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現生人類の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/464.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 12 月 26 日 15:41:47: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

現生人類の起源


人類進化史
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/581.html

現生人類の起源
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/735.html

雑記帳 古人類学の記事のまとめ
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/592.html

日本人のガラパゴス的民族性の起源
2020/8/25 0-2. 日本人の源流考
2. 草創期のネアンデルタール人(ハイデルベルグ人)から始まったようだ。
3. 原ホモサピエンスから現ホモサピエンスへ脱皮したのではないか!
 3-1. 華奢型への進化(?)と集団形成への変化があったのではないか!
 3-2. 最新のY-DNAツリーの超概要!
 3-3. 現代人類はホモサピエンスと終末期の成熟型ネアンデルタール人とのハイブリッド?
 3-4. 現代人類は進化の爆発に遭遇できたのではないか!!!
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-2,0-5,15-28,18-2.htm#0-2



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日本人のガラパゴス的民族性の起源

1-1. Y-DNAハプロタイプ 2019年6月版 最新ツリー
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-1.htm

2-1. mtDNA ハプロタイプ 2019年5月21日取得 最新ツリー改訂版
http://garapagos.hotcom-cafe.com/2-1.htm

1-5. Y-DNA ハプロタイプの意義と拡散
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-5,2-2.htm#1-5

1-5. Y-DNA/mtDNA ハプロタイプの意義と拡散
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-5,2-2.htm#2-2

DNA解析の限界/実は単品ではあまり役にたたないという話
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/430.html

ネット上でよく見かける人類進化に関する誤解
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/774.html

先住民族は必ず虐殺されて少数民族になる運命にある
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/590.html

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日本人のガラパゴス的民族性の起源
ヨーロッパY-DNA遺伝子調査報告

 3-1. Y-DNA調査によるヨーロッパ民族
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-1.htm

 3-2. Y-DNA「I」   ノルマン度・バルカン度 調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-2.htm

 3-3. Y-DNA「R1b」  ケルト度 調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-3.htm
       
 3-4. Y-DNA「R1a」  スラブ度・インドアーリアン度 調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-4.htm

 3-5. Y-DNA「N1c」  ウラル度・シベリア度 調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-5.htm
 
 3-6. Y-DNA「E1b1b」 ラテン度(地中海度) 調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-6.htm
  
 3-7. Y-DNA「J」   セム度・メソポタミア農耕民度 調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-7.htm

 3-8. Y-DNA「G」   コーカサス度 調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-8.htm

15-4. アイスマンのY-DNAはスターリンと同じコーカサス遺伝子の「G2a」
http://garapagos.hotcom-cafe.com/15-4.htm
 
3-9. Y-DNA「T」   ジェファーソン度 調査 
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-9.htm  

3-10. Y-DNA「Q」   異民族の侵入者フン族の痕跡調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-10.htm

1-11. ユダヤ人のY-DNA遺伝子は日本列島の構成成分となっているのか?
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-11.htm

1-15. コーカサスはバルカン半島並みの遺伝子が複雑な地域
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-15.htm

1-14. ギリシャはヨーロッパなのか?? 地中海とバルカン半島の遺伝子は?
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-14.htm

1-13. 中央アジアの標準言語テュルク語民族の遺伝子構成はどうなのか?
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-13.htm

1-17. 多民族国家 ロシアのY-DNA遺伝子調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-17.htm

1-9. 多民族国家 アメリカのY-DNA遺伝子調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-9.htm

1-18. 多民族国家 インドのY-DNA遺伝子調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-18.htm

1-16. 多民族国家 中国のY-DNA遺伝子調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-16.htm

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シャーマニズムの世界
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/436.html

アニミズム・トーテミズムの芸術作品
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/452.html

狩猟採集民・原始農耕民の料理
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/460.html

言語の起源
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/837.html

読書能力の起源
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1112.html

集団生活・共同体の起源
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1012.html

民主主義の起源
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/825.html

母系制と近親結婚の起源
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/987.html

寝具の起源
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1155.html

葬儀の起源
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1212.html

一夫一妻制の起源
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/843.html
 

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コメント
1. 中川隆[-8922] koaQ7Jey 2020年12月26日 15:49:48 : PLjQd27PlM : UWhkTlI4NVNUMlE=[2] 報告

パナマのサルが石器時代に突入したことが最新研究で判明!
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/899.html

人間とチンパンジーのDNAが99%一致するという定説はウソだった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/376.html

チンパンジーが好きな肉は脳? 初期人類も同様か
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/843.html

チンパンジーよりもヒトに近いボノボ
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/673.html

類人猿ギガントピテクス、大きすぎて絶滅していた
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/678.html

アウストラロピテクス属と初期ヒト属の進化過程のギャップを埋める化石発見
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/589.html

北京原人、火の利用を裏付ける新証拠が発見
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/627.html

原人:台湾で新たな化石発見 北京やジャワと別系統
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/575.html

デニソワ人 知られざる祖先の物語
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/675.html

チベット人の高地適応能力、絶滅人類デニソワ人から獲得か
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/497.html

4代前にネアンデルタール人の親、初期人類で判明
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/620.html

人類の「脱アフリカ」は定説より早かった!? 現代人は13万年前にヨーロッパに到着していた
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/471.html

洞窟壁画の発見は4万年前のアジアでも具象芸術が存在していた事を証明する
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/536.html

人類の寿命
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/759.html

性の進化論 女性のオルガスムは、なぜ霊長類にだけ発達したか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/741.html

近親相姦の時代
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/329.html

犬の起源は欧州、狩猟時代にオオカミが家畜化
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/512.html

飼いネコ:アジアでの進化は欧米と別 
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/577.html

味覚は毒物の摂取を避けるために発達した
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/422.html

古代ほとんどの欧州人は牛乳をうまく飲めなかった
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/617.html

2. 中川隆[-8888] koaQ7Jey 2020年12月27日 11:16:54 : FRaqZnrJmP : eVhnV01CT2dEcWc=[15] 報告
コーカソイドは人格障害者集団 中川隆
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/380.html

コーカソイドだった黄河文明人が他民族の女をレイプしまくって生まれた子供の子孫が漢民族
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/382.html

3. 中川隆[-8887] koaQ7Jey 2020年12月27日 11:22:22 : FRaqZnrJmP : eVhnV01CT2dEcWc=[16] 報告
太平洋先住民の起源
ポリネシア人・オーストロネシア語族の起源は台湾先住民
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/355.html#c3
4. 中川隆[-8873] koaQ7Jey 2020年12月28日 12:50:23 : FfxVCL44z5 : MFdUYzd3bmx1cS4=[13] 報告
ネアンデルタール人の世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/796.html
5. 中川隆[-8865] koaQ7Jey 2020年12月28日 16:40:56 : FfxVCL44z5 : MFdUYzd3bmx1cS4=[21] 報告
2019年04月28日
サルの進化史年表6500万年前〜500万年前(定説)

人類の起源を探る前提として、現在の定説となっているサルの進化史年表を掲げる。
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6500万年 生物の大量絶滅。恐竜絶滅。隕石落下で環境激変。寒冷化
       原始霊長類の出現。モグラに似た哺乳類が樹上生活に適応
       約5500万年前に現れたアダピス類が初期の霊長類
       プルガトリウス、カルポレステス、プレシアダピス。
       夜行性。鉤爪、親指の発達(対向指へ)。昆虫、果実食
       従来は北米起源説
       中国湖南省で最古霊長類の頭骨化石、アジア起源浮上

5500万年 温暖化。海底火山、マグマ熱でメタンハイドレート爆発
       広葉樹、高緯度まで、樹冠=サルの楽園。原始原猿拡散、繁殖
       ショショニアス:正面に並んだ目→立体視が可能
       原始霊長類より原猿類と真猿類と分岐

4500万年 インド、ユーラシア大陸衝突、ヒマラヤ形成、テチス海消滅

4000万年 南極大陸で氷河の形成がはじまり、徐々に寒冷化。
       高緯度地域の樹林が消え、サルはアフリカ、一部南アジアへ
       カトピテクス:高い視力(眼窩後壁→視細胞集中→明瞭映像)
       真猿下目の狭鼻下目(旧世界猿)と広鼻下目(新世界猿)分岐

3000万年 赤緑色盲に退化した哺乳類のうち狭鼻下目が3色型色覚再獲得。
      (ビタミンCを豊富に含む色鮮やかな果実等の獲得と生存に有利)
       狭鼻下目のヒト上科がオナガザル上科から分岐
       ヒト上科=テナガザル、オランウータン、チンパンジー、ゴリラ、ヒト共通祖先

2500万年 アルプス・ヒマラヤ地帯などで山脈の形成がはじまる。
       最古の類人猿と思われる化石(アフリカ、ケニヤ)

1500万年 急速な寒冷化
       ヒト科とテナガザル科が分岐
       ヒト亜科とオランウータン亜科が分岐
       ヨーロッパ、南・東アジアなどユーラシア各地に類人猿化石

1000万年 アフリカ大地溝帯の形成が始まる(人類誕生に大きな影響か)

700万年  気温が下がり始める
       最古人類化石は中央アフリカ、サヘラントロプス・チャデンシス

600万年  ヒト族とゴリラ族が分岐

500万年  ヒト亜族とチンパンジー亜族が分岐
       猿人の出現。最初の人類とされる。
      (華奢型猿人、アウストラロピテクスなど)
       チンパンジーほどの大きさで、足の指の形から二足歩行の可能性
       脳容積500 ml。一定の道具使用

http://bbs.jinruisi.net/blog/2019/04/3635.html



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2019年04月28日
人類史年表500万年前〜10万年前(定説)

人類の起源を探る前提として、現在の定説となっている人類史年表(500万年前〜10万年前)を掲げる。
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500万年 猿人出現。最初の人類(華奢型猿人、アウストラロピテクスなど)
       足の指形から二足歩行の可能性
       脳容積500 ml。一定の道具使用

300万年 地球寒冷化。 氷河時代開始

270万年 頑丈型猿人(パラントロプス)と原人(ホモ・ハビリス)分岐
       原人、言語使用か(左脳ブローカ野痕跡より)

260万年 前期石器時代はじまり
       石器で動物解体。死肉食。オルドヴァイ型石器

230万年 ホモ・ハビリス出現(脳の増大、歯の縮小化)
       狩りではなく、自然死or肉食獣が倒した動物を食べた

180万年 ホモ・ハビリスの出アフリカ。ユーラシアへの拡散

160万年 ホモ・エレクトス

78万年  最新の地磁気の逆転
       概ね70万年前から10万年周期の気候変動(氷期・間氷期)

60万年  アフリカ旧人。ネアンデルタール人と人類分岐

50万年  ヨーロッパ旧人、北京原人

30万年  ネアンデルタール人(30〜23万年前頃。3万年前頃絶滅)
       脳容積1400 ml(ホモ・サピエンス同等以上)、言語使用
28万年  ケニアのバリンゴ遺跡でオーカー出土。顔料使用。石刃。すり石

25万年  中期石器時代(〜5万年前)。尖頭器

23万年  温暖期ピーク。後、緩やかに寒冷化、14万年前頃氷期ピーク

20万年  ホモ・サピエンス出現。
      (16±4万年前のミトコンドリア・イブ。アフリカ出現、10万年前頃ユーラシア拡散)

14万年  氷期(リス氷期)ピーク。後、急速に温暖化
       海産資源の利用。漁。長距離移動・流通

13万年  温暖期ピーク。後、急寒冷化、約11万年前頃から緩上下、氷期へ
       初期のヒト属による火の利用。
      (日常広範囲で火の使用を示す証拠、約12.5万年前遺跡から)

10万年  現代人(ホモ・サピエンス)がアフリカを出て拡散
      (7万年前との説も)
      (ミトコンドリアDNA分析では現代人の共通祖先の分岐年代14.3万年前±1.8万年)
       赤、黄と茶の中間色のオーカー(クレヨン)出土。線刻。
       イスラエルのカフゼーとスフールで埋葬痕跡

http://bbs.jinruisi.net/blog/2019/04/3638.html



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2019年04月28日
人類史年表10万年前〜5千年前(定説)
http://bbs.jinruisi.net/blog/2019/04/3641.html

人類の起源を探る前提として、現在の定説となっている人類史年表(10万年前〜5千年前)を掲げる。
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10万年  現代人(ホモ・サピエンス)がアフリカを出て拡散
      (7万年前との説も)
      (ミトコンドリアDNA分析では現代人の共通祖先の分岐年代14.3万年前±1.8万年)
       赤、黄と茶の中間色のオーカー(クレヨン)出土。線刻。
       イスラエルのカフゼーとスフールで埋葬痕跡
9万年  コンゴのカタンダ遺跡で骨製尖頭器。漁

7.5万年 南アフリカのブロンボス洞窟で赤色オーカーに幾何学模様の線刻
       →世界最古の抽象模様。シンボル操作能力の証左
       貝製ビーズも出土。骨器。錐か槍

7.3万年 スマトラ島トバ火山大噴火。地球気温が数年間3−3.5度低下
      (人類は一万人以下に激減)
      (ヒトDNA解析では遺伝多様性が失われ現人類に繋がる種のみ残った)

7万年  7万年前±1万3000年にヨーロッパ人と日本人の共通祖先分岐
       細石器。ネアンデルタール人、埋葬文化

6.3万年 アフリカ人、東ユーラシア人系統集団、西ユーラシア人系統集団、分岐

6万年  ナミビアのアポロ11遺跡より岩板に動物壁画
       ウクライナのモロドヴァ遺跡でマンモス骨の小屋or風除構造物

5万年  クロマニョン人。ホモ・サピエンスの出アフリカ
       イスラエルのカフゼー遺跡で線刻のある石片。

4.5万年 ケニヤのエンカプネ・ヤ・ムト遺跡よりダチョウの卵殻製ビーズ
       ユーラシアで骨角器。サフルで大型動物絶滅、人類狩猟説も

3.7万年 南仏アルデーシュのショーベ洞窟壁画。(約3万年前)

3.5万年 クロマニヨン人大地母神崇拝(ヴィーナス像)、壁画
       日本で刃部磨製石斧(世界最古)

3万年  約3万−2万年以前 – ヒトがアメリカ大陸へ。氷河期にベーリング海峡は地続き

2.1万年  最終氷期(ウルム氷期)の最寒冷期。気温は年平均で7−8℃低下
       後、温暖寒冷の小さな波、長期で徐々に温暖化

2万年  ラ・ガルマ洞窟。絵、テントのような構造物。

1.6万年 東南アジア、スンダランドが海面上昇で徐々に後退
       ベーリング海峡海没、日本も徐々に島化
       縄文時代の始まり。縄文土器
       ラスコー壁画(約1万8000年−1万6000年前)
       絵の具の配合など、原始的な化学的な操作。石のランプ、松明の使用

1.5万年  アルタミラ洞窟壁画(約1万4000年−1万3000年前)
       BC12,000年頃、中国長江流域で陸稲稲作の開始

1.3万年 日本列島が大陸から完全に離れ、ほぼ今の形に
       中石器文化。マンモス、バイソンはいなくなっていた
       ツンドラステップは北方後退、樹林ひろがる。鹿、猪、鳥、魚介類、木の実
       弓矢の発明、石臼の普及。壁画の伝統は途絶
       BC11000年頃、最も古い神殿跡が、イェリコのテルの最下層から発見。

1.2万年 イスラエル、ヒラゾン・タクティット洞窟遺跡で人々の宴会の痕跡
       BC9,050年頃、シリアのテル・アブ・フレイラ遺跡で最古級のライムギ農耕跡
       BC9000年頃、パレスチナのイェリコやアスワドでコムギ類とマメ類栽培開始

1万年  最後の氷期(最終氷期)が終わったとされる

9000年 新石器時代
       農耕の開始。この時期より主に磨製石器が使われた
       西アジアから伝わった農耕、牧畜がヨーロッパでも開始
       土器、村落社会、贈与・流通システム、巨石文化
       フリント、石斧、琥珀、貝殻、金、銅、錫など
       BC8800年頃、銅製の小玉がイラクから出土、最古の銅製品
       BC8500年頃 – 長江流域で水田稲作がはじまる
       BC8300−7300年頃 パレスチナ、イェリコで周囲を石壁で囲った集落
       BC8000年頃 – 西アジアでヒツジ・ヤギ・ブタの飼育

5000年 エーゲ文明、エジプト文明、メソポタミア文明など
http://bbs.jinruisi.net/blog/2019/04/3641.html

6. 中川隆[-8778] koaQ7Jey 2020年12月30日 12:51:27 : wwip1cR3BF : OGYwQ28xSnhaUVk=[19] 報告
雑記帳 2020年12月30日
2020年の古人類学界
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_40.html


 あくまでも私の関心に基づいたものですが、年末になったので、今年(2020年)も古人類学界について振り返っていくことにします。近年ずっと繰り返していますが、今年も古代DNA研究の進展には目覚ましいものがありました。正直なところ、最新の研究動向にまったく追いついていけていないのですが、今後も少しでも多く取り上げていこう、と考えています。当ブログでもそれなりの数の古代DNA研究を取り上げましたが、知っていてもまだ取り上げていない研究も少なくありませんし、何よりも、まだ知らない研究も多いのではないか、と思います。古代DNA研究の目覚ましい進展を踏まえて、今年はネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)といった非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)と、現生人類(Homo sapiens)とに分けますが、当分はこの区分を続けそうで、あるいはさらに細分することになるかもしれません。以下、今年の動向を私の関心に沿って整理すると、以下のようになります。


(1)古代型ホモ属のDNA研究。

 まず注目されるのが、サハラ砂漠以南の現代アフリカ人のゲノムに、以前の推定よりもずっと高い割合でネアンデルタール人由来の領域があることを指摘した研究です。
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_6.html

 アルタイ地域のチャギルスカヤ洞窟(Chagyrskaya Cave)で発見されたネアンデルタール人個体からは高品質なゲノムデータが得られました。
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_8.html

 ネアンデルタール人とデニソワ人のY染色体に関する研究では、ミトコンドリアDNA(mtDNA)と同様に、ネアンデルタール人系統はデニソワ人系統よりも現生人類系統の方に近い、と明らかになりました。
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_35.html

 まだ査読前ですが、アルタイ地域においてデニソワ人とネアンデルタール人との交雑が一般的だったことを指摘した論文も注目されます。
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_19.html

 アイスランド人の大規模なゲノム解析では、現代人の表現型におけるネアンデルタール人の遺伝的影響が以前の推定よりも小さい可能性と、ネアンデルタール人との交雑を経由してアイスランド人の祖先がデニソワ人の遺伝的影響を受けた可能性とが指摘されています。
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_42.html

 アジア東部北方の早期現生人類のDNA解析の結果、すでにデニソワ人の遺伝的影響を受けていることが明らかになりました。
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_13.html

 欠失多型も調べた研究では、非アフリカ系現代人全員の共通祖先集団とネアンデルタール人との交雑に加えて、アジア東部とヨーロッパ西部の現代人の祖先集団が、それぞれネアンデルタール人と交雑した、と推測されています。
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_21.html

 多様な地域の現代人の高品質なゲノムデータからは、現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人由来の領域の大半は、現生人類とネアンデルタール人との1回の交雑に由来するものの、現生人類とデニソワ人との交雑は複数回起きた、と推測されています。
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_18.html

 非アフリカ系現代人では出アフリカのさいに失われた遺伝子が、ネアンデルタール人との交雑により再導入された可能性も指摘されています。
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_6.html

 カメルーンの古代人のDNA解析では、アフリカの現生人類集団における複雑な分岐と混合が明らかになるとともに、遺伝学的に未知の古代型ホモ属から現代人への遺伝的影響の可能性が指摘されました。
https://sicambre.at.webry.info/202001/article_37.html

 同じくアフリカ西部のナイジェリアとシエラレオネの現代人のDNA解析からも、未知の古代型ホモ属から現代人への遺伝的影響の可能性が指摘されています。
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_31.html

 新たな手法を用いた研究でも、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人と遺伝学的に未知の古代型ホモ属との間で複雑な混合があった、と指摘されています。
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_14.html

 ネアンデルタール人由来の遺伝子が新型コロナウイルス感染症(COVID-19)を重症化させる、との研究は世界中で大きな話題となりました。
https://sicambre.at.webry.info/202010/article_6.html

 古代DNA研究では、人類も含めて動物遺骸だけではなく、堆積物のDNA解析も進められるようになり、人類遺骸が発見されていない遺跡の人類集団の遺伝的特徴も解明されるのではないか、と予想されます。しかも、イスラエルの遺跡では中部旧石器時代層の堆積物の非ヒト動物のmtDNAが確認された、と報告されており、
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_19.html
古代DNA研究の適用範囲が時空間的に大きく拡大するのではないか、と大いに期待されます。

 また、古代型ホモ属ではありませんが、コーカサスの遺跡の25000年前頃の堆積物から、ヒトの核DNAも解析されたと報告されており、
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_20.html
堆積物のDNA解析はますます期待されます。

 これらはまだ学会での報告の段階ですが、論文として公表された研究では、チベット高原で10万年前頃の堆積物からデニソワ人のmtDNAが確認されており、今後、古代型ホモ属の特定において堆積物のDNA解析が大きな威力を発揮しそうです。
https://sicambre.at.webry.info/202011/article_2.html


(2)現生人類の古代DNA研究。

 現生人類の古代DNA研究では、ユーラシア西部、とくにヨーロッパが進んでいますが、今年も、当ブログで取り上げただけでも重要な研究が多数公表されました。今年公表されたユーラシア西部の古代DNA研究の特徴は、すでに他地域よりもずっと多く蓄積されたデータを踏まえて、時空間的に広範な対象を扱う統合的なものが多いことです。ユーラシア西部の古代DNA研究を整理した概説もあり、近年の研究を把握するのに有益です。
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_42.html

 地中海を対象とした研究では、中期新石器時代から現代のサルデーニャ島や、
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_57.html
新石器時代以降の地中海西部諸島や、
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_3.html
鉄器時代から現代のレバノンや、
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_18.html
青銅器時代レヴァント南部集団を扱った研究があります。
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_33.html

 包括的な研究としては、新石器時代から青銅器時代の近東を対象としたものがあります。
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_30.html

 とくに古代DNA研究が進んでいるヨーロッパでは、今年も注目される研究が多く公表されました。ヨーロッパ東部での後期新石器時代の漸進的な遺伝的混合を指摘した研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_28.html
中期新石器時代〜前期青銅器時代のスイスを対象とした研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_43.html
ヨーロッパ中央部新石器時代最初期における農耕民と狩猟採集民との関係を対象とした研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_35.html
ゴットランド島の円洞尖底陶文化と戦斧文化の関係を取り上げた研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_20.html
ゲノムデータと同位体データからアイルランドの新石器時代の社会構造を推測した研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_26.html
ヨーロッパにおける乳糖分解酵素活性持続の選択を推測した研究です。
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_8.html

 フランスに関しても、ドイツの一部とともに中石器時代から新石器時代を対象とした研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_1.html
中石器時代から鉄器時代を対象とした研究があります。
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_2.html

 これまでアフリカの古代DNA研究は、低緯度地帯に位置しているため遅れていましたが、近年では着実に進んでおり、その一部は(1)でも取り上げました。近年のアフリカの古代DNA研究を整理した総説はたいへん有益です。
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_41.html

 古代DNAデータから完新世のアフリカにおける複雑な移動と相互作用を推測した研究は、包括的で注目されます。
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_23.html

 また、アフリカは現代人の遺伝的データの蓄積でも、その多様性から考えて他地域から遅れており、古代DNA研究ではありませんが、アフリカ人の包括的なゲノムデータを報告した研究は、今後の研究の基礎になるだろう、という意味で注目されます。
https://sicambre.at.webry.info/202011/article_3.html

 アメリカ大陸は、ヨーロッパほどではないとしても、古代DNA研究が比較的進んでいる地域と言えそうで、今年も重要な研究が公表されました。それは、9000〜500年前頃のアンデス中央部および南部中央を対象とした研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_17.html
カリブ海諸島の3200〜400年前頃の古代ゲノムデータを報告した研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_12.html
カリブ海諸島の古代ゲノムデータをさらに拡張した研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_34.html
ペルー南部沿岸地域におけるインカ帝国期の移住を取り上げた研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_12.html
5800〜100年前頃の南パタゴニアの古代ゲノムデータを報告した研究です。
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_15.html

 また、基本的には現代人のゲノムデータに依拠しているものの、先コロンブス期のポリネシア人とアメリカ大陸住民との接触の可能性を指摘した研究もたいへん注目されます。
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_13.html

 オセアニアに関しては、古代DNAデータからバヌアツにおける複数の移住を推測した研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202011/article_20.html
グアム島の古代DNAデータを報告した研究がも注目れます。
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_32.html

 家畜の古代DNA研究も進んでおり、家畜ウマのアナトリア半島起源説を検証した研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_23.html
古代ゲノムデータに基づいてイヌの進化史を推測した研究が注目されます。
https://sicambre.at.webry.info/202011/article_4.html

 今年の古代DNA研究の大きな成果は、これまでユーラシア西部と比較して大きく遅れていたユーラシア東部に関する重要な研究が相次いで公表されたことです。もっとも、まだユーラシア西部と比較して遅れていることは否定できませんが、今後の研究の進展が大いに期待されます。近年のユーラシア東部の古代DNA研究の概説は有益ですが、その後に公表された重要な研究もあります。
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_32.html

 これまでの空白を埋めるという意味でとくに重要なのは、中国陝西省やロシア極東地域や台湾など広範な地域の新石器時代個体群を中心とした研究と、
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_41.html
中国南北沿岸部の新石器時代個体群を中心とした研究と、
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_26.html
新石器時代から鉄器時代の中国北部複数地域の個体群を中心とした研究です。
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_3.html

 また、チベット人の形成史に関しては、包括的な研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_21.html
高地適応関連遺伝子に関する研究が注目されます。
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_2.html

 ユーラシア東部内陸部では、バイカル湖地域における上部旧石器時代から青銅器時代の人口史を取り上げた研究と、
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_38.html
ユーラシア東部草原地帯の6000年の人口史を取り上げた研究がたいへん注目されます。
https://sicambre.at.webry.info/202011/article_12.html

 これと関連して、コーカサス北部の紀元前8〜紀元前5世紀の個体で確認されたY染色体ハプログループ(YHg)D1a1b1aは、ユーラシア内陸部における東西の広範な人類集団の移動を反映しているかもしれないという意味で、注目されます。
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_36.html


(3)現生人類の起源と拡散に関する新たな知見。

 現生人類への進化の選択圧として、変動性の激しい環境への適応が指摘されています。
https://sicambre.at.webry.info/202010/article_36.html
しかし、そうだとしても、それは非アフリカ地域でも同様だったはずで、人口規模と遺伝的多様性も背景にあったのかもしれません。

 オーストラリアでは6万年以上前となる植物性食料の利用が報告されており、共伴する石器から現生人類の所産と推測されています。
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_15.html
ただ、人類遺骸が確認されているわけではなく、現生人類と断定するのは時期尚早だと思います。上述の堆積物のDNA解析が利用できれば、この問題の解決も期待できますが、6万年以上前のオーストラリアとなると、難しそうです。

 ヨーロッパでは45000年以上前となる現生人類の痕跡が確認されましたが、この現生人類集団が現代人にどの程度遺伝的影響を残しているのか、まだ不明です。
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_20.html

 スリランカではアフリカ外で最古となる48000年前頃までさかのぼる弓矢技術の証拠が発見されており、現生人類の所産と考えられていますが、DNA解析は難しそうなので、確証を得るには人類遺骸の発見が必要になると思います。
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_23.html

 アラビア半島内陸部では10万年以上前となる現生人類の足跡が発見されましたが、この現生人類集団と現代人との遺伝的つながりは不明です。
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_29.html

 ポルトガルの遺跡の石器から、現生人類はイベリア半島西端に4万年前頃には到達していた、と確認されました。
https://sicambre.at.webry.info/202010/article_1.html

 マレー半島西部では7万年前頃の石器が発見されており、現生人類の所産と推測されています。
https://sicambre.at.webry.info/202010/article_17.html

 すでにたびたび述べてきましたが、これら以前の想定よりも早い現生人類の出アフリカが事実だとしても、それらの現生人類集団が現代人にどの程度遺伝的影響を残しているのかは不明で、絶滅もしくはほとんど遺伝的影響を残していない可能性も想定しておくべきだと思います。


 上記の3区分に当てはまりませんが、その他には、アメリカ大陸最古級の人類の痕跡を報告した研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_34.html
ジャワ島におけるホモ・エレクトス(Homo erectus)の出現年代が以前の推定よりも繰り下がる可能性を指摘した研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202001/article_16.html
アフリカ南部におけるホモ・エレクトス的な形態の頭蓋の年代が200万年前頃までさかのぼることを報告した研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_8.html
タンパク質解析によりホモ・アンテセッサー(Homo antecessor)を現生人類やネアンデルタール人やデニソワ人の共通祖先系統と分岐した系統と位置づけた研究が注目されます。
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_9.html


 この他にも取り上げるべき研究は多くあるはずですが、読もうと思っていながらまだ読んでいない論文もかなり多く、古人類学の最新の動向になかなか追いつけていないのが現状で、重要な研究でありながら把握しきれていないものも多いのではないか、と思います。この状況を劇的に改善させられる自信はまったくないので、せめて今年並には本・論文を読み、地道に最新の動向を追いかけていこう、と考えています。なお、過去の回顧記事は以下の通りです。


2006年の古人類学界の回顧
https://sicambre.at.webry.info/200612/article_27.html
https://sicambre.at.webry.info/200612/article_28.html
https://sicambre.at.webry.info/200612/article_29.html

2007年の古人類学界の回顧
https://sicambre.at.webry.info/200712/article_28.html

2008年の古人類学界の回顧
https://sicambre.at.webry.info/200812/article_25.html

2009年の古人類学界の回顧
https://sicambre.at.webry.info/200912/article_25.html

2010年の古人類学界の回顧
https://sicambre.at.webry.info/201012/article_26.html

2011年の古人類学界の回顧
https://sicambre.at.webry.info/201112/article_24.html

2012年の古人類学界の回顧
https://sicambre.at.webry.info/201212/article_26.html

2013年の古人類学界の回顧
https://sicambre.at.webry.info/201312/article_33.html

2014年の古人類学界の回顧
https://sicambre.at.webry.info/201412/article_32.html

2015年の古人類学界の回顧
https://sicambre.at.webry.info/201512/article_31.html

2016年の古人類学界の回顧
https://sicambre.at.webry.info/201612/article_29.html

2017年の古人類学界の回顧
https://sicambre.at.webry.info/201712/article_29.html

2018年の古人類学界の回顧
https://sicambre.at.webry.info/201812/article_42.html

2019年の古人類学界の回顧
https://sicambre.at.webry.info/201912/article_57.html

7. 2021年2月14日 12:56:23 : QZhdQO5a5A : ZWFSbURxdVc4aUU=[16] 報告
雑記帳 2021年02月14日
現生人類系統の起源に関する総説
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_15.html


 現生人類(Homo sapiens)系統の起源に関する総説(Bergström et al., 2021)が公表されました。本論文は、考古学にはほとんど言及していないものの、現生人類の起源やネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)および種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)との関係について、遺伝学(DNAとタンパク質)および形態学(化石証拠)的研究から現時点での諸見解を整理しており、引用文献も豊富なので、現生人類の起源について把握するのに適した文献だと思います。本論文は当分、現生人類の起源に関する基本文献となるでしょう。

 現代人は全員、過去への祖先の長い線を通じて歴史をたどります。現代人の祖先の一部は、化石記録で特定できる集団もしくは人口に生きていましたが、その他の祖先についてはほとんど知られていません。本論文は、過去へと現代人の系統をたどることにより、初期現生人類人口史の現在の理解を再調査します。現生人類の祖先が異なる時点で地理的にどこに居住していたのか、これらの祖先集団は現在の化石記録で表されるのかどうか、ということについて何が言えるのか、本論文は調べます。本論文はこの枠組み内で、現代人の系統が誕生した時空間的に単一の点のモデルに焦点を当てる、経験的もしくは概念的理由はほとんどない、と主張します。

(1)段階3:アフリカからの世界的な拡大

 アフリカの集団や個体群の現代の遺伝的多様性は世界のどの他地域よりも大きく、これは最初にミトコンドリアDNA(mtDNA)で観察されたパターンでした。化石形態の変化とともに、これは、アフリカ人の多様性の部分集合を有する人口集団が、規模の点でボトルネック(瓶首効果)を経て、その後で世界規模の拡大の創始者になった、と想定する「最近のアフリカ起源」の強力な証拠とみなされました。このモデルは今では、アフリカの初期化石(関連記事)、アフリカ外の古代型ヒト集団との交雑のゲノム証拠(関連記事)、アフリカ東部系統に最も近い完新世(過去12000年)における、アフリカ人系統内で入れ子式になっているように見えるアフリカ人のゲノム系統の大きな割合により強く裏づけられています。しかし、ユーラシアへの拡大の回数と年代に関しては、さまざまな仮説が提案されてきました。

 化石記録から、現代人も化石人類も含む現生人類の、アフリカからアジア西部および地中海東部(レヴァント)への初期の範囲拡大があったことは、長い間明らかでした。これら現生人類の初期拡大は、13万〜9万年前頃となるイスラエルのスフール(Skhul)やカフゼー(Qafzeh)といった洞窟、9万年前頃となるサウジアラビアのネフド砂漠のアルウスタ(Al Wusta)遺跡(関連記事)の化石記録で報告されているように、でサハラ・アラビア地帯の好適気候条件期に起きた可能性があります。さらに古いものの、より断片的な現生人類化石は、18万年前頃となるイスラエルのミスリヤ洞窟(Misliya Cave)遺跡(関連記事)や、21万年前頃となるギリシア南部マニ半島のアピディマ(Apidima)洞窟遺跡(関連記事)で発見されています。

 アフリカ外の現生人類的な化石は、中国の広西壮族(チワン族)自治区崇左市の智人洞窟(Zhirendong)で10万年以上前のものが(関連記事)、湖南省永州市(Yongzhou)道県(Daoxian)の福岩洞窟(Fuyan Cave)で12万〜8万年前頃のものが(関連記事)、スマトラ島で7万年前頃の歯が(関連記事)、ラオスで5万年以上前の頭蓋と下顎が発見されており(関連記事)、オーストラリア北部では65000年以上前の人工物が発見されています(関連記事)。ただ、これらのユーラシア東方における6万年以上前の初期現生人類の証拠に関しては、疑問も呈されています(関連記事)。

 したがって、アフリカとアジア西部を越える65000年前以前の古人類学的証拠と、アフリカ外の全現代人集団の大半の系統は6万〜5万年前後に世界規模でアフリカから拡大した集団に由来する、というゲノム証拠との緊張が高まっているように見えます(図1)。主要な一連の証拠は、これまでに研究された全ての現代および古代の非アフリカ系現生人類のゲノムに見られるネアンデルタール人系統です。このネアンデルタール人系統は、単一の混合事象からの由来とほぼ一致しており(関連記事)、6万〜5万年前頃と推定されています。この年代的枠組みは、シベリアや他地域の45000年前頃の古代現生人類遺骸のゲノムにおいて長いネアンデルタール人断片から明らかで(関連記事)、アフリカ外のmtDNAとY染色体(関連記事)の系統が55000〜45000年前頃までに多様化した、という事実によりさらに裏づけられます。


●初期拡大仮説

 いくつかのゲノム研究では、別のより早期の世界規模の拡大からの系統がオセアニア(たとえば、オーストラリアとニューギニア)に存在し(関連記事)、アジア沿岸に続く他の「南方経路」仮説と一致する、と示唆されてきました。しかし、そのような分析は、これらオセアニアの集団における分岐したデニソワ人系統により混同される可能性があり、他の研究では、この系統の裏づけは見つかっていません(関連記事)。したがって、6万年前頃以前とされるアフリカとアジア南西部両方以外の現生人類の化石および考古学的記録は、後の主要な拡大の後に到来した人類で検出される系統に寄与しない、早期の拡散による遺伝的データと最もよく一致します。

