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古代朝鮮の新羅とか百済とかは皆遊牧騎馬民族の夫余・高句
麗系が建国した国家であった。日本も同じだった。だから当然
日本の豪族・皇室は朝鮮半島と深い人的交流をもっていた。
中国側の記録では「日本」は「倭」を征服したというものが
ある。それは朝鮮半島南部(任那)と九州の一部に存在した大
和朝廷が邪馬台国を占領したということであろう。これは遺跡
・遺物や人骨、記紀の神話ともごく自然に一致する。
したがって一昔前のサイエンス本に挿絵入りで載っていたフ
ンドシ姿の“鉄器と稲作を大陸から伝えた弥生人”は嘘である
。弥生人すなわち倭人は南中国やベトナムに近い文化をもった
人たちで、夫余・高句麗の古墳人が4世紀以降日本にやってく
る以前から稲作をおこなっていた。
だから今の韓国とか日本の国のありかたを前提条件にして古
代の東アジアを考えると見当違いの感情論に陥ってしまいがち
である。
縄文人は農業をしていたようだ。野菜栽培をしていたし、弥
生人とは違うやりかたで稲作もしていたようだ。私は朝鮮から
鉄器や馬具を持って日本に侵入してきた人々(いわゆる大和民
族)と大陸からの稲作を伝播を結びつける発想が基本的に誤り
であると言いたいのである。
私が歴史家としてはまったく評価しない司馬遼太郎は古代の
いきさつの記録がある西東京のある地域を訪ねてそこの住民を
見て、「百済の騎兵と現地人の混血がもっとも典型的な現代日
本人であることは古代東アジアの国際性を考えさせる」と語っ
た。私も以前から日本人のかなりの割合が夫余(百済を建国し
た集団)の人々と現地の諸民族・諸部族の混血であるというイ
メージがしていたのでこの点に関しては彼と意見が一致する。
古事記や万葉集など古代の日本語は今に残されており、ある
学者によれば驚くほど現代日本語と連続性がありそのまま現代
人にも意味がわかるような詩もあるという。普通に推理すれば
古代朝鮮の支配者達は現代日本語に近い言葉を話していたこと
になるがなにしろ古代朝鮮は記録が少ないようだ。
日本古来からの木曽馬はモンゴル馬である。だから大陸から
人と一緒に来たと考えるべきである。博物館で馬具の遺物を見
たり平家物語などを読んでも分かるように日本では古墳時代以
降は馬は戦争で普通に使われている。
あの当時は今の「日本」・「朝鮮」という社会は国家として
も文明単位としても存在していなかったのです。民族としての
「日本人」・「朝鮮人」もいなかった。当時の東アジアでは色
々な民族や部族が連携・戦争、支配・従属、移動・征服を繰り
返し、様々な国家が興っては滅亡していった。日本も例外では
なかった。
4世紀より前の日本の状況については私はあまり詳しいこと
は知らない。ただ、今まで南方系と思われてきた縄文人のほと
んどが実はブリヤート人に近い北方系モンゴロイドであったこ
とが遺伝子調査でわかった。マンモスを追って日本にきたらし
い。
しかし秋田県の一部の地域では白人の遺伝子が検出されるこ
とやアイヌ人の容貌などから私は縄文人のリーダーは白人系で
はなかったかと疑っている。偶然かもしれないが東北の環状列
石群も古代ヨーロッパのストーンサークルに似ていると思う。
日本列島が大陸の過酷な歴史に比べればはるかに安全で平和
な空間であったとは言えると思う。中国やヨーロッパの戦乱は
非戦闘員に対する大虐殺・略奪が常識であり一国の人口が3分
の1になってしまうようなことがある。
しかし古代における民族や部族の大移動や征服にはたとえ穏
やかな形であれ戦争がつきものであることは必然であり、古事
記や日本書紀に天皇家の穏やかな日本征服物語の一面があるこ
とは否定できない。そこでは天皇家に従わない民族や部族との
戦いがごく普通に語られている。
平安時代に入ってからも大規模な東国に対するエミシ征伐が
行われているし、戦国時代は日本中で大小の戦争が絶えなかっ
た。
歴史学的常識から言って騎馬民族征服説は大筋で妥当であろ
う。墓や副葬品、屋根瓦などの考古学的遺物や記紀などの神話
