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(回答先: 天皇陛下との晩餐で、歴史学者の江上波夫さんが、昭和天皇に質問したそうだ。 投稿者 中川隆 日時 2024 年 9 月 01 日 21:20:36)
旧宮家の伏見宮家は間男の子孫だった
◆ 伏見宮で男系維持は不可能
(旧宮家再興で)男系維持による皇位継承を実現しよう、という見解がある。しかしそれは不可能だ。そこで得られるY染色体は、天皇家のY染色体ではなく、間男のY染色体である。
伏見宮の系図を見ると、興味深いことに気づく。
・ 現存する男子は、非常にたくさんいる。
・ 現存する男子は、すべて邦家親王の子孫である。
・ 邦家親王は、息子の数が多かった。
・ 邦家親王の子孫も、代々、男子が多かった。
・ 邦家親王の父である貞敬親王は、女子が多かった。 女子も男子も多かった。
・ 貞敬親王以前 よりも前は、代々、男子が少なかった。
以上をまとめると、次のようになる。
「伏見家は、貞敬親王以前 よりも前は、代々、男子が少なかった。ところが、その子である邦家 貞敬親王は、息子の数が多かった。また、その子孫も、代々、子孫が多かった」
つまり、Y染色体の傾向から言うと、次の二つに分類される。
・ 貞敬親王以前 よりも前 …… 代々、男子が少なかった
・ 邦家 貞敬親王以後 …… 代々、男子が多かった
このように、Y染色体の傾向がまったくといっていいほど正反対である。このことは、「Y染色体は代々引き継がれる」ということと矛盾する。
一方、次の事実がある。
「現在の皇室の系統は、代々、男子の数が少なかった」
このことは、現存の皇室の顔ぶれを見るだけでもわかる。
→ 皇室の構成図 - 宮内庁
http://www.kunaicho.go.jp/about/kosei/koseizu.html
浩宮・礼宮の世代では、男子が2名で、女子が5名(皇籍離脱した紀宮を含めれば6名)だ。
その次の世代では、男子が1名で、女子が3名だ。
また、大正天皇は、本人がもともと虚弱だった。
明治天皇は、十分に健康な男子をもうけることができなかった。第1皇子は死産。第2皇子は11歳で夭折。第3皇子は大正天皇だが、虚弱体質だった。また、第1皇女は死産。第2皇女は11歳で夭折。その他、第10皇女までいたのだが、やたらと女だらけで、健康な男子は一人も産まれなかった。(子女の数が多いのは側室がいたから。
→ Wikipedia )
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87#.E7.9A.87.E5.AD.90.E5.A5.B3
──
以上をまとめると、次のように言える。
・ 現在の天皇の系統は、代々、男子の数が少ない。
・ 貞敬親王以前 よりも前の伏見宮も、代々、男子の数が少ない。
・ 邦家 貞敬親王以後の伏見宮は、代々、男子の数が多い。
このことから、次のように推定できる。
「邦家 貞敬親王の時点で、Y染色体に、大規模な変化が起こった。それはほとんど突然変異といっても良いくらいの、大規模な変化であった」
一方、生物学的に、次の事実がある。
「突然変異というものは、ほとんどが、不利な形質を帯びる。有利な突然変異というものは、百万回に1回、または、それ以下である。ごく稀な例外を除いて、有利な突然変異というものは起こらない」
この二つを合わせて考えると、次の結論となる。
「邦家 貞敬親王の時点で、Y染色体に、大規模な変化が起こった。それはほとんど突然変異といっても良いくらいの、大規模な変化であった。しかるに、それは突然変異ではなかった」
このことから得られる結論は、一つだけだ。
「邦家 貞敬親王のY染色体は、天皇家の代々続くY染色体ではなくて、外部からもたらされたものである」
要するに、そのY染色体は、邦家 貞敬親王の親のY染色体ではなく、邦家 貞敬親王の親の間男のY染色体なのだ。(推定)
そして、そのY染色体が、現在の伏見宮家に広範にひろがっている。つまり、伏見宮家のY染色体はすべて、邦家 貞敬親王の親(貞敬 邦ョ親王)の間男のY染色体なのだ。
