中国社会の本質について、その歴史を研究し見抜いてきた者なら、中国人の論理価値基準が誠意のやりとりであることを知っているはずだ。 すなわち、 「中国では善意、誠意に対しては善意で応える。悪意に対しては悪意で返す」 という原理こそ膨大な人口と長い歴史に貫かれてきた社会の価値観なのだ。 この意味で、中国人の心を掴み、理不尽な要求をさせず正義と良心をもって望むようにさせたいなら、それ以上の良心と誠意、善意を与えなければならない。
かつて日中戦争に敗北した日本に対して、周恩来は
「日本帝国主義が中国を侵略したのであって日本人民に罪はない」
とし、日本人のもの凄い負荷になる戦後賠償を求めなかった。
このときの恩義があるから日本は田中国交以降、対中5兆円の賠償ODAを続けているのだ。 我々は周恩来の恩義に誠実に応えなければならない。 http://www1.odn.ne.jp/~cam22440/yoti01.htm ______________ ______________
撫順戦犯管理所 1950(昭和25)年7月、スターリンと毛沢東の間で交わされた取り決めによって、私は中国に対する戦犯として、969名の仲間と共にソ連から中華人民共和国へ身柄を移されました。拘留された撫順監獄の正門には、「日本人戦犯管理所」と大書されていました。それでも未だ自分が「戦犯」であるなどとは思ってもみませんでした。「戦犯とは、戦争を発動した天皇をはじめとする一連の指導者たちだ」とばかり思い込んでいたからでした。
この監獄は、昔日本人が「反満」「抗日」分子をぶち込み、拷問や虐殺を行っていた所と聞きましたが、今や巨額の資金をつぎ込んで改修された、清潔で、明るく、スチームなどを整えた近代的な監獄でありました。そして不思議にも、ここでは「強制労働」はなかった。 米の飯をたらふく食わせて、勝手に遊ばせておくのです。日本人戦犯が傲慢な、侮蔑するような言葉を投げかけても、看守たちは軽く受け流す。中国の工作員たちは、彼らにとっては正にその「敵」であるこの我々を罵りもしなければ、殴りもしないぱかりか、食事、運動、入浴、理髪、看護など生活のすみずみまで、皆一様に世話をしてくれるではありませんか。皆、その真意を疑いながらも、頭を下げざるを得ませんでした。 「撫順戦犯管理所」の生活の中で、最初に私の心を強く打ったものは、私たちに接する中国の工作員たちの「人間的な偉さ」だった。彼らは唯の一度も我々を罵ったり、手を振り上げたりなどはしなかった。そして親身になって世話をしてくれた。衣食住は、至れり尽くせりだった。労働はなかった。 伝え聞くところでは、工作員の殆どが日本軍によって肉親を奪われたり、家を焼かれなどしている被害者だったという。孫所長は叔父を、呉指導員は父と叔父を、また看守の一人は自分以外の家族全員を、日本軍によって殺害されたという。その彼らにとって、我々は当然「憎むべき敵」である筈だ。にもかかわらず、彼らは私たちにこのように献身的な奉仕をしているではありませんか。私は、日本軍が捕虜など人間と思わず、拷問したり、虐殺したりした仕打ちを思い浮かべて、大和民族と自己とを深く恥じ、彼らの偉大さに心から敬服した。 http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/01/ebato_taiken_hansei.htm 戦犯管理所の思い出 ▼資料解説
座談会が開かれたのは1956年6月22日、戦犯たちに不起訴の決定が通知され、第一次の釈放のあった日の翌日に開かれた座談会ということになる。 日本への引き揚げ船に乗る前、天津市の恵中ホテルで開かれた。 出典は『人民中国』56年8月号である。 編集部
みなさんは、まもなく中国を離れて日本にかえられます。中国にいられたあいだのいろんな状況やこんどの釈放をめぐる御感想をきかせていただけるなら、『人民中国』の読者の方がたも―もちろん読者のなかにはみなさんの御家族、親類の方やお友だちもいらっしゃると思いますが―ひじょうによろこんで下さると思います。そこで今日はとくにみなさんに集まっていただいて座談会をもよおした次第であります。 大澤剛(司会)
座談会にはいる前に中国人民に感謝します。きのう私たちは中国人民政府から、自分たちの過去おかした罪からみて、考えもしなかった寛大な処理をうけ、間もなくなつかしい親兄弟のいる日本に帰ろうとしています。中国をはなれるにあたり、六年間のさまざまなことが思い出されます。昨日寛大な処理を聞いたときのことからまず感想をのべあって見たいとおもいます。 中島宗一 そうですなぁ、わしや偽満州国の警察に長くおったんですが、あの昨日の自分たちに対する処理を宣告された時、検察員先生の方が、ここにいる戦争犯罪者は人道主義に反し、国際法に反した罪行を犯した者と言われました。私もひとつの例をあげてみるならば、日本が東北を侵略した時、これに反抗して立ち上がった抗日軍を指揮した趙尚志将軍を道案内したというたったひとつの理由でオロチョンの方をとらえ、日本刀で首をきり、さらにその上脳味噌を取り黒やきにして薬だといってのんだ、人間では考えられない行爲をした自分が、だんだん人間としての気もちをもつようになり、私のやった事が本当に悪いことであることを知り、当然中国人民に厳重な処罰をうけなくちゃならないというふうに考えていました。それがこのような寛大処理の恩典によくして、あの時の自分は電気にうたれたようになりました(一同同感の声)。あの時の感謝と感激は一生忘れられません。 伊東恒 私はあの日撫順で釈放を言い渡されたときのあの廣間にはいった時、私が待っていた裁判が始まったと考えていたのです。だが私はあの検察員の方から中国政府の私たちにたいする起訴免除の決定発表をいわれた時自分の事のような感じはしませんでした。何か私にはピンとこなかったのです。そのうちに名前がよばれたんですが、私の名前があった、その時の気持は何と表現してよいか分かりませんでした。私が過去やったことが走馬燈のようにぐるぐると頭をかけめぐり、複雑な感じでいつの間にか涙がぽろぽろ出るのを禁じられませんでした。 過去陸軍士官学校を出て日本軍の指揮官、教育者としての日本の農村漁村の、本当に純朴な年を東洋平和の為だとか聖戦だとかでだまし、中国へ侵略にかりたてて来たのです。皆さんもごぞんじのように杭州湾上陸につづいて侵入し、杭州一帯の地域で砲兵を指揮し、何のつみとがもない住民まで砲弾で射ち殺し、平和な部落や寺院を破壊したり放火したりしました。そのご憲兵に変りましてからも一生懸命あの兇悪な憲兵の下士官兵を3000名近く教育しました。そしてこれらの者は中国全土アジア全地域にわたり世界歴史上例のない、野蛮残酷な罪行を行って来ました。こうした私に対する決定をきいた時、ただ本当に申しわけなさでもう私は何とおわびしてよいか分かりません。あの時の感激は一生を通じて忘れることは出来ません。 久保田源次郎 わしも年より役として一言いわしていただきます。私は過去25年の長い間日本軍隊の將校として多くの部下を教育し、また部隊長として戦争に出て行きました。こういうことは国家の為だ人民の為だとか日本はますます国力が大きくなるのだとか、あるいは結局のところ自分の名誉であるとさまざまなことを考えてましてあまたのいくさを行いました。その上、東北では十年の間偽満州国、ことに偽蒙古軍官学校に勤めまして、蒙古の純朴な年を日本軍の軍隊の手先として中国人をもって中国人と戦わすというように、皆さまとちがったあくらつな考えのもとに多くのことをやって参りました。また師団司令部管区の参謀長として偽蒙古軍の司令官を傀儡と致しまして、その人たちの名前のよって私が自分勝手な命令を出して多くの部下や部隊に多くの人民を惨殺する行為をおこなわせました。 いま申しましたように自分の罪行のことを考えると、私は当然死刑もしくは重い刑に処せられ、撫順の管理所において死を待ち、日本に帰れないと考えていましたが、撫順であまたの中国人民の方々の傍聴されている前で起訴を免除されて釈放されるということを聞いた時、まったく夢ではないかと考えました。被害者の方々にまことに済まなかったと、胸がいっぱいです。(同感の声) 岡本鉄四郎 私は過去大隊本部情報係下士官として抗日軍を120名も逮捕し、椅子にしばりつけ竹刀で殴ったり革で殴ったりして取調べたあと、小さい薄暗いしかも最も不衛生な廟の中に押し込んで、たったアンペラ一枚を与えるだけで、布団もなにもやらず、一日1人たった200グラム、高粱の饅頭を支給しただけで虐待して来ました。長い間、こうして虐待したために多くの人が栄養失調になり、本当に骨と皮ばかりになった人が多くありました。 そのうちの2名の人を医療手当もせず、ついに殺してしまいました。しかも捕虜の家族の方が監禁している廟の近くに来られたことがありましたが、そのときの私は自分の部下に命じてその婦人を縛らせ、さんざん罵倒し、ぶんなぐったあげく、差入れをしようと持って来た饅頭と南京豆をかっぱらって追返してしまいました。また捕虜の方々を後手にしばり、早く歩かないといって、けっとばし、軍刀のサヤで殴り、暴虐の限りをつくし、この方々を鄭州の捕虜収容所に送りました。そうした人々は、東北の昔の偽満に送られ、軍事工場の建築に使 われ、次から次へと殺されてゆきました。 私は捕虜を虐待殺害したこの罪行を見ただけでも、国際法規と人道主義に違反したことがあまりにも明らかです。それなのに、今日このような寛大なお許しを得たのですが、なんとおわびしてよいか分かりません。 司会 同感です。私自身も東北の憲兵として、中国人民の土地の上に陸軍官舎とか軍事基地を設け、演習場を作り、中国の平和な農民が自分の土地を歩いていただけで、とっつかまえて拷問し、そのあげく、私自身二階の窓から突き落とすようなことまでしてきました。これが自分の過去の姿であり、このような自分の罪行をふりかえってみる時に涙なくしてはおられません。 私たち戦争犯罪者は、誰を問わず皆このように罪深い罪行を犯したものなのです。こんな事を国のお父さんお母さんが聞いたら、どんなに嘆くか知れません。 一同 まったくそうですね。 司会 供を育てて人殺しに仕立てようとは親逹は考えていなかったのです。戦争を起して儲けた者は、ほんの一部の者で、私達にはなんの利益もありませんでした。中国の人びとは戦争で、どれだけ多くの人びとが、そのお父さんを殺され夫を殺されていったことでしょう。それを思うとこうして、お許ししていただいたことをまことに申し訳なく思います。 久保田 傍聴席の人のなかには、肉親を殺され、現在この世に居られない方の遺族がおられたことと思います。平頂山事件で三千名の中国人民が殺害されたときたった一人生き残った方素栄さんのような人もいたでしょう。私はそのことを考え、泣かされて来ました。 石田傳朗 私はあの釈放を言い渡された廣間にはいった時、それとなく二階の傍聴席を見たら政府機関の人、市民の方がおられました。その方々の前であの起訴免除の言渡しを聞いた時、背中にあたたかいものを感じて来ました。現にあの撫順の土地では、日本軍は平頂山事件の大殺戮をやったし、それには私も加わったのであります。その被害者よりあの寛大な処理を受ける時、私はほんとうに中国人民の寛大なあたたかい心を感じました。私は東北でどのような事をやったのか、ただ申し訳ない泣きたい気持でいっぱいでした。 司会 まったくです。このことは一生涯を通じて忘れることは出来ません。このことは自分達ばかりでなく家族の者も中国人民に感謝していると思います。 白井藤代 私は過去を考えれば許せない人間なのに寛大な言渡しをうけて心から泣いたのです。そればかりか私は貧しい漁師の息子で、生まれて三十七年間、軍靴以外クツをはいたこともなかったのに、こんど立派な革靴をもらいました。そのとき私は過去の自分を考えざるをえなかったのです。私は中国にお客様として来たのでしょうか、そうではありませんでした。私は中国におしわたり、本当に罪のない平和な労働者や農民の方々を殺害したり拷問したりした許すことのできぬ罪人ですのに、その私を許して下さいまして私は感激せずにはおれませんでした。 岡本 そうです。自分はあの寛大赦免の言渡しを聞いたのちいよいよ帰国するというので、所長さんはじめ管理所の皆さんから見送りをうけるばかりか、考えてもいなかった送別の宴会までしていただいた時、胸がいっぱいになってどんなに感謝してよいやらわかりませんでした。私は所長さんの手を握りました。そしてこれからあやまった道には進みません、必ず人間としての道を進みますと誓って来ました。 司会 そうです。私も昨日管理所を出る時、工作員の方々や班長さんや看護婦さんの顔を見ているうちに、まったく家を離れるような気持がしました。 久保田 わしも別れるとき、ついとりこんで御厄介になった看護婦さんやお医者さんに会ってお別れ出来なかったのが残念でした。一目でも会ってお別れしたかった。病気をしてお薬や注射をうってもらったり、どれだけお世話になったかわかりませんから・・・・(同感の声) 中島 本当にやさしい人達ばっかりでしたねぇ。わしやみんなが『おじいちゃん』となつこく呼んでいたあの年輩の工作員の方が見当らなかったけど、ぜひ一目会いたかった。何とか一目会ってお礼をいいたかったんだが見つからなかった。いよいよ管理所を出る時は、むしように管理所がなつかしくなって来て・・・・皆もうしろをふりかえりふりかえり名残り惜しそうに見ていたけれど、これは私達の本当の気持でしょうねぇ。(全員同感の声) 石田 そうです。夜なんか、寝冷えさせないようにフトンかけて下さったり、日本から手紙や写真が来ると、お父さんや兄さんは丈夫かと写真や手紙をいっしょに見て自分のことのように喜んで下さった。その工作員さんにとうとうお礼のことばもいわずに残念でした。私はあたたかい身内と別れるようなつらさでした。 伊東 そうですねぇ、私もお世話になった李班長さんを血まなこになって捜したのですがどうしても見えなくてお別れ出来なくて残念だったのですが、崔先生や趙先生に元気で発ちましたとくれぐれもよろしく伝えてくださいとおたのみしたら『必ずお伝えします』といわれたので安心しましたが、まったく名残りおしいことでした。 司会 本当にこの六年の間に肉親のようなつながりが出来ていたのですねぇ。ふりかえってみると六年前に新中国に来たとき、私達の間にはどんな考えがあったのでしょう。思い出してみましょう。 若月金治 それですがねぇ、管理所に来た当時は殺されるのではないかとオドオドしていました。自分でもおかしいくらいですが、最初散髪にいった時ヒゲをそってもらいながら、もしかしたら首を切られるのじゃないか(笑声)と思いましたが、無事に終ってホッとしましたよ・・・・。またあの大きな煙突ができたとき、私達が過去やったことを思い出して、俺達もあの下でこっそり殺されて、焼かれてしまうのではないかと思いましたが、あの煙突が出来上って見ると、入浴場にはマンマンとお湯を送ってもらうし、冬は暖かいスチームを通してもらうし、みんなわれわれのためにやってもらったのです。 久保田 そうですよ、入浴場一つ見ても分かりますねぇ、過去われわれは、真冬に中国人民に水浴させたのに・・・・ 中島 わしは昔、中国人民を散々侮辱してきたので、中国に渡されたとき、今度は俺がやられる番だと考えていたが、部屋はキレイで廣いし、ご飯の時などは『たりたか、たりないか』とかならずきいてくれたものです。私はまたこの事から、俺達は日本人だから恐れられているのだ・・・・(笑声)こんなところにおっても日本人は恐れられているのだと思っていましたが、こんな考え方が変ったのは、朝鮮戦争が停戦になった時からです。