 アフリカ外の現代人に関する理解への最近の追加は「基底部ユーラシア人」系統で、これは他の非アフリカ人系統とそれらが多様化する前に分岐し、おそらくはネアンデルタール人との混合が欠如していた、と推測されています(関連記事)。基底部ユーラシア人系統はおそらく6万年以上前に他の非アフリカ人系統と分岐し、モロッコの15000年前頃の個体群(関連記事)や、26000年前頃となるジョージア(グルジア)のズズアナ(Dzudzuana)洞窟で発見された2個体や、25000年前頃となる最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)の、ジョージア西部のイメレティ(Imereti)地域のサツルブリア(Satsurblia)洞窟の上部旧石器時代層堆積物で確認されており(関連記事)、ユーラシア西部とアジア南部に完新世に拡大しました。したがって、これらの地域の現代人集団における一部の系統は、6万〜5万年前頃の世界規模の拡大前に分岐した集団に由来します。基底部ユーラシア人系統の起源は、アジア南西部とアフリカ北部の辺りに集中していた可能性が最も高く、6万年以上前にアフリカから遠く離れた地域の現生人類の証拠に結び付けられる可能性は低そうです。


●ユーラシアの絶滅ホモ属からの遺伝子流動事象

 ネアンデルタール人やデニソワ人といった絶滅ホモ属(古代型ホモ属)と現生人類との交雑には大きな関心が寄せられており、ネアンデルタール人とデニソワ人と現生人類との間の多数の混合事象が提案されてきました。しかし本論文は、現時点でこれらの事象のうち4つのみ(そのうち1つは現代人に寄与しませんでした)が、広範な合意を得ており、決定的に実証されたとみなせる、と主張します。


●ネアンデルタール人かの遺伝子流動

 最初の現生人類と絶滅ホモ属との混合事象の結果、サハラ砂漠以南のアフリカ以外の現代人集団のゲノムには約2%のネアンデルタール人系統がもたらされ(関連記事)、更新世のベルギーやシベリア西部(関連記事)や中国北東部(関連記事)の個体を含む、これまでにゲノムが分析された45000年前頃までの現生人類個体全員に見られます。ネアンデルタール人系統はこれら非アフリカ系現代人よりはずっと少ないものの、アフリカ東部および西部の現代人でも確認され、それは一度アフリカからユーラシアへ拡散した現生人類集団のアフリカへの「逆流」を反映しています(関連記事)。しかし、アフリカ中央部のムブティ人や東部のディンカ人のような一部のアフリカ人集団は検出可能なネアンデルタール人系統を欠いており、エチオピアの4500年前頃の個体(関連記事)や、アフリカ南部の2300〜1800年前頃の個体(関連記事)や、マラウイの8100〜2500年前頃の個体(関連記事)も同様です。

 アフリカ外のネアンデルタール人系統の地理的な遍在性から、混合はアジア南西部もしくはその近くで起きたと示唆されていますが、これまで明確な証拠は得られていません。ヨーロッパでは、ネアンデルタール人と現生人類との数千年もの共存(関連記事)が推測されているにも関わらず、後期ネアンデルタール人は現代人集団に遺伝的に寄与していないようです。ヨーロッパの後期ネアンデルタール人は、遺伝的にコーカサスのネアンデルタール人よりも、現代人に遺伝的に寄与したネアンデルタール人集団と近いわけではありません(関連記事)。

 現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人系統の地理的分布の主要な特徴は、ユーラシア東部集団と比較して、ユーラシア西部集団では1/5〜1/10ほど割合が低くなっていることで、アジア南部と中央部はその中間水準です。ただ、最近になってもっと違いは小さいのではないか、との見解も提示されています(関連記事)。この観察は複数の混合事象を反映している、とも提案されてきましたが(関連記事)、現時点で最も可能性の高い説明は、上述のネアンデルタール人系統を全くもしくは殆ど有していない「基底部ユーラシア人」集団による「希釈化」です。

 現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人由来のDNA断片の比較から、非アフリカ系現代人の祖先集団と混合したネアンデルタール人集団の遺伝的多様性は低いものの、2〜3個体以上が寄与したに違いない、と示唆されています(関連記事)。さらに、現代人のネアンデルタール人系統は遺伝子領域およびプロモーターの周辺で、約1/3が枯渇しており(関連記事)、それはおそらくネアンデルタール人の人口規模が小さいために蓄積された遺伝的負荷に起因する、と推定されています(関連記事)。ネアンデルタール人系統の減少は過去45000年の古代現生人類ゲノムでほとんど観察されておらず(関連記事)、自然選択によりネアンデルタール人と混合した最初期現生人類のゲノムにおける約10%のネアンデルタール人系統は、急速に現代人と同水準の約2%に低下した、と推測されています。したがって現時点では、ネアンデルタール人がより大きな拡大していく現生人類集団に吸収された、とする「同化」シナリオを除外できません。


●デニソワ人からの遺伝子流動

 第二の強く裏づけられた混合事象は、現代のオセアニア個体群における約3.5%のデニソワ人関連系統です(関連記事)。この混合事象に由来する系統はアジア南東部とオセアニア全域に存在し(関連記事)、アジア東部および南部集団やアメリカ大陸先住民集団ではごくわずか(約0.1%)です(関連記事)。シベリアのデニソワ人個体(関連記事)は、オセアニア現代人の祖先集団と交雑した仮定的な「南方デニソワ人」とはわずかに異なっているので(関連記事)、主要な問題は、この混合がどこで起きたのか、ということです。オセアニア現代人のゲノムにおけるデニソワ人由来の断片はネアンデルタール人由来の断片よりも長いので、デニソワ人との混合はネアンデルタール人との混合よりも後の55000〜45000年前頃と推定されてきました(関連記事)。ネアンデルタール人系統と同様に現代のデニソワ人系統も、ゲノムの機能領域周辺で枯渇しているので、おそらくは負の選択の類似の過程を経てきた、と推測されます(関連記事)。


 現代人の系統における第三の強く裏づけられた混合事象は、オセアニア現代人の祖先集団と交雑したデニソワ人集団とは異なるデニソワ人集団からアジア東部現代人の祖先への遺伝子流動で、0.1%程度の割合で見つかります(関連記事)。アジア東部現代人の祖先集団と混合したこのデニソワ人集団は、シベリアのデニソワ人とより密接に関連しているようで(北方デニソワ人)、またアジア東部現代人集団では「南方デニソワ人」の遺伝的影響も見られます(関連記事)。したがって、アジア東部現代人集団は、2つの異なるデニソワ人関連集団にごくわずかな系統をたどることができます。


●アフリカ以外の古代の混合の頻度

 もう一つの強く裏づけられた混合事象は、ルーマニア南西部の「骨の洞窟(Peştera cu Oase)」で発見された4万年前頃の個体に由来し、4〜6世代前にネアンデルタール人の祖先がいた、と推測されています(関連記事)。しかし、このネアンデルタール人との混合は、おそらく現代人には遺伝的影響を残していない、と推測されています。ネアンデルタール人とデニソワ人との間の混合の発見(関連記事)と合わせると、これらの少ないものの直接的な観察混合の観察は、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人の間の混合に対する、強い生物学的もしくは行動的障壁がなかったことを示唆します。

 さらなる古代の混合事象が提案されてきましたが、合意は不足しています。これらの提案された混合事象は、ネアンデルタール人(関連記事)やデニソワ人(関連記事1および関連記事2)や未知の古代系統(関連記事)からの追加の混合を含みます。これまでの研究で提案されてきたこうした混合事象から、これらの人類集団が接触する時はいつでも、現生人類集団と絶滅ホモ属集団との混合が頻繁に起きた、と考えられます。そうした混合の複雑さは確かに尤もですが、現在よく裏づけられている混合事象には上記のものだけが含まれる、と本論文は主張します。

 また現在のゲノムデータは、たとえばホモ・エレクトス(Homo erectus)や他の集団など、非アフリカ系現代人における実質的な未知の「ゴースト」古代型系統を裏づけません(関連記事)。そうした系統のより実質的な量は、一部の非アフリカ系現代人集団において他集団に対する祖先的多様体の過剰を惹起し、起源集団のゲノムへの直接的検証がなくても検出でき、デニソワ人系統で確認できる兆候です。以下、本論文の図1です。
画像

(2)段階2:アフリカ起源

 第二の主要な段階は現代人系統の多様化です。アフリカはおそらくこの過程の中心でしたが、近隣地域のアジア南西部は、過去数十万年の人口史の重要な地域として除外できません(関連記事)。しかし、ユーラシアのさらに遠方地域における現代人の多様性の起源は、とてもあり得ないようです。本論文では、30万〜6万年前頃のアフリカの現生人類について知られていることを考察します(図2a)。その中で、過去10万年のアフリカ内の完全な置換シナリオのみを、現在では除外できます。


●アフリカにおける現生人類の起源の化石記録

 30万〜15万年前頃のアフリカの人類頭蓋化石は、形態的に大きな多様性を示します(図2b)。対照的に、アフリカ全域で30万年前頃に出現した中期石器時代技術は、多様なヒト集団の行動の類似パターンを示唆します(関連記事)。モロッコのジェベルイルード(Jebel Irhoud)遺跡で発見された315000年前頃の人類遺骸(イルード1および2号)と、エチオピアで発見された195000年前頃のオモ・キビシュ2(Omo Kibish 2)遺骸(オモ2号)はよく現生人類系統に位置づけられますが、球状の頭蓋冠を欠いています。じっさい、現生人類との類似性を示す特定の歯や下顎の特徴にも関わらず、イルード1号が現代人よりもネアンデルタール人の方と類似している、との指摘もあります(関連記事)。

 現在利用可能な証拠に基づくと、球状の頭蓋冠は20万〜15万年前頃以降にしか現れず、これは195000年前頃のオモ1号や、エチオピアの16万年前頃となるヘルト(Herto)の頭蓋(ヘルト1および3号)の時代ですが、21万年以上前となるギリシアのアピディマの部分的頭蓋や、24万年前頃となるケニアのグオモデ(Guomde)の部分的な頭蓋冠にも、球状の頭蓋冠が存在した可能性はあります。26万年前頃(年代は訂正されるかもしれません)となる南アフリカ共和国の断片的なフロリスバッド(Florisbad)頭蓋は、頭蓋冠の球状性の程度を判断するにはあまりにも不完全で、現生人類との関係は不確実です。

 現在利用可能な化石証拠は疎らなので、球状頭蓋冠や下顎の突出した顎やより狭く広がった骨盤のような「現代的」な形態的特徴一式を生み出した、30万〜20万年前頃の特定の進化事象があったのかどうか、不明です。ある理論的根拠では、そのような特徴は現代の系統の最初の分離前に存在していた、と示唆されました。しかし、早期の分離がより漸進的であれば、以下に説明されるように、「現代的」特徴は後の遺伝子流動により一般的になったかもしれません。したがって、現代人系統の多様化の時期は、形質進化に対する弱い制約しか提供しません。


●現代人集団の構造の時間の深さ

 現代人系統の主要な識別可能要素は、アフリカ西部とアフリカ東部とアフリカ中央部熱帯雨林とアフリカ南部とアフリカ外の集団と関連する要素を含むものとして要約できます(関連記事)。多くのアフリカ人集団は、これらの要素のうち非アフリカ系統を含む1つ以上の系統を有しており、複雑な混合過程を反映している、と説明できます。これらアフリカの系統の多様化はおそらく、ネアンデルタール人およびデニソワ人の共通祖先との分岐後です。なぜならば、これら現代人系統間では絶滅ホモ属(古代型ホモ属)のゲノムとの関連性における古代のゲノムの違いは見られないからです。初期現生人類の多様化過程をより正確に理解することは、現生人類の起源の研究において主要な焦点です。

 現代人集団の構造の時間の深さを概念化する一つの方法は、他の個体群よりも一部の現代の個体群により多くの遺伝的系統を寄与した集団が存在した、最初の時点に焦点を当てることです。この時点より前にも構造は存在したでしょうが、それ以前のあらゆる集団は現代人全員と対称的に関連しています。現時点では15000年前以前のアフリカからの古代DNAが欠如しているため、この問題へのほとんどの洞察が、アフリカ現代人集団間の分岐年代の推定に由来し、さまざまな過程に依存しているので、かなりの不確実性と関連していることを意味します。

 アフリカ内の初期の分岐は突然の分裂ではなく、代わりにずっと漸進的なもので、数万年もしくは数十万年にわたる長期の遺伝子流動を伴っていたことが明確になりつつあります(関連記事)。分離過程の中間点として解釈できる推定値は、162000〜104000年前頃と比較的最近の年代を示しているのに対して、遺伝子流動のない瞬間的な分離を仮定するモデルは34万〜23万年前頃、遺伝子流動を含むモデルでは34万〜125000年前頃を示します(図2c)。したがって、さまざまな手法は漸進的な分離過程のさまざまな側面を部分的に把握できるかもしれません。初期現生人類の人口集団構造の時間の深さを特定の時点の推定値で説明することに概念的な意味はなく、将来の研究では、その推定が分離過程のどの側面を反映しているのか、より明確にすることを目的とすべきである、と本論文は主張します。

 問題は、現代人集団の構造の出現時期をどう説明すべきか、ということです。現代人の遺伝的系統の大半は25万〜10万年前頃に収束する可能性があり、それ以前、おそらく50万年前頃以前か、100万年前以前に分岐した集団に由来する系統のわずかな断片を有しています。多くの異なるシナリオが、共有された系統のこの観察された時間規模の根底にあるかもしれず、最近のアフリカ規模の置換モデルを却下すること以外に、現在のデータはそれらのシナリオの間を明確に区別できません(図2a)。


●アフリカにおける絶滅ホモ属との混合の可能性

 現代人集団間の構造の時間の深さに関する問題は、アフリカ内におけるより分岐した人類集団との混合という主張と密接に関連しています。13000年前頃のナイジェリアのイホエレル(Iho Eleru)遺跡化石や、25000〜20000年前頃のコンゴ民主共和国のイシャンゴ(Ishango)遺跡化石といった、アフリカ西部および中央部の数少ないより後の化石の一部は、明らかな古代的特徴を示し、それは初期現生人類の形態のひじょうに遅い存続か、(現在観察される範囲外の形態を有する)絶滅ホモ属(古代型ホモ属)系統からの遺伝子流動を示唆します。

 いくつかの研究では、現代人の遺伝的多様性に基づいて、アフリカにおけるひじょうに深い人口集団構造の存在が示唆されており、これには、ネアンデルタール人やデニソワ人とは密接に関連していない、遺伝的に標本抽出されていない「古代」ヒト集団からの混合の示唆が含まれます(関連記事)。これらのゲノム研究では、「古代(archaic)」という用語が、本来の意味のように形態を参照するのではなく、むしろ早期の遺伝的分岐を示唆するために使われています。「古代」という用語は、「あまり進化していない」と誤解される危険性があるので、潜在的に問題があります(関連記事)。長年の使用を考えると、ゲノミクスの文脈ではこの「古代」という用語は、少なくともネアンデルタール人と同じくらい早期に、現代人系統の大半と分離したと明らかに仮定される集団のみ適用されるべきです。

 アフリカにおいてひじょうに分岐した系統を識別することが目的の研究のほとんどは、異常に長く、なおかつ他の断片とは深く分岐しているゲノム断片を探してきました。これらの観察は、シミュレーションにおいて古代型人類との混合のモデルに最もよく合致すると示されてきましたが、そのような断片がひじょうに多様なアフリカ人集団の分岐分布を表している、という主張を除外するのは困難です。したがって、「長期持続構造」と「古代型集団との混合」という概念は、モデルの連続体とみなされるかもしれません(図2a)。しかし、深い混合の裏づけは、現代人集団の連続体の稀で高頻度な末端における、ネアンデルタール人と共有される派生的なアレル(対立遺伝子)にも由来します(関連記事)。

 アフリカの人口史に関する一部のモデルは、ネアンデルタール人と同じ頃かそれ以前に現代人系統と分岐した系統からの遺伝子流動も含んでいますが(関連記事)、より単純なモデルは除外されていません。本論文の見解は、これらのさまざまな知見を古代型ホモ属との混合と言及するのは時期尚早で、直接的なゲノムが利用可能なネアンデルタール人やデニソワ人との混合と同水準には達していない、というものです。それにも関わらず、アフリカ内のひじょうに分岐した集団と現代人系統との混合は、初期現生人類の分離の観察された複雑な時期を説明するのに役立つかもしれません。


●現生人類の起源地の調査

 現時点での証拠では、現代人の共通祖先がアフリカのどこに居住していたのか、より正確に特定することは不可能である、と本論文は主張します。過去にどのように系統が分布していたのかを示す充分な時系列が欠如している場合、特定の地域に起源があることを示す強い一連の証拠は、現代人系統の大半がその地域のより大きな多様性内で「入れ子」になっていたならば、混合を説明しているかもしれません。しかし、そのような基準は現時点で現生人類の起源地としてアフリカを特定していますが、アフリカ内の特定地域を正確に示すわけではありません。

 別の理論的根拠では、遺伝的多様性の最高水準は拡大の起源地で見られると示唆されており、この「連続創始者」モデルは現生人類のアフリカ南部起源を示すのに用いられてきました。しかし、現代人の遺伝的多様性水準は、人口ボトルネック(瓶首効果)に起因する多様性の喪失だけではなく、混合に起因する多様性も反映しており、これは現代においてアジア東部と比較してのヨーロッパにおけるより大きな多様性パターンが、過去の人口集団に存在しなかったことにより示されます。さらに、主要なサハラ砂漠以南の人口集団の多様性水準は、相互に約10%以内で、強い地理的傾向はありません。最近の全ゲノム研究では、最高の遺伝的多様性を有する集団はアフリカ中央部のビアカ(Biaka)で、最近の混合を示します。

 アフリカ南部の人口集団が最も深い分岐時間を示し、進化史の系統樹的なモデルで最初の分岐の位置を占める傾向も、アフリカ南部が現代人の起源地である証拠として解釈されてきました。しかし、系統樹は遺伝的歴史の不充分な表現で、分岐事象は常に2つの対称的な子孫の分枝を有し、そのどちらも他者よりも祖先的ではありません。遺伝子流動を認めるより最近の研究では、少なくともアフリカ南部系統と同程度に分岐した系統が、アフリカ中央部と東部と西部に存在している、と示唆されました(関連記事)。

 さらに重要なことに、人類は20万年以上前に居住していた場所から移動してきた可能性が高いので、現在最も分岐した系統を有する人々の場所が起源地に対応する、という強い予測はありません。同様に、現代人全員の仮定的な母系最終共通祖先であるミトコンドリア「イヴ」は20万年前頃に存在していましたが(関連記事)、彼女もしくは父系となるY染色体「アダム」の存在した場所からは、全ての現代人系統の起源地を必ずしも予想できません。さらに、小さなミトコンドリアの歴史は、より大きなヒトの系図を通る多数の経路のうちの1つだけをたどります。ゲノムの他の多くの部分では、最も分岐した枝はアフリカの他の場所、あるいは時にアフリカ外で見つかります。

 これらの理由のため、現在のゲノムは、現代人の初期の祖先が存在した場所に関する充分な情報を単純に含んでいるわけではありません。最近、現代人の祖先はアフリカ大陸の大半で異なるものの相互に関連した集団に暮らしていた、という仮説への注目が増加していますが(関連記事)、そのような「汎アフリカ」起源仮説(図2a)は、同様にゲノム証拠に対しての検証が困難です。より豊かで地理的により代表的な化石記録と、より古い期間の古代DNAもしくは古代タンパク質が、アフリカ内のヒトの過去の分布により有益な情報をもたらすかもしれません。


●アフリカ全域における後期更新世の拡大の可能性

 アフリカ西部および中央部における深く分岐した系統を含む人口史モデルでは、これらの地域における第二の主要な系統はアフリカ東部集団と関連する傾向にあります(関連記事)。これを説明できる推測的な提案は、6万年前頃以後にユーラシアへ拡大した系統と類似した系統のアフリカ全域での拡大です。これは、アフリカ人および非アフリカ人系統が80000〜65000年前頃に共通祖先を有していた、Y染色体ハプログループ(YHg)CT系統の拡大も説明できます(関連記事)。現代人のゲノムの断片間の分岐年代分析は同様に、ネアンデルタール人との混合を欠いているものの、非アフリカ人の祖先と関連する集団から研究された全アフリカ人集団へのかなりの混合を示唆しています。この系統はアフリカ大陸を離れなかったかもしれませんが、ユーラシアへの拡大と同時のアフリカ全域の拡大を表しているかもしれず(図2a)、その拡大はアフリカ現代人集団間で観察される複雑な遺伝的関係の主因だった可能性があります。以下、本論文の図2です。
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(3)段階1:古代型集団との分岐

 最も特徴的なネアンデルタール人化石としては、ヨーロッパで発見された25万〜4万年前頃のものが知られており、シベリア南部までのアジアではより限定的な期間で発見されています(関連記事)。化石記録におけるデニソワ人の特定は現時点ではほとんど知られていませんが、10万〜6万年前頃にチベット高原で存在していたことが堆積物のミトコンドリアDNA(mtDNA)により確認されており(関連記事)、中国の60万〜20万年前頃の増加している化石記録は、アジアのより早期のホモ・エレクトスとの違いを示す標本が含まれています(関連記事)。

 中国の陝西省大茘(Dali)で発見された25万年前頃のほぼ完全な頭蓋はホモ・ハイデルベルゲンシス(Homo heidelbergensis)に分類されることもありましたが、巨大な眼窩上隆起や古代的な形状の頭蓋冠や少々現代的ではあるもののひじょうに広い顔面の組み合わせを示します。これは独特の形態で、おそらくは、エレクトスやハイデルベルゲンシスやネアンデルタール人の特徴も欠いている、遼寧省営口市の金牛山(Jinniushan)遺跡や安徽省池州市(Chizhou)東至県(Dongzhi County)の華龍洞(Hualongdong)遺跡で発見されたホモ属頭蓋冠のような他の中国の人類化石頭蓋に反映されています。

 したがってこれらのホモ属頭蓋冠は、甘粛省甘南チベット族自治州夏河(Xiahe)県の白石崖溶洞(Baishiya Karst Cave)で発見された16万年以上前の下顎(夏河下顎)や、台湾沖で発見されたホモ属化石「澎湖1(Penghu 1)」とともに、初期デニソワ人の候補を表している可能性があります(関連記事)。ネアンデルタール人とデニソワ人は現代人系統と分離した後に一部の系統を共有していますが、おそらくは40万年以上前に相互に分岐しました(関連記事)。

 ゲノム分析により、ネアンデルタール人とデニソワ人と現生人類系統に加えて、第四の、ひじょうに異なる系統が特定されました。この第四の系統は30万年以上前に存在したものの(図3)、現在では化石記録に見えるあらゆる集団とも関連づけられません。これはデニソワ人のゲノムに存在する「超古代型」系統と提案されています(関連記事)。主要な証拠は、ほとんど或いは全くネアンデルタール人との混合を有していないアフリカ人集団を含む現代人全員が、デニソワ人よりもネアンデルタール人の方とより多くの遺伝的多様体を共有していることで、とくに、初期現生人類で固定された多様体に関して当てはまり、デニソワ人ではこれらの多様体の頻度を希釈する古代型系統が存在します。

 この超古代型集団は、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人の共通祖先と140万〜90万年前頃もしくはもっと早く分岐したでしょう(関連記事)。デニソワ人はひじょうに異なるmtDNA系統も有しており、この系統は現生人類および(後期)ネアンデルタール人とは140万〜70万年前頃に分岐し(関連記事)、「超古代型」集団に由来する、と推測されています。この「超古代型」集団がエレクトスもしくはいくつかの関連集団に対応しているとの推測は魅力的ですが、その遺伝的分岐は遅くとも180万年前頃となるエレクトスの化石記録の最初の出現と一致するには、あまりにも最近のようです。ホモ・アンテセッサー(Homo antecessor)と関連した集団は、「超古代型」集団の代替候補の可能性があります。

 ネアンデルタール人とデニソワ人の共通祖先は、現代人の祖先と70万〜50万年前頃に分岐した、と推定されています(関連記事)。この分岐は漸進的な分離過程というよりはむしろ突然だった、と示唆されていますが、50万年以上前以降の完全な遺伝的分離に反する証拠は、わずか45万〜35万年前頃に分岐する現代人とネアンデルタール人のmtDNA(関連記事)と、Y染色体の類似の時間枠(関連記事)に由来します。この明らかな不一致は、母系もしくは父系の単系統遺伝(mtDNAおよびY染色体)では、45万年前頃以後のある時点でネアンデルタール人と現生人類の祖先間の遺伝子流動が生じた、と想定すれば説明できます。

 この遺伝的歴史の解明において重要なデータは、スペイン北部の通称「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡(以下、SHと省略)で発見された40万年以上前のネアンデルタール人的な形態を示すホモ属遺骸からのDNAで、SH個体群は核DNAではデニソワ人よりもネアンデルタール人の方と類似性を示します(関連記事)。しかし、SH個体群はmtDNA系統ではネアンデルタール人と現生人類よりもデニソワ人の方と近く(関連記事)、早期ネアンデルタール人は全員このmtDNA系統を有していたものの、後に現生人類に近い系統からの遺伝子流動により置換された、と示唆されています(関連記事)。その後、ネアンデルタール人のmtDNA系統は27万年前頃に多様化していき、現生人類に近い系統からネアンデルタール人への遺伝子流動は27万年前頃以前に起きたと示唆されていますが(関連記事)、この多様性の一部がそれ以前に存在した可能性もあります。

 ネアンデルタール人において現生人類系統からの遺伝子流動は、シベリア南部のアルタイ地域集団では起きたものの、ヨーロッパ集団では起きなかった、と示唆されましたが(関連記事)、クロアチアのヴィンディヤ洞窟(Vindija Cave)遺跡で発見されたネアンデルタール人個体から得られた高品質なゲノムデータでは、ヨーロッパのネアンデルタール人でも現生人類系統からの遺伝子流動があった、と推定されています(関連記事)。代わりに後の研究では、これまでに研究されたネアンデルタール人全個体の祖先に、数%の現生人類からの遺伝子流動があった、と統計的に推測されています(関連記事)。そのような推論は、アフリカにおける古代型ホモ属集団との混合の分析と同様に、同じモデル化の課題の多くの影響を受けます。それにも関わらず、そのような遺伝子流動は、ほぼ20万年以上前となる現代人の系統の多様化前に分岐した集団に由来する必要があるでしょうが、母系もしくは父系の単系統遺伝の置換につながった同じ事象に対応している可能性があります。

 したがって、ネアンデルタール人とデニソワ人に遺伝的に寄与した可能性のある3系統が仮定されており、現代人との分岐の異なる程度の要素を有します。第一は「超古代型」系統で、100万年前頃に現代人(とネアンデルタール人とデニソワ人の共通祖先)系統と分岐しました。第二は元々仮定されていた「中期」古代型系統で、現代人の祖先とは70万〜50万年前頃に分岐し、そこからデニソワ人とネアンデルタール人の系統が派生しました。第三は40万〜20万年前頃となる「最近の現代人の祖先(と近い系統)からの遺伝子流動」です。

 「超古代型」系統はデニソワ人で(関連記事)、最近の遺伝子流動はネアンデルタール人で(関連記事)推測されていますが、ネアンデルタール人とデニソワ人の両方が異なる割合でこれらの系統要素を両方有していた、と想定することも可能です。デニソワ人とネアンデルタール人の両方が、「中期」古代型集団にその系統の大半を由来する、と一般的に考えられていますが、推定される古代型系統と現代人系統の70万〜50万年前頃という分岐年代は、「超古代型」系統と「最近の遺伝子流動」系統の統計的平均に起因する可能性があります。この代替想定では、70万〜50万年前頃のネアンデルタール人の祖先の「中期」集団と拡大は必要ありません。


●現代人と古代型ホモ属の最終共通祖先

 現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人の系統の大半が50万年前頃に収束するならば、ゲノムはその共通祖先がどのような人類だったのか、情報を殆どもしくは全く提供しません。70万〜30万年前頃の化石は、解剖学的に異なる多くのヒト集団を明らかにしており、この期間はヒト進化の「中期の混乱」と呼ばれてきました。中期更新世初期の化石を、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人の共通祖先集団を明確に表すものとして特定することは不可能ですが、おそらくはそうではない集団、つまりアジアのエレクトスやアフリカとユーラシア西部の顔面が派生的なハイデルベルゲンシスや、ネアンデルタール人的なSH個体群を特定することは可能です。現生人類の初期祖先のあり得る代替候補は、ヨーロッパのアンテセッサー、アフリカ北西部のティゲニフ(Tighenif)化石群、アフリカ北東部のブイア(Buia)資料です。

 現生人類の祖先はアフリカに50万年前頃以前に居住していた、と一般的に考えられていますが、ユーラシアに居住していた可能性を除外するのは時期尚早です。この期間のユーラシア起源は、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人と「超古代型」人類系統間の現時点で理解されている関係を説明するために、アフリカとユーラシアの間のより少ない移住も必要とするでしょう(関連記事)。ヨーロッパのアンテセッサーのプロテオーム解析(プロテオミクス)データは、遠い過去の古代タンパク質保存の可能性を示しており(関連記事)、アンテセッサーは現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人の共通祖先と密接に関連していたかもしれないものの、歯のエナメル質のタンパク質により提供されたその系統情報は依然として低解像度である、と示唆されます。

 いずれにしても、アフリカ外での人類の一般的に受け入れられた最古の証拠は200万年前頃に近い年代で、ジョージア(グルジア)で発見されており(関連記事)、化石記録からは、チンパンジーとの共通祖先まで、この時点以前の全てのヒト祖先はアフリカに居住していた、と強く示唆されます。なお、本論文では言及されていませんが、石器証拠からは、レヴァントで250万年前頃、中国で212万年前頃の人類の存在が指摘されています(関連記事)。ただ、これらの初期出アフリカ人類が現代人の祖先である可能性は低そうです。以下、本論文の図3です。
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(4)今後の見通し

 現代人は過去数十万年(たとえば、20万年前頃)のアフリカ起源と一般的に理解されていますが、そうした「起源」が何を伴うのか、しばしばよく定義されていません。形態の進化、つまり、現代人の祖先が形態や行動や生理や認知能力の観点で充分に現代人と類似するようになった時を、遺伝的系統と区別することはますます重要になっています。代わりに、遺伝的観点からの定義は、特定の特徴一式の有無に関わらず、現代人の遺伝的系統のほとんどが特定の地理的領域で発見された期間に焦点を当てられます。

 現代人系統がいつ誕生したのかと尋ねることは、現代人の特徴を通じて定義されるように、いつどこで現生人類が誕生したのか、と尋ねるのとは異なる質問で、本論文で検討された最初の質問の答えは、後者について曖昧にしか情報をもたらさないかもしれません。したがって、現生人類の起源の厳密な定義は、継続的で複雑な、なおかつ多くの側面で未知の、深い現生人類の過去に関する性質を単純化する危険性があります。たとえば現在の証拠では、アフリカとアジア南西部が30万〜10万年前頃の現生人類の起源地域として特定されますが、さらなる地理的正確さは提供されず、30万年以上前には、現代人の祖先がどこに居住していたのかについて、さらに不確実となります。

 今後10年間で、これらの洞察はおそらく、古人類学の現地調査の地理的焦点を、アフリカ中央部および西部やインド亜大陸やアジア南東部のような、以前には現生人類の進化の中心の周辺とみなされていた地域へと変えていくでしょう。アフリカ全域および他地域からのより時空間的に代表的な古人類学的および遺伝学的データが利用可能になるにつれて、本論文で説明されてきたように、現生人類の過去を通じての系統理解の洗練が可能になるでしょう。これまでの直接的な遺伝的分析の成功は、より広い古代の遺伝的記録の重要性を浮き彫りにします。これは、骨格資料からの古代DNAの回収(関連記事)、ヒト資料の断片的集合体の生体分子走査(関連記事)、堆積物DNAの分析(関連記事)、古代タンパク質解析(関連記事)における継続的な技術的改善を必要とするでしょう。この組み合わされた記録の学際的な分析は、間違いなく現生人類系統の起源についての新たな驚きを明らかにするでしょう。


参考文献:
Bergström A. et al.(2021): Origins of modern human ancestry. Nature, 590, 7845, 229–237.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03244-5


https://sicambre.at.webry.info/202102/article_15.html

8. 2021年2月18日 11:28:53 : filAAIneKc : WVZTRlVyeWtuRTI=[17] 報告
2021年02月18日
中国南部における初期現生人類の年代の見直し
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_19.html


 中国南部における初期現生人類の年代を検証した研究(Sun et al., 2021)が公表されました。化石記録では、現生人類(Homo sapiens)は31500年前頃までにアフリカで進化し(関連記事)、アジア西部に177000年前頃以前に拡大しましたが(関連記事)、アジア西部では消滅し、75000〜55000年前頃までにネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)に置換されたようだ(関連記事)、と示唆されています。いわゆる解剖学的現代人(現生人類)によるアフリカからの第二および最後の拡散は、最後の古代型人類(絶滅人類)の消滅の直後に起き、ほぼ一致します。この現生人類の拡散は、非アフリカ系現代人全員の祖先を含み、分子データによると65000〜45000年前頃に起きました。現生人類の起源や拡散については、最近総説が公表されました(関連記事)。

 この「後期拡散」理論の追加の裏づけは、現代および古代のアフリカ東部集団と密接に関連する全ての非アフリカ系現代人のDNA系統の地理的構造や、アフリカからユーラシアへの減少する多様性の勾配パターン、つまり連続創始者効果の痕跡により提供されます。この確証は、古代DNA分析により判明した、シベリア西部のウスチイシム(Ust'-Ishim)近郊で発見された較正年代で46880〜43210年頃の大腿骨(関連記事)や、較正年代で42000〜39000年前頃の中国北東部の田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された男性遺骸(関連記事)の古代DNA分析により判明した、ユーラシア東西の人口間の47000〜42000年前頃という推定分岐年代にも提供されます。その後の研究では、この分岐年代は43100年前頃と推定されています(関連記事)。さらに、この現生人類の拡散の上限年代は、65000〜47000年前頃に起きたと推定される初期現生人類とネアンデルタール人との間の交雑と、現代ニューギニア人の祖先と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)との46000年前頃と30000年前頃という推定交雑年代(関連記事)により制約されます。

 対照的に、一部の古人類学者は、現生人類がアジア東部大陸部にずっと早く、12万〜7万年前頃に定住し、「早期拡散」理論と一致する、と提案します。このモデルは、中国南部の黄龍(Huanglong)洞窟や月(Luna)洞窟や福岩(Fuyan)洞窟(関連記事)で発見された遊離した人類の歯と、智人洞窟(Zhirendong)で発見された部分的下顎(関連記事)の年代測定におもに基づいています。しかし、何人かの研究者は、それらの遺骸のうち一部の現生人類としての識別や、人類遺骸と年代測定された物質との間の関係、もしくは堆積物の文脈と年代測定について利用可能な限定的情報に関する不確実性に基づいて、これらの遺跡や他の早期の年代を示す遺跡に関して疑問を呈しています(関連記事)。

 本論文は、明らかに初期現生人類の遺骸が発見された洞窟遺跡で、人類の歯の古代DNA分析や流華石と堆積物と化石遺骸と炭の年代測定を用いて、中国南部における現生人類の到来年代の調査結果を報告します。この5ヶ所の遺跡とは以下の通りです。

(1)黄龍洞窟(図1の1)
 湖北省北部の鄖西(Yunxi)県から25kmに位置します。2004〜2006年の発掘では、91の分類群と中期〜後期更新世のジャイアントパンダ属・ステゴドン動物相を表す化石記録、石器、7点の現生人類の歯が見つかり、薄い流華石層のウラン-トリウム法年代測定による間接的な年代は、101000〜81000年前頃です。

(2)月洞窟(図1の2)
 広西チワン族自治区(Guangxi Zhuang Autonomous Region)の布兵(Bubing)盆地の南東部のカルスト山脈に位置します。ジャイアントパンダ属・ステゴドン動物相の哺乳類化石の小規模標本、石器、2個の現生人類の歯が、2004年と2008年の発掘で見つかりました。流華石のウラン-トリウム法年代測定による間接的な年代は、127000〜70000年前頃です。

(3)福岩洞窟(図1の3)
 湖南省永州市(Yongzhou)道県(Daoxian)に位置します。2011年と2013年の発掘では、ジャイアントパンダ属・ステゴドン動物相の哺乳類化石の小規模標本と、47個の現生人類の歯が発見されましたが、関連する人工物はありません。流華石のウラン-トリウム法年代測定による間接的な年代は、12万〜8万年前頃です。同じ場所で2019年に現生人類の歯がさらに2個発見され、層序的には以前の発見と関連しています。

(4)楊家坡(Yangjiapo)洞窟(図1の4)
 湖北省恩施トゥチャ族ミャオ族自治州建始(Jianshi)県の大規模なカルスト地形です。2004年の発掘では、ジャイアントパンダ属・ステゴドン動物相の80種の断片的な骨との関連で11個の歯が発掘され、光龍洞窟や月洞窟や福岩洞窟と類似の年代と示唆されています。石器や他の文化的遺物は見つかりませんでした。

