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中央公論2003.2
イラク「新政権」民主化の前途多難
酒井啓子
アメリカでは「日本占領」という過去の成功体験を、イラクでもう一度、繰り返すことができるという声も出ている。しかし、フセイン後のイラクは一九四五年の日本と同じなのだろうか
プッシュ政権がイラクに対する攻撃の手を強めている理由が、大量破壊兵器の廃棄という国連決議をイラク政権に遵守させるためではなくて、むしろフセイン政権自体の転覆にあることは、米政権の要人たち自身が認めていることだ。ブッシュ政権の、特に新保守主義者と呼ばれる人々は、フセイン・イラク政権の独裁、非人道性を嫌って「イラクに民主的政権を」と謳い、民主主義確立のためには日本型の直接支配を、との案すら報じられている。そうした「中東に民主的政権を」というアメリカの呼びかけに対して、しばしば指摘されるのは、そうした「民主的政体」を性急にイラクに導入することがかえって内外に混乱と不安定を招くのではないか、という危惧である。
こうした危倶が呟かれる背景には、イラクにおいて民主主義の経験が歴史的にない、ということが挙げられる。
こうした議論は、どちらも正しく、どちらも間違っていると言わざるをえない。イラクに西欧型の民主主義制度がすぐに定着するかどうか疑わしいことは確かであるが、だがそれはイラクの政治的土壌に民主化の経験や試みが無縁だったということではない。いやむしろ、イラク政治のなかで政治的代表制の試み──すなわち「民主主義」の試みは、一定の力を持って存在してきたというべきであろう。にもかかわらず、ブッシュ政権が声高に語る「中東に民主主義を」という主張が懐疑的に見られる理由は何か。「民主主義の導入」といった場合、イラクにおいて何が可能で何が問題になるのであろうか。
「貴族」の民主主義の失敗
そもそも忘れられがちなのは、現在共和制独裁政権をとるイラクやエジプトといったアラブ諸国は、イギリスの間接支配下にあった二〇世紀前半、王政のもとで一定の議会制度を導入し、限定的ではあるが民主主義的制度を採っていたという歴史的事実である。イラクの場合、イギリスの委任統治期に議会制度が導入され、それは一九五八年に王政が打倒されるまで運営されていた。むろん、そこで採用されたのが制限選挙であり、成人男子納税者の間接投票による選挙でしかない、という限界はあった。だが当のイギリスですら、成年男子による普通選挙制度が導入されたのは一九一八年であり、当時としてはそれほど「後れた」ものではなかっただろう。むしろ問題は、この議会が、結果的には王政を支える封建地主や有力部族長などの地方名士、あるいは軍出身の貴族など、王政時代の特権層が牛耳る存在にしかならなかったことである。
議会は、いわば「貴族院」のような様相を呈していた。内閣もまた、常に数人の旧世代の政治家が繰り返し政権を担当し、国内的には地方での貧富格差の拡大を放置する一方で、対外的には対英条約に縛られてイギリスの代弁者を務めるのみであった。第二次大戦直後の自由主義的ムードのなかで、政治的自由化が大幅に進められた時期もあったが、それでも共産党などの当時の新興政治組織は政党として認可されなかった。建国期の旧世代の政権独占に対して不満を持つ新世代にとって、議会は有効な挑戦の機会を与えてくれるものではなかったばかりか、これを阻止する「特権エリート」の場となっていたのである。
こうしたイラクでの限定的「議会制民主主義」の試みが、一九五八年に軍主導の共和制革命によって終止符を打たれることになったのは、対外的には王政自体がイギリスの間接統治に依存していたという「外国支配」が問題となったからだが、対内的には貴族層の寡頭的、封建的支配に対する反発がその理由であった。「革命」で成立した軍事政権は、このとき存在していた議会制度を必ずしも「西欧的」だからといって停止させたのではなく、むしろ「貴族のための議会制度」であるという理由で停止させたのである。よって、革命政権はいずれも、王政期には代表されなかった大衆を対象とした「真の民主主義」のための「暫定的措置」という自らの位置づけをした。共和制革命の主人公であったカースィム政権にせよ、その後のアラブ民族主義政権にせよ、現在のバアス党政権にせよ、いずれも「未完の革命」過程にあって未だ過渡的段階が続いている、ということを、その「民主主義」導入に至らない口実としている。言ってみれば、王政期の「貴族的議会制度」の試みに終止符を打ち「大衆的民主主義」へと移行しようという方向性が、「共和制革命」当時の試みのなかにあったにもかかわらず、軍政の長期化によって「大衆的民主主義」の確立に失敗した、と考えることができる。
