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南京大虐殺30万人は過大評価なのか?
http://www.asyura2.com/21/reki6/msg/108.html
投稿者 中川隆 日時 2021 年 7 月 26 日 22:09:28: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 日中戦争証言 投稿者 中川隆 日時 2021 年 7 月 26 日 19:19:07)

南京大虐殺30万人は過大評価なのか?
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/409.html  

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1. 中川隆[-16016] koaQ7Jey 2021年7月27日 16:52:56 : RNyACZ9w4Q : M0lMWFBOcld1eUE=[7] 報告
【永久保存版】南京大虐殺の証拠〜当時の記録映像と生存者の確実な証言
2015/03/02




〔虐殺否定の書き込みの前に、まずこちらの解説文に目をお通し下さい。誤解の大半が解けると思います。解説を読まずに否定論デマを書かれた場合、荒しとして対応します〕

【右派も左派も必見の動画】南京大虐殺に関する動画は、戦後中国政府が作ったプロパガンダ映像が混じっていることが多いが、これは「1938年」(虐殺直後)に公開された当時のもので、2015年にフィルムが世界遺産に登録された。現在の中共政府はウイグル人を非道に弾圧し、香港に圧政を敷き、南沙諸島を不当支配。それを国際社会で批判する為にも日本は過去を直視せねばならない。

動画はドイツ高官が「総統閣下にも見て欲しい」と公式に送った第一級の資料映像であり、生存者の証言が細部まで一致。女性や子供も無差別に殺害され、便衣兵との言い訳は通用しない。また「日本軍がやった」と外国人医師らが詳細に語っており、国民党軍の成りすましではない。番組前半の映像はショッキングだが、それ以上に番組後半の、家族を失った夏淑琴さんの話「今は日本人と友だちになりたいと思っている」が心に残る。この言葉に対して謙虚でありたい。

※東中野修道氏は当動画に登場した夏淑琴さんを「マギーフィルムの“夏淑琴”とは別人であり南京事件も中国の捏造」と喧伝、夏淑琴さんから名誉毀損で提訴され東中野氏が敗訴した。東京地裁「被告東中野の原資料の解釈はおよそ妥当なものとは言い難く、学問研究の成果というに値しないと言って過言ではない」。09年最高裁が上告を棄却し東中野側の400万円の支払いが確定した。「学問研究の成果というに値しない」、つまり研究者の資格なしということ。
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《捕虜殺害について》
南京占領軍への当初の命令は「青壮年はすべて敗残兵、又は便衣隊(ゲリラ)と見なし、­すべて逮捕監禁すべし」。つまり、老人と子ども以外の中国人男子は全員逮捕監禁せよと­いう厳命。だが、捕虜10万人の食料も収容する施設もない。やがて命令は「捕虜を処分­(処刑)、殲滅(せんめつ)せよ」に変わった。『ハーグ陸戦協定』では「武装解除した­捕虜の虐殺」を戦争犯罪としている。ネット上では多数のデマが流れているため、よくあ­る質問と答えを以下に整理。

・日支事変は国際法上の“戦争”ではないため『ハーグ陸戦協定』は当てはまらない→­ならば平時の殺人であり戦犯以前に殺人罪。
・便衣兵(ゲリラ)だから処刑していい→略式でも裁判は必要だし、そもそも南京城内に便衣兵はいなかった(後述)。
・占領前より人口が増えた→増えたのは国際安全区の人口。周辺から避難民が逃げ込んで来た。
・当時まったく報道されてない→占領2日目には米国で「南京大虐殺」と新聞の見出しに。
・虐殺証言で登場する元日本兵は中国共産党に洗脳された中国帰国者(中帰連)。→南京­戦に投入された部隊は捕虜にならず帰国しており、中国共産党は無関係。
・捕虜虐殺を見ていないジャーナリストがいる→虐殺現場は街から4キロ離れた揚子江­の川岸。
・捕虜の暴動が起きたので仕方なく殺した→暴動説は戦後に現場指揮官の1人が批判から逃れるためにでっち上げたものと2018年に判明。

★南京を占領した日本軍は、各部隊とも自軍の10倍近くの捕虜を得たが、捕虜の食糧がなく、暴動が起きるのを恐れて殺害に至った(例えば山田支隊1500人に対して15000人の捕虜が発生­し幕府山事件が起きた)。本来、捕虜ならば軍法会議、捕虜以外は軍律会議の判­決で処断せねばならない。
※日本軍の名誉のために書いておくと、捕虜を殺害せず、武装解除したうえで釈放した部隊もある。第6師団歩兵第45連隊は5500人を、国崎支隊の歩兵第41連隊は2350人を解放。

