラのことを知った総主教ニコンは彼を幽閉したが,彼が釈放されてコストロマへ帰るまでの間,地上を一面の霧が覆った。
コストロマに帰った彼は,弟子たちに「十二誠」を与えた。
この十二誠とは次のようなものです。
1.我は預言者たちにより預言された神であり,人間の魂を救うため地に降り来たった。
我以外に神はない。
2.他に教えはない。他の教えを求めてはならない。
3.汝の置かれたところに留まれ。
4.神の受命を守り,世の漁人となれ。
5. 酒を飲むな。肉の罪を犯すな。
6. 結婚するな。既婚者は妻と兄妹のごとく生きよ。未婚者は結婚するな。既婚者は離婚
せよ。
7. 悪罵を口にするな。悪魔,悪鬼等の言葉を口にするな。
8. 婚礼,洗礼式に行くな。宴会に出るな。
9.盗むな。一コペイカでも盗んだ者は,あの世でこの一コペイカを頭頂に貼りつけられ,
これが地獄の火で融けるまで,赦されることはないであろう。
10.これら二二を秘表せよ。父にも母にも明かすな。たとえそのため鞭打たれ,火で焼か
れようと,耐えよ。耐えきった者こそ信者であり,天国を,また地上では霊の喜びを,
受けるであろう。
11.互いに訪れ合い,もてなし合い,愛し合い,我が誠命を守り,神に祈れ。
12.四神を信ぜよ。
もっとも,コンラート・グラスというリトワニアの研究者によると,フルイスト派の伝説が伝える教祖たちのうち,ダニーラ・フィリッポヴィチについてはその実在を確証することができない。
歴史資料により実在が確証されるのは,次のスースロフからだというのです。
万軍のエホバがゴロジン山に降りダニーラを生ける神とする十五年前,ウラジーミル県ムーロム郡マクサコフ村に,母親のアリーナ・ネーステロヴナが百歳の時,神の息子たるキリスト,イワン・チモフェーヴィチ・スースロフが生まれた
(これは,アリーナ・ネーステロヴナが生神女を務めていたカラーブリで,スースロフが霊的啓示を受けキリストとなった,という意味でしょう)。
イワン・スースロフが三十歳になった時,ダニーラ・フィリッポヴィチは彼をコストロマへ呼び,神性を授け,彼を生ける神とした。
すなわち,スースロフはダニーラ・フィリッポヴィチにより三日間天へ上げられたのちオカ河の岸へ帰り,以後ここの一村を根拠地として教えを弘めた。
彼は若く美しい娘を連れており,彼女は生ける神の娘として,また生神女として崇められていた。
彼はまた,弟子たちのうちから十二人の使徒を選び,彼らと共に村から村へ布教を続けた。
アレクセイ・ミハイロヴィチ皇帝(在位1645−76)はスースロフの布教活動のことを知って,彼を四十人の信者と共に捕らえ,訊問のためモスクワへ連行させた。
しかし司直は彼らから一言の供述も引き出すことができなかった。
拷問の火もスースロフの身体を傷つけえず,結局彼はクレムリン前の赤の広場で心墨に処された。
彼は木曜日に息を引取り,金曜日に埋葬されたが,土曜日から日曜日にかけての夜に甦り,モスクワ近郊の村に姿を現した。そこで再度逮捕され,拷問と礫刑に処され,再度甦った。
三度目に捕らえられた時,皇后ナタリヤ・キリーロヴナはピョートル・アレクセーヴィチ(のちのピョートル大帝)を懐妊中で(つまり1672年のこと),スースロフの釈放なくして出産は無事にはすまないという預言があったため,皇帝はスースロフを釈放した。
以後三十年間(つまり1702年まで),スースロフはモスクワを中心に布教を続けたが,うち十五年間は政府の監視を避けてモスクワを去り,諸所の弟子たちのもとを転々とし,迫害が下火となったのちモスクワへ帰り,ここで男女の修道院に果多しく信者を増やした。
彼の住むクレムリン近くの家は,「神の家」とも噺しきエルサレム」とも呼ばれた。
1699年には,百歳のダニーラ・フィリッポヴィチがコストロマからモスクワの「新しきエルサレム」へ移り来たり,ここから1700年1月1日,永い輪舞ののち,多くの会集者たちの見守るなか天に昇った。
以後それまでの9月1日に代えて,この日を新年の始まりと定めた。
三年後,スースロフ自身も多くの信者たちに見守られつつ昇天した。
ダニーラ・フィリッポヴィチは地上に遺骸を残さなかったが,スースロスは残した。
信者たちは遺骸を乞い受けてイワノフスカや女子修道院に埋葬し,石碑を建てた。
