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天皇の姓は阿毎氏(あまし/あめし/あまうじ/あめうじ)
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投稿者 中川隆 日時 2024 年 9 月 21 日 05:01:48: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 天皇一族の様な一重瞼・奥二重瞼は華北に居た漢民族にしかみられない 投稿者 中川隆 日時 2024 年 9 月 21 日 04:55:29)

天皇の姓は阿毎氏(あまし/あめし/あまうじ/あめうじ)
阿毎氏(あまし/あめし/あまうじ/あめうじ)は、古代の日本の皇室の姓である。その由来は『隋書』列伝第四十六東夷伝にある。継体天皇(オホド/オオド/ヲホド)を祖として、『大化の改新』以降の天智天皇(中大兄皇子)の代に中国風の原氏(はる - し)と改姓して、今日の今上天皇(令和天皇)の代までにいたっている。

『魏書』第三十烏丸鮮卑東夷伝・『後漢書』列伝第八十五東夷伝によると、朝鮮半島南部の耽羅(済州島)で遊牧生活をしていた州胡こと耽羅鮮卑と呼ばれる部族が存在したことが判明されている。

東京大学の教授であった江上波夫は持論の『騎馬民族征服王朝説』で、以下のことを述べている。

三国時代以降の東晋の時代に北方からトルコ系匈奴・羯・鮮卑やチベット系の羌氐などの遊牧民族が南下して中国北部を征服した五胡十六国時代に変遷した影響を受けいた応神天皇(慕容讃)・仁徳天皇(慕容珍)父子が耽羅(済州島)におり、鮮卑化したチベット系の羌氐の酋長である武内宿禰の補佐を得ていた。

この父子はトルコ系遊牧民族で前燕・後燕・西燕・南燕・吐谷渾などを建国した鮮卑慕容部の一支族の酋長として、同じトルコ系東胡の末裔で、ツングース系の穢(獩)貊(濊狛)・沃沮などとの混合民族である半農半牧の扶余(夫余)と鮮卑化したチベット系の羌氐と古代トルコ人であり現在の中国河北省北部に中山国を建国した白狄鮮虞部の末裔などを吸収して、北魏(代魏)・東魏・西魏などを建国した同じ鮮卑拓跋部と同族で、南涼を建国した鮮卑禿髪部の酋長である烈祖武王の禿髪烏孤の甥で、景王の禿髪傉檀の子である禿髪破羌(源賀)の末子である禿髪阿毎を阿毎氏族の祖となった。阿毎が逝去すると、子の禿髪稚渟毛二岐[17]が後を継いだ。稚渟毛二岐が亡くなると、弟の禿髪意富々杼[18]が後を継いだ。意富々杼が亡くなると、弟の禿髪乎非[19]が後を継いだ。乎非が亡くなると、弟の禿髪汙斯が後を継いだ。汙斯は亡父の諱を採って、禿髪氏から阿毎氏に改姓したという。

汙斯は応神・仁徳天皇父子らと連合して、朝鮮半島南部に移動しながら、耽羅(済州島)を拠点として、多くの部族を統率をしていた。やがて彼らは耽羅(済州島)付近にいた海洋民族である韓人あるいは汙人を奴隷として舟を築造させて、日本列島に渡ったという。

日本列島にやって来た州胡(耽羅鮮卑)の盟主である応神・仁徳天皇父子は、中国南部・ベトナム北部からやって来た越人・呉人・荊楚人が米作りを営む農耕民族であることで、これも奴隷として今までの肉を主食の風習を米食に変更したのである。さらに日本の先住民族である海洋民族の倭人(委人)をも奴隷として、河内国で河内王朝が成立され古墳時代に突入した。同時に朝廷の主要民族である鮮卑・扶余・白狄・羌氐などは越南人・呉人・荊楚人・倭人などと混血を繰り返して、これが大陸系の大和民族(和人)の成立の過程になった。さらにアルタイ語族を骨子とする日本語といった言語が同時に成立された。

