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小泉・竹中と浜口雄幸・井上準之助の恐いくらいの相似 JCoffee 投稿者 Ddog 日時 2002 年 10 月 31 日 22:25:46:

(回答先: デフレ対策腰砕けで大失業時代“幕開け”〜あの「51社」、倒産処理“本番”で戦々恐々(ZAKZAK 2002/10/31) 投稿者 FP親衛隊国家保安本部 日時 2002 年 10 月 31 日 17:11:23)

先日どなたかの投稿で、JCoffeeの株式投資日記サイトhttp://members.tripod.co.jp/j_coffee/index.htmを知り、おもわず隅々読んでしまいました。膨大な量の情報が凝縮され非常に秀逸な内容で、まだすべて読み切ってませんが、いままでなぜ知らなかったのか残念な気持ちにするサイトです。知らない方は、是非覗くことをお勧めします。そのなかに、浜口雄幸内閣の金解禁についての内容が非常にご参考になると思うので、参考までに掲載します。浜口雄幸を、小泉純一郎 井上準之助を、竹中平蔵 金解禁を会計の国際標準化いわゆるグローバルスタンダードと置き換えて読んでみると、恐いぐらい相似しています。Ddog

ライオン宰相の金解禁(1) http://members.tripod.co.jp/j_coffee/index.htm 1927年の金融恐慌から2年後、ようやく日本経済が落ち着きを取り戻した頃のことです。ライオン宰相と呼ばれた浜口雄幸内閣は、「金本位制(金輸出解禁)への復帰」を最大の経済政策として登場します。
1929年8月、政府は、金解禁と緊縮財政に対する国民の理解を得るために、1300万枚の宣伝ビラとラジオ放送を使い、国民に次のとおり呼びかけます。今日のままの不景気は、底の知れない不景気であります。前途暗澹たる不景気であります。
これに反して、緊縮、節約、金解禁によるところの不景気は底をついた不景気であります。前途晧々たる光明を望んでの一時の不景気であります。
・・・・我々は、国民諸君とともにこの一時の苦痛をしのんで、後日の大なる発展を遂げなければなりません。金融恐慌で痛手を負った財界人や庶民の心に、この政策は輝いて見えました。この頃、「♪金の解禁立て直し、来るか時節が手を取って♪」という歌詞の金解禁節が流行ります。1929年10月24日、ニューヨーク株価の大暴落(暗黒の木曜日)がおこります。私達は、この暴落が重大事件であることを歴史で学びますが、当時のアメリカの実体経済は、まだ健全のように思えました。日本でも、アメリカでも楽観的な見通しが有力だったのです。浜口首相の下で、金解禁の指揮をとったのは、蔵相の井上準之助でした。 1929年11月21日、井上は決断します1929年10月24日、ニューヨーク株価の大暴落(暗黒の木曜日)がおこります。この日の株価は、金解禁を歓迎して、高くなります。浜口首相は、自身満々、1月21日、衆議院を解散して、国民に信を問います。浜口内閣(民政党)は、圧倒的な支持を受け、273議席を獲得します。反対派の政友会は、完膚なき敗北で、わずか174議席に落ち込みます。
◆◆私は、縁起は担がないほうなので、あまり書きたくないのですが・・・◆◆
◆◆ さて、私は、小泉メールマガジンを先月初めて受け取りました。◆◆
◆◆ そして、その中の書かれた小泉氏のHNを見て慄然としました。◆◆
★ ・・・・ライオンハート・・・・★
1869年、井上準之助は、大分県日田郡大鶴村で生まれました。仙台の二校から東大を卒業して、日銀に入ったエリートです。横浜正金銀行副頭取、日銀総裁を歴任しました。井上は、金本位制の持つ「自然の自動調整作用」を信じていました。輸入超過→金貨流出→通貨減少→金利上昇→国内物価下落→輸入減少輸出超過→金貨流入→通貨増加→金利低下→国内物価騰貴→輸出減少金本位制では、正貨の量に応じて、通貨の発行が制限されます。そして、自然の自動調整作用が充分働かない時は、井上の出身母体・日銀が公定歩合を決めることで、コントロールに関与する。 それは、井上にとってインフレや為替リスクのない、グローバルスタンダードのユートピアのように思えたのです。金解禁には、正貨を充分積み増しする必要があり、緊縮予算が不可欠です。井上は、蔵相に就任すると、1929年度の予算の実行段階で、緊縮財政を強引に推し進めます。歳入面では、シーリングを強化して、国債の新規発行を3924万円減額、一般会計の当初予算は、17億7356万円から9165万円も節約します。浜口内閣は、外交的には、日中の平和外交と軍備縮小を掲げていたのです。この内閣が、世論の支持を失わなければ、太平洋戦争は避けられたかもしれません。
