ワルシャワに生きるショパン - ワルシャワの苦悩と愛国心が生んだ音楽の伝統 - もう1つの美しい公園とパデレフスキ像 ワジェンキ公園でも十分に豊かなのに、この公園に隣接してもう1つ美しい公園がある。このウヤズドフスキ公園は、ワジェンキ公園と比べて知名度が低いくて規模が小さいからか、観光客の姿をほとんど見かけない。しかしワジェンキ公園よりも優美で、ワルシャワが美しい公園にめぐまれた町であることを改めて実感するような場所である。 ここにも1体の立派なピアニストの銅像が立っている。ショパンと同じくピアニスト兼作曲家で、しかもポーランドの首相にまで登りつめた真の愛国家、パデレフスキの銅像である。 ウヤズドフスキ公園とパデレフスキ像 パデレフスキは24歳になってから本格的にピアニストを目指した遅咲きながら、情熱的なプレイスタイルや上品でカリスマ性のあるいでたちで女性ファンをとりこにし、アメリカを中心にアイドル的な人気を誇った。 パデレフスキのトレードマークであった金髪の巻き毛ほしさに、はさみをもってパデレフスキを襲った女性ファンもいたほどだ。 パリのサル・エラールにおけるデビューコンサートには同郷のキュリー婦人も参加しており、初舞台とは思えない堂々ぶりは皇帝のようだったと証言している。 演奏活動のみならず、ピアノ曲からオペラまで作曲したり、ショパンの楽譜全集を編集したりもしている。ポーランド語、ロシア語、英語、フランス語、ドイツ語を操り、知的な語り口でヴィクトリア女王をはじめとした各国の要人とも親交が深かった。 第一次世界大戦ではポーランド独立のために奔走し、ポーランドが独立した1918年には首相にまで選ばれた。第二次世界大戦が勃発し、再度苦しみを味わったポーランドのために、再度立ち上がろうとしたパデレフスキは、直後の1940年にアメリカで80年の生涯を終えた。ポーランドに自由が戻った時に自分の墓をポーランドに移すことを決めていたが、それがかなったのは1992年になってからのことであった。 2010年はショパンの生誕200周年のみならず、パデレフスキの生誕150周年の年でもあった。ワジェンキ公園のショパン像には無数の人が集まって写真を撮っているが、ウヤズドフスキ公園のパデレフスキ像には、情熱的な真っ赤なバラが囲んでいるだけで、まったくといってよいほど人気がない。ワジェンキ公園の混雑を避けてゆっくりするために来た人と思われる人がぱらぱらといるぐらいである。 パデレフスキ像は王座に座る皇帝のような姿で表現されており、まるでショパンの大胆で感傷的な銅像とは趣が違っている。人々に常に注目され激動の人生を送ったパデレフスキと、病弱で人前に出るのを嫌ったショパンのそれぞれの銅像は、お互いの人生とは間逆の結果になっている。 http://www.europe-museum.com/classic_music/composer_city/em768 ▲△▽▼
パデレフスキーはポーランドのピアニスト兼作曲家。
政治家・外交官としても活躍し、第1次世界大戦後に発足した第2次ポーランド共和国の第3代の首相。 Paderewskiはポーランド発音ではパデレウスキ。 Ignacy は Ignace とフランス語表記されたり、Ignaz とドイツ語表記されることがある。 日本ではパデレフスキとも表記されている。 ポドリア地方の寒村クルィフカ(現ウクライナ領)生まれ。
父親は経済学研究者だったが、出身はポーランド系の小貴族。生母はパデレフスキーを産んで数ヵ月後に逝去したため、パデレフスキーは遠戚者によって育てられた。 最初は個人教師についてピアノを学んでいたが、1872年(12歳)ワルシャワ音楽院に進学し、ナタリエ・ヤノータ(クララ・シューマンおよびブラームスの門下)に師事。 1878年(18歳)ワルシャワ音楽院を卒業し、そのままピアノ科の教官になる。 1880年(20歳)アントニーナ・コルサクーヴナと結婚。しかし、翌年に生まれた長男アルフレッドに障害がある事が判明し、さらにその年の10月に妻アントニーナが死去。 1881年(21歳)ベルリンに留学。フリードリヒ・キールとハインリッヒ・ウルバンに作曲理論を師事。 1884年にウィーンに移り、テオドール・レシェティツキに入門。 1885年(25歳)レシェティツキの紹介により、ストラスブルグ音楽院教官として着任。2年間、音楽理論とピアノを担当。 1887年(27歳)、ウィーンに戻り正式にコンサートデビュー。 1889年パリ(29歳)、さらに1890年(30歳)ロンドンでもデビューして大成功をおさめる。ちなみにパリ・デビューは当時少年だったアルフレッド・コルトーも客席で聴いている。 1884年にレシェティツキの門を叩いたパデレフスキーは、ピアノ演奏法を基礎の基礎から徹底的にやり直しさせられたと伝えられる。
レシェティツキは、師のツェルニーの教則本をパデレフスキーに与え、パデレフスキーはそれを毎日10時間(実際はもっと長時間だったという証言もある)練習したという。 とはいえ、プロ志望には余りにも遅い24歳の入門者に、レシェティツキは最初は難色を示したという。 その入門希望者と来たら…テクニックは不完全で、規定の速度で演奏するのもままならない腕前しか持ち合わせていなかった。それ以前に、ピアニストを目指すには24歳という年齢はあまりに遅すぎた。 ピアニスト志望者は普通は10歳までに専門教育を受け、15〜6歳の頃にはある程度の技術は完成されていなければならない。18歳で音楽大学に入ってあちこち矯正されているようではプロにはなれない。 まして24歳と云えば音楽大学入学どころか、下手すれば大学のさらに上の大学院を出ようかという年齢である。 それでもパデレフスキー青年がレシェティツキ門下の末席に座る事が許されたのは、パデレフスキーが「ポーランド系ユダヤ人」であった事が関係していた可能性がある。 実はレシェティツキは、ピアニストとして成功するための基本要素として「ユダヤ人」である事と「ショパンと同じポーランド系」である事を提言していたからである。 もしもパデレフスキーがポーランド系ユダヤ人でなかったら、果たしてレシェティツキが入門を許したかどうか…。 それでもレシェティツキは入門を許したとは言え、パデレフスキーが後に(あれほど壮絶かつ空前の大成功をおさめる)世界的なカリスマ演奏家にまで昇りつめるとは夢にも思っていなかったので、パデレフスキーにさっさと教職を紹介して、ウィーンから彼を遠ざけてしまう。悪い言い方をすれば厄介払いのつもりだったのだろう。 しかし、結果としてパデレフスキーはレシェティツキを頼る他はなく、スポンサーを見つけて再びレシェティツキのもとに通い始め、訓練を受けたのち漸くウィーンデビューをさせてもらえた。 これがきっかけとなってパデレフスキーはスターダムを昇りはじめ、「あのパデレフスキーの師匠」としてレシェティツキの名声が決定的になった事は運命の悪戯というものだろう。