(5)三游(Sanyou)洞窟(図1の5)
 湖北省宜昌(Yichang)市付近の長江と西陵峡(Xiling Gorge)の合流点に位置する石灰岩の丘に位置する小さな洞穴です。1986年の小規模な発掘により、後期更新世の可能性がある、部分的な現生人類の頭蓋冠が見つかりました。以下、本論文の図1です。
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●古代DNA分析

 上記5ヶ所の洞窟のうち、光龍洞窟と月洞窟の人類遺骸は利用できず、他の3ヶ所の人類遺骸からDNA抽出が試みられました。その結果、楊家坡洞窟の8個の歯と福岩洞窟の2個の歯でDNA配列に成功し、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)が決定されました(図2)。mtHgは、楊家坡洞窟の8個の歯のうち、標本JJD301.1とJJD301.6がD4b2b5、標本JJD301.2とJJD301.3がB4a4a 、標本JJD301.4とJJD301.8がB5b2c、標本JJD301.9とJJD301.11がA17です。福岩洞窟の2個の歯では、mtHgはともにD5a2aで、標本FY-HT-1がD5a2a1ab、標本FY-HT-2がD5a2a1h1です(図2のII)。次に、楊家坡洞窟の4個の歯と福岩洞窟の2B比の歯、多様な地域の53個体、ネアンデルタール人10個体、デニソワ人2個体、スペイン北部の通称「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡(以下、SHと省略)で発見された40万年以上前のネアンデルタール人的な形態を示すホモ属1個体、チンパンジー1個体のmtDNA配列を用いて、最大節約系統樹が構築されました(図2のI)。驚くべきことに、福岩洞窟の標本FY-HT-2のmtDNA系統はチベット・ビルマ集団の現代人でも検出され、両者の遺伝的つながりの可能性が明らかになりました。

 楊家坡系統と福岩系統の合着(合祖)年代が、最尤法とρ統計手法を用いて推定されました。これらの標本で見られる系統と関連する系統のmtDNA配列を用いると、クレード(単系統群)推定分岐年代は、mtHg-D4b2b5で3630年前頃と3360年前頃、mtHg-B4a4aで11010年前頃と10910年前頃、B5b2cで12400年前頃と14380年前頃、A17で15610年前頃と12200年前頃、D5a2a1abで16900年前頃と12900年前頃、D5a2a1h1で7440年前頃と6680年前頃です。これらの結果を合わせると、楊家坡洞窟と福岩洞窟の標本群の上限年代は15600年前頃未満と示唆されます。BEASTソフトウェアで実行されたベイジアン枠組みでも年代が推定され、楊家坡洞窟では、標本JJD301.1とJJD301.6が2400年前頃、標本JJD301.2とJJD301.3が2700年前頃、標本JJD301.4とJJD301.8が3000年前頃、標本JJD301.9とJJD301.11が7600年前頃で、福岩洞窟の標本と類似しています(標本FY-HT-1は3700年前頃、標本FY-HT-2は12000年前頃)。以下、本論文の図2です。
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●複数の手法による年代測定

 光龍洞窟では、人類化石が見つかった第3層の6点の堆積物標本で光刺激ルミネッセンス法(OSL)年代測定が行なわれ、全て215000年以上前でした(図3)。これらの結果は、洞窟の流華石のウラン-トリウム法年代に基づく既知の後期更新世の年代(人類遺骸の年代は103000〜81000年前頃)とは対照的です。第3層の哺乳類の歯4個と骨1個では少ないながらコラーゲンが得られ、加速器質量分析法(AMS法)による放射性炭素(炭素14)年代測定結果は、較正年代(以下、AMS炭素14年代測定の年代は基本的に較正されています)で26700〜25940年前から8620〜8450年前でした(確率68.2%)。AMS炭素14年代測定結果が得られた13個の哺乳類の歯は種水準で識別され、現生のスイギュウ(Bubalis bubalis)とシカ属種もしくは完新世に絶滅したインドサイ属種(Rhinoceros sinensis)系統を表します。第3層で収集された炭標本の断片も、AMS炭素14年代測定で34850〜35540年前から33920〜33290年前(確率68.2%)との結果が得られ、哺乳類の歯の年代を裏づけます。

 月洞窟では2個の現生人類の歯が発見され(深さ70〜65cm)、以前にウラン-トリウム法年代測定に標本抽出されたのと同じ層(深さ70〜60cm)から、流華石が収集されました。新たなウラン-トリウム法年代測定では、97000±3000年と推定され、以前の127000±2000年前という推定よりかなり新しくなりました。次に深さ80〜10cmで収集された6点の堆積物標本にOSLが適用され、78000〜11000±2000年前という年代が得られました(図3)。現生人類の歯に層序的に最も近い堆積物標本のOSL年代は、それぞれ78000年前(深さ80cm)と42000年前(深さ60cm)でした。9個の哺乳類の歯のうち2個と、2個の骨標本では充分な量のコラーゲンが得られ、AMS炭素14年代測定で9530〜9420年前(標本LND-C-6-2)と6710〜6490年前(標本LND-C-6-4)という結果が得られました(確率68.2%)。残りの歯のコラーゲンは少なく、15500〜14860年前から4780〜4530年前という結果が得られました(確率68.2%)。AMS炭素14年代測定に用いられた哺乳類の9個の歯は種水準で識別され、現生分類群の、イノシシ(Sus scrofa)が5個、ウシ科が2個、シカ属が2個でした。さらに、人類遺骸が発見された層(深さ32〜25cm)のすぐ上の堆積物で2個の炭標本が収集され、堆積物の年代は7160〜7040年前から4780〜4550年前と推定されました(確率68.2%)。

 福岩洞窟では、47個の現生人類の歯が発見された第2層のすぐ上に位置する、第1層の洞窟生成物標本が採集されました。3点の流華石標本のウラン-トリウム法年代測定では、142000±2000年前、95000±1000年前、168000±2000年前という、さまざまな年代が得られました(図3)。第2層の6点の堆積物標本のOSL年代は、302000〜200000±29000年前でした。予備検査(コラーゲンが重量比1%超)後、上述のDNAが解析された2個の人類の歯(FY-HT-1とFY-HT-2)を含む同じ位置の16個の人類の歯にAMS炭素14年代測定が適用され、2個の標本(FY3-1とFY3-5)でそれぞれ13590〜13350年前と9390〜9160年前という結果が得られました。コラーゲンの年代は全有機体炭素(TOC)の年代と同じで、優れた品質の年代測定結果を示唆します。明らかに現生人類のもので、計測的および形態的に福岩洞窟の以前発見された歯の範囲内にある2個の人類の歯の年代は、9479〜9290年前から2670〜2370年前です(確率68.2%)。人類の歯の1標本(FY-HT-1)は2回年代測定され、ほぼ同じ結果が得られました。追加のコラーゲンの少ない歯では、15290〜14660年前から6210〜6050年前という結果が得られましたが(確率68.2%)、慎重に解釈する必要があります。炭素14年代測定に用いられた現生人類の歯以外に、合計14個の哺乳類の歯が種に同定され、その全ては現生分類群で、イノシシが2個、ヤマアラシ科種(Hystrix subcristata)が2個、シカ属が10個です。同じ場所で収集された2個の炭標本のAMS炭素14年代は4410〜4300年前と3330〜3230年前(確率68.2%)で、人類と他の哺乳類標本のAMS炭素14年代が完新世であることを裏づけます。

 楊家坡洞窟で発見された11個の人類の歯は、歯冠および歯根の形態と歯冠測定と古代DNA分析の観点から、全て明確に現生人類に分類されます。人類の歯の地質年代を測定するため、第4層底部と人類の歯が発見された第2層の堆積物内の洞窟生成物に、ウラン-トリウム法年代測定がまず適用されました。結果は、第4層が317000±1100年前で、第2層が151000±6000年前と90000±3000年前でした。第2層で得られた堆積物標本7点のOSL年代測定結果は、205000±14000年前と94000±7000年前の間でした(図3)。したがって、これらの年代を組み合わせると、現生人類の歯の年代は205000〜90000年前の範囲内に収まります。しかし、16個の哺乳類の歯のうち、充分なコラーゲンの得られた2個の歯のAMS炭素14年代は、29390〜28550年前(YJP-1054)と4050〜3850年前(YJP-2936)でした(確率68.2%)。残りのコラーゲンの少ない標本の年代は、19800〜19100年前と9410〜9170年前の間でした(図3)。Beta Analytic社によるさらなる11個数の骨標本からコラーゲンが抽出され、炭素14年代は44370〜43090年前から4900〜4850年前でした。DNAも分析された人類1標本(JJD301.11)の単一の歯のAMS炭素14年代測定結果(確率68.2%)は、完新世の3370〜3280年前でした(図3)。現生人類以外に合計16個の哺乳類の歯が種水準で識別され、その全てはイノシシやヤマアラシ科種(Hystrix subcristata)やシカ属のような現生分類群か、完新世に絶滅したインドサイ属種(Rhinoceros sinensis)系統でした。

 三游洞窟の層序系列は単純で、単一の堆積単位のみで構成されており、人類遺骸は深さ20cmで発見されました。人類遺骸の上に位置し、堆積物を塞いでいる流華石標本7点のウラン-トリウム法年代測定結果は、129000±900年前と107000±900年前でした(図3)。さらに、深さ20cmの小さな鍾乳石のウラン-トリウム法年代測定結果は、17000±100年前〜16000±100年前で、塞いでいる流華石のかなり後に形成され、おそらくは堆積物の形成と一致していることを示唆します(図3)。しかし、人類遺骸の回収場所から150cm離れて場所で収集された堆積物標本4点のOSL年代測定結果は、35000±4000年前(深さ30cm)、30000±4000年前(深さ20cm)、32000±4000年前(深さ15cm)、23000±3000年前(深さ10cm)と、垂直的な年代系列を示しました。人類の後頭骨標本のAMS炭素14年代測定結果(確率68.2%)は1730〜1640年前でした(図3)。以下、本論文の図3です。
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●考察

 本論文の結果は、人類進化における重要な事象に時間枠を設定するのに、単一の手法に過度に依存することから生じるかもしれない問題のいくつかを浮き彫りにします。この事例では、中国南部における現生人類の到来年代の推定に、洞窟の流華石のウラン-トリウム法年代測定を用いると、誤って古い年代が得られ、化石と遺伝的データとの間の間違った対立が生じました。一部の古人類学者は、現生人類が中国南部に12万〜7万年前頃に到来した、と考えていますが、本論文の結果はそうではないことを示します。調査した5ヶ所の洞窟遺跡で、洞窟の流華石のウラン-トリウム法年代測定により、研究者たちは人類遺骸の年代を誤解し、提案された早期の到来年代は精密な調査に耐えられない、と明らかになりました。

 福岩洞窟の以前に発見された47個の人類の歯および層序的に関連した2個の人類の歯と、楊家坡洞窟の8個の人類の歯のmtDNAが配列決定され、その全ては上限合着年代が16000年前未満でした。12000〜2400年前という年代は、流華石のウラン-トリウム法から推定される年代(151000〜90000年前)よりも桁違いに新しいものでした。予想されるように、福岩洞窟の人類の歯のAMS炭素14年代(2510±140年前、2540±130年前、9380±90年前)は、分子年代(それぞれ、3700年前、3700年前、12000年前)よりもやや新しいものでした。同じ状況は、楊家坡洞窟の単一の人類の歯(AMS炭素14年代で3310±75年前、分子年代で7600年前)にも当てはまります。それでも、福岩洞窟の堆積物で発見された人類遺骸の年代に関しては、以前に示唆された12万〜8万年前頃ではなく、完新世であることは明らかです。

 5ヶ所の洞窟の堆積物のOSL年代と動物遺骸および炭のAMS炭素14年代も、流華石の年代との大きな違いを浮き彫りにします。1ヶ所の遺跡のみで、堆積物の年代と流華石の年代が一致し、他の遺跡全てで大きな不一致が見られました。同様に、現生人類も含めて動物遺骸の推定された同時代性はそのままで、流華石は5ヶ所の洞窟全てで不正確と示され、その違いは1桁になりました。本論文で検証された最後の仮定は、動物遺骸と炭とが、それらを含む堆積物と同年代だった、というものでした。これは、月洞窟ではおおむね正しいものの、光龍・福岩・楊家坡・三游洞窟では却下され、それらの洞窟の堆積物は、動物遺骸や炭よりもかなり古い、と明らかになりました。さまざまな標本にわたるそのような大きな年代の違いは、洞窟生成物の起源や堆積や侵食や再堆積といった事象を含む、これらの洞窟全てにおけるひじょうに複雑な堆積史を浮き彫りにします(図3および図4)。

 流華石の形成は一定の時点を表すので、静的な時系列標識を提供します。流華石はほとんどの場合、これらの洞窟において温暖湿潤期の海洋酸素同位体ステージ(MIS)5に形成されました(図3および図4)。一方、堆積物の形成ははるかに動的な過程で、経時的に各場所で機能する水文の枠組みにおける違いを表します(図4)。本論文では、地下に小川が流れる巨大な洞穴である楊家坡洞窟において最も単純な事例が観察され、そこでは流華石と堆積物が中期更新世後期から後期更新世初期にかけて形成されたものの、哺乳類遺骸は43600年前頃(おそらくはもっと早いものの、炭素14年代測定の限界を超えています)から後期完新世まで堆積しました。そのような状況は、比較的低いエネルギーの水による侵食と、OSL年代をリセットしない暗い洞窟内での再堆積の複数の事象によってのみ説明できます。複雑な堆積史は、5ヶ所の洞窟全てで起きていたに違いありません。なぜならば、動物の歯(および、存在するならば炭)は常に流華石よりもずっと新しく、4ヶ所の洞窟では堆積物がそれらを囲んでいたからです。さらなるあり得る説明は、完新世における小規模な侵食事象、堆積物崩壊、生物攪乱、もしくは人為的攪乱を通じての、より新しい動物遺骸のより古い堆積物への嵌入です。以下、本論文の図4です。
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 またここで関連するのは、中国南東部の広西壮族(チワン族)自治区崇左市の智人洞窟(Zhirendong)で発見された人類の下顎で、以前には流華石のウラン-トリウム法年代測定を用いて層序的に10万年以上前と推定され(関連記事)、その後の研究で19万〜13万年前頃と改訂されました。直接的な年代測定が欠如している場合、本論文で取り上げられた5ヶ所のカルスト洞窟の分析から得られた教訓は、智人洞窟にも当てはまる可能性があり、その年代を確信する前に、直接的な年代測定もしくは古代DNA分析が待たれます。さらに、智人洞窟の下顎の分類は、初期現生人類との主張もありますが、議論が続いています。智人洞窟の人類の2個の臼歯はひじょうに摩耗しており、形態学的特徴の識別と現生人類への分類には疑問が呈されています。対照的に、智人洞窟の人類遺骸は、身体の厚さや形態、真の現生人類の顎に特徴的な解剖学的構成要素の欠如など、絶滅ホモ属(古代型ホモ属)分類群との多くの類似性を示します。現生人類で見られるものと並行して、華奢化への長期の傾向はインドネシアのホモ・エレクトス(Homo erectus)や中国の中期更新世人類でも報告されており、これは智人洞窟個体と初期現生人類との間の歯の類似性を説明できるかもしれません。

 中国南部の他のいくつかの後期更新世洞窟は、初期現生人類もしくは予期せぬ形態の人類遺骸が発見されているため、興味深い存在です。柳江(Liujiang)で発見された現生人類頭蓋は、その周囲の継続的な不確実性にも関わらず、流華石のウラン-トリウム法分析から、層序的に139000〜68000年前頃の年代と推定されています(関連記事)。雲南省の龍潭山1(Longtanshan 1)遺跡では、おそらくは現生人類のひじょうに摩耗した2個の歯が、流華石と哺乳類の骨のウラン-トリウム法分析で年代測定されており、下限年代が83000〜60000年前と推定されています。

 対照的に、雲南省の馬鹿洞(Maludong)遺跡(関連記事)や、広西チワン族自治区田東県林逢鎮の独山洞窟(Dushan Cave)遺跡(関連記事)や、隆林洞窟(Longlin Cave、Laomaocao Cave)遺跡の人類遺骸は、古代型ホモ属(絶滅ホモ属)もしくは古代型ホモ属と現生人類特有の特徴のモザイク状を示し、間接的に15000〜11000年前と年代測定されてきました。しかし、シカの骨と歯の従来のウラン-トリウム年代測定とレーザーアブレーション・ウラン-トリウム年代測定により、馬鹿洞遺跡の化石の中には実際には中期更新世のものがある、と判明しました。したがって、本論文の結果と組み合わせた馬鹿洞遺跡における最近の研究からは、中国南部におけるほとんどの更新世の古人類学的洞窟は、推定されてきたよりも複雑な堆積史を示す可能性が高い、と強く示唆されます。したがって、これらの人類遺骸に関して、できれば炭素14年代測定もしくは古代DNA分析を用いる直接的な年代測定が成功するまで、それらの年代は恐らく不確実であるとみなされるべきである、と本論文は強調します。

 さらに遠方では、ラオスのフアパン(Huà Pan)県にあるタムパリン(Tam Pa Ling)洞窟遺跡の頭蓋(関連記事)や、スマトラ島中部のリダアジャー(Lida Ajer)洞窟遺跡(関連記事)の歯や、マレー半島北部西方のレンゴン渓谷(Lenggong Valley)のコタタンパン(Kota Tampan)開地遺跡の石器(関連記事)が、現生人類のユーラシア東方への早期到来の証拠と主張されています。おそらく48000年以上前となるタムパリン遺跡の人類遺骸は、部分的な下顎だけです。しかし、これに関して、下顎と関連したOSL石英年代(48000±5000年前)は赤外光ルミネッセンス法(IRSL)の長石年代(70000±8000年前)よりも信頼性が高い、と考えられます。リダアジャー洞窟世紀では、1880年代に発見された現生人類の歯を含む哺乳類遺骸の標本が、ウラン系列法と電子スピン共鳴法(ESR)で73000〜63000年前と年代測定されました。この層序年代は慎重な裏づけを得ていますが、人類遺骸の直接的な炭素14年代測定もしくは古代DNA分析により、さらなる確信が得られるでしょう。コタタンパン遺跡の人工物は最近の再分析により、OSL年代測定で7万年前頃と推定されました。それでも本論文は、将来の研究では、遺跡の堆積史の理解と、人工物と年代測定されたトバ噴火堆積物との間の関係の評価が要求される、と注意を喚起します。

 本論文の知見に照らすと、光龍洞窟や月洞窟や福岩洞窟で報告されているような中国南部における現生人類の早期到来との主張は、現時点では実証できていない、と結論づけられます。代わりに、中国南部における現生人類の最初の証拠は35000年前未満で、50000〜45000年前頃という分子推定年代と一致する、と明らかかになりました。中国の現生人類の直接的な年代測定の他の2事例が、後期更新世と主張されていた人類遺骸は完新世だった、と確証したことも注目されます。ヨーロッパにおける同様の試みでも、かつて後期更新世と考えられていた骨格が完新世に関連づけられました。この一覧に中国の楊家坡・三游・福岩洞窟が追加されます。本論文は、中国南部のような亜熱帯地域のカルスト洞窟における堆積史の復元と関連した課題の理解を提供します。この堆積史には、侵食と再堆積の事象、おそらくは遅ければ後期完新世に起きた嵌入が含まれ、包括的な年代測定戦略を通じてのみ検出できます。今後、中国南部を対象とする研究者にとって、直接的な炭素14年代測定や古代DNA分析のために人類類遺骸を標的とすることを含む、複数手法戦略を常に採用することが急務となります。


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、中国南部における現生人類早期到来の根拠と主張された人類遺骸が、直接的な年代測定や古代DNA分析の結果、16000年未満で、完新世のものも少なくないことを示しました。まだ直接的な年代測定や古代DNA分析が行なわれていない、5万年以上前と主張される中国南部の現生人類遺骸もありますが、現時点では、中国南部に5万年以上前に現生人類が到来した確証は得られていない、と考えるべきでしょう。ただ、古代DNA分析の成功は重要な成果で、今後は核DNAの解析の成功が期待されます。

 福岩洞窟の現生人類の歯は、上述のように以前は12万〜8万年前頃と推定されており、レヴァントのスフール(Skhul)やカフゼー(Qafzeh)といった洞窟で発見された10万年前頃の初期現生人類化石の歯よりも派生的で、現代人に類似していることから、現生人類の拡散に関して有力説に疑問が呈されていました。さすがに、現生人類の起源地が中国も含むアジア東部だとまで主張する人は、少なくとも専門家にはいなかったと思いますが、上記のような中国南部における一連の10万年前頃かそれ以上前の現生人類の存在との主張から、現生人類アフリカ単一起源説に疑問を呈し、多地域進化説を支持する根拠として肯定的に評価する専門家はいたようです(関連記事)。

 中国では現生人類多地域進化説が長く大きな影響力を有してきたようで、ナショナリズムを背景とする歪みがあるのではないか、と私は考えてきましたが、中国も含めてアジア東部が人類進化史の研究において軽視されてきた、との中国の研究者の不満に尤もなところがあるとは思います(関連記事)。とはいえ、この研究が中国人主体であるように、中国人研究者から中国のナショナリズム昂揚と親和的な見解を実証的に否定する他の研究も提示されているわけで(関連記事)、人類進化史に関して中国は基本的に健全な状況にあると考えてよさそうです。

 私は、ギリシアで20万年以上前となる広義の現生人類系統の遺骸が発見されていることから、アフリカやレヴァントを越えて広義の現生人類が世界に広く拡散していたとしても不思議ではない、と考えています。その意味で、中国南部に限らずユーラシア東部において、10万年以上前の現生人類の存在が確認される可能性はあり、それが現生人類アフリカ単一起源説を否定することにはならない、と考えています。また、ユーラシア東部にそうした初期の現生人類が存在していたとしても、現代人への遺伝的影響はほぼ皆無である可能性が高い、とも予想しています。


参考文献:
Sun X. et al.(2021): Ancient DNA and multimethod dating confirm the late arrival of anatomically modern humans in southern China. PNAS, 118, 8, e2019158118.
https://doi.org/10.1073/pnas.2019158118


https://sicambre.at.webry.info/202102/article_19.html

9. 中川隆[-4089] koaQ7Jey 2021年6月23日 11:21:37 : 6pyAPtqAd2 : V2JzMGt3WEFjSkk=[13] 報告
2021年06月22日
アジア東部における初期現生人類の拡散と地域的連続性
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_22.html


 最近、人類集団の地域的連続性に言及しましたが(関連記事)、その記事で予告したように、近年大きく研究が進展したアジア東部に関してこの問題を整理します。なお、今回はおおむねアムール川流域以南を対象とし、シベリアやロシア極東北東部は限定的にしか言及しません。初期現生人類(Homo sapiens)の拡散に関する研究は近年飛躍的に進展しており、その概要を把握するには、現生人類の起源に関する総説(Bergström et al., 2021、関連記事)や、現生人類に限らずアジア東部のホモ属を概観した総説(澤藤他., 2021、関連記事)や、上部旧石器時代のユーラシア北部の人々の古代ゲノム研究に関する概説(高畑., 2021、関連記事)が有益です。最近の総説的論文からは、アフリカからユーラシアへと拡散した初期現生人類が、拡散先で子孫を残さずに絶滅した事例は珍しくなかった、と示唆されます(Vallini et al., 2021、関連記事)。これらの総説を踏まえつつ、アジア東部における人類集団、とくに初期現生人類の拡散と地域的連続性の問題を自分なりに整理します。


●人類集団の起源と拡散および現代人との連続性に関する問題

 人類集団の起源と拡散は、現代人の各地域集団の愛国主義や民族主義と結びつくことが珍しくなく、厄介な問題です。ある地域の古代の人類遺骸が、同じ地域の現代人の祖先集団を表している、との認識は自覚的にせよ無自覚的にせよ、根強いものがあるようです。チェコでは20世紀後半の時点でほぼ半世紀にわたって、一つの学説ではなく事実として、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)が現代チェコ人の祖先と教えられていました(Shreeve.,1996,P205)。これは、現生人類に共通の認知的傾向なのでしょうが、社会主義イデオロギーの影響もあるかもしれません。チェコというかチェコスロバキアと同じく社会主義国の中国とベトナムと北朝鮮の考古学は「土着発展(The indigenous development model)」型傾向が強い、と指摘されています(吉田.,2017、関連記事)。この傾向は、同じ地域の長期にわたる人類集団の遺伝的連続性と結びつきやすく、それを前提とする現生人類多地域進化説とひじょうに整合的です。中国では現在(少なくとも2008年頃まで)でも、現代中国人は「北京原人」など中国で発見されたホモ・エレクトス(Homo erectus)の直系子孫である、との見解が多くの人に支持されています(Robert.,2013,P267-278、関連記事)。ただ、中国人研究者が関わった最近の研究を見ていくと、近年の第一線の中国人研究者には、人類アフリカ起源説を前提としている人が多いようにも思います。

 20世紀末以降に現生人類アフリカ単一起源説が主流となってからは、2010年代にネアンデルタール人や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)など絶滅ホモ属(古代型ホモ属)と現生人類との混合が広く認められるようになったものの(Gokcumen., 2020、関連記事)、ホモ・エレクトスやネアンデルタール人やデニソワ人など絶滅ホモ属から現代人に至る同地域の人類集団長期の遺伝的連続性は、少なくともアフリカ外に関しては学術的にほぼ否定された、と言えるでしょう。そうすると、特定地域における人類集団の連続性との主張は、最初の現生人類の到来以降と考えられるようになります。

 オーストラリアのモリソン(Scott John Morrison)首相は、先住民への謝罪において、オーストラリアにおける先住民の65000年にわたる連続性に言及しています。その根拠となるのは、オーストラリア北部のマジェドベベ(Madjedbebe)岩陰遺跡で発見された多数の人工物です(Clarkson et al., 2017、関連記事)。この人工物には人類遺骸が共伴していませんが、現生人類である可能性がきわめて高いでしょう。1国の首相が考古学的研究成果を根拠に、先住民の長期にわたるオーストラリアでの連続性を公式に認めているわけです。しかし、マジェドベベ岩陰遺跡の年代に関しては、実際にはもっと新しいのではないか、との強い疑問が呈されています(O’Connell et al., 2018、関連記事)。ただ、マジェドベベ岩陰遺跡の年代がじっさいには65000年前頃よりずっと新しいとしても、少なくとも数万年前にはさかのぼるでしょうし、20世紀のオーストラリア先住民のミトコンドリアDNA(mtDNA)の分析からは、その祖先集団はオーストラリア北部に上陸した後、それぞれ東西の海岸沿いに急速に拡散し、49000〜45000年前までに南オーストラリアに到達して遭遇した、と推測されていますから(Tobler et al., 2017、関連記事)、長期にわたるオーストラリアの人類集団の遺伝的連続性に変わりはない、とも考えられます。

 ここで問題となるのは、近現代人のmtDNAハプログループ(mtHg)からその祖先集団の拡散経路や時期を推測することです。一昨年(2019年)の研究では、現代人のmtDNAの分析に基づいて現生人類の起源地は現在のボツワナ北部だった、と主張されましたが(Chan et al., 2019、関連記事)、この研究は厳しく批判されています(Schlebusch et al., 2021、関連記事)。Schlebusch et al., 2021は、mtDNA系統樹が人口集団を表しているわけではない、と注意を喚起します。系統分岐年代は通常、人口集団の分岐に先行し、多くの場合、分岐の頃の人口規模やその後の移動率により形成されるかなりの時間差がある、というわけです。またSchlebusch et al., 2021は、現代の遺伝的データから地理的起源を推測するさいの重要な問題として、人口史における起源から現代までの重ねられた人口統計的過程(移住や分裂や融合や規模の変化)の「上書き」程度を指摘します。mtDNAはY染色体とともに片親性遺伝標識という特殊な遺伝継承を表し、現代人のmtHgとY染色体ハプログループ(YHg)から過去の拡散経路や時期を推測することには慎重であるべきでしょう。また、mtDNAとY染色体DNAが全体的な遺伝的近縁関係を反映していない場合もあり、たとえば後期ネアンデルタール人は、核ゲノムでは明らかに現生人類よりもデニソワ人の方と近縁ですが、mtDNAでもY染色体DNAでもデニソワ人よりも現生人類の方と近縁です(Petr et al., 2020、関連記事)。

 系統樹は、mtDNAとY染色体のような片親性遺伝標識だけではなく、核DNAのように両親から継承される遺伝情報に基づいても作成できますが、片親性遺伝標識のように明確ではありません。それでも、アジア東部やオセアニアやヨーロッパなど現代人の各地域集団も系統樹でその遺伝的関係を示せるわけで、現代人がいつどのように現在の居住範囲に拡散してきたのか、推測する手がかりになるわけですが、ここで問題となるのは、系統樹は遠い遺伝的関係の分類群同士の関係を図示するのには適しているものの、近い遺伝的関係の分類群同士では複雑な関係を適切に表せるとは限らない、ということです。たとえば現代人と最近縁の現生分類群であるチンパンジー属では、ボノボ(Pan paniscus)とチンパンジー(Pan troglodytes)との混合(Manuel et al., 2016、関連記事)や、ボノボと遺伝学的に未知の類人猿との混合(Kuhlwilm et al., 2019、関連記事)の可能性が指摘されています。また、以下の現生人類の起源に関する総説(Bergström et al., 2021)の図3cで示されているように、ホモ属の分類群間の混合も複雑だった、と推測されています。
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 こうした複雑な混合が推測される分類群間の関係は、以下に掲載する上述のVallini et al., 2021の図1のように、混合図として示せば実際の人口史により近くなりますが、それでもかなり単純化したものにならざるを得ないわけで(そもそも、実際の人口史を「正確に」反映した図はほとんどの場合とても実用的にはならないでしょう)、現代人の地域集団にしても、過去のある時点の集団もしくは個体にしても、その起源や形成過程に関しては、あくまでも大まかなもの(低解像度)となります。ネアンデルタール人やデニソワ人と現生人類との関係でさえ複雑なものと推測されていますから、現代人の各地域集団の関係はそれ以上に複雑と考えられます。起源や形成過程や拡散経路や現代人との連続性など、こうした複雑な関係をより正確に把握するには、片親性遺伝標識でも核DNAでも、現代人だけではなく古代人のDNAデータが必要となり、現代人のDNAデータだけに基づいた系統樹に過度に依拠することは危険です。
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 特定の地域における過去と現代の人類集団の連続性に関しては、上述のように最近の総説的論文から、アフリカからユーラシアへと拡散した初期現生人類が、拡散先で子孫を残さずに絶滅した事例は珍しくなかった、と示唆されます(Vallini et al., 2021)。具体的には、チェコのコニェプルシ(Koněprusy)洞窟群で発見された、洞窟群の頂上の丘にちなんでズラティクン(Zlatý kůň)と呼ばれる成人女性1個体は、ヨーロッパ最古級(45000年以上前)の現生人類集団を表しますが、現代人の直接的祖先ではない、と推測されています(Prüfer et al., 2021、関連記事)。ズラティクンは、出アフリカ系現代人の各地域集団が遺伝的に分化する前にその共通祖先と分岐した、と推測されています。出アフリカ系現代人の祖先集団は遺伝的に、大きくユーラシア東部系統と西部系統に区分されます。

 その他には、チェコのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)で発見された現生人類個体群(44640〜42700年前頃)は、現代人との比較ではヨーロッパよりもアジア東部に近く、ヨーロッパ現代人への遺伝的影響は小さかった、と推測されています(Hajdinjak et al., 2021、関連記事)。シベリア西部のウスチイシム(Ust'-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された44380年前頃となる現生人類男性遺骸(Fu et al., 2014、関連記事)や、ルーマニア南西部の「骨の洞窟(Peştera cu Oase)」で発見された39980年前頃の「Oase 1」個体(Fu et al., 2015、関連記事)も、後のヨーロッパ人口集団に遺伝的影響を残していない、と推測されています。Vallini et al., 2021では、ウスチイシム個体とOase 1はユーラシア東部系統に位置づけられ、Oase 1はバチョキロ洞窟の現生人類個体群(44640〜42700年前頃)と近縁な集団が主要な直接的祖先だった、と推測されています。また、「女性の洞窟(Peştera Muierii、以下PM)」の34000年前頃となる個体(PM1)は、ユーラシア西部系統に位置づけられ、同じ頃のヨーロッパ狩猟採集民の変異内に収まりますが、ヨーロッパ現代人の祖先ではない、と推測されています(Svensson et al., 2021、関連記事)。


●アジア東部における人類集団の遺伝的連続性

 このようにヨーロッパにおいては、初期現生人類が現代人と遺伝的につながっていない事例は珍しくありません。アジア東部においても、最近では同様の事例が明らかになりつつあります。アジア東部でDNAが解析されている最古の個体は、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性(Yang et al., 2017、関連記事)で、その次に古いのがモンゴル北東部のサルキート渓谷(Salkhit Valley)で発見された34950〜33900年前頃となる女性(Massilani et al., 2021、関連記事)です。最近になって、そのサルキート個体に次いで古い、34324〜32360年前頃となるアムール川流域の女性(AR33K)のゲノムデータが報告されました(Mao et al., 2021、関連記事)。

 Mao et al., 2021は、4万年前頃の北京近郊の田園個体と34000年前頃のモンゴル北東部のサルキート個体と33000年前頃のアムール川流域のAR33Kが、遺伝的に類似していることを示します。アジア東部現代人の各地域集団の形成史に関する最近の包括的研究(Wang et al., 2021、関連記事)に従うと、出アフリカ現生人類のうち非アフリカ系現代人に直接的につながる祖先系統(祖先系譜、ancestry)は、まずユーラシア東部と西部に分岐します。その後、ユーラシア東部系統は沿岸部と内陸部に分岐します。ユーラシア東部沿岸部(EEC)祖先系統でおもに構成されるのは、現代人ではアンダマン諸島人、古代人ではアジア南東部の後期更新世〜完新世にかけての狩猟採集民であるホアビン文化(Hòabìnhian)集団です。アジア東部現代人のゲノムは、おもにユーラシア東部内陸部(EEI)祖先系統で構成されます。このユーラシア東部内陸部祖先系統は南北に分岐し、黄河流域新石器時代集団はおもに北方(EEIN)祖先系統、長江流域新石器時代集団はおもに南方(EEIS)祖先系統で構成される、と推測されています。中国の現代人はこの南北の祖先系統のさまざまな割合の混合としてモデル化でき、現代のオーストロネシア語族集団はユーラシア東部内陸部南方祖先系統が主要な構成要素です(Yang et al., 2020、関連記事)。以下、この系統関係を示したWang et al., 2021の図2です。
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 田園個体とサルキート個体とAR33Kはおもに、南北に分岐する前のEEI祖先系統で構成されますが、サルキート個体には、別の祖先系統も重要な構成要素(25%)となっています(Mao et al., 2021)。それは、シベリア北東部のヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site)で発見された31600年前頃の2個体に代表される祖先系統です(Sikora et al., 2019、関連記事)。この祖先系統は、24500〜24100年前頃となるシベリア南部中央のマリタ(Mal'ta)遺跡の少年個体(MA-1)に代表される古代北ユーラシア人(ANE)の祖先とされ、Sikora et al., 2019では古代北シベリア人(ANS)と分類されています。MA-1はアメリカ大陸先住民との強い遺伝的類似性が指摘されており(Raghavan et al., 2014、関連記事)、MA-1に代表されるANEは、おもにユーラシア西部祖先系統で構成されるものの、EEI祖先系統の影響も一定以上(27%)受けている、と推測されます(Mao et al., 2021)。今回は、ANSをANEに区分します。ANE関連祖先系統は、現代のアメリカ大陸先住民やシベリア人やヨーロッパ人などに遺伝的影響を残しています。

 重要なのは、田園個体とサルキート個体とAR33Kの年代がいずれも、26500〜19000年前頃となる最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)よりも前で、現代人には遺伝的影響を残していない、と推測されていることです(Mao et al., 2021)。南北に分岐する前のEEI関連祖先系統でおもに構成されるこれらの個体に代表される集団は、アムール川流域からモンゴル北東部まで、LGM前にはアジア東部北方において広範に存在した、と推測されます。つまり、アジア東部現代人の主要な直接的祖先集団は、LGM前には他地域に存在した可能性が高く、アジア東部でもヨーロッパと同様に初期現生人類集団の広範な絶滅・置換が起きた可能性は高い、というわけです。もちろん、古代ゲノム研究では標本数がきわめて限定的なので、田園個体などに代表される絶滅集団とアジア東部現代人の主要な直接的祖先集団が隣接して共存していた、とも想定できるわけですが、その可能性は低いでしょう。

