5. 中川隆[-13394] koaQ7Jey 2018年6月21日 07:44:40 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15889]
「あこがれの中国文化は中国にはなかった」
これは、私が中国に長く滞在して悟った事です。
日本人の身の回りのさまざまな事に、中国文化の影響があります。
これは事実です。
漢字や箸などから始まり、伝統的な文化や、人の礼儀に至るまで深い影響があります。
そういったところから、私も小さい頃からごくごく自然に中国というものに好意、あるいは憧れの感情を抱いてきました。
テレビ等のマスコミの影響もあったかもしれませんね。
また、大学進学後は専攻の分野が中国学だったこともあり日本の進んだ漢学にも影響を受けました。
そうした学問から受けた影響もあって、私の中での中国へのイメージはできあがっていきました。
うち破られた幻想
しかしながら中国へ実際に足を運んだ私が見た中国は、イメージとはかけ離れたものでした。
それは残っている歴史的な文物や遺跡が少ないとか、そういった表面的な事だけを言っているのではなく、社会に残る文化や人々の素養から感じることです。
1990年代後半に中国へ足を運んだときは「発展途上国だから」というフィルターによって納得していたわけです。
しかし、既に物質的に十分発展した現在においては人・社会・文化の現状を直視せざるを得ない状況にあります。
たとえば、「衣食足り」た中国人が「礼節を知らない」という現実です。
中国へ来て、中国人のマナー、振る舞い、礼儀、社会観念をつぶさに見れば、我々の知る「文化」と言うものが一切無いことがわかります。
そして、その現実を直視した結果「あこがれの中国文化は中国にはなかった」という結論に達っすることになります。
100年前も無かった
では、過去の中国にはやはり日本人がイメージする中国文化が存在したのでしょうか。
よく言われる「文化大革命によって中国の文化は失われた」というのは本当でしょうか。
残念ながら答えはNOです。
これは戦前に日本の支配が中国へ及んだ頃の日本人の紀行文から見て取れます。
宮崎正弘氏のメルマガ『宮崎正弘の国際ニュース・早読み 』に樋泉克夫氏のコラム「知道中国」が連載されており、そこから引用させていただきたいと思います。
芥川龍之介の場合
芥川龍之介の紀行文に関する樋泉克夫氏の解説を引用したい。
-引用開始-
「(芥川が埠頭の外に出ると何十人とも知れない車屋がいきなり彼らを包囲し)ここで芥川は、「抑車屋なる言葉が、日本人に与える映像は、決して薄汚いものじゃない。寧ろその勢の好い所は、何処か江戸前な心もちを起させる位なものである。処が支那の車屋となると、不潔それ自身と云っても誇張じゃない。その上ざっと見渡した所、どれも皆怪しげな人相をしている」と、車屋つまり人力車夫の姿に呆れはてる。
上海の中国人街を歩いて、(中略)今は寂れたが由緒正しき茶館の前で、「その一人の支那人は、悠悠と池へ小便をしていた」光景を記し、・・・。
(中略)
(芥川は「一体上海の料理屋は、余り居心地の好いものじゃない」として)上海で超一流の料理屋で友人にご馳走になった際の経験を、「給仕に便所は何処だと訊いたら、料理屋の流しへしろと云う。実際又其処には私より先に、油じみた包丁(コック)が一人、ちゃんと先例を示している。あれには少なからず辟易した」と綴る。
(九江では)芥川の目の前を進む「船の蓬の中からは、醜悪恐るべき尻が出ている。その尻が大胆にも、――甚尾籠を申し条ながら、悠悠と川に糞をしている。・・・・・」。
http://melma.com/backnumber_45206_5790903/ 【知道中国 882】
-引用終わり-
こうした情景は現代にも通じる物があります。
さすがに現代には現代のレベルがあるが、中国の庶民が利用する肉・野菜の市場(スーパーではない)や、庶民のレストランの厨房を覗いてもらえればわかることです。
また、今でも飛行機や地下鉄の車内でも大便が残されている現実を考えれば、差がないことがわかります。
-引用開始-
続けて芥川は芝居小屋の様子を、「客席で話をしていようが、子供がわあわあ泣いていようが、格別苦にも何にもならない。これだけは至極便利である。・・・現に私なぞは一幕中、筋だの役者の名まえだの歌の意味だの、いろいろ村田君に教わっていたが、向う三軒両隣りの君子は、一度もうるさそうな顔をしなかった」と、・・・。
(中略)
村田の紹介で美形で有名な旦(おやま)に挨拶するのだが、「私は彼自身の為にも又わが村田烏江の為にも、こんな事は書きたくない。が、これを書かなければ、折角彼を紹介した所が、むざむざ真を逸してしまう。それでは読者に対しても、甚済まない次第である。その為に敢然正筆を使うと、――彼は横を向くが早いか、真紅に銀糸の繍をした、美しい袖を翻して、見事に床の上へ手洟をかんだ」のだ。芥川の呆れ顔が眼に浮かぶようだ。
http://melma.com/backnumber_45206_5792697/ 【知道中国 884】
-引用終わり-
個人および公共の場におけるマナーの悪さは現代と同じような物です。