レシェティツキは直接・間接指導を含め生涯に約1800人の弟子を指導したが、パデレフスキーの成功が無ければこれほどの入門志願者が門を叩いたかどうかは判らない。だが、門下の証言によればレシェティツキはどんな弟子に対しても辛抱強く教えたそうだから、スタートの遅かったパデレフスキーをとりあえず引き受けてくれる奇特なピアノ教師はおそらくレシェティツキをおいて他には居なかったであろうと推測する。(たとえパデレフスキーがポーランド系ユダヤ人であったにせよ。) パデレフスキーのパリ・デビューが行われたサル・エラール(ピアノメーカー『エラール』のホール)は、ポーランド貴族の末裔達やパデレフスキーの知り合いが駆け付けたものの、満席には程遠い客入り(聴衆の一人、ポーランドの物理学者マリー・キュリー夫人の証言)だった。 ショパン、シューマン、リストの曲が並んだコンサートは圧倒的なまでの成功をおさめ、やはり聴衆の一人だったアルフレッド・コルトー(当時11歳)は『ステージに神が舞い降りたかのようだった』と後に回想している。 コンサートは聴衆総立ちのスタンディングオベーションと万雷の拍手で幕を閉じ、観客だった指揮者ラムルーとコロンヌの二人が興奮してパデレフスキーの楽屋に駆け付けて共演を申し込んだ時、パデレフスキーは震え上がってしまった。 なにしろパデレフスキーは晩学だったが故に、オーケストラと共演するピアノ協奏曲のレパートリーなどひとつも無かった。 そればかりか、この日パデレフスキーがコンサートで弾いたプログラムが、パデレフスキーの「人前で演奏できるレパートリーの全て」だったのだ。 もちろんウィーンデビューの時とまったく同じプログラム。それもレシェティツキから3年間シゴかれまくって毎日長時間かけてやっと作り上げた「なけなし」のレパートリーである。 パデレフスキーは、プロを目指したのが遅かったために、通常のピアニストが少年から青年に至る時期に経験する『レパートリーの蓄積』が欠落していたのだ。それをパデレフスキーは誰よりもよく自覚していた。だからこそパリデビューがいかに成功しようが、これから先の事を考えて暗澹とした思いにしかならなかったのは無理もない。 しかし、パデレフスキーはサイボーグ並みの意志の強さと根性を持っていた。
持ち前の精神力で「長時間練習」をこなし、更なるレパートリーを蓄積して行く。1891年のアメリカ公演の時、パデレフスキーは1日おきのコンサートをこなしながら、コンサートの無い日に17時間の猛練習を続けたという。 アメリカ公演でのパデレフスキーは実に半年で100回以上のコンサートをこなし、ピアノ界のスーパーアイドルとなった。この時パデレフスキーは31歳。(下の画像) その人気の凄まじさは半端なものではなく、おそらくパリ時代のフランツ・リストが唯一対抗出来たのではないかという超絶の人気だった。 ……例えば、パデレフスキーがステージに登場するやいなや女性達は集団ヒステリー状態になってステージに殺到。(コンサートを始めるどころではなかったろう) 最後の演奏が終わるとアンコールを要求する拍手と歓声・金切り声・断末魔などが沸き起こり、それが1時間以上も続く。レパートリーの少なかったパデレフスキーは、このアンコール地獄でかなりのレパートリーを拡げる事になった。 アメリカの聴衆はひとたび熱狂すると世界一恐ろしい。 なにしろ、かの名優オーソン・ウェルズがラジオドラマで「火星人来襲」のドラマを朗読した時、それを実際のニュースと早トチリして全米が大パニックになった事もある国民性のアメリカ人である。 パデレフスキーの追っ掛け集団もコンサートツアーが進むにつれて次第に見境いがなくなって行く…。 サイン欲しさの女性ファンが楽屋や入口付近に隠れているのはまだいいほうで、中にはハサミを持った女性ファンが待ち伏せし、パデレフスキーを見るなり襲い掛かった事もあった。 殺されるか…と覚悟をしたパデレフスキーだったが、女性ファンが欲しかったのはパデレフスキーの命ではなく彼のブロンドの髪の毛だった。(…ここまで来ると完全に変態ストーカーである。) こうして、変態ストーカーと化した熱狂的女性ファン達の見境いの無い襲撃をかいくぐりながら、パデレフスキーは半年で100回以上のコンサートをこなし続けたのであった。 パデレフスキーの演奏風景を描いた風刺画。右下の小箱には『私の髪の毛です。ご自由にお持ち下さい』と書かれている。
かのホロヴィッツやミケランジェリ、現代のブレンデルは自己所有のピアノを専属の調律師とともにコンサート会場に持ち込む。そのポリシーは来日公演であっても変わる事がない。自ら用意したピアノのコンディションが納得出来なければコンサートそのものをキャンセルしてしまう例(ミケランジェリ)もある。
いやはや、世界の超一流ともなると公演ツアーに大変な経費をかけるものだと溜息が出る。 だが世の中、上には上がある。