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●補足・通州事件…痛ましい事件が愛国デマに利用されている

(1)日本人居留民が殺害された通州事件は、日本が作った傀儡政権・冀東(きとう)防共自治政府の兵の暴走で南京国民政府とは無関係。襲撃者は国民党軍でも共産軍でもなく、日本軍が育てた親日派の子飼いの部隊。日本軍の誤爆が先にあり飼い犬に手を咬まれた。それゆえ日本側は関係のない国民政府に賠償を求めず。民間人に対する猟奇的虐殺は絶対に許されないが、まともな保守の歴史学者はこの冀東自治政府の事件と南京大虐殺を並列に論じない。

関東軍参謀田中隆吉「事件の発端は日本軍の軽爆撃隊の誤爆からである」
北京大使館参事官森島守人「兵舎誤爆への報復であり事件の責任は日本陸軍にある」

※蒋介石が前夜に日本軍大敗の偽情報をラジオで流したのも一因。

(2)通州事件は、日本人104名と朝鮮人108名、計212人が虐殺された。朝鮮人の死者の方が多いが、当時の朝鮮は日韓併合下にあり「邦人200人以上」としている。

(3)日本軍は通州からヘロインなど大量の麻薬を大陸に流していた(毒化政策)。その悪行が中国人から反発を買ったため襲撃者に市民(学生)が混じっていた。日本側はバツが悪い為しばらく新聞発表を伏せている。

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●補足2・便衣兵のせいというデマ
第一次上海戦では便衣兵(ゲリラ)の攻撃を受けたが、第二次上海戦では便衣兵からの攻撃はないに等しかった。特に南京城内では報告皆無。南京戦では「国際法を違反した便衣兵」は存在せず、虐殺を正当化する理由にはならない。軍の記録でも「(便衣兵処刑ではなく)掃討で敗残兵を殲滅した」と書かれている。
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●補足3・人口のデマ
否定派は「南京の人口が占領後に10万人増えているのが証拠」という。これは簡単に説明できる。南京一帯で戦闘が行われているわけで、南京市の国際安全区に避難民がなだれ込んでいるだけ。
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●補足4・犠牲者30万人に根拠はあるか
1927年に国民政府が南京を首都に定めて以降、南京市政府は市内の常住人口について統計資料を保存している。1935年に100万人の大台を突破し、虐殺9カ月前の1937年3月の調査では101万9667人で、戸数は20万810戸(南京の首都警察庁調べ)。この3月時点の100万人は、虐殺肯定派、否定派とも見解が一致。その後、日本軍の連日の空襲で人口が減り始め、11月20日に国民政府が重慶への首都遷都を宣布、さらに日本軍の接近が伝えられたことで住民が激減、11月23日に南京市政府(馬超俊市長)は「現時点で人口は約50万」「ただし今後20万人の周辺難民の流入を予測」と国民政府軍事委員会に報告している。実際、膨大な数の農民が難民となって城内に避難した。南京守備部隊、常住人口、流動人口の合計が約60万人、そして虐殺後の人口が30万人強であることから、中国側が主張する犠牲者30万人は、「最大値としては」あり得る数字だ。

※南京安全区国際委員会の「日本軍の暴行記録」をもとに死者49人とする言説があるが、この記録はあまりに酷い日本兵の態度の改善を求めるため、実例を挙げて提出した文書であり氷山の一角。被害を網羅する目的のものではない。
※「米国が原爆犠牲者の数にあわせてでっち上げた」もデマ。当時も現在も、米国は日本への原爆投下をまったく悪いと思っていない。
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●補足5・消えた遺体について
捕虜の処刑は揚子江の河岸で行われ、遺体は大河に流されたことが日本軍の記録で明らかになっている。市民の墓は点在し、ここを掘れば数万人の遺体があるといった場所はない。ちなみに埋葬隊記録では155,000体。これは焼き棄てられた死体や、揚子江に投げこまれた死体を計算に「入れていない」。 次が重要な点。日本側が考える南京事件は、期間が1937年12月13日の南京陥落から17日の入城式まで、場所は南京城内で行われた掃討戦としているケースが多いのに対し、中国側は期間が南京戦から3カ月、場所は南京周辺の農村を含んだ広大な地域であり、この時点で両者が主張する数字が合致するはずがない。中国が嘘をついているのではなく、単に期間と場所が異なるだけ。

