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(回答先: Re: 御都合主義 投稿者 ラブ&缶ピース 日時 2002 年 10 月 13 日 23:48:22)
さらに議論を含める上で重要な指摘をしてくださっていると思われる。
《自分としては日本人に生まれたことを誇りとし、日本の風土や伝統を本当に愛し、実力を信頼することが出来る人が、他国のそれを否定したり、国粋主義者になる必要を感じるとはとうてい思えない。 》
コンプレックス(劣等感)には2つある。劣等コンプレックス(inferiority complex)と優越コンプレック(superiority complex)だ。そしてこれは裏表の関係にある。
民俗派・国粋派には(あまりレッテルを張ることには警戒しながらだが)、基本的に強い欧米に対する劣等コンプレックスが猛烈に基盤にある。事実、明治近代化の指導層は岩倉具視を団長とする1年半近くの大欧米視察(閣僚の半分が視察団として外国に長期滞在するという、一つの国としては、歴史的世界史的に空前絶後のプロジェクトだった)後に、欧米の物質文明のきらびやかさに目が潰される感覚になった。かれらは、これで、激しい劣等感に陥った。近代化の情念の濃厚な基礎が、この劣等コンプレックスにあることは間違いない。「脱亜入欧」のプロパガンダはその情念を反映するものである。劣等コンプレックスは優越コンプレックスに反転する契機をはらんでいる。日本を含む亜細亜は欧米に対して劣等である。アジアを抜け出て、欧米水準に達すことでアジアの中で優越感を持つことができる。そして、欧米並みの工場や軍事体制を持つことで、アジアに対しては優越コンプレックスを持つにいたったものである。欧米・アングロサクソンの流儀を身に付け、欧米アングロサクソンの価値基準で自己を測定することで、アジアに対し、自ら優越しているという、優越コンプレックスを持つに至ったわけだ。欧米とアジアに対するこの両端のメンタリティーを日本の指導層は今日まで持ち続けるに至っている。
石原・小林・西部氏たちの精神構造の典型をそこにみる。欧米・アングロサクソンに対する劣等コンプレックスを解消するための行動様式として、結局似合いもしない欧米ファッションを必死で身に付けてみたり、外車でこれ見よがしに走り回ったり、やたらワインのうんちくを傾けてみたり、紳士の国であられるありがたい英国お留学でハクをつけてご帰国あそばれたり(西部氏)とあいなる。一方でアングロサクソンの流儀を身に付けた返す刀で、アジアに対しては、やたら威張り散らかす。日本がアジア植民地経営をするのは当然だ、となった。最近でも、アングロサクソン近代化スタイルを持ち込んでやったと恩義の強制をする。
例えば、西部氏をみてほしい。英国お留学で学んだのが英国保守思想なのである。保守論を自任する有力な理論的根拠が、アングロサクソンの権力の牙城、貴族出身の超金持ち宰相、エドモント=バークなのである。アメリカ合衆国という名前の提示者で、イングランド出身、コルセット職人のせがれで学校も8歳までしかいかず、しかしフランクリン同様独学で教養を構築し、コモンセンスの出版で、独立に消極的なアメリカを独立ヘと理論的基盤を提供し、独立後一貫して一般庶民・貧困層を代表する立論を展開したトマス=ペインを激しく攻撃したあのエドモンド=バークその人の理論なのである。その中核にある指導者論が貴族階層の教養を持つ人物が社会指導する権利と義務がある、という、プラトンの提唱した指導者論、エリーティズムの伝統を一歩もでていないものなのである。富裕階層が自動的に支配権力を継承する権利がある、という立場だ。支配層の論理そのもの、アングロサクソン支配層の論理そのものなのだ。これを根拠に、いわゆる保守論を張っているご仁なのである。日本人でありながらアングロサクソンの牙城英国の保守理論を借りて論理を展開している(彼はヒュームなどという保守哲学者も使う)。ハッキリいって、借り物の思想であり、しかも、アングロサクソン中枢白人様の理論をなぜか日本で展開しているのである。このスノビズムは何たることだろう。それでいて何がアングロサクソン鬼畜米英なのだろう。日本人読者は無知だからそれで騙されるとでも思っているのか。トリックはバレているのである。彼のもう1人の依拠する知識人がおフランスざますの政府付きアレクシス=トクビルなのである。論拠は何かといえば、白人様支配層側知識人であって、一方、庶民側を擁護する理論を構築した、トマス=ペイン、ジャンジャック=ルソを徹底してこき下ろす側なのである(渡辺昇一、矢沢栄一など同じ論調)。
欧米に対する劣等コンプレックスが、アングロサクソンの勝利の方程式を憧憬させ、その中枢の考えかたをジャケットとして身に付けたのが彼なのである。