絶頂期のパデレフスキーのコンサートツアーはピアニストというより、王侯貴族も顔負けの超VIPツアーであった。 アメリカ国内を移動する際はパデレフスキー専用列車を使う。列車は車輌ごとパデレフスキー所有物だったばかりか、パデレフスキーのコンサートスケジュールに合わせてパデレフスキーコンサートツアー専用ダイヤ(もちろんパデレフスキーが購入したもの)で運行した。 列車には愛用のエラールのピアノが2台(専属調律師付き)、移動中の長時間練習の時に調律出来るよう2台搬入したと伝えられている。 さらに長時間練習の疲労を和らげるための専属マッサージ師、パデレフスキーの好みの料理人チーム、主治医、執事、秘書、専属ガードマン、夫人と子供たち、……こうした大名行列のような専用列車を見るために集まる群集、群集、また群集。 そうしたパデレフスキーでも、ドイツやロシアでは冷遇された。特にロシアからすれば分割統治下にあるポーランド人は人間以下という偏見があった。パデレフスキーもそのあたりは判っていたが、ペテルブルグでは帝政ロシアのユダヤ人に対する差別政策もあり、ロシアの首都(当時)ペテルブルグにユダヤ人は24時間しか滞在出来ない…という法律があった位である。ポーランド系ユダヤ人であるパデレフスキーなど、世界がどんなに騒ごうが意地でも認めない…という雰囲気が漂っていた。
ロシアはこの時、日露戦争に敗れていた直後であり、さらに第一次ロシア革命によって帝政ロシアは末期状態に突入して行く。 1914年のサラエボでのオーストリア皇太子暗殺事件により、オーストリアはセルビアに宣戦布告、第1次世界大戦が勃発する。ポーランドを分割統治していたオーストリア、ロシア、プロシア(ドイツ)は両陣営に分かれて戦う事になり、ポーランド国内は両陣営に別れたポーランド人達が内戦さながらに銃を向け合う悲劇に陥る。 54歳のパデレフスキーはここで立ち上がった。 当時居住していたアメリカで、自ら亡命ポーランド人10万人を集めてポーランド独立義勇軍を組織。さらにジュネーブ湖畔の別荘を売り払って資金を作る。 ただならぬ事態を察してパデレフスキー邸に取材に押し寄せて来た新聞記者達に対し、パデレフスキーは「ポーランド独立までは演奏活動を封印する」と宣言する。 一日練習を怠っただけで腕の筋肉が硬くなってしまう晩学ゆえのハンディを持っていたパデレフスキーにとって、演奏活動を休止する事……すなわちピアニストとしての「死」を意味する。 しかし、パデレフスキーは「祖国の英雄ショパンが見る事が出来なかったポーランド独立を果たすのは、今をおいて他にはない」と記者達に語った。 目に涙をため、断腸の思いで自宅ピアノの蓋を閉じるパデレフスキーの悲痛な姿は記者達によって撮影され、ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポストを筆頭に全世界の新聞のトップで公開された。 祖国の独立のために、ポーランドの生んだ世界ピアノ界のスーパースター・パデレフスキーが私財を投げうって立ち上がったというニュースに、全世界に散っていた亡命ポーランド人達の勇気は百倍した。 しかし、それはポーランドの独立と引き替えに、パデレフスキーが自らのコンサートキャリアに事実上の終止符を打った事に他ならなかった。 1917年、ソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)が誕生し、翌年ポーランド人民共和国が誕生。晴れて念願の祖国独立を勝ち取ったパデレフスキーの感慨は想像を絶するものだったろう。
民族の英雄・独立の指導者として乞われて政治の檜舞台に押し出されたパデレフスキーは、1919年にポーランド人民共和国首相(兼・外相)となり、パリ講和会議に出席した。 政治的手腕はさすがに専門政治家とはいかなかったものの、母国語のポーランド語以外に英語・ドイツ語・フランス語・ロシア語を母国語同様に喋れた語学力、加えてピアニストとして活躍していた頃の世界的人脈が、この時モノを言ったのである。 しかし、各国首脳はポーランドの首相パデレフスキーと接していて、複雑な気持ちだったという。例えば、フランスの政治家ジョルジュ・クレマンソー(1841年〜1929年)との間にこんな会話があった。 クレマンソー:貴公はあの著名な大ピアニストとして活躍されていた、あのパデレフスキー殿でおられますかな?
パデレフスキー:その通りです。 クレマンソー:そして、現在ではポーランド共和国の首相でおられる……。 パデレフスキー:…そうですが。 クレマンソー:お気の毒に……なんという転落! クレマンソーもまた、大ピアニスト・パデレフスキーのファンだったのである。
政治の世界を去ったパデレフスキーを熱狂的なアメリカ人ファンが後押しし、ついに1922年、コンサート活動を再開する。 全盛期の輝きは戻って来なかったものの、ファンはパデレフスキーが祖国独立の為にピアニストとしての貴重なキャリアを犠牲にした事を知っていた。 それでも、すっかり錆びついたテクニックから演奏される音楽は、それが所々に破綻しかけた演奏であっても紛れもない「パデレフスキー節」であり、パデレフスキーにのみ可能な超一流の洒落弾きであった。 今日、ピアノロールやSPに残されているパデレフスキーの録音は、どの曲もパデレフスキーの個性と気品に溢れており、少年時代「君はピアニストにはなれない」と言ったピアノ教師達の感覚を疑いたくなる。パデレフスキーは確かに超人的な練習をした。しかし、パデレフスキーの気品は決して練習で身につけられるようなものではなく、理屈抜きに「持って生まれたセンス」だと感じるのは私だけだろうか。 私もピアニストの端くれとして、持って生まれたものか後天的なものかは、演奏を聴けば間違いなく判る。ひょっとして、師のレシェティツキはパデレフスキーに『…もしや』と感じていたのかも知れない。 ニューヨークのマディソンスクエアガーデンを単独で満員札止めに出来るのは、パデレフスキーかモハメド・アリ(ボクシング)かマイケル・ジョーダン(バスケットボール)くらいのものだそうだ。こんな桁違いのピアニストは、あと300年は出て来ないのではないかと思う。 パデレフスキーの作曲したピアノ曲は、メヌエットがあまねく有名だが、ピアノ協奏曲イ短調もなかなかの名曲である(VOXレーベルからマイケル・ポンティの演奏するレコードが有り)。 http://www.pianist-sonobe.com/pianist_library/h/Paderewski.html ▲△▽▼