 アジア東部の古代ゲノム研究はユーラシア西部、とくにヨーロッパと比較して遅れているので、アジア東部現代人の主要な直接的祖先集団がいつアジア東部に到来したのか、ほとんど明らかになっていません。アムール川流域はその解明が比較的進んでいる地域と言えそうで、LGM末期の19000年前頃には、AR33Kよりもアジア東部現代人と遺伝的にずっと近い個体(AR19K)が存在し、14000年前頃にはより直接的に現代人と遺伝的に関連する集団(AR14K)が存在したことから、アムール川流域では現代にまで至る14000年以上の人類集団の遺伝的連続性が指摘されています(Mao et al., 2021)。AR19KはEEIでも南方系(EEIS)よりも北方系(EEIN)に近縁で、19000年前頃までにはEEIの南北の分岐が起きていた、と考えられます。以下、これらの系統関係を示したMao et al., 2021の図3です。
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●アジア東部現代人の形成過程

 かつてアジア東部北方に、4万年前頃の田園個体と類似した遺伝的構成の集団が広範に存在し、現代人には遺伝的影響を(全く若しくは殆ど)残していない、つまり絶滅したとなると、上述のように、アジア東部現代人の主要な直接的祖先集団は、LGM前には他地域に存在した可能性が高くなります。では、これらの集団がいつどのような経路でアジア東部に拡散してきたのか、という問題が生じます。初期現生人類のゲノムデータと考古学を統合して初期現生人類の拡散を検証したVallini et al., 2021は、ウスチイシム個体や田園個体やバチョキロ洞窟の4万年以上前の個体群に代表される初期のEEI集団が、初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)の担い手だった可能性を指摘します。IUPは、ルヴァロワ(Levallois)手法も用いる石刃製作として広範に定義され(仲田., 2019、関連記事)、レヴァントを起点として、ヨーロッパ東部・アジア中央部・アルタイ地域・中国北部に点在します。(仲田., 2020、関連記事)。

 Vallini et al., 2021は、その後、ユーラシア西部のどこかに存在した出アフリカ後の人口集団の「接続地」から、石刃および小型石刃(bladelet)の製作により特徴づけられ、装飾品や骨器をよく伴う上部旧石器(UP)の担い手であるユーラシア西部祖先系統でおもに構成される集団がユーラシア規模で拡大し、ユーラシア東部では、在来のEEI関連祖先系統を主体とする集団との混合により、31600年前頃となるヤナRHSの2個体に代表されるANE(もしくはANS)集団が形成された、と推測されます。上述のように、34000年前頃となるモンゴル北東部のサルキート個体はANE集団から一定以上の遺伝的影響を受けています。しかし、アジア東部でも漢人の主要な地域(近現代日本社会で一般的に「中国」と認識されるような地域)や朝鮮半島およびその周辺のユーラシア東部沿岸地域や日本列島では、古代人でも現代人でもユーラシア西部関連祖先系統の顕著な影響は検出されていません。Vallini et al., 2021は、これらの地域において、侵入してくるUP人口集団の移動に対するIUPの担い手だったEEI集団の抵抗、もしくはEEI集団の再拡大が起きた可能性を指摘します。

 EEI集団がどのようにアジア東部に拡散してきたのか不明ですが、文化面ではIUPと関連しているとしたら、ユーラシア中緯度地帯を東進してきた可能性が高そうで(ユーラシア南岸を東進してアジア南部か南東部で北上した可能性も考えられますが)、その東進の過程で遺伝的に分化して、田園個体やAR33Kに代表される集団と、アジア東部現代人の主要な直接的祖先集団とに分岐したのでしょう。もちろん、実際の人口史はこのように系統樹で単純に表せないでしょうから、あくまでも大まかに(低解像度で)示した動向にすぎませんが。アジア東部現代人の主要な直接的祖先集団がLGMの前後にどこにいたのか、現時点では直接的な遺伝的手がかりはなく、アジア東部では更新世の現生人類遺骸が少ないので、最近急速に発展している洞窟の土壌DNA解析(澤藤他., 2021)に依拠するしかなさそうです。

 ただ、EEIの南北の分岐(EEISとEEIN)が19000年前頃までに起きたことと、シャベル型切歯の頻度から、ある程度の推測は可能かもしれません。シャベル型切歯は、アメリカ大陸先住民や日本人も含めてアジア東部現代人では高頻度で見られ、北京の漢人(CHB)では頻度が93.7%に達しますが、アジア南東部やオセアニアでは低頻度です。シャベル型切歯はエクトジスプラシンA受容体(EDAR)遺伝子の一塩基多型rs3827760のV370A変異との関連が明らかになっており(Kataoka et al., 2021、関連記事)、この変異は派生的で、出現は3万年前頃と推測されています(Harris.,2016,P242、関連記事)。Mao et al., 2021は、この派生的変異がアジア東部北方では、LGM前の田園個体とAR33Kには見られないものの、19000年前頃となるAR19Kを含むそれ以降のアジア東部北方の個体で見られることから、LGMの低紫外線環境における母乳のビタミンD増加への選択だった、との見解(Hlusko et al., 2018、関連記事)を支持しています。

 これらの知見から、現代のアジア東部人やアメリカ大陸先住民において高頻度で見られるシャベル型切歯は、EEIN集団においてEEIS集団との分岐後に出現した、と推測されます。上述のように、EEISとEEINの分岐は19000年前よりもさかのぼりますから、シャベル型切歯の出現年代の下限は2万年前頃となりそうです。さらに、上掲のMao et al., 2021の図3で示されるように、アメリカ大陸先住民と遺伝的にきわめて近縁な、アラスカのアップウォードサン川(Upward Sun River)で発見された1個体(USR1)は古代ベーリンジア(ベーリング陸橋)人を表し、ANE関連祖先系統(42%)とEEIN関連祖先系統(58%)の混合としてモデル化できます。古代ベーリンジア人の一方の主要な祖先であるEEIN関連集団は他のEEIN集団と36000±15000年前頃に分岐したものの、25000±1100年前頃まで両者の間には遺伝子流動があった、と推測されています(Moreno-Mayar et al., 2018、関連記事)。

 そうすると、25000年前頃までにはシャベル型切歯が出現していたことになりそうです。EEINとEEISは4万年前頃までには分岐し、シャベル型切歯をもたらす変異はEEINにおいて3万年前頃までには出現し、LGMにおいて選択され、アジア東部現代人とアメリカ大陸先住民の祖先集団において高頻度で定着した、と考えられます。この推測が妥当ならば、EEIN集団は、EEIS集団と遺伝的に分化した後、アムール川流域やモンゴルよりも北方に分布し、2万年前頃までにはアムール川流域に南下していた、と考えられます。一方、EEIS集団は、長江流域など現在の中国南部にLGM前に到達していたのかもしれません。私の知見では、この推測を考古学と組み合わせて論じることはできないので、今後の課題となります。またシャベル型切歯に関するこれら近年の知見から、シャベル型切歯を「北京原人」からアジア東部現代人の連続的な進化の根拠とするような見解(関連記事)はほぼ完全に否定された、と言えるでしょう。


●日本列島の人口史

 日本列島では4万年頃以降に遺跡が急増します(佐藤., 2013、関連記事)。4万年以上前となる日本列島における人類の痕跡としては、たとえば12万年前頃とされる島根県出雲市の砂原遺跡の石器がありますが、これが本当に石器なのか、強く疑問が呈されています(関連記事)。おそらく世界でも有数の更新世遺跡の発掘密度を誇るだろう日本列島において、4万年以上前となる人類の痕跡がきわめて少なく、また砂原遺跡のように強く疑問が呈されている事例もあることは、仮にそれらが本当に人類の痕跡だったとしても、4万年前以降の日本列島の人類とは遺伝的にも文化的にも関連がないことを強く示唆します。現代日本人の形成という観点からは、日本列島では4万年前以降の遺跡のみが対象となるでしょう。

 日本列島の更新世人類遺骸のDNA解析は、最近報告された2万年前頃の港川人のmtDNAが最初の事例となり(Mizuno et al., 2021、関連記事)、ほとんど解明されていません。日本列島で古代ゲノムデータが得られている人類遺骸は完新世に限定されており、縄文時代以降となります。愛知県田原市伊川津町の貝塚で発見された2500年前頃となる縄文時代個体の核ゲノム解析結果を報告した研究では、「縄文人(縄文文化関連個体)」は38000年前頃に日本列島に到来した旧石器時代集団の直接的子孫である、という見解が支持されています(Gakuhari et al., 2020、関連記事)。しかし、港川人のmtDNAは、少なくとも現時点では現代人で見つかっておらず、ヨーロッパやアジア東部大陸部と同様に、日本列島でも更新世に到来した初期現生人類の中に絶滅した集団が存在した可能性は高いように思います。この問題の解明には、最近急速に発展している洞窟の土壌DNA解析が大きく貢献できるかもしれません。

 「縄文人」のゲノムデータは、上述の愛知県で発見された遺骸のみならず、北海道(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019、関連記事)や千葉県(Wang et al., 2021)や佐賀県(Adachi et al., 2021、関連記事)の遺骸でも得られています。これら縄文時代の後期北海道の個体から早期九州の個体まで、これまでにゲノムデータが得られている縄文人の遺伝的構成はひじょうに類似しており、縄文人が文化的にはともかく遺伝的には長期にわたってきわめて均質だったことを示唆します。しかし、現代日本人の形成において重要となるだろう西日本の縄文時代後期〜晩期の個体のゲノムデータが蓄積されないうちは、縄文人が長期にわたって遺伝的に均質だったとは、とても断定できません。

 縄文人はEEIS関連祖先系統(56%)とEEC関連祖先系統(44%)の混合として、現代日本の「(本州・四国・九州を中心とする)本土」集団は縄文人(8%)と青銅器時代西遼河集団(92%)の混合としてモデル化でき、黄河流域新石器時代農耕民集団の直接的な遺伝的影響は無視できるほど低い、と推測されています(Wang et al., 2021)。縄文人のシャベル型切歯の程度はわずかなので(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)、この点からも、縄文人がEEIN関連祖先系統を基本的には有さない、との推定は妥当と思われます。一方で、EEIN関連祖先系統でおもに構成される青銅器時代西遼河集団を主要な祖先集団とする現代日本人(「本土」集団)においては、シャベル型切歯が高頻度です。これらは、シャベル型切歯に関する上述の推測と整合的です。

 縄文人はYHgでも注目されています。現代日本人(「本土」集団)ではYHg-D1a2aが35.34%と大きな割合を占めており、(Watanabe et al., 2021、関連記事)北海道など上述の縄文人でもYHgが確認されている個体は全てD1a2aで、日本列島外では低頻度であることから、YHg-D1a2aは日本列島固有との認識が一般的なようです。しかし、カザフスタン南部で発見された紀元後236〜331年頃の1個体(KNT004)はYHg-D1a2a2a(Z17175、CTS220)です(Gnecchi-Ruscone et al., 2021、関連記事)。KNT004はADMIXTURE分析では、朝鮮半島に近いロシアの沿岸地域の悪魔の門遺跡の7700年前頃の個体群(Siska et al., 2017、関連記事)に代表される系統構成要素(アジア北東部人祖先系統)の割合が高く、悪魔の門遺跡個体群はAR14Kと遺伝的にきわめて密接です。また、アムール川流域の11601〜11176年前頃の1個体(AR11K)は、YHg-DEです。アムール川流域にYHg-Eが存在したとは考えにくいので、YHg-Dである可能性がきわめて高そうです。

 YHg-Dはアジア南東部の古代人でも確認されており、ホアビン文化(Hòabìnhian)層で見つかった、較正年代で4415〜4160年前頃の1個体(Ma911)はYHg-D1(M174)です(McColl et al., 2018、関連記事)。ほぼEEC関連祖先系統で構成されるアンダマン諸島現代人のYHgがほぼD1で、YHg-D1の割合が高い現代チベット人はEEC関連祖先系統の割合が20%近くと推定されます(Wang et al., 2021)。また、縄文人と悪魔の門遺跡個体群などアジア東部沿岸部集団との遺伝的類似性も指摘されています(Gakuhari et al., 2020)。EEC関連祖先系統を有する集団がアジア東部沿岸部をかなりの程度北上したことは、一部のアメリカ大陸先住民集団でアンダマン諸島人などとの遺伝的類似性が指摘されていること(Castro e Silva et al., 2021、関連記事)からも明らかでしょう。

 これらの知見からは、YHg-D1はおもにEEC関連祖先系統で構成される現生人類集団に由来し、ユーラシア南岸を東進してアジア南東部からオセアニアへと拡散して、アジア南東部から北上してアジア東部へと拡散したことが窺えます。カザフスタンの紀元後3〜4世紀の個体(KNT004)がYHg-D1a2a2aで、悪魔の門遺跡の7700年前頃の個体群に代表される系統構成要素(アジア北東部人祖先系統)の割合が高いことからも、YHg-D1a2aは日本列島固有ではなく、アジア東部沿岸部を中心にかつては広範にアジア東部に存在し、縄文時代の始まる前に日本列島に到来した、と推測されます。現代日本人で見られるYHg-D1a2a1とD1a2a2の分岐も、日本列島ではなくアジア東部大陸部で起きていたかもしれません。そうすると、4万年前頃までさかのぼる日本列島の最初期現生人類のYHgはD1a2aではなかったかもしれません。また、KNT004の事例からは、現代日本人のYHg-D1a2a2aの中には、弥生時代以降に到来したものもあったかもしれない、と考えられます。

 日本列島の最初期現生人類が縄文人の直接的祖先なのか否か、縄文人がどのような過程で形成されたのか、現時点では不明ですが、日本列島も含めてユーラシア東部の洞窟の土壌DNA解析により、この問題の解明が進むと期待されます。一方、おもにEEI関連祖先系統で構成される集団のYHgに関しては、田園個体が(高畑., 2021)K2bで、アムール川流域の19000年前頃以降の個体がおもにCもしくはC2であることから、CとK2の混在だったかもしれません。YHg-K2から日本人も含めてアジア東部現代人で多数派のOが派生するので、この点も核ゲノムではアジア東部現代人がおもにEEI関連祖先系統で構成されることと整合的です。

●まとめ

 人類集団の地域的連続性との観念には根強いものがありそうで、それが愛国主義や民族主義とも結びつきやすいだけに、警戒が必要だとは思います。近年の古代ゲノム研究の進展からは、ネアンデルタール人など絶滅ホモ属(古代型ホモ属)と現代人との特定地域における遺伝的不連続性はもちろん、現生人類に限定しても、更新世と完新世において集団の絶滅・置換は珍しくなかったことが示唆されます。さらに、非現生人類ホモ属においても、こうした特定地域における人類集団の絶滅・置換は珍しくなかったことが示唆されています。

 具体的には、アルタイ山脈のネアンデルタール人は、初期の個体とそれ以降の個体群で遺伝的系統が異なり、置換があった、と推測されています(Mafessoni et al., 2020、関連記事)。また、イベリア半島北部においても、洞窟堆積物のDNA解析からネアンデルタール人集団間で置換があった、と推測されています(Vernot et al., 2021、関連記事)。現在のドイツで発見されたネアンデルタール人と関連づけられそうな遺跡の比較からは、ネアンデルタール人集団が移住・撤退もしくは絶滅・(孤立した集団の退避地からの)再移住といった過程を繰り返していたことが窺えます(Richter et al., 2016、関連記事)。

 こうしたヨーロッパにおける複雑な過程の繰り返しにより後期ネアンデルタール人は形成されたのでしょうが、それはアフリカにおける現生人類も同様だった、と考えられます(Scerri et al., 2018、関連記事)。さらにいえば、ホモ属(関連記事)や他の多くの人類系統の分類群の出現過程も同様で、特定の地域における単純な直線的進化で把握することは危険でしょう。その意味で、たとえば中華人民共和国陝西省の遺跡に関しては、210万〜130万年前頃にかけて人類が繰り返し利用したかもしれない、と指摘されていますが(Zhu et al., 2018、関連記事)、それらの集団が全て祖先・子孫関係にあったとは限りません。

 その意味で、前期更新世からのアフリカとユーラシアの広範な地域における人類の連続性が根底にある現生人類アフリカ多地域進化説は根本的に間違っている、と評価すべきなのでしょう(Scerri et al., 2019、関連記事)。今回はユーラシア東部内陸部に関してほとんど言及できませんでしたが、バイカル湖地域では更新世から完新世にかけて現生人類集団の大きな遺伝的変容や置換があった、と推測されています(Yu et al., 2020、関連記事)。またモンゴルに関しては、完新世において最初に牧畜文化をもたらした集団の遺伝的構成は比較的短期間で失われた、と推測されています(Jeong et al., 2020、関連記事)。

 これらは上述したオーストラリアの事例でも当てはまるかもしれず、65000年前頃の人類の痕跡が本当だとしても、それが現代のオーストラリア先住民と連続しているかどうかは不明で、mtDNAで推測される5万年近くにわたるオーストラリアの人類の連続性との見解も、古代DNAデータが得られなければ確定は難しいでしょう(オーストラリアで更新世の人類遺骸や堆積物からDNAを解析するのは難しそうですが)。日本列島も同様で、4万年以上前とされる不確かな遺跡はもちろん、4万年前以降の人類、とくに最初期の人類に関しては、縄文人などその後の日本列島の人類と遺伝的につながっているのか、まだ判断が難しいところです。日本列島の人口史に関しては、人類遺骸からのDNA解析とともに、更新世堆積物のDNA解析が飛躍的に研究を進展させるのではないか、と期待しています。

 もちろん、上記の私見はあくまでも現時点でのデータに基づくモデル化に依拠しているので、今後の研究の進展により大きく変えざるを得ないところも出てくる可能性は低くありません。また、今回は特定の地域における人類集団の長期の連続性という見解に対する疑問を強調しましたが、逆に、安易に特定の地域における人類集団の断絶を断定することも問題でしょう。たとえば、現代日本社会において「愛国的な」人々の間で好まれているらしい、三国時代の前後において「中国人」もしくは「漢民族」は絶滅した、といった言説です。古代ゲノムデータも用いた研究では、後期新石器時代から現代の中原(おおむね現在の河南省・山西省・山東省)における長期の遺伝的類似性・安定性の可能性が指摘されています(Wang et al., 2020、関連記事)。もちろん、遺伝的構成と民族、さらに文化は、相関する場合が多いとはいえ、安易に結びつけてはなりませんが、「中国」における人類集団の連続性を論ずる場合には、こうしたゲノム研究を無視できない、とも考えています。

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10. 2021年7月04日 10:06:41 : oK8CEMlMsc : dnU4eC52a0R2cC4=[13] 報告
2021年07月04日
さまざまな現生人類起源説
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_4.html


 現生人類(Homo sapiens)の起源に関して、日本(に限らないでしょうが)では多地域進化説とアフリカ単一起源説との対立という図式で語られることが多いようですが、単純に二分できる問題ではないと思います。現生人類アフリカ単一起源説は一般的に、次のように認識されていると思います。現生人類の唯一の起源地はアフリカで、世界中への拡散の過程でネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)など先住の非現生人類ホモ属(絶滅ホモ属、古代型ホモ属)を置換していき、先住人類との間に交雑はなかった、と当初は想定されており(全面置換説)、現在では、ネアンデルタール人や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)といった非現生人類ホモ属との交雑により、現代人のゲノムにはわずかながら(1〜5%)非現生人類ホモ属に由来する領域があると考えられています。また、1987年にミトコンドリアDNA(mtDNA)に基づく人類進化の研究が提示されるまで、現生人類多地域進化説が長い間定説になっていた、との認識(篠田., 2016、関連記事)や、mtDNA研究により初めて現生人類アフリカ単一起源説が主張されるようになった、との認識も広く見られるように思います。

 しかし、一般向けの記事(Hammer., 2013、関連記事)で解説されているように、現生人類の起源についての本格的な遺伝学的研究以前に、形質人類学的研究により現生人類アフリカ単一起源説が主張されており、激論となっていました。また、現生人類アフリカ単一起源説でも、すでにブロイアー(Günter Bräuer)氏は1976年の時点で、現生人類の起源地はアフリカではあるものの、世界各地への拡散の過程でネアンデルタール人と交雑した、と想定していました(Trinkaus, and Shipman.,1998,P473-475)。ブロイアー氏のアフリカ交配代替モデル説(Shreeve.,1996,P136-138)では、現生人類がアフリカから世界各地へと拡散する過程において、さまざまな程度で交雑が起きた、と想定されます。もちろん、アフリカからの現生人類の拡散年代やデニソワ人のような当時は知られていなかった知見など、ブロイアー氏のアフリカ交配代替モデル説が現在そのまま通用するわけではないとしても、1976年の時点で化石証拠から現在の有力説とかなり通ずる仮説を提示していたブロイアー氏の先見の明には驚かされます。

 一方、現代人の多地域的な進化を想定する見解は以前からあり、ヴァイデンライヒ(Franz Weidenreich)氏は20世紀半ばに、オーストラリアとアジアとアフリカとヨーロッパの4地域それぞれで、相互の遺伝的交流も想定した長期の進化の結果として現代人が成立した、と提唱しましたが、この見解は20世紀半ばに成立した進化総合説を前提としたものではないこともあり、当初はさほど影響力のある説ではありませんでした(Trinkaus et al.,1998,P314-316,P349-355)。現生人類の起源に関して、アフリカ単一起源説と対立する仮説としての多地域進化説の成立は意外と遅く、1981年に、アメリカ合衆国(というかミシガン大学)とオーストラリアと中国の研究者が中心になり、世界各地の連続性と遺伝子流動による現代人の成立が主張されました(Shreeve.,1996,P124-127)。

 前置きが予定より長くなってしまいましたが、本題はここからです。こうした現生人類の起源をめぐる議論において、日本人としては無視できないというか、一度整理しておきたいと考えていた仮説があります。それは、現生人類の起源をめぐる一般向けの本の訳者あとがき(1993年12月5日付)にて河合信和氏が述べた現生人類の東西二地域進化説です(Fagan.,1997,P331)。河合氏は、「また九三年秋に、馬場悠男氏は、東アジアと中東・ヨーロッパでは新人移行のシナリオが異なるとした東西二地域進化説を提唱した。新人起源の問題の決着は、なお時間を要するかもしれない」と指摘しています。「新人」は現生人類と読み換えて大過ないと思います。河合氏の指摘した文献は、1993年に刊行された論文(馬場.,1993)と思われるので、以下その内容を見ていきます。


●現生人類東西二地域進化説

 馬場.,1993(以下、馬場論文)は、まず現生人類の起源をめぐって多地域連続進化説(以下、多地域進化説)とアフリカ起源説(以下、アフリカ単一起源説)があることを指摘し、アフリカ起源説の根拠としてmtDNA研究を挙げます。馬場論文はアフリカ単一起源説を全面置換説として把握したうえで、ジャワ島の「原人」、つまりホモ・エレクトス(Homo erectus)化石の研究に基づいて、現生人類というか現代人の起源に関する見解を提示します。次に馬場論文は、頭蓋化石の解釈に関する基礎的認識を整理しているので、以下述べていきます。

 頭蓋の形は、まず咀嚼器として大枠が規定され, 次には脳・眼・鼻のスペースの影響を受け、さらに姿勢との関連で全体的配置が決まります。これらの形態は、「猿人」から「原人」そして「古代型新人」をへて「現代型新人」に至る大きな進化の流れとしては、ほぼ一定傾向の変化を示す、と馬場論文は指摘します。なお、「頑丈型の猿人(パラントロプス属)」は現代人の直接的先祖とは考えられないので省略されています。人類の脳容量は200万年以上前の450mlから現在の約1450mlへと大きく増加します。眼を入れる眼窩はあまり変わりませんが、原人と古代型新人で大きい傾向があります。これは眼球自体のサイズよりも顔面あるいは身体全体のサイズと比例している可能性があります。鼻のスペース(鼻腔)は、吸った空気を暖め湿らせる必要があり、身体のサイズと気候に関係します。ただ、鼻腔のサイズは外鼻の高さとは必ずしも比例しません。咀嚼器の大きさは、脳とは逆に、ほぼ「進化段階」に反比例します。下顎第2大臼歯の近遠心径(前後径)では、変異の幅は広いものの、200万年前頃の「猿人」の15mmから現代人の11mmまで連続的に縮小します。これは、一見するとあまり違わないようですが、咬合面の面積では半分近く、歯の体積ではさらに違いがあります。しかし、顎と咀嚼筋の大きさは必ずしも「進化段階」とは比例せず、「猿人」と「原人」とではほとんど同じで、「古代型新人」以降で急速に退縮します。したがって、歯に比べて咀嚼筋と顎が最も大きいのは「原人」です。頭蓋の後下面の項筋付着部は「原人」が最大で、「古代型新人」が続き、「猿人」と「現代型新人」は小さいと示されています。これは、かつて主張された、前方に突出した顔面を支えるための項の筋肉の発達というよりも、背筋自体の大きさ、すなわち上半身の筋肉の総量、あるいは身体のサイズを反映すると考えるべきです。

 馬場論文はこのように整理した上で、「ジャワ原人」、つまりホモ・エレクトスの化石を検証していきます。ジャワ島のホモ・エレクトスの年代は、馬場論文では100万〜70万年前頃とされています。最近では、ジャワ島におけるホモ・エレクトスの出現年代は、サンギラン(Sangiran)遺跡の人類遺骸に基づいて127万年前頃もしくは145万年前頃以降(Matsu’ura et al., 2020、関連記事)、最後の痕跡は117000〜108000年前頃と(Rizal et al., 2019、関連記事)と推定されていますが、もちろん、この年代が今後訂正される可能性はあります。馬場論文は、ジャワ島のホモ・エレクトスの脳容量が800〜1100mlで、下顎第2大臼歯の近遠心径は12.5〜15mmと変異が大きいことから、2群の集団の混成なのか、進化傾向なのか、単なる個体変異か、あるいは性差なのかが問題となっている、と指摘します。とくに、歯と下顎がきわめて大きい数個の化石は、ジャワ島のホモ・エレクトスとは別のメガントロプスである、との議論が昔からあるものの、確かにこれらの化石は大きいとはいえ、他のジャワ島のホモ・エレクトス化石と比べると、形態は区別できず、大きさも連続的に移行しており、独立した1群を作るとは言えない、と馬場論文は指摘します。最近の研究では、ホモ・エレクトスなどに分類されていた歯や顎の化石の一部は、前期〜中期更新世のアジア南東部における存在が確認されていたホモ属でもオランウータン属でもギガントピテクス属でもない新たなヒト科系統として分類されており、メガントロプス・パレオジャワニカス(Meganthropus palaeojavanicus)というかつての分類名が採用されています(Zanolli et al., 2019、関連記事)。

 ジャワ島のホモ・エレクトスの進化傾向に関して、頭蓋の大部分が保存されているために同一個体と明らかになっている80万年前頃と比較的新しいサンギラン17号は、脳容量が大きくて歯は小さい、と示されています。サンギラン遺跡のホモ・エレクトスは、さかのぼるほど歯は大きい傾向があり、ジャワ島のホモ・エレクトスにおける形態変異は進化傾向によると考えるのが妥当で、個体変異と性差に関しては証拠がほとんどない、と馬場論文は指摘します。ジャワ島中央部のソロ川(Solo River)流域のンガンドン(Ngandong)遺跡で発見されたソロ人は、ジャワ島の最後のホモ・エレクトスとも言われていますが、馬場論文では20万〜10万年前頃(上述のホモ・エレクトスの最後の痕跡に関する研究では117000〜108000年前頃)の「古代型新人」と評価されています。ソロ人は眼窩上隆起や横後頭隆起が発達しているので「原人」的に見えるものの、頭蓋冠が高く脳容量も1200〜1300mlほどになる、と馬場論文は指摘します。

 馬場論文はサンギラン17号の分析結果を報告していますが、その部分的復元は正確とは言い難く、とくに顔面の歪みが大きい、と指摘します。サンギラン17号頭蓋はひじょうに硬くて脆いので、化石を6分割して造った石膏の複製模型を加工し、化石と比較しながら可能な限り正確な復元が行なわれました。サンギラン17号の脳頭蓋は大きく頑丈です。長く幅広いので高さは低く、眼窩上隆起と横後頭隆起そしてブレグマ(頭頂部)が出っ張っているので、横から見た輪郭は菱形に近くなります。脳頭蓋は大きいものの、同時に骨が厚いので、脳容量は1000mlを超える程度しかありません。しかし、「原人」の脳容量が一般的に800〜1200mlであることから判断すると、「進歩的な部類」に属し、脳を入れている脳函自体と眼窩上隆起との分離傾向が弱いことも「進歩的」である、と馬場論文は評価します。

 サンギラン17号では側頭筋が発達しているため、側頭筋の上縁となる側頭稜と下縁となる乳突上稜が突出しています。また、項の筋肉の発達が強いために乳突上稜はさらに発達して横に張り出しています。その結果、後方から見た脳頭蓋輪郭は、低い逆さ台形の上に肩付きテントを張ったような7角形です。このような形態は、脳頭蓋も身体も大きい「進歩的な」原人の典型と言える、と馬場論文は評価します。なお、サンギラン17号の頭蓋の項筋付着部の面積は、20世紀前半の大型力士だった出羽ヶ嶽の頭蓋と同じくらいです。出羽ヶ嶽は元横綱の曙と同じくらいの体格で、普通の人の3倍以上の力があったはずなので、サンギラン17号も、身長は普通ではあるものの、力は曙に匹敵しただろう、と馬場論文は推測します。

 サンギラン17号は、新たな復元により以前とは異なる形態を示します。顔面全体が後方に上方に移動し、脳頭蓋との位置が整えられました。顔面自体も歪みが取れて不足部分も補われたので、顔のイメージが明らかになりました。眼窩上隆起に比べて頬骨の膨隆が目立ち、頬骨下部の幅が著しく大きいので、あまり恐そうな雰囲気ではない、と馬場論文は評価します。鼻は小さくて鼻骨は狭く、ほとんど隆起しません。鼻の穴(梨状口)はいちじるしく低く、口はあまり出っ張っていません。つまり、歯列は現代人に比べれば前進しているものの、頬骨の位置に比べるとあまり前進していないので、顔全体は平坦に見えます。これらの特徴は「モンゴロイ」ド的である、と馬場論文は評価します。また、眼窩が大きいことも併せると、あたかも巨大な幼児の顔面を見ているような印象である、と馬場論文は指摘します。頬骨が頑丈で外側に前方に位置していることは、咬筋のいちじるしい発達を意味しており、咬む力は現代人の5倍はあっただろう、と推測されます。一方、歯は小さく、顔面全体の大きさと頑丈さに比べていちじるしく不均衡な印象を与えます。咀噛力が強い割に歯が減らないという、特殊な食生活の存在が示唆されます。

 多地域進化説の提唱者であるソーン(Alan Thorne)氏とウォルポフ(Milford H. Wolpoff)氏は1981年に、サンギラン17号頭蓋とオーストラリア先住民頭蓋との(分岐系統学的)共有特徴、つまり人類進化の地域固有連続性の根拠を指摘しました。馬場論文は、その12個の特徴のうち、化石の保存状態が悪いためによく確認できなかったものの、復元作業の途中あるいは結果として明らかになった6個の顔面特徴を検討します。サンギラン17号の突顎の程度は強いものの(大後頭孔から鼻根までの距離に対する大後頭孔から中切歯までの距離の百分率である突顎示数は117)、ソーン氏とウォルポフ氏(以下、TW)の復元(示数121.9)よりは弱くなります。TWの復元における突顎の程度が著しすぎる点に関しては多くの批判があり、馬場論文も適当とは評価していません。いずれにせよこの示数117は、オーストラリア先住民を含めた現代人よりも大きく、「原人段階」の状態を表す、と馬場論文は指摘します。

 TWの報告では頬上顎縫合に沿う隆起とされている頬骨(頬上顎)結節は、他の研究では、カストでは見られないと指摘されていますが、ウォルポフ氏は化石には存在すると主張しています。馬場論文は、ヴァイデンライヒ氏が1943年に報告したシナントロプス(いわゆる北京原人)やカブウェ頭蓋のような頬骨外面下部に膨隆する結節は認められなかった、と評価します。カブウェ頭蓋とは1921年に北ローデシア(現在のザンビア)で発見されたブロークンヒル(Broken Hill)頭蓋のことで、年代は30万年前頃と推定されています(Grün et al., 2020、関連記事)。なお、サンギラン17号の頬骨外面最下部には小結節がいくつかありますが、咬筋付着による骨増殖変化と考えられます。頬骨外面下縁の外反は見られませんが、頬骨下部全体が外側に張り出しており、さらに強固な構造を造っているので、下縁の外反と同様なものと見なせるだろう、と馬場論文は評価します。

 眼窩下縁外側部の丸みは、サンギラン17号では眼窩下縁中央部から内側2cmほどに丸みがわずかに認められるだけで、中央部から外側では眼窩入口は鋭い稜となっているので、他の「原人」に見られるような典型的状態とは異なっています。梨状口(鼻の穴)の下面が(境界稜を持たずに)そのまま上顎骨前面に移行することは、梨状口下面にマトリックスが付着しているために部分的にしか確認できませんが、その範囲ではスムースな移行が認められました。上顎臼歯部の歯槽面が強い湾曲をなす点に関しては、サンギラン17号では通常のスピー曲線が認められるだけで、特別の湾曲はありません。なお、TWの復元では歯槽平面が耳眼面に対し強く傾きすぎている、との指摘がありますが、今回の復元では傾斜は緩くなり、通常の範囲に納まっています。

 まとめると、以上の6個の特徴の中で、頬上顎結節と歯槽面の急湾曲は認められず、眼窩下縁外側部の丸みは極めて不明瞭で、突顎はあるものの程度は少なく、頬骨下縁外反と梨状口下縁に境界のない点だけがなんとか認められました。したがって、TWの主張する連続性の基礎となったサンギラン17号の顔面特徴の把握はかなり怪しい、と馬場論文は評価します。馬場氏がこの点をウォルポフ氏に問い質したところ、復元と研究期間が10日しか与えられなかったため、との回答がありました。いずれにしても、サンギラン17号がオーストラリア先住民とのみ系統的に近いという根拠はかなり弱められたと考えるべきだろう、と馬場論文は評価します。他の研究で指摘されているように、ホモ属の中では分岐系統関係を直接判断できる頭蓋形態特徴はほとんどあり得ません。サンギラン17号とアジア東部現代人あるいはオーストラリア先住民との関係を判断するためには、それぞれの特徴の生物学的意味を吟味し、類似傾向を判断することが重要になる、と馬場論文は指摘します。

 サンギラン17号頭蓋の顔面は低く(短く)広いことが特徴です。眼窩と頬骨が大きい割に梨状口と歯が小さく、頬骨が前外側に位置しているため、顔面が平坦です。このような構造の機能的意義は、顎関節を支点としたさいに、歯列に対し咀噛筋(主として咬筋)の位置を近くに(前方に)置いてテコ比をかせぎ、同時に筋肉の断面積を増して咬合圧を高めることです。このような構造は「頑丈型の猿人」にも見られます。しかし、「原人」以降ではアジアの人々にしか見られません。その中でもとくにサンギラン17号は、最も著しい頬骨の発達と平坦性を示すので、アジア人の、あるいは広義の「モンゴロイド」の根幹をなす化石と言える、と馬場論文は評価します。

 それに対して、アフリカおよびヨーロッパの「原人」以降の人々では、顔の中央付近が前方に突出し、頬骨は小さく後退しています。また、一般に顔が高く(長く)、とくにネアンデルタール人では頬骨弓が弓なりに反って上方に位置しています。このような構造は、テコ比の面で咬合圧を高めるには不利ですが、咀嚼筋が歯列に対して相対的に後方に位置しており、咬筋自体も長いため、口を大きく開けることができます。ネアンデルタール人特有の臼歯後隙(第3大臼歯の後ろの下顎枝とのあいだの隙間)も、歯の退化に下顎の退化が追いつかないなどという小理屈をこね回さずに、歯列を咬筋に対し前方に押し出すためと積極的に解釈できる、と馬場論文は指摘します。

