残酷を直視できない「事なかれ主義」の日本人 2020年04月20日 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1097.html「残酷を直視できない事なかれ」は1960年代末の全共闘運動のなかで、すでに見られた。 「命を賭して」なんて勇ましいかけ声があふれかえるなかで、東大安田講堂や新宿の路上騒乱でも、飛び交うのは命どころか、せいぜい、石と火炎瓶程度にすぎなかった。 対する警察側も、せいぜい警棒とジュラルミンの盾、それに催涙弾程度だった。 「命を賭した」ならば、実弾が飛び交うのが筋であり、結末は天安門事件のように残虐な死体の山ということになるべきだった。 私も興奮しながら参加した、あの当時のデモも、結局、かけ声ばかりで、残酷を直視する姿勢はなく、「事なかれ主義」が横行していたのである。 今回の新型コロナ騒動の全体像が、日を追うごとに鮮明になりつつあるが、それらの流れのなかで、浮き上がってきた問題点も、はっきり見え始めている。 私が、1月末の報道(主に羽鳥MS)から一貫して感じているのは、日本政府や関係者の共通点、うんざりするほどの「事なかれ主義」である。 安倍晋三がコロナ禍をひどく軽く考え、オリンピック開催を第一義に情報操作する姿勢を見せていたのは、はっきり分かった。 PCR検査をしたがらないのも、疫病パンデミックという恐ろしい事態を矮小化、小さく、軽く見せようとして、なんとか無理矢理でもオリンピックを実現したい、という軽薄な考えの上に、見せかけだけの対策を行っている姿がはっきり見えていた。 とにかく、事態の深刻さを直視したくない。政権の人気取りだけは大げさに報道するが、直面する事態を軽く見せかけ、すぐにでも解決できるようにしか公表しない。 期待していた「オリーブの木」の黒川君までも、コロナ禍に関して「事なかれ」姿勢が見えたので、本当にがっかりした。そういう姿勢では、これからの恐ろしい時代を真正面から切り開くことなどできるはずがない。 靖国神社を参拝するなどの無益な冒険を敢行できるなら、もっと真剣に問題を受け止められるはずだ。 メディアの司会者の大半も、事態の深刻さを理解できている者は、テレ朝の玉川徹を除いて、ほとんどいなかった。 日本人は、どうして、ここまで現実にある問題の矮小化=「ことなかれ」が好きなのだろう? 私は、「残酷を直視できない」日本人の文化的パーソナリティに大きな問題があるような気がしている。 外国映画やドラマを見ていると、日本では、まずお目にかかれない残虐シーンが、これでもかと豊富に出てくる。 フリンジ・NCIS・Bones・lie to me 手元にあるDVDをみても、ほぼすべてのドラマが、まるで残虐シーンの競争をしているように、これでもかと破損腐敗した遺体をリアルに題材にしている。 戦争映画でも、ライアン・地獄の黙示録・プラトーン・フルメタルなど、すべての映画に、銃弾で頭が吹っ飛ぶシーンとか、銃器自殺とか、本当の殺人シーンを再現しているような迫力のある残酷シーンが目白押しだ。 翻って、日本映画やドラマで、遺体の出てくるシーンがあったとしても、アンチリアリティの制約でもあるのかと思える実に抽象的で陳腐な表現ばかり。 人が死んでいても、アメリカドラマのように脳味噌が吹き飛んだり、腐敗してウジが湧いていたり、血糊が変色して黒ずみ、真っ黒の臓物が飛び出していたりするシーンは、ほとんど見たことがない。 以下は、残酷と称する映画の予告編だが、アメリカの映画関係者が見たら、お笑い芸人の遊びにしか見えないだろう。 https://www.youtube.com/watch?v=DK0Z2F06U5A 血が噴き出たり、肉片が飛んだりの現実感が希薄なのだ。だから、座頭市など日本映画のチャンバラシーンは、現実感のない観念的な映像ばかりだったので、「殺人でなく、体操にすぎない」と、海外では不評だった。 後に、勝やタケシが、少しはリアリティのある殺陣を公開してみても、どこか芝居じみて現実感に乏しい表現から逃れられないでいる。 