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●補足6「虐殺を見ていない部隊がある」について
南京戦に参加した部隊は約10師団(一部は支隊のみ)20万人。そのうち一次資料で虐殺に何らかの形で関わったことが確定しているのは
第9師団歩兵第6旅団歩兵第7連隊
第13師団歩兵第103旅団歩兵第65連隊
第16師団歩兵第19旅団歩兵第20連隊
第16師団歩兵第30旅団歩兵第33連隊
第16師団歩兵第30旅団歩兵第38連隊
第6師団歩兵第11旅団歩兵第13連隊
第6師団歩兵第11旅団歩兵第47連隊
第6師団歩兵第36旅団歩兵第23連隊
第114師団歩兵第127旅団歩兵第66連隊
それゆえ、他の連隊に虐殺を見ていない兵士がいる可能性はある。そもそも南京城内は山手線に匹敵する広さ。
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●補足7「目撃者もなく、当時には一切報道もされていない」というデマ
・欧米で事件は大々的に報道されていた。占領2日目には早くも『シカゴ・デイリー・ニュース』が「NANKING MASSACRE(南京大虐殺)」の見出しで第一報を掲載。4日目に『NYタイムズ』が「大規模な略奪、婦人への暴行、民間人の殺害、住民を自宅から放逐、捕虜の大量処刑、青年男子の強制連行などは、南京を恐怖の都市と化した」と掲載。
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●補足8「蒋介石は知らなかった」のデマ
1938年1月(虐殺翌月)の蒋介石日記に「倭寇(日本軍)は南京であくなき惨殺と姦淫をくり広げている。野獣にも似たこの暴行は、もとより彼ら自身の滅亡を早めるものである」と記述。
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●補足9「中国軍の仕業を日本軍になすりつけている」のデマ
仮にその陰謀が事実なら日本軍はおおいに対外宣伝に利用したはずだが、当時そのような宣伝は行なわれていない。ただし中国兵が民間人の服を奪う際に殺害に及んだ事例は一部であった。
※そもそも日本兵の補給は現地用達、つまり徴発(略奪)が基本方針であるため悪評が広まっており、わざわざ日本兵のフリをして貶める必要はなかった。
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●補足10・パール判事について
「パール判事が日本の戦争行為に理解を示した」というのは保守派のデマ。パール判事は日本軍の残虐行為に激怒している。東京裁判は、新しく作った法律で過去の行為を処罰できないという法学者の信念から「無罪」としたのであって、「日本は悪くない」とは言ってない。南京大虐殺については「宣伝と誇張を出来る限り考慮しても、なお残虐行為は日本軍が占領したある地域の一般民衆、また、戦時俘虜に対し犯したものであるという証拠は圧倒的である」と虐殺を認め断罪している。パール判事の息子は、東條英機の伝記映画『プライド』が東條を美化するため自分の父を利用していると憤慨し、田中正明氏(勝手に松井石根大将の文章を改変し「南京事件はなかった」と嘘をまき散らした人物)に抗議している。

パール判事の激しい批判:
・張作霖爆殺事件は「無謀でまた卑劣である」
・満州事変を「非難すべきもの」
・満州国建設を「手の込んだ政治的狂言」
・南京虐殺やフィリピンでの虐殺を事実と認定し「鬼畜行為」と批判。南京大虐殺について20箇所以上の残虐行為を指摘したうえで「鬼畜の性格を持っている」と断じ、戦争指導者は無罪であっても、殺人・強姦など通例の戦争犯罪の実行者に対する処罰は(新法で後から処罰することですら)「正当である」と言及。

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少し相手の立場で考えてみましょう。終戦時、中国にいた日本軍は105万5700人。日本軍は補給を軽視し、農村から命綱の牛馬鶏を奪い、穀物を奪いながらの行軍、占領です。そして少なくない部隊で強姦が発生し、抵抗すれば殺害。この歴然たる事実を正面から見つめ、どうかネットにデマを広めないよう、同じ日本人として心からお願いします。
2. 中川隆[-16015] koaQ7Jey 2021年7月27日 17:00:27 : RNyACZ9w4Q : M0lMWFBOcld1eUE=[8] 報告
貴重資料『南京事件U』
49,280 回視聴




テレビ史上、初めてCG化された南京大虐殺。虐殺の理由は補給を軽視した作戦によって日本軍ですら食糧が乏しかったのに、何万という捕虜を養えなかったから(暴動が起きる前に処刑)。後ろ手に縛られ、戦闘する意思も手段も放棄した人間を背後から殺害することは虐殺です。日本兵が南京城内で便衣兵(ゲリラ)に苦しめられたという公式報告はありません。現在の中共政府はウイグル人を非道に弾圧し、香港に圧政を敷き、南沙諸島を不当支配。それを国際社会で批判する為にも日本は過去を直視せねばなりません。

