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(回答先: 近代経済社会の理解について 投稿者 あっしら 日時 2003 年 2 月 12 日 20:23:00)
早速レスを頂き、ありがとうございます。拙文は「論考」というほどのものではなく、素人の疑問にすぎないものなので、お時間をとらせてかえって申し訳なかったと思います。
○ 全体としてあっしらさんの議論は納得のいくものでした(正確に言うと、マル経や近経の書籍を読むときに感ずる違和感がありません。特に、ご指摘のように、@利潤の源泉、A価格決定の論理は、虚偽ないし不明点が多いように思えていました)。
○ 「閉鎖系経済社会では、順調な経済活動を前提にすると、利潤獲得は論理的に不可能になります。」
うん。やはりその結論で良いんですよね。
○ いわゆる剰余価値の根拠への疑問について
私は、一つ目の疑問として、マクロ的な面から検討しました。そして、資本家から労働者への貨幣の支払い総額が商品の総購入原資となるのだから、マクロ的には剰余価値は存在しないということを述べました(これは上記の結論ですね)。
次の疑問として、ミクロ的な疑問を述べたつもりだったのですが、読み返してみると、論旨不明瞭でした。申し訳ない。
等価交換モデルが疑問というわけではありません。私が理解できなかったのは、「資本家が常に儲かるかのような論述」の方なのです。
商品Aが売れる前からその中に8単位の価値が「内在」しているという論理は無理があります。現実から遊離しています。現実には、商品Aの購入者は労働者であり、その交換手段は一般貨幣です。そして、商品の「価値」つまり価格は、労働者が商品を購入した時点で「事後的」に決まるのであり、商品売買契約前には商品価値は決まっていません。労働者が貨幣をもって商品を購入する商品市場によって、商品価値(価格)が規定されるはずです。商品価格は、商品Aの本質(内在物)ではなく、市場で一般貨幣によって余所から規定されるものです。それを規定するのは、労働者の欲望と収入との均衡点です。
そうであるとすると、8単位の内在価値を有する商品を生産する労働者の労働には「8単位」の内在価値があるのにもかかわらず、そのうち4単位を資本家が搾取しているという論理は成立しないと思います。もし4単位も資本家が搾取してしまえば、商品は8単位で売れはしません。前記均衡点が移動するからです。資本家が儲かるかどうかは、商品販売後に事後的にしか決定されませんので、損をすることもあります。
つまり、一つ目の疑問と同じことを、別の側面から言っているわけですね。
○ 労働や労働者の位置付けに関して
この部分は了解納得しました。
○ 宇野理論について
「宇野氏が剰余価値理論の再構築を目指したと思っていますが、上述したような理解が希薄なために、流通論から説き起こしたのだと思っています。」
彼は本当に剰余価値理論の救出に成功したんでしょうか? 私は大学時代に少しかじった程度なんですが、はっきり言って私には良く分からないんです。
○ 「労働力に限らず原材料や生産設備を購入しなければ生産活動が始まらないのが社会的分業の制約ですが、原材料なども生産が先行するものですから、資本の生産を基礎とし、社会的分業であることから要請される再生産過程(流通や交換)を次に説明するのが妥当だと考えています。」
私が一番分からなかったのは、むしろこの部分です。
この「生産」は、共同体つまりムラ内部における生存に供するための必要生産ではありません。 共同体で要らない余剰物を生産する余剰生産ですね。 余剰物をさばくための場所がないときに、余剰物を生産する理由があるんでしょうか? こう考えると、市場つまり流通を先に説明し、市場における利潤獲得手段としての生産を次に説明する方が論理的なのでは?