、中国の当時の東アジアについての記録などを総合して考ると
、どうしても4世紀ごろに朝鮮半島からそれ以前に日本列島に
住んでいたと人々とは異質の文明を持った集団が侵入して来た
と考える他はない。
前方後円墳は韓国にもあるし、古代北方アジアでよく作られ
た積石塚は内部の装飾まで同じもの(たとえばライオンの側面
図・正面図)が日本でも大量に作られている。古墳時代のアク
セサリーは明らかに夫余・高句麗系統のものである。
天孫降臨神話は典型的な北方アジアからの侵入を表すもので
ある。記紀に少し目を通せばわかることである。太陽神から「
葦の生い茂る水穂の国は永遠に君の一族が治める国である」と
の命を受けクシフル岳という朝鮮的な名前の場所に初代天皇は
降臨する。これは外部から日本を見ないと出てこない表現であ
る。実際に「スサノオの尊は日本に降臨する前に新羅に寄った
」という話も(記紀だったと思うが)ある。
そもそも記紀には日本列島での天皇軍団の異民族との戦い・
駆け引きの話はいくらでも出てくる。尻尾の生えた人とか、手
足の長い人とか、穴居人とかそういう人たちも出てくる。鏡を
見せると驚いたりすることもある。
昔の中国の魏史辰韓伝、弁韓・馬韓伝、夫余・高句麗伝など
にも注意すべきである。私も詳しく読んだわけではないが、当
時の朝鮮がかなり諸民族の移動の激しい地域であったことはす
ぐにわかる。中国の戦争や賦役を嫌っていろいろな地域からい
ろいろな民族がやってきたのをもともと朝鮮に住んでいた人た
ちが気持ち悪がって、広大な領土を彼らに割譲したという話も
ある。
古代における天皇家と百済王室の関係は(大和朝廷と百済の
関係は)兄弟のようなものである。蘇我氏が百済系であること
からもわかるように血縁関係もあたりまえだが、百済が夫余系
の国家であることははっきりしている。両王室の起源は辰韓の
辰王家である可能性が高いのだが、その辰王にしても「辰王は
流移の人、地元の人ではない」と中国側は記録している。
渤海が日本との国交を求める書簡の中で「我々は夫余・高句
麗の伝統を引き継ぐ兄弟である」というような記述があるらし
い。
私と同じような角度から日本古代史を語る人の中には、日本
は明治維新まで階層間・地域間の交流はそれほど強くなくて、
今でも渡来系の士族とかの人たちと民衆は別の種族として存在
していると言う人がいる。それはある意味で当たっているとは
思うが、そう言い切ってしまうことには疑問がある。
それはたぶんそれを言っている人の個人的な体験であって、
日本全体ではかなり混血が深く広範囲に進んでいるのである。
江上波夫氏は古代に弥生人と古墳人の急速な「同化」があっ
たことが、当時の西日本での頭蓋骨形態の急速な変形から確認
できるというようなことを言っていた。
平安時代に中央から貴族が日本各地に国司とかとして派遣さ
れたころ、彼らが地元の有力な一族と婚姻関係を結ぶことがあ
り、そのときにも広く渡来系と現地人が混血したという話も聞
いたことがある。これはいわば、上からの融合とでも言えばい
いのだろうか。
しかし、明治維新直後の日本の武士の中には朝鮮と日本を同
祖だとする感覚の持ち主も多く、それが朝鮮併合の下地になり
、併合時に朝鮮の王侯貴族がすぐに日本の王侯貴族となれた理
由でもあると渡部昇一は言っている。伊藤博文がそうした意見
の持ち主の代表例だったそうだ。実際に伊藤博文が朝鮮服を着
て朝鮮人と一緒に写っている写真がある。
私個人としては今の朝鮮人と日本人はやはり民族としては全
体としてはだいぶ違うと思う。しかし今の朝鮮のことは何も知
らないし経験もあまりないので日朝の比較については多くを語
れないし断言もしづらいのである。
最近新羅と古代ローマ文化の関係に注目が集まっている。
つい最近もテレビでとりあげられ、私は興味深くその番組を
見ていたが、新羅は中国とほとんど交流がない頃からローマ文
化を持っていたと由水常雄さんが遺物を紹介しながら主張して
た。日本の「秦氏」は昔の彼ら自身の主張にも関わらず、中国
の「秦国」とは直接の関係はないようだ。しかし、彼らは新羅
からやってきたことは日本国内の屋根瓦の遺物などから判って