スースロフのあとを継いでキリストとなったのは,ニージニー・ノヴゴロト(現ゴーリキー市)の元込士プロコフィー・ダニーロヴィチ・リープキンなる人物で,一部フルイストたちは,彼をダニーラ・フィリッポヴィチの実の息子であるとしています。
彼は1713年から1732年の死まで,キリストの地位にありました。
彼の妻アクリーナ・イワーノヴナは生神女で,二人の息子は剃髪して修道院へ入り,ここで教えを弘めます。
十八世紀半ばから十九世紀初頭までの問に,フルイスト派はほぼロシア全域に行き渡り,国外ではガリシア地方に住むロシア人たちにまで及びました。
モスクワには四つのカラーブリがあった。
とりわけ信者が多かったのは,オリョール県とタンボブ県であったそうです。
信者はさまざまな階層にわたりましたが,主として農民都市の職人,小商人たちで,また多くの修道院がこのセクトの拠点でした。
フルイスト派は結婚と生殖を認めませんが,ダニーラ・フィリッポヴィチやキリストの家系には血統が絶えぬよう配慮がなされていたようです。
コストロマから三十キロのスターラや村には,十九世紀半ばまでダニーラの門下と言われるウリアナ・ワシーリエワという女性が生存しており,彼女が修道院へ幽閉されてのちも,スターラや村はフルイスト派の聖地ベツレヘムといったものでしたし,ループキン直系の子孫もやはり十九世紀半ばまで存続していました。
十九世紀の六十年代に至り,フルイスト派は個々のキリストを戴く多くのカラーブリに分裂し,それらカラーブリ同士が互いに対立し合うという事態を生じた。
フルイスト派は,のちの去勢派ほどにはよく組織された教団ではありません。
それは半ば自然発生的にさまざまな地方に興つた,とすら見える。
諸カラーブリ間の横のつながりも,さして緊密なものではなかったらしい。
しかし各カラーブリにひとりのキリスト,ひとりの生神女がいて,ひとり,あるいは数人の預言者・女預言者がいるという構造は,共通していたようです。
また,儀式のうえではすべてのカラーブリが輪舞(ラジェーニエ)を採用していたことは事実ですが,儀式の細目については地方により時代により種々食い違いもあり,このことは,セクトが時とともに様々な派に分かれていったことを証するものです。
体系的な教義が成文化されず,教導者の意思が神の意思と見倣され,カラーブリの全成員がこれに絶対服従するような集団にあって,これは至って自然なことでしょう。
ロシア正教というのは,概して形式にすこぶる拘泥する宗教です。
十七世紀の教会分裂自体,儀式や礼拝の細目における形式の変更をめぐって生じた。
そして分離派は,正教会以上に形式主義者でした。
彼らは,ニコンの改革が伝統的形式を歪めるものであるとして,旧来の伝統と形式の名において改革に反対したのです。
フルイスト派は,ロシア正教のこの形式主義への反動として興つたと言えます。
その意味で,ダニーラ・フィリッポヴィチがあらゆる書物をヴォルガへ捨てたという挿話が,フルイスト伝説の冒頭に位置していることは象徴的です。
書物や普通の祈りでは生ぬるい。
彼らは神性との一層直接的な接触・融合を求めた。
つまり激しいラジェーニエに訴えて肉体を疲労特牛させ,神を自らの内へ直接呼び降ろそう,神と合体しようとするのであって,これが彼らの祈りなのです。
彼らは,使徒行伝に引かれた預言者ヨエルの言葉が実現したものと信じていました。
「神いひ給はく,末の世に至りて,我が霊を凡ての人に注がん。
汝らの子女は預言し,汝らの若者は幻影を見,なんじらの老人は夢を見るべし。
その世に至りて,わが僕・師団に,わが霊を注がん,彼らは預言すべし」
(使徒2.17)。
法悦に達するための舞踏としては,古代の宗教やシベリアのシャーマン等が思い浮びますが,フルイスト派の輪舞(ラジェーニエ)は他から借用されたものではなく,フルイストたち自身の内で見出され徐々に完成されたものらしい。
ミリューコフは,このセクトの民衆起源に鑑み,先ず初めにその外的・儀式的側面が成立したのであり,教義が整えられたのは遙かのち(おそらくは十九世紀)のことであったろうと言っています。
ローザノブも,ダニーラ・フィリッポヴィチは神との直接交流の手段たるラジェーニエを案出したことで,このセクトの教祖となり,生ける神として崇められたものであろうとしています。
