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『【世界経済を認識する基礎】 “あっしら”的経済概念の説明 〈その1〉』( http://www.asyura.com/2002/hasan11/msg/430.html )
『【世界経済を認識する基礎】 “あっしら”的経済概念の説明:通貨・物価変動論など 〈その2〉』( http://www.asyura.com/2002/hasan11/msg/467.html )
『【世界経済を認識する基礎】 “あっしら”的経済概念の説明:近代的貿易・外国為替レート 〈その3〉』( http://www.asyura.com/2002/hasan11/msg/519.html )
に続くものです。
それらをお読みになられていないまま読まれても、意味不明だと思います。
今回は、通貨の流れについて考察する。
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■ 通貨供給過程
金貨(金属貨幣)が通貨として使われている時代は、基本的に、国家が通貨発行権を持っていた。
(アメリカ合衆国は現在でも憲法上は通貨発行権を連邦議会に付与している。FRBは屁理屈でのみ正当性が維持されている通貨発行主体である)
おおまかに言えば、「国家が金鉱山や戦争を通じて得た金(金属)を元に金貨(金属貨幣)を発行して統治上必要な物資や労働力を購入することが通貨供給の出発点になる。そうして流れ出た通貨は、国内の一般経済取引にも利用され、一部は課税を通じて国家に戻り再度経済社会に出ていく。高い信認を得た国家の通貨は、国家を超えた地域(経済的な意味での国際社会)で国際取引にも使用されるようになる」というものである。
(ローマ帝国や東ローマ帝国の貨幣は、そのような通用性を持っていた。そうなると、金含有量そのものではなく、表示単位そのものが信頼されるようにもなる。金属貨幣は磨耗するので厳密には量を減らしていく。これは、同じ表示単位の金貨であっても、金の含有量が異なることを意味するが、信認度が高い通貨であれば、物理的には0.97gも1.00gも同じ価値を持つものとして取引で使用されていく。これは、金属貨幣が有する“紙幣性”を示唆するものである。西ローマ帝国は、この経済論理にすがって“悪貨”(金含有量を発行時から減らして同じ通貨単位表示をした貨幣)を発行したために、地域での経済覇権を失っていった。それだけはないが...)
「近代経済システム」の大きな特徴は、国家ではなく経済主体である銀行が通貨を発行するようになったことである。
おおまかに言えば、「中央銀行が通貨を発行し商業銀行に貸し出しことが出発点である。商業銀行は経済主体に貸し出し、経済主体は、それを使って他の経済主体から物資を購入したり、労働力を雇用する。国家は、中央銀行・商業銀行を含む経済主体や擬制経済主体(非雇用者=勤労者)に課税し、それを通じて得た通貨で、国家が必要な物資や労働力を購入する」というものである。
これが、「近代経済システム」は根っからの“高利貸し経済社会”であると言うゆえんである。
● 金本位制の概要
金本位制と管理通貨制の一つの違いは、中央銀行の通貨発行量に物理的な規制があるかないかの違いである。
金本位制であれば、中央銀行(発券銀行)は、保有する金(貨)の貨幣評価(元々は1円=0.001gなど金量で貨幣単位が規定される)の4倍まで、逆に言えば、通貨発行量の25%に相当する金(貨)を保有していなければならないといったような規制が働く。
これについては、経済取引は普段に継続しているので、25%の金(貨)があれば兌換にも支障がないというデタラメな理屈で正当化される。
確かに、紙幣を都度都度兌換するのは面倒だし、その必要もない。それどころか、通帳に記載された数字列になってしまう預金をするくらいである。
そして、産業経済主体なども、通貨の量が制限されることを嫌う。それどころか、より多く通貨が供給されることを望む。(19世紀の米国南部民主党は、そのような経済主体を支持基盤にしていた。そのために、多くの発見銀行が破綻していった)
しかし、この仕組みが、発券銀行にとってみれば“錬金術”であり、経済社会全体で見れば「詐欺」であることは明白である。
100億ポンドに相当する金(貨)を保有している銀行が、400億ポンドに相当する紙幣を発行し貸し出しを行う。
これは、発券銀行が保有金(貨)の3倍の通貨をなんら裏付けがないまま発行し、利子付きで貸し出しできることを意味する。
400億ポンドの紙幣を発行したからといって、1ポンド当たりの価値が1/4に薄まるわけではない。