おり、新羅のローマ文化は秦氏がローマ文化圏からやってきた
とすればそれで説明がつくのかもしれない。
新羅とか百済とかの古代朝鮮の諸王国は北方の騎馬遊牧民で
ある「夫余」が建国したことは明らかであって、「高句麗」も
もともと夫余と兄弟民族なのである。夫余・高句麗はギリシア
系騎馬遊牧民族「スキタイ」の文化の強い影響を受けているこ
とは昔から言われていることである。
私の個人的感覚と体験では、高句麗と新羅の中核は源氏と同
系統で、秦氏は後れて東方にやってきたが、やはり源氏と同系
等だと思う。
源氏の武田氏の祖先は新羅三郎(しんらさぶろう)なにがし
と言う名前だったらしい。しかし古代の関東地方の豪族は高句
麗系も多く、名前が日本的なものになったのがだいぶ遅れて平
安時代に天皇に申請した時だったケースも多いそうな。詳しい
ことは知らないが、『新選姓氏録』に彼らの(大陸以来の)系
譜などが載っているはずである。
だから私は源氏系をはじめとする関東武士のルーツは基本的
に高句麗だった可能性もある思う。源氏の神様は八幡大明神で
あり、源氏の伝説の英雄は八幡太郎義家であり、征夷大将軍は
できれば彼の子孫が好ましいという思想があったようだ。
高僧の道鏡が天皇になろうとしたとき、その是非を問うため
の託宣は伊勢神宮に求められたのではなかった。朝廷は九州の
宇佐八幡宮に託宣を求めたのである。その託宣では道鏡の政治
工作もむなしく不許可となり、神の言葉(意思)のとりつぎ役
の人が高く評価されたが、これは何を意味しているのだろうか
?
井沢元彦は伊勢神宮は飾り用の「ダミー」で本当の最高神殿
は宇佐八幡宮ではないかという仮説を立てたことがある。私は
それには賛成しないが、天皇家が天照大御神の子孫(もしくは
化身とか)であることがその皇位の正当性・必然性の理由とさ
れていることからも、これには何かあると考えざるをえない。
宇佐八幡宮は渡来系の辛島氏の氏神として祀られており、八
幡神は広隆寺では秦の始皇帝と大酒大明神(漢訳旧約聖書のダ
ビデ王と言う珍説もある)と並べられてやはり渡来系の秦氏の
氏神として祀られている。記紀では八幡神はせいぜい応神天皇
の化身もしくは指導神として少し記述があるくらいらしい。と
にかくあからさまに外国起源を感じさせる神なのである。
記紀では天孫降臨のときタカミムスビの神(高木の神)が天
照大御神の上司のように振舞っていたところから、古代日本で
は八幡神は少なくともタカミムスビの神以上の神霊と同一視さ
れていた可能性もある。そう考えると道鏡事件に納得のいく説
明がつくのかもしれない。高木の神は日本神界至高の御三体の
大神様のうちの一柱である。
私は源氏といったら高句麗であって、新羅とか秦氏はその次
にくるものという感覚があったのだが、実際にはそのへんには
もっと複雑ないきさつがあるのかもしれない。
聖書を読むとユダ族と他の十一(+エフライム+もう一つ)と
が分けて考えられていたり呼ばれたりしていることがある。「
ユダとイスラエル」といったぐあいに。ユダは最も有力で、他
の部族の連合としばしば戦争を繰り返したり、別の王国を形成
したりした。エフライムがユダに次いで有力な時期もあったよ
うだ。
ドイツは実は多くの国家が合体して出来上がったもので、昔
はケルン、バイエルン、プロイセン・・・と多くの王国に分か
れていた。その中でもプロイセンとオーストリアはもっとも有
力で、特にプロイセンの軍事力は圧倒的であったらしい。今で
は、さまざまな政治的・歴史的理由からオーストリアとドイツ
が別々の国家を形成している。
私は実はこう推測している。源氏はユダであってその他の渡
来系は皇室も含めて基本的には残りの諸部族だった。だから「
日本には失われた十支族の末裔がいる」という言い方はある意
味で不十分である。おそらく全部族が来たのであろう。古代イ
スラエルがそうであったように、ユダと他の部族連合は自覚的
に勢力争いを繰り返したようでもあり、そのあらわれの一つが
「源平合戦」ではなかったのか。
ユダヤ人とはもともとはユダ族の人間という意味であり、他
のイスラエルの人々と区別する呼び方である。