神性と直接合体せんという望みは,彼らが人格化された生ける神を求めたことと結びついています。
人間が神と直接合体しうるというのは,人間が神になりうるという人神思想なのです。
神の霊感を受けるものにとって,この霊感を神から受けたと考えることから,この霊感が自分の内から流れ出たと考えることへはほんの一歩です。
彼らが自らを神的な霊感の源泉,つまり自らの内に神を孕む者と考えるに至ったのは,至極当然の成行きでした。
あらゆる魂の奥所には聖神の萌芽がある。
自らの内へ降りゆく者は,ここに聖神のことば言を聞き,自らの魂の内に神の国を見出す。
自らの内にこの内的福音の声を聞いた者は,その瞬間から「神の宮」となり,もはや肉の内にはなく霊の内にある。
これこそ聖神を自らの内に宿すということです。
彼らにとってはイエス・キリストも,自分たちと同等な「神の言の籍身」にすぎない。
彼らはラジェーニエで,
「主よ,われらにイエス・キリストを与え給え」
と唱えながら踊りますが,その意味するところは,
主よ,かつてイエスに霊感を与えたように,われらにも霊感を与え給え
ということなのです。
こうしてフルイスト派の世界には無数のキリストと生神女が出現したのであり,多くのカラーブリでは,信者同士が互いを神として拝し合うことも行われました。
輪舞(ラジェーニエ)のやり方については,個々のカラーブリにより多少の違いはあるものの,大筋のところはほぼ一致しており,大略次のようなものであったようです
(十九世紀前半におけるニジェゴロト県アルザマスのカラーブリ,コストロマ県ガーリチのカラーブリ等。メーリニコフによる)。
晩の六時頃,カラーブリの成員が一軒の家に集まる。
人数は十人から四十人。
百人に及ぶことは稀である
(もっとも,ペテルブルクでのセリヴァーノブのラジェーニエは,六百人を集めたと言われます)。
部屋には窓がないか,あっても塞がれていて,音が外部に洩れないよう,しばしば地下に造られている。
ラジェーニエの行われる家は,「神の家」とも「エルサレム」とも呼ばれる。
部屋の一隅に生神女が座を占め,信者たちは男女に分かれてベンチに腰掛ける。
全員裸足で,長い白衣を着ている。
はじめに福音書,使徒の書簡,教父の文章,聖者伝等が読まれることもある。
それから自家製の祈りの文句を唱える。
やはり自家製の歌を歌うこともある。
その際両手で両膝を打ち拍子をとる。
歌の合間に十字を切り,主の祝福を乞う。
次いでキリストなり預言者なりがラジェーニエを命じ,一同立って輪になる。
時として預言者自らラジェーニエを始め,他の観たちがそれに従う。
出たちの輪の外に女たちの輪が形成されることもあるが,大抵は男女入り混じっての輪である。
彼らは
「主よ,われらにイエス・キリストを与え給え」
と歌いながら,飛び跳ねつつ,右回りに回る。
輪舞も各人の旋回も,必ず右回りである。
つまり,南面したとき太陽が東から西へ動くように,右回りでなくてはならない。
この踊りに酒神が降るのであり,「聖なる輪」に入る者は霊により国勢するとされる。
踊りは次第に速くなり,人々は息を喘がせて跳ね上がり,手を振り,両足で床を踏み鳴らす。
舞踏者たちの回転の速いことは旋風のようで,顔も見分けられないほどである。
彼らが旋回と跳躍の間中,畷り泣き,声を震わせて奇声を発するさまは,傍目にも恐ろしいほどで,壁越しにこれを聞くと,まるで何かを鞭打っているように聞こえる。
フルイスト派が樽の周りで自分たちを鞭打っているという噂が弘まったのは,このせいかもしれない。
踊る者たちが自らのうちに霊を感ずるや,踊りはますます速くなる。
輪の外で拍子をとり声をかけている者たちは,舞踏者のとりわけ激しく速い動作を認めるや,
「彼に恵みが降った」
と言う。こうして預言者や女預言者が出現する。
ラジェーニエ中はなにも考えてはいけない。
さもないと霊は降らない。
預言者や女預言者になる人々は,概してラジェーニエへの強い嗜好を有しており,彼らにとってラジェーニエは,集中した断食ののち,言い知れぬ喜びを伴って自ずと起こるのだという。
人々はラジェーニエを,それがもたらす陶酔ゆえに「霊的ビール」と呼んでいる。
