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人類進化史
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/581.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 8 月 20 日 07:46:33: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 


2019年08月20日
近年における過去100万年の人類進化史研究の進展
https://sicambre.at.webry.info/201908/article_37.html


 近年における過去100万年の人類進化史研究の進展を概観した研究(Galway‐Witham et al., 2019)が公表されました。


Aspects of human physical and behavioural evolution during the last 1 million years
First published: 14 August 2019
https://onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1002/jqs.3137

この研究はオンライン版での先行公開となります。本論文は最近15年ほどの研究の進展を対象としており、広範な分野の研究の進展を簡潔に紹介するとともに、現時点での問題点を整理し、今後の展望も示しており、たいへん有益な人類進化史概説にもなっていると思います。近年の人類進化研究を把握するうえで、当分は必読の文献となるでしょう。以下、本論文の簡単な紹介です。


●21世紀初頭の時点での人類進化史理解

 21世紀初頭の現生人類(Homo sapiens)アフリカ単一起源説では、過去50万年間の人類進化は比較的単純でした。古代型のハイデルベルク人(Homo heidelbergensis)が広範に拡散し、化石記録から消える前の40万年前頃に2系統に分岐した、と想定されていました。「古代型」とは、現生人類ではないホモ属のほぼすべての構成員を指し、長くて低い頭蓋や強くて連続的な眉弓が形態的特徴です。これは、現生人類の球状の頭蓋や弱い眼窩上隆起や頤や狭い骨盤とは対照的です。

 ハイデルベルク人の子孫は、ユーラシア西部ではネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)、アフリカでは現生人類へとじょじょに進化しました。その2系統のうち最古の人類遺骸は、ネアンデルタール人系統では40万年前頃となるイギリスのスウォンズクーム(Swanscombe)頭蓋、現生人類系統では13万年以上前となるオモ・キビシュ1(Omo Kibish 1)遺骸(オモ1号)です。ネアンデルタール人系統は寒冷気候に、現生人類系統は熱帯気候に適応した、と考えられます。現代人の遺伝データからは、現生人類がアフリカからユーラシアへと55000年前頃に拡散して、45000年前頃にオーストラリアへ到達し、3万年前頃までにユーラシアのネアンデルタール人は現生人類と最低限交雑したか、もしくはまったく交雑せずに、現生人類に置換されました。

 中国では、陝西省渭南市の大茘(Dali)遺跡や広東省韶関市の馬壩(Maba)遺跡で古代型ホモ属化石が報告されており、ジャワ島では現生人類が拡散してきた45000年前頃まで、エレクトス(Homo erectus)が存在していました。アジアとオセアニアの分布境界線であるウォレス線を越えて東進できたのは、外洋航海が可能だった現生人類だけでした。ヨーロッパでは、「現代的」行動が現生人類の到達した4万年前頃に突然出現した、と考えられていました。「現代的」行動は認知能力の進化に伴い一括して出現した、と想定されていました。

 こうした認識は、この15年ほどの研究の進展により大きく変わらざるを得ませんでした。予想外の人類遺骸が相次いで発見されるとともに、「現代的」行動はアフリカで想定よりもずっと古くからじょじょに出現してきた、という証拠が蓄積されてきました。以下、本論文はこの15年ほどの研究の進展を整理します。


●気候変動

 100万〜70万年前頃には気候変動が激しく、94万〜87万年前頃には、アフリカ北部とヨーロッパ東部で乾燥化が進展しました。これにより、人類も含むアフリカ起源の大型哺乳類がヨーロッパ南部へと拡散した、との見解も提示されています。人類にとって比較的好条件の環境期間も60万〜10万年前頃の間で特定されており、それが人類の出アフリカを可能としたかもしれません。更新世の前期から中期への移行は、一般的には78万年前頃とされますが、大まかには922000〜640000年前頃の移行期により分離されます。

 概して、穏やかな間氷期には人類の居住範囲は拡大したようです。こうした人類の居住可能範囲が変動するなかで、更新世においてアジア南西部の気候は一貫して、人類の居住に適している可能性が指摘されています。26500〜20000年前頃となる最終氷期極大期(LGM)に近づくにつれて、平均乾燥度は増加し、タール砂漠のような地域は断続的に居住に適さなくなりました。一方、気候変動にともない、サハラ砂漠やアラビア砂漠のような居住に適さない地域も、海洋酸素同位体ステージ(MIS)5となる130000〜118000年前頃、106000〜94000年前頃、89000〜73000年前頃や、MIS3となる59000〜47000年前頃には、モンスーン活動の増加により植物が繁茂したこともありました。また、軌道も千年単位での急激な気候変動の要因となり、人類の移動に大きな影響を及ぼしたかもしれません。


●混乱が続く中期更新世における人類進化の理解

 78万〜13万年前頃の中期更新世における人類進化についての理解は、多くの人類遺骸の発見と古代DNA研究の進展にも関わらず、混乱したままです。その焦点の一つは、ハイデルベルク人の評価です。上述のように、ハイデルベルク人はアフリカとユーラシアの広範な地域に拡散し、ヨーロッパのネアンデルタール人とアフリカの現生人類の祖先だった、との見解が以前は主流でした。一方、ハイデルベルク人の正基準標本とされているドイツのマウエル(Mauer)で発見された下顎骨はネアンデルタール人と現生人類の共通祖先と想定するにはあまりにも特殊化しているとか、ハイデルベルゲンシスは形態学的に多様性が大きく一つの種に収まらないほどの変異幅があるとかいった見解も提示されるようになりました(関連記事)。

 そのため、ザンビアのブロークンヒル(Broken Hill)で発見された頭蓋をローデシア人(Homo rhodesiensis)と分類し、アフリカの現生人類の祖先と想定する見解も提示されました。ローデシア人を現生人類の祖先系統とする見解では、ネアンデルタール人系統と現生人類系統のより古い分岐が想定され、たとえば、スペイン北部で発見された85万年前頃のホモ・アンテセッサー(Homo antecessor)は、ネアンデルタール人と現生人類の最終共通祖先の形態に近いのではないか、と推測されています。ネアンデルタール人系統と現生人類系統の分岐年代に関してはまだ確定しておらず、60万〜50万年前頃とする見解や、80万年以上前とする見解も提示されています(関連記事)。

 本論文は、中期更新世には少なくとも2つの異なる顔の系統があったかもしれない、と指摘します。一方は、祖先的ではあるものの、現生人類とも類似している華奢な系統で、上述のアンテセッサーと、中国の南京やモロッコのジェベルイルード(Jebel Irhoud)で発見された人類遺骸です。もう一方は、比較的高身長のより派生的な系統で、スペイン北部の通称「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」(以下、SHと省略)やギリシアのペトラローナ(Petralona)やザンビアのブロークンヒル(Broken Hill)で発見された人類遺骸です。

 43万年前頃のSH集団は、頭蓋(関連記事)でも頭蓋以外の形態(関連記事)でも核DNAでも(関連記事)ネアンデルタール人系統に位置づけられます。形態的に現生人類系統に位置づけられる人類遺骸として最古のものは、SH集団よりは新しい315000年前頃となり、モロッコのジェベルイルード(Jebel Irhoud)遺跡で発見されました(関連記事)。これより明確に現生人類系統に位置づけられる人類遺骸としては、エチオピアのオモ1号があり(関連記事)、年代は195000年前頃と推定されています(関連記事)。

 現生人類の起源に関しては、アフリカ単一起源説を前提としつつも、現生人類の派生的な形態学的特徴がアフリカ各地で異なる年代・場所・集団に出現し、比較的孤立していた複数集団間の交雑も含まれる複雑な移住・交流により現生人類が形成された、との「アフリカ多地域進化説」が提示されています(関連記事)。アフリカ外では、イスラエルのカルメル山にあるミスリヤ洞窟(Misliya Cave)で発見された194000〜177000年前頃と推定されているホモ属の上顎(関連記事)と、ギリシア南部のマニ半島のアピディマ(Apidima)洞窟で発見された21万年以上前のホモ属頭蓋(関連記事)が現生人類と区分されていますが、遺骸が断片的なので、分類に慎重な研究者もいます。


●ホモ・フロレシエンシス

 上述のように、ウォレス線以東に拡散できた人類は現生人類だけだと長年考えられていました。しかし、インドネシア領フローレス島で2003年に発見された更新世の人類遺骸は、ホモ属の新種フロレシエンシス(Homo floresiensis)と分類されました。フロレシエンシスの正基準標本はLB1です。フロレシエンシスの身長は105cmほど、脳容量は420mlと現生人類平均値の1/3以下で、樹上生活に適しているように見える上半身や祖先的な手首や比較的短い脚など、祖先的で特異的な特徴を示しています。一方、LB1の顔はより派生的で、歯は現生人類のサイズと類似しているものの、祖先的もしくは特異的な特徴も見られます。

 LB1について、当初は病変の現生人類との見解が強く主張されました。しかし、そうした病変現生人類説はいずれも、LB1の全体的な形態を整合的に説明できず、現在では新種説でほぼ確定したと言えるでしょう。ただ、LB1が現生人類ではないとしても、何らかの病変を示している可能性も指摘されています。フロレシエンシスについては、2016年に大きく研究が進展しました(関連記事)。当初フロレシエンシスの下限年代は12000年前頃と推定されていましたが、5万年前頃までさかのぼり、フローレス島中央のソア盆地のマタメンゲ(Mata Menge)遺跡では、フロレシエンシスと類似した70万年前頃の人類遺骸が発見されています。フローレス島では100万年以上前の石器群も発見されており、フロレシエンシス系統が100万年以上にわたってフローレス島で進化してきた可能性も考えられます。

 フロレシエンシスの起源については、ジャワ島のホモ・エレクトス(Homo erectus)から進化したとする説と、より祖先的(アウストラロピテクス属的)な人類、たとえばホモ・ハビリス(Homo habilis)から進化したとする説とが提示されており、まだ議論が続いています。更新世のフローレス島への進出には渡海が必要ですが、フロレシエンシス系統がどのようにフローレス島に到達したのかは不明で、海流を考慮するとスラウェシ島から到達した可能性が高い、と推測されています(関連記事)。


●ホモ・ナレディ

 2015年、南アフリカ共和国のライジングスター洞窟(Rising Star Cave)にあるディナレディ空洞(Dinaledi Chamber)で発見された多数の人類化石が公表されました(関連記事)。この人類集団はホモ属の新種ナレディ(Homo naledi)と分類されました。発見場所が洞窟の奥深くであることから、埋葬の可能性も指摘されています。ナレディの脳容量は400〜610mlで、現生人類やネアンデルタール人のような派生的特徴と、ハビリスのような祖先的特徴とが混在しています。総合的にみると、ナレディの形態の個々の特徴は他の人類集団にも見られるものの、その組み合わせが独特と言えます。ナレディの脳はホモ属と分類するのを躊躇うくらい小さいのですが、その前頭葉、とくに下前頭回および外側眼窩回において、他のホモ属種との共通点が指摘されています(関連記事)。

 ナレディの年代は335000〜236000年前頃と推定されています(関連記事)。フロレシエンシスと、今年(2019年)公表された(関連記事)ルソン島のホモ・ルゾネンシス(Homo luzonensis)は、孤立した島で独自に進化した祖先的特徴を有する人類集団と考えられますが、現生人類系統も含むホモ属も存在したアフリカ南部で、ナレディのような祖先的特徴を有する人類が30万年前頃以降も存在していたのは、どのように他のホモ属と共存していたのか、という問題を提起します。ナレディの進化史は現時点ではほぼ完全に不明で、アフリカの他の人類化石がナレディの系統に分類できるかもしれませんし、既知の石器群の中にナレディが製作したものもあるかもしれません。

 このようにアフリカでも、中期更新世に現生人類へと進化していくという観点で単純に進化史を把握できなくなりました。本論文は、30万年前頃のアフリカには、モロッコのジェベルイルード(Jebel Irhoud)に代表される現生人類系統、ザンビアのブロークンヒル(Broken Hill)で発見されたローデシア人(Homo rhodesiensis)系統、ナレディ系統という、少なくとも3系統の人類が存在していただろう、と指摘しています。アフリカにおいて中期更新世後期以降も複数系統の人類が存在した可能性は、遺伝学からも提示されています(関連記事)。


●現生人類とネアンデルタール人およびデニソワ人との交雑

 古代DNA研究の飛躍的な進展により、過去100万年の複雑な人類進化史が明らかになりつつあります。この分野での大きな成果は、ネアンデルタール人のゲノム解析と、形態学では区分できないような断片的な人類遺骸から、デニソワ人(Denisovan)という分類群を定義できたことです(関連記事)。デニソワ人の種区分は未定です。今では、現生人類とネアンデルタール人およびデニソワ人との間に交雑があった、と広く認められています(関連記事)。ネアンデルタール人と現生人類の交雑は、6万〜5万年前頃にアジア南西部で起きた可能性が高そうです。

 現代人へのネアンデルタール人の遺伝的影響として、皮膚や髪や免疫系などが挙げられています。ネアンデルタール人の現代人への遺伝的影響は、サハラ砂漠以南のアフリカ系ではほとんど見られず、非アフリカ系では多少見られ、大きな違いはありませんが、ユーラシア西部系現代人よりもユーラシア東部系現代人の方が、ネアンデルタール人の遺伝的影響は高くなっています。デニソワ人の現代人への遺伝的影響に関しては大きな地理的違いがあり、オセアニアにおいてとくに高くなっており、アジア東部および南部でもわずかに確認されます。どのようにこうした地域的な違いが生じたのか、現時点では確定していません。


●現生人類のDNA解析

 現生人類の古代DNA解析は、アフリカでは15000年前(関連記事)、ユーラシアでは45000年前(関連記事)までしかさかのぼりません。しかし、現代人のゲノムデータは多数得られており、現生人類の進化史の推定に役立っています。現生人類系統では遅くとも20万年前頃には遺伝的多様化が始まっており(関連記事)、出アフリカは6万年前頃と推定されています。しかし、それ以前のアフリカ外における現生人類の存在も複数報告されています(関連記事)。これは、6万年前よりも前の出アフリカ早期現生人類集団が、絶滅したか、後続の現生人類集団により同化されてしまったことを示唆します。

●頭蓋以外の形態の進化傾向

 過去100万年の形態的な人類進化史は、おもに歯を含む頭蓋の分析に依拠しています。頭蓋以外の化石は、比較対象の少なさから特定の分類群に区分することが困難な場合もあります。また、現時点での証拠からは、現生人類と他の古代型ホモ属との違いのほとんどは頭蓋にあることも、頭蓋以外の形態での分類を困難にしています。頭蓋以外の形態でのおもな違いとして、後肢の頑丈さがありますが、後期ホモ属は形態的には、他の分類群よりも多様性が低く、前期ホモ属までよりも大柄という特徴を共有しています。この傾向に合致しないのが、身長146cmほどのホモ・ナレディと、身長106cmほどのホモ・フロレシエンシスです。


●エネルギー消費の変化

 過去100万年の人類進化史における大型化は、エネルギー消費の増加をもたらした、と考えられます。しかし、化石記録からの直接測定は困難です。そこで、移動様式の効率性からエネルギー消費が推定されています。現代人のような移動様式は、100万年前頃以降に出現した、と推測されています。ネアンデルタール人はヨーロッパのアフリカより寒冷な気候に適応し、現生人類よりも頑丈な体格だったので、現生人類よりも1日あたり100〜350kcal余分に摂取する必要があった、と推定されています。一方、フロレシエンシスのように島嶼科により小型化したと思われる人類もいますが、これは、利用可能な資源というかエネルギー消費量の制約に起因するかもしれません。


●技術と身体的進化

 脳の進化と技術開発には相互作用的なところがあり、脳の進化が技術革新をもたらし、その技術革新が大きな脳の維持に必要なエネルギー消費をより容易にした、という側面があります。これは、正のフィードバックシステムと呼ばれています。脳に限らず、身体的特徴と技術も含めた広い意味での文化進化には、しばしば相互作用が見られます。人類の適応に重要な役割を果たした可能性がある技術として火の制御がありますが、衣服も重視されています。衣服は長期間の保存に適さないため、更新世の衣服の使用に関しては骨針が考古学的指標となります。現時点では、骨針は4万年前頃までさかのぼります。履物の使用は、現生人類では4万年前頃までさかのぼりそうです(関連記事)。ネアンデルタール人に関しては、衣服も履物も使用していたのか、そうだとしてどの程度だったのか、まだ明確ではありません。


●人類の行動に関する考古学的視点

 「現代的」行動の起源について、アフリカで後期(5万年前頃)に出現し、急速に世界中へと拡散した、とする見解が以前は主流でしたが、それ以前にアフリカで漸進的に発展した、との見解が現在では有力です。しかし、現生人類との比較におけるネアンデルタール人やデニソワ人といった古代型ホモ属の行動水準、さらには現生人類と古代型ホモ属との相互作用に関しては、議論が続いています。この問題の解決で注目されているのは、研究の進んでいるヨーロッパにおけるネアンデルタール人と現生人類との共存期間で、以前は最大で数万年ほど想定されていましたが、近年では5000年程度との見解が有力です(関連記事)。


●古代型ホモ属における行動の複雑さ

 過去100万年の更新世の考古学的記録は、最近10年で飛躍的に増加しました。その結果、非現生人類(古代型ホモ属)の行動の複雑さも明らかになってきました。たとえばヨーロッパ西部では、30万〜20万年前頃に、下部旧石器となるアシューリアン(Acheulean)石器群と中部旧石器とが共存していました(関連記事)。ヨーロッパにおいてアシューリアンは70万年前頃以後に出現し、50万年前頃までは断続的ですが、その後は持続的な人口増加が見られ、これは脳容量の増大と関連している、と考えられます。ヨーロッパのアシューリアン集団は、50万年前頃にはヨーロッパの厳しい環境にも適応していきました。こうした持続性は、石器技術そのものというより、火の制御も含む一連の行動に基づいている、と本論文は指摘します。こうして人類がヨーロッパに持続的に生息していくことになったのは、ハイデルベルク人のような新種が出現したためかもしれませんが、本論文はその妥当性について判断を保留しています。

 ユーラシア東部に関しては長年、アジア東部および南東部ではアシューリアンが存在しない、とされてきました。いわゆるモヴィウス線による石器技術の区分ですが、近年では、モヴィウス線の東方でもアシューリアンの存在が確認されています。ただ、モヴィウス線の東方では確認されているアシューリアンが少ないことも確かで、これに関しては、アシューリアン石器に適した石材が少ないからではないか、と推測されています。そのため以前から、たとえば竹が道具の材料として使用されていたのではないか、との見解も提示されています。

 アフリカの考古学的な時代区分は、前期石器時代(20万年前頃まで)→中期石器時代(30万年前頃〜2万年前頃)→後期石器時代(4万年前頃以降)となります。アフリカは広大なので、一気に文化が変わるわけではなく、複数の文化の長期の共存というか移行期間が存在します。前期石器時代のうちアシューリアンは、エレクトスとハイデルベルク人に関連していると考えるのが妥当ではあるものの、例外もある、と本論文は指摘します。中期石器時代の担い手に関しては、現生人類系統と後期ハイデルベルク人系統など複数系統の人類だった可能性が提示されています。上述のように、中期石器時代のアフリカには、現生人類系統だけではなくナレディも存在しており、複数系統が存在したことは確実です。後期石器時代は通常、現生人類が担い手と考えられています。


●ネアンデルタール人の行動の見直し

 ネアンデルタール人の行動に関する知見も、過去10年で飛躍的に発展しました。考古学的な時代区分としては、今でも伝統的な石器技術の5段階区分(様式1〜5)がある程度は有効です(関連記事)。ヨーロッパに関しては、様式4となるオーリナシアン(Aurignacian)の出現が、上部旧石器時代への移行および現生人類の到来と関連づけられています。上述のように、現在有力な年代観では、ヨーロッパにおいて現生人類が到来してから5000年以内に、ネアンデルタール人は絶滅したと考えられます(より正確には、ネアンデルタール人の 形態的・遺伝的特徴を一括して有する集団は現在では存在しない、と言うべきかもしれません)。

 ヨーロッパの末期ネアンデルタール人の行動に関して議論となっているのは、中部旧石器と上部旧石器の混合的特徴を示す「移行期インダストリー」です。具体的には、フランス南西部およびスペイン北部のシャテルペロニアン(Châtelperronian)や、イタリアおよびギリシアのウルツィアン(Uluzzian)などです。両者ともに、担い手が現生人類とネアンデルタール人のどちらなのか、あるいはどちらもなのか、という点をめぐって議論が続いています。上部旧石器的なインダストリーの担い手がネアンデルタール人なのか否かという問題は、その認知能力の評価にも関わってきます。

 現時点では、シャテルペロニアンの少なくとも一部はネアンデルタール人の所産である可能性が高い、と言えそうです(関連記事)。しかし、シャテルペロニアンは、ネアンデルタール人が中部旧石器時代となるムステリアン(Mousterian)から独自に発展させたのか、それとも現生人類の影響を受けたのか、現時点では不明です。ウルツィアンをめぐる議論も複雑です。ウルツィアンはずっと、ネアンデルタール人の所産と考えられてきました。しかし近年、現生人類が担い手である可能性も提示されており(関連記事)、さらにはそれに対する反論も提示されています(関連記事)。

 この他に、ヨーロッパ北西部・中央部・南東部やロシアでは、LRJ(Lincombian-Ranisian-Jerzmanowician)やボフニシアン(Bohunician)やバチョキリアン(Bachokirian)やセレッティアン(Szeletian)やストレーレスカヤン(Streleskayan)といった「移行期インダストリー」が知られていますが、その担い手にはついては確定していません。「移行期インダストリー」は現生人類とネアンデルタール人の行動および認知能力の比較の重要な指標となり得ますが、現時点では評価が難しいことも否定できません。

 中部旧石器時代後期には、ネアンデルタール人の文化は地域的に多様化していきます。フランス南西部とブリテン島北西部では、握斧の優占するアシューリアン伝統ムステリアン(MTA)、ヨーロッパ中央部および東部ではカイルメッサー(Keilmesser)グループ(KMG)、フランス北部やベルギーといった両者の中間地域では両面加工石器ムステリアン(MBT)です。これらは、石材もしくは機能の反映では説明できず、文化的伝統と考えられています。MBTは、MTAとKMGの移動性の高いネアンデルタール人集団の境界地帯として解釈されています。

 そのため、ヨーロッパの後期ネアンデルタール人には、明確な地域化された文化的行動があった、と考えられています。ネアンデルタール人の文化が多様だったことは、死者の扱いが時空間的に異なることからも指摘されています。たとえば、ヨーロッパから近東にかけて、埋葬しなかったり、身体の一部を埋葬したり、自然の地形を利用して土葬したり、一部では副葬品を伴って埋葬したり、肉を削ぎ落としたりといったように、多様性が見られます。ネアンデルタール人の食人行為についても、単に栄養摂取目的のものだけではなく、文化的目的も指摘されています。

 オーカーの体系的な利用は「現代的行動」の指標の一つとされますが、ネアンデルタール人によるオーカーの使用例は複数報告されており、20万年以上前までさかのぼりそうな事例もあります(関連記事)。これは、アフリカにおけるオーカーの使用の始まりと時間的に近接しています。オーカーの使用目的としては、治療・防腐・接着・社会的意思伝達などが想定されています。民族誌の記録では、オーカーの使用は「実用的」というよりはおもに「社会的」なのですが、ネアンデルタール人に関しても、47000年前頃のルーマニアの事例は「社会的」と解釈されています。

 「現代的行動」の重要な指標の一つは芸術です。線刻の最古の事例は50万年前頃までさかのぼるかもしれず、その作者はエレクトスと考えられています(関連記事)。これは、芸術に通ずる行動の起源が現生人類の出現前だったことを示唆します。洞窟壁画は芸術の重要な指標とされており、現生人類のみの所産と考えられていました。以前は、最初期の洞窟壁画はヨーロッパで出現したと考えられていましたが、近年では、ヨーロッパの最初期の洞窟壁画とほぼ同年代のものが、スラウェシ島(関連記事)やボルネオ島(関連記事)で確認されています。これらは現生人類の所産と考えられ、アフリカで一連の「現代的行動」が潜在的に可能になった現生人類集団が、世界各地に拡散していった、と考えられます。

 一方、ネアンデルタール人の所産と考えられる洞窟壁画も報告されており(関連記事)、しかも年代は現生人類のものよりずっと古く6万年以上前とされています。ただ本論文は、ネアンデルタール人は個人的装飾品など他の象徴的文化の方を好み、洞窟壁画は比較的珍しかったようだ、と指摘しています。ネアンデルタール人の個人的装飾品の報告事例は、13万年前頃となる加工されたオジロワシの鉤爪(関連記事)など蓄積されつつあり、この点に関してはアフリカや近東の早期現生人類と大きくは変わらない程度と考えられます。ただ本論文は、現生人類とは異なり、ネアンデルタール人による形象的な芸術作品はまだ確認されておらず、そこが象徴的表現におけるネアンデルタール人と現生人類の違いかもしれない、と指摘します。

 本論文は、ネアンデルタール人の行動は総合的に、同時代となるアフリカの中期石器時代の現生人類と大きく異なるものではない、との見解(関連記事)を支持しています。また本論文は、ネアンデルタール人にも言語を含む複雑な意思伝達体系が存在した可能性は高いものの、それが厳密には現生人類と異なっていただろう、ということも指摘しています。また、ネアンデルタール人がタールなどの接着剤による着柄技術を用いていたこと(関連記事)や、薬用植物の効用をよく理解して治療のために使用していたと推測されること(関連記事)なども、ネアンデルタール人の認知能力が一定水準以上だった証拠とされています。本論文は、現時点での遺伝的証拠からは、ネアンデルタール人が現生人類よりも少ない人口と低い遺伝的多様性で、柔軟に環境に適応した、と指摘します。


●結論

 本論文は、21世紀になっての人類進化研究の進展を概観してきました。それらは、新たな発見か新たな手法による既知のデータの再分析に基づいています。しかし、そうしたデータに地域的偏りがあることも否定できません(関連記事)。アフリカはほぼ全域から更新世の人工物が発見されていますが、人類遺骸が発見された地域はアフリカ全土の10%未満です。アジア南東部ではこの回収率はさらに低く、フロレシエンシスやルゾネンシスなど新たな人類遺骸の発見もありましたが、更新世の人類遺骸が乏しいため、その進化系統はまだ不明です。

 ネアンデルタール人の行動は、その絶滅が始まった時点でも、現生人類との生物学的違いにも関わらず、現生人類とはほとんど差がないように見えるまで、研究が進展した、と本論文は評価しています。ただ本論文は、上述のヨーロッパ南部における20万年以上前の現生人類の存在との報告から、ネアンデルタール人が独自に象徴的行動を発展させた、との見解にやや慎重な姿勢を示します。古代DNA研究の飛躍的な進展は、現生人類と古代型ホモ属との交雑を明らかにし、生物種概念という古くからの問題を改めて再考させます。本論文は、人類の形態および行動の進化の要因は複雑で、複数の仮説のうちいくつかの組み合わせが真実に近いかもしれない、と指摘します。もちろん、まだ提示されていない仮説が真実に近い可能性もあるわけで、今後の研究の進展が期待されます。


参考文献:
Galway‐Witham Y, Cole J, and Stringer C.(2019): Aspects of human physical and behavioural evolution during the last 1 million years. Journal of Quaternary Science.
https://doi.org/10.1002/jqs.3137


https://sicambre.at.webry.info/201908/article_37.html  

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コメント
1. 中川隆[-8752] koaQ7Jey 2019年8月20日 09:18:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3992] 報告

2019年08月18日
アジア中央部および北東部における現生人類の早期の拡散
https://sicambre.at.webry.info/201908/article_34.html


 アジア中央部および北東部における現生人類(Homo sapiens)の早期の拡散に関する研究(Zwyns et al., 2019)が公表されました。現生人類(Homo sapiens)の出アフリカに関しては、回数・年代・経路などをめぐって議論が続いています(関連記事)。近年では、現代のアジア南東部集団とオーストラリア先住民集団とが、遺伝的系統の近縁性ではアフリカ系現代人と比較して同程度であることや、考古学的証拠から、海洋酸素同位体ステージ(MIS)3(59000〜29000年前)前半に、アフリカからユーラシア南岸沿いにアラビア半島とアジア南部を経て、急速にアジア南東部とオーストラリアへと現生人類は拡散した、という南岸拡散仮説が有力と考えられるようになってきました(関連記事)。

 しかし、シベリアにおけるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と現生人類の存在は、ユーラシア北部の草原地帯でもホモ属の拡散があったことを示します。この地域の人類遺骸は少ないのですが、考古学的記録の大きな変化から人類の拡散が示唆されています。初期上部旧石器時代(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)の技術的特徴は特定の石刃技法で、それは硬質ハンマーによる打法、打面調整、固定された平坦な作業面もしくは半周作業面を半周させて石刃を打ち割ることです(関連記事)。また、IUPは骨器や装飾品との関連も指摘されています。IUPはシベリアに突然出現し、新たな人類集団の到来を示唆しますが、その年代や存続期間に関しては議論が続いています。

 本論文は、シベリアとモンゴル北部の中間地点に位置し、比較的標高の低い(海抜1169m)地域に位置する、モンゴルのイクトルボリンゴル(Ikh-Tolborin-Gol)地域のトルボー16(Tolbor-16)遺跡の調査結果を報告しています。トルボー16遺跡は北部ハンガイ(Hangai)山脈のトルボー川(Tolbor River)渓谷西側に位置し、トルボー川はその13km南方でセレンゲ川(Selenga River)と合流します。トルボー16遺跡では2011〜2016年にかけて調査が行なわれました。

 トルボー16遺跡ではMIS3から完新世までの6区分の考古学的層位(AH)が確認されており、最深部はAH 6です。遺跡の年代は、多鉱物を対象とした赤外光ルミネッセンス法(IRSL)の改良法(post-IR IRSL)と、石英の光刺激ルミネッセンス法(OSL)と、放射性炭素年代測定法により推定されました。AH2はMIS2、AH3とAH5は38500〜35100年前頃、AH6は45600〜42500年前頃と推定されています。トルボー16遺跡一帯の気候に関しては、MIS3に複数回の変動があった、と推定されています。AH6は、堆積物の有機物含有量が高いことから、比較的湿潤な時期だったと推測されています。AH6の後、気候は乾燥化します。AH6の石器群は、そのほとんどが地元の石材で製作されています。石器群はおもに石刃とその関連人工物(加工品)で構成されています。AH6の石器群は技術的には明確にIUPに分類され、他のIUPと同様に、中部旧石器的要素も見られます。

 IUPは45000年前頃にはアジア北東部に到達した、と推測されています。トルボー16遺跡の明確にIUPに分類されるAH6石器群は、IUPがアルタイ地域とほぼ同じ時期にセレンゲ川流域に出現したことを確証します。この現象の最も節約的な説明は、アジアのIUPは比較的統一されていたか、技術複合だったというもので、IUPはシベリアを横断してモンゴルへと45000年前頃に到達し、その後は南方と東方へ移動して中国北西部に、さらにはおそらくチベット高原まで到達しました。上述のように、トルボー16遺跡のIUPは温暖湿潤な時期に出現した、と推測されます。この時期はグリーンランド亜間氷期12(GI12)とされており、GI12にヨーロッパでは、その前の気候悪化でネアンデルタール人が激減した後、人口が増加した、と推測されています。それは、ユーラシア西部におけるIUPとされるエミレオ・ボフニシアン(Bohunician)の出現と一致します。エミレオ・ボフニシアンは、レヴァントからヨーロッパ中央部への現生人類の拡散を反映している、と考えられています。温暖湿潤だった45000年前頃には、人類は北緯72度という北極圏にまで進出しています(関連記事)。トルボー16遺跡一帯のIUPの終焉は、4万年前頃のハインリッヒイベント4(HE4)による気候悪化と関連しているようです。

 トルボー16遺跡のIUP石器群には、人類遺骸が共伴していないので、その担い手がどの人類系統なのかという問題は、状況証拠から推測するしかありません。シベリアでは、西部のウスチイシム(Ust'-Ishim)で45000年前頃の現生人類遺骸が発見されています(関連記事)。モンゴルでは、東部のサルキート渓谷(Salkhit Valley)で35000〜34000年前頃の現生人類遺骸が発見されています(関連記事)。AH6は両者の中間に位置し、年代は西方の現生人類とほぼ同年代で、東方の現生人類よりも1万年ほど古いことになります。セレンゲ川流域では、ビーズのような装飾品や骨器の最古の事例はIUPと関連づけられており、上部旧石器時代以降のそうした人工物は、ほぼすべてが現生人類の所産と考えられています。そのため、トルボー16遺跡のIUPの担い手は現生人類である可能性が高い、と本論文は指摘します。

 一方で本論文は、トルボー16遺跡のIUPの担い手が現生人類ではない在来の人類集団である可能性も検証しています。ネアンデルタール人はアルタイ地域にまで拡散していました。しかし現時点では、アルタイ地域北西部よりも東方でネアンデルタール人の痕跡は確認されていませんし、GI12のシベリア・モンゴル・中国北西部において現生人類ではない人類遺骸は発見されていません。また、ネアンデルタール人がIUPの出現時期までシベリアに存在した可能性はありますが、オクラドニコフ(Okladnikov)洞窟遺跡のネアンデルタール人の文化は、IUPとは異なるムステリアン(Mousterian)に分類されています。種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)はアルタイ地域とチベット高原で確認されていますが(関連記事)、現時点で確認されている年代は、アルタイ地域におけるIUPの出現よりも前です。

 こうしたことから本論文は、トルボー16遺跡のIUPの担い手は現生人類である可能性が高い、と指摘します。IUPはシベリアとモンゴルで温暖湿潤なGI12に突然出現しますが、そうした人類の文化の大きな変化は現生人類の拡散を反映しているだろう、というわけです。また本論文は、現生人類の早期の拡散が、ユーラシア南岸だけではなく、比較的高緯度の草原地帯でも起き、この頃に現生人類とデニソワ人が交雑した可能性を提示しています。上述のように、現生人類の早期の拡散に関して近年ではユーラシア南岸経路が注目されており、確かにオーストラリア先住民の祖先集団はこの経路でアフリカから東進したのでしょうが、一方で、温暖湿潤な時期を中心に、ユーラシアの比較的高緯度の草原地帯も現生人類の早期の拡散経路だったのでしょう。


参考文献:
Zwyns N. et al.(2019): The Northern Route for Human dispersal in Central and Northeast Asia: New evidence from the site of Tolbor-16, Mongolia. Scientific Reports, 9, 11759.
https://doi.org/10.1038/s41598-019-47972-1


https://sicambre.at.webry.info/201908/article_34.html

2. 中川隆[-8751] koaQ7Jey 2019年8月20日 09:21:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3993] 報告

2019年08月17日
遺伝学および考古学と「極右」
https://sicambre.at.webry.info/201908/article_32.html


 遺伝学および考古学と「極右」に関する研究(Hakenbeck., 2019)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。遺伝学は人類集団の形成史の解明に大きな役割を果たしてきました。とくに近年では、古代DNA研究が飛躍的に発展したことにより、じゅうらいよりもずっと詳しく人類集団の形成史が明らかになってきました。古代DNA研究の発展により、今や古代人のゲノムデータも珍しくなくなり、ミトコンドリアDNA(mtDNA)だけの場合よりもずっと高精度な形成史の推測が可能となりました。こうした古代DNA研究がとくに発展している地域はヨーロッパで、他地域よりもDNAが保存されやすい環境という条件もありますが、影響力の強い研究者にヨーロッパ系が多いことも一因として否定できないでしょう。

 現代ヨーロッパ人はおもに、旧石器時代〜中石器時代の狩猟採集民と、新石器時代にアナトリア半島からヨーロッパに拡散してきた農耕民と、後期新石器時代〜青銅器時代前期にかけてポントス・カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からヨーロッパに拡散してきた、牧畜遊牧民であるヤムナヤ(Yamnaya)文化集団の混合により形成されています(関連記事)。この牧畜遊牧民の遺伝的影響は大きく、ドイツの後期新石器時代縄目文土器(Corded Ware)文化集団は、そのゲノムのうち75%をヤムナヤ文化集団から継承したと推定されており、4500年前までには、ヨーロッパ東方の草原地帯からヨーロッパ西方へと大規模な人間の移動があったことが窺えます。

 現代ヨーロッパ人におけるヤムナヤ文化集団の遺伝的影響の大きさと、その急速な影響拡大から、ヤムナヤ文化集団がインド・ヨーロッパ語族をヨーロッパにもたらした、との見解が有力になりつつあります。また、期新石器時代〜青銅器時代にかけてインド・ヨーロッパ語族をヨーロッパにもたらしたと考えられるポントス・カスピ海草原の牧畜遊牧民集団は、Y染色体DNA解析から男性主体だったと推測されています(関連記事)。そのため、インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの拡大は征服・暴力的なもので、言語学の成果も取り入れられ、征服者の社会には若い男性の略奪が構造的に組み込まれていた、と想定されています。

 インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの拡散について以前は、青銅器時代にコーカサス北部の草原地帯からもたらされたとする説と、新石器時代にアナトリア半島の農耕民からもたらされたとする説がありましたが、古代DNA研究は前者と整合的というか前者に近い説を強く示唆しました。こうして古代DNA研究の進展により、一般的にはヨーロッパ人およびインド・ヨーロッパ語族の起源に関する問題が解決されたように思われましたが、本論文は、飛躍的に発展した古代DNA研究に潜む問題点を指摘します。

 本論文がまず問題としているのは、古代DNA研究において、特定の少数の個体のゲノムデータが生業(狩猟採集や農耕など)もしくは縄目文土器や鐘状ビーカー(Bell Beaker)などの考古学的文化集団、あるいはその両方の組み合わせの集団を表している、との前提が見られることです。埋葬者の社会経済的背景があまり考慮されていないのではないか、というわけです。また、この前提が成立するには、集団が遺伝的に均質でなければなりません。この問題に関しては、標本数の増加により精度が高められていくでしょうが、そもそも遺骸の数が限られている古代DNA研究において、根本的な解決が難しいのも確かでしょう。

 さらに本論文は、こうした古代DNA研究の傾向は、発展というよりもむしろ劣化・後退ではないか、と指摘します。19世紀から20世紀初期にかけて、ヨーロッパの文化は近東やエジプトから西進し、文化(アイデア)の拡散もしくは人々の移住により広がった、と想定されていました。この想定には、民族(的な)集団は単純な分類で明確に区分され、特有の物質的記録を伴う、との前提がありました。イギリスでは1960年代まで、すべての文化革新は人々の移動もしくはアイデアの拡散によりヨーロッパ大陸からもたらされた、と考えられていました。

 1960年代以降、アイデアやアイデンティティの変化といった在来集団の地域的な発展が物質文化の変化をもたらす、との理論が提唱されるようになりました。古代DNA研究は、1960年代以降、移住を前提とする潮流から内在的発展を重視するようになった潮流への変化を再逆転させるものではないか、と本論文は指摘します。じっさい、ポントス・カスピ海草原の牧畜遊牧民集団のヨーロッパへの拡散の考古学的指標とされている鐘状ビーカー文化集団に関しては、イベリア半島とヨーロッパ中央部とで、遺伝的類似性が限定的にしか認められていません(関連記事)。中世ヨーロッパの墓地でも、被葬者の遺伝的起源が多様と示唆されています(関連記事)。

 本論文が最も強く懸念している問題というか、本論文の主題は、こうした古代DNA研究の飛躍的発展により得られた人類集団の形成史に関する知見が、人種差別的な白人至上主義者をも含む「極右」に利用されていることです。上述のように、20世紀初期には、民族(的な)集団は単純な分類で明確に区分され、特有の物質的記録を伴う、との前提がありました。ナチズムに代表される人種差別的な観念は、こうした民族的アイデンティティなどの社会文化的分類は遺伝的特徴と一致する、というような前提のもとで形成されていきました。本論文は、20世紀初期の前提へと後退した古代DNA研究が、極右に都合よく利用されやすい知見を提供しやすい構造に陥っているのではないか、と懸念します。

 じっさい、ポントス・カスピ海草原という特定地域の集団が、男性主体でヨーロッパの広範な地域に拡散し、それは征服・暴力的なものだったと想定する、近年の古代DNA研究の知見が、極右により「アーリア人」の起源と関連づけられる傾向も見られるそうです。こうした極右の動向の背景として、遺伝子検査の普及により一般人も祖先を一定以上の精度で調べられるようになったことも指摘されています。本論文は、遺伝人類学の研究者たちが、マスメディアを通じて自分たちの研究成果を公表する時に、人種差別的な極右に利用される危険性を注意深く考慮するよう、提言しています。本論文は、研究者たちの現在の努力は要求されるべき水準よりずっと低く、早急に改善する必要がある、と指摘しています。


 以上、本論文の見解を簡単にまとめました。古代DNA研究に関して、本論文の懸念にもっともなところがあることは否定できません。ただ、古代DNA研究の側もその点は認識しつつあるように思います。たとえば、古代DNA研究においてスキタイ人集団が遺伝的に多様であることも指摘されており(関連記事)、標本数の制約に起因する限界はあるにしても、少数の個体を特定の文化集団の代表とすることによる問題は、今後じょじょに解消されていくのではないか、と期待されます。また、文化の拡散に関しては、多様なパターンを想定するのが常識的で、移住を重視する見解だからといって、ただちに警戒する必要があるとは思いません。

 研究者たちのマスメディアへの発信について、本論文は研究者たちの努力が足りない、と厳しく指摘します。現状では、研究者側の努力が充分と言えないのかもしれませんが、これは基本的には、広く一般層へと情報を伝えることが使命のマスメディアの側の問題だろう、と私は考えています。研究者の役割は、第一義的には一般層へと分かりやすく情報を伝えることではありません。研究者の側にもさらなる努力が求められることは否定できないでしょうし、そうした努力について当ブログで取り上げたこともありますが(関連記事)、この件に関して研究者側に過大な要求をすべきではない、と思います。

 本論文はおもにヨーロッパを対象としていますが、日本でも類似した現象は見られます。おそらく代表的なものは、日本人の遺伝子は近隣の南北朝鮮や中国の人々とは大きく異なる、といった言説でしょう。その最大の根拠はY染色体DNAハプログループ(YHg)で、縄文時代からの「日本人」の遺伝的継続性が強調されます。しかし、YHgに関して、現代日本人で多数派のYHg-D1b1はまだ「縄文人」では確認されておらず、この系統が弥生時代以降のアジア東部からの移民に由来する可能性は、現時点では一定以上認めるべきだろう、と思います(関連記事)。日本でも、古代DNA研究も含めて遺伝人類学の研究成果が「極右」というか「ネトウヨ」に都合よく利用されている側面は否定できません。まあ、「左翼」や「リベラル」の側から見れば、「極右」というか「ネトウヨ」に他ならないだろう私が言うのも、どうかといったところではありますが。


参考文献:
Hakenbeck SE.(2019): Genetics, archaeology and the far right: an unholy Trinity. World Archaeology.
https://doi.org/10.1080/00438243.2019.1617189

https://sicambre.at.webry.info/201908/article_32.html

3. 中川隆[-8736] koaQ7Jey 2019年8月20日 18:30:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4008] 報告

2015年06月12日
青銅器時代のヨーロッパにおける人間の移動
https://sicambre.at.webry.info/201506/article_14.html


 新石器時代〜青銅器時代のヨーロッパにおける人間の移動に関する、『ネイチャー』に掲載された二つの研究が報道されました。『ネイチャー』には解説記事(Callaway., 2015)も掲載されています。5000〜3000年前頃のユーラシアの青銅器時代には、精巧な武器や馬に牽引させる戦車が拡散し、埋葬習慣の変化が広範に確認されるなど、大きな文化的変容が生じた、とされています。この大きな文化的変容が、おもに文化のみの拡散によるのか、それとも人間集団の移動に伴うものだったのか、ということをめぐって議論が続いてきました。この問題は、インド-ヨーロッパ語族の拡散とも関係して論じられてきました。

 5000〜1300年前頃のユーラシアの住民101人のゲノムを解析した研究(Allentoft et al., 2015)では、青銅器時代のヨーロッパにおける大きな文化的変容は人間集団の移動に伴うものであり、インド-ヨーロッパ語族が青銅器時代にヨーロッパに拡散したとする仮説が支持される、との見解が提示されています。5000年前頃には、ヨーロッパ中央・北部のゲノムは中東からの初期農耕民やそれ以前のヨーロッパの狩猟採集民のゲノムに似ていました。しかし、ヨーロッパ中央・北部集団のゲノムは4000年前頃までには、カスピ海〜黒海の北側の草原地帯に存在したヤムナヤ(Yamnaya)文化集団のゲノムにもっと類似していました。

 この研究は、薄い肌の色は青銅器時代のヨーロッパにおいてすでに高頻度で存在したものの、乳糖耐性はそうではなかったことも明らかにしています。以前には、ヨーロッパの初期農耕民において畜乳はカロリー摂取の重要な手段であり、新石器時代から乳糖耐性には正の淘汰が働いていたのではないか、と考えられていたのですが、乳糖耐性に関しては、正の淘汰が働いたのは青銅器時代以降のことではないか、と指摘されています。この乳糖耐性は、ヤムナヤ文化集団によりヨーロッパにもたらされた、と推測されています。

 もう一方の研究(Haak et al., 2015)では、8000〜3000年前の69人のヨーロッパ人の全ゲノムデータが作成され、解析・比較されました。その結果、やはり青銅器時代における東方草原地帯(現在の国境線ではウクライナを中心とします)からヨーロッパへの大規模な人間集団の移動が示唆されました。ヨーロッパにおいて新石器時代の始まりとなる8000〜7000年前頃に、遺伝的にはヨーロッパの先住狩猟採集民とは異なり、初期農耕民と密接に関連した集団がドイツ・ハンガリー・スペインに現れました。一方でその頃のロシアには、24000年前頃のシベリア人と高い遺伝的類似性を有する狩猟採集民集団が存在していました。

 6000〜5000年前までには、ヨーロッパの大半の農耕民はその祖先集団よりも多くの狩猟採集民集団のDNAを有していました。一方でこの時期の東方草原地帯の牧畜民であるヤムナヤ集団は、ヨーロッパ東部の狩猟採集民だけではなく、中東の農耕民集団のDNAも継承していました。ドイツの後期新石器時代縄目文土器(the Late Neolithic Corded Ware)文化集団はそのゲノムのうち75%をヤムナヤ集団から継承しており、4500年前までには、ヨーロッパ東方の草原地帯からヨーロッパ西方へと大規模な人間の移動があったことが窺えます。

 この東方草原地帯由来のDNAは、遅くとも3000年前までには中央ヨーロッパ人の全標本に存在し、現在のヨーロッパ人には広く確認されます。この研究は、ヨーロッパのインド-ヨーロッパ語族の少なくともいくつかは、東方の草原地帯に起源があるだろう、と指摘しています。また、中央ロシアのアルタイ山脈近くの4900〜4500年前頃の集団にもヤムナヤ集団の遺伝的痕跡が確認され、インド-ヨーロッパ語族のアジアへの拡散との関連が想定されます。最近では、青銅器時代のヨーロッパにおいて男性人口の拡大があったのではないか、との見解も提示されており(関連記事)、青銅器時代のヨーロッパにおける文化変容は、大規模な人間の移動に伴っていた可能性が高そうです。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(Allentoft et al., 2015の引用と、Haak et al., 2015の引用)です。


集団遺伝学:青銅器時代のユーラシアの集団ゲノミクス

集団遺伝学:青銅器時代のユーラシアの集団変化

 青銅器時代は大きな文化的変化の時代であったが、その要因は知識の伝達と大規模な人の移動のどちらにあったのだろうか。今回、ユーラシア各地の古代人101人の標本から低カバー率のゲノム塩基配列を得て解析した研究で、この時代に起こった大規模な集団の移動や入れ替わりが明らかになった。得られた解析結果は、青銅器時代のヨーロッパ人では、淡色の皮膚はすでに普通になっていたが乳糖耐性はあまり広まっていなかったことを示しており、乳糖耐性に対する正の選択が働き始めたのは従来考えられていたよりも新しい年代だったことが示唆された。この研究で得られた知見は、インド・ヨーロッパ語族が前期青銅器時代に広がったとする別の報告(Letter p.207)とも一致する。


集団遺伝学:ステップからの大移動がヨーロッパでのインド・ヨーロッパ語族の成因の1つとなった

集団遺伝学:ヨーロッパの言語を変えたステップからの大きな一歩

 今回D Reichたちは、8000〜3000年前に生存していたヨーロッパ人69人の全ゲノムデータを作成した。その解析から、8000〜7000年ほど前に現在のドイツ、ハンガリーおよびスペインに当たる地域で、先住の狩猟採集民とは異なる初期農耕民の血縁集団が出現したことが明らかになった。同時代のロシアには、2万4000年前のシベリア人との類似性が高い独特な狩猟採集民集団が生活していた。6000〜5000年前までに、ロシアを除くヨーロッパの広い地域で狩猟採集民系統が再び現れた。西ヨーロッパ集団と東ヨーロッパ集団は約4500年前に接触し、現代のヨーロッパ人にステップ系統の痕跡が残された。これらの解析から、新石器時代の人口動態に関する新たな手掛かりに加えて、ヨーロッパのインド・ヨーロッパ語族の少なくとも一部がステップ起源だとする説の裏付けが得られる。この研究で得られた知見は、青銅器時代の古代人101人のゲノムについて調べた別の研究結果(Article p.167)とも一致する。


参考文献:
Allentoft ME. et al.(2015): Population genomics of Bronze Age Eurasia. Nature, 522, 7555, 167–172.
http://dx.doi.org/10.1038/nature14507

Callaway E.(2015): DNA data explosion lights up the Bronze Age. Nature, 522, 7555, 140–141.
http://dx.doi.org/10.1038/522140a

Haak W. et al.(2015): Massive migration from the steppe was a source for Indo-European languages in Europe. Nature, 522, 7555, 207–211.
http://dx.doi.org/10.1038/nature14317

https://sicambre.at.webry.info/201506/article_14.html

4. 中川隆[-8698] koaQ7Jey 2019年8月23日 09:17:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4049] 報告


日本人のガラパゴス的民族性の起源 Y-DNAハプロタイプ 2019年6月版 ツリー
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-1.htm


日本人のガラパゴス的民族性の起源 mtDNAハプロタイプ 2019年5月取得ツリー増補版
http://garapagos.hotcom-cafe.com/2-1.htm


日本人のガラパゴス的民族性の起源 2018/10/18 日本人の源流考 v1.6
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-2,0-5,15-28,18-2.htm#0-2

5. 中川隆[-8655] koaQ7Jey 2019年8月27日 06:53:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4096] 報告

2019年08月27日
中国史の画期についての整理
https://sicambre.at.webry.info/201908/article_51.html


 画期という観点から、一度短く中国史を整理してみます。そもそも、「中国」とはどの範囲を指すのか、どのように範囲は変遷してきたのか、という大きな問題があります。また、この記事では更新世における人類の出現以降を扱いますが、もちろん、更新世に「中国」という地域区分を設定することは妥当ではありません。考えていくと大きな問題を多数抱えているわけですが、以前から一度整理しようと考えていたので、とりあえず、ダイチン・グルン(大清帝国)の本部18省を基本にします。更新世から叙述の始まる日本通史が珍しくないように、一国史の呪縛は未だに根強く、凡人の私では適切な区分は困難です。今後は少しずつ、より妥当な地域区分や名称を考えていきたいものです。紀元後に関しては、おもに『近代中国史』(関連記事)、『世界史とつなげて学ぶ中国全史』(関連記事)、『中国経済史』(関連記事)を参照しました。なお、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です。

●人類の出現(212万年以上前)

 中国における現時点での人類最古の痕跡は212万年前頃までさかのぼり、陝西省で石器が発見されています(関連記事)。これは現時点では地理年代的にほぼ完全に孤立した事例で、どのように人類がアフリカから中国北西部まで到達したのか、まったく明らかになっていません。また、この石器をもたらした人類系統も不明です。おそらく、アフリカからユーラシア南岸を東進してきた、ホモ・ハビリス(Homo habilis)のような最初期ホモ属が、中国に到達して北上したと思われるので、今後、中国南部で220万年前頃の石器や人類遺骸が見つかる可能性は高い、と予想しています。

●「真の」ホモ属の拡散(170万年以上前)

 雲南省では、170万年前頃の初期ホモ属遺骸(元謀人)が発見されています。(関連記事)。陝西省では、上記の212万年前頃の石器が発見された近くの遺跡でホモ・エレクトス(Homo erectus)に分類されている藍田人が発見されており、その年代は165万〜163万年前頃と推定されています(関連記事)。河北省では170万〜160万年前頃の石器が発見されていますが、その製作者は不明です(関連記事)。212万年前頃の石器を製作した人類が、これら170万〜160万年前頃の中国の人類集団の祖先なのか、現時点では不明ですが、そうではなく、180万年前頃以降に新たにアフリカからおそらくはユーラシア南岸を東進してきた「真の(アウストラロピテクス属的ではない)」ホモ属だった、と私は考えています。人類史において、アフリカからユーラシアへの拡散は珍しくなかっただろう、というわけです(関連記事)。

●後期ホモ属の拡散(60万年前頃以降?)

 現生人類(Homo sapiens)が拡散してくる前まで、中期〜後期更新世のアジア東部には多様な系統のホモ属が存在した、と考えられます(関連記事)。中国各地では中期〜後期更新世のホモ属遺骸が発見されていますが、その分類については議論が続いています。最近、チベット高原東部で発見された16万年以上前となる下顎骨が、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)と確認されました(関連記事)。この下顎骨と中期〜後期更新世の中国のホモ属遺骸の一部とが類似しているため、中国には広くデニソワ人が存在したのではないか、とも指摘されています。しかし、デニソワ人の形態はまだほとんど明らかになっていないので(関連記事)、中期〜後期更新世の中国のホモ属遺骸がすべてデニソワ人系統に分類されるのか、現時点では不明です。デニソワ人系統と現生人類系統との分岐年代に関しては諸説ありますが、早ければ80万年以上前と推定されています(関連記事)。したがって、上述の170万〜160万年前頃の中国のホモ属とは異なる系統が、中期更新世に中国へと拡散してきた可能性はきわめて高そうです。ただ中国では、170万〜160万年前頃のホモ属系統が中期更新世まで存続し、アフリカから新たに拡散してきたホモ属と共存し、交雑していた可能性もあると思います。

●現生人類の拡散(5万〜4万年前頃?)

 中国における現生人類の拡散には、不明なところが多分にあります。中国における石器技術の画期は、35000年前頃となる、石刃をさらに尖頭器や削器などに加工する石刃石器群の出現との見解もあります(関連記事)。しかし、中国北部に関して、石器技術では様式1(Mode 1)が100万年以上前〜2万年前頃か、もっと後まで続き、石器技術の変化は少なく、中国では現生人類の出現と石器伝統の変化が必ずしも対応していないかもしれない、とも指摘されています(関連記事)。じっさい、4万年前頃となる現生人類遺骸(田园男性)が、北京の近くで発見されており、DNAが解析されています(関連記事)。アジア東部におけるデニソワ人と現生人類との交雑の可能性も指摘されており(関連記事)、中国における現生人類拡散の様相には不明なところが多分に残っています。

●農耕・牧畜の開始(10000〜8000年前頃)

 中国の現生人類集団は、農耕・牧畜開始の前後で南方系から北方系へと大きく変わった可能性が指摘されています(関連記事)。これは頭蓋データに基づくものですが、4万年前頃の田园男性に関しては、現代人には遺伝的影響を残していない可能性が指摘されています(関連記事)。しかし、この南方系集団と北方系集団がいつどの経路で中国に到来したのか、現時点では不明です。これと整合的かもしれないのは、現代漢人のミトコンドリアDNA(mtDNA)研究です(関連記事)。その研究では、漢人の遺伝地理的な区分として、南北の二分よりも黄河(北部)と長江(中部)と珠江(南部)の各流域という三分の方がより妥当で、この遺伝地理的相違は早期完新世にはすでに確立されていた、と推測されています。もちろん、核DNAやY染色体DNA、とくに後者ではまた違った遺伝的構成が見られるかもしれませんし、この問題の解明には古代DNA研究の進展が必須となりますが。

●青銅器時代〜鉄器時代(紀元前1700〜紀元前220年頃)

 この間、ユーラシア西方から家畜や金属器などが導入され、中国社会は複雑化していきます。その具体的指標として、性差の拡大が指摘されています(関連記事)。都市国家から領域国家、さらには巨大帝国の出現には、そうした社会的背景があるのでしょう。

●集住から散居(紀元後3〜4世紀)

 それまで、中国の聚落形態は集住(都市国家)が主流でしたが、散居(村の誕生)へと変化し、商業も一時的に衰退します。城郭都市は、それ以前とは異なり行政・軍事に特化していました。またこれ以降、「士」と「庶」の二元的階層が確立していきます。

●唐宋変革(10世紀)

 温暖化により中国社会は経済的に大きく発展し、無城郭商業都市である「市鎮」が出現します。中国では南部の発展が著しく、経済・人口で北部を逆転して優位に立ちます。

●伝統社会の形成(14世紀)

 中国における伝統社会は、14世紀以降に形成されていきます。モンゴルによる中国も含むユーラシア規模の広範な統合は、14世紀の寒冷化により崩壊します。これ以降、「士」と「庶」の間の中間的階層も台頭し、社会はますます複雑化していきます。そのため、中央権力の支配は社会の基層にまで及びませんでした。またこれ以降、南北の格差は前代よりも縮まり、東西の格差が拡大していきます(西部に対する東部の優位)。これは、物流において海路が重要になっていったことと関連しています。また、ダイチン・グルン後期には、沿岸部各地域がそれぞれ外国と結びつくなど、経済の多元化がさらに強くなっていきました。

●中華人民共和国の成立(1949年)

 1840〜1842年のアヘン戦争と1894〜1895年の日清戦争は、ともに中国にとって大きな転機となりました。とくにアヘン戦争は中国近代史の起点として重視されてきましたが、アヘン戦争以後も中国の伝統的な社会経済構造は堅牢で、直ちに大きく変わったわけではありませんでした。中央権力の支配が社会の基層まで届かず、多元的な社会経済構造は、一元化への志向にも関わらず、容易に解消しませんでした。この牢乎として存続する中国伝統社会を大きく変えたのが、共産党政権の中華人民共和国でした。土地革命と管理通貨の実現により、基層社会へと中央権力が浸透し、経済は一体化していき、統合的な国民経済の枠組みが生まれました。中国共産党政権は、まさに革命的でした。


 以上、中国史の画期についてざっと見てきました。現在の私の関心・見識から、更新世の比重が高くなってしまいました。農耕・牧畜開始以降については近年ほとんど勉強が進んでいないので、かなり的外れなことを述べているかもしれず、少しずつ調べていきたいものです。なお、中国共産党政権は革命的と評価しましたが、もはや現在は、「革命的」が直ちに肯定的に評価される時代ではありません。冷戦構造の進展という時代背景はあったにしても、中華人民共和国と「西側」との経済関係はきわめて希薄となり、対外貿易から得られるはずだった先進技術や外国資本を失うことにより経済の活力が衰えた、とも言えます。一方で、そうした事情が、中華人民共和国における強力な金融管理体制と通貨統一を実現させました。「西側」との経済関係が希薄化するなか、共産党政権は物質的な統制を進め、大衆動員型政治運動により反対意見を抑え込んでいきました。物質・思想両面の統制が厳しくなるなかで、逃げ場を失った多くの中国人には、共産党による統治を受け入れるしか選択肢は残されていませんでした。

 そう考えると、統合的な国民経済の枠組みが多くの中国人にとって本当に幸福だったのか、大いに疑問が残ります。購買力平価ベースのGDPでは、第二次世界大戦前はもちろん、その後の1950年でも、中国が日本を上回っていました(関連記事)。本来ならば、購買力平価ベースのGDPで中国が日本を下回るようなことはほとんどあり得なかったはずです。それが、20世紀後半の一時期とはいえ日本に逆転されてしまったのは、明らかに共産党政権の失政だと思います。中国共産党の側に立つ人に言わせれば、「西側」の「敵視政策」が原因となるのでしょう。しかし、政治においては結果責任が厳しく問われるべきで、冷戦が進行していく中だったとはいえ、共産党政権の責任は重大だと思います。

 共産党政権が、中国近現代史において最悪もしくはそれに近い選択肢だったとは思いません。選択を誤れば、中国は今でも内戦に近い状態が続き、経済の発展が妨げられていたかもしれません。当然、現在よりも生活・技術・学術の水準は随分と見劣りしたでしょう。しかし、だからといって、共産党政権が中国近現代史において最良に近い選択肢だったかというと、かなり疑問が残ります。1980年代以降の中国の経済発展には目覚ましいものがあります。これを根拠に中国共産党の統治の正当性を称揚する見解は珍しくないかもしれませんが、現実的な別の選択肢では中国は現在もっと発展していたのではないか、との疑問は残ります。大躍進に代表される中国共産党政権の大失策がなければ、少なくとも、購買力平価ベースのGDPで比較的短期間とはいえ中国が日本を下回るようなことはなかっただろう、というわけです。その意味で、中国共産党、とくに毛沢東の責任は重大だと思います。毛沢東こそ、一時的とはいえ、中国を決定的に没落させた最大の責任者だろう、と私は以前から考えています。率直に言って、共産党政権は近現代中国において、むしろ悪い方の選択だったのではないか、と私は考えています。

 もちろん、中国近現代史において、史実よりも都合のよい選択肢はほとんどなく、中国は一度どん底を経験し、社会・経済を統合する必要があり、毛沢東の功績は大きかった、との見解もあるとは思います。私の見解はしょせん素人の思いつきにすぎないわけですが、大躍進や文化大革命などのような大惨事は本当に不可避だったのだろうか、との疑問はどうしても残ります。1980年代以降の中国の経済発展は確かに目覚ましいのですが、もともと経済規模で日本に劣るようなことはほとんどあり得ない中国が、比較的短期間だったとはいえ、共産党政権下で日本を下回ったという事実は、やはり無視できないように思います。こうした疑問は、中国共産党政権の評価、さらにはその公的歴史認識(体制教義)の検証にも関わってくる問題だと思います。最後に、以下に中国の土地改革について、日本での近年の見解を取り上げます(関連記事)。

 まず、中華人民共和国における土地改革の必然性とされてきた帝国主義および地主からの搾取という認識にたいしては、中華民国期の農家経営について、商品経済化や小農による集約的経営を通じて土地生産性が向上した、との見解が提示されています。また、世界恐慌下の地主による土地の兼併は、全国的かつ長期的にわたる趨勢として確認できるわけではない、とされています。共産党が土地の分配により農民の支持を獲得して内戦に勝利した、との見解も見直されつつあるそうです。1920年代末〜1930年代前半、共産党は土地改革により勢力拡大を図りましたが、当時の共産党組織の脆弱さにより、国民党の反撃や在地の武装勢力の抵抗に遭って根拠地は短期間に崩壊しました。また、土地の分配を受けた農民が必ずしも積極的に共産党軍に加わったわけではなく、既存の雑多な武装人員が傭兵的に編入され、共産党の軍事力を担ったそうです。第二次世界大戦後、国民党と共産党の内戦が再発すると、共産党は土地改革を強く打ち出すようになります。この土地改革で地主・富農からの収奪だけではなく、中農の財産の侵犯が発生し、農業生産は大打撃を受けたそうです。共産党が短期間で多数の兵の徴募に成功した東北地区にしても、土地の分配により農民の自発的な支持を獲得したこと以上に、「階級敵」からの食糧・財産の没収を通じて、新兵の募集や雇用に必要な財を共産党が独占したことを重視する見解が提示されているそうです。
https://sicambre.at.webry.info/201908/article_51.html

6. 中川隆[-8650] koaQ7Jey 2019年8月27日 09:00:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4101] 報告

2019年06月30日
mtDNAに基づく漢人の地域的な違い
https://sicambre.at.webry.info/201906/article_61.html

 ミトコンドリアDNA(mtDNA)に基づく漢人の地域的な違いを報告した研究(Li et al., 2019)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。漢人は現代中国人の約91.6%を占める巨大な人類集団です。以前の研究では、漢人の遺伝的多様性の高さが観察されています。mtDNAとY染色体DNAと核ゲノムのデータに基づくと、漢人の間では南北の遺伝的違いが観察されます。しかし、とくにmtDNA研究は、部分的な配列もしくは限定された地域の標本に基づいており、広範な漢人の間で同様のパターンが観察されるのか不明だ、と本論文は指摘します。そこで本論文は、中国のほぼすべての省および同水準の行政区の21668人の漢人のmtDNAの、4004ヶ所の多様体を解析しました。

 漢人のmtDNAハプログループ(mtHg)では、D4が16.46%と最多で、11.19%のB4、9.46%のF1、8.13%のM7、7.12%のA 、6.49%のD5、4.95%のB5、4.29%のN9と続きます。この頻度は中国およびその周辺でも地域により異なります。mtHg-D4は北部および北東部で高頻度となり、B4はおもに南部に分布しています。F1は南部および南西部において比較的高頻度で、北部の一部地域でも高頻度です。M7はおもに南部で見られ、そのうちM7bがおもに広西チワン族自治区と広東省で見られるのにたいして、M7cは台湾で比較的高頻度で見られます。Aは北部と北西部において最も頻度が高く、南部の一部地域でも比較的高頻度です。

 興味深いことに、北部で優勢なmtHgのサブクレードのいくつか、たとえばD4a・D4e・A5は、南部においてより高頻度です。一方、南部で優勢なmtHgのサブクレードのいくつか、たとえばM7aやB4bなどは北部において高頻度で見られ、南北の漢人集団の遺伝的混合を表しているようです。他の比較的稀なmtHgの分布でも、地域差が見られます。M8・Z・Yは寧夏回族自治区において高頻度で見られ、F4は江蘇省と雲南省に分布しています。ユーラシア西部で一般的なmtHg- N2・R1・R0・Uは、中国ではおもに北西部で見られ、ユーラシア東西の遺伝的混合との見解と一致します。方言とmtHgとの強い相関は検出されませんでした。しかし本論文は、Y染色体DNAハプログループ(YHg)と方言の間で、より強い相関が見られる可能性を指摘しています。

 mtDNAデータからは、漢人の遺伝的構成が中国の南北で異なる、との以前からの見解が改めて確認されました。しかし、常染色体のDNAデータに基づく地理的分布とはやや異なり、これは女性の特定の移動に起因するかもしれない、と本論文は指摘します。また、中国中部地域の南方漢人は、北方漢人とより密接に関連しています。一方、南方漢人でも、珠江流域の集団は一つのまとまりに分類されます。これは、漢人を遺伝地理的に区分する場合、南北で二分するよりも、黄河(北部)・長江(中部)・珠江(南部)という3河川流域の集団として三分する方が適していることを示唆します。具体的に漢人のmtHgと中国における地理的分布との相関では、D4は北部、B4は中部、M7は南部において高頻度で確認され、それぞれ黄河・長江・珠江流域の一とよく一致しています。

 本論文は、こうした大河により異なる分布がいつ確立されたのか調べるため、D4・M7・B4に分類される4859人のmtDNAの全配列データを集め、各mtHgの合着年代を推定しました。その結果、D4は41760〜20160年前頃、B4は61490〜29790年前頃、M7は54110〜37560年前頃と推定されました。一方、それらのmtHgのサブハプログループの推定合着年代は、46950〜220年前頃となり、後期旧石器時代から歴史時代への継続的な人口拡大を示唆します。これらのサブハプログループの推定合着年代は、約6割が11500〜5500年前頃となる早期完新世で、2000年前頃以降では4.24%でした。本論文は、とくに黄河・長江・珠江という主要3河川流域の漢人集団の母系の遺伝的構成は、早期完新世には確立していた、と推測しています。

 また本論文は、mtDNAの全配列データセットに基づき、漢人の人口史を推定しました。漢人は全体的に、18870年前頃以降に増加しました。これは、最終氷期極大期(LGM)後の気候改善に伴うと推測されています。その後、漢人で最も急速な増加は9430年前頃に見られます。これは早期完新世における第二の人口増加を反映し、漢人を南北に二分した場合でも、黄河・長江・珠江という主要3河川流域に三分した場合でも同様です。本論文はこれを、黄河・長江・珠江流域における初期農耕の3タイプを反映している、と認識しています。中国の初期農耕では、長江流域のコメや黄河流域のキビがよく知られていますが、6000年前頃となる稲作導入前の、珠江流域を含む中国南部の温帯湿潤地域農耕も近年確認されるようになっています。中国におけるこれら3タイプの初期農耕はそれぞれ、1万年前頃の3河川(黄河・長江・珠江)流域に起源があり、12800〜11600年前頃となるヤンガードライアス期後の気候改善が契機になった、と本論文は推測します。本論文の推定では、この期間に3河川流域で急速な人口増加が見られます。農耕の潜在的な人口増加力は普遍的なのでしょう。本論文は、3河川流域の遺伝的相違は古代農耕の拡大の結果と推測しています。本論文で観察された黄河流域と他の河川流域との遺伝的類似性は、黄河流域からのキビ農耕の北方拡大により説明されています。

 本論文はこれらの結果から、漢人の遺伝地理的な区分として、南北の二分よりも黄河(北部)と長江(中部)と珠江(南部)の各流域という三分の方がより妥当で、この遺伝地理的相違は早期完新世にはすでに確立されていた、と指摘します。本論文はこれに関して、中国における初期農耕との関連を指摘しています。また本論文はこれらの結果から、河川が人類集団の移住の障壁となった可能性を示唆します。現代漢人は母系では、黄河・長江・珠江という主要3河川流域における早期新石器時代農耕民の遺伝的痕跡を基本的に保持しており、本論文は主要3河川流域それぞれの古代農耕の重要性を強調しています。しかし、これは母系遺伝のmtDNAデータに基づいているので、父系遺伝のY染色体DNAデータにより、たとえば中国の初期農耕民の拡大が性的に偏った過程だったのかどうかなど、より詳細な人口史が明らかになるだろう、との見通しを本論文は提示しています。

 本論文は現代人のmtDNAデータに依拠しているので、さらに詳細な人口史を明らかにするには、古代DNAデータが必要となります。しかし、ユーラシア東部の古代DNA研究はユーラシア西部と比較して大きく遅れており、現時点では、大規模データを扱う場合、現代人が対象となるのは仕方のないところだと思います。本論文は、これまでの漢人のmtDNAデータの、部分的な配列や地理的に限定されていたという制約を超えたという意味で、たいへん意義深いと思います。今後、中国をはじめとしてユーラシア東部でも古代DNA研究が進展していくでしょうが、人口史の推測には、古代人のDNAだけではなく現代人のDNAデータも重要となります。本論文は、漢人のmtDNAデータに関して、今後長く基準となりそうな重要な成果を提供したと思います。

 もちろん、本論文が指摘しているように、あくまでも現代人を対象とした母系遺伝のmtDNAデータに基づいた漢人の人口史推定なので、Y染色体DNAデータやゲノムデータ、とくに前者では、また違った人口史が見えてくる可能性が高いと思います。まだ確定的とはとても言えませんが、人類史において、征服的な移住では男性が主体となり、そうではない移住では性差があまりなかったのではないか、と私は考えています(関連記事)。ヨーロッパに関しては、最初に農耕をもたらしたアナトリア半島起源の集団では大きな性差がなかったものの、後期新石器時代〜青銅器時代にかけてのポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からの移住集団は男性主体だった、と推測されています(関連記事)。中国でも、初期農耕集団の拡大では大きな性差がなく、後の魏晋南北朝時代や五代十国時代などでは、男性に偏った大規模な移住があったのかもしれません。

 本論文は、母系における漢人の遺伝地理的相違が、すでに早期完新世に成立していた、と推測しています。これは、漢人系統においての短くとも1万年近くとなる、一定以上の遺伝的継続性を示唆します。今後、現代人と古代人のゲノムデータの蓄積により、漢人系統が早期完新世集団の遺伝的影響をどれだけ保持しているのか、といった問題も解明されていくでしょう。もちろんこれは、早期完新世に漢民族が成立していたことを意味するわけではありません。そもそも、民族は遺伝的に定義できるわけではありません。任意の2集団間、もしくは特定の集団と他集団とを比較すると、遺伝的構成が異なるのは当然です。民族に関しても同様で、ある民族を他の民族と比較すると遺伝的構成は異なり、その民族に固有の遺伝的構成が見出されます。しかし、それは民族という区分を前提として見出される遺伝的構成の違いであって、遺伝的構成の違いが民族を定義できるわけではありません。

 その意味で、漢民族に限らずどの民族でも、現代に近い遺伝的構成の集団の確立時期をもって、民族の形成期と判断することはできない、と思います。前近代において民族という概念を適用して歴史を語ることには問題が多い、と私は考えていますが、民族が近代の「発明」ではなく、各集団によりその影響度が異なるとはいえ、前近代の歴史的条件を多分に継承していることは否定できないでしょう。その意味で、前近代において多様な民族的集団の存在を認めることには、一定以上の妥当性があると思います。ただ、漢民族のような巨大な集団ほど、前近代における民族の存在を前提とすることには慎重であるべきとは思います。それは、民族成立の指標として、高い比率での構成員の自認が必要と考えているからです。これは、漢民族ほどの規模ではなくとも、「ヤマト(日本)民族」も同様でしょう。漢民族の成立を本格的に論じられるのは精々近代になってからで、「ヤマト(日本)民族」に関しても、どう古く見積もっても江戸時代後期までしかさかのぼらないだろう、と私は考えています。ただ、この問題を本格的に勉強したわけではないので、とても断定的に主張できるわけではありませんし、優先度はさほど高くないので、今後も自信をもって主張できそうにはありませんが。


参考文献:
Li YC. et al.(2019): River Valleys Shaped the Maternal Genetic Landscape of Han Chinese. Molecular Biology and Evolution.
https://doi.org/10.1093/molbev/msz072

https://sicambre.at.webry.info/201906/article_61.html

7. 中川隆[-8645] koaQ7Jey 2019年8月27日 10:14:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4106] 報告

2018年06月17日
人類史における移住・配偶の性的非対称
https://sicambre.at.webry.info/201806/article_35.html

 人類史において、移住・配偶で性的非対称が生じることは珍しくありません。そもそも、有性生殖の生物種において、雄と雌とで繁殖の負担が著しく異なることは一般的で、大半の場合、雄よりも雌の方がずっと負担は重くなります。もちろん人類もその例外ではなく、人類史における移住・配偶の性的非対称の重要な基盤になっているのでしょう。とはいっても、それらが繁殖負担の性的非対称だけで説明できるわけではないのでしょうが。当ブログでも、人類史における移住・配偶の性的非対称についてそれなりに取り上げてきましたので、一度短くまとめてみます。

 霊長類学からは、人類の旅は採食だけではなく繁殖相手を探すものでもあり、他の類人猿と同じく人類の祖先も、男が生まれ育った集団を離れて別の集団に入り配偶者を見つけるのは難しかっただろうから、ゴリラのように男が旅先で配偶者を誘い出して新たな集団を作るか、チンパンジーのように旅をしてきた女を父系的つながりのある男たちが受け入れることから集団間の関係を作ったのではないか、との見解が提示されています(関連記事)。人類系統がチンパンジー系統と分岐した時点で、すでに配偶行動において何らかの性的非対称が存在した可能性は高いと思います。

 初期人類については、「華奢型」とされるアウストラロピテクス属や「頑丈型」とされるパラントロプス属において移動の性差が見られる、と指摘されています(関連記事)。具体的には、アウストラロピテクス属ではアフリカヌス(Australopithecus africanus)、パラントロプス属ではロブストス(Paranthropus robustus)です。240万〜170万年前頃のアフリカヌスとロブストスのストロンチウム同位体含有比の分析の結果、小柄な個体のほうが、発見された地域とは異なるストロンチウム同位体組成を有している割合が高い、と明らかになりました。初期人類では体格の性差が大きかった(性的二型)との有力説を考慮すると、初期人類においては、女性は男性よりも移動範囲が広く、出生集団から拡散していくことが多かったのではないか、と言えそうです。つまり、父方居住的な配偶行動があったのではないか、というわけです。ただ、初期人類の性的二型については、大きかったとの見解が有力ではあるものの、異論もあるので(関連記事)、体格の違いによる性別判断の信頼性は高くない可能性もあると思います。

 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)についても、父方居住的な配偶行動の可能性が指摘されています(関連記事)。イベリア半島北部のエルシドロン(El Sidrón)遺跡で発見された49000年前頃のネアンデルタール人遺骸群のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析の結果、3人の成人女性がそれぞれ異なるハプログループに分類されるのにたいして、3人の成人男性は同じハプログループに分類されました。もっとも、これは父方居住的な配偶行動の証拠となり得るものの、そうだとしても、あくまでもイベリア半島の49000年前頃の事例にすぎず、ネアンデルタール人社会全体の傾向だったのか、現時点では不明です。

 ただ、現代人への遺伝的影響はほとんどなかったとしても、同じホモ属で現代人と近縁なイベリア半島のネアンデルタール人と、現代人とは属が違い、おそらくは現代人の祖先ではなさそうなアフリカヌスやロブストスにおいて、父方居住的な配偶行動が存在したのだとしたら、人類系統において父方居住的な配偶行動が一般的だった可能性は高い、と思います。元々人類社会は父系的な構造だったものの、ある時期から社会構造が多様化していったのではないか、というわけです。それが、現生人類(Homo sapiens)の出現もしくは現生人類系統がネアンデルタール人系統と分岐した後なのか、ホモ属が出現してネアンデルタール人と現生人類の共通祖先が存在した頃なのか、あるいはもっと古くアウストラロピテクス属の時点でそうだったのか、現時点では分かりませんが、早くてもホモ属の出現以降である可能性が高いかな、と考えています(関連記事)。

 現生人類とネアンデルタール人との交雑についても、性的非対称の可能性が指摘されています(関連記事)。現代人のミトコンドリアでもY染色体でも、ネアンデルタール人由来の領域は確認されていません。したがって、母系でも父系でも、現代人にネアンデルタール人直系の子孫はいない可能性がきわめて高そうです。しかし、現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人の遺伝的影響は、X染色体では常染色体の1/5程度であることから(関連記事)、現生人類とネアンデルタール人との交雑では、現生人類の女性とネアンデルタール人の男性という組合せの方が多かったというか、一般的だったのではないか、とも指摘されています。現生人類女性とネアンデルタール人男性の組合せでは、その逆よりもネアンデルタール人のX染色体が交雑集団に伝わりにくい、というわけです。