阿毎汙斯は応神・仁徳天皇父子により、出雲国から若狭国までの日本海に面する広大な領地を与えられた。阿毎汙斯が亡くなると、阿毎男大迹(継体天皇)が後を継いだ。その間に阿毎氏族は徐々に勢力を蓄えており、河内王朝にとっても脅威的な存在となっていた。

同時に、河内王朝の動向は、仁徳天皇の孫である大王(おおきみ)の安康天皇は年代が近い叔父の大草香皇子(大日下王・波多毘能王)を誅殺して、その妻である異母妹の草香幡梭姫を奪うも、従弟である大草香皇子の子の眉輪王に暗殺された。安康天皇の同母弟・雄略天皇が後を継いで、眉輪王も含む皇位継承権がある多くの親族を皆殺しして、河内王朝は衰退を極まった。雄略天皇の従孫である武烈天皇[30]は、応神・仁徳天皇父子の6世の孫・玄孫であり、稀代なる暴君であった。このころの朝廷はやや遊牧民族国家から農耕民族国家に変遷していたが、それでも部族間に争いは凄まじいものがあった。

扶余の一酋長でもあった大連の大伴金村は朝廷で権威を振るった挙句に、反乱を起こした平群真鳥・鮪(しび)父子を討ち取る功績を残した。だが、武烈天皇の暴虐ぶり聞いてこれを諌めるも、それを聴きいれなかった武烈天皇は佞臣とともに奴隷の殺戮を繰り返していた。この行為は殷(商)の紂王(帝辛/季受)に等しいものがあり、武烈天皇は諌める臣下を処刑したり、妊婦の腹を引き裂いたり、ある女性たちに数頭の馬と交尾させるなどなど、無限の暴政をおこなっていた。

これを見かねた大伴金村は武烈天皇の姉妹の婿である阿毎男大迹と密談して、武烈天皇を討伐するように計画を立てた。しかし、阿毎男大迹は武烈天皇の姉妹の婿のみではなく、その子の阿毎勾大兄[31](安閑天皇)と阿毎檜隈高田[32](宣化天皇)と阿毎天国排開広庭[33](欽明天皇)兄弟は武烈天皇の娘を娶っていた。

阿毎男大迹は悩んだ挙句に、出雲国から若狭国から軍勢を率いて、南下して大伴金村と呼応して河内国に攻め込んだ。阿毎男大迹と大伴金村の謀反を知った武烈天皇は激怒して、迎え撃ったが離反する臣下が続々と出たため、大敗して宮殿の奥に逃げ込んで火を放ち、自決を遂げた。武烈天皇8年12月8日のことであった。こうして鮮卑慕容部出身である応神・仁徳天皇父子を祖とする河内王朝はついに滅亡した。

阿毎男大迹は大伴金村をはじめ、物部麤鹿火[34]・巨勢男人らに迎えられて、大和国で即位した。これが継体天皇であり、大和王朝の始まりであった。ここで大和時代に突入したのである。それでも、部族間の争いは相変わらず凄まじかった。

歳月は流れて645年の『大化の改新』以降に、腹心の中臣鎌足(藤原氏の祖)とともに、積極的に中国文化を採り入れた中大兄皇子(天智天皇)は、皇室の姓を鮮卑風の阿毎氏から中国風の「原氏」と改称させ、君主の号を大王から天皇に改称させたのである。このころの日本朝廷は、ほぼ遊牧民族国家から農耕民族国家として変遷を遂げ、文明国家となったのである。
https://japan.fandom.com/ja/wiki/%E9%98%BF%E6%AF%8E%E6%B0%8F  

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コメント
1. 中川隆[-9042] koaQ7Jey 2024年9月21日 05:12:19 : IfJnSj7qrQ : bnB3eTZmMU1ZRGM=[1] 報告
<■113行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
天皇の姓は阿毎氏(あまし/あめし/あまうじ/あめうじ)
大王家の氏族名は本来「天(あめ)」
阿毎氏(あまし/あめし/あまうじ/あめうじ)は、古代の日本の皇室の姓である。その由来は『隋書』列伝第四十六東夷伝にある。継体天皇(オホド/オオド/ヲホド)を祖として、『大化の改新』以降の天智天皇(中大兄皇子)の代に中国風の原氏(はる - し)と改姓して、今日の今上天皇(令和天皇)の代までにいたっている。

