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被差別同和部落の起源 _ 朝鮮からの渡来人が先住の縄文人・弥生人をエタ地域に隔離した
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/113.html
投稿者 中川隆 日時 2018 年 12 月 26 日 04:22:39: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 


被差別同和部落の起源 _ 朝鮮からの渡来人が先住の縄文人・弥生人をエタ地域に隔離した

同和部落民は日本に先住していた縄文人・弥生人の末裔

朝鮮から渡来した漢民族の天皇一族が畿内を完全に乗っ取って、被支配者の縄文人・弥生人を迫害してエタ地域に隔離したのが同和部落の起源


部落探訪 - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E9%83%A8%E8%90%BD%E6%8E%A2%E8%A8%AA

WELCOME!! - burakuheritage Jimdoページ
https://www.burakuheritage.com/

BURAKU HERITAGE は、「部落」に関わる様々な立場のメンバーが、部落「問題」に限らず、人、文化、仕事、など部落に関係する様々な物事の情報発信を目的として運営しているウェブサイトです。


▲△▽▼


日本の中枢は既に在日朝鮮人に乗っ取られている
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/232.html


「問題なのは差別ではなく、
ユダ金が部落民や在日朝鮮人を使って、反日売国行為を
行わせていることにそもそもの問題がある。

ある政治家や官僚などの人物が部落出身者や在日朝鮮人であるかどうかを
あぶり出すのはユダ金の謀略を頓挫させるのに
きわめて有効なことだ。

なぜなら、ユダ金は部落出身者や在日朝鮮人といったマイニリティを手先として
好んで使ってきたからだ。

たとえば竹中(部落)、野中(部落)、飯島(小泉の秘書、在日)

これを差別とか言うヤツは筋違いもいいとこ。」
http://www.asyura2.com/11/senkyo105/msg/773.html


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裏には裏の道があり  2011/2/25(金)

たまたま1月に新年のご挨拶ということで、工藤会系の事務所へ足を運んだ時、いろんな人と出会って話をさせてもらいました。その中にA氏はいました。


A氏は田川市の出身。部落差別の中で気が付いたら893のご職業をされているということだった。

残念ながら筑豊地方や北九州市内というのは無数の部落が存在している。15歳になって中学を卒業すると当たり前のように働きに出るのだが、もちろん仕事が無い。
部落出身ということを隠してうまく就職できても結局、後からバレてクビになる。

男性の場合はかなり働き口が狭いので、多くの人間が余ってしまう。それでしょうがないから裏社会へと入ることになる。

そちらのことはまた追々。今回は女の子の方の話。


とりあえず15歳になって中学を卒業したらお水商売の世界へ入るのが半ば、常識のようになってしまっている。在日の経営するパチンコ店などに働きに出るのもいいが、正直、稼ぎが段違いなのですぐに辞めてしまうという。


そのA氏は斡旋をする仕事をしてる。

中洲がもちろんメインではあるが、大阪の飛田新地、名古屋、札幌、東京などにも顔が広く通じていて、15歳になった女の子を広く斡旋しているということを話してくれた。


部落の地域だと常識なんて無い。 我々の考える常識とはかけ離れた世界がそこには存在している。暗く・・・絶望と悲観と・・・ 


A氏が、15歳になった少女と出会い、話を聞いてみると、

初体験は小学生の時で、部落の中でも何度も何度もレイプされたり、

時には父親にレイプされたり、祖父にレイプ、義父にレイプされたり、

さらにその全員に順番にレイプされたりして育つ。

ちょっとキレイめで可愛らしい子になると、15歳の時にすでに男性経験は500人というとんでもないのもいるのだそうな。


だから、中学を卒業したばかりの女の子に声をかけると、喜んでお水で働きたいと言うらしい。今までは襲われてもただ快楽を得るだけで、お金にはならなかったが、これからはセックスが金になると知って喜ぶのだそうだ。 私にはまったく信じられないが、それが部落の世界なのだそうだ。


15歳でいきなりソープデビュー。15歳という若さで本番ありということだから、料金は8万でも10万円にも設定しても客は殺到するという。ほとんど中学生のような少女と金を払えば合法的(?)にセックス出来ると聞いて金の使い道に困っている男達は群がる。1回10万円でも1週間に30回の予約を入れた強者もいたらしい。凄過ぎる。


本人の取り分は半額。それでも、中学を卒業したばかりの少女が1年でもの凄い金額を稼ぎ出す。


さすがにまだ本番までは抵抗があるという少女の場合はお触りだけのピンサロやキャバクラで働く。ソープにはかなわないが、やはり中学卒業したばかりの女の子がってことで固定客はいっぱい付くからなかなかの収入になるという。

入った金で整形をして綺麗にして、うまくいけばAVにでも出てまたそれなりのお金を稼いで部落出身の男と結婚してはすぐ離婚、また結婚してはすぐ離婚を繰り返す人生を送る。


娘が生まれると金になるってことで、金が欲しい父親は娘をレイプして子どもを産ませたりする。男の子だとガッカリし、女の子だと大喜びする。

私が出会ったことがある女性は、祖父との子どもを産み、義父との子どもを産んだことがあるって平気な顔で話してくれたから、驚いたことがありました。


精神病を患っている人も部落にはたくさんいて、産まれてくる子どももまた精神病に。


A氏が話してくれた悲惨な女の子の話。

産まれてすぐに精神病と分かり、父親が育児放棄。母親は自殺。

その後、祖父母が育てたが、小学校に行く頃からさらにおかしくなり、いつも下着姿でその辺を徘徊したりしてどうしようもなかったという。

で、部落の大人の男性たちが毎日レイプ。
集団で次から次へとレイプ。

中学生ぐらいの年齢の頃には2人の子どもがいたという。

そんな年齢でも服を着ないでその辺を徘徊しているものだから、男性が寄ってきては普通に道端でレイプされているとのこと。誰も止めないし、いつもの光景といった感じ。それで次から次へと精神病を患った子どもが出来たという話を聴いた。


A氏が言うには、その少女は部落の人間に毎日レイプされるためだけに生きている、とのこと。


なんだろうね・・・・悲惨を通り越して、言葉が出なかった。


A氏が言うには、そんな精神病患者でも植物を言われた通りに育てることぐらいは出来るのだそうだ。だから、大麻を育てさせては、少ない生活費を渡すということが行われているのも普通のことなんだそうな。たぶん、それが大麻だと知らずに育てるんだろう。育てるとお金がもらえるから一生懸命育てる。普通だったらおかしいと思うが、残念ながらそう思う回路を持っていない。


そんなことを繰り返しては、A氏は少女と大麻で組の中でものし上がっていったそうな。

やはり経済力を持った893は上からも当然重宝されるし、金を山ほど持ってる構成員は出世も早い。

「にいちゃん、金に困った時はいつでも電話ちょうだいな。金ならいくらでもあるからいつでも助けてやるわ」

って、にやっとしながら話してくれた。

「大丈夫、金には困ってないから」

そう伝えると、またにやっと笑いながら奥の部屋へ入っていった。
http://blog.goo.ne.jp/kimutamako1212/e/13f7cdcd736285b2acfdb818a1be2ff2


血族結婚部落の優生学的調査概報
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/418.html


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えたひいきシステム 「有名人の出身地+被差別部落」で検索すると大抵被差別部落や朝鮮部落
http://stopbrainhacking.blog.fc2.com/blog-entry-233.html

有名人 政治家、芸能人、文学賞受賞者などの出身地が被差別部落かどうか検索したら十中八九被差別部落ということが分かってきました。
十中八九ということばは10のうち8か9というのが語源ですが十中七八かもしれませんが大抵が出来レースで選ばれているだけということが分かりました。

とりあえず検索して調べてみたものを列挙します。
被差別部落だった人もそうでなかった人も列挙しています。

河野太郎とかにメールしても難しいでしょう。
河野太郎は確か湘南 湘南は朝鮮系の議員や芸能人が出ている地区があるというのを見ました。
湘南、サザン桑田佳祐、中居正広、河野太郎など

大物の素姓を調べたらみんな朝鮮人かB。 - 小泉純一郎、飯島... - Yahoo!知恵袋
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1217925132
上記サイトから引用
「各界大物の素姓を調べたらみんな朝鮮人かB。
小泉純一郎、飯島勲、中川秀直、森善朗、冬柴鐵三、安倍昭恵、土井たか子、福島瑞穂、辻本清美、松山千春、池田大作、オウム麻原、篠田建市(山口組6代目組長)、成田豊(電通最高顧問)、暴力団員の3割、街宣右翼の9割、日本の長者番付上位から25人中11人などなど・・・」

小泉純一郎→○薩摩の田布施、飯島勲、中川秀直→ パソナの仁風林、森善朗、冬柴鐵三、安倍昭恵→○朝鮮系企業キャラメル屋の森永が実家、
土井たか子、福島瑞穂 →小学生の字、辻本清美、松山千春、池田大作→○、オウム麻原、篠田建市(山口組6代目組長)
成田豊(電通最高顧問)、暴力団員の3割、街宣右翼の9割、日本の長者番付上位から25人中11人などなど・・・

「以下、同和地区出身(反日部落民)
野中公務、竹中平蔵元金融大臣、松岡徹(参院議員)、橋下府知事・・・etc

質問の目的は血筋や出身地が問題なのではなく、彼らのやっていることが問題であると提起するためです。

それから右翼も左翼も協力して、まず日本からエセ右翼や国賊を追い出すことが先決ではないでしょうか?
補足iwashisabasanmaさん、あなたは資本主義の洗脳にどっぷりつかっていますね。人は皆金持ちになる競争をしているワケではありません。貪欲な人が結果的に金持ちになるだけです。金や名声を手にすることが努力の唯一の成果ではないのです。労働者だって日々努力しているのです。寧ろ肉体的には富裕層より努力家です。

あなたもせっかく一歩私の質問に踏み入れたのですから、彼らがどうやってのし上ったか、調べてみてはどうですか?」

 『文殊菩薩』日本維新の会と部落勢力の関係  richardkoshimizu's blog H.25/04/09
http://iiyama16.blog.fc2.com/blog-entry-4299.html?pc

在日韓国人・朝鮮人の芸能人(有名人) | HonuRyoma
https://honuryoma.wordpress.com/%e3%82%b3%e3%83%a9%e3%83%a0/%e5%9c%a8%e6%97%a5%e9%9f%93%e5%9b%bd%e4%ba%ba%e3%83%bb%e6%9c%9d%e9%ae%ae%e4%ba%ba%e3%81%ae%e8%8a%b8%e8%83%bd%e4%ba%ba%ef%bc%88%e6%9c%89%e5%90%8d%e4%ba%ba%ef%bc%89/
「書き込んだコメント」
検証の情報はありがたいですが
田布施システムなどを見ていると朝鮮人夫婦が総理大辞になっていて国会議員に朝鮮人がたくさんいることが分かったので。
W杯や国体に出たからと言って日本人という認定もできないのではないかと思います。
総理とか国会議員にそういう朝鮮人や被差別部落の人達が異常に多いということが分かっているのでどうとでもできるのではないかという気がします。

背乗り朝鮮人の石原慎太郎、三國連太郎は被差別部落出身という情報を見た。

「前原誠司代表、同和推進副委員長だったプロフィールを消す : 散歩道」
http://kuyou.exblog.jp/2254910/"

福岡県久留米市一帯から「異能な人」が続出する理由を教えて下さい。私自身... - Yahoo!知恵袋
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12140570997
上記サイトから引用
「松田聖子さん、橋下徹さん、中森明菜さん、桜井誠さんを名指しで同和地区の人間と公言 久留米の蒲池さん、大阪の橋下さん、東京多摩地区の中森さん、福岡の高田さん」

多摩の語源の中の一つの説

多摩、球磨、巨摩といった地名は全国に見受けられるが、これらの地名には「渡来人(主に朝鮮半島から移住してきた人々の総称)」が関連している。
多摩地方及びその付近では狛江、高麗川、秦野といった地名、また「新羅神社」「白鳥神社」といった祭祀施設が多い。
高麗(こま)が転訛。
武蔵国には『続日本紀』に出てくる「百済王(高麗王)」を始め多くの渡来人が移り住んでいた。

Rの我田引鉄が被差別部落を一筆書きのように我田引鉄で通して行っていたのではないかということが分かってきた。
琵琶湖の手前あたりで一端南に降りる部分があえて被差別部落を通るように不自然に通っている。
そして本物の日本人の多い地域である東北はかなり遅れて新幹線などが通されている。
瀬戸内海内側への利益誘導のハッタリ経歴詐称卑怯なりすまし日本人政権。

舛添弥次郎は舛添要一の父親で福岡県でハングルで新聞にも名前を載せていた。
舛添さんは朝鮮飲みとかで漢字を書けないとかトリプルで当てはまっていたしこれで朝鮮人確定。


メモ帳に便名はメモ+スクリーンショットで記録 遠隔で飛行機のコースを変えて集団ストーカーとして利用している可能性。

「三國連太郎 被差別部落出身 佐藤浩市
中森明菜の実家は肉屋(部落民)。 沢口靖子は、混血でしたよね。 」

「集落改善センター」 が近くにある場所はB地区らしい。

「被差別部落出身の有名人は?・yomi.mobi(部落出身者は、大和民族の誇りを思い出し、在日・米国と手を切るべきです) 小沢内閣待望論」
http://www.asyura2.com/11/lunchbreak45/msg/860.html
情報の引用
「宮沢りえ  りえママがB。 りえはオランダ人との私生児。
女優の山本富士子 満田久子 父親は大阪部落解放同盟の幹部
写真家 織作峰子
宝塚歌劇団の創始者 小林翁 がB出身ですが 音楽学校生徒には
所謂ええとこのお嬢と在日&Bの大金持ちの娘さんの混成だそうです
OGの黒木瞳さんはB 同じく音楽学校OGの小柳さんんはKですよね
こうしてみると やはりB出身のかたは綺麗な人が多いですね
残念ながら 一路さんがBのかたとは確認できません 」

宝塚の人達の朝鮮耳の多さが気になっていた。

山本太郎 言動には賛成だけどガス抜きのためのプロレス要員なのか 朝鮮飲み イルミナティサイン
兵庫県宝塚市 中山桜台 被差別部落かは完全一致かは不明だが「〜中山」まで一致

1868年(慶応4年)兵庫県御免許開港神戸之図の一部。上部の中央に「風呂谷穢多村」の表記が見える。いわゆる宇治川地区であり、現在の神戸市中央区中山手通8丁目・下山手通9丁目・楠町8丁目・同9丁目・同1丁目にあたる。1984年にこの絵図の縮小版が『週刊朝日百科 世界の地理』No.49に掲載されたとき「風呂谷穢多村」の字は1ミリ程度で滲んでおり読めない状態であったが、部落解放同盟は「差別地図」であると言いがかりをつけて糾弾し、同誌を回収処分に追い込んだ。

宝塚歌劇団は、兵庫県宝塚市に本拠地を置く歌劇団。阪急電鉄の一部門であり、阪急阪神東宝グループのエンターテイメント・コミュニケーション事業運営
兵庫県宝塚市栄町1丁目1−57 少し違う完全一致ではない。
被差別部落なのは以下
「宝塚市立くらんど人権文化センター - 兵庫県宝塚市中野町22番19号
宝塚市立まいたに人権文化センター - 兵庫県宝塚市今里町5番1号
宝塚市立ひらい人権文化センター – 兵庫県宝塚市平井6丁目3番38号」

なぜ高校野球の大会は甲子園でやるのでしょうか? - 第1回大会(1924年... - Yahoo!知恵袋
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1012489665
"「全国中等学校野球選手権大会(今の全国高等学校野球選手権大会)」のために阪神電鉄が建設したのが阪神甲子園球場です。
もともとあったものから選定したわけではないんですね。
ちなみに第1回大会は大阪府豊中グラウンドでした"
兵庫県西宮市甲子園町1−82
被差別部落ではない  西宮の別の町にはあるが

「小林一三について
 1.阪急グループの創始者
 2・山梨県の●落出身
 2・慶応大学OB

部落美人といえば一昔前は五月みどりというのが定番だったが
新旧交代のようだなAI−Kに
元華族島津家の先祖が渡来朝鮮人 」

金原瑞人(翻訳家で法政大学教授。芥川賞作家金原ひとみの実父)は父が部落出身の靴屋であることを公表している
出来レースの可能性 
美作の大久保村

新大久保がコリアンタウンへと変わった理由 上 - アマカナタ
http://www.amakanata.com/2012/08/blog-post_30.html
朝鮮系企業のロッテができてから高級な音楽の町からコリアンタウンに変貌してしまったらしい。
ロッテの創業者は、在日朝鮮人の重光。日本人経営の会社では雇ってもらえない、あるいは居心地の悪さを感じていた朝鮮系の人々が、彼を頼って、日本中からやってきました。

苗字に「菊」とか「塚」とか付くとエタである可能性が高いって
聞いたけどね。
あと、東西南北などの方向とか。
まぁこれも地域によって様々と思うけどね。

松浦平吉(エタ)
            |
           川嶋庄一郎(養子 川嶋家へ)
            |
            |   池上四郎
            |      |          
           川嶋孝彦=きこ
               |        
            和代=辰彦
               |
          秋篠宮=紀子様
               |
           ----------------
           |         |
          眞子         カコ

同和関係人口の比率が高かった田川郡赤村出身の仁支川峰子(にしかわ・みねこ、旧芸名:西川峰子、本名:福田峰子)のことと思われる。

"坂本一亀(坂本龍一の父)の出身地は朝倉市三奈木だが、小字名は不明である。
坂本一亀(さかもとかずき)は戦後日本文学の礎を築いた「伝説の編集者」として知られる。河出書房「文芸」の編集長を務めた。"
"〃 三奈木村 下万願寺 上枦田 五二 三八七 〃 朝倉市 三奈木 上枦畑 上枦田は上枦畑の誤記。
〃 金川村 桑原 三八 二三九 〃 朝倉市 桑原
〃 福田村 下原 二〇 九三 〃 朝倉市 三奈木 下原 "

お笑いコンビ「バイきんぐ」の小峠英二は田川郡大任町出身であり、小峠姓は同町内では大行事に2件存在する
"田川郡福智町伊方3999-16のトヨダ美容室はタレントのIKKO(本名は豊田一幸)の実家である。ただしどの小字に属するかは要調査。
田川郡川崎町川崎1069-18の向山食堂は芸者歌手の赤坂小梅(本名は向山コウメ)の実家である。ただしどの小字に属するかは要調査。 "

久留米には何かありそう。ブリジストン、東芝の創業者。ソフトバンク孫正義、堀江貴文、松田聖子、チェッカーズ、田中麗奈、コメンテーター宮崎

平成の大合併 被差別部落
数年前にあった平成の大合併だが当時は土地名には水に関する場所など土地の特徴を表しているのに土地名が変わってしまうと思っていたが
あえて被差別部落名などをわかりにくくするために合併させて検索などしても同和利権がわかりにくくしようとしていた可能性。

全日本同和会熊本支部 – 熊本県熊本市九品寺 ショーンK 川上進一郎の出身地
ショーンKこと川上 純日本人の出身校の近く どう見てもテレビ局も経歴詐称に加担しないと作れないような感じだった。
ペラペラのハッタリ権威を作り出すのにテレビ局も協力して作り出している可能性。
ハッタリだとわかったが「なんとかの講師も務め」の構図とか「なんとかのマンション」とかの内部の撮影などテレビ局も協力しないと作れない。
予め弱みを握っておいて隠したい田布施一族の事件や嫌がられる法律を通す場合などにスピンとして内部リークか何かで利用されるて明るみに出されるのではないか。

千葉県 - 同和地区Wiki
https://同和地区.com/wiki/%E5%8D%83%E8%91%89%E7%9C%8C
苫米地
"長嶋茂雄に部落民説があり、長嶋の実家は佐倉市臼井17番地で鈴木建具店の斜め向かいだが
『全國部落調査』の臼井台地区にあたるか否かは要調査。
今昔マップ(1927〜1939年)によると、臼井台の表記があるのは臼井台40番地の熊野神社近辺であり、
長嶋の実家からは西に500メートルほどの距離がある。
また赤松宗旦『利根川図志』第4巻19頁「臼井故城図其一」に掲載のある新旧穢多町の現在地は臼井ではなく臼井台と考えられる。 "


荻上チキは本名が「乙川知紀」であることを小谷野敦に暴露されたと主張し、小谷野氏を批判している。[1] なお、この荻上氏の見解は事実誤認であり、濡れ衣だとの逆批判もある。
荻上チキは、川口泰司が部落解放同盟山口県連書記長であることをあえて隠蔽し、中立を装った上で自らのネットメディアで川口泰司に同和地区Wikiを批判させるという人権侵害に荷担している。

金原瑞人(翻訳家で法政大学教授。芥川賞作家金原ひとみの実父)は父が部落出身の靴屋であることを公表している
出来レースの可能性 
荻上チキは小説家の中上健次を被差別部落出身だと暴露(アウティング)している。
芥川賞作家でもある、中上健次という作家がいますよね。彼は被差別部落出身でした
また出来レース疑惑か  こうなると「文学賞」は「えた作文賞」ではないのか

「直木賞の受賞者とは、八百長賞(ショー)に踊らされている、かなしき文学商人。」…『潮』昭和58年/1983年11月号「菊池寛賞を改めて拒否しなおす」本多勝一: 直木賞のすべて 余聞と余分
http://naokiaward.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/58198311-87b4.html

“生活苦の指標”エンゲル係数アップに安倍首相がデタラメ言い訳! 直後にWikiのエンゲル係数解説が改ざん|LITERA/リテラ
http://lite-ra.com/2018/02/post-3777.html

2018-02-07 09:29 又吉の芥川賞はヤラセですか? - ヤラセではないと思います。 - Yahoo!知恵袋
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11147920786

ネットにあった前原情報 レバニラ定職
http://www.asyura2.com/11/senkyo105/msg/773.html
引用
「問題なのは差別ではなく、
ユダ金が部落民や在日朝鮮人を使って、反日売国行為を
行わせていることにそもそもの問題がある。
ある政治家や官僚などの人物が部落出身者や在日朝鮮人であるかどうかを
あぶり出すのはユダ金の謀略を頓挫させるのに
きわめて有効なことだ。
なぜなら、ユダ金は部落出身者や在日朝鮮人といったマイニリティを手先として
好んで使ってきたからだ。
たとえば竹中(部落)、野中(部落)、飯島(小泉の秘書、在日)
これを差別とか言うヤツは筋違いもいいとこ。」

引用
「06. 2011年1月29日 11:50:27: Z38cKkRxQk
そんなことより、
前原には、池田先生の隠し子疑惑があるんですけど(笑)
http://ameblo.jp/new-hopper/image-10758123566-10962379816.html

「07. 2011年1月11日 15:53:46: 4hiogTc4xM
アドルフ・ヒトラーは、ネイサン・ロスチャイルドの血をひく隠れユダヤ人であり、ナチスドイツは、ロックフェラーやロスチャイルドが第二次世界大戦を起こすために計画的に作られた実験国家だった。わが国では、小泉純一郎や石原慎太郎、安倍晋三といった似非右翼の政治家が在日コリアンの血をひくことは公然の秘密である。国際金融資本が、他国を操るため、他の血筋をひく者を民族指導者として操り、似非愛国心で民衆を騙す常套手段だ。
さて、前原誠司は、京都府議時代、同和推進委員会の副委員長だった。つまり、前原誠司は竹中平蔵と同じく同和出身という疑惑だ。なるほど、竹中と同じく、部落出身で周りからいじめにあって、その怨念をCIAや国際金融資本に悪用されたか。いや、そういう単純な話ではすまない。
引用
「低気温のエクスタシーbyはなゆー」氏によると、前原誠司は、ある大会で、韓国語を流暢に話したという。「はなゆー」氏は、それが前原誠司が北朝鮮に握られている「弱み」ではないかと推測した(つまり、前原在日疑惑だ)。なるほど、小泉純一郎が北朝鮮で「英雄」扱いされている理由とそっくりだ。前原は、在日コリアンで同和地区に在住していたのか。それだけではない。
前原誠司の妻・愛里は創価短大卒の学会員で、前原の現在の自宅には、池田大作の肖像写真まで飾ってある(愛里だけでなく、誠司も学会つながりか?)。「自殺した」と一般には言われる前原誠司の「父」とされる人物の写真と、池田大作の若い頃の写真を比べると、顔の特徴が何から何まで似かよっているそうだ。池田大作は、本名は「成太作(ソン・テチャク)」という在日コリアンである。
つまり、前原は、在日・池田大作の隠し子であり、同和地区で育ち、創価学会つながりでもある。そして、松下政経塾で育てられた若い右翼のホープであり、内閣総理大臣として、日中戦争による日本滅亡のために、国際金融資本によって育てられた男でもある。
前原誠司は、「21世紀日本のアドルフ・ヒトラー」に他ならない。政治家としても、彼の出生の秘密も、それをありありと物語っている。"

日本の権力構造は、南北朝の対立が底流になっているようである!
少なくとも明治維新以降の日本権力中枢は、南朝=朝鮮系と北朝=中国系
の勢力争いだった!
長州系列は朝鮮系、薩摩系列(含旧幕府)は中国系。
これを利用したのが国際金融勢力=イルミナティである。
戦後、自民党内にもこの系列によって派閥が形成される。
最大派閥は、朝鮮系の清和会、中国系の経世会ということになる。
朝鮮系は米国ロックフェラー系、中国系は英国サッスーン系(上海・香港拠点)
要するに幕末以来、国際金融勢力=イルミナティの分割支配の構図が
持ち込まれているのである。
従って、何と少なくとも明治以降の総理大臣のほとんどは、朝鮮系か
中国系であり、純日本民族系は、極めて稀なのだ!
しかも、政権のバックとなっている教団や暴力団なども、同じように
系列化されているのである。
このように見ていくと、現在の自民・公明対民主の対決の元が見えてくる。
総体的に、朝鮮系が主流を占めてきたようである。
経済発展しつつある中共中国を背景に中国系の巻き返しが図られている
が、人材不足で苦戦を強いられている。
戦後、ほとんどの時期を政権に就いていた米国ロックフェラー=自民系の
基盤は根強いものがあるが、これも崩れつつある。
いずれにしろ、明治以降、日本国民のための政治が行われた事実は無い!

【衝撃】トランプはパキスタン人でイスラム教徒だった! 少年時代の証拠写真も流出、現地メディアも太鼓判
http://tocana.jp/2016/11/post_11504_entry.html
以前12歳の少女がアメリカの大統領はほぼ全てが血族で続いてきていたとリークされていたが、それもスピンで
もしかするとアメリカでもマイノリティによる支配が行われているのかもしれない。このあたりは要検証。

中田ヤスタカ イルミナティサインをPVのきゃりーぱみゅぱみゅやパヒュームの曲中に埋め込む 
石川県立金沢伏見高校出身らしい この高校は 石川県金沢市米泉町 

俵万智 「サラダ記念日」
大阪府北河内郡門真町(現門真市)生まれ、同四條畷市、福井県武生市
被差別部落なのは
「北河内郡 水本村」
「中河内郡 長瀬村」
完全一致かは分からないすぐ近く。

出口治明 被差別部落出身
1948年三重県一志郡美杉村
日本の実業家である。三重県生まれ。ライフネット生命保険株式会社 創業者。
被差別部落なのは
「美杉村 石名原村 14 48 法善寺 八幡宮 
美杉村 八知村 21 79 法善寺 仲山神社
美杉村 八知村 21 79 法善寺 仲山神社」

参考サイト
三重県 - 同和地区Wiki
https://同和地区.com/wiki/%E4%B8%89%E9%87%8D%E7%9C%8C

長崎市生まれの衆院議員の中野寛成(民主党)は母方が部落民であると自称しているが、母の出身地区は不明である。

現在の長崎県知事 
中村 法道  数日前に選挙で前回に続いて当選していたが不正選挙の可能性が高くなった
長崎県南高来郡有家町(現南島原市有家町)の一本釣り漁師の家に生まれる。
被差別部落なのは
「〃 南有馬町 五 三四 仝 中 南島原市 南有馬町 同上。
〃 西有家町 二四 一二四 仝 中 南島原市 西有家町須川(向浜) 同上。
〃 堂崎村 四 二三 仝 中 南島原市 同上。南島原市有家町大苑20-4に堂崎郵便局がある。 」

長崎県東彼杵郡川棚町 被差別部落  土地を取り上げて石木ダムを作ろうとしていたが
2015年に長崎県は川棚の住民の土地を強制徴収して取り上げて石木ダムを作ろうとしていたが
被差別部落出身の長崎県知事の中村法道が取り上げられようとしていた川棚も被差別部落と分かった。

金子原二郎 前長崎県知事 長崎県平戸市生月町
被差別部落出身 不正選挙の可能性が高くなった

被差別部落なのは「平戸市 生月村 二 一三 仝 中 平戸市 生月町 平戸市生月町山田免に十字架がたつ墓地「クルスの辻」があり、ガスパル西が1609(慶長14)年にここで処刑された。 」

2018-02-09 10:21 自民党議員(谷川弥一・金子原二郎)のための百条委員会 | JC-NET(ジェイシーネット)
http://n-seikei.jp/2012/04/post-8103.html
谷川弥一 五島出身  被差別部落ではない 国会で般若心経を唱えていた。それは予め自分にV2Kで送っておいて後から仄めかしたものだった可能性。
金子原二郎  被差別部落出身 おそらく不正選挙
自民党議員(谷川弥一・金子原二郎)のために親族企業(概・G・F)を諫早湾干拓営農地に入植できるように仕向けたのは自民党国会議員・谷川弥 一・金子原二郎の二人の権力者である。

谷川弥一族企業概・G・F
谷川建設社長谷川喜一氏を偽証罪で告訴することや、金子原二郎前長崎県知事・谷川弥一現衆議院議員等を、県議会として強く非難する声明、さらには谷川・金子両氏の親族企業である農業生産法人TGFを、諌早湾干拓地に入植

田上富久
長崎県五島市出身 五島列島には被差別部落は存在しないから被差別部落ではない。

集団ストーカー被害者の上五島ブログの人は日本人とほぼ確定。少なくとも被差別部落の人ではない。
飛騨の岐阜の集団ストーカー被害者の人は下呂市で被差別部落ではない 日本人とほぼ確定
このことから集団ストーカーでの思考盗聴などによる私生活覗き見や仄めかしはアシュケナージユダヤ人と不逞朝鮮人たち組んで日本人に嫌がらせをしているのではないかという構図がはっきりとしてきた。


山口県 - 同和地区Wiki
https://同和地区.com/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E7%9C%8C
田布施が被差別部落として載っていた。田布施システムを知ったときにもっと早く検索しておけばよかった。
同和教育により被差別部落などを検索するのを躊躇、自粛させるような洗脳だったということだろう。

リチャードコシミズ 山梨県北杜市高根町清里 出身
西横森 8 35 北杜市 高根町村山北割字西横森 が近いけども被差別部落ではない可能性

栃木レザー 栃木県栃木市城内町 被差別部落 肉の副産物だからある意味当然か 穢多(穢が多い)=屠殺や食肉、火葬 生死に関わるもの
レザークラフトの本での持ち上げ方がちょっと持ち上げすぎな感じがあった。レザークラフトはバイクの本で知ったが。

ヤンキー先生耳タバコ大臣 義家弘介 被差別部落出身
被差別部落なのは
「長野県長野市 川田村 瀬在 一五 八一 〃 〃 下 長野市 若穂川田 町川田 瀬在」

岩手県 久慈市 じぇじぇじぇ の朝ドラはステマだったのか
大河ドラマは明治維新クーデターを美化するための歴史修正主義のために作られているんだろうことは分かってきたが。

高倉健 福岡県中間市中間町 被差別部落
"〃 中間町 鳴王寺 六九 三六二 農業、日稼 中間市 岩瀬 別名は寿町。岩瀬1-3-10に鳴王寺橋あり。蛙田姓2件、次部田姓1件、白橋姓12件、林添姓6件。2000年電話帳。
〃 〃 淨花寺 八 五一 農業 中間市 中間 浄花寺 別名は浄花町"

"久留米市 白山町 七七 四八七 日稼、下足修理 久留米市 白山町 久留米市白山町に北川姓の者がいた[50]。同地に以下の姓の者がいた。中山、平井、松本[51]。平井姓14件。2000年電話帳。
〃 西町 五七 三七五 日稼、牛肉商 久留米市 西町
〃 梅満町 一九 一二一 農業、下足修理 久留米市 梅満町
〃 諏訪野町 七三 三七〇 日稼、農業 久留米市 諏訪野町 鮎川誠が8歳まで育った高牟礼会館の所在地。 "

松居一代さんがボランティアに行っていた場所 朝倉郡杷木 2017年8月の豪雨
ボランティア自体はいいことだろうけれども朝倉市など広い範囲が(もしかすると気象兵器で)豪雨になったが
被差別部落出身者が被差別部落を助けに行っていたということなのか。
部落解放同盟末広支部 – 滋賀県近江八幡市武佐町27
"朝倉郡 杷木村 城先 三八 二二〇 農業 朝倉市 杷木林田 城先 杷木林田に高岩姓7件。2000年電話帳。
〃 志波村 杉馬場 三〇 一七八 〃 朝倉市 杷木志波 杷木志波に杉馬場教育集会所あり。
〃 大福村 西村 二四 一九八 〃 朝倉市 石成 石成1040に全日本同和会福岡県連合会甘木朝倉地区協議会あり。『稿本明治前期福岡県町村字名分類索引 6(筑前篇 2)』に石成村の小字として西が記載。 "

松居一代 本来、滋賀県近江八幡市武佐町 被差別部落かははっきりとは断定できないが被差別部落のすぐ近く
2018-02-08 18:47 ズバリお聞きしますが、松居一代さんって部落の人でしょうか?最近テレビで松... - Yahoo!知恵袋
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12176363197

船越英一郎 
神奈川県足柄下郡湯河原町出身。 完全一致かは分からないが被差別部落のすぐ近く
      足柄下郡吉浜(現在の湯河原町):1936年7月〜1937年3月に設立。
      足柄下吉浜村(現・湯河原町)

真田広之
東京都品川区大井 完全一致と確定はできないが被差別部落のすぐ近く
品川区東大井(浜川町) - 『新篇武蔵風土記稿』によれば、長吏小頭弥左衛門の大井村の59軒の地区は、1652年までは品川寺(当時は大円寺)にあったという。
東京都 - 同和地区Wiki
https://同和地区.com/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD

タモリの高校は芸能人が多く出ているらしい。えたひいきシステムとわかったからいいことなのか何なのか。

ASKA 福岡県筑紫郡大野町は被差別部落ではない。

ゆめタウンの創業者 山西 義政(やまにし よしまさ、1922年(大正11年)9月1日 - )は、日本の実業家。イズミ創業者
イズミ社長。 ヤオハン(現マックスバリュ東海)
被差別部落は
「〃 玖波町 下之町 一二 五一 〃 〃 中 大竹市 玖波町 」
広島県 - 同和地区Wiki
https://同和地区.com/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E7%9C%8C

噂では昔は一流企業は被差別部落の地名リストを持っていてそういうところの人は採用しないということを聞いていたが
実は真逆だったんじゃないだろうか。エタ贔屓システムによりそういうところの人を積極的に採っていっていたんじゃないだろうか。
なんせ一流企業の社長とかがそういうところの出で国策企業のようにひいきされて大きくさせられていったということが分かっている。
一般の国民には被差別部落出身の人は落とされるというふうに信じさせておいて逆差別状態になっていることを分からないようにしておくというトリックだったのではないか。

金原弘周(通名)こと金弘周。 OKWave(オウケイウェイヴ) 出典国民が知らない反日の実態 - 反日企業/在日・数字とアルファベット社長の兼元謙任は帰化在日3世。

さだまさし 被差別部落 完全一致かはわからないが
1952年4月10日、長崎県長崎市で佐田家の長男として生まれる。佐田家は元々島根県那賀郡三隅町(現浜田市)の大地主の家系である。
部落解放同盟島根県連合会那賀支部- 島根県浜田市(旧:那賀郡三隅町)

福山雅治 大丈夫
長崎市稲佐町 被差別部落ではない

蛭子能収 大丈夫
熊本県牛深市(現天草市)生まれ。長崎県長崎市戸町育ちという説も

陸前高田の薪セシウム事件で人工地震の証拠の墓穴を掘った金融ハザールの馬鹿さ加減|donのブログ
https://ameblo.jp/don1110/entry-10986503431.html

長谷川幸洋 千葉県千葉市 詳しい場所は分からない 顔は見るからに目が細く朝鮮系だが

菅野完 「日本会議の研究」 日本会議=朝鮮会議
石上隣保館 天理市石上町581-1 天理市人権センター - 天理市石上町581番地1 1.1.4 山辺郡丹波市町大字石上(現・天理市石上町北方)
"山辺郡 丹波市町 御経野 一二五 六一三 〃 商、日稼 中 天理市 御経野町、勾田町 岡田姓5件、西辻姓21件、藤田姓12件、松村姓5件。2000年電話帳。
〃 〃 石上北方 八四 四九二 農、商 〃 上 天理市 石上町 北方
「被差別部落の出身者なんで、若い頃、地元で解放同盟に参加してました」[25]と自称する
@noiehoieこと菅野完(すがの・たもつ)の実家は天理市石上町にあるという[26]。
2016年にメガソーラー汚職疑惑で自殺した佐々岡典雅市議(自民党)もこの地区の出身。
石田姓6件、菅野姓13件、村井姓4件。2000年電話帳。 "
2018-02-09 06:55 山辺郡 丹波市町 御経野 一二五 六一三 〃 商、日稼 中 天理市 御経野町、勾田町 岡田姓5件、西辻姓21件、藤田姓12件、松村姓5件。2000年電話帳。 〃 〃 石上北方 八四 四九二 農、商 〃 上 天理市 石上町 北方 「被差別部落の出身者なんで、若い頃、地元で解放同盟に参加してました」[25]と自称する@noiehoieこと菅野完(すがの・たもつ)の実家は天理市石上町にあるという[26]。2016年にメガソーラー汚職疑惑で自殺した佐々岡典雅市議(自民党)もこの地区の出身。石田姓6件、菅野姓13件、村井姓4件。2000年電話帳。
https://同和地区.com/wiki/%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C

増井敬史 安堵町のエセ右翼 叩かれ役をおそらく演じてヘイトスピーチを自粛させようとする役割
東安堵集会所 - 奈良県生駒郡安堵町大字東安堵562番地の4
〃 安堵村 東安堵北方 一八七 九九七 農、商 〃 中 生駒郡 安堵町 東安堵 北方 東
安搭町隣保館 安堵町東安堵782

菅野美穂
神奈川県伊勢原市


サザンオールスターズ 桑田佳祐、本籍が福岡県と明かす 出身は神奈川県茅ヶ崎市
福岡の話になると、「実は私、本籍が北九州市若松区」と明かした桑田
神奈川県茅ヶ崎市出身であることが有名なだけに、共演者は驚きを見せていた

若松市 修多羅 沖田 七五 三八一 日稼、下足修理 北九州市 若松区 修多羅
〃 蜑住 稲岡 三二 一六六 農業 北九州市 若松区 蜑住 稲岡は稲国の誤記


孫正義 ソフトバンク 犬の子(ケッセキ)CMで日本人を馬鹿にするCMでおなじみ
1957年8月11日、佐賀県鳥栖市五間道路無番地。 朝鮮部落
孫三憲、季玉子夫婦の次男として、孫正義は生まれた。
佐賀県鳥栖市は戦前から韓国・朝鮮の人達がバラックを建てて住みついた区画である。

当時国鉄鳥栖に居た佐藤栄作だったそうです。 田布施一族の満州アヘン売買からA級戦犯を逃れCIA
NEO : 五軒道路無番地
http://blog.livedoor.jp/specojp/archives/51961580.html

孫正義氏の生い立ちと理念   【たかじんNOマネー】: テレビにだまされないぞぉ
http://dametv.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/post-1829.html
日本マクドナルドの創業者、朝鮮飲みかと思ったらハンバーガー

"藤田 田(ふじた でん、1926年(大正15年)3月13日 – 2004年(平成16年)4月21日)は、日本の実業家。
大阪府大阪市東淀川区(現・淀川区)生まれ。輸入雑貨販売店「藤田商店」、「日本マクドナルド」、「日本トイザらス」創業者。 "

被差別部落出身の有名人は?・yomi.mobi(部落出身者は、大和民族の誇りを思い出し、在日・米国と手を切るべきです) 小沢内閣待望論
http://www.asyura2.com/11/lunchbreak45/msg/860.html
情報の引用
宮沢りえ  りえママがB。 りえはオランダ人との私生児。
女優の山本富士子 満田久子 父親は大阪部落解放同盟の幹部
写真家 織作峰子
宝塚歌劇団の創始者 小林翁 がB出身ですが 音楽学校生徒には
所謂ええとこのお嬢と在日&Bの大金持ちの娘さんの混成だそうです  ←朝鮮耳率の高さが謎だったが納得
OGの黒木瞳さんはB 同じく音楽学校OGの小柳さんんはKですよね
こうしてみると やはりB出身のかたは綺麗な人が多いですね
残念ながら 一路さんがBのかたとは確認できません


【被差別部落】
    「中森明菜 瀬川瑛子 森口博子 坂本冬美 伊東四朗
    久本雅美 氷室京介 浜崎あゆみ 加護亜衣 野中広務」

豊田真友子は進学塾の両親の子 スパルタ DV 被差別部落ではない。

金子賢 キム・ヒョンという航空チケットの写真で確定されたらしいが フォトショップとか別人のチケットの写真じゃない限り朝鮮人と確定。

田中康夫
東京都武蔵野市→長野 武蔵野市に被差別部落はない 白山神社はある。

被差別部落出身の売国奴の竹中平蔵や被差別部落出身の安倍晋三などがすすめていた特区=えたひいき特区だった
特区=えたひいき特区だった

パソナ  南部靖之 創価学会 京都府神戸市
神戸市に被差別部落はあるものの市以降が公表されていないから隠しているのではないか。

筑紫哲也 出身地 大分県日田市
日田市に被差別部落はあるものの市以降が公表されていないから隠しているのではないか。
市以降を公表していない人は逆に怪しいのではないだろうか。
http://stopbrainhacking.blog.fc2.com/blog-entry-233.html

▲△▽▼


奇習! カップルが次々と“謎のグループ”にレイプ&惨殺…!
「何をやっても事件化しない地域」警察の怠慢捜査に隠された真実=近畿
https://tocana.jp/2018/11/post_18766_entry.html

【日本奇習紀行シリーズ】 近畿地方


 1988(昭和63)年に起きた、いわゆる『名古屋アベック殺人事件』(大高緑地公園アベック殺人事件)では、犯行当時主犯格であったとび職の少年(19歳)を中心とした少年6人の非行グループが、何の罪もないデート中のカップルを襲撃し、集団でリンチ・強姦を加えた挙句、被害女性が「もう私を殺して」と言わしめるほどの状態へと追い込んだ末に惨殺。その後、2人の遺体を山中に遺棄するという、なんとも惨たらしい犯行が行われたが、実はこうした“カップル襲撃”を繰り返していた集団というのは、なにもこの事件に限らず、古くから存在していたようだ。


「なんでしょうね…… ああいう連中が当たり前のようにのさばっていたこと、それを誰も咎めず、罰することもできなかったこと自体、異常としか言いようがなかったと思います」


 かつて、近畿地方のとある地域で頻発したという“カップル襲撃事件”と、その犯人であったという“ある集団”についてそう語りはじめたのは、仲の良い幼馴染までもが犠牲者になるという、なんとも苦い体験をした山本洋三さん(仮名・88)。山本さんの話によると、その昔、当地とその周辺地域では、前出の『名古屋アベック殺人事件』と同様、たびたび若いカップルたちが襲撃され、無残な状態でうち棄てられるという事件が頻発していたのだという。


「当時、私はまだハタチそこそこで、ちょっと奥手な方でしたから、(事件の話を聞いても)最初は“物騒な世の中になった”ぐらいにしか思っていなかったんです。けれども、子供の頃から同じ学校に通って、それこそ家族みたいに接してきた隣の家の子が被害に遭って……それからは我が事のように考えるようになりました」


 山本さんの話によると、当時、前出の『名古屋アベック殺人事件』のような実に痛ましい事件が、当地ではたびたび発生していたのだという。そのため、家族や近隣住民との間でも、用心するようには伝え合っていたと言うが、そうした矢先、山本さんの幼馴染である女性(当時・19)が、そうした輩の毒牙にかかり、不幸にも、遺体となって発見される事件が発生してしまった。そのため、当時の山本さんは、懸命になって地道な聞き込みを行い、その結果、犯人を突き止め、当局にその内容を通報したのだという。しかし、捜査関係者から告げられた言葉は、山本さんを更なるどん底へと突き落とすものであった。


「自分が一生懸命になって(調べたことを)伝えても、生返事ばかりで……挙げ句には、“もうこれ以上、深入りするな”と、お説教ですよ。考えられます? お説教ですよ。犯人だってわかっているのに、何もしないどころか、私に対してお説教です。私はね、もう何十年も前のことになりますけれどもね、あの時の刑事がね、大あくびをしながら、心底面倒臭そうに、私の話を聞き流していた顔がね、本当に忘れられないんですよ」