 しかし、配偶行動の性的非対称だけで、現代人のX染色体と常染色体においてネアンデルタール人の遺伝的影響が大きく異なるとも考えにくく、適応度の低下も関わってくるのではないか、と思います。ネアンデルタール人のゲノムは領域単位で現代人に均等に継承されているのではなく、現代人において排除されていると思われる領域も存在します。ネアンデルタール人のX染色体上でも、繁殖に関連すると思われる遺伝子を含む領域の排除が指摘されています(関連記事)。また、Y染色体の遺伝子における現生人類とネアンデルタール人との違いから、遺伝的不適合が原因となって、ネアンデルタール人由来のY染色体が現代には継承されなかった可能性が高い、との見解も提示されています(関連記事)。現生人類と種区分未定のデニソワ人(Denisovan)との交雑でも、X染色体と精巣に関わる遺伝子領域では、現代人にデニソワ人の痕跡がひじょうに少ない、と指摘されています(関連記事)。現時点では、現生人類とネアンデルタール人やデニソワ人など古代型ホモ属との交雑において、性的非対称があったのか、推測は難しいと思います。

 現代人では多様な移住・配偶行動が見られ、その中には強い性的非対称が存在する事例もあります。たとえば、15世紀末以降、アメリカ大陸にはヨーロッパから多数の人々が移住してきて遺伝的にも大きな影響を及ぼしましたが、この事例では大きな性的非対称が見られます。現代パナマ人は、mtDNAでは83%がアメリカ大陸先住民系ですが、Y染色体DNAでは約60%が西ユーラシアおよび北アフリカ系、約22%がアメリカ大陸先住民系、約6%がサハラ砂漠以南のアフリカ系、約2%がおそらくは中国またはインドの南アジア系となります(関連記事)。これは、単身男性を中心としたイベリア半島勢力によるラテンアメリカの征服という、歴史学など他分野からの知見と整合的です。

 ヨーロッパの事例と併せて考えると、大規模な征服活動では、移住・配偶行動に性的非対称が見られる傾向にある、と言えるかもしれません。青銅器時代のヨーロッパにおいては、ポントス-カスピ海草原のヤムナヤ(Yamnaya)文化集団から精巧な武器やウマに牽引させる戦車が拡散し、埋葬習慣の変化が広範に確認されるなど、大きな文化的変容が生じ、古代ゲノム解析からも大規模な移動が推測される、と指摘されています(関連記事)。さらに、このヨーロッパにおける青銅器時代の大きな文化的・人的構成の変容にさいしては、男性人口拡大の可能性も指摘されています(関連記事)。精巧な金属器とウマを用いての、機動力に優れた男性主体の集団による広範な征服活動がヨーロッパで起きたのではないか、というわけです。

 ヨーロッパにおける青銅器時代と新石器時代初期の大規模な移住を比較した研究では、青銅器時代の大規模な移住は男性主体で、女性1人にたいして男性は5〜14人と推定されているのにたいして、新石器時代初期にはそうした性差はなかった、と推測されています(関連記事)。ヨーロッパの新石器時代は中東からの農耕民集団の移住により始まりましたが、外来の農耕民集団と在来の狩猟採集民集団とがじょじょに融合していったと推測されているように(関連記事)、征服的な移住ではなかったのかもしれません。

 ヨーロッパにおいては、青銅器時代の征服活動的な大規模移住において、男性が主体になって広範に拡散していった様子が窺えますが、それは例外的な事例だったかもしれません。上述したように、人類史において父方居住的な配偶行動が一般的だった可能性は高い、と思います。後期新石器時代〜初期青銅器時代の中央ヨーロッパにおいても、成人女性が外部から来て地元出身の男性と結婚し、地元の女性は他地域に行って配偶者を得たのではないか、と推測されています(関連記事)。mtDNAの解析の結果、時間の経過とともに母系が多様化していき、同位体分析の結果、大半の女性は地元出身ではなく、一方で男性と未成年では大半が地元出身である、と明らかになりました。また、地元出身ではない女性の子孫は確認されませんでした。

 中世初期のバイエルンにおいても、男性よりも女性の方が遺伝的に多様で、女性は婚姻のために外部からバイエルンに移住してきたのではないか、と推測されています(関連記事)。ヨーロッパに限定しても一般化できるのか、まだ確定したとは言えないでしょうが、征服的な移住では男性が主体となり、そうではない移住では性差があまりなく、安定期には人類史の古くからの一般的傾向が反映されて、男性が出生集団(地域)に留まる一方で、女性は配偶のために他集団(地域)に移住する、という傾向があるのかもしれません。こうした傾向が人類史全体に当てはまるのか、現在の私の知見ではとても断定できませんが、今後、そうした観点から色々と調べていこう、と考えています。
https://sicambre.at.webry.info/201806/article_35.html

8. 中川隆[-8643] koaQ7Jey 2019年8月27日 11:25:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4108] 報告

2019年02月17日
ユーラシア東部の現生人類集団の2層構造
https://sicambre.at.webry.info/201902/article_32.html


 ユーラシア東部の現生人類(Homo sapiens)集団の起源に関する研究(Matsumura et al., 2019)が公表されました。現生人類(解剖学的現代人)のユーラシア東部への拡散は65000〜50000年前よりもさかのぼる可能性があり、本論文もその見解を基本的には支持していますが、提示されている複数の証拠については、それぞれ疑問も呈されています(関連記事)。本論文は、ユーラシア東部への現生人類拡散の様相を、ユーラシア東部およびオセアニアの合計89集団からの現生人類の頭蓋計測データに基づき頭蓋データから検証しています。対象となったのは、現代人および後期更新世〜1700年前頃の古代人で、後期更新世の現生人類頭蓋は、47000〜16000年前頃のものです。

 本論文はその結果、オセアニアも含むユーラシア東部の現生人類集団が、北方系と南方系に明確に二分されることを見出しました。北方系には寒冷適応の可能性も指摘されています。現代人との比較では、北方系はシベリア集団と強い類似性を示し、南方系はアンダマン諸島・オーストラリア先住民・パプア人と密接に関連しています。モンゴルや中国北部の現代人は北方系に分類されます。ユーラシア東部の現生人類集団の形成過程の検証において重要となるのは、古代人の頭蓋ですが、後期更新世に関しては、中国北部の周口店上洞(Upper Cave at Zhoukoudian)遺跡および南部の柳江(Liujiang)遺跡からインドネシアのワジャク(Wajak)遺跡まで、現生人類頭蓋は南方系の範囲に収まりました。本論文は、後期更新世のユーラシア東部には、まず南方系現生人類集団が拡散してきたと推測し、これを「第1層」と呼んでいます。中国南部でもやがて農耕が始まりますが、5000年前頃までは、狩猟採集民集団が広範に存在していたようです。これら中国南部の14000〜5000年前の狩猟採集民集団は、依然として「第1層」の特徴を保持していました。日本列島の「縄文人」も南方系に区分されます。

 北方系が中国北部以南のユーラシア東部に出現するのは、農耕開始以降です。新石器時代・青銅器時代・鉄器時代のユーラシア東部集団では、「第1層」たる南方系から北方系への置換が確認されます。本論文はこの北方系集団を「第2層」と呼んでいます。「第2層」の拡大に関しては、農耕開始による人口増大が大きな役割を果たしていたのではないか、と推測されています。中国の黄河および長江流域では、9000年前頃に農耕が始まり、キビなどの「雑穀」やコメが栽培されるようになり、やがて複雑な社会構造を形成していき、ついには「国家」が出現します。中国の初期農耕集団は南北ともに、北方系との頭蓋の類似性を示します。黄河および長江流域の最初期の農耕に関して、本論文は「第2層」集団との関連を推測しています。

 アジア南東部において4500〜4000年前頃に顕著な文化的変化が生じた、とされてきました。この見解は、本論文の頭蓋データで改めて補強されます。国南部の5000〜4000年前の新石器時代集団と、アジア南東部の4000年前頃以降の集団と、もっと後のオセアニア(オーストラリア先住民系はパプア系を除いた、ポリネシア系など)集団は、北方系たる「第2層」との類似性が見られます。中国南部の農耕民集団がアジア東南部へと拡散し、やがてはアジア南東部の本土と島嶼部を経て、ついにはポリネシアまで拡散した、という有力説と整合的と言えるでしょう。ただ、アジア南東部の状況は複雑だったようで、「第2層」の拡散が遅れたことと、頭蓋形態に関しては地域差があり、それは「第1層」と「第2層」の混合比率の違いを反映している可能性がある、と指摘されています。日本列島の「弥生人」も「第2層」である北方系に分類されていますが、分析対象となったのは、土井ヶ浜(Doigahama)遺跡など「渡来系」とされる遺跡の頭蓋なので、「縄文系」要素が強いとされる弥生時代の人類遺骸も対象とすれば、また評価も変わってくるでしょう。また、この北方系はアメリカ大陸先住民との類似性も指摘されています。

 本論文は、広範な地域における「第2層」集団の強い類似性から、気候・食性などに起因する収斂ではなく、共通の遺伝的基盤がある、と推測します。つまり、「第1層」と「第2層」は遺伝的に明確に区分でき、早い時期に分岐したのではないか、というわけです。本論文はこれに関して、二つの仮説を提示しています。一方は、「第1層」集団が南方からシベリアへと拡散して寒冷地に適応して「第2層」が形成された、というものです。もう一方は、「第2層」の起源はアジア西部またはヨーロッパにあり、ユーラシア北部を東進してきた、というものです。本論文は、現時点では人類遺骸の少なさのためにアジア北東部の古代人の形態が不明確なので、どちらの仮説が有効なのか、解決できない、と慎重な姿勢を示しています。

 ただ本論文は、さまざまな証拠を考慮に入れて、北方系の「第1層」と南方系の「第2層」は早期に分岐し、前者はヒマラヤ山脈の北を、後者は南を東進してきた可能性が高い、と推測しています。北方経路はあまり明確ではありませんが、「第2層」は45000年前頃にユーラシア西部からシベリアを経由してユーラシア東部へと移住してきて、その考古学的指標は細石刃伝統ではないか、と本論文は想定しています。つまり単純化すると、(中国北部以南の)ユーラシア東部においては、元々は南方系の「第1層」が拡散しており、農耕開始とともに北方系の「第2層」が南下していき、ついにはポリネシアにまで拡散した、というわけです。日本列島も、このユーラシア東部の大きな流れの中に位置づけられます。同じく頭蓋計測データに基づいた研究では、現生人類の出アフリカは複数回で、ユーラシア東部へは、オーストラリア先住民系が最初に拡散した後、ユーラシア東部の多くの現代人の祖先集団が拡散してきた、と推測されており(関連記事)、本論文の見解と大きくは矛盾しないと思います。

 本論文は、これらの見解が遺伝学的研究とも整合的である、と指摘します。アジア南東部に関しては、狩猟採集民集団を基層に、中国南部から、まず農耕をもたらした集団が、次に青銅器文化をもたらした集団が南下してきた、と遺伝学的研究では推測されています(関連記事)。これは、アジア南東部では、南方系を基層に北方系が南下してきて現代人が成立した、とする本論文の大まかな見通しとおおむね整合的です。ただ、本論文でも指摘されているように、アジア南東部の状況は複雑で、後期更新世の中国北部以南のユーラシア東部の現生人類集団は、「第2層」集団による「第1層」集団の置換とはいっても融合が多く、その比率は各地で異なっていたのでしょう。遺伝学的研究では、本論文が南方系の「第1層」とするホアビン文化(Hòabìnhian)集団と、北方系の「第2層」とする中国南部から南下してきた農耕集団との混合比率はほぼ半々だった、と推測されています(関連記事)。本論文でも、アジア南東部本土のオーストロアジア語族集団と、オセアニアにまで拡散したオーストロネシア語族集団は、それぞれ北方系と南方系の中間に位置づけられています。

 私は日本人なので、日本列島における人類集団の形成過程も気になります。本論文は、「縄文人」を「第1層」の南方系、「弥生人」を「第2層」の北方系と位置づけており、有力説である「二重構造モデル」と整合的です。「二重構造モデル」とは、更新世にアジア南東部方面から日本列島に移住してきた人々が「縄文人」となり、弥生時代にアジア北東部起源の集団が日本列島に移住してきて先住の「縄文系」と混血し、現代日本人が形成されていった、とする仮説です。ただ、「縄文人」に関しては、ミトコンドリアDNA(mtDNA)解析(関連記事)でもゲノム解析(関連記事)でも北方系と南方系との混合が指摘されており、単純に南方系とは言えないでしょう。日本列島も含めてユーラシア東部の現生人類集団の形成過程をより詳しく解明するには、やはり古代DNA研究の進展が必要で、この分野の進展は目覚ましいだけに、今後の研究成果が大いに期待されます。


参考文献:
Matsumura H. et al.(2019): Craniometrics Reveal “Two Layers” of Prehistoric Human Dispersal in Eastern Eurasia. Scientific Reports, 9, 1451.
https://doi.org/10.1038/s41598-018-35426-z

https://sicambre.at.webry.info/201902/article_32.html

9. 中川隆[-8629] koaQ7Jey 2019年8月28日 10:26:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4122] 報告

2018年03月06日
バヌアツの人類集団の形成史
https://sicambre.at.webry.info/201803/article_6.html

バヌアツの人類集団の形成に関する二つの研究が公表され、報道されました。『ネイチャー』のサイトには解説記事が掲載されています。これらの研究はオンライン版での先行公開となります。これら二つの研究は、バヌアツやその周辺地域の人類の古代および現代のDNAを解析し、ゲノム規模のデータを得て、バヌアツの人類集団の変遷を検証しています。両方の新研究の間で共通認識もあるものの、相違も見られます。

 バヌアツで最初の人類はオーストロネシア諸語を話していたと推測されているラピタ(Lapita)文化集団で、最初の移住の年代は3000年前頃と推定されています。これは、5500年前頃に台湾から始まったと考えられるオーストロネシア諸語集団の拡大の一部となります。現代バヌアツ人は遺伝的には、4万年以上前にニューギニア島やその周辺地域に拡散してきたパプア人集団の強い影響を受けていますが、言語はパプア諸語ではなく、オーストロネシア諸語のままです。この遺伝子構成と言語の「不一致」について、言語学や考古学や遺伝学などさまざまな分野で推測されており、今回取り上げる両方の新研究でも検証されています。

 リモートオセアニアの最初の人類集団とされるラピタ文化集団は、台湾から東南アジア諸島を経由してオセアニアへと拡散してきた、と考えられており、両方の新研究においても改めてその見解が支持されています。現代人の遺伝的構成から推測すると、ラピタ文化集団はニューギニア島を経由したさいにパプア系集団の遺伝的影響を受けた、と考えられます。しかし、バヌアツとトンガの古代DNA解析の結果、初期のバヌアツ人とトンガ人には、パプア系集団との交雑の痕跡がほとんどまったくない、と明らかになりました(関連記事)。

 両方の新研究は、新たなDNA解析やすでに刊行されているデータの高品質化により、バヌアツにおける人類集団の遺伝的構成の変遷を改めて検証しています。一方の研究(Posth et al., 2018)は、バヌアツ・トンガ・フランス領ポリネシア・ソロモン諸島から19人のゲノム規模のデータを得ることに成功し、気候条件から古代DNAの解析が困難な熱帯地域でのデータだけに、意義は大きいと言えるでしょう。

 Posth et al., 2018でも改めて、3000年前頃となる最初期のバヌアツ人集団はパプア系集団の遺伝的影響をほとんど受けていない、と明らかになりました。一方で、早くも2500年前頃には、バヌアツにおいてパプア系集団の遺伝的影響を強く受けた個体が確認されています。しかし、パプア系集団の遺伝的影響の強化は唐突というよりも漸進的でした。2500〜2000年前頃には、バヌアツ人集団においてパプア人の遺伝的影響が大きくなりますが、現代人よりは小さく、1500〜1000年前頃にはさらにパプア人の遺伝的影響が強くなり、現代では多少ながらもそれ以上にパプア人の遺伝的影響が強くなっています。これらパプア系集団は、バヌアツにより近いソロモン諸島ではなく、ビスマルク諸島からバヌアツに到来したのではないか、と推測されています。

 Posth et al., 2018では、バヌアツにおけるオーストロネシア諸語集団からパプア系集団への遺伝的置換は、1回の大規模移住でによるものはなく継続的なものであり、ニアオセアニアとリモートオセアニアにおける集団間長距離ネットワークが持続していたのではないか、と指摘されています。また、バヌアツへのパプア系集団の移住には性的偏りがあり、南太平洋の現代人のDNA解析に基づいて推測されていたように、パプア人男性がオーストロネシア諸語集団女性と交雑する傾向にあった、と指摘されています。

 もう一方の研究(Lipson et al., 2018A)は、バヌアツのエファテ(Efate)島とエピ(Epi)島の14人の古代DNAが解析され、ゲノム規模のデータが得られました。このうち、11人分のデータは新たに報告されるもので、3人分は以前に刊行されていたデータのより高品質なものとなります。年代別では、2900年前頃が4人、2300年前頃が1人、1300年前頃が2人、500年前頃が1人、150年前頃が6人となります。これら古代のゲノム規模のデータは、185人の現代バヌアツ人のゲノム規模のデータと比較されました。

 Lipson et al., 2018でも、2900年前頃となる初期には、パプア系集団の遺伝的影響がたいへん小さい(4人のうち最大でも3.9±3.5%)、と明らかになりました。しかし、2300年前頃の1人では、パプア系集団の遺伝的影響は95.8±1.1%となります。バヌアツにおいては、オーストロネシア諸語集団による最初の人類の定着の後、少なくとも一部の島では、急速にパプア系集団への遺伝的置換が生じたのではないか、というわけです。このパプア系集団の直接的な起源地は、地理的にバヌアツにより近いソロモン諸島ではなく、ビスマルク諸島だと推測されています。パプア系集団の遺伝的影響は、1300〜500年前頃の3人ではおおむね90%前後、150年前頃の6人ではそれよりやや低くなり、70〜90%程度です。これは、ポリネシアからメラネシアへ「戻って来た」集団との交雑により、パプア系集団の遺伝的影響がやや低くなったことを表しているのではないか、と推測されています。

 Lipson et al., 2018では、これらの解析結果を踏まえて、バヌアツとその周辺地域では少なくとも4回の大きな移住があったのではないか、と推測されています。第一は、この地域最初の人類であるラピタ文化集団です。第二は、2300年前頃までにこの地域に拡散してきて、先住集団を遺伝的にはほぼ置換した、ビスマルク諸島起源のパプア系集団です。第三は、ポリネシアへと拡散した、第二のパプア系集団とは異なるパプア系集団です。第四は、ポリネシアからバヌアツに「戻って来た」集団です。

 これら両研究には、共通認識も見られます。まず、バヌアツの最初の人類集団は、台湾を直接的な起源地(その前にはおそらく華南、もちろん、究極的にはアフリカにまでさかのぼるわけですが)とする、パプア系集団の遺伝的影響をほとんど受けていないオーストロネシア諸語集団で、バヌアツにラピタ文化をもたらした、ということです。次に、このオーストロネシア諸語集団は、遺伝的にはビスマルク諸島起源のパプア系集団にほとんど置換されたものの、言語的には現代バヌアツ諸語もオーストロネシア諸語集団に区分される、ということです。

 両研究の相違点は、バヌアツにおけるパプア系集団による遺伝的置換の過程です。 Posth et al., 2018では、1回の大規模な移住ではなく、持続的な交流による交雑の結果、パプア系集団の遺伝的影響がバヌアツで漸進的に増加したのではないか、と推測されています。一方、 Lipson et al., 2018では、バヌアツに最初の人類であるオーストロネシア諸語系のラピタ文化集団が3000年前頃に到来し、その後に遅くとも2300年前頃までには、少なくとも一部の島ではほぼ全面的な遺伝的置換が生じるほどに、パプア系集団の大規模な到来があった、と推測されています。

 この食い違いは、この地域の古代DNA解析数の増加により、将来解決されるかもしれません。また両研究では、最初期のバヌアツ人はパプア系集団の遺伝的影響をほとんど受けていない、と推測されていますが、そうだと推測するにはまだデータが少なすぎる、とストーンキング(Mark Stoneking)氏は指摘しています。さらにストーンキング氏は、バヌアツなど熱帯地域における古代DNA解析の成功は貴重な事例なので、過剰解釈される傾向にあるのではないか、と注意を喚起しています。

 バヌアツにおける遺伝子構成と言語との「不一致」については、議論が続いているようです。バヌアツの現代の諸言語にはパプア諸語の影響が見られる、との見解も提示されています。しかし、この見解に否定的な言語学者もいるようです。バヌアツの最初期の人類集団は、バヌアツへの拡散前の相互作用の結果、オーストロネシア諸語と非オーストロネシア諸語の双方を話していたかもしれない、との見解も提示されています。また、オーストロネシア諸語集団の後にバヌアツへと到来したパプア系集団にとって、当時はまだ未分化なところのあったオーストロネシア諸語は、交流の持続していた多様な人類集団間にあって共通語として生き残ったのではないか、との見解も提示されています。

 これら二つの研究は、遺伝学のみならず、考古学・言語学などとの学際的研究の重要性を改めて浮き彫りにした、と言えるでしょう。また、日本列島における人類集団の遺伝的構成の変遷と言語の形成過程に関する議論にも参考になりそうな研究成果という点でも、大いに注目されます。つまり、縄文時代までに日本列島に到来した集団は、遺伝的には現代日本人に大きな影響を与えていないものの(関連記事)、言語では、弥生時代以降に到来した集団よりも現代日本語に大きな影響を及ぼしたかもしれない、ということです。

 これは、弥生時代以降に朝鮮半島などユーラシア大陸東部から日本列島に到来した集団の直接的人数はさほど多くなく、先住集団の言語が大きな影響力を維持したものの、本格的な水稲耕作や戦争文化などにより弥生時代以降の到来集団の方が人口増加率は高かったため、現在では縄文時代までに到来した集団をかなり高い割合で遺伝的に置換した、という想定です。もちろん、縄文時代の日本列島の(おそらくはかなり多様な)言語と、現代日本語とでは、大きく違うのでしょうが。


参考文献:
Lipson M. et al.(2018A): Population Turnover in Remote Oceania Shortly after Initial Settlement. Current Biology, 28, 7, 1157–1165.e7.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2018.02.051

Posth C. et al.(2018): Language continuity despite population replacement in Remote Oceania. Nature Ecology & Evolution, 2, 731–740.
http://dx.doi.org/10.1038/s41559-018-0498-2

https://sicambre.at.webry.info/201803/article_6.html

10. 中川隆[-8628] koaQ7Jey 2019年8月28日 10:51:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4123] 報告

2018年03月28日
農耕の起源と拡散
https://sicambre.at.webry.info/201803/article_43.html


 農耕の起源と拡散については当ブログでも度々取り上げてきましたが、一度それらを短くまとめてみます。本当は、当ブログで取り上げた記事を網羅し、整理したうえで、新たに本・論文を読まなければならないところですが、今はそこまでの気力はないので、まずはさほど時間を要さずにできることからやっていき、気力を高めていこう、と考えています。

 現在では、農耕・牧畜(植物の栽培化・動物の家畜化)は、年代は異なりつつも世界の複数の地域で独自に始まり、周辺地域に拡散していった、と考えられていて、この問題に関しては4年近く前の総説的論文が有益だと思います(関連記事)。なお、英語では植物の栽培化・動物の家畜化ともに「domestication」とされていますが、新石器革命論で想定されていたような、動物の家畜化と植物の栽培化とを単一の概念で把握するような認識は根本的に間違っており、家畜化と栽培化は異なる認知能力に依拠している、との指摘もあります(関連記事)。

 上記の総説的論文では、完新世の農耕や牧畜につながるような植物や動物の利用は12000年前頃まで、明確な植物の栽培化・動物の家畜化は11000〜10000年前頃までさかのぼる、とされています。これは南西アジアの事例で、他地域ではもっと年代がくだってから植物の栽培化・動物の家畜化が始まるわけですが、南西アジアは近代以降、とくに考古学的発掘の進んだ地域なので、今後の他地域での発掘の増加により、この差が縮まったり、逆転したりする可能性も考えられます。

 農耕というか植物の栽培化には、植物資源の管理という発想があるのではないか、と私は考えています(関連記事)。植物を「栽培する」と言われているアリも存在しますが(関連記事)、人類系統に限って言うと、現時点で植物の栽培・農耕が確認されているのは現生人類(Homo sapiens)だけです。ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)も現生人類と同様に雑食性で(関連記事)、穀類も含めて(関連記事)植物も食べており、薬用植物の効用をよく理解して治療のために使用していたのではないか、とさえ推測されていますが(関連記事)、現時点ではネアンデルタール人による植物の栽培または植物資源の管理の証拠は確認されていません。

 上述したように、現代の農耕へとつながるような植物の栽培化の萌芽は12000年前頃までさかのぼりますが、植物資源の管理の痕跡はもっと前までさかのぼります。農耕が、年代は異なりつつも世界の複数の地域で独自に始まったとすると、現生人類にとって植物資源の管理は容易な発想であり、どんなに遅くとも非アフリカ系現代人の主要な祖先集団の出アフリカ(6万〜5万年前頃?)の頃までには、そうした発想を可能とする認知能力を有していたことになりそうです。

 具体的には、65000〜60000年前頃のアフリカ南部において低木地の草木を計画的に焼くことによって根菜類の収穫量を5〜10倍増加させた可能性(関連記事)と、49000〜36000年前頃のニューギニア島高地において、初期の住人が有用な植物の成長を促すために森林の一部を切り開いた可能性(関連記事)とが指摘されています。もっと強い証拠としては、年代が下りますが、レヴァントにおいて23000年前頃の穀物の耕作の痕跡が確認されています(関連記事)。更新世において植物資源を管理して収穫するという行為は、おそらくそれなりの頻度で存在したのではないか、と思います。

 ただ、本格的な栽培化ではなく、おそらくは狩猟採集への高い依存度を伴う小規模な耕作・資源管理であり、更新世の不安定な気候では長期間持続しなかったため、現在では考古学的に検出しにくいのではないか、と思います。現代に続くような植物栽培というか農耕は、完新世になってからのことなのでしょう。もっとも、完新世になってからの農耕も、地域により違いはあったでしょうが、とくに最初期の農耕は、当初から生計依存度の高い本格的なものではなく、狩猟採集への高い依存度を伴いつつの小規模な試行錯誤で、近隣地域で農耕が始まっても、狩猟採集生活を続けた地域も少なくなかったのではないか、と考えられます(関連記事)。

 農耕の拡散が人間の大規模な移動(およびその後の先住民集団の置換もしくは先住民集団との交雑)を伴うようなものだったのか、それともおもに文化伝播だったのか、という人類史における普遍的な問題については、現時点では、地域により具体的な様相は異なる、と考えるのが妥当でしょう。古代DNA研究によると、ヨーロッパにおける狩猟採集社会から農耕社会への移行はアナトリア半島の農耕民のヨーロッパへの拡散によるもので、全体的には先住の狩猟採集民集団との交雑・同化がゆっくりと進行していったものの、地域によっては交雑・同化が早期に進行した、とされています(関連記事)。西アジアでは、少なくとも一部地域において、人間の移動をあまり伴わないような文化伝播が農耕の拡大に重要な役割を果たしたのではないか、と示唆されています(関連記事)。

 日本列島においては、すでに縄文時代に植物栽培は始まっていたものの(関連記事)、本格的な農耕社会への移行は弥生時代になってからだと思われます。縄文時代から弥生時代への移行において、「縄文人」の現代日本社会における遺伝的影響は小さい(アイヌ人と沖縄の人々を除く現代の「本土日本人」に継承された縄文人ゲノムの割合は推定で15%程度)と推定されていることから(関連記事)、本格的な農耕社会への移行において、先住民集団は渡来系集団におおむね置換されてしまった、とも考えられます。

 しかし、弥生文化の伝播はゆっくりとしたものであり、「縄文の壁」がその前に立ちはだかったという指摘もあるように(関連記事)、近年では、本格的な農耕の受容に関して、「縄文人」の主体性を強調する傾向が強くなっています(関連記事)。こうした本格的な農耕をもたらした集団に関しては、困窮のあまり日本列島へと移住してきたのではなく、ある程度以上の社会的地位、たとえば親から領域を継承できないような首長の子供たちを含んでいた可能性も指摘されています(関連記事)。

 それでも、現代日本社会における「縄文人」の遺伝的影響は2割にも満たないのだから、縄文時代の文化はその後の日本列島において大きな影響を及ぼさなかった、との見解もあるかもしれません。しかし、他地域の事例からも、日本列島において、遺伝的構成の劇的な変化があったとしても、言語をはじめとして先住民集団の文化が後世に少なからぬ影響を及ぼした可能性はじゅうぶん想定される得ると思います(関連記事)。もちろん、「縄文人」とはいっても、地域・年代によりかなり多様だった可能性があり、それは「縄文人」の言語も同様なのでしょう。
https://sicambre.at.webry.info/201803/article_43.html

11. 中川隆[-8627] koaQ7Jey 2019年8月28日 12:24:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4124] 報告

2018年11月25日
文化変容・継続と遺伝的構成の関係
https://sicambre.at.webry.info/201811/article_49.html

 古代DNA解析が飛躍的に発展していくなか、次第に明らかになってきたのは、文化の変容・継続とその担い手である人類集団の遺伝的構成との関係は一様ではない、ということです。この問題については、以前にも農耕の起源と拡散との関連で述べました(関連記事)。文化変容が、時には置換とも言えるような、その担い手である人類集団の遺伝的構成の大きな変化を反映している場合もあれば、文化変容はおもに文化のみの伝播で、その担い手はさほど変わらない場合もあります。逆に文化的継続は、その担い手の遺伝的構成の継続を反映している場合が多いのでしょうが、そうとは限らないかもしれません。たとえば、ユーラシア東部における中部旧石器時代〜上部旧石器時代にかけての考古学的連続性は、人類集団の遺伝的連続性を反映しているのではなく、外来の人類集団による置換でも起きることかもしれません(関連記事)。まあこれは、種の水準で異なる可能性の高い人類集団間のことなので、以下に述べていく事例とは異なる、と言えるかもしれませんが。

●担い手の置換もしくは遺伝的構成の一定以上の変化による文化変容
 ヨーロッパにおける農耕の拡散はアナトリア半島からの移住民によるものですが、全面的な置換ではなく、在来の狩猟採集民集団と外来の農耕民との交雑が進展していき、全体的には先住の狩猟採集民集団との交雑・同化がゆっくりと進行していったものの、地域によっては交雑・同化が早期に進行した、とされています(関連記事)。ヨーロッパにおいては、青銅器時代にポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)の遊牧民集団が大きな文化的・遺伝的変容をもたらした、とされていますが、その度合いは地域により異なり、イベリア半島と中央ヨーロッパでは遺伝的影響が限定的だったのにたいして、ブリテン島ではほぼ全面的な置換が生じたようです(関連記事)。レヴァント南部では、新石器時代から銅器時代を経て青銅器時代へと至る過程で、文化の変容が住民の遺伝的構成の大きな変化を伴っている、と明らかになっています(関連記事)。

●担い手の遺伝的継続を伴う文化変容
 西アジアにおいては、少なくともレヴァント南部・ザグロス・アナトリアの3地域では、農耕社会への移行の担い手は在来の狩猟採集民集団と推測されています(関連記事)。アフリカ北西部でも、少なくとも一部の地域では、狩猟採集社会から農耕社会への移行にさいして担い手の遺伝的構成は大きく変わらなかった、と推測されています(関連記事)。ユーラシア東方草原地帯の牧畜の始まりも、おもに在来集団による文化受容と推測されています(関連記事)。現代日本人であれば、日本の近代化における大きな文化変容と遺伝的継続性の事例をすぐ想起するでしょうか。

●担い手の遺伝的変容・置換と文化の継続
 想定しにくい事例ですが、担い手の置換もしくは遺伝的構成の一定以上の変化による文化変容の事例でも、外来集団による先住民集団の文化の一部の継承は、珍しくなかったと思われます。ここでは、そうした一部の要素ではなく、最重要とも言える言語の継続性を想定しています。バヌアツの現代人の遺伝的構成ではパプア人集団の強い影響が見られますが、言語はオーストロネシア諸語です。最初期のバヌアツ人は遺伝的にはオーストロネシア諸語集団で、パプア人集団の遺伝的影響がほとんど見られません。つまり、バヌアツでは、遺伝的には全面的な置換に近いことが起きたにも関わらず、言語は最初期の住民のものである可能性が高い、というわけです(関連記事)。その理由については不明ですが、他の地域でも同様の事例は想定されます。たとえば縄文時代の日本列島の住民の遺伝的影響は、現代日本人では15%程度と大きくなく、弥生時代以降に置換に近いことが起きた、と言えるかもしれません。しかし、弥生時代以降に日本列島に渡来してきた集団は、一度に大量に移住してきたのではなく、何度かの大きな波はあったとしても、長期にわたる少数の集団で、後に人口増加率で遺伝的影響力を高めていった、と考えられますから、バヌアツの事例からも、言語も含めて縄文時代の文化が、後の時代に強く継承されていった可能性は低くないと思います(関連記事)。もちろん、現代日本語は弥生時代以降に渡来してきた集団の言語が主要な起源となっており、ユーラシア東部では日本語と近縁な言語が消失した、という可能性もじゅうぶん考えられます。文字資料が期待できない以上、この問題の重要な手がかりとなるのは古代DNA解析で、日本列島も含めてユーラシア東部における古代DNA研究の進展が期待されます。またそれにより、中国、とくに華北において、文字文化の継続性と大きな遺伝的変容が明らかになるのではないか、とも予想しています。
https://sicambre.at.webry.info/201811/article_49.html

12. 中川隆[-8543] koaQ7Jey 2019年9月03日 08:25:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4216] 報告
380万年前のアウストラロピテクス・アナメンシス(猿人)の顔が復元された
http://garapagos.hotcom-cafe.com/15-34.htm

  Natureで380万年前のアウストラロピテクスの初期のアナメンシスの頭蓋骨のほぼ完全な化石が発掘され顔が復元されました。

これまでのアウストラロピテクスの化石は顎が主で、顔は想像の域を出ず、復元者によってかなりばらつきがありました。

現代人の顔は

記事15-22
http://garapagos.hotcom-cafe.com/15-22.htm

でご紹介しましたようにエピジェネティクスで千差万別になっているらしいので、たまたま発掘した頭骸骨の 持ち主が当時のアウストラロピテクスの平均の顔であったという保証はありませんが、700万年前ごろにチンパンジーと人類の共通の祖先から お互いに分化して700万年経ってもチンパンジーの顔はほとんど同じに見えることから、380万年前頃ならエピジェネティクスもそれほど進んでおらず 今回復元された顔は恐らく当時の平均的な顔と言って良いような気がします。

  顎の骨からの推測に比べれば、当時の実在したアウストラロピテクスの1個人の顔が復元されたのは大きな出来事です。 猿人が出現したのが400万年前頃と推定されているので、アナメンシスの380万年前はほぼ草創期の人類の顔と言ってよいでしょう。

  下記にAbstractと掲載写真とWikipediaの系統図をご紹介します。

  ご興味のある方は是非下記原著をお読みください。
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A 3.8-million-year-old hominin cranium from Woranso-Mille, Ethiopia

Yohannes Haile-Selassie, Stephanie M. Melillo, Antonino Vazzana, Stefano Benazzi & Timothy M. Ryan?

Nature, Published: 28 August 2019 Abstract

The?cranial morphology of the earliest known hominins in the genus Australopithecus remains unclear. The oldest species in this genus (Australopithecus anamensis, specimens of which have been dated to 4.2?3.9?million years ago) is known primarily from jaws and teeth, whereas younger species (dated to 3.5?2.0?million years ago) are typically represented by multiple skulls. Here we describe a nearly complete hominin cranium from Woranso-Mille (Ethiopia) that we date to 3.8 million years ago.

We assign this cranium to A. anamensis on the basis of the taxonomically and phylogenetically informative morphology of the canine, maxilla and temporal bone. This specimen thus provides the first glimpse of the entire craniofacial morphology of the earliest known members of the genus Australopithecus. We further demonstrate that A. anamensis and Australopithecus afarensis differ more than previously recognized and that these two species overlapped for at least 100,000?years?contradicting the widely accepted hypothesis of anagenesis.

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頭の大きさはかなり小さいです。横顔はまだ 口が前に出ているチンパンジータイプですが、記事13-1にあるように、共通の祖先から分岐後も 200〜300万年間程度は互いに交配ができていたと推測されているそうなので、この顔はチンパンジーと 交配ができないくらい完全に種の分化が進んだ顔と言うことになります。現代にもいそうな顔ですよね。

この系統図では630万年前頃に共通の祖先がいて、400万年前頃にヒトとチンパンジーは分離したことになっています。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/15-34.htm


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15-22. 人類の顔が千差万別なのは識別適応"エピジェネティクス"の結果だったようだ
http://garapagos.hotcom-cafe.com/15-22.htm


  「Nature communications」の2014年9月16日、「人類の顔が千差万別なのは識別適応「エピジェネティクス」だったらしい」ことが報告されました。

  難解な内容で読みなれている単語とかなり違うため、理解に苦しみましたが、カリフォルニア大学や他のサイエンス系ニュースの紹介記事を読んで、 やっと何とかわかってきましたのでご紹介します。興味のある方は直接論文にアタックするより紹介記事を読むことから進めると理解し易いと思います。

  何故人間種の顔は他の動物種よりも変化に富んでいて、誰が誰だか簡単に特定・識別できるようになっているのか、そこに着眼した研究者がいたようです。 そして人間の様々な外形部位を解析した結果、人類の顔は集団の中で誰が誰だか簡単に認知出来るように変化・進化をしてきた、 つまりエピジェネティクス(後天的獲得形質)であった、と言う事がわかったと言うものです

  という訳で、Nature CommunicationsのAbstructをご紹介します。
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Morphological and population genomic evidence that human faces have evolved to signal individual identity

Nature Communications 5, 4800, Published 16 September 2014, doi:10.1038/ncomms5800
Michael J. Sheehan & Michael W. Nachman

Abstract

  Facial recognition plays a key role in human interactions, and there has been great interest in understanding the evolution of human abilities for individual recognition and tracking social relationships.

  Individual recognition requires sufficient cognitive abilities and phenotypic diversity within a population for discrimination to be possible.

  Despite the importance of facial recognition in humans, the evolution of facial identity has received little attention.

  Here we demonstrate that faces evolved to signal individual identity under negative frequency-dependent selection.

  Faces show elevated phenotypic variation and lower between-trait correlations compared with other traits.

  Regions surrounding face-associated single nucleotide polymorphisms show elevated diversity consistent with frequency-dependent selection.

  Genetic variation maintained by identity signalling tends to be shared across populations and, for some loci, predates the origin of Homo sapiens.

  Studies of human social evolution tend to emphasize cognitive adaptations, but we show that social evolution has shaped patterns of human phenotypic and genetic diversity as well.


人間の顔は、個々が本人であることを識別するシグナルとして進化してきたと言う形態学的なそして集団遺伝学的な証拠

  顔認識は人間の相互作用でキーとなる役割を演じます、そして個々の識別と社会的な関係の道筋のための人間の能力の進化を理解する事に非常に興味がありました。

  個々の識別は、識別が可能な集団内で、十分な認識能力と表現型多様性を必要とします。

  人間の顔認識の重要性にもかかわらず、顔のアイデンティティの進化は、ほとんど注目されてきませんでした。

  我々はここで顔が、否定的な頻度依存的な選択のもとで、個々を特定するシグナルとして進化してきたことを証明します。

  顔は高い表現型バリエーションを示すとともに、他の特徴と比較して特徴間の低い相関性を示します。

  顔に関連する一塩基変異多型が存在する領域は、頻度依存的な選択と一致した高い多様性を示します。

  アイデンティティのシグナルによって維持される遺伝学的な変異は集団全体で共有される傾向があり、いくつかの領域部分はホモ・サピエンスの起源に先行しています。

  人類の社会的な進化の研究は、識別適応を強調する傾向にあります。しかし我々は社会的進化は人間の表現型のパターンと遺伝学的な多様性も同様に形成してきたことを示します。

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カリフォルニア大学ニュースの9月16日の解説記事をご紹介します。訳は難しかったので今まで以上に下手くそです。

我々は各自がユニークに見えるように進化してきたので、人間の顔は非常に変化し易いのです。

  カリフォルニア大学バークレー校(科学者)による最近の研究によれば、人間の顔−−大部分の他の動物よりはるかに大きな−−の驚くべき多様性は、 私たち一人一人をユニークで簡単に認識可能にする進化の圧力の結果です。

  "私たちの非常に視覚的な社会的相互関係は、ほとんど間違いなくこの進化的傾向の牽引役であると、カリフォルニア大学バークレー校の脊椎動物博物館の行動生態学者である 博士研究員のマイケルJ.シーハンが言いました。 "

  "多くの動物は個々を特定するために、特に日が暮れてから歩き回る動物のために、特有な顔の造作を些細にして、嗅覚または発声を使うと、シーハンは言いました。 しかし人間は異なります。"

  「人間は、顔の認識が驚異的に上手です; 「そのために脳の一部が専門化されています」とシーハンは言いました。

  「私たちの研究は、人間が、ユニークでかつ簡単に認識できるために選ばれた存在であることを今、示します。」

  他人を認識できることは私にとって有益です。そして自分を(他人に)認識してもらえることもまた有益です。

  "「さもなければ、私たちは皆もっと似ているように見えるでしょう。」 "

  "社会的相互作用は我々の個々の識別可能性を促進し結果として選別へ導いたかもしれないという考えは、人間の社会的な構造は我々がどのように見えるかという進化を ドライヴしたことを意味しています。と共同執筆者の集団遺伝学者で統合生物学の教授でりカリフォルニア大学バークレー脊椎動物博物館の館長であるマイケル・ナフマンが言いました。 "

  "研究が9月16日にオンライン・ジャーナル、ネイチャーコミュニケーションズに掲載されるでしょう。 "

  "本研究で、シーアンは言いました。「我々は問いました、『眉間の距離のような特徴または鼻の幅が、ちょうど偶然に変化します、または、さもなければ彼らがそうであるより、 変化する進化的選択が、あります;、 より特徴的でよりユニークな?』」
"
  予測されたように、顔の特徴が他の身体の特徴(例えば手の長さ)より非常に変化やすく、そして、顔のある特徴が顔の他の特徴から(大部分の身体の測定値と違って) 独立していることを、研究者は発見しました。

  例えば長めの腕の人は脚も長いのですが、幅広の鼻とか目が離れているような人が長い鼻を持っているわけではありません。

  "両方の調査結果は、顔の変化が進化を通して強化されたことを示唆しています。 "

  最終的に、彼らは世界中の人々の遺伝子を比較し、そして遺伝子の他の部位よりも顔の特徴をコントロールしている遺伝子の部位中でより遺伝的な変異を見つけました。 それは変化は進化的に有利であるというサインです。

  3つの予測は全て当たりました。つまり、顔の特徴は他の特徴よりもより変化しやすくより相関が低いのです。そして彼らの基礎になる遺伝子はより高次な変化のレベルを示します。 とナフマンは言いました。

  「ゲノムの多くの領域が顔の特徴に寄与するので、あなたは遺伝的変異がとらえがたいと期待しているでしょう、そしてその通りです。しかしそれは首尾一貫していて統計的に有意です。」

軍隊データの使用

  "シーハンは、1988年に男性・女性の人員からコンパイルされた身体測定の米国軍隊データベースのおかげで、人間の顔の変わりやすさを評価することができました。
"
  ユニフォームと防護服から車両とワークステーションまですべてを設計して、大きさを設定するのに、軍隊の人体計測サーベイ(ANSUR)データは使用されます。
  ヨーロッパ系アメリカ人とアフリカ系アメリカ人の顔の特徴 、例えば、額-あご距離、耳の高さ、鼻の幅と、瞳の間隔、と身体の他の特徴、前腕長、ウエストの高さなど 、 との統計学的比較は顔の特徴が平均して他より変化に富むことを示しました。

  最も変化に富む特徴は、目、口と鼻の三角形の範囲内です。

  1000のゲノムプロジェクトによって集められたデータに、シーアンとナフマンもアクセスしました。そして、それは2008年以降1000のヒトゲノムを配列して、世界中の人たちの ほぼ4000万の遺伝的変異のカタログを作りました。

  顔の形を決定すると確認されたヒトゲノムの領域を見て、彼らは特徴をもたらす変異よりはるかに多い数の変異、例えば高さのような、を見つけましたが、顔を含んでいないのを発見しました。

有史以前の起源

  「遺伝的変異は、生き残りにとって必須である特徴の場合自然淘汰によって除かれる傾向があります」と、Nachmanは言いました。

  「ここではそれは正反対です; 選択は変化を維持しています。
  選択が個々の認知を容易にする変化のために選別があったという考えと、これの全ては一致しています。」

  彼らは更にヒトゲノムと最近配列決定されたネアンデルタール人とデニソワ人のゲノムと比較して、類似した遺伝的変異を見つけました。それはホモサピエンスの顔の変化が これらの異なる血統の人類が分化する前に既に起源を持っていたに違いないことを示します。

  「明らかに、我々は多くの特徴、 たとえば背の高さや歩き方、によって個々を認知します、しかし、我々の調査結果は「顔」が人々を認知する支配的な方法であると主張します」と、 シーアンは言いました。
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  *ガラパゴス史観注:

  犬は動物の中で人間同様に顔も身体の大きさも格好も犬種によってかなり違う動物種になりますが、互いに交配が出来ることで分類学上は全体で「一種」であることがわかります。

  ところが同一犬種内では顔はほとんど同じなのです。我が家の愛犬は他の同じ犬種の犬とは顔つきが若干違うため、近所の公園で同じ犬種が集まっても自分では容易に識別出来ますが、 他の犬種の飼い主からの識別はほぼ無理です。

  一般に比較的長い期間育てている飼い主しか識別は出来ず、飼い始めたばかりの飼い主にとっては、何匹かの同一犬種の中で自分に寄ってくる犬がやっと自分の飼犬とわかるぐらい、 同一犬種の顔は実際ほとんど「同じ」なのです。

  これは進化の過程でそうなったのではなく、人類による犬種改良の結果、ケンネルクラブが定義する犬種条件に当てはまるよう、当てはまらない個体を人為的に排除してきた結果に 過ぎないのです。

  我が家のシーズー犬はチベット原産のラサアプソとペキニーズの交配でライオンに似るように交配改良された犬種で、身体条件が細かく規定されているため当然同一犬種の犬は そっくりさんばかりなのですが、

  ヨーロッパはペキニーズとの交配を多くし顔ペチャのロンパリ目で背中が反った外観を好みますが、アメリカはペキニーズとの交配を弱くしやや鼻が高く目も中心に集まって より人間臭い顔立ちになり、背筋も伸びています。

  このため同じシーズー犬種でありながら、経験の少ない人でも一度教えられると次からは見分けがつくくらい違うのです。これは「交配」というマジックがなせる結果です。

  ところが人類は全体でホモサピエンス「一種」であるにも関わらず、昔から手配に人相書きが有効なくらい、顔は人それぞれ違うのです。しかしこれに集団遺伝学的な意味があるとは、 しかもエピジェネティクスとは、この論文を読むまで考えたこともありませんでした。

  身体データを計測、解析した結果、「顔」に関するデータのみが他の身体部位との相関が低く、顔内の目、口と鼻の三角形データは多様性が極めて高く、 人を識別するには絶好の部位であることが分かったそうです。

  世の中には似た人が何人かはいるそうですが、それでもそのような人が遭遇する機会は滅多にないので、顔の「識別適応」による進化恐るべしです。

  恐らくネアンデルタール人との交配が「顔の多様性」を更に高度にしたと考えられます。出アフリカした当時は色黒のジャガイモ顔のネグリートに過ぎなかったホモサピエンスが、

  出アフリカして少なくとも30万年以上ヨーロッパ大陸やユーラシアで先進文化・技術を持ち高緯度地適応を遂げていた色白・彫深顔で高身長だったネアンデルタール人と交配したことで、

  ホモサピエンスは本来獲得に数10万年は掛かる高緯度地適応を一気に獲得し多様性が一気に高度になったのでしょう。

  極東アジア系はその後シベリアの寒冷地適応や黄砂適応を経験し折角手に入れた彫深顔を捨てて、フラットな顔に再度変化を遂げました。 この「フラット顔適応」はかなり強固で欧米系から見ると皆同じような個性のない顔に見えるようですが、

  本論文の最大の欠点はヨーロッパ系とアフリカ系しか解析していないことです。もしアジア系でモンゴール系やツングース系、古住シベリア系のフラット顔適応を遂げている集団を 解析していたら、

  自然淘汰の結果、多様性が減る退行進化もあることが結論に加えられるともう少し意義深い論文になったような気がします。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/15-22.htm

13. 中川隆[-8491] koaQ7Jey 2019年9月05日 07:27:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4275] 報告

2019年02月11日
ネアンデルタール人の絶滅に関する議論
https://sicambre.at.webry.info/201902/article_18.html


 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の絶滅には高い関心が寄せられてきており、とても的確にまとめるだけの準備は整っていませんが、とりあえず、当ブログの関連記事一覧をまとめ、自分の現時点での見解を短く述べていきます。ネアンデルタール人の絶滅要因を大別すると、気候変動を中心とした環境説と、現生人類(Homo sapiens)との競合説になると思います。もちろん、多くの本・論文は複合的要因を指摘しているとは思います。環境説は、ネアンデルタール人も気候変動に応じて拡大・撤退・縮小を繰り返していたことから(関連記事)、単独では成立しないというか、究極的な要因にはならないと思います。

 もちろん、現生人類との接触がなく、気候変動などにより絶滅した地域的なネアンデルタール人集団も存在するでしょうが、種(分類群)としてネアンデルタール人が絶滅したのは、現生人類が拡散してある程度の期間の共存の後だったことから、やはり現生人類との競合が究極的な要因だったと考えるのがだとうでしょう。ただ、ネアンデルタール人の絶滅とはいっても、より正確には、ネアンデルタール人の形態的・遺伝的特徴を一括して有する集団は現在では存在しない、と言うべきかもしれません。ネアンデルタール人はユーラシア中緯度地帯において長期にわたって、強力な競合種(分類群)が存在しないなか、寒冷化で打撃を受けても温暖化により回復してきたものの、現生人類が拡散してくると、現生人類との競合のため寒冷化による打撃から回復できなかったのだと思います。また、気候変動とはさほど関係なく、現生人類との競合により絶滅したネアンデルタール人の地域的集団もあったでしょう。

 現生人類との競合説を大別すると、潜在的能力説と後天的社会説になると思います。もっとも、これも単純に二分できるわけではありませんが。潜在的能力説では、ネアンデルタール人にはできなかった何かを現生人類ができた、と想定されます。それは、高度な言語・意思伝達能力や象徴的思考能力や高度な計画性などの認知能力です。それが技術や社会規模や行動に影響し、劣っている(効率的ではない)ネアンデルタール人は優れた(効率的な)現生人類との競合で敗北する運命にあった、と想定されます。もっとも最近では、両者の大きな違いの重要な考古学的根拠とされた洞窟壁画を、ネアンデルタール人が描いていた可能性も指摘されており(関連記事)、潜在的能力説の一部?で言われているほど、両者の潜在的能力の違いは大きくなかったかもしれません。また、両者の狩猟効率の違いの根拠とされてきた負傷率に関しても、ネアンデルタール人の絶滅からさほど年代の経過していない2万年前頃までで比較すると、頭蓋では大差がない、とも指摘されています(関連記事)。

 後天的社会説では、温暖な地域に起源があるため、ネアンデルタール人社会よりも人口密度が高く交流の盛んだった現生人類社会の方が、技術・集団規模・狩猟採集などの行動での効率などで優位に立ち、ネアンデルタール人は絶滅に追い込まれた、と想定されます。これと関連して、現生人類社会からネアンデルタール人社会への感染症もネアンデルタール人絶滅の一因と推測されています(関連記事)。ただ、更新世は完新世と比較してずっと人口密度が低いわけで、現生人類からの感染症がネアンデルタール人社会に大打撃を与えたかというと、疑問は残ります。また、ネアンデルタール人の絶滅要因として近親交配による遺伝的多様性の喪失説も提示されていますが(関連記事)、ネアンデルタール人社会で近親交配が一般的だったとは考えにくく(関連記事)、気候変動や現生人類との競合による衰退の結果としての近親交配の流行でしょうから、近親交配がネアンデルタール人絶滅の究極的な要因とは言えないと思います。

 ネアンデルタール人の絶滅に関してはこのように諸説ありますが、おそらくほとんどのネアンデルタール人の地域的集団の絶滅要因は複合的で、それぞれ異なった組み合わせだったと思います。また、ネアンデルタール人という種(分類群)の絶滅要因は、究極的には現生人類との競合と言えるでしょうが、さらに具体的な要因となると、まだじゅうぶんには解明できていないと思います。以下、ネアンデルタール人の絶滅に関する当ブログの記事です。重要な本や論文を取り上げた記事には●をつけています。


ネアンデルタール人はジブラルタルで24000年前まで生存?
https://sicambre.at.webry.info/200609/article_15.html

ネアンデルタール人の歯の手入れ、ネアンデルタール人の絶滅と気候との関係
https://sicambre.at.webry.info/200709/article_15.html

ネアンデルタール人の絶滅と衣服の関係
https://sicambre.at.webry.info/200801/article_5.html

ネアンデルタール人は食人習慣のために絶滅?
https://sicambre.at.webry.info/200803/article_11.html

「ネアンデルタール人その絶滅の謎」『ナショナルジオグラフィック(日本版)』10月号
https://sicambre.at.webry.info/200810/article_15.html

●ネアンデルタール人の絶滅要因
https://sicambre.at.webry.info/200901/article_13.html

ヨーロッパにおけるネアンデルタール人から現生人類への移行と人口増加
https://sicambre.at.webry.info/201107/article_30.html

NHKスペシャル『ヒューマン なぜ人間になれたのか 第2集 グレートジャーニーの果てに』
https://sicambre.at.webry.info/201201/article_31.html

ネアンデルタール人なぜ絶滅
https://sicambre.at.webry.info/201208/article_3.html

中部〜上部旧石器移行期のヨーロッパにおける火山噴火の影響
https://sicambre.at.webry.info/201208/article_23.html

2つのエンディングストーリー
https://sicambre.at.webry.info/201307/article_25.html

●『そして最後にヒトが残った ネアンデルタール人と私たちの50万年史』
https://sicambre.at.webry.info/201312/article_1.html

ネアンデルタール人は小動物の狩猟に本格的に移行できずに絶滅?
https://sicambre.at.webry.info/201401/article_19.html

●ネアンデルタール人の絶滅要因の考古学的検証
https://sicambre.at.webry.info/201405/article_26.html

『ナショナルジオグラフィック』1996年1月号「ネアンデルタール人の謎」
https://sicambre.at.webry.info/201405/article_30.html

●ネアンデルタール人絶滅の新たな推定年代
https://sicambre.at.webry.info/201408/article_24.html

イベリア半島南東部の終末期ネアンデルタール人
https://sicambre.at.webry.info/201501/article_21.html

イベリア半島のネアンデルタール人の早期絶滅説
https://sicambre.at.webry.info/201502/article_28.html

佐野勝宏・大森貴之「ヨーロッパにおける旧人・新人の交替劇プロセス」
https://sicambre.at.webry.info/201504/article_26.html

松本直子「新人・旧人の認知能力をさぐる考古学」
https://sicambre.at.webry.info/201505/article_28.html

Pat Shipman『ヒトとイヌがネアンデルタール人を絶滅させた』
https://sicambre.at.webry.info/201512/article_13.html

●ネアンデルタール人の絶滅の理論的検証
https://sicambre.at.webry.info/201602/article_18.html

現生人類からネアンデルタール人への伝染病の感染
https://sicambre.at.webry.info/201604/article_13.html

気候変動によるネアンデルタール人の絶滅
https://sicambre.at.webry.info/201605/article_13.html

●ネアンデルタール人像の見直し
https://sicambre.at.webry.info/201606/article_19.html

赤澤威、西秋良宏「ネアンデルタール人との交替劇の深層」
https://sicambre.at.webry.info/201607/article_6.html

●ドイツにおけるネアンデルタール人の人口変動
https://sicambre.at.webry.info/201607/article_23.html

現生人類においてネアンデルタール人由来の遺伝子が除去された理由
https://sicambre.at.webry.info/201611/article_10.html

●現生人類の優位性に起因しないかもしれないネアンデルタール人の絶滅
https://sicambre.at.webry.info/201711/article_2.html

イベリア半島で他地域よりも遅くまで生存していたネアンデルタール人
https://sicambre.at.webry.info/201711/article_21.html

現生人類とネアンデルタール人の脳構造の違いに起因する認知能力の差(追記有)
https://sicambre.at.webry.info/201804/article_41.html

ヨーロッパ南部の初期現生人類の環境変動への適応
https://sicambre.at.webry.info/201804/article_21.html

NHKスペシャル『人類誕生』第2集「最強ライバルとの出会い そして別れ」
https://sicambre.at.webry.info/201805/article_25.html

『コズミック フロント☆NEXT』「ネアンデルタール人はなぜ絶滅したのか?」
https://sicambre.at.webry.info/201806/article_44.html

ネアンデルタール人の絶滅における気候変動の影響
https://sicambre.at.webry.info/201808/article_48.html

ネアンデルタール人と現生人類の頭蓋外傷受傷率(追記有)
https://sicambre.at.webry.info/201811/article_25.html

イベリア半島南部における4万年以上前のオーリナシアン
https://sicambre.at.webry.info/201901/article_42.html

近親交配によるイベリア半島北部のネアンデルタール人の形態と絶滅
https://sicambre.at.webry.info/201902/article_17.html

https://sicambre.at.webry.info/201902/article_18.html

14. 中川隆[-8466] koaQ7Jey 2019年9月08日 10:45:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4310] 報告

News Release 5-Sep-2019
中央および南アジア由来の古代DNAからユーラシア大陸における人々と言語の拡散が明らかに

中央および南アジアから得られた500人以上の古代DNAの全ゲノム解析から今回、この地域に現在住む人々の複雑な遺伝的祖先について新たな光が当てられることを、新しい報告が明らかにしている。

この研究は、ユーラシア・ステップ、中近東および東南アジアに由来する集団における遺伝子交換を記述しているだけでなく、古代ヨーロッパに認められるものと類似し並行したゲノムパターンを反映する集団の歴史をも明らかにしており、これらの所見は印欧語族の文化的拡散を例証するものと考えられる。

はるか昔に生きていた人々の遺伝子が保存された遺物は、古代の様々な集団の移動と相互関係だけでなく、文化的革新(農業、牧畜、言語など)の世界規模での拡散の様子を明らかにしてくれる。

Vagheesh Narasimhanらは、およそ8,000年前に生きていた523人の古代DNAを用いて、中央および南アジアへの、またこれらの地域内における、先史時代の人類の拡散について理解を深めることを試みた。Narasimhanらによれば、

現代アジア人の祖先は主として、インダス文明の崩壊後にやってきた中近東の農民集団、ならびにヤムナ文化として知られるヨーロッパのステップ地帯に由来する青銅器時代の牧畜民集団に遡るという。

これまでの研究では、同じ集団が東ヨーロッパ地域にも移動しており、このことがインド・イラン語派およびバルト・スラヴ語派の広範な拡散に貢献した可能性が示されている。

関連するPerspectiveでNathan ShaeferとBeth Shapiroは「今回のデータセットの規模により、Narasimhanらはかつてない広範な空間および時間にわたってゲノムの比較を行うことができ、それにより数年前には答えることのできなかった、増加しつつある特定の疑問に焦点を当てることが可能になった」と記している。
https://www.eurekalert.org/pub_releases_ml/2019-09/aaft-5_2090319.php


2. 中川隆[-8468] koaQ7Jey 2019年9月08日 10:40:57: b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4308] 報告
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2019年09月08日
アジア南部の人口史とインダス文化集団の遺伝的構成
https://sicambre.at.webry.info/201909/article_23.html


 アジア南部の人口史関する二つの研究が報道されました。『サイエンス』のサイトには解説記事が掲載されています。日本語の解説記事もあります。なお、以下の主要な略称は以下の通りです。アンダマン諸島狩猟採集民(AHG)、古代祖型インド南部人関連系統(AASI)祖型北インド人(ANI)、祖型南インド人(ASI)、シベリア西部狩猟採集民(WSHG)、シベリア東部狩猟採集民(ESHG)、ヨーロッパ東部狩猟採集民(EEHG)、ヨーロッパ西部狩猟採集民(WEHG)、中期〜後期青銅器時代ユーラシア西方草原地帯牧畜民(WSMLBA)、前期〜中期青銅器時代ユーラシア西方草原地帯牧畜民(WSEMBA)、バクトリア・マルギアナ複合(BMAC)文化。

 一方の研究(Narasimhan et al., 2019)は、すでに昨年(2018年)、査読前に公開されていました(関連記事)。その時点よりデータも増加しているので、今回改めて取り上げます。本論文は、中石器時代以降のアジア中央部および南部北方の、新たに生成された古代人523個体のゲノム規模データと、品質を向上させた既知のゲノムデータ19人分を報告しています。これらと既知のデータを合わせて、古代人837個体分のデータセットが得られました。現代人では、686人のゲノム規模データと、アジア南部の246民族の1789人の一塩基多型データが比較されました。

 本論文(サイエンス論文)はこれらの個体を地理的に3区分しています。それは、182人分のゲノムデータが得られたイランおよびトゥーラーン(アジア中央部南部、現在のトルクメニスタン・ウズベキスタン・タジキスタン・アフガニスタン・キルギスタン)、209人分のゲノムデータが得られた草原地帯と北部森林地帯(ほぼ現在のカザフスタンとロシアに相当します)、132人分のゲノムデータが得られたパキスタン北部です。文化的に区分すると、(1)中石器時代・銅器時代・青銅器時代・鉄器時代のイランおよびトゥーラーンの集団で、紀元前2300〜紀元前1400年頃のバクトリア・マルギアナ複合(BMAC)文化も含まれます。(2)シベリア西部森林地帯の早期土器(陶器)使用狩猟採集民で、北部ユーラシア人の早期完新世の遺伝的傾向を表します。(3)ユーラシア草原中央部の銅器時代・青銅器時代の牧畜民で、青銅器時代カザフスタン(紀元前3400〜紀元前800年)を含みます。(4)アジア南部北方で、後期青銅器時代と鉄器時代と歴史時代を含み、現在のパキスタンに相当します。

 イランおよびトゥーラーンでは、アナトリア農耕民関連系統の比率が西から東にかけて減少するという勾配が見られます。紀元前九千年紀〜紀元前八千年紀のイラン西部ザグロス山脈の牧畜民は、特有のユーラシア西部関連系統を有していたのにたいして、広範な地域のもっと後の集団は、この独特なユーラシア西部関連系統とアナトリア農耕民関連系統との混合系統です。銅器時代から青銅器時代にかけて、アナトリア農耕民関連系統の比率が、アナトリア半島で70%、イラン東部で31%、トゥーラーン東部で7%というように、東から西へと減少していく勾配が見られます。アナトリア半島でもイラン農耕民系統が見られるようになり、農耕と牧畜を担う集団が双方向に拡散し、在来集団と混合した、と推測されます。

 紀元前三千年紀には、イラン東部とトゥーランでは、最小限のアナトリア農耕民関連系統だけではなく、シベリア西部狩猟採集民(WSHG)系統の混合も検出され、イラン農耕民関連系統の拡大前にこの地域に存在した、まだ標本抽出されていない狩猟採集民からの交雑を反映している、と本論文は推測しています。ユーラシア北部関連系統は、ヤムナヤ(Yamnaya)遊牧文化集団の拡大前にトゥーラーンに影響を及ぼしました。ヤムナヤ文化集団の遺伝的構成では、WSHG関連系統よりもヨーロッパ東部狩猟採集民(EEHG)関連系統の方が多いので、ヤムナヤがこのユーラシア北部関連系統の起源だった可能性は除外できます。また、ヤムナヤ文化集団にはミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)U5aとY染色体ハプログループ(YHg)R1bもしくはR1aが高頻度で存在するものの、これらのハプログループは標本抽出されたイランおよびトゥーラーンの銅器時代〜青銅器時代には見られないことからも、この見解は支持されます。

 紀元前2300〜紀元前1400年頃のバクトリア・マルギアナ複合(BMAC)文化集団は、アジア南部集団の主要な起源ではありませんでした。イランおよびトゥーラーンの青銅器時代のBMACとその直後の遺跡から、紀元前3000〜紀元前1400年頃の84人のゲノム規模データが得られました。この84人の大半はトゥーラーンの先住集団と遺伝的に近縁で、BMAC集団の起源集団の一つと考えられます。BMAC集団の遺伝的構成は、早期イラン農耕民関連系統が60〜65%、アナトリア農耕民関連系統が20〜25%、WSHG系統が10%程度です。BMAC集団は、先行するトゥーラーンの銅器時代個体群とは異なり、追加のアンダマン諸島狩猟採集民(AHG)関連系統を2〜5%ほど有しています。アジア南部におけるこの南方から北方への遺伝子流動は、インダス文化とBMACの間の文化的接触と、アフガニスタン北部のインダス文化交易植民地を示す考古学的証拠と一致しますが、アフガニスタン北部のインダス文化交易植民地では古代DNAは得られていません。一方、逆の北方から南方への遺伝子流動は検出されませんでした。BMAC集団のアナトリア農耕民関連系統比率はやや高いので、古代および現代のアジア南部人類集団の起源集団にはならないだろう、と本論文は推測しています。

 以前の研究(関連記事)では、BMAC集団をアジア南部の現代人集団の祖先集団の一つとする可能性が提示されていましたが、対象となる標本数が本論文の36点に対して2点と少なく、BMAC期もしくはアジア南部の古代DNAが欠けており、本論文はその見解に否定的です。紀元前2300年頃、BMAC関連遺跡でWSHG関連系統を有する外れ値の3人が観察されます。紀元前三千年紀には、カザフスタンの3遺跡とキルギスタンの1遺跡で、この3人の起源として合致したデータが得られています。紀元前2100〜紀元前1700年頃には、BMAC関連遺跡で西方草原地帯前期〜中期青銅器時代(EMBA)系統から派生した系統を有する3人の外れ値が観察されており、ヤムナヤ派生系統は紀元前2100年までにトゥーランに到達した、と考えられます。ヤムナヤ系統は紀元前二千年紀の変わり目までにアジア中央部へと拡大した可能性が高そうです。

 紀元前2500〜紀元前2000年頃のBMAC遺跡と紀元前3300〜紀元前2000年頃のイラン東部遺跡から、11人の外れ値が観察されます。その遺伝的構成は、AHG関連系統が11〜50%で、残りはイラン農耕民関連系統とWSHG関連系統の混合(50〜89%)です。こうした外れ値の個体群では、BMAC関連系統では20〜25%となるアナトリア農耕民関連系統が検出されず、BMAC集団が起源である可能性は否定されます。インダス文化集団の古代DNAなしに、これらの外れ値がインダス文化で一般的な遺伝的構成だった、と明確に述べることはできません。しかし、アナトリア農耕民関連系統が検出されず、11人全員でAHG関連系統の割合が高く、そのうち2人では現在おもにインド南部で見られるYHg- H1a1d2が確認され、インダス文化との交易の考古学的証拠があり、アジア南部関連の人工物が共伴していることから、この外れ値の11人はインダス文化後のインダス川上流近くの古代人86人の祖先として適合的だろう、と本論文は推測します。また、この11人におけるイラン農耕民関連系統とAHG関連系統との混合が紀元前5400〜紀元前3700年頃に起きたと推定されることから、11人の遺伝的構成がインダス文化集団を表している可能性は高い、と本論文は指摘します。

 ユーラシアの草原地帯および森林地帯系統の遺伝的勾配は、農耕出現後に確立しました。ユーラシア北部の後期狩猟採集民は、西方から東方へと、アジア東部系統が増加する勾配を示します。新石器時代と銅器時代には、この勾配に沿った異なる地域の狩猟採集民が、異なる地域の系統を有する人々と交雑し、5つの勾配を形成しました。そのうち2つは南方(アジア南西部とインダス川周辺部)で、残りの3つはユーラシア北部に存在しました。草原地帯および森林地帯の最西端にはヨーロッパ勾配があり、アナトリア農耕民の拡大により紀元前7000年後に確立し、ヨーロッパ西部狩猟採集民と交雑しました。黒海からカスピ海に及ぶ緯度のヨーロッパの東端の勾配は、ヨーロッパ東部狩猟採集民関連系統とイラン農耕民関連系統の混合から構成され、いくつかの集団では追加のアナトリア農耕民関連系統が見られます。ウラル山脈の東ではアジア中央部勾配が検出され、一方の端のWSHG個体と、もう一方の端のトゥーラーンの銅器時代〜早期青銅器時代の個体で表されます。

 紀元前3000年頃に、ユーラシアの多くの集団の遺伝的構成は、西方のハンガリーから東方のアルタイ山脈まで、コーカサス起源のヤムナヤ文化集団系統に転換していきました。この前期〜中期青銅器時代ユーラシア西方草原地帯(WSEMBA)系統は、次の2000年にわたってさらに拡大して在来集団と混合し、西はヨーロッパの大西洋沿岸、南東はアジア南部まで到達しました。アジア中央部および南部に到達したWSEMBA系統は、最初の東方への拡大ではなく、第二の拡大によるもので、WSEMBA系統を67%、ヨーロッパ関連系統33%を有する集団でした。この中期〜後期青銅器時代ユーラシア西方草原(WSMLBA)集団は、縄目文土器(Corded Ware)文化やスルブナヤ(Srubnaya)文化やシンタシュタ(Sintashta)文化やペトロフカ(Petrovka)文化集団を含んでいます。WSMLBAとは異なる中期〜後期青銅器時代ユーラシア中央草原地帯集団(CSMLBA)も検出され、おもにWSHG関連系統の中央草原地帯の青銅器時代牧畜民に由来する系統を9%ほど有しています。

 シンタシュタ文化集団では、50人のうち複数の外れ値が検出されました。外れ値の一つはWSHG関連のCSMLBA系統の比率が高く、二番目はWSMLBA系統の比率が高く、三番目はヨーロッパ東部狩猟採集民(EEHG)系統の比率が高い、と明らかになりました。現在のカザフスタンとなる中央草原地帯では、紀元前2800〜紀元前2500年頃の1人と、紀元前1600〜紀元前1500年頃の複数個体が、イラン農耕民関連系統からの顕著な混合を示し、トゥーランを経由してのアジア南部へのCSMLBAの南進とほぼ同時期の、トゥーランから北方への遺伝子流動を示します。紀元前三千年紀半ばから始まったこうした人類集団の移動は、考古学的証拠で示される物質文化と技術の動きと関連しています。

 クラスノヤルスク(Krasnoyarsk)市の草原地帯遺跡で発見された紀元前1700〜紀元前1500年頃の複数個体は、シベリア東部狩猟採集民(ESHG)関連系統と25%程度のアジア東部関連系統と、残りのWSMLBA系統という遺伝的構成を示します。後期青銅器時代までに、ESHG関連系統はカザフスタンからトゥーラーンまで至る所で見られるようになります。これら紀元前千年紀から紀元後千年紀にアジア南部において文化的・政治的影響の見られる文化集団は、アジア南部現代人にアジア東部系統がほとんど見られないことから、アジア南部現代人の草原地帯牧畜民系統の重要な起源ではありません。その起源として有力なのは、草原地帯の中期〜後期青銅器時代集団で、トゥーラーンへと拡散してBMAC関連系統と混合しました。総合すると、これらの結果は、アジア南部に現在広範に見られる草原地帯系統がアジア南部に到達したのは、紀元前二千年紀の前半と推定します。ヤムナヤ文化に代表される草原地帯牧畜民集団の拡大前後での遺伝的構成は、本論文の図3で示されています。

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 以前の研究では、アジア南部現代人集団は、ユーラシア西部集団と近縁な祖型北インド人(ANI)と、ユーラシア西部集団とは近縁ではない祖型南インド人(ASI)との混合により形成された、と推測されました。本論文はまず、インダス文化との接触が考古学的に示されている遺跡で確認された、上述の外れ値の11人を取り上げます。この11人は、2集団の混合としてモデル化できます。一方は、AHG関連系統集団、もう一方は90%程度のイラン農耕民関連系統と10%程度のWSHG関連系統の混合集団です。このインダス川流域系統に合致する人々は、アジア南部現代人の祖先の大半を構成します。これはアジア南部に特有の系統をもたらす西方からの遺伝子流動というよりも、インダス川流域集団の人々のもっと後のアジア南部人への寄与です。

 アジア南部北方の紀元前1700〜紀元後1400年の間の117人では、紀元前2000年以降に草原地帯系統が見られます。これは2集団の混合としてモデル化され、一方はインダス川流域集団、もう一方は41%程度のCSMLBAと比較的高いイラン農耕民関連系統を有する59%程度のインダス川流域集団の亜集団です。現代インド人で見られる遺伝的勾配の形成に合致したモデルは起源集団として、CSMLBAもしくはその近縁系統と、インダス川流域集団と、AHG関連系統もしくはAHG関連系統を比較的高頻度で有するインダス川流域集団の亜集団を含みます。

 インド南部のいつくかの集団では、CSMLBA系統が見られません。これは、ASIのほぼ直系の子孫が現在も存在することを示し、ASIはユーラシア西部関連系統を有していないかもしれない、という以前の見解の反証となります。つまり、インド南部のユーラシア西部関連系統はANI のみがもたらしたのではなく、ASIはイラン農耕民関連系統を有していただろう、というわけです。イラン農耕民関連系統とAHG関連系統の混合は紀元前1700〜紀元前400年頃と推定され、インダス文化の時点では、ASIは完全には形成されていない、と推測されます。

 インドには、パリヤール(Palliyar)やジュアン(Juang)といった、ユーラシア西部系統の影響の小さいオーストロアジア語族集団も存在します。ジュアン集団は、更新世からアジア南部に存在したと考えられ、ユーラシア西部系統要素のない古代祖型インド南部人関連系統(AASI)系統(48%)およびアジア東部起源のオーストロアジア語族の混合集団(52%)の混合系統と、AASI(70%)とイラン農耕民関連系統(30%)の混合集団としてのASIとの混合としてモデル化されます。農耕技術から、オーストロアジア語族はアジア南部に紀元前三千年紀に到来した、と推測されています。ANIは、草原地帯牧畜民系統との混合年代が紀元前1900〜紀元前1500年頃と推定されることから、インダス文化衰退後に形成されたと推測されます。つまり、現代インド人の勾配を形成する主要な2集団であるASIとANIは、どちらも紀元前二千年紀の前には完全に形成されていなかっただろう、ということになります。

 アジア南部最北端となるパキスタンのスワート渓谷(Swat Valley)の青銅器時代・鉄器時代の複数個体では、草原地帯系統が、常染色体において20%程度になるのに、Y染色体では、草原地帯においてはほぼ100%となる系統(YHg- R1a1a1b2)が5%と顕著に低く、おもに女性を通じて草原地帯系統が導入された、と推測されます。しかし、現代のアジア南部では、常染色体よりもY染色体の方でCSMLBA関連系統がずっと多い集団も見られます。これは、おもに男性により草原地帯系統が拡散したことを示唆します。類似の事象はイベリア半島でも見られますが(関連記事)、アジア南部はイベリア半島ほど極端ではありません。アジア南部でY染色体において草原地帯系統の比率の高い集団は、司祭の地位にあると自任してきた集団に見られますが、この相関はまだ決定的とまでは言えません。私の説明が下手で分かりにくいので、以下に本論文の図5を掲載します。

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 本論文は以上の知見から、アジア南部における完新世の人口史を以下のようにまとめます。紀元前2000年まで、イラン農耕民関連系統とAASI系統の異なる比率を有するインダス川流域集団が存在し、本論文はこれを多くのインダス文化集団の遺伝的特徴と仮定します。ASIは紀元前2000年以後に、このインダス川流域集団とAASI関連系統集団の混合として成立しました。紀元前2000〜紀元前1000年の間に、CSMLBA系統がアジア南部へと拡大し、インダス川流域集団と混合してANIを形成しました。紀元前2000年以後、ASI とANIが混合し、現代インド人に見られる遺伝的勾配を形成していき、アジア南部の現代の多様な集団が形成されました。

 インダス川流域集団はインダス文化の発展前となる紀元前5400〜紀元前3700年に形成されます。これは、インダス川流域集団のイラン農耕民関連系統はインダス川流域狩猟採集民の特徴で、それはコーカサス北部およびイラン高原農耕民の特徴と同様だった可能性を提示します。イラン北東部の狩猟採集民におけるそうした系統の存在も、この可能性と整合的です。もう一つの可能性は、イラン高原から農耕牧畜集団が紀元前七千年紀にアジア南部へと拡大した、というものです。しかし、この仮説は、インダス川流域集団ではアナトリア農耕民関連系統がほとんど存在しない、という知見と整合的ではありません。

 そのため本論文は、アナトリア農耕民関連系統の東方への拡大がイラン高原およびトゥーラーンへの農耕拡大と関連していたという見解を支持しているものの、アジア南西部からアジア南部への大規模な移動は、イラン高原において全員にかなりのアナトリア農耕民関連系統が見られる紀元前6000年以後にはなかった、と推測しています。国家成立以前の言語は人々の移動に伴うのが通常なので、アジア南部のインド・ヨーロッパ語族は、アジア南西部の農耕民拡大の結果ではないだろう、との見解を本論文は提示しています。

 これは、アジア南部のインド・ヨーロッパ語族が草原地帯起源であることを示唆します。しかし、中期〜後期青銅器時代の中央草原地帯とアジア南部の物質文化の類似性はひじょうに少ない、と指摘されています。ただ本論文は、ヨーロッパ西部起源と考えられるビーカー複合(Beaker Complex)文化が、ヨーロッパ中央部ではヤムナヤ文化に代表される草原地帯牧畜民系統を50%程度有する集団と関連していることから、物質文化のつながりの欠如は遺伝子拡散を否定するわけではない、と指摘しています。ヨーロッパでは、草原地帯系統集団が在来の物質文化を取り入れながら、遺伝的には在来集団に大きな影響を及ぼした、というわけです。