はじめのうちは、米軍が東北にはいって来て俺達を出してくれると思っていました。 司会 アメリカ軍が『解放』してくれると考えていたわけですね・・・・(笑声) 中島 そうですよ。所長さんは最初から、かならず中国と朝鮮の人民が勝つといっておられたが信じられなかったのですよ。それが現実のなかから段々わかって来ました。それからもうひとつ。私は過去中国の人を欺瞞して使用するということをやって来ましたので、管理所で工作員の方々が色々してくれるのを見て、ハハアこの裏には何かあるわい、政策だ、手だと考えて、やってくれることすべてを有難いとは感じられなかったです。 ところが末梢神経炎にかかって動けなくなりましてねぇ、夜も眠れませんでした。そのとき毎晩お医者さんが廻ってきて診て下さったり、また工作員さんがしょっちゅう部屋に来て要求があったら、どんなことでも言ってくれ、すぐ解決するからといわれ、わしらの考えていることをいうと何でもすぐ解決してくれました。注射を四、五十本も打ってくれました。 司会 このような現実からだんだん中国を信頼するようになったのですね。 白井 私はですね、一昨年の四月頃でした、歯がいたくて運動室で休んでいた時、管理所のパン工場で働いている人がいつものように室の前までパンを運んで来ました。ところがその人が休んでいた私に『あんたは白井さんではないですか、私を忘れましたか』というんです。私は不思議に思った。私に中国の知人はいないはずだ、それで私もその人の顔をよくみてみたが、どうしてもはっきり思い出せない。しかしふッと思いあたるふしがあって身体中の血がいっぺんに下ったように感じました。きいてみるとやっぱり私が兵隊として駐屯していた山東省のある村の少年でした。 そのころは十四、五歳の少年でした。私は何度もこの少年を丸太やその他でなぐり、また小さい身体にいっぱいまきを背負わせ、歩くのがおそいといっては蹴とばしたもんです。それからまたあの人たちが汗水たらしてつくった穀物を全部取り上げてしまったこともあります。そのごあの人の両親は亡くなり、たった一人生き残ったあの人は東北に来たんです。これはそのとききいてわかったのです。私はそのとき、これはただごとではすむまいと覚悟しました。しかし私の考えとは反対に、その人は私に『早くよくなりなさい』といって出て行きました。その後もずっとパンをもって来てくれる度に私に会うと『元気ですか』とたずねてくれます。私はこれをきくたびに私の過去と、またあの人たちの家族のことを思わずにはいられませんでした。 石田 中国の人をどう見るかということですが、私もはじめのうちは復讐されるとおもっていました。ある日あたりちらしてやるつもりで工作員の人に面談を求め、づけづけといろんなことを言ったことがあります。私は怒られるにちがいないと考えていたのですが、先方は、『食事はまずくないか。夜はよくねむれるか。まあ身体を大切にして下さい。君の問題は私も考えてみましょう』とやさしくさとしてくれました。このようなことは一度や二度のことではないのです。むちゃくちゃなこともよく聞いてもらえることから、私の考えが間違いだ、どうもおかしいと考えはじめ、度を重ねるうちに罪を考えはじめました。 若月 私も色々ありますが、私は寝ぞうが悪いんです。(笑声)背中をおっぽり出してうとうとしていると班長さんがはいって来て布団をなおしてくれました。だまっていると、次の人の布団をなおしてそっと出て行かれました。また国慶節の時でした。御馳走を腹いっぱい食って、トランプをやり、大ダブラをやっていると、そこへ皆さんの知っている班長の『おじいちゃん』がはいって来て、にこにこしながら落花生を机の上においてゆくのです。あの人は頭がすこしはげているんですが、思わず私は背中に水をぶっかけられたような気がしました。 それにはわけがあるんです。大体あの人は三東の人なんです。私はその三東にいたとき、ある日行商人をつかまえ後に廻って、側にあった石をその行商人の頭にたたきつけ、頭を割ったことがあります。そしてその人がかついでいた籠のなかから落花生をとったんです。ところがその行商人が頭のはげた班長さんによく似ているんです。そのときはっとして、それから自分のやった事を真剣に考えるようになりました。自分のやった事が人間のやる事じゃなく、戦争とはどんなものかを考えるようになりました。 中島 あるとき私は飯をたくさん貰って、のこったのを便所へすてたことがあります。叱られると思っていたら、工作員さんは『お百姓さんの苦労を知っているでしょう、このようにめしを捨てることは、人間のやることではない。』といわれ、私もやっぱり百姓の子ですから、悪い事がすこしわかりました。 司会 いろいろ工作員さんが実際的に示すことのなかから、過去やった事は悪いと自分でさとるようになって来ましたが、これは戦争についての考え方のうえでも同じで、はじめは戦争の悪いことがなかなかわからなかった。それがやはりだんだんわかってきたといったようなことがあると思います。 若月 戦争の問題が出て来ましたが、中国の各地を参観させてもらい、中国の発展している姿をこの目で見たときは、戦争がなければこんなに発展するものかと、戦争の悪いことをはっきると知ることが出来ました。ハルピンの亜麻工場で工場長さんがいわれたとおり、戦争がなければ、人間の生活は豊かになります。ハルピンに参観に行ったときに、赤いネッカチーフをつけた女の子が小さい弟をつれていて、その弟が『この人たちは誰?』と姉さんにたずねました。私はなんと言われるかと、好奇心を持って聞いておりますと、『この人達は働いている人民を学習に来られているんです』とやさしく弟におしえていました。私は働いている人を殺すなんて、どんなに悪いかがわかりました。私はこの幼い少女におしえられました。 司会 中国人民の、やさしい態度の中から、人間はどうあらねばならないかが分かって来たのですね。その裏には、いろいろな、6年来の生活全体があった訳ですね。どうですか、生活のことを話しましょう。 中島 私はいま16貫あまりあります。敗戦時は14貫少々でしたからね、家族が見たら見違えると思いますね。 若月 十年間に二貫目ふえた・・・・ 岡本 そのうえ若返って帰るとは変だねぇ。
中島
家族がいちばん喜ぶのは、私が健康でかえることだと思います。よく薬を飲んだ私が、いまこんなに元気になっているのは管理所の人たちのおかげです。例えていうと、ヘントウ腺がはれて、うがい薬でももらいたいと医務室に行くと、すぐ注射室へつれていってペニシリンをうってくれるんです。病気をさせないように、消毒や身体の検査など、みんな大きな努力を拂って下さいました。だから、私がこんなに元気なのも決して奇蹟ではありません。 司会 白井さん、どうですか療養所は? 白井
私の療養所行きは、変っているんですよ。まったく自覚症状がなかったのに、ある日工作員さんから療養所に行くようにといわれて、びっくりしたのです。自分で自分の病気に気がつかないうちに管理所では、定期のレントゲン透視でチャンと私の身体が悪いことを知って、療養所にやって下さったのです。療養所は林を背にした小高い山の中腹にあって、ひじょうに見晴らしのよい公園のようなところです。療養所の部屋には真白な敷布をしいたベットがあり、手箱、魔法瓶、看護婦さんを呼び出す呼びリンまでついています。療法には、空気療法、滴入療法、体育療法があり、科学的に検査され、一人一人療法がちがうのです。私は体育療法だったわけです。療養所では付添いの人が一切をわが事のように面倒を見て下さるのです。そのために、私はこんなに元気な身体になったのです。 司会 そうですね、療養所に行った人もひじょうに元気になってかえって来ましたね。 岡本 いま医療の話が出ていますが、私なんか六年間これという病気もせず、本当に元気で過して来たんですが、私の隣に寝ていた岡田豊君なんか、三年半近くも胃が悪くて、ハルピン以来入院していたんですが、この人の話を聞くと、入院中婦長さんが岡田君に、これからはなんでも貴方の好きなものを作って上げますからと言われたそうです。すると岡田君は、私はカステラとサツマ薯のキントンが食べたいと言ったそうです(笑声)。ところがカステラはわかるが、サツマ薯のキントンは一体どうして作るのか中国の人にはわからないのです。 司会 そうですね、中国にはないんですから。 岡本
それでも本人が食べたいというものだから婦長さんは作り方を教えて下さいといわれたそうです。それで岡田君はキントンを作るには、こうやって、ああやってと作り方を書いて、婦長さんに渡すと、婦長さんは夕食の時に『言われた通りには出来なかったけれど、ひとつ食べて下さい』といって持って来られた。そのとき岡田君は夢中で食ってしまったそうです。昔、お母さんが作ってくれたキントンとおなじようにうまいので、ひじょうに喜んでパクパク食ったそうですよ。 婦長さんは、いままで何を食っても嘔吐をもよおしたり、食べなかったのにたくさん食べるのを見てひじょうに喜んで、これからは毎日でも作るから、いちどに沢山食べ過ぎて、体をこわさないようにといわれたそうです。このようにして岡田君の病気は、だんだんよくなってゆき、今ではすっかり元通りに元気になって、われわれと一緒に帰れるようになりました。 司会 岡田君も日本に帰ってお母さんからキントンを作ってもらう度に思い出すでしょうねぇ。 岡本 その時に、婦長さんが『私は中国人民にあなた方の病気を治すように依託されているだけでなく、あなた方の家族の方々にも、あなた方の病気を治す責任を負っているのです』とこのように言われたので、岡田君はひじょうに感激し、自分が過去中国人民にたいしておこなった行為を、ふり返らざるを得なかったといっていました。 司会
そうでうねぇ、いまの岡本さんのような話はどれだけ多くの人々が経験したかわかりませんねぇ。 白井 本当にお世話になりました。今もうすっかりよくなりましてねぇ。バレーやバスケットのことをいうと、昔はボールなんかいじったことはありませんでした。中国に来てはじめてバスケットやバレーボールが出来るようになりました。そればかりか今ではみんなのなかから選ばれてバレーの選手にもなっています。 中島 いやぁ、わしもねぇ、あのスケート場が出来た時なんか五十ツラさげていまさらスケートなんか、ころんで腰の骨を折るのが関の山と思っていたところが、多くの、はじめてだという同僚がたった二、三日位ですべれるようになるのを見ると俺もやってみたくなり、やってみると面白くてやめれぬようになり、すべったりころんだりしたけれど、人並に滑れるようになりましたよハハ・・・・。実をいうとねぇ、私は長野県の諏訪湖というスケートの盛んなところに生まれたんですがねぇ・・・・そのわしは中国ではじめてスケートをおぼえるなんて、まったく・・・・ 岡本 僕はねぇ、チョット運動のほうは苦手なんだけどネ、しかしそれでもねぇ、パン食い競争とか魚釣とか、宝捜しとか、クス玉割りとか、玉入れとかあまり走らないのは得意でねぇ・・・・(全員爆笑)。俺はあまり競技に出なかったが、たったひとつ競技に出て賞品をもらったことがあるよ。それはピンポンの試合に出たんだ。マサカここでピンポンなんて出来ると思っていなかったんだが。 久保田 私もこんな年寄りだけどネ、半日運動をやらせてもらって、けっこう若い者とおなじように丈夫ですよ。 中島 わしやね、昔、中国の人を捕えて留置場に一年近くもホウリ込んでいたことがあります。その間運動どころか、散歩すらさせず、いれッ切りでした。そのためその人達は青白くやせこけ、外へ出た時なんかちょっと歩くとフラフラしてぶッ倒れるという有様でした。このことと中国政府が自由に運動させてくれたことと思い合わせて、何と感謝してよいかわかりません。 司会 全く私達は自由な運動が充分出来、飯の腹一杯食わせてもらいました。こんどは自分達の食生活をふり返ってみましょう。 久保田 まったくわしみたいな年寄りは、腰が曲ったり、あちこち体が惡いもんだから班長さんはひじょうに心配されて『飯が食べられるか』とか『かめないのではないのか』とか『お菜はたべられるか』とか、いろいろ心配されて年寄りには年寄りに似合った食事を作って下さったり、患者食には三品も四品もいろいろ変ったものを手数をいとわず作って下さった。いつも昔のことを引合いに出すようですが、いぜん私が東北にいた当時、中国の人たちに対したのとはまったくちがっています。 司会 それから、私たちは日本人好みのもを沢山たべて来ましたねぇ。 若月 そうですよ、私も年が若いものですからね、正月や旧正月になると、きっと炊事に餅つきのピンチに行きましたよ。向う鉢巻きで皆が威勢よく気合いをかけて餅をついてね。ほんとうに日本に住んでいると同じように紅白の餅が食べられるとは考えてもみなかったことですよ。そして、工作員の方も汗をかいて餅つきを手伝ってくれましたね。 中島 日本人好みの食事というと、すしも食べましたね。わしはここで巻ずしが食べれる、ちょっと考えていなかったですよ。 岡本 そうですよ、わしも、もともとすしが好きだったもんですからね、六本も七本も巻ずしを食べて皆に笑われましたよ(一同笑声) 白井 すしもそうですが、大福餅、おはぎ、ぜんざいなんかもね。 司会 私らは山の中で育って、まったく味噌と漬物しか食べて来なかったんですがねぇ、それが中国では毎日白米飯に美味しい副食を食べて来ました。その他こうした民族の習慣や好みをよく尊重して配慮してくれましたね。 中島 真冬にキウリ、ホウレン草、これをみただけでもどんなに私たちのビタミンの吸収、栄養の攝取を考えておられたかよくわかりますよ。 司会 食事の面でもそうでしたが、衣類の面でもやはりそうでしたね。 伊東 そうですね、衣服など毎年新しい物をもらって、とても着つくせるものではなかったし、すべてこんな調子だからせっかく日本から小包で送ってくれたものに少しも手を通す必要がなく、今度それを背負って歩いているというわけですよ。 中島 イヤー、私もそうですよ。
石田 そうでしたね、破れた物などひとつも着ることがなかったですね。
司会
私たちは食う物、着る物いずれも恵まれた生活をして来ましたが、もっとまだ樂しいことがありましたね。 若月 そうそう、踊りとか劇とか、わしはどうも人から手をたたいてもらうのが好きでしてねぇ(笑声)。踊りなど何百とやったですね、日本民謡、朝鮮舞踊、中国のヤンコー、腰鼓、それにあの茶摘の踊りや蓮の花の踊りなどね、それからソ同盟の踊りもね、大がかりな芸能祭は、みんなで三十回以上もやったですよ。 中島 久保田さんも芸能祭に出られたんですね。
久保田
ハイ、私も過去は号令かけることしか知らなかったのですが、年寄りも若い人に見せてばかりもらっていてはだめだと思って、一度舞台に立ったんですが、とたんに拍手されて、あがってしまってね、観客の誰が誰だか見分けもつかなくなってしまってね、それでも合唱が終ると、またもアンコールでしたよ。この禿頭が舞台に上ったのに同情してくれたせいもありましたでしょうがね、アハハハ・・・・(笑声) 中島 そうそう、久保田さんはあれからずうっと舞台に立っていましたね。今度はお孫さんと一緒に大いに踊りや歌もやるんですなァ。 久保田 ええ、やりますとも。
司会 踊りの時は『ムスメ』さんもおおぜい出て来ましたね。
若月