天皇家にはなぜ姓がないのか?
 天皇家には姓がない。なぜだろうか・・・。
 この問いに対する答えは簡単明瞭である。古代の倭人には姓(苗字)がなかったからである。天皇は日本史の生きた化石なのである。姓を持たないということは、人類史上格別珍しいことではない。世界の諸民族はほとんど姓を持たなかった。唯一、中国を除いては・・。

 日本、朝鮮、満州、モンゴル、トルコ、などアルタイ系諸民族も無論、姓がなかった。あるのは個人を特定する名前(テムジンとかチムールなど)とその個人が所属する部族や氏族の名称だけである。(ちなみに、ジンギスカンはボロジキン氏族、チムールはバルラス氏族)。古代日本では、大伴、物部、額田、佐伯などがそれに当たる。佐伯部、額田部、久米部のように、氏族集団を「部」で表す。その属民は「部曲(かきべ)」という。後に、大伴氏とか蘇我氏のように氏族名が中国風の姓となってゆく。

(1)『宋書』倭国伝の記事

 五世紀の『宋書』倭国伝には「倭讃」とか「倭隋」など姓らしき名称が出ているが、これは中国の冊封体制下にあった当時の倭国の王が中国風に漢字二文字で表わしたにすぎない。「倭」はけっして日本の王姓ではない。この時代、東アジアの諸国は中国に朝貢するに当たって、中国風の姓を名乗る必要性があった。そのため、百済は自分たちの出自である「夫余族」の「余」を王姓として、六世紀の武寧王は「余隆」を名乗り(本名は「斯麻」)、他にも「余映」とか「余歴」「余固」などの名で中国の南朝に朝貢している。

 高句麗も王姓として「高」を用いているが、これら「倭」「余」「高」は民族として持っていた固有の「姓」ではなく、対外的に中国風の姓として使っていたにすぎない。

 新羅の王姓「金」も、新羅が後世の満州族の清朝「愛新覚羅」( 満州語 aisin 金 ) と同系の民族であったことを示唆している。新羅の場合は七〜八世紀にほぼ半島全土を統一した後、人名、地名などすべて中国風に改めたため、中国とそっくりになってしまった。朝鮮が小中華と呼ばれるゆえんである。

(2)『隋書』倭国伝の記事

 八世紀の『隋書』倭国伝には次のような記事がある。「倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌」(原文は「比」は「北」となっている)。これによると倭王の姓は「阿毎」(アメ)、字(あざな)は「多利思比孤」(タリシヒコ)、「阿輩雞彌」(オホキミ)と号すとある。この時、倭国は推古天皇の時代(600年)であったので、これは大和政権の王ではなく、九州にあった別の国の王のことだと主張する人まで現れた(古田武彦の九州王朝説)。
 

 はたしてそうであろうか。倭人には個人を特定する姓(苗字)はなかった。この姓「阿毎」も倭王固有の姓ではなく、中国の皇帝に朝貢したとき「倭王の姓は」と尋ねられて、倭王の信仰する天の思想から生まれた倭王の氏族名「アメ(天)」と便宜上答えたにすぎないと考えられる。おそらく、使者はそう答えるように倭王から指示されていたのであろう。

『古事記』高天原神話初代の神は「天御中主神」(アメノミナカヌシノカミ)であり、「天(アメ)」を冠した神々は数多い。これは北アジアの騎馬民族トルコやモンゴルにも共通した信仰であり、彼らが中国に行ったとき、王(可汗)の姓を聞かれて「テングリ(天)」と答えるようなものである。「アメ」も「テングリ」も王姓ではない。倭人も北方騎馬民族も「姓」はなかったのである。