 「原人」の時代から現代まで、アジアという東方の地域では頬骨の張った平坦顔が、ヨーロッパとアフリカという西方の地域では頬骨の後退した突出顔が続いてきました。顔の高さ(長さ)の点でも、東方が低くて西方が高い、という傾向があります。「現代型新人」の起源をめぐって、多地域進化説とアフリカ起源説の論争が盛んですが、以上の観点から判断すると、咀嚼機能のパターンの違いに基づく西方と東方の地域の区分はかなり明瞭です。そこで馬場論文は、人類の二地域連続進化説を提唱します(図1)。この仮説の意図するところは大きな区分であり、それぞれの区分の中で部分的な置換が起こったかどうかは問題としません。たとえばヨーロッパ西部では、ネアンデルタール人と現代型新人との問でほぼ全面的な置換が起こった、と馬場論文は想定しています。以下、馬場論文の図1です。
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 人類進化の直接の証拠となる人骨化石はきわめて少ないので、数十万年以上にわたって進化を追えるような地域はほとんどありません。インドネシアでは100万年前頃から現在まで続いているように思われますが、実際は100万〜70万年前頃と20万〜10万年前頃(上述のように、現在ではこの年代は訂正されています)、そして最近1万年だけで、途中は抜けています。しかし、今後の調査研究により空白時期が埋められる可能性は高い、と馬場論文は指摘します。サンギラン17号がアジア人の共通幹との本論文の見解に立てば、「ジャワ原人」は日本人の遠い祖先でもあります。


●現生人類東西二地域進化説の撤回

 以上のように、馬場氏は1993年に現生人類東西二地域進化説を提唱しましたが、2000年刊行の一般向け新書では、アジアの「新人」、つまり現生人類の起源に関して、「ジャワ原人」から進化したのか、アフリカ起源の現生人類が拡散してきたのか、今も議論が続いている、と述べている程度で(馬場.,2000, P151)、強くは主張していません。馬場氏はこの頃には、現生人類東西二地域進化説に懐疑的になっていたのかもしれません。なお、同書は旧石器捏造事件発覚(2000年11月5日)の3ヶ月ほど前に刊行されましたが、東北旧石器文化研究所の「業績」について触れ、「だが一方で、これらの“物証”には、疑問をもつ研究者も少なくない」と指摘しています(馬場.,2000, P159-161)。さらに馬場氏は、山形県寒河江市の富山遺跡について触れ、この遺跡に他の旧石器時代の遺跡のような不自然さがないことを指摘し、研究所の「業績」への疑問を示唆しています。馬場氏は捏造実行者との会話から、すでに捏造発覚以前に研究所の「業績」が怪しいと考えていたそうです(毎日新聞旧石器遺跡取材班.,2001, P220-221)。

 馬場氏が明確に現生人類東西二地域進化説を撤回したのは、ジャワ島のホモ・エレクトスの研究が進展したからでした(馬場.,2005)。馬場氏は2001年秋に保存状態良好なジャワ島のサンブンマチャン(Sambungmacan)遺跡のホモ・エレクトス化石を分析し、これがジャワ島の前期ホモ・エレクトスと後期ホモ・エレクトスの中間の形態を有する、と明らかにしました。つまり、ジャワ島のホモ・エレクトスでは、前期から中期を経て後期へと独自の特徴が発達したわけです。ジャワ島のホモ・エレクトスは他の地域から隔離されと特殊化していったので、特殊化したジャワ島の後期ホモ・エレクトスが短時間でオーストラリア先住民に進化する可能性は事実上ない、と馬場氏は指摘します。馬場氏たちの研究により、現生人類多地域進化説の最後の根拠が否定され、間接的に現生人類アフリカ単一起源説が擁護された、というわけです。なお、その後の研究では、ホモ属頭蓋は大きくエレクトスの系統とサピエンスの系統に区分でき、ジャワ島のホモ・エレクトス化石のうち、前期更新世のトリニール(Trinil)やサンギランの遺骸はエレクトス系統に分類されるものの、後期のガンドン(Ngandong)遺跡とサンブンマチャン遺跡の遺骸はサピエンス系統に分類されています(Zeitoun et al., 2016、関連記事)。ただ、この研究がどこまで妥当なのか、議論があるとは思います。

 現生人類東西二地域進化説の提唱と撤回は、形態学的特徴による区分がいかに難しいのか、改めて示しているように思います。人類化石はたいへん貴重なので、つい過剰に意味づけしようとする心理が作用するのかもしれません。しかし、ひじょうに少ない人類化石を形態学的分析のみで人類進化史において系統的位置づけることは難しく、この点では、1個体からでも保存状態良好ならば膨大な情報が得られるDNA解析には遠く及ばない、と考えるべきなのでしょう。この問題に関しては、以前にまとめたことがあります(関連記事)。

 具体的には、たとえば2006年にモンゴル北東部のサルキート渓谷(Salkhit Valley)で採掘作業中に発見された人類の頭蓋冠は、その形態からネアンデルタール人もしくはホモ・エレクトスに分類される可能性さえ示唆されましたが、遺伝的分析では非アフリカ(出アフリカ)系現代人の変異内に収まり、アジア東部人集団に近いものの、ユーラシア西部集団の遺伝的影響も一定以上受けており、ネアンデルタール人やデニソワ人など非現生人類ホモ属からの遺伝的影響は、近い年代のユーラシア現生人類と変わらない、と明らかになっています(Massilani et al., 2020、関連記事)。中華人民共和国広西チワン族自治区の隆林洞窟(Longlin Cave)では11000年前頃の人類遺骸が発見されており、非アフリカ系現代人の共通祖先とは早期に分岐した現生人類か、非現生人類ホモ属である可能性さえ指摘されていました(Curnoe et al., 2012、関連記事)。しかし、核ゲノム分析から、この隆林個体は明確にユーラシア東部現代人の変異内に位置づけられ、非現生人類ホモ属からの遺伝的影響はとくに高いわけではなくアジア東部現代人と類似している、と明らかになりました(Wang et al., 2021、関連記事)。最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)など気候悪化により人類集団が分断され、ボトルネック(瓶首効果)や新たな環境への適応により形態に大きな違いが生じることは、人類史において珍しくなかったのかもしれません。その意味で、少ない人類遺骸を人類進化に位置づけることには慎重であるべきなのでしょう。


参考文献:
Curnoe D, Xueping J, Herries AIR, Kanning B, Taçon PSC, et al. (2012) Human Remains from the Pleistocene-Holocene Transition of Southwest China Suggest a Complex Evolutionary History for East Asians. PLoS ONE 7(3): e31918.
https://doi.org/10.1371/journal.pone.0031918
関連記事

Fagan BM.著(1997)、河合信和訳『現代人の起源論争 新訂版』(どうぶつ社、原書の刊行は1990年、初版の刊行は1994年)

Grün R. et al.(2020): Dating the skull from Broken Hill, Zambia, and its position in human evolution. Nature, 580, 7803, 372–375.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2165-4
関連記事

Hammer MF. (2013)、『日経サイエンス』編集部訳「混血で勝ち残った人類」篠田謙一編『別冊日経サイエンス194 化石とゲノムで探る 人類の起源と拡散』(日経サイエンス社、初出は『日経サイエンス』2013年11月号)P84-89
関連記事

Massilani D. et al.(2020): Denisovan ancestry and population history of early East Asians. Science, 370, 6516, 579–583.
https://doi.org/10.1126/science.abc1166
関連記事

Matsu’ura S. et al.(2020): Age control of the first appearance datum for Javanese Homo erectus in the Sangiran area. Science, 367, 6474, 210–214.
https://doi.org/10.1126/science.aau8556
関連記事

Rizal Y. et al.(2020): Last appearance of Homo erectus at Ngandong, Java, 117,000–108,000 years ago. Nature, 577, 7790, 381–385.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1863-2
関連記事

Shreeve J.著(1996)、名谷一郎訳『ネアンデルタールの謎』(角川書店、原書の刊行は1995年)

Trinkaus E, and Shipman P.著(1998)、中島健訳『ネアンデルタール人』(青土社、原書の刊行は1992年)

Wang T. et al.(2021): Human population history at the crossroads of East and Southeast Asia since 11,000 years ago. Cell.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2021.05.018
関連記事

Zanolli C. et al.(2019): Evidence for increased hominid diversity in the Early to Middle Pleistocene of Indonesia. Nature Ecology & Evolution, 3, 5, 755–764.
https://doi.org/10.1038/s41559-019-0860-z
関連記事

Zeitoun V, Barriel V, and Widianto H.(2016): Phylogenetic analysis of the calvaria of Homo floresiensis. Comptes Rendus Palevol, 15, 5, 555-568.
https://doi.org/10.1016/j.crpv.2015.12.002
関連記事

篠田謙一(2016)「ホモ・サピエンスの本質をゲノムで探る」『現代思想』第44巻10号P57-67(青土社)
関連記事

馬場悠男(1993)「化石形態から見たアジアにおける人類の進化 ジャワ原人の最近の研究から」『Anthropological Science』101巻5号P465-472
https://doi.org/10.1537/ase.101.465

馬場悠男(2000)『ホモ・サピエンスはどこから来たか』(河出書房新社)

馬場悠男(2005)「意識を持つのは人間だけか」馬場悠男編『別冊日経サイエンス 人間性の進化』P4-8(日経サイエンス社)

毎日新聞旧石器遺跡取材班(2001)『発掘捏造』(毎日新聞社)


https://sicambre.at.webry.info/202107/article_4.html

11. 中川隆[-16407] koaQ7Jey 2021年9月12日 12:47:09 : s7eQxBySSI : UzR1dVVLYS5qbmM=[18] 報告
火の使用の起源
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1699.html
12. 2021年10月05日 09:26:07 : 0sTOkIKxFw : QjgzTzYuTDlwT0U=[5] 報告
2021年10月05日
過去10年の古代ゲノム研究
https://sicambre.at.webry.info/202110/article_5.html


 過去10年の古代ゲノム研究の総説(Liu et al., 2021)が公表されました。本論文は、ひじょうに進展の速いこの分野の過去10年の主要な研究を簡潔に紹介しており、近年の古代ゲノム研究を把握するのにたいへん有益だと思います。2001年にヒトゲノムの概要配列が公開され、分子の観点からのヒト生物学と進化理解向上が約束されました。2000年代半ば以降、高出力配列(HTS)技術の進歩とその後の広範な応用により、迅速で費用効果の高い真核生物のゲノムの配列が可能になり、古代DNAの分野でゲノム時代への道が開かれました。年代の得られた遺伝的データの提供により、古代DNAは現生人類(Homo sapiens)と以前には知られていなかった古代型人口集団との混合を明らかにし(関連記事)、重要な適応的変異の出現を解明し、現生人類の最近の進化的過去に関する長く続いてきた議論に光を当て、継続的に新たな証拠の断片を追加し、過去数万年における過去と現在の人口集団の遺伝的歴史を明らかにしました。

 本論文は、古代DNA研究により明らかにされた世界的な人口集団の移動と、中期更新世から歴史時代の現生人類と非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)の混合および置換を議論し、古代DNAの証拠から得られた洞察に焦点を当てます。本論文は現生人類に加えて、現生人類と最も密接な古代の近縁ホモ属であるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と種区分未定のデニソワ人(Denisovan)についての現在の知識も議論します。ネアンデルタール人(関連記事)もデニソワ人(関連記事)も、ゲノム規模の情報が得られています。本論文で検討された仮説のほとんどは古代人のひじょうに限定的な標本抽出に由来しており、それは、保存状態の良好なヒト半化石(完全に化石化されておらず、内在性の有機分子を含む遺骸)が不足しているからです。

 1980年代後半までに、DNAは生物の死後も長く生き残れるものの、本質的には高度に分解され、化学的に変化する、と示されました。古代DNAを特徴づける初期の試みは、短いDNA断片に限定されていましたが、DNA分解の詳細な理解とともに古代人へのHTS技術の適用により、2010年には3点の概要古代ゲノムの刊行に至りました。それは、ネアンデルタール人とデニソワ人とグリーンランドの4000年前頃の現生人類です。デニソワ人は、古代DNAデータのみを用いることで特定された新たな古代型系統を表します(関連記事)。

 実験室と計算実施要綱の改良により、極端に短い古代DNA断片の回収および識別と、現代の汚染DNA除去の手法が可能となったので、配列された古代人ゲノムの数は指数関数的に増加しました(図1)。これら古代ゲノムにより、古代系統、古代型ホモ属(非現生人類ホモ属)と現生人類、現代の人口集団の遺伝的構成と適応の調査が可能となり、過去数千年にわたる世界中のヒトの遺伝的歴史を垣間見ることができます。以下は本論文の図1です。
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第1部:非現生人類ホモ属と現生人類の相互作用

 上述のように、ネアンデルタール人とデニソワ人のゲノムは2010年に再構築されました。常染色体の分析から、両者は相互に現生人類よりも密接に関連している、と示唆されました。共有された遺伝的多様体の水準から、非現生人類ホモ属は現生人類と55万年前頃に分離し、ネアンデルタール人とデニソワ人は相互に40万年前頃に分岐した(関連記事1および関連記事2および関連記事3)、と推定されました(図2)。

 現生人類とネアンデルタール人およびデニソワ人との遺伝的混合は、広く非アフリカ系現代人で検出されてきましたが、混合の割合と地理的分布は大きく異なります。ネアンデルタール人由来の混合は全ての非アフリカ系現代人で検出されており、アジア東部現代人のゲノム(2.3〜2.6%)にはユーラシア西部現代人のゲノム(1.8〜2.4%)よりも多いネアンデルタール人祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)が含まれますが(関連記事)、最近の研究では、アフリカ人口集団へのユーラシアからの「逆移住」の修正後は、ネアンデルタール人祖先系統の水準の地域差がより小さくなる、と推定されています(関連記事)。

 加えて、一部のアフリカ人口集団は、ネアンデルタール人および現生人類の共通祖先と分岐したより古い古代型系統からの祖先系統を有している、と仮定されました(関連記事)。さらに、ネアンデルタール人とデニソワ人から出アフリカ現生人類への遺伝子移入の複数回の波として、絶滅した古代系統と交配した古代の現生人類(関連記事)が提案されてきました(図2)。これは、現生人類への、デニソワ人からの最大4回の混合の波と、ネアンデルタール人からの最大3回の混合の波推定によって裏づけられており、現代人集団における、低酸素適応関連遺伝子(EPAS1)など適応的ないくつかの遺伝子移入を含む、非現生人類ホモ属に由来するDNAの存在を説明します(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。

 現生人類系統と非現生人類ホモ属系統との間の混合は、双方向で起きたようです。ネアンデルタール人のミトコンドリアDNA(mtDNA)とY染色体は初期現生人類系統に置換され、37万〜22万年前頃の現生人類からネアンデルタール人への遺伝子移入の結果(関連記事1および関連記事2)である可能性が高そうです(図2)。ネアンデルタール人と現生人類の混合は最近では4万年前頃まで起きたと特定されていますが、これらの系統は明らかに現代まで存続していません(関連記事1および関連記事2)。

 また、シベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)で発見された女性個体(デニソワ11号)は、母親がネアンデルタール人で、父親がデニソワ人です(関連記事)。最近の古代型祖先系統と特定された古代の個体数の増加を考えると、過去の人類は頻繁に混合した可能性があり、非現生人類ホモ属と現生人類を異なる系統とみなすべきなのか、むしろ現代人集団の多様性と類似した過去50万年の遺伝的につながった遺伝的多様性の連続体から取られた点とみなすべきなのか、という問題が提起されます(関連記事)。以下は本論文の図2です。
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第2部:現生人類の人口動態


第1章:初期現生人類集団の多様性

第1節:アフリカ

 遺伝的データは現生人類のアフリカ起源を強く裏づけており、初期現生人類集団の形態は更新世アフリカにおける地理的に分散した集団を示唆します。しかし、アフリカの祖先系統の起源を特徴づける単一のモデルを決定することは依然として困難です(関連記事1および関連記事2)。起源地として、アフリカの南部(関連記事)や西部や東部および中央部(関連記事)など、多くの場所が遺伝的多様性と分岐年代の推定から提案されてきました。部分的な現生人類の形態の最初の証拠は現在のモロッコで発見されており、その年代は315000年前頃です(関連記事)。現生人類は相互につながったアフリカ全域の人口集団から出現した、と仮定されていますが(関連記事)、このモデルの検証にはさらなる証拠が必要です。

 25万〜20万年前頃の間に、初期現生人類の祖先系統へと寄与する5つの主要な分枝が短い間に分岐し始めました。第一は、おもにアフリカ南部狩猟採集民に祖先系統をもたらした人口集団です(関連記事)。第二は、おもにアフリカ中央部狩猟採集民に祖先系統をもたらした別の人口集団です(関連記事)。第三は、アフリカ西部人と非アフリカ人とアガウ人(Agaw)などアフリカ東部農耕牧畜民を含む他の人口集団です。第四は、アフリカ西部人およびエチオピア高地のモタ(Mota)洞窟で発見された4500年前頃の男性1個体(関連記事)に祖先系統をもたらした、標本抽出されていない人口集団です。第五は、東西アフリカ人に等しく関連する古代アフリカ北部人口集団で、モロッコのタフォラルト(Taforalt)の更新世遺跡で発見された、現時点で利用可能な最古のアフリカ人のゲノムの祖先系統の約半分に寄与しました(関連記事)。

 あるいは、現生人類の祖先系統の分岐年代は、合着(合祖)に基づく手法を用いると、35万〜26万年前頃と推定されました(関連記事)。8万〜6万年前頃に、非アフリカ人とアフリカ東部人(アフリカ東部の狩猟採集民と農耕牧畜民が含まれます)とアフリカ西部人を表す祖先的人口集団と関わる一連の分岐が、アフリカ東部で起きた可能性があります(関連記事)。非アフリカ人全員の祖先系統の大半は、6万年前頃に始まった世界規模の出アフリカ拡大に由来します(関連記事)。いくつかの遺跡および化石はより早期の拡大を示唆しますが(関連記事)、その年代と現生人類との分類は議論されています。


第2節:ユーラシア

 ゲノムデータが得られているユーラシアの初期現生人類の年代は、45000年前頃までさかのぼります。ユーラシア全域の化石記録は疎らで断片化されたままですが、遺伝的データはいくつかの初期現生人類系統(関連記事)を特定しました(図2)。これらの系統のいくつかは、後の人口集団への検出可能な遺伝的連続性を示しませんが、他の系統は現代の人口集団と遺伝的につながっている可能性があります。現在のロシア(関連記事)とルーマニア(関連記事)とチェコ共和国(関連記事)の4万年以上前の3系統は、現時点では最基底部で最古の現生人類ゲノムを表し、現代の人口集団には遺伝的に寄与しませんでした。なお、本論文ではこのように位置づけられていますが、ルーマニアの4万年以上前の現生人類については、出アフリカ現生人類の最基底部を表すのではなく、ブルガリアの4万年以上前の現生人類集団(関連記事)の(きわめて近縁な集団の)子孫で、現代人ではヨーロッパよりもアジア東部の方と類似している、との見解も提示されています(関連記事)。

 40000〜24000年前頃の他の初期現生人類系統は、遺伝的に現代の人口集団とつながっています。ユーラシア西部現代人で見られる祖先系統のヨーロッパ古代人は、37000〜35000年前頃の個体群に代表されます(関連記事1および関連記事2)。加えて、人口統計学的モデル化では、古代シベリア北部人(ANS)がユーラシア西部人から39000年前頃に分岐したと明らかになり、初期ユーラシア西部人および初期アジア東部人の両方との類似性を示す、と提案されています(関連記事)。さらに、ANSの子孫である古代ユーラシア北部人(ANE)は、ロシアで発見された24000年前頃の1個体で示されるように、アメリカ大陸先住民と密接に関連しています。(関連記事1および関連記事2)。アジア東部では、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体(田園個体)が、アジア東部現代人と関連する人口集団(田園洞集団)を表します(関連記事)。これら初期現生人類に関する現時点での知識は乏しいにも関わらず、ユーラシア全域で経時的に、人口構造が増加し、人口集団の相互作用が大きくなり、より高頻度で移動が起きたことは明らかです。

 ユーラシアの初期現生人類のゲノムの利用可能性の増加に伴い、ユーラシアの更新世人口史がつなぎ合わされ始めつつあります。たとえば、田園洞集団とベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡で発見された35000年前頃の1個体(Goyet Q116-1)に代表される人口集団(ゴイエットQ116-1集団)がどのように遺伝的につながっているのか、不明でした(関連記事)。両人口集団間の物理的距離を考えると、直接的な遺伝子流動の可能性は低そうです。興味深いことに、田園個体とQ116-1の両方とつながる人口集団が、最近ブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)で発見された46000〜43000年前頃の個体群のゲノム分析を通じて明らかにされました(関連記事)。

 遺伝学的および考古学的証拠両方の複素を考えると、直接的に裏づける証拠を得ることは依然としてひじょうに困難ですが、田園洞個体とQ116-1とバチョキロ洞窟個体群に表されるような人口動態は、オーリナシアン(Aurignacian)複合など、初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)文化の同時代の拡大と移行に関連していた可能性が高そうです(関連記事)。なお、本論文はこのように指摘しますが、IUPとオーリナシアンは区別すべきかもしれません(関連記事)。最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)となる、少なくとも一部の初期上部旧石器ユーラシア人口集団は、高い遺伝的多様性と低い変異荷重(人口集団における有害な変異の負荷)を示しますが、多様性減少と関連するボトルネック(瓶首効果)がLGMに伴って北方で起きました(関連記事)。

第2章:LGMにおける人口動態

 本論文は、LGMと一致する人口変化を議論します。LGMは、ヨーロッパとアジア東部とシベリアにおいて過酷な環境条件の期間でした。ヨーロッパでは、ベルギーで発見された35000年前頃の1個体に表される初期人口集団の一つがこの地域から撤退したものの、LGM後の19000年前頃にこの祖先系統を有しているイベリア半島の19000年前頃の個体が、ヨーロッパ南西部で特定されました(関連記事)。LGMの後、さまざまなヨーロッパの退避地の狩猟採集民間で混合が観察されました(関連記事)。

 アジア東部では、田園個体および33000年前頃となるアムール川地域の1個体と関連する祖先系統が、LGMの前にはアジア東部北方全域に広く分布していました(関連記事)。LGM末には、アムール川地域の19000年前頃の1個体と関連して、人口集団の変化が起きたかもしれません。これは、エクトジスプラシンA受容体(EDAR)遺伝子の一塩基多型rs3827760のV370A変異の出現を伴っており、この変異はより太い毛幹やより多くの汗腺やシャベル型切歯などと関連しています(関連記事)。

 ヨーロッパやアジア東部と同様に、更新世のシベリアでも人口集団の変化が起き、シベリアには遅くとも45000年前頃には現生人類が居住していましたが(関連記事)、LGM後には、ANS(およびその子孫のANE)祖先系統を有する人口集団が、古代旧シベリア人(APS)に置換されました。APSはアジア東部古代人とANEとの間の混合により形成され、シベリア北東部からバイカル湖のすぐ南まで分布していました(関連記事1および関連記事2)。

第3章:LGM後の人口動態

 LGM後により温暖化して安定した気候が出現し、この期間の人口動態は一連の急速な拡大と移住と相互作用と置換により特徴づけられます。人口移動のパターンは地域によって異なっており、長期的な人口継続性と内部の相互作用にほぼ限定されるものもあれば(アジア東部本土やオーストラリア)、繰り返し起きる人口集団の混合と置換が支配的なものもあります(ヨーロッパやユーラシア草原地帯)。以下、ほぼ時系列に沿って、主要な人口統計学的事象が地理的に要約されます。しかし、人口史の理解は完全にはほど遠く、将来的にはまだ多くの間隙を埋める必要があります。


第1節:アフリカ

 アフリカ人は現代の人口集団において最も高い遺伝的多様性を有しています。しかし、アフリカの古代DNAの保存状態が悪いため、古代アフリカの人口構造と移動パターンの解明は始まったばかりです(図3)。古代ゲノムから、一部の初期アフリカ人は遺伝的に近東の人口集団とつながっている、と明らかになっており、それはモロッコで発見された15000〜5000年前頃の個体群(関連記事1および関連記事2)と、アフリカ東部および南部の3000〜1000年前頃の個体群(関連記事)により裏づけられます(図3)。5000〜1000年前頃には、サハラ砂漠以南のアフリカにおける牧畜民と農耕民との間の複数の混合事象により、現代のアフリカ東部人口集団が生じました(関連記事1および関連記事2)。

 おそらく、最近のアフリカの人口史における最重要事象は、アフリカ西部関連のバンツー語族話者の拡散でした(図3)。それは世界で起きたと考えられている農耕集団の最大となる既知の拡大事象で(関連記事)、サハラ砂漠以南のアフリカの大半に農耕とアフリカ西部関連祖先系統を拡大させました(関連記事)。さらに、遺伝学的および考古学的証拠は、アフリカの東部から南部への2000年前頃となる牧畜民の拡大(関連記事)を裏づけます(図3)。アフリカの古代ゲノムの利用可能性が限定されており、完新世アフリカ集団間で複雑な遺伝子流動があったため、アフリカ内の人口構造と移動は議論され続けています。以下は本論文の図3です。
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第2節:ヨーロッパ

 古代DNA研究は、ヨーロッパへの農耕拡大と、インド・ヨーロッパ語族(445以上の現存言語と30億人以上の母語話者)など言語を伴う拡大の両方に関する理解を深めました。考古学的証拠から、農耕はヨーロッパ大陸で8500年前頃に始まる新石器時代に拡大した、と示唆されています。しかし、農耕拡大が移民によるのか、それとも着想や文化の横断的伝播だったのか、議論されてきました。古代DNA分析では、近東(アナトリア半島)からの新石器時代農耕集団がヨーロッパ全域に広く拡大し、その後の数千年に中石器時代からのヨーロッパ在来の狩猟採集民と混合した、と示されます。つまり、農耕拡大は着想の伝播よりもむしろ人々の移住による結果だったわけです。近東現代人とのつながりは、すでに早くも14000年前頃にはわずかに観察され、ヨーロッパ現代人の明るい目の色と関連する、HERC2遺伝子(HECTおよびRLDドメイン含有E3ユビキチンタンパク質連結酵素2)の派生アレルの出現と一致します(関連記事)。

 4900年前頃、現在のロシアで確認されたヨーロッパ東部狩猟採集民と、コーカサス狩猟採集民(関連記事)の祖先系統の、少なくとも2つの狩猟採集民祖先系統の混合である、草原地帯関連祖先系統が東西に向かって拡大しました(関連記事)。草原地帯関連祖先系統は、ヤムナヤ(Yamnaya)文化と関連する個体群と最も密接に関連しており、ポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)全域に拡大した文化複合です(図3)。この祖先系統はヨーロッパ中央部に出現し、縄目文土器(Corded Ware)文化と関連する人口集団を4900年前頃に形成しました(関連記事)。

 4600年前頃には、草原地帯関連祖先系統を有する個体群がブリテン諸島に到来し、鐘状ビーカー複合(Bell Beaker Complex)の拡大と一致し、在来の遺伝子プールの90%を数百年以内に置換しました(関連記事)。遺伝学的証拠から、この過程はほぼ男性により推進された、と示唆されています(関連記事)。なぜならば、ブリテン諸島とイベリア半島では、ほぼ全ての後期新石器時代のY染色体がヨーロッパ東部草原地帯関連のY染色体に置換されたからです(関連記事)。したがって古代ゲノムは、ヨーロッパ現代人の祖先系統が3つの主要な遺伝的構成要素から構成されることを明らかにしました。それは、ヨーロッパ狩猟採集民祖先系統と、初期農耕民祖先系統と、草原地帯祖先系統で、ヨーロッパ全域でこれらの祖先系統はさまざまな割合を示します(関連記事)。


第3節:草原地帯とアジア中央部および南部

 上述の草原地帯集団は、ユーラシアの人口動態に重要な役割を果たしました。4900年前頃、草原地帯集団は現在のヨーロッパだけではなく東方にも拡大し、アルタイ山脈の紀元前3300〜紀元前2500年頃となるアファナシェヴォ(Afanasievo)文化と関連する個体群にも遺伝的影響を残しました(関連記事)。この草原地帯関連祖先系統は現在のモンゴル中央部の東方草原地帯に拡大しましたが、それ以上東方には拡大しませんでした(関連記事)。青銅器時代のアジア中央部では、現在のウズベキスタンとトルクメニスタンで見つかっているバクトリア・マルギアナ考古学複合(Bactria-Margiana Archaeological Complex、略してBMAC)の祖先系統は、イラン農耕民(60〜65%)とアファナシェヴォ文化農耕民(20〜25%)の混合で、わずかにシベリア西部狩猟採集民(10%)とアンダマン諸島狩猟採集民(2〜5%)の寄与があります(関連記事)。

 アジア南部では、古代世界で初期の大規模な都市社会となるインダス文化の5000年前頃の個体が、アジア南部現代人にとって最大の祖先系統供給源である人口集団を表します(関連記事)。後に、インダス文化関連人口集団は草原地帯関連祖先系統を有する北西集団および南西部集団と混合し、それぞれ祖型北インド人(Ancestral North Indians、略してANI)と祖型南インド人(Ancestral South Indians、略してASI)が形成されました。ANIとASIの混合は、現在のアジア南部における主要な遺伝的勾配につながりました(関連記事)。アジア南部における草原地帯関連祖先系統は、アジア南部現代人集団の祖先系統に最大30%ほど寄与し、草原地帯の拡大を通じての祖型インド・ヨーロッパ語族拡大の追加の証拠を提供します(関連記事)。


第4節:アジア東部および南東部

 上述のようにモンゴルでは、大きな遺伝的置換がアファナシェヴォ文化牧畜民など草原地帯牧畜民と、匈奴やモンゴルなど酪農牧畜民の拡大および移住と関連しています(関連記事1および関連記事2)。とくに、8000〜6500年前頃の新石器時代人口集団はほぼ完全なアジア東部祖先系統を有しており、草原地帯関連祖先系統は5000年前頃に牧畜民の拡大と共にもたらされました(関連記事1および関連記事2)。その後、モンゴルの人口集団は3400年前頃にヤムナヤ文化およびヨーロッパの農耕民と関連する個体群に由来する祖先系統の混合を示します(関連記事)。東方草原地帯の遊牧民連合である匈奴と関連する個体群は2000年前頃に確立し、モンゴルおよびその周辺地域の人口集団の遺伝子を有していましたが、歴史時代のモンゴル人は、現在のモンゴル語族人口集団と類似した高水準のユーラシア東部祖先系統を有しています(関連記事)。

 アジア東部本土と列島では、新石器時代に多様な遺伝的系統が存在し、アジア東部北方祖先系統や、ホアビン(Hòabìnhian)文化と関連するアジア南東部の古代狩猟採集民祖先や、少なくとも二つの異なるアジア東部南方系統や、日本列島に存在する縄文文化と関連する個体群により最良に示される祖先系統を有する個体群が含まれます(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。アジア東部現代人の最初の分枝となるアジア東部北方人と南方人との間の遺伝的分化は、早くも19000年前頃までさかのぼります(関連記事)。

 新石器時代の後、アジア東部北方祖先系統はアジア東部南方全域に拡大し、アジア東部南方人におけるアジア東部北方人との遺伝的類似性が経時的に増加していきました。南方から北方への遺伝子流動も、北方の漢人集団と一部のアジア東部北方人で特定された、アジア東部南方祖先系統(関連記事1および関連記事2および関連記事3)で見られます(図3)。アジア東部北方では、アムール川流域の14000年前頃の1個体が、シベリアのAPSに寄与したと明らかになっているアジア東部供給源と最も密接に関連しています。アムール川流域では140000年前頃から現在まで、遺伝的連続が維持されています(関連記事)。

 アジア東部南方人とアジア南東部人との間のつながりは複雑です。最近の遺伝学的証拠は、複雑なモデルを示唆します。そのモデルでは、アジア南東部の在来の狩猟採集民がアジア東部農耕民の複数の波と混合し(関連記事)、アジア南東部とアジア東部南方の狩猟採集民間の混合がアジア東部本土の南部地域で検出されており、それは農耕の拡大よりずっと前の9000〜6000年前頃(関連記事)とされています(図3)。アジア東部本土と台湾海峡諸島の人々は、新石器時代オーストロネシア人(11500〜4200年前頃)の祖先と示唆されています(関連記事1および関連記事2)。これら海洋オーストロネシア人は、南東諸島から近オセアニア(ニアオセアニア)へと急速に拡大しました。


第5節:オセアニア

 考古学的証拠では、アジア南東部からの人口集団が5万年前頃以前に最初にサフルランド(更新世の寒冷期にはオーストラリア大陸とニューギニア島とタスマニア島は陸続きでした)に居住した、と示唆されています。オーストラリア大陸では、東西沿岸の49000〜45000年前頃となる単一の急速な移住に続いて人口集団が継続的に存在し、ミトコンドリアゲノム(関連記事)もY染色体(関連記事)も、オーストラリアへのより最近の遺伝子流動を示唆しません(図3)。

 オセアニアの島々では、在来のパプア人が、台湾海峡諸島およびその近隣から拡大した可能性の高そうなオーストロネシア人と遭遇し、移住および混合事象の複数の波が過去数千年以内に起きました(図3)。3200年前頃、ラピタ(Lapita)文化は遠オセアニア(リモートオセアニア)へと拡大し、おもにオーストロネシア人関連祖先系統を有していました(関連記事)。しかし、この祖先系統は2700〜2300年前頃に、現在のバヌアツなどオセアニアの最西端諸島でパプア人関連祖先系統によりほぼ完全に置換され、おそらくはビスマルク諸島やニューギニア北東部からの継続的な遺伝子流動に起因します(関連記事)。

 現在のフィリピンからミクロネシアのマリアナ諸島への追加の移住が提案されており(関連記事)、オセアニアの移住の複雑さを浮き彫りにします(図3)。過去千年、ポリネシア人関連祖先系統の流入がバヌアツの人々で検出されました(関連記事)。ポリネシア人がアメリカ大陸先住民と混合したのかどうかは、依然として議論の余地があります。現代人のゲノム分析では、ポリネシア人は南アメリカ大陸先住民と800年前頃に接触した、と示唆されますが(関連記事)、別の研究はこの仮説を支持していません(関連記事)。


第6節:シベリア

 上述のようにシベリアでは、APS系統がシベリア東部のコリマ川(Kolyma River)遺跡の9800年前頃の1個体(関連記事)と、バイカル湖の14000年前頃の1個体(関連記事)により最もよく表されます(図3)。APSに加えて、アジア東部人と、ANE系統と関連する人口集団との間の混合を通じて形成された他の系統が、基底部アメリカ大陸先住民分枝を形成し、その子孫はベーリンジア(ベーリング陸橋)を渡って最終的にはアメリカ大陸に到達しました(関連記事)。APS祖先系統を有する個体群は、チュクチ人(Chukchi)やコリャーク人(Koryak)やイテリメン人(Itelmen)などシベリア北東部の現代人集団の祖先で、アメリカ大陸外ではアメリカ大陸先住民の最も近縁な集団を表します(関連記事)。

 前期〜中期完新世のシベリア東部では、APS関連人口集団が新シベリア人に置換されました。新シベリア人はおもにアジア東部祖先系統を有しており、さまざまな割合のユーラシア西部草原地帯関連祖先系統が伴います。前期新石器時代から青銅器時代まで、バイカル湖では遺伝的移行が起こり、アムール川流域からのアジア東部祖先系統とANE関連祖先系統との間の長い遺伝子流動と関連しています(関連記事)。


第7節:アメリカ大陸

 シベリアで基底部アメリカ大陸先住民分枝が形成された後、ベーリンジアの最初の移住は停止しました(関連記事)。北アメリカ大陸先住民(NNA)と南アメリカ大陸先住民(SNA)の共通祖先は、アラスカで発見された11500年前頃の個体により最もよく表される古代ベーリンジア人と分岐しました(関連記事)。アメリカ合衆国モンタナ州のアンジック(Anzick)遺跡で発見された12800年前頃の子供1個体(関連記事)により示唆されるように(関連記事)、17500〜14600年前頃、NNAとSNAはおそらく北アメリカ大陸の氷床の南側で相互に分岐した可能性が高そうです。アンジック遺跡は、北アメリカ大陸で定義された最古の広範な考古学的複合であるクローヴィス(Clovis)複合と関連しています。このアメリカ大陸の南北系統の分岐後、NNA祖先系統は北アメリカ大陸北部に限定されました。北アメリカ大陸では9000年前頃以前に、NNA集団とSNA集団との間の混合により、9000年前頃のケネウィック(Kennewick)人(関連記事)と古代アルゴンキン人(Algonquians)が生まれました。