そうそう、あの『ムスメ』さんの衣裳造り、かつら造り、化粧、あれはなかなかたいへんでしたよ。 司会 いつか日本から来た代表団が私たちの芸能祭を見て、『この管理所には日本人の女もいるんですか』と聞いたことがあったそうですよ。 中島 劇がちょっとでも遠のくと、もうありそうなものだがなァと、ちょっと淋しくなることもありましたからね。いざ劇だ芸能祭だとなるととたんに張りきり方がちがってね。それに私たちが踊りや劇をやるとなると所長先生から工作員の方、それに家族の方、看護婦さんなどみんな見物に来られたですね。日本人民の状態を描いた劇には涙を流して、もうとても観ていられないと言われ、こんなに真剣に中国の人びとは私達の芸能祭を観てくれたんですよ。 若月 管理所の工作員の方々はよく子供を連れて来られるんで、子供の声が聞えるとやっている者はとても張り切ったんですよ。 司会 映画も沢山みましたね。
若月
私が記憶している範囲でも、三百本以上でしたよ。日本の映画も沢山みましたね。『太陽のない街』『二十四の瞳』など、ああした映画は感銘が深かったですねぇ。それからわれわれの間では、インド映画が好評をよんだですね。 岡本 イタリアの映画『自轉車泥棒』もそうでしたね。 中島
管理所では、あの楽団も、ずいぶん私達を楽しませてくれましたね。こんど帰るときはその楽器までもらったりして・・・・。 石田 樂団が最初出来たときは、スカスカラッパであったんですが、とても上達しましたね。最近では、あの『ウィリアム・テル』や『黄河合唱の歌』なども立派にやりこなしていましたからね。私は納涼会で音楽を聞き、踊りを見るのが、なによりの楽しみでした。 白井 いや、まったくそうでしたね。あの音楽会では『さくら』『越後獅子』、踊りでは『八木節』『安来節』など、ほんとうにこんな美しい文化遺産が私達の祖国にもあったのだと思うと、とても祖国が懐しくなることがありましたよ。 若月 たしかに、私達の文化活動は、大きな力をもつようになりましたね。そればかりでなく、昔は譜を読むのに大変だった人が、いまでは作曲できるようになったんですからねぇ。 岡本 作曲ができるようになったばかりでなく、絵を描く人も、六年のうちに沢山出てきましたよ。私自身も昔からぼつぼつ絵を描いていましたが、中国に来たときは、もう自由に絵を描けまいと思い、悲観していました。ところが、絵をかきなさいと油絵具や其他の道具など全部そろえてくれました。この六年間のうちに、大型の油絵など私一人だけで百点も描きました。そのほか水彩画、ポスター、スケッチなど全部合わせれば、私だけで、八百点ぐらい描きましたよ。(ホーと一同びっくり) 若月 岡本さんの『チベットの豊収』、あの絵は大したもんですね。 岡本 いやー、そのほか全然絵の描けなかった人で、絵が描けるようになった人がたくさんいますよ。さきほど若月さんがいわれたように、作曲のできない者が出来るようになり、絵の描けない者が描けるようになったり、私達は、個人の才能と趣味を生かすことができました。 中島 本当ですね。岡本さんがいわれたように、趣味を生かすということは、大きな事ですよ。碁も今では誰でもうてるようになっていますよ。 司会 私も管理所に来てから、碁をうちだしましたよ。 岡本 私達はそのようなことを通じて、人間らしくなって来たのですね。
司会 いま人間らしいといわれたが、人格が尊重されておりましたね。
中島
私は警察にいて、人をたたくなどは何とも思はず、当り前だと考え、街頭でも中国の人をずいぶんなぐり、また警察にひっ張りこんでなぐりました。中国に来てからは、わたしたち一同一度もなぐられたことはないですが・・・・。 伊東・久保田 まったくそうです。 司会 それでは最後に参観について話しましょう。岡本さんは、中国の11の省を見てまわって、どう考えられましたか。 岡本 参観のことですが、6400キロの旅行をさしていただき、私はこの中から何処へ行っても感じることは、ひじょうに、まあ中国の景色が美しいということを今度程感じたことはありませんよ。私は昔は戦争の絵などかいていたのです。中国の町や村が爆撃で廃墟になったその景色をかいていました。しかしそのような景色がこんど参観したあの美しい景色とくらべてどんなに醜悪なみにくいものであったか、このようなものを美しいと感じていた自分を反省することが出来ました。 揚子江の両岸の菜種の花の咲いたところ、また漢口から杭州にかけてどこにも咲いているアンズや梨の花など、本当にきれいな景色だと感じました。鉄道沿線の町や村や住宅やまたハゲ山が植林されているのを見て、皆さんも美しいと感じられたと思います。これは誰がつくったのでしょうか。もとから美しくはなかったのです。中国の人が戦争の廃墟の中から建設して出来たものであることを私はしみじみ感じました。この中から私は、平和な環境のなかで美しい心をもった人があってはじめて美しい景色が出来ることを学んだのです。このような美しい町や村をふたたび廃虚にしてはならない、これこそ最大の罪惡であると本当に強く感じました。この村や町に中国の人の尊い血が流され骨がうずめられたことを考えるとき、過去の行為を反省せずにはおられませんでした。 伊東 杭州は私は前にいたことがあるのでとても印象が深いものがありました。日本兵がバリケードをきずき、銃剣をつきつけて通行人を検査した所も、いまは平和建設の工事がすすんでいました。西湖や霊隠寺などの名勝地もあの頃は日本の軍隊ががんばっているので、中国の人で遊びにゆくものは誰一人いなかったところですが、今では農民らしいおじいさんやおばあさんがお寺まいりしているのを見ました。私はすべてのものが中国人の手にもどったことを強く感じました。そして名所古跡もいまさかんに修築されていました。 司会 参観といえば瀋陽市郊外の大村に行ってあのおばあさんからあたたかい気持で会ってもらった。しかし実際には、いまさらこちらから顔を出せた義理じゃないんです。こういう中国の人たちの寛大な気持についてどうですか。 若月 私は養老院で老人の方がきれいな部屋に住み、植木いじりや玉突きを愉快そうにしているのを見て、ふとおふくろはどうしているだろうかということを考えました。老人の方は、日本の人にも自分たちとおなじように老後のたのしい生活をさせたいと言っていました。私は老人の方が、私たちの親のことをも考えて言ってくれたのだと、そんな気持がしました。 司会 私たちは長い間中国の人びとの配慮をうけて来ました。このなかから、わたしたちは中国の人たちが世界の平和をつよく願っていることを知りました。私たちに対する態度、日本人民への友情もここから出ているとおもいます。私たちは過去の罪悪を知り、ふたたび中国の人に銃をむけることは出来ないと強く感じています。 第二次世界大戦に苦痛がアジアの人びと、世界の人びと、わたしたち日本人自身のなかに強く残っているのです。自分たちの行く道は平和の道だし、この道こそ自分たちのすすむべき道だと思います。今日天津に集まって間もなく日本に帰ろうとしていますが、今後私たちは二度と前のような道は歩まず、平和のために努力しなければならないと思います。(全員同感の声) 中国の皆様から受けたあたたかい配慮に心から感謝し、中国の皆様への最後の言葉としましょう。それから『人民中国』編集部の方がわざわざこの座談会をひらいて下さったことにも感謝したいと思います。
編集部 たいへん長いこと、どうも御苦労さまでした。かさねてお礼申し上げます。みなさんは、いよいよ中国をあとにして、みなさんの祖国日本にかえられ、家族の方がたと一家だんらんの楽しい日をお迎えになります。どうか日本にかえられてから、平和で幸福な生活をお送りになりますよう心からお祈りしております。では、みなさん御元気で。どうも有難うございました。 【出席者】 大澤剛 1922年岐阜県生まれ。公主嶺憲兵分隊特高係憲兵軍曹。故人。 中島宗一 1909年長野県生まれ。竜江省警務庁特務課地下工作班長。故人。 伊藤恒 1911年佐賀県出身。関東軍憲兵司令部教育隊教務課長憲兵少佐。故人。 久保田源次郎 1888年東京生まれ。「満州国」軍第九軍管区副指令少将。故人。 岡本鉄四郎 1915年愛媛県生まれ。117師団389大隊伍長。故人。 石田傳郎 1907年三重県生まれ。間島憲兵分隊長憲兵少尉。故人。 白井藤代 1920年千葉県生まれ。59師団45大隊第2中隊分隊長兵長。故人。 若月金治 1924年山梨県生まれ。59師団41大隊5中隊一等兵。故人。 ________________ ________________ ★ 漢語迷の武漢日記 ★ 中国の武漢に留学している「漢語迷」と言います。「漢語」は「中国語」という意味です。 「迷」は日本語でいえば「おたく」に近い意味です。例えば、「球迷」といえば、 「サッカーおたく」といった意味です。私は今、中国語の勉強に情熱を燃やしているので、こういうペンネームにしたわけです。
「漢語迷の武漢日記」と題して、中国の留学生の生活・中国の学生の生活といった身近なことから中国の政治 ・経済・社会・マスコミの状況など少し大きなことまで、いろいろなことを皆さんにお伝えできればと思っています。 あまり大したことは書けないとは思いますが、中国に関心のある方はよろしかったら読んでみて下さい。 漢語迷は、2002年6月23日をもって、武漢での留学期間を終え、7月から中国の経済特区・深センで仕事をすることになりました。 今後はビジネスという角度からの情報も含め、これまでの『漢語迷の武漢日記』の名称のままで、引き続き中国レポートをお送りします。 読者の皆さん、今後ともよろしくお願いします。 http://www1.odn.ne.jp/kumasanhouse/kangomei/ 第1回 日本人留学生の生活 皆さん、こんにちは。私はこの九月から中国の武漢というところに留学している者です。年は30歳。仕事を辞めてやってきました。ペンネームは「漢語迷」と言います。「漢語」は「中国語」という意味です。「迷」は日本語でいえば「おたく」に近い意味です。例えば、「球迷」といえば、「サッカーおたく」といった意味です。私は今、中国語の勉強に情熱を燃やしているので、こういうペンネームにしたわけです。 今日から「漢語迷の武漢日記」と題して、中国の留学生の生活・中国の学生の生活といった身近なことから中国の政治・経済・社会・マスコミの状況など少し大きなことまで、いろいろなことを皆さんにお伝えできればと思っています。あまり大したことは書けないとは思いますが、中国に関心のある方はよろしかったら読んでみて下さい。
今日は第一回ということで、とりあえず一番身近な留学生の生活を報告したいと思います。 私は今、二人の日本人と生活しています。彼らと生活していて驚いたことは、彼らがほとんど勉強をしないということです。今は授業にすら出ていないという状況です。それでは一体何をしているのかと言うと、毎日のようにプレステをやったり、日本のビデオや漫画を見たり、スポーツをしたり、音楽を聴いたりして生活しています。もちろん、これらのことをやってはいけないとは言いませんが、これらのことで留学生活のほとんどが占められているというのはやはり問題だと思います。彼らが「親が金を送ってこない」などと怒っているのを見ると、彼らの親は本当にかわいそうだと思います。「何のために留学しているんだ」と言いたくなります。一番困るのは、彼らが音楽をすごい音量で聴くので、勉強に集中でできないということです。今や耳せんが不可欠になっています。中国には耳せんが売っていないので、日本から持っていった耳せんがぼろぼろになっています。 留学生寮というのは中国の学生から隔離された世界なので、自分から中国の学生に積極的にアプローチしていかなければ、全く彼らと接せずにすんでしまいます。私はかなり中国人の友達が増えましたが、中国人との接点がほとんどないという人も多いようです。 私は日本いるとき、「留学をした」という話を聞くと、「じゃあ、もうペラペラでしょう?」などと紋切り型に言っていたものですが、実際に来てみると、語学の習得というのはやはり一人一人の努力に依存しているというのを実感します。 私の方は彼らにかまわず、1日1日を大切にして勉強していこうと思っています。今また、すごいボリュームで音楽が鳴り始めました。困ったものです。それでは、今日はこれで失礼します。 1999.12.4 第2回 留学生と中国人学生の格差 皆さん、こんにちは。今日は中国の留学生と中国人学生の置かれている生活環境の格差についてお伝えしたいと思います。
まず最初に私たち留学生の生活環境について簡単に紹介しましょう。武漢大学の留学生寮の場合、四人部屋になっています。ただ、四人部屋といっても、中には一人一人の個室があります。冷暖房は完備、当然お湯も出ます。ただ、この夏は新しい留学生寮ができたばかりということもあり、結局は冷房がつかず、40度近い暑さの中を扇風機だけで過ごさなくてはなりませんでした。暖房も使い始めの頃は漏水があったり、すぐに壊れたりして大変でした。お湯が出なくなったり、停電になったりということもたびたびです。そういうわけで、留学生の間では不満が絶えません。 しかし私が初めて中国人学生の宿舎に行ったとき、こうした不満は一気に吹き飛んでしまいました。彼らの部屋は八人部屋でした。中に入ると左右に二段ベッドか二つずつ。日本のユースホステルを思い浮かべていただければいいと思います。真ん中に共用の小さな机が二つ。もちろん個室などというものはありません。冷暖房は当然なく、冬をしのぐ手段は 「窓を閉めること」 だそうです。シャワーも水しか出ないので、耐えられない人はバケツにお湯を汲んできて使います。 私が中国人学生の宿舎に遊びに行くと、誰もが決まって「私たちの宿舎は環境が悪くて恥ずかしい」と言います。そのたびに私は返答に困ってしまいます。 中国人からしてみれば留学生は本当に贅沢な暮らしをしているのです。 こうした現象が起こる背景には円と元の価値の格差があります。中国人の一ヶ月の給料の平均は都市部でも一万円ちょっとです。つまり、日本人と20倍ほどの格差があるわけです。留学生の学費や部屋代は中国人学生に比べて格段に高いので、やはりいい環境の所に住めてしまうわけです。 逆に、中国の学生が自費で日本に留学することはほとんど不可能というのが現状です。中国人学生の友達の友達が日本に留学しているそうなのですが、彼は死体運びなどをして生計を立てているそうです。毎日遊んで暮らしている日本の留学生とは何という違いでしょうか。 このような経済力の差を背景に一部では何か自分が偉くなったものと勘違いし、傲慢になってくる日本人も出てきます。恐らく日本でも報じられたと思いますが、武漢でこのような事件がありました。ある日本企業の駐在員が、ホテルで注文と違ったものが来たのに激怒して、ウェイトレスに土下座して謝らせたというのです。結局、この社員は強制帰国という処分になったようですが、日本の「週刊新潮」ではこの処分を「国辱」などと言って批判していたようですね。(私は直接この記事を読んだわけではありませんが。) しかし、私に言わせれば、これぐらいしてやらないと日本人の王様気分はなくならないのではないかと思います。(もちろん、日本企業の駐在員がこのようなひどい人ばかりではないことは申し添えて置きます。) すっかり話が広がってしまいましたが、このような「格差」を指摘したところで、それをすぐにどうにかできるというものではありません。ただ、私は一部の留学生のように経済的に、また環境において恵まれているのをいいことに、無駄に時間を過ごすようなことは決してしてはならないと思うのです。そのことを肝に銘じて留学生活を続けていきたいと思っています。 1999.12.25 第3回 中国農村訪問記