「未完の革命」を追う人々
このように共和制政権以降の軍政は、「貴族的議会制度」を打倒したものの、大衆を代表する政治的枠組みを「民主主義」的な制度によって獲得することができなかった。それを補うために、軍政は軍による統治にますます依存するようになり、軍政に続いて成立したバアス党政権は、軍を抑えるためにもう一つの物理的統治装置である治安組織に依存するようになった。こうした状況において、「革命政権」の専横に対する挑戦は、「民主主義」を求めるという形で展開されることはなかった。現在のバアス党政権などアラブ民族主義勢力が「革命」政権を謳って力に依存するのに対して、六〇〜七〇年代には、別の「革命」勢力が自らの大衆における代表性を誇示し、「大衆/国民の力」を正統性の根拠において対抗するという構造が存在したのである。
換言すれば、七〇年代半ばまではイラクの政権側も反体制側も、どちらが大衆を掌握し大衆を「適切に」代表しているか、ということをその対立の焦点においてきたといえるだろう。その「別の革命勢力」とは、五〇〜六〇年代においては共産党を始めとする左派勢力であり、七〇年代半ば以降においてはシーア派を中心とするイスラーム勢力であった。彼らはイラク国内に緻密な組織細胞を張り巡らせ、全国的な大衆的支持基盤を確立することに成功し、政権を大衆的基盤から掘り崩すという形で、バアス党政権を脅かしてきた。そしてそれらの政治勢力は、政権への「民主的参加」ではなく「革命的政権奪取」を狙ってきたのである。
これに対してバアス党政権が対処してきた手法は、反体制派にポストを分け与えることでこれらを懐柔することであった。すなわち、大衆的支持基盤に依拠して「革命的」に政権を奪取されるよりは、政治エリート間で権力を分配するという「複数政党制」の形式を採ることを選択したのである。七〇年代前半、最大の反体制派であった共産党やクルド民族主義勢力に対して、バアス党政権が採った対応策は、形式的にせよこれらを合法化し、一定の政治参加を認め、閣僚に登用することであった。こうした「共闘」は、クルドの場合は七五年に、共産党は七九年に崩壊することとなるが、「民主化」や「政治参加」、「複数政党制」といったレトリックは、むしろ政権が反体制派を懐柔するために利用してきたと言ってもよい。
一方、イスラーム主義勢力に対してバアス党政権が採った手法は、より複雑な影響を残した。ダアワ党などのイスラーム主義政党は、七〇年代を通じて一定の社会的浸透を果たしたのち、七九年以来「革命的」手法で政権の奪取を試みてきた。こうしたイスラーム政党の「革命的」台頭に対してバアス党政権が下した判断は、これを「シーア派の反乱」と見なすことであった。イスラーム主義という、いわば宗派を超えて全国に波及しかねない「革命」運動を拡散させないためには、それを限定的なものとして一定の社会集団や住民の間だけの運動に押し込めてしまう必要があった。その結果、バアス党政権はシーア派の高位ウラマー(宗教的知識人)を処刑したり、その家族を「イラン人」としてイランに放逐したりした。その一方で、シーア派住民がイスラーム主義に走る原因を社会経済的貧困と「シーア派」としての政治参加の不在にあると考え、低所得層のシーア派住民に対する慰撫政策を強めたり、バアス党内のシーア派党員の幹部登用を進めたのである。
このように、バアス党政権はクルド民族に対するのと同様に、イスラーム主義勢力に対してもこれを「シーア派限定」のものと見なして、あたかも「シーア派」という社会集団が独立的に存在するかのような対処を行った。だが留意すべきことは、イラクにおける宗派的差異は、アラブ民族とクルド民族のような明確な自覚に基づく区別があるわけではない。世俗的社会運営を進めてきたイラクでは、湾岸戦争以前はむしろこうした宗派意識に基づく集団意識は薄められてきたと言ってよい。にもかかわらず、バアス党政権が「革命的」運動であるイスラーム主義に対処するうえで、あえて「シーア派」的要素を強調したことで、逆に「イラク南部のシーア派集団の一体性」という虚像が生まれたのである。