1929年7月の金解禁の前、為替は100円=43ドル50セントでした。この頃、金解禁を必至とみた内外の銀行による為替投機が始まります。大量の円買い、ドル売りが始まっていたのです。この影響で、正貨は順調に増えます。井上は、この事実を過小評価します。ところが、金解禁が実施されると、100円=49ドル85セントの固定制となり、円は14%以上切り上げられます。大喜びの投機筋は、円売り、ドル買いの利食いを実施します。
1930年1月〜6月の間、この影響で、2億3000万円の正貨が流失してしまいます。エリート井上の見通しの甘さが、早くも露呈します。
◆◆しかし、この問題は、実は重要なものではなかったのです。◆◆
◆◆ 金本位制は、天使の仮面を脱ぎ捨て、本性をあらわします。◆◆
◆ ◆ 学者肌の井上準之助は、デフレという悪魔を信奉してしまったのです。
★(相似則)・・・竹中と井上・・・★
(2001/7/7) デフレの恐怖(3)
アメリカの株価暴落は、消費を低迷させて大不況が訪れます。絹の靴下を履くものなどいなくなります。生糸などの輸出産業は、円高の影響も受け、単価は暴落します。それでも買い手はどこにもいません。日本の農村の経済を支えていた養蚕業も、致命的な打撃を受けます。生糸の単価指数は、1929年85.3でしたが、1930年には59.7まで落ち込みます。米価指数は、1929年28.92から、1930年に18.36に暴落します。食べられない小作人が増加して、地主との間の小作争議は、1931年以降急増します。貧しい農家は、年頃の娘を、泣く泣く売るしか生きていけませんGNPは、1929年の13941百万円から1930年には11245百万円、1931年には10678百万円へと減少します。株価指数は、1929年の104.5から1930年には71.5、1931年は、53.0まで暴落します。企業倒産、リストラが相次ぎ、民営工場労働人員指数は、1929年の91.1から、1930年には82.2に、1931年には74.4に落ち込みます。賃金カットなどにより、実収賃金指数は、1929年の103.9から、1930年には98.7に1931年には90.7まで下がります。大学は出たけれど、職場は何処にもありません。いくら物価が下がっても輸出は、教科書どおりには増えません。世界恐慌の影響で、正価の流出は続いたのです。通貨も減らさざるを得ず、デフレがますます加速します。そして、井上の緊縮予算が、不況対策の足かせとなってしまったのです。国民から大歓迎で迎えられた金解禁から、わずか10ヵ月後。恐慌を招いた浜口内閣に、非難は集中します。
1930年11月14日、東京駅で浜口雄幸首相が狙撃されます。犯人は、右翼団体愛国者の構成員・佐郷屋留雄でした。 浜口首相は、「男子の本懐だ!」と気丈に言い放ちますが、一命は取り止めます。しかし、執念の男・井上は、くじけません。
◆◆「ここを凌げば、前途晧々たる光明の未来が待っている」と信じたのです。
◆◆過酷な競争を勝ち抜いて、強力な輸出産業が育ち、◆◆
◆◆効率的な社会が実現すると考えたのです。◆◆
◆◆ そして、1931年井上の希望を完全に打ち砕く、◆◆
◆◆思いもかけない二つの大事件が勃発したのです。 ◆◆
(参考文献)「昭和恐慌」 長 幸男著  岩波書店
(2001/7/8) ドル買い投機の嵐(4)
1931年9月、金解禁を揺るがす二大事件が、ほぼ同時に勃発します。その事件とは、イギリスの金本位制離脱と満州事変です。イギリスには、過大評価されたポンドを支える実力がなく、9月20日に離脱に踏み切ったのです。さて、投機筋は、次は日本の離脱が必至と読みます。離脱すれば、円レートは暴落して、莫大な差益を得ることができるのです。ニュースの翌日、内外の銀行、個人はドル買いのために正金銀行に殺到します。井上は、悲壮な決意で公定歩合を引き上げて、投機筋に売り向かい徹底的に対抗します。しかし、投機による急激な正貨流失は、金融を引き締め、物価を下落させ、恐慌をさらに深刻化させるのです。1930年7月31日から、1931年12月12日までのドル買いの内訳は次のとおりです。