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南京占領軍への当初の命令は「青壮年はすべて敗残兵、又は便衣隊(ゲリラ)と見なし、­すべて逮捕監禁すべし」。つまり、老人と子ども以外の中国人男子は全員逮捕監禁せよと­いう厳命。だが、捕虜10万人の食料も収容する施設もない。やがて命令は「捕虜を処分­(処刑)、殲滅(せんめつ)せよ」に変わった。『ハーグ陸戦協定』では「武装解除した­捕虜の虐殺」を戦争犯罪としている。


〔まとめ〕南京を占領した日本軍は、各部隊とも自軍の10倍近くの捕虜を得て、その処­理に困って殺害に至った(例えば山田支隊1500人に対して15000人の捕虜が発生­し幕府山事件が起きた)。本来、捕虜ならば軍法会議、捕虜以外は軍律会議の判­決で処断せねばならない。

※日本軍の名誉のために書いておくと、捕虜を殺害せず、武装解除したうえで釈放した部隊もある。第6師団歩兵第45連隊は5500人を、国崎支隊の歩兵第41連隊は2350人を解放。

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★その他、南京大虐殺否定派の疑問は以下の4つのリンク先で100%解決されると思います。

「南京事件FAQ」 https://seesaawiki.jp/w/nankingfaq/
「南京事件資料集」 http://kk-nanking.main.jp/index.html
「南京事件ー日中戦争 小さな資料集」http://yu77799.g1.xrea.com/
「南京事件の写真検証」https://bit.ly/2EEM7Wc
3. 中川隆[-16013] koaQ7Jey 2021年7月27日 17:03:26 : RNyACZ9w4Q : M0lMWFBOcld1eUE=[10] 報告
【貴重証言】加害者としての日本軍
2020/08/24




戦争から75年がたち元兵士の大半が亡くなるなか、とても貴重な証言。右派左派ともに耳を傾けるべき内容。初年兵がやらされる刺突訓練(農民を殺害)、日本人軍医が戦時中に記した兵士による輪姦の状況など。戦争の真実がここに。※沖縄戦を体験した兵士は当然ながら中帰連メンバーではありません。
4. 中川隆[-16012] koaQ7Jey 2021年7月27日 17:06:10 : RNyACZ9w4Q : M0lMWFBOcld1eUE=[11] 報告
CGで再現「南京大虐殺」
2018/10/24




テレビ史上、初めてCG化された南京大虐殺。虐殺の理由は補給を軽視した作戦によって日本軍ですら食糧が乏しかったのに、何万という捕虜を養えなかったから(暴動が起きる前に処刑)。後ろ手に縛られ、戦闘する意思も手段も放棄した人間を背後から殺害することは虐殺です。日本兵が南京城内で便衣兵(ゲリラ)に苦しめられたという公式報告はありません。現在の中共政府はウイグル人を非道に弾圧し、香港に圧政を敷き、南沙諸島を不当支配。それを国際社会で批判する為にも日本は過去を直視せねばなりません。
5. 中川隆[-16011] koaQ7Jey 2021年7月27日 17:08:32 : RNyACZ9w4Q : M0lMWFBOcld1eUE=[12] 報告
日本軍の記録に残る南京大虐殺(軍命令により実施)
2015/03/05


6. 中川隆[-16010] koaQ7Jey 2021年7月27日 17:20:19 : RNyACZ9w4Q : M0lMWFBOcld1eUE=[13] 報告

■ 一 般 市 民 虐 殺 命 令 ■
http://kk-nanking.main.jp/


福田治夫(1915年10月生まれ)
第16師団歩兵第9連隊 第2大隊

 一週間ほどして南京からいくらか離れた南西方向の裕渓口に駐屯しました。聯隊で下がりました。そこは夜でもうっかり寝てることできませんのやで。子どもとか年いったお婆さんまで、抗日排日の教育で手榴弾かくして持って、宿舎に入ってきたのが子どもですやろ、こっちは油断しますわな。寝てる所に放り込まれるのが再々あってね。「子どもにしても年寄りにしても誰でも全部殺してしまえ」と聯隊長の命令がでました。二人とか三人とかの百姓を捕まえてきて、「そこらに兵隊はおるかおらんのか」などの尋問して地形を聞いて、後は殺してしまうんです。クリークの縁に連れ出して、そこに座らせました。将校は、めったに刀で首切りなんてできへんのやから、軍刀持ってるさかいに試し切りをするんです。私ら兵隊は突き殺しました。鉄砲の弾できるだけ使うなと言われてました。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P173


野田典吾(1915年11月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 連隊本部
 上海の白茆口に上陸した時すぐ松井石根大将が、この地方は共産党思想が強いのであらゆる者は殺せと指示したと聞きました。その時、野田聯隊長がそれを聞いてだめだと言ってました。十七日の入城式は朝香宮が南京に入ってこられましたな。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P77


