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(回答先: 答えにもならない答えですが。 投稿者 匿名希望 日時 2002 年 8 月 20 日 07:15:44)
匿名希望さん、こんばんわ
レス頂ありがとう御座います。最高学府の蓮實総長をモチーフにしたのは私の知的楽しみと言うよりも、現在事象で最も共通認識のもてる人物かなと考えたからです。大学の独立行政法人かに反官僚主義的な姿勢もとられていますし、対峙する対照としてもぴったりな暗喩にもなるのかななどとも思ってみたり。
さて、「答えにならない」とおっしゃりながら、まがりなりにいただいたテキストの提示が、「おつき合いいただいた私の単なる知的お遊び」にあるいは「個々人に委ねられる主観的な思考」としてのみ捉えられずに、現実の政策との関連性を明らかに出来るのか、また論理的かつ合理的思考の中から導き出すことが出来るのかという命題が発生してしまった(こうなることはある程度寺名だったような気がするが)ように思います。
しかしながらこのような命題を、理路整然と匿名希望さんを説得できる能力を私は持ち得ないので歯がゆい限りですが、せっかくですのでいただいたご意見に私なりにコメントさせて頂きたいと思います。
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ただ、貴殿の言われる「情念」を私なりに開陳すると、「日本はパックス・ジャポニカの実現を目指すべきである。その中心的役割を担うのは官僚である。」という随分傲慢な物言いになります。
明示維新以来、良きにつけ悪しきにつけこの国は官僚を中心にして動いてきました。例外的に指導力のある政治家が国をリードしたこともありましたが、大半は政治家の振り付けを官僚が考え、それでうまく進んできました。なぜ、政治家やマスコミや学者でなく、官僚に日本の将来を託すのが合理的なのでしょうか。あらゆる面における能力の高さもその一つの理由でしょう(この点、謙遜するつもりはありません)。しかし、それにも増して重要なことは、民意や他の情勢にもぶれることなく、一貫した立場を維持できる制度的基盤があるためです。これが無くなると日本の背骨が崩壊します。
パックス・ジャポニカがどのようなものか、詳述するには紙面と時間の制約があるので、ごく簡単に言います。一つは、それが日本の歴史と伝統に連なるもので、尚且つ諸外国との間に齟齬を来さない西欧流社会システムの範疇にあるというものです(当たり前のことに見えますが重要です)。
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だれが主体的な役割を担うのかということに関しては、近代国家以降の歴史が、また官僚だった方々のそれぞれの国を憂う文献が示すとおり、立場やそれに費やされる時間の持ち方、能力を含め、おっしゃるとおりなのだと思います。しかしながら、私は名君のいる封建制国家より官僚主導の議会制民主主義国家のほうが勝っているとも言い切れませんし、現況のそれが最良だという、前提条件の意識には多少の危うさを感じます。したがって、あなた自身の最良の意識においてのみ、私はこれを是としたいと思います。
明らかに容易な官僚主義を容認できない私と官僚個人のもつ官僚主義を是とする私の立場から、これからの国家の中心を担おうとする官僚による統治状態をみたとき、限りなく君主に近づこうとする官僚による、立憲君主制に近い官僚主導の民主的統治を目指そうとしているようにみえます。これがよいかどうかの判断は別にして、表層の民主制と実質の(複数の官僚による)君主制的状態は、現時点では大きな矛盾をはらむことになることは明らかのように思えます。もし仮に、これがある種の妥当な概念だとするならば、まずは少なくとも、西田幾太郎のいうところの「全体的一と自己的多との矛盾的自己同一」という概念に近いことを明示しなければならないのではないでしょうか。要は大正天皇に西田が述べた「わが国の歴史に於いては全体が個に対するのでもなく、個が全体に対するのでもなく、個人と全体とが互いに相否定して、皇室を中心として生々発展してきたと存じます。」と言うことと近似的で、前半の部分が「パックス・ジャポニカ」に、皇室というところを「官僚」に置き換える事が出来るのではないでしょうか?