-引用開始-
「私は莫迦莫迦しい程熱心に現代の支那の悪口を云った。現代の支那に何があるか? 政治、学問、経済、芸術、悉堕落しているではないか? 殊に芸術となった日には、嘉慶道光の間以来、一つでも自慢になる作品があるか? しかも国民は老若を問わず、太平楽ばかり唱えている。(中略)この国民相腐敗を目撃した後も、なお且支那を愛し得るものは頽唐を極めたセンジュアリストか、浅薄な、支那趣味のしょう�旬者であろう」とまでいい切るのであった。(尚、「しょう」の漢字は、「口」へんに「尚」)
(中略)
男女の席を厳格に分けているがゆえに、父親と幼い娘であっても別々に坐らなければならず、父親は「こちら側に坐りながら、(席を分ける)丸太越しに菓子などを食わせていた」姿を眼にして、「まことに支那人の形式主義も徹底したものと称すべし」と洩らす。
(中略)
かくして芥川は、「しかし杜甫だとか、岳飛だとか、王陽明だとか、諸葛亮だとかは、薬にしたくてもいそうじゃない。云い換えれば現代の支那なるものは、詩文にあるような支那じゃない。猥雑な、残酷な、食意地の張った、小説にあるような支那である。・・・文章規範や唐詩選の外に、支那あるを知らない漢学趣味は、日本でも好い加減に消滅するが好い」と結論づける。
http://melma.com/backnumber_45206_5791449/ 【知道中国 883】
-引用終わり-
1921年に、芥川が中国へ来てみたら、自分たちが書籍で学んだ文化も思想もなかったという感覚は、今の私たちが中国へ来て感じる感覚と全く一緒です。
河東碧梧桐の場合
また河東碧梧桐の紀行文に関する樋泉克夫氏の解説を引用したい。
-引用開始-
先ず彼の眼に飛び込んできたのが「一望見渡す限り」の「行く手を見ても、過ぎ去ったうしろを振り返っても、ただ其の小山許りが、累々としている」風景である。「驚くべき共同墓地!」だった。陰宅と呼ぶあの世の住いである墓地でも風水を「迷信的にやかましく穿鑿」し、「自分の田であろうが、人の畑であろうが、方位の許す所に、柩を置き放しにする。それを邪魔だとも不縁起だとも」思わない。「一旦共同墓地的に、埋葬地をきめてかか」るから、「真に驚くべき土饅頭の数」となってしまう。そこで、河東は「個人――利己に徹底していると見られる支那人は、亦墓地にも徹底しているのだろうか」と考えた。
http://melma.com/backnumber_45206_5790218/ 【知道中国 880】
-引用終わり-
1918年に訪れた河東が見られたのも、今と変わらぬ自分さえよければいいと言う中国人の姿です。
夏目漱石の場合
最後に、夏目漱石の紀行文に関する樋泉克夫氏の解説を引用したい。
-引用開始-
岸壁に並んでいる中国人が、漱石の目に入る。「其大部分は支那のクーリー」で、「一人見ても汚らしいが、二人寄ると猶見苦しい。斯う沢山塊まると更に不体裁であ」ったそうな。そこで「甲板に上に立って、遠くから此群集を見下しながら、腹の中で、へえー、此奴は妙な所へ着いたねと思」う。
(中略)
奉天の街頭で「乗客の神経に相応の注意を払わない車夫」に腹を立て、宿舎の風呂に浸かっては「支那の下男」が運び出す「我々の汗や垢」の浮かんだ汚水が「結局どう片付けられるかの処置を想像して見て、少しく恐ろしくなっ」ている。さて漱石は汚水の行方に何を想像したのか。
http://melma.com/backnumber_45206_5783038/ 【知道中国 876】
-引用終わり-
「乗客の神経に相応の注意を払わない車夫」というのは、現代の中国の異なる職種においてもあることで、同様の体験をされた方も多いでしょう。
100年前も理想と現実は違った
芥川龍之介が「『しかし杜甫だとか、岳飛だとか、王陽明だとか、諸葛亮だとかは、薬にしたくてもいそうじゃない。云い換えれば現代の支那なるものは、詩文にあるような支那じゃない。猥雑な、残酷な、食意地の張った、小説にあるような支那である。・・・文章規範や唐詩選の外に、支那あるを知らない漢学趣味は、日本でも好い加減に消滅するが好い』と結論づけ」たように(http://melma.com/backnumber_45206_5791449/ 【知道中国 883】)日本にいて中国の文化・思想を書籍(今ならマスメディアも含む)から理解し、実際に来てみると「知っている文化がないじゃないか」となってしまうのは、100年も前から先人達が体験していたことがわかります。
偉大な中国文化は中国にはないと知っておくべき
過去においても現代においても、偉大な中国文化という「幻想」を抱いて中国に来れば、その幻想は見事にうち破られます。
「あこがれの中国文化は中国にはない」ということを、中国を知ったつもりになっている人には知ってもらいたいですし、中国を知らない人にも理解してもらいたい現実です。、
こうした現実を知らないと、書籍によってのみ中国文化を知ったつもりになっていると、「隣国」としては思わぬ災難を呼び込むことになるでしょう。
http://ameblo.jp/xiang-xia/entry-11514428344.html