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[近代史3] 凡人が天才になる方法はあるか? 中川隆
6. 中川隆[-10932] koaQ7Jey 2019年4月05日 01:59:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1096]

まともな人間は芸術家にはなれない _ 2


ファン・ゴッホは何故 突如として変貌したのか?


Fields of St. Etienne - Mary Hopkin
http://www.youtube.com/watch?v=s2UX7_kpNHg


Vincent van Gogh 画像

http://commons.wikimedia.org/wiki/Gogh
http://artchive.com/ftp_site.htm
http://www.abcgallery.com/V/vangogh/vangogh-2.html
http://www.vggallery.com/
http://www.vangoghmuseum.com
http://www.vangoghgallery.com


フィンセントは最初の大作「馬鈴薯を食べる人々」を完成させた後、もう一度正式な絵の勉強をしてみる気になっていました。 1885年11月、フィンセントはアントワープに向かいます。 有名なアントワープの美術アカデミーに入学するためでした。 美術アカデミーは1月開始予定でしたので、それまでの間、フィンセントはモデルを雇い、人物画を描きました。その一方で、アントワープにあるルーベンスの絵画に熱中します。ルーベンスが描くピンク色に輝く裸体にすぐにフィンセントは影響されます。「馬鈴薯を食べる人々」にみられた灰色がかった陰鬱な色彩がかき消え、女性の肖像画には、唇や肌に混じりけのない強烈な赤が使われています。


 1月にようやくアカデミーに入学しました。しかし、アカデミーの教師たちは超保守的な時代遅れの連中で、フィンセントはすぐに衝突してしまいます。毛皮の帽子に家畜商人の青いスモックという異様な風体でアカデミーに現れたフィンセントは、恐るべき勢いで男性モデルの描き始め、たちまちのうちに、カンヴァスも床も絵の具だらけにしてしまいます。アカデミーの校長は怒り狂い、すぐに、フィンセントをデッサンクラスに格下げしました。

デッサンクラスでも、フィンセントは持参したデッサンを床いっぱいに広げて教師にみてもらおうとして、騒動を巻き起こします。フィンセントが床に広げたのは古典的な端正なデッサンとは似ても似つかぬ荒々しいデッサンでした。たちまち、学生たちが一斉に集まってきて、収拾がとれなくなります。学生の多くはその珍妙なデッサンを嘲笑いました。しかし、その強烈な線に魅了され、まねようとするものも現れ、教師を激怒させます。

油絵コースから外され、陳腐なデッサンを強要するアカデミーに飽きたらなくなり、フィンセントはアカデミーの学生たちが夜間行っているデッサン・クラブにも顔をだしてみました。しかし、モデルを描くことができる以外、アントワープでの絵画修行は得ることがほとんどありませんでした。


 アントワープでフィンセントはルーベンス以外にもう一つ強烈な絵画体験をしていました。日本の浮世絵です。浮世絵の大胆な構図と明快で単純な色調に魅了されたフィンセントは下宿の壁を浮世絵で埋め尽くします。

ルーベンスと浮世絵に開眼したフィンセントはさらに新しい絵画経験を熱望するようになります。そのためには方法は一つしかありません。さまざまな傾向の絵画芸術が渦巻いているパリにでることです。そして、実際、パリで、フィンセントは新たな絵画を切り開こうとしている天才たちとその傑作絵画群に出会うことになります。

http://www009.upp.so-net.ne.jp/aoitori/tenkan/Gogh.htm

アムステルダムのファン・ゴッホ国立美術館について教えてください ケンさん
07/03/31 17:01


ご質問の内容とは異なりますが…。 nonann
07/04/01 01:05


「浮世絵」がある、と表示のある階にはお子様をお連れにならない方がよろしいかと。

今は違うかもしれませんが、13年前の「浮世絵」はほとんど春画でした。
ゴッホの本当の趣味はこっちだったの?と目がパチクリな経験があります。

その階の展示は大人だけでお楽しみください…。日本でもあれだけのコレクションはめったにみられないと思います。逆に今はあれが見られないとなると大変残念。貴重です。

http://bbs.arukikata.co.jp/bbs/thread2.php/id/221950/-/parent_contribution_id/221950/


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ゴッホ

あの炎の人と呼ばれた画家ゴッホ。

彼は世界的にも有名な春画のコレクターでした。

浮世絵全般に大変な興味を持ち、その影響を多大に受けたと言われています。歌川広重の「名所江戸百景亀戸梅屋舗」という作品をはじめ、400点以上もの名画を集めたそうです。 江戸時代の日本は鎖国状態にあったため、海外との流通は長崎が起点になっていました。オランダにいたゴッホにとっては好都合だったのかも知れませんね。

特に葛飾北斎のファンで、彼の春画や画集はいつも手元に置いていたそうです。又、歌川派の浮世絵も多数所有していたと言われています。

そんなゴッホの名作、「雨中の大橋」と「花咲く梅の木」には日本の文字がデザインとして一体で模写されています。

まさに春画は日本が世界に誇る芸術。その良さは海の向こうでもしっかりと評価され、多数のアーティストたちを虜にしていました。ゴッホばかりではなく、セザンヌは北斎の「快晴の富士」を、モネは鈴木春信の「蓮池舟遊び美人」といった、浮世絵や春画・枕絵をそれぞれ好んで手本とし、模写したそうです。

http://makurae.lovely-lovely.biz/archives/post_2.html

57. ノイズn(関東) 2009/11/13(金) 10:21:42.49 ID:U12kjNMv

ゴッホ

・生涯に一点しか絵が売れなかった貧乏画家だったが、400点以上に及ぶ浮世絵をコレクションしていた。弟テオのコレクションも含めた数は477点。


・当時、作品は所有者の死後、オークションで処分されるのが一般的だったため、他の印象派画家のコレクションの日本の浮世絵はほとんど残っていないが、例外的にゴッホだけは、近親者の子孫たちの努力もあり現在まで全てが完全な形で残されている。

・複数の絵師が共同で一枚の浮世絵を描いたりすることを知ったゴッホは、アルルのアトリエにゴーギャンたちを招いて共同生活を始めた。 しかし結局この試みは失敗に終わり、ゴッホは激昂して発作的に自分の耳を切り落とした。 その「耳切り事件」の直後に耳に包帯を巻いた一枚のポートレートを描いたが、その絵の元となったのも浮世絵。

56. ノイズn(関東) 2009/11/13(金) 10:20:21.30 ID:U12kjNMv

ゴッホ

「日本人が、稲妻のように素早くデッサンするのは、その神経がわれわれよりも繊細で、感情が素朴であるからだ」

「僕は日本人が何をやっても極めて正確に行うのを凄まじく思う。

それは決して退屈な感じを与えず、決して大急ぎでやったようにも見えない。

彼らは息をするのと同じくらい簡単で、狂いのない二、三本の線で同じように楽々と人物を描いてしまう。まるでチョッキのボタンをはずすかのようだ。」


「僕達印象派の画家達(モネ、マネ、ロートレック等)は日本の浮世絵を愛しその影響を受けている。」

http://www.nihongodeok.net/thread/tsushima.2ch.net/test/read.cgi/news/1258043676/


ファン・ゴッホが弟テオに宛てた手紙で、北斎のことを次のように言っている。


「日本美術を研究すると、間違いなく聡明で博学な哲学者を発見することになる。 その男は何をして時間を過ごしていると思う? 地球と月の距離を測っている? ビスマルクを勉強している? 違う。 一枚の葉を探求しているのだ。

しかし、この葉の探求のおかげで全ての植物が描けるようになり、次に季節が、広大な風景画が、動物が、そしてついには人間が描けるようになるのだ。 こうやってこの男は人生を送っているが、すべてを完成させるにはこの人生は短すぎるのだ。

いいか、日本人が教えてくれているのは真の宗教だ。

 彼らはとても純粋で、まるで自分自身が花の如く自然の中を生きている。」

(ゴッホは「富嶽百景」の北斎の自跋(2-1参照)を読んだのであろうか!!!)

http://www.muian.com/muian08/muian08.htm

 アントワープでフィンセントは乏しい資金を画材やモデル代に回してしまったために満足に食事も摂れず、肉体的にぼろぼろになってきました。 歯も10本以上が抜けかかっていました。栄養失調が原因でしょうが、他にも歯が抜ける理由があったようです。

歓楽の街アントワープでどうやら梅毒に罹患してしまったようなのです。

但し、アントワープ時代にフィンセントが梅毒の診断を受けた時、既に彼は33歳でした。それから、アルルでのクリスマス直前の最初のクリーゼ(発作性精神変調)まで2年ちょっと経過しているにすぎません。第2期梅毒から麻痺性痴呆発症までには最低15年の潜伏期間があるはずですから、フィンセントの精神病が麻痺性痴呆の可能性は低いといえます。

http://www009.upp.so-net.ne.jp/aoitori/tenkan/Gogh.htm

私の好きな小説「罪と罰」 ソーニャについて


当時のロシアペテルブルグは梅毒蔓延が社会問題で客の8人に一人は梅毒持ちのロシアンルーレット状態だったそうな。

黄色い鑑札を受けるってのは、何週間かおきに、警察に出頭して発症してないか性器を調べられるという意味。

ラスコがねちねちねち「君は確実に病気で死ぬ」といじめるのも、意地悪いが事実の指摘だね。

 小説にも出てくるが、一般の家族と娼婦は同じ部屋に一緒にいることはない。

ソーニャが父の葬儀の出席依頼をしにラスコの下宿を訪ねて来る場面がある。 そこに偶然、ラスコの母と妹がいるのだが、それを見たソーニヤは決してラスコの部屋に入ろうとせずにドアの外で用件を伝えようとする。
 
 たぶん、性病への感染リスクがある為だと思う。

http://psjfk.blog23.fc2.com/blog-entry-797.html

フィンセントの弟テオの病気とは


死の4年前、1886年頃からテオは激しい咳を伴う体調不良に悩まされ、心臓が弱っていました(「テオというもう1人のゴッホ」マリー=アジェリーク・オザンヌ フレデリック・ド・ジョード著 伊勢英子 伊勢京子訳 平凡社)。しかも、原因不明の発作におそわれ、脳溢血の後のような麻痺が一時的に出現したこともありました。

その後、フィンセントがアルルに移った直後の春にも体調を崩したようで、テオがかかりつけ医の「グリュビのところへ行った(No 489. 1888年5月20日頃)」ことを知ってフィンセントは心配しています。 治療の一つとしてヨードカリが使われていたようで、さらに、女性に接することを控えるようグリュビが言うだろうとフィンセントは予測しています。

「唇を固く結んで「女はいかん」と言うときのグリュビの顔をみたかね。あんな風な顔は見事な一枚のドガになるよ」

などと書いていますから、フィンセントも同じことをこの医者から言い渡されたことがあったようです。


1990年6月10日にはテオがヨハンナと甥のフィンセントをつれてオーヴェールにやってきました。フィンセントはおもちゃ代わりに小鳥の巣をとってきて甥を歓待しました。 その後もフィンセントは旺盛な創作活動を続け、麦畑の連作などを計画します。アルル時代の強烈な色彩は影を潜めたままですが、相変わらず、円熟した技法で自在に絵を描いていました。しかし、やがて、その絵のなかに影がさすようになります。

 オーヴェールからパリに戻った後、甥のフィンセントが牛乳のせいで体調を崩しました。ヨハンナの必死の看病でようやく一命をとりとめますが、7月6日、心配したフィンセントはパリに駆けつけます。しかし、そこでかれがみたものは、看病に疲れ果てたテオとヨハンナでした。しかも、この頃、テオは画商として独立しようと画策していて、そのことでテオとヨハンナの意見が対立していました。さらに、テオはその後悪化することになる精神的身体的不調もみせていたようです。

 このように、もともと思わしくなかったテオの健康状態はヴィンセントの死によって一挙に悪化します。 テオはパリの病院に収容されます。入院後、ある程度落ち着きを取り戻したため、オランダでの治療を要望するヨハンナの意向もあり、テオはユトレヒトの精神病院に移されます。 しかし、転院時、痴呆症状は急速に進行、わずかに「フィンセント」という言葉にだけ反応するようになります。舌がふるえ、食事がとれなくなり、嘔吐を繰り返し、げっそりやせ細って、衰弱がすすみ、1891年1月25日、兄の自殺の6か月後、テオは死にます。34歳でした。

 尿がでなくなり、幻覚症状を伴う意識レベルの低下がみられたことから、ピサロの息子は父親にテオの死因を尿毒症と報告しています。この腎臓病死因説は長い間信じられ、1989年にゴッホの伝記を上梓したスウィートマンも「厄介な腎臓病にかかり」と書いています。ですから、1989年の時点までは一般的にはそのような認識だったわけです。

 ところが、1992年、例のオランダのヴォスクイルが、テオが最後に入院したユトレヒトの精神病院から公開されたデータをもとに、その死因について従来とまったく異なる事実を明らかにしました(Voskuil pha(1992) het medisch dossier van Theo Gogh. Ned Tijdschr Geneeskd 136, 1770−1780)。

ヴォスクイルによれば、ユトレヒトの精神病院の診療録には、転院時の症状として歩行障害、言語障害、失認、異常興奮、誇大妄想、瞳孔不同が記載されていたとのことです。また、パリの病院からの紹介状には麻痺性痴呆と同義語である全般性進行性麻痺 paralysie progressive generalの診断名が記載されており、ユトレヒトでの最終診断も「急速に進行する麻痺性痴呆」だったというのです。

1886年にみられた一時的な片麻痺が麻痺性痴呆の初発症状だったようで、1890年7月にフィンセントがテオ夫婦と甥に会いにパリにでてきたときには、麻痺性痴呆の症状はもっとはっきり認められたはずだとヴォスクイルは指摘しています。そのことがフィンセントの自殺に影響を及ぼした可能性すらあるというのです。

 麻痺性痴呆は梅毒の晩期症状です。 テオの末期症状はたしかに神経梅毒症状と考えると矛盾なく説明できるのです。とくに、瞳孔不同の所見は決定的で、眼底出血でも起こさないかぎり腎不全で瞳孔の左右差をきたすことはありません。
また、「死の4年前から心臓が弱っていた」というのは、梅毒のいまひとつの晩期症状である梅毒性大動脈炎のせいだった可能性があります。梅毒性大動脈炎では、主として、上行大動脈が脆弱となり、大動脈弁閉鎖不全、冠状動脈狭窄をきたし、これらは最終的に死に直結します。

 テオの時代、梅毒は不治の病でした。水銀治療などというものが一応ありましたが、これは、治療効果より副作用のほうが圧倒的に勝るという悪夢のような治療法でした。さらに、グリュビがテオにも処方しているヨードカリも抗菌剤として当時用いられていましたが、梅毒を根絶するにはほど遠い薬です。

 テオやフィンセントの頃は梅毒の「全盛時代」で成人の梅毒罹患率が8〜14%でした。 20世紀への変わり目、パリなど西欧諸国の大都会でいかに梅毒がありふれた病気であったかがわかります。 実際、ゴーギャン、ニーチェなどテオやフィンセントの同時代人で梅毒に罹患していた有名人は少なくありません。 19世紀から20世紀に移り変わる頃、中年の中枢神経疾患、循環器疾患の主要病因は梅毒だったといわれています。

 神経梅毒にてんかん発作がみられることは先ほど述べましたが、中には、神経梅毒によるてんかん発作出現後に痴呆症状があきらかになる患者もいました。 現在、てんかん発症によって痴呆に到ることは、特殊な、まれな病気に罹患した人をのぞき、まず、ありません。その理由の一つが、てんかんと痴呆を合併する代表的疾患、神経梅毒の激減ではないかと思われます。

 進行性麻痺は梅毒の初感染から15年〜20年で発症しますから、テオが梅毒に感染したのは13歳から18歳にかけてということになります。 17歳頃からテオは「灼けるような性欲に苦しめられ」ハーグの娼館「快楽列島」に足繁く通っていたました。時間的経過を考えると、テオが梅毒に罹患したのはこのときだと思われます。

 ヨハンナや息子のフィンセントの手記をみる限り、ヨハンナはテオの死因が梅毒だとは知らなかったようです。

 麻痺性痴呆が発症するのは初感染から15年から20年してからで、その間、第二期梅毒から10年以上まったく無症状です。 主治医はテオの末期症状の原因として梅毒を疑っていた可能性はありますが、確証がないのですから、そのことをヨハンナに告げなかったとしても不思議はありません。

梅毒は第二期梅毒あたりで一番感染力が強く、性行為を通じて人から人に感染したり、胎内感染を起こしたりする可能性がありますが、発病から4年を過ぎる頃から感染性が急速に低下します。麻痺性痴呆症状が出る時期には、梅毒スピロヘータは性器や血液中には存在せず、他人にうつることはありません。ですから、ヨハンナやその子のフィンセントが梅毒に罹患する可能性はまったくなかったわけです。実際、二人とも、長寿を保ち、梅毒症状も出現していません。

http://www009.upp.so-net.ne.jp/aoitori/tenkan/Gogh.htm


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2.何故、西欧の芸術家は日本文化に憧れたのか?

春画が海外で人気な理由  あまりに自由で即物的な性描くから


計700万点を超える収蔵品を誇る大英博物館。その中の日本絵画、浮世絵コレクション内に江戸時代の人々の性生活を題材にした浮世絵である「春画」が含まれている。

 明治時代以降、西欧の影響を受け、「性」に対する意識が変化するとともに春画も海外に流出。反対に西欧の美術愛好家たちは春画に魅了され、芸術品として収集してきたという経緯がある。近年では世界各地の有名美術館で展覧会が開催されている。

 世界最古にして最大級の公立博物館である大英博物館にも、春画は250点以上も所蔵されている。2013年には、同博物館で春画展の開催も予定されているほどだ。

 ここまで春画が海外で人気なのはなぜか。長年にわたり春画を研究してきた、浮世絵研究家の白倉敬彦氏が解説する。

「性をタブー視するキリスト教的宗教観が強い西欧では、あまりに自由で即物的に性を描いた春画のインパクトは絶大だった。

江戸時代の日本ではセックスの禁忌事項はほとんどなく、オーラルセックスや複数プレー、媚薬や道具を用いての行為なども普通のことでした。現代にあるセックス関連の事項で、江戸時代になかったものは皆無といっていいでしょう。

しかも、日本人がそれら奔放な性を屈託なく享受していたという事実も衝撃的で、日本の性文化を表わす資料としても価値が見出されたのです」

※週刊ポスト2011年1月28日号

http://www.news-postseven.com/archives/20110115_10251.html

日本人がガンガン“性”楽しんでいた昔、欧米人は禁欲生活


江戸文化史研究の第一人者で、法政大学教授の田中優子氏が興味深い示唆を与えてくれた。田中氏には、浮世絵研究家・白倉敬彦氏との共著『江戸女の色と恋――若衆好み』(学研刊)などがある。
 
「性に関するタブーのほとんどは西欧文化、特にキリスト教的宗教観の強い影響の下にあります。日本は明治維新とともに、政治と社会制度や経済体制、教育システムを刷新するだけでなく、性のタブーも受け入れてしまったのです」(田中氏)

 キリスト教的セックス観はいたってシンプルだ。性の営みは子孫繁栄のためにだけ存在するものであり、愉悦や快楽が介在してはいけない、というものだ。
「オーラルセックスやゲイなど生殖に関係ないセックスは、法律で厳しく罰せられました」(田中氏)

 欧米の一部では、今もこれらのセックスを禁止する法律が存在する。
“正常位”がカトリックの定めた“正しい体位”であり、後背位は獣と同じと否定されていたことも有名だ。ちなみに、江戸期に正常位は存在せず、この体位は“四つ手”と呼ばれていた。

 田中氏も笑う。「そもそも江戸の性には、正常と異常の境界線がなかったんです」
 
 欧米では、オナニーも生殖に直結しないという理由で罪悪視され続けた。ところが、江戸の自慰観は実に健全なうえ、医学的見地にも立脚している。江戸の性指南書『閨中紀聞枕文庫』は「男女とも若時婬欲をこらへるも頗(すこぶ)る毒なり」と看破しているのだ。

「おまけに西欧では女の性が抑圧され、快感はもちろん性欲すら抱いてはいけないという理不尽ぶりです」(田中氏)

※週刊ポスト2010年11月12日号

http://www.news-postseven.com/archives/20101103_5019.html


今のエロ 江戸時代にほぼ全部あり、しかも彼らは楽しんでいた


江戸時代の浮世絵は芸術的な価値だけでなく、当時の市井に生きる人々の生活や風俗、習慣、事件、考え方などを見事に表現している。ことに「春画」は、セックスをテーマとした一大ジャンルを形成してきた。

 浮世絵の研究者であり、春画にも詳しく、『江戸の春画』(洋泉社新書y)や『春画にみる江戸の性戯考』(学研刊)などの著者がある白倉敬彦氏は、江戸のセックスライフの最大の特徴を「江戸期の性には、タブーがなかったということです」と断言する。

 白倉氏は同時に、江戸期のセックスライフが、今日をも上回る自由さと平等観に裏打ちされていたと力説する。

「もちろん階層別の法度や、婚姻などのルールは決められていました。でも、セックスの本質部分においてほとんど忌避事項は存在していません。フェラチオやクンニリングスなどのオーラルセックスばかりか、アナルセックスも日常茶飯事ですし、衆道とよばれるホモセクシャルだって盛んでした。不倫は男女を問わずに行なわれていたし、廓(くるわ)での売春や夜這いの風習は社会公認です。アダルトグッズも研究と改良が進み、バイアグラそこのけの媚薬もありました」

 白倉氏は「今の世の中にあるセックス関連の事項で、江戸期になかったものはほぼ皆無。しかも、すべてが、なんの衒(てら)いや遠慮もなく、嬉々としてエンジョイされていたんです」と語る。いやむしろ、まだまだ現在のほうが性の制約が強いくらいだ――。

※週刊ポスト2010年11月12日号

http://www.news-postseven.com/archives/20101101_4733.html

現代のようにラブホテルもなく、“公然わいせつ罪”のような罪もなかったため、江戸時代の男女は野外で行為に及ぶことも珍しくなかったという。

 不倫関係にある男女が庭の物陰に隠れて行為に及ぶ姿や、畑の中央に積まれた藁の上で性交する夫婦……。江戸時代の人々の性生活を題材にした浮世絵である「春画」には、そんな姿も描かれている。浮世絵研究家の白倉敬彦氏が解説する。

「出合茶屋という逢い引きの場所は存在しましたが、高額だったため利用者は限られていました。ですから、不逞な間男などは、野外で交わるか夜這いをかけることが多かったといわれています」

 夜這いといえば田舎の風習のように思われるが、江戸でも盛んに行なわれていた。その様子は春画にも多く描かれていて、女中が家の主人に狙われるシーンや、逆に女中が若旦那に夜這うものなどがある。

 一見して強姦のように見える絵もあるが、ほとんどが合意の上の夜這いなのだという。つまり、夜這いはノーマルなプレー。ここからもやはり、江戸時代が性をポジティブに受け入れていたことがわかる。

 春画は自由奔放で多種多様な江戸時代の性のすべてを活写した、“性の歴史絵巻”なのである。

※週刊ポスト2011年1月28日号

http://www.news-postseven.com/archives/20110121_10489.html

春画 着衣のままセックスする絵柄はなぜ生まれたのか?


江戸時代の識字率の高さや教育制度の充実は世界的にも群を抜いていた。大名や武士などの上層階級だけではなく、職人や商人など庶民も書物に接し、高度な文化を享受した。

彼らは西洋的な性意識に縛られていなかったために、生活に根付いた色事の文学である浮世草子や、男女の性愛を活写した春画に記された書き入れなどを男女の隔てなくおおっぴらに愉しんでいた。出版文化という切り口から江戸時代の寛容で奔放なる性に迫る――。


 * * *

 エロティック・アートの普及は、肉筆から木版という出版文化の興隆と密接にリンケージしている。とりわけ元禄期は、『好色一代男』に代表される好色本(浮世草子)の井原西鶴や、『曽根崎心中』で知られる近松門左衛門ら実力ある作家の台頭で京・大坂の出版業者が活況を呈した。
 
 同時期、上方絵師の西川祐信や吉田半兵衛、月岡雪鼎らが春画を描き、浮世草子の挿絵も担当した。ことに祐信は、町人や庶民の性生活を、情景も含め思い入れたっぷりに活写してみせた。彼の着想と作品は江戸絵師たちに衝撃を与え、従来の武家社会や古典から、庶民へとモチーフを転換させる原動力となった。

 一方、江戸では菱川師宣が木版春画を創始し、肉筆浮世絵から墨摺絵へと形態を激変させた。そこに前記の上方出版文化がなだれ込むことで、エロティック・アート全盛の素地は固まったといってよいだろう。

 さらに、文化文政期は江戸庶民のパワーが爆発する。『江戸の出版事情』(青幻舎刊)の著者、昭和女子大の内田啓一教授に当時の状況を聞いた。

「カルチャーの中心は上方から江戸に移ります。文学では滑稽本、黄表紙、人情本や川柳などが流行しました。絵画も金銀摺、空摺、艶摺など技術の飛躍的向上により、縮緬模様や透かし、ぼかし、凹凸まで印刷できるようになり、浮世絵は一気にカラフルとなり大人気を博します。当然、江戸の出版業は繁栄し、流通システムも発達しました」

 春画に関する著書が多数ある、浮世絵研究家の白倉敬彦氏は頂点を極めた印刷技術と春画の相関関係を語る。「春画で着衣のままセックスする絵柄が多いのは、着物の色彩や柄、文様まで表現可能になったからです。女性にとって春画は、最新ファッションテキストでもありました」

 春画や艶本はたびたびの規制、弾圧を受けたものの、しぶとく生き残る。しかも購買層は庶民だけではない。大名や旗本たちは当代一流の絵師や戯作者たちを呼び、私家版の絵暦を春画仕立てで制作、正月には殿中で交換しあっていた――まさに、エロティック・アートは江戸の華だったのだ。

※週刊ポスト2011年3月18日号

http://www.news-postseven.com/archives/20110312_14482.html

江戸時代は確かに生活に根付いた色事の文学である浮世草子や、男女の性愛を活写した春画に記された書き入れなどを男女の隔てなくおおっぴらに愉しんでいた。しかし、色道指南書は何も江戸期の専売特許ではない。

『衛生秘要抄』(1288年)は鎌倉時代に編まれた、わが国の代表的医学書であり同時に性指南書でもある。本書は隋唐医学を体系化した『医心方』や宋代の医書『証類本草』のダイジェスト版であり、その意味で、いわゆる「艶本」として編纂されたものではない。

 本書は右大臣で皇后宮権太夫だった西園寺公衡(1264‐1315)の命により、宮廷医師の最高位にあった丹波行長が撰述した。西園寺公の役職を考えれば、本書が当時の貴族や高位の武士に読まれたのは間違いない。

『衛生秘要抄』は全31章のうち、17章以降のすべてが「房中術」すなわち性に関する記述で埋められており、わが国におけるセックスの高い位置づけが窺われる。同時にセックスが日常生活の健康に大きく関わっていることの証左ともなろう。

 文章は中国の黄帝が女医の素女に質問しつつ、さらに采女なる神仙の方術に長けた者からアドバイスをもらうという形で進む。黄帝の目指すところは不老不死であることは論をまたない。

「一夜の中に、女色にふけることが十度に及んだとしても、決して射精をしないことだ」

 接して漏らさず――貝原益軒が『養生訓』で広めた訓戒の源泉はここにある。『衛生秘要抄』によれば、「射精しない者は、さまざまな病気が治り、寿命が一日、一日と長くなる」のだ。そればかりか「ひと月に2回、年に24回射精するように制限すれば、誰でも100歳、200歳と長生きできる」という。

※週刊ポスト2011年3月18日号

http://www.news-postseven.com/archives/20110313_14516.html

江戸時代、日本の自由な「性」には「文化」があった。だからこそ性を描いた「艶本」もブームになったが、その中でも作者の英泉が、性にまつわるすべてが本書に凝縮されていると豪語し、初版が刊行されるやたちまち江戸の大ベストセラーとなったばかりか、10年を超すロングセラーを記録するに至った艶本『閨中紀聞枕文庫』(青林堂)では、交合の秘術を10に細分し、詳しく開陳している。その中から白眉ともいうべき心得を現代語訳で紹介してみよう。

 まずは、「量度情訣」。「女を口説くには、まず世間話などをして近づき、だんだんとエッチなネタへもっていくのがよい。さらに、女は欲深きものなれば、カネやファッション、流行の小物(本書では“煙管や煙草入れ”とある)で落とせ。あの手この手で迫れば、女は押し黙ったり、手が温かくなったり、頬が赤くなったり、乳房や腹も熱くなるものだ。そういうサインを見逃さす、ぐいと押し込んでいくべし」

「戯弄真情」では、セックスで大事なのは、まず女にエクスタシーを堪能させることだと強調する。「男が快楽にまかせて先に射精してしまうことは、大いに戒めなければいけない。男は真心をもって、女体を懇切丁寧に、焦ることなく愛撫し、クリトリスをやさしく弄んでやる。挿入に際しても、男は女の様子をつぶさに観察し、自分がいきそうになったら気をそらして、長く保つこと」

 いつの世も、男はガマンが大事ということか――。

※週刊ポスト2011年3月18日号

http://www.news-postseven.com/archives/20110309_14395.html

江戸時代の人々の性生活を題材にした浮世絵である春画は、性の秘技も紹介されている。意外にもオーラルセックスを描く春画はそれほど多くないのだが、平安末期の春画にすでにその場面が登場しているように、古くから日本で行なわれていたプレーであることは間違いない。

 ただし現代のように前戯として当たり前に行なわれていたものではない。尺八は“吸茎”ともいわれ、江戸時代では、女性が男性に“再戦”を促すためにするものだとされている。そのため、春画で尺八を描く場合は、男性が疲れきった表情であることも少なくない。数多く存在した性の指南書に尺八の方法は描かれていないそうだが、それは「女性に秘技を覚えられると疲れて後が面倒」という心理が影響しているのかもしれない。

 一方、クンニリングスは“舐陰”と呼ばれていた。女性が“私への恋心が真実ならば舐めて”と、男性の心情をはかるための行為だったという。春画に描かれるオーラルセックスからは、男性以上に性欲旺盛な“肉食系女子”が多く存在したことがわかるのだ。

※週刊ポスト2011年1月28日号

http://www.news-postseven.com/archives/20110118_10382.html


門外不出の性指南書、備州岡山藩秘伝『秘事作法』。『秘事作法』は上、中、下三巻構成で、江戸初期の1652年に成立した。筆者の秀麗尼は岡山藩の池田家奥御殿に仕えた女中だった。

『秘事作法』の特色は、何といっても懇切丁寧な記述にある。江戸期の性愛文化を代表するセックスガイドブックといっても過言ではあるまい。そのなかで明らかにされる、奥女中の性の秘儀の数々の中でも、上巻で述べられる、若君に対するセックスの所作は驚愕に値する。

 幼少君は、学問や武芸だけでなく帝王学の一環として、御殿女中たちから性の手ほどきを受けていた。当時の武家は現在の中学生の年齢で元服し、妻を娶って子づくりに励むののだから当然のことではあった。

 幼少君は5歳で割礼し、7歳になるとペニスの皮をむく(現代でいうところの「むきむき体操」)。早くから亀頭部を露出させ、刺激になれさせるのだ。10歳ともなれば、女中は若君の会陰部へのマッサージを入念に施してさしあげる。同時にペニスを布で巻き、厳しく鍛えることも忘れてはいけない。まだ子どもだけに、快感とは程遠く、痛みや辛さで泣き出すこともあろうが、それを叱り、あるいは慰め、励ますのも女中の務めであった。

 幼少君が12歳になったら、さらに本格的なセックス指南に進む。その作法を現代語訳してみよう。「最初は殿のペニスを指でさする。時には口に深く含み、亀頭を喉の奥深くに入れ強く吸う。続いて亀頭を舌で愛撫し、勃起の兆候がみられたら、舌先で鈴口を押さえ、亀頭をリズミカルに締めたり緩めたりする」

 いわゆる“手コキ”で奉仕するだけでなく、積極的にフェラチオをするように指導している。それもディープスロートあり、亀頭や尿道口への微妙かつ繊細な愛撫ありと、現代の性技と比べて遜色がない。いや、むしろ約360年前に、このようなテクニックが開発されていたことを称賛すべきだろう。

※週刊ポスト2010年12月24日号

http://www.news-postseven.com/archives/20101218_8130.html


江戸時代の大ヒット本は中国の性書や欧州の性知識網羅する艶本


江戸時代は、西洋的な性意識に縛られていなかったために、生活に根付いた色事の文学である浮世草子や、男女の性愛を活写した春画に記された書き入れなどを男女の隔てなくおおっぴらに愉しんでいた。
 
 艶本『閨中紀聞枕文庫』全4篇は文政5(1822)年に、版元青林堂から初篇が刊行された。作者は淫乱斎主人白水こと渓斎英泉で、文章のみならず挿絵も自ら手がけた。

「艶色の一道此巻中に尽きせり」 英泉は、性にまつわるすべてが本書に凝縮されていると豪語した。果たして、たちまち江戸の大ベストセラーとなったばかりか、10年を超すロングセラーを記録するに至った。改訂や増補、新版、ダイジェスト版などの編纂が重ねられ、8冊とも9冊とも10冊とも、いやそれ以上のシリーズがあるとも推察されている。

 浮世絵研究家で艶本にも詳しい白倉敬彦氏は話す。「この本は江戸の性指南書の白眉です。日本に伝わっていた性のエッセンスのみならず、中国の性書やヨーロッパの性知識までもが網羅されています。その内容の豊富さと広範さに加え、挿絵の精密さと意表をついたアイデアが江戸っ子たちのド肝を抜きました」

※週刊ポスト2011年3月18日号

http://www.news-postseven.com/archives/20110310_14434.html


江戸の大ベストセラーとなった艶本『閨中紀聞枕文庫』(青林堂)。作者は淫乱斎主人白水こと渓斎英泉で、文章のみならず挿絵も自ら手がけた。そこでは、交合の秘術を10に細分し、詳しく開陳している。

「三峯採戦」とは上峯つまり唇、中峯の乳房、下峯の女陰という3つの性感帯を同時に責める技だ。「セックスの前戯としては、まず戯れにおかしき噺などして、乳を捻りなどして、そろそろ股へ手を入れろ」

 江戸期のセックスにおいて、前戯としてのキッスは皆無だと知りおきいただきたい。「三峯採戦」の法にもあるように、女の心を動かすトークで迫ったら、速攻でタッチに入っていく。しかも、攻撃目標は乳房よりも下半身重視だ。これを「くじる」という。

 浮世絵研究家で艶本にも詳しい白倉敬彦氏が解説してくれた。「パンティーを穿かない文化だったこともあるのでしょう、江戸の男はその気になったら、すぐ着物の裾をめくって女陰に手をやりました。さらに、春画の題材をみても歴然としているのですが、乳房や尻といった女性の第二次性徴には女性器ほど興味を抱かなかったようです」

 また、本書における女門の品別と解説の詳細さや、図版のリアリティー、さらには度を越した誇張(どの艶本、春画も性器をビッグサイズにデフォルメして描いている)を見ても、江戸のセックスにおける性器の重要視ぶりが理解できよう。

※週刊ポスト2011年3月18日号

http://www.news-postseven.com/archives/20110308_14361.html


キスには挨拶、親しみと友愛、性愛と欲情という3種類があるが、江戸期の日本では、セックスにまつわる“舌偏重”のキスだけが一般化していた。軽く唇や頬、手の甲に押し当てるキスという形式は普及していない。だから幕末期に英語がどっと押し寄せてきた際、「口吸い」だけでは訳語に困り「接吻」という新しい言葉をひねくりだしたのだという。

 また、口吸いのセックスにおけるポジショニングも男女差があったようだ。口吸いが、交合への第2ステップであり決め手だったのは男の場合で、女から仕掛けるケースでは口吸いからスタートすることが多かった。まず、抱きつき口吸いして男を誘惑する。男がその気にならねば、果敢に股間へ手を伸ばす……こんな流れが春画に描かれている。

 もっとも「口吸い」にも時代的な変遷があった。当初「男の舌を女に吸わすことなかれ」だったのが、いつしか男が女体をくぢるときに欠かせぬ性技として定着した。やがて女も負けじと口吸いするようになり、結局は男女を問わず積極的なほうが、主導権を握る展開になっていく。

 艶本『艶紫娯拾餘帖』では、奥女中が小姓の若衆にかぶさり、しっかりと彼のペニスを握りながら、口吸いを強要している。書入れ(春画の中に記された説明書きやセリフ)はいう。「初心な男はままならないわ。まずは口をお吸わせなさい」

 江戸の性を大らかに描いた歌麿の春画にも口吸いのシーンは多く、この性技の日常化が見てとれる。『歌満まくら』のように、女のほうから舌を出して男に吸わせるスタイルもあれば、『艶本葉男婦舞喜(はなふぶき)』では、坊主にくぢり放題にくぢられた後家が、「舌をしごき、あるいは食いつき」と口吸いによる反撃に転じている。

※週刊ポスト2010年11月12日号

http://www.news-postseven.com/archives/20101101_4739.html


上半身は口吸い、中間部の乳房を手で愛撫するという同時三点攻撃を「三所攻め」といい、大事なセックス技術とされていた。

 何より江戸期の性指南書は、男だけが快感を満喫する身勝手を厳しく非難している。溪斎英泉の記した江戸時代を代表する性科学百科『閨中紀聞枕文庫』でも、男女和合のため二人が一緒にオーガズムに達するべきだと説く。

 その極意が、前書にいう「三峯採戦」の法として紹介されている。「三峯とは、女体の口と鼻の先を“上峯”、乳房を“中峯”、陰戸(ぼぼ)を“下峯”という」「上峯の口を吸いながら、中峯の乳首をひねったりさすったりしながら女の唾を飲めば、女の精気をとって薬になる。下峯では玉門(ぼぼ)が淫水で潤い、子宮(こつぼ)がひらいたときをみはからって、とっくりと玉茎を挿入し、ゆるゆると九浅一深(くせんいっしん)の法で交合する」

 ポイントは三所攻めで女にオーガズムを得させることであり、かくして男も安心かつ満足のうちに射精することができる。これぞ、同書にいう「男女相感をもつてたのしむ」だ。

 現代のAVへ眼をやってみると、潮吹きや電マなど下半身への愛撫と執着が著しい。残念なことに三所攻めのシーンは実に少ないのだ。一方、江戸の春画には、二所攻めからまさに三所攻めへ移行しようとする絵柄がたくさん見られる。

 たとえば『正写相生源氏(しょううつしあいおいげんじ)』における、後座位で抜き差しの快感を与えつつ、乳房をさわり、いよいよ口吸いをも狙って、三所攻めを完成させようという場面は秀逸そのもの。

 絵の書入れで、女の台詞がオーガズムの到来も近いことを予感させる。「あなたは、まァどうしてこんなにお上手でいらッしゃるか」――男なら、女にこういわせてみたいものではないか。

『色道取組十二番』でも、男が後側位の体勢から身体をねじって女の乳首を吸っている。彼の一連の動きからして、口吸いへ移行し、空いた手で再び乳房を弄ると想像できよう。 多くの性研究者は、江戸において「三所攻め」は珍しくなく、むしろ一般的な性技だったと指摘している。彼らの性技のレベルの高さを証明するエピソードといえよう。

※週刊ポスト2010年11月12日号

http://www.news-postseven.com/archives/20101103_5023.html

性の文化が花盛りだった江戸時代。さまざまな性に関する工夫があったようだ。たとえば、江戸時代の性指南書『好色旅枕』によると、射精を遅らせる鍵は「蟻の門渡り」だという。

発射しそうになったら、蟻の門渡り(肛門と陰嚢の間)を中指で押さえよ、と説き、また、左の人差し指で睾丸の根元を押さえ、両足の親指を強く反らして10回ほど呼吸をしても、射精を止めることができる、と解説している。

また、江戸時代は一流絵師たちが競いあって春画や艶本を描き、豊かな性文化を形成した。性指南書『房内経戯草』によると、女性の陰部には48の名があるという。

良い名は、「しほいずみ」(皺泉)、「りんゑのごう」(輪廻刧)、「てんやくのすけ」(典薬助)、「ちごのて」(稚児手)、「みずはじき」(水弾)、「さこめ」(小籠)など。悪い名は、「すぎばり」(杉針)、「あしのよ」(葦節)、「ふるせ」(旧瀬)、「にもちゐ」(似餅)、「ひきめ」(蟇目)など。

そして、江戸時代の人々は西洋的な性意識に縛られていなかったために、生活に根付いた色事の文学である浮世草子や、男女の性愛を活写した春画に記された書き入れなどを男女の隔てなくおおっぴらに愉しんでいた。そんな時代の性指南書は、女性器の鑑別や品定めが必須事項でもあった。『好色訓蒙図彙』によると、良い女性器の陰毛は「ラッコの皮」だという。

上開(良い女性器)の陰毛は濃すぎず薄すぎず、やわやわと柔和であり、猟虎(らっこ)の皮を想像させるばかりである。「猟虎の皮」は、手で撫でるとその方向になびくといわれる。

※週刊ポスト2011年3月18日号

http://www.news-postseven.com/archives/20110307_14349.html

Gスポットは江戸時代からすでに発見されていた


江戸の性技法の特色であり、現代セックスとの際立った差異はイントロダクションにある。江戸の男たちは、女と言葉を交わし、春画や艶本などを見せてエッチなムードづくりにいそしんだ。

 艶本『艶道日夜女宝記』は、そのまま今のセックスに通じる技法を伝授しているから驚く。「膣の入り口の上側に、袋のようなものがある。そこを指腹で撫でよ」

 この「袋のようなもの」とはGスポットに他ならない。Gスポットの存在が江戸期、すでに知れ渡っていたのは間違いなく、『艶本幾久(えほんきく)の露』という喜多川歌麿の作にも「膣の奥に“名所旧跡”がある」の記述がみえる。ちなみに、性医学界でGスポットが紹介されたのは1950年、ドイツ人医師エルンスト・グレーフェインベルグによってとされているのだが――。

 春画『會本 拝開よぶこどり』では子宮口周辺のポルチオ性感や、オーガズムに達する際の膣の変化も鋭く観察し、描写しているから仰天だ。

「指を深く入れると、子宮が進み出てくる」――この状態を「玉が出る」といいGスポットと並ぶ“名所旧跡”に数えた。本番の交合前に、ストレートかつ、たっぷりと指でくぢる――なるほど、江戸のセックスは奥深い。

※週刊ポスト2010年11月12日号

http://www.news-postseven.com/archives/20101105_5021.html


江戸時代自作女性向け自慰グッズ 1650回以上の抜き差し推奨


古くから、適度なセックスは肉体ばかりか精神面にも良好な影響を及ぼすことが知られていた。だが、「大奥」の女中(奥女中)は男との性交渉のチャンスが極端に少なかった。

 江戸初期の1652年に成立した、セックスガイドブック『秘事作法』の中巻では、奥女中が積極的に実践すべき健康法として「独楽」すなわちオナニーを奨励。“マイ張形”の製法と独楽の楽しみ方の指南も述べている。

「わらび湯か葛湯に紅絹布を浸して丸め、乾かし、何重にも巻く」――これが作り方だ。 サイズは太さ約3センチ、亀頭部が約4.5センチ。全長は約20センチで、先端から16センチあたりに陰毛を模したつけ毛を施す。おそらくリアリスティックかつ勇猛な外観であろう。

 用意万端、いよいよ独楽を開始するわけだが、その回数が凄まじい。「性器の表面を愛撫すること50回、それと同時に乳房を100回ほど揉み、張型を浅く挿入し100回、クリトリスから陰唇への刺激を300回、騒水が湧き出たら深く挿入して200回」

 さらに張型を枕台箱で挟んで固定し、ヒップを落としていく。ここからの所作も回数つきで紹介しよう。「尻を上下にグラインドさせ200回、それをスローテンポに落としながら、空いている手で陰核にアップテンポの刺激を加え、尻を上下左右に強く揺らして200回……」

 ちなみに絶頂までの抜き差し、摩擦の回数は、割愛したものも含め実に1650回以上! これを生身の男に置き換えると……想像するだにおそろしい。

※週刊ポスト2010年12月24日号

http://www.news-postseven.com/archives/20101215_8101.html


春画とは江戸時代の人々の性生活を題材にした浮世絵だが、そこには人々の性への願望も描かれている。日本が世界と比べても自慰が盛んな国だったことは、数々の春画が証明している。

 かつて西欧では、自慰は生殖に直結しないというキリスト教的観念から禁じられ、中国では「接して漏らさず」の『養生訓』の教えのごとく精液の節約という意味で良しとされていなかった。ところが日本の春画は自慰シーンのオンパレード。その方法は実に多岐にわたり、現代からは想像もつかないような性具や媚薬が豊富にあったことがわかる。

 男性器を模した“張形”を使ったり、他人の行為を覗き見て、あるいは想像で手淫するなど、設定はバラエティに富んでいる。
男性器に巻きつけることで挿入時に女性を刺激する“肥後芋茎”や、金属の玉を女性器の中に入れて性行為をすると女性が快楽を得られるという“琳の玉”、また女性器に塗る媚薬など多彩だった。

 江戸時代は、『四つ目屋』というアダルトショップが堂々と表通りで営業されており、この手の性具は簡単に手に入ったという。

http://www.news-postseven.com/archives/20110119_10417.html


浮世絵

http://www.youtube.com/watch?v=qqKarRHRtaM
http://www.youtube.com/watch?v=3fAY9gBqjLs

Kitagawa Utamaro
http://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Shunga_by_Kitagawa_Utamaro

http://www.akantiek.nl/shunga.htm


Ukiyo-e, UTAMARO, 'Michiyuki koi no futusao, shunga, erotic
http://www.degener.com/1793.htm


Prints by Utamaro, Kuniyoshi, Kunisada I/II, Eisen & Utagawa School
http://www.ukiyoe-gallery.com/gallery9.htm
http://www.ukiyoe-gallery.com/gallery9.htm#Toyoshige
http://www.ukiyoe-gallery.com/gallery9.htm#Tomioka


http://www1.ocn.ne.jp/~matikado/index.html
http://www1.ocn.ne.jp/~matikado/super.html
http://www1.ocn.ne.jp/~matikado/toku.html

http://www3.tokai.or.jp/youko45/0602edayo/edayo00mokuzi.htm


浮世絵の展示室
http://homepage3.nifty.com/itoti/index.html


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3. 西欧の画家に衝撃を与えた浮世絵


 デフォルメされた男のイチモツが天井まで届かんばかりに隆々とそそり立ち、枕、炬燵(こたつ)、火鉢、食器も打ち遣る、アクロバティックな体位でねっとり絡み合う男と女。

 葛飾北斎、喜多川歌麿、菱川師宣といった江戸時代最高峰の浮世絵師も、多くの春画を描いた。外国では、日本人の男性器を指して「ウタマロ」と呼ぶこともあるほどにメジャーなジャンルだ。19世紀の終わりごろ、ヨーロッパでジャポニスム・ムーブメントがあり、印象派やアール・ヌーボーの画家たちに大きな影響を与えた。

http://www.cyzo.com/2009/12/post_3371.html

ゴッホやモネなどの印象派画家 春画から大きな影響受ける


江戸時代の人々の性生活を題材にした浮世絵である春画は、明治時代以降、西欧の影響を受け、「性」に対する意識が変化するとともに海外に流出。大英博物館にも所蔵されている。

春画は、描かれている内容だけでなく、構図や色彩感覚など、アートの技法に対しての評価も非常に高い。春画で特徴的な性器の誇張表現は、西欧の美術理論に多くの影響を与えたのだという。

「性器を大きく描く“デフォルメ”という表現は、当時写実主義全盛だった西欧にはない発想でした。日本には、現実そのままの描写では面白くない、いかに絵画を絵空事にするかという芸術理論があったのです。こうした日本絵画の装飾性は、『ジャポニズム』という形でブームを呼び、ゴッホやモネなどの印象派画家を生むきっかけとなりました」

http://www.news-postseven.com/archives/20110117_10354.html


33. ノイズn(コネチカット州) 2009/11/13(金) 09:11:26.65 ID:kurydIXX

いや真面目な話し、絵画を学ぶ者にとって、春画は貴重な良い手本なんだよ。

女性の毛髪の一本一本がもの驚くほど繊細に表情豊かに描かれていたり
デフォルメされた人間の絡み合う姿の動きある四肢の描き方だとか
それまでの西洋絵画にはなかった技法だったので
当時の海の向こうの画家達は、それこそ度肝を抜かれたらしい。

http://www.nihongodeok.net/thread/tsushima.2ch.net/test/read.cgi/news/1258043676/


浮世絵を学んだ印象派


1986年オルセー美術館がオープンしたとき、「ジャポニズム展」がパリと上野で開催された。その副題は「19世紀西洋美術への日本の影響」というもので絵画だけでなく版画・彫刻・工芸・建築・写真など400点が出品された。浮世絵は印象派の画家はほとんど学んで影響を受けている。あまり学んでいないのはピサロ、シスレー、スーラなど少数である。

モネは北斎の「富嶽三十六景」をもとに描いた、また200点をこえる浮世絵を収集して居間にも飾っていた。日本趣味がこうじて庭に太鼓橋をつくり、屏風絵のような庭園を造っている。「衣装・扇子・団扇のモネ夫人」という絵がある。ゴッホには広重の模写の絵がある。「タンギー爺さん」の背景には浮世絵の画がある。日本びいきで「僧侶としての自画像」という画も描いた。マネは日本の団扇、扇子を描いた屏風の画がある。セザンヌの絵の構成は浮世絵の影響が強く出ているといわれる。異国趣味もあるがジャポニズムとして多かれ少なかれ影響を受けていたことは確かである。

http://www.tranzas.ne.jp/~smikio/insyouha.html


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4.ファン・ゴッホは何故キリスト教を捨てたのか?


伝道師を目指した若き日のゴッホ


「よきサマリア人」は、中世から近代までの数多くの美術作品に描かれている。
http://www.abcgallery.com/V/vangogh/vangogh56.html


サマリア人をイエス、宿屋を教会に見立てて、ユダヤ教の祭司が見捨てた人間をキリスト教が救済したと言う寓意として、教会のステンドグラスを飾ったりもしている。 遠景に急ぎ足で去っていく人物を描く絵も多く、ゴッホの作品でも、画面の左側に小さく2人の人物が描かれている。遠くに見えるのが最初に通りかかった祭司、手前に見えるのが次に通りかかったレビ人である。いずれも、見て見ぬふりをして遠ざかる足早な後ろ姿で描かれている。

無心に旅人を抱き抱えるサマリア人に対して、遠ざかる人影の背中には、いかにも小心翼々として事なかれ主義がにじんでいる。一度は伝道師を志し、狂信的なまでに献身を尽くしたゴッホとしては、この後ろ姿には容赦ない批判があったに違いない。

ゴッホはオランダの厳格な牧師の家庭に生まれている。 そして、ヴィンセント・ファン・ゴッホと言う名前は、なんとゴッホの誕生日に1年前に同じ日に死産した兄の名を継いでいる。 家が教会だった為に、ゴッホは幼い頃から教会墓地のヴィンセント・ファン・ゴッホと言う名を刻んだ兄の墓石を見て育っているのである。

恐らく、その反動だろう。若い頃からゴッホは、病的なまでに自分自身のこの世における存在意義と言うものを探求している。 死んだ兄の代理として自分自身が生存している事への、恐ろしいまでの自責の念を抱き続けていたに違いない。 そうした心情と家庭の事情からすれば、ゴッホが伝道師を志した事へ当然の結果と言える。ところが、この伝道師への道は、破門と言う手ひどい形で閉ざされている。

原因は、ゴッホの余りに献身的な生活にあった。 極貧の炭鉱街に派遣された見習い牧師のゴッホは、人々の貧しさに衝撃を受け、衣服から寝具まで全てを与えてしまい、自分自身は藁の中に寝起きしていたという。最低限の衣類しか身に付けず、家畜小屋のような住居に暮らすゴッホの姿に伝道師協会へ怒り、協会の威厳を損なうものとして破門にしてしまった。 困窮する人々と苦難を分かち合おうとしたゴッホの情熱は、理解されないどころか、むしろ狂気の沙汰と見られこれが原因で伝道の世界から追放されてしまうのである。

この時の痛手は、終生ゴッホの心から消えず、以降、彼は形骸化した教会を批判し続けている。彼が手紙に書いた「宗教はうつろい、神は残る」と言う言葉には、痛切なでもにこうした思いが語られている。


イエスの弟子としてのゴッホ


「よきサマリア人」は、そんなゴッホが激しい発作の合間に精神病院で描いた作品。南フランスのアルルで試みたゴーギャンとの共同生活が破綻、口論の挙句、自分で自分の耳を切り落としてしまったと直後に描かれている。この共同生活は、ゴッホがアルルに構想した画家の共同体の第一歩として始められたのだが、こうした構想にしても多分に修道僧的である。

絵柄はオリジナルではなく、ドラクロアの原画の複製版画を模写している。この他にもレンブラントやミレーの宗教画を版画で見て、自分なりに色を着けて模写しているが、ゴッホのオリジナルの宗教画は1点も残されていない。

手紙によれば、ゲッセマネの園で祈るイエスの苦悩(第7章)を描こうとした際に、どうしても描く事が出来ず画面を引き裂いてしまったらしい。 友人に宛てた手紙には、聖書の場面を借りなくとも、人間の苦悩を描き、心に癒しをもたらす作品は描けるはずだと書いている。

その実、必死に祈るイエスを描こうとして描けず、断念したと言う事実を思えば、この主張自体も痛々しい。そんな彼が、宗教に代わるものとして選んだのが自然であった。

「ラザロの蘇生」は、その事を物語るような作品。

http://stundenbirne.jugem.jp/?eid=92


レンブラントの「ラザロの蘇生」を模写したものだが、奇跡を起こしたイエスは画面から省かれ、代わりに白熱する太陽が描かれている。あたかも太陽の熱線が死者を蘇らせたかのようである。作品は「よきサマリア人」と同じ精神病院で描かれており、この少し後にはゴッホは、絵の具を飲み干すほどのすさまじい発作に襲われている。

どうやら太陽の描写は発作の誘因になるようで、代表作「ひまわり」にも見られる黄熱の色彩は、ゴッホに極限までのエネルギーを費やさせると言う事は、本人も手紙に書いている。これ以降は、好んで夜空の星を描いている。 うねるような夜空にまたたく有名な作品「星月夜」も、この時期に描かれた作品である。 この星について、ゴッホは手紙にこう書いている。

「それまでもなお、僕はやはり、何というか、宗教がどうしても必要だと感じる。そんな時、僕は、夜、外に星を描きに出る」

絶とうとして絶てない信仰への思いが滲む文章である。

「それでも人間は、何か偉大なものなしにはやって行けないと思う」

この言葉は、ゴッホの脳の奥に潜む考え方の本質であると同時に、人が信仰というものを求める際の最も基本的な心情を語った言葉と言える。 ゴッホは、膨大な数の独創的な索引を描きながら、宗教画に限っては、どうしても自分なりのイエスの顔を描く事が出来なかったのである。 が、その実、ゴッホは「宗教はうつろい、神は残る」と言う精神において、律法学者達の偽善を突いたイエスに、最も忠実な画家の一人であったのだろう。

http://www.geocities.jp/tomoching2/goch.html


ベルギー時代のヴァン・ゴッホ 


<ボリナージュでの伝道>

ベルギー・プロテスタント教会ユニオンの1789-1880年の年報にワムという項目があり、伝道師ゴッホのついての言及があります。そこにはゴッホが誠心誠意で怪我人や病人を看病して面倒を見たこと、自分の衣服を裂いて包帯代わりにしたこと等が書かれています。しかし、最後に「伝道師としての資質に欠ける」と断定したうえ、任期更新は行わずに、すでに現地入りしていたユトン氏を後任者として任命したと結んでいます。

 中略

それではワム村の村民達はゴッホのことを実際にどのように見ていたのでしょうか。私の手元に、隣のフラムリ村出身でベルギー普通選挙の父と呼ばれるルイ・ピエラール代議士の書いた「ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの悲劇的人生」という本があります。氏は30数年間モンス選出の代議士として活躍し、戦後は王立学士院の会員にもなりました。1920年頃に書かれたこの著書は、半世紀に渡りゴッホ研究者が頻繁に引用しましたが、現在では入手不可能な幻の名著です。現在出回っているゴッホの伝記の多くはこの本の焼き直しといっても言い過ぎではありません。

その中に、1910年代にワム村で元鉱夫達に伝道師ゴッホに関して取材をした箇所があります。ゴッホがワムを去って30年も経っていたにもかかわらず、“ゴッホが坑内から出てきたばかりの鉱夫たちの姿を縦坑出口のすぐ横で素描していたこと”を老鉱夫が覚えていたり、下宿していたドウニ家の息子の“ゴッホが作った子供向け聖書教室”の鮮明な記憶などに代議士は驚嘆しています。

ゴッホの記憶はワムの村人から消えてはいなかったのです。その証拠に、早くも1925年9月13日にゴッホの妹エリザベツの立会いの下で、ドウニ家の外壁に記念大理石プレートが住民によって付けられました。この記念碑は今も荒れ果てた家とともに残っています。それには「オランダ人ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ(1853−1890)がこの家に1878−1879年に住んだ。伝道師で後にその時代で最も偉大な画家の一人となった」と刻まれています。この記念プレートが付けられた際、妹エリザベツは当時プチ・ワム村で牧師をしていたピエール・スクレタン・ロリエールに、ゴッホがボリナージュ時代に愛用したという聖書の詩篇集を贈りました。この詩篇集は後にアムステルダムのゴッホ美術館に寄贈されました。

また1924年、ピエラール代議士の求めに応じて、前述のボントウ牧師は伝道師ゴッホの思い出について3ページ半にわたる書簡を送りました。その中で牧師は

「ゴッホは最も不幸な者、怪我人、病人を好んで訪ね、彼らの傍に長い間とどまりました。苦しむ者のためにすべてを捧げようとしていました」

「彼の奥深い感受性には人間愛を超えたものがあって、動物たちやさらに虫けらの類にいたるまで大事にしていました」

ワム村を追われて半世紀近くたってからゴッホに贈られた元上司の賛辞といえます。

聖職者というのは医者と同様に、苦しむ者から一歩距離を隔てて活動すべき職業かもしれません。ミイラ取りがミイラになってはいけないのです。その意味ではゴッホは確かに伝道師失格だったかもしれません。しかし、自分の持ち物をすべて分け与えて、貧しい者や苦しむ者のみならず動物や昆虫まで愛したクリスチャン、ゴッホの生き方はそれゆえに村の人々の心に末永く生き続けたのでしょう。

すべてを神への奉仕の為に捧げたにもかかわらず、伝道師失格の烙印を押されてストライキ扇動者と罵られたゴッホは、失意の中、信頼していたピーターセン牧師を頼ってメヘレンに、着の身着のまま徒歩で北上しました。その一年前の夏、手っ取り早く宣教師になる道を探していたゴッホは、父と英国滞在中に世話になったジョーンズ牧師に付き添われてベルギー北部とブラッセルの牧師たちを訪ねて歩きました。その時に世話になったのがピーターセン牧師でした。


<牧師を志す>

ゴッホ自身の手紙によるとオランダでは聖職者になるには最低5年間大学で神学を学ぶ必要があり、しかも神学部入学にはラテン語とギリシャ語の知識が予め必要でした。ゴッホはその語学の勉強につまづき、アムステルダム大学入学を断念した苦しい経緯がありました。「息子はオランダでは牧師になれないが、ベルギーでなら何とかとなる」と判断した父のアイデアだったのでしょう。そのゴッホにブラッセルの北、ラーケンにあるベルギー・プロテスタント教会ユニオンによって創設されて間もない小さな宣教師養成学校から3ヶ月の試用期間付で入学許可がおりたのです。ここではたった3年間で宣教師を養成していました。しかも試用期間中はフレミッシュの学生と同様に、学費無料で宿泊代と食費のみを払えばよいという好条件でした。この学校の詳細は残念ながら詳しくわかっていません。またゴッホの書簡に出てくるボクマという教師についても記録がみつかりませんが、名前から判断する限りオランダのフリスラントウの出身者のようです。そうであればこの入学に関しては当然ゴッホの父のコネが効いたことでしょう。

残念ながらここでも彼は挫折してしまいました。彼の非社交的な性格と宣教師として不可欠な仏語の雄弁術に欠けていたのが最大の理由でした。当時の同級生はゴッホについて「従順さに全く欠けた」と回顧しています。

そして同年11月15日にテオに送った長文の手紙でボリナージュで伝道したい旨を説明して、最後に追伸で学校の試用期間に失敗したと告白したのです。その手紙にゴッホは有名な「炭鉱」というデッサンを添付しました。

彼はなぜこのデッサンを手紙と一緒に送ったのでしょうか。

当時、ボリナージュで採掘された石炭の多くはフランスに輸出されていましたが、一部はモンス・シャールロワ間のソントウル運河とブラッセル・シャールロワ運河を使って船でブラッセルに運ばれていました。船といっても現在のようにエンジン付の船ではありません。運河の両側に設けられた小道で、人や馬が石炭や貨物を満載した船にロープを付けて引っ張って行ったのです。そしてブラッセルの運河には、この作業道に沿って様々な工場や会社が並び、多くの労働者が肉体労働に従事していました。

ゴッホの描いた「炭鉱」はこういう肉体労働者の為に設けられた休憩所です。そこは労働者がお弁当を食べたり、水代わりのビールを飲んだりするところでした。また夜は綺麗所の来るキャバレーにもなりました。いわば「キャバレー炭鉱」だったのです。ゴッホはこの絵を描きながら、まだ行ったことのない炭鉱地区ボリナージュを思い浮かべたことでしょう。彼自身はこのデッサンを「くだらないデッサン」と書簡に書いていますが、私は非常に個性的で誠意に満ちていると評価しています。しかも画面の上の三日月や、意図的に直線を避けた建物のラインと、瓦と石畳の曲線は後にアルルで制作した「夜のカフェ」、サン・レミの「星と糸杉のある道」を彷彿させます。

神学校を3ヶ月で落第したゴッホはそれにもめげず、1879年の12月に自費でボリナージュに伝道に出かけ、モンスの南にあるパチュラージュ村の行商人ヴァン・デル・ハーフンの家に月30フランで下宿しました。子供に読み書きを教えたり、病人を見舞って看護したり、文盲の鉱夫や農民達に聖書を朗読したりといった活動をしながら、伝道委員会に伝道師任命を懇願しました。幸い前年に、それまでワム村の一集落にすぎなかったプチ・ワムは独立した村に昇格しました。当時の習慣で、村民が望めば村専属の牧師を国費で呼び寄せることができました。村から要請をうけたベルギー・プロテスタント教会ユニオンは、適任の牧師が直ぐに見つからなかった為に、とりあえず、ボリナージュにいたゴッホを6ヶ月の期限付きで伝道師として任命し、プチ・ワムに送ったのでした。


<ボリナージュでの再出発>

さて失意と疲労にもかかわらず、メヘレンまで訪ねてきたゴッホをピーターセン牧師は温かく迎えてくれました。恐らく久しぶりにオランダ語で話し合えたのでしょう。そして牧師の趣味だった水彩画を見せられたゴッホは、息を吹き返したかのように元気になってまたボリナージュに戻っていきました。でも今度は画家として修業を始めたのです。そして、クエム村のフランクという伝道師が借りていた鉱夫の家の離れに1879年の8月から翌年の10月まで居候しました。彼が住んだ離れ家は今はなくなっていますが、荒れ放題になっていた母屋は近年「ゴッホの家」として修復されています。

ここで画家になる決意を固めた彼は デッサンの習得の必要性を感じて農民や鉱夫のデッサンに没頭します。その修業期間中に、彼がお手本として重宝したのがミレーの「種まく人」や「鋤を使う人」の版画でした。弟のテオが勤める「グーピル画廊」が名作の版画コピーを主たる商売としていたので、ゴッホは1880年の夏にテオに宛てた手紙でミレーの「畑仕事」という数枚の版画を郵送してくれるよう頼んでいます。

現在の「ゴッホの家」には彼がこの家で制作したミレーのコピー「鋤を使う人」が展示されています。ミレーの原作はパステル画ですが、当時のコピーが白黒の版画で売られていたのでゴッホはその版画を手本としました。ゴッホはずっと後、1889年にも油絵の具でまた「鋤を使う人」を制作しています。構図は原作と同じですが、油絵コピー上の土と空の部分を注意して見ると、まるで波打っているかのように描かれています。また原作では単純に暗く描かれた胸の部分がブルーで置き換えられています。対象となる農民への限りない愛情と信仰心という点では、ミレーとの共通点を持ち続けたゴッホですが、ミレーを乗り越え独自の芸術を築いていった過程がうかがえます。

クエム時代のゴッホに関しては 残念ながらクエムの教会には記録が残っていません。しかし、クエム時代のゴッホを知る地元のデルソーというプロテスタント信者がピエラール代議士に宛てた手紙に次のように回想しています。

「彼は大変質素な生活をおくり、朝起きると二切れの乾パンを食べて、大きなコップで冷えたコーヒーをブラックで飲み、食事以外には水を飲んでいました。いつもたった一人で食事を取って、他の人と一緒に食事をしないようにしていました。食べながら膝の上で素描するか本を読むといった具合に、一日中素描に充てていました」

「ゴッホが私の義姉の家に滞在していたとき、彼が描いた一枚のデッサンが義姉の記憶に鮮明に残っています。それはジャガイモを収穫する農民の姿を描いた絵です。何人かが鋤でジャガイモを掘り起こし、他の者がそれを拾い上げる姿でした」

このデッサンは残っていませんが、この回想によって、ゴッホが5年後にオランダのヌエネンで制作した代表作「ジャガイモを食べる人」のコンセプトがクエム期にすでにできつつあったことを思わせます。

ゴッホのボリナージュ期は1880年10月にブラッセルの美術学校入学で終了します。彼が下宿したブールヴァール・ドゥ・ミディ72番地は現在の国鉄ミディ駅の真横で、今では大きな交差点と国鉄の高架になっていて当時の面影は偲べません。

http://blogs.yahoo.co.jp/prof_japonais/3946797.html


再びフィンセントは「女性問題」を引き起こします。 こんどの相手は、あばた面の年上の娼婦でした。

ハーグに舞い戻った年の冬、フィンセントは「一人の身ごもった女」にでくわします(No 192. 1882年5月)。このシーンと呼ばれる女は「男に捨てられ、その男の子どもを宿して」いました。

「みもごったおんなが冬の街頭に立たねばならなかった、パンを得なければならなかった」のを見過ごすことができず、フィンセントはシーンをモデルとして雇います。

「十分なモデル代は払ってやれ」ませんでしたが「家賃は払ってやれ」ました。「自分のパンを彼女と分けることによって、女とその子どもとを飢えと寒さから守ってやれた」のです。かれは、シーンを産科病院連れて行き、シーンの住まいをたびたびたずねるようになります。

旧約聖書の「ホセア書」の冒頭に述べられた「汝ゆきて淫行の婦人(をんな)を娶り淫行の子等を取れ」というエホバの命令をそのまま実行に移したかのようでした。


組んだ腕の中に頭を埋めた妊娠した裸婦の側面像を描いた素描「悲しみ」はこの頃のシーを描いたものです。フィンセントとしては珍しくロマンチックなイラスト風の絵で、「僕の一番よくできた素描(No 219. 1882年7月23日)」とフィンセントは誇らしげに書いています。この妊婦は聖書にあるように男の子を産むことになります。

しかし、まもなくシーンが出産という時になって、フィンセントはシーンにうつされた淋病のために入院を余儀なくされます。3週間してなんとか退院し、シーンが入院している病院に着くと、前日、シーンは難産の末、男の子を産んでいました。生まれた赤ん坊をみて感動したフィンセントはシーンと二人の子どもを引き取るために大きな屋根裏部屋を借りて移り住みます。夢にまで見た家庭生活でした。

この頃、フィンセントはベビーベッドに寝ている赤ん坊とそれを見守るシーンの娘の素描も描いています。そこには「家庭生活」の一コマが何気なく描出されていて、「悲しみ」以上に印象的なスケッチです。この子どもたちのスケッチを忘れがたいものにさせているのは、画家の憧れかもしれません。

司馬遼太郎がいうように「分際に応じて適当に愛され適当に嫌われ適当にずるっこけて甘えて暮らして」いれば、たいていは子どもの一人や二人はできてしまうものです。しかし、ケーに失恋して愛情が「枯死するのを」感じて以降、フィンセントにとって、たったそれだけのことが、この世で金輪際実現しえない夢物語と思えるようになっていました。それだけに憧れも強烈でした。フィンセントは誇らしげに次のように書き記します。

「陰気な気持ちになったとき、荒涼とした浜辺へ歩いていて、長く白い波が糸を引いている灰緑色の海を眺めるのはなんといいことだろう。しかし、何かしら壮大なもの、何かしら無限のもの、何かしら神のことを呼び覚まさせるように感じさせるものがほしいと感じたら、それを見出すために遠くまで行くには及ばない。大洋よりももっと深く、もっと無限でもっと永劫の何かが、朝眼ざめてゆりかごに輝いている日光に喉を鳴らしたり、笑ったりしている小さな赤ん坊の眼の表情の中に見えるように僕は思う(No 242. 1882年11月5日)」。

たとえ、その赤ん坊が見知らぬ男の子どもであっても、フィンセントはかまわなかったのです。 フィンセントはシーンが出産から戻ってきたら結婚するつもりでした(No 198. 1882年5月14日)。そして、そのことによって世間の信用をなくすことは覚悟の上でした。

 しかし、世間の風当たりは予想以上に厳しく、フィンセントは四面楚歌の状態に追い込まれます。生活費を弟に頼る身でありながら、えたいの知れない売春婦、父親もしれぬ子どもたちを養い、結婚しようとしているフィンセントにテルステーフもマウフェもコル叔父も驚き呆れ、許容することができなかったのです。テルステーフもコル叔父もフィンセントの絵を全く購入してくれなくなります。

マウフェは手足の石膏像をデッサンするか否かでフィンセントと言い争いになった後、全く会ってくれなくなりました。たまたま砂丘で出会って、フィンセントがもう一度教えを乞うたときも「俺はけっして君には会いには行かない。万事おしまいだ」「お前は卑劣な性格を持っている」と非難するだけでした(No 192. 1882年5月3日)。フィンセントは親戚一同とかつての仕事仲間の顔に泥を塗る恥知らずな人間と軽蔑されるようになっていたのです。両親も同意見でした。

 最後の頼みの綱はテオでした。テオからの送金が途絶えれば、シーンたちを養えなくなり、結婚するどころではありません。

 送金をやめるという強硬手段にはでませんでしたが、テオはハーグまでやってきて、散らかし放題のフィンセントの「家庭」のあまりのひどさに驚きあきれ、必死になって結婚を止めようとしました。「ヘール事件」のときのように両親がフィンセントを禁治産者にしてしまうかもしれないとまで脅しました。


 実際、シーンは投げやりで無気力でだらしない、とてもまともな「家庭」生活など営むことのできない女性でした。売春婦になったのも、生活に追いつめられてというよりも、それが手っ取り早かったからにすぎません。叔父たちのいう「自堕落な女」という表現がぴったりの女性だったのです。

絵画のための費用を差し引くと、テオからの送金だけでは生活費の捻出も間々ならず、やがて、フィンセントは借金をせざるを得なくなります。フィンセントはこのような状況にあっても絵画を精力的に描き続けており、マウフェの教えを受けられなくなったにもかかわらず、絵画において長足の進歩を遂げていました。絵を描き続けているということでテオは金を送ってくれているのですし、それ以上に、フィンセントにとって絵画は人生において残された唯一の生きる糧であり、これをやめるわけにはいきませんでした。しかし、このような経済状況にあっても絵画のために金と時間を「浪費」する男は、シーンにとっては不可解な存在でしかありません。彼女はだみ声を張りあげ、フィンセントを罵ります。

 やがて、母親の煽動もあって、シーンは再び体を売って金を得る生活に戻ろうとします。テルステーフやマウフェや叔父たちにいわれなくともシーンの「性格が損なわれている」ことはフィンセントもはじめからわかっていました。シーンとの家庭生活を夢見るにあたっては「彼女が立ち直ること」に望みをかけていたのです。

その前提条件が崩れてしまうのではどうしようもありません。シーンを更生させるためにがんばってきたフィンセントは精根尽き果てます。そして、結局、彼女と別れる決心をします。自分がいなくなれば彼女がもとの生活に戻るだろうという思いが彼の心を苛みました。しかし、どうしようもありません。

 つらい別れでした。とくに、シーンが出産した男の子をフィンセントは我が子同然にかわいがっていました。

「あの小さな男の子は僕にとてもなついていた。すでに僕が列車の席についたときも、僕はあの子をひざの上にのせていた。こうして僕らはお互い別れたが、お互い口では言えぬ悲しい気持ちだった(No 326. 1883年9月22日)」

とフィンセントはのちに書いています。

http://www009.upp.so-net.ne.jp/aoitori/tenkan/Gogh.htm

フィセント・ウィレム・ファン・ゴッホ(1853-1890)のハーグ時代(1882年から1883年9月までのおよそ20ヵ月)に「悲しみ」(1882年、ロンドン・ウォルソン美術館蔵)という黒チョークで描かれた作品がある。ゴッホは自ら「最上の作品」と呼び、石版画にもしている。上掲の図版「シーンの娘」のモデルはシーンの長女で、暗い表情、やせこけた頬に不幸と貧しさが哀しくも表現されている。

1882年1月、ゴッホは街頭で酔っ払いの妊娠した娼婦に出会った。クリスティーヌ(ゴッホはシーンとよんだ)を拾い、20ヵ月間同棲生活が始まる。やがて赤ちゃんも生まれた。テオへの手紙には次のように書いている。

「ちょうど今ここに、女が子供たちといっしょにいる。去年のことを思い出すと大きなちがいだ。女は元気になり、気むずかしさがなくなってきた。赤ん坊は、およそ想像がつく限りで最も可愛らしく、最も健康で、陽気なちびになっている。

そしてあの可愛そうな女の子はデッサンを見れば分かるけれど、彼女が受けた恐ろしい不幸が未だ拭い去られてはいない。このことがしばしばぼくの気がかりになるのだ。しかし去年とはすっかり変わった。当時は全くひどかったが、今では彼女の顔はあどけない子供のような表情になっている」

この手紙を読む限りでは、貧しいながらも4人で暮らすありふれた幸せな家庭が築けそうな期待がする。しかしゴッホとシーンに破局がやってくる。1883年12月、ゴッホは両親のいるヌエネンに戻る。シーンの2人の子供たちがその後どうなったのか、それは誰も知らない。

http://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_bd9f.html


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5.そしてゴッホはゴッホになった

歴史の中のゴッホ ― 有川 治男


ゴッホの社会的、個人的環境


 ゴッホの個人的な生活を成り立たせていたいくつかの要素がありますが、たとえば、印象派の画家たちとゴッホの個人的な環境の違いといえば、彼はオランダ人でした。つまり、マネ以降、今回のシリーズで取り上げた画家たちはみんなフランス人であり、フランスで活躍します。これらの画家たちは、19世紀後半から世界の美術の1つの中心になったフランス文化に初めから接していたのに対して、ゴッホはオランダ人だったことが、彼個人の特別な事情であるわけです。

 さらに言えば、幼少時代に暮らしていたのはオランダの中でも都市部ではなく、南部の農村地帯ですが、農村地帯の出身だったことは彼の個人的な環境が持っている特殊性であるわけです。

いま左側には、ゴッホがオランダ時代に描いた農家の様子とか、農夫の頭部とかが映っていますが、ゴッホにとってこれはとてもなじみの深いものでした。たとえば、農村出身ではない印象派のモネもルノワールも農村地帯を描いています。ピサロも描いていますけれども、彼らは都会で育った後、自分たちとは違うものとして農村に接したわけです。ゴッホは、農民の子どもではなかったわけですが、生まれたときから農村地帯に暮らしていました。そういう意味では、ゴッホが描く農村とか農民の姿は、大人になってから自分と違う世界として初めて知ったものではなくて、子どもの頃からその中で知っていたわけですから、ずいぶん大きな違いがあるわけです。

 ゴッホはオランダ時代にも、アルルへ行っても、こういう農民の姿を描いています。アルルへ行って初めて知ったわけではないのです。ゴッホの生涯にわたって、こういう農民に対するまなざしはあったわけですし、ゴッホは自らの姿を都会に暮らす都会人というよりも、農民と同じような粗末な麦わら帽をかぶって自分の足で道をテクテク歩いて行くといった姿でも描いています。

たとえば、左側はパリ時代に描かれた自画像ですけれども、都会の住民とは思えない田舎っぽい服装をして、服は青い上っ張りのようなものを着ています。当時の証言がありますが、これは農民の服装ではないんですね。工事人夫などが着ていた青い上っ張り、つまり労働着を着て絵を描いていたという証言があります。

右側もそのような服を着ている。これはアルルで描いています。写生のスケッチに行くために麦わら帽をかぶって、労働着を着て、道を歩いているといった農民、あるいは労働者として自分の姿を描くところにも、都会の知的な環境の中で育ったわけではない、むしろ自分の手で働く農民たちの中で育ったゴッホの個人的な環境が大きく働いているように思われるわけです。

 初期のオランダ時代から、アルル時代、サン=レミ時代に至るまで、ゴッホは繰り返し繰り返し「大地の上で働く農民の姿」を描いています。そういう点で言えば、農民画家と言われているミレーも農村地帯で育ったということで、フランスの19世紀後半の絵画を担ってきた画家たちの流れでみると、ゴッホは生い立ちの点でもミレーに共感する部分があったと思われます。

 ゴッホが生まれたのは南オランダのフロート・ズンデルトというところなんですが、このあたりで一番近い町はブレダという町です。ブレダの町から、ずっとこういう農村地帯、畑が続いています。そういう環境の中で育っているわけです。 オランダの平坦な地面がどこまでも続いていく大地の上で育ったということは、たとえばパリという都会で育ったのとはずいぶん違うものをゴッホの絵画に及ぼしていると思われます。

 ゴッホは、アルルでも、わりと何ということのない、取り立ててどうということのない、ただ耕した、堀り返された畑といったようなものを描いています。印象派の画家たち、モネなんかでも、こういうものは題材にしないですね。つまり、色彩的にもそう面白いわけでもない。そういう何の変哲もない、ただの土塊だけの大地を描いているところには、ゴッホの個人的な生活環境、成長してきた環境が影響しているように思われます。これはサン=レミ時代の麦畑です。 ゴッホの場合は、とりわけ生涯にわたって農地、畑、麦畑を描き続けたことには、そういう個人的な要素が大きく関わっていたと思われます。これも何の変哲もない、一面に広がる麦畑。これは晩年のオーヴェール時代の作品です。


宗教の影響


ゴッホのお父さんはプロテスタントの牧師であり、主に南オランダの各地、フロート・ズンデルトとか、エッテンとかヌエネンとかというところの小さな町、村の牧師をやっていた人です。お父さんが牧師だった。農村地帯に暮らし、農民の労働、土というものを知っていると同時に、牧師と言えば知的階級ですから、知的な教育も受けた。これがある意味ではゴッホの持っている2つのルーツであるわけで、ゴッホにとって宗教は生涯にわたってとても重要な役割を果たしています。
 たとえば、右側の(機を織る男)でも、男は家の中で機を織っている。

http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Van_Gogh_-_Weber_vor_offenem_Fenster_mit_Blick_auf_den_Turm_von_Nuenen.jpeg

女の人は外で仕事をしている。その向こうに教会の墓地にあった塔が描かれています。ゴッホは単独でもこの塔をしばしば描いていますけれども、こういうように労働と宗教が結び付いている。その点でもミレーとも共通するところがあるわけで、大地で手に汗して働くということと、それが人間としての務めであるといったことが宗教的に解釈されている。それが南オランダに育って、しかも牧師の息子として生まれたゴッホの2つのルーツが融合したところであるわけです。

 ゴッホの宗教観が非常にハッキリしているのは左側の作品で、ここに描かれているのはゴッホのお父さんが使っていた聖書です。

http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Van_Gogh_-_Stillleben_mit_Bibel.jpeg

お父さんが亡くなった後、ある意味では記念のようなものとして描いているわけです。ゴッホは子どもの頃からよく聖書に親しんでおり、ゴッホの手紙等には非常にたくさん宗教的な発言があり、聖書からの引用もあります。こういうようにお父さんの思い出として聖書を描いているわけで、牧師であったお父さんからとても大きな影響を受けつつ、同時にお父さんに対する反発のようなものもあって、ゴッホにとっては宗教は、単にとても大事なものであるだけでなく、とても複雑な要素を持っているわけです。

 教会の姿ということで言えば、これは一番有名な晩年のオーヴェール時代に描いている、オーヴェール時代の締めくくりのような作品です。

http://www.salvastyle.org/menu_impressionism/view.cgi?file=gogh_eglise00&picture=%83I%81%5B%83%94%83F%81%5B%83%8B%82%CC%8B%B3%89%EF%81i%83I%81%5B%83%94%83F%81%5B%83%8B%82%CC%90%B9%93%B0%81j&person=%83t%83B%83%93%83Z%83%93%83g%81E%83t%83@%83%93%81E%83S%83b%83z&back=gogh_eglise


そこにも教会の姿が出てきています。こんな具合に、彼はオランダ時代に宗教的なものを身に付けたわけですけれども、それは生涯ずうっと流れています。たとえばゴッホがしばしば描いた農民の姿に、(種まく人)とか(刈り取る人)がありますけれども、彼が手紙の中で書いていることを見ると、ゴッホは「種まく人」とか「刈り取る人」に宗教的なイメージを重ねています。


http://www.salvastyle.org/menu_impressionism/view.cgi?file=gogh_semeura00&picture=%8E%ED%82%DC%82%AD%90l%81i%8E%ED%82%F0%82%DC%82%AD%90l%81A%94_%95v%81j&person=%83t%83B%83%93%83Z%83%93%83g%81E%83t%83@%83%93%81E%83S%83b%83z&back=gogh_semeura


たとえば「種まく人」は「神の言葉をまく人」といったような意味でしばしば出てきます。
 
 ミレーの(種まく人)についても、しばしば宗教的な意味合いが考えられていますけれども、ゴッホの場合はもっとハッキリと、

「種まく人は神の言葉をまく人なんだ」

という意味が重ねられています。特にこの作品の場合は、種まく人の後ろに沈み行く太陽を描いていますが、ちょうどキリスト教の聖者の頭の後ろに付いている「ニンブス」、「円光」、「光輪」のようなものが付いていて、ここではハッキリと種まく人に「聖なる意味」をかぶせているわけです。こんなふうに、実は宗教画でないものにしても、ゴッホの作品は、見ていくとずいぶん宗教的な意味合いがたくさん重ねられていることが分かるわけです。

 たとえば(ルーラン夫人)は身近にいる人、近くにいる人の肖像画ですが、ひまわりを両方にはさんで、宗教的な三幅対、祭壇画のように仕立てているわけです。

http://art.pro.tok2.com/G/Gogh/vv009.htm

風景画であるけれども、宗教的な意味合いがあるし、肖像画であるけれども、宗教的な意味合いがあるわけです。


宗教画は不得手


 第1回目でお話しましたが、ゴッホはどうも人物画より風景画のほうが得意である。とりわけアルル時代以降、人物画から風景画に重点を移していくと申し上げましたが、宗教的な主題に関しても基本的にはそうで、ハッキリと聖書の中に出てくる物語を描いたゴッホの作品は基本的にはゼロです。聖書の中の物語を描いたものが何点かありますけれども、それはいずれもゴッホが自分で独創して描いたものではなくて、先人のものをコピーしたものです。左側はドラクロワが描いた(良きサマリア人)という作品をもとにしたもの。右側は、レンブラントの(ラザロの復活)がもとになっています。実はゴッホがお手本にしたレンブラントの作品は版画ですし、左側のドラクロワのものも、直接お手本にしたのはドラクロワの油絵を版画にしたものです。したがって、ゴッホは白黒である作品の構図を借りながら色を付けているという点ではかなり創作の部分もあるんですけれども、しかし、人物の組み合わせとか物語の情景のとらえ方を自分でつくり出すのではなくて、模写という形でこういう宗教画を描いているわけです。

 ゴーギャンは「頭で描け」と言った。たとえば宗教的な物語にしても、実際に見たことがないから描けないゴッホに対して、ゴーギャンは「頭で想像して描け」というわけです。ゴッホは何かお手本があって描くことはできるけれども、自分で宗教的な場面を想像して描くことは得意ではなかったし、実際に目にすることができないものを描くことに関してはかなり抵抗があったようです。それに対して、実際に目の前にあるものよりも、むしろ目の前にあるものをもとにしながら想像力でいろんな概念を込めた絵を描くというのがゴーギャンの主張で、たとえば左側の(黄色いキリスト)であるとか、右側の(オリーブ園のキリスト)あるいは(ゲッセマネの園のキリスト)などでは、宗教的な場面を自分の頭の中でこしらえています。ゴーギャンは人物画がメインですし、宗教的な意味合いを込めた作品もたくさん描いています。たとえば右側の作品では、ゲッセマネの園で一人苦悩し、思いをこらすキリストを描くときに、ゴーギャンは自画像を使っています。つまりまったく想像で描くのではないのだけれども、自分の顔をキリストになぞらえて描くというかなり大胆なことをやっているわけです。ゴッホはそういう大胆なことはできない。

 ゴーギャンが右側の絵を描いたのは、アルルでゴッホと一緒に暮らした後、つまりゴッホとゴーギャンのいさかいがあった後ですけれども、それでもゴッホとゴーギャンは文通等はしているわけで、あるとき、ゴーギャンはこういう絵を描いて「自分はこういう絵を描いた」と説明して、簡単なスケッチを添えてゴッホに知らせています。しかし、ゴッホは、こういうような、まったく空想で描くような絵はどうも受け付けなかったようです。

 それに対するゴッホのひとつの答えがこの作品です。ゴーギャンは苦悩するキリストの姿に自分の姿を重ねている。つまり「苦悩するキリスト」に「苦悩する芸術家」を重ね合わせて作品を描いているわけです。それに対して左側はオーヴェール時代にゴッホが描いた有名な(ガッシェ博士の肖像)です。


http://www.salvastyle.org/menu_impressionism/view.cgi?file=gogh_gachetb00&picture=%83%7C%81%5B%83%8B%81E%83K%83V%83F%88%E3%8Et%82%CC%8F%D1%91%9C%81i%83K%83b%83V%83F%94%8E%8Em%82%CC%8F%D1%91%9C%81j&person=%83t%83B%83%93%83Z%83%93%83g%81E%83t%83@%83%93%81E%83S%83b%83z&back=gogh_gachetb


ゴーギャンの(オリーブ園のキリスト)が首をうなだれて何か物思いにふけっているのに対して、この作品ではガッシェ博士にほおづえをつかせて、物思いにふけっている姿を描いていますが、ゴッホはそういう人間の苦悩とか悩みをあらわすにしても、ゴーギャンのように宗教画の形を借りるのではなく、(ガッシェ博士の肖像)という肖像画の形を借りています。

 ですから、ゴッホが持っていた宗教観は、ストレートに宗教画を描かせるようなものではなかった。彼は肖像画なり風景画なりに仮託して描くという、従来の宗教画とはかなり違う描き方をしている。ゴッホの宗教観は必ずしも彼の作品にストレートに出てくるわけではない。そこがゴッホの作品を複雑にしている要素であるわけです。

さらに、ゴッホはゴーギャンに対して、「見たこともないようなゲッセマネの園、オリーブ園を描くぐらいだったら、目の前にあるオリーブの畑を描くほうがずっとましだ」というようなことも言っています。「想像力で変な宗教画を描くよりも、目の前にある風景を描くほうがいいじゃないか」とゴッホは言っています。

そんな発言から考えると、まったく人物のいないこういうオリーブの園といった風景画でも、そこには何かしら「宗教的なこだま」のようなものも感じられるわけです。 「ゴッホは人物画よりもむしろ風景画だ」と言いましたけれども、その風景画は、これまでこの講座で見てきた、たとえばモネの風景画とはちょっと性格が違う。同じ風景画であっても、そこにかなり人間の世界、あるいは宗教的な意味合いとか象徴的な意味合いとかいうものも重ねられていると思われるわけです。

 これはサン=レミ時代の(星月夜)ですけれども、夜空の月とか星が渦巻くようになっている。


http://www.salvastyle.org/menu_impressionism/view.cgi?file=gogh_night00&picture=%90%AF%8C%8E%96%E9-%8E%85%90%99%82%C6%91%BA-&person=%83t%83B%83%93%83Z%83%93%83g%81E%83t%83@%83%93%81E%83S%83b%83z&back=gogh_night


この夜空を見ていると、「これはただの風景画ではなくて、もっと意味が込められているのではないか」という気がしてくるわけです。実際、この作品の場合は、ここに地上のサン=レミの村、そこにハッキリと天に突きささるような教会の塔も見えていますし、これは単なる星月夜、目の前に見える綺麗な星月夜を描いただけのものではなさそうです。

ということで、これまでいろんな研究家がこれを宗教的に解釈しようとして、新約聖書の最後のところ、世の終わりを記述している「黙示録を背景にしているのではないか」とか、いろんなことを言っている人がいます。ゴッホの作品の場合、何か1つの解釈にうまく収まるかどうかは分かりません。いろんな見方ができると思いますけれども、確かに何か天と地の間で大きなコスミックなドラマが展開されているような気のする風景画であるわけです。

 ゴッホにとっての宗教はとても複雑なものであろうということは、いろいろあって、先程言ったように、お父さんは牧師であったけれども、お父さんとゴッホは常にいさかいをしているわけですね。いさかいをして家を飛び出るんだけれども、結局なかなかうまくいかなくて、また家に戻って来るようなことを繰り返す。そのこともあって、おそらくゴッホにとって、お父さんは、ゴッホからみるとプロテスタントの牧師なんですけれども、伝統的な宗教観にとらわれていて、ある意味では現代の人間の生き方に対してうまく対応していないとゴッホは反発するわけですから、ゴッホにとっての宗教は非常に複雑なものがあったという気がします。


ゴッホの個人的な背景 家族との関わり

 
お父さんはちょうどこの絵が描かれた頃、ヌエネンの教会で牧師をしていました。お父さんとの関係はそれほど簡単なものではなかったわけで、お父さんが亡くなるときに、ちょうどゴッホもヌエネンにいましたが、うまくいかなかった。しょっちゅう喧嘩を繰り返している。その中でお父さんが死んでしまうということがあった。お父さんが死んで、一方では精神的に楽になったという部分と、ずっと反発してきて、とうとううまく和解しないままお父さんが死んでしまったという後悔のようなものと、ゴッホにはとても複雑な感情が残ったと思われます。


http://www.salvastyle.org/menu_impressionism/view.cgi?file=gogh_bible00&picture=%90%B9%8F%91%82%CC%82%A0%82%E9%90%C3%95%A8&person=%83t%83B%83%93%83Z%83%93%83g%81E%83t%83@%83%93%81E%83S%83b%83z&back=gogh

この作品は、ある意味ではお父さんとの関係を象徴しているわけで、この作品に描かれているバイブルと火の消えた蝋燭、これはお父さんか死んだことのひとつの象徴ですね。

 それともうひとつ重要なのは、ここに黄色い表紙の本が置かれていることです。これはゴッホが愛読していたフランスのゾラの現代小説です。 ゾラの小説は当時非常に流行っていた。絵画で言えば、印象派ではなくて、もっと社会の底辺に暮らす人々を描く写実主義から自然主義の絵画があるということをお話しましたが、印象派ではなくて写実主義とか自然主義というところに関わっているのがゾラですね。ゾラは当時次から次へと大都会の底辺でいろいろ苦しむ人々の姿を描きだしていたわけです。誰が見ても明らかに分かるこの黄色い表紙の小説本、ここには題名までちゃんと書いてあります。

 これはどういうことかというと、いろんな解釈があります。しかし、間違いなく、こちらはお父さんの世界ですね。2000年近く続いてきている伝統的な世界です。それに対して、こちらは自分の世界ですね。つまり現代の、しかもオランダではなくて、近代文明の先を行っている新しいフランスの最先端の文化であるわけです。しかも、色も白から灰色と黄色で対比になっていますし、何よりも印象的なのは、過去はとても巨大であって、それに対して近代の文明はまだとても小さい。たとえばお父さんとゴッホとの関係を重ねてみれば、お父さんはある意味では大きな存在で、自分は小さい。新旧の世代とか親子の関係とか、オランダとフランスとか、いろんな関係がここに重ねられているわけで、そういう意味では、ゴッホはいろんな思いを込めてこの作品を描いたのでしょう。

 家族関係のことで言うならば、まさに偉大な父親、常に正しいと思われることを人々に対して説いているお父さんと、この作品を描いた時点で言えば、いろんな職業を転々として、どれもうまくいかないで、しかも親のところに居候していて、この先もどうなるか分からない画家といった仕事に手を染めている、お父さんからはどうしようもない出来損ないだと思われている自分。そういう立派なお父さんと、そうではない自分という対比が込められているわけで、まさにこの作品は、家族の中でゴッホがどのような立場にあったか、自分をどのようなものとしてとらえていたかを大変分かりやすく示している作品です。

 宗教的なものも、個人的な家族関係といったものも、この作品からは読み取ることができると思われます。ゴッホは生涯にたくさん肖像画を描いています。これはゴッホの肖像画のひとつの特徴なんですけれども、ほんとうに親しい、描きたいと思う人を描いたものは少ない。つまり、家族の肖像画は基本的にはない。あれほど親しかった弟のテオに関しても、パリ時代、テオを描いたらしいと言われている素描が1点残っているだけです。お父さんの肖像画はありません。お母さんに関しては1点ありますが、実際お母さんを目の前にして描いたのではなくて、写真を送ってもらってそれを元にしたものです。当時ですからモノクロの写真です。これもある意味では直接描いたのではなくて、模写のようなものです。
それから左側はゴーギャンに影響を受けて、ゴーギャンからすすめられて想像で描いた(エッテンの庭)です。


http://www.abcgallery.com/V/vangogh/vangogh86.html

自分の子どもの頃のエッテンの庭の思い出ですが、しかし子供の頃ではなくて、お母さんと妹ですから、現在なんですね。そういうとても不思議な作品であって、これはやはり想像で描いたものです。そういう意味では、家族を実際に目の前にして描いた肖像画というのは、まったくないわけです。これもまた家族とゴッホとの関係、あるいは家族に限らず、身近な者との関係を示しているもので、こういう肖像画のあり方を見ても、ゴッホと家族との関係はなかなか難しいものだったんだろうと考えられるわけです。

 弟のテオとの関係はどういうものだったかというと、とても親しかった。テオは、兄フィンセントが画家になることを志して以来、経済的援助を一手に引き受けていたわけで、経済的な面からいえば一方的に「借り」なんですけれども、ゴッホは負い目を感じながらも、いろんなことにおいて常に「自分はお兄さんだ」ということで、テオには常にお兄さん顔をして助言を与えたりしていくわけで、精神的にはテオのほうでもお兄さんを尊敬している。けれども、現実の生活の上では、テオはちゃんと仕事を持って、お金を稼いで、しかもそれを一文も稼いでいないお兄さんに仕送りしている。その兄弟の関係、これも「ねじれ」ですね。つまり、年長と年下、精神的な指導者とそれに従う者の強弱の関係が現実生活では逆転しているという、とても複雑なものがあると思われるわけです。先程、宗教関係の「ねじれ」を説明しましたが、そういう意味では、ゴッホは、家族関係の中でも、かなり「ねじれた環境」を持っていたと考えられるわけです。

 ゴッホの身近にいた人といえば、ある時期、オランダのハーグでゴッホと生活をともにしていたシーンという女性がいました。何人かの子持ちで、ときには他に生活の方法がなくて、身を売るようなことをしていた女性ですけれども、その女性とかなり長いこと一緒に暮らしています。ハーグ時代には、既に油絵を描き始めており、シーンに関しても素描はたくさんありますけれども、油彩での肖像は描いていません。


http://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_bd9f.html
http://www009.upp.so-net.ne.jp/aoitori/tenkan/Gogh.htm


 アルル時代には、アルルで一番親しくしていた郵便配達夫ルーラン一家の一連の肖像を描いたことについてもお話しました。ゴッホが描いた肖像画の中で、一番親親しかった人といえば、せいぜいこのルーラン一家ぐらいかと思います。ルーラン一家に関しては、お父さん、お母さんの他に、2人の息子、長男、次男がいる。それからゴッホが滞在しているときに、もう一人赤ん坊が産まれるわけですけれども、その赤ん坊まで含めて描いています。ルーラン一家のこれだけたくさんの人物をそれぞれ赤ん坊までも取り上げて1点の肖像画として描いています。ルーランの肖像画を描いたとき、ゴッホは手紙の中で「家族の肖像を描きたいんだ」と言っています。ゴッホは自分の家族とは必ずしもうまくいっていなかったのですが、ある意味では理想的な家族に対する憧れは常にあったわけです。

 ハーグでは子どもを抱えたシーンと同棲生活をしています。ほんとうは結婚するつもりだったんですが、周りからいろいろ反対があって、どうもうまくいかなくて、最終的には自分から手を引くことになります。家族を持ちたいと思ったけれども、うまくいかなかった。そういう意味では、自分が持てなかった家族の姿をアルルでルーラン一家に見ていたのではないかと思われます。

 シーンを描いた絵の中にも子どもを抱いたものがありますが、ゴッホは肖像画とか人物画の中でも「母と子」をオランダ時代から繰り返し描いています。ここでもルーラン夫人が赤ん坊を抱いている姿を描いています。これはサン=レミ時代です。両方とも模写です。右側はミレーが描いた版画をもとにしているもので、農家にお父さんとお母さんがいて、赤ん坊がいる。英語で言うと(ファースト・ステップ)という題名になっていますけれども、赤ん坊がヨチヨチ歩きを始めたという微笑ましい家族の姿を示しています。左側は、デュモン=ブルトンという女性の画家が描いた母子像の版画をもとにして描いたものです。ゴッホの作品の中には、生涯、「母親」、「子ども」、「家庭」といったイメージが、常に自分が得たかったものとしてあったと思われます。けれども、自分は最後まで家庭、子どもを持つことはできなかった。


対人関係が苦手


 家族にかかわらず、ゴッホは対人関係をつくるのがうまくなかったようです。たとえばこのパリで描いた(タンギーおやじ)とか、右側のアルルで描いた(ウジェーヌ・ボック)というような、それほど重要でない、毎日顔を突き合わせるような関係ではない人の場合には、わりと気軽に肖像画が描けたわけです。


http://www.abcgallery.com/V/vangogh/vangogh20.html
http://www.abcgallery.com/V/vangogh/vangogh69.html

両方とも、パリ時代の肖像画として、あるいはアルル時代の肖像画として代表的な、とてもよくできた肖像画です。

先程、ゴッホは家族の肖像画を描いたことがないと言いましたけれども、大事な人を描きたいと思うと、なかなかうまくいかないということがあります。その典型的な例が、まさにゴッホが対人関係の中で最も苦労したゴーギャンですね。ゴッホにとってゴーギャンはとても大事な人でしたし、シーンとか家族を除いては、数カ月でしたけれども、同じ部屋で生活をした、とても重要な画家だったわけです。ゴーギャンがアルルにやって来たときに、お互いに肖像画を描き合うことにしたようです。画家仲間で、肖像画、自画像、あるいは相手を描いたものを交換するのは、19世紀のヨーロッパでは、たとえばドイツ・ロマン派あたりからずっとありました。ゴーギャンとかゴッホの仲間うちでも肖像画を交換し合うことがありました。


 ゴッホの自画像の中にも、仲間の画家に贈るために描いたものが何点かあります。ゴッホとゴーギャンは、アルルでお互いの姿を描き合うということをやりました。ゴーギャンがゴッホを描いたのは、先々週お見せした有名な(ひまわりを描くゴッホ)という作品です。それに対してゴッホが描いたゴーギャンはどうだったかというと、この左のものです。

これはどう考えても失敗ですね。ともかく正面からうまく見ることができなくて、斜め後ろから見ている。実際のゴーギャンが目の前にいるんだけれども、どう描いたらいいか、ゴッホは戸惑ってしまうわけです。 左の絵は、顔だちからしてゴーギャンだろうということは昔から言われていて、しかも現在アムステルダムのゴッホ美術館にあります。つまりゴッホが残した作品の中に含まれていたわけで、ゴーギャンを描いたことは明らかだ。けれども長いこと、「いくら何でもこんなに下手なものはゴッホの作品ではないだろう」と言われていたものです。

 長いことゴッホの作品カタログの中から省かれていたのですけれども、近年になって、絵が描かれているキャンバスとか絵具を科学的に調べた結果、この絵が描かれているキャンバスは、間違いなくアルルにおいてゴッホとゴーギャンがこの時期に使っていたキャンバスと同じものであって、その巻のどこからとったかや絵の具までほぼ分かっています。そのことから、これを描いたのは「ゴッホかゴーギャンに違いない」ということで、ゴーギャンでないとすると、ゴッホしかない。ということで、何年か前から、これはゴッホが描いたゴーギャンの姿であると認められているわけです。一時期、「いくら何でもゴッホではあるまい」と思われていたぐらい、どうもうまくいっていない。鼻なんか、どうなっちゃっているのかというようなものです。

つまりゴッホという人は、何か大事な意味を持ったものを描こうと思うと、かえってうまくいかないということがあって、これはゴッホの人間関係の特徴で、まさにゴーギャンとの共同生活がそうですけれども、「頑張ろう」「ほんとうに大事にしたい」と思うと余計悪いほうへ悪いほうへと行ってしまう傾向があるように思われます。

 したがって、ゴーギャンとゴッホという関係をあらわす場合も、人物や想像で描くより、こういうやり方のほうがうまくいったようです。これも有名なもので、(ゴーギャンの椅子)と(ゴッホの椅子)です。


http://www.salvastyle.org/menu_impressionism/view.cgi?file=gogh_fauteuil00&picture=%83S%81%5B%83M%83%83%83%93%82%CC%88%D6%8Eq%81i%96%7B%82%C6%98X%90C%82%AA%8D%DA%82%C1%82%C4%82%A2%82%E9%88%D6%8Eq%81j&person=%83t%83B%83%93%83Z%83%93%83g%81E%83t%83@%83%93%81E%83S%83b%83z&back=gogh_fauteuil

http://www.salvastyle.org/menu_impressionism/view.cgi?file=gogh_chaise00&picture=%83A%83%8B%83%8B%82%CC%83S%83b%83z%82%CC%88%D6%8Eq%81i%89%A9%90F%82%A2%88%D6%8Eq%81A%83p%83C%83v%82%AA%8D%DA%82%C1%82%C4%82%A2%82%E9%88%D6%8Eq%81j&person=%83t%83B%83%93%83Z%83%93%83g%81E%83t%83@%83%93%81E%83S%83b%83z&back=gogh_chaise


つまり、ゴーギャンが座る椅子と自分の座る椅子。ゴーギャンの椅子には、ゴッホが精神の糧と考えていたフランスの小説であるとか、明かりのついた蝋燭が置かれています。先程のお父さんの絵には、明かりの消えた蝋燭がありました。明かりが点いているということは、まだ生きている光という意味です。さらにそれを強調するように、光を放っているランプがあります。ゴーギャンの椅子が立派で、ひじ掛けもついているのに対して、ゴッホの椅子は粗末な藁で出来ていて、ゴッホが好んでいたパイプタバコが置いてある。これは対になる作品ですが、こんなふうに自分とゴーギャンを表す場合も、肖像画で対にするのではなくて、物であらわす。こういうやり方のほうがゴッホにとってはうまくいくようで、人間と直接対して、人間の姿として表すことは苦手だった。そう思われるわけです。


男女関係も苦手


 もう1つゴッホにとって苦手な対人関係で、作っていくのが難しかったのが男女関係です。シーンとは一生に生活しているし、その他、生涯に大きな失恋を3回か4回経験しています。そういうものとか、お母さんとの関係、妹との関係も含めて、ゴッホの女性関係はどうだったかという本が最近出たばかりです。ゴッホの女性関係も彼の個人的なキャラクターからいうと、とても重要です。

 ゴッホはパリ時代に2〜3点ヌードを描いています。けれども、ゴッホがヌードを描いたのはパリ時代の2〜3点のみです。生涯にわたって油彩画はこれだけです。パリ時代に若干、その前のアントワープ時代にはデッサンのための女性ヌードがありますが、油彩画で描いたヌードはこれだけです。


http://kaigastory.seesaa.net/article/143700634.html
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Van_Gogh_-_Weiblicher_Akt_auf_einem_Bett.jpeg
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Liggend_naakt_anagoria.JPG
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Van_Gogh_-_Liegender_weiblicher_Akt.jpeg
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Vincent_van_Gogh_-_Liggend_naakt_1887.jpg

この女性ヌードにしても、一体女性のヌードに何を求めていたかがどうもよく分からない。伝統的な西洋絵画で女性のヌード画に求められていたものは、ここではほとんど感じられない。つまり、女性の裸の体の美しさ、あるいは曲線の美しさであるとか、肌の白さ、滑らかさなどが見られない。


(中川隆 注 : アントワープ時代は毎日朝から晩まで日本の春画ばかり見ていていて、娼館にも入り浸って梅毒に罹ったから、戒めに女性を態と醜く描いただけでしょうね)


 今日の我々の見方からすると、19世紀の画家たち、ルネッサンス以降の西洋の画家たちが女性の裸の姿を美しいものとして、とりわけ男性が鑑賞するものとして絵画の中で描き続けてきたことに関してはフェミニズムの問題とか、ジェンダーの問題があります。つまり、男性が社会を支配している中で、女性は単に見られるものとして描かれてきたという女性ヌードについての問題が、美術を見るときの重要な問題として最近浮かび上がっています。しかし、ゴッホが描いた女性のヌードは、ルネッサンス以来伝統的な、男性が目で見て楽しむようなヌードにはなっていないわけです。ゴッホがこういうヌード画をどういう視点をもって描いていたのかは、伝統的な女性美を描くといった、西洋の伝統的な絵画の描き方の中では必ずしもうまく説明できない部分があります。

 人物のプロポーションといった点でも、これがもし当時の美術学校で学生が習作に出したら、「こんなプロポーションはないだろう」と先生からすぐに突っ返されるような大変おかしなプロポーションになっています。左のものは美術学校にしばらく通っていた頃のモデルを描いたものですけれども、これなんかも、伝統的な女性のデッサンに見られる女性らしい体つきとか、理想的なプロポーションとはずいぶん大きくかけ離れています。右側は油彩画に描かれたもので、ここにある女性のヌードは、見てもお分かりのように石膏のモデルです。


http://blogs.yahoo.co.jp/pagannudes/17171225.html

けれども、ここでも女性の体が持っている、たとえば胸とか肩の線とか、お尻の線というものがあまりうまく表現されていないように思われます。

 この右側の作品における女性の体、ヌードは、作品を構成している意味からしても、けっこう重要なものなのです。と言いますのは、やはりここにもゴッホが愛読していた精神の糧としてのフランスの小説本があるのです。それからその外に、誰が見ても疑いない愛の象徴としてのバラがあるわけです。精神の糧としての現代小説、愛の象徴としてのバラがあるわけですから、当然そこにあるのは「たまたま自分の近くに画家が訓練するための石膏像があった」というだけではなくて、女性のヌードであることが深く関係しているに違いない。「愛」「精神の愛」あるいは「美」、そういったものが関係しているに違いないのですけれども、しかし、それを表すにしては、ヌードの石膏像は、必ずしも我々が一般に考えるような女性美をあらわすものにはなっていない。ゴッホが愛とか女性とか女性との関係といったものをどのように捉えていたかは、そう単純には読み解けないという要素がこの作品の場合にも示されているわけです。

 ゴッホが女性美をどう考えていたかに関しては、いくつか考える手だてがあります。たとえば、こういうものも、ゴッホが考える女性美が我々が一般に考えるものとは違うと思わせる例です。

ゴッホは独学で勉強した人ですから、美術学校へ行ったわけではない。独学で素描の勉強から始めるわけですけれど、そのときに、当時フランスで出ていた素描のお手本集という画集があった。それを全部うまく模写する。しっかり模写すると、だんだん素描の腕が付いてくる。基本的には素人画家のためのお手本集なんですが、そういうものがあって、それをゴッホは模写しています。生涯に3度ほどやっていますけれども、これは最も最初のものです。

左側はオリジナルです。もともとはルネッサンス期のスイスの画家であるホルバイン、肖像画で有名だったホルバインの素描です。そのお手本集にこれが複製で載っているわけです。右側は、ゴッホが一生懸命それに似せて描いたものですが、左のホルバインが描いた若い女性の美しさが、右側ではほとんど飛んでしまっている。顔だけ見ると、武田鉄矢じゃないかと思えるような顔になっているわけで(笑)、女性美に対する感覚は、ちょっと特異なものだったのではないかなと思われます。


ゴッホの特異な女性像


 そういうふうに見てくると、ゴッホが生涯で描いた女性の姿には、あまり美しいものがないですね。右側は先週「失敗作だろう」と言ったもので、左側は晩年のオーヴェールで描いたものです。


http://ameblo.jp/hansehi/entry-10215346033.html

下宿をしていた宿屋の若い娘さんの姿です。写真が今日残っていますが、とても可愛らしい、美人の部類に属する人です。しかし、目と眉のところをしかめたような顔をしていて、顔の色もちょっと青ざめたような色になっています。

 これは、やはり晩年、オーヴェールで描いたガッシェ博士の娘さんです。 晩年のゴッホが肖像画を描いているわけですから、何らかの形で親近感を感じていた、身近にいた数少ない若い女性だったと思われますが、両方とも、若い女性の持っている魅力が引き出されているかというと、必ずしもそうではないように思われます。ゴッホが生涯、実生活において女性とうまくいかなかったことが、ゴッホの描いた女性像にも反映されているように思われます。

 そういう意味で、ゴッホは、これまで見てきた印象派の画家たち、あるいは19世紀後半の画家たちの中でもちょっと変わったところがあるという気がするわけです。と言いますのは、これまでシリーズの中で見てきた画家たちの中でも、たとえばマネの場合は、大変なスキャンダルになった最初の作品からして、そもそも女性の裸婦がメインになっていたわけですし、ルノワールも風景画というより若い女性ですね。印象派の画家の中でもルノワールは、19世紀末から20世紀にかけて、ピアノを弾いていたり、水浴をしていたりといった美しい健康的な女性美を描くことを中心にしていたわけです。後期印象派の中でもスーラには(ポーズする女たち)という大作があるし、80年代にモネと一緒に風景画をメインとしていたセザンヌにしても、生涯最も大きな大作は、こういう(大水浴図)と言われているようなヌード像であるわけです。それから、言うまでもなく、ゴーギャンがこの後タヒチで描くのは基本的に裸婦の世界ですし、ゴーギャンの仲間であり、ゴッホと親しかったベルナールにしても、やはりこういう人物像を描いています。さらにもう1つ、次の世代のマティスにしても、ピカソにしても、初期を飾る最も重要な大作と言われるものは、たとえばマティスの(豪奢)と言われている作品とか、ピカソの(アヴィニョンの女たち)のようにヌードを主題にしています。マネ、印象派、後期印象派からフォーヴィスム、キュービズムに至るまで、画家たちがここ一番という大作を制作するときにに出てくる主題は「ヌード」なのです。

 そういうことからすると、生涯にわたってヌードをほとんど描かなかったゴッホは、この時代においてもかなり例外的な存在だったわけです。生涯にわたってほとんどヌードを描かなかったもう一人の例外はモネです。ゴッホが例外になった理由の1つには、ゴッホの女性関係という個人的な条件もある程度関わっていたと思われます。

 もちろん、それだけではないわけで、一方ではモネがなぜヌードを描かなかったのかといった問題とも関連します。先程申し上げたように、ルネッサンス以来、脈々と続いている女性ヌードという流れ、美術史の流れ、社会史の流れの中にジェンダーの問題があります。社会史の流れ、近代社会の中で、男性と女性の役割がどうなっていたかという観点も考えなければならないわけですが、そのようなものも含めて、ゴッホの女性像の特異さは一つの重要な要素としてあると思います。


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画家としてのゴッホの特殊な環境

 
ゴッホは基本的には画家としてきちっとした教育を受けていない。つまり素人画家から始まったということがあります。そういう意味では、ゴーギャンと似ているところがあります。ゴーギャンも最初から画家になろうと思ったわけではなく、株式仲買人として金融業に勤めるところから始まったわけで、ある程度の年齢に達してから画家を始めたということで、ゴッホはゴーギャンに親近感を持っていたのだと思われます。しかし、大きく違うのは、ゴッホは自分が正規の教育を受けていないことをかなり気にしている。と同時に、正規の教育を受けていないことがある意味ではゴッホの強みになった部分もあります。

 ゴッホが油絵を描きだしたのは1880年というずいぶん遅い時期であるわけです。画家になることを志してからも、ずいぶん長い間、彼は素描しかやっていなかった。つまりペンで描いたり、鉛筆で描いたり、木炭で描いたり、チョークで描いたりという作品だったわけです。

ハーグ時代から油絵を始めるわけですが、たとえばヌエネンで描いた左側の油彩画と右側の素描を比べてみると、左側の油彩画はそれほど出来のいいものではない。まぁ平凡な出来です。たとえば木の葉の部分など、全体としてとても平坦だし、これは柳の一種ですけれども、太い幹から枝がシュッシュッと出ている様子は、右側の素描のほうがとても力強く、木の生命力を感じさせます。油彩画の柳はヒョロッと立っていて、しかも素っ気なく葉が出ている。あるいは枝が出ていて途中で消え入りそうなところなどを見ると、この時代のゴッホは筆の使い方、油絵の具の使い方に慣れていないようです。

 自分でやってみると分かりますが、絵具をどれくらい固くするか、柔らかくするか、油で溶くか、どれくらいの太さ、どのくらいの固さの筆を使うかの選択は難しい。毛の種類によって筆の反発力が違うし、それを使いこなしていくのは結構大変なことです。ゴッホはオランダ時代には、まだ筆と絵の具の使い方に慣れていなくて、それよりも右側の作品のように、自分が慣れ親しんでいるペンの素描のほうがずっとうまくいっています。このオランダ時代のものには、主に固いペンを使って、縦方向と横方向の細かい線を重ね合わせていくハッチングというテクニックによって、奥行きや濃淡、ボリュームなどを大変見事に描き出しています。19世紀の素描作品として見ても、これは第一級の作品と言っていいと思います。


素描の腕前は一流


 それに対して、左側のオランダ時代の油彩は、もしゴッホが描いたものでなければ、今日とうてい美術館に入るような代物ではありません。彼は長い間、素描を描いていたわけですが、素人であって、油絵に慣れていないから描いていたという域を超えて、初期から素描に関しては大変な腕前を示していたと言えます。素描に親しんでいただけではなくて、素描がうまかったと言っていいと思います。

 これは、同じヌエネン時代の同じような並木道を描いた油彩画と素描です。

http://art.pro.tok2.com/G/Gogh/vv001.htm
http://art.pro.tok2.com/G/Gogh/vv065.htm


道がずうっと奥まで続いていく遠近法を使った様子も、右のほうがずっとうまく、明暗の感じ、光がどういうふうに射しているかという感じも素描のほうがうまく出来ていると思います。オランダ時代には、若干水彩を加えた作品も残していますけれども、これなんか、とても見事な水彩ですね。鉛筆の下書きの上にペンと水彩を非常に巧みに使っています。空間の描き方、対象の描き方、ボリューム、雨が降った後でぬかるんでいて、そこに吊り橋の影が映っている様子、空気とか天候とか、そういうところまで大変見事に描き出している。専門的な訓練を受けた当時の画家の作品と比べてもまったく遜色のない、あるいはそれ以上のたいへん見事な作品です。

 当時の画家は、素描の訓練をある程度受けて、すぐ油絵に移っていきます。当時の絵画の概念から言えば、素描や水彩より油絵のほうが本格的な絵ですから、ある程度の技量がつけば、すぐに油絵の訓練を受けるのが普通のやり方で、美術学校へ行けばそうなるわけです。しかし、ゴッホの場合はそういう教育を受けなかったために、非常に長いこと素描だけに専念できた。ある意味では、そのことで、伝統的な美術教育の中では発揮されなかったゴッホの素描の展開がもたらされたのではないかと思われます。

 これも初期の素描の一部ですが、細かい鉛筆、太いチョーク、白いハイライト、いろんな素描の材料を使用し、描く対象にふさわしいいろんなタッチを使って描いています。そういう意味では、ゴッホの素描は細部まで見ても見応えがあるもので、とりわけオランダ時代には、素描のほうが油彩画より実際見ていて面白い、見応えのあるものがたくさんあります。


アルル時代に素描と油彩画が対応


 先程は「主に直線」と言いましたが、直線だけではなくて、木の幹のこういう膨らみは回るようなタッチで描いている。また、縦の草の部分なども、まったく一様ではなくて、アクセントをつけながら、重なり具合によって濃いところ薄いところと、たいへん見事に線を使い分けて画面を構成しているわけです。左側のオランダ時代の柳を描いた作品における素描の線の扱い方は、ゴッホがアルルで獲得した油彩画における自由な筆のタッチとある意味では対応していると思われます。まったく同じような主題を描いているわけですが、ヌエネン時代、オランダ時代には、まだこれに対応するような、油絵の具でのうまい筆の使い方ができなかったわけです。

 アルルまでくると、素描でやっていたようなシュッシュッと長いタッチとか、放射状に広がるようなタッチとか、細かい部分の短いタッチとか、油絵の具にしても、いろんなタッチを使い分けて対象を描けるようになっている気がします。そういう意味では、ゴッホは、オランダ時代に素描でずいぶん長い時間を費やしたわけですが、それは決して遠回り、あるいは時間の無駄ではなかった。オランダ時代に素描という分野でいろんなやり方、いろんなタッチの使い方、いろんな線の引き方を訓練しました。パリでは新しい絵具のタッチの使い方、点描とか、平面的な塗り方を学びました。それがオランダ時代に獲得した素描の技法と合わさって、アルルでは、油彩画においても自由なタッチを獲得できたのではないかと思います。

 このように、ゴッホが最初からきちっとした画家の勉強を受けたのではなく、ずいぶん長いこと素描に取り組んだことは、ゴッホの油彩画の展開にとっても、きっと重要なものだったのでしょう。

 正直言って、パリ時代でも、まだ素描、水彩のほうがうまいですね。パリ郊外の工業地帯を描いた左側の作品は、構図からいっても、空間の奥行きからいっても、あまり出来のいい作品とは思えません。右側の素描の上に水彩を乗せたもののほうが、ずっと自由に画面構成も出来ていると思われます。ですから、パリ時代までは、ゴッホにとっては素描のほうがやり慣れた使いやすい技法だったと思います。それがアルルに行くと、素描と油彩画がほぼ対応するようになってきます。

 これは今回も来ている(種まく人)ですけれども、アルル時代あるいはアルルからサン=レミ時代に描いた重要な作品に関しては、それに対応する素描があります。その素描には2通りあって、1つは油絵を描く前の習作として描いたもの。もう1つは、油絵を描いた後、それをもとにしてパリにいる弟や画家仲間のベルナールに「こういう作品を描いたんだ。でもこの作品はアルルにあるから見せることができない。だからこういう素描を描いた」ということで、素描を描いておく。その2つがあります。

 この素描と油彩画を見比べると、性格がよく似ています。どういう性格が似ているかというと、それぞれの部分に使われているタッチの扱いがほんとうによく似ています。たとえば、地上の部分はこういうブツブツとしたタッチ、この部分は点描、麦の部分ではこういう縦長のタッチ、空の部分は放射状に少し点々が混じったようなタッチになっている。ゴッホは、基本的に、油絵と、それを基に描いた素描あるいはその基になった素描で、同じようなタッチの使い分けをしているわけです。したがって、ゴッホは、アルル時代に素描と油彩画をほぼ同一のものとして並行して描いていくことができる。自分が油彩画でやったことに関しても、色は抜けるけれども、ある程度素描で伝えられる。それを弟やら画家仲間のベルナールに伝えられるとゴッホは思っていたわけです。

 そういう意味では、ゴッホにとっては、色も重要だけれども、それ以前に何よりも重要なのはタッチである。ゴッホが油彩画のタッチを素描に移し得る、あるいは素描のタッチを油彩画に移し得るということが、こういう作例を見るとよく分かると思います。

 有名なアルルの(ラクローの野の収穫)といった作品でも実にさまざまなタッチが使われていますね。長いもの、曲線のもの、点々のもの。そのタッチが、油彩画の上でも、油絵具を使った筆のタッチとして、ほとんどパラレルに実現されています。さらに言えば、油彩画の基には水彩画があります。ゴッホというと、とかく色を使ったネットリとしたツヤのある油絵と思われていますが、実はゴッホにとっては、素描もとても重要だったわけで、ゴッホが素描でやっていることと油絵でやっていることにかなり密接な関連があるということは、たとえばこういう作品をご覧いただければお分かりかと思います。これなんかも、ほとんど色は1色で、「タッチで見せている油彩画だ」とお話したと思いますけれども、まさにエッセンスとしてのタッチは右側の素描にあります。ほとんどの重要な作品には、それと対になる素描が残っています。

 ゴッホにとって素描は、アルル時代以降、ずっと絵画の裏側にしっかりとくっついており、表裏一体を成しているものです。左側の麦の刈った束、そのタッチそのままが素描の上にあります。そういうことから考えると、ゴッホの油彩画におけるタッチは、ある意味でとても素描的です。とりわけアルル時代のゴッホはペン、葦のペンを使っています。葦の茎を切ったペンを使うと、グイグイッとした太い線が引けるのですが、ゴッホが素描において実現した線がそのまま生きている。そういうことからすると、印象派やゴーギャンと比べても、ゴッホの油彩画における絵具のタッチは素描的だ、デッサン的だと言えると思います。

 積み藁を描いたこの作品の面白いところは、実際の油彩画ではない、積み藁の渦巻くようなペンのタッチが見えていることです。この素描でも、いろんなペンのタッチの絡み合いが見どころになっています。こういうふうに見ていると、「なるほど、ここのタッチの動きは素描のこういうところに対応しているのだな」という感じがします。これは植物が絡み合うアルルの公園の様子です。この作品をお見せしたときは、「ほとんど風景画なんだけれども、抽象的なタッチの渦になっている」と申し上げましたが、それを素描にしてみると、一層抽象的な画面構成という感じが強くなっています。


水墨画に近づく素描


 これはアルルの近郊の風景で、ほぼ同じような場所を描いています。これなんかを見ると、ここでは岩や木のタッチの処理がどうもうまく出来ていない感じがするんですが、右側では、岩のゴツゴツとした感じとか、木が威勢よく葉を伸ばしている様子が非常に見事に描かれています。

 右側の素描に関しては「ペンの使い方の巧みさは西洋絵画を超えて、日本の水墨画のような感じがある」とよく言われます。場合によっては、ジャポニスムという部分もあると思います。日本の水墨画の画家たちは1本の筆を使いながら、それを様々に使い分け、濃淡を使い分けて、岩や葉っぱや流れを描き分ける。タッチの使い方、濃淡の使い方によって、1色なんだけれども、風景の全体をつくり上げるといった水墨画のやり方を感じさせるような素描の巧みさをゴッホは見せているわけです。

 アルル時代のこういう作品を見ると、ゴッホにとっては素描が油彩画を考えるうえでも重要な要素だったことが分かると思います。油彩画と素描を比べると、明らかに素描のほうが面白いというものもあります。これはゴッホがアルルから地中海にあるサントマリーというところへ出掛けたときに描いたものですが、右側を現地で描いて、アルルに帰って来てから左の油彩画を描いています。この草の生い茂る様子などは、油絵になると、タッチの変化がなく、おとなしいものになってしまったような気がします。これも現地で描いたものですが、こちらのほうがずっと力があるような感じがします。そういう意味では、アルル時代においても、画面のタッチの力という点では、素描が油彩画をある程度リードしていた面もあるかもしれません。

 これはやはりサントマリー、地中海を描いたものです。


http://www.abcgallery.com/V/vangogh/vangogh26.html

現場で油彩画を描いて、アルルへ戻って来てから、それを基にして素描を描いています。たとえばこれなんかもハッキリしています。現地で描いた油彩画の場合は、波のような不定型で動いているものをどう扱ったらいいのかよく分からない。ところがペンで描いたもだと、実に見事に波の砕ける様子が描けている。こういうものに関しては、油絵ではどう処理していいか分からないけれども、素描ではきちっと処理できていると言えると思います。


サン=レミで完成したタッチ


 これも同じものを基にした作品で、もう1点、これは現地で描いた油彩画です。このへんがうまくいっていませんね。波がどうなっているかはっきりしません。しかし、それを素描にすると、こういうふうに出来るわけですね。波が押し寄せて砕けていく。ですから、サントマリーへ行った時点でも、まだゴッホは海のような難しい対象に関しては素描のほうがうまく扱えたようです。これもそうですね。まさに渦巻く波の様子が見事に描かれています。最初にお話したように、ゴッホはまだアルルにおいては完璧には自分のタッチを完成させていなかったわけで、それが完成されるのはサン=レミです。

 右側の素描に見えているような渦巻く様子、あるいは空の部分の雲でもそうですね。油彩画では頼りなくフワフワ浮いていますけれども、素描の場合は、渦を巻いて、しっかりとした雲という存在感を持っている。こういう存在感を持った対象を油絵で描くには、アルルはもう一歩であって、ゴッホがこういうことを達成したのはサン=レミだった。それをタッチのところでお話したわけですけれど、こうして素描で比べてみると、そのことが一層よく分かるかと思います。海を描くときには、アルルでもうまくいっていなかったように思われるわけです。

 これは右のものと対応している油彩画ですけれども、この油彩画の場合、波の部分は素描に見えているようにうまく処理されています。雲の部分もさっきのような頼りない様子ではなくて、しっかりと実在感を持った、まさにゴッホがサン=レミ時代に達成したようなしっかりとしたタッチをもっています。

 ただし、左側の作品はゴッホの真作ではなく、贋作です。かなり前まで真作だと思われていたのですけれども、贋作です。科学的な調査の結果、それが明らかになったのですが、これは様式的にも明らかに贋作です。どうしてかというと、先程見たように、アルル時代においては、ゴッホはまだこんなタッチは達成できていなかったわけです。素描においては既に達成できていたけれども、油彩画においてこのようなタッチが達成できるのはサン=レミへ行ってからです。ですから、アルル時代にこのテーマでこのような作品が描かれることはない。その意味でも間違いなくこれは贋作であるわけです。

 贋作者は当然サン=レミ時代のこういう作品を知っているわけですから、これとこれをうまく対応させているわけです。こういう渦巻くような空を描くんだったらこういうものを描くだろうと。贋作者が失敗したのは、アルル時代の主題なのにサン=レミ時代の様式で描いてしまったことです。

 そういうことから考えても、サン=レミに達成されたものはアルル時代にはまだ達成されていなかった。しかし、素描においては達成されていたものが、サン=レミに達成されたということが場合によっては言えるわけで、1時間目にお話した、ゴッホがいかにして自分の様式を達成したかという話の裏には、そもそもゴッホが個人的に素人画家として素描から出発したことが大変な強みとして働いていると言えるわけです。


サン=レミ時代


 サン=レミ時代になると、素描と油彩画が完全に1対1で対応するようになります。これが(星月夜)に対応する素描です。


http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Van_Gogh_Starry_Night_Drawing.jpg
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:VanGogh-starry_night.jpg


サン=レミの病院の庭を描いた油彩画と素描です。試しに左側の油彩をモノクロで撮って素描と並べてみると、こうなります。絵の性格としてはほとんど同じであることが分かるとかと思います。タッチの部分、空の部分なんかも、よくよく注意しないと、どっちが素描でどっちが油彩画だか分からなくなってしまう感じさえあるわけです。

 これも病院の窓から見た麦畑の油彩画と素描です。これも油彩画のほうをモノクロにしてみると、こんな具合です。つまりゴッホの素描は、色を抜いた油彩画とほとんど変わらないような性格のものであるわけです。これはサン=レミ時代の(糸杉)。

http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Van_Gogh_-_Zypressen1.jpeg
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Van_Gogh_-_Zypressen.jpeg


糸杉の渦巻くようなタッチ、空の渦巻くようなタッチは、素描で実現されているものと同じです。これは、大変抽象的な絵になっていると申し上げた(オリーブの果樹園)と、それに対応する素描です。素描を見てみると、油彩画に見られる「うねっている線」が、油彩画の線というより、もともと自由に動くペンで達成された「素描の線」であることが見てとれるかと思います。

 オーヴェール時代にも、その自由な線をもった素描、あるいはそれに水彩をさした作品は、こんなふうに見られます。オーヴェールの農家の藁葺き小屋を描いた作品。こういうものにしても、特に右側のようにちょっと淡い色がついているものは、素描と油彩画がほんとうに近い性格のものであることが分かると思います。そういう意味では、ゴッホの作品は、油彩画であっても、とても素描に近いものである。素描は素描であっても、ゴッホの油彩画にとても近いものである。右側は水彩画、左側は油彩画ですけれども、こういうところのタッチなんかも、この油彩画から色さえ抜けば、素描じゃないかと思われるような作品になっているわけで、ゴッホの画家としての特殊性、素描家としての特殊性、素人画家という特殊性が、美術史の中でゴッホの油彩画を考えるときにも、とても重要なものであることがお分かりいただけたと思います。


静物画の意味するもの


普段はあまり重要視されないんですが、ゴッホにとってとても重要なものに静物画があります。最初の時間にご覧いただいた表の中で、パリ時代にとても静物画が多いことをお話しました。パリ時代に風景画よりも人物画よりも多いのが実は静物画なのです。

 たくさんの静物を描いています。最後に「パリ時代の静物画にはどういう意味があったか」に触れておきたいと思います。パリという大都会にあって、ずいぶん人もたくさんいて、仲間もたくさんいるにも関わらず、たとえば大都会の風景とか、周りにたくさんいる人物とかではなくて、なぜ、どんな場所でも描けるような静物画を描いたのか。静物画には場所とかまったく関係ないわけで、どこにいようと花とか果物とかさえあれば描けるわけです。どうして場所に関わりのない静物画を描いたのだろうか。これも一つの謎です。ゴッホはパリにいて、一番人々との交わりもある中で、どうして自分だけの一番小さな静物の世界に閉じこもったのか。そして、なぜそれだけ作品が多いのかは謎ですけれども、その理由は別としても、ゴッホがやったことは、とても重要です。

 これはゴッホが描いた静物画です。最初の時間にお話したように、こういう静物画において、ゴッホはタッチの盛り上げをたいへん強調して使っています。そのようなタッチに関して、ゴッホは、とても尊敬していたモンティセリという画家から、何ということのない花瓶をゴツゴツと盛り上げた絵具で粗いタッチで描いていくことを勉強したに違いないわけです。

 これはモンティセリの(花)の部分図です。間違いなくこういう作品において、ゴッホはモンティセリから大変大きな影響を受けたと思われます。これはゴッホの作品の部分図です。花びらをグイグイと盛り上げた絵具で構成していくのは、ゴッホのパリ時代の初期の静物画の特徴です。それに対して、こういうモンティセリに習ったようなゴツゴツとした、しかしタッチとしては全体としてまとまりのあるものがなくて、雑なタッチが画面全体に満ちているといったようなものに比べて、パリ時代の後半になると、ゴッホは静物画において、ある意味では違う実験を行います。


(ひまわり)の実験


 それはどういものかと言えば、アルル時代の(ひまわり)に見られるような実験を既にゴッホはやっています。アルル時代の(ひまわり)は、黄色の中に黄色を描く。どうやって背景といろんなものを区別していくかというと、たとえば背景の部分はザラザラとしたタッチで見せる。そして花弁の部分はグイグイと放射線状のタッチで見せる。それからこういう部分はまた別のタッチを使うといったような、タッチの描き分けをやる。同じ色なんだけれど、タッチの使い分けで示していくということをやっているわけです。実は静物画においてタッチを見せていくことは、アルルで初めて起こったことではなくて、パリにおいて既に行われていることでした。

 これはパリ時代の中で最も注目すべき静物画です。まさにこれはアルル時代の(ひまわり)の先駆であって、画面全体真っ黄色です。しかも、ゴッホがつけたオリジナルの額まで真っ黄色です。その真っ黄色の中に、梨とかブドウといった果物を描きながら、それをタッチの描き分けで見せています。これが部分図です。こういう長いタッチであるとか、回っていくようなタッチ、それからハイライトの部分では点々。この静物画に見られるこういうタッチの使い方は、今日お話したような、ゴッホが素描でやってきた使い方、あるいはアルルの風景画でやっていたこと、それらにある意味では対応しているわけです。それから、たとえばこういうところでは濃淡を線でつけていく。暗い部分には暗い部分で線をつけていく。こういうハッチングもそうですね。油彩画の場合、明暗をつけるときには、暗い部分から明るい部分までをなだらかに塗っていくわけですが、このように線を重ねることによって、暗い部分、明るい部分を描き分けていく。これはどちらかというと素描のやり方なんですね。

 ですから、ある意味ではこの作品も油彩画ではあるけれども、ゴッホが素描で試みていた様々なタッチで構成されている。しかもこの場合はモノクロームです。モノクロームは普通白黒ですけれども、黄色一色でもモノクロームなんで、黄色という一つの色の中で、白から一番濃い黄色にちょっと緑がかかったところまでの範囲の中で、明暗とタッチの違いで画面を構成していくといったこのやり方は、実はパリの静物画の中で一番ハッキリしてきます。そういう意味では、おそらくパリのたくさんある静物画は、ゴッホが一番慣れた、一番身近で自由に扱いやすい静物画を素材にして勉強していた証拠でしょう。静物画は自分でテーマを決められるし、どういうものをどう構成していくか、自分で組み立てることができるわけです。机の上に置けばいい。いつでも果物さえ買ってくればできるわけですから一番簡単である。

 そういう一番簡単な素材を使って、自分がそれまで勉強してきた素描の使い方、タッチを組み入れながら一つの勉強をしていく。そういう場であったように思われるわけです。これなんかでもそうですね。「梨」といった対象だけを扱いながら、そこにどういうタッチを見せていくか。これなんかも机の上に置いてあり、これにしてもこれにしても、ここに何があるかよく分からない。机の上にこんな渦巻いているわけはないんですけれども、ここで対象の周りにタッチをつくり上げている。こういう放射状のタッチは、この後、アルルでもサン=レミでも空なんかに見られますね。人物の背景とか空とかに見られます。具体的に何を描いているわけではないけれども、画面全体を統一して、画面に描いている対象に視点を集中させるといった意味で、何を描いているかということからすると、ほとんど意味のないようなものを描いていく。この素描なんか一番ハッキリしていると思います。

 パリ時代の油彩画は、こういうふうに見ていくと、ある意味では実にシュールレアリスム的ですね。空間の中に果物が自分の生命をもって浮かび上がっているようです。そのような感じを生み出しているのは「タッチ」であるわけで、ゴッホの風景画における生命の源であったタッチがパリ時代にはそれを先取りする形で静物画に生かされていると言えると思います。

 最後にパリ時代の静物画のひとつの頂点をお見せして終わりたいと思います。(ひまわり)といえば何といっても有名なのはアルル時代の(ひまわり)です。しかし、個人的には、見方によってはパリ時代の切り花を描いた(ひまわり)の方がすごいものだという気がします。


http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Van_Gogh_-_Vier_verbl%C3%BChte_Sonnenblumen.jpeg

つまり、もう「枯れてしまったひまわり」という、ただそれだけの対象を机の上に置いて、それをどう見せるかというときに、色彩としてはそれほど大きなバリエーションがあるわけではない。右側はほとんど黄色から緑まで、左側は基本的に黄色と青との2色です。色彩的にはそれほど変化がない。しかも、さほど花弁がたくさん伸びているわけではない「枯れたひまわり」という、それほどの対象ではないものを2つボンと置いて、それをどう見せるか。この作品を見せている力は、タッチ以外にはないです。それもこういうザクザクとした、絵の具でしかあらわせないタッチから、画面の上にペンで描いたかと思われるようなこういうタッチまで使っている。つまり、油彩画のタッチと、素描におけるペンのタッチの両方を知り尽くした画家が、その両方を動員して、ここに「ひまわり」を描きだしている。アルルのひまわりは生命の象徴であり、光であり、躍動であり、生命力であるわけですけれども、このひまわりの場合には、枯れてはいても、なおかつ「生命を持っているような力強さ」があるわけで、それはまさにゴッホが素人の画家として駆け出しの頃から熟達してきた素描の力のに基づいているのだと思われます。

 もう1点、これは私が個人的にゴッホの(ひまわり)の最高傑作と思っているものですけれども、背景は何だかほとんど分からないですね。

赤の点々は何だろう。この明るい部分は何だろう。縦に通っている筋は何だろう。ほとんど抽象絵画としか思えないような背景。そこに4輪のひまわり。しかも切られたひまわり。特にこのひまわりは、手前のところで切った切り口が見えていますけれども、それがグイッとわれわれのほうに突き出しているようです。ゴッホの作品の持っているゴッホらしい、ある意味では最良の部分が、既にパリ時代の「ひまわり」にあらわれていると思うわけで、そういう意味では、ゴッホの作品における静物画も、決して無視できないものだと思われるわけです。


烏のいる麦畑


 最晩年の代表作である(烏のいる麦畑)です。


http://www.salvastyle.org/menu_impressionism/view.cgi?file=gogh_champ00&picture=%89G%82%CC%82%A2%82%E9%94%9E%94%A8%81i%83J%83%89%83X%82%CC%82%A2%82%E9%94%9E%94%A8%81j&person=%83t%83B%83%93%83Z%83%93%83g%81E%83t%83@%83%93%81E%83S%83b%83z&back=gogh_champ


これはもちろんゴッホがメインにした風景画の主題で、ゴッホが好んできた麦畑の主題です。青と黄色という色彩をぶつけ合わせて、なおかつその間に地面の赤という色、草の緑といったようなアクセントを配しながら、地面の部分でも地上の部分でも様々なタッチのうねりを絡み合わせており、この前に立つと、我々はこの道をたどって奥にも行くようだし、また向こうから烏が我々のほうに向かって飛んで来るようでもある。とても単純な構成ではあるけれども、横長の画面に幅広い空間がつくられていて、その空間の前に我々が立っている。その空間の前に我々はただ止まったものとして風景を見るのではなくて、我々が歩いて行くし、またその中で雲が渦巻いているし、麦畑は風に揺れているし、烏は声を上げて向こうから飛んで来る。その空間の中で、植物も動物もあるいは天も地も動いて、その揺れ動きが1つのタッチの絡み合いの中で1つの画面を構成している。タッチ自体の性格はずいぶん違っていますけれども、基本的なことから言えば、右側のパリ時代の横長の(ひまわり)にも共通するものではないかと思われるわけです。

 そういうことから考えてみると、風景画と静物画は必ずしも切り離されるものではなくて、ゴッホの全体像を考えるときには、メインのものだけではなくて、サブのもの、他の画家ならあまりやらないもの、あるいはゴッホの特殊な状況の中から生まれてきたものにも目を注いでみると、またメインの部分に対しても、いろいろな新しい光が投げかけられるのではないかと思います。

http://jfn.josuikai.net/josuikai/21f/58/ari3/ar3.htm

オランダ時代の主題


 右側はゴッホがまだ画家になろうと決める以前、ごく初期に描いた作品です。ゴッホは画家になる前にさまざまな仕事を転々としました。一時は貧しい人びとや労働者たちに教えを伝える伝道師になろうと心掛けましたが、うまくいかなかったのです。その一環で、ベルギーのボリナージュ炭鉱地帯で教会へ行くこともできない労働者たち、鉱夫たちのあいだを巡回しながらキリスト教を説くという仕事をしています。(袋を担ぐ女たち)(1879年)は、そのときの体験を基に描いた絵ですが、炭鉱地帯で重い袋を背にかついで歩いていく女性労働者たちの姿が描かれています。
 左側はセシル・ドゥアールという、先ほど見た、くたくたになって休憩している炭鉱夫を描いている画家の絵です。やはり炭鉱地帯、しかも女性の、とても過酷な労働を描き出しています。それと同じような様相をゴッホは描いているのです。ゴッホは、ただそれを絵にしたのではなく、むしろ画家以前に、その炭鉱地帯へ入り込んで彼らと一緒に寝起きしており、まさに最下層の人びと、ほんとうに生きているだけの最低限の生活を共にしています。かつキリスト教を伝道するという活動に挑んだわけですから、当然のこと、後に画家となったゴッホのスタート地点においては、社会の明るい面ではなくて、むしろ社会を底辺で支えている人たちの姿、人物を描こうということが一つの目標であったわけです。とりわけオランダ時代のゴッホの関心は、田舎の人びとの生活という「主題」に向けられることになります。

 ハーグ時代、ゴッホは画家になることを志していましたが、とにかくたいへんな貧乏生活でした。彼が描きだすのは、彼と同じように苦しい生活をしている人たちであり、ハーグの町中の風景を描くにしても、歩いているのは裕福そうな人たちよりも、むしろ労働者ふうな人びとですね。右側は国営宝くじ売場に群がる貧しい人びとの姿を描いたもので、こういうような都会の姿をゴッホは絵にしています。

 ゴッホは、農民の姿を描いた画家としてミレーを非常に尊敬していました。有名なミレー(種播く人)を基にしたゴッホの素描があります。ゴッホは生まれがオランダ南部の農村地帯で、子供の頃から農業に大変に親しみがありました。それもあって、偉大なる先輩ミレーをお手本にしたわけですが、まさにこれはミレー(種播く人)を手本にして模写した作品ですね。が、そういう模写をするだけではなく、オランダ時代、ヌエネンに暮らしていた頃には、実際の農夫にポーズをとってもらって、やはりミレーの絵で見たポーズが手本になっているのですが、農民の労働の絵を描いています。


人物画の割合が多い


 その時期の人物画のうち、圧倒的多数は農民の姿を描いたものでした。ゴッホが、たとえば種播く人という農民たちの姿を描いたのは、アルル時代からサン=レミ時代まで続いていきます。これは先週も見たアルル時代のゴッホ(種まく人)(1888年)です。ここでのポーズはやはりミレーを借りていることが分かるかと思います。

 ミレーやクールベと同じように、ゴッホの場合も田畑で働く男や女をいろんな形で描きだしています。腰を曲げて草を刈ったり、土を掘り返している女性の姿を描いた右側の絵はヌエネンで1884年に制作したものです。

 左側の絵で描かれているのはもっと過酷な労働かもしれません。本来は馬に引かせて地面を掘り返す鉄製の「馬鍬」というものですが、馬を雇えないので、その重い道具を農夫が自分で引っ張っている姿ですね。これは手紙の中の素描ですが、オランダ時代のゴッホは、たいへん苦しいけど大地に密着した農民の仕事振り、労働の様子を繰り返し描き、制作しています。それがオランダ時代ゴッホのメインの「主題」であったと言えます。

 左側のオランダ時代の絵には農民の顔、パイプも見える。ただ働いている姿のほかにも、農民のさまざまな様相、ヌエネンに過ごしていた男や女の顔を丹念に描いています。本来、画家は農民たちの肖像画を描こうなんて考えません。普通、肖像画というのは、誰かが自分の姿を描かせたり、誰か有名人を描くということです。だから、農民から肖像画の依頼など基本的にあり得ない。農民が注文することはないし、特定の農民の顔を見たいから絵を買うという人もいません。だけど、ゴッホはヌエネンで、何人でもはっきり区別できる個性あるものとして農民の顔を何十点となく描いています。そのゴッホの農民を描く興味は、アルル時代にも続いていくわけです。

 オランダ、ヌエネン時代の農民の姿を描きたい、あるいは農民の現実生活の場を描きたいという狙いの頂点にあるのがゴッホ(馬鈴薯を食べる人々)(1885年)です。


http://www.salvastyle.org/menu_impressionism/view.cgi?file=gogh_mangeurs00&picture=%94n%97%E9%8F%92%82%F0%90H%82%D7%82%E9%90l%82%BD%82%BF%81i%82%B6%82%E1%82%AA%82%A2%82%E0%82%F0%90H%82%D7%82%E9%90l%81X%81A%83W%83%83%83K%83C%83%82%82%F0%90H%82%D7%82%E9%90l%82%BD%82%BF%81A%90H%91%EC%82%C9%82%C2%82%A2%82%BD5%90l%82%CC%94_%96%AF%81j&person=%83t%83B%83%93%83Z%83%93%83g%81E%83t%83@%83%93%81E%83S%83b%83z&back=gogh_mangeurs


彼は、できるだけ多くの人たちに見てもらいたいと考えて、自ら版画も作っているわけです。このように見てくると、ゴッホがオランダ時代に主たる関心をもって描いた作品は、印象派時代の絵画の中で考えれば、大都会の人間が見た近代化と明るい未来へ向かって展開していく近代社会や工業化の明るい側面というよりも、むしろ近代化を大地に立って支えているという側面でした。少なくともオランダにいた時期までは、それを自身の関心の中心に置いていたと言えます。要するに、印象派の画家たちの興味よりも、むしろそれとは違う、同時代に流れていたクールベからの写実主義ないし自然派リアリズムの流れにゴッホの主題、様式があったということです。

 これはまさに農民の素朴な食事の様子です。しかし、家族というものが目的を共にして働いて、共に糧を得て、生きているという一つのあり方をゴッホは描きだしているわけです。その意味でも、オランダ時代のゴッホの社会的関心は、いわゆる印象派の画家たちとはかなり異なったものであったと言えます。

 (馬鈴薯を食べる人々)を見ると、とても苦しいのだけど、みんなで一つの働きをして、ジャガイモのような寒冷地にしか育たない、地味悪い土地でも育つような最低限の食物を得ている。とにかく家族一緒に同じ場所で生きていく。ある意味ではミレーから流れてくるような、大地にしっかり根を下ろした農業共同体社会といったものが描かれています。

 しかし、ゴッホが描いていたヌエネンという南オランダの農村地帯では、何百年も続いていた農業共同体あるいは家族の生活が実は変わりつつあったのです。それを示す機(はた)織りのテーマは、今回の展覧会にもちょっとしたコーナーがありました。左側は農村地帯の農家ですが、大きな機織機を使ってはた織りをしている人々の姿を描いています。なんとなく女性の仕事と思われますが、実はここで織機に従事しているのは男性なのです。左側はゴッホの絵で、右側は同じ時代のドイツ人、リーバーマンという画家が描いたものです。ドイツの農村地帯でも同じようなことが見られました。狭くて暗い農家の部屋の中に、入りきれないくらい大きな機織り機械が置かれて、はたを織っているのは男性です。こういうテーマがドイツでもオランダでも共通してこの時代に見られます。

 農村地帯に工業が入ってくる、いわゆる工業化展開の中では、家内制手工業はかなり古くからあったのですが、その次の段階に問屋制家内工業と言うか、大きな問屋という資本が機織り機という設備も原材料もすべて提供して、それぞれの家で加工させて、できた製品を問屋が引き取り、各戸に手間賃を払う形態があります。さらにその次の段階が工場制労働形態となりますが、これはその前段階で、農村の労働力を、まずそれぞれの家にいるままで、資本は全部問屋が出して製品をつくるという、この時代にオランダやドイツの農村地帯で共通して起こっている現象ですね。大きな織機で能率を良くする。そして、しっかり織るためには、女性ではなく、力強い男性労働力が必要である。

 女性はどうなるか。このゴッホの作品が典型的ですが、ヌエネン墓地の塔も見えますけど、外に見える畑で働いているのは女性たちです。ゴッホが描いたこういう姿が意味するのは、農村の中で男女が一緒に畑を耕すという昔ながらの情景がこの時代の工業化によって崩れつつあったということですね。

 つまり、より多く現金を稼げるものとして、男は農地へ出るよりも機を織る方が魅力になってくる。そうなると、畑の方は女性が主に耕すわけです。右側もゴッホが描いた素描ですが、男が機を織っており、その狭い部屋の中に赤ん坊もいる。男は赤ん坊の面倒を見ながら機を織る。お母さんは外で畑仕事をしている。そのように近代化が農村地帯ヘ進展していくことによって農村が解体されていく状況をゴッホは描きだしていたのです。なにげなく窓の外に見える情景ですけど、やはりこの当時、1870年代のオランダの農村地帯における近代社会化の流れ、真実を的確に映し出していますね。

 そう考えれば、ミレー(晩鐘)に表されていたような姿は1870〜80年代にかけては、ある意味で、もう過ぎ去った昔の理想のような世界になっていたと思うわけです。

 オランダ時代のゴッホは農村の実際の姿を描きだしていましたが、それに対して印象派の画家たちはどうだったでしょうか。先ほどモネやルノワールが大都会を描くときに影の部分より、もっぱら光の部分を描いたというお話をしました。農村を描くときにも、やはり、印象派の画家たちは、どちらかというと農村の明るい面を正面に押し出していますね。

http://jfn.josuikai.net/josuikai/21f/58/ari2/ar2.htm

印象派の中でのゴッホの位置


今日お配りした資料の裏側の年表をご覧いただくと分かりやすいかと思いますけれども、ここに「印象派・後期印象派の主要な画家たち」が並べてあります。

 ピサロから始まってシニャックまで、生まれが早い順に並んでいますが、「マネからゴッホまで」ということになります。そして、それらの画家が、印象派の1回目から8回目までの展覧会に参加しているか、していないかを示す○を付けてあります。ここでハッキリすることは、一番初めのマネと、最後のゴッホというのは、実は印象派の展覧会自体には出品していない画家であることです。


兄貴格のマネと弟分のゴッホ


 マネは印象派の画家たちからとても尊敬され、親しいグループの仲間であったのですが、印象派の展覧会には参加していません。言ってみれば、印象派の兄貴格といったようなところにあたります。またゴッホは、自ら画家になることを志したのが遅かったこともあり、印象派の画家たちとは直接接触はありませんでした。けれども、印象派からとても強い影響を受け、そのすぐ後に活躍した、言わば印象派の弟分と言ってもいい人です。

 年齢からいっても、ピサロという年長の印象派の画家を除いては、マネの1832年生まれからゴッホの53年生まれまでの間に大体入ってしまう。ちょうど印象派の世代の前後をマネとゴッホが囲んでいることになります。


画家としてのスタートが遅かったゴッホ


 ゴッホは印象派の展覧会にはまったく参加していません。それどころか、ゴッホがパリへ出て来たのは、まさに印象派の最後の展覧会があった1886年のことです。もちろんゴッホは画家になる前に画廊の店員としてロンドンの支店、あるいはパリ支店に勤めていたことがあるので、パリをまったく知らないわけではないのですが、彼が画家を志したのは、いろんな職業を転々とした後の1880年になってからです。そして、80年から85年まで、地元のオランダで、ほとんど独学で絵の勉強をしています。そして、アントワープを経て86年にパリに来て、そこでいろいろな印象派の作品にもある意味で初めて接して、そこから彼の画業というのが一気に進んでいくのです。つまり、ゴッホの実質的な意味でのスタートは「1886年」で、それはまさに印象派最後の展覧会の年であったわけです。


短期間に一気に学び、制作した


 それからゴッホは、パリに2年ほどいた後、アルルに1年、サン=レミに2年、そしてオーヴェールに数カ月という、南仏からパリ近郊にたどり着くまでの本当に短い間に、今日我々が見てパッと「ゴッホだ」と分かるような作品の多くを制作していきます。

 今日からの3回の話の大きな枠組みとして申し上げておきたいことは、ゴッホが活躍し始めた1886年は印象派最後の展覧会となった年ですが、そこから数年の間に、印象派が1870年代から80年代の半ばまで15年ほどかけていろいろと開拓してきたことを一気に学んで、自分の作風を展開させていったことです。


オランダ時代のゴッホ


 ここに出しているのは、ゴッホがまだオランダにいた頃に描いていた絵です。ゴッホが油絵を始めたのは1881年で、左側の絵はごく初期の油絵の1点です。


http://art.pro.tok2.com/G/Gogh/vv061.htm

木立の中の少女を描いたものですが、右側のものはゴッホのオランダ時代の作品で、ずいぶん後の1885年に農家の様子を描いたものです。オランダ時代の5年間は、ゴッホの様式、たとえば色彩の使い方であるとか、絵具のタッチの使い方は大きく変化はしていません。


オランダ時代の作品


 ゴッホのオランダ時代の作品は、これまでみなさんがご覧になってきたような印象派の作品とはずいぶん違います。風景画もずいぶん違っていて、まだ印象派以前の、あるいは印象派たちが60年代に見せていたような茶色とか黒とか、灰色とか、そういう色を使っています。ひとつ前の時代の、たとえばクールベ、ミレーなど、バルビゾン派の画家たちの作風に似ています。もちろん、それに並行するようなフランスの19世紀半ばの影響というのがオランダでもあって、ゴッホの先輩たちはこういう絵を描いていた。それをまずゴッホは学んだわけです。またゴッホは、オランダ時代には、風景画だけではなくて、こういう広い意味で言う人物画もたくさん描いています。

 左側のものは、ゴッホ美術館にある大変有名な(馬鈴薯を食べる人々)という作品で、ゴッホが接していた農民の生活を描いたものです。


http://www.salvastyle.org/menu_impressionism/view.cgi?file=gogh_mangeurs00&picture=%94n%97%E9%8F%92%82%F0%90H%82%D7%82%E9%90l%82%BD%82%BF%81i%82%B6%82%E1%82%AA%82%A2%82%E0%82%F0%90H%82%D7%82%E9%90l%81X%81A%83W%83%83%83K%83C%83%82%82%F0%90H%82%D7%82%E9%90l%82%BD%82%BF%81A%90H%91%EC%82%C9%82%C2%82%A2%82%BD5%90l%82%CC%94_%96%AF%81j&person=%83t%83B%83%93%83Z%83%93%83g%81E%83t%83@%83%93%81E%83S%83b%83z&back=gogh_mangeurs


右側は、ゴッホが生活していたヌエネンというゴッホのお父さんが牧師をしていた町です。正確に言うと、オランダの発音では「ニューネン」といいます。今回の展覧会では「ヌエネン」ではなく、「ニューネン」という表記になっていますけれども、我々は「ヌエネン」という言葉に慣れているので、今日のお話でも「ヌエネン」と呼ばせていただきます。これはヌエネンの、ある農家での機織りの様子を描いたものです。タッチがずいぶん荒くて、ゴツゴツしている。そういう意味では、ずいぶん新しい要素も含んでいるのですが、しかし、基本的なタッチの使い方とか、色彩全体があまり派手でない暗い色彩であるといった使い方は、まさにゴッホのオランダ時代の典型であって、古い様式を示しています。

 これはオランダ時代、ヌエネンで描かれた静物画です。右側のものは(聖書と本のある静物画)と呼ばれるヌエネン時代の代表作で、今回の展覧会でも最初の部屋に出ている、とても立派な堂々とした作品です。


http://art.pro.tok2.com/G/Gogh/vv054.htm

ここに描かれているのは、フランスで当時はやっていた「黄表紙本」という黄色い表紙のゾラの小説です。この絵からは、ゴッホがオランダにいたときもフランスの文化にたいへん憧れを持っていたことが偲ばれます。しかし、この作風は、当時の印象派の向かっていた方向からはほど遠い作風を示しています。左側はリンゴの入ったバスケットですが、これもやはり同じような暗い色調を示しています。左側の作品は、1885年の(ヌエネンのポプラ並木)という題名の作品で、ゴッホがオランダを去って、アントワープを経てパリへ行く直前のオランダでの最後の作品の1点です。


http://art.pro.tok2.com/G/Gogh/vv065.htm
http://art.pro.tok2.com/G/Gogh/vv001.htm


右側は逆に、アントワープを経てパリへ出た1886年の一番初期の作品です。


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1886年パリへ

ゴッホを待ち受けていた印象派の画家たち


 オランダからパリへ着いた直後のゴッホはどういう様式を持っていたかを示す作品が右側の作品で、このようにオランダの最後の作品とパリの最初の作品を比べてみると、パリへ到着した時点では、ゴッホは、まだそれほど新しいものを学んでいるわけではありません。オランダの様式をそのまま引き継いでいる。ただ、オランダのヌエネンの教会の見える田園風景から、パリのちょっと気のきいたレストランへと主題は移っていますが、まだこの最初の段階では、色彩の扱いはオランダ時代とまったく変わっていないことがお分かりいただけると思います。

 さて、70年代からヨーロッパ各国、あるいは日本の画家たちの間で、美術の都としてのパリの名声が高まっていきます。そこにいろんな様式が流れ込んでくる。そして、パリ自身が次から次へと新しい美術の動向を生み出す。そのパリにあって、ゴッホはすぐにいろんなものを吸収していくことになります。

 たとえば同じレストランを描いた絵ですが、右側もレストラン。左側はもちろん違うレストランですが、左側になると、もうみなさんがこのシリーズの中でご覧になってきたのに近い、鮮やかな色彩で、タッチなんかも細かい点々を使っています。暗い茶色でも、いろんな色を混ぜ合わせてつくるという筆触分割で表現し、絵具の鮮やかな色をできるだけ失わないように、画面の上でそれを併置していく印象派の典型的な色の使い方、タッチの使い方があらわれています。右の作品と左の作品の間は1年ほどしかないのですが、ゴッホがもうすっかりパリの最新流行の印象派の作風を吸収したことを示しています。

 これが部分です。こういう部分なんかでも、ほんとうに明るいタッチを並べていくという描き方で描いています。こちらは1887年にパリで描かれた、なんということのない主題なのですが、パリ郊外の傾斜地にある木と草とかを描いたものです。全体がとても明るい。そして点々であるとか、やや短めの、あるいはやや長くてスッとしたいろんなタッチを重ねることによって、郊外の明るい自然光の下の印象をサッと素早く描き止めるといった方法をゴッホはここで学んでいます。


モネ


 たとえば、主題は違うのですが、右側は1887年のゴッホの作品で、左側のモネの作品は1886年の、ちょうどゴッホがパリへやって来たぐらいの年に描かれたものです。たとえば空のタッチであるとか、地面の草をあらわすタッチ、全体の色調といい、まばゆい程の夏の明るい印象を生み出している絵具の色遣いと言い、筆の使い方といい、ゴッホが左のモネのような作品に学んだことが良く分かると思います。あるいは、右側はゴッホの作品、左側はモネが1878年に描いた作品ですが、たとえば、町中に三色旗が溢れている。その三色旗がチラチラと揺れている印象を、ザクザクッとしたタッチで描いている意味で有名な作品ですが、モネのものに比べると、ゴッホの場合には、もう少しタッチが大きなまとまりを持っています。ゴッホが右のような作品を描くにあたっては、左のモネの作品などをお手本としたことは、まず間違いないと考えています。

 もちろん、印象派の中にも、あるいはモネの中にも、いろんなタッチの使い方があるわけで、もう一つ違う作例をお見せしますと、左側はモネの作品の中でも全体がとても細かいタッチになっている。セーヌ河沿いのポプラ並木で、木の葉がチラチラと光を照り返す様子を大変細かいタッチに分割して表現しています。右側はゴッホのセーヌ河を描いた1887年の作品ですが、木の葉あるいは川岸の草が夏の明るい光をチラチラと反射する様子をあらわすために、こういう細かいタッチを散りばめています。この手法を見ると、やはりゴッホは印象派から、とりわけモネから学んだと言えると思います。


後期印象派の影響


 しかし、ゴッホは、印象派の展覧会に出品していたような、つまり自分より1世代ちょっと上のモネとかルノワールとかいう画家だけではなく、当時パリにいて新たに活躍を始めた、ちょうどゴッホと同世代で、後に我々美術史家が「後期印象派」と名付けることになった画家たちからも多くのものを学びます。その1例をここにお見せします。両方ともゴッホの作品ですが、ゴッホは印象派のようなタッチをモネ等から学ぶと同時に、それをもっとシステマティックにした「点描」を身に付けている。画面全体を点々点々で描いていく。点で描くことによって、より一層明るい状況を描きだすといった手法も身に付けることになります。


スーラ


 右側はパリ郊外の道の様子を描いたもの。左側はゴッホが転がり込んだ弟のテオの住居から眺めたパリの町の様子で、こういうところにまだ少し長めのタッチがありますけれども、全体を細かい点々で表現していくポワンティリスム、「点描派」の様式をゴッホはここで学んでいます。そして、その点描の様式の代表者がスーラです。ゴッホと並んで後期印象派の中に数えられます。スーラはゴッホより6つも年下ですが、ずっとパリで暮らしていて、最後の印象派展である1886年の第8回印象派展に出品しています。ゴッホからみれば、6歳も年下なのだけれども、これから本格的に絵の勉強を始めようかという状態で、出て来たばかりのまったく無名の自分に比べて、印象派の次の世代として頭角をあらわしてきた、それも印象派の手法を展開させて、印象派とは違う新たな点描の様式を紹介するような大胆な試みをやっている、言ってみれば当時の前衛画家の最先端を走っていた画家なわけで、そのスーラから、ゴッホは点描のやり方を学んで、自分でも試みます。


シニャック


 左側はスーラの典型的な点描の作品です。右側はそれを学んだゴッホの作品です。これはスーラの仲間であったシニャックの作品です。ゴッホはスーラにひかれてこういう典型的な点描の作品を描いていくわけです。ゴッホとの関係から言えば、何回か会ったことはあるのですが、それほど親しいというわけではない。それに対してゴッホとシニャックとは、個人的にもわりと親しいところがあったようです。それで、アルルでゴッホがゴーギャンとの問題を起こして入院した後、ちょうど南仏に行きがけだったシニャックが、ゴッホのことを心配してアルルに立ち寄っています。

 シニャックのこういう作品は、もしかすると、右側のゴッホの作品の直接のお手本になったのではないかと思われる節もあります。主題の点でも、ゴッホがずいぶんシニャックから学んだと思われるのは、左側はシニャックが描いたパリの郊外のアニエールにあったガスタンクが見える工場街ですが、そのアニエールの工場街をゴッホも描いています。様式の上からいうと、シニャックほどの点描ではなくて、もう少し印象派風の長いタッチなんかも見えますけれども、テーマから言うと、パリの郊外の工場地帯なんていうのは、シニャックから学んだものかも知れません。あるいは、テーマが似たもので言えば、左側は、ここにサインがあるように、シニャックが84年に描いたモンマルトルの風車です。右側はゴッホが86年に描いたモンマルトルの、風車がここにあるところで、風車の前の手すりと街路樹なのですが、同じような一連のものですね。同じような手すりと街路樹とガス灯があります。

 こんなふうに、ゴッホはパリへ出て来て、それまで自分があまり扱ったことがない都会的な風景、そういう主題、パリという町、そしてパリで活躍していた画家たちから学んでいくわけです。ゴッホはパリで風景画も描きますし、静物画もたくさん描いています。静物画といえば、先程オランダ時代のところで右側に(聖書のある静物画)と左側に(リンゴの入ったバスケット)をお見せしました。右側の作品は、バックが暗くなっていますけれども、手前の花瓶から花のところ、手前の机のところなんかは、ずいぶん鮮やかな色彩で描かれています。たとえば左側はモネが描いた静物画。モネは風景画を主体とした画家ですが、けっこう静物画にもいいものがあります。これはモネが描いた(ひまわり)の静物ですが、ゴッホはパリへやって来て、印象派の静物画のタッチもずいぶん学んだように思われます。

 これなんかは右のものに比べれば、さらに一層パリで学んだものがハッキリしているわけで、こういうところは大変鮮やかな色彩、ザクザクとしたタッチ、背景のところには、スーラとかシニャックから学んだような点々の点描のタッチが見えています。左側の作品なんかは、どう見てもオランダの画家の作品ではなくて、まさにパリの画家の作品になっています。


 
ジャポニスムの洗礼


 みなさんご存じだと思いますけれども、ゴッホがパリで学んだもう1つ重要なものがあります。それは日本の浮世絵です。「ジャポニスム」です。調べてみると、ゴッホは既にオランダにいた頃から、ある程度日本の浮世絵、日本の美術には興味を持っていたのですが、それを本格的に勉強して自分でじっくり研究したのはパリに行ってからです。

左側は安藤広重がつくった(名所江戸百景)の中の(大橋あたけの夕立)という作品ですが、それをゴッホは自分で持っていて、コピーしています。彼なりに翻案して、周りに日本風の文字などを書き込んでいます。


http://www.salvastyle.com/menu_japanese/hiroshige_bridge.html

http://www.salvastyle.org/menu_impressionism/view.cgi?file=gogh_sluie00&picture=%93%FA%96%7B%8E%EF%96%A1%20:%20%89J%82%CC%91%E5%8B%B4%81i%91%E5%82%CD%82%B5%82%A0%82%BD%82%AF%82%CC%97%5B%97%A7%81j&person=%83t%83B%83%93%83Z%83%93%83g%81E%83t%83@%83%93%81E%83S%83b%83z&back=gogh_sluie


ここでゴッホが学んだものは、いくつかありますが、たとえばよく言われる「大胆な視点」ですね。橋を上から見下ろす鳥瞰図の試みや「色使い」です。あるところをハッキリと青、ハッキリと緑と塗り分けるような大胆な色使いとか、いろんなものを学んでいます、

 もう1点お見せします。やはり広重の(名所江戸百景)の中から(亀戸の梅屋敷)ですが、特にここでは広重の作品が持っている「地面は緑色」(緑色の地面なんてどういう地面だろうと思いますが)「空は赤い」というこの大胆な「緑と赤」という、いわゆる補色、ぶつかり合う色を平面的に処理していくやり方。あるいは、テーマである「梅の木」を、全体像を見せるのではなく、一番手前に持ってきて、上下左右どちらもトリミングしてしまう大胆な構図の取り方などをゴッホは学んだのです。ゴッホは印象派から学んだものとは別のものを学んでいます。


http://www.salvastyle.com/menu_japanese/hiroshige_kameido.html

http://www.salvastyle.org/menu_impressionism/view.cgi?file=gogh_prunier00&picture=%93%FA%96%7B%8E%EF%96%A1%20:%20%94~%82%CC%89%D4&person=%83t%83B%83%93%83Z%83%93%83g%81E%83t%83@%83%93%81E%83S%83b%83z&back=gogh_prunier


印象派の作品からゴッホが学んだものは、言ってみれば、全体はとても明るく、そして同時に全体を細かいタッチに分割していくことによって全体の明るさ、光の様子をあらわすという手法です。

 ところが、ゴッホが日本の浮世絵版画から学んだものは、それとは逆で、全体を細かいタッチに分割するどころか、むしろどちらかと言うと、タッチを見せないで、大きな平面的な塗りに還元してしまうことです。

それはまさに日本の浮世絵が持っていたものですね。あんまりハッキリとした陰影付けもなく、たとえば木の幹の部分は若干濃淡のあるベタ塗りである。版画なのですから当然そうですね。1つの版の上に絵具を塗っていくときに若干濃淡をつけることによってしか差がつけられないわけで、本来、日本の木版画はとても平面的な表現を持っている。ゴッホがパリで日本の浮世絵版画から学んだものは、印象派から学んだものとはずいぶん違う。

 1つ共通しているのは「非常に鮮やかな色彩」です。けれども、それをどう表すかという表し方からすると、

日本の浮世絵版画からゴッホが学んだものは、むしろ平面的なベタ塗り、強烈な色彩のぶつかり合い。

それに対して、印象派から学んだものは、どこかで強烈な色彩がぶつかり合うのではなくて、さまざまな青も緑も黄色も使われているけれども、それがどこかで直接ぶつかり合うのではなくて、細かい点に分割されて画面全体に散りばめられている。


絵具を塗っていくやり方からすると、ずいぶん相反するような、その2つのものをゴッホは同時にパリで学んでいます。 もしこれがゴッホのような画家でなければ、いきなりそれが出てくるのではなくて、たとえば2〜3年は一方の方向に進んでみて、それで行き詰まったと思ったら別の方向を試みるような行き方があったかも知れないのですが、ゴッホの場合は年齢も考えて、そんな悠長なことはやっていられない。しかも、パリにいつまでいられるか分からないという事情でしたから、とにかくものすごく旺盛にさまざまなものを吸収していくことになります。


ゴーギャンとの邂逅


 ちょうど、当時ゴッホの近くにいて、ゴッホに影響を与えつつ、一方で自分自身も日本の浮世絵の表現から強い影響を受けた画家にゴーギャンがいます。左側はゴーギャンが1888年にブルターニュで描いた(説教のあとの幻想)と呼ばれる作品ですが、たとえばこの左側のゴーギャンの作品には、ゴッホが手本にしたような日本の浮世絵の影響が歴然としています。たとえばゴーギャンは、重要なモチーフである木の幹を画面の一番手前のところでぐっと部分だけ見せるという表現、地面の色としてあり得ないような赤い色を完全にベタ塗りするようなやり方を日本の浮世絵から学び、また別の部分は、ヨーロッパ中世の伝統的なステンドグラスから学びながら、大胆な色彩を輪郭線のハッキリとした平面的な色面によってぶつけていくという表現を開拓していたわけですが、ゴッホは日本の浮世絵と同時に、こういったゴーギャンのやっていたことも近くにいて十分学んでいたと思います。
 
 ゴッホがパリで学んだものは、まず先輩格であった印象派、とりわけモネなんかのタッチ、それから、そこを引き継いで、彼と同じような世代の前衛の先頭に立っていたスーラの点描のやり方、それから、後にゴッホやスーラと一緒に後期印象派にくくられることになるゴーギャンが示していた強烈な色彩による平面的な画面構成です。そういうさまざまな異なるものをゴッホはパリで吸収し、そしてそれをまとめていく次の段階に入っていくのです。


印象派の発展的解消と後期印象派の台頭


 1886年から88年にかけてがゴッホのパリ時代ですが、実は86年にパリへやって来て、88年頃までパリに暮らしたというのは、たまたま偶然だったのですが、西洋の印象派以降の絵画史の中でとても重要な偶然だったと思います。というのは、先程も申し上げたように、1886年というのは最後の印象派の展覧会の年でした。最後の印象派の展覧会をゴッホは見ることができたわけです。さらに重要なのは、たまたま最後の印象派の展覧会のあった1880年代の半ばというのは、印象派の画家たち、60年代後半から活動を始めて74年に第1回の印象派展というデモンストレーションから世にだんだん知られるようになっていった印象派の画家たちが、ある程度世の中から評価を得る一方で、同時にひとつの曲がり角に差しかかった時期でもありました。

 1886年の印象派展というのは、参加している人を見ても、それまでの印象派展とはずいぶん違います。当初からのメンバーで参加しているのはドガとピサロだけです。シスレーもセザンヌもモネもルノワールも参加していません。それに代わって、第4回から参加していたゴーギャンが最後にも出品しています。それから先程お話をした前衛のトップを走っていたスーラ、そしてシニャックが参加しています。つまり第8回の印象派展というのは、もう印象派展というよりも、今日の我々からすると、後期印象派展のような様相を呈していたわけです。

 さらに言うと、1886年の第8回の印象派展には、今日の我々からすると想像もつかないような画家の名前が見られます。その代表格は誰かというと、ルドンです。ルドンというと象徴主義の画家であって、印象派とはまったく反対のように思われる画家ですが、そのルドンが参加しています。そういうことから考えると、もう第8回の印象派展というのは、ほとんど印象派展とは言えないものです。

印象派の中でも、その周辺でも、次の世代が80年代から登場し始める。そういう状況があって、印象派の画家たちもちょっと売れるようになってきている。けれども、もう次の世代が新しい様式をもって追いかけて来るときに、自分たちはどうやってそれに対抗して世の中に訴えかけていくかということを印象派の画家たちが本気で考えなければならない。それが1880年代に起こったのです。 そのような印象派と後期印象派、新旧の世代がちょうど交差する、その一番いいときにゴッホはパリにやって来たわけです。

印象派の画家たちの中でも、ほんとうに「風景画がメインだ。風景画が勝負なのだ」というのは、実はモネ一人ぐらいなわけで、考えてみると、印象派の画家たちは風景画をずいぶん大事にしたわけですが、彼らが美術界の中で、あるいはパリの画壇の中で、ここ一番勝負というと、やっぱり伝統的な人物画を描く。これは西洋絵画の長い伝統ですから、それに逆らえない部分があります。

 ゴッホが86年にパリへやって来て出会った印象派の画家の多くは、その心中にまだ根強く人物画の重要度を認識している人たちで、印象派の画家たちが曲がり角に差しかかって、人物画が再びクローズアップされつつあった。まさにそういう時期でした。この86年から88年という時点において、風景画をメインに描いていたのは二人。一人はセザンヌ、もう一人はモネだったわけですね。左側はセザンヌが82年から85年にかけて描いた南仏のエスタックの風景です。右側は86年から90年頃だろうと言われているエスタックの風景です。

 印象派の中で風景画を描くセザンヌとモネの二人のうち、ゴッホがパリにやって来たとき、セザンヌは既に南仏へ帰っていて、こういう南仏風景をパリへ送って発表していたわけです。もう一人、モネという人は、最初から風景画家になるつもりはおそらくなくて、できれば人物画で成功したかったはずです。モネが初期にサロンに送ろうとしていた、あるいは送った作品は、こういうものだったわけですね。等身大の大画面の人物画ですが、それがうまくいかなかったのでモネは風景画に転向していったという部分もあると思います。この左側の1886年の(日傘をさす女性)、これは2点あって、対になっています。それから右側、これは西洋美術館にある(舟遊び)という作品ですが、この2点がモネが大画面で描いた人物画のほとんど最後のものです。86年、87年にもう一度こういう人物画を描いたのを最後として、モネは決然として大画面での人物を捨てて、風景画へ戻っていくことになります。

 このように、ゴッホがパリにいた86年、87年というのは、まさにモネにとってもルノワールにとっても大きな曲がり角でしたし、印象派の中で風景画がどういう位置を占めるかということにとっても、とても大きな曲がり角であったわけです。そして、もう1つ、非常に興味深いことは、そのような印象派の中でも、風景画を自分の当面のメインのフィールドと考えたセザンヌとモネという二人の画家が、ちょうどこの頃、二人とも南仏風景を描いていたことです。先程も言ったように、セザンヌは1882年にエクスへ戻って、それからしばらくは、もちろんパリと行ったり来たりしますけれども、彼の主題は南仏風景なります。他方、これは、両方ともモネが描いた、モナコの近くのボルディゲラの風景ですが、モネは1884年に初めて南仏へ行って、こういう南仏の植物が生い茂るような、そして青い海がある地中海の風景を発見します。そして84年に地中海を発見したモネは、もう一度88年に南仏へ行って、このような作品を描きます。

 これは偶然なのですが、84年代の半ばから後半にかけて、印象派を代表する二人の画家たちが、自分たちの風景画の新たなテーマとして南仏を発見した。これはとても重要なことで、なぜこのことを強調して申し上げるかというと、ゴッホがパリでいろんなものを吸収した後、パリを離れて、何か独自のものを描きたいと思ったときに選んだのが南仏だったからです。


パリを去るゴッホ

南仏の開拓者になりたい

 パリを去ったとき、ゴッホはいくつかの選択をしました。その1つの重要な選択は、パリでいろんなものを見てきた末、自分は人物画ではなくて、風景画を当面メインにしようという選択です。それをゴッホは決意したと思います。そして、自分が風景画で生きていくために、風景画で新しい分野を開拓していくために、どこへ行けばいいのかと考えたときに、ゴッホの重要なお手本になったのは、セザンヌとモネであったと思います。南仏の明るい光、まだパリの人達があまりよく知らなかった新鮮な南の明るい光の中での風景画を自分が開拓したい。ゴッホは手紙に書いています。アルルから弟のテオに宛てて、「自分はいまようやく始まった南仏の開拓者の一人になりたいのだ」と言っています。


何のために?