内ナショナル・シティ銀行2億7300万円住友銀行6400万円三井銀行6400万円三菱
銀行5300万円香港上海銀行4000万円三井物産4000万円朝鮮銀行3400万円三井信託
銀行1300万円その他1億8700万円合計7億6000万円
ドル買いの主力は三井、住友などの財閥でした。10月頃からこの事実がマスコミに取り上げられ、国民の財閥に対する批判が盛り上がります。社民青年団の20人が、銀行に乱入してビラを撒く事件などが起こります。さて、一方の満州事変は、関東軍作戦参謀主任の石原莞爾(かんじ)と高級参謀の板垣征四郎によって、1931年9月18日、独断で開始されます。満鉄線路の爆破を自ら行い、中国軍の仕業にして、満州侵略を開始したのです。まったく事前に相談を受けていない天皇と政府は、「不拡大方針」を発表します。石原参謀の電撃作戦は、戦術的には大成功を収めます。朝鮮軍の独断の参戦も功を奏して、わずか5ヶ月で満州全土の制圧に成功します。関東軍の兵士の出身母体は貧しい農村です。姉を売らざるを得ない農村の深刻な恐慌が、彼らの行動に影響したのは、間違いありません。戦争が始まると、もう緊縮予算どころでなくなります。公債を発行して戦費をまかないます。恐慌に沈み込んでいた国民は、優勢な戦局に熱狂します。石原らを処罰できる状況ではありません。
◆◆「独断で戦争を始めても、結果がよければ英雄になれる」◆◆
◆◆ 石原莞爾の行動は、日本ファシズムの奔流を生み出す導火線になるのです。◆◆
(2001/7/9) 血盟団事件(5)
浜口内閣の政策を引き継いだ第二次若槻内閣は、1931年12月11日、総辞職に追い込まれます。天皇から後継首相の下問を受けた元老の西園寺は、政友会の犬養毅を首相に指名し、政党内閣が、かろうじて存続します。13日、犬養内閣が成立した日、蔵相・高橋是清は、金輸出を再び禁止します。井上準之助は無念の涙を呑み、ドル買いの三井財閥は巨万の富を得ます。元大陸浪人、日蓮宗僧侶の井上日召は、12人の青年の心をつかみ、一人一殺の方法で、元老、政党や財閥の巨頭を暗殺しようと、血盟団を組織します。井上日召のバックには、陸海軍の青年将校がいました。血盟団の一人、小沼のピストルは、霞ヶ浦航空隊の将校・井斎大尉が調達したものでした。
1932年2月9日、東京本郷の駒本小学校で、小沼はピストルを抱えて、その男の到着を待ちます。日本の農村を恐慌に陥れ、多くの娘を身売りさせたり、一家心中に追い込んだりした、張本人が、総選挙の応援演説のため来るのです。自分の命と引き換えに、巨悪を倒すのです。その男は、高級自動車から、ゆっくりと降ります。
パーン、パーン、パーン
三発目の銃声と同時に、その男は倒れます。
金解禁に執念を燃やした男、元蔵相、井上準之助の最後でした(血盟団事件)。そして、3月5日、今度は、ドル買いで巨万の富を築いた、三井合名の団琢磨理事長が、血盟団によって、暗殺されます。犯人は逮捕されても、関与した青年将校は、処罰されませんでした。
・・・・・・・・・・・・・・
金輸出を再禁止した犬養首相は、中国への侵略には批判的でした。そして、5月15日、犬養首相の自宅にも、青年将校達が乱入します。「話せば、わかる」と犬養首相は、青年将校を説得しようとします。「問答無用」と青年将校は、銃弾を発射します。最後の政党内閣は、こうしてテロにより倒されます(5・15事件)。青年将校を抑えることができるという理由で、海軍大将の斎藤実が、新しい首相になったのです。
◆◆こうして、軍国主義体制は構築され、不幸な戦争に突入していったのです。
◆◆
◆◆ もし、浜口内閣が金解禁をせず、恐慌に対して適切な対策をとっていた
ら、◆◆
◆◆昭和の歴史は変っていたかもしれません。◆◆
l ぜひ、小泉さんにこの歴史を知って欲しい★
l さて、おまけの話。★
浜口内閣の逓信相は、とび職から政界入りした、小泉又二郎という人です。彼は、「入れ墨大臣」として有名ですが、小泉純一郎首相の祖父にあたります。

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