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(回答先: それでもファンダメンタリストはファンダメンタリスト 投稿者 終電です。 日時 2003 年 3 月 06 日 00:19:59)
「終電です。」さん、こんばんわ。
あなたの批判対象が、キリスト教信仰の在り方ではなく、人としての在り方であれば問題にしません。
しかし、キリスト教信仰の在り方であれば、他の価値基準を持ち込んで妥当性を問うことは筋違いの批判です。
(もちろん、キリスト教そのものを否定的に捉え批判することはかまいません)
>あっしらさんはキリストは存在しなかったという立場じゃありませんでしたっけ?
歴史教科書にも書かれ、幅広く信じられているかたちのキリストは存在しないという主張です。
福音書のベースはエッセネ派の教義であり、イエス・キリストは紀元前150年頃にいた「義人の師」だと思っています。(これも既に書いたことがある内容です)
>グノーシス派のことを仰っているとは思いますが、あっしらさんの言いたいことがよ
>く解かりません。私の述べたことと対応しているとは思われませんが。同じキリスト
>教を信仰しながら家族間に気まずい思いをさせるものがアメリカにおけるファンダメ
>ンタリストだと思います。ボストン通信員さんの言うように現地で生活している人が
>クレイジーと言っているのだからそうなのでしょう。
あなたが嫌いかどうかや多数の人がクレージーと思っているかなどは、キリスト教信仰の在り方としてふさわしいものかそれとも外れているものかという判断とは関係のはずです。
キリスト教信仰としてふさわしいかどうかの判断は、他の価値基準を持ち込んで行うのではなく、福音書に書かれていることを基準に判断すべきだと考えています。(そうじゃないと言われるのなら、議論は続きませんが..)
もう一つは、「キリスト教原理主義者」と言われているいわゆる米国の政治的宗教右派は、福音書に書かれていることを基準に判断すれば「キリスト教原理主義」ではないということです。
前回書いた内容は、グノーシス派とかローマカソリックとかいった宗派とは関係ありません。
(グノーシス派がエッセネ派をより忠実に継承しているとは思っています)
福音書を読めば、家族や財産への執着よりも、神への信仰に生きるべきと指し示していることはわかります。
ですから、信仰を曲げて家族間の調和を図るより、信仰を貫くことで家族間に気まずい思いをさせたとしても、そのほうが信仰心に篤いということになります。
逆に、家族間の調和のために、信仰を曲げるのなら信仰心に乏しいことになります。
それをキリスト教から離れた価値基準で批判するのは自由ですが、キリスト教信仰の在り方として非難するのは筋違いだという主張です。
>ジャップはその昔、日露戦争で勝利した日本を讃えるために自分達の野球チーム名に
>した黒人達がいたということは、ジャップがいま日本人の蔑称となっていることとは
>関係ないでしょう。言葉にそういう命が与えられた以上、そういう意味で使うしかあ
>りません。言葉遊びは不毛です。
「キリスト教原理主義」という言葉が、“ジャップ”という言葉と同じような命が与えられているとしたら、それこそ誤用を超えた犯罪行為と言えます。
猫(政治的宗教右派)を犬(キリスト教信仰者=原理主義者)と呼び、猫(政治的宗教右派)の行いを見て犬(キリスト教信仰者)はけしからんと言っているようなものです。
「言葉にそういう命が与えられた以上、そういう意味で使うしかありません。言葉遊びは不毛です。」には苦笑してしまいました。誤った言葉の使われ方は正すべきです。
猫(政治的宗教右派)とは何か、犬(キリスト教信仰者)とは何か、そして、猫は犬と同質なのかという議論が必要なのです。
きちんとした使われ方でも、その言葉に嫌悪感を持つ人もいるはずです。それはそれでいっこうにかまわないことです。
あなたがタイトルとされた「それでもファンダメンタリストはファンダメンタリスト」は、「それでも人は人」と同じものでしかありません。
「それでもファンダメンタリストはファンダメンタリスト」ではなく、ファンダメンタリストとは、何を基準に評価でき、どういう振る舞いをする人なのかが問題になっているのですよ。
>誰がどういう意図をもってキリスト教やイスラム教、ヒンズー教、仏教などの宗教を
>陥れようとも、その中に、真理、正しき道があるかぎり不滅でしょう。我々が心配す
>ることではありません。対立を乗り越えることを祈るだけです。
政治的宗教右派を「キリスト教原理主義者」(=キリスト教信仰者)と呼ぶことで、無用の誤解と対立を生んでいるようです。
あなたは心配されなくてもけっこうですが、私は、そのような状況を心配します。