現在地 HOME > 掲示板 > 国家破産21 > 229.html ★阿修羅♪ |
|
(回答先: 野口旭の「ケイザイを斬る!」 第2回 「構造」なる思考の罠 投稿者 TORA 日時 2003 年 2 月 04 日 11:19:06)
寛政の改革と小泉内閣「竹中改革」のゆくえ
レルネット主幹 三宅善信
▼松平定信とはどういう人物か
日本の株価は、永らくバブル以後の最安値ゾーンに張りついたままであり、デフレ・スパイラルというよりは、日本経済の「大底が抜けた」感すらある。1年半前、評判の悪かった森内閣に代わって、国民の期待を一身に受けて成立した(註:自民党総裁選で圧勝し、各種世論調査でも90%の高支持率を誇った)はずの小泉内閣になってからも、一貫して株価は下がり続けた。また、世界最大の外貨準備高と債権保有国であり、かつ世界全体の預貯金総額の実に60%を保有する「金持ち国」であるにもかかわらず、ムーディーズやS&Pといった海外の格付け会社から、国債の格付けを下げられ続けている。このように、小泉内閣は、経済的には全くの無策を続け(註:政治は常に結果責任である)、一年半の小泉政権間に、多大な「痛み」を国民に強要したにもかかわらず、うまく行かなかった時にはなんでも人のせいにして、一向に、小泉氏の唱える政治主導の「改革」が進んでいないことに、国民は苛立ちを感じている。そこで、政治主導の「改革」とは、いったいいかなるものであるかということを考えるために、今回は、江戸時代後期に「寛政の改革」を断行した老中松平定信の改革と小泉改革を比較して考えてみたい。
磐城国(福島県東部)白河藩主松平定信(1758~1829年)は、幼君の第11代将軍徳川家斉の時代に老中首座となった。マスコミなどでは、しばしば、現在の内閣総理大臣を、江戸幕府の征夷大将軍に置き換えて論じて(番組が作られて)いる場合が多いが、これは、機能的に言って正確ではない。江戸時代の将軍職というのは、一部の例外的事例である徳川政権成立期(家康と秀忠)の時代を除いては、「公方(くぼう)」様と呼ばれたことからも判るように、ほとんど儀礼的な「お飾り」の象徴的な役職(註:戦後の「天皇」に近い)であり、実際の政策決定は、現在の「閣議」に相当する「評定」の席において、老中・若年寄・大目付・三奉行などから構成される「幕閣」による合議性で審議・決定されいた。その幕閣の筆頭者として老中首座が置かれていたので、「為政者」として、実際の仕事的には現在の首相に近いものであった。その老中首座に、徳川幕府中興の祖である8代将軍徳川吉宗の孫である松平定信という血統的には申し分がない男が就いたのである。
「江戸幕府は15代続いた」と学校では習うけれど、実際には、「2つの家系」に大別できる。2代将軍秀忠の正嫡である3代将軍家光の血を引く徳川宗家は7代で断絶し(註:7代将軍家継とは8代将軍吉宗とは8親等も隔れており、同じ「徳川家」でも、ほとんど「他人」といっても過言でない)、こんな事態(本家断絶)のために、家康が定めていた「御三家」のひとつ紀州徳川家から将軍職を継いだ8代吉宗とその長男9代家重は、せっかく手に入れた将軍家を、自分たち(紀州家)の血統が断絶した時に、再び、他の御三家(尾張家か水戸家)に将軍職を取られないようにするための「新たな御三家」として「御三卿」が創設された。
その御三卿の筆頭である吉宗の次男田安宗武(註:9代将軍を継いだ長男の家重よりもはるかに聡明であった)の三男として定信は生まれたが、諸般の事情(註:吉宗の四男で御三卿の次席である一橋宗尹の長男で、定信より7歳年長の治済は、自分と同じく10代将軍家治の従兄弟である聡明な定信を将来の将軍候補からハズすために、将軍職継承権のない親戚の松平家に早々と養子に出すよう画策した)で白川藩松平家に養子に出され、しばらく、中央政界から遠ざかっていたが、吉宗の嫡子(長男)ながら、正来病弱で愚鈍であった9代将軍家重(註:唯一、家重の言葉を理解することができた側用人大岡忠光の専横)と、幼くして10代将軍職に就いた家治の時代に、幕政は大いに緩慢なものとなってしまった。中でも、家治将軍期には、老中田沼意次による民間活力を積極的に導入(註:もちろん、いつの時代も賄賂政治が横行する)した経済成長政策において、国内の総生産は大いに拡大したが、鎖国政策下では輸出による消費拡大が不可能なので、所詮は、前近代的な封建制度に基づく石高本位制の武家社会では、幕府歳入の増加は望めず、歳出の拡大を続けた財政状況が、とうとう破綻してしまった。