 本論文は、アジア南部集団が、ヤムナヤ文化集団に代表されるWSEMBAから、その影響を受けたCSMLBAを経由して(30%程度)、20%程度の影響を受けた、と推定しています。以前の研究(関連記事)では、アジア南部に草原地帯牧畜民系統をもたらしたのは直接的にはヤムナヤ文化集団ではない、と推測されていましたが、間接的にはヤムナヤ文化集団のアジア南部への遺伝的影響は一定以上あるようです。さらに本論文は、インド・ヨーロッパ語族のサンスクリット語文献の伝統的な管理者と自任してきた司祭集団において、男系を示すY染色体においてとくに草原地帯牧畜民系統の比率が高いことからも、インド・ヨーロッパ語族が草原地帯系統集団によりもたらされた可能性が高い、と推測します。

 アジア南部で2番目に大きな言語集団であるドラヴィダ語族の起源に関しては、ASI系統との強い相関が見られることから、インダス文化衰退後に形成されたASIに起源があり、インダスインダス文化集団により先ドラヴィダ語が話されていた、と本論文は推測しています。これは、インダス文化の印章の記号(インダス文字)がドラヴィダ語を表している、との見解と整合的です。また本論文は、先ドラヴィダ語がインダス川流域集団ではなくインド南部および東部起源である可能性も想定しています。この仮説は、インド特有の動植物の先ドラヴィダ語復元の研究と整合的です。

 ヨーロッパとアジア南部は、農耕開始前後にアジア南西部起源の集団が流入した後、銅器時代〜青銅器時代にかけて、ユーラシア中央草原地帯起源の牧畜民が流入してきて遺伝的影響を受けたという点で、よく類似しています。しかし、更新世から存在したと考えられる狩猟採集民系統の比率が、アジア南部ではAASIとして最大60%程度になるのに対して、ヨーロッパではヨーロッパ西部狩猟採集民(WEHG)として最大で30%程度です。これは、ヨーロッパよりも強力な生態系もしくは文化の障壁がアジア南部に存在したからだろう、と本論文は推測しています。

 これと関連して、草原地帯牧畜民系統の到来がアジア南部ではヨーロッパよりも500〜1000年遅くて、その影響がアジア南部ではヨーロッパよりも低く、Y染色体に限定しても同様である、ということも両者の違いです。本論文は、この状況はヨーロッパ地中海地域と類似している、と指摘します。ヨーロッパでも地中海地域は、北部および中央部よりも草原地帯系統の比率はかなり低く、古典期には多くの非インド・ヨーロッパ語族系言語がまだ存在していました。一方、アジア南部では非インド・ヨーロッパ語族系言語が今でも高い比率で使用されています。これは、やや寒冷な地域が起源の牧畜民集団にとって、より温暖な地域への拡散は難易度が高かったことを反映しているのかもしれません。


 もう一方の研究(Shinde et al., 2019)はオンライン版での先行公開となります。インダス文化の遺跡では何百人もの骨格が発見されていますが、暑い気候のためDNA解析は困難です。しかし近年、内耳の錐体骨に大量のDNAが含まれていると明らかになり、熱帯〜亜熱帯気候の地域でも古代DNA研究が進んでいます。本論文(セル論文)は、インダス文化最大級の都市となるラーキーガリー(Rakhigarhi)遺跡で発見された、多数の錐体骨を含む61人の遺骸からDNA抽出を試み、そのうち有望とみなされた1個体(I6113)から、31760ヶ所の一塩基多型データを得ることに成功しました。I6113は性染色体の配列比較から女性と推定され、mtHg-U2b2と分類されました。このハプログループは、アジア中央部の古代人では現時点で確認されていません。

 I6113は、上述のサイエンス論文で云うところの、インダス川流域集団に位置づけられ、アジア南部現代人集団の変異内には収まりません。つまり、I6113もアナトリア農耕民関連系統を有していないわけです。I6113は、イランのザグロス山脈西部遊牧民とアンダマン諸島狩猟採集民(AHG)との混合としてモデル化されます。つまり、イラン系統と更新世からアジア南部に存在した系統の混合というわけです。上述のように、サイエンス論文では紀元前2500〜紀元前2000年頃のBMAC遺跡と紀元前3300〜紀元前2000年頃のイラン東部遺跡の外れ値となる11人はインダス文化集団からの移民との見解が提示されており、本論文(セル論文)でその具体的証拠が得られたことになります。インダス文化期のラーキーガリー遺跡ではI6113のような遺伝的構成が一般的だっただろう、と本論文は推測しています。

 本論文は、サイエンス論文の外れ値となる11人とラーキーガリー遺跡のI6113を合わせてインダス文化集団と把握しています。I6113には草原地帯系統が見られず、イラン系統が87%と大半を占めます。このインダス文化集団におけるイラン系統は、イラン系統が狩猟採集民系統と牧畜民系統に分岐する前に分岐した系統と推定されています。その推定年代は紀元前10000年よりもさかのぼり、イラン高原における農耕・牧畜の開始前となります。これは、インダス文化集団におけるイラン系統が、農耕開始前にアジア南部に到来したことを示唆します。紀元前7000年以後、イラン高原ではアナトリア農耕民関連系統が増加し、サイエンス論文で示されているように、西部ではアナトリア農耕民関連系統の比率が59%と高く、東部では30%と低い勾配を示します。私の説明が下手で分かりにくいので、以下に本論文の図3を掲載します。

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 本論文はこれらの知見から、アジア南部ではヨーロッパと同様に、最初に農耕の始まった肥沃な三日月地帯からの直接的な移住により農耕が始まったわけではない、と指摘します。ヨーロッパの場合は、アナトリア半島東部の狩猟採集民が外部からの大規模な移住なしに農耕を始め(関連記事)、その後でヨーロッパに拡散していきました。アジア南部の場合は、まだ特定されていない地域の狩猟採集民が、外部からの大規模な移住なしに農耕を始めたのだろう、と本論文は推測しています。ただ本論文は、アジア南部内で初期農耕民による大規模な拡大が起き、農耕の拡大とともに集団置換が起きた可能性も想定しています。そのような事象が起きたのか否かは、本論文が指摘するように、農耕開始前後の古代DNA研究で明らかになるでしょう。

 インダス文化集団は、アナトリア農耕民関連系統を有さず、イラン高原の古代の農耕民系統とは異なるイラン系統を有するため、アナトリア半島からアジア南部へ初期農耕民がインド・ヨーロッパ語族をもたらしたとする仮説と整合的ではない、と本論文は指摘します。本論文はサイエンス論文と同様に、アジア南部にインド・ヨーロッパ語族をもたらしたのは紀元前二千年紀に到来した草原地帯牧畜民系統集団だろう、と推測します。本論文は、I6113に代表されるインダス文化集団がインダス文化全体の遺伝的構成に共通している可能性を主張しつつも、まだ標本が少なく、今後広範囲で標本数を蓄積していき、定量的に分析していく必要がある、と指摘しています。サイエンス論文とセル論文の著者の一人でもあるパターソン(Nick Patterson)氏は、インダス文化集団は遺伝的にたいへん多様だっただろう、と推測しています。


参考文献:
Narasimhan VM. et al.(2019): The formation of human populations in South and Central Asia. Science, 365, 6457, eaat7487.
https://doi.org/10.1126/science.aat7487

Shinde V. et al.(2019): An Ancient Harappan Genome Lacks Ancestry from Steppe Pastoralists or Iranian Farmers. Cell.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2019.08.048

https://sicambre.at.webry.info/201909/article_23.html

15. 中川隆[-8476] koaQ7Jey 2019年9月08日 15:41:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4300] 報告
18-4. ホモサピエンスとは人類学上何者なのか?
http://garapagos.hotcom-cafe.com/15-24,17-8,18-4.htm#18-4

  当ホームページを発信していて、ネアンデルタール人やアウストラロピテクスなど古人類の事はいろいろ調べたのですが、 まとめサイトのWikipediaに、我々自身がホモサピエンスの過去に関して意外に知らない...と言うようなことが書いてありました。

  自分たちのことだからわかったつもりでいるだけで、実は良く知らないことだらけなのだそうです。 そこでホモサピエンスの最新情報をWikipediaで再度調べ直してみました。

  最新の情報では、ホモサピエンスは30万年前頃には既に分化していて、何回も出アフリカしたそうです。そのたびに先行出アフリカ組の ネアンデルタール人(デニソワ人や他の古人類も含む)と各地で交配していたようです。 我々現生人類は60,000〜70,000年前頃に最後に出アフリカした集団が行く先々で先住ネアンデルタール人達と交配し、 その都度Y-DNAの分化をして今に至っているのではないかと思います。

  Y-DNAとmtDNAの解析結果、Y-DNAはデニソワ人とネアンデルタール人の亜型と変異型が検出され確定しているのに対し (記事「1-1. Y-DNAハプロタイプ 2019年6月版 最新ツリー」を参照ください)、 デニソワ人とネアンデルタール人由来のmtDNAは全く検出されていない事が明らかになっているそうです。 つまりネアンデルタール人(デニソワ人)男性とホモサピエンス女性の交配では次世代が継続しY-DNAが受け継がれてきたのに対し、 ネアンデルタール人(デニソワ人)女性とホモサピエンス男性の交配では、恐らく生まれた次世代は生殖能力がなかったのだろうと 考えられているようです。このため母系遺伝するはずのネアンデルタール人女性のmtDNAは受け継がれなかったようです。

  言い換えると、ネアンデルタール人(デニソワ人)男性とホモサピエンス男性の分化度は実は極めて小さく亜種程度の差もなく、 ネアンデルタール人男性は頑丈型で草創期のホモサピエンス、ホモサピエンスは後発の華奢型ホモサピエンスと言ってよいかもしれません。   しかし、進化(分化)は女性から始まるであろうため、ネアンデルタール人(デニソワ人)女性とホモサピエンス女性は異種と言ってよいぐらい 分化が進んでいたため異種間交配の生殖能力欠如が起きていたのではないかと考えることが十分可能です。

以下Wikipediaの「Homo Sapience」から、研究の歴史部分を除いた残り全訳です。 翻訳は下手なので読みにくい部分がありますが、ご容赦下さい。
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・先祖伝来のホモエレクトス(またはH.antecessorなどの中間種)からのホモサピエンスの種分化の起源は、 およそ35万年前と推定されています。アフリカと、(60,000〜70,000年前頃の最後の出アフリカによる拡大に伴う)ユーラシアの両方で、 継続的な古人類との交配が起こったことが知られています、約100,000〜30,000年前頃です。

・解剖学的に現代的な人間(anatomically modern humans=AMH)という用語は、 現代の人間に見られる表現型の範囲と一致する解剖学的構造を持つホモサピエンスを、 絶滅した古人類種と区別するために使用されます。これは、特に旧石器時代のヨーロッパなど、 解剖学的な現代人と古人種が共存する時代と地域に特に役立ちます。

年代とHomo種の分化プロセス図

・ホモ種の初期種からのホモサピエンスの出現の概略図。 水平軸は地理的な場所を表します。縦軸は、万年前の時間を表します(青色の領域は、特定の時間と場所における特定の種のホモ集団の存在を示します。 ホモ種と並んで強力なオーストラロピテクスの晩期生存者は紫色で示されます)。 Springer(2012)に基づいて、ホモハイデルベルゲンシスはネアンデルタール人、デニソワ人、およびホモサピエンスに 分岐していることが示されています。 6万年前頃のホモサピエンスの急速な拡大により、 ネアンデルタール人、デニソワ人、および特定されていないアフリカ人の古人類種が、 再びホモサピエンスの系統に包含されたことが示されています。
(極く最新の研究はホモハイデルベルゲンシスは遺伝子研究の結果、ネアンデルタール人であり 草創期のネアンデルタール人に分類するのが正しいと分類され始めています。 このため、ネアンデルタール人とデニソワ人の出現は80万年前頃に遡ると考えられ始めています。)

ホモエレクトスからの派生

・中期旧石器時代のホモサピエンスの系統発生のmtDNAモデル。 水平軸は地理的な場所を表します。縦軸は、万年前の時間を表します。 ネアンデルタール人、デニソワ人、および特定されていないアフリカの古人類は、 ホモサピエンスの血統に混合されていることが示されています。 さらに、現代アフリカの集団における先史時代の古人類とユーラシアの交配イベントも示されています。

・コイサン集団(図ではmtDNA「L0」)が他の個体群から分裂したのは26万年から35万年前であるため、 ホモエレクトスに由来する古人類種からのホモサピエンスの種分化は35万年以上前に起こったと推定されます。

・古代のホモサピエンスとネアンデルタール人とデニソワ人の祖先が後者の遺伝的ボトルネックに起因して分岐した時期は、 ロジャーズら(2017)が計算したように、ネアンデルタール人がホモサピエンスから分裂した後、 ネアンデルタール人から300世代後にデニソワ人が分岐したことや、初期の繰り返された交配混合イベントから 744,000年前に日付が入れられました。

・60万年から30万年前のホモハイデルベルゲンシスは、ネアンデルタール人と現代の人間の血統の 最後の共通の祖先の有力な候補であると長い間考えられてきました。 ただし、2016年に公開されたシマデロスウエソスの化石からの遺伝的証拠は、 ホモハイデルベルゲンシス全体がネアンデルタール人の系統に「前ネアンデルタール人」または「初期ネアンデルタール人」として 含まれるべきであることを示唆しているようです。 ネアンデルタール人と現代の血統は、ホモハイデルベルゲンシス出現前に押し戻され、 ホモアンテセッサーが消滅するおよその時間である80万年前頃になりました。

初期のホモサピエンス

・中期旧石器時代という用語は、ホモサピエンスの最初の出現(約30万年前)から完全な行動的近代性の出現(約5万年前、 旧石器時代の始まりに対応)までの時間をカバーすることを目的としています。

・Omo、Herto、Skhul、Jebel Irhoud、Pestera cu Oaseなど、初期の人類の発見の多くは、古風な特徴と現代的な特徴が混在しています。 たとえば、Skhul Vには、目立つ隆線と突出した顔があります。 しかし、脳のケースは非常に丸みを帯びており、 ネアンデルタール人のケースとは異なり、現代の人間の脳のケースに似ています。 Skhul Vのような初期の現代人の一部の頑丈な特性が、先祖の交配または古い特性の保持を反映しているかどうかは不明です。

・解剖学的に現代の人間の「華奢」または軽く構築された骨格は、 協力する体制の増加や「資源輸送」を含む行動の変化に関連しています。

・特徴的な人間の脳の発達、特に前頭前野は、「代謝物質(メタボローム)の進化の並外れた加速... 筋力の劇的な減少と平行していることによるものである。 ユニークな人間の認知スキルと低い筋肉パフォーマンスは、人間の進化における並行メカニズムを反映している可能性があります。」 Schoningenの槍と発見の相関関係は、30万年前に複雑な技術スキルがすでに存在していた証拠であり、 アクティブな(ビッグゲーム)ハントの最初の明白な証拠です。 ホモハイデルベルゲンシスには、 先見的な計画、思考、行動などの知的スキルと認知スキルがすでにありました。

・解剖学的に現代的な人間の集団内で進行中の交配イベントにより、 現代の集団(ミトコンドリアイブとY染色体アダム)の最近の一般的な祖先の母線および家系の年齢を推定することが難しくなります。 Y染色体アダムの年齢の推定値は、2013年に古代のY染色体系統が発見されたため、30万年以上前に大幅にさかのぼりました。 ただし、Y染色体DNAまたはミトコンドリアDNAの生存に関する報告は、古人類から明白に明らかになっています (これにより、最近の家系的または母系的祖先の年齢が500,000年を超えてさかのぼります)。

・拡散と古代の交配

・北アフリカのモロッコでJebel Irhoudが発見したように、初期のホモサピエンスの拡散は、 その出現後すぐに始まります(28万年から35万年前に遡ります)。約27万年前の西アジアにおける現代人の存在の間接的な証拠があり、 中国のダリマンは26万年前の日付があります。

・現存する集団の中で、南部アフリカのコイサン族の(または「カポイド」)狩猟採集民は、 ホモサピエンスのグループ内で可能な限り早い分岐を持つ人間集団を代表するかもしれません。 彼らの分離時間は2017年の研究で260,000〜350,000年前頃と推定されており、ホモサピエンスの推定起源と互換性があります。 エチオピアのミドルアワッシュで見つかったホモサピエンスのidaltuは、約160,000年前に住んでおり、 ホモサピエンスはエチオピアのOmo Kibishで約195,000年前に住んでいた。 西アジアにおける現代人の存在の化石証拠は177,000年前頃に確認されており、 論争の化石証拠は12万年前までに東アジアまで拡大したことを示唆しています。

・アフリカ内および西アジアへの重大な分散イベントは、130,000年前に始まったMIS 5のアフリカの巨大干ばつに関連しています。 2011年の研究では、13万年前の現代人集団の基礎集団の起源が特定されました。 コイサン集団は、アフリカ南西部(ナミビアとアンゴラの沿岸国境付近)にある「先祖集団」を表しています。 ・13万年前のサハラ以南のアフリカにおける初期の人間の拡大は持続していましたが、 北アフリカとアジアへの初期の拡大はMIS5の終わり(75,000年前)までにほとんど消えてしまったようで、 化石の証拠と古代の混合物からのみ知られています。 アジアは、約7万年前に始まったMIS5以降のいわゆる「最近のアフリカ外への移住=我々現代人の直接の祖先 出アフリカのこと」で、初期の現代人によって再居住されました。 この拡張で、mt-DNAハプログループL3の持ち主は東アフリカを去り、 おそらくBab-el-Mandeb(アフリカとアラビア半島間の最も狭いマンデブ海峡)を介してアラビアに到達し、 65,000年前までに南アジア、海洋南アジア、オセアニアに広がる大規模な沿岸移動で、 ヨーロッパ、 東アジアと北アジア、そしておそらくアメリカ大陸は、5万年前までに到達しました。

・"この「最近の」(L3由来)のすべての非アフリカ集団への圧倒的な貢献の証拠は、 1990年代および2000年代に、ミトコンドリアDNAと古生物標本の物理人類学に基づく証拠に基づいて確立されました。 完全な置換の仮定は、ユーラシアとサハラ以南のアフリカの両方で、約100,000?30,000年前の期間にわたって、 ホモサピエンスの集団と古人類の集団の交配イベント(遺伝子移入)が発見され、2010年代に修正されました。 ネアンデルタール人の混合物は、1-4%の範囲で、ヨーロッパ人、アジア人、パプアニューギニア人、 オーストラリア先住民、アメリカ先住民など、アフリカ以外のすべての現代の人口に見られます。 これは、ネアンデルタール人と解剖学的に近代的な人間との間の交配が、 おそらく60,000年から40,000年前の最近の「出アフリカ」後に行われたことを示唆しています。

・交配による最近の遺伝子混合の分析は複雑さを増し、東ネアンデルタール人は祖先の最大2%を、 アフリカを約100キロ離れた解剖学的に現代の人間から得ていることがわかりました。 ネアンデルタール人の混合物(および混合物によって獲得された遺伝子の遺伝子移入)の範囲は、 現代の人種グループ間で大きく異なり、アフリカ人には存在せず、ヨーロッパ人には中程度、東アジア人には最高です。 ネアンデルタール人から遺伝子移入された紫外線適応に関連する特定の遺伝子は、 特に45,000年前から約5,000年前までの東アジア人のために選択されていることがわかっています。 古遺伝子の混合の程度は、ヨーロッパ人および東アジア人で約1%から4%程度であり、 メラネシア人(デニソバ人の遺伝子混合)の中で4%から6%で最も高い。 累積的に、ネアンデルタール人のゲノムの約20%が現在の集団に現在も広がっていると推定されています。

頭蓋骨

・頭蓋には、ネアンデルタール人のかなりの首の筋肉を固定する膨らみである、首に顕著な後頭部のbun頭がありません。 現代の人間は、初期の人間でさえ、一般に古人よりも大きな前脳を持っているため、脳は目の後ろではなく上に座っています。 これは通常(常にではありませんが)額を高くし、眉の尾根を減らします。

・しかし、初期の現代人や一部の生きている人々は、はっきりと眉の尾根を持っていますが、眼窩上孔またはノッチの両方を持ち、 各目の上の尾根に溝を形成することで、ネアンデルタール人の形態のものとは異なります。 これにより、リッジが中央部と2つの遠位部に分割されます。 現在の人間では、多くの場合、尾根の中央部分のみが保存されます(保存されている場合)。 これは、眉の尾根がはっきりと途切れていないネアンデルタール人とは対照的です。 ・現代人は一般に、立ち上がりが急でさらに垂直の額を持っています。 一方ネアンデルタール人は前頭部が大きく後方に傾斜した額を持っています。 デズモンド・モリスによると、人間の垂直の額は、眉の動きと額の皮膚のしわを通して 人間のコミュニケーションに重要な役割を果たしています。 ・ネアンデルタール人とAMH(解剖学的現代人)の両方の脳の大きさは、ホモエレクトスの脳の大きさよりも平均で著しく大きい (ただし、範囲が重複している)。 ネアンデルタール人とAMHの脳の大きさは同じ範囲ですが、 個々の脳領域の相対的な大きさには違いがあり、ネアンデルタール人の視覚システムはAMHよりもはるかに大きくなっています。 顎

  古代の人々と比較して、解剖学的に現代の人類は、より小さく、異なった形の歯を持っています。 これにより、より小さく、より後退した歯が得られ、顎線の残りの部分が目立つようになり、しばしば非常に顕著な顎ができます。 あごを形成する下顎骨の中央部は、精神的な三角と呼ばれる顎の頂点を形成する三角形の領域を持ち、 ネアンデルタール人以前には見られません。 特に生きている集団では、火と道具の使用に必要な顎の筋肉が少なくなり、 より細く、より華奢(きゃしゃ)な顎が得られます。 古い人類と比較して、現代の人類はより小さく、低い顔をしています。

骨格
・草創期で最も頑丈に構築された現代人の身体の骨格でさえもは、ネアンデルタール人の身体の骨格ほど頑丈ではなく (デニソワ人に関してはまだ情報がありません)、本質的に現代的なプロポーションを持っていました。 特に手足の長骨に関して、遠位の骨((骨/尺骨と脛骨/ fibula骨)は、近位の骨(上腕骨と大腿骨)とほぼ同じサイズか、 わずかに短くなっています。古代人類、特にネアンデルタール人では、遠位の骨が短く、通常寒い気候への適応と考えられていました。 同じ適応は、極地に住んでいる現代人にも見られます。

・身長の範囲はネアンデルタール人とAMHの間で重なり、ネアンデルタール人の平均は男性と女性でそれぞれ 164?168 cm(65?66 in)および152?156 cm(60?61 toin)です。対してAMHは 平均は男性で158から184 cm(62から72)、 女性で147から172 cm(58から68)の範囲で、ネアンデルタール人の身長範囲は、 例えばマレー人の間で測定された身長分布に近似しています。

最近の進化

・約13万年前のアフリカの集団や、および約70,000〜50,000年前の最近の出アフリカでの拡大に続いて、 ホモサピエンスのいくつかの亜集団は、近代初期の発見の時代より数万年前に本質的に隔離されました。 これはお題人類との交配物と組み合わされて、有意な遺伝的変異をもたらしました。 これは、場合によっては、過去15,000年にわたって行われた方向選択の結果であることが示されています。 つまり、可能な古人類の交配物イベントよりも大幅に遅れています。

・人間の高高度適応などのいくつかの気候適応は、古代人類との交配によって獲得されたと考えられています。 ネアンデルタール人との交配物によって獲得された遺伝子変異の遺伝子移入は、最近の選択的圧力の違いを反映して、 ヨーロッパと東アジア人で異なる分布を持っています。 2014年の研究では、東アジアの集団で見つかったネアンデルタール人由来の変異体は、 免疫および造血経路に関連する機能グループのクラスタリングを示し、 ヨーロッパの集団は脂質異化プロセスに関連する機能グループのクラスタリングを示した。 2017年の研究では、現代のヨーロッパ人集団の表現型特性におけるネアンデルタール人の交配物の相関関係が見つかりました。

・生理学的または表現型の変化は、3万5千年前の東アジアのEDAR遺伝子変異体など、旧石器時代後期の変異に由来しています。

・ユーラシアの血統の最近の分岐は、選択圧力の増加と移住に伴う最初の集団の影響により、 LGM(最終氷期極大期)、中石器時代、新石器時代に大幅にスピードアップしました。 明るい肌を予測する対立遺伝子はネアンデルタール人で発見されていますが、 KITLGとASIPに関連するヨーロッパ人と東アジア人の軽い肌の対立遺伝子は、 (2012年現在)古代人類との交配によって獲得されたのではなく、LGM以降の最近の突然変異であると考えられています 。

  西ユーラシア種の「白人」または「白人」集団に関連する表現型は、約19,000年前〜LGM中に出現します。 現代人の平均頭蓋容量は、1,200?1,450 cm3(成人男性の平均)の範囲で変化します。 より大きな頭蓋容積は気候地域に関連しており、最大の平均はシベリアと北極圏の集団に見られます。

  ネアンデルタール人とEEMH(例クロマニヨン人)の両方は、現代のヨーロッパ人よりも平均して頭蓋骨容積がやや大きかったため、 LGMの終了後、より大きな脳容積に対する選択圧の緩和が示唆されました。

・イネの家畜化、またはラクターゼの持続性に関連する東アジアのタイプのADH1Bを含む農業および家畜の家畜化に 関連するさらに後の適応の例は、最近の選択圧力によるものです。

・オーストロネシアのサマバジャウでは、過去1000年程度のフリーダイビングの維持に関連した選択圧力の下で開発された、 さらに最近の適応が提案されています。

行動の近代性

・言語、形象(造形)芸術、宗教の初期形態(など)の発展を含む行動の近代性は、40,000年前に生じたと考えられ、 後期旧石器時代の始まりを示します(後期石器時代としても知られています)。

・最も初期のAMH(解剖学的に現代の人間)が最近の人間または既存の人間と同様に振る舞ったかどうかに関してかなりの議論があります。行動の現代性は、完全に発達した言語(抽象的思考の能力を必要とする)、芸術的表現、宗教的行動の初期形態、 協力の増加と早期入植地の形成、石器のコア、骨または枝角からの関節ツールの生産を含むと解釈されます。

  上部旧石器時代という用語は、ユーラシア大陸全体における現代人の急速な拡大以来の期間をカバーすることを意図しています。 これは、洞窟絵画などの旧石器時代の芸術の最初の出現と槍投げなどの技術革新の開発と一致します。 上部旧石器時代は約50,000?40,000年前に始まり、ネアンデルタール人などの古代人類の消滅と同時に起こります。

・「行動の近代性」という用語は、いくらか議論されています。 上部旧石器時代を特徴付ける一連の特徴に最もよく使用されますが、 一部の学者は約20万年前にホモサピエンスの出現に「行動の現代性」を使用し、 他の学者は約50,000年前に発生する急速な発展を意味します。 行動の近代性の出現は漸進的なプロセスであることが提案されています。

・2018年1月に、2002年にイスラエルのミスリア洞窟で発見された現代の人間の発見は、彼らのアフリカからの移民の最も早い証拠、 約185,000年前の日付であったことが発表されました。

・ヨーロッパで最初に発見されたホモサピエンス(AMH)は、約40,000?35,000年前に始まった「クロマニョン人」 (フランスで最初に発見された場所にちなんで命名)です。 これらは、先行するネアンデルタール人とは対照的に、 「ヨーロッパの初期の現代人」としても知られています。

・アフリカの考古学におけるユーラシアの上部旧石器時代に相当するものは、約40,000年前に始まった後期石器時代として知られています。

   19世紀後半から明らかにされた行動の近代性の最も明確な証拠は、ヴィーナスの置物やオーリニャックのその他の工芸品などの ヨーロッパからのものでしたが、より最近の考古学的研究は、今日使用されている同様の材料の掘り棒、ダチョウの卵殻ビーズ、骨矢頭など、 南アフリカの現代のサン族狩猟採集民集団に典型的な種類の材料文化のすべての必須要素も存在することを示す 個々の製作者のマークがエッチングされ、赤い黄土色で埋め込まれ、毒アプリケーターが付いています。


(左上) 南アフリカ、南ケープのBlombos洞窟(M3フェーズ、MIS 5)の初期ホモサピエンスの石器工作物(10,5000〜90,000年前頃)

(左中) 南アフリカのBlombos洞窟のM1フェーズ(紀元前71,000年)の層からの初期ホモサピエンスの両面シルクリートポイント

  また、「圧力フレーキングは、南アフリカのBlombos洞窟で75,000年前頃の中石器時代のレベルから回収された石器の アーチファクトの形態を最もよく説明するという提案もあります。

  この手法は、熱処理されたシルクリートで作られたスティルベイの両面ポイントの最終成形時に使用されました。 「材料の圧力フレーキングと熱処理の両方は、先史時代のずっと後に起こったと以前は考えられていたが、 どちらも天然材料の使用における行動的に近代的な洗練を示している。


(左下) 南アフリカのBlombos Caveで発見された「人間の手による最も古い既知の図面」を主張。 ホモサピエンスの73,000年前の作品と推定されます。 ・南部アフリカの海岸沿いの洞窟に関する研究のさらなる報告は、 「現代の人間に典型的な文化的および認知的特徴が最初に現れた時に関する議論」が 「生産の精巧な連鎖を伴う高度な技術」として終結するかもしれないことを示している多くの場合、忠実度の高い伝送が要求されるため、 「言語」がPinnacle Pointサイト5?6で発見されています。

  これらは約71,000年前の日付です。 研究者は、彼らの研究が「マイクロリシック技術は南アフリカの初期に始まり、 広大な期間(約11、000年)にわたって進化し、通常100,000年近く続いた複雑な熱処理と結びついていたことを示している」と示唆している。

・アフリカの先進技術は早く、永続的でした。 これらの結果は、サハラ以南のアフリカの石器時代後期の採餌者が 少なくとも5万年前までに現代の認知と行動を発達させたことを示唆しています。

  行動の変化は、135,000年から75,000年前のはるかに乾燥した寒い条件への以前の気候変化の結果であると推測されています。

  これは、貝や他の資源が豊富な沿岸湿地に沿って拡大した内陸の干ばつの避難を求めていた人間グループにつながったかもしれません。 氷河に結ばれた水が非常に多いために海面が低いため、そのような湿地はユーラシア大陸の南海岸に沿って発生していました。

  いかだとボートの使用は、沖合の島々の探検と海岸沿いの移動を促進し、 最終的にニューギニア、そしてオーストラリアへの拡張を可能にしたのでしょう。

追記、文中で触れられたモロッコの草創期のホモサピエンスの頭骨です。

  ネアンデルタール人とホモサピエンスは頭蓋骨の形状が全く異なると覚えてきたのですが、実は草創期(315,000年前前頃) のモロッコで発掘されたホモサピエンスは、どちらかと言うとネアンデルタール人の頭蓋骨に近い形状です。 共にホモエレクトスから進化したので草創期(つまりホモエレクトスの最晩期)は同じような形態なのは当然です。 実際に発掘初期には北アフリカに生き残ったネアンデルタール人ではないかと考えられていました、10年以上に渡る発掘で 5人分の骨を掘り出し、何とかホモサピエンスと分類できたそうです。

  右が現代人、左が草創期のホモサピエンスで、ネアンデルタール人に近い頭骨ですが、残念ながら分類に必要な 特徴的なあごの骨が欠如しています。

  問題は、発掘チームがモロッコの骨からDNAを取得しようとして失敗した事です。 ゲノム解析は、遺体が現代人につながる血統にあるかどうかを明確に確立できたはずです。 そのうえ分類に必要な顎の骨がないことから、ホモサピエンスとまだみなされるべきではないと言う古生物学者は かなりいます。更に10年掘り続け、顎の骨を含む頭骨を発掘する必要があります。しかし年代はともかく草創期の ホモサピエンスがネアンデルタール人の頭骨に近いのは、当たり前で納得できます。むしろ初めから現代人の頭骨で 分化したと考える方がおかしい。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/15-24,17-8,18-4.htm#18-4

16. 中川隆[-8452] koaQ7Jey 2019年9月12日 10:48:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4332] 報告

2019年09月12日
頭蓋の比較によるアフリカの中期更新世後期人類の多様性と現生人類の起源
https://sicambre.at.webry.info/201909/article_30.html


 頭蓋の比較によるアフリカの中期更新世後期(35万〜13万年前頃)人類の多様性と現生人類(Homo sapiens)の起源に関する研究(Mounier, and Lahr., 2019B)が報道されました。中期更新世後期のアフリカの人類化石記録の不足のため、現生人類の進化に関しては未解決の問題が多く残っています。アフリカ北部では、モロッコのジェベルイルード(Jebel Irhoud)遺跡の現生人類的な遺骸が315000年前頃と推定されており、現生人類の起源がさかのぼる、と大きな話題になりました(関連記事)。アフリカ東部では、北部よりも多くの中期更新世後期の人類遺骸が発見されています。たとえばエチオピアでは、20万年前頃のオモ1号(Omo I)やオモ2号、16万年前頃のヘルト(Herto)の完全な成人頭蓋(BOU-VP16/1)と青年頭蓋冠(BOU-VP16/5)です。ケニアでは、30万〜27万年前頃のグオモデ(Guomde)の頭蓋冠(KNM-ER 3884)や、30万〜20万年前頃のエリースプリングス(Eliye Springs)のほぼ完全な頭蓋(KNM-ES 11693)です。タンザニアでは、ラエトリ(Laetoli)で30万〜20万年前頃の頭蓋(LH18)です。アフリカ南部では、南アフリカ共和国のフロリスバッド(Florisbad)遺跡で259000年前頃の部分的な頭蓋です。

 これら現生人類との類似性が指摘される化石群にたいして、南アフリカ共和国では現生人類と大きく異なる形態のホモ・ナレディ(Homo naledi)が発見されており、推定年代は335000〜236000年前頃です(関連記事)。本論文は、ナレディを除外した場合でも、アフリカの中期更新世後期の人類遺骸の形態はひじょうに多様だと指摘します。ナレディを除く現生人類との類似性が指摘される化石群のうち、オモ1号とヘルト遺骸は異論の余地のない最古級の現生人類と一般的に分類されています。その他の化石群は、派生的特徴と祖先的特徴の混在から、「古代型サピエンス」と呼ばれています。

 本論文は、化石および現代の現生人類集団の頭蓋を、他のホモ属化石と比較しました。対象になったのは、最初期ホモ属であるアフリカのハビリス(Homo habilis)、アフリカの初期ホモ属であるエルガスター(Homo ergaster)、アフリカ外では最古級(177万年前頃)のホモ属となるジョージア(グルジア)のドマニシ(Dmanisi)のジョルジクス(Homo georgicus)、おもにユーラシア西部に分布したネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)です。ネアンデルタール人は、早期と後期の近東およびヨーロッパ南部およびヨーロッパ西部に区分されています。なお、エルガスターをエレクトス(Homo erectus)に含める区分は珍しくありませんし(むしろ一般的と言えるかもしれません)、ジョルジクスという種区分はまだ定着していないように思います。

 これらのホモ属頭蓋の分析・比較から、初期ホモ属は現生人類およびネアンデルタール人と大きく異なることが示されます。前期ホモ属と後期ホモ属の違いとともに、現生人類とネアンデルタール人が後期ホモ属の始まりもしくは前期ホモ属の終わりの頃まで、共通系統だったことを示しているのでしょう。ネアンデルタール人と現生人類も明確に区分されますが、早期現生人類と早期ネアンデルタール人は比較的近縁で、現代人と後期ネアンデルタール人はそれよりも遠い関係になっています。現生人類とネアンデルタール人系統で、それぞれ特殊化が進んだことを反映しているのでしょう。現生人類系統では、イスラエルのスフール(Skhul)とカフゼー(Qafzeh)に代表される早期現生人類が、現代人系統と大きく異なる分類群を形成します。現代人系統では、やや異なる2系統樹が示されましたが、アフリカ系統の多様性が高く、非アフリカ系統はアフリカ系統の一部から派生する、という点では一致しています。これらは、DNA解析による地域集団の系統樹とおおむね整合的です。

 本論文はこれら2系統樹から、現生人類の仮想最終共通祖先の頭蓋(vLCA)を提示しています。vLCA1も2も形態はほぼ同じで、球状であることや比較的高い額や弱い眉上隆起と顔面突出など、現生人類に特有とされるほとんどの形態学的特徴を有しています。しかし、下顎がやや突き出していることなど、祖先的特徴も示します。本論文はこのvLCA1および2を、ネアンデルタール人および現生人類、さらにはエチオピアのオモ2号・ケニアの11693・タンザニアのLH18・南アフリカ共和国のフロリスバッド・モロッコのイルード1号というアフリカの中期更新世後期の「古代型サピエンス」と比較しました。これら中期更新世後期のアフリカの「古代型サピエンス」では、フロリスバッドがvLCA1および2との類似性を最も強く示し、オモ2号はネアンデルタール人と現生人類の中間、イルード1号は分析によってはネアンデルタール人との類似性も現生人類との類似性も示します。

 アフリカの中期更新世後期のホモ属頭蓋は、195000年前頃のオモ1号と16万年前頃のヘルト人(BOU-VP16/1)の前までは、祖先的特徴と現代的特徴の混在を示し、完全に現代的ではありません。本論文は、現生人類の出現は急速で、断続平衡説的だったかもしれない可能性を提示しているものの、中期更新世の化石記録において長期の安定の証拠はない、と指摘します。さらに本論文は、現時点での証拠では気候変動による顕著な環境変化が想定され、中期更新世後期アフリカの人類化石記録における多様性の高さは顕著な環境変化と一致する、と指摘します。

 本論文はアフリカの中期更新世後期の「古代型サピエンス」頭蓋を、大きく3区分しています。一つは、東部のLH18に代表される、現生人類化石ともvLCAとも類似性の低い集団です。次に、北部のイルード1号で、現生人類とネアンデルタール人の中間的形態を示します。第三は、南部のフロリスバッドや東部の11693およびオモ2号です。この第三集団は現生人類との近縁性が示され、上述のようにフロリスバッドはとくに強い類似性を示します。フロリスバッド遺骸の時代には、現生人類とは大きく異なる形態のナレディが存在しており、中期更新世後期におけるホモ属内の形態の複雑さを強調します。本論文は、中期更新世後期のアフリカのホモ属の中には、ナレディのように現生人類の形成には関与していなかった系統もあるだろう、と推測します。つまり、そうした系統は気候変動の中で絶滅した、というわけです。現生人類は形態的に確立した後に、中期更新世後期のうちにレヴァント(関連記事)やアジア東部(関連記事)まで拡散した可能性がある、と本論文は指摘します。

 現生人類の起源地について、アフリカでも東部・南部・北部が提示されていますが、複雑なパターンも指摘されています。本論文は、中期更新世後期アフリカのホモ属化石では、南部のフロリスバッドと東部の11693およびオモ2号が、vLCAおよび早期現生人類とのより強い類似性を示す、と指摘します。一方、イルード1号のようにネアンデルタール人との類似性も示す北部集団は、ネアンデルタール人に種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)と近縁な「前期型」から現生人類とより近縁な「後期型」のミトコンドリアDNA(mtDNA)をもたらした(関連記事)かもしれない、と本論文は推測します。現生人類の起源はおもにアフリカ南部集団で、東部集団も関わっていただろう、というわけです。

 本論文は、中期更新世後期における現生人類の出現過程は複雑だと強調します。35万〜20万年前頃となる前半段階には、異なる表現型の現生人類的な集団が各地域で形成されていったかもしれない、と本論文は推測します。続く後半段階に、集団の交雑と合同にいたるような集団の断片化と差異的拡大の期間が続いた結果、現代的な集団(解剖学的現代人)が20万〜10万年前頃に出現し、それはヘルトやスフールやカフゼーの個体に代表される、との見通しを本論文は提示しています。これは、現生人類の派生的な形態学的特徴がアフリカ各地で異なる年代・場所・集団に出現し、比較的孤立していた複数集団間の交雑も含まれる複雑な移住・交流により現生人類が形成された、との「アフリカ多地域進化説」と共通するところもあると思います(関連記事)。

 しかし本論文は、中期更新世後期のアフリカの地域的ホモ属集団すべてが等しく、あるいは少しでも、現生人類系統に遺伝的に寄与した可能性は低く、地域的絶滅と創始者効果が、解剖学的現代人の出現をかなりのところ形成しただろう、と指摘します。中期更新世後期のアフリカの「古代型サピエンス」とされてきた集団でも、北部は現生人類の確立にほとんど寄与せず、南部とおそらくは東部が主体になっただろう、というわけです。本論文はvLCAの形態について、20万〜10万年前頃という現生人類成立の最終段階に近いと推測しています。さらに本論文は、現生人類のより古い化石が今後発見される可能性を指摘しています。

 あくまでも頭蓋データに基づいていますが、本論文の見解は遺伝学の研究成果とも整合的で、興味深いと思います。私は近年、現生人類の起源について上述の「アフリカ多地域進化説」を支持していますが、中期更新世後期のアフリカのホモ属のうち、現生人類に近いと思われる集団の一部が、絶滅して現生人類の確立に寄与しなかったり、寄与してもわずかだったりすることは充分想定されると思います。また、頭蓋の類似性から、ネアンデルタール人の「後期型」の起源が中期更新世後期のアフリカ北部の「古代型サピエンス」集団にあるかもしれない、との見解も注目されます。ただ、現時点ではやはり中期更新世後期のアフリカのホモ属化石の少なさは否定できず、今後の発見の増加により、さらに正確な現生人類進化史像が描かれるのではないか、と期待しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【進化】現生人類の最終共通祖先のバーチャルな頭蓋骨

 全ての現生人類の最も近い共通祖先の頭蓋骨の仮想モデルを紹介する論文が掲載される。この研究成果は、ホモ・サピエンスの複雑な進化に関する手掛かりになると考えられる。

 今回、Aurelien MounierとMarta Mirazon Lahrは、現生人類集団(21集団)と化石人類集団(5集団)の頭蓋骨263点を調べ、系統発生的モデル化によって、全ての現生人類の最も近い共通祖先の頭蓋骨を仮説的仮想モデルとして再現した。次にMounierとLahrは、このバーチャルな頭蓋骨と中期更新世後期(約35万〜13万年前)のアフリカのヒト族化石5点を比較して、このヒト族の集団が、ホモ・サピエンスの起源にどのような役割を果たしたのかを評価した。

 MounierとLahrは、これらのヒト族の系統がホモ・サピエンスの起源に等しく寄与したわけではなかったとする考えを示している。今回の研究結果は、ホモ・サピエンスがアフリカ南部の起源集団の合体、場合によってはそれに加えてアフリカ東部の起源集団との合体から生じた可能性があるという学説を裏付けている。また、MounierとLahrは、今回の研究で検討された化石の1つであるIrhoud 1がネアンデルタール人に形態が近いため、ホモ・サピエンスの起源がアフリカ北部である可能性は低いと主張している。


参考文献:
Mounier A, and Lahr MM.(2019B): Deciphering African late middle Pleistocene hominin diversity and the origin of our species. Nature Communications, 10, 3406.
https://doi.org/10.1038/s41467-019-11213-w

https://sicambre.at.webry.info/201909/article_30.html

17. 中川隆[-9125] koaQ7Jey 2019年9月14日 07:59:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3660] 報告

2019年09月14日
一般的だった後期ホモ属の各系統間の遺伝子流動
https://sicambre.at.webry.info/201909/article_35.html

 今月(2019年9月)19日〜21日にかけてベルギーのリエージュで開催予定の人間進化研究ヨーロッパ協会第9回総会で、後期ホモ属の各系統間の遺伝子流動に関する研究(Hajdinjak et al., 2019)が報告されました。この研究の要約は

PDFファイル
https://www.eshe.eu/static/eshe/files/PESHE/PESHE_2019_OnlinePESHE.pdf

で読めます(P147)。

ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)と現生人類(Homo sapiens)という後期ホモ属からの遺伝的データは、近年飛躍的に増加しています。減数分裂の組み換えのため、各個体のゲノムはその祖先系統のゲノムのモザイク状となり、祖先系統由来の領域の長さと頻度は、集団の遺伝子流動の歴史を検証するのにたいへん有益です。つまり、より長い遺伝子移入領域は、より最近の遺伝子流動を示す、というわけです。

 本論文は、これら祖先系統からの領域を識別するために、新たに開発された経験ベイズ法を用いました。本論文の方法では、じゅうらいの方法とは対照的に、祖先系統からの領域はまばらで、しばしば混入する、と明確に示します。さらに本論文は、不確定な時系列のデータをモデル化するために有効とされる隠れマルコフモデルを用いて、ゲノムの特定領域における祖先系統を明らかにします。本論文は、網羅率が0.1倍と低くても確実に祖先系統を明らかにし、網羅率0.3倍のデニソワ人2個体のゲノムに遺伝子移入されたネアンデルタール人領域を見つけました。

 このモデルを全ての低網羅率のデニソワ人ゲノムに適用すると、より古いデニソワ2とデニソワ8は、それぞれ12%と10%のネアンデルタール人系統を有する、と明らかになります。この系統は最大20万塩基対のゲノム領域で見つかり、ネアンデルタール人系統からの遺伝子流動は30世代未満である、と強く示唆します。本論文はネアンデルタール人とデニソワ人の交雑第一世代であるデニソワ11(関連記事)も対象として、9万年前よりも古いデニソワ人すべてが、近い世代でかなりのネアンデルタール人系統を有していると見出し、ネアンデルタール人とデニソワ人との間の数万年にわたる繰り返しの相互作用示唆をします。さらに本論文は、高網羅率のネアンデルタール人(デニソワ5)におけるデニソワ人系統の領域を見つけ、これはネアンデルタール人とデニソワ人の双方で、交雑個体が繁殖力を有する、と示します。しかし本論文は、ずっと新しいデニソワ人(デニソワ4)ではネアンデルタール人との遺伝子流動の証拠を見出さず、この遺伝子流動は持続的ではなかったかもしれない、と指摘します。こうしたデニソワ人の基本的情報については、以前当ブログでまとめました(関連記事)。

 また本論文は、ユーラシア西部の現生人類の多数の遺伝的データを用いて、ネアンデルタール人から初期現生人類への遺伝子流動の時期をより詳細に解明しました。予想されたように、ネアンデルタール人系統の領域は一般的に(サハラ砂漠以南のアフリカ系を除いて)現生人類の間で共有されており、時間の経過とともにより短くなります。この遺伝子移入史は異なる3段階に区分できる、と本論文は指摘します。最初の段階は55000年前で、低水準の遺伝子流動が起きました。非アフリカ系現代人に見られるネアンデルタール人系統の大半は、55000〜48000年前という比較的短い第二段階に初期現生人類集団にもたらされました。最終段階は、ヨーロッパの現生人類へのネアンデルタール人からの遺伝子流動事象で、4万年前頃に終了します。

 本論文はまとめとして、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人の間の遺伝子流動は頻繁ではあったものの、遍在的ではなかった、と指摘します。デニソワ人とネアンデルタール人の間の遺伝子流動は、数万年続いた後は最小限に留まったように見えます。一方、遺伝子流動の推定される時期と、ネアンデルタール人への現生人類からの遺伝子流動の証拠の欠如は、現生人類のゲノムにおけるネアンデルタール人系統の起源が、おもに現生人類のユーラシアへの拡大に起因し、おそらくは小規模な地域的ネアンデルタール人集団の局所的吸収を伴う、というモデルと一致します。

 本論文の見解はたいへん興味深いと思います。新たに開発された本論文の方法がどこまで有効なのか、門外漢の私には的確に判断できませんが、今後検証が進んでいくと思われます。後期ホモ属の間での遺伝子流動は珍しくなかったようですが、広範な地域・年代で均一に起きたわけでもなさそうで、今後はその詳細が解明されていく、と期待されます。そのためには、古代ゲノムデータの蓄積が必要となります。古代DNA研究は近年飛躍的に発展しているので、今後の研究の進展も大いに期待できます。ただ、DNAの保存状態への影響という点では、年代よりもむしろ環境の方が重要になってくるようですから、古代DNA研究における地域間の格差は今後ますます拡大していくかもしれません。


参考文献:
Peter B.(2019): Gene flow between hominins was common. The 9th Annual ESHE Meeting.

https://sicambre.at.webry.info/201909/article_35.html

18. 中川隆[-9899] koaQ7Jey 2019年9月15日 10:08:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2888] 報告
2019年09月15日
イベリア半島西部への現生人類の拡散
https://sicambre.at.webry.info/201909/article_37.html

 今月(2019年9月)19日〜21日にかけてベルギーのリエージュで開催予定の人間進化研究ヨーロッパ協会第9回総会で、イベリア半島西部への現生人類(Homo sapiens)の拡散に関する研究(Haws et al., 2019)が報告されました。この研究の要約はPDFファイルで読めます(P83)。

以下の年代は較正されたものです。イベリア半島への現生人類の拡散に関しては、とくに南部というかエブロ川以南をめぐって議論が続いています。ヨーロッパにおける現生人類拡散の考古学的指標となるのはオーリナシアン(Aurignacian)です。イベリア半島北部では、較正年代で43270〜40478年前頃にオーリナシアンが出現した、と推定されています(関連記事)。ヨーロッパでは、現生人類の拡散から数千年ほどの4万年前頃までにネアンデルタール人は絶滅した、と推測されています(関連記事)。

 しかし、イベリア半島南部というかエブロ川以南に関しては、上部旧石器時代となるオーリナシアンの出現が他のヨーロッパ西部地域よりも遅れ、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)によるムステリアン(Mousterian)の中部旧石器時代が37000〜36500年前頃まで続いた、との見解も提示されています(関連記事)。生物地理学的にはイベリア半島はエブロ川を境に区分される、という古環境学的証拠が提示されています。この生態系の違いが現生人類のイベリア半島への侵出を遅らせたのではないか、と想定されています(エブロ境界地帯モデル仮説)。

 しかし最近、イベリア半島南部に位置するスペインのマラガ(Málaga)県のバホンディージョ洞窟(Bajondillo Cave)遺跡の調査から、現生人類はオーリナシアンを伴ってイベリア半島南部に43000〜40000年前頃に到達した、との見解が提示されました(関連記事)。これに対しては、年代測定結果と、石器群をオーリナシアンと分類していることに疑問が呈されており、議論が続いています(関連記事)。再反論を読んだ限りでは、年代測定結果に大きな問題はなさそうですが、石器群をオーリナシアンと分類したことに関しては、議論の余地があるように思います。

 本論文は、ポルトガル中央部のラパドピカレイロ(Lapa do Picareiro)洞窟遺跡の石器群を報告しています。ラパドピカレイロ遺跡の石器群には特徴的な竜骨型掻器(carinated endscraper)や石核や小型石刃が含まれ、早期オーリナシアンと分類されてきました。この石器群は、中部旧石器時代の47000〜45000年前頃の層と、38000〜36000年前頃のまだ分類されていない考古学的層との間に位置します。本論文はこの放射性炭素年代測定結果と堆積データから、ラパドピカレイロ遺跡の早期オーリナシアンの年代を40200〜38600年前頃となるハインリッヒイベント(HE)4と推定しています。これは、イベリア半島西部への現生人類の拡散が、以前の想定より5000年ほど早かったことを意味します。

 本論文は、オーリナシアンはイベリア半島北部経由でイベリア半島西端へと拡大した、と推測します。また本論文は、ドウロ(Douro)とタホ(Tejo)というイベリア半島の主要2河川経由でオーリナシアンがイベリア半島西端へと到達した可能性も指摘します。一方、上述のように、イベリア半島でもエブロ川以南では4万年前頃以降もネアンデルタール人が生存していた、との見解が提示されており、ラパドピカレイロ遺跡の近くのオリベイラ洞窟(Gruta da Oliveira)遺跡も、4万年前頃以後のネアンデルタール人の存在の可能性が指摘されています。本論文は、イベリア半島西部や南部で、現生人類とネアンデルタール人が数世紀もしくは数千年にわたって共存していた可能性を指摘します。イベリア半島における中部旧石器時代〜上部旧石器時代への移行期はかなり複雑だったかもしれず、ネアンデルタール人の絶滅理由の解明にも重要となるでしょうから、今後の研究の進展が期待されます。


参考文献:
Haws J. et al.(2019): Modern human dispersal into western Iberia: The Early Aurignacian of Lapa do Picareiro, Portugal. The 9th Annual ESHE Meeting.
https://sicambre.at.webry.info/201909/article_37.html

19. 中川隆[-10389] koaQ7Jey 2019年9月16日 08:01:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2400] 報告

2019年09月16日
アフリカ外最古となる人類の痕跡
https://sicambre.at.webry.info/201909/article_39.html

 アフリカ外最古となる人類の痕跡に関する研究(Scardia et al., 2019)が公表されました。アフリカ北部で240万年前頃の石器が(関連記事)、中国北西部で212万年前頃の石器が発見されたことにより(関連記事)、人類は更新世初期にはすでにアフリカからアジアへと拡散していた、と明らかになりました。これらの石器には人類遺骸が共伴していませんが、現時点での証拠からは、190万年前頃と推定されているホモ・エレクトス(Homo erectus)の出現前に人類がアフリカからアジアへと拡散し、異なる環境に適応していったことを示唆します。アフリカでは280万〜275万年前頃となるホモ属的な遺骸が発見されており(関連記事)、200万年以上前にアフリカからユーラシアへと拡散した人類は、初期ホモ属だったかもしれません。

 レヴァントは伝統的に、アフリカ北部からアジア南西部への拡散経路として機能したと考えられてきましたが、210万年以上前の人類の確実な痕跡は確認されていませんでした。これまでは、レヴァントにおける最古となるかもしれない人類の痕跡はシリアのアインアルフィル(Aïn al Fil)で発見されたオルドワン(Oldowan)石器で、古生物学および磁気層序学から200万〜180万年前頃と推定されています。イスラエルのイーロン(Yiron)遺跡では247万±7万年以上前のオルドワン石器が報告されていますが、層序関係への疑問からその年代は広く認められているわけではありません。レヴァントにおいてこれまで210万年以上前の確実な人類の痕跡が確認されていなかったのは、アラビアプレートの活動など地質作用により初期人類の痕跡が失われたからだろう、と本論文は推測します。

 本論文は、ヨルダン渓谷の東側にあるザルカ渓谷(Zarqa Valley)のダウカラ層(Dawqara Formation)で発見された石器群を報告します。古地磁気とアルゴン-アルゴン法とウラン・鉛年代測定法により、ダウカラ層の年代は252万〜195万年前頃と推定されます。500mほどの範囲の4ヶ所の発掘地点(330・331・332・334)からの石器の年代は、248万年前頃(334下部)、224万年前頃(334上部)、216万年前頃(331)、206万年前頃(330)、195万年前頃(332)と推定されています。252万年前頃以前となるドゥレイル(Dulayl)層では石器は発見されませんでした。技術分類的観点からは、ダウカラ層の石器群はオルドワン(Oldowan)インダストリーに分類され、礫器・石核・剥片から構成されます。ダウカラ層の石器群の時期には、少なくとも3系統の石器を製作していたかもしれない分類群が存在しました。それは、初期ホモ属とホモ・ルドルフェンシス(Homo rudolfensis)とホモ・ハビリス(Homo habilis)です。しかし、レヴァントではダウカラ層の時期の人類遺骸がまったく発見されておらず、本論文はダウカラ層の石器群の製作者について結論を提示していません。

 ザルカ渓谷の石器群は、更新世の最初期となる248万年前頃に、アフリカからアジアへの拡散経路となるレヴァントに人類が存在したことを確証しました。これは、初期ホモ属がエレクトスの出現よりもずっと前にアジアに存在したことを意味し、エレクトスの種内の多様性と、インドネシア領フローレス島のホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)の起源を説明できるかもしれません。フロレシエンシスの起源に関しては、ジャワ島のエレクトスから進化したという見解とともに、アウストラロピテクス属的な特徴を有する、エレクトスよりも祖先的な人類系統から進化した、との見解も有力です。祖先的形態を有する最初期ホモ属がアフリカからアジアへと拡散し、アジア南東部でフロレシエンシスへと進化したかもしれない、というわけです。

 更新世最初期の初期ホモ属のアフリカからアジアへの拡大は、ユーラシアにおける他のアフリカの動物相の拡散とも相関しており、気候変化とサバンナの拡大といった広い文脈に適合し、そうした環境変化が人類のアフリカからアジアへの拡散を促進したかもしれません。250万年前頃にアフリカからアジアへと拡散した初期ホモ属は、石器加工を繰り返し、石材として玄武岩よりも燵岩(チャート)を選択するといった能力も有していました。これは、資源を繰り返し観察して評価する技能を反映しており、環境変化に適応できる重要な資質となります。人類のアフリカからユーラシアへの拡散が250万年前頃までさかのぼる可能性はきわめて高く、人類進化史は、エレクトスが初めてアフリカからユーラシアへと拡散した人類だった、というような従来の想定よりもさらに複雑になってきました。今後、レヴァントとアジア東部との間で、200万年以上前の確実な人類の痕跡が発見される可能性は高いでしょう。また、200万年以上前のアフリカ外の確実な人類遺骸はまだ発見されていないので、石器だけではなく、人類遺骸の発見も期待されます。


参考文献:
Scardia G. et al.(2019): Chronologic constraints on hominin dispersal outside Africa since 2.48 Ma from the Zarqa Valley, Jordan. Quaternary Science Reviews, 219, 1–19.
https://doi.org/10.1016/j.quascirev.2019.06.007

https://sicambre.at.webry.info/201909/article_39.html

20. 中川隆[-11340] koaQ7Jey 2019年9月18日 06:38:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1451] 報告

2019年09月18日
数千人のゲノム規模データから推定される人類進化史
https://sicambre.at.webry.info/201909/article_41.html


 数千人のゲノム規模データから系統や人口史や自然選択を推定する新たな方法についての研究(Speidel et al., 2019)が公表されました。本論文は、数千人のゲノム規模データから系統や自然選択を推定する、「Relate」という新たな方法を開発しました。これにより推定される現代人の系統はひじょうに多様で、深い分岐年代を示しますが、じゅうらいの研究と同様に、サハラ砂漠以南のアフリカにおいて最も深い分岐年代を示します。今後、大規模な人口減少や移動が起きない限り、この構造が変わることはなさそうです。

 現代人では、非アフリカ系とアフリカ系の分離が20万年前頃以降に始まり、6万年前頃まで続いた、と推定されています。その後、非アフリカ系現代人系統は4万〜2万年前頃に明確なボトルネック(瓶首効果)を経験した、と推定されています。アジア東部系となる北京の中国人(CHB)とヨーロッパ系統であるイングランド人およびスコットランド人(GBR)の明確な分離は3万年前頃と推定されています。こうして非アフリカ系現代人のユーラシア系統が東西に分離した後、東西それぞれで、CHBと東京の日本人、GBRとフィンランド人が、1万年前頃以降に分離していった、と推定されています。フィンランド人系統は9000〜3000年前頃に第二のボトルネックを経験し、現代フィンランド人に多い遺伝病関連の遺伝子頻度を高めた、と推測されています。ユーラシア(非アフリカ)系統と分岐した後のアフリカ系統では、強いボトルネックは検出されませんでした。

 多少の違いがありますが、非アフリカ系現代人全員のゲノムには、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)由来の領域が同じような比率で存在します。アジアおよびオセアニア系現代人は、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)からの遺伝的影響も受けています。アジア東部および南部集団では、デニソワ人との15000年前頃以降の交雑が推定されています。中国南部で発見された15850〜12765年前頃の祖先的特徴を有する人類が、現生人類(Homo sapiens)とネアンデルタール人やデニソワ人のような古代型人類集団との交雑集団かもしれない、との見解も提示されており(関連記事)、本論文の見解との関連が注目されます。非アフリカ系現代人集団では、ネアンデルタール人との3万年前頃までの交雑が推定されていますが、これは下限年代なので、正確な年代の推定にはさらなる検証が必要と指摘されています。アフリカ系集団においても、最近の研究(関連記事)と同様に、古代型人類集団との交雑が推定されていますが、それがどのような系統なのか、本論文も不明としています。

 自然選択に関しては、髪の色や体格指数(BMI)や血圧を含む複数のアレル(対立遺伝子)で確認されました。しかし、地域集団による違いも見られ、BMIに関して、ヨーロッパ北部および西部集団では強い選択が検出されましたが、アジア東部集団では強い選択は確認されませんでした。これは、アジア東部集団がヨーロッパ集団よりも強いボトルネックを経験し、選択の痕跡が弱められたからではないか、と推測されています。ボトルネックによる遺伝的浮動とともに自然選択も、現代人の各地域集団間の遺伝的構成および表現型の違いをもたらしたのでしょう。

 本論文は新たな方法である「Relate」をヒトゲノムに用いましたが、他の種でも機能するはずと指摘します。この新たな方法は自然選択と交雑も含む集団史の推定に有用で、今後多くの種に適用されていくのではないか、と期待されます。今後の課題の一つとして、古代DNA配列を蓄積して利用することも指摘されています。DNAの保存状況は年代よりも環境の方に大きく左右されるようなので、低緯度地帯のような高温地域は古代DNA研究に不利です。しかし、古代標本からのDNA抽出の新たな方法も提案されており(関連記事)、今後は高温地域でも古代DNA研究が進展するのではないか、と期待されます。


参考文献:
Speidel L. et al.(2019): A method for genome-wide genealogy estimation for thousands of samples. Nature Genetics, 51, 9, 1321–1329.
https://doi.org/10.1038/s41588-019-0484-x

https://sicambre.at.webry.info/201909/article_41.html

21. 中川隆[-11330] koaQ7Jey 2019年9月21日 08:50:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1467] 報告

デニソワ人の復元画像
https://scx1.b-cdn.net/csz/news/800/2019/firstglimpse.jpg


2019年09月21日
DNAメチル化地図から推測されるデニソワ人の形態
https://sicambre.at.webry.info/201909/article_50.html


 DNAメチル化地図から種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)の形態を推測した研究(Gokhman et al., 2019)が報道されました。種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)は、DNA解析結果から、現生人類(Homo sapiens)よりもネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の方と近縁で、現代人ではおもにメラネシア系とオーストラリア先住民に遺伝的影響を残していると明らかになっていますが、その形態はほとんど知られていません(関連記事)。南シベリアのアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)で発見されたデニソワ人の1個体(デニソワ3)からは高品質なゲノム配列が得られており(関連記事)、解剖学的特徴に関するじゅうぶんな情報が含まれている可能性がありますが、どの遺伝子がどの特徴にどのように関わっているのか、まだ詳しくは解明されていません。

 直接的な方法は、タンパク質配列を変える置換の結果の調査です。しかし、デニソワ人およびネアンデルタール人と現生人類との非同義置換は少なく、大半は非コード領域の変化もしくは非同義置換です。非コード領域の変化の多くはおそらく(ほぼ)中立的ですが、遺伝子活性を変えるものもあり、形態に影響を及ぼすと考えられます。しかし、こうした多様体を正確に特定することはひじょうに困難です。こうした問題を回避する方法は、さまざまな特徴に関連していると知られている一塩基多型の複合効果を予測することです。皮膚や髪や目の色素沈着のような特徴の予測精度はヨーロッパ人では80%を超えていますが、顔面の形態も含む特徴の大半では、ゲノム規模関連研究(GWAS)に基づく予測の精度は低い水準です。さらに、ヨーロッパ人に基づくGWASを他集団に適用しても精度は低いと明らかになっており、おそらくこれは、GWASが最近生じた多様体による人口集団内の多様性を反映しているからです。

 理想的には、デニソワ人の形態をさらに理解するには、非コード配列変化よりも容易に解釈できる遺伝子発現を直接的に測定しなければなりませんが、RNA分子は古代の標本では急速に分解するため、配列には使用できません。そのため本論文は、遺伝子活性の標識として、ゲノムの重要な調節機能となるDNAメチル化を使用しました。本論文は、デニソワ人のDNAメチル化パターンを、現生人類・ネアンデルタール人・チンパンジーと比較し、どの遺伝子が各系統で上方制御もしくは下方制御されているのか、推測しました。本論文は次に、機能喪失変異のためと知られており、そのために活性が減少する表現型の分析により、これらの変化を潜在的な表現型変化と関連づけました。本論文はこの方法をネアンデルタール人とチンパンジーに適用し、その精度を定量化しました。その結果、ネアンデルタール人と現生人類を分離する特徴の復元において82.8%、変化の方向性において87.9%の精確性が示されました。チンパンジーでは、それぞれ90.5%と90.9%になります。本論文は、この方法をデニソワ人に適用することで、デニソワ人の形態を推測します。

 ネアンデルタール人とデニソワ人のDNAメチル化地図は、すでに報告されています(関連記事)。本論文は、デニソワ人1人とネアンデルタール人2人と現代人55人チンパンジー5匹のメチル化地図を作成し、比較しました。本論文はまず、年齢や健康状態や性別など個体要因によりメチル化の水準が異なる遺伝子座を除外し、系統固有のメチル化水準の違いを識別しました。それは、現生人類の873ヶ所、ネアンデルタール人とデニソワ人で共通の939ヶ所、ネアンデルタール人固有の570ヶ所、デニソワ人固有の443ヶ所、チンパンジーの2031ヶ所となります。次に本論文は、系統特有のメチル化の変化と遺伝子活性水準の変化の反映を特定し、さらに遺伝子活性の変化と既知の表現型とを関連づけました。最終的に本論文は、597ヶ所のメチル化遺伝子を、1528ヶ所の骨格の表現型と関連づけました。

 本論文はすべての表現型を、方向性と非方向性に二分しました。方向性表現型は、変化が高低や加速と遅延など一次元で表現でき、たとえば骨格成熟の遅延や両頭頂骨間の狭小化などです。非方向性表現型は、顔面異常や歯の不正咬合など、一次元では表せないものです。本論文は、815ヶ所の方向性表現型を分析しました。本論文はメチル化水準の違いによる予測を2区分しています。一方は、特徴の分岐の予測で、たとえば両系統間の指の長さの違いです。もう一方は変化の方向性が分かる分岐の特徴の予測で、たとえばどちらの系統の指がより長いのか、ということです。

 本論文はこの方法を用いて、デニソワ人の形態を復元しました。デニソワ人の特徴は、ネアンデルタール人とともに現生人類と異なるものと、ネアンデルタール人と異なるものに二分されます。前者は現生人類系統もしくはデニソワ人とネアンデルタール人の共通祖先系統で進化し、後者はデニソワ人系統で進化したと考えられます。全体として、デニソワ人において現生人類もしくはネアンデルタール人と異なる56ヶ所の特徴が識別され、32ヶ所では変化の方向性が予測できました。32ヶ所の単一指向性特徴から、デニソワ人の骨格の特徴を推測できます。予想通り、デニソワ人の特徴32ヶ所のうち21ヶ所はネアンデルタール人と共有される、と予測されています。共通の特徴は、頑丈な顎や低い頭蓋や厚いエナメル質や広い骨盤や大きな胸郭や突き出た顔などです。

 他の11個の単一指向性特徴は3区分されます。第一は、デニソワ人系統で出現した変化した3ヶ所で、現生人類およびネアンデルタール人と異なると予想されます。それは、長い歯列や拡大した下顎頭や広い頭骨の幅です。第二は、ネアンデルタール人特有の変化2ヶ所で、デニソワ人の特徴はネアンデルタール人よりも現生人類の方と類似している、と予想されます。それは、下顎前部と比較しての広い側頭骨と、永久歯の早期の喪失です。なお、今月(2019年9月)公表されたばかりの検証なので本論文では言及されていませんが、デニソワ人の指はネアンデルタール人よりも現生人類の方と類似している、と指摘されています(関連記事)。第三は、現生人類もしくはネアンデルタール人およびデニソワ人の祖先系統とネアンデルタール人系統で出現した6ヶ所で、3系統でそれぞれ特徴が異なると予測されます。これらの特性は、骨密度・顔面の広さ・骨幹端と骨幹の幅・顔面突出(下顎前突)・肩甲骨のサイズ・骨格の成熟時期です。

 これらの特徴は、化石記録の豊富なネアンデルタール人では照合できますが、デニソワ人で照合できるのは歯と今年(2019年)新たに報告されたチベット高原東部の下顎(関連記事)だけです。本論文はデニソワ人の特徴8ヶ所の予測を化石記録と検証し、長い歯列など7ヶ所でじっさいの形態と一致する、と明らかになりました。一方で、ネアンデルタール人と似ていると予測されたデニソワ人の下顎前部は、じっさいの形態ではネアンデルタール人よりもかなり長いと報告されています。これは、アルタイ地域とチベット高原東部ではデニソワ人の系統が異なる可能性を反映しているのかもしれません。以下、本論文の結果に基づくデニソワ人の復元画像を上記報道から引用します。

画像
https://scx1.b-cdn.net/csz/news/800/2019/firstglimpse.jpg


 本論文で復元されたデニソワ人の特徴の多くは、中国の中期〜後期更新世の古代型(非現生人類)ホモ属遺骸で確認されました。これら古代型ホモ属化石はネアンデルタール人のよう特徴を示しますが、その系統分類は未定のままです。おそらくネアンデルタール人に最も類似しているのは、中華人民共和国河南省許昌市(Xuchang)霊井(Lingjing)遺跡で発見された、125000〜105000年前頃の頭蓋です(関連記事)。これら中国の中期〜後期更新世の古代型ホモ属の頭蓋はネアンデルタール人と類似しているため、デニソワ人に分類できる可能性が高まっています。許昌頭蓋には頭蓋冠と頭蓋底が含まれ、側頭骨の横方向の拡大など10ヶ所の方向性形態のうち7ヶ所が、復元されたデニソワ人の特徴として確認されました。

 中国の中期〜後期更新世の古代型ホモ属化石すべてがデニソワ人系統に分類できるとは限りませんが、デニソワ人がアジア東部に広く拡大していた可能性は低くなさそうです。そうすると、デニソワ人はどのようにアジア東部にまで拡大してきたのかが問題となります。仮に、デニソワ人がユーラシア南部を東進してきたのだとしたら、アジア南部および南東部にもデニソワ人系統が存在したことになります。そうすると、アルタイ地域のデニソワ人は、アジア東部から北上してきた集団だったのかもしれません。デニソワ人に関しては、今後の課題として、より保存状態の良好なデニソワ人遺骸の発見が挙げられます。それにより、本論文の予測がどの程度妥当なのか、総合的に確認できます。

 本論文はDNAメチル化パターンから、系統間の特性を80%以上の精度で復元し、この方法の有効性を示しました。本論文の提示した方法は、断片的な遺骸からも形態をかなりの精度で推測できるようになったという意味で、たいへん意義が大きいと思います。デニソワ人もネアンデルタール人も、DNAメチル化地図は断片的な遺骸から高品質なゲノム配列の得られた個体で作成されています。古代DNA研究が新たな方法で飛躍的に発展する可能性を秘めている現在(関連記事)、化石記録の残存性に依拠せず形態を推測できる本論文の方法は、今後重要な役割を果たしていくだろう、と期待されます。


参考文献:
Gokhman GS. et al.(2019): Reconstructing Denisovan Anatomy Using DNA Methylation Maps. Cell, 179, 4, 180–192.E10.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2019.08.035

https://sicambre.at.webry.info/201909/article_50.html

22. 中川隆[-11117] koaQ7Jey 2019年9月28日 07:38:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1696] 報告

2019年09月28日
デニソワ洞窟の堆積物の微視的分析
https://sicambre.at.webry.info/201909/article_61.html


 シベリア南部のデニソワ洞窟(Denisova Cave)の堆積物の微視的分析に関する研究(Morley et al., 2019)が報道されました。デニソワ洞窟(Denisova Cave)はシベリア南部のアルタイ山脈の山麓丘陵に位置し(北緯51度23分51秒、東経84度40分36秒)、その開口部から30mほど下をアヌイ川(Anui River)が流れています。デニソワ洞窟では、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)やネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の断片的な遺骸が発見されており、高品質なゲノム配列が得られていることから、大きな注目を集めています。そもそも、デニソワ人はデニソワ洞窟で発見された遺骸で初めて同定された分類群で、基本的には形態学的に定義されている人類の分類群としては異例です(関連記事)。デニソワ洞窟では主・東・南の3空間で発掘が行なわれてきました(関連記事)。本論文は、デニソワ洞窟の主空間と東空間の堆積物における生物の微細痕跡(火の使用や巣穴など)を調査しました。

 デニソワ洞窟では過去30万年以上にわたる生物の痕跡が確認されており、人類遺骸だけではなく石器も含めて人工物が発見されていることから、人類が利用していたことは確実です。しかし、デニソワ洞窟の層序の微視的分析からは、火の使用の証拠となる木炭はごく少量しか発見されていません。本論文は堆積物の形成過程から、火の使用痕がその後の作用で完全に失われた可能性は低く、人類はデニソワ洞窟を温暖期にも寒冷期にも利用しており、人類にとって待避所として機能していた可能性があり、個々の利用間がある程度の長さになった場合はあるとしても、全体的には断続的だった、と推測します。

 デニソワ洞窟では人類ではない動物の痕跡も発見されています。たとえば糞石は、おもに4区分されています。それぞれがどの種のものなのか、全てについて断定できるわけではありませんが、区分1は洞窟ハイエナ(Crocuta crocuta spelaea)、区分2はオオカミ(Canis lupus)に分類されており、区分3および4は特定の種に分類できません。糞石は石器の発見されている層でも確認されています。人類とハイエナは通常共存できないことから、人類遺骸と堆積物から人類のDNAが確認されているにも関わらず人類の痕跡の稀な層では、ハイエナが人類遺骸を持ち込んだかもしれません。じっさい、ネアンデルタール人とデニソワ人の交雑第一世代であるデニソワ11(関連記事)は、ハイエナに食べられた可能性が指摘されています(関連記事)。

 本論文は、デニソワ洞窟の全体的な利用状況として、人類の関与は最小限と評価しています。石器は多数発見されていますが、これはかなりの年代間隔で蓄積されており、人類による複数の断続的な利用を示唆します。燃焼副産物のような人類による微細遺骸は容易に再堆積するので、更新世における火の使用の痕跡の少なさについて本論文は、調査対象が限定されているため標本抽出が偏っているか、デニソワ洞窟の更新世の利用者、とくに現生人類(Homo sapiens)ではないだろう早期集団が、火を多く使わなかった可能性を提示しています。

 一方、豊富な糞石の記録は、デニソワ洞窟がほぼ連続的に人類ではない動物により占拠されていた、と示します。糞石の分析から、その主要な種は更新世のアルタイ山脈の上位肉食獣である洞窟ハイエナと考えられます。骨は肉食獣により洞窟に蓄積されるかもしれませんが、糞はその動物のものである可能性が高いと考えられます。その意味でも、更新世デニソワ洞窟の主要な居住者が洞窟ハイエナであった可能性は高そうです。その次にデニソワ洞窟を利用していたのはオオカミと推測されています。人類糞石は、東空間第11.4層および11.2層のような、霜の作用の影響を受けた層で高頻度に確認されています。ただ、洞窟の特定の場所、たとえば壁に近い場所が動物の「社会的排泄」の場所として利用されることもあり、遺跡全体の複数の場所での標本抽出の必要性を本論文は強調します。

 本論文の知見からは、人類が更新世にデニソワ洞窟を利用していた期間は短く、断続的だった、と推測されます。デニソワ洞窟は、確認されているネアンデルタール人の生息範囲としてはほぼ東端となります。一方、デニソワ人はデニソワ洞窟とチベット高原東部(関連記事)でしか遺骸は確認されていませんが、アジア東部に広く拡散していた可能性が指摘されています(関連記事)。また、デニソワ人の遺伝的影響は現代人ではオセアニア系集団でとくに高いことから、デニソワ人系統はアジア南東部もしくは南部に存在した可能性も考えられます。ネアンデルタール人はユーラシア西部中緯度地帯を東進してアルタイ山脈まで到達し、デニソワ人はユーラシア南岸を東進してアジア東部まで拡散して、そこから北西へ進んでアルタイ山脈にまで到達したのかもしれません。そうだとすると、デニソワ人にとって、ユーラシア中緯度地帯では、デニソワ洞窟が生息範囲の西端だったと考えられます。ネアンデルタール人はヨーロッパとアジア南西部、デニソワ人はアジア東部・南東部・南部が主要な生息範囲で、少数集団が時としてシベリア南部まで拡散したと考えると、デニソワ洞窟では人類の痕跡が少ないことを説明できそうです。もちろん、これは推測を重ねただけなので、強く主張したいわけではなく、今後の研究の進展により修正していかねばなりませんが。


参考文献:
Morley MW. et al.(2019): Hominin and animal activities in the microstratigraphic record from Denisova Cave (Altai Mountains, Russia). Scientific Reports, 9, 13785.
https://doi.org/10.1038/s41598-019-49930-3


https://sicambre.at.webry.info/201909/article_61.html

23. 中川隆[-11116] koaQ7Jey 2019年9月28日 07:42:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1697] 報告
日本人のガラパゴス的民族性の起源 2019/9/24
メラネシアのデニソワ人度チェック
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-19.htm


最初に:
  欧米の最新の研究でメラネシア人のみがデニソワ人遺伝子を4-6%内含していることが判っています。 一方、メラネシア人のみがY-DNA「K2b1」亜型(Y-DNA「S」とY-DNA「M」が子亜型)を特異的に持っていることも調査の結果明らかになっています。 そこでデニソワ人のマーカーとしてY-DNA「K2b1」の出現頻度(デニソワ度)を調べることにしました。

  遺伝学の最新の研究成果は、最新の解析技術の進歩で、当ガラパゴス史観が持っていた知識は既に古くなり、 ガラパゴス史観にとっては新しい情報が満載となっています。追い付くのが大変です。

  骨や歯から遺伝子を測定する技術が画期的に進み、我々解剖学的現代人類の遺伝子には ネアンデルタール人の遺伝子が2-4%入っており、逆にネアンデルタール人の遺伝子にはホモサピエンスの遺伝子が20%近くも 入っていることがわかってきているそうです。このくらいホモサピエンスとネアンデルタール人との交配は進んでい たそうです。

  また、最新の遺伝子解析からホモエレクトスとネアンデルタール人の進化の過程の中間に位置すると考えられてきた ホモハイデルベルゲンシスは草創期のネアンデルタール人と判明したことから、 ネアンデルタール人がホモエレクトスから進化したのは70-80万年前頃であり、50万年前頃に原ホモサピエンスが分化し、 40万年前頃にネアンデルタール人からデニソワ人が分化したということまで解析ができているようです。 そして30万年前頃に現ホモサピエンスの最古型のコイサン集団の祖先が出現したようです。

  そして何回か出アフリカが行われ、6-7万年前頃に我々解剖学的現代人類の直接の祖先が出アフリカし (スタンフォード大学の研究では2000人ぐらいの集団だったようです(一度の移動なのか、何回かで移動したのかはわかりませんが)、 そして遺跡の発掘調査の結果では5万年前頃には既にサフール大陸に到着していたらしく 東海大学等の調査では、マグロのような回遊魚すら獲っていた海に強い集団もいたようです。

  この出アフリカに伴うこの第一波(恐らくY-DNA「C」)のサフール大陸到着後(氷河期には海面は今より120m〜130mも低く、 現在のニューギニア周辺とオーストラリア周辺はまだ一つのサフール大陸を形成していた)、 恐らく数万年以上に渡る期間で第一波の先住民(恐らく古代亜型Y-DNA「C」)が、地域ごとの部族単位に分裂し、 特に現代のニューギニアでは400以上の地域言語が存在するぐらい部族間の隔離が進み、 独自の言語を持つようになっているそうです。

  ところが、海面上昇後の6000年〜8000年前頃にやっと第二波の大移動(出アジア)が起こり、 新しい亜型の遺伝子集団(恐らくY-DNA「K」、「K2a1b」と「K2b1」)がアジア大陸からこの分離後のニューギニア島を中心にした メラネシア地域に移住してきたようです。

  注:Y-DNA「K2b1」はY-DNA「S」と「M」、Y-DNA「K2a1b」はY-DNA「O」のことです。 この記事の一番最後に、Y-DNAの簡易ツリーがありますのでご参考に!

