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天皇一族の様な一重瞼・奥二重瞼は華北に居た漢民族にしかみられない
http://www.asyura2.com/24/ban12/msg/209.html
投稿者 中川隆 日時 2024 年 9 月 21 日 04:55:29: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 旧宮家の伏見宮家は間男の子孫だった 投稿者 中川隆 日時 2024 年 9 月 06 日 12:17:56)

天皇一族の様な一重瞼・奥二重瞼は華北に居た漢民族にしかみられない
日本人(縄文人、弥生人、アイヌ人、琉球人)は華北の漢民族と混血していない限りは全員二重瞼です。

兵馬俑はなぜ一重まぶた? 三つの説
2018年7月7日 10:48 発信地:中国 中新社
【7月7日 CNS】中国・陝西省(Shaanxi)西安市(Xi'an)の文化的な観光資源は実に豊かだ。周、秦、漢、唐などの王朝が、この地に無数の文化遺跡を残した。

 大雁塔(Big Wild Goose Pagoda)、鐘鼓楼(Bell Tower of Xi'an)、西安城壁(Fortifications of Xi'an)などがある。だが、最も世界を揺るがした遺跡は、「世界八番目の不思議」と呼ばれる秦の始皇帝の兵馬俑(Terracotta Army)だ。

 兵馬俑を見たことがある人は、その膨大さ、緻密さに感服させられただろう。

 千年もの間、黙々と始皇帝を守護してきた者たちが、全員一重まぶたであることに注目している人はそう多くない。

 兵馬俑の兵士が、なぜ一重まぶたなのか。実は考古学界でも、この問題は大きな論争になってきた。幾度もの議論を経て、諸説がある。

■その1・顔料の色落ち説

 兵馬俑の兵士は人間を模して製造されたため、表情は実に生き生きとしており、二重まぶたも一重まぶたの兵士も存在していたと考えられていた。しかし、二重まぶたは顔料を使用して描かれていたため、発掘された際に空気に触れ、酸化したことで顔料が色あせ、一重まぶたになったという説だ。

■その2・職人の手抜き説

 二重まぶたがないのは、仕事に手抜きがあり、わざと二重まぶたを描かなかったという説だ。

 ただ、この説にはあまり信ぴょう性がないように思われる。人に模して製造された大小の陶器製の兵士に、手抜きをするためだけにまぶたを描かないことがあろうか。秦の始皇帝が、職人に適当な仕事をさせたとも考えにくい。

■その3・一重まぶたが漢民族のシンボル説

 ある専門家は、兵馬俑は芸術品であり、人を模してありのままの姿で製造されたと考えている。そのため、兵士が一重まぶたであった原因は、当時のモデルとなった人間が一重まぶただったことに由来している。

 2200年前、秦を統治していたのは、西北地域に住んでいた人々で、モンゴル人や東アジアにルーツがある人種で、相対的に単一民族だ。この民族の身体的特徴の一つが一重まぶたであり、蒙古ひだ(目頭を覆う部分にある皮膚のひだ)があることだ。

 医学用語では、「内眼角贅皮(ないがんかくぜいひ)」と呼ばれ、東アジアや東南アジアの民族に多くみられる。

 晋の時代、漢民族は各地の民族と同化し、秦や漢時代のように単一民族ではなくなった。特に、魏晋南北朝時代には、北方の遊牧民族が南下して来た影響で、漢民族は南方の土着民族と同化した。そのため、唐時代の壁画や彫刻には、鼻が高く目が大きい胡人の姿が見られる。

 一重まぶたとつり目は、漢民族の変わらぬ美意識の主流だ。唐時代の美人画では、細い目のつり目か一重まぶたが多く描かれている。
http://www.afpbb.com/articles/-/3181512


▲△▽▼

天皇一家ってなんで一重ばっかなの?

Q : 皇室関連ニュースをみて思うのですが、皇室の方々、特に今上天皇ご一家に特徴的な「切れ長、一重まぶたの目」は島津久光公、ひいてはその母である江戸の大工の娘、お由羅の方からの遺伝といえるでしょうか?

私は右派でも左派でもなく、ただ単に遺伝の話をしています。

ご存知の方も多いと思いますが、現皇室には香淳皇后の実家、久邇宮家を通じて、久光公・その息子である島津宗家29代忠義公の血が流れています。

久光公・忠義公・久邇宮邦彦王妃俔子殿下・その娘である香淳皇后陛下と、写真の残っている四人の故人はいづれも特徴的な「切れ長・一重まぶたの目」をされています。やや高い鼻梁も特徴かと思われます。

久光公の異母兄・島津斉彬公は疑問符つきの不鮮明な写真しか伝わっていませんが、日本の西南方に多い顔の特徴といえばいわゆる「どんぐりまなこ」ではないでしょうか。

もちろん高貴な家の方々は何代にもわたって諸方の貴族と婚姻関係を結んでいるので、一概に地方的な顔の特徴と結びつけることはできませんが、司馬遼太郎氏の小説に斉彬公と久光公の容貌の相違が描かれており、久光公の容貌が

「そいだような切れ長の目鼻は、薩摩顔ではなかった。そのため『お由羅顔』と呼ばれ、正義派の面々からは嫌忌の対象となっていた。」

とあります。


司馬氏の歴史家としての力を信用しているわけではなく、逆にいわゆる「司馬史観」の弊害から疑問符をつけている私ですが、久光公から四世代「切れ長の目」の持ち主が続いたことは事実です。

さて、現皇室の話に戻しますが、今上天皇陛下・陛下の弟宮であらせられる常陸宮殿下、皇太子殿下・秋篠宮殿下・黒田清子さんの三兄妹、陛下の孫世代のなかからは皇太子家の愛子様、秋篠宮家の眞子様・悠仁様、といずれも「切れ長・一重まぶたの目」の持ち主です。

お由羅の方の容貌は明らかではありませんが、これだけ続くのはよほど強い遺伝子なのだなあと感じます。

単に「大陸系・渡来系の顔である」と言い切ってしまうのは簡単ですが、「現皇室の方々のお顔は、少なくとも久光公以来の島津家の遺伝である」と言えるでしょうか?



Ans1 : annodomini_op01さん


まず、島津家。

久光の写真では切長かも知れないが一重かは解らない。
一方、島津重豪(肖像画)も目は「切長」であり、
さらに、島津斉彬(肖像画)は「切長一重」である。
つまり、「切長一重」が由羅に由来するという事が言えない。


次に皇室の方を。

香淳皇后は確かに俔子妃に似ておられるが、父宮たる邦彦王も「切長一重」です。
つまり邦彦王と俔子妃の子孫が「切長一重」として、それが島津家に由来するかどうかすら何とも言えず。

さらに孝明・明治・大正・昭和天皇は「切長一重」の様子です。

由羅の血は今上天皇からしか入ってないのに、現に孝明・明治・大正・昭和四帝が既に「切長」だったり「一重」です。

無関係な筈の徳川慶喜も「切長一重」ですね。

私は慶喜の曾孫に会った事が有りますが、見事な「切長一重」です  

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