安藤猛治(1915年4月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 大隊砲

 上海から南京までの間には、共産党が多かったんで、あんまりいい命令は出なんだな。「見付けしだいにやっちまえ」ちゅうようなことでな。じかに聞いた話ではないけども、そんなふうに感じたな。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P208


大川護男(1916年4月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 大隊砲

 駐屯してからな、慰安的な女の子をさがしてきたこともあったな。その場でやったな、その時分は少々悪いことしても、後でわかったらいかんというので、殺してしまやいいんや、自分らが悪いことしたら殺してしまえと部隊の中で言ってる者がいた。反日の思想が強いので全部殺してしまえという部隊があったと聞いている。その証拠に武器なんか隠してるかちょっとおかしかったら家を全部焼いてたわな。上海から南京に行くまで、自分らはいつも後方部隊やから、燃え落ちた後の部落を通った。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P325


外山武雄(1914年2月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊

 上海の近くで敵前上陸して南京に向かったな。途中、クリークや大きな池を越えたりして行くので大変やった。工兵隊が橋を作ってくれたりしてな。南京へ攻めていって、揚子江でたくさんの死体が流れていくのを見たな。女や子どもも入っとるやろね。いや入ってて当然や。私も下関で軽機で撃っとるけどね。敵が(揚子江を)下って行くのを撃った。しかし南京のことは忘れてしまった、ぜんぜん憶えてない。ただ上から「男見たら殺せ」と命令されたことだけはよう憶えとる。南京へ行くまでに、常熟か無錫辺りかな、もうそういう命令が出ていたな。部隊長の××中尉が言ったんじゃないか。あるいは「人見たら殺せ」とな。何しろ、喰うか喰われるかの戦争や。うっかり見逃したら、こっちがやられるからな。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P159-160


鬼頭久二(1916年8月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊

南京戦の時、当時の宮さん〔朝香宮〕から命令があって、その命令は中隊長か小隊長から聞いたけど、「犬も猫も含め生きている者は全部殺せ」ちゅう命令やった。天皇陛下の命令やと言ったな。当時のことを書いた日記帳は終戦の時に全部焼いた。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P271


南泰吉(1913年7月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊

 行軍が早くてどんどん進むもんでね。部落は日本軍が火をつけて焼けてますやろ。上陸した始めの頃は焼いてなかったけど、途中でそりゃもう、部落をどんどん焼いてました。放火分隊って、上陸の時はうちの中隊もありましたな。中隊長があの部落焼いてこいって。家の中には、住民が隠れていてますわな。それを殺さなならんのですわな。それで兵隊嫌がってましたな。その命令が出ると。おると殺さないかんのです。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P302


沢田小次郎(1915年9月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊某中隊指揮班

 この中隊には「男も女も子どもも区別なしで殺せ」という命令が出ました。つまり虐殺でした。残虐な攻略戦で、その残虐さは南京に入ったらすぐそうでした。
(略)
 南京攻略戦はちょっとやりすぎでした。反日の根拠地というので、南京に入るまでは家を全部焼けという命令がずっと出てました。するとまた後続部隊が泊まる所がないからといって、家を焼くのを中止したんです。とにかく「家は全部焼いて、人間は全部殺せ」という命令でした。命令が出てなかったらこっちはしませんよ。北支の戦争では「兵隊以外の者は絶対に怪我人を出したらあかん」という命令が出ていました。だから北支は戦争しにくかったです。
 でも南京攻略戦は手当たり次第やったので、戦争がしやすかった。それももちろん命令があったからです。皆伝え聞いて分かっていました。中支では、上陸してからずっとやりたい放題にやっとったんです。その代わりこっちの被害も多かったですな。あそこは支那の部隊も集中してました。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P312〜314


徳田一太郎(1914年6月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第2大隊

 南京に向かう途中どこの戦闘だったかは忘れたけれど、部落があってあそこに共産党がいるということで、上から「負傷者に関わらず全部共産兵なので、全部殺せ」と命令してきたんです。それで部落に火を点けるとな、後ろから煙が上がってきました。その中から「オギャーオギャー」と赤ちゃんの泣き声が聞こえてきました。
『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P135