  さて化石人類学で今最もホットな話題が、ネアンデルタール人のアジア型のデニソワ人です。 最新の研究の結果、メラネシア人のみにデニソワ人の遺伝子が4−6%も受け継がれていることがわかったそうです。 そして近隣のミクロネシア人やポリネシア人とは遺伝的に差異が大きく、デニソワ人遺伝子を持っていないそうです。

  という事はこのデニソワ人遺伝子を受け継いでいる遺伝子集団は、当然メラネシアに集中して分布する Y-DNA「S」と「M」、つまりY-DNA「K2b1」亜型集団と言うことになります。 そこでガラパゴス史観を組み立てるために以前調査した100本以上の論文から、 オセアニアの調査結果を集めデニソワ度をまとめてみましたので、以下ご紹介します。

  以下Wikipediaの「Melanesians」と「Melanesia」から文章と地図を拝借しました。

  メラネシアは世界で3番目に大きな「ニューギニア島」とサンゴ礁が土台の「メラネシア諸島部」から構成され、 「メラネシア諸島部」は、「保護された楕円形のサンゴ海の外側を形成する諸島、島、環礁、サンゴ礁の連鎖」で構成されます。 これには、ルイジアード諸島(パプアニューギニアの一部)、ビスマルク諸島(パプアニューギニアおよびソロモン諸島の一部)、 およびサンタクルス諸島(ソロモン諸島と呼ばれる国の一部)が含まれます。 バヌアツは、ニューヘブリディーズ島のチェーンで構成されています。 ニューカレドニアは、1つの大きな島と、ロイヤルティ諸島を含むいくつかの小さな鎖で構成されています。 フィジーは、ビティレブ島とバヌアレブ島の2つの主要な島と、ラウ諸島を含む小さな島で構成されています。

それでは各地域のY-DNA亜型の研究報告のまとめをご紹介します。


1.PNG:パプアニューギニア(ニューギニア島の東半分)

  ニューギニア高地のHighlandのY-DNA「K2b1」頻度は少なくても70%で、ほぼ100%の報告もあります。 チベット人の高高地適応の後天的獲得形質はデニソワ人から受け継いだと解明されつつありますが、ここニューギニアでも 高地に居住する部族集団にデニソワ度が高く、辻褄は極めて良くあっていますね。

  一方低地や海岸に居住する集団はデニソワ度は40%前後と中程度で、第一波のY-DNA「C」が30%程度となり、 Y-DNA「C」は回遊魚漁をする海のハンター集団と考えられているように、もともと海岸部に居住していたところへ、 第二波のデニソワ系が後からやってきて混在するようになったものと思われます。

2.WNG:インドネシア領西ニューギニア(西半分)

  ここの部族はデニソワ度が極めて高い集団が多く、100%の部族が複数存在します。 しかしこの地域はY-DNA「C」が100%の部族も多く、Y-DNA「K」が高い部族も複数あり、 パプアニューギニアに比べて遺伝子のモザイク状の混在が進んでいることが判ります。また同じY-DNA「K2b1」でもよく見ると、 古いほうのY-DNA「S」より新しいY-DNA「M」の頻度が高いこともわかります。この理由はまだ推測出来ていません。

3.メラネシア諸島部

    ここはニューギニアに較べて若干デニソワ頻度は落ちますがそれでも80%を越える島が存在します。 しかしオセアニアの先住民のY-DNA「C」はかなり少なく、代わりにY-DNA「K」が70%を越える島もあり 第二派も単純な遺伝子集団ではなくY-DNA「K2b1」とその親亜型の「K」の混成集団だったことがうかがえます。 またほぼすべての島にY-DNA「O」が検出されることから、Y-DNA「O」も出アジア・イベントの一員だったことが判ります。

4、インドネシア最東端部

  出アジアで集団は一気にサフール大陸に移動したわけではなく、一歩手前のかつてサフール大陸の一部だったと思われる地域にも Y-DNA「C」がメイン遺伝子としてしっかりと根付いています。デニソワ度は高くはなく抽出集団によって頻度は変動しています。 ここはY-DNA「O」度がデニソワ度(Y-DNA「K2b1」)とほぼ同じくらいのレベルになっています。

5.ポリネシア

  ここは西ニューギニアやインドネシアと同様、Y-DNA「C」がメインの地域になります。Y-DNA「K2b1」はほとんど検出されません。 これはデニソワ遺伝子を持つY-DNA「K2b1」遺伝子集団は海洋性技術がほとんどなく渡海できなかったことを意味するのでしょう。 メラネシアとはかなり異なる遺伝子集団となります。 その代りにY-DNA「O」が90%にもなる島もあり、しかもほとんどY-DNA「O2 (旧O3」なので長江文明の子孫ではなく、 漢民族と同じ黄河文明の子孫集団になります。アフリカのマダガスカルに長江文明系Y-DNA「O1」が34%も検出されることから、 漢民族の中にも遠洋渡海できる海洋性の集団がいたようです。

6.ミクロネシア

  ここもデニソワ度はほとんど検出されていません。Y-DNA「K」がメインのミクロネシア諸島連邦になります。 そのほかY-DNA「C」とY-DNA「O」がある程度検出されています。メラネシアともポリネシアとも異なる遺伝子集団と言えます。

7.オーストラリア

  先住民のアボリジニは北のAmhem Landと中西部のSandy砂漠の集団が調査されています。 基本は予想通り出アフリカ後5万年前頃に到達した海洋性遺伝子のY-DNA「C」の土地になります。 そこに後からY-DNA「K」が進出してきたようです。デニソワ度は当ガラパゴス史観が集めていた論文では「0」でした。 どちらかと言うと鳥の頭の形をしている西ニューギニアの最西端部に居住しているれるMoskona族やMaibrat族に近いです。


まとめ

  これまでオセアニアの先住民たる渡海技術に優れた海洋性ハンターのY-DNA「C」遺伝子集団が、出アフリカ後5万年前頃には 第一波の移動としてサフール大陸に到着後各地に展開し、海面上昇後ニューギニア、オーストラリアや各島嶼部に残った、と考えていたのですが、 もしかすると第二波の出アジア組Y-DNA「K」、「K2b1」と「O」の進出で、メインのニューギニアから弾き出された可能性もあります。 各島嶼部に残る遺跡を調査し、年代がはっきりすれば結論はでるでしょう。

  デニソワ度を表すY-DNA「K2b1」はインドネシア東部にもかなり検出されるということは、出アジアは海面上昇前か上昇中、、 インドネシア諸島部を経由し継続的にニューギニアに入ったことになるのでしょう。 ポリネシアやミクロネシアでほとんど検出されないということは、この遺伝子集団は高地適応はしていても、海洋性ではなく、 海面上昇前に到着したが、上昇後そのまま島に留まったと考えるのがベストでしょう。

  参考:グーグルMapで見たスンダランド−サフール大陸のわかる地図です。

  水色の部分が氷河期には陸地になっていた現大陸棚です。スンダランドとサフール大陸は繋がっておらず、 間にウオレシア、つまりウオレス線で分離されているため、渡海技術がないと異動は難しかったと思われます。 海洋性ハンターだったY-DNA「C」が移動できたのに対し、 Y-DNA「K2b1」は高地性の集団だったと思われ、単独では渡海できなかったと考えるのが自然で、 恐らくY-DNA「K」やマダガスカル島まで移動できる技術を持っていたY-DNA「O1」(マダガスカルの遺伝子の34%も占める)や 「O2」と共に移動してきたと考えるのが妥当でしょう。


と言うわけで、最もデニソワ度(Y-DNA「K2b1」頻度)が高いのは、手持ちの調査論文では、
パプアニューギニアのKapuna地域集団、西ニューギニアのUna、Yali、Ketengban、Awyuの各語民部族の100%と言うことになりました。

Y-DNAの最新ツリーです。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-19.htm

24. 中川隆[-11122] koaQ7Jey 2019年9月30日 12:09:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1698] 報告


日本人のガラパゴス的民族性の起源 2019/9/29
0-2. 日本人の源流考
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-2,0-5,15-28,18-2.htm#0-2


v,1.7  しばらく古人類学の情報収集をさぼっていたら、新しいDNA分析技術が登場し、歯の化石からDNA解析ができるようになっていました。 記事「1-19.メラネシア人のデニソワ人度」を調査の中で、縄文人の中の海洋性ハンターの姿がより理解できる知見がありましたので、Rev.Upしました。

0.はじめに

  当ガラパゴス史観が、Y-DNAとmtDNAの分化のツリー調査を進めて行く中で、ホモサピエンスの歴史自身をもう少し深堀したい疑問が生じてきました。

・何故、ホモサピエンス始祖亜型のY-DNA「A」やY-DNA「B」はその後現代にいたるまで狩猟採集の原始生活から前進せず、 ホモエレクトスの生活レベルのままだったのか?

・出アフリカを決行した結果、分化した古代4亜型の中でY-DNA「D」、Y-DNA「E」やY-DNA「C」などの、 オーストラリア、ニューギニアやアンダマン諸島、アフリカなどの僻地に残った集団も、 現代に至るまで何故「A」,「B」同様、狩猟採集から抜け出せなかったのか?

・彼らは本当にホモサピエンスになっていたのだろうか?我々解剖学的現代人類はアフリカ大陸で ホモサピエンスに進化してから出アフリカしたと思い込んでいるが、もしかすると出アフリカ後に、 ネアンデルタール人との遭遇で現代型に進化したのではないか?

1.ネアンデルタール人の出アフリカから始まったようだ。

  ネアンデルタール人は、ホモサピエンスの亜種か異種と議論されています。 最新の知見では、80万年前頃にホモエレクトスから、ネアンデルタール人とホモサピエンスの共通の祖先と考えられる草創期のネアンデルタール人 (旧ホモハイデルベルゲンシス)が出現し、60万年ぐらい前には出アフリカし、先輩人類としてユーラシア大陸に拡がったらく、 そして40万年前頃にネアンデルタール人の東アジア型のデニソワ人が地方型として分化し、 ホモサピエンスと交雑し出アジアしてメラネシアに拡がったようなのです。

  注:ホモエレクトスの進化型古人類と思われていたホモハイデルベルゲンシスが最新技術による遺伝子解析の結果、 草創期のネアンデルタール人と判明しました。このためネアンデルタール人の出現が、 ホモハイデルベルゲンシスの出現年代とされていた80万年前頃に一気に遡りました。

  注:デニソワ人はあくまでネアンデルタール人に包含されるというのが極最新の見解のようです。

  そして草創期の原ホモサピエンスは50万年前頃には既に出現していて、30万年前頃にホモサピエンス最古のコイサン集団の祖先が出現し、 その後何度も出アフリカを行っていたが、6-7万年前頃の最後の出アフリカが、 我々を含む解剖学的現代人類(Anatomically Modern Human)を形成したようです。 そしてネアンデルタール人は、10-3万年前頃にホモサピエンスと各地で交雑し、3万年前ぐらいには絶滅した、という見解になっています。

この2種類の人類種の分類の見解は研究者によって異なり、亜種扱いの場合は、

  ホモ・サピエンス・サピエンス<===>ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシスと分類され、 あくまで別種と考える場合は、

  ホモ・サピエンス<=========>ホモ・ネアンデルターレンシスと分類されます。

  しかし最新の技術は、現代人類の遺伝子の2−4%はネアンデルタール人から受け継いでいることを解明しました。 東アジア人の比率が最も高く、次にヨーロッパ人で、東南アジア人は意外に低いそうです。 その後、現生人類の先祖が、スタンフォード大学の研究では2000人程度の規模で、出アフリカしユーラシアに拡がるまでに、 ネアンデルタール人の歴史は既に60万年程度は経過しており、 その間にネアンデルタール人はユーラシア各地で亜種に近いぐらい分化していたと考えられ、 アジアで発掘されたデニソワ人はネアンデルタール人の東アジア型と考えられ始めています。 しかも研究ではデニソワ人の遺伝子がメラネシア人に6%も受け継がれている、ことまで判明しています。

  またネアンデルタール人にはホモサピエンスの遺伝子が20%も含まれていた、と言う報告まであります。

  これはつまり現代人類は既にある程度の高度な文化を築き上げていたネアンデルタール人との亜種/異種間交雑の結果、 進化の爆発が起こり現ホモサピエンスとして完成したのではないかと考えるのが妥当なのではないかと思われます。

  また大きなトピックスとして、解剖学的現代人類のY-DNA分化ツリーにネアンデルタール人とデニソワ人の亜型がとうとう組み込まれました。 一方、ネアンデルタール人とデニソワ人のmtDNAは解剖学的現代人類には受け継がれていないことも判明しました。
  つまり、ネアンデルタール人、デニソワ人と解剖学的現代人類はY-DNAで完全に直列で繋がっている、と言うことになりますが、 女系を表すmtDNAでは断絶している、と言うことになります。

  ネアンデルタール人とホモサピエンスは異種か亜種かという問題に対し、ネアンデルタール人のY-DNAの変異型も特定され ホモサピエンスのツリーとつながったということは、少なくとも異種ではないという結論になります。 あえて言えば、ネアンデルタール人とデニソワ人の男性はホモサピエンスの男性と亜種ほどの違いもなく、 「頑丈型」と「華奢型」の違い程度に過ぎないため交配しても子孫を残せた、ということになります。

  一方女性に関しては異なり、進化は女性から始まると考えられるため、ネアンデルタール人とデニソワ人の女性はホモサピエンスの女性とは 異種ぐらい異なる進化段階になってしまっていたのでしょう、だからホモサピエンスの男性とネアンデルタール人とデニソワ人の女性の組み合わせでは 子孫が残らなかったのだろうと欧米の研究者は考えているようです。

いやはや遺伝子解析の技術の進歩は目覚ましいものですね。当ガラパゴス史観がRNAとリボソームの研究をしていたころとは 全く時代が変わっています。

2.原ホモサピエンスから現ホモサピエンスへ脱皮したのではないか!

  我々現代人(解剖学的現代類)の祖先は、共通の祖先である草創期のネアンデルタール人からネアンデルタール人が先に進化し 出アフリカした後も進化に出遅れアフリカ大陸に残存していた草創期のネアンデルタール人の中で、 50万年前頃にとうとう草創期のホモサピエンスが出現し、30万年前頃には原ホモサピエンスであるコイサン集団が出現したようです。

  しかも出アフリカは20数万年前頃には既に行われ遺跡が発掘されています。 また最近の発掘調査では、10万年前ごろにはすでにレバント地域に移動していたらしく、8万年前頃には中国南部に到達していたと報告されています。 以前の5−6万年前頃に最終出アフリカしたのではないかという見解が、今は6-7万年頃と遡ってきているのは 今後まだまだ新しい研究報告がある予兆と思われます。

  いずれにせよ、80万年前に現れた草創期のネアンデルタール人(旧ホモハイデルベルゲンシス)が共通の祖先となり、 60万年前頃にネアンデルタール人が先に出アフリカし、50万年前頃に原ホモサピエンスが現れたのだろうと考えられる。

  最新のY-DNAツリーは、

Y-DNA「Adam」からY-DNA「A0000」(デニソワ人)が分化し、
Y-DNA「A000」(ネアンデルタール人)が分化し、
Y-DNA「A00」(コイサン集団)が分化し、更に「A0」、「A」と分化が進み、
Y-DNA「A1b」からY-DNA「BT」が分化し、
Y-DNA「BT」がY-DNA「B」とY-DNA「CT」に分化しましたが、

  この「A」と「B」は原ホモサピエンスの始祖亜型と考えられます。

Y-DNA「CT」が出アフリカし、Y-DNA「DE」とY-DNA「CF」に分化しました。
  これは中近東あたりで先住ネアンデルタール人との交雑の結果と考えられます。
  この「C」、「D」、「E」 は古代性を強く残した狩猟採集民として、近年まで残ってきました。

  注:デニソワ人がネアンデルタール人の地方型として分岐したのは40万年前頃と解析されていますが、 解剖学的現代人類に組み込まれたネアンデルタール人の遺伝子はもう少し後年の集団からと考えられているようです。

 つまりY-DNA「A」と「B」はホモサピエンスではあるが完成形ではない原ホモサピエンスと言っても良いかもしれません。

 西欧列強が世界中を植民地化するべく搾取活動を続けているときにわかったことは、 アフリカ大陸やニューギニア・オーストラリアやアンダマン島の先住民は、 何万年もの間、古代のままの非常に素朴な狩猟採集民の文化レベルにとどまっていた、ということでした。

  研究調査からかなり高度な文化・技術レベルに達していたと判ってきているネアンデルタール人と比べると、 分類学的な現代人類/ホモサピエンスに進化したというだけではホモ・エレクトスとさほど変わらない文化レベルだったという証明でしょう。 つまり脳容積がホモエレクトスより大きくなったり、会話が出きるようになったレベルでは、同時代のネアンデルタール人より華奢な、 しかし可能性は秘めている後発人類に過ぎなかったようです(しかし体毛は薄くなり、前頭葉が発達し、見た目は多少現代人類的ですが)。

  では一体、なぜ解剖学的現代人類は現代につながるような文明を興すほど進化できたのだろうか?大きな疑問です。 一部の王国を築いた集団を除いた、古ネイティブ・アフリカンは大航海時代になっても、狩猟採集民でしかなかったのです。 その後西欧列強と出会わなければ、今でも狩猟採集のままのはずです。

  このことは、文明と言うものを構築するレベルに達するにはホモサピエンスになったというだけではなく、 何か決定的なブレークスルーのファクターがあったはずです。

  ネアンデルタール人と原ホモサピエンスの亜種間交配の結果、進化の爆発が起こったと推測するのが今のところ最も妥当です。

  出アフリカした先輩人類のネアンデルタール人と交雑し、ネアンデルタール人がすでに獲得していた先進文化を一気に取り込むことに成功し、 恐らく人口増加率(繁殖力)が圧倒的に高い原ホモサピエンスの中にネアンデルタール人が自然吸収される形で統合化されたのが 完成形の現ホモサピエンスと考えるのが最も妥当性が高いのです。 (この繁殖力の高さが解剖学的現代人類の勝ち残った理由なのではないか、想像を逞しくすると、交配の結果得た後天的な獲得形質かもしれません。)

  もし出アフリカせずネアンデルタール人とも出会わずアフリカの中に留まっていたら、 人類は相変わらず19世紀ごろのサン族やピグミー族のように素朴な狩猟採集段階に留まっているだろうと容易に推測できますが、 北京原人やジャワ原人などのホモエレクトスも出アフリカし、ネアンデルタール人も出アフリカしたということは、 ホモサピエンスが出アフリカしたのは人類の遺伝子が導く宿命ではないかとも思われる。 つまりホモサピエンスが出アフリカし狩猟採集文化から脱し、現代文明にまで至ったのは必然だったということかもしれませんね。

注: 記事「18-4. ホモサピエンスとは人類学上何者なのか」
http://garapagos.hotcom-cafe.com/15-24,17-8,18-4.htm#18-4

で触れたように、最新の研究で、ネアンデルタール人とデニソワ人の Y-DNAの変異型が同定され、恐らく80万年前頃と考えられるようになったY-DNA「Adam」に続き、デニソワ人とネアンデルタール人が 分化のツリー上に配置されるようになったのですが

(「1-1. Y-DNAハプロタイプ 2019年6月版 ツリー」を参照ください)、

http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-1.htm

注: 一方mtDNAツリーでは、デニソワ人とネアンデルタール人のmtDNA変異型は全く検出されず、 おそらくデニソワ人女性とネアンデルタール人女性とサピエンス男性との交配では恐らく子孫ができなかったか、出来ても 生殖能力が無かったのだろう、と欧米の研究者は考えています。

  これはサピエンスとネアンデルタール人の男性は「華奢型(きゃしゃ型)」と「頑丈型」の違いくらいしかなく、亜種ほどの違いもなく、 せいぜい地方型の違いくらいで同種であったと考えるほうが最も合理的です。一方進化は女性から始まるので、ネアンデルタール人の女性と サピエンスの女性は異種と言ってよいほど分化し、子孫を残せなかったのだろうと推測できます。

   3.日本列島への最初の到来者は、古代遺伝子集団:Y-DNA「D」と「C」
  注:実はまだ残っている疑問があります。古代性を近代まで残していた古代遺伝子Y-DNA「C」、「D」、「E」は現ホモサピエンスの段階に 至っておらず、原ホモサピエンスに留まっていたのではないか、そしてY-DNA「F」がインド亜大陸周辺でネアンデルタール人やデニソワ人と交雑し、 やっと現ホモサピエンスの段階に進化したのではないかという疑問です。これは極めて大胆な推測ですが、 これに関する知見、否定する知見はまだ全く報告されていません。

  Y-DNA「D1b」を主力とするY-DNA「C1a1」との混成部隊である。

  移行亜型Y-DNA「DE」はさらに古代遺伝子Y-DNA「D」とY-DNA「E」に分化したが、Y-DNA「D」がインド洋沿岸に沿って東進したのに対し、 Y-DNA「E」は逆に西進し地中海南北沿岸に定着し、地中海南岸(アフリカ北岸)に移動した集団はさらにアフリカ全土に展開し、 始祖亜型である原ホモサピエンスの先住民の中に入り込み、始祖亜型Y-DNA「A」と「B」のネイティヴ・アフリカン集団の中に 古代亜型Y-DNA「E」の遺伝子が混在するようになっています。

  注:アフリカ大陸にはその後Y-DNA「R1a」と分化したY-DNA「R1b」がアナトリア、中近東から南下してきて、更に新しい集団として 現在のカメルーンあたりを中心にネイティブアフリカンの一部を形成しています。

  しかし出戻りアフリカしたY-DNA「E」は進化の爆発が進む前にアフリカ大陸に入ってしまったため、また周囲の始祖亜型の部族も同じレベルで、 基本的に狩猟採集のまま刺激しあうことがないまま、ユーラシア大陸で起きた農耕革命など進化の爆発に会わないまま現代に至っているのでしょう。

  ところが地中海北岸に定着したY-DNA「E」は、その後ヨーロッパに移動してきたY-DNA「I 」などの現代亜型と刺激しあいながら 集団エネルギーを高め、ローマ帝国やカルタゴなどの文明を築くまでに至りました。要するに自分たちより古い始祖亜型との遭遇では埋もれてしまい、 文明を興すような爆発的進化は起こらなかったが、より新しい現代亜型との遭遇が集団エネルギーを高めるには必要だったのでしょう。

  一方、Y-DNA「D」は、現代より120m〜140mも海面が低かったために陸地だったインド亜大陸沿岸の大陸棚に沿って東進しスンダランドに到達し、 そこから北上し現在の中国大陸に到達した。 その時に大陸棚だった現在のアンダマン諸島域に定住したY-DNA「D」集団は、その後の海面上昇で島嶼化した現アンダマン諸島で孤立化し 現代までJarawa族やOnge族などの絶滅危惧部族として古代亜型Y-DNA「D」を伝えてきています。 Y-DNA「D」は基本的に古代性の強い狩猟採集民と考えてよく、日本人の持つ古代的なホスピタリティの源泉であることは間違いないです。

  Y-DNA「CT」から分離したもう一方の移行亜型Y-DNA「CF」は恐らくインド亜大陸到達までに古代亜型Y-DNA「C」とY-DNA「F」に分離し、 Y-DNA「F」はインド亜大陸に留まりそこで先住ネアンデルタール人(アジアにいたのは恐らくデニソワ人か?)と交雑した結果、 Y-DNA「G」以降の全ての現代Y-DNA亜型の親遺伝子となったと推測できます。 こうしてインド亜大陸は現代Y-DNA亜型全ての発祥の地となったと考えてよいでしょう。

  もう一方の分離した古代亜型Y-DNA「C」は、欧米の研究者の説明ではY-DNA「D」と行動を共にしたらしく東進しスンダランドに入り、 一部はY-DNA「D」と共に中国大陸に到達し、一部はそのまま更に東進しサフール大陸に到達した。 サフール大陸に入った集団はサフール大陸内で拡大し、海面上昇後分離したニューギニアとオーストラリア大陸に それぞれTehit族、Lani族やDani族などニューギニアの先住民集団やオーストラリア・アボリジニ集団、 つまり共にオーストラロイドとして現代まで残っています。 そして5万年前にはオーストラリアに到達していた集団の遺跡から回遊魚のマグロの骨が東海大学らの調査により発見され、 Y-DNA「C」は沿岸を船で移動できる海洋性ハンター集団だったと考えられます。 従ってサフール大陸に到達したY-DNA「C」集団は更にそのまま船で海に漕ぎ出し、ポリネシア全土に拡大していったようです。 ポリネシアのY-DNAの主要亜型として検出されるY-DNA「C」は、実は縄文の海洋性ハンターY-DNA「C」と同じ亜型です。 日本列島で検出される、海洋性ハンター遺伝子Y-DNA「C」亜型は、現代ポリネシア人と同じ先祖から分離したことになります。

注:一部の日本人の持つ海洋性気質は、このポリネシア人と共通の祖先から受け継いだ気質と言っても差し支えないでしょう。

  スンダランドから北上し現在の中国大陸に入ったY-DNA「D」とY-DNA「C」の混成集団は中国大陸の先住集団として拡大しました。 この時に混成集団の一部の集団は中国大陸には入らずにさらに北上し、当時海面低下で大きな川程度だった琉球列島を渡ったと思われます。 集団はそのまま北上し現在の九州に入った可能性が大。また一部は日本海の沿岸を北上し当時陸続きだったサハリンから南下し 北海道に入り、当時同様に川程度だった津軽海峡を渡り本州に入った可能性も大です。 つまりもしかすると日本本土への入り方が2回路あった可能性が大なのです。

  現在沖縄・港川で発掘される遺骨から復元再現される顔は完璧にオーストラロイド゙の顔です。 と言うことは、スンダランドから北上の途中沖縄に定住した混成集団がその後の琉球列島人の母体になり、 サハリンから南下した集団がのちのアイヌ人の集団になった可能性が極めて大と推測できます。

  さて中国大陸に展開したY-DNA「D」は残念ながら後発のY-DNA「O」に中国大陸の中原のような居住適地から駆逐され、 南西の高地に逃れY-DNA「D1a」のチベット人や羌族の母体となったようです。 欧米の研究者はチベット人の持つ高高地適応性はデニソワ人との交配の結果獲得した後天的な獲得形質と考えているようだ。 そして呪術性が高い四川文明はY-DNA「D」が残した文明と考えられます。 このため同じY-DNA「D」遺伝子を40%以上も持つ日本人には四川文明の遺物は極めて親近感があるのでしょう。

  日本の民話とチベットの民話には共通性がかなりありますが、これらはY-DNA「D」が伝えてきた民話と考えて差し支えないでしょう。

  しかし一緒に移動したと考えられるYDNA「C」の痕跡は現在の遺伝子調査ではチベット周辺では検出されていません。 どうやら途絶えてしまった可能性が高い、もともと海洋性の遺伝子なので、内陸の高地は居住適地ではなかったのかもしれません。。 いやもしかすると火炎土器のような呪術性の強い土器を製作したと考えられるY-DNA「C」なので、 四川文明の独特な遺物類はY-DNA「C」が製作した可能性が極めて高い。そしてY-DNA「D」のようにチベット高原のような高高地に適応できず 途絶えてしまったのかもしれないですね。

  一方スンダランドから琉球列島を北上した集団(Y-DMA「D1b」とY-DNA「C1a」は、一部は琉球列島に留まり、琉球人の母体となった。 しかし、そのまま更に北上し九州に到達したかどうかはまだ推測できていない。 しかし日本各地に残る捕鯨基地や水軍など日本に残る海の文化は海洋性ハンターと考えられるY-DNA「C1a」が そのまま北上し本土に入った結果と考えられる。

  オーストラリアの海洋調査で、数万年前にY-DNA「C」の時代にすでに漁労が行われ、 回遊魚のマグロ漁が行われていたと考えられる結果のマグロの魚骨の発掘が行われ、 当時Y-DNA」「C」はスンダランドからサフール大陸に渡海する手段を持ち更に漁をするレベルの船を操る海の民であったことが証明されている。 このことはスンダランドから大きな川程度だった琉球列島に入ることはさほど困難ではなかったと考えられ、 Y-DNA「C」と交雑し行動を共にしていたと考えられるY-DNA「D」も一緒にさらに北上し本土に入ったことは十分に考えられる。 すべての決め手はY-DNA「C」の海洋性技術力のたまものだろう。

  一方日本海をさらに北上した集団があったことも十分に考えられる。 この集団はサハリンから南下し北海道に入り、更に大きな川程度だった津軽海峡を南下し、本土に入ったと考えられる。 サハリンや北海道に留まった集団は古代アイヌ人の母体となっただろう。 Y-DNA「C1a」は北海道に留まらず恐らく本州北部の漁民の母体となり、Y-DNA「D1b」は蝦夷の母体となっただろう。

  このY-DNA「D1b」とY-DNA「C1a」が縄文人の母体と言って差し支えないだろう。 つまり縄文人は主力の素朴な狩猟採集集団のY-DNA「D1b」と技術力を持つ海洋性ハンターのY-DNA「C1a」の混成集団であると推測できる。 この海洋性ハンター遺伝子が一部日本人の持つ海洋性気質の源流だろう。日本人は単純な農耕民族ではないのだ。

  ところがサハリンから南下せずにシベリヤ大陸に留まり陸のハンターに転身したのが大陸性ハンターY-DNA「C2」(旧「C3」)である。 この集団はクジラの代わりにマンモスやナウマンゾウを狩猟する大型獣狩猟集団であったと思われる。 ところが不幸にもシベリア大陸の寒冷化によりマンモスもナウマン象も他の大型獣も少なくなり移住を決意する。 一部はナウマン象を追って南下し対馬海峡を渡り本土に入りY-DNA「C2a」(旧C3a」)となり山の民の母体となっただろう。 また一部はサハリンからナウマンゾウの南下を追って北海道、更に本土へ渡った集団もあっただろう。北の山の民の母体となったと推測できる。

  この山の民になった大陸性ハンターY-DNA「C2a」が縄文人の3つ目の母体だろう。 つまり縄文人とは、核になる狩猟採集民のY-DNA「D1b」と海の民のY-DNA「C1a」及び山の民のY-DNA「C2a」の3種混成集団と考えられる。
  このY-DNA「C2a」が一部日本人の持つ大陸性気質の源流と考えられる。 Y-DNA「C1a」は貝文土器など沿岸性縄文土器の製作者、Y-DNA「C2a」は火炎土器など呪術性土器の製作者ではないかと推測され、 いずれにせよ縄文土器は技術を持つY-DNA「C」集団の製作と推測され、Y-DNA「D」は素朴な狩猟採集民だったと推測できる。

  この山の民のY-DNA「C2a」が南下するときに、南下せずY-DNA「Q」と共に出シベリアしたのがY-DNA「C2b」(旧「C3b」)の一部であろう。 このY-DNA「Q」はヨーロッパでは後代のフン族として確定されている。このY-DNA「Q」はシベリア大陸を横断するような 移動性の強い集団だったようだ。 シベリア大陸を西進せずに東進し海面低下で陸続きになっていたアリューシャン列島を横断し北アメリカ大陸に到達し Y-DNA「Q」が更に南北アメリカ大陸に拡散したのに対し、

  Y-DNA「C2b」は北アメリカ大陸に留まりネイティヴ・アメリカンの一部として現代に遺伝子を残している。 最も頻度が高いのはTanana族である、約40%もの頻度を持つ。 北アメリカや中米で発掘される縄文土器似の土器の製作者はこのY-DNA「C2a」ではないかと推測できる。

  またそのままシベリア大陸/東北アジアに留まったY-DNA「C2」はY-DNA「C2b1a2」に分化し、 大部分はモンゴル族やツングース族の母体となった。 また一部だった古代ニヴフ族は北海道に侵攻しY-DNA「D1b」のアイヌ人を征服しオホーツク文化を立ち上げた。 本来素朴な狩猟採集民だった原アイヌ人は支配者の古代ニヴフの持つ熊祭りなどの北方文化に変化し、 顔つきも丸っこいジャガイモ顔からやや彫の深い細長い顔に変化したようだ。 現代アイヌ人の持つ風習から北方性の風俗・習慣を除くと原アイヌ人=縄文人の文化が構築できるかもしれない。

4.長江文明系稲作農耕文化民の到来

  さて、日本人は農耕民族と言われるが、果たしてそうなのか?縄文人は明らかに農耕民族ではない。 狩猟採集民とハンターの集団だったと考えられる。ではいつ農耕民に変貌したのだろうか?

  古代遺伝子Y-DNA「F」から分化した現代遺伝子亜型群はY-DNA「G」さらに「H」、「I」、「J」、「K」と分化し、 Y-DNA「K」からY-DNA「LT」とY-DNA「K2」が分化した。 このY-DNA「LT」から更にY-DNA「L」が分化しインダス文明を興し、後にドラヴィダ民族の母体となったと考えられている。 Y-DNA「T」からは後のジェファーソン大統領が出自している。

  Y-DNA「K2」はさらにY-DNA「K2a(NO)」とY-DNA「K2b」に分化し、Y-DNA「NO」が更にY-DNA「N」とY-DNA「O」に分化した。 このY-DNA「N」は中国の遼河文明を興したと考えられているらしい。 このY-DNA「N」は現在古住シベリア集団(ヤクート人等)に濃く70-80%も残されており、テュルク族(トルコ民族)の母体と考えられている。

  しかし現代トルコ人は今のアナトリアに到達する過程で多種のY-DNAと混血し主力の遺伝子は Y-DNA「R1a」,「R1b」,「J2」などに変貌している為、東アジア起源の面影は全くない。 唯一タタール人に若干の面影が残っているが、今のタタール人もY-DNA「R1a」が主力に変貌してしまっている。 Y-DNA「N」はシベリア大陸の東西に高頻度で残りバルト3国の主力Y-DNAとして現代も40%以上も残っている。やはり移動性の強い遺伝子のようだ。

  さていよいよ日本農耕の起源に触れなければならない。Y-DNA「NO」から分化したもう一方のY-DNA「O」は、 中国の古代遺跡の発掘で、古代中国人は現在のフラットな顔つきと異なりコーカソイドの面影が強いと報告されている事は研究者の周知である。 つまり本来の人類は彫が深かったといってよく、現代東北アジア人のフラット/一重まぶた顔は 寒冷地適応に黄砂適応が加わった二重適応の特異的な後天的獲得形質と言って差し支えない(当史観は環境適応はあくまで「適応」で 「進化」とは違うと考えるが、ラマルクの後天的獲得形質論も進化論といわれるので、進化の一部ということにします。 (余談ですが、人類(動物)は体毛が減少する方向に進んでいるので、実は禿頭/ハゲ頭も「進化形態」である事は間違いない。)

  この東北アジア起源のY-DNA「O」は雑穀栽培をしていたようだ。東アジア全体に拡散をしていった。 日本列島では極低頻度だがY-DNA「O」が検出されている。陸稲を持ち込んだ集団と考えられる。 東北アジアの住居は地べた直接だっと考えられる。主力集団は黄河流域に居住していたため、 長年の黄砂の負荷で現代東アジア人に極めてきついフラット顔をもたらしたのだろう。

  一方南下し温暖な長江流域に居住した集団から長江文明の稲作農耕/高床住居を興したY-DNA「O1a」と「O1b」が分化し、 更にY-DNA「O1b1」(旧「O2a」)と「O1b2」(旧「O2b」)が分化し稲作農耕は発展したようだ。 このY-DNA「O1a」は楚民、Y-DNA「O1b1」は越民、「O1b2」は呉民の母体と推測できる。

  長江文明は黄河文明に敗れ南北にチリジリになり、Y-DNA「O1b1」の越民は南下し江南から更にベトナムへ南下し、 更に西進しインド亜大陸に入り込み農耕民として現在まで生き残っている。 ほぼ純系のY-DNA「O1b1」が残っているのはニコバル諸島 (Y-DNA「D*」が残るアンダマン諸島の南に続く島嶼でスマトラ島の北に位置する)のShompen族で100%の頻度である。

  また南インドのドラヴィダ民族中には検出頻度がほとんどY-DNA「O1b1」のみの部族もあり、 越民がいかに遠くまで農耕適地を求めて移動していったか良く分かる。 カースト制度でモンゴロイドは下位のカーストのため、他の遺伝子と交雑できず純系の遺伝子が守られてきたようだ。 この稲作農耕文化集団である越民の子孫のドラヴィダ民族内移住が、ドラヴィダ民族(特にタミール人)に 長江文明起源の稲作農耕の「語彙」を極めて強く残す結果となり、その結果、学習院大学の大野教授が 日本語タミール語起源説を唱える大間違いを犯す要因となったが、 こんな遠くまで稲作農耕民が逃げてきたことを間接証明した功績は大きい。

  一方、呉民の母体と考えられるY-DNA「O1b2」は満州あたりまで逃れ定住したが、更に稲作農耕適地を求め南下し朝鮮半島に入り定住し、 更に日本列島にボートピープルとして到達し、先住縄文人と共存交雑しY-DNA「O1b2a1a1」に分化したと考えられる。 この稲作農耕遺伝子Y-DNA「O1b2」は満州族で14%、中国の朝鮮族自治区で35%、韓国で30%、日本列島でも30%を占める。 この満州族の14%は、満州族の中に残る朝鮮族起源の姓氏が相当あることからやはり朝鮮族起源と考えられ、 呉系稲作農耕文化を現在に残しているのは朝鮮民族と日本民族のみと断定して差し支えないだろう。 この共通起源の呉系稲作農耕文化の遺伝子が日本人と朝鮮人の極めて近い(恐らく起源は同一集団)要因となっている。 北朝鮮はツングース系遺伝子の分布が濃いのではないかと考えられるが、呉系の遺伝子も当然30%近くはあるはずである。 過去の箕子朝鮮や衛氏朝鮮が朝鮮族の起源かどうかは全く分かっていないが、呉系稲作農耕民が起源の一つであることは間違いないだろう。

  長江流域の呉越の時代の少し前に江南には楚があったが楚民はその後の呉越に吸収されたと思われる、 しかしY-DNA「O1b1」が検出される河南やベトナム、インド亜大陸でY-DNA「O1a」はほとんど検出されていない。 Y-DNA「O1a」がまとまって検出されるのは台湾のほとんどの先住民、フィリピンの先住民となんと日本の岡山県である。

  岡山県にどうやってY-DNA「O1a」が渡来したのかは全く定かではない。呉系Y-DNA「O1b1」集団の一員として 混在して来たのか単独で来たのか?岡山県に特に濃く検出されるため古代日本で独特の存在と考えられている吉備王国は 楚系文化の名残と推測可能で、因幡の白兎も楚系の民話かもしれない。 台湾やフィリピンの先住民の民話を重点的に学術調査するとわかるような気がしますが。

5.黄河文明系武装侵攻集団の到来

  狩猟採集と海陸両ハンターの3系統の縄文人と、長江系稲作農耕文化の弥生人が共存していたところに、 武装侵攻者として朝鮮半島での中国王朝出先機関内の生き残りの戦いに敗れ逃れてきたのが、 Y-DNA「O2」(旧「O3」)を主力とする黄河文明系集団だろう。 朝鮮半島は中華王朝の征服出先機関となっており、 長江文明系とツングース系が居住していた朝鮮半島を黄河系が占拠して出先機関の「郡」を設置し、 韓国の歴史学者が朝鮮半島は歴史上だけでも1000回にも及び中華王朝に侵略された、と言っている結果、 現代韓国は43%以上のY-DNA「O2」遺伝子頻度を持つ黄河文明系遺伝子地域に変貌してしまった。

  朝鮮半島での生き残りの戦いに敗れ追い出される形で日本列島に逃れてきた集団は、当然武装集団だった。 おとなしい縄文系や和を尊ぶ弥生系を蹴散らし征服していった。長江系稲作農耕集団は、 中国本土で黄河系に中原から追い出され逃げた先の日本列島でも、また黄河系に征服されるという二重の苦難に遭遇したのだろう。
  この黄河系集団は日本書紀や古事記に言う天孫族として君臨し、その中で権力争いに勝利した集団が大王系として確立されていったようだ。 この黄河系武装集団の中に朝鮮半島で中華王朝出先機関に組み込まれていた戦闘要員としてのツングース系の集団があり、 ともに日本列島に移動してきた可能性が高いY-DNA「P」やY-DNA「N」であろう。 好戦的な武士団族も当然黄河系Y-DNA「O2」であろう。出自は様々で高句麗系、新羅系、百済系など 朝鮮半島の滅亡国家から逃げてきた騎馬を好む好戦的な集団と推測できる。

  この黄河文明系Y-DNA「O2」系は日本列島で20%程度検出される重要なY-DNAである。韓国では43%にもなり、 いかに黄河文明=中国王朝の朝鮮半島の侵略がひどかったが容易に推測できる。 日本列島の長江文明系Y-DNA「O1b2」系と黄河系Y-DNA「O2」系は合計50%近くになる。韓国では73%近くになる。 つまり日本人の約50%は韓国人と同じ長江文明系+黄河文明系遺伝子を持つのである。これが日本人と韓国人が極めて似ている理由である。

  一方、韓国には日本人の約50%を占める縄文系Y-DNA「D1b」,Y-DNA「C1a」とY-DNA「C2a」が欠如している。 これらY-DNA「D1b」,「C1a」とY-DNA「C2a」は日本人の持つ素朴なホスピタリティと従順性と調和性の源流であり、 このことが日本人と韓国人の全く異なる民族性の理由であり、日本人と韓国人の近くて遠い最大の原因になっている。

  一方、日本人の持つ一面である残虐性/競争性/自己中性等は20%も占める黄河系Y-DNA「O2」系からもたらされる 特有の征服癖特質が遠因と言って差し支えないような気がする。

6.簡易まとめ

  日本人の持つ黙々と働き温和なホスピタリティや和をもって貴しとする一面と、 一方過去の武士団や維新前後の武士や軍人の示した残虐性を持つ2面性は、 日本人を構成するもともとの遺伝子が受けてきた歴史的な影響の結果と言えそうだ。


  日本人の3つの源流は、

  ・日本列島の中で約1万年以上純粋培養されてきた大多数の素朴な狩猟採集民と少数のハンターの縄文系、

  ・中国大陸から僻地の日本列島にたどり着き、集団の和で結束する水田稲作農耕民の弥生系、

  ・朝鮮半島を追い出された、征服欲出世欲旺盛な大王系/武士団系の武装侵攻集団系、


  個人の性格の問題では解説しきれない、遺伝子が持つ特質が日本人の行動・考えに強く影響していると思える。 世界の技術の最先端の一翼を担っている先進国で、50%もの古代遺伝子(縄文系、しかも女系遺伝するmtDNAでは何と約67%が 縄文系のmtDNA「M」系なのです。)が国民を構成しているのは日本だけで極めて異例です。 もしこの縄文系遺伝子がなければ、日本列島と朝鮮半島及び中国はほとんど同一の文化圏と言って差し支えないでしょう。 それだけ縄文系遺伝子がもたらした日本列島の基層精神文化は、 日本人にとって世界に冠たる独特の国民性を支える守るべき大切な資産なのです。

7.後記

  これまで独立した亜型として扱われてきた近代亜型のY-DNA「L」,「M」,「N」,「O」,「P」,「Q」,「R」,「S」,「T」は、 現在、再び統合されてY-DNA「K」の子亜型Y-DNA「K1」とY-DNA「K2」の更に子亜型(孫亜型)として再分類される模様です。 つまり独立名をつける亜型群として扱うほど「違いが無い」ということなのです。

  ところがこのY-DNA「K」は、我々極東の代表Y-DNA「O」や西欧の代表Y-DNA「R」や南北ネイティヴアメリカンの Y-DNA「Q」等が含まれているのです。とても遺伝子が近いとは思えないのです。では何故これほど外観も行動様式も異なるのだろうか?

  これらの亜型群は、何十万年の歴史でユーラシア大陸の各地で亜種に近いほど分化していたと考えられている ネアンデルタール人やデニソワ人のY-DNA亜型を受け継いだだけの可能性も十分にあるのです。 西欧と極東であまりにも異なる外観や行動様式などの違いの原因を亜種間の接触に求めるのは荒唐無稽とは言えないでしょう。

  何しろネアンデルタール人もデニソワ人もホモサピエンスも元をただせばホモエレクトス出身で当然Y-DNAもmtDNAも 遺伝子が繋がっているのだから。Y-DNAではホモサピエンス、ネアンデルタール人やデニソワ人は既に1つのツリーに統合され始めています。 しかし、mtDNAは母系の断絶が確認されていて、ホモサピエンスとは繋がっていません。もしネアンデルタール人との接触がもっと遅く、 ネアンデルタール人男性の分化も進んでしまっていたら、Y-DNAの断絶もあったかもしれません。

8.余談

  (極めて余談ですが、北方系極東人の多くは寒冷地適応や黄砂適応を受け、フラット顔になってはいますが、 中国で発掘される古代人骨はほとんどコーカソイド顔であり、フラット顔は後天的獲得形質であることは研究者達が認めています。 日本人にはこの後天的獲得形質を獲得してから日本列島に渡ってきた集団が多かったことを示しています。 日本人の胴長短足は、高身長の弥生系と武装侵攻系の上半身と小柄な縄文の下半身の交雑の結果に過ぎず、日本人に意外に多い反っ歯や受け口も 弥生系の細身の顎に縄文系のがっしり歯列が収まりきらず前に出てしまっただけであり、親知らずは逆に出られなかっただけです。

  また日本人固有の古代的なホスピタリティは、縄文系である古代亜型Y-DNA「D」と「C」(合計で日本人男性の出現頻度約45%を占める) 及びmtDNA「M」(合計で日本人全体の約67%を占める)の固有の特質であり、近代亜型群の特質ではありません。 つまり特に日本人と他の民族との違いのほとんどは、この縄文系遺伝子の伝えてきた極めて古代的な、 狩猟採集民やハンター民の持つ行動様式や思考回路のもたらす結果に帰することは疑いようがありません。

  もし、天孫族や武士団族が朝鮮半島から負け組として追い出されてこなければ、日本列島は徳川時代の高度な文化もなく、 当時世界最大の都市だった江戸もなく、容易に西欧列強の植民地になっていたでしょう。つまり極めて残念なことですが、 日本人の世界に冠たる高度な技術力や文化性は、日本列島の3重遺伝子構造を構成する遺伝子の中で最後にやってきた Y-DNA「O2」(旧O3)がもたらしてきたものなのです、中国や韓国と支配階級が同じY-DNA「O2」遺伝子なのに結果が異なってきたのは、 常に外敵との抗争や侵略に脅かされ、技術や文化の熟成が近代までに確立「出来なかったか/出来たか」の違いなのでしょう。)

9.時代の趨勢

  3.3 Y-DNA「R1b」に書いた文章を復誦します。

  極めて明らかなことは、国・国民が先進的になるには純系民族では無理なのです。辺境民化してしまいエネルギーが低すぎるのですが、 競う共存遺伝子の種類が多ければ多いほど集団エネルギーが高くなり、国の活性度が上がり、覇権に向かうのです。 アジアの中で唯一近代化に成功した日本は縄文系−弥生系(長江文明系)−武装侵攻系(黄河文明系)が交雑し、 武装侵攻系が核になり集団エネルギーを一気に高め、一時はジャパンアズNo1と覇権を握るかもしれないほどの勢いを手に入れました。

  しかし日本が高止まりしてしまった間に中国が、日本以上の複雑な遺伝子ミックスにより集団エネルギーを高め、近代化らしきものに成功し 対外的には日本に取って替わりアジアの覇権を握ったように見えるレベルに達しました。しかし国民一人当たりの生産性があまりにも低く、 日本の1/4以下程度しかなく真の覇者には恐らく永久になれないでしょう。

  その中国も恐らく近いうちに日本同様高止まりするでしょうが、東アジアには日本、中国に代わる国はもはや存在しません。 南アジアのインドはロシアのスラブ系と同じインド・ヨーロッパ系遺伝子が支配する国ですが、中国同様あまりに国民一人あたりの 生産性が低すぎ日本の1/20程度しかなく覇権には届かないでしょう。

  当分の間はY-DNA「R1b」のアメリカとY-DNA「O2」(旧「O3」)の中国が覇権争いを続けるでしょうが、中国も日本もアメリカに 対する輸出で生産性を上げてきたので、アメリカにとって代わることは逆に自滅に向かうためまず不可能でしょう。

  非常に残念ですが、現代世界の構図は、世界の警察官であり輸入超大国のアメリカが太陽として中心に存在し、世界中から生産物を 買いまくり、そのおかげでアメリカの周りに各国が衛星のように回っていられるだけなのです。 水星、金星はEU諸国、地球は日本、火星はロシア、木星が中国、土星がインドという感じでしょうか。

v.1.6  国立遺伝学研究所教授で著名研究者の斎藤成也氏が、2017年10月に核-DNA解析でたどる「日本人の源流」本を出版しました。 その中でやっと海の民にも焦点が当たり、当ガラパゴス史観の「縄文人の一部は海のハンター」史観が 間違ってはいないかもしれない雰囲気になって来ました。 そろそろ時機到来の様相になって来ましたのでガラパゴス史観を総括し、日本人の源流考をまとめてみました。 これはY-DNA及びmtDNAの論文104編を読み込みメタアナリシスした結果得た、アブダクション(推論)です。 追加の着想がまとまる都度書き足します。

  枝葉末節は切り捨て太幹のみに特化して組み立てていますので、異論・興味のある方は、 当史観が集めた論文や、その後に発表されている新しい論文をじっくり読んで是非御自分で源流考を組み立ててみてください。

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飛躍しすぎほぼ空想談

  このコラムの項目2で「北京原人やジャワ原人などのホモエレクトスも出アフリカし、ネアンデルタール人も出アフリカしたということは、 現生人類が出アフリカしたのは人類の遺伝子が導く宿命ではないかとも思われる。」と書いたのですが、 布団に入ってウトウトし始めた時に、突然、”空想の語り部”が降臨してきて グチュグチュと御託言を言い残していったので、忘れないうちに書き留めます。

  何故、ヒトを含む類人猿の進化ツリー前半のギボン(テナガザル)やオランウータンは(東南)アジアにしか棲息しておらず、 進化ツリー後半のゴリラやチンパンジーはアフリカにしか棲息していないのか?

  ヒトがアフリカで発祥したのはチンパンジーとの共通の祖先がアフリカにしかいなかったからなのは極めて明白ですが、 では何故共通の祖先はアジアにはいなかったのか?何故アフリカにしかいなかったのか? この疑問に関する納得できる説明を探してみたのですが、今のところ全く見つかってはいません。

  今のところの進化ツリーでは進化の後半で、ゴリラの祖先になった類人猿はアジアからアフリカに大移動をしたことになります。 要するに、ヒトの遠い源郷はアジアだったから、人は出アフリカしてユーラシア大陸を東に進んだと言うことになります。 つまりサケやウナギが戻ってくるのと一緒で、源郷戻りが遺伝子に埋め込まれているのではないか!? では逆に、なぜ類人猿はアジアからアフリカに移動をしたのか?も依然、極めて大きな謎です。

  とにかく解剖学的現代ヒト族は宿命に導かれ出アフリカし、中東あたりで先輩ヒト族の中東型ネアンデルタール人と交雑し分化し、 インド洋の沿岸に沿って東のアジアを目指し大移動を決行し、古代遺伝子Y-DNA「C」と「D」はアジアに到達しそこで棲息をしてきたわけです。 ところが別の古代遺伝子Y-DNA「E」は、せっかく出アフリカしたにも関わらずまたアフリカに出戻ってしまった。 ということはアフリカに進むことも遺伝子に組み込まれているのかもしれない。

  では残りの古代遺伝子Y-DNA「F」は、なぜインド亜大陸に留まり全新興遺伝子の親遺伝子となったのだろうか? アフリカ大陸でヒト族がチンパンジーとの共通の祖先から分化したように、インド亜大陸で新興遺伝子の共通の祖先の古代遺伝子「F」から 分化したのでしょう、それを実行した最も考えられる要因はアジア型ネアンデルタール人との交雑でしょう。

  インド亜大陸はアフリカ大陸と同様の、進化や分化を後押しするパワーがあるのではないか?誰か研究してくれませんかね!!!!!。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-2,0-5,15-28,18-2.htm#0-2

25. 中川隆[-11011] koaQ7Jey 2019年10月09日 06:34:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1823] 報告

2019年10月09日
顔面形態から推測されるハイデルベルク人の位置づけ
https://sicambre.at.webry.info/201910/article_19.html


 先月(2019年9月)19日〜21日にかけてベルギーのリエージュで開催された人間進化研究ヨーロッパ協会第9回総会で、ホモ属進化史におけるハイデルベルク人(Homo heidelbergensis)の位置づけ現生人類(Homo sapiens)の拡散に関する研究(Arsuaga et al., 2019)が報告されました。この研究の要約はPDFファイルで読めます(P76)。現生人類(Homo sapiens)とネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)は中期更新世の共通祖先から進化した、と遺伝的データは示唆します。その最終共通祖先として有力なのがハイデルベルク人ですが、異論も少なくはなく(関連記事)、両系統の最終共通祖先の形態はよく分かっていません。

 本論文は、アフリカとユーラシアのホモ属化石および現代人の合計791個体の顔面形態を分析し、この問題を検証しました。多くの化石ホモ属の顔は現代人よりも大きくて頑丈であり、現生人類系統における華奢化を示しますが、ネアンデルタール人系統においても、顔面の華奢化傾向が見られます。本論文は、化石標本には部分的なものも多いため、CTスキャンも用いて欠落データを推定し、分析しました。その結果、現生人類は化石標本でも現代人標本でも、ネアンデルタール人およびハイデルベルク人から明確に区分されました。一方、広義のハイデルベルク人標本はネアンデルタール人と重なります。

 本論文は、相対成長(アロメトリー)が、ハイデルベルク人とスペイン北部の通称「 骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡の早期ネアンデルタール人と古典的ネアンデルタール人の間の顔面形態の違いを説明する一方で、ハイデルベルク人と化石および現代の現生人類の違いを説明していない、と指摘します。さらに本論文は、広義のホモ・エレクトス(Homo erectus)標本であるアフリカ東部のKNM-ER 3733およびジャワ島のサンギラン17(Sangiran 17)と、ホモ・ハビリス(Homo habilis)標本であるKNM-ER 1813は、顔面サイズの違いを考慮すると、現生人類とクラスター化する、と指摘します。

 そのため本論文は、ハイデルベルク人の顔面形態はネアンデルタール人への派生的進化を示している、と主張します。対照的に現生人類は、より一般的で祖先的な広義のエレクトスの顔面形態の多くの側面を保持しています。本論文は、ネアンデルタール人はおそらくハイデルベルク人から進化し、現生人類はそうではなかった、と推測します。現生人類系統とハイデルベルク人系統が分岐した後、ハイデルベルク人系統で派生的進化が起き、その(一部の?)系統からネアンデルタール人が進化しただろう、というわけです。本論文は、現生人類とネアンデルタール人の最終共通祖先の形態は、ハイデルベルク人とは異なっており、よりエレクトスに類似していたのではないか、と推測しています。


参考文献:
Arsuaga JL, Martinón-Torres M, and Santos E.(2019): Homo heidelbergensis is not your ancestor. The 9th Annual ESHE Meeting.

https://sicambre.at.webry.info/201910/article_19.html

26. 中川隆[-10949] koaQ7Jey 2019年10月12日 07:36:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1885] 報告

2019年10月12日
スカンジナビア半島の戦斧文化集団の遺伝的起源
https://sicambre.at.webry.info/201910/article_25.html


 スカンジナビア半島の戦斧文化(Battle Axe Culture、BAC)集団の遺伝的起源に関する研究(Malmström et al., 2019)が報道されました。まず、本論文で取り上げられるおもな文化の略称を先に記載しておきます。戦斧文化(Battle Axe Culture、BAC)、縄目文土器文化(Corded Ware culture、CWC)、鐘状ビーカー文化(Bell Beaker Culture、BBC)漏斗状ビーカー文化(Funnel Beaker Culture、FBC)、円洞尖底陶文化(Pitted Ware Culture、PWC)、単葬墳文化(Single Grave Culture、SGC)、櫛目文土器文化(Combed Ceramic Culture、CCC)。

 紀元前3000年頃に、ポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)の牧畜民がヨーロッパ中央部へと拡散していき、その影響力は現代ヨーロッパ人に強く残っています。これはヤムナヤ(Yamnaya)文化集団の拡大によるものと考えられており、ヨーロッパ各地で多様な文化集団を形成していきました。ヤムナヤ文化集団の拡大範囲の北西部では、縄目文土器文化(Corded Ware culture、CWC)がその代表例で、ヨーロッパ北部および中央部に紀元前3000〜紀元前2000年前頃に分布していました。しかし、CWCの形成におけるヤムナヤ文化集団の移住の影響に関しては、文化伝播もしくは地域的発展と人類集団の移住およびその遺伝的影響のどちらが重要だったのか、議論が続いています。

 また、ヨーロッパ中央部・スカンジナビア半島・バルト海東部では、ヤムナヤ文化集団の移住と混合の遺伝的痕跡が確認されているものの、そうした移住はさまざまな地域で異なる経路をたどったと考えられており、移住がヨーロッパにおいて人口史にどのような影響を与えたのか、正確には明らかではありません。スウェーデンでは、CWCは戦斧文化(Battle Axe Culture、BAC)と呼ばれています。紀元前3000〜紀元前2800年頃に始まるBACは、現在のスウェーデン中部とノルウェー南部までのスカンジナビア半島と、フィンランド北西部のバルト海東側にまで分布していました。

 これらバルト海周辺地域に関しても、BACおよびCWCの拡散が文化伝播もしくは地域的発展なのか、それとも外来集団により導入されたのか、議論が続いてきました。以前の考古学的研究は、BACおよびCWCを共通の文化的・社会的慣行を伴うものとして把握しており、埋葬習慣と土器形式と舟形戦斧の均一性を強調しました。最近では、これらの見解は単純すぎると議論されており、BACおよびCWC内の地域的パターンと特徴が強調されています。以前の考古遺伝学的研究では、BACおよびCWCの個体群のゲノム解析がポーランド(関連記事)やフィンランドおよびロシア北西部(関連記事)などで行なわれてきましたが、スカンジナビア半島でのBACの出現もCWC内の移住パターンの特徴と時間および地理的経緯については、まだよく解明されていません。

 本論文は、スカンジナビアにおけるBAC出現の様相をよりよく理解するため、現在のスウェーデン・エストニア・ポーランドの、紀元前3300〜紀元前1660年頃と推定されている11人のDNAを解析しました。ゲノム規模網羅率は0.11〜3.24倍です。遺伝的に、11人のうち男性は5人、女性は6人と推定されています。トコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)は全員、Y染色体ハプログループ(YHg)は3人が分類されました。

 11人のうち5人はBACおよびCWCの遺跡で発見されており、そのうち2人はポーランドのオブワチュコボ(Obłaczkowo)、1人はエストニアのカルロヴァ(Karlova)、2人はBAC埋葬地であるスウェーデンのベルグスグレーヴェン(Bergsgraven)で発見されました。年代は、オブワチュコボの2人(poz44とpoz81)が紀元前2880〜紀元前2560年頃、カルロヴァの1人(kar1)が紀元前2440〜紀元前2140年頃、ベルグスグレーヴェンの2人(ber1とber2)は紀元前2640〜紀元前2470年頃です。

 11人のうち6人は、BACおよびCWCではない遺跡で発見されています。そのうち5人はおもに漏斗状ビーカー文化(Funnel Beaker Culture、FBC)と関連している巨石墓に埋葬されており、2人(ros3とros5)がスウェーデン南部のヴェステルイェートランド(Västergötland)のレッスベルガ(Rössberga)で、3人(oll007とoll009とoll010)がスウェーデン南部のスカニア(Scania)のエルスヨ(Öllsjö)で発見されています。年代は、ros3とros5が紀元前3330〜紀元前2920年頃、oll007が紀元前2860〜紀元前2500年頃でBACの2人と重なっており、oll009とoll010はスカンジナビア半島の新石器時代後期〜青銅器時代となる紀元前1930〜紀元前1660年頃です。6人のうち残りの1人(ajv54)はスウェーデンのゴットランド(Gotland)の円洞尖底陶文化(Pitted Ware Culture、PWC)遺跡となるアジュヴァイド(Ajvide)で発見され、年代は紀元前2900〜紀元前2680年頃です。

 BACおよびCWC遺跡の個体群は、巨石墓からのoll007も含めてmtHgでは、石器時代狩猟採集民と関連しているU4・U5と、新石器時代農耕民と関連しているH1・N1a・U3に分類されます。これはCWC遺跡の他の個体群に見られるmtHgの変異内におおむね収まりますが、本論文で新たに報告されたmtHg-U3およびN1aは、CWC遺跡で発掘された個体群では報告されていません。

 本論文で新たにYHgが分類された男性3人では、BAC遺跡のber1とCWC遺跡団のpoz81がともにYHg- R1aで、これは既知のCWC文化遺跡個体群の主流YHgです。またCWC集団では、少数派ながらYHg- R1bやYHg- I2aも見られます。YHg-R1aはヨーロッパ中央部および西部の新石器時代農耕民や狩猟採集民の間では見つかっていませんが、ヨーロッパ東部の狩猟採集民と銅器時代集団では報告されてきました。ポントス-カスピ海草原のヤムナヤ文化集団ではほとんどがYHg- R1bで、YHg-R1aではありません。この他に、レッスベルガのros5がYHg- IJと分類されています。

 本論文は新たにDNAを解析した11人のうち、分析が可能な個体の表現型についても報告しており、カルロヴァの1人(kar1)には乳糖耐性関連アレル(対立遺伝子)が確認されています。また外見に関しては、髪の色は明暗両方、目の色も茶色と青色両方が見られました。炭素と窒素の安定同位体値からは、アジュヴァイドの1人(ajv54)を除いて、陸生の食性だったと明らかになっています。ベルグスグレーヴェンの個体のストロンチウム同位体データ、少なくともそのうち1人は死ぬ少し前にベルグスグレーヴェンに移住してきた、と示しています。

 11人のゲノム分析と既知のゲノムデータとの比較は、以前の結果を改めて確認します。第一に、ヨーロッパ全域の早期および中期新石器時代農耕民と中石器時代狩猟採集民は明確に分離します。第二に、ヨーロッパの狩猟採集民間の亜構造はおおまかに東西の勾配と対応していますが(WHGたるヨーロッパ西部狩猟採集民とEHGたるヨーロッパ東部狩猟採集民)、スカンジナビアは例外です(関連記事)。第三に、ほとんどの後期新石器時代および青銅器時代個体群は現在のヨーロッパ中央部および北部の人類集団と重なり、これはポントス-カスピ海草原からのヤムナヤ牧畜民関連の侵入集団との混合に起因します。

 スカンジナビア半島では、漏斗状ビーカー文化(Funnel Beaker Culture、FBC)と円洞尖底陶文化(Pitted Ware Culture、PWC)と戦斧文化(Battle Axe Culture、BAC)という考古学的に異なる3文化間の明確な遺伝的分離が見られます。PWC遺跡の新石器時代採集民は遺伝的に中石器時代スカンジナビア半島狩猟採集民と類似していますが、農耕民集団との類似性もやや見られ、おそらくはスカンジナビア半島における狩猟採集民と農耕民集団の混合に起因します。

 BAC遺跡の個体群は、ヨーロッパの他のCWC遺跡の個体群との関連を明確に示します。とくに、スウェーデン南部のエルスヨ遺跡のoll007個体は、直接的にはCWC遺物と関連していませんが、年代的にはCWCと重なっており、CWCの個体群と一群を形成しており、それはもっと新しい年代のエルスヨ遺跡の2人(oll009とoll010)も同様です。エストニアのカルロヴァ個体とポーランドのオブワチュコボの個体群もBAC個体群と類似しており、バルト海地域全体のBACおよびCWC個体群との強い遺伝的類似性を示しているようです。オブワチュコボの2個体も含めてCWCの何人かは、ヤムナヤ牧畜民と関連する草原地帯系統と密接に類似します。これらの個体群は、CWC個体群でも年代は最古と推定されており、全体としてCWC個体群では、時間の経過とともに草原地帯系統の減少という類似した明確な傾向が見られます。

 本論文は、スカンジナビアへのCWC関連集団の拡大を調査し、CWCおよびBAC関連個体群で見られる系統の割合をよりよく理解するため、アナトリア農耕民とヨーロッパ西部狩猟採集民とヤムナヤ草原地帯牧畜民という3起源の系統のモデリングを実行しました。CWC個体群のほとんどはヤムナヤ系統(草原地帯系統)の割合が高いのですが、アナトリア農耕民およびヨーロッパ西部狩猟採集民系統も見られます。スウェーデンのBAC個体群も同様です。BACと同年代ではあるものの文化が不明か、何百年も早く巨石墓に葬られたエルスヨといった他の個体群は、スウェーデンの他地域の典型的なBAC個体群と同じ遺伝的構成を示します。

 BAC関連個体群は高い草原地帯系統を有しますが、ほとんどの他のCWC個体と比較してその割合は相対的に低くなっています。しかし、エストニアのカルロヴァのCWCの女性個体(kar1)もBAC関連個体群と類似しています。対照的に、ポーランドのオブワチュコボの2個体(poz44とpoz81)は草原地帯系統のひじょうに高い割合(90%以上)を示しており、もっと後のポーランドのCWC関連個体群とは異なりますが(関連記事)、ドイツやリトアニアやラトヴィアの他のCWC関連個体群とは類似しています。

 BAC集団の形成史に関しては複数のモデルが提示されており、PWC集団に関しては直接的な祖先か否か、判断が分かれていますが、CWC集団に関しては全モデルで一致して主要な祖先とされており、スウェーデンのBAC集団は他のCWC集団からの移住なしには出現しなかった、と推測されています。さらに詳しく見ていくと、BAC集団はエストニアのCWC関連集団の姉妹集団としては適合しますが、ポーランドもしくはリトアニアのCWC集団とは姉妹集団としては適合しません。これは、CWC集団とBAC集団との間の系統の多少の違いを示唆します。混合モデルでは、スカンジナビア半島におけるBAC集団の出現に関して、バルト海地域東部からのCWC集団の直接的移住、もしくはバルト海地域南部からCWC集団がスカンジナビア半島に移住し、FBC集団と混合した、と推測されます。本論文は、より多くの標本からゲノムデータを得ることで、さらに詳細な形成史が推定できる、と見通しています。以下に、スウェーデンのBAC集団の形成史に関する本論文の図3を掲載します。

画像

 本論文はこれらの知見を踏まえて、CWC遺跡群の人々は、紀元前三千年紀より前にはヨーロッパ北部および中央部には存在しなかった遺伝的系統を有する、と改めて指摘します。この草原地帯系統は、上述のように紀元前3000年頃にポントス-カスピ海草原からヨーロッパ東部へと拡散を始めたヤムナヤ文化牧畜民集団にまでさかのぼります。この遺伝的構成は、バルト海周辺地域のDNA解析されたBACおよびCWCの全個体において、遺伝的系統では最大の割合を示します。

 ここで注目されるのは、上述のように、これまでに分析された最初期のCWC個体群では草原地帯系統の割合が最も高いのに(90%以上)、もっと後の個体群ではこの割合がより低い、ということです。これは、アナトリア農耕民系統へとその遺伝的系統のほとんどをたどれるヨーロッパ北部のFBC集団のような、侵入する集団と在来集団との混合の漸進的過程を示します。この過程は、おもに侵入する男性と在来の女性との混合により推進されました(関連記事)。混合過程は、CWCの全体的な範囲にわたって明らかで、FBC集団もしくはその遺伝的に関連した集団が見つかっていないバルト海東部沿岸のような地域でさえ、確認されています。こうした混合の背景としては、CWC全体の交換ネットワークもしくはバルト海東部地域への特定の移住が想定されます。後者の場合、その潜在的な起源地域は、現在のポーランドもしくはスウェーデンで、そうした地域ではCWC集団の到達に先行するFBC集団が見つかっています。

 BACおよびCWC個体群で見られる父系の起源はよく分からないままです。これまでの研究では、CWC個体群のYHgはR1aで、推定されるヤムナヤ文化集団の大半はYHg- R1bとされています。YHg-R1aは中石器時代と新石器時代のウクライナで見られます。これは、ヤムナヤおよびCWCは父系的社会を形成し、まだDNA解析が進んでいないヨーロッパ中央部および北部の集団が、BACおよびCWCの父系の直接的起源だった可能性を提起します。

 スカンジナビ半島アの中期新石器時代の巨石墓はFBCと関連づけられています。しかし、BACおよびその後の文化で共通する人工物からは、後の文化集団による再利用が示唆されています。FBC関連のエルスヨ遺跡の巨石墓に埋葬された個体(oll007)はBACと同年代で、遺伝的にはBAC個体群とひじょうに類似しています。したがって、考古学的には巨石墓の再利用は早いと推定され、本論文の知見は、じっさいのFBC関連巨石墓をBAC集団も埋葬地として利用していたことを示す、最初の証拠になるかもしれません。これは、デンマークの単葬墳文化(Single Grave Culture、SGC)でも同様かもしれない、と本論文は指摘します。

 BACはスカンジナビア南部でFBCを置換しましたが、以前には在来集団の文化的変容との見解も提示されていました。しかし、本論文の知見で改めて確認されたように、スカンジナビア半島のBAC集団はより広範なCWC集団の一部で、外来集団の移住によりその遺伝的構成に草原地帯系統がもたらされ、ヨーロッパ西部狩猟採集民・アナトリア農耕民・草原地帯牧畜民の各系統の混合を示します。スカンジナビア半島のBAC集団は、紀元前2600年頃よりも前のバルト海沿岸南部もしくは東部地域のCWC個体群よりも、アナトリア農耕民関連系統を有しており、FBC集団との混合を示唆します。こうしたBAC個体群の混合系統は、すべての常染色体分析で明らかで、mtHgでも同様ですが、YHgでは外れたパターンを示します。これは、ヤムナヤ文化とその後のCWC集団で見られる、男性に偏った移住および混合過程を反映しているのでしょう。

 ただ、BAC集団が外来集団と在来集団との混合により形成されたのか、確定的ではなく、スカンジナビア半島以外で混合した集団が移住してきた可能性も考えられます。たとえば、BAC集団は櫛目文土器文化(Combed Ceramic Culture)のような他のバルト海東部地域の集団との特別な遺伝的関連性を示しません。CWCの人々はおもに陸路で拡散していたので、ヨーロッパ中央部から現在のデンマークやスウェーデンへと移住してきた、と推測されます。この期間にバルト海地域では土器の技術的交換が確認されており、遺伝子流動と関連していたかもしれませんが、まだ確証はありません。

 本論文は最後に、BAC個体群からの遺伝的データはまだ限定的で、本論文の知見から推測される遺伝子流動のパターンは、スカンジナビア半島への単一の移住事象と、社会的および技術的交換の広範なネットワークを伴う継続的過程の両方と一致する、と指摘します。この問題のより詳細な解明には、もっと多くの古代ゲノムデータが必要となります。ヨーロッパを中心にユーラシア西部の古代DNA研究の進展は目覚ましく、ユーラシア東部圏の日本人である私としては羨ましくなりますが、今後はこの格差が縮小していくほど、ユーラシア東部の古代DNA研究が進展することを期待しています。


参考文献:
Malmström H. et al.(2019): The genomic ancestry of the Scandinavian Battle Axe Culture people and their relation to the broader Corded Ware horizon. Proceedings of the Royal Society B, 286, 1912, 20191528.
https://doi.org/10.1098/rspb.2019.1528

https://sicambre.at.webry.info/201910/article_25.html

27. 中川隆[-10827] koaQ7Jey 2019年10月15日 12:36:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2015] 報告

2019年10月15日
ドイツ南部の青銅器時代の社会構造
https://sicambre.at.webry.info/201910/article_29.html


 ドイツ南部の青銅器時代の社会構造に関する研究(Mittnik et al., 2019)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。『サイエンス』のサイトには解説記事が掲載されています。

日本語の解説記事
https://www.eurekalert.org/pub_releases_ml/2019-10/aaft-5_3100819.php

もあります。古代DNA研究により、ヨーロッパ中央部における先史時代の遺伝的変化が明らかにされてきました(関連記事)。しかし、その社会構造に関しては、未解明の点が多く残されています。考古学では、前期青銅器時代には、豪勢な墓が確立していったことから、階層的な社会的構造が進展した、と考えられています。同位体分析では、広範な地域にわたる長期の族外結婚ネットワークの存在が示唆されています。

 本論文は、後期新石器時代から中期青銅器時代までの、小さな農場が密集するドイツ南部のレヒ川渓谷における、高解像度の遺伝的・考古学的・同位体データを提示します。本論文は、これらレヒ川渓谷の後期新石器時代〜中期青銅器時代遺跡群の104人のゲノム規模データを生成し、約120万ヶ所の一塩基多型データでその遺伝的系統と親族家系を推定されました。この時期のレヒ川渓谷の文化的区分は、紀元前2750〜紀元前2460年頃の縄目文土器文化(Corded Ware culture、CWC)、紀元前2480〜紀元前2150年頃の鐘状ビーカー文化(Bell Beaker Culture、BBC)、紀元前2150〜紀元前1700/1500年頃の前期青銅器時代、紀元前1700〜紀元前1300年頃の中期青銅器時代(MBA)となります。後期新石器時代〜中期青銅器時代レヒ川渓谷集団(以下、レヒ川渓谷集団)の遺伝的データは、993人の古代人および1129人の現代人と比較されました。また、レヒ川渓谷の後期新石器時代〜中期青銅器時代の139人のストロンチウムおよび酸素同位体データが得られ、生涯の移動履歴が推定されました。

 レヒ川流域集団は遺伝的にはヨーロッパ集団の範囲内に収まり、ポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)の青銅器時代牧畜民と中期新石器時代および銅器時代ヨーロッパ人の間に位置します。レヒ川流域集団の古代系統は、青銅器時代以降の多くのヨーロッパ集団と同様に、ヨーロッパ西部狩猟採集民系統とアナトリア農耕民系統とポントス-カスピ海草原の牧畜民であるヤムナヤ(Yamnaya)系統の混合として表されます。レヒ川流域集団では、BBCから中期青銅器時代にかけて次第にアナトリア農耕民系統の割合が増加しており、新石器時代以来のヨーロッパの在来集団と、後期新石器時代以降となるポントス-カスピ海草原からの外来集団(ヤムナヤ系集団)との混合の進展を示します。

 CWC 集団ではX染色体と比較して常染色体でヤムナヤ系統の割合が顕著に高いことから、ヤムナヤ系の割合の高い集団と在来集団との当初の混合は、前者の男性と在来集団の女性に偏っていた、と示唆されます。これは、後期新石器時代〜青銅器時代にかけてのヨーロッパにおけるヤムナヤ系集団の拡大では男性が主体だった、とする以前の見解と一致します(関連記事)。しかし、後のレヒ川流域集団ではこうした性的偏りは観察されていません。レヒ川流域集団男性のY染色体ハプログループ(YHg)は、ほとんどが紀元前三千年紀のヨーロッパ中央部および西部で高頻度のR1b1a1b1a1a2で、ヤムナヤ系統を有するCWC 集団の拡散に由来すると推測されます。このCWC 集団がヨーロッパ中央部に拡散してきて定着し、ヤムナヤ系統の割合の低い在来集団との混合が次第に進展していった、と考えられます。

 ストロンチウムと酸素の同位体比は、男性と未成年よりも女性において外来者が多かたことを明らかにします。これは、男性が出生地に居住し続けたか、出生地に埋葬されるという父方居住制を示唆します。すでに以前の研究では、後期新石器時代〜前期青銅器時代のレヒ川渓谷において父方居住の配偶形態と、知識の伝達における女性の役割が指摘されており(関連記事)、本論文は以前の研究を改めて確認し、さらに詳しく解明しています。ただ、成人男性のうち3人は例外的で、思春期に出生地を離れ、成人になると帰郷した、と推測されます。外来の女性は、思春期もしくはその後にレヒ川流域に到来した、と推測されます。

 レヒ川渓谷集団の血縁関係も推定され、2世代が3家系、4世代が1家系、5世代が2家系です。10組の親子関係のうち、母親と子供の組み合わせは6組で、子供は全員男性でした。また、10組の親子関係のうち、9人の子供は成人でした。これは、息子ではなく娘が出生地を離れた、と示唆しており、同位体比から推測される父系的な族外婚と一致します。ミトコンドリアDNA(mtDNA)に基づくと、レヒ川渓谷集団では母系が継続しなかったのに対して、父系は4〜5世代続いたと推定されます。さらに、YHgで支配的なR1b系統に分類されない男性は、同じ墓地に近親の被葬者がいないことも明らかになりました。

 副葬品では、男性における短剣や斧や鏃といった武器と、女性における銅製頭飾・太い青銅製足輪・装飾された銅製ピンなどといった精巧な装飾品は、おそらく社会的地位と関連しており、豊かな副葬品はその家系の富と地位を示す、と考古学では指摘されています。前期青銅器時代のレヒ川渓谷集団の墓地では、複数世代にわたる家系で男女双方ともに副葬品の顕著な蓄積が見られます。これを男女に分けて分析すると、この相関は男性で顕著です。武器は、親族のいない男性の墓地よりも、親族のいる男性の墓地で顕著に多く残っています。WEHR遺跡では、16人のうち母親と息子2人の計3人のみに副葬品が備えられており、富と地位が両親から子供へと継承されていたことを示唆します。成人間近の個体でも副葬品が充実しており、社会的地位は、自らの活動により獲得していくというよりもむしろ、出自により継承されることを示唆します。中核的家族は通常、隣接して埋葬されており、社会的つながりが強調されています。POST遺跡では、副葬品の高い地位は墳墓の建設と木製の柱により強調されます。これは、中核的家族への所属と精巧な形式の埋葬とのつながりを示唆します。