パデレフスキも30代まではまともな演奏をしていた様ですね。
しかし、ピアニストの場合は20代、30代の天才というのは存在しないのですね。 早熟だったコルトーやホロヴィッツでも40才過ぎてやっと巨匠に成った位ですから。 欧米の女性を熱狂させた20代、30代のパデレフスキーもエルビス・プレスリーやビートルズと同じ類の人気だと思った方がいいですね。 しかし、パデレフスキーに限らず、ポーランドの人間はみんなどこかおかしいですね。 ポーランドはヨーロッパの朝鮮みたいなものなのかな: ポーランドの噂 1.東郷ビール。 これってフィンランドのはず。 フィンランドにもそんなモンねぇよ。 実際にある。ただし海軍元帥シリーズの一つとして。 正確には「あった」だね。つーか、「東郷ビール」なんていうネーミングは現地で存在してすらいない。フィンランドの超ローカルなAmiraaliという地ビール(92年に製造中止)のラベルの24人の海軍提督のうちの一人が東郷だったというだけ。「東郷ビール 伝説」あるいは「東郷ビール 伝説 独り歩き」でググろう!。 2.ズブロッカ 養命酒に似た味。 中に植物の茎が1本入ってるウォッカ。 3.世界最強の酒、「SPIRYTUS REKTYFIKOWANY(スピリタス)」 これをポーランド人は乾杯で何杯も一気飲みする。 度数96%だっけ?ほとんど工業用の精製アルコールと変わらん・・確か日本で売ってるビンのラベルには「火気厳禁」とか印刷してあった気がする。 普通に水気の入ったビンの感覚で持ち上げるとほとんどアルコールなので軽くてびびる。 日本酒みたいに薄い酒は慣れていないのか、かえって飲み過ぎてつぶれるらしい。
4.コペルニクス、キュリー夫人、ヨハネパウロ2世もポーランド出身。 「コペルニクスはドイツ人だ!」なんて言うと・・・。 クラクフ空港の愛称はヨハネパウロ2世空港。 5.バッハもこの国出身。 当時ドイツ(神聖ローマ帝国)領の地域だよね?違った? 指揮者・クレンペラー(ドイツ人)の生地も今はポーランド。 大バッハはアイゼナハの生まれだけど、あそこは当時からドイツ領では。ポーランドの民族音楽であるポロネーズを作曲してたりはしたけど。 6.ショパンって確かこの国じゃなかったっけ? 当たり。 ワルシャワの空港はフレデリック・ショパン空港 ワルシャワ近郊生まれ。但し父はナポレオン戦争に従軍してそのまま土着したフランス人(母は勿論生粋のポーランド人)。ショパンという姓も本来はフランスの姓。フルネームもフランス語式とポーランド語式の両方がある。 日本のピアニストでショパンの3度の練習曲を速く弾けない人が非常に多い。 同じく作品10・2番半音階の練習曲も弾けないピアニストが多い。 上記の二人はヘタレ音大卒の模様 彼の写真を見たらドラクロアの絵とのギャップが大きく、失望した。
7.初代首相(兼外相)は「メヌエット」で有名な作曲家&ピアニストのパデレフスキだった。 8.第二次世界大戦後国土がずれた。東側はソビエト領となったが、ドイツ東部をもらったため。
9.首都はワルシャワ。第二次世界大戦など対戦のたびに破壊されたが現在は復興した。 旧市街を完全再現したはずが、街の片隅に寸法ミスがある。 10.1980年代に共産党の一党独裁が崩壊。 時の共産党第一書記ヤエゼルスキは大のロシア嫌いだったがポーランドの為になにも言わなかった。盲目の指導者でサングラスをかけていたが、その視力はソビエトとの戦いで失ったもの 一部ウソ。ヤルゼルスキはむしろ心情的に親ロシア派。あくまでもポーランドの独立を守ろうとしたのであって、ロシア嫌いというわけではない。本人もよく「スラヴの同胞」という表現を使う。 ちなみにヤルゼルスキは戦後の歴代指導者の中で一番国民から嫌われている。理由はユダヤ系だったから(現地でポーランド人が教えてくれた)。帝政ロシアの頃から属国の統治手段として異民族出身の指導者を充ててロシアに対する反感を和らげようとしていた。「スラブの同胞」と言う表現はあくまで恭順の意を示しただけに過ぎない。 11.ドイツ第三帝国が築いた収容所の跡が残っている。 オシフィエンチム(ドイツ語でアウシュヴィッツ)収容所。世界遺産となっている。 同様にドイツ第三帝国が築いた総統大本営「ヴォルフスシャンツェ(現地名はヴィルチィ・シャニェツ)」も跡地ながら残っている。ちなみにかなり僻地にあるため、敷地内にはホテルまで隣接している。
12.各地にはドイツ軍の残していったブンカー(壕)が残っていたり、近年では近海にドイツ海軍の空母が沈んでいることが判明したりと、ドイツ軍の置き土産には事欠かない国。街角では何故か鉄十字章がひっそりと売られていることも。 ワルシャワの軍事博物館にナチス展みたいのがあってマウザーやパンツァーファウストが展示してありその筋にの人にははたまらない 13.人口は3800万、日本の関東地方と同じ。 14.ドイツ軍に戦車で攻め込まれたとき馬で対抗しようとした。 でも、ポーランド騎兵の獰猛さは有名だったため、ドイツ兵はびびりまくっていた。本気で勝てるのかと疑っていた節もある。 実はヒトラーが割譲を要求したのは伝統的なプロイセン民族の土地(ドイツ人、ヒトラーが言うアーリア人の土地)で、実際、この地域では第一次世界大戦終結後ドイツ系住民に対する迫害が起きていた。その度合いは初期のホロコーストなど真っ青である。 だがポーランドは突っぱねた上軍備で脅したのでヒトラーがブチきれて戦車で蹂躙された。だいたいポーランドが他国に侵攻されるときの理由はこういう態度なのだが、勝っている方の尻馬にのって被害者ヅラするため始末に負えない。アメリカがあっさりソ連にくれてやったのは相手するのが嫌だったから。長い記事 ウソくさ!