“真犯人”と思しき犯行グループの素性がわかっていながらも、その情報提供を受ける形で捜査を開始することもなく、むしろ、その答えに辿り着いた山本さんを邪険にした感すらあったという捜査員たち。そうした彼らの“不可解すぎる対応”が持つ“意味”を、山本さん知ったのは、それから随分と時が流れた後であったという。


「(応対した捜査員)本人が言ったことではないですから、それが真実か? と問われれば断言はできないですけれどもね、少なくとも、あいつら(※犯行グループ)の暮らしている地域というのは、昔から“何をやっても事件にはならない地域”としてね、位置づけられていたというんです。詳しいことは私もよくわかりませんけれどもね、そのルールみたいなものがね、あの事件の捜査を妨げていたのだろう、と。今でもそう確信していますよ、私は」


 たしかに日本各地で日々、発生している事件を隈なく見ていくと、“なんとも奇妙な形”で、その捜査が打ち切られているケースがままあるということは、現代の世に暮らす我々でも“なんとなく”ではあるにせよ、体感していることである。おそらく、山本さんの証言を聞く限り、彼の幼馴染の身に起きた事件についても、そうしたケースの1つであると考えられるが、いずれにしかり、いくら“アンタッチャブルな要素”を孕むものであったとしても、そうした事件の被害者や、遺族の心情を鑑みれば、たとえいくら時間がかかったとしても、本当の意味での“解決”がもたらされるよう、我々も切に願うばかりだ。

 人々の胸中を察すると、誰しもなんともやりきれないものがあると言えるだろう。
(取材・文/戸叶和男)

▲△▽▼

部落解放同盟は悪い
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/152.html

 

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コメント
1. 中川隆[-13456] koaQ7Jey 2018年12月26日 04:38:25 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22207] 報告

被差別同和部落の起源 _ 朝鮮からの渡来人が先住の縄文人・弥生人をエタ地域に隔離した

同和部落民は日本に先住していた縄文人・弥生人の末裔

朝鮮から渡来した漢民族の天皇一族が畿内を完全に乗っ取って、被支配者の縄文人・弥生人を迫害してエタ地域に隔離したのが同和部落の起源


▲△▽▼


畿内の被差別部落民は日本先住の縄文人・弥生人の子孫

2013年12月17日 形質人類学のデータ

第1章で説明したように、エミシは和人とアイヌの中間の形質をもち、頭型などの点で、東北・裏日本型に属するとみられるが、近畿・山陽・山陰・九州に散在する四七部落を含む、全国的な日本人の形質調査の資料を整理した形質人類学者小浜基次(「形質人類学から見た日本の東と西」『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号)は、


部落民の形質は異質的なものではなく、現代日本人構成の有力な地方型である東北・裏日本形質に一致している。


とし、


頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅は小さい。したがって、畿内のような高度の短頭地区内にはさまった部落は、一般集団との間に明らかな差異がみとめられる。しかし、山陰・北九州・四国東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。


と書き、さらに、


大陸朝鮮型形質のもっとも濃厚な畿内地区に、もっとも非朝鮮的な形質をもつ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値(あたい)する。おそらくは、婚姻と住居の制限によって内婚率が高く、特異の形質がよく保たれているものと思われる。


と述べている(図2参照)。

重要なことは、小浜基次が「一般集団と近似し、差異は少ない」とする山陰の例をみても、部落民が頭型は、中頭を示す一般の住民の頭型よりも、さらに中頭の度が高く、エミシの血を引いている現代東北北部人の頭型と一致することである。

つまり、形質人類学のデータは、エミシが部落民の先祖であることを明確に裏づけているのである。
http://ryuchan60.seesaa.net/article/435099203.html


▲△▽▼


小浜基次「形質人類学から見た日本の東と西」
『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号

畿内型は西日本の畿内を中心として、瀬戸内海沿岸を経て、朝鮮につらなり、
東北・裏日本型は東日本より裏日本に広がり、西日本では、畿内型の周辺を
とりかこんでいる。西日本の離島には代表的な東日本型形質が残されている。

このような両型の地理的分布によつて、集団の移動を推定すると、はじめに、
東北・裏日本型集団が広く日本全土に先住し、のちに、畿内型集団が朝鮮半
島より渡来し、瀬戸内海沿岸を通つて、畿内に集中し、その一部はさらに、
東進したものであろう。古代の高い文化が、畿内を中心として栄えた史実に
一致することは興味深い(以上、75頁)

(追加)形質人類学的にみた未解放部落

われわれの全国的な日本人調査のうちには、未開放部落もふくまれ、その調
査地区は近畿、山陽、九州、四国に散在する四七部落にわたつている。

(中略)

身長は一般に低身であるが、部落の生活環境によつては、長身の集団もある。
頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅
は小さい。したがつて、畿内のような高度の短頭地区内にはさまつた部落は、
一般集団との間に明らかな差異が認められる。しかし、山陰、北九州、四国
東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。

畿内地区における両集団の差異は畿内人と山陰人とのちがいにすぎないので
ある。そのほかの形質、たとえば、頭頂高指数や頭部の測度、指数などにつ
いても、部落はまつたく東北・裏日本型に類似している。

大陸朝鮮型形質のもつとも濃厚な畿内地区に、もつとも非朝鮮的な形質を持
つ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値する。おそ
らくは、婚姻と住居の制限によつて内婚率が高く、特異の形質がよく保たれ
ているものと思われる。このような部落の成因については、文化史その他の
分野より検討せらるべき課題であろう。(成績はいずれも男子資料による)
(大阪大学医学部教授)


▲△▽▼


網野善彦 『宮本常一「忘れられた日本人」を読む』 岩波現代文庫

私がこの『東日本と西日本』を読んで、とくに衝撃をうけた記憶がはっきりとあるのは、小浜基次さんの論文でした。

小浜さんは大阪大学の名誉教授で、形質人類学・解剖学の専門家、1904年に生まれ、1970年に亡くなっておられます。

この文章は短いものですが、小浜さんは形質人類学の立場から日本列島の、
東と西に住む人びとの差異をいろいろな角度から指摘しておられます。

その中で私がもっともショックを受けたのは、朝鮮半島人と、近畿、瀬戸内海沿岸の人びとがきわめてよく似ており、
形質上は同じであると指摘されている点です。

そしてそれに対して、山陰・北陸と東北の人びとと近畿人との差異は、朝鮮半島人と近畿人の違いに比べて、
はるかに大きく、東北、北陸の人びとはむしろアイヌに近いと小浜さんは強調しておられます。

これは頭部の特性、短頭、中頭、長頭をはじめ、身体的な特質から導き出された結論ですが、
さらに衝撃だったのは小浜さんの、被差別部落に踏み込んだ発言でした。

小浜さんは大阪大学の方ですから、ここまで立ち入っておられるのですが、この論文の書かれた時期には、
被差別部落民は朝鮮半島から渡ってきた人たちだというとらえ方をする人たちが、実際に関西では少なからずあったと思います。

これに対して、小浜さんはとんでもない誤りで、むしろ部落を差別している人びとの方が朝鮮半島人にそっくりで、
差別されている被差別部落の人びとは、東日本人、東北北陸型の人びととむしろ形質上はよく似ているとされています。

小浜さんは被差別部落の人びとが朝鮮半島からきたなどということはまったくの誤りだと強調されているのです。


▲△▽▼


埴原和郎 東京大学・国際日本文化研究センター各名誉教授

私どもが行った現代日本人頭骨の分析からみても、近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近いという意味で“特殊な日本人”ともいえる。

その理由は、この地方で渡来系集団の影響がきわめて濃厚であるためと
想像されるが、このような傾向は、すでに古墳時代に現れていたといえる。

時代はやや下がるが、平安時代に編纂された『新撰姓氏録』によると、
畿内の氏族一一八二氏のうち、ほぼ三分の一が渡来系の氏族といわれる。
とくに新羅系の秦氏、百済系の漢氏、高句麗系の高麗氏などは
代表的な氏族で、ともに畿内を中心として、ほぼ全国に拡散した。

この他、日本書紀や続日本紀などにある渡来人の歴史をみれば、
近畿地方に渡来系の特徴が濃厚に残っていることは当然ともいえる。
そして人骨の研究からこれが裏付けられることは、日本人および
日本歴史を考えるうえできわめて重要である。

▲△▽▼


畿内の被差別部落民は日本先住の縄文人・弥生人の子孫 _ 2

chielien_4f89277efa984404924a2bf6bさん 2016/8/30 21:55:06

同和地区、被差別部落関連のご相談です。気分を害される方もいらっしゃるかと思いましたがネットで調べても詳しく分からないのでこちらでご相談させていただくことにいたしました。

付き合って5ヶ月ほどの彼氏がいる30代の女性です。

年齢のこともあり、付き合い始めからお互い結婚を意識した中で、お付き合いをしております。付き合って3ヶ月頃には互いの両親にも会うことができ、双方の両親ともに私たち自身は気に入ってくださっています。ただ、、彼のご両親が同和地区や被差別部落出身のことを気にされる方のようで、私の苗字と、両親祖父母の出身地が九州ということを知ると、祖父が部落出身ではないかということを気にされてるということを聞きました。

第三者機関で調べてくださって結構ですとお伝えしたのですが、付き合いもまだ浅く、結婚の話にも具体的になっていないので調べないと言われました。彼もご両親と言い合いになったりして辛い思いをしています。なんとかこれから結婚という先を見て楽しくお付き合いを続けたいと思っているので、彼も私も自分達なりに調べたところ、そちらの出身ではないと思っているのですが、それでは信じてもらえる証拠にならず困っています。興信所に調べてもらいたいと思っています。そこでお聞きしたいのですが、

@自分の曽祖父の代まで、そういう地区出身かどうかというのは調べてもらえるのでしょうか。

A調査の結果は書類としていただけるのでしょうか。

B曽祖父。祖父の出身が同和地区かどうかを調べる場合のだいたいの金額はいくらぐらいでしょうか。

探偵も興信所も、部落問題は取り扱わないと記載されていることが多いので困っています。もちろん私も彼も差別はしてはいけないという考えですが、彼のご両親にも色々と事情があり、彼のことを思って気にしているので、彼とご両親を仲違いさせていることに心苦しいのです。ただ私も彼もお互いこの人と結婚したい‼︎と心から願っています。とはいえ彼の大切なご両親に祝福されないまま強行突破はしたくありません。わがままかもしれませんが、、

とにかく調べる方法がなにかあれば助言をいただけると大変嬉しいです。
また、同じような経験をされた方がいらっしゃったらどのようにされたのかお聞きしたいです。

大変深い悩みで辛い思いをしております。差別だというご叱責は遠慮していただきたいです。

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Answer katuragi_893さん 2016/9/11 8:49:32

部落とは元来、村の集落を表す単語で昔はズバリ、穢多村・穢多・非人村・非人と言っていましたが、余りに露骨すぎるので今は穢多村・穢多・非人村・非人の隠語で部落を使ってます。同和は「同胞融和」の意味でこれまた穢多村・穢多・非人村・非人の隠語です。(江戸時代中期以前は穢多と非人は違うモノでしたが江戸時代後期?頃から、セックス、混血、共同行動で今では非人も穢多に同化し同じモノです。有名な非人の末裔に「フーテンの寅」こと車 寅次郎がいます)
https://www.youtube.com/watch?v=HR01VW7qpKY
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穢多とは奴隷の末裔で日本人じゃ無い。諸説あるが

穢多(えた)とは
日本人とは異なる異人種・異民族。
古代、日本人との戦争に負けた民族が日本人に捕えられ奴隷となっていた民族、穢多族。

非人(ひにん)とは
罪を犯した者に与えられる刑罰の一つ。
罪を犯した者は罰として、非人の身分に落とされた。

穢多は奴隷の末裔。具体的には国栖・土蜘蛛の末裔(マレーポリネシア系人種)+蝦夷の俘囚+中世、近世の流民、罪人・賎民との混血。日本人では無い。

室町時代から「卑しい者とは結婚しない。血は一度汚れるときれいにはならない。穢多の子はいつまでも穢多である」との絶対的概念があるから、穢多族の子は確定的に穢多族に成る。それ故、穢多族男女は既成事実作り中出し妊娠H狙って来る傾向があり大変危険です。

超強力な穢多部落優遇が存在してる段階で差別は無いし、現実は非穢多部落民が穢多部落民からヤリタイ放題されてます。穢多部落民忌避は邪馬台国と出雲帝国時代、2300年前からある日本の伝統文化です。西日本では婚姻忌避は存在していますが、あれは差別ではありませんし誰だって穢多の子は穢多で忌避される血筋を入れたくありません。もし、穢多部落民が逆の立場なら絶対穢多部落民の血筋は入れないでしょう。

或る左翼部落問題活動家が自分の息子の嫁に穢多部落民女を忌避し破談にしたのはこの部落の真実知ってるからです。左翼部落問題活動家で息子の嫁に穢多部落民女を忌避した奴は狡い奴です。他人には穢多部落民と婚姻しても何ともないよ言いながら、自分の息子の嫁には人種的、歴史的に穢多と言う階級の真の意味を知ってるかから忌避したんです。ホントに狡い奴です。

穢多部落民との結婚は彼も穢多部落民に成り、産まれて来る子も穢多部落民に成ると言う事です。わかっていましたか?。彼との子供も排除・忌避される側に成るという事です。本音と建て前、違いますから今でも就職忌避・婚姻忌避が現実に存在していますから貴方の子供が成人した時に穢多の血筋で就職忌避・婚姻忌避に遭遇するでしょう。。
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全部説明したと思いますが私の書き込みを絶えずチェックし絶えず削除
依頼を出す真実を知られたく無い歴史隠蔽、穢多部落民血筋(DNA)拡散
を狙う穢多部落民に付き纏われてるのでコピペで失礼します。

実際、部落の問題にはこれがあり、奴等が「差別するな!!偏見を捨てろ!!差別するな!!偏見を捨てろ!!」と言えた義理ではありません。

山口組ヤクザ約70%の者が部落出身者であり約10%の者が韓国人等の外国人。 カプランとデュブロ

潜入ルポ ヤクザの修羅場(鈴木智彦著 文春ウェブ文庫)

「不良はある程度の年齢になると、ヤクザになるか、右翼になるか、同和にいくか進路を決めるんですわ」彼のいう右翼も同和も”似非”を意味しており、純粋なそれに所属している人間たちにとっては迷惑な話だろう。しかし、彼の何気ない一言は、関西の暴力社会の基本構造をストレートに現している。鈴木智彦は曰く「暴力団と政治団体と人権団体の三位一体は、裏社会最強のコンビネーションだ」、「大阪ではかつて、同和利権を制するものがヤクザ社会を制すると言われていた」。

穢多非人部落=ヤクザ(暴力団)=右翼(政治団体)=解同(人権団体)=全て同じモノで三位一体が現実。

被差別部落と暴力団(鈴木智彦)

穢多非人部落=ヤクザ(暴力団)=右翼(政治団体)=解同(人権団体)=全て同じモノで三位一体が現実で、仮に一般人と穢多非人部落民が婚姻し、その婚姻が破綻し穢多部落民と離婚しょうとしても、離婚する時は、解同(人権団体)が出て来て「差別するな!!偏見を捨てろ!!差別するな!!偏見を捨てろ!!」と喚き散らし一般人の親・親戚の所に押しかけます。

警察は相手が解同(人権団体)なのと民事不介入で介入してくれません。
ヤクザ(暴力団)、右翼団体(政治団体)の場合は警察が介入してくれますが解同(人権団体)の場合は警察が介入しないのを知ってて奴等はやって来ます。
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穢多部落民は過去戦争を煽動・推進したことから天皇から絶対的に嫌悪・忌避・排除されています。

穢多部落民忌避の根源は天皇が絶対的に穢多を嫌悪・忌避・排除してるからです。千年経っても変わりません。

天皇・皇后、障害者支援施設視察

:質問:
@自分の曽祖父の代まで、そういう地区出身かどうかというのは調べてもらえるのでしょうか。
A調査の結果は書類としていただけるのでしょうか。
B曽祖父。祖父の出身が同和地区かどうかを調べる場合のだいたいの金額はいくらぐらいでしょうか。


:回答:完璧に調べる方法はある。

ただ、貴方が穢多だった場合、自殺、、、。。。魔の宗門人別改帳、江戸時代穢多管理は仏教(宗門)で行っていたので菩提寺が穢多寺なら絶対穢多で一般百姓は原則穢多寺を菩提寺に出来ません。曽祖父の嫁、曽祖母の菩提寺もついでに調べたら完璧に判ります。どの寺が穢多寺だったかは今でも完璧に判ります。逃げられません。徳川幕府の完璧な穢多部落民、嫌悪・忌避・排除に感謝すべきですね。

私は前、この菩提寺による穢多判別の回答をしましたが、穢い穢多部落民共によって削除されました。でも、これが核心です。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12163671097

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漢民族の天皇一族が日本を乗っ取った手口

天皇一族は

中国華北 → 韓国ソウル
→ 福岡県伊都国 → 日向、大和 、丹波 → 北九州、瀬戸内、畿内
→ 沖縄、北海道・東北北半分を除く日本全土


の順に朝鮮を追われて日本に移民して以降、支配地域を広げて行った様です。

弥生時代後期から昭和までずっと連続して朝鮮から長江系及び漢民族系渡来人が流入し続けて、遂に日本人(縄文人・弥生人)は少数民族となってしまいました。


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中国人は有史以来、戦争に勝ったことが無いが、人口爆弾で他国を乗っ取ってきた:


漢民族は戦争にめちゃくちゃ弱いので、むやみに人数を増やして集まる。
それが始皇帝の兵馬俑で、北方の蛮族より弱かった。

引用:http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/20/97ae91cd74d02dab5763add74c395063.jpg


ユーラシア大陸の真ん中に陣取っている中国とロシアは、有史以来ほとんど戦争に勝った事が無い。


中国とロシア(ソ連)は外国に出て行って戦争に勝ったことが一度も無い。

もしかしたら紛争程度の小競り合いでは勝っているかも知れないが、国同士の戦争ではない。

その代わり内陸の領土に敵を誘い込んで、補給を絶って包囲するような戦いを得意としている。


勝てない中国

中国も同様で、秦の始皇帝が初の国家を作ってから、その領土を守っているだけで、対外戦争で勝った事はほぼない。

モンゴル帝国は強かったが、あれは「モンゴル」が植民地にしたので、中国は植民地側でした。

局地的には朝鮮半島で勝利を得たりしているが、必ず朝鮮の統治者に追い出されています。


ベトナムなどインドシナ半島には何度も侵攻しているが、やはりほとんど勝った事が無い。

台湾にすら負け、日本軍にはコテンパンに負け続け、何度も植民地になっています。

清国はイギリスとの戦争に負けて植民地化したが、その清国がそもそも中国を植民地化し征服した国です。


清国は女真族といい、いわゆる中国人とは別の人種で、満州人、満州民族とも言います。

だから辛亥革命で清国を倒したとき、中国人たちは異民族による植民地支配が終わったと言って喜んでいた。

さらにその前には、「中国人」とは北京周辺に住む黄河文明起源の人たちの事で、長江周辺の長江文明とは別な国だった。


今日「中国が発明した」と言っている文字とか火薬とか印刷とかは、ほとんどが長江文明の発明で長江こそ先進地域でした。

黄河文明はただの植民地、蛮族という位置づけで日本や半島と比べても先進地域ではなかった。

この黄河文明起源の「現在の中国人=漢民族」は粗野で教養が低く、戦争に弱いという特徴を持っています。


戦争に勝てなくても領土を増やす方法

そんな漢民族がなぜ中国を支配できたかというと、長江文明や半島や日本よりも、圧倒的に人口増加率が高かったからでした。

稲作によって大量の食料を得て、子作りに励んでついに女真族やモンゴル族、長江人を数で圧倒して吸収したのでした。

長江文明の子孫である長江人は、漢民族に押し出されるようにして、現在のインドシナ半島に住んでいると言われています。


漢民族の戦略はまず人口を爆発的に増やし、歩いて敵国に侵入して住み着き、その国を支配して領土化します。

これなら戦争に勝つ必要がなく、例えば女真族が住んでいた旧満州では、人口の99%は漢民族になったとされています。

女真族は戦争では圧倒的に強かったが、人口を増やさなかったので漢民族の侵入で吸収されてしまいました。


チベット、ウイグル、内蒙古、旧満州など多くの周辺民族をこの方法で倒してきました。

半島に住んでいる朝鮮民族も最初は中国の東北部に住んでいたが、漢民族が移住してきて追い出されて、歩いて半島にやってきた。

台湾島も島民が住んでいた場所に、多くの漢民族が移住してきて、今では人口の95%以上を移住者の子孫が占めている。


このように中国からの移民や移住者を受け入れるのは、他の国の住民を受け入れるのとは、重大さがまったく違う。

中国の場合は移住は軍事戦略であって、住民を移住させて国を乗っ取り、それから軍隊で占領するのです。
http://thutmose.blog.jp/archives/66023396.html


・東トルキスタンでは、最大100万人のウイグル人が「再教育」の名目で中国当局により強制収容されている。遺された幼児たちは「幼稚園」に入れられ、中国人の名前もつけられ、民族も漢民族として登録される。両親が再教育施設から出られたとしても、自分たちの子供を見つけることもできない。「幼稚園」の子供たちは、自分が中国人であること、中国共産党へ感謝することを教え込まれる。

・内モンゴル自治区では「浄化政策」がもう進んでしまって、ここ70年で、人口約2400万のうち、モンゴル人は2割以下になってしまった。経済は中国人に握られ、伝統文化の絶滅が図られている。

・チベットでは、チベット語の学校教育が禁止され、今年になってチベット教の寺院にも共産党員が運営委員として入って監視するようになり、寺院にも習近平の写真が置かれ、共産党の旗を掲げなければならなくなった。
https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201811/article_13.html

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大阪鶴橋に済州島住民が多い理由 仁徳天皇が渡来人歓迎


仁徳天皇や天智天皇は渡来人を歓迎し、百済洲や百済郡、百済寺に百済川もあった


画像引用:地名で分かる渡来人の分布https://www.facebook.com/295367367249272/photos/a.296474680471874/298873963565279/?type=1&theater


仁徳天皇時代には百済島や百済川まであった

大阪市の生野区には日本最大の「移民地域」である鶴橋が存在しています。

鶴橋駅前から市場に入ると韓国語が通用するし、それどころか日本語が通じにくかったりする。

鶴橋の歴史は非常に古く、仁徳天皇の西暦400年ごろにはすでに大勢の百済人や新羅人が住んでいました。

大陸では東晋が滅亡する末期で、半島では百済・新羅・任那日本府が並立し、半島南部はヤマト政権の支配下にあった。

半島南部ではヤマトの大王(天皇)の支配の証である前方後円墳多数が見つかっていて、百済や新羅も日本の影響下にあった。

仁徳天皇の2代前には神功皇后の三韓征伐が行われたと記紀に記されていて、事実である可能性が高まっている。


奈良県でヤマト政権が成立したのは古墳からは西暦200年代と推測され、もっとも近い港である大阪湾が半島や大陸との交易地になった。

当時の大阪市はまだ海に島が点在している状況で、生野区や鶴橋もまだ島や海岸だったと考えられています。

百済や新羅の商人や労働者、上は貴族や王家まで様々な人が大阪や奈良に移民してきました。


これが古墳時代の渡来人で、百済滅亡によって日本に難民が押し寄せて、特に大阪の生野区に移民が増えました。

大阪湾には島が点在していると書いたが、当時は「百済洲」「新羅洲」という名前の島があり、名前の通り百済や新羅の人たちが住んでいた。

鶴橋周辺には「百済郡」があり「百済川」まで流れていたと記録されています。


半島からの移民受け入れに最も熱心だったのが仁徳天皇で、一時は大阪に住み、渡来人のようすを自ら視察したともされています。

渡来人にとって仁徳天皇は最大の理解者なので、彼らが最大級の天皇陵を大阪に作ったとしても不自然ではありません。


百済滅亡で難民が押し寄せた

時代は下って西暦660年ごろ、斉明天皇と天智天皇(母子)の時代になり、ヤマト政権は半島の支配地を失いました。


660年に同盟国の百済が羅漢同盟(新羅と漢)に滅ぼされ、663年に再興を目指した白村江の戦いで日本軍は負けてしまった。


百済滅亡より前に、任那日本府も羅漢に滅ぼされていたと考えられます。

百済滅亡にともなって大勢の百済人が日本に亡命し、縁故を頼って旧百済洲などがあった大阪に住みました。


この中の滅亡した百済の王子・善光は天智天皇の許しを得て「百済郡」の領主となり、百済王一族は長く栄えたとされている。

百済王敬福は大出世して750年に河内守となり、河内国に移住したが多くの百済人の子孫はそのまま残った。

百済郡がどこだったのかは不明だが、鶴橋は「猪飼野」と呼ばれる百済人居住地でした。


当時日本人はあまり豚やイノシシを食べず、百済人はイノシシを飼育していたのでこの名がついたとされている。

百済を滅ぼした新羅の人も日本と絶縁したわけではなく、やはり大阪を中心に多く居住していた。

こうした渡来人は日本にとっては労働力であり、当時としては進んだ技術や知識を持っていたので重宝された。


たとえば法隆寺など日本の初期の寺は、百済人やその子孫が設計や建設に関わっている。

渡来人は大阪湾の埋め立てにも動員され、習慣や文化の違いから他とは違う文化を築いていった。

秀吉の朝鮮出兵の時にも大量の渡来人が移民または連行されて、大阪城や江戸城の建設に動員されたと言われている。


韓国からの20万人大脱走

時はさらに下って明治維新後は半島からの移住者が増えて、終戦時には200万人前後に達していました。

1948年の調査では約150万人が韓国に帰国し、約65万人が残っていたが10万人は戦後に密航してきた人たちでした。

このあと1948年から1953年にかけて「済州島事件」と朝鮮戦争、保導連盟事件によって20万人以上が日本に密航してきた。


この一連の事件はアメリカが任命した韓国初代大統領の李承晩が行った大粛清が原因で、十万人I以上が日本に逃れたとされている。

当時の研究では送還された人を除いて25万人が日本に密航した可能性があると書かれている。

結局10万人ほどは朝鮮戦争が終わっても帰国せず、戦前からの居住者と混ざって「特別永住者」になっている。


李承晩が最も弾圧したのが済州島で、30万人のうち6万人が犠牲になり、10万人ほどが日本に逃れた。

鶴橋には戦前から済州島出身者が多かったので、縁故を頼って大勢の済州島民が鶴橋周辺に定住しました。

これらの人たちが現在の鶴橋を形成し、一説には住民の過半数が半島系の先祖を持っている。


日本に最初の渡来人が移住したのは縄文以前を除くと今から3000年前で、稲作を伝えたとされている。

それから定期的に渡来ブームがあり、特に半島で戦争や混乱が起きると渡来が増え、やはり縁故を頼って大阪にたどり着く。
http://www.thutmosev.com/archives/78516496.html

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中国人のウイグルでの民族浄化の手口
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/280.html

中国人のチベットでの民族浄化の手口
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/282.html

2. 中川隆[-13455] koaQ7Jey 2018年12月26日 04:57:16 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22207] 報告

朝鮮から渡来した漢民族の天皇一族が畿内を完全に乗っ取って、被支配者の縄文人・弥生人を迫害してエタ地域に隔離したのが同和部落の起源

天皇一族は自分達が日本人だとは思っていない

2001年12月23日の天皇誕生日の前の12月17日、宮中で記者会見があった。記者クラブが7つ質問している。その中の一つが

「来年はワールドカップで日韓共催でやる。天皇はどう思われるか」

という質問に

「自分の先祖である桓武天皇の生母高野新笠は百済武寧王の子孫であった。
韓国とのゆかりを感じます」

と語られたわけです。私にもすぐ朝日新聞社からコメント依頼がきました。私が感動したのは、人物の交流が皇室を含めてあったのだけれども

「不幸な関係があったということも忘れてはなりません」

とちゃんと言っておられる点ですね。そこがあまり報道されてないんです。

 私は朝日のコメント依頼に「そこが大事だ。それを書いてくれなければコメントしない」と申し上げたのです。1月16日、京都新聞には載りませんでしたが、共同通信が後追いの記事を出しました。なるほどと思ったのは「誕生日の記者会見くらいは自分の言葉で言わせてほしい」と言われたそうです。宮内庁のチェックはなかったようですね。宮内庁は大慌てになったということを1月16日の共同通信配信で知りました。私はその日、松江に行っていまして、山陰中央新報で知りました。実はこれは、神話の問題とも関係があります。


桓武天皇のお母さんの高野新笠は、勅撰の歴史書である『続日本紀』が明記するとおり武寧王の子孫ですが、延暦8年12月に亡くなります。お葬式は正月にあった。葬ったのは大枝の沓掛にある旧山陰道の右手の山の中腹。そこに高野新笠のお墓があります。階段を登らないと行けません。延暦9年1月にお葬式をしている。

『続日本紀』に新笠の伝記が書いてある。どういう人だったかということを書いて百済の神話を書いている。そこに書いてあるものを読むと

高句麗の建国神話と百済の建国神話が同じであったことがわかります。今、残念ながら朝鮮人民民主主義共和国と大韓民国は分断されていますが、百済の建国の神話と高句麗の建国神話は同じです。在日の皆さんが自分の祖国の神話も知らずにいるというのでは残念です。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/kouzaueda.html


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昔、三宅さんから聞いた話 2012-11-16

あのころは、三宅さんに、竹村健一さん、飯島清さんが、


テレビで活躍中だった。

空港まで車で三宅さんを迎えに行った。

高速道路を走りながら車中で、


昭和天皇の話になった。


三宅さんが、日本史の江上波夫さんから聞いた話だと。

あの騎馬民族説の江上さんですね。


そう。

天皇陛下との晩餐で、歴史学者の江上波夫さんが、


昭和天皇に質問したそうだ。
陛下は、オフレコならばと前置きして答えられたそうだ。

Q:先祖は、どこから来たものだと思われますか?
A:朝鮮半島だと思う。
Q:どうしてそう思われますか?
A:皇室の重要な行事のなかで、お供えするもので、シルトックという餅がある。
これが、朝鮮半島由来のものだから、そう思います。

と答えられたと。


三宅さんは続けて、これはいまわれわれが普通に食べている、


もち米からの餅ではなくて、うるち米からつくる。


現在、文化庁は皇室の先祖の古墳を、保存という名目で閉鎖し公開してない。
古墳を公開すると、天皇家のルーツがはっきりするためだ。
と教えてくれた。


昭和天皇ゆかりの話をしたかったようだ。

いま、あのときの顔を思い出しています。

三宅さん、歯切れのいい話で、


日本の左傾化に歯止めを掛けていた。


やすらかにお眠りくださいますように。
https://blog.goo.ne.jp/akirakasan/e/a6f887959603d8e10b513314716d3643
 

3. 中川隆[-13454] koaQ7Jey 2018年12月26日 05:00:09 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22207] 報告

朝鮮から渡来した漢民族の天皇一族が畿内を完全に乗っ取って、被支配者の縄文人・弥生人を迫害してエタ地域に隔離したのが同和部落の起源


DNA鑑定すれば先祖がどの民族かすぐにわかるのですが、何故か天皇家とその親戚縁者の DNA は公開が厳禁されていて、天皇家の系譜の真偽を検証できない体制になっています。

●日本人Y-DNAハプログループ比率 (2013 徳島大 佐藤等 サンプル数2390)

D1b--32% : 縄文人、漢民族と混血していなければ二重瞼

O1b2-32%(旧表記O2b): 弥生人、漢民族と混血していなければ二重瞼

O2---20%(旧表記O3) : 漢民族、縄文人・弥生人と混血していなければ一重瞼

C2----6% : 縄文人、漢民族と混血していなければ二重瞼

C1----5% : 縄文人、漢民族と混血していなければ二重瞼

O1b1--1%(旧表記O2a): 弥生人、漢民族と混血していなければ二重瞼

O1a---1% : 弥生人、漢民族と混血していなければ二重瞼

N1----1%

D1a,Q1--1%未満

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自分のハプロタイプが調べられる機関
https://genographic.nationalgeographic.com/
https://www.familytreedna.com/
https://www.23andme.com/

最新ツリー -ISOGG、YFull
https://isogg.org/tree/
https://www.yfull.com/tree/

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西暦200年代に朝鮮半島から日本に移動したグループと判定されました
日本人に多くいそうだね☆

2018年02月25日 Home DNA
http://blog.livedoor.jp/mukamikami000/


Home DNAという祖先解析サービスを見つけたので
早速使ってみました。
https://homedna.com/

他の業者で得られたraw dataをアップロードすると
有料(39US$)で解析してくれるプランもあったため
まずは昨年得られたFamilyTreeDNAでのデータを
ダウンロード、拡張子[.csv.gz]のファイルを保存してから
Home DNAのサイトにアップロード、同時に料金を支払います。
数時間後に、以下の結果が報告されました。

map01

遺伝子多型を解析し、割合の多い3種の人種を提示してくれます。

私の場合

1.オーストロネシア・オセアニア
2.オーストロネシア・東南アジア
3.中央アメリカ

の順でした。この分類はHomeDNA独特のもののようですが
他社データを使って即時に結果がわかるのは便利です。
ほかにも23andme、AncestryDNAやNationalGeographicのデータも受け付けています。
(今後、気が向いたらこれらのデータも解析依頼してみます)
map02
また、上図のように地域上で移動した経路も推測してくれます。
私の場合、西暦200年代に朝鮮半島から日本に移動したグループ
と判定されました。
このバリエーションがどれだけ用意されているかはわかりません。


当然、Home DNAに直接DNAサンプルを送付して解析してもらった場合は
異なる結果が得られる可能性もあるため、通常のサンプル回収キットも
注文しました。
Asian editionなるアジア人集団に特化したと思われるサービスもあったので
ついでに申し込みました。
キットが届き次第再度報告します。

Asian editionは他社にはないユニークなサービスです。
遺伝子解析をするアジア人も多くなった結果でしょうか。
African editionもあるのでアフリカ系のひとたちもこれまでのような
ざっくりとした解析結果にがっかりすることはなくなるかもしれません。

Home DNAではスキンケアなどの健康情報にかかわる遺伝子解析も
提供しているそうなので興味がある方は試してみても
よいかもしれません。
http://blog.livedoor.jp/mukamikami000/


アジア人に特化したサービス
https://homedna.com/product/gps-origins-ancestry-test-asian-edition
 
◆遺伝子検査サービスを購入しようか迷っている人のためのチェックリスト10か条(東京大学医科学研究所研究員作成)
http://www.pubpoli-imsut.jp/pdfs/00018.pdf?9c69aac5ba823e5ac39e1efd4540f039

◆遺伝子検査を受ける前に見て欲しいスレ(上記リンクの解説)
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read_archive.cgi/study/13158/1545387519/l50


遺伝子検査を受ける前に読んで欲しい注意点の紹介と多少の私見を書いておきました。

掲示板トップページにもリンクを貼っておいたので遺伝子検査興味あるけどまだ受けていないという方はぜひお読みください。

トップページリンク https://jbbs.shitaraba.net/study/13158/

4. 中川隆[-13453] koaQ7Jey 2018年12月26日 05:18:26 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22207] 報告

朝鮮から渡来して縄文人・弥生人が先住していた畿内を乗っ取った漢民族の天皇一族についても、現時点でわかっている事だけ纏めておきます:

「朝鮮と日本の神話を考える」 
上田正昭 京都大学名誉教授 (2002年1月26日 講演記録より)

 敬愛してやまない末本徹夫さんがお亡くなりなって早くも2周年になります。仏教で申しますと3回忌になりますが、徹夫さんは京都大学の先輩でもありました。学生でありながら京都市会議員に当選され、人権問題、とりわけ日朝友好促進に力を入れられました。末本徹夫さんを偲んでの2周年の集いに「神話の問題」の話をしてほしいと雛子さんから言われまして喜んで参上した次第です。末本徹夫さんの写真がここに置かれていますが、その志を受け継いでいきたいと念じております。

 今日は「朝鮮と日本の神話を考える」というテーマです。新しい歴史教科書の問題がありますが、歴史学も科学です。小説家の歴史ではなく、歴史的事実を正確に認識することが大前提になります。伝仁徳天皇陵も仁徳天皇が葬ってあるかどうか大変あやしいのですが、伝仁徳天皇陵は私が学長をしていました大阪女子大学の近くにある日本最大の前方後円墳です。巨大な前方後円墳の仁徳天皇陵と伝えられている古墳ですが、堺では大仙という地名がありますので、我々は大仙古墳と言っています。大仙古墳を天皇を尊敬する方々がご覧になったら全長六百メートルの古墳になる。天皇制に反対の方がご覧になったら二百メートルだ、ということでは学問として成り立たない。

歴史は解釈の問題も大事ですが、誰がどういう立場で言おうと、史実は変わらない。正確な史実をまず認識するということが学問としての歴史研究の第一歩です。神話についても皇国史観の人が解釈する神話と、左翼の人が解釈する神話で全く違う評価が生まれるということでは学問になりません。


神話の定義

そこで神話をどう定義するか。定義が正確でないと内容が間違って解釈されることになりかねないと思います。「神話」という漢字の熟語は中国の古典にもありません。漢字文化圏である朝鮮半島の古典にも神話という漢字の熟語はありません。中国の『三国志』にも神話という文字はない。翻訳漢字です。日本の学者が1890年代に英語のmyth,mythusを「神話」と漢字に訳したものです。神話という翻訳漢字は失敗であったと思います。神話は神様の話という単純なものではありません。

日本の古典の中に神話に類似する用語があるか。「神語」というのはあるんです。『日本書紀』、皇極天皇2年、同3年の条、西暦643・644年の条に「神語」と文字があります。「カムガタリ」という方が皆さんがお考えになっている神話の意味がより正確に言えると思います。神の語りです。神話の定義は神話学者の数ほどあると言われるようにいろんな定義があります。

ギリシャ神話とか文字に記録された神話は神話の本来の姿ではないんですね。記録された神話は第二次、第三次の神話です。書かれた神話は本来の神話とは違うということです。文字を知らない人や、民族でも神話を持っています。なぜなら神の語りだからです。耳から口へ、口から耳へと語り伝えていくものが本来の神話です。文字に属するのではなく言葉の世界に属します。ホーリー・ラングウェッジ、聖なる言葉が神話の大事な点です。

沖縄の研究も復帰前から進めてまいりました。沖縄での国際会議にもたびたび招かれています。沖縄が本土に復帰する以前、米軍が占領していた時代、沖縄に行くにはパスポートがいった時代です。その時代から沖縄の調査をしていますが、本島から先島つまり宮古、八重山諸島など台湾に近いところです。

たとえば宮古島では神話が伝わっていますが、記録にはない。巫女さん、「ツカサ」のおばあさんたちが神話を言葉として語り伝えている。祭りの場で伝えられる。記録としてはないわけです。祭りに参加しなければ神話は聞けない。日常は語られません。男子禁制なので入れない。ツカサの神話の語りを録音させてほしいと申し入れて、

「祭りの場でもないのに語れません」

と拒否されました。お供えをして帰ろうとしたらおばあさんが

「待ってなさい。あなたは神の子だという御告げがあったから語ってあげます」

と録音させていただいたこともありました。


記録された神話

 『記・紀神話』といわれているものは、語られた神話ではなくて書かれた神話です。『古事記』は3巻あっては上巻に神話が書いてある。『日本書紀』は30巻ありまして、巻第一と巻第二が神代の話です。『古事記』は和銅5年、西暦712年正月28日に完成しましたが、時の天皇家の立場から作為的に記録されたものです。天武天皇の勅語に

「偽を削り、実を定める」

と書いてある。天皇家の立場からこれはふさわしくないというのは削ってある。天皇家の立場から書いている。神話のすべてを書いてあるわけではありません。


例えば今日の話について皆さんは、私の言葉を速記するなら別ですが、上田の話はここは大事だなと思う箇所を書いておられる。全部書いているわけではない。皆さんの日記でも全部正確に書いているとはいえない。都合の悪いことは自分の都合のいいように書く。日記だから本当のことが書いてあると思ったら間違いです。将来、孫が読むかもしれない。「おじいちゃんはこんなに立派だった」と第三者を予想して書いている場合もある。

記録する時には作為がある。歴史学をやるものは、書かれたものが全て本当だと思うようでは歴史研究をする資格がない。どこが本当で、どこがウソか文献批判が必要です。ラブレターはそれの最たるものです。「私はあなたを愛しています」と書くわけです。その瞬間はそう書くんです。口説くために。騙されて結婚して今日に至っている人もたくさんいると思います。ラブレターの文献批判をしていない。

自由民主党の新聞に書いている内容と共産党の新聞に書いている内容では違うことがありうる。一つの事実がさまざまに記録されるわけです。新聞が書いているからその通りだと思ってはいけない。毎日新聞の立場がある。朝日新聞には朝日の立場がある。6紙くらい読んでどれが真実かと考える。

 これは文字による記録の限界なんですね。書かれた神話には誇張の潤色が入る場合がある。『古事記』や『日本書紀』が日本の神話のすべてだと言っていたら、神話を教科書に載せる資格は全くない。こんな教科書で勉強するのは気の毒です。戦争中はそういう教育を受けた。神話を疑ってはいない。神武天皇橿原宮で即位された。「紀元は二千六百年、ああ一億の」という時は中学2年生でした。昭和15年。私は級長でしたから並んで国旗掲揚をしました。

紀元二千六百年の元年は西暦ではB.C.660年です。縄文時代の晩期の頃です。弥生時代の前です。そういう時代に日本国ができたというのは、少し勉強したらちょっと待ってくれと言わざるをえない。日本国家が縄文時代にできたなんてことはありえない。邪馬台国よりはるかに昔の話ですよ。邪馬台国の卑弥呼の時代は紀元後3世紀前半の話です。そのときから900年くらい昔の話です。日本国が誕生したという考えには幼稚園の子どもでも待ってくれと言わざるをえないのではないでしょうか。だけどそれは『日本書紀』に書いてあるわけです。『日本書紀』に書いてあるからその通りですと言うていたら、ウソということになるわけです。

神話とはなにということを理解していただかないと、これからお話する日本と朝鮮の神話の問題も間違ってくると思います。神話はまさに聖なる言葉でした。

神話とよく似た言葉には「伝説」「昔話」があります。語り伝える口頭伝承です。言葉の世界に属していますが、しかし内容はみな違うんです。

神話は神様が出てくる。この世のはじめ、天地開闢と関係がある。

「この世のはじめにおける神と人との重要な出来事を語り伝えた聖なる言葉」

が神話です。ハレは非日常、ケは日常。神様をお祭りするハレの時に着る着物が本来の晴れ着です。日本人の晴れ着は祭りの日に着る着物です。ケ着は日常の着物です。ハレの非日常の聖なる時と場の語りが神話です。神の行いを信じるという信仰が神話にはある。語られている内容がどんなに非合理であっても。

国産み神話。イザナギとイザナミの命が鉾を天空から海中に下ろして、それが塩で固まって島ができた。次々に国を生んでいく。塩が固まって島ができる、国土ができる。全く不合理な話ですが、語っている人、聞いている人が信じていた。信仰です。祭りの場に参加していないと聞けない。信じてかつてそのような出来事があったことを深く信じている。


 ところが伝説というのは全く違うんです。ある特定の物に則して語られる。伝説には神様が登場しなくてもいい。即物性がある。弘法大師が池をつくられた。弁慶が運んだ石がある。義経が腰をかけた石がある。何か物に則して伝説は語られる。語られている内容は自分たちの祖先がやってきたこととして語る。伝説には何年何月何日、「頃は元禄15年12月14日」は忠臣蔵の日ですが、日時まで物に則して語られる場合がある。

昔話は語られる内容が全く違う。どの昔話でも「昔、昔、あるところに」と時がわからない。伝説は特定している。昔話は特定しない。「で、あったとさ」と語りの最後は結ばれる。もちろん土地の言葉で語られる。伝説や昔話はケの語りです。いろり端で語る。「昼の話はネズミが笑う」という諺がありますが、夜、語られる。

神話はケの語りではない。神を祀るというハレの時と場で語られる。文字を知らないどこの民族でも神話はある。朝鮮民族には朝鮮民族の神話があり、日本民族には日本民族の神話があるわけです。それが後に記録化される。日本の場合は記録化された神話としては『古事記』『日本書紀』が有名です。

『古事記』『日本書紀』以外も我々の祖先のことが書かれているものがあります。『風土記』があります。『古語拾遺』は西暦807 年にまとめられたものです。『風土記』は各国々で編纂されましたから国々にあります。語り部の神話の記録もあります。『万葉集』の中にも『延喜式』にもあります。『先代旧事本紀』の神話もある。『古事記』や『日本書紀』だけが日本神話のすべてではないということを押さえておかないといけないと思います。


