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(回答先: 吉田茂のストライキ(uedam.com) 投稿者 五月晴郎 日時 2010 年 10 月 13 日 01:24:38)
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池田ミッションは、昭和天皇の意向に違いない=残念ながら、決定的証拠がない
投稿者:ウエダ 投稿日:2010年 4月15日(木)19時28分14秒
こんばんは、皆さん、植田です。
鳩山首相の普天間基地外交、ピンチです。
今となれば、昭和天皇が作ったアメリカに依存する戦後日本の「国体」ラプリンスの中に鳩山首相も迷い込んでしまったわけです。
誰が首相になっても、今後も、否応なく「昭和天皇の呪い」の中に入っていくでしょう。
ただし、占領中においても外務省は日米をいかにして対等にするかということを念頭に、必死で条約案を作成しました。国連を仲介させたり、中国やソビエト・カードを持ち出したり。
これらの試みは、すべて昭和天皇の政治介入の前に吹き飛びました。
しかし、昭和天皇は1989年に故人になり、昭和天皇が怯えたソビエト共産主義は昭和天皇とともに、まるで心中するように消滅しました。
ところが、以後も日本人は昭和天皇の呪いを抜け出せません。
私たちはどうしたらいいか。
安保条約は、律令理性と自然理性問題にとっての、最大のケース・スタディーとなりました。
豊下氏が言います、
「東京裁判に〈謝意〉を表わしつつその地位を守り抜いた天皇にとって、独立後の日本の安全保障体制がいかに枠組まれるかということは、〈国家元首〉としてみずから乗り出すべき最大のイッシューとみなされたのであろう。なぜなら、天皇制にとって最も重要な脅威とは内外からの共産主義の侵略であると認識されていたからである。
結果として天皇の行った〈外交〉は、米軍駐留問題でも沖縄問題でも講和問題でも、政府外務省の政策決定を見事に先取りするものであった。そこには、共産主義の脅威から天皇制を守りきるためには無条件的に米軍に依存する外はなく、それを確実にするためには吉田であれマッカーサーであれ、バイパスし、侵略に対してはあらゆる手段の行使を米軍に求めるという、天皇リアリズムとも言うべき冷徹さが見られる。要するに、天皇にとって安保体制こそが戦後の〈国体〉と位置づけられたはずなのである。」『昭和天皇・マッカーサー会見』P.128
天皇リアリズムとは、要するに、不比等戦略リアリズムです。
「万世一系」を私の代で終わらせてはならない、と。
それには、天皇制に脅威を与える共産主義を断固、ブロックしなければならない、と。
このような決意を持つ天皇に、アメリカに従属することを嫌って、中国とも、ソビエトとも、アメリカとも、等距離外交を採用する、という外務省のアイデアが通用したか。
外務省でなくても、今でもあります。
しかし、今なら、共産主義ソビエトは存在しないから、昭和天皇の時代とは国際環境が変わりました。
平成天皇は昭和天皇のような外交センスを持っているのか。
それとも、猪瀬直樹が言う「ジミーの誕生日」の日に、ただA級戦犯のことを思い出すだけなのか。
ところで「戦後の開幕を告げた」、と従来常識的に考えられてきた池田ミッションですが、豊下氏が『安保条約の成立』の中でたっぷりと疑っていました。
1950年4月25日、池田隼人、宮沢喜一、白洲次郎がマッカーサーをパイパイしてワシントンに向かったミッションです。
豊下氏が、吉田茂の『回想10年・3巻』を引用しつつ、述べています、
「『池田君が・・私の意見をきいて行きたいということであった。そこで・・私の講和に対する意見を語り・・』
この叙述によれば、講和に関する〈私の意見は〉は、あくまでも池田の要請にこたえて開陳されたもので、吉田のスタンスはきわめて受動的なのである。誰よりも自尊心のつよいはずの吉田が、なぜ、安保の基礎を構築した自らのイニシアティブと先見の明を誇ろうとしないのであろうか。」P.121
その後、秘密のミッションがマッカーサーにばれます。当然、ワシントンからミッションの報告がマッカーサーに届いたわけです。
そこでマッカーサーが当分、吉田には会わないと伝えます。
そこで豊下氏が言います、
「この喜劇的ともいえるドタバタ劇をみていると、〈日米安全保障条約の基礎がここにはじめて生まれた〉という宮沢の有名な定義かむなしく響くのである。」P.125
「はたして〈池田ミッション〉は吉田の〈ワンマン外交〉の所産であったのか、吉田は真にみずからの意思と判断に基づいて池田を派遣したのか、という根本的な疑問が生じてこざるをえないのである。」P.141
推測するに、池田は天皇の側近を通して、天皇からワシントン訪問を命じられたのでしょう。だから、吉田首相に、首相の真意を確かめに来た、と。
ここは戦後の「国体」が形作られていく、生成途中の最も重要なポイントです。
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