10ポンド金貨と10ポンド紙幣は等価であり、10ポンド紙幣を兌換すれば10ポンド金貨を手に入れることができる。
そして、100億ポンドまでの紙幣と100億ポンドを超えて発行する紙幣のあいだに何ら識別はない。
「労働価値」的視点で言えば、金本位制の紙幣は、1/4に薄められた「労働価値」で、1/1の「労働価値」が転化された労働成果財を手に入れられるというものである。
ただし、1/4に薄められた「労働価値」で1/1の労働成果財を手に入れられるのは、発券銀行のみである。他の経済主体は、紙幣にも1/1の「労働価値」が裏付けられていると信じている。
これを“錬金術”や「詐欺」と呼ばずに別の表現があるというのなら、是非とも教えて欲しい。
このような「詐欺」が「詐欺」として指弾もされず取り締まりもされなかったことが、「エンロン破綻詐欺」など数々の「詐欺」を生み出し続けている根源である。
このような「詐欺」ともう一つの詐欺である「信用創造」をベースにした経済システムであることが、「恐慌」を引き起こしかつ防止できなかった要因である。
好況が突然崩れる経済状況が生まれると、労働成果財や非労働成果財の価格が下落し、生産活動も低下する。
銀行から貸し出しを受けた経済主体は、売上不振で債務を返済できなくなる。その数が増えれば不良債権を抱えて銀行が破綻する。破綻する銀行が増えれば、そこに貸し出しをしている発券銀行(中央銀行)も債権が回収できなくなる。結局は、担保を早く手に入れたもののみが破綻を免れるという経済状況である。
紙幣の担保は、金(貨)である。余剰紙幣を持っている経済主体は兌換に走る。
しかし、金(貨)は、発行された紙幣の1/4の量しかない。
これでは、バンクホリデーで対応するしかないのは当然である。国家が、「一大詐欺」が発覚することを防ぎ、「詐欺犯」を救済することになる。
紙幣が金(貨)の貨幣評価と同じ量に限って発行されていれば、兌換に応じればいいだけである。
自己資本の範囲内で貸し出しを行っていれば、取り付け騒ぎも起きない。
(「信用創造」という詐欺については、次回に説明する予定)
金本位制から離脱することで、金本位制であれば「恐慌」につながる経済事象を別のかたちで終息させることができるようになった。
● 管理通貨制
現在の紙幣は、その発行量を規定する物理的制約はない。(媒体は必要だがとりあえず制約なしとみなしてもいいだろう)
これは、金本位制が抱えていた「詐欺」発覚の怯えからの脱却を意味する。
金本位制の紙幣は、1/4に薄められた「労働価値」で、1/1の「労働価値」が転化された労働成果財が購入できるものであったが、管理通貨制の紙幣は、紙幣が表示している「労働価値」を無限大に薄めることができる。
〈その2〉で書いたように、管理通貨制の紙幣は、価値の裏付けを初めから持っていないものだから、薄めるという表現自体が誤りである。
正確には、労働成果財が内包する「労働価値」の価格表示機能を無限大に弱めることができる。(これまで100円であった財を、それに転化されている「労働価値」が変わらないまま700円に変更できることを指す)
しかし、これは、「詐欺」発覚の怯えからの脱却ではあっても、「詐欺」からの脱却ではない。正しくは、「詐欺」の拡大である。
薄めるどころか何ら裏付けのない紙幣を貸し出し、それで労働成果財を手に入れることができるからである。
発券銀行が、物資を買ったり、人を雇うということを考えて欲しい。
管理通貨制の紙幣は何ら価値的裏付けを持っていないのだから、タダでそれらを買ったり雇ったりしているのである。
それならば、そのような絶好の「詐欺装置」を駆使してタダで労働成果財を買い漁ればいいということになるのだが、現実にはそのようなことは起きていない。
絶好の「詐欺装置」が野放図にならずに、それなりのタガがはまっていく論理を考えていく。
● 金融経済主体の“資本の論理”
「詐欺装置」にそれなりのタガがはまるのは、根源的には、「経済活動が通貨を媒介とした労働成果財の交換を通じた人々の生存(奢侈や享楽を含む)を維持するために行われる」とうことにある。
これでは抽象的過ぎるので、資本形態になった通貨を最大化するという論理に沿って経済主体の立場の違いを見ていくことにする。
発券銀行を含む銀行は、基本的に、貸し出しを通じて資本(通貨)を増殖させようとする経済主体である。
子供銀行的に通貨の単位的な意味での最大化であれば、発券銀行は紙幣をどんどん発行して保有通貨量を増やせばいいということになるが、これまでも書いてきたように、保有通貨を増やす意義は、究極的に、労働成果財をより多く手に入れることにある。
紙幣をただ発行して保有しているだけではクソの役にも立たない。(後始末には役に立つが)