町田義成(1913年生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第3大隊

 昭和十二年八月松、大召集を受けて、九月に久居を出発し、大阪港から出航しました。
 九月、十月、十一月は河北の戦闘で韓家頭や八里荘で初めて戦闘を体験しました。
(略)
 韓家頭ではやられたので、部隊本部から「韓家頭の部落を攻撃する。部落に入ったら、猫の子でもいいから生きとる者は、男でも女でも全部殺せ」と命令が出ました。それでわずか百メートル先に五十戸位の部落が見えたんです。これこそと攻撃をかけたけど、猫の子一匹もいやしません。粗末な一軒の農家の中のアンペラがコソコソと動くのでめくり上げると、四十歳位の妊婦が二人の幼児を両脇にだきしめて隠れていました。コノーと引きずり出すと、子どもは泣き叫び母親の後にしがみついている。母親はもう一人の子をクリークの中につっこんだ。××伍長がこれこそ戦友の仇と、即座に銃で三人を撃ち殺してしまった。その時は気がたっていたというか、女子どもなのにひどいことをしました。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P56-57


吉川定国(1915年9月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1機関銃中隊

 私ら行った時は白茆江やったかな。弾飛んで来えへんかったということは敵おらへんかった。上陸の時命令受領に行ったら「普通の男も殺せ、皆敵や」と言われていたで。家を焼けとの命もあって、うちの中隊でも放火班があったで。十人ぐらいで火をつけたけども常熟の前やったか、一日ぐらいで止めた。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P69


依田修(1916年11月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第3機関銃中隊

 大連から南下して上海から揚子江を上にいった白茆口という所に着きました。そこでは敵前上陸で、そこからどんどん追撃して南京まで行ったんです。その時、私は上からの命令文を見ました。「支那人は全部殺せ、家は全部焼け」と書いてありました。その命令は白茆口を上陸する前日に出たんです。
 当時、大連で船に乗った時はもう内地に帰れるかなぁと思っていました。でも、なかなか日本に着かないなぁと思っていると上陸の命令が来たんです。「今から上陸するところは米が穫れる、水牛がおる、支那人は全部殺せ、家は全部焼け」と言う命令でした。
 (略)
 上陸してから常熟で一晩泊り、翌日の出発前に家を全部焼き払いました。民家の中のタンスやらを積んで火を点けたら全部燃えましたな。結構広い部落が全部燃えました。そうしたら、後方部隊が来るようになったので「家を焼くな」という命令が再び出たんです。それは無錫の手前でした。その命令は小隊長から聞きました。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P95


中田清次(1915年9月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第3機関銃中隊

 中島師団長という人は剛胆な人で、「支那の家を全部焼いてしまえ」と言いましてな。白茆口へ上陸した時です。「ここは抗日の一番ひどいとこやから各部落の家は全部焼け」とも言いました。私も上陸してから露営して、すぐに家を焼きました。仲間内で伝わって来ましてな。「師団長が言うたんで、やってしまえ」と。まぁでも後から来る兵隊は泊まるとこがなくなるので、焼くのを中止してくれとなってね、無錫からは焼くのはやめました。
 中島師団長はそういう人ですので、支那兵はみんな殺してしまえと、二十聯隊か三十八聯隊か九聯隊か知らんけど、そういうことをやりましたでしょうな。それが問題になったわけです。反日運動が盛んやとは聞いてましたけど、「徹底抗戦」とか「抗日」とか白壁に書いてました。南京に行くまでの至る所に書いてましたな。「日本悪鬼」って書いてましたな。
 命令授与で「風紀・軍紀厳正」という命令はいつでもありましたけど、じっさいには、支那におった時にはあんまりやかましく言われませんでした。
 日本の兵隊は無茶なことしてますわ。強姦は南京戦より徐州戦の方がひどかったくらいです。南京でももう乱れてましたな。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P343-344


吉川克己(1913年12月生まれ)
第6師団歩兵第45連隊 第1大隊

 兵隊も民間人も同じような服装をしていたから区別できませんでした。みんな灰色やら黒やらの服を着て、百姓の格好をしているんですわ。実際やられた者もおりましたし。普通の格好していても、何を持っているかわかりませんからね。南京にくる途中で女の兵隊をつかまえたという噂も耳にしました。とにかく「人をみたら敵と思え」と言われていました。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P116


山田忠義(1914年7月生まれ)
第16師団歩兵第38連隊 第3機関銃中隊

 無錫の時は雪で道がぬかるんでね。それで聯隊の被害が大きかったです。敵の抵抗があってね、それで聯隊長がカーッと頭にきたんですね。せやから民家を全部焼いてしもてね。そしたら部隊が寝る所がなくなって苦情が出たんです。
 夜襲もありましたよ。敵は一般民衆の服装してるからわからへんのですわ。どれが兵隊やら普通の人やらね。せやから男と見たら兵隊と思えちゅうことでね。せやから南京でも虐殺や言うてますけどね……。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P188


内村和郎(1915年10月生まれ)
中部第38部隊第2碇泊所

 戦いはもう市民も女も子どもも考えていないもん。もうめちゃくちゃやもん。「男であろうが女であろうが生かしておくな、みんな銃殺や」と、隊長が言うとったとその時、南京にいた歩兵から聞いた。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P251