フルイスト派の教義が肉食,飲酒,夫婦の交わり等の厳しい禁欲的節制を課するものであったことに鑑みれば,ラジェーニエによる心理的陶酔が彼らにとって不可欠であったことは,想像に難くありません。
踊りは大抵夜半まで続く。
白衣が汗でぐっしょりになると,白衣を脱ぎ捨て,裸のまま倒れるまで踊る。
踊りが終わると全員が腰をおろし,手で膝を叩いて拍子をとりながら歌を歌う。
それから教導者に向かって脆き,十字を切り,聖神が預言者の口を通って彼らを訪れるよう祈る。
選ばれた預言者が人々に向かい合って立ち,身体を動かしながら,大きな声で預言を始める。
はじめに全員への預言があり,そのあと個々人への預言がある。
預言者は個々人の罪を暴き,罪人は十字を切って罪を悔い,時に涙を流して預言者を拝する。
預言はしばしば明け方近くまで続く。預言が終わると全員で
「キリストは甦り給いぬ」
を歌い,教導者は十字架を聖像の下に置き,一同は脆拝して十字架に接吻する。
フルイスト派にとって霊は善であり,肉は悪であり,ラジェーニエは霊によって肉を克服する手段であるわけですが,日常生活においても霊は肉に打ち勝たねばならない。
最初の罪はアダムとエヴァの肉の交わりによって生じた。
普通の正教徒たちは変わることなく罪のうちに孕まれ,罪のうちに生まれ,罪のうちに生きている。
罪を免れるには,この世と訣別せねばならない。
これは祈りと断食と,肉欲を断つことによって達せられる。
概して,女と交わることは,フルイストにとって最も重い罪です。
肉,魚,玉葱,大蒜を食べてはならない。
酒を飲んではならない。
遊びの集まりに行ってはならない。
悪罵を口にしてはならない。
女は華美な服や飾りを身につけてはならない。
被ったショールはなるべく深く眼まで下ろして結び,常に慎ましくあらねばならない。
これらの誠命をすべて厳しく守る者は,来世で永遠の生命を得るばかりか,ここ現世でも聖神の恵みに与り,神の息子ないし娘に等しいものとなる。
つまりキリストないし生神女となる。
「我が誡命を守りわが道を保つ者は我に在り,我もまた彼に在るなり」
(ヨハネ第一書3.24)。
イエス・キリスト自身そうした神の籍身に他ならなかった。
罪と訣別し新たな生へと生まれ変わり新たな霊となったわれわれは, 言たる神が宿るに相応しい者たちである。
男たちは皆キリストであり,女たちは皆生神女である。
仲間に引き入れようとする者には,先ず自分たちが正真正銘の正教徒であることを確信させる。
「司祭たちはわれわれに何も教えてくれない。だから自分で本を読まねばならない」
と言い,絶えずキリストに祈り,なるべくしばしば教会へ行き,正教の司祭を敬うよう教える。
やがてこう教えるようになる,
「この世:には聖神の恵みを有する試しい人々がいる。
こうした人々の内にこそ神は生きている。
彼らこそ縛り審くカをもち,罪深い魂を地獄から天国へ導くことができる」。
しかしこうした人々が誰で,何処にいるかは言わない。
新人がセクトへの加入に同意するや,彼は数日間の断食と斎戒を命じられる。
定められた日に,セクトの教導者ないし長老が彼を迎えに来て,信者たちの集会へ導く。
そこには信者たちが全員裸足に白衣姿で,男と女に分かれてベンチに坐っており,前方にひとりの女性(生神女ないし女預言者)が聖像の下に腰掛けている。
広い部屋には沢山の蝋燭が明々と灯されている。
生神女は新人に尋ねる,
「ここへは何のために来たか」
「魂を救うために」
と新入は,予め教えられていたとおりに答える。
「魂を救うのはよいことである。で,汝は誰を保証人とするか」
「天の王たるキリスト自身を」
「キリストを辱めることのないよう努めよ」
次いで新人は聖像に向い誓いを立てる。
誓いは次の三点から成る。
1. 聖なる信仰を受け容れ,決してこれに背かない。
2. しばしば教会へ行き,痛悔をし,聖体礼儀を受けるが,司祭に新たな信仰のことは一言も洩らさない。
3. 聖なる信仰のためにはいかなる苦難にも耐え,牢獄も,シベリアへの流刑も,死すらも恐れず,自らの信仰を誰にも決して明かさない。
そのあと新参者は教導者の命ずるところに従い,一同が彼のために祈るよう頼む。
一同は円くなって坐り,彼らが「主への祈り」と称するものを民謡の節で歌う。
一同歌いながら,右手で膝を叩いて拍子をとる。