 SNAはアメリカ大陸全域に広範かつ急速に拡大し、これは13000〜10000年前頃となる南北アメリカ大陸の古代ゲノム間の遺伝的類似性(関連記事)により裏づけられます(図3)。アンジック遺跡個体がアルゼンチンとブラジルと地理の古代の個体群とさまざまな水準の類似性を有していることから、南アメリカ大陸へのSNAの拡散は少なくとも2回の波で起きたかもしれません。5000年前頃、アメリカ大陸北極圏の大半に居住していたのは旧イヌイットで(図3)、旧イヌイットは800年前頃に現在のイヌイットおよびユピク(Yup’ik)の祖先である「新イヌイット」系統によりほぼ置換されました(関連記事)。

第3部:今後の展望

 最初のヒトゲノムのアセンブリは技術的進歩を促進し、古代DNAを用いて人類史の理解を深めることが可能となりました。6000点以上の古代ゲノムがこれまでに再構築されましたが、まだ人類史の表面をひっかいただけであり、多くの間隙が埋められていないままです。利用可能性と保存に違いがあるため、古代ゲノムの大半、とくに3万年以上前のものはユーラシア北部に由来し、アフリカとアジアとアメリカ大陸とオセアニアの標本抽出は限定的です。したがって、これらの地域から古代ゲノムを得ることに注力すべきです。技術的および計算上の改善も、古代ゲノム利用の能力を拡張する、と期待されます。欠落情報の補完は、断片的な遺伝的データを補完する強力な手段で、堆積物からの古代DNAの捕獲により、半化石に依存しない古代DNAの回収が可能となり、古代DNA研究の資料の利用可能性を大きく向上させます。

 研究者は、古代人からプロテオーム解析(プロテオミクス)や同位体や微生物叢やエピジェネティクスのデータを回収することに取り組んでおり、古代DNA分野の範囲をさらに補完します。最近、100万年以上前の大型動物からDNAを得ることに成功しており(関連記事)、近い将来、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人だけではなく、まだゲノム情報が得られていない絶滅ホモ属のより深い進化の道筋を再構築できる可能性が高まっています。これらゲノムのあり得る供給源には、中国で発見され新たに報告された、種区分について議論が続いている化石(関連記事)も含まれます。

 人類史についての知識の増加とは別に、過去10年の古代DNA研究は、ヒト生物学の理解への洞察も明らかにしてきました。たとえば、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)重症化の主要な遺伝的危険要因は、ネアンデルタール人から継承されました(関連記事)。遺伝子編集技術の進歩により、今や古代ゲノムから特定された適応的多様体を特徴づける準備が整っており、進化が現代人のゲノム構造をどのように形成したのか、よりよく理解できるようになりつつあります。

 最後に、我々の過去は、我々が新たな課題にどのように向き合うべきか導き、気候変動と世界的流行病の教訓を提供します。遺伝学的および考古学的証拠では、ヒトがひじょうに過酷な北極圏の条件を含むさまざまな環境を、探索し、生き残り、居住していった、と示唆されます。過去、とくにLGMに遭遇したような困難な状況の詳細な再構築は、極限環境へのヒトの適応を解明するのに役立つでしょう。本論文はヒトの進化に焦点を当てていますが、ヒトの病原体の古代DNA研究は、経時的な病原体の進化および宿主と病原体の相互作用について情報を提供し、感染性病原体へのヒトの適応をよりよく理解する見込みを示します。毎年分析されている古代ゲノム数の増加はヒトの過去の多くの物語を明らかにし、その知識はヒトの未来を受け入れるための指針にもなるでしょう。


参考文献:
Liu Y. et al.(2021): Insights into human history from the first decade of ancient human genomics. Science, 373, 6562, 1479–1484.
https://doi.org/10.1126/science.abi8202

https://sicambre.at.webry.info/202110/article_5.html

13. 中川隆[-15959] koaQ7Jey 2021年10月19日 10:47:02 : NSadpLBCCE : REV6MjFxMWtja2s=[11] 報告
雑記帳
2021年10月19日
河野礼子「猿人とはどんな人類だったのか 最古の人類」
https://sicambre.at.webry.info/202110/article_19.html

 井原泰雄、梅ア昌裕、米田穣編『人間の本質にせまる科学 自然人類学の挑戦』所収の論文です。本論文はまず、「猿人」について定義します。霊長類で人類の身体的独自性を3点に集約すると、直立二足歩行に適した全身、拡大した脳、縮小した犬歯となり、「猿人」を簡単に言うと、脳が拡大していない人類となります。また、現代人も含まれるホモ属とは別属に分類される人類全てのことでもあります。現代人は分類学的には、霊長目真猿下目ヒト上科ヒト科ホモ属サピエンス種(Homo sapiens)と位置づけられます。霊長目は全ての霊長類を、真猿下目はニホンザルやリスザルなどのサルらしいサルを含み、ヒト上科(Hominoidea)には現生および絶滅したヒトと(非ヒト)類人猿が全て含まれます。

 ヒト科(Hominidae)の定義は多少ややこしく、従来はチンパンジーとの共通祖先から分岐して以後のヒトの系統ほうべてヒト科としてきましたが、DNA研究の進展などにより、ヒトとチンパンジーの違いがごくわずかと示され、科の水準では区分できないのではないか、と議論されるようになりました。現在では、ヒト科にチンパンジーとゴリラも含める立場がどちらかと言えば優勢で、その立場では従来のヒト科を一つ下の分類階級のヒト族(Hominini)として扱います。しかし、オランウータンまでヒト科に含める意見や、従来的な定義の方が適切との立場もあり、広く合意が形成されているわけではありません。

 「猿人」というまとまりは正式な分類群ではなく、元々英語の「ape man」に対応した訳語として「猿人」という用語になりましたが、英語圏では現時点でこの「猿人」に対応した用語は正式には使われておらず、つまり日本独自の用語です(関連記事)。これは、新たな属名や種名がさまざまに提唱されたり、既存の分類群の定義について研究者間で見解が異なったりする場合などもある状況で、ある進化段階を表す名称が実用的で便利なので、慣例的に用いられ続けている、という事情のためです。同じ理由でホモ属についても、段階を表す用語として「原人」と「旧人」と「新人」という表現が慣例的に用いられています。

 本論文は「猿人」を3集団に大別します。まずは「初期猿人」で、1990年代以降に化石が発見されるようになった、400万年以上前の人類化石で、アウストラロピテクス属には含まれない、それ以前の人類となります。次に、狭義のアウストラロピテクス属です。最後に、「猿人」独自の特徴である咀嚼器官の発達がとりわけ顕著な3種から構成される「頑丈型猿人」です。「頑丈型猿人」は、属の水準ではアウストラロピテクス属とは別のパラントロプス属に分類されることもあります。狭義のアウストラロピテクス属は頑丈型に対して華奢型と呼ばれることもありましたが、現代人との比較では「猿人」全体で咀嚼器官が発達しているので、華奢とは言えません。現在では、頑丈型に対して「非頑丈型」と呼ばれることもあります。以下基本的に、「猿人」を「」でくくらず、類人猿は非ヒト類人猿を示します。


●初期猿人

 初期猿人は、サヘラントロプス・チャデンシス(Sahelanthropus tchadensis)、オロリン・トゥゲネンシス(Orrorin tugenensis)、アルディピテクス・カダバ(Ardipithecus kadabba)、アルディピテクス・ラミダス(Ardipithecus ramidus)の4種です。サヘラントロプス・チャデンシスは、現時点で最古となる人類(候補)化石で、アフリカ中央部のチャドの砂漠地帯で発見され、トゥーマイと呼ばれる頭骨化石が基準標本です。この化石が発見された地域には放射性年代測定法の適用可能な火山性堆積物が存在しないので、推定年代は他地域との化石動物層の対比に基づいており、700万〜600万年前頃ですが、その後の研究では704万±18万年前と推定されています(関連記事)。トゥーマイの頭骨の下面には脳から体へ神経をつなぐ脊髄の出入口である大後頭孔という直径3〜4cmの穴があり、この穴が下方を向いているので、サヘラントロプス・チャデンシスが直立二足歩行していたことを示す、と解釈されていますが、異論もあります。

 現時点でアフリカ東部最古となる人類(候補)は、ケニアのトゥゲン丘陵で発見されたオロリン・トゥゲネンシスの化石です。その年代は、放射性年代測定法により600万年前頃と推定されています。オロリン・トゥゲネンシスの化石では、大腿骨近位半や上腕骨遠位半などの四肢骨片、下顎骨片、遊離歯などが報告されています。大腿骨近位半は3標本あり、大腿骨頸断面の緻密骨分布パターンが類人猿よりも人類に近いことなどから、オロリン・トゥゲネンシスも直立二足歩行だった、と指摘されています。

 1990年代に400万年以上前の人類(候補)化石として最初に発見されたのはアルディピテクス・ラミダスでした。当初はアウストラロピテクス属の一種として報告されましたが、アウストラロピテクス属とは明瞭に異なる進化段階にあるとして、アルディピテクス属に分類されました。2009年にはアルディピテクス・ラミダスの包括的な分析結果が公表されました(関連記事)。この包括的な分析に基づくと、アルディピテクス・ラミダスは腰や足部の骨の形状から地上では直立二足歩行だったと考えられますが、後の人類とは異なり拇指対向性を残していたので、樹上ニッチ(生態的地位)も完全には放棄していなかったようです。アルディピテクス・ラミダスの歯や顎は特殊化しておらず、果実やその他さまざまな食料を利用するジェネラリスト(万能家)だった、と推測されます。アルディピテクス・ラミダスの犬歯の大きさについては、発見されている20個体分以上が全て雌のチンパンジー程度、雄相当の大きなものが含まれないため、確率論的に雌雄の差はほぼなくなっていた、と推測されています。つまり、直立二足歩行への移行と犬歯の小型化がすでに始まっている人類だった、というわけです。アルディピテクス属には、ラミダスよりも古い年代の別種としてカダバも報告されています。ラミダスと比較すると資料は少なめですが、より大きな犬歯など、ラミダスの前段階である特徴が認められます。

 これら初期の猿人各種については、発見されたのが比較的最近ということもあり、相互比較研究などはさほど進んでいません。そのため、これら3属がじっさいに別の属として成立するのかどうか、といった観点の検討は今後の課題となりそうです。属の水準では全て同じでよいという結論になる可能性もあるものの、その場合は先に命名された属名に先取権があるため、全てアルディピテクス属に含められることになります。


●アフリカ東部の狭義のアウストラロピテクス属

 アウストラロピテクス属の既知の最古種は、アルディピテクス属と同じく1990年代に報告されたアウストラロピテクス・アナメンシス(Australopithecus anamensis)です。アウストラロピテクス・アナメンシスは大きな臼歯列などアウストラロピテクス属の特徴を示すことから、既知のアウストラロピテクス属と属の水準で区別する必要はなく、おそらくアウストラロピテクス・アファレンシス(Australopithecus afarensis)の祖先だろう、と推測されました。最近、エチオピアのウォランソミル(Woranso-Mille)研究地域で発見された380万年前頃の頭骨(MRD-VP-1/1、以下MRDと省略)が、犬歯の形態などに基づいて、アウストラロピテクス・アナメンシスに分類されました(関連記事)。MRDには脳頭蓋が前後に長細いというサヘラントロプス属に似た祖先的特徴と、頬骨が前方へ向くという頑丈型猿人とも似た派生的特徴とが混在する、と報告されています。アナメンシスはアファレンシスと共存していた可能性も指摘されており、猿人進化に関する理解が、一段と進むことも混迷することもありそうです。

 アウストラロピテクス・アファレンシスは猿人を代表する種の一つで、現在のエチオピアとケニアとタンザニアにまたがる広範な地域から化石が出土し、資料数も多いことから、猿人像についての知見のかなりはアファレンシス化石の研究により明らかになった、と言えます。ルーシーと呼ばれるアファレンシスの有名な部分骨格標本(A.L. 288-1)や、一地点からまとまって発見されたために「最初の家族」と呼ばれる化石群など、アファレンシス化石の9割近くはエチオピアのハダール(Hadar)で得られていますが、基準標本に指定されたのはタンザニアのラエトリ(Laetoli)で発見された下顎骨です。また、チャドで発見され、アウストラロピテクス・バーレルガザリ(Australopithecus bahrelghazali)という新種として報告された下顎骨標本も、形態的にはアファレンシスの変異の範疇に収まる、と考えられています。ケニアで発見され、アウストラロピテクス属とは別属とされたケニアントロプス・プラティオプス(Kenyanthropus platyops)化石については、中心的標本である頭骨の保存状態が悪いため、同年代のアファレンシスの違いが確定的とは言えないようです。

 エチオピアのウォランソミルでは、新たなアウストラロピテクス属化石(上下の顎骨数点)が報告されており、新種のアウストラロピテクス・デイレメダ(Australopithecus deyiremeda)と命名されました(関連記事)。デイレメダはアファレンシスと年代が重なり、発見場所も近いものの、臼歯列が小さめであることや顎骨の形態などに基づいて、新種と判断されました。これらの化石が発見されたウォランソミルのブルテレ地点では、それ以前に猿人の足部の化石が発見されており、拇指対向性が見られることから、アファレンシスと同年代にアルディピテクス属のような形態を有する別種の存在が示唆されていました(関連記事)。ウォランソミルの歯や顎がアファレンシスとは種の水準で異なると言えるのか、判断は難しく、またデイレメダとその足部化石との対応関係は確認できていません。


●アウストラロピテクス・アフリカヌス

 上述の猿人化石はいずれもアフリカ東部と中央部で発見されましたが、アフリカ南部でもアウストラロピテクス属化石が発見されており、最初に発見された猿人は現在の南アフリカ共和国で発見されたアウストラロピテクス・アフリカヌス(Australopithecus africanus)化石でした。ただ、類人猿とヒトの中間的特徴を示すこの化石が報告された1925年には、後に捏造が発覚するピルトダウン人に学界の関心が集中しており、単なる類人猿の化石と考えられ、その意義は軽視されました。ピルトダウン人は、現代人的な脳と類人猿的な咀嚼器官を有する人類の祖先がヨーロッパで進化した、という当時の人類進化観に当てはまっており、逆に脳はヒトより小さいものの、咀嚼器官はヒト的な人類の祖先がアフリカ南部に存在した、という見解はなかなか受け入れられませんでした。アウストラロピテクス・アフリカヌスが人類の祖先として受け入れられるようになったのは、発表から20年近く経ってからでした。

 アフリカヌス化石は南アフリカ共和国のスタークフォンテン(Sterkfontein)洞窟やマカパンスガット(Makapansgat)で発見されており、とくにスタークフォンテンではかなりの点数が見つかっています。アフリカヌスはアファレンシスとともに猿人の代表種と言えますが、スタークフォンテンで発見された複数個体分の部分骨格はいずれも、頭骨と確実にセットになっていません。アフリカヌスの形態では個体変異が大きく、2種以上が含まれる可能性も指摘されていますが、明瞭な境界の定義も難しいので、アフリカヌスとしてまとめられています。

 アフリカヌスの系統的位置づけについては、アファレンシスから進化した、との見解以外にも、アファレンシスより祖先的とか、ホモ属の祖先とか、ホモ属と頑丈型猿人であるパラントロプス(もしくはアウストラロピテクス)・ロブストス(Paranthropus robustus)両者の祖先であるとか、さまざまな見解が提示されています。こうした議論の錯綜は、アフリカ南部の化石は基本的に洞窟堆積物から発見され、放射性年代測定によるアフリカ東部の化石よりも年代推定が難しく、揺れ幅が大きい、という事情も少なからず影響しています。

 スタークフォンテンでは、堆積物に全身骨格化石(90%以上の保存状態)が存在する、と1997年に確認されて以降、20年にわたって発掘作業が続けられ、最近になって化石の掘り出しと洗浄がほぼ完了し、分析結果が報告され始めています。この化石はリトルフット(StW 573)と呼ばれており、アフリカヌスの発見地点よりも下層で発見され、その年代は360万年前頃と推定されていますが、280万年前頃以降との見解も提示されています(関連記事)。リトルフットにはアフリカヌスとは異なる形態的特徴が認められ、アフリカヌスとは別種と判断されています。ただ、新種ではなく、20世紀半ばに提案されたアウストラロピテクス・プロメテウス(Australopithecus prometheus)に分類されています。


●頑丈型猿人

 アナメンシス以降のアウストラロピテクス属各種は、犬歯よりも後方の臼歯列、つまり小臼歯と大臼歯が大きく、表面を覆うエナメル質が厚いなど、全体的に咀嚼器官が発達しています。とくに顕著に咀嚼器官が発達しているのが、頑丈型と呼ばれる猿人です。頑丈型猿人では3種が存在します。頑丈型猿人はアファレンシスやアフリカヌスとは明らかに異なる進化段階を示していると考えられるので、アウストラロピテクス属とは別属のパラントロプス属と分類することが多くなっています。しかし、頑丈型猿人3種の系統関係が完全には解明されていない現状では、アウストラロピテクス属から独立させることの妥当性も担保されていないので、アウストラロピテクス属に分類する立場もあります。本論文は、基本的に頑丈型猿人をアウストラロピテクス属に分類しています。

 頑丈型猿人3種のうち最古はパラントロプス(アウストラロピテクス)・エチオピクス(Paranthropus aethiopicus)で、おもにアフリカ東部のエチオピアとケニアで化石が発見されています。資料数はあまり多くないものの、ケニアのトゥルカナ(Turkana)湖西岸でブラックスカルと呼ばれるほぼ完全な頭骨化石(KNM-WT 17000)が発見されています。この頭骨化石は、広くて平たい顔面部と突出した上顎が特徴で、歯はほとんど残っていないものの、歯根などから臼歯列はひじょうに大きかった、と推測されます。

 アフリカではもう1種の頑丈型猿人が確認されており、それはパラントロプス(アウストラロピテクス)・ボイセイ(Paranthropus boisei)です。ボイセイはおそらくエチオピクスから進化史、より咀嚼器官が発達した、と考えられます。ボイセイ化石で最良の保存状態の頭骨(OH5標本)は、アフリカ東部の猿人化石で最初に発見されました。OH5標本は、「皿状」とも評される顔面部と、分厚いエナメル質で表面を覆われたひじょうに大きな臼歯列が特徴的です。ボイセイ化石はアフリカ東部のエチオピアとケニアとタンザニアにまたがる広範囲で比較的多く発見されています。ボイセイは、下顎骨か大きくしっかりとしており、頭骨にはその下顎を動かすための強大な咀嚼筋の付着部となる骨の出っ張り(矢状稜)などが著しく発達し、顔面が平坦で皿状とも言われ、臼歯列の各歯のサイズはエチオピクスや同じく頑丈型猿人のパラントロプス(アウストラロピテクス)・ロブストス(Paranthropus robustus)と比較しても多くいものの、切歯と犬歯は相対的のみならず実寸でも著しく小さくなっている、といった共通の特徴が認められ、種としてのまとまりが分かりやすくなっています。ただ、エチオピア南部のコンソ(Konso)で発見された140万年前頃の頭骨化石には、エチオピクスやロブストスと類似する特徴が混在するので、種内変異もそれなりにあった、と推測されています。

 アフリカ南部で発見された頑丈型猿人がロブストスで、頑丈型猿人としては最初に発見されました。ロブストスは1930年代にクロムドライ(Kromdraai)で頭骨化石などが発見されて以降、スワートクランズ(Swartkrans)やドリモレン(Drimolen)などで数百点の化石が見つかっています。ロブストスは、咀嚼器官が発達している点ではアフリカ東部の2種(エチオピクスとボイセイ)と共通しており、ロブストスの方がエチオピクスよりも派生的で年代も後なので、頑丈型猿人3種はエチオピクスを祖先種とするクレード(単系統群)と考えるのが最も自然です。しかし、アフリカ南部のアフリカヌスとロブストスの間に共通点も見られることから、頑丈型猿人がアフリカの東部と南部で別々に進化した可能性(関連記事)も完全には否定されていません。

 頑丈型猿人で最も後まで存在したと考えられるのはボイセイで、ボイセイで最新の化石はコンソで発見されており、年代は140万年前頃です。これは猿人化石全体でも最も新しい年代で、ボイセイは最後の猿人と言えそうです。アフリカ東部では140万〜100まの化石産地があまり存在しないので、遅くとも100万年前頃までに猿人は絶滅したことになのそうです。ボイセイは230万年前頃かそれ以前から存在が確認されており、少なくとも100万年近く存続したことになります。コンソで発見された化石から、ボイセイのある程度の種内変異が示唆されるものの、100万年間に起き得る進化としてはさほど大きくなく、かなり安定した種と言えそうです。同年代にホモ属も存在しており、ボイセイは種間競争に敗れて最終的に絶滅したかもしれませんが、100万年続いてからの絶滅なので、惨めな敗者というよりは、随分長く頑張った種と言えそうです。


●ホモ属の起源と関連しているかもしれない猿人

 猿人の次に現代人も含まれるホモ属が(一定期間共存しつつ)登場しますが、猿人のうちどの種がホモ属の直接的祖先となったのか、明確ではありません。ホモ属とつながりがあると報告された猿人には、アウストラロピテクス・ガルヒ(Australopithecus garhi)とアウストラロピテクス・セディバ(Australopithecus sediba)があります。ガルヒの化石はエチオピアのミドル・アワシュで発見され、年代は250万年前頃です。ガルヒの頭骨は頑丈型猿人には似ていないため、同年代のエチオピクスとは別種で、四肢の長さの比率が猿人よりも現代人に近いことと、同じ遺跡から石器による傷のついた動物化石が発見されたことから、ホモ属の祖先と主張されています。ガルヒは、エチオピクスとは別種でありながら、歯が全体的に大きく、この時代に咀嚼器官の頑丈化が複数系統で起きた可能性も指摘されています。

 セディバは南アフリカ共和国のマラパ(Malapa)遺跡でのみ発見されており(関連記事)、年代は200万年前頃です。セディバは同年代のロブストスと違って歯が小さくホモ属的ではあるものの、ホモ属にしては頭骨が小さく、脳の発達の気配がまったく見られないため、アウストラロピテクス属の新種と判断されたようです。セディバは2個体分の部分骨格化石が発見されており、腰骨などには現代人に近い特徴が見られますが、足部の骨には祖先的特徴も見られます。バーガー(Lee Rogers Berger)氏などセディバを報告した研究者は、セディバが猿人の中で最もホモ属に近い種と主張しますが、200万年前頃ではホモ属の祖先となるには遅すぎるので、あまり説得力はありません。セディバについては、アフリカヌスの生き残りという見解や、ホモ属に分類すべきといった、さまざまな見解が提示されています。

 ホモ属の起源について最古の証拠は、エチオピアのハダールで発見された233万年前頃の上顎骨とされてきました。しかし、同じアファール地域のレディゲラル(Ledi-Geraru)調査区域で発見された、5個の歯の残っている左側下顎が、最古のホモ属ではないか、と主張されています(関連記事)。この化石の年代は280万年前頃で、ホモ属の起源が一気にさかのぼった、とも評価されましたが、脳容量は不明で、歯や顎の化石でホモ属と判断するのは難しく、ホモ属出現の年代や場所の絞り込みは容易ではありません。また、「ホモ属の直前」といった特徴を示す猿人化石が発見されない限り、特定の猿人とホモ属との系統関係を確実に示すのは困難です。仮に「ホモ属の直前」の化石が発見されても、それがホモ属なのか猿人なのか判断するのは難しそうで、系統関係や分岐年代については、ある程度の解像度以上には明らかにできないかもしれません。


●猿人の特徴

 アファレンシスやアフリカヌスといった狭義のアウストラロピテクスの特徴は、直立二足歩行と犬歯サイズはヒト的であるものの、脳容量と四肢の比率は類人猿的で、ヒト的でも類人猿的でもない独自の特徴は、咀嚼器官が発達していたことです。猿人の直立二足歩行について、現代人との比較では見解が一致していないものの、直立二足歩行していたことは疑われていません。直立二足歩行への適応を示す特徴は、腰や大腿や膝や足部の骨の形状などに広く認められます。幅広で低い骨盤は類人猿よりもヒト的で直立姿勢を示唆し、大腿骨も股関節から膝にかけて傾くことにより直立姿勢で体の重心を体のましたに近づけるという、ヒト的特徴が認められます。

 類人猿の足は、手と同じように親指が他の指と向き合って物を掴める、すなわち把握性がありますが、ヒトでは足の親指は他の4本の指と並列しており横にはほとんど向かないため、上手く物を掴めません。猿人の足はこの点でヒト的です(例外が上述のブルテレ標本)。さらに、ヒトの足は縦方向にアーチを形成する点で類人猿と異なっていますが、猿人の足にも同様のアーチ構造が認められ、このアーチが歩行時の着地から蹴り出しにかけて効果的に体重移動をすると同時に、体重を支えるクッションのように機能していた、と考えられます。猿人の直立二足歩行の直接的証拠としては、タンザニアで発見された366万年前頃の足跡があります(関連記事)。

 このように猿人の直立二足歩行は確実と考えられますが、身体比率では猿人は類人猿的だったようです。類人猿は基本的に下肢に対して相対的に腕(上肢)が長いのに対して、現代人では相対的に下肢が長く、歩幅をかせいでいます。猿人は上肢が下肢に対して相対的に長く、この点ではヒトより類人猿に近かったようです。とくに、肘から先の前腕と手が相対的に長くなっています。猿人は現代人と比較して、身長が低かったようです。こうした身体比や全身像の検討には同一個体の化石が必要なので、多くの見解がアファレンシスの全身骨格(A.L. 288-1標本)の研究に基づいています。しかし、化石はなかなかまとまって見つからないので、難しい面もあります。

 一方、頭部については、全体的にヒトより類人猿的な特徴が多く見られます。まず、頭蓋内腔容量(脳サイズ)は375〜550㎤と小さく、現生類人猿と本質的に違わない、と言えます。顔面についても、眼窩の上の出っ張り(眼窩上隆起)が発達しており、上顎部分が前方へ突出しているなど、明らかに現代人より類人猿に似ています。ただ、上述の大後頭孔が類人猿と比較して頭蓋底のより前方にあり、首を動かす筋肉が付着する項平面が下方を向いている点などはヒト的で、これらも直立二足歩行と関連する特徴と理解されています。

 猿人の咀嚼器官については、頭蓋の咀嚼筋付着部が全体的によく発達しており、咀嚼力が強かった、と推測されます。上顎も下顎もがっしりとしており、とくに下顎骨の歯の生えている部分である下顎体は分厚く、下顎枝と呼ばれる工法の垂直部分は高くなっています。歯については、臼歯列、とくに大臼歯が大きく、歯冠表面のエナメル質も厚くなっています。一方、歯の中でも犬歯は咀嚼とは別の観点で重要です。類人猿の犬歯は三角錐型で尖っており、上下の犬歯の三角の一辺同士が擦れあって研がれるように減っていきますが、ヒトの犬歯は切歯とあまり違わない形で、他の歯と同じように先端からすり減ります。また類人猿は雌の犬歯もヒトより大きいものの、雄の犬歯はずば抜けて大きく、性差が著しいことも特徴です。類人猿の雄の犬歯が大きいことは、雄同士の競争が激しいことと関連していると考えられるので、犬歯サイズと性差の程度には社会の在り方が反映されている、と予測されます。

 猿人の犬歯は現代人と比較して大きく、個体によっては類人猿的に上顎歯列に下顎犬歯が収まるための隙間(歯隙)が認められます。しかし、類人猿と比較して猿人の犬歯はずっと小さく、目立ったサイズの性差も見られません。歯冠の形も三角錐というよりは先の尖ったヘラ状に近く、ヘラの先端から擦り減っていく点でもヒト的です。こうした犬歯の特徴から、猿人社会は類人猿と比較して雄間競争が激しくなかった、と想定されます。猿人では、犬歯サイズの性差は小さいものの、身体サイズの性差は大きかった、との指摘もあり、確かに現代人よりは性差があったにしても、類人猿ほどではなかった、との分析結果もあります。現代人でも同性内の個体差はそれなりに大きく、限られた点数しか見つからない化石の比較で個体差と性差をどこまで正確に評価できるのかは、難しい問題です。

 こうした特徴一式を仮に猿人の「典型」と考えると、初期の猿人と頑丈型猿人の違いも見えてきます。初期猿人では、犬歯がもう少し大きくて小型化の程度がもう少し前の段階にあったことと、咀嚼器官の発達が進んでいなかったことと、直立二足歩行をしていたものの足に拇指対向性が見られるなど樹上も生活空間として利用されていただろう、といったことが挙げられます。一方、「後期猿人」とも言うべき頑丈型猿人では、咀嚼器官のさらなる発達が独自の特徴で、咀嚼筋の一つである側頭筋の付着面積をかせぐための骨稜がよく発達しており。皿状の顔面も強大な咀嚼筋の付着領域や咀嚼力に対する強度の確保と関連して発達した、と考えられます。大臼歯はさらに大きくなり、小臼歯も「大臼歯化」するなど、咀嚼の必要性がひじょうに大きかった、と推測されます。頑丈型猿人の身体サイズはアファレンシスやアフリカヌスと本質的には違わなかった、と推測されています。ボイセイやロブストスは初期ホモ属と共存していたので、四肢骨化石が見つかっても、どちらなのか明瞭に区別することは難しく、逆に「頑丈」なのは咀嚼器官だけだったようです。


●猿人の進化の背景

 猿人の進化の背景としても二つの観点が着目されます。まず、人類の最大の特徴とも言うべき直立二足歩行の起源についてです。これについては古くからさまざまな理由が提案されてきました。たとえば、物の運搬、草原で見晴らしがよくなる、エネルギー効率がよい、といったものです。とくに、草原に生活域が移ったことで直立したとする「サバンナ仮説」や、その発展形で、大地溝帯の隆起によりアフリカの東西で環境が異なるようになったからとする「イーストサイドストーリー」が一時は有力でした。しかし、初期猿人化石が発見されていくにつれて、人類の起源がさかのぼり、初期猿人化石の発見地の古環境が必ずしも乾燥した草原とは言えないと明らかになり、これらの仮説の論拠は弱まりました。現在では、ラブジョイ(Claude Owen Lovejoy)氏の「食料供給仮説(プレゼント仮説)」が一定の説得力を有するようになっています。

 食料供給仮説では、直立二足歩行の起源と犬歯の小型化が同時に説明されます。現生チンパンジーにおいて雄間の競争が激しいのは、複雄複雌の群れにおいて性皮が膨張した発情中の雌をめぐってのことですが、ヒトの女性では発情中も周囲にはそうだと分からず、本人にも分かりません。発情中か否かが明示的でないと、なるべく多くの雌と発情の時期を狙って交尾するという雄の繁殖戦略が成り立たず、数は少なくなっても特定の相手を常時確保する方が戦略として有効となり得るため、雌雄ペアのつがい型、一夫一妻型社会が生じ得ます。雄同士の競争が不要になると巨大な犬歯の必要がなくなるので、犬歯が小型化します。一方、複雄複雌の群れからつがい型に移行することで、雄にとって自身の子であるかどうか判断できるようになり、小に食料を持ってくる行動が適応的に有利となり、食料運搬に適した移動様式として直立二足歩行が適応的に有利になった、というわけです。アルディピテクス・ラミダス化石などの研究により、初期猿人が本格的に草原に出る前に二足歩行を始めていたらしいことや、犬歯の小型化も同時に早くから進行していたことが明らかとなり、かなりの説得力があるように思われる食料供給仮説には批判も多いようで、広く合意が得られているとは言えないようです。

 次に、咀嚼器官の発達についてです。まず、アウストラロピテクス属全体として咀嚼器官が発達したのは、初期猿人の段階からアウストラロピテクスへの移行が、樹上空間と決別して本格的に草原、つまりサバンナへ進出し、地上での直立二足歩行に特化していくことを意味していると考えれば、サバンナで得られる食料に対して有利だったから、と解釈できます。頑丈型猿人においてさらに咀嚼器官の発達度合いが強化されたことも、ある意味ではその延長として理解できます。頑丈型猿人が出現した300万〜250万年前頃は、地球規模の寒冷化が進行し、アフリカにおいても乾燥化が進み、一段と草原が広がった時期とされています。このような環境変化により食料が乏しくなる中、咀嚼器官の発達によりしのいだのが頑丈型猿人だろう、というわけです。一方、同じ状況下で咀嚼器官の発達の代わりに道具製作・作用行動を進化させた系統があり、これがホモ属の祖先になったと考えられます。道具使用の証拠としては、エチオピアのゴナ(Gona)で発見された260万年前頃の石器群が最古とされており、ホモ属出現の時期にも合致します。しかし最近になって、330万年前頃の石器が発見されたとの報告もあるので(関連記事)、石器=ホモ属とは断定できません。

 この点に関して、アルディピテクス・ラミダスを含む視野で見れば、アウストラロピテクス属自体がホモ属への移行の準備段階で、形態的には祖先的なアウストラロピテクス属自体において、ホモ属を特徴づける道具使用行動や社会性や認知的行動の複雑化が萌芽的に存在していたに違いない、との指摘もあります。この指摘に基づけば、アウストラロピテクス属とホモ属との間には大きな段差があるのではなく、ある程度連続的な変化であって問題ないわけで、最古の石器の証拠が少々古くさかのぼっても、とくに不思議ではないかもしれません。


参考文献:
河野礼子(2021)「猿人とはどんな人類だったのか 最古の人類」井原泰雄、梅ア昌裕、米田穣編『人間の本質にせまる科学 自然人類学の挑戦』(東京大学出版会)第2章P23-40


https://sicambre.at.webry.info/202110/article_19.html

14. 2021年10月26日 09:01:46 : Axx9xfYkCA : aUhHZUxLMDhkcGM=[8] 報告
2021年10月26日
海部陽介「ホモ属の「繁栄」 人類史の視点から」
https://sicambre.at.webry.info/202110/article_26.html

 井原泰雄、梅ア昌裕、米田穣編『人間の本質にせまる科学 自然人類学の挑戦』所収の論文です。国連推計では2019年の世界人口は約77億人で、増加率は鈍化してきているとは、今後も増加し、2050年には約97億人に達すると予測されています。人類がこうした「繁栄」を示すようになった理由と時期、その過程で身体と社会はどう変わってきたのか、といった答えは全て人類進化史にあります。本論文は、広域分布と均一性という、現生人類(Homo sapiens)のきわだつ二つの特質に注目しながら、ホモ属の人類史を概観します。

 現生人類は人類の1種で世界中に分布しており、これは完新世最初期から同様です。しかし、他の生物は異なります。現生人類のように、異なる気候帯や植生帯、広大な海をまたいで地球上のほぼ全ての陸地に分布している動物は、他にはいません。さらに、これだけ広域分布しながら1種であることも、現生人類の不思議な側面です。広域分布する哺乳類として、たとえばタイリクオオカミ(Canis lupus)はかつてユーラシアと北アメリカ大陸の大半に生息していましたが、基本的には北半球の動物で、北半球でもアジア南東部の熱帯雨林やアフリカ大陸には存在しませんでした。動物たち通常、広域分布するようになると多様な種に分化していきます。移動性の低い小型種ほどその傾向は顕著で、たとえば南極を除く全世界に分布するネズミ目の種数は2000から3000と推測されています。ヒトを宿主とする病原体ならば爆発的に広がる機会があるでしょうが、現生動物種では、自力で地球全体へと広がることがいかに困難なのか、了解されます。

 霊長類(霊長目)では、これがより明確になります、現生人類霊長類は200〜500種と推測されていますが、基本的には亜熱帯の森林を生活域にしています。霊長類の中には草原に適応した分類群もいますが、砂漠や高緯度地域には進出できませんでした。しかし、現生人類の分布域は、1種だけでこれら200種以上よりもはるかに広くなります。人類が、いつからどのようにして世界へ広がったのか、その過程で何が起こったのか、本論文は概観します。


●ホモ属の出現

 700万〜350万年前頃の「初期の猿人」や420万〜140万年前頃の「狭義のアウストラロピテクス属」および「頑丈型の猿人」では、直立二足歩行が進化して地上への進出が強化され、330万年前頃には初歩的な石器が使い始められていた、と考えられています(関連記事)。しかし、これらの人類の脳サイズは現生大型類人猿並で、顔面や体系などの各所に(非ヒト)類人猿的要素が色濃く残っており、その長い歴史において最後まで故郷のアフリカを出ることはありませんでした。