 では「多利思比孤」(タリシヒコ)はどうか。推古天皇が男性名を名乗っている。古田氏の面目躍如というところであるが、漢和辞典で「字」の意味を見てみると、古代中国では「字」とは男子が二十歳になったとき本名のほかに決める通称名とある。普通、この通称名を使うとある。つまり、後世、日本で相手の本名を呼ぶことは失礼であり、「小松殿」(平重盛)とか「越中守様」(松平定信)などのように、その人の住む地名とか官職名で呼ぶ文化と共通している。(現代でも、上司の名前を呼ばず「課長」とか「部長」などと言う)
 
「タリシヒコ」は倭王の本名ではなく、その通称名であったと考えればスンナリ理解できる。古代の天皇で「タリシヒコ」の通称名を持つのは12代景行、13代成務、14代仲哀の各天皇であり、仲哀天皇の和名は「帯中日子天皇」(タラシナカツヒコ)。他に「タラシヒコ」という名称を持つ天皇は、ずっと下がって七世紀前半に在位したことの確実な34代舒明、35代皇極の両天皇であることから、景行、成務、仲哀は八世紀の史官の捏造だとの説を主張する人もいる。しかし、「タラシヒコ」を倭王の通称名と考えれば、初期大和政権(四、五世紀)にはすでにこの名称が存在していた証拠とも言える。(「タラシ」と「タリシ」の母音の違いは時代が変わればよく起きることである)。

 このように考えると、推古天皇の時代であったとしても、倭国の使者は日本の大王(天皇)の通称名を言ったにすぎず、歴代大王は当然、男であり、たまたま女であったことがむしろ例外であったのだから。後世の「ミカド(天皇の呼称)」のようなものである。
 

(3)氏姓制度と大王(天皇)家

 日本史の教科書にも出てくる「氏姓(うじかばね)制度」が古代王朝で確立する(六世紀頃)。氏(うじ)とは北アジア騎馬民族でいう部族、氏族に当たるものであり、久米、物部、大伴、佐伯などがそれであり、姓(かばね)とは「臣」「連」「真人」「宿禰」など、つまり位階である。後世の大納言とか、明治時代の爵位に相当する。なお、氏(うじ)はモンゴル語の ulus (ウルス・・部族、国)と比較されている。
 
 不思議なのは、古代氏姓制度が確立したとき、大王家も強力な氏族の一つであり、神話時代以来の「天(アメ)」氏族であるのに、それを国内的には名乗らなかった。中国・隋に使者を送ったときには姓は「阿毎(アメ)」と答えているのに。つまり、推古天皇は大王(天皇)家の氏族名の「あめ(天)」を姓として隋・皇帝に伝えたのである。

 貴族階級に限るとはいえ、大伴、蘇我、佐伯、久米などの氏族名が飛鳥時代には中国の姓と同じような機能を持っていた。だのに天皇家はなぜか「天(アメ)」を名乗らなかった。もしこのとき、「天(あめ)」を大王家の氏(うじ)として名乗っていたら、現代の天皇も、姓は「天(あめ)」名は「裕仁(ひろひと)」のようになっていたであろう。歴史は偶然が左右する。事実はそうはならなかった。
 
 私はその理由を次のように考えている。大王家の氏族名は本来「天(あめ)」であった。しかし、中国の文献から「天皇」の称号を選んだとき、その中にすでに「天」の文字が入っている。つまり、「天皇」そのものが「天氏(あめうじ)」であり、姓そのものであるとの考えから、特に姓を決める必要性がなかったからであろう。案外、理由は単純なところにあるのではないか。また、大伴家持(おおとものやかもち)と「の」を入れて読むのは、大伴氏族に属する「家持」の意味であり、古代の氏族制度の名残りである。

 なお、日本が姓(苗字)の数で世界一を誇るようになって行くのは、平安時代の荘園制の発達と武士の登場に由来している。 
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/f239c0f30c5037a219085d5bb5efa582


天皇家にはなぜ姓がないのか?  − 続編 − 2019年12月31日 |
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/50ca658d4ebc1abad056d3be484b2299

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