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「レス2:マルクスと宇野氏の経済理論 − 両者の誤りと優劣 −」として、「論議4」に投稿しようとしたが、容量オーバーになったので単独スレッドとして投稿させてもらいます。
マル経に興味がある方の論議参加を期待しれいます。
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せいがくさんといわゆるマル経をめぐって論議するのは初めてなので、独立のレスで簡単に説明します。
>ここで私はマルクス経済学を引き合いに出したいと思います。マルクスの経済論理は
>かつて、世界中の最高の知性から真理であると確信されていました。私はちょっとか
>じっただけですが、宇野弘蔵なんていう大先生はマルクスよりもマルクス経済学を理
>解していたのではないかと思うくらい精緻な理論を展開しています。しかし、マルク
>ス経済学は世界を変える事はできませんでした。誰も宇野マルクス経済学を論駁でき
>なかったにもかかわらず、です。このことは、理論(論理)と現実がどういう関係にあ
>るのかを知る良い事例だと思います。
● 宇野氏の評価
宇野氏に対する最大の評価は、価値観(イデオロギー)と論理を分離したことです。
マルクスもそのような立場でしたが、理論(論理)を価値観実現の手段として強く打ち出したことで“誤解”を受けています。
(打ち出し方の違いは、学者と革命家という立場の違いに拠るものだと考えています)
そして、マルクスとは異なる現実のなかで理論活動を行うことから、原理論・段階論・現状分析という重層的説明体系を打ち出したことです。
私は、「原理論」と「現状分析」という二つに区分すべきだと考えています。
「原理論」は近代経済システムに通底する論理を体系的に説明するもので、「現状分析」は、原理論的論理の現実表出がどうなっているかを認識し、その結果を経済政策もしくは革命運動に活かすという考えです。
(マルクスは、資本論という原理論を革命運動の方針に活かしたということになります)
帝国主義論に代表される段階論は、現状分析であり不要なものです。
● マルクス経済理論の誤り
マルクスの誤りは、基本的に、利潤の源泉を労働者の超過労働の収奪に求めた剰余価値理論につきます。
(陰謀論的見地から言えば、マルクスはわざと嘘の論理を提示したのかもしれません)
これは、ソ連や中国の経済政策の誤りにもつながっています。
何度も書いているように、利潤の源泉は、外部国民経済からの貨幣的“富”の流入です。
植民地収奪などといった政治的非難や倫理的批判のレベルではなく、経済論理としてこれに気づいていた共産主義者は、ドイツ「スパルタクス団」のローザ・ルクセンブルクくらいだと思っています。
労働者からの収奪(搾取)をなくしても、マルクスが言うところの豊かな経済社会は生み出されません。
ソ連や中国が経済的に疲弊した最大の要因は「戦時体制」ですが、遅れて近代化をめざしたそれらが先進国レベルに到達するためには、輸出を通じた先進国からの貨幣的富の流入とそれを原資にした先端生産財の輸入が不可欠です。
これを、労働者からの搾取をやめることで補うことはできません。
(レーニンとりわけトロツキーが、ロシア革命の成否が先進国であるドイツ革命に関わっていると認識したことはそれなりに正しいものです。先進国のどこか1ヶ国でも共産主義革命が起きていれば、世界はまったく違った歴史過程を辿っただろうと夢想できます)
豊かな経済生活をうたいながらそれを実現できず、資本主義国家がもっと豊かな生活をしていることを知れば、共産主義なんてあほらしいと多くが考えるのも自然なことです。
先進諸国は、生存費から脱却した賃金を支払うようになることで「供給>需要」の隘路を緩和していきました。
● マルクスと宇野氏の比較
両氏の原理論を比較したとき、理論的にはマルクスのほうを高く評価します。
宇野氏が犯した最大の誤りは、原理論を「流通論」・「生産論」・「分配論」という構成にしたことです。
これは、マルクスの最大の理論的功績である「近代経済システムは資本の増殖活動に規定されるものである」という考えをずたずたにしたものです。
より言えば、人は生存に必要なものを生産することなく生存することができないという超歴史的基底論理を蔑ろにしたものです。
宇野氏は、「労働力がなければ生産は始まらない」という考えから、「生産論」の前に「流通論」を置きました。(これが、全共闘運動時代に「労働力商品論」として一世を風靡しました)
前に書きましたが、労働者の雇用すなわち活動力と賃金の交換は“擬似的な”交換であり、財や用役の交換とは同一視できないという考え方をしています。
社会(共同体)の維持は必需品の生産と再生産によってのみ可能なのですから、組織された人々と生産手段の有機的結合による対象への働きかけである生産が始源でなければなりません。
近代経済システムは、多くの人々を土地から引き離し、家族及び共同体という単位で生存が不能な状態をつくり出すことで成立したものです。
資本家も生産がなければ生存ができないのですが、彼らは貨幣的富を持っていますから、外国から必要なものを輸入して生存を維持することができます。(産業革命期の英国は超輸入大国です。再輸出する財も多かった)
雇用されることでしか生存できない人々が存在し、彼らを賃金を対価として生産活動に組み込むことで利益が得られる条件があったからこそ、近代経済システムが確立したのです。
彼らが生産したものをインドや中国などに大量に輸出できるあいだは、彼らに生存費レベルの賃金を支払う状態でも利潤を上げることができましたが、輸出の増加が実現できなくなれば、利潤を減らして賃金を引き上げない限り、経済成長は不可能になります。
(先進国の販売市場に固定化された地域は購買力が劣化していくので、持続的な輸出増加は達成できません)
労働者の運動で勝ち得たとしても、賃金の引き上げは、資本家(企業)の存続に貢献したわけです。
個別資本の論理で利潤が多くありながら賃金を引き上げないという歴史が続いていれば、資本主義は既に崩壊していたはずです。
宇野氏のような原理論では、社会における生産の意味や「供給=需要」という根底的な論理が見えにくくなります。
資本家と労働者は交換過程が介在するとはいえ、生産者(供給)という意味では一体であり、生産された財にどれだけの需要があるかは、生産者に支払われた通貨がどれだけ消費(投資)に回るかに依存します。
生産者に支払われた通貨を使わない人がいれば、その分を輸出しない限り、デフレ圧力になります。(米国のように通貨が流入することでもOKですが...)
マルクスの功績は、交換=流通=市場に根源を置くのではなく、生産に根源を置いたことです。
そして、近代経済システムでは、生産が資本の増殖活動として立ち現れることを説明したことが何より重要です。
交換=流通=市場は、生産が社会的分業(私的所有企業の有機的産業連関)で行われていることから生じる経済活動であって、始源としたり根源に置くことができないものです。
宇野氏も近代的意識に囚われて経済事象を見たと言えます。