■ 無 差 別 掃 蕩 命 令 ■


田中次郎(1908年2月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊

 十二月十四日、揚子江岸で捕虜を千二百人いっぺんに処分しました。日記に書いているように惨いことでした。処分がすんでから、悒江門から城内へ掃蕩に入りました。(略)捕虜剔出には人数を数える暇なく、どんどん捕まえました。捕虜といっても中国服を着た男ばっかりでしたよ。掃蕩をやる時は中隊長の指揮によってです。注意事項というものはなく「戦争に耐えると思えるような者は全部殺してしまえ」と上部の命令として言われていました。直接この命令を聞いた覚えはないが、中隊長か大隊長が発したのだろうと思っています。実際、男を敵兵として捕らえ、一人ひとりを調べることなどしませんでした。おとなしく投降しても、中国人は全部殺してしまう。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P83-84


松田脩一(1913年8月生まれ)
第16師団歩兵第38連隊 第1大隊

 南京の和平門に着いた。門が閉まっていて野砲がどんどんと砲を撃った。抵抗がやんだので縄梯子で登った。中にいた敗残兵が、次々と手を挙げて出てきました。大隊長は「切れ」という仕草をして両手を振り下ろしました。命令ですのでみんなで突き殺しました。門を入ると捕虜を集めていました。捕虜は、固まってこちらに十五、六人、あちらにまた十五、六人とたくさんいました。それを集めていましたな。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P182


沢田小次郎(1915年9月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊某中隊指揮班

 「人間だったら全部殺せ」の感じでした。家の門の所とかは女や子どもはいなかった。皆ずっと奥の方に避難しているので、そんなにいなかったんです。だから女や子どもの死体はあんまり見ませんでした。でも男はとにかく捕まえました。その処理はどこの部隊がどんなふうにしたのか分からないけど、まず揚子江の入り江で銃殺したと思います。「捕虜は処分しろ」という命令は直接聞いてないけれど、処分したという想像はできますね。南京に入るまでにはこっちも相当やられましたしね。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P312〜314


徳田一太郎(1914年6月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第2大隊

 十二月十三日南京陥落後の翌日、朝八時頃に南京の太平門に入りました。そこで十四日、十五日と二日間警備をしましたな。入った日の前々日の攻撃で死んだ死体がそのまま放ったらかしてありました。
 松井司令官の命令で各師団長に、師団長から各中隊長に伝わってきていたと思うんやが、兵隊は何事も命令なしで勝手にやってはならんからな。当時分隊長が「男は皆殺してしまえ!」と言って話は覚えていますよ。そして南京に入ってから「外国権益のある所は絶対入るな」と注意されました。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P130


朝倉正男(1915年3月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第2大隊

 陥落してから、二日ぐらいしてから南京城内で掃蕩しました。家を一軒一軒調べて、男なら全部引き出した。調べることはせえへん。捕まえて調べるので引っ張ることもあるし、その場でぼんと銃でやってしまうこともあった。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P221


上西義雄(1914年11月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第2大隊

 捕虜の処分は師団命令です。実際に私ら兵隊に命令を下したのは、中隊長で、「捕虜にした者は全部殺せ」と言って指令されました。どのぐらいの人数を殺したか、数は分かりません。一日にだいたい、一個小隊ぐらい、五十〜六十名ぐらいを処分しました。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P230

井上益男(1915年6月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第2大隊

 南京の手前で中隊長が「南京に入ったら、強盗、強姦、殺人を許す」と命令を出したのを聞いたので、わしの中隊が入城して荷物を降ろし、ぐずぐずしてるとさ「何してる、早く盗りに行かんかい」と兵隊に言われた。皆早く実施しなければならない気持ちですぐに掃蕩に入った。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P300