そして、安倍首相の言うように、伏見宮家から天皇を出すとしたら、それは、天皇の血筋を引き継ぐ男子が天皇になるということではなくて、間男の血筋を引き継ぐ男子が天皇になるということなのである。
つまり、日本の天皇は、間男の子孫に乗っ取られてしまうわけだ。
──
ここまで読んで、疑問に思う人がいるだろう。次のように。
「宮家ともあろうものが、間男の存在を許すはずがない。宮家の妻があっさりと不倫をするはずがない。また、その機会もなかったはずだ」
これはその通り。にもかかわらず、現実には間男がいた。とすれば、論理的には、次の結論しかありえない。
「間男の存在は、宮家の当主(貞敬 邦ョ親王)の公認の下でなされた」
これを換言すれば、次のようになる。
「貞敬 邦ョ親王には、どうしても間男の子を生ませる必要があった」
これを換言すれば、次のようになる。
「貞敬 邦ョ親王は、自分には男子ができなかった。このままでは次の世代で宮家廃絶とならざるを得ない。そこで、宮家廃絶を防ぐために、自分の息子ではない男子を、自分の息子であると偽った」
このように考えると、それの裏付けとなりそうな事実が見つかる。
(1) 貞敬親王は、1776年に生まれて、1811年に結婚した。
(2) その子である邦家親王は、1802年に生まれた。
(3) 邦家親王は、1817年に、光格天皇の猶子となり親王宣下を受けた。
つまり、貞敬親王は 1811年に結婚したが、次世代に当たる邦家親王は、正妻の子ではなくて、結婚の9年前に生まれた子である。その邦家親王は、当初は(親王宣下を受けていないので)親王の地位を得ていなかった。15歳のときになって(つまり父親が結婚してから6年もたってから)親王の地位を得た。そのとき、父親である貞敬親王は、41歳になっていた。
このような経緯は、かなり異例である。
では、どうしてこういうことになったのか? もっとも有力な説は、次のことだろう。
「貞敬親王は、35歳のときに結婚して、多くの女子をもうけたが、男子はできなかった。そこで男子が生まれない場合を考慮して、他の男の息子である邦家親王を(本当は自分の子ではないのに)自分の子であると偽って、親王宣下を受けさせた。
そのまま年数がたったが、女子ができるだけで、もう一人の男子はどうしてもできなかった。
そのあと、邦家親王に万一の事態が起こった場合に備えて、第2皇子としての守脩親王を(親王宣下のもとで)息子にした。ただしこちらは、邦家親王とは父親が異なるので、Y染色体は虚弱であり、男子を残すことはできなかった」
──
※ 以下が正しい。
なお、もう一つ、別の仮説もある。それは、その一世代前に間男がいた、という仮説だ。
そもそも、貞敬親王の父親である邦頼親王は、1733年に誕生し、1787年に 54歳で結婚した。その息子である貞敬親王は、父が 43歳のときに誕生したことになる。父が未婚の状態で。
これもまたかなり不自然だ。とすれば、貞敬親王そのものが、邦頼親王の息子ではない可能性も、十分にある。(邦頼親王に間男がいて、その間男の息子が貞敬親王だ、というわけ。)
もしそうだとすると、貞敬親王の息子である邦家親王は、間男の息子の、そのまた間男の息子だ、ということになる。(ニセ嫡出子の、そのまたニセ嫡出子。)
《 公式の歴史 》
邦頼親王 ── 貞敬親王 ── 邦家親王 ── 男子多数
《 裏の歴史 》
邦頼親王 ……(断絶)
間男 ── 貞敬親王 ……(断絶)
間男 ── 邦家親王 ── 男子多数
ともあれ、こうして、最後には間男のY染色体から、「男子多数」が誕生した。それが今の伏見宮家の、多数の男子である。
そして、安倍首相の方針に従えば、そこから将来の天皇が誕生することになる。つまり、間男の系統が、日本の天皇の血統となるのである。
http://openblog.seesaa.net/article/435849777.html
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