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近代経済社会の理解について
http://www.asyura.com/2003/dispute8/msg/207.html
投稿者 あっしら 日時 2003 年 2 月 12 日 20:23:00:

(回答先: あっしらさんに質問:近代経済システムの理解について 投稿者 すみちゃん 日時 2003 年 2 月 11 日 13:48:55)


すみちゃん、こんばんわ。

論考ありがとうございます。

的確なレスかどうか疑問ですが、的外れについてはレスをいただければ幸いです。


>(私は理系の人間でして、マル経や宇野理論の評価それ自体には関心がありません。
>たぶん他の皆さんもほとんどはそうですよね。あくまで「経済社会の現実をどうとら
>えるのが妥当なのか」という問題意識に従って書いています)。


私も、「経済社会の現実をどうとらえるのが妥当なのか」という身構えで書いています。
近代経済学やマルクス経済学を持ち出すのも、それらが、現実の経済社会を捉える有効な方法論として流布しており、それらの限定的有効性と根源的無効性を明らかにする必要があると思っているからです。
(価格の論理的基礎や利潤の源泉を説明できない(説明していない)近代経済学は、それによって無効性を自ら晒しています)


おっしゃられるように、閉鎖系経済社会では、順調な経済活動を前提にすると、利潤獲得は論理的に不可能になります。
(経済活動をおかしくしてもよいのであれば、社会内部の通貨移転により、一部の人が投下資本<回収資本という利潤を獲得することが可能になります。その分、他の人に“へこみ”が生じます)

【世界経済を認識する基礎】シリーズで書きましたが、機械制大工場による生産・販売システムは、外部共同体への販売(輸出)条件があって初めて成立の動機付けと存続ができるものです。(利潤を獲得しても過剰供給にならず、長期間で償却する機械設備に投資しても破綻しないという意味で)


グローバリズムというか近代世界史は、国民経済の連関である世界経済を単一の世界経済に改編する方向で動いてきました。これは、世界が閉鎖系経済社会に近づく(なる)ことを意味するものです。
単一の世界経済が確立すれば、社会内部の通貨移転だけが利潤の源泉となります。
(これまでも国民経済的利潤は他の国民経済からの通貨的富の移転でしかなったのですが、その被害は後進国に集中していたので、享受者である先進国の国民には意識されないできました)


すみちゃん;「前述の論理構成ですと、商品Aが売れる前からその中に8単位の価値が「内在」しているかのようです。そして、8単位の内在価値を有する商品を生産する労働者の労働には「8単位」の内在価値があるのにもかかわらず、そのうち4単位を資本家が搾取しているという論理です。こういう論理に立つと、資本家はまさに「盗人」です。「追い剥ぎ」です。しかも国家権力という暴力装置を駆使する盗人です。憎いですね。
 しかし、良く考えてみると変です。 市場はどこにあったんでしょう。市場がないのに、なぜ商品AとBとが等価交換できるのでしょう。なぜ商品Aの価格は8単位なんでしょう。それがストレートに労働力の内在価値と等価なのはなぜなんでしょう。 同じような労働をしても、商品価値がまったく異なることは良くあることですね。 この当たりの論理構成に「作為」が見られると思います。 革命を起こし易い論理、労働者を煽動し易い論理を組み立てようという作為です。」


等価交換という考えは経済モデルとして成立するもので、現実が等価交換だと言うわけではありません。
しかし、経済事象をモデルで考えるのは重要なことで、完全競争環境では等価交換に向かって収斂していくはずという捉え方は論理的に正しいものです。
(超過利潤が得られると考えられる商品生産には参入者が増え価格が下落し平均的利潤になる)

マルクスなどの代弁をされているからなのかも知れませんが、すみちゃんとやや理解が異なるのは、労働や労働者の位置付けに関してではないかと思っています。

「資本家は受け取った貨幣8単位のうち4単位を労働者に渡します。資本家の手元に残る4単位が超過利潤です」という見方ではなく、資本家は、企業活動に労働者が必要であれば、貨幣4単位で雇用し、以降の労働者の活動目的や活動成果はまるまる資本家のものだと考えています。

労働者は、雇用されることで目的意識や活動成果を放棄する存在であり、活動成果から分け前を得ることもありません。資本家にとっても悩ましい現実ですが、労働者は機械や原材料と同じモノで、労働者が得る賃金は、機械にとっての油や電力と同じ経済的性格を有するものです。
(外部共同体に販売できる量に制約が出てくると、労働者により多くの油や電力を提供しなければ、資本増殖活動は維持できなくなります)

この意味で、「同じような労働をしても、商品価値がまったく異なることは良くあることですね」というのは当てはまりません。個々の労働者には労働という合目的活動はなく、目的性を持っているのは資本家だけであり、雇用された労働者をその目的に添ったかたちで統御されることになります。(労働主体は資本家なのであり、労働者はそのための道具です)

資本家が利潤を獲得したとしたら、生産設備・原材料・中間財・労働者に投入した貨幣を超える売上があったということです。(売上はまるまる全部が資本家のものです)

ではどういう市場が存在すれば利潤を獲得できる取引(交換)ができるかと言えば、自分より低い労働価値(生産性)で同じ商品を生産している外部共同体(国民経済)に自由にアクセスできるときということになります。
(内部共同体(国民経済)で同じことを競い合えばデフレになり、近代経済システムという基盤の上であれば、失業者の増加と企業破綻の増加に結びつきます)