日本で最も大きな祝日といえば、おそらく元旦でしょう。ところが、中国では元旦というのはあまり重視されていません。なぜなら、中国人にとって重要なのは旧暦だからです。したがって中国で最も大きな祝日は旧正月(春節)です。今年の場合、新暦の二月五日が旧暦の一月一日にあたります。この時期、中国が一年の中で最もにぎやかになります。
私はこの春節をやはり中国人とともに過ごしたいと思ったのと、中国人の普通の生活を知りたいと思い、冬休みを使って中国の友達の実家に行くことにしました。今回はその訪問記を皆さんにお伝えしたいと思います。 武漢から電車に乗ること7時間。そこからさらにバスに乗ります。途中、漢江という長江の支流にあたる大きな川を渡るのですが、橋がないため、バスごと船に乗って川を渡ります。船といっても日本のフェリーのような大きな物ではなく、車が10台程度しか乗らないような小さな船です。 2時間ほどするとようやく湖北省(中国中西部)の村にある私の友達の実家に着きました。お父さんが小学校の先生をしているため、小学校の中に家があります。観光地ではないので、外国人はよほどのことがない限りまず来ることはない所と言っていいでしょう。 何といってもきつかったのは寒さです。いま中国は一番寒い時期なので、中西部といっても零下10度近くまで気温が下がります。ところが友達の家には暖房器具というものが全くないのです。窓の周りも隙間だらけで、外とあまり変わらない寒さだったので、本当に大変でした。友達のお父さんの月給は約500元(約6500円)。中国の中でも、あまり高い方ではありません。お母さんの方が農民出身ということもあり、仕事をしていないので、生活はなおさら苦しいようです。そういう中で暖房器具を買うというのはかなり大変なようです。 もう一つ大変だったのは風呂がないことです。彼らは週に一度程度お湯で体を拭くくらいです。僕もその習慣に従いましたが、2週間以上も風呂に入れないというのはやはりつらいものです。 テレビは12年前に買ったという映りの悪い白黒テレビ。洗濯機などはもちろんありません。ガスはあることはありますが、節約のためか主には薪を使っていました。トイレは公共のものしかなく、夜は真っ暗闇の中を2・3分歩いていかなければなりません。トイレといってもドアなどはなく、穴が並んでいるだけのものです。つまり、昼間ならお互い丸見え状態です。トイレットペーパーはなく、みんな新聞紙を使っていました。 食事は質素そのものです。日によってはおかずが白菜だけ、もやしだけ、春雨だけという日もありました。肉や卵はめったに食べられないようです。しかし、春節になると肉や卵、餃子がたっぷりと出てきます。中国人にとって春節というのは本当に特別な日なのです。 言葉はかなりきつい方言で、普通語(日本で言う標準語)しか勉強していない私にはほとんど聞き取れません。また、普通語が話せない、聞き取れないという人もたくさんいます。 木がほとんど残っていない山 (筆者撮影)
この村にはゴミを収集するというシステムがまだないため、ゴミがいたるところに散らばっていました。また、印象的だったのは周りを山に囲まれているのに、その山の上に木がほとんど残っていなかったことです。禿山といってもいい状態で、無残でした。恐らく薪を取るに任せて、環境を保護する対策を採っていないのでしょう。ただ、こうしたことを責めるわけにはいきません。この村にはそのような対策を採る資金など恐らくないのです。
ただ、友達が言うには、この村の生活水準は中国の平均レベルで、もっと経済的に遅れた地域はたくさんあるといいます。実際、中国のもっと内陸部に行けば貧しい地域はいくらでもあるでしょう。 中国が改革解放以降、急速に経済発展しているとはいえ、やはりまだまだ貧しいというのが現実です。 中国の学生がどんなに苦労して大学に来ているかということを知ると同時に、留学生というのは普通の中国人とは全くかけ離れた生活をしているということを改めて実感した2週間でした。1日何百元もするホテルに住んでいる日本の大企業の社員は普通の中国人から見たらほとんど貴族のような生活をしていると言ってもいいでしょう。そして、そうした日本人の多くは中国の普通の人たちの生活を知る機会もないし、知ろうともしないというのが現実です。 日本での豊かな生活に慣れてしまった僕にとって、中国人と同じ生活を続けていくことは不可能でしょう。ただ、これから中国と深く関わっていくものとして、「普通の中国人」の存在を忘れてはならないし、彼らとの接点を持ち続けていきたいと思っています。そして、それが真の意味での日中友好への近道だと思います。 2000.2.11 第4回 過去の戦争に対する大きな認識の差 大阪市のピースおおさかで1月23日に行われた集会 「二十世紀最大の嘘 『南京大虐殺』 の徹底検証」 について、こちらの方の 「集会」 反応をご報告しておきましょう。
まず、中国政府の反応ですが、テレビや新聞では毎日のようにこの問題が大々的に取り上げられ、 「集会」 に対する批判と同時に、日本の政治家がこの問題についてどう発言したとか、新たに南京大虐殺を証明する資料が見つかったといった報道が連続的にされていました。 次に、学生の反応ですが、南京大学では抗議行動なども行なわれたようですが、武漢大学について言うと、表立った抗議行動というものは全くありませんでした。関心は比較的薄かったようです。友達に聞いてみると、 「集会」 についての情報自体を知らない人もいました。中国人学生の宿舎にはたいていテレビがないので、新聞を見ない限り情報が入らないということもありますし、期末テストの時期だったということもあったようです。ただ、留学生寮の前に 「集会」 を批判した新聞記事のコピーが貼ってありました。誰が貼ったのかはわかりませんが、やはり中には強い関心を持っている人があることも確かです。 ふだん中国人学生と話している時のことについて言うと、戦争のことを話題に持ち出してくる学生はほとんどいません。やはり、彼らとしても触れにくいようです。ただ、中にはやはりストレートに戦争について聞いてくる学生もいます。彼らの本音を知るには、もう少し関係を深めていくことと、語学力を高めていくことが必要なようです。 学生以外の人たちの反応ですが、僕が農村に行っている間、食事をしている時に何度か南京大虐殺に関するニュースが流れました。なんとも気まずい状況でしたが、僕が 「こういう人たちがまだ日本にいて本当に恥ずかしい」というと、友達のお父さんは、「これは歴史上のことだから、気にすることはないよ」と言ってくれました。また、別の人は「あなたのような後の世代の人たちの問題ではない」と言っていました。しかし、内心はどう思っていたか分かりません。 日本人の友達や先生の中には、タクシーに乗った時に 「集会」 の件でけんかを吹っかけられたと言う人もいました。やはり、反応は一様ではないようです。 仲のいい中国の友達は 「中国人の多くは日本人を恨んでいる」 と言います。それが、実態に近いかもしれません。 いずれにしても、戦争について日本人と中国人の間で大きな認識の差があることだけは確かです。 先日読んだ中国のある雑誌の中に韓国人のエッセイが載っていました。そこには「韓国人が一番尊敬するのはどこの国の人か?大多数の人はドイツ人と答える。なぜか?彼らは自分たちの過去の誤りを認める勇気があったからである。それに比べて、日本人はどうか?言葉の遊びにふけり、何とか過去を忘れさせようとしてきた」 と言ってことが書いてありました。これは韓国人が書いたものですが、中国人も同じように思っていることでしょう。 「いつまで謝ればすむのか」 などといっている人は、なぜ日本とドイツに対する評価がこれほど違ったものになってしまったのかを考えるべきだと思います。 2000.2.13 第5回 中国のマスコミ 今日は皆さんに中国のマスコミの現状についてご報告したいと思います。 マスコミは本来、権力を批判・監視する機能を持つ必要があること、にもかかわらず日本のマスコミの場合、記者クラブ制度などによってこの機能が全く骨抜きにされていること、こうしたことは多くの人によって再三指摘されてきていることです。
しかし、中国のマスコミについて言えば、現状は日本とは比較にならないほど深刻だと言わざるを得ません。中国のマスコミの役割―それは、政府の政策の宣伝に他なりません。最近になって「世論による監督」ということが中国でも言われるようになってきましたが、実質的には中国のマスコミはこうした役割をほとんど果たしていないといっていいでしょう。 中国のマスコミの現状は中国の代表的なニュース番組「新聞連播」を見れば端的にわかります。この番組は毎晩七時から中央電視台で三十分間放送されているもので、日本で言えばNHKの七時のニュースに当たるものと言っていいでしょう。 このニュースの内容のほとんどは中国の指導者が誰々と会談した、こういう講話をした、どこどこへ行った、共産党がこういう会議を開いたといったもので占められます。そして、特徴的なのはいいことは報道しても悪いことはほとんど報道しないということです。例えば、鉄鋼の生産がこんなに増えた、といったことはしょちゅう報道されますが、「政府の政策の失敗でこんな問題が起きた」といったことは決して報じられることはありません。 政府の政策を正当化するために極めて恣意的に情報が選択されているということも中国のニュースの特徴の一つでしょう。例えば、日本については最近よく「日本政府がオウム真理教に対する取り締まりを強化した」というニュースが取り上げられます。他に日本についてのもっと大きなニュースはたくさんあるのに、なぜこのようなニュースが取り上げられるのでしょうか?ここには明らかに中国政府の法輪功に対する取り締まりを正当化しようという意図が伺えます。つまり、「先進国」日本でも「邪教」に対する取り締まりを強化している。ならば、我々が法輪功を取り締まることが人権弾圧などとどうして言えようか、というわけです。実際、こうした情報操作は功を奏しているようで、中国の学生の中では法輪功=オウム真理教と同様な極めて危険な宗教、というイメージがすっかり出来上がっています。 ロシアのチェチェン紛争に関する報道が日本に比べてはるかに多いのも同じ意図によるものといえます。中国はロシアがチェチェンの独立運動を鎮圧することを支持しているのですが、ニュースも「ロシアがチェチェンの独立派を見事に押え込んだ」というような論調です。なぜ、こうなるのかというと、中国は新彊やチベットで独立運動が激化することを極度に恐れています。したがって、こうした独立運動を押え込むことを正当化する必要があるわけですね。だから、「ロシアだってやっているんだぞ」ということを言いたいがためにチェチェンのことを頻繁に報じているのだと言えると思います。 台湾の総統選挙について言うと、ほとんど無視に近い状態でしたね。ニュースではなんと各候補者の得票率だけを言って、十秒ほどで終わりました。そして、その後にどこどこの国が再度「一つの中国の原則」を支持したというニュースを滝のように続けざまに流しました。こうした報道の影響もあり、中国では「台湾が独立してもいい」などという人はほとんどいません。というより、まだ出会ったことがありません。かなり柔軟な考えを持った先生でも、この問題では絶対に譲る人はいませんね。それだけ教育と報道の影響は強いということでしょう。 中国のマスコミがこのようになってしまう根元にはやはり共産党の一党支配があります。この部分が変わらない限り、いくら「世論による監督」などと言っても問題は根本的には解決しないでしょう。 さて、随分と中国のマスコミの悪口を言ってしまったようですが、振り返って日本のマスコミはどうでしょうか?中国のマスコミに比べたら比較にならないほど自由な環境にありながら、自分たちの権益を守るために自ら政府に統制される道を選んでいるわけですから、ある意味では状況はさらに深刻と言えるかも知れません。中国のマスコミを批判するのは簡単なことですが、自分たちも似たことをやっていないのか、省みる必要があるのではないでしょうか。 2000.4.1 第6回 日中のナショナリズムをめぐって この一年間、南京大虐殺や台湾問題をめぐって日本でもさまざまな議論が繰り広げられてきたかと思います。それについて、中国にいる僕の眼から簡単に意見を述べさせていただきたいと思います。
まず、南京大虐殺をめぐる議論についてですが、一つ指摘しておかなければならないことは、日本で南京大虐殺をを「否定」する人たちが出てきたり政治家が失言を重ねたりすることについて、中国政府の一部の人たちは純粋に怒りを感じるというというよりもむしろ喜んでさえいるのではないかということです。なぜか?それは、こうした問題が起こればそれをナショナリズムの高揚に利用することが出来、同時に国民の政府に対する不満をそらすことができるからです。もちろん、中国の多くの侵略戦争の被害に遭った一般の民衆(中国では民衆を「老百姓」という)は純粋に怒りを感じていることは言うまでもありません。つまり、「中国」と一口に言っても決して一枚岩ではなく、官僚と「老百姓」では立場に違いがあることを見ておく必要があると思います。 ただ、こうした中国のナショナリズムを批判する人たちは往々にして自分の国のナショナリズム、また、自分の中にあるナショナリズムには全く無批判です。これでは中国政府のナショナリズムを批判することは出来ないでしょう。 次に台湾問題についてですが、誤解を恐れずに言うと、僕は石原慎太郎の台湾問題に関する中国批判については大体において支持することが出来ます。僕の基本的な立場はこうです。「台湾のことは台湾の人たちが決める」。彼らが独立を支持するなら独立すればいいし、統一を支持するなら統一すればいい。そう考えます。ですから、石原氏が中国の「最悪の場合武力で統一する」という考えを批判するのはもっともだと思うのです。これは民主主義の原則からして当然でしょう。問題は石原氏のこうした発言が民主主義を擁護しようという動機から出ているというよりも彼の国家主義的・拝外主義的な思想から出ているということです。 僕がこの二つの例を挙げて言いたかったことはこういうことです。僕は中国に来てマスコミの統制や強い国家主義的体質など悪い面をたくさん見てきています。これは南京大虐殺や台湾問題をめぐる報道にも言えることです。そして、これらは当然批判に値することです。ところが、中国のこうした面に対する率直な批判は、どうも石原氏を始めとしたいわゆる「保守派」(こうした安易な分類はあまり好きではないのですが)と言われる人たちからばかり出ているような気がするのです。 今必要なのは、中国の問題点も批判できると同時に自国の血塗られた歴史も率直に批判できると言う人ではないでしょうか。そうしないと、議論にどうもかみ合わない部分が出てくるような気がするのですが、いかがでしょうか? 僕が得ている情報というのは極めて限られたもので、ここで述べたことも極めて感覚的に述べたことに過ぎないので、批判などがあれば率直に出して下さい。 さて、最後にチベットについて中国ではどう報道されているか知りたいという要望があったので、ちょっと触れておきます。 実を言うと、僕の見ている範囲ではチベットに関する報道は最近ほとんどありません。当然と言えば当然でしょう。「チベットで暴動が起こった」などというまずい情報は中国では絶対に流されることはないからです。 チベットの政治機構の重要なポストは漢民族が押さえているという事実はあるようです。石原氏らが中国のチベット政策についてどう批判しているのか具体的には知りませんが、問題があるのは事実でしょう。 チベット「解放」が果たして「侵略」と言えるのかどうかは僕はチベットの歴史に関する知識がほとんどないのでわかりません。ただ言えるのはイデオロギーを抜きにしたところで歴史学的に厳密に検証していく必要があるということです。中国を擁護したい、あるいは批判したいという動機が最初にあって問題を見るならば、正しい評価は下せないでしょう。 少し長くなりましたが、今日はこの辺で。 2000.6.15 第7回 報道とナショナリズム