他の経済主体に貸し出しを行い、利息付きで返済してもらわなければならない。
貸し出しをするということは、利息の支払いと期限内での元本返済を条件に、紙幣をいったん手離すということである。
「労働価値」の上昇ペースと紙幣量の増加ペースで規定される労働成果財の価格変動を思い出して欲しい。
「労働価値」の上昇ペース以上に紙幣量の増加ペースが高まれば、財の価格は上昇する。
通貨を増やす意義が労働成果財をより多く手に入れることにあるのならば、保有通貨の実質的な多寡は、財の価格で見直されなければならない。
金融資本に限らないことだが、管理通貨制における“資本の根源論理”は、「労働価値」の上昇ペース以上に資本を増やさなければならないということになる。
「労働価値」の上昇は生産する財の“実質”価格を下落させるから、それ以上のペースで“実質”資本(評価額)を増大させなければ、資本を増殖させたことにはならない。
(この“資本の根源論理”は、現在及び将来の「近代経済システム」を考える上でもっとも重要な視点となる)
1年前に10億円と評価される資本を保有し、現在は15億円と評価される資本を保有しているとする。しかし、これだけでは、“資本の論理”に従って経済活動を行ったかどうか不明である。
「労働価値」の上昇ペース以上に紙幣量の増加ペースが高まれば、財の価格は上昇するのだから、紙幣の増加ペースが異常に高くなれば、15億円で1年前の10億円に相当する財を手に入れる(もしくは補う)ことができない。
これは、「資本の増殖」を公理とする「近代経済システム」では破綻への道を歩んだ1年であったことを意味する。
労働成果財を生産している経済主体は製造装置など非通貨の資本を多く保有しているが、金融経済主体は、本来的に通貨のみが資本である。(従業員も多数抱え建物やコンピュータなどの労働成果財の資本も保有しているが、それらはより多くの利益を得るための手段であって、本来は、通貨のみ保有していればいい。本来の姿により近づこうとしている動きが「IT革命」でもある)
このようなことから、金融経済主体は、産業経済主体よりも、“資本の論理”が見えやすいことがわかる。
繰り返し経済取引に使用できる紙幣の量は、発行主体が制御できる物理的な量だけではなく、使用頻度という発行主体の制御が及ばない変数によっても規定されるものである。
これは、1年後に返済を受ける貸し出し行為を考えると、取引を通じて元の通貨量(資本)よりも実質で多くするという“資本の論理”を達成するためには、金融経済主体の慎重な振る舞いが必要だということになる。
「労働価値」の上昇ペースが1.1倍であるのに、紙幣の増加量ペースが1.5倍になれば、財の価格は、1.36倍になる。
貸し出し金利が10%であれば、1年後に手にする通貨は元の1.1倍である。
これは、財の価格は1.36倍になっているのだから、“資本の論理”にそぐわない愚かな取り引きを行ったことを意味する。
「労働価値」の上昇ペースは直接目に見えるものではないから、経済主体は、それをインフレ率で考える。インフレ率は結果論であるから、予測インフレ率と考えた方がいい。
(金融経済主体は、「労働価値」の上昇を制御できない存在でもある)
金融経済主体は、予測インフレ率を下回る金利で貸し出しを行ってはならないというのが“資本の論理”による鉄則である。これは、名目金利はともかく、実質金利はプラスでなければならないと言うことである。
金融経済主体にとって、実質金利を最大化にすることが資本の迅速なる増殖につながる経済行為である。
これは、頻度は直接制御できないので紙幣の物理的増加量ペースをできるだけ抑えながら、名目金利をできるだけ高くするということに帰着する。
(複利による貸し出しは、名目金利を小さく見せながら、実際の名目金利をできるだけ大きくする手法である)
しかし、貸し出しは、紙幣の物理的な量を増加させる行為である。貸し出しという経済取引は、このように根源的な自己矛盾を孕んだ行為である。
● 「流動性の罠」の経済論理
一方、金融経済主体から貸し出しを受ける経済主体は、実質金利を最小化することが資本の最大化に貢献するという“資本の論理”を内包している。
これは、貸し出しを受けないで通貨を手に入れることが資本の最大化にもっとも貢献するということを意味する。
しかし、事業を拡大すれば率はともかく額では利益が大きくなると考えられる経済状況や事業を拡大しなければ競争的に存続できないと判断する状況にあって、貸し出し以外の通貨獲得手段がなければ、貸し出しを受ける道を選択する。
そして、金融経済主体も、貸し出しを受ける経済主体がいなければ唯一の資本増殖手段である貸し出しを行えないという隘路を抱えている。