いったいどこで読んだんだそんなホラを・・・ ヒトラーはチェコでドイツ人の多い所だけくれればいい、という約束を破った前科があったから、ポーランドが拒絶するのは当たり前。 チェコのそれはチェコ側のお家騒動が原因。 そもそも西プロイセンにはドイツ系よりポーランド系のほうが多数を占めていたからポーランド領になったのだが どうもフランスと挟撃すればいずれ勝てると考えていた節がある。仏との同盟は秘密同盟だった。戦争回避を第一に考えるなら普通は公表する。 日本人はあのにっくっきロシア人に日露戦争で勝った国なので「黄色人種だか身長は自分たちと同じくらい」と勝手に思い込んでいる。背の低い日本人がポーランド人におまえ何人かと聞かれた場合、「おまえはベトナム人か?、朝鮮人(韓国人)か?、中国人か?、もしかして日本人か?」と必ずもったいぶって「もしかして」がつくはず。 歴史を見れば分かるけど、もともとポーランドは愛国心は強いけど異教徒・異民族に寛容な国柄だからね。 ドイツ侵攻に際してポーランド国内ではドイツ系に対する虐殺事件が起きている(ブロンベルグ血の日曜日事件)。これに対してドイツ系ポーランド人が自発的に組織した自警団が報復している。
プロイセンはドイツ騎士団の東方植民でドイツ人が大量移住した土地だが植民者はドイツ人に限らず西側は長年ポーランド王領、プロイセン王国は宗教や民族に無頓着に移民を受け入れる多民族国家だったので「プロイセン人」はかなり多民族と混ざっていた。 当時のポーランドはどさくさに紛れてソ連の領土を掠め取ってるし、ドイツが攻めて来たときにも隙あらばドイツを逆に占領しようとしたのが当時の文書から分かっている。まぁ東の大国ソ連と西の大国ドイツ両方から恨まれてたんだね。 ちなみに当時のポーランドは非常に領土的野心が高い国と言われていたのも分かっている。 パデレフスキ首相が当時はれっきとしたドイツ領だったポーゼンで「ここはポーランドの領土」と演説したことからも明らか。 ぶっちゃけ、当時のポーランドはドイツに負けないくらいの陸軍大国だった。でも重工業化に失敗して機械化が遅れていたので、イギリスとフランスはポーランドがもって2・3ヶ月だろうと思っていた。なので2国とも最初から見捨てる気満々だった。 でもポーランド侵攻時のドイツの戦車は弱く、むしろ優秀な野砲がポーランド軍を蹂躙したと言って良い。
「騎兵隊で戦車部隊に突撃した」という逸話は実は従ドイツ軍イタリア人記者の「作り話」らしい。 15.美人と「ミリタリー系の雑誌」には事欠かない。前者は街中で、後者はキオスクで。 Wikiでその手のを捜してると、「English」のリンクが無いのに「Polski」と繋がっているという事がよくある。
ワールドカップの各国美女サポーターを集めたサイトを見たが、Brazilと並んでPolandのページが異様に多かった。美人が多いのはどうやら間違いないと思う。 世界有数の美女大国だが、30も過ぎるとウエストのないおばちゃん体系に... 16.最盛期は15世紀。
17.田舎の踏み切りは、列車が通過する前後で最低でも30分は閉じている。 目で見て渡れと…。 18.犯罪者の護送に在来線を使う。ちなみに車内では護送される犯罪者は手荷物の収納部屋のような場所に入り、その入り口の両脇を銃器を持った軍人さんがガッチリとガード。 19.何かあるたびに無くなったり分裂したり移動したり復活したりと忙しい国。 ヨーロッパのいじめられっ子。 4,5回ほどロシアに小突きまわされてるのに何度も不死鳥のごとく蘇る。国歌にすら「まだポーランドは滅びていない」というフレーズが入っている。 ちなみに国歌の名前は「ドンブロフスキのマズルカ」、ポーランドの友人に聞いても意味は知らんとのこと。 何度潰されても、虐げられてもしぶとく復活。ポーランドの子供は自国の歴史を学校で習うと愛国心が高まるそうだ。 800年間でもリトアニアに併合され、ドイツ・オーストリア・ロシアに全領土を没収され、第一次世界大戦後再び現れ、今度はドイツとソ連に侵略され、また復活したがソ連に西部を半分持ってかれドイツ東部が領土となり…今に至る。結構いそがしい国だ。 リトアニアに併合されていたというのは無理かも。ポーランド国王がリトアニア公爵を兼ねていた同君連合(西洋史にはちょくちょくあること)でした。ちなみに日韓併合も世界史的に見ると同君連合に分類されるようです。 ポーランド女王とリトアニア大公の結婚という比較的穏健な手段で連合している。ちなみに、女王様は御年11歳で三十路の大公殿下にお輿入れ。 実は結構自分から手を出したこともあるが、一般的にはヤラレ役のイメージが強すぎて目立たない。 ドイツ(チュートン)騎士団をぶちのめしたことも。 リトアニアと連合軍を組んですっごいかっこいい勝ち方をしてた。
20.帝政ロシアに虐められた時、シベリアに流されたポーランド人の子供を日本が世話したので結構日本に対する感情が良い。 そして阪神大震災でその恩返しをした。 阪神大震災の時「今こそ我等ポーランド人が日本人に70年前の恩返しを」という事で多くの被災孤児を招待して手厚くもてなしたとか。
でも国民単位では反日らしい。 そんなことはない。8月6日と9日には原爆犠牲者のための追悼をしてくれてますよ。 そう言うなら「ドイツをいじめると日本人はいい顔をしない」ということもそろそろ理解して欲しい。 そんなこと思う日本人はあまりいない。そもそもドイツはナチス時代にいじめられても仕方ないだけのことをしてるからなぁ(仕返しもしたけど)。 それが結構いるとこにはいる そもそもドイツ国民の殆どは、同盟を結んでいた事なんて知らない。全く知らないよ。マジで。 ポーランドが反日国家なんて聞いたことがないよ。 むしろどちらかと言えば親日。シベリア孤児のこともあるし、クラクフには日本に関する博物館もある。
21.今でもロシアが嫌い。 ドイツも嫌い。本当はアメリカも好きではないが、「新しい欧州」扱いしてくれるから表には出さない。