 ゴッホは、当時の印象派の風景画の中で、明るい色彩と明るい絵具のタッチで戸外の風景を描きだしていく印象派に最もふさわしい主題として、これからは「南仏があるんだ」ということをセザンヌやモネの作品から学んで、そして南仏へ行く。ゴッホはなぜ南仏へ行ったのだろうか。そして、南仏の中でもなぜアルルだったのかは分かりませんが、南仏という選択は、ゴッホが風景画という選択をしたことと強く関わっていると思います。

 ゴッホが実質的に絵画を制作していた期間は10年にならないんですね。その間に880点の油彩画を描いていますから、1年間に90点近く。これはものすごい制作力です。そのことは別として、いまこの話の中で参照していただきたいのは、油彩画の中で、風景画と人物画とその他がどれくらいの割合であるかということです。ゴッホは最初は人物画でいきたいと思っていました。誰でもそうです。最初から風景画でいこうなんて思う画家は、この時代にはまだいなかったでしょう。

 絵画として一番ランクの高いのは人物画ですから、画家を志そうとした人は、まず人物画を描きたいと思うわけです。たとえば本格的に絵画を始めた最初の頃の作品数を見ると、ハーグ時代は25点、ドレンテは10点ですから、ある程度の有効な統計的な数字があらわれるのは、ヌエネンでの190点ですが、その190点のうち、風景画はたった25%で、大部分、半数以上が人物画です。(馬鈴薯を食べる人々)を含めて、様々な農民の姿とか(機を織る人)とか、風景が背景にあっても、メインに人物が大きく描かれた作品、これがゴッホのメインです。

 そしてゴッホがやりたかったことが一番典型的にあらわされたのは、テーマはもちろん「農民の家族」ですが、複数の人物。実際に彼が描いた(馬鈴薯を食べる人々)はそれほど大きくない作品ですが、あれを大画面に描くことが彼の夢であった。大画面の複数の人物からなる群像構成が彼の夢であったわけで、ヌエネンで描かれた、たくさんの農民の頭部などは、そういう大画面構成の群像構成の習作であったわけです。そういう意味では、ヌエネンでのオランダ時代の彼の興味は人物画にあった。それからアントワープの10点というのは、これはちょっと過渡的なところで、あまり参考にならない数字ですが、人物画が7点です。

 パリに行くと、これはとても不思議なのですが、人物画も風景画もパーセンテージは減って、その他が多くなります。その他の圧倒的多くは静物画です。 その後、アルル、サン=レミ、オーヴェールと行くにしたがって、彼のたくさんの作品の中で風景画の占める割合がだんだん高くなっていきます。それに対して、人物画の占める割合がだんだん少なくなっていきます。ハッキリと統計的な数字から分かることは、ゴッホがかなり意識的に自分のメインをだんだん人物画から風景画へ移していったことです。

 美術史という学問は、ただ何となく感覚的に見ているだけではなくて、このようにある程度数字で出してみる。そうすると、特にゴッホのように作品点数が多い画家の場合は、ある程度有効な統計的な数字が出て来ます。これを見ても、ゴッホがパリを発ったとき、アルルで何をやろうかと考えたときのメインは、おそらく風景画にあった。風景画をやりたいと思ったからこそ都会を離れた。風景画のテーマとして当時セザンヌやモネが開拓しつつあった南仏へ行ったのは、気まぐれの思いつきではなく、自分の道はどこにあるかを考えた上での結論だったと私は思っています。


アルルで明確になった進路


 ゴッホの進む道は、アルルへ行った時点でかなりハッキリしていたと思います。アルルでゴッホがやることは戸外の明るい風景画です。自分が使う様式、手段は、「明るい絵具」と、印象派から学び、部分的にはスーラから学んだ「点描」、モネから学んだ「自由なタッチ」であることをゴッホはハッキリと意識していたと思います。2月にアルルに行くのですが、左は最初の花咲く時期に描いた作品で、右は夏の盛りになってきた時期のものです。こういう明るい戸外の花咲く庭ですが、とりわけ右の絵は花の1つ1つが点々というタッチで描かれていて、アルル時代の作品の典型的な様式を示しています。こういう自由なタッチで明るい風景を描くことをゴッホはアルルで展開していきます。 

 テーマからすると、もうほとんど何ということのない、何かとりわけて見どころがある風景というわけではなくて、身の回りにある明るい光の中の風景を手当たり次第にゴッホは描いていくことになります。アルルという町は地中海に面してはいないのですが、地中海に面したサントマリーというところに3泊程で遠足に出掛けて、地中海の海の様子とか、サントマリーの町、青い空の下でラベンダーの花が咲いている典型的な南仏の風景をゴッホは熱につかれたように描いていくことになります。アルルの周辺は穀倉地帯であり、6月も盛りになってくると、あたり一面、小麦が黄金色に実ります。何が描かれているかというモチーフからいっても構図からいっても、とても単純なものですが、右の作品も左の作品も、そうした様子を明るい色彩と活き活きとしたタッチで描いているところが見どころです。

 ゴッホは弟のテオ宛ての手紙で、南仏の明るい太陽に照らされた運河の水を「エメラルド色のような」と表現していますけれども、そういう水の美しさをゴッホは描きました。海、空、麦畑、花畑、運河、そういったものをゴッホは描き続けていく。今日われわれが典型的なゴッホだと思うような作品が次から次へと生み出されていくことになります。それだけではなくて、夜の風景、とりわけ青い空に星が輝く、澄みきった南仏の深い青い空に星が輝く、そういう夜景も描いています。右側のものは、一昨年日本でやった「ゴッホ展」にきていたもので、左側は今回の「ゴッホ展」にきている、アルルで描かれた夜景の中でも代表的な作品です。


人物画を描きたい


 こういうふうにゴッホは、アルルで次から次へと風景画の素晴らしい作品を生み出していったわけですが、もちろんある程度、人物画も描いています。またアルルでも、ゴッホは最終的には人物画を描きたいという希望を捨ててはいません。何しろ自分と同じ世代で、自分より先を走って行くスーラやゴーギャンが人物画でとても素晴らしい作品を描いていることを知っています。だから「自分はできれば人物画を描きたいのだ。でもまだ自分は人物画を描くほどの力がない。力がないから、とにかく、いまは風景画を描いているのだ」と弟のテオには言っていますけれども、それでもモデルが得られて人物画を描くチャンスがあれば、肖像画のようなものを描いています。

 たとえばアルルで描いた代表的な肖像画でいえば、アルルにたまたま滞在していたベルギー人の画家であるウジェーヌ・ボックという人を描いた左側の作品、それから右側はアルルで知り合った年老いた農夫を描いた作品ですが、こういうような、とても力強い肖像画も何点か残しています。ただ、アルルで描いた肖像画に共通することなのですが、風景画と比べると違う。


http://www.abcgallery.com/V/vangogh/vangogh69.html
http://www.abcgallery.com/V/vangogh/vangogh103.html


アルルでの風景画で、ゴッホは、パリで学んだものの中で言えば、モネとかスーラから学んだものを生かしていたのですが、たとえばこの2点の肖像画はどうでしょうか。ゴッホがパリで学んだものからすると、お手本は何でしょうか。モネやスーラではないですよね。たとえばゴーギャンとか、日本の浮世絵とかいうものですよね。

つまり、輪郭線がハッキリしていて、その中であんまり細かい筆のタッチを見せない。大胆な色彩、たとえば「オレンジと青」とか、「青と黄色」とか、強烈にぶつかり合う補色関係に近いような強烈な色面を、いきなり輪郭線を通してぶつけ合う。つまり日本の浮世絵とか、ゴーギャンやその仲間のベルナールがやっていたような「クロワゾニズム」、黒い輪郭線の中に鮮やかな色彩を埋めていくやり方に近いものを示しているのです。

 メインは印象派、スーラの流れを引く鮮やかな細かいタッチで色彩を散りばめていく風景画だったのですが、一方では、このような違う様式を持った人物画、肖像画もアルルでは並行して描かれていました。そのようなゴッホの持っているアルルでの二面性が、ゴーギャンが来ることによって大きくバランスを崩すことになります。言うまでもなくゴーギャンはこちらの様式を持った人ですね。そして人物画をメインとする画家であるわけです。


人物画への傾斜


 1888年の秋にゴーギャンがアルルにやって来ると、これはハッキリとパーセンテージ的にも言えますけれども、ゴッホの中では人物画が増えます。これは、私が学生時代にクレラー・ミュラー美術館で手持ちで撮影したものなので、ちょっとぼけているかもしれませんけれども、今回の展覧会にきている(ラ・ベルスーズ)と呼ばれている、ゴッホがアルルで親しくしていた郵便配達夫、左側のジョゼフ・ルーランという人の奥さんの肖像ですが、こういう人物画が多くあります。


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http://www.salvastyle.org/menu_impressionism/view.cgi?file=gogh_roulina00&picture=%97X%95%D6%94z%92B%95v%83W%83%87%83%5B%83t%81E%83%8B%81%5B%83%89%83%93%82%CC%8F%D1%91%9C&person=%83t%83B%83%93%83Z%83%93%83g%81E%83t%83@%83%93%81E%83S%83b%83z&back=gogh_roulina


この2点とも、ゴーギャンが来てからゴッホが描いたものです。秋から冬に向かうにしたがって、南仏でも寒くなりますから、戸外での風景画より室内での人物画ということはあると思いますけれども、何よりもゴーギャンが来てから人物画が増えたのは、ゴーギャンの圧倒的な影響によるものに間違いありません。

 これは先程右側に出ていた、オーギュスティーヌ・ルーランという同じモデルをゴッホとゴーギャンがイーゼルを並べて描いたものです。


http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Paul_Gauguin_-_Madame_Roulin.jpg

http://art.pro.tok2.com/G/Gogh/vv009.htm


中央にモデルがいて、右側と左側から描いています。たとえば、このゴッホの作品の場合は、左側のゴーギャンの作風ですね。画面全体を輪郭線をもった大きな色面で構成していくことが非常によくあらわれていて、とにかくキャンパスを並べて描いていますから、影響がないわけはない。とりわけゴッホはゴーギャンのことをとても尊敬していますから、ゴーギャンの影響がとても強く出てきます。
これもゴーギャンを手本にしたもの。ゴーギャンがアルルで描いたアルルの公園の様子。

http://www.abcgallery.com/G/gauguin/gauguin20.html

ゴッホはそれを見た上で描いた。これはアルルの情景ではなくて、ゴッホが(エッテンの庭の思い出)、つまり昔両親と一緒に暮らしたオランダの様子を思い出して描いているものです。

http://www.abcgallery.com/V/vangogh/vangogh86.html

 タッチからすると、まだここにはスーラ張りの点描が見えます。けれども、スーラ張りの点描はありながら、画面の構図とか、それぞれの部分を大きく輪郭線でくくって色と色をぶつけ合うといったところは、完全にゴーギャンの影響下にあります。そして何よりもゴーギャンの影響が最も強くあらわれているのは、そもそも(エッテンの庭の思い出)という主題自体です。

 それはどういうことかというと、ゴーギャンという人は、とにかく人物画を描く。そして

「人物画でも最高のものは、宗教画とか歴史画とか物語画とかいうもので、そういうものを画家は想像力で描くんだ。あくまでも一人一人の人物はモデルがいて、描くのだけれども、たとえばイエス・キリストを描くときに、イエス・キリストそのものがいるわけではなくて、誰か男のモデルを写した上で、しかし描かれる世界は空想の世界なのだ。絵画は頭で描くのだ。テキストを読んで、そのテキストをどうやったら視覚化できるかを考えて頭で描くものなのだ。抽象のものなのだ」

という考え方をゴーギャンは持っていました。 ですから、ゴーギャンはゴッホにいつもこう言います。

「君はとにかく目の前にあるものしか描かないけれども、それでは画家としてほんとうの歴史画とか宗教画は描けない。ほんとうに歴史画とか宗教画とかを描きたければ、目の前にある人物をモデルにしてもいいけど、作品の主題自体は頭でこしらえて描かなければいけない」。

そのゴーギャンの言うことを受けた上で、ゴッホはゴーギャンがいるときに何点か頭で描く作品を描いています。そのうちの1点がこれです。つまり、いま目の前にはない、自分の記憶の中にしかないエッテンの庭の光景、実際いま目の前に見えていない人物、具体的に言えば自分のお母さんと妹なわけですが、それを自分の想像力で描くことをゴッホはここでやっている。

 ただ人物画であるというだけでなく、あるいは構図とか色彩の扱い方にゴーギャンの影響が強くあらわれているだけではなくて、作品の描き方、描く態度、主題自体が実はゴーギャンの影響をとても強く受けているのです。ゴッホがそれまであまりやってこなかったことを、ゴーギャンとの共同生活の中でゴッホは行っています。

 先程お見せした絵で描かれているモデルは、オーギュスティーヌ・ルーランという、当時アルルに暮らしていた郵便配達の奥さんですが、しかし、この作品は単にオーギュスティーヌ・ルーランの肖像であるだけではなくて、ここに(ラ・ベルスーズ)とわざわざ題名が書いてあります。「ラ・ベルスーズ」とはどういうことかというと、「子守女」あるいは「子守歌」ということです。ゴッホは自分の弟のテオに宛てた手紙の中で「この作品はこういうふうに飾ってほしい」と書いています。真ん中に「ラ・ベルスーズ」を置いて、両脇にひまわりを置くという構成は、昨年、新宿の損保ジャパン東郷青児美術館でやった「ゴッホと花の展覧会」でこういう飾られ方をしたので、覚えていらっしゃる方もあるかと思います。

 結論だけ言うと、ゴッホはこういうふうに飾ることによって、宗教的な三幅対、真ん中に聖母子像があって、両脇に複数の聖者たちがいる三幅対を考えているので、ゴッホはこれを宗教画として考えている。

つまり実際に描かれているのは、目の前にいるオーギュスティーヌ・ルーランという個人なのですが、そこに描きたかったものは、個人であるよりも、むしろ母親、たとえば聖母マリアといったものだった。

そういう意識があるわけで、そういうことからすると、やはりこれもゴーギャンがいたからこそ描かれた、とても概念性の強い作品だと言っていいと思います。
 これもやはりゴーギャンの影響下で描かれたもので、左側はゴーギャンがアルルの酒場を描いたものであり、この手前に描かれているのは、その酒場の女主人であったジヌー夫人という人です。

http://www.abcgallery.com/G/gauguin/gauguin18.html


この作品を見て、ゴッホはこういう作品を描いています。人物画です。

http://www.salvastyle.org/menu_impressionism/view.cgi?file=gogh_ginoux00&picture=%83A%83%8B%83%8B%82%CC%8F%97%81i%93%C7%8F%91%82%B7%82%E9%83W%83k%81%5B%95v%90l%81A%96%7B%82%F0%8E%9D%82%C2%83W%83k%81%5B%95v%90l%81j&person=%83t%83B%83%93%83Z%83%93%83g%81E%83t%83@%83%93%81E%83S%83b%83z&back=gogh_ginoux


そして、ここでもゴッホは、単にジヌー夫人の肖像画ではなくて、ここに本を置いており、(読書する人)というような、単なる肖像画ではない意味を与えています。これも、主題の上でも描き方の上でもゴーギャンの影響がとても強いものです。くっきりした赤、緑、黄色、青というような色をぶつけ合っています。


本領を封じられたゴッホ


 けれども、ゴーギャンの影響下で描かれたこういう作品、とりわけ概念性の強い人物画の大多数は、結論から言ってしまうと、失敗作だったと言っていいと思います。つまり、ゴッホは本来目の前にあるものを目の前にあるように描く。それから何よりも、きっちりとした枠取りの中にものの形をおさめるよりも、自由なタッチを使って描く。自由な色彩を画面全体に散りばめて描くのがゴッホの本領だったと思うわけで、ゴーギャンに強くひかれたアルル時代の88年の秋から89年の初めまでは、ゴーギャンが来なければ、本来ゴッホがパリで印象派から学んだことからアルルの風景画で一気に進められたものが、ちょっと逆戻りした時代だと私は思っています。

 本来ゴッホが持っていたものに本来のゴッホとは異質なゴーギャン的なものが入ってきたことが、単に美術史の上だけではなく、、ゴッホとゴーギャンが個人的にぶつかったことの1つの原因でもあったと思います。 様式の上で、ゴッホとゴーギャンがアルルで暮らしていた時代は、ゴッホにとってはちょっと不本意ながら、ゴーギャンに強くひかれ過ぎた時代だと私は考えています。


アルル時代に描かれたゴッホの駄作


 ゴッホがアルルで描いた、ゴッホの全生涯を含めて最も駄作と思われる作品をここでお見せします(笑)。これは日本の個人蔵となっています。もしかすると、この中にお持ちになっている方がいらっしゃるかもしれません(笑)。そうでしたら大変申し訳ないと思うのですが、これはゴッホが想像で描いたものです。まさに右にあるのと同じような(読書する)という絵。ここに電球か太陽かよく分からないものがある。つまり「読書」によって「精神の光」をあらわそうとした、とても概念的なものです。しかし、電球だか太陽だか分かりませんし、図書館の中で本を読んでいる女性なのですが、手といい顔といい、デッサンも何もなっていなければ、構図もないというような作品です。これもゴーギャンの影響で、「読書は精神の糧なのだ。光なのだ」ということを無理やり表現しようとした結果、どうしようもない作品になっている(笑)。

 やはり本領はこういうところにないという1例と思っていただきたいと思うわけです。ゴッホの本領はこういうところですね。これは残念ながら今回の展覧会にはきていませんけれども、クレラー・ミュラーが持っているとても素晴らしい作品ですが、何の変哲もない平べったい平地を縦にくるタッチ、横にくるタッチ、細かいタッチ、様々なタッチのバリエーションをつけながら見せていく作品です。
 これは先程右側に出ていた作品の部分です。全体として、どこが緑色、どこが青というように大きな塊はないけれども、画面全体にいろんな色彩があり、花とか草とか木とか、それぞれ描く対象に応じて、それを描くのにふさわしいタッチを見せていく。これがやはりゴッホの本領だと言っていいと思います。これもアルルの作品です。これはアルルの郊外のモンマジュールというところに修道院の廃墟があるのですが、そこの風景です。これは部分図です。

 部分図だとよく分かると思いますけれども、ゴッホにとって絵具は単にものを描写する手段、たとえば木の幹だとか葉っぱを描写する単なる描写の手段ではなかった。まさに画面の中に絵具というツヤのあるものを置く。しかも同時にそれが葉っぱであったり、雲であったり、木の幹であったりする。絵具であると同時に葉っぱであり、葉っぱであると同時に絵具である。そのようなものとして、筆を使って絵具を画面に置いていく。場合によっては、指を使ってこねていくといったように。

 ゴッホにとって絵は、概念的なものであるというより、絵具、絵具のタッチ、筆が画面の上に残していく痕跡といったようなものです。目の前にある葉っぱとか岩とか雲がダイレクトに黄色い絵具とか緑の絵具に結び付くのが彼の制作のあり方です。もちろん、そういう制作のあり方を最初に開拓したのは印象派の画家たちです。中でもとりわけモネだったと思いますが、そのようなモネが開拓した、絵具と目に見える世界との関係をさらに先へ進めたのはゴッホであった。その道を如実に示しているのがアルルでの風景画だといわれています。 

 左側はアルルでの風景画の1つの極です。細かいタッチよりも長いタッチで、枯れていくような、あるいは夏の光でまっ黄色になった草と柳の枝が描かれている。太陽から発する光を絵具の筋、タッチだけで示している。

 右側の絵は、アルルの運河に輝く光、水の輝きを、単なる色だけではなく、タッチであらわしていくというゴッホの目指していたもの、印象派からゴッホが引き継いで完成させていったものを示していると思います。


http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Starry_Night_Over_the_Rhone.jpg

こういう作品を見ると、ゴッホにとっての印象派は、必ずしも鮮やかな色彩が充ち満ちているものとは限らなかったのですね。

 たとえば印象派の中でも、ほとんど色彩がない「雪景色」などがけっこう重要な役割を果たしていますから、「印象派の作品=鮮やかな色彩」とは必ずしも言えないのですが、ゴッホの作品の中でもそうです。たとえば、左側の(星月夜)にしても、色からすると単なる青と部分的な黄色だけです。


http://www.abcgallery.com/V/vangogh/vangogh49.html

だけど、その青と黄色という非常に単純な2色が、さまざまな絵具のタッチの組み合わせによってこれだけ複雑な画面を生み出し得ることをゴッホは示しています。左側の作品には鮮やかな青があります。


色彩、タッチ、絵具のツヤ


 右側の作品なんかには、ほんとうに色らしい色はない。みんな中間色、もやっとした灰色に近い色です。これは耕された畑をあらわしています。印象派の作品と比べると、とても地味な作品ですが、この作品が何でもっているかと言えば、まさに掘り返された畑のうねの盛り上がった土の様子、ここの部分図です。鋤(すき)を押して畑を耕している人物が描かれている部分ですが、こういう畑の土の盛り上がり、あるいは人物、馬、空の雲、そういうものが、まさにハッキリとした手応えをもった絵具のタッチでこしらえられている。ゴッホにとってほんとうに風景画で大事だったのは「色彩、タッチ、絵具」なんですが、こういう作品を見ると、その中でもほんとに「タッチ」がとても重要だったことが分かると思います。


絵具のツヤ


 スライドで見るとよく分かりませんが、ゴッホにとって絵具が大事だったことは、展覧会の会場で見ていただくとよく分かります。今回の展覧会の会場には30点のゴッホの作品の他に、ゴッホに影響を与えたシニャックとか、ゴーギャンの仲間だったラバールであるとか、セザンヌの作品も出ています。それをご覧になっていただくとよく分かるのですが、そもそもセザンヌにしてもゴーギャンにしても、こういう「盛り上げ」というのは使っていません。わりと全体に層の薄い絵具です。それをゴッホと比べてみると、とにかくゴッホは絵具の盛り上がりがものすごいことが分かります。 

 もう1つ違うところは、ゴッホがセザンヌやゴーギャンやシニャックとハッキリ違うところは「絵具のツヤ」です。ゴーギャンやセザンヌやシニャックの画面の表面はカサッとしています。セザンヌやゴーギャンやシニャックは、絵具をわりと多くの揮発性の油で溶いて、表面をカサッと仕上げます。とりわけゴーギャンという画家は、ちょっと粉をふいたような、白っぽくなったくらいの表面のテクスチュアを好むのですが、ゴッホは絞り出したまま、ほとんど揮発油で溶かないツヤツヤとした絵具を好みます。会場でご覧になると、そのことがとてもよくお分かりになると思います。

 ゴッホはそれほど絵具のツヤを大事にした。セザンヌやゴーギャンやシニャックにとって、絵具は、自分が描きたい対象なり主題なりを描くための手段という部分があります。けれども、ゴッホの場合は、絵具が単なる手段ではなくて、絵具がそのもの自体としてツヤを持ち、盛り上がりを持ち、存在感を持っている。絵具は「畑の土であると同時に絵具である」といったこと、それはゴッホがパリで印象派に学び、スーラやゴーギャンからもいろいろ刺激を受けながら自らの道としてアルルで確信し、展開していったと思われています。

 これなんかも、色彩からいってもテーマからいっても何の変哲もないもので、まさに「絵具のタッチを見せる」「絵具のタッチを感じてほしい」それだけで成り立っているような作品ですね。あるいは、今回来ているアムステルダムのゴッホ美術館の(種蒔く人)。

http://www.abcgallery.com/V/vangogh/vangogh35.html
http://www.abcgallery.com/V/vangogh/vangogh36.html

http://www.salvastyle.org/menu_impressionism/view.cgi?file=gogh_semeura00&picture=%8E%ED%82%DC%82%AD%90l%81i%8E%ED%82%F0%82%DC%82%AD%90l%81A%94_%95v%81j&person=%83t%83B%83%93%83Z%83%93%83g%81E%83t%83@%83%93%81E%83S%83b%83z&back=gogh_semeura


この左側の(種蒔く人)は6月に描かれたもので、まだゴーギャンが来る前のものです。ですから、画面全体はわりと単純であるし、(種蒔く人)という主題は、ゴッホにとっては概念的なものなのですが、種蒔く人の姿もそれほど大きくはなっていません。

 先程の話にもう一度戻ると、同じ(種蒔く人)でも、これはゴーギャンが来る直前に描いたものです。種蒔く人が風景画全体の中で一番小さくなっている。色彩の点でも地味なものになっていて、むしろ畑のごつごつとした土がメインになっている。ゴーギャンが来る直前には、ゴッホはここまで風景画の試みを進めているのですが、ゴーギャンが来ると、この同じ(種蒔く人)という主題でも、ずいぶん違ったものになります。

 これがゴーギャンが来たときに描かれたもので、ゴーギャンが来る前はこうだったものが、ゴーギャンが来ると、いきなりゴーギャン張りのものになって、「種蒔く人」も画面の後ろのほうにいるのではなくて、中央に出て来ることになります。そして、これが一番ゴーギャンの影響の強い(種蒔く人)です。先程、ゴーギャンが来たことによって人物画がメインになってきたと言いましたけれども、風景画の中でも、たとえば(種蒔く人)を描いた風景画の中では、これだけハッキリとゴーギャン張りの作風が強くなってきます。

 これなんかは、ゴーギャン張りであると同時に、パリで学んだ広重、日本の浮世絵から学んだようなものが強く反映されています。あるいはゴーギャンが直前に描いたこういうものの影響は明らかです。それから、ゴーギャンの影響という点で忘れることができないのは、左側のゴーギャンが描いた(青い木のある風景)。これも当時のゴーギャンの典型的な風景画で、ゴーギャンはこういう様式を持っていたのですが、おそらく「風景画もこういうふうに描け」とゴッホに言ったのでしょう。
 それがよく分かるのは、ゴーギャンがゴッホと机を並べて描いた(ルーラン夫人)です。背景にあるこれ、何だと思いますか? 実はゴーギャン自身の絵なんですね。おそらくゴーギャンは、この絵をアルルへ持って行き、ゴッホに見せることによって、ゴッホの目の前で「風景画はこう描くものだ」と示したのでしょう。
 これだけではありません。これはゴーギャンがアルルで描いた有名な(ゴッホの肖像)です。


http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Paul_Gauguin_104.jpg

ゴッホが(ひまわり)を描いているところ。アルルで、ゴッホの前でゴッホの肖像を描いた、その背景にも、やっぱり同じ作品の部分があります。ちょっと構図は違いますけれども、黄色い道があって、緑の道があって、青い木が生えている。だからゴーギャンはゴッホの前で、風景画においても「とにかくこう描くのだ」ということを、とてもハッキリと強要したと言ってもいいと思います。そういうことをやっている。ですから、人物画ではなくて、風景画においても、ゴッホの中には大変ハッキリとゴーギャン張りがあらわれてきます。 

 これはアルルの有名な名所である古代の石のお墓が並んだ並木道です。実際のアルルの景色を前にゴッホが描いたものですが、これは明らかにゴーギャンのこの作品を手本にしていますね。


http://www.abcgallery.com/G/gauguin/gauguin98.html

ゴーギャンの作品を手本にして、それを非常に単純にしたようなもの。
ですから、ゴーギャンが来たことによって、人物画がメインになっただけではなく、風景画においても、ゴッホがそれまで持っていたアルルで獲得した持ち味がなくなって、言ってみれば、紋切り型というか、型にはまったような風景画になってしまったのです。


サン=レミからオーヴェールへの旅立ち


 もう1点、これなんかも典型的ですね。左の絵なしにはあり得ないもので、これなんかも、ゴッホの作品の中では、ほんとうに型にはまった身動きのとれないものになっています。もちろん、手前に木の幹を並べて、画面の上とか下で切ってしまうというのは、広重の作品なんかでも見たような、日本の浮世絵の影響がありますが、そういう日本の浮世絵から受けた影響なども、とても図式的なものになっていると言わざるを得ないと思います。

 こういうふうに、88年の10月からゴーギャンの影響があって、12月にゴーギャンとの決定的な衝突があって、耳切り事件があって、ゴッホは入院する。その間にゴーギャンは怪我をして入院したゴッホを置き去りにして、パリに逃げ帰ってしまうわけです。しかし、ゴーギャンがパリに逃げ帰ったことは、個人史としてはともかく、美術史の立場からすると、ゴッホにとってはとてもよかったと思います。つまりゴーギャンがいなくなったことによって、制作の上ではゴッホはすぐに自らを取り戻します。

 自らを取り戻したところ。これは、ゴッホが入院していたアルルの病院の中庭を描いたものです。


http://www.salvastyle.org/menu_impressionism/view.cgi?file=gogh_jardin00&picture=%83A%83%8B%83%8B%82%CC%95a%89@%82%CC%92%EB%81i%83A%83%8B%83%8B%82%CC%97%C3%97%7B%89@%82%CC%92%EB%81j&person=%83t%83B%83%93%83Z%83%93%83g%81E%83t%83@%83%93%81E%83S%83b%83z&back=gogh_jardin

もうここでは、ちょっと前の、とてもゴーギャンの影響の強かった、画面全体を非常にハッキリとした輪郭線で描き、タッチが見えないほど激しい色彩をぶつけ合っていくといった様式は、すでに跡形なくなっています。たとえば、直前に見た作品と比べてみれば、ゴッホがここで再び、画面全体に散りばめられた鮮やかな細かいタッチを取り戻していることがわかります。

 左側も1889年の初めに描かれたもので、主題から言えば、手前に木を置いて、日本の浮世絵の構図の影響があるものですが、画面全体は青、白から水色、青緑という1つの色調に整えられており、その中で、手前の部分はこういう方向へ、この部分はこう、幹はこういうふうにうねるような色彩で、花咲く果樹はこういう色彩と花をあらわすプツプツとしたタッチで、空の部分は横の方向へ進む短いタッチで、というふうに、ゴーギャン滞在中に抑えられていた様々なタッチのニュアンス、バリエーションといったものが再び登場しています。

 ゴーギャンが去った後、すぐにまた本来の自分の様式を取り戻したゴッホは、この後、誰にも邪魔されず、アルルから離れたサン=レミの病院に閉じ籠もります。個人史からすると、「病院に閉じ籠もる」というのは大変なマイナスですが、誰の影響も受けず、誰からも何も言われずに、自らの思うまま、周辺にある自然を相手にして描く、そういう環境が生まれたという点においては、アルルからサン=レミに移ったことも、美術史からすると、ゴッホの様式の展開のためには幸運だったという気もします。

http://jfn.josuikai.net/josuikai/21f/58/ari1/main.html


重工業化、近代工業化とともに、前の時代までの支配階層(王候貴族等)と市民と農民階層(平民たち)という身分制社会構造が、いわゆる資本主義の構造へと変化していく過程として急速に出現してくる。それが19世紀半ばから第1次世界大戦までの時期です。

 その間に大変な転換が見られるわけで、いわゆるバブル期もあれば、その反動としての恐慌もあるといったバブル・恐慌を繰り返しながら雪ダルマ式に近代資本主義世界が展開していく時代が、まさに美術史の上で言う印象派の登場からゴッホが死ぬあたりまでの大きな転換期であったわけです。 印象派やゴッホの絵画には、そのような社会的な大きな流れがいろいろな意味で深い関係を持っていたということがきょうのお話になります。


ゴッホの自画像

 
このスライドは、左右両方ともゴッホが描いた(自画像)です。左側のパリで描いたものは、印象派あるいはスーラなどの影響を感じさせます。明るく鮮やかな色彩、細かいタッチで描いていくという作風だったわけですね。


http://commons.wikimedia.org/wiki/File:WLANL_-_MicheleLovesArt_-_Van_Gogh_Museum_-_Self-portrait_1887_-_1888.jpg


 それに対して、右側はアルルで描いた(自画像)です。


http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Vincent_Willem_van_Gogh_111.jpg


先週見たように、アルルでは、風景画でずいぶん大胆な展開がいろいろあったわけですが、人物画の場合にはどちらかというと、奔放なタッチを見せるというよりは、わりと輪郭線がはっきりとして、大きく色の面が並べられるといった作風になっています。もう一つアルルでの人物画の特徴は、わりと抽象的な概念が付いているということでした。これも有名な、日本のお坊さんとしての(自画像)というものですが、かなり概念性の強いものですね。


http://www.salvastyle.org/menu_impressionism/view.cgi?file=gogh_memec00&picture=%91m%97%B5%82%C6%82%B5%82%C4%82%CC%8E%A9%89%E6%91%9C&person=%83t%83B%83%93%83Z%83%93%83g%81E%83t%83@%83%93%81E%83S%83b%83z&back=gogh


 アルルでの人物画の特徴をいちばん典型的に示している(自画像)といえば、この作品です。

http://www.salvastyle.org/menu_impressionism/view.cgi?file=gogh_memeb00&picture=%83p%83C%83v%82%F0%82%AD%82%ED%82%A6%82%E9%95%EF%91%D1%82%CC%8E%A9%89%E6%91%9C%81i%93%AA%82%C9%95%EF%91%D1%82%F0%8A%AA%82%AB%96%D1%94%E7%82%CC%96X%8Eq%82%F0%94%ED%82%C1%82%BD%83p%83C%83v%82%CC%8E%A9%89%E6%91%9C%81j&person=%83t%83B%83%93%83Z%83%93%83g%81E%83t%83@%83%93%81E%83S%83b%83z&back=gogh


ゴーギャンとの事件があり、入院して、まだ退院できるかできないかという頃に描いた、パイプをくわえて、耳を切ったあとの包帯がある(自画像)ですが、まさにゴーギャンの影響が典型的に表れていますね。

 ちょうど同じころゴーギャンが描いたゴーギャンの(自画像)もずいぶん概念性の強いものです。頭の上にはまるでキリスト教の聖者であるかのように光輪が付いています。このゴッホの(自画像)は、ゴーギャンの作品に典型的に見られる、輪郭線がはっきりして、背景なんかもキッチリ色で分けて塗っていくようなやり方を示しているわけです。

 しかし、遂にゴッホはゴーギャンの影響から脱して、サン=レミからさらにオーヴェールへ移り住みます。そして最晩年の作品になると、完全にゴーギャンを越えてゴッホ自身の様式を確立しています。

 たとえば、これも有名なサン=レミでの代表的な(自画像)ですが、画面は鮮やかな色彩がぶつかり合うというよりも、ほとんどもう1色で、顔のオレンジっぽい色と背景の薄青というほとんど2色になっています。


http://commons.wikimedia.org/wiki/File:SelbstPortrait_VG2.jpg

画面がどう構成されているかというと、特に重要なのは背景の部分で、べっとりと二つの鮮やかな色に塗られていたアルル時代の(自画像)に比べれば、後ろの部分は1色で、しかし、その1色の部分に炎のように渦巻くような筆のタッチが見られます。こういうふうに、色彩、絵具の力、それ以上にタッチのうねり、タッチの組み合わせで画面を見せていく作風が、このサン=レミの(自画像)にも非常にはっきりと表れています。


サン=レミからオーヴェール


 このようなことが典型的にサン=レミ時代の油彩画に見られます。これなども、パッと見ると風景画というより抽象絵画ではないかと思われるぐらいです。


http://art.pro.tok2.com/G/Gogh/vv032.htm


サン=レミの近くにあった岩山や洞窟地帯の風景画ですけど、画面に何が描かれているかというよりも、われわれの眼前には「絵具のうねりがある」「タッチの絡み合いがある」といった作品です。ほんとうにパッと見ると抽象画じゃないかと思えるような絵具の力を見せている。そのタッチのうねり、組み合わせで見せていくことが、もうサン=レミ時代にはごく当たり前のことになっています。

 タッチの使い方にもいろいろあります。これはもう少し分かりやすい、サン=レミの病院の入口を描いたものですが、空の部分、木の部分、幹の部分、地面の部分と、さまざまなタッチを組み合わせている。


http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hospital_in_Saint-Remy.jpg

もしこれが平面的にペタッと塗られていると、ずいぶん違った感じになるだろうと思わせる作品です。

 ゴッホのサン=レミの病院の窓から見た風景があります。病院の近くの麦畑とか(オリーブの果樹園)です。


http://art.pro.tok2.com/G/Gogh/vv034.htm


先ほどの岩山の様相などと並んで、このオリーブ園などは、「オリーブが描きたい」「山が描きたい」というよりも、山やオリーブの樹という形を借りて「タッチの躍動感を見せたい」というか、「絵具がうねるような世界」といった感じの作品になっています。そういう意味では、ゴッホのサン=レミ時代の作品の中では最も抽象性の強い作品だと思います。


 この麦畑もそうですね。

http://www.abcgallery.com/V/vangogh/vangogh110.html


(刈取る人のいる麦畑)ですが、画面全体がほとんど真っ黄色になっている。そして、地面の刈り取られた麦の部分と空の部分とは、タッチの違いだけで対象の違いを描き出しています。

 次はサン=レミ時代、ゴッホの見事なタッチの頂点にくる2点です。左側は(星月夜)(何年か前MOA展覧会で日本にも来ている)、右側は(糸杉と星の見える道)(1890年)(今回のゴッホ展に来ている)です。


http://www.salvastyle.org/menu_impressionism/view.cgi?file=gogh_night00&picture=%90%AF%8C%8E%96%E9-%8E%85%90%99%82%C6%91%BA-&person=%83t%83B%83%93%83Z%83%93%83g%81E%83t%83@%83%93%81E%83S%83b%83z&back=gogh_night

http://www.salvastyle.org/menu_impressionism/view.cgi?file=gogh_cypres00&picture=%8E%85%90%99%82%C6%90%AF%82%CC%8C%A9%82%A6%82%E9%93%B9%81i%96%E9%82%CC%90%AF%8B%F3%81A%89%D7%8E%D4%81A%92%CA%8Ds%90l%81j&person=%83t%83B%83%93%83Z%83%93%83g%81E%83t%83@%83%93%81E%83S%83b%83z&back=gogh_cypres


この(星月夜)は、ほんとうの空には渦巻きなんてないのですが、夜空の星の輝き、星と月の光が満ちている夜空をこういう大胆なタッチの渦で描いていくことをゴッホは行っています。

 つづいて、最後の半年ほどのオーヴェール時代の作品をお見せします。サン=レミで培われた彼の手法はオーヴェールでも一層展開されています。右側は広島美術館所蔵の(ドービニーの庭)という作品ですが、色彩の変化はそれほど大きくありません。

http://art.pro.tok2.com/G/Gogh/vv079.htm
http://art.pro.tok2.com/G/Gogh/vv080.htm


ゴッホは色彩の画家と思われがちですが、サン=レミとかオーヴェール時代の作品だと色の幅はそれほど大きくない。どちらかといえば、わりと一つの系統の色ですね。(ドービニーの庭)にしても、白から青と緑の幅を越えていないのです。でも、それほど大きくない色彩の揺れの中で、濃淡と明暗、タッチの違いで画面をこしらえているわけです。

 有名な(オーヴェールの教会)と(カラスのいる麦畑)といった作品は、どちらかといえば色の塗り方が平面的で、鮮やかな色彩がぶつかり合っています。

http://www.salvastyle.org/menu_impressionism/view.cgi?file=gogh_eglise00&picture=%83I%81%5B%83%94%83F%81%5B%83%8B%82%CC%8B%B3%89%EF%81i%83I%81%5B%83%94%83F%81%5B%83%8B%82%CC%90%B9%93%B0%81j&person=%83t%83B%83%93%83Z%83%93%83g%81E%83t%83@%83%93%81E%83S%83b%83z&back=gogh_eglise

http://www.salvastyle.org/menu_impressionism/view.cgi?file=gogh_champ00&picture=%89G%82%CC%82%A2%82%E9%94%9E%94%A8%81i%83J%83%89%83X%82%CC%82%A2%82%E9%94%9E%94%A8%81j&person=%83t%83B%83%93%83Z%83%93%83g%81E%83t%83@%83%93%81E%83S%83b%83z&back=gogh_champ


しかし、同じ麦畑でも、ほとんど同じ時期に描かれた、黄色と青の色彩のぶつかり合う(麦畑)もあるかと思えば、先ほどの(ドービニーの庭)と同じように、白から青、水色、薄緑、青、緑といった辺りまでのおとなしい控えめな色彩でタッチの変化を見せていく麦畑も描かれています。

http://www.abcgallery.com/V/vangogh/vangogh109.html

 ゴッホにとって、手段は単に強烈な色彩だけではなくて、タッチがとても重要な役割を果たしていたのです。
http://jfn.josuikai.net/josuikai/21f/58/ari2/ar2.htm

(パリ)ゴッホと浮世絵
http://www.youtube.com/watch?v=3TFv_rqFNIU

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/321.html#c6

[近代史3] 凡人が天才になる方法はあるか? 中川隆
7. 中川隆[-10931] koaQ7Jey 2019年4月05日 02:02:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1097]

まともな人間は芸術家にはなれない _ 3


ゴーギャンは何故ヨーロッパを捨ててタヒチを選んだのか?

『楽園への道』

  「ここは楽園ですか」「いいえ次の角ですよ」。子供たちが集まっての鬼ごっこ。主人公がフランスとペルーとポリネシアで見かけた子供たちの遊び―そこには「楽園に辿りつきたい」という世界共通の願いが込められています。ペルー生まれの作家バルガス・リョサ著『楽園への道』 (河出書房新社 08.1刊、池澤夏樹編世界文学全集第2巻)は、多くの人たちがユートピアを追い求めた19世紀に生きた、時代の反逆者にして先駆者であった二人の生涯を追った歴史小説です。

「スカートをはいた扇動者」といわれたフローラ・トリスタン(1803-1844)と「芸術の殉教者」ポール・ゴーギャン(1848‐1903)。二人の飽くことのない凄まじいばかりの「楽園」追求に圧倒されます。二人は、祖母と孫の間柄でした。

41歳で亡くなったフローラの短い人生を象徴するのは、彼女を絶えず襲う膀胱と子宮の痛み、そして心臓の近くに食い込んだ銃弾でした。原因は、夫であった版画家のアンドレ・シャザル。ペルー人の父親の死後、貧困な生活の中で母親から無理強いされた結婚。「夫と暮らしたあのぞっとする4年間に、一度として愛の営みをしたことがなかった。毎晩、交尾した。いや、交尾させられたのだ」。この下腹部の痛みは、結婚以来続いています。胸の銃弾は、フローラが裕福な叔父のいるペルー(夫からの逃亡先)からフランスに戻り、自らの半生を書いた自伝で成功を収めたときシャザルに撃たれ、手術後心臓近くに残ったものです。

 アリーヌは、シャザルとの間のフローラの3番目の子供。アリーヌは、シャザルに3度誘拐され、強姦されます。フローラはシャザルを告訴し、その争いの中で、シャザルに撃たれたのです。不幸な娘アリーヌは、ジャーナリストのクロヴィス・ゴーギャンと結婚し、ポールを生みます。1848年の革命後、クロヴィスは家族を伴って、新天地を求めてペルーに向かいます。しかし旅の途中で病死し、アリーヌは二人の子供とともにペルーへ。ペルーでは、裕福な祖父の弟に歓迎され、アリーヌも子供たちも、生まれて初めて幸福な日々を送ります。ポール・ゴーギャンが、南の地に「楽園」をイメージするのは、このときの体験によるものです。

 ポール・ゴーギャンは1891年6月、タヒチに到着します。43歳のときです。93年に一度フランスへ帰りますが、95年再びタヒチへと戻ります。1901年9月にタヒチから更に「未開」の地マルキーズ諸島に移り、03年に55歳で亡くなるまでその地に住み続けました。

 タヒチでの最初の妻テハッアマナをモデルに描いたのが『マナオ・トゥパパウ(死霊がみている)』。裸でうつ伏せになったハッアマナがトゥパパウ(死霊)に怯えている。ヨーロッパがなくしてしまった幻想的な経験に、ゴーギャンは興奮に震えます。

 『パペ・モエ(神秘の水)』。樵の少年と彫刻の素材を探しに、山に入っていきます。冷たい水の中に入り、少年が身体を寄せてきます。「青碧色の空間、鳥のさえずりもなく、聞こえるのは岩に当たるせせらぎの音だけで、静寂と安らかさ、解放感が、ここはまさしく地上の楽園にちがいないとポールに思わせた。またもやペニスが硬くなって、かつてないほどの欲望に気が遠くなりそうだった」。ゴーギャンは、マフー(両性具有者)に、偉大な異教文明ならではの自然さを感じます。著者バルガス・リョサのホモ・セクシャルなシーンは、ここでも美しい。

ゴーギャンは主張します。「美術は、肌の白い均整の取れた男女というギリシャ人によって作り出された西洋の美の原型から、不均衡で非対称、原始民族の大胆な美意識の価値観に取って代わられるべきで、ヨーロッパに比べると原始民族たちの美の原型は、より独創的で多様性に富んでいて猥雑である。・・・

原始芸術では、美術は宗教とは切り離すことはできず、食べることや飾ること、歌うこと、セックスをすることと同様に、日常生活の一部を形成している」と。


 盲目の老婆のエピソードは、ゴーギャンの立ち居場所を示唆して、興味深い。ゴーギャン自身も、極度に視力を衰えさせています。ボロを身にまとった老婆が、どこからともなく現われます。杖で左右をせわしく叩きながら、ゴーギャンのもとにきました。

「ポールが口を開く前に老婆は彼の気配を感じて手を上げ、ポールの裸の胸にさわった。老婆はゆっくりと両腕、両肩、臍へと手でさぐっていった。それからポールのパレオを開いて、腹をなで、睾丸とペニスをつかんだ。検査をしているかのように、彼女はつかんだまま考えていた。

それから表情を曇らせると、彼女は胸糞が悪そうに叫んだ。「ポパアか」・・・
マオリの人々はヨーロッパ人の男をそう呼ぶのだった。」

ポリネシアに「楽園」を夢見てきたゴーギャンの、挫折の場面です。セックスによって原始にアプローチし、そしてセックスによって原始から挫折するゴーギャン。1903年、ひどい悪臭を漂わせながら、死んでいきました。

そして、最も忌み嫌い反抗し続けたカトリック司教の決めた場所に埋葬されました。 墓碑銘としての司教の手紙には、次のように書かれていました。

「この島において最近、記すに足ることはひとつ、ポール・ゴーギャンという男の突然の死だが、彼は評判高い芸術家であったが神の敵であり、そしてこの地における品位あるものことごとくの敵であった」
http://minoma.moe-nifty.com/hope/2008/01/post_937b.html


ゴーギャン展 東京国立近代美術館。


 展示は解り易く年代順に、師ピサロを含めた印象派の影響がいかにも強い初期の数点から始まる。1886年のブルターニュ滞在以降、次第に「ゴーギャンらしい」絵になっていき、そして91年のタヒチ行きとなる。

 続いて、連作版画「ノアノア」(1893−94)。帰国後、タヒチの絵の評判が悪かったため、まずタヒチの宣伝をしようと発表したものである。最後はタヒチ移住(1895)からマルキーズ諸島での死(1903)まで、「我々はどこからきたのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」までを含む7点。

以下に掲載した画像のうち、ゴーギャンの作品はすべてこの展覧会で展示されたもの。

『男の凶暴性はどこから来たか』(リチャード・ランガム/デイル・ピーターソン、三田出版会)では、「幻想の楽園」と題する第五章で、南洋諸島に都合のいい「楽園」を見ようとした人物としてゴーギャンを挙げている。

 それによると、ゴーギャン(1848−1903)はタヒチを、ほかの男に邪魔されないプライベート・クラブであり、純真でありながら口説けばすぐに落ちる少女や女たちで溢れた「楽園」として描いた。その楽園には男は一人しかいなかった。

その男は楽園の創設者であると同時に覗き見をする者でもあり、性的な魅力のある若い娘たちの姿に夢を追いながら、自然の中の平和という素朴な観念を満足させていたのである。

 しかし現実の止め処もなく「文明化」していく島での生活に於いては、役人や同国人と絶えずトラブルを起こし、性の相手には不自由しなかったものの、性病が原因で次第にそれもままならなくなっていく。
 
 ま、どんなものにせよ、他人の見解は鵜呑みにすべきではなく、少なくともゴーギャンの「視線」については、ランガムとピーターソンが言うほど単純ではなかっただろう、とゴーギャンの絵の実物を目の当たりにして思いましたよ。

「画家=男」の視線については、ちょうど佐藤亜紀氏が先日の講義でドラクロワ(「サルダナパールの死」)とアングル(「トルコ風呂」)のそれを比較しておられた。

 ドラクロワはサルダナパールに自己投影すると同時に、そんな自分に対する陶酔している。

 一方、アングルの視線は絵の外にある。円いフレームは覗き穴であり、女たちは見られていることに気づいていない。この視点の違いは、それぞれの性格の差にも拠るが、何よりも描いた時の年齢に拠るところが大きいだろう。ドラクロワは29歳、アングルは、なんと82歳である。


1894年「パレットをもつ自画像」。

 そういや、ゴーギャンがどんな顔をしてたのかすら知らなかったのであった。『炎の人ゴッホ』ではゴッホに扮したカーク・ダグラスが、よく似てるだけに、なんつーかコスプレみたいだったが、ゴーギャン役のアンソニー・クインも、結構実物と同じ系列の顔だったのね。

 自画像からは、強い自意識が感じ取れる。ゴーギャンの興味は無論、己の顔の造形やそれをどう描くかではなく、その内面を表現することである。


1892年「かぐわしき大地」。

 ゴーギャンの視点は画面の外にある。女はゴーギャンに、画面の外の男に視線を向けている。彼女の内面は窺えない。だが、視線の先の男に対して興味を抱いているのは明らかだ。言うまでもなく男にとっては、それだけで充分である。

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1890−91年「純潔の喪失」。
 モデルは、お針子でゴーギャンの愛人、ジュリエットだという。妊娠させた彼女を捨てて、ゴーギャンはタヒチへと発つ。 このジュリエットの死体のように蒼褪めた肉体に比べれば、「かぐわしき大地」の女のそれは、まさに黄金のごとく輝く。完璧な肉体の表現に、「内面」は伴っていない。必要ないのだ。


1897−98年、“D'où venons-nous? Que Sommes-nous? Où allons-nous?”

 二分割された画面の右側、背を向けた二人の女は、アングルが好んで描くポーズを思わせる。寄り添って座り、画面の外の男を窺い見る二人の女のうち手前のポーズは、マネの「草上の昼食」と同じである。偶然ではあるまい。

そして、画面の外を窺い見る「異国の女たち」という主題は、ドラクロワの「アルジェの女たち」と共通である。こちらは参考にしたというより、同じ主題を扱えば自ずと似てくるのであろう。

 魂のない、顔と身体だけの存在。無論、「見られる女」の内面が問題とされないのは、むしろ当然である。女が何を考えていようと、「見る男」にはどうでもいい。せいぜい、彼に対して興味を抱いているか否か、くらいなものだ。共有するものが少ない「異国の女」であるなら、なおさらである。

 という、わかりやすい解釈に収まりきらないのが、黒い犬の存在だ。


1892年「エ・ハレ・オエ・イ・ヒア(どこへ行くの?)」

 女たちばかりのタヒチの風景の多くに、この黒い犬は入り込んでいる。ゴーギャンの分身であるのは間違いない。 画面の外から女たちを眺めると同時に、画面の中にもいる。ハレムの王などではなく、女たちと性交できないばかりか、多くの場合、顧みられさえしない存在としてである。

 悪夢さながらの現実の中、描き続けたのは楽園の夢だった。夢そのものは、都合のいい、しょうもない妄想だと断じてしまうことができるだろう。それでもその作品は、紛れもなく力強い。

http://niqui.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/index.html


 ▼ゴーギャンは何故タヒチへ向かったのか?/金丸好良(自由文筆家)▼

「僕は、ゴーギャンで初めてタヒチを知ったんです。そこで、ゴーギャンが、いかにイカレた芸術家だったのかを話したいと思います。はっきり言ってこの人ヤバイ!フランスからタヒチまでなんて、むちゃくちゃ遠いんです。当時で10週間。70日ですよ。こんなに遠いのに何故行ったのか? じつは、出生に関係があるんです。

ゴーギャンは、1才から7才までペルーに住むことになり、黒人の召使いがいるボンボン生活。友達は、中国人の女の子。これもカギを説く1つです。子供の頃の経験は、のちの人間形成に影響すると言いますから。彼のタヒチ体験の基礎は南米のペルーにあるのです。ここがポイント!

フランスに戻ると協調性のない放浪癖のあるちょっと変わった子供で、馴染めなかった。義務教育が終わると、ゴーギャンは見習い水夫に。海への憧れが強かったんですね。彼は何を求めていたのか?『楽園(パラダイス)』です。彼にとって、幼少時代のペルーの生活がまさに楽園だったんです。ゴーギャンは、一生この『楽園』を探し続けるのです…」
http://www.peaceboat.org/cruise/report/32nd/apr/0420/index.shtml

わが国でもっとも広く読まれているゴーギャンの著作は、タヒチ紀行「ノア・ノア」であろう。しかし、これまでの流布本は、友人の象徴派詩人シャルル・モーリスが大幅に手を加えたものを底本にしており、オリジナルにくらべると〈はるかに真実味の薄い、誇張された〉ものであった。

ゴーギャン自筆の原稿をはじめて翻訳した本書は従来看過されていた真の意図を明らかにし、彼の素顔を示してくれるであろう。また、レンブラント、ドガ、セザンヌ、ゴッホ、ルドン、マラルメ、ランボー等に関する思い出やエッセイはこの創造的な芸術家・思想家の内面を語ると同時に、魅力的な作家論ともなっている。

〈私は単純な、ごく単純な芸術しか作りたくないんです。そのためには、汚れない自然の中で自分をきたえなおし野蛮人にしか会わず、彼等と同じように生き、子供がするように原始芸術の諸手段をかりて、頭の中にある観念を表現することだけにつとめなければなりません。こうした手段だけが、すぐれたものであり、真実のものなのです〉(タヒチに発つ前、1891)

〈私は野蛮人だし、今後も野蛮人のままでいるつもりだ〉(死の直前)
http://www.msz.co.jp/book/detail/01521.html

『ゴーギャン オヴィリ』
一野蛮人の記録 ダニエル・ゲラン編/岡谷公二訳 [復刊]

オヴィリとは、タヒチ語で「野蛮人」を意味する。ポール・ゴーギャンが1895年のサロン・ド・ラ・ソシエテ・ナショナル・デ・ボーザール(国民美術協会展)に出品して拒否された、異様な、両性具有の陶製彫刻の題名である。本書のカバーに用いられているのは「オヴィリ」と題された水彩画で、このほか本書の表紙には「オヴィリ」の木版画の複製、扉には「オヴィリ」のブロンズ像の写真が刷り込まれている。

男神にして女神でもあるこの野蛮な神オヴィリに、ゴーギャンは自分をなぞらえていた。ゴーギャンの著作には、野蛮人になりたいというライト・モティーフが、たえず立ち戻ってくる。

ゴーギャンは「粗野な水夫」として人生を始めたと自分で言っているように、もと商船の船員であり海軍の軍艦の乗組員で、株式仲買人の職を捨てて絵画に没頭した。しかし早熟で、しっかりした中等教育を受けた画家=文筆家ゴーギャンには、独学者風なところは少しもなかった。

もっとも洗練された文明の美しさを認める、優れて文明化された野蛮人という本質的二重性。そして一方、オセアニアへの自己追放の中にある、単に文化からの脱走ではない、未開拓な絵画の主題を求めて最後には文化を豊かにするという芸術家としての計算。新しい着想を求めて地球の反対側へと赴いたことは、彼を劇的な矛盾の中にとじこめたが、このような距離をとったことが、遙か彼方の過去・現在の文明を明晰に深く判断することのできる立場を彼に与えた。

ゴーギャンの残した厖大な文章の集成が、このおどろくべき先駆者の、生と芸術を照らし出す。

私は十二月に死ぬつもりだった。で、死ぬ前に、たえず念頭にあった大作を描こうと思った。まるひと月の間、昼も夜も、私はこれまでにない情熱をこめて仕事をした。そうとも、これは、ピュヴィ・ド・シャヴァンヌのように、実物写生をし、それから下絵を作り、という風にして描いた絵じゃない。一切モデルなしで、結び目だらけのざらざらした小麦袋のキャンバスを使って、一気に描いた。だから、見かけはとても粗っぽい。(……)

これは、高さ一メートル七十、横四メートル五十の絵だ。上部の両隅をクローム・イエローで塗り、金色の時に描いて隅を凹ませたフレスコ画のように、左手に題名、右手に署名を入れてある。右手の下に、眠っている幼児と、うずくまっている三人の女。緋色の着物をきた二人の人間が、それぞれの思索を語り合っている。この、自分たちの運命に思いをいたしている二人を、かたわらにうずくまった人物――遠近法を無視して、わざと大きく描いてある――が、腕をあげ、驚いた様子で眺めている。

中央の人物は、果物をつんでおり、一人の子供のかたわらに二匹の猫がいる。それに白い牡山羊。偶像は、神秘的に、律動的に腕をあげ、彼岸をさし示しているように見える。うずくまった人物は、偶像の言葉に耳を貸しているらしい。最後に、死に近い一人の老婆が、運命を受け入れ、諦めているようにみえる。……彼女の足もとに、あしでとかげをつかんだ一羽の白い異様な鳥がいるが、これは、言葉の空しさをあらわしている。(……)

ローマ賞の試験を受ける美術学校の学生に、「われらはどこから来たのか? われらは何者なのか? われらはどこへゆくのか?」という題で絵を描けと言ったら、奴らはどうするだろう? 福音書に比すべきこのテーマをもって、私は哲学的作品を描いた。いいものだ、と思っている。(……)
(友人の画家・船乗りモンフレエ宛、1898年2月、タヒチ、本書200-201ページ)

ここに書かれている「大作」とはむろん、この春から日本初公開の始まった《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》(ボストン美術館蔵)のことだ。ゴーギャンの死後にまでわたってもっとも忠実な友人だったダニエル・ド・モンフレエへ宛てて書かれた手紙の一節である。
http://www.msz.co.jp/news/topics/01521.html


ピトケアン島の出来事

 西暦1789年、フランス革命が勃発したのと同じ年、南太平洋上において水兵の反乱が起こった。舞台となったのは、イギリス海軍の軍艦、バウンティ号である。

 副航海長フレッチャー・クリスチャンに指揮された反乱水夫たちは艦長のブライを拘束、ブライは艦長派と目された乗組員とともに小型のボートに乗せられて茫洋たる太平洋に放り出された。反乱者たちは、ブライたちは死んだだろうと思っただろうが、艦長たちは奇跡的に小型ボートではるか3700マイル離れたオランダ領のインドネシアまで航海することに成功した。遠く離れた南太平洋上のこととはいえ、イギリス海軍が反乱者たちをそのままにしておくわけがない。追手が差し向けられ、クリスチャン一味の捜索が行われた。追跡部隊はバウンティ号の航海の目的地であったタヒチ島に残っていた乗組員たちを拘束することには成功したが(うち、3名が絞首刑となった)、バウンティ号とともに太平洋に消えた残りの者たちの行方は杳として知れなかった。

 バウンティ号と反乱者の一党の行方がわかったのは、それから約20年後の事である。アメリカの捕鯨船が、名前は付いているが上陸されたことのない島、ピトケアン島に立ち寄ったところ、バウンティ号の乗組員とその子孫たちを発見したのである。クリスチャンたちは、タヒチの女性と男性を連れて発見されにくいピトケアン島に逃げ込んでいた。

 しかし、反乱者たちは、女性と酒が原因で同士討ちを演じ、アメリカの捕鯨船に発見された時に反乱のメンバーで生き残っていたのは水兵のジョン・アダムス一人だけであった。ジョン・アダムスは敬虔なキリスト教徒となっており、ピトケアン島は白人とタヒチ女性の混血からなる一種のキリスト教の桃源郷となっていた。

 この軍艦バウンティ号の反乱は日本ではそれほど知られていないが、西洋ではかなりメジャーな事件で、海洋の事件としてはタイタニック号の遭難に匹敵するほどの知名度を誇るといい、欧米では多数の研究や小説があり、戦前から何度か映画化もされている。また、バウンティ号の復元船も作られているという。

 さて、このバウンティ号の子孫たちは今でもピトケアン島に住んでいるのだが、近年、再び注目を集めた。あまり名誉なことではない。ピトケアン島の男性たちが、12歳から15歳までの少女たちとの性交渉を日常的に行っていたことが暴露されたのである。これは牧歌的で、敬虔なキリスト教徒たちの住む島である、というピトケアン島のイメージを著しく損なうものであり、刑事事件にも発展した。その経緯は、インターネットのフリー百科事典の「ウィキペディア」にも詳しく記述されている。

「ウィキペディア・ピトケアン島の事件」(英語)
「ウィキペディア・ピトケアン島の事件」(日本語)

 ピトケアン島の男性たちの擁護として、ピトケアン島に移り住んだ反乱者たちはタヒチの女性を妻としており、反乱当時のタヒチの習慣はかなり性的に自由なものであったから、それを現代の基準で裁くのは酷ではないか、というものがある。
 たしかに、タヒチがヨーロッパ人に発見された当時の記録によると、かなり性的に寛容だったことが見て取れる。

 まずフランス人の記録によると、
 
 「カヌーは女たちで一杯であったが、顔かたちの魅力では、ヨーロッパ女性の大多数にひけを取らず、身体の美しさでは、彼女らすべてに張り合って勝つことができるであろうと思われた。これらの水の精の大部分は裸だった。というのは、彼女らに同伴している男や老女たちが、彼女らがいつもは身にまとっている腰布を脱がせてしまっていたからである。

彼女らは、はじめ、カヌーの中から我々に媚態を示したが、そこには、彼女らの素朴さにもかかわらず、いささかの恥じらいが見て取れた。あるいは、自然が、どこでも、この性を生まれながらの臆病さでより美しくしているのであろうか。あるいはまた、なお黄金時代の純朴さが支配している地方においても、女性はもっとも望んでいることを望まぬように見えるものだろうか。

男たちは、もっと単純、あるいはより大胆で、やがて、はっきりと口に出した。彼らは、我々に、一人の女性を選び、彼女について陸に行くように迫った。そして、彼らの誤解の余地のない身ぶりは、彼女らとどのように付き合えばいいのかはっきり示していた。(山本・中川訳『ブーカンヴィル 世界周遊記』(岩波書店 1990年)192−3頁)」
 
 また、有名なイギリス人のキャプテン・クックは、タヒチの若い娘たちが卑猥なダンスを踊り(クックは明言していないが、露骨にセックスを現すものだったらしい)、男女が宗教集団のようなものを形成して、乱交を繰り返した挙句、子供が生まれると殺す習慣のあることをあきれた風に記録している(当時のイギリスだって捨て子の習慣は横行していたのだから、あまり大きなことは言えないように思うが)。

 このようなヨーロッパ人の記録した当時のタヒチの性習慣について、現代の調査からタヒチのホスピタリティの習慣を誤解したものではないかとする研究者もあるが、タヒチはその後ヨーロッパに支配され、キリスト教の感化を受け、ヨーロッパの習慣の影響下におかれるのだから、現代から類推するのは妥当ではない。

 さて、当時のタヒチが性的に放縦な面があったとして、それが何歳ぐらいの女性から対象になったのだろうか。

 クックによると、タヒチには子供が衣服をほとんど身に付けない習慣があるが、女子の場合は3、4歳までだということである。これによると、女の子はかなり早い段階で「子供」でなくなるようである。さらに、支配者の例であるが、9歳で結婚したということもある。画家のゴーギャンがタヒチにやってきて、現地で何人もの愛人をつくり、子供まで作ったことは有名であるが、相手となったタヒチ人の女性はみんな13歳から14歳である。だから、当時のタヒチでは、かなり若い年齢で女性は大人とみなされていたことがわかる。

 と、ここまでは割合に知られたタヒチの性習慣である。では、もう一方の当事者、18世紀末のイギリスはどうだったのだろう。

 18世紀のイギリスは、当時としては珍しく、晩婚の世界であったことが知られている。男子の場合は二十代後半、女子の場合でも二十五歳以上で結婚、というのが普通であったらしい。ほとんど現代と変わらないくらいの結婚年齢である。ただ、晩婚である事情は現代とはずいぶん違う。長期の奉公人制度や、結婚生活を維持するための経済力をつけることが難しいために、やむを得ず結婚が遅れていたというのが実情らしい。貴族やジェントルマンに生まれても、長男でないと同じような境遇であった。

 結果、血気盛んな若者たちが思春期から10年以上独身生活を余儀なくさせられることになる。近代のイギリスの勢力の拡大は、これらリビドーを持て余した青年たちのエネルギーによってもたらされたとする見解があるほどだ。

 平均的な結婚年齢はともかくとして、実際にはどのくらいの年齢の女性ならば当時のイギリス人男性は性の対象としてみていたのであろうか。

 これはかなり低かった、と推定することができる。まず、数は多くないが、十代前半の女性と結婚している例がしばしばある。次に、多くの男性がなかなか結婚できなかったのだから、性欲のはけ口として売春婦の商売が繁盛することになるのだが、売春婦たちはかなり若い年齢から客を取っていたことがわかっている。

 「先にも述べたとおり、売春婦の中には年端もいかぬ若い子がいることがしばしばあり、十歳にも満たない子がいることさえあった。ペナントは、ブライトヴェル監獄で見かけたというそういう売春婦の一団について次のように述べている。

  「(中略)二十人ほどの若い娘たちが、最年長でも十六歳を超えず、多くは天使のような美しい顔をもちながら、天使のような表情はすべて失い、厚かましく、強情そうな放蕩の顔つきをしていたのだ。(後略)」(リチャード・R・シュウォーツ著 玉井・江藤訳『十八世紀 ロンドンの日常生活』(研究社出版 1990年)112−3頁)」

 つまり、タヒチだけでなくイギリスでも、女性はかなり幼い頃から恋人や結婚相手になりえたわけである。

 当時の水兵というのは社会的な身分が低く、監獄に行くよりは船に乗る、という手合いまでいたという。彼らは、たとえイギリスに戻ったとしても結婚をすることは容易ではなく、仮にできたとしても極貧のなかで生活しなくてはならないことは目に見えていた。

 それが、タヒチに来て見ると、本来は結婚相手にしたい十代の女性がいて、生活も安楽である。このままここに残りたい、と思っても不思議はない。実際、タヒチへの航海では、水兵の脱走というのはよくあった。これで水兵たちに同情的な幹部がいたら、反乱になるのはある意味では必然であった。

 艦長のブライは反乱の原因について、

「わたしはただ、反乱者どもがタヒチ人のところでイギリスよりもいい暮らしができるだろうと確信し、それが女性たちとの関係にむすびついて、全体の行動の基本的な動機となったにちがいないと推測するのみである。

(I can only conjecture that the mutineers had assured themselves of a more happy life among the Otaheiteans , than they could possibly have in England; which, joined to some female connections, have most probably been the principle cause of the whole transaction.)(William Bligh & Edward Christian The Bounty Mutiny(2001)11.)」と書いている。

 ピトケアン島には、18世紀のタヒチだけでなく、同時代のイギリスのメンタリティーも保存されていたのではないだろうか。そうだとすれば、今回の事件はタイムマシンで過去へ行って、先祖を裁いたようなものである。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/handa-m/tosho/arekore/50.htm

タヒチがヨーロッパ人に発見された当時の記録によると、かなり性的に寛容だったことが見て取れる。

 まずフランス人の記録によると、
 
 「カヌーは女たちで一杯であったが、顔かたちの魅力では、ヨーロッパ女性の大多数にひけを取らず、身体の美しさでは、彼女らすべてに張り合って勝つことができるであろうと思われた。これらの水の精の大部分は裸だった。というのは、彼女らに同伴している男や老女たちが、彼女らがいつもは身にまとっている腰布を脱がせてしまっていたからである。

彼女らは、はじめ、カヌーの中から我々に媚態を示したが、そこには、彼女らの素朴さにもかかわらず、いささかの恥じらいが見て取れた。あるいは、自然が、どこでも、この性を生まれながらの臆病さでより美しくしているのであろうか。あるいはまた、なお黄金時代の純朴さが支配している地方においても、女性はもっとも望んでいることを望まぬように見えるものだろうか。男たちは、もっと単純、あるいはより大胆で、やがて、はっきりと口に出した。彼らは、我々に、一人の女性を選び、彼女について陸に行くように迫った。そして、彼らの誤解の余地のない身ぶりは、彼女らとどのように付き合えばいいのかはっきり示していた。
(山本・中川訳『ブーカンヴィル 世界周遊記』(岩波書店 1990年)192−3頁)」


 
 キャプテン・クックは、タヒチの若い娘たちが卑猥なダンスを踊り(クックは明言していないが、露骨にセックスを現すものだったらしい)、男女が宗教集団のようなものを形成して、乱交を繰り返した挙句、子供が生まれると殺す習慣のあることをあきれた風に記録している(当時のイギリスだって捨て子の習慣は横行していたのだから、あまり大きなことは言えないように思うが)。

 このようなヨーロッパ人の記録した当時のタヒチの性習慣について、現代の調査からタヒチのホスピタリティの習慣を誤解したものではないかとする研究者もあるが、タヒチはその後ヨーロッパに支配され、キリスト教の感化を受け、ヨーロッパの習慣の影響下におかれるのだから、現代から類推するのは妥当ではない。

 さて、当時のタヒチが性的に放縦な面があったとして、それが何歳ぐらいの女性から対象になったのだろうか。

 クックによると、タヒチには子供が衣服をほとんど身に付けない習慣があるが、女子の場合は3、4歳までだということである。これによると、女の子はかなり早い段階で「子供」でなくなるようである。さらに、支配者の例であるが、9歳で結婚したということもある。画家のゴーギャンがタヒチにやってきて、現地で何人もの愛人をつくり、子供まで作ったことは有名であるが、相手となったタヒチ人の女性はみんな13歳から14歳である。だから、当時のタヒチでは、かなり若い年齢で女性は大人とみなされていたことがわかる。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/handa-m/tosho/arekore/50.htm


究極のSEX ポリネシアン セックス

ポリネシアン セックスとは南太平洋諸島に暮らすポリネシアの人々の間に伝わるセックスの奥義を指す。

ポリネシア/ギリシャ語「多くの島々」と言う意味のポリネシアはハワイ諸島、ニュージーランド、イースター島を結ぶ1辺が約8000キロの三角の内側の島々、イースター島をさす。ミクロネシアは太平洋中西部の諸島群で、カロリン諸島、マーシャル諸島などがある


「エロスと精気」

これは男性上位の力を誇示するようなアクロバットな性技ではなく、ゆっくりとした時間の中でお互いの命の声を聞きながら行う静かな愛の形です。

実際に結合するセックスは普通、5日に1度、中4日はしっかりと抱き合って、肌を密着させて眠り、性器の接触はしない。セックスをする時は、前戯や抱擁や愛撫に最低1時間をかける。互いの心と体がなじんだ時に女性の中に挿入した後は、最低30分は動かずにじっと抱き合っている。性交するときは、前戯と愛撫を少なくとも1時間行い、接吻し抱擁し愛咬する。挿入したのちは、男女は最低30分は身動きせず抱き合って、それから前後運動を始める。

オルガスムがあったのちも、長時間性器を結合させたまま抱き合っている。35分ほどこの抱擁を続けていると、全身においてオルガスムの快感の波が次々と押し寄てくるのを感じ初めることだろう。あなたが男性であれば、射精をしないまま相手と一体になって全身が突然さざ波のように震えるだろう。そうなれば、体を離さずに震え没入し、震えそのものになるべきだ。その時、2人の体のエネルギーが完全に融合している実感をもつであろう。

男性に勃起力がなくなるような感じになった時、女性に性感がなくなるとき、そのときだけ動きが必要になる。その場合でも、興奮の波は非常に高い所にだけ置いておき、ただし、頂点まで昇らせてオルガスムとして爆発させるのではなく、心をおだやかにしてエネルギーのなかに身をまかせるのである。つまり、挿入後に萎えてしまいそうになった時、それを防ぐ為のみ、うごかしてもいいということだ。しかし、そのまま動きに没頭するのではなく、射精に達する前に再び動きを止めて、抱擁を続る。

男女はベットにそれぞれ楽な感じに寝る。2人の上半身は離しておき、骨盤の部分はくっつけ合う。女性は仰向けになり、男性は体の右側をベットにつけて身を起こす。足はお互の体にからませる。男性は左足は女性の足の間に割って入り、女性の左足は男性の腰の左に乗せる。互いに相手の負担をかけることなく、くつろげる姿勢であるとこが重要だと言う。そうして、身動きせずに30分間横になっていると、2人の間にエネルギーが流れるのを感じるようになると言う。
http://rena-i.jp/porisex.htm

「ゴーギャン」
南太平洋、フランス領ポリネシア。 タヒチ。

とあるホテルの5つの簡単な決まり事。

1つ、ゆっくり動きなさい。
2つ、気持ちをリラックスさせなさい。
3つ、家に置いてきたペットのことは忘れなさい。
4つ、お堅い話も忘れなさい。
5つ、バターの値段を考えるなんてもってのほか。

この島では、日が昇ったら起き、
お腹がすいたら食べ、
眠くなったら眠るのです。

何もしないで、ただボーッと海を眺めて過ごす。
それが、一番の贅沢。

今日の一枚は、そんなタヒチで描かれました。
といっても、今あるのはアメリカですが・・・。

場所は雪のニューヨーク州、
オルブライド・ノックス・アートギャラリー。

二人の慈善家によって集められた名画の数々・・・。
でも、お目当てはこの先。急いではいけません、ゆっくりと。
そう、この絵が「今日の一枚」です。

「マナオ・トゥパパウ」

ポール・ゴーギャンの作品。

そのポール・ゴーギャンは、
タヒチといえば名前があがる後期印象派の巨匠。

セザンヌを学び、ジャポニズムに走った元日曜画家。

ゴッホとの共同生活でも、自我の強さから喧嘩別れ。
傲慢とわがままを芸術の糧としたポール・ゴーギャン。
パリに失望し、やってきたのがタヒチ。
求めたものは汚れのない原始。

そして、タヒチの女性をモチーフとする
数多くの絵を生んだのです。
強烈な色彩と大胆な構図。
ゴーギャンのタヒチ。

そんな作品のなかで、異彩を放っているのが、
この「マナオ・トゥパパウ」です。

大きく見開かれた少女の目。
凍り付いた視線。
背後にうずくまる不気味な影は?

ゴーギャンが南海の楽園で見つけた原始とは、いったい何だったのか。

南緯17度、西経149度。
1年間の平均気温は25度前後。
タヒチは今でもよく、南海の楽園と呼ばれています。

パペーテはタヒチを訪れた人が必ず立ち寄るフランス領ポリネシア唯一の都会。

ゴーギャンが植民地のタヒチを訪れたのは1891年、43才のとき。
フランスの港を出てから実に2ヶ月の船旅でした。
当時、パペーテの人口はおよそ3000人。
その一割にも満たないフランス人が、タヒチの政治、経済を仕切っていました。
その頂点に君臨するのが、フランス本国から任命された総督です。
当時はカリブ海出身のラカスカードという男。

総督

「タヒチについたゴーギャンが私に会いに来た。
私は快く彼を迎えた。

ようこそゴーギャン君、総督のラカスカードだ。座りたまえ。
このパペーテには教会から病院、カフェーまで揃っておる。
私の自慢の町だ。
パリから来た君でも困ることはないよ。
そうそう、芸術特使の君にぜひ、肖像画を描いてもらいたいというものがおるそうだ。
まずはいい絵を描いてくれたまえ。

おや、何か不満でもあるのかね?」

ゴーギャンは、話の途中で席を立ってしまった。 いったい、何が気にくわないというのだ。

パペーテの街角で、ゴーギャンが見たもの。
それはパリと同じ喧騒、そして香水の匂い。
自分が求めた原始の楽園は、そこにはなかったのです。
失望、そしてこみ上げる怒りに似た感情。

そもそもの発端は2年前。
パリではエッフェル塔が完成。
万国博覧会が開かれました。 鉄が支配する新しい文明の幕開け。
しかし、ゴーギャンが惹かれたのは、同時に開設されていた植民地パビリオンでした。
東洋の神秘、ポリネシアの原始的な荒々しい文化。
パリの文明社会で暮らすゴーギャン。
彼の目に、それは地上の楽園に見えました。

そこでゴーギャンは考えました。
「なんとしてもタヒチへ行こう」と。
あらゆるコネを利用し、海をわたろうとします。
金がかからず、絵が自由に描ける地位・・・
それが芸術特使というフランス本国からもらった肩書き。


ゴーギャンがパリで思い描いた地上の楽園、タヒチ。

そこでは昔からの人々は原始の神々を崇め、ともに暮らしていました。
すべての物、すべての現象に神が宿る、そう考えられていたのです。
神話と伝説の国、ポリネシア・・・。
しかし、ゴーギャンが訪れた時はもはや過去の話。
文明によって古い信仰は捨てられ、神を祀る祭壇もすでに廃墟と化していたのです。

ポリネシア・ダンス。
体で表現する原始の言葉。
かろうじて人々の心に受け継がれてきたタヒチの神秘。

これは、豊かな実りを願い、神に祈るダンス。
戦いの前に踊り、神への誓いをたてるダンス。
分明に支配されたタヒチ、そこに残された原始の息吹。

総督
「きのう、ゴーギャンが挨拶にきたよ。 ひどく打ちのめされているようだったが、パペーテを出るというんだ。 ヨーロッパから遠ざかりたいとか、原始的で汚れのない原住民と一緒に暮らすんだとかいってた。 ほんとうに、パペーテを出て芸術活動ができると考えているのか? まあいい。じきに帰ってくるさ。」
http://www.geocities.jp/mooncalfss/manao/manao1.htm

<原始のイヴ>

パペーテを逃れ、ゴーギャンが落ち着いた先はマタイエア。
島の反対側、南へ40キロほど行った海辺の村。

そこで彼が見たものは・・・

素朴で原始的な暮らし。
骨太で力強い人々。
奔放に生きる女たち。

ヨーロッパ的美の基準には当てはまらないものたち。
しかし、ゴーギャンはそこに原始の美を発見したのです。
パペーテでは決して見られなかった、手つかずの美しさ。

イア・オラナ・マリア。

タヒチの聖母子像。

着ているものは民族衣装のパレオ。
がっしりしたタヒチの聖母マリア。
そして褐色のイエス・キリスト。

聖母子像の横に描かれたのは仏教徒のポーズをしたタヒチの女と、 青と黄色の翼を持った天使。

イア・オラナ・・・それはタヒチの出会いの挨拶。

副館長
「ゴーギャンの色使いはとても鮮やかで、ほとんど原色をつかった美しい色彩 で描かれています。
そして、タヒチの光をふんだんに取り入れました。
その光はポリネシアの人々に対する愛情と、尊敬の気持ちから描かれたんです。」

原始の楽園、マタイエア。

人々は神を畏れ、自然とともに生きる。
何もしなくていい、何も考えなくていい、ゴーギャン、至福のひと時。

マタイエアの人々にふれ、ゴーギャンが感じたのは、自分が求めつづけてきた原始のタヒチ。

創作意欲をかき立てられるゴーギャン、目指したのはシンプルな芸術。

細かい技法を捨て、自分が感じたことだけをおおらかに描く。

そのためには、原住民とだけ付き合い、原始の心で見ること。
それが真の芸術へたどり着く道、そう考えてきました。

しかし、その絵はほとんど売れません。


総督
「赤い水やら黄色い砂。ひどい色使いだ あれじゃ売れなくて当然だ。 しかし、この絵はどこか違うな・・・。」

原始の村マタイエアでも、文明から逃れることはできませんでした。
好みの食料品や絵の具があるのはパペーテだけ。
金・・・文明人のゴーギャンに必要なのは経済的な裏づけだったのです。
絵を買ってくれる人もいないタヒチ・・・
待っていたのは貧困。

そこで、ゴーギャンは総督のもとへ。
もっと小さな島の役人にしてもらおう。
そうすれば、金と新しい絵のモチーフ、両方が手に入ると考えたのです。

総督
「そんなわがままを話、通用するわけがない。

フン、金が欲しい? 島の役人に採用しろだと?
冗談じゃない、矛盾だらけじゃないか
ゴーギャンの求めているのは、原始の生活ではなかったのか!
なんて傲慢で、身勝手なやつだ!」

総督に冷たくされたゴーギャンは、自分の身勝手を棚に上げ、子供じみた反抗にでます。

やったことは、風刺画。
総督を猿に見立て、痛烈にからかったのです。

それは原始に翻弄される文明人の哀れでもありました。

貧困のため、絵を描く意欲も失せたゴーギャンは、気分転換をかねて、探検旅行に出かけます。

行く先は島の東側、文明から最も遠い土地。
やがてゴーギャンの行く先に現れたのは、山あいの小さな村でした。
その一軒で声をかけられます。

白人は神の使い、そう信じる村人は自分の娘を妻にと勧めるのです。
そして、運命の出会い。

「マナオ・トゥパパウ」に描かれた少女。

少女の名はテハアマナ。愛称テフラ、13歳。
タヒチでであった原始のイヴ。

テフラに一目で惚れたゴーギャン。


彼はその場でテフラと結婚し、一緒に暮らし始めます。
日の光を浴びて、黄金色に輝くテフラの肌。
ついに出会った原始のイヴ、テフラとの生活がゴーギャンの見方を変えました。

文明に毒されたタヒチは今、探し求めた原始の楽園に生まれ変わったのです。

ゴーギャンによって残された原始のイヴの肖像・・・

ゴーギャンの夢、

画家が愛してやまなかった少女・・・。


総督
「原始のイヴだって?なにを大げさな。
ただの島の娘じゃないか。
それにしても、あの絵の娘は何かに怯えているのかね?
しかも、後ろにうずくまっているあの不気味なものは何だ。
アッ、これは!」

青い海と珊瑚礁。
そして険しくそびえる山々。
さまざまな顔をもつタヒチ。

一歩奥へ入ると、そこはすでに伝説と神話の世界です。

http://www.geocities.jp/mooncalfss/manao/manao2.htm

<タブー>
タヒチにはタブーがある。
死者を葬った場所は避けるように。
うつろな木の陰に横たわらないように。
もしタブーを破ることがあれば、やつが現れるだろう。

やつは寝ているものに飛びついて、首を絞め、時には髪を引き抜き、死に至らしめることがある。その名を決して口にしてはならない。

いまもタヒチに伝わるという、タブーの正体とは何か。


女1
「そうだねえ、この土地のタブーといったら幽霊のことだよ。」

女2
「子供のころに見たことがあるわ。
しろ〜くて、お化けみたいな姿をしているのよ。
本当に恐かったわ。」


「トゥパパウって幽霊さ、こんな感じのやつ・・・
ひとに取り付くと目が大きくなって、下がこんなに長くなるんだ。」

マナオとは「思う」「考える」という意味のタヒチ語。
マナオ・トゥパパウというタイトルには、トゥパパウ、つまり死霊が見ている、という意味がこめられていたのです。


総督
「トゥパパウについては、私も調査員を派遣した。
報告によると、トゥパパウの都は森の闇に包まれた山奥の奥にあるそうなんだ。
そこでトゥパパウは数を増やし、死んだ人間の魂を食らうという。

フン、もうすぐ20世紀だというのに、タヒチにはまだ下らん迷信が残っているのか。」


学芸員
「確かにトゥパパウの伝説は残っているようです。
トゥパパウとは死んだ人の霊のことで、夜の闇をさまよい歩くと考えられていました。
そのため、タヒチの人たちは闇を怖がって、寝ているときも明かりを絶やしません。
もし部屋の明かりを消してしまうと、トゥパパウが家の中に入ってきて、
寝ている間に悪さをすると信じられていたからです。」


ある日、ゴーギャンは帰り道を急いでいました。
切れかかった灯油を町へ買出しに行った帰りです。
夜中の1時、あたりは完全な闇。

夜空の月も雲に隠れていきます。

テフラの待つ小屋は闇に包まれていました。
いやな予感がしたゴーギャンは急いで部屋の中へ。
すると・・・そこは原始の闇。

思わずマッチをすったゴーギャン。
そして彼の目に映ったものは・・・
ベッドに横たわり凍り付いたようなテフラ。
うつろに見開かれたテフラの目。

タヒチの人にとって、闇はトゥパパウのすみか。
テフラには夜の闇は恐怖そのものでした。
そして、恐怖に射抜かれたように身を固くするテフラの背後に、ゴーギャンははっきり見たのです。

『私が見るものは、ただ恐怖だけでした。
それは絶え間ない恐怖である。
私のトゥパパウを発見して、私は完全に心ひかれ、 それを絵のモチーフにした』

ゴーギャンはテフラを通して、はじめて本当の原始を理解したのです。

テフラ、原始に住むイヴ。

タヒチにきて三度目の夏・・・。


総督
「ああ。おめでとう、ゴーギャン君。
君にも私にもいい知らせだ。
本国から君を送り返すように言ってきたんだ。

ここを見たまえ、資産状態が配慮に値する困窮の画家を送還すること。フランスの船で。
ただし、一番安い船に、乗せるようにと書いてある。
ともあれ、これで我らが芸術特使さまの任務も完了というわけだ。
ごきげんよう、ゴーギャン君。」

1893年7月。
ゴーギャンは本国フランスへの帰路につきます。
テフラと出会った後も、ゴーギャンの生活は決して理想のものではありませんでした。
極度の貧困、そして重なる疲労。
逃れられない文明の影。
結局、彼は逃げ出すようにタヒチを後にするしかなかったのです。

パリに帰ったゴーギャンは、このマナオ・トゥパパウに他の絵の倍以上の値段をつけたといいます。

タヒチにきたらゆっくりと動くこと。
日々の暮らしは忘れ、リラックスしましょう。

でも、夜は明かりを絶やさないように。
もし暗くしたら、闇の中からあなたをみつめる死霊と出会うことになるかもしれませんから・・・

http://www.geocities.jp/mooncalfss/manao/manao4.htm


            ,、-'''`'´ ̄ `フー- 、
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       !     |  / | |. i  |.|| i.|ヽ |、 | ',   i  i
      !      ! / |,ャ、メ |i ト十i‐トi、! l  .i|  i
      ! i   ,.|!,.+‐'"| | | |i}  ' ュノェ|i,`i  l.| i
      l i l   l |/;:=ニ|i  l |   /rj:ヽ\ i  l i l
      | | |   ノ '/ iニ)ヽ,ヽ |!.   ' {::::::;、! 〉iー | | |
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     ,. -'"゙ ゙̄'' ヽi |!l '           ,.--‐' |.i |i | |i ヽ
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     ,'          ! |              ,|/ |/i'   |
    i         ` l             .ノ  ノ ' ヽ、 |
    |        ノ     ,...      ヽ、;          ヽ-,
    .!         |::     :..゚..::       i:        ゙゙''i
     |       l::        ゙゙"       |:          |
   @゙!         |::              !::        ノ


Teha'amana (マナを与える者の意)


ゴーギャンがタヒチで見出したものは何であったのか?

『ノアノア』連作版画


タヒチからフランスへ帰郷したゴーギャンは、母国のタヒチへの理解の乏しさに、絶望します。そんな母国フランスへ、タヒチの生活のすばらしさを伝えるために制作したファンタジー小説、『ノアノア』の挿し絵に使用されていた作品のいくつかを、紹介したいと思います。

ナヴェ・ナヴェ・フェヌア(かぐわしき大地)

教科書などでも有名な作品、『かぐわしき大地』を左右反転させた作品です。版画になり、白黒はっきりさせたものになったことで、主人公であるエヴァの表情の濃淡が、よりくっきりとしていることが印象的です。。

また、エヴァをそそのかすトカゲが、顔よりも大きく、この版画の中心に描かれていることも、気になりますね。


テ・アトゥア(神々)
マオリ族(ニュージーランドのポリネシア系先住民)の古代神話より。


中央に鎮座するのは、主神タアアロア。右側には再生の力を持つ月の女神ヒナ。左側には、大地の男神であり死の象徴であるテファトゥとヒナの対話の場面が描かれています。

これらの神々は、ゴーギャンの作品の中ではたくさん登場する、重要な役割を果たしているものです。

再生の神と、死の神が、ふたり同時に何を話しているのか、(しかも、僕が見る限りふたりは、とても官能的に話をしているように感じます。。)気になるところですね。。

マナオ・トゥパパウ(死霊が見ている)

テ・ポ(夜)


このふたつの作品のは、「死霊に怯える女性」という同一の主題を描き出しています。


『マナオ・トゥパパウ』の女性の姿勢は、ペルーのミイラの体勢を源泉に持っています。つまり、人間の死んだ後の存在であるミイラと、同じ体勢を取っている、ということです。

しかし、死の象徴とも思えるこの作品は、見ようによっては胎児のようにも見えます。

相反するふたつのもの、つまり、生と死を一体化したふたつの境界線が揺らぐ、タヒチの夜の神秘を描き出しているようです。ふたつの相反するものを、ひとつのものの中に融合させる、ということは、人類の大きなテーマであると感じました。

また、『テ・ポ』の方は、ゴーギャンがタヒチでできた愛人、テハアマナが、夜、明かりの消えた部屋で、死霊に怯えている姿を描いた作品です。

タヒチの人々にとって夜は、霊魂が活動する、死と隣り合わせの世界にほかなりませんでした。真ん中に横たわる女性の後ろには、様々な死霊たちがこちらに目を向けています。。

このことから考えると、ゴーギャンの描く夕方の世界は、現代の我々が考えるような、単なる美しい夕焼けではなく、これから迎える夜=死霊の世界を思わせるような、ある種、最も境界線の薄れた世界を題材にしている作品であることが分かります。。

http://nuartmasuken.jugem.jp/?eid=83


『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』後、自殺未遂を経てゴーギャンが描いた作品のうち、気になった作品をいくつか。。

テ・ハペ・ナヴェ・ナヴェ(おいしい水)
1898年 油彩・キャンパス ワシントン、ナショナル・ギャラリー
http://www.abcgallery.com/G/gauguin/gauguin128.html


『我々は〜』の関連作品です。
 

時刻は夕方、死霊が闊歩する夜が、すぐそばまで迫ってきています。

手前の4人の女性の表情は、逆光ではっきりとわかりません。微笑を浮かべているようにも感じるし、背後から迫りくる夜に、怯えているようにも感じます。。

川を挟んだ奥には、子供と手をつないだ(? 暗いので、はっきりそうとは言い切れませんが・・・)頭巾を被り、服を着た女性と、再生の女神ヒナが描かれています。その足もとには、ゴーギャンノ化身である黒い犬らしき影が、闇に紛れるようにひっそりといます。

川を境に、生と死が対照的に描かれているようです。一度死を決意し、なお生き長らえた画家の心境は、どういったものだったのでしょうか・・・?

ゴーギャンの作品にはめずらしく、奥行きがあり、見ているとからだが、絵画の中に引きずり込まれそうになる作品です。
http://nuartmasuken.jugem.jp/?eid=89


我々はどこから来たのか,我々は何者か,我々はどこへ行くのか
(D'ou venons-nous? Que Sommes-nous? Ou allons-nous?)
1897年 | 139×374.5cm | 油彩・麻 | ボストン美術館
http://www.salvastyle.com/menu_impressionism/gauguin_nous.html

複製画
http://www.meiga-koubou.com/item/%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%82%AE%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%80%8E%E6%88%91%E3%80%85%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%93%E3%81%8B%E3%82%89%E6%9D%A5%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B%E6%88%91%E3%80%85%E3%81%AF%E4%BD%95%E8%80%85/


「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」との哲学的思惟を迫る、しかも139×375cmという壁画のような大作を目の前にしますと、しばらくめまいのような感覚に襲われます。全裸と腰布だけの女たちが、地面の上に坐って、こちらを見ています。
画面右側には、岩の上に赤ん坊が寝ており、逆の左端には、煤のように黒ずんだ老婆が、やはりこちらを凝視しています。画面中央では男が果物をもいでおり、その足下で、少女が果物を食べています。人びとの近くには、犬と猫と山羊と鳥とが、人間たちと同様に、無表情に地面に伏せています。画面後方には、まず両手を広げた女神像があり、そして体全体を覆うような長衣を着た女たちが、右側に向かって歩いています。背景では、幻想的な樹木が、奇怪な枝を広げています。

 この絵から、アダムとイヴの禁断の実と楽園追放の旧約聖書の物語を連想することは、さほど難しいことではありません。しかし、あの禁断の果実を採ったのは、イヴではなかったか。ゴーギャンのイヴは、どうみても女ではない。マリオ・バルガス・リョサは、『楽園の道』で、果物を採る人物の腰布のふくらみを「立派な睾丸と固くなったペニス」のようだとすら表現しています。楽園追放を暗示する赤い長衣を着たふたりは、アダムとイヴのように男・女ではなく女・女であり、またキリスト教絵画にある悲嘆にくれるふたりではなく、何やら真剣に語り合っています。キリスト教の世界から題材を借りながらも、内容は別の世界を表現しています。

 左端の老婆は、観者を凝視しながら、何を訴えているのでしょうか。ゴーギャンは、フランスの博物館で見たペルーのミイラから、この人物像を創作したということです。ペルーは、ゴーギャンが幼少期を過ごしたところ。死にいく老婆は最早、生きることをあきらめ、大地に返っていくことを、我々に告げているのかもしれません。

 美術館滞在中の大半を、この大作の前にたたずんで過ごしたのですが、時間が経つにつれてこの死にいく老婆の視線が、気になって仕方がありませんでした。「我々はどこへ行くのか?」。老婆の沈黙は、この答えのない問い掛けなのかもしれません。
http://minoma.moe-nifty.com/hope/2009/07/post.html


“我々はどこから来たのか,我々は何者か,我々はどこへ行くのか” はイエスが語った言葉


ヨハネ傳福音書 第8章


8:1イエス、オリブ山にゆき給ふ。

8:2夜明ごろ、また宮に入りしに、民みな御許に來りたれば、坐して教へ給ふ。

8:3ここに學者・パリサイ人ら、姦淫のとき捕へられたる女を連れきたり、眞中に立ててイエスに言ふ、

8:4『師よ、この女は姦淫のをり、そのまま捕へられたるなり。

8:5モーセは律法に、斯かる者を石にて撃つべき事を我らに命じたるが、汝は如何に言ふか』

8:6かく云へるは、イエスを試みて、訴ふる種を得んとてなり。イエス身を屈め、指にて地に物書き給ふ。

8:7かれら問ひて止まざれば、イエス身を起して『なんぢらの中、罪なき者まづ石を擲て』と言ひ、

8:8また身を屈めて地に物書きたまふ。

8:9彼等これを聞きて良心に責められ、老人をはじめ若き者まで一人一人いでゆき、唯イエスと中に立てる女とのみ遺れり。

8:10イエス身を起して、女のほかに誰も居らぬを見て言ひ給ふ『をんなよ、汝を訴へたる者どもは何處にをるぞ、汝を罪する者なきか』

8:11女いふ『主よ、誰もなし』イエス言ひ給ふ『われも汝を罪せじ、往け、この後ふたたび罪を犯すな』]

8:12かくてイエスまた人々に語りて言ひ給ふ『われは世の光なり、我に從ふ者は暗き中を歩まず、生命の光を得べし』

8:13パリサイ人ら言ふ『なんぢは己につきて證す、なんぢの證は眞ならず』

8:14イエス答へて言ひ給ふ『われ自ら己につきて證すとも、我が證は眞なり、


我は何處より來り何處に往くを知る故なり。

汝らは我が何處より來り、何處に往くを知らず、


8:15なんぢらは肉によりて審く、我は誰をも審かず。
http://bible.salterrae.net/taisho/xml/john.xml

ゴーギャンが取り上げた “我は何處より來り何處に往くを知る故なり。汝らは我が何處より來り、何處に往くを知らず”というのは罪の女の話の総括としてイエスが語った言葉なのです。即ち、

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教等の砂漠の遊牧・牧畜民の文化では女性や恋愛・性行動を敵視し、

女児がオナニーした → オナニーできない様に女児の陰核を切除する

少女が強姦された → 男を無意識に誘惑しない様に少女を石打の刑にする

妻が夫に売春を強制された → 夫に同じ過ちを繰り返させない様に妻を石打の刑にする

女性が恋愛・不倫した → 男を惑わせない様に女性を石打の刑や火炙りにする


によって対処する伝統だったのです。 イエスが否定しようとしたのはこういうユダヤ教の伝統だったのですが、キリスト教ではイエスの教えを完全に無視し、ユダヤ教の悪しき伝統をそっくりそのまま教義として残したのですね。

まあ、パレスチナの様な砂漠地帯では人口が増えると みんな食べていけなくなるので仕方無いのですが。

_____________

ゴーギャンは11歳から16歳までオルレアン郊外のラ・シャペル=サン=メスマン神学校の学生で、この学校にはオルレアン主教フェリックス・デュパンルーを教師とするカソリックの典礼の授業もあった。

デュパンルーは神学校の生徒たちの心にキリスト教の教理問答を植え付け、その後の人生に正しいキリスト教義の霊的な影響を与えようと試みた。

この教理における3つの基本的な問答は


「人間はどこから来たのか (Where does humanity come from?)、

「どこへ行こうとするのか (Where is it going to?)」、

「人間はどうやって進歩していくのか (How does humanity proceed?)」であった。


ゴーギャンは後半生にキリスト教権に対して猛反発するようになるが、デュパンルーが教え込んだこれらのキリスト教教理問答はゴーギャンから離れることはなかった。

http://www.asahi-net.or.jp/~VB7Y-TD/L1/210819.htm

ダニエル・ド・モンフレエ宛て(1898年2月,タヒチ)

「…あなたに言っておかなければならないが,私は12月に死ぬつもりだった。それで,死ぬ前に,常に頭にあった大作を描こうと思った。1か月の間ずっと昼夜通して途方もない情熱で描き続けた。…これは,高さ1.7メートル,横4.5メートルの絵だ。…

右下に,眠っている赤ん坊と,うずくまる3人の女性。紫色の服を着た2人の人間がお互いの考えを打ち明けている。

わざと大きくして遠近法を無視して描いた人物は,うずくまり,腕を上にあげ,自分たちの運命を考えている2人を眺めて驚いている。

中央の人物は,果物を摘んでいる。一人の子どもの傍には,2匹の猫がいる。そして白い牡ヤギ。

偶像は,神秘的に律動的に両腕をあげ,彼岸を指し示すかのようだ。うずくまった人物は,偶像に耳を傾けているように見える。
最後に,死に近い老婆は,自らの運命を甘受しあきらめているかのようだ。…その足元に,足でとかげをつかむ1羽の白い未知の鳥がいるが,空疎な言葉の無用さを物語っている。…」

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ss/sansharonshu/444pdf/02-06.pdf

ゴーギャン自身が友人モンフレエ宛ての手紙43)の中で記しているように,面右端と左端には人間の生と死を表すかのように赤ん坊と老婆が描かれている。画面中央には,果実をもぎ取ろうとする青年の姿があり,傍らには地面に座り込んで果実を食べる子供がいる。その他タヒチ女性が配置され,ヤギや犬,鳥といった動物,そして古代の神とされる偶像が描かれている。ゴーギャン当人は,大作であり日頃から温めてきた題材としながらも,作品の意図や描かれた個々の対象の意味について十分な説明をしていない。

先行研究では,まず作品タイトル《我々は…》の出典元の確認が試みられている。

ルークメーカーは,ゴーギャンのブルターニュ時代の肖像画に見出されるトマス・カーライル著の『衣装哲学』に,
O Whence─ OhHeaven, Whither?(仏語訳ではMaisd’oùvenouns nous? O Dieu,oùallonsnous?)という題名と対応する一文が見られると指摘している。また,フィールドもカトリックの秘儀を研究した書物に,作品タイトルと一致する文面があるとしている。作品内におけるモティーフと典拠元の関係においては,タヒチ時代の自身の作品からの転用だけでなく,ブルターニュ時代の作品にその始まりを見出せるものがある。

左の右手をついて横座りする女性のポーズは,1889年の《海藻を集める者たち》の女性のポーズを反転させたものである。また,左端の顔を手で押さえてうずくまる老婆の姿も,ブルターニュ時代からゴーギャンが作品に使用していたポーズであり,ペルーのミイラ像にその根拠を見出せる。タヒチ時代の作品から引用された女性像においても,ジャワ島のボロブドゥール寺院のレリーフやエジプトの壁画にその原型がある。

以上から考えられることは,タイトルから想起されるキリスト教的視点と,実際のモティーフから現れる西洋,非西洋を越えた広い視点との間に距離が生じるということである。ここで作品を改めて考察すると,《我々は…》には,我々が希求し模索しながらも到達し得ない人間存在が描かれていると言えないだろうか。ブルターニュ,タヒチ,あるいはジャワ島やエジプトといった特定の場所や人々ではなく,人間そのものへの強い憧憬がここには存在する。それぞれのモティーフは,断片的表象にも関わらず作品全体において調和をなしている。そして,そうしたモティーフの背景に存在するキリスト教やタヒチにおける信仰などの民俗信仰は,人間の祈りというレベルにおいて等価のものとみなされる。

作品タイトル《我々はどこから来たのか?我々は何者か?我々はどこへ行くのか?》は,人間にとっての至上命題である。つ
まりこの絵画には,ゴーギャンがブルターニュにおいて感じたnostalgia故の人間存在そのものへの希求が見られるのである。
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ss/sansharonshu/444pdf/02-06.pdf


後期印象派の代表する巨匠にして総合主義の創始者ポール・ゴーギャンの画業における集大成的な傑作『我々はどこから来たのか、我々は何か、我々はどこへ行くのか』。

1895年9月から1903年5月まで滞在した、所謂、第2次タヒチ滞在期に制作された作品の中で最高傑作のひとつとして広く認められる本作に描かれるのは、ゴーギャンが人類最後の楽園と信じていたタヒチに住む現地民の生活やその姿で、本作にはゴーギャンがそれまでの画業で培ってきた絵画表現はもとより、画家自身が抱いていた人生観や死生観、独自の世界観などが顕著に示されている。完成後、1898年7月にパリへと送られ、金銭的な成功(高値で売却)には至らなかったものの、当時の象徴主義者や批評家らから高い評価を受けた本作の解釈については諸説唱えられているが、

画面右部分には大地に生まれ出でた赤子が、中央には果実を取る若い人物(旧約聖書に記される最初の女性エヴァが禁断の果実を取る姿を模したとも考えられている)が、そして左部分には老いた老婆が描かれていることから、一般的には(人間の生から死)の経過を表現したとする説が採用されている。

また老婆の先に描かれる白い鳥の解釈についても、言葉では理解されない(又は言葉を超えた、言葉の虚しさ)を意味する(神秘の象徴)とする説など批評家や研究者たちから様々な説が唱えられている。

画面左部分に配される神像。この神像は祭壇マラエに祭られる創造神タアロア(タヒチ神話における至高存在)と解釈され、自分自身の姿に似せて人間を造ったが、その影はクジラあるいはホオジロザメであると云われている。また月の女神ヒナと解釈する説も唱えられている。

さらに本作を手がける直前に最愛の娘アリーヌの死の知らせを受けたこともあり、完成後、ゴーギャンはヒ素(砒素)を服飲し自殺を図ったことが知られ、それ故、本作は画家の遺書とも解釈されている。本作に示される、強烈な原色的色彩と単純化・平面化した人体表現、光と闇が交錯する独特の世界観はゴーギャンの絵画世界そのものであり、その哲学的な様相と共に、画家の抱く思想や心理的精神性を観る者へ強く訴え、問いかけるようである。
http://www.salvastyle.com/menu_impressionism/gauguin_nous.html


「熱帯のイブ」として何枚もの作品に登場する女性のポーズは、ジャワ島のボロブドール遺跡のレリーフをモデルにしたもので、タヒチとは無関係である。ちなみにイブを誘惑する蛇は、ゴーギャンの絵ではトカゲとして表現されている。

死を待つ女性が頭を両手で抱え込むポーズは、ペルーのミイラから思いついたもので、これもタヒチとは無縁である。

《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》の中心にある偶像は仏像ではなく、タヒチの土着の神様、再生を司どる月の女神である。
一番驚いたのは、絵の中に描かれる犬は、たいていの場合ゴーギャンを表すということである。
http://nodahiroo.air-nifty.com/sizukanahi/2009/07/post-8a2a.html


この絵でゴーギャンは人の一生を一画面に表現しようとしています。「生まれて、生きて、死ぬ」生き物なら当たり前なことを描いているのです。 そしてこの絵には海が上の方に少し描かれています。

右上には朝の海が描かれ、地球の誕生を意味し、左の海には夜の海が描かれ、地球の終わりを意味しているのでしょうか。

この絵に描かれている人物はほとんどが女性です。犬や猫、鳥なども描かれています。それぞれに意味づけをしていますがどうなんでしょうか?

右の子どもは誕生でしょうし、中央のリンゴを取ろうとしている女性はイブ(エバ)を意味し快楽と苦痛を表現し、左の頭を抱えている女性は死を意味しています。

画面全体は暗いのですが、右側の女性には光が当たっていて、左側は暗い。

背景は右も左も暗く描かれ、ゴーギャンにとっては「この世は真っ暗闇だ」まではいかず、「暗闇」だくらいなのでしょうか。

http://blogs.yahoo.co.jp/haru21012000/60035012.html

19世紀以降、ポリネシア人はキリスト教に改宗していますが、ブルターニュ地方のキリスト教の場合と全く同じで、外観はキリスト教の衣装を纏っていても、その中身は古来のアニミズムそのものだったのですね。

ゴーギャンが描くアダムとイブやマリアも聖書から題材を選んでいますが、その意味する事はキリスト教の教えとは全く異なる物なのです。

“我々はどこから来たのか,我々は何者か,我々はどこへ行くのか”で知恵の木の実を採るのは男ですし、

エデンの園からの追放というのは失楽園ではなく、牢獄からの解放という意味を持つのです。:


シュメール神話によれば、神様もまた、粘土をこねて人間を創った。

「なぜ、神様は人間を創造したの?」

というのが、キリスト教徒やイスラム教徒の親が、子供に質問されて返答に窮する素朴な疑問。

それに対して、世界最古の宗教・シュメール神話は、明快な回答を与えている。

「神々が働かなくてもよいように、労働者として人間は創造された」

と、シュメール神話の粘土板には明記されているのだ。

いわく、つらい農作業や、治水事業に従事していた神々からは、不平不満が絶えなかった。

「こんなに俺たちを働かせやがって、どういうつもりだ、コンチクショー」

と怒っていた。

原初の母なる女神・ナンムは、この事態を深く憂慮していたが、「神々の中でも、頭ひとつ抜けた知恵者」と評判のエンキ神は、そうともしらずに眠りこけていた。
あるとき、ナンム女神は、エンキ神をたたき起こして言った。

「息子よ、起きなさい。あなたの知恵を使って、神々がつらい仕事から解放されるように、身代わりをつくりなさい」。
             
母の言葉にあわてたエンキ神は、粘土をこねて人間を創った。
おかげで、神々に代わって人間が働くようになり、神々はめでたく労働から解放された。シュメール神話の最高神である天空の神アン(エンキの父)や、大気の神エンリル(エンキの兄)も、これには大喜び。神々は祝宴を開き、したたかにビールを痛飲して人類創造を祝った(シュメールは、ビールの発祥地でもある)。

このとき、ビールを飲んで酔っぱらった人類の始祖エンキは、地母神・ニンフルサグ(エンリルやエンキの異母妹)とともに、人間づくりの競争をした。


「広げた手を曲げることができない人間」や、

「排尿をガマンできない人間」、

「性器を持たない人間」、

「よろよろして立ち上がることができない人間」


など、いろんな人間が創られたという
(人権擁護団体が聞いたら、激怒しそうなエピソードですな・・・)。
http://blog.goo.ne.jp/konsaruseijin/e/20278c1470953be34e1163edce926967


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/321.html#c7

[近代史3] 「アメリカニズムの終焉」を認めたくない日本 中川隆
12. 中川隆[-10930] koaQ7Jey 2019年4月05日 10:08:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1098]

前川喜平前次官が騒いでいる本当の理由は、「自分の方が総理大臣より身分が上だ」という事です。

総理より地位が高い事務次官

加計学園をめぐる「忖度」騒動は前川喜平・前文部科学事務次官の告発から騒動が広まった。

なぜ前川氏はこのように安倍首相を憎み、敵愾心を露にして噛み付くのか、事務次官という身分階級を知らないとわかり難い。

各省庁の事務次官は「次官」なので文字を読んだだけでは「2番目の事務員」かなと思うが、実際には省庁の大統領のような地位にある。

         

事務次官は表向きの法律では大臣を補佐する役割だが、実際には大臣を上回る最高権威です。

大臣と事務次官の関係については、2001年に小泉内閣で外務大臣を(9ヶ月だけ)勤めた田中眞紀子議員が良く喋っていた。(喋りすぎた)

その前に田中眞紀子が外務大臣に選ばれた理由を説明すると、2001年4月の自民党総裁選で小泉純一郎を当選させた功労者だった。


超不人気だった森首相が退陣し、次の首相は橋本龍太郎で決まりと言われていて、国民は「またあのバカ総理か」と失望していた。

小泉純一郎は出馬しても負けそうなので立候補するつもりはなかったが、当時人気絶頂だった田中眞紀子が「あんた出なさいよ」とけしかけたと言われている。

人気者の眞紀子に後押しされて小泉旋風が吹き、めでたく総理大臣になり田中眞紀子は論功行賞で外務大臣になった。


欧米メディアは「次の総理は田中眞紀子」「初の女性総理誕生へ」と報道し、小泉自身より人気が高かったほどだった。

その大功労者が些細なことで外務官僚と対立して、クビになったのは田中眞紀子大臣の方だった。

日本政府の方針と異なる発言を、外相として勝手に発言したり、外相会談のドタキャンなど様々な出来事があった。


官僚を激怒させた安倍首相の行為

だが一番の対立点は「外務大臣と事務次官のどちらに人事権があるか」という事で、眞紀子大臣は自分に逆らう事務次官の更迭を小泉首相に要求した。

結果は書いたとおり、クビになったのは大臣のほうだったので、大臣の人事権は事務次官が握っているが、逆はありえない。

法律はどうであれ大臣より事務次官のほうが地位が上なのが日本の制度であり、主要な省の事務次官となると総理大臣より地位が上である。


ロッキード事件で田中角栄元首相が逮捕されたが、事務次官は決して逮捕されず、責任を取らされたりもしない。

思い出して欲しいがあらゆる政治スキャンダルで責任を取るのは大臣と総理だけで、事務次官や官僚はマスコミから責任の追求すらされない。

もし事務次官が責任を取らされるような事が起きれば、明治以来の大事件であり、絶対に有り得ない筈だった。


朝日新聞は平気で天皇や総理大臣の悪口を書くが、それでいて事務次官の悪口を絶対に書かず、官僚は神聖にして汚すべからずを貫いている。

朝日新聞も日本の最高権力者が怖いのであり、許認可権から逮捕権、裁判権まで握っている官僚たちには逆らいません。(最高裁判官も官僚)

その有り得ないはずの事が森友、加計騒動の根源である文部科学省で起きていて、事務次官がクビになっていました。


「キXXX」の言い分

前川喜平前事務次官は退職した文部官僚が民間機関に天下りする仲介役をしていて、2017年1月20日に辞職した。

2017年3月に懲戒免職になる予定だったが、文部省側は猛反発しして自主退職になったうえ、退職金5000万円以上が支払われた。

軽い処分で済んで助かったように見えるが、官僚目線では「どうして上司である事務次官が部下である総理大臣から追放されるのか」という事になる。


ニュースを見ていると異常な事件で犯人が意味不明な事をしゃべる場合があるが、「キXXX」の言い分は彼らにしか分からない。

前川喜平と官僚たちには「総理大臣風情がでかい面しやがって」「今に見ておれ小僧」という恨みだけが残ったようです。

そして文部科学省は自分のスキャンダルである森友、加計を暴露する事で安倍首相を糾弾するという捨て身の戦法に出た。


過去の政治スキャンダルで責任を問われたのは政治家だけで、官僚が罪に問われた事は無いので、こうした戦法は実は良く行われている。

大阪地検や東京地検は森友加計を捜査しているが、検察官僚の身内である文部官僚は決して捜査対象にならない。

うまく行けば前川喜平前事務次官は高給で天下りできるだろうし、それどころか政治家として権力を握る事もできる。


突き詰めると官僚と総理のどちらが上か、どちらが日本の権力者かという対立です。
http://www.thutmosev.com/archives/71597964.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/319.html#c12

[近代史3] 「アメリカニズムの終焉」を認めたくない日本 中川隆
13. 中川隆[-10929] koaQ7Jey 2019年4月05日 10:11:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1099]

日本の官僚の方が総理大臣より身分が上である理由

日本の官僚の上司はアメリカ軍人 _ 日本の官僚に指示を与えているのは政治家ではなく日米合同委員会のアメリカ軍人だった

憲法を超える存在とされる「日米合同会議」・・・「日本は本当に主権国家なのか?」とプーチンに皮肉られるわけだ!! 
http://www.asyura2.com/18/senkyo255/msg/372.html
2018年12月23日 くろねこの短語


 辺野古埋め立てに抗議するホワイトハウス署名は17万筆を超える勢いだそうで、いかにたまりにたまった怒りが渦巻いているかということだ。でも、そのはけ口がこの国にはない。どんなに民意が「NON」を叫んでも、ペテン政権は聞く耳持ちませんから。それどころか、「全力で埋め立てを進める」なんて官房長官が国民に宣戦布告しちまうんですから、暴動が起きないのが不思議なくらいだ。

 だからこそのホワイトハウス署名なんだろうけど、でもよく考えてみるとこれって結局のところ日本に主権はないってことを暗に証明しているようなものなのかもね。見方によっては宗主国のアメリカに直訴しているようなものだと言えなくもない。

 実際、憲法を超える存在と言われる非公開の「日米合同会議」なんてのがありますからね。月2回開かれているとされるこの会議は鳩山ポッポもその存在を知らされず、結局は煮え湯を飲まされたとも噂されている。そりゃあ、プーチンに「日本は本当に主権国家なのか?」と皮肉られるわけだ。

・【痛烈】露プーチン氏が「辺野古基地建設強行」に触れ、安倍政権に苦言!「日本は本当に主権国家なのか?」…領土交渉のマズさに日本政府は”完全沈黙”!
※下段に全文転載

 いわばタブーとも言える「日米合同会議」について、なんとテレビ朝日『報道ステーション』がリポートしている。

 1日早いクリスマスプレゼントということで、見逃した方は是非ご視聴ください。自民党政権の歴史はアメリカの傀儡政権の歴史でもあることがよくわかる。


憲法を越える存在!?非公開の日米合同委員会 20161206 houdoustation


【痛烈】露プーチン氏が「辺野古基地建設強行」に触れ、安倍政権に苦言!「日本は本当に主権国家なのか?」…領土交渉のマズさに日本政府は”完全沈黙”!
https://yuruneto.com/putin-henoko/?fbclid=IwAR1P-PUlVVOsuwOxvJLna2Fcwc7Uk5ouDwySCXTjCVdUqcQxa9t_ruoTfgE
2018年12月22日 ゆるねとにゅーす

※キャプチャー


プーチン大統領「在日米軍問題抜きに最終決定難しい」

【モスクワ大前仁】プーチン露大統領は20日の記者会見で、日本との平和条約と在日米軍の問題について「平和条約を結んだ後にどうなるのかは分からないが、この問題を抜きにして最終的な決定を下すことは非常に難しい」と述べた。ロシアは日ソ共同宣言(1956年)に基づき歯舞群島や色丹島を日本に引き渡す場合でも、米軍が両島に展開しないという保証を求めており、プーチン氏がこの点を改めて強調した形だ。

プーチン氏は対日問題に関する発言の最後に「日本との平和条約を結べるよう真摯(しんし)な努力を続けていく」との原則も繰り返した。

日本が配備する米国製のミサイル防衛(MD)システムに関し、プーチン氏は「防衛目的だと(いう日本の説明)は信じていない。システムは攻撃能力を備えている」と語った。ロシアは、日本が配備予定の陸上配備型迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」にも懸念を表明している。

また、沖縄県の玉城デニー知事や住民の反対にもかかわらず、米軍普天間飛行場の移設計画に伴い同県名護市辺野古沿岸への土砂投入が始まったことについて「日本の主権のレベルを疑ってしまう」と批判的な見解を示した。

【Yahoo!ニュース(毎日新聞) 2018.12.20.】


安倍政権の急所突く プーチン「辺野古問題」に言及の衝撃

「日本は本当に主権国家なのか」――。

ロシアのプーチン大統領から仰天発言が飛び出した。20日に開いた年末恒例の大規模記者会見で、北方領土を日本に返した場合に米軍基地が置かれる可能性について、「日本が決められるのか、日本がどの程度主権を持っているのか分からない」と指摘したのだ。

驚いたのはその先で、基地問題で主権を行使できていない実例として、ナント、米軍普天間飛行場の辺野古移設についてこう言及した。

「知事が基地拡大に反対しているが、(日本政府は)何もできない。人々が撤去を求めているのに、基地は強化される。みんなが反対しているのに計画が進んでいる」

〜省略〜

21日の会見でプーチン発言について聞かれた菅官房長官は「コメントは控える」と逃げた。情けないことに、日本政府は反論もできず、ダンマリを決め込んでいる。

「1月に日ロ首脳会談を控え、下手に反論してロシア側を刺激したくないのでしょう。北方領土問題を抱える一方で日米同盟は崩せず、立ち往生している。しかし、本当にトランプ大統領と世界一仲がいいのなら、『武器をたくさん買うのだから、辺野古基地建設はやめよう』と言えば済む話です。それで、北方領土には米軍基地を置かないと明言してもらえば、ロシアとの交渉も進められます。ロシア疑惑で急所を握られているトランプ大統領は乗ってくる可能性がある。それができないのなら、首相が誇る米ロ首脳との信頼関係はマヤカシということです」(天木直人氏)

〜省略〜

【日刊ゲンダイ 2018.12.20.】


北方領土交渉方針 明らかにしない考え 菅官房長官

北方領土交渉をめぐりロシアのプーチン大統領が日本はアメリカの意向を考慮せざるをえないのではないかという認識を示したことに関連し、菅官房長官は記者会見で、日本政府の方針を交渉の場以外で発言すれば悪影響が懸念されるとして、明らかにしない考えを示しました。

〜省略〜

そのうえで、菅官房長官は、「わが国の交渉方針や考え方について、交渉の場以外で発言することは交渉に悪影響を与えるおそれがあるので、お答えすることは差し控えたい」と述べました。

【NHK NEWS WEB 2018.12.21.】


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/319.html#c13

[近代史3] 「アメリカニズムの終焉」を認めたくない日本 中川隆
14. 中川隆[-10928] koaQ7Jey 2019年4月05日 10:14:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1100]
安倍総理が憲法改正を言い出した途端にモリカケ問題で振り回されるようになった理由


1972年2月、当時のニクソン米大統領とキッシンジャー補佐官が北京を訪問し、
周恩来首相と会談した時に、日本に対して三つの密約が交わされた。

米中密約の内容

1.日本に核武装そして単独防衛させない
2.これを防ぐために米軍は日本に駐留する(ビンの蓋論)
3.朝鮮半島および台湾問題で日本に発言権を与えない

この密約は、2002年10月、当時の江沢民中国国家主席が、
テキサスの牧場に当時のブッシュ大統領を訪ねたときにも再確認された。
http://dwellerinkashiwa.net/?p=2976


▲△▽▼


ここに1971年7月、米国キッシンジャー国家安全保障問題担当大統領特別補佐官が中国周恩来と交わした秘密会談の内容がある。2002年7月公開された外交文書である。40年近くも以前から米国と中国は裏で繋がっていたことは周知の事実ではあるが、今の日本の立場を見極める意味からも大変重要である。

二人の秘密会談の内容の1/4は日本に関することであったという。当時より経済大成長した日本に対し、米中とも非常に警戒心をもっていた。

 米中の日本に対する見方は今も昔も同じである。この事を踏まえて、対米、対中外交方針を決定しないと、何時まで経っても日本は米中の「お財布さん」でしかない。また、両国が一番恐れているのは日本の再軍備であり、日本の核保有である。相手の嫌がることをし、カードとするのが外交の基本である。日本のある首相は、「相手の嫌がることはしない」で通したが・・・。

 北朝鮮の核保有を米中が嫌がるのは、これを認めると日本の核武装化を止められないからで、6ヵ国協議と称して北朝鮮をなだめるのに必死のふりであるが、真の目的は日本の核保有を阻止する為に他ならない。

 以下の会談の一部を見ると、この流れがここ40年間、めんめんと流れていることがよく理解できる。いつまでも米国に頼っていると大変なことになることを、我々は自覚しなければならない。

(「敵国になり得る国米国」青木直人著より)


日本人観

周恩来 「ものの見方が狭く、とても変わっている。島国の国民だ。」

キッシンジャー「中国は伝統的に普遍的な視野があるが、日本は部族的な視野しかない。日本人はほかの国民がどう感じるかに何の感受性もない。日本には何の幻想ももっていない。」


日本経済

周恩来 日本は第2次大戦の賠償も払わず、戦争から利益を得た。経済拡大は軍事拡大につながる。米国は日本を今の状態に太らせた。」

キッシンジャー「日本を経済的に発展させたことをいまでは後悔している。」


日本の防衛政策

周恩来 「日本は過去二十五年あまり、防衛に必要以上の金を使ってきた。いまや羽が生え、飛び立とうとしている。一度日本が軍事拡大に走れば、どこまでいくかわからない。」

キッシンジャー「日本が米軍撤退を希望すればいつでも出てゆく。日本が自主防衛すれば周辺の国にとって危険だ。米国が日本のために核兵器を使う可能性は実際には小さい。米軍が撤退すれば、日本は平和利用計画で得た充分なプルトニウムで核兵器を作ることが出来る。日本が大規模な再軍備に走るような事態になれば、伝統的な米中関係が再びものをいう。米国は日本の拡張を抑えるために、他国と協調できることをする。日本について我々は同じ方向の利害を持っている。」
http://isukeya.iza.ne.jp/blog/entry/977743/


そして米中が組んでやった事は:

中国は当面は軍事力よりも外交で影響力を強めてきている。PKO活動もその一環ですが、日本は金だけ出して自衛隊の活動には消極的だ。米中の見えない同盟関係は日本に対するものであり、アメリカは日本の円は360円から80円にまで4倍に吊り上げて、中国の元は1ドル=2元から8元にまで4分の1に引き下げを認めた。これは対ドル相場なのだからアメリカが認めなければ出来ない事だ。

アメリカの90年代からの中国に対する経済的支援は、日本の弱体化と中国の台頭を促した。80年代の日本経済はアメリカに脅威を与えるほどになったからですが、日本の弱体化はアメリカにとって国益になったのだろうか? 普通ならば中国が世界一の黒字大国になったのだから人民元が上がるのが常識だ。しかしアメリカはそれ元安を容認してきた。

この事によって中国は西村眞悟氏が言うように世界に「失業」を輸出しているのであり、世界的に労働者の賃金を引き下げさせてきた。それに対して日本は人民元の安さに対抗する為に中国に工場を進出させて雇用を輸出している。職を失った日本の若者は結婚も出来なくなり少子化が進むようになった。これらは米中の思惑通りの結果なのでしょうが、アメリカは同盟国の日本の弱体化はプラスであるとどうして考えたのだろうか?

それに対して日本の政治家は見えない米中同盟に気がつくのが遅すぎた。アメリカは露骨に日本に対しては政治介入してくるのに、中国の人権問題や人民元安には口を出さずに寛容だ。アメリカ自身の国力の衰退がそうさせていると見えますが、その穴を中国が埋めている。そうなれば日本には小沢一郎のような政治家が出てきて、アメリカと距離を置いて中国の属国になろうという政治家が出て来る。そうなる事はアメリカの利益なのだろうか?
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu208.htm


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米中同盟

中国は当面は軍事力よりも外交で影響力を強めてきている。PKO活動もその一環ですが、日本は金だけ出して自衛隊の活動には消極的だ。米中の見えない同盟関係は日本に対するものであり、アメリカは日本の円は360円から80円にまで4倍に吊り上げて、中国の元は1ドル=2元から8元にまで4分の1に引き下げを認めた。これは対ドル相場なのだからアメリカが認めなければ出来ない事だ。

アメリカの90年代からの中国に対する経済的支援は、日本の弱体化と中国の台頭を促した。80年代の日本経済はアメリカに脅威を与えるほどになったからですが、日本の弱体化はアメリカにとって国益になったのだろうか? 普通ならば中国が世界一の黒字大国になったのだから人民元が上がるのが常識だ。しかしアメリカはそれ元安を容認してきた。

この事によって中国は西村眞悟氏が言うように世界に「失業」を輸出しているのであり、世界的に労働者の賃金を引き下げさせてきた。それに対して日本は人民元の安さに対抗する為に中国に工場を進出させて雇用を輸出している。職を失った日本の若者は結婚も出来なくなり少子化が進むようになった。これらは米中の思惑通りの結果なのでしょうが、アメリカは同盟国の日本の弱体化はプラスであるとどうして考えたのだろうか?

それに対して日本の政治家は見えない米中同盟に気がつくのが遅すぎた。アメリカは露骨に日本に対しては政治介入してくるのに、中国の人権問題や人民元安には口を出さずに寛容だ。アメリカ自身の国力の衰退がそうさせていると見えますが、その穴を中国が埋めている。そうなれば日本には小沢一郎のような政治家が出てきて、アメリカと距離を置いて中国の属国になろうという政治家が出て来る。そうなる事はアメリカの利益なのだろうか?
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu208.htm


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1995年 オーストラリアを訪問した李鵬は、豪首相との首脳会談中に、 「 日本など20年も経てば地球上から消えてなくなる 」と発言
李鵬の発言はまるでオカルトのようにも聞こえるが、平成9年当時の国会でも取り上げられた発言である。

武藤国務大臣

「そのオーストラリアへ参りましたときに、オーストラリアの当時のキーティング首相から言われた一つの言葉が、日本はもうつぶれるのじゃないかと。

実は、この間中国の李鵬首相と会ったら、李鵬首相いわく、

君、オーストラリアは日本を大変頼りにしているようだけれども、まああと三十年もしたら大体あの国はつぶれるだろう、こういうことを李鵬首相がキーティングさんに言ったと。

非常にキーティングさんはショックを受けながらも、私がちょうど行ったものですから、おまえはどう思うか、こういう話だったのです。」
http://hanzibakuro.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/20-ea32.html






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「ひとりがたり馬渕睦夫」#12
安倍首相と日本の生きる道・質問祭り後編(国内問題編) - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=yH0v5jOE-LM

◉「ひとりがたり」馬渕睦夫 #12
収録:2018年12月10日 時間:42分


質問祭り、日本、そして安倍政権をめぐる問題にお答えします。

「馬渕大使が安倍首相を一方的に評価することが理解できない。安倍首相はグローバリストではないか」という質問にも真正面より答えます。馬渕睦夫はなぜ安倍総理を支持するのか?


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<目次的な!>

・トランプ大統領とユダヤ勢力のまとめ

・グローバルユダヤと民族ユダヤがあり、トランプを支持するのは民族ユダヤ。トランプ氏は反ユダヤではない。

・マネーを発行する権利を政府が持っていないという世界の中央銀行システムを理解することが重要

・日銀の筆頭株主は55%が日本政府ですが、残りの45%は誰が保有しているのですか?という質問。

・財務省は日銀を管轄できない、支配下に無い

・財政は財務省がやっているが金融は日銀がやっている(金融を政府が握っていないことの是非)

・国の支出が歳入を上回った場合、借金をすることが普通と思わされているが、政府の政策を遂行するためになぜ民間の日銀から借金をしないといけないのか?という素朴な疑問

・財務省はモリカケ含めずっと安倍降ろしをやっていた。主導権を取り戻したいと思っている

・官僚の人事は財務次官、または財務省OBが決めていた

・日本は今まで官僚主導、官僚支配の国だった(安倍総理以前)

・自民党内でも安倍降ろしが蔓延している

・安倍首相が下野して最も喜ぶのは中国、つまり自民党内親中派のこと(あなたは親中派ですか?)

・自民党の竹下亘氏について(竹下派会長・衆議院議員)
来年の参院選での安倍首相降ろし発言の主。2018年の総裁選では石破氏を支持。しかしその時竹下派(55人)内でも石破一本化はできず票は割れた


<日本の生きる道>

・例えば北海道の中国人による土地買収問題。
自民党が日本を守ろうと思えばすぐ対策できるということ。気概がないだけ。なぜやらないのか?
答え→自民党もチャイナマネーにまみれているから

・官僚はグローバリズムの先兵になっている

・働き方改革、移民法、種子法廃案、水道の民営化、などのグローバリズム政策

・法案は自民党の政調会→総務会を通るのだから、真面目に対応すればいいだけ、何もしないのは自民党の政治家の怠慢

・不法滞在者を無くすには韓国人のビザなし観光客を取り締まるべし!

・韓国人の不法滞在者数はここ数年増えており、観光ビザで失踪するパターンで女性が多い(女性60%)

・観光庁を国土交通省の中につくったのがこの問題のそもそもの遠因

・出入国在留管理庁(入管庁)までつくってしまった
→2019年4月 入国管理局が入管庁へ格上げ。入国審査官などの職員も500人以上増強される
※法改正を急いだ理由はここにあると思われます(補足)

・移民法の件、法律に書かずに省令でやると言っているのは、官僚の権限を増やすため(国益よりも省益の恐れ)

・これは本来の議会制民主主義の原則に反すること(とっくの昔にそれは無くなっているのですが)

・日本の政治家の質を上げる、特に自民党の政治家にもっと勉強してもらうことに尽きる

・日本の近現代史、大東亜戦争にまつわる質問には、今後の番組で語って参ります


<安倍首相・安倍政権について>

・政治というのは妥協の産物、51のために49を犠牲するのが政治

・日本にとって51とは?

・ところがいまその政治が働いていない

・安倍首相は49側、つまり妥協が過ぎるのではないか?という皆さんの批判だと思います。

・「日本を取り戻す」という安倍首相でも、自民党と官僚を抑えることはできない

・威勢のいい保守の論客は、実務経験が無い無責任ともいえる(それがすべて悪いとは言わないが)

・安倍首相は官僚も自民党内もグローバリストだらけの中でギリギリの綱渡りをせざるを得ない状況

・安倍総理は通算7年の任期
※安倍首相は2019年11月19日を越えると、通算の首相在任期間が桂太郎を抜き歴代一位となります(補足)

・馬渕睦夫はなぜ安倍総理を支持するのか?
 →安倍総理以外だともっと日本が悪くなるから、もっとグローバル化する、もっと中国、在日勢力の影響力が拡大するから

・移民法案でいうところの、”共生社会”というものは、世界のどの国にも存在していない

・民族は民族どうしで固まる習性があり、共生社会という言葉は幻想であり、まさにポリティカルコレクトネスである

・少数者を保護する法律などは分断を起こさせるだけ

・とはいえ日本はもともと共生社会を実現してきたはず


<日本人としての生き方>

・伝統的な精神に復古すること

・和の世界とは自らの分を尽くすこと(自分)

・個性は作り出すものではなく、もともと備わっているもの、引き出すもの。

・1930年当時の日本が混乱していたのは、外来思想を土着化できなかったから。それが大東亜戦争の要因でもある 

・ポール・クローデル(1868年 - 1955年)
フランスの外交官・劇作家
駐日フランス大使(1921-27在任)日仏会館を発足
馬渕大使の著書等に度々登場しますね!
曰く、

「世界でどうしても滅んでほしくない民族がある。
 それは日本民族だ。
 日本は太古の昔から文明を積み重ねてきたから
 明治維新後 急速に欧米文化を輸入しても
 発展することができた。
 日本人は貧しい。しかし、高貴である」
(1943年/昭和18年 秋 パリにて)


・この日本の伝統の精神が、今弱くなって来ている、忘れつつある!