前回の『漢語迷の武漢日記』に対して次のような質問をいただきました。
「本文中にこのようにあります。 『それは、こうした問題が 起こればそれをナショナリズムの高揚に利用することが出来、同時に国民の政府に対する不満をそらすことができるからです。』 これは、何か具体的な新聞記事や事実によるものでしょうか?現地にいて、具体的な情報に接しておられると思いますので、そのあたりのことを、もう少し詳しくお教えいただけたら、幸いです。」 これはなかなか難しい質問ですね。というのは、中国指導部は「南京大虐殺について報道するのはナショナリズムを高揚させるためだ」などということは絶対に言うわけはないからです。ただ、私は以下の二つの理由からそのように言えると判断しました。
1.以前にも述べたように、中国のニュースというのは完全に共産党によって統制されたものであり、台湾問題・法輪功問題・チェチェン問題など、全ての報道の内容から抽出できる特徴として@中国政府の政策が正しいものであることを宣伝するA中国のナショナリズムを高揚させる、があること。したがって、南京大虐殺報道もその例外ではありえないこと。
2.中国の報道が日本の政治家の失言や「否定集会」など以外にも、強引とも言えるやり方で南京大虐殺についての記事を定期的に作り出していること。例えば、下の人民日報の記事を見て下さい。
「南京大虐殺」の新たな証拠、長春市で発見 中国侵略日本軍の「南京大虐殺」の新しい証拠が発見された。吉林省歴史資料館はこのほど、当時の「大阪毎日新聞」を一枚発見した。この新聞には南京で日本記者が目撃したことが掲載されている。 「昭和12年(1937年)12月23日」付けの「大阪毎日新聞」には「南京総攻撃観戦記(その3)」と題した記事が載せられている。作者の署名は「光本本社特派員」である。記事には、「特派員」は、中国侵略日本軍に伴って廃墟となった南京に入り、南京市内で中国の一般人や軍人が逃げまどい、死傷する現場、日本軍が略奪した軍備の数々などの「輝かしい戦果」、日本軍が威張って南京入りした情景など、見き聞したことが記載されている。 記事はこう書かれている。 「助川部隊と海軍に一掃された後の敗軍の死体は(下関埠頭付近の)この大通りから揚子江下流まで2、3里続いており、ある報告によると、死体数は全部で約3万体である。城内の掃除は14日午後5時に一段落した。」 「南京総攻撃以降の敵の死体についての最初の統計結果ではおよそ、城外攻撃を行なった3日で合計7万人を殺し、城内では合計1万5千人の敵を殺した。この他、生きて捕えられ、処置が不可能な敵は、各部隊合計で約1万2 千人……。」 紹介されたところによると、この新聞は、このほど傀儡満州国歴史資料で発見されたものである。「大阪毎日新聞」は「保存廃止」の本の間に挟まれており、どの資料にも「関東軍司令部満州航空株式会社」の「複製不可」および「秘」という字のある公印が押されている。日本で発行されたこの新聞は、当時の「満州航空株式会社」が日本から傀儡「満州国」の「首都」長春に持ち込んだものかもしれない。
「人民日報海外版」 2000年1月25日4面
私は今この『大阪毎日新聞』の記事の内容自体が正確なものなのかどうかを証明することは出来ません。しかし、今、問題にしたいのはそのことではありません。私が問題にしたいのは『大阪毎日新聞』の記事を人民日報が「新発見」としていることです。皆さん、考えてみて下さい。『大阪毎日新聞』の記事などというのは日本の図書館のどこにいってもごろごろしているわけです。日本の南京大虐殺について研究している学者もとっくにこうした記事は見ていることでしょう。中国では他にも「どこそこの農村のある家の軒下から古い新聞記事が発見された」といった類の報道が常に流されています。それを「新発見」などといって騒ぎ立てる意図は一体何なのでしょうか?これはもう純粋な意味で日本を批判しようという意図からではないことは明らかでしょう。真の意図はこうした情報が次々と流れることが中国政府にとって有利だからと言うほかはないのではないでしょうか。 こうした歴史学的に見て粗雑極まりない記事は国内的には効果を発揮しても、結果的には中国が自分で自分の首を絞めることにつながるでしょう。こんな記事を「自由主義史観」の人たちが見たら、「それ見たことか」とよだれを流して飛びつくことでしょう。そして、「中国はこんなデタラメなプロパガンダをしている」などといって小林よしのりが漫画でも画けば、みんな「なるほど、全くそのとおりだ。自由主義史観は正しい」ということになってしまうでしょう。
しかし、こうした中国の粗雑な記事をいくらたくさんあげつらっても、だからといって「南京大虐殺は幻だ」という証明にはならないことは改めて強調しておきます。他にもしっかりしてた歴史学上の研究があるわけですから、これは全く別の問題です。 話はそれますが、中国の報道がこんなに水準の低いものになってしまう原因としては@社会主義体制の中で作られてきたイデオロギー的な思考様式が科学的な思考を妨げていること。イデオロギーに支配された環境の中では、イデオロギー的に正しいことを言っていれば、科学的に厳密な証明がなくても許されるという傾向があるように思います。A一党支配の下では、粗雑な記事を書いても厳しい批判に晒されることがないこと。もし、こうした記事を批判したら、まるで「南京大虐殺を否定している」かのように言われるかもしれません。 中国がこうした状況を抜け出すにはまだ時間がかかると思います。 ちなみに、私が中国の学生と接する時にこの問題について取り上げる時、どのようにしているかということについて述べると、中国政府の南京大虐殺報道についての問題点を取り上げることはかなり慎重に行なっています。というより、あまり取り上げることはありません。なぜかと言えば、そんなことよりも日本の過去の歴史についての反省の態度を誠実に伝えることの方が先だと思うからです。多くの中国人学生はまだまだ日本人に対して根深い不信感を持っています。僕の友達は彼の友達から「なぜ日本人と付き合うんだ」と批判するそうです。そう批判する理由の中で歴史上の問題が大きな位置を占めていることは確かです。したがって、まずこの壁を破らなければ、中国政府云々を言っても、信用してもらえないのです。中国政府を批判するにしても、まず自国の歴史に対して誠実な態度を取ることが必要であることは再度強調しておきます。 さて、随分と話がそれてしまいましたが、「南京大虐殺について報道するのはナショナリズムを高揚させるためだ」という証明としては不十分かもしれません。あとは、中国で滝のように繰り返し流される同じような報道とそれに対する中国人のリアクションからその報道が発揮する効果を体得したとしか言いようがないものです。 2000.6.25 第8回 新彊の旅
敦煌の砂丘 (筆者撮影)
この夏休みを利用して新彊を旅しました。新彊というのは、シルクロードで有名な、中国北西部の地域です。ウィグル族などの少数民族が多い地域であり、独立の動きなどもあることは日本にいる皆さんもご存知でしょう。今回は旅行の中で、ウィグル族の方から漢族との関係などについていろいろと話が聞けたので、それについてご報告したいと思います。(なお、中国という国は言論の自由がない国なので、少数民族であるウィグル族が漢族を表立って批判することはかなり難しいことであることを前提にして読んで下さい。) 新彊の町トルファンはウィグル族の多いところです。最西端のカシュガルのような、ウィグル族がほとんどを占めているという町に比べるとずっと少ないですが、それでも半分ぐらいはウィグル族という感じです。街並みも漢族がほとんどを占めている武漢のような町とはだいぶ違っています。耳慣れないウィグル語も至る所で飛び交っています。 トルファンの古代都市遺跡 (筆者撮影)
トルファンは古代の都市遺跡など、数多くの観光地があります。私はトルファンに着いた初日に主な観光地を車でまわる一日ツアーというのに参加しました。その時に私の隣に座っていたのがウィグル族のAさんです。Aさんは見たところ、40歳前後の女性で、現在、深センで英語教師の仕事をしており、その同僚であるアメリカ人を案内するということで一緒に来たということでした。私はこれまでウィグル族の人と話す機会など全くなかったので、いい機会だと思い、ウィグル族と漢族の関係など、いろいろなことを聞いてみました。(もし、車の中に漢族が一人でもいたら、当然突っ込んだ質問は出来なかったでしょうが、観光ツアーということもあり、乗っていたのはウィグル族以外は全て外国人だったので、無理を承知でいろいろと聞いてみたわけです。) ウィグル族と漢族の関係について、彼女は「ますます悪化している」と答えました。この答えにはちょっとドキッとしました。なぜなら、それまでも行きの電車で会った何人かの漢族やウィグル族の運転手に同じ質問をしていたのですが、当然かもしれませんが、みんな「まあまあだよ」と言ってお茶を濁していたからです。(もちろん、本当にそう思っていた人もいたかも知れませんが)だから、「あまり良くない」と言うぐらいならまだしも、「ますます悪化している」という率直な言い方はちょっと驚きだったのです。悪化している理由として、彼女は新彊政府のウィグル人に対する差別的な政策、漢族優位の政策を挙げていました。具体例として、Aさんは自らの体験を話してくれました。 Aさんは大学受験の時、新彊のアクスという市でトップという、非常に優秀な成績だったそうなのですが、そのような優秀なウィグル族の学生には自分の専攻を選ぶ権利はなく、強制的に中国語学科に入れられてしまったというのです。これはどうやら新彊政府が優秀なウィグル族を漢族の側に取り込むための政策のようです。その時、 Aさんは悔しくて泣いたといいます。実は、Aさんはその時までは中国語はほとんど出来なかったそうです。(新彊には漢族の学校とウィグル族の学校があり、ウィグル族で六割ぐらいの人がウィグル族の学校に通っているようです。そして、ウィグル族の学校に通った人は、ほとんど中国語が出来ないという人が多いようです。Aさんもウィグル族の学校に通っていたので、大学に入るまでは中国語はほとんど出来なかったようです)その時、私の中国語がところどころ通じなかった理由がようやくわかりました。中国語は彼女の母語ではなかったのです。(ウィグル族は中国に住んでいるといっても、母語はあくまでウィグル語であり、日本人が英語を学ぶのと同じで、彼らにとって中国語は外国語に過ぎないといっていいでしょう) 彼女は「ウィグル族はウィグル族自身の歴史を知らない。教科書にあるウィグル族の歴史はすべて漢族の書いたものだ」と言っていました。「教育内容に対して、意見を出すことは出来ないのか」と聞くと、「新彊では全てのことは漢族が密室で決める。ウィグル族は全く口出しできない。もし口出ししたら、すぐに投獄される」と答えました。 他にも、パスポートの手続きが漢族に比べるとはるかに遅い、モスクに行かせないなどの状況があると言っていました。また、「ウィグル族は商売で人を騙すようなことはしないが、漢族はすぐに人を騙して儲けようとする」とも言っていました。車が油田の近くを通った時には「ここはもともとウィグル族の土地だった。なのに、石油が出たとたんに漢族がやってきて奪ってしまった」と怒っていました。彼女は本当に漢族を憎んでいるようでした。 彼女とはウィグル料理の店で昼食をともにしたのですが、この時もちょっとした民族間のあつれきを見ることになりました。私たちはパン麺という、ウィグル料理の麺を注文しました。この麺の中には本来、羊肉が入っているそうなのですが、どうも中に入っていたのが牛肉だったようなのです。彼女はそれに気づくとすぐにウェイターを呼び、「これは何肉だ」と尋ねました。ウェイターはちょっと困った様子で「羊肉です」と答えると、彼女は「絶対に違うわ。これは牛肉よ。これはウィグル料理じゃない!ここの店長は何民族?」とかなり強い口調で再度聞きました。ウェイターが「漢民族です」と答えると彼女は「やっぱり」と非常に不愉快な様子でした。この時、彼女の民族の文化に対する強いこだわりというものを感じました。 彼女から私へも質問がありました。「日本人と漢族の関係はどうなのか?」私は「多くの日本人は中国人との交流にあまり積極的ではない」と答えました。私はこれはあまり良くない意味で言ったつもりだったのですが、彼女の方はさも「それはそうだろう。漢族などとはうまく行かないのは当然だ」とでも言いたげな反応でした。これにもちょっとびっくりすると同時に、そこまで漢族を嫌っているのだと改めて感じました。 新彊の独立の問題についても、無理を承知で聞いてみました。彼女は「それは答えたくない。でも、それは極めて重要な問題だ」と答えました。かなり率直にいろいろと話してくれた彼女もこの問題になるとやはり慎重に答えざる得なかったようです。実は、この時から一週間ぐらい後に電車でであったウィグル族の学生たちにも、ノートに書くという形で「革命はウィグル人にとっても『解放』と言えるのか」といったことを聞いてみたのですが、「そういうことを聞いてはいけない」と言われ、答えてもらえませんでした。やはり、こうした独立に関わる問題は中国ではやはりタブーなようです。外国から来た私のような人間がぶしつけにこうした質問をすると、下手をすると彼らを身の危険にさらすことにもなり兼ねないので、その後はこうした質問をすることにはかなり慎重になりました。 ちょっと話がそれましたが、Aさんの話に戻すと、はっきりした言い方ではありませんが、彼女の志向は明らかだと思います。つまり、「重要な問題」というのは彼女は独立を志向しているということです。 もう一つ、日本の過去の中国侵略についてウィグル族としてどのように考えているか、ということも聞いてみました。それに対する答えは「日本人とウィグル族の間には何の問題も発生していない。だから、戦争に関しては何の感情もない」というものでした。つまり、彼らには日本に侵略された中国という国に属していたという感覚は全くないのです。これは、他のウィグル族の人に聞いてもみな同じ意見でした。考えてみれば、新彊は革命後に「解放」されたわけですから、当然かもしれません。ですが、今現在、南京大虐殺などをめぐって日本と中国の間でやりとりされていることも、彼らの多くにとってよそ事として映っていることは確かだと思います。 以上がAさんと話したおおよその内容です。この意見はある部分はウィグル族の多数の意見を代表しているでしょうし、ある部分はそうではないかも知れません。ですから、一人のウィグル族の意見として参考にしていただければいいと思います。 ウルムチ・天池 (筆者撮影) ツアーで最後の観光地を見た後、私が最初に車に戻ってきて、運転手と二人だけになったので、ちょっと話をしました。最初に「ウィグル族と漢族の関係はまあまあだ」と言っていた運転手です。ですが、この時はまる一日ツアーをともにしたことでちょっと打ち解けたせいか、少しだけ本音を話してくれました。「俺の仲間で政府に反対したわけでもないのに監獄に入れられているやつはたくさんいる。腹の中に言いたいことはたくさんある。でも、言いたくても言えないよ」 さて、今までウィグル族の反漢族意識と言えるものばかり紹介してきましたが、他の意見があることも紹介しておきましょう。