労働価値の比較は、その商品をある単位生産するために必要な人的活動力の生存維持費の総和で行うと考えていいでしょう。
この人的活動力は、生身の活動力と生産設備や原材料に転化した過去の活動力の合計です。

※ 自己を放棄せざるを得ない労働者が多数存在するのは、多数の人が貨幣的蓄積もないまま土地(生産手段)から切り離されたからです。

> 宇野理論が「流通論」から始まっているのは、以上の問題点をカバーするためじゃ
>ないんですか? 彼は、「流通論」を「生産論」の前提として構築することによって、
>剰余価値理論を再構築しようとしたのではないですか?
> だけどこの論理構成では、ご指摘のように、「資本の増殖活動」の規定性が弱くな
>りますね。

宇野氏が剰余価値理論の再構築を目指したと思っていますが、上述したような理解が希薄なために、流通論から説き起こしたのだと思っています。

労働力に限らず原材料や生産設備を購入しなければ生産活動が始まらないのが社会的分業の制約ですが、原材料なども生産が先行するものですから、資本の生産を基礎とし、社会的分業であることから要請される再生産過程(流通や交換)を次に説明するのが妥当だと考えています。


>「人は生存に必要なものを生産することなく生存することができない」ことは超歴史
>的基底論理です。しかし、資本の増殖運動の解明において必要なのは、基底論理の確
>認ではなく、市場の分析なのではないかと考えました(私が考えてもしょうがないか)。 
>確かに物が売れなくとも生存のために生産は必要です。 しかし、市場における商品
>は明らかに生存必要を超えており、過剰なものです。 生存の必要を超えた不要な商
>品生産を、交換の保証なしに生産する必要があるとは思えません。 一言で言うと、
>市場流通は、超歴史的基底論理からはみ出した余剰部分を拡張促進する存在であると
>いうことです。
>組織された人々と生産手段の有機的結合による対象への働きかけである生産が始源で
>あるという考えは正しいと思います。
>しかし、市場は、その始原的な生産からはみ出した部分を拡張促進するものではない
>でしょうか? 

資本家(企業家)は、経済の規定的論理を考えても役に立たないので、市場分析に勢力を注ぐはずです。

財を生存必需財・利便財・奢侈財・快楽享受財に区分しています。
生存必需財を超えた各種の財が生産されるようになる条件は、生存必需財の生産性が上昇し、他の財を生産する余剰活動力が存在することです。

利潤の拡大的獲得のために生産性上昇を志向することが絶対命題になっている近代経済システムは、生存必需財しか供給しなければ、システム自体が現在まで維持できなくてもっと以前に崩壊していたはずです。

近代経済システムは、余分なものを販売するために、余分な活動力を雇用するようになりました。それは、セールスマンと広告宣伝マンです。
セールスマンと広告宣伝マンが余分なものを売ったのではなく、彼らが余分のものを買ったのです。(自分のところの商品を売る仕事をすることでお金を得、得たお金でよその商品を買うという連関構造ですが...)

これこそ、供給なくして需要なしの典型であり、この理解がないから「デフレ不況」という経済的苦境が継続していると考えています。


>労働活動力と賃金の交換が財や用役の交換とは同一視できないという考え方は正しい
>と思います。
> しかし、「擬似的な交換」にすぎないという考え方は理解できません。
>法的に言って「意思の合致」が見られる点で、両者に本質的相違はないと思います。
> 両者の相違は、むしろ市場の非対称性にあるのではないでしょうか。 資本家は生
>産手段という収入手段を有していますが、労働者は自分の労働しか売るものがなく、
>売却に成功しないときには死ぬしかありません(もちろんこれは近代市場社会の原理
>です。現実に貫徹されているわけではありません)。 つまり労働者には飢餓の笞が
>直後に控えているのに対して、資本家にはそれがありません。 この非対称条件下で
>は、労働者は、マクロ的に見て不利な契約条件を強いられることになります。 この
>部分が資本家の手にする剰余価値となります。しかし、前述のように剰余価値は長期
>間にわたって反復継続して入手することはできません(個々の資本家がうまく立ち回
>ることはあり得るわけですが)。

生産主体ではないものは、交換の主体にもなれないというのが持論です。
そのような観点から、「擬似的な交換」という表現を使っています。

近代の労働者は、生存に必要なものを直接受け取っていた奴隷と違い、一般交換手段である貨幣を受け取っている奴隷だと考えています。
奴隷とは、生産手段を持たず、自立した生産(経済)活動を営めない人です。
自分の生産手段とりわけ生存必需財の生産手段を保有していない人に、“主体性”や“自由”はありません。

(苦労して手に入れたり高額を支払って手に入れた奴隷のほうが、必要なときだけお金を受け取って労働に従事するという近代労働者よりも大事にされていたかも知れませんね(笑))


>生産(供給)が消費(需要)を引っ張るという考え方は、まったく正しいと思いま
>す。 しかし、その根拠は、生産が始原だからではないんじゃないでしょうか?

私も、そのように理解しています。

恒常的なマックスの需要は、供給と等しいと言うのが持論です。

供給活動で得たお金を貯蓄に回す人もいますから、その貯蓄が貸し出しなどを通じて需要にならなければ、供給>需要というデフレ要因が生じます。

単一の世界経済で資本制経済主体(企業)のみが生産活動を担っている経済社会をモデルとすれば、生産主体(資本家)が供給活動に投下する資本(=貨幣)の総和が、需要の最大値ということになります。

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