勝手な解釈ですが、これはこれで旨くやれば旨く行くかも知れません。(しかし、官僚の世代交代をどういうシステムでやるかが鍵になるかも知れませんね。君主制も皇位継承が常に問題になるのですから。そういった、世代的時間系列についての考察もされているのでしょうか?また、ファシズムに流れる可能性も否定できません。)
さて、とはいうものの、匿名希望さんは「近代経済学的な意味での成長志向は自明の善となりますから、成長そのものを疑ったり、別の幸福のパラダイムを考えたりはしません(そういう社会思想上又は宗教上の考察が無意味だと言っているのではありません)。」とおっしゃり、わたしはカッコ書きの部分(社会思想上または宗教上の考察)に重心をおき話に整合性がないようです。
しかしながら、「近代経済学的な意味での成長志向を支えた」根本的な日本の資本とはなんでしょう?江戸幕府は御用林や寺社林とという当座預金と農地という年次ごとに生産性を生む普通預金によって辛くも二百有余年の治世を保ってきました。そして、明治政府は多様な価値を秘めた当座預金を引き下ろし、近代化に費やしてしまったのではないでしょうか?戦後から高度成長期にかけて非常に短絡的なビジョンからスギの植林を大々的に行い百年も経たない今、ただのお荷物になってしまったのはどうしたことでしょう?結局、江戸時代から比べても、普通預金的ビジョンしか持ち得なかったことが、あるいは現象に対する政策ビジョンしかなかった事が一つの敗因であるように思えます。やはり、自明だとしている部分、本来の日本の土地資本にもう一度メスを入れ、現在の経済状況までの流れを見直しすることが、寛容だと思います。
また、政策立案部門が例え素晴らしい政策を展開したところで、「成長そのものを疑ったり、別の幸福のパラダイムを考えたりせず」に業務実施の段階でどうなっていくと思われますか?その段階では物事をオートマチックに処理することにたけた「ガリ勉秀才」が待ち受けているわけです。金太郎飴式にパターン化された政策が施行され、口を開けた小学生、中学生に振り分けられるだけで、これまでと何ら変わることのない世界が展開するだけであることの方が自明である気がします。結局、「考えられた素晴らしい政策」によって変わったことと言えば、金太郎飴の味がイチゴ味からメロン味に変わるに過ぎません。しかも、みんな一律にイチゴ味からメロン味に変わるのです。
簡単に言うと匿名希望さんが言うところの「幸福のパラダイム」について考えなければ何も変わらずに現在の状況が続くだけなのではないだろうか。と言うことかも知れません。
現代の日本人は経済も含めた「文明」と言う部分に重心を置きすぎている気がします。「文明」とは生産に寄与するものですが、生産されたものは消費しなければなりません。消費の結果生まれるものこれが「文化」です。したがって、如何に豊かな生活が達成できたかを知る為にはある程度の具体的な文化を知らなければならないのだと思います。そして、計画的に政策を展開するのならその達成度というのは、文化の指標によらなければならないのだと思います。これを数値化することははなはだ難しく、経済的な指標をその達成度と勝手に置き換えてしまったりしますが、これは生産のポテンシャリティを示すばかりで、生活のポテンシャリティとは何ら関わりのないものです。ここにすり替えだと思います。
日本より完成度の高いと思われる官僚主義の国フランスでは高校生の時点で哲学書を十数冊読まされるそうですが、結局のところ自前の哲学がある程度披露できなければ、官僚の権威も実質的には機能しないのではないでしょうか?国際的にそれなりのポジションを保てているのも、文化的なビジョンを尊んでいるからのように思えます。
良くも悪くも、国際的にみても成熟する時期を日本は迎えなければならないわけで、若い小僧のように馬鹿みたいに生産主体な(文明的)思考をしても、誰も周りはそれを認めてはくれないのではないでしょうか?それは国内に向けても同じであると思います。成熟したら成熟したなりの価値観(文化的思考)が他者から要求されることになるのであって、いくら若ぶっても、中年は中年であることは良く認識しておいたほうが良いと思います。
私は直感的にこれからの政策と言うものにも、文化的思考性をもち、表明する必要があるのだと思います。少なくとも国際社会に於いて。経済や経営の技術が能力があればあるほど、生活のイメージが借り物的であると本当に馬鹿っぽいです。個人ならまだそういう人もいるなぁ、と思えますが、国レベルになったときにはかなり問題です。
概して、消費のイメージ(文化)が出来ないものには、生産のイメージ(文明)自体意味がなく、現状の惰性を延命するに過ぎないと思われるわけで、それを新しい政策だとして展開されることは徒労という印象をもちます。すくなくとも官僚の話でいえば、森鴎外が、柳田国男が個人レベルで展開した文化と文明的政策の狭間をゆく思考のプロセスを組織レベルで検討する段階にきているのではないでしょうか?
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私を含め、かつての上級職を一桁台の順位で通過してきた者は、例外なく上記のような統治者としての意識を有しています。そしてたまたま生れ落ちたこの祖国を繁栄に導かなければならないという強い使命感を持っています。この点、「努力には対価を求める」そこいらのガリ勉秀才と一緒にされては困るのです。
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これは、現在上級職は経済的にも地位的にも権力としても十分に、使命に対し労働対価があるのだと解釈します。
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公的組織の改革について、これも簡単に記載しておきます。
世上、非効率・採算度外視の公務員組織をことごとく潰せ、という主張がありますが、公務員の身でありながら敢えて大胆に言うと、そこまでは正しいと断定しても良い。だが、続きがあります。新たな時代の要請である公的需要に対しては人員を増強しなければならないのです。早い話がスクラップ&ビルドということです。もっと言うと、スクラップする部分より実はビルドの部分の方が多くならなければなりません。本当は明確な青写真を示しつつここまで明確に公言しなければならないのですが、今の世論の風向きを考えるとそれは自殺行為に当ります。
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不必要な人間が多すぎて、必要な人間が足りない、全く足りない。と言う実感はあります。ただ補填する人間を決める価値基準、採用基準が非常に気になるところですが。
私の話は論理性は低いのでややずれた話のように思われるかも知れませんが、性懲りもなくレスさせていただきました。また機会があればご意見お聞かせください。無理のない程度に。