この非常事態をなんとかするために、8代将軍吉宗に始まる紀州徳川家系の切り札として、中央政界にカムバックした人物こそ松平定信である。NHKの人気番組『その時、歴史が動いた』のメインキャスターをしている松平定知氏はこの松平定信の直系の子孫である。定信は、自分の祖父である吉宗が実施した「犬公方」こと5代将軍綱吉による「風紀の紊乱(びんらん=文化の成熟)」と「元禄バブル」の財政破綻からの回復政策(いわゆる「享保の改革」の諸政策)を理想として掲げ、政治改革を断行(註:綱紀粛正と財政緊縮)したのである。この間の経緯は、幕府内の権力構造の変化によって生じた訳であるが、経済政策的に言えば、積極財政か緊縮財政のどちらを選ぶか、ということである。しかし、このジレンマは今古東西を問わず交互に現出するのである。
▼いつの時代も景気は循環する
資本主義経済の宿命とも言えるように、戦後の日本経済においても、好・不況は交互に繰り返された。敗戦後、ゼロから再出発した日本経済は、朝鮮戦争による「特需」から始まって、「神武景気」・「岩戸景気」・「オリンピック景気」・「イザナギ景気」と名付けられた好況と、その間の景気後退期が循環的に押し寄せ、その都度、日本経済のパイ(GDP)を大きくさせていった。マクロ経済学的説明をすると、需要拡大→設備投資→在庫調整(旧式設備の廃棄)→生産性の向上→所得の倍増→需要拡大と、好・不況が繰り返される毎に、生産性の向上と国際競争力の強化がもたらされた。こうして日本は、「敗戦」からの復興を見事になし遂げたどころか、その後の奇蹟的な高度経済成長を達成した。その後も、ドルショック(1971年)や石油ショック(1973年)といった国際的要因で、日本経済は一時、大きな痛手を受けるが、その都度、大きな構造転換がなされ、かえって国際競争力の強化がなされた。
しかし、終始これらの「痛み」を伴う構造改革の外に身を置き、安隠と惰眠を貧り続けた産業があった。すなわち、国の手厚い保護(「族議員」が多かった)が行なわれた金融・建設・農業といった産業であり、結果的に国際競争力のない分野が「温存」され続けたのである。これらの分野の合理化の遅れが、後で大きなツケを払うことになった。資源小国日本にとっては、致命的とも思えた2度にわたる石油ショックと、輸出立国にとっては大変なハンデとなる円高というふたつの障壁すら乗り越え、日本経済は見事に立ち直ったのである。否、以前より一層、強い形で国際競争力を有したのである。その結果が1980年代後半のバブル経済に象徴される海外資産の買い占めである。一時は、世界中が「日本のもの」となった。馬鹿げた話であるが、なにしろ、東京都の地価だけで、日本の国土の25倍もあるアメリカ合衆国全土の2倍もの価値があったのだから…。日本企業に買えないものはなかった。しかし、日本の経済発展の前提となった「米ソ冷戦構造」の終結(註:ソ連の側に付かさないために、多少は美味しいものを食わせてアメリカが飼い慣しておかなければならない同盟国としての必要がなくなり、いつでも、属国として鞭で叩いて言うことが聞かせられるようになった)という国際情勢の変化と、その後のアメリカの一極支配、すなわち、グローバリーぜーションという国際情勢の変化には、高度な軍事力(註:戦略核兵器た原潜やミサイルや爆撃機)を有しない日本は対応できなかった。そのことが、バブル経済崩壊の低迷の本当の意味である。
これらの戦後の日本経済の変遷を、徳川期の経済状況を置き換えてみると、高度経済成長期は、いわば、5代将軍綱吉の「元禄時代」に相当すると考えてよいだろう。事実、「昭和元禄」という言葉も流行った。そして、元禄時代の飽満財政の後の経済危機は、いわば70年代前半のドルショック・石油ショックに匹敵する。そして、その危機を乗り越えるためのその後の社会の構造変化(技術革新と国際競争力の強化)が、いわば、8代将軍吉宗の「享保の改革」に相当するのである。そして、再び訪れた1980年代後半バブル期は、10代将軍家治期の「田沼時代」に匹敵すると思われる。事実、1980年代後半は竹下派経政会支配の全盛で、利益誘導を伴う金権政治が国政を大いに歪めた。
