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(回答先: 【↓不調なので再掲】日本国民の擁護ではなく日本国民に対する誹謗 投稿者 あっしら 日時 2002 年 11 月 13 日 21:21:42)
あっしらさん、横レスどうもです。
>「数百万人の日本人の死がなければそこまでの大転換を日本が取ることは無かったのも事実でしょう」が、「徹底的に日本国民を擁護」することになるとは思えません。
>国民総体が戦争遂行体制に組み込まれ、兵士となった日本人が、200万人も死亡するとともに多数の外国人を殺戮する戦闘に従事し、民間人も100万人ほどが原爆・都市空襲・地上戦で犠牲になる歴史を経て、占領した外国から強いられなければ転換ができなかったという判断が、「徹底的に日本国民を擁護」することになるとは到底認められません。
>自らが時宜に応じて国家構造や国家価値観の転換をできないというほど、日本国民は、英国国民や米国国民よりも劣った人たちから構成されているのですか?
ご批判を次のように読みました。「天皇制を廃止しなかったこと、天皇の戦争責任を追及しなかったことはさておき、あれだけの大災厄を産み出した国家構造を中途で転換させる圧力をかけられず、戦後、責任者を自らの手で処断し総括できなかった日本国民はその事を恥じるべきであって、擁護するなどとんでもない。」と。
お考えに確かに理はあると思います。しかし、明治期のある時点で国家の向かう方向が定まり、そのサイクルにはまりこんだ後、戦後占領軍がなし得たような方向大転換を中途で行うのは極めて困難だったと思います。総力戦で負け、完膚なきまでに叩きのめされて初めて方向の転換を図ることが可能となるのです。戦後の総括についても占領軍が施政を行い、戦犯の裁判までやった中で日本国民に口の挟める余地はありませんでした。こうした歴史的制約を離れて日本国民を非難するのは無理があります。
当時の事情の、より深層を覗いてみると、日本人の諦観のようなものも見えてきます。「しゃーないな」という。日本人は一般にいつまでも一つの事に恨みやこだわりを持ちつづけることを良しとしません。「水に流す」という言葉もあります。「禊を受ける」と悪人が善人に生まれ変わる事すら可能です。一面、原理原則がない、だらしない、没論理、という批判も成り立ちますが、別の面から見ると融通無碍、柔軟、新しい現実に適応しやすい、という美徳でもあります。
戦後、欧米流の価値観や思想の流入が加速しましたが、日本人の日本人たるゆえんを根底から覆すほどの力にはなりえませんでした。西洋流の「近代的自我」というものも、日本には根付いていません。そもそもこの自我というヤツは、一神教において神と自分とが一つの線で繋がっており、他の事象は一切関係ないというのが出発点です。この自我が個人主義に繋がるのであり、自然に手を加え克服しようとする発想に発展するのであり、ひいては他民族への圧力、無慈悲に至るのだと考えられます。
私はこのような日本民族のあり方を良しとするものであり、理詰めで常に自分が正しいと他を説得しないと安心していられないような窮屈な社会でないことを喜んでいます。そしてそれが必ずしも理詰め民族に劣っていることだとは思っていません。ただ、前述したような文化の国であるため、民衆が受動的であるという側面は否定できないと思います。だから、転換期においては優れたリーダーを必要とすることになります。