ただし、これは電車の中で出会った在日韓国人の学生から聞いた間接的な話です。彼女がある上海で働いているウィグル人の女性から聞いた話は以下のようなものだったそうです。「小さい頃は漢族のことをずっと憎んでいた。でも、上海に行って仕事をするようになってから、漢族の方がウィグル族に比べてずっと勤勉に働いていることを知った。今は彼らを尊敬している。小さい頃の自分が恥ずかしい」 「ウィグル族は商売で嘘はつかない」というAさんの見方も一面的であることは指摘せざるを得ません。これは私自らの体験です。私がトルファンに来て二日目にウィグル人の車に乗って砂漠に行くツアーに参加することになりました。元々の約束では人数の多少に拘わらず150元でいいということでした。ところが、車に乗ってから、一人のキャンセルが決まると急に態度が変わり、「一人200元だ。いやだったら下りたっていいんだぞ。自分じゃもう車は見つけられないぞ」と脅すような言い方で言ってきました。これには腹が立ちましたが、ここで言い争って、ギスギスした関係のまま長時間を共にするのはたまらないと思い、ついつい妥協してしまいました。でも、後で考えると、こうした場合は絶対妥協してはいけませんね。それはさておき、これ一つの例を見ても、「ウィグル人は商売では嘘をつかない」というのは一面的であることがわかると思います。どうやら、どの民族も、自民族をいいように見てしまう傾向は避けられないようです。もちろん日本人も含めて。 漢族のウィグル族に対する見方も一つ紹介しておきましょう。電車で出会ったある漢族の学生は「ウィグル族は羊肉ばかり食べているので臭いからいやだ」と言っていました。こうした見方をどれだけの漢族がしているのかわかりませんが、こういう見方をしている人もいるのも事実です。 電車の中で出会ったばかりの漢族とウィグル族の人が昼間から仲良くビールを飲み交わしているのも見ました。全般的に見ると、やはり漢族は漢族、ウィグル族はウィグル族で固まっていることがほとんどですが、こんな場面が見られたのも事実です。 カシュガル・エイティガール寺院 (筆者撮影) 今回の旅では、新彊の中ではトルファン以外にもウルムチ・カシュガルを訪れましたが、特にカシュガルはとても中国の一部とは思えませんでした。ほとんど外国ですね。なぜなら、先ほども述べたように、ウィグル族がほとんどですし、中国語もホテルは別として、街中ではほとんど通じないからです。中国語を話すことが後ろめたく感じさえします。歌謡曲のテープなども漢族の歌っているものはほとんど売っておらず、みんな今までは聞いたことも見たこともないウィグル族の歌手のものばかりです。これは漢族が大多数を占めている街しか行ったことのなかった私にとってはちょっとしたカルチャーショックですね。 大陸と台湾の間では、歌・映画・ドラマなどの文化的交流はかなり進んでおり、政治的な国境はあっても文化的な国境はかなり低くなっていると言えます。例えば超人気歌手・張恵妹は台湾人ですし、超人気ドラマ『還珠格格』もやはり台湾制作のドラマです。そうしたものがどんどん大陸に入ってくるわけです。ところが、新彊は台湾とは逆に政治的国境はなくても文化的な国境は非常に高いという気がしました。やはり、民族の壁は厚いですね。世界中で民族紛争が起こる理由も理解できます。 さて、ここまで新彊についていろいろと報告させていただきました。出来るだけいろんな面から報告したつもりですが、それでも、これは私が旅行というわずかな期間に接したほんの一面に過ぎません。したがって、これをもって新彊の情勢がどうなのか、ウィグル族が何を望んでいるかということを簡単に論じることは出来ないと思います。ただ、少なくともこのような考えを持っている人たちがいるということで一つの参考にしていただけると幸いです。 2000.8.1 第9回 英語のカリスマと民族主義
先日、武漢大学で李陽(リーヤン)の講演会がありました。彼は英語をネイティブ並みに話せるということで、大学生の間ではカリスマ的存在になっています。彼は「クレイジーイングリッシュ」という雑誌を出していて、この宣伝も兼ねてあちらこちらで講演会を行なっています。この日の講演会にも恐らく数千人の学生が集まったと思います。 講演の主な内容はどうしたら英語がうまくなるかということなのですが、さすがに講演慣れしているだけあって、ユーモアも交えたなかなか面白いものでした。ただ、彼が「単語は単独で覚えるのではなく、必ず文の中で覚えること!」とスローガンを唱えると、みんなもそれを復唱するといった感じで、何か宗教団体の集会のような雰囲気もありましてた。 そして、僕が最も不愉快に感じたのは、李陽が学生の民族意識を高揚させることを通じて彼らを引き付けようとしていたこと、その手段が他民族を侮辱することであったことです。彼はこう言いました。「日本人は欧米人を大変崇拝している。それはかつて原爆を落とされたため、彼らを恐れているからだ」 僕はこの言葉を聞いた時、非常に複雑な気持ちになりました。多くの中国人が日本に対して怒りや恨みを今でも抱きつづけていることは理解できるし、当然のことでしょう。しかし、この李陽の言葉はそうした中国人の立場をもってしても許されるものではないと思います。もし、広島・長崎の被爆者がこの言葉を聞いたらどう思うでしょうか。被爆者の多くも侵略戦争を止められなかったという意味では責任がなかったとは言えませんが、多くの人は侵略には直接関わっていない無辜の市民だったわけです。その被爆者に対して「原爆を落とされたゆえに欧米人を崇拝している」などというのは彼らに対する侮辱としか言いようがないでしょう。 さて、僕がここでこんな例を挙げたのは、別に反中感情を煽るためではもちろんありません。こうした、他の国・民族をこき下ろし、自分の国・民族だけは何か特別で素晴らしいかのように言う偏狭な民族主義者がどこにでもおり、それがまた相手方の偏狭な民族感情を刺激するという悪循環の中で、友好を台無しにしているといいたいのです。日本では南京大虐殺を否定したりしている人たちがまさにこれに当たるでしょう。 僕はこうした民族主義の土俵に乗ってしまってはいけないと考えます。そして、こうした李陽のような中国人の発言に対しては、日本人としての民族感情から批判するのではなく、偏狭な民族主義に反対するという立場から批判する必要があると思います。 講演の終わった後、一緒に講演を聞いた歴史学科の友達(中国人)と話をしました。彼は言いました。「中国・日本、どちらにも『自分の国こそ一番』という民族主義の力が強い。そして、自分たちのようにその中間に立つ勢力は最も力が弱い。これは大きな問題だ。しかし、この『自分の国こそ一番』という考え方は多くの人にとって容易には放棄しがたい」 僕は、今後の日中の友好のためには、日本が過去の侵略戦争の歴史をはっきり認めるという前提の下、お互いを尊重しあい、民族主義の渦に巻き込まれない様にすることが大切だと思います。 2000.11.12 第10回 中国の大学の腐敗 今日は中国の大学の腐敗についてご報告します。
中国の幹部の汚職・腐敗がかなりひどいものであることは皆さんも新聞などを通じてご存知だと思います。最近も元全人代の副委員長が汚職の結果、死刑になったという事件も記憶に新しいでしょう。 しかし、こうした腐敗はなにも政治・行政分野に限ったことではありません。中国はでは改革開放政策が開始されて以降、ようやく「法治」が強調されるようになりましたが、それが社会の末端まで浸透するには程遠い状態にあり、コネ・人脈がものをいう著しく不公正な社会になっています。 大学もこうした問題が典型的に現れる場所の一つです。なぜなら、いかなる大学に入ったか、いかなる学位を獲得したかということは、中国においてはその人の将来を決定的に左右してしまうほど重要だからです。 昨年、ある修士の学生の死体が近くの湖で発見されました。学校側の説明によると、彼は博士の試験が不合格で、落胆して泥酔した末、湖に転落して死亡したということだった様です。しかし、多くの人の話では実態は違うようです。 ある人の話によると、博士の試験というのは著しく腐敗しており、例えば先生と人脈があれば、事前に試験の問題を手に入れることさえ非常に簡単なことだそうです。また、元政府の幹部だった人などは、車を先生に贈ったりして、点数に関わらず合格しているそうです。 先ほどの修士の学生はそうした大学の腐敗した実態を知り、怒りのあまり自殺したというのが本当のところのようです。 この事件の実態については、実際にいろいろと調査しなければ断定することは出来ませんが、先ほど述べたような腐敗があることは確かです。 留学生の先生の身の回りでもこうした事例は事欠かないようです。例えば、留学生の先生に対しては、アメリカへの公費留学の割り当てやアフリカなど海外での中国語教師の割り当て(中国で教師をやるよりもはるかに待遇がいい)などが時々あるのですが、こうしたことも、本来なら試験などを通して公正に決めるべきことです。ところが、実際にはこうした割り当てがあることすら公開されず、事務室と関係のいい先生との間で秘密裏に決められることが多いようです。そして、この先生の運命を握る、比較的権力の大きい事務室の人も、ほとんど人脈で入ってきた人ばかりのようです。 多くの優秀な学生は、こうした不公正に嫌気が差して、海外に行くことを志しています。中国政府は人材の流出を防ぐために、海外に留学する人には約8万元(日本円100万円に相当)を保証金として収めさせ、帰国した者にのみ返金するとしています。平均月収が500元の中国において、この額がいかに巨額かわかるでしょう。それでも多くの学生は海外に残ることを選択します。 このように、中国社会の腐敗・不公正は中国の発展の大きな障害になっていると思います。しかし、この問題の根は非常に深いものがあります。なぜなら、法を公正に執行するには司法機関の独立が必要ですし、腐敗を監視するにはマスメディアの言論の自由が必要ですが、これらは全て一党独裁に関わる問題だからです。 しかし、今の体制の下でも、許容される部分は増えてきていると思います。また、中国の発展を考えれば、そうなることは必然だと思います。 2000.12.11 第11回 週間新聞『南方周末』は面白い 一党独裁の体制下にある中国ではマスコミに対する統制が厳しいことは以前にも述べた通りです。昨年もインターネット上のニュースや議論に対する規制が強められました。
しかし、だからといって中国の全てのマスコミが政府に都合のいい情報だけを垂れ流しているだけだと考えるならば、それもまた誤りです。 確かに共産党の機関紙『人民日報』などは政府に都合のいい情報のみを流している典型的新聞といえるでしょう。その内容は「江沢民がこんな講話をした」「李鵬がどこどこの首相と会談して『一つの中国』の原則を確認した」「政府がこんな成果を挙げた」「中国はこんなに発展している」といった内容ばかりです。僕が中国に来たばかりの頃、「中国の新聞といえば『人民日報』」と思い、早速とり始めたのですが、あまりのつまらなさに一ヶ月でとるのをやめました(ちなみに意外かもしれませんが、中国の一般の人の中で『人民日報』を読んでいる人はほとんどおらず、街なかの新聞スタンドにも置いていません)。 しかしその一方で、政府の統制という枠の中にあっても、少なくとも地方レベルの政府に対してはかなり鋭い批判を繰り広げている新聞もあります。その代表的新聞が『南方周末』です。武漢以外に北京・上海・広州など全国の主要都市で販売されており、発行部数は150万部に達しています。収入が少ないため回し読みが多い中国において、実際の読者数は700万人以上に上るようです(当紙アンケート調査による)。それだけ支持を集めているわけです。週間新聞なので、情報のスピードには欠けますが、その分問題に対する考察が深められているように思います。実際にどんなことが書いてあるか、ここで例を挙げて紹介します。 昨年末、中国の古都・洛陽のデパートで大規模な火災があり、最上階のディスコでちょうどクリスマスパーティーが開かれていたことあり、309人もの犠牲者を出したことは日本の新聞でも報じられていたので、ご存知の方も多いと思います。 この火災の直接の原因としては、ビル内装会社が免許のない作業員にハンダ付けの作業をさせ、その際に出た火花がソファーに引火し、大火災に至ったとされています。彼らは火の手を止められないのを見ると、何の通知もせずに直ちに逃走したことが犠牲者を増やしました。 しかし『南方周末』は「確かに火災の直接の原因は彼らにあるといっても間違いではないだろう。だが、これだけでは309人もの犠牲者を生み出した惨劇の原因というには不十分だろう」と追及を深めていきます。そしてまず「もし東都デパート・東都ディスコ(火災の起きたデパート・ディスコの名前)の消防安全施設が法律の定める条件を満たしていたならば……このような重大な結果には至らなかっただろう」 と、デパートのずさんな消防設備がすでに火災の芽を孕んでいたことを指摘します。 では、こうしたずさんな消防設備がなぜ放置され続けてきたか?実は洛陽の消防当局はこのデパートの危険性には四年も前から気づいており、何度も警告を発してきたこと、そして昨年12月1日には市政府に対してデパートを営業停止処分にするよう要求していたこと、それに対する政府の判断がもたついている間に火災が発生してしまったことを『南方周末』は指摘しています。では、市政府はなぜデパートに処分を下すことに消極的だったのか?この点を『南方周末』はさらに追及していきます。そして、その原因を次のように述べています。「実は火災で死亡したデパートの店長は表向きの店長で、裏の店長は市政府幹部の嫁だったのである。昨年、河南省テレビの番組で東都ディスコの消防施設が不合格だったという報道がされた後、洛陽市のある幹部が消防当局に対しディスコを営業停止にしないよう要求していたのである」 つまり、市政府幹部とデパート・ディスコとの癒着が今回の大惨事を生み出した根本的な原因だというのです。さらに『南方周末』はこのデパート以外にも、公安部門・検察部門・法律部門関係者の親戚や友人が経営するディスコ・娯楽施設に対しては非常に甘い管理しか行なわれていないことを指摘しています。 そして、最後に現地に詳しい記者の言葉を引いて、次のように締めくくっています。「ある政府部門は人民から与えられた権力を私的権力とみなし、管理機能を行使する際に最も重視していることはいかに多くの金を徴収するか、どうしたらより多くの利益を獲得できるかということであり、いかに有効に管理するかということではない」「彼らにとっては指導者の鶴の一声が法律制度よりも重要なのである」 このように、『南方周末』は市政府に対して容赦ない批判を繰り広げています。 もちろん、中国においてはこうした批判を中央政府に向けることはそう簡単なことではないでしょう。また、台湾問題や法輪功の問題について中央政府の見解に反することを言うことは『南方周末』であっても絶対に不可能です。これが中国における言論の自由の限界です。 また、先ほどの政府批判にしても、多分に現地の人の「噂」に基づいているものもあり、必ずしも厳密な資料的裏付けに基づいていないという問題点も指摘できると思います。 しかし、「言論の自由が完全に保障されている」日本の新聞の堕落ぶり、権力との癒着ぶりと比較した時、「一党独裁」下にある中国の『南方周末』の方がはるかに面白いといえるのではないでしょうか? 2001.1.12 第12回 中国人とは一体?