しかし、平成バブル同様に田沼バブルが弾けるのは時間の問題であった。その結果、困窮した幕府の中では風向きがいっぺんに変わり、「苦労知らず」の御三卿育ちにもかかわらず、養子に出された先の白河藩の財政を見事に立て直した聡明君主松平定信の老中就任を待望する声が澎湃(ほうはい)として現われてきた。このあたりは、バブル崩壊後の社会的閉塞感への活路を見い出すべく、平時なら絶対に総裁に選ばれることのなかった「変人」小泉純一郎氏が、永田町の圧倒的期待を受けて政権の座に就いたことと共通点がある。
▼竹中平蔵は「鬼平」か?
寛政の改革と小泉改革とは多くの点で共通点を持つ。まず、精神論しか裏づけのない「倹約令」である。小泉政権では、当初、財政再建のために「徹底的な歳出の削減(註:国債30兆円枠の遵守)」ということが唱えられた。このことは、道半ばにして頓死した小渕恵三政権(註:これも竹下直系)のなりふり構わぬ経済刺激策(註:事実、小渕首相は自らのことを「世界一の借金王」と卑下してみせた)でようやく復興しかけた日本経済に、冷水を浴びせかける結果となった。さらに、定信は「棄捐令」を発し、多額の借金を抱えた旗本御家人の返済義務の免除、すなわち、借金の踏み倒しを社会秩序を維持するべき立場である幕府自身が認めたのである。このことは、いわば、現在のペイオフ制度と同じである。自らの生活を切り詰めて、真面目に借金を返済した人(企業)やコツコツと貯金をした人(企業)が報われず、バブル期にマネーゲームというあくどい儲けをして亨楽生活を送り、その結果、泥沼に填って巨額な不良債権を抱えた銀行やゼネコンを助ける結果となった。
これは、社会にモラルバザードをもたらせた。最今の凶悪犯罪の増加と無縁ではなかろう。更に、定信は、政策の決定をこれまでの幕府の官僚(註:日本的コンセンサス方式)に任せるのではなく、「寛政の三博士」と呼ばれる朱子学者を幕府の政治顧問に迎え、既存の官僚との相談なしにどんどんと政策決定をしたが、これなど、経済学者の竹中平蔵慶應義塾大学教授を経済財政担当の閣僚(註:第2次小泉内閣においては、金融担当大臣も兼務)に迎えたのと似ている。「いきもの」である経済を学者(註:閣僚本人の能力の有無は別として、政治家であれば、その施策への結果責任として、選挙という国民のチェックが入るが、その点で、竹中氏には自己責任の取りようがない)に任せたという点でも似ている。
ところで、竹中平蔵という古風な名前で思い出したが、池波正太郎の時代小説『鬼平犯科帳』シリーズの主人公として知られる火付盗賊改方の長谷川平蔵も、実はこの時代に活躍した人である。長谷川平蔵は、そのユニークな犯罪捜査法(註:改悛した元罪人を配下に組み入れて情報収集したり、時には、犯罪者集団との司法取引などを巧みに用い、それまでの幕府の公安官僚=町奉行所だけではなし得なかった高い検挙率を上げた)で江戸市民の喝采を受けた。また、平蔵は老中松平定信に進言して、江戸湾の埋立地石川島に軽犯罪者のための更正施設「人足寄場」を設置し、世界最初の職業訓練・就職斡旋機関、今で言えばハローワークのような施設を創ったことでも知られる。平蔵は「鬼平」と呼ばれた厳しい犯罪取締りだけではなく、犯罪の社会的温床となる地方から江戸に出てきた無宿者(今で言えば、不法入国の外国人)や失業者および浪人たちを、出身地へ戻したり定職を与えて、安定した社会システムの中へ再編成を試みた。
もっとも、「坊ちゃん育ち」の清練潔癖理想主義者の定信には、市井の人平蔵は「胡散臭い奴」と映ったらしく、平蔵本人はもとより、大方の江戸市民の期待も虚しく、最後まで町奉行に昇格することができなかった。さらに定信は、「七分積金」という制度を作り、困窮した人に対する救済金の制度を設けたが、これも、現在で言えば、銀行に公的資金を注入し、銀行が国際業務をできるための最低条件である自己資本比率8%を達成すること(BIS規制)とあまりにも附合してる点が興味深い。結果的には、定信の旗本・御家人への借金棒引令(「礼差仕法」)の実施は、その結果「新たに金融業者(礼差)が、旗本・御家人に金を貸さない」という事態になり、かえって困窮したあたり、「銀行の貸し渋り、貸し剥がし」問題とも共通している。