朝鮮の神話では

 朝鮮の神話はどうか。もちろん朝鮮民族の神話も最初から文字で書かれたわけではない。好太王碑文は有名ですが、その冒頭は建国神話で、高句麗の祖先はこういう人たちであったと語っているわけです。25、26年前、高句麗文化展がありました。京都市立美術館で朝鮮民主主義人民共和国から貴重なものを送っていただきました。京都を皮切りに巡回されました。私は西日本の高句麗文化展の責任者だったんです。東日本の責任者は騎馬民族説で著名な江上波夫先生でした。

碑は高さが6メーター38センチあります。これをレプリカにして送ってきましたが、美術館に入らない。京都の場合は屋外に展示しました。そのはじめに高句麗の神話が書いてある。広開土王という高句麗の王様の石碑が彼の子どもの長寿王の2年の時に建った。西暦414年、5世紀のはじめです。[史料5]この碑文が有名なのは、碑文に

「由来朝貢而倭以辛卯年来渡」。

西暦391年に倭人が海を渡ってきた。「百殘」は百済です。「新羅以為臣民」と書いてあります。

倭イコール大和朝廷と解釈しているのは歴史的事実に反します。

倭をどう解釈するか問題があるのですが、北九州を中心にする倭の勢力が海を渡ってきて、朝鮮半島の百済、新羅、伽耶を破って臣民にしたと書いてある。


これを明治以来の日本の政府はかつて朝鮮半島は日本の属国であったということをこの碑文を証拠に言ったわけです。その中心になったのは東京帝国大学の先生方ではなく、陸軍参謀本部なのです。そのことを明らかにしたのが、在日の歴史家の李進熈さんです。和光大学の名誉教授の考古学者です。

陸軍参謀本部が改ざんしたのだというのが李さんの説です。李説が発表された時、中国の学者も韓国の学者も台湾の学者も日本の学者もショックを受けた。好太王碑文の陸軍参謀本部の改ざん説が契機になりまして、好太王碑の研究が前進しました。その功績は高く評価していますが、改竄説には賛成してはいないのですが、李さんの問題提起がなければ好太王碑の研究はあれほど盛んになるとは思われません。

共和国の学者も好太王碑についての論文も書きました。中国の学者も書きました。好太王碑をめぐって大変な論争を展開することになります。その火付け役をしたのが李進熈さんです。このことはちゃんと認めないといけないと思います。

 好太王碑が立っているところは中国の吉林省にある集安、鴨緑江を挟んで対岸は朝鮮で共和国の皆さんが歩いておられる姿が見えます、川を挟んで。

その碑文の調査に私は3回行きました。碑文の文字は残っているのですが、剥落して判読できないところも若干あります。

 この碑文が大事なひとつは高句麗の神話が記述されている事です。

朝鮮にも古典はたくさんあります。たとえば『三国史記』がありますが、『古事記』や『日本書紀』より出来たのははるかに遅いんです。1145年に編纂の命をうけて書かれました。12世紀のなかば、日本でいえば平安時代の終わりです。平清盛の頃に書かれた神話を高句麗の本来の神話として議論してはいけない。

高句麗の神話は5世紀にあったということは好太王碑文を見たらわかるわけです。この碑文ができたのは414年です。414年の好太王碑文の最初に神話が書いてある。

「惟昔始祖 牟王之創基也」。

朱蒙が高句麗の基を築いた祖先である。

「出自北夫餘天帝之子」、

天の神様の子どもであって、お母さんは「河伯女郎」なり。河の神の娘である。お父さんは天の神様。お母さんは河の神の娘である。卵を裂けて世に降りる。生まれながらにして聖。

高句麗には5世紀のはじめのころに建国神話があったということは、好太王碑文によってわかるわけです。もちろん書かれた神話ですが、そういう神話が5世紀のはじめに高句麗にあったことを物語っているわけです。


 昨年12月23日の天皇誕生日の前の12月17日、宮中で記者会見があった。記者クラブが7つ質問している。その中の一つが

「来年はワールドカップで日韓共催でやる。天皇はどう思われるか」

という質問に

「自分の先祖である桓武天皇の生母高野新笠は百済武寧王の子孫であった。
韓国とのゆかりを感じます」

と語られたわけです。私にもすぐ朝日新聞社からコメント依頼がきました。私が感動したのは、人物の交流が皇室を含めてあったのだけれども

「不幸な関係があったということも忘れてはなりません」

とちゃんと言っておられる点ですね。そこがあまり報道されてないんです。

 私は朝日のコメント依頼に「そこが大事だ。それを書いてくれなければコメントしない」と申し上げたのです。1月16日、京都新聞には載りませんでしたが、共同通信が後追いの記事を出しました。なるほどと思ったのは「誕生日の記者会見くらいは自分の言葉で言わせてほしい」と言われたそうです。宮内庁のチェックはなかったようですね。宮内庁は大慌てになったということを1月16日の共同通信配信で知りました。私はその日、松江に行っていまして、山陰中央新報で知りました。実はこれは、神話の問題とも関係があります。


桓武天皇のお母さんの高野新笠は、勅撰の歴史書である『続日本紀』が明記するとおり武寧王の子孫ですが、延暦8年12月に亡くなります。お葬式は正月にあった。葬ったのは大枝の沓掛にある旧山陰道の右手の山の中腹。そこに高野新笠のお墓があります。階段を登らないと行けません。延暦9年1月にお葬式をしている。

『続日本紀』に新笠の伝記が書いてある。どういう人だったかということを書いて百済の神話を書いている。そこに書いてあるものを読むと

高句麗の建国神話と百済の建国神話が同じであったことがわかります。今、残念ながら朝鮮人民民主主義共和国と大韓民国は分断されていますが、百済の建国の神話と高句麗の建国神話は同じです。在日の皆さんが自分の祖国の神話も知らずにいるというのでは残念です。


朝鮮と日本の神話の類似性

百済の国は朝鮮半島南部の西側、忠清南道の方です。百済の都は最初はソウルにあったんです。漢城という。南に遷都せざるをえなくなって公州(熊津)へ行く。そこからまた都を移って扶余(泗沘)に移る。

百済の故都はソウルです。百済の古い歴史を調べようとするとソウルの周辺を調査しないとわからない。

百済の建国の始祖は高句麗の神話と同じで、新笠の伝記の最後に都慕王(朱蒙)の子孫でお母さんは河の神の娘であると書いてあります。

新笠の伝記の中に書いてある神話は高句麗の朱蒙の神話なのです。


 共和国と韓国が分かれるのは北方は狩猟民が多くて、南方は農耕民族だと。そもそも民族が違うのだという南北分断を合理化するような説がありますが、それは大きな間違いです。

同じ神話を持っているわけです、南の百済と北の高句麗は。

伽耶という国、慶尚南道の方です。釜山から大邱にあった国です。始祖は首露という。

 「三国遺事」。13世紀の半ばに編まれた史書です。

そこに「駕洛国記」という伽耶の国の歴史を書いた文章が引用してあります。

伽耶の国の建国神話があります。[史料4]

「後漢世祖光武帝」「建武十八年」は紀元36年。「壬寅三月禊浴之日」。

禊ぎを3月にやっている。雛祭りの日です、3月の節句。中国の春禊の風習は朝鮮半島にも入っています。禊ぎの日に神様が降臨してくる。

「所居北亀旨(クシ)」。

今も首露を祀っている廟があります。

「有殊常聲気呼喚。衆庶二三百人集会於此」。

変な声が聞こえてきたので村人が峰に二、三百人集まった。人の声のようなものがするけれども、形は見えない。ここに人ありや否や。

「九干等云 吾徒在 又日 吾所在為何 對云亀旨」

と言ってお降りになった。これは伽耶の国の降臨神話です。


 天降りの神話です。そこで『古事記』(上巻)に[史料1]

「故爾に天津日子番能邇邇藝命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて伊都能知岐知和岐弓、天の浮橋に宇岐土摩理、蘇理多多斯弖、竺紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降りまさしめき」。

高千穂の峰と書けばいいのにわざわざ古事記は「久士布流」という形容をしている。亀旨と同じです。高千穂の峰にクシという言葉がついている。

 「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞来通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」

という言葉があります。

 高千穂伝承には[史料2]

「筑紫の日向の高千穂の槵觸峰」

「日向の槵日の高千穂の峰」

「日向の襲の高千穂の槵日の二上峰」。

いずれもクシという字があります。

朝鮮の神話と日本の神話に類似性があることを教えてくれます。

それだけではなく

「日向の襲の高千穂の添山峰」。

それを『日本書紀』(巻第二)[史料3]では「曾褒理能耶麻」と云ふ。
わざわざ「そほりの山」と読むと書いてある。

朝鮮半島では聖なる場所のことを「ソホリ」と言う。
韓国の都をソウルというのは聖なる場所という意味なんです。

『三国史記』には百済の最後の都・泗沘(シヒ)のことを所夫里(ソホリ)といっています。
高千穂の聖なる山ということが朝鮮の言葉のソフルと記されています。

天から神が降りてくる、その場所をクシとかソホリという言葉を使っていることに注目して下さい。


朝鮮と日本の神話の相違性

 日本の神話と朝鮮の神話は極めて類似性がある。
玄界灘を隔てて隣り合っている国ですから共通性がある。
日本の神話と朝鮮の神話には共通性がある。

比較というのは似ている点だけをすることではない。どこがどう違うかということを正しく理解することが極めて重要です。朝鮮の文化と日本の文化のどこが共通しているか。

日本の中に朝鮮の文化がこんなにたくさんある。
遺跡めぐりをしても朝鮮の文化が各地にある。
それにあわせてどこがどう違うかという、共通性だけでなく独自性も見ていないと、本当の友好、連帯はできない。全く同じだったら改めて勉強する必要はないんです。キムチと漬物の文化とは違うじゃないですか。

なぜ違ってきたのかを正しく理解しなければ、本当の連帯はできない。同じだと言ってばかりいると「日鮮同祖論」になる。祖先は同じなんだから日本に朝鮮が併合されてももとは一緒ではないかという論理と類似のものになってくる。どこがどう違うかということだけを言っていても具合悪いんですね。共通性と独自性の両方を理解することが必要だと思います。


 書かれた日本の神話と、書かれた朝鮮の神話の決定的に違うところが三つあります。それも知っておく必要がある。

クシの峰、天降った山の名は類似している。

けれども、日本の神話では「荒ぶる神」がいた。降ってきて平定するんです。

高天原から降って「言向和平」する。


朝鮮の神話では違う。民衆が

「どうか神様降ってください」

とお祈りすると降ってくる。 [史料4]「又曰 

皇天所以命我者 御是處 惟新家邦 為君后為茲故降矣 称須掘峯頂撮土 歌之云 亀何亀何」。

もしもし亀よ亀さんよと歌うわけです。

「首其現也 若不現也 燔灼而喫也」。

亀さんの姿を現せ、そうでなければ焼いて食べるぞと。民謡だと思います。

「以之踏舞 則是迎大王・歓喜踴躍之也」。

神が降ってきたといって民衆が喜び、踊り回る。

「歓喜踴躍」する。すばらしいシーンです。


 朝鮮の高句麗や百済、伽耶の神話の場合は卵が天から降ってきて、それが割れて中から誕生する。卵から生まれるという卵生型は日本の神話にはありません。

 そして朝鮮の神話ではお供を連れて天降ってこない。単独降臨です。

日本ではお供の神様がついてくる。

アメノコヤネの命は中臣氏の祖先です。瓊瓊杵尊と一緒に天降ってくる。

後の天皇家の周辺の有力貴族の祖先も一緒に天降ってくる。
朝鮮には檀君神話を除いて随伴神伝承はないんです。
後の時代はお供が増えますが。そのように内容が違う。


 もとは共通であったはずの朝鮮と日本の神話がなぜこのように違ってきたのか。

語られた神話、『古事記』『日本書紀』に書かれる段階で、すでに我が国には天皇制があった。

天皇制を背景にできあがった『古事記』『日本書紀』の神話に対して、朝鮮の場合は貴族の合議制。王者はいるのですが、貴族が合議しながら政治をやる(和白制)。

よりデモクラティックな民主的な要素の強い朝鮮社会と、我が国のように天皇制を中心にする社会体制ができあがっている。記録化の背景が違ってくる。社会の仕組みが違うので神話の内容も専制的なものになっていく。極めてデモクラティックな朝鮮との違いができたのではないかというのが私の説です。文庫本(日本の神話を考える)をお持ちの方もおありのようですが、そこにも詳しく書いておりますので参考にして下さい。


 韓国、朝鮮は日本と最も近い国です。善隣友好、隣と仲良くできなくて、どうしてアメリカ、ヨーロッパと仲良くできるか。近くで対立しているようでは、国際化日本にはなれないと思います。そのためには日本の文化と韓国、朝鮮の文化のどこが共通しているかを確かめると同時に、なぜこんなに違ってきたのかということを相互に詳しく理解しなければ本当の信頼関係は生まれないと思います。国際化ということは、相手を知ることがまず第一です。

我々が朝鮮の文化、朝鮮の歴史、朝鮮の生活を知る。そして己を知る。自分を知る。日本人が日本を知らなくて国際化なんてできません。在日の皆さんもそうです。朝鮮の皆さんが朝鮮のことを知らなくてどうして国際化ができますか。朝鮮民族が日本のことだけを知っているのではなく、己を知ることも大事です。いかに友好の関係史があったか。そのことにあわせて極めて不幸な侵略の歴史、大変なご迷惑をかけた、拭うことのできない歴史も忘れてはなりません。

共通の認識と共にどこがどう違うか。異質性、独自性の認識が正しい理解を生むのだと思います。共通性もありますが、違う点もあることをよくご理解いただきたいと思います。以上で終わらせていただきます。

ご静聴ありがとうございました


質問 三つだけ教えてください。

@神話は科学的に実証することができるかどうか。
A真床追衾(まとこおふすま)について。
B邪馬台国について。


上田 神話を正しく理解するには書かれた神話、記録化した時にどこにどう手を加えたということを知ることが大事です。原像を復元することはむずかしいと思います。しかしその作業をなおざりにはできません。

 2番目の真床追衾。マは形容語で、寝床の床です。高御座の台です。
被りものを被って降臨する。オブスマは被りもの。スマは中が空洞になっているものです。

 3つ目に邪馬台国、卑弥呼の時代は3世紀前半です。
邪馬台国は私の考えでは前期邪馬台国と後期邪馬台国に二つに分けて考えられる。

後期邪馬台国は畿内の大和だと思います。前期は九州だと考えています。

講談社学術文庫『大和朝廷』に私の説が書いてありますのでお読みください。大王家の祖先は邪馬台国の卑弥呼になるのですが、神武天皇が北九州から入ってくる。北九州から大和に入ってくる伝承を全くの架空とは断言できない。西から東に王権が移ったということがあったに違いない。考古学は1、2世紀の文化は畿内大和より北九州の方が進んでいる。3世紀では畿内大和が進んでいる。

弥生時代の前期は九州の方が進んでいる。弥生時代後期は断然大和が進んでいる。2世紀後半に遡る可能性がある。最近は畿内説の方が調子がいい。畿内説から九州説に寝返った人もいるが、私は一貫して畿内説ですが、生え抜きの畿内ではない。邪馬台国後期の畿内論です。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/kouzaueda.html


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「朝鮮隠し」 と 「日本神話」

「白村江の戦」で新羅に破れ国を追われた百済人は、故郷を追われた怨念もあったであろうか、追われた身としてではなく「天から降臨した神の子」として新天地づくりに熱情を傾けた。自分たちの国として、自分たちの位置づけを明確化し、故郷に対する優越意識を高めるために、「朝鮮隠し」なるものを発揚させたのである。

「日本」という国号を作り、「我々は日本人である」という意識高揚が、現日本人の祖先の位置づけを曖昧化させた。朝鮮系の地名・人名を変え

加羅→唐 高麗→呉 金→今、

その風潮は1300年経った現在も消えず、朝鮮の痕跡を顕在化させまいとする歴史が今でも点灯している。


「日本神話」の真実

ソウル市内の国立中央博物館で韓国の「檀君神話」 と「日本の建国神話」 を比較考察する学術会議が開催されたとき、アジア史学会会長 上田正昭氏の論文が事前公開された。その際、上田氏の

「天孫が空から降りる韓国と日本の神話には類似性が多い」

という記述に注目が集まったという。日韓の神話を比較研究してきた上田氏は、

日韓の天孫は山頂に降臨しており、共通点が多い

と主張。百済の神の存在が、日本で継続的に命脈を受け継いできたと指摘しているという。


日本の建国神話は、韓国の「檀君神話」の影響を大きく受けており、この事実は韓国だけでなく日本史学界でも認められているという。「日本神話」は、主に八世紀初めに書かれた「記紀」の記述がもとになっている。

この説は、「駕洛国記」による韓国の降臨地「亀旨kuji」と「記紀」による降臨地「久志」の音がそっくりであることからも否定できないという。


日本にも朝鮮にも、「仏教」以前から「神道」が存在している。

「神道」は、朝鮮半島の古代文化を形成した北方民族 (騎馬民族) のシャーマニズムに由来すると言われている。北方民族のシャーマニズムは「天孫降臨神話」をもっており、「天孫降臨神話」が日本にも朝鮮にもあるということは、騎馬民族によって形成された朝鮮文化の流れに日本も乗っていることになる。

弥生時代から急増した朝鮮渡来人が、倭国へ「神道」をもちこんだのはごく自然な流れだろう。


梅原猛は「芸術新潮(2009年)」の大特集「古代出雲王朝」で、

「日本書紀の記録や出雲で発見された古墳・遺跡・大社の社などから判断すれば、

スサノオは朝鮮半島から出雲へ来た

という説が正しい。スサノオがヤマタノオロチを切った刀は韓鋤の剣であることからしても、スサノオが韓国から来た神であると考えるのが最も自然であろう。

スサノオに始まる出雲王朝には朝鮮の影が強く差している。」

と述べている。さらに、梅原猛は、著書『葬られた王朝―古代出雲の謎を解く』で、

「出雲王朝の創立者は韓国系と考える。

その証拠に出雲王朝の遺跡から銅鐸が出てきた。
銅鐸の起源は韓国の貴族が双馬馬車につけていた鈴だ。
スサノオが韓国からきたとする説はますます有力になっている。
新しい日韓関係を見せてくれる。韓国に注目しなければならない。
古代日本にとって、韓国は文明国であったし、さまざまな文化を伝えてくれた。」


と述べている。


出雲市の斐伊川の上流に「鳥髪」という所がある。

市町村合併によりその地名なくなったが、奥出雲の「鳥上小学校」「鳥上公民館」の「上 かみ」は「髪」の音から転用した語である。

AD四世紀ごろ スサノオは韓国の「소머리 somoli 牛頭」から奥出雲の「鳥髪(とりかみ)」へ渡来し、「たたら流し」のリーダーとして名を成した人であるという。

スサノオは砂鉄によって「草薙の剣」を作った偉人という伝説があり、「草薙の剣」はヤマタノオロチの尾にあった剣のことである。「記紀」の神話を書く際に、フィクションのモデルにされたのはスサノオであろうという説がある。奇妙に思うかもしれないけれども、

「記紀」を書いたのは渡来人(主として百済のエリート)であり、「記紀」が書かれるより300年前の伝説の人 スサノオも渡来人である。

「日本神話」の成立についてのこのような話は、現在の日本人にとって想像を超えた物語に聞こえるだろう。


「소머리 somoli 牛頭」と「鳥髪(とりかみ)」は同じ言葉で、「소 so 牛」が「새 se 鳥」に転訛し、「머리 moli 頭 髪」は「鳥髪」の「髪」と同じ言葉であるという。

スサノオが天から降りて来たという神話は、朝鮮の「天孫降臨神話」を模したものでフィクションに過ぎない。このような真実を、馬鹿馬鹿しい想像によるものであると影に移し、「記紀」が書かれて1300年たった現在ですら「スサノオ」と「ヤマタノオロチ」は日本神話の真髄である。朝鮮の影が映っている歴史は影に過ぎないと追跡せず、朝鮮由来の歴史は朦朧と曖昧化されている。従って、日本の古代史の書籍には「謎である」という解釈が目立ち、日本語のルーツは明治以来150年にたってもわからないのだから、今後も「謎だらけ」であろうと豪語する学者らしき人の書籍が店頭を飾っている。
http://japanese130.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-1eca.html


[庚戌国辱100年紙上座談会・上]韓日元老6人が100年を論ずる
◇古代からの韓日交流史 2010年04月14日 中央日報/中央日報日本語版

−−韓国と日本は古代からさまざまな交流をしてきた。 お互いどんな影響を及ぼし合いながら現在の社会文化を形成してきたと考えるか。

梅原猛=中国の先進文化は韓国を経由して日本に入った。
私は今月、『葬られた王朝―古代出雲の謎を解く』という本を出すが、

出雲王朝の創立者は韓国から来たと考えている。

『日本書紀』に多くの文書があるが、そのうち3つの文書は‘韓国系’と把握している。 これは新しい考えだ。

弥生(BC200−AD300)時代には日本海(東海の日本式表現)側が日本の中心部だった。 したがって越の国、今の新潟県から移ってきた国が出雲を支配していたが、韓国から来たスサノオ(日本神話の人物)が出雲を越の国の支配から独立させた。

出雲王朝の創立者は韓国系と考える。

その証拠に出雲王朝の遺跡から銅鐸が出てきた。 大和王朝の鏡に代わるものだ。 銅鐸の起源は韓国の貴族が双頭馬車に付けて入った鈴だ。

(神話に出てくる)スサノオが韓国から渡ってきたとする説はますます有力になっている。

新しい日韓関係を見せてくれる。 韓国にまた注目しなければならない。 古代日本にとって韓国は文明国であったし、さまざまな文化を伝えてくれた恩人だった。

朴泰俊(パク・テジュン)=古代韓国は日本に文明を伝授した。
ポスコがある迎日湾の村には、『三国遺事(サムグクユサ)』に記録されている新羅時代の「延烏郎細烏女」という夫婦の話が伝えられている。

この夫婦が日本に‘太陽と月’(光)を伝え、王と王妃に推戴されたという話だ。

‘光’は文明を意味する。

1973年に迎日湾には日本の協力で新しい‘光’が誕生した。 溶鉱炉の光、すなわち浦項製鉄だった。 迎日湾を背景に両国間でやり取りした‘光’の話は、両国関係の未来を照らす灯火と考えてもよい。 韓日間には日本の侵略と植民地という痛ましい歴史もあったが、お互い助け合いながら発展した時期も多かった。
http://japanese.joins.com/article/246/128246.html?sectcode=&servcode=A00


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2017-05-31 日本神話=朝鮮神話
http://japbuster.hatenablog.com/entry/2017/05/31/092557

日本人が天から舞い降りた民族でもなければ日本から生えてきた民族でも無い以上日本人はどこからかやってこなければならない。そしてそれは間違いなく朝鮮半島であった。日本神話は確実に朝鮮神話に源流を持つ。日本神話で有名な八咫烏も高句麗のシンボルである。

↓高句麗の壁画に描かれた八咫烏

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八咫烏とは、当社の主祭神である家津美御子大神(素盞鳴尊)のお仕えです。 日本を統一した神武天皇を、大和の橿原まで先導したという神武東征の故事に習い、 導きの神として篤い信仰があります。

八咫烏について - 熊野本宮大社 | 公式サイト

平安から鎌倉時代にかけて皇族や貴族から篤い信仰を受けた熊野神社の主祭神は朝鮮半島ソシモリ出身のスサノオであり、そのお仕えである八咫烏は高句麗のシンボルである。熊野神社は高句麗系渡来人の神社であったのだろう。スサノオは朝鮮半島のソシモリから虵の韓鋤の剣を携えやってきてヤマタノオロチを退治した。「虵の韓鋤の剣」は間違いなく朝鮮製の剣であろう。ヤマタノオロチは蛇である。日本の古くからの信仰は蛇信仰である。蛇信仰は注連縄や鏡餅や土器などに見ることができる。脱皮し永遠の命を持つと思われた蛇は信仰の対象であった。その蛇を朝鮮半島からやってきた神が朝鮮製の剣で退治したヤマタノオロチの神話は示唆的である。これは渡来人が蛇信仰の土着倭人を殺戮した歴史では無いだろうか。

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古神道とはどのようなものか考えたときそれは原始的なアニミズムであっただろう。その特徴を色濃く残す神社と言えば諏訪大社である。諏訪大社の巨木信仰はまさにアニミズムだろう。また諏訪大社ではソソウ神という蛇神やミシャグジ神を祀っている。柳田国男もこれを先住民族の信仰と考えた。諏訪大社の主祭神は建御名方神と八坂刀売神である。建御名方神といえば国譲り神話でこっぴどくやられた神であり八坂刀売神は記紀神話には存在しない諏訪土着の神である。おそらく土着の倭人が朝鮮系の民族に追いやられた歴史を反映していると考えられる。縄文の信仰を残す諏訪大社と国を譲らざるを得なかった神。偶然の取り合わせでは無いだろう。実際縄文系のDNAは日本の周縁へと追いやられている。朝鮮系渡来人である弥生系DNAは日本の中心に分布している。

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古神道を考える上で忘れてはならないのが出雲大社である。記紀の3分の1の記述は出雲のものであり、全国にある8割の神社には出雲系の神が祭られているという。間違いなく古神道といえるだろう。出雲大社の主祭神は大国主大神である。国譲りで国を明け渡さなければならなくなった神であり、大和へその地位を譲らなければならなかった古代出雲文明の神であろう。事実、大国主神は祟り神として知られている。大国主神は国津神の主祭神であり土着の神である。大国主神もまた縄文系の土着の倭人の神であろうか。出雲大社にも流れ着いた海蛇を祀る風習があるという。古代の蛇信仰も色濃く残した神社である。研究によれば出雲の人々のDNAは朝鮮人や中国人とは違うようだ。やはり出雲大社は土着の倭人の神社であるように思われる。

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比較的新しい信仰が天照大神信仰であろう。天照大神は天津神である。渡来人の神であろう。天照大神は機織りや稲作を行う記述があることからも渡来人であることが伺える。天孫降臨神話においても天照大神の孫にあたる瓊瓊杵尊は「この地は韓国に面して、笠沙の岬にも通じており、朝日と夕日が照らす素晴らしい土地である」と発言したように、朝鮮半島との関係をうかがわせる。天照大神は皇室の祖神であり、国家神道の主祭神である。大化の改新の後に皇祖神となったと言われている。持統天皇が日本書紀を編纂させた。その日本書紀が天照大神に特別な地位を与えたと言われている。
http://japbuster.hatenablog.com/entry/2017/05/31/092557


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朝鮮と日本の神話の類似性
上田正昭 京都大学名誉教授(2002年1月26日 講演記録より)

百済の国は朝鮮半島南部の西側、忠清南道の方です。百済の都は最初はソウルにあったんです。漢城という。南に遷都せざるをえなくなって公州(熊津)へ行く。そこからまた都を移って扶余(泗沘)に移る。

百済の故都はソウルです。百済の古い歴史を調べようとするとソウルの周辺を調査しないとわからない。

百済の建国の始祖は高句麗の神話と同じで、新笠の伝記の最後に都慕王(朱蒙)の子孫でお母さんは河の神の娘であると書いてあります。

新笠の伝記の中に書いてある神話は高句麗の朱蒙の神話なのです。


 共和国と韓国が分かれるのは北方は狩猟民が多くて、南方は農耕民族だと。そもそも民族が違うのだという南北分断を合理化するような説がありますが、それは大きな間違いです。

同じ神話を持っているわけです、南の百済と北の高句麗は。

伽耶という国、慶尚南道の方です。釜山から大邱にあった国です。始祖は首露という。

 「三国遺事」。13世紀の半ばに編まれた史書です。

そこに「駕洛国記」という伽耶の国の歴史を書いた文章が引用してあります。

伽耶の国の建国神話があります。[史料4]

「後漢世祖光武帝」「建武十八年」は紀元36年。「壬寅三月禊浴之日」。

禊ぎを3月にやっている。雛祭りの日です、3月の節句。中国の春禊の風習は朝鮮半島にも入っています。禊ぎの日に神様が降臨してくる。

「所居北亀旨(クシ)」。

今も首露を祀っている廟があります。

「有殊常聲気呼喚。衆庶二三百人集会於此」。

変な声が聞こえてきたので村人が峰に二、三百人集まった。人の声のようなものがするけれども、形は見えない。ここに人ありや否や。

「九干等云 吾徒在 又日 吾所在為何 對云亀旨」

と言ってお降りになった。これは伽耶の国の降臨神話です。


 天降りの神話です。そこで『古事記』(上巻)に[史料1]

「故爾に天津日子番能邇邇藝命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて伊都能知岐知和岐弓、天の浮橋に宇岐土摩理、蘇理多多斯弖、竺紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降りまさしめき」。

高千穂の峰と書けばいいのにわざわざ古事記は「久士布流」という形容をしている。亀旨と同じです。高千穂の峰にクシという言葉がついている。

 「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞来通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」

という言葉があります。

 高千穂伝承には[史料2]

「筑紫の日向の高千穂の槵觸峰」

「日向の槵日の高千穂の峰」

「日向の襲の高千穂の槵日の二上峰」。

いずれもクシという字があります。

朝鮮の神話と日本の神話に類似性があることを教えてくれます。

それだけではなく

「日向の襲の高千穂の添山峰」。

それを『日本書紀』(巻第二)[史料3]では「曾褒理能耶麻」と云ふ。
わざわざ「そほりの山」と読むと書いてある。

朝鮮半島では聖なる場所のことを「ソホリ」と言う。
韓国の都をソウルというのは聖なる場所という意味なんです。

『三国史記』には百済の最後の都・泗沘(シヒ)のことを所夫里(ソホリ)といっています。
高千穂の聖なる山ということが朝鮮の言葉のソフルと記されています。

天から神が降りてくる、その場所をクシとかソホリという言葉を使っていることに注目して下さい。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/kouzaueda.html


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高天原故地碑

高天原故地碑(たかまがはらこちひ)は、大韓民国慶尚北道高霊郡の加耶大学校内にある石碑。日本神話の天津神が住む高天原は、ここであると記されている。


慶尚北道 高霊郡 地図
https://map.konest.com/daddr/4783034032


高天原は実在の地域を反映しているとする説は古くから存在し、第二次大戦後は主としてアマチュア研究家によって朝鮮半島説も唱えられることがあった。当初その比定地とされたのは、戦前から一部の研究家によってスサノオが立ち寄ったという新羅のソシモリの候補とされた、『冬のソナタ』のロケ地として知られる江原道春川市であって、慶尚北道高霊郡ではなかった。


春川に代わって名乗りをあげたのが高霊郡であった。加耶大学校の李慶煕総長がこの説の主唱者で、1999年6月28日に「高天原故地」と記された石碑が建立された。


李慶煕の主張


この節に雑多な内容が羅列されています。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか、または整理・除去する必要があります。(2010年10月)


李慶煕総長の主張によると

高皇産霊尊は、高と霊の字が含まれるので、高霊郡で誕生した[1]。

東国與地勝覧に書かれている伽耶の天神夷毗訶の次男伊珍阿豉(イジンアシ)はイザナミと発音が似ている。そのため、伊珍阿豉はイザナミである。

任那の任は現代の韓国語で「主人」「母」を意味する。そのため、任那は『主人の国』や『母なる国』を意味する。

高千穂の添山(そおりやま)は韓国の首都ソウルと発音が似ている。そのため、添山はソウルを指す。


と、いうことだそうである。

これらの主張は、2001年に訪韓した筑波大学の馬渕和夫名誉教授らの賛同を得ている。このとき、馬渕教授は李総長の主催する学会で「朝鮮民族が日本を征服し大和王朝を建てた」と発表している[2]。


脚注

1.^ 以下、特に論評はしない。
2.^ 『韓国 堕落の2000年史―日本に大差をつけられた理由』 加耶大学校客員教授 崔基鎬 著
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%A4%A9%E5%8E%9F%E6%95%85%E5%9C%B0%E7%A2%91


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10. 2013年7月13日 17:47:40 : WUs3UH3xVg

天皇のルーツが渡来系である可能性は昔から指摘されています。

これは近代国家の枠組みから外れるために、社会一般にも研究者間でもある種のタブー、
として扱われていた事は、昭和の時代から存在していました。
例としては、天皇家の埋葬が土葬で、朝鮮式の埋葬法で古墳と似て山のような
盛り土である事は知られています。
古い時代の古墳が調査禁止となっているのは、そこから物的証拠が出てくるからです。

それは何を意味するかというと、大陸との繋がりを示すからですね。
終戦直後の占領軍はそうした調査を行ったようですが、現在は出来ない。
宮内庁が許可しないでしょうから、ですね。
当時の認識として、日本を象徴する人物が海外に関係していたとするならば、
それは多くの人の混乱を招いたでしょうから簡単には認められない問題でしょう。


日本という国が単一民族ではない、という点もその通りです。
日本が単一民族といった概念を採用したのは近代国家の枠組みが成立する過程で
生み出された概念に過ぎません。
現実は違い、古来から移民の国として存在する、というのが正しいです。


民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の
小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯である
ために容易に近づく事は出来ないだろう、同行した当時KCIA局員の話としては、
そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ
「知らない方が良いこともあるのだ」と答えたという研究者の話が伝わっています。

この話はあるメディアに流れました。

38°線付近の集落という事は、朝鮮半島の南北の中間点であるので、
仮にこの付近が関連する村であると、南だけではなく北とも天皇は接点を持つ
可能性が浮かび上がります。

(私の直感として、天皇と北の接点が存在した場合に拉致問題と関係して
いなければ良いなあ、と思うのですが、、、、、気にしすぎでしょうかね)

こうした話題はタブーに属するので、ある種のオルタナティブメディアで
爆弾発言として現れる事も当時としては多かったように思います。

天皇が戦争とどう関わったかについては、総括することは必要だという考えは
理解しますが、
戦前の体制や、戦後の状況からいっても、昭和の時代、平成一桁の時代において
戦争経験者が多く存在する時代ですし、
天皇制や天皇と戦争との関連を法的に取り扱う事は、容易ではない
といえるでしょう。

そうした意味では、棄却理由は無理があるとはいえ裁判所が天皇の戦争との関わり
以外に出自等歴史的タブーに絡み、歴史に挑戦するというのも難しいので、
棄却は無理も無いといえるでしょう。
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/523.html

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hoh********さん 2016/2/13 01:29:09

神武東征は実際にあったとすれば、西暦何年頃の出来事だと思いますか?


pin********さん 2016/2/13 21:23:55

「日本書紀の神武紀」を見ると、彼らは、大阪湾までやってきて、「登美のナガスネヒコ」との戦闘の時に、舟で日下の蓼津(現在の東大阪市日下町付近)まで進出して来ます、そこでの戦闘で、兄の五瀬命が負傷したので、南方(現在の大阪市淀川区西中島南方付近)を舟で経由して撤退し血沼海(茅渟海、大阪湾)に出たとの記述があります。

現在の地形では、「蓼津も南方」も陸地で、舟で到達したり通過したりすることができません。

でも、250年から300年頃の弥生時代の後半には、大阪湾の奥に河内湾というのがあり、この二つの湾を分断するような半島状の地形(片町台地)の先端部分が開いていて、海水が河内湾にも流入していたのです。

その後、堆積物によりふさがって河内湖になり、ふさがったところが「南方」です。

このように、「神武」が東征してきた時の状況がリアルに伝えられていますので、時期としては、250年から300年ごろのことだと考えられます。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13155826588


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文献は語る −日本神話

1.天孫降臨


天孫降臨の話は、基本的には高天原の神々がその直系の神を高天原から地上の世界へ降ろし、地上を支配していた国津神たちから国土を譲り受ける、あるいはそのまま支配する話なのだが、これは以下のような構成になる。

(1)天菩比神と天若日子の派遣
(2)建御雷神と事代主・建御名方神の交渉
(3)迩迩芸命の降臨
(4)迩迩芸命と木花之咲夜姫

このうち(1)、(2)はオオクニヌシの支配する葦原の中津国、すなわち出雲地方のことで、この物語は天孫降臨よりも、「出雲の国譲り」としてのほうが知られている。しかしこれも意味合いから言えば天孫降臨である。「国譲り」とはぶんどった方の呼び方であって、取られた方からすれば略奪であり、占領である。

難波や日向に天下った際には特別な記事はないのに、出雲だけ何故建御名方神が抵抗したのか。おそらく、当時の国々の中では出雲だけが、高天原(天津神(渡来して北九州にいた集団)たちの国)に抵抗できるだけの体制(軍備・文化・技術等々)を持っていたからに相違ない。これは、出雲が北九州とは独立して、遙か昔からの先進文化を受け入れていたことを示している。

葦原中国を平定後、アマテラスは最初、我が子天之忍穂耳命(オシホミミノミコト)に、葦原中国を統治するように命じたが、オシホミミノミコトに子が生まれ、アマテラスは、その子番能邇邇藝(ホノニニギノミコト)を降臨させる。 最初命を受けたオシホミミノミコトが、降臨の役目を辞退してしまうのはなぜかよくわからない。アマテラスは、天児屋命(アメノコヤネノミコト)、布刀玉命(フトダマノミコト)、天宇受売命(アメノウズメノミコト)、伊斯許理度売命(イシコリドヒメ)、玉祖命(タマノオヤ)を孫のニニギノミコトに付けて、共に地上に行くように命じ ニニギノミコトに、八尺の勾玉(ヤサカノマガダマ)、八尺鏡(ヤタノカガミ)、そして草薙剣(クサナギノツルギ)を授ける。更に、思兼神(オモヒカネノカミ)、天手力男神(タヂカラヲノカミ)、天石門別神(アメノイハトワケ)、らにニニギノミコトと一緒の天降りを命じた。ニニギノミコトには、

「この鏡を私の魂と思って、私の前で拝むような気持ちでいつも敬うように」

と下命した。一行の降臨を国津神の猿田彦神(サルタヒコ)が待ち受けていた。こうして、ニニギノミコトは、高天原を離れ、随行する神々と、途中、天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の峰に天降った。

この地は韓国に向き、笠沙の岬にまっすぐ道が通じていて、朝日がまぶしくさす国であり、夕日が明るく照りつける国でもあった。ニニギノミコトはここに宮殿を造るが、ニニギノミコトが天降った高千穂という伝説地は、宮崎県西臼杵郡高千穂町と宮崎・鹿児島両県にまたがる高千穂峰が有名である。天孫降臨の話は、古事記と日本書紀では若干違っており、日本書紀では本伝のほかに多くの異伝を伝えている。天上から地上への降臨による地上支配の発生という神話は、東アジアを中心にして多くの民族に共通し、それらを北方的な要素とみなす見解もある。 天孫降臨のあとは、いわゆる日向神話における山幸彦・ウガヤフキアヘズ命の誕生を経て、初代神武天皇へと直結する。


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古事記での「天孫降臨」


故爾に天津日子番能邇邇藝命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて、伊都能知和岐知和岐弖、天の浮橋に宇岐士摩理、蘇理多多斯弖、竺紫(=筑紫)の日向の高千穂の久士布流多氣(くじふるたけ)に天降りまさしめき。故爾に天忍日命、天津久米命の二人、天の石靫を取り負ひ、頭椎の大刀を取り佩き、天の波士弓を取り持ち、天の眞鹿兒矢を手挾み、御前に立ちて仕へ奉りき。故、其の天忍日命、天津久米命是に詔りたまひしく、

「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞來通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」

と詔りたまひて、底津石根に宮柱布斗斯理、高天の原の氷椽多迦斯理て坐しき。
(倉野憲司・武田祐吉校注「古事記・祝詞」岩波書店、1993年)


日本書紀での「天孫降臨」

「時に、高皇産靈尊、眞床追衾を以て、皇孫天津彦彦火瓊々杵尊に覆ひて、降りまさしむ。皇孫、乃ち天磐座を離ち、且天八重雲を排分けて、稜威の道別に道別きて、日向の襲の高千穂峯(たかちほのたけ)に天降ります。既にして皇孫の遊行す状は、くし日の二上の天浮橋より、浮渚在平處に立たして、そ宍の空國を、頓丘から國覓き行去りて、吾田の長屋の笠狹碕に到ります。」
(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注「日本書紀 上」岩波書店1993年)

(注;)日本書紀では複数ヶ所に「天孫降臨」が記されている。すべて「一書に曰く」という引用によるものであるためそれぞれに表現が異なっており、天孫降臨の地も上記「高千穂峯」の他に「くしふるの峰」「二上峰」「添(そほり)の山の峰」などと記されている。


日向國風土記逸文での「天孫降臨」

「日向の國の風土記に曰はく、臼杵の郡の内、知鋪(=高千穂)の郷。天津彦々瓊々杵尊、天の磐座を離れ、天の八重雲を排けて、稜威の道別き道別きて、日向の高千穂の二上の峯に天降りましき。時に、天暗冥く、夜昼別かず、人物道を失ひ、物の色別き難たかりき。ここに、土蜘蛛、名を大くわ・小くわと曰ふもの二人ありて、奏言ししく、「皇孫の尊、尊の御手以ちて、稲千穂を抜きて籾と為して、四方に投げ散らしたまはば、必ず開晴りなむ」とまをしき。時に、大くわ等の奏ししが如、千穂の稲を搓みて籾と為して、投げ散らしたまひければ、即ち、天開晴り、日月照り光きき。因りて高千穂の二上の峯と曰ひき。後の人、改めて智鋪と號く。」
(秋本吉郎校注「日本古典文学大系2 風土記」岩波書店)


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梅原猛は、この神話は一般に「天孫降臨」として知られるが、最初は「天子降臨」だったのではないか、という指摘をしている。この神話の原典は古事記・日本書紀・万葉集だが、万葉集が一番古い資料で、古事記・日本書紀では確かに 「天孫降臨」になっているが、万葉集では『日の皇子』という表現になっていて、『皇孫』ではない。そこで梅原は、万葉集の原型が作られたのが、まだ持統天皇の子供の草壁皇子が生きていた頃で、その後草壁皇子が早死にしてしまい、持統天皇は孫の軽皇子(後の文武天皇)に位を譲るべく活動していた時に、この孫に国を治めさせるという話が成立したのではないか、としている。なかなか興味深い推察である。


天孫が降臨した「高千穂」を巡っても諸説ある。古事記では、竺紫(=筑紫)の日向の高千穂の久士布流多氣(くじふるたけ)、日本書紀では「一書に曰く」と諸説あるため、高千穂峯(たかちほのたけ)、久志振流岳(くじふるだけ)などに降臨した事になっているが、宮崎県の高千穂町と、鹿児島の霧島山系・高千穂の峰が「高千穂峯」の本家争いをしているのは有名な話である。しかしその「くじふるだけ」という呼び方から、大分県の「久住岳」(くじゅうだけ)と言う意見もあるし、福岡県の英彦山には、天忍穂耳神が降臨されたという伝説があり、農業や鉱業などの守り神として今も信仰されている。


本居宣長(1730年〜1801年)は、高千穂は二説あり、どちらか決めがたいと言っている。「彼此を以て思へば、霧嶋山も、必神代の御跡と聞え、又臼杵郡なるも、古書どもに見えて、今も正しく、高千穂と云て、まがひなく、信に直ならざる地と聞ゆれば、かにかくに、何れを其と、一方には決めがたくなむ、いとまぎらはし。」(『古事記伝』十五之巻)

 
また宣長は、二説併記のみならず、移動説も提示している。「つらつら思ふに、神代の御典に、高千穂峯とあるは、二処にて、同名にて、かの臼杵郡なるも、又霧嶋山も、共に其山なるべし、其は皇孫命初て天降坐し時、先二の内の、一方の高千穂峯に、下着賜ひて、それより、今一方の高千穂に、移幸しなるべし、其次序は、何か先、何か後なりけむ、 知るべきにあらざれども、終に笠沙御崎に留賜へりし、路次を以て思へば、初に先降着賜ひしは、臼杵郡なる高千穂山にて、其より霧嶋山に遷坐して、さて其山を下りて、空国を行去て、笠沙御崎には、到坐しなるべし」
(『古事記』十七之巻)


前出梅原猛氏は、「天皇家の“ふるさと”日向をゆく 新潮社刊」の中で、この本居宣長説について、ニニギノミコトが稲作技術を持って笠沙御崎に上陸したが、シラス台地は稲作に適した場所ではないため、弥生時代中期から後期頃に臼杵郡の高千穂に入り、西都から霧島へ移動したのではないかとこの説を補強している。

2000年9月14日(木)から17日の間、第38回歴史倶楽部例会で、「南九州/神話・遺跡の旅」と称して、宮崎神宮・西都原古墳群・高千穂町・上野原遺跡・橋牟礼川遺跡・水迫遺跡などを廻ってきた。高千穂町はほんとに山深い鄙びた町である。こんな所に神々が降ったとは一寸思えない。しかしそれは、一大生産地としての観点から見ればであって、神話に言うただ降りてきただけの「降臨の地」とすれば納得できない事ではない。山深い幽玄な雰囲気はそれを十分感じさせるだけの説得力を持っている。だが神話を離れて、外来民族か或いは他地方からの民族移動を「天孫降臨」だとすれば、この地はあまりに辺境すぎる。あまりにも山の中である。天孫ニニギの尊が、「葦原の中つ国」を治めるために降りて来るには一寸ばかり山峡すぎる。日向に三代に渡って住んだと記紀は書いているが、高千穂から日向の国へ移ったという記述はない。とすれば、降りてきた高千穂にニニギニミコト、ウガヤフキアエズ、カンヤマトイワレビコと三代住んだと考える方が自然だろう。それにしてはここはあまりにも山の中である。ここでは東に良い国があるなどという情報も到達しないのでは、と思える程辺境だ。