最近、読者の方から「もう少し身近な話題があった方がいい」というご意見をいただきました。もっともなご意見で、これまでは「日記」と言いながら、政治やマスコミの問題など、固めの問題、日常生活からかけ離れた問題に話題が集中していたと思います。ただ、これまで何となく日常的な問題を書くのを避けてきた理由は、こうした問題を書くと、率直に言ってどうしても中国や中国人に対するぐちが多くなってしまうということ、それが中国によく通じていない人にとっては何か中国人を差別しているのではないかと誤解されることを恐れていたということがあります。ただ、僕の考えとしては、相互の問題点を率直に批判し合うことが真の友好であり、お互いを過度に持ち上げることが友好ではないと思っていますし、せっかくこういったご意見もいただいたので、今回は中国人に対する率直な苦情を書きたいと思います。
中国に来てまず驚くことは、何といってもデパートなどの店員の態度の悪さです。仕事中に食事をしたりお茶を飲んだりということはごく当たり前に見られる光景です。少し暇になると店員同士で大声でおしゃべりを始めたり、居眠りを始めます。そんな時、こんな多くの人は必要ないのではないかといつも思います。おつりは大体投げて渡します。一言で言えば、中国には「お客様」という概念がないのです。売ってやっているという感じですね。 レストランの店員の態度もひどいものです。以前、湯包(タンパオ)という、ショーロンポーに似た武漢名物の有名な店にいきました。三品を注文し、先払いだったのですが、30分たっても二品しか来ません。何度も催促したのですが、「もうすぐ出来るから」の一点張り。そうこうしているうちに、とうとう一時間が過ぎました。業を煮やし、再度催促したところ、何と店員は傲慢そのものの態度で、「あなたたちは二品分の金しか払っていないから、二品しか出せない」と言ってきたのです。何のことはない、店員が計算を間違えて、二品分の金しか取っていなかったのですが、それをまるで僕らのせいであるかのように言ってきたのです。それも、何度も催促した末、一時間もたってからです。その時はさすがに「だったら何度も催促しているんだから、早く言え」と怒鳴りつけました。しかし、彼女は何の申し訳なさそうなそぶりも見せませんでした。これには本当に腹が立ちました。 これに類したことは何も特別なことではなく、中国では日常茶飯事です。こんな話をしていると、僕は中国に来たばかりの頃に書いた、中国人のウェイトレスを土下座させて日本人ビジネスマンが強制退去になった事件を思い出します。あの時僕は、これは日本人の傲慢だ、と書きました。実際、日本人のビジネスマンの一部に中国を見下す態度があることは事実です。ただ、中国に来て一年半もたった今からあの事件を考えてみると、細かい事実関係を見なければ、一方的に日本人側が悪いとは断定できないというふうに思います。なぜなら、もしウェイトレスの態度が先ほどの湯包レストランの店員の態度と同じようなものだったら、土下座までさせるかは別としても、怒鳴りつけたい気分になるのは当然だと思うからです。それは、相手が中国人であろうが、日本人であろうが、何人であろうが同じです。 さて、次に僕が中国人の悪しき習慣として挙げたいのは、彼らが列を作らないことです。例えば、郵便局などに行くと、いつも窓口の前はダンゴ状になっています。後から来た人が平気で横入りしてきますし、もう僕が窓口で荷物を受け取る書類を出しているのに、それでも横から手を突っ込んできて、自分の順番を先にしようとします。僕はこういう時、「列に並んで下さい」というのですが、ほとんどの中国人はこうは言いません。横入りには横入りで対抗するだけです。これには本当に閉口させられます。 もう一つ僕が耐え難いのは、中国人がゴミをごみ箱に捨てないことです。こういうと、「それは日本も同じだ」と言う方もいるかもしれません。しかし、中国の状況はとても日本の比ではないと言えます。例えば、電車に乗ると、彼らは果物の皮やひまわりの種(中国人はひまわりの種を食べるのが大好きです)の殻などをすべて床に捨てます。清掃員が頻繁に、大量のゴミを片づけますが、瞬く間に床が汚れていきます。新彊に行った時などは、スイカの皮や弁当の箱を車窓からポイポイ投げていました。洪水で電車が12時間止まった時の惨状はすごいものでした。窓の下は弁当箱・缶・ペットボトル・果物の皮などでゴミの山と化していました。本当にこの時は絶望的な気分になりました。 他にも挙げればきりがないので、これ位にしておきます。 もちろん、こうした中国人の公衆道徳の無さには義務教育ですら受けることの出来ない多くの貧困人口が存在することなど、やむ得ない事情も影響しているかも知れません。しかし、他の発展途上国の状況を聞いてみると、ここまでひどくないようなので、やはり原因をここに帰すことはできないようです。 また、「中国人は……」とは言っても、そうでない中国人、またこういう中国の現象に対して批判的に思っている中国人もたくさんいることも確かです。しかし、圧倒的多数は先ほど言ったような状況にあるのも事実です。 僕は中国のこうした現状を見て、ちょっと不思議に思うことがあります。なぜなら、中国では社会主義革命以降、「人民に奉仕する」ことが重要なスローガンとなり、「公」の「私」に対する優位性が常に強調されてきたからです。それなのに、現在の中国においてはなぜこんなにも「私」が突出した形で現われ、「公」がこんなにも軽んじられているのでしょうか? この点について、僕は先日、「中国近現代政治思想史」の先生に聞いてみました。先生によると、中国では例えば「雷峰(自分の生命を犠牲にして他人の命を救った英雄)に学べ」運動のように、社会主義の理想のために死を恐れないといった大きな意味での「公」は強調されても、公共道徳のような身近な意味での「公」はほとんど教育されてこなかったと言うのです。また、中国人の中には「公」と「私」という概念が極めて希薄で、明代になってようやくこうした考えが出たきたが、それもあまり普及しなかったとも言っていました。つまり、現代の中国人の公共道徳の欠如はこうした中国の伝統的な思想に由来していると言うのです。 これは一つの見解ですが、まるで自分の家にいるような感じでご飯を食べたりお茶を飲んだりおしゃべりを楽しんでいる店員たちを見ていると、「公」と「私」の区分がないというのはうなづけるところです。 さて、こんなふうに書くと、中国というのは何とひどい国だと思うかも知れません。実際、中国に様々な意味での期待や幻想を抱いてやって来た旅行者や留学生の中には失望して帰って行く人も少なくありません。 では、僕は?こうした中国人のいやなところも含めて受け止めて、悪いところは悪いとはっきり言わせてもらって、彼らともっと深く付き合っていきたいと思います。実際、そうする中で彼らの様々ないい面も見えてきます(その点はまた別の回に触れます)。逆に日本に対する歴史問題や最近度重なる中国人に対する差別問題(これも、別の回に触れる予定です)などに対する批判があれば正面から向き合っていきたいと思います。こうして、何やら「日中友好」という曖昧な美辞麗句の下にお互いをたたえ合うというような関係ではなく、率直な批判をし合える関係を作っていきたいと思っています。 どうも、日常的な気軽な話題と思って書き始めたところ、結局何だか大袈裟な締めになってしまいましたが、今日はこの辺で終わりにします。 2001.3.1 第13回 広州の春節 随分前のことになってしまいましたが、今年の春節のことをまだご報告していなかったので、ご報告します。
今年の春節(旧正月)は昨年の農村とはうって変わって、中国でもっとも経済の発展している地域の一つ、広州の友達の家で過ごしました。 この友達は、昨年の夏休みに洛陽を旅行した際に知り合った中国人学生の一人です。 僕は今年もぜひとも中国人の家で春節を過ごしたいと思っていたのですが、躊躇もありました。やはり、春節は家族水入らずで過ごしたいだろうし、そこへよそ者がいきなり入っていくのは失礼だと思ったからです。ましてや、昨年の友達とは違って、広州の友達は旅行で一度会っただけでした。しかし、大都市の春節がどんなものか見てみたかった僕は無理を承知で春節をともに過ごすことを頼んでみたのです。 すると、彼女は快く受け入れてくれ、わざわざ僕のためにベッドを一つ空けてくれ、そこに数日間泊めてくれました。こうして昨年に続き、今年も中国人とともに春節を過ごせることになったのです。 それにしても、広州人の春節の過ごし方は農村とは全く違っていました。一言で言えば非常に淡白なのです。昨年も書きましたように、農村では普段の食事が質素そのものなので、春節の時の料理の豊富さは際立っていました。ところが、広州では除夕(大晦日)の料理も正月の料理も普段と大した違いはないようでした。この時だけで比べれば、むしろ農村の料理の方がはるかに豪華だったと言えるでしょう。 日本人が大晦日に紅白を見るのと同じように、中国人もほとんどの人が大晦日に「連歓晩会」という、歌・漫才・コントなどの有名人が次々出てくる番組を見ます。その視聴率はなんと97〜8%という驚異的なものです。ところが、広州人はあっさりしたものです。彼らは広東語がわかり、香港のテレビ局も受信できるため、「晩会」始まってしばらくすると、さっさとチャンネルを変えてしまい、香港のテレビを見始めました。そして、それも見飽きたらしく、今度はVCDを見始めました。そして、しまいには、驚いたことに、21世紀最初の正月を待つことなく、つまり、12時が過ぎるのを待つことなく、みんなさっさと寝てしまいました。取り残された僕も仕方なく、年を越すことなく床につきました。 昨年農村で春節を過ごした時は爆竹が至るところで鳴り響いていました。 中にはまるで大砲を発射したかのような馬鹿でかい音のするものがあったり、また、平気で爆竹を人の方に向けて投げて来る人もいるので、耳を塞いでびくびくしながら歩いたものです。しかし、毎年のように死傷者が出るので、現在大都市においては爆竹は禁止されています。ですから、広州の春節は非常に静かでした。 僕の過ごしたのは広州の一家庭に過ぎないので、みんながみんなこんなに淡白なのかはわかりませんが、友達に聞いてみたところ、広州人の春節は総じてこんな感じなようです。 それにしても、この友達は僕のために本当に心を尽くしてくれました。「広州には面白いところはない」といいながらも、自ら計画をたててくれ、博物館・花市(広州では年末に花の市をやるのが恒例になっていて、その際には膨大な数の露天が出る)・花車巡遊(広州各地域の山車や龍などが出て、道路を練り歩く)・春節晩会(歌・楽器・漫才・雑技・花火などの出し物がある)などに連れていってくれました。どうやら僕のために事前にどこで何があるかということを全部調べておいてくれたようです。 部屋にいても、「洗濯物はないか」と聞いてくれ、遠慮がちに出すと、次の日には全てきれいに畳んで返ってきました。食欲がなかった日は「うちのものが口に合わないんでしょう」といってパンをわざわざ買ってきてくれたり、胃薬をくれたりしました。 彼女のお兄さんは「日本食が恋しいだろう」といってわざわざ僕を遠くの日本食の店まで連れていってくれ、うな丼をご馳走してくれました。 日本であれば、一度しかあったことのない人を正月に何日も泊めるということだけでもちょっと考えられないことのような気がします。それなのにここまでしてくれるとは……。本当に感激でした。同時に「どうしてここまでしてくれるのか」と考えました。 人によっては多くの中国人に共通しているこうした親切さには「必ず何か打算がある」と言います。しかし、僕はこの考えには同意しません。ビジネスにおける関係ならいざ知らず、学生同士の関係で、しかも遠く離れたところに住んでいる以上、リターンが得られる保証など何もないからです。 僕はこれは中国の一つの文化なのだと思います。そして、これは前回描いた中国人の負の面とは違ったもう一つの一面なのです。 そうした中国人の一面を改めて見た今回の春節でした。 2001.4.4 第14回 ある大学の先生
中国は事実上の一党独裁の国家であり、マスコミなどの報道がかなり統制されていることはこれまでの日記の中で述べてきた通りです。
しかし、その中国の中で、大学という場はかなり自由な領域と言えるでしょう。中国人学生との間で共産党の一党独裁を問題にするなどということはごく普通のことですし、僕が先生に「台湾が独立するか統一するかは台湾の人たちが決めることではないか」などといっても、当然、反論はありますが、それが問題になるということありません。学生共産党員が共産党を批判するということも珍しくありません(日本なら、共産党員になるというのは何か特別のことのような気がしますが、中国では学級委員や班長になる程度のことと考えていいでしょう)。 大学の講義も、人によってはかなりズバズバと現在の中国・中国政府を批判しますし、中国人学生たちが高校までに叩き込まれてきた公式見解とは全く違った考え方を展開していきます。 そんな中で、今回はそうした先生の一人、A先生を紹介したいと思います。(念のため、講義名は控えます。) A先生は日本にも留学経験があり、最初の授業の時も僕が日本人だと知ると、親しげに話し掛けてくれました。「日本の留学生とぜひ交流したい」と向こうから積極的に提案してくれ、交流会を開いたこともあります。 日本の大学にいた時は、大学の教授というと、敷居が高く、何だか近づきにくいという人がほとんどでしたが、この先生には少しもそういう所がありません。本当に気さくな人です。毎週授業が終わると、いっしょに話をしながら帰ります。 講義の内容は歯に衣を着せないものです。「中国政府は李洪志(法輪功の指導者)を批判するが、個人崇拝を推進しているという意味ではかつての毛沢東と何の違いもないじゃないか」とか「中国共産党の力で日本を追い出したというが、本当なのか。アメリカやソ連の力があってやっと勝ったというのが実情ではないのか」などと平気で言います。こんなことは以前紹介した『南方週末』も含め、マスコミは絶対に言えないことです。生徒の中にもさすがに「先生、ちょっと注意した方がいいですよ」と心配して言う人もいるそうてす。しかし、先生は全くお構いなしの様子です。 そんな先生の講義の中で、非常に印象に残った話があります。先生は、ハナ・アーレント(有名のドイツのユダヤ人女性思想家)が「あんな少数のナチスにあれだけ大量のユダヤ人が殺戮されたのは、ユダヤ人の側にも問題があるはずだ。ただナチスの残虐性を問題にするのではなく、ユダヤ人自身の弱さ、問題点も追究しなければならない」という趣旨のことを述べて、轟々たるユダヤ人からの非難を浴びたことを例に挙げながら、次のように言いました。「今の中国人もこの時アーレントを批判したユダヤ人に似ている。日本の過去の侵略は頻繁に問題にするが、大躍進や文革など、自民族の汚点についてはすぐ忘れてしまう。文革の被害を展示する記念館の計画も進んでいない」と中国人の「歴史健忘症」を痛烈に批判しました。 ここで早合点して「その通りだ。中国はいつまで日本の侵略について謝罪を求めるつもりだ!もっと自分の国の問題を見ろ」などと決して言わないでいただきたいと思います。もしそのように言うならば、この先生の言うことを全く理解していないことになります。 誤解しないでいただきたいのは、A先生が決して日本の侵略を決して軽く見ているわけではないということです。彼が日本への留学経験した際、ある公園で老人がバーベキューをやりながら中国での戦争体験を自慢げに語るのを見て、日中間にある戦争認識の絶望的な溝を感じたと言います。しかし、彼はそうであるにもかかわらず、なおかつ中国人自らを痛烈に批判しているのです。僕はこの懐の深さに敬服せざる得ません。僕は多くの日本人は彼のような懐の深さに学ぶ必要があると思います。 彼は「歴史健忘症」はアジア人に共通した特徴だ、と言います。僕もそう思います。「日本は過去そんなに悪いことはやっていない。中国はこんなにひどいことをやっている」と他国・他民族の罪悪だけを批判し、自国・自民族の罪悪を顧みない人が日本にもどれだけたくさんいることでしょうか。先生が批判したのは、まさにどの民族・どの国家の中にもあるこうした態度なのです。 僕は日中双方の偏狭な民族主義と「歴史健忘症」が果てしない悪循環を形成しているのが現状なのではないかと思います。 日中両国が自己の誤りに謙虚に目を向けることが出来るようになった時、真の日中友好が可能になるのではないかと思います。 2001.4.18 第15回 ある大学の先生 2
以前の日記の中で、「中国のマスコミが頻繁に南京大虐殺を始めとした日本の侵略の事実について報じるのは、国民の民族感情を煽る意図があるのではないか。中国政府と、純粋に日本の侵略に対して怒りを感じている一般の国民との間には差があるのではないか」といった内容のことを書いたことがあります。