 各データを総合すると、埋葬者は、血縁関係があり副葬品の豊富な個体群と、それとは異なる2集団が識別されました。この2集団の構成員は、中核的家族とともに各農場で居住していた、と推測されています。その一方は外来の女性で、プレアルプス低地を越えてレヒ川流域に到来した個体もいます。これらの女性は血縁関係があり副葬品の豊富な個体群と血縁関係にはありませんが、そのほとんどで副葬品が豊富でした。もう一方は、他の個体群と血縁関係がなく、副葬品も乏しい個体群です。血縁関係のある副葬品の豊富な集団、血縁関係のない副葬品の豊富な集団、血縁関係のない副葬品の乏しい集団という3集団の間では、古代系統の顕著な違いは見られませんでした。豊かな副葬品と血縁関係を考慮すると、異なる地位および血縁関係の人々はおそらく同じ農場に居住し、複雑で社会的に階層化された組織だっただろう、と本論文は推測しています。復元された家系図と改善された個人の直接的推定年代を考慮すると、POSTの墓地では、家系全体の年代は233〜169年になる、と本論文は推測しています。

 古代の家族構造と社会的不平等の調査は、古代の人類集団の社会的組織の理解に重要となります。これまで、前期青銅器時代における社会的地位の違いは、多数の小作農と少数の傑出した支配層として推測されてきました。この支配層は、裕福な農民もしくは広大な地域あるいは集団を社会的・経済的に支配した王および王族と考えられてきました。本論文は、前期青銅器時代における社会的不平等の異なる形態を示します。それは、富と地位を子孫に継承するより高い地位の核となる血縁関係にある構成員と、血縁関係になく裕福で地位の高い外来女性と、地元出身で地位の低い個体群から構成される複雑な家族構造です。本論文は、こうした社会構造が700年以上という長期にわたって安定的に継続した、と推測しています。

 副葬品の比較に基づくと、高い地位の外来女性の何人かは、レヒ川渓谷から少なくとも350km東方となる現在のドイツ東部やチェコ共和国に存在した、ウーニェチツェ(Únětice)文化集団から到来しました。ドイツ南部のほとんどの前期青銅器時代の証拠はレヒ川渓谷遺跡群とたいへん類似しており、レヒ川渓谷のような社会的構造はずっと広範な地域に存在した、と本論文は推測しています。さらに本論文は、前期青銅器時代レヒ川渓谷集団の社会構造は、血縁関係にある人々と奴隷から構成される、古典期ギリシアやローマの家族制度と類似しているように見える、と指摘します。ただ、使用人的なそうした社会構造は、古典期よりもずっと前に存在していたのではないか、というわけです。本論文は、学際的な方法で先史時代の社会構造を明らかにしています。伝統的な個別の方法では解明の難しい先史時代の社会構造も、学際的な方法ではかなりの程度分かるようになる可能性を提示したという意味で、本論文は注目されますし、こうした方法が広く用いられ、研究が大きく進展するだろう、と期待されます。

 本論文は、前期青銅器時代のドイツ南部において、すでに社会的地位と富が出自に基づいて継承されており、階層化社会が確立していた、と示します。社会的地位の高い家系の女性は、外部の集団に送り出されて地位の高い家系の男性と結婚し、地位の低い人々は配偶機会に恵まれないか、そもそも墓地に埋葬されることが少なかった、と考えられます。また本論文は、前期青銅器時代のドイツ南部の社会が父系的だったことも示しています。社会的地位の上下で古代系統の割合が大きく変わらないことと、地位の低い男性のYHgが支配層のR1b系統とは異なっていることから、ヤムナヤ系統の割合の高い外来集団、おそらくはCWC集団が男性主体で征服者としてドイツ南部に拡散してきて、その男系子孫が高い社会的地位を確立して継承していった一方で、在来の男系子孫は社会低層に追いやられ、配偶機会も少なくなっていった、と推測されます。

 こうした父系的社会は世界各地で珍しくありませんが、現生類人猿が現代人の一部を除いてすべて非母系社会を形成することから、人類は元々母系社会で、「社会的発展」により父系社会に移行した、という説明は根本的に間違っている、と私は考えています(関連記事)。この問題についてはまだ勉強不足なので明快には述べられないのですが、類人猿はずっと非母系社会を形成しており、ヒト・チンパンジー・ゴリラの最終共通祖先の時点で時として父系的な構造の社会へと移行し、チンパンジー系統では明確な父系社会へと移行し、ヒト系統では、父系に傾いた非母系社会から、双系的な社会を形成していったのではないか、と考えています。そうした中で、母系に特化した社会も形成されたのであり、母系社会は人類史においてかなり新しく出現したのではないか、というのが現時点での私の見解です。


参考文献:
Mittnik A. et al.(2019):Kinship-based social inequality in Bronze Age Europe. Science.
https://doi.org/10.1126/science.aax6219

https://sicambre.at.webry.info/201910/article_29.html

28. 中川隆[-10508] koaQ7Jey 2019年10月29日 12:36:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2365] 報告

現生人類、ボツワナで20万年前に誕生 DNA分析で特定
10/29(火) 6:25配信 AFP=時事


現生人類誕生の地として特定されたマカディカディ・オカバンゴ地域を示した図。矢印は、人類が13万〜10万年前に北東と南西の両方向に移動した経路。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191029-00000002-jij_afp-sctch.view-000

【AFP=時事】現生人類は20万年前、ボツワナ北部で誕生したとする論文が28日、国際研究チームにより科学誌ネイチャー(Nature)に発表された。人類誕生の地を特定した研究結果としては、これまでで最も詳細な位置を示したものとみられる。

【写真】現在のオカバンゴ・デルタの様子
https://www.afpbb.com/articles/-/3251885?pid=21794231&tmpl_skin=gallery&utm_source=yahoo&utm_medium=news&cx_from=yahoo&cx_position=p1&cx_rss=afp&cx_id=3251885


 解剖学的現生人類のホモ・サピエンス・サピエンスがアフリカで誕生したことは以前から知られていたが、その正確な場所は特定されていなかった。

 研究チームは、「L0」系統のDNAを高い割合で保持することが知られている民族グループ「コイサン」に属する200人からDNAサンプルを採取した。コイサンは現在、南アフリカとナミビアに暮らしている。

 研究チームはサンプルを地理的分布や考古学、気候変動のデータと合わせ、ゲノム年表を作製。年表から、L0系統の起源が20万年前のザンベジ川(Zambezi River)南方のボツワナ北部にさかのぼることが示唆された。

 同地域はマカディカディ・オカバンゴ(Makgadikgadi-Okavango)と呼ばれ、現在は主に荒原が広がっているが、当時はビクトリア湖(Lake Victoria)の約2倍の大きさの巨大湖があったという。人類は同地域に約7万年の間住んでいたが、約13万年前に起きた気候変動により世界各地に広がっていったとみられている。【翻訳編集】 AFPBB News
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191029-00000002-jij_afp-sctch

29. 中川隆[-11053] koaQ7Jey 2019年11月02日 15:17:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1837] 報告

人類の故郷はアフリカ南部ボツワナの湿地帯…最新の研究で新説
Aylin Woodward 2019/11/02
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%e4%ba%ba%e9%a1%9e%e3%81%ae%e6%95%85%e9%83%b7%e3%81%af%e3%82%a2%e3%83%95%e3%83%aa%e3%82%ab%e5%8d%97%e9%83%a8%e3%83%9c%e3%83%84%e3%83%af%e3%83%8a%e3%81%ae%e6%b9%bf%e5%9c%b0%e5%b8%af%e2%80%a6%e6%9c%80%e6%96%b0%e3%81%ae%e7%a0%94%e7%a9%b6%e3%81%a7%e6%96%b0%e8%aa%ac/ar-AAJImyu?ocid=ientp#page=2



ボツワナのコイサン族は、現在生きているすべての人間の母系共通祖先としてミトコンドリアDNAを共有している。© Shutterstock

解剖学的に現代のヒト、すなわちホモ・サピエンスはアフリカで約20万年前に出現した。しかし、それがどこから来たのかははっきりしていない。

最新の研究によると、現代人の先祖の故郷は現在のボツワナ、ザンベジ川のすぐ南にあるという。

研究者たちは遺伝子分析を使ってその地域に絞り込んだ。

この発見は、現代の人類の祖先は、世界中のさまざまな地域で同時に進化するのではなく、すべてアフリカから移住してきたという説を支持している。

しかし、一部の人類学者はこの新しい発見に懐疑的だ。

ある研究者のグループが、現在生きているすべての人間の祖先の故郷を現代のボツワナに特定したと発表した。

ネイチャー誌に発表された新たな研究で、研究者はアフリカのさまざまな集団の1200人以上のミトコンドリアDNA(母系で伝わる遺伝情報:mtDNA)を分析した。そしてヒトのDNAに保存されている遺伝子を調べ、解剖学的な現代人は、ザンベジ川の南、ボツワナの豊かな湿地帯に出現したことを明らかにした。

多くの科学者の間で、現生人類(ヒト)がおよそ20万年前にアフリカで発生したという点では意見が一致しているが、この大陸のどこで進化上の重要な出来事が起こったのかは、いまだに正確にはわかっていない。この新しい研究は、この疑問に対する新たな答えを提供し、また、限られた化石の証拠が示唆する、私たちの祖先が東アフリカで出現したという説を否定するものだ。

この論文の主執筆者で人類学者のヴァネッサ・ヘイズ(Vanessa Hayes)氏は記者会見で、今回の発見は、今日生きて歩いている人のmtDNAはこの「人間の故郷」にまでさかのぼることを示唆していると述べた。

広大な湿地が人類の祖先のゆりかご

我々の祖先の地理的起源を突き止めるために、ヘイズ氏と同僚はコイサン族のような南アフリカに住んでいる人々から得たmtDNAを調べた。母系に伝わるmtDNAは父系DNAと混合されていないため、ヒトの祖先の追跡によく用いられているが、これは時間の経過とともに変化が少なくなり、遠い親戚とのつながりが明確になることを意味する。

mtDNAについては、現代のヒトはすべてハプログループLと呼ばれる遺伝子群を共有している。Lの系統はL0とL1〜6の2つのサブグループに分けられる。L0はアフリカ南部の人々に見られ、ヘイズ氏のチームはこれを分析した。この研究の共著者であるエヴァ・チャン(Eva Chan)氏は、これが「これまでのL0研究では、最大のもの」だと述べた。

この遺伝子の辿っていくと、現在生きているすべての人が、約20万年前にアフリカ南部、今のボツワナに住んでいた女性の子孫であることがわかった。その地は、マカディカディ・オカバンゴ古湿地と呼ばれ、現在のオカバンゴ・デルタの近くで、湖や緑が点在していた。


現代のボツワナのオカバンゴ・デルタ。かつて人間の祖先を養った緑豊かな湿地に似ている。© Via Wikimedia Commons 現代のボツワナのオカバンゴ・デルタ。かつて人間の祖先を養った緑豊かな湿地に似ている。
研究チームは、この地域の当時の気候を再現した分析も行い、ホモ・サピエンスがここに約7万年の間住んでいたことを明らかにした。その後、気候が変化するにつれて、我々の祖先は二つに分かれた。一つは13万年前に北東に広がった集団で、もう一つは11万年前に南西に移動した集団だ。

ヘイズ氏によると、これらのグループは、この地域から出ていった動物の群れを追跡した可能性が高いという。

しかし、このタイムラインは、一部の科学者が化石に基づいて作成したものと相反する。19万5000年前の頭蓋骨やその他の化石など、解剖学的に現代人の最も古い標本はエチオピアで見つかっている。そのため多くの人類学者は、新しい研究が示唆するアフリカ南部ではなく東部が現代人の祖先の出身地だと考えている。

今回の遺伝子解析は、すべての現生人類は、世界中の複数の場所で同時に別々に進化するのではなく、現在のヨーロッパ、アジア、オーストラリアなどに移住する前に、アフリカで進化したという考えに信憑性を与えている。


2017年に作成されたホモサピエンスがアフリカの外への出たルートの地図。現代の祖先の起源がアフリカ東部であることを示している。© Katerina Douka and Michelle O'Reilly/Flickr2017年に作成されたホモサピエンスがアフリカの外への出たルートの地図。現代の祖先の起源がアフリカ東部であることを示している。
研究論文の著者によると、ボツワナからの二手に分かれての移住は「現代の人間が最終的に世界中に移住する道を開いた」という。

調査に疑問を呈する人類学者も

しかし、ニューヨーク市立大学リーマン校でアフリカの集団遺伝学を研究している人類学者のライアン・ラウム(Ryan Raaum)氏は、今回の研究には重大な欠陥があると考えている。ラウム氏によると、研究者たちは遺伝的なタイムラインを十分遡っていないという。

ヘイズ教授の研究では、L0ハプログループの発生源が特定されたが、世界のほとんどの人のミトコンドリアDNAを遡れるのはL0ではなくL1-6サブグループまでで、「単一の原点」を見つけるには、L0とL1-6の遺伝的分裂が起こる前に生きていた祖先を見つける必要があると、ラウム教授は述べた。

「草原の中で迷子になっているのは、これらのデータを現代人のアフリカ南部起源を主張するために拡大解釈したからだ。データはそうではない」と同氏はBusiness Insiderに語った。


人類学者のヴァネッサ・ヘイズが、ナミビアの狩人に火をつける方法を学んでいる。彼らの一部は、彼女の研究のためにDNAサンプルを提供した。© Chris Bennett, Evolving Picture, Sydney, Australia 人類学者のヴァネッサ・ヘイズが、ナミビアの狩人に火をつける方法を学んでいる。彼らの一部は、彼女の研究のためにDNAサンプルを提供した。
ラウム教授はさらに、「先祖の故郷」という言葉が気に入らないと付け加えた。

「現代人に進化した集団はおそらく一つではなかったのではないかと思う。もしそうなら、 故郷はない」

研究者は、さらなる研究のためには、より多くのDNAが必要だと言う

ヘイズ博士のチームの研究結果には、mtDNA分析では母親のDNAしか調べられないという問題もある。

細胞の2つの部分がDNAを持っている。遺伝物質の大部分が存在する核とミトコンドリアだ。核DNA(nDNA)は両親から遺伝し、Y染色体に沿って移動する。一方、mtDNAは母親からのみ受け継がれる。

nDNAは化石に残るのは稀なので、ヘイズ氏のような研究ではあまり調べられていない。祖先集団の全ゲノムを調べることはできないのだ。

2014年、人類学者たちはY染色体のデータに基づいて、現在知られている最古のヒトの系統を特定した。この集団はせいぜい16万年前のもので、アフリカ中西部にいた。だから現在生きているすべての人は、アフリカの南部ではない別の場所に住んでいた人の子孫である可能性がある。

ヘイズ氏は記者会見で「他の起源や系統があるかもしれない。可能性としては」と述べた。

しかし、ボツワナが今日生きているすべての人の生命のゆりかごであったかどうかに関わらず、この新しい研究は、アフリカのこの地域が我々の祖先のオアシスであったことを示唆していおる。これは人類の進化を理解する上で重要な発見だ。「人は自分がどこから来たのか知りたがっている」とヘイズ氏は言った。

[原文:Every person alive today descended from a woman who lived in modern-day Botswana about 200,000 years ago, a new study finds]

(翻訳、編集:Toshihiko Inoue)
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%e4%ba%ba%e9%a1%9e%e3%81%ae%e6%95%85%e9%83%b7%e3%81%af%e3%82%a2%e3%83%95%e3%83%aa%e3%82%ab%e5%8d%97%e9%83%a8%e3%83%9c%e3%83%84%e3%83%af%e3%83%8a%e3%81%ae%e6%b9%bf%e5%9c%b0%e5%b8%af%e2%80%a6%e6%9c%80%e6%96%b0%e3%81%ae%e7%a0%94%e7%a9%b6%e3%81%a7%e6%96%b0%e8%aa%ac/ar-AAJImyu?ocid=ientp#page=2

30. 中川隆[-14845] koaQ7Jey 2019年11月18日 10:39:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1933] 報告

2019年11月18日
現代人アフリカ南部起源説
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_35.html

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)L0系統の詳細な分析を報告した研究(Chan et al., 2019)が報道されました。ナショナルジオグラフィックでも報道されています。現生人類(Homo sapiens)の起源がアフリカにあることは広く認められています(現生人類アフリカ単一起源説)。本論文は、現生人類の起源地をアフリカ東部と示唆する人類遺骸もあるものの、現代人のmtDNA系統樹では、最初に分岐した系統であるmtHg-L0を代表する複数の現代人集団はアフリカ南部に存在している、と指摘します。しかし、これまで、ヨーロッパ系のmtHg-N(mtHg-L3から分岐)の詳細な分析が進展していた一方で、mtHg-L0の分析は遅れており、代人の遺伝的多様性に関する研究の制約となっていました。そこで本論文は、新たなL0系統のデータを得て、現代の地理的分布と古気候データを組み合わせることで、L0系統の起源地と、L0系統がいつどのように拡散していったのか、推測しました。

 その結果、本論文は、L0系統が現在はマカディカディ塩湖(Makgadikgadi Pans)となっているボツワナ北部のマカディカディ–オカバンゴ古湿地という残存古湿地内で20万年前頃(95%の信頼性で240000〜165000年前)に出現した、と推定しています。これは、じゅうらいの推定よりもやや古くなります。当時、この地域にはマカディカディ(Makgadikgadi)湖という当時アフリカでは最大の湖(面積は現在のビクトリア湖の約2倍)があり、20万年前頃に乾燥化によりマカディカディ–オカバンゴ古湿地となって、乾燥の進んだ土地に囲まれた豊かなオアシスとなりました。さらに本論文は、L0系統が約7万年にわたってこの地域に居住し続け、13万〜11万年前頃に、まず北東方向、次に南西方向へと拡散していった、と推測しています。古気候データからは、湿度の上昇により最初に北東方向、次いで南西方向へと緑の回廊が開かれた、と示唆されます。その後、L0系統の故地である現在のボツワナ北部はさらに乾燥化し、推定有効集団規模からL0kが系統故地に留まった一方で、南西方向に拡散したL0d1-2系統は、アフリカ南部の湿潤化と海産資源の利用により人口が増加していった、と推測されます。現生人類の起源は現在のボツワナ北部となるアフリカ南部にあり、この最初期集団は、気候変動による拡散の前まで長期間(約7万年)故地に留まっていた、と本論文は主張します。以下、L0系統の初期の拡散を示した本論文の図2です。

画像
https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-019-1714-1/MediaObjects/41586_2019_1714_Fig2_HTML.png


 本論文の見解には多くの批判が寄せられています。遺伝人類学者のバービエリ(Chiara Barbieri)氏は、mtHg-L0系統の詳細な分析興味深く価値があるものの、L0系統の起源地と年代について、現代人のDNAのみに基づいていることに注意を喚起しています。先史時代は長く、人々は移住する、というわけです。バービエリ氏は、L0系統の正確な起源地と年代の確定のためには、年代測定のされた化石からのDNA解析が必要になる、と指摘します。しかし、本論文は古代DNAを考慮に入れておらず、現代人のDNAのみを調べました。

 ゲノムの異なる部分では、本論文の見解と矛盾する物語が現れます、たとえば、現代人のY染色体DNA系統樹では、起源地はアフリカ西部のカメルーンと想定されています(関連記事)。ゲノム研究では、コイサン人系統が他のアフリカ人系統と35万〜26万年前頃に分岐した、と推定されています(関連記事)。まだ査読中の研究(Bergström et al., 2019)では、50万年前頃までさかのぼる可能性も指摘されています。進化人類学者のハーヴァティ(Katerina Harvati)氏は、本論文がこれらの研究を参照しなかったか、議論しなかったことに驚いた、と述べています。これら一見すると矛盾した結果は、アフリカにおける人類史が単純なものではなく、現生人類が長期にわたって混合・多様化し、移動していることを示唆しています。化石証拠も同様で、現生人類的な化石は、たとえばモロッコでは30万年以上前(関連記事)、レヴァントでは194000〜177000年前頃のもの(関連記事)が発見されています。複雑な石器も、アフリカ北部・東部・南部で30万年前以前のものが知られています。

 こうした知見に基づき、現生人類の起源はアフリカの特定地域にある、という見解を多くの研究者は捨て、アフリカ全体が起源地と考えるようになりました(関連記事)。現生人類の起源に関して、アフリカ単一起源説を前提としつつも、現生人類の派生的な形態学的特徴がアフリカ各地で異なる年代・場所・集団に出現し、比較的孤立していた複数集団間の交雑も含まれる複雑な移住・交流により現生人類が形成された、というような見解です(関連記事)。本論文は、化石や考古学的知見に言及しておらず、反論していない、と指摘されています。また、この研究の指導的立場にあるヘイズ(Vanessa M. Hayes)氏によるサン人のDNA解析に関しても、先住少数民族に関わる非政府組織から傲慢・無知と個人情報の取り扱いについて批判されているそうです。

 本論文は、現代人の核DNAも古代DNAも考慮せず、過去の人類の移動も軽視していることから、複数の研究者に強く批判されています。上記報道ではまだ穏やかな表現になっていますが、Twitter上では辛辣な表現で批判されています。たとえば、奇妙な論文との発言や、本論文が現在『ネイチャー』に掲載されたことに本当に驚いた、20年前からタイムワープしたようだとの発言や、1930年代のような論文との発言です。mtHg-L0系統を詳細に分析した本論文の意義は大きく、それ故に『ネイチャー』に掲載されたのでしょうが、本論文のデータは現代人アフリカ南部起源説を示唆するとか、それと整合的であるとかいった一文を挿入するのに留めておくべきだったのではないか、と思います。Twitter上での複数の研究者による本論文への辛辣な発言も、仕方のないところもあると思います。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


進化学:アフリカ南部の古湿地における人類の起源と最初の移動

進化学:そこは「エデンの園」だったのか

 現生の全ての人々の祖先の発祥の地と考えられる場所は、ボツワナ北部の地域である。この地域は、現在は乾燥した塩生砂漠だが、約20万年前まではマカディカディ湖という当時アフリカ最大の古湖(面積は現在のビクトリア湖の2倍)があった。そして約20万年前、気候の乾燥化によってマカディカディ–オカバンゴ古湿地へと変貌し、乾燥の進んだ土地に囲まれた豊かなオアシスとなった。それはちょうど、解剖学的現生人類がそこで足掛かりを得た時期であった。その後、解剖学的現生人類は7万年間にわたってこの地にとどまり、約13万年前になってようやく(より穏やかな気候を利用して)外の世界へと移動し広がっていった。その先は先史時代が示すところである。A TimmermannとV Hayesたちは今回、この成り行きを気候の再構築から組み立てたが、その根拠の大部分はミトコンドリアDNAの解析に基づいている。現生人類のミトコンドリアゲノム(ミトゲノム)で最も古く分岐したのは、現在もこの地方に居住しているコイサン族に由来するL0系統のものである。現代人のミトゲノムに関する既存の情報を、新たに得られた情報資源と合わせて用いることで、L0系統の歴史および分岐の状況が再構築され、この系統がどこで出現し、その後どこへ移動したのかが明らかになった。こうして、L0系統が約20万年前にアフリカ南部で出現したという新たな知見が得られた。この年代は、従来の推定を5万〜2万5000年さかのぼるものである。


参考文献:
Chan EKF. et al.(2019): Human origins in a southern African palaeo-wetland and first migrations. Nature, 575, 7781, 185–189.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1714-1

Bergström A. et al.(2019): Insights into human genetic variation and population history from 929 diverse genomes. bioRxiv.
https://doi.org/10.1101/674986

https://sicambre.at.webry.info/201911/article_35.html

31. 中川隆[-15278] koaQ7Jey 2019年11月25日 07:01:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2359] 報告

2019年11月25日
山本秀樹「現生人類単一起源説と言語の系統について」
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_46.html


 言語系統やその起源については明らかに勉強不足なので、比較的近年の知見を得るために本論文を読みました。本論文はPDFファイルで読めます。本論文は、現生人類(Homo sapiens)アフリカ単一起源説を大前提として、言語系統について考察しています。言語学において現生人類アフリカ単一起源説の影響はまださほどないものの、その意味は小さくなく、しばしば珍説とされてきた「人類言語単一起源説」の可能性も浮上する、と本論文は指摘します。本論文は2013年の講演会の文書化なので、2019年11月時点では情報はやや古くなっています。その点にも言及しつつ、以下に本論文の内容を備忘録的に述べていきます。

 まず、本題とはほとんど関わらないのですが、本論文では180万年前頃以降とされている人類の出アフリカは、現在では200万年以上前までさかのぼる、とされています(関連記事)。「Y染色体アダム」、つまり現代人のY染色体DNA系統の合着年代について、本論文では6万〜8万年前頃との見解が採用されていますが、その後、338000年前(95%の信頼性で581000〜237000年前の間)という研究(関連記事)と、239000年前頃(95.4%の信頼性で321000〜174000年前の間)という研究(関連記事)が提示されています。本論文は、「ミトコンドリア・イヴ」、つまり25万〜15万年前頃と推定されている(関連記事)現代人のミトコンドリアDNA(mtDNA)系統の合着年代の方が「Y染色体アダム」より古いので、人類言語単一起源説の考察ではY染色体の方は考慮しない、と述べていますが、現時点では「ミトコンドリア・イヴ」よりも「Y染色体アダム」の方が古くなります。

 本論文の認識で何よりも問題となるのは、「ミトコンドリア・イヴ」以前の現生人類の系譜をひく人類は現存しないので、「ミトコンドリア・イヴ」の時点で言語があれば、「彼女」の言語こそ「世界祖語」と言える可能性が高い、としていることです。しかし、「ミトコンドリア・イヴ」は現代人のmtDNA系統における合着年代を示しているにすぎず、「Y染色体アダム」がそうであるように、他のDNA領域、つまり核DNAに注目すると、また異なる合着年代が示されます。当時存在した「ミトコンドリア・イヴ」以外の人々でも、もちろん核DNAは現代人にまで継承されているわけで、そうした人々のmtDNA系統は現代人に継承されていないとしても、言語が現代人に継承されている可能性は高いでしょう。逆に、「ミトコンドリア・イヴ」の帰属する集団の言語が、大きく異なる他集団の言語に駆逐・置換された可能性も低くありません。

 このように本論文の認識には疑問が残りますが、伝統的な比較言語学による系統証明方法の限界のために、言語学では現生人類アフリカ単一起源説への注目が高まらない、との本論文の指摘は興味深いと思います。本論文は、語彙を基本に系統証明を試みる比較言語学的手法が有効なのは過去8000年、もしくはせいぜい1万年にすぎない、と指摘します。これは、単なる偶然の一致を越えて基礎語彙が共有される期間がこの程度だからです。そうした限界を超えようとした研究もあり、ノストラ語族という大語族を提示した研究もあるものの、その手法には多くの批判が寄せられ、とても通説とはなっていません。ただ本論文は、手法の誤りもしくは稚拙さが結論の誤りを証明しているとは限らない、と注意を喚起しています。

 本論文は、現代人の言語系統の問題に関して、まず人類がいつ言語を獲得したのか、考察しています。本論文は、現生人類に言語があったことは多くの研究者の間で前提とされているようだ、と指摘します。そこで言語の獲得時期について焦点となったのは、現生人類の近縁系統であるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)でした。ネアンデルタール人については、現代人のような言語を話せなかっただろう、との見解が以前には有力でしたが、その後、舌骨の研究や舌下神経管から、ネアンデルタール人も現代人とほぼ同様に音声言語を使えたのではないか、との見解が提示されています。これは、ネアンデルタール人と現生人類の最終共通祖先の段階で、現代人にかなり近い音声言語能力があったことを示唆します。本論文は、現生人類も最初から言語を有していただろう、と指摘します。

 本論文が言語単一起源説との関連で注目したのは、5万年前頃に現生人類の文化に飛躍的な発展があったとする見解(創造の爆発論)です(関連記事)。創造の爆発論では、5万年前頃の現生人類における飛躍的な文化発展は神経系の遺伝的変異を基盤としており、現代人のような複雑な言語活動もここで初めて可能になった、と想定されます。本論文は、現代人の主要な祖先集団が6万年前頃にアフリカからユーラシアに拡散したとすると、現代人のような複雑な言語は現生人類の出アフリカ後に獲得されたことになるので、言語単一起源説は必ずしも成立しない、と指摘します。それでも本論文は、不用意に文化的な発達と言語の発達を関連づけることには慎重でなければならない、と指摘します。ただ、本論文は創造の爆発論を誤読しているところがあり、創造の爆発論では、飛躍的な文化発展の基盤となった神経系の遺伝的変異は現代人の主要な祖先集団の出アフリカ前とされており(そうでなければ、各地で複雑な言語活動を可能とする遺伝的変異が独自に起きたことになります)、言語単一起源説と創造の爆発論は矛盾しないと思います。創造の爆発論の5万年前頃という年代も、6万年前頃という現代人の主要な祖先集団の出アフリカの年代もあくまでも幅のある推定値であり、それぞれ確定的ではありません。

 本論文がもう一つ注目したのは、発話能力との関連が指摘されているFOXP2遺伝子に関する研究です。本論文は、現代人型のFOXP2遺伝子の出現時期について、10万〜1万年前頃の可能性が最も高く、20万年以上前にさかのぼることはない、という研究を紹介していますが、FOXP2遺伝子が言語能力にのみ関与しているのか不明で、言語能力の獲得には複数の遺伝子が関与している可能性もあるので、FOXP2遺伝子は言語獲得時期の推定の決定的根拠にはならないかもしれない、と指摘します。この本論文の指摘は妥当だと思います。本論文では言及されていませんが、ネアンデルタール人のFOXP2遺伝子も現代人型です(関連記事)。また、本論文の後の研究では、FOXP2遺伝子の発現に影響を及ぼすFOXP2遺伝子の周辺領域において、ネアンデルタール人と現代人とで違いがある、と指摘されています(関連記事)。ただ、これが言語能力とどう関わっているのかは、まだ不明です。

 本論文はまとめとして、遺伝学的研究の進展により現生人類アフリカ単一起源はほぼ確 実となったものの、それにより直ちに言語単一起源説が成立するかというと、以前と比較してその可能性が高くなったとは言えても、現段階では一つの仮説に留まり、結論は保留せざるを得ない、との見解を提示しています。この見解は妥当なところだと思いますが、現生人類の起源に関しては、もはや単純なアフリカ単一起源説では通用しなくなりつつあることも重要だと思います。一つには、現生人類とネアンデルタール人との交雑が明らかになったことですが、より重要なのは、アフリカ全体の異なる集団間の複雑な相互作用により現生人類は形成された、との見解(関連記事)が有力になりつつあるように思われることです。この見解では、現生人類アフリカ単一起源説を前提としつつも、現生人類の派生的な形態学的特徴がアフリカ各地で異なる年代・場所・集団に出現し、比較的孤立していた複数集団間の交雑も含まれる複雑な移住・交流により現生人類が形成された、と想定されます。そうすると、現代につながるような言語は、単一起源というよりは、潜在的に言語能力を有する各集団が独自に発展させ、その相互交流・融合・置換の複雑な過程で形成されていった、とも考えられます。まあそれでも、ネアンデルタール人と現生人類の共通祖先の段階の最初期言語を「世界祖語」と言えなくもありませんが、それは本論文の想定する「世界祖語」とは大きく異なるものだと思います。


参考文献:
山本秀樹(2013)「現生人類単一起源説と言語の系統について」千葉大学文学部講演会


https://sicambre.at.webry.info/201911/article_46.html

32. 中川隆[-15277] koaQ7Jey 2019年11月25日 07:03:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2358] 報告

2019年11月24日
松本克己「日本語の系統とその遺伝子的背景」
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_44.html

 日本語の系統やその起源については以前当ブログで取り上げましたが(関連記事)、明らかに勉強不足なので、比較的近年の知見を得るために本論文を読みました。本論文はPDFファイルで読めます。

http://www.l.chiba-u.ac.jp/general/extension/files/2012_file01.pdf

日本語は系統的孤立言語の一つとされていますが、ユーラシア大陸圏における10近い系統的孤立言語の半数近くが日本列島とその周辺に集中している、と本論文は指摘します。日本語以外では、アイヌ語・アムール下流域と樺太のギリヤーク(ニヴフ)語・朝鮮語です。本論文は、こうした系統的孤立言語の系統関係を明らかにするには、伝統的な歴史・比較言語とは別の手法が必要になる、と指摘します。歴史言語学で用いられる、おもに形態素や語彙レベルの類似性に基づいて言語間の同系性を明らかにしようとする手法では、たどれる言語史の年代幅が5000〜6000年程度だからです。つまり、たとえば日本語とアイヌ語の共通祖語があったとしても、少なくとも6000年以上はさかのぼる、というわけです。

 本論文は、伝統的な歴史言語学の手法では推定の難しい言語間の系統関係を推定する手法として、「言語類型地理論」を提唱しています。これは、各言語の最も基本的な骨格を形作ると見られるような言語の内奥に潜む特質、通常は「類型的特徴」と呼ばれる言語特質を選び出し、それらの地理的な分布を通して、世界言語の全体を視野に入れた巨視的な立場から、各言語または言語群の位置づけを見極めようとするものです。本論文は、ユーラシア大陸圏の言語をまず内陸言語圏と太平洋沿岸言語圏に分類し、さらに太平洋沿岸圏を南方群(オーストリック大語族)と北方群(環日本海諸語)に分類します。系統的孤立言語とされる日本語・アイヌ語・ギリヤーク語・朝鮮語は北方群に分類されています。本論文の見解で興味深いのは、内陸言語圏と太平洋沿岸圏にまたがると分類されている漢語を、チベット・ビルマ系の言語と太平洋沿岸系の言語が4000年前頃に黄河中流域で接触した結果生まれた一種の混合語(クレオール)と位置づけていることです。また本論文は、太平洋沿岸言語圏がアメリカ大陸にまで分布している、と把握しています。

 本論文は、言語学的分類を遺伝学的研究成果と結びつけ、その系統関係を推定しようと試みている点で、伝統的な言語学とは異なると言えるでしょう。遺伝学的研究成果とは、具体的にはミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)とY染色体ハプログループ(YHg)の分類と、地理的分布および各地域集団における頻度で、本論文ではおもにYHgが取り上げられています。太平洋沿岸言語圏で本論文が注目しているYHgは、D・C・Oです。YHg-DとCは、出アフリカ現生人類(Homo sapiens)集団において、比較的早く分岐した系統です。YHg-Dの地理的分布は特異的で、おもにアンダマン諸島・チベット・日本列島と離れた地域に孤立的に存在します。本論文はこれを、言語地理学用語の「周辺残存分布」の典型と指摘しています。本論文はYHg-Cについても、Dよりも広範に分布しているとはいえ、周辺残存分布的と評価しています。本論文は、日本列島に最初に到来した現生人類のYHgはCとDだっただろう、と推測しています。しかし、本論文は地理的分布から、太平洋沿岸系言語と密接に関連するのはYHg-C・Dではなく、YHg-O1b(本論文公開時の分類はO2、以下、現在の分類名を採用します)と指摘します。YHg-Dが日本列島にもたらした言語は、人称代名詞による区分では出アフリカ古層系だろう、と本論文は推測しています。太平洋沿岸系言語と関連するYHg-O1bのサブグループでは、O1b1a1aが南方群、O1b2が日本語も含む北方群の分布とおおむね一致します。本論文は、アジア東部でもかつてはこうした太平洋沿岸系言語が存在したものの、漢語系のYHg-O2、とくにO2a2b1の拡散により消滅した、と推測しています。

 本論文は、日本語をもたらしたと推測されるYHg-O1b2の日本列島への到来について、アメリカ大陸における太平洋沿岸系言語の存在が重要な鍵になる、と指摘します。アメリカ大陸先住民の祖先集団は、アメリカ大陸へと拡散する前にベーリンジア(ベーリング陸橋)に留まっていた、とするベーリンジア潜伏モデルが有力です(関連記事)。このベーリンジアでの「潜伏」が最終氷期極大期(LGM)によりもたらされ、この「潜伏期」にボトルネック(瓶首効果)によりYHg-O1bが失われたとすると、日本語祖語となる太平洋沿岸系言語の担い手であるYHg-O1b2が日本列島に到来したのはLGM以前で、遅くとも25000年前頃だろう、と本論文は推測します。本論文は、この集団が石刃技法を有していた可能性も提示しています。このYHg-O1b2の到来により、日本列島の言語は、YHg-Dがもたらした出アフリカ古層系から太平洋沿岸系言語へと完全に置換された、と本論文は推測します。しかし、日本列島のYHg-Dは淘汰されず、現在でも高頻度(とくに高頻度のアイヌ集団を除くと3〜4割)で足属している、と本論文は指摘します。

 本論文の見解はたいへん興味深く、今後、言語系統の研究と遺伝学的研究との融合が進んでいくだろう、と期待されます。ただ、YHg-O1b2系統における各系統への分岐が25000年前頃までに始まっていたのかというと、疑問も残ります。そうすると、日本列島へのYHg-O1b2の到来年代もずっと後になりそうです。何よりも、まだ「縄文人」においてはYHg-Oが確認されていません。YHg-O1b2はアジア東部にかつて現在よりも広範に分布しており、その中には弥生時代もしくは縄文時代晩期以降に日本列島へと農耕技術とともに到来した日本語祖語集団がいた、という想定の方が現時点では有力なように思われます。また、言語に代表される文化の変容と遺伝的継続・変容の程度との間には常に一定の相関が確認されるわけではなく、かなり多様だったと考えられるので(関連記事)、言語をはじめとして文化と遺伝的構成の関係については、固定的に把握してはならない、と私は考えています。日本語の起源と系統関係については、今後も長く議論が続いていきそうです。


参考文献:
松本克己(2012)「日本語の系統とその遺伝子的背景」千葉大学文学部公開講演会

https://sicambre.at.webry.info/201911/article_44.html  

33. 中川隆[-15163] koaQ7Jey 2019年12月11日 06:34:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2228] 報告

2019年12月11日
ホモ属の出現過程
https://sicambre.at.webry.info/201912/article_17.html


 現在では、ホモ属が280万年前頃に出現した、との見解が次第に浸透しつつあるように思います。その根拠は、エチオピアのアファール州のレディゲラル(Ledi-Geraru)調査区域で発見された、5個の歯の残っている左側の下顎(LD 350-1)です(関連記事)。この下顎化石には、華奢な大臼歯・対称的な小臼歯・均等な顎のように、ホモ属に見られる派生的な特徴と、傾斜した顎先のようなアファレンシス(Australopithecus afarensis)などのアウストラロピテクス属に見られる祖先的特徴とが混在していました。この下顎化石は既知のホモ属化石の最古のものよりも40万年ほど古く、最も新しいアファレンシス化石の約20万年後のものということになり、アウストラロピテクス属とホモ属との間隙を埋めるのではないか、ということで大いに注目されています。

 ただ、LD 350-1をホモ属と分類する傾向には問題があると思います。全体の形態は不明ですし、280万〜150万年前頃のアフリカには、ホモ属的特徴とアウストラロピテクス属的特徴の混在する人類化石が複数発見されているからです。その中には、南アフリカ共和国で発見された、ホモ属的特徴とアウストラロピテクス属的特徴の混在する195〜178万年前頃の人類化石群は、アウストラロピテクス・セディバ(Australopithecus sediba)も含まれます。LD 350-1がアウストラロピテクス属からホモ属への進化の過程を表す標本である可能性は高そうですが、ホモ属と分類することには慎重であるべきでしょう。

 首から下がほとんど現代人と変わらないような「真の」ホモ属が出現したのは200万〜180万年前頃のアフリカだと思われますが、それ以前、さらにはそれ以降も、ホモ属的な特徴とアウストラロピテクス属的な特徴の混在する人類遺骸が発見されており、これらの人類遺骸はアウストラロピテクス属ともホモ属とも分類されています。セディバはアウストラロピテクス属に分類された方ですが、分類に関して議論が続いているものの(関連記事)、アウストラロピテクス属的特徴も有するホモ属として、ハビリス(Homo habilis)という種区分が設定されています。ハビリスは240万年前頃から存在していたとされていますが、エレクトス(Homo erectus)が出現してからずっと後の144万年前頃までケニアで存在していた可能性も指摘されています(関連記事)。233万年前頃のハビリスと分類されている人類遺骸からは、ホモ属が当初より多様化していった可能性も指摘されています(関連記事)。

 300万〜200万年前頃の人類遺骸は少ないので、ホモ属の初期の進化状況は曖昧ですが、ホモ属的な派生的特徴が300万〜200万年前頃のアフリカ各地で異なる年代・場所・集団に出現し、比較的孤立していた複数集団間の交雑も含まれる複雑な移住・交流によりホモ属が形成されていった、とも想定できるように思います。近年、人類の出アフリカが200万年以上前までさかのぼることを示す証拠の報告が相次いでおり(関連記事)、現時点では248万年前頃までさかのぼります(関連記事)。ジョージア(グルジア)にあるドマニシ(Dmanisi)遺跡の事例(関連記事)から推測すると、おそらく、アウストラロピテクス属的特徴とホモ属的な特徴の混在する人類集団が、まずアフリカからユーラシアに拡散し、アジア東部にまで到達したのでしょう。ただ、そうしてユーラシア東部まで拡散した初期人類は、現代人の祖先ではなさそうですが。
https://sicambre.at.webry.info/201912/article_17.html

34. 中川隆[-15045] koaQ7Jey 2019年12月23日 10:33:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2082] 報告

2019年12月23日 2010年代の古人類学
https://sicambre.at.webry.info/201912/article_44.html

 2010年代も残り10日を切り、この機会に2010年代の古人類学を振り返ります。2010年代にDNA解析技術の大きな向上により飛躍的に発展したのが古代DNA研究で、この流れは2020年代にさらに加速しそうです。この間の大きな成果としてまず挙げられるのが、2009年末の時点では否定的な人々の方が多かっただろう、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と現生人類(Homo sapiens)との交雑がほぼ通説として認められるようになったことです。

 さらに大きな成果として、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)という新たな分類群が設定されたことも挙げられます(関連記事)。現生人類やネアンデルタール人といったホモ属の各種や、さらにさかのぼってアウストラロピテクス属の各種もそうですが、人類系統の分類群は基本的には形態学的に定義されています。しかし、デニソワ人は人類系統の分類群としては例外的に、遺伝学的に定義された分類群です。ネアンデルタール人とデニソワ人と現生人類を含めた後期ホモ属の関係はたいへん複雑で、相互に交雑していた、と推測されています。

 これにより、現生人類アフリカ単一起源説でも、現生人類がネアンデルタール人などユーラシアの在来の人類集団を完全に置換した、という2009年末の時点では有力だっただろう見解は過去のものとなりました。これは現生人類多地域進化説の「復権」とも解釈できますが(関連記事)、あくまでも部分的なものであり、多地域進化説が妥当だった、とはとても言えないでしょう(関連記事)。今後、古代DNA研究の進展により、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人の単系統群とは大きく異なる系統の分類群が確認されることも期待されます。

 古代DNA研究の進展により、現代人の各地域集団の形成過程の解明も飛躍的に進み、とくにヨーロッパ集団に関してはかなり詳細に分かってきたのではないか、と思います。アジア南西部やアメリカ大陸に関しても、地域集団の形成過程は2009年末の時点と比較してずっと詳細に解明されている、と言えるでしょう。しかし、アジア東部を含むユーラシア東部に関しては、ユーラシア西部と比較して古代DNA研究がずっと遅れていることは否定できず、それだけに発展の余地があるとも言えます。しかし、その強大な経済力から今後の古代DNA研究の飛躍的な進展が期待される中国も、DNAの残存という点でヨーロッパと比較して自然環境は恵まれていないので、ヨーロッパとの差を縮めていくのは容易ではなさそうです(関連記事)。

 このように、古代DNA研究は2010年代に飛躍的に発展しましたが、地域と年代の点で限界があることは否定できません。現時点でDNA解析に成功した最古の人類は43万年前頃のイベリア半島北部集団で(関連記事)、これ以上古いDNAとなると、さらに寒冷な地域の人類化石が必要となりそうで、そうした年代・地域の人類化石は少ないので、50万年以上前の人類のDNAを解析することは難しそうです。こうした古代DNA研究の年代・地域の限界を大きく超えて遺伝的情報を得る手法として、近年大きく発展しつつあるタンパク質解析が注目されます(関連記事)。じっさい、190万年前頃の霊長類の歯でタンパク質解析が成功しており(関連記事)、歯はとくに残りやすい部位だけに、今後の人類進化研究への応用が期待されます。

 報告された人類化石で注目されるのは、2010年に報告された(関連記事)アウストラロピテクス・セディバ(Australopithecus)で、現時点では南アフリカ共和国のマラパ(Malapa)遺跡でしか確認されていません。セディバの推定年代は197万7000年±7000年前です(関連記事)。セディバにはアウストラロピテクス属的特徴とホモ属的特徴が混在しており、報告者たちは現代人も含むホモ属の祖先ではないか、と示唆しましたが、その年代から、ホモ属の祖先である可能性は低い、と指摘されています(関連記事)。

 2015年に報告された280万〜275万年前頃のホモ属的特徴を有するエチオピアの下顎化石は、ホモ属の起源を大きくさかのぼらせるとして、大きな注目を集めました(関連記事)。これ以降、ホモ属の起源を280万年前頃までさかのぼらせる傾向が強くなってきたように思いますが、全体的な形態は不明ですし、アウストラロピテクス・セディバのように、この個体がアウストラロピテクス属的特徴とホモ属的特徴の混在した分類群に属していた可能性もあります。おそらく、280万年前頃までにはホモ属的特徴が出現し始め、そうした特徴はじょじょに出現していき、200万〜180万年前頃にほぼ異論の余地のないホモ属が出現したのでしょう。

 アウストラロピテクス属的特徴とホモ属的特徴の混在した人類化石は、南アフリカ共和国で他にも発見されており、2015年にホモ・ナレディ(Homo naledi)と命名されました(関連記事)。報告者たちは当初、ナレディは鮮新世後期〜更新世初期の人骨群で、アウストラロピテクス属からホモ属への移行的な種である可能性が高い、と考えていました。しかし、その後になってナレディの年代は335000〜236000年前頃と推定されており(関連記事)、これではとてもアウストラロピテクス属からホモ属への移行的な種とは言えません。ナレディは、すでに現生人類的な集団の出現していた中期更新世後期のアフリカにおいても、おそらくは現生人類と大きく異なる系統の人類集団が存在していたことを示したという点で、たいへん貴重だと思います。人類史において、1種しか存在していないような時代は、最初期を除けば過去数万年程度のごく最近だけだったのかもしれません。
https://sicambre.at.webry.info/201912/article_44.html

35. 中川隆[-14915] koaQ7Jey 2020年1月04日 13:59:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1916] 報告

【科学】人類交代劇、小脳が引き金か ネアンデルタール人の化石分析
2018.5.14
https://www.sankei.com/life/news/180514/lif1805140010-n1.html

化石から解析した脳の立体図
https://www.sankei.com/life/news/180514/lif1805140010-n1.html


 約3万年前に絶滅したネアンデルタール人は、初期の現生人類(ホモ・サピエンス)よりも小脳が小さかったことを、慶応大や名古屋大などの研究チームが化石の分析で解明した。この差がネアンデルタール人と現生人類の交代劇につながったとみられるという。

 研究チームは、7万〜4万年前のネアンデルタール人の頭骨化石4個と13万〜3万年前の現生人類の頭骨化石4個について、コンピューター断層撮影(CT)のデータから大脳や小脳の形を立体的に解析。大脳に対する小脳の容積比は、現生人類の平均13・5%に対し、ネアンデルタール人は同12・7%と小さかった。


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 脳の後方の下部に位置する小脳は主に運動能力を担うが、現代人を対象とした近年の研究で、大きいほど記憶や言語の能力に優れ、複雑な思考が可能になることが分かってきている。

 欧州では、ネアンデルタール人は後から出現した現生人類と約4万年前から約5千年にわたって共存していたが、後に絶滅。現生人類が生き残った。慶大の荻原直道教授は「小脳の機能差が環境への適応能力の違いにつながり、現生人類の生存に有利に作用した可能性がある」とみている。(伊藤壽一郎)

36. 中川隆[-14101] koaQ7Jey 2020年2月02日 09:52:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-783] 報告
2020年02月02日
現代アフリカ人におけるネアンデルタール人の遺伝的影響
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_6.html



 現代アフリカ人におけるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の遺伝的影響に関する研究(Chen et al., 2020)が報道されました。『サイエンス』のサイトには解説記事が掲載されています。この研究はオンライン版での先行公開となります。現生人類(Homo sapiens)は絶滅した他のホモ属(古代型ホモ属)と交雑してきました(関連記事)。具体的には、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)です。すべての非アフリカ系現代人のゲノムには、約2%のネアンデルタール人由来の領域があり、その中でもオセアニア系には、デニソワ人由来の領域が追加で2〜4%存在します(関連記事)。

 しかし、古代型ホモ属のゲノムの中には現代人に継承されていない大きな領域も確認されており、選択が生じた可能性も指摘されています(関連記事)。一方で、古代型ホモ属由来の配列が有益だった可能性も指摘されています(関連記事)。ただ、古代型ホモ属から現生人類への遺伝子流動における、機能的影響や選択については、まだ研究が始まったばかりである、と本論文は指摘します。また、非アフリカ系現代人のゲノムにおける古代型ホモ属由来の領域の割合について、アジア東部系がヨーロッパ系よりも20%ほど高いことなど(関連記事)、地域差が見られることも指摘されてきました。これに関しては、ヨーロッパ系現代人の祖先集団が、まだ化石の確認されていない仮定的な存在(ゴースト集団)で、ネアンデルタール人の遺伝的影響をほとんど受けていなかったと推測される「基底部ユーラシア人」と交雑したからだ、との仮説(希釈仮説)や、選択の違いを想定する説や、ボトルネック(瓶首効果)説や、複数回交雑説など、さまざまな仮説が提示されており、まだ確定していません(関連記事)。

 こうした現生人類と古代型ホモ属との間の遺伝子流動について、近年では研究が飛躍的に発展してきました。それは研究手法改善の結果でもあり、古代型ホモ属の参照ゲノムを利用せずとも、現代人のゲノム配列の比較により古代型ホモ属との交雑の痕跡と思われる領域を検出する方法では、以前には検出できなかったデニソワ人と現生人類との複数回の交雑が明らかになりました(関連記事)。本論文は、古代型ホモ属と交雑していない参照現代人ゲノム配列を必要とせず、現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人系統を検出する新たな手法であるIBDmixを用いて、現生人類とネアンデルタール人の交雑を検証します。本論文はIBDmixを、ユーラシア・アメリカ・アフリカの現代人の大規模ゲノムデータセットに適用し、現代アフリカ人におけるネアンデルタール人系統に関する新たな知見を提示し、ユーラシア人におけるネアンデルタール人系統の相対的な水準を再検証するとともに、適応的な遺伝子移入の事例を調査します。

 これまで、現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人由来の領域の識別には、一般的にヨルバ(YRI)などネアンデルタール人と混合していないとされる現代人のゲノムを参照配列として利用し、共有配列を特定したうえで決定します。しかし、参照配列にネアンデルタール人配列が含まれていると、対象となる現代人のネアンデルタール人配列を見落とす場合があります。本論文が用いる新たな手法であるIBDmixの名称は、遺伝的原理である「同祖対立遺伝子(identity by descent)」に由来します。IBDmixでは、現代人の参照配列は利用されません。同祖対立遺伝子(IBD)とは、かつて共通祖先を有していた2個体のDNAの一部が同一であることを示します。IBD領域の長さは、2個体が共通祖先を有していた期間に依存し、たとえばキョウダイよりもハトコの方が短くなります。

 本論文は、現生人類のゲノムにおけるネアンデルタール人配列に関して、5万年前頃の両者の交雑に起因する配列と、50万年前頃かそれ以前に共通祖先を有していたことに起因する配列とを区別するために、IBDmixを用いました。以前の手法は、ネアンデルタール人と交雑していないとされる現代人のゲノムを参照配列として、現生人類のゲノムにおける、共通祖先に由来しないネアンデルタール人由来の領域を特定しました。しかし本論文は、この方法では、どの集団の個体のゲノムを参照配列として用いるかにより、ネアンデルタール人由来の領域の推定に相違が生じる可能性を指摘します。IBDmixでは、変異頻度やIBD領域の長さのようなネアンデルタール人の配列の特徴を用いて、共通配列が最近の交雑なのか、それとも共通祖先に起因するのか、区別します。

 IBDmixの使用により、現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人系統の領域をより正確に検出できるようになりました。ただ、以前の研究では、現代人に遺伝的影響を残しているネアンデルタール人は、南シベリアのアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)で発見された女性個体(関連記事)の集団(東方系ネアンデルタール人)とは遺伝的にやや異なる集団(西方系ネアンデルタール人)と推測されています(関連記事)。そのため本論文は、参照古代型ゲノム(本論文では南シベリアのネアンデルタール人)が遺伝子移入をもたらした古代型ゲノム(西方系ネアンデルタール人)と離れた関係にある場合、IBDmixがどのように機能するのか、検証しました。その結果、短い配列でわずかな低下が観察されましたが、全体的なパフォーマンスは一貫していました。本論文は、IBDmixが古代型ホモ属からの遺伝子移入を検出する強力な手法であることを指摘します。

 本論文は、1000ゲノム計画に登録された地理的に多様な現代人集団からの2504人のゲノムにIBDmixを適用し、南シベリアのネアンデルタール人個体の参照ゲノムを利用して、現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人由来の配列を特定しました。2504人の現代人のゲノムでは、重複分を除くと、合計でネアンデルタール人由来の12億9千万塩基対が特定されました。上述のように、IBDmixは現代人の参照配列にネアンデルタール人と交雑していないと推定されるアフリカ集団を利用しなかったため、現代アフリカ人集団におけるネアンデルタール人由来の領域を初めて堅牢に特定できました。

 アフリカ人では、ナイジェリアのエサン(ESN)集団の1640万塩基対(16.4 Mb)からケニアのルヒヤ(Luhya)集団の1800万塩基対まで、平均して1700万塩基対のネアンデルタール人配列が特定されました。これは、以前の推定である26000〜500000塩基対よりもはるかに多くなります。また、アフリカ人のゲノムのネアンデルタール人配列のうち94%以上は、非アフリカ人と共有されていました。非アフリカ系現代人のゲノムに見られるネアンデルタール人配列の平均は、ヨーロッパ系が5100万塩基対、アジア東部および南部系がともに5500万塩基対で、以前の推定である20%よりもずっと低く、8%ほどの違いしかありませんでした。なお、アメリカ合衆国やカリブ海のアフリカ系のゲノムに見られるネアンデルタール人配列は、非アフリカ系との交雑を反映してかアフリカ人よりは多いものの、アジア系よりはずっと少なくなっています(2270万〜2750万塩基対)。

 アフリカ人に見られる、以前の推定よりもずっと多いネアンデルタール人配列の起源について本論文は、ネアンデルタール人と交雑した出アフリカ現生人類集団の一部がアフリカに「戻って」きたことに加えて、非アフリカ系現代人の主要な祖先集団の出アフリカの前に、アフリカからユーラシアへと拡散した現生人類がネアンデルタール人と交雑したことを想定すると最も整合的である、と見出しました。また、アフリカに戻って来た現生人類は、大きく分けると、アジア東部系と分岐した後のヨーロッパ系(ユーラシア西部系と言う方がより正確かもしれませんが)であることも明らかになりました。

 上述のように、本論文が示す現代人のネアンデルタール人配列の割合は、以前にも推定されていたようにヨーロッパ系よりもアジア東部系の方が高いものの、その違いは以前の推定である20%増よりもずっと低い8%増である、と明らかになりました。これは、以前の手法では、ネアンデルタール人と交雑していないという前提の現代アフリカ人のゲノムを参照配列として用いていたことに起因する、と本論文は指摘します。IBDmixでアフリカ人に見られるネアンデルタール人配列を除去して計算すると、ネアンデルタール人配列はヨーロッパ系よりもアジア東部系が18%ほど増加します。これは、ヨーロッパ系(ユーラシア西部系)現生人類がアフリカに「戻って」きたことにより、アフリカ人のみと共有されるネアンデルタール人配列が、アジア東部系よりもヨーロッパ系(ユーラシア西部系)の方でずっと多いためです(前者が2%なのに対して後者が7.2%)。以前の推定ではこの効果が無視されていた、というわけです。

 本論文は、現代人に見られる高頻度のネアンデルタール人由来のハプロタイプについても検証しています。これらは現生人類の適応度を高めたかもしれないため、以前から注目されていました。本論文は固有の高頻度ネアンデルタール人ハプロタイプを、非アフリカ系現代人で38、アフリカ人で13特定し、以前に特定されている高頻度ハプロタイプと比較しました。非アフリカ系現代人の38ハプロタイプのうち19は、以前の研究で報告されていました。また、アフリカ人とヨーロッパ人が共有する高頻度ネアンデルタール人ハプロタイプも特定されました。これはIBDmixの威力を示しています。アフリカ人固有となる13の高頻度ネアンデルタール人ハプロタイプには、免疫機能に関連する遺伝子(IL22RA1およびIFNLR1など)や紫外線感受性関連遺伝子(DDB1およびIL22RA1など)があります。これらのうちいくつかは、非アフリカ系現代人の主要な祖先集団の出アフリカの前に、アフリカからユーラシアへと拡散した現生人類からネアンデルタール人への遺伝子流動でもたらされたかもしれませんが、アフリカ人とヨーロッパ人で共有される高頻度のネアンデルタール人ハプロタイプのうちの一つ(3番染色体に位置します)のみが、現生人類から南シベリアのネアンデルタール人への遺伝子移入(関連記事)の結果として特定された遺伝子座と重なっており、その他は重なっていません。こうした高頻度のネアンデルタール人ハプロタイプは、アフリカ人の進化史における選択の考察に有益です。

 上述のように、古代型ホモ属のゲノムの中には現代人に殆どあるいは全く継承されていない大きな領域(不毛領域)も確認されており、選択が生じた可能性も指摘されています。その結果、ネアンデルタール人に関しては、以前に報告されていた6ヶ所の不毛領域のうち、7番染色体の発話能力に関連するFOXP2と、3番染色体の脳細胞の突起抑制に関連するROBO1およびROBO2を含む4ヶ所で改めて確認されました。これは、デニソワ人の不毛領域とも一致します。古代型ホモ属の不毛領域の頻度はアフリカ人全体の標本を含めても含めずとも大きく変わらず、アフリカ人のゲノムにおけるネアンデルタール人配列がおもに非アフリカ系現生人類からの遺伝子移入に起因する、という推測と一致します。

 本論文は、現生人類と古代型ホモ属との交雑の検出にIBDmixがきわめて有効であることを示しました。しかし本論文は、IBDmixは古代型人類の参照ゲノム配列を必要とするため、未知もしくは配列されていない人類系統から現生人類へと遺伝子移入された配列の検出には適していない、と注意を喚起しています。また本論文は、IBDmixにおいて、ゲノムおよび集団間の遺伝的組換え率の不均一性による影響があることも指摘しています。そのため、標本サイズが限定され、アレル(対立遺伝子)頻度と遺伝的組換え率の推定が不正確である個体のゲノムへの適用は困難です。IBDmixはゲノム解析におけるこれまでの手法の上位互換ではなく、相互補完的手法になる、というわけです。

 本論文は上述のように、アフリカ人のゲノムに見られるネアンデルタール人由来の領域の割合が、以前の推定よりもずっと高いことを明らかにしました。とはいえ、その割合は非アフリカ系現代人の約1/3と低くなっています。しかし、じゅうらいの推定よりもずっと高いこの割合は、アフリカの人類集団が静的ではなく動的で、現生人類の出アフリカ後も同様だったことを示します。それは、最近のアフリカ西部の古代DNA研究でも改めて示されました(関連記事)。

 出アフリカ現生人類集団の一部がアフリカへと「戻り」、アフリカ集団に遺伝的影響を与えたことは、以前から指摘されていました。古代DNA研究では、現代アフリカ東部集団の遺伝子プールの25%ほどはユーラシア西部集団に由来し、アフリカ西部・中央部・南部の現代人集団にも、この「逆流」の遺伝的影響は及んでいる、とすでに2015年の研究で推測されていました(関連記事)。2017年の古代DNA研究では、現代人では早期に分岐した集団とされるコイサンも、アフリカ東部やユーラシアの集団から9〜30%の遺伝的影響を受けている、と推定されています(関連記事)。また現代人のゲノムデータに基づく2015年の研究では、アフリカ西部のヨルバ(Yoruba)人集団と、古代ユーラシア人集団との10500〜7500年前頃の交雑の可能性が指摘されています(関連記事)。

 本論文は、アフリカ全土の集団において、多様な水準でゲノムにネアンデルタール人由来の領域が見られても不思議ではない、と指摘します。私も、漠然とした想定よりも高かったものの、とくに不思議な結果ではない、と思います。「純粋なサピエンスはアフリカ人のみ」といった認識もネットで見られますが、それには大きな問題があります(関連記事)。また近年では、現生人類の形成過程がたいへん複雑であることを指摘した見解も提示されており(関連記事)、そもそも「純粋な種」という概念自体に問題があるのでしょう。

 また上述のように、非アフリカ系現代人の主要な祖先集団の出アフリカの前に、アフリカからユーラシアへと拡散した現生人類からネアンデルタール人への遺伝子流動の可能性が指摘されています。この年代に関しては、10万年前頃から25万年前頃まで、議論が続いていますが、本論文は15万〜10万年前頃と推定しています。ただ本論文は、追加のデータが必要とも指摘しています。ネアンデルタール人やデニソワ人など古代型ホモ属と現生人類との交雑は、たいへん複雑だった可能性が高そうです。

 アフリカ人のゲノムにおける以前の推定よりもずっと高いネアンデルタール人配列の割合を明らかにしたことと共に、本論文の知見で重要なのは、上述のように、ヨーロッパ系とアジア東部系の間でゲノムに占めるネアンデルタール人由来の領域の割合の違いが以前の推定よりもずっと小さい、と示したことです。以前はこの違いについて、上述の希釈仮説も提示されていました(関連記事)。希釈仮説に対しては、ヨーロッパ系とアジア東部系の間の、ゲノムに占めるネアンデルタール人由来の領域の割合の違いを説明できるほどではない、との批判もありますが、本論文によりその違いは以前の推定よりもずっと小さい、と見直されたので、希釈仮説がより説得的になった、とも言えるかもしれません。ただ本論文は、現生人類の特定の集団とネアンデルタール人との追加の交雑が起きた可能性を排除するわけではない、と注意を喚起しています。


参考文献:
Chen L. et al.(2020): Identifying and Interpreting Apparent Neanderthal Ancestry in African Individuals. Cell.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2020.01.012


https://sicambre.at.webry.info/202002/article_6.html

37. 中川隆[-13795] koaQ7Jey 2020年2月14日 10:43:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-420] 報告
2020年02月14日
アフリカ西部の現代人集団に見られる未知の人類系統の遺伝的痕跡
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_31.html


 アフリカ西部の現代人集団に見られる遺伝学的に未知の人類系統(ゴースト系統)の遺伝的痕跡に関する研究(Durvasula, and Sankararaman., 2020)が公表されました。人類史において、異なる系統間の複雑な交雑が重要な役割を果たしてきたことは、近年ますます強調されるようになってきたと思います(関連記事)。ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)といった古代型人類と現生人類(Homo sapiens)との複数回の交雑も指摘されています(関連記事)。古代型人類の遺伝的影響は、ネアンデルタール人が非アフリカ(出アフリカ)系現代人全員に比較的似た水準で、デニソワ人がオセアニアでとくに強く、アジア南部および東部で多少残しているように、おもに非アフリカ系現代人で確認されてきました。

 サハラ砂漠以南のアフリカ(以下、アフリカは基本的にサハラ砂漠以南を指します)に関しては、化石記録が稀で、その気候条件から古代DNAの解析は困難なので、古代型人類から現代人への遺伝子流動の分析は困難です。いくつかの研究ではアフリカにおける古代型人類から現生人類への遺伝子流動が指摘されています。たとえば、アフリカにおける未知の人類系統と現生人類系統との複雑な交雑の可能性を指摘した研究(関連記事)や、非アフリカ系現代人よりもアフリカ系現代人の方で未知の人類系統由来のハプロタイプがずっと多いと推測した研究です(関連記事)。しかし、アフリカにおける現生人類と未知の人類系統との交雑の詳細ははまだよく理解されていません。

 本論文は、ナイジェリアのイバダン(Ibadan)のヨルバ人(YRI)、シエラレオネのメンデ(Mende)人、ナイジェリアのエサン(Esan)人、ガンビア西部のガンビア人というアフリカ西部の現代人4集団の全ゲノム配列を用いて、古代型人類との交雑を検証しました。一塩基多型の頻度分布から示されるのは、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人、さらにはデニソワ人と交雑したとされる「超古代型人類」(関連記事)とも異なる、遺伝学的に未知の人類系統との交雑を想定しないとデータを整合的に説明しにくい、ということです。この未知の人類系統は、現生人類・ネアンデルタール人・デニソワ人の共通祖先系統と102万〜36万年前頃に分岐し、現代アフリカ西部集団の祖先と124000年前頃以降に交雑して、そのゲノムに2〜19%ほど寄与している、と推定されています。

 ヨルバ人とメンデ人のゲノムの6.6〜7.0%はこの未知の人類系統に由来する、と推定されます。ヨルバ人とメンデ人のゲノムに高頻度で見られるこの古代型遺伝子としては、17番染色体上の癌抑制と関連するNF1(ヨルバ人で83%、メンデ人で85%)や、4番染色体上のホルモン調節と関連するHSD17B2(ヨルバ人で74%、メンデ人で68%)などがあります。NF1もHSD17B2も、以前の研究で正の選択の可能性が指摘されています。一方、以前の研究で古代型人類からアフリカ系現代人への遺伝子流動の可能性が指摘されていた(関連記事)、ヒトの唾液豊富に含まれるタンパク質の一つであるムチン7をコードしている、繰り返し配列のコピー数の違い(5しくは6)が見られるMUC7遺伝子に関しては、とくに頻度上昇は見られませんでした。

 ゲノム解析から、アフリカ南部の石器時代の個体は他の集団と35万〜26万年前頃に分岐した、と推定されています(関連記事)。最近の研究でも、アフリカ系現代人の分岐はたいへん古く複雑だった、と指摘されています(関連記事)。本論文は、新たに得られた未知の人類系統の交雑の痕跡をこの深く複雑な分岐に適切に位置づけるには、アフリカ全体の現代人のゲノム分析とともに、アフリカの古代ゲノムの分析も必要になる、と指摘します。また、新たな手法を用いた最近の研究では、アフリカ系現代人のゲノムにも、非アフリカ系現代人ほどではないとしても、以前の推定よりずっと多いネアンデルタール人由来の領域があると推定されており(関連記事)、こうした点も踏まえて、今後の研究が進展していくのだろう、と期待されます。

 本論文は新たな分析により得られた知見から、未知の人類系統がかなり最近までアフリカにおいて存在して現生人類と交雑した可能性とともに、もっと早期に現生人類の一部集団と交雑し、その集団が本論文で分析した現代アフリカ西部集団の祖先と交雑した可能性を提示しています。また本論文は、これらの仮説が相互に排他的ではなく、アフリカでは複数の多様な集団からの遺伝子流動が起きた可能性も指摘しています。アフリカの化石記録では、現代人的特徴を有する個体は20万年以上前から各地で見られ、現生人類の起源はアフリカ全体を対象に考察されねばならない複雑なものだった、との見解も提示されています(関連記事)。

 アフリカでは、現生人類が5万年前頃にオーストラリア(更新世の寒冷期にはニューギニア島・タスマニア島は陸続きとなってサフルランドを形成していました)まで拡散した(関連記事)後にも、祖先的特徴を有する人類が確認されています。たとえば、16300〜11700年前頃と推定されているナイジェリアのイウォエレル(Iwo Eleru)で発見された個体や、25000〜20000年前頃と推定されているコンゴのイシャンゴ(Ishango)で発見された個体で、完全に現代的な華奢な人類が出現するのは35000年前頃との見解も提示されています。これらの個体は、古代型人類系統もしくは古代型人類系統の遺伝的影響をまだ強く残した交雑系統だったのかもしれません。

 また本論文は、非アフリカ系現代人でもアジア東部(北京)やヨーロッパ北部および西部の現代人集団がアフリカ西部集団と一塩基多型の分布頻度で類似したパターンを示していることから、古代型人類由来のゲノムの一部が、アフリカ系現代人系統と非アフリカ系現代人系統の分岐前に現生人類系統において共有されていた可能性も指摘しています。古代型人類と現生人類との交雑は、非アフリカ系現代人系統がアフリカ系現代人から分岐する前に起きた可能性も考えられるわけです。こうした古代型人類からの遺伝子流動と多様な環境への適応における役割の理解には、アフリカ中の現代および古代ゲノムの分析が必要になる、と本論文は指摘します。人類史における交雑はたいへん複雑だったようで、追いついていくのは困難なのですが、私にとってかなり優先順位の高い問題なので、今後も地道に調べていくつもりです。


参考文献:
Durvasula A, and Sankararaman S.(2020): Recovering signals of ghost archaic introgression in African populations. Science Advances, 6, 7, eaax5097.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aax5097


https://sicambre.at.webry.info/202002/article_31.html

38. 中川隆[-13766] koaQ7Jey 2020年2月15日 14:01:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-383] 報告
2020年02月15日
ニワトリではなく飼育していたキジを消費していた中国北西部の初期農耕民
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_35.html


 中国北西部の初期農耕民によるニワトリではなく飼育していたキジの消費を報告した研究(Barton et al., 2020)が公表されました。現在では、農耕・牧畜(植物の栽培化・動物の家畜化)は、年代は異なりつつも世界の複数の地域で独自に始まり、周辺地域に拡散していった、と考えられており、この問題に関しては2014年の総説的論文が今でも有益だと思います(関連記事)。中国北部も9000〜7000年前頃に農耕が独自に始まった地域で、地域特有の植物の栽培化と動物の家畜化が進行し、それはキビ属とエノコログサ属(アワ)といった穀類やブタやイヌやニワトリといった家畜です。

 農耕への移行の原因については今でも議論が続いており、とくに高い関心が寄せられているのは、アジア東部のニワトリ(Gallus gallus domesticus)です。ニワトリは現在地球上で最も広範に存在する家畜ですが、ニワトリが、どこで、いつ、どのように進化したのか、合意は得られていません。中国の早期新石器時代の農耕村落遺跡では、しばしばニワトリとして識別されてきた中型の鳥の骨が含まれており、ニワトリの家畜化の最古の事例と解釈されてきました。しかし、こうした新石器時代の中国においてニワトリが出土した遺跡の中には、ニワトリの野生祖先である熱帯に適応したセキショクヤケイ(Gallus gallus)が現在では繁栄していない、中国北部の乾燥地域に位置しているものもあり、議論となっています。

 本論文は、1978〜1984年に中華人民共和国甘粛省(Gansu Province)秦安県(Qin'an County)の大地湾(Dadiwan)遺跡で発掘された鳥の骨を分析しています。大地湾遺跡におけるヒトの痕跡は8万年前頃までさかのぼり、農耕の最初の痕跡は老官台(Laoguantai)文化期となる7800年前頃(以下、すべて較正年代です)以降となります。6300年前頃までに、大地湾遺跡では農耕が発展して文化は複雑的となり、永続的な建築・貯蔵施設・工芸品生産地区・豪華な埋葬が出現し、ヒエやキビが栽培化され、イヌとブタが一年中穀類で飼育されたという同位体証拠も提示されています。

 以前の研究では、この早期新石器時代農耕共同体の鳥も穀物を与えられた推測されており、それはおそらくC4植物のキビで、夏の間にのみ成長します。大地湾遺跡では、中型の鳥の骨のコラーゲンの安定同位体値は、C4およびC3植物両方の通年植生を示す範囲に収まります。これは、たとえば現代のキジや過去のシチメンチョウ(Meleagris gallopavo)の値とよく一致します。大地湾遺跡の多くのブタや一部のイヌと同様に、同遺跡の鳥の骨の安定同位体値も、自ら探した餌とともに、農耕により生産された穀類も食べていたことを示唆します。

 大地湾遺跡の鳥は当初、ニワトリも含まれるヤケイ属の一種(Gallus sp.,)と識別されていましたが、最初の分析者は、一部の鳥がキジ科のイワシャコ(Alectoris chukar)もしくは単にキジ科かもしれない、と認識していました。本論文は、大地湾遺跡の鳥の分類学的不確実性を解決するため、すでに安定同位体値が評価された、以前はヤケイ属と識別された個体を分析しました。これらの標本はすべて、7900〜7200年前頃となる老官台(Laoguantai)文化期(3点)、もしくは6300〜5900年前頃となる仰韶(Yangshao)文化期(5点)の層で発見されました。ミトコンドリアDNA(mtDNA)分析の結果、本論文で対象とされた大地湾遺跡の早期新石器時代の鳥はすべてコウライキジ(Phasianus colchicus)に分類されました。これらはさらに亜種に区分できますが、詳細な系統関係の確定にはさらなる遺伝的情報が必要になる、と本論文は指摘します。

 大地湾遺跡は中国で最古の明確な農耕集落で、北西部乾燥地帯に位置します。大地湾遺跡とその周囲のヒト生物群系に生息し、その後にヒトに消費された鳥は、家畜化されたニワトリでも、その野生祖先であるセキショクヤケイでもなく、コウライキジと特定されました。重要なことに、大地湾遺跡の先史時代の鳥と遺伝的に合致する現生3亜種はすべて、砂漠・草原・乾燥高地帯を含む中国北部の混合的環境で現在確認されます。これは、外来の鳥ではなく地元の鳥が消費されたことを示します。

 現在、これらの大地湾遺跡の早期新石器時代の鳥が囲いで飼育されたとか、その卵をヒトが消費したとかいう証拠はなく、直接的にヒトが管理したという証拠さえありません。本論文の分析から言えるのは、大地湾遺跡の早期新石器時代の鳥の食性は野生動物に似ておらず、食性のかなりの部分を新石器時代以降のヒトだけが提供できる穀類に依存していたに違いない、ということです。大地湾遺跡の早期新石器時代の鳥は、穀物貯蔵庫の穀類、もしくは栽培化されたキビの収穫と処理で生じる廃棄物を食べ、その鳥をヒトが食べた、というわけです。

 本論文は早期新石器時代の大地湾遺跡における、鳥(コウライキジ)とヒトとのこの単純な共生を「低水準の鳥の生産」と呼び、それが地域的な収穫量を高めるための意図的で低コストとなるヒトの生存戦略だった、と指摘します。農耕共同体の敷地内もしくは隣接する農地内の農業廃棄物を加減するだけで、食用となる鳥の量さを調整できるため、低水準の食料生産においては効果的な手段でした。さらに、この慣行は、農耕共同体が分裂もしくは移住するたびに、籠に入れて輸送したり抱きかかえたりせずとも開始できました。地元の環境に固有の鳥は、単に自分のために農耕共同体の廃棄物を食べ、人々はその鳥を食べた、というわけです。

 鳥の骨のコラーゲンの同位体パターンは、新石器時代の中国北部の他の場所でも見られ、「低水準の鳥の生産」が温帯環境に居住する広範囲の民族言語的集団において適応的だった、と示唆します。このような考古学的な鳥遺骸の時空間的研究は、「低水準の鳥の生産」がキジに限定されていたのかどうか、明らかにできるかもしれません。また、キジあるいはニワトリやその野生祖先を含む他の肉質の地上性の鳥が先史時代にどの程度管理されていたのか、という問題の解明にも役立つのではないか、と期待されます。

 上述のように、農耕と牧畜は世界各地で年代は異なりつつも世界の複数の地域で独自に始まった、と考えられていますが、その過程は「革命」と呼べるような急激なものではなく、試行錯誤を伴う漸進的なものだった、と今では考えられています。たとえば中央アナトリア高原では、狩猟採集から農耕への移行期間は短くなく、早期新石器時代には農耕民集団と狩猟採集民集団とが混在していた、と指摘されています(関連記事)。中国北部の早期新石器時代村落でも、農耕開始からしばらくは生産性が低く、穀類やその収穫の過程で生じる廃棄物を鳥に食べさせ、ある程度管理することで多様な栄養源を確保していたのでしょう。その鳥が、早期新石器時代の中国北部では在来野生種のコウライキジだった、というわけです。こうした早期新石器時代農耕民の経験が、後に中国北部にはその祖先種(セキショクヤケイ)が存在しないニワトリを導入して飼育するさいにも役立った、と考えられます。


参考文献:
Barton L. et al.(2020): The earliest farmers of northwest China exploited grain-fed pheasants not chickens. Scientific Reports, 10, 2556.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-59316-5

https://sicambre.at.webry.info/202002/article_35.html

39. 中川隆[-13720] koaQ7Jey 2020年2月17日 16:42:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-300] 報告
2020年02月17日
門脇誠二「現生人類の出アフリカと西アジアでの出来事」
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_38.html


 朝日選書の一冊として朝日新聞出版より2020年2月に刊行された

西秋良宏『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』
https://www.amazon.co.jp/アフリカからアジアへ-現生人類はどう拡散したか-朝日選書-西秋良宏/dp/4022630949/ref=sr_1_1?qid=1581925286&s=books&sr=1-1&text=%E8%A5%BF%E7%A7%8B%E8%89%AF%E5%AE%8F


所収の論文です。本論文は、現生人類(Homo sapiens)がアフリカからアジア西部へと拡散した頃の考古記録を取り上げています。アジア西部は、アフリカ起源の現生人類がアフリカ外へと最初に拡散した地域で、現生人類とは異なる系統のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の遺骸も発見されているため、遺伝的・文化的な両者の相互作用という観点からも大いに注目されています。