(以下古事記による。)

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爾くして、天照大御~・高木の~の命(みことのり)以ちて、太子(おおみこ)正勝吾勝勝速日天忍穗耳(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみ)の命に、

「今、葦原中國を平らげ訖(おわ)りぬと白す。故、言依(ことよ)」

さし賜いし隨(まにま)に降り坐して知らせ」

と詔りき。爾くして其の太子正勝吾勝勝速日天忍穗耳の命、答えて、


「僕、將に降らんと裝束(よそ)える間に、子、生まれ出でぬ。 名は天邇岐志國邇岐志(あめにきしくににきし)天津日高日子番能邇邇藝(あまつひたかひこほのににぎ)の命、此の子を降すべし」


と白しき。 此の御子は高木の~の女、萬幡豐秋津師比賣の命に御合して生める子、天火明(あめのほあかり)の命、次に日子番能邇邇藝の命【二柱】也。是を以ちて白しし隨に、日子番能邇邇藝の命に科(おお)せて、「此の豐葦原水穗の國は汝が知らさん國と言依さし賜う。


故、命の隨に天降爾くして日子番能邇邇藝の命、將に天より降らんとする時に、天之八衢(あめのやちまた)に居て、上は高天原を光し、下は葦原中國を光す~、是れ有り。故、爾くして天照大御~・高木の~の命以ちて、天宇受賣の~に、

「汝は手弱女人(たわやめ)に有りと雖も、伊牟迦布(いむかふ)~と面勝(おもかつ)~ぞ。故、專(もは)ら汝往きて將に、

『吾が御子の天降らんと爲す道に、誰ぞ如此して居る』と問え」

と詔らしき。 故、問い賜いし時に答えて、

「僕は國つ~、名は猿田毘古(さるたびこ)の~也。出で居る所以は、天つ~の御子、天降り坐すと聞きし故に、御前に仕え奉らんとて參い向い侍る」

と白しき。


爾くして、天兒屋(あめのこやね)の命・布刀玉(ふとだま)の命・天宇受賣(あめのうずめ)の命・伊斯許理度賣(いしこりどめ)の命・玉祖(たまのおや)の命、并せて五伴緒(いつとものお)を支(わか)ち加えて天降しき。是に其の遠岐斯(おきし)、八尺勾(やさかのまがたま)、鏡、及び草那藝の劍、また常世思金の~、手力男の~、天石門別(あめのいわとわけ)の~を副え賜いて詔らさくは、

「此の鏡は專ら我が御魂と爲て、吾が前を拜むが如く伊都岐(いつき)奉れ。次に思金の~は前の事を取り持ちて政を爲せ」

と、のりき。此の二た柱の~は、佐久久斯侶伊須受能宮(さくくしろいすずのみや)を拜み祭る。次に登由宇氣(とゆうけ)の~、此は外宮の度相(わたらい)に坐す~也。


次に天石戸別の~、またの名を櫛石窓(くしいわまど)の~と謂い、またの名を豐石窓(とよいわまど)の~と謂う、此の~は御門の~也。次に手力男の~は佐那縣(さなあがた)に坐す也。故、

其の天兒屋の命は【中臣連(なかとみのむらじ)等の祖(おや)】。
布刀玉(ふとだま)の命は【忌部首(いんべのおびと)等の祖(おや)】。
天宇受賣(あめのうずめ)の命は【猿女君(さるめのきみ)等の祖(おや)】。
伊斯許理度賣(いしこりどめ)の命は【鏡作連(かがみつくりのむらじ)等の祖(おや)】。
玉祖(たまのおや)の命は【玉祖連(たまのおやのむらじ)等の祖(おや)】。


故、爾くして天津日子番能邇邇藝の命に詔りて、天の石位(いわくら)を離れ、天の八重の多那(たな)雲を押し分けて、伊都能知和岐知和岐弖(いつのちわきちわきて)、天の浮橋に宇岐士摩理蘇理多多斯弖(うきじまりそりたたして)筑紫の日向の高千穗の久士布流多氣(くじふるたけ)に天降り坐しき。故、爾くして天忍日(あめのおしひ)の命、天津久米(あまつくめ)の命の二人、天の石靭を取り負い、頭椎(くぶつち)の大刀を取り佩き、天の波士弓(はじゆみ)を取り持ち、天の眞鹿兒矢(まかごや)を手挾み、御前に立ちて仕え奉りき。

故、

其の天忍日(あめのおしひ)の命【此は大伴連(おおとものむらじ)等の祖(おや)】、
天津久米(あまつくめ)の命【此は久米直(くめのあたい)等の祖(おや)也】。

是に詔らさく、

「此地は韓國に向かい、笠紗(かささ)の御前に眞來通(まきどお)りて、朝日の直(ただ)刺す國、夕日の日照る國也。 故、此地は甚吉(いとよ)き地」

と、詔りて、底津石根に宮柱布斗斯理(ふとしり)、高天原に氷椽多迦斯理(ひぎたかしり)て坐(いま)しき。


【ホノニニギの、諸文献における表記】

古事記 天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命
天津日高日子番能邇邇芸命
天津日子番能邇邇芸命
日子番能邇邇芸命
日本書紀 天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊
天国饒石彦火瓊瓊杵尊
天津彦国光彦火瓊瓊杵尊
天津彦根火瓊瓊杵尊
彦火瓊瓊杵尊
天之杵火火置瀬尊
天杵瀬尊
火瓊瓊杵尊
天津彦火瓊瓊杵尊

風土記 天津彦火瓊瓊杵尊
天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊
天国饒石彦火瓊瓊杵尊
天津彦国光彦火瓊瓊杵尊
天津彦根火瓊瓊杵尊
彦火瓊瓊杵尊
瓊瓊杵尊
哀能忍耆命

先代旧事本紀 天津彦火瓊瓊杵尊
天饒石国饒石天津彦々火瓊々杵尊


ホノニニギの神名の多さと長さは記紀にもあまり例がない。ちょっと異常と思えるほどだが、想像をたくましくすれば、北九州の高天原からあちこちへ降臨した神々がいたのではないかと思わせる。日向へ降ったホノニニギはその一人で、神話が形成されていく過程で、ホノニニギ一人に集約されたもののようにも思える。ホノニニギの「ホ」は「穂」であり、ニニギは「にぎにぎ」の意で「賑やかな」「賑わう」と解釈し、稲穂が豊穣に実っている様を表していると言われる。

また、ホノニニギは「天神御子」とも称され、神から天皇へ繋がる系譜上の重要なポイントに位置し、先に見たように、記紀編纂当時の、持統天皇・草壁皇子・文武天皇の皇位継承問題の事情が反映されているのではないかとも言われる。日本書紀九段本書では、天孫降臨の任務は初めからホノニニギであり、赤ん坊の姿でマトコヲフスマに包まれて降臨している。ホノニニギは、崩じた後日本書紀によれば「可愛之山綾」に葬られ、現在その場所は、鹿児島県川内市宮内町や、宮城県延岡市北方の可愛岳などが想定されている。


「国譲り」神話を、何らかの史実を秘めた伝承であるとする立場からすれば、冒頭にも記したように、これは明らかに民族間の領土移譲を含めた権限委譲である。若干の武力抗争もあっただろうが、「国譲り」と表現されるような、圧倒的な軍事力の違いの前に、国を譲らざるを得ないような状況があったのだろうと想像できる。見てきたように、それは北九州の高天原に、出雲の葦原の中津国が屈したのだと考えれば、以後の歴史展開が、考古学の成果も含めて一番説明が容易である。そうやって北九州の、当時の日本列島で一番勢力が強かった一団が、出雲や畿内や南九州を屈服させていったのだろうと思われる。天孫降臨は、それらの屈服させた領地へ派遣する司令官とそのお供の武官達を任命した、いわば壮行会であり、辞令交付式だったのだろうと思われる。そして時代を経て、それは高天原と国津神たちの支配する中津国とのお話として神話となって伝承された。


高天原の神々が降臨に用いる乗り物は天の磐船であり、雲であり、その上に乗って大勢のお供とともに天下っている。これは明らかに海上を船によって移動したことを示唆している。陸上を馬や徒歩で移動したのであればこういう表現にはなっていない。これは高天原が少なくとも近畿ではなかったことを強く物語る有力な証左である。


2.日向三代


天孫「ニニギの尊」が高天原から高千穂に降臨して以来、「ウガヤフキアエズ」「カンヤマトイワレビコ(神武天皇)」と、三代に渡って日向に住んだという事になっており、これを「日向三代」と呼ぶ。「神武東征」については、「邪馬台国の東征」と並び古代史の重点項目である。戦前、戦中は真剣に(現代でもそうだが。)、高千穂の峰や「日向三代」の所在を巡って大論争が巻き起こっていた。今日の視点からすればずいぶんと滑稽な論争もあったようである。

神話を全く否定した「唯物史観」の立場にたてば、神話そのものの基盤が虚構なのだから、その上に立っての議論など何の意義もないと言うことになろう。しかし、すぐ側の西都原(さいとばる)古墳群を見ると、確かに、古代この地方に何らかの有力な勢力が存在していた事を実感させる。古墳群は現にここにあるのだから、これを否定する事はできない。呼応して我が国の古史がそれに似た話を残しているとなれば、もっとその方面の研究がなされてもいいような気もする。


こういう意見を言うとすぐ「軍国主義」とか「皇国史観の復活」とか言われるのは困ったものである。いいかげん、学問からイデオロギーを取り去って欲しいもんだが。


さて、ニニギの尊が地上に降りてからある時、海岸で一人の美女に出会う。迩迩芸命が名を尋ねると

「私は大山津見神の娘で木花之咲夜姫(このはなのさくやひめ)といいます。」

と答えた。そこでニニギは咲夜姫に結婚を申し込むが、咲夜姫は

「私の父に言って下さい」

と答える。そこで迩迩芸命が大山津見神の所に行き、咲夜姫との結婚を申し込むと大山津見神は喜んで、姉の石長姫も一緒に娶ってくれといい、婚礼用品を添えて二人の娘をニニギの元にさしだした。

ところが石長姫の方は醜女だったため、ニニギは大山津見神の所へ返してしまう。すると大山祇神は怒り、

「石長姫とも結婚していたら、あなたの子孫は石のように永遠の命を持てたのに。咲夜姫とだけの結婚でしたら、あなたの子孫は木の花のようにはかなく散り落ちていくでしょう」

と答えた。古事記は、だから代々の天皇の寿命は短いのだとコメントしている。

さて、その咲夜姫だが、ニニギとは一度しか交わらなかったのに、その一回の交わりだけで妊娠してしまう。ニニギは、1回交わっただけで妊娠するとは、と疑った。咲夜姫は、

「これは間違いなくあなたの子供です。その証拠に私は火の中で子供を産みましょう。私が正しければ神の加護があるはずです」

と言い、産気付くと家に火を付け、その中で3人の子供を産み落した。その子供は産まれた順に、火照命・火須勢理命・火遠理命という。火照命が別名海幸彦、火遠理命が別名山幸彦である。山幸彦はまた、天津日高日子穂穂手見命(あまつひこひこほほでみのみこと)という名を持つ。


海の神の娘、豊玉姫神と結婚し、やがて鵜葺屋葺不合命(うがやふきあえずのみこと)を産む。彼は豊玉姫の妹で、育ての親でもある玉依姫神(たまよりひめのかみ)と後に結婚して、神武天皇が産まれる。


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是に天津日高日子番能邇邇藝能命、笠紗の御前に麗しき美人に遇いき。爾くして、

「誰が女ぞ」

と問いき。答えて、


「大山津見の~の女、名は~阿多都比賣(かむあたつひめ)、またの名は木花之佐久夜毘賣(このはなのさくやびめ)と謂う」

と白しき。また、

「汝、兄弟有りや」

と問いき。答えて、

「我が姉、石長比賣(いわながひめ)在り」

と白しき。 爾くして、

「吾は汝と目合(みあ)わんと欲う。奈何に」

と詔りき。答えて、

「僕は白すことを得ず。僕が父、大山津見の~、將に白すべし」

と白しき。故、其の父の大山津見の~に乞い遣りし時に、大きに歡喜びて其の姉の石長比賣を副(そ)えて、百取(ももとり)の机代の物を持たしめて奉り出だしき。故、爾くして其の姉は甚凶醜きに因りて、見畏みて返し送り、唯に其の弟の木花之佐久夜毘賣を留めて一宿、婚爲き。爾くして大山津見の~、石長比賣を返ししに因りて大きに恥じて白し送りて、

「我(あれ)の女、二並(ふたりとも)に立て奉りし由は、石長比賣を使わさば、天つ~の御子の命、雪零り風吹くと雖も、恆に石の如くして、常わに、堅わに動かず坐さん、また木花之佐久夜毘賣を使わさば、木の花の榮ゆるが如く榮え坐さんと宇氣比弖(うけいて)貢進(たてまつ)りき。此く石長比賣を返らしめて、獨り木花之佐久夜毘賣を留むる。故に天つ~の御子の御壽(みいのち)は木の花の阿摩比能微(あまひのみ)坐(ま)さん」

と言いき。故、是を以ちて今に至るまで天皇命(すめらみこと)等の御命(みいのち)は長くあらぬ也。


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豊玉姫は妊娠し、天津神の御子は海の中で生んではならないと地上へやってきた。そして渚に鵜の羽を茅葺(かやぶき)にした産屋を建ててくれと山幸彦に頼み、異郷の者が出産するときには、すべて元の国の姿になるので、出産現場を見ないでくれと頼む。山幸彦は見ないと約束するが、心配と好奇心で産屋を覗いてしまう。そこに居たのは、八尋(やひろ)ワニの姿に戻った豊玉姫がいた。驚く山幸彦に、約束を破って姿を見られたからにはもうここにはいられないと豊玉姫は、我が子ウカヤフキアヘズノミコトの世話を、妹である玉依姫神に託すと単身海の国へと戻っていった。


山幸彦ことホヲリノミコト(火遠理命)は、日向で580年生き、高千穂の山の西に葬られた。ホヲリノミコトの子、アマツヒコヒコナギサタケウカヤフキアヘズノミコト(天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命)は、やがておばの玉依姫神と結ばれ、イツセノミコト(五瀬命)、イナヒノミコト(稲氷命)、ミケヌノミコト(御毛沼命)、ワカミケヌノミコト(若御毛沼命)が生まれた。ワカミケヌノミコトの別名は、カムヤマトイハレビコノミコト(神倭伊波礼昆古命)と言った。

ミケヌノミコトは常世国へ行き、イナヒノミコトは母のいる海原に入った。


故、後に木花之佐久夜毘賣、參い出でて、

「妾(あれ)は妊身(はら)みぬ。今、産む時に臨みて、是れ天つ~の御子にして、私(わたくし)に産むべきにあらぬが故に請(もう)す」

と白しき。爾くして、

「佐久夜毘賣、一宿(ひとよ)にや妊(はら)める。是れ我が子に非ず。必ず國つ~の子ならん」

と詔りき。爾くして答えて、

「吾が妊(はら)める子、若し國つ~の子ならば、産むこと幸くあらず。若し天つ~の御子ならば幸くあらん」

と白して、即ち戸の無き八尋殿(やひろどの)を作り、其の殿の内に入り、土を以ちて塗り塞(ふさ)ぎて、方(まさ)に産まんとする時に火を以ちて其の殿に著(つ)けて産む也。 故、其の火の盛りに燒ゆる時に生める子の名は、火照(ほでり)の命【此は隼人(はやと)の阿多(あた)の君の祖(おや)】。 

次に生める子の名は、火須勢理(ほすせり)の命【須勢理の三字は音を以ちてす】。 

次に生める子の御名は、火遠理(ほおり)の命、またの名は天津日高日子穗穗手見(あまつひたかひこほほでみ)の命【三つ柱】。

(略)

是に海の~の女、豐玉毘賣の命、自ら參い出でて、

「妾(あれ)は已(すで)に妊身(はら)みぬ。今産む時に臨みて此(これ)を念(おも)うに、天つ~の御子を海原に生むべくあらず。故、參い出で到れる也」と白しき。爾くして即 ち其の海邊の波限(なぎさ)に鵜の羽以ちて葺草と爲て産殿を造りき。

是に其の産殿の未だ葺き合えぬに御腹の急(にわ)かなるに忍(た)えず。故、産殿(うぶや)に入り坐しき。爾くして將方(まさ)に産まんとする時に其の日子に白して、「凡そ他(あた)し國の人は産む時に臨みて本(もと)つ國の形を以ちて産生(う)むぞ。故、妾(あれ)今本の身を以ちて産まんと爲(す)。願う妾を見る勿(なか)れ」


と言いき。是に其の言(こと)を奇しと思いて竊かに其の方(まさ)に産まんとするを伺えば、八尋和邇(やひろわに)と化りて匍匐(はらば)い委蛇(もごよ)いき。

即ち見驚き畏みて遁(に)げ退(そ)きき。爾くして豐玉毘賣の命、其の伺い見る事を知りて心恥(はずか)しと以爲(おも)いて、乃ち其の御子を生み置きて、

「妾は恆に海の道を通りて往來(かよ)わんと欲(おも)う。然れども吾が形を伺い見ること、是れ甚(いと)(はずか)し」

と白して、即ち海坂(うなさか)を塞(ふさ)ぎて返り入りき。

是を以ちて其の産める御子を名づけて、天津日高日子波限建鵜葺草不合(あまつひたかひこなぎさたけうがやふきあえず)の命と謂う。然くして後は、其の伺いし情(こころ)を恨むと雖ども戀(こ)うる心に忍(た)えずして、其の御子を治養(ひた)す縁(よし)に因りて、其の弟(おと)の玉依毘賣(たまよりびめ)に附(つ)けて歌を獻(たてまつ)りき。 

(略)

故、日子穗穗手見(ひこほほでみ)の命は、高千穗の宮に坐(いま)すこと伍佰捌拾歳(いほとせあまりやそとせ)。御陵(みささぎ)は、即ち其の高千穗の山の西に在り。是の天津日高日子波限建鵜葺草葺不合の命、其の姨(おば)の玉依毘賣の命を娶りて生みし御子の名は、五瀬(いつせ)の命。次に稻氷(いなひ)の命。次に御毛沼(みけぬ)の命。

次に若御毛沼(わかみけぬ)の命、またの名は豐御毛沼(とよみけぬ)の命、またの名は~倭伊波禮毘古(かむやまといわれびこ)の命【四つ柱】。故、御毛沼の命は浪の穗を跳(ふ)みて常世(とこよ)の國に渡り坐し、稻氷の命は妣(はは)の國と爲(し)て海原に入り坐しき。


古代、南九州には隼人と呼ばれる一族がいた。山幸彦に降伏した海幸彦は、溺れたときの所作を演じ、ふんどしをつけ顔や手足を赤く塗り、俳優の技をして弟を慰めたといい、そして、この子孫が隼人であるといわれる。海幸・山幸神話は、皇孫である山幸彦に隼人の祖である海幸彦が服従するという、隼人の朝廷への服従起源でもある。この話は、もともと南九州にいた隼人族の伝承であったといわれており、その伝えていた芸能隼人舞の由来話という形で、その首長の前で演じられていたのではないかといわれている。猟具の交換を発端とする海底国への訪問、失った釣針などに類似する話としては、喜界島の「竜神と釣縄」という話があり、そのほか、パラオ等、インドネシアからミクロネシアにかけて類似した話が語られている。


日向国が、現実の南九州の日向であったかどうかについても色々な議論がなされている。日向とは現在の宮崎県ばかりでなく、大隈と薩摩を含んだ地域であるとすると、それは隼人族の住む未開の地でもあるので、皇室の祖先はそうした未開の地は原郷にしないという説もあるし、日向とは単なる「太陽の照らす聖地」という意味にすぎないという説もある。そもそも邪馬台国問題と同じで、或いはそれ以上に情報量は少ないので、神話や民俗学に興味がある者なら、いかようにも解釈できることになる。

日向三代の神話が全て隼人族の伝承だったとすると、「コノハナサクヤヒメの神話」「海幸山幸の話」も同じくインドネシア、ミクロネシアに類似した神話が多くあるので、隼人族そのものも南方種族ではないかとする説もあり、かなり有力視されている。しかし、日向三代神話が隼人の伝承であったとすると、これを大和朝廷が皇室の神話系譜の中に取り入れたのは何故なのか、またいつごろなのかという問題が残る。


北九州の高天原から南九州へ移動した一団がほんとにいたのだと解釈すれば、宮崎に残る西都原古墳群やこの神話の持つ意味も理解できる。日向に三代も住めば、そこが地理的に日本列島の統治にとって都合のいい場所ではないと判明したかもしれないし、もっと実りの多い、稲作に都合の良い平野を抱えた地方が東にあるという情報も、派遣した先兵や偵察隊が報告していたかもしれない。実際に、後に神武天皇と呼ばれる人物が東を目指して旅だった可能性も高いが、私が邪馬台国東遷説にいまだ同意できないのは、もし、高天原=北九州、天照大神=卑弥呼だとすると、その後の邪馬台国はどうなったのかという疑問が未だに解けないからでもある。邪馬台国から日向へ降りてきたニニギは日向で勢力を発展させるが、では北九州に残った邪馬台国はどうなったのだろうか。依然として勢力を保っていたのなら、東遷するのは北九州の高天原でなくてはならない。しかるに、近畿を平定するのは日向に住んだイワレビコなのだ。


3.神武東遷


初代の天皇である神武天皇(カムヤマトイハレビコノミコト)は、日向国に天下りした邇邇芸命(ニニギのみこと)の曾孫にあたる。神武の時期から人代で、それ以前は神代とされる。神武の一族は、日向国高千穂宮に住んでいたが、兄のイツセノミコトと共に、東国に豊かな土地を求めて移住を始め、豊国宇佐足一騰宮(あしひとつあがりのみや:

大分県宇佐市)、竺紫岡田宮(福岡県遠賀川河口)、阿岐国多祁理宮(たけりのみや:広島県府中町)、吉備高嶋宮 (岡山市高島)、青雲の白肩津(東大阪市日下町)、紀国男水門(大阪府泉南郡樽井町)、熊野村(和歌山県新宮町)、吉野の川尻(奈良県吉野郡)を経て、宇田(奈良県宇陀郡)へ到着した。

岡田宮に一年、多祁理宮に七年、高島宮には八年も滞在したとされる。瀬戸内海を渡った神武は、難波の津で長髄彦に抵抗され、兄・五瀬命を失うが、和歌山の大台ヶ原から大和に入り、長髄彦を破って大和の平定に成功し、辛酉年春正月一日に、橿原宮で即位し、百廿七歳で、橿原宮にて死んだ。


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宇佐に行く前、二人は速吸門(はやすいのと:豊予海峡)で亀の甲羅に乗って釣をしている人間を見つける。お前は誰かと尋ねると国つ神だといい、海路をよく知っているというので案内人とし、サヲツネヒコ(棹根津日子)という名をあたえる。

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  一行は難波に上陸するが、登美(奈良市富雄町)の豪族、ナガスネビコ(那賀須泥昆古)が軍勢を率いて攻めてきた。戦闘はナガスネヒコが優勢で、イツセノミコトも敵の矢を受ける。イハレビコは

「日の神の御子である我々が、日に向かって攻め入ったのが良くなかった」

として、日を背にして敵を撃とうと紀州沖を南下し熊野から内陸をめざすが、兄のイツセノミコトは船上で絶命してしまった。今、イツセノミコトの御陵が紀伊の国の竈山にある。

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イハレビコは、和歌山から南に回って、熊野村に到着したが、大きな熊に出会い、やがて一行の兵士達は突然気を失い、次々に倒れ伏す。そのとき一振りの太刀をもった男が現れ、イハレビコに剣を献上した。この太刀で、イハレビコは熊野の山の荒ぶる神を退治した。この時剣を献上したタカクラジ(高倉下)が、イハレビコに剣を渡した訳を説明する。

夢をみて、夢にアマテラスとタカギノカミが現れ、二人は、タケミカヅチ神を呼び寄せて

『葦原中国はひどく騒然としており、我が御子たちは病み悩んでいるようだ。かの国はそなたが服従させた国なのだから、もう一度そなたがいって御子たちを助けてこい。』

と。タケミカヅチは、

『私が降らなくても、かの国を平定した太刀がありますから、このサジフツノカミ(佐士布都神)を降しましょう』

と、タカクラジが授かって届けに来たのだという。さらにタカクラジは、夢の中で、タカギノカミからの伝言を預かっていると言う。

「荒れすさぶ神がたくさんいるから、天つ神の御子をこれ以上奥に行かせてはならない。」

「今、天上からヤタガラス(八咫烏)を遣わそう。そして、そのヤカガラスが先導するので、その後についていくように。」

ヤタガラスの後を追いながら吉野川の川下にたどりついたカムヤマトイハレビコは、魚をとっている人物に出会った。 さらに進むと、井戸から尾の生えた人物に出会った。さらに、山に入ると尾の生えた人物が岩を押し分けで出てきた。それぞれ、天津神の御子が来るというので、出迎えにきた国つ神だった。そして、奈良県の宇陀という場所にたどりついた。タケミカヅチから授かったこの霊剣、サジフツノカミは別名、フツノミタマ(布都御魂)といい、現在石上神宮に鎮座している。


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これが神武東征神話の概略である。戦前は史実として流布され、戦後は一転して全面的に否定された。辛酉年は紀元前660年にあたり、1月1日は太陽暦の2月11日にあたるとされる。神武天皇は、なぜ辛酉年に即位したと考えられたのだろうか。中国人の革命思想は、天地を支配する天帝は、人民の中から仁の心に富んだ男を選び、愚民を支配する権力を委任する。

天子は道徳的な力に満ちた男であるが、その権力を譲られた子孫はそうとは限らない。人民を痛めつける天子は、もはや天子ではなく、新たに自分が天子だと自覚する男が、これを殺すことが正当化される。これを革命(革令)といい、このうち、辛酉年には新しい王朝が建てられるという。ただし、60年ごとの辛酉年ではなく、60年の21倍の1260年ごとの辛酉年である。600年代はじめ、推古天皇の摂政だった聖徳太子を責任者として、国史の編纂が行われた。西暦601年が辛酉年であり、ここから1260年さかのぼった紀元前660年が、神武天皇の即位の年と計算され、日本書紀にも引き継がれたのである。神武天皇は、紀元前660年の人物であり、この時期は縄文時代とされているから、とても実在の人物とはいえない。産能大教授の安本美典説では、歴代天皇の平均在位数の計算から、天皇の在位期間は、過去にさかのぼればさかのぼるほど短くなる。そして一代の天皇の平均在位年数は約10年とする。これは日本だけでなく、中国の王の在位年数の場合も、西洋の王の場合も同じ傾向を示しているのである。


ここから導き出される結論は、神武天皇以後、全ての天皇が実在すると考えても、神武天皇の活躍した時代は280年から290年くらいにしかならない。つまり大和朝廷の一番初めは、邪馬台国の時代に届かないことになる。つまり大和朝廷の始まりは、邪馬台国以後である、ということになるのである。

これは、邪馬台国=弥生時代、神武以後=古墳時代という私の史観と合致する。わたしはこの「神武東遷」に象徴される、九州からの勢力が東へ東へと進み大和朝廷を築き上げたと考える説に賛同する。それは中国の文献や我が国の考古学の成果とも、今の所は一番合致していると考えるからである。しかし神武天皇に比定される人物、或いは一団が、ほんとに日向から来たのか、それとも九州の他の地域から来たのかまでは、まだわからない。

だが明らかに、弥生時代から古墳時代に移り変わる我が国の考古学上の状況は、西から新しい文化文明が東へ移ってきたことを示しているし、奈良盆地の中に縄文人が古くから住み付き、純粋な日本人として培養されて、やがて稲作を取り入れ、農耕具や青銅器を自分たちで考えたとはとうてい思えない。それらは明らかに西の九州から来たのであり、厳密に言えばそれは北九州で、更にその源は朝鮮半島であり、中国大陸である。そしてそれらは、散発的な移動はともかく、神武東遷に象徴される、北九州の一団によって近畿地方にもたらされたものとする考え方が一番合理的である。


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古事記・日本書紀に書かれている天孫降臨や神武東遷伝承が、大和朝廷の役人達によって机上で述作されたものであるという考え方は、全くの想像である。記紀が編纂されてから今日まで、そういう事を書いてある古文献は1点も存在しない。それを、述作されたものであるとか、創作されたものだとする考えは、完璧に主観的判断に基づいて、歴史をねつ造しているのと同じである。

歴史学者・考古学者たちの第二次世界大戦における敗戦のショックと、戦前・戦中を通じて、強権に確執を醸せなかった自らの贖罪を求める気持ちはよく理解できる。同胞が、戦時中に近隣諸国に対して行った行為に対して、それらの国々に対する謝罪の念も持って良い。しかし、そういったイデオロギーと学問の世界における真理の追究とは全く別物であるということに、もうそろそろ気づいても良い頃だ。古事記・日本書紀という、我が国最古の歴史書に書かれ、また多くの伝承を持ち、長きにわたって多くの研究がなされてきたこれらの日本神話が、戦後50数年間にわたって、歴史家によって殆ど無視され、語られもしなかった事実は全く異常としかいいようがない。教科書にも載せず、読み物にも書かれない今の現状では、やがて日本人は、自分たちの祖先が語った多くの神話と、その中にもしかしたら潜んでいるかもしれない歴史の核を、まるで理解できない、世界でも希有な民族になってしまう。


私は古代史を学んで、日本国家の成立を探り、天皇家の起源を探り、ひいては自分が誰なのかを探ろうとしている。それには、掛ければ色や形が変わって見えてしまう、イデオロギーというサングラスだけは絶対に掛けたくないと思う。
http://inoues.net/yamahonpen10.html

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実在したアマテラスの墓と八咫鏡

糸島郡の平原遺跡 2014-11-02


平原遺跡 :糸島郡前原町平原

昭和40年糸島郡前原町平原(当時、現在は平原市)において、農作業の最中に多量の朱と共に大小鏡の破片等が発見された。

偶然の発見であったが、福岡県教育委員会はただちに原田大六を調査団長とした発掘調査団を組織し、調査・発掘が実施された。結果、遺構は東西十八m、南北十四mの長方形の方形周溝墓で、弥生時代から古墳時代にかけての遺構であるとされた。原田大六は、2世紀中頃であるとしている。

遺構の中央部には、割竹形木棺を収めていたと思われる痕跡もあった。

この遺跡からは、破砕された合計39面の鏡、ガラス・メノウなどの装身具、素環頭太刀等が出土し、鏡の枚数は一墳墓からの出土数としては我が国最多であった。

又、復元された内行花文鏡は直径が46.5cmもあり、これ又我が国では最大経の鏡であった。太刀等武具の少なさ、装飾品の豪華さ、それに鏡の多さなどから、原田は、この遺構を「伊都国の女王」の墓だと想定している。

平成2年には、平原方形周溝墓出土品が国の重要文化財に。さらに、平成18年には国宝に指定されました。

副葬品は銅鏡40枚、鉄刀1本、ガラス製勾玉やメノウ製管玉などの玉類が多数発見されていて、銅鏡のなかには日本最大級の直径46.5cmの内行花文鏡が5枚ありました。ひとつの墓から出土した銅鏡の枚数も弥生時代としては日本一。

副葬品にネックレスやブレスレットなどのアクセサリーが多いことから、この墓に葬られた人物は女性で、特に超人的な力を持った女性ということで、卑弥呼の墓という説もあるほどです。


1号墓出土品(国宝)

大型内行花文鏡 4面(5面) 別称「内行花文八葉鏡」[3]、仿製鏡(日本製)、直径46.5センチメートルの超大型内行花文鏡である。

内行花文鏡(内行花文四葉鏡) 2面

方格規矩鏡 32面、(鋸歯文縁方格規矩四神鏡が23面、流雲文縁方格規矩四神鏡が9面)

四螭文鏡 1面

メノウ製管玉 12個
ガラス製(瑪瑙:めのう)勾玉(くだたま) 3個、ガラス丸玉 約500個
ガラス小玉 一括(約500)
ガラス管玉 一括(30以上)
ガラス連玉 一括(約886)
耳璫(じとう、耳珠)3
素環頭大刀 1振
鉄鏃10
鉄やりがんな1
鉄のみ1
鉄斧1

 日本一大きな国産の内行花文八葉鏡四枚について、考古学者故原田大六(だいろく)はその図抜けた大きさと特異文様とが、伊勢神宮に関する種々の史料から内宮の御神体である八咫鏡( や たのかがみ)と同じものではないかと推察し、次のように述べている(『実在した神話』、学生社)。

「伊勢神宮の八咫(やた)の鏡と平原弥生古墳出土の大鏡は上述のように、寸法、文様ともに食い違ったところを見受けないのである。これがもし事実だとしたら、平原弥生古墳には大鏡の同型同笵鏡(どうはんきょう)が四面あることから、はじめは五面を作製したものの一面が伊勢神宮の御神体になっているといわれないことはない」

原田大六は平原遺跡一号墳の被葬者は玉依姫であり、伊勢神宮にアマテラス(大日孁貴)として祭られていると推察している。

 森浩一氏も、この原田説を支持され、

「原田氏の生涯をかけての、この重要な研究が基本において修正を要しないとすれば、八咫鏡は弥生時代後期に北部九州で製作され、他の同類は破砕されたけれども、一面だけがはるばる近畿地方にもたらされたということになる」

と述べておられる(『日本神話の考古学』)。


 豊玉姫−玉依姫−イワレヒコ(神武)の系譜から、この鏡の製作の中心にいたのは母豊玉姫を弔(とむら)ったであろう玉依姫ということになる。

その玉依姫が、わが子神武の東征にあたって、鏡の一面を携帯させたとすれば、当然、大和朝廷においてその鏡は玉依姫の鏡として長らく宮中にあったに違いない。それが、

「崇神五年、国内に疫病多発、人民の大半が死亡、六年には国内大混乱。その原因としてこれより先、宮中にアマテラスと倭(やまとの)大国魂(おおくにたま)の二神の並祭が、お互い神威が強すぎることにあると思えたので、別々に祭ることにし、アマテラスは豊鋤入姫(とよすきいりびめ)に託して云々」

とある『書紀』に従えば、このときからアマテラスこと玉依姫の依り代である八咫鏡が、現在の鎮座地である伊勢へと至る長い巡幸が始まるのである。 

 その伊勢神宮内宮を見てみれば、アマテラスこと玉依姫の相殿に万幡(よろずはた)豊秋津姫こと豊玉姫が鎮座している。


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原田先生の報告書は『平原弥生古墳 大日霊貴の墓』

原田大六は平原遺跡一号墳の被葬者は玉依姫であり、伊勢神宮にアマテラス(大日孁貴)として祭られていると推察している。


tokyoblog April 2015 八咫の鏡

「咫(た)」とは円周の長さの単位で、1咫=8寸、直径2.5寸の円周(円周率3.2)とされている。
八咫鏡とは直径2尺、46センチの鏡という事になる。

平原遺跡からは、まさに直径46センチの国内出土最大の鏡が4枚出土している。御統は勾玉や管玉などを緒に通して首飾りにしたもので、五百箇の御統とは、珠が五百箇ある首飾りという事になる。平原遺跡出土の首飾りを写真で数えてみると約470個の珠があった
http://tokyox.matrix.jp/wordpress/%E7%B3%B8%E5%B3%B6%E9%83%A1%E3%81%AE%E5%B9%B3%E5%8E%9F%E9%81%BA%E8%B7%A1%E3%80%81/


平原遺跡(ひらばるいせき)は、福岡県糸島市にある弥生時代後期のものと考えられる遺跡。 曽根遺跡群の一つとして、昭和57年10月、国の史跡に指定。平成12年10月追加指定。

平原遺跡は弥生時代後期から晩期の5つの墳丘墓を合わせた名称である。 1965(昭和40)年1月、平原遺跡1号墓が偶然発見され、原田大六を中心に学術調査された。昭和63〜平成11年度にかけて、1号墓周辺に調査範囲を広げて、最終的に5基の墳丘墓が発見されている。 この遺跡は「平原歴史公園」として、1号墓のみが墳丘墓として復元管理されている。

1号墓からは直径46.5センチメートルの鏡5面を含む鏡40面をはじめとして多数の出土品があり、その全てが「福岡県平原方形周溝墓出土品」の名称で2006年、国宝に指定された(文化庁所有、伊都国歴史博物館保管)。


1号墓は方形周溝墓で、割竹形木棺の埋納が検出されている。

その1号墓の副葬品の中には日本製と中国製の破砕した銅鏡片が多数あった。これらの破片は当初、39面分に復元されていた。

その後の調査の結果、従来4面に復元されていた直径46.5センチメートルの大型内行花文鏡の破片が実は5面分の破片の可能性があると指摘された。(前原市調査報告書)。このうち1面が九州国立博物館、4面が伊都国歴史博物館に展示されている。

1990年の重要文化財指定時には、銅鏡の員数は39面分とされていたが、上述の調査結果をふまえ、2006年の国宝指定時の官報告示では、銅鏡の員数は40面分となっている[1]。この数は1つの墳墓から出土した銅鏡の枚数としては日本最多である(2009年現在)。

なお直径46.5センチメートルの鏡の外周は鏡の円周の単位で八咫(やあた)あることから、八咫鏡と同じ大きさになる。

この副葬された多数の銅鏡片は「人為的に破砕されたモノではない」と発掘責任者の原田大六は主張している[2]。

学術調査時に、2〜5号墓からは青銅器類の遺物は発見されず、出土した土器や石器類などから弥生時代後期の墓と推定された。5号墓から発見されたとする銅鏡の鈕部分2個は、この破片が土中から発見されたことから5号墓の発見に繋がっていることによる。


主な出土品

1号墓大型内行花文鏡 5面(または4面) 別称「内行花文八葉鏡」[3]、日本製、直径46.5センチメートルの超大型内行花文鏡。
内行花文鏡 2面
方格規矩鏡 32面
四螭文鏡 1面
メノウ製管玉12、ガラス製勾玉3、ガラス丸玉 約500、ガラス小玉 約500、ガラス管玉 約30、ガラス連玉 約900
耳璫 3破片
素環頭大刀 1


国宝指定名称は以下のとおり。

福岡県平原方形周溝墓出土品 銅鏡 40面分
玉類 一括
鉄素環頭大刀 1口
附:土器残欠、ガラス小玉、鉄鏃等 一括

5号墓銅鏡片 2


1号墓から出土した大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)を、その文様と大きさから原田大六は「八咫鏡」と解し、伊勢神宮の八咫鏡も元々は同型の鏡であったのではないか、との説を提示している[5]。『御鎮座伝記』に「八咫鏡」の形は「八頭花崎八葉形也」とあり、この「八頭花崎八葉形也」の図象を持つ考古遺物は現在のところ、この「大型内行花文鏡」のみである。

1号墓は副葬品の多くが勾玉や管玉、耳璫(耳飾り)[6]などの装身具であり、武器類が少ないため、この墓に埋葬された人物は女性であると考えられている。 原田大六はこの平原1号墓の主を玉依ヒメとし、大日孁貴であるという説を提示している[5]。

1号墓の東南にある直径約70センチメートルの縦穴を、発掘調査した原田大六は、湧水の存在から井戸として報告している。この縦穴を「前原市報告書」は大柱跡(穴中の土壌成分未調査)として、墓から見て東南の日向峠の方角に位置していることから、この大柱跡は太陽信仰に関係するものとの説を提示している。

墓壙周辺の12本の柱穴の遺構について、原田大六は「銅鐸や弥生式土器などの絵画に見られる棟持柱を持つ切妻造の倉庫建築の柱の配置にこの柱跡の遺構が似ている」として、この墓壙周辺の12本の柱跡は「殯宮関係の建築物の遺構と考えられる」としている[5]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%8E%9F%E9%81%BA%E8%B7%A1


2008.9.28
邪馬台国の会 【特別講演会】 柳田康雄先生  伊都国と邪馬台国
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku273.htm

1.伊都国と邪馬台国  柳田康雄先生


私は伊都国とは深い関わりがある。平原遺跡を始め数多くの遺跡の発掘に携わり、平原遺跡の巨大鏡を始め120枚以上の鏡を発掘した。

平原遺跡については発掘後20年以上になるが、ようやく報告書を刊行することができた。

今日は、これらの経験を踏まえて、邪馬台国に入る直前までの北部九州(福岡、佐賀)の状況について解説する。

■ 弥生時代のクニと国の出現

弥生時代の集落を村とすると、それを束ねているのを考古学で、カタカナで「クニ」 という。そして、この「クニ」が「国」に発展する。

現在、発掘が進んでいる早良(さわら)平野に、弥生中期の初め(紀元前200年前後)に 出現した遺跡があり、朝鮮半島の青銅器がはじめて副葬品として現れる。

そのなかの吉武高木遺跡は青銅器が副葬される率が高い。なかには、1人で銅剣、銅戈4本を持ち、小さいが「多鈕細文鏡」という鏡を持ち、勾玉を持つものがある。

銅剣を1本もっている集落が周辺にいくつか散らばっている。 この地域ではこのような銅剣は合計15〜16本出ているので、これは、吉武高木遺跡を中心に付近の村を統率した「クニ」が出現していたと考える。

弥生時代初期からある板付遺跡は福岡平野の拠点集落であるが、ここには弥生中期の初めに銅剣、銅矛7本が出てくる墳墓が出現する。しかし福岡平野の他の地域からは出てこない。

少し後の弥生中期の中ごろ以後、春日平野の須玖岡本遺跡に青銅器が集中する。青銅器を作る工房も集中する。ここでは銅鏡30枚、銅剣、銅矛が8〜10個出土した甕棺が出現する。

福岡平野は、中期のはじめから前半は板付遺跡中心に発展するが、中頃をすぎるとすべてが須玖岡本遺跡に集中する。 博多駅の近くの比恵から、那珂を経て春日市の須玖遺跡に至るそれぞれ100ヘクタール級の広さの地域に遺跡が途切れなく存在する。

発掘は大字、小字ごとにやっているので、その単位で遺跡の名前が付けられているが、この地域の遺跡は連続した遺跡であり、環濠を設けることなしに繋がっている。

30ヘクタールほどの吉野ヶ里が最大の環濠集落といわれているが、伊都国では三雲地域を発掘した時にすでに40ヘクタールの広さがあり、井原鑓溝遺跡の調査で、60ヘクタールにもなる遺跡であることがわかった。考古学では環濠集落でないと拠点集落と言わない風潮があるのはおかしい。

須玖岡本遺跡はわずかな丘陵にはいるので、平野に面したところだけに環濠がある。環濠の内側の春日丘陵の地域は100ヘクタール以上にもなる一つの単位集落と思われる。

比恵那珂遺跡は弥生終末には、側溝を持つ幅6〜7mの縦貫道路遺溝が出てくる。比恵遺跡では幅20mの運河が出てくる。

吉野ヶ里、池上曽根、唐子鍵を取り上げて弥生都市について議論されることがあるが、この地域の遺跡と比べるとこれらの遺跡は規模が小さく、どんぐりの背比べである。

弥生中期の段階で首長墓が出てくる。弥生中期の終わりに、いままでは朝鮮半島との 交流ばかりであったが、福岡平野の首長墓から中国の鏡が出てくる。

これは全部前漢時代の 鏡である。三雲南小路遺跡からは1号甕棺と2号甕棺の合計で57枚の前漢鏡が出土した。

三雲南小路の1号甕棺は、金銅製の埋葬用の飾り金具(下図の8)が発見されている。これは、皇帝が王侯クラスに下げ渡した物で、1号甕棺が王墓であることを示している。


2号甕棺は22枚の小型鏡が出ているが、ペンダントや勾玉が多数出ていることや、武器がないことから女性の墓と考えられている。

なお、昔に発掘されたもので、金ぴかなものなど価値のありそうなものは持ち去られたりして申告されていない可能性がある。 このようなことも考慮しないと、出土物についての研究では誤る可能性がある。


井原鑓溝遺跡は江戸時代に発掘され、鏡の鈕が21個あったことから少なくとも21面の鏡があったとされる。鉄刀や鉄の鎧なども発見されていることから王墓級の墓である。ただし、大型鏡がない。


最近の発掘では、井原鑓溝遺跡から割竹型の木棺墓が発見され鏡やガラス玉が多数出土している。割竹型木棺は4世紀の前期古墳からしか出ないと言われていたが、伊都国では弥生時代後期のはじめから出る。