 そうした人類進化史に大きな変化が現れ始めたのは300万〜200万年前頃で、アフリカ東部のこの時期の地層からは、歯や顎がやや小型化し、脳サイズは「猿人」よりも明らかに大きい人類化石が発見されています。このように頭骨と歯に「ヒトらしさ」が現れた人類はホモ属と分類され、「猿人」とは区別されています。日本では、このホモ属の祖先的集団をまとめて「原人」と呼ぶことが慣例となっています。「原人」はアフリカ東部に生息していた「猿人」から派生したと考えられますが、現時点では300万〜200万年前頃の人類化石の発見例が少なく、その出現期の詳細について不明点が多いものの、以下の3点が重要です。

 まず、この時期は地球史における第四紀氷河時代の始まりに相当し、アフリカでは古土壌の安定同位体や哺乳類の種構成などに、森林が減少し、草原が広がった痕跡を読み取れます。つまり、気候の乾燥化と植生の変化の中で、そこに暮らしていた人類は食性など生存戦略の変化を迫られたはずで、その新たな選択圧下でホモ属が出現したようです。

 次に、石器の増加が注目されます。当時の主要な石器は、拳大の円礫の一部を打ち割って刃をつけた単純なもので、その石器製作伝統はオルドワン(Oldowan)、その特徴的石器はオルドヴァイ型石器と呼ばれますが、それがアフリカ東部の260万年前頃以降の地層から散発的に見つかるようになります。同時に、動物骨に石器で切りつけた解体痕(cut marks)の発見例が増えることから、「原人」たちは石器で動物を解体し、肉食の頻度を増やしていたようです。おそらく石器の使用と肉食への移行と脳の増大と歯の小型化には相互関連性があり、たとえば肉食による消化器官の負担軽減がエネルギーコスト面での脳の増大化への道を開いた、とする仮説が有力視されています。

 最後に、この時期に生存していた人類が「原人」だけではなかったことです。ホモ属の登場と時期を同じくして、アフリカ東部には臼歯と顎が極端に大型化した、「頑丈型猿人(パラントロプス属)」が出現します。「頑丈型猿人」では脳サイズの変化は微増程度に留まっており、ホモ属とは別の道を歩んだ人類だった、と示されます。しかし、「頑丈型猿人」は当時のアフリカにおいて弱小なそんざいではなく、アフリカでは東部から南部まで化石が多数見つかっており、140万年前頃に化石記録が途絶えるまでは、一つの勢力としてホモ属と長期にわたって共存していました。

 初期「原人」については、分類をめぐって長く論争が続いています。一部の研究者は、1964年に提唱されたホモ・ハビリス(Homo habilis)以外に、アフリカ東部には複数の初期ホモ属種が共存し、複雑な進化を遂げたと主張していますが、他の研究者は、それは種内の個体変異を過大評価しているにすぎない、と考えています。こうした論争を決着させる新たな化石の発見他のため、アフリカでは各国の研究者が調査を続けています。


●「原人」の出アフリカ

 アフリカに登場した初期「原人」のホモ・ハビリスは比較的小柄で、脳サイズも現生人類の半分程度(約640cc)でした。近年、化石骨や石器の年代整理が進んだことで、「原人」のその後の進化について、一つの傾向が浮き彫りになりつつあります。それは、175万年前頃に、「原人」の身体と石器文化に大きな変化が現れたことです。175万年前頃を境に、脳サイズが約850ccと一層大きくなり、身長も現代人並に高くなったホモ属化石が見つかるようになります。専門家はこの人類をホモ・エレクトス(Homo erectus)に分類していますが、アフリカのホモ属をエルガスター(Homo ergaster)と分類する見解もあります。ホモ・エレクトスの脳は現代人の2/3程度の大きさでしたが、現代人的な脚長の体型や股関節の構造などから、長距離走や投擲が特異なヒト特有の運動機能を発達させ、さらに発汗により効果的に体温を冷却するヒト的生理機構が進化していた、と推測されています。

 ホモ・エレクトスの登場と同じ頃に、アシューリアン(Acheulian)と呼ばれる新たな石器文化が出現しました。その代表的石器はアシュール型ハンドアックス(握斧)と呼ばれる大型の打製石器で、左右や表裏に対称性があり、土掘りや動物の解体など、多様に用いられていたようです。アシューリアン(アシュール文化)の石器はその後、経時的にさらに洗練されていきました。

 「原人」の出アフリカについて、20世紀の人類進化学の教科書では100万年前頃に初めてユーラシアへと広がった、と書かれていましたが、その後の発見と研究により、出アフリカはもっと古い、と明らかになってきました。黒海とカスピ海に挟まれたジョージア(グルジア)のドマニシ(Dmanisi)遺跡では、185万年前頃にさかのぼるオルドヴァイ型石器と、178万年前頃の「原人」化石が大量に発掘されています。ドマニシ遺跡の「原人」は、報告者たちによりホモ・エレクトスに分類されていますが、その頭骨は実際にはかなり祖先的で、既知のホモ・ハビリスとホモ・エレクトスの中間的特徴を示しています。ドマニシ「原人」は人類化石として現時点ではユーラシア(非アフリカ地域)最古となり、脳が大きくないといった祖先的特徴を備えています。

 ドマニシ遺跡を越えて西方に広がるヨーロッパでは、60万年以上前となる古い人類遺跡の発見例が乏しいものの、見つかった石器はオルドヴァイ型です。現時点では、スペインで見つかった78万年前頃の子供の頭骨や、120万年前頃とされる断片的な下顎骨化石が知られていますが、これらの人類化石と既知の「原人」との関連性は明らかではあれません。

 アジア東方で最古の人類遺跡は中国北部の陝西省藍田県(Lantian County)公王嶺(Gongwangling)の近くにある尚晨(Shangchen)に位置し、人類化石は出土していないものの、ドマニシ遺跡より古い212万年前頃の地層でオルドヴァイ型石器が発見されており、中国北部では、その他にも170万〜120万年前頃になるかもしれない石器が、いくつかの遺跡で見つかっています(関連記事)。

 中国での発見事例を考えると、より温暖なアジア南部および南東部にも、200万年前頃に「原人」が進出していたとして不思議ではありませんが、現時点ではその証拠はほぼ皆無です。インドネシアの「ジャワ原人」については、最古の年代が127万年前頃もしくは145万年前頃以降と推定されています(関連記事)。ただ、その化石にはかなり祖先的な特徴があるので、アジア南東部大陸部に200万年前頃に進出していた古い「原人」集団が、大陸部と接続したり切断されたりを繰り返していたジャワ島へ渡るのに数十万年かかった、と想定することもできます。


●アジアにおける「原人」と「旧人」の多様化

 アジアに広がった人類からその後、ホモ・エレクトスの地域集団である「ジャワ原人」や「北京原人」が派生しました。かつて、最初にアジア東方へ広がったのはこのホモ・エレクトスで、その後100万年間近く、アジア東方にはホモ・エレクトス以外の人類は存在しなかった、と考えられていました。しかし近年になってアジア東方において、これまで人類化石が確認されていなかった地域で新たに人類化石が複数発見されています。

 ジャワ島のフローレス島では、2003年に10万〜5万年前頃(報告当初は18000年前頃と推定されました)の地層から新種の「原人」化石が発見され、新種ホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)と命名されました(関連記事)。これが大きな話題となったのは、身長が105cm程度とひじょうに小型で、脳サイズもチンパンジー並だったからです。過去200万〜5万年前頃に、人類の身体および脳サイズは大きくなる傾向にありましたが、「フローレス原人」はこの傾向に明らかに反しています。フローレス「原人」の起源については激しい議論が続いていますが、本論文は「ジャワ原人」起源説を主張します。その根拠は、「フローレス原人」の諸特徴が「ジャワ原人」と酷似しており、それ以上の祖先性は認められない、という形態解析結果です。この見解が正しいならば、身長165cmで脳サイズ860cc程度の110万年前頃の「ジャワ原人」の状態から、身長105cmで脳サイズ426cc程度の「フローレス原人」の状態まで、劇的な矮小化が起きたことになります。そうした極端な進化はあり得ない、との見解もありますが、最近になってフローレス島で70万年前頃の人類化石が発見されたことにより、「ジャワ原人」起源説が改めて指示されました(関連記事)。

 過去の海水準変動でアジア大陸部と接続・文壇を繰り返したジャワ島とは異なり、フローレス島はずっと孤立した島でした。動物学では、そうした島で動物の身体サイズや脳サイズに劇的な変化が起こり得る、と知られており、島嶼効果(島嶼化)と呼ばれています。フローレス島でもそれが起こり得ることは、フローレス島のゾウ類がウシのサイズに縮小している事実からも裏付けられます。「フローレス原人」の発見は、人類といえども、島嶼化のような動物進化の法則から独立しているわけではない、と改めて研究者に突きつけました。2019年には、ルソン島北部のカラオ洞窟(Callao Cave)で発見された人類化石が矮小化した「原人」と判明した、と報告されました(関連記事)。この「原人」は新種ホモ・ルゾネンシス(Homo luzonensis)と命名され、島環境における特殊な人類進化がさらに注目されました。

 台湾の西側の海底では、漁船の底引き網にかかって人類の下顎骨化石が発見され(澎湖人)、その年代は間接的証拠から45万年前頃以降で、おそらく19万年前頃よりも新しい、と推測されています(関連記事)。この下顎骨は頑丈で歯が大きい点で、より古い80万〜75万年前頃の「ジャワ原人」や「北京原人」よりも祖先的に見えます。「原人」の歯と顎は経時的に小型化していく傾向にあるので、「北京原人」も「ジャワ原人」も澎湖人の祖先とは考えにくく、両者とは異なる系統の人類がアジア大陸の辺縁部に存在したことを示唆します。

 現在はロシア領となるシベリア南部のアルタイ地方は、モンゴルと中国とカザフスタンの国境が入れ乱れる地域の付近に位置します。アルタイ山脈には古い人類遺跡のある洞窟がいくつか知られており、その一部は化石とDNA解析からネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と同定されました。さらに、現生人類ともネアンデルタール人とも異なる人類の存在が明らかになり、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)と呼ばれています(関連記事)。デニソワ人はDNAから同定された初めての人類で、その素性はまだよく分かっていません。その後、チベット高原で発見された人類化石がタンパク質の総体(プロテオーム)の解析によりデニソワ人と明らかになっており(関連記事)、チベット高原の洞窟堆積物ではデニソワ人のミトコンドリアDNA(mtDNA)が確認されています(関連記事)。デニソワ人の遺伝的影響は、現代人でもアルタイ山脈やチベット高原から遠く離れたオセアニアおよびアジア南東部島嶼部の一部集団でとくに高いと示されており(関連記事)、その解釈をめぐって研究が続けられています。

 このように新たな化石の発見と分析技術の進歩により、ホモ属の進化史はじゅうらいの認識よりも多様で複雑だった、と明らかになりつつあります。その状況は、「原人」よりも派生的な形態特徴を有する「旧人」が現れてからも、おそらくは変わっていません。おそらくヨーロッパでは60万年前頃以降、アジア東部では30万年前頃以降に「旧人」が出現し、ともに5万〜4万年前頃まで存続していた可能性があります。しかし、その時点でアジア辺縁部にはなおも「原人」系統が存在しており、人類進化史の複雑性とともに、現生人類しか存在しない現代が特異な時代であることを示します。


●現生人類の出現

 上述のように、5万年前頃までの地球上において人類はかなり多様で、世界の異なる場所には異なる種が存続しているのは普通でした。それから状況は大きく変わり、「原人」も「旧人」もいなくなり、現在では現生人類1種だけが、かつての人類の分布域を大きく越えて世界中で暮らしています。この激変を説明する理論が、現生人類アフリカ単一起源説です。1980年代頃までの学界では、多地域進化説が一定の影響力を有していました。多地域進化説では、これは、アフリカとユーラシア各地へ広がった「原人」の子孫たちが、隣接集団間の遺伝子交換により進化の方向性を共有しつつ、基本的に各地域で「旧人」を経て現代人へと進化した、と想定されました。これに対して現生人類アフリカ単一起源説では、現生人類がアフリカの「旧人」集団から進化して世界各地へ広がった、と想定されます。

 2000年代以降、現生人類アフリカ単一起源説は遺伝学(ゲノムデータに基づく系統樹では、現代人は全員20万〜10万年前頃にアフリカで派生したと示されます)や化石形態学(現代人と同様の形態特徴を有する化石頭骨は、30万〜15万年前頃にアフリカで最初に出現します)や考古学(装飾品や模様などの「先進的」行動はアフリカで最初に始まります)など、さまざまな証拠により固められ、定説となりました。現生人類の起源が明らかにされたことで、現生人類の歴史を本格的に語る枠組みが得られました。これまでの歴史叙述の多くは「文明」の誕生と発展に力点を置いてきましたが、人類史は「文明」誕生以前から始まっており、地域によっては「文明」とは縁遠い暮らしを続けてきた人々もいます。そうした全ての人々を視野に含めた歴史を語るならば、現生人類自身の歴史にもめを向けるべきで、現生人類アフリカ単一起源説の確立を受けて、今はそれが可能となっています。近年脚光を浴びている「グローバルヒストリー」の背景には、こうした流れがあります。


●世界へ広がった現生人類

 「原人」や「旧人」はユーラシアへと拡散したとはいえ、その分布域は世界の陸域の半分にも満たないものでした。「原人」や「旧人」のそれ以上の拡散を何が阻んでいたのか、逆にそれを突破した現生人類の新規性がどこにあるのかを、読み取れます。遺跡証拠に基づく現生人類の拡散経路の復元地図は直接的証拠なので、遺伝学に基づくそれよりも確度が高くなります。現生人類が世界へ広がった最終氷期後半(5万〜1万年前頃)は、海水面が最大で現在よりも125〜130m下がっていました。

 現生人類の出アフリカの年代については、10万年前頃や7万年前頃や5万年前頃などの仮説がありますが、現代人の系譜へとつながるユーラシア全土への本格的な拡散が始まったのは、5万年前頃以降の上部旧石器時代(後期旧石器時代)です。その時点で、ユーラシアの中〜低緯度地域には多様な「原人」や「旧人」の先住者がいましたが、なぜかこの時期にその大多数は姿を消しました。アフリカからユーラシアへと拡散していった現生人類は、ネアンデルタール人やデニソワ人などと部分的に混血したことが、化石人類および現代人のゲノム解析から判明しており、非アフリカ系現代人は、そうした非現生人類ホモ属由来のゲノムを数%程度継承しています。

 出アフリカ後の現生人類は、直ちに「原人」や「旧人」の分布域全体へ広がり、さらにその先の無人領域へと拡散しましたるまず、何らかの舟で西インドネシアの海に進出した現生人類集団が、ニューギニアやオーストラリアへ到達しました。そのような海洋進出は、やがて西太平洋のアジア大陸部辺縁地域に転がり、38000〜35000年前頃には対馬海峡や台湾沖の海を越えて、日本列島への移住を果たした集団が現れました。島へ渡った現生人類は、海洋航海に限らず、いくつかの新規的行動の痕跡を残しています。たとえば本州や九州では、現時点で最古となる3万年以上前の狩猟用落とし穴(罠猟の証拠)が多数発見されています。沖縄島南部のサキタリ洞遺跡からは、現時点で世界最古となる23000年前頃の釣り針が発見されました。世界最大級の海流である黒潮が行く手を阻み、島が水平線の向こうに見えないほど遠い台湾から与那国島への海峡を、丸木舟で渡る実験航海では、古来の航海術で45時間かけて与那国島へたどり着けました。

 アジア大陸内陸部では、同じ頃にシベリアへの現生人類の進出が始まっていました。現生人類は45000年前頃には、バイカル湖の南側の「旧人」生息域の本源に達し、32000年前頃までには、それをはるかに超えて現在の北極海沿岸にまで進出しています。その背景には、寒さに耐えるための住居建設、裁縫による毛皮の衣服、食料や道具素材の貯蔵など新たな技術開発がありました。シベリアの奥地へ到達した現生人類集団の一部は、やがてアラスカへと進出し、さらにアメリカ大陸へと広がっていきました。

 こうして最終氷期が終わって気候の温暖化が顕著になる1万年前頃までに、南極大陸を除く全ての大陸が現生人類の分布域となりました。その後、一部地域で農耕が始まって新石器時代になると、より規模の大きい海洋進出が始まり。3500〜1000年前頃には、木造の大型帆つきカヌーを有する集団が出現し、アジア南東部を起点に太平洋の中央に位置するポリネシアや、インド洋のマダガスカル島に拡散しました。

 このように現生人類は、ヨーロッパで「大航海時代」が始まるずっと前から、南極を除く地球上のほぼ全ての陸域で暮らすようになっていました。その拡散の様相をたどると、他の動物とは異なる現生人類の特異性が浮き彫りになります。他の動物が新たな環境に進出するさい、身体構造の進化を伴うのが普通ですが、現生人類は海を越えるために舟を発明し、寒さに耐えるために他の動物の毛皮を利用するというように、技術と文化でそれを解決しました。


●現代人の多様性の逆説

 20世紀後半以降に急速に発展した人類遺伝学は、現生人類アフリカ単一起源説の確立に大きく貢献しましたが、その他に重要な発見が一つあり、それは、外見から受ける印象とは異なり、現生人類の遺伝的多様性は低い、ということです。世界各地の現代人は、肌の色や体型や顔や髪質などでかなりの多様性を示すので、外見からその人の出身地を大まかに言い当てることもできます。一方でチンパンジーには、現代人の視点ではそれほど外見の多様性はありません。しかし、非ヒト類人猿と現代人のゲノムの比較では、現代人の方が遺伝的多様性は低く、これは、現生人類は誕生(より正確には現代人の遺伝的分化の開始)以降の歴史が浅い、と示します。このように、見かけと遺伝的多様性の様相が相反することを「現代人多様性の逆説」と呼びます。

 この逆説の理由は、現生人類が急速に世界へと拡散したことと関連しています。つまり、気温や日照条件などが異なる各地へ拡散した現生人類は、各地に適応するような選択圧が作用し、関連する一部の遺伝子が変異して(あるいは非現生人類ホモ属から適応的な変異を得て)外見上の多様性が生まれました。具体的には、肌の色は紫外線照射量と相関しており、身長や体型もある程度は気温と関連している、と示されています。現生人類では、一部の遺伝子が多様化して見かけの集団間の多様性が生まれましたが、ゲノム全体の種内多様性は低く、この逆説を正しく認識することは現代社会において有益です。現生人類は視覚で判断する性向を有するので、外見が異なる他者を異質と決めつけて排除してしまう危険性があります。これは無用な差別の温床になり得るので、これを避けるには、個々人が多様性の実態を理解しなければなりません。


●世界拡散以後の四つの革命

 現在、多様な現生人類の言語や文化が存在しますが、これも上部旧石器時代以降の歴史の産物です。古代「文明」以降、そうした文化の地域的多様性はさらに増し(と本論文は指摘しますが、「文明」以降、逆に均質化が進んだのではないか、と私は考えています)、やがて支配する集団と支配される集団の関係が生まれました。しかし、こうした差異を集団の優劣の反映と安直に考えるべきではありません。「グローバルヒストリー」の観点から、どの地域でどのような文化が生まれるかは、その集団の移住先の地政学的要因や歴史に強く作用される、との認識が提示されています。こうした文化や社会体制の多様化の経緯も、上述の身体形質とともに、現生人類の歴史として理解すべきです。異文化に敬意を抱き、多文化共生を目指すならば、そうした姿勢が必須となるでしょう。

 進化ではなく歴史が社会を変えてきた具体例として、人類史でよく知られたいくつかの「革命」があります。それは、認知革命や農業(食料生産)革命や産業革命や情報革命などです。千年単位の長い過程の結果である農耕の発生に革命という呼称は相応しくない、との見解もありますが、興味深いのは、革命により生じた文脈です。認知革命の定義はあいまいですが、一般的には、創造力や想像力や認識力や言語による複雑な情報伝達力や未来予見性や計画力にたけた、現生人類の認知能力の進化を指しています。農業革命と産業革命と情報革命は現生人類の世界への拡散後に生じたもので、認知能力の進化を伴うわけではありません。それは、食料生産や工業生産や情報技術のどれも、発明者から近隣集団へとすぐに伝わったことからも明らかです。

 つまり、現生人類は特別な進化なしに、過去5万年間に技術や社会体制を飛躍的に発展させました。考古学によると、そうした大変革の萌芽はすでに上部旧石器時代に存在しており、文化が地域的多様化や時代的変遷を示すことは、上部旧石器文化の特徴の一つと把握されており、たとえばヨーロッパ西部の上部旧石器文化は、オーリナシアン(Aurignacian)やグラヴェティアン(Gravettian)など細分化され、日本列島の後期旧石器時代も前半と後半と末期では様相が異なります。つまり、先代の技術や知識を継承しながら次々と発展させていく行為そのものが、現生人類の特徴と言えます。進化していく過程で新たなものを獲得する他の生物とは異なり、独自に歴史を創出して変えていくのが現生人類で、上部旧石器時代の世界規模の拡散もそうして達成されました。現生人類はこうした能力を共有していますが、各地域の歴史的経緯が異なったので、文化や暮らし方は多様になりました。


●現生人類の功罪

 このように右肩上がりの発展と多様化を遂げてきた現生人類ですが、今やその行動には、有用と判断した動植物の生育を制御し、有害と判断した生物を排除し、陸の地形を変え、気候に影響を及ぼし、海にも宇宙にも廃棄物があるなど、自然を左右するほどの影響力があります。その功罪一覧は膨大になるでしょうが、人類史の視点から二つ挙げると、大絶滅および「文明病」と呼ばれる疾患です。現生人類が世界各地へ拡散した更新世末には大絶滅が起きたとされており、ユーラシアの非現生人類ホモ属とともに、各地の大型哺乳類や地上性鳥類が次々と絶滅しました。気候変動がその絶滅の一部を説明できるかもしれませんが、現生人類に大きな責任があることは否定できないようです。絶滅の影響は、それまで無人だったオーストラリアやアメリカ大陸などでとくに大きく、日本列島でも、ナウマンゾウやケナガマンモスやステップバイソンやオオツノジカやヒョウなどが、現生人類の到来後に消滅しました。つまり、現生人類による環境破壊は上部旧石器時代から始まっていたわけです。

 「文明病」と呼ばれる一連の疾患には、高血圧や心筋梗塞や虫歯などがあり、食生活の変化に起因します。1990年代末に登場した進化(ダーウィン)医学では、これが身体と生活環境の不一致という視点で解釈されます。つまり、現生人類にとって最適な食生活とは、長期にわたる旧石器時代の狩猟採集生活に合うよう調整されてきたはずなのに、「文明」の発展に伴って環境が急激に変わり、祖先がおそらく経験しなかった、飽食や糖分の過剰摂取が容易な社会を形成してしまい、その環境に身体がついていけずに生じている新たな病的状態が一連の文明病である、というわけです。このように人類史の次元で歴史を把握し直すことにより、現代人は自身の再発見の機会を得られます。そのため、学際的な人類史のさらに詳しい復元が今後も必要となるでしょう。


参考文献:
海部陽介(2021)「ホモ属の「繁栄」 人類史の視点から」井原泰雄、梅ア昌裕、米田穣編『人間の本質にせまる科学 自然人類学の挑戦』(東京大学出版会)第3章P43-58

古人類学
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2021年10月25日

大河ドラマ『青天を衝け』第32回「栄一、銀行を作る」
大河ドラマ
 大蔵省を辞めた栄一は銀行作りに奔走し、第一国立銀行の設立に関わって総監役に就任します。官界でも民間でもそれぞれ違う苦労があるもので、それぞれの立場に応じて栄一の才覚と苦労が描かれており、よいと思います。民間に転じた栄一は癖のある人物相手に苦労が多いものの、それを楽しんでもいるように見えます。今回新たに登場した岩崎弥太郎は、ひじょうに癖のある人物として描かれるようで、まだ栄一とは会っていませんが、二人の対面というか対決は後半の見どころの一つになるのではないか、と期待しています。

 今回は栄一の家庭場面の描写が長めで、家庭場面を描くことにやたら否定的な大河ドラマ愛好者もいるようですが、世相の変化も台詞で自然に示されていましたし、何よりも栄一の母親の退場ですから、長めでよかったのではないか、と思います。史実がどうだったのか知りませんが、本作では栄一は両親に恵まれています。気になるのは、相変わらず大久保利通が悪役寄りの小物のように見えることで、今後、大物政治家としての側面が描かれるのでしょうか。

https://sicambre.at.webry.info/202110/article_26.html

15. 2021年12月24日 06:04:37 : zPeXbWXQFc : RlBrUHl2NnpoOEU=[18] 報告
雑記帳
2021年12月24日
中期更新世ホモ属の新たな分類
https://sicambre.at.webry.info/202112/article_24.html

 中期更新世ホモ属の新たな分類に関する研究(Roksandic et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。2019年、アメリカ生物人類学会(以前はアメリカ自然人類学会)総会で、本論文の著者たちはホモ・ハイデルベルゲンシス(Homo heidelbergensis)の定義に取り組みました(関連記事)。会議の結果は以下の通りです。(1)ホモ・ハイデルベルゲンシスという分類群には誰も満足していませんでした。(2)研究者により種の意味づけが異なり、分類に用いられる全資料にさまざまな化石が含まれました。(3)この問題を無視することは、奇跡的な解決策にはつながりません。(4)中期更新世人類の系統分類学をよりよく理解するためには、この「中期の混乱」を取り除くことが重要でした。

 本論文は、ホモ・ハイデルベルゲンシス(ハイデルベルク人)について、定義が不充分で一貫性なく用いられてきたので、完全に破棄するよう提案します。代わりに本論文は、おもにアフリカ、および地中海東部にも存在した可能性が高い分類群として、新種ホモ・ボドエンシス(Homo bodoensis)を提出します。本論文の主張は、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の派生的特徴を示し、伝統的に狭義のホモ・ハイデルベルゲンシスに分類されてきた中期更新世人類化石は、ドイツのマウエル(Mauer)で発見され、ホモ・ハイデルベルゲンシスの正基準標本とされている下顎骨を含めてホモ・ネアンデルターレンシスに再分類され、初期ネアンデルタール人とみなされるべきである、というものです。

 分類学的区分は、進化の概念的理解に強い影響を及ぼし、先取権の規則による古い種名の復活は、中期更新世人類進化の複雑性の理解を不明瞭にするのに、重要な役割を果たすことがありました。ホモ・ハイデルベルゲンシスの復活はその好例です。観察された変異の一部を認識して分類する、新たなよく定義されていない種を導入することにより、古人類学者が中期更新世における人類進化をよりよく説明するための、より堅牢な説明モデルを構築できる基礎的部分に貢献するよう、本論文は希望します。


●ホモ・ハイデルベルゲンシスという種区分の設定による中期更新世人類進化史理解の混乱

 中期および後期更新世におけるヒト進化の研究は、最近数十年で顕著な進歩を遂げました。今では、現生人類(Homo sapiens)の起源はアフリカ、おそらくはアフリカ全域にあり、以前に考えられていたよりも古く、中期更新世後期にまでさかのぼる、と知られています(関連記事)。現生人類がアフリカから6万年以上前におそらくは複数のより小さな波で拡散し、主要な拡散が6万年前頃以後だったことも明らかです(関連記事)。さらに、たとえばホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)やホモ・ナレディ(Homo naledi)やホモ・ルゾネンシス(Homo luzonensis)といった(関連記事1および関連記事2および関連記事3)、現生人類系統と同年代に存在したものの、現生人類の進化には殆どもしくは全く役割を果たさなかったと考えられている、過去20年間でホモ属に分類された種は、後期更新世後半のヒト進化記録の複雑さを証明しています。

 中期更新世は、諺の「中期の混乱」としてもはや退けられていませんが、地球規模で、後のヒトの形態の二つの重要な特徴の出現が見られる期間として、次第に認識されつつあります。それは、より進んだ大脳化とより小さな歯で、おそらくは地理的集団の分化でした。ホモ・ハイデルベルゲンシスの妥当性に関する最近の疑問は、後期更新世へのホモ属の進化のシナリオを仮定する能力を妨げるような、中期更新世人類を特徴づける観察可能な変異をひとまとめにすることの停滞を明らかにしています。

 古人類学の分野は、20世紀初頭にドイツのマウエルで発見された下顎骨に基づいてホモ・ハイデルベルゲンシスが提案されて以来、大きく発達しました。20世紀の最後の20年におけるホモ・ハイデルベルゲンシス化石の回収以来、さらなる重要な発見がなされてきました。残念ながら1908年において、ホモ・ハイデルベルゲンシスの報告者には進化の統合の概念がなく、分岐分類学的手法はまだ開発されていませんでした。さらに、ホモ・ハイデルベルゲンシスという分類群の復活はとくに、動物命名規約で要求されるような形態学的特徴の特定の組み合わせではなく、現代人の起源についての議論と関連した、人類の系統発生/系統分類学に関する20世紀後半の理解に起源があります。

 この問題をさらに悪化させたのは、下顎骨が通常はひじょうに可塑的と考えられ、頭蓋において関連する形態学的変化を反映している可能性もそうでない可能性もあるのに、関連頭蓋のない下顎がホモ・ハイデルベルゲンシスという分類群の正基準標本として用いられたことです。マウエル標本と、関連する頭蓋断片により表されるフランスのトータヴェル(Tautavel)のアラゴ洞窟(Caune de l'Arago)の下顎骨との間の類似性は、ホモ・ハイデルベルゲンシスの復興につながりました。次にマウエルとアラゴの集団は、ギリシアのペトラローナ(Petralona)標本や、アフリカではザンビアのブロークンヒル(Broken Hill)頭蓋と呼ばれているカブウェ1号(Kabwe 1)やエチオピアのボド(Bodo)の標本と、頭蓋の形態学的類似性を考慮して関連づけられたので、ホモ・ハイデルベルゲンシスの提案された時空間的範囲は拡大しました。

 ホモ・ハイデルベルゲンシスは後に、中国で発見された「古代型サピエンス」もホモ・ハイデルベルゲンシスに含められるかもしれない、と提起されました。残念ながら、分類名の復活が望ましい明確さをもたらすことは稀で、たとえば1945年に提案されたアウストラロピテクス・プロメテウス(Australopithecus prometheus)の再導入(関連記事)は、議論を過熱させました。ホモ・ハイデルベルゲンシスも、この点で例外ではありません。

 ホモ・ハイデルベルゲンシスを構成する化石についての、複数の、しばしば矛盾する見解は、この分類群をとくに誤解させます。他の分野の生物学者や旧石器時代考古学者など非専門家にとってさえ、ホモ・ハイデルベルゲンシスは一般化された中期更新世人類か、あるいはネアンデルタール人の系統種を表しており、時には逆説的に両方を表します。古人類学界内では、ホモ・ハイデルベルゲンシスの分類学的曖昧さは、複雑で時として分かりにくい議論を引き起こしてきました。一つの論文において、矛盾するような分類標本(hypodigm、ある集団の特徴を推測するための標本)を有する分類群の多数の記述を見つけられます。

 より厄介なことに、ホモ・エレクトス(Homo erectus)かネアンデルタール人か初期現生人類か、容易に分類できない新たに発見された中期更新世人類化石は依然として、中期更新世人類の非特異的形態を示唆する「広義」という修飾語句とともに、ホモ・ハイデルベルゲンシスというこの一律的な分類群にまとめられる傾向にあります。あるいは、そうした分類の容易ではない中期更新世人類化石は、より一般的もしくは説明的な名称である、「古代型ホモ・サピエンス」、「中期更新世ホモ属」、「ホモ属種」に分類されますが、これはその進化的位置を示すことがほとんどありません。


●人類の分類とその重要性

 人類の分類学の不確実性には多くの理由があります。重要で明確な阻害要因は均等ではない地理的範囲の稀な化石記録で、より広範な地域比較を困難にすることがよくあります。しかし、分類学、とくに人類の分類学の理論的土台は、ヒト進化の理解と個々の化石記録の進化における位置づけにとって、より深刻な妨げとなる可能性があります。理論的および方法論的考察は科学の歴史そのものに由来しているので、現在利用可能なデータの再分析ではなく、視点の変化が必要です。遺伝学は、化石分類学の問題にさらなる複雑さを追加してきました。なぜならば、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)のような一部の遺伝学的によく定義された人口集団は、骨格的にはあまり定義されていないからです(関連記事1および関連記事2)。

 「種」はリンネ式二名法分類学内で設計された「動物命名法国際審議会により承認された分類の基本単位」です。このように、種は生物学的に関連する集団を形成する有機体の最下層の分類を示します。リンネ式分類学は、進化論の発展に先立って、生物の体系的分類として18世紀以来発展しました。当然、分類学的思考の歴史は、化石の数とこれら化石の変異範囲の両方が増加するにつれて、ますます複雑になりました。この問題は、化石分類学における、cf.(参照せよ)やaff.(類似)やs.l.(広義)やs.s.(狭義)など修飾語句未決定の命名法を使う必要によりさらに複雑になりました。

 さらに、「種の概念について論じるのに使われてきた何千ものページ」にも関わらず、広く受け入れられてきたのは(少なくとも有性生殖生物については)、エルンスト・マイヤー(Ernst Mayr)の生物学的種概念(BSC)だけで、そこでは、種の基盤として末端分類群の生殖隔離が用いられます。化石種の定義にさいして、この概念は分岐分類学的分析にとって暗黙的かつ基本的です。残念ながら、化石標本に生物学的種概念を適用することには、以下のようないくつかの問題が明らかです。(1)形態学的変異は必ずしも生殖隔離を反映していません。(2)生殖隔離は、よく定義された現生霊長類と他の哺乳類でさえ絶対的ではなく、属水準でも交雑が観察されてきました。(3)時間的枠組みが含まれていないので、生物学的種概念は進化の変化の理解もしくは調査に不向きです。

 進化的種概念(ESC)は、祖先と子孫間の関係を確立する必要があるので、化石記録にはより適切と提案されました。たとえば、アウストラロピテクス・アナメンシス(Australopithecus anamensis)とアウストラロピテクス・アファレンシス(Australopithecus afarensis)は、同じ向上進化的に進化する系統の一部を表している、と提案されました。しかし、この関係がより薄弱な場合、進化的種概念は循環論法になる可能性があります。さらに、年代学は系統発生において重要ですが、分類学的定義の基礎にはなり得ません。なぜならば、第一に、評価された年代が方法の改良による変化に左右され、第二に、種は一部地域において親種と娘種がり長く並存するかもしれないからです。本論文では言及されていませんが、アウストラロピテクス・アナメンシスとアウストラロピテクス・アファレンシスではその可能性が指摘されています(関連記事)。

 最近の研究では、実用的で純粋に形態学的な手法が、「診断可能な最小単位」として種に適用されました。人類の事例では、分岐分類学的分析に基づいて、属内における変異の世界的分布とあり得る祖先・子孫関係の調査が、生殖隔離の問題を仮定(もしくは考慮さえ)せずに可能となりました。類似モデルとしてヒヒ族を調べた研究では、「400万年前未満に祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)が分岐したあらゆる人類種は、有利ならば拡大する可能性がある外来遺伝子を戻し交配により導入できる雑種を、以前には生めたかもしれない」と提案されました。反対の初期の主張にも関わらず、過去10年の古代DNA分析は、さまざまな人類系統間のかなりの混合を示しました(関連記事)。後期更新世における人類の末端分枝間の交雑の程度と頻度はよく確立されており、最近の研究では、中期更新世でも同様に観察できる、と示唆されています(関連記事1および関連記事2)。

 古生物学者や進化人類学者と比較して、ヒトの進化と分類学に対する古人類学者の手法の例外主義的性質から、さらなる問題が生じます。たとえば、人類種については、年代学(したがって、最終的に確立された概要)が、分類学的決定に重要な役割を果たし、動物命名規約の確立された慣行とは(理想的には)無関係に考慮されます。本論文の著者たちは最終的に、仮定としてのヒト進化を理解したいと考え、年代学と系統発生は、概要の構築と特定の分岐分類学の適切性(もしくは不適切性)の判断において重要な役割を果たします。さらに、人類、とくにホモ属は、広範に分布した多型的分類群で、人類は大きな行動的柔軟性を示し、「万能家-専門家(generalist specialist)」の生態的地位を占め(関連記事)、その生態的地位により、形態における顕著な変化なしにさまざまな環境条件を利用し、そこに適応できます。