・太古の昔の日本に想いを馳せるだけではダメで、それを取り戻すということ。それが精神武装になるのです。

・ロシアの視聴者からのメール(大使のロシア観、日本人と似たところと重なるのでご紹介)

・ロシア人は個人主義ではなく集団の調和を思いやる、中国人が大嫌いで性格的に合わない、精神の美しさや崇高さからほど遠い中国人を軽蔑する

・この難局をいかに乗り越えるか?なぜ世界が日本に注目するのか→日本にある精神性が鍵。


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/319.html#c14

[近代史3] 「アメリカニズムの終焉」を認めたくない日本 中川隆
15. 中川隆[-10927] koaQ7Jey 2019年4月05日 10:16:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1101]

大蔵官僚のノーパンしゃぶしゃぶ事件 _ 日本の国益を考える官僚は全員追放される


経済コラムマガジン 2018/4/30(984号)「ノーパンしゃぶしゃぶ」事件の顛末
http://www.adpweb.com/eco/eco984.html

財務官僚は反安倍勢力

文書改竄に続き、事務次官のセクハラ事件が起り財務省は世間の批難を受けている。しかし筆者は、財務省に関しては別の方向での批難があってしかるべきと思い今週号を書いている。ただ話を進める前に、安倍総理を攻撃する勢力について述べる必要がある。

安倍総理を攻撃する勢力の一つは、安保法制改定に反対し憲法改正を警戒する人々である。端的に言えば左翼である。左翼系メディアや労働組合など野党を支持する勢力である。これまで安倍政権は、野党の猛反対にも拘らず安保法制の改定など安保関連の法改正を着々と実現してきた。またこれらを実現しなが高い支持率を維持し、国政選挙でも連続して勝ってきた。左翼勢力は、ついに本丸である憲法が改正されると危機感を持ち、安倍総理への攻撃を最大限に高めている。


もう一つの反安倍勢力は、財政再建派とか財政規律派と呼ばれる人々である。消費税の再増税を2度も安倍総理に阻止され、彼等の総理個人への反感は最高潮に達している。

17/7/24(第948号)「加計問題と日本のマスコミ」
http://www.adpweb.com/eco/eco948.html

で取上げたように、自民党の中の反安倍と目される全ての政治家は、財務省に繋がっている財政規律派と見て良いであろう。またポスト安倍と見なされている政治家もほぼ全員財政規律派である。

このように役所の中ではっきりと反安倍のスタンスなのが財務省である。消費税の再増税を阻止され、総理に対しては恨み骨髄と思われる。しかし組織の上では総理は上司であり、財務官僚も表向きには総理に従っている。いわゆる面従腹背という接し方を行っている。

財務官僚の反安倍を示す信じられない話が伝わっている。以前、財務官僚数名が評論家の屋山太郎氏を訪れ「アベノミクスに反対してくれ」と申入れたという(4月14日付ZAKZAK)。これが本当ならとんでもない話であるが、十分有りうると思われる(もちろんアベノミクスが万全ではなく、問題があることは筆者も承知しているが)。筆者は、この前代未聞の出来事は文書改竄やセクハラよりずっと大きな問題と見なす。

ところが今日の財務官僚の一連の不祥事を、安倍政権の責任と日本のメディアは報道する。財務官僚が強硬な反安倍勢力であることを指摘するのは一部のメディアに限られる。ほとんどのメディアはこのことを承知しながら、卑怯にも今日のような偏向報道を続けているのである。


筆者は、昔から大蔵省や財務省、そしてこれらの官僚を動きをずっと観察してきた。時には

16/3/14(第883号)「信用を完全に失った財務省」
http://www.adpweb.com/eco/eco883.html

で述べたたように、元大蔵事務次官の相沢英之衆議院議員(当時)のような有力な大蔵官僚OBの何名かに直接お会いし話をしたこともある。この結果を元に、筆者は大蔵官僚と財務官僚は考え方が違う二つのグループに別れると認識するに到った。

一つが「柔軟派」であり、もう一つが「規律派」である。「柔軟派」は財政だけでなく銀行行政にも柔軟に対処する官僚であり、財政に関しても必要に応じ積極財政を是認する柔軟性を持ち合わせている。後者の「規律派」は、今日の財政規律派と見てもらって良い(銀行行政が金融庁に移管したので、規律と言えば財政に関する規律)。大蔵省時代の官僚は、これら二つのグループに別れる。ただ福田赳夫総理のように、大蔵大臣時代は「規律派」と目されていたのに、総理になって積極財政派(柔軟派)に転向するケースもあった。


しかしこれは大蔵省時代の話であり、今日の財務官僚には「柔軟派」がいない。今日の財務官僚は全員が「規律派」である。それは98年に大蔵省接待汚職事件が起り、「柔軟派」の有力官僚のほとんどが大蔵省を去ったからである。大蔵省と財務省の決定的な違いは、大蔵省では「柔軟派」と「規律派」が対抗勢力として省内で拮抗していたのに対し、財務省では「規律派」の独裁体制になったことである。

ただし追出された「柔軟派」の有力官僚の全てが汚職事件に関与したのではない。しかし汚職事件の捜査の過程で、これらの官僚が過剰な接待を受けていたことが問題になったのである。特に「ノーパンしゃぶしゃぶ」での接待が話題になり、一連の出来事を「ノーパンしゃぶしゃぶ」事件と一括りにされている。しかしこれは適切な表現ではないと筆者は思っている。ましてやこれが今日のセクハラ事件と同じ扱いを受けていることは完全に間違っていると見る。


追出された柔軟派の官僚

「ノーパンしゃぶしゃぶ」での接待が問題になり大蔵省を退官した官僚の言い訳を筆者は聞いたことがあり、以下、これを記す。たしかに「ノーパンしゃぶしゃぶ」で接待されたが、これは仕事の合間を抜けて陳情を聞くためだったという。当時、目立たないところで陳情を受けながら食事(夜食)するとしたなら、この「ノーパンしゃぶしゃぶ」みたいな所しかなかったと言う。陳情を聞きながらの食事が終わると、さっさと役所に戻り朝まで仕事を続ける毎日であったという。この官僚の言い分を信じるかどうかは読者の方にお任せする(筆者は信じても良いと感じる)。

陳情していたのは銀行のMOF担(大蔵省担当)だったと思われる。当時、不良債権が社会問題になり検査官の検査がどんどん厳しくなっていた。マスコミの論調はおかしくなり、不良債権が大きく悪い銀行は潰せという「空気」を作っていた。しかし問題の根源は土地などの資産価格が下がり続けていることであった。

たしかに平時なら、問題の金融機関の検査を厳しくすることは意味がある。しかし当時はバブル崩壊後、担保に取っていた土地の価格が下がり続けていた異常な時代であった。ましてや橋本政権の緊縮財政(消費増税など)で経済がマイナス成長に転落したこともあった。また構造改革派の観念論者が跋扈し、この非常時に企業の株の持合いを禁止したり、時価会計まで導入した。地価下落は一旦止まりそうになった場面もあったが(橋本緊縮財政の直前)、これらによって資産(土地や株)の投売りは止まらなくなった。


それにも拘らず、銀行の検査は強化され続けた。検査マニュアルは現実離れしたほど厳しいものに改定された。検査を強化し、銀行が隠している不良債権をあぶり出し、悪い銀行を破綻に追込むことが正義という風潮が作られた。

この「空気」を作ったのは、日経新聞など大蔵省の規律派の息の掛ったメディアと筆者は認識している。銀行を追詰めそこに公的資金を注ぎ込むことによって金融機関の健全化を行うという発想である。当然、これを警戒する銀行で貸し渋りや貸し剥がしが起り、銀行から融資を受けていた企業は資産(土地や株)を安値で売り急ぐことになった。

銀行に対する甘い対応は否定され、検査が異常に強化された。検査先の銀行で出されたお茶を飲むことさえ憚れ、自分でポットにお茶を用意してくる検査官がもて囃されたといった笑い話のようなことになった。結果的に、不良債権を巧みに隠した銀行だけが生残ることになった。


このため資産(土地・株)価格は下がり続け、適正価格を大きく下回るケースが出てきた。収益力がある土地にも買手が現れないので、資産価格は極限まで下がった。それらを買ったのが外資である。外資は、10分の1まで下がった銀座の一等地を買ったり、また企業の株の持ち合い解消に伴い放出された安値の株や、これによって連れ安した株を大量に買った。この頃から外資が日本の株式市場での売買の過半を支配するようになった。

銀行にとって、この危機的状況で頼るのは現場をよく知っている柔軟派の大蔵官僚だけになった。この官僚は仕事の合間に「ノーパンしゃぶしゃぶ」に呼び出され、陳情を聞くことになった。しかし結果的に、このような銀行に甘い官僚や閣僚は追出された。


ところが銀行局が金融庁に変わって10年以上が経ち、今日、銀行行政は様変わりしている。リスクを取らず貸出しが伸びない銀行の方が、むしろ指導を受けるという風になった。金融庁は立上がってしばらくは規律派の天下であった。しかし今日に到り、金融庁は現実を重視した柔軟派に転向したと言える。ただ昔の貸し渋りや貸し剥がしを知っている企業は、簡単には銀行からの借入を増やそうとはしない。

ちなみに「ノーパンしゃぶしゃぶ」で接待を受けたとされる柔軟派の官僚は、夜中に仕事をする時は自分の机を廊下に出しそこで仕事をしていたという。それは盗聴を恐れたからである。仮に盗聴器がないとしても「盗聴されているのではないか」と感じられることがプレッシヤーになったという。

筆者は、当時、日米が保険で揉めていたことがこれに関係しているのではないかと憶測する。日本の国益を守るため盗聴を警戒していた柔軟派の大蔵官僚と、籠池氏や女性記者に簡単に会話を録音されている今日の規律派の財務官僚とは好対照である。
http://www.adpweb.com/eco/eco984.html


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日本のジャーナリズムを監視する米軍組織
http://alternativereport1.seesaa.net/article/122853746.html


 神奈川県の座間キャンプ内にある、米軍第500軍事情報旅団「アジア研究分遣隊」Asian Studies Detachmentでは、日本国内で刊行される書物・雑誌等々を網羅的に「チェック」し、米国の政策に反対する人間、反米の思想家・評論家を監視している。

さらに、この軍隊は、こうした反米的思想の持ち主の身辺を「探り」、その金銭関係、異性関係、趣味・性癖の「情報収集」に当たっている。不倫関係、多額の借金、他人に言えない性癖等々の情報を収集し、「反米的な」思想家・評論家・ジャーナリスト・大学教授を「脅迫」し、口封じを行うためである。

 「必要に応じて」こうした情報は日本のマスコミに流され、スキャンダル流布による、特定のジャーナリスト・大学教授「ツブシ」が行われる。これは米軍による「日本支配のための軍事行動」である。そのエージェントが、マスコミである(注1)。

*注1・・・小泉元首相の郵政民営化を厳しく批判した植草一秀教授に対する、捏造スキャンダルによる、司法とマスコミの、リンチ報道・裁判に、その極めて悪質な典型を見る事が出来る。植草教授に対する、この捏造スキャンダル=リンチ事件は、日本から表現の自由・言論の自由が無くなる歴史的出発点として、言論暗黒時代へ向かう分岐点として、50年後、日本現代史にゴシック体文字で印刷・刻印されるであろう。以下、参照。


日本の金融をボロボロにして乗っ取ったのは1992年からのクリントンの対日戦略でした。日本を自分たちが自由に操れる国にしたのです。ロバート・ルービンとローレンス・サマーズを実施部隊の司令官にして、何かあるとサマーズが来日して大使公邸で怒鳴りつけるのです。

  当時、首相だった橋本龍太郎はさすがに行かなかったのですが、幹事長以下の実力者が全員呼びつけられて、「アメリカに逆らうな」と怒鳴りつけられる。そういう政治が行なわれてきました。今もそうです。そのことを知っている日本の新聞記者たちが、なぜかまったく書かない。ここに問題があるのです。

  1998年10月からの“金融ビッグバン”も、橋本龍太郎が無理やり約束させられたものです。当時は、「金融自由化だ」「ビッグバンだ」とあれほど騒がれたのに、今は誰も口にしない。なぜなら、「金融自由化」の掛け声とはまったく逆で、結果的にできあがったのは「金融統制」の体制でした。

  日本は騙されたのです。あの時に外資すなわちニューヨークの投機マネーが自由に日本に入ってこれるようにした。そして少額で日本の大銀行を乗っ取れるようにした。

  この1998年2月、“ノーパンしゃぶしゃぶ事件”を起こし、大蔵官僚たちを計画的に叩きのめしたのです。日銀官僚の福井俊彦(現日銀総裁)もあのリストに入っていました。名刺があった連中は皆さらし者にされ、官僚として出世が止まったのです。

  CIAはこの名簿をインターネット上に流し、さらに愛国派官僚たちが引きずり降ろされる不祥事に発展しました。いわゆる“大蔵落城”です。マスコミはCIAの尻馬に乗って、日銀と大蔵官僚叩きをやったのです。

  この時、すでに自民党の政治家たちは一人ひとり弱みを握られてアメリカの軍門に下っていたのですが、日本の官僚たちはアメリカの言うことを聞かないで抵抗していました。その結果、叩きつぶされたのです。
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/hitokuchi013.html


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日本のジャーナリズムを監視する米軍組織
http://alternativereport1.seesaa.net/article/122853746.html


 神奈川県の座間キャンプ内にある、米軍第500軍事情報旅団「アジア研究分遣隊」Asian Studies Detachmentでは、日本国内で刊行される書物・雑誌等々を網羅的に「チェック」し、米国の政策に反対する人間、反米の思想家・評論家を監視している。

さらに、この軍隊は、こうした反米的思想の持ち主の身辺を「探り」、その金銭関係、異性関係、趣味・性癖の「情報収集」に当たっている。不倫関係、多額の借金、他人に言えない性癖等々の情報を収集し、「反米的な」思想家・評論家・ジャーナリスト・大学教授を「脅迫」し、口封じを行うためである。

 「必要に応じて」こうした情報は日本のマスコミに流され、スキャンダル流布による、特定のジャーナリスト・大学教授「ツブシ」が行われる。これは米軍による「日本支配のための軍事行動」である。そのエージェントが、マスコミである(注1)。

*注1・・・小泉元首相の郵政民営化を厳しく批判した植草一秀教授に対する、捏造スキャンダルによる、司法とマスコミの、リンチ報道・裁判に、その極めて悪質な典型を見る事が出来る。植草教授に対する、この捏造スキャンダル=リンチ事件は、日本から表現の自由・言論の自由が無くなる歴史的出発点として、言論暗黒時代へ向かう分岐点として、50年後、日本現代史にゴシック体文字で印刷・刻印されるであろう。以下、参照。


このCIAが日本を含め世界各国の国会議員、政治家達の女性スキャンダル、裏金作り情報、松岡農林水産大臣の「なんとか還元水」問題等の情報を調査・把握し、米国に逆らえば日本の東京地検特捜部に匿名ファックスを送り付けて来る事は日常的に行われている、常識的な「慣例」である。

小泉元総理が学生時代に犯した日本女子大学の大学生に対する強姦事件と、神奈川県警に逮捕された小泉元総理の警察の取り調べ調書も米国側は当然握っていた。小泉はこれで完全に 「操り人形」と化していた。

現在では、極東最大のスパイ組織キャンプ座間にある米国陸軍第500軍事情報大隊が総力を上げ、日本の政治家、企業経営者達のスキャンダル情報の調査・ 蓄積を行っている。

相手は軍隊である。無防備な農林水産大臣1人を「潰す」事は簡単である。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49609103.html


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パソナ美女接待迎賓館”仁風林”
パソナ南部靖之会長の愛人達 竹中平蔵と橋下徹 都市伝説とその裏側
http://maezaki.net/pasona-takenaka


仁風林関係の動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E4%BB%81%E9%A2%A8%E6%9E%97

パソナの迎賓館"仁風林"の住所特定!とちないASKAも驚いたバブル内装【画像】
https://www.youtube.com/watch?v=FVt3LKC2ba4

仁風林 - Google 画像検索
https://www.google.co.jp/search?q=%E4%BB%81%E9%A2%A8%E6%9E%97&lr=lang_ja&hl=ja&tbs=lr:lang_1ja&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwi08f2c0cfLAhXiG6YKHSDDAPYQsAQIGw&biw=1140&bih=648


「仁風林」はCIAが作ったハニートラップ製造店か? 
かつてのノーパンしゃぶしゃぶ事件と酷似。


今や日本の政治家は完全なアメリカの飼い犬となり、アメリカの意のままに動かされています。

どうしてこんなことになってしまったのか。
脅されているのか、それとも金か何かで操られているのか。

色々な想像が頭の中をよぎりますが、今回のASKA事件によって、政財界の多くの人たちがハニートラップにかけられてしまったのではないかという疑いが出てきました。少なくとも私はそう見ています。


要するに、政財界の大物たちを麻薬やら女やらで誘惑して弱みを握ってしまうわけです。

そうすると、彼らはもう二度と自分の好き勝手はできない。

麻薬と女に手を出したことが世間に知れたら、その人は現在の地位を失い、最悪の場合、食べることすら事欠くようになってしまうからです。

ハニートラップを仕掛けたのはもちろんアメリカの金融ユダヤ人でしょう。

彼らは過去にも巨大なハニートラップ店を作り、大勢の霞ヶ関の高級官僚たちを罠にはめてきたという経緯があります。

皆さんもまだ記憶に残っていると思いますが、その有名なハニートラップ店が例のノーパンしゃぶしゃぶ「楼蘭」です。

97、98年頃、この怪しげな店に有名な大蔵官僚が出入りしていることがマスコミによって大々的に報じられました。

これによって彼らの多くが失脚することになりましたが、実はこのときにマスコミに名前を挙げられたのは愛国派と良識派の官僚だけでした。アメリカに留学経験のある官僚、いわゆる売国奴たちは誰もその名前を報じられることなく、そのまま権力の座に居座りつづけたのです。

この事件がきっかけとなって、大蔵省は財務省と金融庁に解体されてしまいました。

それは、日本の官僚の本丸、大蔵省がアメリカに攻め落とされ、完全に占拠された瞬間でした。

こうして官僚の上層部は全てがアメリカ留学組の人間のみとなり、アメリカのエージェントである売国奴がこの国を支配するようになったわけです。

しかも、そのアメリカ留学組が後輩の留学組たちを引っ張り上げるシステムができあがり、ついにはアメリカにこの国を売る者だけが出世するという仕組みが完成してしまいました。

今では官僚の留学先の7割以上がアメリカだそうです。
国費を使った留学で、日々売国奴が量産されつづけているというわけです。

我々のあらゆる資産をアメリカに献上してしまう人間を、給料から留学費用、住居や手当まで、我々がしっかりと税金で養ってあげているのです。

この「楼蘭」と同様、「仁風林」もまたアメリカの作ったハニートラップ製造所だった可能性がなきにしもあらずです。

多くの政財界の大物たちがこのハニートラップにまんまと引っかかり、金融ユダヤ人の意のままに動かされ、国民のために働きたくても働けなくなってしまった可能性があります。


○ASKAで話題の“接待パーティー” 高級官僚も常連だった

今のところ「仁風林」に出入りしていたことが分かっている政治家は以下の通りです。

・安倍晋三首相
・菅義偉官房長官
・田村憲久厚労相
・下村博文文科相
・林芳正農水相
・甘利経済再生担当相
・石原伸晃環境相
・新藤義孝総務相

もちろん、パソナ会長の竹中平蔵もその一人に違いありませんが、彼はハニートラップに引っかかった側ではなく、引っかける側だったと考えた方がいいのかも知れません。

「竹中さんみたいなお偉いさんに誘われて、おれも出世したな」

と思って、いい気になってサロンと呼ばれる社交の場に行ってみたら、そこは麻薬と女に満ちた怪しげな世界だった……

「これはちょっとマズイな」と思ったときにはもう遅い。

もちろん、中には麻薬と女の魅力にズブズブとはまりこんでしまう人もいるのでしょうが、逆に気まずい思いをして帰るだけの人もいるかも知れません。

しかし、いずれにしても、その場所に足を踏み込んでしまったが最後。麻薬と女に手を出したという証拠写真が撮られ、それをネタに脅しをかけられる。

これを世間に公表したら、お前の政治家生命はないぞ。

現在のところ、マスコミは「仁風林」がらみの政治家ネタを全く報じようとしませんので、どの政治家たちも脅しに屈して、金融ユダヤ人の意のままに動いておられると考えた方がいいのかも知れません。

実際、現在の安倍政権が国会に上げてくる政策のすべてが金融ユダヤ人の利益となる政策ばかりですからね。林芳正農水相も罠にはめられて、JA解体のために動かなくなってしまったのではないでしょうか……。

もっとも、いくら政治家や官僚たちを罠にはめたところで、最後の最後には国民が黙ってはいません。だから、JA解体の問題にしろ、自衛権の問題にしろ、最後の一押しがなかなかうまくいかないわけです。それでも力づくで金融ユダヤ人の意のままに政治を動かすなら、そのときはB層までもがカンカンに怒り狂って、誰も彼もがA層に変わってしまうことでしょう。

そうなったら、この日本はそれこそ完全な超一流大国になれるかも知れません。

そもそも、ASKAが逮捕され、パソナの名前が表沙汰になること自体、彼らには想定外だったのではないでしょうか。
http://rapt.sub.jp/?p=11226

ASKAで話題の“接待パーティー” 高級官僚も常連だった 2014年5月31日

仕切り役は元財務省の天下り

 ASKA事件で注目を集める人材派遣会社「パソナ」グループの迎賓館「仁風林」(東京・港区)を舞台にした接待パーティー。

常連客には、国会で追及された田村憲久厚労相や小野寺五典防衛相など現職閣僚を含む与野党の政治家の名前が次々と浮上。

政界に激震が走っているが、“接待漬け”されていたのは政界以外にもいる。

霞が関のエリート官僚たちだ。


 美女が体を密着させながら酒をつぎ、豪華料理に舌鼓を打つ――。

「仁風林」の接待パーティーは、さながら高級クラブのサロンのような雰囲気だったという。

 接待客の人選や席の配置などを仕切っていたのは、南部靖之代表の“右腕”といわれ、「公共戦略事業・特命担当」の肩書を持つ上斗米明・常務執行役員。

財務省出身の天下り官僚だ。

「83年入省で、主税局主税企画官、関税局業務課長などを経て国税庁総務課長に就いたものの、なぜか、たった5カ月で大臣官房付に異動し、そのまま辞職した。2010年に執行役員としてパソナに天下りしました」(事情通)

霞が関で突然の大臣官房付の異動はスキャンダル絡みが多い。

南部代表はセクハラなどでミソを付けた有能な人材を利用するのがうまい。

ま、いろいろとあったのだろうが、上斗米氏が霞が関とのパイプになったのは間違いない。


「パソナの官僚接待はすごいですよ。
局長以上の幹部の多くは、“仁風林パーティー”を知っているはずです。

パソナを含む派遣業界は90年代、業界全体で数十億〜数百億円規模といわれた派遣社員の社会保険料の未納の扱いについて頭を痛めていました。

98年には会計検査院が全国の派遣会社の約400の事業所で、約35億円の社会保険料の徴収漏れがあったことを指摘しています。保険料徴収が厳格化されれば、業界はたちまち火の車。そこで保険料の支払いを緩くするための日雇いや請負といった規制緩和に政界工作を仕掛けた。

課長クラスもパーティーに来ていて、南部代表の腰巾着といわれているエリート官僚は大勢います」(元人材派遣会社幹部)


仁風林」の常連官僚の中には、経産省の局長や中小企業庁の幹部職員がいて、実名が飛び交っている。

 文科省の事務方トップ、山中伸一・事務次官の名前も出てきたから文科省に事実確認すると

「こんなことを次官に聞けるワケがないし、プライベートなことなので答える必要はない」(事務次官室)

ときた。

 経済ジャーナリストの荻原博子氏がこう言う。

「労働者あっての国や経済なのに、官僚や派遣業界は、労働者を『出来る限りコキ使って搾取するコマ』としか見ていない。

自分たちさえ儲かればいいと思っているから、政官財で“癒着”しようが“談合”しようが、悪いという感覚がないのでしょう」


「仁風林」での政官接待は、98年の銀行と旧大蔵官僚の「ノーパンしゃぶしゃぶ接待」を思い出させる。

お車代などの現ナマをもらって、行政をネジ曲げたのだとすれば許されない話だ。
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/150621


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2018年03月21日
財務省決裁文書改ざん事件の本質は何か - 森永卓郎
http://blogos.com/article/285184/?p=1

 財務省の決裁文書書き換え事件について、私は大きな危機感を抱いている。その不安をさらに大きくする記事が、3月18日の朝日新聞に掲載された。3月17日、大阪府高槻市内で行われた集会での辻元清美立憲民主党国会対策委員長の発言だ。

 「昨夜、首相官邸前で雨の中、ものすごい数の人が集まっていたが、『官僚頑張れ!』のコールが出てきた。普通、決裁文書の改ざんが起きれば『官僚は何なんだ』となるが、『今回は違う。誰かを守っている』とみんな見抜いている」

 私は、今ごろ、財務省は高笑いをしているのではないかと、感じているのだ。

 財務省が国会に提出した決裁文書から昭恵夫人の名前が消えていたことで、野党やマスメディアは、安倍総理の関与を再び追及する構えをみせている。もちろん、それはやらなければならないことだが、今回の決裁文書で、安倍総理の関与を示す証拠は出てきていないのだから、そこに力を注ぐより、財務省の責任をきちんと追及することのほうが、優先順位が高いと、私は考えている。それどころか、安倍内閣が弱体化することは、逆に財務省の思うつぼになる可能性が高いのだ。

 財務省は、国会に改ざんした決裁文書を示して、それに基づいて1年間も国会審議がなされてきたのだから、改ざんは国会への冒涜に他ならない。しかも、ミスによって誤った文書が出されたのではなく、悪意をもって、組織ぐるみでやったのだから、再発を防ぐためにも、厳罰を下す必要があるのだ。


ノーパンしゃぶしゃぶ事件の教訓

 ここで再確認しておくべきことは20年前の不祥事だ、財務省の前身の大蔵省は、いまから20年前に、いわゆるノーバンしゃぶしゃぶ事件を起こした。金融業界から過剰接待を受けて、内部情報を漏らしていたとされる事件だ。このときの大蔵省へのペナルティは、4つの方法で行われた。

 まず、刑事責任の追及だ。6人の大蔵官僚(OBを含む)が逮捕され、全員に執行猶予付きの有罪判決が下された。第二は、大蔵省としての処分だ。停職1人、減給17人など112人に対する処分が行われ、局長クラスも複数が辞任した。第三は、政治責任だ。当時の三塚博大蔵大臣は、この事件の責任をとって辞任した。そして第四は、大蔵省という組織へのペナルティだ。この事件をきっかけに、大蔵省から金融庁を切り離すことになり、そして大蔵省という名称自体も財務省に変更されることになったのだ。

 今回の決裁文書改ざんは、罪としては、ノーバンしゃぶしゃぶ事件よりもずっと重いだろう。有印公文書偽造は、最高刑が懲役10年の重罪だ。

 ところが、第一の刑事責任の追求に関して、いまのところ検察の具体的な動きがみられない。証拠固めをしているのかもしれないが、改ざんに関わった官僚は、すべて逮捕すべきだろう。

 そして、第二の財務省としての処分も動きがみえない。麻生太郎財務大臣は、決裁文書の改ざんは、3月11日になって初めて知ったのであり、自分は一切関与していないと断言している。もしそうだとすれば、財務省は、国会をだましただけでなく、自省のトップをも欺いていたことになる。それによって、国会を空転させ、内閣を窮地に追い込んだのだから、私は、改ざんを実行した財務官僚は、懲戒免職に相当すると思う。いまのところ、改ざんに関わった具体的な官僚の名前は出てきていないが、それが判明したときに、もし手ぬるい処分が下されることになったら、麻生大臣の関与が改めて疑われることになるだろう。

 第三の政治責任だが、麻生財務大臣の辞任は避けられない。仮にまったく知らないところで改ざんが行われたのだとしても、監督責任は大きいからだ。

 そして、第四の財務省という組織に対するペナルティだ。麻生大臣は、問題を起こした理財局の分離を示唆しているようだが、それでは意味がない。私は今回こそ、国税庁の切り離しをすべきだと思う。財務省がなぜ日本の支配者として振る舞う強大な権力を持ってきたのかといえば、国税庁を抱えているからだ。財務省を批判したり、逆らったりすると、税務調査や国税の査察を受ける。だから、怖くて財務省批判ができないのだ。国税庁を分離すれば、財務省は普通の役所になり、国会や国民を欺いてまで、自らの政策を強行することができなくなるのだ。

なぜ国有地は8億円引きで払い下げられたのか

 以上で述べた財務省へのペナルティをきちんと行ったうえで、次に追及すべき問題が、そもそもなぜ財務省が森友学園に国有地を8億円もの値引きをして払い下げたのかということだ。ある元経済産業官僚は、私に、「官邸での地位低下にあせった財務省が、安倍総理にこびを売るためだったのではないか」と語った。安倍政権発足前は、財務官僚は官邸で圧倒的な地位を占めていた。

 ところが、安倍総理は政界のなかで唯一の「反財務省」の政治家だ。だから官邸内の主要ポストを経済産業省出身者で固めた。日本の支配者である財務省としては、当然面白くない。そこで、安倍総理の歓心を引こうと、昭恵夫人肝いりの森友学園に便宜を図ったというものだ。確かに、その可能性は十分ある。しかし、私は財務省にもう一つの思惑があったのではないかと思う。

 実は、一昨年の秋ごろから、安倍総理に「消費税引き下げ」の動きがみられた。昨年1月号の「文藝春秋」には、安倍総理の参謀である浜田宏一内閣官房参与が、「アベノミクス私は考え直した」という論文を寄稿し、減税の必要性を訴えた。その後、安倍総理自身も、官邸にイギリスのアデア・ターナー金融サービス機構前長官を招き、会談している。ターナー氏は、ヘリコプターマネーの提唱者として有名で、日本がデフレから脱却するためには、減税が必要と主張している。

 来年10月からの消費税率引き上げを控えて、安倍総理がこうした動きをすることは、財務省にとっては看過できない事態だ。そこで、財務省は安倍総理に取り入ることができなかった場合には、安倍総理を失脚させても構わないという含みをもたせて、8億円引きを行ったのではないか。

 3月16日の参議院予算委員会で、財務省の太田充理財局長が、「政府全体の答弁は気にしていたと思う」と述べて、安倍総理が「自分と昭恵夫人が、払下げに関与していたら、総理も議員も辞める」と発言した国会答弁が、決裁文書改ざんに影響したことを否定しなかった。この期に及んでも、財務省が安倍総理退陣を目論んでいることを示唆する答弁なのではなかろうか。そして、その財務省の戦略は、内閣支持率の急低下やメディアの論調をみていると、思惑通りに進んでしまう可能性が高まっているようにみえるのだ。

 私は、働き方改革や原発の新増設、憲法改正といった安倍政権の政策には反対だが、もし安倍政権が崩壊したら、来年10月の消費税引き上げが予定通りに行われて、景気が失速するだろうと考えている。ポスト安倍の面々は、例外なく親財務省だからだ。


財務省はウソツキ

 今回の決裁文書改ざん事件で、明白になったのは、財務省はウソツキだということだ。そして、財務省がついてきた一番大きなウソは、「日本の財政は先進国のなかで最悪の状態にあり、財政の持続可能性を考えたら、消費税引き上げ以外に方法がない」というものだ。40年も前から始めたこの財務省のキャンペーンは、いまでも多くの国民が信じ込んでいる。

 しかし、財務省が作成している「国の財務書類」という統計をみると、連結ベースで国が抱えている債務は1400兆円となっている。しかし、同時に国は950兆円という世界最大の資産を保有している。差し引きすると、国が抱える純債務は450兆円にすぎない。これは、先進国の普通のレベルだ。しかもアベノミクスの金融緩和は、日銀が保有する国債を大幅に増やした。日銀が保有する国債は、事実上返済や利払いが不要なので、借金ではなくなる。経済学では、通貨発行益と呼ぶ。

 いま、日本の通貨発行益は450兆円にも達している。通貨発行益と純債務を通算すると、ちょうどゼロだ。つまり日本政府は、現時点で無借金経営になっているのだ。もちろん消費増税の必要性など、かけらもない。

 国民が、この財務省が作り出した最大のウソに、一日も早く気付くことが、今回の決裁文書改ざん事件から受け取る最大の教訓なのではなかろうか。
http://blogos.com/article/285184/?p=1

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森永卓郎の「経済“千夜一夜”物語」 財務省へのペナルティー
https://wjn.jp/article/detail/2247680/
週刊実話 2018年4月5日号

 森友学園への国有地売却に関する決裁文書について、財務省がついに改ざんを認めた。野党や大手メディアは、削除された部分に安倍昭恵夫人の名前があったことで、再び「総理の関与」を追及する方針だが、それでは財務省の思うツボというものだ。

 まず、忘れてならないのは、今回の文書改ざんが、森友学園の事件が発覚したあとで、本省理財局で行われたということだ。だから、最初にこの改ざん事件の始末について考えなければならない。

 財務省が国会に提示した決裁文書の改ざんは、有印公文書偽造にあたる。懲役10年以下の重罪だ。だから、まず改ざんに関わったすべての財務省職員を懲戒免職にするとともに、改ざんを指揮した当時の佐川宣寿理財局長と、理財局の幹部を逮捕しなければならない。

 それをしたうえで、なぜ財務省が森友学園に国有地を8億円もの値引きをしてたたき売ったのか、という点をしっかりと解明する必要があるのだ。

 ある元経済産業官僚は、官邸で経産官僚が重用されるようになり、危機感を覚えた財務官僚が、安倍総理を喜ばそうとしてやったのではないかと言う。それもあるかもしれないが、私の見立ては違う。

 安倍総理は、一昨年の秋頃から、消費税率の引き下げを画策していた。それは、財務省にとって許しがたい蛮行だ。そこで財務官僚が、安倍総理を失脚させるために、自らの危険をも顧みず、あえて決裁文書の改ざんをしたのではないだろうか。

 昭恵夫人の名前を削除しておいて、後からそれが発覚すれば、世間は安倍総理の関与を疑い、自民党総裁選での敗北、あるいは総理辞任が期待できるからだ。だから、いまの安倍総理の責任追及の動きは、まさに財務省の思惑通りということだ。

 財務省が起こした前回の大きなスキャンダルといえば、大蔵省時代の'98年に起きた「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」だった。大蔵官僚が過剰接待を受けていたのだが、その後始末として大蔵省は、金融庁を分離させられ、大蔵省という名前自体も捨てざるを得なくなった。

 今回は、それ以上のスキャンダルなのだから、財務省にそれ以上の制裁を与えなくてはならない。

 一つのアイデアは、国税庁を分離して歳入庁として独立させることだ。いままでは、財務省に逆らうと国税が査察に入ってくる恐れがあるので、誰も財務省に逆らえなかった。しかし、国税庁を分離してしまえば、財務省は普通の官庁のひとつになる。日本の政治をコントロールしようなどという妄想は抱かなくなるはずだ。

 ただ私は、最も望ましい制裁は、消費税率の引き下げだと思う。財務省が一番嫌がることだからだ。

 また、安倍政権の発足以来、国民の大部分が景気回復を実感していないのは、実質賃金が安倍政権発足後の5年間で4%も下がっている点だ。

 そして、その実質賃金減をもたらした大部分の原因が、消費税率の引き上げなのだから、消費税を元に戻せば、デフレからの完全脱却が可能になる。安倍総理が、支持率回復のため、今回の事件を利用して消費税引き下げに踏み切る可能性は、十分あるだろう。
https://wjn.jp/article/detail/2247680/  

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/319.html#c15

[近代史3] 「アメリカニズムの終焉」を認めたくない日本 中川隆
16. 中川隆[-10926] koaQ7Jey 2019年4月05日 10:28:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1102]

日本人を馬鹿にしきったアメリカ人 _ 基地に入れば、日本とアメリカの関係がよくわかる

「基地に入れば、日本とアメリカの関係がよくわかる。

学校では平等とか対等、立派な国と習ってきたが全然違った。

従業員と米兵の関係も、上司と部下というものではなく、都合のいい使用人のような扱い。植民地状態を実感することが多い」と語る。


 そして、「日本人の給料を削るというが、米軍再編には3兆円、思いやり予算は2000億円というし、防衛省の汚職事件のように政治家や業者が好きなだけ儲けている。

グアム移転でも、本当は1軒2000万円もかからない住宅が、政治家とゼネコンが関わると9000万円に跳ね上がったと聞いた。国も無茶だし、マスコミも基地労働者が不当に儲けているようなデマを流す。米軍再編で岩国は兵糧攻めにされているが、同じ問題だ」と話した。

 労働者からは、占領者意識丸出しの米兵の様子、日本の税金を湯水のように使った贅沢ぶりが、基地従業員の給料削減や消費税などの大増税と対比して、憤りを込めて語られる。
「基地の中は、一般の人が驚くようなことばかり。実態を広く知らせてくれ」と話された。


 日本人労働者に対しては、「頭からばかにしきっている者が多い。表面上優しい人物もいるという問題ではなく、根がそうなっている」とか、「学校や親から、“日本は敗戦国、アメリカは戦勝国”と教えられて育っているから抜けることがない。

初めて日本に来た米兵が1番程度が悪く、あまりひどいことをして痛い目にあうと少しおとなしくなる」などが語られる


日本語話させぬ米兵も 悪口言われる事恐れ

 従業員の1人は、

「基地内では日本人同士であっても

“ここは、アメリカの領土だ。日本語をしゃべるな!”

と命令してくる米兵もいる。

そんなことをいっても、仕事にならないし、腹も立つからわざと日本語でしゃべる。最近はフィリピン系の従業員も多い。

米兵は、言葉の意味がわからず、全部悪口をいわれていると思い恐れている」と語る。

「日本にいるなら少しは、日本語の勉強をしろ」と思うが、「米兵には英語で話すのが当たり前」の人間が多いという。

 「使用人・召使い」感覚の米兵もおり、思い通りに仕事が動かなければ、「制裁」といって殴ったり罰を加えたりもする。

「やかましい規則にはめ込んで日本人イジメを楽しんでいる者もいる」という。

また、基地内では家族や退役者も働いているが、

「自分が昇給や昇格しようと思い立つと、邪魔になる日本人従業員はすぐ首にしたり、配置換えをしたりする。人事課も当然のように動かしている」と語られた。


 なかには、「わしらは戦争だけ。それ以外の雑用と金を出すのは、全部日本人で当たり前」といい放つ兵隊もいる。

50代の労働者は「基地内のゴミは、分別ではなく、ビンもペットボトルも、紙もすべて一まとめで袋に入れてある。その分別を日本人がやる。将校クラスは広い庭を持っているがその手入れも日本人。

掃除をした端からゴミを散らかす者もいる。第1、ゴミの量が半端でない。新しい物でもどんどん捨てる。補充は日本の税金でするから気にすることはない」と話した。


日本人労働者への扱いで「象徴的」といわれるのが米軍用建物は立派なものばかりなのに、従業員用のまともな施設はないこと。

「部署によっては、更衣室も休憩するところもない。あっても男女兼用で、着替えに使えない。トイレにロッカーが置いてあり、そこで着替えたり休憩したりしている。“なんでトイレなのか。ふざけるな!”という感じだ」と語られる。

 労働者のなかでは、「腹が立つことも多いが、なにかトラブルになれば異常に時間を取られるし、国はまともに交渉できず、結局日本人の不利益で終わることも多い。大きな事件だとすぐに本国に逃げる。軍務中だと、いっさい責任は問われてない。だからなるべくトラブルを起こさないようにしている」と話された。


 家賃タダで豪邸で生活 電気・暖房つけっ放し

 40代の労働者は、「贅沢三昧も目に余る」と強い口調で語る。

米軍住宅もすべて日本の税金で建設し家賃はタダ、電気・水道・ガスも使いたい放題の状態は以前から指摘されていたが、「家具や電子レンジ、ベッド、冷蔵庫、テレビに至るまで全部が備え付け。第一家が巨大すぎる」という。


 一般米兵の住宅でも、ベッドルームが3つとかトイレが2つとか、リビングルームもダイニングキッチンもある。

少し位が上になると、1人部屋にもそれぞれ、バスルームからキッチン、トイレが付いている。「偉い人たち」になると、1軒7、8000万円かけた豪邸のうえに、広広とした庭が付いている。

最近は、基地外に住む米兵も増えつつあるが、その家賃も光熱費もすべて日本持ち。

「家の構えも豪華」なのだといわれる。


 労働者は、

「電気もエアコンも付けっ放し。

日本人には、節電しろ、節約しろというが自分たちには関係ない。

綺麗な家具なども、新しいのがくるからと、いっせいにブルドーザーでバリバリつぶす。ゴミ置き場は、日本人には買えないような立派な物が捨ててあり、“宝の山”といわれている」と語った。


婦人の1人は、「宿舎や隊舎を回るとき、いつでも“税金・税金”といって電気や暖房を消して回る。でもすぐに付ける。


ひどいのは、運動場を使ってもいないのに、ナイター用のライトや照明を付けっ放しにしている。

住宅のなかには、半分も入居していない所もあるが、そこもガンガンに暖房などを付けている。

自分が払わないから、感覚がないんですよ。生活も成り立たない人もいるのに、基地にはつぎ込まれている」と話した。


 その他にも、「基地内はすべて空調が行き渡るようになっている。それプラス各部屋にエアコンがある。

夏なのに、暖房をかけているし、冬はクーラーや扇風機をつけている。夏にかぜを引く兵隊は多い。

だから思い思いに、“暑い”とか“寒い”とか、空調を担当する日本人に電話で怒鳴ってくる。ばかじゃあないか」。


 「デパートのエスカレーター部分の天井はガラス張りになっている。夏になると、直射日光が当たる。

暑いのは当たり前だが、また怒鳴る。だいたい、入り口の自動ドアも二重になっておらず1枚だから、人が入るとすぐ温度が変わる

当然のことなのに、日本人へ文句をいう」なども語られた。


 また、退役した兵隊のなかには、全部がタダのため日本に住み続ける者もいる。

「それをなんらかの形で国や米軍が雇って、日本が給料を払っている」とも話されていた。


 長年基地に勤めてきた労働者は、


「基地が好きで入った人はほとんどいない。外では、ボーナスはカットだし給料は安い。

生活ができず仕方なく基地従業員になったような人が多い。

みんな働き出して、初めて中身がわかる。

アメリカが、命をかけて日本を守るわけがない。

米軍には金を出し、日本人は苦しめる。

それに私たちは腹を立てているんだ」と語った。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/iwakunikitiroudousyagadai2ha24zikannsutokekkou%20yomigaeruroudousyanozisinn.htm

国がアメリカのいうことに平身低頭だから、米兵もおもしろがって日本人をばかにしている」と話す。


 清掃作業員として基地に入っていたが、

「日本人を見下した態度には腹が立っていけなかった」と語る。

学校の掃除でも、汚すだけは汚して教室も食堂もすべて日本人に片付けをさせる。

自分のミスでカビが生えても、日本人の責任とされる。

掃除が済めば検査があり、ホッチキスの芯1本でも落ちていれば、すべてがやり直しになる。

「一生懸命にあらを探していた。あれは嫌がらせだった」と振り返る。


 そして、「1番かわいそうだったのが、ペリースクールの塗り替えに入っていた業者。

真夏の暑い盛りに、建物すべてのペンキ塗りをさせられて、終わったと思うとなにが気に入らなかったのか、全部やり直し。

作業員は、クーラーのある部屋での休憩もさせてもらえず、日がカンカンに照っているところでひっくり返っていた」という。


 「指示通りに物をつくったり、材料を持って行ったりしても、気に入らないと“ダメだ。もう1度”という。

おもしろがってやっていた。国は、上げ膳下げ膳だから話にならない。

日本人から税金をぶんどってまでアメリカに何千億円も出さなくていい」と語った。


「岩国は、日本人に対してとくに厳しいところといわれている。語学手当を切るというが、今は英語ができない人間にはまともな仕事がない。

基地には段階のある試験制度があり、それに受かるため仕方なく学校に通うなどしていてそのための費用だ。

最近、大卒や留学生など、英語ができる人間の採用を増やしている。できない人は、55歳などで早期退職させている」と話す。


 また、「雇用者は国だが使用者は米軍ということで、管理者の気に入らなければ解雇される。

日本が金を払っているのに、なぜか米兵の奥さんなどが、従業員になっていたりする。

そういうのは余り仕事をせず、日本人にやらせている。

清掃など、業者の入札もひどいダンピングをさせて、金を下げている。おかげで基地に入る業者は儲けにならないと聞く。

日本人の金は削って、なぜ米軍にだけは制限もなく金を払っているのか」といった。


 子どもが基地内で働いているという住民は、

「基地で働こうと思えば、日本人として腹が立つことがあっても割り切らなければいけない。

ショッピングセンターでも、バーでもマンションでも、全部日本の税金でつくっているのに、日本人は立ち入り禁止だ」と語る。


 そして、「テロ事件のあとは、化学兵器攻撃などといって避難訓練をよくやっているが、日本人は米軍を助ける訓練はしても、自分たちや家族は逃げる訓練はない。

消防にいれば、給料はよくても命をかけて米軍を守る。米兵や家族は、飛行機などで逃げていく。狂っている
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/zentyuuroubeigunniwakunikitidesutototunyuu%20minnzokutekinabubetugakihonnni.htm


軍曹とか下っ端の米兵クラスの家にも風呂が2つ、ベッドルームが3つとか高級マンション並み。

電気も水道も使い放題で、クーラーをかけて窓やドアを開けっ放しにしている。

ペリースクールも、夏休みで人がいなくても冷房は入りっ放し。

3カ月近くある休みが終わって湿気のために部屋にカビが生えれば、怒鳴りつけてくるという。


 「子どもを見ていても、日本人をばかにしていることがよくわかる。

スクールの各教室ごとに、電子レンジと冷蔵庫が備えてあるし、物がなくなればすぐに日本人従業員のせいにされる。

掃除をしているとわかっていると、ワザとポップコーンをこぼすし、流し台にはカップラーメンの食べかけなどを山積みしたりする。

日本人は一世一代の買い物で家を建てるのに、はるかに豪華な米軍住宅は数年たつと惜しげもなく建て替える。持って帰りたいと話になるほどだ」といった。


 そして、「米軍は新品同様の物もすぐ捨てるから、それだけで日本人なら十分生活できるぐらい。

ペリースクールも取り壊すというのに、何年か前に建て増しもした。

日本人は、年寄りも若者も貧乏になって生きていけなくなっているのに、アメリカには湯水のようにお金を使っている。

もう1度考え直さないとだめなんです」と話した。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/hirosimakennkeibeiheihikiwatasiseikyuutorisage%20nihonnnokeisatukatosiminnfunngeki.htm
 




 国民搾り米軍に年7000億円
「思いやり予算」の総額維持

菅政府またも公約投げ捨て  2010年12月17日付


 民主党・菅直人政府は総選挙の「政権公約」(マニフェスト)をことごとく投げ捨て、自民・公明政府にも増して売国と戦争の道を突っ走っている。その一つ、「政権公約」に明記した「在日米軍再編見直し」「在日米軍駐留経費負担(思いやり予算)削減」を投げ捨てた。菅政府は14日「思いやり予算」について2011年度以降も2010年度の水準約1881億円を、3年ごとの見直しではなく5年間維持することでアメリカと合意したと発表した。これで在日米軍関連経費は単年度7000億円台と過去最大の日本側負担となる。菅政府は一方で「財源がない」と医療・介護・福祉の全面的な改悪による負担増で国民から大収奪する方針を決めている。

 在日米軍駐留経費日本側負担(思いやり予算)は三年ごとに見直すことになっており、来年3月で現行負担は期限切れとなる。民主党は周知のように選挙公約で「思いやり予算」削減をうち出した。

 7月22日、「思いやり予算」見直しの日米両政府の協議がスタートした。10月4日、東京都内のセミナーで、米外交当局者は「“思いやり予算”という言葉は古い」とのべ、「世界でもっとも能力のある米軍を日本に駐留させることで、地域の平和と安定に貢献する日米共同の投資だ」と横柄に増額を要求する圧力を加えた。

 菅政府は、事業仕分けで「見直し」の判定となった米軍基地の日本人従業員給与など労務費1140億円、光熱水費249億円を削減の対象とするポーズをとった。だが、今回減額の対象としたのは、バーテンダーやゴルフ場など娯楽性の高い業種を中心に、日本人従業員430人分の日本側負担削減、米軍施設の光熱水費も現行76%の日本側負担を72%に削減しただけである。

 しかもこの削減は形だけで、在日米軍の隊舎や家族住宅への太陽光発電の導入、冷暖房の効果を高める断熱材改修などの「エコ対策費」を日本側が負担し、一八八一億円の総額は維持する。

 菅政府が発表した在日米軍駐留経費日本側負担に関する日米合意の内容は、「特別協定」の有効期限を現行の3年から5年にのばし、総額も現行水準を五年間維持、「特別協定」の対象とならない米軍施設整備費を含めて複数年の血税つぎこみで合意したのは、かつてないものである。

 今年度、在日米軍駐留経費日本側負担(1881億円)を含む、在日米軍の活動経費のうち、日本側負担分は初めて7000億円を突破し7146億円に達している。

 その内訳は、「思いやり予算」1881億円、基地周辺対策費(賃借料など)1737億円、基地交付金など(各省庁分)384億円、米軍基地土地借上賃料1656億円、在日米軍再編経費1320億円、SACO(沖縄に関する日米特別行動委員会)関係経費169億円、――合計7146億円である。

 米軍関係経費が7000億円を初めて突破したのは、アメリカが「対中戦略」で米領グアムに海兵隊基地を建設するのをはじめ、海空戦力を集中強化しており、「米軍再編経費」と称してこれへの負担を開始したからである。最低でも3500億円とされる「沖縄・米海兵隊移設」の負担が本格的に始まれば、在日米軍関連経費負担がはね上がることは確実である。

 一方、アメリカ側の在日米軍関係経費は、2008年10月〜09年9月の米会計年度で約47億j(3948億円、1j=84円)にすぎないのである。アメリカの倍に近い負担を、日本国民に押しつけている。


 30年間で2兆円を超す 米基地施設整備費

 日本政府が1979年度から始めた在日米軍駐留経費負担は、米軍の特権を定めた「日米地位協定」によっても、なんら負担義務のないものである。ところがこれを「特別協定」を結んで負担している。

 「思いやり予算」でやってきた在日米軍基地の施設整備総額は、1979年度から2010年度までで、約2兆1714億円にのぼっている。施設整備費が投入された米軍基地は66基地、整備施設数は計1万2900件に達している。

 投じた施設整備費を基地別に見ると、トップは「沖合移設、跡地利用」のペテンで沖合拡張を強行した米海兵隊岩国航空基地で3654億円、ついで青森県の米空軍三沢基地の2566億円、米原子力空母ジョージ・ワシントンのバース(保留施設)を整備した神奈川県の米海軍横須賀基地が2329億円と続いている。そのほか東京都・横田基地1805億円、沖縄県・嘉手納基地1334億円、神奈川県・厚木基地1080億円、神奈川県・米軍池子住宅896億円、沖縄県・キャンプ・ハンセン787億円、神奈川県・キャンプ座間769億円、沖縄県・キャンプ瑞慶覧774億円となっている。

 これら戦斗機の耐爆シェルター、滑走路、駐機場、整備用格納庫、軍船用バースなどの作戦支援施設から、住宅、学校、育児所、厚生・運動・娯楽施設、病院、郵便局などの生活関連施設まで、日本の庶民にとっては考えられない血税による至れり尽せりの整備である。

 このうち、もっとも多いのが米兵家族住宅で、1万1383戸、総額5510億円で、一戸当りの建設費は平均約4800万円、きわめて豪華な住宅といわざるをえない。

 民主党・菅政府は「同盟重視」と称している。客観的な事実は「同盟」などといえたものではなく、隷属によるアメリカいいなりの血税のつぎこみであり、「日本を食いもの」にしている。

 2004年版「米国防総省・共同防衛に対する貢献報告」によると、日本は米軍が駐留する「同盟国」27カ国のなかで、日本を除く他の26カ国合計よりも多く米軍に金を貢いでいる。

 同報告は、各国の2002年分駐留経費負担額を明らかにしたものである。これによると、日本の負担は他の国に比べてけた違い。44億1134万jにのぼっている。

 この日本の負担は、ドイツの2・8倍、「韓国」の5・2倍、イタリアの12倍、イギリスの18・5倍である。日本を除く26カ国の米軍駐留経費負担額の合計は39億8582万j。日本の負担はこれを4億2452万jも上回っている。
 駐留する米兵一人当りの計算では、日本は10万6000jで、イタリアの3・8倍、「韓国」、ドイツの4・9倍に達している。

 日本の米軍駐留経費負担は、「直接負担」として、米軍基地の施設建設費、米軍訓練費、基地従業員の労務費、光熱・上下水道料、基地提供のための民有地借り上げ料、基地周辺対策費などの直接の財政支出(血税の投入)、その額は32億2843万j。「間接負担」は、国有地の提供、税金の免除などで、その額は11億8292万jにおよんでいる。

 米軍駐留経費に占める日本の負担割合は、74・5%。約4分の3をまかなっており、このような国は、世界中のアメリカの「同盟国」をさがしてもどこにもない。まさに「同盟」などといえたものではなく、アメリカの属国同然である。

 福祉や医療は切り捨て 「財源ない」と

 民主党・菅政府は、米軍に自民・公明政府にも増して、血税をつぎこむかまえである。その一方で、総選挙で国民に約束した医療・介護・福祉政策は「財源がない」とかなぐり捨てて、新たに高負担を押しつけている。

 「後期高齢者医療制度廃止」は、75歳以上の高齢者を別会計にすることでは、そのまま継続して、国費をはじめとする公費負担割合は増やさず、75歳以上の保険料は際限なく高騰する仕組みとした。現役世代の保険料による支援制度も、所得に応じた負担割合とし、給与所得者や公務員の一定額以上の所得者の負担を重くした。また、70〜74歳の医療費窓口負担は、現行の1割から2割に引き上げる。

 がん患者の抗がん剤治療など、高額な医療費負担ができず、治療を中断して死期を早めていることが社会問題となっている。これにかかわって、高額療養費制度の患者負担限度額(現行、一般で月約8万円)を軽減することを表明していた。これも「財源がない」と見送り、がん患者とその家族など、長期療養を必要とする患者から、強い抗議が起こっている。

 介護保険制度の改悪は制度の根本的な破壊である。「重度者優先」と称して、要支援1、2の在宅要介護者を保険の対象から外す方針をうち出している。週1、2回のヘルパー派遣を頼りに、自立した生活をかつがつ維持している高齢者にとってまさに「鬼畜」のような仕打ちである。また、介護サービスを受けるために不可欠なケアプランの作成も、これまでの無料から利用者負担とする。施設入所の低所得者に軽減・免除していた食費・部屋代も徴収するとしている。

 そして、「持続可能な社会保障制度の構築」を掲げて、消費税率の二けた以上の引き上げを論議している。「在日米軍再編見直し」「在日米軍駐留経費負担削減」どころか、これまでにも増して日本国民の血税を投入、長期に維持することをアメリカに約束しながら、低所得層を含む全国民からしぼりとって、まかなおうとしている。売国と戦争の道を一段と勢いをつけて突っ走る民主党・菅政府に、労働者、農漁民、中小商工業者、都市勤労市民があげて、鉄槌を加えなければならない。

http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/kokuminsiboribeigunninen7000okuen.html



嘉手納基地の実態がここまで明らかにされた。さあ、どうする。 2007年08月10日

「・・・(今となっては)沖縄の嘉手納基地は、一言で言えば日本に対する侵略に対応するものでも日本を守るためのものでもない。

嘉手納基地の機能の変化は、日本が無償でアメリカに基地を提供し、アメリカがその代わりに強力な軍事力と核の傘で守ると、いう安保条約の基本的な性格が、(もはや完全に)なくなっていることを意味している・・・」


これは月刊誌ボイス(PHP)の最新号(9月号)に掲載されている日高義樹氏とハロルド・モールトン前嘉手納米空軍基地司令官のインタビュー記事の最後に、日高氏が述べた感想文の一部である。

 ボイスの誌上で、日高氏が単刀直入に切り込む質問に対し、米国責任者が語る内容は、次の如く驚くほどあっけらかんとしている。


 日高    
アメリカ空軍は沖縄に大規模な兵力を有していますね。何故 嘉手納基地が重要なのか説明していただけますか。


 モールトン 
そのとおりです。アメリカ空軍は嘉手納基地に世界最大の空軍戦闘部隊を展開しています・・・嘉手納基地が戦略的に重要な理由は二つあります。

一つは数時間でアジアの三大都市、つまり北京、ソウル、東京に飛ぶ事が出来る。インドやロシア中央部にまでも行く事が出来る。

もう一つは嘉手納基地の大きさです。二本の大きな滑走路があり、駐機場もたくさんあるので、有事の際には大規模な兵力を受け入れることができる。必要とあれば世界のどの地域へでも戦闘機や兵員        を送り込むことができるのです・・・


 日高    
アメリカ空軍の強力な戦闘部隊が日本と共同体制をとっていますが、どのような緊急事態を想定しているのですか。


 モールトン 
アジア、極東の危機に対してだけでなく、世界中の軍事的な緊急事態に対応する体制をとっている・・・
すでに多数の隊員がアフガニスタンとイラクに出動しています。南アメリカにも行っている。嘉手納基地に展開している隊員、従業員は世界のどの地域へも出動する体制をとっているのです・・・


   このようなインタビューを終えた日高氏は、インタビュー後の感想を更に次のように続けている。

「・・・ 沖縄に駐留しているアメリカ海兵隊(地上戦闘部隊の主力)はグアムに移転しようとしている。
この動きは、アメリカがアジア・極東においてもはや地上戦闘を考えていない事を示している。

(台湾有事や北朝鮮有事が起きても)アメリカは空軍と海軍で対応するつもりだ。
すなわち嘉手納基地や(日本近海に航行する)原子力潜水艦から全世界の紛争地点を睨む、というのがアメリカの新しい戦略なのである・・・

(海兵隊がいなくなっても、イラクでの戦争が終っても)沖縄のアメリカ軍基地が日本に返還されることはない。アメリカは世界戦略の拠点として沖縄の基地を恒久的に使おうとしている・・・

安倍政権が今行っているような『日米共同の自衛力強化』といった政策ではまったく追いつかない、大きな軍事情勢の変化が日本に迫っている・・・

アメリカ軍による日本占領という状況は未来永劫に変わらないだろう。
アメリカ軍は日本側の意向にかかわりなく日本の領土の一部を勝手に使い続ける・・・」


  米国の元嘉手納基地司令官が嘘をいうはずはない。ハドソン研究所首席研究員の日高義樹氏が米国の意向に反する事を言うはずがない。これは日本政府や日本国民に対する明白なメッセージに違いない。日本もそろそろ本気で自国の安全保障政策を考える時だと。

  与野党の政治家よ。外務省や防衛省の官僚たちよ。日本の安保問題専門家や安保問題担当のメディア諸兄よ。現実を直視せよ。よく考えて答えを出して欲しい。 冷静に考えれば分かるはずだ。米国の期待とは裏腹に、憲法9条を世界に高らかに掲げた平和外交こそ、日本の最強の安全保障政策である。日本が有利に立てる道はそれしかないはずだ。

http://www.amakiblog.com/archives/2007/08/10/#000487

ケビン・メアという占領者の発言 2007年8月12日 (日)


沖縄国際大学に米軍のCH53D大型輸送ヘリが墜落して3年になる。

日米地位協定を盾に、周辺は米軍により封鎖され、県警も国会議員も市長ですら立ち入れなかった。
米軍は、「大学」という空間に落としたパイロットのテクニックを褒め称えた。

普天間基地では、現在も昼夜を問わず、ヘリだけでなく戦闘機等の離発着が繰り返されている。

琉球新報2面に、ケビン・メア在沖アメリカ総領事のインタビューが掲載されている。

占領者意識丸出しの発言。


琉球新報(2007年8月12日朝刊1版2面)


―ヘリ墜落事故の捜査で県警が整備員の氏名開示を求めていたが。

「何のために知りたいのか。事故の原因は分かっている。誰も別の原因があるのではと疑問はないと思う。事故が起こらないよう努力する方がいい。万一事故が起きたときのために訓練もやってきている」


―普天間飛行場の環境影響評価で、県は方法書受け取りを保留している。どう受け止めるか。

「(このまま)手詰まり状態が続くなら(完成予定の2014年を待たずに)ある時点で移転できないと(米側も判断することに)なるだろう」


―アセス方法書で県は複数案の方法書送付を提案していた。

「複数案アセスは意味がない。(政府案は)提案ではない。合意計画だ」

「本当の地元の意見では(辺野古区、豊原区、久志区の)三人の区長さんもこれ(政府移設案)でいいという立場だ。なのになぜ県と名護市が反対するのか」


―県は自然環境だけでなく、住環境への配慮から沖合移動を求めているが。

「防衛省の研究によると、沖合に出しても騒音はあまり変わらない。(政府案の位置は)これ以上、藻場など環境を壊さないというのが日本のトップの決意だ」


―海兵隊のグアム移転でグアムでの作業が進んでいる。

「もし普天間移設が成功しなさそうなら、グアムへの移転や中南部の縮小がなくなる。グアムには米政府も予算をつけている。米側の手続きも進んでいるからといって、普天間が進まなくてもグアムに移転すると思えば大間違いだ」

(聞き手 滝本匠)

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赤字にした部分は重要発言。そのような報道に接したことはない。アメリカ総領事が地元区長に直接接して情報収集しているのか。いずれにしても、聞き捨てできない。

最後の発言は明らかに恫喝。これだけのプロジェクトを動かしながら、「言うこと聞かなければ、ちゃぶ台をひっくり返すぞ」と脅している。お笑い種だ。

アメリカ軍のためにアメリカでアメリカがする基地整備のために、なぜ日本国民が何兆円も出さなければならないのか。ばかばかしい。グアム施設整備費用は、凍結すべきだ。

アメリカの総領事がここまで不遜で失礼な言葉づかいでいられるのは、日本国政府が対米追随で無批判にどこまでもくっついているから。そろそろ、終わりにすべき。

テロ特措法延長問題で小沢氏が原理原則を主張している。前原たちがどう動くか気になるが、いずれにしても避けては通れない問題で、対立点・相違点が明確になるのはいいこと。小池もなんか言っていたな、はやくアベと一緒に消えてほしい。防衛大臣など分不相応だとわからないところが、「寿司ババー」らしいといえばらしいが、アベもそうだが、トップにたつ連中のKYさがほんとうにおそろしい。

政権担当能力などという言葉があるらしいが、アメリカ言いなりになることがその能力だと考えているらしい。わかりやすいおはなし。

http://miyagi.no-blog.jp/nago/2007/08/post_c9e8.html

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ケビン・メア賛歌 _ 植民地総督はかくあらねばならない


ケビン・メア略歴

 1954年生まれ。81年、米国務省入省。在日米大使館安全保障部長、在福岡米領事などを経て2006年〜09年まで在沖米総領事。帰米後も国務省日本部長として日米の実務者協議などの際にたびたび来日している。東大客員研究員の経験もあり、日本語が堪能。

http://naha.usconsulate.gov/wwwhj-20060724a.html


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こんな米総領事、要らない 2008年7月13日


 米軍占領下の沖縄には高等弁務官という軍人のポストがあり、琉球列島米国民政府のトップとして絶大な権力を振るっていた。

「沖縄の自治は神話にすぎない」。

こう発言して県民の反発を買っていたのが、政治・経済面でさまざまな強権を行使したキャラウェイ高等弁務官だ。 半世紀近くも前の話を持ち出したのは、ほかでもない。最近、かの「悪代官」もかくや、と思わせるような人物が現れている。時代錯誤的な言動が目につくケビン・メア在沖米総領事のことだ。

 米軍普天間飛行場の危険性に関して、総領事は11日

「滑走路近くの基地外になぜ、宜野湾市が(住宅)建設を許しているのか疑問がある」

と、従来の持論を繰り返した。つまり

「基地の近くに後から勝手に住宅を造る住民と、それを許可している宜野湾市が悪い(だから騒音があろうが危険があろうが、米軍に責任はない)」

などと、こう言いたいのだろう。 爆音訴訟で日本政府が主張している「危険への接近」理論と同じ理屈だ。普天間飛行場が米軍内部の安全基準に違反しているとする伊波洋一宜野湾市長の指摘にも反論したつもりかもしれない。何と独善的な考え方なのか。普天間基地がどういう経緯でできたのか知らないわけでもあるまい。単なる無知なのか。知っていながら知らないふりをしているのか。

 宜野湾市伊佐浜では戦後、米軍がブルドーザーと武装米兵による銃剣で住民を脅し追放した。抵抗する住民を暴力で退けて家屋や農地を破壊、その後にキャンプ瑞慶覧を強引に建設した。先祖伝来の土地を追われた住民は、うち10家族がブラジルへの移住を余儀なくされた。何もない原野に基地が造られたわけではない。普天間飛行場も似たようなものだ。戦後、住民が避難先から戻ると、すでに基地が建設されていた。

 総領事が責任逃れの根拠とする「危険への接近」論。6月の普天間爆音訴訟の判決でも「沖縄本島において居住地を選択する幅が限られており、普天間飛行場周辺の歴史的事情が地元回帰意識を強いものとしている」と明確に退けられている。土地を収奪された歴史的な背景を理由に、基地周辺に住宅を建設した住民に責任はないとしているのだ。

 あらためて考えてみたい。総領事(館)の役割とは何なのか。赴任地の住民との友好親善が第1の目的と理解する。いたずらに挑発を繰り返し、地元との摩擦を大きくすることではないはずだ。

 「外交官の基本はうそをつかないこと」。

メア氏はあるインタビューで述べている。だが無知を基礎にした正直さほど始末に負えないものもない。平成のキャラウェイ気取りはやめてもらいたい。

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-134136-storytopic-11.html

米外交専門誌「フォーリン・ポリシー」(電子版) 2010年5月 4日


ワシントンを訪れていた民主党の谷岡郁子参議院議員は4日、同市内のイーストウエストセンターで開かれた講演で、まず、オバマ大統領が鳩山首相に5月期限の厳守を迫ったと報道された先の核安保サミットでの非公式会談について、

「(普天間問題が米政府にとって)深刻な問題ならばきちんと協議していたはず。
深刻な問題でないならば、(協議は必要ないと)そう表明すべきだった」


と指摘した。 鳩山首相への対応は、同盟国の首相へのものとは思えないと訴え、現行計画の厳守を主張し、代替地の模索を日本政府に丸投げした米政府のやりかたは

「君たちの問題だから自分たちで解決しろ、という態度にも等しい」


とオバマ政権の対日外交政策を厳しく批判。そして、


「妥協を許さないという米政府の強硬姿勢が日本を中国へシフトさせる可能性もあると懸念している」

と述べ、オバマ政権の対応が日米同盟へ影響を与えていると主張したのである。
日本の国益を主張するため、ワシントンに乗り込み、米政府の対日外交政策を真正面から批判する。まさに正当な主張だ。

と、ここで、読んだ人のなかには、谷岡議員って誰?日本でもそんなに知名度が高くない議員の講演を、ワシントンにダイレクトな影響力を持つ米外交専門誌「フォーリン・ポリシー」がなぜ取材したのか?という疑問に思う人もいるだろう。
理由はこうだ。

鳩山首相は昨年10月、アメリカの対日外交政策を調査する目的で、議員経験の浅い谷岡氏をワシントンへ派遣した。谷岡議員は、米国防総省や国務省の関係者らと会い、普天間の県外移設を検討したいという方針を説明したのだが、そのなかで、ケビン・メア国務省日本部長とぶつかったのである。

ケビン・メアといえば元在沖アメリカ総領事、沖縄の実情をよく知っている人物のはずだ。 しかしメアは、

「県外施設を一緒に検討したい」

という谷岡議員に向かって、

「すでに決まっている話だ。議論の余地はない」

と断言した。しかし、谷岡議員は

「あなたは沖縄にいたことがある。基地負担の実情をよく知ってるはずだ。沖縄県民の気持ちを考えないのか?」

と食い下がったのだ。


谷岡議員が帰った後、メアは激怒したそうだ。

日本の政治家がアメリカの役人に向かってモノ申すとは何事だ、

これまでの日本の政治家や官僚たちはみな、我々のいうことを黙って聞いてうなずいて帰っていったではないか、と。

米国務省の人間が日本政府の外交を語る言葉で、「アー、ソーデスカ外交」という言葉がある。何を言っても「アー、ソーデスカ、アー、ソーデスカ」とうなずくだけの態度を揶揄した言葉だ。

日本人の政治家や官僚たちに対し、彼らが持っているこれまでの固定観念を破る、谷岡議員の態度を不快に思った米政府の人間は他にもいたそうで、

「私たちに向かってモノいうとは何事だ」

という彼らの激怒ぶりは米メディアの知るところとなった。といった経由で、

「あの谷岡議員がこの微妙な時期に再びやってくる」

ということで、目先の聞く米外交専門誌「フォーリン・ポリシー」は取材にやってきたのである。

同誌は記事のなかで、谷岡議員のことを「民主党内で対米外交政策を担当する議員で鳩山首相に近い存在」と紹介し、谷岡議員の講演は日本政府内のオバマ政権に対する批判の高まりを反映したものと報じている。

ちなみに、現行計画については、米国防総省と国務省が水面下での調整を図っているところで、日本政府から代案が提示されるのを待っている段階だ、と同誌は説明している。 普天間問題をめぐり今後、米国内で国防総省と国務省、穏健派と強硬派の2つの覇権を代表する議論が展開されていくことだろう。同誌の記事が、普天間に関する米メディア論争の幕を上げたことになる。

恐れることはない。オバマ政権が誕生した際、変革に伴う試練をアメリカがくぐり抜けてきたように、日本もまた、同じイバラの道を歩き出している。それだけのことだ。

外交とは相手に主張することだ。 前進したいのならば、堂々と恐れずに日本の国益を主張すればいい。そして主張する相手は米政府だということを決して忘れてはいけない。

http://www.asyura2.com/10/senkyo85/msg/824.html

このケビン・メアなる人物は在沖総領事の時に事件事故が起きる度に沖縄県民蔑視の問題発言を繰り返して来た、米国優越、白人優越意識に凝り固まった危険人物です。

事件事故の被害者に対しても謝罪するどころか被害者側にも落ち度が有ると言って憚らない非常識な人物が国務省日本部長の地位で発言している事は日本への蔑視に他なりません。

http://www.asyura2.com/11/senkyo109/msg/356.html

協定改定「政争の具」に メア総領事、見直しの主張批判 (琉球新報2008年4月4日)


ケビン・メア在沖米総領事は3日の定例記者会見で、日米地位協定改定の動きについて
「ある政治家と団体が政治的に利用し、政争の具にしようとしていることは非常に残念だ」

と批判した。協定見直しの主張を「政争の具」と表現したことは反発を招きそうだ。

基地外居住者の実態把握のため外国人登録を義務化する野党の改定案についても

「日本の防衛に貢献するため命を犠牲にする用意がある人に、日本に税金を払う義務を課す主張があるのは不思議だ」

と不快感を示した。


「最近の事件で地位協定上、問題はない」

とも述べ、運用改善で対応する考えを重ねて示した。 「思いやり予算」の根拠となる特別協定が空白となったことについても

「安保体制の下で不可欠で、政治的理由で反対するのはふさわしくない」

と野党の姿勢を批判した。


米兵事件を受けて実施してきた外出禁止措置を4日から緩和することに関連して、憲兵(MP)以外の一般制服米兵による生活指導巡回(CP)の範囲を拡大することも明らかにした。米軍は北谷町や宜野湾市にも範囲拡大を検討している。

普天間飛行場代替施設建設の環境影響評価(アセスメント)の調査については

「すべて予定通りに実行できると理解している」

と述べ、2014年完成の予定には影響しないとの認識を強調。その上で

「冬季に間に合わず、少なくとも3カ月は遅くなると理解している。1年間遅くなるというのは最悪の場合だ」

と述べ、1年近く遅れる見通しを示した防衛省に予定通りの進展を促した。


ケビン・メアという総領事は、沖縄でかねがね物議をかもす発言を繰り返してきた。

彼の発言には、米国というバックがある。彼は、そのバックに忠実なテクノクラートである。総領事なんだから当然である。

彼の発言は、彼が意識しているかどうかはわからないが、明らかに占領者のそれである。

普天間でヘリが民間地に墜落した大惨事の際にも、日本の警察当局が事故調査のために整備士の氏名を尋ねたら

「何を調査したいのか」

と門前払いし、

「事故が起きないほうの努力が大事だ」

などとのたまってくれている。占領者である我々が調査したのに、原住民が何をするのという態度である。 彼はそのまま引き続いて、

「普天間危険ではない」

と発言し、沖縄原住民がお願いするから移転してあげるんだとのたまってくれる。

こんなヤカラを総領事として沖縄に置いているアメリカの意思は明確である。その意思に対して、まともに反論も抵抗もできない沖縄があり、日本がある。

ケビン・メア様は今回、とうとう沖縄ではなく日本全体を視野に入れて踏み込んだ発言をしてきた。

「ある政治家と団体が政治的に利用し、政争の具にしようとしていることは非常に残念だ」

地位協定改訂について野党が共通認識を持って動き出していることに対する発言である。「革新」政党のみならず、民主党や国民新党などの「保守」政党も動き出している。沖縄のみならず、日本全体の問題として、地位協定のあり方はおかしいという国民の意思があり、それを受けて政治家や団体が動いているのである。これを「政争の具」などという下卑た表現で言い表すことは、不遜極まりない内政干渉である。

「安保体制の下で不可欠で、政治的理由で反対するのはふさわしくない」

「思いやり予算」についても、あまりにも無駄遣いが多いのではないか、国民の税金の使い方として説明がつかないと国会で議論されている最中に、アメリカの総領事があるかないか確証もない「政治的理由」なるもので、反対されていると揶揄するのは、あまりにも失礼極まりない。日本国の国会における真摯な議論を馬鹿にする不遜極まりない内政干渉である。

ケビン・メア様のような在沖米総領事がいることは、日米安保を著しく損ない不安定にするだろう。日本政府は、国会は、政党は、政治家は、彼のように「内政干渉」する総領事を看過することなく、抗議すべきだろう。メア様はアメリカの判断で更迭されてしかるべきだ。

彼の発言は、在沖米総領事として記者会見で述べているのであって、断じて彼の個人的見解などではない。

あぁ、かくも長き主権の不在が、このような他国の総領事発言を引き出してしまっている。

アメリカとの対等なパートナー・シップを築くのであれば、このような発言に対して毅然と対処することからはじめなければならない。神は細部に宿りたもう。
日本国の国会は、ケビン・メア在沖米総領事の内政干渉を許すのだろうか。 これが内政干渉ではなく、宗主国としての当然の杞憂であるとするなら、さもありなんではあるのだが…

http://www.asyura2.com/08/wara1/msg/947.html

2009 年 7 月 22 日

外務省の亡国的ともいうべき米国追従路線のせいで調子に乗ってきた米国のケビン・メア前沖縄総領事(次期国務省日本部長に内定)などは,

「普天間基地の県外移転は不可能」

などと発言している。民主党が主張する県外・国外移転に対する牽制のつもりなのだろう。このケビン・メアは


「米国は一月に政権交代があったが、二月にグアム協定を締結した。
安保政策は超党派であるべきだ。 日本が県外移転を言ったらもう終わりでしょう。
合意を変更したら、どこまで変えるかーとなり、すべてが崩れる」


と沖縄地元紙の取材で述べている。まったく、余計なお世話である。すべてが崩れるのは、55年体制を支えてきた自民党の対米従属路線なのだから、ノープロブレム!

このケビン・メアこそ、米国の思い上がった、植民地に対する総督気取りの発言と同じ目線ではないか。内政干渉も甚だしい暴言ではないか。ムカツク!(苦笑)
国民が政権交代に期待しているということは、これまでの自民党と外務省の対米追随一辺倒路線から自立外交への転換を、望んでいるということではないのか。
米国が日本政府に対して要求する年次要望書をはるかに逸脱した、ケビン・メアの暴言を放置したままでいいのか。

逆に日本部長就任に対して、反対運動をおこすべし! である。

 ついでに記すと、次期沖縄総領事に内定しているレイモンド・グリーン在日米大使館の安保課長も、

「普天間の県外移設、グアム協定の見直しについて米側として協議するつもりはない」

と断言している。さらに、米国防総省のグレグソン次官補もつい先日沖縄を訪問したが、「普天間3年以内の閉鎖」を認めず、辺野古新基地建設が最適などと述べている。

日本で政権交代の流れが確実視されてきたことで、「政権交代なんて関係ない!」と主張する腹づもりなのだろう。仲井真知事の及び腰の姿勢じたいも、沖縄に対する米国の居丈高な態度を助長させている一因だろう。

 しかし、沖縄県民にとって米国側のこうした傲慢な発言が許せるはずがない。沖縄側としても、オバマ大統領の沖縄訪問を要請するなり、沖縄の有識者らによる訪米団を派遣して直訴すべきではないのか。そして、政権交代が近い民主党も辺野古新基地反対、普天間の県外・国外移設をマニフェストにしっかりと盛り込んで、戦後史を総決算するような対米自立外交を必ず展開して欲しいものだ。それこそが外務省にコケにされ続けてきた沖縄県民の悲願であり、しいては日本の将来のためである。

http://www.asyura2.com/09/senkyo67/msg/801.html

日本の主導権握る米国の姿     2010年5月28日付


 米軍普天間基地問題をめぐって鳩山首相が23日に沖縄を訪問し、「県外移設の公約」を覆して自民党現行案である名護市辺野古沖への新基地建設を進める方針を表明した。同時に「沖縄の痛みを全国で分担しないといけない」といい、全国知事会に働きかけて米軍訓練の受け入れ先探しを本格化させた。新基地建設と全土の基地化である。沖縄も徳之島も大村も岩国も「基地は来るな」が圧倒的な民意である。「それが国民の意志なので引き揚げてくれ」とアメリカに伝えるのが主権在民の国である。しかしメディアがあげて「アメリカが怒っている」と騒ぐなかで、民意に対抗してアメリカの意志をすべてに優先した。日本をアメリカの核戦争の盾にする道であり、自民党と変わらぬ売国政府である。

 外国の軍事基地をおくかどうか、おくならどこへおくかは国の主権の関わる問題である。しかし一連の顛末は、主権が日本政府の側にはまったくなく、アメリカ側にあることをありありと示した。民主党は「普天間基地の県外移設」「米軍再編の見直し」を唱えて衆議院選挙で票を集めた。しかし岩国でも、空母艦載機移転や愛宕山米軍住宅が既成事実のように早早に予算をつけた。「政治」とはウソをつくことであるという現実を人人に思い知らせた。選挙における公約、それに対する有権者の選択という、選挙で国の進路を決めるのではないこと、日本はアメリカが独裁支配する社会であり、主権在民の民主主義社会ではないことを思い知らせた。

 一連の経過は、鳩山のお粗末さを暴露したが、単に鳩山がお粗末というだけでは説明がつかない。日本の大新聞をはじめとしてメディアは総動員で、「アメリカが怒っている」などと大騒ぎをして世論誘導をしたし、財界や御用学者がアメリカの機嫌をとる。そういうなかで鳩山は格好をつける余裕すら与えられなかった。

 アメリカ側は結局、自民党政府と決めた「現行案」を一歩も譲らなかったし、鳩山政府はそれを丸飲みすることしかできなかった。月末までに共同声明で発表するという内容は、2006年に自民党政府が合意した米軍キャンプ・シュワブ沿岸部(同県名護市辺野古)への新基地建設であり、工法は鳩山政府が出したくい打ち桟橋方式でなく、アメリカが主張する頑丈な埋め立て方式に戻すというものだった。大騒ぎして振り出しに戻った。

 加えて普天間基地機能の沖縄県外への分散移転といって、普天間基地の一部機能を徳之島など全国の自衛隊基地に拡大させ、米軍嘉手納基地の戦斗機訓練の県外への拡大、米軍訓練は九州各地の自衛隊基地にローテーションで分散移転させるなどを協議している。選挙で掲げた「米軍再編を見直す」とか「県外移設」などの公約は、基地を減らすようなそぶりをして、実はもっと増強の方向で見直すという意味となった。

 鳩山は23日再度、臆面もなく沖縄県を訪問。県庁で仲井真知事と会談し「代替地は県内、辺野古付近にお願いせざるを得ない」「県外に移設すると、海兵隊の機能を大幅に損なってしまう」といい、沖縄の基地を全国に分散移転するといって、基地を全国に拡大させることに意欲を見せた。

 鳩山政府は「沖縄の痛みを全国で分担しないといけない」といって、全国知事会議を要請し、訓練の受け入れを協議させる。沖縄の負担軽減といって米軍基地の全土化を推進している。大阪の橋下知事などは「今まで基地を受け入れていないところが受け入れるべきで、真っ先に考えないといけないのは関西だ」と表明している。


 米国のための「抑止力」 日本を危険にさらす

 敗戦後65年にわたって外国の軍隊が常駐し、しかもさらに新基地をつくって今後数十年も居座り、その外国軍隊が日本中の自衛隊基地を使用し、さらに港湾、空港などを自由に使用できるようにする。しかも米軍再編の費用3兆円をはじめ、駐留経費は「思いやり予算」などといって年間2000億円も日本の税金から負担する。

 鳩山は、韓国の哨戒艦の沈没事件が北朝鮮の攻撃によるなどのことを取り上げ、アメリカ海兵隊の役割が抑止力として不可欠なことを「勉強すればするほどわかった」などといっている。

 ここで最大の問題は、その「抑止力」の問題である。それが「日本の安全保障のため」ではなく、アメリカの国益のためであり、米軍基地の存在が日本を危険にさらすという問題である。

 日米安保条約は90年代以後、日米の実務者レベルの協議で、「ガイドライン」などといって、どんどん実質的な改定が進行してきた。それはアメリカの世界戦略に従属して、世界的な範囲で自衛隊が役割を果たすようになってきた。イラクなどへの自衛隊の派兵のように、元元恨まれる筋合いのなかった中東アラブ諸国からも恨まれる羽目となった。

 2006年以後の「米軍再編計画」では、米本土から米陸軍第一軍団司令部を座間(神奈川県)に移し、そこに陸自中央即応集団司令部を統合させ、自衛隊の司令部機能を米軍の指揮下においた。さらに青森に米軍Xバンドレーダー配備、横須賀への原子力空母の配備、岩国への厚木艦載機部隊移転計画、自衛隊基地や海自イージス艦へのミサイル配備を実行。それは日本本土を核攻撃拠点とし米本土防衛の盾にするものである。

 九・一一事件以後、基地の町で見ていることは、米軍とその家族の緊急避難訓練である。いざ核攻撃となればさっさとグアムやアメリカ本土に逃げ、標的になるのは逃げ場のない日本人という筋書きである。日本を再びアメリカのために原水爆戦争の火の海に投げ込むことが現実問題として進行していることを、民族の危機として見ないわけにはいかない。宮崎の牛、豚どころか、日本人全体が再びアメリカに引きずり出されて屠殺場に送り込まれるわけにはいかない。

 普天間問題の顛末で、アメリカは軍事の問題では一歩も譲らないし、日本の政府は一言も逆らうことができないという姿を示した。そしてこの軍事支配が、日本の政治、経済、文化など全面的な植民地支配の根幹になっている。

 宮崎の口蹄疫問題による畜産業崩壊の危機も、日本の農水産業など食料生産はつぶしてしまって輸入依存に切り替えろというアメリカの要求とそれに従う売国政治を根源にしている。急激に深刻化する失業や貧困の問題も、日本に金がないからではない。1400兆円といわれる国民の金融資産のうち500兆〜600兆円がアメリカ国債やアメリカのいかさま債権などで巻き上げられ、その下で日本の大企業が200兆円もの内部留保をため込んで有り余る資金が日本国内に回らないからである。

 先日IMFは日本は財政危機であるから消費税を15%に上げろと指図した。日本はIMFの第2位の出資国であるので、出資金を引き揚げればよいし、アメリカの国債を売り払えばよい。しかしそんな自由はない。アメリカの金融独占体の利益を侵すことはできず、日本国民の収奪を強要する一方的な関係である。日本の資産はアメリカに貢ぐという関係も、かつての戦争とその後の軍事支配を根幹としている。米軍基地の問題になるとなに一つ要求は通らないという現実は、軍事力で脅されてものがいえないという植民地支配の現実を示している。

 米軍普天間基地、米軍再編の問題は、日本の平和と民主主義、繁栄の根幹をなす独立をめぐるきわめて鋭い問題となってあらわれている。

http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/buzamanahatoyamanohenokokaiki.html


 共同通信の配信を紹介する。すべてひどい発言であるが、赤でマークしたところは、特にひどい。こういうアメリカに日本は大金を供与し、アメリカを支え続けているのだ。 2011/03/06


ケビン・メア日本部長の発言要旨 

 
 海兵隊8千人をグアムに移すが、軍事的プレゼンス(存在)は維持し、地域の安全を保障、抑止力を提供する。

 (米軍再編の)ロードマップのもとで日本は移転費を払う。日本の民主党政権は実施を遅らせているが、私は現行案が実施されると確信している。日本政府は沖縄の知事に対して「もしお金が欲しいならサインしろ」と言う必要がある。ほかに海兵隊を持っていく場所はない。

 日本の文化は合意に基づく和の文化だ。合意形成は日本文化において重要だ。

 しかし、彼らは合意と言うが、ここで言う合意とはゆすりで、日本人は合意文化をゆすりの手段に使う。合意を追い求めるふりをし、できるだけ多くの金を得ようとする。沖縄の人は日本政府に対するごまかしとゆすりの名人だ。

 沖縄の主産業は観光だ。農業もあり、ゴーヤー(ニガウリ)も栽培しているが、他県の栽培量の方が多い。沖縄の人は怠惰で栽培できないからだ。

 日本に行ったら本音と建前について気を付けるように。言葉と本当の考えが違うということだ。私が沖縄にいたとき、「普天間飛行場は特別に危険ではない」と言ったところ、沖縄の人は私のオフィスの前で抗議をした。

 沖縄の人はいつも普天間飛行場は世界で最も危険な基地だと言うが、彼らは、それが本当でないと知っている。(住宅地に近い)福岡空港や伊丹空港だって同じように危険だ。 

 日本の政治家はいつも本音と建前を使う。沖縄の政治家は日本政府との交渉では合意しても沖縄に帰ると合意していないと言う。日本文化はあまりにも本音と建前を重視するので、駐日米国大使や担当者は真実を言うことによって批判され続けている。 (共同)

http://comrade.at.webry.info/201103/article_1.html

和の文化「ゆすりの手段に使う」 メア米日本部長が発言


 ケビン・メア米国務省日本部長(前駐沖縄米総領事)

米国務省のメア日本部長が昨年末、米大学生らに国務省内で行った講義で、日本人は合意重視の和の文化を「ゆすりの手段に使う」 「沖縄はごまかしの名人で怠惰」などと発言していたことが6日までに分かった。

メア氏は米軍普天間飛行場の移設問題など日米交渉に実務者として深く関与、移設先を同県名護市の辺野古崎地区とした現行案決着を米側で強く主張してきた人物の一人。

発言は差別的で、日本と沖縄への基本認識が問われる内容だ。 講義を聞いた複数の学生がメモを基に作成した「発言録」によると、メア氏は


「日本の和の文化とは常に合意を追い求める」


と説明したうえで


「日本人は合意文化をゆすりの手段に使う。
合意を追い求めるふりをしながら、できるだけ多くの金を得ようとする」

と述べた。 

沖縄については、日本政府に対する「ごまかしとゆすりの名人」


などと発言。


普天間飛行場は「(住宅地に近い)福岡空港や伊丹空港と同じ」で特別に危険でない

とし、

日本政府は仲井真弘多・沖縄県知事に「お金が欲しいならサインしろ」と言うべきだ


と述べている。 メア氏は共同通信の取材に、「オフレコで行った」とし、発言録は「正確でも完全でもない」としている。

 講義は米首都ワシントンのアメリカン大の学生ら14人に対し、彼らが東京と沖縄へ約2週間の研修旅行に出発する直前の昨年12月3日、大学側の要請で行われた。

2011/03/06 16:56 【共同通信】
http://www.47news.jp/CN/201103/CN2011030601000386.html

メア日本部長:差別発言 県民感情を逆なで /沖縄

 米国務省のケビン・メア日本部長(前在沖米総領事)が米大学生相手に行った講義で県民感情を逆なでする発言を繰り返していたことに、県内の識者らは「沖縄を植民地扱いしている」と怒りの声を上げた。復帰前の沖縄に君臨した高等弁務官時代と変わらない占領意識に憤り、辞任要求を突き付けた。

米軍普天間飛行場移設問題の交渉を担当する実務者から飛び出した差別発言に、米軍基地を抱える市町村長らも「沖縄はお金を欲しがっていない」と一斉に反発した。

 政治学が専門の沖縄国際大教授・佐藤学さん(54)=宜野湾市=は

「オフレコで米国の学生相手ということで本音が出てしまったんだろう」

と分析。

「相変わらず沖縄を軍事植民地だと見なしている。
米軍統治下で高等弁務官が君臨していた時代と差別の構造は変わらない」

と指摘した。 メア氏が重要ポストに就いていることに 「クリントン国務長官やゲーツ国防長官にはメア氏から


『金を出せば沖縄は基地を容認する』

とか

『圧力をかければ大丈夫』


とか、偏った情報しか上げられていないのではないか」と懸念した。
 普天間飛行場周辺の住民らが基地から派生する騒音被害などを訴えている普天間爆音訴訟団の島田善次団長(70)=宜野湾市=は

「住民は常に危険と隣り合わせで暮らしている。

『普天間が危険でない』という発言は総領事在任中から繰り返していたが、まだその考えを持っているとは。
聞き捨てならない」

と激怒した。

 宜野湾市在住のミュージシャンKEN子さん(36)はメア氏が米軍普天間飛行場の名護市辺野古沖への移設を推し進めようとしていることに「県民大会や選挙で基地は要らないということを示し続けてきたのに、これ以上何をやればいいのか。日本政府も沖縄に責任を押し付けるのではなく、沖縄の側に立ってノーを伝えてほしい」と求めた。

 元海兵隊員で政治思想史学者のダグラス・ラミスさん(74)は

「外交の常識から言って相手国を侮辱したら首になる。
もし首にしないなら米国務省が差別発言を容認したということ。
発言に一つ一つ反論するのではなく、メア氏を辞任させることが重要だ」

と話した。(琉球新報)

http://mainichi.jp/area/okinawa/news/20110307rky00m040001000c.html





11. 2011年3月09日 10:23:55: MiKEdq2F3Q

asahi.com(朝日新聞社)
メア氏発言「日本との友情、台無し」 講義聴いた学生


米国務省のケビン・メア日本部長が「沖縄はゆすりの名人」などと米大学生らを前に発言した問題で、講義に参加したトーリ・ミヤギさん(20)が8日、朝日新聞の取材に応じた。沖縄に祖先を持ちハワイ出身で日系4世のミヤギさんは、講義後の昨年末に沖縄を訪れた経験をふまえ「メア氏の発言は私たちと日本との友情を台無しにした」と語った。

 講義は昨年12月3日に国務省であった。ミヤギさんによると、参加したワシントンのアメリカン大の学生14人のうち5人がメモを取り、互いに確認して発言録としてまとめた。「録音はしていないが、内容は正しい」という。

 ミヤギさんら学生たちは講義後の12月18〜26日、沖縄を訪問。米軍基地を視察したり、地元の政治家や住民らと意見を交換したりした。ミヤギさんは「那覇から名護まで行き、多くの人に会った。ウチナーンチュ(沖縄の人)は正直で勤勉で誠実だった。ゆすり屋はいなかった。子どもたちのために、安全で清潔で健全な社会を望む家族がいた」と振り返る。

 そのうえで「日米同盟によって50年以上、両国は自由で安全で強くあり続けてきた。アジアの平和と安定を望むなら、私たちの友情を輝かしく強く保たねばならないが、メア氏のような発言は我々の絆を傷つける」と批判した。(藤田直央)


_______


沖縄タイムス 沖縄4世「信じられない過重負担」

2011年3月8日 09時50分


 「メアさんの意見が米国の声と思わないでほしい」―。

米国務省でケビン・メア日本部長の講義を受けたワシントン・アメリカン大の学生の1人、トーリ・ミヤギさん(20)が7日、沖縄タイムスの取材に応じた。

「米国を代表する人が沖縄を侮辱していることに失望した」と肩を落とすミヤギさんは、ハワイ州出身の沖縄県系4世。講義直後に来沖し名護市辺野古などに足を運んだ。

「メアさんの沖縄の表現は正確じゃなかった。信じられない負担が沖縄にある。日米両政府は交渉過程に沖縄も交えたテーブルをつくらなければ、問題は解決しない」と考える。(吉田伸)


 メア氏は共同通信の取材に「講義はオフレコで、発言録は正確でも完全でもない」と話した。ミヤギさんは

「講義は録音していないが、発言録は出席した14人のうち、4人で内容を確認して作った。全ての言葉はカバーしていないから完全ではないが、内容は非常に正確だ」


と反論する。 沖縄へのスタディーツアーに備え、大学側が準備したメア氏の講義で


「日本に行ったら、本音と建前について気を付けるように」


とアドバイスされたミヤギさん。


「僕らとの会合を、オフレコにしたいメアさんの方がむしろ本音と建前を使っている」

と皮肉った。 約1週間の沖縄滞在では米軍普天間飛行場を視察し、沖縄国際大学の周辺に宿泊した。


「午前零時すぎにもヘリコプターの騒音がした。ヘリ着陸帯の建設をしている高江にも行った。信じられないほどの負担がある。米国と沖縄が対等でないことを示していた」


 メア氏に「ごまかしの名人で怠惰」と表現された、先祖の故郷沖縄の人々とも多く出会った。「優しくて一生懸命働き、熱心だった」と胸をなで下ろす。ゴーヤーチャンプルーも食べることができたミヤギさん。「偏見を持った人が私の国を代表していることが不安でならない。良い外交はできない。彼は僕らの声を代表していない」と強調する。

 「(辺野古の)現行案は米国と沖縄の関係を壊すだけだ。普天間は間違いなく危険だった。国務省や外務省だけでなく、沖縄を入れた議論を始めないといけない。米国は日本がパートナーと呼ぶのなら、日本や沖縄をパートナーや友人として付き合うことから始めなければ」

メア日本部長発言録全文(英文)(沖縄タイムス)

http://www.okinawatimes.co.jp/article/2011-03-08_15191/


 アメリカン大の学生らが作成したメア日本部長発言録全文は次の通り:
 

 私は2009年まで駐沖縄総領事だった。在日米軍基地の半分が沖縄にあるといわれているが、この統計は米軍専用基地だけ勘定している。もし、米軍基地と米軍と自衛隊が共用している基地のすべてを考慮に入れれば、沖縄の基地の割合はもっと小さくなる。沖縄で問題になっている基地はもともと水田地帯にあったが、沖縄が米施設を囲むように都市化と人口増を許したために今は市街地の中にある。

 沖縄の米軍基地は地域の安全保障のために存在する。基地のために土地を提供するのが日米安保条約に基づく日本の責務だ。日米安全保障条約に基づく日米関係は非対称で、日本は米国の犠牲によって利益を得る。米国が攻撃されても日本は米国を守る責務はないが、米国は日本を守らなければならず、日本の人々と財産を保護する。


 集団的自衛権は憲法問題ではなく、政治問題だ。

 1万8千人の米海兵隊と航空部隊が沖縄に駐留している。米国が沖縄に基地を必要とする理由は二つある。既にそこに基地があることと、沖縄は地理的に重要な位置にあることだ。(東アジアの地図を見せながら)、在日米軍の本部は東京にあり、そこは危機において、補給と部隊を調整する兵たん上の中心に位置する。冷戦時に重要な基地だった三沢はロシアに最も近い米軍基地であり、岩国基地は朝鮮半島からわずか30分だ。さらに、沖縄の地理的位置は地域の安全保障にとって重要だ。

 沖縄は中国に朝貢していたが、独立した王国だった。中国の一部になったことはない。米国は1972年まで沖縄を占領した。

 沖縄の人々の怒りや失望は米国でなく日本に向けられている。日本の民主党政権は沖縄を理解していない。日本政府は沖縄とのコミュニケーションのパイプを持っていない。私が沖縄の人と接触しようと提案すると、民主党の関係者は「はい!はい、お願いします」という。自民党の方が現在の民主党政権よりも、沖縄と通じ合い、沖縄の関心を理解している。

 3分の1の人は軍隊がない方が世界はもっと平和になると思っているが、そんな人たちと話し合うのは不可能だ。

 09年の選挙が民主党に政権をもたらした。これは日本では初の政権交代だ。鳩山首相は左派の政治家だ。民主党政権下で、しかも鳩山首相だったにもかかわらず、米国と日本は2+2(外務、防衛担当閣僚による日米安全保障協議委員会)の声明を(昨年)5月に発表することができた。

 〈メア氏は部屋を退出し、彼の2人の同僚が日米の経済関係について講義。メア氏が戻ってきて講義を再開すると、2人の同僚は部屋を出た〉

 米国は普天間飛行場から海兵隊8千人をグアムに移し、米軍の存在感を減らすが、軍事的プレゼンス(存在)は維持し、地域の安全を保障、抑止力を提供する。

 (米軍再編の)ロードマップのもとで日本は移転費を払う。これは日本による実体的な努力のしるしだ。日本の民主党政権は実施を遅らせているが、私は現行案が実施されると確信している。日本政府は沖縄の知事に対して「もしお金が欲しいならサインしろ」と言う必要がある。ほかに海兵隊を持っていく場所はない。日本の民主党は日本本土への施設移設も言ってきているが、日本本土には米軍のための場所はない。


 日本の文化は合意に基づく和の文化だ。合意形成は日本文化において重要だ。

 しかし、彼らは合意と言うが、ここで言う合意とはゆすりで、日本人は合意文化をゆすりの手段に使う。合意を追い求めるふりをし、できるだけ多くの金を得ようとする。沖縄の人は日本政府に対するごまかしとゆすりの名人だ。

 沖縄の主産業は観光だ。農業もあるが、主産業は観光だ。沖縄ではゴーヤー(ニガウリ)も栽培しているが、他県の栽培量の方が多い。沖縄の人は怠惰で栽培できないからだ。

 沖縄は離婚率、出生率、特に婚外子の出生率、飲酒運転率が最も高い。飲酒運転はアルコール度の高い酒を飲む文化に由来する。

 日本に行ったら本音と建前について気を付けるように。言葉と本当の考えが違うということだ。私が沖縄にいたとき、「普天間飛行場は特別に危険ではない」と言ったところ、沖縄の人は私のオフィスの前で抗議をした。

 沖縄の人はいつも普天間飛行場は世界で最も危険な基地だと言うが、彼らは、それが本当でないと知っている。(住宅地に近い)福岡空港や伊丹空港だって同じように危険だ。

 日本の政治家はいつも本音と建前を使う。沖縄の政治家は日本政府との交渉では合意しても沖縄に帰ると合意していないと言う。日本文化はあまりにも本音と建前を重視するので、駐日米国大使や担当者は真実を言うことによって批判され続けている。

 米軍と日本の自衛隊は違った考え方を持っている。米軍はありうる実戦展開に備えて訓練しているが、自衛隊は実際の展開に備えることなく訓練をしている。

 日本人は米軍による夜間訓練に反対しているが、現代の戦争はしばしば夜間に行われるので夜間訓練は必要だ。夜間訓練は抑止力維持に欠くことができない。

 私は日本国憲法9条を変える必要はないと思っている。憲法9条が変わるとは思えない。日本の憲法が変わると日本は米軍を必要としなくなってしまうので、米国にとってはよくない。もし日本の憲法が変わると、米国は国益を増進するために日本の土地を使うことができなくなってしまう。日本政府が現在払っている高額の米軍駐留経費負担(おもいやり予算)は米国に利益をもたらしている。米国は日本で非常に得な取り引きをしている。(共同)

http://www.asyura2.com/11/senkyo109/msg/543.html


12. 2011年3月10日 10:54:46: MiKEdq2F3Q

メア日本部長、持論のためならデータも捏造!
 

米国務省:和の文化「ゆすりの手段」 メア日本部長が発言(毎日JP) 

和の文化「ゆすりの手段に使う」 メア米日本部長が発言(東京新聞)


日本の文化は合意に基づく和の文化だ。合意形成は日本文化において重要だ。

 しかし、彼らは合意と言うが、ここで言う合意とはゆすりで、日本人は合意文化をゆすりの手段に使う。合意を追い求めるふりをし、できるだけ多くの金を得ようとする。沖縄の人は日本政府に対するごまかしとゆすりの名人だ。

 沖縄の主産業は観光だ。農業もあり、ゴーヤー(ニガウリ)も栽培しているが、他県の栽培量の方が多い。沖縄の人は怠惰で栽培できないからだ。

_______

ではちょっと農林水産省の統計を見てみましょう。

http://www.maff.go.jp/


ゴーヤ(苦瓜)の県別収穫量は

トップメニュー→統計情報→左側の年次農林水産省統計表

→農作物の部→その他野菜


で見ることが出来ます。 UPされてるのは第84次、平成20〜21年の統計です。

ゴーヤはその他野菜の2ページ目ですが・・・1000トン以上の収穫量の県をピックアップすると・・・。


グンマー  1 265

長崎   1 099

熊本   2 983

宮崎   4 783

鹿児島  3 480

沖縄    8 590

(単位はトン)

( ´⊇`)・・・・。

あのさー、まさか「他県の栽培量の方が多い。」て他府県の合計収穫量>沖縄の収穫量って言ってるわけじゃないよねえ? そんなやり口で怠惰認定されたら新潟の米収量だって千葉+茨城のソレより少ないわけだけど。

 

結論 : 政府の重要な立場の人間でも平気ででたらめな数字を口にする。こんな講演聴かされたアメリカの大学生こそいい面の皮であろう。

http://d.hatena.ne.jp/blackseptember/searchdiary?word=%2A%5B%CC%B5%C3%E3%A4%B7%A4%E4%A4%AC%A4%C3%A4%C6%5D


2009年09月04日

日本(支配担当)部長「メア」・・・この正直者!メア!この正直者

 この人の言っていることが、本当の米国の声だと思う。

この人は米国が思っているとおりのことを、自民党政権と官僚達に対して要求していることを、そのまま正直に口にしているだけで、その言葉と内容と、差別的視線は最低だけど、きっと素直な人なんだろう。


米高官、普天間の見直ししない意向 民主の公約巡り発言

朝日新聞9月3日に一部加筆

(前文略)

メア氏も講演で

「現行計画は、(当時の)日本政府(官僚)と合意したのであって、(今はもう無い)自民党政権と合意したわけではない。

これは(当時の)国家間の合意だ。
民主党政権とも(恫喝しながら)議論を続けるが、今の計画をどう実行するか(しないか)、という議論だ」

と述べ、計画を(強要し)変更する考えがないことを強調。

(使っていない占領地を返すので)
「今の計画で沖縄の負担は(ごく一部で)劇的に減るし、

(他の箇所では莫大に増る)
(他国の軍隊の訓練も実施できる。)
(何よりも日本政府が税金を使って最新設備の基地をつくる)
(米軍に「思いやり予算」その他の多額なお金をくれるから)

米軍の能力も維持できる」


と述べた。キャンベル氏は、民主党の「アジア重視」の外交政策について

「日本がアジアの国々のなかで、(米国のために)より強いリーダーシップを発揮することを望むし、我々もそれを支持する。

(その限りに於いて)その過程のなかで、民主党は、日米同盟の重要性についても十分理解すると信じている」


と述べた。

また、キャンベル氏は

「日本で働いていて、非常にすばらしいと感じるのは(米国のために働く)官僚たちだ。

彼らが敵のように見られるのを残念に思う。

(米国のために)多くのいい仕事をしてきたし、これからも(沖縄から奪い取る)専門家同士の関係が続くことを望んでいる」

と語った。

「脱官僚」「政治主導」を掲げる民主党の姿勢にクギを刺した形だ。

http://henoko.ti-da.net/e2537645.html


メア日本部長の更迭で幕引きさせてはいけない   


 誰も書かないうちに書いて置く。

 私はメルマガを書くためにその日の新聞記事や報道の中で参考になると思われるものをファイルしておく。 それが今になって活きてきた。

 メア暴言が起きた時、私がとっさに思ったことは「メア更迭は避けられない」ということだった。 ところが米国は当初、「メア発言を確かめる」、とか「米政府の意見とは異なる」とか、とぼけた事を言っていた。

 しかし沖縄県民の激しい怒りの前にそれでは収まらないと米国はすかさず判断した。 これが普天間問題や日米同盟を揺さぶるようになっては大変だ、そう思い始めた。

 米国の事だ。すぐに手を打ってくる。

 おりから日本では外務大臣が更迭された。 松本新大臣はこの問題を弱腰で対応すれば世論の批判をあびる。そこで日米官僚は結託して「メア更迭」を急遽発表することを示し合わせた。

 そうする事によって、

「米国の謝罪は本物だ」、
「松本は対米外交に毅然とした態度を取った、やるじゃないか」、

ということになる。

 見ているがいい。

 早ければ今日にも「メア更迭」を米国が発表し、すかさず菅首相や松本外相がそれを歓迎する、ということになる。

 そこで、冒頭の私のファイルが活きてくる。


 2月24日の産経新聞は、米国務省日本部長に在イラク米国大使館のマーク・ナッパー参事官(政治担当)がこの夏に就任予定だというスクープを報じていた。

 この後追い記事を2月25日の日経が報じていた。

 ナッパー氏は米政府内で数少ない日本専門家。実父が海兵隊で沖縄に駐留していた経験があり、自身も幼少期を沖縄で過ごしたことがあるという。米プリンストン大学で日本政治を学び東大に留学したほか、自民党国際局で勤務した経験を持つ根っからの日本通で、妻も日本人。国務省の歴代の日本専門家の中でも最も日本語能力が高いとの評判で、在日米軍基地問題にも詳しいという。

 その一方で、現在のメア日本部長はホワイトハウス国家安全保障会議
(NSC)のアジア部長に昇格するという。

 何のことはない。

 更迭などではない。

 予定人事を今夏から今春に少しばかり早めるだけの話である。

 見ているがいい。

 日本のメディアは「メア更迭!」と大騒ぎするに違いない。

 これでメア暴言事件の幕引きを図ろうとするに違いない。

 「メア更迭にごまかされてはいけない」、「メアをNSCのアジア部長
にさせてはならない」、と書く新聞が一社でも出てくるだろうか。

 けだし見ものである。

http://www.amakiblog.com/archives/2011/03/10/

asahi.com(朝日新聞社) 2011年3月10日10時5分

米、「ゆすり名人」発言メア氏を更迭 後任にデミング氏


米国務省のメア日本部長が沖縄県民を「ゆすりの名人」と発言したとされる問題で、キャンベル米国務次官補(東アジア・太平洋担当)は10日朝、外務省で松本剛明外相と会談し、メア氏を更迭したことを伝えた。後任には在日米大使館の首席公使を務めた経験のあるラスト・デミング氏が就任する。在日米大使館が明らかにした。

 会談の冒頭、キャンベル氏は「外交当局の高官の発言で起こった論争について、米政府を代表して深く遺憾の意を表明します」と語った。そのうえでキャンベル氏は、ルース米駐日大使が会談後に沖縄に向かい、沖縄県民に謝罪すると明らかにした。



13. 2011年3月10日 18:32:56: MiKEdq2F3Q

今回のメア国務省日本部長の「オフレコ発言」があたかも「公式発言」のように取り扱われており一種異常な状態になってきています。
まず、この発言は2つの面があります。


一つは「発言の妥当性」です。

例えば、「ゆすり」ですが、日本では殆ど報じられていませんが、普天間基地の辺野古地区への移転で、なぜ陸上か海上か決められないのか、この点をメア部長ならずとも米国関係者は「いい加減にしろ」というのが本音です。

陸上と海上では工事を担当する「企業」が一変するために、調整がつかない事態が長く続いたのは、関係者・マスコミなら誰でも知っています。

また、辺野古地区の土地が「関係者」により買占められていると言われている現状もあり、「一体日本はどうなっているのか」、といういらだちも関係者なら当然出てきます。


また、官僚なら誰でもそうですが、実績をあげて重要ポストについて退官するのか、それとも実績をあげられずに閑職についてお役御免になるのか、退官後の人生はガラッと変わります。

メア氏の<日本部長>という職は今や日米関係の重要性の低下もあり、誰も必要としない閑職とも言われる立場であり、この夏に退官するメア氏としても、沖縄問題で実績を上げることが出来なかったいらだちがあったはずです。

沖縄総領事時代に日本側の迷走もあり何ら実績を残すことが出来なかったことの原因を「沖縄」に原因があると認識したことがメア氏の「悪い」ところだと言えますが、では、もう一つの側面である「オフレコ」発言はどうかという点です。

日本の政治家も官僚も「オフレコ発言」では本音を話しており、とても報道するような内容ではない発言を繰り返しており、これはアメリカ人でも同じです。

政治家・官僚とマスコミの関係にはいわば「阿吽の呼吸」があり、ここまでは話すがここからは「オフレコだよ」と言われれば記者は決して記事にはしません。

どうしても記事にしたい場合には、発言者をぼかす「政府関係者・高級官僚」という形で報じます。

これがないと、政治家・官僚は表面的なことしか話さずマスコミはまともな記事が書けないからです。

そこで今回のメア氏の発言を検証すれば、「オフレコ発言」を出席者の学生がメモを取り、それが今になって流出したという形になっており、かなり不自然な形になっており、日本のマスコミの集中砲火を浴びる形になっていますが、この「オフレコ発言」で誰が得をして誰が損をするのか、冷静に考える必要があります。 とにかく、日米関係に決定的な打撃を与えたい向きが仕掛けた「情報戦」であり、日本は綺麗に「はまった」ということが言えます。

http://blog.livedoor.jp/nevada_report-investment/


米国務省のケビン・メア日本部長を「更迭」というが、メア発言は、そもそも自民党時代の日本政府の「ホンネ」と、保守文化人の「ホンネ」を代弁しただけのものだろう。

アメリカの植民地支配の手先として、テレビ画面での言論活動に忙しい青山ナニガシは、メア発言が飛び出した原因は民主党や鳩山由紀夫前首相等にあると言っていたらしいが、勉強不足も甚だしいと言わなければならない。

メア発言は、そもそも自民党時代の日本政府の「ホンネ」と、保守文化人の「ホンネ」を代弁しただけのものだ。

たとえば渡部昇一に代表される昨今の思想的に劣化した保守論壇に君臨する保守文化人がこれまで繰り返してきた

「沖縄県民は金にきたない」

とか

「騒げば金になるということを知っている」

というような「沖縄差別発言」、つまり「沖縄蔑視論」とメア発言はまったく同じ種類のものである。

前沖縄総領事で、現「米国務省のケビン・メア日本部長」は、これらの発言が日本の本土の保守論壇で頻繁に繰り返されているということに精通していたが故に、またこれらが日本人の大多数の「ホンネ」だろうと盲信して、うっかり口を滑らしたというに過ぎない。

だから、自民党議員や保守思想家、保守文化人が、メア発言に激怒している図は、自ら天に唾するようなものなのだ。ところで、さもありなん、と思うのだが、ケビン・メアは、近く国務省(外務省)を辞めて日本に永住し、日本でテレビコメンテーターのような仕事を始めるつもりだったらしく、TBSの「杉尾ナニガシ」部長と個人面談していたということだ。「朝ズバ」のコメンテーター就任の話が、この発言でポシャッたというわけである。日本のテレビ・ジャーナリズムを取り巻く笑えぬ喜劇である。

http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/

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ケビン・メアさんは日米関係や日本の内部事情をすべて把握してたからあの発言ができたのさ:

暗躍する外国諜報機関 衝撃の「調査文書」


普天間移設の“本音”は筒抜けだった


日米関係がぎくしゃくするなか、情報機関の必要性を訴える声が警察や防衛省など各方面から上がっている。米国は世界一の情報大国で、本格的な情報機関のない日本では交渉にならないというのだ。取材を重ねる中、関係各方面から貴重な証言や「調査文書」を入手した。米国を中心とする「諜報機関」が日本で暗躍する驚くべき活動実態をレポートする。


  ジャーナリスト時任兼作

携帯電話は通信傍受の格好のターゲット(写真上=イメージ)。
右は住宅地の真ん中にある普天間基地

(上の写真右から)普天間基地移設問題でぎくしゃくしているオバマ大統領と鳩山首相、日本国内にある米軍の通信傍受施設

普天間基地の移設先とされる辺野古周辺。移設計画案はさまざまな利害調整のため何度も変更され、現行案に集約された


 「クレージーだ。地元企業のために基地移設計画――国防にかかわる事項に変更を加えるなんて。信じられない」

 米国防総省、通称ペンタゴンのブリーフィングルーム内で、ある幹部が驚きの声を上げた。いま日米間で最大の懸念材料となっている沖縄・普天間基地を移設する問題について、日米合意が成り立ってから数カ月後、2006年になってからのことだ。

 ブリーフィングルームでは最前まで、日本の自民党政権幹部と、沖縄の地元関係者との携帯電話でのやり取りが再現されていた。


 「(移設先の辺野古の)滑走路をもう一本増やして、もっと海のほうに出せばいいんですね? 浅瀬のほうに」

 「ええ。それだと埋め立て面積が増えるんです」

 「なら、住宅地から離す、安全のためということにして……」

 「であれば合意できます」


 日本側は今後、この”合意”をペースにして、それまでの移設計画に修正を加え、米国側に新たに提案してくることが予測された。米国は、そうした水面下の「日本側の本音」をこの時点で把握したわけである。

 「まあ、一件落着すればいいんじゃないか。移設計画の結果、どれほどのカネが使われようと。われわれのカネじゃないし」

 米国防総省の別の幹部が冷笑した。

 「そもそも海のほうがわれわれには都合がいいしな」

 06年5月、前年の日米同意では1本だった滑走路は2本となり、V字形に海に張り出す現行の計画に変更された。


   *  *  *

 この米国防総省内でのやり取りは、複数の防衛省幹部らの証言をもとに再現したものである。内容から明らかなように、沖縄の基地移設問題に関係する面々の言動は完全に米国側に把握されていた。携帯電話などでの通信が傍受されていたのである。平たく言えば、”盗聴”だ。

 「同盟国といえども、米国は通信傍受をはじめ徹底的に情報収集をしている。対外交渉はそれをペースに行われる。安全保障や情報関係者の間では常識です」

 と語るのは、評論家で元衆議院議員の米田建三氏。防衛政務官、内閣府副大臣などを歴任したのち大学教授を経て現在、国際問題や安全保障を中心に評論活動を行っている。米田氏はこう続けた。

 「沖縄の基地問題というのは複雑なんです。まず、基地の偏在に苦しむ地元と苦渋の受け入れ要請をする中央政府という構図がある。しかし、地元も一枚岩ではない。

受け入れに反対する層がある一方、基地建設やその苦痛に対する”おわび”として、中央政府からもたらされる地域振興策による経済利益に期待する層もある。

加えて、中央・地元の政財界を含めた利権屋集団が暗躍して計画をねじ曲げるから始末に負えない。そのあたりの事情を米国はつぶさに手に取るように察知していて、正直うんざりしているんです」


 こうした発言の背景には、防衛・情報関係者を中心に各方面から米田氏のもとに寄せられる重要な証言や資料の存在がある。たとえば、情報機関関係者は、米田氏にこう話したという。

 「米軍関係者らは、基地移設問題に関係する者たちの通信傍受を徹底的に行い、日本の提案の背景にある国内事情を事前に知ってあきれ返っていました」


国防総省の中で携帯電話する愚

 また、外務・防衛の閣僚で構成される日米安全保障協議委員会(いわゆる2プラス2)の事務レベル交渉の一環として05年、ペンタゴンで行われた会議に参加した元防衛省幹部から、次のような証言を聞いたと米田氏は言う。普天間基地移設についてのものだ。

「会議の際、米側は日本側が説明を始めると、途中で『わかった、わかった』としきりに遮るんです。

これで話が通じるのかと不安に思ってましたが、なぜか不思議なことに協議の最終局面ではつじつまが合う。そこで、

『米側はこっちの事前打ち合わせの内容などをすべて知っているな』

と気づいたんです。だから私は、遅ればせながらも、部下に携帯電話などの使用は厳禁しました」


 ところが、外務省の職員は能天気で、協議の最中、たびたび本省に電話を入れ続けたという。

 携帯電話での通信・通話が傍受されうることは国際的には”常識”だ。携帯メール中毒のオバマ米大統領は、「国家機密が漏れる」と国防総省から警告され、会話や文書の内容を暗号化できる特注の携帯電話を使うようになったと報じられた。ただし、日本では、外務省職員ですら、携帯電話での通信にあまりに無頓着だったというのだ。


 元幹部はあきれきった様子でこう続けたという。


 「彼らは番号が広く知られている公用の携帯電話を使って、あろうことかペンタゴンの廊下で通話していました。かくして、現在進行形の情報もすべて米側に筒抜けとなったわけです。こうした情報も先に言った”つじつま合わせ”に一役買ったはず。外務省の危機感のなさは、もうお話になりませんよ」


 別の防衛省元幹部は、こうした情報漏れに関連して、拉致問題に絡むエピソードを披露した。北朝鮮側と秘密交渉を重ねた外務省高官が日米の基地問題の交渉にもかかわっていたからだ。

 「この高官も無防備に固定電話や携帯電話を使って北朝鮮側とやり取りしていたため、米国側は交渉の概要をほぼリアルタイムに把握していたはずです」

 同盟国をも例外扱いしない――これが情報収集、安全保障の鉄則のようだ。

 米田氏は語る。

 「米国だけではない。主要国はみな、しかるべき情報機関を持ち、熾烈な諜報活動を行っています。その体制が貧弱なのは、日本だけです。目下、最も能力的にレベルが高いのは米国で、普天間基地移設問題の情報収集に当たったのも、やはりNSAでしょう」

 NSAとは国防総省傘下にある巨大諜報組織、国家安全保障局のことだ。冒頭に記した米国防総省内のやり取りも、この機関の諜報活動の延長線上にあったとみられるのだが……。

 「それどころじゃありません。NSAはいま現在も通信傍受を継続しています。鳩山民主党政権は昨年来、基地移設に関するこれまでの日米合意を見直し、沖縄県外への移設を模索してますが、そのやり取り、手の内も丸見えだと思います」

 と、さる防衛省幹部は指摘したうえで、部外秘扱いだという「調査文書」を提示した。「主要国における情報機関の現状と課題について」と題された、米国やイギリス、フランス、イスラエル、韓国など各国の情報機関に関する100ページを超える詳細な報告書だ。作成は07年3月。防衛省から委託を受けた外郭団体が作った体裁をとるものの、実際は現役の情報将校らが深く関与しているという。


シギント機関にメールも丸見え


 この文書の中で、NSAは以下のように解説されていた。


 【1952年に秘密裏に大統領令で発足した。人員は (米国)インテリジェンス・コミュニティ最大であるのは間違いない。本部に40000人程度、海外の傍受施設にも25000人(略)。通信傍受や暗号解読のみならず、情報保護(information assurance)も任務である。本部はメリーランド州のフォート・ミード。世界でもっとも多くのコンピュータを持つ組織といわれる。世界の数十か所に傍受施設を持つ】


 【一時間に200万件のファックス・メール・電話等の通信を傍受する。(略)大手通信会社のAT&TなどにはNSA専用の秘密の部屋がある(略)】


 前出の防衛省幹部は、「いわゆるシギント機関です」と言う。

 「シギント」とは、シグナル・インテリジェンスの略で、電波のシグナルを収集、分析する諜報活動のひとつだ。諜報というと、人から情報を引き出す「ヒューミント(=ヒューマン・インテリジェンス)」を思いがちだが、インターネットをはじめ電波通信なしに成り立たなくなりつつあるこの時代、目を見張らんばかりの威力を発揮しているのが 「シギント」なのである。


 防衛省のさる情報将校が語る。

 「NSAによるシギントの恐ろしいところは、その使い勝手の良さにあります。時間軸やカバー領域がとにかく広い。メールや電話などに対する検索や追跡の能力はすさまじいばかりだ」 この将校の説明によると、たとえば、「普天間」というキーワードをあらかじめ設定しておくと、その言葉が使用されたメールやそのアドレス、会話の内容や電話番号が日本全国、場合によっては世界規模でピックアップされる。日本国民すべてが対象なのはもちろんのこと、世界まで視野に入れているということだ。


 ピックアップされた情報はいくつかのキーワードが加えられ、また情報担当者による直接のチェックなどを経て、重要性の高い機密情報が絞り込まれていく。さらに、機密情報を扱った人物のメールはサーバーに残っている記録はもちろんすべて追跡される。その人物がアドレスを変えたとしても、それを追跡されるばかりか、そこに送信されるすべてのメールも追いかけられるというのだ。


 「同様のことは携帯電話の通話などについても当てはまります。個人名による検索なども可能です。こうなると、もうすべて丸見えになってしまいます。

普天問基地移設に関係する面々の情報はこうして収集されたものです。電子の目から逃れられた人、あるいは通信は、皆無といっていいでしょう。ペンタゴンで再生されたのはその一部でしょう」(前出の情報将校)

 ちなみに、これほどの実力を有するNSAはさらにその機能を充実させるべく、英国、オーストラリア、ニュージーランドなど英連邦国の諜報機関と連携もしているという。警察幹部のひとりがこう証言する。

 「NSAは英国のGCHQ(政府通信本部)、オーストラリアやニュージーランドの政府通信保安局などとともに世界規模の通信傍受網を形成している。いわゆる 『エシュロン』といわれるものだ。日本国内にももちろんある。米軍基地にある通称『象のオリ』と呼ばれるレーダードームなどがそれ。エシュロンの一翼を担っている」


エシュロン網で日本は赤子扱い

 つまり、日本は国内にある米軍基地などによって世界規模で見張られているというわけだ。

 「エシュロン網はしかも、手分けして効率よく日本の情報を収集している。大まかに言うと、ニュージーランドが日本の外交情報、オーストラリアが商社などを中心とした企業情報、英国がシンガポールなどを拠点に金融情報、そして米国が軍事情報。

それらの情報を持ち寄っての定期協議も行われている。最重点項目は経済です。日米貿易摩擦以降の主流となっているが、ただし普天間基地の移設や軍事兵器・装備品の発注などといった巨額の費用を伴うものについてはしっかりと追跡されている」(前出の警察幹部)


 なんとも空恐ろしい状況だが、それが日本が置かれた現状であることは、防衛省の情報将校も把握していた。そして、こう警告する。


 「手の内を承知の上で交渉するわけですから、日本など赤子の手をひねるようなものです。日本の国益は危機的に損なわれています。主要国でこうした対策を講じていないのは日本だけ。防御策の構築が急務です」


 事実、エシュロンの存在を把握した際、英国を除いたヨーロッパ諸国は、「これはアングロサクソン同盟だ。われわれは排除されている」と激怒し、その後、対策を講じているという。


 一方、米田氏は日米同盟の重要性を鑑み、

 「奇しくもこんな文書がある」

 と、05年の日米安全保障協議委員会の報告書に言及した。「情報共有及び情報協力の向上」と銘打たれた部分だ。そこには、


 〈(日米)双方は、良く連携がとれた協力のためには共通の情勢認識が鍵であることを認識しつつ、部隊戦術レベルから国家戦略レベルに至るまで情報共有及び情報協力をあらゆる範囲で向上させる。双方は、関連当局の間でより幅広い情報共有が促進されるよう、共有された秘密情報を保護するために必要な追加的措置をとる〉


 とあった。これを踏まえ米田氏は語る。

 「まさに情報における同盟の対等化ということですが、日本が無防備のままでは、情報共有など米国も真剣に考えないでしょう。共有した情報が第三国にタレ流しになるのが目に見えていますからね。そのためにも、日本として主体的に情報管理・防御体制づくりを考えるべきときだと思います」 飛び交う電波は目に見えないが、それをめぐって熾烈な諜報戦がこの日本で展開されているようだ。その対策も急務だが、しかし、日本を襲う「諜報機関」の手はそれだけではない。

http://www.asyura2.com/10/senkyo79/msg/179.html

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アメリカが日本全国の重力分布図を毎年改訂している理由

万一、日本が中国に占拠された場合、日本列島ともども中国軍を殲滅する

つまり,中国の占領軍も1億2000万の日本人も一挙にこの世から抹殺するというのがアメリカの既定の方針だ:


日本がもし、ソ連や中国と結んだら、アメリカの勢力圏は太平洋の西側に押し戻され、第二次大戦前の状況に戻ってしまう。そのような可能性をも考えて、アメリカは手を打っている。

 86年には、米軍が三沢基地に対戦車地雷を運び込んだ可能性があると知って、陸上自衛隊は衝撃を受けた。三沢基地がソ連の戦車で攻撃されることは、その限られた輸送能力から見てありえない。唯一あり得るのは、米ソ戦となった場合、日本が米軍基地に戦車を突入させて、中立を宣言するというシナリオだ。アメリカはそこまで考えていたのである。

 さらにアメリカは昭和40年代から、日本全国の重力分布図を毎年改訂しているという。これは弾道ミサイルを正確に打ち込むために不可欠のデータである。

万一、日本がソ連に占拠された場合、列島ともどもソ連軍を殲滅するというシナリオも存在していたのである。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_1/jog084.html


メアさんの様な正直者は最後には得をするのさ。

最初は俺もメアさん 可哀そう、と思ってたけど正直者は神様がちゃんと助けてくれるんだね:


日米官僚は結託して「メア更迭」を急遽発表することを示し合わせた。  そうする事によって、「米国の謝罪は本物だ」、「松本は対米外交に毅然とした態度を取った、やるじゃないか」、ということになる。  早ければ今日にも「メア更迭」を米国が発表し、すかさず菅首相や松本外相がそれを歓迎する、ということになる。

現在のメア日本部長はホワイトハウス国家安全保障会議(NSC)のアジア部長に昇格するという。

 何のことはない。  更迭などではない。

 予定人事を今夏から今春に少しばかり早めるだけの話である。

http://www.amakiblog.com/archives/2011/03/10/#001852


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過去のメア氏発言にみる沖縄差別


 沖縄を「ゆすりとごまかしの名人」と言い放った米国務省日本部長のケビン・メア氏は、駐沖縄米総領事として2006年から09年の沖縄勤務中も、数々の舌禍で批判を浴びてきた。根底に漂うのは、重い基地負担に苦しむ県民を無視した米軍優位の思想。メア氏の発言を振り返りながら、県内関係者たちの思いを聞いた。


 ◇地対空誘導弾パトリオット(PAC3)の米空軍嘉手納基地などへの配備について


「沖縄を含めた日本の防衛に貢献する能力があるのに、逆に歓迎すべきだと思っている」
(06年7月、本紙インタビューに)


 地元の嘉手納町議会はこの発言の前、配備計画の撤回を求める抗議決議案を全会一致で可決した。PAC3配備によって逆に住民が攻撃目標になる―。苛烈な沖縄戦をくぐり抜けた人々の教訓だった。

 ところが、決議文を手渡すため在沖米国総領事館を訪れた田仲康榮基地対策特別委員長は、まるで感謝しろと言わんばかりの、当時総領事のメア氏の対応に激怒。「言葉の蛮行であり、こうした人物が米国政府を代表していることにあぜんとした」

 メア氏は地元への影響が大きい外来機の暫定配備にも

「最新鋭戦闘機の配備を歓迎すべきだ」

と述べた。「沖縄の痛みを何も感じていない」と田仲委員長は切り捨てる。


 ◇米軍普天間飛行場周辺に住宅地が密集する状況について


「なぜ(宜野湾)市が建設を許しているのか疑問がある」
(08年7月、記者会見で)

 「ぬかにくぎだ。全然、効き目がなかった」とあきれ顔を見せた普天間爆音訴訟原告団の島田善次団長。08年8月に在沖米国総領事館を訪ね、メア氏に対し「反県民的な言動に抗議し、即刻、沖縄から退島するよう要求する」決議書を手渡した。「日本語が堪能なのに、通訳を介し英語で対応した」と振り返る。

 「占領意識が強い。上から見下している。おいしい県産ゴーヤーを送ろうか」と皮肉った。


 ◇米軍掃海艦の石垣港入港に反対する市民団体が港湾施設のフェンスに取り付けた横断幕が、米軍関係者らしき人物に持ち去られたことに

「捨てられたごみとして片付けたのではないか」
(09年4月、石垣島で複数の記者に)

 持ち去られた「NO WAR SHIP(軍艦はいらない)」の横断幕を作成した「いしがき女性9条の会」の大島忠枝事務局長は「人の心を『ごみ』と平気で言える、心のないかわいそうな人」と憤慨した。

 米兵を市内へ入れさせまいと港のゲート前で座り込む市民の頭上を、大またで乗り越えたというメア氏。大島事務局長は「こんな『友好親善』があるか、と怒りがこみ上げ涙が出るほど悔しかった」と話す。「沖縄の人をばかにしている。引きずり下ろしてほしい」


 ◇普天間飛行場の名護市辺野古への移設について

「日本政府は沖縄の知事に『金が欲しいならサインすべき』と言う必要がある」
(10年12月、米大学生への講義で)

 移設先を辺野古沿岸部とする案を条件付きで容認している「代替施設安全協議会」の許田正武代表理事は「普天間飛行場の危険性除去のために移設を容認し、暮らしを守るために条件を付けてきた。日本で長く働き、普天間移設の交渉にかかわってきたメア氏の発言だとすると、米国全体にそのような考えが浸透している恐れがある」と懸念。

 一方で「普天間問題を解決できず、もたもたしている民主党政権に対する、米国のいら立ち、嫌みにも聞こえた」と話した。

http://www.okinawatimes.co.jp/article/2011-03-09_15212/


メア氏語録 琉球新報


 米国務省のケビン・メア日本部長は、駐日米大使館安全保障課長を務めた2005年〜06年、在沖米総領事を務めた06年〜09年にも沖縄の米軍基地関係で幾度となく県民に配慮を欠き、差別的とも言える発言や行動を繰り返し、県民の反発や怒りを招いた。メア氏の沖縄関連の発言や行動を当時の県内や日本政府の受け止めなども含め、あらためて振り返る。


【駐日米大使館安全保障課長時代】(2005年〜06年)


「軍隊ではなく、個人の問題だ」

「一般社会でも起こり得る」

(2005年7月5日、駐日米大使館)


 米兵による小学女児強制わいせつ事件で、社民党の照屋寛徳衆院議員らが抗議した際の発言。

当時の花城順孝県知事公室長らが「県民世論の反発の強さを理解していない」などと反発。その後、米大使館は「コメントは会話の中の一部が取り出されたもの」と発言を認めた上で「事件の重さを矮小(わいしょう)化するものではない」と釈明した。


「沖縄県民には冷静に考えて理解していただきたい」
(06年2月7日、福岡市内)

 米軍再編中間報告の報道関係者向け説明会で、普天間飛行場の県内移設の必要性について強調した後の発言。


【在沖米国総領事時代】(06年〜09年)

「米軍にとってPAC3(地対空誘導弾パトリオットミサイル)は貴重。(在日米軍)各基地に配備できるものではない」
(06年7月21日、在沖米国総領事館)


「反対する時期ではない。今脅威があるから一刻も猶予すべきではない」
(同、在沖米国総領事館)

 嘉手納基地と嘉手納弾薬庫地区にPAC3が配備されるに当たって、本紙の取材と会見でそれぞれ発言。米軍が地元の反対を押し切り嘉手納弾薬庫にPAC3を搬入したことに関し、当時の高市早苗沖縄担当相は同年10月、内閣府でメア氏と面談し「誠意ある説明が欠けていた」と抗議した。


「普天間は特別ではない。飛行場として特に危ないとは思わない」
(06年8月10日、在沖米国総領事館)

 本紙の取材で米軍普天間飛行場周辺の住宅が密集した現状について発言。当時の伊波洋一市長や平和団体などが一斉に反発。当時の花城知事公室長は「配慮が欠けており残念だ」と批判した。


「紛争を非武装で抑止できると考えるのは幼稚。在沖米軍の存在が抑止力になる」
(06年9月30日、石垣市内)

 尖閣諸島問題や中国と台湾の緊張が取りざたされていた八重山地域の現状に関し、本紙の取材に応じた際に発言。


「日本の安全保障に貢献している米海軍の入港になぜ反対するのか理解しにくい」
(07年6月19日、在沖米国総領事館)

 在日米海軍掃海艦の与那国島への寄港に関し、本紙の取材に対し発言。

「米側が調査し原因は分かっているのに、整備員の名前を聞いて(県警が)何を調査したいのか疑問だ。事故が起きない方の努力が大事だ」
(07年8月9日、在沖米国総領事館)

 本紙の取材で、県警が当時の事故ヘリの整備員4人の氏名開示を求めたが米側が応じなかった理由について発言。当時の伊波洋一宜野湾市長らが「県民感情を逆なでする発言」などと批判した。


「日本の領土内の米軍施設内で、日本の自衛隊が共同使用、訓練するのになぜ反対するのか不思議だ。日本の防衛のためで歓迎すべきだ」
(08年1月30日、在沖米国総領事館)
 
陸上自衛隊による米軍キャンプ・ハンセンの共同使用について定例会見で発言。


「不当な抗議行動をする方と会っても冷静な議論はできないと考えた」
(08年2月27日、在沖米国総領事館)

 米兵女子中学生暴行事件を受けた平和団体の抗議行動に対応せず、飲食店に出掛けたことに関し、本紙の取材に応じ発言。


「ある政治家と団体が政治的に利用し、政争の具にしようとしていることは非常に残念だ」
(08年4月3日、在沖米国総領事館)

 定例会見で日米地位協定改定の動きについて発言。当時の高村正彦外相は同年4月8日の参院外交防衛委員会で、「日本人としてあまり愉快ではない」と不快感を示した。


「もし見直しの動きがあれば、米側からは大変非対称な日米安保条約自体が不公平だという声が出てきて、安保体制自体の話になって難しい問題になる」
(08年7月10日、琉球大学法科大学院)

 講演で、日米地位協定見直しの動きが高まっていることに関し発言。


「基地外の建設を制御する安全基準で、逆に滑走路の近くの基地外になぜ、宜野湾市が建設を許しているのかという疑問がある」
(08年7月11日、在沖米国大使館)

 当時の伊波洋一宜野湾市長が、米軍内の安全基準に普天間飛行場が違反していると指摘したことに対し、定例会見で発言。普天間爆音訴訟原告団が沖縄からの「退島」を要求するなど怒りの声が上がった。


「置いていた物が取られても捨てられたごみを片づけただけではないか」
(09年4月4日、在沖米国総領事館)

 米海軍掃海艦の石垣港寄港に反対する市民らが港の金網に掲示した横断幕がなくなっていたことに対し、本紙の取材に答え発言。当時の大浜長照石垣市長が「民主主義に対する挑戦だ」と抗議声明を発表。


「3年間でいくつか選挙があったが、一番の争点は基地ではなくなった。県民は10、20年前より現実的になった」

「抽象的に質問すれば県外がいいと答える人が多い。普天間飛行場を維持するか、米軍再編の下で移設するかなら、ほとんど移設と答えるだろう」

(09年7月7日、琉球新報社)

http://w169.or.tv/modules/xhld1/

08年2月、米兵女子中学生暴行事件を受けたというショックな事件があった。
そのときに平和団体が領事館に抗議にいくとメア氏は対応せず、飲食店に出掛けたため団体側が反発。メア氏が入った飲食店前で抗議行動を展開した。

http://blogs.yahoo.co.jp/kuronekosanta815/archive/2011/3/9


沖縄米兵の女子中学生暴行事件 民族的屈辱許すな


一〇日に沖縄県でおきた米海兵隊員による女子中学生暴行事件は、沖縄県をはじめ全国の人民の怒りをよびおこしている。

「米軍基地があるかぎりこうした事件はなくならない」

「二度とおこさないといってまたおこった。基地撤去以外にない」

といった意見があがっている。


米軍基地あるがゆえの犯罪 米軍融和の風潮が助長


 米艦載機部隊の移転をめぐってはげしくたたかわれた岩国市長選の投票が終了したころ、沖縄市では海兵隊の軍曹が日本人の女子を物色していた。

 強姦(ごうかん)容疑で逮捕された米海兵隊二等軍曹のタイロン・ルーサー・ハドナット(三八歳)は午後八時半ころ、コザ・ミュージックタウン内の店からでてきた少女

ら三人にたくみに声をかけ、一人の少女(中学三年生)をバイクにのせた。


執拗に追い回して暴行

 米軍曹は北中城村の自宅に少女をつれこみ、関係をせまろうとしたが少女は必死に抵抗して逃げだした。しかし、米軍曹に追いかけられた少女は今度は車にのせられつれま

わされた。少女は機転をはたらかせていったんは車からおりたが、また見つかり、最後には北谷町の公園わきの車中で暴行された。

 この間、少女は携帯電話をつかって「車から降りられない」「助けて」となん度も助けをもとめた。事態の重大さをしった少女の友人と家族は沖縄署に訴え、逮捕となった。

 駐日米大使シーファーや在日米軍司令官ブルース・ライトは一三日午後、仲井真・沖縄県知事をおとずれ、被害少女への手紙をたくすなどのパフォーマンスをやり、いつも

の「遺憾に思っている」「もうしわけなく思っている」などといった口先だけの謝罪をおこなった。

 だが、かれらの本音は、われわれは戦勝国だ、敗戦国民が占領軍につくすのはとうぜんだろうというものである。「イラクに自衛隊をだせ」「インド洋に給油艦を派遣しろ」と命令し、売国政府を意のままにあつかってきたのはかれらである。

沖縄の婦人団体が在沖米国領事館に抗議にいき、基地外にすむ米兵の規制などを要求すると、総領事ケビン・メアは

「米国人が基地外に住むことに反対なのか」

と居直ったという。

http://ww5.tiki.ne.jp/~people-hs/data/5250-1.html


◎「日米密約 裁かれない米兵犯罪」(布施 祐仁)から
 http://blog.livedoor.jp/sensouheno/archives/51564882.html

「1995年9月4日、沖縄で、12歳の女子小学生が米兵に集団強姦される事件が発生した。
 犯行に及んだのは20歳から22歳の海兵隊員3人。レンタカーで基地から外出し、商店街で買い物中の女子小学生を拉致、粘着テープで口を塞いで手足も縛ったうえ、近くの海岸で強姦した。

 事件後、長年マグマのようにうっ積していた沖縄県民の米軍への不満と怒りが爆発する。10月21日に超党派で開かれた県民総決起集会には、約8500人もの県民が集まり、抗議の声をあげた・・・

 あれから15年経った。だが、いまだに普天間基地は返還されていない。そして、米兵による事件・事故は、相変わらず繰り返されている・・・

・・・「日本を守るためにいる」「良き隣人」などと自称する彼らが、いったいなぜ日本人の命を奪い、尊厳を傷つけ、人権を踏みにじるような行為を繰り返すのだろうか。

 その要因の一つとして指摘されてきたのが、米兵に対する日本の警察権や刑事裁判権が十分び及ばない日米地位協定の問題である・・・

・・・なぜか容疑者が米兵だというだけで不起訴になったり、通常に比べて刑が軽くなったりする事件が、あった・・・

・・・そこで見えてきたのは、米兵の特権を保証するために、日本国民には見えないさまざまな「非公開取り決め」や「密約」が何層にも折り重なる、巧妙に仕組まれた構造であった。」

___________


【6歳の由美子ちゃんはレイプされ、切り刻まれ、ゴミ箱に捨てられた】日米密約 裁かれない米兵犯罪(布施 祐仁著)


「市内の幼稚園に通っていた6歳の永山由美子ちやんが、その日の夕方1人で映画を観に行ったまま、行方不明となった。

沖縄の夏は午後8時まで明るく、当時の沖縄の住宅は台所を別にすると、1間か2間しかなく、それゆえ、日が暮れるまで子どもたちは表で遊んでいることが多かった。

由美子ちゃんは、翌日死体で発見された。

犯人は、由美子ちゃんを車で拉致して、嘉手納基地に連れ込み、軍の施設内で何度も何度もレイプし、最後には殺し、その遺体を嘉手納の米軍部隊のゴミ捨て場に捨てたのである。

由美子ちゃんは、唇をかみしめて、右手に数本の雑草を握りしめているように死んでいた・・・」


年端も行かない少女を強姦され、「思いやり予算」という名目でお金を脅し取られても、「北朝鮮の脅威」「東アジアの安全保障」という虚構の大義名分の元に黙々とお金を貢ぎ続ける奴隷国家日本・・・

産経、読売の「日本の大手メディア」や新潮、WILL、VOICEといった「愛国派」雑誌の識者の面々にお伺いしたい。「東アジアの抑止力」米軍は、いままで日本の国民を守ったことなどあるのですか?自国民も満足に養えない、崩壊寸前の北朝鮮がそんなに日本の脅威なのですか?と。
 
http://www.asyura2.com/10/senkyo88/msg/850.html


【由美子ちゃん事件と沖縄の悲劇】


悲惨な沖縄戦を経て、敗戦後10年を経過した1955(昭和30)年9月3日、沖縄本島中部にある旧石川市(同市はもともと2000人ほどの静かな農村であったが、敗戦後は収容所ができ、3万人以上にもなっていた。2005年4月1日、2市2町が合併して「うるま市」【地図】になった)、市内の幼稚園に通っていた6歳の永山由美子ちやんが、その日の夕方1人で映画を観に行ったまま、行方不明となった。

沖縄の夏は午後8時まで明るく、当時の沖縄の住宅は台所を別にすると、1間か2間しかなく、それゆえ、日が暮れるまで子どもたちは表で遊んでいることが多かった。由美子ちゃんは、翌日死体で発見された。犯人は、由美子ちゃんを車で拉致して、嘉手納基地に連れ込み、軍の施設内で何度も何度もレイプし、最後には殺し、その遺体を嘉手納の米軍部隊のゴミ捨て場に捨てたのである。由美子ちゃんは、唇をかみしめて、右手に数本の雑草を握りしめているように死んでいた。


1955年9月4日付『沖縄タイムス』夕刊は以下のように報じた。

「嘉手納海岸近くの部隊塵捨て場に身元不明の少女が暴行を受け、殺されているのが発見された。4日朝、嘉手納村旧兼久部落俗称カラシ浜の部隊塵捨場近くの原野で、8才から10才位と思われる少女死体が、あお向けになったまま捨てられてあるのを警ら中の米兵2名が発見、MP隊(military police=米軍憲兵隊)を通じ嘉手納派 出所へ届出た。

少女は暴行を受けた形跡がありシミーズは左腕のところまで垂れ下がり、口をかみしめたまま死んでいた」。


いわゆる「由美子ちゃん事件」である。由美子ちゃんの死体は、まるで鋭利な刃物で下腹部から肛門にかけて切り裂かれたようだった。

犯人は、事件から1週間後に逮捕された。

【米兵少女暴行事件】

95(平成7)年9月4日午後8時、沖縄県に駐留する米・海兵隊(アメリカ海軍の独立部隊で、上陸作戦・空挺降下などを任務とする部隊。陸・海・空軍続く、第4軍〈侵略部隊〉ともいわれている)の兵士3人(マーカス・ギル、ロドリコ・ハープ、ケンドリック・リディット。

いずれも20〜22歳で黒人)が基地内で借りたレンタカーでドライブ中、沖縄本島北部国頭(くにがみ)郡の商店街で買い物をしていた12歳の女子小学生を車に押しんで拉致、車中において粘着テープで顔を覆い手足を縛ってしたうえ集団強姦し、全治2週間の傷を追わせるといった、悪質この上ない計画的な逮捕監禁(刑法220条)・強姦致傷(刑法第177条・刑法第181条)事件が発生した(主犯格である2人が姦淫〈かんいん=男女が不倫な肉体関係を結ぶこと〉をとげ、他の1人が幼いことに気付き姦淫を断念した。

なお、主犯格の被告人の1人は自らの暴行と姦淫行為を法廷において否定した)。
なおこの事件に関して米太平洋軍司令官リチャード・マッキー海軍大将が「レンタカーを借りる金で女が買えた」と発言している。

http://www.asyura2.com/10/senkyo88/msg/850.html

【その他事件の事実(抜粋)】

1947年 17歳(強姦)
18歳(強姦)
1948年 18歳(輪姦)
17歳(拉致、強姦)
18歳(拉致、強姦)
17歳(拉致、強姦)
1949年 14歳(強姦)
16歳(強姦未遂、傷害)
生後9ヶ月(強姦)
18歳(強姦)
15歳(拉致、強姦)
17歳基地内のメイド(強姦)

1950年 女子高校生(強姦)
1951年 16歳(強姦)
1952年 18歳(性交拒否で傷害)
1953年 6歳(強姦殺人、由美子ちゃん事件 - 旧・石川市)
1955年 6歳(強姦殺人)
9歳(強姦致傷)

1968年 17歳基地内のメイド(強姦)

1970年 女子高校生(強姦目的の傷害)
1971年 女子中学生(強姦)
12歳精薄児(輪姦)
1974年 17歳(輪姦)
1975年 二名の女子中学生(強姦、金武村海岸)

1985年 小学生(強姦)
1988年 17歳(強姦)
1993年9月8日 14歳、15歳の少女(強姦)
1995年 米兵3人による小学生(拉致強姦、この記事の事件)
12月 14歳の少女、父親と同じ部隊所属の兵士に強姦される

2005年 小学生(強制猥褻)

米兵の公務とは沖縄の少女や女子中学生、高校生を強姦したり輪姦したりすることなのか。こんな奴らが日本国を守っている(公務)などと喧伝し、集団安全保障を言うなど言語道断の所業。

よく沖縄の雇用が言われるが、米兵が沖縄に駐留する限りにおいて、また日本の基地の9割が沖縄に集中する以上、これからも【公務と称する強姦輪姦の場】となるだろう。この日本国民に突き付けられた現実を回避するには、米軍が県外に出て行く以外有り得ない。

ここにきて、県内移設を唱える"野党自民党"やルース駐日大使は、この沖縄の現実を如何に捉えるのか回答を求む。小紙が、自立を唱え、自律的防衛網の配備を言うのは、背景にこのような事件があるからだ。(ToT)ウウウ

これ以外にも八王子のひき逃げ事件、横須賀の女性殺人事件など枚挙に暇が無いほどの米兵犯罪が日本国内で起きている。

しかも日米地位協定では、米兵が米国の手中にあるうちは、起訴されるまで逮捕できない。この意味がお分かりか。証拠隠滅が出来ると言うことだ。

且つ、所謂、「公務中」と言えば、手が出せない。いったい日本で何の仕事が「公務」なのか、日本人を殺したり、婦女子を強姦したりするためか。

是まで外務省は常に【運用の改善】で誤魔化してきた。
しかし、ほとぼりが冷めると事件が再発する。日本は、民主党に政権交代した。
アメリカは、中国の人権を殊更に指弾するが、おまえの国こそが世界に冠たる人権蹂躙国だ。

他人の国に来てエラソウに、首相や外相に普天間移転を言いやがる。
いったい何様のつもりだ。

強姦は、イラクでも、アフガンでもやっていた。本当は、米太平洋軍司令官の言葉が本音なのではないか。

皆さん、そろそろ目を覚まそう。そして自分の国は自分で守ることを決意しよう!!
そして由美子ちゃん事件を忘れるな。そこに米兵の真実がある。
終戦65年、未だ戦後は終わらず。否、最早終わらせなければならないのである。

http://www.olive-x.com/news_ex/newsdisp.php?n=77131



14. 2012年3月30日 20:26:11 : TEoGUDf1Xs
長大なコメントは全く読んでない。
なぜ、首都圏に外国基地があるか。
列島の各所に、外国基地があるか。
防衛省は、ペンタゴンの妾か。

だとすれば、幕僚長なんて、バイトさんでもよいのではないか。
応募してみてはいかがかな。多分、今のより、優秀かもしれないよ。



2012年10月18日

沖縄で米軍兵による、日本人女性への強姦が繰り返される、本当の理由


 第二次世界大戦中、日本軍が中国大陸・朝鮮半島で略奪した貴金属、タングステン・マグネシウム等のレアメタル=軍需物資は戦後、日本国内に空輸され持ち帰られた。戦後、日本を支配下に置いた連合軍司令部・GHQ=事実上の米軍は、その貴金属・軍需物資を探し出し、接収という名目で「略奪」し、私物化した。

その指揮官が、GHQの指揮官ダグラス・マッカーサーであり、実働部隊として動いたのが部下のジョージ・バーディであった。

この略奪資産によって、日本国内、とりわけ東京都・港区の優良不動産を、「買収=乗っ取り」、日本国土の中枢を乗っ取り続けてきた、ジョージ・バーディ。

バーディを「日本人の資産略奪」の実働部隊としていたGHQは、日本から退去する際に、米軍基地だけは今後も継続して米軍に使用させるよう、日米安保条約を日本に強制し、日本国内に米軍基地を残して行った。


 2011年3月、福島の原子力発電所は事故を引き起こし、日本人を大量に被曝させ、今後、日本人を、ガン・白血病の疾病で苦しませる元凶を作り出した。第二次世界大戦後、この原子力発電を日本に「強引に導入させた」、原子力発電所・建設企業の「元締め企業」ドレッサー・インダストリーの経営者が、このジョージ・バーディである。

GHQが「置き土産」として置いて行った沖縄等の在日米軍基地の存在と、GHQが「置き土産」として置いて行った原子力発電所は、日本が米国の植民地である事の「同一の証拠」である。

植民地国家には自国民を裏切り、宗主国のメッセンジャーとして宗主国の「言いなり」になる事によって属国の頭首となろうとする売国奴が常に存在する。東京電力の経営陣、原子力発電を導入・継続してきた自民党・歴代政権、原子力発電所の再稼動を決定した民主党。そこには植民地支配されている属国の頭目として、宗主国に「シッポを振る」国賊の姿が良く現れている。

中世ヨーロッパの国王には「初夜権」という権利が存在していた。結婚した農民の夫婦の初夜には夫に代わって国王が新婦と性交渉を行う「権利」である。「領主様」は奴隷達に強制労働させる権利だけでなく、奴隷の女性にセックスを強要する権利=強姦する権利を持っていた。


第二次世界大戦に敗戦した日本人は貴金属・レアメタルを奪われた。

敗戦した日本人は米軍基地用の土地を奪われた。

敗戦した日本人は原子力発電所・事故によって命を奪われる。

敗戦した日本人の女性は米国人によって強姦され続けている。

財産・土地・生命・女性の身体=人権の全てを奪ってケッコウです、というのが1945年に締結された「無条件降伏」の意味である。

1945年から70年経過した現在も、今だに日本人は自分達が独立国に住んでいない事、自分達が奴隷である事実に気付いていない。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/297925567.html



2012年10月18日木曜日

「日本は地上の天国」「日本に行けばヤリ放題」


沖縄で、27歳の女性が米兵に輪姦される事件がありましたが、女性は複数の米兵に追い掛け回された上、首を絞められて、40分以上にもわたって輪姦されたということです。

しかも、米兵は日本に来たばかり。まだ2週間ほどしかたっていない。

犯人の米兵(海軍。海兵隊ではない)は狂っていたわけではなく、最初は女性に声をかけています。日本語混じりでなにか話しかけ(ナンパしようとしたのかもしれませんが)、無視されたため、腹を立てて、追いかけて輪姦したようです。

これは、日本に来る前から、「沖縄に行けばその辺の女をやり放題だぞ」という話があり、そういう予備知識を持ってやってきたに違いないと思われます。

そんなイメージを作っているのは、沖縄にかぎらず、日本人の責任でしょう。

たとえば、タイを賛美する日本人には、「タイは天国」などという言い方をする者がいるようです、これは「タイはなんでも思い通りに行くところ」という意味でしょう。つまり、早い話が、「タイに行けば女をやり放題だぞ」くらいの意味です。

それと同じような感覚で、この米兵たちも「日本は天国」「沖縄は天国」と聞かされていて、そういうつもりで赴任してきたのだろうと思います。この米兵は、カタコトながら日本語で話しかけているのです。
http://kuantan-bin-ibrahim.blogspot.jp/




沖縄レイプ事件。基地のあるところには必ずレイプ事件がある 2012-10-17


2012年10月16日、沖縄でまたもやレイプ事件が起きている。事件を起こしたのはクリストファー・ブローニング、スカイラー・ドージャーウォーカーという23歳のふたりの男だ。

このふたりはアメリカ海軍の航空部隊の所属で、14日に沖縄の嘉手納基地に派遣されて、16日はグアムに出発する予定だった。

その前の晩に街に繰り出してしこたま酒を飲んだあと、たまたま通りかかった20代の日本人女性に声を掛けて、そのままレイプに及んだという。

そのあと、この男たちは女性の持っていたバッグ、携帯電話、衣服の一部を持ち去って逃走して基地に戻った。そして10月17日の午後になって警察は2人の身柄を那覇地方検察庁に送り込んだ。

なぜ、このふたりはレイプを思いついたか。もちろん、この日に沖縄を離れる予定になっているからだ。

女性をレイプし、すぐに沖縄を離れてグアムに行く。タイミングとしてはレイプをうやむやにするのに最適な日だったと言える。

軍は常に事件を隠蔽し、除隊すればうやむやに

これはいつもの手口だし、恐らくアメリカ軍兵士の間で、「現地の女を無理やりやるのなら、沖縄を離れる前日がいい」と手口の共有がなされているのだろう。

そうすると誰がやったのか分からなくなるし、分かったところで日本の警察がグアムまで行ってふたりを逮捕する権限も度胸もない。

今までのケースでは、軍は常に事件を隠蔽し、すでに現地を離れている兵士なら不問になることが多い。

また、逃れきれないと軍が判断したときは、除隊させて「彼らは除隊したから軍はもう関係ない」という対処をする。

横須賀で米兵にレイプされたオーストラリア女性のケースも、まさにそうだった。

このときはレイプしたのが明白であるはずの兵士が無罪になり、アメリカに身柄を戻されると、今度はすぐに除隊させて「もう軍はこの事件と関係ない」と対処した。(日本で女性を好き放題レイプしても罪にならない人たちがいる)

沖縄ではこういったアメリカ軍兵士によるレイプ事件や、レイプ未遂や、わいせつ事件が毎月のように引き起こされていて、問題は氷山の一角であることは誰でも知っている。

しかし、兵士たちがいくら問題を起こしても、まったく改善される見込みはない。

沖縄では表沙汰になるレイプだけでも2ヶ月に1回は必ず起きている。一ヶ月に3回もレイプ事件が起きることもあった。

被害女性が未成年であることも珍しいことでも何でもない。3人の兵士が、歩いている「小学生」を車の中に連れ込んで、集団でレイプしたという事件さえあった。

謝罪するアメリカ大使、ジョン・ルース氏。「沖縄県民の怒りは理解できる」と述べる。


世界中どこでもアメリカ軍は女性にとって憧れになる

そのたびにアメリカ軍やアメリカ大使館は「捜査に協力する」「深刻に受け止めている」「大変遺憾だ」と声明を出すのだが、風紀が守られるのはせいぜい一ヶ月だ。

そして、ほとぼりが冷めると、また別のレイプ事件が起きるのである。だから、「2ヶ月ごとに表沙汰になるレイプ事件が起きる」というわけだ。

もっともそれは外から見ていて感じる周期であって、沖縄は一年365日、売春とセックスと乱痴気騒ぎの中にあるのは誰でも知っていることだ。

アメリカ軍のいるところでは、どこでもその周囲が売春地帯と化す。東南アジアのすべての米軍基地の周囲はそうなって来た。

タイでもフィリピンでも韓国でも、軍隊がそこに駐屯すれば売春する女性のみならず、普通の女性もまた歓楽街で外国人男性との出会いを期待する。

軍隊というのは「力」の象徴であり、ましてアメリカ軍は「世界最強」である。そして、彼らの背後にあるアメリカという国家は、まさに世界最強国家としての「ブランド」がある。

だから、世界中どこでもアメリカ軍は女性にとって憧れになる。

力(パワー)があるところには現金がうなっている。男たちは危険かもしれないが、それは若い女性にとっては一種の刺激(スリル)でもある。

だから、どこの国でも基地周辺には若い女性が群がって、街の路地で、車の中で、店のトイレで、刹那的なセックスが行われ、ときにはレイプ事件も起きる。

タイのパッポンも、フィリピンのアンヘレスも、そして沖縄も、みんなそうだ。

兵士はバイオレンスとセックスを撒き散らし、そして無軌道なセックスと金の匂いに釣られてやがて歓楽街が生まれ、売春地帯が生まれ、巨大なアンダーグラウンドのスポットになる。

騒音を撒き散らし、危険なオスプレイを配備し、レイプ事件を起こすアメリカ軍に対する沖縄県民の怒りは根深いものがある。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20121017T2254570900.html


日本で女性を好き放題レイプしても罪にならない人たちがいる 2012-07-13


2002年4月6日、横須賀でオーストラリア出身の白人女性キャサリン・フィッシャーさんがレイプされた。

彼女はアメリカ海軍のキティーホーク乗組員だったブローク・ディーンズという男と知り合ったのだが、自分の車に乗り込んだとき、この男に無理やり押し倒されてレイプされたのだった。

彼女は横須賀基地に助けを求め、彼女の身柄は横須賀署に移された。

そこで、彼女は必死になって病院に行かせてくれと訴えたにも関わらず、警察官は取り合わなかった。

警察署内でからかわれ、彼らは彼女の身体に付着した精液さえも採取しようとしなかったという。

これは東南アジアのどこかの国の話ではない。日本の、横須賀署での話だ。

警察は「彼らを逮捕することができない」

それからどうなったのか。犯人はブローク・ディーンズという男だというところまで横須賀署は突き止めたが、「証拠不十分」で彼は無罪になった。

彼女が警察署内にいる際、精液等が彼女の身体に付着していたのだから、証拠を採取していればそれを証拠にして犯人を特定できていた。警察は、「わざと」それをしなかった。

そして、アメリカ海軍と言えば、ブローク・ディーンズという男を除隊にしてしまったのである。

つまり、「あの男はもう除隊しているので、アメリカ海軍はこの件とはまったく何も関係がない」というわけだ。

日米共に、レイプ犯罪よりもアメリカ兵を守り、事件そのものを隠蔽することにしたということになる。

この事件で浮き彫りになったのは、アメリカ兵が日本で犯罪を犯しても、警察は「彼らを逮捕することができない」ということが如実に示されたということである。

この事件を詳細に報じているのは沖縄新聞のみであるが、なぜ沖縄が関心を示しているのか。

言うまでもなく、沖縄もまた延々と米兵によるレイプ事件の犠牲になり続けてきたからである。(ジェーンさん実名公表 性暴力被害から10年)

私たちはこのような事件をまったく知らない

沖縄では、公になるものだけでも、米兵によるレイプは1年に5件も6件もあると言われている。もちろんこれは氷山の一角で、実際にはもっとたくさんの事件が闇で起きている。

1995年には海兵隊隊員によって女子小学生が暴行されるという事件が大問題になって本土の人間も知ることになったが、その後も事件は連綿と続いている。

沖縄本島中部・北谷(ちゃたん)町で2001年6月29日午前2時過ぎに米空軍嘉手納基地所属の兵士が民間の女性をレイプしたという事件もあった。

2004年には過去にもレイプ事件を起こしていた米兵が再逮捕されるという事件もあった。

2005年7月3日もレイプ事件は起こされた。2008年は沖縄にとってはひどい年で1ヶ月の間に3度もレイプ事件が発生し、そのうちのひとつ2月10日の事件は被害者女性が少女だった。

私たちがこのような事件をまったく知らないのは当然だ。大手新聞社はまったく報道しないからである。

米軍基地はタイにもフィリピンにもある。タイのパタヤでもアメリカ海兵隊による同様の事件が次から次へと起きている。

航空母艦の乗組員である5人の海兵隊によって輪姦され、その様子をビデオで撮られていたタイ女性もいた。

この事件は和解金を払うことで決着した。和解金は10万円だった。

オーストラリアのパースでは、米海軍の乗組員が現地の13歳と16歳の少女にアルコールを飲ませた挙げ句に暴行している。

少女の一人はホテルから放り出された後、道端に倒れているところを発見され、犯罪が表沙汰になった。

隣国の韓国でも在韓米軍兵士が民間女性をレイプに及んだり暴行殺人を犯したりしているのが報じられている。

もっとも残虐な事件として挙げられているのは、1992年の尹クミ事件である。

被害者の女性は、膣にビール瓶とコーラ瓶を差し込まれ、肛門には傘の柄を突き刺されて死んでいた。また、口にはマッチがつめられ、全身に洗剤がかけられていたという。


日本は犯人を処罰することができない

言うまでもなく兵士は殺人の訓練を受けて、それを職業にしている人間である。

よく考えれば、殺人訓練をしている人間がオフのときに、その技を生かして女性に襲いかかったところで何ら不思議はない。

そして、罪を犯しても大抵は軍隊組織が犯罪を揉み消してくれる上に、庇いきれなくなったら除隊で逃してくれたりする。

2002年にレイプされたキャサリン・フィッシャーさんの事件もまた、そうした闇で起きている「日常茶飯事」のひとつだった。

2002年の夜に起きた数十分の出来事など、もう当の加害者であるブローク・ディーンズは、すっかり忘れてしまっているかもしれない。

しかし、キャサリン・フィッシャーさんはまだ忘れていない。未だに心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しみ、人が背後に来るのが怖いという。

暴力で犯されたことに苦しんでいるのである。座るときには壁に背中をくっつけると言う。

日本で起きた犯罪で、犯人も分かっている。それなのに、日本は相手がアメリカ兵であった場合、犯人を処罰することができない。

日本で女性を好き放題レイプしても罪にならない人たちがいる。それは、アメリカ兵のことだ。

「日本は、アメリカの属国」だという人がいる。それは、正しい認識なのかもしれない。

10年経ち、PTSDに苦しみながらも、やっと立ち直ったと笑顔を見せるキャサリン・フィッシャーさん。それでも、人が背後に来るのが怖いという。 http://www.warriorsjapan.webs.com

http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120714T0030590900.html


18. 2013年2月09日 01:25:44 : QBrYpzDGwo
  軍隊というのは暴力装置ですから軍人に通常の常識は通用しないと考えるべきです。同時に兵器産業、軍産複合体、米国で言えば国防総省も、いつ、どこで戦争が起きるか、兵器が売れるか、それだけを考えている特殊な組織です。兵器や武器の手入れを怠らず、使用する機会を待ちに待っているのが彼らです。
 地球上における、生命体を殺傷する目的のこうした暴力装置と要員が本当に必要なのか、考えるべきはそこでしょう。

19. 2013年5月05日 20:57:36 : ttTlfXflm2
基地で働く日本人を蔑んで使用人の様に扱うならば!日本人全員がボイコットするか退職すればいいのです!米軍基地のアメリカ人それ以外の白人全般も基本的には多少成りとも黄色人種を見下して差別しています。
様は日系人が収容所に入れられたり、ナチは憎い敵でも人間同士しかし日本人は人間以下のゴキブリ同様と見ていたのです!ですので2つもの原子爆弾が投下されました。根底は人種差別ですよ!

20. 2014年8月13日 22:34:16 : Ks172jmgDw
情報拡散お願い致します。在日米軍が守る人の順番日本人はその他の5番目
>20 これはっとこ
 >もし、日本が攻撃されたとき、在日米軍は、日本人ではなく、

遊びに来ているオーストラリア人を守るのです。
http://onzoshi.jp/geki/geki1017.html


常識の毒:
日米安保が日本を守る


 沖縄返還交渉が本格化する前の1967年に、岸元総理大臣がアメリカのマクナマラ国防長官と行った会談のやり取りが、外務省が公開した外交文書で明らかになりました。(2012年7月31日)
 それによると、マクナマラ長官は「公式見解ではない」と断ったうえで、「日本がアメリカの基地保有を欲しなくなった日から、一日といえども長くいるべきではない。不必要なリスクを負うくらいなら、沖縄に残る考えは全くない」と述べ、沖縄返還にあたって沖縄からアメリカ軍基地を撤退させる可能性に言及していました。

 わかったようなわからない内容ですが、要はこういうことのようです。ベトナム戦争を行っているアメリカは、どうしても沖縄の基地をなくすわけには行かないと考えていました。一方、岸元総理は、自主防衛力を強化して米軍基地の大幅な縮小を考えていました。そこで、「米軍基地がいらないのなら、すべて引き上げるぞ。いいのか」と日本側を脅したわけです。これが、その内容ということになるわけですが、本気であれ、おどしであれ、見えてくることがあります。

 所詮、アメリカは自国の国益を重視しているのであって、日米安保の日本防衛などという幻想は、影も形も語られていないのです。その日米安保は、アメリカが日本を守るためにあるという、ばかげたうそを示すいくつかの事事実を見ていくことにしましょう。  


■日米安保条約の条文

 昔なら、国会図書官にでも行かないとなかなか見られなかった資料も、今ではだれでも、手軽にネットで見ることができます。日米安保条約文も例外ではありません。それどころか、英語の条約文、日本語の条約文、さらには、なぜそのような日本語訳になるのか、その翻訳の説明まで見ることができます。(「日米安保条約 全文」で検索)
 日米安保に賛成の人、反対の人、たくさんいますが、果たしてどれだけの人が、全文を読んでいるのでしょうか?読んでみれば、たちまちわかることがたくさんあります。
 今回の主題である、「日本防衛を目的としていない」というだけではないのです。まずいやでも目に付くのが、現在の憲法とまったく同じ物言いや論法によって、組み立てられているという点です。ここからも、日米安保の真の目的が、日本復活、とりわけ再軍備をさせないために用意されたものであることがわかります。最近では、居直っているのか、この事実をはっきりと口にする人も出てきているようです。


■日本をアメリカ単独で守ることはありえない

 この事実、最近ではアメリカの元高官も、元日本政府の人間もはっきりと口に出すようになってきています。では、なんと言っているのでしょうか?
 日米安保は、日本にある米施設(軍とは限らない)が攻撃されたときには、米軍は直ちに反撃をします。現代戦では、実際に被害がでるまえでも、敵ミサイルが動き出した時点で、防衛のための軍事行動が認められます。つまり敵ミサイルが、日本の米軍基地に向けて動きだしたら、即米軍は、防衛の先制攻撃(変な言葉ですが、実際こういうことでしょう)を加えます。

 では、日本が攻撃されたら、どうなるのでしょう。まず、第一にアメリカは、何もしません。日本を防衛するのは自衛隊の役目です。自衛隊が防衛行動をとり、その上で、自衛隊だけでは無理というとき、米軍に支援を要請できます。ま、ここまで時系列になるかどうかは、微妙ですが。

 はっきりとしているのは、こういうことです。日本が攻撃されたら、アメリカが黙って、反撃して日本を守ってくれることなどないということです。日米安保が約束しているのは、敵攻撃に対しては、自衛隊と共に防衛に当たるということです。
 この事実を、正確に理解していましたか? ようやく、ネットだけではなく、テレビでも口にする人が出てきたので、ある意味では、もう隠す必要がなくなったのでしょう。アメリカ隷属の外務をはじめとする官僚や政治家、さらにそれで利益を上げている既得権者は、いまだにうそをつき通そうとしているようですが、原発の安全と同じで、すでにうそはばれています。


■在日米軍が守る人は?