この点について、前回ふれたA先生にどのように思うか先日聞いてみました。A先生なら比較的客観的かつ冷静な見解が聞けると考えたからです。しかし、それに対する先生の見解は正直に言って意外なものでした。「そのような意図はほぼないといっていいだろう。政府・マスコミは中国の国民の怒りをそのまま代弁しているに過ぎない。いや、それどころかむしろ抑制して表現しているとすら言える」先生によると、日中両国の経済を始めとした関係がこれだけ密接になった今、中国政府は日本との関係をこじらすことなど望んでいないというのです。しかし、中国政府が何よりも恐れているのは、過去の日本の侵略、あるいはそれを否定・隠蔽するような発言・行為に対して弱腰の態度を取ることで国民から「売国」という目で見られることだといいます。つまり、五四運動の時のように、最初は外国に向いていた矛先が最後には自らに向けられることを最も恐れているというのです。 僕はこれを聞いて、目からうろこが落ちたような気持ちになりました。なぜなら、これまで中国が事実上の一党独裁であることから、政府が国民の思想・意識・感情・行動などをコントロールしているという面、つまり上から下へという面ばかりに目が行き、逆に国民の意識が政府に与えている影響という面、つまり下から上へという面にあまり目が行っていなかったからです。考えてみれば、いくら一党独裁と言っても、国民を統制するばかりで、民意を反映することがなければ、しだいに支持を失い、その存在基盤を自ら掘り崩すことになります。 NATOがユーゴの中国大使館を空爆(誤爆?)した時も、政府が学生らの運動を煽っているという見方が日本でもかなりありました。しかし、これについても先生は「反米の運動は学生の中から自然に起こったものだ。政府は運動を煽るどころか、むしろ学生の運動が急進化するのを恐れ、それをある程度秩序だった、抑制したものにするために介入したのいうのが現実だ」 同じことは、最近起こった米中機の衝突事件についても言えるといいます。ニュースなどで「アメリカがついに謝罪した。これはわが民族の偉大な勝利だ」などとアナウンサーが言っているのを見ると、中国政府が国民の民族感情を煽っているように見えますが、国民の感情を代表して言っているだけで、実際には政府としてはあまりアメリカとの関係をこじらせたくないし、穏当に問題を解決したいというのが本音だと先生は言います。 つまり、これらの流れを大きく規定しているのは決して中国政府ではなく、中国の国民だということです。 話を日中関係に戻すと、先生は「最近の歴史教科書問題を始めとした一連の問題の中で、中国人の日本に対する怒りはどんどん高まっている。そして、これは決して中国政府に煽られたものなのではなく、ごく自然の怒りだ。多くの人が、かつて周恩来が日本にからの賠償を放棄したことに疑問を持ち始めている。日本は「以怨報徳」(恩を仇で返す)だと多くの人が感じている」 前回にも述べたように、A先生は自国・自民族に偏った見方を決していない人です。その先生が怒りを隠し切れない様子でこう言った時、僕はその言葉を重く受け取らざる得ませんでした。 最近、「日本はODAで中国をこんなに援助しているのに、中国は少しも感謝しないどころか、さらに謝罪を求めてくる。けしからん」といった類の議論がよく聞かれます。やはり中国は「恩を仇で返」していると言いたいのでしょう。ODAは日本政府も明言している通り、国益追求の手段で、日本もそこから多くの恩恵を受けているのであり、決してボランティアでやっていたわけではないことはここではおくとしても、このように主張する人たちは中国があれだけ多大な被害を日本によって受けながらも、全ての賠償を放棄したという「恩」などすっかり忘れてしまっているかのようです。 日中両国がいう「恩を仇で返す」、この中身の違いは両国の間にある深い深い溝を象徴しているかのようです。 A先生は、中国政府が中国国民の感情を代弁している以上、日本側が過去の歴史に対してしっかりとした認識を示していけば、この点では中国政府は引いていくはずだと言います。 僕はA先生の分析がすべて正しいかどうかは分かりませんが、少なくとも、過去の歴史事実に対する中国政府の言い分を、単なる日本から金を引き出すための外交カードに過ぎないなどと見て、それに対して軽率な「反撃」を加えたりすることは、中国の国民の更なる怒りを招き、日本人と中国人の関係(政府間の関係に限らず)をどんどん悪化させていくだけで、何の良い結果ももたらさないことだけは確かだと思います。 中国に来て約一年半になる僕ですが、まだまだ中国のほんの一面しか見えていないことを改めて実感させられたA先生との対話でした。 2001.4.24 第16回 中国人の日本観
今回は中国人(僕が接しているのは主に学生ですが)が日本、または日本人をどのように見ているのかということについて書きたいと思います。
ひとことで言えば、やはり中国人の日本に対する見方というのはステレオタイプで一面的であることは否定できません。例えば、どの人も知り合ったばかりの頃必ず聞いてくるのは「富士山はきれいか」「日本には桜がたくさんあるのか」「日本の茶道はどのようなものなのか」といったことです。きっと地理の教科書などにこういったことが書いてあるのでしょう。もちろん、この点は日本人の中国に対する理解もさして変わらないといえるかもしれません。多くの日本人が中国といって思い浮かべるのは天安門や万里の長城・パンダ・中華料理・チャイナドレス・一党独裁の政治体制といった程度のものではないでしょうか。 歴史問題が中国人の日本に対する印象の大きなマイナス要因になっている中で、逆に日本に対する親しみをもたらす役割を果たしているのは日本のドラマ・俳優・歌手・漫画・スポーツ選手などです。 ドラマでいうと、中国の若者で「東京愛情故事(東京ラブストーリー)を知らない人はまずいないと言っていいでしょう。同時に鈴木保奈美の名前も知らない人はいません。中国で放映された時、爆発的な人気を呼んだようです。なぜこんなにも中国人に受けるのか、聞いてみたことがあります。それによると、80年代まで愛情のない結婚がまだまだ多くあった中国において、登場人物たちの愛に執着する姿が非常に新鮮に映ったのではないかとのことでした。(ただし、東京ラブストーリーが放映されたのは中国ではつい3・4年前のことだそうです) 俳優で言うと、かつての大スターは山口百恵でしたが、今は酒井法子がもっとも有名な日本人女優と言っていいでしょう。多くの中国人はなぜか日本の女性は優しい(「優しい」という言葉の中には「夫の言うことをよく聞く」という意味が含まれているようです)という印象を持っているらしく、ほとんどの男子学生は僕に「日本の女性は優しいんでしょ」と羨ましそうに聞いてきます。これも先ほど述べたステレオタイプな日本認識の一つです。そして、酒井法子はそうした「優しい日本女性」のシンボル的存在と見なされているようです。 ただ、最近は日本のドラマが多く放映されていることもあり、学生たちの知っている日本の俳優も多様化してきています。柏原崇・キムタク・松島菜々子・深田恭子などは広く知られており、中国人学生の宿舎に行くとポスターもよく貼ってあります。 歌手で言うと、宇多田ヒカル・浜崎あゆみが広く受け入れられており、日本で彼女らのアルバムが出ると瞬く間に海賊版が出回ります。しかし、俳優に比べると知名度はずっと低いといえます。(ただし、これは武漢での話で、広州など沿岸地域に行くと、日本の情報に触れる機会が多いらしく、知っている日本の俳優や歌手の数はずっと増えます。) 日本の漫画が中国人に与えている影響も大きいものがあります。今の学生なら誰もが「ドラえもん」「スラム・ダンク」などを読んで育っています。最近でもテレビで「ちびまるこちゃん」「探偵少年コナン」「セーラームーン」などが放映されています。この背景には、中国国産の漫画やアニメで面白いものがまだまだ少ないということがあると思います。(実際、僕の見たところでも見るに耐えないレベルのものが多いです) スポーツ選手で言うと中田英寿の名を知らない男子学生はまずいないと言っていいでしょう。中国人はサッカーというスポーツに対する思い入れが強く、テレビでもセリエAやプレミアリーグの試合をよく放送しています。学生食堂のテレビにセリエAの結果が出た時、男子学生がゾロゾロとテレビの周りに集まったのを見て驚いたものです。ただ、民族感情の強い中国人にしては不思議なほど自国のサッカーのレベルに対しては悲観的で、僕が「次のワールドカップは中国にもチャンスがあるんじゃないか」と水を向けると、誰もが決まって「中国は見込みがないよ。やはりアジアナンバーワンは日本だよ」と言います。その分、アジアの星としての中田への期待は大きいようです。 中国人の日本観というと、また堅苦しい話になってしまいますが、どうしても歴史問題に触れざるを得ません。最近、顔見知りの女子学生にある授業で偶然会いました。彼女は前に別の友人に連れられて僕の部屋に来たことがあったのですが、その時はなぜかほとんど話をしませんでした。ところが、今回は別人のように多くのことを話したのでびっくりしました。そして、その後こう言いました。「あなたって、性格がいいのね。日本人てみんなそうなの?」「えっ?」僕は普通に話していただけなので、こんなことを言われて驚きました。そして、なぜそんなことをいうのか彼女に聞きました。彼女によると、日本人というのは歴史の教科書に出ているようにみんな残酷で恐ろしい人たちばかりだと思っていたというのです。だから初めて僕という日本人に接して、そうでもなさそうなので意外に思ったそうです。前に僕の部屋に来た時に積極的に話さなかったのも日本人に対するそうしたイメージがあったからだということでした。 こうした中国人の日本人観というのは決して彼女だけに特殊なものではないと思います。実際、僕のある友人は彼の友人から「漢奸(戦争中、日本側についた裏切り者の中国人をこう呼んだ) 」と呼ばれたと言います。この背景には彼らの祖父母や親類がかつての戦争の中で直接に日本によって受けた被害があるでしょうし、歴史教育の影響もあると思います。 今、歴史教科書問題がさかんに論じられていますが、僕個人の考えとしてはあのような歴史事実に明らかに反した内容で子供を教育することには反対です(詳しいことについてはここでは論じません)。それでは、中国の歴史教育はどうでしょうか。かつての日本の侵略がいかに残酷なものであったのかを中国が詳細に教科書に描くことは被害に遭った側として当然だと思いますし、それが「反日的」になるのはやむをえないことだと思います。ただ、一つ僕が思うのは、もし中国の歴史教育が現在の日本人も恐ろしい人間であるかのような印象を与え、結果的に中国人と日本人の間に壁を作るようなことになっているとしたら、そうした教育方法については再考する必要があるのではないかということです。もちろん、壁の原因は歴史教育だけではないでしょうし、日本人の側が過去の侵略戦争に対する認識を明確にするというということを前提としての話です。もし、日本人側の歴史認識が明確でないために、中国人の怒りを買うようなことがあるとすれば、「壁」の原因は日本人側にあるといえるでしょう。 最後に中国人の日本認識の中で二つほど気になる点を挙げておきます。一つは、日本の侵略戦争に対しては当然のことながら批判が行われていくわけですが、戦後の日本のことになると急速な経済発展という認識だけがあって急に称賛の声一色になってしまうということです。もちろん、僕の考えとしても戦後の経済発展がもたらした恩恵は計り知れないし、そのプラス面が大きいことは否定できないと思います。しかし、その一方で、公害や環境破壊の問題など、マイナス面も多々あったわけです。しかし、そうした面については中国人はほとんど知らないというのが実態です。「水俣病」という言葉を知っている中国人はほとんどいないのではないでしょうか。 日本の侵略に対する徹底した批判と戦後の日本に対する無批判と言えるまでの賛美―このコントラストが中国人の日本認識の一つの特徴をなしているように思えます。 もう一つ気になるのは平和憲法に対する認識です。ここでは平和憲法の是非については論じませんが、不思議に思うのは中国人学生が日本の平和憲法の存在についてほとんど無知なことです。少なくとも平和憲法の存在がかつてのように日本が中国を侵略しない担保になってきたと思うのですが、そのような認識は学生の中には薄いようです。ニュースでは「一部の政治家が平和憲法を改正して、軍事大国化を進めようとしている」といったふうに取り上げられることはありますが、これは単に日本という特定の国を抑制するものとして平和憲法を見ているだけで、平和憲法そのものに普遍的・積極的な意味を見出そうとする姿勢は全くといっていいほどありません。ただ、中国自身が軍備の増強を進めている以上、平和憲法の内容を肯定することはできないわけで、ある意味では当然かもしれません。日本には平和憲法はあって欲しいが、中国にはあっては困るというのが本音でしょう。 こうして見ていくと、中国人の日本認識はまだまだ一面的で、多くの誤解があると言えると思います。同じことは日本人の中国認識にも言えるでしょう。最近、マスコミではとみに教科書問題やODAの問題などが日中間の問題として取り上げられています。こうした歴史や政治の問題について両国間のコミュニケーションを増やし、共通の認識を徐々に作り上げていくことはもちろん重要なことです。しかし、そうしたマスコミでクローズアップされること以外にも、例えば先ほど述べた日本女性に対する認識といったことも含めて、もっと理解を深めていく必要があると思います。その手段は政府レベルを含め多々あると思いますが、その中でも、僕らのような留学生と中国人学生の顔と顔を突き合わせたコミュニケーションというのは非常に大切だと思います。中国に来てからというもの、そのことを痛切に感じる毎日です。僕一人の力は微々たるものですが、両国間の理解を深めていくことに少しでも力になれればと思っています。 2001.6.1 第17回 中国大学入試の闇 以前、「中国の大学の腐敗」と題して、中国の大学の問題を取り上げましたが、今回さらに突っ込んで中国の大学入試の問題を取り上げてみたいと思います。
この春、僕の大学4年生の友人が今の大学よりさらにレベルの高いA大学の大学院の試験を受けました。結果は、総合点では合格ラインを超えたもの、数学の点数が合格ラインにわずか一点足りなかったために、不合格に終わりました(中国の入試では日本と違い、総合点以外に各科目ごとの標準点があり、それを越えないと合格できないのです)。 彼は以前、日本語検定試験の一級を受けた時もやはり一点足りなかったために合格できませんでした。本当に不運としか言いようがありません。しかし、これ自体は公正な試験の結果ですから、仕方がないと言えます。 問題は次のような現象が起こっていることです。彼の言うところによると、彼の友人がやはりA大学の大学院の同じ学科の試験を受けました。結果は各科目の標準点は全て越えたものの、総合点で合格ラインに達しませんでした。本来ならば、この結果なら当然合格出来ないわけです。ところが、彼は僕の友人と違ってA大学の出身であるために、何と合格してしまったというのです! 僕はそれを聞いて、友人に「腹が立たないのか」と聞きました。彼は怒った様子も見せず、「仕方ない。こういうことは中国ではごく普通に起こることだから」と言います。もう、あきらめている、といった感じです。彼はすでに浪人して来年再度受験することを決意し、今も勉強に励んでいます。 こうしたコネのある者、人間関係がある者が得をするという現象は以前も述べたように中国では普遍的な現象です。これらは法的に見れば明らかに違法と言えるでしょう。 ところが、こうした違法な行為以外に、中国の入試には「制度化された不公平」とでも言えるものが存在します。 その代表が、各省・各直轄市ごとの合格者数の割り当て制度です。例えば北京大学の湖北省出身者の枠は何人とあらかじめ決まっていて、湖北省の受験者で成績の多い人がどんなに多くても、枠以上の数の人は合格できないしくみになっています。この結果、どういう問題が起こってくるかというと、受験生の平均点が高い省においては合格ラインが極度に高くなり、省ごとの合格ラインに大幅な差ができるという現象が起こってきます。 具体的に言うと、99年度の重点大学(国家の指定したトップクラスの大学)の合格ラインは武漢市で566点、北京では460点となっています(満点は750点)。両者の間にはなんと100点以上の差があるのです。 ちなみに、各省ごとの合格者枠にどれ位の差があるのかというと、北京大学と並ぶ名門の清華大学では約三千の合格枠中、北京には四百から五百が割り当てられる一方、甘粛省にはわずか40前後しか割り当てられていません。上海にあるやはり名門の復旦大学では99年の二千四百の合格者枠中、なんと千二百余りが上海に割り当てられています(「中華網」参照)。 こうした割り当て制度が、教育する機会や施設に恵まれない内陸部の生徒たちに大学進学の機会を与える役割を果たしていることは否定できません。もし、こうした制度がなかったら、チベットやウィグル地区など比較的貧しい地域からはほとんど北京大学に合格できる人は出ないということも考えられることです。 しかし、北京や上海など、最も豊かな地域の生徒が優遇されているとなれば、これは明らかに不公平としか言いようがありません。 このような不公平な制度が維持されている理由としては諸説あります。政府の教育部には北京出身者が多いため、自分の子弟に有利なようにこうした制度を維持していると意見もあります。また、各大学は現地の政府からさまざまな便宜を図ってもらっているため、現地の枠を増やさざる得ないのだ、という見方もあります。 いずれにせよ、この制度が何か合理的な理由に基づいているとは言えないことは確かなようです。 合格者数の割り当て制度に意外に、僕から見て不合理と思える制度に「拡招」と呼ばれる制度があります。「招」とは中国語で「募集する」と言う意味で、「拡招」は正規の枠以外に合格者を拡大するという意味です。具体的に言うと、各大学の合格ラインから不足している点数が20点以内であれば、お金を多く払えば合格できるという制度です。いくら払えばいいかというと、二万元(約三十万円)です。現在、中国人の平均収入は大都市でも約千元ぐらいですから、この額がいかに大きいかわかるでしょう。しかし、大学に入れるかどうかはその子の将来に関わりますから、貧しい家庭でもお金を借りたりして必死に子供を大学に入れようとするはずです。一方、大学にとってはこれは大きな収入になるでしょう。これは、決して非合法な裏口入学ではありません。中国ではこれがれっきとした制度として存在するのです。先ほど「正規の枠以外で」と言いましたが、「拡招」で入った生徒は、一度入ってしまえば他の本科生と何の区別もありませんし、卒業証書も同じです。僕から見れば、これは単に大学が金もうけのために考えた制度としか思えません。 以上、僕が聞いた範囲、知っている範囲で中国大学入試の問題点を書いてみました。しかし、まだまだ僕が知らない多くの不公平なこと、不条理なことがあることと思います。「中国の社会は暗黒だ」。多くの18、9歳の大学生たちが僕にそう言います。 中国人にとってよりレベルの高い大学に受かることは将来のより豊かな生活を意味します。大学院に行くことも、日本なら学問的興味からという人が多いかもしれませんが、中国ではほとんどの場合、将来の高収入のためです。特に農村出身の子弟たちは、貧しさから抜け出すために必死になって勉強します。以前報告した農村の状況を見れば、これは皆さんも理解できることと思います。大学受験の結果は本当にその子供の人生を左右してしまうのです。 ですから、一部の大都市の人間や大学の利益のためにこうした貧しい子供たちの努力をないがしろにするような制度は一刻も早く改善して欲しいものです。 2001.6.27 http://www1.odn.ne.jp/kumasanhouse/kangomei/
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