銀行と違って紙幣の量を制御できない産業経済主体などの非金融経済主体は、名目金利をできるだけ低くして融資を受け、「労働価値」を上昇させ、生産した財をできるだけ高く売ることで、貸し出しに伴う利息負担を軽減させたいと考える。
この考えにも、根源的な自己矛盾が存在する。
それは、「労働価値」を上昇させ、生産した財をできるだけ高く売るという考えである。
「労働価値」を上昇させれば、生産した財の価格は下落するのだから、競争モデルで経済主体が合理的に活動すると考えれば、それははかない夢である。
夢を夢で終わらせるのではなく現実にするためには、金融経済主体が、紙幣の量を増加させてくれなければならない。
そして、紙幣の量を増加させるためには、貸し出しを増やさなければならないというのが「近代経済システム」の宿命である。
金融経済主体は通貨をばらまくという愚かな活動を行うわけにはいかないのだから、紙幣の量を増加は、貸し出しを通じてのみ実現される。
貸し出しは、慈善事業ではなく、資本増殖を目的として行われる。
金融経済主体は、予測インフレ率を下回る金利で貸し出しを行ってはならないというのが“資本の論理”による鉄則である。
非金融経済主体は、貸し出しを受けないことが資本の迅速な増殖にもっとも貢献する。
それでも、貸し出しを受けるのは、事業を拡大すれば率はともかく額では利益が大きくなると考えられる経済状況や事業を拡大しなければ競争的に存続できないと判断する状況があるときである。
この金融経済主体(銀行)と非金融経済主体(産業資本)の利害対立が、「流動性の罠」に陥る経済論理である。
中央銀行(発券銀行)が商業銀行に対する貸し出しを通じて紙幣の量をいくら増やそうとも、商業銀行の貸し出しが増えなければ、増加した紙幣は、中央銀行と商業銀行にあいだにプールされることになる。
そして、どんなときにも資本を増殖させたいと考える商業銀行は、貸し出しができにくい経済状況でも、無利子の中央銀行の当座預金ではなく、利息が手に入る国債の購入などに走る。
国債の購入に使われた紙幣は政府の手に渡り、財政支出や債務の利払いや国債の償還に使われる。
中央銀行→商業銀行→政府という流れは、「労働価値」という裏付けがまったくない紙幣が「資本増殖過程」という洗礼さえも受けないまま増加することを意味する。
現在はデフレである。このようなかたちでの紙幣の増加は、インフレ誘引になるはずである。しかし、そのような兆しは見られない。
それは当然である。財政支出は、赤字国債で30兆円というタガがはまっているので、増加した紙幣は財政支出の増加というかたちではほとんど流れ出していない。
増加した紙幣は、政府債務の利払いや国債の償還に使われているのである。そして、国債を主として保有している経済主体は、金融経済主体である。
増加した紙幣は、「中央銀行→商業銀行→政府→商業銀行→中央銀行」という流れで中央銀行に還流していることになる。
そして、中央銀行から商業銀行への貸し出し金利と商業銀行が政府から受け取る金利の差が、商業銀行の財務状況改善に貢献することになる。
「政府→商業銀行→中央銀行」の部分は、「政府→金融経済主体」という流れで、生保や郵貯・簡保の財務状況改善にも資している。
日銀が紙幣の量を増やしても、金融経済主体の財務状況を改善するのに役立っているだけで、その他の経済主体の「資本増殖過程」をスルーしてしまっているのだから、通貨評価での需要が拡大するわけがなく、物価も上昇しないまま「デフレ不況」が継続するのは当然である。
銀行は、貸し出しで資本を増殖させようとする経済主体である。経済状況が悪化して、借り手が少なくなったり信頼できる借り手が減れば、安全だと考えている国家が求めているのならば、国家に貸し出しを行おうとする。
国家のなかでもより安全だと考えている、日本や米国など「先進諸国」はどこも過剰な債務を抱え、利払いや借り換えのためだけでも厖大な新規貸し出しを求めている。
国家に貸し出しされた通貨が利払いや償還のために使われるだけであれば、マクロ的には、金融経済主体が自分のために貸し出しを行っていると言えるのである。
「近代経済システム」を考察するにあたっては、「近代の通貨は貸し出しを通じて供給されるもの」という公理を忘れてはならない。
そして、これが、米欧「文明諸国」がイスラムを敵視する根源的な理由でもある。
金融経済主体の論理=欲求によって確立されていった「近代経済システム」にとって、利子の取得を禁ずる勢力は「不朽の敵」である。
米国を中心とした「文明諸国」は、対テロ戦争で掲げた「不朽の正義」によって、世界経済内に存続する「不朽の敵」=イスラム法を基礎とした国民経済を根絶しようとしているのである。
次回は、流れから「信用創造」を取り上げたい。