 中期更新世人類の進化については、他の可能性があり得ることを理解したうえで、以下の二つの選択が識別されます。(1)更新世ホモ属化石全体を、分離した亜種および/もしくは系統種を有するホモ・サピエンスの単系統と見なせるか、(2)観察された形態学的変異を、「実用的」種概念内の分類学的に意味のあるものと見なせます。後期更新世のネアンデルタール人とデニソワ人と現生人類が姉妹分類群を形成することを考えると、中期更新世人類の記録の変異性を再考する必要があります。観察された中期更新世の変異性が、(不明瞭に定義された)ホモ・ハイデルベルゲンシスのような単一の分類群に包摂され得る可能性は低い、と明らかになります。中期更新世の人類の変異は国際動物命名規約(ICZN)およびヒト進化の過程の理解に関する現在の進展を同時に満たす分類群の定義において、よりよく、より正確で、一貫した基準を用いて、整理される必要があります。


●分類群としてのホモ・ハイデルベルゲンシスは破棄すべきです

 問題のある分類群であるホモ・ハイデルベルゲンシスを用いると、ヒト進化の後期段階における主要な問題をどう考えて伝えるのか、複雑にし、難解にし続けるでしょう。これらの問題の解決のため本論文は、ホモ・ハイデルベルゲンシスとホモ・ローデシエンシス(Homo rhodesiensis)という分類群を破棄し、新たな分類群ホモ・ボドエンシス(Homo bodoensis)を導入するよう、推奨します。

 分類群としての狭義のホモ・ハイデルベルゲンシスは、最近の遺伝学的および/もしくは形態学的データに照らして抑制し、それらの化石はホモ・ネアンデルターレンシスに再分類されるべきです。この主張を裏づける最近の一致は、スペイン北部の「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡(以下、SHと省略)の人類をネアンデルタール人系統の初期構成員とみなすべきである、というものです(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。SH人類は、その年代が少なくとも海洋酸素同位体ステージ(MIS)12となる43万年前頃までさかのぼり、頭蓋や下顎におけるネアンデルタール人の派生的特徴とともに、ひじょうに派生的な歯列をすでに示します。

 アラゴ洞窟の人類と他の中期更新世ヨーロッパ西部の人類は、変動的ではあるものの、遍在する派生的なネアンデルタール人の特徴を示します。そのため、同じ形態を有する別の種を提起する必要はなく、同様にホモ・ハイデルベルゲンシスはホモ・ネアンデルターレンシスの下位同物異名となるので、余分です。とくに、609000±40000年前頃となるマウエルのホモ属下顎が、現在考えられているように、いくつかの派生的なネアンデルタール人の特徴を示すならば、ネアンデルタール人系統内の初期標本を表す可能性があります。しかし、ホモ・ネアンデルターレンシスとしてヨーロッパ西部中期更新世標本を認識しても、ホモ・アンテセッサー(Homo antecessor)などヨーロッパにおける他の分類群の存在は除外されません。

 アジア、とくに中国の古代型人類のホモ・ハイデルベルゲンシスへの分類は、破棄されるべきです。中国の記録に精通している多くの研究者は、中国の化石をホモ・ハイデルベルゲンシスに分類することに満足していません。たとえば、ヨーロッパとアフリカと中国のさまざまな化石の前額部の幅の最大値と最小値の比較では、ペトラローナやボドやカブウェのような人類は比較的密接にまとまりますが、中国の化石からはずっと離れています。おそらく非計測的特徴の最も包括的な比較研究では、アフロユーラシア世界の東西の中期更新世人類間で異なる、以下のような特徴が特定されました。それは、頬骨の前蝶形骨突起、顔面上部の高さ、上顎のシャベル型切歯、インカ骨、第三大臼歯の形成不全、鼻サドルです。ほとんどの場合、中国の中期更新世ホモ属は西方の準同時代のホモ属(ホモ・ボドエンシスやホモ・ネアンデルターレンシス)から離れています。アジアにおける中期更新世人類の変異性の全体像は、当初の予想よりずっと複雑で、アジア地域において同時に複数系統が存在し、中には同定されていない系統がいたかもしれません(関連記事)。

 広義のホモ・ハイデルベルゲンシスも、一般的に全ての非特異的な中期更新世人類を含むため破棄すべきで、これはとくに情報をもたらさない手法です。広義のホモ・ハイデルベルゲンシスは以前、後期更新世人類の最終共通祖先(MRCA)、もしくは少なくともアフリカとヨーロッパの系統(つまり、それぞれ現生人類とネアンデルタール人)の共通祖先とみなされていました。現生人類系統とネアンデルタール人系統の最終共通祖先は、前期更新世後期もしくは中期更新世最初期にさかのぼるので(関連記事)、現在広義のホモ・ハイデルベルゲンシスに分類されている標本は、最終共通祖先を表しているとはみなされません。アフリカとユーラシアの人類間の分岐がデニソワ人系統とネアンデルタール人系統との間の分岐よりもずっと早かった、と最近になって提案されたこと(関連記事)を考えると、これはとくに適切な点です。そのため、広義のホモ・ハイデルベルゲンシスは、もはや全てのアフリカとヨーロッパの系統の根源とみなせません。

 前期更新世後期もしくは中期更新世最初期に最終共通祖先が出現した場合、中期更新世の地域的な地理的多様体(アフリカかヨーロッパかアジア)は、これら3系統の最終共通祖先として機能できません。しかし、前期更新世後期にさかのぼる候補が存在するかもしれません。それはエチオピアのアワッシュ川上流のメルカクンチュレ(Melka Kunture)層のゴンボレ2(Gombore II)遺跡で1973年と1975年に発見された2個の大きなホモ属の頭蓋断片の、一方は部分的な左側頭頂であるメルカクンチュレ1(MK1)で、もう一方は側頭骨の右側であるメルカクンチュレ2(MK2)です。これらの化石は興味をそそり、アフリカの中期更新世標本の祖先的形態の可能性が指摘されています(関連記事)。

 MKホモ属は、その推定頭蓋容量が1080cm³であることを考えると、中核的特徴の一つとして増大した頭蓋容量を共有する全ての中期更新世系統の最終共通祖先を表しているかもしれません。MK頭蓋遺骸は一般的に「古代型」形態を示す、と考えられています。大脳化(脳頭蓋の拡大と頭頂壁の垂直化)の兆候は、ダカ(Daka)やブイア(Buia)などより古いアフリカ東部の標本でも観察されます。現在の化石記録に基づくと、これは100万年前頃のアフリカ東部が後の中期更新世および後期更新世人類の最終共通祖先出現の、最も可能性が高い候補地であることを示唆します。


●ホモ・ローデシエンシスという分類群は抑制されるべきです

 ホモ・ローデシエンシスという分類群は1921年に提唱されて以来、古人類学で広く用いられることはありませんでした。じっさい、「Web of Science」でのクイック検索では、ホモ・ハイデルベルゲンシスの直接的言及が274件に対して、ホモ・ローデシエンシスはわずか17件です。本論文は、これには二つの要因がある、と考えています。まず、ホモ・ローデシエンシスという分類群は充分に定義されておらず、さまざまに理解されて用いられています。次に、その名称が、現代の科学共同体が自身を分離しようとしている社会政治的重荷と関連しているからです。以下、さらに詳しく説明されます。

 ホモ・ローデシエンシスはひじょうに異なる意味を有するようになりました。たとえば、ホモ・ローデシエンシスをヨーロッパの狭義のホモ・ハイデルベルゲンシスと同年代で、最終的にはアフリカでホモ・サピエンスを生み出したアフリカの中期更新世分類群とみなす研究者もいます。あるいは、ホモ・ローデシエンシスは全ての後期更新世人類系統の最終共通祖先で、現生人類とネアンデルタール人の両方の祖先とみなされました。ホモ・ローデシエンシスという分類がホモ・サピエンス系統の中期更新世の祖先として排他的にみなされる場合、現在の理解に従って、その分類標本(hypodigm)を再定義するだけでよい、と主張できるかもしれません。しかし、ホモ・ローデシエンシスという分類群は複数の方法で定義されてきたので、これらの多様な定義から分離することはできません。したがって、ホモ・ローデシエンシスを使い続けることで、不必要な混乱が生じます。

 ホモ・ローデシエンシスの形態学的記載は、1931年以前の分類学的名称の命名慣行に準拠してネアンデルタール人との違いに焦点が当てられていた、と主張できるかもしれません。しかし、その後のこの分類群の復活は、正基準標本であるカブウェ1(Kabwe 1)およびとペトラローナ標本との類似性に基づいています。同じ分類標本にカブウェとペトラローナを含めることで、アフリカとヨーロッパの分類群が生じます。アフリカとヨーロッパの最終共通祖先に広義のホモ・ハイデルベルゲンシスを用いることと並行して、中期更新世標本をこのようにまとめることは、ペトラローナ標本で観察されたネアンデルタール人の特徴、およびユーラシアの歯列パターンの初期の出現と矛盾します(関連記事)。

 ホモ・ローデシエンシスが古人類学者により広く使われるようにならなかった理由の少なくとも一部は、その致命的な政治的重荷に起因します。その名称は、ケープ植民地政府首相だったセシル・ローズ(Cecil Rhodes)とイギリスの鉱業植民地主義、およびこの自称「ローデシア(Rhodesia)」の所有者の在来先住民集団対する忌まわしい行為と関連しています。これらの考慮事項は名称却下の根本にはありませんが、小さな問題ではなく、無視すべきではありません。人類の分類群の議論は、社会的深淵では機能できません。名称が送る社会的意図の賢明な評価が必要です。なぜならば、名称は現生人類の進化における過程の理解に影響を及ぼすからです。古人類学を非植民地化することは、厳密な分類規則に優先する必要がある重要な課題です。

 国際動物命名規約の不幸な控えめさは、1937年に命名された昆虫(Anophthalmus hitleri)により例証されます。スロベニアの5ヶ所の洞窟だけで見つかっているこの歩行甲虫の分類名は、アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)に由来します。この名誉は、悪名高きドイツ首相もしくはその記念品収集家にとって失われず、記念品収集家は違法採集によりこの甲虫を絶滅寸前に追いやりました。こうした事情にも関わらず、国際動物命名規約ではその分類名は有効なままです。生物学における命名規則は中立的でも絶対的でもないので、その伝統的な厳格さへの批判が高まりつつあります。


●新たな分類群ホモ・ボドエンシス

 ホモ・ハイデルベルゲンシスとホモ・ローデシエンシスという二つの分類群の抑制に加えて、国際動物命名規約に準拠して明確に定義され、あらゆる社会政治的重荷を背負わない新たな人類分類群を追加する必要がある、と本論文は提案します。この分類群は、ユーラシアの分類群がネアンデルタール人とデニソワ人に分岐する前の、ヨーロッパとアジアとアフリカの中期更新世分類群の最終共通祖先に起源があり、ホモ・サピエンスの中期更新世の祖先を表しています。この中期更新世(774000〜129000年前頃)、つまりチバニアン(Chibanian)の人類標本はホモ・サピエンスの直接的祖先を表し(図1)、エチオピアの旧ハラゲ県(Hararghe Province)北西部のアファール盆地(Afar Depression)に位置する、ミドルアワシュ(Middle Awash)研究地域のボド・ダール(Bodo D'ar)で発見された頭蓋に因んで、ホモ・ボドエンシス(Homo bodoensis)と命名されます。ホモ・ボドエンシスの正基準標本はボド1号(Bodo 1)で、1976年秋に発見され、顔面と前方頭蓋が保存されており、現在はアディスアベバの国立エチオピア博物館で保管されています。年代はアルゴン-アルゴン法により60万年前頃と推定されており、アシューリアン(Acheulian)石器群と関連しています。以下は本論文の図1です。
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 ボド1号は、損傷した顔面骨格、部分的な神経頭蓋、単一個体の基底点(大後頭孔前縁と頭蓋正中線の交点)の前に位置する頭蓋底を有し、数十個の骨片から復元されました(図2)。右上顎および右頬骨の側面と、左側頭突起が失われていることを除けば、顔面は一般的によく保存されています。口蓋は第四小臼歯の後方部分が欠けており、右側大臼歯根のいくつかの小さな断片を除いて歯は保存されておらず、歯槽突起は損傷を示しています。神経頭蓋は、ほぼ完全な前頭骨、蝶形骨、左側側頭骨と両側頭頂骨の部分、後頭骨の右側部分が保存されています。頭蓋底は、部分的に保存された左側下顎窩と関節隆起、後頭骨底部、側頭骨の錐体部を含んでいます。顔面はひじょうに巨大で、大きな長方形の眼窩とひじょうに広い眼窩間領域、広い鼻根と開口部、深くて頑丈な左側頬骨、広くて深い口蓋があります。眼窩上隆起は突出して頑丈ですが、弓型で、区切られており(つまり、内側と外側に分割されています)、外側では細くなっています。眼窩上隆起は連続した骨棚を形成しませんが、むしろ顕著な眉間領域で区切られ、その背後は(溝ではなく)平坦な面になっています。

 正面から見て、とくに頭蓋冠の頭蓋骨前頂には明確な矢状竜骨があります。上顎洞は拡大し、犬歯窩はありません。前頭洞も広く、非対称です(右側の洞の方が大きくなっています)。側面から見ると、頭蓋は長くて低く、前頭部は低くて平らな形態を示します。頭頂骨角窩は顕著で、側頭鱗は高く弧を描いています。前鼻孔は側面突起でほぼ垂直です。上から見ると、頭蓋骨は梨状で、顕著な眼窩後狭窄から後方に広がります。下から見ると、大きな切歯孔が硬口蓋前方に位置し、下顎窩は浅く、間接隆起の保存された部分は平坦です。側頭骨の錐体部は、破裂孔が隙間のような形状を示すように位置しています。頭蓋内容積は1250 cm³(1200〜1325 cm³)と推定されています。顔面と後頭頂部に位置する一連の解体痕は、意図的な死後の肉の切り取りと解釈されました。以下は本論文の図2です。
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 ホモ・ボドエンシスは、頭蓋の特徴の特有の組み合わせにより判断されます。ボド標本(ボド1号)はすでに、ホモ・エレクトス(Homo erectus)的特徴とホモ・サピエンス的特徴の混合を示す、と報告されてきました。ボド1号はホモ・エレクトスに似ており、それは、頑丈な中顔面、全体的な顔面下顎前突、突出した隆起と平坦で低い前頭鱗、矢状竜骨、低い頭蓋冠形態、顕著な頭頂骨角窩、厚い頭蓋冠骨、破裂孔が観察されないこと(狭い隙間として示されます)です。これらの特徴は、ホモ・エレクトスの一般的な頭蓋構造の保持に関連している可能性があります。他の中期更新世および後の人類分類群と類似する特徴は、頭蓋容量の増加および関連する特徴(より広い前頭および中頭蓋冠、減少した眼窩後狭窄、頭頂骨瘤の兆候、高くて弓形の側頭鱗)、垂直(前方傾斜ではありません)な鼻縁、硬口蓋前方の切歯管の位置です。過度に厚くて突出していますが、断片化された眉弓は、中間の眼窩と後方で細くなった眉の始まりの分割とともに、ホモ・ボドエンシスの特有の特徴と見なせるかもしれません。

 ホモ・エレクトスと比較して、ホモ・ボドエンシスは頭蓋容量の増加(ホモ・エレクトスとホモ・サピエンスの中間)と、一連の派生的特徴により異なります。その派生的特徴とは、側頭鱗の湾曲、より広い中頭蓋冠、頭頂骨瘤の兆候、比較的広い前頭骨で、前頭骨では、最大頭蓋幅が後方から見て頭蓋骨の下部1/3に位置し、より垂直な頭頂骨壁があります。

 脳容量の増加は、ホモ・ナレディやアジア南東部島嶼部で孤立していたホモ・フロレシエンシスなどを除いて、中期更新世人類のほとんどで共有されています。この特徴は、おそらく前期更新世後半の最終共通祖先においてすでに選択下にあります(関連記事1および関連記事2)。他の特徴は、ホモ・ネアンデルターレンシスや後期ホモ・エレクトスやまだ体系化されていないかもしれないアジア集団など、中期更新世の人類と共有されていません。ホモ・ボドエンシスはホモ・ネアンデルターレンシスとは異なっており、それは、中顔面突出および神経頭蓋形態と関連したネアンデルタール人特有の形態を示さないからです。両者は眉弓の特定の形態でも異なっており、ホモ・ネアンデルターレンシスの眉弓は滑らかに連続し、二重弓形となっています。

 ホモ・ボドエンシスには、多くのホモ・サピエンス特有の特徴が欠けており、別種としての命名が保証されます。これは、ホモ・ネアンデルターレンシスでは中期更新世の初期に固有派生形質が観察されることとは対照的です。しかし、後のホモ・サピエンス特有の特徴は、巨大ではあるものの断片化された眉弓(外側と内側に分割されています)など、ホモ・ボドエンシスに存在する特徴から派生し得ます。

 ホモ・ボドエンシスの分類標本(hypodigm)は、正基準標本のボド1号に加えて、遊離した下顎を除いて頭蓋が充分に保存されているものとなり、アフリカでは少なくとも、ザンビアのカブウェ1号、タンザニアのンドゥトゥー(Ndutu)人骨、南アフリカ共和国のエランズフォンテイン(Elandsfontein)のサラダンハ(Saldanha)人骨、タンザニアのラエトリのンガロバ(Ngaloba)人骨(LH 18)が含まれ、モロッコのサレ(Salé)人骨もその可能性があります。299000±25000年前と推定されているカブウェ1号は、後期ホモ・ボドエンシスを表しているかもしれません(関連記事)。イタリアのチェプラーノ(Ceprano)人骨など、ヨーロッパのいくつかの中期更新世ホモ属標本は、同様にホモ・ボドエンシスに含められるかもしれません。ホモ・ボドエンシスはアフリカ全体に分布し、地中海東部(ヨーロッパ南東部とレヴァント)にまで拡大し、氷期後にそこからヨーロッパ(おそらくはアジア中央部および東部)の人口動態吸収源の再移住に寄与したかもしれません。


●まとめ

 本論文はホモ・ボドエンシスを新種として提示し、ホモ・サピエンス(現生人類)の祖先である、と提案します。しかし、ホモ・ボドエンシスはユーラシア(ネアンデルタール人とデニソワ人)とアフリカ(現生人類)の人類の最終共通祖先と考えるべきではありません。図1で模式的に示されているように、ホモ・ボドエンシスはユーラシアの人類がネアンデルタール人とデニソワ人とおそらくは他の集団に分岐する前に、ユーラシアの人類集団と分離しました。本質的にアフリカの種であるホモ・ボドエンシスは、レヴァントとヨーロッパの人類進化史に役割を果たしたかもしれません。とくに、レヴァントとヨーロッパ(おもに地中海東部に集中しています)の中期更新世標本は、セルビアのマラ・バラニカ(Mala Balanica)や、ハゾレア(Hazorea)やナダオウイェー・アイン・アスカール(Nadaouiyeh Aïn Askar)などレヴァントのいくつかの標本など、あらゆるネアンデルタール人的特徴を示さないものがあり、ホモ・ボドエンシスとみなせる可能性があります。これらの化石はあまりにも断片的なので、現時点ではホモ・ボドエンシスの分類標本に含められませんでした。しかし、チェプラーノ標本に示されるように、ホモ・ボドエンシスは中期更新世のヨーロッパに存在した可能性があり、ヨーロッパ西部のアラゴやペトラローナの人類化石で見られる混合形態に寄与したかもしれず、それはヨーロッパ西部の他の化石でもあり得ます。

 新たに定義された種であるホモ・ボドエンシスは、ボド1号標本に基づいて記載され、明確な二つの利点があります。第一に、中期更新世人類の変異性と地理的分布を認識することです。第二に、ホモ・ネアンデルターレンシスとは異なり、ホモ・サピエンスの出現に先行する、地中海東部へと拡大したアフリカの中期更新世人類の特有の形態を記載したことです。厳密な生物学的意味で真の種ではありませんが(これら分岐した集団間の移住と遺伝子流動の強くて蓄積されつつある証拠のため)、ホモ・ボドエンシスという新たに定義された分類群は、ヨーロッパとアフリカの不適切に命名され定義された中期更新世人類の不明瞭で一貫していない使用を断ち切り、本論文で提示されたさまざまな話題について、より一貫して意味のある議論を促すはずです。


参考文献:
Roksandic M. et al.(2021): Resolving the “muddle in the middle”: The case for Homo. Evolutionary Anthropology.
https://doi.org/10.1002/EVAN.21929


https://sicambre.at.webry.info/202112/article_24.html

16. 2021年12月26日 09:51:23 : 2FqwPrinA6 : Q0dpUE44cnh0dGM=[1] 報告

2021年12月26日
レヴァントの中期更新世の人類化石をめぐる議論
https://sicambre.at.webry.info/202112/article_26.html


 以前当ブログで取り上げた(関連記事)、レヴァントの中期更新世の人類化石に関する研究(Hershkovitz et al., 2021、以下H論文)に対する反論(Marom, and Rak., 2021、以下MR論文)と再反論(May et al., 2021、以下M論文)が公表されました。まずはMR論文を取り上げます。

 H論文は、イスラエル中央部のネシェル・ラムラ(Nesher Ramla)開地遺跡(以下、NR)の中期更新世ホモ属の下顎と頭蓋を報告し、現生人類(Homo sapiens)とネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)との間の交差点としてのレヴァントの重要性を確証します。H論文によると、NR化石は独特なホモ属古集団を表しており、レヴァントのネアンデルタール人に先行し、「NRホモ属」と呼ばれます。H論文の結論は、ネアンデルタール人的特徴とネアンデルタール人よりも古い古代型の特徴の斑状がNR化石の頭頂骨と下顎骨と下顎第二大臼歯で観察され、ヨーロッパとアジア東部の中期更新世ホモ属の進化と関わった可能性があるネアンデルタール人の祖先の起源集団と、NR化石との類似性を裏づける充分な証拠を構成する、というものです。

 H論文がNR化石の年代に持たせている意味(一種の系統種として扱われています)は、完全にネアンデルタール人と異議なく認められている別の化石が、同じくレヴァントのタブン(Tabun)遺跡で発見され、明らかに同じ年代であることを考えると、妥当ではありません。タブン遺跡のネアンデルタール人は、発掘者がC層と呼んでいた層で発見され、その年代は14万年前頃とNR化石と類似していることに要注意です。ただ最近になって、タブン遺跡のネアンデルタール人遺骸はより新しいB層に分類され、これは、中東でのネアンデルタール人の存在がずっと後の5万〜4万年前頃に始まった、という一般的な合意と一致する年代です。したがって、タブン遺跡における元々の考古学的文脈を受け入れると、ネアンデルタール人が少なくとも2個体、14万年前頃に現在のイスラエルで生存していたことになります。

 報道によると、NR化石の研究に関わっていないライトマイア(Philip Rightmire)氏は、NR化石の頭頂部は、「初期のどちらかと言えば古代型の外観のネアンデルタール人」と指摘しています。別の報道によると、同じくNR化石の研究に関わっていないハブリン(Jean-Jacques Hublin)氏は、NR化石はネアンデルタール人の起源集団を表しているにはあまりにも新しく、歯の証拠に基づくと、斑状の形態はネアンデルタール人の地域的変異を表している、と指摘しています。MR論文は、NR下顎骨を解剖学的構成要素に分解し、H論文で考慮されなかった下顎形態を再評価します。その結果、NR化石はネアンデルタール人として単純に分類されるべきだ、と示唆されます。

 ネアンデルタール人の下顎骨は、一連の高度な診断的特徴を示し、それを理解するMR論文の手法の前提は、ネアンデルタール人の独特な生体力学的機能に由来します。ネアンデルタール人が派生的な種であることを考えると、これらの特徴はネアンデルタール人だけのものです。これらの特徴には、明白な中間翼状結節、臼歯後隙、下顎前部の台形輪郭(基底部の観点)、長髄歯、短く前方に位置する歯列弓、咬合平面に対する下顎頭の明確に低い位置があります。下顎の解剖学的構造は下顎の特有の機能に関わっているので、これらの特徴は生得的に相互と関連しており、他の形態学的結論もあります。

 下顎頭自体は、いくつかの特有の解剖学的特徴と関連しています。ネアンデルタール人の下顎頭は、一般的な形態よりも低く位置しているだけではなく、前方に移動し(S字切痕の最深点にひじょうに近くなります)、これらには二つの重要な意味があります。まず、下顎頭の前方位置により、S字切痕の典型的な非対称輪郭が生じます(後方の観点)。次に、下顎稜は下顎頭極間の中間に位置しますが、一般的な構成では、下顎稜は通常、横方向にずれて側方極と結合します。さらに、ネアンデルタール人の歯列弓は短く、固定されたオトガイ孔に対して前方に位置しており、臼歯後隙を生じます。その結果、ネアンデルタール人においては、オトガイ孔を通る冠状断は通常、下顎第一大臼歯と交差します。

 これらのネアンデルタール人の形態学的特徴は、NR下顎で明確に示されます。たとえば、NR下顎頭は残っていませんが、その基部を用いて下顎頭の高さを推定できます。過大評価でさえ、非常に低い下顎頭が示唆されます(図1)。同様に、下顎頭頸状部の基部は、下顎稜が横方向にずれていないものの、下顎頭に垂直に接近していることを明確に示します(図1)。以下はMR論文の図1です。
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 ネアンデルタール人20個体、現生人類141個体、ホモ・エレクトス(Homo erectus)1個体(KNM-ER 993)の下顎標本に基づくMR論文の定量分析は、ネアンデルタール人と現生人類の下顎の形態間の違いの大きさを確証します。MR論文の図では、NR下顎は一貫して有意に、歯列弓の長さおよび結果として生じる臼歯後隙を含めて、全てのパラメータでネアンデルタール人の形状に一致します(図2および図3)。以下はMR論文の図2および図3です。
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 ネアンデルタール人の下顎、およびネアンデルタール人と現生人類の下顎間の違いの程度により示される分類学的に特有の特徴群を考えると、H論文で主張された急進的な想定には堅牢な証拠が必要です。そうした証拠が欠けているだけではなく、H論文自体が、「NR化石は、中期更新世ホモ属かネアンデルタール人かホモ・エレクトスのどれに分類できる可能性が高いのか、確定できない」と述べています。さらにH論文は、「分類学的に関連する下顎の特徴を組み合わせて」分析した、と述べています。しかし、上述の明確に診断的な特徴はほぼ見落とされています。

 三次元幾何学的形態分析(geometric morphometric analysis、略してGMA)も形態比較も、分類学的分析と関連する詳細を捕捉していません。35点の標識のGMAが、視覚的に明らかなネアンデルタール人の診断的形態さえ捕捉しなかったのはなぜでしょうか?標識の選択、少なすぎる標識の使用、一般的な形態の主成分分析の使用を通じて最大の変異を強調したことの結果として、情報が失われたのかもしれません。H論文はNR化石の形態を本質的なネアンデルタール人の特徴と比較しませんでしたが、その結果はネアンデルタール人とのNR化石の類似性を排除していません。ヒッチェンズ(Christopher Hitchens)の剃刀を引用すると、「証拠なしで主張できることは証拠なしで却下もできます」。MR論文の分析は、NR化石は明白なネアンデルタール人として単純に分類すべきである、との証拠を提供します。


 M論文は、こうしたMR論文の指摘に反論します。H論文では、NR化石は関係する形態を示す他のレヴァントのホモ属化石とともに、中期更新世ホモ属古集団の一部として認識されます。このホモ属集団はいくつかのネアンデルタール人的な下顎と歯の特徴を示しますが、いくつかの重要な特徴ではネアンデルタール人とはかなり異なります。それはおもに、H論文の補足資料で広範に記載され分析されているように、頭頂骨の古代型の形態(平坦さと厚さ、特有の頭蓋内表面形状、大きさ、管の痕跡に反映されています)も下顎形態により証明されています。

 MR論文で示唆された主張とは対照的に、H論文はNR化石を新種として解釈しませんでした。「古集団(paleodeme)」という用語はひじょうに控えめで、さまざまな水準での人類化石記録の研究に適切かつ必要なので、H論文の主張は「急進的」ではなく慎重な手法を反映しています。NRホモ属化石がネアンデルタール人の事例とみなされるべきかどうかは、このホモ属集団をどう定義するかに完全に依存します。MR論文と同様に、M論文はネアンデルタール人下顎とのNR下顎の形態学的類似性を詳細に認識しました。しかし、MR論文とは異なりM論文は、NR化石の頭頂骨と下顎で観察された古代型の特徴は、無視できない古典的なネアンデルタール人との重要な進化的違いを説明する、と主張します。じっさいM論文は、NRホモ属がネアンデルタール人系統の先行者だったかもしれない、と提案します(図1)。以下はH論文の図1です。
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 MR論文はH論文の複数の方法論の形態計測分析の欠陥を報告していませんが、M論文はMR論文の分析と結果の解釈に以下のような欠陥を見つけました。

(1)ネアンデルタール人の下顎の特徴について、MR論文ではネアンデルタール人特有と主張された6点の特徴は、じっさいにはNR化石に代表されるこのホモ属集団に限定されていません。たとえば、よく発達した中間翼状結節は、前期更新世のイベリア半島北部のATD6-96標本、イベリア半島北部の通称「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡(以下、SHと省略)のホモ属下顎の一部、他の非ネアンデルタール人標本に存在します。長髄歯は、SH標本の大臼歯や、ATD6-96標本の第三大臼歯や、ホモ・エレクトスでさえ観察されます。

(2)下顎の特徴の重要性について、MR論文では、「下顎の解剖学的構造は下顎の特有の機能に関わっているので、これらの特徴は生得的に相互と関連している」と指摘されています。換言すると、ネアンデルタール人の下顎を適切に機能させるには、これら6点の特徴が共在しなければならない、とMR論文は提案したわけです。しかし、この指摘は、たとえば、ホモ・アンテセッサー(Homo antecessor)がこれら全ての特徴を有していないものの、その咀嚼体系は機能している、との観察により容易に論破できます。MR論文がネアンデルタール人の下顎の特異性の生体力学的説明を提供しようとした場合、線形測定ではなく、下顎の三次元形態分析(つまり、幾何学的形態計測分析)を実行すべきです。なぜならば、三次元形態は下顎に加えられた負荷をより適切に表すからです。

(3)用いられた特徴の数について、主張の裏づけとなる下顎の6点の特徴を用いたMR論文とは異なり、H論文は既知の判別能力を有する47点の特徴を分析し、NR化石を他の化石と比較しました。

(4)臼歯後隙について、M論文はNR-2標本が臼歯後隙を有しており、この特徴がネアンデルタール人の下顎では優占的であることを報告します。ただ、H論文は、NR-2標本の臼歯後隙の形態が古典的ネアンデルタール人とは異なることを明示しています。第三大臼歯後方の領域は短く、わずかに傾斜していますが(祖先的状態)、ネアンデルタール人では大きくて水平です。臼歯後隙の提示のこのさらなる観察(図2)は、MR論文では考慮されませんでした。以下はM論文の図2です。
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(5)下顎第二大臼歯の形態について、MR論文は長髄歯の存在を主張しましたが、NR化石とイスラエルのケセム洞窟(Qesem Cave)のホモ属遺骸とSHホモ属遺骸の歯の間の類似性を認識させられるような、他の形態学的特徴を無視しました。ネアンデルタール人に先行する集団と比較を無視しながら、選択された特徴に対処するというMR論文の選択の背後にある理論的根拠は、M論文の著者たちには不明なままです。

(6)頭頂骨について、NRホモ属化石を異なる古集団として解釈するH論文は、古代型の形態を明確に有している頭頂骨の詳細な分析に基づいています。MR論文では、頭頂骨の言及はありません。

(7)比較標本について、MR論文はNR下顎を、自身の種の分類学的帰属にしたがって、ネアンデルタール人と現生人類のみで構成される標本と比較しています。この手法は必然的に、NR遺骸の分類を、現生人類とネアンデルタール人との間の二元的選択へと強制しました。さらに悪いことに、MR論文は7点のSH標本をネアンデルタール人標本にまとめること(SH標本はネアンデルタール人であるとの先験的仮定を表しています)により、NR化石をネアンデルタール人として分類する以外に選択肢がない、循環論法を作りました。

(8)推定された計測と再構築された解剖学的構造の使用について、NR下顎は不完全なので(図2A)、MR論文はその測定値を得るために、NR下顎の形態と大きさと一部の失われた解剖学的構造の位置について、いくつかの仮定を立てる必要がありました。MR論文に云う「ネアンデルタール人」の下顎の大半では、対象となる解剖学的領域が欠けているので、MR論文で類似の仮定は他の標本でも同様になされた、とM論文は推測します。そうした暫定的な測定値の使用には注意が必要になる、とM論文は考えます。とくに、MR論文はNR化石の下顎頭と下顎稜はネアンデルタール人的と説明しますが、M論文の図2Bで示されるように、下顎頭とその頸状部はNR下顎では失われています。さらに、MR論文におけるNR下顎頭の自由な描写が正しかったとしても、MR論文で記載された形態はネアンデルタール人だけのものではなく、中期更新世ホモ属化石でも見られます。MR論文における臼歯後隙の大きさの評価は、MR論文の不確かな手法の別の事例で、それは、第三大臼歯が壊れており、その大きさが正確には評価されなかったからです(図2C)。さらに、咬合平面の再構築は、存在する唯一の切歯が壊れている(もしくはひじょうに浸食されている)ものの、それにも関わらずMR論文では報告されていたことを考えると、不可能です。

(9)MR論文の再構築がH論文の結果を変える可能性の検証のため、M論文は全ての下顎の三次元標識形状に基づいて分析を実行し、分析では、アフリカの中期更新世ホモ属とヨーロッパの中期更新世ホモ属とSH集団とネアンデルタール人の平均的位置という4通りの代替的再構築を用いて、NR化石の下顎頭と下顎稜の位置が推定されました。主成分分析が明確に示すのは、用いられた再構築に関係なく、NR下顎は常に、ネアンデルタール人もしくは他のホモ属クラスタ内ではなく、SH集団の分布範囲内に投影された、ということです(図2D)。

(10)年代について、NRホモ属の年代の重要性がそれほどでないと主張するため、MR論文は以下のように述べています。最近になって、タブン遺跡のネアンデルタール人遺骸はより新しいB層に分類され、これは、中東でのネアンデルタール人の存在がずっと後の5万〜4万年前頃に始まった、という一般的な合意と一致する年代です。このMR論文の指摘には根拠が欠けています。なぜならば、H論文のどこにも、タブン1標本の年代が5万〜4万年前頃とは述べられていないからです。逆にH論文は、タブン1標本がずっと古い、と強調しています。

 NR化石の正確な分類学的帰属は、可能だとしても、H論文の貢献の範囲を超えています。H論文は代わりに、これらのレヴァントでの発見を、より広い視点で調べ、ヨーロッパとアジアにおける中期更新世ホモ属の移住の役割の役割を議論しました。興味深いことに、明らかにネアンデルタール人と関連があり、遺伝学的にネアンデルタール人と近いと証明されているSH集団(関連記事)でさえ、ネアンデルタール人とは分類されませんでした。

 MR論文は、NR化石が形態学的に、したがって系統発生的にネアンデルタール人と関連している、とのH論文の大前提を裏づけます。しかし、上述のようにM論文は、MR論文の比較標本における帰属と、その手法の形式と内容に欠陥を見つけました。NR化石に関するMR論文の評価は、頭頂骨の除外により制約されており、頭頂骨はNR化石を異なる古集団として認識するのに重要です。さらに、MR論文はその結果を、利用可能なデータの豊富さと、とくに人類史の複雑性を考慮せずに、伝統的な手法で解釈しました。本文に添付されている包括的な補足は、この種の批評を述べる前に、より慎重に考慮されるべきです。H論文は、保存された構造の全側面の記述的および定量的分析を用いて、NR化石を包括的に分析し、NR遺骸の最も徹底的で正確な形態学的および形態計測的評価を得ました。それにも関わらず、M論文は、化石証拠の解釈とヒト進化の再構築が困難な課題であることを認識しています。したがってM論文は、新たな見解を受け入れ続け、NR古集団に関する情報に基づいた科学的議論を歓迎します。


参考文献:
Hershkovitz I. et al.(2021): A Middle Pleistocene Homo from Nesher Ramla, Israel. Science, 372, 6549, 1424–1428.
https://doi.org/10.1126/science.abh3169

Marom A, and Rak Y.(2021): Comment on “A Middle Pleistocene Homo from Nesher Ramla, Israel”. Science, 374, 6572, ebl4336.
https://doi.org/10.1126/science.abl4336

May H. et al.(2021): Response to Comment on “A Middle Pleistocene Homo from Nesher Ramla, Israel”. Science, 374, 6572, eabl5789.
https://doi.org/10.1126/science.abl5789


https://sicambre.at.webry.info/202112/article_26.html

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