 では、いったい日本にいる在日米軍は、誰を守るのでしょうか?これも、専門家や、自民党の元防衛大臣もはっきりと認めています。
 米軍が守るべき順番は、こう定められています。1位が米国人、2位がグリーンカードの米国永住許可を持っている人たち、3位が英国、カナダ、豪州、ニュージーランドのアングロサクソン4か国、5位がその他です。  え、では日本人は?なんと、5位のその他のなかです。
 もし、日本が攻撃されたとき、在日米軍は、日本人ではなく、遊びに来ているオーストラリア人を守るのです。


■トモダチ作戦は?

 アメリカは、東日本大震災や福島原発事故でも、まったくそのとおりの対応をしています。なぜか、日本のマスコミがまったく触れようとしなかっただけです。横田基地からは、米軍機で多くのアングロサクソンを避難させているのです。
 また、テレビで、東北での救出活動(トモダチ作戦)をしてくれた米軍の上陸楊艇の、こんな場面が映し出されました。それは、艦に乗る人間すべてに、放射能測定器をあてて被ばく線量を計っていたのです。当然、被ばく線量が多い避難民だったら、乗船させなかったのでしょう。(いや、隔離で済ませてくれたと考えたいですけどね)もちろん、米軍だからあそこまで救助に協力してくれたのも事実で、心から感謝しています。反米を裏からあおる国など、助けてはくれなかったのですからね。  それでも結局彼らは、すべて対象を選別した行動をしているのだということが、よくわかると思います。


■エシュロン

 エシュロン(Echelon)は、アメリカを中心に構築された軍事目的の通信傍受(シギント)システムです。むろん、アメリカは公式に認めていません。要はスパイ活動ですから。ですが、これを指摘しているのは、他ならぬ欧州連合なのです。なぜでしょう。日本人は、とかく白人ということで「欧米」とひとくくりにしがちですが、じつは、欧州諸国とアメリカは違うのです。
 実際、このエシュロンに参加が許されているのは、英国、カナダ、豪州、ニュージーランドです。そう、またも、アングロサクソンです。英米同盟(UKUSA、ウクサ。United Kingdom & United States of America)とも呼ばれるアングロサクソン諸国にあらざるは、人にあらずなのです。

 この通信傍受施設が、青森県の三沢飛行場近くの姉沼通信所にもあります。そこでは、日本政府、日本企業も監視の対象とされており、無線、短波無線、携帯電話、インターネット回線など、ありとあらゆる日本国内の通信が常に傍受され、エシュロンに蓄積されているそうです。日本に関する情報収集の対象は主に経済分野であり、日米貿易摩擦のときには、ここの情報がアメリカ側に利用されたとも言います。

 日本をスパイする施設を日本に置くことを許し、しかも、日本はその情報にはアクセスが許されない。こんな馬鹿なことが起こるのも、日米安保条約があればこそです。こういう現実をもっと直視すべきでしょう。


■北朝鮮ミサイル発射時の米軍の対応

 2012年4月に北朝鮮によるミサイル発射騒ぎがあったときの話しです。あとから、一部の報道がありました。『「迎撃はアメリカ本国防衛のみ」日本へ通告』と。

 北朝鮮が長距離弾道ミサイルを発射した際の米軍の迎撃態勢と、日米の情報共有の体制についてです。米海軍は7隻のイージス艦を展開させ、大半が海上配備型迎撃ミサイル(SM3)を搭載。うち1隻を北朝鮮に最も近い黄海に配置したのは日本側の要請ですが、米政府は発射前の協議で日本側に「ミサイルを迎撃するのは米国の防衛目的に限る」との対処方針も通告してきていたのです。黄海以外に配置された米イージス艦の任務は、日本海と太平洋の3隻がミサイルが米本土に、鹿児島沖の1隻はグアムに向かう際の迎撃に備えていたわけです。

 つまり、「日本に来るミサイルなんてアメリカは知らんぞ」と言ってきたのです。それは、「日米安保条約どおり、自衛隊の守備範囲だからな」というわけです。そして、日本のお粗末な対応が、世界の恥さらしになったのは、記憶にあるかと思います。こんな状況で、本当にミサイルが飛んできたとき、日本は対応が可能なのでしょうか?まさか、自衛隊までも、「想定外でした」などといわないと信じてはいますが。すくなくとも、自衛隊の活動の足を、政治家や官僚が引っ張ることだけは、ごめんこうむりたいものです。


 いろいろと見てきましたが、結局、政治家、官僚、財界をはじめとする多くのアメリカ従属をよしとする日本人が、「日米安保は日本を守るためにある」といううそを、日本国民に刷り込んでいたのです。むろん、マスコミもそれに乗りました。一方で、反対するのは、左翼思想の偏った思想の持ち主たちばかりでした。まともに正論をいう人たちは、その両者から『右翼』呼ばわりされてきたのです。ま、実際、右翼的な、戦前復古を望むへんな人たちもいるようですが。
 そんな日本のうそをアメリカは、むしろ放置してきました。そのほうが日本をうまく操作できると考えたからです。しかし、世界情勢の変化や、アメリカの国力の衰退の中、状況は変わってきたようです。


 これはアメリカを非難するような問題ではなく、日本の、日本人の問題なのです。どこの国でも、自国の国益を最優先するのは当たり前のことです。日本だけが、それをゆがんだ形で拒んできたのです。日米安保は、日本の再軍備をさせないためにあり、そのくせ、自衛隊が防衛するなら、一緒に戦ってもいいけどと書かれているのです。
 もちろん、日本を守るから代わりに基地を負担しろなどとは、どこにも書かれていません。日本に基地をおくことができる理由として、第6条には、「日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため」と書かれています。つまり、米国の都合で基地を持てるとはっきり書かれているのです。その申し訳程度に、日本の安全にも寄与するならといっているのです。

 もういいかげん、こんな間違った常識の毒は洗い流し、その上で必要であれば、本当に対等な日米安保を締結すべきでしょう。時代は激流の只中にあります。とくに日本は。

 日米安保の真実を知ることは、日本人が、目覚めることでもあります。自分の国は、自分で守る以外、誰も守ってはくれない。ならば、どうしていくのか。自分の脚で立ち、自分の頭で考えて行動することが大切なのです。

2012.07.31
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秋山鷹志

日本人虫ケラ扱いの占領支配 沖縄戦から続く県民蹂躙
               
70年経ち盾にする屈辱     2015年6月15日付


 米軍による沖縄占領は、県民にとって筆舌に尽くし難い艱難辛苦を強いられてきた屈辱の歴史であり、70年の歩みはその占領支配とたたかってきた歴史でもある。

県民の4人に1人が殺された沖縄戦を経て、上陸した米軍はすぐさま日本軍の中飛行場(現・嘉手納基地)周辺を占領し、基地建設を開始した。県民を金網が張られた収容所に囲い込み、銃剣とブルドーザーで一等地をみな手中におさめたのが現在の基地だ。

その基地は沖縄や日本人を守るためのものではなく、朝鮮戦争やベトナム戦争、さらにアフガン・イラク戦争などアメリカが侵略に次ぐ侵略をくり返してきた軍事拠点として利用された。沖縄戦の大殺戮も含めて日本人を虫けら同然にしか扱ってこなかったことは、戦後70年に及ぶ沖縄県民の全経験が示しているし、「何が日本を守る為か!」という世論は抑えることなどできない。安保法制で自衛隊が米軍の鉄砲玉にされ今度は日本を盾にしてミサイルの標的にするところまできて、これほどの屈辱はないことが怒りを持って語られている。今回は沖縄占領と復帰斗争にいたる経験を取材し、まとめた。


 
 住民収容し米軍基地建設

 沖縄に上陸した米軍は島内12カ所に収容所を設置した。有刺鉄線を張り巡らしただけのもので、住民はテントを張ったり、掘立小屋をつくって雨露をしのいだ。収容所内の衛生環境は劣悪で、マラリアなどの伝染病が流行して死者が続出した。食料は米軍から配給されたが、配給の基準は1人1日当たり1400カロリーで食料不足が深刻化。さらに各収容所間の通行は制限され、夜間は外出禁止であったため、肉親の安否をたずねるために収容所を出て射殺されたり、柵の外の畑に食料を求めに出た女性が米兵に乱暴される事件が続けざまに起こった。

 南部の収容所にいた80代の男性は当時の状況について、

「男は軍作業にかり出され、みずから金網を張る作業をやらされた。そのなかでCIC(米軍対敵諜報部隊)の日系2世から軍籍があるかどうかの尋問を受けた。成人男性のなかには殴る蹴るの暴行を受けている人もいた。同じ沖縄県民の血を持つ者が、なぜあのようなことができるのかと非常に悔しい思いをした」

「女性たちは芋掘りにかり出され、大抵一人のCP(シビリアンポリス・沖縄の民間警察官)が護衛でついていた。女性たちが芋掘りをしているときに、黒人米兵が一人の女性を抱えて連れ去ろうとしたことがあった。

そのとき護衛していた日本人巡査が米兵に飛びかかって女性を守ろうとしたが、黒人米兵に拳銃で撃ち殺された。崎原巡査といって、今でも沖縄の殉職警察官の碑の一番最初に記してある。どうして亡くなったのか当時はほとんど話題にならず、新聞にもとりあげられなかった」と語った。


 占領者意識丸出しの米兵が引き起こす事件・事故は後をたたなかった。そのほとんどが報道されず、すべて闇に葬り去られた。軍事支配下に置かれた県民には訴える手段がなにもなかった。

 1945年の後半から47年にかけて、収容されていた県民が元の居住地へ移動を始めるが、すでに元の居住地域は米軍施設として奪われていた。住民は、地域ごとにみずから簡易な小屋をつくり、そこで生活せざるをえなかった。

 沖縄市に住む70代の男性は当時の状況について、

「私たちが昔から住んでいた胡屋地域は米軍に占領されて家はほとんどつぶされ、マリン(海兵隊)部隊と病院になっていた。胡屋の人たちは住むところがないので、現在の子どもの国(動物園)あたりに自分たちで掘立小屋をつくって住んだ。現在の一番街、パークアベニューあたりも米軍に占領されていた。マリン部隊が解放されたのは62年のことだった。今の嘉手納基地の中にも小学校やたくさんの集落があったが、戦後になって家や小学校をすべてつぶし、米軍が基地として建設していった。まるで強盗のように奪ったもので1カ所たりともその地の住民が同意してつくったものはない」と強調した。

 さらに米軍優先の政治が常におこなわれていたこと、1947年の段階で米軍には水道が敷設されていたが、基地外にはまったく設置されていなかったことを語った。

「米軍の水道は、基地の外から露出配管で引いてきていた。一般の住民には水道はなく、共同井戸からくんだり、地域で共有栓をつくったり、馬車で水を売りにきていた者から買ったりしていた。その後、水道事業をやろうという話になったが、初めは米軍基地から配管を引き、米軍から有償譲渡される形だった。そのため毎月メーターの分だけ米軍に水道料金を支払っていた。県民のための水道ではなく、米軍のための水道だった」

と当時の様子を語った。


 人と見なさぬ占領意識 無報酬で強制労働

 米軍施設とその周辺への立ち入りは禁止され、米軍は広大な軍用地を囲い込み、基地建設に県民をかり出した。当時、教師になるか、軍作業に行くしか選択肢がないほど仕事はなかった。軍作業に行けば教師よりも報酬が高かったため、多くの県民が何らかのかたちで軍作業や米兵相手のタクシー運転手などをして生活の糧にしていた。食べるものもなく、すべてが焼き払われた沖縄において、生きるための生活手段として基地で働かざるを得ない状況だった。

 軍作業にかかわっていた男性は、

「給料は安く、ほとんどただ働きといえる状態だった。“労働3法”が制定されていないため、沖縄人労働者は使い捨てで、少しでも規約に反したり、反抗的な態度に出ると問答無用でクビになった。給料体系も不利なもので、日本人はウチナーンチュ(沖縄県民)の2倍、フィリピン人は3倍、アメリカ人は10倍だ。同じ仕事をしていてこうも違うのかと思った。この不満が米軍から物資をかすめ取る“戦果挙げ”という行為にあらわれた」

と語った。沖縄戦による虐殺、破壊を経験した県民の生きるための抵抗だった。

 さらに米軍の扱いがひどかった例として、

「1949年の7月、巨大な“グロリア台風”が沖縄を直撃した。従業員は呼び出されて夜通し商品の移動作業をすることになった。とにかくさまざまな品物を急いで移動しなければならず、食事も立ったままとり、一刻を争うように働いた。品物をようやく運び終えたのは嵐が抜けてあたりが白々と明けるころだった。くたくたになるほど働いたのに、この仕事に対する報酬は一切なかった。

沖縄人の班長が呆れ果てて“俺たちはタダで使われた!”“なにか持っていこう”といった。泥棒ではなく働きに対する現物支給だ。何ら臆することはなく、ウィスキーを頂戴した。そのころの沖縄ではこうした“戦果”が人人のどん底の暮らしを支え、あるときは憂さ晴らしの行為になっていた」と語った。

 1949年から50年代にかけて、沖縄では本格的な基地建設が進んだ。米軍は現場労働者を雇い、アメリカ人や日本人のマネージャーが四六時中目を光らせていた。朝鮮戦争前からアメリカの基地建設を請け負う軍の建設会社であるVCや、MKという米軍関係の建設会社があり、その下請として清水建設など本土のゼネコンが入ってきていた。

 米軍は沖縄県民を日本人扱いせず、「日本人よりも下である」という扱いをしたうえで、徹底的に侮辱した。それは戦後の土地斗争のさい農民たちが米軍の中佐に面会を求め、

「アメリカは民主主義の国だというが、戦争に勝てば負けた国の土地を強制的にとりあげてよいのか」

と抗議したとき、中佐は

「この沖縄はアメリカ合衆国軍隊の血によってぶんどった島だ。君らにそんなことをいう権利はない。君らは三等国民だ」

と言い放ち、

「では弱いものの肉を食ってもよいというのか」

と抗議した農民に対して、平然とした態度で「そうだ、食うのだ」と嘲るように答えた。基地内でも沖縄人、日本人、フィリピン人、アメリカ人と人種を区分けして食堂をわけるなど、徹底した差別政策をおこなっていたことが語られる。


 数限りない米軍の犯罪 盛上がる県民の抵抗

 1949年当時、米占領軍の実態を暴露できる新聞などないなかで、記録としてはアメリカ人記者みずからが書いた文章が残っている。

「ここ沖縄は米陸軍から戦線の最後の宿営地といわれ…その軍紀は世界中の他の米駐留軍のどれよりも悪く、1万5000の沖縄駐屯米軍部隊が絶望的貧困の中に暮らしている60万の住民を統治してきた。…

沖縄は米陸軍の才能のない者や除け者の態のよいはきだめになっていた。

さる9月に終わる過去6カ月間に米軍兵士は、殺人29、強姦18、強盗16、傷害33という数の犯罪を犯した」。


 戦後米軍によって引き起こされた数数の犯罪は、とくに婦女子が狙われた。

残酷な事件は数えればきりがないほどあり、胸が張り裂けるような思いをしながら多くの県民が生きてきた。

司法もなく、すべて米軍のいいなりであり、米軍がやりたい放題に県民をひき殺しても、婦女子を強姦して殺しても、基地内に逃げこめば無罪放免で本国に逃げ帰るという無法地帯だった。


 「由美子ちゃん事件」は、1955年9月3日、わずか6歳の女の子が拉致され、米軍施設内で何度も強姦され、最後には殺されてゴミ捨て場に捨てられていたという悲惨きわまりない事件だった。

犯人の米兵は事件から一週間後に逮捕されたが、取り調べの状況が知らされることはなく、裁判もアメリカの軍事法廷でおこなわれた。さらにその一週間後には九歳の女の子が自宅から連れ去れて強姦される事件が起こった。

土足で民家に上がり込み、「女を出せ」とわめく米兵から逃げまどっているうちに、寝ていた女児が連れ去られた事件だった。

 やり場のない怒りを当時の高校生は「由美子ちゃんの血」と題して一篇の詩を書いている。

 由美子ちゃんは一昨日の夕暮れ 市のエイサー大会に行ったまま帰らなかった
 由美子ちゃんは一昨日の夕暮れ 青い目の狼にさらわれてこんな羞恥を!!
 こんな無残な死を!

 島の母親たちは我が子を抱きしめていたのだった。
 島の幼女たちは恐怖におびえていたのだった。
 島の人たちのしおからい涙が怒りに燃えて 一カ月も鋭く光っていたのだった……
 10歳にならぬ幼女があいついで処女を犯された去年の秋初め
 伊江島、伊佐浜が強制土地接収に泣いた3月
 80万県民が立ち上がった 
 住民大会の7、8月
 酔っ払い運転手は白人だった
 70マイルの速度に6名の少女が血しぶきをあげて消えた
 9月24の夜のアスファルト……
 我我は忘れてはいけない。
 島の土に宿る我等の同胞の魂を!!
 そして 島にこぼれた血は一滴も拭ってはいけない!!

 沖縄県民を人間と思わない米兵の蛮行がくり返されるたびに県民は拳を握りしめ、屈辱に耐えた。

 当時、男子高校生が女子生徒を数人で守って登校したり、青年団が「夜警」をおこない、街中をうろつき不埒な行動に及ぶ米兵を見つけてはとり押さえる役目を担っていた。

 警察といえば米軍の下請で、治安維持など放棄したに等しい状況のなかで、沖縄の男たちはみずからの拳によって女子どもを守るために行動した。事件が起これば、町中に設置されたボンベをたたいて周囲に知らせていた。多くの青年がこうした青年団活動に携わっていた。米軍からの軍作業で収入を得る者が多かったが、「精神までみじめに売り渡したわけではない」とみなが立ち上がり、誇りをかけてたたかっていた。

 沖縄市に住む60代の女性は、高校生だった当時の様子を語った。

「私たちが高校生のときは事件・事故がとくにひどかった。女子高生が米兵に拉致されたり日常的になにかが起きていた。女子高生が米兵に暴行を受けたときは、この周辺の高校生が具志川の前原高校に集まって抗議の総決起大会をやったこともあった。みんな怒りに燃えていた。そして、祖国復帰を本当に待ち望んでいた。先生たちも日の丸のハチマキを締めて授業中でも集会に行ったり、授業で米軍基地撤去を訴える先生もたくさんいた」と語った。

 さらに「私の同級生も米兵に暴行されそうになって、男子高校生が助けに入って助かった。そんな事件ばかりだった。ベトナム戦争の時期とも重なっていて、“もう明日死ぬかもしれない”という精神状態の米兵はなにをするかわからなかった。

基地の中ではおとなしい兵隊が、基地から一歩外に出ると、“日本人にはなにをしてもいい”と教えられており、植民地状態だった。米兵がなにをしても許される。

バーのホステスがブロックで顔をめちゃくちゃにされて殺された事件、アメリカの家にメイドで行っていた女性が暴行され、それを見た米兵の奥さんに射殺されたり、ありとあらゆる事件があり、表に出ていないものもたくさんある」と語った。

 母親から事件のことをいつも聞かされて育った。

「“絶対に米軍を追い出さないと事件はなくならないよ”といっていた。“米兵の中にいい人がいたとしても、米軍自体は日本を守るなんてことはないよ”と。コザ騒動のときは中学生だったが、私たちの4つか5つ上の先輩たちが、“もう我慢できない”と米兵の車をひっくり返して火をつけた。

米兵が人を轢き殺しても無罪だったし、その思いがみんなの中で燃えた。“米兵を許すな”と積もり積もった怒りが爆発した」と語った。


 コザ騒動を見ていた80代の男性は、12月末ごろだったこと、映画館から出てきたところで現場に遭遇したことを語った。米兵が車で2人の日本人を轢き、1人は重傷だった。クリスマス気分の米兵が現場から逃げようとしたため、みなが怒って抗議したことを語った。

 「糸満でひき殺されていた事件があったから、みなが怒っていた。慌ててMPと警察官が来たが、MPが銃口を抗議する人たちに向け、そして上に向かって発砲したからみながいっきにMPをとり囲んだ。警察官がMPを守る形で連中は一目散に逃げていった。その後は車をひっくり返して焼いた。当時はわれわれ県民は車など持てる時代ではなく、すべて米軍関係者の車だった。私は参加はしなかったが沿道からみなと一緒に拍手を送っていた。全員が同じ気持ちだった」と語った。

 別の男性は、コザ騒動について、

「だれも指揮する人はいなかったが、黒人の車は焼かず、白人の車だけを焼いた。理屈ではなくみなが同じ思いを持っていた。近くにアメリカ資本のガソリンスタンドがあったが、そこの従業員は火炎瓶にガソリンを入れてやることで応援していた。米軍相手の商売をしている人たちも一緒になってやった」

と語った。県民のうっ積した積年の怒りが行動となったことは、コザに住む人人はもちろん、多くの県民のなかで語り継がれている。

 米軍の占領支配に抗議し、たたかう県民の怒りは、青年団、教職員会を中心に、妨害をはねのけながら祖国復帰斗争へと燃え広がり、本土の原水爆禁止運動と呼応しながら強力になっていった。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/nihonjinmusikeraatukainosenryousihai.html



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在日米軍基地、日本を守るためではなく「対中戦略」で必要だから=米軍は東・南シナ海で自衛隊と共同行動せず―早大特任教授が米機密文書を解読
2016年4月21日(木) 8時10分


春名幹男早稲田大客委員教授が講演。米対中戦略は「関与」と「封じ込め」の両様であると指摘。米国が在日米軍基地を維持するのは、米国が日本を守るためではなく、対中戦略上重要だと考えているからだ、との認識を示した。


日米外交史に詳しい春名幹男早稲田大客委員教授が「大統領選と日米同盟」をテーマに日本記者クラブで講演。米対中戦略は「関与」と「封じ込め」の両様であると指摘。米国が在日米軍基地を維持するのは、米国が日本を守るためではなく、対中戦略上重要だと考えているからだ、との認識を示した。その上で、東シナ海でも南シナ海でも米軍が日本と一緒に行動することはない、と明言した。

また、昨年改定された「日米防衛協力のための指針(ガイドライン)」の日本語訳には、多くの作為的な誤訳あると指摘。米軍が日本を守るという点で後退しているのに、日本語訳がこの重大事実を隠しているのは「防衛政策を推進する上で大きな問題がある」と政府を厳しく批判した。

春名氏は元共同通信ワシントン支局長で、近著に『仮面の日米同盟―米外交機密文書が開かす真実』がある。発言要旨は次の通り。

米国の対中戦略によって、米国の日本への対応が変わってくる。中国は外交が上手なこともあり、米対中戦略は「関与」と「封じ込め」の両様であり、対旧ソ連と違って封じ込め一辺倒ではない。

米国が在日米軍基地を維持するのは、米国が日本を守ってくれることではなく、あくまでも米国の国益によるもの。自らの戦略によって在日米軍基地が重要だと考えているから、撤退する考えはない。撤退すれば中国ににらみが利かなくなると考えている。日本は米国の意図を読んだ上で対応しないと、永遠にバカみたいな扱いを受ける。

自衛隊と米軍の役割分担を定めた日米ガイドラインは改訂を重ねて、今は3版目だが、明らかに日本を守るという点で後退している。

最初の1978年ガイドラインには「日本は小規模な侵略を独力で排除する。独力で排除することが困難な場合には、米国の協力を待って、これを排除する」とあり、「陸上自衛隊および米陸上部隊は陸上作戦を共同して実施する」と明確に記されている。ところが、97年の第2版では「日本は日本に対する武力攻撃に即応して主体的に行動し、極力早期にこれを排除する。その際、米国は日本に対して適切に協力する」という文言に変わっている。

最新の2015年版は「米国は日本と緊密に調整し、適切な支援を行う。米軍は自衛隊を支援しおよび補完する」と書かれている。すなわち97年以降、米軍の任務は支援し、補完するだけで、主体的に防衛するのは自衛隊となったのに、正確に日本国民に伝えられていない。

◆目に余る作為的な誤訳
 
外交文書によると、「適切かどうか」は米軍が決め、血を流すとは限らない。しかも、英語の原文に当たって驚いた。ガイドラインは英語で交渉し、英語で文章を作る。それを官僚が翻訳するが、その際、作為的に米軍が日本の防衛に積極的に関与するかのような翻訳をしている。
 
例えば「主体的」ですが、英文にはprimary responsibilityある。「主な責任」という意味で、主体的とはニュアンスが違う。「支援し補完する」も英文はsupplementで補足する、追加するという意味である。補完するであれば、complementが相応しく、78年版ではcomplement が使われていた。さらに15年版には「米軍は自衛隊を支援し、補完するため、打撃力の使用を伴う作戦を実施することができる」という日本語があった。「できる」というからにはcanだと思ったら原文はmayで、「してもよい」「するかもしれない」という意味。共同作戦も通常はjoint operationが、原文はbilateral operation。「2 国の作戦」という意味で、これを共同と訳すには無理がある。

米軍の自衛隊支援の度合いは明らかに後退しているのに、日本語訳はこれを隠しているのは、防衛政策を推進する上で問題である。 

私は長年の取材、研究を通じて、日米安保条約の真相を伝える機密文書を発見した。1971年、アレクシス・ジョンソン国務次官が一時的に長官代行としてニクソン大統領に提出したメモ。そこには「在日米軍は日本本土を防衛するために日本に駐留しているわけではなく、韓国、台湾、および東南アジアの戦略的防衛のために駐留している。在日および在沖縄米軍基地はほとんどすべてが米軍の兵站(へいたん)の目的のためにあり、戦略的な広い意味においてのみ、日本防衛に努める」とある。

米国は、尖閣について施政権は日本にあるとしながらも領有権についてはいずれの立場も取らないと明言している。パネッタ国防長官(2012年の「国有化」を巡る日中緊迫化当時)は「漁業とか岩(尖閣)を巡って米国が紛争に巻き込まれることを許すわけにはいかない」と言っており、オバマ大統領も15年4月の来日時の記者会見で「尖閣諸島の最終的な主権の決定について米国は一定の立場を取っていない」と明言した。「安保条約5条の適用対象」との米高官の発言を基にメディアもあたかも米軍が尖閣を守るかのような報道をするが実態は違う。
 
南シナ海で中国の海洋進出に対抗する米国「航行の自由作戦」は形だけで腰が引けている。同作戦への支持を安倍首相が15年11月の日米首脳会談で表明したが、オバマ大統領の反応はなかった。その後、菅官房長官は米国からの協力要請はないと表明。東シナ海でも南シナ海でも米軍が日本と一緒に行動することはない。(八牧浩行)
http://www.recordchina.co.jp/a133967.html



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016年12月16日
オスプレイ、沖縄の浅瀬で不時着
先日高知沖で米海軍のFA18が墜落したばかりだが、今度は沖縄海兵隊のMV-22 オスプレイが連続して事故を起こしている。

FA18戦闘機は12月7日に高知県沖の太平洋で訓練中に墜落し、パイロットは脱出し翌日発見されたが、安否は非公開とされています。

13日午後9時半、沖縄県名護市沖1キロの浅瀬で、普天間基地所属のオスプレイが海上に不時着しました。


13日夜にケネディ駐日大使と岸田外相が電話で協議し、米側はオスプレイを一時飛行停止にすると伝えました。

沖縄県の翁長知事はオスプレイの配備撤退を求めて政府に抗議し、沖縄副知事は「アメリカは植民地扱いしている」などと発言した。

副知事の挑発にローレンス・ニコルソン海兵隊司令官は「住民に被害を与えていない。感謝されるべきだ」と反論したとされている。


沖縄の人間と話しても仕方がない

11月には辺野古警備の機動隊員が反政府勢力の住民から「お前の家を知ってるぞ!」「火つけたろか」「家族を襲うぞ」「夜道に気をつけろ」と脅迫され「触るな土人」と発言し騒動になっていた。

マスコミと日本政府は機動隊員の発言だけを問題視して処分し「お前の家に放火するぞ!」と毎日脅迫した過激派の発言を隠していました。

沖縄副知事と海兵隊のやり取りもこれと同様の類と思われ、またマスコミは海兵隊の発言だけを報道しています。


海兵隊は沖縄を中国から防衛する為に存在するのであり、もしオスプレイを撤退するなら、「では代わりの防衛力をどうするのか」を議論しなくてはならない。

沖縄県知事は以前「中国軍に沖縄を占領してもらい日本を追い出して欲しい」という趣旨の発言をした事があるが、これが本音だと思われる。

日本政府とアメリカは毎年沖縄県に数千億円の軍事費と補助金、公共事業費を投入し、沖縄人自身は1円たりとも防衛費を負担したことが無く、自身で島を守ったことも400年間一度も無い。


江戸時代は徳川幕府と薩摩藩に無料で守ってもらい、明治以降は「日本人」に無料で守ってもらい、それを当たり前だと考えている。

それでいて独立を主張しているが、独立するなら自分の島ぐらい自分で守ったらどうなのだろうか。

自分は地面に寝転んで邪魔ばかりして、「日本人」から補助金を貰い、アメリカからは無料で保護してもらい、抗議することで補助金や補償金を獲得している。


本当に普天間や辺野古や米軍基地や自衛隊に出て行って欲しいなら、どうして翁長知事は物乞いのように「補助金よこせ」と言っているのだろうか。

独立したいなら補助金や補償金、公共事業の類は全て拒否して、自分の島は自分で守るべきだがそういう沖縄人は一人たりとも居ない。

これでは「金目当て」で騒いでいると日米から思われるのも当然で、沖縄の人間と話しても仕方がないと皆考えている
http://thutmose.blog.jp/archives/68014090.html



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オスプレイも北方領土も本質は米国問題
http://m-hyodo.com/okinawa-15/
2016年12月17日 兵頭に訊こう

12月13日の夜9時半頃、沖縄県名護市の波打ち際にオスプレイが墜落した。

新しい購読者のために何度も書くが、日本は、

(1) 廃棄の欧米医薬品
(2) 米国製欠陥兵器
(3) 有害食品
(4) 社会的弱者
(5) 核のゴミ

の、在庫一掃、最終処分場になっている。あるいはなりつつある。


このオスプレイという米国製の飛行機は、米国では「未亡人製造機」「空飛ぶ棺桶」「空飛ぶ恥」と呼ばれる欠陥機である。

この事件は、その「(2)米国製欠陥兵器」最終処分場の現実が、露出したものである。

沖縄県の安慶田(あげだ)光男副知事が、墜落の翌14日に、在沖米海兵隊トップのニコルソン四軍調整官に抗議した。

するとニコルソンは「パイロットは住宅、住民に被害を与えなかった。感謝されるべきだ」「(事故を)政治問題にするのか」「抗議書にパイロットへの気遣いがあってもいいのではないか」と逆ギレした。

わたしはこの情報のツイートを最初に見たとき、何かのいたずらではないかと思った。オスプレイが墜落して、それが住宅地でないからといって、「感謝されるべきだ」とはいくら米軍でもいわないだろうと思ったのだ。しかし、これはほんとうだった。

安慶田(あげだ)光男副知事によると、「謝罪は全くなかった。本当に植民地意識丸出しだなと感じた」「植民地意識が丸出しで、とんでもない感覚だ。われわれはオスプレイも、オスプレイの訓練もいらない」と語った。

抗議は12月14日午後1時半から約30分間、非公開で行われた。今後、米軍関係の事故・事件で抗議するときは、フリーランスのジャーナリスト、ブロガー、独立系メディア、市民メディアにも参加させ、公開の場で行うべきだ。

日本が実質的な植民地状態にあることを、正直に世界に訴えるべきである。その現実を知っているのは、世界の指導層・諜報機関・メディアの一部だけで、市民の多くは知らない。もっとも知ってもらいたいのは米国民だ。米国民の多くは、この現実を知らない。知ったら、きっと米軍人の驕りに対して怒るだろう。

真実を知ることは日本国民も大切だ。日本人は日本が実質的な植民地状態におかれていることを知らない。米国のメディアである、東京の大手(「記者クラブ」)陰謀メディアのいう「日本スゲー」をそのまま鵜呑みにしている。

『琉球新報』(2016年12月15日)は、「「制御できずに墜落」 新たな構造欠陥指摘 オスプレイの元主任分析官のリボロ氏」と題して、次のように配信した。


「国防研究所(IDA)でオスプレイの主任分析官を務めたレックス・リボロ氏は米軍普天間飛行場所属の垂直離着陸輸送機MV22オスプレイが墜落した事故について「航空機が制御できていた場合、機体の損傷を引き起こさずに水面に着陸できただろう。機体が激しい損傷を受けた事実はその航空機が制御不能であり、航空機を破壊するに十分な力で水面にぶつかったことを示唆している」と述べ、オスプレイが制御不能で墜落したことを強調した。

(中略)

墜落事故が空中給油をきっかけに起きたことに対しては「回転翼モードで補給することができない事実は、予期されなかった航空機の欠陥である」と述べ、オスプレイの新たな構造的欠陥であると指摘。同じような墜落事故が再び発生すると強調した。14日、本紙の取材に答えた。

(中略)

リボロ氏は在沖米軍トップのニコルソン在沖米四軍調整官が声明で、「県民や乗務員を守るために、意識的に浅瀬に着陸しようとした」と主張したことに対して「この声明は無意味でばかげている」と批判。「キャンプ・シュワブにはビーチがあり、ビーチ全体が緊急時に着陸可能であった。パイロットはどこにいても、墜落するしかなかった。私は問題の機密性を理解しているが、沖縄の人々と誠実に向き合うべきだ」と強調した」(「「制御できずに墜落」 新たな構造欠陥指摘 オスプレイの元主任分析官のリボロ氏」)


前号のメルマガで、オスプレイには、3つの複雑な操縦モードがある、と書いた。それは、ヘリコプターとして運行するための「離着陸モード」、航空機として飛行するための「固定翼モード」、それに「離着陸モード」と「固定翼モード」との切り替え途中の「転換モード」である。

米国でのオスプレイ事故は、「3」の「転換モード」に集中している、オスプレイは、強風に煽られると、機体のバランスを保つのが難しい、実戦には不向きな欠陥機、と書いた。

レックス・リボロのような良心的な米国人は、けっして少なくない。かれの説明では「航空機が制御できていた場合、機体の損傷を引き起こさずに水面に着陸できただろう。機体が激しい損傷を受けた事実はその航空機が制御不能であり、航空機を破壊するに十分な力で水面にぶつかったことを示唆している」という。

リボロは、ニコルソンの「県民や乗務員を守るために、意識的に浅瀬に着陸しようとした」との主張を、「無意味でばかげている」と批判した。「パイロットはどこにいても、墜落するしかなかった。私は問題の機密性を理解しているが、沖縄の人々と誠実に向き合うべきだ」と語っている。

要は、墜落の場所を選ぶという余裕などはなく、オスプレイは制御不能に陥り、波打ち際に激突したのだ。

これが良心的な米国人の反応だ。だから広くニコルソンの「感謝しろ」の恫喝発言を訴えるべきなのだ。

今回の墜落事故は、「離着陸モード」(レックス・リボロのいう「回転翼モード」)で給油することができなかったということであり、「予期されなかった航空機の欠陥である」という。つまり、「オスプレイの新たな構造的欠陥であると指摘。同じような墜落事故が再び発生すると強調した」。オスプレイは欠陥機であり、きっと事故を起こす、というわたしたちの警告は正しかったのである。

世界中が、日本は怒り、国会で抗議の決議が出るかと注目していた。しかし、オスプレイが墜落した13日夜、ギャンブル依存症の安倍政権は、「カジノ法案」の強行採決に夢中だった。オスプレイのことなど、何処吹く風といった案配だった。



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書評『米軍基地がやってきたこと』(デイヴィッド・ヴァイン著)
https://www.amazon.co.jp/%E7%B1%B3%E8%BB%8D%E5%9F%BA%E5%9C%B0%E3%81%8C%E3%82%84%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%8D%E3%81%9F%E3%81%93%E3%81%A8-%E3%83%87%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%B3/dp/4562053046

書評・テレビ評2017年9月21日


 デイヴィッド・ヴァイン著『米軍基地がやってきたこと』は、世界70カ国以上に約800の軍事基地を持つアメリカと、基地が置かれた国の政府や現地住民との関係を、歴史的に検証、考察している。ヴァインは人類学を専門とするアメリカン大学の准教授だが、沖縄やグアム(アメリカの属領)にふれて、アメリカ政府や米軍の横暴な振る舞いを浮き彫りにしている。北朝鮮をめぐる情勢とかかわって、グアム島民の米軍基地やアメリカの植民地支配からの脱却を求めるたたかいが伝えられる今、参考になる1冊である。

ケビン・メア「ゆすりたかりの名人」発言の背景

 ヴァインは2010年末アメリカン大学の授業に招いた国務省日本部長のケビン・メアが沖縄県民を見下し、「ゆすりの名人」などと口汚く罵倒したとき、直接現場に居合わせた指導教員である。本書で、当時の事情をあらためて説明している。

 メアを招いた授業は、米軍基地について学ぶ学生たちが、沖縄に研修で訪れる準備のために、ヴァインが企画したものであった。メアは30年にわたる外交官勤めのうち、18年間は沖縄など日本各地を歴任していた。ヴァインによれば、メアは学生たちに地図を見せて、米軍基地が沖縄に集中している理由を次のように語った。

 沖縄は東京との距離よりも北朝鮮や中国に近く、地域の安全を保障するには軍の駐留が欠かせないため、ある意味「地理上の犠牲者」だ。「しかもわれわれは、アメリカ人にとって地の利のいい居場所に“居心地のいいすばらしい施設”を確保している」と。

 メアはさらに、「沖縄の歴史」について、「県内の米軍基地の多くは第2次世界大戦後にアメリカが日本を占領したことに起因する」として、こう続けた。「あそこはいわば日本のプエルトリコだ」。プエルトリコ人のように沖縄県民はほかの日本人より「肌が黒く」「背が低く」「なまりがある」と。ヴァインは学生たちとともに、外交の経験と思慮を持つ人物から飛び出す人種的侮べつに満ちた言葉に驚いたという。

 メアは、「沖縄県民は東京(政府)から金をゆすり取る名人だ」と続けた。基地の大半は、日本政府がアメリカに賃貸する私有地にある。その賃貸契約の更新時期になると沖縄の政治家や何やらが大勢基地の撤去を要求する。しかし、彼らは本気で基地がなくなることを望んでいるわけではない。「それが賃料をつり上げるやり口だから」。

 メアはまた、日本の文化では「賄賂が日常茶飯事」で「沖縄人は名人」、つまり政府からカネをせしめたり、第2次世界大戦中に沖縄の人人が味わった苦しみに対する「罪悪感」を利用したりするのがうまいと語った。そして、沖縄が日本で最も貧しい「理由のひとつには、沖縄が1972年までアメリカに占領」され、日本経済に組みこまれなかったことがあるが、「例の島国根性のせいもある」とつけ加えた。

 「島国根性」のおかげで、県民は昔からサトウキビやゴーヤを植え、あとは収穫頃までただ待つのみ。そして近頃では「怠惰がすぎてそのゴーヤさえ育てられない」。メアは、沖縄県民の離婚率や飲酒運転、家庭内暴力、出生率の高さは、彼らが泡盛好きのせいだといって、講義を締めくくった。

 メアの講義を受けた学生たちはショックを受けて、日本を訪れたときにジャーナリストに、この話を伝えることを確認しあった。ヴァインは学生たちのこの行動を保証すると約束した。学生たちが日本で、メアの大学での公的発言を伝えたことは、沖縄はもとより全国、世界各地で怒りを広げ、アメリカ政府はメアを更迭せざるをえなかった。

沖縄返還と引換えに6億j  返還でなく買取

 ヴァインは本書で、メアの沖縄県民に対する雑言はそのままそっくり、アメリカにはね返ってくることを、次のように明らかにしている。「アメリカ側こそ、米軍の東アジア駐留にさらに手厚い支援金を出すようにと長年、日本政府に迫ってきたのだから」。少なくとも1972年以降、日本は米軍基地と駐留に他のどの受け入れ国よりも多い、何百億jもの金を出してきた。

 普天間飛行場の閉鎖と沖縄からの海兵隊員の移転についてはほとんど何も動いていない。少女暴行事件後の1996年合意のもとで動いたといえるのは、「数数の基地が新設されたこと」だ。具体的には、嘉手納空軍基地の1473世帯とキャンプ・フォスターの1777世帯の移転計画の一環として、日本は米軍住宅の新設に20億jを拠出することにすでに同意していた。

 これは、嘉手納560世帯の集合住宅を大改修し、米軍住宅の駐車場を1世帯当り2・5台分にするという「非常に贅沢な広さに拡張する」こととセットであった。「つまり強姦事件への対応として始まったものが、結果的に大規模な住宅建設計画、つまりアメリカに無償で新築の住宅を提供する話になってしまった」のである。こうしたごまかしで、日本から巨費をかすめ取るやり口は、厚木から核搭載能力を持つ空母艦載機を移転させる岩国などの歴史的経験とも重なって、全国共通の怒りを駆り立ててきた。

 ヴァインは、「日本が米軍基地のために“思いやり予算”やその他支援に巨費をあてていることを考えれば、ケビン・メアが沖縄県民を“ゆすり屋”呼ばわりしたことは、なおさら皮肉というものだ」と、次のように指摘している。

 1972年の沖縄返還協定は一般に「本土復帰」と呼ばれたが、日本側は交渉のなかで、沖縄返還との引き換えに、アメリカへの繊維製品の輸出規定に従うこと、6億8500万j支払うことに密かに同意していた。この金額には、日本に返還される建物やアメリカが整備したインフラの費用と、沖縄から核兵器を撤去する費用が含まれていた。「核兵器の撤去」については、密約によって「緊急時には再び核兵器が持ち込める」ととり決めたおまけもつけて。

 さらに、日本政府は当時のドル安傾向へのテコ入れにも犬馬の労をとり、ニューヨーク連邦準備銀行に1億1200万jを25年間、しかも無利子で預け入れることにも同意していた。またそれとは別に、「基地の維持費と沖縄の防衛費として2億5000万ドルを5年にわたって支払った」。

 日米関係の専門家、ガヴァン・マコーマックが「1972年の“返還”は実際には買い取りであって、日本はその後ずっと莫大な金を払いつづけている。実質的にそれは逆レンタル料であり、家主たる日本が賃借人であるアメリカに金を支払っている」と語った言葉も紹介している。

米軍一人当り一六〇〇万円 再編費用も日本に

 ヴァインは、「現在、日本の思いやり予算は、米軍の駐留に対して軍人ひとりにつき年間15万ドル(約1600万円)ほどを助成している。2011年だけを見ても、日本の納税者は71億ドルすなわち駐留経費全体の4分の3近くを賄っている」ことに注意を向けている。

 そのうえで、「日本政府は普天間基地の閉鎖と海兵隊の県外移転を援助するために60億9000万ドルの支払いを約束したばかりか、沖縄、グアム、北マリアナ諸島、岩国などの大規模な基地再編にむけて、159億ドルを負担することも約束した」ことを明らかにしている。

 米海兵隊のグアム移転は、自衛隊に海兵隊の肩代わりをさせアジア人同士をたたかわせる米戦略の一環である。それは最近、米軍が南シナ海や東シナ海で中国と軍事衝突した場合、米領グアムまで撤退し、「沖縄から台湾、フィリピンを結ぶ軍事戦略上の海上ライン“第一列島線”の防衛を“同盟国の日本”に委ねる」ことを検討していることが報じられたことからも明らかだ。

 在沖米軍の新兵研修でも暴露されたように、メアの思想はなんら特殊なものではない。問題は、在日米軍基地をめぐるこうした屈辱的な関係を直視し、日本の独立と平和を求める国民的な運動をさらに力強く形成していくことにある。 (一)
https://www.chosyu-journal.jp/review/4795



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『米軍基地がやってきたこと』(デイヴィッド・ヴァイン著)
https://www.amazon.co.jp/%E7%B1%B3%E8%BB%8D%E5%9F%BA%E5%9C%B0%E3%81%8C%E3%82%84%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%8D%E3%81%9F%E3%81%93%E3%81%A8-%E3%83%87%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%B3/dp/4562053046

書評・テレビ評2017年9月21日


 デイヴィッド・ヴァイン著『米軍基地がやってきたこと』は、世界70カ国以上に約800の軍事基地を持つアメリカと、基地が置かれた国の政府や現地住民との関係を、歴史的に検証、考察している。ヴァインは人類学を専門とするアメリカン大学の准教授だが、沖縄やグアム(アメリカの属領)にふれて、アメリカ政府や米軍の横暴な振る舞いを浮き彫りにしている。北朝鮮をめぐる情勢とかかわって、グアム島民の米軍基地やアメリカの植民地支配からの脱却を求めるたたかいが伝えられる今、参考になる1冊である。

ケビン・メア「ゆすりたかりの名人」発言の背景

 ヴァインは2010年末アメリカン大学の授業に招いた国務省日本部長のケビン・メアが沖縄県民を見下し、「ゆすりの名人」などと口汚く罵倒したとき、直接現場に居合わせた指導教員である。本書で、当時の事情をあらためて説明している。

 メアを招いた授業は、米軍基地について学ぶ学生たちが、沖縄に研修で訪れる準備のために、ヴァインが企画したものであった。メアは30年にわたる外交官勤めのうち、18年間は沖縄など日本各地を歴任していた。ヴァインによれば、メアは学生たちに地図を見せて、米軍基地が沖縄に集中している理由を次のように語った。

 沖縄は東京との距離よりも北朝鮮や中国に近く、地域の安全を保障するには軍の駐留が欠かせないため、ある意味「地理上の犠牲者」だ。「しかもわれわれは、アメリカ人にとって地の利のいい居場所に“居心地のいいすばらしい施設”を確保している」と。

 メアはさらに、「沖縄の歴史」について、「県内の米軍基地の多くは第2次世界大戦後にアメリカが日本を占領したことに起因する」として、こう続けた。「あそこはいわば日本のプエルトリコだ」。プエルトリコ人のように沖縄県民はほかの日本人より「肌が黒く」「背が低く」「なまりがある」と。ヴァインは学生たちとともに、外交の経験と思慮を持つ人物から飛び出す人種的侮べつに満ちた言葉に驚いたという。

 メアは、「沖縄県民は東京(政府)から金をゆすり取る名人だ」と続けた。基地の大半は、日本政府がアメリカに賃貸する私有地にある。その賃貸契約の更新時期になると沖縄の政治家や何やらが大勢基地の撤去を要求する。しかし、彼らは本気で基地がなくなることを望んでいるわけではない。「それが賃料をつり上げるやり口だから」。

 メアはまた、日本の文化では「賄賂が日常茶飯事」で「沖縄人は名人」、つまり政府からカネをせしめたり、第2次世界大戦中に沖縄の人人が味わった苦しみに対する「罪悪感」を利用したりするのがうまいと語った。そして、沖縄が日本で最も貧しい「理由のひとつには、沖縄が1972年までアメリカに占領」され、日本経済に組みこまれなかったことがあるが、「例の島国根性のせいもある」とつけ加えた。

 「島国根性」のおかげで、県民は昔からサトウキビやゴーヤを植え、あとは収穫頃までただ待つのみ。そして近頃では「怠惰がすぎてそのゴーヤさえ育てられない」。メアは、沖縄県民の離婚率や飲酒運転、家庭内暴力、出生率の高さは、彼らが泡盛好きのせいだといって、講義を締めくくった。

 メアの講義を受けた学生たちはショックを受けて、日本を訪れたときにジャーナリストに、この話を伝えることを確認しあった。ヴァインは学生たちのこの行動を保証すると約束した。学生たちが日本で、メアの大学での公的発言を伝えたことは、沖縄はもとより全国、世界各地で怒りを広げ、アメリカ政府はメアを更迭せざるをえなかった。

沖縄返還と引換えに6億j  返還でなく買取

 ヴァインは本書で、メアの沖縄県民に対する雑言はそのままそっくり、アメリカにはね返ってくることを、次のように明らかにしている。「アメリカ側こそ、米軍の東アジア駐留にさらに手厚い支援金を出すようにと長年、日本政府に迫ってきたのだから」。少なくとも1972年以降、日本は米軍基地と駐留に他のどの受け入れ国よりも多い、何百億jもの金を出してきた。

 普天間飛行場の閉鎖と沖縄からの海兵隊員の移転についてはほとんど何も動いていない。少女暴行事件後の1996年合意のもとで動いたといえるのは、「数数の基地が新設されたこと」だ。具体的には、嘉手納空軍基地の1473世帯とキャンプ・フォスターの1777世帯の移転計画の一環として、日本は米軍住宅の新設に20億jを拠出することにすでに同意していた。

 これは、嘉手納560世帯の集合住宅を大改修し、米軍住宅の駐車場を1世帯当り2・5台分にするという「非常に贅沢な広さに拡張する」こととセットであった。「つまり強姦事件への対応として始まったものが、結果的に大規模な住宅建設計画、つまりアメリカに無償で新築の住宅を提供する話になってしまった」のである。こうしたごまかしで、日本から巨費をかすめ取るやり口は、厚木から核搭載能力を持つ空母艦載機を移転させる岩国などの歴史的経験とも重なって、全国共通の怒りを駆り立ててきた。

 ヴァインは、「日本が米軍基地のために“思いやり予算”やその他支援に巨費をあてていることを考えれば、ケビン・メアが沖縄県民を“ゆすり屋”呼ばわりしたことは、なおさら皮肉というものだ」と、次のように指摘している。

 1972年の沖縄返還協定は一般に「本土復帰」と呼ばれたが、日本側は交渉のなかで、沖縄返還との引き換えに、アメリカへの繊維製品の輸出規定に従うこと、6億8500万j支払うことに密かに同意していた。この金額には、日本に返還される建物やアメリカが整備したインフラの費用と、沖縄から核兵器を撤去する費用が含まれていた。「核兵器の撤去」については、密約によって「緊急時には再び核兵器が持ち込める」ととり決めたおまけもつけて。

 さらに、日本政府は当時のドル安傾向へのテコ入れにも犬馬の労をとり、ニューヨーク連邦準備銀行に1億1200万jを25年間、しかも無利子で預け入れることにも同意していた。またそれとは別に、「基地の維持費と沖縄の防衛費として2億5000万ドルを5年にわたって支払った」。

 日米関係の専門家、ガヴァン・マコーマックが「1972年の“返還”は実際には買い取りであって、日本はその後ずっと莫大な金を払いつづけている。実質的にそれは逆レンタル料であり、家主たる日本が賃借人であるアメリカに金を支払っている」と語った言葉も紹介している。

米軍一人当り一六〇〇万円 再編費用も日本に

 ヴァインは、「現在、日本の思いやり予算は、米軍の駐留に対して軍人ひとりにつき年間15万ドル(約1600万円)ほどを助成している。2011年だけを見ても、日本の納税者は71億ドルすなわち駐留経費全体の4分の3近くを賄っている」ことに注意を向けている。

 そのうえで、「日本政府は普天間基地の閉鎖と海兵隊の県外移転を援助するために60億9000万ドルの支払いを約束したばかりか、沖縄、グアム、北マリアナ諸島、岩国などの大規模な基地再編にむけて、159億ドルを負担することも約束した」ことを明らかにしている。

 米海兵隊のグアム移転は、自衛隊に海兵隊の肩代わりをさせアジア人同士をたたかわせる米戦略の一環である。それは最近、米軍が南シナ海や東シナ海で中国と軍事衝突した場合、米領グアムまで撤退し、「沖縄から台湾、フィリピンを結ぶ軍事戦略上の海上ライン“第一列島線”の防衛を“同盟国の日本”に委ねる」ことを検討していることが報じられたことからも明らかだ。

 在沖米軍の新兵研修でも暴露されたように、メアの思想はなんら特殊なものではない。問題は、在日米軍基地をめぐるこうした屈辱的な関係を直視し、日本の独立と平和を求める国民的な運動をさらに力強く形成していくことにある。 (一)
https://www.chosyu-journal.jp/review/4795





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『米軍基地がやってきたこと』(デイヴィッド・ヴァイン著)
https://www.amazon.co.jp/%E7%B1%B3%E8%BB%8D%E5%9F%BA%E5%9C%B0%E3%81%8C%E3%82%84%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%8D%E3%81%9F%E3%81%93%E3%81%A8-%E3%83%87%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%B3/dp/4562053046

書評・テレビ評2017年9月21日


 デイヴィッド・ヴァイン著『米軍基地がやってきたこと』は、世界70カ国以上に約800の軍事基地を持つアメリカと、基地が置かれた国の政府や現地住民との関係を、歴史的に検証、考察している。ヴァインは人類学を専門とするアメリカン大学の准教授だが、沖縄やグアム(アメリカの属領)にふれて、アメリカ政府や米軍の横暴な振る舞いを浮き彫りにしている。北朝鮮をめぐる情勢とかかわって、グアム島民の米軍基地やアメリカの植民地支配からの脱却を求めるたたかいが伝えられる今、参考になる1冊である。

ケビン・メア「ゆすりたかりの名人」発言の背景

 ヴァインは2010年末アメリカン大学の授業に招いた国務省日本部長のケビン・メアが沖縄県民を見下し、「ゆすりの名人」などと口汚く罵倒したとき、直接現場に居合わせた指導教員である。本書で、当時の事情をあらためて説明している。

 メアを招いた授業は、米軍基地について学ぶ学生たちが、沖縄に研修で訪れる準備のために、ヴァインが企画したものであった。メアは30年にわたる外交官勤めのうち、18年間は沖縄など日本各地を歴任していた。ヴァインによれば、メアは学生たちに地図を見せて、米軍基地が沖縄に集中している理由を次のように語った。

 沖縄は東京との距離よりも北朝鮮や中国に近く、地域の安全を保障するには軍の駐留が欠かせないため、ある意味「地理上の犠牲者」だ。「しかもわれわれは、アメリカ人にとって地の利のいい居場所に“居心地のいいすばらしい施設”を確保している」と。

 メアはさらに、「沖縄の歴史」について、「県内の米軍基地の多くは第2次世界大戦後にアメリカが日本を占領したことに起因する」として、こう続けた。「あそこはいわば日本のプエルトリコだ」。プエルトリコ人のように沖縄県民はほかの日本人より「肌が黒く」「背が低く」「なまりがある」と。ヴァインは学生たちとともに、外交の経験と思慮を持つ人物から飛び出す人種的侮べつに満ちた言葉に驚いたという。

 メアは、「沖縄県民は東京(政府)から金をゆすり取る名人だ」と続けた。基地の大半は、日本政府がアメリカに賃貸する私有地にある。その賃貸契約の更新時期になると沖縄の政治家や何やらが大勢基地の撤去を要求する。しかし、彼らは本気で基地がなくなることを望んでいるわけではない。「それが賃料をつり上げるやり口だから」。

 メアはまた、日本の文化では「賄賂が日常茶飯事」で「沖縄人は名人」、つまり政府からカネをせしめたり、第2次世界大戦中に沖縄の人人が味わった苦しみに対する「罪悪感」を利用したりするのがうまいと語った。そして、沖縄が日本で最も貧しい「理由のひとつには、沖縄が1972年までアメリカに占領」され、日本経済に組みこまれなかったことがあるが、「例の島国根性のせいもある」とつけ加えた。

 「島国根性」のおかげで、県民は昔からサトウキビやゴーヤを植え、あとは収穫頃までただ待つのみ。そして近頃では「怠惰がすぎてそのゴーヤさえ育てられない」。メアは、沖縄県民の離婚率や飲酒運転、家庭内暴力、出生率の高さは、彼らが泡盛好きのせいだといって、講義を締めくくった。

 メアの講義を受けた学生たちはショックを受けて、日本を訪れたときにジャーナリストに、この話を伝えることを確認しあった。ヴァインは学生たちのこの行動を保証すると約束した。学生たちが日本で、メアの大学での公的発言を伝えたことは、沖縄はもとより全国、世界各地で怒りを広げ、アメリカ政府はメアを更迭せざるをえなかった。

沖縄返還と引換えに6億j  返還でなく買取

 ヴァインは本書で、メアの沖縄県民に対する雑言はそのままそっくり、アメリカにはね返ってくることを、次のように明らかにしている。「アメリカ側こそ、米軍の東アジア駐留にさらに手厚い支援金を出すようにと長年、日本政府に迫ってきたのだから」。少なくとも1972年以降、日本は米軍基地と駐留に他のどの受け入れ国よりも多い、何百億jもの金を出してきた。

 普天間飛行場の閉鎖と沖縄からの海兵隊員の移転についてはほとんど何も動いていない。少女暴行事件後の1996年合意のもとで動いたといえるのは、「数数の基地が新設されたこと」だ。具体的には、嘉手納空軍基地の1473世帯とキャンプ・フォスターの1777世帯の移転計画の一環として、日本は米軍住宅の新設に20億jを拠出することにすでに同意していた。

 これは、嘉手納560世帯の集合住宅を大改修し、米軍住宅の駐車場を1世帯当り2・5台分にするという「非常に贅沢な広さに拡張する」こととセットであった。「つまり強姦事件への対応として始まったものが、結果的に大規模な住宅建設計画、つまりアメリカに無償で新築の住宅を提供する話になってしまった」のである。こうしたごまかしで、日本から巨費をかすめ取るやり口は、厚木から核搭載能力を持つ空母艦載機を移転させる岩国などの歴史的経験とも重なって、全国共通の怒りを駆り立ててきた。

 ヴァインは、「日本が米軍基地のために“思いやり予算”やその他支援に巨費をあてていることを考えれば、ケビン・メアが沖縄県民を“ゆすり屋”呼ばわりしたことは、なおさら皮肉というものだ」と、次のように指摘している。

 1972年の沖縄返還協定は一般に「本土復帰」と呼ばれたが、日本側は交渉のなかで、沖縄返還との引き換えに、アメリカへの繊維製品の輸出規定に従うこと、6億8500万j支払うことに密かに同意していた。この金額には、日本に返還される建物やアメリカが整備したインフラの費用と、沖縄から核兵器を撤去する費用が含まれていた。「核兵器の撤去」については、密約によって「緊急時には再び核兵器が持ち込める」ととり決めたおまけもつけて。

 さらに、日本政府は当時のドル安傾向へのテコ入れにも犬馬の労をとり、ニューヨーク連邦準備銀行に1億1200万jを25年間、しかも無利子で預け入れることにも同意していた。またそれとは別に、「基地の維持費と沖縄の防衛費として2億5000万ドルを5年にわたって支払った」。

 日米関係の専門家、ガヴァン・マコーマックが「1972年の“返還”は実際には買い取りであって、日本はその後ずっと莫大な金を払いつづけている。実質的にそれは逆レンタル料であり、家主たる日本が賃借人であるアメリカに金を支払っている」と語った言葉も紹介している。

米軍一人当り一六〇〇万円 再編費用も日本に

 ヴァインは、「現在、日本の思いやり予算は、米軍の駐留に対して軍人ひとりにつき年間15万ドル(約1600万円)ほどを助成している。2011年だけを見ても、日本の納税者は71億ドルすなわち駐留経費全体の4分の3近くを賄っている」ことに注意を向けている。

 そのうえで、「日本政府は普天間基地の閉鎖と海兵隊の県外移転を援助するために60億9000万ドルの支払いを約束したばかりか、沖縄、グアム、北マリアナ諸島、岩国などの大規模な基地再編にむけて、159億ドルを負担することも約束した」ことを明らかにしている。

 米海兵隊のグアム移転は、自衛隊に海兵隊の肩代わりをさせアジア人同士をたたかわせる米戦略の一環である。それは最近、米軍が南シナ海や東シナ海で中国と軍事衝突した場合、米領グアムまで撤退し、「沖縄から台湾、フィリピンを結ぶ軍事戦略上の海上ライン“第一列島線”の防衛を“同盟国の日本”に委ねる」ことを検討していることが報じられたことからも明らかだ。

 在沖米軍の新兵研修でも暴露されたように、メアの思想はなんら特殊なものではない。問題は、在日米軍基地をめぐるこうした屈辱的な関係を直視し、日本の独立と平和を求める国民的な運動をさらに力強く形成していくことにある。 (一)

 (原書房、B6判・494ページ、2800円+税)
https://www.chosyu-journal.jp/review/4795



29. 劣等人種な日本人[1] l_KTmZBsju2CyJP6lnuQbA 2018年1月21日 23:22:22: aKbSWnIofY : 2UWfIlZj3rU[1]

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要するに劣等人種なんだよ
俺たちは国の命令でインパールジンギスカンで餓死で5万人殺された
20代で死んだんだ、俺たちの気持ちが〜っての
あるじゃん?
だったらなんで吉田茂みたいに東条や牟田口に死ね!売国戦争屋!!つって
喧嘩うらなかったの?なんでのこのこと前線いくの?ってだけのこと
だから、日本人自身が過大評価というか劣等人種なんだよ
小泉竹中パソナ同和部落在日がいまだに図に乗っているのがその証拠
怖くてこいつら野党にいれられねーんだもんw
代理でけんかしてやるつってんのにww
お前らだけでもう1回餓死エンジョイしろww でもおれはお前らとは違うから
いっしょにすんなw


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世界でも稀なる主権放棄の日米地位協定 沖縄県が独自調査をHPで公表 2018年6月12日

 日米地位協定の運用について全国的な論議を喚起するため沖縄県が6日、主な米軍駐留国と実態を比較した「ポータルサイト」をホームページに開設した。沖縄県は米兵の犯罪や事件が戦後一貫して日本の法律も適用されず、野放しにされてきた現実を踏まえ、地位協定の抜本見直しを求めてきた。ポータルサイトは、駐留米軍に受け入れ国の法律を適用しているドイツやイタリアを調査した「他国地位協定調査中間報告書」や韓国、フィリピンなどの協定も掲載し、「日本の主権についてどう考えるかという極めて国民的な問題」と指摘している。


<沖縄県の地位協定ポータルサイト>
http://www.pref.okinawa.lg.jp/site/chijiko/kichitai/sofa/index.html


 サイトで公表している「他国地位協定調査」では「昭和47年の本土復帰から平成29年12月末までに、米軍人等による刑法犯が5967件、航空機関連の事故が738件発生している」とのべ、最近も米軍属による強姦殺人事件、オスプレイ墜落や普天間第二小学校への窓落下等事件が絶えないことを指摘した。また今年2月に三沢基地(青森県)のF16戦闘機が燃料タンクを投棄し、同基地近くの小川原湖でシジミやワカサギなどの全面禁漁に追い込まれたことにも言及し「日米地位協定の見直しについては、米軍基地が集中する沖縄という一地域だけの問題ではなく、我が国の外交・安全保障や国民の人権、環境保護、そして何よりも、日本の主権についてどう考えるかという極めて国民的な問題」とした。そして「日米地位協定や米軍基地が他国と比べてどうなのかという世界的な相場観を知る必要があるとの意見」が出るなか「日米地位協定の問題点をさらに明確化」するため調査をおこなう、とした。

 沖縄県で米軍機の事故が多発していることを踏まえ、「米軍に対する受入国の国内法の適用」「基地の管理権」「訓練・演習に対する受け入れ国の関与」「航空機事故への対応」を中心項目とし、ドイツ、イタリアの二カ国を調査対象とし、日米地位協定、ボン補足協定(ドイツ)、米伊の了解覚書(モデル実務取極)の条文を比較している【比較表参照】。


https://www.chosyu-journal.jp/shakai/8338


 その分析によると、ドイツとイタリアは両国とも米軍に国内法を適用し、基地内すべての区域に自治体や司令官が立ち入ると明記している。米軍の訓練や演習もドイツやイタリアでは事前に通知し許可がなければ実施できない。警察権についても、ドイツはドイツ警察、イタリアは同国軍司令官が権限を行使すると明記している。

 ところが日本は「地位協定に日本の国内法を適用する条文がない」という理由で、在日米軍に日本の国内法は適用されない。基地内への立ち入り権も明記しておらず、米軍の訓練や演習については規定がないため「規制する権限がない」となっている。警察権については「施設・区域内のすべての者若しくは財産、施設・区域外の米軍の財産について、日本の当局は捜索、差押え又は検証を行う権利を行使しない」としている。ドイツもイタリアも日本同様に第二次世界大戦の敗戦国であるが、日米地位協定と大きな違いがあることが浮き彫りになっている。

 中間報告はドイツとイタリアの現地調査結果も明らかにしている。ドイツでは米空軍ラムシュタイン基地(在欧米空軍司令部がある欧州最大の空輸拠点)があるミューゼンバッハとヴァイラーバッハの二市長、2011年に米空軍シュパングダーレム基地の戦闘機が墜落したラウフェルトの町長、航空保安のための連邦監督局局長、ドイツ航空管制の管理者から聞きとりをしている。

 ドイツでは市長や市職員は年間パスで基地内にはいつでも立ち入り可能で、米軍機墜落事故時はドイツ警察、ドイツ軍、米軍が駆け付け、ドイツ軍が現場の安全を保持したという。事故調査はドイツ側が実施したが、調査費は米側が支払っている。さらに航空保安のための連邦局が、米軍が管制する横田ラプコンについて「そのような空域はドイツには存在しない」と証言したことも紹介している。

 イタリアではトリカリコ元NATO第五戦術空軍司令官、米軍の低空飛行訓練機が起こしたゴンドラ落下事故(1998年、20人死亡)当時外務大臣として対応にあたったディーニ元首相、米空軍アヴィアーノ基地所在地のアヴィアーノ副市長らから聞きとりをしている。そこではトリカリコ元司令官が「米軍の活動にはイタリアの国会で作った法律をすべて適用させる。イタリアは米軍を監視しなければならない。外国の人間がその国に入れば、その国の法律に従う。それを合意という。それが個人であろうが国であろうが、合意がなければ法律は無秩序になる」と指摘し、ディーニ元首相が「イタリアの米軍基地にはイタリア軍の司令官がいて、米軍はすべての活動についてイタリア軍司令官の許可が必要だ。ここはイタリアだ。コソボに出動するのもイタリアの許可が必要だ」「米軍基地があるのは日本だけではないが、インターナショナルな見直しを進めていかないと、日米関係だけが奇異な関係になってしまう。米国のいうことを聞いているお友達は日本だけだ」とのべたことも報告している。

 そして総括でドイツ、イタリアについて「自国の法律や規則を米軍にも適用させることで自国の主権を確立させ、米軍の活動をコントロールしている」とし、日本について「原則として国内法が適用されず、日米で合意した飛行制限等も守られない状況や地元自治体が地域の委員会設置を求めても対応されない状況であり、両国とは大きな違いがある」と指摘している。今後はドイツやイタリア以外の地位協定の実情も調査し、国内外に情報発信するとした。ポータルサイトには日米地位協定の全文や各種合意文書、韓国、フィリピン、イラク、アフガニスタンが米国と結んだ地位協定、NATO地位協定も掲載している。

国内法の上に米軍特権 武力制圧の実態

 問題になっている日米地位協定は「在日米軍に多様な特権を認める協定」にほかならない。日本は独立した主権国家であり、表向きは国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を基調とする日本国憲法が適用される法治国家である。だがここに「日米地位協定」で「例外」を作り、米軍やその関係者はどんな犯罪を犯しても処罰されない特権を持たせてきた。それは米兵が日本国内で引き起こした事件が日本側で裁判にかけて処罰することもできず、ことごとく無罪放免にされてきた過去の事例でも歴然としている。

 現在、日本には128の米軍基地や米軍の訓練空・海域がある。その存在根拠としたのが日米安保条約と日米地位協定である。日米安保条約で戦後日本を占領した米軍が引き続き日本に米軍基地を置くことを認め、その地位は「別個の協定及び合意される他の取り決めにより規律される」とした。この「別個の協定」が日米地位協定だった。

 28条で構成する日米地位協定で認める特権の第一は、日本のどこにでも基地提供を求め設置できる特権(2条)である。通常の安保条約は基地の名称や場所を記載しているが日米地位協定にはその規定もない。それは沖縄だけにとどまらず日本全土をいつでも基地として使える規定である。

 しかも基地・区域内は「(アメリカが)すべての管理権を行使する」特権(3条)があり、治外法権地帯となっている。そのほか、外国軍隊である米軍の艦船や戦闘機が日本に自由に出入りし日本国内を移動できる特権(5条)、日本の公共サービスを優先利用できる特権(7条)、入国審査もなく米兵・軍属・家族が日本に出入国できる特権(9条)、関税・税関が免除される特権(11条)、課税が免除される特権(13条)もある。米兵が刑事事件を起こしても、「公務執行中」となればアメリカが優先的に裁判権をもつ特権(17条)があり、損害補償も多様な免除特権(18条)がある。

 さらに日米地位協定はあいまいかつ難解な条文で構成され、その解釈や運用の詳細は「日米合同委員会」(アメリカ側代表=在日米軍司令部の副司令官、日本側代表=外務省北米局長)で決める(25条)、としている。そしてこの日米合同委員会(傘下に日本の官僚などで作る部会がある)での合意事項や協議内容は「日米双方の合意がない限り非公表」で一切開示しない。それは日米安保体制に基づく米軍の占領支配システムが続く限り、日本の国民主権を蹂躙した恣意的な運用も変わらないことを示している。

途上国でも撤退相次ぐ タイ、比、イラク

 各国の対米地位協定や運用をみると、日本政府の異常さは際立っている。韓国では2012年に韓米地位協定(SOFA)を改定させ、フィリピン、タイ、イラクなどは自国の主権と独立を守るたたかいで米軍基地を撤去に追い込んでいる。

 韓国はかつて米兵が事件を起こしたとき、起訴前に身柄を確保し捜査することはできなかった。「米兵は現行犯逮捕されないかぎり、起訴以降にしか身柄を拘束できない」とし、現行犯逮捕でも「24時間以内に起訴できなければ釈放しなければならない」と韓米地位協定で規定していた。起訴の裏付け捜査を24時間以内で終えることは不可能で、犯罪米兵は常に米軍側に守られる状態だった。しかし2000年に起きた米兵による韓国人ホステス殴打殺人事件を機に基地撤去世論が噴出し、2001年の改定で12種の凶悪犯罪(殺人、強姦、強盗、誘拐、放火など)は起訴段階での身柄引き渡しを米側に認めさせた。2005年には住民のたたかいで梅香里(メヒャンニ)にあった米空軍射爆場を閉鎖に追い込んだ。

 そして2011年にまたも米兵が女子大生と女子高生を強姦する事件を引き起こし、韓国国民の怒りが爆発した。韓国政府は運用ルール見直しをアメリカに要求し、2012年に「24時間以内起訴ルール」も削除させた。現在は12種の凶悪犯罪は起訴前の身柄引き渡しが事実上可能になっている。それは起訴前の身柄引き渡しについて米側が殺人と強姦に限って「好意的な考慮を払う」とした日米地位協定とは大きな差がある。

 フィリピンでは1965年から86年まで21年間、アメリカの全面支援を受けて独裁政治を強行したマルコス政府打倒・追放の民衆蜂起が米軍基地撤去の契機となった。新政府のもとで作られた新憲法は「外国軍基地の原則禁止」を条文に盛り込み、米比基地協定が1991年9月に期限切れを迎えた後は「新条約を結ばなければ外国軍基地をフィリピン国内に置くことはできない」と定めた。新条約承認には「上院議員3分の2以上の同意」「議会が要求する場合は国民投票」が必要と規定した。

 1991年に上院が新基地条約の批准を採決すると、上院議員24人中、賛成11、反対12(欠席1)となった。この結果、92年11月までにすべての米軍基地がフィリピンから撤退せざるを得なくなった。フィリピンではアメリカが引き起こした米比戦争(1899〜1913年)で100万人近いフィリピン人が米軍に虐殺された経緯がある。そうした経験に根ざした独立を求めるたたかいが基地撤去を実現させている。


マニラの米国大使館前で米軍撤退を求めるデモ(2015年)

 ベトナム戦争時、米軍の最大出撃拠点となったタイも米軍基地を撤去させた経緯がある。タイではベトナムから米軍が撤退した1973年の政変で軍事独裁政府を倒し、1975年の選挙でククリット政府が誕生した。同政府は中立外交を掲げ「1年以内の米軍撤退」を表明した。アメリカは「タイ軍の訓練のため」と主張し、4000人規模の米軍が残留することを求めたが、タイ側は「残留米兵に特権は認めず、タイの法律に従わせる」との条件を突きつけた。アメリカは「(米兵の)刑事裁判権をタイ政府が握るなら、米軍を同国から完全撤退させる以外ない」とし、1976年に約5万人いたタイ駐留米兵を撤退させた。基地もすべて返還した。こうして第2次大戦前、欧米列強の植民地支配で苦難を強いられたASEAN(東南アジア諸国連合)加盟国(タイ、フィリピン、マレーシア、インドネシア、シンガポール、ブルネイ、ベトナム、ミャンマー、ラオス、カンボジア)には外国軍基地は存在していない。

 イラクも米軍を2011年に完全撤退させている。アメリカは2008年に地位協定を締結したが、そのときイラク側はアメリカ側の協定案に対し110カ所の修正を突きつけた。その中心は、@協定に米軍撤退を明記、A2011年を過ぎても米軍がイラクに駐留可能と受けとれるあいまいな表現は削除、B米兵がイラクで犯した罪はイラク人が裁く、C米軍がイラク国内から他国を攻撃することを禁止する条項を追加する、D米艦船の捜査権はイラク側が持つ、E米軍基地からイラクに入国する米軍人・軍属の名簿を点検・確認する権利をイラク側が持つ、などだった。その結果、協定の名称は「イラクからの米軍の撤退と米軍の一時的駐留期間の活動に関する協定」となり、第24条には「すべての米軍はイラクの領土から2011年12月31日までに撤退する」と明記した。圧倒的な軍事力で国が叩きつぶされたイラクだが、それでも日本の支配層のようにすべていいなりにはならなかった。アメリカは2012年以後も「イラク軍を訓練する」との名目で1万人規模の米兵を駐留させるため、政府高官や米軍幹部を送り込み執拗に圧力をかけたが、イラク側は米軍が駐留の絶対条件とする米兵への刑事免責特権は拒否し続けた。その結果、交渉は決裂しアメリカは4万人超のイラク駐留米軍を2011年末までに完全撤退することになった。

 米軍基地を抱える国国では長期駐留の現実から、どの国でも「国防のため」「安全保障のため」と称して居座ってきた米軍の正体が暴露されている。いまだに朝鮮半島有事に対応する「朝鮮国連軍地位協定」を国連軍に参加する11カ国(アメリカ、オーストラリア、イギリス、カナダ、フランス、イタリア、トルコ、ニュージーランド、フィリピン、タイ、南アフリカ)と結び、横田基地へ朝鮮国連軍後方司令部を置いているが、これも朝鮮戦争終結となれば存在根拠を失うことになる。

 そもそも独立国のなかに外国の軍隊が無法状態で居座り続けること自体が異常であり、世界各国で米軍の受け入れを歓迎する国は減り、米国外に駐留する米軍は居場所を失いつつある。世界各国では不平等な地位協定の抜本改定にとどまらず、米軍基地を撤去させ、国の独立を守り国の主権回復と平和を目指す流れが勢いを増している。
https://www.chosyu-journal.jp/shakai/8338


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知らなかった沖縄の衝撃<本澤二郎の「日本の風景」(3063)<沖縄米兵の大半がケダモノ><見て見ぬふりの日本政府の衝撃>
http://blog.livedoor.jp/jlj001/archives/52221311.html
2018年08月13日 「ジャーナリスト同盟」通信


<沖縄米兵の大半がケダモノ>
 40年前の8月12日、日中平和友好条約が締結された。33年前には、520人が亡くなった日航機事故が起きていた。前者は福田赳夫内閣、後者は中曽根康弘内閣。世の中は変わる、事件事故も起きる。しかし、代わらないのは戦後の沖縄だけ。強姦魔の米兵が駐留する沖縄だった。ケダモノを沖縄の女性にあてがっていた日本政府だった。その真実が、翁長知事の憤死を機会に表面化した。国民の全く知らなかった沖縄である。


<見て見ぬふりの日本政府の衝撃>
 米海兵隊員の質の悪さは、10数年前に自衛隊員から聞いていたが、まさか彼らの多くが、性犯罪歴を持った強姦魔であるという真実を知らなかった。
 しかし、ワシントンは知っていた。日本政府も知っていた。しかし、日本国民は知らなかった。
 日本政府は見て見ぬふりをしていたのだ。このことについて、50ー60の鼻たれ小僧の時代は、納得しなかったろうが、世の中が見えるようになった、70代の日本人は即座に頷くことが出来るだろう。
 日本政府は知っていて、黙認してきたのだ。沖縄が日本に返還されたのは、72年のことである。そのころから外務省の担当官は、うすうす感じ始めたはずである。沖縄の治安を担当する法務検察・警察は無論であろうが、それを政府の中枢に報告していたのかどうか。

<議会で真相を明らかにして性犯罪兵を追放せよ>
 議会はどうか、野党はどうか。知らなかったわけだから、直ちに関係する委員会で真相を明らかにする義務があろう。国政調査権を行使する場面である。 
 性犯罪歴の米兵を、即座に追放しなければならない。
https://85280384.at.webry.info/201808/article_81.html
http://www.asyura2.com/18/senkyo249/msg/118.html

<沖縄女性は性奴隷扱いだった!>
 できれば、嘘であってほしいと願う。しかし、嘘ではない。今も、である。
 この事実を、沖縄の関係者も知っていたようだ。売国民はどこにでもいるのであろうが、これはひどい。許せない。
 強姦魔の米兵の餌にされていた沖縄の女性ということになろう。中国や北朝鮮の人権問題をわめきちらしているワシントンに、その資格はない。

 言及するまでもない。21世紀の今日、これほどの悲劇はどこを探してもないだろう。
 性犯罪が起きるたびに「夜間外出禁止」や「飲酒禁止」を打ち出しても、全く守れなかった沖縄の米兵を見せつけられてきた日本人。彼らがもともとの性犯罪者だとわかれば、大いに納得が出来る。日本は、特に沖縄は米国の奴隷だったのだ。米国の黒人奴隷解放から随分と時間が経つが、沖縄では何も変わらなかった。 この真実を翁長知事は知っていた、だからこその辺野古移設に徹底抗戦していたのだ。

 沖縄の女性は、性奴隷扱いを強いられてきた。命を懸けて抵抗する義務が、沖縄県と日本政府にある。

<地元マスコミ・学者も沈黙>
 安倍内閣で特定秘密保護法が自公両党で強行されて4年が経過したが、以来、言論の自由は大幅に制約、NHKは言うに及ばず、朝日新聞までが元気を失っている。
 そうした中で、沖縄の地方新聞は元気だった。そう思ってきたのだが、実は違った。沖縄のマスコミも、沖縄の学者・研究者・捜査関係者も、いまだに沈黙している。
 これはどういうことか。
 海兵隊の実態、その中での沖縄の真相を明らかにする義務を、マスコミも学者ら文化人も果たしていなかったのか。翁長側近は堂々と公表、公開すべきだろう。

<強姦米兵を極刑にせよ> 
 結婚式のおり、米ラスベガスのホテル入力滞在した時のことだ。サウナで海兵隊員3人と出くわした。 
 彼らは、口々に「沖縄はすばらしい」と言った。その意味を、沖縄の美しい自然と理解したのだが、いまははっきりと理解できる。その言葉の背後に、沖縄女性の性凶悪被害者の存在を見てとれる。
 この機会に強姦米兵に極刑で対応することを、真剣に考える必要があろう。当局の怠慢を許すことは出来ない。
 以下に沖縄の真実を打ち明けた衝撃証言を一部引用する。

「東京で勤務していた時、元米国大使の方から、沖縄の人達はあまりにも可哀想だ。沖縄に駐留する海兵隊の大半が犯罪(性犯罪者が大半)暦を持つ軍人を沖縄に配置させている。

 それを日本政府は見てみぬふりをずーとしてきた。韓国やその他の国ではけっして『入国』させない連中なのに。と聞かされた!

 そんな『質の悪い』米軍兵を70年も米軍占領化に置き、沖縄の女性や子供を性犯罪の危険にさらし続けたにも関わらず!

 日本政府や日本人の大半は、『日米安保条約』で日本や日本人を守るために、“沖縄は我慢してくれ! “日本が攻撃されない様に沖縄に米軍基地がなければならない!” 

 まるで『沖縄県人の女性達や子供達』は日本や日本人のために『犠牲』になってくれと言っている様なものだ。

それでも沖縄県は…沖縄県民は…同じ『日本』ですか?同じ『日本人』なんでしょうか?

あまりにも『酷すぎ』ませんか! あまりにも『差別』していませんか! 」

2018年8月13日記(東京タイムズ元政治部長・政治評論家・日本記者クラブ会員)

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米国の沖縄選挙工作を示す極秘メモ発覚に沈黙するメディア
http://kenpo9.com/archives/4294
2018-10-19 天木直人のブログ

 またもや驚くべき極秘文書が米国側の公表で明らかになった。

 きのう10月18日、ワシントン発時事が報じ、それを毎日新聞が引用して報じた。

 すなわち、米ジョージ・ワシントン大学の国家安全保障公文書館は、16日、沖縄返還前の1965年に当時のライシャワー駐日大使らが、米統治下にあった沖縄に対する政策を話し合った米政府の極秘会議メモを公表したというのだ。

 その中で、ライシャワー大使は沖縄の選挙に影響を与えるための資金工作を提起、自民党の政治家を介して資金をばらまくことを提案していたというのだ。

 しかもライシャワー氏はさらにこう語っていたという。

 米政府が直接資金を投入するのではなく、自民党の政治家に託して最も効果的な方法で使ってもらうことが「より安全な方法だ」と。

 その資金がきちんと沖縄側(琉球側)に届くのかという懸念に対し、「日本の保守政治家にとっても、選挙の勝利は死活的に重要」だから問題ないと。

 日本の政治家も金をつぎ込むとの見方を示した上で、「彼らの資金に上乗せしてもらうだけで、完全に秘匿できる」、と主張したという。

 物凄いライシャワー大使の発言だ。

 現ナマが自民党政治家に直接わたっていたのだ。

 この事実は、もはや極秘ではない。

 ジョージ・ワシントン大学が公表したのだ。

 それをいち早く時事が見つけて読み解き、その一部を報じたのだ。

 それを毎日新聞が引用しただけなのだ。

 私はてっきりきょう10月19日の主要各紙が、このニュースを後追いして、詳しく報道してくれるものとばかり思っていた。

 なぜならば、時事通信社はあくまでも配信社であり、スピード性を重視する。

 スタッフも限られており、本格的に翻訳、分析して国民に知らせるのは大手紙の仕事だからだ。

 ところが今日の新聞にはどこにもその関連記事は見当たらない。

 毎日新聞でさえも時事のニュースを引用しただけで終わっている。

 これは明らかに大手紙の怠慢だ。

 怠慢でなければ意図的な情報隠しである。

 1965年当時と言えば安倍首相の大叔父に当たる佐藤栄作政権時だ。

 その時の内閣の大蔵大臣は福田赳夫氏だ。

 その子息は福田康夫元首相であり、いまではそのまた子息の福田達夫議員が世襲している。

 この沖縄工作は、まさしく今の政治家たちにとって無縁ではないのだ。

 いまからでも遅くない。

 いくら時間をかけてもいい。

 大手メディアはジョージ・ワシントン大学が公表してくれた極秘文書の全貌を国民の前に明らかにすべきだ。

 野党議員はこの公表された極秘メモに基づいて、安倍首相や自民党議員の責任を追及すべきだ。

 それから50年以上も経ったいまの沖縄の選挙でも、同様のことが行われていな保証はない。

 この問題は国会で徹底追及さるべきである(了)


沖縄選挙への資金工作議論=65年にライシャワー駐日大使−米公文書
http://sp.m.jiji.com/pickup/article/id/2097562
2018-10-17 12:02 時事通信


エドウィン・ライシャワー元駐日米大使

【ワシントン時事】米ジョージ・ワシントン大学の国家安全保障公文書館は16日、沖縄返還前の1965年に当時のライシャワー駐日大使らが米統治下にあった沖縄政策を話し合った米政府の極秘会議メモを公表した。この中で同大使は沖縄の選挙に影響を与えるための資金工作を提起、自民党の政治家を介して資金を投入することを提案していた。

「琉球(沖縄)における米国の政策」と題するメモによると、会議は7月16日に開かれ、ほかにスタンリー・リーザー陸軍長官らが出席した。

この中でライシャワー大使は、選挙への工作をめぐり、米政府が直接資金を投入するのでなく、自民党の政治家に託して最も効果的な方法で使ってもらうことが「より安全な方法だ」と提起。「二つのルートを使うリスクを負うべきでない」と指摘した。

出席者からは、政治家に渡した場合に「きちんと琉球側に届くのか」と懸念する声もあった。しかし、ライシャワー大使は「日本の保守政治家にとっても、選挙の勝利は死活的に重要」として問題ないとの認識を表明。沖縄に対し、日本の政治家も金をつぎ込むとの見方を示し、「彼らの資金に上乗せしてもらうだけで、完全に秘匿できる」と主張した。


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/319.html#c16

[近代史3] 日本の官僚やアメリカへの留学生はこういう手口でアメリカのエージェントにされる 中川隆
1. 中川隆[-10925] koaQ7Jey 2019年4月05日 11:31:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1103]

日本の官僚やアメリカへの留学生はこういう手口でアメリカのエージェントにされる


2. 外務官僚 小和田雅子の場合


知恵遅れの皇太子をハニートラップにかけた(?)小和田雅子の正体

雅子様C@学歴 日本語も英語も話せない釣書詐欺
http://hiromihiromi.sakura.ne.jp/01/?p=4764

雅子様の学歴ロンダリング
https://dosuko.fandom.com/ja/wiki/%E5%AD%A6%E6%AD%B4%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0

雅子様の子弟枠を使ったインチキ外交官試験
https://dosuko.fandom.com/ja/wiki/%E5%A4%96%E4%BA%A4%E5%AE%98%E8%A9%A6%E9%A8%93


▲△▽▼


雅子様の優秀伝説 まとめ 

雅子さまは元々何もできないアホ女だったんだよ、学歴も全部インチキだったしね:


田園双葉の入試に2回落ちて、3回目にお情けで編入。
田園双葉時代の成績は頑張っても専修大がやっと。

アメリカの公立高校では語学最低レベルのESLクラスから出られず。
当時ハーバードで客員教授していた父のコネで女子部のラドクリフに入学。

中国系学生デビッド・カオと半同棲。トップレス写真を撮られる。
卒業論文も父のコネで普通の学生には不可能な経済界の大物達への
インタビュー。

それでも優良可の良にあたる評価がやっと。
普通の会話が続けられずパーティーでは壁の花。

東大への学士入学は簡単なものでしかもここでも父が当時教授をしていた。
授業にはほとんど出席せず、1単位も取れずボロが出る前に中退して
父のいる外務省にコネ入省。

華々しくエリート外交官なんて報道されたが実際はただの外務省職員。
外務省時代は内規違反をしてマイカー通勤しVIP専用駐車場に駐車。
通勤手当をもらっていたので返却することに。しかも連日遅刻。
仕事が出来ないため大切な仕事は任されなかったが、頼まれると失敗して泣く。
それなのに傲慢な態度だった。

職場でのあだ名はコピー番長。
しょっちゅう化粧直しに席を立ち、なかなか戻らなかった。

職場でも父を「お父様」と呼んでいた。
オックスフォードに国費留学するが、同期の中で唯一修士が取れず帰国。
米国、英国、外務省時代に不倫の噂多数有り。
中国系学生と半同棲、トップレスの写真も存在する。
結婚一歩手前の日本人もいた。
浩宮の妃内定なるとダイアナ妃も受けたブライダルチェックを頑なに拒否。
つまり処女ではなかったと言うこと。一方の浩宮は。。

雅子は、デンフタに何度も落ちたくらい頭がよくない。面接で「妹がうかったのにこの子だけ」と、優美子が泣いて見せ、お情けでいれてもらったのは有名な話。しかしながら、面接で母親が泣いてみせて同情で受かるほど御受験は甘くはないはず。裏では人と結構なお金が動いたんじゃないのかと疑惑がのこる。

・雅子の成績はどこに行っても常にボーダ―ラインだった可能性が高い。学力も知恵遅れの徳仁と変わらないレベルで、とてもとても「日本一の御優秀な女性」にはなれなかった。

英語も話せない雅子様

・渡米し、レベルの低い公立高校に転入した雅子。しかし成績は悪かった。

・雅子のあだ名は「ブレイン」。頭でっかちといういみではなく、ノータリンという意味にちかいそうな。

・雅子を大学に入学させるため、父の恒をアメリカ大学の教授にしてもらう。このとき、某財閥の金が動いたといわれているが、真偽は不明。

・大学は父のコネで「無試験で」女子大に入学。後年、その大学がハーバート大に吸収されたため、「ハーバート大卒業の雅子様」とのデマに利用した。

・卒業論文は、父のコネで要人にインタビューしたものをまとめたもの。しかし、優は取れず。

・雅子は中国系アメリカ人デビット・カオと同棲。また、白人男性と付き合っていたというリークもある。カオ氏に、トップレス写真を撮られる。後日、カオ氏は写真を宮内庁に買い取らせようとしたらしいが、そのせいなのか、偶然なのか、ギャングに殺されてしまう。

・大学を卒業した雅子は、東大に「無試験で」編入したものの、ひとつも単位をとれず。

・雅子を外務省にいれるため、小和田恒を外務省の次官にする。

・雅子は父のコネで子弟枠で「無試験で」外務省に入省。外交官試験には合格できなかったとのリークあり。最初から雅子は、雑用用の事務員としての入省だったのではないのか。

マスコミ、週刊誌をつかって雅子を売りだし開始

・マスコミには、しつこく皇太子妃候補に雅子の名前が挙がる。

・「運命の出会い・スペインのエレナ王女のパーティー」の招待客名簿には、鉛筆で小和田雅子の名前が書き加えられていた。本来なら呼ばれなかった客だった可能性が高い。なんらかの圧力が直前までかかったと思われる。

・さらに、「運命の出会い・スペイン王女エレナ王女のパーティー」の数年前に、皇太子と雅子はコルマールで同宿している。

・父のコネで外務省から英国に国費留学。雅子一人だけ修士をとれず帰国。留学中、越智孝雄なる福田の甥と交際しており、結局、婚約まで進むが、雅子が皇太子妃になれそうな卦がでてきたので、破棄された。

・外務省では仕事が出来なくて有名だった雅子。菓子パンを買い占め、出来る仕事はコピー取り。通訳すらできない雅子のついたあだ名は「コピー番長」。

・有名人のおっかけもしていたらしい。

雅子妃殿下、外務省時代は通訳にも使えなかった。

本当の通訳を後ろに用意して、雅子さんを全面に出して、いかにも
雅子さんが通訳している様なフォトオプを父親が用意させた。

・社内では上司と不倫をし、参事官になった上司は中東で不審死をした。あの時期あの場所で、実弾にあたるのは考えられないという。

雅子様が体調・及び精神のバランスを崩されて、ご静養されていますが、それは2003年に起きた、イラクでの奥克彦参事官がゲリラに殺害されたのが、引き金と聞きました。
奥参事官の殺害は、ゲリラではなく、米軍の誤射ではなかろうかとされています。
乗っていた車はすぐに米軍が押さえ、日本に返されたのは、かなり時間が経過した後でした。
そのため、誤射どころではなく、狙い撃ちだったのではなかろうかとの憶測まで流れたものです。

宮内庁は、徳仁皇太子と久邇晃子さんとの婚約を内々に内定。あとは発表だけという段階に。

・しかし、旧宮家の本物の姫が嫁になることを嫌った美智子が、自分と似たような出自の小和田雅子を徳仁の嫁にするよう協力する。

・美智子と組んだ小和田側は、アメリカのマスコミに「皇太子妃に小和田雅子」の一報を流して出し抜くことに成功。これも美智子の時のマネ。まんまと皇太子の妻にするのに成功。

お后教育の時、雅子さんは 「天照大神」 「日本武尊」を「テンテルダイジン」 「ニッポンブソン」と読んだそうな。
講師が早々に教育をやめたのは馬鹿すぎてお手上げだったから?

誰だよ、こんなのを皇室に入れたのは?

要するに、知恵遅れの皇太子をハニートラップにかけて、生きていると都合が悪い恋人には事故死してもらって皇太子と結婚した可能性が高い

しかし、知恵遅れの二人が野合して餓鬼作ったらやっぱり知恵遅れの餓鬼しか生まれないんだよな

▲△▽▼

asd********さん 2013/10/21 5:18:02

雅子様って実際、学力あるんでしょうか?
記事で雅子様の学歴は、お父様の小和田恆さんによるものが
大きいと見たのですが。
でも、お父さんの力で裏口入学はできても

外務公務員採用I種試験には学力がなければ合格しないのでは?


ベストアンサーに選ばれた回答

sai********さん 2013/10/22 2:00:15

田園双葉の入試に2回落ちて、3回目にお情けで編入。
田園双葉時代の成績は頑張っても専修大がやっと。

アメリカの公立高校では語学最低レベルのESLクラスから出られず。
当時ハーバードで客員教授していた父のコネで女子部のラドクリフに入学。
中国系学生デビッド・カオと半同棲。トップレス写真を撮られる。

卒業論文も父のコネで普通の学生には不可能な経済界の大物達へのインタビュー。
それでも優良可の良にあたる評価がやっと。

普通の会話が続けられずパーティーでは壁の花。

東大への学士入学は簡単なものでしかもここでも父が当時教授をしていた。
授業にはほとんど出席せず、1単位も取れずボロが出る前に中退して
父のいる外務省にコネ入省。

外務省時代は内規違反をしてマイカー通勤しVIP専用駐車場に駐車。
通勤手当をもらっていたので返却することに。しかも連日遅刻。

仕事が出来ないため大切な仕事は任されなかったが、頼まれると失敗して泣く。
それなのに傲慢な態度だった。

しょっちゅう化粧直しに席を立ち、なかなか戻らなかった。
職場でも父を「お父様」と呼んでいた。

オックスフォードに国費留学するが、同期の中で唯一修士が取れず帰国。
米国、英国、外務省時代に同棲・不倫の噂多数有り。
皇室に入内後は父親の影響が及ばず、すぐに引籠もる。

だそうです。

私の従兄弟でも帰国子女枠で東大に入りその後父親のコネで某政府機関に入った者がいますが、特別に優秀ではありません。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10114349020

▲△▽▼

2010年10月 8日
雅子さんという人121
雅子妃殿下、外務省時代は通訳にも使えなかった。

本当の通訳を後ろに用意して、雅子さんを全面に出して、いかにも
雅子さんが通訳している様なフォトオプを父親が用意させた。

小和田恒氏と大鳳会は、この写真を皇室入内宣伝に使い、メディアに流した。

同じ時期、外務省の天下り外郭団体「国際交流基金」に勤めていた高円宮が、外務省・大鳳会の意向を受けて、国際交流イベントに外務省から雅子さんを抜擢して出席させ、皇太子の位置の近くに配置して、皇太子の目に止まる様に仕向けた。

雅子さんの皇室入りは、大鳳会と国際交流基金、雅子さんのエセ通訳写真、創価学会を通じての女性週刊誌利用、高円宮のフル利用などによって計画的に進行された。
http://verde419.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-9f6b.html


2010年10月 1日
雅子さんという人118

お后教育の時、雅子さんは 「天照大神」 「日本武尊」を
「テンテルダイジン」 「ニッポンブソン」と読んだそうな。
講師が早々に教育をやめたのは馬鹿すぎてお手上げだったから?

誰だよ、こんなのを皇室に入れたのは?
http://verde419.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-34e7.html


2013年4月16日
雅子さんの父親の小和田恒という人。

外務官僚や国際司法裁判所の判事を務める等、経歴や学歴は誠に立派だが、実際には社民党の党首、土井たか子(帰化朝鮮人)と共に土下座外交を日本の外交に定着させた創価学会員の売国奴。

外交機密費の使い込み疑惑もあったが、雅子の皇太子妃決定で疑惑追及は立ち消えになった。

現在も外務省内に大きな影響力を持っているといわれている。
外務省には大鳳会と呼ばれる創価学会の売国グループが存在している。
http://verde419.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-eb76.html

▲△▽▼


2018年12月09日
アメリカの有名大学では金で合格を買える


太子党子弟は無試験でアメリカ名門校に入学し、4年間遊びまわって卒業している


金で入学枠を売る名門校

日本の医学部入試で男子を優遇し女子を厳しくしていたニュースで、不思議なことに欧米から批判されませんでした。

いつもの”日本たたき”のパターンでは埋めてあった骨を見つけたシェパードのように吠えまくるのに、沈黙したままだった。

それもその筈でアメリカを始め「一流大学」とされる大学ほどコネ入学や裏口入学が横行しています。

アメリカの最高峰はハーバード、イギリスはケンブリッジ大だがどちらも試験より人物本位で入学者を選考している。

人物本位というと聞こえは良いが教授や学長の推薦や、有力者のコネが効くのです。

特に悪質なのがアメリカのハーバード大学で、一般の受験生とは別に「金を払えば入学できる」枠が存在している。


数年前中国で太子党事件というのがあり、共産党幹部の子弟たちが無試験でアメリカの超名門校に入学しました。

彼らは入学してからも勉強せず、毎日パーティや豪遊に明け暮れて高級車を乗り回し、その様子をSNSで自慢しました。

中国からは欧米のSNSを見れないが、さすがに本国でも話題になり批判が強まった。


太子党は江沢民や毛沢東や習近平など有力者の子弟や縁者で、帰国すれば共産党幹部になるのが決まっている。

噂では大学に莫大な寄付をしていて、アメリカの名門校は金で入学枠を販売している。

金のない一般の受験者は彼らの枠の分だけ合格者が減るので、なおさら狭き門となっている。


富裕層の子供は受験せず入学できる

同じハーバード大学卒と言っても、掛け算すらできない人間も居れば本当の天才もいる。

大富豪が大学に寄付する金額は数億円から数百億円にも達し、高額寄付者の縁者は推薦入学できる。

ナイキの創業者はオレゴン大学に5億ドル(約560億円)を寄付したが、もし彼の息子や孫が受験したら大学は不合格にできるだろうか?


驚くのはアメリカではこれが合法なことで、みんな知っているし堂々とやっている。

英誌「エコノミスト」米経済紙「フォーブス」などでもコネで入学できると指摘されているが、悪びれもせず続けている。

アメリカには共通一次試験がなく、入学試験そのものも必ずやる義務はない。


ハーバード大学は約4兆円もの資産を持っているが、こうした入学枠の販売は美味しいビジネスになっている。

さらに美味しいのは大学への寄付金が非課税になる点で、寄付した金額の最大50%が富裕層の所得から控除される。

例えばハーバードに10億円を寄付すると、バカ息子をエリート大学に入学できるうえに、所得から5億円を控除され節税になる。


アメリカにはこうした裏口(合法なので表口だが)仲介業者もあり、巨大ビジネスになっている。

有名な例では映画監督のスティーブン・スピルバーグの娘を入学させたデューク大で、願書の締め切りを過ぎていたのに入学させた。

もちろん無試験のうえに大学理事がスピルバーグの自宅まで出向いて「面接」をしている。


こうした例は枚挙にいとまがないほどあるので、日本の大学で男子を優遇したくらいでは「なんで問題になるのか?」という認識でしかない。
http://www.thutmosev.com/archives/78373072.html  

▲△▽▼


中国共産党の幹部の子弟がみんなアメリカ、カナダに留学する理由

2018.12.13
ソフトバンク通信障害B アリババ=江沢民=ゴールドマン・サックス
https://golden-tamatama.com/blog-entry-softbank-alibaba3.html


さて、昨日スパイ会社ファーウェイの幹部が釈放されたそうです。
保釈金は8億だったとか。
保釈と言っても足首にGPS信号をつけさせられての保釈のようです。
そりゃスパイされまくったら困りますからね。


中国の報復の以下、カナダ元外交官を拘束が効いたのでしょうか。


中国というのはやることがエゲツない。

ちなみにこのファーウェイの幹部、孟晩舟さんがカナダで捕まった場所はバンクーバーです。

バンクーバーと言えば中国共産党の子弟が大挙して留学してる場所です。
他に、中国人留学生が多いのはアメリカのカリフォルニア州です。

知らないかもしれませんが、中国共産党の幹部の子弟達は大挙してアメリカ、カナダに留学してるのですね。
その数約100万人。

だいたい習近平の娘ですらハーバードに留学してるのですから。

それで10月に、トランプさんは中国の留学生はほとんどスパイだ!
と言ったのですたね。

中国、米国留学禁止を通達…米中貿易摩擦で米国による人質化を懸念、機密情報が中国に流出か

「Gettyimages」より
中国共産党指導部はこのほど、トランプ米大統領が「米国に来るほとんどすべての学生はスパイだ」との内容の発言を行ったことを受けて、北京や地方の党・政府組織に対して、「幹部子弟の米国留学の禁止および留学中の幹部子弟の年内帰国に関する通達」と題する内部文書を伝えたことが明らかになった。

米中貿易摩擦が激化し、両国関係が日増しに悪化するなか、党政府幹部子弟が「人質」化することや、 スパイの嫌疑をかけられて拘留されることなどを危惧するとともに、留学費用などで米国を経済的に利することを嫌ったためとみられる。

●留学生による機密情報の国外流出を懸念

米国国務省教育文化局などの調査によると、昨年6月末現在、米国の中国人留学生は前年比6.8%増の約35万人で、11年連続で増加中だ。

2016-2017年度における米国の大学の留学生数は前年比3.4%増の107万8800人だが、そのうち中国大陸部からの留学生の比率は32.5%を占めており、大半は中国における特権階級である党幹部の子弟とみられる。

同筋は「習近平国家主席の一人娘の習明沢さんがハーバード大学に留学していたのは有名だ。

で、昨日のジャック・マーさんの続きですが。

ジャック・マーさんは英語教師ですから、通訳としてアメリカに渡ってたのですね。

1995年。ジャック・マーさんはアメリカでヒントを得て、中国初の中国版イエローページを開設した。
それがアリババの始まりです。

で、ジャック・マーさんは留学中のあの江沢民のお孫さん江志成(こうしせい)さんと仲良しだったのですた。

以下が江志成(こうしせい)さんです。

確かに江沢民に似てる。

江志成さんは、2010年にハーバード大を卒業後、ゴールドマン・サックスで勤務していました。
ちなみに、父親の江綿恒さんもゴールドマン・サックスの幹部です。

で、その後、江志成さんは、香港で博裕キャピタルを設立しました。
ここには香港最大の金持ちの李嘉誠(リー・カシン)も出資した。

アリババにはこの江志成さんの博裕キャピタルが出資したのですた。

ちなみに共産党の常任委員劉雲山の子の国開キャピタルも出資しました。

つまり、ソフトバンクの孫さんがどこの馬の骨とも分からない英語教師の熱意にほだされて20億をポンと出資した。
という訳は全然なく。

ゴールドマン・サックス一派=江沢民が裏にいる。
同じ仲間だから20億をポンと出したのですた。

それにしても、なぜ中国共産党幹部の子弟がこんなにもアメリカに留学してるのでしょうか。
その理由が以下です。


中国高官たちはアメリカ移住がお好き 経済界

さて、中国高官(党・政府・国有企業で高位の人たち)や中国人大富豪は住みにくい中国大陸を捨て、移住先として、北米、特に、アメリカを目指す。 前者は、他の国・地域へ逃亡した人数を含め、計約1万8000人も及ぶという。

後者は、しばしば中国高官と関係が深い。
アリババ(阿里巴巴)のジャック・マー(馬雲)はその好例で、江沢民の孫、江志成、温家宝前首相の子、温雲松らに近いと言われる。

中国では政権が交代したら、その途端、今までの政策が一挙に変わることがある。
だから、中国高官らの地位・財産はもろくて危うい。また、大気・水・土壌・食品等の環境問題も深刻である。

そこで、中国高官や中国人大富豪は巨額のカネを入手した暁には、真っ先にアメリカへの移住を考える。

そのやり方は、

@弟を当地へ留学させる。

A愛人を当地の「愛人村」に住まわせる。

B妻が妊娠したら、当地の「出産センター」(「妊婦村」ともいう)へ送り、当地で子供を産ませる、などが考えられる。将来、自分と家族・親戚一同が移住するためである。

第1に、もし子供が米国籍を取得すれば、その両親は米国へ移住しやすい。

例えば、習近平は、彭麗媛との間の娘、習明沢を米ハーバード大学へ留学させている(2012年秋、習近平が総書記になる直前、明沢は帰国したと伝えられたが、実際は、大学卒業まで米国に滞在したようである)。また、李克強首相も娘を米国へ留学させていた。このように、党最高幹部子弟の大半が米留学している。

第2に、「愛人村」で有名なのは、米カリフォルニア州ロサンジェルス郊外のローランドハイツだろう(カナダではバンクーバー郊外にも同じような「愛人村」が存在する)。

中国高官らは、米国の永住権取得目的で豪邸を購入する。そして、愛人に財産管理をさせ、いざという時には、そこへ逃亡する算段である。 近年、中国では、愛人生活を送る若い中国人女性の暮らしぶりを描いた、薛曉?監督、湯唯主演の「北京遇上西雅図(Finding Mr.Right)」(邦題「北京ロマンinシアトル」)が人気を博した。

第3に、中国高官や中国人大富豪は、妻が妊娠して臨月間近になったら、旅行と見せかけて米国へ送り込む。そして、ロサンジェルスやニューヨークなどの大都市にある、中国人医師・看護師の待つ「出産センター」で子供を産ませる。出生地主義の米国では、その子供は必ず米国籍が取得できる。当然、その親も将来、米国籍を取得する権利が生じる。

中国共産党は、少なくても表向きは、アメリカを“敵視”している。同時に、共産党は、西側の価値観(自由や民主主義等)を明確に否定している。だが一方では、自分や家族・親戚が米国移住するための準備を着々と整えている。日本人には、この中国人の“現実主義的な考え方”がよく理解できないかもしれない。

ただ、習近平政権が誕生してから、「キツネ狩り」と称し、捜査官を米国へ派遣し、汚職高官を摘発、逮捕するよう努めている。しかし、現時点では、米中間に犯人引き渡し条約がない。中国共産党はオバマ政権に汚職高官の「ブラックリスト」を渡しているというが、その引き渡しに関しては、米国の高度な政治的判断がまたれる。

これも酷い。
日本で例えるなら自民党の幹部の子息、子女がみーんな米国留学してるってことです。

共産党の中央政治局の常務委員9人のうち、少なくとも5人の子や孫が米国留学とあります。



同紙は中国の特権階級が米国へ押し寄せる現象を「中国人の米国教育への憧れ」と指摘した。米国留学する中国人学生は過去15年で4倍に急増。中でも共産党高級幹部の子供たちは州立大など公立校へは行かず、ハーバード大など学費の高い有名私立大を目指すのが一般的。党の最高意思決定期間である中央政治局の常務委員9人のうち、少なくとも5人の子や孫が米国留学しているという。

過去の党最高指導者のうち、趙紫陽元総書記、江沢民前国家主席の孫がハーバード大に留学。留学費用の出所について唯一公開しているのは、先日失脚した薄煕来(ボー・シーライ)前重慶市党委員会書記の息子。薄前書記の正式年収は2万ドル(約160万円)足らずなのに対し、ハーバード大の学費は年約7万ドル(約560万円)だが、「奨学金と母親の貯蓄でまかなっている」と説明している。

さらに、次期最高指導者に決まっている習近平(シー・ジンピン)国家副主席の娘もハーバード大に留学中。中には仏パリで社交界デビューした高級幹部の娘もおり、世間からは「口では米国をののしりながら、子供は米国の奴隷になっている」と痛烈な批判も出ている。(翻訳・編集/AA)

まぁ、とにかくファーウェイ幹部がタイーホされ、ソフトバンクが通信障害になる。
同時期にフランスでデモが激化する。

それは中国子弟の留学組が作ったIT企業=アジアのロスチャイルド別動隊がやられてる。
経緯を知ればぜーんぶつながってると分かるというものでしょう。
https://golden-tamatama.com/blog-entry-softbank-alibaba3.html


▲△▽▼


2017.12.02
雅子様C@学歴 日本語も英語も話せない釣書詐欺
http://hiromihiromi.sakura.ne.jp/01/?p=4764

「日本で一番優秀な女性」という触れ込みで皇太子の妻になった小和田雅子さんですが、実際はどうだったんでしょうか。

学歴がすべてを決めるわけではありませんが、実は高学歴とは程遠い方。学歴ロンタリングのの見本のような方です。

学歴が高低がもんだいなのではなく、嘘をつくとろに問題があると思います。ざっと見てみましょう

語学力 日本語が不自由

帰国子女やバイリンガルの場合、日本語がおかしいことは、よくあることですが、高校2年まで日本で育った雅子さまは、帰国子女とは言いません。にもかわらず、「天照大神」を、てんてるだいじん、とよむ知能のレベルでした

音読すると、変さが、いっそう解ります。支離滅裂です。

クワガタ、けれども、クワガタ、けれども、クワガタ、クワガタ、、、

言語は思考の土台だと思うのですが、言語能力が低いということは、知能が高くないということではないのかしら。


テレビ朝日 スーパーモーニング

工藤雪枝氏(雅子様の友人)の発言、小和田優美子さんの代弁として
「英語でのカウンセリングを希望」
「日本語では敬語や皇室用語が負担」

しかしながら、雅子さん、その英語が話せないようです。


語学力 英語が不自由

雅子様の英語のスピーチって、おおまっぴらに公表されてないけど、人前で話せるレベルではないんでしょうね。

本当に堪能なら、「英語が堪能な優秀な雅子様」として、スピーチの動画をマスコミを通じて拡散に励むはず。実際は、日常会話の、英検1級がやっとのレベルらしいですね。一般人なら問題ないけど、外務省勤務で将来の女性大使候補。名門ハーバート大卒、英国名門大学留学、という経歴には無理がある実力です。

ご成婚後、海外の音楽家に「サインして」とねだったらしいですね。それだけでも、ちょっと問題があるとおもうのですが、雅子はsignしてくれと頼んだそうです。

日本では署名も、色紙のサインも同じくサインといいますが、

英語では、Autographs。

signとは、書類に署名するサインのこと。それぞれ違うものです。

音楽家は「sign??はあ??」ってなったらしい。雅子さんの英語力は、その程度のレベル。

2015年のトンガ王の即位式に参列した折、雅子に通訳が付いていたところをみると、本当に話せないらしいらしいですね。

※以下、ドス子wiki様よりお借りしてます。

http://ja.dosuko.wikia.com/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B5%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5


マサグリッシュとは、

雅子夫人が口にするトンデモ英語のこと。2008年10月9日、とある奥様により『English Journal』2008年11月号掲載のHayley Westenraさんインタビューで、2005年6月4日サントリーホールにてコンサート鑑賞した東宮夫妻が

“Oh, no, oh, wait, we want you to sign something for us!”

と超上流階級にあるまじき品のない表現でサインを求めたことが発見され、ヘイリーサインおねだり祭り・ウォンチュー祭りとなった。

『English Journal』2008年11月号

Hayley Westenraさんがインタビュー中で証言した雅子の台詞“Oh, no, oh, wait, we want you to sign something for us!”

Part1342-802 可愛い奥様 sage 2008/10/09(木) 12:20:51 ID:mG+LOOXnO
そんなにたいした記事ではありませんが
English Journal 2008,11号でちょっとだけ盆丼について書いてあったのでレポします。
Haylay Westenra へのロングインタビューの中に、
「A Royal Stir」という記事があり
2005年6月4日にのコンサートに盆丼が来て、その後歓談したと書いてあります。
・来ると言う予告はあったが、始まるまで来るか来ないかわからなかった。
・二人とも「lovely」だった。(かわいい?)
・警備がすごかった
・ヘンリーが「protocol」に従って歓談を終わらせようとしたら

「Oh,no,oh,wait,we want you to sign something for us」

と言われて、ちょっと時間が長引いてしまったら、ドアの向こうの警備がパニックになってしまった。
という話でした。

804 可愛い奥様 sage 2008/10/09(木) 12:23:18 ID:mG+LOOXnO
続き、、、
上の英語を話したのは丼かな〜と思います。
英語は勉強中なので詳しくはわかりませんが、上品な英語ではありませんよね。
ヘンリーはフジテレビドラマの白い巨塔の主題歌を歌っていたので
ミーハーな気持ちで見に行ったのかと思いましたが、
なんとユニセフ史上の最年少の大使でした。
あと、ニュージーランド出身だそうです。

804 可愛い奥様 sage 2008/10/09(木) 12:37:21 ID:mG+LOOXnO
EJは48ページです。

『English Journal』2008年11月号(ヘイリーさんの大きな顔写真が表紙)
http://www.yuko2ch.net/mako/mako/src/1225897331546.jpg

Hayley Westenraロングインタビューpp.48-49より

A Royal Stir(やんごとなき珍事)

2005年6月4日のコンサートを皇太子夫妻が鑑賞して、その後歓談したことについて:
・来ると言う予告はあったが、始まるまで来るか来ないかわからなかった(いつものことながら迷惑)
・二人とも「lovely」だった(とりあえず褒めておく時の無難で典型的な言葉)
・警備がすごかった
・ヘイリーが「protocol」に従って歓談を終わらせようとしたら

But on the second knock, I was like“Oh”, you know, “Thank you very much. Um, I’d better, better be going. I’d better let you go.”
And they’re like,“Oh, no, oh, wait, we want you to sign something for us!”
And so, I thought, “OK, well, I’ll, I’ll hang around then, and, um, better sign,”you know,
“Better do as they say.”And, um, not knowing that I was, you know, creating quite a stir outside.

アルク編集部がサインねだりにつけた対訳「いえいえ、ちょっと待って、何かにサインをしてちょうだい!」

マスコミ記事にて外務省で美しく正確な英語を話す、と散々宣伝されていた小和田雅子だが、
人にものを頼むときに「May I…」や「Would you…」を使うという初歩の初歩ができない
「sign」は書類に署名する場合に使い、有名人の所謂サインなら「autograph」を使うという、超初級英単語を知らなかった

…という、帰国子女(小中学校義務教育時期のほとんどを日本で過ごしている小和田雅子は厳密にはこの定義に当てはまらないが)ではありえない英語のレベルの低さが判明することになった。

転載以上

雅子「Oh,no,oh,wait,we want you to sign something for us」

・signサイン 書類にする署名

・autograph 署名、(有名人の)サイン

ハーバート大卒業したはずの雅子さんは、この違いが判らなかったということ。

語学力 ロシア語・フランス語は問題外

釣書にあったはずの、ロシア語、フランス語は、全くダメ。

ドイツ語が堪能野のは、紀子様のほう。ドイツ語圏の人が、紀子妃はドイツ語を流ちょうに話すと書かれていたのだから、間違いなさそう。

雅子の場合、子供の障害や同和の出自や婚前の堕胎経験など自分の恥は紀子様にスライドして流布させ、紀子様のお手柄は自分のものにしているみたいですね。何語なら、まっとうに話せるのかしら。朝鮮語??

雅子様の「華麗な」学歴も経歴も全部無試験、親のコネ

・学習院初等部をうけるも落ちた。双葉には、なんども落ちた。

・双子の妹がうかったとき、お情けで入学を許された。

・高校2年生のとき、親とともに渡米。

この渡米も退学も意味が不明だとか。

大学受験もあるのに、中途半端な時期に日本の高校を退学して、わざわざレベルの低い米国の公立高校へ編入というのも不思議な話です。

アメリカの公立高校はレベルが低く、ちょっと勉強したらAが取れるそうですが、それでも雅子の成績は悪かったそうです。勉強ができない子のクラスに移動させようとすると、父親が乗り込んできて文句をいったそうで、、、どっかで聞いた話ですね。

紀子様はご成婚前になんども堕胎した。怒った川嶋教授が御所に乗り込み、「なんども堕胎さえやがって」「うちの娘を殺すきか」と天皇に詰めよった、という創価学会が流している流説に似てます。

アメリカの学校への転校の理由としては、雅子が学業がついていけない、あるいは、堕胎する必要ができるなどの不祥事をおこした、、、、など、理由があったとみなしたほうがよさそうです。

双子の妹は日本に残してますので、雅子だけ連れてというのもおかしな話です。雅子は、英語ができない子のクラスから上がれないままのレベルのままでした。

ハーバート大卒

実際に入学したのはラドグリフ女子大。14年後にハーバートに吸収されたので、小和田家は「ハーバート大卒」といいはっているだけ。

しかも、ハーバート大付属の女子大に父のコネで入学。試験なし。

卒論は、父のコネの大物のインタビューをまとめたもの。雅子さんが書いたかどうか不明。おそらくは代筆では??それでも優を取れなかった雅子さん。

東大

面接のみでの編入。ひとつも単位をとれず、ろくに授業も受けず、父のコネで職員の子弟枠をつかって外務省に入省。

外務省入省

父のコネで、子弟枠(今は廃止)をつかっての面接のみので入省。

省内では、仕事ができない人で有名だった。遅刻の常習犯。けじめがなく、小和田外務次官を「お父様」とよび、通勤手当をもらいながら車で通勤。通訳に呼ぶと、通訳が出来なくて泣く。できる仕事はコピーだけ。ついたあだ名がコピー番長。

当時、不倫をしていたのは省内でも有名な話らしい。すくなくとも、2人の不倫相手がいたらしい。

ひとりは、奥参事官。赴任先のイラクで「流れ弾にあったって」亡くなった方。しかし状況的に流れ弾がとんでくるなど、状況的に見てありえないという。

レベルの低いアメリカの公立高校の成績も、学力が低いクラスから抜け出せなかった雅子さん。

2015年のトンガ王国の戴冠式に参列した時は、通訳が付いてましたので、ハーバート大學どころか、付属の女子大も実力ではは無理でしょう。

オックスフォード大

外務省から国費留学させてもらうも、一人だけ学士がとれず帰国。

毎週洗濯物を抱えて、親がいるフランスへ渡ってたそうな。

この間、福田元首相の甥と恋愛関係にあり婚約まで発展。ほかにも付き合っていた彼氏がいたうえに、浩宮徳仁親王とはコルマールのホテルに同宿したことが確認されてます。「運命の出会い」とされているスペイン王女のパーティーでの出会いよりも数年前の話です。

もともと、「留学」の意味が解ってなかったのかもしれません。
http://hiromihiromi.sakura.ne.jp/01/?p=4764


知られざる高円宮家の真実 狙われた皇室
 
高円宮憲仁親王とワールドメイト
ワールドメイトという団体。神道をベースにした新興宗教らしい。
規模は小さく、表立って大きな問題を起こした事はないがこの団体はかなりあやしい。この団体に所属すると霊体のおでこ?に菊のご紋が現れるらしい。神霊界の皇族?となるとのこと。(知人からの受け売り)とにかく、あやしい。

新興宗教を信じるのも所属するのも個々の自由。
その是非をここでとやかく言うつもりはない。
許せないのは、紀子様の悪口を言いふらしていること。

知人が洗脳されている。
得意げに「紀子が…」と呼び捨てにし、ののしっている目は逝っている。そしてしめくくりは雅子さまおかわいそう。最終しめくくりはF先生は明治天皇の生まれ変わり(だからF氏のいうことに間違いはないということらしい)??………

F氏は、雅子さんが流産された時に、紀子様の親族が稲荷信仰をしていて呪いをかけたと言ったという。紀子様が御懐妊された今、組織ぐるみで紀子様の悪口を言っている。

同じようなことはもっと巨大な某宗教団体でもやっている。しかももっと巧妙な手口で紀子様や秋篠宮家の悪口を広めているとの事。どう考えても、皇室という組織に順応し、祭祀を真摯にこなしているのは紀子様の方。その方がなぜ誹られなければならないのか。今の東宮夫妻はおかしな勢力に利用されやすそうな危うさがあり、その結果、皇室が破壊されるのではないかと心配。

F氏は故高円宮殿下の知り合い。
高円宮殿下は生前紀子さまの悪口を言っていた。

高円宮殿下は外務省の外郭団体勤務。
外務省と言えばあの父娘。そっちにつながるのか。
2006-07-07


紀子様の悪口や根拠のないうわさ話を撒き散らしている集団は他にも○○学会があるが あちらは、皇室を破壊したいという目的が見えているがワールドメイトの目的は…一体何なのだろう。


高円宮殿下と教祖深見氏の仕事関係のつながり。

高円宮殿下は、秋篠宮家創設によって公務に呼ばれる回数が激減したので紀子様を快く思っていなかったこと。高円宮殿下は、外務省とも接点があり、雅子擁護だということ。だから紀子様の悪口を言い続けていたし、いじめてもいたとのこと。その悪口に乗ったのが、権力にすりよりたい深見氏だったのでは…という話もある。

高円宮様が若くしてお亡くなりになったのは日本を守っている神様からの罰?今現在、親王様誕生について深見氏が会員にどのように言っているのかはわからないがおそらくよい受け止め方はしていないだろうと思う。

呪詛なんかしていなければいいけど。
でも呪詛したところで効果はないという気もする。
平成13年からおかわいそうなマサコサマのために豆木とやらでお祈りしているようだが マサコさんってこの頃からおかしくなりはじめたのではないだろうか(もともとおかしいという話もあるが)

このあと愛子さんは生まれたけれど、こんなことを言ってはなんだがワールドメイトの目論見通りの子ではないだろう。
2006-09-16

高円宮憲仁親王と久子妃


1984年4月23日 カナダ大使館のレセプションパーティーでカナダに留学経験のある憲仁親王と鳥取久子嬢が出逢う。同年5月6日 三笠宮殿下が鳥取久子嬢に「うちの憲仁をどう思うか?」とご質問、既に鳥取久子嬢の経歴と家系を調査済みでお妃候補に入っていたようだ。5月20日 憲仁親王が英語でプロポーズ「Will you marry me?」「Yes」。久子嬢の父は鳥取滋治郎(当時は東邦物産専務)、母二三子さんの祖母君・曾我晃子さんは元貴族議員・曾我祐邦子爵夫人、晃子さんの父君は鷹司熙通公爵。結婚後に高円宮家が創設された。

三笠宮崇仁親王が総裁を務めた第31回国際アジア・北アフリカ人文科学会議で、三笠宮の通訳・助手を務めたことがあり、そこから白羽の矢が立った模様。結婚前、旧姓の「鳥取」と「久子」のバランスが悪いため、仕事の際は「恒久子」という名前の名刺を使っていた。恒という文字が雅子妃の実父の小和田恒の名前と関係があるのかどうかは不明だが、久子妃は雅子妃の実母、小和田優美子とは旧知の間柄。当然、皇太子の結婚前から小和田家とも面識や交流があったと推測される。

憲仁親王は、1978年に学習院大学法学部卒業後、同年から1981年までカナダのクイーンズ大学に留学。帰国後は外務省の外郭団体である国際交流基金(現在は独立行政法人)で嘱託として働いていた。国際交流基金は完全に外務省のテリトリーであり、高円宮は国際交流基金を通じて外務省とつながっていた。当時、外務省の高官だった小和田恒にとっては、まさしく娘を皇太子妃として送り込むための千載一遇の好機が揃っていたわけである。


雅子妃入内の手引きをした高円宮憲仁親王

『美智子さまから雅子さまへ プリンセスへの道』河原敏明、ネスコ(1993年) p65-66より引用

入省して三週間目の四月二十五日に、雅子さまは高円宮邸に一人招かれる。高円宮ご夫妻と浩宮、雅子さまの四人だけだった。英国人カップルも招かれていたが、「都合で欠席」とされた。お二人は、高円宮夫妻とともに会食した。浩宮は、同年三月に訪問したネパール、ブータン、インドのアルバムを用意していた。写真は浩宮がご自分で撮ったものである。

・・中略・・

話ははずみ、たった四人のホームパーティは、数時間にもおよんだ。雅子さまがその日帰宅したのは、夜遅くなってからだった。

『サンデー毎日』1993/1/24号<愛を“予言”し、初めての出会いをセット・高円宮憲仁親王殿下 p25-26より引用


キューピッド説の根拠は、皇太子さまがネパールなど三ヶ国旅行から帰国後の一九八七年四月二十五日、高円宮ご夫妻がお二人を自邸に招き、ホームパーティーを開いたことにある。高円宮さまは、「殿下にご旅行の話を聞こうとお招きし、小和田さんは有望な女性外交官でもあり(注:まさにこの年、全く同じ月の1日付で小和田雅子が外務省に入省したばかりである)、話題も合うと思って、一度ご一緒の機会を作りました」と明かされる。

が、宮家関係者によると、ご夫妻が雅子さんを宮邸に招き、そこへ皇太子さまが訪問されるという形をとったが、実際は皇太子さまが一足早く着き、雅子さんを出迎えられ、雅子さんは驚いた様子だったという。


四人は夕食をともにし、食後、皇太子さまは数日前から用意、宮邸に持参された三ヶ国旅行や留学時のアルバムを見せて、思い出などを語られた。その際、皇太子さまは主に高円宮さまと話されたため、宮妃の久子さまが雅子さんの相手を務める形になったが、雅子さんが自分の将来や外交官としての抱負をハキハキと答えるのを見て、英国留学で現地の学生が自分の意見をはっきり主張している点に感銘を受けていた皇太子さまが、雅子さんに強い印象を持たれたという。

「実は久子さまが雅子さんの母親と旧知の間柄で、娘が女性外交官を目指しているのを知り、一度ぜひ、皇太子さまに紹介したいと思われていたようです」(宮家関係者)この日は話がはずみ、雅子さんが帰宅したのは午前一時を過ぎていたともいう。

だが、高円宮さまとお二人の関係は、実はもっと古くからだったのである。「お二人の出会いは八六年十月、東宮御所で開かれたスペインのエレナ王女歓迎パーティーですが、当時、東大の学生だった雅子さんを招いたのは、実は高円宮さまだったのです」 こう明かすのはある皇室関係者。

 ・・中略・・

高円宮さま自身、「小和田さんほど皇太子妃にピッタリの素敵な女性はいないんじゃないか」と度々、漏らされている。

雅子妃入内には、高円宮だけでなく、小和田、外務省(創価学会)、マスコミによる執拗な工作も行われた。


参考サイト

ドス子の事件簿 マコオタ画像集(雅子関係)
http://wiki.livedoor.jp/dosukono/d/%a5%de%a5%b3%a5%aa%a5%bf%b2%e8%c1%fc%bd%b8%a1%ca%b2%ed%bb%d2%b4%d8%b7%b8%a1%cb%a3%b1
http://wiki.livedoor.jp/dosukono/d/%a5%de%a5%b3%a5%aa%a5%bf%b2%e8%c1%fc%bd%b8%a1%ca%b2%ed%bb%d2%b4%d8%b7%b8%a1%cb%a3%b2


1992年8月16日には、皇太子と小和田雅子の5年ぶりの再会デートが、柳谷謙介・元外務次官宅で突然セッティングされるという奇妙な事態も起きる。雅子妃との結婚を反対していた昭和帝の崩御を待っていたかのようなタイミングだった。何かが動いていた。


小和田、高円宮、外務省、創価学会

参考サイト
http://kabanehosi.up.seesaa.net/image/takamado.txt


ある皇室記者

昭和帝の御意志や雅子妃の背後の事情を無視し、皇太子殿下と雅子妃の仲を、自宅を提供してまで取り持った高円宮殿下(故人)と、佳子さまをご出産された後の秋篠宮紀子妃殿下に、出産を控えるように圧力を掛けたとされる久子妃に対して、自分は全く敬意を払っていないし、好意的な考えも持っていない。

秋篠様を貶める記事に苦情を言っても「しかるべき筋からの話だから」と出版社が取り合わなかったそうだ。しかるべき筋=高円宮だと考えられる、とのこと

高円宮様は、秋篠宮様ご成婚時、自分たちがいるから彼らに公務の依頼は殆どないのじゃないか?と発言

秋篠宮様に仕事を獲られるのが怖くてあらぬ噂を流していたとも言われている。

新しく皇族に入った人に対する言葉ではない、一緒に皇室を支えて行こうというのではなくて「オレ様より目立つな、青年皇族はオレ様」的発言という解釈をした人も中にはいた。


(新聞記者証言)
秋篠宮ご一家の創作悪口を内外に言いふらし、媒体で嫌味な発言連発したのは高円様。高円宮様が皇太子を取り込んでから皇太子と秋篠宮家は疎遠になった。

なにより、雅子さま入内を推していたのは高円宮様。高円宮様が亡くなって皇太子夫妻がおかしいのが表面化したのを考えると、彼が皇太子サイドで相当動いていたんだろうと想像出来る。


皇室関係者

紀子様の都市伝説関係が浮上したのは雅子さんが結婚する1,2年前 流していたのは創価、外務省、高円宮さま

雅子さんの不出来を薄めるため、あるいは紀子様になすりつけるという目的があったといわれている。その後渋谷氏(のちに雅子妃の妹節子さんと結婚)を通じて医療関係者に噂を広げた。各地で医学部教授等が偽の噂を得意気に吹聴する姿が目撃されている。


故人と交流のあった人間

高円宮様は一見気さくそうに見えて 実は最も階級意識の強い人だったらしい。紀子様のご実家をバカにしきっていた。高円宮様は皇太子には媚びて 秋篠宮様のことは悪口言いまくっていた。


M氏
高円宮様はもともと外務省と関係の深い人。宮家といえど台所事情は楽じゃなかったから仕事もしていた。だから恒が取り込みやすかった。しょせん世間知らずの宮様なんて、海千山千にかかったらちょろいもの。

K氏
小和田恒氏と鳥取久子さん(高円宮久子)の噂は?高円宮様は国民と皇室の架け橋などと言っていたけど、基金集めでは色々黒い噂もあった。高円宮様がお亡くなりになってからは秋篠夫妻の誹謗中傷が止んだ。

H氏
あのお方が皇太子を応援していたのは「皇太子」だからでしょう。雅子さんとあのお方で秋篠夫妻の文句でも言っていたことも。

ある記者
承子さんの成人コメントでも紀子妃懐妊については無視だった。高円宮様が紀子様を貶める発言を広めていた。あることないことまで噂を言いふらしていた。高円宮様がお亡くなりになってから、あきらかに流れが変わった。(小和田家親族や学会がらみの擁護派からの古い捏造話の蒸し返し以外はなくなった)秋篠宮様ご成婚時の、特別報道番組内で「秋篠宮ご夫妻が担われるお仕事は、殆どないだろうと発言。…テープカットとか、シャンパン片手に乾杯とか、その手の公務そういう、華やかな場面の公務は自分達が請け負っているから、秋篠宮ご夫妻には、殆ど回らないと。蓋を開けたら、秋篠宮ご夫妻は大忙し→気に食わないという流れがあったことは確かです。


小和田雅子さんが皇太子妃候補として名前が出てくるきっかけを作ったのは、高円宮様。未来の天皇の皇太子夫妻にはおべっかつかって持ち上げていた。必要以上に庶民派ぶっていたが実はプライドは高く腹黒い面もあった。皇太子と雅子を結びつけたのは高円宮。それに優美子さんと久子様は知り合い。高円宮様亡きあと、久子様があの2人の相談相手に引き続きなっていても良いだろうに、全然でてこない。

森下洋子と高円宮様の対談番組を見たことがあるけど、なんというか、相手に対する物言いが、高飛車で傲慢。どことなく意地悪さを含んだ感じだった。高円宮様は、「皇居、赤坂御所には農薬や除草剤のせいで虫一匹いない」などと平然と嘘をつく人。高円宮様は、頭の構造がちょっとおかしい人みたいだが雅子さんのことは自分サイドの人間だと思っていた。外国通で、賢いデキル女だと。これを皇太子殿下にくっつけておけば、皇太子は安泰。雅子さんと同じサイドにいる自分も安泰。という発想。

率直に言うと秋篠宮殿下はたいした事ない男だと見くびっていた
成人していざ蓋を開けてみたら良い妻を娶り、祭祀も公務も研究にも熱心で両陛下の信頼もあつく、男性皇族として申し分ないお方になった。これらは両陛下をはじめ良識派の皇室の方々にとっては大変喜ばしく、一方で勝ち馬に乗った筈の人間にとっては大誤算で痛恨の出来事だった。


皇太子夫妻の結婚式当日、微妙な表情の各皇族方と一人得意げな高円宮。その視線の先は・・・


謎に満ちた高円宮憲仁親王の突然死

2002年5月末に夫妻で韓国を公式訪問し、日韓W杯の開会式に出席した。日本の皇族の韓国への公式訪問は戦後初だったが、同年11月21日、カナダ大使館にてスカッシュの練習を行っていた最中に心室細動による心不全で倒れた。

直ちに慶應義塾大学病院に搬送されるも、すでに心肺停止の状態だった。蘇生措置がとられ一時は心拍が確認されるも、夜半になって容態が悪化。久子妃の同意を得て人工心肺装置を取り外したところ、生命反応がなく死亡が確認された。 享年47歳。

あの国のあの法則なのか、事故なのか、天罰なのか、今となっては分からないが、皇族としてはあまりにも早すぎる死であった。


(コメント)

今回の記事を書いて、自分の中では雅子妃入内の陰謀の解明については一段落付いたように感じている。外務省の中には、大鳳会という400人以上の創価閥があり、外務省=大鳳会という場合も少なくない。

故・高円宮憲仁親王はその外務省と外郭団体を通じてつながっており、皇室の内部から様々な工作を行っていたようである。久子妃は小和田家とつながっており、高円宮家は雅子妃入内のために働いてもらうには打って付けの皇族だったのだろうと思う。

高円宮憲仁親王(以下高円宮)の逆恨みと利害の一致による協力も加わり、マスコミ、外務省(創価学会)、小和田家の工作と併せて、昭和帝の崩御後、雅子妃の入内がまんまと成功したのだろうと推測している。

生前の高円宮の暗躍ぶりには興味があるが、やったことが裏目に出てしまい、本人も早逝し、事ここに到っては悪名を残すばかりである。スポーツ振興に貢献した宮様として、ウィキペディアなどでは持ち上げられているが、少なくともこのブログで褒め称えることはまずないだろう。皇室に対する功罪を相殺すれば、あきらかに罪の方が多いように感じられるからである。


高円宮家の長女である承子女王は、成人を迎えた際の記者会見で、紀子さま御懐妊と紀宮様のご結婚について感想を求められて華麗に無視したが、家で秋篠宮家の根も葉もない悪口を吹き込まれていたので答える気にならなかったのだろう。要領の良い人間なら、もう少し思慮深い行動をすると思うが、ブログ騒動の件を見ても分かるように、母君の薫陶が良く行き届いていると言うべきだろうか。
http://koramu2.blog59.fc2.com/blog-entry-746.html
http://blog-imgs-19-origin.fc2.com/o/o/y/ooyasimaneko/20090927085845fae.txt


2017.12.02
雅子様➄@皇太子妃雅子様と後藤組と創価学会の素敵な関係
http://hiromihiromi.sakura.ne.jp/01/?p=4805


続きです。

親王妃の学歴が低くても、ご本人の気質が真面目で素晴らしければいいのではないのか、と思われる方も多いかもしれませんが、祭祀王の家系たる皇室に嫁ぐ方は、皇室とその信仰に適応していただかなくてはならないと思います。それができないなら、最初から皇室に嫁がなければよく、嫁いだ後も適応できないのなら、離婚されて同じ信仰のかたと再婚されればいいだけの話。

今更ですが、小和田雅子は創価学会員です。

創価の三色旗が振られるパレード。君が代が排除された異様な皇太子の成婚式でした。


今更ですが、小和田雅子は池田大作の落胤と言われています。

ほかにも池田大作の落胤と言われている人もいます。あくまで噂ですが。

Will 2016年10月号
内外に蠢く皇室を潰したい勢力(河添恵子氏)

p232〜
国連大学本部ビル前で聞いた話

皇室典範に触れた質問が、初めて飛び出してから13年を経た今年3月、国連の女子差別撤廃委員会が日本に関してまとめた最終見解案に、「皇室典範の改正を求める勧告が盛り込まれた」と報じられたのは記憶に新しい。
日本側が抗議して削除を要請したことで、皇室典範に関する記述は消えたが、日本側に提示された最終見解案は、「委員会は既存の差別的な規定に関するこれまでの勧告に、対応がされていないことを遺憾に思う」と前置きし、「特に懸念を有している」として、「皇室典範に男系男子の皇族のみに皇位継承権が継承されるとの規定を有している」と挙げた。その上で、母方の系統に天皇を持つ女系の女子にも「皇位継承が可能となるよう皇室典範を改正すべきだ」と勧告した。

国連と関連づけたくなる、もう一つ別の理由もある。私の脳裏にこびりついて離れない話があるためだ。(中略)
創価学会の幹部A氏が、青山通りに面した国連大学本部ビルの前で上を指さしながら、私にこう語った。
「この最上階に雅子さまの執務室がある。裏側に専用エレベーターがあって、誰にも会うことなく部屋まで行かれる。雅子さまは毎日のように、こちらに通われている」
唐突なこの話に、私はおそらくこんな反応をした。
「え? 適応障害でご公務はお休みなのに・・・。毎日こちらで何をされているのでしょう? 確かに雅子さまは、国連大使までされたお父様をとても信頼されているようだけど」
(中略)
ただ、次の言葉にある種のショックを受けた。
「雅子さまの執務室を誰が用意したのか知っている? 池田大作先生だよ」
何か聞いてはいけないことを聞いてしまった、そんな気持ちが私の心を強く支配した。
以来、国連大学本部ビル周辺を通るたびに、この話を思い出すのだが、A氏が嘘を言う理由も考えられない上で、事実をこの目で確かめる術もなく、何より不用意に他言すべきではないと胸に収めていた。ただ、小和田家、東宮が国連や創価学会に近いことは、客観的な報道等からも徐々に知るようになっていく。
2008年6月、ブラジル連邦共和国のバラナ州で行われた日本人移住百周年を慶祝する記念式典に、皇太子さま、副大統領、州知事などの他、「式典委員会からの招聘を受けた池田SGI(創価学会インターナショナル)会長の名代として池田博正SGI副会長が出席したことが「聖教新聞」(同年7月1日号)に報じられている。
また、昨年3月には天皇、皇后両陛下が、国連防災世界会議で来日中の潘 基文(パンギムン)事務総長夫妻と仙台市内で会われたが、皇太子ご夫妻も総長夫妻と東宮御所で面談された。2007年から国連水と衛生に関する諮問委員会(UNSGAB)の名誉総裁となった皇太子さまは、昨年11月にニューヨーク国連大学本部に招かれ、基調講演を行っている。

※創価学会の新聞・聖教新聞。ブラジル訪問時、創価学会の大会に参加した皇太子徳仁。池田大作の息子が同列にならんでいるのがわかります。


異教徒どうしの結婚は認めないはず。皇太子徳仁は、創価学会に改宗している疑惑がありますね。

今更ですが、雅子は鳥居がくぐれない人。当然、祭祀は不可能。

天皇家は神道の祭祀王の家系ですが、天皇家に嫁いでおきながら、鳥居がくぐれません。

神武天皇陵参拝時の雅子。嫌悪感まるだし。

白人王族を前にした雅子

幸せいっぱい、歓喜にみちた雅子様のお顔

「、、、、、、、、、、、、、」


今更ですが、小和田雅子は北朝鮮系です。

三代前から家系が遡れません。北朝鮮の不法移民が新潟の朝鮮部落に住み着き、日本人に背乗りしたと思われます。

当時、朝鮮は日本領でしたから普通に行き来が出来ましたし、半島民にも戸籍が与えられていました。学校にも通えましたし、選挙権もありました。にもかかわらず、わざわざ、新潟までながれてきて日本人に背乗りするには、小和田家の先祖には、それなりの事情があったのではないのでしょうか。

※詳細はこちら

もちろん、雅子が朝鮮系であることは、南朝鮮人も知っています。愛子が生まれたときは大喜びで,ハワイの記念館に銅像を作りました。

今更ですが、小和田雅子とその夫は北朝鮮の将軍様の配下の工作員ではないのか

忠節と奉公の報酬に、朝鮮の犬珍島犬を下賜されました。

2に匹の犬は、大切に御所で飼われていました。

創価学会・池田大作会長は、朝鮮系であるといううわさが絶えない。

某掲示板のレス

1.朝鮮(東京都大田区大森北)出身
2.子供時代に父から朝鮮語を習った
3.父と母の氏名が不明確と言われている
4.成長とともに在日朝鮮人と多くであった
5.ところどころで朝鮮語風の発音をする。例えば、大臣をデージンと言う。
6.朝鮮人を擁護する発言が多い

以上

学会の上層部は、東大卒の在日もしくは朝鮮系が占めており、学会員を支配しているという。

こうした支配層の学会員は、出世にはばかるので、学会の名簿に名前が載らないそうです。小和田恒もその一人でしょう。


今更ですが、今は解散した後藤組は、創価学会の暴力装置でした。

世界的な映画監督を自殺に見せかけて殺害を実行したのは、この後藤組ではないかといわれています。

さらには、後藤組組長は、池田大作から、亀井静香元議員の殺害も依頼されたとか。

#114 2017/02/11 15:24

おまけ(笑)

877 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/02/11(土) 13:59:28.34 id:jSCd/Ep1
創価学会本部 発砲事件

暴力団「後藤組」と決裂した創価学会は、
後藤組を解散させるため公明党を利用して警視庁・県警に圧力を掛けたという。
その後、管轄内に「暴力団対策本部」が設置された。
組の事務所は捜索され、組員はマナー違反など微罪ともいえない理由で逮捕され不当な扱いを受けたとしている。
教団に裏切られたと判断した組員は、創価学会本部で発砲事件を起こし、
池田会長が入院している病院の先々でも組員が発砲事件を起こしたという。

組長は「池田は相当ビビっただろうな」と自身の著書で振り返った。
創価学会との抗争については、後藤組組長の著書「憚りながら」をお読みください。

今更ですが、雅子は後藤組と何らかのつながりがあった可能性があります

※皇室掲示板より

無題 Name 名無し 17/04/13(木)20:53 id:tjAzK1fQ No.1966533
ここから髪の毛をどんどん伸ばし始めたんだよね。

何があったのだろう。

オウムみたいで気味が悪かった。

… 無題 Name 名無し 17/04/14(金)10:22 id:B2HIUCzg No.1966955
そりゃああのアヘ顔写真が出たからでしょ。

無題 Name 名無し 15/05/17(日)20:01 id:xpeiLuZU No.1335226

>誰が流失させたの?

隠し撮りされたのだから、流出元は分からないかも?
雅子のお相手が自ら流出させるとも思えないし…。
国連大学に隠しカメラを仕掛けたヤツが犯人では?

無題 Name 名無し 15/05/17(日)21:28 ID:r.Oh9U8E No.1335346
こんな写真を入手できるのは普通の人間じゃないでしょうね。
解散させられた後藤組関係者じゃないの?
マイバッハ、国連大学、六本木夜遊び、一連の流れは悠仁親王誕生後から。
親王誕生で雅子ブチギレはある程度容認されたが、おかしな交際が度を越したんで後藤組解散まで行ったんじゃないの?

後藤忠政は雅子さんが出入りしていた六本木ヒルズに住んでたんだよね。
雅子さんが六本木ヒルズの会員制クラブに出没していたのは当時の御一行に書かれていた。

>529 :名無しさん@13周年:2013/04/07(日) 20:45:32.86 id:f1vvl+lj0
>雅子マイバッハに乗車  ←マイバッハ後藤組所有
>雅子六本木ヒルズ入り浸り←六本木ヒルズ地上げ+後藤組最上階居住
>東宮夫妻+小和田家煎餅疑惑 ←後藤組煎餅と癒着

… 無題 Name 名無し 15/05/17(日)21:42 ID:r.Oh9U8E No.1335410
>後藤組は山口組内の「武闘派」という半面、「経済ヤクザ」としても知られ、大きな資金力を背景に山口組内での発言力も大きかった。

これが突如解散。
よほどのことがあったとしか思えない。
皇室絡みなら納得。

… 無題 Name 名無し 15/05/17(日)21:47 ID:r.Oh9U8E No.1335437
2007年の週刊現代

>・六本木ヒルズ最上階の会員制クラブでも知人と一緒のところを目撃されている
「外出が「治療目的」と言われればそうかもしれないが、伝統的な皇室の姿とは乖離している。治療方針を国民にわかりやすく説明すべき」(皇室ジャーナリスト)

後藤組解散 2008年秋

… 無題 Name 名無し 15/05/17(日)21:47 ID:0UHg8zgc No.1335441
やっぱ相手は組長なんすか?
そんな疑念を持たれる皇太子妃とかないわ

(以上)


後藤組と雅子さまの疑惑

・後藤組という暴力団があったそうな。

・創価学会の暴力装置だったそうな。

・ある時期、創価学会・池田会長の落胤「皇太子妃」雅子はしきりに後藤組に関連する場所に出没していたそうな。

・さらには、後藤組の所有と思われるマイバッハに乗っていたそうな。

・後藤組の組長が創価の「なんらかの」弱みを握り、学会を恐喝したそうな。

・失敗したそうな。

・組長はカンボジアに逃亡し、組は解散したそうな。

・組長は、カンボジアで伯爵になったそうな。

2005年 愛知万博

2006年08月 皇太子一家オランダ静養

2006年10月

東宮夫妻、第58回正倉院展鑑賞(奈良国立博物館)、京都御所視察 (宮内庁HP)

髪の長さから見て、これが雅子だとしたら、2005年あたりでしょうか。

2008年10月、後藤組解散

後藤組組長。6代目山口組の除籍処分を受け入れて引退

雅子の男たち

雅子の元カレたちは、顔長い、眼鏡、大鼻、長身、戸籍上の父・小和田恒に似ている男ばかり。

後藤組長は、雅子の好みかな??

カンボジアで伯爵になった後藤元組長。低身長ではなさそう。眼鏡かけてますね。

雅子は、主治医の大野医師とも関係があったといわれてますね。

組長も一緒に並べてみましょ。

眼鏡かけているし、顔が長いし鼻も大きいし、違和感なし。どうしよう。

掲示板のコメントにもありましたが、これが国連大学の池田大作が用意した部屋で、相手が現役の暴力団組長だったら笑いますね。

そういえば、雅子の母方の祖父は、写真家のユージン・スミスや水俣の被害者さまたちをヤクザを使って暴行させた鬼畜でした。つまりは江頭は経営者に化けたヤクザだったということです。雅子と後藤はヤクザ同士なので、同種なので引き合ったのかも。

雅子様はご病気ではなく、ただ畜生化しているだけのはなし

人間を人間たらしめているもの、知性、理性、思いやり、向上心、努力、道徳、、、これらを放棄しながら、ただ欲望のままに生きてた雅子。

病んでいるという言葉は使いたくないわ。本当に病を得ている方に失礼だもの。

雅子は、人間を人間たらしめているものを放棄しながら生きた末に、動物化しただけ。それだけの話だと思う。

週刊文春2015年12月31・2016年1月7日号

近年、雅子さまの母・優美子さんはある皇室ジャーナリストにこう語ったという。
「親馬鹿だと思われるかもしれませんが、私は妃殿下が心配なのです。妃殿下はありのままの人なのだから、演技はできない。何かあると『小和田家か悪い』と言われるけれど……。
日本も皇室も変らなければ」

以上

大切なのは雅子ではなく皇室なのですが、、、

公私のケジメのなさ、泥棒癖、水俣病問題にみられる残忍性、、江頭家も、日本人ばなれしたところがめだちますね。母親の小和田優美子(旧姓江頭)の実家の江頭家に関しては、雅子の本家筋の芸人が「部落なんだ」とカミングアウトしているそうです。

が、日本の部落にルーツがあっても、やはり日本人は日本人としてのケジメやモラルを吸収しながら成長すると思います。

半島にも昔からの階級があり、個人もそれぞれ個性があり、善悪賢愚、いろんな方がいますので一概にいえませんが、もしかしたら、小和田家だけではなく、江頭家も「半島の最下層・犯罪層」からきた背乗り家系かもしれないと疑う余地があります。

皇太子のツマ、親王妃という究極の公人には、公私のケジメがなく、というかそれ以前に、「公」という観念がかけている人は相応しくないでしょう。
http://hiromihiromi.sakura.ne.jp/01/?p=4805



▲△▽▼

小和田雅子 取り巻く男たち(外務省時代の彼氏・・・・) 2013年05月16日
https://ameblo.jp/9023410651/entry-11523618963.html
 雅子は、白人・アラブ系の大使や来賓とは会っているのに、他人種の大使や
来賓とは会わない。(あきらかな人種差別的行為と言える)
昭和天皇妃の葬儀は欠席し、自分の母方の祖父の江頭豊の葬儀には、皇太子
に愛子ともども3日も参列した。
事実だけを連ねるだけで、その醜悪さが知れる。

 母方の祖父、江頭豊(えがしらゆたか)は、江頭安太郎の3男で、江頭家は
佐賀藩主鍋島家の下級藩士と伝えられているが、史料や系図が一切なく、
賤しい出自であると考えられる。(部落出身との噂がある)

 佐賀鍋島藩と言えば、藩校での成績で、家禄を減らすという歪な教育偏重を
行った藩として知られる。「佐賀んもんの通った後はペンペン草も生えん。」と
謂われ、平野しかないため、資源がなく、雑草1本でも拾って肥料にした。
出身者は独りよがりで意地汚く、潔くない、「鬼畜」と呼ばれる人材が多い。

 母方の祖父、江頭豊は、日本興業銀行から、水俣病を引き起こしたチッソに
専務として入った。社長時代、水俣病の原因が工場にあると知りながら稼働し
続け、患者や家族に謝罪はしても補償に応じず、悪質なデマを流し、患者や
家族を冒瀆し続けた。

会長時代の1972年1月7日、千葉県市原市のチッソ石油化学五井工場で、警備
員(暴力団員)ら約200人に、自主交渉派の被害者ら15人を集団で襲わせた。
「ライフ」誌などに水俣病の現実を発表し続け、「MINAMATA」を世界に知らせた
写真家、ユージン・スミス(53)と妻のアイリーン・美緒子・スミス(21)が同行して
いたが、この江頭豊の指示で暴力団にカメラを壊され脊椎を折られ、片目失明
の重症を負い、アイリーン・美緒子・スミスは強姦された。ユージン・スミスは
時間とエネルギーを写真に向けるため告訴せず、アイリーン・美緒子・スミスと
離婚後の1978年10月、アメリカで後遺症が元で発作を起こし死亡。

1999年、ユージン・スミスの娘も14歳で強姦されている。江頭豊は、その後も
相談役としてチッソに君臨した鬼畜である。

 こんな鬼畜・江頭豊の孫娘達の幸せそうな写真「小和田姉妹」と、ユージン
スミスが撮影した、15歳の胎児性水俣病の悲惨な「入浴する智子と母」(21歳で
死亡)を見比べて見るが良い。これだけでも、鬼畜の孫娘、雅子は幸せには
なってはならないと思う。

 江頭豊の地所(東京都目黒区南一丁目)に、雅子の実家はある。

父小和田恆(ひさし)は、実質入り婿である。

小和田家の血筋もかなり怪しい。

なりすまし朝鮮人疑惑の根拠に、父方の祖父、毅夫と父、恆は、村上
から新潟に墓を移した際、曽々祖父、曽々々祖父の墓も移さず、村上来訪
の際も墓参もしなかったと言われる出来事がある。小和田恆は、優美子とも
ども創価学会(大鳳会)との繋がりがある売国奴で、雅子も同様であるそうだ。
小和田恆は、収賄疑惑が多く、雅子を差し出さなければ、監獄に収監されて
いたのは間違いないそうだ。

売国奴とすれば当然かも知れないが、下劣醜悪極まりない。

さらば外務省!―私は小泉首相と売国官僚を許さないでは、

出張先で夜中「缶切りをもってこい。」と要求があり、持っていくと「その缶切り
を試したかい。」と質問があり「試してない。」と答えると、そのままドアを
閉めてしまった。

     さらば外務省!―私は小泉首相と売国官僚を
     許さないでは、 

 外務省を見限って課長を最後に退職したOBに、浅井基文と岡本行夫がいる。
しかしこの二人の生きざまはあまりのも好対照である。
 私の六年先輩にあたる浅井基文は、日米安保条約を聖域視する対米従属
外交に失望し、中国課長を最後に退職した。その後まもなく『日本外交』を
出版し、安保条約に全面的に依存する日本外交の危うさを訴えた。その浅井
を、外務省は組織をあげて潰しにかかった。直接、浅井から聞いた話だが
退職した当時の次官であった小和田恒は、「今後もし外務省に弓を引くよう
な真似をすれば、省をあげて潰しにかかる。」と、面と向かって引導を渡した
という。若い外務官僚たちもこれに迎合するように、「霞ヶ関に近づけば押し
返してやる。」と悪態をついたという。ろくに勉強もせず経験もない駆け出しの
若い官僚が、先輩に対しここまで品のない言動をとってしまうところに、外務省
の質の低下を感じる。

渡辺亮次郎のエッセイでは、
国際司法裁判所の判事とやらに選出されたからである。皇太子妃の実父
だから昔なら批判ご法度なのだが、最近の世相はだからと言って口さがない。
数年前、現職の小田判事を「任期途中で辞めさせてでも、」と、就任工作
(小田にとっては辞任工作である)をやらせたのはひどかった。」とか「あんな
顔していて、実にカネに汚い。」とか「公私混同がひどい。」とか「嫁入りに持た
すタンスをえらく値切られた。」という友人もいた。「そりゃお前、めでたいん
だから、お前んちのほうで値切って差し上げたんだろうからいいことをしたな。
とはなったが、ケチで鳴る小和田さんも他人の国際紛争ではけちはしない
だろう、で落ち着きかけた。皇室の親戚がケチで何が悪い。ところが「まだわ
からんぜ。」と付け加える仲間が言った。」何しろ誰も鈴を付けに来ないことを
いいことに国連大使に5年も居座って、まだ降りようとはしなかった。後任の
佐藤行雄が3年10ヶ月できちっと辞めて、もう東京にいるよ。そんなだから
小和田さん、判事の任期(7年)に果たして何期しがみつくか、興味
津々だね。」と、これは後輩外交官だった。結構、口が悪い。

 その娘、雅子、父恆、母優美子の第1子として、昭和38年12月9日誕生。
11歳下に礼子(父恆のコネで国連難民高等弁務官事務所職員)、節子という
2人の双子の妹がいる。父恆の赴任先モスクワとニューヨークで過ごし、7歳
で帰国。小学校4年からは東京・世田谷区の私立田園調布雙葉学園小学校に
編入。高校1年の1学期まで在籍。父恆がアメリカ公使の肩書で、ハーバード
大学客員教授を兼任。ボストン郊外のベルモント高校、ハーバード大学(私立)
に入った。アメリカの大学は、教員や有力者の子弟は無試験に近い状態で
入学できる。パパブッシュの出たエール大学に押し込んだ馬鹿ブッシュを思い
出せば良い。まして外国人。卒論も、糠沢和夫経団連理財部長と東京銀行の
真野調査部長、国際金融情報センターの榊原総務部長(いずれも当時)への
謝辞が綴られている。

よほど学歴にコンプレックスがあるのだろう、易しい帰国子女枠で東京大学
法学部(経済学部は不合格)に再入学している。在学中に外交官試験で
外務省に入省。小和田恆のコネの縁故採用だろう。国費(税金)で
オックスフォード大学大学院に留学し、修士号も取れずに帰国(税金の無駄
使い)しているので、脳味噌の程度がわかる。
世界遺産ともいえる皇室の伝統を破壊しているのも理解できてしまうのである。

小和田雅子をめぐる噂

 さらに皇室記者たちが「小和田雅子の可能性なし」と断定したのには、もっと
決定的な理由があった。
 それはズバリ、彼女の男性関係にまつわる噂だったという。
妃候補としてその名前がはじめて浮上した6年前から、小和田雅子という
女性に は常に男性の噂がつきまとってきた。
 実は妃内定直後の1月11日、アメリカの日刊紙「シカゴ・サン・タイムズ」が
“小和田雅子サンの元ボーイフレンドが彼女のトップレス写真を持っている”
といった衝撃的な内容の記事を掲載する騒ぎが起きている。

「日本のマスコミはこの記事の存在を知りながら一切黙殺していたようですね。
それに同紙もそのわずか4日後に記事を取消す続報を掲載して、あれはデマだ
ったという結論にいつしか落ち着いてしまった」
 しかし、地元では依然として噂はくすぶり続けているという。というのも、
告白したデビッド・カオなる男性は確かに実在しており、最低でも2回はハー
バード留学中の彼女と同じパーティーに出席していたことが確認されていると
いうのだ。在米特派員の一人もこう首をひねる。
「『シカゴ−』紙はいい加減な三流ゴシップ紙ではないですからね。デマだと
したら、どうしてあんな記事を載せたのか。その後の記事取消しもあまりに対
応が早すぎるし、不自然な点は多い」
 真偽はさておき、この「シカゴ−」紙の記事と同じようなハーバード大学留
学中の男性関係についての噂はこれまでもかなり頻繁に囁かれている。曰く「
白人男性とつきあっていた」「日本人留学生と半同棲生活を送っていた」等々。
 妃候補として彼女の名前がはじめて浮上した87年には、宮内庁と一部マスコ
ミに、やはり彼女が白人男性と交際していたことを英文で綴った怪文書がアメ
リカから送りつけられている。

                
雅子の相手をした男

 長崎選手
 デビットカオ
 カルロス
 奥参事官
 外務省上司
 外務省同僚
 大野医師
 国連大学総長
 皇太子・・・・・・・2回 ?(愛子は人工授精)

 雅子は床上手?