その割りに御祭りではロシア人の商人が自国の空軍のパイロットスーツや、果ては日本なら遊就館にでも収蔵されていそうなン十年前の錆びて穴の開いた鉄帽やドラムマガジンを平然と売っている。というかそれ確実に何か憑いているだろ。 が、最近はポーランドの方からロシア側に関係修復を望んでいる。ロシア側も両国の関係進展を望んでいる。エネルギー、防衛の関係で時間はかかりそうだがこの両国の関係がよくなればEUとしてはおいしい。 アメリカへの愚痴意見は両国とも合致している。 ロシア人のエリートがワルシャワに訪問したら、ホテルでも冷たい態度を取られる。 22.でもロシアが嫌いな他の国家(大半はベタベタの親日)からは日本とドイツが第三次世界大戦を起こしたら、ポーランドとイタリアと韓国だけはなんとしてでも締め出そう、と思われている。 日本とドイツが手を結ぶより、日本とアメリカとイギリス+英連邦が組む可能性が高そうなんだが、その場合はどうするんだろ。この場合は戦争する以前にこの新連合国の勝利が決定していそうなんだが。 たぶんドイツやフランスは戦争に参加せず、中国などが敵になりそうな気がする。 アメリカ+日本+英連邦の「新連合国」とロシア+中国の「新似非共産圏」とドイツ+フランス+イタリアの「新枢軸国」でどうか。南米・アフリカ諸国は一番親しい国もしくは一番金をくれる国に付く。 中東なくないすか? どうせ戦争になったら世界中のみんな「絆」なんて忘れて「金」と「勝利」にしがみつく様になるんだろう。今は仲が良くても心底では「もしアイツが裏切ったときのために一応装備しておこう」と思ってる人が少なからずいる。そう思ったら・・・しょせん世界中の「共存」と「友情」なんてその程度なんだ・・・って落ち込む。 23.ショパン国際コンクールが開催される。 昭和40年代内田光子が2位で、日本はいまだに優勝できない。 日本のピアニズムを認めたくないらしい。
24.去年(2005年)双子の兄が首相・弟が大統領という兄弟政権が誕生。 ドイツが大嫌いだ。ついでに口シアも。
インターネットで、2人の写真を並べて違いを判別するゲームがある。 ソ連に虐げられた日本人とは結構ウマが合うかもしれない。 そりゃそうだ。何回も理不尽な理由で攻め込まれてるからね。 25.国旗の赤と白を逆さまにするとモナコ(=インドネシア)の国旗になる 共産国家になっても、旧来の国旗の意匠を頑として変えなかった(他の東欧国の多くは社会主義っぽい紋章や赤い星を国旗に加えたケースが多い)この国旗にかけるポーランド人の思いはただならぬものがあるそうだ。 国章も、鷲の頭の王冠が消えただけで特に社会主義っぽくはなっていなかった。 26.インドネシアと紛らわしい国旗なので、配色を忘れたら、マルマインを思い出すべき。 じゃあ、マルマインとビリリダマの区別が付かなくなったらどうするの?
27.民族ジョークではイタリアをも凌ぐバカの名産地だが、本来の国民性は勤勉らしい。 戦争でボロ負けしてから必死こいて挽回するから、「一人が電球を持って残り四人がテーブルを回す」とかいう言い草になったんじゃないのか? かなり我の強い国民性らしい。国王を差し置いて貴族同士が権力争いをしてたら(ポーランド継承戦争)気づけば国そのものが無くなっていた どうやら、アメリカに大量に移住したポーランド系の移民がロクに英語を話せなかったから・・というのが事の真相らしい。元々は勤勉な国民性なので、二世・三世になって医者や代議士、大学教授等多くのエリートを輩出している。 28.国歌がなかなかかっこいい。 歌い出しが「ポーランドは滅びず 我等が生きる限り」か。ポーランドらしいな(笑) もともとポラン族という民族の集落だったらしい。
旧ユーゴスラビア国歌「スラブ人よ」と同じメロディー。元はスロバキア発祥で現在も同国の第二国歌。 そして何故かイタリアの名前が歌詞にある。ポーランドとイタリアは仲が良いみたいだ。 アンケートによればポーランドが一番好きな民族はイタリア人らしい。次が日本人とフランス人、次がイギリス人、アメリカ人。 29.餃子が名産。 ピエロギと申します。
30.映画・戦場のピアニスト 邦題 The pianist で有名。 「原題」では? "AVALON"は"The Matrix"よりもクール。 31.アメリカンジョークでは、ポーランド人は時代遅れのバカという扱い。 有名なのは「Polish Remover」の話。 時代背景が古いハリウッド映画(舞台はアメリカ)など見ていると、ポーランド人やアイルランド人を馬鹿にした表現があったりする。何故?国が何度もなくなっているから? 32.あるポーランド人男性によれば、ポーランド女性は身も心も世界で最も美しいのだが、不幸なことに脳みそが入っていないのだそうだ。 どういう意味?おバカさんってこと?
33.ポーランド語人口が少ないにもかかわらずWikipediaの記事数では日本語、スペイン語を上回る第4位になっている。 ポーランド語版Chakuwikiがあったらいいのにw
ワールドワイドで売られている電機製品等では最近意外にポーランド語対応製品が多い。デジカメとかコピー機とか(日本製品で)。 日本ではwikipediaは自己満足の世界と理解されたから。ポーランド人はおバカだからまだそれに気づいていない。 34.「ポーランド人」「ポーランドの」を意味する英語Polish(ポウリッシュ)は、小文字にすると意味ばかりか発音まで変わってしまう唯一の英単語。 polish(ポリッシュ)……磨く。 ポーランドの柱。 polishの発音はパリシなんだが・・・。Polishならわかるけど アメリカ人でも気付かない人が多いらしく、作家のアイザック・アシモフが何回もネタに使っている。 finnishを無視するな。 完了はfinishなのだぜ!
35.ポーランド語は異常に「z」をよく使う。 特に頭文字に多い。
36.王天君にしてヤムチャ。 37.5月3日は憲法記念日。日本と一緒。 38.(9 + 13) * ( 24 - 2 ) を * + 9 13 - 24 2 と書く。 その逆が 9 13 + 24 2 - * ポルスキーもあながちバカばかりではないようだ.