 アジア西部で最古となる現生人類候補の化石はレヴァントで発見されており、年代は19万〜18万年前頃ですが(関連記事)、現時点で発見されているネアンデルタール人遺骸はこれよりも後となります。ネアンデルタール人遺骸はレヴァントで7万〜5万年前頃にも確認されており、現生人類が一度拡散した地域に後からネアンデルタール人が再度拡散してきた事例は、現時点で化石記録ではアジア西部、とくにレヴァントだけです。本論文は、アジア西部にネアンデルタール人が拡散してきた時、現生人類がレヴァントにいなかった(アフリカへ撤退もしくは絶滅)可能性と、共存していた可能性を提示しています。レヴァントではイスラエルのマノット洞窟(Manot Cave)55000年前頃の現生人類遺骸が発見されており(関連記事)、この頃にネアンデルタール人と現生人類が交雑したと推測されているだけに、注目されます。5万年前頃以降になると、アジア西部で明確なネアンデルタール人遺骸は発見されておらず、現生人類遺骸のみが確認されていることから、アジア西部のネアンデルタール人は絶滅し、現生人類のみが人口を増加させ、アジア西部に定着した、と考えられます。

 現生人類のアフリカからアジア西部への拡散については、気候変動との関連が指摘されています。13万〜7万年前頃となる洋酸素同位体ステージ(MIS)5には何度か、アフリカ北部からアラビア半島にかけての広大な砂漠地帯も「緑化」したと明らかになっており、サハラ砂漠以南のアフリカと類似した気候になったことから、現生人類がアフリカから拡散したのではないか、と考えられます。類似した環境では行動や技術が大きく変わる必要なく、じっさい、この時期のアラビア半島のジェベルフアヤ(Jebel Faya)遺跡C層やドファール地域の石器は、同時代のアフリカ東部から北東部の石器と形態や製作技術が似ている、と指摘されています(関連記事)。具体的には、両面加工の木葉形の石器やヌビア型ルヴァロワ(Levallois)方式と分類される剥片石器です。

 一方レヴァントではタブン(Tabun)C型というレヴァント独自の石器技術が見られるものの、同時代のアフリカ北東部で流行していたヌビア型との類似性を指摘する見解もあります。当時のレヴァントは、湿潤化したアラビア半島とは気候変動パターンが異なり比較的乾燥しており、石器技術はその違いを反映しているかもしれない、と本論文は指摘します。本論文は、アラビア半島からレヴァントにかけて拡散した初期現生人類集団は、ずっと安定した好適環境にいたわけではなく、しばしば生じた気候変動に応じて再移動したり技術を変えたりする必要があり、また集団構造による文化伝達の相違も技術変化の要因だったかもしれない、と指摘します。

 このように中部旧石器時代前期〜中期にかけて現生人類がアジア西部へと初めて拡散しますが、中部旧石器時代後期にはネアンデルタール人が増加し、現生人類は減少したと考えられています。ネアンデルタール人はヨーロッパで進化史、アジア西部へと南下してきたようです。MIS4に地球規模の寒冷化があり、アフリカやアジア西部よりも高緯度のヨーロッパではその影響が強かったでしょうから、ネアンデルタール人は南下してきたのではないか、というわけです。そのため、アジア西部における現生人類の分布は縮小したと考えられるものの、アフリカではネアンデルタール人遺骸は発見されていないので、ネアンデルタール人の南下はアジア西部のどこかで止まったはずです。本論文は、当時アラビア半島からアフリカ北部にかけては寒冷化の影響で乾燥帯が広がっていた一方で、レヴァントは死海堆積物の分析から比較的湿潤だったと明らかになっているので、乾燥帯がネアンデルタール人の南下の障壁になった、と推測しています。一方、アジア西部における現生人類の分布が縮小したのは、気候変動とネアンデルタール人の侵入の両方が関わっており、現生人類はナイル川流域やアラビア半島南西部やレヴァントといった退避地にのみ分布していた可能性がある、と本論文は指摘します。当時レヴァントでは、ネアンデルタール人と現生人類が遭遇した可能性も充分あった、というわけです。

 当時、ネアンデルタール人も現生人類もルヴァロワ方式を用いて石器を製作していました。ルヴァロワ方式では大きく定形的な剥片を製作できますが、レヴァント地方のルヴァロワ方式の特徴は、三角形のポイントが多いことです。食性についても、ネアンデルタール人と現生人類の間で大きな違いはなかったようで、ともに主要な狩猟対象は、オーロクスやアカシカといった大型有蹄類の他は、ノロジカやダマジカやロバやガゼルなどの小型有蹄類でした。また、捕まえやすいカメやトカゲなどの小動物も利用され、海岸部の遺跡では貝を食べていた痕跡も確認されています。有蹄類の狩猟では、身体の大きい成獣が主要な標的とされていました。植物では、マメ類が利用されています。埋葬もレヴァントのネアンデルタール人と現生人類の両方で見られ、またともに動物の角や骨といった副葬品を伴う場合もあります。

 このように、中部旧石器時代のレヴァントにおけるネアンデルタール人と現生人類の行動様式には共通点が多く見られますが、違いの一つは貝製ビーズの利用で、現時点ではスフール(Skhul)およびカフゼー(Qafzeh)という現生人類の洞窟遺跡でしか見つかっていません。これをネアンデルタール人と現生人類の象徴能力の差と考える見解もありますが、同時代のヨーロッパのネアンデルタール人が装飾品を残した事例も確認されており(関連記事)、本論文は、中部旧石器時代の現生人類とネアンデルタール人の行動様式は、違いよりも共通点の方が多かった、と推測しています。

 このように、アジア西部では10万年以上にわたってネアンデルタール人と現生人類とが共存していた可能性もありますが、最終的にはネアンデルタール人は消滅しました。レヴァントにおける最後のネアンデルタール人遺骸の年代は、現時点では5万年前頃です。上述のようにイスラエルのマノット洞窟では55000年前頃の現生人類遺骸が発見されているので、アジア西部においてネアンデルタール人が消滅した頃、現生人類が存在していたとしても不思議ではありません。ネアンデルタール人の消滅と現生人類の運命を分けた要因は、高い関心を集めています。本論文はまず、ネアンデルタール人および種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)の共通祖先系統が現生人類系統と50万年以上前に分岐して以降、ネアンデルタール人とデニソワ人の系統は人口が減少し続けたと推定されている(関連記事)、という長期的な人口動向を指摘します。アジア西部でのネアンデルタール人の消滅も長期的な人口減少の結末だった、というわけです。ただ、この長期的な人口史については、異論も提示されています(関連記事)。

 また本論文は、現生人類の方も20万年前頃から5万〜4万年前頃にかけて個体数が減少しており、それは非アフリカ系集団において強く認められる一方で、この時期に世界中に現生人類が拡散していったことに注目しています。そのため本論文は、当時のユーラシアでは現生人類にとってもデニソワ人やネアンデルタール人のような古代型ホモ属にとっても個体数の維持は難しく、それは、気候変動による資源環境の変化や、拡散先での新たな環境への対応や、拡散のために集団が細分化したことなどが背景にあるのではないか、と推測しています。長期的な人口減少が現生人類にも古代型ホモ属にも見られ、そのピークが5万〜4万年前頃だったとすると、古代型ホモ属は「絶滅」に至り、現生人類は「ボトルネック(瓶首効果)」ですんだおかげで現代も存続している、と本論文は指摘します。

 本論文は5万〜4万年前頃に現生人類と古代型ホモ属で運命が分かれた理由を、考古学的に検証しています。ネアンデルタール人が消滅した5万年前頃のアジア西部では、ハインリッヒイベント(HE)5による大規模な寒冷化が明らかになっています。これをネアンデルタール人消滅の要因とする見解もありますが、実際にどの程度生物相に影響を与えたかについては、論争が続いています。たとえば、アジア西部における最後のネアンデルタール人遺骸が発見されているイスラエル北部のアムッド洞窟(Amud Cave)では、5万年前頃になっても小動物骨の構成に大きな変化はなく、シリアのデデリエ(Dederiyeh)洞窟では、乾燥化したのではなく、逆に湿潤化したと解釈されるような証拠も見つかっています。ただ、イスラエル北部のケバラ(Kebara)洞窟では、ネアンデルタール人と関連している層で新しくなるほど、大型有蹄類の比率が減少し、小型有蹄類でも若齢個体の比率が増加しており、頭蓋比率の減少から狩猟場が遠くなったと推測されていることから、気候変動による動物資源の変化が指摘されています。ただ、長年の狩猟により動物資源が枯渇した可能性も提示されています。現時点では、ネアンデルタール人が絶滅した頃のレヴァントの気候や資源環境について、まだ合意は形成されていないようです。

 アジア西部でネアンデルタール人が消滅した頃、上部旧石器時代が始まります。この大きな考古記録の変化に伴い、ネアンデルタール人の遺骸は発見されなくなり、現生人類遺骸のみが発見されるので、上部旧石器文化の担い手は現生人類のみと考えられています。ヨーロッパやアジア北部では、中部旧石器が古代型ホモ属、上部旧石器が現生人類と考えられてきましたが、アジア西部では中部旧石器文化の担い手がネアンデルタール人と現生人類の両方だったので、この図式は当てはまりません。

 この大きな文化変化は、石器に関しては石刃の増加により示されます。レヴァントでは、中部旧石器時代には20%程度だった石刃が、上部旧石器時代初期には40%、それに続く4万年前頃以降の上部旧石器時代前期には60%程度まで増加します。また、上部旧石器時代初期から前期にかけて、石刃のサイズが減少していく傾向にあります。小型の石刃は小石刃と呼ばれています。石刃はそのままでナイフとして用いられますが、さらに加工して定形的な道具が作られることもあります。上部旧石器時代で特徴的なのは、動物の皮をなめす掻器(エンドスクレーパー)や骨などに溝を掘る彫刻刀型石器(ビュラン)です。また、石刃の先端部を尖らせて作られる尖頭器も増加し、小石刃から作られる小型尖頭器も顕著に増えます。

 中部旧石器時代から上部旧石器時代にかけてのこうした石器形態や製作技術の変化の意義は、まだ明らかになっていません。皮をなめす道具(サイドスクレーパー)もビュランも中部旧石器時代にありました。小型尖頭器に関しては、投槍などの射的武器の先端に装着して新たな狩猟法をもたらし、現生人類の人口増加の一因になった、との見解も提示されています。ただ本論文は、小型尖頭器の出現は上部旧石器時代前期になってからなので、ネアンデルタール人の消滅とは関係ないだろう、と指摘します。また、石刃生産への集約は石材をより効率的に消費できる、と以前は指摘されていましたが、最近の研究では、石刃技術でも刃部の獲得効率が上昇するとは限らないと明らかになっており、石刃技術が現生人類の生存とその後の繁栄に役立ったのか、まだ確証は得られていないようです。

 中部旧石器時代から上部旧石器時代にかけての行動変化のもう一つの指標は動物資源の利用です。中部旧石器時代と比較して上部旧石器時代には、より広範な種類の小型動物が利用されるようになります。たとえば、ウサギやリスや鳥や魚です。これらの小型動物は、カメなどと比較して捕獲に工夫が必要で、1個体あたりの可食部も限られているので、捕獲コストに対する収率という観点から「低ランク資源」と呼ばれています。低ランク資源の利用は、上述のケバラ洞窟の事例で示されるように、すでに中部旧石器時代後期には進行していた、とも指摘されています。

 上部旧石器時代には、貝殻製ビーズのような装飾品も増加しました。ただ、アジア西部でネアンデルタール人遺骸の発見されている中部旧石器時代後期の遺跡では、貝製ビーズの発見がまだ報告されていません。上述のようにこの頃には現生人類も共存していた可能性があるわけですが、貝製ビーズが見つからない理由はよく分かりません。上部旧石器時代には、レヴァントだけではなくヨーロッパなど広範な地域でビーズの利用が見られ、ビーズの形やサイズは類似していた、と指摘されています。ビーズは複数をつないで組み合わせ、多様なシグナルを創出するので、その形は均質であることが求められたのだろう、と本論文は推測しています。また、イベリア半島からレヴァントまでという広範な地域でのビーズの共通性は、ビーズ交換などを通じて築かれた社会ネットワークが、広範囲に連結した結果と解釈されています。狩猟採集民社会の互恵的な関係では、ネットワークへの参加により環境・社会的なリスクが軽減されたかもしれない、というわけです。

 上部旧石器時代における行動の変化に関しては、これらに加えて資源の収集範囲や居住移動パターンや居住空間構造などが指摘されてきましたが、それらが現生人類の存続とネアンデルタール人の消滅という結果の要因だったのか明らかではない、と本論文は指摘します。かつて、ユーラシア西部の上部旧石器時代やアフリカの後期石器時代に特徴的な考古記録は「現代人的行動」という概念でまとめられ、古代型ホモ属との違いが指摘されていました。しかし、現生人類の拡散・定着という観点から研究が進展すると、「現代人的行動」は地域により多様であることが明らかになってきました。たとえば、ユーラシア西部から北部の上部旧石器時代に特徴的な石刃小石刃は、アジア南東部やオセアニアではほとんど見られません。さらに、石刃や装飾品などの「現代人的行動」がネアンデルタール人でも確認されるようになってきました。

 一方、現生人類の起源地であるアフリカでさえも、「現代人的行動」の記録が一様に発達してきたわけではなく、地域によってはなかったり、一度生じても後で消えてしまったりするようなモザイク的な消長パターンである、と明らかになってきました(関連記事)。本論文は、5万〜4万年前頃に現生人類とネアンデルタール人は広範に分布しており、各集団が経験したボトルネックや絶滅の背景となる環境は多様だったと考えられる、と指摘します。じっさい、ネアンデルタール人と現生人類それぞれの内部での多様性と、両者の間の共通説も明らかになってきており、両者の運命を分けた要因について、特定の行動要素に一般化することは難しくなっている、と指摘します。

 現在では、現生人類が多様な環境に拡散して定着できた要因として、「変動する状況や環境に応じて革新を生み出す才能や柔軟性」や「技術の根底にある創意工夫の才や柔軟性」が挙げられています。本論文は、この抽象的な説明を具体化できるのが考古学である、と指摘します。まず、現生人類が拡散していった時期の考古記録の地理的変異を整理することで、その文化地理的パターンは自然環境に対応して説明できるかもしれませんし、そうでない場合は文化伝達プロセスなどが要因として考えられます。次に、現生人類の特徴的行動の発生プロセスを明らかにすることが挙げられています。本論文は、これらの研究を進めるには、まず考古記録の年代決定が重要になる、と指摘します。

 本論文は、その具体的事例として、レヴァントのヨルダン南部を取り上げています。ヨルダン南部は、旧石器時代には現在よりも湿潤だった時期もあるものの、それでも同時代のレヴァント北部と比較するとより乾燥していたようで、シカやイノシシなど森林性の動物遺骸は発見されていません。このように資源には制約のあったヨルダン南部ですが、旧石器時代の多くの遺跡が残っています。ヨルダン南部における中部旧石器時代から上部旧石器時代にかけての石器の形態や製作技術の変化の大きな傾向として、ルヴァロワ方式から石刃の増加と、その後の石刃の小型化が指摘されています。石刃の増加と小型化は、現生人類が拡散・定着していった時期のユーラシア西部・中央部・北部で広範に見られる現象です。また、鳥などの小型動物の利用が増加し、装飾品が出現するのも特徴です。ヨルダン南部では上部旧石器時代に185km離れた地中海や55km離れた紅海の貝殻が見つかるようになりますが、そのほとんどは小型で食用とは考えられず、次第にビーズに加工されたものが増加していきます。これに関しては、ヨルダン南部の住民が海岸まで移動して集めてきた可能性と、社会的ネットワークを通じて海岸に近い集団から入手した可能性が指摘されています。


参考文献:
門脇誠二(2020)「現生人類の出アフリカと西アジアでの出来事」西秋良宏編『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』(朝日新聞出版)第1章P7-52

https://sicambre.at.webry.info/202002/article_38.html

40. 中川隆[-13691] koaQ7Jey 2020年2月18日 14:27:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-270] 報告
2020年02月18日
西秋良宏「東アジアへ向かった現生人類、二つの適応」
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_39.html


 朝日選書の一冊として朝日新聞出版より2020年2月に刊行された

西秋良宏『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』
https://www.amazon.co.jp/アフリカからアジアへ-現生人類はどう拡散したか-朝日選書-西秋良宏/dp/4022630949


所収の論文です。


本論文はまず、現生人類がアフリカからアジアへ拡散前に存在したアジアの先住人類を取り上げています。その代表格というか最もよく知られているのはネアンデルタール人で、東方ではアルタイ地域まで拡散したことが確認されています。これは北方でのことで、南方では、現在のパキスタンとインドあたりまでネアンデルタール人の用いたムステリアン(Mousterian)石器が確認されています。ただ、パキスタンとインドでは明確なネアンデルタール人遺骸は確認されていません。また本論文は、ムステリアン石器が中華人民共和国内モンゴル自治区で発見されていることから(関連記事)、ユーラシア北方ではアジア東部までネアンデルタール人が拡散した可能性も指摘しています。

 本論文は、ヨーロッパで進化したネアンデルタール人がアジアにまで拡散した一因として、7万〜5万年前頃となる海洋酸素同位体ステージ(MIS)4の寒冷乾燥化を挙げています。ただ、本論文が指摘するように、アルタイ地域ではMIS4よりも前のネアンデルタール人の存在が確認されています。そこで本論文は、ネアンデルタール人の東方への拡散は少なくとも2回あった、と指摘します。本論文はその考古学的証拠として、MIS5にさかのぼるネアンデルタール人の存在が確認されているアルタイ地域のデニソワ洞窟(Denisova Cave)の石器群と、近隣のチャグルスカヤ(Chagyrskaya)洞窟やオクラドニコフ(Okladnikov)洞窟の石器群とが異なることを挙げています。どちらもルヴァロワ技術を用いていたものの、チャグルスカヤ洞窟やオクラドニコフ洞窟では表裏非対称な両面加工の削器が頻用されていたのに対して、デニソワ洞窟ではそれが見られません。両面加工削器は、ヨーロッパでは中部旧石器時代後半のヨーロッパ中部および東部で流行したカイルメッサーグループ(Keilmessergruppen)に固有です。チャグルスカヤ洞窟やオクラドニコフ洞窟のネアンデルタール人は、ヨーロッパ中部および東部のカイルメッサーグループ集団がアルタイ地域にまで拡散してきたのに対して、デニソワ洞窟のネアンデルタール人はカイルメッサーグループが流行する前のヨーロッパ、もしくは流行していなかったヨーロッパから到来したのだろう、というわけです。ヨーロッパからアルタイ地域への移動で障壁になりそうなのはウラル川ですが、ウラル川が縮小した乾燥期にネアンデルタール人は渡河したのだろう、と本論文は推測します。本論文のこうした見解は、今年(2020年)公表された研究でも支持されており、ユーラシア草原地帯をネアンデルタール人は東進したのだろう、と推測されています(関連記事)。

 アジアの非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)としてはネアンデルタール人が有名ですが、2010年に初めて存在の確認された古代型ホモ属が、種区分未定のデニソワ人(Denisovan)です。デニソワ人はまずデニソワ洞窟でその存在が確認され、ネアンデルタール人と近縁な系統で、現生人類やネアンデルタール人との交雑が確認されています(関連記事)。アジア東部には種区分の曖昧な中期〜後期更新世のホモ属遺骸が少なからずあるので、それらの中にデニソワ人に分類できるものがある可能性は低くなさそうです。

 現生人類がアフリカからアジアへと拡散していった時期には、ホモ・エレクトス(Homo erectus)がまだ存在していた可能性もあります。アジア南部の十数万年前頃のホモ属遺骸の分類に関してはまだ議論が続いていますが、エレクトスも用いた握斧がアジア南部では13万年前頃まで使われており、中部旧石器の出現がその頃以降なので、現代人の主要な祖先集団ではないとしても、最初期の現生人類がアジア南部でエレクトスと遭遇した可能性も考えられます。

 アジア南東部では、エレクトス系統と考えられる(異論は根強いというか、むしろやや優勢かもしれませんが)人類が後期更新世まで存続していました。フローレス島においては5万年前頃までホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)が存続し、ルソン島では67000〜50000年以上前と推定されているホモ・ルゾネンシス(Homo luzonensis)が存在していました(関連記事)。これらのホモ属は、現生人類と遭遇した可能性があります。フロレシエンシスの場合は、アジア南東部やオセアニアの現代人の主要な祖先集団が拡散してきた頃まで存在が確認されているので、あるいは現生人類との遭遇が絶滅の主因だった可能性もじゅうぶん考えられます。本論文は、アジア南部および南東部はアジア西部やヨーロッパや日本列島と比較して考古学の調査密度が格段に低いことから、今後も驚異的な発見がなされる可能性は高い、と指摘します。

 人類遺骸・考古学・遺伝学の証拠から、6万〜5万年前頃以降に現生人類がアジア各地に本格的に拡散していったことはほぼ確実とされています。一方、その前の20万年前頃にも現生人類はアジア西部まで拡散していました。本論文は、6万年前頃よりも前の現生人類のアフリカからの拡散を第一次出アフリカ、それ以後の拡散を第二次出アフリカと呼んでいます。第一次出アフリカで現生人類は現在のギリシアまで拡散していたようですが(関連記事)、それよりも西方のヨーロッパ地域にまで拡散していた証拠はまだありません。東方への拡散に関しては、ヒマラヤ山脈の北方を通りアジア中央部から北東部へと拡散する経路と、南方を通りアジア南部から南東部へと拡散する経路が考えられます。

 北方経路に関しては、第一次出アフリカの確実な証拠はまだありません。近年、これに関して注目されているのは、ウズベキスタンのオビラハマート(Obi-Rakhmat)洞窟の人類遺骸です。じゅうらい、その年代は中部旧石器時代から上部旧石器時代への移行期となる5万年前頃と推定されていましたが、2018年に11万〜10万年前頃と報告されています。以前から、オビラハマート洞窟の少年の歯はネアンデルタール人的である一方で、頭蓋断片はネアンデルタール人的特徴と現生人類的特徴とが混在している、と指摘されていました(関連記事)。本論文は、この少年遺骸と共伴する石器群が、アジア西部で最古となる19万〜18万年前頃の現生人類的遺骸が発見されているミスリヤ洞窟(Misliya Cave)の石器群(関連記事)と類似していることに注目しています。

 類似した石器群は、ウズベキスタンのホジョケント(Khodjakent)遺跡でも発見されています。中部旧石器時代前期となるこれらの石器群は、イスラエルのタブン(Tabun)洞窟の層位的証拠に基づいてタブンD型と呼ばれています。タブンD型石器群はアジア西部および中央部だけではなく、ジョージア(グルジア)のデジュルジュラ(Djruchula)洞窟でも発見されており、年代は20万年以上前と推定されています。デジュルジュラ洞窟ではホモ属の歯が1点発見されており、ネアンデルタール人と推定されています。アジア西部のタブンD型石器群は25万〜10万年前頃と推定されています。本論文は、オビラハマート洞窟とデジュルジュラ洞窟のホモ属遺骸がともにネアンデルタール人だとすると、アジア西部の現生人類とは独立して類似したタブンD型技術を発展させたか、アジア西部の初期現生人類集団と交雑も含めた交流があったかもしれない、と指摘します。さらに東方となると、中国北東部ではタブンD型もその後のルヴァロワ技術で幅広剥片を多産するタブンC型も発見されていません。そのため本論文は、第一次出アフリカの北方経路に関しては、仮にあったとしても、アジア東部にまでは到達しなかっただろう、と指摘します。

 南方経路に関しては、アフリカの初期現生人類の石器と類似した石器がアラビア半島やアジア南部で発見されていることと、アジア南東部やオセアニアで5万年前以前の現生人類の痕跡が報告されていることから、以前より可能性が高いと主張されていました。12万〜10万年前頃と推定されているアラビア半島南部のジェベルフアヤ(Jebel Faya)遺跡C層では、アフリカ東部の初期現生人類に好まれていた両面加工石器(下部旧石器時代の握斧とは異なり、細長い形態も含まれます)が発見されました。同時代のアフリカ北東部で流行していたヌビア型との類似性を指摘するアラビア半島南部の石器群も報告されています。本論文は、この両面加工石器の存在から、現在のイラン南部やパキスタンあたりまで初期現生人類が拡散していた可能性を指摘します。また、パキスタンのタール渓谷では、ヌビア型石核剥離技術の石器が報告されています。

 インド東部中央のジュワラプラム(Jwalapuram)遺跡では、タブンC型に類似したルヴァロワ技術が確認されており、これもアジア南部への現生人類拡散の根拠とされています。昨年(2019年)、インドのサンダヴ(Sandhav)遺跡の11万年前頃のルヴァロワ石器群が報告されており(関連記事)、南方経路での第一次出アフリカのさらなる証拠と言えるかもしれません。ただ本論文は、アジア南部のこれら中部旧石器時代の石器群について、どれも確実とは言えない、と指摘します。アジア南部の両面加工石器群はどれも表面採集で年代が確定的ではなく、ジュワラプラム遺跡の74000年前頃よりも古い層では、両面加工石器やヌビア型石器は発見されていない、というわけです。南方経路に関しては、アジア南部で確定的な証拠が発見されていなくとも、さらに東方のアジア南東部やオセアニアで発見されていれば確証される、とも言えそうです。これに関しては、オーストラリアやスマトラ島などで6万年以上前の現生人類の痕跡が主張されていますが、それらの年代には疑問も呈されています(関連記事)。

 第二次出アフリカの証拠は一気に増え、考古学的な時代区分では上部旧石器時代初頭となります。その特徴は、中部旧石器時代のルヴァロワ方式の伝統を残しながら石刃を生産する石核剥離技術です。そうした石器群がアルタイ地域のカラボム(Kara-Bom)遺跡で発見されており、年代は47000〜45000年前頃と推定されています。当初、この石器群は在地における中部旧石器時代から上部旧石器時代への移行と解釈されていましたが、現在では、西方からの集団の拡散とする見解の方が有力なようです。類似した石器群はモンゴルのトルボル(Tolbor)遺跡で発見されており、年代は45000年前頃と推定されています。類似した石器群は、東方では中華人民共和国寧夏回族自治区の水洞溝遺跡まで広がっており、年代は4万年以上前と推定されています。上部旧石器時代初頭の石器群は50000〜47000年前頃にレヴァントで出現したと推測されており、数千年で中国西部まで拡散したことになります。ただ、レヴァントとアルタイ地域の間のイラン北部やアジア中央部西方では、まだ発見されていません。チェコでは類似した石器群が発見されているので、ユーラシア北方草原地帯経由だったかもしれません。

 以上は北方経路でしたが、南方経路では、イラン南部での最古の上部旧石器こそ4万年前頃までしかさかのぼりませんが、そのずっと東方のアジア南東部やオセアニアでは、同じ頃かややさかのぼる頃の現生人類の痕跡が確認されています。たとえば、オーストラリアのウィランドラ湖群(Willandra Lakes)地域のマンゴー湖(Lake Mungo)やボルネオ島のニア洞窟群(Niah Caves)では4万年前頃の現生人類遺骸が発見されています。現生人類がどのようにアフリカやアジア西部からユーラシア南東部やオセアニアにまで到達したのかという問題で、本論文はインドのパトネ地方の遺跡群で発見されている半月形の幾何学石器群に注目しています。類似した6万数千〜5万年前頃の石器群が、タンザニアのムンバ(Mumba)岩陰遺跡や南アフリカ共和国のクラシーズ(Klasies)河口遺跡群などで発見されていることから、アフリカからアジア南部への直接的な拡散の可能性も指摘されています。また、ダチョウの卵殻で造られたビーズや線刻製品なども、アフリカとインドで発見されています。ただ本論文はこの仮説の難点として、両地域の中間地帯となるアラビア半島南部で類似した石器群が発見されていないことを挙げています。アラビア半島南部のジェベルフアヤ遺跡では、上述のように12万〜10万年前頃の石器群が発見されていますが、4万年前頃の層では、幾何学石器とは大きく異なる剥片主体の石器群が発見されています。アフリカとインドの幾何学石器については、現在では水没した地域に痕跡が残っている、との見解もありますが、収束進化との見解の方が有力なようです。

 考古学と人類化石の証拠からは、アフリカからアジアへの拡散は20万年前頃よりしばしばあったものの、最も成功したのは6万〜5万年前頃以降の拡散と考えられ、それはゲノム分析とも整合的です。その理由として、現生人類の認知能力が変異により飛躍的に進化史、象徴能力や短期記憶や学習能力が格段に高度になったから、との見解が提示されています。これは主に、現生人類と古代型ホモ属との考古学的記録の比較に基づいています。両者の間で最も目立つのは社会活動に関する遺構や遺物で、アジア西部に当てはまるとされていますが、北回り・南回りを問わず、他のアジア地域でも同様です。たとえば、集団内もしくは集団間の絆を示すような装身具や、洞窟壁画や、遠隔地素材を用いた道具などです。一方、ネアンデルタール人が装飾品を用いた事例もありますが、限定的です。ただ本論文は、こうした行動に関する証拠は、生得的な認知能力だけではなく、生まれ育った社会の歴史や文化、また選好や自然環境などにより変わることから、認知能力の飛躍的な進化を考古学的証拠のみで検証することに慎重です。

 本論文はこの問題との関連で、現生人類の拡散において、北回りではアジア西部、中でもレヴァントの石器製作技術が中国北部にまで及んでいた一方で、南回りではそうした明瞭な広域的類似が考古学的記録に見られない、と指摘します。これは研究進展度の違いに起因しているかもしれないものの、北と南の生態環境の違いを反映しているのではないか、と本論文は指摘します。生態環境によりヒトの生存戦略は違ってくるだろう、というわけです。北回りでも南回りでも温帯が中心ですが、北回りは寒帯と亜寒帯、南回りは熱帯と亜熱帯にも広がっています。

 北回りで現生人類遺跡の密集域は天山・ヒマラヤ山脈とその北縁の草原地帯と山麓地帯で、「シルクロード」ともほぼ重なり、更新世においても移動しやすい経路だったと考えられます。東西方向の移動は、類似した自然環境である場合が多く、一般的に南北方向の移動よりも容易です。北回りの現生人類集団の技術的特徴は石刃製作で、これは細長く規格的なので携帯性が優れていたからではないか、と本論文は推測しています。北回りでは資源密度が低く、単位集団あたりの領域は広かったと考えられるので、長距離移動を強いられる条件下では、携帯性に優れた道具が有利だった、というわけです。また、石刃は原石を有効に活用できることも利点だった、と本論文は指摘します。こうした石刃は槍に利用されていたと考えられ、さらに投槍器が用いられていた可能性もあります。

 一方南回りでは、アジア南部において、第二次出アフリカの痕跡を示す石刃石器群の分布が途絶えます。さらに、第一次出アフリカの痕跡も、ネアンデルタール人の痕跡も、アジア南部で途絶えます。本論文はその理由として、生態環境の違いによる適応技術の変更を挙げています。南回りでは、東西方向の移動とはいえ、モンスーン地域への適応を必要としました。アジア西部が地中海からの湿気による冬雨地域であるのに対して、アジア南部以東は日本列島と同じく大洋性の夏雨地帯で、夏は高温多湿で森林も発達しています。狩猟対象となるのも、ガゼルやロバなど草原性の動物から、スイギュウやサルや昆虫など大小さまざまな森林性動物へと変わります。また南回りでは、海洋や島嶼環境への適応も求められました。南回りでは、多様な技術を反映して、北回りよりもずっと現生人類拡散の考古学的証拠を見つけにくくなっています。また、アジア南東部以東で目立つのは特徴をとらえにくい剥片製の不定形石器で、中国南部では鋸歯縁をつけた不定形石化が目立つとされますが、中部旧石器時代の石器群と明瞭な違いを示すわけではないため、現生人類到達の指標とはしにくい、と本論文は指摘します。アジアのモンスーン地帯での現生人類の適応に関しては、民族誌から有機質の材料、とくに竹が石器の代替品とされていた可能性が指摘されています。ただ本論文は、竹を利用できたから現生人類がアジアのモンスーン地帯で成功した、というような見解には慎重で、古代型ホモ属も竹を利用できたはずと指摘します。また本論文は、南回りでの特徴として、島々へ渡海する技術や貝製釣り針を活用した釣魚技術などの開発を挙げています。現生人類の第二次出アフリカにおいて、南回りは斉一的な技術展開の北回りとは異なり、地域によりきわめて多様な適応が進みました。

 こうした石器技術の地理的差異は、すでに現生人類出現前の下部旧石器時代(サハラ砂漠以南のアフリカでは前期石器時代)に見られました。両面加工石器である握斧(ハンドアックス)は、アフリカやヨーロッパでは多数発見されていますが、アジア南東部以東ではめったに見られません。アジア南東部以東では、握斧以前の石器技術が長く用いられ続けました。この違いについては、開けた草原地帯と植生豊かな森林地帯とでは、社会の在り様、さらには文化の創造と伝達過程が異なったのではないか、との見解も提示されています。西方の草原地帯では、資源がオアシスなど特定地域に偏在する傾向にあり、ライオンなどからの捕食圧もあるので、比較的大きな集団での生活が有利だったのに対して、アジア南東部などの温暖森林では、どこでも一定の資源が得られ、捕食圧も低いため、集団が分散して少人数での生活が可能だった、というわけです。さらに、集団規模が大きいと社会学習が有効に機能するため複雑な技術も継承されやすく、確固たる石器製作技術伝統が発展する一方で、単位社会あたりの人口が少ないと、伝統を維持するよりは個体学習により地域的な文化を生み出す可能性が高くなる、との見解も提示されています。これは現生人類拡散前の地域的な石器技術の違いに関する説明ですが、現生人類についても示唆を与えるものと本論文は評価しています。


参考文献:
西秋良宏(2020)「東アジアへ向かった現生人類、二つの適応」西秋良宏編『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』(朝日新聞出版)第2章P53-94


https://sicambre.at.webry.info/202002/article_39.html

41. 中川隆[-13590] koaQ7Jey 2020年2月23日 10:35:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-104] 報告

2020年02月23日
高畑尚之「私たちの祖先と旧人たちとの関わり 古代ゲノム研究最前線」
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_48.html

 朝日選書の一冊として朝日新聞出版より2020年2月に刊行された西秋良宏『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』所収の論文です。本論文は、近年飛躍的に発展した古代ゲノム研究を概観するとともに、その理論的発展も取り上げ、ゲノム研究の具体的な手法も解説しています。たとえばPSMC法は、ペアの相同染色体を小領域に区切り、端の小領域から逐次マルコフ性にしたがって合祖時間(合着年代)を推定する、という原理とアルゴリズムに基づきます。これにより1個体から過去の個体数が推測され、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)は、50万年以上前に現生人類系統と分岐して以降、ずっと人口が減少していた、と指摘されています(関連記事)。この長期的な人口史については、その後で異論が提示されていたものの(関連記事)、さらにその後で訂正され、やはり以前の推定が妥当とされています(関連記事)。一方、現代人の各地域集団系統は30万〜20万年前頃に共通して人口のピークを示し、分岐がそれ以降であることを示唆するとともに、非アフリカ系集団では10万年前頃から人口が減少し始めて、6万〜4万年前頃に最低となります。これは、非アフリカ系現代人の祖先集団に当時ボトルネック(瓶首効果)が起きたことを示唆します。また、4集団テストでは、変異数により集団間の近縁関係が推定されるとともに、異なる統計手法で混合率も推定されます。これにより、非アフリカ系現代人はアフリカ系現代人よりもネアンデルタール人に近いことと、非アフリカ系現代人におけるネアンデルタール人系統の混合率が推定されます。

 本論文は、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人において、複雑な交雑が生じた可能性を指摘します。たとえば、早期現生人類からネアンデルタール人への遺伝子流動で、これは14万年以上前に起きた可能性が高そうです。ネアンデルタール人と出アフリカ系現代人の祖先集団や、デニソワ人とオセアニア系現代人の祖先集団との交雑は早くから知られていましたが、もっと入り組んだ交雑があった、というわけです。さらに、まだ人類遺骸は特定されていないものの、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人の共通祖先系統と分岐した遺伝学的に未知の人類系統とデニソワ人との交雑の可能性も指摘されています。これらの関係は本論文の図5-1で示されています。

 現時点で核DNAが解析されているネアンデルタール人は、大きく東西の2系統に分類されます。東方系は南シベリアのアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)で発見された女性1個体で、その他は西方系です。非アフリカ系現代人の共通祖先集団と交雑したネアンデルタール人は西方系で、ネアンデルタール人の東西系統の分岐は14万年以上前、非アフリカ系現代人の主要な祖先集団の出アフリカは58000年前頃、その集団とネアンデルタール人との交雑は54000〜49000年前頃、出アフリカ系現代人の祖先集団のうち東西ユーラシア集団の分岐は52000〜46000年前頃と推定されています。ただ、この推定年代は、今後の研究の進展により変わってくる可能性が低くないでしょう。

 核DNAが解析された最古の現生人類個体は、シベリア西部のウスチイシム(Ust’-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見されました(関連記事)。このウスチイシム個体の年代は45000年前頃で、どの非アフリカ系集団とも同じような遺伝距離を示しているため、ユーラシア集団が東西に分裂した頃の現生人類と推測されています。核DNAが解析された更新世の現生人類個体としては、24000年前頃のシベリア南部中央のマリタ(Mal’ta)遺跡の少年(関連記事)が挙げられます。このマリタ個体は、アメリカ大陸先住民集団やヨーロッパ集団と密接な関係にあると想定されたゴースト集団を実証するもので、古代ユーラシア北部集団を表します。その後さらに、古代ユーラシア北部集団をユーラシア北東部に広範に存在した古代シベリア北部集団の子孫とする見解が提示されています(関連記事)。

 現代ヨーロッパ人の形成において重要であるものの、まだ存在が確認されていない集団(ゴースト集団)として、基底部ユーラシア集団があります。これは、非アフリカ系現代人の主要な祖先集団と早期に分岐し、ネアンデルタール人の遺伝的影響をほとんど受けていない、と推測されています。ゴースト集団なので分布範囲は不明ですが、アジア西部とアフリカ北部が有力です。45000〜37000年前頃のユーラシアには、この基底部ユーラシア集団とともに、複数の現生人類集団の存在がゲノム解析で確認されていますが(関連記事)、42000〜37000年前頃のルーマニアの「骨の洞窟(Peştera cu Oase)」で発見された「Oase 1」や上述のウスチイシム個体のように、現代には子孫を残していないと考えられる集団も存在したようです。ヨーロッパロシアにあるコステンキ−ボルシェヴォ(Kostenki-Borshchevo)遺跡群の一つであるコステンキ14(Kostenki 14)遺跡で発見された若い男性は、現代ヨーロッパ人と遺伝的に近縁とされていますが(関連記事)、この時期のヨーロッパ人には、後世のヨーロッパ人とは異なり、上述の基底部ユーラシア集団の遺伝的影響は見られません。33000年前頃に、コステンキ近くまで画策してきた狩猟採集民がグラヴェティアン(Gravettian)を発展させ、ヨーロッパ西部に逆流し、グラヴェティアンは1万年以上続きます。

 完新世になると、ヨーロッパにはアジア西部から農耕民が到来します。このヨーロッパの初期農耕民のゲノムにおける基底部ユーラシア集団由来の領域は44%に達する、との見解もありますが、10%未満との推定もあり、確定していません。現代ヨーロッパ集団は、大まかには、ユーラシア西部集団を基本に、基底部ユーラシア集団と古代ユーラシア北部集団が直接・間接的に関わって形成された、と把握できます。まず、ヨーロッパ西部の狩猟採集民が存在するところに、アナトリア半島やレヴァントやイランといったアジア西部の農耕民が到来し、先住の狩猟採集民と混合していきます。ヨーロッパ東部では、在来の狩猟採集民にイランの農耕民が拡散してきて混合し、牧畜も始めたポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)集団が形成されました。この集団からヤムナヤ(Yamnaya)文化が出現し、5000年前頃以降ヨーロッパに拡散し、大きな遺伝的影響を残しました。ヨーロッパ東部の狩猟採集民は古代ユーラシア北部集団から大きな遺伝的影響を受けており、現代ヨーロッパ人は間接的に古代ユーラシア北部集団を祖先としています。また、古代ユーラシア北部集団はアメリカ大陸先住民の祖先でもありました。また、エチオピアのモタ(Mota)洞窟で発見された4500年前頃の男性のゲノム解析と現代人のゲノムとの比較に基づき、ユーラシア西部からアフリカへの3000年前頃の「逆流」の規模は以前の推定よりも大きく、現代アフリカ東部集団の遺伝子プールの25%を占めるのではないか、と推測されています(関連記事)。

 アジアにおける現生人類集団の形成において重要となるのは、ネアンデルタール人だけではなくデニソワ人の存在も考慮に入れなければならないことです。現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人の系統関係は、ミトコンドリアDNA(mtDNA)と核DNAで異なっており(関連記事)、単一の祖先関係を反映する分枝が、必ずしも集団の系統関係を反映するわけではない、と本論文は注意を喚起しています。デニソワ人は、肌の色が濃く、褐色の髪と目だった、と推測されています。デニソワ人の遺伝的影響は現代人でも各地域集団で大きく異なり、オセアニアでは高く、アメリカ大陸(先住民集団)やアジア東部および南部では多少見られ、ユーラシア西部とアフリカではほとんど見られません。本論文は、デニソワ人がシベリアからアジア南東部まで広範に存在したのではないか、と推測し、デニソワ人には複数系統存在し、それぞれオセアニアやアジア東部の現代人の祖先集団と交雑した(関連記事)、との見解を取り上げています。本論文は、アフリカからユーラシアへの現生人類の拡散においてヒマラヤ山脈の北方を東進する経路においても現生人類とデニソワ人が交雑した可能性を指摘し、その根拠として上述のマリタ遺跡の少年にもデニソワ人の遺伝的影響が見られることを指摘します。これは私も見落としており、参考文献が思い浮かばなかったので、今後時間を作って調べていきます。また本論文は、現代アジア東部人の祖先集団がアジア南東部から北上する過程でデニソワ人のような非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)と交雑した、と推測しています。

 本論文は現生人類の出アフリカを、上述のネアンデルタール人に遺伝的影響を残した14万年以上前の第一次と、非アフリカ系現代人の主要な祖先集団による6万年前頃の第二次に区分し、両者は大きく系統が異なる、と推測しています。この第一次出アフリカ集団がオセアニアの現代人に遺伝的影響を残している、との見解も提示されています(関連記事)。じっさい、この第一次出アフリカがオーストラリアまで到達した可能性を示唆する考古学的証拠も提示されています(関連記事)。この場合、オセアニア系統とアジア東部および南東部系統との分岐は、ユーラシア東西系統との分岐後となります。ただ、第一次出アフリカはオセアニアまで到達したものの、第二次出アフリカの先発隊的存在だった、との見解もあり、オセアニア系の分岐はユーラシア東西系統の分岐よりも早くなります。本論文は、オセアニア系の位置づけが定まらないのは、オセアニア系にデニソワ人からの遺伝子流動があるためで、この効果を除外しないと、オセアニア系の位置づけが古くなってしまう、と指摘します。ただ本論文は、現時点でのゲノムデータが適切に除外できるのか、という問題を提起しています。オセアニア・アジア・ヨーロッパの各集団のうち、2集団のみに共有される非アフリカ系現代人に特異的な変異に注目した研究では、オセアニア系は明らかにアジア系とより多くの変異を有しており、第一次出アフリカ集団がオセアニアにまで到達しても、第二次出アフリカ集団にほぼ完全に置換されたか、第一次出アフリカにおけるオセアニアへの到達を示唆する遺跡の年代が誤りなのだろう、と本論文は指摘します。

 ネアンデルタール人やデニソワ人といった古代型ホモ属との交雑は、現生人類の適応に重要な役割を果たした、と考えられています。非アフリカ系現代人のゲノムに占めるネアンデルタール人由来の領域は、各個人では2%程度ですが、合計すると40%程度になり、さらに現代人のゲノムを調査していけば、70%に達するかもしれない、と推測されています。ただ、現生人類のゲノムに見られる古代型ホモ属由来のDNAには、遺伝子の翻訳領域やその発言調節領域もしくは保存的な非翻訳領域など、機能的に重要な領域が少ないことから、古代型ホモ属のゲノムは現生人類にとって有害だった、との見解も提示されています。本論文も、現生人類と古代型ホモ属のゲノムは50万年以上独立に進化した後で混合したので、相互に不和合になる変化も蓄積しているはずだ、と指摘します。一般的に生殖に関連した遺伝因子は進化が速く、雑種の雄の妊性をいち早く低下させます。また、古代型ホモ属の個体数は長期にわたって現生人類との比較で一桁少ないと推定されていることから、古代型ホモ属には相対的に強い遺伝的浮動により有害変異が蓄積しやすかったことも指摘されています。

 このような不適応説を支持する証拠は、上部旧石器時代から現代にいたるまで、現生人類のゲノムにおける後期ネアンデルタール人からの混合率が単調に減少し、有害な変異が4万年以上にわたってじょじょに排除されているように見えることです。しかし本論文は、有害変異が長期にわたって排除されることは、集団遺伝学的には説明が難しい、と指摘します。さらに、アルタイ地域のネアンデルタール人ではなく、非アフリカ系現代人の主要な祖先集団と交雑したネアンデルタール人集団により近いクロアチアのネアンデルタール人で推定すると、単調な減少は見られなくなります。ただ、早期現生人類のウスチイシム人やコステンキ人のゲノムではネアンデルタール人由来の領域が多いことも確かなので、複数回の交雑などを考慮する必要がある、と本論文は指摘します。また本論文は、単調な減少がないからといって、ネアンデルタール人のゲノムが現生人類にとって有害ではなかった、とは言えないとも指摘します。有害な変異も多かったものの、交雑後間もなく現生人類の祖先集団から急速に除去されただろう、というわけです。そうならば、現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人由来の領域を排除する仕組みはもはや存在せず、将来にわたって現生人類のゲノムの一部として伝達されるだろう、と本論文は予測します。

 非アフリカ系現代人のゲノムに見られる古代型ホモ属由来の適応的な変異としては、チベット人に見られる高地適応関連遺伝子EPAS1(関連記事)やイヌイットに見られる寒冷適応関連遺伝子TBX15やWARS2(関連記事)があり、ともにデニソワ人由来です。現代ヨーロッパ人に他地域よりも高頻度で見られる脂質代謝関連遺伝子は、ネアンデルタール人由来と推測されています(関連記事)。その他には、免疫や髪・皮膚の色に関連した遺伝子で古代型ホモ属由来のものがある、と指摘されています。本論文は、こうした古代型ホモ属から現生人類への適応的浸透が特定の地域集団に限定されており、現代人全体で適応的になっている事例は報告されていない、と指摘します。現代人のゲノムにおける出アフリカ以降の適応的変化でも同様で、これは全体に拡散するには時間不足だからではなくも適応進化の要因が病原菌や高地や寒冷地といった地域的な環境への適応にあるからだ、と本論文は指摘します。

 また本論文は、古代型ホモ属からの適応的浸透には、たとえば乳糖耐性のような文化と関連した事例がないことも指摘します。他には、アジア東部において高頻度で見られる、アルコール分解の強弱に関連するアルデヒド代謝能力です。これは、長江流域で稲作が始まり、その発酵産物を摂取するようになったことと関連し、代謝を遅滞するような選択圧が作用した、と推測されています。また、社会構造の変化や異文化との接触に伴う選択圧も想定されます。これらも地域的な適応ですが、現時点で既知のこうした変異はすべて、現生人類の遺伝子プールにすでに存在したか、新たに出現したもので、古代型ホモ属由来ではありません。本論文は、古代型ホモ属のゲノムが出アフリカ後の現生人類の適応を可能にした有益な変異の貯蔵庫であったことは認めつつ、文化という現生人類が生み出した独自の「環境」に適応する素材とはなり得なかった、と指摘します。ゲノムには時間に関する情報は満載であるものの、空間に関する情報はそれ自体ではきわめて限定的で、移動し続けてきた現生人類の歴史を復元するには、学際的な研究が必要になる、と提言しています。


参考文献:
高畑尚之(2020)「私たちの祖先と旧人たちとの関わり 古代ゲノム研究最前線」西秋良宏編『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』(朝日新聞出版)第5章P151-197

https://sicambre.at.webry.info/202002/article_48.html

42. 中川隆[-13556] koaQ7Jey 2020年2月24日 13:44:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-70] 報告

2020年02月24日
ネアンデルタール人およびデニソワ人の共通祖先と未知の人類系統との交雑
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_49.html


 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)および種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)の共通祖先と遺伝学的に未知の人類系統との交雑の可能性を指摘した研究(Rogers et al., 2020)が報道されました。『サイエンス』のサイトには解説記事が掲載されています。は、すでに昨年(2019年)6月、査読前に公開されていました(関連記事)。その時と内容は基本的に変わっていないようなので、今回は多少の変更点などを中心に簡単に取り上げます。

 本論文の要点は、現生人類(Homo sapiens)系統と分岐した後の、ネアンデルタール人とデニソワ人の共通祖先である「ネアンデルソヴァン(neandersovan)」は、220万〜180万年前頃にネアンデルソヴァンおよび現生人類系統の共通祖先系統と分岐した「超古代系統」と分岐した、というものです。ネアンデルソヴァン系統におけるネアンデルタール人系統とデニソワ人系統の推定分岐年代は737000年前頃(査読前の論文では731000年前頃)で、その少し前にネアンデルソヴァン系統と現生人類系統が分岐したと推定されますから、その間にネアンデルソヴァン系統と超古代系統が交雑したことになります。本論文におけるネアンデルタール人系統とデニソワ人系統との推定分岐年代は、たとえば44万〜39万年前頃とする他の研究(関連記事)よりもずっと古くなりますが、これはネアンデルソヴァン系統と超古代系統の交雑のように、本論文が複雑な交雑を想定しているからではないか、と推測されています。

 ジョージア(グルジア)のドマニシ(Dmanisi)遺跡では、185万年前頃までさかのぼる人類の痕跡が確認されています(関連記事)。本論文は、人類の出アフリカは大別して3回あり、200万年前頃となる最初に超古代系統がアフリカからユーラシアへと拡散し、その後はアフリカの人類とは交流せず、80万〜70万年前頃となる2回目の出アフリカでネアンデルソヴァン系統がユーラシアへと拡散した超古代系統と交雑し、7万〜5万年前頃となる3回目に現生人類がユーラシアへと拡散した、と推測しています。もっとも、すでにゲノムが解析されている現生人類やネアンデルタール人やデニソワ人には遺伝的影響を残していない人類系統による、他の出アフリカもあっただろう、と考えられます。たとえば、中国北西部の212万年前頃の人類(関連記事)です。また、出アフリカ系現代人の主要な祖先ではない現生人類系統の出アフリカも20万年以上前から複数回あった、と推測されます(関連記事)。

 人口史については、超古代系統の有効人口規模は2万〜5万人と推定されており、ネアンデルタール人やデニソワ人よりも多かった、と推定されています。また、本論文の筆頭著者のロジャース(Alan R. Rogers)氏は、以前の研究(関連記事)では、ネアンデルタール人の人口は他の研究の推定よりかなり大きかった、と推定されていました。ネアンデルソヴァン系統は人口が減少し、ネアンデルタール人系統はデニソワ人系統との分岐後に人口が数万人規模まで増加していき、各地域集団に細分化されていった、というわけです。一方、他の研究では、ネアンデルソヴァン系統が現生人類系統と分岐した後、ネアンデルタール人系統もデニソワ人系統も人口がずっと減少していった、と推測されています(関連記事)。本論文は、クロアチアのネアンデルタール人の高品質なゲノム配列(関連記事)も対象とすることで、他の研究と近いネアンデルタール人の人口史を推定しています。

 本論文の課題の一つとして挙げられているのは、他の研究で提示されている遺伝学的に未知の古代系統の交雑など、人類史における複雑な交雑事象を踏まえて、どう整合的に解釈するのか、ということです。たとえば、現生人類およびネアンデルソヴァンの共通祖先と分岐した超古代系統がアフリカでアフリカ西部集団の祖先と交雑した、という最近の研究(関連記事)や、サハラ砂漠以南のアフリカ集団における未知の人類系統との交雑の可能性を指摘した研究(関連記事)です。ただ、後者の研究では、それが単一もしくは複数のアフリカの現生人類系統である可能性は除外されていません。また、早期現生人類がネアンデルタール人と交雑し、その後でネアンデルタール人と交雑した出アフリカ現生人類集団の一部がアフリカに「戻って来た」ので、現代アフリカ人におけるネアンデルタール人の遺伝的影響は以前の推定よりずっと高い、という研究(関連記事)もあります。

 このように、人類史において異なる系統間の交雑は珍しくなかったようです。超古代系統とネアンデルソヴァン系統は、分岐してから120万年以上経過してから交雑したと推定されており、分岐してから100万年程度では、交雑の大きな障壁にはならないようです。ネアンデルタール人やデニソワ人と現生人類とは、分岐してから70万年ほど経過して交雑していますから、単純に時間経過だけを考えると、交雑はより容易だった、と言えそうです。もちろん、分岐してからの時間が短くとも、生殖隔離をもたらすような変異が蓄積される可能性もありますが。アザラシにおいても、現生人類とネアンデルタール人の場合よりも遺伝距離が2.5倍の種間で交雑が生じており(関連記事)、おそらく哺乳類において一般的に交雑は珍しくなく、それが進化の一因になったのでしょう。


参考文献:
Rogers AR, Harris NS, and Achenbach AA.(2020): Neanderthal-Denisovan ancestors interbred with a distantly related hominin. Science Advances, 6, 8, eaay5483.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aay5483

https://sicambre.at.webry.info/202002/article_49.html

43. 中川隆[-13473] koaQ7Jey 2020年2月26日 14:48:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[18] 報告
2020年02月26日
青木健一
「現生人類の到着より遅れて出現する現代人的な石器 現生人類分布拡大の二重波モデル」
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_51.html


 朝日選書の一冊として朝日新聞出版より2020年2月に刊行された西秋良宏『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』所収の論文です。現生人類(Homo sapiens)はアフリカから世界中への拡散の過程で、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)といった非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)と遭遇しました。本論文は、ネアンデルタール人やデニソワ人は現生人類と同等な繁殖能力や認知能力を有していたという仮定において、古代型ホモ属と現生人類との間の文化に関する問題を検証しています。

 本論文が問題としているのは、古代型ホモ属が先住している地域への現生人類の拡散と、その地域での現生人類的な石器(小石刃・細石器・背付き石器・尖頭器など)の出現に時間差があることです。つまり、石器文化の変化と人類系統の交替が必ずしも対応していない、ということです。このズレはヨーロッパでも見られますが、中国を中心とするアジア東部で顕著です。とくに中国北部では、現生人類の出現と石器伝統の変化が必ずしも対応していないかもしれない、と指摘されています(関連記事)。本論文は、集団の人口と文化水準が連動し、分布を拡大する現生人類と先住の古代型ホモ属の間の資源をめぐる種間競争モデルを想定し、数学的な手法により集団変化を予測するとともに、そのモデルに基づいて、アジア東部における現代人的な石器の出現が現生人類の到達より遅れたとされる現象を解釈します。

 本論文で理論的考察のモデルは、ネアンデルタール人と現生人類との「交替劇」を考察するために著者たちが提案しました。モデルとはそもそも、複雑すぎる現実の中から本質的と思われる要素を抽出し、それらの間の関係性を強引かつ定量的に設定するもので、現実と(はなはだしく)乖離しているといっても過言ではなく、モデルから導かれる予測を現実に適用するには解釈が重要になる、と本論文は指摘します。本論文は「集団」という用語を10〜100人程度の規模と想定し、集団規模が大きいほど、その文化水準(道具の種類数が多く、高機能なものが含まれるなど)は高い、と理論的に予測されます。人口が多いほどアイデアが多く生まれ、多様な技術が共存でき、特別に知能の発達した人が含まれる可能性は高い、と考えられるからです。逆に、文化水準が高いほど人口が維持できる、とも予測できます。ただ、獲物の乱獲により人口を維持できなくなる危険性も伴う、と本論文は指摘します。

 本論文はこれらを踏まえたうえで、学習可能な技術を想定し、この技術の所持者が多い集団ほど、文化水準が高いと仮定します。この技術は、他者を模倣して習得されるか、失敗した場合は、試行錯誤などにより自力で習得できる、と仮定されます。自力習得される技術は、同じ目的を果たすのであれば、既存のものと完全に一致する必要はありません。また、一定の割合の者は習得した技術を忘却する、と仮定されます。本論文のモデルは、人口が多いほど技術所持者も多い、と予測されます。人口動態は、環境収容力に制約されます。また、技術の難易度も考慮されます。

 本論文はこれらを踏まえて、古代型ホモ属の先住地域に現生人類が拡大してきた事例を検証します。両者の間では文化的接触がなく、交雑第一世代は古代型ホモ属と現生人類のどちらかの社会に吸収される、と仮定されます。不均一な地形や変動する気候の影響は無視されます。ここまでの仮定では、古代型ホモ属と現生人類は同等に設定されており、現生人類の分布拡大と古代型ホモ属の絶滅は起こり得ません。そこで本論文は、この対称性を崩す条件として、初期条件の違いを新たに設定します。アフリカおよびレヴァントの初期現生人類は高人口高文化水準にあり、レヴァントを除くユーラシアの古代型ホモ属は、低人口低文化水準だった、と想定されます。

 このモデルでは、現生人類の分布拡大に伴い、古代型ホモ属の分布域は縮小していきます。古代型ホモ属のみの地域と現生人類のみの地域では、人口文化水準は以前と変わらず、前者が低く、後者は高いままです。しかし、現生人類と古代型ホモ属とが共存する地域では、人口文化水準は古代型ホモ属のみの地域よりもさらに低くなります。これは、古代型ホモ属も現生人類も種間競争の影響で人口がきょくたんに少なくなっている、と予測されるからです。この現生人類の分布拡大は、二重波モデルとして表されます。第一波は、まだ先住の古代型ホモ属が存在する地域への拡大で、第二波は、すでに現生人類のみの地域への拡大です。第一波の速度は第二波より速い、と予測されます。また、古代型ホモ属が現生人類と共存しながらアフリカに到達することは、遺伝学と考古学の証拠に反するので、そうならないよう、技術難易度を表すパラメタに上限が設定されます。

 第一波が第二波より速いため、各地点への両者の到着に時間差が生じます。種間競争が弱く、文化水準に関わる技術難易度が高いほど、時間差が大きくなります。また、第一波と第二波の速度は一定と仮定されるため、現生人類の起源地であるアフリカから遠くなるほど、時間差が大きくなります。集団中の技術所持者数がその集団の文化水準を決定する、と仮定されているので、人口の少ない第一波の現生人類集団では、現代人的な石器は製作されてもわずかで、遺物として残らないか発見されいな可能性も考えられる、と本論文は指摘します。一方、第二波の現生人類集団は高人口高文化水準なので、現代人的な石器が見られる、と予測されます。これが、アフリカから遠いアジア東部において、現生人類の到達と現代人的な石器の出現の時間差が大きい理由だろう、と本論文は指摘します。また本論文は、遺伝学の研究では、第二次出アフリカ後の現生人類の人口が1万年以上の長期間激減し、ボトルネック(瓶首効果)が起きたことも、現生人類と古代型ホモ属とが共存する地域での低人口密度を表しているかもしれない、と指摘します。

 本論文は、アフリカ起源の現生人類が高人口高文化水準、ユーラシアの古代型ホモ属が低人口低文化水準と設定し、現生人類のアフリカから世界中への拡散と、古代型ホモ属の絶滅を説明しました。ただ、現生人類も最初は低人口低文化水準だったと考えられます。本論文は、低人口低文化水準から高人口高文化水準への移行には3段階あった、と推測しています。まず、低人口低文化水準の集団がある地域に複数存在する状況において、そのうち1集団で人口と技術所持者が偶然に少し増えて、高人口高文化水準の平衡点の吸引域に入り、その後に高人口高文化水準の平衡点に収束します。高人口高文化水準に達した集団から地域内の他集団への人の移住があれば、受け入れ側の集団でも高人口高文化水準状態への遷移が可能となります。こうして、地域内集団の多くが、一種の連鎖反応により高文化水準に次々と遷移します。本論文は、こうした平衡遷移過程が起きやすい場として、氷期の繰り返しのような地球規模の環境劣化の中、生物がかろうじて生存できる比較的好条件のレフュージア(待避地)を挙げます。平衡遷移過程には集団間の移住率が重要で、低すぎても高すぎても働きません。ただ、平衡遷移過程は条件が整っても作動するとは限らず、偶然が伴う、とも指摘されています。地球規模の環境が改善すると、退避地が分布拡大の起点になり得ます。具体例としては、2万年前頃の最終氷期極大期の後のヨーロッパが挙げられています。

 このような平衡遷移過程が現生人類のみで起きた理由について、本論文は不明としています。近親交配の証拠(関連記事)から示唆されるように、古代型ホモ属の集団は孤立しており、集団間の移住がきわめて限定的だったのかもしれません。また本論文では、アジア東部への現生人類および現代人的な石器の到来は同一経路だったとの前提が採用されていますが、じっさいには南北2経路の可能性が高い、と指摘されています。本論文が指摘するように、上述のモデルから導かれる予測を現実に適用するには解釈が重要になり、そのための証拠は、とくに遺伝学において急速に蓄積されつつあります。本論文のモデルは現生人類の拡散の解明に大きく貢献できそうですが、より妥当な仮説の提示には、遺骸・DNA・遺物などの具体的証拠が必要となります。


参考文献:
青木健一(2020)「現生人類の到着より遅れて出現する現代人的な石器 現生人類分布拡大の二重波モデル」西秋良宏編『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』(朝日新聞出版)第6章P199-220

https://sicambre.at.webry.info/202002/article_51.html

44. 中川隆[-13331] koaQ7Jey 2020年2月29日 17:00:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[190] 報告
2020年02月29日
中期新石器時代から現代のサルデーニャ島の人口史
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_57.html


 中期新石器時代から現代のサルデーニャ島の人口史に関する研究(Marcus et al., 2020)が報道されました。サルデーニャ島は、100歳以上の割合が高く、βサラセミアやグルコース-6-リン酸脱水素酵素(G6PD)欠損症のような自己免疫疾患や病気の割合が平均よりも高いため、病気や加齢に関連する可能性のある遺伝的多様体を発見するために注目されてきました。サルデーニャ島の現代人全体の遺伝的多様体の頻度は、しばしばヨーロッパ本土とは異なり、ヨーロッパ本土では現在ひじょうに稀な遺伝的多様体も見られ、その独特な遺伝的構成が研究されてきました。

 アルプスのイタリアとオーストリアの国境付近で発見されたミイラの5300年前頃の「アイスマン」のゲノムは、サルデーニャ島の現代人とよく似ていました。また、スウェーデン・ハンガリー・スペインなど、離れた地域の初期農耕民も、遺伝的にはサルデーニャ島の現代人とよく似ていました。この類似性の理解には、ヨーロッパにおける人口史の解明が必要です。ヨーロッパにおける現代人に直接的につながる人類集団は、まず旧石器時代と中石器時代の狩猟採集民です。次に、新石器時代農耕民集団が紀元前7000年頃以降に中東からアナトリア半島とバルカン半島を経てヨーロッパに到来し、在来の狩猟採集民集団と交雑しました。紀元前3000年頃以降にポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)を中心とするユーラシア草原地帯の集団がヨーロッパに拡散し、さらに混合しました。これらヨーロッパの現代人を構成した遺伝的系統は、ヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)・初期ヨーロッパ農耕民(EEF)・早期草原地帯集団としてモデル化できます。サルデーニャ島の人類集団は早い段階で高水準のEEF系統の影響を受け、その後は比較的孤立しており、ヨーロッパ本土とは異なり草原地帯系統の影響をほとんど受けなかった、と推測されています。しかし、このサルデーニャ島の人口史モデルは、古代ゲノムデータではまだ本格的に検証されていませんでした。

 サルデーニャ島の最古の人類遺骸は2万年前頃までさかのぼります。考古学的記録からは、サルデーニャ島の人口密度は中石器時代には低く、紀元前六千年紀の新石器時代の開始以降に人口が増加し、紀元前5500年頃、新石器時代の土器はサルデーニャ島を含む地中海西部に急速に拡大した、と推測されています。後期新石器時代には、サルデーニャ島の黒曜石が地中海西部で広範に見られ、サルデーニャ島が海洋交易ネットワークに統合されたことを示唆します。青銅器時代の紀元前1600年頃に、独特な石造物で知られるヌラーゲ文化が出現します。ヌラーゲ文化後期の考古学および歴史学的記録は、ミケーネやレヴァントやキプロスの商人など、いくつかの地中海集団の直接的影響を示します。紀元前9世紀後半から紀元前8世紀前半にかけて、現在のレバノンとパレスチナ北部を起源とするフェニキア人がサルデーニャ島南岸に集落を集中して設立したため、ヌラーゲ文化の集落はサルデーニャ島の大半で減少しました。サルデーニャ島は紀元前6世紀後半にカルタゴに支配され、紀元前237年にはローマ軍に占領されて、その10年後にローマの属州となりました。サルデーニャ島はローマ帝国期を通じて、イタリアおよびアフリカ北部中央と密接につながっていました。ローマ帝国崩壊後、サルデーニャ島は次第に自立していきましたが、ビザンツ帝国をはじめとする地中海の主要勢力との関係は続きました。

 サルデーニャ島の住民は集団遺伝学において長く研究されてきましたが、その理由の一部は、上述のように医学にとって重要なためです。サルデーニャ島の現代人集団は遺伝的に複数の亜集団に分類されており、中央部と東部の山岳地帯は比較的孤立しており、WHGおよびEEF系統がわずかに多い、と明らかになっています。サルデーニャ島集団のミトコンドリアDNA(mtDNA)の研究では、コルシカ島と文化・言語的つながりのある北部において、中央部と東部の山岳地帯より遺伝的構成の変化が大きく、21人の古代mtDNA研究では、サルデーニャ島特有のmtDNAハプログループ(mtHg)のほとんどは新石器時代かその後に起源があり、それ以前のものはわずかだった、と推測されています。サルデーニャ島のフェニキア人居住地のmtDNA分析では、フェニキア人集団とサルデーニャ島集団との継続性と遺伝子流動が推測されています。カルタゴおよびローマ期の大規模共同墓地では、3人でβサラセミア多様体が見つかっています。

 本論文は、放射性炭素年代で紀元前4100〜紀元後1500年頃となる、サルデーニャ島の20ヶ所以上の遺跡で発見された70人のゲノム規模データを生成します。本論文は、サルデーニャ島の人口史の3側面を調査します。まず、紀元前5700〜紀元前3400年頃の新石器時代の個体群です。当時、サルデーニャ島に拡大した初期の人々はどのような遺伝的構成だったのか、という観点です。次に、紀元前3400〜紀元前2300年頃の銅器時代から紀元前2300〜紀元前1000年頃の青銅器時代です。考古学的記録に観察される異なる文化的移行を通じて、遺伝的転換はあったのか、という観点です。最後に、青銅器時代以後で、地中海の主要な文化とより最近のイタリア半島集団は、検出可能な遺伝子流動をもたらしたのか、という観点です。本論文は、サルデーニャ島の初期標本はヨーロッパ本土の初期農耕民集団と遺伝的類似性を示し、ヌラーゲ文化期を通じて混合の顕著な証拠はなく比較的孤立しており、その後は、地中海北部および東部からの交雑の証拠が観察される、との見通しを提示します。

 サルデーニャ島の70人の古代DNAに関しては、完全なmtDNA配列と、120万ヶ所の一塩基多型から構成されるゲノム規模データが得られました。核DNAの平均網羅率は1.02倍です。70人の内訳は、中期〜後期新石器時代が6人、早期銅器時代が3人、中期青銅器時代早期が27人、ヌラーゲ文化期が16人で、それ以後では同時代でも遺伝的相違が大きいため、遺跡単位で分類されています。フェニキアおよびカルタゴの遺跡では8人、カルタゴ期では3人、ローマ期では3人、中世は4人です。これらの新石器時代〜中世にかけてのサルデーニャ島の人類遺骸からのDNAデータが、ユーラシア西部およびアフリカ北部の既知のデータと比較されました。

 中期〜後期新石器時代のサルデーニャ島の個体群は遺伝的に、新石器時代ヨーロッパ西部本土集団、とくにフランスの個体とよく類似していますが、イタリア半島など同時代の他地域の標本数が不足している、と本論文は注意を喚起しています。中期〜後期新石器時代ののサルデーニャ島個体群は、早期新石器時代のアナトリア半島集団と比較して、WHG系統の存在が特徴となっています。サルデーニャ島の中期新石器時代〜ヌラーゲ文化期までの52人に関しては、mtDNAハプロタイプが全員、Y染色体ハプロタイプが男性34人中30人で決定されました。mtHgは、HVが20人、JTが19人、Uが12人、Xが1人です。同定されたY染色体ハプログループ(YHg)では、11人がR1b1b(R1b-V8)、8人がI2a1b1(I2-M223)で、新石器時代のイベリア半島で一般的なこの2系統で過半数を占めます。YHgでR1b1bもしくはI2a1b1を有する既知の最古の個体はバルカン半島の狩猟採集民および新石器時代個体群で、両者ともに後に西方の新石器時代集団で見られます。

 サルデーニャ島では、中期新石器時代からヌラーゲ文化期まで、遺伝的連続性が確認されます。対照的に、ヨーロッパ中央部のような本土では、新石器時代から青銅器時代にかけて、大きな遺伝的構成の変化が見られます。qpAdm分析では、サルデーニャ島の中期および後期新石器時代の個体群が、ヌラーゲ期の個体群の直接的祖先である可能性を却下できません。qpAdm分析ではさらに、新石器時代アナトリア系統との混合モデルにおいて、WHG系統はヌラーゲ期を通じて安定して17±2%のままと示されます。中期新石器時代からヌラーゲ文化期までのサルデーニャ島の個体群では、たとえば後期青銅器時代のイベリア半島集団のような、顕著な草原地帯系統は検出されません。また、イラン新石器時代およびモロッコ新石器時代系統のどちらも、中期新石器時代からヌラーゲ文化期までのサルデーニャ島の個体群には遺伝的影響を及ぼしていない、と推測されます。

 ヌラーゲ文化期後のサルデーニャ島個体群には、遺伝子流動の複数の証拠が見つかっています。サルデーニャ島の現代人集団は、ヌラーゲ文化期と比較して、遺伝的にはユーラシア西部・アフリカ北部集団により近縁です。これは、草原地帯系統の割合が現在のヨーロッパ本土集団より低いとはいえやや見られるようになり、地中海東部系統がかなり増加したためです。ヌラーゲ文化期後のサルデーニャ島集団には、複雑な遺伝子流動があった、と推測されます。

 ヌラーゲ文化期後のサルデーニャ島集団における遺伝子流動を直接的に評価するため、17人の古代DNAが直接解析されました。新たな系統の流入という推定と一致して、ヌラーゲ文化期後にはmtHgの多様性が増加しました。たとえば、現在アフリカ全体では一般的であるものの、サルデーニャ島ではこれまで検出されていなかったmtHg- L2aです。YHgでも、サルデーニャ島では新石器時代からヌラーゲ文化期まで見られず、現代人では15%ほど存在するR1b1a1b(R1b-M269)がカルタゴ期と中世で確認されます。また、カルタゴ期遺跡ではYHg-J1a2a1a2d2b(J1-L862)、中世個体ではYHg-E1b1b1a1b1(E1b-L618)が見られます。YHg-J1a2a1a2d2bはレヴァントの青銅器時代個体群で最初に出現し、サルデーニャ島の現代人では5%ほど見られます。

 これらを踏まえてモデル化すると、サルデーニャ島では新石器時代からヌラーゲ文化期までほぼ新石器時代アナトリア系統とWHG系統で占められていたのが、ヌラーゲ文化期後には草原地帯系統と新石器時代イラン系統と新石器時代アフリカ北部(モロッコ)系統が加わります。草原地帯系統と新石器時代イラン系統はともに0〜25%の範囲でモデル化されます。また、フェニキア期〜カルタゴ期の遺跡の6人では、20〜35%と高水準のアフリカ北部系統が推定されました。サルデーニャ島の現代人でも、わずかながら検出可能なアフリカ北部系統が見られます。しかし、このフェニキア期〜カルタゴ期の遺跡から現代までの直接的連続性のモデルは却下されます。対照的に、ヌラーゲ文化期後の他の遺跡の個体は全員、サルデーニャ島現代人の単一の起源としてモデル化可能です。

 古代のサルデーニャ島個体群に最も近い現代人は、東部のオリアストラ県(Ogliastra)とヌーオロ県(Nuoro)の個体群です。興味深いことに、カルタゴ期のオリアストラ県の個体は、他の個体群と比較してオリアストラ県の個体群と遺伝的により近縁です。また、サルデーニャ島北東部の個体群はヨーロッパ本土南部集団により近く、サルデーニャ島南西部の個体群は地中海東部により近くなっています。これは、サルデーニャ島における地中海北部系統と地中海東部系統の地域間の混合の違いを反映している、と示唆します。

 このように、中期〜後期新石器時代のサルデーニャ島個体群は、地中海西部の他のEEF集団と同様に、本土EEFとWHGの混合としてモデル化されます。この期間のサルデーニャ島の男性のYHgは大半がR1b1b(R1b-V88)とI2a1b1(I2-M223)で、両方ともバルカン半島の中石器時代狩猟採集民および新石器時代集団で最初に出現し、後にイベリア半島のEEF集団でも多数派ですが、新石器時代アナトリア半島もしくはWHG個体群では検出されていません。これらは、紀元前5500年頃にヨーロッパ地中海沿岸を西進した新石器時代集団からのかなりの遺伝子流動の結果と考えられます。ただ本論文は、中期新石器時代よりも前のサルデーニャ島やイタリア半島の常染色体の古代DNAが不足しているので、この遺伝子流動の時期と影響について、北方もしくは西方からのどちらが重要なのか確定的ではない、と注意を喚起しています。中期新石器時代のサルデーニャ島個体群のWHGの推定割合はそれ以前のヨーロッパ本土のEEF集団より高く、ヨーロッパ本土では混合の進展に伴いしだいにWHG系統の割合が増加することから、サルデーニャ島への遺伝子流動には時間差があったことを示唆しますが、最初の地域的な交雑の結果か、あるいは本土との継続的な遺伝子流動の結果だったかもしれません。この問題の解決には、サルデーニャ島の中石器時代および早期新石器時代個体群のゲノム規模データが必要となります。

 中石器時代から紀元前千年紀初めまで、サルデーニャ島への異なる系統の遺伝子流動の証拠は見られません。この遺伝的構造の安定性は、紀元前3000年頃以降、ユーラシア中央部草原地帯からかなりの遺伝子流動があったヨーロッパの他地域と、しだいにWHG系統が増加していったヨーロッパ本土の多くの早期新石器時代および銅器時代とは対照的です。上述のように、中期新石器時代からヌラーゲ文化期まで、サルデーニャ島個体群ではWHGの割合が約17%で安定しています。イベリア半島の鐘状ビーカー(Bell Beaker)集団のように、遺伝的に類似した集団からの遺伝子流動の可能性は否定できませんが、草原地帯系統の欠如は、サルデーニャ島がヨーロッパ本土の多くの青銅器時代集団から遺伝的に孤立していたことを示唆します。また、現在ヨーロッパ西部において最も高頻度で、紀元前2500〜紀元前2000年頃のブリテン島とイベリア半島への草原地帯系統の拡大と関連しているYHg- R1b1a1bが、ヌラーゲ期の紀元前1200〜紀元前1000年頃まで見られないことも、中石器時代から紀元前千年紀初めまでのサルデーニャ島の遺伝的孤立の証拠となります。サルデーニャ島からの標本数が増加すれば、微妙な交雑を検出できるかもしれませんが、サルデーニャ島が青銅器時代ヨーロッパの大規模な遺伝子流動から孤立していた可能性は高そうです。考古学的記録からは、サルデーニャ島はこの期間に地中海の広範な交易網の一部に組み込まれていましたが、それが遺伝子流動と結びついていないか、類似した遺伝的構造の集団間のみで交易が行なわれていた、と考えられます。とくに、ヌラーゲ文化期は遺伝的構成の変化が検出されず、その石造建築の設計はミケーネなど東方集団からの流入によりもたらされた、という仮説に反します。

 ヌラーゲ文化期後のサルデーニャ島では、地中海北部および東部からの遺伝子流動の証拠が見られます。フェニキアおよびカルタゴ期の遺跡で、最初に地中海東部系の出現が観察されます。地中海北部系統はそれよりも後に出現し、サルデーニャ島北西部の遺跡で確認されます。ヌラーゲ文化期後の個体の多くは、直接的な移民もしくはその子孫としてモデル化できますが、他の個体は在来のヌラーゲ文化期の系統をより高い割合で有します。全体的に、ヌラーゲ文化期後の系統の多様性は増加し、これは、イベリア半島(関連記事)やローマ(関連記事)やペリシテ人(関連記事)など、鉄器時代以後の地中海も対象にした詳細な古代DNA研究と整合的です。

 サルデーニャ島の現代人は、古代標本で観察された遺伝的変異内に収まり、同様のパターンは、鉄器時代に系統多様性が著しく増加し、その後は現在まで減少していくイベリア半島とイタリア半島中央部でも見られます。サルデーニャ島においては、東部のオリアストラ県とヌーオロ県の現代人ではヌラーゲ文化期後の新たな系統の割合が低く、他地域よりもEEFやWHG系統の割合が高くなっています。サルデーニャ島内を対象とした主成分分析は、オリアストラ県の個体群が比較的孤立していた可能性を示唆します。サルデーニャ島北部は、ヌラーゲ文化期後に地中海北部系統の影響をより強く受けた、と推測されます。これらの結果は、紀元前にフェニキア人およびカルタゴ人がおもにサルデーニャ島の南部および西部沿岸に居住し、コルシカ島からの移民はサルデーニャ島北部に居住した、とする歴史的記録と一致します。

 本論文は紀元前二千年紀後のサルデーニャ島における遺伝子流動を推測し、これはサルデーニャ島の遺伝的孤立を強調した以前の研究と矛盾しているように見えますが、他のヨーロッパ集団との比較では、サルデーニャ島が青銅器時代〜ヌラーゲ文化期に孤立していたことは確認されます。また、ヌラーゲ文化期後の混合にしても、おもに草原地帯系統が比較的少ない集団に由来する、と推測されます。その結果、サルデーニャ島の現代人集団はヨーロッパの他地域と比較してひじょうに高い割合のEEF系統を有しており、アイスマンのような銅器時代ヨーロッパ本土の個体と高い遺伝的類似性を示します。高い割合のEEF系統を有する集団としてバスク人が知られており(関連記事)、サルデーニャ島集団との遺伝的関係が示唆されていました。本論文でも、現代バスク人と古代および現代のサルデーニャ島集団との類似性が示されました。サルデーニャ島集団もバスク人も異なる起源の移民の影響を受けているものの、共有されたEEF系統が地理的分離にも関わらず遺伝的類似性を示すのだろう、と本論文は推測しています。