九州では甕棺が注目されるが、甕棺と同時に木棺がある。大阪の場合は河内湖があって、木材が水に浸かって残るので発見しやすい。しかし九州では大地の中だと木棺が腐ってしまうので発見しにくい。しかし、最近は技術の進歩で木棺が分かるようになった。

このように、弥生中期後半から後期の初めにかけて、北部九州は鏡をはじめとした副葬品をもった墳墓が大量に増える。しかしそれは伊都国だけである。福岡の奴国と言われているところからはほとんど出て来ない。

後漢からもらった金印が志賀島から出土したが、委奴国と彫られた金印の文字を「倭の奴国」と読んで福岡平野の国とすると、鏡が奴国から大量に出ないのはおかしい。金印の読み方はいくつか提案されているが、「倭の奴国」とは読まないのではないか。

吉野ヶ里からは鏡のかけらは出てくるが鏡が出て来ない。吉野ヶ里は福岡に持ってくれば普通の遺跡。福岡では土地の値段が高いので吉野ヶ里のような大規模な発掘はできないのが残念。現在の吉野ヶ里は宣伝などで過大に評価されている。そのため考古学者はそっぽを向いている。

■ 平原遺跡

平原遺跡の1号墓は王墓である。寺沢薫氏などの近畿の一部の考古学者も王墓と認めるようになった。

王墓もランクがある。鏡の大小や数だけでなく、いろいろな要素で決まる。

王墓には鏡がなければいけない。4世紀までの初期の前方後円墳の副葬品は鏡が主体である。

鏡を副葬品の主体とする墳墓は、弥生時代では三雲南小路遺跡と須玖岡本遺跡、平原遺跡だけである。

棺の主軸近くにある柱跡と、少し離れたところにある大柱の跡を結ぶ線を延長すると、日向(ひなた)峠に向かっている。

10月20日ごろの収穫の時期に日向峠から日が昇るので、何か関係があるかも知れない。

墓には長さ3mの刳抜式木棺があり、大量の朱が蒔かれていた。

頭と足の付近で大量に見つかった鏡の破片のうち、頭付近の破片は全て元の鏡に復元できた。

墓坑のコーナに柱穴の跡があり、木槨があった可能性がある。ホケノ山古墳と同じよう、副葬品は木槨の上から落ちてきているように見える。


出土した前漢鏡(上図左)は直径16センチもあり、この型式の鏡としては中国でもトップクラスのもので、楽浪郡でも見つかっていない。平原の王が中国の外臣の中でも上位として扱われた証拠であろう。

この鏡は、カドが丸くなっていて、周りがすり減っている。前漢末に作られたものが、平原の王の時代まで伝世されたものと思われる。

また、直径21センチの方格規矩四神鏡(上図右)は、京都大学の岡村秀典氏の編年では、漢鏡4期から5期の鏡で、1世紀前半から中頃のものとされる。

しかし、後漢の始めの鏡とすると、銘文は鏡の上から始まるのだが、この鏡では下側から始まっているのはおかしい。

また、後漢の鏡では四の文字を横棒四本で現すのが特徴であるのに、ここでは四の文字を用いている。

つまり、この鏡は岡村氏の言うような中国の鏡ではなく、日本で作られた製鏡である。

平原からは40枚の鏡が出土しているが、直径46.5cmの超大型内向花文鏡や、直径27cmの内向花文鏡も中国にはなく、製鏡と思われる。

平原王墓から、楽浪郡などでも出土するガラス耳(じとう:ピアス)が出てくる。

耳は女性の墓からしか出ないので、平原王墓の被葬者は女性であると判断できる。

耳は時代が降るに従って端部の広がりが少なくなり管玉のようになる。

平原出土の耳は端部の広がりがほとんど無く、後漢の終わり頃のものと考えられている。発掘主任の原田大六氏はこれを琥珀の管玉としていた。

平原王墓からは、ガラス連玉、ガラス小玉、細型ガラス管などが多数出てくる。

右図上段左の連玉は直径5ミリ長さ2センチほどのものだが、高度な技術で作られており、内側は薄い空色で外側が紺色の二重構造になっている。

平原王墓を始め伊都国の地域からは、加工途中のものを含め大量のガラス玉や小玉が出てきており、この地域が高い技術でガラス飾りや玉を製作していたことがわかる。

三雲の弥生終末の遺跡からファイアンス(ガラスの釉薬をかけた焼きもの)が出てきている。

ファイアンスは地中海地域が起源で、エジプト・メソポタミアや中国にもあるので、海のシルクロード経由で南方からもたらされた物である。

伊都国地域のガラス玉の技術も南方から海を経由して入ってきたものであろう。

■ 弥生終末から古墳時代

福岡市の那珂八幡古墳は九州で最も古い時期の前方後円墳である。前方部がやや長めだがその形から纏向型前方後円墳であろう。

このような古墳は小さいものを含め、福岡県には多数あるが、唐津を除くと佐賀県にはない。

弥生時代の福岡県の王墓・首長墓を、副葬品の数などの要素から5段階のランクを付けて表に整理してみた。

この表を見ると弥生後期では圧倒的に伊都国の地域に権力が集中していることがわかる。

北部九州の地域では、弥生王墓から初期の前方後円墳に権力が繋がっているのである。

近畿地方でもこのような表を作って検討して欲しい。近畿で前方後円墳が発生したとするなら、福岡地域のように弥生時代から繋がっていないとおかしい。

近畿地方の前方後円墳は、主体部の構造や副葬品については九州の影響を受け、円形に突出部がでた輪郭のデザインは吉備から東瀬戸内の要素である。

近畿の古墳は、独自に発展したものではなく、これらの地域の影響を受けて出来たものである。

弥生終末と古墳出現の時期はAD200年頃と考える。卑弥呼は2世紀の終わりごろ共立されたとすれば、その墓は古墳が出現した近畿の大和であり、卑弥呼の邪馬台国は古墳時代の近畿の大和にあったと考えられる。

考古学者の中には、邪馬台国は弥生時代にあったと考える人がいる。邪馬台国が弥生時代から存在したとすれば、首長墓のある伊都国しかその候補はない。

平原が卑弥呼の墓ではないかという話があるが、そうは考えていない。平原の被葬者は卑弥呼と親子関係なのではないか。


2.柳田先生の論点                             安本美典先生


邪馬台国論争そのものは、いずれ別の機会に行いたいと思うので、今回は論点の整理をしてみたい。

■ 考えの一致する部分と異なる部分

柳田先生は著書『伊都国を掘る』のなかで、原田大六氏の発言を引用して「考古学的事象は日本の原始・古代に関するかぎり、古事記や日本書紀の「神代」神話をさけて通ることは出来ない。」と述べているが、これについてはまったく同感である。

また、「これまで、多くの研究者が平原王墓を無視してきたが、そのために邪馬台国問題や古代国家形成で避けて通れない古墳出現期の諸問題の研究に多くの時間がかかった。今後は、古墳出現期の研究に対して、平原王墓を正面から評価し、その研究に取り組んで欲しい。」とする考えについても賛成である。

邪馬台国に関連する部分では、柳田先生の考えは「伊都国東遷説」ともいえるような内容である。すなわち、邪馬台国は大和朝廷の一時期の姿であり、大和朝廷は九州で発生し、邪馬台国時代以前に畿内に移ったと考えておられる。邪馬台国は畿内にあったことになる。

いっぽう、安本先生は、九州勢力が畿内に移ったのは邪馬台国時代の後であり、邪馬台国は九州にあったとする。

北九州勢力が畿内に移ったとする点では、柳田先生と安本先生の考えは同じであり、中山平次郎や和辻哲郎が述べていた「北九州の弥生文化と大和の古墳文化の連続性」や「大和の弥生文化を代表する銅鐸と、古墳文化の非連続性」は、このような考えと整合するものである。

骨組みの所で意見が異なるのは、北九州勢力が近畿地方に移動する時期の違いである。


■ 洛陽焼溝漢墓出土鏡の時期について

洛陽の焼溝漢墓の鏡の年代の、日本での紹介のされ方がおかしい。洛陽焼溝漢墓の鏡の年代は平原遺跡の年代にも関係する重要なことである。

下表は、奥野正男氏の『内行花文鏡とその製鏡』(季刊邪馬台国32号)による。ただし、後漢晩期の年代幅は、もとの報告書に基づき安本先生が訂正。

平原遺跡から、長宣子孫内行花文鏡が出土している。長宣子孫鏡は、焼溝漢墓では、第六期に最も多く出土する鏡である。

奥野氏は、第六期を後漢晩期として、後147〜160という年代幅を与えていたが、もとの報告書では、西暦190年の年号が記された入れ物から第六期の鏡が出土した記録があり、第六期は少なくとも190年まで時代を広げるべきである。

柳田先生は、平原遺跡を西暦200年ごろと見ておられるので、長宣子孫鏡が洛陽で190年ごろに使用されていたことと年代的には整合することになり、平原の年代についての柳田先生の見解に納得できる。

ところが、京都大学の岡村秀典氏は、平原遺跡でも出土した長宣子孫鏡を漢鏡5期とし、紀元75年頃の鏡としている。平原を200年ごろとする柳田先生とは、100年以上年代が異なっているのはおかしなことである。


3.対談                         柳田康雄先生 VS 安本美典先生


■ 平原遺跡について

安本: 副葬品から考えると平原遺跡を卑弥呼の墓と考えてもおかしくない。しかし、『魏志倭人伝』には、卑弥呼の墓は径100余歩と記されている。魏の尺度では100余歩は100m以上になるが、平原遺跡全体に土を持った墳丘としたとき100m以上になる可能性はあるのか?

柳田: 14m×10mくらいの方形周溝で区切られているので、まったく無理である。周溝があると言うことは、掘った土を盛り上げるので、もともとは墳丘があったはずだが、100m以上にはなり得ない。

安本:女性の墓か?

柳田: 弥生時代で一番大きな素環刀太刀が出てきているが、女性の墓からしか出土しない耳(じとう:ピアス)が出土しており、女性に間違いない。

また、女性の墓とされている三雲南小路2号墳と同じように、小型の鏡に色を付けて模様を塗り分けていることからも女性の墓といえる。

■ 三角縁神獣鏡と庄内式土器の初現

安本:柳田先生の著書に「現在のところ布留式土器より古い土器が伴い、確実に質のよい三角縁神獣鏡を副葬しているのは九州の前方後円(方)墳のみである。」という文章がある。これを素直に理解すれば、三角縁神獣鏡が出てくるのは、畿内より、九州の方が早いということになるが・・?

柳田: 土器で見ると、庄内式土器の一番新しい物と三角縁神獣鏡がいっしょに出るので、三角縁神獣鏡は九州の方が先に出現したといえる。

■ 庄内式土器

安本: 庄内式土器が畿内で発生したことを疑っている。九州の方が早いのではないか?

柳田: 庄内式土器は圧倒的な量が近畿から出る。古い庄内式土器は九州では少ないが三雲遺跡で若干出てくる。しかし、近畿の人はこれを新しいと言う。私も土器の編年についてはみっちりやってきたがどこが新しいというのか良く判らない。私が見ると古いのもあるのだが数は圧倒的にすくないのは確か。

庄内以前の土器は単体で九州に流れてくるが、庄内式土器からは高坏や壺がセットで出現する。ここに大きな違いがあるので庄内式土器から古墳時代に移る。

九州の古墳では、那珂八幡古墳などから庄内式土器の新しい物は出てくるが、古いものは出ない。しかし、近畿と違って、庄内式土器の新しいものと三角縁神獣鏡がいっしょに出てくる。

■ ホケノ山古墳

安本:庄内式土器や画文帯神獣鏡を出土したホケノ山古墳から、布留T式相当の小型丸底土器がでている。柳田先生も、土器の底部の形態変化は平底→凸レンズ状平底→とがり気味丸底→丸底という変化の方向であることを述べておられる。従って、小型丸底土器を出土するこの古墳は、かなり新しいのではないか?

『ホケノ山古墳調査概報』には、布留式相当の小型丸底土器と庄内式土器が同時期に使用された可能性が高いと記されている。そうすると、ホケノ山の庄内式土器の年代は、かなり新しい布留式土器の時代になるのではないか。

柳田: 当事者ではないので、確定的なことを言えない。一時、ホケノ山古墳は新しい布留式土器の時代との話もあったが、今年の2月の勉強会では、また古いとされているようである。

一般的に言えば、古い土器と新しい土器がいっしょに出たら新しい土器で年代を考えるのだが、発掘担当者などによる最近の勉強会では、ホケノ山のものは布留式土器の古いものが見つかったと解釈しているようである。

また、見つかった銅鏃は、普通にみれば布留式土器に伴う銅鏃であるが、これも、古い銅鏃という解釈をしているようだ。報告書をまとめる人たちは、古墳の年代を3世紀なかごろ以前と考えているようだ。

■ 伊都国と女王国の位置関係

安本: 『魏志倭人伝』には、女王国は伊都国の南にあることが、3回も書かれている。伊都国が糸島半島の国だとすると、その南の筑後平野は女王国の有力な候補であり、甘木や朝倉地域を邪馬台国の有力候補と考えている。

ところが、柳田先生の資料に「佐賀平野・筑後平野・筑豊地域などは邪馬台国の候補地どころか卑弥呼を共立した国にも含まれない」と書かれているので、甘木や朝倉は候補地ではないのか?

柳田: 考古学の立場で考えているので、初期の前方後円墳が出現していて、三角縁神獣鏡やそれ以前の鏡が出ているところは候補地になる。

大願寺方形周溝墓、神蔵(かんのくら)古墳のある甘木・朝倉地域は、初期の前方後円墳が出現しているし三角縁神獣鏡も出ているので、候補地に含まれる。

文献学者は安本先生のような見方をする九州説の人が多いが、朝倉以南の筑後平野では、前方後円墳から三角縁神獣鏡やそれ以前の鏡を出すところがないので、この地域が女王国だということは考古学的には証明出来ない。

■ 三種の神器

安本: 三種の神器が出てくる遺跡は須玖岡本遺跡、平原遺跡、三雲遺跡と言われたが、 すぐ南の東小田峰遺跡から璧がでているので、璧を玉と考え、剣、鏡も出土しているので、 三種の神器が出ているといえるのではないか?

柳田: 玉というのは勾玉ではないのか?

安本:璧という字は下に玉がついているので・・・

柳田:ははは、それなら認めます。(^_^)

璧を持っている三雲南小路や須玖岡本は最高ランクであるが、かけらを加工したものがその次に準じると國學院雑誌にはっきり書いた。

東小田峰遺跡では4分割以上したものを丸く再加工して璧に見せようとしている。更に璧のかけらを再加工して勾玉に見せようとしたものもあるので、東小田峰遺跡の例も勾玉と同レベルと考えて良い。
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▲△▽▼


古代史の鍵・丹後 籠神社
太陽信仰もつ海人集団の拠点
「元伊勢」、伊勢神宮の成立に関与?

 京都府の丹後(かつての丹波)地方は、天女伝説や浦島伝説で知られる。近年、古代海部(あまべ)氏の系図が公表されたり、考古学的にも注目すべき遺物が出るなど、漁労や航海を生業とした海人集団による独自の歴史性が明らかにされつつある。

 丹後半島の東側、日本三景の一つ「天の橋立」の付け根に、「元伊勢」といわれる籠 (この)神社が鎮座する。祭神はホアカリノミコト(火明命)で、丹波国造が祖神として祭った。

 籠神社の宮司家は海部直といい、宮司家が長く秘蔵してきた二つの系図、通称「海部氏系図」「勘注系図」は、現存する最古の系図として、昭和五十一年に国宝に指定された。

 これら系図によれば、海部直氏の始祖、ホアカリノミコトをオシホミミの第三子とする。

 オシホミミは『古事記』によれば、天照大神の子である。一方、『新撰姓氏録』(九世紀成立)によれば、ホアカリノミコトは愛知県の濃尾平野に勢力を築いた雄族・尾張氏の祖神である。尾張氏の配下にあった有力な海部集団が、ホアカリノミコトを自らの祖神としたものらしい。


浦島伝説にちなんで名前の付けられた丹後半島の亀島

 籠神社にはまた、二枚の中国製の銅鏡も伝えられてきた。それぞれ前漢時代、後漢時代のもので、系図中にも「息津鏡」(おきつかがみ)「辺津鏡」(へつかがみ)と記されている。昭和六十二年に初めて公表され、弥生時代に招来されて以来、二千年にわたって伝世されたということで、大きな反響をよんだ。息は沖、辺は岸辺のことで、航海の安全に呪力をもつ鏡として祭られたものだ。

 銅鏡といえば、平成六年には、竹野郡弥栄町の墳墓から、邪馬台国の卑弥呼の晩年に相当する「青龍三年」(紀元二三五年)の年号がある銅鏡が発見され、卑弥呼とのかかわりも取り沙汰された。

 弥生時代の近畿地方には、銅鏡文化はほとんどなく、丹後の特殊性がうかがわれる。太陽信仰をもっていた海人集団の幅広い活動を示すといえよう。

 ホアカリノミコトは太陽神で、各地に鎮座するアマテル(天照)神社の祭神である。神話学の松前健氏は、もともとあった「アマテル」という神が、その格があげられて皇祖神である「アマテラス」となったのだと説く(『日本神話の形成』)。

 当時の海人集団の習俗をパノラマ的に描いたらしい土器がある。鳥取県西伯郡淀江町から出土した壷(弥生時代中期後半)だ。神殿建築のような高床式の建物があり、その右側の船には、鳥の装束の人物が乗っており、船の上には太陽らしい渦巻き(同心円)紋がある。

 さらに、左側の木には、瓜のようなものが二つぶら下がっている。金関恕・天理大教授 によれば、銅鐸であるという。千田稔・国際日本文化研究センター教授は、このパノラマ図について銅鐸をともなった弥生時代の太陽信仰を描いたものとし、アマテル信仰の 源流とみている。


息津鏡=籠神社・海部宮司家所蔵

 しかしこれがアマテラス信仰の源流であるかについては、さらに検討の必要がある。ホアカリノミコトは、天照国照彦火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこほあかりくしたまにぎはやひのみこと)のように、ニギハヤヒと複合で称されることがしばしばで(丹後の天照玉命神社もその一つ)、ニギハヤヒは物部氏の祖神の名であるからだ。

 物部氏は銅鐸を奉祭した氏族とみられ、実際、丹後には銅鐸が多く出土する。天ノ橋立に囲まれた阿蘇海に流入する野田川右岸の加悦町から、銅鐸形土製品が発見され、籠神社の東の由良川の上流には、阿陀岡神社が鎮座し、付近から二個の銅鐸が出ている。

 郷土史家の金久与市氏によれば「銅鐸出土地には必ずといっていいほど古社がある。海洋民の集団が由良川をさかのぼり、上流地点に銅鐸を祭祀し、祠を建立、拠点としたのではないか」(『古代海部氏の系図』)という。

 丹後町から西に向かう網野町の函石浜遺跡からは、中国の新時代の王莽によって鋳造された「貨泉」が発見されている。中国とかかわる交流を物語るものだ。

 平成十年には、王墓とみなされる墳墓(弥生後期〜末期)が籠神社から約三キロ西南で見つかった。美しい透明の青色ガラス製の釧で話題を呼んだ。他に、貝輪系の銅釧(く しろ)(腕輪)十三点、鉄剣十四本などが出土したが、これらは九州系の文化遺物である。

 銅鐸氏族・物部氏には、天磐舟(あまのいわふね)による降臨神話があり、先の壷のパノラマ図をほうふつとさせる。物部氏は航海、交易によって栄えた氏族だったといえよう。


 さて、この地を「元伊勢」というのは、天照大神が大和から伊勢に遷座する途中、最初に立ち寄ったのが、この籠神社だったとする伝承が、伊勢神宮に伝わる「倭姫命世記」(やまとひめのみことせき)(七六六年の成立という)にあるからだ。また、伊勢神宮外宮の豊受大神ももと籠神社奥宮の祭神で、八世紀に、丹後から遷座したと伝えられる。

 このように、丹後は大陸・韓半島に近いがゆえに、物部氏や海部氏をはじめとする海人集団の幅広い活動の舞台となり、アマテラスの伊勢への遷宮ともかかわりをもったと思われる。まさに古代史を解くカギが潜む地といえる。

http://tamagaki.exblog.jp/2992078/


京都府北部、丹後半島の付け根にある天橋立は、日本三景の一つに数えられる観光の名所ですが、天橋立を渡ったところにある丹後一の宮、籠(この)神社はまた、古代史ファンにはよく知られた神社です。

 1975年、神社に代々極秘で伝えられていた系図が公表され、関係者の大きな注目を集めました。現存する日本最古の系図として、また、従来にない古代史の新史料として、思いがけないものだったからです。翌年にはさっそく国宝の指定を受けたのも異例のスピードでした。

 この系図には、なんと邪馬台国の女王、卑弥呼と思われる名前が記されています。最近、卑弥呼の墓の最有力候補として注目されている奈良県・纏向遺跡にある箸墓古墳、その被葬者とされる倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の名が載っているのです。

 系図によると、始祖の彦火明命(ひこほあかりのみこと)から9代目の孫のところに、「日女命(ひめのみこと)」と出てきます。この「日女命」の脇に、「またの名を倭迹迹日百襲姫命」、「またの名を神大市姫命」、「日神ともいう」などと記されています。

 「日神」とは、すごい呼び方です。太陽神のような扱いを受けた女性ということでしょうか。なんとなく卑弥呼を思わせるといってもいいでしょう。
 それに、「神大市姫命」の「大市」。これは『日本書紀』のなかで箸墓について、「倭迹迹日百襲姫が死んで、大市に葬る。時の人はこの墓を名づけて箸墓という」とある記述に完全に一致します。宮内庁による箸墓の呼び名「倭迹迹日百襲姫の大市墓」の「大市」です。

 どうやら、箸墓に葬られた百襲姫という女性は、丹後の籠神社の系図にある「日女命」と同一人物で、彼女が卑弥呼であるらしい。つまり、卑弥呼は「日女命」と考えてよいようです。

 この系図は、5世紀に丹波国造となった海部氏が、籠神社の神主となって代々伝えてきたものです。主祭神の彦火明命を丹波国造の祖として、以後、今日まで海部氏が代々続いており、現在は82代目の海部光彦さんです。

 「海部氏系図」と呼ばれるこの系図には、始祖の彦火明命についての驚くべき伝承も伝えています。

 彦火明命は、「天火明命(あまのほあかりのみこと)」、「饒速日命(にぎはやひのみこと)」など、いくつかの名前がありますが、天皇家の祖先と同じ天照大神の孫で、やはり天孫として天降っている。しかも、丹後に天降っているというのです。

 天孫降臨というと、普通、天皇家の祖先のニニギノミコトが九州の日向の高千穂に天降ったといわれますが、「海部氏系図」はもうひとつの天孫降臨伝説を伝えており、海部家と天皇家は同じ天照大神の孫で、兄弟の間柄になるようです。

 籠神社には、2000年間にわたり伝世されてきた息津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(へつかがみ)と呼ばれる秘蔵の鏡も2面あります。


息津鏡(下)と辺津鏡(上) (c)gakken

 ひとつ(辺津鏡)は、紀元前1世紀後半の前漢鏡(内行花文昭明鏡)、もうひとつ(息津鏡)は、紀元後1世紀の後漢鏡(長宜子孫内行花文鏡)です。

 前漢鏡の方は、近畿地方では出土例がまったくない貴重なものですし、後漢鏡の方も、近畿地方では破片で出ることはあっても、完全な形で出土したことはなく、やはり貴重な鏡といえます。

 驚くべき鏡が、代々神社の神宝(かんだから)として伝えられていたわけです。
 では、なぜ卑弥呼の名が籠神社の系図のなかに残っているのでしょうか。それが謎です。


古代丹後の鉄とガラス


 籠神社のある丹後半島周辺は、不思議な伝説が多いところでもあります。

 『丹後国風土記逸文』には、このあたりの漁師の若者が竜宮城を訪れる話、つまり、有名な浦島太郎の伝説が残っています。ほかにも、羽衣を奪われた天女が天に帰れなくなるという羽衣伝説、さらに、天橋立はもともとイザナギ命が天から通ってくる梯子でしたが、神が地上で寝ている間に倒れて天橋立になった、という伝説もあります。いずれも、天上界や海の彼方にある別世界と交渉する内容をもっているのが特徴といえます。

 籠神社の名前の由来も、神代に彦火火出見命(ひこほほでみのみこと・彦火明命の別名)が籠船で龍宮に行ったとの伝説があり、そのために昔は籠宮(このみや)といったようです。

   


 丹後はこのように、どこか神話的な世界の残る地方でもあります。籠神社のある宮津市の「宮津」とは、大きな宮のそばにある港という意味です。むろん籠神社を指してのことです。天橋立はもともと籠神社の参道だったからです。

 なお、丹後という呼び名は比較的新しいもので、古代には、現在の京都府と兵庫県の中部北部合わせた全部を丹波と呼んでいました。ところが、684年(天武13年)に丹波国から但馬国(兵庫県北部)が分けられ、713年(和銅6年)、丹波国の北部5郡が分けられて丹後国となったという経緯があります。

 弥生時代には、この丹後地方は列島のなかでもかなり特別な地域だったようです。何が特別かというと、弥生時代からなんとガラスや鉄製品が作られていたのです。それを物語る考古学の発掘が、この10年ほどの間に相次いでいます。
 特徴的なものをいくつかピックアップしてみると…

 まず、丹後半島中央部の弥栄(やさか)町、奈具岡(なぐおか)遺跡では、紀元前1世紀頃ごろ(弥生時代中期後半)の鍛冶炉や、玉造りの工房が見つかっています。水晶やガラスを使って勾玉(まがたま)や管玉(くがたま)などを生産していた工房です。そのための道具としてノミのような鉄製品が作られていたようです。
 この遺跡の場合、出土した鉄屑だけでも数キログラムになるといわれ、大和や河内など近畿地方の中心部と比べると、「鉄の量としては桁違いの多さ」だといわれます。ましてや、鉄製品そのものが残されていたら、どれほどの量だったのでしょうか。

 驚くべきことに、このような玉造りが丹後半島では紀元前2世紀ごろから始まっていました。玉造りの工房のある遺跡が、丹後半島だけで十数か所見つかっています。

 当然、この地域の遺跡から大量のガラス玉が出土するケースも多く、大宮町の三坂神社墳墓群や左坂墳墓群など、ガラス玉の総数は1万点にも及ぶということです。全国の弥生時代のガラス玉のほぼ10分の1が、丹後から出土しているといわれます。


もう一つの先進地域


 次は、墓です。平成13年5月、宮津市の隣、加悦町の日吉ヶ丘遺跡からやはり弥生時代中期後半の大きな墳丘墓があらわれました。紀元前1世紀ごろのものです。30メートル×20メートルほどの方形貼石墓といわれるスタイルで、当時としては異例の大きさでした。

  墓のなかには大量の水銀朱がまかれ、頭飾りと見られる管玉430個も見つかりました。水銀朱は当時としては貴重なもので、魔よけの意味があるといわれます。それがふんだんに使われていました。しかも、大量の管玉。墓に接するように環濠集落があるようです。

 この墓は、他の地域と比べてみると、あの吉野ヶ里遺跡の墳丘墓とほぼ同じ時代です。墓の大きさも、吉野ヶ里よりわずかに小さいだけで、しかも、吉野ヶ里の墳丘墓には十数体が埋葬されていましたが、日吉ヶ丘遺跡の場合はただ一人のための墓です。当然、王の墓という性格が考えられ、「丹後初の王墓か」と新聞などでは話題になりました。

 全国的に見ても、この時代にはまだ九州以外では王はいなかったと考えられていますが、丹後では王といってもよい人物が登場してきたわけです。


丹後半島の古墳公園(加悦町)


倭国大乱の原因となる鉄

 丹後地方は、弥生時代の終わりごろになってくると、今度は鉄製の武器を大量に保有するようになります。
 平成10年9月、携帯電話の中継塔を立てる目的で、籠神社から数キロはなれた岩滝町の天橋立を見下ろす丘陵の中腹を調査したところ、驚くべき出土品が多数見つかりました。これは大風呂南遺跡と呼ばれる墳墓群ですが、その中心的な墓(1号墓)から11本の鉄剣と、美しい青色のガラスの腕輪が出土したのです。墓の年代は西暦200年前後。

 ほかにも、銅の腕輪(銅釧・どうくしろ)が13個、大量の鉄製品や管玉、朱など、弥生時代の墳墓の常識を超えるものでした。
 なかでもガラスの腕輪は、国内ではこれまでに3例しかないうえに(福岡県で2例、丹後で1例)、どれも原形をとどめていませんでしたが、ここでは完全な形で出土し、透明感のあるコバルトブルーの輝きを放っています。被葬者が左手につけていたもので、権威の象徴です。

 11本の鉄剣も、墓の副葬品としては異例の多さです。弥生時代の墓に副葬される鉄剣は通常1〜2本ですが、11本というのは被葬者がいかに大きな権力を持っていたかをよく物語っています。しかも、時代は西暦200年前後、まさに邪馬台国が誕生した直後です。

 この墓の被葬者は、奈良県・纏向遺跡の石塚や、岡山県・楯突墳丘墓に葬られた人物と同じ時代に生きていたことになります。

 この時代の丹後の墓からは、鉄剣が大量に出土します。特別な立場にあるような人の墓ではなく、家長クラスの墓からも当たり前のように鉄剣が出てくるのです。おそらく軍事集団のようなものが存在していたのではないか、と考えられています。そうなると当然、軍事集団を束ねるリーダーがいたはずです。大風呂南遺跡の墓の被葬者は、そのような人物だったのではないか、と考えられています。


ガラス釧(腕輪)と銅釧 丹後郷土資料館蔵

 このように倭国大乱期から邪馬台国時代にかけて、列島のなかでどこよりも鉄を保有していたのが丹後です。その多くが鉄剣や鉄鏃(てつぞく・矢の先端部)など、武器として出土しています。

 弥生時代はかつて平和な農村社会と考えられていましたが、案外、戦いが多かった時代だと今では考えられています。各地の戦いで武器の主力が鉄器になってくるのは、1世紀ごろからです。そのころから、丹後の墓からも鉄剣が出始める。ちょうど1世紀ごろの王墓と見られる三坂神社3号墓からは、大陸製の鉄刀やりっぱな弓矢、豪華な玉飾りなど、経済的な権力を持った王の姿があらわれてきます。

 その後、2世紀後半から3世紀前半にかけては、上に述べたような状況で鉄剣がポンポン出てくきます。この時期に丹後の勢力がもっていた鉄は、キャスティング・ボードになったのではないでしょうか。これほどの突出した武力が、あの倭国大乱を引き起こしたのではないか、とさえ思えるのです。

  そう考えると、丹後(古代丹波)の勢力は、女王卑弥呼の誕生にも重要な立場を取ったに違いありません。邪馬台国の女王に卑弥呼を共立していく主要なメンバーに、古代丹波が入っていたのはほぼ間違いないでしょう。しかも、海部氏の系図に残る「日女命」の名は、卑弥呼がじつは古代丹波出身だったのではないか、と思えてきます。

 先進の技術によって蓄えられた力が、数百年をかけてピークに達したとき、そういう時代に合わせるように、ひとりの飛びぬけて神秘的な能力をもった女性が丹波にあらわれたのではないでしょうか。もちろん、その女性こそが卑弥呼です。
http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/index.html


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十種神宝


十種神宝(とくさのかんだから、じっしゅしんぽう)とは、物部氏の祖神である饒速日命が伝えたとされる十種の神宝である。

『先代旧事本紀』の「天孫本紀」の記載によるもので、饒速日命が天神御祖(あまつかみみおや)から授けられたとする。『先代旧事本紀』には「天璽瑞宝十種(あまつしるし みずたから とくさ)」と書かれている。

分類すれば、鏡2種、剣1種、玉4種、比礼(女性が、首に掛けて、結ばずに、左右から同じ長さで前に垂らすスカーフ様のもの)3種となる。これを三種の神器に対応させて、鏡は八咫鏡、剣と比礼は草薙剣、玉は八尺瓊勾玉であるとする説もある。

十種神宝の内容は以下の通りである。

沖津鏡(おきつかがみ)
辺津鏡(へつかがみ)
八握剣(やつかのつるぎ)
生玉(いくたま)
死返玉(まかるかへしのたま)
足玉(たるたま)
道返玉(ちかへしのたま)
蛇比礼(おろちのひれ)…大国主の神話に出てくる比礼との関係が注目される。
蜂比礼(はちのひれ)…大国主の神話に出てくる比礼との関係が注目される。
品物之比礼(くさぐさのもののひれ)


布瑠の言

布瑠の言(ふるのこと)とは、「ひふみ祓詞」・「ひふみ神言」ともいい、死者蘇生の言霊といわれる。

『先代旧事本紀』の記述によれば、「一二三四五六七八九十、布留部 由良由良止 布留部(ひと ふた み よ いつ む なな や ここの たり、ふるべ ゆらゆらと ふるべ)」と唱える「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱えながらこれらの品々を振り動かせば、死人さえ生き返るほどの呪力を発揮するという。

「ふるべ」は瑞宝を振り動かすこと。
「ゆらゆら」は玉の鳴り響く音を表す。

饒速日命の子の宇摩志麻治命が十種神宝を使って神武天皇と皇后の心身安鎮を行ったのが、宮中における鎮魂祭の起源であると『先代旧事本紀』には記載されている。


十種神宝の行方

石上神宮の祭神である布留御魂神は十種神宝のことであるとする説もある。石上神宮に伝わる鎮魂法では「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱える。いずれにしても、十種神宝は現存していない。

本物か不明であるが、大阪市平野区喜連6丁目にある楯原神社内の神寶十種之宮に、偶然、町の古道具屋で発見されたという十種神宝が祀られている。石上神宮側から返還要請があったにもかかわらず、返していないという。

江戸時代、山崎闇斎は、垂加神道においては神秘的な意義の有るものとして、さまざまな口伝的著述を残した。

籠神社には、息津鏡・辺津鏡という2面の鏡が伝世している。十種神宝の沖津鏡・辺津鏡との関係は不明で、籠神社も特に見解は出していない。

秋田県大仙市の唐松神社には古史古伝のひとつである『物部文書』とともに奥津鏡、辺津鏡、十握の剣、生玉、足玉とされる物が所蔵されているという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%A8%AE%E7%A5%9E%E5%AE%9D


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神武東征の物語
http://kodai.sakura.ne.jp/nihonnkennkokusi/index.html

奈良県の神武天皇伝承地
http://www.geocities.jp/mb1527/N3-15-3tousen2.html

古代史の復元 目次
http://www.geocities.jp/mb1527/mokuji.htm

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2018.08.27
ニギハヤヒ(饒速日命)とは|その正体や瀬織津姫が妻説など解説
https://shinto-bukkyo.net/shinto/kamisama/%E3%83%8B%E3%82%AE%E3%83%8F%E3%83%A4%E3%83%92-%E9%A5%92%E9%80%9F%E6%97%A5%E5%91%BD/


ニギハヤヒとはどんな神様?

ニギハヤヒ(饒速日命/ニギハヤヒノミコト)という神様について調べたあなたは、どのような正体を持つ神様であると思っていますでしょうか。

アマテラスオオミカミと同一説

スサノオノミコトの子孫で物部氏の先祖という説

実は日本という国を最初に作ったという伝説の神様

はたまた宇宙人?

ニギハヤヒという謎に包まれた神様は、古事記や日本書紀という書物の中ではあまり多く語られていないのに、とても不思議で重要な神様の役割をしています。

それ故にたくさんの伝説があります。

今回はそんな様々な伝説がどうやって生まれたのか?

またそれらはどの程度あり得るのか?を見ていきましょう。

ちなみに、筆者の私の家は昔から石切劔箭神社にお参りをしている家庭に生まれたので石切さん(石切劔箭神社の通称)の説を基本的に信じていますが、どの説も間違っているとは考えていませんので、ご了承ください。

ニギハヤヒノミコトという神様には様々な俗説が

先ほど少し見ましたが、ニギハヤヒという神様には、たくさんの俗説(伝説)があります。

あまりにも突拍子もない俗説から、神話の中でさえもたくさんの理解があるため、ニギハヤヒという神様はとても謎の多い神様です。

簡単にどのような説があるのか、俗説以外にも、江戸時代から議論されているようなまじめな説など、少し上げてみましょう。

1アメノホアカリ(天火明命)という神様と同じ?
2オオナムチ(オオクニヌシ/大国主命)の子供?(スサノオの子孫)

ここは実は、ニギハヤヒという神様が古事記や日本書記以外で記された書物の中で出てくるもので、昔からの議論の対象となっている説です。

この他に、いわゆる俗説で次のような説もあります。
1ニギハヤヒは実はアマテラスオオミカミである!?
2ニギハヤヒの妻は瀬織津姫という神様!?
3ニギハヤヒは宇宙人?さらに同じく瀬織津姫も宇宙人でシリウス文明が…(?)
4ニギハヤヒは龍神を操る?
5ニギハヤヒは中国の皇帝が不老不死の薬を求めて日本に遣わした徐福と関連が?

と言った様々なにわかには信じがたい説がたくさん存在しています。

こういった説が一体全体どんな説なのかを考える上で、一般的に広まっている日本神話の中のニギハヤヒという神様について見ていきましょう。

ニギハヤヒは漢字で書くと

ニギハヤヒと言う神様はニギハヤヒノミコトと正式には呼ばれ、漢字では次のように書きます。
饒速日命
饒速日尊
邇藝速日命
櫛玉饒速日命


ニギハヤヒの別名は?

日本神話の他の神様の例に漏れず、ニギハヤヒもたくさんの名前を持っています。
櫛玉命

このほかに、古事記や日本書記以外の書物でニギハヤヒは別の神様と同一と考えられるという記述も存在します。
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)

先代旧事本紀ではニギハヤヒは上でみた天火明命(アメノホアカリノミコト)と同一と見られます。

そのためアメノホアカリノミコトの持つ別名もニギハヤヒノミコトの別名とも考えられます。
天照國照彦天火明尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり の みこと)
天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかり)
彦火明命
膽杵磯丹杵穂命
天照御魂神

このたくさんの書物での一説にまとまらないことがニギハヤヒを謎めいた、伝説の多い神様にしているのです。


ニギハヤヒの日本神話の物語

たくさん説のあるニギハヤヒですが、まずは最も知られている日本神話の中での説を見ていきましょう。

ニギハヤヒの系図・関連する神様
登美夜毘売(とみやひめ,三炊屋媛(みかしきやひめ))(妻)
長髄彦(ながすねひこ)(義兄)
可美真手命(うましまでのみこと)(子)
神武天皇(カムヤマトイワレビコ)(後に臣下に下る)

日本書記・古事記以外の神話の中で関連する神
天照大御神(アマテラスオオミカミ)(祖母)
天香山命(アマノカグヤマノミコト)(子)
瓊瓊杵尊/邇邇芸命(ニニギノミコト)(弟もしくは子)
須佐之男命(スサノオノミコト)(祖父もしくは父)
大国主命(オオクニヌシノミコト)(父)
物部氏・穂積氏・古積氏・尾張氏(子孫)

ニギハヤヒが天磐船(アマノイワフネ)で河内国に降臨

ニギハヤヒの物語の参考はこちら
http://www.ishikiri.or.jp/yuisyo/mythology/

ニギハヤヒノミコトはアマテラスオオミカミから十種の瑞宝/十種神宝(とくさのかんだから)という人を治め、身や心の病をいやす霊力をそなえた様々な神器を受け、天磐船(アマノイワフネ)という船で高天原から降臨されました。

十種の瑞宝の中の有名なものは「フツノミタマの劔」と高天原から降臨した天津神である証明となる「天羽々矢(アメノハハヤ)」です。

これらを持ち、ニギハヤヒは神様として、河内国(今の大阪の東南の地域)に向かいます。

その当時、そのあたりは鳥見(登美/とみ)と呼ばれる地域で、長髄彦(ナガスネヒコ)という首長とその一族が治めていました。

その長髄彦(ナガスネヒコ)や一族はとても好戦的でしたが、天津神という神様のニギハヤヒと会いその先進的な文化の差を感じ争わずにニギハヤヒに従うことになりました。

そして妹の登美夜毘売(とみやひめ,三炊屋媛(みかしきやひめ))と結婚します。

十種の瑞宝/十種神宝(とくさのかんだから)

これは、以下に見る2つの鏡、1つの剣、4つの玉と3つの比礼(女性の服飾)です。
沖津鏡(おきつかがみ)
辺津鏡(へつかがみ)
八握剣(やつかのつるぎ)
生玉(いくたま)
死返玉(まかるかへしのたま)
足玉(たるたま)
道返玉(ちかへしのたま)
蛇比礼(おろちのひれ)
蜂比礼(はちのひれ)
品物之比礼(くさぐさのもののひれ)

ニギハヤヒと神武天皇の東征

ニギハヤヒが鳥見(登美/とみ)の里を治めて繁栄を謳歌していたときに、神武天皇(この当時は天皇ではないのでカムヤマトイワレビコと呼ばれている)が東征をされます。

神武天皇は大阪の浪速国の白肩津に上陸をされると、長髄彦(ナガスネヒコ)率いる軍勢に追い返されます。

一度は失敗しましたが、その後神武天皇は別のルートから攻めます。

そして長髄彦(ナガスネヒコ)のいる生駒山まで行きます。

そこで、長髄彦(ナガスネヒコ)とまた戦います。

その戦いの最中、神武天皇は自分がアマテラスオオミカミの玄孫であり、この土地を治めに来たと言いますが、長髄彦(ナガスネヒコ)はそのことを信じず戦闘が続きます。

やがて、金色のトビが空からやってきて、光輝き戦闘ができなくなります。

その時に長髄彦(ナガスネヒコ)はこのように神武天皇に伝えます。

「何ゆえこの土地を攻めるのか?私たちは天津神の櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒノミコト)に従い、この土地を守っている。あなた(神武天皇)は天津神の子孫と言ったが、こちらはニギハヤヒノミコト様という天津神の元でこの土地を収めている。

お前は偽物の神様だろう!」と。

そこで、神武天皇と長髄彦(ナガスネヒコ)はそれぞれが自分たちが天津神に関わるものだということを天羽々矢を見せ合いました。

どちらも本物だとわかったのですが、長髄彦(ナガスネヒコ)は戦いをやめなかったためにニギハヤヒは長髄彦(ナガスネヒコ)を殺し、神武天皇に従うことを誓いました。

ニギハヤヒの物語の参考はこちら
http://www.ishikiri.or.jp/yuisyo/mythology/

ニギハヤヒにまつわる様々な説

ニギハヤヒは上記の物語がありますが、たくさんの説・物語を持っている神様と冒頭でも説明しましたが、他にどのような説や物語があるかを見ていきましょう。

ニギハヤヒの正体とは?

まず、ニギハヤヒという神様は、日本神話を記した有名な書物の日本書記と古事記でも統一した記述はありません。

他の書物ではさらに全く違う記述がされています、

ニギハヤヒはアマテラスオオミカミの孫?

ニギハヤヒはアメノホアカリと同一と書かれています。(先代旧事本紀)

アメノホアカリとニギハヤヒが一緒なのであれば、アマテラスオオミカミの子のアメノオシホミミと高木神の娘のヨロヅハタトヨアキツシヒメとの間に生まれた子供がニギハヤヒということになります。

これは簡単に言うと、

天孫降臨で有名なニニギノミコトの兄を意味します。(父という記述をした書物も)

つまり、ニギハヤヒは天孫族というアマテラスオオミカミの系統で、神様の中でも特に位が高い神様で、

しかも葦原中津国に降臨をしたニニギノミコトより先に降臨していたということです。
アマテラスオオミカミについて詳しく知りたい方はこちらをご覧ください。
アマテラスオオミカミ(天照大御神)とは|伊勢神宮の神社史や神話の姿

ニギハヤヒは出雲王朝(スサノオ)の子もしくは孫?

播磨国風土記という、兵庫県の播磨地方の歴史を記した奈良時代の書物の中では、ニギハヤヒは出雲王朝の子孫と言われています。

出雲王朝を作ったきっかけは、アマテラスオオミカミの弟の神様であるスサノオノミコトとその子供のオオクニヌシノミコト(大国主命/オオナムチ)という神様です。

ニギハヤヒはその王朝から現在の奈良の大和地方に向かったとも言われています。
スサノオノミコトやオオクニヌシノミコトについて詳しく知りたい方はこちらをご覧ください。
スサノオノミコト(素戔嗚尊)とは|神話(ヤマタノオロチ等)、ご利益等を解説大国主命(オオクニヌシノミコト)とは?ご利益や神社の情報や国譲り等神話の物語も解説

ニギハヤヒは物部氏の始祖?

物部氏とは、奈良時代の蘇我氏が政権の中央に出るまで、政治・祭司の中心的な氏族として有名でした。

その物部氏はニギハヤヒノミコトの子孫と伝えられています。

物部氏をルーツとする武将は数多くおり、武士(もののふ)の家柄だとも言われています。

日本で最も古い家系図とも言われる海部氏の系図には様々な氏族がニギハヤヒ・天火明命の子孫と根拠が得られます。

ただし、様々な説が多くあるために、疑問視する人も存在します。

ニギハヤヒとアマテラスオオミカミの男性神?