テレビドラマで、毎回死体が登場する、沢口靖子の科捜研シリーズとか、内藤剛志の刑事シリーズなども、24時間経た遺体の血糊が顔料赤のままになっていて、リアリティからほど遠い子供だまししか感じ取れず、現実感・空気感・肌に染み入る衝撃を感じることができないことにより、とてもアホらしくて見ていられない。 日本製の映画やドラマが評価されないのは、こうした真実・現実から乖離した観念的でリアリティのない表現ばかりであることが最大の原因だろう。演出家たちは、かつて川内康範が作詞のリアリティを得るため日航機事故の遺体置き場に通ったような努力が必要だろう。 というより、こうした「残酷を直視できない事なかれ」は、戦後のある時期までは、戦争の残虐を体験させられたことの反作用だったのだろうが、その後、日本人から勇気や精神的タフネスを奪うために、意図的に演出された路線だったような気さえするのだ。 もう少し言えば、これはCIAの日本国民コントロール政策に含まれた陰謀だったかもしれない。 「血を見ることを嫌悪する」心優しい日本人ばかり作って、小さな犠牲を厭わず戦闘的な姿勢を奪い去る仕掛けだったかもしれないのだ。 こうした傾向は、1960年代末の全共闘運動のなかで、すでに見られた。 「命を賭して」なんて勇ましいかけ声があふれかえるなかで、東大安田講堂や新宿の路上騒乱でも、飛び交うのは命どころか、せいぜい、石と火炎瓶程度にすぎなかった。 対する警察側も、せいぜい警棒とジュラルミンの盾、それに催涙弾程度だった。 「命を賭した」ならば、実弾が飛び交うのが筋であり、結末は天安門事件のように残虐な死体の山ということになるべきだった。 私も興奮しながら参加した、あの当時のデモも、結局、かけ声ばかりで、残酷を直視する姿勢はなく、「事なかれ主義」が横行していたのである。 「これが日本人の文化的パーソナリティ」と言ってしまえば、それまでだが、世界の他国では、アメリカの映画やドラマに出てくる残酷こそが真実なのだ。 日本人は、あるべき真実を、たくさんのオブラートで包んで、雰囲気だけを味わって「行き着くべきところに行き着かない」という臆病さがあると考えるべきだろう。 こうした日本的臆病が、今の日本政府の「事なかれ主義」による重い重い、無意味な政策の羅列につながっていて、日本人が事態を正しく直視することを妨げている。 それどころか、日本的事なかれ主義は、今や、ネット界の主流にもなってしまっている。 ユーチューブも、残酷シーンがわずかでも含まれている動画は、片っ端から削除していて、昔のような自由な情報収集が不可能になっている。 今、私が、この文章のなかで「残酷シーン」を紹介しようとしたら、ほぼすべてのシーンが削除されてしまって、これでは「残酷」とは何であるのか、子供たちに理解させることさできなくなっている。 まさに日本流事なかれ主義が、世界のSNSを制覇しているような状況で、かつてイスラム国が捕虜の首を切断する生々しい映像も、今や探し出すことさえできない。 逆に言えば、ネットSNSを利用している世界中の読者は、世界には残酷が存在しない、蝶と花だけの世界であるかのような洗脳をもたらしているのではないか? ネット上には、ネットの残酷シーンに拒絶反応を示して、追放を要求する知性も思索もない馬鹿が溢れているが、現実社会が蝶や花だけの世界と勘違させられている連中が、いざ、コロナ禍のような事態に遭遇して、対策を正しく考えることなどできるはずがない。 我々の人生には、苦もあれば楽もあり、天国もあれば地獄もある。人生に真正面から対峙し、苦難を克服するには、良いことも悪いことも、あらゆるすべての情報が必要なのだ。 ユーチューブのように、「残酷排除」のような愚かな姿勢では、子供たちは正しい人生観を持てなくなる。 我々は、すべての真実を隠蔽しないで見せるメディアを必要としているのではないのか? もう、いいかげん「事なかれ主義」は追放されなければならない。 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1097.html
|