▼ 田中VS福田の三十年戦争
松平定信はことごとく、それまでの政治のあり方(註:9代将軍家重期の側用人大岡忠光や10代将軍家治期の老中田沼意次のような政治形態)を改め、自らの理想とする吉宗時代に復帰させようとしたが、必ずしも、それはうまく行かなかった。それは、ある意味で「戦後の清算」であった沖縄返還を成し遂げた(註:おかげで佐藤栄作氏は、日本人で唯一のノーベル平和賞を受賞することができた)7年間にわたる佐藤栄作氏の長期政権の後、佐藤政権下で着々と地歩を固めた全くタイプの異なる2人の政治家――小学校しか出ていない叩き上げの土建屋出身の田中角栄氏と、東大卒のエリート大蔵官僚出身福田赳夫氏がポスト佐藤の政権争いを演じた。本来、高度経済成長最末期の段階で、経済が実体以上に肥大(バブル化)している時に、景気抑制政策でブレーキを踏む福田氏が先に総理大臣になれば良かったものを、実際には、公共事業による「日本列島改造」の積極経済策の田中氏が先に政権に就き、田中氏が「ロッキード疑獄」のスキャンダルによって退陣(註:その反動で、ただクリーンだけが「売り」で、政策的中身の乏しい三木武夫氏が、田中氏の後に総理になるという不幸まで重なってしまった)することになってしまった。
その後、石油ショックで日本経済がすっかり減速してしまってから、福田氏が政権に就くというこの国にとって不幸な歴史があった(註:田中氏と福田氏の総理就任順が逆のほうが日本のためには良かった)。おまけに、刑事被告人となってしまった(註:こともあろうに、田中氏の直後に首相になった三木氏が田中氏を逮捕させてしまったから)田中氏をむりやり「守る」ために、自民党最大派閥の田中派が独自の総理総裁候補を立てないことによって、かえってキングメーカーとして政治権力を独占し続けるという弊害(註:本当の権力者が総理大臣であれば、議会で答弁しなければならない責任もあるし、その政策を批判することもできるが、「陰の総理」として、公式の役職から離れて間接的に総理をコントロールすれば、何も責任を問われずに、国会のチェック機能の外に本当の権力者が隠れてしまい、ある意味で、民主主義の否定にも繋がる)まで生じた。その後の自民党各政権は、結果的には田中角栄的政治手法の亜流である竹下派経世会(現橋本派)が支配し、彼ら自身、何ら憶することなく、「これこそ保守本流」(つまり、利権透導型の政治)と自認している。
一方、福田赳夫氏の流れを汲むグループは、その後も、安倍派→三塚派→森派と、表の看板を掛け替えながらも連綿と続いてきたが、竹下派が支配する自民党内では、常に「日陰の身」だったので、いかに、小渕首相の急死という非常事態によって緊急避難的に転がり込んだ政権政権とはいえ、森喜郎内閣以後は大はしゃぎである。現在の小泉政権を見ても、内閣の要である官房長官には、「昭和の水戸黄門」こと福田赳夫元総理の長男である福田康夫氏が就き、北朝鮮による拉致事件で名を上げた副長官には、安倍晋太郎氏(註:安部晋太郎氏の岳父は、佐藤栄作元首相の実兄の岸信介元首相である)の長男である安倍晋三氏が就いており、小泉氏自身、若い頃は福田赳夫氏の秘書をしていたことからも判るように、いわば、福田赳夫氏直系の内閣なのである。
であるからして、かつて福田赳夫氏の不倶戴天の仇敵であった田中角栄氏の娘である田中眞紀子氏を、長年の橋本派(竹下派)支配の構造をブチ破るために利用するだけ利用した挙句に、弊履のごとく使い棄てにしたことは、小泉内閣(特に福田康夫官房長官)としては当然の帰結である。なぜなら、田中角栄氏から、角栄氏が権力を得たのと全く同じ方法で、その派閥の実権を奪った竹下登氏の流れを汲む現在の橋本派に対しては、近親憎悪の田中眞紀子氏が最も有効な爆弾だったからである。
▼「改革」の行く末は?