ここからは少々スピリチュアルな説が続きます。

ニギハヤヒノミコトの正式な名前が、
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)

と表記されます。

この名前の最初の天照(アマテラスともアマテルとも発音)の表記から、「太陽神」つまりアマテラスオオミカミの男性神として生まれたのではと主張する説があります。

そもそもイザナミノミコト・イザナミノミコトという双神で国ができたという話や、太陽神とは陽(男性神)で、月が陰(女性神)という考え方から日本の皇祖神がアマテラスオオミカミ(女性神)だけということに疑問を持つ人たちがいます。

この説はそういった人の推論の上に成り立っているものです。

古代のロマンを感じるものですね。

ニギハヤヒは宇宙人という説

スピリチュアルが好きな方がネット上にたくさんの意見を乗せていて、その一つにニギハヤヒは宇宙人であるという意見もあります。

これは学術的な背景を持っている説ではありません。

この説は、ニギハヤヒの妻の瀬織津姫という女神は、シリウス文明の女神であるという説や、エジプトその他神話を持つヨーロッパ・中東地域の神とつなげるという説の様です。

ニギハヤヒとユダヤ?

古代のロマンが好きな人なら「日ユ同祖論」と呼ばれる、イスラエルに存在した部族の一つが日本に流れ着き王朝を立てたというニコラス・マクラウド氏が明治時代に提唱した意見を聞いたことがあると思います。

この意見では、日本の神様の名前の音がヘブライ語に似ているウガヤフキアエズという神様がユダヤの王と同一という考え方等たくさんの説があります。

ニギハヤヒもその一つという考え方です。

ニギハヤヒと龍神(白龍)の関係がある説

これは後半で考察をする、ニギハヤヒの妻は瀬織津姫ではないか?という説に関わるものです。

ニギハヤヒの妻と言われる瀬織津姫は日本の神話には出てこないのに、神道の大祓詞にでてくる神様で大変謎の多い神様です。

この神様は龍神様であるという説が存在しニギハヤヒは龍神と関りがあるという説があります。

また、千と千尋の神隠しに出てくるハクという白龍になる少年。

彼はニギハヤミコハクヌシという本名を持っているためニギハヤヒと龍の関係に注目が集まったのかもしれませんね。

ニギハヤヒと徐福

さらにはニギハヤヒは徐福という中国の秦王朝の時代に皇帝から不老不死の薬を探して来いと日本に遣わされた人物と関係があるという説もあります。

大神神社(奈良)の大物主はニギハヤヒという説

また、大物主(オオモノヌシノカミ)というご祭神を祀る、日本で最も古い神社の一つと言われる大神神社(おおみわじんじゃ)にもニギハヤヒは関係すると言われています。

ただし、大神神社の公式の見解にはありません。

また三輪王朝と呼ばれる、仮説に基づく考えがあるなど、その真偽は不明です。


ニギハヤヒの妻は瀬織津姫?

上で見てきたようにニギハヤヒには本当かな?と思うような説がたくさんついて回っています。

その中でも特に根強い支持を集めているのが、このニギハヤヒと瀬織津姫が夫婦だったというものです。

瀬織津姫という神様は、先ほども述べましたが、日本の神話には出てこないが、大祓詞の中に名前が出てくる神様で、伊勢神宮の内宮(アマテラスオオミカミを祀る社)の別宮荒祭宮の別名が瀬織津姫であるという記述がいくつかの書物でされています。

他にも兵庫県西宮市の廣田神社では現在はアマテラスオオミカミを祀っていますが、以前は瀬織津姫を主祭神と祀っていたと戦前までの記録にはあります。

また、日本の神社の中で、ニギハヤヒと瀬織津姫と同一とみられる神々が一緒に祀られる神社があると言われてもいます。

ニギハヤヒがアマテラスオオミカミの男性神として、瀬織津姫がアマテラスオオミカミの女性神だという主張も存在します。

瀬織津姫について詳しく知りたい方はこちら

参考:瀬織津姫とは?封印された龍神・弁財天とも言われる伝説の神様を解説!

ニギハヤヒノミコトが祀られている神社・神宮

ニギハヤヒはそもそも神話内でも明確な表記がないことから上記で見たようなにわかには信じられない説が数多くあります。

それでも、重要な神様として、日本の各地でニギハヤヒノミコトを祀る神社が存在しています。

それらの神社について見ていきましょう。

石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)

日本で最も有名なニギハヤヒノミコトとその子の可美真手命/宇摩志麻遅命(うましまでのみこと)を祀る神社です。

神話の中でニギハヤヒノミコトが降臨し、統治の中心とした場所と言われる河内の国にある神社で、ニギハヤヒの子孫の物部氏の有力氏族の木積氏が代々神主を務める神社です。

公式サイト:http://www.ishikiri.or.jp/

磐船神社(いわふねじんじゃ)

ニギハヤヒを祀る神社の中でも、ニギハヤヒが降臨されたときに乗っていたという天磐船(アマノイワフネ)だと言い伝えられる巨石がある神社です。

所在地:大阪市交野市私市9-19-1

籠神社(こもじんじゃ)

籠神社のご祭神は彦火明命(ひこほあかりのみこと)という神様で、ニニギノミコトの兄弟神として地上に降臨し籠神社のご祭神となったとされます。

この彦火明命の別名が「饒速日命(ニギハヤヒノミコト)」とされます。

籠神社は丹後国一宮という古くから皇室でも重要視されている神社であり、国宝の海部氏系図という、神代からの家系図が残る由緒正しい神社です。

さらにこの籠神社の伝承では、彦火明命は宗像三女神のイチキシマヒメ(市杵島姫命)を妻としたと言われています。

このイチキシマヒメは瀬織津姫と同一視される神様と言われています。

籠神社公式サイト:http://www.motoise.jp/index.php


ニギハヤヒの墓

ニギハヤヒは逝去された時、そのご遺骸は天に上っていったとされます。

そのため、ニギハヤヒが埋葬されたというお墓はありません。

ですが、ニギハヤヒの妻がニギハヤヒの遺言に従い、鳥見の白庭にニギハヤヒの遺品を埋めたという言われ、その鳥見の弓塚と言われます。

その伝説が語られる場所は現在も存在します。
饒速日命墳墓(奈良県生駒市白庭台5-9-1)
真弓塚(奈良県生駒市上町5002)

ニギハヤヒのご利益・ご神徳は?

様々な神社で祀られ様々なご利益御神徳をお持ちと考えられています。
腫物(癌等)の守護(石切神社)
病気平癒(磐船神社)
諸願成就

ニギハヤヒノミコトの神格
太陽神
穀物の神
呪術の神
航空の神
https://shinto-bukkyo.net/shinto/kamisama/%E3%83%8B%E3%82%AE%E3%83%8F%E3%83%A4%E3%83%92-%E9%A5%92%E9%80%9F%E6%97%A5%E5%91%BD/

5. 中川隆[-13452] koaQ7Jey 2018年12月26日 05:21:31 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22207] 報告

日本の中枢は既に在日朝鮮人に乗っ取られている
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/232.html

「問題なのは差別ではなく、
ユダ金が部落民や在日朝鮮人を使って、反日売国行為を
行わせていることにそもそもの問題がある。

ある政治家や官僚などの人物が部落出身者や在日朝鮮人であるかどうかを
あぶり出すのはユダ金の謀略を頓挫させるのに
きわめて有効なことだ。
なぜなら、ユダ金は部落出身者や在日朝鮮人といったマイニリティを手先として
好んで使ってきたからだ。

たとえば竹中(部落)、野中(部落)、飯島(小泉の秘書、在日)

これを差別とか言うヤツは筋違いもいいとこ。」
http://stopbrainhacking.blog.fc2.com/blog-entry-233.html


▲△▽▼


馬渕睦夫さんが明らかにしていますが


馬渕睦夫 deep state の世界を語る


ロシア革命も毛沢東の中国支配も朝鮮戦争も東西冷戦もアラブの春も対テロ戦争もすべてユダヤ資本のヤラセだった


左翼=リベラル=グローバリズム=ユダヤ
=国際金融資本、軍産複合体、ネオコン、CIA、FBI、マスコミ、ソ連共産党、中国共産党、天皇一族、日本の官僚
=マクロン、メルケル、ヒラリー・クリントン、オバマ、レーニン、スターリン、ボリス・エリツィン、小泉純一郎、竹中平蔵、小沢一郎、橋下徹、枝野幸男、日本の護憲派・反原発派・反安倍勢力


右翼・民族主義=反リベラル=反グローバリズム=反ユダヤ
=プーチン、チェ・ゲバラ、カストロ、J.F.ケネディ、トランプ、ヒトラー、サダム・フセイン、カダフィ、アサド、ウゴ・チャベス、 ロドリゴ・ドゥテルテ、田中角栄、安倍晋三、日本共産党


なんですね。

安倍晋三は調整型の政治家で権力基盤が弱く、IQ も随分と低いので、官僚や自民党のグローバリストに引き摺られているのですが、本来はプーチンやトランプと同じナショナリストなのです


▲△▽▼


【馬渕睦夫】グローバリズムの罠 国難の正体 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=64Sclci4EVg
https://www.youtube.com/watch?v=d9BwAEI82Fw


2013/08/06 に公開

講師:馬渕 睦夫 氏(元駐ウクライナ兼モルドバ大使)
演題:グローバリズムの罠 国難の正体
日時:平成25年7月28日(日)午後2時〜
会場:栃木県護国神社 護国会館


▲△▽▼


ひとりがたり馬渕睦夫 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/playlist?list=PL7MaEu9i584fGdp78r27h-eH0rmWLioEC

2018/06/22 に公開
待望の馬渕睦夫大使の新番組がスタート!激動する世界、今の日本に必要なのは何か?どんな危機が訪れているのか?マスメディアでは伝えられない世界の真実と、馬渕睦夫の「眼」をお届けいたします。



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馬渕睦夫さんが明らかにしたのは
・ロシア革命を行ったレーニン、スターリン、トロツキー等は全員ユダヤ人とそのシンパだった

・ロシア革命に資金援助や支援していたのはアメリカやイギリス・ドイツの金融資本家だった


・毛沢東と中国共産党を支援していたのもアメリカ金融資本家だった

・ルーズベルトとその周辺の人間は全員社会主義者でスターリンと同盟関係にあった

・GHQ は戦後の日本を共産化しようとした

・ボリス・エリツィンはソ連崩壊後に国有財産を民営化して、すべてユダヤ資本に二束三文で払い下げた


要するに、ユダヤ資本は

昔は共産化によって世界各国のグローバル化を進めようとした

現在は移民を大量に受け入れさせて世界各国のグローバル化を進めようとしている

馬渕睦夫さんは唯の国際化とグローバリズムとは全く違う概念だと何度も言っています。

馬渕睦夫さんがグローバリズムと言っているのは

ユダヤ国際金融資本はユダヤ教の精神に基づいて、世界を国境の無い文化も同じ一つの国にしようとしているという事ですね。

ユダヤ教は人類で最後に救われるのはユダヤ人だけで、他民族はすべて滅ぼされるという教義です。

すべて滅ぼすのは無理なので、ユダヤ人が目指す現実性のある理想の社会は
1%のユダヤ人が資産や権力を独占して、99%の他民族は被支配者として搾取される世界なんですね。

北朝鮮みたいな共産国家なら大体その通りになっていますよね。

それから中国では都市籍の人間が農民籍の人間を支配搾取する体制になっていますよね。
中国の経済発展は都市籍の人間が農民籍の人間をタダ同然で働かせる事ができたからだというのが定説ですね。


マルクス主義で言う平等というのは 99% の被支配者の間では階級差別が全く無いというだけの話です。

竹中平蔵さんが、

派遣社員と正社員と待遇が違うのは平等の精神に反するから、正規社員も非正規社員と同待遇にしろ

と言っているのも 99% の被支配者の間では階級差別が有ってはいけないという主張ですね。


だから、ユダヤ人は最初は共産化で 1% 対 99% の世界を作ろうとしたのです。


馬渕睦夫さんが何度も言っていますが、国際化とグローバリズムとは全く違う概念なのですね。

それは航空機で欧米に数時間で行ける時代だから、海外との輸出入も旅行も技術交流や留学も簡単になった。
コカコーラやネスカフェやマクドナルドは世界中どこでも手に入る様になった。

しかし、それはあくまでも国際化であってグローバリズムとは関係ない

移民を入れたらチャイナタウンとかモスクを中心とするイスラム人居住区みたいな国家内に別国家ができてしまうので、唯の国際化とは次元が違うものなんですね。

ユダヤ資本は利潤を最大化したいだけなので、

・言語はすべて英語に統一して、それ以外のローカルな諸言葉はすべて廃止する
・民族ごとに違う習慣や伝統はすべて止めさせて、世界標準の生活様式に統一する
・賃金は民族によらず、すべて同一作業同一賃金にする

という環境を作りたいのです。


グローバリズム=共産主義

というのは、どちらも 1% 対 99% の世界を作って、

99%の中では民族による賃金や福祉等の差別はしない、中国人でも日本人でも賃金はすべて同一にする(賃金は安い方に統一する)

という事なのですね。

それで、レーニンやスターリンやトロツキーの様な反民族主義のユダヤ系のグローバリストが共産革命を起こし、ユダヤ資本が共産国家を支援した

馬渕睦夫さんはそういう歴史的事実を信頼できる資料と客観的事実に基いて具体的に指摘したというだけです。

グローバリズムというのは19世紀の帝国主義と同じものだというのが定説
国家より金融資本の力が上になっている状態の事

19世紀と今の違いは、植民地を作って直接支配するのを止めて、傀儡政権を作って経済支配だけする方向に変わった事

民主主義は国家がないと成り立たないから、グローバリズムは民主主義とは相容れない
それでマスコミ操作で単純な一般人を洗脳して騙す手口を実行しているんだ

アホは平和、友愛とか多文化共生という言葉に弱いから、騙すのが簡単なんだ:


【馬渕睦夫】メディアは「意図的」に洗脳している。マスコミの正体を暴露しよう - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=1UVE71XxbHk

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【馬渕睦夫 河添恵子】「NHKは人事まで中国大使館の支配下にある」と馬渕睦夫 河添恵子氏が暴露! NHK内部にまで浸透済みだ! 2018年12月17日 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=SGKFLrySAHs

2018/12/16 に公開
馬渕睦夫 河添恵子氏の解説から
「NHKは人事まで中国大使館の支配下にある」と馬渕睦夫 河添恵子氏が暴露!
NHK内部にまで浸透済みだ!
朝日、毎日をはじめとする新聞、NHK、TBSといった地上波テレビなど、既存メディアは、真実を見せなくなっているのではないでしょうか?

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馬渕睦夫★日本のテレビから外国人スパイを淘汰しろ!
なぜ天皇陛下が農業するのか?その意味と譲位日程の秘密 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=DPaPO66OWBk&app=desktop

2017/12/07 に公開

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日本では5万人の中国人が工作活動に従事している:
河添恵子#8-1 ゲスト:馬渕睦夫★リアルに存在するスパイ&工作員の実態 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=ukhGim45GB0


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民族主義、反リベラル、反ユダヤのヒトラーやサダム・フセイン、カダフィは今迄ずっと極悪人扱いされてきましたが、

ユダヤ資本が支配しているマスコミが現在でもシリア毒ガス兵器の様な悪質な捏造ニュースばかり流している事を考えると、
ヒトラーやサダム・フセイン、カダフィについても、有る事無い事 根も葉も無い嘘とデマを撒き散らした可能性が高いですね。

そうでなければ、ドイツでのヒトラー崇拝やサダム・フセイン、カダフィの国民からの圧倒的支持を説明できないですね:

第一次湾岸戦争時の「ナイラ証言」

アメリカ政府もメディアも、イラク攻撃の世論作りのために露骨な捏造と情報操作をおこなった。世界が、みごとに嵌められてしまった。

「ナイラ証言」というのは、完璧な捏造であることがはっきりしている。ナイラというクウェートの少女が、米公聴会で「イラクの兵士がクウェートの産院の乳飲み子を保育器からだし、次々と床に叩きつけて殺したのを見た」と涙ながらに証言した。

しかし、後にこの少女は、駐米クウェート大使の娘で、ずっとアメリカにいたことが分かった。つまり、証言は真っ赤なウソだった。この証言は、アメリカの広告代理店がシナリオを作り演出したものだった。リハーサルもきちんとしていた。もちろん、スポンサーはアメリカ政府以外にない。ただし、捏造がニューヨークタイムズで暴かれたのは、1年3ヶ月後のことだ。

この「ナイラ証言」が出るまでは、アメリカの世論は反戦が多数を占めていた。しかし、この証言で世論は一気に会戦へと転じた。周到に準備された、たったひとつの捏造が、世論を完璧に逆転させてしまった。しかも、素人の少女のウソ泣きによって。


クウェートから逃げてきたとされる少女の証言だ。そのクウェート人少女は、アメリカ議会の公聴会でこう証言した。

「サダム・フセインの軍隊が病院に乱入して、保育器から赤ん坊を取り出し、床に叩きつけて殺した。私はこの目で目撃した」

 と、少女は涙を流しながら証言した。

 ところが、この公聴会での少女の証言は、真っ赤なウソだった。
 事前にアメリカの広告代理店が綿密なシナリオをつくり、何度もリハーサルをした上での証言だった。当の少女が後に暴露した。


 
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【日いづる国より】馬渕睦夫、フィデル・カストロと日本人の幸福論[桜H27-5-8] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=eoq6pRXoBBA&app=desktop

2015/05/08 に公開

日本の伝統と文化を尊重し、真に国益を考える数多くの志士達が、自らが国政に臨むことで日本再生に懸けようと奮起している。その志と問題提起を、じっくりとお聞きしていく対談番組。偉大な作曲家にして真の愛国者・すぎやまこういちによるプロデュースでお送りします。

聞き手:中山恭子(参議院議員)・すぎやまこういち(作曲家)
ゲスト:馬渕睦夫(元駐ウクライナ兼モルドバ大使)


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アメリカは日本へのキリスト教布教には失敗したが、戦争犯罪者という原罪を植え付けるのには成功した

【日いづる国より】馬渕睦夫、現代の「三国干渉」を打破せよ![桜H27-5-1] - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=YxGqLyB3rmQ


2015/05/01 に公開

日本の伝統と文化を尊重し、真に国益を考える数多くの志士達が、自らが国政に臨むことで日本再生に懸けようと奮起している。その志と問題提起を、じっくりとお聞きしていく対談番組。偉大な作曲家にして真の愛国者・すぎやまこういちによるプロデュースでお送りします。

聞き手:中山恭子(参議院議員)・すぎやまこういち(作曲家)
ゲスト:馬渕睦夫(元ウクライナ兼モルドバ大使)

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【大道無門】馬渕睦夫と国難の正体を暴く[桜H25-5-24] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Rl7oyG4ebwk&app=desktop

2013/05/24 に公開

司会:渡部昇一(上智大学名誉教授)
ゲスト:馬渕睦夫(元駐ウクライナ大使)


東西冷戦も朝鮮戦争もユダヤ金融資本が仕組んだヤラセだった
ユダヤ金融資本がヤラセの冷戦体制を終わらせようとしたケネディを暗殺した


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ノンフィクション作家・河添恵子#4-1
「馬渕睦夫氏と語る最新世界情勢」前編・グローバリスト&共産主義勢力 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Z7syO3BhDdQ

ノンフィクション作家・河添恵子#4-2
「馬渕睦夫氏と語る最新世界情勢」後編・北朝鮮問題の行方 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Z4Ot9KiWPV8

収録日:2018年4月25日

6. 中川隆[-12202] koaQ7Jey 2019年2月13日 12:17:40 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22237] 報告

サイエンスZERO 動画
日本人成立の謎。弥生人のDNA分析から意外な事実が判明
https://www.dailymotion.com/video/x6zvxyz


弥生人は韓国人に近い遺伝子だと思われてたが今回の調査で違うことがわかった
大がかりなDNA解析による新情報では弥生人の初期は縄文人に近い遺伝子だったが集団の戦いなどで弥生人は時代が進むにつれて韓国人のDNAに近づいて
現代日本人はほとんど韓国人のDNAと一緒になった

これ旧日本人が韓国人に大虐殺された後に中出しレイプされて生まれたのが俺たち現代日本人ってことになるぞ

ナレーション(弥生人の核DNA分析から予想された現代日本人の位置は ここ。弥生人同士がまじわって 現代日本人が成立したと考えられるからです。ところが…。)

篠田謙一:実はですね 現代日本人はもう既に この辺りだということが分かったんですね。つまり 弥生人って 混血していけば恐らく 混血する相手は
この縄文人になりますから当然 現代日本人の位置っていうのはこちらに ずれてくるはずなんですよね。ところが そうならなくてこっちに来てしまったということで
ちょっと 考え方を変えなきゃならないというふうに思ったわけですね。つまり こっち(韓国人)に引っ張る 何かがなければいけないということになるんですね。

小島瑠璃子:てことは 韓国とか あとは大陸の方と多くまじわりながら人口を増やしてったのが私たちってことですか?

篠田謙一:そういうことになると思うんです。

小島瑠璃子:え〜!

7. 中川隆[-12195] koaQ7Jey 2019年2月13日 16:12:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22237] 報告

2018年10月04日
現代日本人が受継の縄文人のDNAの多くは西日本由来


 洋泉社出版の「歴史REAL 日本人の起源 縄文・弥生の世界」(本の写真は出版社から未だ了承を得られていないので、得られ次第掲載)で、国立科学博物館の篠田謙一副館長が、最新の日本列島の古代人骨のDNA解析に基づく知見を書いておられる。

 それによると、縄文人は、全国的に均一な形質を持つ集団として成立していたのではなく、地域によって異なる遺伝的集団であった可能性が出てきていることが、最新のデータに基づいて説明されている。

 又、渡来系弥生人のイメージも、従来のイメージと異なり、時期・地域によって異なり、弥生中期以降から古墳時代にかけて、大陸から多くの人々が渡来し、在来の渡来系弥生人との混血が進んでいったのではないかと指摘されている。

 そして、現代日本人が受け継いでいる縄文人のDNAの多くは西日本由来とのことであり、まさに、今回のぷろ古代西日本の中心の一つであった出雲人骨プロジェクトによって、古代史の謎が解き明かされることが期待される。

 さらに、日本列島に初めてきた旧石器人と縄文時代人とは別の集団であった可能性も指摘されている(アイヌ集団・琉球集団のDNA分析の結果)。
https://readyfor.jp/projects/izumo17990/announcements/86610

8. 中川隆[-12192] koaQ7Jey 2019年2月13日 16:19:33 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22237] 報告


島根県の出雲人は、縄文人と近いことが判明。


ー神々の国と呼ばれた出雲の人々ー

出雲は、神話の国でしたが、実際に、弥生時代の銅剣・銅鐸が多数発見され、四隅突出型墳丘墓も発見されるなど古代出雲王国の文化が栄えたことが明らかとなり、出雲大社を擁し、出雲弁の方言を話す特徴を有しています。

会員の中から、出雲出身者のDNAを調べてみれば、出雲人のルーツの解明ができるのではないかとの話が持ち上がり、2010年頃、国立遺伝学研究所の斎藤成也教授にDNA鑑定を依頼しました。当時、中国地方のDNAデータがなかったこともあり、斉藤教授による出雲人DNA解析の研究が開始されました。


ー出雲出身者のDNAを調査ー

東京在住の出雲出身者21名が、東京大学医学部に赴き、血液を採取され、結果を待ちました。ほとんどの会員の予想として、地理的な要因もあり、関東ヤマト人よりも朝鮮半島の人々とDNA的に近い結果がでるだろうと予測していました。ところが、斉藤教授から伝えられた結果は、衝撃的な内容でした。

現代の出雲人のDNAは、関東ヤマト人よりも、朝鮮半島の人たちよりも位置的に遠く、かつ縄文人のDNAを関東ヤマト人よりも多く承継している東北地方集団の位置と似ているという結果でした。
https://readyfor.jp/projects/izumo17990

9. 中川隆[-12190] koaQ7Jey 2019年2月13日 16:30:51 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22237] 報告

2018.12.26
現代日本人のDNAは中国人と縄文人の間 NHKサイエンスZERO
https://phity.net/japanese-yayoi-dna-chinese


動画
https://www.dailymotion.com/video/x6zvxyz


弥生人のDNA分析から意外な事実が判明

遺伝子学や考古学、言語学などさまざまな研究分野の専門家がチームを結成。
40体に及ぶ弥生人の人骨をDNA分析をした。
謎に包まれてきた弥生人を最新科学で解き明かす!

弥生人のDNA分析

鳥取県の弥生遺跡で発掘された人骨のDNAは、9割が渡来人だった。縄文人のDNAは、1割と少なかった。渡来人が縄文人に入れ替わっていた。

弥生人はどこにルーツをもつ、どんな集団だったのか?

弥生人のDNAから渡来人は中国大陸の各地から渡来してきたことがわかった。

渡来は2世紀から始まった。渡来人は、縄文人にはない鉄製の器具、ガラスの装飾品を持って来た。

縄文人からどのようにして、現代日本人になったのか?

現代日本人のDNAは、弥生人よりも中国・韓国人に近い。弥生時代のあと、古墳時代も中国からの流入が続いたためと思われる。

弥生人のDNAから、縄文人と交わっていた形跡がある。
https://phity.net/japanese-yayoi-dna-chinese

10. 中川隆[-12154] koaQ7Jey 2019年2月14日 15:11:57 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22240] 報告

2018.09.20
約2千年前の弥生時代、なぜ凄惨に殺された人骨が大量発掘…国と課税と戦争の誕生
https://biz-journal.jp/2018/09/post_24828.html


 鳥取市の青谷上寺地遺跡で見つかった2〜3世紀(弥生時代後期)の人骨のDNAを最新技術で分析する調査を、国立科学博物館や国立歴史民俗博物館、鳥取県埋蔵文化財センターなどが始めた。

「産経WEST」の報道によれば、遺跡中心部の溝からは、老若男女の人骨が少なくとも109体分、散乱した状態で出土。鋭い武器で切られたり刺されたりした殺傷痕が残るものもあった。戦闘など凄惨な行為があったと考えられるが、その背景は明らかになっていない。

 人間はなぜ戦争をするのか。古くから多くの思想家や研究者が答えを探してきた問いだ。日本で戦争が始まったとされる弥生時代の歴史は、その難問に対するヒントを与えてくれる。

 通説では紀元前4世紀ごろに九州北部で始まったとされる弥生時代といえば、水稲農耕が始まった時代として知られる。縄文時代晩期に渡来人によって北九州に伝えられた水稲技術が、まず西日本、次いで東日本にも広まった。

 同じ時期に日本列島に広まったものがある。戦争だ。

 考古学の研究結果によれば、狩猟採集に基礎を置く縄文時代には、集団と集団とがぶつかり殺し合う戦争はなかった。専用の武器をつくらなかったし、ムラの守りを固めることもなかった。殺されたことが確かな埋葬人骨もごく少ない。

 ところが弥生時代に入ると様子が一変する。周囲に堀を巡らした環濠集落や、台地や山頂に築く高地性集落など、防御を固めた集落が現れる。青銅・鉄・石による専用の武器が登場し、武器を祭器として尊崇する信仰まで生まれる。

 とくに強烈な印象を残すのは、前述の青谷上寺地遺跡でも見つかった、殺傷された証拠を残す人骨である。神戸市の新方遺跡の墓地では、1列に葬られた男性3人の遺骨の中から、それぞれ石鏃が見つかった。そのうち壮年から熟年のたくましい男性は、頭から胴と腕にかけて、17個もの鏃を射ち込まれていた。いろいろな方向から弓矢で集中攻撃されたらしい。

 奈良市の四分遺跡の例もすさまじい。1つの木棺に一緒に葬られた若い男女の遺骨のうち、女性のほうは胸の部分に石鏃が1本。男性のほうは、背中や腰の左右から、鉄の武器で刺されたり切られたりした傷が数カ所、左の肩甲骨や左右の腸骨にある。さらに左の目あたりが鋭利な凶器で骨までざっくりと削られている(松木武彦『人はなぜ戦うのか』)。

弥生時代に農耕と戦争が同時に広まった理由として、歴史学の通説では、農耕社会では狩猟採集よりもたくさんの生産物がとれ、富ができやすいから、その奪い合いが引き金となって戦争が起きると説明されてきた。

国家は欲しい物をつねに暴力で奪う


 しかし、この説明には飛躍がある。人が他人の富を手に入れる方法は、奪うだけではないからだ。ドイツの社会学者フランツ・オッペンハイマーは、人間が生きるために必要な富を手に入れ、欲望を満足させるには、根本的に対立する2つの手段があると指摘した。労働と略奪である。

 オッペンハイマーのいう労働には、自分の労働で物をつくりだすだけでなく、それを互いの合意のもとに他人と交換することも含む。一方、略奪とは欲しい物を暴力や詐欺によって他人から一方的に奪うことを指す。オッペンハイマーは労働を「経済的手段」と呼び、略奪を「政治的手段」と呼んだ。政治の主体である国家は、欲しい物をつねに暴力で奪うからだ。奪う相手が自国民なら課税で、他国民なら戦争でという方法の違いがあるにすぎない。

 他人の富の略奪を目的とする戦争は、明らかに略奪である。しかし、富が欲しければ、交換という選択肢もあるはずだ。事実、弥生時代は異なる集団の間に戦争しかなかったわけではない。石材、木材、山海の産物など縄文時代以来の日常物資の平和な交換が、むしろ普通だった。

 だとすれば、問わなければならないのは、なぜ農耕によって築かれた富を手に入れる際、平和な交換という方法だけでなく、戦争という方法が新たに加わったかだ。

戦争と課税はコインの裏表


 考古学者の松木武彦氏は、人工物や社会をつくったヒトの心に注目する「認知考古学」に基づき、弥生時代における本格的な稲作農耕と戦争とは、ひとつの文化を構成するセットをなしていた可能性があると指摘する。そのルーツは遠く海外にある。

 日本の縄文時代後半、世界ではいわゆる四大文明が芽生え、栄えていた。メソポタミアのチグリス・ユーフラテス両川のほとり、エジプトのナイル河谷、インドのインダス川上流、中国の黄河流域では世界に先駆けて大規模な農耕が始まり、都市が現れ、軍隊をもって戦争を行う古代国家が生み出され、王侯や貴族が支配の頂点に立つ社会が発達する。

きっかけは当時地球上で進行した寒冷化に伴い、温暖なこれらの地帯に周囲から多くの集団が流れ込んだことにある。環境の変化を乗り切る方策のひとつとして、農耕によって自然を支配する一方で、武力によって人を支配するという支配的性向をもつ文化が編み出された。この文化が中国から日本に伝わり、弥生時代の戦争をもたらしたと松木氏はみる(『列島創世記』)。

 同じく考古学者、寺沢薫氏の指摘も興味深い。同氏はR・カーネイロの2つの戦争モデルを紹介する。第1は、アマゾンなど広大な未開の森林を控えた地域だ。負けたグループは征服や賠償の対象にされようものなら、森林の奥地に引っ越す。

 第2は、これとは対照的なペルーの海岸地帯だ。戦争で負けたグループは逃げるところがない。殺されるか勝者に隷属するかだ。敗者は勝者の政治組織に吸収される。この政体が拡大しペルー全体をまとめるようになったとき、インカ帝国が成立した。四大文明発祥の地もおおかたこのモデルだという。

 弥生時代の九州北部は第2のモデルそのものだと寺沢氏は言う。戦争に勝った共同体と敗れた共同体の間には歴然とした階級関係が生まれる。敗北した共同体は首長の下に一見従来どおりの生活を送っているように見えるが、じつは支配共同体に生産物や労働力の一部を貢納というかたちで税金のように支払ったり、特殊技術を提供したりする義務がある。

 寺沢氏は、九州北部では過酷な戦争を通じ、日常的な小共同体がクニ(大共同体)や国(大共同体群)、その連合へと統合されたと述べ、弥生時代前期末の紀元前3世紀末に生まれたクニこそが日本列島における最初の国家だとみる。定説とされる7世紀を大きくさかのぼる説だ。

 それでもオッペンハイマーが言うように国家の本質が略奪にあるとすれば、戦争でほかの共同体を隷属させ、税で財産を奪うクニは、小規模ながら立派な国家といえよう。国家は戦争から生まれ、課税によって育つのだ。

 ここで戦争についてひとつの教訓が導かれる。国家が他国民の富を奪う戦争と、自国民の富を奪う課税は、同じコインの裏表である。どちらも平和な交換を拒絶し、暴力に訴える略奪の異なる形態にすぎない。

 課税が最終的には暴力によって実行されることは誰もが知っている。世界から戦争をなくすには富裕層に増税し富の再分配を強化せよという主張もあるが、まったくの誤りだ。課税という暴力を好む心で、戦争の暴力をなくすことはできない。
(文=木村貴/経済ジャーナリスト)

<参考文献>
木下正史『倭国のなりたち』(日本古代の歴史 1)吉川弘文館
松木武彦『人はなぜ戦うのか——考古学からみた戦争』中公文庫
松木武彦『列島創世記』(全集 日本の歴史1)小学館
寺沢薫『王権誕生』(日本の歴史 02)講談社学術文庫

https://biz-journal.jp/2018/09/post_24828.html

11. 中川隆[-12150] koaQ7Jey 2019年2月14日 15:47:23 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22240] 報告

戦乱の時代(受傷人骨と環濠集落・高地性集落)

弥生時代は、縄文時代とはうってかわって、集落・地域間の戦争が存在した時代であった。

武器の傷をうけた痕跡のある人骨(受傷人骨)の存在などは、戦争の裏付けである。また、集落の周りに濠をめぐらせた環濠集落や、低地から100m以上の比高差を持つような山頂部に集落を構える高地性集落なども、集落や小国家間の争いがあったことの証拠であると考えられてきた。

受傷人骨

弥生時代前期の墓には、人骨の胸から腰にかけての位置から十五本の石鏃が出土した例がある。

多くの石鏃が胸部付近に集中して見つかる墓の事例は、瀬戸内海を中心とする西日本一帯に比較的多く見られる。かつては、戦闘の際に矢を何本も射込まれてやっと倒れた人物と解釈されることが多く「英雄」などとも呼ばれたが、近年では、矢を特定の部位に集中して射込まれていることの不自然さから、刑罰として処刑されたとか、何らかの儀礼的行為の際の犠牲(生贄)となって胸に矢を射込まれたなどといった解釈もある。平和的な解釈としては、埋葬の際に副葬品として鏃を胸のあたりに埋納したと考える者もいる。

北部九州では、前期から中期にかけて銅剣・銅戈・石剣・石戈の切っ先が棺内から出土することが多い。こうした例は、武器を人体に刺突した際に先端が折れて体内に残ったものと解釈される。しかし武器の先端を折りとって副葬品として棺内に埋納するという風習があったのではないかといった反論をする者もいる。

佐賀県吉野ヶ里遺跡や福岡県筑紫野隈・西小田遺跡などでは、中期前葉の男性甕棺数が女性の倍にも達する事実があり、男性が戦闘に参加する機会が多い事を示すと考えられる。

甕棺内に頭部を切断された胴体だけが埋葬されていたと考えられる事例が見つかっており、戦闘の際に敵に首を切られた死体を持ち帰り、埋葬したものと理解されている。

戦争やテロの時に敵の首を取る慣習は、戦国時代や幕末でも続いていたが、その始まりは弥生時代にあった。しかしこのような例が本当に戦闘の犠牲者なのかは論証されておらず、何らかの儀礼的行為によるものと主張する者もいるが、未だ論証されていない。

受傷人骨の中でも、明らかに武器によってつけられたと考えられる傷のある人骨の存在は、戦闘の存在を示す証拠である。

例えば額から右眼にかけて致命的な傷痕があり、更に右手首を骨折していた人骨が見つかっているが、右手首の骨折は、攻撃から身を守る際につけられる、防御創と呼ばれる種類の傷としては一般的なもので、戦闘による受傷者である可能性は極めて高い。

また人骨に武器の切っ先が嵌入している事例も、北部九州を中心に数例が確認されているが、これらは武器による受傷人骨であることが明らかである。

このような受傷人骨の例は縄文時代にもないわけではないが、弥生時代には前代と比べて明らかに数が増加しており、縄文時代と比べて戦争が頻繁に起こったであろう事は確実といわれている。


また、戦闘の証拠とされる上記のような事例のうち、武器の切っ先が棺内から出土する例、頭部がない人骨、あるいは人骨に残る受傷例などは、前期後半から中期前半の北部九州地域、特に福岡県小郡市を中心とした地域に多く認められる事が特徴的である。

弥生前期後半から中期前半は、西日本の多くの地域で集落が可耕地に乏しい丘陵上へと一斉に進出することが指摘されており、各地域において弥生集団が急激な人口の増加を背景に可耕地の拡大を求めた時期であるとされる。この可耕地の拡大が原因となって、各地で土地と水に絡む戦いが頻発したものと考えられ、中でも北部九州における受傷人骨の多さは、こうした争いが頻発した証拠と考えられている。なお、中期後半以降は受傷人骨や切先が棺内から出土する例は減少する。


大規模な集団殺戮を示す遺跡としては、鳥取県の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡が代表的である。

日置川と勝部川の合流点の南側に弥生中期から村が形成され、弥生後期後葉に戦争の結果とみられる状況で集落が廃絶したと思われる(住居跡は未発掘)。

東側の溝(防御施設と港の機能を兼ねていたか)から100人分を超える人骨が見つかり、少なくとも10体、110点の人骨に殺傷痕が見られた。

人骨は女性や老人や幼児も含めて無差別に殺されており、刀剣による切り傷がついた骨、青銅の鏃が突き刺さった骨がある。治癒痕はなく、骨に至る傷が致命傷となってほぼ即死したと思われる。

出土状況も凄惨で、溝に多数の死体が、埋葬ではなく折り重なって遺棄されている。

遺物も、原型を保った建築物の一部や、様々な生活用品が、通常の遺跡ではありえないほど大量に出土している[40]。

死者の中に15〜18歳の若い成人女性がおり、額に武器を打ち込まれて殺されている。

殺戮した後、死体の処理と施設の破壊を兼ねて、死体や廃棄物で溝を埋め立てたものと思われる。

略奪はしただろうが、破壊した住居や不要な生活用品は捨てられた。
通常なら再利用や腐朽で失われるものが、保存条件もよくて大量に残存した。

虐殺以後は集落は復興せず、現代まで水田として利用された模様である[41]。

なお虐殺死体が弥生時代に増加すること及びそれらを研究することが専門の研究者にとっても大きな精神的負担になっていることを、松木武彦は新聞の評論で述べている[42]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3

12. 中川隆[-10656] koaQ7Jey 2019年4月24日 06:28:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1413] 報告

2018.06.27
高円宮家|キムチ妃の秘密・高円宮久子の実家、鳥取家は部落民か?
http://akimasa-fushimi.sakura.ne.jp/wp/2017/01/15/2017011520170115000000/



昨日記事を書いて以来、キムチ妃、高円宮久子の出自がずっと気になっていました。

そこに、ある読者様、の、「実家の鳥取家が浄土真宗と言うのは穢多でしょう」と言う指摘が有り、コメ欄でちょっとした論争が有りました。

それが、刺激となり、様々な角度から調査をすると、驚愕の事実がわかりました。

下記に久子の実父の鳥取滋二郎のWikiを全部載せます。

先ず、指摘したいのは、鳥取家の由来です。

公表している家系図で、遡れるのは、久子から3代前の治郎八までです。

下の「家族・親族」の欄でわかるように、代々、香川県三豊(みとよ)市豊中町に住んでいます。

そこで、【インターネット版部落地名総監】で、照合してみると。

「香川県」

★三豊市: 高瀬町下勝間 高瀬町新名 高瀬町比地中 豊中町上高野 仁尾町仁尾仁尾の上 山本町辻中西・・・

で三豊市豊中町で、どんぴしゃ的中しました。

@ 実家は部落地区のど真ん中でした。

★このWikiはおそらく久子本人が書いたのでしょう(久子は一人っ子)が、書き方が変です。

「鳥取家は○○の旧家」とは普通書かないと思います。○○の農家とか、○○の庄屋とか書くと思います。実家が代々、農家であることを恥 じていたのでしょうか?

A 実家の宗教が【浄土真宗】と言う点です。

確かに、浄土真宗徒の9割が穢多と言うのは言い過ぎだと思いますが、信徒のかなりの割合を穢多が占めるのは間違いなさそうです。

【部落学序説】と言う、部落研究家のブログに【浄土真宗と穢多の関係】が、上手く説明されていました。

このブロガーはキリスト教徒で部落民に布教している日本人なので、基本同情的である点も信頼性が有ります。以下に主要部分を掲 載します。



以下転載・・・・・・・・・・・・・・・・・・

幕府から指示される前に、浄土真宗は、「穢多」の前身を抱え込んでいたと思われます。それは、浄土真宗内部の自治警察機能の存在です。浄土真宗を捨て多宗教へ流れるものに対しては、厳しい措置をとったものと思われます。特に、切支

丹に対しては、徳川幕府のそれと、勝るとも劣らぬ形で、「邪宗門」として対峙してきたと思われます。

「邪宗門」に対する抑圧・排除のシステムこそ、浄土真宗が徳川幕府から信任され、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の役を任せられた理由ではないかと思います。

つまり、浄土真宗にとって、「穢多」は、自らの存続のために必要不可欠な重要な機関であったことです。その機関の故に、浄土真宗は、江戸時代300年間に渡ってその存続を許されたのです。

人のいのちをいと惜しむ「穢多」たちが、近世幕藩体制下の司法・警察の「役務」・「職務」を遂行するにあたって、ときとして、刑吏の仕事に携わることを要求されます。穢多にとって、直接、憎しみを持っていない犯罪者を、代官所の命

令に従って処刑しなければなりません。

中間や足軽は、死刑執行人の仕事を要求されたあとは、逃亡して行方不明になるものが相当数いたといわれます。

しかし、近世幕藩体制下の司法・警察であった「穢多・非人」の中には、そのような人はいなかったと思われます。徳山藩の処刑の記録を見ても分かるのですが、ひとりの犯罪者の処刑に複数の穢多が関与しています。死刑執行人のうち、実

際に処刑したのは誰であったのか、それを隠蔽するためです。

たとえ犯罪者であるといっても、人ひとりを殺すことになるわけですから、死刑執行人に任命された人自身も心に深い傷を負うことになります。東日本では、白山信仰があって、その傷を癒してもらうことができました。

西日本では、白山信仰はほとんど存在しません。その代わりを担ったのが、浄土真宗の教説ではなかったかと思われます。

浄土真宗は、すべての殺生を禁止したわけではありませんでした。穢多の「役務」・「家職」にともなう殺生は、忌避の外にありました。有元は、越中国に、「稼職に非ざる殺生を致し申す間敷事」という「念仏行者心得か条」があったこと

を紹介しています。浄土真宗は、死刑執行に携わるものの救済を用意していたのです。「本願寺法王は、「如来の御代官」として救済の授与(浄土往生の保証)権を行使する」ことができたのです。

浄土真宗は、死刑執行人に対して浄土往生を保証しただけでなく、「穢多」の、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての生き方全般についても、多くの精神的な支えを提供していたのです。

浄土真宗の一般門徒だけでなく、近世幕藩体制下の司法・警察であった「穢多」たちも、「其(真宗)教義の生来脳裏に深染するもの多き」が故に、江戸時代300年間、「非常民」としての役務を全うできたのではないかと思われます。

東日本の「穢多」にとって、白山信仰が、その役務の傷を癒す宗教的装置であったのと同じく、西日本の「穢多」にとっては、浄土真宗の世俗化倫理とその教説が同じ機能を持っていたものと思われます。

しかし、「穢多」と「宗教」について論じるとき、「宗教」を浄土真宗に限定することはできません。もうひとつ、「穢多」にとってかかすことができない宗教がありました。その宗教の故に、幕府は、全国津々浦々に「穢多」を配置しまし

た。「穢多」の大きな職務のひとつに、「宗教警察」がありました。幕府が禁教した「邪宗門」、特に切支丹の取締りでした。この切支丹という宗教の取締りという役務が、のちに、明治4年の「穢多」身分廃止の太政官布告につながってい

くのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・転載ここまで・・・・・・・・・・・・・・

何が言いたいかと言うと

浄土真宗は、自ら進んで穢多を信徒として取り込んでいった。という事です。

その目的は所謂「自警団」で、創価学会じゃないけど(笑)

浄土真宗を「退会」しようとするものを取り締まったり、キリスト教を「邪宗門」として、幕府以上に厳しく取り締まる仕事です。

後は犯罪者の【処刑人】です。平民にやらせると嫌がって逃げ出すので、彼らにやらせました。本願寺法王は、ちゃんと殺生をする彼らにも【救済を保証】しています。

以前、「正田家の出自」を調べたときに、関東一円は【白山信仰】が、穢多を救済していたという事実とともに、正田家の本家の【正田醤油敷地内の白山神社】を見つけ掲載しました。それと同様に、幕府は西日本には【浄土真宗による宗教的救済】を与えたのです。従って、西日本では部落地区の中には必ず浄土真宗のお寺が有るそうです。

★先祖代々の土地が、【部落地区】であり、信仰が、浄土真宗と言うのが、鳥取家の場合、喉に骨が刺さったように引っかかりますね。

◎やれ、「地主」だ「多額納税者」だと威張ってますが、本当にそうなんでしょうか?