39.たまにドイツに過去の清算だの言いがかりをつけてくるが、 モンゴル帝国が攻めてきた時、当時のドイツである神聖ローマ帝国と共にモンゴルの侵略と戦ったことはすっかり忘れている。 大昔から他人種と戦うなんて大陸はつながってるなあ。いまでもポーランドの路線はロシア経由で中国やモンゴル、北朝鮮にもつながっている。 侵略されたら戦うのは当然だろう。神聖同盟でロシア、オーストリアと組んでオスマントルコと戦ったりもしている。この時にポーランド騎兵の対外的な名声が高まった。
その四十年後に繋がってない日本もモンゴルと戦っている。西のヨーロッパから東の島国まで攻め込んでモンゴルも忙しい国だ。 40.ポーランド騎兵には羽が生えていた。 あの羽根飾りはカッコイイ。
41.ポーランド人はアメリカやイギリスに多く移民しており、親米らしい。 ロシア語までも嫌っている。英語がブームらしく、日本語も人気で始めた。 戦前はドイツ語とロシア語がブーム。戦中から戦後は英語ブーム。 42.チェチェン人を保護している。『殺してやる』というほどロシアを嫌っている人々に共感しているみたい。 さすが大のロシア嫌い。
ソビエト陣営所属の共産国家「ポーランド人民共和国」時代で3回も反ソ連暴動起こしてるしな・・ 43.ポーランドのドラゴンボールzのopeningはなぜかナメック星編中心。 ハンガリーもポーランドと同じバージョン。 フィリピンの英語、フランス語、スペイン語、ドイツ語バージョンはかっこいい。 44.♪さぁ踊ろう ポーレチケ、ポーレチケ、ポーレチケ… 45.優秀な人はみんな西に行ってしまったので、残っている人はそれなり。日本で言えば山口か鹿児島か。「ポーランド人は外国にいって成功するんだ(キューリー夫人とかショパン)」と真顔で語る波蘭人。 46.国が何度も消滅する歴史を持っているためかどこの国であろうと虐殺、弾圧が行われると真っ先に反応して講義する。天安門事件の慰霊碑が立てられているのが好例。 47.第二次大戦のポーランド軍最高司令官はヴワディスワフ・シコルスキという。 気持ちい? 女性ならシコルスカ/Sikorska、シコシコ・スカスカ、はぁー 48.ナチスドイツから2500人のユダヤ人の命を救ったイレーナ・センドラーというポーランド人がいた。 ナチスドイツ軍に処刑されたと思われたが実は生きていたという奇跡の物語。 49.ただいま日本語がブームである。 なんと日本ポーランド情報技術大学なんてのがワルシャワにある
50.ナポレオンが好き。(一時的に、ワルシャワ公国としてポーランドを独立させたから) 国歌の歌詞に「ボナパルトがいい例だ 勝つ方法を見せてくれた」との一節がある。
その結果ポーランドにはフランス語が元の言葉も多いとか ボナちゃんの愛人がポーランド人。 51.ポーランドは西側の中古の路面電車を買っている、そしてリニューアルをする。 JR西日本とJR四国のような感じである。
52.ポーランド人はドイツとロシアも両方嫌っているが、ロシアのほうが嫌いだろう。 ポーランドはドイツ語を好んでいる。何しろ出稼ぎに便利。ドイツ語とポーランド語は違う系統だが隣国なのでよく通じる。 内心嫌いだが、金のためのドイツ語だろ? ポーランド旅行ではドイツ語表記が多いので、ドイツ語がわかれば結構よいかも。 しかしロシア語で話すと横柄な態度を取られる、また第二次大戦後にロシアにより東側陣営にさせられた苦痛がある。 しかしポーランドではロシア語教育が復活している。まあBRICsだから。 ドイツは消極的選択肢で好かれている。まあナチス式敬礼しただけで逮捕するからね。一応はドイツは敗戦したし。 これはバルト3国、チェコ、スロバキアでも同じ事。 53.ポーランドは客車大国で、特急列車も高速鉄道も客車。高速鉄道を作らず、飛行機と競争しない旧共産圏の名残。 ドイツから鉄道を乗り継ぐ際にここを境にユーラシア大陸の極東まで特急列車はほとんどが客車になり、シベリア鉄道は超長距離だから特急は客車しかない、中国のハルビンで動力分散型の高速鉄道が見られる。
ちなみにベラルーシを越えると線路幅どころか車高も変わる。 標準軌のヨーロッパと直通運転の際にロシア国内では車高が高いCIS列車と車高の低いヨーロッパ車両の組み合わせが見られる。[1] なんと日本に次ぐ早さで高速鉄道を開通させていた。ただし路線に見合った性能の高速列車の導入はこれから。 54.イタリアと仲がいい。
55.ポーランドとインドネシアは似た国旗以外にもナチスに関係がある。 56.東欧革命後に西側の安い労働力として毎年6%前後の成長しており、2008年ではGDPは世界18〜20位だった。ポーランドは旧共産圏で経済成長率が高い。 勤勉なポーランド人は英語が好きで、近年は嫌いな国の言葉のドイツ語、ロシア語教育に熱心である。 恵まれた国に隣接する国は飛躍的に経済成長する現象。アメリカとメキシコ、日本と韓国、ドイツとポーランド、イギリスとアイルランド。 シンガポールとマレーシア。ギリシャとトルコも?だけどスペインとモロッコ、オーストラリアとパプアニューギニア、イスラエルとエジプトは? 57.弱いイメージがあるが、リトアニア大公国との同君連合時のヤゲウォ朝(ヤギェウォ朝)はヨーロッパでも最強クラスの国家だった。ちなみに受験でポーランドの王朝が聞かれたら100%ヤゲウォ朝 昔から軍事的にもそこそこ強力な国だったが、ドイツ・ソ連の東西両国が強烈過ぎた。ナチス占領下でもワルシャワで数十万の武装市民がナチスSS武装親衛隊相手に壊滅状態になるまで徹底抗戦したりと、よく言われる「ヘタレ」のイメージでは無い。