宮内庁が88年に突如として小和田雅子を妃候補から除外したのも、公にされ
ている母方の祖父が公害タレ流し企業のチッソ社長をつとめていたから、とい
うような理由ではなく、このハーバード時代の交友関係が原因だったとの見方
もある。

「妃候補の家系は皇太子に引き合わせる前に必ず調べますからね。
チッソを問題にするなら、最初から会わせていませんよ。時期的に見ても
小和田サンを
はずしたのは例の白人男性との交友が書かれた怪文書がキッカケになっている
のは確実です。一説には当時の宮内庁長官だった富田朝彦が内調室長
時代のパイプを使って雅子サンのハーバード時代を徹底的に洗い直したと
いう話もある」

 いや、ハーバード時代だけではない。外務省の研修でオックスフォード大学
に留学中の際には、イギリス人男性との交際が噂になったこともあり、あるフ
リーカメラマンがツーショットを撮影して、女性週刊誌に持ち込んだもののボ
ツになった、とのまことしやかな話も漏れ伝わっている。

 91年の春から92年のはじめにかけては外務省内で上司と不倫をしてい
る、との噂がかけめぐった。この時、相手と名指しされたのは彼女の所属する
北米二課のM課長補佐。

「たしかに小和田サンとMサンは例の半導体交渉でコンビを組んでいた関係で
二人きりで海外出張する機会も多かった。外務省は伝統的に不倫の多い
役所で すから、噂になるのもわかりますけど、でも実際はどうですかねえ」
上司との不倫ではS北米二課長との関係を指摘する怪文書が出回るな
ど、とにかくこのテの話は数えあげればキリがないほど流れてきたのである。

その相手とは東大法学部から彼女と同期で外務省に入省している男性。もちろ
ん独身である。ここでは仮にT氏としておこう。
「T君のことは我々の間でも有名でしたよ。この何年かというもの、小和田サンの
側には常に彼の姿がありましたからね。かなり真面目なつきあいという印象でし
たし、我々が小和田サンの可能性が薄いと判断したのも、T君の存在が大きかっ
たため」(女性週刊誌記者)

 たしかに二人は東大時代からかなり親しくつきあっていたようだ。
小和田雅子は 外交官試験に合格したばかりの86年10月、裏磐梯へ
男5人女5人で一泊二日の グループ旅行に出かけているが、T氏もこれに
参加しているまた、妃候補としてマスコミに追いかけ回されていた入省直後の
頃、通勤電車の 中でT氏が彼女をかばうように隣りにいる姿も何度か
目撃されている。

 二人の親密さを裏づけるようにこの間、週刊誌等に掲載された彼女の
プライべー ト写真の中にも、隣にT氏がピッタリと寄り添っている写真が
何点か存在する。

 そして88年7月、彼女は外務省の在外研修でオックスフォード大学に留学
するの だが、実はT氏も彼女と同じオックスフォードを希望、一緒に渡英して
いるのである。

 ある外務省関係者は絶対オフレコを条件にこう話す。
「二人の仲が本格化したのはこのオックスフォード時代と聞いています。
ちょうど彼 女が『否定会見』を開いて、お妃候補からはずれたのもこの時期。
おそらくこの頃、 彼女はTクンとの結婚を真剣に考えていたと思いますよ」

・・・・・皇室に対する復讐か

https://ameblo.jp/9023410651/entry-11523618963.html


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それにしても雅子という女は凄い女です。

気に入った相手とは手当たり次第という感じです男性経験は20人は超えている
https://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/68610e019843f20695a65523fb7823aa


それにしても雅子という女は凄い女です。気に入った相手とは手当たり次第という感じです
白人か黒人かも噂に出ない人数を合わせれば男性経験は20人は超えていると思います。


2018年4月26日 木曜日

◆【雅子妃】男性遍歴B婚約直前まで行った福田元総理の孫;越智隆雄現自民党衆議院議員 2015年4月3日 伏見顕正の政経塾と四柱推命


皆さんお元気ですか?

また出来てきました雅子の昔の男(笑)たたけば埃の出る女ならず、【たたけば昔の男が出る女】です。

越智隆雄という男は、福田赳夫元総理の娘が大蔵官僚の越智道雄に嫁ぎできた子で、孫に当たります。

同じく福田赳夫の孫で、チノパンの夫となった横手真一と同じく、慶應の幼稚舎から慶應義塾大学の経済学部までというコースは全く同じです。

就職も横手真一は三菱銀行(のちゴールドマンサックス)越智隆雄は住友銀行(後父越智道雄の秘書)というのも似ています。

祖父の赳夫が小和田恒を可愛がっていたこともあり、幼少の頃から小和田家と越智家は家族ぐるみの付き合いをしていました。

小和田家と越智家は一緒にスキーに行ったり、雅子の母の小和田優美子が、着物に「福」の字を入れて、福田家に忠誠を誓うようなこともしていました。

その中で年の近い雅子と隆雄は次第に親しくなり、雅子が外務省に入ったころに結婚を視野に入れた真剣な交際を始めました。

特に雅子がイギリスのオクスフォード大学に留学中に、隆雄も「フランスのエセック大学に留学したいと言い出し、父親の道雄から「なんでフランスなんだ?」と聞かれて「好きな女がイギリスにいるから」と答えたそうです。

そして二人は、ドーバー海峡をお互い行ったり来たりして逢瀬を楽しみます。

わざわざ、イギリスから海峡を渡って隆雄に会いに来て、「お茶と食事がすんだらさようなら〜」なんてことは常識的に考えて無いでしょう。お互い愛を確認しあったことは想像に難くありません。

しかし、気になるのはこの英国留学中の雅子の男関係です。

オクスフォードに一緒に留学したT氏と深い関係に落ちていました。

また白人男性との交際もありました。

少なくても三股はかけていたことになりますね(驚)

凄い女です。性欲が強いのはよくわかりますが、三人の男とのスケジュール管理もしっかりダブルブッキングしないようにやっていたのでしょう。

一人とSEXしているときに他の二人にばれないように完璧にやっていたんですね。

確かにこの時期男同士がかち合ってトラブルという話は聞きませんでした。

こういう能力はあるんですね(笑)

こんな雅子でも越智隆雄は真剣に愛していました。

二人とも帰国後に、越智家の方から、プロポーズしたのですが、小和田家は断っています。この辺の事情は、雅子入内後に、落ちとの関係を週刊文春や写真誌が掲載してたたいていました。

なぜなら、ハーバート→東大→外務省という箔付けが完了した今、一度断られた皇太子妃に名乗りを上げる環境が出来上がっていたからです。

皇室に食い込み権力と権勢欲を握りたい小和田恒がそのチャンスを逃すわけはありません。

また1988年当時に大勢いたお妃候補も、皇太子のちびで不細工な容貌で、早々と他の男と婚約したり、結婚したりして逃げ、残っていた候補も、ここが重要なところですが、創価学会が一人ずつスキャンダルを捏造し、辞退に追い込んでいました。

最終時点で残っていたのは、雅子と久邇(くに)晃子さんとタレントで皇太子のアイドルだった柏原好恵の三人でした。

柏原は早々に逃げるために「ヌード写真集」などを出して、自分が候補から抜けるように工作しました。

最後は雅子と久邇(くに)さんでした。

宮内庁は久邇(くに)さんを押していましたが、そこに皇族の小和田のトロイの木馬の高円宮夫妻が出てきて、自宅で皇太子と雅子を合わせたり、外務省の小和田の後輩の柳谷謙介が自宅を提供して二人を合わせたりして、水面下の工作をやり、女性経験のない皇太子は雅子にころっとつかまってしまいました。

久邇(くに)さんの方も着物まで準備して、待っていたところに、皇太子側が勝手に雅子内定記者会見を開いて、宮内庁と両殿下を出し抜きました。

小和田―高円宮―創価学会―外務省の連携工作にしてやられた【朝鮮女雅子入内事件】です。

それにしても雅子という女は凄い女です。気に入った相手とは手当たり次第という感じです

今も白人国家の元首があいさつに来たら出迎えに出ますが、黒人国家の元首が来たら絶対に出てきません。アメリカ時代に、黒人の子供を堕胎した経験がトラウマになっていて、出てこれないそうです。

名前が出た男だけでかなりの人数がいますから名前やイニシャル、白人か黒人かも噂に出ない人数を合わせれば男性経験は20人は超えていると思います。

雅子は、祖父から水俣病患者の怨念父から創価学会関係の邪気を受け継いで皇室に入りました。逆に言うと婚約を破棄された越智隆雄は変な悪霊を持ち込まれずラッキーだったかもしれません。

それでは越智隆雄の命式を見てみましょう。


(私のコメント)

たまたま「雅子妃 男性遍歴」でググると多くの記事が出てきます。皇室を侮辱するようなすざましい記事なのですが、名誉毀損で消されることもなくネットで読むことができます。本当の話かどうかは私にはわかりませんが、このようなことはマスコミで報道されることはないようだ。

最近では、眞子さまの相手の小室圭氏との話題がありましたが、小室氏にもいろいろと良からぬ噂話があるようで、成り行きが注目されます。皇太子と雅子妃が結婚されたのは1993年であり、インターネットは普及しておらず、情報はマスコミがほとんどコントロールしていた。だから雅子妃の男性遍歴が広まる事はなかったようだ。

「株式日記」でも雅子妃のことは何度か書きましたが、外務省と創価学会関係に関してであり、男関係のことはまだ知らなかった。ネットでこのような事が書かれても名誉毀損で消されないのは、明らかな事実もあるからであり、越智隆雄現自民党衆議院議員との仲は公然の事実だったようだ。

記事にもあるように、「その中で年の近い雅子と隆雄は次第に親しくなり、雅子が外務省に入ったころに結婚を視野に入れた真剣な交際を始めました。」という事ですが、しかし、「二人とも帰国後に、越智家の方から、プロポーズしたのですが、小和田家は断っています。」という事です。

相手としては、今は国会議員をしている福田元総理の孫なのだから相手に不足はないはずだ。つまり小和田家としては最初から皇太子の嫁の座を狙っていたわけだ。そして、「ハーバート→東大→外務省という箔付けが完了した今、一度断られた皇太子妃に名乗りを上げる環境が出来上がっていたからです。」ということで小和田恒の野望はかなった。

私は当時はテレビで報じる程度のことしか知らなかったが、ネット化社会になって雅子妃や小和田恒の良からぬ噂を「株式日記」で何度か書くようになった。気の毒なのは皇太子であり、20人もの男性遍歴のある雅子にしてみれば皇太子を手玉に取ることは簡単だっただろう。

記事では、「残っていた候補も、ここが重要なところですが、創価学会が一人ずつスキャンダルを捏造し、辞退に追い込んでいました。」とありますが、スキャンダルの巣窟とも言える雅子が残り、多くの他の候補が創価学会にスキャンダルを捏造されたとありますが、本当なのだろうか。

皇太子妃ともなれば、マスコミの注目の的となりますが、テレビでは一切このような事が報道されなかったのは、やはり創価学会の影響があるのだろうか。雅子妃は結婚後はひきこもり状態となり公務ができない状況ですが、やはり後ろめたい過去があるからだろうか。皇太子はこの事をどこまで知っているのだろうか。

皇室に雅子妃が入ったことで、天皇家は亀裂が入って影が差しているような感じですが、皇太子が女を見る目がなかったことが原因なのだろう。「宮内庁は久邇(くに)さんを押していましたが、」とありますが、そのほうがよかったように思える。顔つきからして皇太子と合いそうの思える。

一番悪いのは小和田恒であり、強引に雅子を皇室に送り込むことに成功した。それができたのも創価学会などのバックがあったからでしょうが、皇太子が天皇に即位した後の日本はどうなるのだろうか。雅子皇后が本性を表してくるかもしれない。
https://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/68610e019843f20695a65523fb7823aa

▲△▽▼

2018-04-23
皇太子殿下と雅子さま ご成婚の裏にあったもの
https://inbouron-toshidensetsu.hatenablog.com/entry/2018/04/23/080000

平成の世もあと一年余りになった。

来年4月30日をもって天皇皇后両陛下は、皇太子ご夫妻に天皇の地位を譲位され、上皇陛下、上皇后陛下となられる。

新しい時代が始まるわけだが、今の若い方々は、次期天皇皇后陛下となられる皇太子ご夫妻のことを、どれくらいご存知だろうか。

昭和の時代は、皇室の話題はごく普通にそして頻繁にテレビなどで取り上げられ、今の天皇陛下が皇太子殿下時代は、家族全員でのお写真も動画も頻繁に撮られ、お茶の間に流れていた。皇太子殿下、秋篠宮殿下、今は降嫁された黒田清子さんの学校行事や卒業式での様子、夏休みをお過ごしになるご一家の自然なご様子なども、しっかり写真や映像として納められ、実にオープンに披露されていた。そのため国民皆、当時の皇太子ご一家を「ふつうの家庭と変わらないご家族」という親しみを感じていた。当時は皇室に妃殿下も多くおられたので、ロイヤルファッションチェックの番組や週刊誌報道もとても多かった。

そんな華やかでオープンな皇室報道は、今はすっかりなくなってしまった。原因はおそらく、長い療養生活を送られる雅子さまを慮ってのことだと思われる。

皇室との縁組を熱望していた小和田家

平成の時代がもうすぐ終わるいま現在でも、ごく一般に言われていること。

『雅子さまは、皇太子殿下の熱烈なプロポーズに折れる形で、外務省でのキャリアを泣く泣くお捨てになった。しかし皇室は、雅子さまの高い能力や国際感覚を十分に発揮するにはあまりに旧態依然としたところで、外国育ちのキャリアウーマンであった雅子さまは適応障害を起こされた』

この流布は、ほぼ、真っ赤な嘘である。

雅子さまは、泣く泣く外務省でのスーパーキャリアを捨てて、皇室に嫁がれたのではない。外務省と当時外務省次官だった父、小和田恒氏を中心とした人々の猛烈な後押しによって、皇室に嫁いだのである。

1993年当時、皇太子婚約についての報道は、国内では報道協定が結ばれていた。しかし、その協定外にあったアメリカ合衆国の新聞『ワシントンポスト』が、同年1月6日に、日本の皇太子御婚約をスクープした。

このスクープを流したのは、ワシントンポストの日本人記者・東郷茂彦氏である。東郷茂彦の祖父・東郷茂徳は、太平洋戦争開戦時及び終戦時外務大臣、父・東郷文彦は戦後、外務省事務次官と駐米大使を務めている。茂彦の双子の弟・東郷和彦も、元駐オランダ大使・外務省欧亜局長などを務める外交官だった。

雅子さまと皇太子殿下と婚約の報道は、当時の外務省を中心とした関係者が熱烈にその縁組を望み、全力でサポートし、見切り発車的にスクープを飛ばしたものなのである。

ワシントンポストのスクープを受けて、同日夕、日本の報道機関もなし崩し的に、皇太子妃内定の速報を一斉に流した。

1月6日に皇太子妃内定の速報が出ても、当事者であるはずの宮内庁は数日間、完全に沈黙していた。宮内庁はおそらく、婚約スクープに関して完全に蚊帳の外に置かれていて、この騒動をどう収拾させるか苦悶していたと思われる…。


外務省とマスコミが作り上げたお妃候補 小和田雅子さん

時代がまだ昭和だった頃、1960年生まれの浩宮徳仁親王殿下の結婚は、いつも注目の話題だった。そんな中、1980年後半頃から、外交官の娘、ハーバード大学卒の才媛、小和田雅子さんの名前がまるで何かのキャンペーンのように、たびたびマスコミで喧伝されていた。東京大学在学中に外交官試験に合格したというニュースは、NHKや新聞でもとても大きく取り上げられた。

当時は海外留学、帰国子女、バイリンガル、キャリアウーマンなどとという言葉が大ブームで、雅子さんはそのすべてを持ち合わせている女性として、マスコミに盛んに取り立てられていたのである。

皇太子殿下と雅子さまは、1986年10月のスペイン・エレナ王女のレセプションで、初めて運命的な出会いをしたと言われている。しかし本当はそのずっと以前より、お二人はかなり親密な知り合いだったのではないかと、まことしやかに言われている。

1984年、浩宮徳仁殿下と小和田雅子さんは、欧州・ドイツ国境に近いフランス・アルザス領コルマールという都市を、お忍びで旅行に行ったという話がある。お二人がその時、意気投合したのか、それともそのまま交際は自然消滅したのかは分からない。

しかし、運命の出会いとされる1986年10月のスペイン・エレナ王女のレセプション開催直前には、徳仁親王殿下本人の記事が掲載された写真週刊誌「FOCUS」10/17号に、まるで狙い定めたように、『父娘2代の外交官誕生!』と、雅子さんのグラビアがデカデカとねじ込んであったことを見ると、小和田家とその周辺の人々が引き続き必死になって、雅子さんを殿下に売り込んでいたことが分かる。

エレナ王女のレセプション当日には、出席者名簿に手書きで、小和田雅子さんの名前が急遽書き加えられた。      

小和田家、外務省、マスコミ、+αの人たちにとって、宮内庁が選ぶ良家出身のお妃候補には決して加えられない小和田雅子さんという女性が、とても重要な人物だったのは間違いないのだ。

昭和天皇は反対対されていた

当時まだご存命だった昭和天皇は、徳仁親王殿下と小和田雅子さんとの縁組は反対されていたと伝えられている。また当時の宮内庁が、小和田家の家系や雅子さんの異性関係を調査し、雅子さんとの縁組は断念するよう浩宮徳仁親王を説得したと言われている。

しかし、昭和天皇は1989年1月にご崩御。時代は昭和から平成に変わり、皇太子となった徳仁親王殿下の周辺がようやく落ち着いて来た頃に、小和田家とその周りの人々は、まだ独身だった皇太子殿下に、また猛烈なアタックを仕掛けてくるのである。

時にはご両親である天皇皇后両陛下や、宮内庁職員の目を欺いてまで、雅子さんとの密会の機会を作ったりしていたようである。

一度は破談になった雅子さん本人は、一時他の男性との結婚を考えていたとも言われているが、父親の小和田恒氏が、娘を皇太子妃にするという野望を、決してあきらめることはなかった。そして雅子さんも、結局は父親がひいたレール以外は歩いたことのないひとである。結婚も、親の言う通りの道を進んだのであった。


雅子さまの背景にあるもの

1月6日のスクープから約2週間後の1月19日、皇室会議が開かれ、雅子さまは皇太子殿下の婚約者として内定した。この時、全会一致ではなく、昭和天皇の弟、三笠宮崇仁親王殿下は婚約反対の意思を出されたとされている。

そして6月9日、お二人は晴れて夫婦となられた。皇族の結婚式が行われる賢所での、十二単に身を包んだ雅子さまは、非常に険しい表情をされていたが、白のローブデコルテに着替えられると、明らかに幸せいっぱい、喜色満面の笑みを浮かべられていた。皇太子殿下の方が、これからの苦難の日々を何となく予感されてのことなのか、どこか神妙なお顔をされる場面が多かった。

1993年の世紀のロイヤルウエディングがあった当時は宮沢内閣、河野洋平氏が内閣官房長官、そして、外務省次官が皇太子妃の父となった小和田恒氏だった。

ロイヤルウエディングより2か月後の同年8月、その後、長期にわたって日本を苦悩させ、日韓関係を狂わせるあの「河野談話」が発表されるのである。

当時、新聞社は既に斜陽産業だったが、朝日新聞などの左派メディアの勢いはまだまだすさまじかった。マスコミの号令で時の政権を操作することは十分可能な時代であった。

いまから25年前、様々な人々の思惑を背負って皇室に嫁がれた雅子さま。来年の新天皇御即位を控え、今年の6月9日には皇太子殿下と銀婚式を迎えられる。
https://inbouron-toshidensetsu.hatenablog.com/entry/2018/04/23/080000


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反日「部落の輪」か 雅子さま入内 2015/12/9
https://blogs.yahoo.co.jp/wood72046/36951533.html

BBの覚醒記録さんより転載します。

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/d6f72bd3542021db465fc1ee0e2edb80

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2017.12.05
雅子様A@家系(1)部落解放同盟との関係
http://hiromihiromi.sakura.ne.jp/01/?p=4260
結論からいうと、

父方・小和田家=隠れ朝鮮人の背乗り家系

母方・江頭家=旧被差別民の家系

のようです。

徳仁皇太子と小和田雅子さんに決定の一報から、マスコミから発せられる「小和田雅子」さん像は、

@父は東大卒の外交官、二人の妹も名門校を卒業した。

A高学歴の一族で、本人はハーバート大、東大、オックスフォード大学を出た才媛。

B本人は才色兼備のバリバリのキャリアウーマンで、将来の女性大使候補だった。

C英語、フランス語、ロシア語に堪能。

➄父方は、新潟の村上藩士の家系で、母方は海軍で成功した人が多い。

E皇太子とのなれそめは、スペインの王女が来日時のパーティーで。皇太子の一目ぼれ。

F日本で一番優秀な女性。

これ、@以外は皆、ウソだったんですね。

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まず、家系ですが、皇太子妃に内定した「小和田雅子」に関する家計調査について、部落解放同盟が「差別を増長させる」という理由で、抗議していました。何故でしょうか。それは、雅子さんの家系を正確にさかのぼると、旧被差別民につながるからでしょう。

転載させていただいてます。


部落解放同盟が、小和田雅子さんへの家計調査に対して抗議

東京読売新聞朝刊

1993年1月9日

1ページ
「確かに五年前、小和田さんの調査をしました」
皇室関係一筋の老調査員が都内の事務所で重い口を開いた。
宮内庁から直接、調査依頼を受けたのは東京・丸の内に事務所を構える大手興信所。
(略)小和田雅子さん(29)に関する分厚い調査報告書は、作成にまる一か月かかった。
直系は四代前までさかのぼり、大祖父、祖父の兄弟姉妹まで徹底的に調べた
両親については交友関係、勤務先、近所の評判も。肝心の本人は、さらに詳細をきわめた。
経歴、性格、趣味、素行、健康状態……。

結論は「優秀な家系に驚いたのを覚えています。もちろんご本人も申し分ありません
でした」。このベテラン調査員が手掛けたお妃候補は、実は雅子さんだけではない。
この五年間で十人以上にのぼる。雅子さんの調査書はその中でひときわ鮮明に記憶に残っているという。


部落解放同盟中央本部よりマスコミへ

皇室報道に対する抗議と申し入れ

1993年2月18日

「皇太子妃内定」いらいの皇室報道について、
部落解放同盟中央本部は、マスコミ・報道各社に、2月18日、抗議し申し入れた。

————————————————–

日頃よりの、マスコミ・報道関係者各位の人権尊重、差別撤廃のための取り組みに敬意を表します。
さて、私たち部落解放同盟は、部落差別はもとより、あらゆる差別を撤廃するために、
「部落解放基本法」制定をはじめ、「国際人権規約」「人種差別撤廃条約」の早期批准、世界人権宣言の具体化や、「国際先住民年」など、国内外において、さまざまな取り組みをすすめてきました。

しかしながらこうした平和と人権を守る取り組みの拡がりにもかかわらず、今日においてもなお、結婚差別によって、自らの命を絶つという悲惨な差別事件を起きています。
また行政書士や社会保険労務士などによる戸籍謄本等不正入手横流し事件のほか、パソコン通信を利用して、「部落地名総鑑」の一部や、差別文書を大量に送りつけるなど、いまだに差別事件が続発し、悪質な差別調査ともいえる身元調査がおこなわれていることが明らかになっています。

この間、私たち部落解放同盟は、大きな社会問題ともなった「部落地名総鑑」差別事件をはじめ、こうした悪質な身元調査による人権侵害の問題を取り上げ、戸籍閲覧制限や身元調査おことわり運動などに取り組み、大阪においては、興信所や探偵社の差別調査を法的に規制する、部落差別調査等規制等条例が制定されるなどの成果をあげています。

しかしながら、本年1月6日の「皇太子妃内定」の報道いらい、こうした差別撤廃、人権確立の立場から看過できない内容の報道が繰り返されています。

とくに、小和田家の家族の掲載や「家柄」賛美などの過熱ともいえる報道内容、さらには、「皇太子妃を選ぶにあたっては、皇室専門の興信所員が
4代前まで徹底調査などと、公然と身元調査が行われていることが報じられています。
こうした報道内容は、人権尊重というマスコミ、報道本来の使命に反するものであるばかりでなく、差別を助長するものであり、強く抗議するものであります。

私たち部落解放同盟は、昨年、全国水平社創立70周年を迎え、これまで取り組んできた国内外の反差別共同闘争を大きく発展させるとともに、「貴族あれば、賤族あり」として、生涯、部落差別撤廃と人間解放に取り組んできた、故・松本治一郎元委員長の取り組みに学び、差別なき社会の実現にむけて戦いをすすめていくことを誓い合いました。

いうまでもなく、私たちは、こうした人権確立の取り組みをすすめるにあたって

マスコミ・報道関係者各位の果たされる役割に、大きな期待を寄せるものでありますが、今回の一連の皇室報道の内容は、差別撤廃、人権尊重の姿勢に逆行するものであることを指摘せざるを得ません。

私たち部落解放同盟は、マスコミ・報道関係者各位が、今後の皇室報道において、
差別を助長する、これまでの過剰な報道を改め、差別撤廃と人権尊重の立場を明確にして報道に取り組んでいただくように、強く要望します。
(解放新聞 93.3.8)

以上


部落解放運動と「同和」行政の動き
解放同盟、抗議文書「皇太子妃報道差別助長する

1993.2.18

部落解放同盟中央本部(上杉佐一郎委員長は)は「一連の皇太子報道は人権尊重という報道の使命に反し、差別を助長する」との18日付の抗議・申し入れ文書を全国の新聞、通信、テレビ各社に送った。
近く雑誌出版社にも申し入れるという。

文書は「解放同盟は部落差別撤廃に向け、戸籍閲覧制度や身元調査おことわり運動に取り組んできた。
その中で、家系図が掲載され家柄を賛美する報道が繰り返され、
公然と身元調査が行われている事が報じられている」と指摘。
過剰報道を改め、人権尊重の立場を明確にするよう、要望している。
(朝日 93.2.25)


皇太子妃決定にかかわる身元調査等の差別助長行為に対する抗議と申し入れ
1993.3.16

(抜粋)
本年一月六日の「皇太子妃内定」の報道いらい、こうした差別撤廃、人権確立をすすめる立場から看過できない内容の報道がなされています。小和田雅子さんの「家系図」の掲載や「家柄」賛美などの過剰ともいえる報道内容、そして「皇太子妃を選ぶにあたっては、皇室専門の興信所員が四代前まで徹底調査」などと、宮内庁自らが公然と身元調査を指示していたことが報道されています。

いうまでもなく、すべての国民は法の下に平等であり(憲法第一四条)、婚姻は両性の
合意のみに基いて成立する(憲法第二四条)ものです。

したがって、私たちは、こうした宮内庁の身元調査の指示というものが、差別を助長・拡大させるものであるばかりでなく、憲法違反という重大な問題であると考え(略)強く抗議するものです。

転載以上


東京読売新聞朝刊

1993年3月20日

部落解放同盟(上杉佐一郎委員長)は十九日までに、「皇太子妃決定に際し、身元調査が行われたことは結婚差別を助長する」として、皇室会議のメンバーである宮沢首相や衆参両院の議長、最高裁長官の三権の長と宮内庁長官あてに抗議文書を送った。


1993年04月21日
第126回国会 大蔵委員会 第10号

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/126/0140/12604210140010a.html
上田(卓)委員 ぜひとも前向きに検討していただきたい、このように思います。
次に、皇太子の結婚にかかわって身元調査のことが新聞などで今までにいろいろ報道されておるわけです。

(略)

結婚や就職の際の身元調査や家系調査は差別につながるということで、我々は法務省や労働省あるいは地方自治体、民間企業、宗教界の皆さんとともに身元調査お断り運動というのですか、全国的に展開しておるわけでありまして、大阪などでは部落差別を目的とした興信所や探偵社による身元調査を規制する条例もできておるわけであります。

ところが、先ほど申し上げましたように、一月六日の皇太子妃内定以来、新聞、雑誌、テレビなどでは江戸時代にまでさかのぼる小和田家の家系図を掲載して、家柄や家族などについて過剰な報道をしておるわけでありまして、皇太子妃を選ぶに当たっては皇室専門の興信所員が四代前まで徹底調査、こういうような報道もあるわけでございまして、宮内庁みずからがそういう民間調査機関に指示して調査しておったのかどうか、その点についてお聞かせをいただきたい、このように思うわけであります。

その前に、法務省と労働省の方がお見えでございますが、一般的な身元調査についてどういう見解を持っているのかお答えいただきたい、このように思います。

『部落解放』1993年6月号
「皇太子妃決定に関わる身元調査等の差別助長行為にたいする抗議と申し入れ」記事
http://hiromihiromi.sakura.ne.jp/01/?p=4260


▲△▽▼


2017.12.05
雅子様A@家系(2)母方・江頭家は高祖父、父方・小和田家は曾祖父までしか遡れない
http://hiromihiromi.sakura.ne.jp/01/?p=4296


続きです。

父方・小和田家

河原敏明著(平成5年4月)
小和田家の系譜

ここで小和田家の戸籍系統図をみよう。本家は小和田岩夫氏といい、現在東京都下の小平市に住んでいる。
岩夫氏の5代前の群蔵から分かれた兵五郎が、雅子さんの直接先祖になる。
つまり 兵五郎―道蔵(匡利)―金吉―毅夫―恒―雅子の流れである。

その祖先が眠るという西真寺(さいしんじ)を訪ねた。西真寺は村上市にある浄土真宗の寺で、元和4年以来、ここで370年の歴史を持つ。住職本荘長弘師はその小和田家の墓について、毅夫氏が新潟市の学校に在勤中、父金吉の墓のみを新潟市の泉性寺に移した、という話をしてくれた。

ゆえにいま西真寺にある小和田家の墓には、兵五郎夫妻と道蔵(匡利)の妻とその子供だけで(夫の道蔵の墓は新潟に)二基の墓石が並んでいる。

高さが70cm、近隣のものと比べて極端に小さく墓域にも余裕がない。
「なぜ祖父の妻と子、および曽祖父夫妻の墓を残していったのか。

ふつう移すときはそっくりもっていくものなんですがねえ」と住職夫妻も不審気だった。


昭和61年11月、恒氏が外務省官房長のとき、恒、毅夫の両氏夫妻が村上市にきたが、そのときも祖父、曽祖父が眠っているにもかかわらず墓参していないことにも、理由をはかりかねていた。
そこで小和田毅夫氏が村上から墓を移したという新潟市の泉性寺に聞くと住職の広沢誠師が、
「小和田家の墓は明治七年よりうちにあるが、ただ金吉と兵五郎の墓はない。匡利(道蔵)の墓だけがあります。外務省の小和田家にとって初代に当たる兵五郎の墓は寺にはありません。
私の父が死んでいるので、その辺の詳細は分かりませんが。三十年くらい前に毅夫さんが父金吉の墓をうちに移したということはまったく知りません」

と西真寺の住職の話とはだいぶ食い違いがある。
しかも泉性寺が明治十三年の大火で類焼しているので資料が乏しいという。
昭和五十五年に毅夫氏が、この泉性寺にある墓の台座だけを、よりよいものに直している。
先の61年11月に新潟を訪ねた恒氏は夫人、両親とここの寺には墓参のため立ち寄っている。

以上

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母方 江頭家

江藤淳『一族再会』
祖父
木原村

肥前国佐賀郡北川副村木原は、現在の佐賀市大字木原で、国鉄佐賀線の南佐賀駅にほど近い農村地帯である。
明治四十三年ごろ、祖父に連れられてはじめて佐賀に行った父は、市中に田圃があるのにおどろいたのを今でも印象にとどめている。
そのとき祖父は、小学生だった父にむかって、
「おれの生まれた家はこの田圃のはるか向うのほうだった」といったという。

つまりそれが木原である。
それから三年後に祖父は死んだ。

父の記憶にないところをみると、祖父はこの佐賀滞在を利用して生家のあった木原を訪ねようとはしなかったらしい。
それが何故であったかは私にもよくわからない。当時木原にはすでに近親の残存者は皆無で、裁判官になっていた祖父の兄も遠く東北の任地にあった。

しかし海軍少将で佐世保鎮守府参謀長の職に在った祖父が、久しぶりの帰郷にあえて生家の跡をおとずれようとしなかったのは、やはり彼に故郷に対する根強い嫌悪感があったからではないかと思われる。
彼はおそらく「錦を飾る」などというにはほど遠い心境だったのである。

以上


母方・江頭家は高祖父、父方・小和田家は曾祖父までしか遡れない


高原氏
小和田雅子さんの母方・江頭家は高祖父の江頭嘉蔵までは遡れます。
父方の小和田家は、曽祖父の小和田金吉までしか系譜は分かっていません。
3代前までしか遡れない小和田家の4代前を、その調査員の方はどうやって調査したのでしょうか?
また、4代前まで遡って調査したはずなのに、マスコミに公表された家系図の小和田金吉には職業や経歴は一切記されていないし、金吉以前の系図が記されていないのは何故ですか?


消えたお妃候補たち 指摘されたいくつかの問題点

小田桐誠

宮内庁は小和田について弁護士や興信所を通じ、直系三代に汚点がないか、両親の評判、本人の健康状態などを徹底的に調べ、独自にチェックしたといわれる。その結果は首相官邸にも報告されていたという。報告にはいくつかの問題点が指摘されていた。

一つは八七(昭和六十二)年暮れから八八(昭和六十三)年初めに発売された一部週刊誌が指摘していたように、小和田雅子の母方の祖父・江頭豊が、日本興業銀行の銀行マンから転じたとはいえ、代表的な公害企業・チッソの社長や会長を務めていたこと。

「お妃とともに全国を回らなければならぬ立場にある浩宮さまの訪問先で、水俣病の患者のムシロ旗が立つようなことがあっては」と宮内庁幹部は懸念したのである。

(中略)

母方の親戚に江口朴郎東大名誉教授(故人)のような左翼系の学者がいることをマイナス要因にあげる者もいたという。

(中略)

ただハーバード時代にボーイフレンドがいたことも一つのネックになっているのでは、とみるマスコミ関係者もいた。

小和田雅子の母方の祖父に難点ありとして、富田宮内庁長官は浩宮に
「(小和田さんには)こういう問題が付随しますからね」と伝えた。
「難しいですか」
「はい」
「ああ、そう。それなら仕方ないですね」
二人の間でこのようなやりとりがあったといわれる。

当時のことを富田は『週刊朝日』(九三年一月二十二日号)でこう答えている。

「私が(小和田さんに)反対したことはありません。ただ、当時は、いわゆる『チッソ問題』の被害者の方がまだ大勢おられました。加えて、批判勢力というか、社会運動派の人たちが(チッソの)東京本社に、押し掛けたりもしていた。そういう状況でしたから、もう少し様子をながめたほうがいいのではないかと、そう殿下に申し上げた。殿下はそれを『わかった』といわれたのです。
『おやめなさい』といったのではなく『みつめましょう』といったのです」

以上


毎日グラフ 1993年1月31日号
新潟県・村上市 慶祝ムード 小和田家のルーツ・系譜に論議わく

恒さん夫妻は87年11月22日、毅夫さん夫妻とともに、郷土資料館を訪ねている。
当時の館長、前田健さんは「士族の血を引く人物らしいエピソード」として、その模様を日記にこう書き残している。
「お父様(毅夫さんのこと)は足がお悪いとのことで車に残られ、お母様と奥様と恒さんをご案内した。
おしゃぎり(村上市の祭りで使われる山車)の説明を終えて、二階へ階段をのぼられる時、恒さんはお母様をおんぶされてのぼられたのには敬服した。なかなかの人だと思った」
小和田家と同じ村上藩士の子孫で、郷土史研究家の村上城跡保存育英会の竹沢盛夫理事長(77)も、小和田家のルーツ探しに追われる日々だ。

竹沢さん自身、雅子さんの父方の曽祖父、金吉さん以前の祖先がつかめていない。
「ご婚約は同じ士族の子孫として大変喜ばしいこと。
下級武士であったために小和田家のルーツは記録が少ないが、これで系譜を解きあかす興味が増えた」といきいきとした表情で語った。

以上

皇太子妃・雅子を生んだ小和田家の犯罪ルーツを徹底追跡!

噂の真相1993年4月号

現地水俣でも異変が……
それにしても、かつて自分たちを苦しめた加害者の孫娘が皇太子妃に選ばれたことを、
被害者である水俣の人々はどう感じているのだろうか。

マスコミは内定直後、宮内庁の言い分をあれだけたれ流しながら、
肝心の患者たちの生の声をほとんど取り上げようとしなかった。
「自主規制ですよ。わずかに共同通信熊本支局がきわめて当たり障りのない患者の声を配信しましたが、それとて掲載した新聞はほとんどなかった」(大手紙・社会部記者)
そして、驚いたことにそうした自主規制のムードは水俣病の患者自身にまで広がっている。

実際、取材をしてもほとんどの患者たちはこの件については、何もしゃべりたがらないのだ。
「何をいっても慶事に水を差すととられかねない、という恐れをいだいてるんですよ」
と語るのは地元支局の記者。
ある患者がマスコミにコメントを求められ、ごく素直なお祝いの気持ちを話したらしいんです。
ところが、それが掲載されたとたん、右翼と称する人物から『結婚を台なしにするつもりか』との脅迫電話がはいったらしい」

今なお残っている水俣病患者に対する差別構造。そして、その構造は天皇制という差別のシステムによって、さらに増幅されていく。しかし、ひとりの患者がようやく重い口を開き、本音を語ってくれた。

「正直いって、江頭については今も怒りの感情は消えていない。が、だからといってあの男の孫がお妃になることをどうこういうつもりもない。これはほとんどの患者がそう考えていると思う。
「ただ−」呼吸をおいて患者はこう続けた。
「許せないのは宮内庁だ。五年前、あの男の孫がお妃になれなかったのが水俣のせいだといわれて、我々が周囲からどれだけ白い目でみられたか、ところが、宮内庁は今度はまるで水俣病の問題が解決したようなことをいう。宮内庁にいったい水俣の何がわかるというんだ」

以上


美智子皇后と雅子さんのルーツ 三代前にニアミス

週刊朝日1993年1月29日号

佐賀 早逝した明治のエリート将軍
雅子さんが皇太子妃になって、天皇家には“佐賀の血”がさらに濃くなる。
美智子皇后の母の故正田富美子さんも、雅子さんの母の優美子さんもルーツは
佐賀だからだ。

正田富美子さんの実家は、佐賀県多久市の副島家。

優美子さんの祖父は、肥前国佐賀郡北川副村木原(現在は佐賀市内)出身の江頭安太郎海軍中将である。

安太郎は、慶応年間の生まれ。

中学、海軍兵学校、海軍大学と常に首席で、日露戦争の際は大本営参謀。海軍中枢の軍務局長に昇進し、海軍大臣を嘱望されたが、肺病のため、一九一三(大正二)年、四十七歳で亡くなった。
安太郎一家は東京に出て、佐賀には、安太郎の長女の嫁ぎ先の親類がいるくらいだ。
その一人、古賀治男さん(八一)は、こういう。
「新聞に出た系図に叔父の名前があって、驚いたとです」
佐賀市内の遠縁の女性も、「親戚づきあいもないのに、ある新聞に遠縁と書かれて迷惑でした」と、話すのである。

以上


「皇后美智子さま秘録」「正田家」と「小和田家」

ノンフィクション作家・工藤美代子

週刊新潮2014年10月9日号

(略)
雅子さんの父・小和田恆の血脈を遡行すれば、越後村上藩(現・新潟県村上市)藩士の流れを汲むとされる。
江戸中期、元文5(1740)年以降、村上藩の町同心や下横目(しもよこめ)といった職に小和田家が就いていたことが判明している。ただし、俸禄は石高ではなく、わずかな金銭・穀物を藩から支給されて暮らしていたようだ。

(略)
幕末期の当主・小和田道助は、郡方懸(こおりがたかかり)というやや上級の職に抜擢されるが、それは捕縛術に秀でていたためだった。
制剛流(せいごうりゅう)という独自の捕手(捕り方、および捕縛術を指す)の極意を体得した小和田道助は、村上藩公認の免許皆伝の腕前として知られたが、それでも俸禄は乏しかった。

村上市郷土資料博物館館員の説明を聞いてみよう。
「明治元(1868)年の村上藩士籍分限で、小和田家は二人扶持二両という年収になっていますね。
一人扶持が一日米五合ですから、二人扶持は一日一升。つまり年間で三百六十五升と二両という給料でした。
これは、おそらく日本でもっとも貧乏だった幕末の村上藩主内藤家に仕えている藩士の中でも、最低賃金労働者だったと思われます」

道助は町同心として優れた能力がありながらも、生活はかなり苦しかったようだ。

恆の父祖は、道助の弟・兵五郎が立てた分家で、その嫡男・道蔵匡利が跡を継いだとされている。
古史料「村上城下絵図」(村上市郷土資料館発行)を見れば、兵五郎の名は同心組が住む城下の足軽屋敷の一角に確かに見出すことができる。
ところが兵五郎と道蔵匡利が維新後に相次いで亡くなったため、道蔵匡利の次の世代があいまいなのだ。
現在分かっているのは、どういう出自かは判然としないものもの金吉という人物が現れ、税務署勤務をしながら小和田姓を継いだということである。
多くの系図資料を検討しても道蔵匡利と金吉を実線で繋ぐものはなく、点線でしか繋がっていない
(『週刊朝日』増刊号、1993年3月25日号ほか)。


いずれにせよ、小和田恆の祖父がこの金吉ということになる。金吉は、高田税務署に勤務していた
明治30(1897)年、熊倉竹野と結婚し、長男・毅夫、長女・ミヨシの二児をもうけるが、明治33に早世してしまった。
金吉に先立たれた竹野は苦労して助産婦の資格を取り、女手ひとつで子供を養育した。
長男・毅夫は当時としては最高学府といわれる広島高等師範学校を卒業、教員の道を歩む。
新潟県立旧制高等女学校の教員、校長を経て、戦後には新潟県立高田高校校長を長らく務め、地元では篤実な教育者として名が残っている。
毅夫は村上藩士の血を引く田村静を妻に迎え、五男三女に恵まれた(長女・節子は夭折)が、子供たちは全員が秀才・才媛ぞろいだった。

恆の兄弟五人の男子はすべて東京大学を卒業、二人の姉妹も旧制奈良女子高等師範(現・奈良女子大)、お茶の水女子大といった名門を卒業している。

この秀才一家の次男(第四子)として生まれたのが、雅子さんの父・恒である。

雅子さんからみれば、毅夫が父方の祖父で、金吉が曽祖父ということになる。

(略)
その雅子さんが東宮妃と内定したのは、平成5年1月19日に行われた皇室会議だった。

同年6月9日に予定されている結婚の儀とご成婚パレードを前にした4月17日、恆と妻・優美子は雅子さんとともに新潟市の菩提寺・泉性寺にある墓を詣で、テレビや新聞で大きく報じられた。

ただし、小和田家の墓はかつて村上市と新潟市で三ヵ所に分散されており、各寺の住職でさえ家系を辿るのは難しいと語っている。

墓碑の取り壊しやご遺骨移動の事情も絡み、小和田家代々が泉性寺に祀られているかどうかは不明なのだ。それだけ江戸時代から明治にかけて、小和田家先祖の苦節が偲ばれるわけだが、
墓の件にこれ以上分け入るのは今回は避けたい。

父祖の苦渋に満ちた歴史があればこそ、雅子さんが皇太子妃として入内し、恆が国連大使に就任したことで、家郷へ錦を飾った一家の誇らしい気持ちが溢れ出たのはうなずける。
そんな小和田家の高揚感の表れのひとつだろうか、新発田市の歴史を偲ばせる。

旧新発田藩下屋敷の庭園「清水園」の一角に、一つの木札(高さ百二十センチ、幅五十センチほど)がある。
恆の生誕地から至近距離にあるその木札は、雅子さんのご成婚記念として平成5年11月に市の職員の手によって
建てられたものである。

雅子さんの「お印」であるハマナスが側に植えられた木札には、次のような文言が記されている。

雅子妃殿下御父上誕生の地
樹種 ハマナス
寄贈 北蒲原郡聖籠町
平成五年十一月十三日
新発田市皇太子殿下御成婚記念実行委員会

「清水園」を管理する職員に話を聞いてみた。
「何度か、小和田さんご夫妻がお見えになっていますよ。最初は細長い木簡のような札に書いて建てたのですが、奥様から『なんだかお墓みたいね』と言われたので、市のほうであわてて現在の形に作り変えました」
これまで、東宮妃の父親り生誕の地が、わざわざ顕彰される事例はあまりなかっただろう。

平成10(1998)年10月23日のこと、新潟駅では駅長以下総出で皇太子妃殿下の父・小和田恆のお出迎えに奔走していた

新発田市の市民会館で、地元の敬和学園大が主催する小和田国連大使による特別講演会が開かれるためである。

新潟駅では駅長の先導で特別通路を通り、JR東日本新潟支社の正面玄関から用意された車で新発田市へ向った。
駅や道中での警備陣の対応も、地元民によれば「まるで天皇陛下並み」の緊張ぶりであったという。

また、平成21年2月に小和田恆が国際司法裁判所所長に就任した夏である。
恆はオランダから夏休みを兼ねて帰国すると、山形県にある山辺町を妻とともに訪れた。天童市に隣接する
この寒村に足を運んだのは、この地出身で日本人初の常設国際司法裁判所(国際司法裁判所の前身)所長となった安達峰一郎(1869〜1934)の生家を訪ね、同時に山形市で記念講演を行うためだった。
なにしろ皇太子妃の父の来訪とあって、地元での歓迎ぶりはいやが上にも盛り上がった。

この日、恆は国際司法の先達の生地に自らの手形と署名を残した。
翌年、生家前には黒御影石の立派な記念碑が建立された。石碑に刻まれた文字は、
「山辺町来町記念 国際司法裁判所所長 小和田恆」
とあり、中央に実物大の右手形が刻印されている。名前も自らの直筆文字を彫ったものだ。

もちろん、恆が申し出たわけではなく山辺町の役場やロータリークラブの発案で製作されたのであろう。
しかし、生誕の地の木札も、来町記念の石碑も本人の許可を得て建てられたものである。
個人の感覚はそれぞれ違うが、人前で自分の印象を強めるような振る舞いを極力避けてきた

正田英三郎との差異は歴然だといえる。
一方、ご成婚前に、小和田家の系図を遡って用意しようとしていた宮内庁は、部落解放同盟から思わぬ抗議を受けた。雅子さんの父方、三代前の金吉以前が繋がらず、調査に行き詰っていたときである。
今の時代、出自で人を云々することは、もとより許されない。だが、一般とは違う立場の歴代の皇太子妃はこれまで厳密な系図が準備されてきた。
「身元調査は差別である」との抗議が、部落解放同盟中央本部の機関誌『部落解放』(平成5年6月号)に掲載された。

抗議文から、一部引用しておこう(部分引用)。
「本年一月六日の『皇太子妃内定』の報道いらい、こうした差別撤廃、人権確立をすすめる立場から看過できない内容の報道がなされています。とくに、小和田雅子さんの『家系図』の掲載や『家柄』賛美などの過剰ともいえる報道内容、そして、『皇太子妃を選ぶにあたっては、皇室専門の興信所員が四代前まで徹底調査』などと、宮内庁自らが公然と身元調査を指示していたことが報道されています」

抗議文は3月16日付で、宮沢喜一皇室会議議長(内閣総理大臣)、衆議院議長、参議院議長、宮内庁長官にも送付された。

個人情報の管理が以前よりはるかに厳しくなっている時代に、「身元調査」は確かに差別といわれるのも当然である。

しかし、家柄や血筋と、家風や伝統は異質のものだ。子供にどのような教育をほどこすかは、
それぞれの家の価値観によって異なる。
(略)

続きます。

http://hiromihiromi.sakura.ne.jp/01/?p=4296


▲△▽▼


2017.12.05
雅子様A@家系(3)小和田雅子の家系のトリック
http://hiromihiromi.sakura.ne.jp/01/?p=4300


続きです。

小和田匡利(道蔵)が12歳で長男をつくり、14歳の時次男金吉を作ったと考えたらつじつまが合う

あるホームページから syutuji.htm

江戸時代、山屋家は代々俸禄二人扶持の下級藩士であったてことでこれはこれで間違いではないけれど俸禄二人扶持は厳密に言うと武士ではない

扶持取りは原則非戦闘員なので戦の時は雑用係。平時は中間か小者だったはず
壬申戸籍(明治5年制定・昭和43年に封印)には「士族」ではなく「卒族」となっているはず

小和田金吉(宮内庁が隠蔽する小和田家の歴史)
まず、小和田新九郎と小和田新六匡安と小和田匡春(道助)(1858年64歳で死亡)が、
兄弟であることには間違いない。
新六の息子が小和田郡蔵。匡春(道助)の息子が勝治であることも間違いない。
勝治の弟が兵五郎であることも間違いなし。
小和田兵五郎の息子が小和田匡利(道蔵)であることも間違いないのである。
さて、問題はその先、小和田匡利(道蔵)の3男となっている小和田金吉。

こいつがクセものである。

雅子様の父が小和田恒。祖父が毅夫。
曽祖父が小和田金吉であるが、この金吉、1867年生まれのあたりの人になるが
この人の代に村上を離れ新潟に移住した。
だが、この人が村上を離れた年もわからない。村上にいるとき何してた人かもわからない。(足軽ということになっている)

どうも金吉の父は小和田匡利(道蔵)となっているがそうではないらしい。
宮内庁が隠蔽してるのはこの金吉の父の名前がわからないということと、半島出身という点らしい。
小和田匡利(道蔵)が12歳で長男をつくり、14歳の時次男金吉を作ったと考えたらつじつまが合う

※1868年時点で(もし生きていたら)
・小和田匡春(道助)(1858年64歳で死亡) 74歳
・匡春(道助)の次男 勝治        48歳?
・勝治の弟兵五郎(5男として)      42歳?
・小和田兵五郎の息子(3男)が匡利(道蔵)15歳?
・匡利(道蔵)の次男金吉         1才

金吉の戸籍がないのは明治30年代に金吉が死亡し(若死)
死亡から80年たって雅子様が嫁いだ頃戸籍は処分されたからではなくて初めから存在しなかった。
(明治19年式戸籍ならどんな役所でも取り寄せ可能だし、19年式戸籍を廃棄している自治体はほとんどない。)

以上

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小和田雅子の系図のトリック

部落解放同盟系の研究者である上杉聡
マスコミが発表した小和田家の「優秀な家系図」の欺瞞性を指摘
『戸籍解体講座』
上杉聰

次の応用問題にいきたいと思います。お手元の資料の中に小和田雅子さんの系図が載っています。
この小和田雅子さんの系図が掲載された時、これは『朝日新聞』からとってきたんですけども、海軍大将なんかのりっぱな家系の娘さんだということが盛んに言われました。

これに対して部落解放同盟が抗議をしました。

宮内庁が四代前まで徹底的な調査をすると言っていたことに対して抗議をしたということは、やはり解放運動のおかげだというふうに思うんですけども。この系図を見て、うっかりすると唸ってしまうといのもまた我々の性なんですね。

そこで、これまでの予備知識を踏まえて、私もちょっと動揺を押さえながら、これをじっくり見てみました。

そうすると問題点がだんだん見えてきたんですね。一番上を見ていただきますと、
小和田金吉、田村又四郎、江頭安太郎、山屋他人、この人たちは聖母マリア様でもあるまいし、一人で子どもを生んでるという恰好になるんですね。

その下の段階になると男、女が確実に書かれてあるんですが、一番上の四人は配偶者なしなんですね。

一人で子どもを生んじゃってるんですね。

これ、「処女懐胎」じゃなくて「童貞懐胎」っていうやつですかね(笑)。

これは何だ、というふうに考えれば、やはり先ほどの、女は家系図から除かれる傾向を代表しているんだろうというふうに思うわけです。

それともう一つ。

二段目になってきますと、右の方に静さんという人と、
それと一番左に寿々子さんという人がいますね。これ、肩書きがないんですよ。
さらに寿々子さんの下に優美子さんという人がいますが、この人は外務省のキャリア・ウーマンということで、鳴り物入りで宣伝されたのもかかわらず、肩書きがないですね。
女性は一人として肩書きがないんですよ。

これも問題ですね。みんな専業主婦だったのか。

まさかそうじゃないですね。

これはやはり、女性は肩書きを除く傾向にある。
肩書きを除くまでして何で載せているのかと言えば、どうもそれは、海軍大将の山屋他人から雅子さんまで引っ張ってこようとすると、寿々子、優美子という二人の女性を経由してしかもってこれないわけですね。そのために肩書抜きで載っけているわけです。

それからもう一つ思いますことは、たとえば山屋他人さんには配偶者がいるはずなんですが、その子は一人っ子なのかということですね。

さらにその下のチッソの社長と寿々子さんの間にできた優美子さん、
これも一人っ子になっているんですね。

それから右の方の田村又四郎さんも一人っ子で静さんを生んでいる。

小和田金吉さんも一人っ子の家庭だったのか、と。

どうもおかしいんですね、これね。
これ、除かれているんだと思うんですよ。

まず女性は徹底的に除いたんだろうと思います。
そして肩書きがとるに足りないと考えられた男性も。

たとえば江頭安太郎さんの息子さんは三人おります。
隆さんと古賀博さんと豊さん。

豊さんが元チッソ社長というのが誇らしげな肩書きなのかどうかは問題がありますが、それはおいておきまして、この中で隆さんは肩書きがないんですよ。

何でかなと思ってよく見ると、その下にですね、評論家の江藤淳がおるんですね。

この江藤淳をもってきたいために隆さんを載っけてるんですが、
隆さんには肩書きがないんです。

書くに足らないような肩書きだと判断したんだろうと思うんですね。
この系図から除かれた男、女性も惨めですが、名前だけ書かれて肩書きを除かれた男も惨めだと思うんですね。

女性差別は必ず男性差別にもつながるという典型的な例だろうと思います。
そうすると、果たしてこれでも系図と言えるのか、ということがだんだん見えてくるわけですね。

要するに、何とかして雅子さんと海軍大将とか江藤淳とかを関係づけたいために、つないでみせたにすぎないわけですね。これはものすごい宣伝文書です。

彼女の血筋、家系がいかに立派かということを宣伝するための図です。家系図でも何でもないんですね。
それなのについ「なるほどね」と、私も含めて思いたくなるということです。
本来なら笑ってしまってもいいようなものが、大新聞に堂々と載せられて、我々も抗議すらしない。
我々の感性がいかに鈍ってしまっているのか、ということを思うわけです。

続きます。

http://hiromihiromi.sakura.ne.jp/01/?p=4300


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2018.04.25
雅子様A@家系(4)小和田家は朝鮮人密入国者の家系の可能性あり
http://hiromihiromi.sakura.ne.jp/01/?p=4349


ざっとまとめますと、、、、

・小和田家は村上藩士の小和田家とは無関係。

・小和田匡利(道蔵)が12歳で長男をつくり、14歳の時次男金吉を作ったと考えたらつじつまが合う、つまり嘘っぱち。

・宮内庁が公表している小和田家の家系図は、小和田雅子の血筋、家系がいかに立派かということを宣伝するための捏造家系図であり、家系図とはいえない。

・家計調査が入ったら、部落解放同盟から「差別を増長させる」として抗議がきた。

以上の事柄からみて、父母どちらかがかつての被差別階級につながる血筋であること、宮内庁から公表されている家系図がうそっぱちであることがわかります。

今は旧社会の階級制度からは解放されている時代です。仮に推測や指摘通り、最下層の階級の出身でもいいんじゃないのか、と思われる方もおおいとおもいますが、問題は、一族ぐるみで、日本国にたいする破壊活動に与していること、日本の国や国民を裏切っている可能性が高いところにあります。

話を家系にもどしますが、小和田家の先祖が、どこから来たのか、それは、小和田家の過去の行動や経歴からみていくと大方推測は可能です。

結論をいうと、北朝鮮からきた工作員の家系と思われます。

テーブルに置かれた、北朝鮮にゆかりのある花。


ハワイの韓国軍の記念施設に「コリアン プリンセス ベビー像」を設置

雅子さんが、愛子さんを生んだら、韓国人が大喜び。

なぜコリアンなのか、プリンセスなのか、という問い合わせが殺到したあと、「これは李方子さん」とごまかして、像を撤去。


東宮御所で飼われていた珍島犬の存在

時期的にみて、韓国大統領が北朝鮮の金正日におくった2頭のつがいの犬の子孫と思われ。

犬を飼い始めたときの宮内庁からのコメントは、

・東宮御所にメスの野犬が紛れ込んだ。

・犬は10匹の子供を産んだ。

・2匹を残してあとの子犬は職員で分けた

とか言ってましたが、

・東京に野犬はいない。

・中型犬が生む子犬の数としては10匹は多すぎ。ありえない。

・厳重な警備と張り巡らせれた柵を突破して犬が侵入することは不可能。

北朝鮮から下賜された犬かどうかは推測ですが、見た目からみて珍島犬なのは間違いないでしょう。


そして、よど号ハイジャック犯との関係

第67代総理大臣福田 赳夫

・雅子の父、小和田恒は福田首相(父)の秘書だった。

・秘書仲間に小泉純一郎がいた。

・小泉の父は鹿児島の朝鮮部落の出身であり、小泉の母は横須賀の朝鮮系ヤクザの娘だった。当然、小泉自身も、一滴も日本人の血を引いていない朝鮮系である。嫁も在日なので、3人の息子も当然、純朝鮮人である。

・よど号ハイジャック事件が起こった。

・莫大な身代金を与え、世界から非難された。犯人は北朝鮮へ亡命した。

・よど号ハイジャック犯が、新潟の朝鮮部落に居住していたころの小和田家と近所であった。

・よど号ハイジャック事件後、北朝鮮による拉致がはじまった。

・政府(自民党)は長い間、拉致事件に取り組まなかった。

横田めぐみさんの父「政府は、北朝鮮に弱みを握られているのではないのでしょうか」

・小泉が首相になった時、突然、北朝鮮を訪問。5人の拉致被害者を連れて帰った。

・仲立ちしたのが、総連の実力者だった。日朝に交流がない状態では、パイプがないと成立しない会談だった。

・噂によると、金日正は、小泉を別部屋につれていき「あなたの父祖の国へようこそ」といったとか。

マスコミは、小泉の手柄のように書いていたが、小泉が朝鮮人であることを自ら暴露したことでもある。


ここから、単純な推測が成り立ちますね。

・福田、小泉、小和田は、朝鮮系あるいは部落のつながりの仲間であり、代々、北朝鮮の工作員。

・よど号事件は福田と北朝鮮の共謀したヤラセだった。

・身代金のキックバックを、福田がうけとり口封じに自民党内に撒いた。

・その弱みを握られていたので、今にいたるまで自民党政治家は、北朝鮮のような犯罪国家に屈している。

あくまで推測ですが。


さらに、この連携は、皇位継承問題にも及んでいます。

・福田家は、群馬の部落の家。

・福田は、「雅子ちゃんを皇太子妃にするよ」と宣言していた。

・雅子が生んだ愛子さんを天皇にするための法案を通そうとしたのが、小泉純一郎。

なんとしても、朝鮮人、部落民の血を引く愛子さまを即位させるのが、部落解放同盟、および朝鮮人たちの宿願なのでしょう。

しかし、神の采配により、秋篠宮紀子妃殿下の第三子ご懐妊、そして悠仁親王ご出産により、その企ては頓挫しました。

まだ油断がなりませんが。愛子さま天皇実現運動は、部落民&朝鮮人のクーデターなのです。


大日本帝国時代の朝鮮

小和田家の祖とおもわれる人物が新潟に住み着き、背乗りしたころといえば、大日本帝国時代でしょう。

併合後のピクニック?の様子。いい雰囲気ですね。

このころは、朝鮮半島は普通に日本領であり、朝鮮人は朝鮮系日本人でした。すべての国民に対して戸籍もできましたし、選挙権もあり、出世して大臣になったり将軍になった人物もいます。スター的存在になり財をなした妓生もいます。戦後までは、半島と日本列島との間の行き来は普通にできていました。にもかかわらず、わざわざ、密入国して背乗りする必要があったとなると、

・半島で犯罪をおかして逃げてきた人物。あるいは一家離散などの憂き目にあった。

・半島でも身分の低い階級(例えば、白丁)に属しており、日本列島の北の果ての新潟に住み着きロンタリングする必要があるくらい、絶望的な階級だった。

・もともと目的があって日本に住み着いた「草」、すなわち工作員である。

・新潟の朝鮮部落にすんでいた朝鮮系の人間が、小和田家に背乗りした。

などが考えられます。

故中川昭一議員が、小和田恒の書斎にレーニン像があったと証言してますね。小和田恒が、ロシア大使だったころ、ロシアのハニトラにかかってダブルスパイをしていたことが、ソ連崩壊後の情報の公開によりわかっています。

小和田家は、不法入国する必要があったくらい社会階級の低い位置にあった朝鮮系であるだけではなく、思想的にも旧東側の人間の立ち位置を置く人物であり、代々、工作員の家系である可能性があります。


母方の江頭家もまた、部落の出身の可能性が高いですね。

雅子の母方の親族であり本家になるタレントが、「自分は部落だ」とカミングアウトしていたそうです。

さらには、祖父の江頭豊は、水俣病を引き起こし放置したばかりではなく、「腐った魚を喰った貧乏人がわるい」等の暴言、被害者の方々へのヤクザを使っての暴行と弾圧、ジャーナリストでカメラマンであったユージンスミスへの暴行などをヤクザとつるんで行った大量殺人犯でした。

つまり、雅子さんは父方、母方、ともに、日本、朝鮮それぞれの社会の、最下層の階級の出身でかつ犯罪性が高い家系ということになります。

続きます。

http://hiromihiromi.sakura.ne.jp/01/?p=4349

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2017.11.18
雅子様A@家系(5)小和田家の家業は犯罪?
http://hiromihiromi.sakura.ne.jp/01/?p=4435


今は江戸時代の階級制度から解放された時代であり、仮に皇太子の妻が、朝鮮系でもあるいは被差別階級につながる家系でも問題ないのではないか、と思われる方も多いと思います。親王妃になる方のご性質やご家族が立派な方であるなら、管理人も何代か前の先祖の境遇は問題にならないとは思います。

しかし、ご本人やその家系が皇族になるにふさわしくない場合、犯罪性があった場合、あるいは、国家破壊を目的としてて活動している家系である場合は、最下層からきた方であっても、あるいは名門であっても問題にしなくてはならないと思います。

こちらからの続きです

この写真一枚でも、不思議が一杯ですね。

・コスプレ感満載の、サングラスをしたお寺さん。

・数珠を持たないのは何故。

・つぎはぎだらけの墓石。


そして、この感覚感性、恥も遠慮もありません。自らをなんだと思っているのでしょう。まともな日本人なら恥ずかしくてできないことです。

小和田恒の石碑

なんじゃこりゃ?

小和田家の人々は自らを「宮家のようなもの」「準皇族」と称し、けじめのなさが非難を集めています。

・雅子が出席するはずの場に、出席できない雅子のかわりに妹がやってきた。

・東宮御所に住み着き、公使のケジメなく私物化している。

・東宮家の御静養に、妹の家族が一家ぐるみで同行する。東宮家の御静養は、ディズニーランドを貸し切り、スキー静養のおりにはホテルも貸切っての「御静養」です。新幹線も車両は貸し切り、莫大な費用が生じます。警備に動員される警備の費用も同じく税金から出されます。それに便乗して恥るところをしらないのが小和田家です。

・集まる大衆に向かって雅子の妹が、皇族になりきって手を振る、あるいはカメラを向けるなど、けじめのない行為が目立ちます。

・小和田雅子の母親が御所に来ては、調度品や美術品を持ち帰るという噂もあります。こうした噂が本当臭いのは、小和田優美子がつけているブローチを堂々とつけていることなどで、その性質を察することができます。

皇族女性の宝飾品は皇室財産であり、国家財産であり、所有権は国にあります。結婚などで、皇族女性がなんらかの事情で皇室を去る場合はおいていく決まりです。小和田母子がしていることは、国家財産の横領に値します。


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小和田恒@ 二重スパイ疑惑

2015年11月30日  MI6コードネーム「ムツヒト」皇太子の義理の父、小和田恒はソ連との二重スパイだった、今も怪しい

※転載させていただいてます。


皇太子妃父の小和田恒は、旧ソ連では有名なスパイでミトロヒン文書にも明記されています。

KGBスパイとして活動した駐ソ連日本大使館勤務経験のある外交官たちがいる。ミトロヒン文書では「OVOD」(2回もハニートラップに引っ掛かった)、「MARCEL」などの存在が明記されています。

モスクワ時代、誘惑したのはロシア語教師で2回も行為を撮影され工作員にされた。(コードネームアナグラム)

レフチェンコが実名を明らかにしたのは、自民党の石田博英氏(フーバー)、社会党の勝間田清一氏(ギャバー)、伊藤茂氏(グレース)、佐藤保氏(アトス)である。

その他、レフチェンコ・メモに実名が記載されている人物に上田卓三氏がいる)サンケイ新聞編集局次長の山根卓二氏(コードネームは「カント」)、読売新聞の外山四郎記者(トマス)、テレビ朝日の三浦甲子二専務(ムーヒン)、『インサイダー』の山川暁夫氏(バッシン)の実名が明らかにされている。

実名は不明ながら、サンケイ新聞東京版記者で山根編集局次長を補強しうる「デービー」(コードネーム・以下同)、韓国問題専門家の東京新聞記者「カミュ」、共同通信記者の「アレス」、大手新聞元モスクワ特派員の「アギス」、フリージャーナリストの「ドクター」外山四郎氏、三浦甲子二氏。

東京新聞記者の「コーチ」、朝日新聞の「BLYUM」、読売新聞の「SEMIYON」、産経新聞の「KARL」(あるいは「KARLOV」)、東京新聞の「FUDZIE」、社名不詳大手新聞の「ODEKI」、社名不詳ジャーナリストの「ROY」

自民党関係者にさらに2人のエージェントがいたと指摘されている。

自民党議員の「KANI」と、田中角栄の側近の「FEN」は「フェン・フォーキング」と同一人物?

一部週刊誌(新潮)にも記載されていましたし、ジャーナリストからの情報ですか ら情報は確かだと思います。

民主党政権時に公安情報がかなり紛失・消失したとのことです。

(民主党政権時の国家公安院長の名前を思い出してみてください)

再構築しなければならないので、情報を提供してほしいと古屋議員から言われま した。

以上

続きます。

http://hiromihiromi.sakura.ne.jp/01/?p=4435


▲△▽▼


2017.12.05
雅子様A@家系(6)小和田家の家風 ソ連文書からみるスパイ小和田夫妻
http://hiromihiromi.sakura.ne.jp/01/?p=4439


続きです。

1967年モスクワ

※こちらより転載させていただいたうえに、編集しています。


【武器輸出三原則違反】犯罪人的発想

雑誌正論2008年1月号 佐々淳行

カンボジア総選挙国際監視団に日本の文民警察を派遣するとき、装備として拳銃と若干の小銃、それに防弾チョッキを持たせようと提案したら、外務省の小和田恒が、
「丸腰で行け! 装備をもたせると、帰るときに売っぱらい、武器輸出三原則に違反するから」と言い放った。
日本の警察をバカにしたような発言に驚いた。

以上

※帰るときに売っぱらい、、、その発想は堅気の日本人にはない(管理人)

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【論文紛失】国費留学しつつも、博士号はとっていない。

ニューヨーク大学での対談形式でのレクチャーのマニュスクリプトP8

ケンブリッジ大学が賞をくれて、その上で博士号コースを続けていた3年目。

ケンブリツジを離れる頃には論文をほとんど書き上げていたけど、もう少しいいものにして、それから提出したいと思った。
そこで、日本に戻ってから仕上げようと決めた。
いずれにしろ私は(日本)政府から派遣された身で、その時はもう日本に戻らなければならなかったから。
当時は全て船便で送らなければならない時代だったから、私も自分の物を船便で送ったら港でトランクが1つ紛失。
それには服や本などと一緒に大事な学位論文の原稿が入っていた。
トランクは二度と見つからず、ゆえに私は博士号を取る機会を失ってしまったのです。

以上

※博士号をとっていないいいわけが、陳腐すぎる気がする。(管理人)


機密費横領

防衛省OB太田述正メルマガ「小和田恆さんいい加減にしなさい。」

皇太子殿下の嫁の実父という立場にある君は恐れ多くも、皇太子殿下を利用し、次から次と悪事を働いて来ましたね。
ある時は、後藤田正晴氏と組んで想像も付かないような恐ろしい悪事を企てましたね、
元日銀総裁の三重野康氏を使って実行した事は日本国の信用を著しく損ねたのみならず、皇室の尊厳を著しく傷つけました。
それに懲りずに今度は武藤敏郎日銀副総裁(当時)、飯島勲(元小泉総理秘書)、等と組んで小泉純一郎氏を巻き込み某国の大統領にまで手を延ばして、恐ろしい事をしましたね、その時も恐れ多くも、皇太子殿下を欺いて利用しましたね。

【日銀総裁の座を狙っていた小和田恆氏】

何故小和田氏は日銀総裁の座を狙ったのか、それは国連大使、オランダハーグの国際司法裁判所判事と歩んできた最後の仕上げであった。
今、小和田氏は武藤総裁を実現して最後の賭けに出ようとしている、
これは皇室に災難をもたらす、あまりにも無謀な恐ろしい暴挙であると言わざるを得ない。小和田氏自身のみならず皇太子殿下にも災難が及ばないとも限らない。

このうえは天皇陛下の御英断を煩わせる他にないのか?
小和田氏はかねてソヴィエットロシアの大使館に勤務していた時、北朝鮮の工作員と接触しましたが、その時利益供与を受けたという疑いが某国の諜報機関に持たれています。
いづれにしても、小和田氏の信用と評価はアメリカでは最悪であり、EU諸国に於いても最低だと言われています。
自らの立場を猛省されて身を処されたらよいのではないか。

以上


ソ連共産党日本人工作員のなかに、小和田夫妻の名前が??

ソ連共産党・日本人工作員

70年2月26日に、ソ連共産党政治局は、日本社会党とその機関紙に助成金を支給 するために、合計10万ルーブル(当時、3571万円)の支出をKGBに承認し た。類似した助成金は、毎年払われたようだ。

たとえば、72年に支払われた10万ルーブルのうち、6万ルーブルは政治資金とし て各議員個人に渡された。

1万ルーブルは日本社会党とソ連共産党の交流資金、2万ルーブルが日本とアメ リカおよび中国との関係に打撃を与えるアクティブ・メジャーズ工作資金、1万 ルーブルが日本社会党に公明党や民社党など他の野党と提携させないためのアク ティブ・メジャーズ資金として使われた。

社会党最高幹部と自民党大物議員

▽勝間田清一コードネームはGAVR。

彼は66年の日本社会党書記長選挙の次点者で、74年 にその党内地位を強化するために400万円をKGBから受け取っている。 KGBでは社会党中道派のリーダーと評価されていた。

(※ミトロヒン文書に勝間田氏の名前はないが、後にレフチェンコ氏が GAVR=勝間田氏と断定した)

▽佐藤保 コードネームはATOS。

社会党左派(マルクス主義派)のリーダーで、4つ の党刊行物の責任者だった。KGBファイルには、佐藤氏が日本社会党機関誌に 記事を掲載するための資金として73年10月に40万円をKGBから渡した記録がある。

(※ミトロヒン文書に佐藤氏の名前はないが、これも後にレフチェンコ氏が ATOS=佐藤氏と断定)

▽ALFONS(実名不明)

社会新報に記事を書いていた。72年に250万円受け取っている。KGBファ イルには、社会新報に記事を書くために15万円が支払われた記録もある。

▽DUG(実名不明)

日本社会党委員長に非常に近かった社会党員。選挙資金として72年に39万円を 渡された。

▽DIK(実名不明)

選挙ビラとポスター制作費として72年に20万円を支給された。

――それ以外にも、社会党でKGBエージェントとファイルされていたのは以下の 通り。

▽JACK(キリル文字でDZHEK/実名不明)

73年からエージェント。社会党議員。

▽伊藤茂コードネームはGRACE。

社会党議員で党中央委員会のメンバー。おそらく 75年よりエージェント。

(※ミトロヒン文書に伊藤氏の名前はないが、これも後にレフチェンコ氏が断 定。レフチェンコ氏はその他に、ミトロヒン文書に出てこない2人の社会党員 「RAMSES」と「TIBR」の存在も断定している)

▽DENIS(実名不明)

江田三郎・社会党書記長の親しい側近。

▽KING(実名不明)

後に日本社会党の幹部となった。

▽KERK(実名不明)

勝間田派議員。KGB東京支部と日本社会党執行部のコネに重要な役割を果たした。

▽上田卓三・社会党議員

親ソ派の学者で「山本」という人物が、KGBの協力者として議会で影響力を行使したという。「山本」がリクルートされたのは77年。以後、彼はKGBの意に 沿うような国会質問が出るように議員に働きかけた。

▽石田博英・元労相(自民党幹部)

▽「HOOVER」自民党幹部の石田博英・元労相

石田氏は73年2月に「日ソ友好議員連盟」(コードネームはLOBBY)の代表 になり、同年の8月〜9月の訪ソ団の団長となった。この訪ソ団は17年ぶりの日 本国首相の訪ソとなる田中角栄首相訪ソの直前に行なわれた。石田氏がソ連中央 で重く扱われるようにKGBが裏で支援した。

石田博英氏は70年代を通じて日ソ友好議員連盟を足がかりに、「影響力のエー ジェント」として使われ続けた。

77年には、KGBの要請に基づき、彼は個人的に福田赳夫首相に意見した。

※福田赳夫は小和田恒の親分

モスクワの日本大使夫妻がソ連反体制派と接触し、「歓迎されざる人物」になっ たから、日本に呼び戻すようにということだった。

※モスクワの日本大使夫妻=小和田恒で間違いないと思います(笑)


09 Jun 1993 — PRESS CONFERENCE WITH THE PARENTS OF MASAKO OWADA — Image by © HARUYOSHI YAMAGUCHI/CORBIS SYGMA

▽田中角栄の側近だった「FEN」

角栄秘書『フェン・フォーキング』はこの中に?

曳田照治 榎本敏夫 山田泰司 田中利男 遠藤昭治 田中勇 高鳥修 佐藤昭 子 早坂茂三 麓(ふもと)邦明 古藤昇司 朝賀昭 工藤節子 中村喜四郎

本間幸一  小長啓一 桜井新 小谷兄弟  樺沢 城谷 片岡憲男 井上孝

高橋国一郎 下河辺淳 小野吉郎 西村尚治 長田裕二 山下元利 林義郎

大村襄治 両角良彦 小長啓一 後藤田正晴 秦野章


政治家『フェン・フォーキング』はこの中に?

木村武雄 西村英一、橋本登美三郎。二階堂進、小沢辰男、久野忠治

愛知揆一、木村俊夫 江崎真澄、小坂徳三郎 後藤田正晴 山下元利

小沢一郎 小沢辰男  渡辺紘三 高島修  西村英一  橋本登美三郎

木村武雄  植木庚子郎 足立篤郎 原田憲 亀岡高夫 前田正雄

金丸信 竹下登 橋本龍太郎  小渕恵三 田村元 小坂徳三郎

林義郎 大村襄治  羽田孜 梶山静六  渡部恒三

奥田敬和 高島修  佐藤恵  石井一  綿貫民輔

斎藤滋与史  中山利生 佐藤守義 稲村利幸  野中英二

有馬元治  浜田幸一

▽自民党議員の「KANI」→金丸信?


マスコミの記者

日本社会党機関紙以外に5人の一般マスコミの記者が特定。
・朝日新聞の「BLYUM」

・読売新聞の「SEMIYON」

・産経新聞の「KARL」(またはKARLOV)

・東京新聞の「FUDZIE」

・社名不明な主要新聞社の上級政治部記者の「ODEKI」

▲ジャーナリストの「ROY」=「ARES」(同一人物)

日本の防諜機関上級幹部の「KHUN」をリクルートするのに役立った。 KHUNはとくに中国に関する機密情報を提供した。

▲「FET」(あるいは「FOT」)

この人物については具体的な情報はない。

▲山川暁夫・インサイダー編集者

▲サンケイ新聞の編集局次長だった山根卓二氏

(コードネームはKANT)

▲三浦甲子二・テレビ朝日専務

▲杉森康二・日本対外文化協会事務局長

MADE IN RUSSIA―ロシアは何をつくったか 単行本 – 1997/11
森本 忠夫 (著), 江南 和幸 (著), 杉森 康二 (著)


2人の日本外交官

■「RENGO」

RENGOはまた、自ら新たなエージェントのスカウト

■「EMMA」

EMMAには、彼女がエージェントになったまもなく、運営者によってハンド バッグが与えられ外交文書の写真を複写するためのミノックスカメラが仕込まれていた。

■「OVOD」→小和田恒

合計6年間のモスクワ勤務の間に2回、ハニートラップに引っかかり、それをネ タにエージェントに仕立て上げられた。

彼へのハニートラップのうち2回目のほうは、MARIANAというコードネー ムのKGBエージェントによって実行された。彼女は、OVODのロシア語教師 として雇用されたが、まもなく男女関係となり、その性交渉時の写真が撮影さ

れ た。OVODはいやいやながらも、KGBに協力することを承認した。

■70年代前半にモスクワに駐在していた電信官「MISHA」

LANDYSHというコードネームのKGB工作員が誘惑したケースだった。

MISHAは、70年代後期に「NAZAR」というコードネームでKGBに運営 されていた東京の外務省本省に勤務する電信官と同一人物である。

■「MARCEL」

MARCELの協力で、「KONUS」というコードネームの自衛隊の駐ソ連の 防衛駐在官もリクルートされた。


KGBの科学技術情報スパイ

70年代に日本のハイテク産業と研究所の幹部職にある日本人エージェントは合計16人

◎東京地域のハイテク会社の社長で、「TONDA」

米国の空軍とミサイル部隊のための新しいマイクロ・エレクトロニクスのコン ピュータ・システムに関する重要な機密資料をKGB東京支部に提供した。

◎半導体製造会社オーナーの「TANI」

日米の半導体の機密情報やサンプルを提供した。

◎「LEDAL」日本の大学の半導体研究の責任者。

◎日本のハイテク産業と研究所の幹信技術研究者の「ARAM」

◎通信技術者の「ARGUS」

◎東京大学の科学者である「BRAT」

◎宇宙研究者の「EYR」

◎微生物学者の「KANDI」

◎物理学者の「KARI」

◎宇宙学者の「KISI」

◎日立社員の「RIONI」

◎三菱社員の「SAK」

◎技術専門家の「SOT」、

◎赤外線分光学者の「TAIR」、

◎電子技術者の「TONI」

◎核科学者の「UTI」

などである。

グレーゾーン工作員

※ソ連通でスパイではない?

自民党:鳩山一郎、河野一郎、赤城宗徳、田中角栄、中川一郎。

社会党:成田和巳、石橋正嗣、勝間田清一、飛鳥田一雄、土井たか子、五十嵐広 三、高沢寅男、山本政弘、岡田春夫、岩垂寿喜男、伊藤茂。

その他:三浦甲子二、杉森康二、堤清二、松前重義(東海大総長)、池田大作 (創価学会名誉会長)、千田恒(元サンケイ新聞記者)、秦正流(元朝日新聞編 集局長)、白井久也(朝日新聞記者)、中村曜子(画廊「月光荘」経営者)、長

谷川千恵子(画廊「日動画廊」経営者)、柴野安三郎(札幌日ソ友好会館オー ナー)、岡田茂(東映社長)(以上、肩書きは同書のまま)

ソ連崩壊後、中国共産党、北朝鮮のスパイに転向したものも多いのではないか。
コードネームをつけられているものは、KGB側が認めているスパイ。

続きます。

http://hiromihiromi.sakura.ne.jp/01/?p=4439


▲△▽▼


お笑い「小和田家」家系図 2018-10-15
https://blog.goo.ne.jp/bb-danwa/e/f0ffe3a0cf6cc2088255576c74fa4848

ここ、結構笑えるので息抜きにたまに拝読させていただくのですが、今回はまた吉本的お笑い家系図の掲載。

遂に小和田家家系図完成!!  だって。


http://retsugaiha.blog.fc2.com/blog-entry-2312.html

突っ込もうかどうしようかと迷っていたら、トド子さんがいち早く目に止めて記事にしていらっしゃいました。

雅子卑のカレ〜なルーツニダ♪

なので、わざわざこちらで追求する必要もなくなり手間が省けて助かったのですが、それにしても「遂に小和田家家系図完成!!」って、雅子さまが入内されていったい何年経過しているのやら、即位直前になった今頃「家系図完成」とか。本家分家の区別も解らないまま、ずさんなこと。


それに無関係なはずの素人さんがわざわざ新潟まで出かけて調査、自費で「小和田家の家系」を調べます?


次男三男に養子がいたことにするとか・・・・嘘ももっとリアリティを持たせなくては。

武士の系譜という触れ込みですが、武家に「金吉」などという名前はありません。


後記 コメ欄にご指摘を頂きました。

>有馬藤吉、有馬彦吉、有馬静吉(有馬姓が並んでいたので一族でしょう)伊集院兼吉や、伊集院末吉もいます。


以上ですが、単に語感の問題なのかもしれませんが「金吉」に未だ違和感。
なぜなのだか?


最近はブログ仕様が異なって「いいね」ボタンがなくなりましたが、以前はコメントがどっさりある割に「いいね」がゼロという、不思議なブログでした。
と指摘されてから、仕様を変えたかな? コメントを書き込んでみたら、数分後にブロック。仕事、早いです。

秋篠宮殿下、妃殿下、悠仁親王殿下を悪し様に罵っているブログです。返す刀で皇后陛下を斬りまくり(まるで雅子妃が姑を見る目線で)、その一方高円宮家は褒めそやし・・・・という解りやすさで、どういう立ち位置の「身内」か見えて来るような? 文章にはそこはかとなく加齢臭。


即位を目前に、疑惑が再燃、吹き出すのを怖れて相当焦っていらっしゃるような。
こんな、すぐ見破られるような家系図を持って来たら、小和田家の家系のいかがわしさが、逆に見えて来るでしょうに。


いとこ(男)さんが大阪の精神病院に長く入っていらっしゃることなど、通名屁カテさんはどのように、今後は言いくるめるか楽しみなことです。外務省入省は、当時あったVIP子弟採用枠5人のうちの一人で縁故採用だとか、奥参事官との不倫とか。
ついでに言っておけば、雅子妃が精神に変調を来たしたのは皇室のせいなどではありません。元々ご家系にその因子をお持ちでした。

出自云々や精神を病んだ方への誹謗でも差別でもありません。あくまでも、宮中には入るべきご家系の方ではなかったという論旨です。江頭家も含めて。

I write my will across the sky in starsは、I write my lie across the earth in shit.

と書き換えたほうがよさげ。

トド子さんが紹介していらっしゃるけれど、こちらのブログさんが通名屁カテ様の基本的嘘の論破となりそうです。

http://kabanehosi.up.seesaa.net/image/syutuji.htm

台所婆は有名ですが、もう一つ身内臭がするサイトがこちらです。

h ttps://blog.goo.ne.jp/index2013/e/668bb73fc657778f7d78fe29e96604d3

これに対しても、上記のブロガーさん記事でその嘘がばれるでしょう。

しかし、あちら必死です。身内勢とあのワールド***という新興宗教勢でしょう。

情報をいくら操作しても無意味だと思います。即位されてからの雅子妃はより目立つようになり、それと共にいかがわしさも表に出ます。東宮の在位期間は短い、最長10年と思っていますが、それは単なる直感に過ぎません。

ついに小和田家【出自】の秘密 

2018-03-22 17:44:30

被災地訪問にも出る、品格の差。


https://blog.goo.ne.jp/bb-danwa/e/f0ffe3a0cf6cc2088255576c74fa4848

まず小和田恒氏「ごときが」という言い方も、

当日小和田氏の出版記念パーティに出席したメンツを見れば、

妥当ではないでしょうか。

イメージ 1


*1994年9月 小和田国連大使の出版記念パーティー。

7日、帝国ホテルで行われた小和田国連大使の出版記念パーティー。

政・官・財界などから、

福田赳夫、宮沢喜一、瀬島龍三氏をはじめとする

約二百五十名が出席する華麗な会となった。

弱小出版社からたかだか2千部を出したに過ぎない自著(部数から推して自費出版の可能性?)のパーティを帝国ホテルで開く・・・・・・田舎趣味。

本人は華やかな場が嫌い、とのたまってますが、

それなら何も出版記念パーティなど開かなければよいわけだし、

招待状を元総理2名に出す如きことは、控えれば良いだけでしょうに。

田舎者の屈折した、目立ち好みだと思います。

いやいや、いやと舞台から去りながら、

でも首はスポットライトのほうに突き出してる、みたいな?

「目立ちたくない人」がこの恥ずかしい立て札放置?


イメージ 2

放置どころか、令夫人が「これじゃあ、お墓みたい」とクレームをつけて、
大きく作り変えさせたのですってよ。

たった2千部で帝国ホテル!!

今、出版に詳しい知人に問い合わせたらやはり、自費出版っぽいとのこと。
コミケの壁サークル(コミケの大手)なら、5千部出るって笑ってました。
それも1日間で。3日間で万を刷りますって。


イメージ 3


http://www.amazon.co.jp/%E5%8F%82%E7%94%BB%E3%81%8B%E3%82%89%E5%89%B5%E9%80%A0%E3%81%B8%E2%80%95%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%A4%96%E4%BA%A4%E3%81%AE%E7%9B%AE%E6%8C%87%E3%81%99%E3%82%82%E3%81%AE-%E5%B0%8F%E5%92%8C%E7%94%B0-%E6%81%92/dp/4924831107


¥566 より 14 中古品の出品

¥ 5,033 より 1 新品

カスタマーレビュー皆無。

コミケに敗けた皇太子妃父。

礼子さんが、お得意の自作自演で褒めてあげればよいのにねえ。
(自著を、Amazonのビックレビューで、自分で褒めまくり、

その時自らの洗礼名を使って、ばれちゃった事件があるのです)


宮沢喜一、福田赳夫、そして本人。このメンツで何が解りますか?


共通キーワードは「売国奴」

そして「部落」ではないでしょうか。

                    宮沢喜一


イメージ 4


内閣官房長官時代には、歴史教科書の検定基準に「 近隣諸国条項 」を設けさせ「中韓の感情を害してはいけない」という基準を作り、中韓2国の意向に沿った

『日本を貶めるために創作した自虐史』でないと

教科書検定で合格させないようにした。


内閣総理大臣になってからは、 《 朝日新聞のねつ造記事 》 にのっかり

『 従軍慰安婦 』の存在と『 日本軍による強制 』を認め、韓国で謝罪。


河野洋平官房長官と共謀、「 河野談話 」を発表させ、

世界に向かって「日本は悪い国」と宣言した。


ちなみに、皇太子の考える新たな天皇の姿とは

「国連大使のような仕事をする」です。

売国官吏、小和田恒氏の影響を受けての愚かしいご発言です。

影響というより考える能力がないので、口走っただけ。

国連大使のような仕事をする皇太子や天皇って、どんなのですか?
天皇家の視座はあくまでも、日本でございます。


ローマ法王と肩を並べることの出来るのは世界でもエリザベス女王と

天皇陛下のみであり、その天皇陛下に訪れて頂くことで、

支那は天安門における非人道的行為に対する

世界からのバッシングを緩和させることに成功したのです。

福田赳夫は、やはり媚中で「雅子ちゃんを皇太子妃にする」と

雅子妃の少女期から口にしていた男です。部落出身者の権勢広げか?

小和田夫妻は、福田赳夫の子分であり、

妻の優美子さんは高円宮と通じていました。

お膳立ては整っていたわけです。


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父子で、影に日向に東宮にひっつき虫でコントロール。

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ごく最近の福田康夫の言葉。

「中央日報
http://japanese.joins.com/article/386/209386.html?servcode=A00§code=A10
日本の福田康夫元首相は「韓日関係は離婚できない夫婦のような特殊関係」としながら「相手に対する配慮と信頼、 忍耐力が必要だ」と話した。

・・・・・・・

気色悪いこと言う売国奴でしょう? 国交断絶とまで国民は願い始めているのに。あの韓国に「配慮と信頼」ってw 忍耐は70年間たっぷりさせて頂きました。
こういう手合が総理をやっていたとはね。

こんな韓国ヨイショの父子が

小和田と密着していた事実を忘れないようにしましょう。

美智子さまと雅子さまの入内共通項は、

いずれもマスコミ先行で情報が漏れ、というより意図的に漏らされ

既成事実化されたこと。

美智子さまの時は、海外にまずリークするという手段が取られました。

「ニューズウィーク」当時の日本はアメリカさまの雑誌で言うことですから、

一もニもなく信じこみ、いつの間にか既成事実化。

初の民間からの入内という驚天動地も、

アメリカでまず報道されることで緩和されました。

それ以降の、ミッチー・ブームとやら、

今思えば韓流と同じで仕込みの構造が見え見えです。

反日に転じたマスコミがこぞって皇族を芸能人化。

人気という名のもとに、格を果てしなく落としていきます。

某ワイドショーの方に聞いた言葉。「昔、雅子さんのお母さんって、すごかった。

週刊誌のグラビアで女優の裏に雅子さんが載っているとねじ込む。

雅子を女優ごときの裏にして、貶めないでくださいませ、と。

そして、皇太子妃を、女優、ホステスなどと同等に扱わないでくださいませ、と。

女優とホステスが、優美子さんの中では同格の賤業らしいけど、

雅子さんがあれ上品なの?」

「女優もホステスも努力と才能で自力で懸命に生きてるじゃないの。

たった20メートルしか歩かない皇太子妃と比べたら、

女優とホステスが怒るんじゃないの?」


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皇室会議の議長である岸信介が、

内閣総理である岸信介に通知する形式ですね。

思えば日本の半世紀に及ぶ、これが悪夢の始まりだったのです。

安倍晋三皇室会議議長の名で、廃太子廃妃の通知を

安倍晋三内閣総理宛てに出して頂きたいものですね。

内部で強固な反対論者が多数いたのに、

皇室会議ではあっさり全員一致という不可解も、美智子さま雅子さま共通でした。いえ不可解ではなく、双方ある勢力により初めから仕組まれていた成婚であり、

テニスコートでの出会いも、どこぞのレセプションでの出会いも

フィクションだった、ということです。

雅子さまは、フランスの地方都市コルマールで皇太子と同宿しています。

レセプションで出会ったとされる、遙か以前にです。

はっきり言えば密罠仕掛けなんじゃないですか?


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皇太子妃決定の報道が出る前から、

あちこち出回った小和田雅子嬢絶賛記事の不可解。

抱き合わせでさりげなく、小和田恒氏の持ち上げも。

なんだかねー。

何もかもが嘘。でっち上げ。誰かが書いたシナリオ通りに、

美智子さまと雅子さま、希代の皇室伝統壊し妃たちは宮中に仕込まれました。

お二人共に結局は、GHQの流れに現れた異人(エイリアン)なのだと思います。

正田家、小和田家と皇室からの打診を辞退したり、渋ったりしていますが、

娘を好条件で売りつけるための駆け引きです。「ストラグル」w
いずれも買い手のほうの息子たちが目の色変えて夢中ということを

心得ていての、駆け引き策謀です。

でも双方背後に組織がついていての入内なので、

どのみち決定事項に等しいことでした。

正田は娘が15歳の時からエリート富裕狙いの男が集まるパーテイに出して

婚活させていた家、小和田家では福田赳夫元総理の頃から入内に虎視眈々、

高円宮家ともそのためにつるんでいます。

もっとも雅子さんのほうには、結婚を意識した相手(自民党代議士)がいたので、個人的には渋る気持ちがあったかもしれず、その為に「来てやった」意識は

強いかもしれません。国民には全く関係のない、

迷惑千万な来てやった意識ですが。

実態は異常なまでに上昇志向、権力欲の強い父親に「売り飛ばされた」のです。父親には、娘を使ってのし上がった藤原道長が

理想像としてあったかと思われます。

江頭某という芸人が、雅子妃の母方江頭と縁戚関係だというのが事実なら、

雅子妃の母方実家・江頭家は被差別部落の出です。同じ佐賀の出身。

江頭某が、かつて東郷健という市民運動家の家で

「オレは部落出身者だ」とカミングアウトしたのを、その場にいた人が聞き、

拙ブログ主はその方から個人的に証言を得ています。

その方に失礼ながら幾つも質問を重ね、

その証言の信憑性を確信するに至りました。

筆名江藤淳(評論家 本名江頭)は江頭家について調査しますが、

“手明鑓(てあきやり)”という平時は無役、戦時に槍や具足を携えての身分と

推定しますが、確定的家系図と資料は皆無です。

鮮人と多分ハーフの布袋寅泰を登場時のBGMとして使ったり、

パチンコ業界とも密なので、ある想像をしますが、決定的資料はありません。

某暴露系雑誌の記者に、江頭某が身の上を語ったら

「そんなもの、とても書けません」と言われたいう逸話。

暴露系雑誌に「書けない」といわしめる内容とは、皇室以外に何かあるでしょうか。雑誌名は失念しましたが、拾おうと思えばソースは見つけられます。

時間がないので、さぼります、ごめんなさい。

Wikiにあるはずなので、興味のある方はどうぞ。

ちなみに、江頭某というタレントは佐賀県の出身ですが、

むろん雅子妃の母方江頭も佐賀。

面白いことに、皇后陛下の母上も佐賀の副島家なんです。
いったい、どういう因縁なのか。

副島家も、江頭家も確たる家系図は存在していません。

初代宮内庁長官が「副島は、興信所ではなくもっと調査の必要があった」と、

書き記しているのは、どういう意味なのでしょうね。

おそらく、そういう意味なのではないかと、想像していますが。

在日は在日を地下水脈で実にあっさり嗅ぎ分け、裏でコミュニティを形成します。思うに、部落もそうなのではないですか? 

被差別部落への差別がいいとは思わないし、

部落だからどう・・・・と短絡はしません。

けれど、暴力団の6割が部落、3割が朝鮮人、

日本人は1割というごとき現実はあるわけです。

在日利権と同様に部落利権も巨大です。

副島家が佐賀で家系図不詳ということと、

同次元に考査しなければならないのは、群馬正田家の家系図でしょう。

拙ブログの読者間では意見が二分されていて、

部落説、名家説と両方ありブログ主はいまだ結論を出し得ないでいます。

仮に白山神社と、部落エリアに実家があったことを論拠に

「そうだ」と仮定するなら、部落円環がきれいに閉じますけどね・・・・・。

念のため再度申しますが、部落だからどう、ということではないのです。
そのお血筋にあるからいけない、と短絡もしていません。

皇族に部落の血が混じるのも厭いません。

朝鮮人は困りますが。

ただ、言動に不審がある場合出自を探ると半島であったり、

部落であったりすることは多いと言わざるを得ません。


天皇皇后、東宮擁護の頭脳硬直・思考停止連中が判で押したように言う、

皇室はいかなる理由があろうと批評してはならぬという言い方も

理解は出来るのです。それは正しい。

皇室の権威を保つには、守られなければならぬ鉄則です。

但し、皇居の中の人々が最小限の則を保ってくださることを

前提での了解事項です。

外れる人がいるからこそあった、廃太子の制度です。

日本弱体化を目的になされたGHQの政策は、

祭祀を「天皇の私的行為」としてランク下げを行い、

その弊害が日々現れて、終戦後この方現在に至ります。

祭祀や神事を軽んじる皇太子の誕生、忌避する姿勢すら見せる妃殿下の出現。いずれも、GHQの皇室弱体化施策の結実というべきでしょう。

竹田某なる者は皇太子の祈りが真剣である、とのたまいますが、

真剣な皇太子が両陛下の剣璽動座による伊勢参内の時

スキーに一家で遊びに出掛けますか?
お慎みの日に遊びほうけていますか?
大震災の命日に御所でお楽しみ会を開きますか?


さて皇室典範です。


*第三條  皇嗣に、拐~若しくは身体の不治の重患があり、

又は重大な事故があるときは、皇室会議の議により、

前條に定める順序に從つて、皇位継承の順序を変えることができる。

重大な事故に該当する要素はあると思いますけどね・・・。

しかし、皇室会議の委員長である時の総理は、

誰も皇室問題には手を触れたくありません。

触れれば命取りになりかねない、デリケートな問題だからです。

まして時の総理が売国政権の者である時は、放置です。


現在の両陛下、皇太子と皇太子妃殿下のありようは、皇室解体、

日本国の国体の弱体化には、いたって都合のいいお方たちです。

例の朝鮮カルト教団が東宮夫妻に肩入れし、秋篠宮ご夫妻に関わるデマを

流していることからしても皇太子夫妻は反日勢力にとって都合よいのです。

また利用しやすい存在であることは、反日韓国の要人潘基文(パン・ギムン)、

韓 昇洙(ハン・スンス)らの皇太子への接触と交流で解ります。

皇太子も進んで彼らや小和田恒氏の喜ぶことをやります。

人民解放軍少将であり、習近平の妻である彭 麗媛(ほう れいえん、

ポン・リーユアン)への接触。

創価イベントへの出席。池田大作の息子との食事会など。

それでも、擁護連中は現実を見ようとはせず、

皇室批判をするは不敬という原則論に縛られて自らに盲目を強いています。

皇太子と反日潘基文を結びつけたのは小和田恒氏です。

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今や雅子妃入内以来20年間の居座りで、小和田王朝完成。
以外に頭が悪く使えない皇室弱体化乗っ取り要員ではありましたが、

居座ることで小和田反日王朝が宮中に完成しました。

天皇陛下にタイで「謝罪させた」のが小和田恒氏。

河野談話の影の人物、また「韓日」ワールド・カップの影の推進者でもあります。


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なんで、嫁ぐ数日前の小和田家に北朝鮮の金正日の花が飾られているのかと、拙ブログでは執拗に問い続けています。

仮説の域は出ませんが、江頭が部落なら小和田は北朝鮮ですか?
あくまでも「もし、そうだったら」雅子妃は朝鮮と部落との掛け合わせで、

鳩山幸さんと同じような境遇です。


擁護派は(ひょっとしたら)朝鮮人の即位を認めるのでしょうか。

その論調の拙さからして、「皇室は批判すること能わず」であるなら、

皇室の定義を述べよ、その定義に逆らう者でも皇族と呼べるのか。

皇族の資格を有せぬ者すら、

批判してはならぬというロジックによって成り立つ典拠を述べよ、

と突き詰めても答える能力は有してはいないように見受けます。

論というのは美称なのであって、擁護派の語彙はいかにも貧しく、

ツイッターで呟くか、語彙乏しい連中が寄り集まった掲示板で

主語述語すら定かならぬ、未熟な日本語で数行書きつけるのがせいぜい。

こちらでも、理路整い語彙も備えた反論なら来なさい、

お相手しますと言っているのに、ちょろちょろと嫌がらせが来る程度。

擁護論にロゴス化出来るほどの根拠が無いからです。

東宮夫妻という擁護に実は値しない方たちの擁護は、

しょせん数行が限度だということなのでしょう。

小和田雅子という、記者を指さし恫喝し、

差し出された名刺を記者の前で破り捨て、

また自らを撮ったカメラマンを追いかけ胸ぐらをつかんで

フィルムを廃棄させるごとき荒いヤンキーもどきの気性の女性、

婚約寸前の男性がいた女性、つまり非処女、堕胎の噂さえ根強くあります、

というより・・・・元皇室担当記者から具体的なことを聞いています。

学歴職歴共に著しい疑惑を指摘されている女性が、

一歩皇居の敷居をまたいだだけで皇族となれるのか、なれるなら

そのロジックはいかなる言語で構成され得るのか、答える能力もない者たち、

それが擁護派の頭脳と教養のレベルです。

この酷いアトピー肌も、露出の多い夜会服を考えれば妃失格だと思いますね。


*ここに雅子さんのアトピーの画像があるのですが、

こちらでは、反映されませんので、

転載元様の記事をご覧下さい。


イメージ 13

婚姻により単に皇族という「地位」を得ただけで、そ

の内実が反日性を著しく帯びて、皇室と日本の国体を蔑ろに、

毀損する存在になっていたら、それらをお守りする事こそが反皇室、

反日本となるという論理も理解できぬ痴呆の群れが擁護派です。

雅子妃とその背後の小和田家、それにひきずられる皇太子殿下というのは、

前代未聞の異常な存在たちです。

「自虐史観左翼」小和田恒氏が仕切る東宮。


*ここでも、画像があるのですが、反映出来ないので、

転載元様の画像をご覧下さい。m(_ _)m


何やら老舗の批判論者につきまとい、またこちらのコメ欄にも

犬の立ちションよろしく、短文訪問で数行の批判文をひっかけて行く、

稚拙な擁護論者もいますが、現在までおびただしい時間と費やして、

皇太子と皇太子妃がいかに、皇族という名に値しないか、そ

れ以前に人間としてどうなのか、膨大に記事を積み上げ、提示してきました。

ツイッターの数行で批判した気になるとは笑止です。

語彙とロジックに対しては、語彙とロジックで向き合いなさい、

と申し上げておきます。

焦眉の急は、反日であると言わざるを得ない

皇太子と皇太子妃との廃太子廃妃です。

東宮夫妻は、皇室と国家に害を与える存在になりつつあられます。

皇太子に天皇に即位されたら、韓国に趣き「皇室と朝鮮との濃い関わり」など

述べられ謝罪などされかねず、そうしたら一巻の終わりです。

あり得ない? いいえ、反日左翼勢力が天皇を政治利用可能なのは、

天安門事件以降の天皇皇后両陛下の中国訪問が現実にありました。

訪れても何の効果もなかった、どころか天安門事件への目眩ましの役割を

天皇皇后両陛下が押し付けられた格好です。

こうした状況に加え、皇太子殿下は皇太子妃の実父小和田恒氏の自虐史観にどっぷりと影響を受け、またその手引きで反日韓国人代表、

潘基文や韓昇洙と接触していますから「売る気まんまん」です。

両陛下の支那行きは、教科書の「近隣条項」を作った反日宮沢喜一元首相の

政権下で企まれ、小和田雅子嬢入内は、あたかもそのどさくさにまぎれての

ゴリ押しが見て取れることに留意してください。

そして以後の日本を傷つけ苦しめ続ける河野談話の発表も、

この宮沢政権下であったことに注目。


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「雅子さま」にヘコヘコする、宮沢喜一元総理。

そして河野談話発表に寄与した、時の外務事務次官は誰あろう小和田恒氏であることを、腹に叩き込んでください。天皇陛下訪中に寄与したことも。

池田大作の外遊に便宜をはかったことも。

その「反日左翼男」の娘がなぜ入内出来たのですか?


雅子妃の父親 小和田恒氏の反日思想

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/813fa021b780fc44dc3b10f0ea7a4eec

皇陛下に国辱謝罪させた「皇室使い」の国賊/小和田恒 【保存・拡散希望】

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/ec86f08a22b5d6d8c431e44bd6a4c7b5

小和田恒氏を喚問せよ 【拡散希望】

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/0d31e664a65cd09bcd2a054bd2635040


雅子さま入内を素直に喜んだこともありました・・・・(遠い眼差し)

雅子さん入内は、天皇皇后両陛下の訪中に尽力のあった

小和田恒氏への論功行賞であったという見方があります。

(全ての要因ではありません。

他に福田赳夫元総理、そして無論高円宮の暗躍あっての入内です。

小和田優美子氏は福田家、高円宮家と双方へ通じていることに留意)

小和田氏の自虐反日的思想と言い、昭和天皇の反対と言い、

あり得べからざる入内の影には謀略あり。

福田赳夫元首相(媚中)が、雅子さんの少女期に「雅子ちゃんは、

将来皇太子妃にする」と言い放った逸話は有名。

小和田氏は福田元総理の秘書。伏線は昔からあったわけです。

小和田優美子氏は帯に「福」の字を染め抜くほど、福田氏には忠誠を誓った人。

そして高円宮久子妃とも旧知。


マンデラ元南アフリカ大統領の逝去に際して,

追悼式御参列のため南アフリカ共和国へ出向いた皇太子に付き添ったのが、

誰あろう福田赳夫の息子福田康夫(親中)元総理大臣です。

更につながりましたね。

点と点を結べば現れる「売国の輪」。部落の輪。


「韓日ワールドカップ」は、世界のサッカー界にとっても

日本単独開催にすべきでしたが、

ここでも暗躍したのが高円宮と小和田恒氏です。


ちなみに、その天安門広場に弾圧粛清側の人民軍少将としていたのが、

皇太子が自らの意志で会ったと指摘されている彭 麗媛で、

皇太子のこの行動は内閣には無断、反日韓国要人たちとの接触と併せて、

民間なら公安の追尾がつくほどの、反日色の強い行動です。

池田大作関連のイベントに出席なさったことと併せて、ご本人にその反日性を

自覚するだけの知力がおありなのかどうか、そこが心許ない点です。


擁護の連中は、反日行動が皇太子であるゆえに許される、

という論理の根拠を示しなさい。

潘基文と韓昇洙に操られ水の総裁として国費を使い、

国連を訪れ続けている皇太子。

これは昨年の画像ですが、一国の皇太子への扱いではありません。

粗末な部屋で、お座なりなレセプション。

スペインを訪問したときも、どうでもよさげな扱いが露骨でしたね。

海外のほうが正直に、「次期が誰か」を知っています。


*ここの画像もこちらでは、反映されませんので、

転載元様をご覧下さい。


皇太子を取り込むことに腐心している潘基文は名うての反日です。

【韓国】潘基文 国連内で「反日ビラ」ばら撒き

反日国連


https://www.youtube.com/watch?v=pYtsgvEtmSg


あの気色悪い売国怪物、小沢一郎がなぜ国連を愛していたのか。
大反日組織だからですよ。そことパイプのある小和田恒とは何者なのか。
国連には雅子妃の妹も噛んでいたはず。

*池田 礼子は、 国際機関職員であり、

皇太子徳仁親王妃雅子の実妹として知られる。

国際連合職員、国連ユニセフ駐日事務所(東京事務所)副代表などを歴任。

反日組織国連と国連大学に入り浸る皇太子とその妃。

次期大統領候補、超反日・潘基文がなぜ、皇太子と親密なのか。

皇太子妃の母親、小和田優美子氏と

日本ユニセフとの関わりも看過できません。

なにゆえ、池田大作と密着のアグネス・チャンを看板とする
組織に皇太子妃の実母と妹がからむのか。

こちらにはまた半島利権の宮家高円宮家の承子さんが、就職して
ここでもまた、いかがわしいひとかたまりをなしています。
日本ユニセフは鳩山由紀夫の母方祖母が創設者です。
小和田家の関わるところ、朝鮮中国の気配が色濃いのはなぜ。


大体韓国と支那に褒められるって、鳩山や村山富市と同列売国奴。

・・・・・あ、天皇陛下皇后陛下も韓国から絶賛なんでしたっけ。 http://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0162.gif

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長年、妃をやっているというのに、

浅く腰をずらしてから立つという知恵すら身につかぬままの粗末な脳。

痩せこけた脳に引き比べ体は膨満。


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年間1700万円、「式服費」の名目で受け取っているのに、
一体、そのお金、何にお使い?

雅子さまの「学歴」の底上げはだいぶ知られてきましたが、

小和田恒氏も疑惑のお方ではあります。


小和田恒氏修士論文盗難事件


本人が語った(要旨)


ケンブリッジ大学が賞をくれて、その上で博士号コースを続けていた3年目。

ケンブリツジを離れる頃には論文をほとんど書き上げていたけど、

もう少しいいものにして、それから提出したいと思った。

そこで、日本に戻ってから仕上げようと決めた。

いずれにしろ私は(日本)政府から派遣された身で、そ

の時はもう日本に戻らなければならなかったから。

当時は全て船便で送らなければならない時代だったから、

私も自分の物を船便で送ったら港でトランクが1つ紛失。

それには服や本などと一緒に大事な学位論文の原稿が入っていた。

トランクは二度と見つからず、

ゆえに私は博士号を取る機会を失ってしまったのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・ここまで

あのー、船便って現代でも紛失ありますよ。飛行機でさえトランク紛失はあります。大切な学術論文を「衣類と一緒に」トランクに入れます?

 普通、肌身離さず自分で持って帰りませんか?

 だって、船便到着が遅いのですもの。

論文を仕上げる時間がなくなっちゃいますから。

普通、自分の手で持ち帰ると思います。・・・・・それを船便で盗られた、ねえ。

雅子さまも、国民のお金でオックスフォードに派遣されて、

単位取れずにお帰りになったのでしたね。

はいはい、はい。あ、天皇も落第。皇太子は政治学科に入る学力なし。
あーあ、多いですね。賢くないお方たち。


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祓い給い 清め給え

機能不全に陥って久しい東宮。皇太子と皇太子妃の廃太子・廃妃を望みます。
秋篠宮殿下妃殿下への移譲を。

◆宮内庁へ意見

information@kunaicho.go.jphttp://wpedia.search.goo.ne.jp/search/%A5%CF%A1%BC...
http://en.wikipedia.org/wiki/Harvard_Universityの“Views of Harvard”2パラグラフ目にも、ハーバード大学のgrade inflationにつき記述がある)


ハーバード大成績評価について

上述のように、ハーバード大学が学部生に甘い成績をつけることは有名で、以前からかなり問題になっている。平均的な成績がAなので、普通に履修していればGPAは限りなく4に近づける。このBoston Gloveの記事だと91%がHonor(Cum Laude, Magna Cum Laude, Summa Cum Laude)で卒業らしい。

Harvard asks faculty to justify grading methods
By Patrick Healy, Globe Staff, 10/23/2001
SPECIAL REPORT | Oct. 7

 At Harvard, it's honors all around Harvard University has a dirty little secret: a grade inflation culture that allows 91 percent of students to graduate with honors, rendering the distinction virtually meaningless.

 For the first time, professors at Harvard University have been asked to justify the grades they give students as the university launches its toughest examination yet of grade inflation.

 Susan Pedersen, dean of undergraduate education, gave faculty members a January deadline to explain their grading practices in writing. A committee will review the data and recommend whether changes to grading should be considered.

 The plan was announced at a private faculty meeting last week, following a Globe study revealing that decades of grade inflation have made it much easier to graduate with honors.

 More than half of Harvard's grades last year were A's and A-minuses, and a record 91 percent of students graduated with honors in June. Yale, Princeton, and other Ivy League and nationally ranked universities had far lower rates of honors, the Globe found.


マグナ・クム・ラウデについて

英語版Wikipediaの「Latin honors」のページによると、

Harvard College first awarded final honors to its graduates in 1869. From 1872 to 1879, cum laude and summa cum laude were the two Latin honors awarded to graduates. Beginning in 1880, magna cum laude was also awarded:

The Faculty then prepared regulations for recommending candidates for the Bachelor's degree, either for an ordinary degree or for a degree with distinction; the grades of distinction being summa cum laude, magna cum laude, and cum laude. The degree summa cum laude is for those who have attained ninety per cent on the general scale, or have received Highest Honors in any department, and carries with it the assignment of an oration on the list of Commencement parts; the degree magna cum laude is for those who have attained eighty per cent on the general scale, or have received Honors in any department, and carries with it the assignment of a dissertation; and the degree cum laude is to be given to those who attain seventy-five per cent on the general scale, and to those who receive Honorable Mention in any study together with sixty-five per cent on the general scale, or seventy per cent on the last three years, or seventy-five per cent on the last two.... [Annual Reports of the President and Treasurer of Harvard College, 1877-78]

だそうなので、GPA3.2ならMagna Cum Laudeとなれる。すなわち、成績の8割がBで2割がAなら取れるということ。前述の通り平均の成績がAである以上、かなり出来の悪い人間でも取れるということになる。

もうひとつ、雅子妃がMagna Cum Laudeということは、当然Summa Cum Laudeではなかったということだ。この英語版Wikipedia によるとハーバード大学では9割以上Aの成績を獲ればSumma Cum Laudeとのことなので、GPAは3.6以下だったと推察される。ハーバード大学のような成績インフレ学校で GPA3.6以下とは、特に優秀でもなんでもない。中の中ぐらいの成績だと結論付けられる。


小和田恒とハーバード大学

実父小和田恒氏がハーバード客員教授(1979-1981)として勤めていた。


小和田雅子卒業論文執筆に協力した人々

たかだか一学部生の卒業論文なんぞに普通関わらないような財界人3人が、小和田雅子の卒論作成の手助けをしている事実が存在する。言うまでもなく父小和田恒のコネクションがなければ得られない人脈である。

『素顔の雅子さま』主婦と生活社(1993年)p.76より引用

小和田雅子ハーバード大学経済学部卒業論文

EXTERNAL ADJUSTMENT TO IMPORT PRICE SHOCKS : OIL IN JAPANESE TRADE「輸入価格ショックへの外的調整・日本の石油貿易」

Acknowledgments(謝辞)
This thesis is the product of work carried out in both Tokyo and in Cambridge.

I should like to acknowledge the financial assistance of the Japan Institute and the Center for International Affairs of Harvard University which provided me with summer grants to collect data and interview people in Japan during the summer of 1984. I am grateful for the help given to me in Tokyo by Mr. Kazuo Nukazawa, Directer of the Financial Affairs Department,The Federation of Economic Organizations, Mr. Teruhiko Mano, Genearal Manager of Economic Research Division, Bank of Tokyo, and Mr. Eisuke Sakakibara, Advisor to the President and Director, Genaral Plannning and Administraion Department, Japan Center for International Finance.

In the process of analyzing this material after my return to Harvard I should like to give special thanks to my thesis advisor, Professor Jeffrey D. Sachs for his careful guidance, and to his research assistant Mr. Warwick Mckibbin for help with the computer work.

『THIS IS 読売』1993年4月号pp.51-53、小和田雅子のハーバード卒論を手伝った一人、糠沢和夫氏本人の寄稿記事より引用

 小和田雅子さんのハーバード大学卒業論文(英文九十九ページ)は、一九八五年三月に提出されたものだが、前書きに小生(当時経団連理財部長)と東京銀行の真野調査部長、国際金融情報センターの榊原総務部長(いずれも当時)の協力への謝辞が述べられている。

 前年の夏休みに小生がご父君(小和田恒・現外務事務次官)からの紹介でお目にかかり。経団連の食堂で昼食を共にさせて頂きながら、石油ショックに対するマクロ・ミクロの対応などについてお話をした。

Mr. Kazuo Nukazawa, Director of the Financial Affairs Department,The Federation of Economic Organizations,

糠澤和夫 経済団体連合会参与 (元)ハンガリー大使、外務省大臣官房文化交流部長。
Mr. Teruhiko Mano, Genearal Manager of Economic Research Division, Bank of Tokyo,
真野輝彦 東京銀行参与(当時)、三菱UFJリサーチ&コンサルティング客員研究理事。
Mr. Eisuke Sakakibara, Advisor to the President and Director, Genaral Plannning and Administraion Department, Japan Center for International Finance.
榊原英資 (元)大蔵省財務官、慶應義塾大学グローバルセキュリティーセンター教授。


 繰り返すが、ハーバード大学の成績の付け方は甘く、大手メディアも問題視しているほどである。それにも関わらず、彼女が獲得したのはMagna Cum Laudeであり、最高ランクのSumma Cum Laudeではない。また、ハーバード大学では、一般教養科目の成績も含めたLatin Honorとは別に、専攻科目毎に与えられるEnglish Honorがあるが(ハーバード大学公式ページ)、そちらの方は獲得できていない。ここまで有利な条件が揃っているにも関わらず、成績はこの程度なのである。

東京大学法学部について

日本の一般学生より条件が有利な学士入学

学士入学試験とは当時の共通一次試験や現在のセンター試験を経る形式とは大きく異なり、外国語(英語)と小論文・面接のみでクリアできる代物である。在米生活が長い雅子にとって英語の比重が高い試験は一般日本人受験者よりかなり優位に働くのは疑いなく、併せてハーバード卒業(父コネ・卒論執筆も父コネ)肩書きが面接で大いに効力を発揮したのは想像に難くない。


僅か1年の在籍後、即中退

「昭和62年 東京大学ご中退」と宮内庁HP 皇太子同妃両殿下のご略歴ページにも明確に記載されている。

昭和61年10月に外交官試験(当時はコネが物言う試験だった)合格後、NHK出演やFOCUS取材やまた皇太子を顔を合わせるパーティーに何度も出席しており、更に後期には運転免許取得のために自動車学校へ通ってもいた。

東大法学部に在籍していた1年間で学業に励んでいた様子はまるで窺えない。
→【母校】も参照のこと。


外交官試験について

 →「外交官試験」参照
https://dosuko.fandom.com/ja/wiki/%E5%A4%96%E4%BA%A4%E5%AE%98%E8%A9%A6%E9%A8%93


オックスフォード大学留学について

国費留学

オックスフォード大学ベリオール・カレッジに国費留学(一説には1,300万円かかったとも言われる)するものの、同期7人の中で雅子ただ一人だけが修士号を取得できずに帰国。

 『週刊文春』2006年3月16日号によれば、当時のオックスフォード大学で担当教授だったルーカス・チュカリス教授が、彼女は「日本政府によるアメリカ製航空機の購入」というテーマで論文を書いていたが、外務省に呼び戻されたため断念せざるを得なかったのは残念だと証言している。

 しかし、ならば提出できなかったことについて正当な理由があるのだから、オックスフォード大学当局及び外務省と話をつけて、後からの論文提出を認めてもらえば良かっただけの話である。どうもその辺の行動力が彼女には欠けている気がしてならない。


修士論文を提出できなかった件

小和田雅子が修士論文を提出できなかったのは付き纏うマスコミの所為とも言われたが、移動には宿舎からタクシーを呼べば済む話だし、校内にマスコミが入らないように大学当局と交渉することもできはたずである。

また、小和田雅子が病気をしたせいで満足に勉強ができなかった、とも言われるが、そうだとすれば、彼女は外務官僚として国費留学していながら、自身の健康管理を怠っていたため(他の6人の同期官僚について病気をしたとの証拠・証言は2008年現在に至るも挙がっておらず、現地環境が病気の主要な原因だとは考えられない)に、修士号を取得できず帰国したことになる。

いずれにしろ、社会人としては少々心構えが甘く、論文を執筆できなかった理由付けとしては苦しいものだと言わざるを得ない。


外務省員留学コース

彼女が留学したコースは、学者志望者向けのコースとは違い、企業や官庁の研修生向けのそれであり、現地の学生や少しやる気のある学生ならば1年で修了できるとも言われている。言葉の壁などで手こずってもせいぜい1年半。高校〜大学が米国で、しかも大学の卒業論文を英語で書いてパスした人間が、1年半もいて修士論文を書けなかったというのはまず考えられない。


実父・小和田恒氏の不明瞭な学歴について

名桜大学・客員教授紹介欄では「【最終学歴】英国ケンブリッジ大学大学院修了」、名誉博士号をあげちゃった早稲田大学でも「小和田恒氏は1932年9月18日に新潟県新発田市に生まれた。1955年に東京大学を卒業すると同時に外務省に入省し、その後、ケンブリッジ大学大学院を修了した。」と記載。

しかし、国際司法裁判所の小和田恒Biographyでは「LL.B., Cambridge University」、LL.B.=Bachelor of Laws(法学学士)である。ケンブリッジのLL.M.(法学修士)コースに在籍はしていたが修士論文を提出できなかったことについて、恒本人が「船便で博士論文を盗まれてしまった」と主張しているインタビューが発掘されたことについて保管庫02に書き込みまとめがあるので是非参照されたい。

実父についても修士号を取得しているかどうか定かでなく、いつの間にやら早稲田の名誉博士号をゲトしているところは、まさに父娘揃っての学歴ロンダリングと表現できるだろう。

https://dosuko.fandom.com/ja/wiki/%E5%AD%A6%E6%AD%B4%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0


外交官試験
https://dosuko.fandom.com/ja/wiki/%E5%A4%96%E4%BA%A4%E5%AE%98%E8%A9%A6%E9%A8%93

 平成12年まで行われていた外務公務員I種試験の通称。かつて外務省は、国家公務員採用I種試験ではなく、外務省独自に行うこの試験によりキャリアを採用していた。これに合格して入省した外交官を俗に「キャリア外交官」と呼称し、外務省本省の多くの幹部職や、主としていわゆる大国に駐在する大使等はほとんどこちらから任命されていた。小和田恒・雅子父娘は、いずれもこの試験の合格者である。

 「外交官に比べれば東大法学部卒など霞んで見える」とまで言われ、非常に人気が高く、外務公務員採用I種試験に合格した者は、大学を中退して入省した程である(事実、東大3年〜4年次中退者が非常に多い)。雅子妃が東大を中退しているのも、3年次に合格を果たしたからである。

 またかつては、そのブランドより、在外公館へ他省庁から出向した者(アタッシェ制度)に対して差別的な扱いをしているとの指摘もあった。「外務キャリアの不当な特権意識を助長している」等の批判を受け、外務公務員採用I種試験は廃止され、平成13年(2001年)より、外務キャリアは他省庁と同様に国家公務員採用I種試験合格者から採用されることとなった。

(以上、ウィキペディア『キャリア(国家公務員)』『公務員試験』の項より。一部加筆)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E4%BA%A4%E5...
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3...


 当時の外交官試験がいかに不透明なものであったかは、外務官僚・外交官の傲慢さ、いいかげんさ、横柄さ、ずさんさを痛快に暴いたテリー伊藤著『お笑い!外務省機密情報』(飛鳥新社)にも詳しい。

「外交官に対する、理由なきこの特別扱いは、まず採用試験にルーツがある。外交官以外はみな、大蔵省をはじめ全省庁のキャリア官僚がすべて、同じ上級職(現在の正式名はT種)の国家公務員試験で選抜されている。

 外交官は語学ができないといけないから?われわれ一般国民はこう騙されがちだが、実態はまるで違う。ノンキャリア組から本省のキャリア組幹部まで、『外交官試験の語学試験の内容とレベルは、専門的でもなければ高くもない』と口を揃える。英語を含めて1ヶ国語だけしか必要ないし、和訳と外国語訳があるだけ。

 最近は大学受験ですら、『日本人は何年間も外国語教育を受けながら、喋れないし聞けない』という批判を気にして、ヒアリング試験ぐらいは取り入れている。しかし、外交官試験は相変わらずペーパーテストだけ。

 したがって、『外交になど、とても使えはしないレベルの語学力の持ち主が、ぞろぞろ合格する』(外務省幹部)

(中略)

 あるノンキャリア外交官は、『語学の専門能力を持っている外交官は、ノンキャリア組の試験で選ばれるんです』と言った。これは、『外務省専門職員採用試験』というやつだ。文字通り、語学の専門能力を持っている人間を選ぶ。

このシステムは、『外交は実は半端な語学力などでやるものではなく、全人的な能力でやるもの。語学は、専門の通訳に任せておけばいい』ということを外務省が、当然ながら知っていることを物語る。『全人的な能力』が求められているのだから、キャリア外交官を特別な試験で選ぶ理由はない。理由の無いものが存在しているのは、日本人の外国コンプレックス、『海外だの国際だのという話は特別な人間にしか分からない』という思い込みがあるためだ。」
(pp.121-123)

「テストといえば、外交官の血族社会が時代の変化に負けずに、延々と続いている大きな理由のひとつは、『外交官試験』にある。外交官試験の問題は、『ヨーロッパ篇 その1』でも問題提起して、廃止を訴えた。ここで、もうひとつの側面を指摘し、重ねて廃止をアピールしたい。

 中央官庁のキャリア組のなかでも外交官だけ別扱いにして、特別に『外交官試験』を行う。つまりは、外交官以外の目で、次世代の外交官を選ぶ機会がないということである。

 しかも、試験官と受験生が実は血のつながりがあったり、そうでなくとも『世話になった、かつての上司の息子さん』が受験生――ということは頻発している。

 コネ優先なんて半端なものじゃない。事実上、身内が身内を選ぶ、身内しか選ばないシステム、それが外交官試験である。外交官試験ある限り、血族社会は揺るがないのだ。

 これを壊す。すなわち外交官試験を廃止して、外務官僚以外の人間が外交官の採用、不採用を決める改革を今すぐ、断行するしかない。」
(pp.221-222)


 未だに雅子妃優秀伝説を信じている人々が多いのは、同氏が指摘する「日本人の外国コンプレックス、『海外だの国際だのという話は特別な人間にしか分からない』という思い込み」が残っているからではないかとも思われる。

 ちなみに、週刊新潮(2004年12月23日発行)に高山正之・帝京大学教授が執筆された「変見自在」によると、「外交官試験には大使の子が5人に1人合格していたが、橋本龍太郎元首相(編者注;故人)が外交官試験を国家公務員採用T種試験に一本化してからは、大使の子の合格者はゼロである」とのことである。
https://dosuko.fandom.com/ja/wiki/%E5%A4%96%E4%BA%A4%E5%AE%98%E8%A9%A6%E9%A8%93

小和田恒氏、その重大な罪 2018-07-01
https://blog.goo.ne.jp/bb-danwa/e/a672698e97b9e288783b63bf979afce1

まず「軟禁」と「監禁」の差を知らねばなりません。
小和田恒氏のバーゼルにおける軟禁を、監禁と取り違えて国際裁判所に
出ていたから軟禁などされていない、という擁護をする人たちがいますが、
軟禁とはそもそも、監視付きではあるがある範囲内の自由は認められています。


小和田氏の不祥事に拠る軟禁は事実です。

国際裁判所に出ていたのは事実ですが、おそらく軟禁開始の時期とかぶるかと思うのですが、裁判所を「我々にも把握できない突発事で欠席」と、裁判所がステイトメントを出した一件があり、これは過去記事で述べました。記事を探すのが億劫なので、裁判所の文言は、概略であり当時出された文言そのままではありません。

東京にいったん戻ったとされる情報もありましたが、その時すでに軟禁が解かれたのか、あるいは特例としての一時帰国が叶ったのかそこは解りません。(某所と某所からの数回に及ぶ救出作戦が功を奏したのか、あるいは小和田氏が当局の要求に応えてあるケジメをつけたか・・・・現在では軟禁は解かれて帰国、ある一件で動き始めるまではコンクリート御殿に蟄居していらっしゃいました)


情報を収集していた時の時系列がもはやうろ覚えで、過去記事に遡って検証する時間がなく申し訳ありません・・・・が過去記事には正確に記録があるので、今回は駆け足の概略で失礼します。


小和田氏(及び協力者)はひょっとしてフェイク画像使用ないしは、これは明らかに日時を捏造なさるお方です。

この画像、(6月)6日とされていますが、ありえません。なぜなら、この日付の時小和田氏は東京にいました。情報を得ています。詳細は割愛しますが、やや書けば小和田氏はその時、供も連れず一人で電車移動でした。

この画像自体が合成ではないか、という指摘も複数得ましたが、そこはブログ主には判断できません。ただ、日時に関してははっきり、「あり得ない」と断言できます。6月中、小和田氏は一歩も日本を出てはいません。
これは調査すれば足跡は知れることなので、ブログ主が当てずっぽうを書いているわけではありません。

また付随的におかしな点は、6月6日に裁判所の一室にいた設定なのに、小和田氏はハーグにおける新旧判事交代式にすら出ていらっしゃいません。考えられない非常識と非礼。(6月7日に正式退任)

以下はネットの片隅ではすでに早くから出ている情報なので、BBも書きやすいのですが・・・・隔靴掻痒ではあります・・・・。

たとえばこちら。

https://blogs.yahoo.co.jp/s_kengokeiko/28434890.html

古い記事のせいでもあるのか、上記の情報は・・・・当たらずと言えども、遠からず・・・・というレベルです。↑
事実はもうちょっと、入り組んでいる・・・・かもしれません。(”知恵”の回る小和田氏が、何のバックもなく単独で違法をやらかすような幼い真似はしません・・・・)

しかし、聞こえてくる小和田氏の最近のちょこまかした動きについては小和田氏のなした以下の、重大な日本国毀損行為に比べれば、まだましなほうかもしれません。


以下は、平成26年8月12日の拙ブログ過去記事をベースに、日本という国にとって小和田恒氏がどれほど悪辣なことをやらかしたかのまとめです。

・・・

結局慰安婦問題にもつながる、小和田恒氏は国会喚問に値するのではないか。

河野談話を批判し、河野洋平を喚問せよと主張する保守ブロガーたちが以前は
いて、拙ブログ主もそれには賛同をするものの、しかし小和田恒氏を等閑視するのは、整合性が取れぬ上、怯懦だとも思いますね。同じく東宮問題を避けて、直視する勇気のない保守論客たちも。現実を直視なさい、日本を何とかしたいのなら。

ニューヨークタイムス東京支局(所在地 朝日新聞社内)で、反日記事を発信している 田淵広子氏さえ喚問が言われていたというのに、小和田氏の果たした日本毀損の役割に比べれば、田淵某など蚊ですよ。

◆舛添要一前都知事に見られた日本の中韓へのご機嫌取り土下座外交の始まりは小和田恆外務省条約局長(当時)の答弁に端を発する。

◆日本を根本的に損ねた村山談話・河野談話の原点が小和田恒氏である。

◆翻訳上の問題点なのだが、小和田氏が国会において、サンフランシスコ講和条約における「東京裁判の判決を受諾」を「裁判を受諾」と言い換えたことが、その後の日本の行方を歪めてしまった。

つまり・・・・

日本は東京裁判の「判決は受け入れたが」「裁判そのもの」を肯定したわけではない。

にもかかわらず、それを「日本は東京裁判を受け入れた」とまやかしをやらかしたのが、小和田恒氏という男です。皇太子妃の実父です。

◆小和田恒氏のこの発言以降、日本の政治家は外務省からこの間違ったレクチャーを繰り返し受けることになり、いないはずの戦犯を蘇らせてしまいました。


◆靖国参拝問題の根っこも実に小和田恒氏が作った張本人であるということでしょう。

日本はサンフランシスコ講和条約において、東京裁判を受諾はしていない。⇒裁判自体を正当なものとして、受け止めたわけではない。

東京裁判の裁判自体ではなく、(敗戦国としてやむを得ず)刑罰の執行を続けること、それに限定して合意したに過ぎない。


ここまでで、小和田恒という男が犯した重大な過ちの内容は理解していただけたでしょうか。小和田氏が故意に誤訳したのか、単に間違えたのかそれは解りませんが、いずれにしてもその後の日本の舵取りを難破の方向へと導いてしまったのです。
誤訳なら後に深甚な謝罪と訂正が、国民にあるべきで、それがないところを見ると確信犯でしょう。

なぜ小和田氏がかくも、粗雑に祖国を扱うのか、いえもし祖国ならこうも貶めは出来ないでしょうに?

日本国にとって、小和田氏は癌細胞の一つでありそのことはすでに識者から指摘、糾弾されていることですが、皇太子妃の父という立場ゆえにでしょうか、明るみに出ません。それどころか、雅子妃の入内以来トントン拍子の出世です。福田康夫氏,山崎拓氏,加藤紘一氏らと同類の売国奴であるにもかかわらず、彼らを撃つ保守が、一人小和田恒氏のみはスルーしてしまいます。

小和田恒氏が日本を損ねたその「罪」の歴史を箇条書きします。

1 A級戦犯を戦争犯罪人として、土井たか子氏と共に断罪する。

2 女系天皇に向けて動いた形跡もあり。(万世一系皇室の破壊行為)

3 「日本ハンディキャップ論」を唱え、中国韓国へは物申さず、ひたすらお金を貢ぐことを主張。「日本の外交は、東京裁判を背負っているハンディキャップ外交である」と答弁した。⇒東京裁判を全面肯定

4 福田赳夫氏は、小和田雅子さんが子供の頃から「雅子ちゃんは皇太子妃にする」と豪語していた人物。それに乗ったのが小和田恒氏であり、単なるロマンスによる入内ではなく仕組まれたものである。

5 「日韓フォーラム」への参加者である。同席者に売国新聞朝日新聞の当時主筆であった若宮啓文(わかみや よしぶみ)の名がある。加藤紘一の名も。彼らと同類である。「韓日」合同W杯の母体となったフォーラムである。小和田恒氏が半島利権の高円宮とタッグを組んで動く。(高円宮家は韓国の三大企業+と昵懇の関係を結んだが、小和田氏にいかなるメリットがあったのだろうか)

6 創価学会が小和田恒氏に送った「池田大作特別待遇要請書」に応じた。創価学会への便宜供与である。この件は第134回国会 宗教法人等に関する特別委員会 第3号でも追求されている。

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/134/1177/13411271177003c.html

7 竹島に関連しての韓国寄り発言。

「自国の領土なら、わざわざ国際司法裁判所に持ち込む必要はない」と日本の提訴の動きを牽制。

(その後ハーグの国際司法裁判所所長に上り詰めたことと考えあわせると、胸が悪くなるほどの売国発言です)

8 村山談話に先駆けて、実は小和田恒氏が売国発言をしていた事実。

戦前の日本がアジア諸国への侵略や植民地支配を行ったという見解を公式に認めたのは小和田恒氏が発端。

昭和60年11月8日、衆議院外務委員会での小和田恆外務省条約局長(当時)の答弁より。

▼社会党土井たか子議員から東京裁判(極東国際軍事裁判)の訴因とされた「平和に対する罪」とサンフランシスコ条約(日本国との平和条約)第十一条の解釈を問われ、当時の小和田局長の答弁。

「極東軍事裁判の評価については学問的にはいろいろな意見がございますけれども、国と国との関係におきましては日本国政府といたしましては極東軍事裁判を受諾しているわけでございます。 ← 注;ここが事実と相違している。判決は受け入れたが、裁判そのものを認めたわけではない。

その裁判の過程におきまして「平和に対する罪」ということが起訴理由になっておりまして、その訴因の第二十七で、被告が中華民国に対し侵略戦争並びに国際法、条約、協定及び保証に違反する戦争を行ったということが挙げられておりまして、御承知のような判決が出ているわけでございますので、そういうものとして政府は受けとめておるということでございます」

それまでの日本政府とは異なる見解が、小和田恒氏によって提示されそれが
定着することとなりました。中韓ソ各々国交回復で解決済みの賠償問題をことごとく、ゾンビのごとく蘇らせたのが小和田恒氏である。


9 小和田恆氏はそれまでの政府見解をうち捨てて、日本はアジア諸国を侵略した。先の大戦が国際法、条約、協定などに違反する戦争であったという裁判の訴因をも受諾したものと解釈を変更。この国会答弁に食らいついた、政治家、マスコミ、知識人たちがその後の自虐史観へと走り、それに乗った中曽根康弘氏などが「靖国問題」などを作り上げてしまう。

10 日本の自虐史観と、その後の中韓へのヘタレ外交の素を作ったのが小和田恒氏である。

・・・・・・・・・・・・・

実に駆け足の概略でしかないのですが、詳細を述べると記事が煩瑣になるので、個々の箇条については各自お調べください。
容易に資料は拾えます。

何度も言っていますが、東宮問題が単独でそこにあるわけではありません。
日韓日中在日カルトなどと絡まり合いながら、GHQの日本弱体化政策、
皇室弱体化施策とも連動しながら、今現在の姿です。

小和田恒氏と雅子妃が親密な外務省創価学会グループ「大鳳会」の
メンバーは約50名もいます。

池田大作を大臣級扱いで海外に送り出す手配を担当し、対韓・対朝・対中の日本外交を歪めてきた張本人的組織で、そこを仕切っていたのが、小和田恒氏です。

擁護派は問題点を俯瞰で見る視野を欠いているので、あらゆる日本毀損の
勢力が小和田・東宮問題とリンクしていることが見えないでいます。

小和田恒氏は、日本国を損ねた何人かの最大「悪人」のうち、官僚としては
最大級の「極悪人」です。ネジ曲がった政治家をその後生み出す土壌となった
という意味では、それらの政治家よりワルでしょう。

安倍総理のいう「戦後レジウムからの脱却」の意味するところの一つは、
日韓、日中、日ソ間の国交回復条約を通じて、賠償金を含むすべての
請求権の相互排除を決め、全て解決済みであるとの確認事項の
再確認もそこに含まれるでしょう。

それを阻んでいるのが自民党のある政権と、民主党政府の不用意な発言、
談話、不要の謝罪などを繰り返した暗愚の歴史にありますが、
それらの「犯人」を列記すれば、鈴木善幸時代の宮沢喜一官房長官と
並んで、外務省の小和田恒条約局長がいます。

小和田氏の名は、日本新党の細川護煕首相、社会党の村山富市首相、菅直人・鳩山由紀夫の民主党両首相などの最悪な元首相たちや、河野談話
河野洋平官房長官らの名に隠れて目立ちませんが、官僚の中では最大級に
日本を損ねた人物です。本当に・・・・・こんな国家毀損者の娘が、よくまぁ
入内できたことと、当時の入内の経緯に改めて強い疑念を抱かざるを得ません。

日本の国益と名誉を著しく損ねて来たこれらの者たちの、証人喚問をして
ことの経緯を明確にすることが、戦後レジウムからの脱却には必要でしょう。
無理を承知で故意に言っているのですが。

しかし、かの村山談話の基礎を敷いたのが小和田恒氏です。

【備考】 小和田恒氏が「日本は悪者。中韓には跪き、尽くせ」という論を
唱える以前の日本の立ち位置は・・・

衆議院・平和条約特別委員会では小和田氏の大先輩である西村熊雄条約局長(当時)が次のように答弁している。(面倒な人は青字だけ読んでください)

「(平和条約)第十一條は、戦犯に関する規定であります。戦犯に関しましては、平和條約に特別の規定を置かない限り、平和條約の効力発生と同時に、戦犯に対する判決は将来に向つて効力を失い、裁判がまだ終つていない場合は釈放しなければならないというのが国際法の原則であります。

BB注 A級戦犯呼ばわりは、間もなく上皇后におなりの方です。小和田史観との連動、あるいは共同プロパガンダ。

従つて、十一條はそういう当然の結果にならないために置かれたものでございまして、第一段におきまして、日本は極東軍事裁判所の判決その他各連合国の軍事裁判所によつてなした裁判を承諾いたすということになつております」

十一月十四日の衆院法務委員会で、佐瀬昌三議員の、「戦争犯罪というものは、今回の講和條約の調印によつて、全部終了したものであるかどうか、なお逮捕とか或いは裁判とかいうような問題が残されておるかどうか、打切りになつたのであるかどうかという点を、あらかじめ承知いたしておきたい」との質問に対して、

大橋武夫法務総裁(当時)は

「戦争犯罪という問題は、わが国といたしましては、ポツダム宣言の受諾によつて引起つて来た問題である、こう考えておるわけでございます。今回の講和條約の締結によりまして、当然ポツダム宣言というものは、関係国の間で効力を失うものと存じまするので、今後調印国の間におきましては、戦争犯罪という問題は発生の余地がないものと心得ております」と答えている。更に大橋大臣は

「第十一條におきましては、これらの裁判につきまして、日本国政府といたしましては、その裁判の効果というものを受諾する。この裁判がある事実に対してある効果を定め、その法律効果というものについては、これは確定のものとして受入れるという意味であると考えるわけであります」

と答弁している。

以上で明らかなように講和条約に調印、批准したときの日本政府は、本来の国際法では平和條約の効力発生と同時に戦犯に対する判決は将来に向つて効力を失うのが原則であり、今回の講和條約の締結によって、今後は戦争犯罪という問題は発生の余地がない。

また日本は講和条約の第十一条によって極東裁判を受諾したのではなくて、その裁判の効果(注:判決)というものを受諾するとの解釈でいたのである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・ここまで

  下皇后のお父上は、悪党福田父子のご家来

それまでの全てを覆し、世界に向けて日本を全面的な悪者に仕立てあげたのが、小和田恒氏です。動機は解りません。想像は出来ますが、想像範囲内の事なので控えます。ただ、その動機のいかんを問わず、小和田恒氏は日本破壊・弱体化勢力の首領の一人であると言えるでしょう。日本人ですか? と思わず問い詰めたいこれまでの言動です。

画像で表す小和田恒氏を基軸とした日本壊国の円環

第91代内閣総理大臣・福田康夫氏の反日。親中派。台湾から熱愛と言うほどの親日家である李登輝氏が病気治療目的で来日を希望した際、河野洋平氏とともにビザ発給に反対。

福田康夫元首相が「南京大虐殺記念館」を訪問 中国外務省「歴史を正視」と称賛 (産経)


 【北京=西見由章】上海で開かれた学術会議に出席するため訪中した福田康夫元首相は24日、「南京事件」の資料を展示する江蘇省南京市の「南京大虐殺記念館」を訪問した。中国メディアによると、福田氏は「南京大虐殺の犠牲者を深く哀悼する」と書かれた花輪を供え、同行者らとともに黙祷。「過去の事実を正確に理解しなければならない。もっと多くの日本人が記念館を参観すべきだ」と記者団に語った。

 日本の首相経験者が同館を訪れるのは海部俊樹、村山富市、鳩山由紀夫各氏に続いて4人目。


・・・・・ここまで

南京大虐殺など、中国政府の日本貶めプロパガンダに過ぎません。
そのプロパガンダに加担する連中って、本来の意味での日本人ですか?
悪辣な福田父子の家来であるのが、小和田恒氏と優美子氏です。
ジョウ皇后の下に、シモ皇后として即位なさる雅子妃のご両親です。


福田家と小和田家との密着の関係。小和田雅子入内の発端。

http://seesaawiki.jp/w/dosukono/d/%A5%BD%A5%E9%A5%DE%A5%E1


福田赳夫氏の孫娘と親密だった雅子妃。(スキー写真)


1988年3月20-21日 福田赳夫元首相の孫娘横手香代子さんと北海道スキー旅行、滝川市のホテル三浦華園に小川東洲夫妻が合流
左画像:左から小川東洲夫人、小和田雅子、ホテル女将の三浦夫人、福田元首相孫の横手香代子さん/右画像:ホテルの三浦社長、小和田雅子、横手佳代子さん


福田家に忠誠を表す帯。「福」の字が染め抜かれこれは
福田夫人とお揃い。


」」

婚約の記者会見に皇居に入るときも、大将福田氏への忠誠の福の帯。
娘入内の「感謝」のつもりか。世間が信じこまされているように
無理やり入内させられたということではなく、
以前から周到に仕組まれていた婚姻です。
雅子妃も周囲の仕組みに積極的に応えていらっしゃる。

2006年4月2日、元フジテレビ女子アナのチノパンこと千野志麻氏が福田赳夫の孫・横手真一氏結婚、その挙式披露宴に小和田優美子氏が出席。国賊級元大臣に、忠誠の小和田夫妻。

小和田氏売国の発端

福田赳夫首相の政務秘書官に迎えられて、最初に立ち会ったのが日中平和条約締結。それ以来の外務省人脈が連綿。


小和田恒ssiと福田康夫氏は官邸の秘書官室で机を並べていた。以降家族ぐるみのつきあい。


小和田ssiは東京・代沢の福田邸に雅子さんをたびたび連れて行き、福田赳夫元首相に可愛がられていた。

福田・小和田という水面下の、「もう一つの」結びつきの可能性にも留意!!
小和田・江頭の結びつきと同様に。
鳩山・・・ブリジストン創業者の娘と、その嫁との共通項・・・は。


一官僚の出版記念に、駆けつけた福田赳夫氏と宮沢喜一氏。売国2人組。

マンデラ氏の追悼式で皇太子殿下に付き添ったのは福田赳夫氏の息子の康夫氏。

↑左が韓国首相として始めて竹島に不法上陸した韓昇洙。
右が潘基文。


潘基文夫妻と。


竹島(独島)に碑文を打ち立てた韓 昇洙。
皇太子と親しく食事。


ご成婚に現れた、創価三色。

日付の嘘に準じる「虚言癖」に属することなのか? 小和田恒ssiの論文紛失事件。
外務省からオックスフォードに国費を使って研修に行ったものの、一人だけ修士号を取れずすごすご帰国した娘、雅子妃の過去と何となくかぶる、うろんさ。

何度も検証してみたことですが、雅子妃の英語力でハーバードをまともに受講は出来ません。出たことは出ています。卒論のバックにこちらも仕掛けあり。東大は出てませんので。いまだに盛り学歴の印象操作に惑わされている人たちがいますが。小泉進次郎氏の、ありえない偏差値高校からプリンストンでしたっけ、あれも
笑っちゃいますけどね・・・。要するに庶民の常識の外では「そういうこともあるげな」よ、でしょうか。饒舌な進次郎氏ですが、そう言えば英語を聞いたことがないですねえ・・・・? 雅子妃の、sigunature とautographの区別すらつかない尻尾の出し方はまだしてませんが。

後記 ⇒進次郎氏、関東学院大(1年留年)卒業後に、コロンビア大学大学院に留学。

TOEFLiBTでスコア100以上のレベルが求められるコロンビア大、大学院に?
偏差値44留年の人が?

◆小泉進次郎氏は本当に英語がしゃべれるのか検証してみた!
https://ameblo.jp/don1110/entry-11918266596.html

さて肝心の小和田ssiですが“ 船便で送った学位論文の原稿が入ったトランクが紛失したため ” 、博士号を取る機会を失った・・・・そうな。

小和田恒 | Dosuko Wiki |
http://ja.dosuko.wikia.com/wiki/%E5%B0%8F%E5%92%8C%E7%94%B0%E6%81%92

ぎっくり腰妃の母方ご実家である江頭家の、企業犯罪ともいうべき水俣病への関わりは読者さんご紹介のこのサイトが、まとまっているかも。

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/4444/surf18.html

“ 船便で送った学位論文の原稿が入ったトランクが紛失したため ” 、博士号を取る機会を失ったそうで、こちらに載っています。
http://ja.dosuko.wikia.com/wiki/%E5%B0%8F%E5%92%8C%E7%94%B0%E6%81%92

替えのきかない大事な論文を手元から離して船便? あり得ないでしょう。カーボン紙しかコピーが出来なかった時代に、しかも提出期限のある論文を時間のかかる船便で、トランクの中に詰めて送る?

・・・・・長過ぎましたね、記事。2つに分けるべきでした。
このところ、いよいよ時間が取れなくなっていて、書ける時間に書いておこうと合間を縫ってバンバン打って構成も考えず、すみません。

余計なこと書きついでに、最近ネットの片隅で流れている皇后陛下の御陵問題・・・・は要するに多摩御陵(武蔵野陵墓地)はお嫌だと。だから、よそにお墓が欲しいと。従来の御陵(みささぎ)忌避は理由不明。神道色をなくべく排したいお考えからか、天皇家への反感なのか・・・? 天皇陛下の御陵のそばの小さな祠でいい、などと・・・・おっしゃっていたのに(口はおきれい、なさることエグい)・・・・開発用の山を某地にお狙い、その取得のお使いにちょこまか動きまわっているのが小和田ssiだ・・・・そうで・・・・・。
バーゼルでの不祥事で顔向けできなくなったことへの挽回なのかもね・・・・ってことで。
この方「法の正義」がどうかって、退任にあたってぶち上げていなかった?
嫁の父も二枚舌、姑も・・・・。あー・・・・・孫はまた遅刻早退、欠席のスパイラルだそうで・・・・ご優秀報道のマスコミも二枚舌(sigh)これだけ学業から遠ざかっていて、ご優秀なら本当にご優秀なんでしょうね。(wry smile):-}

祓え給い、清め給え、神(かむ)ながら守り給い、幸(さきわ)え給え

無記名Unknown は読まぬままハネます。

内容要約のタイトルを入れ他とかぶる可能性のないHNを記名の上、ご参加ください。

文章の一部をHNに代用すること禁止。「匿名」「通りすがり」など
極力受け付けません。

異論反論歓迎、しかし一定の知的レベルに満たないコメントは、最初は極力公開しますが、それ以降は読まぬままハネます。

コメント (15)

小泉進次郎氏 (美しい日本)2018-07-01 13:10:33

ケアレスミスの指摘になりますが、
小泉進次郎氏は
プリンストン→コロンビア大学大学院
だと思います。
関東学院大(1年留年)卒業後に、コロンビア大学大学院に留学。


小泉進次郎氏は本当に英語がしゃべれるのか検証してみた!
https://ameblo.jp/don1110/entry-11918266596.html

美しい日本さま (BB)2018-07-01 13:31:16

時間の不自由を口実に、チェックをあちこち怠っていて、すみません。時間が出来た時の記事アップに気が急いて、細部検証を怠っています。
情報は追加しておきました。
ありがとうございます。
刑罰法規不遡及の原則 (茶どら)2018-07-01 14:06:33「平和に対する罪」は事後法では。
事後法で遡及的に処罰することは禁止されています。
それを安易に受諾するとは国益に反します。
また、元首相が南京大虐殺記念館に訪問するとは。
どいつもこいつもアチラの操り人形みたい。
望月記者? (ななしでごめんなさい)2018-07-01 16:49:51学生相手に何を話すのでしょうね。

http://www.samasemi.net/2018/special_03.html


BBさま、ありがとうございます (5)2018-07-01 22:38:05

オワッダー氏はとにもかくにも朝鮮人そのもの、と感じます。
顔 (会社員)2018-07-02 12:57:38 小和田恒の顔貌を見るにつけ、この世に悪魔がいるのだと実感する。

 宮沢、小沢、鳩山、習、、正田美智子、盆暗、小和田雅子に連なるものだ。その生涯をかけて悪巧みをしている者どもの動きを、普通の暮らしをしている者が知る由もない。
 
 それら悪魔を 寄せ付けないようにするのが、大神主の天皇であったはずが、今の体たらく。
 しかし、案外、悪魔退治は簡単かもしれない。
 本物の大神主が、真の祈りをささげることが鍵、と 思う。
 秋篠宮殿下よ、天皇陛下になってほしい!

 又、そして、3000年も遡れば、日本人は全員天皇家筋なのだ。 これは強いだろう。

悪魔ども、死霊の顔小和田恒、日本人を舐めるなよ!


恐ろしい (はれ)2018-07-02 15:55:48

こんな輩が跋扈する日本。 恐ろしい。
ただ知らなかっただけでずっとそうだったとは。

少しずつ小和田氏の悪行が見えてきました。
このブログのおかげでしょう。ブログランキングで
小和田氏の事に言及したものがあったでしょうか。
(トップ入りで)
コンパクトにまとめてしかもキチンと壺を押さえている。

ひとりでも二人でも覚醒者が増えますね。

ブログ主はこんなに日々奮闘しているのに
他の保守の方は知らないのでしょうかね。
皇室とサヨク、共産、在日、創価のつながりを探って欲しい。

「パチンコの・・・」さんのブログで韓国肥料男、シンジロウのことを顔のいいだけの石破、と
言っていたのに吹きました。
他のブログでは被っていることも多いのに、
皇室のことはあまり言わないんですよね。???

個々に特色があるから読まれるのかもしれないなぁ。
???


