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(回答先: 原理主義は原理主義 投稿者 終電です。 日時 2003 年 3 月 05 日 20:00:03)
「終電です」さん、こんばんわ。
>原理主義者も現在、聖書を文字どうり解釈し、不寛容であるものと認識されていると
>思います。
聖書を文字どうり解釈し、選書に指し示された生き方を使用とする人が、不寛容であるはずもありません。
“不寛容”と“揺るぎなき信仰”は別です。
たとえいろんな人から間違っていると説得されても信仰を変えないのは、“揺るぎなき信仰”であって、“不寛容”ではありません。
“不寛容”とは、自分と違う信仰や世界観を持っている人の存在を許さない志向のことです。
>あっしらさんにキリスト教原理主義者や、かれらを知る知り合いがいるなら、そう主
>張するのも解かりますが。
アーミシュのようなキリスト教原理主義者も、「キリスト教原理主義者」と呼ばれている政治的宗教右派も、共感の対象ではありません。
私は、アーミシュならキリスト教原理主義者と呼べるかもしれないが、いわゆる「キリスト教原理主義者」=政治的宗教右派はキリスト教原理主義者とは呼べないと言っているだけです。
なぜ、この定義や呼称にこだわるかと言えば、異様な政治的宗教右派を「キリスト教原理主義者」と呼ぶことで、キリスト教信仰をずたずたにしようという意図を感じるからです。
世界支配をめざしている人たちは、既存宗教を破壊し、新しい理念や論理を人々の判断や行動の規範としようとしています。
異様な政治的宗教右派を「キリスト教原理主義者」と呼ぶことは、このような動きをサポートすることになります。
せいぜい「キリスト系宗教右派原理主義者」と呼ぶことをお勧めします。
>あんまり参考にならないかもしれませんが、家族間に秘密をつくらせる気まずさを感
>じ取ってもらえれば、原理主義者の不寛容さも読み取れる思います。何年も前に読ん
>だ本ですがよく覚えていたと思います。
初期キリスト信仰者は、家族を捨て共同生活に入った人がほとんどです。
キリストと呼ばれる「義人の師」は、入信した子供の親たちから何度も石を投げられた人です。(キリストの母親自体が、息子は気がふれていると受け止めていました)
身近な例をあげれば、オウムと同じ信仰形態なのです。
これを好ましくないと考える人は、ただ単にキリスト教を信仰しなければ言いだけの話です。
>どっちにしろ福音書を文字どうり信じるのは馬鹿げているでしょう。数匹の魚と数個
>のパンで数千人の腹を満たしたり、湖の上を歩いたり、死人を生き返らしたりの奇跡
>は読み手の経験上疑ってみるのが普通でしょう。湖上で暴風に対して、止みなさい、
>と命じたら風が止み弟子たちが驚くシーンや、イエスがお腹をすかしている時に、通
>りがかりの無花果の木が実をつけてないのに腹をたて呪って枯らしてしまうところな
>どは笑ってすますところでしょう。
キリスト教信仰者ではないので信じていませんが、こうやって人が生まれ生活し死んでいくことを考えれば、書かれている内容が現実に起こったとしても不思議ではありません。
福音書で書かれていることが信じられないのなら、キリスト教を信仰しなければいいだけの話です。
福音書に書かれていることを信じるキリスト教信仰者が、キリスト教原理主義者であることの最低限の条件です。