小田利吉(1913年11月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第3大隊

紫金山を二晩ぐらいして、十三日の払暁、北から下りて。私ら自身は南京城内で駐屯しとらんが。城外の防衛やった。下関という記憶はある。その日のうちに下関へ警備みたいな状態でいった。
 城内の記憶はないということもないな。城内のどの辺りだったかは分からん。それは二日ほどで、十五日ぐらいに下関へいった。
 その時起きたのが、やかましゅう言われる南京大虐殺というやつやな。あれは、十六師団、中島師団が関係しておるというかちになっておるな。これは大事な問題や。
 その時、兵隊と良民というものが区別つかんので、「おかしな者は皆殺せ」という、上からの指示は確かにあった。ところが、殺すにも、向こうがそんなことしているのを見たら殺せるけども、何でもない者は殺せんわ。それでも、なんていうのか、部隊命令で「おかしな者は一か所に寄せよ」と。そしてこうやってガーッと寄せて、そしてもう三百人〜四百人の単位があちこちあった。他の部隊が殺すのも見た。
 「撃て」ちゅう指示が出たな。これは確かや。「おかしな者」というのは区別がつかんから、寄せたわけ。撃つともうベターッと倒れているから、当たったか当たってへんかわからん。
 掃蕩戦は、二日ほど南京におって、すぐ下関から外へ出て、外回りの警備に入ったわけ。城内掃蕩にも参加ということになるやろ。隠れている者がいるからというので、「家のなかにいるから気をつけよ」という命令があったことは事実なんや。
 はっきりした命令ではなくて、「『おかしな奴は集めて殺してしまえ』と言われてるで」というて、一か所に集めて機関銃中隊が殺したのもあった。確かにおかしのがいたことは事実や。私自身もそういう目に遭うてる。手榴弾が不発やったんだが、窓から放られて。それは常熟、無錫と上がってきてから、そういうゲリラ的なものがあったな。あれはもう、何というか、中国の人民も非常に抗日がきついというか。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P145-146


後藤忠信(1914年8月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第3大隊

 敗残兵の処理は、連れてきて、捕虜収容所へ入れとるもんな。収容所は下関にありましたでしょ。倉庫……、下関の港の倉庫やでさぁ、大きいですなぁ。自分の分隊でも処理しとったんでしょうな。上官の命令でな。いや、その場では私らねぇ、手ぇかけて殺したっていうこと……。まぁとにかく、男は生かしとくなっていうことはよう聞いてはおりましたけどなぁ。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P219


境昌平(1916年11月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第3大隊某中隊本部付

悒江門には土嚢に馬と人間の死体が混じっていた。土嚢や死体を除けて通ったね。南京の掃蕩は、どこから出た命令かは知らないが「十六歳から六十歳までの男はみな連れてこい」という命令があったね。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P224


河田義一(1915年1月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第3機関銃中隊

 私らは小銃中隊の兵隊と一緒に入城しました。小銃隊の兵隊が支那の兵隊を銃剣で突き刺しているのを目撃しました。男はみんな捕まえてましたな。でも、私ら重機関銃隊はそんなことをしてません。
 実際、南京戦で「支那人を殲滅しろ」という命令が私ら第三機関銃中隊に来てましたけれど、各中隊にもそんな命令が出ていたかどうかわかりません。

『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』P236


参考資料

『南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて』松岡環(編著)、社会評論社
(2002年8月15日初版第1刷発行)

http://kk-nanking.main.jp/

7. 中川隆[-16023] koaQ7Jey 2021年10月11日 08:05:46 : A5sZu4rx0I : YlFmL2IwWFlFYjI=[3] 報告
日本軍の記録に残る南京大虐殺(軍命令により実施)
2015/03/05




The Battle of China (1944) - YouTube 動画
https://www.youtube.com/playlist?list=PLquddQhjZLFjqNKMr9NAe2oZo2Y-v0HYO
https://www.youtube.com/results?search_query=The+Battle+of+China++1944



【映画】バトル・オブ・チャイナ(日本語版 "The Battle of China" 1944







『ザ・バトル・オブ・チャイナ』(The Battle of China, 「中国の戦闘」の意)は、フランク・キャプラが監督したプロパガンダ映画『我々はなぜ戦うのか』シリーズの6作目である。1944年(昭和19年)にアメリカで上映された。

戦争当事国の中華民国をはじめ、欧米や中華人民共和国などではニュースや報道番組において、現在でも日本軍による残虐行為の記録フィルムや記録写真として、これらの映画の一部が頻繁に使用されている。

1944年にアメリカで、一般に劇場公開された。数人の評論家から問題点(内容に誇張が多い・中国人自身の問題に全く触れていない)を指摘されたことにより、一時的に回収されたが再度上映され、戦争終結までに約400万人が観ることになった[1]。スタンフォード大学歴史学部長のデビッド・ケネディは南京大虐殺は反日プロパガンダの中核となり、この映画はその顕著な一例であるとしている[2]。

本編の内容は、南京陥落後、「市民自らが掘らされた穴に落とされ、折り重なるように生き埋めにされるシーン」や、「殺された息子にすがり付き、泣き叫ぶ年老いた父親の姿」等が日本軍の残虐行為として編集されている。


8. 2021年12月07日 09:30:45 : 2zSsj4hxA6 : M1FvMG5mVWxiOGc=[78] 報告
男がやってみたい事はみんな同じ _ 日本兵が日中戦争でやった事
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/107.html

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