はれさま (BB)2018-07-02 19:46:17

>他の保守の方は知らないのでしょうかね。

知っているな・・・・と感じるブロガーさんはいらっしゃいます。知っていて、口をつぐんでいる。
どうしようもないなあ、と思うのはただ「皇室を批判している」というそのことだけで、拙ブログを「保守分断」とか謗る人。
こちらは是々非々で営んでいるので、支持している安倍総理も違うと思う点は批判してきました。
するとこれも「保守分断」と来る。
脳細胞の配列がシンプルなのでしょう。

決まり文句で斬った気になるのではなく、こちらが提示する事実がもし間違っているなら、理由を添えて明示してください、と何度も呼びかけているのですが、要するに「答えられない」のです。


欺瞞の系譜 (伊藤知昭)2018-07-03 10:30:01

BB様、皆様

救国のブログ、有り難う御座います。

ハル・ノートの張本人はノーベル平和賞。
戦前から国連が何だったのかこれで明白。

伏魔殿と言われた外務省の主軸小和田恆。
コーデル・ハルの末裔であり国政操縦者。

関連記事をウィキペディアから貼らさせていただきます。
ネットでは様々な資料が得られますが、考察の起点として使わせていただきました。

[ コーデル・ハル ] ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%AB

[ Cordell Hull ] From Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Cordell_Hull

[ ハル・ノート ] ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88

[ Hull note ] From Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Hull_note

[ 小和田恆 ] ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%92%8C%E7%94%B0%E6%81%86

[ Hisashi Owada ] From Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Hisashi_Owada


ハル・ノートから極東国際軍事裁判を経由して美智子妃と雅子妃の入内までは一続きの流れ。
そしてコーデル・ハルの役回りは小和田恆と相似形であり、GHQ の末裔にとって、代わりは幾らでも居た様に見えます。

[ 戦時国際法 ] ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E6%99%82%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E6%B3%95

[ Law of war ] From Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Law_of_war

[ ハーグ陸戦条約 ] ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%B0%E9%99%B8%E6%88%A6%E6%9D%A1%E7%B4%84

[ Hague Conventions of 1899 and 1907 ] From Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Hague_Conventions_of_1899_and_1907

[ 極東国際軍事裁判 ] ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%B5%E6%9D%B1%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E8%A3%81%E5%88%A4

[ International Military Tribunal for the Far East ] From Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/International_Military_Tribunal_for_the_Far_East

GHQ にしてみれば、福田赳夫と福田康夫親子は諸々の執行人であり、後々の小和田恆は忠実な執事だったのではないでしょうか。
元正田美智子嬢と元小和田雅子嬢は、コーデル・ハルと戦後も優遇された戦前の反日サボり駐米日本国大使館外交官の系譜に繋がる、その延長に見えます。

例えば、米国が画策した国際紛争で、福田家に関係した越智通雄と越智隆雄親子が元小和田雅子嬢を介してイラク戦争と全く無関係ではないでしょう。
イランやアフガニスタンですら、米国の GHQ に連なる勢力は、成功体験の日本で味をしめた結果で同じパターンを繰り返した様に見えます。

小和田恆の学歴や外務省での闇の部分。
GHQ の末裔にしてみればエージェント。

度々恐れ入りますが、入力ミス等は後日対応させてください。


日本大事、天皇大事、万世一系の秋篠宮御一家による宮中祭祀が大事。

ただし、このままでは眞子内親王を除く。

文仁親王と悠仁親王の御代を目指して。

御多忙中、大変失礼致しました。
軟禁 (まほろば)2018-07-03 12:06:41誰が軟禁してるのかな?政府かな?それだと内閣ぶっ飛ぶなぁ


まほろばさん (芝山)2018-07-03 18:01:05

>誰が軟禁してるのかな?政府かな?それだと内閣ぶっ飛ぶなぁ

読解力ゼロ。どころかマイナスかな。

他コメントも、以下同文。


皇室の闇 (はれ)2018-07-04 17:11:11

BBさま
>知っているな・・・・と感じるブロガーさんはいらっしゃいます。知っていて、口をつぐんでいる。

皆が周知の事実に、確証を持てばきっと言及してくれるのでは。 噂ではなく現実に起こったこと、実証されていると考えたら気が楽になるかな。まさかどこからかの圧力、負荷はかかっていないと思いますが。

BBさまが積み上げているのは事実や報道されている事、でそれ以上でもそれ以下でもないです。それが
分かるとき、持続して現在も実を結んで行っているのはないかと思います。きっと。

はれさん・・・・ (BB)2018-07-04 18:40:01

>確証を持てばきっと言及してくれるのでは。

でもないでしょう。

確証もなにも、たとえば天皇陛下の皇室の祖先は朝鮮人ご発言は客観的事実ですが、そこは知っていて踏み込みません。

天皇陛下のご発言に狂喜した韓国人の勘違いをたしなめる形で、先祖は朝鮮人説を検証的に否定はしても、その否定形を天皇陛下ご自身に向けることに、激しい抵抗感があるように見受けます。

日本人のDNAに「畏れ多いこと」という感受性が刻印されていることに加え、天皇陛下及び内廷皇族なかんずく次期天皇でいらっしゃる皇太子殿下の、これも客観的に拾える反日発言と報道があっても、見ぬふり聞かぬふりするのは、自らの価値体系が根こそぎひっくり返されるという一種の恐怖心と共に、保守は例外なく憲法改正主義ですが、他ならぬ天皇と次期天皇が憲法改正に反対なさっている現実に直面せざるを得ないというジレンマに陥るのです。

だから、触らず。

あと改正後の憲法では、天皇を元首として仰ぐ保守が大半なのです。
が、現状天皇陛下と皇太子殿下はGHQ価値観に基づく自虐史観、いわば左翼でいらっしゃいます。
左翼の元首では、憲法改正が現在よりワースの結果を呼びます。だから触らずにいます。
が、拙ブログのスタンスは、肝心のところを覆い隠して憲法改正になった暁、日本の国体は現状よりも危うくなる。だからその危険を避けるため、皇室の暗部と腐敗部分は、今のうちに・・・・傷が深くならぬ内に、一人でも多く知らしめ、日のもとにさらしたいのです。


 >噂ではなく現実に起こったこと、実証されていると考えたら気が楽になるかな。

上記の理由で、気は楽にはなりません。
噂レベル以上の情報も、見ぬふり聞かぬふりですが。

「解っている」「知っている」ブロガーさんは、BBブログは放置・・・・です。知らんぷり。
「保守分断」の「反皇室」のといじっている人たちが、無知であるし、また自ら真実を知ろうともしないレベルであり、これは北の将軍や新興宗教の教祖への盲拝と同種の心理です。

>BBさまが積み上げているのは事実や報道されている事、でそれ以上でもそれ以下でもないです。それが
分かるとき、持続して現在も実を結んで行っているのはないかと思います。きっと。


ありがとうございます。

ただBBの発信程度で、世の中も皇室も変わることなどありません。ただ、100年後に真実を知る人が今より多く、200年後にはもっと広まるように、と願いつつ営んで来ました。
人は、いつまでも美しい勘違いのもとに、真実の埒外に放置されているべきではありません。
闇で嘲笑っている人達がいます。それを許したくないのです。たとえ、数百年の時が必要だとしても、真実は知らねばなりません。

皇太子と皇太子妃が天皇皇后に即位されたら、さすがに隠しきれない状況は出てくるので、皇室に疑問を持つ人は今に比べれば、相当数増えるかと思います。


小和田氏? (男塊世代)2018-08-14 12:54:21

動画「ポルポト・知ってるつもり」
https://www.youtube.com/watch?v=VGRNEnc4YvY

上記、動画後半(26分過ぎ)の中山太郎外務大臣の左手にいるのは小和田氏?


https://blog.goo.ne.jp/bb-danwa/e/a672698e97b9e288783b63bf979afce1

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/322.html#c1

[近代史3] 日本の官僚やアメリカへの留学生はこういう手口でアメリカのエージェントにされる 中川隆
2. 中川隆[-10924] koaQ7Jey 2019年4月05日 11:39:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1104]

日本の官僚はアメリカのハニートラップ戦略によって動かされていた:


パソナ美女接待迎賓館”仁風林”
パソナ南部靖之会長の愛人達 竹中平蔵と橋下徹 都市伝説とその裏側
http://maezaki.net/pasona-takenaka


仁風林関係の動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E4%BB%81%E9%A2%A8%E6%9E%97


仁風林 - Google 画像検索
https://www.google.co.jp/search?q=%E4%BB%81%E9%A2%A8%E6%9E%97&lr=lang_ja&hl=ja&tbs=lr:lang_1ja&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwi08f2c0cfLAhXiG6YKHSDDAPYQsAQIGw&biw=1140&bih=648


「仁風林」はCIAが作ったハニートラップ製造店か? 
かつてのノーパンしゃぶしゃぶ事件と酷似。
http://rapt.sub.jp/?p=11226


今や日本の政治家は完全なアメリカの飼い犬となり、アメリカの意のままに動かされています。

どうしてこんなことになってしまったのか。
脅されているのか、それとも金か何かで操られているのか。

色々な想像が頭の中をよぎりますが、今回のASKA事件によって、政財界の多くの人たちがハニートラップにかけられてしまったのではないかという疑いが出てきました。少なくとも私はそう見ています。


要するに、政財界の大物たちを麻薬やら女やらで誘惑して弱みを握ってしまうわけです。

そうすると、彼らはもう二度と自分の好き勝手はできない。

麻薬と女に手を出したことが世間に知れたら、その人は現在の地位を失い、最悪の場合、食べることすら事欠くようになってしまうからです。

ハニートラップを仕掛けたのはもちろんアメリカの金融ユダヤ人でしょう。

彼らは過去にも巨大なハニートラップ店を作り、大勢の霞ヶ関の高級官僚たちを罠にはめてきたという経緯があります。

皆さんもまだ記憶に残っていると思いますが、その有名なハニートラップ店が例のノーパンしゃぶしゃぶ「楼蘭」です。

97、98年頃、この怪しげな店に有名な大蔵官僚が出入りしていることがマスコミによって大々的に報じられました。

これによって彼らの多くが失脚することになりましたが、実はこのときにマスコミに名前を挙げられたのは愛国派と良識派の官僚だけでした。アメリカに留学経験のある官僚、いわゆる売国奴たちは誰もその名前を報じられることなく、そのまま権力の座に居座りつづけたのです。

この事件がきっかけとなって、大蔵省は財務省と金融庁に解体されてしまいました。

それは、日本の官僚の本丸、大蔵省がアメリカに攻め落とされ、完全に占拠された瞬間でした。

こうして官僚の上層部は全てがアメリカ留学組の人間のみとなり、アメリカのエージェントである売国奴がこの国を支配するようになったわけです。

しかも、そのアメリカ留学組が後輩の留学組たちを引っ張り上げるシステムができあがり、ついにはアメリカにこの国を売る者だけが出世するという仕組みが完成してしまいました。

今では官僚の留学先の7割以上がアメリカだそうです。
国費を使った留学で、日々売国奴が量産されつづけているというわけです。

我々のあらゆる資産をアメリカに献上してしまう人間を、給料から留学費用、住居や手当まで、我々がしっかりと税金で養ってあげているのです。

この「楼蘭」と同様、「仁風林」もまたアメリカの作ったハニートラップ製造所だった可能性がなきにしもあらずです。

多くの政財界の大物たちがこのハニートラップにまんまと引っかかり、金融ユダヤ人の意のままに動かされ、国民のために働きたくても働けなくなってしまった可能性があります。


○ASKAで話題の“接待パーティー” 高級官僚も常連だった

今のところ「仁風林」に出入りしていたことが分かっている政治家は以下の通りです。

・安倍晋三首相
・菅義偉官房長官
・田村憲久厚労相
・下村博文文科相
・林芳正農水相
・甘利経済再生担当相
・石原伸晃環境相
・新藤義孝総務相

もちろん、パソナ会長の竹中平蔵もその一人に違いありませんが、彼はハニートラップに引っかかった側ではなく、引っかける側だったと考えた方がいいのかも知れません。

「竹中さんみたいなお偉いさんに誘われて、おれも出世したな」

と思って、いい気になってサロンと呼ばれる社交の場に行ってみたら、そこは麻薬と女に満ちた怪しげな世界だった……

「これはちょっとマズイな」と思ったときにはもう遅い。

もちろん、中には麻薬と女の魅力にズブズブとはまりこんでしまう人もいるのでしょうが、逆に気まずい思いをして帰るだけの人もいるかも知れません。

しかし、いずれにしても、その場所に足を踏み込んでしまったが最後。麻薬と女に手を出したという証拠写真が撮られ、それをネタに脅しをかけられる。

これを世間に公表したら、お前の政治家生命はないぞ。

現在のところ、マスコミは「仁風林」がらみの政治家ネタを全く報じようとしませんので、どの政治家たちも脅しに屈して、金融ユダヤ人の意のままに動いておられると考えた方がいいのかも知れません。

実際、現在の安倍政権が国会に上げてくる政策のすべてが金融ユダヤ人の利益となる政策ばかりですからね。林芳正農水相も罠にはめられて、JA解体のために動かなくなってしまったのではないでしょうか……。

もっとも、いくら政治家や官僚たちを罠にはめたところで、最後の最後には国民が黙ってはいません。だから、JA解体の問題にしろ、自衛権の問題にしろ、最後の一押しがなかなかうまくいかないわけです。それでも力づくで金融ユダヤ人の意のままに政治を動かすなら、そのときはB層までもがカンカンに怒り狂って、誰も彼もがA層に変わってしまうことでしょう。

そうなったら、この日本はそれこそ完全な超一流大国になれるかも知れません。

そもそも、ASKAが逮捕され、パソナの名前が表沙汰になること自体、彼らには想定外だったのではないでしょうか。
http://rapt.sub.jp/?p=11226


ASKAで話題の“接待パーティー” 高級官僚も常連だった 2014年5月31日

仕切り役は元財務省の天下り

 ASKA事件で注目を集める人材派遣会社「パソナ」グループの迎賓館「仁風林」(東京・港区)を舞台にした接待パーティー。

常連客には、国会で追及された田村憲久厚労相や小野寺五典防衛相など現職閣僚を含む与野党の政治家の名前が次々と浮上。

政界に激震が走っているが、“接待漬け”されていたのは政界以外にもいる。

霞が関のエリート官僚たちだ。


 美女が体を密着させながら酒をつぎ、豪華料理に舌鼓を打つ――。

「仁風林」の接待パーティーは、さながら高級クラブのサロンのような雰囲気だったという。

 接待客の人選や席の配置などを仕切っていたのは、南部靖之代表の“右腕”といわれ、「公共戦略事業・特命担当」の肩書を持つ上斗米明・常務執行役員。

財務省出身の天下り官僚だ。

「83年入省で、主税局主税企画官、関税局業務課長などを経て国税庁総務課長に就いたものの、なぜか、たった5カ月で大臣官房付に異動し、そのまま辞職した。2010年に執行役員としてパソナに天下りしました」(事情通)

霞が関で突然の大臣官房付の異動はスキャンダル絡みが多い。

南部代表はセクハラなどでミソを付けた有能な人材を利用するのがうまい。

ま、いろいろとあったのだろうが、上斗米氏が霞が関とのパイプになったのは間違いない。


「パソナの官僚接待はすごいですよ。
局長以上の幹部の多くは、“仁風林パーティー”を知っているはずです。

パソナを含む派遣業界は90年代、業界全体で数十億〜数百億円規模といわれた派遣社員の社会保険料の未納の扱いについて頭を痛めていました。

98年には会計検査院が全国の派遣会社の約400の事業所で、約35億円の社会保険料の徴収漏れがあったことを指摘しています。保険料徴収が厳格化されれば、業界はたちまち火の車。そこで保険料の支払いを緩くするための日雇いや請負といった規制緩和に政界工作を仕掛けた。

課長クラスもパーティーに来ていて、南部代表の腰巾着といわれているエリート官僚は大勢います」(元人材派遣会社幹部)


仁風林」の常連官僚の中には、経産省の局長や中小企業庁の幹部職員がいて、実名が飛び交っている。

 文科省の事務方トップ、山中伸一・事務次官の名前も出てきたから文科省に事実確認すると

「こんなことを次官に聞けるワケがないし、プライベートなことなので答える必要はない」(事務次官室)

ときた。

 経済ジャーナリストの荻原博子氏がこう言う。

「労働者あっての国や経済なのに、官僚や派遣業界は、労働者を『出来る限りコキ使って搾取するコマ』としか見ていない。

自分たちさえ儲かればいいと思っているから、政官財で“癒着”しようが“談合”しようが、悪いという感覚がないのでしょう」


「仁風林」での政官接待は、98年の銀行と旧大蔵官僚の「ノーパンしゃぶしゃぶ接待」を思い出させる。

お車代などの現ナマをもらって、行政をネジ曲げたのだとすれば許されない話だ。
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/150621

2014年6月4日ASKA(飛鳥涼)とパソナ南部、政界の相関図

ASKA(飛鳥涼)とパソナ南部、政界の人間関係を個人的にまとめてみた。

2chに「芸能界薬物事件相関図 」スレがあるが、芸能界だけでは全体像がわかりにくい。


http://takanojyou.blogspot.jp/2014/06/blog-post.html
ASKA(飛鳥涼)とパソナ南部、政界の相関図
(版を重ねる毎に「パソナの女相関図」のようになってしまった)


パソナグループのベネフィットワンが、防衛庁の福利厚生を一手に引き受けている。隊員を含む約26万人の個人情報をパソナが保有。

民間企業が従業員の転職先探しをパソナなどの再就職支援会社に頼むだけで、労働移動支援助成金が10万円支払われる。転職成功時には最大60万円まで支払われる。次にパソナが狙う利権は、国家公務員の採用試験と再就職斡旋。なお、リクルートホールディングスは10月に上場を控えている。

パソナについて報道がなされないのは、南部と昵懇のケイダッシュ会長川村龍夫がメディアを抑えているからと言われている。

ASKAは警察の取調べに覚醒剤の使用を認めたが、栩内は否認している。南部の代理人が栩内に余計な事を話すなと伝えているという情報もある。

弘道会の上部団体の山口組は、清原とAVEX松浦社長の逮捕を阻止。次の生贄としてGACKTを献上し、他はお咎めなしの交渉中。

ASKAは札幌の弘道会関係者と揉めてドジを踏んだ。それがなければ表沙汰にならずに済んだかもしれない。揉めたから殺されそうになり、嫁が心配して事務所に相談し通報という流れになったのではないか。

ASKAの覚醒剤入手ルートは複数あるのだろう。その一つとして栩内ルートがあるのかどうか。もしあるのだとすると、北朝鮮に太いパイプを持ち、覚醒剤使用の疑惑がある中川が気になってくる。メディカルアソシア元社長田中秀代も同じく気になる。栩内は未だに否認し続けて口を割っていないことからも、パソナルートがあるのではないかと勘ぐってしまう。

メディカルアソシア元社長田中秀代は、ほとんど会社にも出勤してこなかったそうだ。自社株を9割近く持っていたが、3月末に退職して売却してした後、雲隠れしてしまった。また栩内と南部とも親しいときている。田中秀代の写真を検索しても出てこない。一体どういう人物なのであろうか。

札幌の弘道会関係者も薬物入手ルートと週刊誌は報じていた。元運転手X氏は破門されたそうだから、薬物入手ルートの1つだろう。山口組は建前上薬物は御法度だ。X氏は山口組系弘道会の組員だったのではないか。X氏の出身大手芸能プロはバーニング系だったのかどうかも知りたいところだ。

ASKAが所持していた検査キットはどこから入手されたものなのだろう。医療関係の平岩医師や田中元社長は関わっていなかったのか。

逮捕されたASKAと栩内の周囲の人物は、蜘蛛の子を散らすように逃げている。平石医師、運転手X氏、メディカルアソシア田中元社長がそうだ。

谷口は芸能界のドン周防の鉄砲玉みたいな人物。最近ではK−1の石井も周防の手先となったようだ。

エコLOVEは事実上バーニング系の事務所ではないだろうか。石井がエコLOVE顧問で、南部とバーニング系事務所ケイダッシュ会長の川村は昵懇だ。その上、仁風林のママ役佳つ乃は、パールダッシュ(バーニング系)所属だ。南部自体がバーニングと関わりが深いのかもしれない。

創価学会の視点で見れば、南部⇒K−1石井⇒ケイダッシュ谷口、南部⇒前原議員の嫁、浮島智子(公明)となる。創価学会は芸能界、財界、政界を股にして人脈がある。

仁風林式高級クラブシステムはよくできている。政治家の弱みをすべて自社内に保持できる。自社内で飲み食いさせて女性を充てがうだけだから、直接的な金銭授受が発生しない。これでは贈収賄事件として立件しづらいのではないだろうか。リクルート事件とは決定的に違う点だと思う。

仁風林式高級クラブシステムを真似る会社、既にやっている会社、多数ありそうだ。

南部のまわりにいる女性達を追っていくことで、事件の概要をわかりやすく紐解けた。最初はASKA相関図として作っていたのだが、パソナの女相関図とも言えそうな図になってしまった。「パソナの女」という小説のネタにできそうだ。パソナはペルソナをもじったらしいから「ペルソナの女」の方がいいかもしれない。

ASKA事件絡みで明らかとなった防衛庁利権だが、これは公安事案だと思う。自衛隊員の個人情報をパソナ経由で北朝鮮や韓国へ流している可能性があるからだ。前原の嫁が防衛庁利権を持っていること自体が怪しい。夫である前原は防衛族だ。

ASKA事件の影に隠れて、吉松育美のストーカー事件は忘れられているが、マット・テイラーを通じて川田亜子の不審死(一般には練炭自殺とされる)と繋がりがあることは注目に値する。吉松育美の事件はパソナ関連事件だということを強調しておきたい。

吉松育美の事件はメディアで一切報道されなかったが、バーニングに関わる事件だからという理由とは別に、吉松がパソナ社員だという理由もあったのではないか。

マット・テイラーはよくわからない人物だ。古くはジュリアナ東京で出入り禁止になったとの噂もある。只の不良外国人にしては、バーニングに対抗できているところが腑に落ちない。FBIもしくはCIAの手先なのだろうか。本名かどうかすら疑っている。

竹中平蔵の利益相反行為(パソナへの利益誘導) は、明らかな「犯罪」だ。これは忘れてはならない重大事項だと思う。

相関図の情報は週刊誌や2ch、メルマガなどからかき集めた。あまりにも情報ソースが多いため、一つずつ挙げていない点、ご了解頂きたい。

相関図はあくまで一つの見方であり、何を重要視するかによって見解はそれぞれで違うと思う。

【相関図登場人物】
南部 靖之
佳つ乃
栩内 香澄美
大日向 由香里
吉松 育美
金ヶ江 悦子
浮島 智子
前原 愛里
前原 誠司
小野寺 五典
田村 憲久
竹中 平蔵
中川 秀直
ASKA
飯島 愛
清原 和博
運転手X氏
石井 和義
周防 郁雄
谷口 元一
川田 亜子
マット・テイラー
http://takanojyou.blogspot.jp/2014/06/blog-post.html


2ちゃんねる 芸能界薬物事件相関図
http://nozomi.2ch.net/test/read.cgi/4649/1400586135/

仁風林とは?
南部 靖之と飛鳥,栩内 香澄美/とちない かすみを繋ぐSEX迎賓館の真実。
安倍晋三まで…
http://matome.naver.jp/odai/2140073489719743801


パソナグループ代表南部 靖之が政財界の要人を接待する為に作り上げたセックス迎賓館「仁風林」

この仁風林には、安倍晋三首相をはじめ、森喜朗元首相や民主党の前原誠司元国土交通大臣も訪れたことがあるという。

財界、政界、芸能界の要人たちを覚醒剤漬けの快楽の虜にしたセックス迎賓館「仁風林」の真実とは!

更新日: 2014年09月22日


ASKA、飯島愛、栩内香澄美だけじゃない。接待でシャブセックス漬けになった要人たち。SEX動画が流出。


一般人の感覚では信じられない姿が…。
薬を使ってのSEXは抜け出せないとは聞いたことがありますが…
流出した動画は以下の記事より。


「検察劣勢みたいに報じられていますが、そんなことはない。ASKAが自身の初公判で、栩内について大事な人と証言したのも、検察側にすればしてやったり。」(捜査事情通)

ASKA、飯島愛、栩内香澄美だけじゃない。接待でシャブセックス漬けになった要人たち。SEX動画が流出。


首相が叱責…ASKAの女に異常接近していた小野寺防衛相

パソナグループの迎賓館「仁風林」(東京都港区)。同社の南部靖之代表主催のパーティーに、田村憲久厚労相ら現職閣僚5人が出席したことをこれまでに伝えたが、小野寺五典防衛相(54)も“メンバー”だったことが日刊ゲンダイ本紙の調べで新たに分かった。覚醒剤使用でASKAが逮捕される直前まで通っていたようだ。


栃内香澄美 パソナ 「仁風林」に出入りしていた民主党の前原誠司
http://totinaikasumiaskasex.blog.fc2.com/blog-category-33.html


http://rr.img.naver.jp:80/mig?src=http%3A%2F%2Fblog-imgs-70.fc2.com%2Ft%2Fo%2Ft%2Ftotinaikasumiaskasex%2Ftoti30.jpg&twidth=300&theight=300&qlt=80&res_format=jpg&op=r


SEX接待迎賓館と呼ばれる「仁風林」。
政界、財界、芸能界を繋ぐこの肉欲にまみれた施設にはどんな闇が隠されているのか…


「小野寺大臣の目的はASKAの“愛人”栩内香澄美だったそうです。
栩内は青森出身で、小野寺大臣は宮城県出身。“同じ東北出身”をアピールして接近しようとしたけど、うまくいかなかったようです」(事情通)


パソナとは?「仁風林」とは?

竹中平蔵 猪瀬直樹  堺屋太一  永島敏行…栩内容疑者の関係者がやばすぎる…

栩内 香澄美がセックス要員として働いていたパソナ主催のイベントのゲストとして「飛鳥 涼」の名前が!

関係者によるとセックス接待中のビデオの存在が判明…

ASKAと栩内容疑者はセックス中の姿をビデオ撮影しており、精液の付着したティッシュなどとともに押収が確認されたとのこと


出典
http://matome.naver.jp/odai/2140064151454469401


なんとここの記事によると栩内容疑者のマンションからは精液の付着したティッシュなどが押収されたほか、覚せい剤を使用しながらセックスをするいわゆる「キメセク」を楽しむ栩内容疑者とASKAのビデオが発見されたという。


覚せい剤を使用しながらセックスをするいわゆる「キメセク」を楽しむ栩内容疑者とASKAのビデオが発見されたという。詳しくは記事を参照。


とちない香澄美は一体何者?栩内 ( とちない ) かすみとASKA,野村義男とシャブSEXの深い闇。 - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2140064151454469401


パソナグループ社長 南部靖之とASKAそして栩内 香澄美を繋いだのは財政界のVIPを接待する「セックス迎賓館」だった!


出典
http://matome.naver.jp/odai/2140072863513847301


こちらではASKAと栩内 香澄美の覚せい剤セックスビデオが流出との噂も…


南部 靖之 ASKA 栩内 香澄美( とちない かすみ )を繋ぐパソナのSEX迎賓館の存在が明らかに - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2140072863513847301


http://rr.img.naver.jp:80/mig?src=http%3A%2F%2Fimgcc.naver.jp%2Fkaze%2Fmission%2FUSER%2F20140522%2F49%2F4152159%2F13%2F300x400x450210b5e69fc10c3f499601.jpg%2F300%2F600&twidth=300&theight=600&qlt=80&res_format=jpg&op=r


また財政界の要人の接待を行う為にパソナ代表南部 靖之が建てたというセックス迎賓館「仁風林」

栩内容疑者はASKAとここで出会ったという。

過去には安倍晋三首相をはじめ、森喜朗元首相が訪れたことも…

おまけにパソナ主催のイベントには飛鳥 涼のほかに竹中平蔵 猪瀬直樹  堺屋太一  永島敏行など著名人の名前が数多く確認された…


パソナに出入りを続ける竹中平蔵のたくらみとは…

労働移動支援助成金は、従業員の再就職を支援する企業に国がカネを出す制度。
それまでは転職成功時に限って上限40万円の補助金が出たが、これを改め、
転職者1人につき60万円まで支払われることになった。

しかも、仮に転職が成功しなくても、従業員の転職先探しを再就職支援会社に
頼むだけで10万円が支払われる。この制度拡充を主張したのが、
パソナ会長であり、産業競争力会議のメンバーを務める竹中平蔵慶応大教授だった。

「労働力の移動と言いますが、要はリストラ促進助成金です。

従業員をクビにすると助成金を受け取れる。昨年3月に開かれた第4回産業競争力会議で、 竹中氏は

『今は、雇用調整助成金と労働移動への助成金の予算額が1000対5くらいだが、これを一気に逆転するようなイメージでやっていただけると信じている』

と発言しています。


5月17日、CHAGE and ASKAのASKA(本名・宮崎重明)容疑者が、覚せい剤取締法違反(所持)の疑いで逮捕され、芸能界に衝撃が走った。ASKA容疑者は、17日午前7時半頃、同容疑で逮捕された知人の栩内香澄美容疑者宅から出てきたところ、任意同行を求められ、尿検査の結果、陽性反応が出たという。


栩内容疑者は南部靖之代表に気に入られパソナグループの迎賓館「仁風林」で要人たちを接待していた

栩内容疑者は、人材派遣大手パソナグループのグループ会社に勤務後、同グループの南部靖之代表に気に入られた。パソナグループが政財界の要人や芸能人を接待するために東京・元麻布に設けた「仁風林」で行われていたパーティーでは、同社の女性社員が要人たちを接待していたといい、その中のひとりが栩内容疑者だったという。


要人接待迎賓館「仁風林」では安倍晋三首相をはじめ、森喜朗元首相まで…


この仁風林には、安倍晋三首相をはじめ、森喜朗元首相や民主党の前原誠司元国土交通大臣も訪れたことがあるという。


栩内容疑者が住んでいた南青山の高級マンションも会社が借り上げたものだというから、南部代表の溺愛ぶりがうかがえる。
http://matome.naver.jp/odai/2140073489719743801


仁風林とは?南部 靖之と飛鳥,栩内 香澄美-とちない かすみを繋ぐSEX迎賓館の真実。安倍晋三まで… - NAVER まとめ 2
http://matome.naver.jp/odai/2140073489719743801?page=2


今回の件について、南部代表やパソナグループにコメントを求めているが「回答できない」との答えだった


なんとあの元・プロ野球選手や有名ミュージシャンまで…

また、ASKA容疑者の運転手だった人物が、その後、同じく今年3月に薬物使用疑惑を同誌に報じられた元プロ野球選手・清原和博の運転手として雇われていたため、ASKA容疑者の逮捕を受け、清原も不安がっていると報じている。


ASKA容疑者と栩内容疑者が出会ったというパーティーは、政財界の要人も出入りしていたというから、今後、捜査のメスがどこまで広がるか注目していきたい。また、栩内容疑者は、南部代表のお気に入りとして社内では特権的な立場にあったというから、南部代表がどのようなコメントを発表するか注目だ。


覚せい剤を使用してのセックスビデオまでが!

覚せい剤取締法違反(所持)容疑で逮捕された知人の会社員栩内(とちない)香澄美容疑者(37)が、出向先の人材派遣会社でVIP用の接待要員を務めていたことが21日、分かった。一方、両容疑者の逮捕の決め手は、ゴミ袋から押収したティッシュだったことも判明。覚せい剤の反応が出たほか、精液も付いていたという。


出典
http://matome.naver.jp/odai/2140056068001735601


栩内容疑者が出向していた医療系人材派遣会社のグループ代表が、政財界のトップを接待するための迎賓館として設けた。この代表は自社の美人社員や知り合いのモデルを接待要員に使っており、栩内容疑者もその一人だった。

ここではASKAが抜け出せなかったシ○ブセッ○ス。流出ビデオの存在までが噂されている。


とちない 栩内香澄美と宮崎重明の正体判明!ASKA/飛鳥とのやばすぎる関係とは!顔写真&画像まとめ! - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2140056068001735601


http://rr.img.naver.jp:80/mig?src=http%3A%2F%2Fimgcc.naver.jp%2Fkaze%2Fmission%2FUSER%2F20140520%2F34%2F3297504%2F6%2F320x224xf498a504157db453577d6740.jpg%2F300%2F600&twidth=300&theight=600&qlt=80&res_format=jpg&op=r


竹中の天下り先か
この会社は自民党とズブズブの関係じゃん
圧力くるかな

今から一緒に これから一緒にパソナに行こうか
http://matome.naver.jp/odai/2140073489719743801?page=2

「仁風林」、超富裕層だけが持つ夢のサロンの中身 2014年05月24日


 大物アーティスト、ASKA容疑者(56)と知人の栩内香澄美容疑者(37)が覚せい剤使用・所持の疑いで逮捕されるというショッキングなニュースが連日、世の中を騒がせている。

この事件で明らかになったのが、2人が出会ったとされる富裕層の迎賓館「仁風林」(じんぷうりん)の存在だ。中の様子はかなり派手だったと伝えられるが、富裕層は、なぜこんなものを持つのか。

 有栖川公園、麻布中・高、西町インターナショナルスクール、各国大使館…。都内でも屈指の高級住宅街でもありながら、どこか異国情緒も漂わせる元麻布2丁目。道幅の狭い入り組んだ道をたどっていくと、「仁風林」がある。歴史的には、江戸時代には旗本屋敷が並んでいた土地らしい。


仁風林

仁風林(港区元麻布2丁目)
 約1000平方メートルという広い敷地内に、昭和39年に建築された鉄筋コンクリート造りの家屋がある。地上2階地下1階建てで、延べ床面積は250平方メートル。所有者は、相続を受けた新宿区の個人と、茨城県つくば市の個人との共有となっている。

 古い料亭のような造りの門構えに、深々と生い茂る植栽から中の様子をまったくうかがい知ることはできない。近隣住民たちも何の施設かは詳しくは知らなかったようだが、近隣の男性は

「入り組んでいて狭いので、とても、見ず知らずの車が入ってくるような場所ではないのですが、それでも、週末には大きな車が数台並んでいたりします。

料亭かと思っていたので、ニュースを聞いて驚いています。
さすがに名前は口にはできませんが、有名な人を見たというような話も聞きますが…」

と話す。

 この仁風林こそが、パソナグループ創業者の南部靖之代表の接待施設であるという。週刊新潮に中の詳しい描写があるので一部紹介する。

 まず40人ほどのパーティースペース、専門の料理人が料理をふるまい、セレブ夫人たちに人気の酵素風呂もある。

そして、芸者やモデルたちで形成される接待女性の軍団がいる。

そこにASKA容疑者が夫人同伴で来るようになったという。
そして、カスミちゃんと呼ばれていた栩内容疑者もいたという。

 少し破廉恥な描写もあるが、ここでは割愛する。


会社経費で自分の寝床に使うことも

 そもそも、富裕層やセレブたちがこうした私的な集いを行うサロンは17世紀のフランスに遡る。17世紀初めのランブイエ侯夫人が、フランスのアンリ14世の宮廷で、文学者や知識人を招き入れて会合を行うようになった。宮廷が野暮ったくて居心地の悪さと退屈さを感じたからというのが理由とされる。

その後も貴族たちは夜な夜なサロンを開いては、会話を弾ませた。プルーストの「失われた時を求めて」など多くの文学作品に、そうした描写がなされている。


仁風林

 さて、現代においては、富裕層がさらに成功し、超富裕層、もしくは大富豪となった人が作ることが多い。

 パソナの南部氏をはじめ多くの大物財界人を取材した、経済ジャーナリストは

「南部さんは元々、財界、政界、芸能界、文化の世界と様々、顔が広い人です。(サロンを開く目的は)見栄のためですよ」という。

 実際に、富裕層になり立ての他人に対して、人に紹介を頼む人が多いが、逆に超富裕層や大富豪は自身がパイプ役となって、顔つなぎをしたり、様々な顔ぶれがそろう一種の磁場を形成しているといっても過言ではない。その場所をサロンに求めるのだ。

 そして、他の経営者仲間がサロンを開設したと聞くと、競うようにして、より豪華な建物を建て、よりよい設備をそろえていく。

例えば同じ東京・港区では、白金台にある三島由紀夫の小説「宴のあと」の舞台になった料亭「般若苑」の約7000平方メートルの跡地に施設を建設中だが、こちらはサロンなどの施設だと見られている。

また、南麻布にはアパ・グループ代表である元谷外志雄氏の豪邸が建設中であるが、規模の大きさからサロンではないかとの見方もある。

 いずれにせよ、港区には探せばこうしたサロンは数多くあるものだ。

 「上場企業の社長の場合は、会社の施設ということにして、経費は会社が支払います。こうした接待やパーティーがない時は、自分がホテルがわりにしたり個人的に使っているということはよく聞きます。中でクスリが使われているというようなことは絶対にないと思いますけど」(前出ジャーナリスト)

 ホテルのレジデンスや、マンションを確保している上場企業も多いが、パソナの仁風林はその規模が大きくなった感じだ。

 しかし、サロンの欠点は顔が広くなりすぎることだ。こうした時に一気に信用が棄損することにあるだろう。

パソナ株は22日の東京株式市場で年初来安値まで売り込まれた。まさか、ダブルミリオン2回、ソロでもミリオンを達成した大アーティストのASKA容疑者がこうなろうとは、思いもしなかっただろう。

そこにいた接待要員の女性とともに。
http://media.yucasee.jp/posts/index/14122?la=ar4


ASKA保釈も、全面否認の“共犯”栩内香澄美被告が抱える爆弾「パソナと政界・官僚との黒い癒着が……」


覚せい剤と合成麻薬所持などで起訴されたASKAが3日、保釈された。
これで事件はひと段落したように見えるが、今月22日には、一緒に逮捕されたASKAの愛人、栩内香澄美被告の初公判が東京地裁で予定されている。

この内容に、人材派遣大手「パソナグループ」の南部靖之代表が主催していたホームパーティーに出席した政治家や役人たちが戦々恐々としているという情報を入手した。

 栩内容疑者は容疑否認のまま起訴されたため、公判では頑なに沈黙を守り通すことが予想されるが、検察はASKAと栩内被告が出会った、南部代表主催のパーティーの実態をつかんでいるという情報がある。

その実態が法廷で暴露されるのではと、南部代表をはじめ、パーティー出席者が怯えているというのだ。


 栩内被告がASKAと一緒に逮捕された当初、彼女はいったい何者なのかとマスコミ関係者の間では騒然となったが、その後、栩内被告は南部代表の私設秘書を務め、週に1回開催される南部代表主催のパーティーのホステス役を務めていたことが明らかになった。

ホステス役は、パソナグループから選ばれた美女ばかりが30人ほど。

ミス・インターナショナルで、現在は大手芸能プロ「ケイダッシュ」の谷口元一氏による“ストーカー事件”の被害者として孤立無援の戦いを続けている吉松育美さんも一昨年までパソナグループの社員であり、ホステス役を務めさせられていたという。

 ホステス役を仕切るのは、京都の元舞妓の女性。

彼女は栩内被告と同様、南部代表とは個人的にも親密な関係だったことから、グループの社員からは南部代表の“喜び組”と揶揄されていた。

こうした事実を暴露されるだけでも、南部代表にとっては致命的だ。


 さらに、パーティーには、複数の元首相や安倍晋三総理ほか、自民党を中心に民主党の議員も数多く招待されたという。

人材派遣業の監督官庁である厚生労働省の田村憲久大臣まで顔を出していたというから、開いた口が塞がらない。

招待された議員の中には、パーティーの帰りに御車代として、10〜50万円を渡された者もいたとも。事実であれば、贈収賄や政治資金規正法違反などの可能性もある。

さらにパーティーには、防衛庁、警察庁、厚労省の課長から局長クラスまでの官僚も招待されていたという。

パソナは、霞が関OBの天下り先としても有名だが、このパーティーを通しても、癒着の実態が見え隠れする。

つまり、ASKAとその愛人の覚せい剤スキャンダルだけでは終わらない、社会的問題を含んでいる事件なのだ。

しかし、事件当初は積極的に、これらの問題を報道したメディアも、権力から圧力がかかったのか、いつの間にか腰砕けになって、その後沈黙している。


 南部代表は、裁判で栩内被告を守るために最強の弁護団を付けたといわれている。しかし、検察の尋問に口封じはできない。単なる芸能人の覚せい剤事件で終わらせないためにも、検察の鋭いメスに期待したい。
http://www.cyzo.com/2014/07/post_17763_entry.html






53. 中川隆[1987] koaQ7Jey 2016年3月19日 07:09:21: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[1952]

▲△▽▼

再びネットに書き込まれたASKA逮捕の裏にある暴力団内部事情と政界との「手打ち」の噂
〜文春の飯島愛記事にも言及 BuzzNews.JP
http://www.buzznews.jp/?p=45587


アスカの覚醒剤事件よりも仁風林という【 阿片窟 】に興味がある


★アスカの覚醒剤事件の初めての裁判が昨日(2014年8月28日)にあったが、昨日は同時に、アスカがトモナイ被告と出会った「仁風林」を創ったパソナの株主総会であった。「仁風林」とは一体なんだったのか?ネット記事を参考に考えたい。


仁風林とは?

南部 靖之と飛鳥,栩内 香澄美/とちない かすみを繋ぐSEX迎賓館の真実。
http://matome.naver.jp/odai/2140073489719743801

パソナ迎賓館「仁風林」でSEX接待ビデオが流出!
ASKAと栩内香澄美をシャブで繋ぐ南部靖之と創価の闇
http://matome.naver.jp/odai/2140107218629692501

田村厚労相は就任後も…「パソナ接待館」常連だった5閣僚
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/150540

ASKAで話題の“接待パーティー” 高級官僚も常連だった
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/150621


1、仁風林とは大物政治家や大物官僚や大物芸能人をパーティに招待し、薬とセックスで奴隷にするところか?


★仁風林とは大物政治家を代表にする政財官の要人をパーティに招待し、薬物とセックスに溺れさせ、大物政治家などのセックスの様子をビデオで録画して、それで脅し、奴隷にするところだろう膿〜。

映画でよくあるワンパターンじゃ膿〜 (*゚▽゚*)


★だいたいそれで当たりじゃないのかな。たいていの人はそう思うだろう膿〜。


★創価の名が出てくるからロスチャイルド系である。
ロスチャイルドの敵である現政権、その他の敵を転落させるスキャンダル創りのために仁風林が出来たことは簡単に推理できる。

タロットカードの【 15である悪魔 】の世界じゃ膿〜。
阿片戦争の時にロスチャイルドが中国を乗っ取るために使った手が阿片という麻薬だった。その戦術を出してきたということだろう。


★超美人と薬物とセックスの欲望に勝てる男はいない。
だから、どんな大物でも簡単に悪魔の罠にハマる。
その代表がアスカだが、政治家の名が出てこないのは、必死で隠しているからだろう。
しかしそれで良い。鷲は安倍総理を応援しているから。


2、ロスチャイルドが日本中枢に仕掛けた「阿片戦争」か?


★英国と中国(清)は1940年から1942年にかけて「阿片戦争」をしている。

英国が清から「お茶」を輸入したのに対して、英国は売るものがないから、インドで栽培した阿片という麻薬を清に輸出。それで清の社会が荒廃したことから、清は阿片を禁止した。

英国は清が阿片を禁止したことがドタマに来て、英国が戦争を始めたのである。
悪いのは英国・ロスチャイルドであったのだ。


★さて今回のアスカ覚醒事件の背後には「仁風林」という阿片窟がある。

そこで「性欲労働者」として、トモナイ被告が働いていて、他にもミス日本に選ばれた美人も「性欲労働者」として働いていたらしい膿〜。


★阿片にとり憑かれた人間は「生きる目的が阿片をやること!」になる。
そして人を殺してでも阿片が欲しく欲しくてたまらなくなり、様々な犯罪に手を染め、「全てを失う結果」となる。
どの本にもそう書いている。酒しかやらない鷲には本でしか解らないが膿〜


★阿片戦争の時の清国内には【 阿片窟 】と呼ばれる地帯があった。
阿片を吸って、セックスの快楽に耽る場所である。
そしてセックスのやりすぎで死に、死体はそこらに転がっている(*゚▽゚*) 

しかし鷲は、今の日本には「阿片を吸って、セックスの快楽に耽る場所はない、と勝手に思い込んでいた。しかしあったのだ。それは「 仁風林 」である。


★戦前の上海が魔都と呼ばれるのは【 恐ろしい阿片窟 】が存在していたからだ。
しかし鷲はナントナク【 魔都・上海 】という響きに憧れていたのだが、上海まで行かなくても、日本には【 仁風林 】があると解った。
毎日、豚の貯金箱に100円を入れて、憧れの【 仁風林 】を目指そうか?という話ではなかった膿〜


★【 仁風林 】、そこは現代の【 阿片窟 】。

お客様は現代日本の大物政治家や大物芸能人、政財官の要人。

彼らが【 性欲労働者 】の超美人と薬物をやりながら、絡み合い、そのアラレモナイ姿(ポコチ◎丸出し)をビデオに取られ、ロスチャイルドの奴隷となり、ロスチャイルドという悪魔のユダヤ人に魂を売る。

つまり仁風林はロスチャイルドが仕掛けた現代の阿片戦争である!


3、アスカ事件はタロットの15の【 悪魔 】の出現。

★タロットカードの【 15 】は悪魔である。このカードの絵柄は、悪魔が裸の男女を奴隷にしている表現である。

現代の成功した大物歌手であるアスカは、薬物に耽り、美人とのセックスという【 悪魔の罠 】にパーフェクトにのめり込み、栄光を失った。

麻薬は人間の全てを失わせるが、アスカは大物であるゆえに、マスコミに生贄にされたことの良い面の、多くの人々の監視下にあり、その監視ゆえに、再生のチャンスがあり、【 全てを失った 】わけではない。


★驚くことは、戦前の中国や満州にあったという【 阿片窟 】が現代の日本の、それもトップの世界に出現したことだ。


★理趣経では【 男女のセックスでの恍惚は菩薩の境地である 】と説かれる。
太陽神に帰依し、薬物を使わないセックスなら菩薩の境地となるが、薬物を使ってのセックスは「全てを失う」ことになることをアスカ事件は教えてくれた。


★仁風林の接待パーティに参加した政財官の大物たちも【 アスカ事件 】に恐れオノノキ、保身のためのロスチャイルドの奴隷となったことだろう。
これもタロットカードの【 15 】の世界である。


★戦前の中国や満州での【 阿片窟 】での、阿片その他の薬物を使ったセックスとは、【 死ぬまでやるセックス 】である。
死んだ客はそのまま、道路に放り出せれて、死体が常に5体から10体、堂々と道に転がっていたから【 魔都、魔界 】と呼ばれていたのだ。


★アスカ事件は【 魔界 】をホンの少し、垣間見せてくれたのが、良い子たちへの【 アリガタイお勉強になった 】と思うから、良い面もあるだろうね。


★夏休み、にいる良い子たち、薬物をやりながらセックスをしないように。

それをすれば【 死ぬまでやるセックス 】になるから。それがお兄さん( ← だれなんだこいつは???(゚O゚))からメッセージです。

 (((o(*゚▽゚*)o)))
http://xuzu0911.exblog.jp/21059437/


2014年06月05日
ASKA「黒いシャブ人脈」全部バラす!!

週刊大衆6/16号にまたまたASKA容疑者がらみの記事が載っていました。


上記の写真、パソナ代表の南部靖之氏です。ASKA容疑者逮捕直後には「某人材派遣会社の創業者」などの書き方が多かったのですが、近頃はどの雑誌でも実名ですのでそうさせていただきました。写真付きで・・・

パソナという会社は人材派遣会社で、小泉総理時代の総務大臣だった竹中平蔵氏が取締役会長だったことがあるそうです。

また、ソフトバンクの孫正義氏、エイチ・アイ・エスの澤田秀雄氏とともにベンチャー三銃士と呼ばれていた、いわゆる企業家の星でした。

フリーターを肯定する発言が多く、

「今は正規雇用が一般的だが、20年後はフリーターがあたりまえの時代が来るかもしれない」

「フリーターは終身雇用だ!正規社員こそクビになったり雇用が安定していない」

など面白語録も多々発言しております。


ASKA容疑者の話に戻りますが栩内容疑者は南部氏の秘書だったことがあり、また、ASKA容疑者との接点を作った人物です。

栩内容疑者が南部氏のお気に入りだったのは大きく報じられている通りです。

「南部代表は、東京・元麻布に迎賓館“仁風林”を構えていました。

夜になると、都心とは思えぬほど暗く人通りの少ない場所にあるその建物は、大きな門構えの向こうがうっそうとした森のようになっていますが、そこで月に数度、著名人や有力者を集めた大規模なパーティーを開催していたんです」
(某夕刊紙記者)


有力者・・・ってのが凄いですね。政治家とか力のある経営者なんでしょうけど。

栩内容疑者が秘書時代に、こうしたパーティーの案内役をしていたそうです。

そしてギタリストN、大物歌手H、プロダクション幹部Mなど、この件で関係を取りざたされている人たちも集っていたとのこと。

そして安倍首相や現役閣僚など与野党政治家も参加者でした。

小生が個人的にビックリしたのは、民主党の前原誠司元代表の奥様がパソナの元秘書だったのです。まあ竹中氏が取締役ならば人脈もうなずけますが。


ただ当局はASKA容疑者が薬物を用意したと見ています。

ASKA容疑者は複数のシャブルートを持っていて栩内容疑者の自宅をその保管庫にしていた形跡があるそうです。

そしてASKA容疑者の薬物ルートで強いのが音楽仲間関係です。

ある音楽仲間Gとバックダンサーが時期を同じに逮捕されているそうです。
この二人が薬物供給源と考えられているのです。


一方、音楽関係別ルートでミュージシャンMと薬を共有していたんではないかと噂があります。

二人は六本木でよく飲んでいたそうですが、地下社会の人間が同席していたようです。
音楽関係者なら理解できるのですが(理解はできませんけど)いわゆる興業関係者とのあぶない人脈もあるようです。


そのなかでも格闘技イベントの実力者K。格闘技界はもちろん、他のスポーツ界や芸能界にもコネがあって幅広い人脈があるので、さまざまな闇社会とのつながりの証拠が漏れているのです。

このK氏は小生も話題にしましたが、飯島愛さんとも親しかったともされています。


ASKA容疑者のように入手ルートが複数あるのも芸能人の薬物事件としては珍しいそうです。
http://blog.livedoor.jp/fukuroulove/archives/38475366.html


133 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/31(土) 18:03:07.99 ID:mWTBapTA0 [1/2回(PC)]

ASKAで話題の接待パーティー 高級官僚も常連だった
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/150621/

509 : 名無しさん@恐縮です@転載は禁止[] 投稿日:2014/06/04(水) 22:58:21.39 ID:KTd7OdNt0 [1/1回(PC)]

パソナ企画のキメキメ乱交パーティーは有名


408 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/06/01(日) 23:27:49.01 ID:TV2mHElo0 [1/1回(PC)]

関東連合+パソナ絡みじゃね


409 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/06/01(日) 23:31:10.10 ID:1wIheYG80 [1/1回(PC)]

【事件】「パソナ」グループの迎賓館「仁風林」接待パーティー、高級官僚も常連だった!
http://fox.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1401556031/

【政治】ASKA事件が暴く、安倍首相と派遣規制緩和の「闇」…パソナ「接待パーティー」国会でも追及へ、公務員改革で300億円の“利権”★2
http://peace.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1401448010/

【政治】「二度と行かないように!」安倍首相が叱責…ASKAの女に異常接近していた小野寺防衛相★5
http://peace.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1401518922/

【芸能】ASKAの愛人・栩内香澄美容疑者だけじゃない・・・パソナ代表の元美人秘書“喜び組” ミスインターナショナル吉松育美さんも元秘書
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1401079903/

田村厚労相は就任後も…「パソナ接待館」常連だった5閣僚
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/dqnplus/1401448574/

【政治】「二度と行かないように!」安倍首相が叱責…ASKAの女に異常接近していた小野寺防衛相★5
http://peace.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1401518922/

【経済】パソナグループとサンリオが株価下落、年初来安値を更新、値下がり率の1位と3位に…ASKA容疑者逮捕の週刊誌記事が影響か[05/22]
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/bizplus/1400763895/

●竹中平蔵(元自民党)・パソナ会長就任おめ●
http://maguro.2ch.net/test/read.cgi/haken/1252306424/

パソナ会長の年収12億 派遣労働者の年収60〜240万
http://fox.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1401548826/2chMate 0.8.6/SHARP/SH-06E/4.2.2/LT


502 : 名無しさん@恐縮です@転載は禁止[] 投稿日:2014/06/04(水) 20:58:31.12 ID:e5tShhFdO [1/1回(携帯)]

政界財界暴力団の三角関係における肉体接待や贈賄や弊害処理など昔からの暗黙の了解で、政界財界は警察ともう一つの三角関係をも構成して今まで散々、警察TV新聞を黙らせてきたのだから、今回も大して動揺はない。

それに、企業舎弟ですらない企業による肉体接待ではパーティーの面子の中に企業の花添えである薬中のASKAが混じっていただけというのが実情だ。
だから、政界財界は動揺していないどころか世間に笑いが止まらないくらいだろう。
まあ、政界財界はヤクザや企業舎弟にもクラブの女や売春婦を沢山提供されているから、薬に手を出すとすればそちらの肉体接待だろうが、ヤクザや企業舎弟に薬を薦められたところで、未成年を用意してもらう者は結構いても薬をやりたがる者は芸能人と違って滅多に居ないのが実際のところ。

今回、ASKAから薬を貰った者が僅かに居るかもしれないという可能性を考慮して、 ASKAの逮捕を目一杯延ばさせ、注意喚起および薬抜き期間としたが、あくまでも安全に安全を重ねたようなもの。

今回、動揺したのは政界財界と違って警察とまでは三角関係を組めていない暴力団、山口組だ。

警察は当初、アスカの逮捕、アスカに薬物を渡していた山口組系弘道会内福島連合組員の逮捕および福島連合に対する捜査、清原の逮捕、清原に薬物を渡していた山口組系弘道会内某組織組員の逮捕および某組織に対する捜査を予定していた。

清原と弘道会の付き合いぶりから某組織は弘道会において中核に位置する組織である可能性が高い。

また、それらに関連して弘道会傘下経由の可能性が高い薬物の疑いのある有名人を何人かマークし始めていた事から、今回は珍しく警察も多少やる気を出していたようだ。

しかし、ここで政界財界がASKAの逮捕を暫く後に延ばすよう指示してきた。

更に間髪を入れずに動いたのが、一時は愛知県警を完全に喰う程であった弘道会だ。

山口組は建前上薬物を御法度としており、都合の善し悪しで薬物に触れた組や個人を処分してきた。

弘道会が主流派になって以降、その傾向は以前よりも強まっている。

しかし、薬物を扱う弘道会傘下の組も決して少なくないという理不尽な実態がある。

ちなみに山口組六代目が弘道会の前身である弘田組時代に立ち上げた司興業も薬物を扱っている。

よりによって、今回のように有名人が絡んだ形で弘道会傘下から逮捕者が、それも複数ともなれば山口組六代目を始め、近いうちに幹部昇格が既定路線となっている弘道会三代目は面子が無い。

いよいよ、反主流派に対して示しが付かなくなってしまうというわけだ。
そこで弘道会傘下と揉めた事で世間に目を向けられ、中毒状態にあるASKAまでは構わないが清原や弘道会傘下の組員および所属組織に対しては一切お構い無しとする事を政界財界を通して取付けさせたのである。

勿論、マークし始めていた他の有名人やそれらに薬を渡していた弘道会傘下の者の安泰も取付けの中に含まれている事は言うまでもない。

今回の件でココだけが唯一、警察TV新聞が本来ならばある程度動いていたはずの三角関係が二重になっていない部分の話であり、核心でもある。

文春が飯島愛について、付き人云々より先に弘道会系に脅されていたという記事を今更書いたのは文春がこのような背景を知るも直接書くわけにはいかず、鬼籍の飯島愛を引き出す事で警察を暗に揶揄するためであったが、これは事実であろうとなかろうと下衆なやり口である。

また、近いうちに薬物で有名人が捕まるとすれば、それは弘道会とは無関係のルートで入手していた薬物使用者であり、世間の目を誤魔化すために狙われる羽目になった者である。

山口組の存在は、安倍首相を始め政界財界にとって極めて大きい。
それだけに今回の取付けは非常に堅い。

万一、この取付けが何らかの形で破られる事になればその時こそ、政財界を巻き込んだ本当の大事となる。


135 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/31(土) 18:03:22.55 ID:UwpqReT60 [1/1回(PC)]

お塩ヤリ部屋事件、プチエンジェル事件を消し去るわけですね。
自民党怖い


109 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/31(土) 17:39:49.89 ID:zV6UUeIY0 [1/1回(PC)]

まあ、芸事師=色事師だもんな
芸能人なんて、ヤクザそうかロリクラブ秘密会員代議士のための慰み物なんだよw
AKBなんかハゲ爺のオヤツさえも生ぬるいわ!!


281 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/06/01(日) 02:41:52.60 ID:3pz4pida0 [1/17回(PC)]

なるほど だいたい事情が分った。 これ全部捕まえちゃば? 
Askaは使用しているただの人間だろ。 

だったらぴーちじょんの野口が5代目と知り合いとなっている相関図ネットにあったよ。

押尾にやり部屋を貸していたのは野口。押尾の背中は紋紋だらけ。
なんだお前らずぶずぶじゃん。
 
運転手も大三元だが、根元から断たないと芸能界全部巻き込むぞ これ。 
ピーターの付き添いも捕まっただろ。

宅見が関係しているしていないとか。 松浦の名前挙がっている。
駄目だ 相関図みたら 芸能界って 真っ黒なんだなってがっかりしたよ。 
まあ 本当だったらだけど。


282 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/06/01(日) 02:46:42.68 ID:3pz4pida0 [2/17回(PC)]

そうか プチエンジェル 相関図 で画像選択してぐぐってみろ。  
森元首相の長男ってこんなことになってたって初めて知ってこっちもがっかりしたよ。  
駄目だ こりゃ。


289 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/06/01(日) 03:00:08.59 ID:3pz4pida0 [3/17回(PC)]

いまのところあがっている名前が 
プチエンジェル事件時に小沢が土地かしていた森元首相の長男 薬物中毒で死亡している。

関係者が2000人 名簿は全部暗号。 →捜査 打ち切り。
誰だこれ 打ち切ったの? 


353 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/06/01(日) 06:02:16.95 ID:c+FfsJJi0 [2/2回(PC)]

以前は万景峰号で堂々とシャブが日本に入ってきていた
新潟税関とズブズブだからね

それが北の拉致問題があって、堂々とできなくなってしまった
最近は北からボートでやって来て、日本の海岸に流す
待っていた在日ヤクザが海岸でそれを回収するという方法なのだが
それも厳しくなってきたので、中国経由で運び屋を使う手法も増えてきた

芸能界には、在日の芸能人を通じて薬物が流れる


234 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/31(土) 21:10:37.71 ID:ZT6b4dC4O [1/1回(携帯)]

パソナ薬物接待ルートのほうが、どう考えても怪しいだろ
社長が高級マンション与えて囲ってた女がシャブセックスで捕まってんだぞwwww


459 : 名無しさん@恐縮です@転載は禁止[sage] 投稿日:2014/06/02(月) 18:59:28.30 ID:yr9MV7l30 [1/1回(PC)]

関東連合はシャブ仲介、それを政界財界芸能界に広める場の主催がパソナ?

>海上浮き袋
漁師とか船乗ってる人らが、小遣い稼ぎで拾ってヤクザに渡している、
と2chでみた
http://www.logsoku.com/r/2ch.net/mnewsplus/1401521939/


飯島愛もハニートラップ要員だった


【芸能】ASKA、飯島愛と薬物&不倫・肉体関係、映像流出怯え薬物依存との報道 復帰絶望的か
http://www.logsoku.com/r/2ch.net/mnewsplus/1401320699/


1 : エタ沈φ ★@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 08:44:59.39 ID:???i

5月17日、覚せい剤取締法違反(所持)の疑いで人気男性デュオ・CHAGE and ASKAのASKA(本名・宮崎重明)が逮捕されたが、連日その続報が報じられ、衝撃が続いている。

ASKAは17日未明、知人女性宅から出てきたところを任意同行され、すでにASKAは取り調べで覚せい剤の使用を供述しており、警視庁は27日、覚せい剤取締法違反(使用)容疑で再逮捕した。
 
 そのASKAが覚せい剤依存へ陥った原因について、本日(5月29日)発売の「週刊文春」(文藝春秋/6月5日号)は、2008年当時、ASKAと不倫関係にあったタレント・飯島愛の死去にあると報じている。

同誌によれば、飯島が亡くなる数カ月前に、ふたりがMDMA(合成麻薬)を使用して性的行為に及んでいる一部始終を飯島がビデオで撮影していたという。

その後、変死状態の飯島が自宅で発見されたため、ASKAはビデオの映像が流出することを過度に怯えたことがきっかけで、覚せい剤依存になっていったのではないかと、同誌は報じている。

 ASKA逮捕以降、親交のあるミュージシャン・玉置浩二をはじめとする芸能人やファンの一部からは、罪を償った後の復帰を望む声も数多く聞かれたが、今回の「文春」報道により、復帰は絶望的になったとの見方をテレビ局関係者は示す。

「美川憲一や長渕剛、槇原敬之、いしだ壱成など、過去に違法薬物所持で逮捕された芸能人の中には、カムバックして現在も活躍している人も少なからずおり、ASKAには根強いファンも多いため、復帰の可能性もゼロではなかった。

ただ、どちらかというと真面目さが売りでもあったASKAが、セクシー系タレントの飯島と薬物を使用し、かつ不倫関係にあったとなれば、イメージ崩壊とファン離れは必至であり、もはや復帰は絶望的でしょう」(同)

 こうした見方を裏付けるかのように、大ヒット曲『SAY YES』から20年来のファンだという30代女性は、次のようにASKAへの冷めた感情を語る。

「逮捕後も、ASKAの“繊細さ”や“真面目さ”がASKA自身を追いつめていったという面もあるのではと思い、しっかりと罪を償って復帰してほしいという気持ちもありました。

しかし、女性タレントと不倫し、さらにその相手の死で自分のスキャンダルがばれてしまうことを恐れて覚せい剤に走っていたとは、呆れて言葉もありません」

 もし「文春」の報道が事実であれば、ASKAにとって復帰へのハードルは、よりいっそう高まったといえよう。

 ASKAはCHAGE and ASKAとして1979年にシングル曲『ひとり咲き』でデビューし、今年で活動34年を迎えるベテラン・ミュージシャンで、 『SAY YES』『YAH YAH YAH』などのミリオンセラー曲も多いことから、デュオとしても、またソロでもコンサートは常に満員で、デビュー当時からの根強いファンが多いことで知られている。


199 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 09:18:26.51 ID:ojH/TWnJ0 [2/4回(PC)]

そもそもASAKAとの SEXビデオが存在するのなら
飯島が死んだときに家宅捜査で発見されてるんじゃないの?


266 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 09:28:48.29 ID:7fw6rkQgO [5/7回(携帯)]
>>199
飯島愛がヤクザに脅されてASUKAとのビデオを隠し撮りしたんだよ
ビデオはヤクザが持ってるよ
だからASUKAもヤクザに脅されたんだよ


948 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 12:35:09.78 ID:ZCLykCO8O [6/6回(携帯)]

これが事実だったとしてちょっとした推理

ASKAと飯島愛は不倫していた

ASKAは覚醒剤を使用し飯島愛とキメセク

それを趣味の録画で飯島愛が撮っていた

なんらかの形でそのテープが組織に奪われ脅迫される飯島

組織が使い道が無くなった飯島を死に追いやる

死からほとぼりが覚めたころ、こんなテープがありますよとASKAを脅迫
薬の量が増える

薬物テープで下っ端がASKAをゆする

応じないASKA

組織の息がかかった文春がすっぱ抜いたように記事にする

ASKA逮捕利用価値が無くなったのでキメセクテープについても文春が書く←今ココ

飯島が死んだのは芸能界をやめた飯島より音楽やってるASKAの方が金を搾り取れるから


こんなんでいかがっすか?


758 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 11:27:42.25 ID:mRv5hM7y0 [1/1回(PC)]

ふーん やくざがこのSEXビデオ持ってたら
シャブルート吐いたらビデオ週刊誌に流すからな、と脅してそうだな


770 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 11:30:55.46 ID:BaEcwpeh0 [3/3回(PC)]

ビデオで隠し撮りしてそれをネタに強請るって鉄板ネタだな
ノリPの時もビデオで本人って分かる為にわざと彫り物入れさせるってあったもんね

足首に彫り物入れてるからテーピングで隠してたあの人は大丈夫なんだろうか?
のりPとは家族ぐるみの付き合いだったらしいけど


349 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 09:44:51.90 ID:/f4svwIs0 [1/1回(PC)]

飯島愛は何人分のビデオをヤクザに売ったんだろうな


595 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 10:43:36.13 ID:xB9E9z750 [1/1回(PC)]

オレが知ってる限りではASKAと飯島愛のセックスビデオは乱交だよ
他にも数人の芸能人や○○○が参加してる


297 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 09:34:07.33 ID:e3JfKKnQ0 [1/1回(PC)]

飯島愛がビデオ撮ってたつうのは、恐喝もしくは口封じが目的だろ。
いや、いまさらながら怖い女だな。


575 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 10:37:11.36 ID:6mYlyoBO0 [2/3回(PC)]

ビデオ撮影って愛さん 裏のお仕事してたのかな
怖い世界だ


577 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 10:37:32.41 ID:j3y/KRXJ0 [2/3回(PC)]

飯島愛の黒い噂全力で隠されてたのって
なんかヤバイ人たちとも寝てたんだろうな


368 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 09:49:17.66 ID:clkqv3kw0 [5/5回(PC)]

飯島が芸能界でのし上がれた理由も説明がつくね


724 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 11:19:17.39 ID:ALJEhe5f0 [2/2回(PC)]

飯島愛がAV女優のクセに政界進出寸前まで上り詰めたのは、そういうビデオの存在が多数あるんだろ。


567 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 10:34:52.97 ID:AebT2wl70 [1/1回(PC)]

飯島愛って不幸暴露と馬鹿なコメント言ってるだけだったのに、
死後必要以上に過大評価する声が多くて何だか不自然だと思ってた


571 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 10:36:15.27 ID:ZCLykCO8O [3/6回(携帯)]

飯島愛に目をつけたのも島田紳助だったな
こいつは売れるって目をつけて自分の番組で使いまくってた


310 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 09:36:54.40 ID:+wcQrAdK0 [7/8回(PC)]

飯島愛は無職なのにあのタワーマンション上階に住んでいられるのか考えたら普通でない


326 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 09:39:51.36 ID:+wcQrAdK0 [8/8回(PC)]

インフォスタワー1LDK 94.31u 家賃は380,000円


542 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 10:28:13.65 ID:j3y/KRXJ0 [1/3回(PC)]

飯島の引退騒動が今となって納得
TVで人気出て裏ではお偉いさんの高給娼婦になって薬で死ぬって
マリリンモンローだなたしかに


738 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 11:22:01.62 ID:fFO8CaRN0 [2/3回(PC)]

AV女優からタレントになれたのはコイツと美保純だけだな


958 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 12:38:56.12 ID:hE1Ik6aD0 [1/1回(PC)]

美保純はAVじゃないよw 
ただし、有名なヤクザ(全国チェーン)の全盛期、武闘派と言われた幹部の愛人だった。

だからドラマにも番組にも出たし、周囲が腫れ物を触るような扱いで対応してた。北野武だって頭上がらなかったの。


739 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 11:22:14.41 ID:4XmIzNWt0 [2/2回(PC)]

死んだ時貯金ゼロだったってのがまたなぁ
AV業界とヤクザの結びつきって強いしな
そうとうなタニマチに引き取ってもらえないと


315 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 09:37:37.33 ID:P0De87ya0 [2/3回(PC)]

AV女優なんて結局引退後も
高給売春婦みたいになって生きてくしかないんだよね


354 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 09:46:28.73 ID:clkqv3kw0 [4/5回(PC)]

飯島がヤクザに飼われたハニトラ嬢だったつーことか
全ての点と線が結びつき始めた


188 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 09:17:22.71 ID:9o+JqUvi0 [1/1回(PC)]

もしそんなビデオがあったとしても
飯島が撮影したんじゃなくて他の人に撮られて二人とも強請られてたんじゃないの
それに飯島は検死で薬物は出てないから死因も犯罪からんでるのかもだな


204 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 09:19:50.14 ID:+wcQrAdK0 [5/8回(PC)]

覚せい剤欲しさに暴力団にゆすられて たかられて隠し撮りされ
最後は消されたぽいな


207 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 09:20:02.17 ID:mp2nNx2T0 [2/20回(PC)]

これって口封じの為に消されたって事か?


281 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 09:31:50.30 ID:6E6YdHmn0 [4/4回(PC)]

飛鳥の版権に目を付けた組織が飯島使って証拠映像を得て脅してたんだろうな
飯島がどっちに消されたのかは謎だが自分絡みで人が消されたことにショックを受けた飛鳥はますますクスリに逃げるようになった


209 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 09:20:08.58 ID:jaUYPmlHO [1/1回(携帯)]

某番組で飯島が霊能者に忠告されたのってもしかしてこのことか!?


471 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 10:10:27.66 ID:sSQHpIgQ0 [1/1回(PC)]

飯島愛が引退宣言したときだか、デビ夫人がブログで
「あなたはとんでもない写真を撮られてしまいました」
とか書いてたけど、撮ってたのか


171 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 09:14:48.87 ID:+wcQrAdK0 [4/8回(PC)]

デヴィ夫人が飯島の死後に夫人のブログで飯島の薬物のことに遠回りにふれていたよね?

彼女は、何と申しましょうか、“遊び”が過ぎて、 知らずでか、わからずでか、 とんでもない事をしていた様です。

どの様な人達とお付き合いがあったのか皆目わかりませんが、 ゆすられ、恐喝され、つきまとわれ、公表の恐怖にさらされながら生きた心地もなく、暮らしていた様です。
http://ameblo.jp/dewisukarno/entry-10183052427.html


107 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 09:05:17.99 ID:e/6A7DAlO [2/7回(携帯)]

飯島愛がいた頃のサンジャポがキモかった
ゲストの政治家達が愛ちゃん愛ちゃん言って飯島愛とベタベタしてたんだよな
こうやって政治家とのパイプ太くして政界進出でもするのかなと


131 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 09:08:48.65 ID:+wcQrAdK0 [3/8回(PC)]
>>107 
安部だけは飯島に対して笑顔なしの敬語対応だったのを覚えてる


559 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 10:33:24.01 ID:nQHTHS+10 [3/6回(PC)]
>>107
柿沢って今は亡き政治家の選挙の応援で飯島が来てたの渋谷の交差点のへんで見た思い出があるわ90年代。
今、思うと飯島のバックに黒い勢力がついてたから
政界につながるとか
そして怪死に合成麻薬にASKAに893に・・
いくらでも妄想できるな。

579 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 10:37:45.95 ID:nQHTHS+10 [4/6回(PC)]
>>559
自己レス、柿沢の後援会の会長が飯島愛の実父
なんだな。


674 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 11:06:50.35 ID:4XmIzNWt0 [1/2回(PC)]

飯島は政治家とかヤバイのと付き合いあったんじゃない
なんか一時期周富徳に気に入られてたな
こいつと寝てんのかな?とは思ってたw


44 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 08:54:56.88 ID:DEYUwDT30 [3/5回(PC)]

結局 お塩のあの事件の問題の部屋の話と繋がってくるんじゃないの


35 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 08:53:35.28 ID:i+3DvxOI0 [1/2回(PC)]

いよいよたかが芸能人の薬物事件が政界に飛び火したなw
ヤリ部屋で何人の大物政治家が、ヤク中乱交にハマっていたのか楽しみだわw


967 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[Sage] 投稿日:2014/05/29(木) 12:44:42.07 ID:aTt1yvMy0 [2/2回(PC)]

売れっ子アーティストだろうが、女優だろうが、政治家だろうが、ヤクザだろうが
行き着くところは皆性欲なんだな


982 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 12:54:12.81 ID:mF8L6RKp0 [8/8回(PC)]
>>967
一番高く売れるのは「少女の性」
だからプチエンジェル事件が闇の中


949 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 12:35:12.95 ID:a5mPL7SB0 [4/4回(PC)]

飯島とそのコンクリ殺人とかと関係あるのか。ないのか。


968 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 12:45:54.61 ID:bh7yITqT0 [14/14回(PC)]
>>949
コンクリ殺人については飯島の関与や犯人の親が共産党員だったことより、

被害少女を風俗に売り飛ばし+監禁に893が関与した疑い

は現在まで厳罰マスコミ皆スルーする点がな、あいつら犯人を選んで叩くよな


502 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 10:17:42.46 ID:wSYfYlkO0 [1/1回(PC)]

急に飯島の話が出てきたのはパソナネタを隠したいから?


522 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 10:21:42.74 ID:DPeYC17t0 [1/1回(PC)]
>>502
政商は守られるんじゃね


541 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 10:28:09.51 ID:e/6A7DAlO [7/7回(携帯)]
>>502
最初にパソナネタ書いたの文春だから


41 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 08:54:38.44 ID:tZ8eendp0 [1/1回(PC)]

政界に話題が及ぶ前に、衝撃的な最期を遂げた死人に話を持って行こうという魂胆ミエミエ?


176 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 09:16:01.67 ID:bh7yITqT0 [1/14回(PC)]
>>41
だろうね、竹中パソナの名前でたら案の定CIAと経団連の紐付き議員に飛び火したからね。

458 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 10:08:17.30 ID:bh7yITqT0 [9/14回(PC)]

誰かと会食してパナソからそらせ、と指示されたかと


465 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 10:09:09.42 ID:pjbkxzr10 [4/4回(PC)]

そう、パソナからの目くらましだろうな。


526 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 10:22:51.44 ID:RIsPajMv0 [1/2回(PC)]

このASKAの一件ってもしかして芸能ニュースってレベル飛び越えたすごい事件?


537 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 10:26:10.67 ID:aY3KBr5h0 [1/3回(PC)]
>>526
パソナまでいければ
戦後最大のスキャンダルになる可能性がある


597 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 10:43:44.51 ID:86og/4SV0 [1/1回(PC)]
>>537
いかないだろ
プチエンジェルのときのように何かの理由つけて捜査終了だろうさ


736 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 11:21:42.50 ID:FuFkoUvdO [2/7回(携帯)]

あちこちでパーティがあったようやね
某パンツ屋 森元息子
音楽会社社長
など 飛鳥とトチナイが参加してたパーティでまた あの某パンツ屋ババアかと お塩 ノリピー 飛鳥
六本木の闇 やなw

747 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 11:24:32.04 ID:FuFkoUvdO [3/7回(携帯)]

六本木 パーティ
関東連合 接待パーティ
女衒 まだまだ闇深そう
サンジャポ出てた頃飯島愛て死ぬ数ヵ月前から躁鬱病ぽかったよな?
コンクリ犯にゆすられてたのか?一千万消えた?


760 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 11:28:15.63 ID:FuFkoUvdO [4/7回(携帯)]

トチナイは幽霊社員やったようやし、接待パーティに出され要員
そこのパーティにはいろんな社長や議員がいたとかなんとか
お塩 ノリピー 飛鳥
トチナイ 銀座ホステス
シャブ パーティ
六本木 関東連合
パンツ屋ババア
まだまだ闇深そうな…


775 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 11:32:31.18 ID:wbSwPowA0 [1/1回(PC)]

文春は警察より操作能力が高いな

859 : 名前無し@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 12:03:52.33 ID:G+II3qHxO [1/1回(携帯)]
>>775
米国某機関直属だから


177 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 09:16:06.79 ID:yCkzM8v0i [1/2回(iPhone-SB)]

文春はどこからお金もらってんの


200 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 09:18:27.18 ID:bh7yITqT0 [3/14回(PC)]
>>177
官邸とCIA、ちなみに新潮は公安


397 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 09:57:34.79 ID:OMMMgFzU0 [1/6回(PC)]
>>200
官邸がこんなん出す訳ない
安倍ちゃんはASKAとマブダチだよ
こっちに火の粉が飛んでこないよう祈ってるはず


238 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 09:23:43.27 ID:1bfhP7/MO [1/1回(携帯)]

これもパソナ隠しなのかな?
死人に口なし


348 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 09:44:50.08 ID:z8GeGtsx0 [1/5回(PC)]

確かに死人に口なしとは言うが、飯島愛は怪しい死にかただったからな


243 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 09:24:18.23 ID:H7AIebWJ0 [2/4回(PC)]

飯島愛がASKAとの関係をゲロっちゃう前に口封じされた?
というストーリーに持って行きたいのか


250 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 09:25:39.44 ID:bh7yITqT0 [4/14回(PC)]
>>243
文春のシナリオはそうなんだろう、で政界ルートを有耶無耶にする


265 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 09:28:44.94 ID:e/6A7DAlO [5/7回(携帯)]
>>250
女がパソナの秘書だったって最初に報道したのも文春なのにか?

275 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 09:31:10.17 ID:bh7yITqT0 [5/14回(PC)]
>>265
子飼いメディアに報道させた方が後あとコントロールしやすい、
文春はアカヒと読売に並ぶ日米政府広報だよ


290 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 09:33:04.18 ID:7zMrYbJH0 [1/1回(PC)]

週刊文春が報じているASKA関係の記事は事実が多いからな
バーニング周防や暴力団との密接な繋がりを考えても信憑性は高い


343 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 09:43:57.16 ID:SxAyPEJG0 [1/1回(PC)]

飯島愛の件もヤクザが情報をリークしてるってことかな


558 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 10:33:09.81 ID:8/jzUgrwi [2/14回(iPhone-SB)]

ここまで公表されるということは、ヤクザ側ももうASKAで稼ごうとは考えていないだろうな。

覚醒剤や恥ずかしい画像でASKAからしゃぶり尽くし強請りまくった挙句
嫁やcHAGEらが警察に助けを求めることを決めたもんだから、見せしめとしてASKAを徹底的に辱めにかかっているのだろう。

文春はちょっとヤクザの片棒を担ぎ過ぎなんじゃね?
飯島愛がASKAとのキメセク映像を撮影したのも、誰かに指示されてのものだと思うわ。


590 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 10:41:20.26 ID:OMMMgFzU0 [5/6回(PC)]
>>558
というより、そもそも文春にASKAネタリークしたのは売人の893じゃないか?
例の炙り動画なんて絶対そうだし
ASKAも入手するとその場でやっちゃうもんだから
ラリって判断力失い ついつい売人に色々言っちゃったのかね


612 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 10:49:05.03 ID:8/jzUgrwi [4/14回(iPhone-SB)]
>>590
それはそうかもしれんけど、ASKAは相当組織的に嵌められていってるような気がするね。
末端の売人ヤクザ一人でできるこっちゃないよ、これは。


323 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 09:39:14.20 ID:37s8V6b20 [1/1回(PC)]

警察と文春が繋がっているとかかな
なわけないか


333 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 09:40:44.14 ID:bh7yITqT0 [7/14回(PC)]
>>323
その上と繋がっていると思うよ、文春は清和会の大物スキャンダルはスルーする。


351 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 09:45:36.45 ID:zAKUpCyB0 [1/1回(PC)]

何だかそっち方面に話題を逸らしたい何かしらの事情がありそうでつね


356 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 09:46:59.13 ID:awBTzCHG0 [1/1回(PC)]

飯島愛よりパソナを攻めていって欲しいなぁ


157 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 17:23:29.21 ID:KiOo2JyZ0 [1/2回(PC)]

結局、パソナが一番の黒幕なのかな
パソナって一見表向きは健全な人材派遣会社だけど、裏ではヤバい系の人材派遣業もしまくってるんだろうな
飯島愛とパソナもなんか関係ありそう
あ〜なんかパトレイバー思い出したわ

飯島愛は日韓ワールドカップの時、ハッキリと韓国を批判してて好感持ってたんだけどなぁ


158 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 17:23:39.77 ID:TYGnI6qr0 [3/5回(PC)]
>>154
飯島愛のバックに何か物凄い大人がいた事が容易に想像出来るね
中山秀は長い物に巻かれるタイプの人だから


159 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 17:27:08.92 ID:6xdpK5Pu0 [1/1回(PC)]

炙りやりながらシャブリもやってたんだ


271 : 名無しさん@恐縮です@転載禁止[] 投稿日:2014/05/29(木) 09:29:18.78 ID:1jT+iYKpO [1/1回(携帯)]

あまりに実態を知らない節穴ばかりで見てられない。
まず、政界と財界と暴力団の間における肉体接待や贈賄や弊害処理などは当たり前の話で昔からの暗黙の了解。

また、財界が政界に対して行う肉体接待は直属の企業舎弟でない限りは、単なる肉体接待である事が基本で、薬物を絡めた肉体接待は開かない。

この接待の中で薬物を使用していた政治家など居ても極々僅かで、皆無の可能性もある。
また、居たとしてもASKAが週刊文春に大々的に載った時期を境に絶っているため暗黙の了解の治外法権という領域である上に、理屈上でも薬物関連で逮捕出来る者が此処にはもう居なくなっている。

あれ程の中毒だったASKAの逮捕をここまで長引かせていたのはその可能性を考慮しての一応の注意喚起である。

つまり、パソナルートが重要だと感じるのは、よくよくの節穴と野暮天である。まあ、週刊誌だけが叩いてくれれば満足というのであれば、こんな話でも重要なんだろうがね。

そして、このパソナルートというものに目を向けてもらっていた方が都合が良い事情がある。
古くからの友人関係にあるASKAと清原が薬物疑惑の渦中の人となったわけだが
この2人に薬物を渡していたのが山口組組長の出身母体である弘道会傘下であったからだ。

ASKAは弘道会系福島連合か弘道会系正道会で、
清原は弘道会系の何処なのかまでは分かっていないものの弘道会企業舎弟の筆頭である佐藤義徳と昵懇である事や弘道会の複数の幹部とも親しい事から弘道会の中核組織からの可能性も高い。

山口組は建前上薬物は御法度としており、都合の善し悪しでそれを口実に薬物を扱った組や個人を処分してきた。

だが、薬物を扱っている弘道会傘下の組も決して少なくないという実態がある。
よりによって、今回のような著名人が絡んだ形で弘道会傘下から逮捕者が出るとあっては、いよいよ山口組における反主流派に示しがつかなくなってしまうというわけだ。

こういった背景から、ASKA逮捕の情報を事前に入手していた弘道会が政財界を通して、弘道会傘下の薬物提供者と悶着を起こした事で浮上してしまった薬物中毒のASKAまでは構わないが清原や弘道会傘下の薬物提供者および所属している組には一切お構い無しとさせる事を取り付けたというのが事の核心である。

政財界の腐敗の分まで厳しくされてきた上、腐敗の尻拭いが必要な場合も暴力団がさせられてきたが、今回の取り付けは堅い。
http://www.logsoku.com/r/2ch.net/mnewsplus/1401320699/





54. 中川隆[1992] koaQ7Jey 2016年3月19日 09:16:36: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[1958]

▲△▽▼

週刊文春はうんこ雑誌。御用雑誌。

ベッキーさんだとかショーンKさんだとか。しょーんもない。
しょもない小者芸能人、解説員の不倫だとか経歴詐称を暴く週刊誌。

ちなみに最近クリスペプラーさんやディーンフジオカさんまで経歴詐称では?とばっちりを受けてるようですが。


こんな小者を叩いて。

本当の巨悪。上位1%の権力者。
人類の富の大半を強奪している国際金融資本については何も書かないのですからね。

何がまたも文春がスクープ連発なのか。
銀行強盗団の靴についてるウンコを報道してスクープと言ってるようなもんでしょう。

この週刊文醜。
あ、いや文春。

知ってるかもしれませんが、もろ権力側のメディアですよ。

前にも取り上げましたが、
ずーっと昔にこのような告発本が出ていました。


『週刊文春』と内閣調査室―御用ジャーナリズムの体質と背景 (1977年)


この本の著者 吉原公一郎氏は、週刊文春と文藝春秋の2つの雑誌の記事が、
内閣調査室の内部文章と句読点の打たれているとこまでまんまのコピー。
一言一句まで一緒。

週刊文集の記事は、もとは内閣調査室が作ってた。。とほほほ
詳細な調査の元、そう証明してます。

昔から、週刊文春と文藝春秋(芥川賞の選考雑誌)は政権の都合の悪い連中を叩く御用雑誌、世論誘導メディア。
そう噂されてることです。

ったく。

ホリエモンさんが言うように昨今の足の引っ張り合い。
日本に漂ういやーーな雰囲気。
ターゲットを見つけては誰かをリンチする集団バッシング。魔女狩りの雰囲気。

その元凶の週刊誌。
実は日本人同士、庶民同士を仲悪しさせる分割統治推進の御用ジャーナリズム。

1%の巨悪が枕を高くして眠るための庶民撹乱装置をスクープ連発などと称賛するバカらしさ。
http://golden-tamatama.com/blog-entry-2308.html




55. 中川隆[2049] koaQ7Jey 2016年3月21日 16:50:02: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2017]

▲△▽▼

社会】竹中平蔵氏、自民・中川秀直氏、安藤忠雄氏…ASKAと女が出会った場所は財界人や著名人ズラリ、隣人も知らないパソナ迎賓館


18 : 名無しさん@13周年@転載禁止[] 投稿日:2014/05/22(木) 22:25:44.85 ID:dcZ9+8AR0 [1/8回(PC)]

パソナには、栩内みたいなお得意様性接待用社員が何人かいたらしいじゃん
小泉・ケケ中と癒着するだけでなく、こんな手も使っていたんだな

もぅ、代表の南部は詰んでるんじゃね?
K札にガサ入れされたらあぼ〜んだな…


269 : 名無しさん@13周年@転載禁止[] 投稿日:2014/05/22(木) 23:37:17.86 ID:PxClPFLkI [1/1回(iPhone-wifi)]

前原の奥さんもってのは本当なの?
すごい人脈だね


840 : 名無しさん@13周年@転載禁止[sage] 投稿日:2014/05/23(金) 07:11:13.02 ID:iGwecf0x0 [1/1回(PC)]

食事しながらテーブルの上では日本の将来や経済の事を語って下半身はスッポンポン

各著名人の股にはシャブ中の"秘書"が必死でチンポしゃぶってる

そりゃ入り浸りになるわなww

なぁお塩先生
あれが忘れられなくて、ドラッグに嵌ったと言っても過言ではない


276 : 名無しさん@13周年@転載禁止[] 投稿日:2014/05/22(木) 23:39:36.51 ID:BYM8TpTQ0 [1/2回(PC)]

要するに、社長秘書という名の下半身専用接待要員。

創価だろ、この女
http://www.logsoku.com/r/2ch.net/newsplus/1400764332/
http://www.logsoku.com/r/2ch.net/newsplus/1400810171/l50


ASKA保釈も、全面否認の“共犯”栩内香澄美被告が抱える爆弾「パソナと政界・官僚との黒い癒着が……」


覚せい剤と合成麻薬所持などで起訴されたASKAが3日、保釈された。
これで事件はひと段落したように見えるが、今月22日には、一緒に逮捕されたASKAの愛人、栩内香澄美被告の初公判が東京地裁で予定されている。

この内容に、人材派遣大手「パソナグループ」の南部靖之代表が主催していたホームパーティーに出席した政治家や役人たちが戦々恐々としているという情報を入手した。

 栩内容疑者は容疑否認のまま起訴されたため、公判では頑なに沈黙を守り通すことが予想されるが、検察はASKAと栩内被告が出会った、南部代表主催のパーティーの実態をつかんでいるという情報がある。

その実態が法廷で暴露されるのではと、南部代表をはじめ、パーティー出席者が怯えているというのだ。


 栩内被告がASKAと一緒に逮捕された当初、彼女はいったい何者なのかとマスコミ関係者の間では騒然となったが、その後、栩内被告は南部代表の私設秘書を務め、週に1回開催される南部代表主催のパーティーのホステス役を務めていたことが明らかになった。

ホステス役は、パソナグループから選ばれた美女ばかりが30人ほど。

ミス・インターナショナルで、現在は大手芸能プロ「ケイダッシュ」の谷口元一氏による“ストーカー事件”の被害者として孤立無援の戦いを続けている吉松育美さんも一昨年までパソナグループの社員であり、ホステス役を務めさせられていたという。

 ホステス役を仕切るのは、京都の元舞妓の女性。

彼女は栩内被告と同様、南部代表とは個人的にも親密な関係だったことから、グループの社員からは南部代表の“喜び組”と揶揄されていた。

こうした事実を暴露されるだけでも、南部代表にとっては致命的だ。


 さらに、パーティーには、複数の元首相や安倍晋三総理ほか、自民党を中心に民主党の議員も数多く招待されたという。

人材派遣業の監督官庁である厚生労働省の田村憲久大臣まで顔を出していたというから、開いた口が塞がらない。

招待された議員の中には、パーティーの帰りに御車代として、10〜50万円を渡された者もいたとも。事実であれば、贈収賄や政治資金規正法違反などの可能性もある。

さらにパーティーには、防衛庁、警察庁、厚労省の課長から局長クラスまでの官僚も招待されていたという。

パソナは、霞が関OBの天下り先としても有名だが、このパーティーを通しても、癒着の実態が見え隠れする。

つまり、ASKAとその愛人の覚せい剤スキャンダルだけでは終わらない、社会的問題を含んでいる事件なのだ。

しかし、事件当初は積極的に、これらの問題を報道したメディアも、権力から圧力がかかったのか、いつの間にか腰砕けになって、その後沈黙している。


 南部代表は、裁判で栩内被告を守るために最強の弁護団を付けたといわれている。しかし、検察の尋問に口封じはできない。単なる芸能人の覚せい剤事件で終わらせないためにも、検察の鋭いメスに期待したい。
http://www.cyzo.com/2014/07/post_17763_entry.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/322.html#c2

[リバイバル3] 車中泊向けの軽バン、ホンダ「N-VAN」の実用度 中川隆
100. 中川隆[-10923] koaQ7Jey 2019年4月05日 12:05:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1105]

2019年04月05日
車上生活できる現実的なキャンピングカーの装備


重心位置を上げるような改造は日本の小型車ではしない方がいい


何もかも詰め込まない

車中泊ができる車やキャンピングカーの売り上げが伸びていますが、現実的ではない夢のクルマも多い。

屋根の上に屋根を重ねて天井に人が寝れるスペースを作ったりし、室内空間を拡大しています。

室内が広くなるのは良いが走行性能は最悪で、重量が重くなるうえに重心位置が高くなってしまう。




背の高い荷物を常に満載した小型トラックのようなもので、あまり乗りたくなる代物ではありません。

風やカーブで横転しやすくブレーキは効かず、後方は見えにくいし運転感覚はフラフラしている筈です。

多くの人がやりがちなのはアレもコレもと夢の装備を全部詰め込むことで、走行性能が犠牲になってしまいます。


4トントラックや小型バスを改造するならそれで構いませんが、乗用車やワンボックス、軽自動車がベースなら問題がある。

下り坂でブレーキが利かなくなったり、風で横転しないためには、なるべく軽量化して重心を高くしない必要があります。

どうしても必要な装備だけに限定し、なくても済むものは大胆にカットする必要があります。


要らない装備の第一位はトイレ、2位はシャワーで3位はキッチン、これら水もの装備は重量があり手入れも大変です。

トイレはそこら辺の店で借りれば良いし、何もない山道なら森の中でもできるでしょう。

最初からなければ後で片づける必要もありませんし、故障することもありません。

風呂は銭湯や日帰り湯の類を数百円で利用でき、そうした施設に行くのも旅の楽しみと割り切ればいい。

ハイエースのような箱型バンがベスト


carlineup_hiacevan_top_3_36_pc
画像引用:トヨタ ハイエース バン | トヨタ自動車WEBサイトhttps://toyota.jp/hiacevan/


本当に必要な装備は限られている

水もの装備の次は天井の居住スペースで、これがあると異常に背が高くなり、車としてのバランスが損なわれます。

なるべく小型の車で居住スペースを最大限増やそうとするのだが、大家族で泊るならマイクロバスでも買った方が良いです。

必ず必要な装備としては電気装備で、スマホやタブレットその他充電したり、電気製品を使用するにも必要になる。


車の発電能力やバッテリーを強化して専用の電気管理パネルを取り付け、ソーラーパネルでも発電できるようにします。

電気製品を使いすぎて朝起きたらバッテリーが上がっていたような事は防がなくてはなりません。

車の装備とは別にエアコンを取り付ける人も居ますが、すぐにバッテリーが空になるのでこれも不要な装備にしても良いでしょう。


エンジンには良くないが停止したままアイドリングでエアコンを使う方が良いでしょう。

キャンピングカーには必ず寝床が必要ですが、快適に眠るためにはこだわりたい部分です。

イスを組み立ててベッドにするタイプや、ベッドの下が収納になっている2段式などが人気です。


適した車種はずばりいえばトヨタハイエースか日産キャラバンのようなワンボックスタイプになります。

ベースが商用車なので荷台スペースがとても広く、自由なレイアウトがしやすくて、乗用車としても運転しやすい。

もっと小型の車種ではタウンエースのような小型商用車、もっと小さいのは軽バンもあります。


小さい車ほど重心が高くなりやすいですが、屋根の上に追加してふらふら走る車にはしない方が良いです。
http://www.thutmosev.com/archives/79443157.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/865.html#c100

[近代史02] 白人はなぜ白人か _ 白人が人間性を失っていった過程 中川隆
188. 中川隆[-10922] koaQ7Jey 2019年4月05日 13:32:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1106]
Arthur Calwell 1 (左 / アーサー・コーウェル)

  アジア人労働者を歓迎する企業経営者というのは、ちょっと品の良い奴隷主といったところで、本質的には、昔の残酷な奴隷商人と同じだ。今、オーストラリアは支那人の人口侵略や多民族主義で深刻な問題を抱えているが、この国の惨状と歴史は日本にとって教訓となる。

第二次大戦後、オーストラリアは白濠主義(White Australia Policy)を捨てて、アジア移民を大量に受け容れたが、当初は、反対意見の方が主流派だった。移住大臣となったアーサー・コーウェル(Arthur Calwell)は、アングロ・ケルト的オーストラリアを守るべく、アジアからの低賃金労働者に反対していたが、時代と左翼の攻撃には勝てなかった。当時、コーウェルに対しては、「人種差別に基づく移民規制だ」という非難もあったが、彼は外人労務者を搾取する邪悪な経済人こそ非道であると反駁していた。

  リベラル派から批判されたコーウェルは、ヘンリー・ロス・ルウィン(Henry Ross Lewin)という奴隷商人について述べていた。(Arthur Calwell, Danger for Australia, The Industrial Printing and Publicity, Co., Carlton, 1949, p.10.)

このルウィンはトマス・プリチャード(Thomas Pritchard)なるオーストラリア人に雇われ、彼が所有する「ダフネ」号に乗っていた。「ダフネ」という船はオーストラリアのブリスベンを出航すると、南太平洋に向かい、タンナ島やエロマンゴ島で労働者を見繕っていたそうだ。ところが、規則上、ダフネ号には58名の"労働者"しか乗せてはいけないのに、実際には120名もの島民(商品)が乗っており、船内ですし詰め状態になっていたそうである。(でも、通勤ラッシュ時の山手線よりはマシだ。あの状態は奴隷船よりも過密であるらしい。)

  特筆すべきはルウィンの残虐性である。

彼はタンナ島に上陸した時、酋長の娘に言い寄ったが、あっけなく拒絶されてしまったので、彼女を攫うことにしたそうだ。すると、娘を拉致された首長はルウィンに襲いかかり、娘を取り戻そうとするが、返り討ちに遭って殺されてしまった。

傲慢なルウィンは彼女を妾にするが、彼女に飽きるのも早かった。この外道は彼女の両手をリング・ボルトに結びつけ、鞭で打ち付けると、白人や黒人90名がいる目の前で彼女を強姦したそうだ。そして、事が終わると丸裸の娘を船に投げ入れたという。この船には、あちこちの島から掻き集めた囚人が乗っており、陵辱された娘はその群衆の慰み者になってしまった。(女に飢えた男の中に、裸の女が投げ込まれたら、どんな輪姦が起こるのか、誰でも想像がつくだろう。)

  「ダフネ」号は南洋土人を漁っている最中、洋上警備をしていた「ロザリオ」号のジョージ・パーマー(George Palmer)船長に拿捕されてしまう。そして、拘束された船長と所有者はオーストラリアのクィーンズランドで裁かれることになった。パーマー船長はダフネを奴隷船に違いない、と踏んでいたそうで、船主のプリチャードを有罪にできると考えていた。しかし、海事裁判所は民間の商売、すなわち労働者の輸送と判断し、プリチャードを無罪としたらしい。確かに、ルウィンはお金を払って島民を"リクルート"し、オーストラリアで受け手側に引き渡たしただけだから、これは人足業の部類に入ってしまう。

ただし、ルウィンはあくどく儲けていた。例えば、彼はフィジー島に上陸した時、土人を108名ほど獲得したそうで、仕入れ値は一人当たり6ポンドであったそうだ。その後、クィーズランドに着くと、一人当たり9ポンドで販売したから、結構な儲けになっていたはずである。もっとも、彼は法令で決められた58名しか売らなかったというからズル賢い。全員売り渡すと違法行為がバレてしまうから、表の商売では法律を守っていた。おそらく、残りの「奴隷」は、闇市で売却したのかも知れない。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68760699.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/390.html#c188

[近代史3] 凡人が天才になる方法はあるか? 中川隆
8. 中川隆[-10921] koaQ7Jey 2019年4月05日 14:25:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1107]

まともな人間は芸術家にはなれない _ 4


雪国 - アンサイクロペディア

雪国とは、1935年に執筆が開始され、1937年に刊行されたノーベル文学賞作家川端康成による小説である。その後、続編も発表され、最終的に現在の形にまとまったのは1948年になる。

そして、あれほど美にこだわった作者がホースをくわえて死んじまうという醜態をさらすのは1972年になる。

新潟県南魚沼郡湯沢町を舞台に、主人公である文筆家島村と芸者駒子をめぐる人間関係を描いた作品である。

なお、雪国のつらさはこれっぽっちも描かれてはいない。


1934年から1937年にかけて、川端康成は新潟県湯沢町にある旅館「高半旅館」に逗留し、そこで雪国を舞台にした小説の構想を考え出す。その際、当時文壇の主流である「自分が経験したことを脚色して発表」という観点により、誰も知らない場所で、誰もが経験したい恋愛を、何よりも実情を正確に伝えない形で執筆する。

その結果、日本なんだけど日本じゃないような場所での恋愛という、川端が伊豆の踊り子で培った手法がまったくそのままに再現された作品ができあがり、見事いたいけな読者をだますことに成功する。もっとも、だまされない地元民にとって、ものすごく微妙な作品であることは言うまでもない。


また、当時の文壇にはもう一つの流行があり、旅行業界というものがなかった時代、観光案内的な作品を書くことにより多くの人間を作品の舞台へと旅立たせるという、今で言うタイアップ的な作品が好まれた時期であることも大きい。そのため、読者がもっとも好む清廉なイメージで語られた湯沢町は、多くの文学愛好家たちをとりこにした。 実情を鑑みずに。

作品発表当時の湯沢町

1934年当時の湯沢町は新潟と群馬の県境にある宿場町にすぎず、1931年、ようやく三国連峰にトンネルを通して、国鉄の路線である上越線が整備されたばかりだった。そんな鄙びた温泉に、後のノーベル賞作家がやってきて、その後の湯沢町の運命を大きく左右するとは、このとき誰も想像していない。

ただし、湯治場としての歴史は古く、「高半旅館」の創始者「高橋半六」によって平安時代に温泉が発見されている。ただし、日本三大薬湯と謳われた松之山温泉がすぐ近くにあったため、さほど有名というわけではなかった。

なお、1918年に湯沢町では日本史上最悪と言われる雪崩が発生し、158人が亡くなっている。地元民にとっては、こちらのほうがよっぽど雪国である。

あらすじ


書き出し

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。

日本有数の書き出しとされるこの文章にも実に惜しい部分があり、川端康成がもし、1936年にこの小説を書き始めていたら、実装が始まった雪を吹き飛ばすラッセル車のイメージにより、男女の恋愛の機微すら吹き飛ばされた可能性が高い。

なお、「国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国であった」という形で人口に膾炙しているが、これに関しては後の映像作品が悪い。


内容(途中まで)

12月始め、主人公の島村は新しく整備された上越線に乗り込み、三国連峰をつらぬく清水トンネル(1931年開通、9702m)を抜けて新潟県を目指していた。長大な清水トンネルを抜けるには蒸気機関車では煙害が激しいため、客車は群馬県側の水上からは当時世界最先端であった電気機関車によって牽引されていた。しかし、それだとイメージが悪いので、作品ではあくまでも汽車で通す。

上越線は、それまで11時間かかっていた東京―新潟間の運行を4時間短縮させる、まさに画期的な路線であった。

無論、そんな男女の関係にまったく関係ないことは記述されていない。

客車の中で島村は、病人らしい男と一緒にいる娘・葉子に興味を惹かれる。自分が降りた駅で、その二人も降りるのを確認した島村は、行き着けの旅館に赴き、なじみの芸者、駒子を呼び、朝まで過ごす。

なお、ここでは芸者と呼んでいるが当時の温泉宿の芸者は実質アレに近い。


(回想)島村が駒子に会ったのは新緑の5月、山歩きをした後、島村が初めての湯沢を訪れた時のことである。

なお、実際の湯沢において5月の山歩きは命がけになる可能性もある。
年にもよるが、山から雪が消えるのはだいたい6月、作者の川端康成が通った、群馬県からのルートだとそれこそ7月まで雪が残っていることもザラである。

また、湯沢町と群馬県みなかみ町の境にある名峰谷川岳は特に険峻とされ、1931年から2005年までに、781人もの尊い命を奪っている。これは、エベレスト(178人)をぶっちぎりで超える、世界で一番人の命を奪った山である。

この作品における「山歩き」という言葉に誘われた人間が犠牲になっていないことを祈るばかりである。

山歩きの後、訪れた旅館で島村は駒子に出会う。駒子は当時19歳。
徒弟制度の中で19歳はまだまだ半人前である。

島村は東京から来た文筆家で一人きりの客という、旅館にとってはあまりうれしくない類の客だったため、こんな場合は団体客を優先とばかりに、半人前の駒子が島村の部屋にお酌に来ることになる。

なお、風営法ができたのは1948年のことだった。

翌日、島村は堂々と駒子に女を世話するよう頼むが、東京から来たわけの分からない客にアネさんがたを紹介すると、後で大変な目にあうかもしれないと、駒子は断る。そのくせ、夜になると酔った駒子が部屋にやってきて、二人は一夜を共にしたのだった。未成年者飲酒禁止法の制定は1922年、この段階ですでにアウト。


昼の散歩中、島村は街道で出会った駒子に誘われる。なお、駒子にはモデルは、実際に川端康成の世話をしていた松栄という芸者だといわれている。彼女は1999年まで生きている。

駒子に誘われ、島村は駒子の住む部屋に寄ってみると、そこは踊りの師匠の家の屋根裏部屋であった。

そして、来る途中の車内で見かけた二人の男女は駒子の踊りの師匠の息子(行男)と娘(葉子)だったことを知る。

行男は腸結核で長くない命だという・・・などとうまくぼかして書いてあるが、

踊りの師匠の家とは、芸者置屋、今風で言うならホステスの斡旋所である。←この文章ですらぼかして書いているんだから、実情は推して知るべし。

作品発表後の反響

作品発表後、単なる田舎の温泉だった場所にわんさか文学バカどもがやってきたもんだから、地元民は驚いたもんさ。んでもって、ノーベル賞を受賞して世界的にも有名になっちまったもんだから、芸者置場や雪国の暮らしの実情をしっている地元民は本当に困ったもんさ。

貴様ら全員、鈴木牧之の北越雪譜を読んでから来いやあ!

その後の湯沢町

なお、この作品に描かれている雪国の情景は、田中角栄がすべてにおいてぶち壊している。

上越新幹線が通り、関越自動車道が建設されただけでも作品の情景がグダグダになるってのに、その上、バブル期において、その東京との連絡網のよさ、およびスキー場の立地条件のよさなどから、町全体が投機の対象となり、なんのことはない田んぼや畑に1億円、商品価値なんてまるでなかった山腹に2億円など、湯沢町全体が異常な空気に包まれる。

周辺市町村にはそんな話は全くなかったが。その結果、東京都湯沢町とまで揶揄されるほどの地価の高騰と各種施設の建設ラッシュ、何よりも情緒もクソも関係ない都会の若者たちの乱入が始まり、川端康成の言う「雪国」の情緒は完全に失われることになった。

もっとも、その後のバブル崩壊でかなりの打撃を受けることになったが、現在でも各種施設からのアガリを得ることで、新潟県有数の裕福な町として君臨している。

平成の大合併においても貧乏な隣町から合併をお願いされるも、自分たちは一人でやれると宣言し、合併した南魚沼市を尻目に、現時点において唯一の新潟県南魚沼郡の町として存在し続けている。
・・・雪国の情景って、なに?

作者による評

「とにかく、金がないときに原稿をたくさん上げなければいけないので大変だった」
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E9%9B%AA%E5%9B%BD


▲△▽▼


英訳すると情痴小説(ポルノ小説)『雪国』が 出来の悪い純愛小説になってしまう理由
雪国と Snow Country (上巻)

『雪国』を読めば、日本語と英語の発想がわかる!
ものとものとの関係 − 発想の違いを検証する

松野町夫 (翻訳家)

日本語は抽象的な表現を好み、動詞が主役。これに対して、英語は具体的・説明的で能動的な表現を好み、名詞が主役、特に「ものとものとの関係」は実に明瞭である。

川端康成の小説『雪国』とサイデンステッカーの英訳 ”Snow Country” を教材として、日本語と英語の発想の違いを検証したい。ちなみに、エドワード・ジョージ・サイデンステッカー(Edward George Seidensticker)は、コロラド州生まれアメリカ人。川端康成自身、「私のノーベル賞の半分は、サイデンステッカー教授のものだ」と言わしめたほどの名文家・知日家であり、私たち英語学習者から見れば、彼はいわば「神さま」みたいな存在だ。教材としてこれ以上のものはないと思う。

(原文)
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。

向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落とした。雪の冷気が流れこんだ。 娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、「駅長さあん、駅長さあん。」

明かりをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。

(訳文)
The train came out of the long tunnel into the snow country. The earth lay white under the night sky. The train pulled up at a signal stop.

A girl who had been sitting on the other side of the car came over and opened the window in front of Shimamura. The snowy cold poured in. Leaning far out the window, the girl called to the station master as though he were a great distance away.

The station master walked slowly over the snow, a lantern in his hand. His face was buried to the nose in a muffler, and the flaps of his cap were turned down over his face.


上記の英文を再度、日本語に訳してみる。これは訳をもう一度訳した文なので、訳訳文と呼ぶことにする。


(訳訳文)
汽車は長いトンネルを抜け雪国に出た。大地は夜空の下、白く横たわっていた。信号所に汽車が止まった。

同じ車両の反対側に座っていた娘が来て、島村の前の窓を開けた。雪の冷気が流れこんだ。窓いっぱいに乗り出しながら、娘は駅長を、ずっと遠くにいるかのように大声で呼んだ。

駅長は雪を踏みながら手に明かりをさげてゆっくり歩いて来た。彼の顔は襟巻きで鼻まで包まれ、帽子の耳おおいは顔まで垂れさがっていた。


原文の「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」は、翻訳者泣かせの文である。この種の和文は英訳が極端に難しい。この文は、複文なのか、それとも重文なのか?トンネルを抜けたのは何だろうか?人か、車か、汽車か?雪国であったのは何か?英文では主語が必須だが、この和文には、主語に相当する主格や主題が出てこない。主語を特定できないので英訳作業に着手できないのだ。「抜ける」とか「〜であった」という動詞は大事にするが、その主体となるもの(名詞)はあっさりと省略されてしまっている。

しかし、この文は日本語として特におかしな感じはしない。それどころか、日本の第一級の文学者の、しかも文学作品の書き出しだから、推敲に推敲を重ねた名文のはず。名文なのに、どうしてこうもわかりづらいのだろうか。それはたぶん、この文が単独では自己完結しておらず、文脈に依存しているからだろうと思う。主語を特定するには、物語をもっと先の方まで読み続ける必要がある。和文は文脈に依存したものが多い。

もし、この文が報告書のような実務文書であれば、私はためらうことなく悪文とみなし、もっと具体的にわかりやすく書き直してくださいと、書き手に注文をつけたいような気にもなる。

文脈依存文で、もっと先の方まで読んでもどこにも主語を特定できる手がかりがないことも、たまにある。それでも翻訳作業は何が何でも開始しなければならない。こういう場合、私は、逐語訳の手法を採用して日本語の発想をそのまま英文に持ち込むことにしている。たぶん、苦し紛れに以下のように訳すような気がする。

Getting through the long border tunnel led to the snow country.
国境の長いトンネルを抜けると雪国へ出た。

典型的な逐語訳であり、これぐらいなら、いっそのこと動詞 get through を省略して、The long border tunnel led to the snow country. (国境の長いトンネルは雪国に出た)の方が英文としては、もう少しマシかもしれない。

サイデンステッカーは、主語を汽車にして簡潔に表現する。まさに「コロンブスの卵」である。

The train came out of the long tunnel into the snow country.
汽車は長いトンネルを抜け雪国に出た。

彼は、国境ということばを無視(省略)し、The train という単語を主語として補充した。わかりやすい自然な英文だ。目をつぶると、その光景がいきいきと目に浮かぶ。”out of the long tunnel” (長いトンネルを抜け)の前置詞 out of があたかも動詞「〜を抜け」であるかのように機能している。「雪国であった」と原文ではいわば静の状態で表現されていたものが、英文では "The train came into the snow country." と能動的に表現されている。

ここで、原文と訳文の表現をもう一度比較してみよう。日英の発想の違いが一目瞭然である。


原文: 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。(日本語的発想の文脈依存文)

訳訳文: 汽車は長いトンネルを抜け雪国に出た。(英語的発想の自己完結文)


訳訳文は、汽車・トンネル・雪国の「ものとものとの関係」が明白である。原文をやまとことば本来の名文だとすると、訳訳文は、英語的発想から生み出された新しいタイプの明文(わかりやすい文)である。この種の表現(自己完結文)を積極的に日本語に取り入れることで、日本語は、「あいまいさ」を排除して、さらに豊かな表現を手に入れることができるのではないか。日本語的発想の文脈依存文は文学や詩歌などの芸術分野に、英語的発想の自己完結文(明文)は報告書や説明書などの実務的分野に、という具合に使い分けるのもおもしろい。

英語的発想の自己完結文(明文)、たとえば、「汽車は長いトンネルを抜け雪国に出た」は、文構造が単純なので、誰でも簡単に翻訳ができる。The train came out of the long tunnel into the snow country. 逆に言うと、日本語的発想の文脈依存文にでくわしたら、一度それを、英語的発想の自己完結文に置換してから翻訳に着手すると、作業が瞬時に完了するばかりか、作品もわかりやすい自然な英文に仕上がるといえる。英語的発想とは、主語を特定し、「ものとものとの関係」を明白にすること、たったこれだけの簡単な話である。たとえば、汽車・トンネル・雪国の3つのもの中から主語となるものを特定し、主語と別のものとを、動詞または前置詞を使用して関連付けるのである。

ちなみに、雪国の舞台は、新潟県南魚沼郡湯沢町。国境(くにざかい)は、上野国(こうずけのくに、群馬県)と越後国(えちごのくに、新潟県)の県境のこと。長いトンネルは、羽越線鉄道の清水トンネルで全長、9.7キロ。

夜の底が白くなった。
The earth lay white under the night sky.

「夜の底が白くなった」とはどういう意味なのだろうか?「夜」は通常、日が沈んで暗いとき(=時間)を意味する。しかし、時間は流れるが形がないので当然「底」などない。つまりここの「夜」は、通常の意味の「夜」ではない。では、どういう状況を表現しているのだろうか?おそらく、この「夜」は島村の車窓から見た「暗闇」を文学的に表現したのではないかと私は思う。具体的に言うと、トンネルに入る前の群馬県側では雪はなく、車窓からの夜景はただ一面の「暗闇」にすぎなかった; しかし長いトンネルを抜け雪国(=新潟の湯沢町)に入った途端、「暗闇」は一変する; 実際には、雪はずっと以前からそこの地面に積もっていたのであり、変化したわけではないのだが、島村(=川端康成)の目には、あたかも「暗闇」の下部(=地面)が突然、白く変化したかのように映ったのにちがいない。

「夜の底」という日本語の抽象的な表現に比べて、英語の The earth under the night sky (夜空の下の大地)は「具体的」「説明的」でわかりやすい。「大地」と「夜空」を前置詞 "under" で明確に関係付けている。まさに、日本語は抽象的な表現を好むが、英語は具体的な表現を好み、「ものとものとの関係」が実に明瞭だ。
"The earth lay white under the night sky." を意訳すると、「大地は夜空の下、白く横たわっていた」。要は、「地面に雪が積もっていた」ということ。直訳の "The bottom of the night became white." (夜の底が白くなった)では、何のことかさっぱりわからず、これではノーベル文学賞はとても無理だったでしょうね、きっと。

信号所に汽車が止まった。
The train pulled up at a signal stop.

ウーン、やはりネイティブ・スピーカーの英文は簡潔で美しい。民族英語はいきいきとした英米文化を背景に持つ。さりげなく訳してあるが、表現が生きていますね。

向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落とした。

この文はわかりやすい。私ならおそらく原文にひきづられて、次のように訳しそうだ。

From the opposite seat a girl stood up, came over and opened the window in front of Shimamura.

しかし、サイデンステッカーは、この場面をはっとするほど正確に描写する。

訳文: A girl who had been sitting on the other side of the car came over and opened the window in front of Shimamura.

同じ車両の反対側に座っていた娘がやって来て、島村の前の窓を開けた。


the car は、ここでは車ではなく、車両の意味。向側の座席 the opposite seat は、向かい側とみれば、対面または背面する座席に、向こう側とみれば同じ車両の反対側の座席に解釈される。要するにこの表現では「あいまい」なのだ。実際には、娘(葉子)と島村はちょうど斜めに向かい合っていたので、同じ車両の反対側の座席が正しい。このため、訳文では、原文にはない「車両」という名詞を新たに補充している。これにより、「ものとものとの関係」、つまり、娘の座席と島村の座席の関係が明白となる。

「立って来て、窓を開けた」 stood up, came over and opened the window であれば、娘は時系列の順番に動作しているので、動詞はすべて過去形でよいが、「座っていた娘が来て、窓を開けた」となると、時制が異なるので 「座っていた娘」は、A girl who had been sitting と過去形よりさらに過去を表す過去完了進行形が必要となる。

原文: 娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、「駅長さあん、駅長さあん。」

訳文: Leaning far out the window, the girl called to the station master as though he were a great distance away.

訳訳文: 窓いっぱいに乗り出しながら、娘は駅長をずっと遠くにいるかのように大声で呼んだ。

原文は直接話法「駅長さあん、駅長さあん。」なのに、サイデンステッカーは間接話法で訳している。これは日本語と英語の特性に関係する。日本語は、敬称、敬語、謙譲語など待遇表現が英語よりはるかに豊富なので直接話法が威力を発揮するが、英語は間接話法が得意だ。「駅長さあん」の「さあん」は、敬称「さん」の変化したもので、日本人ならこれだけで、大声で呼んだとすぐにわかるが、英語には翻訳しづらい。マレーシア英語なら、日本人の多用する敬称「さん」に慣れているので、直接話法の ”Station Master san, Station Master sa-aaa-n!” でも理解してもらえるかもしれないが。


原文: 明かりをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。

訳訳文: 駅長は雪を踏みながら手に明かりをさげてゆっくり歩いて来た。彼の顔は襟巻きで鼻まで包まれ、帽子の耳おおいは顔まで垂れさがっていた。

訳文: The station master walked slowly over the snow, a lantern in his hand. His face was buried to the nose in a muffler, and the flaps of his cap were turned down over his face.

原文は「男」を主題にして文全体をひとつにまとめているのに対して、訳文は、「駅長」、「顔」、「耳おおい」と3つのものをそれぞれ主語に設定して3つの文に分けてある。「駅長」、「顔」、「耳おおい」は、いずれも原文には存在しない。「駅長」と「男」、「帽子の耳おおい」と「帽子の毛皮」は実質的に同じものなので、これは別としても、「手」や「顔」は新たに補充されたもので、「顔」などは2度も登場する。実際、訳訳文は原文よりも1.5倍ほど長い。この結果、訳文はものとものとの関係が明白だ。

「明かりをさげて」 = “a lantern in his hand”

「襟巻で鼻の上まで包み」 = “His face was buried to the nose in a muffler”

「耳に帽子の毛皮を垂れていた」 = “the flaps of his cap were turned down over his face”


「明かりをさげて」の「さげて」は動詞だが、訳文では前置詞 “in” で表現している。明かりは手に、(たとえば、腰にではなく)さげていたのだ。ここにも、名詞を多用して具体的に説明する英語の特徴が如実に現れている。

「襟巻で鼻の上まで包」んだのは何か?「顔」である。当たり前じゃないか!などと憤慨しないでください。”His face” という主語を立てないかぎり、普通の英語にはならないのです。

「耳に帽子の毛皮を垂れていた」は、「帽子の耳おおいは、顔まで垂れさがっていた」と表現している。たいした違いはないじゃないか、ですって!?いいえ、垂れていたのは、「耳」にではなく「顔」にでしょうと、訂正している。なるほど、確かに「耳おおい」は、耳を越えて顔にまでかかるものですね。いやはや、恐れ入りました。


長文は短文に分割すると翻訳が簡単!
直訳か意訳か

直訳か意訳かは翻訳者にとって永遠のテーマ。直訳は原文を字句・文法にしたがって一語一語忠実に訳すこと(literal translation)、逐語訳ともいう。意訳は字句にこだわらないで意のあるところを訳すこと(free translation)、自由訳ともいう。

若い頃、私は極端な直訳信奉者だった。といっても、主義とか思想とか、そんな高遠なものに裏うちされたものではない。単に経験不足で自分勝手にそう思い込んでいたにすぎない。当時の私は原文を絶対視していたようだ。原文の語句はすべて翻訳しなければならない、原文にない語句を勝手に補充してはならない、原文が長い文章であっても勝手に分割してはいけない、原文の形容詞や副詞は、訳文でも形容詞や副詞にしなければならない、つまり、品詞は変更してはならない、などなど。思い込みは恐い。

言語学的に似通った言語間の翻訳ならいざしらず、お互いにかけ離れた構造を持つ日本語や英語間の翻訳にそのような偏狭な手法だけで対処できるはずはないのだが、当時はしかし、そのように思い込んでいた。

川端康成の『雪国』とサイデンステッカーの英訳 ”Snow Country” は、こうした永遠のテーマに対してひとつのガイドライン(指針)を示してくれている。サイデンステッカーは必要に応じて、原文の語句を省略したり、原文にない語句を新たに補充したり、長文を短文に分割したり、品詞を変更したりする。つまり、わかりやすい英文に翻訳するために必要に応じて意訳する。

(原文)
もうそんな寒さかと島村は外を眺めると、鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっているだけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。

(訳文)
It’s that cold, is it, thought Shimamura. Low, barracklike buildings that might have been railway dormitories were scattered here and there up the frozen slope of the mountain. The white of the snow fell away into the darkness some distance before it reached them.

(訳訳文)
もうそんな寒さかと島村は思った。鉄道の官舎らしい低いバラックのような建物が凍結した山の斜面のあちこちに散らばっている。雪の白さはそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。

原文は、島村の眺めた景色として文全体をひとつにまとめているが、訳文では、島村・建物・雪の白さという3つの名詞をそれぞれ主語にして3つの文に分割して仕上げてある。原文の流れも自然なら、訳文も同様に自然な流れで分断の後遺症など、まったく感じさせない。

原文は日本語的な発想に基づいた名文である。このような名文から直接、訳文のような自然な英文を創造することは極端に難しい。日本人にはまず無理。こういう場合には、名文を一度、英語的な発想の明文(わかりやすい文)に読み砕くことである。まず、長文ならいくつかの文に分断する。分断するときは動詞に注目し、概念(意味のひとまとまり)ごとに切り出す。分断箇所にはスラッシュ(斜線 “ / “) を入れる。スラッシュ (slash) は動詞では「切り裂く」の意。明文を書くには、「1つの文に1つの概念」が原則。現に、訳文ではこの原則が採用されている。英作文はこれに限る。これだと書くのが簡単で読み手も理解しやすい。

もうそんな寒さか/ と島村は外を眺める/ と、鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっている/ だけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた/。

次に、分割した各文の主語(S)や動詞(V)、目的語(O)、補語(C)などを特定する。これらが省略されているときは補充する。

もうそんな寒さか/ → もうそんな寒さかと島村は思った。

島村は外を眺める/ → 島村は外を眺めた。

鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっている。

雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。


ここまでの作業で難解だった長文の名文が4つの短い明文に変換された。これなら、私たち日本人でも何とか翻訳できそう、でしょう?。俄然、やる気もわいてくる。以下に私の訳とサイデンステッカーの訳を示す。対比することで日本英語(JE)と米語(AE)の違いが実感できる。

もうそんな寒さかと島村は思った。

JE: It’s already such cold, thought Shimamura.

AE: It’s that cold, is it, thought Shimamura.


島村は外を眺めた。

JE: He looked out.

AE: (訳文では省略されている)

鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっている。
JE: Railway dormitorylike barracks were coldly scattered at the foot of the mountain.

AE: Low, barracklike buildings that might have been railway dormitories were scattered here and there up the frozen slope of the mountain.


雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。

JE: The color of snow disappeared in the darkness on the way before it arrived there.

AE: The white of the snow fell away into the darkness some distance before it reached them.

ちょっと気になるのは、原文の「島村は外を眺め」は、訳文では省略されている点である。私などはつい、He looked out. という英文を挿入したくなるが、山裾のバラックなどの光景は島村の眺めた景色だということは誰の目にも明快なので、実際にはこの文がなくても少しも不都合はない。

どちらかというと逐語訳調の私のジャパニーズ・イングリッシュに比べて、サイデンステッカーの訳はすべて、当然のことながら、さすがに格調高く洗練されていて、特にバラックの描写など臨場感すら漂っており、実にいきいきとまるで映画のシーンを見ているようである。この違いはどこから来るのか? もう一度、バラックの文に焦点をあて、仔細に検討しよう。

(原文) 鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっている。

(訳文) Low, barracklike buildings that might have been railway dormitories were scattered here and there up the frozen slope of the mountain.

(訳訳文)鉄道の官舎らしい低いバラックのような建物が凍結した山の斜面のあちこちに散らばっている。

バラックは米語ではbarracks(単複同形)で通常、「兵舎」を意味するようだ。もちろん、「粗末な家」の意味もあるが。訳文では、「低い」や「凍結した山の斜面」、「あちこちに」が補充されていて、これらが臨場感の演出に一役かっている。これらの語句は原文にはない。「低い」は平屋を連想させる。確かに当時の鉄道の官舎はそんな感じだったようである。「凍結した山の斜面」は原文の「寒々と」を具体的に表現したもの。「あちこちに」はバラックの散在するさまを強調しているので、挿入した方が英文ではわかりやすい。ちなみに「あちこちに」は、日本語の語順と異なりhere and there 「こちあちに」となる。

(原文)寒々と → 凍結した山の斜面に
up the frozen slope of the mountain

原文では「寒々と」と副詞を使用して抽象的に表現しているが、訳文では「凍結した山の斜面」と具体的に表現している。川端康成の「寒々と」に込めた想いが訳文の ”the frozen slope” に完全に一致するとは思えないが、「日本語は抽象的な表現を好み、英語は具体的な表現を好む」という日英2つの言語の特徴が出ていておもしろい。「寒々と」を具体的に表現せよと問われたら、私は "in the freezing air" と答えるような気がする。この場面ではこの副詞句が私の語感に近い。

でも、サイデンステッカーはなぜリスクをおかしてまで「寒々と」を「凍結した山の斜面」と訳したのか?私が思うに、日本語では「家が寒々と散らばっていた」はごく普通の表現であるが、英語では、Houses were coldly scattered. とはあまり表現しないのではないか。 scatter は widely (広く)などとは連語 (collocation) になるが、coldly 「寒々と」とはあまり連結しない。だから「寒々と」を断念したのではないかと思う。インターネットを検索しても "scatter" と "coldly" の連結は見当たらない。実際、Cambridge Advanced Learner's Dictionaryは "coldly" を以下のように定義している。ロングマン米語辞典(LAAD)やオックスフォード辞典(OALD)でも似たり寄ったり。もちろん、"coldly" は cold + ly なので「寒い」という概念をいずれにせよ持っているのはまちがいないが、Houses were coldly scattered. は英米人の普通の表現にはないのかもしれない。

coldly: adverb
in an unfriendly way and without emotion:
"That's your problem, " she said coldly. (それはあなたの問題よ、と彼女は冷たく言った)

サイデンステッカーが翻訳で目指したのは「ごく普通の自然な英文」であるのはまちがいない。どの訳文を見てもお手本になる自然な英文ばかり。だからこそ、『雪国』と "Snow Country" は日本人にとって和文英訳の手引書となり得るのである。さらにまた、これは和文英訳についての手引きではあるが、その基本的な手法や考えかたは英文和訳にも、あるいはもっと一般化して、他の言語の翻訳にも相当に適用できるのではないかと私は思っている。私にとっては手引書というよりは名人による翻訳の指導書、いや極意の書である。


日本語には間接話法はない!
地の文と会話文

会話文はわかりやすい。説明や描写の文(地の文)が長々と続いた後に会話文を目にするとほっとする。会話文は砂漠の中のオアシス。子供のころから不思議なことに、会話の部分だけは文字を読むまでもなく、音声と映像で瞬時にして理解できた。まるで、話し手の声が聞こえ表情までもいきいきと見えてくるかのように。同じような体験をお持ちの方は大勢いらっしゃるはずだと思う。

(原文)
「駅長さん、私です、御機嫌よろしゅうございます。」

「ああ、葉子さんじゃないか。お帰りかい。また寒くなったよ。」

「弟が今度こちらに勤めさせていただいておりますのですってね。お世話さまですわ。」

「こんなところ、今に寂しくて参るだろうよ。若いのに可哀想だな。」


(訳文)
"How are you?" the girl called out. "It's Yoko."

"Yoko, is it. On your way back? It's gotten cold again."

"I understand my brother has come to work here. Thank you for all you've done."

"It will be lonely, though. This is no place for a young boy."


(訳訳文)
「ご機嫌いかがですか?葉子です。」と娘は叫んだ。

「葉子さんじゃないか。お帰りかい。また寒くなったね。」

「弟が今度こちらにお勤めさせていただいているそうですね。お世話になります。」

「今に寂しくなるだろうにね。ここは若いのが住むところじゃないよ。」

上述の会話文は本人の話を直接、引用しているので英文法の直接話法に相当する。英語には直接話法と間接話法がある。直接話法 (direct speech) は人のことばをそのまま伝える方法で、間接話法 (reported speech) は人のことばを話し手のことばに直してから伝える方法である。英語の直接話法と間接話法はお互いに変換することができる。


例: 「私は今、元気です」と彼は言った。

He said, "I am fine now." (直接話法 direct speech)

He said (that) he was fine then. (間接話法 reported speech)


日本語は直接話法は得意だが間接話法は苦手、というより間接話法は英語の概念であり日本語にはもともと存在しない。日本語では「会話文」と「地の文」という概念がある。「地の文」とは説明や描写の文のこと。大雑把に言うと、会話文は日本語では直接話法で表現し、英語では直接話法かまたは間接話法で表現する。


「日本語の会話文」 = 日本人は「直接話法」で表現する

「英米語の会話文」 = 英米人は「直接話法」または「間接話法」で表現する

日本語では複雑な内容であっても直接話法でなら完璧に表現できるが、間接話法ではそうはいかない。私自身、間接話法の英文をそのまま間接話法で日本語に翻訳しようとして、四苦八苦した苦い経験が何度もある。単純な内容なら間接話法で表現できなくもないが、ちょっと込み入った内容になるとすぐにお手上げとなる。いくら工夫してもなかなか素直な日本語にならない。

英語の直接話法と間接話法は、表現こそ異なるが内容(意味)はまったく同じもの。複雑な内容の間接話法の英文を和訳するときは、直接話法で処理した方が自然な日本語を得やすい。この場合、意味が不明瞭にならないかぎり、かぎかっこ(「」)を省略するなど、ちょっと工夫することであたかも間接話法であるかのように見せることもできる。

例: He said he was fine then. (間接話法の英文を和訳する場合)

「私は今、元気だ」と彼は言った。 (直接話法で和訳してもよい)

今、元気だと彼は言った。 (かぎかっこを省略して間接話法のように見せることもできる)

話法の話はこれくらいにして、『雪国』の本文に戻る。


原文: 「駅長さん、私です、御機嫌よろしゅうございます。」

訳文: "How are you?" the girl called out. "It's Yoko."

「駅長さん」は今回も訳文にはない。"How are you, Station Master? It's me." と逐語訳したくなるところだが、訳文の方がもちろん、自然な英文である。

原文: 「ああ、葉子さんじゃないか。お帰りかい。また寒くなったよ。」

訳文: "Yoko, is it. On your way back? It's gotten cold again."

「ああ、葉子さんじゃないか」を "Yoko, is it." と疑問形にして疑問符はつけない。これを仮に、"Ah, it's you, Yoko, aren’t you?" などと普通の付加疑問文にすると、アメリカ風の社交的な駅長というイメージを読者に与える恐れがある。 "Yoko, is it." か、なるほどね。これなら、日本人の駅長の感じが出ている。

原文: 「弟が今度こちらに勤めさせていただいておりますのですってね。お世話さまですわ。」

訳文: "I understand my brother has come to work here. Thank you for all you've done."

日本人は「今度」という語を愛用するが一筋縄では行かないことばだ。場合に応じて、this time, next, recently などに訳し分ける必要がある。この場合は "my brother has (recently) come" の意だが、訳文にはない。

原文: 「こんなところ、今に寂しくて参るだろうよ。若いのに可哀想だな。」

訳文: "It will be lonely, though. This is no place for a young boy."

訳訳文:「今に寂しくなるだろうにね。ここは若いのが住むところじゃないよ。」

"It will be lonely" の "it" は、おなじみの形式主語。 It rains (雨が降る), It's dark here (ここは暗い) などのように、形式主語の "it" は天気や時間、距離、情況などを漠然と指す。英語は形式上、主語が必要なので挿入されたもの。通常、"it" は日本語に訳さない。

会話文はわかりやすいが、皮肉なことに会話文の翻訳は非常に難解になる場合が多い。上記の、「こんなところ、今に寂しくて参るだろうよ。若いのに可哀想だな。」もその典型的な例である。民族の文化や生活に深く根ざした表現は逐語訳ではうまく処理できないのだ。「参るだろうよ」= He'll be frustrated. や「可哀想だな」= I feel (sorry) for him. などと直訳せずに、lonely や “no place for a young man” などを使用して言外ににおわせる、まさに高等技法である。


川端康成の官能的表現
直訳か意訳か

川端康成の『雪国』(新潮文庫)の8ページには「左手の人差指」について述べた長文がある。この文は物語全体とやや趣(おもむき)を異にする。私は少し違和感を覚えた。彼の作品にしては珍しく表現が露骨で肉感的な感じが強い。サイデンステッカーの英訳版 ”Snow Country” でこの文を確認したら、どうやらサイデンステッカーも戸惑いを感じていたようである。

(原文)
もう三時間も前のこと、島村は退屈まぎれに左手の人差指をいろいろに動かして眺めては、結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている、はっきり思い出そうとあせればあせるほど、つかみどろろなくぼやけてゆく記憶の頼りなさのうちに、この指だけは女の触感で今も濡れていて、自分を遠くの女へ引き寄せるかのようだと、不思議に思いながら、鼻につけて匂いを嗅いでみたりしていたが、ふとその指で窓ガラスに線を引くと、そこに女の片眼がはっきり浮き出たのだった。彼は驚いて声をあげそうになった。

(訳文)
It had been three hours earlier. In his boredom, Shimamura stared at his left hand as the forefinger bent and unbent. Only this hand seemed to have a vital and immediate memory of the woman he was going to see. The more he tried to call up a clear picture of her, the more his memory failed him, the farther she faded away, leaving him nothing to catch and hold. In the midst of this uncertainty only the one hand, and in particular the forefinger, even now seemed damp from her touch, seemed to be pulling him back to her from afar. Taken with the strangeness of it, he brought the hand to his face, then quickly drew a line across the misted-over window. A woman's eye floated up before him. He almost called out in his astonishment.

(訳訳文)
三時間前のことだった。退屈まぎれに、島村は左手を眺め人差指が屈伸するのを見つめていた。この手だけがこれから会いに行く女の、生き生きしたじかの思い出を持っているようだ。鮮明な女の画像を思い出そうとすればするほど、記憶は萎え、女がますます薄れてゆき、つかまえておきたいのに何も残らない。この不確実さの中で、この片手だけが、特にこの人差指が今も女の触感で濡れていて、遠くから自分をその女へ引き戻しているかのようだ。不思議に思いながら、彼は左手を顔に近づけて、それからすっかり曇った窓にさっと線を引いた。女の片眼が彼の面前に浮かび出た。彼は驚いて声をあげそうになった。

他の部分は原文に忠実なのに、「鼻につけて匂いを嗅いでみた」の部分だけは、"he brought the hand to his face" (彼は左手を顔に近づけた)とぼかして訳してある。「鼻につけて左手の匂いを嗅ぐ」を直訳すると、”he smelled his left hand” または “he put his left hand on his nose to smell it” となる。しかし訳文には「鼻」も「嗅ぐ」もどこにも出てこない。具体的な表現を好む英語がこの部分に限っては、日本語のお家芸を奪うかのごとく曖昧に表現している。なぜか?おそらくサイデンステッカーもこの部分については違和感を覚えたにちがいない。だから彼は意図的に曖昧に表現したのではないだろうか?

欧米文化では鼻はタブーらしい。英米の小説では「顔は克明に描かれている場合でも、どうしたことか鼻への言及が少ない」、「どうも欧米人は、鼻を何となくわいせつな感じ(obscene)を起こさせるものと見ているようだ」(『ことばと文化』 鈴木孝夫著、岩波新書、ものとことば、50〜51ページから抜粋)

だとしたら、「鼻につけて匂いを嗅いでみた」は欧米人にとっては、いよいよ卑猥な表現となる。結局サイデンステッカーは、翻訳者としての原文への忠誠の義務に逆らってまでも、具体的な表現を好む英語の用法に逆らってまでも、あえて曖昧に表現せざるを得なかったのであろう。原文は確かに少々卑猥な感じはするが、日本語の文学的表現の許容範囲内にぎりぎり収まっている。少なくとも川端康成はそう考えた。しかし、欧米文化ではこの部分の逐語訳、たとえば、“he put his left hand on his nose to smell it” は到底一般読者の容認できるものではないのかもしれない。「鼻につけて匂いを嗅いでみた」の意訳、"he brought the hand to his face" (彼は左手を顔に近づけた)は、文化レベルにまで引き上げて考えてみると、一転して原文に忠実な訳となる。日英両文とも、お互いに文化的(= 文学的)許容範囲内にあるからだ。翻訳者としての原文への忠誠義務違反は「ことば」のレベルではまさにその通りだが、上位概念の「文化」のレベルでは免罪され忠誠義務違反に当たらない。この意訳で OK だと私は思う。

原文の2つの文のうち、最初の文は相当に長い。文字数を数えてみたら何と226文字ある。ちなみに、マイクロソフトのワードで文字数を確認するには、ワードを起動し、目的の文を新規文書に入れ、ワードのメニューバーから「ツール」、「文字カウント」の順にクリックすると、「文字カウント」ウィンドウが表示され、文字数や単語数を確認できる。それにしても 226文字とは相当に長い文だが、そこは名人、誰でも難なくすらすらと読みこなせるように仕上げてはある。

この長文は、訳文では7つの文に分割されている。長文は短文に分割する、サイデンステッカーは徹底してこの手法を採用する。分割するときは、文頭から順番に、動詞に注目しながら概念(意味のひとまとまり)ごとに切り出す。このようにして分割したものを次に示す。

もう三時間も前のことだった/
島村は退屈まぎれに左手の人差指をいろいろに動かして眺めた/
この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている/
はっきり思い出そうとあせればあせるほど、つかみどろろなくぼやけてゆく/
記憶の頼りなさのうちに、この指だけは女の触感で今も濡れていて、自分を遠くの女へ引き寄せるかのようだ/
不思議に思いながら、鼻につけて匂いを嗅いでみたりしていたが、ふとその指で窓ガラスに線を引く/
そこに女の片眼がはっきり浮き出たのだった/

ここで時制について一言。英語の時制 (tense) は時間軸に沿った単純明快なもの。このような時間軸に沿った単純明快な時制という概念は日本語にはない。たとえば、上述の7つの文は過去の話なので、英語の動詞はすべて過去形を使用しなければならない。現在形は使用できない。しかし、日本語の文末の動詞に注目すると、「ことだった」、「眺めた」、「覚えている」、「ぼやけてゆく」、という具合に「〜する」、「〜した」、「〜だ」、「〜だった」が混在している。このように日本語では過去の話に「〜する」とか「〜だ」とかも使用できるのである。中学校の英語の時間に私たちが教わった「〜する」=現在形、「〜した」=過去形、「〜でしょう」=未来形などの公式は、現実の日本語には通用しないことがわかる。時制について詳しくは http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-280.html を参照してください。

英語的な発想の明文(わかりやすい文)を書くには「1つの文に1つの概念」が原則。英作文はこれに限る。これだと書くのが簡単で読み手も理解しやすい。さらに嬉しいことに、コンピュータまでもが明文は理解できるのだ。英日・日英間の機械翻訳は実用にはまだまだ程遠いのが現状だが、実は先日、この手法を用いて自分で書いた英文メールを遊び心で、市販の英日・日英機械翻訳ソフト(訳せ!!ゴマ)にかけたところ、4ページほどの英文が2、3分後に日本語に翻訳され、ほとんどすべての訳文(和文)が理解可能な、したがって実用的なレベルに仕上がっていた。驚き桃の木、山椒の木!そばでこの作業を見守っていた同僚も「完璧ですね」と叫んだ。私も興奮した。そうか、明文は機械翻訳できるのか!明文は書くのが簡単、わかりやすい、機械翻訳も可能。だから「実務文書は明文で」。ね、そうでしょう。


会話文には接続詞はいらない!?
会話文 (2)

(原文)
「ほんの子供ですから、駅長さんからよく教えてやっていただいて、よろしくお願いいたしますわ。」

「よろしい。元気で働いてるよ。これからいそがしくなる。去年は大雪だったよ。よく雪崩れてね、汽車が立往生するんで、村も炊出しがいそがしかったよ。」

「駅長さんずいぶん厚着に見えますわ。弟の手紙には、まだチョッキも着ていないようなことを書いてありましたけれど。」

「私は着物を四枚重ねだ。若い者は寒いと酒ばかり飲んでいるよ。それでごろごろあすこにぶっ倒れてるのさ、風邪をひいてね。」

駅長は官舎の方へ手の明りを振り向けた。
「弟もお酒をいただきますでしょうか。」

「いや。」

「駅長さんもうお帰りですの?」

「私は怪我をして、医者に通ってるんだ。」

「まあ。いけませんわ。」


(訳文)
"He's really no more than a child. You'll teach him what he needs to know, won't you."

"Oh, but he's doing very well. We'll be busier from now on, with the snow and all. Last year we had so much that the trains were always being stopped by avalanches, and the whole town was kept busy cooking for them."

"But look at the warm clothes, would you. My brother said in his letter that he wasn't even wearing a sweater yet."

"I'm not warm unless I have on four layers, myself. The young ones start drinking when it gets cold, and the first thing you know they're over there in bed with colds."

He waved his lantern toward the dormitories.

"Does my brother drink?"

"Not that I know of."

" You're on your way home now, are you?"

"I had a little accident. I've been going to the doctor."

"You must be more careful."

..................................................................................................

「ほんの子供ですから、駅長さんからよく教えてやっていただいて、よろしくお願いいたしますわ。」

"He's really no more than a child. You'll teach him what he needs to know, won't you."

原文は単文だが、訳文は2つに分割されている。

「子供ですから」の中の「から」に相当する語は訳文にはない。「から」は原因・理由を示す接続詞で、英語の because, sinceに近い意味を持つ。因果関係が重要な意味を持つ論文はともかく、日常会話のような文章では、「なぜならば because」はまだいいとしても、「したがって thus, consequently, therefore」のような形式ばった接続詞は英文では無視される場合が多い。(接続詞を使うとしてもせいぜい and を挿入する程度)。

たとえば、「今朝、朝食をとらなかったので、今、おなかがすいている」は I had no breakfast this morning, (and) I'm hungry now. ぐらいで十分でしょう。もちろん、I'm hungry now because I had no breakfast this morning. もOKでしょうが、少しくどい感じがしませんか。

長文を短文に分割すると、この接続詞の問題は必ず浮上する。サイデンステッカーは、長文は複数の短文に分割しているが、その際、分割箇所の接続詞は省略している。たとえば、「バラックが散らばっているだけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた」の「だけで」もやはり無視されていた。

私たち日本人は「〜だから」や「なので」、「したがって」、「このため」などの接続詞が大好きで日常的な文章でも頻繁に使用する。こうした接続詞がないと文と文のつながりが希薄になりそうで不安なのだ。実際、日本語では接続詞を挿入した方が文の座りがいい。しかし英米人は一般に、こういう種類の接続詞はあまり使用しない。これを翻訳の観点からいいかえると、英文和訳の際には「文の座り」をよくするため、たとえ英文になくとも接続詞を補充し、逆に、和文英訳の際には自然な英文にするために、和文の接続詞を省略するぐらいの気持ちが必要ということ、かもしれない。


「あんなことがあったのに」は英語でどう言うの?
婉曲表現:

男と女の出会い・別れ・再会はいつも感動的だ。物語の中で最も人を魅了する部分である。私も子供の頃からラブストーリーが大好きで、石坂洋次郎の『陽のあたる坂道』、アンソニー・ホープの『ゼンダ城の虜』(The Prisoner of Zenda)、田山花袋の『蒲団』など夢中になって読みふけった時期がある。以下の文も男と女、島村と駒子の再会のシーンである。(『雪国』 新潮文庫16ページから抜粋)

(原文)
あんなことがあったのに、手紙も出さず、会いにも来ず、踊の型の本など送るという約束も果たさず、女からすれば笑って忘れられたとしか思えないだろうから、先ず島村の方から詫びかいいわけを言わねばならない順序だったが、顔を見ないで歩いているうちにも、彼女は彼を責めるどころか、体いっぱいになつかしさを感じていることが知れるので、彼は尚更、どんなことを言ったにしても、その言葉は自分の方が不真面目だという響きしか持たぬだろうと思って、なにか彼女に気押される甘い喜びにつつまれていたが、階段の下まで来ると、「こいつが一番よく君を覚えていたよ。」と、人差指だけ伸した左手の握り拳を、いきなり女の目の前に突きつけた。

「そう?」と、女は彼の指を握るとそのまま離さないで手をひくように階段を上って行った。

原文の最初の一文は299文字と非常に長い。サイデンステッカーはいつものように長文は分割する。この長文は7つに分割されている。

あんなことがあったのに、手紙も出さず、会いにも来ず、踊の型の本など送るという約束も果たさなかった。 In spite of what had passed between them, he had not written to her, or come to see her, or sent her the dance instructions he had promised.

あんなことがあったのに → 二人の間に起こったものにもかかわらず

「あんなこと」とは、ここでは男女間の肉体関係を指す。婉曲(えんきょく)な表現は難しい。私のような実務翻訳者には特にそうだ。以前、原田克子さんの詩を英訳したときの話。『壊心 3』の第2パラグラフの3行目、「肌を触れ合うことがなくなったわたしたち」で困ってしまった。ウーン、難しいなあ… We can no longer sleep together とか We don't touch each other any longer now とか訳してはみたが、いまひとつ自信が持てない。「あんなことがあったのに」は In spite of what had passed between them というのか。なるほど。よーし、忘れないようにこのまま暗記しようっと。

「あんなことがあった」 (直訳すると there was a thing like that) が、訳文では「二人の間に起こったもの」 what had passed between them = the thing that had happened between them と、より具体的に名詞で表現されている。このように、日本語では文(節)で表現してあるのに、英語では名詞(もの)で表現する場合が多い。「動詞が主役」の日本語と「名詞が主役」の英語との違いがここにも顔を出している。

女からすれば笑って忘れられたとしか思えないだろう。
She was no doubt left to think that he had laughed at her and forgotten her.

“no doubt” は「疑いなく」 (undoubtedly) という副詞。She was left ... は受身。能動態に直すと、He left her ... (彼は彼女をほったらかした)。原文、訳文ともに、受動態と能動態が混在している。She was no doubt left to think that she had been laughed at and forgotten (by him). (彼女は彼にほったらかしにされ、笑われて忘れ去られたと彼女はきっと思ったことだろう) と従属節を受身にすることもできる。

先ず島村の方から詫びかいいわけを言わねばならない順序だったが、顔を見ないで歩いているうちにも、彼女は彼を責めるどころか、体いっぱいになつかしさを感じていることが知れた。

It should therefore have been his part to begin with an apology or an excuse, but as they walked along, not looking at each other, he could tell that, far from blaming him, she had room in her heart only for the pleasure of regaining what had been lost.

「体いっぱいになつかしさを感じている」 → 「彼女は、失っていたものを取り戻したという喜びだけの余裕を心に抱いていた」

“she had room in her heart only for the pleasure of regaining what had been lost.”

ワオ、これは驚いた!原文の日本語には名詞は2つ、「体」と「なつかしさ」しかないのに訳文の英語にはどちらの名詞も出て来ない。 その代わりに、5つの名詞、「she (彼女)」、「room (余裕)」、「heart (心)」、「pleasure (喜び)」、「what had been lost (失っていたもの)」が新たに補充されている。英語的な発想とはいえ、これはしかし私たちには複雑すぎる。もっと単純に、たとえば、she was filled with longing for him. (彼女は、彼に対するなつかしさでいっぱいだった) でいいのではないのかな。これだと原文の「いっぱい」も「なつかしさ」も出て来る。

彼は尚更、どんなことを言ったにしても、その言葉は自分の方が不真面目だという響きしか持たぬだろうと思った。

He knew that if he spoke he would only make himself seem the more wanting in seriousness.

なにか彼女に気押される甘い喜びにつつまれて彼は歩いた。

Overpowered by the woman, he walked along wrapped in a soft happiness.

階段の下まで来ると、人差指だけ伸した左手の握り拳を、いきなり女の目の前に突きつけた。

Abruptly, at the foot of the stairs, he shoved his left fist before her eyes, with only the forefinger extended.

階段の下まで来ると → 階段の下で (at the foot of the stairs)

私などつい、原文にひきずられて文(節)として when they came to the foot of the stairs と直訳しそうなところだが、なるほど、動詞 come 「来る」の代わりに、前置詞 at 「(下)で」で充分ですね。日本語の動詞は、英語では前置詞で表現される場合が多い。たとえば、冒頭の「長いトンネルを抜けると」 = out of the long tunnel. 逆に言うと、英文和訳の際には、英語の前置詞は日本語では動詞で訳した方が自然な和文になる場合が多い、ということですね。

「こいつが一番よく君を覚えていたよ。」
“This remembered you best of all.”

「そう?」と、女は彼の指を握るとそのまま離さないで手をひくように階段を上って行った。
“Oh?” The woman took the finger in her hand and clung to it as though to lead him upstairs.


「居住まいを直す」は英語でどう言うの?
駒子との出会い

新緑の登山季節、山歩きから七日振りりで温泉場へ下りて来た島村は、宿屋に芸者を呼ぶように頼んだ。ところが、あいにくその日は道路普請の落成祝いで芸者は皆出払っていた。三味線と踊の師匠の家にいる娘(駒子)は芸者というわけではないが、もしかしたら来てくれるかも知れないと女中は言う。以下は島村と駒子の出会いのシーンである。(『雪国』 新潮文庫18ページから抜粋)

(原文)
怪しい話だとたかをくくっていたが、一時間ほどして女が女中に連れられて来ると、島村はおやと居住まいを直した。直ぐ立ち上がって行こうとする女中の袖を女がとらえて、またそこに座らせた。
女の印象は不思議なくらい清潔であった。足指の裏の窪みまできれいであろうと思われた。山々の初夏を見て来た自分の眼のせいかと、島村は疑ったほどだった。

怪しい話だとたかをくくっていた。

An odd story, Shimamura said to himself, and dismissed the matter.

「怪しい話だとたかをくくる」は英語的な表現では、「怪しい話だと島村は独り言を言ってこの件を気にもとめなかった」となるのですか、ウム、なるほど、そうですか。

ちなみに、dismiss = to refuse to consider someone or something seriously because you think they are silly or not important. という意味。

一時間ほどして女が女中に連れられて来た。

An hour or so later, however, the woman from the music teacher’s came in with the maid.

原文では「女」となっているが、英語では “the woman from the music teacher’s (house)” 「音楽教師の家から来た女性」と具体的に説明されている。また、原文では「女中に連れられて来た」と受身の表現も “came in with the maid” 「女中と一緒に入って来た」と主体的に表現されている。いずれも英語的な発想だ。

島村はおやと居住まいを直した。
Shimamura brought himself up straight.

「居住まいを直す」はきちんと座りなおすこと。“sit up straight” の意。品のある女性に会うと、どんな男も思わずいずまいを正す。訳文の “Shimamura brought himself up straight.” は、畳文化に馴染みのない読者は “stood up straight” (直立した)の意味に解釈するかも知れない。そこで、“Shimamura sat up straight.” を私は提案したい。

直ぐ立ち上がって行こうとする女中の袖を女がとらえて、またそこに座らせた。
The maid started to leave but was called back by the woman.

原文は「女」が主語で女中をそこに座らせたとあるが、訳文は「女中」を主語にしている。文頭の「直ぐ立ち上がって行こうと」したのは女中なので、女中を主語にするのは自然な流れ。翻訳は「頭から順番に訳して行く」のが原則だ。現に、サイデンステッカーはほとんどの場合、頭から順番に訳して行く技法を採用している。頭から順番に訳して行かないかぎり、同時通訳は成立しない。この原則は和文英訳にかぎらず、英文和訳にも当てはまる。

中村保男 『英和翻訳の原理・技法』 より要点のみ抜粋する。
I'm afraid he is not here today because he caught a cold.
きょうは風邪を召して、お見えになっていないのが残念です。(英文解釈流)
あいにくですが、きょうは出社しておりません、お風邪を召したそうで。(頭から訳す)

上の受付嬢の応対では、「頭から訳す」方法のほうが遥かに実感もこもっているし、流れも快調だ。

「女中」は古くは婦人に対する敬称だったらしいが、現代では卑語となってしまった。今は「お手伝いさん」。英語ではメード “maid”。ところで「日女中本」の意味をご存知かな?これは四字熟語などではなく、単なることばのお遊び。解答は “made in Japan”。だって、日本の中に「女中」の文字が入っているでしょ、だから、メード・イン・ジャパン。私の若い頃に、こんな「ことば遊び」が一時流行したことがありました。

女の印象は不思議なくらい清潔であった。
The impression the woman gave was a wonderfully clean and fresh one.

女の印象 → The impression the woman gave (女が与えた印象)

「女の印象」を “the woman’s impression” というと、「女が抱いた印象」とも解釈されることもある。”The impression the woman gave” は、いかにも英語らしい的確な表現だ。最後の “one” は不定代名詞で「印象」の意味。「印象」を2回、繰り返すのを避けている。“one” が使用されたことで、この場合の「印象」は可算名詞だとわかる。

足指の裏の窪みまできれいであろうと思われた。
It seemed to Shimamura that she must be clean to the hollows under her toes.

足指の裏の窪み “the hollows under her toes” には、あか(垢)がたまりやすい。
訳文では ”must be” (〜にちがいない)と現在形が使用されている。ははーん、この場合は現在形の方がいいんですか!?。過去についての推定の表現は通常、”must have been” (〜だったにちがいない)と ”must have + pp” とばかり丸暗記していましたが…。

山々の初夏を見て来た自分の眼のせいかと、島村は疑ったほどだった。
So clean indeed did she seem that he wondered whether his eyes, back from looking at early summer in the mountains, might not be deceiving him.

この文は、She seemed so clean indeed that 〜 という例の (so ... that) 「非常に〜なので...」の倒置法ですね。


芸者を呼ぶ
「お湯道具」は「タオルと石鹸」だけ?

山歩きから一週間ぶりに温泉場で一泊した翌日の午後、島村は唐突に駒子に芸者の世話を頼んだ。しかし、駒子はこのときまだ19歳。男の生理にとまどってしまう。(『雪国』 新潮文庫19ページから抜粋)

(原文)
女は翌日の午後、お湯道具を廊下の外に置いて、彼の部屋に遊びに寄った。彼女が座るか座らないうちに、彼は突然芸者を世話してくれと言った。

「世話するって?」

「分かってるじゃないか。」

「いやねえ。私そんなこと頼まれるとは夢にも思って来ませんでしたわ。」と、女はぷいと窓へ立って行って国境の山々を眺めたが、そのうちに頬を染めて、

「ここにはそんな人ありませんわよ。」

「嘘をつけ。」

「ほんとうよ。」と、くるっと向き直って、窓に腰をおろすと、

「強制することは絶対にありませんわ。みんな芸者さんの自由なんですわ。宿屋でもそういうお世話は一切しないの。ほんとうなのよ、これ。あなたが誰かを呼んで直接話してごらんになるといいわ。」

「君から頼んでみてくれよ。」

「私がどうしてそんなことしなければならないの?」

「友だちだと思ってるんだ。友だちにしときたいから、君は口説かないんだよ。」

「それがお友達ってものなの?」と、女はつい誘われて子供っぽく言ったが、後はまた吐き出すように、

「えらいと思うわ。よくそんなことが私にお頼めになれますわ。」

「なんでもないことじゃないか。山で丈夫になって来たんだよ。頭がさっぱりしないんだ。君とだって、からっとした気持ちで話が出来やしない。」

原文: 女は翌日の午後、お湯道具を廊下の外に置いて、彼の部屋に遊びに寄った。

訳文: On her way to the bath the next afternoon, she left her towel and soap in the hall and came in to talk to him. (サイデンステッカー訳、ちなみにこの英文の訳は、翌日の午後お風呂へ行く途中、彼女はタオルと石鹸を廊下に置いて、彼の部屋に遊びに寄った。)

英語は具体的な表現を好む。なるほど、「お風呂へ行く途中」と状況が具体的に補足してある。しかし原文では「お湯道具を廊下の外に置いて」というだけで、お風呂へ行く途中だとも、お風呂から上がって帰る途中だとも書いていない。可能性は五分五分、どちらもありうる。原文の「お湯道具」も英文では「タオルと石鹸」と具体的に明示してある。確かにタオルと石鹸はお風呂の必須アイテム。しかしタオルと石鹸を洗面器(washbowl)に入れて廊下に置いた可能性もある。私など、南こうせつの「神田川」の世代なので、お風呂というと洗面器までも連想してしまう。日本人なら The next afternoon, she left her bath items out in the hall and came into his room to talk to him. と、あたりさわりのないように訳すような気がするが、具体性を欠くこのような英文は、アメリカ人には生理的に居心地が悪いのかもしれない。

原文: 彼女が座るか座らないうちに、彼は突然芸者を世話してくれと言った。

訳文: She had barely taken a seat when he asked her to call him a geisha.

うーん、さすがにネイティブの英文はすばらしい!頭から順番に自然に英訳してある。芸者は "geisha"、可算名詞なので 単数のときは a geisha、複数形は geisha or geishas となる。「世話する」というと通常、take care of, look after, help などを連想するが、この場合は call (呼ぶ)がふさわしい。

原文: 「世話するって?」

訳文: "Call you a geisha?"

原文: 「分かってるじゃないか。」

訳文: "You know what I mean."

原文: 「いやねえ。私そんなこと頼まれるとは夢にも思って来ませんでしたわ。」と、女はぷいと窓へ立って行って国境の山々を眺めたが、そのうちに頬を染めて、「ここにはそんな人ありませんわよ。」

訳文: "I didn't come to be asked that." She stood up abruptly and went over to the window, her face reddening as she looked out at the mountains. "There are no women like that here."

原文は会話文を前後に挿入して、全体を単一の長文に仕上げてあるが、訳文は3つの文に分割してある。この手法は随所に見られる。長文を翻訳するときは、このように分割した方が自然な英文を得やすい。「いやねえ」は訳してない。和文ではこれがあるとないとでは全体の印象が微妙に変わる。男は女の「いやねえ」を聞くと少し安堵する。まだ修復の余地が残されていると。

原文: 「嘘をつけ。」

訳文: "Don't be silly." (へーえ、”Don’t tell a lie.” じゃないんだ)

原文: 「ほんとうよ。」と、くるっと向き直って、窓に腰をおろすと、
「強制することは絶対にありませんわ。みんな芸者さんの自由なんですわ。宿屋でもそういうお世話は一切しないの。ほんとうなのよ、これ。あなたが誰かを呼んで直接話してごらんになるといいわ。」

訳文: “It’s the truth.” She turned sharply to face him, and sat down on the window sill. “No one forces a geisha to do what she doesn’t want to. It’s entirely up to the geisha herself. That’s one service the inn won’t provide you. Go ahead, try calling someone and talking to her yourself, if you want to.”

「窓に腰をおろした」は、sat down on the window sill. と英訳されている。 “sill” は「下枠」の意味。英語は具体的な表現を好む。ここでも腰をおろしたのは「窓」ではなく、「窓の下枠」だと表現する。「お湯道具」を「タオルと石鹸」と言い換えたように。これとは反対に、日本語は抽象的な表現を好む。たとえば、米国人が “We must construct roads and bridges soon.” (道路や橋をすぐに建設しなければならない)と具体的・能動的に表現するようなところを、私たちは「社会基盤(インフラ、infrastructure)の整備が急務である」と抽象的に表現する。「道路や橋をすぐに建設しなければならない」よりも「社会基盤の整備が急務」の方が、私たちには何となく高尚な感じがするのである。

原文: 「君から頼んでみてくれよ。」

訳文: “You call someone for me.”


原文: 「私がどうしてそんなことしなければならないの?」
訳文: “Why do you expect me to do that?”

原文: 「友だちだと思ってるんだ。友だちにしときたいから、君は口説かないんだよ。」

訳文: “I’m thinking of you as a friend. That’s why I’ve behaved so well.”

「友だちにしときたいから(=だから)、君は口説かないんだよ」は直訳すると、That’s why I’m not coming on to you. とでもなるところ。「口説く」は “come on to” だが、この表現は少しいやらしい感じがして、露骨すぎるのかもしれない。”That’s why I’ve behaved so well.” は、「だから、行儀よくふるまっているのじゃないか」みたいな感じ。なるほど、確かにこの方が品があり、主人公の島村の気持ちにも近い。

原文: 「それがお友達ってものなの?」と、女はつい誘われて子供っぽく言ったが、後はまた吐き出すように、「えらいと思うわ。よくそんなことが私にお頼めになれますわ。」

訳文: “And this is what you call being a friend?” Led on by his manner, she had become engagingly childlike. But a moment later she burst out: “Isn’t it fine that you think you can ask me a thing like that!”

原文: 「なんでもないことじゃないか。山で丈夫になって来たんだよ。頭がさっぱりしないんだ。君とだって、からっとした気持ちで話が出来やしない。」

訳文: “What is there to be so excited about? I’m too healthy after a week in the mountains, that’s all. I keep having the wrong ideas. I can’t even sit here talking to you the way I would like to.”

「なんでもないことじゃないか」は、私など原文につられて、”That’s nothing special, you see?” などと、つい単調に訳してしまいそうな気がする。やはり名訳はちがう。 “What is there to be so excited about?” は実に英語らしい表現だ。直訳すると、「そんなに興奮するような何があるのかい?」 → 「何をそんなに興奮しているの?」

「山で丈夫になって来たんだよ」は、英語では、原文にない「一週間」という語を補充し、“I’m too healthy after a week in the mountains, that’s all.”

「一週間、山にいたので元気になりすぎた、それだけのことだ」と具体的に表現にする。確かに島村はこのとき一週間山にいた。たとえ原文にはなくとも、「一週間」という語を補充した方が情況がわかりやすい。

「頭がさっぱりしないんだ」は、たとえば、"I don't really feel refreshed." だが、訳文では "I keep having the wrong ideas."(よくない考えがまとわりついて離れない)と、さらに踏み込んだ表現を採用し欲情を暗示する。

「君とだって、からっとした気持ちで話が出来やしない」も直訳すると、"I can't even talk to you frankly or cheerfully." とでもなるところだが、訳文では "I can’t even sit here talking to you the way I would like to.” (ここに座って君と話すことさえ、本当の気持ちで話ができやしない)と、原文にない "I can’t even sit here" とい節を補充し、これにより、臨場感あふれるなまなましいシーンをたくみに創出している。


なにしたらおしまいさ
婉曲語法、ユーフェミズム (euphemism)

川端康成の『雪国』を私が初めて読んだのは中学生の頃。思春期の多感な年ごろで男女間の秘め事には強烈な関心を抱いてはいたものの経験はもちろんない。しかし当時、この「なにしたらおしまいさ」のくだりは何となくわかったような気がした。よほど感銘を受けたのか、その後十数年たって実際に恋に悩んだり失恋したりしたときに思い出していた。それからさらにずっと後になってからでも、ときどきこの部分がふっと頭をよぎる。男と女の関係は微妙でややこしい。

島村と駒子の会話。川端康成 『雪国』 新潮文庫22ページから引用する。

「なにしたらおしまいさ。味気ないよ。長続きしないだろう。」

「そう。ほんとうにみんなそうだわ。私の生まれは港なの。ここは温泉場でしょう。」と、女は思いがけなく素直な調子で、

「お客はたいてい旅の人なんですもの。私なんかまだ子供ですけれど、いろんな人の話を聞いてみても、なんとなく好きで、その時は好きだとも言わなかった人の方が、いつまでもなつかしいのね。忘れないのね。別れた後ってそうらしいわ。向うでも思い出して、手紙をくれたりするのは、たいていそういうんですわ。」

女は窓から立ち上がると、今度は窓の下の畳に柔かく座った。遠い日々を振り返るように見えながら、急に島村の身辺に座ったという顔になった。

婉曲(えんきょく)な表現は英訳がむずかしい。この「なにしたらおしまいさ」も、遠まわしで婉曲な表現である。英語は具体的な表現を好むとはいえ、何でもかんでも直接的にずばずば表現するというわけではない。やはり、そこは同じ人間、婉曲表現、ユーフェミズム (euphemism) は当然ある。

OALD辞典によると、euphemism (for something) = an indirect word or phrase that people often use to refer to something embarrassing or unpleasant, sometimes to make it seem more acceptable than it really is:

*Pass away is a euphemism for 'die.' 'User fees' is just a politician's euphemism for taxes.

