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あっしらさんに質問:近代経済システムの理解について
http://www.asyura.com/2003/dispute8/msg/196.html
投稿者 すみちゃん 日時 2003 年 2 月 11 日 13:48:55:

 最近この板を閲覧するようになったもので、あっしらさんが多数の論文を投稿していたことは存じあげませんでした。
 今日、宇野経済理論について書かれた文章を閲覧しまして、以下の感想を持ちました。 愚問かもしれませんが、もし宜しければご教示ください(私は理系の人間でして、マル経や宇野理論の評価それ自体には関心がありません。たぶん他の皆さんもほとんどはそうですよね。あくまで「経済社会の現実をどうとらえるのが妥当なのか」という問題意識に従って書いています)。
 
 「マルクスの誤りは、基本的に、利潤の源泉を労働者の超過労働の収奪に求めた剰余価値理論につきます。」
 この点は賛同できます。 以下は私の理解です(もしかするとマルクスさんの哲学とは関係ないかもしれません。あくまで私の理解レベルということで)。
  超簡単に言うと、資本家が生産手段を持ち、労働者を雇用し、賃金を支払い、生産品Aを生産品Bと交換できます。 このときの生産品AとBとの等価交換手段として貨幣が案出され、制度化されています(資本家が貨幣を決済手段として受け取ります)。この前提の下で、生産品Aを8時間労働で産出でき、生産品Aが貨幣8単位で売れるものとします。資本家は受け取った貨幣8単位のうち4単位を労働者に渡します。資本家の手元に残る4単位が超過利潤です。労働者の労働時間4時間が超過労働です。 この前提の下で、資本家を抹殺し、労働者が生産手段を所有すると、労働者は、4時間働くだけで、8単位の貨幣を手にすることができます。
  さて、一見良くできた理屈のようですが、かなりの無理があります。
  まず直感的に現実と合っていないという印象を受けます。資本家はこんなに順調に儲かりませんよね。
  なんで順調に儲からないのか。 生産品Aを買うのはほとんど労働者です。資本家は多数の生産品Aは要りません。労働者には4単位の金銭しかありませんから、8単位の商品Aを買うことはできません。 8単位の値札をぶら下げた商品Aは売れ残ります。値引きが始まって値段が5単位になり、全部売れました。資本家は当てがはずれ、儲けが1単位に減ってしまいました。資本家は賃金を2単位に下げ、3単位の儲けを確保しました。デフレスパイラルが始まり、資本家は首を吊り、労働者は路頭に迷いました(おしまい)。
  つまり、閉鎖系(輸出入や政府のないモデル経済)を考えたとき、超過労働の搾取は、一時的、局部的には(ミクロ的には)可能ですが、反復継続して繰り返すことはできず(マクロとしては不可能)、最終的には商品販売の不能点(恐慌)に向かって収斂するということです。つまり、生産者と消費者が同じである以上、剰余価値の「制度化」は困難と考えられます。
 マルクス主義は、超過労働を搾取する資本家を倒せという思想ですね。しかし、資本家を倒したって、商品購入に向かわない利潤が手元に残る以上、同じことですね。
 
 次の問題点は、なんで突然等価交換から始まるのかという点です。
 前述の論理構成ですと、商品Aが売れる前からその中に8単位の価値が「内在」しているかのようです。そして、8単位の内在価値を有する商品を生産する労働者の労働には「8単位」の内在価値があるのにもかかわらず、そのうち4単位を資本家が搾取しているという論理です。こういう論理に立つと、資本家はまさに「盗人」です。「追い剥ぎ」です。しかも国家権力という暴力装置を駆使する盗人です。憎いですね。
 しかし、良く考えてみると変です。 市場はどこにあったんでしょう。市場がないのに、なぜ商品AとBとが等価交換できるのでしょう。なぜ商品Aの価格は8単位なんでしょう。それがストレートに労働力の内在価値と等価なのはなぜなんでしょう。 同じような労働をしても、商品価値がまったく異なることは良くあることですね。 この当たりの論理構成に「作為」が見られると思います。 革命を起こし易い論理、労働者を煽動し易い論理を組み立てようという作為です。
  
  宇野理論が「流通論」から始まっているのは、以上の問題点をカバーするためじゃないんですか? 彼は、「流通論」を「生産論」の前提として構築することによって、剰余価値理論を再構築しようとしたのではないですか?
  だけどこの論理構成では、ご指摘のように、「資本の増殖活動」の規定性が弱くなりますね。

  私は、「近代経済システム」は、「近代市場」つまり「情報の一元化とその統一的処理」が前提だと思います。それ以前のシステムは、「非近代経済システム」です(当たり前か)。
  「人は生存に必要なものを生産することなく生存することができない」ことは超歴史的基底論理です。しかし、資本の増殖運動の解明において必要なのは、基底論理の確認ではなく、市場の分析なのではないかと考えました(私が考えてもしょうがないか)。 
確かに物が売れなくとも生存のために生産は必要です。 しかし、市場における商品は明らかに生存必要を超えており、過剰なものです。 生存の必要を超えた不要な商品生産を、交換の保証なしに生産する必要があるとは思えません。 一言で言うと、市場流通は、超歴史的基底論理からはみ出した余剰部分を拡張促進する存在であるということです。
   組織された人々と生産手段の有機的結合による対象への働きかけである生産が始源であるという考えは正しいと思います。
   しかし、市場は、その始原的な生産からはみ出した部分を拡張促進するものではないでしょうか? 
  
  労働活動力と賃金の交換が財や用役の交換とは同一視できないという考え方は正しいと思います。
  しかし、「擬似的な交換」にすぎないという考え方は理解できません。 法的に言って「意思の合致」が見られる点で、両者に本質的相違はないと思います。
  両者の相違は、むしろ市場の非対称性にあるのではないでしょうか。 資本家は生産手段という収入手段を有していますが、労働者は自分の労働しか売るものがなく、売却に成功しないときには死ぬしかありません(もちろんこれは近代市場社会の原理です。現実に貫徹されているわけではありません)。 つまり労働者には飢餓の笞が直後に控えているのに対して、資本家にはそれがありません。 この非対称条件下では、労働者は、マクロ的に見て不利な契約条件を強いられることになります。 この部分が資本家の手にする剰余価値となります。しかし、前述のように剰余価値は長期間にわたって反復継続して入手することはできません(個々の資本家がうまく立ち回ることはあり得るわけですが)。
 
  生産(供給)が消費(需要)を引っ張るという考え方は、まったく正しいと思います。 しかし、その根拠は、生産が始原だからではないんじゃないでしょうか?  私の観察ではですが(近代的意識と言われるとそうかもしれませんが)、何だか資本家の強欲(あるいは資本喪失の恐怖)から、要りもしない商品(失礼。だけど本当です)を過剰生産し、売りつけているように思われるんです。 生存に必要な始原的商品なんかほとんどありません。 市場こそが資本増殖活動の場であり、過剰な産品の産出を促進し、生存に直接不要な要りもしない商品を増殖させているんじゃないかなあ。
 以上乱文失礼しました。 つまらなかったらお時間を割いてレスしなくとも良いですよ。            

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