 サルデーニャ島のフェニキアおよびカルタゴ期の遺跡の個体群では、アフリカ北部および地中海東部系統との強い遺伝的関係が示されました。これは、以前の古代DNA研究でも示されている(関連記事)、フェニキア人の地中海における拡散を反映していると考えられます。また、サルデーニャ島のフェニキアおよびカルタゴ期の遺跡でも、早期の方がアフリカ北部系統の割合は低く、アフリカ北部系統との交雑が後のカルタゴの拡大に特有だったか、異なる系統の到来だった可能性を示します。アフリカ北部系統の割合は、フェニキアおよびカルタゴ期よりも後では低下しており、サルデーニャ島も含むヨーロッパ南部のいくつかの集団における、低いものの明確に検出されるアフリカ北部系統の割合という観察と一致します。ローマでも、アフリカ北部系統の割合が帝政期以後に低下します(関連記事)。

 本論文は、古代DNA研究における古代と現代との遺伝的連続性および変容について、古代DNAの標本数の少なさと、現代(医学的な目的での遺伝情報収集)と古代では標本が異なるバイアスで収集されていることから、一般化に注意を喚起します。本論文はそれを踏まえたうえで、サルデーニャ島においては、中期新石器時代から後期青銅器時代まで、遺伝子流動が最低限か、遺伝的に類似した集団の継続の可能性が高いことを指摘します。ヌラーゲ文化期の始まりも、明確な遺伝子移入により特徴づけられません。鉄器時代以降のサルデーニャ島は、地中海の広範な地域と結びついていました。地中海西部を対象とした他の研究でも同様の結果が得られており、サルデーニャ島は新石器時代以降遺伝的に孤立してきた、という単純なモデルよりも実態は複雑だったことを示します。サルデーニャ島の現代人には地域的な違いも見られ、歴史的な孤立・移住・遺伝的浮動により、独特なアレル(対立遺伝子)頻度が生じた、と考えられます。この遺伝的歴史の解明は、βサラセミアやグルコース-6-リン酸脱水素酵素(G6PD)欠損症のような、サルデーニャ島も含めて地中海全域の遺伝性疾患を理解するのに役立つでしょう。


参考文献:
Marcus JH. et al.(2020): Genetic history from the Middle Neolithic to present on the Mediterranean island of Sardinia. Nature Communications, 11, 939.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-14523-6

https://sicambre.at.webry.info/202002/article_57.html

45. 中川隆[-13304] koaQ7Jey 2020年3月01日 10:35:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[223] 報告

2020年03月01日
西秋良宏「アフリカからアジアへ」
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_2.html

 朝日選書の一冊として朝日新聞出版より2020年2月に刊行された西秋良宏『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』所収の論文です。現生人類(Homo sapiens)には固有の「現代的行動」があり、そのために世界中に拡散して非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)を置換した、との見解が以前は有力でした。しかし本論文は、拡散期の現生人類の行動が多様であることから、この見解に疑問を呈しています。また、現生人類は拡散していく過程で、行動や文化を発展させてきた、とも指摘されています。現生人類が世界中の多様な環境に適応できた理由として、古代型ホモ属とは異なる生得的な認知能力の高さを想定する見解が根強いことを、本論文は指摘します。ただ本論文は、古代型ホモ属と現生人類との間に学習行動の違いは見られるものの、それが生得的な能力差を反映しているのか、考古学的証拠だけでは判断が難しい、と慎重な姿勢を示します。それは、学習の在り様や各集団の文化的特徴を決める要件はあまりにも多岐にわたっているからです。

 そこで本論文は、社会の総合力が学習行動の違いに関わっていたのではないか、と推測します。総合力とは、歴史あるいは文化です。古代型ホモ属も現生人類も、文化の力に依拠して生存していたことに違いはありません。本論文は、拡散先の自然環境および先住集団との関係を検証しています。拡散先の自然環境が故地と類似し、先住集団が存在しないか希薄、あるいは外来文化をそのまま受容した場合や、先住集団が拡散集団に駆逐した場合、故地の文化がそのまま拡散先でも維持されます。拡散先が故地とは異なる自然環境だった場合、それに応じて故地とは異なる技術を発展させます。先住集団や同時に拡散してきた複数集団の技術が混合する場合も想定されます。本論文は、ヒトの拡散を議論するには、少なくとも、集団の拡散先の自然環境、先住集団との関係、その相互作用の三つを考察する必要がある、と指摘します。それにより、古代型ホモ属から現生人類への交替が急速に進んだ地域、両者の共存が長かった地域、現生人類の拡散がなかなか進まなかった地域が分かれたかもしれない、というわけです。

 アジアの自然環境は多様で、考古学的証拠も多様です。本論文が着目したのは、石器製作技術の違いです。石刃・小石刃の分布は、生物地理区分での旧北区とよく一致します。ただ、生物地理区分は近年改訂が提案されており、たとえば中国と日本は新たな地理的区分(中国・日本区)として設定されています。本論文は、新旧の地理的区分のどちらが考古学的証拠の解釈に適切なのか、判断は難しい、と慎重な姿勢を示します。ただ本論文は、中国・日本区のような中間的な地理的区分を設定すると、更新世における石器製作技術の変動と気候変動とを組み合わせて説明できるかもしれない、と指摘します。寧夏回族自治区の水洞溝1遺跡の4万年前頃の上部旧石器時代初頭の石器群は、西方由来と推測されるものの、定着したわけではなく、本格的な石刃石器群が定着するのは寒冷期となる2万数千年前の細石刃文化になり、中間的な地域では気候変動により考古学的証拠も異なってくる、というわけです。同じく中間的な日本列島でも、初期の上部旧石器は南方を主体としつつも北方要素も一部見られ、寒冷期となる2万数千年前に押圧剥離技術による細石刃石器群が定借します。

 本論文は一方で、拡散先の生物地理的環境に初期現生人類の文化・技術が大きく影響された、との想定とは異なるかもしれない事例として、オーストラリアを挙げています。オーストラリアの環境は、アジア南東部の森林地帯とは異なり、内陸に砂漠や草原地帯が広がります。しかし、オーストラリアの初期現生人類で石刃や小石刃が発達したわけではありません。本論文は、アジア南部や南東部の森林地帯で西方の技術がフィルタリングされ、それ以降に再興された要素もあれば、そうではなかった要素もあるかもしれない、と指摘します。本論文は、自然環境と技術との単純な対応が見られない場合には、文化伝達理論が有効かもしれない、と指摘します。

 本論文は現生人類と古代型ホモ属との文化的交流の可能性も取り上げています。現生人類にとってユーラシア中緯度地帯以北は新天地となり、それ以前から適応していた古代型ホモ属の防寒技術を採用した可能性がある、というわけです。たとえば、皮なめしに特化した道具とされる骨製のヘラは、ネアンデルタール人の遺跡の方でより古いものが見つかっており、ネアンデルタール人から現生人類への文化的影響の証拠になるかもしれない、と指摘されています(関連記事)。また、竪穴で暖を取るタイプの住居遺構も、ネアンデルタール人遺跡でより古い事例が喫県されています。

 石器製作技術における古代型ホモ属と現生人類との交流の可能性の事例として、本論文はアジア西部を挙げています。アジア西部は、現生人類とネアンデルタール人の共存期間が最も長い地域と考えられており、7万〜5万年前頃には両者の遺骸が複数の遺跡で発見されています。本論文は、ルヴァロワ(Levallois)技術で製作された、小さい尖頭器を特徴とするタブン(Tabun)B型石器群に注目しています。タブンB型と共伴している人類遺骸はすべて、現時点ではネアンデルタール人です。ネアンデルタール人はヨーロッパ起源と考えられますが、これと類似したヨーロッパの石器技術はまだ知られていません。二次加工の尖頭器はヨーロッパからアジア中央部までのネアンデルタール人分布域で一般的でしたが、レヴァントのタブンB型石器群のように無加工のルヴァロワ尖頭器をと要する例はほとんど知られていません。本論文は、アフリカ北部の初期現生人類において、二次加工せずにルヴァロワ石器を利用する文化が一般的だったことから、ネアンデルタール人のタブンB型は現生人類との交流の結果発展したのではないか、と推測しています。

 本論文は、チンパンジーでも飼育下では現代人の指導に従って石器を製作する事例が知られており、それよりもずっと近縁な関係にあるホモ属の各種間で文化的な交流や伝達もあっただろう、と指摘します。文化の拡散・定着には若い世代への継承が必要となりますが、それを、親から子への垂直伝達、親世代の他人から伝えられる斜行伝達、子と同世代の間で伝えられる水平伝達に分類する見解があります(関連記事)。親世代から継承される場合、現生人類から古代型ホモ属への確率が0ではない限り、古代型ホモ属から現生人類への技術継承はあり得る、と予測されます。現生人類集団の侵入と交替がゆっくり起きた場合、古代型ホモ属の文化が継続するように見えます。また、現生人類と古代型ホモ属は交雑しましたから、垂直伝達のみでも古代型ホモ属の文化が現生人類集団に浸透することもあり得ます。

 本論文は、アジア各地への現生人類の拡散を考えるうえで、まず証拠のそろっているヨーロッパの事例を取り上げます。20万年以上前にギリシアまで現生人類が拡散した、との見解も提示されていますが(関連記事)、それよりもさらにヨーロッパ奥地にまで拡散したのか定かではなく、現生人類がヨーロッパに広範に拡散したのは、5万年前頃以降の上部旧石器時代初頭集団です。ただ、当初は中部旧石器時代に典型的なムステリアン(Mousterian)遺跡も多数あり、ネアンデルタール人と現生人類が共存していた、と考えられます。ネアンデルタール人は4万年前頃までに絶滅し、その背景として5万〜4万年前頃の複数回のきょくたんな寒冷期が挙げられています。4万年前頃、プロトオーリナシアン(Proto-Aurignacian)式の小石刃石器群を有する現生人類集団がヨーロッパに拡散しており、ヨーロッパへの現生人類の拡散は大きく2回あった、と考えられます。

 こうした二段階による交代劇を理論的に予想したのが第6章(関連記事)です。本論文は、ネアンデルタール人と現生人類の共存を可能にしたのは、一つには環境で、アジア西部では、砂漠を現生人類が、森林をネアンデルタール人がおもに開発していました。生態的地位が異なっていた、というわけです。ヨーロッパでは、ネアンデルタール人の継続的な人口減少により、侵入してきた現生人類の利用可能な空間が拡大していた可能性も指摘されています。共存を可能にしたもう一つの要因は、第二波の現生人類集団にはネアンデルタール人集団を圧倒する高い技術があった、ということです。アジア西部では上部旧石器時代初頭の技術、ヨーロッパでは上部旧石器時代前期のプロトオーリナシアンの小石刃技術です。

 広範なアジアの他地域について同じモデルで説明できるのか、議論の対象となり得ます。本論文は、北回りでは現生人類の侵入と古代型ホモ属との交替が速やかに起きたように、南回りでは共存期間が長かったかもしれないように見える、と指摘します。中国南部では、4万年以上前に現生人類が到来した、との見解が提示されている一方で、石器技術は前代からの剥片石器群が継続しています。こうした対照性は共存に適した生態的地位の有無に依存するのかもしれない、と本論文は推測します。草原地帯よりも森林地帯の方が集団は分断されるので、共存の可能性は高く、島嶼部ではなおさらである、というわけです。

 現生人類と古代型ホモ属との「交替劇」に関しては、第6章も指摘するように人口も要因になると考えられます。本論文はこれに関して、かりに現生人類と古代型ホモ属との認知能力が同じだとしても、アフリカからは常に高い技術を有したヒト集団が出現したはずだ、との見解を取り上げています。ヒトの文化や行動は時間の経過により新たなものが創造されたり、改良されたりしますが、集団内で継承されるため蓄積して複雑さを増していきます。ヒトは他人から学ぶ社会学習を発達させているので、それが「文化的歯止め」となり、集団内に文化要素が留まります。この場合、歴史のある大集団は、社会学習により蓄積された他の集団よりも多くの文化を保有しています。人口が圧倒的に多く長期にわたる文化蓄積を経験したアフリカの現生人類集団と、出アフリカ後のユーラシアで新たな文化蓄積を果たさねばならない古代型ホモ属の小集団では、技術のレパートリーの原資や蓄積に差があって当然と予測できる、というわけです。本論文は、古代型ホモ属から現生人類への交代劇を文化の視点から理解するには、文化進化の理論研究をさらに深めていく必要がある、と指摘しています。


 なお、西秋良宏編『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』の本論文を除く各論文の記事は以下の通りです。

門脇誠二「現生人類の出アフリカと西アジアでの出来事」
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_38.html

西秋良宏「東アジアへ向かった現生人類、二つの適応」
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_39.html

Robin Dennell「現生人類はいつ東アジアへやってきたのか」
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_40.html

海部陽介「日本列島へたどり着いた三万年前の祖先たち」
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_46.html

高畑尚之「私たちの祖先と旧人たちとの関わり 古代ゲノム研究最前線」
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_48.html

青木健一「現生人類の到着より遅れて出現する現代人的な石器 現生人類分布拡大の二重波モデル」
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_51.html


参考文献:
西秋良宏(2020B)「アフリカからアジアへ」西秋良宏編『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』(朝日新聞出版)第7章P221-244

https://sicambre.at.webry.info/202003/article_2.html

46. 中川隆[-12801] koaQ7Jey 2020年3月12日 16:33:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[757] 報告
2020年03月12日
ネアンデルタール人とデニソワ人のY染色体DNA解析
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_20.html


 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)のY染色体DNA解析結果を報告した研究(Petr et al., 2020)が公表されました。本論文はまだ査読中なので、あるいは今後かなり修正されるかもしれませんが、ひじょうに興味深い内容なので取り上げます。古代DNA研究により、移住・置換・遺伝子流動など、非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)と現生人類(Homo sapiens)の複雑な進化史が明らかにされてきましたが、古代型ホモ属と現生人類の関係の考察は、大半が常染色体に基づいています。一方、ミトコンドリアDNA(mtDNA)とY染色体DNAは、それぞれ母系と父系での単系統のみの遺伝情報を示しますが、性特異的な移住やその他の文化現象のような人口史の多様な側面に独自の視点を提供します。

 ネアンデルタール人とデニソワ人と現生人類においては、mtDNAと常染色体での系統関係の不一致が明らかにされてきました(関連記事)。常染色体ゲノムでは、ネアンデルタール人およびデニソワ人系統が現生人類系統と765000〜550000年前頃に分岐した、と推定されています(関連記事)。しかしmtDNAでは、ネアンデルタール人はデニソワ人よりも現生人類と近縁で、その推定分岐年代は468000〜360000年前頃です。43万年前頃のスペイン北部の通称「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡(以下、SHと省略)集団は早期ネアンデルタール人とされていますが、mtDNAでは現生人類よりもデニソワ人の方と近縁で、常染色体ではネアンデルタール人系統に位置づけられます(関連記事)。

 これらの知見から、ネアンデルタール人は元々デニソワ人に近いmtDNAを有しており、後に現生人類と関連する早期系統からの遺伝子流動経由で完全に置換された、との見解が提示されています。ネアンデルタール人とデニソワ人のY染色体は、古代型ホモ属と現生人類の間の分岐や遺伝子流動に関する重要な情報を追加できます。しかし、ネアンデルタール人のY染色体のわずかなコーディング配列を除いて、これまでネアンデルタール人とデニソワ人のY染色体の研究はありませんでした。スペイン北部のエルシドロン(El Sidrón)遺跡(関連記事)やベルギーのスピ(Spy)遺跡およびロシアのコーカサス地域のメズマイスカヤ(Mezmaiskaya)遺跡(関連記事)のネアンデルタール人のY染色体は解析されてきましたが、Y染色体全体の包括的な研究を可能とする内在性DNAは、じゅうぶんは得られていませんでした。

 本論文は、南シベリアのアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)遺跡のデニソワ人2個体と、スピ・メズマイスカヤ・エルシドロン遺跡のネアンデルタール人1個体ずつのY染色体DNAを改めて解析しました。デニソワ人は、84100〜55200年前頃のデニソワ4(Denisova 4)と136400〜105600年前頃のデニソワ8(Denisova 8)、ネアンデルタール人は、39000〜38000年前頃のスピ94a(Spy 94a)と45000〜43000年前頃のメズマイスカヤ2(Mezmaiskaya 2)と53000〜46000年前頃のエルシドロン1253(El Sidrón 1253)です。Y染色体のうち計690万塩基対が標的領域とされ、平均網羅率は、デニソワ4が1.4倍、デニソワ8が0.8倍、スピ94aが0.8倍、メズマイスカヤ2が14.3倍、エルシドロン1253が7.9倍です。

 これらの解析の結果、ネアンデルタール人3個体とデニソワ人2個体はそれぞれ単系統群(クレード)を形成する、と明らかになりました。ネアンデルタール人とデニソワ人と現生人類のY染色体での系統関係は、核ゲノムとは異なり、ネアンデルタール人と現生人類が近縁と明らかになりました。現代人のY染色体ハプログループ(YHg)で最も早く分岐したのはA00ですが(関連記事)、ネアンデルタール人のY染色体系統は、デニソワ人系統とネアンデルタール人および現生人類の共通祖先系統が分岐した後で、全現生人類系統と分岐したことになります。ネアンデルタール人とデニソワ人と現生人類のY染色体での系統関係は、核ゲノムのそれとは一致せず、mtDNAのそれと一致します。以下、ネアンデルタール人3個体とデニソワ人2個体のY染色体系統樹を示した本論文の図2Aです。

https://sicambre.at.webry.info/upload/detail/006/822/60/N000/000/000/158391560534027337770-thumbnail2.jpg.html


 Y染色体の各系統の推定分岐年代は、YHg-A00と他の現生人類系統では249000年前頃、現代人系統とデニソワ人系統では70万年前頃、現生人類系統とネアンデルタール人系統では35万年前頃です。ネアンデルタール人3個体の最終共通祖先の推定年代は10万年前頃です。Y染色体におけるデニソワ人系統と現生人類系統の推定分岐年代は、常染色体ゲノムに基づく推定分岐年代とよく一致しており、現生人類系統とデニソワ人系統のY染色体の分岐は単純な集団分岐の結果と示唆されます。一方、Y染色体におけるネアンデルタール人系統と現生人類系統の推定分岐年代は常染色体ゲノムに基づく推定分岐年代よりもかなり新しく、mtDNAで推測されている、現生人類に近い系統からネアンデルタール人系統への遺伝子流動と一致します。エルシドロン遺跡のネアンデルタール人のY染色体に関する研究(関連記事)では、現生人類系統とネアンデルタール人系統の推定分岐年代は588000年前頃です。一方、本論文ではそれが35万年前頃とかなり新しく、その理由として本論文は、以前の研究ではデータ量が限定的だったことを指摘しています。

 上述のように、ネアンデルタール人とデニソワ人と現生人類のY染色体における系統関係は、mtDNAのそれと一致し、核(というか常染色体)ゲノムのそれとは一致しません。これは、古代型ホモ属系統と分岐した後の現生人類系統において、現代人系統と早期に分岐した絶滅系統がネアンデルタール人系統と交雑し、ネアンデルタール人系統にデニソワ人系統よりも現生人類系統に近いmtDNAとY染色体をもたらした、と考えられます。以前の研究では、現生人類からネアンデルタール人への数%程度とわずかな遺伝子流動が指摘されています(関連記事)。この条件におけるmtDNAとY染色体の置換は、通常の進化ではひじょうに起きにくいと考えられます。

 しかし、有効人口規模が現生人類よりも小さいネアンデルタール人においては、現生人類よりも多い有害な変異の蓄積の可能性が指摘されており、じっさい、ネアンデルタール人3個体のエクソン領域に関しては、現代人よりも有害なアレル(対立遺伝子)を多く有している、と明らかになっています。本論文は、有効人口規模が小さい場合のシミュレーションにより、ネアンデルタール人のY染色体が現生人類のY染色体よりも適応度がわずかでも低い場合、完全置換率に強い影響を与える、と明らかにしました。具体的には、ネアンデルタール人のY染色体適応度が1%低い場合でも、2万年後の置換率は25%に増加し、2%低い場合は置換率が50%に増加します。こうした予測は、Y染色体と同じく単系統遺伝となるmtDNAにも当てはまります。これらの結果は、ネアンデルタール人におけるより高い遺伝的荷重が、ネアンデルタール人のmtDNAおよびY染色体という単系統遺伝の置換可能性の増加と相関していることを示します。繁殖と受精力におけるY染色体の重要性を考慮すると、Y染色体の有害な変異または構造的多様体が、のシミュレーションよりも適応度にずっと大きな影響を与えるかもしれない、と本論文は指摘します。

 後期ネアンデルタール人のY染色体は、37万〜10万年前頃の間に、ネアンデルタール人やデニソワ人よりも現生人類系統と近縁な絶滅系統からもたらされた、と推測されます。上述のように、早期ネアンデルタール人である43万年前頃のSH集団は、mtDNAでは後期ネアンデルタール人よりもデニソワ人に近いと明らかになっていますが、Y染色体でも同様だろう、と本論文は予測しています。後期ネアンデルタール人のゲノムから推測される、現生人類からネアンデルタール人への限定的な遺伝子流動を考慮すると、後期ネアンデルタール人におけるmtDNAとY染色体の完全に置換は意外ですが、ミトコンドリアと常染色体の不一致は集団遺伝学理論では予測されており、動物の種間交雑では比較的一般的です。本論文は、2集団間の交雑における単系統遺伝子座の遺伝的荷重の違いが、ネアンデルタール人系統におけるmtDNAとY染色体の置換の要因だろう、と指摘します。

 ひじょうに興味深い研究で、今後、古代型ホモ属のY染色体DNA解析数さらに増えていくよう、期待しています。デニソワ人と確認されている個体はネアンデルタール人と比較してひじょうに少ないので、古代型ホモ属のY染色体DNA解析は当分ネアンデルタール人が中心となりそうですが、まず注目されるのは、本論文でも言及されている早期ネアンデルタール人のSH集団です。SH集団は43万年前頃と後期ネアンデルタール人やデニソワ人よりもずっと古いだけに、Y染色体DNAの解析は難しいかもしれませんが、何とか成功してもらいたいものです。また、ネアンデルタール人系統内でも核DNAとmtDNAで系統の不一致が指摘されているので(関連記事)、Y染色体ではどうなのか、さらに詳しい研究の進展が期待されます。


参考文献:
Petr M. et al.(2020): The evolutionary history of Neandertal and Denisovan Y chromosomes. bioRxiv.
https://doi.org/10.1101/2020.03.09.983445

https://sicambre.at.webry.info/202003/article_20.html

47. 中川隆[-12999] koaQ7Jey 2020年4月23日 08:44:21 : xl5kDle6R2 : OGhwbkgvR3N4YWs=[6] 報告
2020年04月23日
完新世ヨーロッパにおけるヒトの拡大と景観の変化との関連
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_34.html


 完新世ヨーロッパにおけるヒトの拡大と景観の変化との関連についての研究(Racimo et al., 2020)が報道されました。8500年前頃まで、ヨーロッパはおもに比較的低密度で暮らす狩猟採集民集団で占められていました。このヨーロッパの人口構造は、新石器時代にアナトリア半島から農耕民が到来したことで変わりました。第二のヨーロッパにおける大規模な移動は、青銅器時代初期に、ポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)のヤムナヤ(Yamnaya)文化と関連した集団が、東方からヨーロッパに到来してきたことです(関連記事)。ヤムナヤ文化と関連した集団は、西方に移動してヨーロッパ中央部および北部の縄目文土器(Corded Ware)文化と関連し、その後にヨーロッパ北西部の鐘状ビーカー(Bell Beaker)現象と関連して、家畜ウマとインド・ヨーロッパ語族祖語をもたらしたかもしれません。

 過去1万年にわたって、ヨーロッパは土地被覆構成で大きな変化を経てきましたが、新石器時代とヤムナヤ文化のヨーロッパへの移住がその変化にどの程度寄与したのか、まだ不明です。最近の花粉に基づく研究では、広葉樹林の劇的な減少が6000年前頃から現在までに起きた、と示唆されます。この森林喪失は2200年前頃から激化し、ヨーロッパ大陸全体で草原や耕作地に置換されていきました。しかし、これらの過程は全地域で均一に進行したわけではありません。たとえば、ヨーロッパ中央部では広葉樹林のかなりの減少が4000年前頃から始まりましたが、大西洋沿岸ではそのずっと前に半開植生で占められていました。一方、スカンジナビア半島南部では、森林の顕著な現象は少なくとも中世までありませんでした。より早期の狩猟採集民集団は、周囲の植物相と動物相に限定的な影響しか及ぼさなかった可能性が高いので、おそらくこれらの現象は、森林伐採や農耕・牧畜の確立を含む新たなヒトの景観利用活動により部分的に影響を受けました。気候変化パターンもまた、植生変化に影響を与えたかもしれません。さらに、植生変化は集団の拡大する新たな領域を開いたかもしれません。しかし今まで、古植生の変化を特定のヒト集団の移動と明示的に関連づける、もしくは因果的役割を仮定して、気候要因とヒトに基づく要因を区別する取り組みはほとんど行なわれていませんでした。

 本論文は、ヨーロッパ大陸全体で主要な完新世の移動が時間の経過とともにどのように展開したのか追跡し、それが植生景観の変化とどう関連しているのか、理解することを目的とします。本論文は、古代ゲノムの系統推論と地球統計学的手法を統合します。これらの手法の使用により、系統移動の詳細な時空間的地図を提供し、農耕の拡大と植生変化の関係を明らかにします。さらに、これらの移動の最前線の速度を推定し、その結果を放射性炭素年代測定された考古学的遺跡から得られた文化的拡散の復元と比較します。広葉樹林の減少と牧草地・自然草原の植生増加は、狩猟採集民系統の現象と同時に発生し、青銅器時代の草原の人々の速い移動と関連していたかもしれません。また、この期間中の気候パターンの自然変動は、これらの土地被覆変化に影響を与えた、と見出します。本論文の手法は、古代DNA研究と考古学的データセットを統合する将来の地球統計学的研究への道を開きます。

 本論文は、ヨーロッパの人類集団の遺伝的構成について、上部旧石器時代〜中石器時代の狩猟採集民(HG)、アナトリア半島から拡散してきた新石器時代農耕民(NEOL)、ヤムナヤ文化関連集団(YAM)の3系統の割合の推移をモデル化しました。当然、より多くの系統で詳細なモデル化は可能ですが、本論文は、ボトルネック(瓶首効果)とゴースト集団との交雑による混乱を避けるため、この3系統の推移に基づいて検証しています。NEOLは新石器時代農耕文化と、YAMはヤムナヤ関連文化と密接に関連していますが、系統と文化は常に一致しているとは限らない、と本論文は注意を喚起します。HGはヨーロッパ西部狩猟採集民系統(WHG)とほぼ対応しています。

 本論文はまず、放射性炭素年代測定法による較正年代を利用して、各系統の割合がヨーロッパにおいてどのように推移していったのか、地図化します。これにより、YAMの移動速度はNEOL(1.8km)の2倍以上と明らかになりました。次に本論文は、ヨーロッパ完新世における土地被覆構成の変化を地図化します。その結果、ヨーロッパ全土の水準においては、広葉樹林の減少と牧草地・自然草原の増加は、NEOLの到来後ではなく、YAM到来後に起きた、と明らかになりました。ただ、本論文は地域差もあることを指摘します。フランス中部では、YAMの増加と広葉樹林の減少が一致します。対照的に、ヨーロッパ南東部と南西部では、YAMが増加しても森林被覆は低水準で安定していました。これが人為的なものだとすると、地中海沿岸の農耕牧畜体系の樹木栽培の結果かもしれない、と本論文は推測します。ヨーロッパ全土の水準においては、耕作可能な土地の大幅な増加は、NEOLの到来よりずっと後の完新世後期となります。総合的に、HGと広葉樹林の割合の高さが、またYAMと牧草地・自然草原の高い割合とが相関しますが、NEOLは植生との関連が弱いか存在しない、と本論文は指摘します。

 NEOLの拡大は、放射性炭素年代測定法による年代の得られている新石器時代農耕集団遺跡の拡大とおおむね一致しており、ヨーロッパでは、中央部を北進する方向と、地中海沿岸を西進する方向に二分されます。文化区分では、これは線形陶器(Linear Pottery、Linearbandkeramik、略してLBK)文化とインプレッサ・カルディウム(Impressa/Cardial Pottery)文化に相当し、両文化がおそらくは人々の移動により拡大した、との見解が支持されます。上述のように、YAMの拡大はNEOLの拡大より速く、これはウマの使用を含む多くの理由が考えられます。YAMはヤムナヤ文化および縄目文土器(Corded Ware)文化と関連した個体群に高い割合で見られ、ユーラシア草原地帯からヨーロッパへと拡散した、と推測されます。ただ、縄目文土器文化集団がウマを飼っていた証拠は限定的で、混合農業を営んでいた可能性が指摘されています。

 ヨーロッパにおける各系統と植生景観との関連では、まずHG は広葉樹林と正の相関がある一方で、YAMは広葉樹林植生と負の相関があり、草原および耕作地と正の相関があります。また、気候と土地被覆タイプの間の関連も確認されました。たとえば、気温の上昇は、低木地や牧草地および草原や耕地の増加と関連していました。上述のように、NEOLと植生の変化との強い関連は見いだされませんでした。この理由として、本論文のモデルでは効果を明確に検出するにはあまりにも小規模だったか、局地化されていたことが指摘されています。以前の研究では、少なくともヨーロッパ北西部では、新石器時代共同体がある程度は地域的な環境を変えた、と指摘されています。ヨーロッパ北部や北西部のような地域では、NEOLの増加と一致して広葉樹林がわずかに減少していますが、これはヨーロッパ全土の水準では観察されません。広葉樹林の顕著な減少はヨーロッパ西部および北西部ではずっと後に起き、YAMの増加と一致します。なお、地中海沿岸で栽培されているオリーブやクリやクルミの広葉樹林に含まれるので、これらの栽培種のある地域に関しては、本論文の森林変化を推測する能力は限定的となります。

 6000年前頃に始まる広葉樹林の減少に続いて、ヨーロッパ大陸の一部の地域で草原と攪乱地がわずかに増加します。これらの植生タイプは地中海および黒海地域において完新世初期を通じて自然に存在し、現在までかなり安定していました。対照的にヨーロッパ西部では、これらの植生はYAMが増加し始めた青銅器時代に中間水準に達し、その後も増加し続けました。ヨーロッパ南部と東部では、YAMの増加と草原および攪乱地の増加が一致しませんでした。これは、過去3000年の人口密度の劇的な増加も反映しているかもしれません。そのため土地利用に強い変化が生じ、結果として大陸全体の植生が攪乱されたかもしれない、というわけです。新石器時代と青銅器時代の人口増減も、小規模ではあるものの植生景観に影響を与えたかもしれません。本論文は、将来の研究では人口密度やヒトの活動の他の要素を組み込む必要があるかもしれない、と指摘します。ただ本論文は、遺伝的構成の変化が古代DNA研究に依存しており、それは環境や歴史的な偏りに左右されるものであることに注意を喚起しています。また上述のように、HG・NEOL・YAMの3系統でモデル化していることも本論文は指摘しています。こうして単純化したモデル化は、じっさいの複雑な移動・混合を反映しているのではなく、その近似値になる、というわけです。

 古代DNA研究と植生景観の変化を関連づけた本論文の手法はたいへん注目され、今後発展していく分野だろう、と期待されます。ただ、本論文が指摘するように、ヒトのさまざまな活動も考慮していかねばなりませんし、栽培植物が解析能力を限定的としているところもあります。また、遺伝的構成の変化は古代DNA研究に依存していますが、これは環境や歴史的な偏りに標本が左右され、ヨーロッパ全土のような広範囲での考察のさいに、偏りが生じてしまう危険性もあります。ただ、このような研究が可能なのも、ヨーロッパの古代DNA研究が他地域よりも大きく進展しているためで、この点で日本列島も含めてアジア東部が大きく遅れていることはとても否定できず、日本人の私としては残念です。今後、アジア東部、さらにはユーラシア東部での古代DNA研究の進展が期待されます。


参考文献:
Racimo F. et al.(2020): The spatiotemporal spread of human migrations during the European Holocene. PNAS, 117, 16, 8989–9000.
https://doi.org/10.1073/pnas.1920051117

https://sicambre.at.webry.info/202004/article_34.html

48. 中川隆[-12755] koaQ7Jey 2020年5月06日 08:37:21 : JiV1eTDCIw : eXZlblBTcFo4T1k=[10] 報告
2020年05月06日
古代型ホモ属から現生人類への遺伝子移入
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_9.html


 非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)から現生人類(Homo sapiens)への遺伝子移入に関する研究(Gokcumen., 2020)が公表されました。本論文は、現生人類と古代型ホモ属との遺伝的関係について、最近までの知見をまとめており、この問題の把握にたいへん有益だと思います。古代DNA研究の飛躍的な進展により、人類進化史に関する理解は大きく深まりました。現代人の祖先集団が深刻なボトルネック(瓶首効果)を経たことは以前から指摘されており、現代人の遺伝的多様性はこの祖先集団にまでさかのぼれる、と考えられていました。ミトコンドリアDNA(mtDNA)の多様性などの以前の遺伝学的研究は、この見解を支持します。

 しかし、ゲノム規模研究は、現代人の進化史が複雑だったことを明らかにしてきました。現代人系統は、早期に分岐した系統との複雑な遺伝的つながりを有する、というわけです。これら複雑な関係を有する人類系統の中では、現生人類とネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)はすでに遺伝的に特定されていますが、遺伝的に未知の人類系統が一部の現代人集団に遺伝的影響を残した可能性も指摘されています。現代人の遺伝的多様性は、現生人類だけではなく古代型ホモ属にも由来します。本論文は、最近の知見に基づいて、遺伝子移入に関する特定の問題を検証していきます。


●遺伝子移入とは何か

 遺伝子移入(浸透性交雑)は、異なる生物学的分類群の一つ(高頻度で種)の遺伝子プールから、別の分類群への交配による遺伝子流動です。遺伝子移入には、比較的最近の共通祖先を有する二つの生物学的実体が分岐し、遺伝子プールが明確に分岐するのにじゅうぶんな時間、相互に孤立したままである必要があります。具体的には、たとえばネアンデルタール人と現生人類です。したがって、受け入れる側の集団はしばしば、遺伝子移入の有無が区別可能なアレル(対立遺伝子)を有します。遺伝子移入は固有の過程で、一般的であり、進化に重要だと明らかにされてきました。遺伝子移入されたゲノム多様性の研究により、時間の経過に伴う異なる集団間の相互作用の強度・持続期間・時期を推定できます。また遺伝子移入は、潜在的に新たな適応的もしくは不適応的な遺伝的多様性を集団に導入でき、表現型多様性と適応的過程の遺伝的基盤を理解するための自然実験を提供します。ゲノム規模のデータセットが豊富なおかげで、ゲノム全体の遺伝子移入の特徴を調査することは、ヒト進化の遺伝的研究における重要な焦点となってきました。


●古代型ホモ属の遺伝的データにより変わる現生人類の進化史

 21世紀に古代DNA研究が飛躍的に発展するまで、現生人類とネアンデルタール人に関する考察の大半は化石記録に基づいていました。そこでまず明らかになったのは、最古の現生人類的化石群はアフリカで発見されている、ということです。次に明らかになったのは、ユーラシアとオセアニア全域に点在するひじょうに古い人類化石があり、明確な非現代人的特徴を示すものの、系統分類は曖昧で論争になった、ということです。そのため、現生人類の起源に関して、20世紀後半にはアフリカ単一起源説と多地域進化説が提唱されました。アフリカ単一起源説では、現生人類の唯一の起源地はアフリカで、そこから世界中に拡散してネアンデルタール人など先住人類を置換した、と想定されます。ただ当初より、先住人類とのわずかな交雑および現代人(の一部集団)への遺伝的影響を認める交配説と、先住人類の遺伝的影響は現代人には残っていない、と想定する完全置換説とがありました。多地域進化説では、アフリカから(広義の)ホモ・エレクトス(Homo erectus)が100万年以上前にユーラシアへと拡散し、異なる環境に応じて地域集団が進化していき、相互に遺伝的交流を維持しつつ、比較的均一な現代人集団へと進化した、と想定されました。

 人類進化史に遺伝学が大きな役割を果たすようになったのは、20世紀第四四半期でした。人類の遺伝的変異に関する初期の研究では、現代人の遺伝的多様性の大半はアフリカの深い系統にあると示し、アフリカ単一起源説を支持しました。20世紀末に解析されたネアンデルタール人のmtDNAは、現代人の変異幅に収まらないと明らかになり、アフリカ単一起源説への支持はさらに強くなりました。多地域進化説では、ネアンデルタール人が現生人類の遺伝子プールにかなり影響を残した場合、少なくともある程度の現代人はネアンデルタール人からmtDNAを継承しているだろう、と示唆していたからです。こうして21世紀を迎えた時点では、現生人類の起源に関してはアフリカ単一起源説、その中でも完全置換説が主流となりましたが、現時点で振り返ると、このモデルは不完全でした。

 この流れを大きく変えたのは古代型ホモ属のゲノム解析でしたが、すでにその前から、現代人のゲノム解析によりネアンデルタール人から現生人類への遺伝子移入を指摘した研究もありました(関連記事)。ネアンデルタール人のゲノム規模データの公表により、ネアンデルタール人から現生人類への遺伝子移入が確認されました。当初、ネアンデルタール人の遺伝的影響が残る現代人は、サハラ砂漠以南のアフリカ以外の全集団と推測されましたが、最近の研究では、以前の推定よりもはるかに多く、サハラ砂漠以南のアフリカ現代人集団のゲノムにもネアンデルタール人由来の領域が残っている、と推測されています(関連記事)。

 ネアンデルタール人から現生人類への遺伝子移入が指摘されて間もなく、南シベリアのアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)遺跡で発見された個体が、現生人類とはネアンデルタール人と同じくらい遺伝的に異なり、オセアニアの現代人集団に遺伝的影響を残している、と推定されました。その後の研究で、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人の間の複雑な交雑が明らかになってきました(関連記事)。こうして現生人類の起源に関しては、単なる多地域進化説とアフリカ単一起源説との対立という枠組みを超えて、古代型ホモ属からの遺伝子移入の程度・範囲・年代・起源への関心が高まっていきました。


●古代型ホモ属から現生人類への遺伝子移入に関する疑問

 ネアンデルタール人から現生人類への遺伝子移入は、現在では広く認められています。当初の研究では、サハラ砂漠以南のアフリカ現代人集団よりもそれ以外の地域の現代人集団において、ネアンデルタール人由来の多型アレルをずっと多く有する、という観察がその証拠とされました。これは、サハラ砂漠以南のアフリカ現代人集団はネアンデルタール人からの遺伝子移入がなかった、という仮定に基づいています。しかし、人類進化史において比較的新しい年代に最終共通祖先を有するネアンデルタール人と現生人類とでは、共有アレルも当然多くなります。じっさい、サハラ砂漠以南のアフリカ現代人集団(サン人)とそれ以外の地域の現代人集団(フランス人)とでは、ネアンデルタール人との多くの共有アレルが確認され、そのうちサン人になくてフランス人にのみ確認されるものはわずかで、ゲノムの塩基対のうち0.0002755%にすぎません。これは、偽陽性もしくは偽陰性率、人口史の仮定、変異率の推定値のわずかな偏りでも、遺伝子移入の分析を著しく偏らせる可能性を示します。そのため、非アフリカ系現代人の祖先集団が出アフリカの前にアフリカ系集団と分離しており、その人口史における遺伝的浮動の結果として、アフリカ系集団よりもわずかに多くのネアンデルタール人との共有アレルが残った、との見解も提示されました。

 しかし、ハプロタイプ水準での分析では、ネアンデルタール人から現生人類への遺伝子移入の確実な証拠が得られます。ネアンデルタール人から現生人類に伝わったゲノム中のDNA領域は組換えによってのみ断片化されるので、現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人由来のアレルは、まとまって発見されるはずです。じっさい、現代人のゲノムにおいて、ネアンデルタール人のゲノムと一致する近接派生的多様体が数十個から時には数百個存在する数百もの領域が特定されており、同様の事例はオセアニア系現代人集団のゲノムにおけるデニソワ人由来のアレルでも確認されています。これらの領域のサイズは、遺伝子移入事象の年代を推定する手がかりとなります。組換えが発生するので、この領域が短いほど遺伝子移入は古い年代に起き、逆にこの領域が長いほど遺伝子移入は新しい年代に起きたことになります。この古代型ホモ属由来の領域のサイズから、非アフリカ系現代人の祖先集団と古代型ホモ属との交雑は出アフリカ後と推定されています。ただ、この手法はアフリカにおける古代型ホモ属から現生人類系統への潜在的な遺伝的寄与の可能性を事実上除外します。現在の議論は、現生人類系統における古代型ホモ属からの遺伝子移入の年代・程度・機能的効果に焦点が当てられています。


●アフリカの人口史

 現代人の遺伝的多様性の大半(おそらく90%以上)は、20万〜10万年前頃に深刻なボトルネックを経た可能性の高い、アフリカの比較的均一な祖先集団にさかのぼれます。現代人と古代型ホモ属とのゲノム比較により、と少なくとも3系統の古代型ホモ属から現生人類への遺伝子移入が推定されています。アフリカにおける遺伝子移入の検証の難しさは、「遺伝子移入」と「深い遺伝的構造」の間の境界線が曖昧なことです。前者は異なる種のようなひじょうに多様な集団からの遺伝子流動を、後者は集団内の構造化された遺伝的多様性を意味します。

 過去1万年のアフリカ人のゲノムからは、アフリカ現代人集団では今や失われた深い系統が以前にはあった、と示唆されます(関連記事)。つまり、現代と比較して、1万年前頃のアフリカの現生人類の遺伝的多様性は高く、多様なハプロタイプが存在しました。これらの小集団はアフリカ現代人集団とは異なり、その固有の遺伝的多様性の大半は現代では見られません。これは、アフリカ現代人集団のゲノム分析だけでは見えない、かなりの深い遺伝的構造がアフリカにはある、ということです。この遺伝的構造は、コイサン集団と他のアフリカ人集団の分離前となる、35万〜25万年前頃に合着するハプロタイプを含んでいます。したがって、ボトルネック後の集団よりも古い現代人集団のハプロタイプの少なくともいくつかは、遺伝子移入ではなく、この古代の遺伝的構造で説明できます。

 アフリカの古代型ホモ属のゲノム規模データは欠如しているため、課題となるのは、「深い遺伝的構造」に由来するハプロタイプ多様性と、遺伝子移入事象に由来するそれとの区別です。両者の違いの一つは時間です。「深い遺伝的構造」に由来する場合は、明確な解剖学的現代人のハプロタイプの分岐年代である数十万年前までさかのぼり、遺伝子移入ではアフリカにおいて現生人類系統と古代型ホモ属系統とが分岐した100万年以上前までさかのぼる、と想定されます。まず間違いなく現生人類とは明確に異なる人類系統であるホモ・ナレディ(Homo naledi)が、じっさいに遭遇したのか確証はないとしても、アフリカでは現生人類と共存していたこと(関連記事)からも、アフリカにおける古代型ホモ属と現生人類系統との交雑はじゅうぶん想定されます。

 アフリカにおける遺伝的に未知の人類系統から現生人類系統への遺伝子移入を推定した研究は複数あり(関連記事)、200万〜50万年前頃に現生人類系統と分岐し、現在では絶滅した人類集団から現生人類系統への遺伝子移入が想定されています。ただ、この遺伝子移入事象の年代と場所は不明確です。たとえば、未知の人類系統と現生人類系統との分岐は200万〜150万年前頃、遺伝子移入事象は15万年前頃とも推定されていますが(関連記事)、これらの年代は確定的ではない人口統計学的モデル・変異率・組換え率に依存しているからです。したがって、より詳細な遺伝子移入事象の解明には、アフリカの古代型ホモ属の直接的なゲノム配列や、既知のものより古いアフリカの現生人類遺骸の古代ゲノムデータが必要です。


●ネアンデルタール人の進化史

 ネアンデルタール人は、ユーラシア、その中でもおそらくヨーロッパで40万年前頃までに進化し、その後でユーラシアに広く拡散した、と考えられます。ネアンデルタール人のゲノムデータからは、シベリア(東方)とヨーロッパ(西方)の大きく異なる2集団が存在し、東西両系統は遅くとも12万年前頃までには分離していた、と明らかになっています(関連記事)。9万年前頃のシベリアの古代型ホモ属個体は、母がネアンデルタール人で父がデニソワ人と明らかになりました(関連記事)。これは、異なる人類系統間の遺伝子移入が一般的だったことを示唆します。最近の研究でも、南シベリアのアルタイ山脈では、ネアンデルタール人とデニソワ人が遭遇した場合、両者の交雑は一般的だった、と推測されています(関連記事)。さらに、この交雑第一世代個体の母は東方系よりも西方系の方と近縁なので、シベリアでは、東方系ネアンデルタール人の存在した14万年前頃から9万年前頃までの間に、東方系から西方系への置換があった、と示唆されます。

 非アフリカ系現代人全員のゲノムに、さほど変わらない割合でネアンデルタール人由来と推定される領域があることは、非アフリカ系現代人全員の祖先である出アフリカ系現生人類集団が、各地域集団に分岐する前にネアンデルタール人との単一の決定的な遺伝子移入事象を経た、と示唆します。そのため、この遺伝子移入事象の場所は、出アフリカ現生人類とネアンデルタール人が最初に遭遇したアジア西部、おそらくはレヴァントで、年代は5万年前頃以前と推定されます。ただ、地域集団のゲノム構造からは、もっと複雑だったことが示唆されます。

 この時期のアジア西部のホモ属の直接的なDNA証拠は、ネアンデルタール人でも現生人類でも得られていません。また、アジア西部の現代人集団では、他地域の非アフリカ系現代人集団と比較してのネアンデルタール人の遺伝的影響は、レヴァントでは小さく、アナトリア半島とイランでは変わらない、と推定されています。これに関しては、アフリカから複数の現生人類集団がユーラシアへと拡散し、そのうち1集団だけがネアンデルタール人と交雑したことを反映している、と推測されています。代替的な仮説では、サハラ砂漠以南のアフリカ人集団からの最近の遺伝子流動により、レヴァントの現代人集団のゲノムのネアンデルタール人由来の領域が希釈された、と推測されています。じっさい、アジア西部現代人集団のゲノムにおいては、サハラ砂漠以南のアフリカ人系統の割合とネアンデルタール人系統の割合は負の相関関係にあります。また、サハラ砂漠以南のアフリカ人集団による近東集団の置換が想定されており、それはとくに古代エジプトにおいて顕著だった、と推測されています。非アフリカ系現代人集団に遺伝的影響を残したネアンデルタール人は、東方系より西方系に近いと推定されており、西方系ネアンデルタール人がアジア西部に拡散し、現生人類と交雑した、と考えられます。

 おそらくはアジア西部、もっと限定するとレヴァントにおける、5万年前以前のネアンデルタール人から非アフリカ系現代人全員の共通祖先集団への遺伝子移入事象の後にも、ルーマニアの早期現生人類個体でネアンデルタール人から現生人類への遺伝子移入が観察されているように(関連記事)、ネアンデルタール人から現生人類への遺伝子移入事象が起きていた、と推測されています。また、現生人類からネアンデルタール人への10万年前頃の遺伝子移入も推定されています(関連記事)。じっさい、20万年前頃かさらにさかのぼる現生人類系統の出アフリカの可能性も指摘されています(関連記事)。現生人類このように、ユーラシアで広範にネアンデルタール人と現生人類との間の相互の遺伝子移入が起きましたが、その痕跡は現代人集団ではほとんど失われています。現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人由来のアレル分布は、単一の遺伝子移入事象では説明できない、との見解も提示されており(関連記事)、ネアンデルタール人と現生人類との間の遺伝的関係は複雑だったようで、より詳細な解明には、さらに多くのネアンデルタール人ゲノムが必要です。


●デニソワ人

 古代DNA研究の重要な成果は、デニソワ人を遺伝的に新たな系統として発見したことです(関連記事)。デニソワ人はデニソワ洞窟で発見されましたが、その遺伝的影響を強く受けているのはオセアニア現代人集団なので、地理的分布に関心が寄せられてきました。非アフリカ系現代人の一部の祖先集団と交雑したデニソワ人は複数系統だった、と推測されています(関連記事)。デニソワ人から現生人類への遺伝子移入事象は複数回起きた、というわけですが、そのうちの1系統がニューギニア島(更新世の寒冷期にはオーストラリア大陸・タスマニア島と陸続きでした)まで拡散していた可能性さえ提示されています。アルタイ山脈のデニソワ洞窟とチベット高原東部でしか遺骸の確認されていないデニソワ人の分布範囲はまだ確定的ではなく、中国で発見されてきた、分類について議論のある中期〜後期更新世ホモ属遺骸の中に、デニソワ人と同じ分類群の個体があるかもしれず、多くの謎が残されています。仮にデニソワ人が南シベリアからチベット高原とアジア南東部、さらにはニューギニア島まで分布していたとしたら、現生人類にも匹敵するくらい多様な環境に適応していた可能性もあります。


●現代人の表現型への影響

 非アフリカ系現代人集団のゲノムにおけるネアンデルタール人由来の領域は1〜3%程度です。これらの領域はおおむね、機能的に重要なコーディング配列や調節領域から離れています。これは、ネアンデルタール人から現生人類への遺伝子移入事象後に、ネアンデルタール人の派生的アレルが負の選択により排除される傾向にあったことを示唆します。つまり、現代人の表現型におけるネアンデルタール人の影響は全体的には小さい、というわけです。この負の選択の要因としては、交雑における不適合です。これにより、適応度が下がり、子孫が残りにくくなります。

 こうした負の選択は、繁殖および配偶子形成に関連する遺伝子座においてとくに影響が大きいと予想され、じっさい、現代人のX染色体のそうした領域において、ネアンデルタール人由来の領域は排除されている、と指摘されています(関連記事)。また、ネアンデルタール人の有効人口規模は現代人集団よりもずっと小さく、有害なアレルを除去できない可能性が高い、と推測されています。その結果、ネアンデルタール人の派生的アレルは現生人類においては適応度を下げるために排除された、という可能性も指摘されています。

 一方で、一部のネアンデルタール人由来のアレルは現生人類において適応的優位をもたらした可能性が指摘されています。それは肌の色(関連記事)や免疫(関連記事)に関連したアレルですが、一方で、代謝関連遺伝子のように、かつての環境では有利だったものが、現代では不利に作用しているものも指摘されています(関連記事)。ただ、多数の遺伝子が協調して機能することも指摘されており、ネアンデルタール人から現生人類への遺伝子移入における機能的役割については、さらに多くの検証が必要となります。

 また、機能的なネアンデルタール人から遺伝子移入されたアレルのほとんどは、コーディング配列ではなく調節配列に影響を与えている、と推測されています。つまり、タンパク質自体を変えるのではなく、その発現の水準に影響を及ぼしている、というわけです。また、デニソワ人からの遺伝子移入に関しては、チベット現代人集団において、デニソワ人由来の高地適応関連遺伝子ハプロタイプが適応度を高めている、と推測されています(関連記事)。全体的に、現代人集団における古代型ホモ属由来のアレルの表現型への影響は小さいものの、アフリカから異なる環境に拡散していった現生人類の適応度の上昇に役立ったものもある、と考えられます。ただ、本論文公表後の研究では、現代人集団の表現型におけるネアンデルタール人由来のアレルの影響は、これまでの推定よりもずっと小さかった、と指摘されています(関連記事)。


●今後の展望

 古代型ホモ属から現生人類への遺伝子移入に関する研究で問題となるのは、現代人の遺伝学的研究の標本抽出がヨーロッパ西部とアメリカ合衆国に偏っていることです。ただ、この問題はじょじょに解消されつつあり、とくに遺伝的にも文化的にも高い多様性を有するアフリカ現代人集団の研究の進展が期待されます。もう一つの問題は、古代DNAの不足です。これは、アフリカ・アジア南東部・オセアニアのように、DNAの保存に不適な環境条件の地域もあるので、全地域で同じように研究を進めることは困難です。また、研究者と資金の充実している研究集団が少ないことも、新たな視点や手法を妨げかねないという意味で、古代DNA研究の制約となっています。

 表現型への影響に関しては、ゲノムと環境の両方に依存しているため、研究は容易ではありませんが、遺伝的基盤の表現型への影響に関する包括的理解につながる可能性もある、と期待されます。過去10年で、古代型ホモ属から現生人類への遺伝子移入は珍しくなかった、と明らかになってきました。また、チンパンジー属(関連記事)やヒヒ属(関連記事)やブチハイエナ属(関連記事)など、他の動物でも広く遺伝子移入が確認されるようになりました。遺伝子移入は進化の主要な推進力の一部だった、と考えられます。


参考文献:
Gokcumen O.(2020): Archaic hominin introgression into modern human genomes. American Journal of Physical Anthropology, 171, S70, 60–73.
https://doi.org/10.1002/ajpa.23951

https://sicambre.at.webry.info/202005/article_9.html

49. 中川隆[-12708] koaQ7Jey 2020年5月11日 16:30:34 : ZFPKQ6yhyA : VnB4VFpVWUR4ZEE=[10] 報告
2020年05月11日
多様な地域の現代人の高品質なゲノム配列から推測される人口史
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_18.html


 取り上げるのが遅れてしまいましたが、多様な地域の現代人の高品質なゲノム配列から人口史を推測した研究(Bergström et al., 2020)が報道されました。本論文は査読前に公表されており、当ブログでも言及したことがあります(関連記事)。現生人類(Homo sapiens)の進化史に関する広く認められた見解では、現生人類系統は70万〜50万年前頃にネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)および種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)の共通祖先系統と分岐した後、現代人的な形態が過去数十万年間にアフリカで出現し、7万〜5万年前頃にアフリカから近東へと拡大した一部の現生人類集団では遺伝的多様性が減少して、その直後にこの出アフリカ現生人類集団がユーラシアで非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)と交雑した後に、世界各地に拡散していくとともに人口が増加し、過去1万年間に世界の複数地域で狩猟採集から食料生産への意向が起きた、と想定されています。しかし、大陸間・地域間で人口史がどの程度異なっており、現代人の世界規模での遺伝的多様性の分布と構造がどのように形成されてきたのか、理解すべきことが多く残っています。これまでの大規模なゲノム配列は、都市部や大きな集団に限られ、低網羅率の配列が利用されてきましたが、ほぼ1集団あたり1〜3人のゲノムに限定されていました。

 本論文は、地理・言語・文化的に多様な54集団から929人の高網羅率配列(平均35倍、最低25倍)を提示し、そのうち142人は以前に配列されていました。これにより、6730万個の一塩基多型、880万ヶ所の小挿入もしくは挿入欠失、40736個のコピー数多様体(CNV)が特定されました。古代型ホモ属3個体のゲノム間で多型として確認された130万個の一塩基多型は、おもに共有された祖先的多様性を反映しており、そのうち69%はアフリカ集団にも存在します。遺伝子型配列にほとんど存在しない稀な多様体は、最近の変異に由来する可能性が高く、個体群間で最近共有された祖先を知ることができます。

 稀な多様体のパターンは、オセアニアやアメリカ大陸の集団とは対照的に、ユーラシア集団におけるより大きな集団間の稀なアレル(対立遺伝子)共有の一般的パターンを明らかにします。アフリカ西部のヨルバ(Yoruba)集団は、高いアレル頻度においてアフリカのムブティ(Mbuti)集団よりも非アフリカ人の方と密接な関係を有しますが、低いアレル頻度ではその逆の関係となり、非アフリカ系との分岐以降のムブティ集団とヨルバ集団間の最近の遺伝子流動が示唆されます。低いアレル頻度でのムブティ集団へのサン(San)集団とマンデンカ(Mandenka)集団の過剰な共有は、サン集団へのアフリカ西部関連系統の少量の混合を反映しているかもしれません。

 オセアニア集団における既知のデニソワ人混合は、オセアニア集団よりもユーラシア集団の方とのアフリカ集団のより大きな類似性、とくにアフリカ集団で固定されている多様体において、古代型ゲノム配列の利用なしに証明されます。類似した方法で、固定された多様体では、アフリカ中央部のビアカ(Biaka)集団は、アフリカ西部のマンデンカ集団よりもヨルバ集団の方とずっと多くの類似性を有しており、他のアフリカ系統の基底部であるいくつかの系統をマンデンカ集団が有していることと一致します。Y染色体DNA配列では、既知の系統構造とともに、稀な系統も含まれています。ほとんどの非アフリカ系現代人男性の有するY染色体ハプログループ(YHg)FT系統で最も深い分岐を示すF*系統は、本論文が分析対象とした中国南部の雲南(Yunnan)省のラフ(Lahu)集団の7人のうち5人で見つかり、非アフリカ系現代人のYHgの早期拡散の理解におけるアジア東部の重要性が示されます。ラフ集団では、固有の稀な常染色体アレルが高頻度で見られます。

 次に本論文は、地域固有の多様体を識別することにより、現代人の遺伝的多様性の両極を調べました。特定の大陸もしくは主要地域で固定されている、そうした固有の多様体は見つかりませんでした。アフリカ大陸とアメリカ大陸とオセアニアでは、固有の多様体のうち最高頻度が70%以上に達するものは数十個、50%以上だと数千個存在しますが、ヨーロッパとアジア東部もしくはアジア中央部および南部では、高頻度の固有の多様体とはいっても、わずか10〜30%に達するだけです。これはおそらく、過去1万年の移住と混合に起因するユーラシア内のより大きな遺伝的交流を反映しています。この遺伝的交流では、より孤立したアメリカ大陸とオセアニアの集団が含まれず、そのためアメリカ大陸とオセアニアの集団では固有の多様体が蓄積されていきました。アメリカ大陸中央部および南部の比較でも、他地域では40%以上の頻度には達しない、一方の地域に固有の多様体が見つかりました。アフリカ大陸内では、熱帯雨林狩猟採集民集団であるムブティとビアカに固有の1000個の多様体が30%以上の頻度に達し、アフリカ南部のひじょうに分岐したサン集団では、固有の多様体が、頻度30%以上では10万個、頻度60%以上では1000個に達し、検証対象となった6個体全てで見つかったものも20個ありました。

 これらの地理的に限定された多様体のほとんどは、現代人集団の多様化の後もしくはその直前に起きた新たな変異を反映しており、非アフリカ地域のほとんど(99%以上)の固有アレルは、古代型アレルというよりもむしろ派生的です。しかし、アフリカに固有のアレルは、祖先型アレルのより高い割合を含んでおり、この割合はアレル頻度とともに増加しており、アフリカ外では失われてしまった古い多様体を反映しています。同じ理由で、多くの高頻度のアフリカ固有の多様体は、ネアンデルタール人もしくはデニソワ人のゲノムでも見られます。古代型ゲノムと共有されているアフリカ外のあらゆる特定の地域に固有の多様体の断片はひじょうに少なく、古代型集団(ネアンデルタール人やデニソワ人)からの殆どもしくは全ての遺伝子流動が、非アフリカ系現代人の祖先集団の分岐前に起きたことと一致します。

 この例外はオセアニアで、20%以上の頻度で存在する固有の多様体の35%はデニソワ人のゲノムと共有されています。一般的に、アフリカ外には存在するもののアフリカ内では存在しない、10%以上の頻度となる共通の多様体の20%以上は、ネアンデルタール人やデニソワ人のゲノムと共有されており、おそらくネアンデルタール人やデニソワ人との交雑に由来します。そうした一般的な多様体の残りの80%以下程度は、おそらく新たな変異に由来しており、したがってそうした変異は、現代人集団への新たな多様体の導入において古代型交雑よりも強い力を有しました。地域に固有の挿入欠失多様体は、一塩基多型と類似した頻度分布を示しますが、全体的に10倍程度減少します。同じことはコピー数多様体(CNV)にもほぼ当てはまり、全体的な数は大きく減少していますが、例外は高頻度の固有のCNVのわずかな過剰がオセアニアで見られることです。これらの多様体のいくつかは、利用可能なデニソワ人ゲノムと共有されており、他の多様体や地域と比較して、正の選択がオセアニア集団の歴史において古代型起源のCNVに不釣り合いな強さで作用した、と示唆します。

 有効人口規模の歴史では、ヨーロッパとアジア東部でほとんどの集団が過去1万年に大きく増加した、と推定されていますが、ヨーロッパのサルデーニャ島やバスクやオークニー諸島、中国南部のラフ、シベリアのヤクート(Yakut)といったより孤立した集団では、それほど多く増加していません。アフリカでは、過去1万年に農耕集団の人口は増加しましたが、ビアカやムブティやサンのような狩猟採集民集団は、増加しなかったか減少さえしました。これらの知見は、農耕集団が拡大するにつれての、以前には人口が多く広範に分布していた狩猟採集民集団のより一般的なパターンを反映しているかもしれません。アメリカ大陸では、末期更新世における先住民の祖先集団のアメリカ大陸への進出と一致して一時的な人口増加が見られ、以前には常染色体データで観察されなかった、ミトコンドリアとY染色体の系統の急速な多様化という観察を反映しています。アメリカ大陸におけるこの一時的な人口増加では、過去1万年のヨーロッパおよびアジア東部の人口増加率を上回っています。ただ、これらの有効人口規模推移の分析に関しては、農耕や金属器時代など過去1万年の文化的過程期間におけるより詳細な人口史の解明にはまだ限界があります。そのためには、さらに大きな標本規模と遺伝的多様性の機能を調査する新たな分析方法のどちらか、若しくは両方が必要かもしれません。

 1世代29年と仮定しての推定集団分離年代は、アフリカ中央部の熱帯雨林狩猟採集民のムブティとビアカが62000年前頃、ムブティとアフリカ西部のヨルバが69000年前頃、ヨルバとアフリカ南部のサンが126000年前頃、サンとビアカおよびムブティが11万年前頃です。非アフリカ系集団は、ヨルバと76000年前頃、ビアカ96000年前頃、ムブティと123000年前頃、サンと162000年前頃に分離した、と推定されます。しかし、これらの分岐の進行中にも遺伝子流動は続いており、単純な分離ではありません。遺伝的分離年代の中には、30万もしくは50万年前頃までさかのぼるものもあり、集団間の合着率は集団内のそれとは異なります。これは、いくつかの現代人系統に他集団よりも寄与した集団がその時点で存在した、ということです。総合的に見ると、現代人集団で観察される遺伝的構造はおもに過去25万年間に形成され、この間の大半で全集団間の遺伝的接触は継続していたものの、現代人集団にわずかに残る25万年以上前の構造も存在します。現代人系統とネアンデルタール人およびデニソワ人系統との分離は70万〜55万年前頃と推定されます。mtDNAの分析では、50万年前頃以降の、現生人類とネアンデルタール人の間の遺伝子流動が推測されていますが(関連記事)、本論文は、そうした遺伝子流動が起きたのはユーラシアだけだっただろう、と推測しています。アフリカ外では、集団分岐の推定年代は以前の研究と一致しており、非アフリカ系現代人集団はすべて、過去7万年以内の系統のほとんどを共有しています。

 非アフリカ系現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人由来の領域の割合は、西方(ユーラシア西部)で2.1%、東方(ユーラシア東部・オセアニア・アメリカ大陸)で2.4%と推定されます。パプア高地集団のゲノムにおけるデニソワ人由来の領域の割合は2.8%(信頼区間95%で2.1〜3.6%)で、4〜6%という当初の推定(関連記事)よりはかなり低いものの、2〜4%程度というその後の推定(関連記事)に近くなっています。オセアニア集団におけるデニソワ人の遺伝的影響は、非アフリカ系現代人全員におけるネアンデルタール人のそれと比較して、さほど高くないかもしれない、というわけです。

 次に本論文は、非アフリカ系現代人の祖先集団と交雑したネアンデルタール人やデニソワ人の集団が複数存在したのか、検証しました。非アフリカ系現代人集団に見られるネアンデルタール人由来の領域の地理的分布もしくは推定交雑年代から、非アフリカ系現代人のゲノムに見られるネアンデルタール人由来の領域は単一の起源に由来し、追加の交雑の明らかな証拠はない、と推測されました。非アフリカ系現代人集団でも東方より西方でネアンデルタール人の遺伝的影響が低い理由としては、ネアンデルタール人の遺伝的影響を殆ど若しくは全く受けていない集団からの遺伝子流動が想定されています(関連記事)。ただ、系統的復元ではネアンデルタール人からの遺伝子移入ハプロタイプは10以上あり、単一のネアンデルタール人個体からの遺伝子移入は除外されます。しかし、ネアンデルタール人由来の領域の遺伝的多様性は限定的で、せいぜい2〜4の創始者ハプロタイプを想定すれば説明できるので、非アフリカ系現代人の祖先集団とネアンデルタール人との主要な交雑は1回のみだった可能性が高い、と本論文は推測しています。

 一方、デニソワ人の場合はネアンデルタール人とは対照的に、非アフリカ系現代人の祖先集団の一部との複雑な交雑の証拠が示されます。非アフリカ系現代人集団の一部に見られるデニソワ人由来のオセアニア集団の領域は、アジア東部・南部およびアメリカ大陸の集団とは異なっており、現生人類と交雑した複数のデニソワ人系統の深い分岐が示されます。アジア東部集団のデニソワ人由来の領域は、南シベリアのアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)で発見された個体のゲノムとひじように近く、それはオセアニア集団のゲノムでは欠けています。これは、デニソワ人と現生人類との複数回の交雑を推測した研究(関連記事)と一致します。本論文では、オセアニア祖先集団における複数のデニソワ人集団との交雑の明確な証拠は見つけられませんでした。アジア東部集団のデニソワ人由来の領域の構造はさらに複雑で、1回もしくは2回の交雑では説明できず、それ以上だったかもしれません。これは、おそらくアメリカ大陸とアジア南部の集団にも当てはまります。カンボジア人に見られるいくつかのデニソワ人由来のハプロタイプは、他のアジア東部集団のそれとはやや異なり、オセアニア集団のそれと関連しているかもしれません。全体的に現生人類にとって、デニソワ人との交雑はネアンデルタール人との交雑よりもかなり複雑だったようです。

 非アフリカ系現代人の祖先集団とネアンデルタール人との交雑は10万年前頃以降で、オセアニア祖先集団とデニソワ人との交雑は、ネアンデルタール人との交雑よりも後と推定されます。アフリカ西部のヨルバ集団では、非アフリカ系集団よりもずっと少ないものの、ネアンデルタール人の遺伝的影響が検出されます。他のアフリカ集団では、そうした痕跡は明確ではありません。本論文は、ヨルバ集団のゲノムにおけるネアンデルタール人由来の領域の割合を0.18±0.06%と推定しています。これは、ネアンデルタール人の遺伝的影響を受けたユーラシア西部集団の一部がアフリカに「逆流」したことによりもたらされ、ヨルバ集団のゲノムにおけるユーラシア系統の割合は8.6±3%と推定されています。

 非アフリカ系集団には古代型ホモ属由来のハプロタイプが存在しますが、古代型ホモ属の多くの単一多様体はアフリカ集団にも存在します。それは、古代型ホモ属系統と現代人系統との分離後、これら古代型ハプロタイプの多くが非アフリカ系集団では増加する遺伝的浮動によりかなり失われたことに起因します。ネアンデルタール人のハプロタイプは、アフリカ系よりも非アフリカ系集団で多く見られますが、デニソワ人では逆になります。これらの数値は、オセアニア集団の調査数が増えると変わるかもしれませんが、アフリカ系集団の遺伝的多様性の高水準のため、わずか若しくは全くネアンデルタール人やデニソワ人からの遺伝子移入がないにも関わらず、部分的に古代型ホモ属集団の多様体とかなり重なっていることを意味します。

 本論文は、高網羅率の多様な現代人のゲノムデータ数を大きく拡大し、現代人の遺伝的多様性の理解の深化に大きく貢献しました。これは、古代型ホモ属との交雑も含めた現代人各地域集団の形成過程はもちろん、医療にも貢献すると期待されます。今後、さらに規模を拡大しての研究も進められるでしょう。近年のゲノム研究の進展は目覚ましく、正直なところ、追いついていくのは難しく、異なる研究をどう整合的に解釈するのか、という問題もあります。たとえば、本論文ではアフリカ西部のヨルバ集団のゲノムにおけるネアンデルタール人由来の領域の割合は、非アフリカ系現代人集団の1/10以下と推定されていますが、最近公表された新たな手法を用いた研究は、アフリカ系集団ではおおむね1/3程度と推定しています(関連記事)。今後、相互検証によりさらに妥当な推論が提示されていくのでしょうが、追いかけるのは大変です。それでも、少しでも最新の知見に取り入れて自分なりに整理していきたいものです。


参考文献:
Bergström A. et al.(2020): Insights into human genetic variation and population history from 929 diverse genomes. Science, 367, 6484, eaay5012.
https://doi.org/10.1126/science.aay5012

https://sicambre.at.webry.info/202005/article_18.html

50. 中川隆[-12721] koaQ7Jey 2020年5月13日 08:55:41 : bdtAPQH1aM : cWpqa0tHQTNSakE=[5] 報告

2020年05月13日
ヨーロッパの最初期現生人類
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_20.html


 ヨーロッパの最初期現生人類(Homo sapiens)に関する二つの研究が報道されました。これらの研究はオンライン版での先行公開となります。一方の研究(Hublin et al., 2020)は、ヨーロッパで最古となりそうなブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)の現生人類遺骸のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析結果を報告しています。ヨーロッパで最古級の現生人類(Homo sapiens)遺骸は、イギリスのケンツ洞窟(Kent’s Cavern)の較正年代(以下、年代は基本的に較正されたものです)で44200〜41500年前頃のもの(関連記事)と、イタリアのカヴァッロ(Cavallo)洞窟で発見された45000〜43000年前頃のものです(関連記事)。しかし、両者ともに直接的な年代測定ではなく、現生人類化石の正確な層序については議論されています(関連記事)。そのため、ヨーロッパへの現生人類の拡散年代は、上部旧石器時代の到来における、さまざまな「(中部旧石器時代から上部旧石器時代への)移行期」遺物群の製作者に関する仮説に基づいています。

 バチョキロ洞窟はブルガリア中央部のドリャノヴォ(Dryanovo)の西方5km、バルカン山脈の北斜面に位置し、ドナウ川からは南へ約70kmとなります。バチョキロ洞窟では、中部旧石器時代後期〜上部旧石器時代早期にかけての堆積物が確認されています。バチョキロ洞窟での発掘はまず1938年に行なわれ、その後1970年代に再発掘され、2015年には、年代解明を目的として、以前に発掘された主区域とまだ発掘されていなかった壁龕1区域が調査されました。

 底部のK層では中部旧石器時代の遺物が発見されていますが、その密度は低く、その上層のJも人工物の密度は低いままですが、J層の上部には、その上のI層と同じ人工物が含まれています。J層は3000年以上に及ぶと推定されています。I層は45820〜43650年前頃で、当初はバチョキリアン(Bachokirian)と報告された石器群が含まれます。バチョキリアンは現在では、初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)インダストリーの一部とみなされています。I層は考古学的遺物がほとんどない流水堆積物のGおよびH層で覆われています。主区域では、G層の上に低密度の上部旧石器時代人工物を含む1.7mの堆積物が重なっています。

 J層の上部で人類の下顎第二大臼歯(F6-620)が見つかりました。その歯冠寸法はネアンデルタール人と上部旧石器時代現生人類の上限に位置し、形態からはネアンデルタール人ではなく現生人類に分類されます。質量分析法による動物考古学(ZooMS)により、識別不可能な骨と歯1271個で6個の人類の断片的な骨が確認されました。そのうち4個は壁龕1区域I層、1個は主区域B層、1個はB層とC層の境界で発見されました。F6-620を含めて、IUP層から合計5個の人類遺骸が確認されたことになります。ZooMSで確認された4個のIUP層の人類遺骸の年代は46790〜42810年前です。これは、45820〜43650年前というI層の年代とおおむね一致します。これらは、ヨーロッパでは最古級となる上部旧石器時代の人類遺骸となります。

 F6-620とZooMSで識別された6個の人類遺骸からmtDNAが抽出されました。これら7個の人類遺骸のうち、6個でミトコンドリアゲノムを復元できました。F6-620と別の1標本(AA7-738)は同一なので、同じ個体か、同じ母系に属することになります。これらバチョキロ洞窟のIUPの7人のミトコンドリアゲノムは、現代人54人、12人の古代の現生人類、22人のネアンデルタール人、4人の種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)、スペイン北部の「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡(以下、SHと省略)で発見された1個体と比較されました。

 I層(とJ層上部)の標本群は非アフリカ系現代人のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)MとNおよびNから派生したRに分類され、それぞれ基底部近くに位置します。mtDNAでは、これらの標本群は(出アフリカ系)現生人類に分類されるわけです。ただ、これらの標本は、mtHgでは大きく3系統に区分されますが、mtDNAの配列の違いは最大でも15ヶ所で、相互に近親関係にない現代ヨーロッパ人97.5%で観察されるよりも少なくなっています。この中には、現代ヨーロッパでは基本的に見られないmtHg-Mが存在し、現代人よりも置換が少なくなっています。ベルギーでも、35000年前頃の現生人類個体はmtHg-Mで(関連記事)、上部旧石器時代でも前半にはヨーロッパでもまだmtHg-Mが存在した、と改めて確認されました。これらの遺伝的情報から、I層の標本群の年代は44830〜42616年前と推定され、これは放射性炭素年代測定法による較正年代とよく一致します。以下、ミトコンドリアゲノムに基づく本論文の図2です。

画像
https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-020-2259-z/MediaObjects/41586_2020_2259_Fig2_HTML.png

 I層とJ層の現生人類標本群と関連する動物遺骸では23種が確認されており、おもにウマ・ウシ・シカ・ヤギです。これらは、バルカン半島の海洋酸素同位体ステージ(MIS)3に特徴的な、寒冷期と温暖期の両方に適応した分類群から構成されます。また、ホラアナグマ(Ursus spelaeus)を主としてさまざまな肉食動物も存在します。動物考古学的分析では、これらの動物遺骸の蓄積はおもに人為的と強く示唆されます。これら動物遺骸の中には、人為的に加工されたものも多数存在し、その中には、オーカーの使用と一致する赤い染色があります。1個の穿孔された象牙のビーズと、12の穿孔もしくは溝の掘られたペンダントが特定され、そのうち11個はホラアナグマの歯で、1個は有蹄類の歯で作られました。

 I層の現生人類と関連する石器群は当初、中部旧石器もしくはオーリナシアン(Aurignacian)様の上部旧石器技術複合のどれとも適合しなかったので、バチョキリアン技術複合に分類されました。上述のように、現在これらの石器群はIUPに分類されています。IUPの特徴は、石刃と上部旧石器に特徴的な道具ですが、先行する中部旧石器時代やアフリカの中期石器時代を想起させるルヴァロワ(Levallois)要素もいくぶんあります。ヨーロッパ中央部からモンゴルまでユーラシアに広範に存在するIUP石器群は、小型石刃(bladelet)生産を特徴とする上部旧石器時代石器群に先行し、おそらくアジア南西部に起源があります。バチョキロ洞窟のIUPの石器技術や装飾品と類似したものは、たとえばトルコのユチャユズル洞窟(Üçağızlı Cave)で発見されており、年代も近接しています。IUPに関しては、以前当ブログで概説的な論文を取り上げました(関連記事)。

 バチョキロ洞窟遺跡は、この地域のIUPが現生人類の所産であることを示し、現生人類によるユーラシアの大半の拡散はIUPの拡大に伴っていた、というモデルと一致します。IUP石器群の存在は、レヴァントの前期アハマリアン(Early Ahmarian)やバルカン東部の前期コザーニカン(Early Kozarnikan)やヨーロッパ西部および中央部のプロトオーリナシアン(Proto-Aurignacian)のような最初の上部旧石器時代小型石刃技術複合の拡大に数千年先行する、現生人類の移住の波を示します。バチョキロ洞窟では、J層上部の石器群がその上層のI層と同一なので、IUPは45000年前以前に始まり、47000年前に始まった可能性もあります。シベリア西部のウスチイシム(Ust'-Ishim)遺跡からヨーロッパ東部のバチョキロ洞窟遺跡まで、45000年前頃には現生人類がユーラシアに広範に存在したことになります。IUP集団はアジア南西部から急速にユーラシア中緯度地帯に拡散し、オーリナシアン(Aurignacian)集団とは対照的に、現代ヨーロッパ人集団とは遺伝的関係はないようです(関連記事)。

 現生人類とネアンデルタール人との直接的接触は、ヨーロッパでは西部よりも東部で早く起きたに違いなく、ヨーロッパ西部ではネアンデルタール人はおおむね4万年前頃までに絶滅した、と考えられています(関連記事)。ルーマニア南西部の「骨の洞窟(Peştera cu Oase)」で発見された初期現生人類の人骨「Oase 1」のDNA解析では、その4代〜6代前の祖先にネアンデルタール人がいた、と推測されています(関連記事)。本論文はバチョキロ洞窟の結果から、「骨の洞窟」の年代を42000〜37000年前頃と推定しています。これは、ヨーロッパ東部におけるネアンデルタール人と現生人類の接触期間が以前の推定よりも長かったことを示唆します。ただ、「骨の洞窟」の直接的な年代測定結果は最近の技術改善よりも前なので、その年代は過小評価されているかもしれません。その場合、ヨーロッパ東部でのネアンデルタール人と現生人類の共存期間はより短かったかもしれません。

 バチョキロ洞窟のIUPペンダントは、フランスのトナカイ洞窟(Grotte du Renne)遺跡のシャテルペロニアン(Châtelperronian)層で発見された後期ネアンデルタール人の所産と思われる人工物と類似しています。なお、シャテルペロニアンがネアンデルタール人の所産なのか、議論はありますが、少なくともその一部はネアンデルタール人の所産である可能性が高いと思います(関連記事)。最後のネアンデルタール人の認知的複雑さがどうであろうと、バチョキロ洞窟のペンダントの方がトナカイ洞窟のシャテルペロニアン層の人工物より古いことから、衰退期のネアンデルタール人集団で見られる装飾品の製作のような行動学的新規性は、ヨーロッパに移住してきた現生人類との接触の結果だった、との見解を本論文は支持します。ただ、シャテルペロニアンにおける動物遺骸を用いたペンダントが、現生人類から入手したか、ネアンデルタール人が現生人類を模倣したのだとしても、それはあくまでもシャテルペロニアンの動物遺骸を用いたペンダントに限ることで、ネアンデルタール人所産の装飾品と思われる遺物は、10万年以上前のものがクロアチア(関連記事)やスペイン(関連記事)で発見されているので、ネアンデルタール人が独自に装飾品を製作していた可能性は低くないと思います。