58.ポーランド人は金持ちがドイツに留学、貧乏がロシアへ留学するらしい。 ポーランドは一応はドイツ語は学ぶ。 59.移民として行く国はイギリス。ドイツは当たり前だが少ない。 60.ウクライナとの関係はよくわからない。どっちも反ロシア ポーランドとロシアの綱引きのようなもの。綱(ウクライナ)を少しでも自陣に近づけようとしあっている。 ポーランドには12万人のウクライナ人がポーランドで就業登録している。ポーランド国内最大の移民グループはウクライナ人女性で、彼女たちに家計の全てを頼る家庭がウクライナには多いという。 どっちも美人大国!♪ 西部ウクライナは歴史的にポーランドの影響を受けた地域で、ウクライナ語も東スラヴ語だが語彙はかなりポーランド語化しているのでポーランドとの心理的距離は近い。
61.18世紀に隣国によって分断され国が消滅、まるで現在のクルディスタン状態に・・・ 62.童謡「森へ行きましょう」はこの国の民謡。 ポーランド語では「Szła dzieweczka(シュワ・ジェヴェチュカ)」と言い、「あの娘は歩いている少女」という意味らしい。
63.実はポーランドは17世紀においてオスマン帝国とマトモにやりあえる位の大国であった 64.ポーランド人は馬鹿といわれているがそれはジョークだけ、実際欧州でも1〜2位を争うほどIQが高い人が多い。 65.酒屋やスーパーのお酒売り場においてウォッカは売り場の7割ほどを占める でも最近若年層はワインを飲む人が増えてきた 66.ロシアとどっちがウォッカの元祖かしょっちゅう論争してる 記録上一番古い蒸留所はポーランドにある 67.最近はデスメタルの聖地。しかも、ものすごいテクニック(特に驚異的ドラマーが多い)と音圧、激しさ...ポーランド人の国民性? 68.G8の中で6ヶ国は好きで2ヶ国は大嫌いその国はどこでしょう?。 新大陸のアメリカとカナダは移民が多いから好き。極東の島国の日本は日露戦争の影響で大好き。ヨーロッパの連合国のイギリス、フランス、枢軸国でもすぐ脱落したイタリアは大好き。 ポーランドを侵攻したドイツ、ロシアは大嫌い。 69.フランスの環境相ナタリー・コシュースコ=モリゼはポーランド独立の闘士コシチューシコ伯爵の兄の子孫。
70.ポーランドの英雄ピウスツキの兄の子孫が北海道にいる。本国の家系は途絶えたらしい。 http://wiki.chakuriki.net/index.php/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89 2012年 6月30日〜7月3日ワルシャワ旅行 お休みと週末を利用してワルシャワを訪れた。毎回体調不良や予定があわず何度となく旅程を延期していたため、色々な意味で大きな犠牲を払った上での三度目の正直であった。ホテル・フレデリック・ショパンにチェックインし、仕事も多忙を極める時期でもあったため、なるべく体力を使わないように慎重に観光した。 訪問の主な目的はショパン、キュリー夫人、パデレフスキの足跡をたどり、彼らが育った土壌の文化、雰囲気、ポーランドの空気を体に染み込ませること。飛行機の中や晩ホテルで寝る前、その世界になるべく近づけるよう最近パリで購入したアルド・チッコリーニの演奏によるショパン作曲ノクターン集の音楽を聴いた。コペルニクス、パデレフスキ、ミケヴィッチについては、彼らの像をみることしかできなかった。 初日はショパン音楽院に通う友人と久しぶりに再会し、彼の案内でショパン音楽院を見学し、練習室でショパンの弾き合いをした。そこで先日のショパンコンクール審査員らの裏話を聞いたり、友人との会話を楽しんだりした。晩はマクドナルドでポーランド人の味覚を確認すべく、ビッグマックを食べた。 二日目は一人で観光。ショパン博物館には昔から本などでよく見かけた絵やショパンのピアノなどが展示してあった。ショパンの家は残念ながらあいていなかった。市街地の中心にある宮殿の小ささには驚いた。宮殿の大きさ、豪華さがその国の国力におよそ比例していると考えているが、このサイズは東アジアでいえば朝鮮国より小さく、琉球国よりやや大きいという感じであろうか。 キュリー夫人の生家、キュリー博物館にはパリのキュリー博物館(キュリー研究所)より多くの写真があった。その多くがパリの写真であり、パリで見たことがあったが、その中にもワルシャワでしか見られない少女時代の写真や、レアな写真もあった。パリのキュリー研究所で今自分がいる建物は100年前から外見は何も変わってなかった。 キュリー夫妻は、笑っている写真が1つも残っていない。長女のイレーヌは研究者になり、ノーベル賞を受賞したが、やはり笑った写真が1つもない。職業柄であろうか。次女のエーヴはピアノにハマり研究者にならず、いつもニコニコ美人で有名人の娘として社交界に出入りし、ノーベル平和賞をもらった組織のトップと結婚し、母の思い出を書いた伝記はベストセラーとなり、この時まだ102歳?で健在であった。 研究をした彼女の家族は全員放射能を浴び白血病で若くして亡くなった(父親は事故死)が、彼女は姉の2倍生きた。 生家をみる限り、伝記などで美化されるとなる生まれの貧しさは必ずしも正しくはないようである。それなりの家に育っていたようである。
晩は旧市街地でサッカーワールドカップ、フランス対ブラジル戦を見ながら地ビールを味わった。
三日目は午後から友人と合流し、南の離宮と有名なショパン像があるワジェンキ公園に向かい、ショパン像隣でのショパン音楽院教授によるショパンの演奏を聴いた。野外に粗末なピアノを置き、アンプとスピーカーを通しての演奏だったため、演奏者にもあまりやる気が感じられなかった。建築などで有名だった旧名門ワルシャワ工科大学前を通過し、晩は旧市街地で夕食をとった。 四日目は友人とショパンの家に行ってみたが、またしても開いていなかった。そのまま空港行きバスにのり、パリに帰った。二度と訪れないような気がして寂しさを感じた。 http://nanomicroscientist.blogspot.jp/2012/07/63073.html
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