資本主義経済下においては、いかなる手法を採ったとしても、積極経済と消極経済とが交互に交代するのは避けられないのである。これは徳川時代も同じことであった。幕府にとっては都合のよい財政緊縮や借金帳消し政策も、既に貨幣経済が定着していた国民生活に大きな要影響を与えた。徳川幕府「中興の祖」8代将軍吉宗の時代への回帰を目指した松平定信であったが、吉宗が行なった「享保の改革」も、よくよく考えてみれば、いわば、国民の経済実態(註:元禄時代を経て、国民経済は既に資本主義の価弊経済化していたのにもかかわらず、幕府創業当時の農本主義の米本位制へ戻そうとする目論見であり、経済的には、かえって困乱をもたらせた)を無視したブレーキを踏む消極経済政策で、日本国内を大変な困乱(註:特に、銀本位制の信用経済が成立していた上方と、金本位制の江戸の現物経済の関係において)に陥れただけであった。
おそらく、結果的には、「寛政の改革」同様、小泉改革も、十年以上に及ぶ放漫金融政策(註:もちろん、A級戦犯は、宮沢喜一元首相を筆頭とする大蔵官僚たち)バブル経済の後遺症であるデフレ経済に悩む一般の人々の苦しみを一層強めるだけで、最終的には、政府や銀行界の構造改革にはほとんどならず、「寛政の改革」の疲れと反動が幕末へと動き出す徳川政権の崩壊の引き金を引いた(終わりの始まり)だけの結果となってしまったことを想い出すべきである。小泉政権が、日本の戦後体制(註:経済第一主義)終焉の引き金を引く可能性が高くなってきた。「耐え難きを耐え、忍び難きを忍ん」で迎えた太平洋戦争の「敗戦」同様、どのようなハードランディングがこの先、日本社会を待ちうけているのであろうか?
現在の小泉政権が、太平洋戦争後、半世紀にわたって営々と築いてきた日本国の経済的繁栄に幕を引くだけならまだましであるが、軍事的緊張も含めて、幕末維新期同様の社会混乱をこの国にもたらす原因になるのではないかと心配しているのは私だけではあるまい。「寛政の改革」当時、流行った狂歌にこういうものがある。「白河の 清きに魚の 住みかねて 元の濁りの 田沼恋しき」清廉潔白主義で堅苦しい白河藩主松平定信時代と、賄賂全盛ながら庶民が楽しく暮らせた田沼意次時代という2人の為政者を比較してうまく詠んでいる。所詮、市井の民人の心境とはこんなものである。理屈ではない。赤字国債発行上限30兆円枠の撤廃(緊縮財政政策から積極財政政策への転換)や普通預金ペイオフの2年延期(構造改革の遅延)等々、小泉政権において、次にはいかなる施策が飛び出し、その責任を取らされて、誰が閣僚を免ぜられるか楽しみでもある。もちろん、寛政の改革も、最後は、老中松平定信本人が罷免されて、あっけない幕切れとなったことを忘れてはいけないが…。
http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r12-144.htm