「革命は民主化しない」
このような歴史的背景を踏まえて、次に、現在アメリカがイラクに対する「民主主義」政権構想として一体何を企図しているのか、という点を見てみたい。それは「新しい体制」を目指すと言いながら、結局は「貴族的議会主義」か「革命的」政権奪取の試みか、という過去の失敗を繰り返すことにならないだろうか。
アメリカが湾岸戦争以降、フセイン政権に対する対抗組織としてイラク国民会議(INC)という在外の反体制統合機関を利用してきたことは、よく知られたことである。このイラク国民会議の中心人物はアフマド・チャラビだが、彼はイラク国内に支持基盤もないシーア派の元銀行家で、ただ「偶然」MIT出身であったことでアメリカに取り立てられたのだ、とは、しばしば椰楡的に言われることである。またチャラビ同様に湾岸撃後、英米が利用対象とした集団にイラク国民合意(INA)があるが、INCにしてもINAにしても、アメリカが彼らに最も期待したのはイラクから亡命してくる要人の亡命窓口となることであり、彼らから国内情報を得たり内部工作に利用したりすることであった。
だが、アメリカがチャラビを起用してイラク反体制活動に関与し始めたことでイラクの反体制活動全体が受けた影響は、ただの「偶然」ですまされるものではなかった。湾岸危機の発生によって、国際社会が一斉にフセイン政権に対する非難を強めたのを見て、海外に亡命し長年活動を続けていたイラクの反体制活動家たちは既存反体制組織の大同団結に動き、九〇年十二月と九一年三月にベイルートで大規模な決起集会を開催した。
この決起集会が画期的であったのは、それまで反目しあっていた、大衆基盤を持つ「革命」勢力の代表的存在であるイスラーム諸政党とイラク共産党、そしてバアス党の反主流派を中心とするアラブ民族主義勢力が、クルド勢力とともに結集したことである。これまでそれぞれの「力」による政権奪取を志向していた各「革命」勢力は、とりあえずここで他派との共闘の必要性を理解し、フセイン政権打倒後の「政治的プルーラリズム(多元主義)」の方向性を模斎し始めたのである。とりわけ、一九九二年にはイスラーム政党であるダアワ党がその政治綱領を発表して民主的な制度(民主主義とは明言しないものの)の採択を初めて認めたし、イラク共産党は九五年の党大会で初めて党幹部を党内選挙によって選出するという「民主化」を行った。
こうした「革命的」反体制派の変化と盛り上がりに対して、アメリカが行ったことは、これらとは別にチャラビのような欧米在住の個人政治家を取り立てて、反体制組織の統合の中心に据えようとしたことであった。INCの成立はそうした経緯から生まれたもので、アメリカの支援を得てクルド勢力はINCに積極的な役割を果たしたが、その他の主要反体制派であるイスラーム勢力、共産党、アラブ民族主義勢力は、INCの成立後数年で脱退するか、INCでの活動を凍結するかどちらかであった。チャラビや欧米の亡命知識人を前面に取り上げることで、アメリカはイラク国内に活動基盤を持つ主要反体割派勢力を、それらが「革命的」であるということで、取り込むことに失敗したのである。
ある意味で、このエピソードはアメリカの中東地域全体における「民主化」推進政策の失敗を象徴している。中東地域では「革命的」勢力が国民の突き上げによって徐々に「民主化」していかざるをえなくなる、という過程が、いくつか見られる。典型的な例が、イラン「革命」政権におけるハータミー大統領の出現であろう。だが問題は、アメリカがこうした元「革命」勢力の変化に対して極めて冷淡であることだ。「革命」勢力を「民主化」していこう、という発想よりは、新たに一から「民主的」な存在を作り上げるべきだ、という発想が根強い。チャラビら「反体制ビジネスマン」の起用と大衆的基盤を持つ「革命」勢力の反発、というアメリカの対イラク反体制派政策の失敗は、そうしたアメリカの中東政策全体の問題に繋がっている。