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(回答先: Re: もう一回質問です 投稿者 南青山 日時 2002 年 11 月 11 日 18:38:00)
南青山さん、こんばんわ。
「遊牧騎馬民族征服説」を騎馬民族による直接的な征服として考えると見えにくいと思います。
朝鮮半島を一気に南下して日本列島に到達したわけではありません。
百済が扶余系であった(新羅も?)ことや高句麗も遊牧騎馬民族系であったことから、ある時点で日本の支配層が朝鮮半島から渡来した支配層に代わったと考えても、「遊牧騎馬民族征服説」が成り立ちます。
征服というのは、先住民の皆殺しに至ることは稀で、ある程度の殺戮があった後、支配層の交替というかたちで決着が付くのが通例です。
まず、扶余は満州領域が本拠地だったと言われていますから、扶余が朝鮮半島に入ってきたときには先住民がいたはずです。(倭の時代には楽浪郡など中国直轄地も朝鮮半島にありました)
扶余族は、その先住民を皆殺しにしたわけではなく、戦争後に支配権を奪ったと考えるのが自然だと思います。侵攻した(元の地から追い出されたとも考えられます)地域に支配層として居座ったというものです。
農耕先住民に遊牧騎馬系支配者が乗っかるかたちで新しい国家ができたと考えています。
農耕にとって蓄積された技術は重要ですから、旧支配層も、零落してしまったと考えるより一段下の支配層になったと考えたほうがいいと思っています。
朝鮮半島は、満州や中国と陸続きですから、日本列島とは比較にならないほどの外敵にさらされ、支配権の変動にも激しいものがありました。
「魏志倭人伝」では倭には馬がいないと書かれていますから、その後ある時点で馬を飼い慣らしている人々が朝鮮半島もしくは中国大陸から日本列島に渡来したと推測できます。
それらが“悪意”を持って渡ってきたのなら、騎馬民族の戦闘能力と農耕民族の戦闘能力を比較すると一般的には騎馬民族のほうが勝っているので、特定の地域では支配権を確立したと推察できます。その支配権も、既存の支配構造の上に立つ重層的なものだと思われます。
(随でさえ高句麗に滅ぼされたようなものですし、戦争の連続ですから戦闘慣れもしています)
紀記には、「天津神」と「国津神」の争いが描かれています。
「天津神」を朝鮮半島由来の勢力、「国津神」を既存の日本列島勢力と考えるとわかりやすいと思っています。
日本書紀に、新羅に降り立とうとしたがそこは自分が治めるところではないとして日本にやってきたとの記述がありますから、日本書紀をオーソライズしたいと考えた支配層は、朝鮮半島から渡ってきた勢力と考えるのが自然に思えます。
大嘗祭もしくは類似的な祭祀が百済などの朝鮮半島の王朝で行われていたかどうか知りませんが、百済も新羅も農耕文化を基礎とした国家ですから、あってもおかしくはありませんが、朝鮮半島にはそのような祭祀様式がなかったとしても、日本列島にそのような祭祀が行われていたら、新たな支配層がその祭祀を採り入れたということは十分考えられます。(古墳時代以降の埋葬様式や墳墓は朝鮮半島支配層のそれらに近いものです)
古代史を現在の国家的枠組みで見るのは誤りだと考えています。
九州であれば、大和(奈良)よりも対馬・朝鮮半島南部との交流のほうが重要視されていた可能性が高いと思っています。(鉄の調達や宗教や統治論などの文化的優位認識から)九州王朝は、勝ち目のない唐・新羅連合軍との戦いにはせ参じたことから、百済系の王朝である可能性が高いと考えています。
日本列島の支配構造が大きく変わった契機は、唐・新羅連合軍に対して倭(九州勢力)と百済の連合軍が戦って敗北した「白村江の戦い」とその後の新羅による朝鮮半島の統一だったと考えています。
それ以前も変動があったが、衝突の地域的広がりと規模において群を抜いたものであったはずです。
朝鮮半島の戦乱はそれ以前から続いていましたから、「白村江の戦い」以前に新羅や高句麗から渡来した勢力が日本列島のどこかで支配権を確立していた可能性があり、百済の滅亡で数千名の支配層が渡来したことで新しい政治的軋轢が生じたと推察しています。
九州北部は新羅や唐の圧力を受けていましたから、九州勢力が“東遷”した可能性も大きいと思っています。
(日本書紀は、天武天皇と天智天皇の関係や大海人皇子の反乱などを同一支配一族内の確執のように書いていますが、異なる勢力間の争いと考えたほうがすっきりします。日本書紀の記述は、書かれた当時に近いものがもっとも錯綜した内容になっています)
それらが、西国(関西以西)の統一につながっていったのではと推測しています。
どなたかが投稿されていましたが、関東は高句麗勢力が強かったと考えています。
近代(明治国家)に至るまで、7世紀に生じた政治的激変が尾を引いていたと妄想しています。
日本は、列島という地理的条件と農耕を基盤としていたせいかもしれませんが、歴史という物語をうまく共有し(支配者内部ですが)、地域間の衝突も最小限の戦争で決着を付けてきたと感心しています。