 もう一方の研究(Fewlass et al., 2020)は、バチョキロ洞窟における人類の痕跡の年代を報告しています。バチョキロ洞窟では中部旧石器時代から上部旧石器時代までの考古学的堆積が確認されています。上述のように、I層とJ層上部の人工物は当初バチョキリアンと分類されましたが、今ではIUPの一部と認識されています。本論文は、主区域をA〜J、壁龕区域をN1-3a・3b・3e-c層からN1-G・H・I・J・K層に区分しています。N1-G/H・I・J層は、主区域のG・I・J層に明確に対応しています。

 全体的な特徴は、I層およびN1-I層では人工物密度がひじょうに高く、他の層では低いことです。石器と動物の骨の70%以上はI層およびN1-I層で発見されています。N1-J層とN1-K層の境界には曖昧なところもあり、N1-J層底部の石器群は、その下のN1-K層の中部旧石器時代石器群と一致します。D〜G層とN1-3a〜N1-G層には石器が含まれず、動物の骨も低密度です。主区域で上層となるA1・A2・B・C層には再加工石刃や小型石刃や掻器や彫器や骨器など上部旧石器時代人工物が含まれていますが、上部旧石器でもどのインダストリーなのか、分類は曖昧です。以前の放射性炭素年代測定結果では、年代と層序の不一致も見られました。本論文は、これが不十分な汚染除去などに起因すると推測し、改善された新たな放射性炭素年代測定法を適用しました。本論文は、現生人類と分類された骨の直接的な年代測定を含む、高精度な放射性炭素年代測定結果を提示します。

 6個の現生人類の骨を含む95個の骨で年代値が得られました。動物の骨のうち63%には人為的痕跡が見られます。全体的な年代は、49430〜27250年前です。骨のうち9個は放射性炭素年代測定法の範囲を超えており(51000年以上前)、すべてN1-K層、N1-J層とN1-K層の境界、N1-J層下部で発見されました。放射性炭素年代測定法結果からは、N1-J層下部が中部旧石器時代とIUPのどちらに関連しているのか、決定できませんが、中部旧石器時代から上部旧石器時代への移行期ではなさそうだ、と本論文は指摘します。N1-J層の上部は46940〜45130年前で、N1-I層と技術類型学的特徴の共通するIUP石器群が低密度で発見されています。主区域のJ層はN1-J層の新しい(上部の)層と年代が重なり、45690〜44390年前です。N1-J層におけるIUPの出現は、北半球のさまざまな古気候記録で示唆されている温暖期と一致します。

 N1-I層とI層の年代範囲はひじょうに堅牢です。人類遺骸と人為的痕跡のある動物の骨25個のデータから、年代は45820〜43650年と推定されます。N1-J層上部からN1-I層までの人工物密度が高いことから、現生人類はこの期間に洞窟を比較的継続的に利用していた、と示唆されます。I層より上層の人工物が少ないため、バチョキロ洞窟でいつIUPが終了した年代の判断は困難です。N1-H・N1-G・G層は厚い流水堆積物で、底部における人工物密度は低くなっています。E層とF層は厚く、骨の密度が低く、石器は見つかりません。これらの層の年代範囲はI層の最新の年代と重なり、G層からE層にかけて堆積が速かったことを示唆します。1970年代の発掘で発見された低密度の人工物からは、IUP的特徴がJ層上部からD4層まで続いたことを示唆します。その後、C層(42110〜36340年前)とB層(39000〜34970年前)とA2層(35440〜34350年前)になると、人工物密度は増加します。これらの層の人工物はIUPではなく後続の上部旧石器時代人工物と類似しています。主区域では、上部旧石器時代はA2層にまで及びます。A1層の解体痕の見られるウシの骨の年代が27610〜27250年前で、グラヴェティアン(Gravettian)の小型石刃によるものと類似しており、バチョキロ洞窟の人為的痕跡では最新のものとなります。バチョキロ洞窟における文化の変遷は、気候変動と対応しているかもしれません。

 本論文は、バチョキロ洞窟における高精度な放射性炭素年代測定結果を提示しました。バチョキロ洞窟におけるIUPの始まりはN1-J層の堆積中で、46940年前頃になりそうです。上述のもう一方の論文では、ブルガリアのバチョキロ洞窟のIUPが現生人類の所産と確認されましたから、ヨーロッパにおける現生人類の拡散は47000年前頃まではさかのぼりそうです。これは現時点では、ヨーロッパにおける最古の確実な現生人類の痕跡となります。そうすると、4万年前頃まではヨーロッパにネアンデルタール人が存在していましたから、ネアンデルタール人が現生人類から何らかの文化的影響を受けても不思議ではなく、上述のルーマニアの早期現生人類の事例からは、交雑も起きたと考えられます。ただ、本論文が指摘するように、IUPの現生人類は現代ヨーロッパ人にほとんど遺伝的影響を与えていないようです。そうすると、IUP現生人類集団は、気候変動やオーリナシアンなど典型的な上部旧石器を有する後続の現生人類集団により、ネアンデルタール人と同様に絶滅に追い込まれたのかもしれません。ただ、この問題の判断は、やはり核ゲノムデータの蓄積を俟つ必要があるとは思います。IUP現生人類集団も、シベリアとヨーロッパでは遺伝的にかなり異なっていた可能性もあるでしょう。また、ヨーロッパにおけるネアンデルタール人と現生人類の接触に伴う文化伝播は、現生人類からネアンデルタール人への一方向だったのではなく、双方向だった可能性も低くないと思います(関連記事)。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。

進化:ヨーロッパ最古の現生人類の証拠

 ヨーロッパ南東部の洞窟から初期の現生人類の骨および関連の人工遺物を発見し、その年代測定を行ったことを報告する2編の論文が、今週、NatureとNature Ecology & Evolution に掲載される。今回発見された化石のヒト族は、後期旧石器時代のホモ・サピエンス(Homo sapiens)の既知最古の例となる。

 ホモ・サピエンスは約4万5000年前までにヨーロッパに入り、間もなくネアンデルタール人と入れ替わった。この集団の入れ替わりの時代は、中期〜後期旧石器時代の移行期として知られている。この移行期の事象の正確な時期に関しては、直接的な年代測定が行われた化石遺物がないために、激しい議論が行われている。

 今回、Jean-Jacques HublinたちはNatureに掲載される論文で、ブルガリアのバチョキロ洞窟で発掘されたヒト族の骨と人工遺物について記述している。Hublinたちが発見したのは、ホモ・サピエンスのものと推定される歯1点と、古代のタンパク質およびDNAの内容からヒトのものと特定した骨遺物4点である。また、Helen FewlassたちはNature Ecology & Evolutionに掲載される論文で、放射性炭素年代測定によって、この場所の遺跡の年代範囲が4万6940〜4万3650年前であると報告している。これらの骨から抽出したDNAの解析から、4万4830〜4万2616年前という年代が推定され、放射性炭素年代の測定結果が支持された。

 今回の発掘では、クマの歯製のペンダントなど、ネアンデルタール人の活動と関連付けられている後代の遺跡で発見されたものと類似した、数多くの装飾品も発見された。こうした知見を総合すると、現生人類は4万5000年前以前に中緯度ユーラシアへ進出してネアンデルタール人と同じ時代を過ごし、その行動に影響を与えた末に、ネアンデルタール人に取って代わったことが示された。


参考文献:
Fewlass H. et al.(2020): A 14C chronology for the Middle to Upper Palaeolithic transition at Bacho Kiro Cave, Bulgaria. Nature Ecology & Evolution.
https://doi.org/10.1038/s41559-020-1136-3

Hublin JJ. et al.(2020): Initial Upper Palaeolithic Homo sapiens from Bacho Kiro Cave, Bulgaria. Nature.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2259-z


https://sicambre.at.webry.info/202005/article_20.html

51. 中川隆[-12607] koaQ7Jey 2020年5月24日 13:20:53 : 80jXb8GqTo : bllTUC9HYS8xdms=[4] 報告
2020年05月24日
ヨーロッパ中央部新石器時代最初期における農耕民と狩猟採集民との関係
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_35.html


 取り上げるのが遅れてしまいましたが、ヨーロッパ中央部新石器時代最初期における農耕民と狩猟採集民との関係に関する研究(Nikitin et al., 2019)が公表されました。線形陶器文化(Linear Pottery、Linearbandkeramik、略してLBK)は、ヨーロッパ中央部の新石器時代の始まりにおいて重要な役割を果たしました。文化的・経済的・遺伝的に、LBKは究極的にはアナトリア半島西部に起源がありますが、在来のヨーロッパ中石器時代狩猟採集民社会の明確な特徴も示します。LBKの起源に関しては、いくつかのモデルが長年にわたって提案されてきました。在来モデルでは、LBKはアジア西部の新石器時代一括要素への適応を通じて、在来の中石器時代狩猟採集民集団により、境界での接触および文化的拡散を通じて確立された、と示唆されます。

 統合モデルでは、LBKの形成は植民化・境界移動および接触のようなメカニズムを通じての、中石器時代狩猟採集民の農耕牧畜生活様式への統合として説明されます。このモデルでは、スタルチェヴォ・ケレス・クリシュ(Starčevo-Körös-Criş)文化(SKC)と関連する小集団、おそらくはヨーロッパにおけるLBKの先行者が、祖先の大半がアナトリア半島から早期に到来したバルカンの故地を離れ、北西部へと新たな領域に定着した、と想定されます。在来の中石器時代集団との接触および生産物の交換は、狩猟採集民の農耕民共同体への同化をもたらし、そこでは農耕慣行が採用されました。そうした相互作用の証拠は、明確なSKC関連墓地のあるハンガリー北東部のティスザスゼレス・ドマハザ(Tiszaszőlős-Domaháza)遺跡に存在し、ほぼ狩猟採集民の遺伝的系統の個体群の埋葬を含みます。

 移民モデルでは、中石器時代ヨーロッパ中央部の低人口密度地域が、SKC文化と関連する開拓者の農耕牧畜集団に取って代わられ、しだいに在来の狩猟採集民集団は撤退させられていき、その狩猟採集民は到来してきたスタルチェヴォ移住民に顕著な影響を与えなかった、と想定されます。このモデルでは、在来集団の物質文化特徴の組み込みなしに、新たな到来者たちはその祖先的物質文化を新たに定着した領域で複製した、と想定されます。新たな環境と資源への技術革新と適応に起因して、いくつかの変異的文化が生まれ、石器や土器や建築物質技術において変化が見られます。同時に、装飾的デザインのような象徴的な体系は変化ないままでした。このモデルは1950年代末に出現し、20世紀後半に広く支持されました。

 現在まで、古代DNA研究により、新石器時代ヨーロッパ農耕民集団は、おもにアナトリア半島中央部および西部の新石器時代農耕民(ANF)の遺伝的子孫と示されてきました。それらの遺伝的痕跡は、在来のヨーロッパ中央部の中石器時代狩猟採集民(WHG)とは、ミトコンドリアDNA(mtDNA)やY染色体のような単系統でもゲノム規模でも異なります。それにも関わらず、新たな到来者たちが文化的および遺伝的に在来の狩猟採集民とどの程度相互作用したのか、不明確なままです。つまり、統合主義もしくは移行主義のモデルがどの程度正確なのか、不明です。

 遺伝的に、新石器時代ヨーロッパ中央部農耕民はWHG集団の遺伝的祖先特徴をわずかしか有していませんが、アナトリア半島農耕民のヨーロッパ新石器時代の子孫の遺伝子プールにおけるWHG混合の程度と時期は、ヨーロッパ中央部全域で様々です。ヨーロッパ新石器時代農耕民におけるWHG系統の量は、現在のハンガリーとドイツと他のヨーロッパ地域において、新石器時代を通じて増加する傾向にありますが(関連記事)、その混合の最初の程度は未解決のままです。それは部分的には、新石器時代農耕民移住民の最初の段階と同時代の人類遺骸が少ないためです。

 オーストリアのウィーン南方に位置する、ブルン複合遺跡(the Brunn am Gebirge, Wolfholz archaeological complex)の一部であるブルン2(Brunn 2)遺跡は、オーストリアで最古の新石器時代遺跡で、ヨーロッパ中央部でも最古級となります。ブルン2遺跡はLBKの最初の段階に区分され、形成期と呼ばれています。放射性炭素年代測定法では、ブルン2遺跡の較正年代は紀元前5670〜紀元前5350年前です。ブルン2遺跡形成期のおもな特徴は、洗練された土器の欠如と明確なスタルチェヴォ文化の特徴を有する粗放な土器の使用です。ヨーロッパ最初の農耕民の文化的属性の形成におけるアナトリア半島からの移民の主導的役割は、ブルン2遺跡の人工物の比較類型学的分析で明らかです。

 ブルン2遺跡では、土器や石器といった豊富な人工物とともに人形や笛などいくつかの象徴的遺物が発見されており、儀式活動が行なわれた大規模なLBK共同体の「中央集落」の一部だった、と示唆されています。ブルン2遺跡では4人の埋葬が確認されています。この4人の被葬者は、個体1(I6912)・2(I6913)・3(I6914)・4(I6915)です。4人全員の歯はひじょうに摩耗しており、おもに植物性食料を摂取していた、と示唆されます。放射性炭素年代測定法により、この4人の年代はブルン複合遺跡の最初の段階と確認され、最初のヨーロッパ中央部新石器時代農耕民となります。本論文は、これら4人の遺伝子と同位体を分析し、その起源と食性と移動を調査します。

 ブルン2遺跡の4人のうち、3人(I6912・I6913・I6914)で有用な遺伝的データが得られました。この3人は男性で、mtDNAハプログループ(mtHg)は、I6912がJ1、I6913がU5a1、I6914がK1b1aです。Y染色体ハプログループ(YHg)は、I6912がBT、I6913がCT、I6914がG2a2a1aです。I6912とI6913は、網羅率が低いため、さらに詳細に区分できませんでした。全ゲノム配列からは一塩基多型データが得られました。核DNAの網羅率は、I6912が0.035倍、I6913が0.006倍、I6914が0.497倍です。

 主成分分析では、I6912とI6914がANFおよびそれと密接に関連するヨーロッパ新石器時代農耕民(ENF)と集団化する一方で、I6913はWHGに最も近いものの、ENFとANFにより近づいています。ただ、I6912とI6913、とくに後者の網羅率は低いので、主成分分析における位置づけには注意する必要がある、と本論文は指摘します。また本論文はf統計を使用し、WHG関連系統の割合を、I6912は12±3%、I6913は57±8%、I6914は1%未満と推定しています。さらに、I6912のWHG系統は、ヨーロッパ南東部の狩猟採集民よりもヨーロッパ西部および中央部の狩猟採集民の方に近い、と推定されました。I6913では、この区別が正確にはできませんでした。I6914はANFおよびヨーロッパ南東部のスタルチェヴォ関連個体群とほぼ対称的に関連している一方で、ヨーロッパ中央部の他のLBK集団と過剰にアレル(対立遺伝子)を共有しています。I6914と他のLBK個体群とのI6912およびI6913と比較しての高い遺伝的類似性は、これまでに研究されているアナトリア半島およびヨーロッパ南東部の農耕民とは共有されないわずかな遺伝的浮動を経験した集団出身である、と示唆します。

 安定同位体(炭素13および窒素15)の有用なデータが得られたのはI6914と I6915です。安定同位体分析では、ブルン2遺跡個体群はアナトリア半島およびヨーロッパの新石器時代農耕民の範囲内に収まり、C3植物もしくはそれを食べた草食動物におもに食資源を依存していた、と推定されます。歯のエナメル質のストロンチウム同位体分析では、幼児期の場所が推定されます。ブルン2遺跡個体群では、I6912はブルン2遺跡一帯の出身で、I6913は外部出身と推定されます。同位体分析では、窒素15の値から、より新しい個体で高くなっている、と示されます。これは、ヨーロッパ中央部の初期農耕民ではアナトリア半島の栽培植物が気候の違いから不作となり、農作物よりも動物性タンパク質に依存するようになったことを示しているかもしれません。あるいは、家畜の増加によるものである可能性もあります。

 ヨーロッパ中央部の早期新石器時代の遺骸は比較的豊富ですが、同時期の狩猟採集民の遺骸はほとんど知られていないので、とくにヨーロッパ新石器化の最初期段階における、狩猟採集民の生活様式や拡散してきたアナトリア半島起源の農耕民との統合に関する理解は難しくなっています。上述のように、この時期のヨーロッパにおける拡散してきた農耕民と在来の狩猟採集民との混合は限定的と推測されていますが、農耕民から狩猟採集民への生産物の流通が報告されてきており、両者の交流は少なくとも一定以上存在した、と考えられます。

 ブルン2遺跡個体群の生物考古学的分析は、ヨーロッパ中央部における早期ENFの生活史の推測を可能とし、アナトリア半島起源の移住してきた農耕民と在来の狩猟採集民との間の最初期の相互作用の証拠を提示します。ブルン2遺跡の3人のmtHgのうち2系統(J1とK1b1a)は、近東の新石器時代個体群とヨーロッパにおけるその子孫たちで一般的に見られるものです。一方、I6913のmtHg-U5a1などU5は、ヨーロッパの狩猟採集民に特徴的と考えられてきましたが、最近、アナトリア半島中央部のチャタルヒュユク(Çatalhöyük)遺跡の個体でU5b2の個体が確認されています(関連記事)。I6914はYHg-G2a2a1aで、ANFおよびENF集団に特徴的なG2a系統です。カルパチア盆地とヨーロッパ南東部の早期新石器時代遺跡のLBK関連遺骸の以前の研究では、YHg-G2aは早期ENFで優勢とされています。同時期のmtHgの高い多様性は、早期LBK共同体におけるYHgの減少を示唆します。しかし、LBK集団における性比偏りの証拠は見つかっていません(関連記事)。

 I6914は遺伝的にはほぼANF関連系統となり、LBKやSKCを含むENF関連個体のほぼ全員と一致します。WHG関連系統は、I6914にはほとんど見られませんが、I6912とI6913では確認されます。アナトリア半島起源のANF関連系統の個体群がヨーロッパ南東部を経てヨーロッパ中央部に拡散する過程で、ヨーロッパ在来のWHG関連系統個体群と混合したと考えられますが、その年代は特定できなかったので、それがブルン2遺跡一帯とヨーロッパ中央部到来前のどちらで起きたのか、不明です。あるいは、ブルン2遺跡の移民が、ブルン2遺跡よりも600年ほど早くアナトリア半島からバルカン半島に移住し、WHG関連系統個体群を取り込んだ集団と交流したか、その子孫だった可能性も考えられます。しかし、I6913ではWHG関連系統の割合が高く、それよりは低いものの有意にWHG関連系統を有するI6912では、ヨーロッパ南東部よりもヨーロッパ西部および中央部の狩猟採集民の方に近いWHG関連系統と推定されているので、ヨーロッパ中央部に到達してからの最近の混合である可能性が高そうです。

 ブルン2遺跡の石器群からは、早期ENFと在来の狩猟採集民との間の活発な相互作用が示唆されます。ブルン複合遺跡の15000個におよぶ石器群は、新石器時代農耕民が在来の狩猟採集民との交易のために狩猟用として製作した、と本論文は推測しています。早期LBK地域では暴力の証拠が欠如しており、LBK農耕民と在来の狩猟採集民との間の関係が悪くなかったことを示唆します。上述のようにI6913は外部出身と考えられますが、I6913の墓の石器は形成期LBKの集落が発見されたハンガリーのバラトン湖(Lake Balaton)の石で製作されたので、I6913はバラトン湖周辺地域の出身かもしれません。また本論文は、ブルン2遺跡の石器の製作には狩猟採集民社会出身者が関わっている可能性を指摘しており、そうだとすると、I6913における高い割合のWHG関連系統を説明できるかもしれません。

 ブルン2遺跡は、ヨーロッパ中央部における最初期新石器時代農耕民が、在来の狩猟採集民と文化的・遺伝的にどのような関係を築いたのか、検証するための格好の事例を提供します。ブルン2遺跡の個体群は、ANFとWHGの混合の第一世代だった可能性もあり、ヨーロッパ中央部の最初期新石器時代において、外来の農耕民集団と在来の狩猟採集民との間で、後期新石器時代程ではないとしても、一定以上混合が進んでいたことを示唆します。本論文は、ヨーロッパにおける新石器化に関して、アナトリア半島からの農耕民の移住が関わっており、さまざまな程度で在来集団と混合していった、と指摘します。この在来集団には、狩猟採集民だけではなく、より早期にバルカン半島に進出していた農耕民も含まれるかもしれません。今後の課題は、ヨーロッパにおけるANFと在来の狩猟採集民との関係をより広範に調査することです。


参考文献:
Nikitin AG. et al.(2019): Interactions between earliest Linearbandkeramik farmers and central European hunter gatherers at the dawn of European Neolithization. Scientific Reports, 9, 19544.
https://doi.org/10.1038/s41598-019-56029-2

https://sicambre.at.webry.info/202005/article_35.html

52. 中川隆[-11800] koaQ7Jey 2020年8月17日 10:44:44 : UukSvsLRRY : UC9xWVR5VDVyMkU=[21] 報告
雑記帳 2020年08月17日
分断・孤立と交雑・融合の人類史
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_23.html

 人類史に限らず広く生物史において、地理的障壁の形成などにより分類群が分断され、生殖隔離が生じた後に地理的障壁が消滅もしくは緩和し、比較的近い世代で祖先を同じくする異なる分類群同士が交雑する、ということは一般的であるように思います。2007年の時点で現生人類(Homo sapiens)と非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)との交雑を指摘した研究は、これを「孤立・交雑モデル」と把握しています(関連記事)。人類以外の具体例としてはヒヒ属があり、分岐と交雑と融合を含むその複雑な進化史が推測されており、その中には分岐した2系統が遺伝的にほぼ同じ影響を残して形成された新たな系統も含まれます(関連記事)。

 こうした分断・孤立による生殖隔離は、もちろん地理的障壁のみが原因で生じるわけではないものの、地理的障壁が大きな要因になっていることも間違いないでしょう。人類史に即して言えば、概して穏やかな間氷期には人類の居住範囲は拡大したようで、サハラ砂漠やアラビア砂漠のような居住に適さない地域も、海洋酸素同位体ステージ(MIS)5・3の頃には、モンスーン活動の増加により植物が繁茂したこともありました(関連記事)。このような場合、他地域との「回廊」が開き、分断・孤立した分類群同士の再会の機会が訪れます。

 詳しくデータを提示できるほど勉強は進んでいませんが、人類史においては、孤立・分断による分岐を促進する時代と、交雑・融合を促進する時代とが交互に訪れたのではないか、と思います。これは他の生物も同様ですが、生物としては生息域がかなり広範な部類に入るだろう人類にとっては、重要な意味を有する、と私は考えています。すでにホモ属出現前に人類はアフリカ東部と南部に拡散しており、古代型ホモ属はアフリカからユーラシアへと拡散し、西はイベリア半島、東はアジア東部および南東部にまで分布していました。それだけに、気候変動による環境変化に伴う地理的障壁の形成の結果として、分断されて孤立していき生殖隔離が生じるとともに、その後の気候変動による地理的障壁の消滅・緩和により、再会して交雑・融合することも起きやすかったというか、その影響を受けやすかったように思います。もちろん、各地域が一様に変化していくわけではなく、分断・孤立が大勢の時代にも交雑・融合が進んだ地域はあったでしょうし、逆に交雑・融合が大勢の時代にも孤立した集団が存在したことはあったでしょうが、大きな傾向として、孤立・分断による分岐を促進する時代と、交雑・融合を促進する時代とに区分できるでしょう。


●人類進化のモデル

 こうした孤立・分断と交雑・融合の時代が相互に訪れていたことを前提とすると、人類進化のモデルとして注目されるのは、現生人類の起源に関する複雑な仮説です(関連記事)。この仮説では、メタ個体群(対立遺伝子の交換といった、あるレベルで相互作用をしている、空間的に分離している同種の個体群のグループ)モデルにおける、分裂・融合・遺伝子流動・地域的絶滅の継続的過程としての、進化的系統内の構造と接続性の重要性が強調されます。これは構造化メタ個体群モデルと呼ばれます。気候変動による地理的障壁の形成・強化などに伴う分裂・分断と、地理的障壁の消滅・緩和によるメタ個体群間の融合により、現生人類は形成されていった、というわけです。また、メタ個体群はある地域にずっと存続し続けるのではなく、環境変化を招来する気候変動や他のメタ個体群からの圧力などにより、移動することも珍しくない、という視点も重要になるでしょう。

 構造化メタ個体群モデルは、現生人類を特徴づける派生的な身体的形質が1地域で漸進的に現れたわけではない、という化石記録と整合的です。もちろん、メタ個体群の中には、現代人に大きな影響を残しているものも、ほぼ絶滅と言ってよいくらい現代に遺伝的影響が残っていないものもあるでしょう。その意味で、ひじょうに複雑な仮説であり、その確証は容易ではないでしょうが、今後の人類進化研究において重視されるべきモデルである、と私は考えています。

 分断・孤立と交雑・融合の複雑な繰り返しとは、異質化と均質化の繰り返しとも言えます。異質化とは、多様性の増加でもあります。ここで重要なのは、川端裕人『我々はなぜ我々だけなのか アジアから消えた多様な「人類」たち』が指摘するように、多様性は分断・孤立に起因するところが多分にある、ということです(関連記事)。同書はアジア南東部を対象としており、中期〜後期更新世における人類の多様化を指摘しますが、アフリカでも、中期更新世後期でもなお、現生人類とは大きく異なる系統だろうホモ・ナレディ(Homo naledi)が存在していました(関連記事)。

 また同書が指摘するように、現在では多様性が善と考えられています。しかし、それが多分に分断や孤立に起因するとなると、手放しで賞賛することはできません。一方で、現在では交流もまた善と考えられていますが、これが均質化・多様性の喪失を招来している側面も否定できません。現生人類のこれまでの行動から、もはや均質化の流れは止められないだろう、と同書は予測しています。深刻な矛盾をもたらしかねない「崇高な」諸々の価値観をどう共存させていくのか、現代社会の重要な問題になると思います。


●初期ホモ属の進化

 上記の構造化メタ個体群モデルは現生人類の起源を対象としていますが、ホモ属の起源にも当てはまるかもしれません。首から下がほとんど現代人と変わらないような「真の」ホモ属が出現したのは200万〜180万年前頃のアフリカだと思われますが、それ以前、さらにはそれ以降も、ホモ属的な特徴とアウストラロピテクス属的な特徴の混在する人類遺骸が発見されています。これらの人類遺骸は、アウストラロピテクス属ともホモ属とも分類されています。

 これらの人類遺骸は、アウストラロピテクス属ともホモ属とも分類されています。南アフリカ共和国では、ホモ属的な特徴を有する200万年前頃の人類遺骸群が発見されていますが、これはアウストラロピテクス・セディバ(Australopithecus sediba)に分類されています(関連記事)。一方、分類に関して議論が続いているものの(関連記事)、アウストラロピテクス属的特徴も有するホモ属として、ハビリス(Homo habilis)という種区分が設定されています。

 ホモ・ハビリスは240万年前頃から存在していたとされていますが、ホモ・エレクトス(Homo erectus)が出現してからずっと後の144万年前頃までケニアで存在していた可能性も指摘されています(関連記事)。233万年前頃のハビリスと分類されている人類遺骸からは、ホモ属が当初より多様化していった可能性も指摘されています(関連記事)。またエチオピアでは、ホモ属的特徴を有する280万〜275万年前頃の人類遺骸も発見されています(関連記事)。

 300万〜200万年前頃の人類遺骸は少ないので、ホモ属の初期の進化状況は判然としませんが、ホモ属的な派生的特徴が300万〜200万年前頃のアフリカ各地で異なる年代・場所・集団(メタ個体群)に出現し、比較的孤立していた複数集団間の交雑も含まれる複雑な移住・交流により「真の」ホモ属が形成されていった、との構造化メタ個体群モデルの想定には、少なくとも一定以上の説得力があるように思います。ホモ属の出現に関して、現時点ではアフリカ東部の化石記録が多いと言えるでしょうが、最古のホモ・エレクトスとも主張されている204万〜195万年前頃の化石が南アフリカ共和国で発見されており(関連記事)、アフリカ北部では240万年前頃(関連記事)、レヴァントでは248万年前頃(関連記事)の石器が発見されているので、あるいはアフリカ全域とレヴァントまで含めて、ホモ属の形成を検証する必要があるかもしれません。


●ネアンデルタール人の進化

 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の進化に関しても、当然現生人類とは異なる側面が多分にあるとしても、構造化メタ個体群モデルが一定以上有効かもしれません。中期更新世のヨーロッパには、異なる系統のホモ属が共存していた可能性が高そうです。ポルトガルの40万年前頃のホモ属遺骸にはネアンデルタール人的特徴が見られない一方で(関連記事)、43万年前頃のスペイン北部のホモ属遺骸には、頭蓋でも(関連記事)頭蓋以外でも(関連記事)ネアンデルタール人的な派生的特徴と祖先的特徴とが混在しており、フランスの24万〜19万年前頃のホモ属遺骸でもネアンデルタール人的な派生的特徴と祖先的特徴とが確認され(関連記事)、イタリアの45万年前頃のホモ属の歯にもネアンデルタール人的特徴が見られます(関連記事)。

 こうした形態学からの中期更新世のヨーロッパにおける異なる系統のホモ属の共存の可能性は、考古学的記録とも整合的と言えそうです(関連記事)。遺伝学でも、43万年前頃のスペイン北部のホモ属遺骸とネアンデルタール人との類似性が指摘されており、さらには、中期更新世にアフリカから新技術を有して新たに拡散してきた人類集団が、ネアンデルタール人の形成に影響を及ぼした可能性も指摘されています(関連記事)。形態学・考古学・遺伝学の観点からは、ネアンデルタール人的な派生的特徴が中期更新世のヨーロッパ各地で異なる年代・場所・集団(メタ個体群)に出現し、比較的孤立していた複数集団間の交雑も含まれる複雑な移住・交流によりネアンデルタール人が形成された、と考えるのが現時点では節約的なように思います。

 じっさい、ネアンデルタール人が気候変動などにより移動していた証拠も得られています。おそらく、ネアンデルタール人は移住・撤退・再移住といった過程を繰り返しており、寒冷期に人口が減少し、温暖期に人口が増加したのでしょう。ドイツの中部旧石器時代の遺跡の検証から、ネアンデルタール人は移住・撤退・再移住といった過程を繰り返していたのではないか、と推測されています(関連記事)。当然この過程で、時には集団(メタ個体群)が絶滅することもあったでしょう。じっさい、西方の後期ネアンデルタール人集団の間では、相互に移動・置換があったのではないか、と推測されています(関連記事)。


●ネアンデルタール人とデニソワ人の関係

 ネアンデルタール人とその近縁系統となる種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)との関係でも、孤立・分断と交雑・融合の繰り返しが示唆されます。ネアンデルタール人とデニソワ人の推定分岐年代には幅がありますが、現時点では70万〜50万年前頃の間と想定しておくのが無難でしょうか(関連記事)。この分岐は孤立・分断の結果なのでしょうが、ネアンデルタール人遺骸の主要な発見地がヨーロッパとアジア南西部および中央部で、デニソワ人遺骸の発見地が現時点では南シベリアのアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)遺跡とチベットに限定されていることから、両者の主要な生息域は一部重なりつつも大きく異なっていた可能性が高く、地理的障壁の結果と考えるのが妥当でしょう。

 デニソワ人の現代人への遺伝的影響はアジア東部でも見られますが、パプア人やオーストラリア先住民にはそれよりもずっと強い影響が残っており(関連記事)、アジア東部から南東部にかけて分布していた、と考えられます。デニソワ洞窟における人類の痕跡は断続的なので(関連記事)、デニソワ人の主要な生息域はアジア東部および南部で、シベリアには時に拡散して気候変動などにより絶滅・撤退していた、と推測されます。ネアンデルタール人はヨーロッパからユーラシア草原地帯を西進してアルタイ地域に到達し、異なる遺伝的系統のネアンデルタール人個体がアルタイ地域で確認されていることから(関連記事)、デニソワ人と同じく、シベリアには時に拡散して気候変動などにより絶滅・撤退していた、と推測されます。

 大まかには、ネアンデルタール人はユーラシア西部、デニソワ人はユーラシア東部を主要な生息域として、時に両者の生息域の端(辺境)である南シベリア(ネアンデルタール人にとっては東端、デニソワ人にとっては西端)で遭遇していた、と言えそうです。気候変動による環境変化により、両者が接触しなかった期間は短くなかったと考えられ、それ故に分岐していったのでしょうが、おそらく気候が温暖な時期には、ネアンデルタール人による(何世代を要したのか不明ですが)ユーラシア草原地帯の長距離移動もあったのでしょう。

 アルタイ地域では、ネアンデルタール人とデニソワ人との交雑は一般的と推測されており、交雑による遺伝的不適合の強い証拠が見られない、と指摘されています(関連記事)。ネアンデルタール人とデニソワ人の共通祖先系統が現生人類系統と分岐した後にネアンデルタール人系統とデニソワ人系統が分岐したため、ネアンデルタール人とデニソワ人との交雑では、現生人類との交雑の場合よりも遺伝的不適合が生じない可能性は高いだろう、と思います。

 上述のヒヒ属の事例からは、遺伝的不適合度の低そうなネアンデルタール人系統とデニソワ人系統が同じくらいの遺伝的影響を有する融合集団の存在も想定されます。じっさい、そうした融合系統(ネアンデルタール人よりもややデニソワ人の方の影響が大きい、と推定されます)が、アジア東部および南部・パプア・オーストラリア先住民の共通祖先集団と交雑した、との見解も提示されています(関連記事)。それでもネアンデルタール人とデニソワ人が完全に融合せず、別系統として存続し続けてきたのは、両者の遭遇自体が一般的ではなく(遭遇した場合の交雑は一般的ですが)、基本的には地理的障壁によりそれぞれ分断・孤立していたからなのでしょう。


●ユーラシアの現生人類における分断と融合

 出アフリカ後のユーラシアにおける現生人類の動向も、分断・孤立と交雑・融合の複雑な繰り返しにより解釈することが必要なように思います。最終氷期の終わりには、ユーラシア東西で複数のひじょうに分化した集団が存在しており、これらの集団は他集団を置換したのではなく、混合していった、と指摘されています(関連記事)。ユーラシア西部では、現代のヨーロッパ集団とアジア東部集団との遺伝的違い(平均FST=0.10)と同じくらいの、遺伝的に異なる少なくとも4集団が存在し、新石器時代に混合して異質性は低下していき(平均FST=0.03)、青銅器時代と鉄器時代には現代のような低水準の分化(平均FST=0.01)に至りました。ユーラシア東部では、アムール川流域集団と新石器時代黄河流域農耕民と台湾鉄器時代集団との間で、比較的高い遺伝的違い(平均FST=0.06)が存在したものの、現在では低くなっています(平均FST=0.01〜0.02)。こうした完新世における遺伝的均質化の動因としては、農耕の採用やウマの家畜化や車輪つき乗り物の開発などといった生業面での優位性が大きかったように思います、

 これらユーラシア現生人類集団は、元々単一の(7万〜5万年前頃の)出アフリカ集団に主要な遺伝的起源があると推測されますが(関連記事)、末期更新世には多様化していたのでしょう。しかし末期更新世と比較すると、現代ユーラシアでは東西ともに遺伝的には均質化が進んでおり、完新世を交雑・融合傾向の強い時代と把握できそうです。5万年前頃には比較的均質だった出アフリカ現生人類集団が、末期更新世の頃までには多様化していき、完新世において遺伝的均質化が進展した、という大まかな見通しを提示できるでしょう。ただ、完新世の人類集団は更新世と比較して一般的に大規模なので、これは均質化への抵抗要因として作用する、とも考えられます。

 こうしたユーラシア現生人類集団における末期更新世までの遺伝的多様化は、拡大により相互の接触が困難になった、という事情もあるものの、その後でユーラシア東西ともに遺伝的均質化が進展したことを考えると、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)によりユーラシア各地域の現生人類集団は分断・孤立していき、遺伝的違いが大きくなった、と考えられます。LGMをやや幅広く設定すると(関連記事)、33000〜15000年前頃です。これは、遺伝的にだけではなく、文化的にも違いをもたらすのに充分な時間です。語彙を基本に系統証明を試みる比較言語学的手法が有効なのは過去8000年、もしくはせいぜい1万年にすぎない、と指摘されています(関連記事)。

 LGMを含む前後の15000〜20000年間ほどが分断・孤立傾向の強い時代だとしたら、5万〜4万年前頃には類似した言語を有していた集団間で、異なる語族が形成されても不思議ではありません。おそらく、末期更新世にはユーラシアにおいて多様な言語が存在しており、それらが消滅・吸収されていった結果、現代ユーラシアのような言語状況が形成されたのでしょう。それでも、ヨーロッパのバスク語やアジア東部の日本語・アイヌ語・朝鮮語のように、孤立的な言語が今でも存続しています。この問題に関しては、アメリカ大陸の事例も考えねばならないのですが、私の知見があまりにも不足しているので、今回は取り上げません。


●日本人とチベット人の遺伝的構造の類似性と言語の違い

 集団の遺伝的構造と言語は相関していることも多いものの、違うこともあります。日本人とチベット人はその典型かもしれません。ここでは、「日本人」でもおもに本州・四国・九州を中心とする「本土」集団が対象です。上述のように、ユーラシア東部の人類集団は末期更新世には遺伝的に多様でしたが、完新世には均質化していき、アジア東部に限定しても同様です。アジア東部の広範な地域を対象とした古代DNA研究(関連記事)では、アジア東部現代人集団は複雑な分岐と融合を経て形成された、と示されます。まず、出アフリカ現生人類はユーラシア東西系統に分岐します。ユーラシア東部系統は南北に分岐し、ユーラシア東部北方系からアジア東部北方系とアジア東部南方系が分岐します。現時点のデータでは、ユーラシア東部南方系と、ユーラシア東部北方系に由来するアジア東部北方系およびアジア東部南方系の複雑な融合により、アジア東部現代人の各地域集団が形成された、とモデル化されます。アジア東部北方系とアジア東部南方系の分岐は、おそらくLGMによる分断・孤立を反映しているのでしょう。

 この見解を前提とすると、日本人とチベット人は、類似した遺伝的構造の形成過程を示します(関連記事)。それは、おもに狩猟採集に依拠していた古層としての在来集団と、後に到来したアジア東部北方新石器時代集団との混合により形成され、遺伝的には後者の影響の方がずっと高い、ということです。古層としての在来集団は、チベット人の場合はユーラシア東部南方系で、アンダマン諸島現代人集団や後期更新世〜完新世にかけてのアジア南東部狩猟採集民であるホアビン文化(Hòabìnhian)集団が含まれます。古層としての在来集団は、日本人の場合は「縄文人」で、ユーラシア東部南方系統とユーラシア東部北方系から派生したアジア東部南方系統との混合だった、と推測されます。現代日本人と現代チベット人において高頻度で見られる、現代世界では珍しいY染色体ハプログループ(YHg)Dは、おそらくユーラシア東部南方系に由来するのでしょう。

 アジア東部北方系は、仰韶(Yangshao)文化や龍山(Longshan)文化といった黄河中流および下流域農耕集団に代表されます。言語学では、チベット・ビルマ語族が含まれるシナ・チベット語族の起源は7200年前頃で(関連記事)、シナ・チベット語族の拡散・多様化は5900年前頃に始まった(関連記事)、との見解が提示されています。チベット人に関しては、集団の遺伝構造と言語との間に強い相関がある、と言えそうです。もちろん、新石器時代においてすでにアジア東部北方系とアジア東部南方系との混合が推測されているように(関連記事)、集団の遺伝的構造と言語とをあまりにも単純に相関させることは危険で、現代の中国語(漢語)にしても、アジア東部北方系のシナ・チベット語族と、おそらくはアジア東部南方系の先オーストロネシア語族などとの混合により形成されていったのでしょう。

 一方、日本人に関しては、アジア東部北方系の言語をシナ・チベット語族系統と想定すると、集団の遺伝的構造と言語とが相関しません。これは朝鮮人に関しても同様と言えるでしょう。日本語も朝鮮語も、おそらくはLGMによる分断・孤立でユーラシア東部において形成された多様な言語群の一つだったのでしょうが、完新世において同系統の言語群が消滅・吸収され、現在は孤立言語のようになったのでしょう。日本語の形成に関しては、アイヌ語との関係も含めて以前短くまとめましたが(関連記事)、その後も勉強が進んでおらず、確たることはとても言えません。

 単純化すると、集団の遺伝的構造と言語とは相関しないこともある、と言って終えられます。まあ、これでは何も言っていないのに等しいので、もう少し考えると、アジア東部北方系の言語が基本的にはシナ・チベット語族系統のみだったとすると、バヌアツの事例(関連記事)が参考になるかもしれません。これは以前に、日本語の形成過程で参考になるかもしれない事例として取り上げました(関連記事)。遺伝的には、バヌアツの最初期の住民はオーストロネシア系集団でしたが、現代バヌアツ人はパプア系集団の影響力がたいへん大きくなっています。しかし、現代バヌアツ人の言語は、パプア諸語ではなくオーストロネシア諸語のままです。

 日本語の形成過程にたとえると、オーストロネシア系集団が「縄文人」、パプア系集団がアジア東部北方系の影響のひじょうに強い、おそらくは弥生時代以降に日本列島に到来した集団に相当します。アジア東部北方系集団の日本列島への到来が短期間に多数の人々によりなされたのではなく、長期にわたる緩やかなもので、その後の人口増加率の違いにより現代日本人のような遺伝的構成が形成されたとすると、交易などの必要性から先住民集団である「縄文人」の言語が大きな影響力を維持した、とも考えられます。

 一方、アイヌ語と日本語とが大きく違うことを考えると、「縄文人」の言語は地域的な違いがあれども基本的にはアイヌ語系統で、上記のような日本語が選択された過程は日本列島ではなく遼河地域から朝鮮半島のどこかで起き、そこから日本列島にもたらされた、とも考えられます。しかし、現時点では東日本に限定されているものの、「縄文人」は時空間的にかなり異なる集団でも遺伝的に均質ですから(関連記事)、更新世に日本列島に到来した(4万年前頃以降)集団が、外部とはさほど遺伝的交流なしに進化した、とも考えられます。

 北海道「縄文人」の祖先集団と他地域の「縄文人」の祖先集団とが、LGMによる分断・孤立で分岐していったとすると、日本語とアイヌ語がとても同系統と確認できないくらいに分化していっても不思議ではありません。「縄文人」の言語は、北海道もしくは東北地方か関東か東日本までと、西日本とで大きく異なっており、日本語は西日本の「縄文人」の(一部集団の)言語に起源がある、というわけです。ただこの場合、「縄文人」の遺伝的多様性がもっと高くてもよさそうにも思いますが、あるいは、今後西日本の「縄文人」のゲノムが解析されれば、東日本「縄文人」との一定以上の違いが明らかになるのでしょうか。

 もう一つ想定されるのは、アジア東部北方系の言語は、後にはシナ・チベット語族に一元化されたものの、新石器時代のある時点までは多様だった、というものです。集団の遺伝的構造と言語が相関しているとは限りませんから、LGMによる分断・孤立で言語が多様化していき、その後の融合過程で遺伝的にはアジア東部北方系が成立したものの、その言語は均質ではなく、日本語祖語も朝鮮語祖語も含まれていた、という想定です。チベットに拡散したアジア東部北方系集団の言語はシナ・チベット語族で、朝鮮半島やさらに日本列島に向かった集団の言語は大きく異なっていた、というわけです。

 結局のところ、自分の勉強不足のため日本語の形成過程はよく分からず、単に複数の想定を列挙しただけで、しかもこれらの想定以外に「正解」がある可能性も低くないので、何ともまとまりのない文章になってしまいました。日本語の起源はたいへん難しい問題ですが、おそらくはアイヌ語とともに、LGMによる分断・孤立で多様化した言語が、現代では孤立した言語として生き残っている事例で、バスク語と同様なのでしょう。現代世界でも言語の喪失は大きな問題となっていますが、LGMの後から現代までに、現代人がもう永久に知ることのできない、少なからぬ喪失言語があったのでしょう。

https://sicambre.at.webry.info/202008/article_23.html

53. 2020年8月25日 09:19:01 : WTRIxbreSo : SmdhZHJZU2RGaVE=[12] 報告
ヨーロッパ諸語のルーツは東欧。DNA分析で判明
論争が続く英語を含むヨーロッパ諸語の起源。論争に終止符を打つ新発見となるか
2015.03.06
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20150305/438058/

4500年以上前にドイツ中部で埋葬された男性の人骨。この後、東欧から移住した考えられる集団とは、共通の祖先を持たないことがわかった。(PHOTOGRAPH BY JURAJ LIPTAK, LDA SACHSEN-ANHALT)

 ヨーロッパ大陸全域で話されている言語のルーツはどこにあるのか。このほど行われたDNA分析で、約4500年前、現在のロシアとウクライナにまたがる草原地帯から移動してきた牧畜民が使った言語がルーツとする説が発表された。

 長く狩猟採集が続いた先史時代のヨーロッパで、農耕が始まったことは画期的な出来事と位置付けられている。ヨーロッパでの農耕は、東方の農耕する集団がヨーロッパへ移動したことから始まったとされる。

 ところが2015年3月2日、科学誌「ネイチャー」に、ヨーロッパへの集団の大移動は1度だけではなく、2度あったとする研究論文が発表された。この説では、最初の集団の移動は新石器時代に現在のトルコにあたるアナトリアからのもの、そして第2波は4000年後、現在のロシアに当たるステップ地帯から中央ヨーロッパへの大移動だったという。そして英語を含むヨーロッパ言語の基礎になったのは、ステップ地帯から移動した集団がもたらした言語だというのだ。

 論文の共著者で、ハーバード大学医学大学院の遺伝学者ヨシフ・ラザリディス氏は、「ヨーロッパに最初にやってきた人々は狩猟採集民でした。そこへ農耕民がやってきて狩猟採集民と混ざり合いました。その後、東から新たな集団がたくさん移動してきたのです」と語る。

 今回、第2の大移動があったことが明らかになったのは、ラザリディス氏らの研究チームが現代ヨーロッパ人の起源を解明しようと、ヨーロッパの古代人69人の骨から採取したDNAを調べたことがきっかけだった。標本となった古代人の人骨は3000〜8000年前までと幅広いもの。標本同士だけでなく、現代ヨーロッパ人との間でもDNAが比較された。

 調査の過程で、古代の狩猟採集民と新石器時代に流入した農耕民の痕跡が見つかった。これは、これまでの説を裏付けるもので、予想通りだった。ところが彼らを驚かせたのは、約4500年前、ロシアとウクライナにまたがる平地や草原からの大集団が移住したことを示す痕跡が見つかったからだ。予想だにしない結果だった。

ヨーロッパへの
集団移動は2段階
 数千年間、狩猟採集民の小集団が暮らしていたヨーロッパ大陸に、初めて変化が起こったのは、約8000年前のこと。アナトリアから北上した農耕民が、新しい技術と生活様式をヨーロッパにもたらし、現在の定住生活の基礎を築く。考古学者の間では、この出来事を「新石器革命」と呼んでいる。

 その数千年後に、再び外からヨーロッパ大陸に人類の大移動があったことを決定づけたのは、ある2つの集団のDNAに多くの共通性が見られたため。1つは黒海の北岸で見つかった5000年前の人骨で、考古学で「ヤムナ」と呼ばれる集団に属するものだった。もう1つは、約4500年前に現在のドイツ中部ライプチヒ近郊で葬られた4人の人骨だ。こちらは「コーデッドウェア文化」に属する人々だった(「コーデッドウェア」とは、ヨーロッパ北部で広範囲にみられる当時の土器の特徴的な文様のことで、それにちなんでこう呼ばれる)。

 ヤムナ文化に属する集団と、コーデッドウェア文化に属する集団の間には、500年の開きがある。さらに地理的にも1600キロは離れている。それにもかかわらず、両者は判明できた部分で75%(おそらくは100%)共通の祖先をもつと考えられたのだ。論文の著者の1人で米ハートウィック大学の考古学者デビッド・アンソニー氏は、「両集団の間には、直接の遺伝的関連がみられる」と話す。「控えめに言っても、近い親類だということです」

 そして、着目すべきは、コーデッドウェア文化に属する人のDNAが、それより数千年前の現在のドイツにあたる地域に暮らしていた農耕民のDNAと共通性が認められなかったことのほうだろう。つまり、これは過去に「侵略」と言ってもいいほど劇的なヨーロッパへの流入があったことを示す証拠だ。「集団が丸ごと入れ替わったと言っても過言ではない出来事だったのではないでしょうか」とラザリディス氏は考えている。

ルーツ論争は決着か?
 今回、遺伝学から示された「ステップ地帯からヨーロッパへの大規模な移動があった」という事実は、言語学者や考古学者の間でインド・ヨーロッパ諸語の起源をめぐる論争を再燃させるだろう。インド・ヨーロッパ諸語には400以上の言語が含まれ、英語、ギリシャ語、アルバニア語、ポーランド語といった現代の言語から、ラテン語、ヒッタイト語、サンスクリット語など古い言語まで数多い。

 言語学者らは、すべてのインド・ヨーロッパ諸語の生みの親であるインド・ヨーロッパ祖語が最初に話されていた場所をめぐり、数十年もの間も議論してきた。「アナトリア仮説」派は、1万年前かそれ以前に現在のトルコに住んでいた農耕民が最初にインド・ヨーロッパ語を話していたと主張する。紀元前6000年ごろ彼らがヨーロッパにたどり着き、言語もそのときに流入したというのだ。

 対する「ステップ仮説」は、黒海とカスピ海の北に広がる広大な平原をインド・ヨーロッパ祖語の生まれた土地と考える。アンソニー氏は、この地に車輪が伝来して「ステップ地帯の経済に革命を起こした」と話す。この説を支持する人々は、多くのインド・ヨーロッパ諸語で「車軸」(axles)、「(家畜に荷車を引かせる棒)ながえ」(harness poles)、「車輪」(wheel)といった単語が共通していると指摘する。どれも、ヨーロッパで新石器革命が始まってからずっと後に考案されたものだ。

 だが、どちらの説も決定的な裏付けがなく、議論は長いこと前進していなかった。そんな中、今回の研究成果は両者の勢力図を変えるかもしれないと多くの研究者が考えている。ステップ仮説に説得力を持たせるのに必要な移住の証拠がつかめたからだ。

 とはいえ、これでインド・ヨーロッパ諸語のルーツをめぐる論争に決着がついたとはいえない。まだ説を補強しなくてはいけないことも多いからだ。確かに、遺伝学と言語学のデータは、インド・ヨーロッパ祖語が約4500年前にステップ地帯を経てヨーロッパに入ったという説を支持するものだ。だが、バルセロナ大学の遺伝学者カルレス・ラルエサ=フォックス氏によれば、「祖語の最も古い系統がどこで生まれたのかは、依然としてはっきりしない」だという。同氏によれば、インド・ヨーロッパ祖語発祥の地は、さらに別の地域かもしれず、ステップ地帯は源流の言語が南欧、イラン、インドなどに入った複数のルートの一つにすぎない可能性もあるという。

 今回の研究論文を発表した著者らも、その点は認めている。しかし、彼らの主張は揺らいでいない。ラザリディス氏は「ステップ地帯がインド・ヨーロッパ諸語の唯一の発祥地かどうかは不明だ」としながらも、「この地域についてもっとデータが集まれば、多くの疑問に答えられるはずだ」と強調した。

4000年以上前にドイツで埋葬された若い女性の人骨。DNAを分析したところ、東欧から移住してきた牧畜民との関連が強いことがわかった。(PHOTOGRAPH BY LDA SACHSEN-ANHALT)
文=Andrew Curry/訳=高野夏美
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20150305/438058/

54. 2020年9月01日 07:50:35 : WyT5nCL4pQ : YzlncmJkNllTTWc=[1] 報告
雑記帳 2020年09月01日

古人類学の記事のまとめ(41)2020年5月〜2020年8月
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_1.html


 2020年5月〜2020年8月のこのブログの古人類学関連の記事を以下に整理しておきます。なお、過去のまとめについては、2020年5月〜2020年8月の古人類学関連の記事の後に一括して記載します。私以外の人には役立たないまとめでしょうが、当ブログは不特定多数の読者がいるという前提のもとに執筆しているとはいえ、基本的には備忘録的なものですので、今後もこのような自分だけのための記事が増えていくと思います。


●ホモ属登場以前の人類関連の記事

チンパンジーの他者行動理解
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_29.html

アルディピテクス・ラミダスの居住環境
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_28.html

オロリン・トゥゲネンシスの二足歩行
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_39.html

同位体分析から推測される初期人類の食性
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_2.html

ホモ・ナレディの下顎小臼歯の分析と比較
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_31.html


●フロレシエンシス・ネアンデルタール人・デニソワ人・現生人類以外のホモ属関連の記事

アシューリアンの拡散におけるトルコの重要性
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_7.html

ジャワ島のホモ・エレクトスに関するまとめ(3)
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_16.html

人類史における投擲能力
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_30.html


●ネアンデルタール人関連の記事

チャギルスカヤ洞窟のネアンデルタール人の高品質なゲノム配列
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_8.html

古代型ホモ属から現生人類への遺伝子移入
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_9.html

現代人におけるネアンデルタール人由来のプロゲステロン受容体関連遺伝子
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_44.html

ミトコンドリアから予測される哺乳類における雑種の繁殖力
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_8.html

ネアンデルタール人と現生人類との複数回の交雑
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_21.html

ネアンデルタール人と現生人類における儀式の進化的起源
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_15.html

現代人の痛覚感受性を高めるネアンデルタール人由来の遺伝子
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_31.html

ネアンデルタール人の絶滅における気候変化の役割
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_33.html

ネアンデルタール人から非アフリカ系現代人へと再導入された遺伝子
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_6.html

古代の人類間の遺伝子流動
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_14.html

55. 2020年9月01日 07:51:36 : WyT5nCL4pQ : YzlncmJkNllTTWc=[2] 報告

●デニソワ人関連の記事

アジア東部の早期現生人類におけるデニソワ人の遺伝的痕跡
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_13.html


●フロレシエンシス関連の記事

ホモ・フロレシエンシスについてのまとめ
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_22.html


●現生人類の起源や象徴的思考に関する記事

アフリカ南部の中期石器時代における石材の加熱処理
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_7.html

オーストラリアにおける6万年以上前の植物性食料の利用
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_15.html

多様な地域の現代人の高品質なゲノム配列から推測される人口史
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_18.html

ヨーロッパの最初期現生人類
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_20.html

後期更新世のアフリカ東部の人類の足跡
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_24.html

中川和哉「朝鮮半島南部におけるMIS3の石器群」
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_36.html

加藤真二「いくつかの事例からみる中国北部における後期旧石器の開始について」
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_37.html

注意欠陥・多動性障害への選択圧
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_46.html

倉純「北アジアの後期旧石器時代初期・前期における玉やその他の身体装飾にかかわる物質資料」
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_4.html

アフリカ外最古となるスリランカの弓矢
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_23.html

最終氷期における地球規模の急激な気候変動現象の同時発生
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_28.html

56. 2020年9月01日 07:52:23 : WyT5nCL4pQ : YzlncmJkNllTTWc=[3] 報告

●日本列島やユーラシア東部に関する記事

中国河南省の新石器時代遺跡におけるコイの養殖
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_10.html

中国南北沿岸部の新石器時代個体群のゲノムデータ
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_26.html

チベット高原の古代人のmtDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_27.html

バイカル湖地域における上部旧石器時代から青銅器時代の人口史
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_38.html

新石器時代から鉄器時代の中国北部の人口史
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_3.html

現代人および古代人のゲノムデータから推測される朝鮮人の起源
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_19.html

アジア東部現生人類集団の古代DNA研究の進展
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_5.html

インドネシアにおける最初の稲作
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_10.html

複数集団の混合により形成された現代チベット人
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_21.html

インダス文化に関するまとめ
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_22.html

韓国人のゲノムデータ
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_29.html

虎ノ門ニュースでの有本香氏と小野寺まさる氏のアイヌに関するやり取り
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_30.html

中国のモソ人に関する本の紹介記事
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_11.html

人類史における集団と民族形成
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_20.html

古代DNAに基づくユーラシア東部の人類史
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_32.html

中国陝西省の石峁遺跡の発掘成果
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_33.html

愛知県の縄文時代の人骨のゲノム解析
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_34.html

l

57. 2020年9月01日 07:53:18 : WyT5nCL4pQ : YzlncmJkNllTTWc=[4] 報告

●アメリカ大陸における人類の移住・拡散に関する記事

メキシコの初期植民地時代の奴隷の起源と生活史
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_6.html

アンデスの人口史
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_17.html

前期完新世アマゾン地域における作物栽培
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_22.html

カリブ海諸島への人類の拡散
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_12.html

ペルー人の低身長の遺伝的要因
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_17.html

ベーリンジアにおけるマンモスの絶滅
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_22.html

マヤ文化最古の儀式用建造物
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_33.html

先コロンブス期のポリネシア人とアメリカ大陸住民との接触
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_13.html

アメリカ大陸最古の人類の痕跡
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_34.html

ペルー南部沿岸地域におけるインカ帝国期の移住
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_12.html

南パタゴニアの人類の古代ゲノムデータ
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_15.html


●ネアンデルタール人滅亡後のユーラシア西部に関する記事

ヨーロッパ中央部新石器時代最初期における農耕民と狩猟採集民との関係
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_35.html

フランスとドイツの中石器時代と新石器時代の人類のゲノムデータ
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_1.html

中石器時代から鉄器時代のフランスの人口史
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_2.html

鉄器時代から現代のレバノンの人口史
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_18.html

ゴットランド島の円洞尖底陶文化と戦斧文化の関係
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_20.html

麻疹の起源
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_25.html

ゲノムおよび同位体分析から推測されるアイルランド新石器時代の社会構造
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_26.html

コーカサス北部のコバン文化の母系と父系
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_36.html

鉄器時代と現代のウンブリア地域の人類集団のmtDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_9.html

ヨーロッパ新石器時代における農耕拡大の速度と気候の関係
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_14.html

ヴァイキング時代のヨーロッパ北部で拡散していた天然痘
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_32.html

古代DNAに基づくユーラシア西部の現生人類史
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_42.html
1.htm

58. 2020年9月01日 07:54:31 : WyT5nCL4pQ : YzlncmJkNllTTWc=[5] 報告

●進化心理学に関する記事

不公平な行為への反応
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_12.html

人間のネットワークの同調性
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_17.html

恋愛に関連しているかもしれない遺伝子
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_37.html


●その他の記事

ブチハイエナ属とホモ属の進化史の類似性
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_3.html

末期更新世のユーラシア氷床の崩壊による急速な海水準上昇
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_19.html

痛みの民族間差
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_33.html

ヒトゲノム多様体のカタログ
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_42.html

アフリカにおける完新世人類集団の複雑な移動と相互作用
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_23.html

ライオンの進化史
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_29.html

さまざまな疾患の性差のある脆弱性と関わる補体遺伝子
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_31.html

狩猟採集技能の文化および個体間の多様性
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_34.html

現代のそりイヌの祖先
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_35.html

ヒトゲノムにおける構造多様性のマッピングと特性解析
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_3.html

イギリスにおける血液型への関心
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_17.html

ホラアナライオンのmtDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_3.html

クローン造血の構造パターンと選択圧
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_9.html

実父から子への性虐待が多い理由
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_13.html

『科学の人種主義とたたかう』の紹介記事
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_16.html

分断・孤立と交雑・融合の人類史
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形態に基づく分類の困難
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古代DNAに基づくアフリカの人類史
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61. 中川隆[-11125] koaQ7Jey 2020年9月27日 12:59:27 : FA4hCefJjA : djJ4akN3SVdGMjI=[11] 報告
雑記帳 2020年09月27日
ネアンデルタール人とデニソワ人のY染色体での系統関係
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_35.html
 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)のY染色体DNA解析に関する研究(Petr et al., 2020)が公表されました。日本語の解説記事もあります。本論文はすでに今年(2020年)3月、査読前に公開されていました(関連記事)。その時と内容は基本的に変わっていないようですが、多少の変更点や私の見落としおよび間違い(平均網羅率など)があるので、それらを訂正しつつ以前の記事を基本的には流用し、以前は掲載しなかった図も取り上げるとともに、その後のネアンデルタール人やデニソワ人に関する知見も取り入れます。


 古代DNA研究により、移住・置換・遺伝子流動など、非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)と現生人類(Homo sapiens)の複雑な進化史が明らかにされてきましたが、古代型ホモ属と現生人類の関係の考察は、大半が常染色体に基づいています。一方、ミトコンドリアDNA(mtDNA)とY染色体DNAは、それぞれ母系と父系での単系統のみの遺伝情報を示しますが、性特異的な移住やその他の文化現象のような人口史の多様な側面に独自の視点を提供します。

 ネアンデルタール人とデニソワ人と現生人類においては、mtDNAと常染色体での系統関係の不一致が明らかにされてきました(関連記事)。常染色体ゲノムでは、ネアンデルタール人およびデニソワ人系統が現生人類系統と765000〜550000年前頃に分岐した、と推定されています(関連記事)。しかしmtDNAでは、ネアンデルタール人はデニソワ人よりも現生人類と近縁で、その推定分岐年代は468000〜360000年前頃です。43万年前頃のスペイン北部の通称「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡(以下、SHと省略)集団は早期ネアンデルタール人とされていますが、mtDNAでは現生人類よりもデニソワ人の方と近縁で、常染色体ではネアンデルタール人系統に位置づけられます(関連記事)。

 これらの知見から、ネアンデルタール人は元々デニソワ人に近いmtDNAを有しており、後に現生人類と関連する早期系統からの遺伝子流動経由で完全に置換された、との見解が提示されています。ネアンデルタール人とデニソワ人のY染色体は、古代型ホモ属と現生人類の間の分岐や遺伝子流動に関する重要な情報を追加できます。しかし、ネアンデルタール人のY染色体のわずかなコーディング配列を除いて、これまでネアンデルタール人とデニソワ人のY染色体の研究はありませんでした。スペイン北部のエルシドロン(El Sidrón)遺跡(関連記事)やベルギーのスピ(Spy)遺跡およびロシアのコーカサス地域のメズマイスカヤ(Mezmaiskaya)遺跡(関連記事)のネアンデルタール人のY染色体は解析されてきましたが、Y染色体全体の包括的な研究を可能とする内在性DNAは、じゅうぶんは得られていませんでした。

 本論文は、南シベリアのアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)遺跡のデニソワ人2個体と、スピ遺跡とメズマイスカヤ遺跡とエルシドロン遺跡(エルシドロン1253)のネアンデルタール人1個体ずつのY染色体DNAを改めて解析しました。デニソワ人は、84100〜55200年前頃のデニソワ4(Denisova 4)と136400〜105600年前頃のデニソワ8(Denisova 8)、ネアンデルタール人は、39000〜38000年前頃のスピ94a(Spy 94a)と45000〜43000年前頃のメズマイスカヤ2(Mezmaiskaya 2)と53000〜46000年前頃のエルシドロン1253(El Sidrón 1253)です。Y染色体のうち計690万塩基対(エルシドロン1253のみは56万塩基対)が標的領域とされ、平均網羅率は、デニソワ4が1.4倍、デニソワ8が3.5倍、スピ94aが0.8倍、メズマイスカヤ2が14.3倍、エルシドロン1253が7.9倍です。

 これらの解析の結果、ネアンデルタール人3個体とデニソワ人2個体はそれぞれ単系統群(クレード)を形成する、と明らかになりました。ネアンデルタール人とデニソワ人と現生人類のY染色体での系統関係は、核(というか常染色体)ゲノムとは異なり、ネアンデルタール人と現生人類が近縁と明らかになりました。現代人のY染色体ハプログループ(YHg)で最も早く分岐したのはA00ですが(関連記事)、ネアンデルタール人のY染色体系統は、デニソワ人系統とネアンデルタール人および現生人類の共通祖先系統が分岐した後で、全現生人類系統と分岐したことになります。ネアンデルタール人とデニソワ人と現生人類のY染色体での系統関係は、核ゲノムのそれとは一致せず、mtDNAのそれと一致します。

 Y染色体の各系統の推定分岐年代は、YHg-A00と非アフリカ系現代人系統では249000(293000〜213000)年前頃です。非アフリカ系現代人とデニソワ人とでは、デニソワ8が707000(835000〜607000)年前頃、デニソワ4が708000(932000〜550000)年前頃です。非アフリカ系現代人とネアンデルタール人とでは、スピ94aが353000(450000〜287000)年前頃、メズマイスカヤ2が370000(420000〜326000)年前頃、エルシドロン1253が339000(408000〜275000)年前頃です。父系となるY染色体の推定分岐年代は、現生人類およびネアンデルタール人の共通祖先系統とデニソワ人の祖先系統とが70万年前頃、現生人類系統とネアンデルタール人系統とが35万年前頃、ネアンデルタール人3個体では10万年前頃です。以下、ネアンデルタール人3個体とデニソワ人2個体と現生人類のY染色体系統樹(図2A)と合着年代(図2B)を示した本論文の図2です。

画像
https://science.sciencemag.org/content/sci/369/6511/1653/F2.large.jpg

 Y染色体におけるデニソワ人系統と現生人類系統の推定分岐年代は、常染色体ゲノムに基づく推定分岐年代とよく一致しており、現生人類系統とデニソワ人系統のY染色体の分岐は単純な集団分岐の結果と示唆されます。一方、Y染色体におけるネアンデルタール人系統と現生人類系統の推定分岐年代は常染色体ゲノムに基づく推定分岐年代よりもかなり新しく、mtDNAで推測されている、現生人類に近い系統からネアンデルタール人系統への遺伝子流動と一致します。エルシドロン遺跡のネアンデルタール人のY染色体に関する研究(関連記事)では、現生人類系統とネアンデルタール人系統の推定分岐年代は588000年前頃です。一方、本論文ではそれが35万年前頃とかなり新しく、その理由として本論文は、以前の研究ではデータ量が限定的だったことを指摘しています。

 上述のように、ネアンデルタール人とデニソワ人と現生人類のY染色体における系統関係は、mtDNAのそれと一致し、核(というか常染色体)ゲノムのそれとは一致しません。これは、ネアンデルタール人およびデニソワ人の共通祖先系統と分岐した後の(広義の)現生人類系統において、現代人系統と早期に分岐した(父系においての)絶滅系統がネアンデルタール人系統と交雑し、ネアンデルタール人系統にデニソワ人系統よりも現生人類系統に近いmtDNAとY染色体をもたらした、と考えられます。以前の研究では、現生人類からネアンデルタール人への数%程度とわずかな遺伝子流動が指摘されており(関連記事)、最近の研究ではこの遺伝子流動は30万〜20万年前頃に起き、割合は3〜7%と推定されています(関連記事)。ギリシアでは21万年以上前のおそらくは広義の現生人類遺骸が発見されており、ヨーロッパにおける20万年以上前のネアンデルタール人広義の現生人類系統との交雑はじゅうぶん考えられるでしょう(関連記事)。

 他系統からの3〜7%程度の遺伝子流動という条件において、他系統のmtDNAとY染色体への置換は、通常の進化ではひじょうに起きにくいと考えられます。しかし、有効人口規模が現生人類よりも小さいネアンデルタール人においては、現生人類よりも多い有害な変異の蓄積の可能性が指摘されており(関連記事)、じっさい、ネアンデルタール人3個体のエクソン領域に関しては、現代人よりも有害なアレル(対立遺伝子)を多く有している、と明らかになっています。本論文は、有効人口規模が小さい場合のシミュレーションにより、ネアンデルタール人のY染色体が現生人類のY染色体よりも適応度がわずかでも低い場合、完全置換率に強い影響を与える、と明らかにしました。

 具体的には、現生人類からネアンデルタール人への遺伝子流動を5%と仮定した場合、5万年後の置換率は、ネアンデルタール人のY染色体適応度が1%低いと25%に増加し、2%低いと50%に増加します。こうした予測は、Y染色体と同じく単系統遺伝となるmtDNAにも当てはまります。これらの結果は、ネアンデルタール人におけるより高い遺伝的荷重が、ネアンデルタール人のmtDNAおよびY染色体という単系統遺伝の置換可能性の増加と相関していることを示します。繁殖と受精力におけるY染色体の重要性を考慮すると、Y染色体の有害な変異または構造的多様体が、のシミュレーションよりも適応度にずっと大きな影響を与えるかもしれない、と本論文は指摘します。以下、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人の核(常染色体)ゲノムとmtDNAとY染色体の系統関係(図3A)と、Y染色体系統の置換率(図3B)を示した本論文の図3です。

画像
https://science.sciencemag.org/content/sci/369/6511/1653/F3.large.jpg

 後期ネアンデルタール人のY染色体は、37万〜10万年前頃の間に、ネアンデルタール人やデニソワ人よりも現生人類系統と近縁な絶滅系統からもたらされた、と推測されます。上述のように、早期ネアンデルタール人である43万年前頃のSH集団は、mtDNAでは後期ネアンデルタール人よりもデニソワ人に近いと明らかになっていますが、Y染色体でも同様だろう、と本論文は予測しています。後期ネアンデルタール人のゲノムから推測される、現生人類からネアンデルタール人への限定的な遺伝子流動を考慮すると、後期ネアンデルタール人におけるmtDNAとY染色体の完全な置換は意外ですが、ミトコンドリアと常染色体の不一致は集団遺伝学理論では予測されており、動物の種間交雑では比較的一般的です。本論文は、2集団間の交雑における単系統遺伝子座の遺伝的荷重の違いが、ネアンデルタール人系統におけるmtDNAとY染色体の置換の要因だろう、と指摘します。

 本論文はひじょうに興味深い結果を提示しており、今後、古代型ホモ属のY染色体DNA解析数さらに増えていくよう、期待しています。デニソワ人と確認されている個体はネアンデルタール人と比較してひじょうに少ないので、古代型ホモ属のY染色体DNA解析は当分ネアンデルタール人が中心となりそうですが、まず注目されるのは、本論文でも言及されている早期ネアンデルタール人のSH集団です。SH集団は43万年前頃と後期ネアンデルタール人やデニソワ人よりもずっと古いだけに、Y染色体DNAの解析は難しいかもしれませんが、何とか成功してもらいたいものです。また、ネアンデルタール人系統内でも核DNAとmtDNAで系統の不一致が指摘されているので(関連記事)、Y染色体ではどうなのか、さらに詳しい研究の進展が期待されます。


 以上、ほぼ以前の記事からの流用ですが、本論文の内容をざっと見てきました。査読前の論文を取り上げた後も、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人の関係について、興味深い研究が複数提示されています。たとえば、ネアンデルタール人と現生人類との複数回の交雑を指摘した研究や(関連記事)、ネアンデルタール人から非アフリカ系現代人へと再導入された遺伝子に関する研究(関連記事)です。デニソワ人に関しては、アジア東部の早期現生人類においてデニソワ人の遺伝的影響が指摘されており、これは現代パプア人やオーストラリア先住民の祖先集団の事例とは異なるデニソワ人との交雑事象を反映している、と推測されています(関連記事)。

 ネアンデルタール人とデニソワ人との交雑も指摘されており、アルタイ地域ではデニソワ人とネアンデルタール人との交雑が一般的だったと推測されていますが、12万〜4万年前頃となるユーラシア西部のネアンデルタール人8個体のゲノムでは、デニソワ人系統は殆ど或いは全く検出されませんでした(関連記事)。非アフリカ系現代人全員のゲノムには、クロアチアのヴィンディヤ洞窟(Vindija Cave)遺跡で発見された5万年前頃のネアンデルタール人と関連する古代型ホモ属に由来する領域が2%ほどある、と推定されています(関連記事)。ユーラシア西部ではデニソワ人は確認されていないため、ユーラシア西部現代人集団のゲノムには、基本的にデニソワ人由来の領域はない、と考えられますが、アイスランド現代人のゲノムには、わずかながらデニソワ人由来の領域が確認されています(関連記事)。

 アルタイ地域のチャギルスカヤ洞窟(Chagyrskaya Cave)のネアンデルタール人の高品質なゲノム配列からは、非アフリカ系現代人全員の共通祖先集団と交雑したネアンデルタール人集団は、デニソワ洞窟の個体(デニソワ5)に代表される東方系のネアンデルタール人よりもヴィンディヤ洞窟個体(Vindija 33.19)に近いものの、チャギルスカヤ洞窟個体とも同等に密接な関係にある、と示唆されています(関連記事)。つまり、非アフリカ系現代人全員の共通祖先集団と交雑したネアンデルタール人集団を表す個体は、まだ発見されていないかゲノムデータが得られていない、と考えられます。この未知の個体のゲノムには、デニソワ人由来の領域がわずかながら存在する、と推測されます。

 このように、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人の関係は複雑で、相互に複数回の交雑があった、と考えられます。mtDNAの違いから哺乳類における雑種の繁殖力を予測した研究では、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人は、繁殖力のある子孫の誕生に重要な生物学的障害を予測できるほど、相互にじゅうぶんには分岐していない、と指摘されています(関連記事)。さらに、現生人類・ネアンデルタール人・デニソワ人の共通祖先と分岐した未知の人類系統が、ネアンデルタール人およびデニソワ人の共通祖先系統(関連記事)や、アフリカの現生人類(関連記事)と交雑した、との見解も提示されています。今後、新たな手法の開発により、後期ホモ属間の複雑な関係がさらに解明されていくだろう、と期待されます。


参考文献:
Petr M. et al.(2020): The evolutionary history of Neanderthal and Denisovan Y chromosomes. Science, 369, 6511, 1653–1656.
https://doi.org/10.1126/science.abb6460


https://sicambre.at.webry.info/202009/article_35.html

62. 2023年11月25日 10:53:14 : 1GNPiLDvF6 : MEVlYTFtS2NUeWs=[5] 報告
<■67行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
雑記帳
2023年11月25日

伊谷原一、三砂ちづる『ヒトはどこからきたのか サバンナと森の類人猿から』
https://sicambre.seesaa.net/article/202311article_25.html

https://www.amazon.co.jp/%E3%83%92%E3%83%88%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%93%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%8D%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B%E2%94%80%E2%94%80%E3%82%B5%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%8A%E3%81%A8%E6%A3%AE%E3%81%AE%E9%A1%9E%E4%BA%BA%E7%8C%BF%E3%81%8B%E3%82%89-%E4%BC%8A%E8%B0%B7-%E5%8E%9F%E4%B8%80/dp/4750517860

 亜紀書房より2023年3月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は著者2人の対談形式になっており、おもに三砂ちづる氏が伊谷原一氏に質問し、対談が進行しています。まず指摘されているのが、人類は森林から開けたサバンナに進出して誕生した、との見解には確たる証拠がないことです。ヒト上科の化石は、人類でも非人類でも、まだ熱帯多雨林から発見されておらず、乾燥帯から発見されている、というわけです。もちろん、熱帯多雨林では土壌の湿度の高さによる微生物の活発な活動のため、骨はすぐに分解される、とは以前から指摘されています。ただ本書は、現時点での化石証拠から、ヒトと非ヒト類人猿の共通祖先が乾燥帯もしくは森と乾燥帯の境界で生息しており、ヒトの祖先が乾燥帯に残った一方で、非ヒト類人猿は森に入り込んだのかもしれない、と指摘します。

 ヒトの祖先が乾燥帯に留まれた理由としては肉食が挙げられており、現生チンパンジー(Pan troglodytes)にも見られる肉食は、共通祖先に由来する行動だったかもしれない、と本書は推測します。アフリカの非ヒト現生類人猿(チンパンジー属とゴリラ属)の移動形態は、四足歩行時にはナックル歩行(ナックルウォーク)で、それは祖先が二足歩行していたからではないか、と本書は指摘します。その傍証として本書は、チンパンジー属のボノボ(Pan paniscus)が上手に二足歩行することを挙げています。現生チンパンジー属やゴリラ属の祖先はかつて二足歩行で、その後で森に戻ったさいにナックル歩行になったのではないか、というわけです。

 本書は京都大学の霊長類学を中心とした日本の霊長類研究史にもなっており、行動学や生態学を基本とする欧米の動物学に対して、日本の動物学は動物に社会があるとの前提から始まっていて、日本の霊長類研究もそれを継承し、「社会学」になっている、と違いを指摘します。霊長類には安定した集団構造があり、「社会」も存在する、との日本人研究者の主張はやがて世界的に認められるようになっていきますが、チンパンジーの集団を「単位集団(unit group)」と命名したのは西田利貞氏です。本書によると、欧米の研究者が同じ意味で「community」を用いるのは、「黄色いサル」である日本人による名称は使いたくないからとのことですが、この指摘はとりあえず参考情報に留めておきます。

 家族については、今西錦司氏はその条件として、(1)近親相姦の禁忌、(2)外婚制、(3)分業、(4)近隣関係を挙げ、伊谷純一郎氏はそれに、(5)配偶関係の独占の確立、(6)どちらの性によってその集団が継承されていくこと、を追加しました。非ヒト霊長類でこれら全ての条件を満たす分類群は存在しません。本書は今西錦司氏について、悪く言えば「広く浅い」人で、その学説は現在では否定されているものの、直感は素晴らしく、若い研究者に大きな刺激と示唆を与えた、と評価しています。

 チンパンジーの繁殖について興味深いのは、集団にいないか、雄と雌で分けられて育てられると、集団に入れられても繁殖を行なわない、ということです。ただ、雄の場合は精液を床に落とし、雌の場合は性皮が腫れることもあるので、性的欲求自体はあるようです。しかし、適切な時期に周囲の繁殖行動を見て学習しいないと、繁殖行動のやり方が分からないのではないか、と本書は推測します。これはゴリラも同様で、大型霊長類以外の動物では、飼育下で放置していても繁殖行動を示すそうです。


参考文献:
伊谷原一、三砂ちづる(2023) 『ヒトはどこからきたのか サバンナと森の類人猿から』(亜紀書房)

https://sicambre.seesaa.net/article/202311article_25.html

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