英訳する際、まず、日本語の意味を正確に理解する必要がある。「なにしたらおしまいさ」は単純な表現に見えるが、その意味は意外と複雑だ。文頭の「なにしたら」は婉曲表現だが、意味は誰にでもわかる。「なに」する = セックスする、という意味。問題はつぎの語句「おしまいさ」の方である。これはあいまいな表現だ。いったい何がおしまいなのか、何が終わるのか、主語は何だろうか。和文ではこのように、しばしば主語が省略されるが、英文では主語は不可欠。主語を特定しないかぎり英文は書けない。主語や目的語が省略された和文を私は便宜上「文脈依存文」と呼ぶ。文脈依存文の主語や目的語は通常、前後の文脈から判断できる。

駒子(19歳)は不思議なくらい清潔な女性。足指の裏の窪みまできれいであろうと島村が思ったほどだ。島村は駒子に芸者の世話を頼んでいる。駒子は友だちにしときたいから口説かないという。なるほど、そうか、ならば主語は「男女間の友情」にちがいない。

つまり、「なにしたらおしまいさ」の意味はわかりやすく表現しなおすと、露骨になるので少し気がひけるが、「セックスすると友情がおしまいになる」ということを一般論として述べている。

「なにしたらおしまいさ」を直訳すると、

Friendship will be over if you have an affair. (仮定法現在)

Friendship would be over if you had an affair. (仮定法過去)

ここの "you" は「あなた」という意味ではなく、総称的に一般の人をさす「人は(誰でも)」という意味。また affair は、ここでは「情事、浮気」 (love affair) を意味する。

仮定法 if について:

日本語では、仮定法はすべて「A ならば B」という形式で表現し、内容にまで踏み込むことはしない。しかし、英語では面倒なことに、内容にまで踏み込んで実現の可能性が高いか低いかを区別し、それぞれに異なる表現法を採用する。実現の可能性の高いものの場合(=あり得る話)には、英語では条件節 (if-clause) に現在形を使用する。現在形を使用するのでこれを仮定法現在と呼ぶ。実現の可能性の低い場合や事実と異なるものの場合(=あり得ない話)には、英語では条件節に必ず過去形を使用する。過去形を使用するのでこれを仮定法過去と呼ぶ。しかし、過去形は使用するがその意味は現在。また、可能性が高いか低いかの判定は、話し手本人の主観的判断に依存する。

if については「if の創出する不思議な世界」http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-364.html を参照してください。

「なにしたらおしまいさ」は島村のせりふなので、島村の気持ちに即して考えれば、仮定法過去の Friendship would be over if you had an affair. がふさわしい。ただし、この英文は私が英訳したものなので、いわば典型的なジャパニーズイングリッシュ。そこで、ネイティブ・スピーカーの模範解答と比較・検討する。わが師匠(私が勝手にそう思っているだけ)、サイデンステッカー教授の英訳は次の通り。

原文:「なにしたらおしまいさ。味気ないよ。長続きしないだろう。」

訳文: "An affair of the moment, no more. Nothing beautiful about it. You know that--it couldn't last."

訳訳文: 「つかのまの情事、それだけのこと。味気ないよ。長続きしないだろう」

あれえ、「なにしたらおしまいさ」の部分は「つかのまの情事、それだけのこと」 "An affair of the moment, no more." と訳されている。変だなあ。ひょっとしたら師匠は、「なにしたらおしまいさ」を「なにするだけでおしまいにする。それ以上のことはしない」と解釈されたのではないか?まさかね、日本語の堪能な大先生がそんなはずはない。はてさて、それじゃあ、どう考えたらいいんだろう。どうも「おしまい」という語に問題がありそうだ。ここの「おしまい」の用法は、フーテンの寅さんの 「それをいっちゃーおしめぇーよ」 (Things will be over if you say that.) と類似している。日本語大辞典は「おしまい」を次のように定義する。

お-しまい【*御仕舞(い)】
《「仕舞い」の丁寧語》

(1) 終わり。the end (用例>物語はこれで〜。
(2) 物事がだめになること。be all up (用例>こう不景気では、商売も〜だ。
(3) お化粧。身じまい。make up

問題の「おしまい」の意味は、定義の (2) 物事がだめになること、に該当する。それなら私の解釈でもよさそう。そこで、"An affair of the moment, no more." の文を私の訳文と差し替えて、全体をもう一度、原文と比較してみよう。

原文: 「なにしたらおしまいさ。味気ないよ。長続きしないだろう。」

提案: "Friendship would be over if you had an affair. Nothing beautiful about it. You know that--it couldn't last."

うん、これでもよさそう。(なーんてね、独り合点だったりして)
罪滅ぼしに、以下の英文はすべてサイデンステッカー教授の "Snow Country" から引用する。

「そう。ほんとうにみんなそうだわ。私の生まれは港なの。ここは温泉場でしょう。」

"That's true. It's that way with everyone who comes here. This is a hot spring and people are here for a day or two and gone."

「私の生まれは港なの」は訳されていない。この文がない方がすっきりしてわかりやすいと師匠は判断されたのであろうか。代わりに、原文にない "and people are here for a day or two and gone." (温泉客は1泊か2泊してから出て行く)という文が新たに補充されている。翻訳ではこのように、省略や補充が必要な場合がある。

女は思いがけなく素直な調子で(言った)。

Her manner was remarkably open--the transition had been almost too abrupt.

「お客はたいてい旅の人なんですもの。私なんかまだ子供ですけれど、いろんな人の話を聞いてみても、なんとなく好きで、その時は好きだとも言わなかった人の方が、いつまでもなつかしいのね。忘れないのね。別れた後ってそうらしいわ。向うでも思い出して、手紙をくれたりするのは、たいていそういうんですわ。」

"The guests are mostly travelers. I'm still just a child myself, but I've listened to all the talk. The guest who doesn't say he's fond of you, and yet you somehow know is--he's the one you have pleasant memories of. You don't forget him, even long after he's left you, they say. And he's the one you get letters from."

女は窓から立ち上がると、今度は窓の下の畳に柔かく座った。遠い日々を振り返るように見えながら、急に島村の身辺に座ったという顔になった。

She stood up from the window sill and took a seat on the mat below it. She seemed to be living in the past, and yet she seemed to be very near Shimamura.

「今度は」が単に "and" と訳されている。なるほど、そうですね。「遠い日々を振り返るように見えた」が "She seemed to be living in the past," ですか。なるほどね。名人の手にかかると、実に簡潔に表現できるものですね。でもね、師匠、「柔かく座った」の「柔かく」は省略しないでほしかった。この表現は女性が心を開いてうちとけたさまを表す男どもにとってとても大事なこと。私など着物を着た女性の優美なしぐさばかりか、まろやかな白肌のうなじまでも連想してしまいそう。思わず、"and took a seat" の部分を "and sat down softly" に変更したい衝動に駆られる。


黙って立ち去ったのは誰?

『雪国』では、「女」という語は駒子のみをさす

翻訳をしていてよかったと思えることのひとつに、原文を精読できることである。もちろん翻訳などしなくても本は精読できる。しかし精読の濃さがちがう。たとえば、川端康成の『雪国』の文庫本は、単に読むだけなら一日、腰をすえてじっくり熟読したとしても、せいぜい数日もあれば十分だ。ところがこれを英訳するとなるとそうはいかない。最短でも1ヶ月はかかる。文章にとことんこだわる人であれば、半年とか一年かかったとしても不思議ではない。翻訳は、原作者が作品を完成させるのに要する時間とほぼ同じくらい、あるいはさらに長い時間かかることもある。一字一句、句読点までも吟味しながら作品と長く接することで、翻訳者は普通の読者が見落としたり勘違いしたりする箇所に気づくこともある。これからその一例を紹介したいが、まずは原文をご覧あれ。

川端康成の『雪国』 新潮文庫 27ページから引用する。

「それでどれくらいいるの。」

「芸者さん?十二三人かしら。」

「なんていう人がいいの?」と、島村が立ち上ってベルを押すと、

「私は帰りますわね?」

「君が帰っちゃ駄目だよ。」

「厭なの。」と、女は屈辱を振り払うように、

「帰りますわ。いいのよ、なんとも思やしませんわ。また来ますわ。」

しかし女中を見ると、なにげなく座り直した。女中が誰を呼ぼうかと幾度聞いても、女は名指しをしなかった。

ところが間もなく来た十七八の芸者を一目見るなり、島村の山から里へ出た時の女ほしさは味気なく消えてしまった。肌の底黒い腕がまだ骨張っていて、どこか初々しく人がよさそうだから、つとめて興醒めた顔をすまいと芸者の方を向いていたが、実は彼女のうしろの窓の新緑の山々が目についてならなかった。ものを言うのも気だるくなった。いかにも山里の芸者だった。島村がむっつりしているので、女は気をきかせたつもりらしく黙って立ち上って行ってしまうと、一層座が白けて、それでももう一時間くらいは経っただろうから、なんとか芸者を帰す工夫はないかと考えるうちに、電報為替の来ていることを思い出したので郵便局の時間にかこつけて、芸者といっしょに部屋を出た。


訳文:
"Snow Country" translated by Edward G. Seidensticker (Page 28, Vintage Books)

"How many are there in all?"

"How many geisha? Twelve or thirteen, I suppose."

"Which one do you recommend?" Shimamura stood up to ring for the maid.

"You won't mind if I leave now."

"I mind very much indeed."

"I can't stay." She spoke as if trying to shake off the humiliation. "I'm going. It's all right. I don't mind. I'll come again."

When the maid came in, however, she sat down as though nothing were amiss. The maid asked several times which geisha she should call, but the woman refused to mention a name.

One look at the seventeen- or eighteen-year-old geisha who was presently led in, and Shimamura felt his need for a woman fall dully away. Her arms, with their underlying darkness, had not yet filled out, and something about her suggested an unformed, good-natured young girl. Shimamura, at pains not to show that his interest had left him, faced her dutifully, but he could not keep himself from looking less at her than at the new green on the mountains behind her. It seemed almost too much of an effort to talk. She was the mountain geisha through and through. He lapsed into a glum silence. No doubt thinking to be tactful and adroit, the woman stood up and left the room, and the conversation became still heavier. Even so, he managed to pass perhaps an hour with the geisha. Looking for a pretext to be rid of her, he remembered that he had had money telegraphed from Tokyo. He had to go to the post office before it closed, he said, and the two of them left the room.

引用が少し長くなってしまいましたが、それでは質問。

「島村がむっつりしているので、女は気をきかせたつもりらしく黙って立ち上って行ってしま(った)」とありますが、黙って部屋を立ち去ったのは誰ですか?

正解はもちろん芸者でしょうと、たいていの人は答える。私も最初そう思った。実際、この文庫本の注解でも、動作主は芸者だとみているようだ。「黙って立ち上って」は、「客つまり島村に気に入られないで、断られたと、この女は判断したため」と記載されている。

しかし、たぶんそうではない。動作主は駒子だと私は思う。というのは、このとき部屋にいたのは島村と芸者、駒子の三人。気をきかせて駒子が部屋を出て行った。残されたのは島村と芸者。座はいっそう白けた。それから一時間ほどしてから、島村は芸者といっしょに部屋を出たのだ、と思う。実は『雪国』では、「女」という語は駒子をさすのである。

サイデンステッカー教授はこの部分を次のよう翻訳している。

原文:島村がむっつりしているので、女は気をきかせたつもりらしく黙って立ち上って行ってしまうと、一層座が白けて、それでももう一時間くらいは経っただろう

He lapsed into a glum silence. No doubt thinking to be tactful and adroit, the woman stood up and left the room, and the conversation became still heavier. Even so, he managed to pass perhaps an hour with the geisha.

訳訳文: 彼は不機嫌に黙り込んだ。女は気をきかせようと思ったようで、立ち上って部屋を出て行ったので、会話はさらに重たくなった。それでも彼は何とか一時間ほど芸者と時間をつぶした。

英文でも the woman が使用されているので、英文読者も一瞬、the woman = the geisha (女=芸者)と勘違いした人もいると思う。この文を明文(わかりやすい文)に変更するには、「女」を「駒子」に置き換えるだけでよい。「島村がむっつりしているので、駒子は気をきかせたつもりらしく黙って立ち上って行ってしま(った)」と、固有名詞の「駒子」を使用しさえすれば誤解は生じない。実務畑出身の私などは、ついそう思ってしまう。しかし、そこはそれ、文学の世界。「女」という語に並々ならぬこだわりがある。島村にとって「女 (woman)」は駒子のみ、である。『雪国』のその他の登場人物、たとえば、娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように「駅長さあん、駅長さあん」、と叫んだのは葉子であるが、葉子は「娘 (girl)」であり「女」ではない。それ以外の女性たちも、それぞれ「女中」、「芸者」、「細君」であり、「女」という語では表現されていない。ただし、一箇所だけ例外に見える文章はある。

宿屋の客引きの番頭は火事場の消防のようにものものしい雪装束だった。耳をつつみ、ゴムの長靴をはいていた。待合室の窓から線路の方を眺めて立っている女も、青いマントを着て、その頭巾をかぶっていた。(『雪国』 新潮文庫 13ページから抜粋)

これは、長いトンネルを抜け汽車から降り立った島村が最初に目にした湯沢町の駅前の光景である。このときは島村は青いマントの女が誰か知らないが、その後、宿屋の番頭との会話からこの「女」が駒子だったことを知る。女=駒子(一対一)。ワーオ、徹底しているなあ!でも、「女」には並々ならぬこだわりがあるのに、「男」にはあっけらかんとしている。無頓着というか、無関心というか、まったくこだわりが見えない。駅長も、葉子の連れの病人も、屋根の雪を落とす人も、すべて「男」という語で表現されている。男=男一般(一対多)。このふたつの用法は、言語学的には不均衡といえないこともないが、生物学的には男の本性に忠実でとてもわかりやすい。


対の黄蝶
求愛活動の美しさと愛の破局を暗示する

色恋はしばしば、つがいの蝶にたとえられる。梅沢富美男のヒット曲『夢芝居』(作詞・作曲:小椋 佳)でも、♪男と女 あやつりつられ、対のアゲハの誘い誘われ…。蝶のもつれ合いは絵になる。アゲハ(揚羽蝶)はどことなく妖艶で、黄蝶は可憐な感じだ。『雪国』の黄蝶のくだりは、私にとって印象深いシーンのひとつである。川端康成の『雪国』 新潮文庫 28ページから引用する。

原文:
しかし、島村は宿の玄関で若葉の匂いの強い裏山を見上げると、それに誘われるように荒っぽく登って行った。なにがおかしいのか、一人で笑いが止まらなかった。ほどよく疲れたところで、くるっと振り向きざま浴衣の尻からげして、一散に駆け下りて来ると、足もとから黄蝶が二羽飛び立った。蝶はもつれ合いながら、やがて国境の山より高く、黄色が白くなってゆくにつれて、遥かだった。

訳文:
But at the door of the inn he was seduced by the mountain, strong with the smell of new leaves. He started climbing roughly up it. He laughed on and on, not knowing himself what was funny. When he was pleasantly tired, he turned sharply around and, tucking the skirts of his kimono into his obi, ran headlong back down the slope. Two yellow butterflies flew up at his feet. The butterflies, weaving in and out, climbed higher than the line of the Border Range, their yellow turning to white in the distance.


原文:しかし、島村は宿の玄関で若葉の匂いの強い裏山を見上げると、それに誘われるように荒っぽく登って行った。

訳文: But at the door of the inn he was seduced by the mountain, strong with the smell of new leaves. He started climbing roughly up it.

訳訳文:しかし宿の玄関で、彼は若葉の匂いの強いその山に魅了された。彼は荒っぽく登り始めた。

サイデンステッカーは原文を2つの文に分割している。長文は分割すると英訳が簡単になり、訳文も自然な英文となる。「裏山を見上げると、それに誘われるように」が単に、「その山に魅了された」と要約して英訳されている。「裏山」も単に 「その山」 the mountain と訳してある。しかし、英文を読み返してみても不自然さはなく、いずれもこの表現で十分だという感じがする。

原文:なにがおかしいのか、一人で笑いが止まらなかった。

訳文: He laughed on and on, not knowing himself what was funny.

訳訳文:なにがおかしいのか自分でもわからないまま、彼は笑い続けた。

なるほど、「笑いが止まらない」というのと「笑い続ける」は同じことですね。
on and on (引き続き) は、動作の継続を意味する副詞句。

動作がとぎれたり続いたりするときは、on and off = off and on (時々、不規則に)。

It rained on and off for the whole afternoon. (午後はずっと雨が降ったり止んだりした)

原文:ほどよく疲れたところで、くるっと振り向きざま浴衣の尻からげして、一散に駆け下りて来ると、足もとから黄蝶が二羽飛び立った。

訳文: When he was pleasantly tired, he turned sharply around and, tucking the skirts of his kimono into his obi, ran headlong back down the slope. Two yellow butterflies flew up at his feet.

訳訳文:気持ちよく疲れたところで、彼は急に振り向いて、着物のすそを帯に押し込み、いっさんに坂道を駆け下りた。足もとから黄蝶が二羽飛び立った。

ここでもひとつの和文が2つの英文に分割して英訳されている。擬態語の「くるっと」は sharply (急に) に訳されている。「浴衣(ゆかた)の尻からげ」は、「着物のすそを帯に押し込み」 (tuck the skirts of his kimono into his obi)。 ウーン、なるほど。「足もとから」は、前置詞が from (〜から) ではなく at (〜で) が使用されていることに注意する。日本語の「〜から」は通常、 from を使用して、たとえば、

わが社の営業時間は9時から6時までです。Our business hours are from nine to six.

と表現するが、たまに from の代わりに in, at となる場合もある。

太陽は東から昇る。The sun rises in the east.

学校は9時から始まる。School begins at 9.

ドロップダウンリストから項目を選びます。Select an item in the drop-down list.

原文:蝶はもつれ合いながら、やがて国境の山より高く、黄色が白くなってゆくにつれて、遥かだった。

訳訳文:蝶はもつれ合いながら、国境の山並みより高く上り、遠くで体の黄色は白に変わった。

The butterflies, weaving in and out, climbed higher than the line of the Border Range, their yellow turning to white in the distance.

原文は「蝶」を題(topic)にして、「蝶はもつれ合い、山並みより高く、黄色が白くなり、遥かだった」と、一文にまとめてある。これに対して、英文では前半は butterflies を主語としているが、後半では yellow を主語にしている。ピリオドの代わりにコンマを使用することで、あたかも一文のように見せかけてはあるが、実質的には2つの文(重文)である。だから、The butterflies, weaving in and out, climbed higher than the line of the Border Range. Their yellow turned to white in the distance. としてもそれほど違和感はない。もっともここでは、原文の表現により近いサイデンステッカーの訳文の方が良いのは言うまでもない。原文では「遥かだった」と述語(形容動詞)だが、英文では " in the distance" (遠くで) と副詞句として処理している。

「蝶はもつれ合いながら〜」というこの表現は、注解にあるように、島村と駒子の愛の破局を暗示しているのだろうか?そうかもしれないが私の印象を少し付け加えたい。

島村、つまり川端康成は、黄蝶がもつれ合いながら上空高く舞い上がるのをずっと見続けていた。しかも「黄色が白くなってゆくにつれて、遥かだった」というぐらいだから相当に長い時間、見続けていたことになる。しかし私の子供の頃の観察では、蝶は一般に、せいぜい10 m ほどの低空を飛翔するものである。開張 4 cm ほどの黄蝶が山並みより高く舞い上がることなど、実際にはまずありえない。これはきっと文学者特有の心象風景にちがいない。そうだとすれば、この個所は、生殖本能の烈しさや求愛活動の美しさ・永遠性など、彼自身が心の中に抱くイメージが投影されているのではないだろうか。そして、永遠に続くように思えていた燃えるような恋情もいつかは色あせ、やがて遥かかなたの思い出に変わる。「黄色が白くなってゆくにつれて、遥かだった」のくだりは、こうした愛の破局を暗示しているのだろうか。


どうなすったの?
日本語は敬語などの待遇表現が豊富

【川端康成の『雪国』 新潮文庫 28ページ】

「どうなすったの。」女が杉林の陰に立っていた。

「うれしそうに笑ってらっしゃるわよ。」

「止めたよ。」と、島村はまたわけのない笑いがこみ上げて来て、「止めたよ。」

「そう?」女はふいとあちらを向くと、杉林のなかへゆっくり入った。彼は黙ってついて行った。

「どうなすったの」は女性が使用する丁寧語である。尊敬表現の「どうなさったのですか」から派生したもの。「なさる」は「する」の尊敬語。「なさった」は「なすった」の形になることがある。「どうしたのですか」も丁寧語でこちらは男女とも使用可能。「どうしたの」は丁寧語ではあるが、(ですか)が省略されている分、丁寧さが不足しているので目上には使用できない。「どうなさったのですか」や「どうなすったの」、「どうしたのですか」、「どうしたの」は、表現は異なるが、意味はまったく同じである。

このように、日本語は敬語などの待遇表現が豊富だ。敬語は人に敬意を表すために用いるもので、尊敬語・謙譲語・丁寧語の3種類がある。尊敬語は相手のことを話すときに、謙譲語は自分(身内を含む)のことを話すときに、また、丁寧語は相手に関係なく丁寧に話すときに、それぞれ使用する。「ご飯を食べる」を例にとると、ご飯を召し上がる(尊敬語)、ご飯をいただく(謙譲語)、ご飯を食べます(丁寧語)となる。丁寧語は、いわゆる「です・ます」体がメインになるので一番使いやすい。

英語には丁寧な表現はあるが敬語はない。そこで日本語の敬語を英訳するとき、私は敬語を一度、基本語に直してから英訳するようにしている。たとえば、

いらっしゃる(尊敬)、うかがう or 参る(謙譲) → 行く
おみえになる(尊敬)、参る(謙譲) → 来る
なさる(尊敬)、いたす(謙譲) → する

「どうなすったの」についても同様に、基本語に直すと、「どうしたの」となる。ちなみに、「どう」は副詞で、「どのように」の意味。英語の疑問詞 how, how about, what などに相当する。「どうしたの」は何かが発生し、その何かを質問するときに使用する。「何があったの」とか「どんな事が起こったのか」という意味なので、what がふさわしい。「どうしたの」 = What's the matter? または What happened?

ただし、LAAD辞典によると、What's the matter? は、心配事とか病気など、相手が何かよくない状態のとき、その理由を質問するときに使用する (used when someone seems upset, unhappy, or sick and you are asking them why) ものなので、ここの文脈にはふさわしくない。(島村は山を駆け下りてきて、今はすっきりした気分だから)。

用例として、たとえば、Honey, what's the matter with you? Don't you feel well? (あなた、どうなすったの。気分でも悪いの?)。つまり、 What's the matter with you? = What's wrong with you? という感じですね。

「どうなさったのですか」は敬語だが、「どうした?」は敬語ではない。ため語(=ためぐち)に近いので、目上の人に使用すると失礼になる。しかし英語には敬語がないので「どうした?」も「どうなさったのですか」もいずれも "What happened?" で表現してよい場合が多い。強いて訳せば、たとえば、

「どうした?」
Hey, what happened?

「どうなさったのですか」
May I ask what happened?

"Hey" や "May I ask" などを付加することで、日本語の雰囲気に多少、近づけることは可能かもしれないが、根底に常に日英ふたつの文化の違いが存在する以上、決して完璧に一致することはない。あまり敬語にこだわりすぎると、不自然な英文になる恐れがある。

「どうしたの」 = What's the matter? または What happened? であるが、興味深いことに、「どうするの」となると、その英訳は大きく変身する。英文の主語が「こと」から「あなた」に変化するのだ。

「どうするの」
What are you going to do? (発音は「ワユゴナヅ」)

映画などの会話を聞いていると、この表現 (What are you going to do?) は頻発するが、日本人の耳にはまちがいなく、「ワユゴナヅ」と聞こえるはず。決して「ワッツ・アー・ユー・ゴーイング・ツー・ヅー」と聞こえることはない。

私たちが日常何気なく使用している表現、「どうしたの」や「どうするの」は、日本語としては同じ文法構造なのでその違いを意識できないが、英訳するとその相違点がはっきりと浮かび上がってくる。

事柄(matter)を質問する「どうしたの」 = What's the matter? or What happened?

未来の事柄(matter)を質問する「どうなるの」 = What will happen?

相手の行為を質問する「どうしたの」 = What did you do then? or What have you done?

相手の今後の行為を質問する「どうするの」 = What are you going to do?

それではここで本文に戻って、わが師匠、サイデンステッカー教授の訳文を確認しよう。


原文: 「どうなすったの」

訳文: "What happened?"

原文: 女が杉林の陰に立っていた。

訳文: The woman was standing in the shade of the cedar trees.

原文: 「うれしそうに笑ってらっしゃるわよ。」

訳文: "You must have been very happy, the way you were laughing."


原文: 「止めたよ。」と、島村はまたわけのない笑いがこみ上げて来て、「止めたよ。」

訳文: "I gave it up." Shimamura felt the same senseless laugh rising again. "I gave it up."


原文: 「そう?」女はふいとあちらを向くと、杉林のなかへゆっくり入った。

訳文: "Oh?" She turned and walked slowly into the grove.

原文: 彼は黙ってついて行った。

訳文: Shimamura followed in silence.

ウーン、当然といえば当然のことながら、ネイティブ・スピーカーの英語はさすがに簡潔ですね。「杉林」は、the cedar forest などといわず、the cedar trees と tree (木) を複数形にしてある。そういえば、日本語でも「林」は「木」がふたつ並んでいますね。後半の「杉林のなかへゆっくり入った」は、"walked slowly into the grove" と、今度はその「杉林」を単に、the grove(木立)ですか。定冠詞 (the) がここでもぐっと効いていますね。いやはや、恐れいりました。


神社であった
神社と寺院は異なる

【川端康成の『雪国』 新潮文庫 29ページ】

神社であった。苔のついた狛犬(こまいぬ)の傍の平な岩に女は腰をおろした。

「ここが一等涼しいの。真夏でも冷たい風がありますわ。」

「ここの芸者って、みなあんなのかね。」

「似たようなものでしょう。年増にはきれいな人がありますわ。」と、うつ向いて素気なく言った。その首に杉林の小暗い青が映るようだった。
島村は杉の梢(こずえ)を見上げた。

「もういいよ。体の力がいっぺんに抜けちゃって、おかしいようだよ。」

神社(お宮)や寺院(お寺)は両方とも、私たちにはなじみ深い。しかし神社と寺院は異なる。小学生の頃、私はそのことを一番上の姉に教わった。「あのね、お宮は神様、お寺は仏様がまつってあるのよ」。そのとき、どういうわけか、姉の説明にすぐに納得ができ、なんだか自分が少し賢くなったような気がした。田舎の幼稚園は当時、お寺の境内の一角にあり、姉は幼稚園の先生だった。盆踊りなどお祭りは、お宮の境内に臨時の舞台が設置されて、そこで盛大に行なわれた。

神社は shrine, 寺院は temple と私たちは暗記する。日本では神社や寺院は、「神社仏閣」と総称されるように両方とも同等だ。その違いは説明しないとわからないほどに。しかし、キリスト教徒が圧倒的多数を占める英米では、英語の shrine と temple は事情が異なる。一言で言うと、shrine は誰でも訪れる身近なところだが、temple はキリスト教以外の、異教徒たちが礼拝に行くところである。shrine の定義に come が、temple の定義に go が使用されているのも、英米人の心の奥底にひそむ親近度を反映しているようで興味深い。

shrine: a place where people come to worship because it is connected with a holy person or event. (from OALD)
(シュライン: 聖人や聖祭に関連している場所で、人々が礼拝に来るところ)

temple: a building where people go to worship, in the Jewish, Hindu, Buddhist, Sikh, and Mormon religions. (from LAAD)
(テンプル: ユダヤ教・ヒンズドゥー教・仏教・シーク教・モルモン教の人々が礼拝に行く建物)

a shrine to the Virgin Mary (from OALD)
聖母マリアをまつっている殿堂

Wimbledon is a shrine for all lovers of tennis. (from OALD)
ウィンブルドンはテニス愛好家たちの聖地である。

それではここで本文に戻って、原文と訳文を鑑賞する。


原文: 神社であった。

訳文: It was a shrine grove.

原文: 苔のついた狛犬の傍の平な岩に女は腰をおろした。

訳文: The woman sat down on a flat rock beside the moss-covered shrine dog.


原文: 「ここが一等涼しいの。真夏でも冷たい風がありますわ。」

訳文: "It's always cool here. Even in the middle of the summer there's a cool wind."

原文: 「ここの芸者って、みなあんなのかね。」

訳文: "Are all the geisha like that?"

原文: 「似たようなものでしょう。年増にはきれいな人がありますわ。」と、

訳文: "They're all a little like her, I suppose. Some of the older ones are very attractive, if you had wanted one of them."

原文: うつ向いて素気なく言った。

訳文: Her eyes were on the ground, and she spoke coldly.

原文: その首に杉林の小暗い青が映るようだった。

訳文: The dusky green of the cedars seemed to reflect from her neck.

原文: 島村は杉の梢(こずえ)を見上げた。

訳文: Shimamura looked up at the cedar branches.

原文: 「もういいよ。体の力がいっぺんに抜けちゃって、おかしいようだよ。」

訳文: It's all over. My strength left me--really, it seems very funny.

最初の文はいきなり、「神社であった。」で始まる。駒子が杉林の中に入って行き、島村はその後をついて行ったのだが、その行った先が「神社であった」のである。このように、題が何かがわかっている場合、日本語では無理して題を文に含める必要はない。「(そこは)神社であった。」の意味。ちなみに、場所を表す「ここは」、「そこは」、「あそこは」などは、英語では this (not here), it, that で表現できる。

ここは文京区本郷1丁目です。(住所標示板)
This is Hongo 1-chome, Bunkyo-ku. (not Here is Hongo 1-chome ... )

「そこは神社であった」は、日本人なら10人中9人は "It was a shrine." と訳し、それ以上何もこだわる個所はなさそうに思えるところだが、サイデンステッカー教授は、It was a shrine grove. と 原文にない単語 "grove" をわざわざ補充している。ちなみに、"grove" (グローブ)とは a small group of trees という意味で、木が群がって立っている所、すなわち、日本語の「木立」にあたる。ここでは杉の木立 (a grove of cedar trees) を指す。彼は、「神社」をそのまま "shrine" と逐語訳するのではなく、この「神社」は正確には、「神社の(境内の杉の)木立」を指していると解釈したにちがいない。

狛犬(こまいぬ)は shrine dog ですか。なるほど。では、お寺の狛犬は temple dog ですね。

苔(こけ)のついた = moss-covered, moss-grown, or mossy

苔 (moss) は、日本文化では価値あるものである。盆栽でも苔を巧みに活用する。こけ色(モスグリーンmoss green)を見ると、日本人は心が落ち着く。苔は、園芸(ガーデニング)の先進国イギリスでも価値あるものだが、アメリカでは無価値なものとなるらしい。だから、苔(こけ)の諺(ことわざ)が英米では解釈が反対になるという。

A rolling stone gathers no moss. 転石、苔を生ぜず。ころがる石にはこけが生えない。

職業を転々と変える人は益がなく、ろくなことはない。(イギリスの解釈)
職業を転々と変える人はカビが付かず、いつも清新だ。(アメリカの解釈)

「年増にはきれいな人がありますわ」は、今の女の子ならたぶん、「30代にはきれいな人がいますわ」と表現すると思う。現代日本語では、無生物・植物・物事が存在するときには「あります」を、人や動物の場合は「います」を使用するのが普通である。

「うつ向いて素気なく言った」は、” Her eyes were on the ground, and she spoke coldly.” となっている。主語をひとつにして She spoke coldly with her head down. も可能だが、しかし、この表現はすっきりしている分、文学的な余韻があまり感じられない。

「もういいよ」は “It's all over.”(もうすべて終わったよ)。これも上品な表現ですね。
こういう日常的な常套句の英訳が一番むずかしい。専門用語であれば、専門辞書の見出し語に掲載されているので検索も容易で問題はないが、日常、頻繁に使用することば、たとえば、「もういいよ」、「じゃあ、いいよ」、「いい加減にしろよ」、「だといいけど」などになると、途方にくれる。

「もういいよ」: “It's all over.” or “That’s enough.” or “Forget it.”, etc.

「じゃあ、いいよ」: “OK, I’ll give it up.” or “In that case, forget it.”, etc.

「いい加減にしろよ」: “Cut it out.” or “You talked too much.”, etc.

「だといいけど」: “That would be nice, but ...” or “I wish I could, but ...” , etc.

コンピュータ用語は直訳できるが、日常語はそうはいかない。ひとつの語句には多くの意味がある。同じ「もういいよ」でも、その場の状況に応じて七変化したり百変化したりもするのだ。だから内容はともかく翻訳作業という観点からみれば、科学論文・契約書・仕様書などよりも、日常語の翻訳の方がはるかにむずかしい。


思いちがい
英語の ”mistake” は行為だけでなく「意見」も含む

【川端康成の『雪国』 新潮文庫 29ページ】

「僕は思いちがいしてたんだな。山から下りて来て君を初めて見たもんだから、ここの芸者はきれいなんだろうと、うっかり考えてたらしい。」と、笑いながら、七日間の山の健康を簡単に洗濯しようと思いついたのも、実は初めにこの清潔な女を見たからだったろうかと、島村は今になって気がついた。


原文はひとつの長文である。長文は分割してから英訳すると、翻訳が簡単で自然な英文にまとめることができる。「長文は分割してから翻訳する」は私の信条。でも、そんなことをしたら、原文のよさが損なわれるのではないのかと反論する人もいる。確かにそれも一理ある。分断することで、文体が犠牲になるし、また、接続助詞(〜だから、〜ながら、〜ので)がおうおうにして割愛されてしまう。できることなら分断などしないで、原文のことばひとつひとつを忠実に逐語訳(直訳)したい、と私も思う。しかし、和文英訳や英文和訳は、直訳では意味不明となりどうしても意訳(自由訳)しないわけにはゆかない場合が多い。英語と日本語は構造的に、大きくかけ離れているので、「長文は分割してから翻訳する」より仕方がない。

まず、長文をいくつかの文に分断する。分断するときは動詞に注目し、概念(意味のひとまとまり)ごとに切り出す。分断箇所にはスラッシュ(斜線 “ / “) を入れる。スラッシュ (slash) は動詞では「切り裂く」の意。これだと書くのが簡単で読み手も理解しやすい。

「僕は思いちがいしてたんだな。/ 山から下りて来て君を初めて見たもんだから、/ ここの芸者はきれいなんだろうと、うっかり考えてたらしい。」と/ 、彼は笑った。/ (〜ながら、) 七日間の山の健康を簡単に洗濯しようと思いついたのも、実は初めにこの清潔な女を見たからだったろうかと、島村は今になって気がついた。/

試訳: “I must have misunderstood. I saw you for the first time when I came down from the mountains, and I mistakenly thought that all the geisha here were beautiful like you,” he laughed. Shimamura now realized that the idea, too, of washing away soon his energy of seven days in the mountains had perhaps come to him because he first saw this nice clean woman.

試訳は私が英訳したので典型的なジャパニーズ・イングリッシュ(国際英語)。洗練された格調高いアメリカ英語(民族英語)をお望みの方は、試訳はざっと目を通すだけにして、文末のサイデンステッカーの訳を心ゆくまで堪能してください。

「見たもんだから」→「見たものだから」→「見たので」

接続助詞(〜だから、〜ので)は、理由・原因を示す。本来、"because" の意味だが、"and" で代用できる場合が多い。たとえば、


ゆうべはほとんど寝ていないので、今とても眠たい。

I hardly slept at all last night, and I'm very sleepy now.
(= I'm very sleepy now because I hardly slept at all last night.)


朝ごはんを食べなかったので、今おなかがすいている。

I didn't have breakfast and I'm hungry now.

このように、"because" を "and" で代用すると、日本語にそって頭から順番に訳していけるし、英文もごく自然な英文となる。理由・原因を明示する必要のある場合を除き、私は、接続助詞(〜だから、〜ので)はたいてい "and" で代用する。職場に "because" の大好きな同僚がいる。あるとき、彼の書いた一通の英文メールに 3 回も "because" が出てきた。いくらなんでも、これはちょっと多すぎる。よく見ると、ほとんど "and" に置き換えることができるものばかりだった。

原文: 「僕は思いちがいしてたんだな。

訳文: “I made a mistake.

原文: 山から下りて来て君を初めて見たもんだから、

訳文: I saw you as soon as I came down from the mountains, and

原文: ここの芸者はきれいなんだろうと、うっかり考えてたらしい。」と、

訳文: I let myself think that all the geisha here were like you,”

原文: 彼は笑った。

訳文: he laughed.

原文: 七日間の山の健康を簡単に洗濯しようと思いついたのも、実は初めにこの清潔な女を見たからだったろうかと、島村は今になって気がついた。

訳文: It occurred to him now that the thought of washing away in such short order the vigor of seven days in the mountains had perhaps first come to him when he saw the cleanness of this woman.

「私はミスをした」は ”I made a mistake” という。しかし、日本語のミスは間違いとか誤りなど、主として「行為」を指すが、英語の ”mistake” は行為だけでなく「意見」をも含む。mistake: an action or an opinion that is not correct, or that produces a result that you did not want. (from OALD)。つまり、”I made a mistake” は、(私はミスをした)の場合も当然あるが、(私は思いちがいをした)という意味のときもある。"Don’t worry, we all make mistakes." (くよくよするな、人は誰でも誤りを犯すものだ)。

山から下りて来て = I came down from the mountains,

「山」が the mountains と複数形になっていることに注意する。これが the mountain と単数形であれば、島村が宿泊している宿の「裏山」と勘違いされてしまう。七日間も山を歩けば、当然、近辺の複数の山に足を踏み入れているはずだ。

うっかり考えた = I let myself think

日本語の「うっかり」は副詞なので、日本人ならたいてい、英語の副詞、たとえば、mistakenly, carelessly, unconsciously, accidentally などをそのときどきの状況に合わせて使用したくなる。訳文では動詞 ”let” の過去形が使用されている。(let-let-let)

動詞 ”let” は奥が深い。 Let me help you.(お手伝いさせてください)やLet me go!(行かせてください=はなしてください)は、まだ理解しやすい。いずれも「〜させてください」という感じ。しかし、ビートルズのヒット曲 ”Let It Be” になると少しやっかいだ。「そのままにしておきなさい」という意味だが、わかったようでわからないような感じがつきまとう。おまけに発音までも日本人の耳には「レリビー」としか聞こえない。 ”let” にはこれ以外にも、「不注意や怠慢でそうなるにまかせる」という意味もある。「うっかり考えた」 ”I let myself think” は、これに該当する。「うっかり考えた」から ”I let myself think” という表現は、日本人にはまず思い浮かばない。ここが民族英語と国際英語のちがい。これは動詞 ”let” を熟知しているネイティブ・スピーカー(英米人)ならではの発想だ。


お煙草でしょう
日本語の語順

都市化や過度の文明化はヒトの中性化を促すのだろうか。最近、恋愛やセックスに消極的な草食系男子が増加する傾向にあるという。こう不景気ではそれも仕方がない。これに呼応するかのように20代から30代の女性の間では、意外なことに戦国武将ブームが広がりを見せる。伊達政宗の重臣・片倉小十郎の居城、白石城がある宮城県白石市には今、若い女性が多数訪れる。東京・神田小川町の歴史専門書店 『時代屋』にも、多数の女性客が来店し、戦国武将関連の本やグッズを購入しているという。この書店では現在、「戦国婆裟羅 伊達政宗公の兜(かぶと)」を展示中。女性たちは、時代劇のヒーローに理想の男性像を見出しているのだろうか。ブームの火付け役のひとつは、戦国武将アクションゲーム「戦国BASARA」シリーズだという。しかし、ブームの根底にはおそらく、生物の本能「種の保存」の働きが関与しているにちがいない。「行き過ぎた文明」に対する本能の反撃である。

【川端康成の『雪国』 新潮文庫 30ページ】

西日に光る遠い川を女はじっと眺めていた。手持無沙汰になった。

「あら忘れてたわ。お煙草でしょう。」と、女はつとめて気軽に、

「さっきお部屋へ戻ってみたら、もういらっしゃらないでしょう。どうなすったかしらと思うと、えらい勢いでお一人山へ登ってらっしゃるんですもの。窓から見えたの。おかしかったわ。お煙草を忘れていらしたらしいから、持って来てあげたんですわ。」

それでは早速、原文と訳文をじっくり鑑賞する。(訳: サイデンステッカー)

原文: 西日に光る遠い川を女はじっと眺めていた。

訳文: She gazed down at the river, distant in the afternoon sun.

原文: 手持無沙汰になった。

訳文: Shimamura was a little unsure of himself. (島村は少し不安になった)

原文: 「あら忘れてたわ。お煙草でしょう。」と、女はつとめて気軽に、

訳文: "I forgot," she suddenly remarked, with forced lightness. "I brought your tobacco.

原文: 「さっきお部屋へ戻ってみたら、もういらっしゃらないでしょう。

訳文: I went back up to your room a little while ago and found that you had gone out.

原文: どうなすったかしらと思うと、えらい勢いでお一人山へ登ってらっしゃるんですもの。

訳文: I wondered where you could be, and then I saw you running up the mountain for all you were worth.

原文: 窓から見えたの。

訳文: I watched from the window.

原文: おかしかったわ。

訳文: You were very funny.

原文: お煙草を忘れていらしたらしいから、持って来てあげたんですわ。」

訳文: But you forgot your tobacco. Here."

原文: そして彼の煙草を袂(たもと)から出すとマッチをつけた。

訳文: She took the tobacco from her kimono sleeve and lighted a match for him.

英語に語順 (word order) があるように、日本語にも当然、語順がある。本多勝一によると、日本語の語順の四原則は、T 述部(動詞・形容詞・形容動詞)が最後にくる。 U 修飾辞が被修飾辞の前にくる。 V 長い修飾語ほど先に。 W 句を先に。 ということである。

「西日に光る遠い川を女はじっと眺めていた」 を例にとると、

西日に光る遠い川を女はじっと眺めていた。(正順)
女は、西日に光る遠い川をじっと眺めていた。(逆順)
女はじっと眺めていた、西日に光る遠い川を。(逆順)

「西日に光る」も「遠い」も両方とも「川」に係る修飾語。このように複数の修飾語がある場合、日本語では長い順に、または句を先に並べる。「遠い」は2文字、「西日に光る」は5文字。5文字の方が当然長いので、「西日に光る遠い川」が日本語の正しい語順(正順)である。正順の場合は原則としてテンは不要。しかし、これを逆順にして「遠い西日に光る川」とするときには、テン(読点)をつけて「遠い、西日に光る川」とする。つまり、逆順の場合はテンが必要となる(逆順のテン)。

「遠い」を、たとえば「遥か遠くに見える」(8文字)に置換すると、「遥か遠くに見える」も「西日に光る」も両方とも長い修飾語だが、「遥か遠くに見える」の方がさらに長いので先頭に来る。「遥か遠くに見える西日に光る川」が正順。長い修飾語が2つ以上のときは境界にテンをつけ、「遥か遠くに見える、西日に光る川」とする(長い修飾語は境界にテン)。日本語の語順やテン(読点)のつけ方について詳しくは、本多勝一著 『実戦・日本語の作文技術』 朝日新聞社発行 を参照してください。

西日に光る遠い川 = the river, distant in the afternoon sun (サイデンステッカー訳)

西日に光る遠い川 = the distant river shining in the afternoon sun (試訳)

サイデンステッカー訳には詩的な余韻があるが、試訳にはあまりそれが感じられない。この違いはどこから来るのか?これはおそらく、日本語では修飾語(遠い)は被修飾語(川)の前に配置するしかないが、英語の修飾語(形容詞)は、被修飾語の前でも後でも置くことができる場合が多いので、たとえば訳文のように、the river の後にコンマを付けて " the river, distant in the afternoon sun" と続けることができる。このコンマが余韻を醸成しているのではないか。舞曲にしろ話芸にしろ「間(ま)」が重要だ。間がずれたり抜けたりすると芸事は台無しとなり、それこそ「間抜け」な印象を与える。コンマにより間(小休止)が創造され、あとにまで残る味わい(=余韻)が醸し出されるのではないだろうか。

「手持無沙汰(てもちぶさた)だった」は字義どおりには、「することがなく退屈だった」という意味なので、"Shimamura was bored." と訳してしまいそうになるところだが、ここではどうもそういう意味ではない。島村は退屈などしていない。好きな女と一緒にいて退屈するはずがない。この点、さすがに師匠の訳は、"unsure of himself" 「不安になる」と、島村の気持ちがそれなりに、ちゃんと酌んではある。

以前、「どうなすったの」は、"What happened?" と訳されていた。それに従うと「どうなすったかしらと思う」は、"I wondered what happened to you." これでもよさそうだが、今回は、「どうなすったかしらと思う」 → 「どこにいらっしゃるのかしらと思う」 → "I wondered where you could be." である。

「えらい勢いで」は「一生懸命に」の意。英語の "for all one is worth" (= with as much effort as possible) に相当する。例: He ran for all he was worth.  彼は一生懸命に走った。

「タバコ」といえば現代の日本人ならたいてい、「紙巻きたばこ」、つまり、シガレット(cigarette)を連想する。しかし、訳文の "tobacco" は「刻みたばこ」を指す。そういえば、私が子供の頃、祖父は刻みたばこを煙管(きせる)に詰めて吸っていたようだ。祖父の年代では、シガレットよりも刻みたばこが普通だったのかもしれない。


あの子に気の毒したよ
英語の使役動詞(causative verb)

「あの子に気の毒したよ」は、「あの子に気の毒なことをしたよ」ともいう。気の毒とは「心の毒」、気持ちを害するものという意味。あの子とはここでは、肌の底黒い腕がまだ骨張っていて、どこか初々しく人のよさそうな17歳か、18歳の芸者のこと。何もしないまま途中で帰らせたので相手の気持ちを傷つけてしまったと、島村は悔やんでいる。

【川端康成の『雪国』 新潮文庫 30ページ】

「あの子に気の毒したよ。」

「そんなこと、お客さんの随意じゃないの、いつ帰そうと。」

石の多い川の音が円い甘さで聞こえて来るばかりだった。
杉の間から向うの山襞(やまひだ)の陰るのが見えた。

「君とそう見劣りしない女でないと、後で君と会ったとき心外じゃないか。」

「知らないわ。負け惜みの強い方ね。」と、女はむっと嘲るように言ったけれども、芸者を呼ぶ前とは全く別な感情が二人の間に通っていた。

それでは早速、原文と訳文をじっくり鑑賞する。(訳: サイデンステッカー)

原文: 「あの子に気の毒したよ。」

訳文: "I wasn't very nice to that poor girl."

原文: 「そんなこと、お客さんの随意じゃないの、いつ帰そうと。」

訳文: "But it's up to the guest, after all, when he wants to let the geisha go."

原文: 石の多い川の音が円い甘さで聞こえて来るばかりだった。

訳文: Through the quiet, the sound of the rocky river came up to them with a rounded softness.

原文: 杉の間から向うの山襞(やまひだ)の陰るのが見えた。

訳文: Shadows were darkening in the mountain chasms on the other side of the valley, framed in the cedar branches.

試訳: Through the cedar branches he saw the mountain chasms darkening on the other side.

原文: 「君とそう見劣りしない女でないと、後で君と会ったとき心外じゃないか。」

訳文: "Unless she were as good as you, I'd feel cheated when I saw you afterwards."

原文: 「知らないわ。負け惜みの強い方ね。」と、

訳文: "Don't talk to me about it. You're just unwilling to admit you lost, that's all."

原文: 女はむっと嘲るように言ったけれども、芸者を呼ぶ前とは全く別な感情が二人の間に通っていた。

訳文: There was scorn in her voice, and yet an affection of quite a new sort flowed between them.

人に何かをさせたいときは使役動詞(しえきどうし)を使う。日本語の使役動詞は、動詞の未然形に助動詞の「せる・させる」を添えて作る。行く→行かせる、食べる→食べさせる、働く→働かせるなど。日本語の使役動詞は、内容と関係なくほとんど形式的に、このように簡単に作ることができる。

英語の使役動詞(causative verb)といえば、make, let, have, get が有名だ。英語の場合は、日本語とちがって、内容に応じて動詞を使い分ける必要がある。だから、英語の使役動詞を苦手とする日本人は多い。しかし、説明さえ聞けば、この4つの動詞の使い分けは意外と簡単である。たとえば、

「彼女に行かせましょう」は4通りの英訳が可能だ。

1. I'll make her go. (make は無理やりに行かせる場合。彼女は行きたくない)
2. I'll let her go. (let は望み通りに行かせてあげる場合。彼女が行きたい)
3. I'll have her go. (have は頼んで行ってもらう場合。頼まれれば彼女はそうする責務がある)
4. I'll get her to go. (get は説得して行ってもらう場合とか、そうしむける場合とか)

Mom makes us eat lots of vegetables.

ママは僕たちに野菜をいっぱい食べさせるんだよ。(僕たちはあまり食べたくないのに)

My wife won't let me watch football on TV.

妻は私にテレビでサッカーの試合を観戦させてくれない。(サッカーの試合を見たいのに)

I want to have my men report. 部下に報告させようと思う。(部下はそうする職務がある)

Get your friends to help you. 友人に助けてもらいなさい。(説得すればそうしてくれるはず)

たとえば、アメリカの友人を自宅に招待し、スキヤキをご馳走したいとき、

「今晩、妻にスキヤキを作らせましょう」 → I'll have her cook sukiyaki tonight. となる。

I'll make her cook sukiyaki tonight. だと、妻に無理強いするので離婚話に発展する恐れがある。

I'll let her cook sukiyaki tonight. だと、妻がスキヤキを作りたいので、今夜は妻の望みどおりにさせてあげるという意味になる。この状況では、make, let 両方ともふさわしくない。

I'll get her to cook sukiyaki tonight. だと、妻はあまりスキヤキを作らないが、今夜は何とか説得して作ってもらおうという気持ち。have の用法に近いので、この状況では、get でもいいかもしれない。

原文の「そんなこと、お客さんの随意じゃないの、いつ帰そうと。」に対して、訳文は "But it's up to the guest, after all, when he wants to let the geisha go." となっている。ここで "let the geisha go" に注目する。使役動詞の "let" から類推すると、芸者本人が行きたいことになってしまうが、そうではない。客が行かせるのであるから、本来は "make the geisha go" となるべきところではある。

この "let somebody go" は、実は「仕事をやめてもらう」という慣用句(to dismiss someone from their job)である。つまり、「解雇する」の婉曲(えんきょく)表現なのだ。

例: We've had to let three people go this month.

(今月、弊社ではやむなく3人辞めてもらった)。

会社が従業員を解雇する場合、従業員自らが解雇を望むわけではないので、
The company makes employees go. となるべきところだが、これだと会社があまりにも無慈悲で残酷なイメージがある。また従業員にしてもこれでは惨め過ぎる。そこで、英語では婉曲表現を使用して The company lets employees go.(会社は従業員にやめてもらう) と表現する。

この点、日本語も同じだ。経営側は従業員に対して「仕事をやめていただく」と婉曲的に表現する。「〜していただく」は「〜してもらう」の謙譲語。自分のために相手に何かをしてもらうことなので、文字通りに解釈すれば、従業員が会社のために自ら身を引いてくれることになるのだが、実際そうでないことは労使双方とも百も承知している。A さんが解雇され、後日、A さんにかかってきた電話に会社の同僚は、「A さんはお辞めになりました」と婉曲表現で応ずる。こうした婉曲表現に異を唱える人はあまりいない、日本にも英米にも、そして、たぶん別の国であっても。


遠回り
「回り道」の反意語は「近道」

「遠回り」という語で私がまず思い出すのは、菅原 都々子(すがわら つづこ)の『月がとっても青いから』である。1955年(昭和30年)に発表され100万枚を超える大ヒットとなった曲だが、当初タイトルは『遠回りして帰ろう』だったという。ちなみに、作曲を手がけたのは菅原の実父で作曲家の陸奥明、作詞はその父の友人で菅原をよく知る作詞家の清水みのる。そう聞けば、若い男女のロマンチックな歌なのに、歌全体にどことなく父性愛のような暖かみが感じられる。

『月がとっても青いから』

月がとっても 青いから/遠廻りして 帰ろ
あのすずかけの 並木路は/想い出の 小径よ
腕を優しく 組み合って/二人っきりで さあ帰ろう

「遠回り」と「回り道」は同意語である。英語で「遠回り」や「回り道」は、おなじみの「ディーツア」 “a detour” または “a roundabout route”。「遠回りする」は “make/take a detour” なので、「遠回りして帰ろう」は、たとえば ”Let’s take a detour home.” という感じだろうか。

detour: noun
a longer route that you take in order to avoid a problem or to visit a place:

It’s well worth making a detour to see the village. (from OALD)

(試訳:回り道してその村を見ることは十分価値がある。→ その村は回り道してでも行くべきだよ。)

しかし訳文では「遠回り」に ”roundabout way” が使用されている。これは、言葉などで遠回しに表現する場合、“detour” とか “route” ではなく、 ”in a roundabout way” 「遠回しに」というように “way” を使用するのがよいからである。「回り道」と、道そのものを表現する場合は、”way” でもいいが、”route” も使用できる。以下のふたつの英文を比較するとこの違いがわかりやすい。

・The taxi driver took a roundabout route to the hotel. (from LAAD)
(タクシードライバーは遠回りしてホテルに到着した。)

・In a roundabout way, she admitted she was wrong. (from LAAD)
(遠回しに、彼女は自分のあやまちを認めた。)

「回り道」の反意語は「近道」である。英語で「近道」は「ショートカット」”shortcut” とか、あるいは “shorter way” という。「近道をする」は “take a shortcut”。

We took a shortcut through the downtown. 私たちは近道をして中心街を抜けた。
There are no shortcuts to economic recovery. 経済回復に近道はない。

それでは本文に戻って、原文と訳文を鑑賞する。
【川端康成の『雪国』 新潮文庫 30ページ】

原文:
はじめからただこの女がほしいだけだ、それを例によって遠廻りしていたのだと、島村ははっきり知ると、自分が厭になる一方女がよけい美しく見えて来た。

訳文:(サイデンステッカー)
As it became clear to Shimamura that he had from the start wanted only this woman, and that he had taken his usual roundabout way of saying so, he began to see himself as rather repulsive and the woman as all the more beautiful.

ワーオ、原文、訳文ともに切れ味鋭い洗練された表現ではないか!とても、わたくしめごときが介入できる余地などない。ここはただ子供のように素直になって、このふたつの名文を暗誦できるほどに、くりかえしくりかえし読み返すのみだ。そうすることで、願わくば、表現が大脳のどこか記憶域に蓄えられ、いつの日かふと必要な場面でタイムリーに読み出されますように…。

ことばの習得には本当のところ、近道などない(There aren't really any shortcuts to learning languages)。実際には、3つの「き」、暗記・根気・年季が必要だと思う。暗記して根気強く継続して何年も続ければ、やがてはそれなりに習得できる。近道はないが、しかし効果的な学習方法はある。反論があるかもしれないが、それが文法だと私は考えている。暗記・根気・年季プラス文法、これが日本にいて独学で、英語などの外国語を習得する最も実践的で効果的な学習方法ではないだろうか。


うちへ寄っていただこうと思って
if 節(条件節)に単純未来を表す "will" が使用できる場合

【川端康成の『雪国』 新潮文庫 50ページ】

「うちへ寄っていただこうと思って、走って来たんですわ。」

「君の家がここか。」

「ええ。」

「日記を見せてくれるなら、寄ってもいいね。」

「あれは焼いてから死ぬの。」

「だって君の家、病人があるんだろう。」

「あら。よく御存じね。」

「昨夜(ゆうべ)、君も駅へ迎えに出てたじゃないか、濃い青のマントを着て。僕はあの汽車で、病人の直ぐ近くに乗って来たんだよ。実に真剣に、実に親切に、病人の世話をする娘さんが付き添ってたけど、あれ細君かね。ここから迎えに行った人?東京の人?まるで母親みたいで、僕は感心して見てたんだ。」

「あんた、そのこと昨夜どうして私に話さなかったの。なぜ黙ってたの。」と、駒子は気色ばんだ。

「細君かね。」

しかしそれには答えないで、「なぜ昨夜話さなかったの。おかしな人。」

ここの会話は短いが、日本人にとって興味深い英訳が随所に出てくる。「うちへ寄る」、「走って来た」、「君の家がここか」、「日記を見せてくれるなら、寄ってもいいね」など、さすがに名人の手にかかると、すべての訳文があたかも原文だったかのように、いきいきとよみがえる。

原文: 「うちへ寄っていただこうと思って、走って来たんですわ。」

訳文: " I ran after you because I thought I might ask you to come by my house."

「立ち寄る」は米語では "come by"。come by = to go to someone's house for a short time before going somewhere else. 原文の「走って来た」は、直訳の "came running" よりも意訳の "I ran after you" (あなたを追いかけた) の方がここではぴったりする。

原文: 「君の家がここか。」

訳文: "Is your house near here?"

訳訳文: 「君の家はこの近くなのかい?」

「君の家がここか」は "Is your house here?" と、私など、つい直訳しそうな気がするなあー。もちろん、こういう訳もあるとは思うが、"Is your house near here?" の方がここではより的確な表現だ。

原文: 「ええ。」

訳文: "Very near."

原文: 「日記を見せてくれるなら、寄ってもいいね。」

訳文: "I'll come if you'll let me read your diary."

ここでは "I'll come" と "come" が使用されている。"come" と "go" は、基本的には同じ動作を示す。ただし視点は異なる。日本語の用法だと、ここでは「行く」となるところだが、英語では、話し手(島村)の視点が聞き手(駒子)の家にあるので "come" が正しい。「夕食、準備できたわよ」(Dinner's ready!) と妻に呼ばれて、「わかった。今、行くよ」は、"OK, I'm going." ではなく、"OK, I'm coming." と言う。それと同じこと。

原文: 「あれは焼いてから死ぬの。」

訳文: "I'm going to burn my diary before I die."

原文: 「だって君の家、病人があるんだろう。」

訳文: "But isn't there a sick man in your house?"

原文: 「あら。よく御存じね。」

訳文: "How did you know?"

原文: 「昨夜(ゆうべ)、君も駅へ迎えに出てたじゃないか、濃い青のマントを着て。僕はあの汽車で、病人の直ぐ近くに乗って来たんだよ。実に真剣に、実に親切に、病人の世話をする娘さんが付き添ってたけど、あれ細君かね。ここから迎えに行った人?東京の人?まるで母親みたいで、僕は感心して見てたんだ。」

訳文: "You were at the station to meet him yesterday. You had on a dark-blue cape. I was sitting near him on the train. And there was a woman with him, looking after him, as gentle as she could be. His wife? Or someone from Tokyo? She was exactly like a mother. I was very much impressed."

あれえ、変だな?「娘」が "a woman" と訳されているぞ! "a girl" の方が断然いいのに。この娘は、冒頭の「駅長さあん、駅長さあん」と叫んだ葉子を指すので、冒頭部分の英訳と同じように、"a girl" の方がいいと思う。『雪国』の中では「女」という語は「駒子」のみを指すいわば「予約語」なので、翻訳でも "woman" は「駒子」の専用語として確保しておきたい。

原文: 「あんた、そのこと昨夜どうして私に話さなかったの。なぜ黙ってたの。」と、駒子は気色ばんだ。

訳文: "Why didn't you say so last night? Why were you so quiet?" Something had upset her.

原文: 「細君かね。」

訳文: "His wife?"

原文: しかしそれには答えないで、「なぜ昨夜話さなかったの。おかしな人。」

訳文: Komako did not answer. "Why didn't you say anything last night? What a strange person you are."

学校では、「if 節(条件節)には単純未来を表す "will" を使用しない」と教わる。それが頭にこびりついているので、たいていの人は、訳文の "I'll come if you'll let me read your diary." のような英文を見ると不安になる。でも、ご安心あれ、これは真正の英文である。ただし、if 節に "will" を除いた英文ももちろん可能。両者は少し意味が異なる。

1. I'll come if you let me read your diary.
日記を見せてくれるなら寄ってもいいよ。

2. I'll come if you'll let me read your diary.
(見せたくないだろうけど)日記を見せていただけるなら寄ってもいいね。

多くの単語がそうであるように、"will" も複数の意味を持つ。つまり、上記2のif 節 の "will" は「単純未来」を表す "will" ではなく、「(相手の好意を期待して)〜してくださるなら」、という期待を表す "will" である。

未来のことを話すのに「単純未来」を表す "will" を使用しないのは、if 節だけではない。 when節, while節, before節, after節, as soon as節, until節or till節 などでも同じ。

明日、雨なら試合は延期されます。
The game will be postponed if it rains tomorrow. (not if it will rain tomorrow)

雨が降っている。出かけたら濡れるよ。
It's raining. We'll get wet if we go out. (not if we will go)

「雨が止んでから出かける」というような場合:

We'll go out when it stops raining. (not when it will stop)
We'll go out after it stops raining. (not after it will stop)
We'll go out as soon as it stops raining. (not as soon as it will stop)

彼が私を抱いてくれるまで、じれったいけど待つわ。
Till he holds me, I'll wait impatiently.

コニーフランシスの「ボーイハント」 "Where the Boys Are" より
http://home.att.ne.jp/yellow/townsman/SnowCountry_1.htm

▲△▽▼

欧米人には絶対にわからない『雪国』の背後の世界

802:tky10-p121.flets.hi-ho.ne.jp:2011/01/22(土) 22:33:30.90 0

川端康成の「雪国」は死後の世界
みんな幽霊という設定


803:tky10-p121.flets.hi-ho.ne.jp:2011/01/22(土) 22:35:37.56 0

ちなみに千と千尋も死後の世界だね
トンネル抜けるとそこは黄泉の国ということ
http://2chnull.info/r/morningcoffee/1295616090/1-1001


講演の中で、奥野健男は川端康成の「雪国」に触れ、実際に川端康成と話したときのことを語ってくれた。

川端によると「雪国」というのは「黄泉の国」で、いわゆるあの世であるらしい。


  「雪国」があの世であるというのは何となくわかる気がする。島村はこの世とあの世を交互に行き交い、あの世で駒子と会うのである。駒子とはあの世でしか会えないし、この世にくることはない。島村と駒子をつなぐ糸は島村の左手の人差指である。島村が駒子に会いにくるのも1年おきぐらいというのも天の川伝説以外に何かを象徴しているのだろうか。

  とてつもなく哀しく、美しい声をもつ葉子はさしずめ神の言葉を語る巫女なのか。その巫女の語る言葉に島村は敏感に反応するのだ。もしかしたら葉子は神の使いなのかもしれない。

 駒子は葉子に対して「あの人は気違いになる」というのは、葉子が神性を帯びているからではないのか。

 日本人とって、あの世とは無の世界ではない。誰もが帰るべき、なつかしい世界である。あいまいな小説「雪国」がなぜか私になつかしい思いをさせるのはやはり「雪国」が黄泉の国だからなのだろうか。
http://www.w-kohno.co.jp/contents/book/kawabata.html


川端は代表作雪国でトンネルを効果的に使っているが、1953年4月に発表された小説『無言』でも現世とあの世をつなぐ隠喩として名越隧道をうまく使っている。なお、川端が自殺した逗子マリーナには、車で鎌倉から一つ目の名越隧道と二つ目の逗子隧道を抜けてすぐ右折し5分程度の距離にある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E8%B6%8A%E9%9A%A7%E9%81%93
http://blog.livedoor.jp/aotuka202/archives/51017908.html


ずいぶん昔、何かの会合のあと友人数人とスナックで 飲んでいた時、そのうち一人との会話である。

「川端康成の『片腕』はシュールな傑作だね。口をきく片腕と添い寝 して愛撫するとは」と友人。

「あれはハイミナールの幻覚だと言われているがね」と傑作であるこ とは認めつつ、

「川端康成なら君など問題にならないくらい読んでいる がね」と言う代わりに、どうでもいいような不確かなゴシップ を喋る私。


「『眠れる美女』はまさしく屍姦だが、あれもハイミナールの幻覚か い?」

「いや、あれは実際にやっていたと言う話だ。死体愛好癖とロリコンは 川端康成の二大テーマだからね」


渡部直己『読者生成論』(思潮社)の中にある「少女切断」を読みつつ 上記の会話を思い出した。この「少女切断」は非常に刺激的で、一瞬、川 端康成全集を買って読み返そうかなどと思ったくらいだ。

読み返すとは言っても川端康成が少女小説を書いていたのは知らなかった。 昭和十年から戦後四、五年まで数にして二十以上の長短編少女小説を 書き、これらの少女小説は渡部直己によれば読み応えのある傑作である という。またこの少女小説の一つである「乙女の港」には、中里恒子 による原案草稿20枚が発見されているとのことだから、本物の少女小説 である。

今日すでに存在していない、ここで言う「少女小説」とは渡部直己によ れば、次のようなものである。


「 お互いの睫の長さも、黒子の数も、知りつくしてゐたような、少女の 友情……。

相手の持ちものや、身につけるものも、みんな好きになって、愛情を こめて、わはってみたかったやうな日……。(『美しい旅』)


そうした日々の静かな木漏れ日を浴びて、少女たちはふと肩を寄せあい、 あるいは、人垣をへだててじっと視つめあい、二人だけの「友情と愛の しるし」に、押し花や小切れなどさかんに贈りあっては、他愛なくも甘美な 夢にひたりつづける。お互いを「お姉さま」「妹」と呼びかわし、周囲から 《エスの二人》と名ざされることの悦びに、いつまでも変わらぬ「愛」を 誓いあう二人の世界を彩って、花は咲き、鳥は唄い、風は薫りつづける」


この「少女小説」は、現在の ギャル向けポルノ雑誌と同じ機能も果たしていたのであろう。

今日存在する「少女小説」は、だいぶん様子が違ってきている。たとえば 耽美小説と呼ばれる美少年の性愛を露骨に描写した小説も「少女小説」の一種 であろう。この少年とは大塚英志が言うような、少女の理想型としての少年で ある。
実はこのジャンルはまるで苦手だ。子供の頃、少女マンガというのは 実に退屈なものだなと思った。したがって、後年その少女マンガから傑作が 生まれることなど私の想像力の範囲を超えていた。文学が痩せこけていくのに 反比例して、様々な表現分野が豊饒になり、いわゆる文学を超えた傑作が 多く生まれた。それもまた私の守備範囲を超えていたのであった。

友人の一人(男)が鞄の中に常時少女マンガ雑誌を携帯し、赤川次 郎的少女小説なども愛読している。この感性はどちらかといえば少数派に違いない。

時々「わぁーっ、素敵」などとこの男が言ったりするのは少女マンガの悪影響 だろうが、聞いている方にはかなりの違和感がある。これは異化作用とは 言えない違和感である。

渡部直己が模範的反少女小説として詳細に論じているのは『千羽鶴』で ある。
『千羽鶴』の主人公三谷菊治や『雪国』の主人公島村はその年齢に比して ひどく老成した印象を受ける。彼らはテクストから、はみ出さない。

島村は視点に過ぎないし、冥界を往還する傍観者的な過客の分際から踏み 出そうとはしない。『伊豆の踊子』の一高生にとって 伊豆がそうであったように、島村にとって『雪国』は黄泉の国であり異界で あり、彼は 異人の劇に観客的に出演する。異界は彼にとって慰藉であり、生への意志 を充填する場所なのだ。

三谷菊治は、死者が紡ぎだす美に翻弄されるだけで、 自らの欲望を生きることはなく、作品の狂言まわしですらない。彼は 死者と近親相姦的にかかわる。自殺してしまう太田未亡人も文子も、 もともとこの世の人ではなかった。 或いは三谷菊治自身が死者なのかもしれない。

渡部直己によれば、 事態をなかば抑圧し、なかばそれを使嗾する検閲者である栗本ちか子は、 読みの場の知覚をみずから模倣しつつ作品に介入する 人物の典型、作者の分身たちがひしめきあう世界に紛れこんで、むしろ 読者の分身たらんと欲する人物で、小説一般に幅広く散在する。渡部直己 は『千羽鶴』の場合、作品はあげてこの人物を唾棄しようとすると書いて いる。

だが栗本ちか子は此岸の人であり、テクストを抜け出して我々の人生に 顔を出したりする。彼女は物語の検閲者であり、その欲望は使嗾しつつ抑 圧することのように見えて、実は他者を破滅させることにある。
http://homepage3.nifty.com/nct/hondou/html/hondou73.html

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『雪国』の『国境の長いトンネル』は能舞台の橋掛かりと全く同じ意味を持っている:

能は能舞台という専有の演技空間を持っています。横浜能楽堂に一歩足を踏み入れるとすぐにお気づきのように、


客席に突き出た三間(約6メートル)四方の本舞台(ほんぶたい)と、向かって左に延びる橋ガカリからなること、

室内でありながら舞台上にも屋根があること、

橋ガカリ奥に5色の揚幕(あげまく)という幕があるのみで、観客と舞台を隔てるものがないこと、

枝振りのよい松が描かれた鏡板(かがみいた)が背景となること


など、横に広く長い日本の大多数の劇場とは随分違っているのです。能舞台は非常に特異な空間ですが、これは能と狂言の演技の本質に深くかかわっています。


 まず本舞台。この正方形の空間は、左右より前後の動きが演技の中心となっていることを意味します。足を一歩出す、一歩引くというほんのわずかな動作が、説得力に満ちた表現になるのです。客席に張り出す舞台では、役者の身体の前から背中まで、すべてが見えてしまいます。「動く彫刻」といわれるように、一分の隙も許されず、全身全霊の力を外に放つ気迫が役者に要求されます。


また能には神、仙人などの超人間的な存在や、あの世の者が多く登場します。人間の生身の肉体である素顔を使わず能面を用いるのはそのためですが、異次元の世界からこちら側へ渡って来るには、果てしなく遠い道のりを辿らねばならないのでしょう。その距離とエネルギーとを象徴するのが橋ガカリなのです。
http://www.yaf.or.jp/nohgaku/98spr/001-2.html


橋掛かりとは、揚幕から本舞台へとつながる長い廊下部分のこと。

ここには、微妙な傾斜がつけられており、観客から見て遠近感が強く感じられるように設計されているそうです。

この橋掛かりを通って、シテは、揚幕から本舞台へと現れ、消えていきます。
それは、亡霊が現れては消えていく、能の物語そのものです。
まるで、橋掛かりが、あの世とこの世を結ぶ道のようです。
http://www.sense-nohgaku.com/noh/articles/whats_no/youhashigakari.php


橋掛りは、異次元とこの世を繋ぐ架け橋です。
http://www.ryosuikai.com/distript.htm


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「雪国」駒子のモデルの周辺事情など


ところで、怒涛の三角関係がもにょもにょ…な展開の 「雪国」 だが、そのメインヒロインである駒子には、実在のモデルがいたことが知られている。松栄(まつえ)という芸名の若い芸者で、川端康成と最初に出会った昭和9年当時、彼女は19歳であった。

川端康成はこのとき35歳。…なんというロリコン! …とか言っちゃいけないんだろうけれど(^^;)、この16歳も年下の芸者を川端はいたく気に入った様子で、たびたび指名買いしては部屋で飲んだり、散策に連れ出したり、その他いろいろなことをしたらしい。…といっても川端本人はあまり酒は飲むほうではなく口数も少ないむっつり男だったというから、どのような時間の過ごし方をしたのか少々不思議というか、非常に興味津々なところではある(^^;)


そんな逗留の日々の中、小説の筆は進んでいった。最初から一本の作品として書いた訳ではなく、登場人物を共通にして細切れの短編として雑誌に発表し、のちにそれをまとめて一冊の本にした。タイトルは最終的に 「雪国」 となった。

…が、後にこれを読んだ松栄はシェーっ(古^^;)…とばかりにぶっ飛んだらしい。小説に書かれた内容が、ほとんどそのまま川端康成と自分の過ごした日々をトレースしていたからであった。関係者が読めば登場人物が実在の誰であるかが分かってしまうし、しかも中身は色恋沙汰のもにょもにょ話で、もちろん小説として面白くなるようにあれこれと演出が入っていた。

まあ一般読者からすればどこまでが事実でどこからが創作かなど分かろう筈もないのだが、書かれた側にとってはかなり困惑…というより傍迷惑MAXなものであったのは間違いないだろう( ̄▽ ̄;)


こういう自分の体験をそのまま文章に書きだす作風は "私小説" とか "掌小説" などと呼ばれ、大正時代から昭和の中頃あたりにかけて流行した小説の1ジャンルであった。典型的な作家としては、太宰治を挙げればおおよその雰囲気は掴めるだろう。

川端康成はまさにこの系列の作家で、「雪国」 においても意図的に他人の私生活を暴露しようとした訳ではなく、当時なりの流行のフォーマットに従って自分の体験をネタに物語を書いたつもりのようだ。ただし配慮を欠いて突っ走りすぎたという点で、ツッコミを受けても仕方の無い部分があった。

これについては川端康成本人も 「やっちまった」 感は持っていたようで、後に生原稿を松栄の元に差し出して無断で小説に書いたことを詫びている。作家にとって生原稿を差し出すというのは命を差し出すようなものであるから、このときの侘びの入れ方はかなり本気だったようである。そしてこれ以降、川端は湯沢に通うのをやめ、「雪国」 は清算すべき過去の負い目の作品となった。

一方の松栄の方はというと、芸者の契約期間満了(=年季が明ける、と花柳界では言う) とともにこの世界から足を洗い、三条市に移った。新たな勤め先は市内の和裁店で、のちに彼女はそこの主人氏と結婚してささやかな家庭を築くことになる。「雪国」 の原稿は湯沢を出るときに焼き捨ててきた。昭和15年(1940)のことであった。

しかしそんな作者側 (…と、書かれた側) の事情とは関係なく、「雪国」 は小説としては異例のロングセラーとなり、戦後になって映画化、演劇化、そしてTVドラマ化…と何度も映像化されることとなった。駒子のモデルがいるということはほどなく公知の事実となり、レポーターの突撃取材(?)なども行われたようである。

…つまり 「雪国」 の一件は、原稿を焼き捨てても終わることなく松栄(この頃は一般人:小高キクとなっていた)の人生に後々までずっと影響を及ぼし続けたのであった。


資料館には映画のロケ地で女優の岸恵子と対談する松栄の写真(昭和32年)があった。地元の観光宣伝になるため取材には協力していたようだが、すでに人妻となっているにも関わらず独身時代の他の男との関係を面白おかしく取り上げられたり、ましてや映画化(!!)されたり…というのはどんな気分だったことだろう。

一方その間、川端康成は文壇で着実に知名度、実績を上げ続け地歩を築いていった。各種文芸賞のほか、日本ペンクラブ会長、国際ペンクラブ副会長に就任し、文化勲章まで受章した。役員として名前を貸した文芸系の団体などは数え切れない。

そしてついに昭和43年(1968)、川端康成は日本人初のノーベル文学賞を受賞し、その名声の頂点を極めたのであった。「雪国」 は代表作のひとつと言われるようになり、小説の中身を知らない人でも冒頭の一文だけは知っている…というほどに知名度が上がった。

※写真は 「雪国」 湯沢事典(湯沢町役場/湯沢町教育委員会/新潟県南魚沼郡湯沢町) より引用。ちなみに湯沢町はノーベル賞以前から 「雪国」 で町興しをしており、資料館内には受賞以前の川端康成の書などが展示されている。


…ところが、ノーベル賞受賞の後、実は川端はほとんど作品を発表していないのである。

一説には賞の重圧が筆をとることを躊躇(ためら)わせたのでは…とも言われているが、筆者的には "燃料の枯渇" も相当程度あったのではないかという気がしてならない。

…というのも、高名な賞や肩書きは、分かり易く作家をランク付けしてくれる一方で希少動物か珍獣のような扱いにもするからだ。静かな地方を尋ねて小さな体験を積み重ねつつ、物語をひねり出す…という川端康成の創作の方法論は、ノーベル賞受賞後は "珍獣" に集まる人だかりによって明らかに破綻してしまったように思える。

晩年の川端が行く先々で行ったのは、小さな出会いでも散策でもなく、「日本の美」 とか 「芸術について」 といった大仰な講演会であった。


■そして駒子が残った

ノーベル文学賞受賞から4年後、川端康成は神奈川県逗子市の書斎で遺体となって発見された。昭和47年4月16日のことである。死因はガス自殺とされているが、遺書はなく、その真相は今でも不明である。

昭和初期の頃の小説家というのは自らの苦悩を作品にしつつ、たびたび自殺で世を去った。川端康成は比類なき成功と栄光を手にした果てに、結局周回遅れで彼らの仲間入りを果たしたともいえる。


私小説とは自己を切り売りしているような作風だという人がいるけれども、おそらくそれは正しい認識だろう。切り売りできるものが無くなってしまった時点でその小説家は詰んでしまう。だから常に燃料を補給しなければならない。

昭和9年の川端は実はその "詰んだ" 境遇にあり、湯沢にやってきた時点で彼は何を書くべきかというテーマを持っていなかった。たまたま現地で出会った若い芸者と過ごした日々が、創作の糧となって文章のネタとなり、彼を救ったような印象を筆者はもっている。

しかし20年後の彼には、もうそういう人は現れなかった。川端はよく言えば 「恋多き男」 で、若い頃には取材旅行で地方に滞在するたびに色々な女性にちょっかいを出したらしいのだが、偉くなりすぎた後にはそういう勝手もしにくくなった。さすがに講演会で 「芸術とは〜」 などとやっている一方で、あまり下世話な行動もとりにくかっただろう。

しかし面白い小説というのはそんな下世話で赤裸々な感情の集積という側面をもっている。…偉くなりすぎた果てにこのギャップを埋められなくなったあたりに、もしかすると晩年の彼の不幸があったのかもしれない。


川端康成が最後にちょっかい…いや、癒し(^^;)を求めたのは、随分と手近なところで家政婦の女性であったという。しかし彼女はどういう訳か川端の元を去ってしまう。後には誰も残らなかった。


一方、松栄は平成11年まで矍鑠(かくしゃく)として存命した。享年83歳。読書が趣味で、亡くなったとき自室の書棚には800冊あまりの蔵書があったというが、川端康成の作品は、やはり1冊もなかったそうだ。


資料館には、川端と出会った頃の松栄の住んだ部屋が移築、保存してある。高半旅館からほどちかい諏訪社の付近にあった豊田屋という置屋(芸者を派遣する業者)の2階部分で、小説にも登場する部屋である。


…昭和9年、ここに居た一人の芸者が、とあるネタ切れ作家の座敷に呼ばれた。それがささやかな物語の始まりであった。作家は口数も少なく、酒もほとんど飲まない扱いにくい客で、それでも芸者は三味線を弾き謡い、この堅物の興味を引きそうな話を振って精一杯のもてなしを試みた。それまで幾人もの芸者を呼んでは返していた作家は、不思議なことにこの芸者に限っては何度も指名するようになった。おそらくこのとき、作家にインスピレーションの神が降りたのだろう。

…と、とりあえず筆者はそんな推測をしている。


座敷に座っている駒子(=松栄)の人形は、静かに窓の外を眺めるばかりでこちらには顔を向けない。

もう関係者もあらかた鬼籍に入ってしまった今、真実が奈辺にあるかなどということを気にする者はいなくなった。いまは小説が一冊、残っているだけである。


一通り見学した後に外に出ると、また雪が激しくなってきていた。

すっかり発展して巨大繁華街となった新温泉の領域を歩くと、駒子の名のついた土産物が実に多いことに驚く。これらのアイテムはもう定番の観光記号と化していて、小説の中身を知らなくても 「雪国」、 「駒子」、 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」 さえ押さえておけば何となく文学体験をした気分になれるほどに認知されている。

これはこれで、不思議な風景なのであった(^^;)

…変わらないのは、雪ばかりである。


■あとがき

久しぶりに豪雪地帯をゆるゆると歩いてみて、やはり越後の冬山はスゴイな〜という感慨を持ちつつ、有名なネタである川端康成の周辺を眺めてみました。今回は文学の素養もないのに 「雪国」 をテーマにしてしまったので正確性には不安がありまして、もしトンチンカンなことを書いていたら何卒ご容赦頂きたいです(汗 ^^;)

さて川端康成というと、もう近づきがたいほどの超有名な大文豪…というイメージを筆者は持っていたのですが、少なくとも戦前の20〜30代の頃はかなり行き当たりばったり的に作品を書いていたような印象があります。彼が湯沢にやってきたときがまさにそのパターンで、何を書くかを事前に決めないままに宿に入り、いきなり芸者遊びと散策という 「お前、何しに来たんだよ」 的な日々が始まります。しかしそれは 「何かが起きる」 ことを期待しての行動で、彼としては小説のネタ探しのつもりだったのでしょう。

「雪国」 としてまとめられる前の小説の冒頭部分は 「夕景色の鏡」 の題で雑誌に掲載されたそうですが、締め切りにはかなりギリギリの入稿だったようで、しかもなんと川端康成はこの時点でストーリーの結末をどうつけるかまだ決めていませんでした。芸者の松栄嬢と過ごした日々のエピソードがそのまま小説に取り入れられてしまったあたりから見ても、ネタ切れで苦し紛れ…という雰囲気がそこはかとなく感じられ、よくもまあ話がつながったな(※)…というのが正直な感想です。

なおエピソードに苦しんだらしい連載2回目は、締切りに間に合わず原稿を落としてしまい、締切りの遅い別の雑誌に載せるという漢気な計らいが行われました。今ではちょっと考えられませんが、当時は雑誌の編集部もナカナカおおらかな時代だったようです。

※現在入手できるのは加筆修正が進んだ昭和22年発行の 「決定版」 と呼ばれるバージョンで、オリジナルの初版は古書店で相当探さないと入手は難しい。


さて川端康成は何度も湯沢を訪れては連泊していますが、本当の厳冬期に来たことはなかったといいます。小説内で駒子は芸者の衣装のまま雪の中を一人でパタパタ往来しているように描かれますが、実際には雪が深くなると芸者は裾が汚れないように専用の送迎用のソリに乗りました。この描写が 「雪国」 には見られません。観察眼の鋭い川端も実際に見ていないものは描きようがなかったのでしょう。

調べてみると、川端康成は3年少々の湯沢通いの間、最長でも年間で一ヶ月ほどの滞在だったようです。時期的には他の作品も同時に書いていた筈で、このあたりの足跡を追うと作家の執筆活動がどのようなものだったのかが何となく見えてくる気がします。本編中では戦前の作家は四六時中どこかの温泉旅館を渡り歩いていたような書き方になってしまいましたが(笑)、やはり限度というものはあったようですね…(^^;)

■おまけ:カンヅメ旅館について

ところでカンヅメ旅館について調べていて、明治大学図書館の講演会資料に面白いものを見つけました。


「ウルトラマンから寅さんまで、監督・脚本家・作家の執筆現場」
http://www.lib.meiji.ac.jp/about/publication/toshonofu/kurokawaM07.pdf


というもので、内容は下手に解説するより実物を読んで頂いたほうが良いと思いますが(^^;)、主に戦後のカンヅメ旅館の面白エピソードを集めたものです。

興味深いのは映像関係者と小説家の対比で、映画の脚本などは大人数でワーワー騒ぎながら書く (さらには旅館側に対して注文が多い) のに対して、作家は一人黙々と書いているので手間が掛からない(笑)などと書いてあります。そうするとむっつり男の川端康成などは、旅館にとっては扱いやすい客だったのでしょうかね…(^^;)
http://hobbyland.sakura.ne.jp/Kacho/tabi_yukeba/2012/2012_0209_Yuzawa/2012_0209_04.html


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駒子を探せ!(越後湯沢への旅1) 


雪国がもっとも雪国らしい季節になっています。
と言うわけで、川端康成の「雪国」の舞台、越後湯沢を訪れてみました。

小説に登場する駒子にはモデルがいたそうです。
当時19歳、置屋「藤田屋」に身を置く芸妓「松栄」です。

http://odori.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_830/odori/DSCF6482_640.jpg?c=a0

駒子の面影を求めて湯沢を散策してみます。

駒子の容貌について、小説の中では次のように描写されています。

「細く高い鼻が少し寂しいけれども、その下に小さくつぼんだ唇はまことに美しい蛭の輪のように伸び縮みが滑らかで・・・濡れ光っていた。目尻が上がりも下がりもせず、わざと真直ぐに書いたような眼はどこかおかしいようながら、短い毛の生えつまった下り気味の眉が、それをほどよくつつんでいた。
少し中高の円顔はまあ平凡な輪郭だが、白い陶器に薄紅を刷いたような皮膚で、首のつけ根もまだ肉づいていないから、美人というよりもなによりも、清潔だった。」

さて駒子には会えるのでしょうか。

昭和9年から昭和12年にかけて、川端は越後湯沢に滞在して雪国を執筆しました。
旅館「高半」は今は鉄筋コンクリート造りのホテルに変わっていますが、川端が逗留した「かすみの間」は当時のままに保存されています。

http://odori.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_830/odori/DSCF6414_640.jpg?c=a0

この部屋で雪国が執筆されたのです。
当初幾つかの短編として発表され、戦後「雪国」としてまとめられました。

小説の中では、「椿の間」として出てきます。
島村を訪ねた駒子は、椿の間に泊まり、当初は旅館の人が出入りするときは、次の間に隠れていました。

部屋の間取りを紹介したパネルにはご主人高橋半左ヱ門氏の話が紹介されています。

「はじめのころは芸者の松栄さんが慌てて次の間に隠れたからだ、公認のようになってからはもう彼女は隠れなくなりましたが」

小説が執筆された部屋でもあるが、川端と松栄の密会の場でもあったのです。
当時、川端にはすでに奥さんがいたはずです。


昔の高半を遠望する写真です。

http://odori.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_830/odori/DSCF6443_640.jpg?c=a0

岡の上の建物が高半です。
右手の杉木立の中に諏訪神社があります。

小説の中に出てきます。
「女はふいとあちらを向くと、杉林のなかへゆっくりと入った。
彼は黙ってついて行った。
神社であった。
苔のついた狛犬の傍らの平らな岩に女は腰をおろした。」

高半の女将さんに諏訪神社までの道を訪ね、岡を下りました。

http://odori.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_830/odori/DSCF6457_640.jpg?c=a0

残念ながら、雪に閉ざされて神社の境内までたどり着く事ができませんでした。
雪に埋もれた鳥居を遠望するのみで、苔のついた狛犬も、その側の平な岩も確認することは出来ません。

芸者を辞めて湯沢を去る松栄は、この境内で川端から届けられた雪国初稿の生原稿や自分がつけていた日記を焼いたそうです。

その松栄が身を置いた「豊田屋」はこの神社近くにあったそうです。
湯沢町歴史民俗資料館には、松栄の住んだ部屋を移築して「駒子の部屋」と名付け展示してあります。
記事冒頭の写真がそれです。

http://odori.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_830/odori/DSCF6448_640.jpg?c=a1

ホテル高半に展示されていた松枝の写真です。
向かって右側が松栄19歳のころの写真です。

冒頭に紹介した、駒子の容貌の描写と比較してみてください。
似ているというか、そのまま・・・と思いませんか。

駒子のモデルとなった、松栄は昭和15年芸妓をやめ、その後結婚し、1999年に新潟県三条市で亡くなっています。
良いご主人に恵まれ、その人生は幸せだったようです。
駒子であった松栄にスポットをあてた『「雪国」あそび』(村松友視・恒文社)という本があります。
その中に、「キク(松栄の本名)さんは生前、久雄(ご主人)さんに『雪国』の中のできごとはほとんどが実際のできごとだと話した」との記述がありました。

「国境のトンネルを抜けると雪国だった。夜の底が白くなった。」

http://odori.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_830/odori/DSCF6506_640.jpg?c=a1

この冒頭部分があまりにも有名なためか、「雪国」をなんとなく読んだようになっていました。
冷静に考えてみると読んだことはありませんでした。
なぜ、読んだことがあると思い込んでいたのでしょうか。
ひょっとすると教科書に載っていたからだろうか。

今回、雪国を読んでみて、「教科書に載っていたかも」というのも思い違いだったようです。
内容は教科書に載せられるような代物ではありませんでした。

これは不倫小説です。
しかも冒頭部分で

「結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている。
・・・この指だけは女の感触で今も濡れていて、」

とかなり不穏当な表現がでてくるのです。
(この指の感触の表現部分は昭和10年に「夕景色の鏡」として文藝春秋に発表されたときは伏字が使われているそうです。さもありなんと思います。)

妻子ある男と芸妓の逢瀬の描写が繰り返し描写され、そして山場らしい山場もなく終わってしまいます。

新潮文庫版「雪国」の解説文で伊藤整が「抒情小説」といい、「さて、完成されても、ドラマティックなカタストローフは決して設定されず、本当に終わったのかどうか、読者にも疑問に思われる。」(永遠の旅人)と三島由紀夫が評したのも良くわかりました。
http://odori.blog.so-net.ne.jp/2011-02-06


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愛のゆくえ 「雪国」 - 魔界の住人・川端康成  森本穫の部屋

愛のゆくえ「雪国」その1

越後湯沢へ

 1932、3年(昭和7,8年)ころ、川端康成はしばしば上州(群馬県)の温泉へ原稿を書きに行っていた。

 その前、昭和6年には、直木三十五に連れられて、池谷信三郎と3人で、上州の法師温泉へも出かけている。

 法師温泉は三国(みくに)峠の麓で、直木が特に好きな温泉だった。
 その昭和6年には清水トンネルが開通し、越後がぐっと近くなった。

   「雪国」を書く前私は水上(みなかみ)温泉へ幾度か原稿を書きに行つた。

   水上の一つ手前の駅の上牧(かみもく)温泉にも行つた。(中略)水上か上牧にゐた時私は宿の人にすすめられて、
   清水トンネルの向うの越後湯沢へ行つてみた。水上よりはよほど鄙(ひな)びてゐた。それからは湯沢へ多く行つた。

   上越線で湯沢は越後の入口になつたが、清水トンネルの通る前は、三国越えはあつても、越後の奥とも言へたのである。
                                             (「独影自命」6ノ2)

昭和9年6月初旬、康成は上牧温泉の大室旅館に滞在して原稿を書いていた。

 6月8日附で群馬県利根郡桃野村(上越線上牧駅前)大室温泉旅館の康成から、東京下谷上野桜木町36の川端秀子に宛てた書簡が遺されている。

 11日、12日には、同じく上牧駅前利根川向岸大室温泉旅館から秀子に手紙を出している。

 11日の手紙には、「明日改造すめば、どこかへ遊びに行つて来る。ここは配達1回しかないので、まだ杉山の手紙を貰つただけ、さつぱり様子分らず閉口だ。/文学界はどうかしらん。」と書いてある。

 原稿に追われつづけ、ここらで「どこかへ遊びに行つて」心身の回復をはかりたかったのだろう。また上牧の郵便事情の不便なことをも嘆いている。

 12日のには、「新潮と文藝7月号送れ、/なぜ報告の手紙をよこさんのだ、馬鹿野郎、手がくさつたつて代筆されることも出来るだらう」と癇癪を起こしている。

   改造の仕事で疲れ、気をまぎらす術なく、婆さんのやうな顔になつた。

   これだつて、原稿受けとり、改造に渡し、間に合つたと、電報でもくれたら、どれだけ安心して、仕事疲れの翌日が眠れるかしれん、僅か30銭ですむぢやないか。
   それくらゐの心は配れ。


 と、八つ当たり気味の手紙である。疲れてもいたのだろう。

そのころは、車掌にチップを出して鉄道便の上野駅止めで原稿を送り、秀子に電報を打って上野駅で受け取らせ、出版社に直接持参させていたようだ。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/38bdc6f0c695da88fc77ee638f489cb0

愛のゆくえ 「雪国」その2

越後湯沢の初印象

 6月14日附(づけ)で新潟県南魚沼(みなみうおぬま)郡越後湯沢高半(たかはん)旅館より上野桜木町36の秀子に宛てた書簡(15)は、冒頭に、越後湯沢の印象が書いてある。

   文学界の原稿を出しかたがた、水上駅に来たついで、一休みに、清水トンネルを越え、越後湯沢に来た。戸数四百ばかりの村、湯の宿も13,4あり、水上のやうになにか肌あらいところなく、古びてゐてよい。この宿は部屋も40ある。

 この旅館が越後湯沢随一の、主人が代々高橋半左衛門を名のる高(たか)半(はん)旅館である。

 康成はこの宿が気に入ったのだろう、こののちずっと、この宿を定宿とすることになる。

 ちなみに、康成に与えられた部屋は、清水トンネル開通のあと、新築された「長生閣」の二階「かすみの間」である。「雪国」作中では、「椿の間」として描かれる。

 なお14日附の秀子宛て書簡15は長いもので、途中「13日 康成」と記したあとに、翌朝書き加えた文言がある。

 つまり、康成が初めて湯沢に来たのは6月13日、翌14日に書簡を投函したことが明かとなる。

 このことは、当時、中央公論の編集者であった藤田圭雄(たまを)宛ての書簡にも明記してある。煩雑になるが資料として貴重なので、引用しておこう。

 第4次37巻本『川端康成全集』補巻2(新潮社、1984・5・20)の藤田宛て書簡1(昭和9年6月14日附 新潟県魚沼郡湯沢温泉高半旅館より東京麹町(こうじまち)丸の内ビルヂング中央公論編輯部宛て)

   拝啓、
   水上の1つ手前の駅の大室温泉に1週間ほど滞在の後、今日清水トンネルを越えて越後湯沢に参りました。古ぼけた村です。でもこの宿は客室が40ばかりもあります。(中略)21日頃までここに滞在いたします。(以下略)

   14日                   川端康成
  藤田圭造(ママ)様(正しくは、藤田圭雄)


 この書簡の日付が14日となっているのは、到着の翌14日に大室温泉に荷物をとりに戻り、14日にあらためて高半旅館に腰を落ち着けたからであろう。すなわち、康成が初めて越後湯沢に来たのは、1934(昭和9)年6月13日、腰を落ち着けたのが翌14日と確定してよいだろう。

 ちなみに、この点はつとに平山三男が「雪国」論(『川端康成 作家・作品シリーズ6』東京書籍、1979・4・日付記載なし)において指摘している。

 この気晴らしの旅で、康成はひとりの女とゆくりなくもめぐり逢い、もう1度その女に逢いにゆくために、その年の12月初旬、今度は上野から汽車に乗って越後湯沢の駅に降りた。

 やはり夫人宛て書簡によって、それが12月6日のことであるとわかる。

 康成はこの宿に籠もって、『文藝春秋』と『改造』の新年号2つの原稿を書く予定であった。もっとも、このとき、何を書くか、内容は、まったく頭の中になかった。ただ、6月の旅でめぐり逢った女と再会すれば、何か書く材料ができるだろうという、ぼんやりした期待があるばかりだったろう。


「雪国」初出(はじめて雑誌に発表されたもの)

 「雪国」が昭和9年末から書き始められ、いろいろな雑誌に分載されて、最初に創元社から昭和12)年6月12日に刊行され(旧版『雪国』)、それからさらに書きつがれて、戦後の1948(昭和23)年12月25日に、あらためて同じく創元社から刊行され、これが〈決定版『雪国』〉と呼ばれていることは、よく知られている。

 その後、20年あまりたって、すこし手を加えられて、1971(昭和46)年8月15日、牧羊社から『定本雪国』が刊行された。

 康成が、これを『定本』にすると宣言し、以降、新潮社の第3次全集、第4次全集も、また新潮文庫103版以降も、この牧羊社版を底本にしていることは、平山三男の指摘によって、よく知られているとおりである。

 しかしやはり重要なのは、初出としてあちこちに分載された文章が、大幅に手を入れられて昭和12年の創元社版、あるいは昭和23年の決定版になった、その経過である。

 そこに、『雪国』にこめた康成の渾身の努力が刻印されているからである。

さて、その最初の分載が「夕景色の鏡」と「白い朝の鏡」であることも、読者はよく御存知のことであろう。康成は、この2作のできた由来を、〈決定版『雪国』〉の「あとがき」で語っている。

   「雪国」は昭和9年から12年までの4年間に書いた。(中略)

   はじめは「文藝春秋」昭和10年1月号に40枚ほどの短篇として書くつもり、その短篇1つでこの材料は片づくはずが、「文藝春秋」の締切に終わりまで書ききれなかつたために、同月号だが締切の数日おそい「改造」にその続きを書き継ぐことになり、この材料を扱う日数の加はるにつれて、余情が後日にのこり、初めのつもりとはちがつたものになつたのである。

 このことばを裏づけるように、1934(昭和9)年12月7日附で上越線越後湯沢高半旅館より秀子に出した書簡には、

   斎藤君(注、『文藝春秋』の記者)は9日中にくれといふ。やはり正月で校了が2日早い由、9日は日曜。9日の汽車で全部送れるといいが、10日にまたがるだらう。(中略)

   もつとも何枚かけるかまだ分らぬが。

   しつかりした材料を持つて来ず、例によつて、夢のやうなつくりごとなるが厭(いや)である。                     (補巻2の21)


    
とあり、さらに10日の書簡には、次のような一節がある。

   文藝春秋の小説は書き切れず尻切れとんぼ。
  (10日夕方の)今から改造にかかる。

 綱渡りのような、あやうい売文生活をつづけていたのである。もっとも、補巻に収められた書簡を見ると、このころの康成には『モダン日本』『婦人倶楽部』『若草』『行動』『中外新報』『中央公論』などから注文が殺到していて、それを1つ1つこなしてゆくのは、並大抵のことではなかっただろう。

――このような状況で初出「夕景色の鏡」は書かれた。

 よく知られているように、第1作「夕景色の鏡」の冒頭は、現在の「雪国」の有名な文章とは異なっていた。

   濡れた髪を指でさはつた。――その触覚をなによりも覚えてゐる。その一つだけがなまなましく思ひ出されると、島村は女に告げたくて、汽車に乗つた旅であつた。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/1ff09e0b54d8d44a456a67455ef79ba6


愛のゆくえ 「雪国」その3

連載第一回「夕景色の鏡」の冒頭

  濡れた髪を指でさはつた。――その触覚をなによりも覚えてゐる。その1つだけがなまなましく思ひ出されると、島村は女に告げたくて、汽車に乗つた旅であつた。

 この部分は〈決定版『雪国』〉では完全に消滅しているが、視点人物島村を雪国に導くものが何であったかを明確に語っている。それは女――駒子の思い出であり、それも単なる情緒的なものではなく、指の触覚というきわめて官能的なものであった。

 冒頭では、指の触れたのは単に「髪」となっているが、少しあとに駒子の心理の説明として「まだ16,7の頃に、自分がどんなにいい女であるかを、男から噛んでふくめるやうに教へられ、その時はそれを喜ぶどころか、恥ぢるばかりだと……」とあることからも、それが駒子の肉体的な魅力を暗示していることは明らかである。

 もっと具体的にいうと、島村が左指で覚えていたのは、のちに出て来る表現ではあるが、駒子の「みうちのあついひとところ」の生ま生ましい触感だったのである。

 島村は駒子、というより駒子の肉体に再会しようとして、雪国に向かう汽車に乗った。そしてその車中で葉子に出会うのである。

   もう三時間も前、島村は退屈まぎれに、彼を女のところへ引き寄せてゆくやうな、左手の〈人指指〉をいろいろに動かして眺めてみたり、鼻につけて匂ひを嗅いでみたりしてゐたが、ふとその〈指〉で窓ガラスに線を引くと、そこに女の片目から片頬がはつきり浮き出たのだつた。

                 (初出では、〈 〉の中は伏せ字になっている。)

この車窓の鏡に浮かび出た女が葉子であり、島村はやがて窓外の夕景色と二重写しになった葉子の顔の非現実な美しさに胸がふるえるのであるが、ここに短篇「夕景色の鏡」の意図はあらわになる。

 すなわち、前の旅でなじんだ女との再会を胸に描いて官能の思い出の世界にただよっていた島村が、眼前に現出した「この世ならぬ象徴の世界」の美に陶然となるのである。〈官能的な世界〉と〈象徴的な美の世界〉が、ここでは鮮やかに対比されている。

 康成の「はじめは……40枚の短篇として書くつもり」が、この対比を描くことであったことは、明かである。

はたして、『改造』新年号に発表されたのは、「白い朝の鏡」であった。「夕景色の鏡」と対比する意図はよく現れている。

 ところがこの「白い朝の鏡」のなかに、その題名に相応する内容は登場してこないのである。

 それが発表されるのは、それから10ヶ月もたった『日本評論』11月号に「物語」と題して発表された作品の末尾においてである。

第三回「徒労」

 つづけて『日本評論』の12月号に「徒労」が発表されているのは、翌年の1935(昭和10)年の秋、蛾が卵を産みつける時期に10ヶ月ぶりに湯沢をおとずれた康成の身に、駒子のモデルとなる女性との再会があって、「余情」が深まるような出来事が生じたためであろう。

 実際、作品の中で女が「駒子」と名づけられて登場するのは「徒労」からで、それまでは、単に「女」と呼ばれているに過ぎないのである。

 1、2回の短篇で終わるはずだった素材が内容の濃いものとなり、続編を書き継ぐ意志の生じたことが、そのような変化をもたらしたといってもいいだろう。

 これを裏づけるように、ずっとのちの1959年(昭和34年)になって、康成は「『雪国』の旅」と題するエッセイを発表していて、その中に、1935(昭和10)年秋の日記を公開している。

 1935年(昭和10年)秋とは、「雪国」作中では、島村が3度めに湯沢をおとずれて、長い逗留をすることになっている。しかし現実の康成はこの昭和10年の秋、この湯沢で「物語」「徒労」を書いたのである。

 そのときに、駒子のモデルとの濃い接触のあったことが、この日記に記されている。きわだったところだけを写す。なお、( )の中の説明は、康成が付したものである。


  昭和10年9月30日
 「少女倶楽部」、書き終る。1時55分の汽車で湯沢に行く。駒。(註、駒子が宿へ来たことである。)

  10月1日
 午前より宿の子供を部屋に呼ぶ。(註、「雪国」に書いてある。)3時過ぎ帰る。(註、駒子が。)

  10月2日
 朝、7時ごろに起される。(註、駒子が来て。)夜、駅まで行く、宴会の後で。

  10月4日
 西川博士よりレントゲン写真の結果の手紙。夜中11時に。(註、駒子が来る。)

  10月5日
 「讀賣(読売)」の原稿終り。10時より。(註、駒子が来る。)

  十月十一日
 「日本評論」のための「物語」(註、「雪国」の一部)、18枚で打切り、その原稿を送る。


 このように、ほとんど毎日、駒子が時ならぬ時刻にやって来ている。そしてこれらの素材を康成は「雪国」作中に書きこんでいる。そういう、ただならぬ状況のなかで、「物語」は短いながら完成し、これを康成は『日本評論』に送っているのである。


「夕景色の鏡」

 では、「雪国」最初の2つの短篇のなかでは、何が語られたのであろうか。

 まず「夕景色の鏡」から見てゆくことにしよう。

 「夕景色の鏡」では、冒頭の2行で、先ほど紹介したように、島村のこの旅が、その触感だけがなまなましく思い出されると女に告げたくて汽車に乗った旅であったことが書かれる。

 ついで、

   「あんた笑つてるわね。私を笑つてるわね。」
   「笑つてやしない。」
   「心の底で笑つてるでせう。今笑はなくつても、後できつと笑ふわ。」

と、最後までは拒み通せなかつたことを、その時女は枕を顔に抱きつけて泣いたのだつたけれども、彼はやはり水商売の女だつたと笑つて忘れるどころか、それがあつたために反つて、いつも女をまざまざと思ひ浮かべたくなるのだつた。

と、回想の核心部分が書かれる。それから、現在の「雪国」冒頭の原型にあたる1行が登場する。

   国境のトンネルを抜けると窓の外の夜の底が白くなつた。信号所に汽車が止つた。

 ちなみに、現行の「雪国」冒頭は、以下のようになっている。


   国境の長いトンネルを抜けると雪国であつた。夜の底が白くなつた。信号所に汽車が止まつた。

 そこから一転して現在の車中の光景となり、向こう側の座席から娘が立ってきて、島村の前のガラス窓を落して、身を乗り出し、駅長を呼ぶのである。

 駅長の応える言葉で、この娘の名が葉子であることは、すぐ読者に伝えられる。

  そのやうな、やがて雪に埋れる鉄道信号所に、葉子といふ娘の弟がこの冬から勤めてゐるのだと分ると、島村は一層彼女に物語めいた興味を増した。

 こうして、娘が病人連れで、甲斐々々しく世話をしていること、もう3時間も前、窓ガラスに葉子が映って驚いたこと、それ以来彼がずっと鏡の中の彼女を注視していて、娘の顔に野山の火が重なったとき、胸がふるえたこと……と、この作品の頂点が記されるのである。

   さうしてともし火は彼女の顔のなかを流れて通るのだつた。しかし彼女の顔を光り輝かせるやうなことはなかつた。冷く遠い光であつた。小さい瞬きのまはりをぽうつと明るくしながら、つまり娘の眼と火とが重つた瞬間、彼女の眼は夕闇の波間に浮ぶ、妖しく美しい夜光虫であつた。

 半時間後、葉子達も島村と同じ駅に下りたので、彼はまたなにが起るかと自分にかかわりがあるかのようにやうにあわてたりするが、宿屋の客引きの番頭と出会って、「お師匠さんとこの娘はまだいるかい」と尋ねる。
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愛のゆくえ 「雪国」その4

再会

 前に泊まった温泉宿に落ちついた島村は、内湯に行く。そして長い古びた廊下を部屋へ戻ってゆくとき、女と再会するのである。

   その長いはづれの帳場の曲り角に、裾を黒光りの板の上へ冷え冷えと拡げて、女が立つて待つてゐた。

   と(ママ)うとう芸者に出たのであらうかと、その裾を見てはつとしたけれども、こちらへ歩いて来るでもない、體のどこかを崩して迎へるしなを作るでもない、その立ち姿から、彼は遠目にも真面目なものを受け取つて、急いで来たが、女の傍(かたわら)に立つても黙つてゐた。(中略)

   手紙も出さず、会ひにも来ず、踊の型の本など送るといふ約束も果さず、女からすれば笑つて忘れられたとしか思へないだらうから、先づ島村の方から詫びかいひわけを云はなければならない順序だつたが、顔を見ないで歩いてゐるうちにも、女は彼を責めるどころか、體いつぱいになつかしさを感じてゐることが知れるので、彼は尚更、どんなことを云つたにしても、その言葉は自分の方が不真面目だといふ響きしか持たぬだらうと思つて、なにか彼女に気押される甘い喜びにつつまれてゐたが、階段の下まで来ると、

  「こいつが一番よく君を覚えてゐたよ。」と、人差指だけ伸した左手の握拳を、いきなり女の目の前に突きつけた。

女との再会は、このように印象的にはたされる。

 しかし同時に、男の不誠実もまた、しっかり刻印される。

 その不誠実を徹底するように、男は「こいつが一番よく君を覚えてゐたよ」と人差指を女の面前に突きだすのである。

 だが女は怒らない。

   「さう?」と、女は彼の指を握ると、そのまま手を離さないで手をひくやうに階段を上つて行つた。

 そうして彼の部屋に来ると、女はさっと首まで赤くなって、それを誤魔化すためにあわてて彼の手を拾いながら、「これが覚えてゐてくれたの?」「右ぢやない、こつちだよ」と、女の掌の間から右手を抜いて、炬燵に入れると、改めて左の握拳を出した。彼女はすました顔で「ええ、分かつてるわ」と、ふふと含み笑いしながら、島村の掌を拡げて、その上に顔を押しあてるのである。

   「ほう冷い。こんな冷い髪の毛初めてだ。」
  「東京はまだ雪が降らないの?」
  「君はあの時、ああ云つてたけれども、あれはやつぱり嘘だよ。さうでなければ、誰が年の暮にこんな寒いところへ来るものか。」

ここで文章は冒頭につながり、また、最初の出会いへと回想に移るきっかけとなるのだが、じつは、この前に、重要な記述が20行ばかり、初出にはあった。


女の體(からだ)の秘密

 それは、たった1度の出会いで、女がどうしてこの男を忘れられないようになったか、という女の微妙な心理の説明である。

 この心理の説明が消去されてしまった現在の「雪国」では、読者は、どうしてああも簡単に女が島村に恋心を抱いてしまったのか、理解できないのである。

 初出で康成は、女の心の秘密を、こんなに克明に説明していた。

   それではこの男も、私をほんたうに知つてくれたのだつたか、それにひかれて遙々来たのだつたか、どこを捜しても私のやうな女はさうゐないので忘れなかつたのかと、彼女はなんだか底寂しい喜びに誘ひこまれた。ほつと安心したやうな親しさで、心が男に寄り添つて行つた。許されたやうな思ひだつた。かういふ男は彼女にとつて逆らひ難い誘惑だつた。

   と云つたところで、彼女はまだ水商売が身にしみてゐるわけでなし、多くの男を知つてゐるわけでもないが、まだ16、7の頃に、自分がどんなにいい女であるかを、男から噛んでふくめるやうに教へられ、その時はそれを喜ぶどころか、恥ぢるばかりだと、男はいよいよむきになつて褒めちぎつたので、やがて男の云ふことが彼女の頭の底に宿命のやうに沈みついてしまつたのだつた。

   けれども、それが彼女自身ではつきりと分るやうになつた後まで、天刑をあばかれたやうな初めの悲しみは消え残つてゐるのだつた。余りに早く愛なくして知つたためであったらう。

   島村といふ男は1週間も山登りをして来たほどで、よく整つた體はさう弱さうに見えなかつたけれど、肉附の色白い円みがいくらか女じみてゐるし、まして道楽した風はなく、女のあつかひが淡白なところから考へても、あの時彼女のほんたうが分つてくれたとは、たうてい思へなくて、それが後々まで未練のもとのやうでもあり、また反つてそのきれいさが愛着の種ともなつてゐるのだつた。彼女の幾人かの男のうちで、彼だけはそれを知らない。

   けれども、あの時自分は酔つてゐたから、男を見抜くことが出来なかつたのだらうか。さうではない、気は確かだつた。そんなら、この人を初めてほんたうに愛したゆゑの迂闊だつたのだらうかといふ結論に辿りついて、女はふふと含み笑ひしながら、島村の掌を拡げて、その上に顔を押しあてた。

 この長い引用は、駒子の心理を知るには欠かせない部分なのだが、現在の「雪国」では、削除されてしまった。

 女は16、7のころ、男に教えられて、自分が女として類稀(たぐい、まれ)な肉体を持っていることを知ってしまった。

 だから最初に思ったことは、島村が自分のほんとうの肉体の秘密を知って、それにひかれて遙々(はるばる)来たのだったか、ということだった。底寂しい喜びに誘われ、ほっと安心したような親しさを感じた。

 しかし次に考えたことは、島村は女のあつかいも淡白であったから、彼女のほんとうの秘密を知ったとは到底思えず、それが後々までの未練のもとであり、またそのきれいさが愛着の種ともなっている、ということだった。「彼女の幾人かの男のうちで、彼だけはそれを知らない。」

 彼に肉体の秘密を悟らせないままに終わったのは、「この人を初めてほんたうに愛したゆゑの迂闊だつたのだらうか」、最後に女はそう考えて、ふふと含み笑いするのである。

さて、男は掌に顔を押しあてられて、女の髪の冷たさに驚く。

「ほう冷い。こんな冷い髪の毛初めてだ。」そう言って、女に「東京はまだ雪が降らないの?」と訊かれても、それには応えず、言おうと思っていた言葉を口にするのである。

   「君はあの時、ああ云つてたけれども、あれはやつぱり嘘だよ。さうでなければ、誰が年の暮にこんな寒いところへ来るものか。」

 この言葉をきっかけに、「あの時は――雪崩の危険期が過ぎて、新緑の登山季節に入つた頃だつた。」と、最初の邂逅を振り返る回想場面――第1の旅へと、叙述は戻るのである。

無為徒食(むいとしょく)の島村

 「無為徒食の島村は」と、その冒頭で島村の人物像が提示される。

無為徒食とは、定まった職業も持たず、親から遺された財産でもあって、それをいたずらに喰いつぶしている、生活に責任を持たぬ男、というほどの意味であろう。
 少し後に、「白い朝の鏡」のところで、島村が西洋舞踊を趣味にしていて、時々西洋舞踊の研究や紹介を書くので、文筆業者の片端に数えられているが、島村みずから、それを「机上の空論」と冷笑し、そこに虚無の匂いを嗅いでいる、との説明がある。

 このほか、東京に妻子があることがのちに説明されるが、「雪国」の中で島村について読者が具体的に与えられる知識はこれだけである。

 そんな島村はしぜんと自分に対する真面目さも失いがちになるので、それを呼び戻すために、よく一人で山歩きをするが、その夜も、国境の山々から7日ぶりで温泉場へ下りて来ると、芸者を呼んでくれと云った。

ところがその日は道路普請の落成祝いで、12、3人の芸者は手が足りなくて、とうてい貰えないだろうが、三味線と踊りの師匠のところにいる娘なら、来てくれるかも知れぬ、ということだった。

 その娘は、芸者ではないが、まったくの素人ともいえない、という女中の説明だった。

   怪しい話だとたかをくくつてゐたが、1時間ほどして女が女中に連れられて来ると、島村ははつと唇を結んだ。(中略)

女の印象は不思議なくらゐ清潔であつた。足指の裏の窪みまでぬかりなくきれいであらうと思はれた。山々の初夏の風景を見て来た自分の眼のせゐであらうかと、島村は疑つたほどだつた。

 女はこの村から眺められる山々の名もろくろく知らなかったけれど、自分の身の上話は案外率直に話した。19であるともいった。また歌舞伎の話をしかけると、女は彼よりも俳優の芸風や消息に精通していた。そういう話相手に飢えていたのか、夢中でしゃべった。

 その夜は何事もなく過ぎ、女は帰っていった。

 そして翌日の午後、宿へお湯をもらいに来るついでに彼の部屋に遊びに寄った。
 ところが女に、島村はいきなり、芸者を世話してくれ、と云った。女が怒ると、

   「友だちだと思つてるんだ。友だちにしときたいから、君は口説かないんだよ。」

「夕景色の鏡」は、ここで突如、終わる。康成が妻への手紙に、
「文藝春秋の小説は書き切れず尻切れとんぼ。」と書いたとおりである。
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愛のゆくえ 「雪国」その5
「白い朝の鏡」

つづけて『改造』に書かれた続編では、はじめに、読者を面食らわせないないためだろうか、芸者代わりに呼んだ女とのいきさつが少し書いてある。

 それから、つづきがあって、間もなく来た芸者を一目見ると、「島村の山から里へ出た時の女ほしさは、味気なく消えてしまった」ので、郵便局の時間がなくなるという口実をもうけて芸者を返す。そして、若葉の匂いの強い裏山へ登ってゆく。ほどよく疲れて、駈け下りてくると、

   「どうなすつたの?」と、女が杉林の陰に立つてゐた。
  「うれしさうに笑つてらつしやるわよ。」
  「止めたよ。」と、彼はまたわけのない笑ひがこみ上げて来て、  「もう止めだ。」
  「さう?」と、女は表情のなくなつた顔であちらを向くと、杉  林のなかへゆつくり入つた。彼は黙つてついて行つた。

   神社であつた。苔のついた駒(ママ)犬の傍の平な岩に、女は腰を下  して、
  「ここが一等涼しいの。真夏でも冷い風がありますわ。」

 ここでふたりは会話をかわしながら、夕暮れまでの時間を過ごす。島村のとらえた女の特徴も書きこまれている。

 「少し中高の円顔は平凡な輪郭ながら、白陶器に薄紅を刷いたやうな皮膚で、首のつけ根も肉づいてゐないから、美人といふよりもなによりも、清潔だつた。」


自分の男を呼ぶ声

 それから問題の場面が登場する。
 その夜の10時ごろ、女が廊下から島村の名を大声で呼んで、ばたりと倒れるように彼の部屋へ入ってくる。宴会の途中だった。

 「悪いから行つて来るわね。後でまた来るわね」と、よろけながら出て行く。

   一時間ほどしてまた廊下にみだれた足音で、

  「島村さあん、島村さあん。」と、助けを求めるやうに叫んだ。それはもうまぎれもなく、酔つたあげくの本心で、女が自分の男を呼ぶ声であった。それは島村の胸のなかへ飛びこんで、むしろ思ひがけないほどだつたが、宿屋中に聞えてゐるにちがひなかつたから、当惑して立ち上がると、女は障子紙に指をつつこんで桟(さん)をつかみ、そのまま……〈伏せ字8字〉倒れかかつた。 

 「女が自分の男を呼ぶ声」とは、女が自分の好きな男を呼ぶ声、の意味だろう。
 ちなみに、現行の定本では、この箇所はみごとに彫琢されて、こんなに簡潔な文章に変わっている。

  一時間ほどすると、また長い廊下にみだれた足音で、あちこちに突きあたつたり倒れたりして来るらしく、

  「島村さあん、島村さあん。」と、甲高く叫んだ。
  「ああ、見えない。島村さあん。」

   それはもうまぎれもなく女の裸の心が自分の男を呼ぶ声であつた。島村は思ひがけなかつた。
 
 女は酔って、本心から、「自分の男」を呼んだのである。
 だが、女はいつのまに、島村を「自分の男」と思うようになったのか。

 さきほどの夕暮れの杉林の中での会話からだろうか。前夜、芸者の代わりに呼ばれて、島村と話が合ったからであろうか。それとも、今日の午後、芸者を呼んでくれと、失礼なことを云われたことが、かえって女の心を刺激したのか。

 いずれにしても、前夜、ふたりの話の合ったことが基本であろう。だからこそ好意を抱いて、女は翌日の午後、島村の部屋を遊びに訪れたのである。それなのに芸者を世話してくれといわれて、女の心は傷ついた。しかしこの危機は、女の素直な心によって回避された。

 しかし、それでもなお、女がここまで深く島村を思ってしまった心の因はわからない。

 女の心はわからないままに、物語は進行する。

 島村の部屋で、女は酔ったままにさまざまな姿をみせるが、結局、島村に抱かれることになる。しかしその時になっても、「お友達でゐようつて、あなたがおつしやつたぢやないの」と、幾度繰り返したかしれなかった。

 島村はその言葉の真剣な響きに打たれ、また、固く渋面をつくつて自分を抑へてゐる意志の強さには味気なくなるほどで、女との約束を守ろうかとさえ思うのである。

 この場面の初出は伏せ字だらけで、意味が通らないので、定本によって補正すると、

  「私はなんにも惜しいものはないのよ、決して惜しいんぢやないのよ。だけど、さういふ女ぢやない。私はさういふ女ぢやないの。きつと長続きしないつて、あんた自分で言つたぢやないの。」(中略)

などと口走りながら、よろこびにさからふために袖をかんでゐた。


女はこんなに簡単に男に身を任せることで、男が誤解することを恐れているのだ。好きな男にあげる。だから惜しいんじゃない。だけど、あなたは誤解する。あたしが、こんなふうに誰にだって簡単に身を任せてしまう女だと誤解する。それは違う!

 女は、よろこびがこみ上げてくるなかで、それに逆らいながら、必死で言いつのっているのだ。

 ……しばらく気が抜けたみたいに静かだったが、女はふと突き刺すように、
「あなた笑つてるわね。私を笑つてるわね。」と言って、泣くのである。旅の男に簡単に身を任せた、男からすれば、据え膳喰わぬは……と、そんな女を安っぽい、尻の軽い女として馬鹿にするだろう。女は、そう思われることを避けようと、必死で男を刺すのである。

 この場面は、女が行きずりの島村に本気で惚れて身を任せ、その自分の気持ちを軽いものと誤解されることを恐れていると、読者に繰り返し訴える。女の真剣な好意がつよく印象づけられるシーンである。

 それとともに、そのように言わねばならぬほど、男に容易に身を任せてしまった女の哀れが読者に迫ってくる。

 「白い朝の鏡」は、それから女が夜が明けるのを恐れて、宿の人が起きる前に帰ってゆくところで閉じられる。

 「夕景色の鏡」との対照は、この作品では書かれずじまいだったのである。


「物語」

 「夕景色の鏡」「白い朝の鏡」と1935年(昭和10年)の新年号に発表されたまま、作品は1年ちかく放置される。

 次に第3作「物語」、第4作「徒労」が発表されるのは、同年11月号、12月号のことである。

 先にも指摘したように、その秋の康成の3度目の越後湯沢への旅が、「余情」を後に残す契機となったのである。

「物語」も、読者にこれまでの経緯を説明するところから始まっている。女が夜明けに宿を抜け出して帰っていったあと、「その日島村は東京へ帰つてしまつた。女の名も聞き忘れたほどの別れやうであつた。」

 それから、新しい「物語」が始まる。

 女はしきりに指を折って勘定している。島村が問うと、「5月の23日ね」といい、今夜がちょうど「199日目だわ」と応えるのである。

 ここは、これまでいくつもの論考で指摘されてきたように、平安の昔に、深草(ふかくさ)の少将が小野小町を99夜たずねた、その故事「深草少将の百夜(ももよ)通い」に関連づけているのであろう。女は、自分たちの関係に何か意味を見出そうとしているのである。

 それから、この「物語」の中心となる、女の生きる姿が示される

   「だけど、五月の二十三日つて、よく覚えてるね。」
  「日記を見れば、直ぐ分るわ。」
  「日記、日記をつけるのか。」
  「ええ、古い日記を見るのは楽しみですわ。なんでも隠さずその通りに書いてあるから、ひとりで読んでゐても恥しいわ。」
「いつから?」
   「東京でお酌に出る少し前から。(以下略)」

 これだけでも島村を驚かすには十分だったが、島村をもっと驚かせたのは、女が、読んだ小説を1つ1つ雑記帳に書きつけている、ということだった。

   日記の話よりも、尚島村が意外の感に打たれたのは、彼女は十六の頃から、読んだ小説を一一書き留めておき、そのための雑記帳がもう十冊にもなつたといふことであつた。

  「感想を書いとくんだね?」
  「感想なんか書けませんわ。題と作者と、それから出て来る人物の名前と、その人達の関係と、それくらゐのものですわ。」

  「そんなものを書き止めといたつて、しやうがないぢやないか。」
  「しやうがありませんわ。」
  「徒労だね。」
  「さうですわ。」と、女はこともなげに明るく答へて、しかしぢつと島村を見つめてゐた。

   全くの徒労であると、島村はなぜかもう一度声を強めようとした途端に、しいんと雪の鳴るやうな静けさが身にしみて/それは女に惹きつけられたのであつた。

 島村は、女の意外な一面を知って驚く。山深い田舎のひとりの無名の女が、読んだ小説の題名をノートにつけたとて、いったいそれが何の役にたつというのだろう。

   彼女にとつては、それが徒労であらうはずがないとは彼も知  りながら、頭から徒労だと叩きつけると、なにか反つて彼女の  存在が純粋に感じられるのであつた。

 このとき初めて、島村は女に惚れたのである。あるいは、女の一生懸命に生きている姿を知って、そこにひとりの女の生きる息づかいを感じて、女に対する心からの愛情が湧いてきたのである。

 ……その夜、つまり再会の最初の夜も、女は島村の部屋に泊まって朝を迎える。
 部屋が明るんでくると、女の赤い頬があざやかに見えてくる。寒いせいだろうと島村が訊くと、白粉(おしろい)を落としたからだ、と女は答える。

  「寒いんぢやないわ。白粉を落したからよ。私は寝床へ入ると直ぐ、足の先までぽつほ(ママ)して来るの。」と、島村の枕もとの鏡台に向つて、
  「たうとう明るくなつてしまつたわ。帰りますわ。」

  島村はその方を見て、ひよつと首を縮めた。鏡の奥が真白に光つてゐるのは雪である。その雪のなかに、女の真赤な頬が浮んでゐる。なんともいへぬ清潔な美しさであつた。

 この場面でようやく、康成の初めの構想――「夕景色の鏡」と、人差指が覚えていた女の「白い朝の鏡」との照応が完成するのである。

 1つの短篇で終わるはずだった作品が、3作めの「物語」の最後になって、やっと当初の目的を完成したのである。康成は、ここでこの連作を終わってもよかった。

 それがさらに次の「徒労」へとつづいてゆくのは、この「物語」の中で、日記をつけているばかりか、読んだ小説を雑記帳に書きとめているという、ひとりの女の、徒労の生を懸命に生きている姿を知って、男の内部に、遊びごとではない、女への真剣な思いが芽生えたからである。

 これが「余情が後に残って」の意味であろう。ここから、作品は真剣な愛を抱いた男と女の物語へと変貌してゆくのである。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/2e44c3f542df85f121f5b87a87d3c7f3


愛のゆくえ「雪国」 その6

「徒労」

 「雪国」のプレオリジナル(初出)第4作目にあたる「徒労」は、かなり長い。作者の興がのっているからだろう。

 ここでも、作品をたどりながら、ふたりの移りゆきを、細かく見ていこう。
 ……昼すぎ、島村が温泉宿からの坂道を歩いてゆくと、軒かげに芸者が5、6人、立ち話をしている。そのなかに駒子もいた。

 島村が通りすぎると、駒子が追ってくる。「うちへ寄つていただかうと思つて」という。その家は、前日、汽車で乗り合わせた病人のいる家だった。駒子の師匠の家である。

 その2階、というよりも屋根裏部屋に、駒子は住んでいた。もとはお蚕(かいこ)さまの部屋だったという。

 その古びた部屋の、障子は貼り替えられ、壁にも丹念に半紙が貼られて、古い紙箱に入ったようだった。壁や畳は古びているものの、いかにも清潔であった。蚕(かいこ)のように、駒子も透明な體で、ここに住んでいるかと思われた。

 駒子は、階下の病人を、腸結核で、もう故郷に死にに帰って来たのだと話した。三味線と踊りの師匠であるひとの、ひとり息子であると、これまでのいきさつも話した。けれども、この息子――行男を連れて帰った娘がなにものであるか、どうして駒子がこの家にいるのかということは、一言も話さなかった。

 やがて、澄み上がった、悲しいほど美しい声が聞こえる。葉子である。だが葉子は島村をちらっと刺すように一目見ただけで、ものも言わずに通り過ぎた。

   島村は表に出てからも、彼女の眼つきが彼の額の前に燃えてゐさうでならなかつた。

 島村が、駒子とこういう仲になりながらも、頭の片隅で、この葉子を意識していることが、ここで期せずして語られている。

 島村は、通りかかった按摩(あんま)を宿の部屋に呼んで、その按摩の口から、師匠の息子である行男と駒子がいいなづけであり、行男の療養費をかせぐために駒子が芸者に出たのだ、という消息を聞く。

 その夜、宿の宴会が果てて島村の部屋に来た駒子は、島村の来なかった八月いっぱい、神経衰弱でぶらぶらしていたと話す。また浜松の男に言い寄られたことも告白する。

 そして「私妊娠してゐると思つてたのよ。ふふ、今考へるとをかしくつて、ふふふ」と含み笑いする。

 もちろん、島村の子を宿したと思ったのである。

 それから島村の追求に答えて、行男とのいきさつを語る。

   「はつきり云ひますわ。お師匠さんがね、息子さんと私といつしよになればいいと、思つた時があつたかもしれないの。心のなかだけのことで、口には一度も出しやしませんけれどね。さういふお師匠さんの心のうちは、息子さんも私も薄々知つてたの。だけど、二人は別になんでもなかつた。ただそれだけ。」

 けれどもまた、「東京へ売られて行く時、あの人がたつた一人見送つてくれた。一番古い日記の一番初めに、そのことが書いてあるわ」ともいう。


駒子の三味線

宿へ葉子に持たせてきた三味線を、駒子が弾き、唄う。

   忽ち島村は頬から鳥肌立ちさうに涼しくなつて、それが腹まで澄み通つて来た。たわいなく空にされた頭のなかいつぱいに、三味線の音が鳴り渡つた。全く彼は驚いてしまつたと云ふよりも、叩きのめされてしまつたのである。敬虔の念に打たれた。悔恨の思ひに洗はれた。自分はただもう無力であつて、駒子の力に思ひのまま押し流されるのを、快いと身を捨てて浮ぶよりしかたがなかつた。(中略)

   勧進帳が終ると、島村はほつとして、ああ、この女はおれに惚れてゐるのだと思つたが、それがまた情なかつた。

  「こんな日が音がちがふ」と、雪の晴天を見上げて、駒子が云つただけのことはあつた。

それからは、泊ることがあっても、駒子はもう強いて夜明け前に帰ろうとはしなくなった。

 2、3日後、月の冴えた夜、空気がきびしく冷えてから、午後11時近くだのに、駒子は散歩をしようといってきかなかった。

 駅へ行く、という。

 「あんたもう東京へ帰るんでしょう。駅を見にゆくの」という。

 駅から帰ると急にしょんぼりして、島村の要求に、「ううん、難儀なの」という。月経中という意味である。「なあんだ、そんなこと。ちっともかまやしない」と島村は笑って、「どうもしやしないよ」という。

 「つらいわ。ねえ、あんたもう東京へ帰んなさい。つらいわ」といって炬燵(こたつ)の上に顔を伏せる。

   「もう帰んなさい。」
  「実は明日帰らうかと思つてゐる」
  「あら、どうして帰るの?」と、駒子は目が覚めたやうに顔を起した。
  「いつまでゐたつて、君をどうしてあげることも、僕には出来ないんぢやないか。」

   ぽうつと島村を見つめてゐたかと思ふと、突然激しい口調で、

  「それがいけないのよ。あんた、それがいけないのよ。」と、じれつたさうに立ち上つて来て、いきなり島村の首に縋りついて取り乱しながら、
  「あんな、そんなこと云ふのがいけないのよ。起きなさい。起きなさいつて云へば。」と口走りつつ自分が倒れて、物狂はしさに體(からだ)のことも忘れてしまつた。

 月経中であることも忘れてしまった、というのである。駒子の方から身を投げだしたのだ。

   それから、温かく潤んだ眼を開くと、
「ほんたうに明日帰りなさいね。」と、静かに云つて、髪の毛を拾つた。

 見過ごすことのできぬ言葉があった。それは島村の、「いつまでゐたつて、君をどうしてあげることも、僕には出来ないんぢやないか」という言葉である。

 島村は東京の人であり、東京には妻子がある。それを捨ててまで駒子との愛をつらぬこうとは、初めから考えていない。

 では、駒子との愛は、どうなるのか。

 島村は、駒子を愛しても、それ以上、どうしてやることもできないのである。この点に、駒子の哀切さが浮かび上がる。どんなに島村を愛しても、島村はその時点では愛し返してくれても、それだけである。つまり、ふたりの愛の行く末はない。

 ――島村は次の日の午後三時の汽車で立つことになる。


駅の前で

 その日、ふたりが駅まで来たところへ、あわただしく葉子が駈けてきて、「ああっ、駒ちゃん、行男さんが、駒ちゃん。」と駒子の肩をつかんで、「早く帰って、様子が変よ、早く」とすがる。

   駒子は肩の痛さをこらへるかのやうに、目をつぶると、さつと顔色がなくなつたが、思ひがけなく、はつきりかぶりを振つた。

「お客さまを送つてるんだから、私帰れないわ。」
   島村は驚いて、
  「見送りなんて、そんなものいいから。」
  「よくないわ。あんたもう二度と来るか来ないか、私には分りやしない。」

 駒子は極度の葛藤(かっとう)のため、げえっと吐き気を催すが、口からはなにも出ず、目の縁(ふち)が湿って、頬が鳥肌立つ。

 葉子が島村にも必死で頼んで後向いて走り出したのを見送った島村は、「なぜまたあの娘はいつもああ真剣な様子なのだらうと、この場にあるまじき不審」が心を掠めて、「遠ざかる後姿は尚更寂しいものに見えた。」

 さらに、
 「葉子の悲しいほど美しい声は、どこか雪の山から今にも木魂(こだま)して来さうに、島村の耳に残つてゐた。」とある。

 こんな場合なのに、島村の頭には、葉子にたいする関心がつよく尾を曳いているのである。

 それに対して、駒子は島村のために、他のすべてを捨てる。
 島村は駒子に、帰ってやるように説得するが、駒子は聞き入れない。

  いや、人の死ぬの、見るなんか。

 ここは、どう解釈すればいいのだろう。


駒子の決断

 駒子にとって、島村は、今度汽車に乗ったら、いつまた来てくれるかわからない男である。だからここで見送っておかないと、一生後悔する。

 これに対して、行男は過去のひとである。今の駒子にとっては、もう一度逢えるかどうかわからぬ島村を見送る方が大切なのである。駒子は決然と、島村を選んだ。

 島村は、それを受け入れるしかない。

 ……やがて改札が始まる。駒子は、フォームには入らないといって、待合室で島村を見送る。汽車が走り出すと、駒子の姿はたちまち見えなくなってしまう。待合室のガラスが光って、駒子の顔はその光のなかにぽっと浮ぶかと見る間に消えてしまう。それはあの雪の朝、雪の鏡の時と同じに真赤な頬であった。
 
   またしても島村にとつては、現実といふものとの別れ際の色であつた。 

汽車に乗って東京に帰ってゆく島村には、夕闇に浮かんだ葉子の目も、駒子の赤い頬の色も、現実との別れの色だった、と康成は書いているのだ。つまり、雪国の現実と別れて、彼はふたたびトンネルの向こうの世界へと帰ってゆくのである。
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愛のゆくえ「雪国」 その7
川端書簡

――ところで、「徒労」をめぐって、川端康成書簡に、面白いものがあった。封筒が欠けていて、1935(昭和10)年10月末と推定されるものだが、越後湯沢から、妻・秀子に宛てたものと思われる。

 それは、そのころ『日本評論』社とは、原稿と引き替えに必ず稿料を渡すという約束があったのに、秀子夫人が持参しても、どうしても金を渡さなかったのである。それで、原稿を渡さず、持ち帰った秀子から、康成に、どうしたらよいかと指示を乞うたらしい。

 康成は、次のように書いている。

   日本評論デクレヌノカ。

   日本評論デクレヌノナラ、原稿取リ戻シ、火急他ヘ売ツテ貰フヨリ仕方ナイト思フガ。

   コノ手紙ツクノハモウ三日ダカラ、評論社ノ方ハドウカトキメテ貰(もら)ツテ下サイ。

他ヘ売ルナラ中央公論デモ改造デモヨイガ、中央公論ノ方ヨカロウ。他ヘ売ル時ハ、題ハ「徒労」、続キナレド、独立シテ少シモ差支(さしつかえ)ナク、チヤントマトマリ、相当面白イモノダト云ツテ下サイ。枚数は七八十枚。後直グ届ケルト。

 「徒労」について、「続キナレド、独立シテ少シモ差支ナク、チヤントマトマリ、相当面白イモノダ」と康成が珍しく自信を持って語っているところに注目したいのだ。この挿話は、秀子夫人の『川端康成とともに』にも書かれている。秀子も「自分の作品についてこうはっきりと言うことは滅多にないことですから、この作品にはよほど自信があったのだと思います」と書いている.。


同時代評

 結局、「徒労」は、「物語」に引きつづいて日本評論社が引き取ったが、同時代評は、この作に高い評価を与えた。

 林武志『川端康成作品研究史』(教育出版センター、1984・10・10)の「雪国」評価を見ると、作品が、あとになるほど評価がますます高くなり、「徒労」「火の枕」などは、ほぼ絶讃されていることが印象深いのである。

 ここで少し前戻りするが、「夕景色の鏡」「白い朝の鏡」から、同時代評を、前引の『川端康成作品研究史』から引用させていただこう。いずれも、抄出である。

☆深田久弥「〈新年雑誌文芸時評(3)受難期の一群―川端氏の作品を推す」(『読売新聞』、1934・12・27)

   川端氏の「白い朝の鏡」及びその続編「夕景色の鏡」は傑作である。小説の理屈はともかく、お終ひになるのを惜しみながらたのしみ読めたのは、新年号幾十の小説のうちこれだけであつた。


☆正宗白鳥「〈新年号の創作評(終)稚気と匠気―川端氏の短篇二つ」(『東京朝日新聞』1935・1・6)

   川端康成氏の「夕景色の鏡」は、何の事やら腑(ふ)に落ちなかつたが、「改造」所載の「白い朝の鏡」を読んで、やうやく得心が行つた。この二篇は必ず併(あわ)せ読まなければならぬのである。(中略)二つの小篇に含まれてゐる事実をそのまゝに見ないで、鏡に映して見たところに、芸術としての異つた色彩が豊かに現れてゐる。

☆上林暁(かんばやし・あかつき)「〈文芸時評〉『文藝春秋』―旅情について」(『作品』1935・2・1)

   東京は遠い、と田舎に居てこの頃思ひつづけてゐる僕は、「比叡」(横光利一)、「夕景色の鏡」(川端康成)の二作を読んで、焼きつくやうな旅情を感じた。(中略)ただ作者横光氏は、旅の風光の中にあつて、風光を睥睨(へいげい)(へいげい)し、考察し、時に子供のやうに風光の中に身を構へてゐるに反し、作者川端氏は、旅から湧く感情に身も心も焦がしてゐる相違が感じられた。(中略)

「夕景色の鏡」は未完であるらしい。雪に埋れた信号所に汽車が停つて、汽車の中の娘が、窓の外を通る駅長と言葉を交はすので、僕の感は極まつた。僕たちが文学の修業をしてゐるのは、こんな美しい情景を探り当てるためだ。


「「徒労」の同時代評

何の用意もなく、時間もないまま書き出したというのに、「夕景色の鏡」「白い朝の鏡」は、いずれも好評である。康成が続編を書きつぐ気になった原因の1つは、この好評にあったかもしれない。

 しかし「徒労」以下になると、同時代評は、さらに絶讃の傾向をおびる。


☆青野季吉「文学と方法―川端氏の『徒労』に就て」
   川端康成の「徒労」(日本評論)はこれまでの言葉で云へば、清純なること珠玉の如き作品である。またじつさい私には、この田舎芸者の姿態を描いた作品をよみ耽りつつ、そういふ古い讃美の言葉が、思はず頭にうかんで来たのであつた。またそれと同時に、至芸といふやうな、旧い言葉も思ひ出された。(中略)

   またこの作品には、謂ゆる心理をとり出した描写といふものが、ぜんぜん無い。女のその場その場で男にしめす姿態と言葉のうちに心理の内容と変化とを見てとるより外はない。そして作者は執拗頑強にこの方法を守り通してゐるのである。しかも作者によつて捉へられた女の姿態と言葉のうちに、いかに精妙に心理の内容と変化が「表現」されてゐることであらうか。驚歎するばかりである。

   「徒労」の文学としての独自の性格は、まさにかくの如きものである。複雑なものが、その複雑さを失はずして、単純化され、圧縮され、すべての含蓄によつて答へられてゐる。而(しこう)して、雪の山地の自然と、人間の在り様とが、渾然(こんぜん)とした一致のなかにおかれ、空間、時間の正確な感じまでが、そこに精細に盛り込まれてゐる。これを絵画にたとえ(ママ)れば巧緻な写生と見へ(ママ)て、さうでなく、既に凡(すべ)てをふくむ写意の妙境に達してゐるものと云つてよいかも知れない。


☆河上徹太郎「文芸時評」(『新潮』1936(昭和11)・1・1)

   (上略)然し今月の傑作はと問はれたなら、私は躊躇(ためらい)なく川端康成氏の「徒労」(日本評論)を挙げる。実際此の一篇があつただけで、お勤めで数十篇の小説を読まされた労を悔いないのであつた。


「萱の花」

 「雪国」の第5編「萱(かや)(かや)の花」は、1936(昭和11)年8月の『中央公論』に掲載された。

 2度めの旅から東京へ帰ってゆく車中から書き出される。

   国境の山を北から登つて、長いトンネルを通り抜けてみると、(中略)こちら側にはまだ雪がなかつた。

 上野(こうずけ)と越後の国境を隔てる山塊の底を、1931年(昭和6年)に開通したループ式の長い清水トンネルが通りぬけてゆくのだ。その間に、雪国という現実から離れて行く。

 車中で、島村は放心状態になる。

 島村はなにか非現実的なものに乗つて、時間や距離の思ひも消え、虚しく體を運ばれて行くやうな放心状態に落ちると、単調な車輪の響きが、女の言葉に聞えはじめて来た。

   それらの言葉はきれぎれに短いながら、女が精いつぱいに生きてゐるしるしで、彼は聞くのがつらかつたほどだから忘れずにゐるものだつたが、かうして遠ざかつて行く今の島村には、旅愁を添へるに過ぎないやうな、もう遠い声であつた。彼はすつかり安心して、別離の情に溺れるばかりだつた。

それから、ふたりがはじめて会ったときから、これまでのいきさつが語られる。そして、三度めの旅について、次のように説明される。
   
   来年の2月の13、4日頃スキイに来ると、島村は約束して置きながら、3度目に来たのは、まる1年以上を過ぎた10月の初めだつた。

 2度目は12月だったから、2月には来ると約束しておいて、それをすっぽかし、10ヶ月もたって、彼はこの土地に現れるのである。

 その10月の初め、3度目の旅は、蛾の精細な描写から始まる。
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愛のゆくえ「雪国」 その8
 2度目は12月だったから、2月には来ると約束しておいて、それをすっぽかし、10ヶ月もたって、彼はこの土地に現れるのである。

 その10月の初め、3度目の旅は、蛾(が)の精細な描写から始まる。


蛾(が)の精細な描写

   蛾が卵を産みつける季節だから、洋服を衣桁(いこう)や壁にかけて、出しつぱなしにしておかぬやうにと、出がけに細君が云つた。

   いかにも、、宿の部屋の軒端に吊した装飾燈には、玉蜀黍(たうもろこし)色(とうもろこしいろ)の大きい蛾が六七匹もぢつと吸ひついてゐた。次の間の3畳の衣桁にも、小さいくせに胴の太い蛾がとまつてゐた。

 以下につづく蛾の描写は、康成の技量を示して、すさまじいばかりの迫力である。さらにこの章の中ほどに、秋が深まって昆虫どもの死んでゆく場面が描かれる。見過ごすことのできない描写だから、ここに引用しておこう。

   彼は昆虫どもの悶死するありさまを、つぶさに観察してゐた。

   秋が冷えるにつれて、彼の部屋の畳の上で死んでゆく虫も、日毎にあつたのだ。翼の堅い虫はひつくりかへると、もう起き直れなかつた。蜂は少し歩いて転び、また歩いて倒れた。季節の移るやうに自然と亡びてゆく、静かな死であつたけれども、近づいて見ると、脚や触覚を顫(ふる)はせて悶(もだ)えてゐるのだつた。それらの小さい死の場所として、八畳の畳はたいへん広いもののやうに眺められた。

 わたくしたちはここに、「禽獣」に描かれた数々の鳥や犬や人の死の姿を思い出す。「禽獣」の「彼」の冷酷非情な眼が、ここには存分に発揮されているのだ。そしてこの眼はそのままに、駒子や葉子を映しだす冷え冷えとした眼である。島村は、「禽獣」の「彼」のまぎれもない後身である。
   
鳥追い祭

   駒子は少し後れて来た。
   廊下に立つたまま、真向に島村を見つめて、

  「あんた、なんしに来た。こんなとこへなんしに来た。」
  「君に会ひに来た。」
  「心にもないこと。東京の人は嘘つきだから嫌ひ。」
   そして坐りながら、声を柔かに沈めると、
  「もう送つて行くのはいやよ。なんともいへない気持だわ。」(中略)

  「あんた二月の十四日はどうしたの。嘘つき。ずゐぶん待つたわよ。もうあんたの云ふことなんか、あてにしないからいい。」

2月の14日には、鳥追い祭がある。雪国らしい、子供の年中行事である。その頃は、雪もいちばん深い時であろうから、島村は鳥追い祭を見に来ると約束しておいて、すっぽかしたのだった。

 駒子は、二月は商売を休んで実家に帰っていた。そこへお師匠さんが肺炎になったという知らせが来た。駒子は看病に行っていたのだが、14日には、島村が来ると思って、わざわざ看病を途中にして、この温泉に帰ってきたのだった。

 この作品のところどころに出て来る「港」とは、駒子のモデル松栄の生まれ故郷、三条市を想定しているのであろう。

 湯沢から近くに、港に該当するような町はない。新潟も直江津も遠すぎる。湯沢からほどよい距離で、少し整った町、というと、三条市がいちばん適切である。
 駒子は師匠の看病を途中で放棄して湯沢に帰ってきたのだった。それなのに、島村は来なかった。お師匠さんは死んだ。

 島村の不誠実が、かえって駒子を惹(ひ)きつける一例である。


二十一歳の意味

 駒子は、「胃が痛い」といって島村の膝へ突っ伏す。襟をすかして、白粉の濃い首が見える。

   首のつけ根が去年より太つて、脂肪が乗つてゐた。二十一になつたのだと、島村は思つた。

 この作品の構造を考える上に、無視できぬ1行である。

 島村とはじめて会ったとき、駒子は19であった。もちろん戦前の数え方であるから、数えである。

 島村が二度目に来たのは、その年の12月、そして3度目の今回は、それから10ヶ月後の10月である。

 だから当然ここは、「二十」とあるのが正しい。この年立ての乱れを論じた平山三男は、作者の錯誤であるとする。

 しかし作品をここまで読んできた読者は、その濃密な連続する空気から、島村と駒子とは、はじめて会ってから、かなり長いように錯覚している。それほどに濃密なのである。

 2月の鳥追い祭に来ないで10月に来た、と書いた川端康成は、もちろんここが正しくは「二十」と書くべきであることをよく知っていただろう。しかも康成は、あえてここを「二十一になつたのだ」と書いたのである。

 「雪国」全体を通して、この3度目の逗留が長くなり、次の年の2月ごろになるのではあるけれども、実際は、島村は都合3度しか雪国に来ていない。

 駒子とはじめて会ってから、雪中火事の場面まで、実際には2年足らず、1年と7、8ヶ月程度である。しかしその事実を読者に自覚させると、せっかくの作品の厚みが薄っぺらなものになってしまう。

 康成は、濃密な内容に合わせて、島村と駒子の仲が3年も4年もつづいているかのように読者を錯覚させなければならないのである。

 そこであえて、ここを正しく「二十」とは書かずに、「二十一」と書いて読者を欺いたのである。作品として、その方がいい、とわたくしは考える。


雪国の現実

 しかし、3度目の訪問で、雪国の現実が大きく変貌していることも事実である。

 駒子が姉のように慕う芸者菊勇は、好きな男に騙(だま)されたために、せっかく旦那に建ててもらった店を手放し、別の町に新しく稼ぎに出ることになる。

 行男はもちろん、駒子のお師匠さんも死んだ。

 駒子も、置屋(おきや)が変わって、新しく4年の年季奉公に出るようになっている。
 容赦(ようしゃ)ない現実の波が、この雪国の世界にも押し寄せているのである。変わらないのは、駒子の島村に寄せる一途の愛だけである。

   「あんた私の気持分る?」
   「分るよ。」
   「分るなら云つてごらんなさい。ね、云つてごらんなさい。」と、駒子は突然思ひ迫つた声で突つかかるやうに云つた。

「それごらんなさい。云へやしないぢやないの。嘘ばつかり。あんたは贅沢に暮して、いい加減な人だわ。分りやしない。」

    さうして声を落すと、

   「悲しいわ。私が馬鹿。あんたもう明日帰んなさい。」
   (中略)

   「一年に一度でいいからいらつしやいね。私のここにゐる間は、一年に一度、きつといらつしやいね。」

 何と哀切な、美しい言葉であろう。男が不誠実であることを百も承知しながら、1年に1度でいいから来てほしい、と女はいうのである。

 ところで、次の1節も、この作品の構造に関係がある。

   「私がここへ来てから4年だもの初めは心細くて、こんなところに人が住むのかと思つたわ。汽車の開通前は寂しかつたなあ。あんたが来はじめてからだつて、もう3年だわ。」

    その3年の間に3度来たが、その度毎に駒子の境遇の変つてゐることを、島村は思ひ出した。

汽車の開通とは、もちろん1931(昭和6)年に開通した清水トンネルを指している。上越線は、この開通によって東京から新潟県まで楽に来られるようになり、越後湯沢の湯治客も桁(けた)違いに殖えたのだ。

 「その3年の間に3度来たが」は、正しくは「2年の間に3度来たが」である。あるいは、「2年ちよつとの間に」とすべきところを、康成は強引に「3年の間に3度」と、あえて錯誤を犯したのである。さきに述べたのと同じ理由からである。

 また「萱(かや)の花」では、駒子に旦那のいることがはじめて明かされる。その人は「港にゐる」という。芸者松栄(まつえ)の旦那は東京にいた。が、この作中では「港」とされている。「親切な人だのに、一度も生き身を許す気になれないのは、悲しい」と駒子はいう。

 じつは、ずっとのちに駒子のモデル芸者松栄に会って取材した和田芳恵によれば、松栄には、まだこのほかに意中の人がいた。しかしこれは、のちに述べることにしよう。


「火の枕」

 「雪国」の第6篇「火の枕」は、1936(昭和11)年10月号の『文藝春秋』に発表された。

 その冒頭近くに、駒子の言葉に触発されて、島村が人間の官能について考える場面が登場する。康成の、男女のあり方についての考えの示された、重要な一節である。

   「人間なんて脆(もろ)いもんね。すつかりぐしやぐしやにつぶれてたんですつて。熊なんか、もつと高い岩棚から落ちたつて、體(からだ)はちつとも傷がつかないさうよ。」

 と駒子が云った。岩場でまた遭難があったのだ。このことばを聞きながら、島村は次のように思う。

   熊のやうに硬く厚い毛皮ならば、人間の官能はよほどちがつたものであつたにちがひない。人間は薄く滑らかな皮膚を愛し合つてゐるのだ。

 島村のこの感想には、自分が官能というものに深くとらわれていることを痛感した上での、そのようなものにつき動かされて生きてゆかねばならぬ、自分や駒子を含めた人間のあり方に対する限りない愛惜がある。

 人間がたとえば熊のように逞しく荒々しいだけの官能を与えられているのなら、人間の生存様式はおのずから別のものとなっていただろう。けれども人間に付与されたのは、「薄く滑らかな皮膚」であった。そのような脆い繊弱な肌を与えられた結果、人間は舐めるようにささやかに、互いの肌を愛しあいながら生きてゆかねばならぬ。そこに人の世のさまざまの哀歓も生じてくる。……

 「雪国」の本質を示唆したような一節である。

葉子の登場

これまでも、葉子は時々、いろいろなところで登場していた。そしてそのたびに島村は、その一挙一動が心に残るのであった。

 しかし「火の枕」の後半では、葉子が大きく迫るように前面に出て来る。

 そのピークは、島村の留まっている宿で土地の人の宴会があり、さすがの駒子も「今日は来られないわよ、多分」と云った夜である。

駒子の結び文をことずかって葉子が来たあと、酔って島村のところへ来た駒子のことばは異様である。

   「あの子なんて云つた? 恐しいやきもち焼きなの、知つてる?」
  「誰が?」
  「殺されちやい(ママ)ますよ。」
  「あの娘さんも手伝つてるんだね。」
  「お銚子を運んで来て、廊下の陰に立つて、ぢいつと見てんのよ、きらきら目を光らして。あんたああいふ目が好きなんでせう。」

 ここで「恐しいやきもち焼き」と言われているのはもちろん葉子のことであり、やきもちを焼いている相手は駒子である。しかし何故に葉子は駒子に嫉妬し、「きらきら目を光らして」駒子の座敷を見ているのだろうか。

 「殺されちやい(ママ)ますよ。」――これも素直に読めば、島村が葉子に殺されかねないと駒子は言っているのである。前後から考えると、駒子と島村の仲を葉子が嫉妬している、それも島村を殺しかねないほど激しく、ということになる。

 この時点まで、島村は葉子を遠くから凝視していたばかりであり、葉子とことばを交わしたことも、二度めの旅の終りのあわただしいやりとりだけであった。だから、葉子が島村を恋しているとも受けとれるこの場面は唐突である。

 あるいは葉子は、島村自身を恋しているのではなく、激しい恋愛をしているということ自体で駒子を嫉妬しているとも考えられるが、しかしそれにしても葉子のこの感情は異常であり、読者は意表をつかれた思いがする。

 けれども不思議なのは、この場面が意外であるにもかかわらず、いやむしろ、意外である故にかえって、読者は、この妖しい心理の交錯に惹きこまれるのである。

 この緊張は、次の場面でさらに高まる。ふたたび駒子の結び文を持ってきた葉子に、島村が話しかけた部分である。

   「あの人は(中略)君の話をするのをいやがるくらゐだよ。」
  「さうですか。」と、葉子はそつと横を向いて、
  「駒ちやんはいいんですけれども、可哀想なんですから、よくしてあげて下さい。」
   早口に云ふ、その声が終りの方は微かに顫(ふる)へた。

   「しかし僕には、なんにもしてやれないんだよ。」
    葉子は今に體まで顫へて来さうに見えた。危険な輝きが迫つて来るやうな顔から、島村は目をそらせて……。

葉子が「そつと横を向いて」「駒ちやんはいいんですけれども」と言ったのは、駒子の自分に対する態度を受けとめて、微妙な心の波立ちをおさえ、それは赦してもいいと答えたのであるが、しかし次の「可哀想なんですから、よくしてあげて下さい」と頼んだのはわかるとして、「早口に云ふ、その声が終りの方は微かに顫へた」というのは、何を意味するのだろう。

 心の表層では駒子が島村に愛されることを願いながら、本心はそれに烈しい悋気(りんき)の焔をもやし、自分の方が島村に愛されることをひそかに希っている――そう考えなければ、次に「體まで顫へて来さうに」なる葉子の内面は理解できない。さらに「危険な輝きが迫つて来るやうな顔」とは、葉子が今にも自分を愛してくれと言い出すかもしれぬ、きわどい瞬間がおとずれていたことを示唆しているとしか考えられない。

 つまりここでは、それまで島村から見られるばかりの存在で、あたかも影のようであった葉子が、いつのまにか島村に愛を訴えかねない危険な存在になっているのである。
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愛のゆくえ「雪国」 その9
激しい謝罪の方法

 この場面はさらに発展して、

  「早く東京へ帰つた方がいいかもしれないんだけれどもね。」
  「私も東京へ行きますわ。」
  「いつ?」
  「いつでもいいんですの。」
  「それぢや、帰る時連れて行つてあげようか。」
  「ええ、連れて帰つて下さい。」と、こともなげに、しかし真剣な声で云ふので、島村は驚いた。(中略)

  「あの人に相談した?」
  「駒ちやんですか。駒ちやんは、憎いから云はないんです。」

   さう云つて、気のゆるみか、少し濡れた目で彼を見上げた葉子に、島村は奇怪な魅力を感じると、どうしてか反つて、駒子に対する愛情が荒々しく、燃えて来るやうであつた。得体の知れない娘と、駈落ちのやうに帰つてしまふことは、駒子への激しい謝罪の方法であるかとも思はれた。

 「雪国」後半の山場の1つである。それまで背景にちらちらと影を見せた葉子が前面に出て来て、島村の言葉に誘発されるように「ええ、(東京に)連れて帰つて下さい」と、こともなげに言う。

 もしこの得体の知れぬ娘を連れて、駈落ちのように東京に帰ったら、それはもちろん、駒子への最大の裏切りである。駒子が気にしている葉子を連れて帰ることは、駒子にいちばん傷を与えることである。

 それを島村は、「駒子への激しい謝罪の方法であるか」とも思うのである。駒子の一途に慕い寄ってくる愛を、島村は十分に自覚している。しかも、そんな駒子に対して、自分は何もしてやれないという呵責(かしゃく)が島村には深くある。そんな駒子への最大の謝罪が、思い切った裏切りであると、島村は考える。それほどまでに、駒子の愛の深さを知り、追いつめられているのだ。

 こんな島村に呼応するように、少し後のところではあるが、駒子がこう言う一節がある。

   「あの子を見てると、行末私のつらい荷物になりさうな気がするの。(中略)私の荷を持つて行つちやつてくれない?」(中略)

   「あの子があんたの傍で可愛がられてると思つて、私はこの山のなかで身を持ち崩すの。しいんといい気持。」


駒子には、島村がそれほど遠くない先、自分を捨てて雪国を去るという予感がある。それを、自分の最もつらい方法で実行してほしい、その方が自分は捨てられたことが身にしみて、気が楽になる、というのである。

 あの子があんたの傍で可愛がられてると思って、私はこの山のなかで身を持ち崩すの。――それは、駒子の何と哀切な愛情であろう。
 そのように駒子の愛を牽制する存在として、葉子は描かれているのだ。

 なお、初出にはないが、1937(昭和12)年に刊行された〈旧版『雪国』〉では、
「得体の知れない娘と、駈落ちのやうに帰つてしまふことは、駒子への激しい謝罪の方法であるかとも思はれた。」のあとに、「またなにかしら刑罰のやうでもあつた。」の1行が加えられている。定本も、加えられたままである。

 「謝罪」「刑罰」――島村の、駒子に対する自責の感情を重く引きずった気持ちがよく表れている表現である。


小林秀雄の「文芸時評」

 小林秀雄は、「火の枕」を、「作家の虚無感―川端康成の『火の枕』」と題して、「報知新聞」の「文芸時評」(1)で評した。単にこの作品だけを論じたというよりも、「雪国」論、川端康成論としても、その本質を射抜いた言葉と思われる。これについては、のちにもう1度考える予定であるが、とにかくその核心部分をここに引用しておこう。