石原を例としてもよい。彼が記者会見をするさいのあの傲岸不遜なスタイルをみよ。自分の気にき食わない質問をする記者に目尻を釣り上げて、激昂威迫するさまを。これは、臆病者、小心者にみる、典型行動だ。彼は本当は自分を小さいものと考えている。劣等コンプレックスがある。それを発見されないため、やたら吠える行動、偉そうな行動にでるわけだ。弱い犬ほどよく吠えるというやつだ。これは、三島由紀夫にもみられた。自分の肉体についてのコンプレックスを打ち消すために、ボディービルで肉体改造、剣道やった上、日本刀を勇ましく振り上げ、自衛隊市ヶ谷本部に乗り込み、自衛隊員に全く説得力のない勇壮だが空虚な言説を虚空に吐き、自己耽美的にこれ見よがしの見せ物として自決した。自分がめめしい、ぜい弱な男であるということに、あまりに強いコンプレックスをもっており、天皇という男権の象徴にすがりつきながら、もっと男っぽくなりたい強くなりたいの一心で、国民向けテレビ空間を使って、自己実現を図ったものにすぎない。彼は1人ででも死ぬ男らしさはなかったのである。彼の心は最後まで空っぽ、空虚だった。自分に芯はない、とかんじていた。
三島を尊敬する石原がまたそうなのだ。自分の内部にしっかりした基盤を感じられないものだから、つまりそこに、劣等コンプレックスを感じるものだから、男権主義的な思想装置をかり出し、欧米に劣っていると感じていることの裏返しとして、とりあえず、欧米に楯突いているように見えて、実は戦々兢々なのだ。この劣等感、恐怖感、小心を隠すため、アジアに威丈高,記者に傲岸不遜な態度、女性侮蔑の態度にでるわけだ。あの顔面神経通風の目の忙しさはそれを写し出している。
ラブ&缶ピースさんの指摘、
《自分としては日本人に生まれたことを誇りとし、日本の風土や伝統を本当に愛し、実力を信頼することが出来る人が、他国のそれを否定したり、国粋主義者になる必要を感じるとはとうてい思えない。》
は、鋭どい所をついている。石原、小林、西部氏らは国粋派ながら、実は日本人の縄文から基礎付けられる図太い立派な価値体系・価値構造について、無知、あるいは、薄っぺらい理解しか持っていないこと、その意味で自分の内側に確たる基盤を感じられない空虚さがあり、それで、つい、英国保守思想などというアングロサクソンのエンジンを借りてドライブしている可能性が高い。
ラブさんいわく:
《(縄文時代なんて、女性はスカートはいてポニーテールに派手なピアスをつけ、現代の西洋風のそれと大して違わない、クッキーやハンバーグを食べていたそうである)。》
まさしくその通りで、4000年前ほどの彼らのイヤリングのデザインをみて、そして、オペラ歌手が妖艶な衣装で朗唱している用な自由感あふれる女性立像をみたときは驚愕するほかなかった。それらのあまりのモダンデザイン、現代感覚には、異様なものを覚えるほかなく、第一線のスーパーモデルがその装飾具をみにつけて、ファッション誌の表紙を飾っても何のそん色もないほどなのだ。ポーチのデザインも現代のわれわれのファッション感覚と匹敵するオシャレ感覚溢れる高度な美意識だ。縄文人恐るべしなのである。そのとき、アングロサクソンなどというのはこの地球に存在すらしなかったのである。
そうした、1万7千年以上のデータベースを蓄積して今日の日本人は生きているいるのである。そうした価値感覚を石原、小林、西部などは持っていない、内的に空虚で薄っぺらい呼吸をしているにすぎない。彼らの知る、いう、日本は明治以降の中国王朝を模写してさらにわざとらしくした天皇教日本の閉じられた胎内での生活者たちなのである。
中身のなさを、高飛車な欧米の支配層のロジックを借りてきて、似合いもしないブランドをきて、なんとか劣等コンプレックス、空虚感を埋め合わそうとしているのである。
それは、日本の支配層の基本的メンタリティーでもあり、外務省、財務省、金融管理庁などの官僚間で続いているのである。米英指導層には以前として激しい劣等コンプレックスをもっていることが、不良債権の加速処理をアメリカ指導層からせきたてられて実施に当たっている竹中平蔵のような人物に連綿と続いているのである。
自分の中身がしっかりしていれば、茶髪にする必要もないのである。
石原・小林・西部氏らは、逆接的だが、精神・思考の茶髪なのである。中国風文化風カツラをアングロサクソン風茶髪に染めてかぶっている。本当の意味で縄文というみどりの黒髪のしなやかな美しさに気付かない不幸と空虚を生きているのである。また、アングロサクソンに戦争でまけたからといて、弱音泣き言に終止するのは自分が劣っていると思っているからで、それも明治政府が拡大再生産した劣等コンプレックスの産物だ。自分の劣等感をおおい隠すために、馬鹿にされまいと必死に大艦巨砲主義で軍装を目指した諸君、武威に訴える諸君。三島由紀夫のボディービルは滑稽にみえるのだ。
少しは縄文人のたくましさをとりもどすがいいだろう。