次いで三,四人の男女が円のなかへ出て,跳ねながら右回りに回り始める。
こうして新信者加入の儀式は,ラジェーニエへと移行する。
ロシアにあっても国外にあっても,フルイスト派は永いこと忌まわしい淫祠邪教のたぐいと考えられてきました。
下着姿の男女により深夜人目を避けて行われるラジェーニエが,人々に性的放縦と乱交を連想させたのです。
フルイスト派の儀試について,バクストハウゼンはロシア人の秘書から聞いた話としてこう記している,
「……祈祷の富士を満たした樽のなかに十五,六歳の少女を坐らせる。
数人の老女が彼女に近づき,その胸を深く切開し,左の乳房を切り取り,驚くべき巧みさで出血を止める。
〈……〉それから切り取った乳房を皿に載せ,小片に切りわけて一同に配り,一同はこれを食べる。
この人肉食が終わると,特にしつらえた高い台に少女を坐らせ,歌いながらその周りを回る」。
バクストハウゼンのこの記述を信頼に値すると見,わたしも同様の話を聞いたとして,同じ乳房嗜食の話を紹介したのは,メーリニコフです。
そして彼はここに,嬰児供犠の話をつけ加えた。
生神女である少女が男の子を産んだ場合,この男子は生まれて八日目に,キリストに倣い脇腹を刺されて殺され,一同はその生血で聖体礼儀をとり行い,屍体は乾燥させて粉にし,パンに焼いてやはり聖体礼儀に使われる。
やはりメーリニコフの挙げている例ですが,
ワシーり一・ラダーエフというアルザマスのキリストは,
「神秘的な死を死に,神秘的に甦って」キリストとなった者にはすベてが許される
という,一種の超人思想の持主で,これに基づき自らのカラーブリの十三人の女たちと関係をもっていました。彼は女たちに向って,自分がこれを要求するのではない,自分の内なる神が要求するのだ
と言って女たちに関係を迫り,彼女たちはこれを拒否できなかったといいます。
カラ〜ブリの成員は,自分たちのキリストに対しては絶対服従の義務を有し,キリストの命令とあらばいかなる法も眼中にないという有様でしたから,このキリストが不心得者であった場合はとんだ事態が生じかねない,ということはあるでしょう。
深夜の密儀と乱交,人肉食,嬰児供犠等は,大衆の猟奇趣味にはなはだ適っていました。
また,ロシアをヨーロッパの秘境と見倣したがる西欧人の好みにも適っていた。
ハクストハウゼンとメーリニコフのこの記述は,大衆のフルイスト像を決定してしまった。
ロシアの作家たち自身例外ではなかった。
https://qir.kyushu-u.ac.jp/dspace/bitstream/2324/5362/1/slc013p121.pdf
"真説ラスプーチン(上/下)" Edvard Radzinsky 著
http://www.amazon.co.jp/%E7%9C%9F%E8%AA%AC-%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%97%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%B3-%E4%B8%8A-%E6%B2%BC%E9%87%8E-%E5%85%85%E7%BE%A9/dp/4140808578
時代は、ロマノフ王朝の末期。
最後の皇帝ニコライ2世は闇の力に操られたと言われる。
その闇で君臨したのが怪僧と言われたラスプーチンである。
彼は読み書きもままならない農民、つまり「ムジーク」であるにも関わらず皇族への影響力は絶大であった。
聖書に関しては優れた知識をもち、素朴で、教養がある人間よりも物事がわかっている。
彼の言葉には、謎めいた格言のような形で、神がかりなうわ言のような予言力がある。
また、彼のまなざしと、人に軽く触れる手には、催眠効果があったという。
その一方で、売春婦や無数の婦人などを宗教と色欲を混同した半狂乱の中に陥れた。
まさしくオカルトの世界である。
ラスプーチンは、自分自身の暗殺を予言している。
その予言は、暗殺が親類の陰謀によるものならば、皇族一族も暗殺されるだろうというもの。
そして、予言通り皇族一家も暗殺される。
暗殺者によると、毒を盛られたのに生きていた、また、何発かの弾丸を打ち込まれたにも関わらず生きていたという証言がある。
彼の逸話には魔人伝説が散乱する。