   しかし、この作品も、氏の多くの作品と同時に、その主調をなすものは氏の抒情性にある。ここに描かれた芸者等の姿態も、主人公の虚無的な気持に交渉して、思ひも掛けぬ光をあげるといふ仕組みに描かれてゐて、この仕組みは、氏の作品のほとんどどれにも見られるもので、これはまた氏の実生活の仕組みでもあるのだ。

   氏の胸底は、実につめたく、がらんどうなのであつて、実に珍重すべきがらんどうだと僕はいつも思つてゐる。氏はほとんど自分では生きてゐない。他人の生命が、このがらんどうの中を、一種の光をあげて通過する。だから氏は生きてゐる。これが氏の生ま生ましい抒情の生れるゆゑんなのである。作家の虚無感といふものは、ここまで来ないうちは、本物とはいへないので、やがてさめねばならぬ夢に過ぎないのである。

 「火の枕」につづく第7篇「手毬(てまり)歌」は、1937(昭和12)年5月号の『改造』に発表された。

   「駒子が憎いつて、どういふわけだ?」

  「駒ちやん?」と、そこにゐる人を呼ぶかのやうに云つて、葉子は島村を刺すやうに睨んだ。

「駒ちやんをよくしてあげて下さい。」
  「僕はなんにもしてやれないんだよ。」

   葉子の目頭に涙が溢れて来ると、畳に落ちてゐた小さい蛾を掴んで泣きじやくなりながら、

  「駒ちやんは、私が気ちがひになると云ふんです。」と、ふつと部屋を出て行つてしまつた。

最後の1行は、「雪中火事」の終幕の伏線ともいうべき部分である。

 ――連載はここで終わって、翌6月に、創元社から、いわゆる〈旧版『雪国』〉が刊行される。
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愛のゆくえ「雪国」 その10

「いい女」の意味

種々の雑誌に気随気ままに分載された「雪国」は、1937(昭和12)年6月12日、創元社から刊行された。いわゆる 旧版『雪国』である。

 第7篇「手毬歌」までを加筆削除し、さらに八頁ばかり書き加えられている。
 物語の冒頭は、現在も人口に膾炙(かいしゃ)する、次の名文に変わっている。

   国境の長いトンネルを抜けると雪国であつた。夜の底が白くなつた。

この加筆のなかで、最も重要な箇所は、「いい女」をめぐる言葉のやりとりだろう。

  その一人の女の生きる感じが温く島村に伝はつて来た。

  「君はいい女だね。」
  「どういいの。」
  「いい女だよ。」
  「をかしな人。」と、肩がくすぐつたさうに顔を隠したが、なんと思つたか、突然むくつと肩肘立てて首を上げると、

「それどういふ意味? ねえ、なんのこと?」

   島村は驚いて駒子を見た。

  「云つて頂戴。それで通つてらしたの? あんた私を笑つてたのね。やつぱり笑つてらしたのね?」

   真赤になつて島村を睨みつけながら詰問するうちに、駒子の肩は激しい怒りに顫へて来て、すうつと青ざめると、涙をぽろぽろ落した。

  「くやしい、ああつ、くやしい。」と、ごろごろ転がり出て、うしろ向きに坐つた。
   島村は駒子の聞きちがひに思ひあたると、はつと胸を突かれたけれども、目を閉ぢて黙つてゐた。

  「悲しいわ。」

   駒子はひとりごとのやうに呟いて、胴を円く縮める形に突つ伏した。

 島村は、単純に、駒子をいろいろの面から「いい女」と言ったのである。ところが駒子は、その意味をとり違えた。男に快楽を与える生まれつきの體をもっている女、という意味に受けとめた。

 だから、「それで通つてらしたの?」「やつぱり笑つてたのね」と言い、「くやしい」と、ごろごろ畳を転がるのである。

 駒子が部屋を出ていったあと、「島村は後を追ふことが出来なかつた。駒子に云はれてみれば、十分に心疚(やま)(やま)しいものがあった。」と考えるのである。

 この箇所は、駒子について読者に新しい知識を与えるものであるが、以前、「夕景色の鏡」のところで大きく削除した部分を補った、とも考えられる。

 まだ16、7の頃に、自分がどんなにいい女であるかを、男から噛んでふくめるやうに教へられ、その時はそれを喜ぶどころか、恥ぢるばかりだと、男はいよいよむきになつて褒めちぎつたので、やがて男の云ふことが彼女の頭の底に宿命のやうに沈みついてしまつたのだつた。

 この削除した一節を、「いい女」という表現で補ったのではなかろうか。

 「雪国」は、このあと、その次の朝、駒子が早くから島村の部屋に来て謡をうたうところで終幕を迎える。

 今年初めての雪が降りはじめたのだ。紅葉の季節はもう終わりである。

   島村は去年の暮のあの朝雪の鏡を思ひ出して鏡台の方を見ると、鏡のなかでは牡丹雪の冷たい花びらが尚大きく浮び、襟(えり)を開いて首を拭いてゐる駒子のまはりに、白い線を漂はした。

   駒子の肌は洗ひ立てのやうに清潔で、島村のふとした言葉もあんな風に聞きちがへねばならぬ女とは、到底思へないところに、反つて逆らひ難い悲しみがあるかと見えた。

   紅葉の銹(さび)色(にびいろ)が日毎に暗くなつてゐた遠い山は、初雪であざやかに生きかへつた。

   薄く雪をつけた杉林はその杉の一つ一つがくつきりと目立つて、鋭く天を指しながら地の雪に立つた。

〈旧版『雪国』〉は、ここで閉じられる。紅葉の季節が終わり、初雪が降ったという季節の変わり目である。

 作品集として少し頁が足りないので、「父母」「これを見し時」「夕映少女」「イタリアの歌」の四編が加えられている。いずれも、1936(昭和11)六年に各誌に発表されたものである。

 「あとがき」はない。ただ各篇の初出が一覧として挙げられている。発行は1937(昭和12)年6月12日、定価1円70銭である。版元は、創元社。

 このほか、この初版には、各誌に挙げられた讃辞・批評を集めたパンフレットがついていた。


「雪中火事」「天の河」

 それから3年たった1940(昭和15)年、『公論』という雑誌の12月号に、突然「雪中火事」という川端康成の作品が掲載された。

 はじめは、これまでの「雪国」とは少し趣きが変わって、「昔の人の本」が長々と紹介されているが、読んでゆくと、明らかに「雪国」の続編である。

 旧版『雪国』は、3度めの旅の、季節が紅葉から初雪の降る場面で終わっていた。いわば終わりともいえない終わり方だった。

 それに対して、この作品は、3度目の旅のつづきと思われる。
 ふたりの愛の行く末がもう見えている、という書き方だった。

   また駒子とかうしげしげ会ふにつれて、島村は動くのがいやになつた。うちへ帰るのも忘れた長逗留だつた。別れともないからではない。つかれてものういからでもない。いはば自分のさびしい姿を見ながら、ただぢつとたたづ(ママ)んでゐるのだつた。

  駒子がせつなく迫つて来れば来るほど、島村は自分が生きてゐないかのやうに思はれ出した。駒子の熱い火に身のまはりをつつまれて、島村は自分のなかにも一点の小さいともし火が見えて来たが、それはなぜか死の象徴を感じさせた。駒子を愛する術さへ知らぬことが情なくてならなかつた。

   駒子のすべてが島村に通じて来るのに、島村のなにも駒子には通じはしない。このやうな島村のわがままはいつまでも続けられるものでなかつた。駒子が形のない壁に突きあたる音を島村は雪の夜空に聞いた。

   島村はこの温泉場から出発するはずみをつけるつもりもいくらかあつて、縮(ちぢみ)の産地へ行つてみることにした。

ここには、ふたりの愛の行き違いが、はっきりと書かれている。

「駒子のすべてが島村に通じて来るのに、島村のなにも駒子には通じはしない。」それを康成は、「駒子が形のない壁に突きあたる音を島村は雪の夜空に聞いた」と表現する。

 島村はもう、別れなければならない、と思っているのだ。この温泉場を自分が去るしかない、と思っている。そのはずみをつけるために、縮の産地へ行ってみようかと考えるのである。


雪中火事の構想

 いったいなぜ、康成は続編を書くというような無謀を企てたのだろうか。
 この点について康成は決定版『雪国』(創元社、1948〈昭和23)年12月25日刊行)の「あとがき」に、こう書いている。

   昭和12年に創元社から出版し、その後改造社版の私の選集や1、2の文庫本にも入れた「雪国」は実は未完であつた。どこで切つてもいいやうな作品であるが、始めと終りとの照応が悪いし、また火事の場面は中頃前を書く時から頭にあつたので、未完のままなのは絶えず心がかりであつた。しかし、本にまでなつて1度この作品を片づけて立ち去つた気持も強く、残りはわづかながら書きづらかつた。

これによると、続きを書く気持になった原因は2つ――ひとつは、始めと終りとの照応が悪いこと、もうひとつは、雪中火事を書く構想が、かなり早くからあったことである。

 この2つのために、康成はあえて、1度本に出したものの続編を書くというみっともないことに、踏み切ったのであろう。

 このうち、後者については、すでに重要な指摘がなされている。

 「雪国」について精力的な探求をつづける平山三男は、「『雪国』の虚と実――『雪中火事』の新資料報告――」(『解釈』1977・1・1)において、重要な資料を提示して解説を加えている。また『遺稿「雪国抄」――影印本文と注釈論考――』(至文堂、1993・9・20)でも詳しく述べられている。

 平山によると、1935(昭和10)年10月22日、越後湯沢で火事があった。火が出たのは、「有限責任 湯沢乾繭(かんけん)場劇場 旭座」である。これは当時、湯沢村、神立村など5つの村の組合による共同経営がなされていたもので、集められた繭(まゆ)を乾燥するのが本来の目的だが、蚕(かいこ)の合間や冬期には劇場にも使われ、映画や素人歌舞伎・芝居などが演じられた建物という。

 火事の当日は、神立村の青年会が、会の活動資金を得るため、長岡から映画の上映権を買ってきて映画を上映していた。

 2巻目の「あゝ玉杯に花うけて」を上映中、夜9時ごろ、出火した。

 その様子は、「雪国」の中で宿の番頭がいう「活動のフイルムから、ぼうんといつぺんに燃えついて、火の廻りが早いさ」という言葉どおりであったという。

 1935(昭和10)年10月のこの時期、康成は、この湯沢に長期滞在していた。「物語」と「徒労」を書いたときである。まだ雪は降っていなかった。

 この火事を目撃したことが、康成の「雪国」執筆に大きな波紋をもたらした。

 平山は、その事実を証するため、第4次37巻『川端康成全集』補巻2に収録された水島治男宛て「昭和10年10月23日附」川端康成書簡(2の2)を紹介している。

   (前略)この小説は「雪国」と題し、来年2月、もう1度ここに来て、最後を書きます。雪に埋もれた活動小屋の火事で幕を閉じやうかと、昨夜火事(繭の乾燥場に活動写真あつて焼けました。)を見て思ひつきました。

 水島治男は『改造』の編集者であるが、注目すべきは、この時期、康成が「白い朝の鏡の続きを今書いてゐます」という点である。非常に早い時点で、雪中火事の構想が康成のうちに生じているのである。また作品も、「来年2月、もう1度ここに来て、最後を書きます」とあるように、決して長篇の構想があったのではなく、中編ぐらいの長さを康成が頭に描いていたことが推定されるのである。

 このときの康成の湯沢滞在は1935年の9月30日から10月29日までの、1ヶ月に及ぶ長いものであった。

 この時の日記が、以前に引用したように「『雪国』の旅」に掲載されているが、その掲載された期間は、同年9月25日から10月16日までである。

 つまり康成は、「雪国」の手の内を読者に見せたふりをして、火事のあった22日以前の16日で、この日記を切っている。すなわち、絶好の素材となるであろう雪中火事の事実を、読者に知らせることなく、日記を打ち切っているのである。


鈴木牧之『北越雪譜』

 書きおくれたが、「雪中火事」の冒頭は、鈴木牧之(ぼくし)の『北越雪譜』を引用したものである。

 康成はこの書を、〈旧版『雪国』〉刊行後に知って読んだという。

 ちなみに鈴木牧之は越後の商人で文人でもあった人(1770―1842)。『北越雪譜』は7巻から成り、越後の雪の観察記録を中心に、雪国の風俗、習慣、言語を記したもので、天保年間に刊行された。

 康成はそのなかから、特に縮(ちぢみ)について書かれた部分を引用した。縮を織ることは、雪国の女たちの勤勉で我慢づよい性格をよく現し、それは駒子の美質に通じると考えたからであろう。また越後縮(えちご ちぢみ)の清涼な肌合いが駒子の清潔な気質にも通じると考えたからであろう。

 縮の肌に涼しいのを書いたあと、「島村にまつはりついて来る駒子にもどこか根の涼しさがあつた。そのためによけいに駒子のみうちのあついひとところが島村にあはれであつた。」と記した1節が、そのことを語っているだろう。

 もう1つ、以下の1節も、この作品に深いところで通じていると思ったに違いない。

   しかしその無名の工人は無論とつくに死んで、その縮だけが残つてゐる。その暮しの苦しみはこの世に跡形(あとかた)(あとかた)もなく消えて、ただその美しいものだけが生きてゐる。なんの不思議もないことが島村はふと不思議であつた。

 恋愛も、その過程のさまざまな葛藤(かっとう)は時間が過ぎるときれいに消えて、ただ恋愛の名残りだけがはかない美しさとして残されてゆく。あるいは、恋愛の実質は跡形なく消えて、あとにはなにも残らない。

 その不思議が、縮(ちぢみ)の不思議と重なると考えられたからではあるまいか。
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愛のゆくえ「雪国」 その11
「天の河」の構想

 「雪中火事」の続編「天の河」は、それから8ヶ月たった1941(昭和16)年8月に、『文藝春秋』に発表された。

 「雪中火事」の終わりでふと2行、天の河が描かれる。

   「天の川、きれいねえ。」と駒子はつぶやきながら、また走り出した。
   島村は空を見上げたまま立つてゐた。

 「天の河」は、これを受けて書き出されている。

 康成がおそらく渾身(こんしん)の力をこめて観察したに違いない天の河の描写が、描かれる。

   ああ、天の河と、島村も振り仰いだとたんに、天の河のなかへ體(からだ)がすつと浮き上つてゆくやうだつた。天の河の明るさが島村を掬(すく)ひ上げさうに近かつた。旅の芭蕉が荒海の上に見たのは、このやうにあざやかな天の河の大きさであつたか。裸の天の河が夜の大地を素肌で巻かうとして、直ぐそこに降りてきてゐる。恐ろしい艶(つや)めかしさだ。

 康成はここで、芭蕉が佐渡を詠んだ一句の大きさを思い出している。

   荒海や佐渡に横たふ天の河

 荒海を前景として、眼前に黒々と横たわる佐渡の島。その海と島のすべてを巻くように、全天に拡がる冴えわたった天の河――。

 康成が島村に託して描いた、巨大な、荒々しい、それでいて艶めかしい天の河こそ、卑小な人間世界と対比される自然の広大さであった。

   「ねえ、あんた私をいい女だつて言つたわね。行つちやふ人がなぜそんなこと言つて、教へとくの? 馬鹿。」

   女のあたたかい哀しみが島村を絞めつけた。

   「泣いたわ。離れるのこはいわ。だけどもう早く行きなさい。言はれて泣いたこと、私忘れないから。」

人間の世界の、小さな、だが何と一生懸命な、美しい言葉だろう。
 この篇は、次の行によって終わりを告げる。

   島村も新しい火の手に眼を誘はれて、その上に横たはる天の河を見た。天の河は静かに冴え渡つてゐた。豊かなやさしさもこめて、天に広々と流れてゐた。

 ここで「天の河」、すなわち追加された「雪国」は結ばれる。素人にも、平凡すぎる終幕と思われる。


「雪国抄」「続雪国」

 以上2編が発表されたのは、まだ太平洋戦争開戦以前の1940、41(昭和15、16)年のことであった。

 それから5年後の1946(昭和21)年、戦争も終わった敗残の国土のなかで、康成は三たび筆をとって、「雪国」の続編を新しく書き直して発表した。

 「雪国抄」は、『暁鐘』1946年5月号に発表された。

 「雪国抄」の、冒頭は、『北越雪譜』を踏まえて、「雪中火事」と、ほとんど同文である。ただ途中から、引用部分を大幅に削って、引き締まった文章となっている。

 また「雪中火事」で引用した、作品の核となる部分は、彫琢(ちょうたく)されて、珠玉のような名文へと変貌している。

   妻子のうちへ帰るのも忘れたやうな長逗留だつた。離れられないからでも別れともないからでもないが、駒子のしげしげ会ひに来るのを待つ癖になつてしまつてゐた。さうして駒子がせつなく迫つて来れば来るほど、島村は自分が生きていないかのやうな呵責がつのつた。いはば自分のさびしさを見ながら、ただぢつとたたづんでゐるのだつた。

駒子が自分のなかにはまりこんで来るのが、島村は不可解だつた。駒子のすべてが島村に通じて来るのに、島村のなにも駒子には通じてゐさうにない。駒子が虚しい壁に突きあたる木霊に似た音を島村は自分の胸の底に雪が降りつむやうに聞いた。このやうな島村のわがままはいつまでも続けられるものではなかつた。

   こんど帰つたらもうかりそめにこの温泉場へは来られないだらうといふ気がして、島村は雪の季節が近づく火鉢によりかかつてゐると、宿の主人が特に出してきてくれた京出来の古い鐵瓶(てつびん)で、やはらかい松風の音がしてゐた。(中略)

   島村は鐵瓶に耳を寄せてその鈴の音を聞いた。鈴の鳴りしきるあたりの遠くに鈴の音にほど小刻みに歩いて来る駒子の小さい足が、ふと島村に見えた。島村は驚いて、最早ここを去らねばならぬと心立つた。

   そこで島村は縮の産地へ行つてみることを思ひついた。この温泉場から離れるはずみをつけるつもりもあつた。

 島村は汽車に乗って、さびしそうな駅に降りる。そうして雁木(がんぎ)の連なる、昔の宿場町らしい町通りを歩いて、また汽車に乗る。もう1つの町に降りる。寒さしのぎにうどんを1杯すすって、また汽車に乗り、駒子の町に帰ってくる。

 車に乗って宿に帰ってゆこうとすると、小料理屋菊村の門口で立ち話をしている一人が駒子だった。

 駒子は徐行した車に飛び乗って、窓ガラスに額を押しつけながら、「どこへ行った? ねえ、どこへ行った?」と甲高く叫ぶ。

   「どうして私を連れて行かないの? 冷たくなつて来て、いやよ。」

  突然擦り半鐘(すりはんしょう)が鳴り出した。
   二人が振り向くと、

   「火事、火事よ!」
   「火事だ。」

    火の手が下の村の真中にあがつてゐた。

 「雪国抄」は作品が長くなって、「雪中火事」では、火事の発端だけだったのが、もう少しつづけて書いてある。

 作品の終わりに、作者の言葉がある。

   ――10年前の旧作「雪国」は終章を未完のまま刊行し、折節気にかかつてゐたが、ここにとにかく稿を続けてみることにした。既稿の分も改稿して発表し得たのは本誌編輯者の雅量による。作者――


 
「続雪国」の新展開

 つづけて、1年あまりを経た1947(昭和22)年10月、『小説新潮』に最終篇「続雪国」が発表された。

 火事のつづきである。繭倉(まゆぐら)で映画のあったことがわかって、駒子のあとを追って島村も繭倉の方へ駆け出す。

 「天の河。きれいねえ。」という駒子の声に誘われて、島村は空を見上げる。
 1941(昭和16)年の「天の河」と同じく、芭蕉の見た天の河を連想する。
 しかし次がこれまでと異なる。

   あつと人垣が息を呑んで、女の體が落ちるのを見た。

 やがて、それが失心(ママ)した葉子だとわかる。

 ――10年を経て、康成は葉子の失心と墜落という、物語の新しい展開、物語のフィナーレを思いついたのだ。

   葉子はあの刺すやうに美しい目をつぶつてゐた。あごを突き出して、首の線が伸びてゐた。火明りが青白い面の上を揺れて通つた。

   幾年か前、島村がこの温泉場へ駒子に会ひに来る汽車のなかで、葉子の顔のただなかに野山のともし火がともつた時のさまをはつと思ひ出して、島村はまた胸が顫へた。一瞬に駒子との年月が照し出されたやうだつた。なにかせつない苦痛と悲哀もここにあつた。

「幾年か前」という表現に注意したい。島村が葉子を初めて見たのは、2度めの旅、12月だった。3度めの旅は、それから10ヶ月後の10月から、この冬まで。長逗留で、今が1月とも2月とも判別しがたいが、いずれにしても、葉子を初めて見てから今まで、1年とちょっとである。

 「雪国」の正確な年立(としだて)という問題からみれば、ここは明らかに作家の錯誤である。

 だが、そうだろうか。

 この濃密で緊張感にみちた島村と駒子の愛を読んできた読者には、ふたりの仲は3年にも4年にも、あるいは5年にも感じられる。

 その読者の錯誤を考えると、ここは正確に「一年ちょっと前」と書いてはならないのである。「幾年か前」と朧化(ろうか)されることによってはじめて、島村と駒子の、のっぴきならぬ愛情の積み重ねが読者に納得させられるのだ。

 もう1つ大切な部分は、「一瞬に駒子との年月が照し出されたやうだつた。」とある一行である。

 「雪国」という作品にとって、葉子は重要な存在である。3度めの旅の紅葉の季節には、葉子は「東京に連れて行つてください」と島村に頼み、島村もこの「得体の知れない娘と駆け落ちのやうに東京へ帰る」ことは、駒子への最大の謝罪だと考えた瞬間もあった。

 そのように葉子は、島村と駒子のあいだにあって、駒子と島村の愛の成り行きを、刺すような美しい目で、じっと観察する存在としても考えられた。

 島村はいま、失心した葉子を見ながら、初めて葉子と会ったとき、汽車の夕景色の流れの中に映った、葉子の顔のなかにともったともし火を思い浮かべている。あれからの歳月、それは駒子と過ごした歳月でもあったのだ。

 島村の内部に「なにかせつない苦痛と悲哀」が湧き上がるのに、何の不思議もない。

 葉子の失心と墜落というアイデアが、駒子との歳月を写し出す鏡のような葉子の役割を、ふたたび思い出させたのである。

   「この子、気がちがふわ。気がちがふわ。」

   さう言ふ声が物狂はしい駒子に島村は近づかうとして、葉子  を駒子から抱き取らうとする男達に押されてよろめいた。

   さあつと音を立てて天の河が島村のなかへ流れて来た。

 康成は、最後に推敲して単行本にするとき、この最後の部分を、次のように改変した。

   「この子、気がちがふわ。気がちがふわ。」

   さう言ふ声が物狂はしい駒子に島村は近づかうとして、葉子を駒子から抱き取らうとする男達に押されてよろめいた。踏みこたへて目を上げた途端、さあと音を立てて天の河が島村のなかへ流れ落ちるやうであつた。

 この最後の場面は、長い物語の終焉として、まことに劇的なものであろう。

 駒子の愛の高まりと、それを受けとめる島村の追いつめられた意識が、物語の最後近くで、どうにも身動きできない状況になる。

 島村が、この雪国を去るしか、とるべき道は残されていないのである。

 物語のフィナーレに火事が起こり、その火事という非日常的な出来事の喧噪をはるかに見下ろすように、すべての人々を包み込むような壮麗な天の河が天空いっぱいに広がる。それに気づいた島村に流れ落ちるかと思われて、物語は結ばれる。

 伊藤整は、新潮文庫『雪国』の解説(1947〈昭和22〉・7・16)において、次のように作品の終幕の必然性を説いている。

   生きることに切羽つまつてゐる女と、その切羽詰りかたの美しさに触れて戦(をのの)いてゐる島村の感覚との対立が、次第に悲劇的な結末をこの作品の進行過程に生んで行く。そしてその過程が美の抽出に耐へられない暗さになる前でこの作品は終らねばならぬ運命を持つてゐるのである。

 ――11年間にわたる、康成の格闘がここに終わった。

 この「雪国抄」「続雪国」の2編にさらに彫琢を加えて、1948(昭和23)年12月25日、創元社から〈決定版『雪国』〉が刊行される。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/3c9d030fb609dbf9dfc7cdaab6f4e27c


愛のゆくえ「雪国」 その12(最終回)

「雪国」は、どのような作品か

 ……これまで、プレオリジナル(初出)を中心に、「雪国」の要(かなめ)となる部分を見てきた。そのつど、意味するところは書いてきたはずである。

 しかし、それでは、「雪国」は、結局どのような作品なのか。

 以下を書くために、わたくしはこれまで、作品の細部を見てきたといってもいいくらいである。

 さて、「雪国」の本質を考えるとき、当然ながら、この作品の視点人物たる島村とは何者であるか、について考えさせられる。

この場合、かつて「火の枕」が発表されたとき、小林秀雄が「報知新聞」に書いた「文芸時評」の一節が、川端康成理解の有力な手がかりとなる。(「作家の虚無感―川端康成の『火の枕』」)

 小林は、康成の抒情性の本質を、次のように喝破した。

   しかし、この作品も、氏の多くの作品と同時に、その主調をなすものは氏の抒情性にある。ここに描かれた芸者等の姿態も、主人公の虚無的な気持に交渉して、思ひも掛けぬ光をあげるといふ仕組みに描かれてゐて、この仕組みは、氏の作品のほとんどどれにも見られるもので、これはまた氏の実生活の仕組みでもあるのだ。

   氏の胸底は、実につめたく、がらんどうなのであつて、実に珍重すべきがらんどうだと僕はいつも思つてゐる。氏はほとんど自分では生きてゐない。他人の生命が、このがらんどうの中を、一種の光をあげて通過する。だから氏は生きてゐる。これが氏の生ま生ましい抒情の生れるゆゑんなのである。作家の虚無感といふものは、ここまで来ないうちは、本物とはいへないので、やがてさめねばならぬ夢に過ぎないのである。

 この川端評は、そのまま「雪国」の島村に通じるのではないだろうか。特に後半の評言「がらんどう」は、「雪国」の本質をみごとに言い当てている。

 この小林の言葉をわたくしなりに翻訳すると、まず、島村の胸底は、虚無という「がらんどう」である。「禽獣」の「彼」と同じ構造をもっている。その虚無の胸底を、彼の見た生命体の美しさが、「一種の光をあげて」通過する。それが「雪国」という作品である。

 つまり島村は生きていながら、生きていない。彼はただそこに在るだけである。彼の眼に映じたもののうち、彼のうつろな胸底を、美しいと戦慄するように通り過ぎたものだけを、彼はすくい取り、それを彼は胸にしっかりしまい込むのだ。

 読者は、その島村の厳しい眼を通過した美しいものだけを受け取り、それを美しいと感じることができるのである。

 すなわち島村は胸底に虚無をたたえた冷ややかな感受性の持ち主であって、彼は蜘蛛が身のまわりに繊(ほそ)い糸をはりめぐらすように、
鋭い感受性をはりめぐらしていて、美しいものが通り過ぎるのを待っている。

 駒子のさまざまな姿態や言葉も、葉子の刺すような目も澄んだ声も、すべて彼の蜘蛛の網にかかる。

 それを彼は、こわれぬように繊細な手つきによって言葉に変え、そっと読者の前に提示するのである。

 読者が享受するのは、そのようにして川端康成の胸底を通過した美しいものだけである。この場合、島村は、そのまま川端康成自身である。


伊藤整の島村観

戦前戦後にかけて、川端康成について最も多く発言し、またその理解が深いと思われるのは、前掲の『川端康成作品研究史』を執筆した林武志が指摘するように、伊藤整である。

 その数々の文章のなかで、ここでは「川端康成の文学」(『作家論U』角川文庫、1964〈昭和39〉年・12・10に収録。初出は『東京新聞』1953年2月とあるが、該当する文章は掲載されていない)の、「雪国」について述べた部分から、その核心となるところを引用してみよう。

   主人公の島村は作者の説明では「自然と自身に対する真面目さも失ひがちな」無為徒食の人間で、山を好み、舞踊が好きだ、と簡単に書かれてゐる。しかし、それはどうでもよいことで、美と生命の燃焼を求める感受性の細い絃が島村といふ人物の中に縦横に張りめぐらされてゐるのである。

その絃に触れる美は悉(ことごと)く音を立てるが、生活そのものはその絃に触れることがない。だから、その生き方において悲しいまでに真剣な駒子のやうな存在、またその駒子よりももつと張りつめた生き方をしてゐる葉子の存在は、生活者としては島村に触れることなく、ただその張りつめた生き方の発する美の閃光(せんこう)としてのみ島村に把へられる。そこから島村と駒子の間、島村と葉子の間に、接近すればするほど行きちがふといふ悲劇が生れる。

   島村が美の感受者として自分の周囲に独特の世界を見出して作つて行くさまは、光を持つた人間が闇の中を歩くのに似る。

この理解は、先述の小林秀雄の理解と相通ずるところがあると思われる。

 伊藤整は別のところでも、島村を「美しく鋭いものの感覚的な秤(はか)り」と述べている。


山本健吉の「雪国」観

 少し後れて、川端康成の文学に深い共感を示し、駒子と葉子を、能のシテとツレと見立てた山本健吉の「雪国」観も、見ておく必要があるだろう。

 山本は『近代文学鑑賞講座13 川端康成』(角川書店、1959〈昭和34〉・1・10)の編著者であるが、この創見に満ちた1冊の書で、山本は次のように述べている。

   ……自分を全然人生の葛藤の渦中から外側に置いて、駒子や葉子のなかに瞬間的に現れる純粋な美の追究者として、人生的には非情の傍観者としてふるまうところに、この作品の世界が成立していると言えるのである。(中略)

   このような純粋に審美的なものの追求、生活の塵埃(じんあい)から、雪国の別世界への感受性の逃避行そしてそのことによって、女心の哀愁と美とを捕えようとしたのが、この作品なのである。

 ……伊藤整や山本健吉から、以後、たくさんの研究者たちが出て、「雪国」や島村について、さまざまな考察を提示した。

 しかしわたくしは、ここまで引用してきた小林秀雄、伊藤整、山本健吉らの考えを、「雪国」の本質を衝いたものとして、自分の「雪国」観を少しも改める気にはならないのである。

駒子のモデルと和田芳恵

 ……1957(昭和32)年の正月5日、評論家の和田芳恵は、写真家大竹新助とともに、新潟県南蒲原(かんばら)地方の三条市に、駒子のモデルとされる小高キクを訪ねた。雑誌『婦人朝日』に「名作のモデルをたずねて」を連載する、その第1回のためである。

 途上の湯沢では、豊田四郎監督、池辺良、岸恵子主演で「雪国」がはじめて映画化されることになり、その撮影で大騒ぎの最中であった。

 そのころ、かつて越後湯沢で芸者松栄として出ていたキクは、三条市の仕立物師・小高久雄の妻となって、小高キクとなっていたが、条理のわかった夫の協力もあって、この日の取材となったのである。

 以下は、この和田芳恵の記述「名作のモデルをたずねて(一)」(『婦人朝日』1957〈昭和32〉・3・1)によったものである。

 キクの本名は丸山きく。三条市島田に、1915(大正4)年11月23日、鍛冶屋(かじや)の長女として生まれた。兄がひとりあったが、十人兄弟の大所帯であった。
 川端康成と出会った1934(昭和9)年には、ちょうど数え20歳であったことになる。

 数えで10歳の7月15日に小学校をやめて、長岡市の立花家という芸者屋の下地っ子に出された。当時、南蒲原地方では、生活のために娘を芸者にすることを、さほど不思議と思わない風習があったという。

 長岡には、下地っ子のための特殊な学校があって、きくはそこに通ったそうだ。
 1928(昭和3)年、17歳になったきくは、湯沢の若松屋という芸者屋から松栄という芸名で出ることになった。年期は3年であった。

 しかし和田芳恵のここの記述はおかしい。1928年なら、キクは14歳だったはずである。これは年号の方が不確かで、「17歳」の方が正しいと考えたい。
 清水トンネルが開通した年(といえば1931〈昭和6〉年のはずだが、和田は1930年と書いている)、湯沢駅前の土産物店兼自動車屋に、峠(とうげ)豊作という運転手が雇われた。

 豊作は、1912(大正元)年の生まれ。きくと3つ違いだ。新潟県東南部の織物で名高い塩沢の、うどん屋の息子であったが、蕎麦(そば)づくりの技術を覚えるため、1928(昭和3)年に上京、日本橋室町の更科(さらしな)に弟子入りしたのだが、その仕事がいやになり、自動車の運転手になった。当時、運転手は、はなやかな職業であった。

 22歳の美貌の豊作と19歳のきくは、やがて深い恋仲となった。小説「雪国」は、この年から書き始められている。

 この土地では、芸者の住んでいる部屋を「きりやど」という。たいてい置屋の母屋から廊下でつづいているが、母屋からは離れている。そこに客が泊まることもあった。

 豊作は仕事がすむと、夜が更けたころ「きりやど」から、きくを呼び出し、ひっそりした湯舟につかって、あまい恋をささやいたという。「ふたりはしあわせに夢のような日をおくっていました」と和田は書いている。

 きくは豊作と一緒になりたいと考えていたが、3年の年期を終えて家に帰ると、すぐ富山県の高岡に、また芸者として出なければならなかった。このときの身代金で、親は住む家を建てた。芸名は、いろは、だった。

 しかし高岡では我慢のならないことがあった。それは、抱え主が芸者に客をとることを強要したことである。


1932(昭和7)年、18歳の松栄

 きくは、「21歳になった昭和7年の8月に、湯沢へ住みかえました」と和田は書いている。(年齢か年代か、どちらかが間違っている。平山三男の調査によれば、数え18歳の1932(昭和7)年が正しい。

 そのときの置屋が豊田屋で、抱えは三人いた。松栄(まつえ)という名が通っていたので、今回も松栄で出た。

 豊作との仲は、この土地では誰知らぬ者はないほどであった。きくは、豊作の兄貴分であった人を通して、年期があけたら一緒になってほしいと申し入れた。豊作は喜んで、かたい約束をした。ふたりは夫婦きどりでつき合っていたが、1937(昭和12)年の秋、豊作に召集令状が来て、高田に入隊することになった。そこで双方の親を説得して仮祝言をあげた。

 ところがじつは、きくには、東京に旦那がいた。60に近く、めったに来ることはなかった。その旦那が話を耳にして、どうしても手放さないと言い、きくは豊田屋をやめて上京し、旦那に囲われることになった。26歳のときだった。

 豊作の部隊は中支の漢口に行き、豊作はここで3年の軍隊生活を送り、現地で2年、軍属をしてから陸軍病院の酒保に店を出した。生活が安定したので、きくを呼び寄せる手続きをして、このとき初めて、きくに長いあいだ裏切られていたことを知った。

 和田芳恵は、峠豊作にも会って、取材している。この『週刊朝日』には、峠の近影も掲載されている。

 峠は、和田芳恵に、きくと、結婚の仮祝言をすませた仲であることを認めた。また康成を定宿の「高半」へ幾度も送り迎えをしたことなども話したという。

 1958(昭和33)年の取材の当時、峠は東京の八重洲口に近いところで料亭を営んでいた。


松栄のその後

 一方、きくは、旦那も死に、戦争も激しくなったので、郷里三条市に帰り、帯や袴(はかま)の仕立てをしている小高(こだか)久雄の弟子になった。

 やがてきくは、これまでの閲歴をすべて小高に打ち明け、二人は結婚して、現在に至ったという。

 和裁ばかりでは生活が苦しいので、きくはミシンを置いて、婦人子供の既製服の製造をはじめ、のちには内弟子や通いの弟子が七、八人もできるほど、手広く経営するようになっているそうだ。

 ――以上が和田芳恵の伝える丸山キクの半生である。年代にところどころ錯誤があるので、正確な事実として確認できないところが残念だが、中見出しに「哀れ、7年の恋は終りぬ」とあるところからも、このとき、きくは和田芳恵に率直に、峠豊作のことを含め、これまでの人生を詳細に語ったと思われる。

 問題は、康成が湯沢に滞在して「雪国」を執筆した時期と、峠豊作ときくが恋仲であった時期が重なるのではないかと思われることである。

 高半旅館の次男・高橋有恒も、「『雪国』のモデル考――越後湯沢における川端康成」(『人間復興』第2号、1972(昭和47)・11・期日不明)のなかで、「峠豊作と芸者松栄との間に当時、すこし噂があった」と書いている。

 また、あるとき、峠の運転する車に有恒が乗せてもらっていると、峠は芸者置屋豊田屋の前で車をとめ、二階の芸者松栄に声をかけた。すると松栄が降りてきて、車に同乗した。このとき松栄は、「オツさま、この本、川端さんがくれたの」と1冊の本――「水晶幻想」を差し出した、とも述べている。

 これらの事実を、どう解釈したらいいのだろうか。

 1932(昭和7)年、18歳のきくが、若松屋から松栄という名で芸者にでた事実は確かであろう。康成がはじめて湯沢に来たのは、2年後の1934(昭和9)年である。

 このときすでに松栄は、峠豊作と恋仲になっていたと思われる。

 というのも、松栄と峠豊作が恋仲になったのは、松栄が高岡に行く前のことと、和田芳恵は書いているからである。湯沢に帰ってきて、ふたたび松栄という名で芸者に出たきくと峠豊作は、感無量のうちに再会したはずである。

 もっとも、作品で見てきたように、潔癖で正直な松栄が、ふたりの男に二股(ふたまた)をかけるような女でないことは確かである。

 わたくしが注目したいのは、3度目の旅で、縮の産地から帰った島村の乗った車に、駒子が飛び乗る場面である。

   車が駒子の前に来た。駒子はふつと目をつぶつたかと思ふと、ぱつと車に飛びついた。車は止まらないでそのまま静かに坂を登つた。駒子は扉の外の足場に身をかがめて、扉の把手(とって)につかまつてゐた。(中略)

   駒子は窓ガラスに額を押しつけながら、
  「どこへ行つた? ねえ、どこへ行つた?」と甲高く呼んだ。

  (中略)

駒子が扉をあけて横倒れにはいつて来た。しかしその時車はもう止まつてゐるのだつた。
 
これは、実際の体験を描いた場面ではなかろうか。そうだとすれば、駒子が大胆にも走っている車に飛び乗ることができたのは、峠豊作の運転する車で、豊作が危険な操作をするはずがないと安心して、駒子は無茶をしたのではないだろうか。

 つまり、豊作もまた、駒子が島村とつき合っていることを知っていて、島村の前で車の速度を落し、また危険のないよう配慮したのである。

 わたくしは、すでに駒子こと、きくと豊作は恋仲であったと確信する。

 そこへ、いきなり東京から得体の知れぬ、これまで会ったこともないような男が現れ、きくは電撃に打たれたように、その男に惚れてしまったのだ。駒子は夢中になって、その新しい男に心血をそそいで恋をする。

 豊作は黙ってそれを傍観しているしかなかった。

 およそ2年間、駒子は命がけの恋をした。それは次元の異なる恋だった。豊作は黙って見ているより術(すべ)がなかった。

 島村が雪国を去ってしばらくたって、駒子こと、きくは豊作のもとに戻ってきた。駒子は豊作との結婚を本気で考えた。……

 康成は、駒子にそのような想い人があったことを知っていただろうか。

 小高久雄は和田芳恵の取材のとき、「この人には、そのころ、7年も思いつめた男の人がいたのですよ」と語ったそうだ。また、「雪国」の作者のことは、きくから聞いてはいたが、「雪国」を読んだのは結婚してからだったという。

 最後にきくは、康成のことを、「あの方は、これまで知った多くの人たちから感じられない独特な雰囲気を持っていました」と和田に語ったという。

 峠豊作というひとがありながら、駒子のきくは、魅入られたように康成との恋に命を傾けたのではなかろうか。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/7d45b23134e8d90da385ae91582324aa





▲△▽▼

フランス文学に造詣が深い伊藤整の『氾濫』における心理描写がある。
それに対して、川端康成の心理描写がある。

わたしにはこの二人の心理描写は本質的な違いがあると思えてならないのだ。


 伊藤整は『氾濫』において、人の心をそれこそ「合理的思考」で、らっきょうの皮を剥いていくように解剖していくのだ。主人公自身が自分の心理を解剖していくことさえも容赦なく、暴露的であり客観的だ。

私小説的世界を描いているが、私小説的な意味での客観描写ではなく、西欧的な意味での客観描写であり、それでいて心理学的な描写である。

評論家の奥野健男が『氾濫』(新潮文庫)の解説で「心理描写の極北」と絶賛していたが、そうであったとしても、わたしには無味乾燥な世界にしか思えなかった。

そうして心理を余すことなく剔抉できたとして、その人間はそれだけですべてないのか、人と命との不可解さとはそんなものなのか、と思えるのだ。そうした解剖学的、そして心理学的な心理描写で生きて蠢く人間が描けると思っていることが、不思議でならないのである。

伊藤整の心理描写は、すぐれて西欧的である。無意識の闇まで、光を当てて暴き立て、またそれで無意識の闇の本質を描き出せると信じているかにみえる。その発想が理解できないのである。


 一方、川端康成の心理描写は暴露的ではなく、また分析的でもない。川端は初めから人の心理を解剖学的に、そして分析的に解明できるとは考えてはいないし、そうした発想が元々ないのではないかと思える。それでいて、川端の心理描写は鮮やかである。

川端の心理描写は、伊藤整のように、人の心に下りていって、「合理的思考」という眼によって分析的に暴かれていくのではなく、むしろ自分ではなく、自然という対象や他者によって気づかされるというような形をとっている。したがって、風景の中に自分の心理を見つけ出したり、他者のしぐさによって自分の心理に気づかされたりするのである。

風景を描写しながら、それは自分の心理を写した鏡であり、他者を描写しながら、その他者の中に自分の心理が生きて動いているという描写方法なのである。風景描写であって心理描写であり、他者を描きながら、自分の心理を他者の姿の中に浮かび上がらせているのだ。

これは西欧的な意味での「合理的思考」による認識ではなく、日本的な感覚的認識によって、自然の風景や他者の中に隠れている、自分という不可思議な生き物の心理に気づかされるという描写手法である。


 伊藤整は『氾濫』において、神のような存在である。登場人物の心の隅々まで余すところなく把握し、あらゆる動作と、行動の意味を心理学的に理由付けられるのである。

私小説の意味で、登場人物が伊藤整の傀儡になっているといっているのではない。私小説よりははるかに高度な人間把握であり、心理的描写であり、また人物造形である。フランス文学に精通した伊藤整であり、『小説の方法』を書いている伊藤整が、単なる私小説を書くはずはないし、また私小説の形骸化でしかない風俗小説を書くはずはないのである。

「心理小説の極北」というからには、伊藤整の心理描写の方法論からすれば、『氾濫』が限界だということになるのだろうか。わたしは翻訳小説を読んでいるような錯覚を覚えたのだが、それだけ伊藤整の心理描写の手法が西欧的だったのかもしれない。

 一方の川端康成であるが、小説の登場人物の心をすべて把握してはいない。また、把握することを最初から放棄しているように、わたしは思っている。

人間とはそれほどまでに、不可解な生き物だからだろう。おぼろげに、ぼんやりと人の心理を浮かび上がらせるだけである。それでいて、一瞬だけ鮮やかにみせてくれたりするが、ぼんやりとした中の一瞬だから、鮮やかであり印象的なのである。

その一瞬とは、直観に通じているものなのだろう。感覚的認識とは、西欧的な「合理的思考」によって、らっきょうの皮を一枚一枚剥いていって本質を暴くことではなく、一瞬の中で感覚的に本質を掴み取ることである。

 伊藤整の『氾濫』は、らっきょうと一緒で、剥く皮がなくなってもついに本質が見えてはこないのと似ている。すべてを「論理的思考」で心を分析的に暴き立てたから、かえって心がみえなくなり、空虚なものでしかなくなってしまったのではなかろうか。

何故ならば心は自らで動いて呼吸をしているもので、生きた生命をもっているからだ。断片としての事実を繋ぎ合わせても生命ではない。生命とはそうした得体のしれないものであり、だからこそ尊厳があるのだろう。

 川端康成の描いた人間の心は、ぼんやりとしたものだから、不可思議な生命そのままに生きて呼吸をしているのである。しかし、ぼんやりとではあるが、だからこそその人間の本質的なものが浮かび上がってくるのだろう。

 わたしは当然に、川端康成の心理描写における手法の方向性でいくつもりだが、そのままではなく、わたしなりの手法を取り入れていくつもりだ。

 国学を論じた中で、わたしは川端康成に言及した。その箇所を抜粋してみたい。


「川端の感覚と文学的感性とはすぐれて日本的なものと思っている。日本という風土が色濃く反映しているのだ。が、川端は契沖的なあり方ではない。かといって宣長的ではない。

しかし、川端の対象へと注がれる感情と、対象から跳ね返ってくるものを受け取る感覚と、またその感覚によって醸し出される感情とが、宣長のいう『物のあはれ』のように一所に留まることをしないで、拘りを離れて流れていくように、わたしは感じている。

宣長の自我の喪失の絶対化という意味での『物のあはれ』とは違う。濃密な自我を宿したものだ。川端もやはり『情としてのロマンチック・イロニー』を生きていたのだろうか。

日本の四季の移ろいのように、瞬時に情としての姿を変えていく。この情は一方通行の自己完結型の情だけではなく、対象と交感し合う情でもあるのだが、だからといって交感し、合一し、そこに留まろうとする意志がないのだ。早くから親をなくし、肉親の愛情に溺れて育った経験のない川端の特異性なのだろうか」

と書いたのであるが、「感覚によって醸し出される感情」が、「一所に留まることをしないで、拘りを離れて流れていく」という川端の特質が、作品の中に随所に現れている。そしてその流れ方が、余韻を引き摺るようにして、関連性をもっているのだ。感情を表現した比喩が、新たな比喩を呼び起こし、更にその比喩が新たな比喩を呼び起こすというような流れ方なのである

 竹西寛子が新潮社の文庫本『雪国』の解説『川端康成 人と作品』で、


「私見によれば、川端康成の文学における日本については、本来モノローグによる自己充足や解放を好まず、ダイアローグによってドラマを進展させたり飛躍させたりする谷崎潤一郎の文学と較べると、少なくとも一つのことははっきりとするように思う。

それは、谷崎文学が、日本の物語の直系であるようには、川端文学はドラマの欠如あるいは不必要によって直系とはいい難く、本質的にはモノローグによるものという点で、和歌により強く繋がっているということである。

しばしば小説の約束事は無視されて一見随筆風でもあるのに、あえて日記随筆の系譜に与させないのはほかでもない。さきにふれたように、この文学は、ゆめ論述述志の文学でなく、感覚と直観によってこの世との関係を宙に示しているからである」


と論じている。 鋭い指摘であるが、わたしは和歌には様々な要素があると思っている。相聞歌もあれば、短いなかに物語を秘めた和歌もある。和歌がモノローグによるものだとは言いがたいように思う。

 川端文学は和歌に通じている面はあるが、俳諧連歌のような「心の動き」に特徴性があるように思う。句と句を繋ぎ逢わせているのが、感覚的な言葉であり、それが比喩の役割もしているのではないだろうか。

 竹西寛子は、「感覚と直観によってこの世との関係を宙に示している」と書いているが、これこそが本居宣長の「もののあわれ」的な感情の発露であり、そして感情が一所に留まって執着することを拒んで流れて行くことに当たるのだろう。

「この世との関係」は「感覚と直観」で一瞬に花となって結ぶが、忽ちにして花びらを散らして、川面に浮かべた花びらとともに流れていくのだ。「この世との関係」はあるようでありながら、ないようでもあり、おぼろげなものでしかないのだろう。執着することで、その執着するものを失ったときの痛手と悲哀とが身に染みついているからだろうか。

 竹西寛子は谷崎潤一郎と川端とを比較して、谷崎を「日本の物語の直系」としているのに対して、川端を「小説の約束事は無視されて一見随筆風でもある」と指摘しているが、わたしは川端の小説に秘められた企みと構造性には舌を巻いている。


わたしが小説でやろうとしていることと密接に関連しているので、川端の不朽の名作『雪国』を例に説明してみたい

 有名な冒頭の文、「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった。夜の底が白くなった」であるが、わたしはこれを「比喩」と捉えている。

いわゆる比喩ではない。

どうして「比喩」と見るかというと、「雪国」とは「非日常の世界」を表しているからだ。

トンネルとは「日常の世界」から「非日常の世界」へと通じている扉なのである。

「日常の世界」にあって、「非日常の世界」とはどんなものなのか、川端は書いている。

「これから会いにいく女をなまなましく覚えている、はっきりと思い出そうとあせればあせるほど、つかみどころなくぼやけてゆく記憶の頼りなさのうちに、この指だけは女の感触で今も濡れていて、自分を遠くの女へ引き寄せるかのようだと、不思議に思いながら、鼻につけて匂いを嗅いでみたりしていたが、ふとその指で窓ガラスに線を引くと、そこに女の片目がはっきり浮き出たのだった。」

 凄いとしかいいようのない仕掛けであり、これほど的確に、そして感覚的に「雪国」という「非日常」の世界を暗示はできないであろう。

「雪国の世界」とは、「はっきりと思い出そうとあせればあせるほど、つかみどころなくぼやけてゆく記憶の頼りな」い世界なのだ。


 トンネルがこの文章では、「指の感触」に置き換わっている。それもエロチックであり、すこぶる感覚的だ。

「日常の世界」にあって、「雪国の世界」を生々しく、そして瑞々しく覚えているのは、つまり二つの世界を結んでいるのは「指の感触」なのである。記憶を超えた、感覚の息づく世界こそが「雪国の世界」なのだろう。


「雪国の世界」とは二重の世界でもある。

島村にとっては「非日常の世界」であるが、駒子と葉子にとっては「日常の世界」である。

 駒子と葉子は、島村を「欲」で「日常の世界」へと引き摺り込もうとするが、島村は「もののあわれ」で、するりと駒子と葉子の欲という手から、すり抜けてしまうのである。

「日常の世界」に生きている駒子と葉子の「情」と、「非日常の世界」にいる島村の「情」とが、一つの「欲」となって絡み合うことはないのだ。たとえ身体が絡み合ったとしても、それは島村にとっては感覚の動きでしかなく「もののあわれ」的な世界(竹西寛子のいう「宙」)を生きているにすぎないのである。

「日常の世界」にいる駒子と葉子には、島村とはつかみ所がない綿毛のような存在にみえてしまうのだろう。何故ならば「非日常の世界」にあって、「もののあわれ」を生きており、「欲」としての存在ではないからだ。「日常の世界」にいる駒子と葉子から見たら薄情と映ることだろう。

 島村は「雪国の世界」から、「日常の世界」へと戻る汽車のなかで、「雪国の世界」を回想して、

「いつでも忽ち放心状態に入り易い彼にとっては、あの夕景色の鏡や朝雪の鏡が、人工のものとは信じられなかった。自然のものであった。そして遠い世界であった」

と描いている。

 小説「雪国」とは、「非日常の世界」のなかで「もののあわれ」を生きている島村の眼が捉えた世界を描き、「もののあわれ」を生きている島村と、「日常の世界」にあって「欲」を生きている駒子と葉子との、永遠に絡み合うことがない情の動きを描いているように思う。絡み合わないからこそ、島村の眼に映った駒子と葉子の切ないほどの美しさと艶やかさが浮き上がってくるのだろう。


 川端の比喩は、まず大きな「雪国」という世界を作り、その世界のなかで、俳諧連歌的に感覚を飛翔させているのだと思える。単なる比喩ではない。そして、和歌の修辞法である「掛詞」的な色合いを出しているのだ。感覚的に関連させることで、次の描写に色を添える「枕詞」と「序詞」的な効果を生み出しているのかもしれない。だから奥が深く、高度なのだろう。


 おそらく川端は技法として意識的に表現に反映させているのではないだろう。無意識にやっているのだ。『雪国』における二つの異なった世界という設定をして、その世界の対比と、永遠に結び合うことがない「情」と「情」との絡み合いと、「非日常の世界」だからこそ見えてくる一瞬の表情(人と自然と暮らしの風景)とを描こうとした、とわたしは推測しているのだが、もしかしたらこれさえも非作為的にやっているのかもしれない。

 川端は「日常の世界」と「非日常の世界」との絡み合いを描いた。

わたしは世界観の違いによって見えてくる世界が違ったものになると思っているが、それを小説の中で表現したいと考えている。単なる視点の移動ではなく、違った世界観が絡み合ったらどうなるか、見えている世界が違うのだから、ちぐはぐな絡み合いになるだろうが、どんなものになるのか、それを描きたいと思っている。


 川端は横光利一とともに新感覚派を旗揚げしたが、新感覚派とは私小説的な伝統に、「表現形式」で反旗を翻した文学運動である。私小説はあるがままの事実を小説に写し出そうと、主観的な装飾を排除した客観描写を基本としたが、新感覚派はそれを感覚的描写に置き換えたものにすぎない。

 横光は志賀直哉に私淑していたのだが、だからこそ客観描写の極北である志賀の文体を超えることはできないと悟り、客観描写を捨てて、感覚的な主観描写を企てたのではないだろうか。しかし、それはあくまでも描写技法でしかなく、文学における「感覚」の意味を突き詰めたものではなかった。そればかりか、横光にいたっては客観描写を裏返したという意味での主観描写であったと、わたしはみている。

私淑していただけに、文体の核が志賀のものなのである。意識的にその呪縛から逃れようとしているから、よりそれが鮮やかになるのかもしれない。要は、志賀の文章に感覚的な形容詞やら比喩やらをねじ込んだのだと思う。そしてその肝心の感覚であるが、横光と川端とでは根本的に違っているといえるだろう。


 川端の感覚は優れて日本的であり、感覚的認識が基本にあるのに対して、横光の感覚は人工的であり、優れて西欧的であるように思う。

 晩年の横光は日本主義的な言動をしたが、横光が立っていたのは西欧近代主義の上であり、この日本主義とは国家主義的な色彩を帯びたものだったように感じている。そして、西欧的合理主義を裏返した日本的な精神主義へと傾斜するのだが、今まで縄文時代まで遡って見てきた日本的な心とは、似ても似つかぬものでしかないのではないだろうか。

 三島由紀夫もまた横光的であり、いわゆる武士道とは日本人の心とは違うものだと思っている。これは武士という支配階級の道徳観であって、すぐれて儒教的な色彩の濃いものである。「切り捨て御免」をとってみても、とても民衆レベルで共有していた精神ではありえない。

武士道を美化するのは、西欧的ロマン主義に毒されているとしか思えないし、だからこそ、西欧人が武士道と侍に好奇の目を向け、それが高貴であり崇高なものをみる眼差しへと変わるのだろう。これほど西欧人に理解されやすいものはない。西欧にも騎士道がある。

 この儒教的な匂いがする武士道に対して、「神さびる」といった日本的な感覚認識にいたっては、西欧人には想像するのは難しいのではないだろうか。

しかし、これこそが日本的な心の核的なものであり、精神性に通じたものなのだ。

だからこそ小泉八雲は只者ではないといえるが、西欧人でも「交感の場」は生きられるという証でもある。里山へと引き寄せられる西欧人の心に通じているのだろう。

 川端は思想音痴であり、三島の思想を理解していなかっただろうし、横光の日本的精神主義も無理解だったと推察するが、川端と三島とは感覚も精神構造も違っており、また横光とも違っていたと考えている。但し、政治とはそうしたものとは無関係なので、政治的な姿勢は同じだとしても何ら不思議ではないのである。
https://blogs.yahoo.co.jp/azuminonoyume/32135156.html

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異界の女性に魅せられた男の運命は…


802:tky10-p121.flets.hi-ho.ne.jp:2011/01/22(土) 22:33:30.90 0

川端康成の「雪国」は死後の世界
みんな幽霊という設定


803:tky10-p121.flets.hi-ho.ne.jp:2011/01/22(土) 22:35:37.56 0

ちなみに千と千尋も死後の世界だね
トンネル抜けるとそこは黄泉の国ということ
http://2chnull.info/r/morningcoffee/1295616090/1-1001

講演の中で、奥野健男は川端康成の「雪国」に触れ、実際に川端康成と話したときのことを語ってくれた。

川端によると「雪国」というのは「黄泉の国」で、いわゆるあの世であるらしい。


  「雪国」があの世であるというのは何となくわかる気がする。島村はこの世とあの世を交互に行き交い、あの世で駒子と会うのである。駒子とはあの世でしか会えないし、この世にくることはない。島村と駒子をつなぐ糸は島村の左手の人差指である。島村が駒子に会いにくるのも1年おきぐらいというのも天の川伝説以外に何かを象徴しているのだろうか。

  とてつもなく哀しく、美しい声をもつ葉子はさしずめ神の言葉を語る巫女なのか。その巫女の語る言葉に島村は敏感に反応するのだ。もしかしたら葉子は神の使いなのかもしれない。

 駒子は葉子に対して「あの人は気違いになる」というのは、葉子が神性を帯びているからではないのか。

 日本人とって、あの世とは無の世界ではない。誰もが帰るべき、なつかしい世界である。あいまいな小説「雪国」がなぜか私になつかしい思いをさせるのはやはり「雪国」が黄泉の国だからなのだろうか。
http://www.w-kohno.co.jp/contents/book/kawabata.html


川端は代表作雪国でトンネルを効果的に使っているが、1953年4月に発表された小説『無言』でも現世とあの世をつなぐ隠喩として名越隧道をうまく使っている。

なお、川端が自殺した逗子マリーナには、車で鎌倉から一つ目の名越隧道と二つ目の逗子隧道を抜けてすぐ右折し5分程度の距離にある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E8%B6%8A%E9%9A%A7%E9%81%93
http://blog.livedoor.jp/aotuka202/archives/51017908.html

川端康成 『片腕』


「片腕を一晩お貸ししてもいいわ。」

と娘は言った。そして右腕を肩からはずすと、それを左手に持って私の膝においた。

「ありがとう。」と私は膝を見た。娘の右腕のあたたかさが膝に伝わった。

「あ、指輪をはめておきますわ。あたしの腕ですというしるしにね。」

と娘は笑顔で左手を私の胸の前にあげた。「おねがい……。」


 左片腕になった娘は指輪を抜き取ることがむずかしい。

「婚約指輪じゃないの?」と私は言った。

「そうじゃないの。母の形見なの。」

 小粒のダイヤをいくつかならべた白金の指輪であった。

「あたしの婚約指輪と見られるでしょうけれど、それでもいいと思って、はめているんです。」と娘は言った。

「いったんこうして指につけると、はずすのは、母と離れてしまうようでさびしいんです。」

 私は娘の指から指輪を抜き取った。そして私の膝の上にある娘の腕を立てると、紅差し指にその指輪をはめながら、「この指でいいね?」

「ええ。」と娘はうなずいた。

「そうだわ。肘や指の関節がまがらないと、突っ張ったままでは、せっかくお持ちいただいても、義手みたいで味気ないでしょう。動くようにしておきますわ。」

そう言うと、私の手から自分の右腕を取って、肘に軽く唇をつけた。指のふしぶしにも軽く唇をあてた。

「これで動きますわ。」

「ありがとう。」私は娘の片腕を受け取った。


「この腕、ものも言うかしら? 話をしてくれるかしら?」


「腕は腕だけのことしか出来ないでしょう。

もし腕がものを言うようになったら、返していただいた後で、あたしがこわいじゃありませんの。でも、おためしになってみて……。

やさしくしてやっていただけば、お話を聞くぐらいのことはできるかもしれませんわ。」

「やさしくするよ。」

「行っておいで。」と娘は心を移すように、私が持った娘の右腕に左手の指を触れた。

「一晩だけれど、このお方のものになるのよ。」

 そして私を見る娘の目は涙が浮ぶのをこらえているようであった。

「お持ち帰りになったら、あたしの右腕を、あなたの右腕と、つけ替えてごらんになるようなことを……。」

と娘は言った。「なさってみてもいいわ。」

「ああ、ありがとう。」

 私は娘の右腕を雨外套のなかにかくして、もやの垂れこめた夜の町を歩いた。電車やタクシイに乗れば、あやしまれそうに思えた。娘のからだを離された腕がもし泣いたり、声を出したりしたら、騒ぎである。

 私は娘の腕のつけ根の円みを、右手で握って、左の胸にあてがっていた。その上を雨外套でかくしているわけだが、ときどき、左手で雨外套をさわって娘の腕をたしかめてみないではいられなかった。それは娘の腕をたしかめるのではなくて、私のよろこびをたしかめるしぐさであっただろう。

 娘は私の好きなところから自分の腕をはずしてくれていた。腕のつけ根であるか、肩のはしであるか、そこにぷっくりと円みがある。西洋の美しい細身の娘にある円みで、日本の娘には稀れである。それがこの娘にはあった。ほのぼのとういういしい光りの球形のように、清純で優雅な円みである。娘が純潔を失うと間もなくその円みの愛らしさも鈍ってしまう。たるんでしまう。美しい娘の人生にとっても、短いあいだの美しい円みである。それがこの娘にはあった。

肩のこの可憐な円みから娘のからだの可憐なすべてが感じられる。胸の円みもそう大きくなく、手のひらにはいって、はにかみながら吸いつくような固さ、やわらかさだろう。娘の肩の円みを見ていると、私には娘の歩く脚も見えた。細身の小鳥の軽やかな足のように、蝶が花から花へ移るように、娘は足を運ぶだろう。そのようにこまかな旋律は接吻する舌のさきにもあるだろう。


 袖なしの女服になる季節で、娘の肩は出たばかりであった。あらわに空気と触れることにまだなれていない肌の色であった。春のあいだにかくれながらうるおって、夏に荒れる前のつぼみのつやであった。私はその日の朝、花屋で泰山木のつぼみを買ってガラスびんに入れておいたが、娘の肩の円みはその泰山木の白く大きいつぼみのようであった。娘の服は袖がないというよりなお首の方にくり取ってあった。腕のつけ根の肩はほどよく出ていた。服は黒っぽいほど濃い青の絹で、やわらかい照りがあった。このような円みの肩にある娘は背にふくらみがある。撫で肩のその円みが背のふくらみとゆるやかな波を描いている。やや斜めのうしろから見ると、肩の円みから細く長めな首をたどる肌が掻きあげた襟髪でくっきり切れて、黒い髪が肩の円みに光る影を映しているようであった。

 こんな風に私がきれいと思うのを娘は感じていたらしく、肩の円みをつけたところから右腕をはずして、私に貸してくれたのだった。

 雨外套のなかでだいじに握っている娘の腕は、私の手よりも冷たかった。心おどりに上気している私は手も熱いのだろうが、その火照りが娘の腕に移らぬことを私はねがった。娘の腕は娘の静かな体温のままであってほしかった。また手のなかのものの少しの冷たさは、そのもののいとしさを私に伝えた。人にさわられたことのない娘の乳房のようであった。

 雨もよいの夜のもやは濃くなって、帽子のない私の頭の髪がしめって来た。表戸をとざした薬屋の奥からラジオが聞えて、ただ今、旅客機が三機もやのために着陸出来なくて、飛行場の上を三十分も旋回しているとの放送だった。こういう夜は湿気で時計が狂うからと、ラジオはつづいて各家庭の注意をうながしていた。またこんな夜に時計のぜんまいをぎりぎりいっぱいに巻くと湿気で切れやすいと、ラジオは言っていた。私は旋回している飛行機の灯が見えるかと空を見あげたが見えなかった。空はありはしない。たれこめた湿気が耳にまではいって、たくさんのみみずが遠くに這うようなしめった音がしそうだ。ラジオはなおなにかの警告を聴取者に与えるかしらと、私は薬屋の前に立っていると、動物園のライオンや虎や豹などの猛獣が湿気を憤って吠える、それを聞かせるとのことで、動物のうなり声が地鳴りのようにひびいて来た。

ラジオはそのあとで、こういう夜は、妊婦や厭世家などは、早く寝床へはいって静かに休んでいて下さいと言った。またこういう夜は、婦人は香水をじかに肌につけると匂いがしみこんで取れなくなりますと言った。


 猛獣のうなり声が聞えた時に、私は薬屋の前から歩き出していたが、香水についての注意まで、ラジオは私を追って来た。猛獣たちが憤るうなりは私をおびやかしたので、娘の腕にもおそれが伝わりはしないかと、私は薬屋のラジオの声を離れたのであった。娘は妊婦でも厭世家でもないけれども、私に片腕を貸してくれて片腕になった今夜は、やはりラジオの注意のように、寝床で静かに横たわっているのがいいだろうと、私には思われた。片腕の母体である娘が安らかに眠っていてくれることをのぞんだ。

 通りを横切るのに、私は左手で雨外套の上から娘の腕をおさえた。車の警笛が鳴った。脇腹に動くものがあって私は身をよじった。娘の腕が警笛におびえてか指を握りしめたのだった。

「心配ないよ。」と私は言った。

「車は遠いよ。見通しがきかないので鳴らしているだけだよ。」

 私はだいじなものをかかえているので、道のあとさきをよく見渡してから横切っていたのである。その警笛も私のために鳴らされたとは思わなかったほどだが、車の来る方をながめると人影はなかった。その車は見えなくて、ヘッド・ライトだけが見えた。その光りはぼやけてひろがって薄むらさきであった。めずらしいヘッド・ライトの色だから、私は道を渡ったところに立って、車の通るのをながめた。

朱色の服の若い女が運転していた。女は私の方を向いて頭をさげたようである。とっさに私は娘が右腕を取り返しに来たのかと、背を向けて逃げ出しそうになったが、左の片腕だけで運転出来るはずはない。しかし車の女は私が娘の片腕をかかえていると見やぶったのではなかろうか。娘の腕と同性の女の勘である。私の部屋へ帰るまで女には出会わぬように気をつけなければなるまい。女の車はうしろのライトも薄むらさきであった。やはり車体は見えなくて、灰色のもやのなかを、薄むらさきの光りがぼうっと浮いて遠ざかった。


「あの女はなんのあてもなく車を走らせて、ただ車を走らせるために走らせずにはいられなくて、走らせているうちに、姿が消えてなくなってしまうのじゃないかしら……。」と私はつぶやいた。

「あの車、女のうしろの席にはなにが坐っていたのだろう。」

 なにも坐っていなかったようだ。なにも坐っていないのを不気味に感じるのは、私が娘の片腕をかかえていたりするからだろうか。あの女の車にもしめっぽい夜のもやは乗せていた。そして女のなにかが車の光りのさすもやを薄むらさきにしていた。女のからだが紫色の光りを放つことなどあるまいとすると、なにだったのだろうか。こういう夜にひとりで車を走らせている若い女が虚しいものに思えたりするのも、私のかくし持った娘の腕のせいだろうか。

女は車のなかから娘の片腕に会釈したのだったろうか。こういう夜には、女性の安全を見まわって歩く天使か妖精があるのかもしれない。あの若い女は車に乗っていたのではなくて、紫の光りに乗っていたのかもしれない。虚しいどころではない。私の秘密を見すかして行った。


 しかしそれからは一人の人間にも行き会わないで、私はアパアトメントの入口に帰りついた。扉のなかのけはいをうかがって立ちどまった。頭の上に蛍火が飛んで消えた。蛍の火にしては大き過ぎ強過ぎると気がつくと、私はとっさに四五歩後ずさりしていた。また蛍のような火が二つ三つ飛び流れた。その火は濃いもやに吸いこまれるよりも早く消えてしまう。人魂か鬼火のようになにものかが私の先きまわりをして、帰りを待ちかまえているのか。しかしそれが小さい蛾の群れであるとすぐにわかった。蛾のつばさが入口の電灯の光りを受けて蛍火のように光るのだった。蛍火よりは大きいけれども、蛍火と見まがうほどに蛾としては小さかった。

 私は自動のエレベエタアも避けて、狭い階段をひっそり三階へあがった。左利きでない私は、右手を雨外套のなかに入れたまま左手で扉の鍵をあけるのは慣れていない。気がせくとなお手先きがふるえて、それが犯罪のおののきに似て来ないか。部屋のなかになにかがいそうに思える。私のいつも孤独の部屋であるが、孤独ということは、なにかがいることではないのか。娘の片腕と帰った今夜は、ついぞなく私は孤独ではないが、そうすると、部屋にこもっている私の孤独が私をおびやかすのだった。


「先きにはいっておくれよ。」

私はやっと扉が開くと言って、娘の片腕を雨外套のなかから出した。

「よく来てくれたね。これが僕の部屋だ。明りをつける。」

「なにかこわがっていらっしゃるの?」

と娘の腕は言ったようだった。

「だれかいるの?」

「ええっ? なにかいそうに思えるの?」

「匂いがするわ。」

「匂いね? 僕の匂いだろう。暗がりに僕の大きい影が薄ぼんやり立っていやしないか。よく見てくれよ。僕の影が僕の帰りを待っていたのかもしれない。」

「あまい匂いですのよ。」

「ああ、泰山木の花の匂いだよ。」

と私は明るく言った。私の不潔で陰湿な孤独の匂いでなくてよかった。泰山木のつぼみを生けておいたのは、可憐な客を迎えるのに幸いだった。私は闇に少し目がなれた。真暗だったところで、どこになにがあるかは、毎晩のなじみでわかっている。

「あたしに明りをつけさせて下さい。」

娘の腕が思いがけないことを言った。

「はじめてうかがったお部屋ですもの。」

「どうぞ。それはありがたい。僕以外のものがこの部屋の明りをつけてくれるのは、まったくはじめてだ。」


 私は娘の片腕を持って、手先きが扉の横のスイッチにとどくようにした。天井の下と、テエブルの上と、ベッドの枕もとと、台所と、洗面所のなかと、五つの電灯がいち時についた。私の部屋の電灯はこれほど明るかったのかと、私の目は新しく感じた。

 ガラスびんの泰山木が大きい花をいっぱいに開いていた。今朝はつぼみであった。開いて間もないはずなのに、テエブルの上にしべを落ち散らばらせていた。それが私はふしぎで、白い花よりもこぼれたしべをながめた。しべを一つ二つつまんでながめていると、テエブルの上においた娘の腕が指を尺取虫のように伸び縮みさせて動いて来て、しべを拾い集めた。私は娘の手のなかのしべを受け取ると、屑籠へ捨てに立って行った。

「きついお花の匂いが肌にしみるわ。助けて……。」

と娘の腕が私を呼んだ。


「ああ。ここへ来る道で窮屈な目にあわせて、くたびれただろう。しばらく静かにやすみなさい。」

とベッドの上に娘の腕を横たえて、私もそばに腰をかけた。そして娘の腕をやわらかくなでた。


「きれいで、うれしいわ。」

娘の腕がきれいと言ったのは、ベッド・カバアのことだろう。水色の地に三色の花模様があった。孤独の男には派手過ぎるだろう。

「このなかで今晩おとまりするのね。おとなしくしていますわ。」

「そう?」

「おそばに寄りそって、おそばになんにもいないようにしてますわ。」

 そして娘の手がそっと私の手を握った。娘の指の爪はきれいにみがいて薄い石竹色に染めてあるのを私は見た。指さきより長く爪はのばしてあった。

 私の短くて幅広くて、そして厚ごわい爪に寄り添うと、娘の爪は人間の爪でないかのように、ふしぎな形の美しさである。女はこんな指の先きでも、人間であることを超克しようとしているのか。あるいは、女であることを追究しようとしているのか。

うち側のあやに光る貝殻、つやのただよう花びらなどと、月並みな形容が浮んだものの、たしかに娘の爪に色と形の似た貝殻や花びらは、今私には浮んで来なくて、娘の手の指の爪は娘の手の指の爪でしかなかった。脆く小さい貝殻や薄く小さい花びらよりも、この爪の方が透き通るように見える。そしてなによりも、悲劇の露と思える。娘は日ごと夜ごと、女の悲劇の美をみがくことに丹精をこめて来た。それが私の孤独にしみる。私の孤独が娘の爪にしたたって、悲劇の露とするのかもしれない。

 私は娘の手に握られていない方の手の、人差し指に娘の小指をのせて、その細長い爪を親指の腹でさすりながら見入っていた。いつとなく私の人差し指は娘の爪の廂(ひさし)にかくれた、小指のさきにふれた。ぴくっと娘の指が縮まった。肘もまがった。

「あっ、くすぐったいの?」

と私は娘の片腕に言った。

「くすぐったいんだね。」

 うかつなことをつい口に出したものである。爪を長くのばした女の指さきはくすぐったいものと、私は知っている、つまり私はこの娘のほかの女をかなりよく知っていると、娘の片腕に知らせてしまったわけである。

 私にこの片腕を一晩貸してくれた娘にくらべて、ただ年上と言うより、もはや男に慣れたと言う方がよさそうな女から、このような爪にかくれた指さきはくすぐったいのを、私は前に聞かされたことがあったのだ。長い爪のさきでものにさわるのが習わしになっていて、指さきではさわらないので、なにかが触れるとくすぐったいと、その女は言った。

「ふうん。」私は思わぬ発見におどろくと、女はつづけて、

「食べものごしらえでも、食べるものでも、なにかちょっと指さきにさわると、あっ、不潔っと、肩までふるえが来ちゃうの。そうなのよ、ほんとうに……。」

 不潔とは、食べものが不潔になるというのか、爪さきが不潔になるというのか。おそらく、指さきになにがさわっても、女は不潔感にわななくのであろう。女の純潔の悲劇の露が、長い爪の陰にまもられて、指さきにひとしずく残っている。
 女の手の指さきをさわりたくなった、誘惑は自然であったけれども、私はそれだけはしなかった。私自身の孤独がそれを拒んだ。からだの、どこかにさわられてもくすぐったいところは、もうほとんどなくなっているような女であった。

 片腕を貸してくれた娘には、さわられてくすぐったいところが、からだじゅうにあまたあるだろう。そういう娘の手の指さきをくすぐっても、私は罪悪とは思わなくて、愛玩と思えるかもしれない。しかし娘は私にいたずらをさせるために、片腕を貸してくれたのではあるまい。私が喜劇にしてはいけない。

「窓があいている。」と私は気がついた。ガラス戸はしまっているが、カアテンがあいている。

「なにかがのぞくの?」

と娘の片腕が言った。

「のぞくとしたら、人間だね。」

「人間がのぞいても、あたしのことは見えないわ。のぞき見するものがあるとしたら、あなたの御自分でしょう。」

「自分……? 自分てなんだ。自分はどこにあるの?」

「自分は遠くにあるの。」

と娘の片腕はなぐさめの歌のように、

「遠くの自分をもとめて、人間は歩いてゆくのよ。」

「行き着けるの?」

「自分は遠くにあるのよ。」

娘の腕はくりかえした。


 ふと私には、この片腕とその母体の娘とは無限の遠さにあるかのように感じられた。この片腕は遠い母体のところまで、はたして帰り着けるのだろうか。私はこの片腕を遠い娘のところまで、はたして返しに行き着けるのだろうか。娘の片腕が私を信じて安らかなように、母体の娘も私を信じてもう安らかに眠っているだろうか。右腕のなくなったための違和、また凶夢はないか。娘は右腕に別れる時、目に涙が浮ぶのをこらえていたようではなかったか。片腕は今私の部屋に来ているが、娘はまだ来たことがない。

 窓ガラスは湿気に濡れ曇っていて、蟾蜍の腹皮を張ったようだ。霧雨を空中に静止させたようなもやで、窓のそとの夜は距離を失い、無限の距離につつまれていた。家の屋根も見えないし、車の警笛も聞えない。

「窓をしめる。」と私はカアテンを引こうとすると、カアテンもしめっていた。窓ガラスに私の顔がうつっていた。私のいつもの顔より若いかに見えた。しかし私はカアテンを引く手をとどめなかった。私の顔は消えた。

 ある時、あるホテルで見た、九階の客室の窓がふと私の心に浮んだ。裾のひらいた赤い服の幼い女の子が二人、窓にあがって遊んでいた。同じ服の同じような子だから、ふた子かもしれなかった。西洋人の子どもだった。二人の幼い子は窓ガラスを握りこぶしでたたいたり、窓ガラスに肩を打ちつけたり、相手を押し合ったりしていた。母親は窓に背を向けて、編みものをしていた。窓の大きい一枚ガラスがもしわれるかはずれかしたら、幼い子は九階から落ちて死ぬ。あぶないと見たのは私で、二人の子もその母親もまったく無心であった。しっかりした窓ガラスに危険はないのだった。

 カアテンを引き終って振り向くと、ベッドの上から娘の片腕が、

「きれいなの。」

と言った。カアテンがベッド・カバアと同じ花模様の布だからだろう。

「そう? 日にあたって色がさめた。もうくたびれているんだよ。」

私はベッドに腰かけて、娘の片腕を膝にのせた。

「きれいなのは、これだな。こんなきれいなものはないね。」

 そして、私は右手で娘のたなごころと握り合わせ、左手で娘の腕のつけ根を持って、ゆっくりとその腕の肘をまげてみたり、のばしてみたりした。くりかえした。


「いたずらっ子ねえ。」

と娘の片腕はやさしくほほえむように言った。

「こんなことなさって、おもしろいの?」

「いたずらなもんか。おもしろいどころじゃない。」

ほんとうに娘の腕には、ほほえみが浮んで、そのほほえみは光りのように腕の肌をゆらめき流れた。娘の頬のみずみずしいほほえみとそっくりであった。


 私は見て知っている。娘はテエブルに両肘を突いて、両手の指を浅く重ねた上に、あごをのせ、また片頬をおいたことがあった。若い娘としては品のよくない姿のはずだが、突くとか重ねるとか置くとかいう言葉はふさわしくない、軽やかな愛らしさである。腕のつけ根の円みから、手の指、あご、頬、耳、細長い首、そして髪までが一つになって、楽曲のきれいなハアモニイである。

娘はナイフやフォウクを上手に使いながら、それを握った指のうちの人差し指と小指とを、折り曲げたまま、ときどき無心にほんの少し上にあげる。食べものを小さい唇に入れ、噛んで、呑みこむ、この動きも人間がものを食っている感じではなくて、手と顔と咽とが愛らしい音楽をかなでていた。娘のほほえみは腕の肌にも照り流れるのだった。


 娘の片腕がほほえむと見えたのは、その肘を私がまげたりのばしたりするにつれて、娘の細く張りしまった腕の筋肉が微妙な波に息づくので、微妙な光りとかげとが腕の白くなめらかな肌を移り流れるからだ。さっき、私の指が娘の長い爪のかげの指さきにふれて、ぴくっと娘の腕が肘を折り縮めた時、その腕に光りがきらめき走って、私の目を射たものだった。それで私は娘の肘をまげてみているので、決していたずらではなかった。肘をまげ動かすのを、私はやめて、のばしたままじっと膝においてながめても、娘の腕にはういういしい光りとかげとがあった。


「おもしろいいたずらと言うなら、僕の右腕とつけかえてみてもいいって、ゆるしを受けて来たの、知ってる?」

と私は言った。


「知ってますわ。」と娘の右腕は答えた。

「それだっていたずらじゃないんだ。僕は、なんかこわいね。」

「そう?」

「そんなことしてもいいの」

「いいわ」

「…………。」

私は娘の腕の声を、はてなと耳に入れて、

「いいわ、って、もう一度……。」

「いいわ。いいわ。」


 私は思い出した。私に身をまかせようと覚悟をきめた、ある娘の声に似ているのだ。片腕を貸してくれた娘ほどには、その娘は美しくなかった。そして異常であったかもしれない。

「いいわ。」

とその娘は目をあけたまま私を見つめた。私は娘の上目ぶたをさすって、閉じさせようとした。娘はふるえ声で言った。


「(イエスは涙をお流しになりました。《ああ、なんと、彼女を愛しておいでになったことか。》とユダヤ人たちは言いました。)」

「…………。」


「彼女」は「彼」の誤りである。死んだラザロのことである。女である娘は「彼」を「彼女」とまちがえておぼえていたのか、あるいは知っていて、わざと「彼女」と言い変えたのか。

 私は娘のこの場にあるまじい、唐突で奇怪な言葉に、あっけにとられた。娘のつぶった目ぶたから涙が流れ出るかと、私は息をつめて見た。

 娘は目をあいて胸を起こした。その胸を私の腕が突き落とした。

「いたいっ。」

と娘は頭のうしろに手をやった。

「いたいわ。」

 白いまくらに血が小さくついていた。私は娘の髪をかきわけてさぐった。血のしずくがふくらみ出ているのに、私は口をつけた。

「いいのよ。血はすぐ出るのよ、ちょっとしたことで。」

娘は毛ピンをみな抜いた。毛ピンが頭に刺さったのであった。

 娘は肩が痙攣しそうにしてこらえた。

 私は女の身をまかせる気もちがわかっているようながら、納得しかねるものがある。身をまかせるのをどんなことと、女は思っているのだろうか。自分からそれを望み、あるいは自分から進んで身をまかせるのは、なぜなのだろうか。女のからだはすべてそういう風にできていると、私は知ってからも信じかねた。この年になっても、私はふしぎでならない。そしてまた、女のからだと身をまかせようとは、ひとりひとりちがうと思えばちがうし、似ていると思えば似ているし、みなおなじと思えばおなじである。これも大きいふしぎではないか。私のこんなふしぎがりようは、年よりもよほど幼い憧憬かもしれないし、年よりも老けた失望かもしれない。心のびっこではないだろうか。

 その娘のような苦痛が、身をまかせるすべての女にいつもあるものではなかった。その娘にしてもあの時きりであった。銀のひもは切れ、金の皿はくだけた。

「いいわ。」と娘の片腕の言ったのが、私にその娘を思い出させたのだけれども、片腕のその声とその娘の声とは、はたして似ているのだろうか。おなじ言葉を言ったので、似ているように聞えたのではなかったか。おなじ言葉を言ったにしても、それだけが母体を離れて来た片腕は、その娘とちがって自由なのではないか。またこれこそ身をまかせたというもので、片腕は自制も責任も悔恨もなくて、なんでも出来るのではないか。しかし、「いいわ。」と言う通りに、娘の右腕を私の右腕とつけかえたりしたら、母体の娘は異様な苦痛におそわれそうにも、私には思えた。
 私は膝においた娘の片腕をながめつづけていた。肘の内側にほのかな光りのかげがあった。それは吸えそうであった。私は娘の腕をほんの少しまげて、その光りのかげをためると、それを持ちあげて、唇をあてて吸った。


「くすぐったいわ。いたずらねえ。」

と娘の腕は言って、唇をのがれるように、私の首に抱きついた。

「いいものを飲んでいたのに……。」と私は言った。

「なにをお飲みになったの?」

「…………。」

「なにをお飲みになったの?」

「光りの匂いかな、肌の。」


 そとのもやはなお濃くなっているらしく、花びんの泰山木の葉までしめらせて来るようであった。ラジオはどんな警告を出しているだろう。私はベッドから立って、テエブルの上の小型ラジオの方に歩きかけたがやめた。娘の片腕に首を抱かれてラジオを聞くのはよけいだ。しかし、ラジオはこんなことを言っているように思われた。たちの悪い湿気で木の枝が濡れ、小鳥のつばさや足も濡れ、小鳥たちはすべり落ちていて飛べないから、公園などを通る車は小鳥をひかぬように気をつけてほしい。もしなまあたたかい風が出ると、もやの色が変るかもしれない。色の変ったもやは有害で、それが桃色になったり紫色になったりすれば、外出はひかえて、戸じまりをしっかりしなければならない。


「もやの色が変る? 桃色か紫色に?」

と私はつぶやいて、窓のカアテンをつまむと、そとをのぞいた。もやがむなしい重みで押しかかって来るようであった。夜の暗さとはちがう薄暗さが動いているようなのは、風が出たのであろうか。もやの厚みは無限の距離がありそうだが、その向うにはなにかすさまじいものが渦巻いていそうだった。

 さっき、娘の右腕を借りて帰る道で、朱色の服の女の車が、前にもうしろにも、薄むらさきの光りをもやのなかに浮べて通ったのを、私は思い出した。紫色であった。もやのなかからぼうっと大きく薄むらさきの目玉が追って来そうで、私はあわててカアテンをはなした。


「寝ようか。僕らも寝ようか。」

 この世に起きている人はひとりもないようなけはいだった。こんな夜に起きているのはおそろしいことのようだ。

 私は首から娘の腕をはずしてテエブルにおくと、新しい寝間着に着かえた。寝間着はゆかたであった。娘の片腕は私が着かえるのを見ていた。私は見られているはにかみを感じた。この自分の部屋で寝間着に着かえるところを女に見られたことはなかった。

 娘の片腕をかかえて、私はベッドにはいった。娘の腕の方を向いて、胸寄りにその指を軽く握った。娘の腕はじっとしていた。

 小雨のような音がまばらに聞えた。もやが雨に変ったのではなく、もやがしずくになって落ちるのか、かすかな音であった。

 娘の片腕は毛布のなかで、また指が私の手のひらのなかで、あたたまって来るのが私にわかったが、私の体温にはまだとどかなくて、それが私にはいかにも静かな感じであった。

「眠ったの?」

「いいえ。」と娘の腕は答えた。

「動かないから、眠っているのかと思った。」


 私はゆかたをひらいて、娘の腕を胸につけた。あたたかさのちがいが胸にしみた。むし暑いようで底冷たいような夜に、娘の腕の肌ざわりはこころよかった。
 部屋の電灯はみなついたままだった。ベッドにはいる時消すのを忘れた。

「そうだ。明りが……。」と起きあがると、私の胸から娘の片腕が落ちた。

「あ。」私は腕を拾い持って、

「明りを消してくれる?」


 そして扉へ歩きながら、

「暗くして眠るの? 明りをつけたまま眠るの?」

「…………。」


 娘の片腕は答えなかった。腕は知らぬはずはないのに、なぜ答えないのか。私は娘の夜の癖を知らない。明りをつけたままで眠っているその娘、また暗がりのなかで眠っているその娘を、私は思い浮べた。右腕のなくなった今夜は、明るいままにして眠っていそうである。私も明りをなくするのがふと惜しまれた。もっと娘の片腕をながめていたい。先きに眠った娘の腕を、私が起きていてみたい。しかし娘の腕は扉の横のスイッチを切る形に指をのばしていた。

 闇のなかを私はベッドにもどって横たわった。娘の片腕を胸の横に添い寝させた。腕の眠るのを待つように、じっとだまっていた。娘の腕はそれがもの足りないのか、闇がこわいのか、手のひらを私の胸の脇にあてていたが、やがて五本の指を歩かせて私の胸の上にのぼって来た。おのずと肘がまがって私の胸に抱きすがる恰好になった。

 娘のその片腕は可愛い脈を打っていた。娘の手首は私の心臓の上にあって、脈は私の鼓動とひびき合った。娘の腕の脈の方が少しゆっくりだったが、やがて私の心臓の鼓動とまったく一致して来た。私は自分の鼓動しか感じなくなった。どちらが早くなったのか、どちらがおそくなったのかわからない。

 手首の脈搏と心臓の鼓動とのこの一致は、今が娘の右腕と私の右腕とをつけかえてみる、そのために与えられた短い時なのかもしれぬ。いや、ただ娘の腕が寝入ったというしるしであろうか。失心する狂喜に酔わされるよりも、そのひとのそばで安心して眠れるのが女はしあわせだと、女が言うのを私は聞いたことがあるけれども、この娘の片腕のように安らかに私に添い寝した女はなかった。

 娘の脈打つ手首がのっているので、私は自分の心臓の鼓動を意識する。それが一つ打って次のを打つ、そのあいだに、なにかが遠い距離を素早く行ってはもどって来るかと私には感じられた。そんな風に鼓動を聞きつづけるにつれて、その距離はいよいよ遠くなりまさるようだ。そしてどこまで遠く行っても、無限の遠くに行っても、その行くさきにはなんにもなかった。なにかにとどいてもどって来るのではない。次ぎに打つ鼓動がはっと呼びかえすのだ。こわいはずだがこわさはなかった。しかし私は枕もとのスイッチをさぐった。

 けれども、明りをつける前に、毛布をそっとまくってみた。娘の片腕は知らないで眠っていた。はだけた私の胸をほの白くやさしい微光が巻いていた。私の胸からぽうっと浮び出た光りのようであった。私の胸からそれは小さい日があたたかくのぼる前の光りのようであった。

 私は明りをつけた。娘の腕を胸からはなすと、私は両方の手をその腕のつけ根と指にかけて、真直ぐにのばした。五燭の弱い光りが、娘の片腕のその円みと光りのかげとの波をやわらかくした。つけ根の円み、そこから細まって二の腕のふくらみ、また細まって肘のきれいな円み、肘の内がわのほのかなくぼみ、そして手首へ細まってゆく円いふくらみ、手の裏と表から指、私は娘の片腕を静かに廻しながら、それにゆらめく光とかげの移りをながめつづけていた。

「これはもうもらっておこう。」とつぶやいたのも気がつかなかった。

 そして、うっとりとしているあいだのことで、自分の右腕を肩からはずして娘の右腕を肩につけかえたのも、私はわからなかった。

「ああっ。」という小さい叫びは、娘の腕の声だったか私の声だったか、とつぜん私の肩に痙攣が伝わって、私は右腕のつけかわっているのを知った。

 娘の片腕はミミ今は私の腕なのだが、ふるえて空をつかんだ。私はその腕を曲げて口に近づけながら、


「痛いの? 苦しいの?」

「いいえ。そうじやない。そうじやないの。」

とその腕が切れ切れに早く言ったとたんに、戦慄の稲妻が私をつらぬいた。私はその腕の指を口にくわえていた。

「…………。」

よろこびを私はなんと言ったか、娘の指が舌にさわるだけで、言葉にはならなかった。

「いいわ。」

と娘の腕は答えた。ふるえは勿論とまっていた。

「そう言われて来たんですもの。でも……。」

 私は不意に気がついた。私の口は娘の指を感じられるが、娘の右腕の指、つまり私の右腕の指は私の唇や歯を感じられない。私はあわてて右腕を振ってみたが、腕を振った感じはない。肩のはし、腕のつけ根に、遮断があり、拒絶がある。

「血が通わない。」と私は口走った。

「血が通うのか、通わないのか。」


 恐怖が私をおそった。私はベッドに坐っていた。かたわらに私の片腕が落ちている。それが目にはいった。自分をはなれた自分の腕はみにくい腕だ。それよりもその腕の脈はとまっていないか。娘の片腕はあたたかく脈を打っていたが、私の右腕は冷えこわばってゆきそうに見えた。私は肩についた娘の右腕で自分の右腕を握った。握ることは出来たが、握った感覚はなかった。

「脈はある?」と私は娘の右腕に聞いた。

「冷たくなってない?」

「少うし……。あたしよりほんの少うしね。」

と娘の片腕は答えた。

「あたしが熱くなったからよ。」


 娘の片腕が「あたし」という一人称を使った。私の肩につけられて、私の右腕となった今、はじめて自分のことを「あたし」と言ったようなひびきを、私の耳は受けた。

「脈も消えてないね?」と私はまた聞いた。

「いやあね。お信じになれないのかしら……?」

「なにを信じるの?」

「御自分の腕をあたしと、つけかえなさったじゃありませんの?」

「だけど血が通うの?」

「(女よ、誰をさがしているのか。)というの、ごぞんじ?」

「知ってるよ。(女よ、なぜ泣いているのか。誰をさがしているのか。)」

「あたしは夜なかに夢を見て目がさめると、この言葉をよくささやいているの。」


 今「あたし」と言ったのは、もちろん、私の右肩についた愛らしい腕の母体のことにちがいない。聖書のこの言葉は、永遠の場で言われた、永遠の声のように、私は思えて来た。

「夢にうなされてないかしら、寝苦しくて……。」

と私は片腕の母体のことを言った。

「そとは悪魔の群れがさまようためのような、もやだ。しかし悪魔だって、からだがしっけて、咳をしそうだ。」

「悪魔の咳なんか聞えませんように……。」

と娘の右腕は私の右腕を握ったまま、私の右の耳をふさいだ。

 娘の右腕は、じつは今私の右腕なのだが、それを動かしたのは、私ではなくて、娘の腕のこころのようであった。いや、そう言えるほどの分離はない。


「脈、脈の音……。」

 私の耳は私自身の右腕の脈を聞いた。娘の腕は私の右腕を握ったまま耳へ来たので、私の手首が耳に押しつけられたわけだった。私の右腕には体温もあった。娘の腕が言った通りに、私の耳や娘の指よりは少うし冷たい。


「魔よけしてあげる……。」

といたずらっぽく、娘の小指の小さく長い爪が私の耳のなかをかすかに掻いた。私は首を振って避けた。左手、これはほんとうの私の手で、私の右の手首、じつは娘の右の手首をつかまえた。そして顔をのけぞらせた私に、娘の小指が目についた。

 娘の手は四本の指で、私の肩からはずした右腕を握っていた。小指だけは遊ばせているとでもいうか、手の甲の方にそらせて、その爪の先きを軽く私の右腕に触れていた。しなやかな若い娘の指だけができる、固い手の男の私には信じられぬ形の、そらせようだった。小指のつけ根から、直角に手のひらの方へ曲げている。そして次ぎの指関節も直角に曲げ、その次ぎの指関節もまた直角に折り曲げている。そうして小指はおのずと四角を描いている。四角の一辺は紅差し指である。

 この四角い窓を、私の目はのぞく位置にあった。窓というにはあまりに小さくて、透き見穴か眼鏡というのだろうが、なぜか私には窓と感じられた。すみれの花が外をながめるような窓だ。ほのかな光りがあるほどに白い小指の窓わく、あるいは眼鏡の小指のふち、それを私はなお目に近づけた。片方の目をつぶった。


「のぞきからくり……?」

と娘の腕は言った。

「なにかお見えになります?」

「薄暗い自分の古部屋だね、五燭の電灯の……。」

と私は言い終らぬうち、ほとんど叫ぶように、

「いや、ちがう。見える。」

「なにが見えるの。」

「もう見えない。」

「なにがお見えになったの?」

「色だね。薄むらさきの光りだね、ぼうっとした……。その薄むらさきのなかに、赤や金の粟粒のように小さい輪が、くるくるたくさん飛んでいた。」

「おつかれなのよ。」


 娘の片腕は私の右腕をベッドに置くと、私の目ぶたを指の腹でやわらかくさすってくれた。


「赤や金のこまかい輪は、大きな歯車になって、廻るのもあったかしら……。その歯車のなかに、なにかが動くか、なにかが現われたり消えたりして、見えたかしら……。」

 歯車も歯車のなかのものも、見えたのか見えたようだったのかわからぬ、記憶にはとどまらぬ、たまゆらの幻だった。その幻がなんであったか、私は思い出せないので、


「なにの幻を見せてくれたかったの?」

「いいえ。あたしは幻を消しに来ているのよ。」

「過ぎた日の幻をね、あこがれやかなしみの……。」

 娘の指と手のひらの動きは、私の目ぶたの上で止まった。


「髪は、ほどくと、肩や腕に垂れるくらい、長くしているの?」

私は思いもかけぬ問いが口に出た。

「はい。とどきます。」

と娘の片腕は答えた。

「お風呂で髪を洗うとき、お湯をつかいますけれど、あたしの癖でしょうか、おしまいに、水でね、髪の毛が冷たくなるまで、ようくすすぐんです。その冷たい髪が肩や腕に、それからお乳の上にもさわるの、いい気持なの。」


 もちろん、片腕の母体の乳房である。それを人に触れさせたことのないだろう娘は、冷たく濡れた洗い髪が乳房にさわる感じなど、よう言わないだろう。娘のからだを離れて来た片腕は、母体の娘のつつしみ、あるいははにかみからも離れているのか。

 私は娘の右腕、今は私の右腕になっている、その腕のつけ根の可憐な円みを、自分の左の手のひらにそっとつつんだ。娘の胸のやはりまだ大きくない円みが、私の手のひらのなかにあるかのように思えて来た。肩の円みが胸の円みのやわらかさになって来る。

 そして娘の手は私の目の上に軽くあった。その手のひらと指とは私の目ぶたにやさしく吸いついて、目ぶたの裏にしみとおった。目ぶたの裏があたたかくしめるようである。そのあたたかいしめりは目の球のなかにもしみひろがる。


「血が通っている。」と私は静かに言った。

「血が通っている。」


 自分の右腕と娘の右腕とをつけかえたのに気がついた時のような、おどろきの叫びはなかった。私の肩にも娘の腕にも、痙攣や戦慄などはさらになかった。いつのまに、私の血は娘の腕に通い、娘の腕の血が私のからだに通ったのか。腕のつけ根にあった、遮断と拒絶とはいつなくなったのだろうか。清純な女の血が私のなかに流れこむのは、現に今、この通りだけれど、私のような男の汚濁の血が娘の腕にはいっては、この片腕が娘の肩にもどる時、なにかがおこらないか。もとのように娘の肩にはつかなかったら、どうずればいいだろう。


「そんな裏切りはない。」と私はつぶやいた。

「いいのよ。」と娘の腕はささやいた。

 しかし、私の肩と娘の腕とには、血がかよって行ってかよって来るとか、血が流れ合っているとかいう、ことごとしい感じはなかった。右肩をつつんだ私の左の手のひらが、また私の右肩である娘の肩の円みが、自然にそれを知ったのであった。いつともなく、私も娘の腕もそれを知っていた。そうしてそれは、うっとりととろけるような眠りにひきこむものであった。


 私は眠った。

 たちこめたもやが淡い紫に色づいて、ゆるやかに流れる大きい波に、私はただよっていた。その広い波のなかで、私のからだが浮んだところだけには、薄みどりのさざ波がひらめいていた。私の陰湿な孤独の部屋は消えていた。私は娘の右腕の上に、自分の左手を軽くおいているようであった。娘の指は泰山木の花のしべをつまんでいるようであった。見えないけれども匂った。しべは屑籠へ捨てたはずなのに、いつ、どうして拾ったのか。一日の花の白い花びらはまだ散らないのに、なぜしべが先きに落ちたのか。朱色の服の若い女の車が、私を中心に遠い円をえがいて、なめらかにすべっていた。私と娘の片腕との眠りの安全を見まもっているようであった。

 こんな風では、眠りは浅いのだろうけれども、こんなにあたたかくあまい眠りはついぞ私にはなかった。いつもは寝つきの悪さにべッドで悶々とする私が、こんなに幼い子の寝つきをめぐまれたことはなかった。

 娘のきゃしゃな細長い爪が私の左の手のひらを可愛く掻いているような、そのかすかな触感のうちに、私の眠りは深くなった。私はいなくなった。

「ああっ。」私は自分の叫びで飛び起きた。ベッドからころがり落ちるようにおりて、三足四足よろめいた。

 ふと目がさめると、不気味なものが横腹にさわっていたのだ。私の右腕だ。

 私はよろめく足を踏みこたえて、ベッドに落ちている私の右腕を見た。呼吸がとまり、血が逆流し、全身が戦慄した。私の右腕が目についたのは瞬間だった。次ぎの瞬間には、娘の腕を肩からもぎ取り、私の右腕とつけかえていた。魔の発作の殺人のようだった。

 私はベッドの前に膝をつき、ベッドに胸を落して、今つけたばかりの自分の右腕で、狂わしい心臓の上をなでさすっていた。動悸がしずまってゆくにつれて、自分のなかよりも深いところからかなしみが噴きあがって来た。


「娘の腕は……?」私は顔をあげた。

 娘の片腕はベッドの裾に投げ捨てられていた。はねのけた毛布のみだれのなかに、手のひらを上向けて投げ捨てられていた。のばした指先きも動いていない。薄暗い明りにほの白い。

「ああ。」

 私はあわてて娘の片腕を拾うと、胸にかたく抱きしめた。生命の冷えてゆく、いたいけな愛児を抱きしめるように、娘の片腕を抱きしめた。娘の指を唇にくわえた。のばした娘の爪の裏と指先きとのあいだから、女の露が出るなら……。
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/novel/kawabatayasunari.html

ずいぶん昔、何かの会合のあと友人数人とスナックで 飲んでいた時、そのうち一人との会話である。

「川端康成の『片腕』はシュールな傑作だね。口をきく片腕と添い寝 して愛撫するとは」と友人。

「あれはハイミナールの幻覚だと言われているがね」と傑作であるこ とは認めつつ、

「川端康成なら君など問題にならないくらい読んでいる がね」と言う代わりに、どうでもいいような不確かなゴシップ を喋る私。


「『眠れる美女』はまさしく屍姦だが、あれもハイミナールの幻覚か い?」

「いや、あれは実際にやっていたと言う話だ。死体愛好癖とロリコンは 川端康成の二大テーマだからね」


渡部直己『読者生成論』(思潮社)の中にある「少女切断」を読みつつ 上記の会話を思い出した。この「少女切断」は非常に刺激的で、一瞬、川 端康成全集を買って読み返そうかなどと思ったくらいだ。

読み返すとは言っても川端康成が少女小説を書いていたのは知らなかった。 昭和十年から戦後四、五年まで数にして二十以上の長短編少女小説を 書き、これらの少女小説は渡部直己によれば読み応えのある傑作である という。またこの少女小説の一つである「乙女の港」には、中里恒子 による原案草稿20枚が発見されているとのことだから、本物の少女小説 である。

今日すでに存在していない、ここで言う「少女小説」とは渡部直己によ れば、次のようなものである。


「 お互いの睫の長さも、黒子の数も、知りつくしてゐたような、少女の 友情……。

相手の持ちものや、身につけるものも、みんな好きになって、愛情を こめて、わはってみたかったやうな日……。(『美しい旅』)


そうした日々の静かな木漏れ日を浴びて、少女たちはふと肩を寄せあい、 あるいは、人垣をへだててじっと視つめあい、二人だけの「友情と愛の しるし」に、押し花や小切れなどさかんに贈りあっては、他愛なくも甘美な 夢にひたりつづける。お互いを「お姉さま」「妹」と呼びかわし、周囲から 《エスの二人》と名ざされることの悦びに、いつまでも変わらぬ「愛」を 誓いあう二人の世界を彩って、花は咲き、鳥は唄い、風は薫りつづける」


この「少女小説」は、現在の ギャル向けポルノ雑誌と同じ機能も果たしていたのであろう。

今日存在する「少女小説」は、だいぶん様子が違ってきている。たとえば 耽美小説と呼ばれる美少年の性愛を露骨に描写した小説も「少女小説」の一種 であろう。この少年とは大塚英志が言うような、少女の理想型としての少年で ある。
実はこのジャンルはまるで苦手だ。子供の頃、少女マンガというのは 実に退屈なものだなと思った。したがって、後年その少女マンガから傑作が 生まれることなど私の想像力の範囲を超えていた。文学が痩せこけていくのに 反比例して、様々な表現分野が豊饒になり、いわゆる文学を超えた傑作が 多く生まれた。それもまた私の守備範囲を超えていたのであった。

友人の一人(男)が鞄の中に常時少女マンガ雑誌を携帯し、赤川次 郎的少女小説なども愛読している。この感性はどちらかといえば少数派に違いない。

時々「わぁーっ、素敵」などとこの男が言ったりするのは少女マンガの悪影響 だろうが、聞いている方にはかなりの違和感がある。これは異化作用とは 言えない違和感である。

渡部直己が模範的反少女小説として詳細に論じているのは『千羽鶴』で ある。
『千羽鶴』の主人公三谷菊治や『雪国』の主人公島村はその年齢に比して ひどく老成した印象を受ける。彼らはテクストから、はみ出さない。

島村は視点に過ぎないし、冥界を往還する傍観者的な過客の分際から踏み 出そうとはしない。『伊豆の踊子』の一高生にとって 伊豆がそうであったように、島村にとって『雪国』は黄泉の国であり異界で あり、彼は 異人の劇に観客的に出演する。異界は彼にとって慰藉であり、生への意志 を充填する場所なのだ。

三谷菊治は、死者が紡ぎだす美に翻弄されるだけで、 自らの欲望を生きることはなく、作品の狂言まわしですらない。彼は 死者と近親相姦的にかかわる。自殺してしまう太田未亡人も文子も、 もともとこの世の人ではなかった。 或いは三谷菊治自身が死者なのかもしれない。

渡部直己によれば、 事態をなかば抑圧し、なかばそれを使嗾する検閲者である栗本ちか子は、 読みの場の知覚をみずから模倣しつつ作品に介入する 人物の典型、作者の分身たちがひしめきあう世界に紛れこんで、むしろ 読者の分身たらんと欲する人物で、小説一般に幅広く散在する。渡部直己 は『千羽鶴』の場合、作品はあげてこの人物を唾棄しようとすると書いて いる。

だが栗本ちか子は此岸の人であり、テクストを抜け出して我々の人生に 顔を出したりする。彼女は物語の検閲者であり、その欲望は使嗾しつつ抑 圧することのように見えて、実は他者を破滅させることにある。

http://homepage3.nifty.com/nct/hondou/html/hondou73.html

そのA病院なんですけど、〇〇の斡旋をしているそうで。 素敵な世界に案内してくれるのは病院の院長さん。

最初は一枚写真を撮られますが、それからは一蓮托生、きっといい仲間となってくれるはずです。まあ、もともと院長の知り合いの方しか呼ばれないようですが、そこは努力と根性でなんとかしてくだい。みなさん名士がそろってらっしゃるそうなので、サロン気分でのご利用などもいかがでしょうか。

気になるお値段の方は、「相手」によっても変わってくるようですが、5万〜10万円が相場なのだとか。そのお相手もある程度限定されていて、事故で死んだ若い女子中高生なんかが人気なようですよ。ちなみに今までの「お相手」の最高金額は一回20万。 7歳の少女の死体だったそうです。
http://unkar.org/r/occult/1201014326

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川端康成 - アンサイクロペディア


川端康成(かわばた やすなり、1899年6月14日 - 1972年4月16日)は日本を代表する大文豪(ど変態)である。どの辺が変態かは作品の行間を読めばよくわかる。

「人間☆失格」の太宰治と不仲であったことが知られているが、実際には川端のほうがよっぽど変質者で異常者である。

むしろ完全なサイコパスであるがゆえに社会的勝利者となりえたのだと思われる

(太宰は「心ならずも道を踏み外した真人間」の苦悩を描いた良心的な作家ですらあり、本質としては気弱で心優しい善良な人間である。
やさしさと繊細さゆえに社会的に破滅してしまうことはよくある話である。
それゆえに女たちに好かれたのだろう。碇シンジが上辺は馬鹿にされつつも、暗にもてたのと同じ理屈)

同性愛で知られる三島由紀夫とは「心の友」ともいえる「師弟の契り」の仲だったらしい(「類は友を呼ぶ」のだろうか。共に「渚カヲル」ではないが耽美的変質者である)が、その関係がどこまで進んでいたのかは定かではない。


自死への道程

眼光鋭い作家の肖像。絶滅危惧種。

産道を抜けるとそこは雪国であった……とはいかなかった。そうならどれほどよかったろう。

世間はざわつき、大阪人の両親は首のまだすわらぬ赤子を揺さぶり、つきっきりで、狂ったようにぺちゃくちゃ話しかけた。

ああ、うるさい、死ねばいいのに。
ある日ついに怒り心頭に発した川端少年がその目をカッと見開くと身内がまとめて転げて死んだ。


利発な子であった。習ったことは頭の中の石板に刻みつけられた。

そんな彼の灰色の青春に転機が訪れる。旅先の伊豆の景色に、人に、彼は魅了される。
朗らかさ、あたたかさの中に宿命的に存在する陰影。静謐の美。
ああ俺はこれを求めていたのかそうかいや違うそうじゃない。

明晰な頭脳の奥の病んだ心は火だるまになって転げ落ちる踊り子に魅了される。

デカダンの道を突き進む男はいたいけな少女をちぎって捨て、ちぎって捨て、しかしそのちぎり絵が耽美に見えた。

彼の眼はやがて「古都」京都をも捉える。そして言い放つ、黙ってさびれてろ、と。時よ止まれ、日本きみは美しい。


突然の入院。なるほど止まるのは君でなくて俺ということか。
よろしい、しかしそれならばせめて美しく。静かに終わるならこれがよかろう。

しかしガス管をくわえるのは見た目に美しくない。
作家はガスストーブの栓を抜いた。無駄な配慮であった。部屋の中がくさいくさい。


作品

彼の作品、読書中のBGMには「残酷な天使のテーゼ」が最適である。


『十六歳の日記』

死にいたる病床の祖父の冷徹な観察日記。まさしくサイコパスである。


『伊豆の踊り子』

混浴温泉で出会った、全裸で手を振る純真な少女をじっくりと視姦する。最後の号泣シーンは議論と憶測と諸々の疑惑を呼んでいる。

『雪国』

田舎の温泉街で、家族を放置してきた男がふらふらする。

芸者女の「あなた、私を笑ってるのね」という言葉は、川端という人間の本質を表している。

残酷な人生観を持ちながらも冷笑的。
愛する男(不治の病)の療養費のために芸者に実を落とした悲壮の女を「徒労であった」とあっさり断じる。

高みから見下ろしている「憐憫」はあっても、太宰のような真摯な「同情」がない。
ひたすら悟りの境地で観察する、まさにニーチェ的超人の視点である。

畳の上で死んでいく虫の死に様を冷静に記述する様は猟奇的ですらある
(まるで「人間など虫けらと同じだ」と暗に言っているようである)。

『舞姫』

終戦直後の日本で崩壊していく家庭を描く。
無気力な夫の圧殺された怨恨感情が一家を蝕んでいく。
その有様はまるで黒い太陽が暗黒の光を放射するがごときである。

浮気相手の子供を助けるためにストリップに身売りする純情すぎる(馬鹿)女のサブエピソードつき。

あまり注目されていないが、ドストエフスキーにおける『悪霊』や『地下室』と同等の位置を占める「余計者」文学の極点である(川端はロシア文学の愛好者であった)。

ヒロインの「お父様は魔界から私たちを観察している」発言の「お父様=川端」は明白。

まさしく「仏道入りやすく、魔界入りがたし」である。
川端康成は魔界の住人であった。


『千羽鶴』

骨董趣味とエロさの混合。

茶器についてうんちくを並べる一方で、胸にあざがある女(喪女)の怨恨がよくえがかれている。

作者が描きたかったのはむろん後者だろう。

「名器」という発言に含みがあることは一目瞭然である(川端の作品には、この手の無意識に働きかけるサブミナル効果の手法がしばしば活用されている)。


『みずうみ』

物語はソープランドから始まる。

主人公の桃井は教え子と恋愛事件で学校を追われて、なお性懲りもなく密会を図る。
彼には父親を殺害された暗い過去があり、デカダンを体現する日陰者である。

タクシー運転手の背後から「不穏」な目で観察し「しかしリアルで襲い掛かれば狂人である」と思考する。まさに川端のイデアルな自伝、内面告白である。


『眠れる美女』

睡眠薬で眠らされた美女と同衾する新しい風俗の提案。

最後に薬で死亡した娘について、店の案内人が「死んだって、かわりはいくらでもいる」旨を言い放つ非情なラストが印象的。

ちなみにこの猟奇性は『散りぬるを』で「自分はいつか女を殺す」との発言にもつながっている(蓄妾に養成する予定で囲っていた女が殺害される短編)。


自殺

川端康成の死因はガス自殺とされてきた。
しかし近年の研究では戦略自衛隊による暗殺説が持ち上がってきている。

暗殺の理由としては精神的に無慈悲な神の境地に達した川端がサードインパクトを引き起こすこと「人類補姦計画」を目論んでいたためとされる(川端はエヴァの碇ゲンドウ・冬月コウゾウのモデルとも囁かれる)。

そのために川端はノーベル賞作家の美名の影で繰り返しリリスとの接触(売春を含む女犯行為)を繰り返していた。

そもそもノーベル賞受賞そのものがゼーレの陰謀という説がある。

異説としては、「死体のコレクション」の腐敗ガスが充満したことが原因という「青髭」説もある(青髭は昔話に出てくる死体収集者)。
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E5%B7%9D%E7%AB%AF%E5%BA%B7%E6%88%90

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「仏界易入 魔界難入」とは一休が云った言葉だそうだ。川端康成は好んでこの言葉を揮毫したといわれる。「仏界易入 魔界難入」とは川端にとってどんな意味があったのか。

 梅原猛と五木寛之の対談によると、川端康成は魔界に住んでいた人だという。
「みづうみ」「眠れる美女」何かはまさに魔界の文学である。

さらに「雪国」はすごい官能小説だ。あの澄み切った官能の世界はうしろに魔界を秘めている。

「伊豆の踊子」でも少女が裸で出てきたりする。やっぱり本来どこか異常な精神を持っている人の作品だ。川端さんは世間の模範的な国民文学者としてのイメージと魔界にいる自分というものとの乖離の中で自ら死を選んだんじゃないかと思う。

特に、女性に関心があり、事務員は女性のみ、NHKの女性アナンサーは川端先生に太ももの上に手をのせて触られたとか、ある有名女優は無言でただ黙って手を伸ばして座っている膝にスッと触れられた。

梅原氏は川端が晩年「仏界易入 魔界難入」という言葉は一休宗純の言葉とされているが、それは本当に一休の言葉かどうか調べてくれと言われたそうだ。なぜこんなことを頼むのかわからなかったが、川端が亡くなってから「みづうみ」何かを読むと魔界を感じるという。

この対談からわかるように川端康成は自分が魔界の住民であることを知っていたのだろう。 川端は一般の人には「仏界易入 魔界難入」であるべきものが、川端本人は魔界に住んでいる住民であることがわかり、異常な人間であることを知ったことで、川端にとってはむしろ「仏界易入 魔界難入」ではなく「魔界易入 仏界難入」に思えたのではないだろうか。
http://homepage3.nifty.com/myorin/colum2014.html

----あたし、川端康成にナンパされたことあるわよ…。

----!?(びっくりして息を飲んで)

----むかし、十代のころ…。鎌倉のね、邪宗門って有名な喫茶店で…。

----マジ! えーっ、それ、マジっすかあ…!?

 その女性は若いころ結構美人さんであって---ウホン、いまでも華やかなオーラを撒き撒きする綺麗な方です!


---当時、住んでいるヨコハマからよく近郊の鎌倉まで遊びにいっていたというのです。

 で、鎌倉でウロウロしてたら、背広姿でよくそのあたりに出没していた川端さんに声をかけられた。

----ねえ、お嬢さん、これから僕と遊びにいきませんか?

 と川端さん、あの独自に甲高い、関西なまりのイントネーション声でもって、若い女性とみると、誰彼かまわずニコニコと声をかけまくってたそうです。

----あの先生、エッチなのよ…。若いキレイなコがいると、すぐに声かけてくるの。ニコニコしてたけど、おっきな眼がちょっと怖かったわ…。

 当時といえば、川端さんがノーベル文学賞をとったあと、いわば名声の絶頂にいたころ、だのに、なにやってんだか、この先生は?

 しかし、富やコネや権威を利用すればいくらでも女性なんか調達できたろう大物である川端さんが、こんなフェアなナンパに明け暮れていたなんて、ちょっと好感がもてなくもないですね。

 邪宗門っていう喫茶店はいったことないんだけど、どうも調べてみると、寺山修司と天井桟敷が関係してた店のようです。

 2013年に残念ながら鎌倉店は閉店しちゃったようだけど、そのつながりでいくと、たしかに晩年の川端さんが訪れてもふしぎじゃない。

 なーるほど、川端センセイ、あなた、栄華の絶頂にいたにもかかわらず、淋しくて淋しくて、素人の女性とふれあいたくて仕方なかったんですねえ?

 でも、金と地位をひけらかさない、その素朴なナンパの姿勢は立派っス。

 I さんは、邪宗門で川端さんと2度会って、2度目に彼氏といたときには、ふたりして川端さんからお昼をおごってもらったそうです---。

 川端さんが自室で岡本かの子の原稿を執筆中に急に外出し、逗子アリーナで例の自死を遂げたのは、その1週後だったとか…。
http://blog.goo.ne.jp/iidatyann/e/adf7c5f5d9bc28a95f8b60f23bc6655b

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『魔界の住人 川端康成――その生涯と文学――』装幀(上下)森本穫の部屋
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/9193c196012d2f269aab93090e2d264c

この、少女がこちらを向きながら仰向けに横たわっている絵は、石本正(しょう)画伯の「裸婦」という作品です。晩年の康成が愛蔵した絵です。

 康成は石本正の絵が大好きで、二人のあいだに深い交流のあったことも、本書では、詳しく描いています。

 さて、晩年の川端康成がこの絵を愛蔵したのには、深いわけがあります。

 この絵は、康成晩年の渇望、といおうか、憧れ、といおうか、康成の深い願望をこめた、まことに象徴的な絵画なのです。

 昭和29年(1954年)に、生涯の最高作ともいうべき「みづうみ」を発表した康成は、その6年後の昭和35年(1960年)に、多くの評家と読者をあっと驚かせた奇想天外な小説「眠れる美女」を発表します。

 主人公は、江口老人。友人から教えられた秘密の家に行きます。そこでは、別室に通されると、睡眠薬で深く眠らされた少女あるいは若い女性が裸身で横たわっているのです。

 この家のただ一つの禁制は、眠った女性に手荒なことをしないこと、だけです。

 実際、この秘密のクラブである家に通うのは、お金はあるが、すでに性的能力を失った、哀れな老人たちだけなのです。

 江口老人だけは、見かけとは異なり、まだ性的能力は残っているのですが、とにかく、秘密の密室で、眠った裸身の女性と、ひと晩、一緒に眠れるということは、至高の歓びなのです。友人は、この家の一夜を「秘仏と寝るようだ」と表現しました。

 まことに、老人たちは、この家に通い、一夜、裸身の少女と寝床を共にするだけで、生きている歓びを得ることができます。

 もちろん、歓びだけではありません。この家は、海に面した高い崖の上に建っているようです。冬が近く、海面にみぞれが降るイメージも出てきます。

 つまりそれは、遠からず老人を襲う死の恐怖です。暗黒の死の恐怖とうらはらに、一夜の、観音様のような全裸の美女と過ごすという稀(まれ)な幸運を得るのです。

 江口は5夜、この家を訪れ、眠って意識のない裸身の女性の傍らで、過ぎ去っていった女性たちを思い出します。特に第1夜に思い出す、結婚前に北陸から京都まで旅を共にして処女を奪った女性の記憶は鮮烈です。

 その2〜3年後の昭和38年(1963年)に、康成は「片腕」という短い作品を発表します。これも、深い濃霧の夜に、一人の少女から、片腕だけを借りてアパートに帰り、片腕と一夜を過ごす、という物語です。

 晩年の康成が、若い女性、あるいは少女の裸身に、どれほど憧れを抱いたか、よくわかるでしょう。

 私のお薦(すす)めは、「掌(たなごころ)の小説」と呼ばれるショート・ショートの一編、「不死」という作品です。新潮文庫に、「掌の小説」を1冊にまとめたものがあります。この、終わりの方に出てきます。

 ひとりの老人と、若い娘が、手をつないで歩いています。若い娘は、昔、老人の若かったころ、恋人だったのですが、おそらくは身分の違いのため一緒になれず、娘は海に飛び込んで死にました。

 その娘が今、生き返って、昔の恋人で、今は人生に敗残した老人と一緒に歩いているのです。

 くわしい話は、私の本(下巻)で読んでください。

 やがて二人は、ゴルフ場の端にある、大きな樹の、洞穴(ほらあな)に、すうっと入ってゆきます。そうしてもう、出てこないのです。

 永遠の生命を得て、二人は永遠に、その樹の洞(ほら)の中で過ごすのです。
 ここに、康成の晩年の渇望(かつぼう)がよく表れています。

 私は、そのような康成の晩年の渇望を具現した作品として、この絵を下巻の口絵写真の一つに選びました。

 装幀家の盛川さんは、私の意図をよく汲んで、この絵で表紙を飾ってくれました。

 女性の読者は、この表紙を見て、ちょっと、どきっとされるかも知れませんが、男性読者は、この絵の美しさに惹(ひ)かれることでしょう。

 康成が死の半年前(昭和46年、1971年)に発表した「隅田川」という作品があります。これは、敗戦後まもなく書き始められた「住吉」連作の、22年ぶりの続編なのですが、その中に、象徴的な言葉がでてきます。

 主人公の行平(ゆきひら)老人が、海岸の町の宿に行こうとして、東京駅に行きます。すると、ラジオの街頭録音の、マイクロフォンを突きつけられます。

 「秋の感想を一言きかせてください」という質問です。行平は、

 「若い子と心中したいです」と答えます。

 「えっ?」と驚くアナウンサー。その意味を問います。すると行平の答えは、こうです。 「咳をしても一人」

 この一節は、最晩年の川端康成の心境を、如実にあらわした部分です。

 咳(せき)をしても一人……これは、放浪の俳人・尾崎放哉(ほうさい)が、晩年、小豆島に渡って独居し、死に近いころ読んだ自由律の俳諧です。

 咳をしても、その、しわぶきの声が、壁に反響して、空しく自分にはね返ってくるだけだ、という、孤独と寂寥(せきりょう)の極みを詠んだものです。

 つまり康成は、自分の根底の願望を「若い女性と心中したいです」と語り、その背景として、恐ろしい孤独の意識を、ここで告白したのです。

 ノーベル賞を受賞して、晴れがましい騒ぎの余波から、わずか3年後のことでした。
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事故のてんまつ
『事故のてんまつ』は、臼井吉見による中編小説。


1972年(昭和47年)4月16日に自殺したノーベル文学賞受賞作家・川端康成の自殺の真相を明らかにする、と新聞広告ではあおられたが、実名はなく、家政婦として大作家に雇われた「鹿沢縫子」(仮名)という女性の語りの形式をとり、「縫子」がその作家にいたく可愛がられた様子と、1年ほどの勤めの後に致仕して郷里の信州へ帰ると言った翌日、作家が自殺するというのが前半で、後半は「縫子」の語りによる「川端康成論」になっている。


裁判沙汰

『展望』は増刷するほどに売れたが、川端家(未亡人・秀子、養女・政子、婿・香男里)は筑摩書房に苦情を申し入れた。死者の名誉権は成立しないというのが通説だったが、川端家は秀子の名誉も毀損されたと主張、数次の準備書面のやりとりがあった。

週刊誌、女性週刊誌、月刊誌などで多くの関連記事が出たが、川端家側は実在する家政婦の存在は否定せず、細かな事実の間違いを指摘した。


『事故のてんまつ』に書かれていることと、実際の事実関係や経緯には違いがあり、臼井が川端を批判したいがために、脚色や誇張がされている部分が多々あることが、「鹿沢縫子」(仮名)や、その家族、地元の周辺人物からの取材で検証されている。その中の主なものを以下に挙げる。

川端が1970年(昭和45年)5月に長野県南安曇郡穂高町(現・安曇野市)に招聘された際に、植木屋「庭繁」(実際の店名は「アルプス園」)の娘として働いていた「縫子」と出会い、盆栽などを川端家に配達して来た「縫子」が川端家の家政婦として働くことになったのは事実であるが、本作に書かれているように、川端が嫌がる「縫子」を何度も何度も勧誘したということはなく、実際には、人手の足りない川端家に、もう1人家政婦を求めていた妻の秀子が、「縫子」の養父(血縁関係は無い)に依頼し、名誉なことだと思った養父が「縫子」を説き伏せたことが、養父本人により証言されている。

本作の中では、「縫子」や川端の他、川端の過去の恋人・伊藤初代が被差別部落出身者とされ「人にきらわれる、不幸な生い立ちの娘」とされ、川端夫人についても「肉屋さんとかの娘さん」という虚偽があった。

川端の出目については、語り手「縫子」がそうではないかと思ったように記述され、北条氏の子孫であるという系図を掲げているとして臼井は否定したが、読み手に川端も被差別部落出身者だと暗示させるように書かれている。

実際には、伊藤初代の戸籍や系譜は多くの川端研究者によって特に部落出身でないことが確定されており、「縫子」の実母や実父の出身地は別の地域や県であることが、森本が弁護士を用いて調査している。

なお森本は、「縫子」本人に2012年(平成24年)時点で接触を試みているが、「縫子」は面談取材を一切断わり、本作について、「その小説の中の女性と自分とは無関係である」とし、「ただ一ついえることは、私に川端先生が執着したかどうか、わからない、ということです」と夫(当時付き合っていた恋人)を通じて伝えている。


しかし、「縫子」が川端の死の直後、通夜の時に養父に、「先生の自殺の原因はわたしにあるように思う」と打ち明けたことに関しては、関係者の証言などの総合的な観点からほぼ事実であろうと森本は検証し、家政婦の契約を更新せずに信州に帰ることを断言したことで、川端を傷つけたという意識が「縫子」の中にあったことがうかがえるとしている。

そして「縫子」本人が、「ただ一ついえることは、私に川端先生が執着したかどうか、わからない」と伝え、川端が「縫子」に強い好意を持っていたことを完全否定はしていない点を森本は鑑みながら、川端という作家がその生涯において抱き続けた「美神」の少女像(伊豆の踊子、伊藤初代、養女・黒田政子)が、晩年において「鹿沢縫子」に受け継がれていたという可能性は十分あると考察しており、「縫子」が去っていくことを知った川端が、かつて伊藤初代との別れで味わった「身を切られるような〈かなしみ〉」に襲われ、逗子マリーナへ向かったことも想像に難くないとしている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8B%E6%95%85%E3%81%AE%E3%81%A6%E3%82%93%E3%81%BE%E3%81%A4


川端康成 探索『事故のてんまつ』 - 魔界の住人・川端康成  森本穫の部屋
                       

 今年2012年(平成24年)は、川端康成の没後40年になる。その死の5年後、すなわち今から35年前の春に、臼井吉見が『展望』5月号に「事故のてんまつ」を発表し、さらに単行本『事故のてんまつ』出版を強行したのだった。

 わたしは初め、この作品とその反響について書くかどうか、すこし迷っていた。しかし、川端康成の生涯と文学を考える上に、この事件は、きわめて重要な意味を持っている。やはり書くべきだろうと思いながら、事件の翌年に出版された武田勝彦・永澤吉晃編『証言「事故のてんまつ」』(講談社 昭53・4)巻末の「関係文献一覧」を参考に、連載をつづける傍ら、ぽつぽつ、重要そうな文献のコピーを蒐集してはいた。

 このようなわたしに火をつけたのは、小谷野敦の「『事故のてんまつ』事件 1977」という論考だった。

 これは『現代文学論争』(筑摩書房 平22・10)に掲載されたもので、兄事する関口安義氏が、メールで「面白いですよ」と推薦してくださったのである。

 すぐジュンク堂WEBで取り寄せてみると、なるほど、刺激に満ちたものだった。このひとの名はよく承知していたが、読むのは初めてである。『事故のてんまつ』前後の騒ぎを「事件」として捉え、その推移について述べている。

 が、どうもこのひとは攻撃的な人格の持ち主であるらしく、あちこちに喧嘩を売っている。

 川端康成の伝記的研究も、『事故のてんまつ』問題の追究も、この騒ぎの影響で萎縮し、停頓している、と決めつけているのだ。そして、自分は近いうちに、『事故のてんまつ』を含めた川端康成の伝記を書いて、このタブーを打ち破る、と宣言している。

 この喧嘩を、わたしが買った。「別にタブーがあるわけではない。ただ誰もが康成の自裁の謎と『事故のてんまつ』について、何となく、書かなかっただけだ。それなら、わたしが書こう」と決意したのである。

 小谷野敦はこの論考で、大胆にも、当時の関係者を、「すでに当時の週刊誌や新聞も報じているから」といって、実名で書いている。これは、じつは部落問題やプライヴァシーの問題で、関係者たちに迷惑をかける可能性のある、危険なことなのだ。

 しかも、週刊誌も遠慮して書かなかった、事件のヒロインであるお手伝いさんの実名を、小谷野敦は書いたのである。そしてそれは後述するように、全くの人違いだったのだ。

 ともあれ、小谷野敦の挑発的な文章によって、わたしは康成最後の恋であるかもしれないこの事件について、本格的な取材をはじめた。

 35年前の、週刊誌などに追い回された当事者たちは、いま健在なのだろうか。もし物故しているならば、その家の跡を継いでいる親族の名を知りたい。もちろん住所も、できれば電話番号も……。

 最初に考えたのは、やはり、信州穂高のひとに訊ねることだった。穂高に知人のいるひとはいないだろうか。

 ……大学時代の旧友を思い描いてゆくうち、いい友人を思い出した。全国に知人を持っている可能性が高い。

 詳しくは連載に書いたが、S氏は、穂高に知人を持っていた! そのひとは、穂高の老舗の後継者であるという。早速、探索事項を書いた文書を作成して、S氏に送った。

 そして老舗の後継者は、みごとに、わたしの期待に応えてくださったのである。穂高の町では、35年前の騒動を覚えている方が沢山いた。当事者たちの住まいや名前を、わけなく教えてくださったのである。

 この過程で、小谷野敦氏の挙げた名前が全くの別人であることもわかった。小谷野氏は、新聞に実名の出た、別のお手伝いさんを「縫子」と勘違いしていたのである。

 わたしは上記の参考文献のほとんどを手元に揃え、読破していった。一方で、生みの母親の名も顔も知らない「縫子」の、まぼろしの実母と実父を尋ねる探索も進めた。

 穂高へ、実地踏査に行き、幾人もの関係者に会ってお話を聞き、また「縫子」の住んだ家々の跡もたずねた。

 37年前の昭和45年5月中旬、川端康成が訪ねた盆栽店――「縫子」の養父の営んでいた『庭繁』――実際の店名は『アルプス園』だった――の跡地にも立ってみた。康成が訪ねたのと同じ5月である。残雪が白く残る北アルプス連峰が美しかった。

 つい先日は、「キューポラのある街」として知られる埼玉県の或る町を訪ねた。「縫子」の実母の名がわかり、その晩年の世話をしたM氏に会いに伺ったのである。M氏は、「縫子」と康成が二人で写った写真を見せてくださった。背景や服装などから、養父一家がミネゾを鎌倉長谷の川端邸に運び込み、植えたとき、記念に撮影したものと推測された。

昭和23年生まれ、このとき22、23歳であった「縫子」は、色白のか細い少女で、まだ高校生のように見える。

 M氏は、「縫子」の実母の、甥にあたる方であった。惜しくも、実母は、3年前に亡くなっていたが、その生涯や、「縫子」の実父と出会った日々を記録した手帳も見せてくださった。

 実父と実母は、34歳の年齢差がある。生後一年前後で、「縫子」は実父の家に引き取られた。その養母と七五三のときに撮った写真もあった。「縫子」7歳の写真である。

 実父は、「縫子」の満8歳のときに亡くなったが、奇しくも、わたしの故郷と同じ福井県の、丸岡町の出身であった。その実父の出自を調べるために、わたしは近く丸岡町を訪ねる予定である。

 「縫子」自身は、わたしの取材の求めに応じてくれなかったが、ご主人を通じて、自身の感想をFAXで送ってくれた。

 その言葉と、これまでの取材によって、わたしは康成と「縫子」の関係を了解した。康成は、かつて様々な少女に慕情を抱いたように、自分に境遇の近似した「縫子」に、慕情を寄せたのだ。

 それを口にすることもなく、ただ黙って康成は死を選んだ。
           (『文芸日女道』532号〈2012・9〉)
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/18418ed16c41ec3ecadd55f370a98352


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フェティシズムとは何か・・・フェティッシュとしてのエロスとタナトス
https://www.google.co.jp/webhp?hl=ja#hl=ja&q=%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B7%E3%82%BA%E3%83%A0%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E3%82%A8%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%81%A8%E3%82%BF%E3%83%8A%E3%83%88%E3%82%B9&spf=68

まず、フェティシズムとはいったい何なのか。この「フェティシズム」という用語、元はといえば、最初に宗教学の中で使われ始めたものである。

フェティッシュとはもともと、ラテン語の facio,facere(つくる)という動詞の完了受動分詞factus(英語のfactの語源)、そして、それから 派生した語facticius(人工の)がフランス語化されて、factice(人工の)となり、さらに、フェティッシュという語が造られた。

これが17世紀以後、「呪物」 、「物神」といった意味で用いられ るようになり、特にヨーロッパの白人たちから見た、アフリカなどの原始的な宗教において崇拝 の対象となるものを意味する用語として使われるようになった。

例えば、護符(amulette, grigri, porte-bonheur, talisman)、また、マスコット(mascotte)としての人や動物、さらには、 日本の神社においていわゆる御神体として信仰の対象とされているもの、山、岩、古木、木で彫られた男根、鏡等などはみなフェティッシュである。それらのものはみな、さまざまな由来と歴 史を経てそれぞれの文化の中で記号化されることによって、すなわち、山は単なる山ではなく、 何か超自然的な力を秘めたシンボル的存在とみなされることによって、特別な意味と価値を持つ ようになったものである。

そして、その様なものに対する呪物崇拝、物神崇拝のことを「フェテ ィシズム」と呼ぶようになったのである。さらに、経済学の領域においても「商品価値」や「貨 幣価値」等を考える上で、「フェティシズム」という語が使われるようになった。


そして更に、心理学や精神分析の領域においても「フェティシズム」という用語が使われるようになった。

それは「節片淫乱症」などと訳されることもある、性的倒錯の一種である。

性的倒 錯としての「フェティシズム」とは、性的欲望が他者としての異性あるいは同性そのものに向かうのではなく、その他者の身体の一部のみ、あるいはその他者から発せられるもの、その他者に 付随するもの、例えば、その他者の毛髪、目、足、しぐさ、性質、能力、さらには糞尿、体液、 体臭、肌着、靴下、靴、ハンカチなどに向かうことを意味するのである。これらのものもみな呪物、物神、商品、貨幣などと同様に、記号化、シンボル化されることによって始めて特別の価値 あるいは意味を持つようになり、欲望の対象とされるのである。

しかし、この「フェティシズム」という語を、記号化されることによって始めて価値あるいは 意味を持つようになったものに欲望が向けられることを意味するものとして理解するならば、既 に述べられたことからも明らかなように、「フェティシズム」とは世界と自己に対する人間の 《本源的態度》ということになるであろう。

ということは、人間が有する性の在り方の根源にも 「フェティシズム」が存在するということである。性的対象のみならず性的目標としての性行為 (フロイトの『性欲論』参照)もまたすべて、記号化されることによって始めて価値あるいは意 味を持つようになるのであり、人間にとっての性的対象および性行為のすべては「フェティッシ ュ」としてのみ存在しうるのである。即ち、あらゆる対象が人間にとって性的対象となり、あらゆる行為が性行為となりうるのである。

また、先に述べられたような、記号として人間にとりついて、人間を常に不安と恐怖の中に落 としいれるところの「死」もまた欲望の対象となることが可能なのであり、人間のみが「死」を希求 し、讃美し、また本当に自殺することもできるのである。ボードレールの詩を引き合いにだすま でもなく、人間は死をよろこぶことができるのである。

人間のみが自らの死に方を選択したり、 死を望んだりすることができるのは、そこに「フェティシズム」があるからに他ならない。他の 動物は「死ぬ」のではなく、ただ動かなくなり、冷たくなり、そして腐敗してゆくのみである。

このようにして性への衝動としてのエロスと死への衝動としてのタナトスは、人間が本源的に 有するところの、その「フェティシズム」において成立するのである。

そのような人間のエロスの在り方が有する無限の多様性がいわゆる「変態性」の起源となり、また、人間のみが死ぬこと をよろこぶことができるということが、その退廃性(デカダンス)の起源となっているのであろう。


フェティッシュに満ちた世界
文化的記号としてのフェティッシュ


私たちはこの世界の中にあるすべてのものを、「理性」によって記号に置き換え、フェティッ シュとしての意味付けを与え、それらを崇拝したり、欲望の対象にしたり、あるいはまた禁忌の 対象にしたりしている。

ところで、ひとつの社会の中で、ほぼ同じようなものが崇拝されたり、 欲望の対象とされたりするのは、そもそもフェティッシュなるものが言語的記号との分離不可能 性において成立しているからであり、同じ言語体系を共有しているひとつの社会、共同体の中で は、その成員のほとんどは同じようなものを崇拝し、同じようなものを欲望の対象としている。 そして、このことによって、その社会における共通の価値観、常識、モラルといったものが成立するのである。

それらにおいて、禁忌の対象とされるものが、いわゆる社会的タブーといわれるものである。また、社会的タブーのほとんどは「性(エロス)」と「死(タナトス)」に関連する もの、例えば、死者の扱い方、弔い方に関するタブー、近親姦タブー、同性愛タブーなどである。


ネクロフィリア、少女コレクション、人形愛

しかしながら、すべての人々がこのような社会的タブーを守り通しているわけではないし、ま た、それはありえないことであろう。そして、タブー逸脱の最たるもののひとつとして、ネクロ フィリア(死体愛好症)が上げられるであろう。

これは、まさしく死者をその性的欲望の対象とすることであり、エロスとタナトスの融合のひとつの形といえよう。

なぜ性的欲望の対象が死者 (死体)という物体(オブジェ)、あるいはフェティッシュであらなければならないのか。

なぜなら、死体には意志も欲望もなく、こちらに立ち向かってくることも、語りかけてくることもなく、 このことによって、「わたし」と死体とのあいだには、情念と情念による、お互いの交流が成立 し得ないからである。

すなわち「愛」というものの介入をここでは徹底的に排除することができるからである。

性欲は「愛」による拘束を逃れることによって、はじめて純粋性欲として自己完結することが可能となる。死の中にある他者を欲望の対象とすることによって、「わたし」は自らの性の喜びを最大限に味わうことができるのである。 さらに、これに近いものとして、ペドフィリア(小児性愛)やピュグマリオニズム(人形愛) が挙げられるであろう。

ただし、ペドフィリアというと、すぐ「犯罪」というイメージに結び付けられやすいので、ここでは、澁澤龍彦氏に倣って、「少女コレクション」と呼ぶことにしよう。

氏によれば、美しい少女ほど、コレクションの対象とするのにふさわしい存在はない。
蝶のよう に、貝殻のように、捺花のように、人形のように、可憐な少女をガラス箱の中にコレクションす るのは万人の夢である。

コレクションに対する情熱とは、いわば物体(オブジェ)に対する嗜好である。

生きている動物や鳥を集めても、それは一般にコレクションとは呼ばれない。すでに体 温のない冷たい物体、完全な剥製となっていなければ、それらはコレクションの対象とはされない。

しかし、少女までも剥製にされなければならないというわけではない。
生きたままでも、少女という存在自体が、つねに幾分かは物体(オブジェ)、すなわちフェティッシュなのである。

人形も、少女も、自らは語りだすことのない受身の存在であればこそ、男たちにとって限りな くエロティックなのである。

女の側から主体的に発せられる言葉は、つまり女の意志による精神的コミュニケーションは、澁澤氏によれば、男たちの欲望を白けさせるものでしかない。

女の主体性を女の存在そのものの中に封じ込め、女のあらゆる言葉を奪い去り、女を一個の物体近づか しめれば近づかしめるほど、ますます男の欲望(リビドー)が蒼白く活発に燃えあがるというメ カニズムは、男の性欲の本質的なフェティシスト的、オナニスト的傾向を証明するものであり、 そして、そのような男の性欲の本質的傾向に最も都合よく応えるのが、そもそも、社会的にも、性的にも、無知で、無垢な少女という、ある意味で玩具的な、存在だったのである。

まさしく、 「お人形さんのように可愛い」少女を自らの掌に納めることこそ男の憧れなのである。

しかし、当然のことながら、そのような完全なオブジェ(フェティッシュ)としての女は、厳密に言えば、男の観念の中にしか存在することができない。そもそも、男の性欲それ自体が極め て観念的なものであるのだから、その欲望の対象となるものも、極めて観念的なフェティッシュ であらざるを得ない。

問題は、そのような極めて観念的な欲望の対象を、想像力の世界で、どこ まで実在に近づけうるかである。中世の錬金術師たちが、フラスコの中にホムンクルス(人造小 人間)を創りあげようとしたこともそのような試みのひとつであったのであろう。

川端康成におけるフェティッシュとしての少女の身体


ところで、上述のような、フェティッシュとしての少女や、その身体をものの見事に描いた文 学者の一人に川端康成がいる。


彼が少女、あるいは少女の身体を愛でる、その仕方は、まさに、 茶の道を究めた茶人の茶器を愛でるが如くである。(茶道における茶器もまたフェティッシュに 他ならない。)事実、川端は少女と焼き物を愛した。

たとえば、「生命が張りつめていて、官能的 でさえある」志野の茶碗(『千羽鶴』 )。

水指の表面は川端の主人公にとっては、女の肌と区別しがたいものである。

「白い釉のなかにほのかな赤が浮き出て、冷たくて温かいように艶な肌」(同 上)。同様に女の肌は、ほとんど陶器の表面そのものであって、「白い陶器に薄紅を刷いたような 皮膚」 (『雪国』)でなければならない。

焼き物も、女も、見て美しいばかりでなく、指で触れ、 その指の先の感覚に、主人公とその「もの」との関係のすべてが要約されるような対象である。

たとえば、『雪国』の主人公は、「結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚え ている」という。

一方には、女の物化(レイフィカシオン)があり、他方には、物の官能化がる。 女は焼き物の如く、焼き物は女の如くである。いや、焼き物に限らず、冬の夜の天の河でさえも、 「なにか艶めかしい」のである(『雪国』)。

このような少女の描き方は、『伊豆の踊り子』から、晩年の『眠れる美女』や『片腕』にいたるまで一貫している。

『伊豆の踊り子』の少女の「若桐のように足のよく伸びた白い裸身」から、 『みずうみ』の「夜の明りの薄い青葉の窓に、色白の裸の娘が立っている」ときまで、女はつね に視覚に、触覚に、あるいは聴覚に訴える美しい対象であり、彫刻のような物(フェティッシュ) であって、決して主体的な人間ではなかった。

その極端な場合が、『眠れる美女』である。

海浜 の不思議な家で、老人は麻酔で眠らされた若い女を見ることができるし、愛撫することもできるが、女の側には意識がない。

『たんぽぽ』の妖精のような少女は、肉体的な愛の極致において相手の身体が見えなくなるという病(人体欠視症)をもつ。

女は純粋に見られるもので、見るものではない。

超現実主義的な『片腕』に到ると、もはや女の側には肉体的な全体性さえもなくなり、 「エロティック」な対象は、女の身体の一部分に集中するのである。(加藤周一『日本文学史序説』参照)

川端にとって、少女、あるいは少女の身体とはまさしく物神としてのフェティッシュその ものだったのである。

特に、『眠れる美女』や『片腕』は、究極的なフェティシズムに基づくところの、エロティシ ズムと、それにまとわりついて最後まで離れることのない、そして、最後にはついに現実化して しまうところの「死(タナトス)」のイメージとによって、完成度の極めて高い、デカダンス文学の逸品となっている。

また、川端の作品には、実にたびたび、命に対する讃仰があらわれる。巨母的小説家であった 岡本かの子に対する彼の傾倒は有名である。

しかし、彼にとっての生命とは、まさしく官能その ものなのである。

この一見人工的な作家の放つエロティシズムは、彼の長い人気の一因でもあっ た。このエロティシズムについて、中村真一郎が三島由紀夫に語ったことがあるという。

「この 間、川端さんの少女小説を沢山、まとめて一どきに読んだが、すごいね。
すごくエロティックな んだ。

川端さんの純文学の小説より、もっと生なエロティシズムなんだ。

ああいうものを子供に 読ませていいのかね。
世間でみんなが、安全だと思って、川端さんの少女小説をわが子に読ませているのは、何か大まちがいをしているんじゃないだろうか。」


このエロティシズムは勿論、大人が読まなければわからないものだが、それは、川端自身の官能の発露というよりは、官能の本体つまり生命に対する、永遠に論理的帰結を辿らぬ、不断の接触、あるいは接触の試みと云ったほうが近い。

それが真の意味でエロティックなのは、対象すなわち生命が、永遠に触れられないというメカニズムにあり、彼が好んで処女を描くのは、処女にとどまる限り永遠に不可触であるが、犯されたときにはすでに処女ではないという、処女独特の メカニズムに対する興味だと思われる。

また、川端が生命を官能的なものとして讃仰する仕方に は、それと反対の極の知的なものに対する身の背け方と、一対をなすものがあるように思われる。

生命は讃仰されるが、接触したが最後、破壊的に働くのである。すなわち、生命という官能を知 的に把握、分節しようとしたその瞬間にわれわれは、まさに生命そのものによって死の中へと叩 き落されるのである。

そして、川端の芸術作品は、知性と官能との、いずれにも破壊されることなしに、両者の間に張り詰められた一本の絹糸のように、両者のあいだで舞い踊る一羽の蝶のように、太陽の幸福な光を浴びつつ、美しく光る月のように、存在しているのである。(三島由紀 夫『永遠の旅人』参照)

処女である少女とはあらゆる人間の中で最も(あからさまに)性的でない存在であり、一切の官能と性的なものを一番安全な場所に封じ込めてしまっている存在であるが、なぜそうしなければならないのかというと、処女の有するエロティシズムこそがもっとも危険で、破壊的な魔力を有するものであるからにほかならない。

そのことを川端自身が一番よくわ かっていたからこそ、彼は見事に少女の美を描くこともできたのであろう。

『眠れる美女』と『片腕』

上に述べられたような「生命」を逆説的に、また官能的な仕方で見事に描いた作家に川端康成 がいる。その晩年の作品、『眠れる美女』の主人公、江口老人は、海辺の不思議な宿で、麻酔で 眠らされている、何も身に着けていない処女である娘たちと夜をともに過ごす。江口はその娘を 見て、「まるで生きているようだ。」とつぶやく。

生きていることはもとより疑いもなく、それはいかにも愛らしいという意味のつぶやきだったのだが、口に出してしまってから、その言葉が気味悪いひびきを残した。

なにもわから なく眠らせられた娘はいのちの時間を停止してはいないまでも喪失して、底のない底に沈めら れているのではないか。生きた人形などというものはないから、生きた人形になっているので はないが、もう男ではなくなった老人に恥ずかしい思いをさせないための、生きたおもちゃにつくられている。いや、おもちゃではなく、そういう老人たちにとっては、いのちそのものなのかもしれない。こんなのが安心して触れられるいのちなのかもしれない。・・・

死にできうる限り近づくことによってのみ、人は生命そのものに近づくことができる。いのちの時間を喪失した娘たちと一夜を過ごすということ、そこには、江口老人自身に近づきつつある「死」の影を見ることができるし、また、老人は安心していのちに触れることができる。

しかし、この宿での五度目の夜、老人は二人の娘とともに眠るのだが、その片方の娘、老人をして、 「いのちそのものかな。」とつぶやかせた、野蛮のすがたをした、黒光りした肌を持つ、ふとんを はねのけ、大の字に寝ていた、そして「生の魔力をさずけろよ。」というような戦慄のつたわっ て来そうな娘が、翌朝老人が眼を覚ますと、死んでいたのである。

その前に、江口老人の知り合いである、福良老人の死や、江口の母の死の思い出も描かれているのだが、ここにきて、「死」 は老人の目前にそのすがたをあらわす。まさしく「生の魔力」そのものが「死」として現前する のである。

しかし、その現前は一瞬のみである。恐れおののく老人に、宿の女は、「娘ももう一 人おりますでしょう。」と告げ、その言い方ほど老人を刺したものはなかった。宿の女たちは急いで死んだ娘を運び出し、車に乗せてどこかへ消えてしまう。

老人は、もう一人の、白い娘のは だかのかがやく美しさを見る。 三島由紀夫によれば、この作品に見られる、執拗綿密な、ネクロフィリー的肉体描写は、およそ言語による観念的淫蕩の極致である。

しかし、性的幻想にはつねに嫌悪が織り込まれ、また、 生命の参仰にはつねに生命の否定が入りまじっているため、息苦しいほどの官能そのものの閉塞感がある。

川端において、性が自由や開放の象徴として用いられることなど皆無である。
性はつねに生命と官能の閉塞状態において成立し、その世界の絶対無救済性を示すものである。しかも この絶対無救済の世界は、一人の「眠れる美女」の突然の死によって、閉じられるのではなく、 江口老人自身の死をも暗示する、逃れようのない「死の舞踏(ダンス・マカーブル)」へと開かれている。

この作品は、これ以上はない閉塞状態をしつこく描くことによって、ついに没道徳的な虚無へ読者を連れ出す。

三島は、かつてこれほど反人間主義の作品を読んだことはない、と言う。

また、「この家には、悪はありません。」という宿の女の言葉は、この世界には、悪に対立するものとしての善も存在しないということを示しており、さらには、川端の文学作品の中には、 真の救済も破滅も存在しないことをも示している。

また、『片腕』という作品になると、対象としての娘の肉体はその全体性を失って、片腕だけとなり、主人公と一夜をともに過ごす。しかし、その片腕は生きた片腕であり、主人公と会話、 交流、感応しあうことができる。しかしそれは、対象がその全体性を失った片腕であったからこそ可能なのである。

娘の片腕はまさしく「玩具」として、川端の絶対的孤独の世界への訪問を許されるのである。

「対話をすることのできる娘の片腕」とは川端にとって、理想的な女の在り方 のひとつなのである。それは女自体の望ましい象徴的具現なのである。

『片腕』の主人公はさらに、自分の片腕と娘の片腕とを付け替えてみる。そして、その娘の片腕に自分の血が通っていることを確認し、「腕のつけ根にあった、遮断と拒絶はいつなくなった のだろうか。」とその感想を漏らす。

しかし、「遮断と拒絶」とは、実は腕の付け替え(人体改 造?)などという児戯を演じる以前からの常態であったのである。『片腕』の主人公は自らの身体そのものとの交流さえも十分に感じることのできない、即ち、自らの身体からさえも拒絶され、 阻害されるという絶対孤独の中に生きていたのである。

そのような絶対孤独の中に生きる人間であるからこそ、娘の片腕との会話と交流という、このフェティシズムの極致における欲望の充足を得ることができるのである。そのような孤独な人間は通常の人間的接触や性的接触によっては決して満足することができないのである。

しかし、この作品の最後の場面は切なくなるほどに悲しい・・・

「娘の腕は・・・?」私は顔をあげた。

娘の片腕はベッドの裾に投げ捨てられていた。はねのけた毛布のみだれのなかに、手のひらを 上向けて投げ捨てられていた。のばした指先も動いていない。薄暗い明かりにほの白い。

「 ああ。」 私はあわてて娘の片腕を拾うと、胸にかたく抱きしめた。生命の冷えてゆく、いたいけな愛児を抱きしめるように、娘の片腕を抱きしめた。娘の指を唇にくわえた。のばした娘の爪の裏と指先とのあいだから、女の露が出るなら・・・・・。


西山老人のフェティシズム、そして魔界

川端康成の遺作となった『たんぽぽ』には、西山老人という印象的な人物が登場する。

たんぽぽの花が咲いた春のような町、生田町の生田川沿いにある「気ちがい病院」に入院している老人である。

その病院とは、官能の極致において、その恋人の身体が見えなくなるという、人体欠視症にかかった主人公、木崎稲子が入院する病院である。また、その病院は常光寺という寺の中にある。

たとえば、病院の主のような西山老人は、本堂の畳に紙をひろげて大きい字を、よく 書いている。白い日本紙や唐紙が、この老狂人の手にそうはいらないので、古新聞紙に書いていることが多い。 (仏界易入、魔界難入)

書く字はたいていこの八字である。・・・その書は力がある。俗気、 匠気がない。しかし、・・・よく見ていると、狂気あるいは魔気がひそんでいそうには思える。

西山老人は人生のある時に、魔界にはいろうとつとめて、魔界にははいりがたかった、その痛恨が、狂った老後の字にもあらわれるのかもしれない。

西山老人の「魔界」とはどのようなものであったか、とにかく、人生のある時にその「魔界」にはいろうとしたねがいは、彼を狂わ せたほどの痛ましさではあったのだろう。

西山老人は気ちがい病院を魔界だなどとは考えていない。魔界にようはいれなかった人たちの避難所、休息所というほどにも考えていないだろう。

現在の西山老人は生田病院でもっともおとなしい患者の一人である。歯は抜けたままで入れていなくて、頬は落ちくぼみ、頭のうしろに弱い白毛がぽやぽや残っているばかりである。

どのような魔界にもはいっていける力はなさそうな姿だから、書く字にだけ、いまだに魔気が残っていると言えるだろうか。

老人は字を書いている時に、癲癇のような発作をおこすことがあるが、養老院においてもさしさわりはなさそうである。

西山老人の毎日の楽しみは、夕方七時のラジオのニュウスの前の、天気予報を聞くことであ る。

「海上は今晩も明日も多少風波があるでしょう。霧のために見通しが悪いでしょう。」とい うような天気予報そのものはどうでもよくて、それを受け持つ若い女のアナウンサアの声が好きなのである。

その声はほどよいあまさをふくんで、いかにもやさしい。気ちがい病院のそとの世間から、愛らしい一人の娘が自分一人に話しかけてくれているように老人は感じる。愛情 のこもった声である。老人をいたわりなぐさめてくれる。美しい青春の木霊である。

その娘の名も知らないで、おもかげも見ないで、もしかすると、自分が死んだ後までも、その娘は美しい声で天気予報の放送をつづけているかもわからないが、廃残の自分に愛の声で毎日話しかけてくれるのは、この娘だと、西山老人は思っている。

西山老人にとって、おそらく、この女性アナウンサーの声を聴くと言うことは、まさしく、そ のことにおいて、彼がそれまでの人生の中で出会ってきた、すべての女性との官能の体験を再体験することのようである。

外界から語りかけてくる、一人の娘の声は、すべての女の愛情と官能的美を象徴するものとしてのフェティッシュである。今、老人はこの一人の娘の声によって、彼 が持つところの女性に対する欲望のすべてを満足させることが可能なのである。

しかし、西山老人が狂うほどまでに、その中に入ろうと欲した、「魔界」とはどのようなところであろう。

女性との愛欲に満ちた官能的交流の世界であろうか。
否、そのような世界とは、むしろ仏界である。様々の美しいフェティッシュによって彩られ、飾られた、神話的、抒情的世界である。そして、その向こうにあるのが、むきだしの「生」と「死」そのものが支配するところの魔界なのであろう。

老人が入ろうと必死になってもがいていたのは、女たちとの官能的交流の向こうにある、官能そのものとしての、生命そのものの世界なのである。

しかし、彼はそこに入ることもできず、また、死ぬこともできず、狂気の中で、この世に留まっているのである。

このような西山老人の姿は、まさに晩年の川端康成の姿そのものなのであろう。
しかし、そのような生命そのものによって支配された、魔界のあり様は、『禽獣』という作品 において、恐るべき仕方で、その姿を垣間見せる。

ここでは、小鳥や犬が、寓喩的〈アレゴリカル〉な仕方で、まさしく官能そのものとして描かれる。

特に印象的なのが、犬の出産の場面である。

中庭の土は、初冬の朝日に染まったところだけが、淡い新しさであった。その日のなかに、 犬は横たわり、腹から茄子のような袋が、頭を出しかかっていた。ほんの申訳に尻尾を振り、 訴えるように見上げられると、突然彼は道徳的な苛責に似たものを感じた。

この犬は今度が初潮で、体がまだ十分女にはなっていなかった。従ってその眼差は、分娩と いうものの実感が分からぬげに見えた。

『自分の体には今いったい、なにごとが起こっているのだろう。なんだか知らないが、困っ たことのようだ。どうしたらいいのだろう。』

と、少しきまり悪そうにはにかみながら、しか し大変あどけなく人まかせで、自分のしていることに、なんの責任も感じていないらしい。

ここには、生命そのものの持つエロティシズムが、不思議な仕方で、若い、というよりまだ幼さない雌犬の出産の場面をとおして描かれているように思われる。

三島由紀夫も言うように、この犬の眼差はまさしく創造主の眼差なのかもしれない。
創造主たる神は、こんなあどけない無邪 気で無責任な眼差で、自らが産み出してしまった人間を見つめていたのではあるまいか。

それは 人間存在の意味を、そして生命そのものの意味をわれわれが問いかけるとき、陥らざるを得ない 恐ろしい懐疑である。

われわれ人間は確かに存在する。生命もまた存在する。しかし、そのことの意味も、またその価値もわれわれにとって、あくまで不可知にとどまる。否、単に不可知にとどまるというのではなく、なんの意味も価値もない絶対虚無の中においてのみ生命の意味は充実 しえるのではないか。このような生命の意味のもつ逆説的構造を、われわれはまず承認しなければならないのではないか。このことの承認の故に、この『禽獣』という作品の中には、嘔吐を伴うような厭人癖、危機的とまでいえるほどの人間嫌悪が漂っているのではないか。

そして、そのような生と死とによって支配された魔界の狭間に、微かな仕方で存在しうるのが、 仏界なのかもしれない。

その世界を見事に描いたのが、『抒情歌』という作品である。

この明治 の女のきりりとした着付を思わせるような文体によって描かれた真昼の神秘の世界、それは川端 の切実な「童話」であり、また彼のもっとも純粋な告白である。

この童話的、神話的、そしてさ まざまな妖精達、神々、仏達の棲む世界はあまりにも美しい。そのような美こそが、自我によって保持されえるところのこの世界における生命の責任かもしれない。それを川端は「ありがたい抒情歌のけがれ」という言葉で表現している。

そして、それは、愛する人の傍で眠っているとき、 その人の夢を見ることのない世界である。

「あなたの傍に眠っていましたとき、あなたの夢を見たことはありませんでした。

しかしながら、そのような魔界に、われわれは本当に入ることができるのであろうか。もしで きるとすれば、それは、性のタブーといわれるようなものを破ることによってではないだろうか。

たとえば、三島由紀夫の『音楽』という作品においては、少女期の兄との近親相姦によって、美しい「愛」のオルガスムスを体験した女性の冷感症が描かれている。

近親相姦がなぜタブーとさ れてきたのか。それは、単に生物学的理由によるものではないと思われる。

おそらく、近親相姦によって人はあまりにも大きすぎる快感を体験してしまうからではないか。そのような仕方で、 魔界を見てしまった者は、もはや、この現実の世界の中では生きてゆくのが困難になってしまうのではないか。


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