★一番、不審なのは、やたらと「農業」を強調していることです。香川県は全国で一番面積の小さい県で、平野は多いですが、古来から「雨不足」に苦しみ、弘法大師が、「満濃池(まんのういけ)」と言う巨大ため池を作って灌漑用水にしました。

温暖な瀬戸内気候ですから、ミカンなど、柑橘類は取れるでしょうが、稲作で大量に収穫することは難しいと思います。要は本当に農家なのかな?と疑っているのです。

祖父の為三郎の経歴をチェックしてみましょう。

★1911年(明治44年)早大商科を卒業し祖業を継ぎ仁尾塩田、讃岐煉瓦各会社の取締役・・・

とありますが、ポイントは【祖業を継ぎ仁尾塩田、讃岐煉瓦各会社の取締役】です。祖業を継ぎ【仁尾塩田】とあります。

つまり、先祖伝来の仕事が塩田事業だという事です。

ここでまた「部落学序説」の【穢多と塩田事業】から、引用してみましょう。


以下転載・・・・・・・・・・・・・・・・

【部落学序説・近世の穢多村】

近世の穢多村がどのような村なのか、思いを馳せていたある日、小学校のとき、担任の教師が話していた、「水田・塩田・皮田」という言葉を思い出しました。水田を耕すのは、ただの百姓。塩田で塩をつくるのは、塩百姓。皮田で皮革を生産するのは皮百姓・・・。それ以上のことは思い出せないのですが、私が小・中・高で勉強していた頃住んでいたのは瀬戸内海に面した小さな町でした。そこは、江戸時代のときに、遠浅の海を干拓して、塩田が作られた場所で、日常、塩田で働く人々の姿をよく目にしていました。

「塩田で働く人々を昔、塩田百姓と呼んでいた・・・」と、その時耳にしたように思うのですが、まだ半世紀しかたっていないのに、私たちの生活や記憶から、その塩田や塩田百姓はその姿を消してしまっていました。小学校に上がる前まで

は、入浜式塩田でした。塩田百姓の人が、大きな熊手のようなもので、塩田の砂をならしていました。やがて、流下式塩田に変わり、昔の塩田の姿は、著しく様変わりしてしまいました。そして、高度経済成長の時代にはいると、今度は、真

空式製塩法が採用され、潮を天火でほして塩を採るのではなく、油をどんどん炊いて、それでもって潮から塩を蒸留する方式へと変えられていきました。そして、中近東の戦争と石油の高騰で、真空式製塩法は経済的に採算がとれない状態に

なり、結局、塩田は姿を消し、そのあとには、工場や駐車場、商店街やボーリング場、JRの操車場へと姿を変えていきました。日本は、外国から、純度の高い岩塩を輸入するようになり、日本の製塩業は壊滅的打撃を受けました。

私は、小学校から帰ると、よく、塩田にいって、その岸壁から海を眺めたり、釣りをしたりしていました。夕暮れどきには、浜夕顔や月見草の花がきれいに咲いていました。潮風を思い切り吸うと、何かほっとするようなところがありまし

た。ところが、そういう、ふるさとの光景が、高度経済成長にともなう、工業都市化、近代化によって、ほとんど姿を消してしまいました。岡山県倉敷市児島には、塩生(しおなす)という遠浅の海が延々と続く場所がありました。しかし、そ

のような、日本人の、瀬戸内に住む人々の原風景のひとつが姿を消していきました。「ふるさとにいてふるさとを失う」・・・、そんな淋しい思いを経験したのは、私ひとりではないでしょう。

塩田だけでなく、水田も同じです。自宅から小学校までの通学路、少し市街をはずれると、青々とした稲田が続く畑の中の一本道を小学校目指して歩いていったものです。水田と水田の間を流れる、ちいさなせせらぎや用水路は、学校の帰り

際、小学生たちが、メダカをとったり、フナをとったりする遊び場でした。しかし、農業の近代化とかで、パラチオン製剤という農薬が撒かれた次の年には、メダカの姿はどこにもありませんでした。農薬で荒れた水田は、次第に、姿を消

し、住宅地や工場へと変身していきました。塩田だけでなく、水田も、その原風景を失ってしまったのです。「故郷にいて故郷を失う」、その寂しさは耐え難いものです。

それでは、「皮田」は?というと、私が住んでいたところには、そういう場所はありませんでしたから、戦後の高度経済成長の中で、「皮田」がどういう運命をたどっていったのか、知るよしもありませんが、そうとう大きく変貌し、やはり、「故郷にいて、ふるさとを失う」、そういう経験をされたのではないかと思います。

「水田」や「塩田」については、私の中に、「原風景」が存在しますが、「皮田」については、何の記憶もありません。ただ、「水田」や「塩田」から類推・想像するのみです。

・・・転載ここまで・・・・・・・・・

★要は、私たちが小学校で習った日本の「塩田事業」と言うのは、社長も従業員も穢多だったんですよ。遠浅の海辺で、熱く焼けた砂浜に海水を流し込み、天日で乾燥させる。とても暑くてきつい重労働です。ただの平民なら逃げちゃいますよ。

醬油事業と同じで、生産の担い手は穢多です。韓国なんかもっとひどいですよ。塩田のやり方は同じでも、日本と違って【知的障碍者】を強制労働させてますからね。

この、【仁尾塩田】と言う会社の場所も、上の【部落地区総監】を見ると、しっかりと部落地区です(笑)【仁尾塩田】は、現在は【仁尾興産】と言う会社に社名変更していますが、住所は

住所: 〒769-1406 香川県三豊市仁尾町仁尾辛1です。

「辛」という地名を見ても朝鮮人もいたのかもしれません。

【仁尾塩田】の初代社長は、塩田忠左衛門と言う人で、「塩田」姓は、部落民だそうです。この塩田家は醬油製造業もやっていました。

鳥取為三郎は、この塩田忠左衛門と言う人と、共同経営者のような関係だったと思います。「部落が部落をよんだ」のか?

★農業は農業でも【塩百姓】の可能性が高いですね。しかし、商売は儲かり、キャッシュは潤沢にあったでしょう。正田家の、日清製粉Gは小麦粉を作ってるだけです。小麦粉や小麦粉製品は食べなくても死にませんが、「塩分」を摂取しないと、人間は死んでしまいます。私が子供の頃は【専売公社】が有って、塩や煙草を法定価格で買い入れてました。現在は民営化してJTですけど。価格保証だから、後は生産力の問題で、作れば作るほど売れるんです。儲かりまっせ(笑)

もう一つの【讃岐煉瓦(さぬきれんが)】についても調べましたが、穢多との関係は確認できませんでした。煉瓦を焼くきつい労働だから、関係が有りそうな気もしましたが。

≪結論≫

私はキムチ妃の実家、鳥取家が、部落民である可能性は限りなく高いと思います。証拠が未だ不十分なので敢えて断言しませんが。

≪高円宮久子の罪業≫

・昭和天皇の頃に入内しながら、【昭和天皇のご遺志】に逆らって、美智子の手足となり、【雅子入内】を強行した。

・本来、【日本単独開催】で決まっていたサッカーW杯を、夫とともに【韓国利権】に、踊らされて、【日韓共催】に変えて歴史に汚点を残した。

・美智子に指示されて、夫とともに、徹底した紀子妃苛めをやり、現在も続けている。美智子の尻馬に乗って、自分も紀子様に「産児制限」を命令した。

・3人の娘の教育に失敗した。【3人の娘はフィリピンパブの年増ホステス状態】

・【皇室利権】には、抜け目がないが、神道には適応していない。美智子がクリスチャン丸出しの様に、久子は「浄土真宗」のまま、皇室で生きている。

≪美智子との共通点≫

・高校まで聖心

・皇室を利権としか考えず、皇室に一切貢献していない。

・反日国家との癒着、中韓からの「工作資金」の導入。

・皇室を根絶やしにしようとしている。

・美智子は、皇室の血を引く子供を産めず、久子は男子をさずかれなかった。

・どんなに高級高価な着物を着ても、下品に見え、品格が感じられない。華子妃殿下や信子妃殿下の足元にも及ばない。 年をとればとるほど出自が隠せなくなる。

・美智子→妖怪、久子→場末のバーのマダム

非常に気が合うのは「部落が部落を呼んでいる」からだろうか?

・ カメラが向くと、シナを作る。大根女優体質。

≪久子の今後≫

・【韓国利権の消滅】というか【韓国の消滅】・・・韓国のGDPの大半を占める、サムスン、現代はそれぞれ一兆円の営業赤字。最終損益は、もっと赤字幅が広がるでしょう。

・ 仲の良かった現代の鄭夢準(ちょんもんじゅん)から、お金を貰えない。

・ 最末端宮家で稼げるのは自分だけ(笑)講演に行って食事が豪華でないと凄く怒るそうです。

★次女の典子が出雲大社に輿入れしたとき、夫婦岩の綱が切れたり、【神の怒り現象】が頻発しました。

◎出雲の神々が「部落の血」を拒絶したと考えれば理解しやすいです。

★★私は「高円宮家の廃宮」の要望を官邸メールしました。税金の無駄遣いだし、「美智子の右腕を折る」効果が有るからです。

wiki鳥取滋治郎

鳥取 滋治郎(とっとり しげじろう、1924年(大正13年)2月1日 – 2013年(平成25年)2月10日)は、日本の実業家。鳥取綱太郎(元四国コカ・コーラボトリング社長)は実兄。長女の久子は高円宮憲仁親王と結婚して憲仁親王妃久子となった。承子女王、千家典子、絢子女王は孫。

経歴

香川県[1]三豊郡笠田村(現三豊市豊中町)出身。鳥取為三郎の二男。東京帝国大学法学部を卒業した。

東邦物産の専務、フランス三井物産の社長、東海観光会長などを務めた。

晩年は日本学生協会基金で講演を行うなどの活動をしていた。

2002年の高円宮憲仁親王の葬儀では親族総代を務めた。

2013年2月10日に急性白血病のため死去。89歳没。

家族・親族

鳥取家

(香川県三豊市豊中町、東京都)

鳥取家は香川県三豊郡笠田村(現三豊市豊中町)の旧家である。

祖父・治郎八(農業[9]、香川県多額納税者)

嘉永6年4月生- 没

1886年(明治19年)家督を相続する。農業を営み香川県多額納税者である。

父・為三郎(地主、多額納税者)
1888年(明治21年)2月生- 没

1911年(明治44年)早大商科を卒業し祖業を継ぎ仁尾塩田、讃岐煉瓦各会社の取締役である。宗教は浄土真宗。

母・久壽(或は久嘉)(香川、岩井徳一の妹)
1898年(明治31年)1月生- 没

兄・綱太郎(実業家)
1919年(大正8年)12月生-

姉・マス、アキ、ミチ

妹 ノブ

妻・二三子(友田二郎(外交官・宮内庁式部官)の長女)

http://akimasa-fushimi.sakura.ne.jp/wp/2017/01/15/2017011520170115000000/

13. 中川隆[-9237] koaQ7Jey 2019年7月06日 18:50:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3441] 報告

全国の同和地区 - 同和地区 Wiki
https://同和地区.com/wiki/%E5%85%A8%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%90%8C%E5%92%8C%E5%9C%B0%E5%8C%BA
14. 中川隆[-14417] koaQ7Jey 2020年1月17日 11:57:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1333] 報告

2020年01月17日
古墳時代の出雲人のDNA解析

 古墳時代の出雲人のDNA解析について報道されました。まだ報道でしか確認していませんが、たいへん興味深い研究だと思います。出雲市の猪目洞窟遺跡では1948年に3〜7世紀頃の古墳時代のものと考えられる人類遺骸が発見されています。このうち6人で母系遺伝となるミトコンドリアDNA(mtDNA)が解析され、「縄文系」と「渡来系」がそれぞれ3人ずつだった、とのことです。さらに、この6人のうちDNAの保存状態が良好だった「縄文系」と「渡来系」それぞれ1人ずつの核DNAが解析され、ともに東京都の古墳時代の人類や現代日本人よりも遺伝的に「縄文人」に近縁であることが明らかになったそうです。

 日本列島の本州・四国・九州(およびそれぞれのごく近隣 の島々)から構成される「本土」集団が、遺伝的には「縄文人」と弥生時代以降の「渡来系」集団との混合で、後者の影響の方がずっと大きい、ということはほぼ通説になっています。しかし、「本土」集団の形成過程は一様ではなく、時代・地域による違いが大きかったのではないか、と予想されます。西日本は東日本と比較して、弥生時代以降の「渡来系」集団の影響が早期に大きくなったのでしょうが、西日本でも地域差があり、出雲はその進行が遅れた地域だったのかもしれません。ただ、出雲とはいっても1遺跡での調査だけに、より広くDNA解析が進まないと、一般化できないと思います。
https://sicambre.at.webry.info/202001/article_24.html

15. 2020年12月09日 13:13:16 : hL0yAobYvA : Z0UuOENibGdrenM=[29] 報告
828名無しさん@お腹いっぱい。2020/12/09(水) 12:36:44.00ID:xqePTiEI

ちなみに京都市内の被差別部落の中には俘囚起源のものがある。

団地を作るときに穴を掘ったら擦紋土器(古代蝦夷の土器)やオホーツク文化圏の
骨角器などが出てきた。

家族単位村単位で生活道具を携えてはるばる都まで
連れてこられたのだろう。言葉も通じない蛮族が京都でさせられる仕事といえば
最底辺の賤業であったのはいうまでもない。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/geo/1581905600/l50

16. 2022年3月06日 03:03:19 : EkLZD15jVs : TW11R2FxYmtrdUE=[1393] 報告

【山口】「俺がその部落の人間やで」「俺自身を見て判断してくれや」 部落解放同盟山口県連書記長「差別の現実知ってほしい」

2022/03/05(土) 23:10:36.49ID:XASRbU3T9

811ニューノーマルの名無しさん2022/03/06(日) 02:58:02.17ID:/2/Eqs1A0
>1
とりあえず本物の同和と同和になりすました朝鮮人を自分たちで区分けてから苦情を言ってくれ

817ニューノーマルの名無しさん2022/03/06(日) 03:00:07.50ID:CD0N6t+t0
>811

もう本当の被差別部落民は、100人も居ないよ。
ほとんど全部が、朝鮮系の帰化や在日朝鮮人。

https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1646489436/

17. 2022年3月06日 03:21:00 : EkLZD15jVs : TW11R2FxYmtrdUE=[1394] 報告
852ニューノーマルの名無しさん2022/03/06(日) 03:18:37.28ID:7G1qfcap0

今ある部落差別って、部落民そのものが怖いというより、
解同が反社その他ヤバい連中と繋がってそうで近寄りたくないだけなんだよな。

18. 中川隆[-12508] koaQ7Jey 2023年6月11日 10:01:54 : FliUTcRNEY : Z1dLUVlOVC5zSy4=[5] 報告
<■777行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
雑記帳
2023年06月11日
日本列島の人類史に関する問題の整理
https://sicambre.seesaa.net/article/202306article_11.html

 最近、日本列島における4万年以上前の人類の存在の可能性や、日本語の起源などについて考えることがあったので、一度おもに古代ゲノム研究に基づいて関連する情報をまとめるとともに、遺伝学に基づく人類の進化や拡散に関する通俗的な見解について、普段から考えていることも整理します。最近の当ブログの記事は、論文を訳して時に私見も少し付け加えるだけで終わることが多く、自分なりに一度整理しないと、全体像をよく把握できないままになる、と考えたからです。言い忘れたことや欠落している視点は多々あるでしょうが、とりあえず現時点の見解をまとめます。ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と現生人類(Homo sapiens)との関係や、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)についてなど、他にも自分なりに情報をまとめて整理する必要のある問題が多いので、今後少しずつ進めていくつもりです。


●便宜的区分と古代ゲノム研究の通俗的解釈に関する問題

 分類・区分して程度の違いを見出す能力は現生人類でとりわけ発達しており(ネアンデルタール人やデニソワ人に現生人類と同等のそうした能力があった可能性も否定はできませんが)、鉄と銅の違いや鯛と河豚の違いや石材の違いなど、分類・区分は現生人類社会の基盤の一つになっています。重要なのは、そうした区分にどれだけの整合性・妥当性があるのか、ということだと思います。ただ結局のところ、時代や地理や文化や民族などの区分も含めて分類という行為は、現生人類の知的営みにおいてたいへん重要で実用的ではあるものの、あくまでも理解を助けるための手段という側面も多分にあります。現生人類の営みが多くの場合時空間的に連続していることを考えると、対象が現在であれ過去であれ、あくまでも便宜的措置であり、それを絶対視することなく、多くの前提・留保のもとに、ある程度割り切りつつも、慎重に区分してそれを使用していくしかないのでしょう。

 たとえばネットで検索すると、アイヌ民族・文化の成立は13世紀で、北海道の先住民は「縄文人(この記事では縄文文化関連集団という意味で用います)」であるとして、アイヌ文化・民族を縄文文化やその後継と考えられる続縄文文化や擦文文化およびその担い手の集団と明確に区別するような、通俗的見解が散見されます。これは便宜的な区分を絶対視してしまった見解で、現生人類にとって常に警戒すべき陥穽と言うべきでしょう。年表を見ると、アイヌ文化期は13世紀頃以降に始まる、とするものが多いようですが、これはあくまでも便宜的区分・名称であり、この頃に初めてアイヌ民族・文化が成立することを証明しているわけではありません。じっさい、考古学的文化に民族名を冠することは問題だとして、アイヌ文化ではなくニブタニ文化と呼ぶよう、提唱している研究者もいます(瀬川., 2019)。文化と民族の連続性と変容と断絶の評価は難しく、年表の字面だけ見て文化の断絶を想定するのは、論外だと思います。

 古代ゲノム研究の大衆的な受容にも問題があり、まず、古代ゲノム研究は統計的手法に依拠しており、「完全な証明」をできるわけではなく、あくまでも確率の問題ということです(放射性炭素年代測定法などの年代測定法も同様です)。この点を誤解している人はきわめて少ないかもしれませんが、A集団のゲノムはB集団関連祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)50%程度とC集団関連祖先系統50%程度でモデル化できる、というような知見を、B集団とC集団がA集団の祖先だと証明された、と認識している人は少なくないかもしれません。しかし、これはあくまでも、A集団のゲノムにおける祖先系統の割合が、BおよびC集団的な祖先系統により統計的に適切にモデル化できることを示しているだけで、B集団とC集団がA集団の直接的祖先であることを証明しているわけではありません。

 たとえば、現代日本人集団を現代朝鮮人関連祖先系統(91%)と縄文時代個体関連祖先系統(9%)の2方向混合としてモデル化できる、と示した研究(Wang CC et al., 2021)がありますが、もちろん、現代朝鮮人集団が現代日本人集団の祖先のはずはないので、現代朝鮮人集団のような遺伝的構成の集団が朝鮮半島には太古から存在し、現代日本人集団の主要な祖先になった、と考える人は少なくないかもしれません。その研究では、古代人集団を用いて、現代日本人集団は青銅器時代西遼河集団関連祖先系統(92%)と縄文時代個体関連祖先系統(8%)の2方向混合としてモデル化できる、とも推測されています。しかし、これは青銅器時代西遼河集団が現代日本人集団の直接的祖先であることを示しているのではなく、ある集団の直接的な祖先集団を見つけることが困難な古代ゲノム研究において、年代や文化や地理的分布(考古学的知見)も参照しつつ、代理となりそうな古代人集団で検証して、統計的に適切な結果を提示しているにすぎません。

 その意味で、古代ゲノム研究から特定の現代人集団の祖先集団を特定することは困難で、どれだけ近似値に近づけるかが問題となります(これは多くの学問に共通する問題かもしれませんが)。最近の研究(Robbeets et al., 2021)では、現代日本人集団は低い割合の縄文時代個体関連祖先系統と青銅器時代の高い割合の西遼河地域の夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化個体関連祖先系統の混合としてモデル化できる、と示されましたが(後述のように、この研究には批判もあります)、夏家店上層文化集団と縄文時代集団が現代日本人の直接的な祖先であることを証明しているわけではなく、それぞれの集団と遺伝的に類似した集団が現代日本人の直接的な祖先集団である可能性は高い、と示しているだけです。ただ、地理分布からして、「縄文人」集団が現代日本人の(影響は小さくとも)直接的な祖先集団である可能性は高そうです。古代ゲノム研究で示される特定の集団もしくは個体のゲノムにおける祖先系統とは、基本的に代理であることを踏まえねばならないでしょう。

 古代ゲノム研究で他に重要な問題となるのは、特定の文化や時代を表す集団が1個体で構成される場合も珍しくないことです。その1個体が特定の文化や時代の集団の遺伝的構成を適切に表している可能性はあるとしても、遺伝的多様性の高い集団ならば、それを適切に反映できませんし、他の地域もしくは集団から流入してきた外れ値個体であればなおさらです。この問題は古代ゲノム研究に今後ずっとついて回るでしょうから、とても無視できません。完新世の現生人類については、今後この問題をある程度回避できるかもしれませんが、ネアンデルタール人など非現生人類ホモ属では、ゲノム解析数の増加を完新世現生人類ほどにはとても期待できません。現生人類とネアンデルタール人の混合についても、非アフリカ系現代人集団の祖先と混合した集団が直接的に確認されているわけではなく、あくまでも代理の個体のうちどれが非アフリカ系現代人集団の祖先と混合したネアンデルタール人集団に近いのか、検証されているだけです(Mafessoni et al., 2023)。

 また上述の問題とも関わりますが、特定の文化や時代といった区分も便宜的なので、これを安易に個体もしくは集団の遺伝的構成と関連づけたり、特定の地域における人類集団の遺伝的連続性を前提としたりするのは危険です。この問題については、世界のいくつかの事例を以前に取り上げましたが(関連記事)、文化と遺伝というかDNAとの関連は多様で、遺伝的構成や片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)やY染色体ハプログループ(YHg)を、安易に特定の文化もしくは民族の分類と関連づけることは極めて危険です。これは、ネアンデルタール人が常染色体ゲノムでは現生人類よりもデニソワ人の方と明らかに近縁でありながら、mtDNAでもY染色体でもデニソワ人より現生人類の方と明らかに近縁であること(Petr et al., 2020)からも、強く示されています。

 種系統樹と遺伝子系統樹とは必ずしも一致しないので(Harris.,2016,第2章)、常染色体ゲノムの特定領域であれ、ミトコンドリアであれY染色体であれ、そのハプログループの比較で特定の集団(種、分類群)間の近縁関係を論じるのは危険です。たとえば、近縁なA・B・Cの3系統の分類群において、A系統がB系統およびC系統の共通祖先と分岐し、その後でB系統とC系統が分岐したとすると、B系統とC系統は相互に、A系統よりも形態が類似している、と予想されます。しかし、形態(もしくは表現型)の基盤となる遺伝子の系統樹が種系統樹と一致しない場合もありますから、B系統とC系統はどの形態(もしくは表現型)でもA系統とよりも相互に類似している、とは限りません。

 これと関連して、B系統においてある表現型と関連する遺伝子のあるゲノム領域において、遺伝的浮動もしくは何らかの選択により変異が急速に定着した場合、ある表現型ではB系統は近縁のC系統よりもA系統の方と類似している、ということもあり得ます。じっさい、チンパンジー属とゴリラ属とホモ属の系統関係において、種系統樹ではチンパンジー属とホモ属が近縁ですが、ニシローランドゴリラ(Gorilla gorilla gorilla)ではゲノム領域の約30%で、種系統樹と遺伝的近縁性とが一致しない、と推定されています(Scally et al., 2012)。つまり、この約30%のゲノム領域では、ホモ属(現代人)がチンパンジー属よりもゴリラ属の方と近縁か、チンパンジー属がホモ属よりもゴリラ属の方と近縁である、というわけです。

 この記事の主題に即して具体的に日本列島の事例を挙げると、先史時代の先島諸島です。先島諸島には縄文文化の影響が及ばなかった、と考えられており(水ノ江., 2022)、沖縄諸島が安定していた貝塚時代から農耕の開始やアジア東部大陸部の陶磁器など外来要素が突如出現し大きく変わったグスク時代に、これらの要素は先島諸島へと伝わり、奄美・沖縄諸島と先島諸島が初めて一つの文化圏になりました(高宮., 2014)。しかし先島諸島では、グスク時代のずっと前となる紀元前9〜紀元前6世紀頃の個体において、遺伝的にほぼ完全に縄文時代個体と重なる複数の個体が確認されています(Robbeets et al., 2021)。考古資料には見えない言語など精神的文化の共有があったのか否か、遺伝的に大きく異なる他集団と共存していたのか否かなど、この事例が意味するところは現時点でよく分からず、日本列島においても文化もしくは民族とDNAとを安易に関連づけてはならない、と示しているように思います。


●4万年以上前

 日本列島では4万年前頃以降に遺跡が急増し(佐藤., 2013)、これ以降の人類の存在と、それが現生人類であることについては、ほぼ異論がないと思います。日本列島における4万年以上前(中期旧石器時代と前期旧石器時代と一般的には呼ばれています)の人類の存在で、2000年11月に発覚した旧石器捏造事件(関連記事)もあり、否定的な人が多いようにも思われます。そもそも、ヨーロッパ基準の前期→中期→後期(下部→中部→上部)という旧石器時代区分が、日本列島も含むアジア東部において適切に当てはまるのか、という問題もあるかもしれませんが、これについては私の知見があまりにも不足しているので、今回はこれ以上言及しません。

 捏造事件発覚後に、日本列島最古(127000〜70000年前頃)と騒がれた(関連記事)島根県出雲市の砂原遺跡の石器については、そもそも石器なのか否か議論となっており(関連記事)、人類の痕跡を示している、との共通認識が考古学研究者の間で確立しているとはとても思えません。それ以外の4万年以上前かもしれない日本列島の遺跡は、岩手県遠野市の金取遺跡です。砂原遺跡の石器については、年代以前にそもそも石器なのか否か、議論になっているのに対して、金取遺跡の4万年以上前とされる石器については、石器であることを疑う見解はないようです(上峯., 2020)。したがって、日本列島に4万年以上前に人類は存在しなかった、と主張するならば、金取遺跡の4万年以上前とされる石器について、その年代が4万年前頃以降であることを証明しなければなりません。

 ただ、仮に4万年以上前に日本列島に人類が存在したとしても、おそらく世界でも有数の更新世遺跡の発掘密度を誇るだろう日本列島において、4万年以上前となる人類の痕跡がきわめて少なく、また砂原遺跡のように強く疑問が呈されている事例もあることは、仮にそれらが本当に人類の痕跡だったとしても、4万年前以降の日本列島の人類とは遺伝的にも文化的にも関連がないことを強く示唆します。仮に日本列島における4万年以上前の人類の存在を仮定するならば、中国で中期〜後期更新世のデニソワ人かもしれないホモ属遺骸が複数発見されていることから(関連記事)、デニソワ人かもしれません。あるいは、絶滅したか現代人の主要な祖先ではないかもしれませんが、中国では10万年前頃の現生人類とされる遺骸が発見されているので、現生人類の可能性も考えられますが、その年代はずっと新しいのではないか、と議論になっています(関連記事)。


●後期旧石器時代

 ここでは、4万年前頃から縄文時代の直前までを指します。4万年前頃以降に日本列島に到来した人類集団については、そもそも後期旧石器時代の人類遺骸がほとんど発見されていないため、推測困難です。この時期で最古級となる遺跡が、長野県佐久市の香坂山です。香坂山遺跡では、較正年代で36800年前頃と、日本列島では最古の石刃石器群が発見されており、初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、略してIUP)に位置づけられています(国武., 2021)。上述のようにDNA(遺伝的構成)と文化とを安易に結びつけてはいませんが、IUPは遺伝的にはユーラシア東部系集団との関連が指摘されています(Vallini et al., 2022)。

 もう少し具体的に見ていくと、4万〜3万年前頃には、現在の北京付近からアムール川流域とモンゴルまで、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体で表される集団が存在していたようです(Mao et al., 2021)。これを仮に田園洞集団と呼ぶと、田園洞集団はアジア東部大陸部沿岸にまで広く分布していたようですから、日本列島に到来した可能性も充分考えられます。ただ、現代人には殆ど若しくは全く遺伝的影響を残していないようですから(Mao et al., 2021)、4万〜3万年前頃に日本列島に到来した現生人類集団は、縄文時代集団や現代日本人集団とは遺伝的につながっていないかもしれません。

 日本列島で発見された旧石器時代の人類遺骸は、そもそも本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする日本列島「本土」で発見された更新世の人類遺骸が皆無に近いので、ほぼ琉球諸島に限られています。沖縄県石垣島の白保竿根田原洞穴遺跡では、旧石器時代の6個体のmtDNAが解析され、mtHgはM7aとB4とRに分類されていますが、琉球諸島現代人のゲノム解析から、旧石器時代琉球諸島の人類集団は、琉球諸島現代人の祖先ではなさそうだ、と推測されています(松波., 2020)。他にmtDNAが解析された更新世琉球諸島の人類遺骸としては、沖縄県島尻郡八重瀬町の港川フィッシャー遺跡で発見された2万年前頃の港川1号があり、そのmtHgはMの基底部近くに位置する、と推測されています(Mizuno et al., 2021)。この個体がその後の琉球諸島、さらには日本列島の人類集団と遺伝的につながっているのか否かは、mtHgからは判断できません。


●縄文時代

 縄文時代は、草創期(16500〜11500年前頃)→早期(11500〜7000年前頃)→前期(7000〜5470年前頃)→中期(5470〜4420年前頃)→後期(4420〜3220年前頃)→晩期(3220〜2350年前頃)と一般的に区分されています(山田., 2019)。縄文時代の開始を、土器が出現した16500年前頃とするのか、生態系・石器組成の変化や竪穴住居の定着などに基づいて13000〜11000年前頃とするのか、議論がありますが(関連記事)、草創期を旧石器時代から縄文時代への移行期とする見解もあります(山田., 2019)。

 現時点で解析されている縄文文化関連個体のゲノムデータからは、縄文時代の人類集団は時空間的に広範囲にわたって、既知の現代人および古代人集団と比較して一まとまりを形成し、遺伝的には比較的均一と考えられます(Cooke et al., 2021)。これは、縄文文化がほぼ現在の日本国の領土に限定されており、他地域との相互作用は低調だった、とする考古学的知見と整合的です(水ノ江., 2022)。ただ、mtHgでは地域差が指摘されており(篠田.,2019,P165-170)、核ゲノムでも地域差が示唆されています(Cooke et al., 2021)。とくにmtHgの地域差は、「縄文人」集団の形成過程を解明するうえで、重要な手がかりになるかもしれません。

 このように、「縄文人」集団は既知の現代人および古代人集団と比較して遺伝的に特異な存在と言えるかもしれませんが、ユーラシア東部系集団の変異内に収まっていますし、上述の田園洞集団のように、後期更新世〜初期完新世にかけては現生人類でも、現代人への遺伝的影響が小さいか、ほぼ絶滅してしまった集団は世界各地で珍しくありませんでした(関連記事)。その意味で、現代ではほぼ日本列島にしてその遺伝的痕跡を残しておらず、それもアイヌ集団を除けば遺伝的影響がかなり小さいと考えられる「縄文人」集団も、現生人類の歴史では特別な存在とは言えないでしょう。むしろ、今後ユーラシア東部圏やオセアニアの人類史で問題となるのは、現代人の主要な祖先集団がいつどのような経路で現代の分布地域に到来したのか、ということだと思います。

 現時点で最古となるゲノム解析された縄文時代の個体は、愛媛県久万高原町の上黒岩岩陰遺跡で発見された女性で、較正年代で8991〜8646年前頃となります。この個体のゲノムはすでに典型的な「縄文人」的構成要素を示しており、遅くとも9000年前頃までには、「縄文人」的な遺伝的構成の集団が形成されており、日本列島に存在したのでしょう。ただ、早期の時点で日本列島全域の縄文文化関連集団がすでに遺伝的に比較的均一だったのかは不明です。

 「縄文人」的な遺伝的構成の集団がどのように形成されたのかは、不明です。これについては大きく二つに分けられ、一方は、「縄文人」的祖先系統がユーラシア東部現代人の主要な祖先集団(MAEE集団)の祖先系統と20000〜15000年前頃に分岐した、とするものです(Cooke et al., 2021)。もう一方は、「縄文人」的祖先系統がユーラシア東部系の遺伝的に大きく異なる祖先系統との混合により形成された、というものです(Wang CC et al., 2021)。前者の場合、どこで分岐し、いつ日本列島に到来したのか、後者の場合、いつどこで混合して日本列島に到来したのか、あるいは日本列島で混合した場合、各集団はいつ日本列島に到来して混合したのか、という問題がありますが、現時点ではよく分かりません。以下は、後者の見解を図示したWang CC et al., 2021の図2です。
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 愛知県田原市の伊川津貝塚遺跡の縄文文化関連個体(IK002)のゲノム解析結果を報告した研究(Gakuhari et al., 2020)は、遺伝的に古代北ユーラシア人(Ancient North Eurasian、略してANE)に分類される、シベリア南部のマリタ(Mal’ta)遺跡で発見された24000年前頃となる1個体(MA1)関連祖先系統からの遺伝子流動の痕跡がほとんど検出されなかったことから、「縄文人」が南回り(ヒマラヤ山脈以南)でユーラシア西方から日本列島へと到来した、と推測します。ANEはユーラシアの現代人でも東部より西部の方と近く、現代のアメリカ大陸先住民の主要な祖先の一部となりました(Sikora et al., 2019)。

 一方で、同じくANEに分類される、ヤナ犀角遺跡(Yana Rhinoceros Horn Site、略してヤナRHS)の31600年前頃の個体は、日本人や他のアジア南東部および東部現代人と遺伝的に比較して「縄文人」と有意に密接なので、ANEと「縄文人」との間の遺伝子流動が推測されています(Cooke et al., 2021)。これらの知見をどう解釈すべきか、難しいところですが、ヤナRHS個体とMA1との間に直接的な祖先・子孫関係はなさそうですから(Sikora et al., 2019)、MA1と異なるヤナRHS個体のゲノムの祖先系統の一部に、「縄文人」の祖先と共通するものがあるのでしょうか。この問題は、「縄文人」集団の遺伝的形成過程解明の手がかりになるかもしれません。

 結局のところ、「縄文人」集団がどのように形成されたのか、現時点では不明ですが、北海道の礼文島の船泊遺跡で発掘された3800年前頃の縄文時代個体のゲノムデータを報告した研究(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)で、アジア東部大陸部の南方から北方までの沿岸集団と「縄文人」との遺伝的類似性が報告されていたことは注目されます。その後の研究(Wang CC et al., 2021)では、ロシア極東沿岸部のボイスマン(Boisman)遺跡の6300年前頃となる中期新石器時代集団(ボイスマン_MN)のゲノムが、モンゴル新石器時代集団関連祖先系統87%と「縄文人」関連祖先系統13%でモデル化されました。また朝鮮半島南岸の新石器時代の個体群のゲノムは、0〜95%の「縄文人」関連祖先系統と、西遼河地域の紅山(Hongshan)文化個体関連祖先系統でモデル化できます(Robbeets et al., 2021)。

 上述のように、現在の考古学的知見では、縄文文化はほぼ現在の日本国の領土に限定されており、他地域との相互作用は低調だった、と考えられており、これらの地域で縄文文化が大きな影響力を有して根づいたとはとても言えないでしょうが、朝鮮半島南岸については、0.1%程度の推定割合ながら縄文土器が出土しており(水ノ江., 2022)、「縄文人」が九州から朝鮮半島南岸へと渡り、さらに朝鮮半島南岸の新石器時代の個体群のゲノムにおけるさまざまな割合の「縄文人」関連祖先系統から考えると、一定の遺伝的影響を残した可能性は高そうです。

 しかし、これら日本列島外の縄文時代相当期間の個体群のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統が、縄文時代の日本列島の個体からもたらされたものかどうかは、検討の余地があります。最近の研究(Huang et al., 2022)は、先行研究(Wang CC et al., 2021)と同じく「縄文人」祖先系統の形成を、遺伝的に大きく異なる2つの祖先系統の混合としてモデル化していますが、先行研究よりも複雑になっています。その研究では祖先系統の分岐について、ユーラシア東部系が、まず初期ユーラシア東部系と初期アジア東部系に分岐し、初期アジア東部系が南北に分岐して、南部系は南部(内陸部)系と沿岸部系(アジア東部沿岸部祖先系統)に分岐します。「縄文人」関連祖先系統は、アンダマン諸島のオンゲ人関連祖先系統に比較的近い初期ユーラシア東部祖先系統(54%)とアジア東部沿岸部祖先系統(46%)の混合とモデル化されています(Huan et al., 2022図4)。以下はHuang et al., 2022の図4です。
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 Huang et al., 2022では、ボイスマン_MNはアジア東部北部祖先系統(71%)とアジア東部沿岸部祖先系統(29%)の混合とモデル化されています。つまり、先行研究で推定されたボイスマン_MNのゲノムにおける13%程度の「縄文人」関連祖先系統は、「縄文人」から直接的もしくは朝鮮半島経由でもたらされたのではなく、「縄文人」のゲノムにおける一方の主要な祖先系統を、ボイスマン_MNも約30%と比較的高い割合で有していることに起因しており、ボイスマン_MNと「縄文人」との直接的な関連はなかったのかもしれません。これは朝鮮半島南岸新石器時代個体群にも言えて、これらの個体のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統は、日本列島の縄文時代の個体からもたらされたものではないかもしれません。

 ただ、ボイスマン_MNには外れ値個体(ボイスマン_MN_o)があり、ロシア極東沿岸のレタチャヤ・ミシュ(Letuchaya Mysh)の7000年前頃となる狩猟採集民1個体(レタチャヤミシュ_7000年前)とともに、そのゲノムの30%程度が「縄文人」関連祖先系統でモデル化できます(Wang K et al., 2023)。また、上述のように、朝鮮半島南岸新石器時代には、そのゲノムの95%を「縄文人」関連祖先系統でモデル化できる個体が確認されており、具体的には、後期新石器時代の欲知島(Yokchido)遺跡の個体です(Robbeets et al., 2021)。これら一定以上の割合の「縄文人」関連祖先系統でゲノムをモデル化できる個体、とくに欲知島遺跡個体は、その地理的近さと、ひじょうに少ないものの縄文文化の考古資料が朝鮮半島南岸で発見されていること(水ノ江., 2022)から、日本列島の縄文時代の個体が朝鮮半島に到来して遺伝的影響を残した結果かもしれません。

 ただ、ロシア極東沿岸の2個体(ボイスマン_MN_oとレタチャヤミシュ_7000年前)のゲノムが30%程度の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できることの意味は、よく分かりません。朝鮮半島南岸も関わる何からのつながりがあったのか、あるいはアジア東部大陸部の南方から北方までの沿岸集団と「縄文人」との遺伝的類似性が、更新世にまでさかのぼる複雑なもので、それも反映しているのかもしれません。この関連で注目されるのは、アムール川流域の11601〜11176年前頃の1個体(AR11K)のYHgがDEに分類されていることです。現代人と古代人の分布頻度から、更新世のアムール川流域にYHg-Eの個体が存在したとは考えにくいため恐らくはYHg-Dで、少ない個体の中で見つかったことは、当時まだ日本列島以外のアジア東部大陸部沿岸にもYHg-Dが現在以上の頻度で存在したことを示唆しており、それは「縄文人」集団の形成過程とも関わってくるかもしれません。

 つまり、YHg-D1a2aは日本列島と(日本列島から流入した)朝鮮半島(南部もしくは南岸)にしか存在せず、「縄文人」の指標となるYHgとするような通俗的見解がネットでは散見されるものの、縄文時代の日本列島から朝鮮半島に渡り、弥生時代以降に日本列島へと「逆流」した系統や、アジア東部大陸部沿岸から朝鮮半島などを経て弥生時代以降に日本列島到来した系統など、現代日本人のYHg-D1a2aでは、直接的には「縄文人」に由来しない割合も一定以上あるのではないか、というわけです。これは、日本人のYHgの詳しい分析と、分布頻度および分岐推定年代の精緻化と、古代DNA研究による裏づけで証明されていかねばならず、現時点では思いつきにすぎないことも否定できません。


●弥生時代

 弥生時代の開始については、言語学的知見も踏まえた考古学的観点から、日本語系統(日琉語族)系統の流入との関わりが指摘されています(Miyamoto., 2022)。それによると、日本語祖語は偏堡(Pianpu)文化の紀元前2700年頃の遼西地区東部もしくはマンチュリア南部の遼河流域に起源があり、紀元前1500年頃に朝鮮半島北部〜中央部のゴングウィリ(Gonggwiri)式土器を介して朝鮮半島南部の無文(Mumun)文化を形成し、この頃に磨製石器を伴う稲作など灌漑農耕が山東半島から遼東半島経由で朝鮮半島南部へと広がり、紀元前9世紀に九州北部へと広がり弥生文化の形成に至って、日本列島在来の「縄文語」系統を(北海道を除いてほぼ)やがて駆逐した、とされます(Miyamoto., 2022)。一方、朝鮮語祖語もマンチュリア南部とその周辺に起源があり、現在の北京付近に位置した、いわゆる戦国の七雄の一国である燕の東方への拡大に圧迫されて朝鮮半島へと移動し、その考古学的指標は紀元前5世紀頃の粘土帯土器(rolled rim vessel、Jeomtodae)文化になり、やがて朝鮮半島から日本語系統を駆逐した、と指摘されています(Miyamoto., 2022)。つまり、マンチュリア南部とその周辺から、まず紀元前二千年紀半ばに日本語系統が朝鮮半島へと到来し、その後で九州北部に広がったのに対して、朝鮮語系統は紀元前千年紀半ばに朝鮮半島へ到来した、というわけです。こうした言語学的知見も踏まえた考古学的見解が、古代ゲノム研究でも裏づけられるのかどうか、以下で整理します。

 弥生文化関連個体群の最大の遺伝的特徴は、その差異の大きさです。弥生文化関連個体群のゲノムは基本的に、MAEE集団(ユーラシア東部現代人の主要な祖先集団)から派生したアジア東部北方系(NEA)集団関連祖先系統と、「縄文人」関連祖先系統の混合でモデル化できますが、その割合が個体により大きく異なり、現代日本人集団の平均10%前後と同等か、それよりやや低いか、20%程度とやや多いか、40〜50%程度と明らかに多いなどさまざまで(Robbeets et al., 2021)、弥生文化関連個体群の遺伝的不均質性はこうした差異を反映しています。さらに、弥生時代早期となる佐賀県唐津市大友遺跡で発見された女性個体(大友8号)は、既知の「縄文人」と遺伝的に一まとまりを形成し(神澤他., 2021a)、これは、東北地方の弥生時代の男性個体も同様です(篠田.,2019,P173-174)。また、鳥取県鳥取市(旧気高郡)青谷町の青谷上寺地遺跡で発見された13個体も遺伝的差異を示しており、1ヶ所の遺跡でも遺伝的不均一性の相対的な高さが示されています(神澤他., 2021b)。つまり、弥生文化関連個体群のゲノムは基本的に、NEA集団関連祖先系統と「縄文人」関連祖先系統の混合でモデル化でき、現代日本人集団と同様にNEA集団関連祖先系統の割合が高い個体が多いものの、「縄文人」関連祖先系統の割合は10%程度から100%までさまざまとなり(0%の個体群が存在した可能性も考えられます)、それが弥生文化関連個体群の遺伝的不均質性を反映している、というわけです。あるいは、日本列島の人類史上、弥生時代は最も遺伝的不均質性の高い期間だったかもしれません。

 このNEA集団関連祖先系統はさらに区分されています。上述のように、朝鮮半島南岸の新石器時代個体群は、「縄文人」関連祖先系統とNEA集団関連祖先系統でモデル化できますが、上述のように、このEAN集団関連祖先系統を紅山文化個体関連祖先系統とされています(Robbeets et al., 2021)。一方で、弥生時代以降の日本列島「本土」の人類集団のゲノムは、高い割合の夏家店上層文化個体関連祖先系統と低い割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できる、と指摘されています(Robbeets et al., 2021)。これは、朝鮮半島南岸の新石器時代個体群が、弥生時代以降の日本列島「本土」の人類集団の主要な祖先ではなかったことを示唆します。しかし、この研究については、競合する混合モデルを区別する解像度が欠けていて、紅山文化個体関連祖先系統と夏家店上層文化個体関連祖先系統は朝鮮半島と日本列島の古代人と遺伝的に等しく関連しており、家店上層文化個体関連祖先系統を選択的に割り当てられた集団は、家店上層文化個体関連祖先系統の代わりに紅山文化個体関連祖先系統でも説明できる、との批判があります(Tian et al., 2022)。