@ ロシアで流行るカルト宗教
暗殺や謎の死、様々な矛盾と恐怖にむしばまれた時代、こうした時代がオカルト的な雰囲気を蔓延させ、人々の日常生活は霊的なものを求めていたという。
確かに、降霊術がこれほど発展した国はないのかもしれない。
ロシアでは、ドストエフスキーやトルストイのような文学者を生み出した一方で、超能力者を生み出している。
こうした背景は非公認の異端宗派を乱立させる。
本書は、中でも「鞭身派」と「去勢派」について言及している。
鞭身派における乱交は、肉欲を抑制するためであり、自らを清める儀式である。
これをキリストの兄弟愛と称する。
敬虔な人間は、罪を犯すと、苦悩を味わい懺悔する。
その結果、魂の浄化が起こり罪人は神に近づく。
罪と懺悔の間を行き来することに意味があり、神への道を示すものとされる。
清らかな体にこそ聖霊が宿り、罪によって罪を追い払うという奇妙な理屈があるようだ。
子供は肉から生まれたのではなく聖霊から生まれると信じるので、女性自身が聖母と自覚できる瞬間がある。
18世紀半ばに、鞭身派から分かれた去勢派という新たな狂信者を生む。
鞭身派の性的堕落を非難し絶対的な禁欲を唱える。
男根の去勢処置は、灼熱した鉄を使い、斧も用いられる。
女性の手術は、外陰部、乳首、乳房が切り取られる。
本書は、この罪を犯すことの重要さを理解しなくては、ラスプーチンを理解することができないと語る。
A ラスプーチンの教え
ラスプーチンは、鞭身派からスタートしたという。
磔にされたキリストは復活せず、復活したのはキリストが説いた永遠の真理のみ。
そして、「すべての人間がキリストになれる」と主張する。
そのためには、自らの内にある肉欲、つまり、旧約のアダムや罪の人を殺さなければならないというのだ。
ラスプーチンの使命とは、神の弱い創造物である女性たちを、罪から解放してやることだという。
彼にとって愛こそ神聖なもの。
自然の万物に対する愛。キリスト教的な家族愛。
女性が夫を愛していれば、それは触れるべきではないが、夫を愛さずに結婚生活を送っているならば罪深い。
結婚という制度には、従属する愛と反対の立場をとる。
真実の愛が存在しないものはすべて罪と考える。
同性愛者で偽りの結婚生活をしていた皇帝の妹には、彼女を抱き、愛を伝染してやろうと試みる。
ラスプーチンから愛を授かったものには、性的な放埒から解放され、見えない糸で永久に結ばれると考えていたのだ。
なんとも神秘的というか幼稚というか、巧みな触れ合いで催眠状態に陥れる。
悪魔のいちばんずる賢いところは、人々に悪魔などいないと信じ込ませることである。
だが、ラスムーチンは書き残す。「悪魔はすぐそばにいる」と。
B皇族との結びつき
ロマノフ王朝は、血族同士の殺し合いの伝統をもつ。そこには閣僚の暗殺も横行する。
そうした陰謀の渦巻く王家にあって、皇帝ニコライ2世は数々の試練を迎える。
皇太子アレクセイの血友病。日露戦争の敗北。1905年の血なまぐさい革命。
こうした背景は、皇族一家が「神の人」を待ち望むという状況にあった。
そんな時期に、予知能力と千里眼を備えるという評判のあったラスプーチンが近づく。
予言、奇蹟、死者と話す能力を備え、ロシア艦隊が日本艦隊に敗れることを予言していたという。
彼には、催眠的な力を持った目、予言者、治癒者、民衆から出てきたなど、条件は整っていた。
ロシアでは、読み書きのできな農民、素朴な人間にこそ貴重な才能が宿るという思想があるらしい。
彼は、病気の皇太子に謁見して心を静め、医者が治らないと宣言した病も将来治ると予言した。
また、革命で自らの殻に篭った皇帝にも、恐怖心を払い勇気を与えた。
特に、皇后は、自身の神経発作を取り除いてくれたラスプーチンの神秘的な力を崇拝するようになる。
これぞ催眠療法である。
彼は霊的な高みに到達した存在であり、詩的な瞑想をしきりに働かせたという。
ラスプーチンが書き記したとされる文章には、催眠的な力と見事な文学的センスがうかがえる。
http://drunkard-diogenes.blogspot.com/2008/06/edvard-radzinsky.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/321.html#c9