 そもそも上述のように、弥生時代以降の日本列島「本土」の人類集団のゲノムは、高い割合の夏家店上層文化個体関連祖先系統でモデル化できる、と指摘した研究(Robbeets et al., 2021)が示しているのは、現代日本人集団の主要な直接的祖先が夏家店上層文化集団だったことではなく、既知の古代人集団では夏家店上層文化集団が最適な代理となり得る、ということです。したがって、Tian et al., 2022の指摘から、現代日本人集団の主要な直接的祖先は、紅山文化集団や家店上層文化集団と類似しているものの異なる別の集団だった、と示唆されます。これは、上述の言語学的知見も踏まえた考古学的見解と親和的というか、少なくとも矛盾はしません。EAN集団関連祖先系統のより詳細で適切な区分と、それに基づく古代人および現代人の集団のゲノムの適切なモデル化には、時空間的により広範囲の、さらに多くの古代人のゲノムデータが必要になるでしょう。

 上述の言語学的知見も踏まえた考古学的見解との関連で注目されるのは、日本列島の弥生時代と古墳時代では、人類集団のゲノムが「縄文人」関連祖先系統とEAN集団関連祖先系統の混合(割合は異なります)でモデル化できることは同じであるものの、後者には違いが見られる、と指摘されていることです(Cooke et al., 2021)。つまり、EAN集団関連祖先系統でも、弥生時代の人類集団の場合には西遼河の中期新石器時代もしくは青銅器時代個体群関連祖先系統(アジア北東部祖先系統)により適切に表され、古墳時代の人類集団の場合には高い割合の黄河流域集団関連祖先系統(アジア東部祖先系統)と低い割合のアジア北東部祖先系統により適切に表されます。ただCooke et al., 2021では、これらの祖先系統がアムール川流域と西遼河地域と黄河流域との間の複雑な相互作用により形成された(Ning et al., 2020)、という大前提があります。弥生時代の人類集団に関しては、「縄文人」祖先系統とアジア北東部祖先系統との間の混合が3448±825年前、古墳時代の人類集団に関しては、「縄文人」祖先系統とアジア東部祖先系統の混合は1748±175年前と推定されています(Cooke et al., 2021)。

 これは、上述の言語学的知見も踏まえた考古学的見解と関連しているかもしれません。つまり、朝鮮半島における紀元前5世紀頃以降の朝鮮語系統の拡大と日本語系統の衰退を遺伝的に反映しているのが、アジア東部祖先系統の割合増加とアジア北東部祖先系統の割合低下で、それが日本列島の弥生時代と古墳時代の人類集団のゲノムにおけるEAN集団関連祖先系統の違いに示されているのではないか、というわけです。ただ、そうした変化が日本列島に反映されたのは弥生時代後期までさかのぼるかもしれませんし、弥生時代以降の朝鮮半島から日本列島への移住の波が、ある程度連続的で一定していたのか、一回もしくは複数回の大きなものだったのかは、もっと時空間的に広範囲の古代人のゲノムデータが多く分析されないと、推測は困難です。ただ、Cooke et al., 2021は、弥生時代の人類集団を、「縄文人」関連祖先系統の割合が高めの長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体(篠田他., 2019)で代表させており、下本山岩陰遺跡の2個体の前に、現代日本人程度の割合の「縄文人」関連祖先系統をゲノム有する個体が存在すること(Robbeets et al., 2021)も考慮して、弥生時代の人類集団の形成過程とその差異を検証しなければならないでしょう。


●古墳時代以降

 上述のように、弥生時代は人類集団の遺伝的差異が大きく、それはゲノムにおけるさまざまな割合の「縄文人」関連祖先系統とNEA集団関連祖先系統により説明できます。Cooke et al., 2021は、現代「本土」日本人集団的な遺伝的構成が古墳時代に成立したことを指摘しますが、弥生時代よりは縮小していたかもしれないにしても、複数の研究から、古墳時代も人類集団の遺伝的差異が大きかった、と示唆されます。現代「本土」日本人集団と同じような割合の「縄文人」関連祖先系統をゲノムに有する個体としては、古墳時代前期となる香川県高松市の高松茶臼山古墳の男性被葬者(茶臼山3号、神澤他., 2021c)や、島根県出雲市猪目洞窟遺跡で発見された古墳時代末期(猪目3-2-1号)と奈良時代(猪目3-2-2号)の被葬者(神澤他., 2021d)が挙げられます。

 一方で、和歌山県田辺市の磯間岩陰遺跡の第1号石室1号(紀元後398〜468年頃)および2号(紀元後407〜535年頃)のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統の割合は、52.9〜56.4%、2号が42.4〜51.6%と推定されています(安達他.,2021)。後の畿内ではないものの近畿地方において、紀元後5〜6世紀頃においても、このようにゲノムを現代「本土」日本人集団よりもずっと高い割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できる個体が存在することは、日本列島「本土」では古墳時代においても現代より人類集団の遺伝的異質性がずっと高かったことを示唆します。

 現代「本土」日本人集団の基本的な遺伝的構成の確立は、少なくとも平安時代まで視野に入れる必要があり、さらに言えば、中世後期に安定した村落(惣村)が成立していくこととも深く関わっているのではないか、と現時点では予測していますが、この私見の妥当性の判断は、歴史時代も含めた古代ゲノム研究の進展を俟つしかありません。ただ、現在は弥生時代や古墳時代よりも日本列島「本土」人類集団の遺伝的均質性は高くなっているでしょうが、それでも地域差はあり、それは弥生時代や古墳時代と同様に、「縄文人」関連祖先系統とNEA集団関連祖先系統の割合の違いを反映しているのでしょう(Watanabe, and Ohashi., 2023)。

 この点で注目されるのは、古墳時代の日本列島と同時代の朝鮮半島との関係です。朝鮮半島の三国時代の伽耶に関して、その政治的中心地であった金海(Gimhae)の大成洞(Daesung-dong)にある支配者の大規模な3700m²にもなる埋葬複合施設で発見された、紀元後4〜5世紀頃の8個体のゲノムが解析されました(Gelabert et al., 2022)。この8個体は遺伝的に、6個体から構成されるクレード(単系統群)1と2個体から構成されるクレード2に分類されます。クレード1のゲノムは、後期青銅器時代〜鉄器時代黄河流域集団関連祖先系統(93±6%)と「縄文人」関連祖先系統(7±6%)でモデル化できます。クレード2のゲノムは、朝鮮半島中期新石器時代個体100%でモデル化できますが、中国北部集団関連祖先系統(70±8%)もしくは遼河流域青銅器時代集団関連祖先系統(66±7%)と、残りの「縄文人」関連祖先系統でモデル化できます。つまり、クレード2のゲノムは30%前後の割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できるわけです。

 Gelabert et al., 2022は、朝鮮半島南岸の紀元後4〜5世紀頃の人類集団のゲノムに存在していた「縄文人」関連祖先系統について、朝鮮半島南岸において新石器時代から三国時代まで存続した可能性を指摘しますが、新石器時代以降のどこかの時点で途絶え、弥生時代や古墳時代の日本列島から改めてもたらされた可能性も検証に値するとは思います。これは、朝鮮半島において日本語系統の言語がいつ完全に消滅したのか、さらには伽耶諸国に対する「日本」というかヤマト王権の影響がいかなるものだったのか、という問題とも関わっているかもしれません。つまり、ヤマト王権と伽耶諸国との深い結びつきは、言語的近縁性に基づく根深いもので、日本列島で勢力を拡大したヤマト王権が朝鮮半島にまで影響力を及ぼした、と単純には解釈できないかもしれないことを示唆します。

 また、朝鮮半島南岸に新石器時代以降ずっと、ゲノムを一定以上の割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できる人類集団が存在したとしたら、現代の日本列島「本土」集団のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統の割合は一定以上、朝鮮半島南岸新石器時代集団に由来するかもしれません。つまり、「縄文人」を縄文文化関連個体と規定すれば(この規定は無理筋ではないはずです)、現代の日本列島「本土」集団のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統の割合は、現在の推定(上述のように地域差はもちろんありますが、10%前後)よりずっと少なかったかもしれず、縄文時代と現代との間で日本列島の人類集団では遺伝的にほぼ全面的な置換が起きたことになります。まあ、現代日本人集団のゲノムにおける縄文人的構成要素の割合が平均して10%程度だとしても、全面的な置換に近い、と言えそうですが。

 一方、韓国の西部沿岸地域に位置する全羅北道(Jeollabuk-do)群山(Gunsan)市の堂北里(Dangbuk-ri)遺跡の紀元後6世紀半ば頃となる6個体のゲノム解析結果(Lee et al., 2022)は、これら6個体が西遼河地域青銅器時代集団関連祖先系統、もしくは追加の低い割合の中国南部の福建省の渓頭(Xitoucun)遺跡の後期新石器時代個体関連祖先系統でモデル化でき、「縄文人」関連祖先系統の統計的に有意な寄与が検出されませんでした。ただ、遺伝的な北方の代理を内モンゴル自治区の中期新石器時代個体群へと置き換えると、堂北里遺跡の6個体と韓国の蔚山広域市の現代人のゲノムにおける、少ないものの有意な量の「縄文人」関連祖先系統の寄与が検出されます。しかし、地理的および時間的近接性を考慮すると、西遼河地域青銅器時代集団が古代および現代の朝鮮人にとってより適切なモデルを提供している、と考えられます。つまり、遅くとも紀元後6世紀半ば頃には、「縄文人」関連祖先系統がほぼ検出されないような現代朝鮮人とよく似た遺伝的構成の集団が存在していたわけです。この集団の言語は恐らく朝鮮語系統だったでしょうが、当時の朝鮮半島の人類集団の遺伝的構成の地域差については、もっと多くの古代ゲノムデータが必要となり、朝鮮半島の人類集団における「縄文人」関連祖先系統の消滅時期も現時点では不明です。


●琉球諸島と北海道

 沖縄諸島に関しては、グスク時代の人類集団とそれより前の人類集団とでは形質的にかなり異なっており、近世集団は古墳時代集団や鎌倉時代集団に近い、との形質人類学の研究成果と、上述の、グスク時代に農耕の開始やアジア東部大陸部の陶磁器など外来要素が突如出現した、との考古学的知見から、貝塚時代末期以降に外部、おそらくは古代末期〜中世初期以降の九州本島から沖縄諸島への人類の流入がかなりあったのではないか、と推測されています(高宮., 2014)。上述のように、奄美・沖縄諸島と先島諸島が初めて一つの文化圏となったのもこの頃で、先島諸島においては、紀元前千年紀の個体ではゲノムがほぼ完全に「縄文人」関連祖先系統でモデル化できましたが、近世には琉球諸島の現代人のような遺伝的構成(高い割合のNEA集団関連祖先系統と低い割合の「縄文人」関連祖先系統)の個体が確認されています(Robbeets et al., 2021)。

 琉球諸島の現代人集団のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統の割合は27%程度と推定されており(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)、古代末期〜中世初期以降の九州本島から沖縄諸島へ到来した人類集団のゲノムが、20%程度の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できるとすると、琉球諸島の現代人集団のゲノムは、古代末期〜中世初期以降の九州本島集団関連祖先系統(80〜90%)と貝塚時代集団関連祖先系統(10〜20%)の混合としてモデル化できそうです。琉球諸語は貝塚時代集団の言語と古代末期〜中世初期の九州本島集団の言語の混合により成立したのでしょうか、基本的には日本語系統に分類されることからも、日本(ヤマト)文化の影響が圧倒的に強かった、と推測されます。つまり、遺伝的にも文化的にも、近世以降の琉球諸島集団について縄文時代(というか貝塚時代)からの強い連続性を想定することは難しいように思います。

 現代アイヌ集団については、「縄文人」集団との強い遺伝的連続性がネットでもよく指摘されており、その根拠は、アイヌ集団のゲノムが66%程度と高い割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できることです。しかし、上述のように、遺伝学的研究だけでアイヌ集団と「縄文人」集団との連続性を証明できるわけではなく、考古学など他分野の研究成果も踏まえて初めて、きわめて蓋然性の高い推測になっていることに注意すべきでしょう。また、アイヌ集団の遺伝的な地域差がどの程度あるのか、現時点ではよく分かりません。オホーツク文化関連個体の研究(Sato et al., 2021)から、アイヌ集団は遺伝的に、「縄文人」集団とオホーツク文化集団と日本列島「本土」集団の関連祖先系統の混合でモデル化できる、と提案されています。その関連祖先系統の割合は、ゲノムをほぼ「縄文人」関連祖先系統でモデル化できそうな続縄文文化もしくは擦文文化集団から49%、オホーツク文化集団から22%、日本列島「本土」集団から29%程度です。もちろん、上述のように、この割合には地域差があるかもしれません。

 オホーツク文化集団のゲノムは11%程度の「縄文人」関連祖先系統でモデル化でき、上述のように弥生時代以降の日本列島「本土」集団のゲノムも少ない割合ながら一定以上の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できますから、アイヌ集団のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統のうち一定の割合(10〜15%程度?)は、オホーツク文化集団および弥生時代以降の日本列島「本土」集団に由来する可能性が高そうです。もちろん、アイヌ集団の祖先と混合したオホーツク文化集団および弥生時代以降の日本列島「本土」集団にも地域差があったでしょうから、具体的な割合の推測は困難ですが。つまり、ネット上では、現代アイヌ集団のゲノムにおける「7割」という「高い割合」の「縄文人」要素を根拠に、「縄文人」集団から現代アイヌ集団への連続性を主張する見解も散見されるものの、そんな単純な話ではないだろう、というわけです。

 もちろん、上述のように、遺伝というかDNAと文化や民族とを安易に関連づけてはならないことが大前提で、DNAと文化とのさまざまな関連(関連記事)からも、遺伝的影響の大小と文化的影響の大小を安易に関連づけてはならないことが示唆されます。その上で、オホーツク文化が紀元後10世紀以降に擦文文化から人工物や生産・生業技術や居住パターンや生計戦略などの数々の要素を段階的に受け入れ、トビニタイ文化を経て最終的に擦文文化に吸収・同化されていき、少なくとも物質文化側面では、擦文文化そのものと区別がつかないものになったこと(大西., 2019)と合わせて考えると、縄文時代から続縄文時代経て擦文文化期へと続いた北海道を中心に分布した地域集団がオホーツク文化集団に対して優位に立ち、これを同化していった可能性が高そうです。つまり、アイヌ集団の言語は恐らく縄文時代の北海道の(特定の?)人類集団に由来し、その文化・民族性を縄文文化と切断する見解は妥当ではないだろう、というわけです。もちろん、アイヌ集団がオホーツク文化やアジア東北部大陸部の人類集団から大きな文化的影響を受けなかったわけではないでしょう。


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松波雅俊(2020)「ゲノムで検証する沖縄人の由来」斎藤成也編著『最新DNA研究が解き明かす。 日本人の誕生』第2刷(秀和システム)第5章
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山田康弘(2015)『つくられた縄文時代 日本文化の原像を探る』(新潮社)

https://sicambre.seesaa.net/article/202306article_11.html

19. 2023年7月06日 03:43:29 : 0Jf3Yun64s : NWM0b1IuNVBRR2M=[1134] 報告
<△24行くらい>

婚活市場「年収300万以下の男は異性として見れず 200万以下は人として見れない」


10 : 2023/07/05(水) 12:32:59.84
あ、これあなたの年収でした←これ最強過ぎるから禁止にしない?


11 : 2023/07/05(水) 12:33:33.45
すまん、異性として見られないワイは女の子と一緒に風呂入ってもええんか?


14 : 2023/07/05(水) 12:34:33.50
>>11
同性としてみてるわけではないやろ
つか人間としてみてるかも怪しいわ


12 : 2023/07/05(水) 12:33:57.75
500の間違いやろ

15 : 2023/07/05(水) 12:34:40.31
女は若くて見た目良ければ年収ゼロでもええやろ


25 : 2023/07/05(水) 12:41:02.31
200万以下はさすがにあれやが
言い方何様や😡


26 : 2023/07/05(水) 12:42:05.38
新卒でも400近くは行くんちゃうの?


28 : 2023/07/05(水) 12:43:24.69
16やけど
これに長男、身長166、車無しなんやけどどうだろう


29 : 2023/07/05(水) 12:44:06.61
ワイ180万、涙


30 : 2023/07/05(水) 12:45:18.73
女性の30、40もそんな感じやろ?


31 : 2023/07/05(水) 12:48:16.29
大切なのは年収じゃなくて伸び代なのにな
20代で400あってもそれで高止まりじゃ意味ないわな
なぜわからないのかね


32 : 2023/07/05(水) 12:54:19.83
イケメンならヒモになれる


33 : 2023/07/05(水) 12:54:59.46
自分の事を言ってるのかな


h ttps://eagle.5ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1688527620/

20. 渡来人は部落民[1] k26XiJBsgs2VlJeOlq8 2023年12月28日 00:11:27 : Fwg9L0pJvU : b0ZBZ1N4Q0tDOC4=[1] 報告
ま〜た帰化チョンが大嘘こいてやがる
そもそも渡来人自体が部落民。ヤマト朝廷に制圧された弥生人部落のこと。古代のことだから適当ぶっこいて在日や帰化人に都合がいいように印象操作できるかも〜って大嘘をばらまくのが福岡辺りに先住民で済んでた筑紫野磐井とかいう被差別部落民の自称渡来人だよwww昔は渡来人て呼ばずに帰化チョンって読んでたのを戦後GHQにかこつけて教育委員会に帰化人扱いはシャベチュ!つって渡来人という名称に変えさせただけ。コーマニズムとかいう頭悪い右翼漫画かいてるアホも自称渡来人の帰化チョン部落なんだってww竹中平蔵や麻原みたいなこと言うわけだww
そもそも渡来人が住んでいた集落の地図と住所がそのまま被差別部落民の住所と集落と場所が一致するって2ちゃんでさらされて必死でネガキャン広めてるのがコーマニズムとかいうゴミ漫画だしなww
21. 中川隆[-9836] koaQ7Jey 2024年7月17日 17:12:46 : 1VVh4ysaKo : c2U0NnFkY0x1SG8=[4] 報告
<■373行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
雑記帳
2024年07月17日
夏家店上層文化の人類集団の遺伝的多様性
https://sicambre.seesaa.net/article/202407article_17.html

 現在の中国の北東部地域における青銅器時代人類集団の遺伝的多様性を報告した研究(Zhu et al., 2024)が公表されました。本論文は、西遼河(West Liao River、略してWLR)地域南部の夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化関連の1個体のゲノムデータを報告しています。この個体は、中華人民共和国内モンゴル自治区チーフォン(Chifeng)市カラチン・バナー(Harqin Banner)のヨンフェン(Yongfeng)県牛家営子(Niujiayingzi)鎮マジアジシャン(Majiazishan)村で発見され、アムール川(Amur River、略してAR)集団的な祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の割合が高い西遼河西部の夏家店上層文化関連個体群とは異なり、黄河(Yellow River、略してYR)流域の後期新石器時代集団的な祖先系統でゲノムが完全にモデル化できます。この遺伝的構成の違いは、西部では牧畜が、南部では雑穀農耕が行なわれるという、生業の違いはと対応しています。

 ただ、西遼河南部の夏家店上層文化については、まだ1個体しかゲノムデータが報告されていないので、断定的に一般化はできません。しかし、本論文は日本人起源論との関連でたいへん注目される分析結果を提示しており、日本人起源論との関わりについては最後に「私見」の項目で述べます。なお、時代区分の略称は次の通りで、新石器時代(Neolithic、略してN)、前期新石器時代(Early Neolithic、略してEN)、中期新石器時代(Middle Neolithic、略してMN)、後期新石器時代(Late Neolithic、略してLN)、青銅器時代(Bronze Age、略してBA)、後期青銅器時代〜鉄器時代(Late Bronze Age to Iron Age、略してLBIA)、鉄器時代(Iron Age、略してIA)です。


●要約

 西遼河および黄河流域は、中国北部における雑穀農耕の二大中心地です。浮遊分析と遺跡の空間分布の結果から、農耕と牧畜という二つの異なる生存戦略が西遼河の南部と北部でそれぞれ採用されていた、と示唆されます。西遼河西部地域の古代の人口集団の先行研究は、青銅器時代の夏家店上層文化における牧畜経済と黄河農耕民との遺伝的類似性低下との間の相関を示唆しました。しかし、西遼河南部の人口史は、おもに古代人の遺伝的データの不足のため不明です。

 本論文は、夏家店上層文化と関連する後期青銅器時代の西遼河南部地域のマジアジシャン遺跡の古代の1個体のゲノムデータを報告します。西遼河西部の個体群とは異なり、この個体の祖先系統は完全に後期新石器時代黄河農耕民に由来します。夏家店上層文化の古代の人口集団の遺伝的構造が見つかり、これは西遼河の西部と南部の生計戦略の違いと一致します。気候悪化は、西遼河の西部と南部にそれぞれ異なる集団、つまり西部ではアムール川からの遊牧民集団が、南部では黄河からの農耕民集団が居住することにつながりました。


●研究史

 近東の肥沃な三日月地帯からアメリカ大陸やさらにその先まで、農耕の出現と拡大はヒトの歴史と文明【当ブログでは原則として「文明」という用語を使わないことにしていますが、この記事では「civilization」の訳語として使います】の発展に顕著な影響を及ぼしました。雑穀はアジア東部北方で何千年にもわたって主食で、最初は黄河下流域で早くも紀元前9000年頃に利用され、その後、黄河中流〜下流および西遼河地域で少なくとも紀元前6000年頃までには広く栽培されていました。一方で、中期新石器時代には、おもに安定した雑穀生産のため複雑な社会がおもに黄河および西遼河地域で出現し、それは人口増加と文化的革新につながりました。雑穀農耕のこの拡大では、中国北部では黄河および西遼河地域、と中国南東部の方では台湾、中国南西部では四川盆地が、アジア東部における乾燥地農耕の起源と拡大にとって重要な地域と認識されています。

 西遼河地域にはとくに、前期新石器時代から後期青銅器時代にかけての興隆窪(Xinglongwa)文化や趙宝溝(Zhaobaogou)文化や紅山(Hongshan)文化や小河沿(Xiaoheyan)文化や夏家店下層(Lower Xiajiadian)文化など、連続的な雑穀農耕関連文化があります。この文化的過程では、主要な生計戦略が「低水準」の食糧生産から充分に発展した穀物栽培へと変わり、新石器時代においては、動物の消費への依存が減少し、キビやアワの消費が増加しました。興味深いことに、雑穀農耕が主要だったことを特徴とする夏家店下層文化の後に、西遼河地域の西部では畜産が重要な役割を取り戻しました。前期青銅器時代の夏家店下層文化と比較して、夏家店上層文化における「文明」と農耕の水準は、後期青銅器時代における気候の悪化と関連して明らかに低下しました【本論文のこの評価が妥当なのかは、判断を保留します】。この生計の変容に関して、アムール川の狩猟採集民からの遊牧【遊牧を行なっていれば、狩猟採集も同時に行なっているとしても、一般的には狩猟採集民とは呼ばれないように思いますが】が、気候による食糧不足のため、後期青銅器時代における西遼河人口集団の生活様式に影響を及ぼした、と推測されています。対照的に、夏家店上層文化人口集団はじっさい、西遼河地域へと移住したアムール川関連狩猟採集民集団である、との推測もあります。

 以前の遺伝学的研究(Ning et al., 2020)では、前期新石器時代(紀元前5520〜紀元前5320年頃)から鉄器時代(鮮卑、紀元前50〜紀元後250年頃)までの、アムール川人口集団の長期の遺伝的安定性が見つかりました。具体的には、後期新石器時代西遼河人口集団(WLR_LN、夏家店下層文化)は、中期新石器時代西遼河人口集団(WLR_MN、紅山文化)よりも、雑穀農耕の黄河人口集団の方と高い遺伝的類似性がある、と観察されました。それと比較して、部分的な牧畜青銅器時代西遼河人口集団(WLR_BA、夏家店上層文化)は、WLR_LNと比較して、黄河人口集団との遺伝的類似性が低く、このWLR_BAに含まれる外れ値(outlier、略してo)個体(WLR_BA_o)には、アムール川集団とクレード(単系統群)を形成する遺伝的特性がありました。その研究(Ning et al., 2020)は、経時的な西遼河人口集団における遺伝的特性の頻繁な変化と生計戦略の変化との間にはつながりがあることを示唆し、それは第二の仮定【夏家店上層文化人口集団は西遼河地域へと移住したアムール川関連狩猟採集民集団】を裏づけます。

 しかし、西遼河の南部の古代人のゲノムデータが必要なためこれまで、青銅器時代西遼河地域人口集団の遺伝的特性の包括的理解が妨げられています。本論文では、夏家店上層文化と関連する放射性炭素年代測定結果が得られている、マジアジシャン遺跡の古代人1個体のゲノム規模データが報告されます。マジアジシャン遺跡は、WLR_BAとWLR_BA_oが発見された竜頭山(Longtoushan)遺跡の南方約100kmの、中華人民共和国内モンゴル自治区チーフォン市カラチン・バナーのヨンフェン県牛家営子鎮のマジアジシャン村の近くに位置しています。この新たに報告された1個体(標本識別番号はDSQM2、集団分類表示はWLR_BA_o2)は、先行研究(Ning et al., 2020)で報告された青銅器時代西遼河の両人口集団(WLR_BAとWLR_BA_o)と異なる遺伝的特性を有しているものの、こうが農耕民と密接に関連している、と分かり、これまで検出されていなかった西遼河地域の遺伝的特性を示唆しています。


●標本と手法

 マジアジシャン遺跡(図1)の古代人の標本1点から、歯が収集されました。1点の人骨標本が加速器質量分析法(accelerator mass spectrometry、略してAMS)で年代測定され、非較正年代が得られました。放射性炭素(¹⁴C)年代は、OxCal第4.4.2版およびIntCal20較正曲線を用いて較正されました。古代DNAの信頼性は、脱アミノ化パターンから評価されました。標本DSQM2の遺伝的性別は、X染色体とY染色体のゲノム網羅率が常染色体と比較されました(Fu et al., 2016)。この場合、男性ではX染色体の網羅率は常染色体の網羅率の約半分となり、女性ではほぼ同じとなります。Y染色体では、男性の網羅率は常染色体の半分に、女性の網羅率はゼロとなります。標本DSQM2のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)も決定されました。標本DSQM2の遺伝的データは、他のデータ(Damgaard et al., 2018、Sikora et al., 2019、Jeong et al., 2020、Ning et al., 2020、Yang et al., 2020)と統合されました。124万SNPヶ所の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)で、遺伝的関係が調べられ、1親等もしくは2親等の関係にある2点以上の標本では、既知の古代および現代の人口集団のデータと統合するさいに、網羅率のより高い標本が下流分析に含められました。以下は本論文の図1です。
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 主成分分析(principal component analysis、略してPCA)では、現代人集団を用いて主成分(PC)が計算され、古代人標本が上位2構成要素に投影されました。PCの計算には、470607ヶ所のSNPが用いられました。ADMIXTURE分析では、220388ヶ所のSNPを用いて、教師なし分析が実行され、2〜10のK(系統構成要素数)が検証されました。f統計では、f₄形式(ムブティ人、参照;WLR_BA_o2、X)のf₄統計が実行されました。標本DSQM2から黄河とアムール川と西遼河の人口集団Xを区別できる参照人口集団を見つけるため、参照としてアジア東部のさまざまな人口集団が用いられました。現時点での解像度を考えると、人口集団Xのすべてのf₄結果の有意ではないZ得点からは、人口集団X がWLR_BA_o2と密接な遺伝的関係を有する、示唆されます。混合モデル化はqpAdm第810版を用いて実行され、標本が1〜3のあり得る供給源の組み合わせとしてモデル化され、潜在的供給源として選択されなかった人口集団は外群に追加されました。


●分析結果

 標本DSQM2の非較正の直接的な放射性炭素年代は、夏家店上層文化と関連しています。標本DSQM2のmtDNA汚染率は2%未満と推定されました。標本DSQM2のmtDNAハプログループ(mtHg)はD4jで、その性別は男性でした。2点のSNP一覧、つまり、アフィメトリクス(Affymetrix)社「ヒト起源(Human Origins、略してHO)」とイルミナ(Illumina)社「124万」標本(Fu et al., 2015、Haak et al., 2015、Mathieson et al., 2015)を用いて、標本DSQM2の疑似半数体データが生成されました。それぞれのSNP一覧で、79460ヶ所と154754ヶ所が得られました。次に、これらのデータはさらなる分析のため、以前に刊行された古代人および現代人のゲノムデータ(Damgaard et al., 2018、Jeong et al., 2020、Ning et al., 2020、Yang et al., 2020、Wang et al., 2021)と統合されました。


●WLR_BA_o2の全体的なゲノム構造

 WLR_BA_o2の全体的な遺伝的構造を調べるため、まずさまざまなアジア東部人集団でのPCAが実行されました(図2)。PCAの結果では、WLR_BA_o2と西遼河地域の他の古代の個体群は、黄河集団とアムール川集団との間に投影されました。WLR_BA_o2は、後期新石器時代〜鉄器時代集団(YR_LNとYR_LBIA)の最も近くに投影されたWLR_LNとクラスタ化します(まとまります)が、WLR_MNとWLR_BAはアムール川集団およびWLR_BA_oに向かって、完全にアムール川集団とクラスタ化します(図2)。同様の結果は外群f₃分析で観察でき、WLR_BA_o2は黄河集団とクラスタ化し、WLR_MNとWLR_BAはともにクラスタ化し、次に黄河集団とクラスタ化しとます。対照的に、WLR_BA_oはAR_鮮卑_IAとクラスタ化し、古代アジア北部(Ancient North Asian、略してANA)集団との高い遺伝的類似性を示します。以下は本論文の図2です。
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 モデルに基づく教師なしADMIXTURE分析では、ユーラシア草原地帯人口集団で最大化する青色の構成要素と、ANA人口集団で最大化される黄色の構成要素と、アジア南東部(Southeast Asia、略してSEA)で最大化される橙色の構成要素が観察されました(図3A)。WLR_BA_o2はYR_LNおよびYR_LBIAと類似した遺伝的特性を有し、黄河集団とクラスタ化しており、WLR_LNとWLR_BAはWLR_BA_o2と比較してANA関連祖先系統をより多く有していますが、WLR_BA_oはANA集団と一致しました。まとめると、これらの結果は、後期新石器時代黄河農耕民とのWLR_BA_o2の密接な遺伝的類似性を示唆しています。以下は本論文の図3です。
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●銅器時代の西遼河地域における遺伝的多様性を示すWLR_BA_o2のゲノム特性

 WLR_BA_o2と黄河(YR)およびアムール川(AR)および西遼河(WLR)の集団との間の遺伝的差異を定量化するため、f₄形式(ムブティ人、参照;WLR_BA_o2、YR/AR/WLR)のf₄統計で始めて、WLR_BA_o2の遺伝的特性がこれら3集団(YR/AR/WLR)と直接的に比較され、ここでの参照はアジア東部およびユーラシア草原地帯の95の現代および古代の人口集団を含む参照人口集団の一式です。WLR_BA_o2はYR集団のほとんどに対して有意でないZ得点、つまり、YR上流_LNを除くf₄(ムブティ人、参照;WLR_BA_o2、YR集団)の範囲(−3.11 < Z < 2.50)と、AR集団のほとんどに対する有意なZ得点、つまりf₄(ムブティ人、参照;WLR_BA_o2、AR集団)の範囲(−3.27 < Z < 5.52)を示す、と観察されました。WLR_BA_o2はYR_LNと最も密接な遺伝的類似性を示し、つまり、f₄(ムブティ人、参照;WLR_BA_o2、YR_LN)の範囲(−2.24 < Z < 1.65)です。

 西遼河地域に焦点を当てると、中期新石器時代西遼河人口集団(WLR_MN)と比較して、WLR_BA_o2はSEA祖先系統とより高い遺伝的類似性を、ANA祖先系統とより低い遺伝的類似性を示し、つまり、f₄(ムブティ人、SEA;WLR_BA_o2、WLR_MN)のZ得点が−2.13と、f₄(ムブティ人、ANA;WLR_BA_o2、WLR_MN)のZ得点が3.71超です。この場合、SEAは台湾先住民のアミ人(Ami)、ANAはモンゴル_N_北方によってそれぞれ表されます。WLR_BA_o2はWLR_LNおよびWLR_BAと比較して有意ではないZ得点を示し、つまり、f₄(ムブティ人、参照;WLR_BA_o2、WLR_LN/WLR_BA)の範囲(−2.637 < Z < 2.349)です。しかし、f₄(ムブティ人、SEA;WLR_BA_o2、WLR_LN/WLR_BA)のほとんどの負の値範囲(−0.124 < Z < −1.340)との、わずかにより高いSEAとの遺伝的類似性を依然として観察できます。最後に、f₄(ムブティ人、SEA;WLR_BA_o2、WLR_BA_o)のZ得点−3.18とf₄(ムブティ人、ANA;WLR_BA_o2、WLR_BA_o)のZ得点5.05として示されるWLR_BA_oと比較して、SEA集団とのより高い遺伝的類似性と、ANA集団とのより低い遺伝的類似性を観察できます。

 次に、qpAdm混合モデル化を用いて、青銅器時代WLR集団の祖先系統の割合が調べられました。黄河とアムール川と西遼河の3集団を用いて、WLR_BAとWLR_BA_oとWLR_BA_o2がモデル化されました(図4)。その結果、これら3集団の構成間で明確な区別が見つかりました。具体的には、WLR_BA_oはAR_EN祖先系統が93.8〜100%と残りの黄河集団祖先系統でモデル化でき、WLR_BA_o2は黄河集団に100%由来するものとしてモデル化できます。対照的に、WLR_BAは黄河集団からの祖先系統57.6〜61.1%と残りのAR_ENもしくはハミンマンガ(Haminmangha、略してHMMH)遺跡個体(HMMH_MN)の祖先系統でモデル化されました。一般的に、青銅器時代の3集団(WLR_BAとWLR_BA_oとWLR_BA_o2)の組成では有意な違いが観察され、これは青銅器時代西遼河集団の遺伝的多様性を示唆しています。以下は本論文の図4です。
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●考察

 西遼河は、内モンゴル自治区チーフォン市のヘシグテン(Keshiketeng、Hexigten)鎮の南西部から始まります。西遼河は、遼河へと合流し、最終的には渤海へと注ぐ前に、シラムレン(Xilamulun、Xar Moron、西拉木倫河)川や白岔(Baicha)川や紹浪(Shaolang)川や老哈(Laoha)川などいくつかの上流の支流と合流します。西遼河領域(北緯41度17分〜45度41分、東経116度21分〜123度43分)は面積が13万km²にわたり、中国北東部に位置しています。西遼河流域は、内モンゴル高原と松遼(Songliao)平原との間の移行帯に位置しています。この地域は、中華「文明」の発祥地の一つです。興隆窪文化と紅山文化と夏家店文化の繁栄は、中華「文明」の起源に重要な意味を有しています。興隆溝(Xinglonggou)遺跡に代表される興隆窪文化は、主要な作物としてキビとモロコシで乾燥地農耕活動を始めて、それは中国北部における乾燥地のうこうの重要な起源のひとつと考えられています。遼寧省の牛河梁(Niuheliang)遺跡に代表される紅山文化と遼寧省の二道井子(Erdaojingzi)遺跡に代表される夏家店文化も、中華「文明」の起源に顕著な影響を及ぼした、と考えられており、恐らくはそれぞれ、中原「文明」の起源の一つでした。西遼河流域の典型的な青銅器時代文化として、夏家店文化は1960年代に、内モンゴル自治区チーフォン市ソンシャン(Songshan)地区に位置する夏家店遺跡の発掘に因んで命名され、夏家店下層文化と夏家店上層文化の2種類が含まれます。

 この地域は、雑穀農耕民と畜産を行なっている人々の交差点に位置しています。以前の学際的研究では、局所的な人口集団の生計戦略は気候変化とともに変わる、と分かりました。先行研究(Ning et al., 2020)は古代ゲノムの観点からこうした結論を裏づけ、遺伝学的変化を気候変動による人口移動と関連づけています。しかし、その研究(Ning et al., 2020)で報告された古代人の全個体はホルチン砂丘原(Horqin Dunefield)の北側に由来し、おもに畜産生計戦略と関連する西遼河の西部地域における人口集団の遺伝的特性を表しています。浮遊を通じての植物遺骸の回収と遺跡の空間分布から、異なる生計戦略が西遼河の西部地域と南部地域で採用されていたかもしれない、と示唆されます。しかし、後期青銅器時代におけるホルチン砂丘原の南側の人口集団の遺伝的特性は不明なままなので、この地域におけるゲノム特性の包括的理解が妨げられていました。

 本論文では、先行研究(Ning et al., 2020)で報告されたホルチン砂丘原の北側の個体群とは明確に異なる、YR_LNとを形成する遺伝的祖先系統を有する青銅器時代のホルチン砂丘原の南側の1個体が報告されました。これは、西遼河南部地域における農耕活動が西部地域より相対的に強い、という以前の調査結果とも一致します。西遼河西部地域は比較的標高が高く南部地域より気温が低くなり、キビやモロコシに基づく広範な農耕活動に適していません。したがって、西遼河西部地域の人々は、ウシやヒツジの飼育など、畜産活動により従事しなければならなかったでしょう。気候悪化により遊牧民人口集団はアムール川から南方へと移動し、西遼河の西部に居住しましたが、黄河から到来したおもに農耕に従事していた人口集団は依然として、西遼河の南部の広範な地域に居住していました。

 本論文は概して、後期青銅器時代の西遼河地域のホルチン砂丘原の南側の古代人1個体を報告し、この個体は先行研究で報告された個体群とは異なるゲノム祖先系統を有しており、遺伝的多様性の存在を示唆し、ある程度は、西遼河地域における遺伝的構造の知識を向上させます。この違いは、ヒトの移動における気候悪化に起因した可能性が高そうです。本論文は、この結論が不充分な標本規模に制約されており、この地域におけるさらなる考古学的研究が必要であることを認識しています。


●私見

 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、青銅器時代の西遼河地域の夏家店上層文化集団における、生業の違いに起因する遺伝的差異の可能性を示しており、ゲノムデータが得られている西遼河地域南部の夏家店上層文化集団はまだ1個体だけてなので、断定はできませんが、夏家店上層文化集団において生業の違いに対応した遺伝的構成の違いがあった可能性は高そうです。こうした遺伝的構成の違いは、気候悪化とともに、後期新石器時代〜青銅器時代にかけて、アムール川地域から西遼河地域西部への人口移動があったためと考えられます。

 アジア北東部人類集団の遺伝的構造は地理を反映して、アムール川地域と黄河地域を対極として、西遼河地域がその中間に位置しますが、黄河地域や西遼河地域では完新世に人類集団の遺伝的構成がかなり変容したようで(Ning et al., 2020)、これは、アムール川地域において少なくとも14000年前頃までさかのぼるかもしれない、人類集団の長期の遺伝的安定性(Mao et al., 2021)とは対照的なようです。また、黄河地域と西遼河地域の人類集団の遺伝的構成の変容には違いがあり、西遼河地域集団は、アムール川地域集団的な祖先系統と黄河地域集団的祖先系統の割合の変化が反映され、黄河地域集団では、黄河流域での後期新石器時代以降における稲作農耕の痕跡の増加とともに、前期新石器時代華南集団的な祖先系統(Yang et al., 2020)の割合が高まります(Ning et al., 2020)。

 冒頭で述べたように、本論文は日本人起源論との関連でも注目されます。学際的な先行研究(Robbeets et al., 2021)では、弥生時代以降の日本列島の人類集団のゲノムが、高い割合の夏家店上層文化集団関連祖先系統でモデル化されています。しかし、この見解に対して、競合する混合モデルを区別する解像度が欠けていて、紅山文化集団関連祖先系統と夏家店上層文化集団関連祖先系統は朝鮮半島および日本列島の古代人と遺伝的に等しく関連しており、夏家店上層文化個体関連祖先系統を選択的に割り当てられた集団は、夏家店上層文化集団関連祖先系統の代わりに紅山文化集団関連祖先系統でも説明できる、との批判があります(Tian et al., 2022)。

 さらに、こうした弥生時代以降の日本列島の人類集団の主要な祖先系統を夏家店上層文化集団関連祖先系統で一様にモデル化するのではなく、弥生時代と古墳時代とで、日本列島の人類集団のゲノムに占める主要な祖先系統には違いがあり、弥生時代にまず夏家店上層文化集団関連祖先系統のようなアジア北東部祖先系統が日本列島に到来し、古墳時代以降に黄河流域集団関連祖先系統のようなアジア東部祖先系統が日本列島に到来した、との見解も提示されています(Cooke et al., 2021)。これは、「縄文人」関連祖先系統と弥生時代以降の大陸から到来した一様な祖先系統との遺伝的混合により本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする日本列島「本土」現代人集団のゲノムが形成された、とする従来の二重構造説に対して、三重構造説とも言えそうで、現代日本人の大規模で高品質なゲノムデータを分析したその後の研究(Liu et al., 2024)でも、三重構造説と整合的な結果が得られました。

 しかし、この三重構造説(Cooke et al., 2021)は、弥生時代集団を長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体のみに代表させている点で問題があるように思われます。それは、「縄文人」関連祖先系統の割合が現代「本土」日本人集団と同じくらい低い(つまり、アジア北東部とアジア東部を区別するのかはともかく、大陸部アジア東部的な祖先系統の割合が高い)弥生時代の個体が下本山岩陰遺跡の2個体よりも前に存在するからです(Robbeets et al., 2021)。そのため、三重構造説では、「縄文人」関連祖先系統との推定混合年代は、アジア東部祖先系統(1748±175年前)よりもアジア北東部祖先系統(3448±825年前)の方が早いとはいえ、単純に、弥生時代に日本列島に到来したのが夏家店上層文化集団関連祖先系統的なアジア北東部祖先系統で、古墳時代に日本列島に到来したのが、黄河流域集団関連祖先系統とは、現時点で断定できないように思います。

 重要なのは、弥生時代以降の日本列島の人類集団のゲノムが、高い割合の夏家店上層文化集団関連祖先系統や黄河流域集団関連祖先系統でモデル化できるとしても、夏家店上層文化集団や後期新石器時代以降の黄河流域集団が現代日本人の直接的な祖先集団と証明されたわけではなく、あくまでもそうした遺伝的構成要素でモデル化できるにすぎないことです。そこで注目されるのが本論文の知見で、青銅器時代の西遼河地域の夏家店上層文化において、アジア北東部祖先系統の割合の高い集団と、アジア東部祖先系統でゲノムを完全にモデル化できる集団が共存していたことから、西遼河地域およびその周辺地域を含めて黄河流域より北方のアジア北東部が、後期新石器時代〜青銅器時代にかけてそうした状況だった可能性は高いように思います。つまり、日本列島への到来で、アジア東部祖先系統が(古墳時代よりも早くても)アジア北東部祖先系統より遅かったとしても、それは黄河流域からの直接的な到来ではなく、直接的な起源は西遼河地域およびその周辺地域にあり、朝鮮半島を経由したのではないか、というわけです。

 日本列島にアジア北東部祖先系統やアジア東部祖先系統をもたらした集団が、いつどこからどのように日本列島に到来したのかは現時点で不明と言うべきで、そのより確かな推測には日本列島とユーラシア東部大陸部の時空間的にさらに広範囲のゲノムデータが必要になるでしょう。おそらく、完新世において日本列島だけではなく朝鮮半島でも人類集団の遺伝的構成のかなりの変容があったのでしょう。朝鮮半島南岸では、中期新石器時代に日本列島「本土」現代人集団のゲノムと似たような割合の「縄文人」関連祖先系統とアジア東部および北東部祖先系統でモデル化できる個体が存在しますが(Robbeets et al., 2021)、これら朝鮮半島南岸中期新石器時代個体群により表される集団が、本当に「縄文人」を祖先に有しているのかはまだ断定できませんし(関連記事)、日本列島「本土」現代人集団における「縄文人」由来のゲノム領域の断片化の程度を考えると、そうした集団が日本列島「本土」現代人集団の主要な祖先である可能性はきわめて低そうです(藤尾.,2023)。

 日本列島と朝鮮半島の両地域では、現代人のような遺伝的構成は紀元前千年紀以降に形成された可能性が高いように思います。また、そうした形成過程では複数の多方向の移動があった可能性は高そうで、単純化には注意すべきでしょう。おそらく日本列島には、縄文時代晩期以降、まずアムール川地域集団関連祖先系統を高い割合で有する集団が、その後で弥生時代のある段階以降に黄河地域集団関連祖先系統を高い割合で有する集団が到来し、複雑な混合過程を経て日本列島「本土」現代人集団の遺伝的構成が形成されたように思います。この間、日本列島「本土」の人類集団の遺伝的構成は、とくに弥生時代にはかなり不均一だったようで(藤尾.,2023)、日本列島「本土」における人類集団の遺伝的構成の形成過程を、時空間的に広範にわたって一様に解釈してはならないでしょう。
https://sicambre.seesaa.net/article/202407article_17.html

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